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2020
06.28

夜の終わりに 19

会議室でつくしに交際を迫りキスした男は徐々に俺を知ってくれと言ったが、その言葉とは裏腹にあれからすぐに行動に移した。

「俺たちは他人の目を気にして付き合うことはしない。ふたりが一緒にいるところを見られても取り繕う必要なない。堂々と付き合う。だから周りが何を言おうと気にしなくていい」

そして二日後の日曜デートしようと言われ「どこで?」と訊けば、動きやすい服装をして欲しいと言われたからパンツ姿で自宅マンションの前で待っていると、迎えに来た男性はラフな服装で、つくしを連れて行ったのは浦安にある巨大なテーマパーク。

イメージじゃない。
この男性がテーマパークのアトラクションを楽しむようには思えない。
だから意外過ぎて男性の顏をまじまじと見た。
すると「どうした?こういった場所は嫌いか?」と言った。
だから嫌いじゃないと答えると男性は話を継いだ。

「俺はここに来るのは初めてだ」

と言って入場ゲートに向かったが、つくしと1歳違いで東京に住んでいながらここに来たことがない人間がいることは相当珍しいのではないかと思った。

「けど子供の頃、姉に連れられてアナハイムにある本家のテーマパークを訪れたことがあるが、ここに来たことがない。だから一度来たかった」

そして入場ゲートの前にいたのは、この場にはそぐわないスーツ姿の年配の男性が三人。
その中の白髪の男性と親しげに言葉を交わし一般の入園者とは別の入口から中に入ったが男性が誰だか気になった。

「ねえ。あの人誰?」

「あの男はここの運営会社の会長だ。うちはここの大株主だ。秘書にここのチケットを用意しろと言ったら必要ない。話しておくと言った」と説明され、ああそうだ。この人はそういう立場の人間だったと納得した。
そして、「ここを貸し切りにすることも出来たが、そうしなかったのは誰もいないテーマパークほど虚しいものはないからな」と言われ、もしかすると子供の頃、姉に連れられ訪れたテーマパークは貸し切りで、笑い声もなにもない虚しさだけが感じられる場所だったのではないかと思った。そうでなければ飛び出す絵本のようなこの世界を虚しいなど表現しないはずだ。
だがそれにしてもまさか男性が初めてのデートでテーマパークを選ぶとは思わなかった。

「それで?どれに乗りたい?」

「え?」

「だからどれに乗りたいんだ?」

つくしがここに来るのは今日で3度目だが、様々なイベントで楽しませてくれるこの場所は何度訪れても楽しい。鉱山列車が荒野を急旋回するジェットコースターも好きだし、カリブ海の海賊たちの船旅も好きだ。それに世界各国の子供たちが歌う姿を船の中から見るのも好きだ。他にも色々あるがどれも乗りたいと思う。
だからどれに乗りたいと言われても迷う。すると男性がつくしの手を掴んで向かったのは丸太を模したボートが滝つぼに落ちるアトラクション。

「ここに来るならこれに乗れと勧められた」

誰に勧められたかは別として、男性がこういった乗り物に乗るイメージがわかなかった。
いや。それ以前にどうしても男性をこういった場所と結びつけることが出来なかった。
だが思った。だからこそ初めてのデートでテーマパークを選んだ男性は、このアトラクションを終えた後にどんな表情を浮かべるのか。だがこのアトラクションは隣に座らないことから顏を見ることは出来ない。
けれど、滝つぼに落ちる瞬間が写真に撮られる。だからその写真を購入するつもりでいるが、座席に腰を下ろし、身体を固定したボートが動き始めると、このアトラクションの怖さを知るつくしは緊張していた。だからボートが徐々に傾斜に近づき滝つぼ目がけて落下する瞬間叫んでいたが、後ろに座った男性の声は聞えなかった。

そしてボートから降りたつくしが水しぶきを浴びた状態で「怖かった」と言ったのに対し、浴びなかった男性が余裕の表情で開口一番言ったのは、「ボートが落ちた傾斜角度は45度くらいか?」
だからつくしは「よくそんなに冷静でいられるわね?怖くなかったの?」と訊いたが男性は「スキーで急斜面を直滑降で滑っているのと同じだ」と言った。

だから「スキーするの?」と訊いた。すると「ああ。冬はカナダかスイスだ。お前もスキーをするならどうだ?次の休みはスイスに行くか?ちなみに俺の腕はインストラクター並だと言われている。だからなんなら教えてやるぞ」と言われたが、つくしはスキーが下手だ。
運動音痴ではないがスキーは苦手だ。それに一度雪まみれになって遭難しそうになったことがある。
だからいくら男性がスキーのエキスパートだとしても、きっとつくしのスキーをする姿を見れば呆れるはずだ。それに次の休みにスイスだなんてとんでもないと慌てて断ったが、脳裡には男性が急斜面をダイナミックに滑り降りる姿が浮かんでいて、男性はスポーツ万能なのだろうと思った。



「はいどうぞ。こちらのお写真です」

係員から丸太のボートが滝つぼに落ちる瞬間を捉えた写真を渡されたが、つくしが眼を見開き大きく口を開け、明らかに恐怖を感じているのに対し、男性の顏に恐怖はなかった。
それどころか余裕の笑みが浮かんでいるように思えた。
だから何故かそれが悔しくて、つくしが自分から乗ろうと言ったのは、鉱山列車が荒野を急旋回するジェットコースター。登り下りが繰り返され、岩と岩の間をすり抜けるコースは体感スピードが速く感じられる。これなら男性の顏も少しは歪むはずだ。









「どうした?気分が悪いのか?」

「………….」

「おい?平気か?」

「うん…..うん。平気大丈夫」

と答えたが、つくしの声は呟きに近く掠れて小さかった。

「おい。本当に大丈夫か?顔色がよくないぞ。酔ったんじゃないのか?座れ」

男性は近くのベンチにつくしを座らせたが、身体を丸めたつくしに「吐きそうなのか?」と言うと背中をさすった。

「だ、大丈夫。でもこのアトラクション。前に来た時に乗ったけど全然平気でこんな風にならなかったのに」

だが思えば以前ここに来たのは20代半ば。
つまりその頃なら平気だったことも、30代半ばになり身体はそれを受け容れることが難しくなったのかもしれない。

「前に来たのがいつだったか知らないが、若い頃は平気でも年をとれば無理ってこともある。身体がついていかなくなる。さすがに若く見えるお前でも年齢はそれなりってことか?」

ニヤッと笑みを浮かべ年齢のことを言われ、自分だって1歳しか年が変わらないくせにとムッとした気持になったが、それよりも男性の大きな手が背中をさすってくれることに安堵する気持が大きかった。

それにしてもつくづく意外に思うのは、男性がこういった場所に足を踏み入れることに躊躇いがないこともだが、立場から言ってもアテンドされることが当たり前の人間なら特別扱いされることに慣れているはずだが列に並ぶことに文句を言わないことだ。

「お前。俺が列に並ぶのが意外だと考えているな?」

「え?」

また言葉が口から漏れていたのだろうか。
だが、それならと丁度いいと思って訊くことにした。

「うん。だってあなたここの大株主でしょ?だから優先しろと言うかと思った」

だが男性は、「言っておくが、俺は社会のルールをことごとく無視する人間じゃない」と否定した。そして「どうする?調子が悪いならここを出るか?歩けそうにないならおぶってやるぞ」と言われたが、「大丈夫。少し休んだら平気だから」と答えると、「そうか。それならここで待ってろ」と言ってベンチから立ち上がると、どこかへ向かった。
やがて少し経って戻ってきたが、その手にはペットボトルの水が2本握られていて、差し出された1本を受け取った。

そして隣に腰を下ろした男性は蓋を開けるとゴクゴクと飲み始めたが、つくしがじっと見つめていることに気付くと、「どうした?飲まないのか?それともアレか?俺の口移しで飲みたいのか?」と言われ頭に浮かんだのは会議テーブルを背にキスされたこと。

だがあの時は会議室でふたり切りだったが、ここは修学旅行生と思われる制服姿の学生や大勢の子供や大人がいる。
だから、おおっぴらにキスされてはたまらないと急いで蓋を開けるとペットボトルを口に運んだが、男性がその様子を見て喉の奥で笑っていることに気付くと水が気管に入ってむせた。

すると再び男性が背中をさすってくれたが、そうしながら耳の後ろで、「そんなに緊張するな。俺たちは恋人同士だろ?」と囁かれ、その瞬間背中に走った感覚はこれまで経験したことがないものだった。
それにしても、つくしが付き合うことを決めた男性が過去に恋愛をしたことがないとしても、この人は好きになった女性にはとことん甘くなれる人だと思った。
そしてつくしが「別に緊張してないわよ。ただ早くお水が飲みたくて慌てただけよ」と答えると、男性はそんなつくしを素直じゃないと言っているように笑っていた。





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2020
06.26

夜の終わりに 18

『俺と恋愛してくれ』

つくしはテーブルを背に追いつめられた形で返事を求められていた。
追いつめた男性は何もない一夜を共に過ごしてから気になっていた人だ。だからその男性から惚れた。付き合って欲しい。恋愛をしてくれと言われれば、「はい」と答えればいいはずだ。
だが、その状態で口を突いたのは、「ええっと…..あの…..少し考えさせてくれませんか?」

「少し考える?何を考える?考える必要はないはずだ。何しろ俺はお前に惚れてる。それにお前も俺に惚れてる。そうだろ?」

男性は片眉を上げそう言ったが、つくしの硬くなっていた頬を撫でた指先が今度は唇に触れそうになった。
だから慌てて口を開くと、「か、考える必要はないって言われても、私たち、ええっと、ほら、あの夜を一緒に過ごしただけでお互いのことを知らなすぎます。あなたの名前も今日初めて知ったんです。だから…他に年齢とか血液型とか。食べ物は何が好きかとか趣味とか。もし付き合うなら相手のことを色々と知ってからの方が楽しいと思うんです!」
と早口で言ったが、男性とのあまりの近さに顏が上気していることもだが、息がはずんで鼓動はたかぶっていた。
そして目の前の巨体ともいえる男性に対し、自分があまりに小さく感じられて不安になった。
だがそんなつくしに対し男性は考え込むように眉をひそめたが、黒く鋭い瞳は熱心につくしを見つめていた。

「そうか。俺のことが色々と知りたいか?」

つくしは、その言葉に頷いた。
何度も頷いて目でそうだと訴えた。

「それなら言おう。俺の名前は道明寺司だが、道明寺ホールディングス株式会社の副社長だ。
年は35才。血液型はB型。好きな食べ物はお好み焼き。ああこれはあの夜に話した姉が子供の頃に作ってくれたことで好きになった。と、言っても最近は食べたことはない。それから趣味は特にないが他に質問は?」

よどみなく言った男性は片眉を上げた。
だからつくしは色々と言った手前、他に何か聞く事はないかと探した。そうしなければ、目の前の男性に会議室のテーブルの上に押し倒されるのではないか。もしくは抱きしめられるのではないかと思ったからだ。だからそうならないために何でもいいから言おうとしたが、頭が真っ白で思い浮かばない。だがそんなつくしをよそに男性が言葉を継いだ。

「どうやらお前は俺に訊きたいことがあるようだが、俺は今まで恋愛をしたことがない。つまり恋愛のプロセスに何が必要かを知らないが、恋愛は付き合っていく過程が楽しいと訊く。
だから初めから相手の全てを知るようじゃ恋愛は楽しめないと思うのは俺の思い違いか?それに時間をかけて共に過ごすことで共通の基盤が出来ると思っているんだが違うか?」

いや、違わない。
男性の言っていることは正しい。
何もかも知って始まる恋はない。
それに共通の基盤を作るためには、その人のことを理解することが必要で、そのために出来るだけ一緒に過ごすことが必要だと思う。

けれど、道明寺司と恋愛をする?
親会社の、それもトップの地位に限りなく近い男性と?
そんな男性の過去の女性関係は知らないが、意識して女性の前で魅力を振り撒く必要がないほどモテるはずだ。恐らく類まれな美しさを持つと言われる女性や、お金持ちで良家の子女と呼ばれる女性たちと付き合ってきたはずだ。それなのに、そんな男性がグループ会社の所謂電気屋と呼ばれる会社の社員と恋愛をしたい?
それも、美人でもなければスタイルがいい訳でもない。恋愛経験がない訳ではないが上手くいかない女と?だが恋が上手くいかなかったからといって失意に沈んだことはない。つまりその気になる前に終わっていることから深く傷ついたことはないが、そんな女で本当にいいのか?

「おい。牧野つくし。あの夜も思ったがお前は考えていることが口に出ていることがある。
だからその呟きについて答えるが、俺の立場は気にするな。他人がごちゃごちゃ何か言ったとしても、そんなものは風が吹いている程度に思え。それに俺は惚れた女を何かの矢面に立たせるつもりはない。何かあれば俺が守る。それから俺に暗い秘めた過去はない。まあ、あの夜も話した通り若い頃はやんちゃ坊主だったが今の俺はそんなことはない。とはいえ、さっきひとり男を殴ったが、あれは嫌がるお前を助けるためであり正当な行為だと思っている」

人には過去があるから今がある。それにつくしは終わったことを言ったところで何になると思う人間だ。
そしてつくしは追い込まれても尻尾を丸めて逃げる人間ではない。
だが今はひたすら守勢に回っていて男性からの交際の申し出をどうすればいいのか考えている。

「牧野つくし。今更何を躊躇う?俺たちは裸にこそならなかったがラブホテルで一夜を明かした仲だ。それもお前は俺の前でノーパンでいた。普通の神経の女ならいくら何もしないと言われても見知らぬ男の前で下着を脱いで洗いはしないだろうが、他人をいとも簡単に信じたお前が俺は好きだ」

洗って干していた下着を見られるという触れられたくないことに触れられ、ただでさえ熱い顏がさらに熱を持った。
だがそれは別として、今までこんな風に告白をされたことはなかった。
それにつくしも男性のことが気になっていた。だから自分の胸に言い聞かせた。男性がどんな立場にいる人間だとしても、男性が言った通り気にしなければいい。
そして自分の行動は自分が責任を持てばいい。それだけの年は重ねた大人の女だ。それに男性と付き合ってダメになったとしてもそれはそうなる運命だったと思えばいいだけの話だ。
だからつくしは息を深く吸い込んでから言った。

「いいわ。お付き合いします」

「そうか。それならこれから徐々に俺を知ってくれ」

そう答えた男性は、つくしの腰に大きな手を添え彼女の身体を引き寄せると唇を重ねた。





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Comment:8
2020
06.24

夜の終わりに 17

会社の経営は独特の才覚がなければ出来ない。
つまりこの男性は頭の回転が速く物事を処理する能力に長けているということになるが、そんな男性の口から出たのは惚れたという言葉。そんな言葉を道明寺司ほどの男性から言われれば、大袈裟かもしれないが言われた女性は世界の全てを手に入れたと思うだろう。

いや。大袈裟などではない。何しろ男性は道明寺家の跡取りで、いずれグループに君臨する人物。つまり大金持ちなのだから、好きな女性の望みなどいとも簡単に叶えてしまうだろう。
だから、尚更の事そんな人物から惚れたと言われて喜ばない女性はいない。

しかし、つくしはと言えば___正直この告白に戸惑っていた。
だがあの一夜を過ごした男性のことが気になっていたことは事実であり、本当の名前は?名前が分かればどこの誰であるか知ることが出来ると思った。だから名前を聞かなかったことを後悔した。

けれど、こうして思いもよらぬ形で突然目の前に現れ、「探してほしかったはずだ」と言われると、それが心の中で望んでいたことだったとしても素直に「はい。そうです」と答えることは出来ないのがつくしの性格だ。
それに「お前、俺に惚れただろ」などと上から目線で言われれば、なおさらだが、正直今は頭の中が混乱していて何をどう言えばいいのか分からなかった。


「どうした?何をそんなに驚いている?俺は自分の気持を偽ることは下手だ。いや。出来ない。だから正直に自分の気持を言った。それで?お前はどうなんだ?」

だから、どうなんだと言われても、いきなり惚れたと告白をされて驚くしかないのだが、それにしても男性は人を殴った後だというのに、平然とくつろいだ様子でいる。
だが、男性が道明寺司ならそれも頷ける。それはあの夜に本人も口にしたように過去に色々あったとしても、この男性は人生の王道をまっしぐらに歩いている人間で自分が行っていることは全て正しいと思っているからだ。

そして道明寺司は他人に何かを求めなくても、他人の方から与えにくる。
それに敷かれたレールの上を走ることが嫌だと言っても全てに於いて道は整えられていて、その道を進めばいいだけだ。だがあの夜それを望まなかったと本人は口にした。だから男性は求めることや、与えられるのを待つ人間ではない。つまりこの人は奪い取るタイプの人間だ。と、いうことは、男性がつくしに惚れたというのなら、自分の思いを叶えるためには何でもするということになる。だから物事の展開が異常に早いということになる。
だがそれはつくしが得意とする展開ではない。何しろつくしは恋に奥手であり、勢いをつけるまでに時間が必要だ。それに惚れた。探しに来たと言っても何が目的なのか。
だから頬を硬くして訊いた。

「何が望みなんですか?」

「何が望み?お前だ」

訊くんじゃなかった。
いや。違う。訊き方を間違えた。

「私を探して何がしたいんですか?」

「何がしたいか?男が惚れた女にしたいことは決まってるはずだが?キスしたい。抱きしめたい。いや。抱きたい。具体的に言えば身体と身体を遮る布をとっぱらって抱きたい。だから俺と付き合ってくれ」

つくしは、これほど率直にものを言う男性に会うのは初めてだ。
まさに単刀直入で言われた方は恥ずかしいことこの上ない。だがこれだけの言葉を道明寺司のような男性に言われノーと答える女性はいないだろう。
それにしてもキスしたい。抱きしめたい。抱きたい。と、こんなことを言っても許されるのは、自分に自信がある男だけだが、目の前の男性は誰もが認める美形で裕福な男性だ。だから口説き文句もさまになる。

「ああ。もちろんその先もある。お前の付き合いの先にあるのは結婚だ。結婚を前提に付き合いたい」

司はちょっと微笑んで言ったが、これまで女に惚れたことがない。だから告白をしたことも口説いた経験もない。だが自分に添う女を見つけたと思った。それはたった一夜を過ごしただけの女だが、直感と言えばいいのか。そしてこうしてその女を前に自分の目は確かだと確信した。
それは、まさにこの瞬間、鳩が豆鉄砲を食ったような表情の牧野つくしはちっとも嬉しそうではなく、司がメンドクサイことを言ったとでもいうように迷惑そうな顔をしているからだ。
そして司はこれまで自分に纏わりついてくる女が嫌いだった。
だが今はおかしなもので、自分がそうしたい。つまり目の前の女に纏わりつきたい気分だった。それにこれまでは、ちまちました恋愛など鬱陶しいだけだという思いがあったが、今は牧野つくしと恋愛がしたい。

「それで?返事は?」

その問いかけに口を開いた女は、「どうかしてる」と小さく呟くと一歩後ろに下がった。
だから司は女が下がった分一歩前に出たが、司を見上げる女の顏は緊張していることから、からかわれているとでも思っているのか。だから司はそんな女の思い払拭するように、きっぱりと言った。

「これは冗談じゃない。俺は本気だ」

司は牧野つくしを追いつめるように更に近づいた。すると女はまた一歩後ろに下がったが、そこにあるのは会議テーブルで、背中があたると息を呑んだ。そして大きな目をさらに大きく見開いて司を見ているが、その大きな目を見つめながらもっと近づきたいと身体を寄せ、指で硬くなった頬を撫でた。

「牧野つくし。俺と恋愛してくれ」




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2020
06.21

夜の終わりに 16

糊の利いた真っ白なシャツにワインレッドのネクタイ。
田坂の言葉を借りれば綺麗な逆三角形の身体を包んでいるのは黒のピンストライプのスーツ。癖のある髪と鋭い目の男性の名前はT男ではなく道明寺司。
二度と会うことはないと思っていた男性は、それなりの会社で立場がある人間だとは思っていたが、まさか男性が道明寺ホールディングスの副社長だとは思いもしなかった。

「冗談でしょう….」

「牧野君。何が冗談なんだね?いや。それにしても君が道明寺副社長と知り合いだったとはね。本当に驚いたよ」

つくしは事業部長の言葉に答えることはなかった。
それは、T男と名乗った男性がつい先ほどまで事業部長と田坂が話題にしていた道明寺司だったことを知った衝撃があまりにも大きかったからだ。

そして事業部長が額に汗を浮かべ、居心地悪そうにしているのは、道明寺グループの副社長を前に緊張しているのは勿論だが、床に倒れている田坂がつくしにセクハラ行為を行っていたことを知らなかったことに対し責任を取らされると思っているからなのか。とにかく落ち着かない様子でそこにいた。

だが男性から、「君。この男を外に連れ出してくれ。それからふたりだけにしてくれないか」と言われると心底ホッとした表情を浮かべ、部屋の外にいる男性たちの手を借り田坂を連れ出すと静かにドアを閉めた。
そして、ふたりっきりになると、そこにもたらされたのは沈黙だが、何故男性はここにいるのか。
いや、ここは道明寺のグループ会社であり副社長である男性がここにいることに不思議はない。だがそれでもどうして?という思いがあった。

「驚いたか?」

「え?ええ…..あの…..はい….」

つくしは事業部長ほどではないにしろ落ち着かなかった。だから、しどろもどろに近い状態の返事しか出来なかった。
だが男性は違った。そしてつくしの疑問に答えるように何故自分がここにいるのかを話し始めたが、視線はまっすぐで言葉使いはやさしかった。

「どうして俺がここにいるか不思議に思っているようだが、まずは謝りたい。
あの日、お前が風呂に入っている間に鞄の中を見た。それは自分と一緒にいる女が誰だか知りたかったからそうしたが、そこにあった社員証からお前が東邦電気の社員だということを知った。だからあの時点でお前の名前が牧野つくしだということは知っていた」

それは、つくしが自分のことをT子だと名乗る前の話で、男性はつくしの求めに応じて仮の名前をT男だと名乗った。

「本当は駅まで送って行ったあのとき車の中で俺のことを話すつもりでいた。
それは本当の名前もだがホテルの部屋で話したとはまた別の意味で自分がどういった人間かを話そうと思った。だがあの時かかって来た電話は急を要するもので切ることも終わらせることも出来なかった。だから改めて牧野つくしという女性に会いに行こうと思った。
だがすぐにニューヨークへ向かわざるを得ない状況が生じた。そして今日まで会いに来ることが出来ずにいた」

そう言えば、事業部長と田坂の会話の中に今はニューヨークにいるという下りがあったが、つくしに会いに行こうと思っていたという言葉の意味は、もしかすると男性は、つくしが男性のことを知りたいと思っていたのと同じように彼女のことを気にしていたのか。
そしてその意味は___

「落ち着かないのか?」

「え?」

「それに動揺しているように見える。ああそれから緊張しているようにも思える」

そう言われたが、あの時の男性が道明寺グループの副社長という圧倒的な権力を持ち威厳を放つ人物だと知れば、落ち着かないのは当たり前だ。それに動揺もすれば緊張もする。
そして顏は熱くなっている。

「牧野つくし。お前は俺に探して欲しいと思わなかったか?」

それはまるでつくしが男性を気にしていたことを知っているかのような言い方。
それについ先ほどまでの話し方とは違い上から目線で、つくしが自分に惹かれるのは当然だといった態度だ。
だから「どういう意味ですか?」と返した言葉はムッとしていた。
そして思った。あの夜セクハラを受けているつくしの話に耳を傾けてくれた男性は、つくしに頑張れ負けるなと力をくれた。話を訊いてもらったことで心が軽くなった。
だが反面、10代で婚約者をあてがわれそうになったことから女性に対してはシニカルな考え方を持つ人物のように思えたが、男性が何者か分かった今、道明寺司という男も実は男性特有のプライドの高さがあるということなのか?
そして美形と呼ばれる男性ほどプライドが高いと言われるが、道明寺司も美形と呼ばれる男性であることは間違いない。それに当然だがそのことを本人も自覚している。だから自分の発言が何を言っても許されるとでも思っているとすれば、それは大きな間違いだ。

「どういう意味か…..か?そうか。俺が言った言葉の意味が分からないか」

男性はムッとしたつくしに対し楽しそうな表情をしているが、そんな男性の目を見つめたまま冷たく言葉を返した。

「ええ。分かりません」

「そうか。それなら教えるが、お前、俺に惚れただろ?ああ、心配するな。俺もお前に惚れた。だからお前を探しに来た。それにたとえお前が俺に惚れてなくても気にしなくていい。
そのときはお前を俺に惚れさせればいいだけの話だ」





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2020
06.19

夜の終わりに 15

つくしは背後に課長の田坂がいることに気付くと振り返ったが、あまりにも近くにいることに驚いた。
それはまるで椅子に座ったつくしを自分とテーブルの間に閉じ込めるような形であり、立ち上がるなら間違いなく田坂に触れることは間違いない。
そしてその近さで見上げる形になった田坂の口元には笑みが浮かんでいて、大きな目に濃い睫毛を持つ男は、いやらしそうな眼をつくしに向けていた。
そのとき思い出されたのは、あの男性が言った言葉。

『そのうち肩を撫でるだけではなく、尻を撫でてくるようになる』

だが今この状況は尻を撫でるどころではないような気がしていた。
つまりそれは尻を撫でられるよりもっと悪いことが起こりそうだということ。たとえばそれは無理矢理キスされるのではないかということだ。
だが冗談じゃない。会社の会議室で好きでもない男にキスなどされてたまるか。

「田坂課長。何か?」

つくしはしっかりと、田坂の目を見て言う。

「何か、か」

唇の端をちょっと歪めて言った田坂は「何かって私の気持は分かっているはずだ。牧野君。君は部長が言った通り優秀だ。私はこの部署に異動してきて君のような優秀な部下を持って鼻が高い。だがそれ以上にキラキラとして大きな瞳で私を見つめる君が気に入った。それに歯切れのいい言葉使いもね」

キラキラ?見つめる?
この男は何を勘違いしているのか。
少女漫画じゃあるまいし目の中がキラキラと輝くなどあり得ない。
それにつくしは田坂のことなど見つめてなどいない。
そして歯切れのいい言葉使いは、いくら田坂がセクハラ男だとしても上司であることに変わりがないから、ぶっきらぼうにならないように自分を抑えているだけだ。

「はっきり言おう。私は君のことが好きだ」

そう言った田坂は、椅子に腰かけたままのつくしに更に近づいてきた。
だからつくしの身体はおのずと後ろに反り返る形になった。
だが反り返ってはいけなかった。むしろダンゴムシのように身体を丸めるべきで、反り返った状態では田坂に上から覆いかぶされる恐れがある。
いや実際田坂はつくしの身体の上に覆いかぶさってこようとした。だから触れたくはなかったが、度胸を据えて近づいてきた田坂の身体を両手で突き飛ばした。そして相手が、よろめいた隙に席から立ち上がると、田坂の前から離れようとした。会議室を出て行こうとした。だが男の手が、つくしの手首を掴んだ。

「逃げなくてもいいじゃないか」

掴んだ手を振り解こうとしたが振り解くことが出来なかった。
それどころか、掴んだ手に力がこもった。
顏から血の気が引く。足が震える。こんな展開は予想しなかった。だがここは会社の会議室であり席を外した部長は待っていてくれと言った。つまり戻ってくる。だから何かが起こるとは思わないが、それでも嫌な予感がした。

「牧野君。私の気持を分かって欲しい」

つくしの手首を掴んだ田坂は真剣な顏で言ったが、つくしはそれに構わず、はっきり言った。

「分かりません。私は課長のことは何とも思っていません。だから手を….その手を離して下さい!」

だが田坂は離さなかった。
それどころかつくしを抱き寄せようとした。だからつくしは両足を踏ん張って抱き寄せられないように抵抗した。だがいくら抵抗したところで相手は女のつくしよりも力がある男だ。だからこのままでは間違いなくキスされる。
それにしても、会議室で女に迫るなど一体この男は何を考えているのか。これまでつくしがこの男のことを会社に訴え出なかったことから調子にのっているのか。だからこのことも訴え出られることはないと思っているのか。だがあの男性にも話をした通り、今度何かされたら会社に訴え出るつもりでいる。いや、訴えるつもりではなく実行することを決めていた。
だから忠告を込めて言った。

「田坂課長。手を離して下さい。これ以上何かしたら上に報告します。会社に言います。それでもよろしいんですね?それにあなたはこれまでも必要がないのに私に触れてきました。それは私にとっては不愉快なことです。セクハラに値します」

「セクハラ?牧野君。随分と大袈裟なことを言うね」

田坂は笑って答えた。

「君は頭がいい。だから少し大袈裟に捉え過ぎだ。それに私は君の肩にゴミが付いていたから取ってあげただけだ」

何が肩にゴミが付いていたから取ってあげただ。この期に及んでまだそんなことを言うのか。それにしてもこの男のすることも言うことも、いちいちがいやらしい。
そして手を離そうとしない男には実力行使するしかない。
あの男性が言ったように右手をグッと握って思いっきり殴るしかない。

「牧野君。ただゴミを取っただけの私のことを会社に言ったところで笑われるだけだ」

そう言った田坂はつくしの身体を引き寄せ顏を寄せてきた。そとき、田坂の背後に黒のスーツを見た。
つくしは心臓が止まりそうになるほど驚いた。何故ならそこに現れたのはあの男性だからだ。

「T男さん!?」

田坂はつくしの言葉に自分の背後に人がいることに気付くと、彼女の手首を掴んだまま急いで振り返った。
するとそこにいたのは、怒りの表情を浮かべた自分よりも背の高い男性。
その男性が低く凄みのある声で言った。

「お前、なにやってんだ?」

「あ、あなたは……」

田坂の声は震えていて語尾は聞えなかった。

「会社の会議室でなにやってんだって訊いてるんだが答えられないのか?それとも答えるつもりがないのか?」

「え?いや、あのこれは__」

と言いかけたところで田坂に伸ばされた左手は彼の襟元を掴んだ。
すると田坂は「ウッ」と呻いてつくしの手首を離した。と同時に男性の右手の拳が田坂の頬を捉えると、田坂は床に倒れた。

つくしは目の前で起きた状況を理解しようとした。
そして口を開いたはいいが言葉が出なかった。だが咳払いが聴こえそちらに視線を向けると、そこにいたのは事業部長だ。

「いや。牧野君。君を田坂君とふたりだけにしてすまなかったね。まさか君が田坂君からセクハラを受けているとは知らなかった。嫌な思いをさせて本当にすまなかった」

事業部長は、そう言って謝ったが、自分の隣に立つ男性から発せられる怒りと部屋の中に充満している張りつめた空気に汗をかいていた。
それにしても何故あの男性がここにいるのか。だから「お前の代わりに殴ってやったがよかったか?」と言われても「え?….ええ。はい」と答えるしかなかったが、再び咳払いをした事業部長の言葉に男性が誰なのかを知った。

「それにしても牧野君が道明寺副社長と知り合いだったとは知らなかったよ」




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2020
06.17

夜の終わりに 14

「よく出来た内容だ。牧野君は仕事が早いし正確だが短期間でよく仕上げてくれた。さすがとしが言いようがない。これなら先方も納得するだろう。よくやった牧野君」

つくしは顧客との打ち合わせのために作成した資料を事業部長に説明するため会議室にいたが、真向いに座っている事業部長に名前を呼ばれハッとした。

「どうした?ぼんやりして。いつもの君らしくないが大丈夫か?もしかして具合でも悪いのか?」

「え?はい。いえ。すみません。大丈夫です。健康に問題はありません」

つくしはそう言ってから、ぼんやりとしていた自分を叱咤したが、そのとき頭の中にあったのはあの男性のこと。
あの日から3週間が経つというのに、まだあの男性のことが頭の中から離れなかった。
だから事業部長を前にしているというのに集中出来ずにいた。

「そうか。それならいいんだが、この案件はミスが許されない案件だ。だが牧野君はミスをしたとしてもカバーできる力は十分あるから心配はしていないんだが。とは言えミスは無いにこしたことはない。何しろこのソフトウェアは道明寺不動産で使用されるものだ。我々が同じ道明寺グループの会社だとしても甘い仕事は許されない。それにビジネスはビジネスとして割り切るのがグループのトップの考えだからな。厳しいぞ。グループのトップの道明寺楓は。
それに息子で副社長の道明寺司も厳しい男だ。彼は公私の峻別は徹底する人間だ。だから身内の企業だとしても容赦ない。だが我々が彼らに会うことはない。この前も記事で読んだが副社長の道明寺司は今ニューヨークだ。つまり何かあっても彼らから直接睨まれることはない。
だから心配する必要はないが、それでも万が一ということがある。いきなりここに現れてこれはどういうことだと責められるかもしれん」

と、事業部長は真面目な顏で言ったが、すぐに「冗談だ。彼らはここに来るほど暇じゃない」と短く笑った。
だが部長の隣に座っている男は、「でも私は会いたいですね。特に道明寺司に」と言って唇の片端だけを上げたが、その男こそつくしの直属の上司でありセクハラをする課長の田坂だ。

「ほう。田坂君。君は道明寺副社長に会いたいのか?」

「ええ。会いたいですよ。だってそうじゃないですか。道明寺司と言えば道明寺家の跡取りでいずれは道明寺グループに君臨する人物です。我々のような平凡な人間は彼に会うこと自体が無きに等しいことです。だからどんな形でもいいので彼に会ってみたいですね。
いえ。会って話をすることは無理でも見るだけでも価値はあると思います。それからスーツ姿の道明寺司は年上の私でも憧れるほどです。何しろ日本人であれほど綺麗な逆三角形の身体を持つ男はそうそういませんからね。
それに彼は非常にモテる男です。独身の彼の周りには美人が列を成しているそうですよ?つまりどんなに厳しいと言われる男も仕事が第一というわけではないということです」

田坂はにやついた顏で道明寺司について話し始めたが、つくしは東邦電気が道明寺グループの会社だという認識はあるが、道明寺ホールディングスの道明寺司に興味はない。
だから顏も知らなければ、どんな人間か考えたこともなければ知ろうとも思わない。
つまり道明寺司がどんなに女にモテる男だとしてもつくしは興味がない。

けれど____あの人のことは知りたいと思う。あの人がどんなに立派な肩書を持とうと、どんなに華やかな世界にいたとしても、車から降りたあのとき、逃げるように去るのではなく、電話が終るまで待って名前を訊いておくべきだった。
もし教えてもらえないなら名字だけでもいい。下の名前だけでもいい。どちらでもいいから教えてもらうべきだった。男性が立場のある人間なら、どちらか片方だけでも分かればフルネームを調べることが出来たはずだ。
だが訊く勇気がなかった。

それにしても、この場で道明寺司の話は関係ないはずだ。
そしてそれを黙って訊いたつくしの顏は、だんだん渋面になってきた。
それは、仕事に関係ない話を延々とする上司に腹が立ってきたからだ。
と、同時に思い出されるのは男性が言った言葉。

『今度触ったら殴れ』

バカなセクハラ上司が触ってきたら殴れ。
幸いあれから触られたことはないが、真顔で言われたその言葉は、たとえ本当に殴ることが出来なくても、絶対的な権力を持つ立場の人間から殴る許可を貰えたような気がした。

そのとき、ドアをノックする音がして「どうぞ」と事業部長が返事をすると顏を覗かせたのは本部長付きの女性。その女性が事業部長にメモを差し出すと、目を通した事業部長は「すまない。少し席を外すが待っていてもらえないか」と言って会議室を出て行った。

部屋の中は、つくしと田坂のふたりだけになった。
だからつくしは、手元の資料に視線を落とし読んでいるふりをしていたが、田坂がこちらをじっと見ていることは感じていた。
だがつくしは顏を上げなかった。
それに相手が何も言わないのだから、こちらも何も言うつもりはないと黙っていた。
そして、この時間が早く終わればいいのにと思いながら頭を過るのはあの男性のこと。
だが何かの気配を感じて顏を上げると、斜め向いの席にいたはずの田坂が、いつの間にか背後に立っていることに気付いた。




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2020
06.15

夜の終わりに 13

顧客に提出するデータの処理と資料の作成は思いのほか順調に進んでいて、次に行われる先方との会議には十分間に合うはずだ。

東邦電気。エンタープライズ事業部。
つくしの部署は大企業や中堅企業。公的機関など比較的規模の大きな法人向けのソフトウェアの開発をしている。
だが、そこにはセクハラ上司がいて、必要もないのにつくしの後ろに立ちパソコンを覗き込む。勤務時間が終った後だからなのか。個人的なことを訊きたがる。食事に行かないかと誘う。うっかりと言えば許されるとでも思っているのか。肩に触れる。いや撫でる。
だがつくしは何を言われても、されてもパソコンの画面から目を離さなかった。無視をした。けれど上司が後ろに立つと仕事の能率が下がる。このことを10日前に出会った男性に話したとき、そのうち尻を撫でられると言われた。そしてもし今度触ってきたら殴れと言われた。

その男性と出会ったのは、電車を乗り過ごしたために辿り着いた終点の駅前。
車掌に起こされ、折り返しの電車はないと言われ駅前のビジネスホテルに泊まろうとしたが門限に阻まれて泊まることは出来なかった。
そのとき駅前にタクシーが止まっていたのを思い出し、その車に乗るべく走った。
ところが既にその車には男性客が乗っていた。だがここでこの車を逃すことは出来ないと相乗りさせて欲しいと頼んだ。けれど乗せてやるとは言われなかった。だから食い下がったが、それはタクシーではなく男性の車だった。

つまり大きな勘違いをしていた。そのことに気付くと放心した。そして気付けば山の中のラブホテルの一室に男性と一緒にいたが、これは倒れた女を放置せずに乗せたところで、道が通行止めになったための緊急避難だと言われた。
つまり男性にすれば、仕方なくつくしの面倒を見るはめになったということだが、会話を続けるうちに最初に口を開いた時の冷やかさは徐々になくなっていった。

そんな男性がつくしの話の後に語ったのは自分のこと。
事業を営む家に生まれた男性は少年の頃は荒れていた。自分のアイデンティティを模索していた。姉の政略結婚に自分はそうはならないと反発をした。だがそんな結婚をした姉も子供が生まれ今は幸せに暮らしていて羨ましいと思っている。だが自分はビジネスの世界で一生を終える人間で姉のような幸せを掴むことはないと思っている。
その話の内容から、男性が当初思っていた既婚者ではないことを知ったが、見ず知らずの女に自分の心の裡を話すというのは、つくしが話したセクハラを行う男性に迷惑をしているのとは重みが違う。

だが何故男性はそんな話をつくしに話したのか。多分それはあの日、誰彼無しに言いたかった。ただそれだけの話であり、人は時に心の奥に溜まった思いを吐き出したいことがある。
それを口にしただけの話だ。
だからつくしもあの日、会社で上司にセクハラを受けていることを話したが、根本的な解決を目指すなら会社に言えと言われた。だからそうするつもりでいる。

それにしても今思えばあの夜、自分の取った行動は軽率だった。
30歳を過ぎれば何が起きても全てに於いて自己責任という思いでいるが、いくら真夜中に全く知らない場所にいるからといって見知らぬ男性に同乗させて欲しいと頼んだこと自体がどうかしていた。冷静になって考えれば駅に戻り駅員に事情を話すなり警察に電話をするなりして困っている状況を説明すればよかったはずだ。だがあの夜はそこまで頭が回らなかった。

そして男性と一夜を明かし、冷静さを取り戻し外に出た時そこにあったヤマザクラに心を奪われた。
と、同時に自分が隣に立つ男性を意識し始めていることに気付いた。
だがそれ以上に気付いていたのは、男性が立派な肩書を持つ人物だろうということ。
それは男性が運転手付きの車に乗っていたことから、ある程度の地位や立場にいる人間だと思ってはいたが、自分のことを語り始めたとき、ああ、この人は華々しい世界に住んでいる人だと知った。
そして朝の陽射しの中で背広の袖口から覗く腕時計に目を落とした姿は、いかにもそれらしき立場の人間の風貌で、本来ならつくしが出会う人ではない。それに生まれも育ちもレベルが違う。生きて来た世界が違うことを感じた。

だがその男性は満たされない心を抱えている。しかしそういった感情は誰にでもあるもので、人はそういったことに対して何らかの形で解決する方法を見つけていくものだ。
だから男性もいずれその解決方法を見つけるだろう。
きっと見ず知らずの女に話したのもそのひとつだ。だがもしかすると、一夜が明けて何故この女に話したのかと思っていたかもしれない。
それに男性から自宅近くまで送ると言われたが、その言葉に深い意味はないはずだ。
だから駅で降ろして欲しい。中央線の駅ならどこでもいいと言うと車に乗り込み窓の外に目を向けたが、男性が何か言いかけた丁度そのとき男性の電話が鳴った。
電話に出た男性の口から出たのは英語で会話は早口で交わされていて理解は出来なかったが、ビジネスに関することではないかと思った。それは男性が苛立った様子で言葉を返していることから察した。

やがて電話を切った男性は、「すまないが電話をかけさせてもらう」と言って電話をかけると再び英語で話し始めた。
だから今度は目を閉じたが、気付いた時には車は高速のインター出口を出て一般道を走っていたが、男性はまだ電話で話をしていた。

そして道路は空いていたことから思いのほか早く駅に着いたが、そこはつくしが利用している駅よりも都心にかなり近い駅。
運転手に「邸までの時間は?」と訊いていたことから、ここが男性の暮らす場所に一番近い中央線の駅ということになるのだろう。
だから車から降りると、まだ電話の途中の男性が電話口を押えた姿に丁寧に礼を言って大勢の人の中に同化するように改札を通過したが、今あの男性は何をしているだろう。あのとき男性は何を言いたかったのか。
だが今となっては確かめる術はない。何しろあの男性のことで知っているのはT男という名前だけなのだから、きっともう二度と会うことはないだろう。




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2020
06.13

夜の終わりに 12

外に出たが昨夜の雨はすっかり上がっていた。
地面から立ち上ってくる匂いは都会のコンクリートジャングルでは嗅ぐことのない湿った土の匂い。何もないままラブホテルに一泊した男と女が雨上がりの朝に見たのは、かげろうのように揺らめく風景。
その中にあるのは新緑の季節とはいえ薄ら寒い山の中で、まだいくらか花を咲かせているヤマザクラの巨木と、かつては水の流れがあったであろう築山のある日本庭園らしき庭だが、今は荒れ果てた姿でそこにあった。

そして今、目の前の大きな木と背後に広がる山の景色は時間と共に姿を変え、やがて揺らめいていた風景に突き刺すような5月の陽射しが降り注ぎ始めると、空には透き通るような青が広がった。


「やっぱりここはこうした使われ方をされる前は旅館だったか」

「旅館?」

「ああ。ここは初めからラブホテルとして建てられたんじゃないってことだ」

ここに足を踏み入れたとき運転手の後藤も口にしたが、敷地の広さと和風建築の平屋が点在している様子からそうではないかという思いがあった。だが暗闇の中では、はっきりとしたことは分からなかった。けれど、こうして朝の光りの中で見る建物は明らかに旅館だ。

「そうだったんですね。確かにこんなに広い敷地に離れが点在する旅館は隠れ家的な宿としては素敵だと思います。でも今はこんな使われ方をしてなんだかもったいないですね。それにこの桜も」

女の言葉から感じられるのは、がっかりとした気持。
そして継がれたのは自分の名前について。

「実は私の名前は…..本当の名前は春に芽吹く植物の名前なんです。でも植物と言っても花を咲かせることのない地味な雑草です。桜はそんな私の上でピンク色の雨を降らせてくれる。地味な私でも春の色を纏わせてくれる花です。
そんな花だから私は桜が大好きなんです。だからこんなに大きくて立派な桜なのに、この桜を見る人がいないのがもったいなく思えます。それに夜はライトアップすれば幻想的な桜になると思いませんか?」

そう言った女は枝を大きく広げたヤマザクラを見上げているが、花など愛でたことがない司もこの桜はライトアップされれば美しく幻想的な桜になると思えた。

「そうだな。この桜は立派だ。満開なら迫力のある姿を見せるはずだ。恐らくこの木はここのシンボルツリーだったはずだ」

ここも出来た頃はそれなりに客も多かったはずだが、時間が経ち客室の稼働率が上がらなくなったのか。それとも、ここの経営者はここを本業としていなかったのか。だから旅館の経営以外に金を使い経営が成り立たなくなったのか。だがどちらにしても言えるのは経営者には経営の才能がなかったと言うことだ。

そして、少し前なら木の下には桜色の絨毯があったはずだが、雨上がりの今は散らされた数枚の花びらが落ちているだけ。
それに旅館からラブホテルに変われば、その絨毯を眺める者もいないが、それをもったいないと思うのか。女は落ちている花びらを一枚拾い上げた。

そんな女は司に興味を持たない。
女は司が会社を経営していることが明らかなのに、そのことについて触れることはない。
女がこれまで司に語った言葉の中には誇張もなければ、司によく思われたいという思いもない。大概の女が男に聞かせたいと用意している話もない。
それに司に向けた視線の中に媚びを含んだ目線は一切なく、そういった態度はこれまで司の周りになかったものだ。

だが司に興味を示さない女が見せる態度が新鮮な驚きだとしても、見知らぬ男の前で下着を着けることなく寝るという大胆な行動を取る女は、セクハラ上司に頭を悩ませながらも職場の調和を気にかけ性善説を信じる典型的な日本人で桜の花が好きだという。
そんな女を表現する言葉があるとすれば、それは気が強いのではなく芯が強いという言葉。
つまり牧野つくしは男らしい女ということになるが、司はそんなアンバランスな牧野つくしに不思議な魅力を感じるようになっていた。

それは単なる週末の戯れや気まぐれではない。
桜前線はとっくに通り過ぎたというのに、まだ山の中でひっそりと花を咲かせているヤマザクラのような女の小さな顏を両手で包み込み、まじまじと見つめたい思いに駆られているということ。そして女のことをもっと知りたいという気持になっていた。


「まき…」

司は女の本当の名前を言いかけ慌てて口を噤んだが、そのとき運転手の後藤が車の準備が出来たと言ってきた。

「落石による通行止めは解除されたようです。それから中央道の事故による通行止めも解除されましたので近くのインターから乗りたいと思います」

運転手の後藤は、そう言うと後ろのドアを開けてふたりが車に乗るのを待っていた。
司は空白のひとときの後で時計を見た。

「邸までの時間は?」

「はい。1時間もあれば到着できます。ですがそちらのお嬢様を目的地までお送りする必要があると思われますが」

と言って後藤は司の指示を仰いだ。
だから司は「家の近くまで送ろう。住まいはどこだ?」と女に訊いたが、女は首を横に振り丁寧な口調で答えた。

「お申し出は大変ありがたいのですが、これ以上ご迷惑をおかけすることは出来ません。
ですから通り道にある駅…..可能であれば中央線の駅で降ろしていただければ助かります」

夜が明けた今。女は自分を助けてくれた男に感謝の言葉を述べたが、司の連絡先を聞こうとはしなかった。
そしてその言葉から感じられるのは、見知らぬ男とラブホテルで過ごした偶然の一夜は終わりを迎えたということ。
それにその態度は男に甘えることのない潔さがある。と同時に司に住まいを知られたくないという思いが覗えた。
だがそれは別として牧野つくしという女は男に甘えることが下手なようだ。だから遠慮するな。駅ではなく自宅近くまで送ると言っても返事はノーだ。

だから司は「分かった。中央線の駅だな?そうしよう」と答えたが、いつも時間に余裕を持たせる運転手の言葉通りだとすれば牧野つくしと過ごす時間は長く見積もっても45分ということになる。
だがそれだけでも十分だ。何しろ司は女の名前も勤務先も知っている。だから会いに行くことは出来る。
それに知りたいことはもう分かった。
それは、牧野つくしという女は自分に添う女だということ。
そして気付いた。
夜の終わりに大切なものを見つけたことに。
つまり司は牧野つくしに惚れていた。



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2020
06.11

夜の終わりに 11

司は牧野つくしを抱え上げベッドに運ぶと布団をかけた。
すると女は猫のようにくるりと身体を丸めた。そして一言二言何かを呟いたが目を覚ますことはなかった。

「変わった女だな。お前は」

司は今更のように思った。
女が眠りにつく前に「隣で寝てもいいか」と訊いた。
すると女は戸惑うことなく笑って、「いいわよ」と言った。ただし何かしたら大声を上げるとも言ったが、司は酔っぱらった女のその態度に苦笑した。
それにしても、こうして数時間一緒にいるというのに不思議と欲望が湧くことがないのは、女の容姿がどうのと言うのではない。それなら何か。それはこの女が無防備過ぎるからだ。

着ていた服はどこにあるのかと浴室を覗いてみれば、スーツとブラウスは脱衣籠の中に畳んで置かれていた。司は上着を手に部屋に戻りハンガーを手にすると、自分の上着の隣に掛けた。
そして本来ならタオルを掛けるはずの場所に掛けられていたのはストッキング。洗濯したのか。濡れた飾り気のない下着が一緒に並んでいた。
つまり浴衣の下は裸。いくら何もしないと言われても男の前で下着を付けずにいる女は普通じゃない。そしてその状態で見知らぬ男の前で何の懸念もなく喋り寝る女は、ある意味肝が据わっている。

「それにしても無防備にもほどがある」

それは女に呆れて出た言葉なのか。
それとも感心しているのか。自分でも分からなかった。
そして自分がこの女に対して男としての欲望以前に思うのは、ただ話をするだけでいいという思い。
それはまだ性の営みを知らなかった頃は別として、心の中では女の肉体など欲を吐き出すだけの代物と考えている自分が求めたプラトニックな感情だ。

そして本来の司は酔っ払いの言うことは真に受けない。
だが今夜は酔っ払った女の言った通りにすることにした。それは隣で寝てもいいということ。だから司も長い夜を終えることにすると、女の隣に身体を横たえた。

どんなストレスや疲れも、寝ることが解消に繋がると言う。だから女が眼を覚ましたとき、バカなセクハラ上司に付き纏われていることは別として、仕事で疲れた身体も少しは楽になっているはずだが、酩酊とは言わないが男が隣で寝ることを許した記憶はないだろう。
それにしても、目が大きい以外ごく普通の顏立ちの女は、どうしてこうも簡単に他人を信じることが出来るのか。
そう思いながら司は女の顏を見ながら目を閉じた。すると耐え難い眠気がやって来て、すぐに深い眠りに落ちた。











午前7時半。
司の睡眠時間は短い。
だからいつも少し寝ただけで自然と目が覚める。
だが今朝はそうではない。長い時間寝たという感覚がある。つまり司にすればこの数時間は惰眠を貪ったに等しい。
そして目覚めたときここがどこか一瞬分からなかったが、隣の寝ている女の顏で、すぐにここがラブホテルの一室であることを思い出した。

ベッドを降りるとシャワーを浴びに浴室へ行ったが、改めてそこに干されている下着を見て笑った。「もう乾いたか?」
そして思った。もし女が目覚めたとき、枕元にこの下着があったらどんな顏をするだろう。
それは司の手が触れたことを示すことになるが、静かな寝息を立てている女は即座に布団に深く潜り込むかもしれない。それともベッドから飛び起きると大急ぎで浴室に駆け込むか。司の予想では後者だが果たして本当か。
司はそんなことを思いながらスーツの上着を着てネクタイをポケットに入れると、女に声をかけた。

「T子。朝だ。起きろ」

T子こと牧野つくしは寝ぼけた返事をして目を開けたが、どうやら自分が置かれている状況は理解しているようで照れた様子で司を仰ぎ見た。

「おはようございます」

「よく眠れたか?」

「はい。おかげさまでありがとうございます」

「そうか。良かったな」

「本当に色々とご迷惑をおかけしました」

と言ったが、司が「下着。乾いてるぞ」と言うとギョッとした顏をして飛び起きた。
そして転がり落ちるようにベッドから出ると、浴室の扉を勢いよく開けて飛び込んで行ったが、司はその後ろ姿を見て笑っていた。




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2020
06.09

夜の終わりに 10

『よし。ここからは俺の話をしよう』

それは意識することなく出た言葉だが、相手が司のことを知らないことから出たといってもいい。
だが司は、これまで他人に自ら自分のことを話したことはない。
いや、それ以前に司に対して何かを問う人間はいない。
だからこうした言葉が出たこと自体が不思議だったが、どういう訳か牧野つくしに話したくなった。それはもしかすると自分も誰かに愚痴を言いたい気分なのかもしれない。

だがそれにしても、その場所が山の中のラブホテルで相手は備え付けの浴衣に着替えた化粧気のない女。それもブランデー入りのコーヒーを飲んで透き通るような頬をピンクに染めた牧野つくしは自分のことをT子だと言うと、司に対しどう呼べばいいかと名前を求めた。だから司は名前のイニシャルからT男と名乗ったが、彫像のように冷ややかで完璧な美貌を持つと言われる男が自らをT男と名乗ったことを秘書が知れば、司の正気を疑うだろう。





「俺の家は俺が生まれたときから手広く事業をやっていた。つまり金には困らない家に生まれた。そんな家に育った俺は我儘な子供だった。いや。我儘な子供じゃない。我儘なうえに生意気で手の付けられない子供だった。周りにいた大人達はそんな子供が起こした悪さの後始末に追われていた。
だが子供の悪さは知れている。とはいえ、かなりのことをやった。やがて思春期を迎えた俺は荒れた青春時代を送った。その中には仕組まれた縁談もあった。それに反発してさらに荒れた。何しろ高校3年で婚約しろだの、どう考えても異常だが、俺の親は自分の息子の結婚で事業の生産性が上がることを望んでいた。だがあの頃の俺は女嫌いだった。だから家のための結婚などクソくらえだった」 

自然に口をついて出るのは、自分でも一番厄介だったと思う年頃のこと。
道明寺という家のために生きることを求められていた少年は、事業拡大のために結婚することを求められ自分の存在価値が何であるかを自問していた。

「それにあの頃の俺は、いつ死んでも構わない。この世といつおさらばしても構わないと思っていた。何しろ俺の人生には18での婚約だけじゃない。初めからいくつもの枷がかけられていた。それを外すことが出来るなら何でもしてやるつもりでいた。それに何でも金で買えると思っていた。実際何でも買えた。だが買えないものがあるのを知ったのは姉に子供が生まれてからだ。子供が出来た姉を見てそれは金では買えないことに気付いた」

「それは何だったんですか?」

それまで黙って聞いていた女は、そこで初めて口を開いた。

「幸福だ」

「幸福?」

「ああ。幸福だ。心が満ち足りている状況のことだ。姉の結婚も親が用意した縁談だ。幸い相手の男は姉のことが好きになった。だが姉には別に好きな男がいた。それでも親の決めた縁談を受け容れたのは、好きな男の幸せを願ったからだ。姉はその男のことを思い自分を犠牲にして結婚した」

司は家のために結婚する姉に対し何故という思いを抱いた。
しかし姉は愛情にも色々な形があると言って嫁いだ。だが、その時の司は姉が言った愛情の形がなんであるかを理解することは出来なかった。

「夫になった男は姉を愛していた。だが姉は夫となった男を愛してはいなかった。ふたりの関係は夫から与えられる愛情を姉が受け入れていたに過ぎなかった。
だがその姉も今は夫と幸せな暮らしをしている。それは姉の愛情の形が変わったからだが、どう変わったか。それは当人同士の間でしか分からないことだが、明らかに変わったのは子供が生まれてからだ。恐らく姉はそのとき気付いたはずだ。愛されるのではなく愛することが自分の幸福だということを。だから母親になった姉は子供を愛し夫を愛することで幸福を感じている。つまり心から愛する人がいる人間は幸福だってことだ。それはいくら金を出しても買えない。何しろ自分の心の問題だ」

姉の結婚生活を通じて司が知ったのは目には見えない心の充実。
そんな姉の生活を羨まないわけではない。

「だが今の俺は姉と違い幸福からは遠い場所にいる。毛嫌いしていたはずの事業を継いで仕事を始めれば、ビジネスの面白さを知った。だから俺はこのままビジネスの世界で一生を終える人間だ。それにそれが俺の運命ならそれを受け容れるしかないと思っている。だが姉はそんな俺にもいつかはベストな人間が現れるはずだと言うが__」

と、司がそこまで話したところで、目の前にいる女は眼を閉じ、うとうととし始めていた。
やれやれ、と司は内心呆れて女の仮の名前を呼んだ。

「おい。T子」

すると呼ばれた女は、はっとして司を見た。

「す、すみません」

「眠いのか?」

「ちょっと、眠くて…..」

頬をピンクに染めている女は、はにかんだ様子で言ったが、その様子から、ちょっとどころではないことは見て取れる。
それに時計の針は午前3時半を指しているのだから普通の人間なら眠くて当然だ。

「そうか」司はそう言うと「もういいから寝ろ。ベッドで寝ろ。朝になったら起こしてやる」と言ったが、何故か不意に自分もこの女の隣で眠りにつきたくなった。
だから「T子。隣で寝てもいいか?」と訊いた。
すると何も言わずに立ち上がろうとした女は、足がふらついて畳に座り込んでしまったが、テヘヘっと笑うと、「いいわよ。でも私に何かしたら大声を上げるから!」と言ったが、その笑い方と、足が立たない様子からどうやら女は酔っているようだが、まさかブランデー入りのコーヒー二杯で酔うとは思いもしなかった。

それにしても、女はここがラブホテルでいくら大声を上げたところで誰も止めに入る者もいなければ、扉を叩く人間もいないことを理解していないのか。いや。理解していないのではない。ただ酔った頭では理解が出来てないだけの話だ。
そしてついにその場で目を閉じた女は、身体を横に倒すと寝てしまった。




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