fc2ブログ
2020
09.27

夜の終わりに 37

これまで意識したことがなかった身体の一部が痛いのは仕方ないにしても、あちこちに口づけの痕があるとは思いもしなかった。
だがそれが男と女が愛し合うということであり、ふたりがした行為以上に男と女の仲を近づける行為はなく、つくしは秘密の扉を開け別の世界に足を踏み入れた。
だが抱き合ったことで相手のことの全てが分かるとは言わないが、知らなかった世界に足を踏み入れたとき、恋人の態度には経験不足のつくしに対しての気遣いというものがあった。
そしてその世界から戻るとき、気だるさと、優しさに包まれていたが、朝起きてどんな顏をすればいいのか分からなかった。
すると恋人は、つくしの腰に腕をまわし抱き寄せ、「そんなに一生懸命考えなくていいんだ」と言い、本能の糸に引き寄せられるまま唇を重ね再び愛し合った。
そしてニューヨークを後にして東京に戻ってからのふたりの関係は前に進んでいた。
それは、抱き合ったことで遠慮なく言いたいことが言えるようになったということ。
互いに自分のことを語り合うことをすれば、恋人のそばでゆったりとくつろいでいる自分がいることに気付いた。





ある休日。
ふたりは司の部屋で夕食を済ませるとコーヒーを飲んでいた。
そして司は恋人が自分の頭に視線を向けていることに気付くと言った。

「どうした?さっきから俺の頭ばかり見ているようだが何か気になることがあるのか?」
すると「うん。前からその髪型に興味があって…..」と言ったが、これまで面と向かって司の髪型について訊いた人間はいない。

「興味?」

「うん…….ねえ…..その髪の毛。お母様じゃなくてお父様似なのは分かったけど、手入れするの大変じゃない?」

恋人の口から出たのは司の髪の手入れについて。
癖の強い巻き毛は父親譲りでシャワーを浴びた後はストレートになる。
その髪をカットするときは濡れた状態から切るのか。それとも乾いた状態で切るのか気になっていたという。

「そんなことを訊いてきた人間は初めてだがどっちだと思う?」

司はそう言って面白そうな顏をした。

「…..多分…..濡れた状態じゃない?」

「残念だが外れだ。俺の髪は濡れると何故かストレートになって癖がなくなる。そんな髪だが昔濡れた状態でカットをして乾いたらとんでもない髪型になった。だから乾いた状態でカットする」

と司は答えたが、「ふーん」と感心した恋人は、まだまじまじと司の頭を見ていた。
だから「どうした何か他にも気になることがあるのか?」と訊いた。
すると「うん」とだけ答えた恋人は、その先をなかなかなか言おうとしない。
そんな恋人に司は先を促した。

「訊きたいことがあれば遠慮なく言えばいいんだぞ?」

すると恋人は、「うちね。弟が小学生の頃は家で散髪してたの。初めは母親が切ってたんだけど、そのうち私が任されて切りはじめたの。だから資格は持ってないけどコツは心得てるの」
と、何故か自信満々な顏で散髪が上手いと言った。

司は何故か嫌な予感がした。
だからその思いを口にした。

「おい。なんだか嫌な予感がするんだが?」

「え?嫌な予感?」

それは、とぼけた調子で返された言葉。

「お前、まさかとは思うが俺の髪をカットしたいって言うんじゃないだろうな?」

司の髪は黒い巻き毛で厚みがあるがふさふさとしている。
そんな髪を月に一度カットするのは一流と言われる美容師。長年その男が司の髪のカットを担当してきた。だからニューヨーク時代はその男を日本から呼んでいたくらいで、他の人間が司の髪を切ったことはない。

司は自分の髪に手を当てた。
世の中には自分の髪型にこだわらない人間もいる。だが司はこだわる。
癖が強く扱いにくい髪だが、この髪にはこだわりがある。
そんな髪を恋人は「本当にくるくる」と言っていたが、まさかこの髪にハサミを入れたいと思っているなど思いもしなかった。

「おい。頼むから冗談はやめてくれ。コツを心得ているってのは弟に対してだろ?悪いが俺の髪は弟とは違う。いや弟がどんな髪か知らないが俺はお前がどんなにカットが上手くても絶対に切らせるつもりはない。それに俺の髪にはサムソンと同じで力がある」

動揺とまでは言わないが口を突いたのは髪に関しての伝説を持つ男の話だ。
旧約聖書の登場人物であるサムソンは怪力の持ち主として有名だが、その怪力は神から与えられたもので、その力で自分達の民族が他民族から圧迫を受けことのないよう守っていた。
そんなサムソンの力の秘密を敵は知りたがった。
だから敵は彼の妻デリラを買収し、サムソンの力の秘密を訊くように言った。
その秘密とはサムソンの怪力は髪を切れば失われるということ。
だからサムソンは生まれてからずっと髪を切ることがなかった。
そして妻に自分の力の秘密を打ち明けたサムソンは、寝ている間に自分を裏切った妻に髪を切られてしまう。すると彼の怪力は失われ、目玉をえぐられ牢屋に繋がれるという話。
だが、髪は時間と共に伸びる。だから髪が伸びたサムソンは力を取り戻し、自分をこんな目に合わせた人間たちを道連れに死んでいく。
そんなサムソンを引き合いに出した男は立ち上がると恋人の手を掴み、司の髪を切りたいなどと言い出さないうちに、それにまさかとは思うが勝手に切られないように「俺の髪を触りたいなら好きなだけ触らせてやる。ただしベッドの中でな」と言って恋人をベッドルームへ連れて行こうとしたが、その前に短く熱烈なキスをしていた。




にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



Comment:2
2020
09.23

Saudade <後編>

Category: Saudade(完)
「それにしても今日はいい天気ですね?海もキラキラと輝いてまるで夏のようです」

ここ数日は雨が続き、気温も下がり肌寒さも感じられたが、今日は嘘のようないい天気だ。
そして、都会では秋が深まり紅葉が進み冬支度をするようになっても西伊豆は比較的まだ暖かかいと言えた。

「ああ。そうだね。それで返事を聞かせてくれるんだよね?」

ふたりはテラスにいて女性は椿の車椅子を押しているが、徹の言う返事というのは女性が徹の愛人になることを承諾するかどうかの返事だ。

「ええ……」

「どうしたんだい?ここに来てまだ考えが纏まらないって言うんじゃないよね?今日返事をしたいって言うからわざわざスケジュールに都合をつけて戻って来たんだよ?それに僕たちが寝る条件は話した通りだ」

徹は女性が自分の愛人になるなら不自由はさせない。それ相応の金を払うと言った。
それにブランドもののバッグでも宝石でも与えてやることが出来ると言った。
何しろ今の徹は椿と結婚したことで、ただの会社員ではなく道明寺グループの会社の役員だ。だから自由になる金はいくらでもある。

「ええ。分かっています。だから私、あなたの愛人になることに決めました」

承諾の意を伝えられた徹は、女性の腕を掴むと車椅子を押すのを止めさせ、頭を下げてキスをした。
それは椿の背後で行われていること。
だから椿の目には映ってはいない。

「ねえ。徹さん。私あなたにプレゼントを用意したの。受け取ってくれない?」

女性はそう言って車椅子のハンドルから手を離すと、車輪が動かないようにストッパーで固定した。そして、「今取って来るから、ここで待っていてもらえない?椿様を見ていて下さいね」と言って椿と徹を残して建物の中に入って行った。







「まいったよな。ホント」

二人だけになって思わず出たその言葉。
徹その言葉には今の生活がうんざりしているという思いが込められていた。
徹は椿の夫だ。周りにいる人間は徹のことを障害を負った妻を気遣う優しい夫だと思っている。それに障害を負った妻と結婚することを決めた徹を愛情深い男だと思っている。

だが彼女のことが好きだと言ったのは嘘だ。
徹は椿など愛してはいなかったが、椿と結婚するためにはそう言うしかなかった。
何しろ道明寺椿と結婚すれば、生活に困ることがないのはわかっているのだから。
それに、もし椿が先に死ねば遺産は彼のものになる。

徹が椿と再会をしたのは本当に偶然だった。
初めは懐かしさから食事に誘った。そして彼女がそれを受け入れたとき、夫と死別したことを知った。と、同時に今でも自分に気があるように思えた。だがそれが自惚れだとしても、徹は自分が男っぷりがいいと言われていることを知っている。
だからこの状況は使えると思った。
そしてあのとき徹は会社の金を流用していたが、それが発覚する恐れがあった。
だから金を早々に返す必要があったが、徹が流用した金はどこに流れたのか。
それは株式投資の失敗によるもので1億近くにまで膨れ上がっていた。だから椿と結婚した徹は、その金を椿から引き出し返済に充てると道明寺の会社へ移った。

そして椿と西伊豆で暮らし始めたが、ここでの生活には刺激がない。
何が悲しくて東京から遠くはなれた田舎の山奥、断崖に立つ別荘で暮らさなければならないのか。
道明寺家には都内にいくらでも住まいがある。だから徹は都内で暮らすことを望んだが椿はここがいいと言い、周りの人間もここで暮らすことに賛成をした。

「あ……」

それは車椅子に座っている妻から発せられた言葉。
徹は車椅子の前に回り込んで椿を見た。

「どうした?」

「トンボ玉が….」

「トンボ玉?ああ、あれか。僕が高校生の頃、君にプレゼントしたというガラス玉か…」

徹は付き添いの女性から椿がそれをいつもポケットに入れていることを訊いていたが、見たことはない。だがテラスの端に緑色のガラス玉が落ちているのを見つけた。

「おねがい…..拾って….」

妻の口から出たその言葉に徹は腰を屈めてガラス玉に手を伸ばそうとした。
そのとき背中に何かが当たった。
それは暖かく弾力のある何か。だが振り向くことが出来なかった。
そして何か大きな力が働いたように自分の身体が持ち上がるのを感じた。その瞬間、身体をひねりなんとか背後を見たが、そこには空になった車椅子だけがあった。
そして再び身体に何かが当たるとバランスを崩した。
テラスの端には柵がある。その柵の高さは1メートル。だが徹の目の前に柵はない。
そこは夏の台風で壊れ修理のため取り外されていて、徹の身体はそこから海の上の中空に放り出された。
















椿は緑色のトンボ玉を拾った。そして太陽に透かして見たが、それは空の色と混ざりターコイズブルーに変わり伊豆の海の色と同じに思えた。

椿はそれを海に投げた。
そして車椅子に戻り深く腰掛けると徹が落ちた柵の間を見ていた。
椿は足が不自由になったのではない。それに脳に障害を負ったのでもない。
それなら何故そんなフリをしていたのか。
それは及川徹の本心を知るためだった。

再会したのは偶然だ。そして初恋の人に心がときめいた。だが交通事故に遭ってから及川徹の態度に何かを感じた。それはただの勘だとしても、椿は自分が道明寺家の人間であることが理由で人の態度が変わることを知っている。それに相手がたとえ初恋の人だとしても、今のその人を知る必要があった。
だから調べた。すると及川徹が会社の金を流用していることを知った。
椿は及川の会社の人間を知っている。だから発覚することがないように手を回した。
それは20年前に及川を傷つけて別れなければならなかったことへの贖罪の気持からしたこと。
そしてプロポーズを受けたのは、道を踏み外してしまった初恋の人に立ち直って欲しいという思いがあったから。それに好きだという思いが確かにあった。だから夫となった徹が1億近い金を使うことに目を瞑った。

自分を心から必要としてくれる人なら良かった。
だが及川はそうではない。その証拠に椿の世話をする女性に手を出そうとしている。
及川徹という男は、もう椿が知っていた男ではなかった。
そして椿は自分の背後で交わされた会話も、唇を重ねていたこともトンボ玉を手に身体全体で感じていた。

トンボの目は蜂の巣のような六角形の小さな眼球が1万から3万集まって出来ていて、40メートル先で動く昆虫を見逃すことがないというが、椿はトンボがどんなに小さなことも見逃すことがない千里眼の目を持つのと同じで、彼女の目も道明寺の家に生まれた女として見逃すことが出来ないものをしっかりとこの目で見ていた。つまり不実を働こうとしている男を、及川徹を許すことが出来なかった。

そして今思うのは若い頃の恋は思い出として心の中に留めておくことが望ましいということ。
何故なら大人になれば知りたくないことまで知ってしまうことがあるから。だから過去は思い出のままにしておくのがいい。一度手放した恋心はそのまま手放している方がいいのだ。
だがそれが出来なかった。あの頃の恋に懐かしさを感じた。夢を見たいと思った。
けれど、それはつらい現実だった。
それに道明寺の家に生まれた人間は、弟を除いてだが、純粋な恋をすることは難しいのかもしれない。
















「椿様?徹様は?」

徹にプレゼントがあると言って建物に中に行った女は戻って来ると椿に訊いた。
だから椿は柵の間を指差した。

「…..え?」

「…….トンボ玉が落ちたの。だから………」

女性は柵がある場所に駆け寄った。
そして下を見たが、そこは海が見えるだけで誰の姿も無かった。








及川が海に落ちたのは不慮の事故として処理された。
そして椿は夫が目の前で海に転落する場面を目撃した。それが彼女の脳を刺激したのか。
それまではっきりとしなかった言葉や失われていた記憶能力が戻った。そして立ち上って歩くことが出来るようになった。
その光景に椿の担当医は、「これはショック療法です。椿様はご主人が海へ転落する場面を目の当たりにして脳と神経が覚醒されたのです」と言った。














「失礼します。椿様。東京へ戻るお車のご用意が出来ました」

テラスにいる椿を呼びに来たのは、これまで彼女の世話をしていた女性だ。

「分かったわ。でももう少し待つように伝えてくれるかしら?暫くはここからの眺めを見ることがないからもう少し見ていたの」

「かしこまりました。では運転手に伝えてまいりますが、ニューヨークはこちらよりも寒いそうですからお身体にお気をつけ下さいませ」

「ええ。ありがとう。あなたも気を付けてね。それから今回のことは本当に助かったわ。三条さん」

「椿様。わたしは恩がある牧野先輩のお義姉さまのお力になれて大変光栄です」

桜子が敬愛する牧野つくしは椿の弟の司と結婚してニューヨークで子育てに追われ暮らしている。
だから椿が事故に遭ったとき一番に駆け付けたのは桜子だ。そして椿から及川徹のことを訊いた桜子は椿に協力することにした。

「それからここの柵だけど修繕を急ぐように言ってね。また誰かが落ちたら大変だもの」

「ご安心下さい。業者は明日来るそうです。頑丈な柵を作るように言っておきますから」と言って桜子は背を向けた。

そして椿が見ていたのは、日本一の夕陽を見ることが出来る場所で燃えるような真っ赤な太陽が海と空を赤く染め上げ海に沈んでいく光景だった。





< 完 > *Saudade=郷愁・思慕・憧憬*
にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
Comment:13
2020
09.22

Saudade <中編>

Category: Saudade(完)
医師の予感は外れた。
椿が及川徹と結婚してから2ヶ月が経ったが椿の脳に変化は見られなかった。

「お気の毒に……せっかく徹様と結婚されたというのに、お身体の調子が良くならないなんて…..それでも椿様は時に楽しそうな表情をされることがあるんですよ?」

そう言ったのは椿の世話をする女性。
彼女は車椅子を押して庭を散策していたが、そこに徹が現れると変わるからと言って車椅子のハンドルを握った。

結婚した徹は都内で暮らすことを望んだ。だが椿は西伊豆の別荘で暮らすことを望み、ふたりはこの場所で暮らすことになった。
そして徹は椿の夫という立場から道明寺グループの会社に転職をすると役員の待遇を与えられ比較的自由のきく立場になった。
だから平日の昼間に、こうして家に帰ってくることがある。


「椿が楽しそうな表情を?本当に?」

「ええ。間違いありません。さっきもテラスのテーブルの端にトンボが止まっている様子を微笑んで見ていらっしゃいましたもの。ねえ椿様?大きなトンボが止まっていましたよね?あのトンボは暫く動くことなくじっとしていて何かを見つめていましたよね?」

女性は背後から車椅子に座る椿に顏を寄せて訊いたが、トンボのことなどとっくに忘れた椿は無反応で遠くを見つめていた。

「そうですか…..もう忘れてしまわれたんですね。さっきはトンボを見て微笑んでいらっしゃたのに……」

少し前に起きたことだったが椿は覚えていなかった。
そして女性は少し前には微笑んでいた椿の無反応に落胆した様子で言ったが、徹も同じように落胆した様子で呟くように応えた。

「そうか…..微笑んだのか…..」

「ええ。徹様から頂いたトンボ玉と同じ緑色の目を持つ大きなトンボでした。椿様はそれを見て笑っていらっしゃったんです」

「僕が椿にプレゼントしたトンボ玉?」

徹は椿にトンボ玉と呼ばれる小さなガラス玉をプレゼントした記憶はない。
もし仮にそうだとしても、それは20年も前の話であり、そんな前のことをよく覚えているなと思った。

「ええ。椿様が大切にされているトンボ玉は徹様がプレゼントされたものですよね?
違いますか?お二人が結婚された頃、私がそれはどうされたんですかとお聞きしたら高校生の頃に徹様から頂いたものだとお答えになられました。椿様はそれをいつも上着のポケットの中に入れていらしゃいます。そして時々取り出して眺めておられるんですよ。今は手の中に握っていらっしゃいます」

女性は椿に握っているトンボ玉を徹様にも見せて欲しいと頼んだ。
だが椿の手が開かれることはなかった。

「椿様。余程トンボ玉が大切なんですね…….」

と女性は静かに言ったが、徹は車椅子を押す手を休めると、「それより僕が言ったこと。考えてくれたかな?僕が椿と結婚して2ヶ月が経つがあの医者の言ったことは嘘だ。僕が傍にいても椿の脳は活性化されない。僕が誰かすぐに忘れてしまうのは相変わらずだ。それに最近は前よりもぼんやりしている時間が長い」

と言ってからクスリと笑い女性の手を取ると自分の胸に当てた。

「それに僕は男だ。だから息抜きが必要だ。言っている意味は分かるよね?それに君は僕の好みだ。それに悪いようにはしない」

そして、ねえ。だからいいだろ?と囁いた。

「徹様。止めて下さい」

女性は徹から付き合って欲しいと言われていた。だが相手は彼女が世話をしている女性の夫だ。それに自分は椿の使用人であり徹の遊び相手ではない。
だから女性は少し怒った声で言った。
だが、それは本気ではない。
その証拠に女性は徹の胸に当てられた手を優しく動かしていた。そしてうふふ、と笑って言葉を継いだ。

「ダメですよ。こんなところで。それに椿様に訊かれるじゃないですか。それにもしかすると椿様は私たちの会話を記憶することが出来るかもしれないんですよ?今この瞬間脳が活性化されて昔のように聡明な椿様に戻るかもしれません。そうなったら困るのはあなたですよ?」

「大丈夫だよ。だって見てごらんよ。椿は今、寝ている」

徹と女性が目の当たりにしている椿の後姿は前傾姿勢であり首は横に倒れていた。
その姿を見ながら徹はうんざりした声で言った。

「それに寝ていなくても彼女はぼんやりしていることの方が多いんだ。だから僕たちの会話は耳に入ってないはずだ」





にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
Comment:6
2020
09.21

Saudade <前編>

Category: Saudade(完)
「椿様。冷えて来たのでそろそろ中に入りましょうか」

そう言われたが椿は真っ直ぐ前を向いたまま答えなかった。
だがそれは意図して答えなかったのではない。
これはいつもの反応であり声をかけた女性も気に留めなかった。
だが女性は椿に再び話かけた。

「それにしても日暮れが早くなりましたね?」

そして車椅子のハンドルをギュッと握ると向きを変え建物の中へ入って行ったが、ふたりの背後には海に沈もうとしている太陽があった。











椿は西伊豆の切り立った崖の上に立つ道明寺家の別荘で暮らしているが、彼女は立つことが出来ない。だから車椅子での生活を送っていた。
だがなぜ椿が車椅子での生活を送ることになったのか。それは1年前に起きた事故のせいだ。

椿は大学を卒業すると親の決めた相手と結婚してアメリカで暮らしていたが4年前に夫を亡くした。
そして子供のいない彼女は2年前に日本に帰国してひとりの男性と偶然の再会をした。
その男性は及川徹と言い高校生の頃に付き合った初恋の人。背が高く男ぶりのいい及川は結婚していたが今は離婚してひとりだと言った。そんなふたりの20年ぶりの再会は懐かしさだけが感じられた。だが及川からまた会おうと言われ何度か会うようになった。

それはレストランで食事をしたり、映画館で映画を見たり、美術館に出掛けたりといったものだ。だが暫くすると及川は椿に交際を申し込んだ。

「椿さん。正式に僕と付き合ってくれませんか?」

かつて母親の楓に反対され実ることがなかったふたりの恋。
だが大人になった椿の行動に誰かが口を挟むことはない。
だから椿は初恋の人と付き合うことにした。だがその矢先に交通事故に遭った。
それは及川の運転する車の助手席に乗っていた時に起きた事故。
交差点で信号無視をした車が椿の座る助手席側に突っ込み椿は大怪我をした。そして歩くことが困難になり車椅子が欠かせない生活を送るようになった。

だが椿は足が不自由になっただけではない。頭に衝撃を受けた後遺症なのか。
原因ははっきりと分からなかったが、記憶力が落ち少し前の出来事さえ忘れるようになった。そして時間の観念を失った。

それでも医師は原因が分からないからこそ治る見込みがあると言った。
何しろ人間の脳は複雑で思いもよらない刺激で活性化することがあるからだ。だから椿の世話をする人間は、彼女がまた昔の頃のように聡明な女性に戻ると信じ刺激を与え続けていた。

「椿様。明日は及川様がいらっしゃいますよ?及川様です。分かりますか?」

及川は都内に会社に勤める会社員で、週末しかこの場所に来ることが出来ないが、毎週末欠かすことなく椿の元を訪ねて来ていた。
それにあの事故は及川が悪いわけではないが、自分の運転していた車に乗っていて怪我をさせたことに対しての責任からなのか。彼女がこうなってしまったのは自分のせいだと自分を責めていた。そして責任を取らせて欲しい。彼女の面倒を一生見させて欲しいと言った。

「彼女がこうなってしまったのは私のせいです。それに私は彼女にプロポーズするつもりでした。彼女が好きです。私が一生彼女の面倒を見ます。いえ、私に彼女の面倒を見させて下さい」

身体が不自由になった椿に及川は結婚を申し込んだ。たが今の椿には記憶をとどめておく力がない。
それに椿は道明寺家の長女で、彼女の世話をする人間などいくらでもいて不自由することはない。だが椿の担当医は、「及川さんが傍にいることで刺激が与えられ脳が活性化し、機能の回復に繋がるかもしれません。何しろ人間の脳は医学では解明できないことが沢山ありますから」と言った。

そしてその時の椿は、しっかりとした眼差しを持ち、はっきりと自分の意思を伝え及川からのプロポーズを受け入れた。
だが周りの人間は椿が少し前のことさえすぐに忘れてしまうのに自分が結婚したことを理解するだろうか。これから先、及川徹を自分の夫として認識できるだろうかという懸念を抱いていた。しかし医師の言葉に椿が良くなるならと期待してふたりの結婚を認めた。




にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
Comment:4
2020
09.18

夜の終わりに 36

ベッドカバーが外されたその場所をぼんやりと浮かび上がらせているのは部屋の片隅に置かれたスタンドライトの薄明りだけ。
そこに身体を横たえたつくしは、なんの迷いもなくキスを受け入れたが、素肌に異性の素肌を感じるのは初めてだ。

「ノーと言えばいつでもやめる」と言われたが、とっくの昔に経験していてもおかしくないことをこれから経験する女はノーと言うつもりはない。
それに結婚を前提に付き合い始めた恋人のことをもっと知りたかった。それは恥ずかしながらこの年になって初めて抱いたこの人に抱かれたいという思い。
だがこれまでまともに恋をしたことがないつくしにしてみれば、これから起こる行為を受け入れることが出来るか不安がある。

贅肉の付いていない男性の身体は若い男性のように引き締まっている。
それに対し、つくしは贅肉こそないが逆に欲しいところに肉がない。胸は豊満さとはほど遠く、たゆたうことがない。
それは世の男性にしてみれば抱いても楽しくない身体だ。それでもきれいだと言われた。

そして上から食い入るように見つめられ、長く黒々とした豊かな睫毛の生え際まで見ることが出来る近さまで顏を近づけられ、「こういう時は目を閉じるもんだ」と言われると、生まれてこの方、したことがない行為をするのだから素直に言うことを訊いた。

だが目を閉じれば恋人が喉の奥で笑いをこらえていることに気付いた。だから目を開けたが、見下ろす体勢から「嘘だ。セックスにこうしなければないないってルールはない。相手が嫌だと言わなければ自分のしたいことをすればいい」と言われれば何をしてもいいのだと勇気づけられた。

だが何をすればいいのか分からない。すると「俺の背中に手を回せ」と言われた。
だから広くて大きな背中に手を回そうとしたが、身体の大きさの違いから、つくしの腕の長さで相手の背中に手を回すことは難しかった。だから恐る恐る首に手をまわしたが、それはまるで小さな動物が大きな親にしがみついている姿に似ているように思えた。

「よし。じゃあ俺を見て目を逸らすな」

司は恋人が次に何をするか予測するより早く胸の頂に指を這わせた。
すると組み敷いた恋人は震えて息を呑み、頬に欲望の色が宿った。
だが身体はまだ硬く緊張しているのが感じられた。

これまでセックスをするために相手を勇気づけたことはない。
だが男と寝ることが初めての相手が緊張している以上、その緊張を和らげる必要がある。
頭は司を求めることだけを考え、悦びの泣き声をあげて司に応えるように新しい感覚を覚えさせることが必要だ。
だからリラックスさせるために始めた唇や鼻。頬と頤(おとがい)に這わせる唇の動きはゆっくりだ。
そして手が肩から乳房。乳房の頂から腰へと這い、その後を唇で吸えば、手のひらが触れている肌が柔らかくなるのが感じられた。
やがて片手が太腿のあいだに埋められたとき、身体のこわばりが感じられたが「リラックスしろ。大丈夫だ。一瞬だから」と言葉をかけ静かに押し入るように中に入っていったが、その瞬間、驚きと痛みで息を呑んだ身体はこわばっていた。

だから司は腰を抱えたままの姿勢で暫くじっとしていたが、それは経験豊富ではない恋人を守ることを優先し、腰を動かして叩きつけたい衝動を抑えているということ。
だが己の身体とはいえ、こうして抑制することは辛く、いつまでも我慢できるものではない。
それに噴き出す汗が欲求を解き放つことを求めていた。
そのとき、恋人の口を突いたのは、「大丈夫だから」

だから司は開いたその唇にキスをして、その言葉を信じて彼自身を激しく深くうずめる行為を始めたが、恋人の顏は目を閉じ苦痛に耐えている顏をしていた。
だがやがてそれが喘ぎ声に変わり、目を開いて「お願いキスして」の言葉が発せられれば、それに答えるように身体を動かし続けた。
そしてどこからか聴こえた自分の大きな声に、身体の中から溢れ出すものを解き放った。





満ち足りた気分というのは、こういうことを言うのだ。
今度は時間をかけてゆっくりと愛しあいたい。
しかし今そう思うのは司だけかもしれない。何しろ恋人は司の腕の中でまどろみ始めていた。だから今夜はこのまま眠るのが正しい選択だと思え、ふたりの身体に布団をかけると司も眠りについた。





にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
Comment:6
2020
09.16

夜の終わりに 35

背が高い人間は立ち上るのに時間がかかる。
それは多分つくしだけが思う勘違いで恋人は優雅で軽やかな足取りをする。
だから椅子をがたつかせることもなく、気付けばいつの間にかすぐ傍に立っていて自分を見下ろしていた。

すると食べ物が喉を通らない状況から息が出来ない状況に陥ったが、それは恋人がつくしを立ち上がらせると思いっきりキスをしてきたからだ。
そしてキスが終ると、「俺と同じベッドで寝るってことは、ただ眠るだけじゃないことを分かって言ったんだな?」と訊かれたが、今のつくしはまるで長距離を全力で走ってきた陸上選手のように息が絶え絶えになっていて頷くことしか出来なかった。つまり恋人からされたキスは、それほど長いキスだったということだ。

そして「本当にいいんだな?」と訊かれ、やはり言葉が出ないまま頷くとゴクリと唾を飲み込んでいた。
すると今度はつくしの片頬にキスをして、もう片方の頬を手のひらで包むと再び唇に唇を重ねたが、息が絶え絶えの女は立っているのがやっとだった。

「おい、大丈夫か?」

「私……私….大丈夫….」

と、つくしは答えたが、広い胸に置いた手は震えていた。









司は自分の胸の上で震えている手を感じていた。
彼と同じベッドで寝ると宣言するように恋人は言ったが、震える手と声に不安の揺らぎを感じれば無理をしているのではないかと思った。
だがそれは経験が少なさだと思った。つまり牧野つくしは軽々しく誰とでも寝るような女ではないということだが、心臓の高鳴りまで伝わってくると、どこか不自然さを感じた。

これまで交際相手の経験を気にしたことはない。
だが今この状況にもしかしてという思いが頭の中に浮かんだ。
それは経験の少なさ以前の問題。つまり司が結婚を前提に付き合い始めた女は男性経験が全くないということ。
現代社会に於いては年端もいかない子供のうちに経験する人間も大勢いる。
それに遊びを求めて男と寝る女もいるというのに、30を過ぎて経験がないなど司の周りでは考えられないことだ。


司は自分の胸に手を置いている牧野つくしの肩を掴み彼女の身体を離した。
そして長いこと顏を見つめてから率直に言った。

「俺の理解が正しいのか。そうじゃないのか。確かめたいことがある。牧野つくし。お前もしかして男と寝た経験がないのか?」

その言葉に見つめている顏が真っ赤になったが、それは食事に出されていたワインのせいではない。
そして開き直ったように告げられたのは、
「そうよ?悪い?だって大学生の頃はバイトが忙しくて付き合う暇がなかったし、就職したら仕事が忙しかったり面白かったりしてその気になれなかったし、そんな私を見かねた友達が紹介した人と付き合い始めたら、その人はちょっと変わった趣味で付いて行けなかったし、次に紹介された人と付き合い始めたら他に好きな人がいるし……」
恋人はそこで一旦言葉を切った。
そして溜息をつき、「それに次に現れたのはセクハラ上司だし笑われるかもしれないけど、友達からは男運がないって言われて来た…..」と言った。

「バージンか…..」

司の呟きは困惑ではなくまさかの思いの方が強い。しかし恋人はそうは取らなかったようだ。

「そ、そうよ!バージンよ!あたなは沢山の女性と経験があるから、バージンなんてつまらないかもしれないけど、し、仕方ないでしょ?だって経験はタイミングの問題で私はたまたまそのタイミングがなかっただけなんだから!
それに無理矢理タイミングを作る必要があるとは思えなかったし、やっぱりそうなる前には人間としての関係を築く方が大切だと思っていたし……でも築かない前に終わってばかりで………だから、その、分かるでしょ?」

分かるでしょと言われ分かるのは、牧野つくしが緊張するとやたらと喋ること。
だから同じベッドで寝ると言ったものの、酷く緊張している状況の今、キスより先に進む準備が出来ているかと言えば果たしてどうなのか。
それにいつかは経験するはずのことが他人より遅れている分だけ男と女のことに疎い。
つまり男と女では全く違う天から授かった身体の違いを理解しているとは思えない。

「牧野つくし。俺が分かるのはお前が緊張していることだが?」

司がそう言ったのはバージンの恋人とセックスすることを拒んでいるのではない。
だが恋人は自分の経験の無さが恥ずかしいようだ。

「分かってるわよ。分かってる……だから教えて欲しいの。同じベッドで寝ると何が起こるかを」




にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
Comment:4
2020
09.13

金持ちの御曹司~それが私のモットー~

日曜、夜9時。某ドラマの要素が入っています。
**********************









「やられたらやり返す、倍返しだ!」

どこのどいつが言い始めたのか知らないが、最近その言葉をよく耳にする。
だが司に言わせれば倍返しなど手ぬるい。
それに百倍返しや一万倍返しだとしても全く足りない。
それなら司はやられたらどうするというのか。
答えは簡単。相手を始末する。抹殺するだけ。つまり闇から闇に葬るだけのこと。
だがそれを実行するのは有能な秘書だが、どんな方法を取るのかは秘書に任せている。
そんな司が好きな言葉と言えば、「やれるもんなら、やってみな」
だが司の意思に反して何かをする人間がいるかと言えば、世界広しといえどいない。

……いや。
ひとりだけいた。
それは誰かと言えば司の恋人だ。
恋人の牧野つくしは、昔からそうだ。やる時はやる。
司の意見を訊かない。嵐をものともせず立ち向かう。こうだと決めるとそれに向かって邁進する。妥協はない手強い女。世間は司の母親の道明寺楓のことを鉄の女と呼ぶが、実は牧野つくしも鉄だ。つまり言い換えれば頑固ということだが、司はそんなブレない牧野つくしに惚れた。
そして司はそんな彼女の言うことなら、どんなことでも訊く。それに恋人からお願いと頼まれれば一も二もなく叶えたいと思う。いや。何が何でも絶対に叶えるのが司だが、それほど牧野つくしに惚れている男は、読むべき報告書をそっちのけでコーヒーを飲みながら執務デスクの上に置かれた彼女から渡されたある物を眺めていた。




「道明寺。今日からこれ使ってね?」

と言って手渡されたのは、小さくまとめられた濃紺のナイロンで出来た物体。
それが何であるか分からなかった。すると恋人は言った。

「ほら。買い物袋が有料になったでしょ?だから買い物のたび有料の袋だともったいないし、それに環境のためにもレジ袋は減らそうってことになったでしょ?だから道明寺もこれ使ってね?」

恋人から渡されたのはエコバックと呼ばれる袋。
だが司はエコバックなるものを持ったことがない。
それに大金持ちの家に生まれた司とエコロジーは対局にあるものであり、買い物をしても値段を気にしたことがない男の辞書に節約という文字はない。
だから買い物袋が有料になろうが関係ない。それに男の司は、そんな細かいことを気にしたことがない。だが恋人は買い物をするたびに袋に金を取られることをもったいないと言う。だからエコバックを持つことが生活の一部として定着していて、買い物をするとそのバッグに品物を入れることが当たり前になっていた。
だが何であれ司は恋人がプレゼントをしてくれるのは嬉しい。
けれど司は恋人から貰ったエコバッグを使う状況があるとは思えない。そう思いながら目を閉じた。








「道明寺くん。君は銀行の業務をどう考えているのかね?」

司は銀行員として日本を代表する銀行のひとつである東京中央銀行のエリートコースの道を順調に歩んでいた。
そんな司を自分の部屋に呼んだのは常務の西田だが、西田は過去に司に不正行為を暴かれたことで恨みを抱いていた。

「西田常務。私はあなたが何を言いたいのかさっぱり分かりません」

「ほう。そうかね?私は常々自分の思いはっきりと口にしてきた。君が東京中央銀行のバンカーである限りしなくてはならないことは決まっている。それは君が自身の身を挺して行わなければならないことだ。それが何か分からないとは言わせないよ。君は花沢物産へ融資を実行したがそれが正しかったかどうか先行きに不安が生じ始めたのだからね」

司が融資をした花沢物産は東京中央銀行の大口の取引先で、日本で5本の指に入る商社のひとつだ。だが確かに西田の言う通り業績に翳りが見え始めていた。

「物産はチリの銅山を4000億円で買収したはいいが、あの国と揉めていて採掘はストップしている。つまり事業がストップしているということだが、そうなると当行が融資した金が返済されなくなる恐れがある。もしそうなれば当行は大損をすることになる。君はこの状況をどう考えているのかね?」

司は答えることなく、常務の西田が椅子にふんぞり返って話す様子を黙って見ていた。

「それにあそこの次期社長と言われている花沢類氏は元々家業の経営に興味がなかったと言うじゃないか。彼は家を捨てパリで暮らす藤堂商事の娘さんと一緒になりたい思いが強いと訊いた。だからなのか。類氏は今もパリにいて東京にいることが殆どない。それでは次期社長としてどうかと思うが道明寺くん。君はどう思う?訊くところによると君は花沢類氏とは幼馴染みらしいね?まさかとは思うが君は幼馴染みのために融資に便宜をはかったんじゃないだろうね?もしそうだとすればこれは由々しき問題だ。銀行員は融資に際して私情を挟むことは許されないんだからね。ま、どちらにしても君は花沢物産が金を返せないとなれば担当者としての責任を取らなければならない。
つまり君はこの銀行にいることはできなくなる。お・し・ま・い・DEATH!」

司は確かに花沢類の幼馴染みだが、融資に私情を挟んだ覚えはない。
だが花沢物産がチリの銅山を買収するにあたり、その資金を融資することに決めたのは司だ。
そしてチリでの事業が滞っていることも知っている。
そしてそれは常務の西田が言うとおりで東京中央銀行が花沢物産に融資した4000億円の金の返済に影響を及ぼすことは分かっている。
その責任を取れという西田は、かつて自分の不正を暴いた司をこの銀行から追い出すつもりでいることも。

「だが喜びたまえ道明寺くん。私は君にいい話を持ってきた。君が融資を決めた花沢物産の返済が滞ったとしても、この話を受ければ責任を取ることはない。それはうちの大口の取引相手である牧野ホールディングスのお嬢さんと君が結婚することだ。道明寺くん。すごいじゃないか。あの牧野財閥だよ?君はそこお嬢さんに花婿として望まれているんだからね!」

今の日本には財閥は存在しないが、その実、財閥は日本の企業社会の中心にいる。
そして戦前から手広く事業を営む牧野家は日本を代表する財閥のひとつだ。その家のひとり娘のつくしは司との結婚を望んでいた。

「これは君にとって非常に喜ばしいことだ。いずれ彼女はあの家の財産の全てを相続することになる。君はそんな女性と結婚することであの家の財産の全てを手にすることが出来るんだ。逆玉だよ、逆玉。道明寺くん。君のバックには牧野家が付くんだよ?君がお嬢さんに気に入られたのは本当に運がいい。私があと20年若ければと思うほど羨ましい話だ。君は牧野財閥のつくしさんと結婚すれば銀行を追い出されずに済む。素晴らしい話だと思うよ、道明寺くん」











「あら。司さん。どうなさったんですか?ご気分が優れませんか?」

「いえ….ご心配には及びません」

司はワインを飲み過ぎた訳でもないのに頭がクラクラしていた。
今夜は司との結婚を望む牧野つくしと会っているが、司は彼女と結婚するつもりはなく、そのことを話すために素面でいるつもりでいた。だから設けられたディナーの席では水のようなワインを一杯飲んだだけだ。そしてディナーも終わりに近づき食後のコーヒーが出されるのを待っていた。
それなのに頭が重く思うように話しをすることが出来なかった。言葉が出なかった。

「でもなんだか具合が悪そうですわ」

司はそう言われたところまでは覚えていた。
だがそこから先は意識が飛び気付いた時にはベッドの上にいた。

「…..ここは?」

司は目が覚めたのはベッドの上だが、スーツの上着は脱がされ、ネクタイも外されていて、ここがどこか分からなかった。
そして横たわった身体は力が入らなかった。起き上がることが出来なかった。

「あら。目が覚めた?」

そして薄暗い部屋の片隅から聴こえた声の持ち主は牧野つくしだ。

「牧野…..お前、いったいどういうつもりだ?」

「懐かしい呼び方ね?私のことを牧野って呼び捨てにするのはあなただけよ道明寺。でも嬉しいわ。そんな風に呼び捨てにされて」

実は司は牧野つくしのことを知っていた。常務の西田は知らなかったが、司は大学生の頃、アルバイトをしていたフランス料理店の常連客だった彼女と親しくなった。
だが親しくなったとは言っても客とバイトの立場で深入りすることはなかった。
だが暫くして彼女から好きだ。付き合って欲しいと言われた。
けれど司はごく普通の家の息子で彼女は牧野財閥の娘。社会的身分の違いから、付き合ったところで未来などないと分かっていた。だから付き合うことは出来ないと断った。そしてそれっきり彼女はレストランに現れることはなくなった。

「それからどういうつもりって、こういうつもりよ?道明寺。あれから随分と時間が経ったけど、私はあなたのことが忘れられなかった。私はどうしてもあなたが欲しいの。だからあなたを罠にかけることにしたの。そうよ。花沢物産のチリでの銅山事業が躓いているのは、うちがチリの政府に圧力をかけたからよ?だってチリの大統領と私の父はアメリカの大学の同窓なの。それに父は私のお願いは何でも訊いてくれるわ」

牧野つくしは、そう言いながら司の寝ているベッドに近づいて来た。

「ねえ。道明寺。私と結婚してちょうだい。そうすればあなたは銀行を追い出されることはないわ。いえ。追い出されるどころか大口の取引先の娘を妻に持つあなたは大切にされるわ。それに私と結婚してくれるならお金ならいくらでもあげるわ。でもいずれうちの財閥を継いでもらいたいの。あなたはただの銀行員よりも財閥のトップの立場の方が似合うわ」

そう言った牧野つくしは、ベッドの上に膝を乗せて司の上に跨った。
そして「道明寺。私はあなたが欲しいの。だから私のものになって」と言って唇を近づけてきた。
だが司はそんなよこしまな女の身体に手を回すとベッドに押し倒し、着ているシックなエンジ色のワンピースを頭の上までまくりあげると、下着に手をかけ取り去った。

「きゃあ!」

司はベルトのバックルを外し、ファスナーを下ろした。

「牧野。そこまでして俺が欲しいか」

「ええ….欲しいの。道明寺….私はあなたのことが好きなの。だから私を抱いて….」

その言葉を訊いた男は、つくしの脚の間に腰を据え、目の前にある秘部を刺激しはじめたが進入をとどまっていた。
それは強気な態度を取っている牧野つくしの目に涙が浮かんでいるのを見たからだ。

「牧野.....抱いてと言ってるが、もしかしてお前……」

司の言葉に女はワッと泣いて言った。

「ええ!そうよ。私は経験がないの。道明寺!あなたのことが好きで他の男の人のことを好きになれなかった。だから他の男性に抱かれたことがないの。だから……..優しくして…」

女は初めての経験を前に戸惑い涙を浮かべてはいるものの、それでも熱い欲望を抱くひとりの女として司を欲していた。

司は牧野つくしから彼以外の男を好きになることが出来なかったと言われ、そこまで思われていたことを知り嬉しかった。そして彼女のことを思いながらも家柄が違う。社会的な身分が釣り合わないことを理由に付き合おうとしなかった臆病な自分を恥じた。

「牧野。ゴメンな。俺はあの頃お前のことが好きだった。だが俺とお前じゃ身分が違うと躊躇した。ふたりの間に未来はないと思った。だから付き合うことが出来なかった。そんな臆病だった俺を許してくれ」

そして司は彼女をギュッと抱きしめると、あの頃の思いと情熱を込めて彼女の中に分け入った。













「……支社長。支社長。道明寺支社長。お休みのところ申し訳ございません」

司はいけ好かない常務の声を耳にした。だから無視をした。
だがその声は高飛車な物言いをしていない。そして司を支社長と呼んでいる。つまりこれはいつもの夢だと気付くと目を開けたがいい夢だったと思った。何しろ夢の中の恋人は司にフラれても彼を一途に思う熱い女だったのだから。

「支社長。コーヒーでございます。それから牧野様からこちらを預かっております」

司の恋人は仕事の邪魔をしてはいけないと執務室を訪れることは滅多にない。
そして西田を介して渡されたのは、彼女が愛用しているエコバックのひとつ。
中に入っていたのはフルーツサンド。最近恋人はフルーツサンドに嵌っていて、美味しい店を見つけたと言っては司に差し入れをしてくれるが、そう言えば、少し前までは店の名前が入った袋に入れられていたが、最近はエコバックで差し入れがされていた。
司はそこで机の上を見た。自分にもエコバックがある。それは恋人がプレゼントしてくれたもの。だからそのエコバックに気持を込めたものを入れ恋人に渡すのも悪くないと思えた。
それにそうすれば、きっと恋人は喜ぶはずだ。何しろ最近の恋人の口癖は「エコはお財布に優しい」なのだから。


「西田」

「はい」

「今流行りの菓子を用意してくれ。それも沢山な」

「甘いものがお好きな牧野様に倍返しですね?」

「そうだ。俺が貰った以上にあいつに返す」

司は恋人から愛を与えられたら与え返すが、それは倍どころか百倍以上にして返す。
つまり恋人を愛する時は全身全霊で愛し手を抜くことはないということ。世界でただ一人の女性から愛されたら彼女がくれた愛よりもはるかに大きな愛を返していた。
そしてしっかりしているようで不器用なところや、おっちょこちょいなところがある恋人は、テレビや映画を見て泣くこともある。たまに号泣する。だからそんな時は彼女を腕の中にしっかりと抱いて眠る。
それに普段強気でいる恋人にもか弱いところがある。だから司が守ってやらなくてはいけない。それはたとえ世界を敵に回しても変わらない思い。他人が何を言おうが、そんなことは関係ない。何故なら彼女は、かつて人を信じることが出来なかった司に人を信じることを教えてくれた。愛を知らなかった司を愛し、愛を教えてくれた。一人じゃないことを教えてくれた。
だから司は彼女のどんな願いも、どんな涙も受け止める。
そして司は他人からあなたのモットーは何ですかと問われれば、こう答えることにしている。

「愛を与えられたらその愛よりも大きな愛を返す。つまり愛情の倍返し。それが私のモットーです」と。





にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
Comment:6
2020
09.10

夜の終わりに 34

「何を知りたいって?」

つくしは自分が女性としてまともかと考えたとき、この年になるまで男性との経験が無いことなど気にしたことがなかったが、よりにもよって経験豊富な男性を前にして出た言葉が、あなたのことをもっと知りたい。そして返されたのは「俺のことをもっと知りたいって?」
その言葉に神経の末端が何かを期待したようにざわめいたのは思い過ごしではないはずだ。

何しろつくしが結婚を前提に付き合い始めた男性は、これまで会った誰よりもハンサムな男性だ。そんな男性と過ごすうちに神経の末端もだが、ここにきて小さな細胞さえも、もっと男性のことを知りたいと思い始めたようだ。だからなのか。神経と細胞は結託してつくしの口から自分達の思いを喋らせたのかもしれない。

「えっ?何を知りたいって…..」

「ああ。俺のことをもっと知りたいんだろ?」

「え?私。そんなこと言った?」と、とぼければいいのだが、とぼけることが苦手な女はその言葉が言えなかった。
そしてふたりの間にはテーブルがあり身体は接触していないのだから、緊張する必要はないはずだが、それでも真正面から見つめられれば、胸の動悸が激しくなった。









司は牧野つくしが男と女の経験に疎いことは気付いていた。
それはもしかすると過去に口がうまいだけのろくでなしの男に引っ掛かり嫌な思いをしたということもあり得るからだ。
だから彼女のペースで運ぶことに決めたが、34歳の恋人の脳裡を駆け巡る思いは手に取るように分かった。
それは、ニューヨークで最後の夜がこのままでいいのかという思い。
だが、自分に主導権を渡されたこともだが、自分のことを性的魅力に乏しいと思うことから、どうすればいいのか分からないでいる。
つまりそれは、司が主導権を握らなければ、ふたりの関係はいつまでたっても前へ進むことがないということだ。

そして牧野つくしは自分から抱いて欲しいと言うような女ではない。
性に対して奔放にも無謀にもなることが出来ない。過去に付き合ってきた女たちのように恥知らずなことを求めることが出来ない女だ。
だから司は、それを承知の上で、司のことをもっと知りたいと言いながら、ふたりの関係を前に進めることを躊躇っている恋人に対して世話が焼けるという意味の溜息をついてみせた。
それはビジネスの場では絶対にしないことで、もしも司が溜息をつけば周りの人間は彼の意に添わないことをしたと思い慌てるはずだ。
そして案の定、恋人はどこか申し訳なさそうな顏をしたが、司のその行動は本心ではないのだから、そんな顏をされると溜息をつくべきではなかったと思わされた。

「牧野つくし。そんなに緊張する必要はない。俺のことを知りたいと思うなら知ればいい。何しろ俺たちは恋人という立場にいる。だがまだそれらしいことはしていない。いや。キスはしたがそれ以上のことはまだだ。だからそれについて何か質問があるなら訊こうじゃないか。
前にも言ったが俺はふたりが親密になることを急いでいるわけじゃない。だが舌の根の乾かぬうちにと思うかもしれないが、それでも俺は男だ。好きな女と寝たい気持ちを抑えるのは簡単なことじゃない。それに男は女と違って本能を抑えるのが苦手な生き物だ。だから相手にそのつもりがあるなら遠慮はしない。それを理解した上で訊いてくれ」

司は片眉を上げて言ったが、それは牧野つくしの気持を確かめるためだ。
だがきっと恋人は酒でも飲ませなければ心の底に抱えている思いを打ち明けることがないように思えた。
そして、「それに俺たちは結婚を前提に付き合い始めた。だから互いに思っていることを素直に伝えることが必要だと思うが?」と言葉を継いだが、彼女の口から出たのは、「そうよね…..」の呟きであり答えになっているようでなっていない曖昧なものだ。
だが、その後に継がれたのは「いいわ」
だが一体何がいいのか?だから司は訊いた。

「いい?何がいいんだ?」

「ええっと…..その….そうよ!私たちは結婚を前提に付き合い始めたんですもの!だからふたりの間に問題があるなら解決すべきだと思うの!真剣に取り組むべきだと思うの!
それに私たちはいい年をした大人で、これから先に起こることは自分たちで解決できる年齢だし…..」

と初めは勢いをつけて話し始めた声も最後は消えるように途切れた。
そして今度は意を決したように言った。

「私。あなたと同じベッドで寝るわ」




にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
Comment:4
2020
09.08

夜の終わりに 33

天気に恵まれたドライブは楽しかった。
だが恋人同士にしては遠慮があった。
それは互いの身体に親しく触れることが無かったということ。
それに何故か話をするたびに男性の態度は目に見えて礼儀正しくなっていた。
結婚を前提として付き合い始めた男性は、つくしの意思を尊重すると言った。それは男性の部屋に泊まっていることを理由に同じベッドで寝ることを求めないということだが、相手は世の女性から求められることが当たり前の男性だ。だからそんな男性がつくしに見せる態度は敬意が払われているということになる。
だが道明寺司は青年ではない。それにつくしも少女ではない。互いに大人の男と女であり相手に性的魅力を感じている。
それなら…….
だがつくしは自分から言い寄るなど考えたことがない。
それに過去にも男性に言い寄ったことがない。
けれど今、頭の中にあるのは、ドライブから戻りダイニングに用意された食事をしている目の前のブルーのシャツを着た男性の裸になった身体が押し付けられる感じは、いったいどんなものだろうという思い。それが頭に浮かび離れなくなっていた。
ふたりは山奥のホテルで同じベッドで寝た。けれどそれはただ寝ただけで何もなかった。それにあの時は男性との性的なことなど微塵も考えなかった。

しかしおかしなもので、主導権を渡されると、どうすればいいのかという思いがある。
それにこういったことは男性が優位に立って進める方が上手く行くはずだ。何しろつくしには相手を満足させられる経験がないのだから。
だがそれは別としても、結婚を前提に付き合い始めたのだから、いつまでも心を停滞させておくわけにはいかない。

そして並外れた美貌を持つ男性は体格もいい。
そういった男性を相手にしている自分は、スレンダーと言えば聞こえはいいが、胸は平らで実際は骨ばった、の表現が近い身体だ。そんな女がどうすれば男性をその気にさせることが出来るのか。
だがもしつくしが若く美しく経緯が豊富な女性なら、二人の関係を前に進めたいと思っても頭を悩ますことはない。きっと自分が望むことをはっきりと口にするはずだ。


「どうした?口に合わないのか?」

「え?」

「手が止まってる」

そう言われナイフとフォークを持つ手が止まっていることに気付くと慌てて口を開いた。

「口に合わないなんて、それにこんなに美味しい料理が口に合わないはずがないでしょ?そんなこと言ったらバチが当たるわよ」

つくしの前に置かれているのは、仔牛のムニエルにイチジクのソースがかけられたもの。
わざわざ道明寺邸のシェフがペントハウスへ出向いて作ったものであり、これまでつくしが食べたことのない贅沢な味だったが本当に美味しいと感じた。

「そうか?それならいいが昼間も訊いたが何か心配ごとがあるなら言ってくれ」

と、言われたが頭の中を巡る思いを口に出するつもりはない。
それにこれ以上何かを具体的に考える前に「心配ごと?別にないわよ?」と答えたが、目の前の女が落ち着かない態度でいることは気付いているはずだ。

それに今は何か問われても単純な言葉しか思いつかなかった。
だがそれは明日この国を離れることで、同じ屋根の下で過ごすことから解放されることにホッとしているからなのか。それとも今夜がニューヨークで過ごす最後の夜ということを残念に思っているからなのか。

そして「ええっと……これ本当に美味しいわね?」と言葉を継いだが、それは洞察力の鋭い男性に心の裡を読まれるのが怖かったからだ。
それは、もっとこの人のことを知りたいという思い。
それを口に出せば、あなたのことをもっと知りたいということだが、目の前の男性から「俺のことをもっと知りたいって?」と言われ、言うつもりのなかった思いが口を突いていたことに気付いた。




にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
Comment:4
2020
09.03

さよなら、夏の日

「ああ重かった」

そう呟いた恋人は、家の近所の八百屋で買ったという大きなスイカを手に司のペントハウスを訪れた。
重い物を持って来るなら迎えに行ったのにと言ったが、「いいの。いいの。だってアンタ疲れてるでしょ?」と言うと「ヨイショ」とキッチンのカウンターにスイカを置いて「食べる?」と訊いてきた。
だから「ああ、食う」と答えた。すると恋人は、「じゃあ冷やすから少し待って。だってスイカは冷やして食べた方が美味しいから。でもあまり冷やし過ぎても美味しくないのよね。
それからお昼まだでしょ?適当に作るけどいいわよね?」と言うと「バケツ、バケツ」と言って勝手知ったる納戸からバケツを取り出したが、それは家にバケツがないという男に驚いた恋人が「これ知ってる?すごく便利なの」と言って持ってきた折りたたみ式のバケツ。その中にスイカを入れ、バスルームに持って行くとスイカの上にタオルを掛けた。そして「この上からチョロチョロ水をかけ続けると冷えるから」と言い、寝起き姿でその様子を見つめる司に「ねえ?シャワー浴びてきたら?」と言った。だから司はスイカが水浴びをしているのとは別のバスルームに向かった。









「仕事終わった?____じゃあこれから行ってもいい?__え?___うん。実は近くまで来てるの」

司が金曜の夕方から取りかかった仕事は急を要するものだった。
だから徹夜覚悟で挑んだが、実際終えたのは土曜の午前5時。そしてそれをメールで西田に送るとそのまま寝たが、12時にかかってきた恋人からの電話で目が覚めた。

不思議なものだ。
毎日忙しくしているが恋人の声を訊けば疲れは吹き飛び力がみなぎる。そしてパワーが貰える。
声だけでそうなるのだから会えば尚更のことで、恋人が訪ねて来るのは大歓迎だ。
だから玄関の扉を開け「おはよう道明寺。お疲れ様」と言われれば、疲れ切った脳細胞も元気を取り戻す。
そしてシャワーを浴びた司は、恋人が適当に作ると言った昼食を食べたが、それは卵が沢山使われたオムライスと野菜サラダ。だが司の冷蔵庫には卵はない。いやそれ以前に料理に使えるような物がない。だから材料は恋人が持ってきたものだが、スイカと一緒に持ってきたのだから大変だったはずだ。そう思うと尚の事、迎えに来て欲しいと言えばいいものの、寝ている人間を起こすことはせず近くまで来て電話をした。

だがそれにしても何故スイカを持ってきたのか?
だから司は訊いた。すると「だって今年の夏はスイカ食べてないでしょ?」という返事が返ってきたが、夏にスイカを食べていないことが問題なのか。
司は特段スイカに興味もなければ思い入れもない。だから別に食べなければ食べなくてもいい。けれど恋人の人生では夏にスイカを食べることが行事として確立されているのか。DNAがスイカを食べることを求めるのか。スイカの季節は夏だが夏が終わる前にどうしても食べたかったようだ。




「そろそろ食べごろかも?」

そう言った恋人はバスルームからスイカを持ってきた。
そして、まな板の上でスイカの真ん中を包丁で切ったが、半分になったスイカの片方には、「また後で」と言ってラップをかけると冷蔵庫に入れた。
それから残った半分を四等分に切り、半月の形になったスイカを皿に乗せ「ねえ、外で食べない?」と言ってリビングから繋がっているテラスへ出ようと言った。


司が半月状に切られたスイカを食べるようになったのは恋人と付き合い始めてから。
それまではシェフの手で小さくカットされたスイカをフォークで食べていた。
当然だが緑の皮は付いておらず一番甘い部分だけ。それに黒い種は可能な限り取り除かれていた。だから初めて恋人と一緒に半月状に切られたスイカを食べたとき、彼女が口の周りに黒い種をつけている姿がおかしくて笑った。

すると「なに笑ってるのよ?スイカっていうのは、こうやってかぶりつくのが正しい食べ方なのよ?それにスイカは赤い所が消えるまで食べるのよ?上の方だけちょっとだなんて贅沢な食べ方をしたら怒られるんだからね?あ、でもカブトムシやクワガタを飼ってるなら赤い所を残しておかなきゃダメなのよ」と言い再びスイカをかじった。

そして「スイカと言えばおばあちゃん家の縁側でセミの合唱を訊きながら食べたのが一番おいしかった」と言葉を継いだのを覚えているが、あれは何年前のことか。
今でもスイカを食べる時には口の周りに種を付ける恋人は、テラスにある縁側風のベンチにスイカを乗せた皿を置いて座ると言った。

「かき氷もいいけどやっぱり夏はスイカよ。今年は夏祭りも無かったし、花火大会も無かったけど、スイカだけは食べなきゃ夏が終わらないわ」

恋人はスイカを食べなければ夏が終わらないと言ったが、確かに今年はいつもと違う夏が訪れた。
それは、治療薬の無いことから世界中で猛威をふるうウイルスが、これ以上広がらないように人が大勢集まることが禁止されたから。
だから神社の夏祭りは中止され屋台が並ぶことはなかった。
それに毎年行われる花火大会は、いつもならここからその様子を見ることが出来たが、神社の祭りが中止になったのと同じ理由で開催されることはなかった。

「それに今年は綿あめを買うことが出来なかったでしょ?それからヨーヨー釣りも出来なかった。だからせめてスイカだけは食べなきゃね?」

ふたりは毎年司のペントハウスの近くにある神社の夏祭りに足を運んでいたが、そこで司が楽しみにしているのはリンゴ飴を買うこと。だが高校生だった頃、司は恋人に「自分が庶民の食べ物を美味いと思うことはない」と言った。
だがいざ食べてみれば、ただ甘ったるいだけの食べ物だと思われていた飴も最愛の人が舐めたとなれば味は違った。だから司はリンゴ飴を見つけると1本だけ買い、それを恋人と舐め合うことを楽しみにしていた。
だが今年はそれも出来なかった。

「それに商店街の夏祭りもなかったでしょ?だから抽選会もなかった。今年はどんな景品があるか楽しみにしてたのに残念。それに今年は絶対に一等賞を取るつもりでいたのに!」

買い物金額に応じて渡される抽選券をため、六角形の木製の箱に付いた取っ手を回して出た玉の色で商品が決まる商店街の抽選会。
昨年恋人が狙っていたのは一等の電子レンジ。恋人の家の電子レンジはタイマーが壊れていて充分温めがされないまま終了の音がなる症状が出ていた。だから司が新しいのを買ってやると言えば、「大丈夫。まだ使えるから。それに福引で当てるから」と言ったが当たらなかった。そしてそれからすぐに電子レンジは壊れた。だから司は最新式のオーブンレンジを届けさせた。
だが今年は商店街の夏祭りもない。

「なんだか今年の夏は別の意味で忘れられない夏になったね?」

そう呟いた恋人は司と自分の間に置かれているスイカを手に取った。

「でもスイカは食べなきゃ。だってこんなに大きなスイカ。売れ残ったら可哀想でしょ?八百屋さん安くしてくれたんだし」

と言うとスイカにかぶりついた。
だから司もスイカと手にすると同じようにかぶりついた。







人は今年の夏を何もない夏。我慢の夏と言う。だが司はどこに行くことが出来なくても、恋人が傍にいればそれで充分だ。最愛の人と家で過ごす時間が増えたことを嬉しいと思う。
だが来年の夏は神社の夏祭りも花火大会も商店街の抽選会もあることを望んでいる。
それは来年の夏がいつもの夏に戻っていることを願う気持だ。
それに時は止まることはない。
だから時がいい方向に流れて行くことを願っている。
いや。きっと状況は良い方に変わって行くはずだ。

「ねえ。なんだか雲行きが怪しくなってきたみたい。ほら。あれ雨雲じゃない?」

そう言われ空に目をやれば、確かに黒い雲が湧いているのが見えた。
それに冷たい風が吹き始めた。

「雨。降りそうね?」

「中に入るか?」

「うん」

二人はスイカを乗せていた皿を手にすると部屋の中に戻った。
やがて空が翳り始めたが、降り出した雨は天地を揺るがす雷鳴を伴う嵐になり、窓を閉めていても、ごうごうと風が鳴っているのが分かった。そしてテラスは波打つほど水浸しになった。
だが暫くすると、雨は上がり風もピタリと止んだ。
そして雲は去り太陽が顏を覗かせたが、そこには雨の置き土産があった。
空に現れたのは大きな虹。それも幸運の縁起物と言われるダブルレインボー。
それが何もなかった夏の終わりに打ち上げられた特大の花火に思えた。





< 完 > *さよなら、夏の日*
にほんブログ村 小説ブログ 二次小説へ
にほんブログ村
今年の夏はこれまでとは違った夏になりましたが、皆様にとってはどのような夏だったでしょうか。来年の夏がいつもの夏に戻っていることを願わずにはいられません。
Comment:6
back-to-top