「金の心配はするな。派遣の仕事は辞めろ。住む場所も用意しよう」
男はつくしに愛人になればいいと言った。
つくしは自分の人生を他人に委ねるなど考えたことがない。だからこのときの男の言葉は、これまでの人生で言われたことがない言葉だ。
いや…..過去に似た様な言葉を言われたことがあった。
それは高校生の頃。この男は金で買えないものはないと言ってつくしの心を金で買おうとした。そんな男をキッッパリと拒否したが、大人になった男は、今度はつくしの身体を金で買おうとしていた。
だが今のつくしは、そう思われても仕方がないのかもしれない。
それは、お金のためにこの仕事をしていると言ったからだ。
だから男の目に自分がどんな風に写っているのか理解している。
それに唇を合わせ、舌を絡み合わせ、身体を開いて男の欲望を受け止める女は、政略的な婚姻関係を結ぶ相手とは違い性関係以外のことを望まないのだから男にとっては実に都合がいい女だ。
だがつくしがお金のためにレンタルファミリーの仕事をしていると言ったのは、自分の気持を隠すための隠れみので本心ではない。それに自分がしていることは本来のレンタルファミリーの仕事ではない。桜子が経営するレンタルファミリーは真剣に家族を求めている人間が利用する会社だ。
それに大人になった今、つくしは自分で自分を養うことを誇りに思っている。だからいくら自分のことを思い出して欲しいと願う男の傍にいたいとはいえ、愛人になれと言われてもそれを受け入れることは出来なかった。
「…..なによ。昔に戻っちゃって….」
「昔に戻った?一体なんの話だ?」
男は怪訝な顏をしてつくしを見ている。
「覚えていないでしょうけどあなたは昔、自分の優位さを見せつけて人の気を惹こうとしたわ。それにバカみたいに自分に自信があった。自惚れの塊だった。親のお金で人の頬を叩くような男だった。でもそんなあなたは自分の人生を敷かれたレールの上を走る列車のようにしたくない。自分の人生は自分で決めると言ったわ。だけど今のあなたは親から結婚相手をあてがわれてそれを受け入れようとしている。結局あなたの人生は自分のためにあるんじゃない。財閥のためにあるのよ」
人は大人になるにつれて言いたいこと全てを口にすることが正しいとは言えないことを学ぶ。それは思慮というものであり心に秘めておくべきことや、言うべきではない言葉というものを知る。だからつくしもこれまでの社会生活の中で思っていることがあってもそれを簡単に口にすることはなかった。それに敢えて言わないこともあった。
だが今この瞬間、心に湧き上がって来る思いに蓋をすることはしなかった。
「いい?よく訊いて。私は誰のものでもない。もちろんあなたのものでもない。それに私は情事には一番不向きな人間なの。それからあなたは自分の人生が荒んだものだった頃のことをどう思ってるのか知らないけど、私はその頃から自分の人生にプライドを持っていた。たとえ貧しい家庭の娘でも人生を嘆いたりしなかった。何しろバイトで忙しいから、嘆いたり非行に走ったりする暇なんてなかったわ」
つくしは愚痴をこぼすことが嫌いだ。
けれど桜子から心の中をぎゅうぎゅう詰めにしないようにと言われていた。
それは思い詰めて窮屈になった心はパンクするからだ。
そしてパンクした心を修理するのは大変だから、もう無理だと思ったら止めろと言われていたが、もしかすると今のこの状況はパンク寸前なのかもしれない。
何しろ3ヶ月経っても男はつくしを思い出すどころか愛人として傍に置きたいと言うのだから今が止め時。つまり今が潮時で男の傍を離れることを決めるべきなのかもしれない。
それに言葉にしても身体にしても、もうこれ以上伝えられることはない。
それに男は見合いをして結婚をする。
だからこれから先一緒にいても、過ごす時間が短くなるのか延びるのか分からないが、どちらにしても結果は同じように思えた。
「お前の話は何が言いたいのか要領を得ないが答えは訊いた。俺の愛人になるのは断るということだな?」
「ええ。さっきも言ったけど私は情事には一番不向きな人間なの。愛は…..愛は一人占めしたいから。それに私は欲張りな女なの。だから誰かと男を分け合うことは出来ないの」
そう答えたつくしは、お金のために抱かれているという役を遣り遂げ一刻も早く男の前から立ち去りたかった。
「分かった」
暫く間を置いて男が言ったのはそれだけだった。
自分はどんな言葉を期待していたというのだろう。
実はつくしのことを思い出していたとでも言われると思ったのか。
だがそうではないことは、抱かれていれば分かる。思い出していたなら何かを感じたはずだ。
けれど感じられることは何もなかった。
それにしても、自分が身体を投げ出せば男の記憶が戻るのではないか。自分のことを思い出してくれるのではないか。そう思った女は12年間の中で一番バカな女だ。

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男はつくしに愛人になればいいと言った。
つくしは自分の人生を他人に委ねるなど考えたことがない。だからこのときの男の言葉は、これまでの人生で言われたことがない言葉だ。
いや…..過去に似た様な言葉を言われたことがあった。
それは高校生の頃。この男は金で買えないものはないと言ってつくしの心を金で買おうとした。そんな男をキッッパリと拒否したが、大人になった男は、今度はつくしの身体を金で買おうとしていた。
だが今のつくしは、そう思われても仕方がないのかもしれない。
それは、お金のためにこの仕事をしていると言ったからだ。
だから男の目に自分がどんな風に写っているのか理解している。
それに唇を合わせ、舌を絡み合わせ、身体を開いて男の欲望を受け止める女は、政略的な婚姻関係を結ぶ相手とは違い性関係以外のことを望まないのだから男にとっては実に都合がいい女だ。
だがつくしがお金のためにレンタルファミリーの仕事をしていると言ったのは、自分の気持を隠すための隠れみので本心ではない。それに自分がしていることは本来のレンタルファミリーの仕事ではない。桜子が経営するレンタルファミリーは真剣に家族を求めている人間が利用する会社だ。
それに大人になった今、つくしは自分で自分を養うことを誇りに思っている。だからいくら自分のことを思い出して欲しいと願う男の傍にいたいとはいえ、愛人になれと言われてもそれを受け入れることは出来なかった。
「…..なによ。昔に戻っちゃって….」
「昔に戻った?一体なんの話だ?」
男は怪訝な顏をしてつくしを見ている。
「覚えていないでしょうけどあなたは昔、自分の優位さを見せつけて人の気を惹こうとしたわ。それにバカみたいに自分に自信があった。自惚れの塊だった。親のお金で人の頬を叩くような男だった。でもそんなあなたは自分の人生を敷かれたレールの上を走る列車のようにしたくない。自分の人生は自分で決めると言ったわ。だけど今のあなたは親から結婚相手をあてがわれてそれを受け入れようとしている。結局あなたの人生は自分のためにあるんじゃない。財閥のためにあるのよ」
人は大人になるにつれて言いたいこと全てを口にすることが正しいとは言えないことを学ぶ。それは思慮というものであり心に秘めておくべきことや、言うべきではない言葉というものを知る。だからつくしもこれまでの社会生活の中で思っていることがあってもそれを簡単に口にすることはなかった。それに敢えて言わないこともあった。
だが今この瞬間、心に湧き上がって来る思いに蓋をすることはしなかった。
「いい?よく訊いて。私は誰のものでもない。もちろんあなたのものでもない。それに私は情事には一番不向きな人間なの。それからあなたは自分の人生が荒んだものだった頃のことをどう思ってるのか知らないけど、私はその頃から自分の人生にプライドを持っていた。たとえ貧しい家庭の娘でも人生を嘆いたりしなかった。何しろバイトで忙しいから、嘆いたり非行に走ったりする暇なんてなかったわ」
つくしは愚痴をこぼすことが嫌いだ。
けれど桜子から心の中をぎゅうぎゅう詰めにしないようにと言われていた。
それは思い詰めて窮屈になった心はパンクするからだ。
そしてパンクした心を修理するのは大変だから、もう無理だと思ったら止めろと言われていたが、もしかすると今のこの状況はパンク寸前なのかもしれない。
何しろ3ヶ月経っても男はつくしを思い出すどころか愛人として傍に置きたいと言うのだから今が止め時。つまり今が潮時で男の傍を離れることを決めるべきなのかもしれない。
それに言葉にしても身体にしても、もうこれ以上伝えられることはない。
それに男は見合いをして結婚をする。
だからこれから先一緒にいても、過ごす時間が短くなるのか延びるのか分からないが、どちらにしても結果は同じように思えた。
「お前の話は何が言いたいのか要領を得ないが答えは訊いた。俺の愛人になるのは断るということだな?」
「ええ。さっきも言ったけど私は情事には一番不向きな人間なの。愛は…..愛は一人占めしたいから。それに私は欲張りな女なの。だから誰かと男を分け合うことは出来ないの」
そう答えたつくしは、お金のために抱かれているという役を遣り遂げ一刻も早く男の前から立ち去りたかった。
「分かった」
暫く間を置いて男が言ったのはそれだけだった。
自分はどんな言葉を期待していたというのだろう。
実はつくしのことを思い出していたとでも言われると思ったのか。
だがそうではないことは、抱かれていれば分かる。思い出していたなら何かを感じたはずだ。
けれど感じられることは何もなかった。
それにしても、自分が身体を投げ出せば男の記憶が戻るのではないか。自分のことを思い出してくれるのではないか。そう思った女は12年間の中で一番バカな女だ。

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ふたりは食事をしたりどこかへ出かけたりして過ごす仲ではない。
それはベッドで過ごした後は、男がシャワーを浴びている間に部屋を出て行くことが性的な関係を結んだ女の身の処し方だと思っているからだ。
だからこうした時間の使い方は初めてだ。
「どうした?口に合わないか?」
「まさか。美味しいわよ?」
ゆっくりとナイフとフォークを置いたつくしに男は訊いたが、メープルのフレンチレストランの料理が口に合わない女はいないはずだ。
そして男はその外見からどこにいても注目を集めるが、それはここも同じで離れた席から向けられる視線は男女を問わなかった。だが男は全く人目を気にしていなかった。堂々としたその態度は他人の視線を気にするどころか、むしろ当たり前だと捉えている。
それに引き換え、注目を集めることが苦手なつくしは周囲の視線が気になった。
それにホテル経営は道明寺楓が力を入れている事業だ。
楓はつくしのことを嫌っていた。息子の交際相手には相応しくないと言った。初めて会った時からあからさまな態度を取り息子の傍からつくしを排除しようとした。だからここに彼女の目が無くても、息子が女性と食事をしていることは耳に入るはずだ。それに見合いをすることが決まっている息子と食事をしている女性の素性を知りたがるはずだ。
ウェイターが近づいてきてワインを断わったつくしのグラスに水を注ぎ足すと、水滴が落ちてテーブルクロスにシミを作った。
透明なシミは小さなもので気になるものではない。だがもしそのシミの色が赤ければ気になっていたかもしれない。何故なら赤いシミは血を連想させるからだ。あのとき刺された男が流した血の色を。そして赤いシミは倒れた男の周りに広がると、つくしの手を真っ赤に染め__
「お前はこの仕事をしているのは金がいいからだと言ったな」
そう言われたつくしは頭の中に甦った12年前のあの光景を慌てて振り払った。
「それに架空でもいいから家族が欲しいと思う人間がいると言ったが、俺に言わせればそこまでして家族が欲しいと思う人間がいることが不思議だ」
男が話し始めたのは自分の家族と自分の幼い頃のこと。
だが何故そんな個人的なことを肌を重ねるだけの女に話すのか。
けれど人は他人だから話せることがある。だから今の男の中にそういった感情が湧き上がって来たなら口を挟まず聞くべきだと思った。
「俺の家族は両親と姉だが父親と母親とは幼い頃から離れて暮らしてきた。周りにいたのは大人ばかりで、どんなにそいつらが笑顔を向けても、自分はひとりぼっちだという思いがぬぐえなかった。クリスマスも正月も誕生日も孤独な子供にとっては楽しいと思えなかった。つまり他人が楽しいと思える時間は俺にとっては楽しくない思い出だ。
それに親と一緒にいる時間よりも使用人と一緒にいる時間が長かった俺は血の繋がりがあっても親を家族とは思えなかった。親からの愛情を感じたことがなかった。
それなら使用人を家族と思えるかと言えば、たとえ30年一緒に暮らしても使用人とは家族にはなれない。それは彼らには彼らの本当の家族がいるからだ」
大勢の使用人が働いていた道明寺邸。
だがあの邸にも男を可愛がっていた老婆がいた。
「そうは言ってもただひとりだけ、俺のことを孫のように可愛がってくれた老婆がいたが、その老婆も今はいない」
つくしはそこでタマが亡くなったことを知った。
「俺は家族というものを知らない。それに家族としての過ごし方が分からない人間だ。
そんな俺に母親が見合いの相手を用意した。見合いという名の顔合わせだ。会えばその女と結婚することになる」
親が揃っていても家族ではない。
だから両親と一緒にいても家族としての過ごし方が分からないと言う男だが、母親が用意した相手と結婚するという。それは男が道明寺家の跡取りで、いずれ結婚しなければならないことを分かっているということ。
だがその態度はどうでもいいといったもので相手に興味を示してはいない。
「だが俺は相手が誰であっても愛してるとは言えない」
そう言った男は、かつてつくしに愛してると言った。
そしてもう二度と離さないと言った。
だがどうして男はそんな話をつくしにするのか。
するとまるで思考が伝わったかのように男が言った。
「愛しているという言葉は欲望を正当化するための言葉だ。俺はお前を愛していなくても抱ける。お前のどこが好きだとか嫌いだとかそういったことは関係ない。ただお前を抱きたいから抱く。そこに愛という理屈をつける必要はない。それに母親が用意した見合い相手の女は気位の高いお飾り人形だ。そんな女は道明寺の跡継ぎを産ませるための道具に過ぎない。
だが俺とお前の相性はいい。だから俺が結婚してもお前は愛人になればいい」

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それはベッドで過ごした後は、男がシャワーを浴びている間に部屋を出て行くことが性的な関係を結んだ女の身の処し方だと思っているからだ。
だからこうした時間の使い方は初めてだ。
「どうした?口に合わないか?」
「まさか。美味しいわよ?」
ゆっくりとナイフとフォークを置いたつくしに男は訊いたが、メープルのフレンチレストランの料理が口に合わない女はいないはずだ。
そして男はその外見からどこにいても注目を集めるが、それはここも同じで離れた席から向けられる視線は男女を問わなかった。だが男は全く人目を気にしていなかった。堂々としたその態度は他人の視線を気にするどころか、むしろ当たり前だと捉えている。
それに引き換え、注目を集めることが苦手なつくしは周囲の視線が気になった。
それにホテル経営は道明寺楓が力を入れている事業だ。
楓はつくしのことを嫌っていた。息子の交際相手には相応しくないと言った。初めて会った時からあからさまな態度を取り息子の傍からつくしを排除しようとした。だからここに彼女の目が無くても、息子が女性と食事をしていることは耳に入るはずだ。それに見合いをすることが決まっている息子と食事をしている女性の素性を知りたがるはずだ。
ウェイターが近づいてきてワインを断わったつくしのグラスに水を注ぎ足すと、水滴が落ちてテーブルクロスにシミを作った。
透明なシミは小さなもので気になるものではない。だがもしそのシミの色が赤ければ気になっていたかもしれない。何故なら赤いシミは血を連想させるからだ。あのとき刺された男が流した血の色を。そして赤いシミは倒れた男の周りに広がると、つくしの手を真っ赤に染め__
「お前はこの仕事をしているのは金がいいからだと言ったな」
そう言われたつくしは頭の中に甦った12年前のあの光景を慌てて振り払った。
「それに架空でもいいから家族が欲しいと思う人間がいると言ったが、俺に言わせればそこまでして家族が欲しいと思う人間がいることが不思議だ」
男が話し始めたのは自分の家族と自分の幼い頃のこと。
だが何故そんな個人的なことを肌を重ねるだけの女に話すのか。
けれど人は他人だから話せることがある。だから今の男の中にそういった感情が湧き上がって来たなら口を挟まず聞くべきだと思った。
「俺の家族は両親と姉だが父親と母親とは幼い頃から離れて暮らしてきた。周りにいたのは大人ばかりで、どんなにそいつらが笑顔を向けても、自分はひとりぼっちだという思いがぬぐえなかった。クリスマスも正月も誕生日も孤独な子供にとっては楽しいと思えなかった。つまり他人が楽しいと思える時間は俺にとっては楽しくない思い出だ。
それに親と一緒にいる時間よりも使用人と一緒にいる時間が長かった俺は血の繋がりがあっても親を家族とは思えなかった。親からの愛情を感じたことがなかった。
それなら使用人を家族と思えるかと言えば、たとえ30年一緒に暮らしても使用人とは家族にはなれない。それは彼らには彼らの本当の家族がいるからだ」
大勢の使用人が働いていた道明寺邸。
だがあの邸にも男を可愛がっていた老婆がいた。
「そうは言ってもただひとりだけ、俺のことを孫のように可愛がってくれた老婆がいたが、その老婆も今はいない」
つくしはそこでタマが亡くなったことを知った。
「俺は家族というものを知らない。それに家族としての過ごし方が分からない人間だ。
そんな俺に母親が見合いの相手を用意した。見合いという名の顔合わせだ。会えばその女と結婚することになる」
親が揃っていても家族ではない。
だから両親と一緒にいても家族としての過ごし方が分からないと言う男だが、母親が用意した相手と結婚するという。それは男が道明寺家の跡取りで、いずれ結婚しなければならないことを分かっているということ。
だがその態度はどうでもいいといったもので相手に興味を示してはいない。
「だが俺は相手が誰であっても愛してるとは言えない」
そう言った男は、かつてつくしに愛してると言った。
そしてもう二度と離さないと言った。
だがどうして男はそんな話をつくしにするのか。
するとまるで思考が伝わったかのように男が言った。
「愛しているという言葉は欲望を正当化するための言葉だ。俺はお前を愛していなくても抱ける。お前のどこが好きだとか嫌いだとかそういったことは関係ない。ただお前を抱きたいから抱く。そこに愛という理屈をつける必要はない。それに母親が用意した見合い相手の女は気位の高いお飾り人形だ。そんな女は道明寺の跡継ぎを産ませるための道具に過ぎない。
だが俺とお前の相性はいい。だから俺が結婚してもお前は愛人になればいい」

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「お前。なんでこんな仕事をしている?」
ベッドを出て服を着ていたつくしは、その声に後ろを振り向いた。
起こさないように気を付けていたつもりだったが、男は目を覚ましていた。そして片肘をついた姿勢でこちらを見ていた。
男と寝るようになって3ヶ月経ったが、これまでそんなことを訊かれたことはない。
だから今更何をという思いでいる女に、「他人の家族のフリをする。そんな仕事をしている理由だ」と男は言った。
つくしは桜子が経営するレンタルファミリーから派遣されていることになっているが、本当の仕事はスポーツ用品会社のフットウエア事業部の営業だ。
そんな女がかりそめとはいえこの仕事をしているのは、男に自分を思い出してもらいたいから。男に近づくために桜子の会社を利用しているだけだ。
だがそれを口にすることは出来ない。
「私がこの仕事をしているのは、お金がいいからよ」
お金を隠れみのにしているが本当はお金など関係ない。
男が自分を抱くことで失われた記憶を思い出すのではないか。その思いがあるからここにいる。
それに金のために身体を提供する女だと自分を卑小な存在にしても、男がつくしを抱くことに心が伴っていなくても、過去に愛され求められた記憶があるから抱かれることが出来る。
「なるほど。世の中には金払いのいい寂しい人間が多いってことか?」
「ええ。そういうことになるわ。それに実際依頼があるってことは偽物でもいい。架空でもいいから家族を欲しいと思う人間がいるってことよ」
と答えたつくしは少し間をあけてから訊いた。
「あなたには家族がいるんでしょ?」
つくしは男が誰であるか知らないことになっている。
だが男の家族構成は勿論、両親と姉がどんな人物か知っている。
「ああ。いる。両親と姉がいるが両親はいてもいなくてもいいような存在だ」
そう答えた口調は冷たかったが、「お前は?家族はいるのか?」の言葉には好奇心が感じられた。
「ええ。両親と弟がいるわ」
「そうか。家族は仲がいいのか?」
「そうね。喧嘩もするけど仲がいい家族よ」
初めて訊かれた個人的なこと。
ふたりはこれまでこうした時間を持ったことがない。
それは身体だけの関係の男と女にとって言葉は必要のないものであり、感情を介在させたいと思わない男に女の個人的なことは必要ない。
つまり他人のプライバシーに関心がないということ。
そんな男に必要なのは今、女を抱きたいか。抱きたくないかを考えるだけで、つくしの素性などどうでもいいのだ。
だがそんな男の意識がつくしに向けられたのなら、この流れに乗って忘れ去られた記憶を掬い上げ、手のひらに乗せて男の前に差し出してみようかという気になった。
だから「ねえ__」と言ったところで男が口を開いた。
「腹減ってんだろ?食事に付き合え」

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ベッドを出て服を着ていたつくしは、その声に後ろを振り向いた。
起こさないように気を付けていたつもりだったが、男は目を覚ましていた。そして片肘をついた姿勢でこちらを見ていた。
男と寝るようになって3ヶ月経ったが、これまでそんなことを訊かれたことはない。
だから今更何をという思いでいる女に、「他人の家族のフリをする。そんな仕事をしている理由だ」と男は言った。
つくしは桜子が経営するレンタルファミリーから派遣されていることになっているが、本当の仕事はスポーツ用品会社のフットウエア事業部の営業だ。
そんな女がかりそめとはいえこの仕事をしているのは、男に自分を思い出してもらいたいから。男に近づくために桜子の会社を利用しているだけだ。
だがそれを口にすることは出来ない。
「私がこの仕事をしているのは、お金がいいからよ」
お金を隠れみのにしているが本当はお金など関係ない。
男が自分を抱くことで失われた記憶を思い出すのではないか。その思いがあるからここにいる。
それに金のために身体を提供する女だと自分を卑小な存在にしても、男がつくしを抱くことに心が伴っていなくても、過去に愛され求められた記憶があるから抱かれることが出来る。
「なるほど。世の中には金払いのいい寂しい人間が多いってことか?」
「ええ。そういうことになるわ。それに実際依頼があるってことは偽物でもいい。架空でもいいから家族を欲しいと思う人間がいるってことよ」
と答えたつくしは少し間をあけてから訊いた。
「あなたには家族がいるんでしょ?」
つくしは男が誰であるか知らないことになっている。
だが男の家族構成は勿論、両親と姉がどんな人物か知っている。
「ああ。いる。両親と姉がいるが両親はいてもいなくてもいいような存在だ」
そう答えた口調は冷たかったが、「お前は?家族はいるのか?」の言葉には好奇心が感じられた。
「ええ。両親と弟がいるわ」
「そうか。家族は仲がいいのか?」
「そうね。喧嘩もするけど仲がいい家族よ」
初めて訊かれた個人的なこと。
ふたりはこれまでこうした時間を持ったことがない。
それは身体だけの関係の男と女にとって言葉は必要のないものであり、感情を介在させたいと思わない男に女の個人的なことは必要ない。
つまり他人のプライバシーに関心がないということ。
そんな男に必要なのは今、女を抱きたいか。抱きたくないかを考えるだけで、つくしの素性などどうでもいいのだ。
だがそんな男の意識がつくしに向けられたのなら、この流れに乗って忘れ去られた記憶を掬い上げ、手のひらに乗せて男の前に差し出してみようかという気になった。
だから「ねえ__」と言ったところで男が口を開いた。
「腹減ってんだろ?食事に付き合え」

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つくしの男性経験は過去にたった一度。
あれから12年の歳月が流れ抱かれた男はあの時と同じ男。
だが男の頭の中に牧野つくしの記憶はない。そして男にとってつくしは金を渡して性を得る関係以外のなにものでもないが、こういった関係になったことを後悔していない。
12年前はふたりとも未熟だった。だが高揚した気持は互いを求めて止まなかった。
そして、ぎこちないながらも結ばれたふたりは二度と離れないと誓った。そんなふたりの前に現れた別れは一瞬の出来事。刺され重傷を負った男はつくしのことだけを忘れアメリカに渡った。あの時の喪失感は日々が癒してくれた。だが男を好きだった気持は消えることも薄れることはなかった。
「先輩…..道明寺さんはまだ先輩のことを思い出さないんですね?」
あれから2ヶ月が経った。
つくしは桜子に呼ばれ彼女の会社にいた。
依頼者の望みに応えるのがレンタルファミリーの仕事であり、桜子の会社は健全な会社で当然ながら契約に性的な関係が含まれることはない。だが、桜子はつくしが男の部屋でただ話しの相手をしているとは思ってはいない。
そして男はつくしの身体に不満はないのか。求めることを止めなかった。
そんなとき、男の自分への感情を確かめたいという思いが湧き上がって来る。だが永続的な関係を求めないと男は言った。だから愛撫やキスがあったとしても、つくしの名前を呼ばない男の身体の動きに心の動きはない。
それにつくしは金が必要だという理由で抱かれる女の仮面を被っている。だからそんな女を演じているつくしは、吐き出すことが出来ない言葉を抱えベッドに横たわり男を体内に受け入れていた。
「先輩?訊いてますか?」
「え?うん……訊いてるわよ?道明寺が思い出さないって話でしょ?」
「ええ。そうですけど本当に大丈夫ですか?先輩は頑固な人間ですから、こうと決めたことは遣り遂げようとしてギリギリまで無理をします。心の中をぎゅうぎゅう詰めにしてしまいます。でもそんなことをしていたら先輩の心がダメになってしまいます。窮屈になった心は後はパンクするだけでなんですから。パンクしちゃったら修理するのが大変です。
それにいくら先輩が道明寺さんのことを愛していても今の道明寺さんは先輩のことを愛していません。だからもうこれ以上無理だと思ったら言って下さい。始める勇気があったんですから止める勇気もあるはずです」
桜子は2ヶ月が過ぎてもつくしを思い出さない男との関係を辛いことと捉えているようだが、後悔することだけはしたくない。だから手にすることが出来たチャンスを生かすことだけを考えていた。
「分かってる…..分かってるわよ。でもね桜子。たとえ道明寺に私の記憶がなくても、私についての記憶が姿を消したように見えても心のどこかに余韻が残っていて何かの拍子に思い出されることがあってもおかしくないでしょ?」
そんな望みを持っているから、つくしはどんな形でもいいから男の傍にいたいと望んだ。
だが桜子はつくしが無理をしているのではないかと心配していた。
「牧野先輩....先輩は賢い人です。だからどこかでケジメをつけると思います。それまでは私も先輩のことを見守るつもりでいますが、心が耐えきれなくなったら道明寺さんに会うのは止めて下さいね」
つくしは眠っている男を眺めるのが好きだ。
初めの頃こそ終われば早々にバスルームに向かう男がいたが、今は無言で横たわると眠りにつくようになった。
すると、その瞬間つくしの心は安らぎを感じる。それはその姿が12年前の男の姿に重なるからだ。
そして目を閉じた男の唇に触れようと指を伸ばしても触れることなく止めるのは、触れたことで男が目を覚ませばこの安らぎが終るからだ。
この時間は、つくしにとって大切な時間。だからそれが終ることがないように伸ばされた指が男の唇に触れることはない。その代わり触れたのは癖のある髪の毛。そっと触れると目を閉じていた。

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あれから12年の歳月が流れ抱かれた男はあの時と同じ男。
だが男の頭の中に牧野つくしの記憶はない。そして男にとってつくしは金を渡して性を得る関係以外のなにものでもないが、こういった関係になったことを後悔していない。
12年前はふたりとも未熟だった。だが高揚した気持は互いを求めて止まなかった。
そして、ぎこちないながらも結ばれたふたりは二度と離れないと誓った。そんなふたりの前に現れた別れは一瞬の出来事。刺され重傷を負った男はつくしのことだけを忘れアメリカに渡った。あの時の喪失感は日々が癒してくれた。だが男を好きだった気持は消えることも薄れることはなかった。
「先輩…..道明寺さんはまだ先輩のことを思い出さないんですね?」
あれから2ヶ月が経った。
つくしは桜子に呼ばれ彼女の会社にいた。
依頼者の望みに応えるのがレンタルファミリーの仕事であり、桜子の会社は健全な会社で当然ながら契約に性的な関係が含まれることはない。だが、桜子はつくしが男の部屋でただ話しの相手をしているとは思ってはいない。
そして男はつくしの身体に不満はないのか。求めることを止めなかった。
そんなとき、男の自分への感情を確かめたいという思いが湧き上がって来る。だが永続的な関係を求めないと男は言った。だから愛撫やキスがあったとしても、つくしの名前を呼ばない男の身体の動きに心の動きはない。
それにつくしは金が必要だという理由で抱かれる女の仮面を被っている。だからそんな女を演じているつくしは、吐き出すことが出来ない言葉を抱えベッドに横たわり男を体内に受け入れていた。
「先輩?訊いてますか?」
「え?うん……訊いてるわよ?道明寺が思い出さないって話でしょ?」
「ええ。そうですけど本当に大丈夫ですか?先輩は頑固な人間ですから、こうと決めたことは遣り遂げようとしてギリギリまで無理をします。心の中をぎゅうぎゅう詰めにしてしまいます。でもそんなことをしていたら先輩の心がダメになってしまいます。窮屈になった心は後はパンクするだけでなんですから。パンクしちゃったら修理するのが大変です。
それにいくら先輩が道明寺さんのことを愛していても今の道明寺さんは先輩のことを愛していません。だからもうこれ以上無理だと思ったら言って下さい。始める勇気があったんですから止める勇気もあるはずです」
桜子は2ヶ月が過ぎてもつくしを思い出さない男との関係を辛いことと捉えているようだが、後悔することだけはしたくない。だから手にすることが出来たチャンスを生かすことだけを考えていた。
「分かってる…..分かってるわよ。でもね桜子。たとえ道明寺に私の記憶がなくても、私についての記憶が姿を消したように見えても心のどこかに余韻が残っていて何かの拍子に思い出されることがあってもおかしくないでしょ?」
そんな望みを持っているから、つくしはどんな形でもいいから男の傍にいたいと望んだ。
だが桜子はつくしが無理をしているのではないかと心配していた。
「牧野先輩....先輩は賢い人です。だからどこかでケジメをつけると思います。それまでは私も先輩のことを見守るつもりでいますが、心が耐えきれなくなったら道明寺さんに会うのは止めて下さいね」
つくしは眠っている男を眺めるのが好きだ。
初めの頃こそ終われば早々にバスルームに向かう男がいたが、今は無言で横たわると眠りにつくようになった。
すると、その瞬間つくしの心は安らぎを感じる。それはその姿が12年前の男の姿に重なるからだ。
そして目を閉じた男の唇に触れようと指を伸ばしても触れることなく止めるのは、触れたことで男が目を覚ませばこの安らぎが終るからだ。
この時間は、つくしにとって大切な時間。だからそれが終ることがないように伸ばされた指が男の唇に触れることはない。その代わり触れたのは癖のある髪の毛。そっと触れると目を閉じていた。

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帰れと言われても帰る訳にはいかなかった。
だからソファから立ち上がると食い下がった。
「ちょっと待って下さい!こ、困ります!終わりだ帰れと言われても困るんです!」
「何が困る?お前が困ることはないはずだ。お前は派遣されて来た女だ。派遣先の俺がお前は必要ないと言えばそれで終わりだ」
「だ、だから困るんです!」
「さっきから困る困ると言うが何が困る?ああ金か?心配するな。金なら払う」
つくしの態度に男は面倒くさそうに答え背中を向けた。
それは用は済んだ。早く帰れという意味だが、ここに来たのは男の忘れた記憶を呼び覚ますためだ。だから帰る訳にはいかないのだ。それに今のつくしには、この男との接点はなく、やっと手に入れたこうした状況を簡単に手放すことは出来ない。
それにつくしの話がつまらないと言うのなら、もう二度と呼ばれることはないだろう。
だからこそ、はい、分かりましたと帰る訳にはいかないのだ。
「困ります。私はあなたの話し相手として派遣されました。そんな私が初日の1時間で帰されたとなれば会社に満足な仕事が出来ない人間だと思われます。そうなると今後仕事を回してもらえなくなります。生活が出来なくなります。だから私の話がつまらないとおっしゃるなら、別の話をします。いえ….ご要望があればそれにお応えします。どのようなご要望でも構いません」
つくしは男の背中に向かって言った。
すると男はつくしの言葉に振り向いた。
そしてつくしをじっと見た。
「どんな要望でも応える?」
「はい。派遣先のご要望にお応えするのが当社のモットーですから、どんなことでもおっしゃって下さい」
「…..そうか。どんなことでもするか…」
男はつくし身体に視線を這わせたが、それは故意であり値踏みをしていると言えた。だが、つくしはどんな視線を向けられても怯まなかった。
「このところゴブサタしているんだが?」
男はそう言うと軽い冷笑を浮べ、つくしに近づいた。
「ホテルで部屋を間違えたと言って俺の前に再び現れたお前は、あの時「そんな女」じゃないと言った。だが、どんな望みでも叶えると言うなら結局お前は「そんな女」だろ?御大層に自分の仕事について話したが「そんな女」は誘惑されたがっていた。違うか?」
つくしは男がつくしのことを「そんな女」だと思っているあいだ思った。
この男はこういったことでは場数を踏んでいる。それに少年の頃とは違い女の扱いに慣れている。だがこれまで永続的な関係を持った女性はいない。そんな男が今、望んでいるのは情事だ。そして男はつくしが口を開くのを待っている。
だが男女のそういった関係ぐらい、つくしにとって苦手な事柄はない。
けれど、どんなことをしても男に自分のことを思い出してもらいたかった。
少女の頃のつくしは理屈をつけて男を遠ざけていた。だが、拉致されて連れて行かれた島で結ばれた時から理屈をつけて物事を考えることを止めた。だから目の前の男の目や頬や唇が笑わなくても構わない。つくしは自分の心が望むままに行動することに決めた。
「永続的な関係は望まないのね?」
「ああ、望まない」
「分かったわ」
12年前ふたりは恋人同士だった。
だが今、男が抱いているのは派遣されてきた見知らぬ女。
その女の裸は華奢で頼りない。
そして男は口を開くことはなく、女の肩に胸に手を這わせていた。
男は見合いをすれば、その相手と結婚する。
そんな男との関係が身体だけだとしても、つくしは男に抱かれることに迷いはなかった。
それは男の身体が覚えている牧野つくしの記憶を引き出すことが出来るのではないかという思いがあるからだ。それに自分の無力を思えば、なすべきことは決まっていて、実際これは描いていたシナリオのひとつだ。
だが一夜だけで終らせるつもりはなかった。それに今ここにいるのは、ただ年を取ったのではない大人の女で現実を知っている女だ。人生を学んだ女だ。そんな女が知ったのは敢えて言うなら騒々しさからかけ離れた場所にある哀しみ。男の記憶の中から忘れ去られた女の静かだが確実な哀しみだ。
しかし、そんな女には熱い感情があった。それは私を思い出して。私を愛して欲しいという思い。
だから言った。
「では私を買って下さい。お金が必要なんです」
それは金銭を介した関係。
つくしは金など必要としていなかったが、そうすることで定期的に男と会う契約を結んだ。

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だからソファから立ち上がると食い下がった。
「ちょっと待って下さい!こ、困ります!終わりだ帰れと言われても困るんです!」
「何が困る?お前が困ることはないはずだ。お前は派遣されて来た女だ。派遣先の俺がお前は必要ないと言えばそれで終わりだ」
「だ、だから困るんです!」
「さっきから困る困ると言うが何が困る?ああ金か?心配するな。金なら払う」
つくしの態度に男は面倒くさそうに答え背中を向けた。
それは用は済んだ。早く帰れという意味だが、ここに来たのは男の忘れた記憶を呼び覚ますためだ。だから帰る訳にはいかないのだ。それに今のつくしには、この男との接点はなく、やっと手に入れたこうした状況を簡単に手放すことは出来ない。
それにつくしの話がつまらないと言うのなら、もう二度と呼ばれることはないだろう。
だからこそ、はい、分かりましたと帰る訳にはいかないのだ。
「困ります。私はあなたの話し相手として派遣されました。そんな私が初日の1時間で帰されたとなれば会社に満足な仕事が出来ない人間だと思われます。そうなると今後仕事を回してもらえなくなります。生活が出来なくなります。だから私の話がつまらないとおっしゃるなら、別の話をします。いえ….ご要望があればそれにお応えします。どのようなご要望でも構いません」
つくしは男の背中に向かって言った。
すると男はつくしの言葉に振り向いた。
そしてつくしをじっと見た。
「どんな要望でも応える?」
「はい。派遣先のご要望にお応えするのが当社のモットーですから、どんなことでもおっしゃって下さい」
「…..そうか。どんなことでもするか…」
男はつくし身体に視線を這わせたが、それは故意であり値踏みをしていると言えた。だが、つくしはどんな視線を向けられても怯まなかった。
「このところゴブサタしているんだが?」
男はそう言うと軽い冷笑を浮べ、つくしに近づいた。
「ホテルで部屋を間違えたと言って俺の前に再び現れたお前は、あの時「そんな女」じゃないと言った。だが、どんな望みでも叶えると言うなら結局お前は「そんな女」だろ?御大層に自分の仕事について話したが「そんな女」は誘惑されたがっていた。違うか?」
つくしは男がつくしのことを「そんな女」だと思っているあいだ思った。
この男はこういったことでは場数を踏んでいる。それに少年の頃とは違い女の扱いに慣れている。だがこれまで永続的な関係を持った女性はいない。そんな男が今、望んでいるのは情事だ。そして男はつくしが口を開くのを待っている。
だが男女のそういった関係ぐらい、つくしにとって苦手な事柄はない。
けれど、どんなことをしても男に自分のことを思い出してもらいたかった。
少女の頃のつくしは理屈をつけて男を遠ざけていた。だが、拉致されて連れて行かれた島で結ばれた時から理屈をつけて物事を考えることを止めた。だから目の前の男の目や頬や唇が笑わなくても構わない。つくしは自分の心が望むままに行動することに決めた。
「永続的な関係は望まないのね?」
「ああ、望まない」
「分かったわ」
12年前ふたりは恋人同士だった。
だが今、男が抱いているのは派遣されてきた見知らぬ女。
その女の裸は華奢で頼りない。
そして男は口を開くことはなく、女の肩に胸に手を這わせていた。
男は見合いをすれば、その相手と結婚する。
そんな男との関係が身体だけだとしても、つくしは男に抱かれることに迷いはなかった。
それは男の身体が覚えている牧野つくしの記憶を引き出すことが出来るのではないかという思いがあるからだ。それに自分の無力を思えば、なすべきことは決まっていて、実際これは描いていたシナリオのひとつだ。
だが一夜だけで終らせるつもりはなかった。それに今ここにいるのは、ただ年を取ったのではない大人の女で現実を知っている女だ。人生を学んだ女だ。そんな女が知ったのは敢えて言うなら騒々しさからかけ離れた場所にある哀しみ。男の記憶の中から忘れ去られた女の静かだが確実な哀しみだ。
しかし、そんな女には熱い感情があった。それは私を思い出して。私を愛して欲しいという思い。
だから言った。
「では私を買って下さい。お金が必要なんです」
それは金銭を介した関係。
つくしは金など必要としていなかったが、そうすることで定期的に男と会う契約を結んだ。

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人は常に何かを失いながら生きている。
その何かのひとつが記憶であり、生まれた時からの全ての記憶を持って生きる人間などいない。だから古い記憶は忘れられて当たり前だと言うが、高校生の頃の記憶ならそう遠い昔ではなく、錆びついた扉の向こうへ置かれていてもおかしくはない。
つまり何かのきっかけがあれば思い出すのではないか。だから錆びついた扉を開ける必要がある。そうでなければ男の心の空洞は永遠に埋まることがないのだから。
だが空洞を抱えているのはつくしだけで男の心に空洞などないのかもしれない。いや空洞どころか隙間さえも無いのかもしれない。
だがそれでもいい。こうして勇気を出して行動を起こしたのだ。
話すことが男の錆びた扉の向こうにあるはずの過去の記憶と結びついてくれることを願い、与えられたチャンスを生かして男の記憶を取り戻してみせる。そうだ。よそ見をされたとしても取り返してみせる。
「いくら男が少女のことを好きだと言っても少女は男のことが好きになれませんでした。
それは男が我儘で自分本位だからです。それに少女には他に好きな人がいました。だから男の行動は迷惑以外の何ものでもありませんでした。でも男は少女が困難な状況に置かれたとき助けてくれました。少女を助けるためなら身を挺しても構わない。届かない想いを少女に届けるためならどんなことでもするという男になりました。やがて少女もそんな男のことを気にするようになりました。でも男は裕福な家庭の子供で彼女はそうではありません。ふたりが惹かれ合ったとしても男の母親が許しませんでした。だからふたりは男の母親の目を逃れ付き合いを始めました」
つくしはかれこれ1時間近く話をしていたが、不思議なことに男が口を挟むことはなく黙って聞いていた。
だが話せば話すほど男が覚えていない時を実感し、本来なら重ねていたはずの時が虚しく過ぎ去ってしまったことを悔しく感じていた。だがだからといって16歳に戻りたいとは思わないが、あの時は逆戻りする時計の存在を望んだ。
「つまんねえ話だな」
「え?」
「つまんねえ話だって言った」
椅子にもたれていた男は、そっけなく言って足を組み肘をついた姿勢から立ち上がった。
「つまらないって….でも話をしろと言ったのは道明….いえあなたです。何でもいいと言ったのはあなたですが?」
「ああ。何でもいいと言った。だがお前の話はたかが高校生の恋愛話だ。所謂女や子供が喜ぶような話だ。そんな話は結局ハッピーエンドで終ると相場は決まっている。もしくは主人公のどちらかが不治の病に侵され余命いくばくもない。お涙頂戴で終る。そんな話か?お前のような女ならもっと面白い話をしてくれるかと思ったが違ったか。もういい」
つくしは男の言葉に不安げに息を吸いこんだ。
「もういい?….もういいって….あの、それはどういうことでしょう?」
もういいということは話を止めろということだが、その言い方から男がつくしの話を望んでいないことは明らかだ。そして、もういい、の言葉に含まれるのは、今日はもういいということなのか。だがつくしが派遣されるのは週末だが訪問の日時と回数は決められていない。
つまり今日のこの一日で終わりということも考えられる。それは次はないということだ。
「もういいの意味か?俺が言うもういいってのは終わりってことだ。それにお前の話は暇潰しにもならないただの恋愛話だ。だからもういい。帰れ」

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その何かのひとつが記憶であり、生まれた時からの全ての記憶を持って生きる人間などいない。だから古い記憶は忘れられて当たり前だと言うが、高校生の頃の記憶ならそう遠い昔ではなく、錆びついた扉の向こうへ置かれていてもおかしくはない。
つまり何かのきっかけがあれば思い出すのではないか。だから錆びついた扉を開ける必要がある。そうでなければ男の心の空洞は永遠に埋まることがないのだから。
だが空洞を抱えているのはつくしだけで男の心に空洞などないのかもしれない。いや空洞どころか隙間さえも無いのかもしれない。
だがそれでもいい。こうして勇気を出して行動を起こしたのだ。
話すことが男の錆びた扉の向こうにあるはずの過去の記憶と結びついてくれることを願い、与えられたチャンスを生かして男の記憶を取り戻してみせる。そうだ。よそ見をされたとしても取り返してみせる。
「いくら男が少女のことを好きだと言っても少女は男のことが好きになれませんでした。
それは男が我儘で自分本位だからです。それに少女には他に好きな人がいました。だから男の行動は迷惑以外の何ものでもありませんでした。でも男は少女が困難な状況に置かれたとき助けてくれました。少女を助けるためなら身を挺しても構わない。届かない想いを少女に届けるためならどんなことでもするという男になりました。やがて少女もそんな男のことを気にするようになりました。でも男は裕福な家庭の子供で彼女はそうではありません。ふたりが惹かれ合ったとしても男の母親が許しませんでした。だからふたりは男の母親の目を逃れ付き合いを始めました」
つくしはかれこれ1時間近く話をしていたが、不思議なことに男が口を挟むことはなく黙って聞いていた。
だが話せば話すほど男が覚えていない時を実感し、本来なら重ねていたはずの時が虚しく過ぎ去ってしまったことを悔しく感じていた。だがだからといって16歳に戻りたいとは思わないが、あの時は逆戻りする時計の存在を望んだ。
「つまんねえ話だな」
「え?」
「つまんねえ話だって言った」
椅子にもたれていた男は、そっけなく言って足を組み肘をついた姿勢から立ち上がった。
「つまらないって….でも話をしろと言ったのは道明….いえあなたです。何でもいいと言ったのはあなたですが?」
「ああ。何でもいいと言った。だがお前の話はたかが高校生の恋愛話だ。所謂女や子供が喜ぶような話だ。そんな話は結局ハッピーエンドで終ると相場は決まっている。もしくは主人公のどちらかが不治の病に侵され余命いくばくもない。お涙頂戴で終る。そんな話か?お前のような女ならもっと面白い話をしてくれるかと思ったが違ったか。もういい」
つくしは男の言葉に不安げに息を吸いこんだ。
「もういい?….もういいって….あの、それはどういうことでしょう?」
もういいということは話を止めろということだが、その言い方から男がつくしの話を望んでいないことは明らかだ。そして、もういい、の言葉に含まれるのは、今日はもういいということなのか。だがつくしが派遣されるのは週末だが訪問の日時と回数は決められていない。
つまり今日のこの一日で終わりということも考えられる。それは次はないということだ。
「もういいの意味か?俺が言うもういいってのは終わりってことだ。それにお前の話は暇潰しにもならないただの恋愛話だ。だからもういい。帰れ」

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深呼吸をすれば気持を整えることが出来ると言うが、つくしは必要ないとばかり椅子に腰を下ろしたとことで視線が水平になった男に向かって話し始めた。
「あるところにひとりの少女がいました。その少女の家は貧乏でしたが、少女はそんな家庭環境をものともしませんでした。そして少女は高校に入学しました。
でもそこはお金持ちの子供が通う高校で少女の暮らしとはかけ離れた世界でした。
そしてそこには生徒をいじめて楽しむ男がいました。その男はその高校での権力者であり誰も逆らう者がいない存在でした。でもあることがきっかけで少女は男に逆らい苛められることになりました。
それは男の指示により学校中の生徒が彼女を苛めるという図式で勉強するのが困難になるほどでした。でもその少女は苛めに負けませんでした。何故なら彼女は確固たる意志を持った少女だったからです。それは入学したからには無事に卒業して就職をしてお金を稼いで家族に楽をさせたいという思いがあったからです。だから苛めに負ける訳にはいきませんでした。それに少女は人を苛める人間を許すことが出来ない人間でした。だから苛めの張本人である男に宣戦布告をしました」
つくしは、そこでひと息ついた。
彼女が話し始めたのは自分がこの男から受けた苛めについてだが、もし男がつくしのことを覚えていたなら何か言うはずだ。それに、もしつくしのことを忘れていなければ、こんな話も懐かしいと笑い合えたはずだ。
だが彼女のことを覚えていない男は肘掛に乗せていた左腕で肘を付き、その指先に唇を置いたが、その姿は鷹揚だ。まるで召使を見る王のような態度だ。だから鷹揚過ぎて腹が立った。
だがここで腹を立てたところで男が忘れたつくしのことを思い出すとは思えなかったし、そう簡単に男の記憶が戻るとは思っていない。それに話はまだ始まったばかりだ。
それに今までこうして男の前で自分達の過去を話すチャンスが得られたことはなかった。
だからつくしがシェヘラザードになって延々とふたりの物語を語ることが出来るなら、もしかすると男の頭の片隅にあるはずの記憶を呼び覚ますことが出来るかもしれない。
だがふたりの話は色々あって長い。いや実際に付き合った期間は短いのだが、そこに辿り着くまでが波乱万丈でとにかく長かった。だからさしずめ第一章が出会いなら第二章は、はた迷惑な恋ごころ。そして第三章は__
「それで?宣戦布告をした女はそれからどうした?」
つくしは男からそう言われ思考を中断して話を継いだ。
「宣戦布告をした少女は苛めの張本人と闘いました。やられたらやり返すを信条に苛めに立ち向かいました。そんな少女に対し男は何を思ったのか。少女のことが好きになったと言って今度は少女に迫りました。しかし賢明な少女は、これまで自分を苛めていた男のその態度は嫌がらせであり苛めのひとつだと思い男に大嫌いだと言って逃げました。でも男はそんな少女に付き纏いストーカーになりました。少女を困らせました。だから少女は逃げ回りました。でも男は執拗で少女を諦めませんでした」
つくしは話をしながら思った。
今のこの状況は目の前にいる男の失われた記憶を呼び覚ますためだとしても、それと同時につくしも少女だったあの頃の自分を思い出していた。
そして、こうして男の前で過去を振り返ることで失ってしまった二人の時間を共有しようとしていた。

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「あるところにひとりの少女がいました。その少女の家は貧乏でしたが、少女はそんな家庭環境をものともしませんでした。そして少女は高校に入学しました。
でもそこはお金持ちの子供が通う高校で少女の暮らしとはかけ離れた世界でした。
そしてそこには生徒をいじめて楽しむ男がいました。その男はその高校での権力者であり誰も逆らう者がいない存在でした。でもあることがきっかけで少女は男に逆らい苛められることになりました。
それは男の指示により学校中の生徒が彼女を苛めるという図式で勉強するのが困難になるほどでした。でもその少女は苛めに負けませんでした。何故なら彼女は確固たる意志を持った少女だったからです。それは入学したからには無事に卒業して就職をしてお金を稼いで家族に楽をさせたいという思いがあったからです。だから苛めに負ける訳にはいきませんでした。それに少女は人を苛める人間を許すことが出来ない人間でした。だから苛めの張本人である男に宣戦布告をしました」
つくしは、そこでひと息ついた。
彼女が話し始めたのは自分がこの男から受けた苛めについてだが、もし男がつくしのことを覚えていたなら何か言うはずだ。それに、もしつくしのことを忘れていなければ、こんな話も懐かしいと笑い合えたはずだ。
だが彼女のことを覚えていない男は肘掛に乗せていた左腕で肘を付き、その指先に唇を置いたが、その姿は鷹揚だ。まるで召使を見る王のような態度だ。だから鷹揚過ぎて腹が立った。
だがここで腹を立てたところで男が忘れたつくしのことを思い出すとは思えなかったし、そう簡単に男の記憶が戻るとは思っていない。それに話はまだ始まったばかりだ。
それに今までこうして男の前で自分達の過去を話すチャンスが得られたことはなかった。
だからつくしがシェヘラザードになって延々とふたりの物語を語ることが出来るなら、もしかすると男の頭の片隅にあるはずの記憶を呼び覚ますことが出来るかもしれない。
だがふたりの話は色々あって長い。いや実際に付き合った期間は短いのだが、そこに辿り着くまでが波乱万丈でとにかく長かった。だからさしずめ第一章が出会いなら第二章は、はた迷惑な恋ごころ。そして第三章は__
「それで?宣戦布告をした女はそれからどうした?」
つくしは男からそう言われ思考を中断して話を継いだ。
「宣戦布告をした少女は苛めの張本人と闘いました。やられたらやり返すを信条に苛めに立ち向かいました。そんな少女に対し男は何を思ったのか。少女のことが好きになったと言って今度は少女に迫りました。しかし賢明な少女は、これまで自分を苛めていた男のその態度は嫌がらせであり苛めのひとつだと思い男に大嫌いだと言って逃げました。でも男はそんな少女に付き纏いストーカーになりました。少女を困らせました。だから少女は逃げ回りました。でも男は執拗で少女を諦めませんでした」
つくしは話をしながら思った。
今のこの状況は目の前にいる男の失われた記憶を呼び覚ますためだとしても、それと同時につくしも少女だったあの頃の自分を思い出していた。
そして、こうして男の前で過去を振り返ることで失ってしまった二人の時間を共有しようとしていた。

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「バカほど高い場所に上りたがるって言うけど、今のあいつはバカな男じゃないし、こういった場所に住むのに相応しい男なのよね….」
つくしはマンションの入口に立っていたが、見上げる建物は空を突く高さでエントランスにはコンシェルジュがいた。
そのコンシェルジュから、「お伺いしております。どうぞこちらでございます」と案内されたのは奥まった場所にあるペントハウスへの直通エレベーター。
高速で上昇する箱の中で気合いを入れたが、呼ばれた理由の話し相手という立場の意味が分からなかった。
これはレンタルファミリーからの派遣だが、家族ではないただの話し相手を求めるという例外を認めたのは、こうなることを願った相手からの依頼だからだ。
だが、30歳のやり手の副社長が週末に女を呼びつけ何を話すというのか。あの男の元へ向かいながら、これまでのあの男の浮いた話が脳裡を駆け巡ったが、まさかそんな話を訊かされるのか。だがどんな話を訊かされても今はこの状況にかける望み、それは自分のことを忘れた男に今度こそ自分を思い出させたいという思いの方が大きく胸をよぎった。
そんな胸の中には12年間のフラストレーションが鬱積している。
それは男が悪い訳では無いのだが、自分の記憶だけを失った男に対して、どうして私なのよ?どうして思い出さないのよ?という不満だ。
そしてかつて自信過剰だった男は今も自信過剰だ。
上半身裸の身体は綺麗な逆三角形を描き、逞しい胸板と腕の筋肉を見せつけていた男は、部屋に入るか入らないのかと訊いたが、それは全ての女が自分と寝たがっていると決めつけているということだ。
だからそんな男と対峙するためには自分も積極的な態度を取ることが必要だ。
しかし、つくしには生まつきの積極性や押しの強さが備わってはいない。だから桜子に見習うべきところが大きい。そしてあの芝居については、猫を被るのが得意という桜子から指南され役になりきったが、今この瞬間から新たな展開が始まる。
つくしは扉が開くと背筋をピンと伸ばし、「レンタルファミリーから参りました。牧野と申します。この度は当社のサービスにお申し込み下さりありがとうございます。今回は話し相手として訪問させていただきましたが、当社は家族を求める方に家族を提供する会社です。ですから家族として何かして欲しいといったご希望があれば承ります」
と男を見上げながら早口で言ったが、つくしの派遣を要請した男は流石にあの時とは違い上半身裸ではなくちゃんと服を着ていた。そして長い間じろじろと彼女を見ていたが「入れ」と言われ室内に通された。
室内は男の一人暮らしにしては片付いていた。いや。片付いていると言うよりも生活感が感じられない殺風景な部屋だ。
そんな部屋で「その辺に適当に座ってくれ」と言われソファの真ん中に腰を下ろした。
すると真正面の椅子に腰を下ろした男は、肘掛に腕を乗せ優雅に足を組んだが、そこで初めて視線が水平になった。
「それで?何を話してくれる?」
「は?」
「お前は俺の話し相手だろ?それなら話してくれ。退屈な週末の埋め合わせをしてくれ」
つくしは目の前の男の態度にいい加減にして欲しいという気持になった。
話し相手として呼ばれてのだから退屈な週末の埋め合わせというのは理解出来る。
だが話をしてくれとは一体どういうことなのか?何故なら話し相手というのを世間は聞き役と捉える。だが、どうやらこの男は自分が話すのではなくつくしに話をさせるつもりらしい。
そんな男の漆黒の目は黙っているつくしを見据えているが、その目は出会った頃と同じ鋭い目だ。そうだ。出会った頃この目をヘビのような目だと思った。
だがそんな目も、つくしを見る時だけ優しさを湛えた目に変わった。そしてつくしの前で楽しそうに笑っている姿があった。その面影が過った。
「どうした?何でもいいから話してくれ。お前は面白そうな女だ。だから暇潰しにお前を呼んだ」
つくしは男の鋭い視線に怯まなかったが、少しの緊張もないとは言えなかった。それでもその緊張を打ち消して言った。
「申し訳けございませんがどうしたもこうしたも、私はあなたの話し相手としてこちらに派遣されて来ました。でもそれは、あなたの話の聞き役だと思っていました。だからシェヘラザードの役目を求められるとは思いませんでした」
千夜一夜物語のシェヘラザードは命がけで王に物語を語った。
彼女は物語を語り続けることで命を長らえた。そして王との間に子供をなし幸せに暮らした。だがまさかこの男はつくしが話をしないからといって殺しはしないだろうが、男がつくしの話を訊きたいというなら……..
「分かりました。それなら私が知っている話をします」と言うとつくしは話し始めた。

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つくしはマンションの入口に立っていたが、見上げる建物は空を突く高さでエントランスにはコンシェルジュがいた。
そのコンシェルジュから、「お伺いしております。どうぞこちらでございます」と案内されたのは奥まった場所にあるペントハウスへの直通エレベーター。
高速で上昇する箱の中で気合いを入れたが、呼ばれた理由の話し相手という立場の意味が分からなかった。
これはレンタルファミリーからの派遣だが、家族ではないただの話し相手を求めるという例外を認めたのは、こうなることを願った相手からの依頼だからだ。
だが、30歳のやり手の副社長が週末に女を呼びつけ何を話すというのか。あの男の元へ向かいながら、これまでのあの男の浮いた話が脳裡を駆け巡ったが、まさかそんな話を訊かされるのか。だがどんな話を訊かされても今はこの状況にかける望み、それは自分のことを忘れた男に今度こそ自分を思い出させたいという思いの方が大きく胸をよぎった。
そんな胸の中には12年間のフラストレーションが鬱積している。
それは男が悪い訳では無いのだが、自分の記憶だけを失った男に対して、どうして私なのよ?どうして思い出さないのよ?という不満だ。
そしてかつて自信過剰だった男は今も自信過剰だ。
上半身裸の身体は綺麗な逆三角形を描き、逞しい胸板と腕の筋肉を見せつけていた男は、部屋に入るか入らないのかと訊いたが、それは全ての女が自分と寝たがっていると決めつけているということだ。
だからそんな男と対峙するためには自分も積極的な態度を取ることが必要だ。
しかし、つくしには生まつきの積極性や押しの強さが備わってはいない。だから桜子に見習うべきところが大きい。そしてあの芝居については、猫を被るのが得意という桜子から指南され役になりきったが、今この瞬間から新たな展開が始まる。
つくしは扉が開くと背筋をピンと伸ばし、「レンタルファミリーから参りました。牧野と申します。この度は当社のサービスにお申し込み下さりありがとうございます。今回は話し相手として訪問させていただきましたが、当社は家族を求める方に家族を提供する会社です。ですから家族として何かして欲しいといったご希望があれば承ります」
と男を見上げながら早口で言ったが、つくしの派遣を要請した男は流石にあの時とは違い上半身裸ではなくちゃんと服を着ていた。そして長い間じろじろと彼女を見ていたが「入れ」と言われ室内に通された。
室内は男の一人暮らしにしては片付いていた。いや。片付いていると言うよりも生活感が感じられない殺風景な部屋だ。
そんな部屋で「その辺に適当に座ってくれ」と言われソファの真ん中に腰を下ろした。
すると真正面の椅子に腰を下ろした男は、肘掛に腕を乗せ優雅に足を組んだが、そこで初めて視線が水平になった。
「それで?何を話してくれる?」
「は?」
「お前は俺の話し相手だろ?それなら話してくれ。退屈な週末の埋め合わせをしてくれ」
つくしは目の前の男の態度にいい加減にして欲しいという気持になった。
話し相手として呼ばれてのだから退屈な週末の埋め合わせというのは理解出来る。
だが話をしてくれとは一体どういうことなのか?何故なら話し相手というのを世間は聞き役と捉える。だが、どうやらこの男は自分が話すのではなくつくしに話をさせるつもりらしい。
そんな男の漆黒の目は黙っているつくしを見据えているが、その目は出会った頃と同じ鋭い目だ。そうだ。出会った頃この目をヘビのような目だと思った。
だがそんな目も、つくしを見る時だけ優しさを湛えた目に変わった。そしてつくしの前で楽しそうに笑っている姿があった。その面影が過った。
「どうした?何でもいいから話してくれ。お前は面白そうな女だ。だから暇潰しにお前を呼んだ」
つくしは男の鋭い視線に怯まなかったが、少しの緊張もないとは言えなかった。それでもその緊張を打ち消して言った。
「申し訳けございませんがどうしたもこうしたも、私はあなたの話し相手としてこちらに派遣されて来ました。でもそれは、あなたの話の聞き役だと思っていました。だからシェヘラザードの役目を求められるとは思いませんでした」
千夜一夜物語のシェヘラザードは命がけで王に物語を語った。
彼女は物語を語り続けることで命を長らえた。そして王との間に子供をなし幸せに暮らした。だがまさかこの男はつくしが話をしないからといって殺しはしないだろうが、男がつくしの話を訊きたいというなら……..
「分かりました。それなら私が知っている話をします」と言うとつくしは話し始めた。

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自分の思いをぶつける。
それは自分を忘れてしまった男に自分を思い出してもらうこと。
だが今回のことを以っても思い出さなければ、男のことをキッパリ忘れて前へ進もうと決めたが、それは日本を離れ海外で暮らすことだ。
つくしはスポーツ用品会社のフットウエア事業部で営業として働いているが、シューズを生産する主力工場は中国にある。だが会社は中国での生産を終了することにした。
そして中国で生産していたシューズはベトナム工場とインドネシア工場に移管されることになったが、つくしはベトナムへの転勤を打診されていた。
「今すぐにとは言わない。少し考えてもらっていい。君は営業職だが向うの工場で管理の仕事をしてみないか?だが工場は設備を増やす関係で君が赴任して欲しいのは半年先だ。
こんなことを言うとセクハラだと言われるかもしれないが君も女性だし交際している男性がいて結婚を考えているなら無理は言わないよ。だが君は優秀な人材だ。出来れば海外でもその優秀さを発揮して欲しい」
と言った上司は入社以来世話になっている人物であり信頼できる人だ。だからその言葉には気持が込められていた。
そして上司の期待に応えられるか。そうではないかは半年もかからず答えが出る。と同時にその時、結果はさておき12年の片思いを終わらせることが出来るはずだ。
「先輩。連絡が来ましたよ!道明寺さんの秘書の西田さんからです。西田さん、覚えていますよね?道明寺楓の懐刀って言われていた人です。今、西田さんは道明寺さんの秘書ですが、その西田さんから先日メープルのスイートに現れた女性を、つまり先輩をレンタルしたいって電話がかかってきたんです。やっぱり道明寺さんは先輩に興味を持ちましたね!」
仕事を終えたつくしは桜子の会社を訪れた。
するとあの男の秘書からレンタルファミリーを利用したいと連絡があったことを訊かされた。
だが相手は牧野つくしという名前を知らない。
けれど桜子曰く、「多分西田さんは道明寺さんの前に現れた女性が牧野つくしだって知っていますよ?」
桜子が言った秘書の西田とは一度だけ会ったことがある。
それは母親である楓が息子と付き合い始めたつくしに別れるようにと金を持って現れた時だ。表情のないその男性は何を考えているのか分からなかったが、主人の命令はどんなことをしても果たす。そんな冷たい人間に思えた。
「それに西田さんのことです。うちの会社のことを調べ尽くしているはずです。それから私に言ったんです。『大変ご無沙汰しております三条様。三条様が経営されている会社ということは何かありますね?あなたが副社長の元に間違いを装って送り込んだ女性はあの方ではありませんか?』って。つまり西田さんはあの出来事は仕組まれたことだと知っています。
でもあの人は牧野先輩のことを嫌いじゃないと思いますよ?それから先輩の役どころですが話し相手だそうです」
桜子は秘書の西田がつくしのことを嫌いではないと言うが、何を以ってそう思うのか。
そして話し相手という立場は何を求めているのか。それはよくある裕福な年配の男性が連れているコンパニオン的なものを求めているのか。
「ねえ桜子。話し相手って何よ?」
「秘書の西田さんがおっしゃったのは、週末に副社長のご自宅を訪問して話し相手を務める。道明寺さんはそれを牧野先輩に求めているそうです。
うちの会社は家族を求める淋しい人間の元へスタッフを家族として派遣する会社ですから、これまでもおじいちゃん、おばあちゃんの話し相手として娘や孫を手配したことがあります。
それに兄弟姉妹を派遣して兄や姉として話し相手を務めた例もあります。
でも今回は兄弟姉妹ではありません。しかし相手は道明寺さんですから例外ということで引き受けたことになっています。
でもそこは先輩のさじ加減です。先輩は道明寺さんに自分を思い出してもらいたいんですから、好きなように振る舞って下さい。それに道明寺さんも先日の牧野先輩の生意気な態度が気に入ったから派遣を望んだんだと思います。だから先輩は道明寺さんの前で何かを演じる必要はありません。先輩はありのままでいいんです。それにその方が道明寺さんも先輩のことを思い出すかもしれませんから」
桜子はそう言うと、「じゃあ頑張って下さい」と紙を差し出したが、そこには道明寺ホールディングス副社長の自宅と思われる住所が書かれていた。

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それは自分を忘れてしまった男に自分を思い出してもらうこと。
だが今回のことを以っても思い出さなければ、男のことをキッパリ忘れて前へ進もうと決めたが、それは日本を離れ海外で暮らすことだ。
つくしはスポーツ用品会社のフットウエア事業部で営業として働いているが、シューズを生産する主力工場は中国にある。だが会社は中国での生産を終了することにした。
そして中国で生産していたシューズはベトナム工場とインドネシア工場に移管されることになったが、つくしはベトナムへの転勤を打診されていた。
「今すぐにとは言わない。少し考えてもらっていい。君は営業職だが向うの工場で管理の仕事をしてみないか?だが工場は設備を増やす関係で君が赴任して欲しいのは半年先だ。
こんなことを言うとセクハラだと言われるかもしれないが君も女性だし交際している男性がいて結婚を考えているなら無理は言わないよ。だが君は優秀な人材だ。出来れば海外でもその優秀さを発揮して欲しい」
と言った上司は入社以来世話になっている人物であり信頼できる人だ。だからその言葉には気持が込められていた。
そして上司の期待に応えられるか。そうではないかは半年もかからず答えが出る。と同時にその時、結果はさておき12年の片思いを終わらせることが出来るはずだ。
「先輩。連絡が来ましたよ!道明寺さんの秘書の西田さんからです。西田さん、覚えていますよね?道明寺楓の懐刀って言われていた人です。今、西田さんは道明寺さんの秘書ですが、その西田さんから先日メープルのスイートに現れた女性を、つまり先輩をレンタルしたいって電話がかかってきたんです。やっぱり道明寺さんは先輩に興味を持ちましたね!」
仕事を終えたつくしは桜子の会社を訪れた。
するとあの男の秘書からレンタルファミリーを利用したいと連絡があったことを訊かされた。
だが相手は牧野つくしという名前を知らない。
けれど桜子曰く、「多分西田さんは道明寺さんの前に現れた女性が牧野つくしだって知っていますよ?」
桜子が言った秘書の西田とは一度だけ会ったことがある。
それは母親である楓が息子と付き合い始めたつくしに別れるようにと金を持って現れた時だ。表情のないその男性は何を考えているのか分からなかったが、主人の命令はどんなことをしても果たす。そんな冷たい人間に思えた。
「それに西田さんのことです。うちの会社のことを調べ尽くしているはずです。それから私に言ったんです。『大変ご無沙汰しております三条様。三条様が経営されている会社ということは何かありますね?あなたが副社長の元に間違いを装って送り込んだ女性はあの方ではありませんか?』って。つまり西田さんはあの出来事は仕組まれたことだと知っています。
でもあの人は牧野先輩のことを嫌いじゃないと思いますよ?それから先輩の役どころですが話し相手だそうです」
桜子は秘書の西田がつくしのことを嫌いではないと言うが、何を以ってそう思うのか。
そして話し相手という立場は何を求めているのか。それはよくある裕福な年配の男性が連れているコンパニオン的なものを求めているのか。
「ねえ桜子。話し相手って何よ?」
「秘書の西田さんがおっしゃったのは、週末に副社長のご自宅を訪問して話し相手を務める。道明寺さんはそれを牧野先輩に求めているそうです。
うちの会社は家族を求める淋しい人間の元へスタッフを家族として派遣する会社ですから、これまでもおじいちゃん、おばあちゃんの話し相手として娘や孫を手配したことがあります。
それに兄弟姉妹を派遣して兄や姉として話し相手を務めた例もあります。
でも今回は兄弟姉妹ではありません。しかし相手は道明寺さんですから例外ということで引き受けたことになっています。
でもそこは先輩のさじ加減です。先輩は道明寺さんに自分を思い出してもらいたいんですから、好きなように振る舞って下さい。それに道明寺さんも先日の牧野先輩の生意気な態度が気に入ったから派遣を望んだんだと思います。だから先輩は道明寺さんの前で何かを演じる必要はありません。先輩はありのままでいいんです。それにその方が道明寺さんも先輩のことを思い出すかもしれませんから」
桜子はそう言うと、「じゃあ頑張って下さい」と紙を差し出したが、そこには道明寺ホールディングス副社長の自宅と思われる住所が書かれていた。

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「先輩。どうでしたか?」
「桜子....本当にあれでよかったの?」
「何言ってるんですか!あれで良かったんです。先輩の行動はかなりのインパクトを与えたはずです。これなら絶対に道明寺さんは先輩に興味を示します。だって道明寺さんは自分になびく女より歯向かう女の方が好きですから。それに先輩は昔から男の狩猟本能を刺激するところあるんです。それにこんなことを言うのは悔しいんですけど先輩のそんな生意気な態度が男の征服欲をかき立てるんです。それにしてもどうして先輩がそんなにモテるのか知りたいくらいです」
とレンタルファミリーを経営する三条桜子は言ったが、スポーツ用品の会社で働くつくしが彼女の会社でスポット社員として働いているのには訳がある。
それはつくしが高校生の頃に互いに愛を誓い合った男がニューヨークから東京に戻って来たからだ。
だが、その男は刃物で脇腹を刺され重傷を負い彼女のことを忘れた。
けれどいつかは思い出す。それは1年後かもしれない。2年後かもしれない。いや5年後かもしれない。だがあれから12年が経ったが、未だに彼女のことを思い出すことはなかった。
いや。もしかすると思い出していたのかもしれない。
男は忘れていたつくしの記憶を取り戻したが、もう彼女に興味はない。彼女のことを好きではない。だから会いに来ることはなかったのではないか。だからつくしはそれを確かめることを決めた。
だが思っていたのとは違うことを知ったのはホテルの扉が開いたときだ。
男はつくしの顏を見ても眉ひとつ動かすことがなかった。その顏には感情の動きがひとかけらも見られなかった。
その代わり、誰だ、この女はと言った顏で彼女を見ていた。
つまりそれは男は未だに牧野つくしのことを思い出していないということだ。
「いいですか?先輩。躊躇ってる時間はないんです。道明寺さんお見合いするんですよ?
あの道明寺さんがですよ?あの人、政略結婚なんて絶対にしないと思っていたのに。それなのにどうしてお見合いする気になったのか……でも大丈夫です。道明寺さんに先輩のことを思い出させればいいんです。そのためには強烈なインパクトを与える必要があるんです。そうすればきっと思い出しますから。だって道明寺さんの頭の中には絶対に先輩の記憶があるはずです!それにいいですか先輩。冬のニューヨークに行ってボードウォークに座ってセンチメンタルな気分に浸ってる場合じゃなかったんですよ?本当に何をしにニューヨークまで行ったのか。
今どき高校生でもマンハッタンで高層ビルを眺めて帰るだけなんてしませんから。それに好きな男が諦めきれない女は当たって砕けろです。そうですよね。先輩?先輩は道明寺さんのことが忘れられないんですよね?」
つくしは去年の冬。休みを取ると桜子とニューヨーク旅行に出かけた。
それは桜子の言う通りで忘れられない男に会うためだ。
だが相手は道明寺ホールディングスの副社長。そう簡単に会える相手ではない。
それでもチャンスはあった。それは美作あきらがお膳立てをしてくれたからだ。
美作商事の専務のあきらと三条桜子は、交際とまでは言わないが親しくしていた。
そして美作あきらは親友思いの人間であり、その思いはかつて親友が好きだった女に対しても同じだ。
だから偶然を装いあきらの友人としてつくしを紹介する段取りがされていた。
だが直前になってつくしは会えないと言って真冬のニューヨークの街に出た。
そして今回の道明寺の副社長が見合いをするという話も、メープルのあの部屋に泊まっているということも、あきらから桜子に伝えられた話だ。
「それに私も先輩のために闘っていた道明寺さんが忘れられないんです。そりゃあ今の道明寺さんはビジネスの場で闘っていますけど、今は大人の男って感じで違うんです。今の道明寺さんはあの頃のように先輩だけを見ていた道明寺さんじゃないんです」
桜子の言う通りだ。あれから12年経った男は大人の男だ。
かつて女性など興味がないと言っていた男も、それなりに浮いた話があった。
それに裸の男は、高校時代に比べよりシャープな身体をしていた。
そして目をやった脇腹には刺された時の傷痕が残されていた。
「先輩。先輩はあの島で道明寺さんと関係を持ったんですよね?それが先輩の最初で最後の男性との関係ですよね?いえ。もし道明寺さんの後に誰かとそういった関係になっていたなら謝ります。でも違いますよね?先輩の経験はただひとり。そうですよね?」
そうだ。つくしの初めての男はあの男で、それは大河原滋に拉致された島での出来事。
男女の機微に敏感な桜子は、つくしの態度からそれを察していたらしく、暫くすると「先輩。妊娠していませんよね?」と訊いた。
「でもそれにしても12年間もよく男無しで暮らせますよね?先輩は女としての性欲が無いんですか?でもまあ分かりますよ?心を開き合える相手じゃないと身体を開くことは出来ないってことですよね?そんな先輩がやっと決心して胸の奥に仕舞い込んでいた思いをぶつけることにしたんですから、私が協力しないで誰が協力するって言うんです?それにいいんですよね?もし道明寺さんがうちの会社に先輩を派遣して欲しいって言ってきたら受けても」
つくしは桜子の問いに頷いた。
そして「でももし今回のことで私のことを思い出さなかったら、あの男のことはキッパリと忘れるわ。そして今度こそ前を向くから」と答えていた。

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「桜子....本当にあれでよかったの?」
「何言ってるんですか!あれで良かったんです。先輩の行動はかなりのインパクトを与えたはずです。これなら絶対に道明寺さんは先輩に興味を示します。だって道明寺さんは自分になびく女より歯向かう女の方が好きですから。それに先輩は昔から男の狩猟本能を刺激するところあるんです。それにこんなことを言うのは悔しいんですけど先輩のそんな生意気な態度が男の征服欲をかき立てるんです。それにしてもどうして先輩がそんなにモテるのか知りたいくらいです」
とレンタルファミリーを経営する三条桜子は言ったが、スポーツ用品の会社で働くつくしが彼女の会社でスポット社員として働いているのには訳がある。
それはつくしが高校生の頃に互いに愛を誓い合った男がニューヨークから東京に戻って来たからだ。
だが、その男は刃物で脇腹を刺され重傷を負い彼女のことを忘れた。
けれどいつかは思い出す。それは1年後かもしれない。2年後かもしれない。いや5年後かもしれない。だがあれから12年が経ったが、未だに彼女のことを思い出すことはなかった。
いや。もしかすると思い出していたのかもしれない。
男は忘れていたつくしの記憶を取り戻したが、もう彼女に興味はない。彼女のことを好きではない。だから会いに来ることはなかったのではないか。だからつくしはそれを確かめることを決めた。
だが思っていたのとは違うことを知ったのはホテルの扉が開いたときだ。
男はつくしの顏を見ても眉ひとつ動かすことがなかった。その顏には感情の動きがひとかけらも見られなかった。
その代わり、誰だ、この女はと言った顏で彼女を見ていた。
つまりそれは男は未だに牧野つくしのことを思い出していないということだ。
「いいですか?先輩。躊躇ってる時間はないんです。道明寺さんお見合いするんですよ?
あの道明寺さんがですよ?あの人、政略結婚なんて絶対にしないと思っていたのに。それなのにどうしてお見合いする気になったのか……でも大丈夫です。道明寺さんに先輩のことを思い出させればいいんです。そのためには強烈なインパクトを与える必要があるんです。そうすればきっと思い出しますから。だって道明寺さんの頭の中には絶対に先輩の記憶があるはずです!それにいいですか先輩。冬のニューヨークに行ってボードウォークに座ってセンチメンタルな気分に浸ってる場合じゃなかったんですよ?本当に何をしにニューヨークまで行ったのか。
今どき高校生でもマンハッタンで高層ビルを眺めて帰るだけなんてしませんから。それに好きな男が諦めきれない女は当たって砕けろです。そうですよね。先輩?先輩は道明寺さんのことが忘れられないんですよね?」
つくしは去年の冬。休みを取ると桜子とニューヨーク旅行に出かけた。
それは桜子の言う通りで忘れられない男に会うためだ。
だが相手は道明寺ホールディングスの副社長。そう簡単に会える相手ではない。
それでもチャンスはあった。それは美作あきらがお膳立てをしてくれたからだ。
美作商事の専務のあきらと三条桜子は、交際とまでは言わないが親しくしていた。
そして美作あきらは親友思いの人間であり、その思いはかつて親友が好きだった女に対しても同じだ。
だから偶然を装いあきらの友人としてつくしを紹介する段取りがされていた。
だが直前になってつくしは会えないと言って真冬のニューヨークの街に出た。
そして今回の道明寺の副社長が見合いをするという話も、メープルのあの部屋に泊まっているということも、あきらから桜子に伝えられた話だ。
「それに私も先輩のために闘っていた道明寺さんが忘れられないんです。そりゃあ今の道明寺さんはビジネスの場で闘っていますけど、今は大人の男って感じで違うんです。今の道明寺さんはあの頃のように先輩だけを見ていた道明寺さんじゃないんです」
桜子の言う通りだ。あれから12年経った男は大人の男だ。
かつて女性など興味がないと言っていた男も、それなりに浮いた話があった。
それに裸の男は、高校時代に比べよりシャープな身体をしていた。
そして目をやった脇腹には刺された時の傷痕が残されていた。
「先輩。先輩はあの島で道明寺さんと関係を持ったんですよね?それが先輩の最初で最後の男性との関係ですよね?いえ。もし道明寺さんの後に誰かとそういった関係になっていたなら謝ります。でも違いますよね?先輩の経験はただひとり。そうですよね?」
そうだ。つくしの初めての男はあの男で、それは大河原滋に拉致された島での出来事。
男女の機微に敏感な桜子は、つくしの態度からそれを察していたらしく、暫くすると「先輩。妊娠していませんよね?」と訊いた。
「でもそれにしても12年間もよく男無しで暮らせますよね?先輩は女としての性欲が無いんですか?でもまあ分かりますよ?心を開き合える相手じゃないと身体を開くことは出来ないってことですよね?そんな先輩がやっと決心して胸の奥に仕舞い込んでいた思いをぶつけることにしたんですから、私が協力しないで誰が協力するって言うんです?それにいいんですよね?もし道明寺さんがうちの会社に先輩を派遣して欲しいって言ってきたら受けても」
つくしは桜子の問いに頷いた。
そして「でももし今回のことで私のことを思い出さなかったら、あの男のことはキッパリと忘れるわ。そして今度こそ前を向くから」と答えていた。

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