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2020
08.30

やさしさを集めて <後編> ~続・天色の空~

「この子!飼うことにしたのね?」

妻の嬉しそうな声は司の足元でじゃれている犬に向けられていて、しゃがむと子犬を抱き上げ柔らかなグレーの毛に頬を寄せた。

「かわいいわよね。ほら見て、モコモコしてぬいぐるみみたい」

妻はそう言うと「よしよし」と犬の頭を撫でていたが、その態度には大きな安堵感が見えた。

司はシベリアンハスキーのメスの子犬を飼うことにした。
それは漣が言った澪が結婚してニューヨークで暮らすようになり母親が寂しさを感じている、を訊き入れた形になったが、夫である司も妻が寂しさを抱えていることに気付いていた。

それは呟かれた「澪。どうしているかしらね?」の言葉もだが、母親と娘は親子だが友人のようでもあった。買い物に行けば、これ可愛い!とふたりで盛り上がる。買うか買わないかと迷う姿は無駄遣いをしない母親の姿を見て育った娘らしいと思った。
それに司の寝起きの頭に「ほんとお父さんの髪って癖が強すぎ。私似なくて良かった!そんなクルクルじゃあ櫛が通らないわ」と言って笑うがその笑い方は妻と同じだ。

そして高齢出産で生まれた双子の子育ても澪が手伝ってくれた。
勿論、司も手伝った。だが男と女では視点が違う。いくら男が積極的に子育てを手伝うと言っても気付かないことが多い。だが澪は母親が何を求めているのかすぐ理解した。
そして双子が初等部に通い始めると母親が持つ「はらはら」や「どきどき」という感情ではなく、姉として弟を見守り何かあれば手を差しだすという態度でいた。
そんな澪の目は、高校生の頃の司のことを心配していた姉椿と同じ目をしていた。

そして澪は周りが自分のことを社長のお嬢様と呼ぶのを嫌っていた。だから弟たちが社長のお坊ちゃまと呼ばれると、「弟たちはただの子供です。それに名前があります」と言ったと妻から聞かされたとき、頼り甲斐のある娘が妻の傍にいてくれることを感謝した。

だがその娘も嫁ぎ、息子たちが母親のスカートに纏わりついていたのも遠い昔だ。
鯉のぼりを上げることも兜も飾ることも無くなった。廊下の柱に二人が背の高さを競うために刻んだ傷は、毎年少しずつ高くなっていたが、最後の傷は10歳。刻まれた高さは母親の背の高さを越えていた。

高校生になった双子たちは、その頃の自分を振り返れば分かるように自分達の世界がある。
そして、高校を卒業すれば親元から離れ独り立ちをすることになるが、母親は寂しいとは言わないはずだ。だが心の中には夫には見せない寂しさがある。
だから動物の感情に添うことが出来る漣は、母親の傍に犬がいれば寂しさを紛らわせることが出来ると思ったようだ。
そして司は漣が言った通り苦手だった犬もサスケがいることで慣れた。





「ねえ。名前、なんて付ける?」

「名前。付けてなかったのか?」

「だって名前を付けても飼えなかったら悲しいじゃない?だから司が飼ってもいいって言うまでワンちゃんって呼んでた」

名前を付ければ愛着がわく。だから名前を付けなかったのだろう。
だが妻は、この犬が飼われることは分かっていたはずだ。
夫が妻の頼みを断れないことなど分かっているのだから。

「ワンちゃんか….」

「そう。ワンちゃん。でもこうして司が飼っていいって言ったことだし、司にも名前を付ける権利はあるわよ?だからいい名前を付けてあげて」

司に名前を付けさせようとするのは愛着を持たせようとしているのだろうが、双子の名前は付けたが動物の名前を付けるのは初めてだ。

「犬の名前を付ける、か」

「そうよ。漣は自分の犬にサスケと付けたでしょ?それに猫にはサクラ。あの子和風の名前が好きみたいだけどこの子の名前どうする?」

司は妻の腕に抱かれている小さな犬が大きな黒真珠のような瞳で自分をじっと見つめている姿にひとつの名前が浮かんだ。
それは___

「……ソニア」

「ソニア?」

「ああ。そうだ。ソニアだ。この犬の名前はソニアだ」

「ソニア、ソニアちゃん。いい名前ね!ワンちゃん。今日からあなたの名前はソニアよ!」

そう呼ばれた仔犬は分かったと言わんばかりに鼻を鳴らした。

「ねえ司。撫でてあげて?この子、耳の後ろを掻いてあげたら喜ぶの!」

そう言われた司はソニアの左耳の後ろを掻いた。
すると仔犬は目を閉じて気持ちよさそうな顏をした。












風に乗って薫るのは秋の香り。
犬が苦手だった男が敷地内で犬を散歩させているなど誰が想像しようか。
だが司は少し大きくなった犬を妻と一緒に散歩させていた。

「まさかお父さんが犬を飼い始めたなんて。英から連絡を貰った時は信じられなかったけど本当だったのね?」

ニューヨークから一時帰国した澪は父親が犬を連れた姿に目を丸くして驚いてみせた。
父親が犬を飼うことを決めたのは、澪が結婚してニューヨークで暮らし始めたことで寂しさを募らせる母親のため漣が考えたと英から訊かされたが本当の理由は違うと思った。
母は娘がどこで暮らそうと、いつでも会えることを知っている。何しろ高校生の頃、航空券だけを握りしめ父親に会う為ニューヨークへ行くような人間だ。つまり行動力のある母は会いたいと思えば飛行機に飛び乗って娘に会いに来るはずだ。
それに澪は母のことを一番知っているのは自分だと思っている。何しろ家族の中で一番長い付き合いなのは自分だからだ。
だが、母が全く寂しさを感じていなかったと言えば、それは嘘になるはずだ。
「ねえ。近いうちに日本に帰る予定はあるの?」そんな言葉を訊いたのは父が長期出張の時だった。
そして父が犬を飼うようになったのは確かに漣の知恵が働いたからだと思った。

将来獣医師になりたいという漣。
その漣は父親の犬に対しての苦手意識を変えたいと思っていた。
だから母親が犬を飼うことを望んでいると父に思わせることにしたのだ。そして母も漣に協力したはずだ。
だが澪は思った。父親は父親で漣の考えを読んでいるはずだ。
息子には厳しい父親かもしれないが、そんな父には道明寺司らしいやさしさがある。
それは澪が亡くなった育ての父と縁のある寿司屋に連れて行かれた時のことだ。あの時の道明寺司は澪に直接的な言葉をかけることなく行動で見せることをした。
そんな父親が今回とった行動は我が子に騙されてやるということ。そして、それをきっかけに犬への苦手意識を克服することにしたのだ。

父は家族を愛している。
それに家族を守るためならどんなことでもするだろう。
だから父は人生を少しだけ変えることにしたが、それは年を取った証拠だ。
そして自分の跡を継ぎたいと言う英よりも末っ子で獣医師になりたい漣のことを心配している。
だがそれは英も同じ。たとえ数分の差でも早く生まれた英は、自分は兄であり漣は弟という意識を持っていて常に弟のことを気に掛けていた。

それにしても父はどんな顏をして犬を受け入れたのか。その時の顏が見たかったが、今こうして犬を連れて散歩をしているふたりの姿は疑うことなく仲のいい夫婦だ。
だが長い結婚生活の中で、いつも笑顔でいられるわけがない。澪は見たことがなかったが夫婦喧嘩もあったはずだ。
そして家族だからこそ相手を思いやる心は必要だ。
それは家族だからといって自分に向けられるやさしさを当たり前だと思ってはいけないということ。
父も母も自分達の人生からそれを知っている。そして澪も血の繋がりは無かったが愛情を注いでくれた父のやさしさを知っている。だから漣も自分に向けられたやさしさにいつか気付くはずだと思いながら「お父さん!お母さん!ただいま!」と言ってふたりに近づいて行った。






< 完 > *やさしさを集めて*
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2020
08.28

やさしさを集めて <中編> ~続・天色の空~

司が3週間のヨーロッパ出張から帰宅すると玄関で待っていたのは妻と息子たち。
食事を済ませると執務室で秘書が置いていった書類に目を通していたが、コーヒーを運んで来た妻が「漣が話したいことがあるそうよ。扉の向こうで待ってるんだけどいい?」と言った。
だから「ああ。いいぞ」司がそう答えると、息子のひとりが妻と入れ違いに部屋に入ってきたが、腕の中には灰色の子犬がいて下に降りたいと小さな身体を動かしていた。

「おい…..漣。その犬はなんだ?」

「この仔?この仔は公園にいた迷子」

そう言った漣は子犬を下に降ろしたが、降ろされた子犬は司の足元に駆け寄り匂いを嗅ぎ始めた。そして暫くクンクンと司の足元を嗅ぐと、次に司を見上げ懸命に短い尻尾を振っていた。

「父さん。改めてお帰り。その仔。父さんのことが好きみたいだよ?」

そうだという意思表示なのか。漣にそう言われた子犬は元気よく鼻を鳴らした。

「漣。俺はこの犬が俺のことが好きかどうかを言ってるんじゃない。犬を飼ってもいいとは言ったがここには連れて来るなと言ったはずだが?」

司は将来獣医師になりたいという漣に犬を飼うことを許してはいるが、それは邸の中でも息子たちの部屋がある西側のエリアだけ。それに犬は一匹。猫も一匹だけ飼うことを許していた。だが今、足元にいる子犬は許された一匹ではない。司が知るこの邸にいる犬は大人の犬であり老齢だ。だからこうして自分の足元に可愛らしくちょこんと座るような犬ではない。

「分かってる。でもこの子犬は特別なんだ」

「何が特別だか知らんが、とにかくこの犬をなんとかしろ」

人間には得手不得手があるが、司が不得手とするのは犬の扱いだ。
それは若い頃。妻となった女性とデートでペットショップに立ち寄ったことで明らかになった司の弱点。
何しろ司は、それまで犬に触れたことがなかった。だからどんなに可愛い。噛まないと言われても身体が拒絶していた。だが抱いてみろとしつこく言われ、しぶしぶ抱きはしたが、やはり苦手だった。

だが、生まれた双子の息子のうちのひとりは、幼い頃から将来獣医師になると決めていて、初等部の頃は少なくとも月に一度は動物園に足を運んでいた。
そしてある日。学校に迷い込んだ犬を連れ帰り自分が世話をするから飼いたいと言った。
司は難色を示した。だが飼うことを認めたのは、母親の言葉に依るところが大きい。

『漣。本当に自分で世話が出来るの?餌を与えて散歩に連れて行くだけが世話じゃないのよ?いい?まず犬と信頼関係を築かないとダメなのよ?それに犬から尊敬される立場に立たなきゃダメよ?だって犬はオオカミと同じで本当は群れで生活する動物なの。だから誰がリーダーか理解させてルールを守るように教えなきゃダメなの。そうじゃなきゃ犬は漣の言うことを訊かない我儘な犬になっちゃうの。そうなったら他の人に怪我をさせるかもしれないわ。だから犬も人間と同じでルールを守らなきゃ一緒に暮らしていくことは出来ないのよ?』

妻は息子のひとりが動物に興味があると分かった時点で犬や猫を飼いたいと言い出すことを見越して勉強していたようだ。
そんな妻の、「私が責任を持つから漣が犬を飼うのを許してやって欲しい」の言葉に仕方がないと頷いだが、妻は夫が自分の頼みを断ることが出来ないのを知っている。

司は漣のためになんとか犬に慣れようとした。
その結果。漣が世話をしている犬だけは、どうにか触れることが出来るようになった。
つまりそれは慣れたということだが、犬の方もそんな司に慣れた。そして司も犬も互いの領分を侵すことなく暮らしていたが、今、司の前に現れた子犬は、これまで息子が拾ってきた犬や猫のように動物愛護団体に引き取られて行くのとは違うようだ。

「ねえ父さん。なんとかしろって言われても、その仔は父さんに会いたかったんだよ?だから父さんが頭を撫でてくれるのを待ってる。それに声をかけてくれるのを待ってるんだ」

司は漣が言っていることの意味が分からなかった。

「漣。なんでこの犬が俺に頭を撫でてもらいたいんだ?」

この犬と言われた子犬は自分のことを話していると理解したのか。司のイタリア製の靴に鼻面を押し付けた。

「だってこの子には父さんの匂いを覚えさせたんだ。父さんが使ってるコロンの匂いを覚えさせた。だから父さんに会いたかったんだ」

自分の匂いを覚えさせる?漣は何故そんなことをしたのか?

「漣__」

「どうしてそんなことをしたのか?だよね?」

漣は父親の言葉を遮り言った。

「父さん犬が嫌いだって言うけどさ。最近そうでもないだろ?
それに俺、知ってるよ。父さんがサスケにこっそり餌やろうとしてたこと。でもダメだよ。決められた時間以外に餌をあたえちゃ。それにサスケ。最近腎臓の具合が良くないから肉は控えめにしてる。肉ってタンパク質だから消化で腎臓に負担がかかるんだ」

サスケというのは漣が飼っている犬の名前だ。
そして餌を与えようとしたのは、出張に出るため早めに帰宅したとき。
妻は友達の家に泊まるという息子の代わりに庭で犬を散歩させていた。だから「おい。これ食べるか?」と言って微妙な距離を取りつつ餌を与えようとした。だが妻に止められた。

司は丁度その日。会社である人物と会っていた。相手は取引会社の会長だが、少し前その会長から年老いた飼い犬の餌を変えたと言う話を訊かされていた。その時うちにも高校生になる息子が小学生の頃から世話をしている犬がいると言った。
すると会長は、「失礼を承知でお持ちしました。道明寺社長のお宅の犬なら非常にいい物を食べていらっしゃるでしょうが、是非こちらの餌を食べさせて下さい」と言って自分の犬が食べている高齢犬にいい餌というものを持ってきた。そして「犬も長年一緒にいると目をみれば大体互いのことが分かるようになると思いませんかな?それにお互いの心が分かるようになる。道明寺社長のお宅の犬もそうではありませんかな?」と言われたが、たまに見かけるだけの犬と心が通じていと言われてもそうは思わなかった。
だが息子が懸命に世話をしてきた犬のことが気にならない訳ではなかった。
それに初等部の頃から飼い始めた犬は年を取った。そして年老いた犬の表情は緩み愛らしい顏になったと思った。

「サスケの話は別として父さん動物愛護団体に寄付してくれたんだろ?だからその御礼がしたくてこの子犬を父さんにプレゼントしようと思ってさ。あ、大丈夫。トイレの躾はちゃんとしているから」

司は漣が世話になっている動物愛護団体に内緒で寄付をしたが、誰かから訊いたようだ。
だが犬が苦手な父親に犬をプレゼントするのはどういった意図なのか。
司は息子の話を訊くことにした。

「それに父さんは澪姉ちゃんが結婚してこの家を出てって寂しいだろ?だからこの仔を澪姉ちゃんだと思ってよ。この仔メスなんだ。サスケは雑種だけどこの仔はシルバーホワイトのシベリアンハスキーだよ?可愛いけどキリっとしてるし澪姉ちゃんみたいじゃない?」

澪は半年前に結婚してニューヨークで暮らしている。
夫は道明寺の顧問弁護士のひとり。邸に出入りしていた弁護士は澪にひとめ惚れをした。

「それから母さんはこの仔のこと気に入ってる。でも父さんがうんって言わなきゃ飼えない。だからこの仔。父さんが貰ってくれたら母さんも喜ぶと思うんだ」

司は漣の意図を知った。
漣は寄付の礼だの娘が結婚して家を出て寂しいだろうというよりも、母親の寂しさを感じ取っていたようだ。
娘がいつか嫁に行くことは分かっていた。ただ、その日が早いか。遅いかだが、道明寺に就職した澪は仕事熱心で30歳を過ぎても結婚する気配は無かった。だからまさか邸に出入りしていた顧問弁護士と結婚するとは思いもしなかった。

そして司はと言えば、漣に言われた通り娘が家を出てしまうと寂しいと感じた。
それは息子に対しての思いとは違う娘にだけ感じる愛おしさだ。それに娘と司は長い間、互いの存在を知らなかった。だからいつか嫁に行くとしても、もう少し傍にいて欲しかった。
いや。別に嫁に行かなくても構わなかった。
だが母親はそうではない。結婚して幸せな家庭を築いて欲しいという思いは常に抱いていた。だがいざ結婚して家を出ると「澪。どうしているかしらね?」という妻の呟きを何度か耳にしていた。

「父さん。母さんは澪姉ちゃんがいなくなって寂しいんだよ。だからこの仔を飼ってほしい。うちにはサスケがいるけどサスケはもう年だしあまり長く生きられないと思う。この仔は初めから人懐っこくて明るい仔だよ。それに絶対に美人になる。それからこの犬種は責任感が強くて飼い主には従順だよ。だから父さん」

司は双子とはいえ漣が末っ子気質で心の優しい子供だと知っている。
だから迷子の動物達のことも気になって仕方がないのだ。そして姉澪が嫁いで寂しさを感じている母のために自分が保護した犬を夫婦の傍に置いて欲しい。それは父親より母親を思ってのこと。
そんな息子は司の返事を待っていた。




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2020
08.26

やさしさを集めて <前編> ~続・天色の空~

「それにしても英。お前さあ。その金どうするつもりだ?何か予定でもあるのか。使い道が決まってるのか?」

「どうするって何の予定ないけど?それに使い道もないよ」

「そうか…..本当に予定はないのか?」

「ああ。本当にないけど?」

「じゃあさ。いつものように俺に投資してもらえると助かるんだけど」

「心配するな。分かってるよ。今までだって儲けた金のほとんどを漣に投資しただろ?」

「そ、そうだよな?これまでも英のおかげでどれだけ助かったことか。ホント、マジで英には感謝してる」

「いいよ、漣。気にするな」




道明寺家の双子は兄が英(すぐる)で弟が漣(れん)と言う。
二人は学校から戻ると漣の部屋で話をしていた。
英徳学園初等部に入学した頃の英の夢は父親の跡を継ぎ社長になること。
そして弟の漣の夢は獣医師になること。
その夢が途中で変わることはなく、高校生になったふたりは、それぞれ自分の夢に向かって邁進しているが、未成年の英は中等部に進学すると親権者である父親の同意を得て株の投資を始めた。

だが父親が一部上場企業、道明寺ホールディングスの社長である以上道明寺の株を買うことはない。それはインサイダー取引が疑われることが目に見えているからだ。
だからそういった疑惑を持たれることがない会社の株に投資していたが、今回大きな利益を出したのは、中等部に進学してすぐに買った株。その会社はデジタルマーケティングを支援する会社だがまだ歴史は浅い。だから応援するつもりで投資を続けた結果、会社は大化けして株は高値で取引されるようになったが、英は先日その株を売却した。

「それにしても、英はやっぱ父さんそっくりだ。先見の明がある。お前はビジネスマン向きだよ」

漣は英がこれから成長する会社を見抜く力に感心していたが、そういったことに使える頭は企業経営者の父親から受け継いだものだと思っている。

「漣。お前なに言ってるんだよ?俺たちは双子だろ。お前だって父さんにそっくりじゃないか」

英は自分と同じ顏をした漣に言った。
だが漣は首を横に振った。

「いいや。俺は顏こそ父さんだけど頭の中は母さんだ。母さんは困っている人を見つけると放っておけない人だろ?だからつい俺も、ひとりでいる子を見つけると放っておけない。心配になるんだ」

訊けば兄妹の母つくしは、どんな人間にも信じるに値するところがあるという人間だ。
そして共感する。
父親から訊いた話だが、そんな母親は彼らと同じ高校生の頃、友達だと思っていた人間に嘘をつかれ酷い目にあった。それでもその人を庇い、嘘をつかれたことを水に流したと言う話だ。
父親に言わせればそんな妻はお人好しらしいが、双子の兄弟から見れば、そのお人好しっぷりが周囲の人間を明るい気持にするのだと思っている。

「それにしてもさ。お前放っておけないからって、さすがに家の中にこっそりと連れて来たのがバレると母さん怒るぞ」

「まあな…..」

そう答えた漣の膝の上にいるのはスヤスヤと眠る灰色の子犬。
安心しきった様子で漣に身体をあずけているが、漣は子犬を制服の胸の間に入れて連れ帰っていた。

「それにしても漣の耳の良さには脱帽だ。遠くで鳴く子犬の声が聴きとれるんだから、お前って本当に動物が好きだよな」

漣は通りかかった公園のどこからかクゥ~ン、クゥ~ンという悲しげな鳴き声を耳にした。
だからその声を頼りに鳴き声を上げる動物を捜してみれば、ブランコの傍の植え込みの中に子犬がいるのを見つけ連れ帰った。だがこうして動物を連れ帰るのは初めてではない。

漣が初めて動物を連れて帰ったのは初等部2年のとき。
どこから入り込んだのか英徳の校内に子犬がいた。漣はその子犬と目が合った。漣を見て尻尾を振った。だから家に連れて帰った。

そして一度に沢山の動物を連れ帰ったのは初等部4年の頃、公園に置かれていた箱の中で鳴いていた猫を3匹家に連れて帰った。だが、そのとき母親から、「漣。もううちでは飼えないからね?」と言われたが、そう言われたのには理由があった。
それは2年生の時に連れ帰った犬が1匹いることもだが、その後やはり校内に迷い込んだ猫を連れ帰ったからだ。
それに犬を連れ帰ったとき、自分で世話をすると約束した。
それは父親から「命を助けた以上、お前はその命に対して責任を持たなければならない。それを理解しているなら飼ってもいい。ただし犬も猫も1匹までだ」と言われたからだが、犬が苦手という父親が、息子が動物を飼うことを許したのは、母親の口添えがあったことは間違いない。それに父親は息子が獣医師になりたいことを知っている。だから飼うなとは言わなかった。

だからこそ漣は助けた命に対して無責任なことは出来ない。それにこれ以上自分ひとりで世話をすることが無理だと分かっていた。だから箱の中にいた3匹の猫は動物愛護団体に預け、引き取り手となる里親を探してもらうことにした経緯があった。それ以来、ひとりぼっちの猫や犬を見つけると保護をして愛護団体に引き渡していた。

そんな漣の動物への愛着は犬や猫だけではない。
やはり初等部の頃。夏祭りの夜店で掬った一匹の金魚が巨大化して庭の池にいる錦鯉クラスに成長していた。
そして文鳥。桜文鳥が庭にいるのを見つけたとき、すぐに保護したが、人に慣れていることから荒鳥ではなく、どこかの家で手乗りとして飼われていたのが逃げたのだと思った。だから飼い主を探すため交番に届けた。だが飼い主は現れなかった。結果。漣が飼うことになったが、文鳥も一羽では寂しいからと新たに文鳥を飼うことにした。すると数が増えた。
そして増えた文鳥はメイドさんたちに貰ってもらった。

「漣。俺が株取引で出した利益が動物愛護団体に寄付されることに反対はない。何しろお前が道すがら連れて帰った動物たちに家族を見つける手助けになるんだからな」

英は漣に投資をしていると言ったが、動物の命を救う獣医師になりたい。そして人間の勝手で捨てられた動物を助けたいという弟の志を尊いと認めていて、弟が助けた動物たちが幸せになれるように株で儲けた利益を提供しているだけだ。
それに英も動物が嫌いではない。特に金色の目をした黒猫は自分を拾ってくれた漣よりも英のことが好きなのか。足元にじゃれついて来る姿はかわいいと思えた。

「それにしてもどうするんだ?この犬。もううちでは飼えないだろ?いつものように預けるのか?」

英はそう言うと漣の膝の上で眠っている子犬の頭を撫でた。

漣は、「いいや」と言って首を横に振った。

「じゃあどうするんだ?」

「実はな_____」




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2020
08.25

夜の終わりに 32

恋人を照れることなく褒めることが出来るのは、海外での生活が長かったからか。
朝食のコーヒーを飲んだ後、男性の口から出たのは、よく似合っているという言葉。
昨日のうちに今日はドライブに行くからと言われたが、それらしい洋服は持って来なかった。すると用意していると言われ部屋のクローゼットに吊るされていたのは、サーモンピンクの生地にフラワープリントがされた長袖のワンピース。生地はシルクでフランスの有名ブランドのタグが付いていた。

向かったのはマンハッタンから車で1時間ほどにあるコネチカット州ニューケイナン。
豪華な家が建ち並び避暑地の雰囲気が感じられるが、街の中心部に目立つ看板は一切なかった。訊けばここは全米有数の高級住宅街で景観が守られていると言った。

「ここも学生の頃に来たことがある場所なの?」

昨日の夜は学生時代に通ったジャズクラブに案内されたが、ニューヨークから1時間ほどで来ることが出来るここも男性がよく訪れた場所なのか。

「いや。来たことはない。だがここはニューヨーク郊外と言われる場所だ。だからうちの社員たちの中にはこの辺りに住んでいる人間もいる。その男からここには気持ちが休まる場所があると言われた」

と言ったが、高級住宅街なら社員は役員クラスを指しているのだろう。
そして、街の中心部から移動したのは深い森の中。そこは元々競走馬の訓練をする場所だったところに出来た教会が運営するアートと自然が融合したコミュニティセンターだが、誰でも自由に利用できる憩いの場所。
設計は日本人の建築家だと言われたが、別れて建つ教会やカフェ。図書室や体育館といった建物が木造屋根の回廊で繋がっているところに日本人らしい意匠が感じられた。
そしてここはニューヨークの喧騒とはかけ離れた自然を満喫できる場所だ。目の前に見えるのは緑の風景だけ。広大な敷地にあるという牧草地や池や湿地は、散歩をするには丁度いいと思えた。


「魑魅魍魎がうごめく世界にいるとこういった場所が息抜きになる」

カフェでコーヒーを飲みながらそう言った恋人は、ここにつくしと一緒にいて緑の広がる敷地を眺めているのが心から楽しいと言ったが、それは意外なことだと思えた。
だがどんな人間も本当に心を許した人間にだけ見せる態度があることも知っている。
だからこうして結婚を前提に付き合い始めたつくしに見せる態度は、きっとこれまで誰にも見せたことがない態度だ。

「ビジネスの世界で必要なのは判断力だが、その判断力が正しかったかどうか分かるのは結果だ。ビジネスは結果が全てでありその過程は必要ない。それにビジネスは方向性を誤ればダメになる。若い頃好き勝手をした人間でも大きなものを背負った以上それを途中で投げ出すことは出来ない。つまり俺の仕事はストレスがないとは言えない」

道明寺司は世の男性の誰もが羨む立場にいる人間ではあるが、相当な覚悟をもって跡を継いだことはよく分かる。

「俺はお前に俺と同じようなストレスを抱えて欲しくはない。親父は早く孫の顏を見たいと言った。だがお前は子供を作る機械じゃない。だから親父の言ったことは気にしなくていい」

確かに早く孫の顏を見たいと言われた。それに母親にも妊娠していないことを残念がられた。それを気にするなと言ったが、そうなるためには結婚しようと決め、子供を作ろうと決めなければならない。
つくしはペントハウスに泊まることになり、結婚を前提に付き合い始めた男性から、お前がその気になるまで待つと言われた。つまり、関係を深めるタイミングはつくしに任せるということだ。とは言え、その気というのが難しい。
つくしは受けた教育が古かったのではないが、自分から男性に言い寄るなど考えたことがない。
それにそれは裸になって相手に気持ちよくしてもらいたいと思うことだが、言葉にすればとんでもなく恥ずかしい言葉であり、そういう気持になった時どう伝えればいいのかが分からなかったが、行動で示せばいいのか。
と、言うことは、いきなりキスをする?相手に抱きつく?それとも相手が寝ているところを襲えばいいということか?

「どうかしたか?」

「え?」

「眉間に皺が寄ってるが?」

「眉間に皺?」

「ああ。何か心配事でもあるのか?」

「え?うんうん。別にないわよ?」

と答えたが何も経験したことがない女は、大人の目をしてはいるが間の抜けた顏をしているはずだ。




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2020
08.23

金持ちの御曹司~私の輝かしい履歴書 My Brilliant Resume~

世界の均衡が壊れる顏を持つ男は、スウェットの上下を着ていても大勢の人間の視線を集める。
だが男はスウェットなど着たことがない。それに今日、男が着ているのは男前が2割増になると言われる黒のスーツ。そして眩しい真夏の陽射しから目を守るためアビエーターサングラスをかけているが、その姿は道明寺ホールディングスの日本支社長というよりも、とてつもない報酬を要求する凄腕の殺し屋といった感じだ。

だが司は殺しに興味はない。それにもしどうしても殺したい相手がいれば、その時は西田に言えばなんとかなるはずだが、冗談はさておき、司は外出先から社に戻るとサングラスを外した。
そしてスーツの上着を脱ぎ執務デスクに腰を下ろし明け方に見た夢を思い出していた。
それはこれまでの司の人生で経験したことのないことが夢。高校生の自分がアルバイトをしたいという夢だが、働くことを望んだのはかつて恋人がアルバイトをしていた和菓子屋。
だが何故自分がアルバイトを希望したのか分からなかったが、夢というのは得てして突拍子もないものだ。

アルバイト募集の張り紙を見た司は店主に働きたいと言った。
すると「じゃあ履歴書持ってきて」と言われたが司は履歴書というものを書いたことがない。
だから書き方が分からなかった。
だから西田に「おい。履歴書には何を書けばいい?」と訊いたが、夢の中に出てきた西田は「履歴書とは学業や職歴を記す書類です。資格があればそれを書きます。雇う側はそれらを採用や給与を決めるために役立てます」と言った。
だから司は西田に指示されるままに書いたが、それを見た店主は「あら。あなた制服を着てなかったから分からなかったけど英徳の学生さんだったのね?うちには英徳の女の子がアルバイトとして働いているのよ。でも彼女今週で辞めちゃうから新しいバイトさんを募集したの。ちょうどいいわ。あなた….道明寺くんね?じゃあ来週から働いてちょうだい」
と言った。だから夢の中の司は恋人と会うことがなく和菓子屋で働き始めたところで目が覚めた。

そこで司は思った。
もし今の自分が履歴書を書くとすれば何を書くだろうか。
英徳学園高等部を卒業し、ニューヨークのコロンビア大学を卒業した。
ビジネススクールでMBAを取得した。道明寺ホールディングスに入社した。日本支社の支社長になった。
だがそれは書いたとしても誰に見せる必要もない履歴書だ。何しろ司は将来道明寺の社長になる男だ。だから司は履歴書を一生書くことはない。
それでも司は書きたいことがあった。それは恋人の牧野つくしとのアレコレだ。
だからふたりが出会った頃のことを思い出すと、パソコンの電源を入れファイルを開き入力を始めた。

××年×月 英徳の階段で牧野つくしと出会う。
××年×月 熱海のクルーザーの中で初めてのキスをした。
××年×月 カナダの別荘で遭難した彼女を助け抱きしめて一夜を過ごす。
××年×月 誕生日パーティーで母親に紹介したら交際を反対され妨害を受けた。
××年×月 道明寺家のメイドになった牧野つくしに土星のネックレスを贈る。
××年×月 付き合い始めるが雨の降る夜に別れて欲しいと言われた。
××年×月 無人島に拉致された帰りに刺され彼女の記憶を失う。
××年×月 彼女のことを思い出す。
××年×月 ニューヨークに行く前に宣戦布告される。

細かなことを書けばきりがない。
だから大まかに言えば大体こういった感じだが、改めて書き出して見れば、ふたりが知り合ってから司がニューヨークに行くまでの間に起きたことは怒涛という言葉がぴったりだと思えた。
だが過去はどうでもいい。終わったことをどうこう言ったところで過去は変えられない。
それよりもこれから先、つまり未来の話の方が重要だ。

司がニューヨークから帰国して数年が経つ。
ふたりの交際は順調で邪魔する人間はいない。ふたりは結婚する意思がある。だがまだふたりは結婚していない。
それなら何がふたりの間を邪魔しているのか。
それは会えない時間だ。
誰かの歌の歌詞に、会えない時間が愛を育てるといった詞があるが、それは嘘だ。
それに司は愛情源泉かけ流しの男だ。だから最愛の人には常に愛を浴びせたい。愛を注ぎたい。だから傍にいて欲しいと思う。だが今年の夏はいつもの夏とは違う。だから会える時間が少ない。それにどこかへ出かけるにしても遠出することは出来なかった。

そんなとき、恋人からかかってきた電話は外出の誘い。

『ねえ。今度の日曜日。梨狩りの予約したんだけど行かない?』

そう言われ二つ返事で誘いに応じたが向かった先は松戸。
松戸は千葉だが東京に接したその街は梨の産地だと言った。そう言えば千葉にはおかしな梨の妖精がいたことを思い出した。
そして恋人と向かった梨園で初めて梨狩りをしたが、セミの鳴き声をバックコーラスに収穫した梨は香りも良く、みずみずしく甘かった。
司と恋人はふたりでは食べきれないほど梨を狩ったが、恋人はその梨を西田にあげてと言った。そして秘書課で食べて欲しいと言ったが、アドバンテージはいつも彼女にある。だから恋人の言う通りにした。
それに自らを地味な雑草だと言っていた彼女は、彼女に恋をした男の心の全てを持って行ったのだから、司はそれでいいと思っている。







今年は夏空の下でも求められるディスタンス。 
司はその立場から密になることを避けてはいるが、恋人とは密でいたい。だから昨日はペントハウスのテラスで輝く天の川を見上げ愛を語った。そして愛し合った。一緒に夢を見た。だから今日は白昼夢に浸ることはない。

そのとき、扉をノックする音がした。

「失礼いたします」

そう言った秘書はトレーを手に入ってきたが、いつもならそこにあるのはコーヒーだけ。
だが今日は違った。コーヒーの隣にあるのは切り分けられた梨が乗った皿だ。
司は片眉を上げた。

「こちらは牧野様が支社長に食べさせて欲しいと言ってご用意された梨です。ご安心下さい。わたくしが剥いたのではありません。牧野様自ら給湯室にお越しになり切り分けられました」

西田はそう言ってデスクにコーヒーカップと白い皿を置き出て行った。
司はフォークに手を伸ばすと梨に挿した。だが抜いた。そして躊躇なく手で梨を掴むと口に運んだが、そうしたのは昨日の夜、互いの手で梨を食べさせあったことを思い出していたからだ。

梨を持った恋人の指が司の口元に運ばれると、その指を梨と共に食べたが苦情が出ることはなかった。
そして司も彼女の口元に梨を運んだ。だが彼女は梨だけを食べようとした。だから司は梨の汁がついた唇を指でなぞった。すると彼女はその指を唇で噛んだ。

司はパソコンの画面を見た。
そこにあるのは言うなれば司の恋の履歴書。
それは誰に見せることがない履歴書だとしても、いつかそこに彼女との結婚を書き加えたいと思っている。何しろそれが司の人生の履歴の中で一番輝く履歴なのだから。




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2020
08.15

人生の扉を開けて ~続・天色の空~

「英(すぐる)、漣(れん)。いいか?今日から二人とも初等部だ。先生の言うことをちゃんと聞くんだぞ」

「うん。パパ分かったよ!俺先生の言うことちゃんと聞くよ!」

「漣!違うよ!返事はうんじゃないよ。返事は、はいだよ!ね?パパ。そうだよね?」

「あっ、そうだった。はい。パパ分かったよ!俺、先生の言うことをちゃんと聞くよ!」

「漣!ダメだよ!それに自分のことは俺じゃなくて僕って言わなきゃ」

「あっ、そうだ。ええっと….僕、先生の言うことをちゃんと聞くよ!」

英徳学園初等部の入学式を終え、真新しい制服姿の英と漣は父親である司に頭を撫でられると今度は「ママ――っ!」と言って母親が立ち話をしている方へ走って行った。だから司は、「おい!気を付けろ!二人とも転ぶなよ!」と言ったが、まさかこの年で母校の入学式に出席するとは思わなかった。

司には3人の子供がいる。
だが一番上の娘は彼女が中学に上がるまでその存在を知ることがなかった。
それは娘の母親と別れた司が別の女性と結婚していたからだ。そして、娘と親子として触れ合うようになったのは、彼女が高校を卒業してからで幼い頃を知らない。
18歳になって会った娘はしっかりした子供で……いや、未成年だが少女というには大人びていて子供らしさはなかった。だから、いくら司が父親だからといっても二人の男の子の髪に触れたのと同じように娘の長い黒髪を撫でれば嫌がられることは間違いない。
それにしても、まさか40代で双子の男の子の父親になるとは思いもしなかった。


「あの子たち成長するにつれてお父さんにそっくりになってまるでミニチュアみたい。それに知らない人から見れば黙っていたらどっちがどっちだか絶対に分からないと思うわ」

娘がそう言ったのは兄弟が一卵性双生児で血液型も顔も爪の形も全てが同じだからだ。
だから赤ん坊の頃の二人は、ひとりが泣き出せば、もうひとりも同じように泣き出す。それに泣き止む時も同じで、黒々とした瞳が司を見てキャッキャと嬉しそうに笑う様子も同じだった。

それにひとりがオムツを替えていると、もうひとりも同じように替えて欲しいと愚図る。
ひとりが抱っこされているのを見ると、もうひとりも抱っこして欲しいと泣く。とにかく赤ん坊の頃の二人は同じことを同じようにして欲しいと主張していた。

「それに生まれた時から髪の毛はクルクルしているし、顏だってお母さんというよりも、お父さん寄りだし、どう見ても牧野より道明寺の血筋でしょ?」

娘はそう言ったが、確かにその通りだと思う。
癖のある髪の毛も、幼いながら長い手足を持っているところも、自分の子供の頃に似ていると思った。
つまり自分のコピーが二体並んで自分を見上げている姿は、我が子ながら見ていて可笑しかった。

そんな二人だがひとつだけ違うことがある。それは英の方が漣より早く母親のお腹の中から出て来たことだ。だから双子とはいえ英には兄としての自覚があり、漣は漣で弟だという自覚があった。
そして双子も幼稚舎に上がる頃になると徐々にだが個性が花開き始めた。
それは興味を持つものが違ったということ。

ある日。兄の英は司が自宅の執務室で仕事をしていると膝に乗り、パソコンに表示させた株価のチャートを見つめながら、「これ何?」と訊いた。だから「これか?これはパパの会社の価値を表している」と答えたが、幼い子供に価値という言葉が分かるはずもなく、ただ「ふ~ん」と答えたが、それから度々司の膝の上でチャートが小刻みに上がり下がりを繰り返す様子を眺めていた。そしてある日こう言った。

「パパ。社長って面白い?」

社長業が面白いかそうでないか。そんなことを司に訊いた人間はいなかったが、それは単純で子供らしい問いかけだと思った。
だから司も単純な言葉で返すことにした。

「面白いぞ。英も将来社長になるか?」すると「うん!面白いならやってみたい」という答えが返ってきた。そしてその日以来、英は将来の夢は何かと問われれば「社長になる」と答えていた。

そして弟の漣の将来の夢は獣医だ。

「パパ!俺、大きくなったら動物のお医者さんになる!」

そう言い始めたのは、動物園で動物にご飯をあげよう、というイベントに参加してからだ。
その時はキリンに葉っぱを食べさせたが、高い場所に上り、首の長い動物が自分の近くまで顏を寄せ美味しそうに葉を頬張る姿に漣は怖がるどころか喜んでいた。
そしてそのとき言葉を喋らない動物の病気を治す仕事があることを知った漣は、俺も動物の病気を治したいと言った。

誰しもが子供の頃には夢を持つ。
だがその夢を叶えることが出来る人間は、ほんの一握りだと言われている。
そして双子の上の子供は社長になると言うが、面白いだけで出来る仕事ではない。
それに下の子供は獣医になると言うが、たとえ相手が動物だとしても命を預かる仕事は尊い。
だが司は子供たちが将来何になろうと反対するつもりはない。
それに子供たちが何を言ったとしても、今は親と一緒にいて彼らの世界は狭い。
だがやがて思春期を迎え、それぞれが出会う人間や置かれた環境で考え方が変われば夢が変わることもあるが、果たして子供たちはどんな道を歩むのか。

司は牧野つくしという女性に出会うまで夢などなかった。
だが彼女に会ったことで夢が出来た。それは彼女と一緒にいること。その夢は叶えられたと思った。だが諦めなければならなかった。
だから今こうして手にしているこの幸せは一度諦めた夢だが、それを再び手にすることが出来るとは夢にも思わなかった。
そしてそれは人生に於いて巡ってきたセカンドチャンスだが、やはりそれも誰もが手に入れることが出来るかと言えばそうではない。
だから息子たちには、かつての自分のように夢を諦めて欲しくない。
何故なら彼らの人生は彼らだけのものなのだから。

子供時代は子供を楽しめばいい。遊園地で遊ぶことも動物園ではしゃぐことも、どんなことであれ経験値というものは必要であり、それは彼らが大人になったとき自分を支えるものになる。それに子供は遊びの中から何かを見つける。その何かは大人になった自分には分からないことだが、子供の心や精神を養うためには必要だと思っている。だから子供のうちに出来るだけ沢山の遊びを経験させてやると決めていた。

そして子供たちが初等部に入学すれば、少しゆっくり出来るのではないか。
それは真夜中に子供たちが両親の部屋に駆け込んで来ることはないだろうという思いだ。
幼稚舎の頃は同じ部屋で寝ていた二人。双子は見る夢まで同じなのか。「怪獣が出た!」と言って二組の足は先を争うようにして東の角部屋に駆け込んで来ることがあった。
そして、いつだったか心地よい疲れに裸でまどろんでいたところに子供たちが駆け込んで来てベッドに入れて欲しいと泣かれた時は慌てた。
だから慌てて服を着て二人を抱き上げベッドに引き入れたが、あのとき必死に両親の首にしがみついていた双子が初等部の制服を着た姿に成長を感じた。











「つくし。入学式も無事終わった。明日から二人は学校だ。授業が始まれば幼稚舎の頃のように早く家に帰ってくることはない。お前も少しゆっくり出来るはずだ。それに子供たちには子供たちだけの新しい世界が始まる」

二人は食事の後、明日の準備をする子供たちを手伝ったが、それを終えると東の角部屋に引き上げた。

「そうね。あの子たちも小学生になったんだもの。これからは自分たちで世界を広げていくわね?ちょっと寂しい気がするけどそれがあの子たちの成長に繋がるのよね?」

高齢出産で双子の男の子の母親になった妻は娘や使用人の手を借り子育てをしてきた。
そして夫である司も積極的に子育を手伝ったが、若い母親ではない妻は子供たちの有り余る体力に振り回された感もあった。
だが幼稚舎を卒業したことでひとつ区切りを迎えた。そしてまた次の区切りを迎えるまで親としてこれからなすべきことを始めるのに躊躇いはない。

だが今夜は夫と妻としての時間を過ごすつもりだ。
女性は40代半ばともなれば、女としての魅力に欠けると言う男もいる。
だが司にとって妻はいつまでも魅力的だ。
それは初めて彼女を抱いた時から変わることのない思い。
たとえ離れていた時間があっても抱きしめる身体は、あの頃と同じ柔らかさと匂いがする。
それに高校生の頃、司の前で見せた度胸や他人に示した寛大さは今も変わらず妻の中にあった。
そして、夫を下から見上げる黒い大きな瞳の傍に皺が出来たとしても、司はその瞳の中で溺れたい。だから「ねえ、司。悪いんだけど背中のファスナー下ろしてもらえない?」
と言われれば喜んでそうするが、それが妻から夫へのOKの合図。
それに今夜は子供たちが夫婦の部屋を訪れることはないはずだ。
何しろ入学式を終えた子供たちは疲れ、夢を見る余裕もないほど深い眠りに落ちているからだ。
だから司は背を向けた妻に近づくと、うなじから髪をそっとどけ、ゆっくりとファスナーを下ろし始めたが、そうしながら現れた白い肌に唇を寄せた。




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08.13

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2020
08.10

ここにしかない物語 ~続・天色の空~

あれから5年の月日が流れ、大学を卒業した私は父の会社で働いている。
だが道明寺と名乗れば目立つことは間違いない。それに珍しい名字から関係を疑われることは間違いない。だから母の旧姓の牧野を名乗り、どこにでもいる社員の立場で働いているが、父親というのがこんなにも煩いものだとは知らなかった。


「澪。お前昨日は遅くまで会社に残っていたようだが誰に命令された?」

いつもより早く起きた私は朝食を取るためダイニングルームの扉を開けた。
すると既に朝食を終え新聞を読んでいた父にそう言われたが、どうやら娘の勤務時間が気になるようだ。

「いいか?うちは水曜がノー残業デーだ。それなのに何故8時まで残っていた?」

昨日がノー残業デーなのは勿論分っていた。
けれどしなければならないことは、きちんとする。その上で定時退社をすべきであり、次の日の仕事に支障をきたすようでは帰ることは出来ないはずだ。だから昨日は正当な理由があって残っていた。

「何故って言われても仕事が片付かなかったからどうしようもなかったのよ」

「仕事が片付かなかった?どういうことだ?」

「どういうことって….今日の会議に使う資料を作っていたのよ。それに使おうと思って引っ張って来たデータが壊れていて見ることが出来なかったの。だから他のデータを使って資料を作ったから時間がかかったの。だから仕方がなかったの」

資料作成のために使おうとしていたデータは『ファイルが破損しています』というメッセージが表示され見ることは出来なかった。

「そうか…..それで?そのデータは誰が作った?どこの部署が作ったデータだ?責任者は誰だ?俺がそいつに壊れるような中途半端なデータを作るなと言っておくから名前を教えろ」

「名前を教えろって….もう、お父さんいい加減にしてよ…..いちいち私の仕事に口を出さないで!それに私のことは気にしなくていいから!」

そう言ったのには理由がある。
父は度々娘のいる部署を訪れる。それはこれまでになかったことだと先輩社員から聞かされた。
だから部長は首を傾げ、課長はハンカチが何枚あっても足りないと言う。だが女性社員は目を輝かせ、フロアには、むせ返るほどの濃厚な香水の匂いが漂い始める。そして「素敵。かっこいい…..」の言葉が溢れるが、どうやら女性社員から見た父は社長ではなくアイドルや俳優と同じで憧れの対象のようだ。

「何が気にするなだ。これは親が娘の健康を気遣っているに過ぎない。お前の方こそ親のすることに口を出すな」

「口を出するなって言われても出すわよ。私は大人なのよ?心配し過ぎるのは迷惑なの!それにお父さんは過保護なのよ!」

「過保護だと?過保護のどこが悪い?親が我が子の心配をして何が悪い?
それに俺は18年間娘と暮らすことがなかった。だから気にするのが当たり前だ」

「…………」

ことある事に持ち出される18年。
そしてそう言われると黙ってしまうのは、父の思いが理解できないわけではないからだ。
私には二人の父がいる。ひとりは育ての父で、もうひとりが血の繋がりがある父だ。
だが育ての父は亡くなり、血の繋がりがある父と会ったのは18歳の時。
そして一緒に暮らし始めたのは19歳になってからだが、父が我が子の存在を知ったのは、私が中学に上がる頃。
だが知ったからといって、すぐに父として名乗りを上げることはなかった。
それは育ての父の存在と母の思いを知っていたから。それに多感な年頃だった私のこと考えてのこと。
だから亡くなった育ての父が言った言葉を確かめるために会ったときも、自ら父と名乗ることはなかった。

そして私が自分の出自を知ったとき、そんな父を思慮深い人間だと思った。
だが今の父はあの頃とは全く違う。私の父、道明寺司は事実を自分の都合のいいように調整してしまう男だ。つまりあの頃の父は、相当な努力で自分を抑えていたということになる。
そして、素敵、かっこいいと言われる父だが、数万人の社員を抱える道明寺の社長だけのことはある。鋭敏な頭脳を持つ父は弁が立つ。娘の私が議論しても絶対に勝てない相手だ。
だから私は、これ以上話したところで聞き入れてもらえないと諦めると、父の意識を他の事に向けることにした。

「ねえ、お父さん。私のことよりもお母さんのことを心配した方がいいわよ?」

「母さんがどうかしたのか?何かあったのか?」

父は母のこととなると娘と口論していることなどすぐに忘れる。
何しろ父は母のことが大好きだ。そしてそれを平気で娘の前でも口にする。
だが別にそれを恥ずかしいとは思わない。それは、私が人前で愛情を表現することを恥ずかしいと思わない国々で育ってきたからだ。

「昨日お父さん遅かったでしょ?だから英(すぐる)と漣(れん)がお父さんが帰って来るまで起きてるってなかなか寝ないって困ってたの」

いくらノー残業デーだからといって社長の父が定時退社をすることはない。
それに昨夜の父は取引先の社長と食事をしたため私より遅い時間に帰宅をした。
そして英と漣というのは4歳になる双子の弟たちだ。

「英と漣が?」

「そうよ。それにお母さん最近忙しくて寝不足だと思うの。だから私のことよりお母さんのことを心配して」

と言うと、父は席を立ち、まだ寝ているであろう母の元に向かおうとした。
だが部屋から出て行く前に振り向くと言った。

「澪。今日は早く帰れ。残業はするな。帰らないなら俺が迎えに行く。帰るつもりがないなら俺がお前を連れて帰る。それが嫌なら早く帰れ」

と言った父はニヤッと笑って部屋を後にした。
父は私が牧野澪の名前で働いていることが不満だ。
だから事あるごとに本当の名前を明かすと脅す。

「…..いいわよ別に。それなら私はいつもクールだって言われる道明寺司が実は妻には形無しだって言うから」

私はそう呟いたが、父の母を思う気持は二人が出会った頃から途切れることなく、再会するまで内側にこもって熱く燃え続けていた。それはまるで熾火(おきび)のような情熱であり、そういった愛され方をされる母は幸せだと思う。







私は朝食を済ませると、いつもより早い電車に乗るため家を出た。
だが家を出るときいつも言われるのは、「お嬢様。駅までお送りいたします」
そして父は「同じ会社に行くんだ。乗って行け」と言うが、牧野澪は普通の家の娘だ。そんな娘が道明寺司と同じリムジンに乗るわけにはいかない。
そして父は「お母さんに似て強情なところがある」と言うが私は自分の性格は父に似ていると思う。いや。思い立ったらすぐ行動に移すと言われる父の姉の椿に似ているかもしれない。
それに長い黒髪の後姿は、そっくりくりだと言われるからだ。だから私は父方の血を濃く受け継いでいるということになる。

そんな娘を父は手ごわいと思っているかもしれない。
だが父は低く豊かな声でいつも言う。

「一度だけの人生だ。後悔するようなことはするな。物語はいつか終わりを迎える。
その物語が幸せな結末で終れるように努力しろ」

だから私は私にしかない物語を描いていくつもりだ。
それに父と母は二人にしかない物語を描くことを始めた。そして新しい命が生まれた。

私は邸の門を出たところで後ろを振り返った。
するとそこに見えたものがある。
それは、どの家族にも彼らだけの物語があるように、ここにしかない物語があるということ。
そして、私たち家族の物語はこの場所で綴られて行くが、その物語には幸せな未来が描かれているような気がした。




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2020
08.08

天色の空 最終話

あれから4ヶ月が経った。
空気は入れ替わりヒンヤリとしたものに変わり、夏は涼しげな木陰を作っていたプラタナスの葉も紅葉していて秋が深まって来たのを感じた。

ドアを開けて入ったのは、ビルが建ち並ぶオフィス街にある喫茶店。
そこは私が初めて道明寺司に会った場所で、再びここで男性と会う約束をしていた。
店内には客が4人いるだけで静かだった。そしてあの時と同じ席に座り男性が現れるのを待っていた。

道明寺司が私の本当の父親であることを知ったのは父が亡くなってから。
と、同時に知った育ての父である天草清之介の恋と母の思い。
それらは私の知らないところで育まれていた思いだが、彼らが私に寄せてくれた愛情は本物で疑う余地のないことだった。

そして私は道明寺司に会うまでいくらかの時間が必要だった。
何しろ何もかもが突然の出来事で心に余裕がなかった。だから母親から男性が父としての名乗りを上げたいと言っていると訊かされると少し待って欲しいと言った。
すると男性は、「いつまででも待つ。半年でも一年でも待つ」と言ったそうだが、私に必要だったのは4ヶ月という時間だった。





「すまない。遅れてしまった」

約束の時間から少しだけ遅れて現れた男性は謝った。
そして席に座ると、近づいて来たウェイトレスに「コーヒーを」と言ったが、私は自分の父親として現れた男性をじっと見ていた。
初めて会ったとき、父から母には好きな人がいると言われたことから、男性は私の中に母を見ていると思った。
だがあのときすでに母と男性は再会を果たしていて、私が自分の娘であると知っていた。だからあのとき男性は私の中に母ではなく自分に似ているところを探していたのだ。

それなら私も男性の中に自分に似たところを探すべきだと思った。
今日まで男性が載った記事を見つけると自分に似たところはないかと探したが、男性は癖のある髪だが私の髪には癖がない。それに男性の目は切れ長だが、私の目は大きく丸い目だ。それに鼻筋や口元にしても、はっきりと似ていると言えるところはない。
だが直接本人を前にすれば、写真では見つけることが出来なかったところを見つけることが出来るかもしれない。
だが父と娘というのは、性別の違いから、はっきりと似ているところを見つけるのは難しいのかもしれない。だから男性の顏に私の顏にある特徴を見つけることは出来なかった。

「澪….」

「え?」

男性から下の名前を呼ばれハッとした。
そして私が男性をじっと見ていたのと同じで、男性も私の顏をじっと見ていたが、その目は真剣だ。だから、何を言われるのかと身体に力が入った。

「澪は何か嫌いな食べ物があるか?」

「嫌いな….食べ物?」

「ああ。苦手でもいい。そういった食べ物があるか?」

「いえ。特に….」

と私が答えると男性は、「よし。コーヒーはもういい。食事に行こう」と言って頼んだコーヒーが来る前に席を立ち店を出て行こうとした。
だからウェイトレスが慌てて駆け寄ってきたが、男性は財布から一万円を取り出すと、それを渡して出て行った。

私は「え?あの、ちょっと!」と言って慌てて後を追いかけ店を出た。すると店の前には車が止まっていて、男性がドアの前に立っていた。
そして「乗ってくれ。食事に行こう」と言われた。だが、「母が夕食を用意してくれるので行けません」と答えた。すると「心配しなくてもいい。お母さんには夕食は要らないと伝えてある」と返され促されるまま車に乗った。

案内された店は寿司屋。
だがそこは店の雰囲気からも分かるが客層を選ぶ高級な寿司屋。
店内に客は他に3人いたが、男性は常連らしくカウンターの前の席に座ると、すぐに60歳くらいの職人がネタ箱を見せながら今日の魚について説明を始めた。

すると男性は「大将。この子は好き嫌いがない。だから今日一番旨いネタを大将の好みで握ってくれ」と言った。そして「何を飲む?」と訊いてきたので「未成年なのでお茶で結構です」と答えると「そうだったな。それなら私もお茶をもらおう」と言ったが、「いや。ビールを貰おう。グラスは二つだ」と言葉を継いだ。

男性は未成年の娘にビールを飲ませるつもりなのか。もしそうなら親として褒められたものではないが、私はこれまで全く酒を飲んだことがないと言えば嘘になる。それに私はその経験から自分が酒に弱いことは知っている。

そして、亡くなった父の夢は寿司屋だったと訊かされたが、もし父が寿司職人になっていれば、こういった店で鮨を握りたかっただろうか。
お金のある人間が客として訪れる高級な寿司屋を経営することを目指しただろうか。
いやそれは違う。自らを江戸っ子と言った父なら誰でもが気軽に入れる庶民的な寿司屋を目指したはずだ。

「大将。昔の話で申し訳ないが天草清之介って男を覚えているか?」

私はその名前に隣に座っている男性の顏を見た。
そして次に鮨を握り始めた大将を見た。

「ええ。覚えていますよ。懐かしい名前です」

大将はそう言って遠くを見るような表情になった。

「清之介は私がこの店を開店する前の店で働いていた男の子でした。曲がったことが嫌いな男の子で将来は寿司屋を開きたいといって真面目に修行していました。ですが手を怪我して包丁が上手く握れなくなって辞めちまいました。筋が良かっただけに残念でしたねえ」

「そうか。大将が筋がいいと認めていた男か。修行を積めば旨い鮨を握ることが出来たってわけか」

「ええ。将来が楽しみでした。それにしても道明寺さん清之介をご存知で?
もしそうなら顏を見せるように言ってくれませんか?もう随分と前になりますが風の便りに海外で仕事をしていると訊きました。それなら日本食を懐かしく思うはずです。帰国したらうちへ寄れと言って下さい」

「ああ。言っておく。きっとあの男も大将が握る鮨が食べたいはずだ」

それからすぐにビールが運ばれて来たが、男性は酌を断り自らの手で二つのグラスに注いだ。そして「どうぞ」と言って出された鮨の前にグラスをひとつ置くと私を見た。

「天草は澪を立派に育ててくれた。その礼は会った時に言ったが、私はあいつと一緒にここに来て鮨をつまみたかった。だが残念ながらそれは出来なかった。だが今あの男はここにいるはずだ。娘のことが心配で見ているはずだ。だがもう心配しなくていいと言うつもりだ。
澪。献杯をしよう。このビールは天草のために用意した」

男性はそう言って鮨の前に置かれているグラスに静かに自分のグラスの縁を合わせた。
そしてグラスを口に運ぶと一気に飲み干したが、その様子は寿司職人を目指していた父に対して相応しい敬意の示し方だと思えた。
だから私も湯飲みを手にすると同じように縁を合わせたが、お茶は熱くて一気に飲むことは出来なかった。











私は父の死によって自分が知らなかった生い立ちを知った。
そしてそれを受け入れることが出来ると思ったのは、亡くなった父が心から私を愛してくれたことを知っているからだ。
それに母がとった行動を誤りだと思わない。あのときの母の行動が私に天草清之介という父と幸せを与えてくれたのだから、それで良かったのだ。
そして道明寺司が血の繋がった父親だと知り、その人を知ろうとしたが、二人で食事をしたことで男性を父親として受け入れることが出来ると思った。

次の日の朝、私は窓を開けて空を見上げたが、空というのは鉛色の雲が低く垂れていることもあれば、高く透明感のある青い時もある。
そして、空の色は大気の水蒸気の量で決まると言われているが、私が見ている空は晴天の秋の青い空。それを天色(あまいろ)というが、その空の色が今の私の気持を表していた。






< 完 > *天色の空(あまいろのそら)*
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