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2020
05.31

夜の終わりに 4

真っ暗な雨の夜。
窓の外に雨粒は見えなかったが、それでも激しく降っているのが感じられた。
ここが街中なら、たとえ真夜中でも滲んだ明かりが見えるはずだが、車は山中を走っていることから外に明かりらしきものは見えなかった。
つまりどんなに目を凝らしたところで見えるのは沼のような暗闇であり、車のヘッドライトが照らすのは濡れたアスファルトだけ。
そしてタオルを敷いた司の膝に頭を乗せて寝ているのは名前も知らない女。
その女は傘があるというのに司に自分の思いを伝えることに一生懸命で傘を開くことはなかった。
だからずぶ濡れになり身体を震わせてしゃがみ込むと、今にもその場に倒れそうになっていた。そして司の問い掛けに答えることはなかった。

司は女嫌いではない。だがかつてはそうだった。
そして女が眠っている姿を見つめる経験をしたことがない。それは事を終えても同じベッドで朝まで過ごしたことがないから。
それに女を抱いて感動をしたことがない。そんな男だから愛の言葉も口にしたこともない。
それでも、大勢の女が司の傍にいたいと望むのは、彼が日本を代表する企業、道明寺ホールディングスの道明寺司だからだ。

そんな司の人生は、生まれ落ちた瞬間から自分の考えとは全く関係なく決められたレールの上を走ることが求められた。しなければならないと課せられたものがいくつもあった。
やがて、そんな状況に置かれた少年は、自分の立場が嫌で反抗的な態度を取った。
だが少年は自分の資質を知り抜いていた。それは蛙の子は蛙であり両親の資質を受け継いでいて、ビジネスの才能があるということ。
だから大学を卒業し道明寺ホールディングスへ専務として入社すると、自分よりも年上のツラの皮が厚いタヌキどもの腹の中を読み、いくつものプロジェクトを指揮して成功に導いた。
そして35才になった今は副社長として圧倒的な存在感を示しているが、殆どの人間が司に思うのは、怜悧な顏を持つ男は無機質で冷淡だということ。

そんな男が真夜中の田舎の駅前で酔って電車を乗り過ごし雨に濡れ震える女を車に乗せた。
まさにそれは自分でも信じられないことだが、あのままにしておくことは出来なかった。
女の額に手を当てたが熱はなさそうだった。だが震えていたのは、雨に濡れ体温が下がっているからだ。だから司はこれ以上体温を下げないために女の濡れたスーツの上着を脱がせると、自分のスーツの上着を脱いで女の身体にかけた。

それにしても、自分はこの女をどうしようというのか。
膝の上の女の広い額には知性が感じられた。
はっきりとした眉と、閉じられた瞼を縁取っている上向きの扇形の睫毛は意志の強さを感じさせた。
そしてその意志の強さは、この車をタクシーだと思い込んで乗せて欲しいと司に訴えたことから既にわかってはいるが、加えてこの女について言えるのは、人は本来善であるという性善説に基づいて行動しているということ。

だから、電車で寝過ごし真夜中の駅に取り残されるという危機的状況に置かれた自分に対して悪事を働く人間はいないと思っているようだ。
そんなお気楽な考えを持つこの女はいったい何歳なのか。30代前半といったところだろうが、どちらにしても、いい年をした人間が簡単に他人を信じるようでは、この先どんな災難に見舞われるか分かったものじゃない。

そんな女から微かに感じられるアルコールの匂い。
女は一体どんな酒を飲んだのか。
司がこれまで交わした数限りない乾杯は、理由なき乾杯であり意味のない酒。
だから気心が知れた仲間と飲む酒以外楽しいと思える酒はなかった。

そのとき、運転手の後藤が言った。

「副社長、どうやらこの先は落石で通行止めになっているようです。迂回路を探してみますが、ご自宅に戻る時間をはっきりと申し上げることが出来ません」

窓の外は暗い夜で雨は激しく降っていた。

「そうか。分かった」

そう答えた司が視線の先に見たのは道路際に輝くホテルのネオンサイン。

「後藤。雨が激しくなってきた。これ以上無理をして進むことはない。あそこに車を入れろ」




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2020
05.30

夜の終わりに 3

司は長野での仕事を終えると車に乗り、中央道を東京に向かって走っていた。
だがこの先事故で通行止めの案内に、近くのインターで高速を降り下道を走っていた。
やがて車がどこかの駅前に差し掛かったとき、喉の渇きを覚え、車を止めさせると自販機から水を買った。
そして、運転手に暫くこのままでいてくれと言って煙草を吸っていたが、そのときスモークガラスの窓をノックする音に外を見た。
するとそこには雨に濡れながら女が立っていた。

時刻は午前1時を回っている。
まさかそんな時間に駅前で女に車の窓をノックされるとは思いもしなかった。
司は安全上の理由から、誰に車の窓を開けろと言われても開けることはない。
ましてや真夜中。トラブルに巻き込まれる可能性が高い。だからなおさら無視を決めていたが、女が再び窓をノックしようとしているところで、何故か思わず窓を開けた。

その女は司の車をタクシーと勘違いをしていた。
そして電車を乗り過ごして困っていると自分が置かれている窮状を訴え、都内に帰りたいので同乗させて欲しいと頼んできた。
だがこの車はタクシーじゃないと言う司に対し、女はタクシー代なら払いますと言い、強固なまでに乗せて欲しいと言ってきた。だが、その理由が分からない訳ではない。
それは、この車を、つい先ほどまで司の車の前方に止められていたタクシーと勘違いしているということ。だが司が言い放った「よく見ろ。この車は俺の車だ」に改めて車を見た女は、自分の勘違いに気付いたのか。ようやく黙った。
そして言った。

「申し訳ありません。私の勘違いでした。改札を出たときここに黒いタクシーが止まっていたので、てっきりそのタクシーだと思って…..本当に申し訳ございませんでした」

司は車の傍で雨に打たれながら頭を下げた女を見ていたが、女の口ぶりやスーツ姿という服装から、勘違いをしたことを除けば誠実そうに見えた。
いや、誠実というよりも真面目という言葉の方が当てはまるように思えた。
それにしても、傘を開けばいいものの、司の車をタクシーだと思った女は、乗るつもりで折りたたんだ傘はそのままで髪はぐっしょりと濡れていた。
そのとき、強い風が吹いて雨が車内へ吹き込んだ。と同時に女はクシャミをして鼻をすすった。そして唇が震えているのが見て取れた。

真夜中の激しい雨。すっかり濡れてしまった身体。
梅雨入り前の季節だとしても夜は冷える。傘をさすことを忘れた女をこのままここに放置すれば、確実に風邪をひくだろう。下手をすれば肺炎になってもおかしくはない。
そしてその姿は、打ちひしがれ、うなだれているように見えたが、どうやらこの女は本当に困っているようだ。それに女は周りが見えてないようだ。だから司は女に言った。

「ここが終点なら駅員がいるはずだ。都内まで帰りたいが手段がないと事情を説明して始発が出るまで中で待たせてもらえばいい」

そう言ったが、女の耳に届いていないのか。
女から言葉が返ってくることはなかった。
そして何故か口にした、「それともこの車に乗るか?乗るなら都内まで連れて帰ってやるが、どうする?」の言葉。
だがそうは言ったものの、女は見ず知らずの男の車に乗るほどバカではないはずだ。
だから女は駅員に助けを求めるだろう。
だが、つい先程までどうしてもこの車に乗りたいと訴えてきた女は、どこか怖いもの知らずに思えた。
それに女は、ほんの少し前までは唇だけが震えていたが、今は身体まで震えていて、その震えを抑えようとしたのか。鞄を腕にかけた状態で腕組みをしていたが、それでもまだ震えていた。

「おい?大丈夫か?」

さすがに司は心配になって訊いた。

「す、すみません….大丈夫…です。あの….」

と、女は言葉を途切らせながら言ったが、女を濡らしている雨はその強さを増した。
そして言葉を続けようとした女は、よろけて鞄を足元に落とすと、自分自身も濡れたアスファルトの上に膝を着いた。

「おい!」

司はドアを開けて車を降りると、今にも倒れそうな女に触れた。

「しっかりしろ!」

だが女は身体を震わせるだけで答えなかった。
だから司は女を抱え上げると運転手に言った。

「後藤。タオルを用意しろ。この女を車に乗せる」




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2020
05.29

夜の終わりに 2

「嘘でしょ?門限があるなんて聞いてないわよ…」

車掌が言った通り駅前には小さなホテルがあった。
つくしが想像していたのは、ビジネスホテルだったが、そこは名前でこそビジネスホテルとついているが、それはホテルと言うよりも旅館に近い建物だ。
そして入口の扉に掛けられているプレートに、最終チェックインは24時で門限24時と書いてあった。
だから午前1時を回っている今、ホテルの入口は施錠されていて、いくらチャイムを鳴らしても玄関に明かりがつくこともなければ誰も現れなかった。

「どうすればいいのよ….」

そう呟くと雨足が強くなった。ザアザアとした吹き降りになった。
真っ暗な夜の雨の中、見知らぬ街で行く当てがない女がひとり。今のこの気持を表現するとすれば路地に追いつめられ逃げ場を失ったネズミの気持だ。
それについさっきまでは、この街の新緑を楽しみにしていたが、今はそれどころではない。
それどころか、一週間の疲れが重く背中にのしかかってきた。
こんなとき、彼氏でもいれば電話で迎えに来てもらうことも出来るのかもしれない。だがつくしに彼氏はいない。それに彼氏がいたとしても、こんなに遠くまで迎えに来てくれる彼氏がいればの話だが、彼氏がいない女が何を言ったところでどうしようもない。

そうだ。そう言えば駅前にタクシーが1台止まっているのを見た。
黒塗りのタクシーは空車を示していた。だからそれに乗ればいい。それで都内まで帰ればいい。幾ら料金がかかるか想像すると怖いものがあるが、今のこの状況ではそんなことを言っている場合ではない。
財布に現金は少なかったがカードはある。いくら田舎のタクシーでも一枚くらいカードは使えるはずだ。
それに新緑はまた別の機会に見にくればいい。ただ、その気になればの話だが、今はとにかくタクシーに乗る必要があった。

つくしは振り返ってタクシーが止まっていた場所を見た。
すると、そこには先程のタクシーがいたが、最終電車が到着した今、これ以上待っても誰も駅から出て来ることはない。つまり、タクシーはすぐにでもその場を離れるだろう。
現にヘッドライトが点され車は今にも動き出しそうな気配がした。
だからつくしはタクシーを目指して駈け出した。そして運転手に乗りますという意思を表示するように手を振った。

するとタクシーの運転手は、つくしの意思を理解したのか。
車は動くことなく、エンジンがかけられたままその場に止まっていた。
だから、ああ良かった。これで家に帰ることが出来る。そんな思いで急いで近づくと、傘をたたみ後部座席のドアが開かれるのを待った。
だが、ドアは開かれなかった。
だから後部ドアの窓をノックした。すると窓がスルスルと降りたが、暗い後部座席にはスーツ姿の男性がいた。

つくしは一足遅かったのだと気付いた。
タクシーがヘッドライトを点していたのは、客を乗せて出発しようとしていたところだったのだ。
万事休すか。一瞬そう思ったが頭の中にひらめいたのは、同乗させてもらえないかということ。この男性がどこに向かうにしても、その男性が降りた後、そのタクシーで都内に戻ればいいということ。
それに男性がどこまで帰るにしても、タクシー料金をつくしが支払うと言えば同乗させてもらえるのではないかと思った。
それに後部座席に隣同士に座る相手が見知らぬ男性だとしても、タクシーには運転手という第三者がいる。
だから何かが起こることはないはずだ。それに真夜中に女がひとり。それにどう見てもつくしが困っていることは明らかであり、そんな女性を相手になにかしようと言うなら、この男性は問題のある人格の持ち主ということになるが、車内からつくしを見る男は変質者には思えなかった。だが変質者に見えない代わりに鋭い瞳がつくしを見ていた。
けれど今は瞳の鋭さなど関係ない。とにかく、この困った状況から脱出したいつくしは自分の願いと状況を説明した。

「あの。失礼ですがどちらへお帰りですか?大変厚かましいお願いをして申し訳ないのですが、もし東京方面にお帰りなら同乗させていただけませんか?実は私は電車を乗り過ごしてしまったのでこの車が必要なんです。いえ、東京方面じゃなくても構いません。この街にお住まいなら、ご自宅までの料金は私がお支払いします。もしあなたが都内まで戻られるのならそのお金もお支払いいたします」

そう言ったつくしに対し、車内の男性は何も言わず、ただ鋭い瞳でつくしを見ていた。
もしかすると、この男性は酔っていて頭の回転が鈍っているのか。だからつくしが言っていることが理解出来ないのか。だが酒の匂いはしなかった。その代わり煙草の匂いがした。
それとも、この男性は元から頭の回転が鈍いのか。だがそうは見えないが人は見かけでは分からない。だからもう一度別の言葉で頼んでみることにした。

「あの__」

「この車はタクシーじゃない」

「は?」

「お前は酔ってるのか?」

「え?」

「いい年をした女が前後不覚になるまで酒を飲んで乗り過ごしたか?….ったく…」


『この車はタクシーじゃない』
つくしは男性が言っている意味が分からなかった。
それに、丁寧に言葉を継ぐつくしに対し失礼な言い方をする男性の態度にカチンときた。
だから、酔ってるのはそっちじゃないの?そんな言葉が喉元までせり上がって来たが、目の前の車を逃す訳にはいかない。この車を逃せばここで始発の電車を待つことになる。それだけは避けたい。だから男性を怒らせたくないという思いから、その言葉を呑み込み丁寧に言った。

「あの。お急ぎのところでしたら申し訳ございません。私本当に困っているんです。駅前のホテルに泊まろうかと思ったんですが、門限があって24時で閉まっていたんです。それにここまで迎えに来てくれる知り合いもいなくて、このタクシーを逃すと路頭に迷うんです」

「分からない女だな。この車はタクシーじゃない」

つくしは丁寧に頼んだ。
だが男性はこれはタクシーじゃないと否定を繰り返したが、それはつくしを同乗させたくないという意味なのか。それとも誰か別の人が乗って来るのを待っているのか。
だとしても、最終電車が到着してから時間が経った。だから乗客はもう誰もいないはずだ。
それにここにはつくし以外誰もいない。それならやはりつくしを同乗させたくないという意味なのだろう。

そのとき、あることが頭の中に浮かんだ。
それは運転手に別のタクシーを呼んでもらえばいいということ。それにしても何故もっと早くそれを思い付かなかったのか。そうすればこの男性に同乗させて欲しいと頼むことはなかった。
だが、こんな真夜中に迎車を受けてくれるかどうかという問題がある。それでも頼んでみるのもいいはずだ。それにしても、運転手は客がいるのだから別の車を呼ぼうという気を回すことが出来ないのか。

「あのすみません運転手さん!こんな時間に申し訳ないのですが別の車を呼んでもらえませんか?」

つくしは開いた窓から見えなかったが、前方にいるであろう運転手に向かって声をかけた。
だが答えたのは運転手ではなく鋭い目をした男性。

「何度も言わせるな。この車はタクシーじゃない」

再びそう言われ腹が立った。
女性が困っているというのに、この男性は女性を助けようという気が起きないのか。
それに運転手が別のタクシーを呼ぶことを邪魔するというならこっちにも考えがある。

「あなたもおかしなことを言うわね。この車がタクシーじゃないってどこがタクシーじゃないのよ?」

「しつこい女だな。いいかよく見ろ。この車はタクシーじゃない。個人の車だ。俺の車だ」

そう言われ何を言っているのかとばかり車の屋根を見た。
すると、そこにあるはずの会社名の行灯は無かった。それに雨の降る真夜中とは言え、よく見ればこの車はタクシーにしては大きくて立派だ。それに名前は分からないが、恐らく輸入車。それも高級外車だ。
つまり少し前に見たタクシーは、とっくに誰かを乗せてその場からいなくなっているということ。
それに気づいた瞬間。つなぐ言葉を失い唇から力が抜けて何も言えなくなった。




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2020
05.28

夜の終わりに 1

雨が降っていた。
だから改札から出たところでいつも鞄に入れてある折り畳み傘を広げたが、ここが電車の終点だと知ったのは、「お客さん。起きて下さい。着きましたよ。終点です」と車掌に声をかけられたからだ。
眠っていた。だから本来降りるべき駅を乗り過ごしここまで来た。
腕時計を見た。すると針は午前1時10分を指していた。
そして着いたと言われても、ここが何処か分からなかった。
だから車掌に訊いた。

「あの、すみません。ここは?」

「ここですか?山梨ですよ」

「山梨?」

「ええ。そうです。新宿からだと80キロほど離れた場所になります。それから引き返しの上りの電車はありません。でも大丈夫ですよ。ここは山の中の田舎ですが全く何もないと言う訳ではありません。駅前には小さいですがホテルがありますよ」

車掌はそう言って立ち去ったが、その口振りからして、つくしと同じように乗り過ごす人間がいるということが分かった。
だからごく当たり前のようにホテルの場所を教えてくれたが、小さな駅の改札を出たところは、すぐに車道で、そこには息子を迎えに来たのだろう。年配の男性がハンドルを握る車に若者が乗る様子や、数メートル先にいる傘をさした男性が暗闇に消えていく姿があった。

それにしても、まさか隣の県まで乗り過ごすとは思いもしなかった。
つくしが暮らす街はJR中央線の沿線で、今日は新宿を23時45分に出る電車に乗ったが今まで乗り過ごしたことはなかった。
そして、その電車の終点は都心から遠く離れた山の中の小さな街。
これまで駅のホームにある電光掲示板に表示されているその地名を意識したことはなかった。自分の乗った電車がこんなに遠くまで走っているとは思わなかった。

それにしても、ほんの数秒目を閉じただけだったはずだ。それに一度目が覚めたはずだったが、再び暗闇の中に落ちたのは疲れが溜まっていたからなのか。
確かに、ここ数日忙しくて残業が続いていた。だから帰りはいつも遅かった。
だがひとり暮らしということもあり、時間は自由だった。それに睡眠時間が6時間だとしても、ベッドに横になれば深い眠りに落ちるから疲れを翌日に持ち越すことはなかった。
けれど、流石に毎日ともなれば疲れが溜まっていたとしてもおかしくはなかった。

だが今日は真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。だから食事を済ませて帰ることにした。
だから会社近くのイタリアンレストランで食事をしたが、その時グラスワイン頼んだ。
それは口当たりの良い甘さを持つワイン。一杯だけでは飲み足りない。そう思ったからもう一杯頼んだのだが、それが間違いだったのかもしれない。だが、今日はどうしても飲みたかった。だから飲んだ。
だが立っていれば眠ることはなかったはずだが、珍しく席が空いていて座ったのだが、それがまずかったのかもしれない。だが今更それを言ったところでどうしようもない。
今は見知らぬ街の駅にいて、これから都内に帰る手段はないのだから今夜はこの街に泊まるしかなかった。

つくしは車掌が教えてくれたホテルへと足を向けたが、一歩踏み出したところで足に冷たさを感じて下を見た。足元の水たまりに気付かなかった。

「ああ…やっちゃった」

踏み出したパンプスの中に水が入ってストッキングに滲みていた。
やがてジワジワと滲みが広がるのが感じたが、どうせ脱ぐのだから濡れたところで気にすることはない。それに濡れた靴が朝までに乾かなくても大したことではない。

それにしても、こここが山の中の街なら、この季節の晴れた日は新緑が美しいはずだ。
それにはっきりとは見えないが、街灯に照らされた街の外側には暗い山があることは感じられる。そして都会に降る雨とは違う種類の雨が降るこの街の緑は、都会のビルの間から見える緑とは違って深いはずだ。それにきっと緑が街を包み込んでいるはずだ。

そう言えば、最近は毎日遅く晴れた空をのんびりと見上げたことがなかった。
そうだ。明日は土曜で仕事は休みだ。いや。もう日付は変わっているのだから、もう土曜で今日は休みだ。だからこれから寝て起きたらこの街を散策してみるのも悪くないと思った。
久し振りにのんびりと過ごすのも悪くない。緑あふれる場所で空を見上げてみるのもいいかもしれない。
それにもうすぐ気の滅入るような梅雨がやって来る。だからその前に晴れた空を見上げたい。そう思うと立ち尽くしている水たまりから出た。




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2020
05.25

金持ちの御曹司~甘い罰~<後編>

『罰を与えるわ』

恋人はそう言うと部屋を出て行ったが、その言葉に司の頬が緩んだのは、ある意味での期待感。
恋人に与えられる罰。それはいったいどんなものなのか。
だが司にはMっ気はない。それにどちらかと言えばSっ気の方が強い。
そしてそれは恋人に対してだけであり他の女とではそんな気が起きることはない。
それに、これから起こることは、どうせ恋人のすることだ。大した罰ではないと思っている。

たとえばそれは椅子に縛られ身動きの出来ない司の全身をくすぐるとか、司の身体的弱点である耳に息を吹きかけるといった可愛らしい類のものではないか。
だから恋人が部屋を出て行ったのは、フワフワとした毛がついた猫じゃらしのような棒を取りに行ったとか、そう類のもので間違っても鞭を手に戻ってくるなど考えもしない。
それにふたりの付き合いでイニシアチブを握っているのは自分だ。
だからどんなことでも司が本気で止めろと言えば止めるはずだ。

それにしても、こんな風に縛られるということは、恋人は無難なセックスじゃ物足りないのか。不満があるのか。もしかして激しい行為を望んでいるのか。恋人は縛られる行為に興味があるのか。だとすれば、司は男としての努力が足りないということになる。
それなら努力をしなければならない。と、なると、縛りのプロに教えを乞うべきか。
だが司の知り合いに縄師はいない。だが総二郎ならひとりくらい知り合いにいそうな気がする。

そうだ。確か….西門流の門下生にその世界では一流と言われる縄師の男がいると訊いたことがあった。なら早速総二郎に電話をしてその男を紹介してもらえばいい。
そしてネクタイや手錠を使う拘束プレイではなく本格的な『縛り』を習えばいい。
だが気を付けなければならないことがある。それは恋人は色白で跡がつきやすい。
だから縄で本格的な縛りをすれば、縄の文様がはっきりと残るはずだ。つまり外から見えやすい場所、たとえば手首についた縄の跡を隠すものを用意してやる必要がある。取りあえずリストバンドでもいいか?けれど恋人の美しい肌に傷をつけるのは罪だ。
それに小さいが美しく白い胸の下に縄の跡をつけるのは悪だ。
そう思いながらも、縛った恋人の身体をいいように弄ぶことを想像すると、自分が縛られていることを忘れ下半身が頭をもたげてくるのが感じられた。




「お待たせ。道明寺」

そう言って恋人が司の前に戻って来たとき手にしていたのは猫じゃらしでもなければ、鞭でもない7センチ四方の小さな袋。

「ねえ?これがなんだか分かる?」

恋人はそう言って司に袋を見せたが、中身が白い粉であることだけしか分からなかった。
だから「いや。さっぱり分かんねえ」と答えると恋人は不敵な笑みを浮かべた。

「ふふふ。これはね。殆どの人間は一度でもこの味を知れば虜になると言われている粉よ。これからこれをあなたに与えるわ。そうすればあなたはこの白い粉を求めて私の言うことを訊く。もう二度と私以外の女のところに行くことは出来なくなるわ」

「おい。まさか…牧野…お前、それは…」

司の前に立つ恋人はいつもとは違い妖艶に思えた。と同時にその微笑みは真冬の空に浮かぶ刃物のように薄い三日月のような冷たさも感じられた。

「そうよ、これは禁断の白い粉よ。もしくは伝説の白い粉とも言うわね?」

おい….ちょっと待て!
司は恋人の口から出た禁断の白い粉とか、伝説の白い粉という言葉に戦慄を覚えた。
これは夢だよな?俺の夢の中だよな?
司は高校生の頃、乱れた生活を送っていた。だが薬物に手を出したことはない。昔も今も薬物とは縁のない世界にいる。それなのに何故恋人が白い粉を手にしている?
まさか恋人は現実が辛くて、それから逃避するため白い粉に手を出したのか。
だがそれは戦慄のシナリオだ。ダメだ。たとえ夢の中でも恋人がそんなものに手を出していることは許されたことではない。
まさかとは思うが、もしかしてこの夢は予知夢か?恋人がイライラとしていたのは生理前ではなく禁断症状が出たのか?
もしそうなら目が覚めたら早々に恋人を問いただそう。そして何か悩みがあるなら俺に言え。道を誤ったとしても俺がついている。俺がお前を更生させてみせる。だからその白い粉を捨てろと言おう。
だがそれを恋人に言う前に、夢の中の恋人は小袋の上の部分を開き、片手で司の頭を自分の胸元に抱え込むと言った。

「道明寺。口を開けてこの粉を飲みなさい」

「い、嫌だ」司は小声で答えた。

「口を開けなさい!」

恋人が強く命じたが、司は口を開けなかった。
だが司は恋人の黒い瞳に見つめられると抵抗出来ない男で、それは夢の中でも変わらなかった。だから有無を言わさぬ瞳に言われるまま口を開けると、傾けられた小袋から零れ落ちてきた白い粉を口腔内に受け入れたが、それは口の中ですぐに溶けて消えた。

そして「これであなたもこの白い粉の虜。もうこの粉なしでは生きていけないわ。つまり私から離れては生きてはいけないということよ。道明寺、あなたは私のものよ。私だけのものよ」と言われ、恋人の顏を見つめながら縛られて強張っている腕から力が抜けていくのを感じていたが、これほどまで彼女に求められている自分は幸せなのか。だが果たしてこれでいいのかという思いを抱いたところで、「支社長。こちらの書類が最後になります」と言われ、はっと目を覚ました。

司は今回の夢ばかりは早く覚めて欲しかった。
だから西田が書類を手にデスクの前に立っている姿にホッとした。
そして西田が「お顔の色が悪いようですが、どうかなさいましたか?」と訊いたが「なんでもない」と言って深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。






心臓が激しく鼓動を繰り返し、額に冷や汗が浮かんでいるのが感じられた。
今日の夢はこれまで見たものとは違い害のある恐ろしい夢だった。
それにしても何故こんな夢を見たのか分からなかった。

そして翌日恋人からのメールに書かれていたのは、『昨日はごめん。下痢でお腹が痛くて仕事に集中できなくてイライラしてたの』の言葉。
だから司は心配で仕事が終わると恋人の家に駆け付けた。

「大丈夫か?」

「うん。ごめんね心配かけて。おととい朝作ったお味噌汁を冷蔵庫に入れるの忘れてて、夜帰って飲んだらお腹壊したの。でももう大丈夫だから。でも念のためにヨーグルトを食べていい菌を増やさなくちゃね」

そう言った恋人がヨーグルトと一緒にテーブルの上に置いたのは、白い粉が入った小さな袋。それはまさに夢で見たものと同じもの。
だから司は冷たい恐怖を感じ戦慄を覚えた。
そして恋人は司が白い粉をじっと見つめている様子に言った。

「ああ、これ?これは今では手に入らないのよ。まさに伝説の白い粉よ」

『伝説の白い粉』
司は恋人が夢の中と同じ言葉を言っていることに驚愕した。
やはりあれは正夢だったのか。それにしても恋人はいつから薬物を使うようになったのか。
だがこの際いつからかはどうでもいい。それよりも一刻も早く止めさせなければならない。
そうだ。すぐに入院させて薬を抜かなければならない。そのためには今、目の前に置かれているそれを取り除かなければならなかった。
だから司はテーブルの上に置かれた小袋を取り上げた。

「ちょっと!何するのよ!」

恋人は驚いた様子で言った。
そんな恋人に司は真剣な顏で激しく詰め寄った。

「牧野。何するのってこれは何だよ?伝説の白い粉って、いったいこれは何なんだよ!お前、いつからこんなものを__」

すると恋人はきょとんとした顏で司に言った。

「え?これ?これ今は付いてないけど昔はプレーンヨーグルトには必ず付いていた砂糖だけど道明寺知らないの?ああ、そうよね。知らないわよね。知らなくて当然よね。だってあんた自分でヨーグルト買ったことがないものね?あのね、昔のプレーンヨーグルトってもの凄く酸っぱくて、添付された砂糖をかけなきゃ食べれなかったの。特に子供はそう。プレーンヨーグルトなんて子供にとっては酸味ばかりで全然美味しくなかった。
でもうちはママがその砂糖を使わせてくれなくてね。お菓子が入れられていた缶の中に取っておいたのよ。それでその砂糖を料理に使ったりしてたの。でもあたしこの砂糖が大好きでね。子供の頃、時々缶の中からこっそり取り出して食べてたの。でも見つかると叱られたわ。だから我が家ではこの砂糖は禁断の白い粉とも呼ばれてたわ。
それがこの前実家に帰って台所の整理をしてたら大量に出て来たから少し貰って来たの。だから今は付いてないプレーンヨーグルトにかけて食べようと思ったの」

司はそう言われて手にした小袋を見た。
するとそこには、『砂糖』と書かれていて、『この砂糖はグラニュー糖を砕いて溶け易く顆粒状にしたものです。ヨーグルト以外にもおいしくお使いいただけます』とあった。

「これ、そこに書いている通りグラニュー糖だから普通のお砂糖と違って口の中でフワッと溶けてお菓子を食べてるみたいで美味しかったのよね。だからこれ、子供の頃の思い出のひとつなの」









司の夢に出て来た禁断の白い粉であり伝説の白い粉。
それは恋人が子供の頃に味わった思い出の甘さ。
だから司も舐めた。
するとやはり砂糖は砂糖だ。甘いそのひと袋を食べろと言われれば拷問だと言えた。
だがそれでもその甘さが恋人の唇から感じられるなら、それは受け入れられる甘さだ。
そして司は気になっていたことを訊いた。
それは三流週刊誌に載った記事について。
だが恋人は笑って言った。

「あのね、道明寺。もう何年あんたの彼女やってると思うの?あんなのデタラメに決まってる。週刊誌の記事なんてあたしは全く気にしてないからね」

司の恋人は彼のことを信じている。
そして恋人は嘘つきは嫌いだ。
だから司は恋人に嘘をつくことはない。

「でも週刊詩の記事が本当だったらこのひと袋全部あんたの口の中に流し込むからね」

それは夢の中でもあった同じ光景。
そして司が嘘をつけば甘い罰が待っているということになるが、今はその甘い罰が欲しかった。
だから司の唇は、ヨーグルトを食べた彼女の唇の甘さを求めてゆっくりと重ねられた。




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2020
05.24

金持ちの御曹司~甘い罰~<前編>

喉仏は男にだけあることからペニスの象徴と言われている。
だから喉仏を見れば、どんなモノを持っているか分かると言われるが司の喉仏は立派だ。
つまり司は男として過分とも言えるほど立派なモノを持っている。
そしてヒトは初め女であり女を男性化したものが男。それはヒトという生き物は胎児の頃は女だが、途中で男性ホルモンの刺激を受け男に変化したということであり、言うなれば男という生き物は、もともと女だったものを無理して男になった。
だから女の方が長生きなのは当たり前で、男が男らしくありつづけることは大変だということを世の中の女は理解してない。

だが司は愛しい人の前ではいつも一流の男でいたいと思っている。
それに司は男に生まれて良かったと思っている。
そうだ。もし女に生まれていたら最愛の人と甘い時間を過ごすことは出来なかった。
いや、女に生まれたとしても彼女の傍にいることは出来るが、男として生まれたからこそ味わうことが出来る喜びというものがあり、それを味わうことが出来る司は幸せだ。

だがある日。
そんな風に思う男に浮気疑惑が持ち上がった。

『道明寺財閥の御曹司。道明寺司氏が女性の腰に腕を回し親しそうにしていた』

それは週刊誌に載った写真。
いや。だがそれは何かの間違いであり親しいも何もない。
だって司はその女性が誰か知らないのだから。
それに、その写真がいつどこで撮られたものか全く心当たりがない。
写真の男は特徴的な髪型をしているが、探せば同じような髪型をした人間はいるはずだ。
そうだ。他人の空似じゃないか?現に昔、司に似た男が現れて恋人を惑わしたことがあった。

それにしても、これまでなら、そんな記事など気にしない恋人が何故か今回の記事に対しては厳しい態度で司に接してきた。
だから今夜会いたいと言うメールに返された返事は、

『誠に申し訳ありません。今夜は都合によりお会いすることは出来ません』

かしこまったメールの内容に書かれている文章を直訳すれば「今夜はノー」という意味だが、つまりそれは今夜彼女を抱けないということ。
それは、あの記事のせいなのか?いや、恋人はあの記事など何とも思ってない。あんな訳の分からない三流週刊誌の記事を信じるほど恋人はバカではない。
だから司は再びメールで訊いた。

『どのような都合でしょうか?』
『都合は都合です』
『都合の理由を明示下さい』
『今ここではお示し出来ません』
『何故でしょう。明確な理由がなければ受け入れることは出来ません』
『ですから今、ここではお示し出来ません』

司は、ここまで丁寧な言葉遣いで訊いた。
だがどれだけ丁寧に訊いたとしても会えない理由を答えてもらえそうになかった。
だから、こうじゃないかと思う理由を書いてみた。

『牧野?もしかして生理前か?もうすぐ始まるのか?』
『うるさいわね!ごちゃごちゃ言わないでよね?あたしにだって都合があるのよ!それにお腹が痛いのよ!!あたしは今、その痛みに耐えて仕事をしてるの!』
『・・・・・・』

司は怒られたが、文面から感じられたイライラとした雰囲気から、訊いた通り生理前なのだと理解した。
生理前の恋人は怒りっぽいこともあれば、イライラすることもある。それに些細なことにムキになることもあった。
だが司は大人だ。それに恋人との付き合いで色々と学んだ。
女という生き物は生理のとき、気持ちが塞ぐこともあれば、イライラとすることもある。
それを理解してやるのも恋人である司の役目だ。
どちらにしても、今夜恋人と会うことは出来ない。つまり早く仕事を終えても仕方がない。
それなら仕事でもするか。そう思った司は秘書に、「今夜は仕事をする。明日に回される書類でもいいから持って来い」と言って書類に目を通し始めたが、西田が持って来た書類は思いのほか多かった。
そして司はひと息つこうと目を閉じると夢を見た。









それは椅子に腰かけたまま縛られた男。
腕は後ろ手に縛られ、脚も椅子の足に縛り付けられていた。
そして目の前にいるのは恋人。
だが、その恋人は司が知っている恋人とは正反対の嫉妬深い女。

「道明寺。私を裏切ったわね?」

「裏切った?おい待て牧野!お前何か勘違いしてるんじゃないか?俺がお前を裏切る?そんなバカなことがあるか!俺はお前一筋だ!俺はお前を裏切ったことは一度もない!」

と言った司はこの状況から、もしかすると恋人は週刊誌に載った写真のことを言っているのだと思った。

「牧野。あの写真に写った男は俺じゃない。俺はあの女を知らない。本当だ、本当に知らない。そう言えば昔、国沢っていう俺によく似た男がいたよな?それと同じであれは俺に似た別の男だ。それに俺はお前以外の女の腰に腕を回すことは絶対にない!」

「よく言うわよ!高校生の頃、滋さんの身体に腕を回してキスしたじゃない!」

「あのな!あれはしたくてしたんじゃない!」

大河原滋は親の決めた婚約者として二人の前に現れ、司は自分を殺して滋と付き合いを決めたことがあった。

「それに海ちゃんとイチャイチャしてたじゃない!」

「それもしたくてしたんじゃない!あれは俺がお前のことを忘れたことをいいことにあの女が勝手にイチャイチャしていただけだ!」

司にとって最愛の人のことを忘れたことは大失態だが、いちいち昔のことを持ち出す恋人は、「まあいいわ」と言って唇に小さな笑みを浮かべていた。

「道明寺。あなたは私のことが好きだと言うけど、他の女と一緒にいたわ。それは許されることではないの。だからこれからあなたに罰を与えるわ」




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2020
05.22

『Love and Tenderness』更新のお知らせ

『Deception 76話』をUPしました。


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2020
05.19

『Love and Tenderness』更新のお知らせ

『Deception 75話』をUPしました。


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2020
05.15

青の絶景 <後編> ~続・烈日~

Category: 烈日(完)
「どうぞ。こちらがつくしさんの描いた絵です」

私は男性とひとしきり話をした後、風呂敷に包んだ絵をテーブルの上に置いた。
きっと男性は私と話すよりも早く彼女の描いた絵を見たかったはずだ。
だが男性は急かすことはしなかった。むしろ話し始めると、男性は私と彼女が過ごした時間に、ふたりが過ごした時を重ねて見ているのが感じられた。

男性が風呂敷の結び目をほどいて見たのは、15号サイズのキャンバスの半分を埋め尽くしている青い小さな花と、その上に広がる青い空の油彩画。
何の花だか私には分からなかったが、男性は男性は知っているのか。暫く静かにその絵を見つめていた。

この部屋の壁には誰もが知る有名な絵画が飾られている。
それはただの絵画ではなく美術作品であり億の価値があると言われる絵だが、そんな絵を自宅に飾る男性が見つめるのは素人が趣味で描いたに過ぎない絵。
だが男性の目は真剣で、男性にとっては壁に飾られている億の価値を持つ絵よりも、目の前に置かれている青い絵の方が大切なことは、瞬きすらしない姿からも一目瞭然だ。

そんな男性は、「そうか。彼女が描いたのは青い絵か」と呟くと言葉を継いだ。
「彼女は青色が好きだった。私たちがニューヨークと東京で恋人関係にあった頃、私は世界中で彼女に似合いそうな青い物を見かけると、つい買っていた。
それはニューヨークでもパリでもローマでもそうだ。5番街でサファイアのネックレスを買った。フォーブル・サントノーレで鮮やかなブルーのスカーフを買った。それと揃いのバッグも買った。コンドッティで濃い青の靴を買った。それに似合うコートも買った。
だが彼女は高価な物を受け取らない女だった。だから私としては値段を抑えたつもりで買った物を日本で暮らす彼女に送ったが、そのたびに無駄遣いをするなと怒られた」

男性の口から出た通りの名は、どこもその街で一番と言われる店が軒を連ねる場所で、殆どの女性はそういった店で買い物をしたがる。

「彼女はそんな女性だから、なかなか私に贈り物をさせてくれなかった。だが彼女は、ふたりで出掛けた旅先の土産物屋で売られていた陶器の青いカエルの置物を手にして喜んだ。値段は忘れたが1万もしなかったはずだ。それに彼女は誰に聞いたのか。青いカエルは幸せを運んで来る。そんな迷信を真面目に信じる女だったから、なおのこと喜んだ」

男性が愛した女性は、高価な青ではなく数千円で買える青いカエルを喜んだと言うが、それにしても、バラの話といい、カエルの話といい、彼女が男性とは全く別の世界に育ったことがよく分かる。
だが男性は、自分と同じ世界の女性よりも彼女を選んだ。
その恋を実らせようと努力をした。だがふたりの思いは叶えられることはなく別れを決めた。そして再会したふたりは、彼女の夫が離婚に同意をしなかったため、逢瀬を繰り返すしかなかったが、ここでまた男性の口から思いもよらないことを訊かさた。

「そういえば、あなたは旅に出た彼女から土産をもらったと言いましたね?」

彼女から旅行に行ったからと、お菓子を貰ったことがあった。

「はい。金沢のお土産でした。友人と一緒に行ったと言っていました」

すると男性は、おもしろそうに言った。

「実はその友人は私です。人妻である彼女は旅に出るために言い訳が必要だった。
その言い訳として用意したのは絵画教室の友人とのスケッチ旅行だ。つまり金沢への旅の同行者は絵画教室の友人であるあなたということになっている。だが本当の同行者は私だ」

私は彼女が砂浜で夫ではないと思われる男性と一緒にいる姿を見たとき、どんな言い訳を用意したのか。どんなアリバイ工作をしたのかと心配をしたが、まさか自分がそのアリバイの役割をしていたとは思いもしなかった。

「それから、この絵に描かれている花と空も、ふたりで見た景色だ。
この場所は一面がこの絵に描かれている通り青い小さな花に覆われていた。それに空も青かった。それからこの景色を見るために出掛けた旅も絵画教室の友人。つまりあなたと一緒に出掛けたことになっていた。だが私は彼女にいい訳などする必要ないと言った。
なにしろ彼女の夫には何人もの愛人がいた。そんな男にすれば彼女が旅に出れば愛人との時間が増える。自分の都合のいい時間が出来るだけの話だ。
だが彼女は私たちふたりのことであからさまな態度を示さなかった。それは私に迷惑がかかると思ったからだ。あの頃の私はまだ離婚が成立していなかったからだ。
それに彼女は自分の離婚に関しては、私の力は使わないで欲しいと言った。自分でちゃんと話をするから待ってと言って.....。
私たちが付き合っていた高校生の頃にも、そんなことを言われたことがあった。そしてその時の彼女は、彼女の言葉通り待っていた私の元へ戻ってきた。だが今思えば出来ることはしておくべきだったと思っている」

男性の言葉に感じられるのは、やるせない思い。
そして他人のままでいたくないと願ったふたりのうちひとりは、離婚することが出来たが、もうひとりは、その願いを叶えることなく逝った。
だが、その人はきっとここにいる。男性が葬儀会場で彼女に口づけをしたことで、彼女の魂は男性が連れ去って行ったのだから、ここにいて男性を見ているはずだ。









時の流れは冷たくて同じ時間を歩くことが出来なかったふたり。
だが、この男性なら時を越えて彼女を愛するだろう。
それは死を越えて結ばれるということだが、男性が彼女の魂を連れ去ったと同じで、進藤つくしは道明寺司の心を人の手が届かない場所へ持ち去った。
だからこれから先、道明寺司という男性が誰かに心を奪われることはないだろう。

男性はこの絵をどこに飾るのだろう。
そしてこの絵の風景はどこだったのか。
花の青が空を染めたのか。それとも青い空が花を染めたのか。視界一面が花と空の色の境目が消え溶け合ったように見える風景。だがそこがどこだとしても、彼女の好きな青に染められた場所だったことは間違いない。

そして青い空の色は、妻を一途に愛した愛の画家と呼ばれたシャガールが描いた空の色に似ている。その色はシャガールブルーと呼ばれる空の色だが、青が好きだったという彼女は意識したのだろうか。
それにそこに男女の姿を描けば、シャガールの絵にある愛を誓う飛翔する男女の姿になる。
もしかすると彼女は自分達の姿をここに描きたかったのではないか。
つまり、刻むことが出来なかったふたりの時の流れを絵の中で刻もうとしたのではないか。
だが、今となっては分からない。だがこの絵が男性の元へと運ばれてきたことを喜んでいることだけは確かなはずだ。
それに葬儀の日。彼女の写真は黒い枠に囲まれていた。
だが今、彼女はこの邸の中のどこかに飾られた白いフレームの中にいるはずだが、そこは彼女に相応しい場所。つまり最愛の人の傍だが、道明寺司という男性にとって死者との絆は永遠で、彼女を思う心はこれからも止まることは出来ないだろう。




「山崎さん。改めて礼を言わせてもらう。この絵を持って来ていただいたことに感謝します。この絵は私の宝物だ。大切にする」

男性は私に礼を言って絵を裏返した。
すると、そこに黒のサインペンで書かれている小さな文字に気付いた。

『青の絶景 道明寺つくし』

その文字を見ている男性の瞳が潤んだように見えた。





< 完 > * 青の絶景 *
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2020
05.14

青の絶景 <中編> ~続・烈日~

Category: 烈日(完)
「彼女から絵画教室で親しくしている若いお嬢さんがいると訊いてはいましたが、あなたが山崎理香さんですか」

「はい。つくしさんとはお茶をご一緒したり、一緒に展覧会に行ったりしていました。旅行に行ったからとお土産をいただいたこともあります。ご自宅で咲いたバラの花をいただいたこともありました」

私の前に現れた男性の顏には、葬儀の日に目撃した険しさはなく優しさが感じられた。
それに年齢相応の皺があった。けれど、少年の頃から眉目秀麗と言われていた男性は今でもその言葉通りで、日曜ということもありスーツではなくラフな服装をしているが、紳士的で品がよく見えるのは男性が道明寺司だからだ。
そしてここは世田谷の大きなお邸。一体どれくらいの広さがあるのか。まったく見当がつかない広さの邸の主は黒革のソファに腰を下ろすと、「どうぞ」とコーヒーを勧めてくれた。

私は読んでもらえるかどうか分からなかったが男性に手紙を書いた。
それは、突然お手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。この手紙はあなたを困らせるものではありません。進藤つくしさんが描いた絵が絵画教室に残されていました。本来ならその絵は遺族に渡されるものですが、多分受取りを拒否されると思います。
現在その絵は私の元にあります。これは私の勝手な想いですが、その絵は私の元にあるよりも、道明寺さんの元にある方がつくしさんも喜ぶのではないでしょうか___。

と、いった内容に私と彼女との関係を書き加えた。するとすぐに男性の秘書から連絡があった。そしてその絵を持参してもらえないかと言われ、迎えの車が差し向けられ男性の元へ絵を持って来たが、男性は私のことを知っていた。

それは男性が口にした通り彼女が私のことを話していたからだろう。
そうでなければ、この国の経済を支える産業を牽引するグループのトップに立つ男性に、こんなに簡単に会えるはずがない。
そうだ。まさかこんなにも早く会えるとは思いもしなかった。
何しろ男性に手紙を書いたはいいが、自宅の住所は分からなかった。
だから、会社宛に送ったが、手紙は秘書が事前に開封して目を通しているはずで、必要ないと思われる手紙は男性の目に触れることはなく処分される。だが私の手紙は処分されることなく男性の手に渡った。

そして私は日本で一番の権力を持つと言われる男性に、彼女とのこれまでのことを話したが、言葉が途切れたとき、葬儀の日。あなたのすぐ近くにいましたと言った。だが男性は申し訳ない。気付かなかったと謝った。
だがそれもそのはずだ。あの時の男性の視線は彼女の遺影にだけ向けられ、周りのことなど気に留めてはいなかったのだから。
けれど、そんな男性が甚く興味を示したのは、私が彼女からバラの花をもらった話だ。

「彼女はあなたに自宅で咲いたバラをあげると言って渡したんですね?」

「はい」

「色は何色だったか覚えていますか?」

「え?赤です。とても素敵な赤いバラです。それを大きな花束にして持ってきてくれたんです。まるで花屋で作ったような花束でした。だからつくしさん、バラの花を育てるのもラッピングも上手ですね?花屋が出来ますよ?と言ったんですが笑っていました」

私がそう答えると男性は小さく笑って言った。

「そうでしたか。恐らくだが彼女があなたに渡したバラは私が彼女に最後に会ったときプレゼントしたバラでしょう。なにしろ彼女が住んでいた家は数寄建築の家で日本庭園はあったがバラの木は1本も植えられてない。それに彼女はバラを育てたことはないはずだ」

そうだったのか。あの花は男性から彼女に贈られたものだったのか。
だから私は自分が何も知らなかったとはいえ、持ち帰ってしまったことを謝った。
それにしても、何故彼女は最愛の男性から貰った花束を私にくれたのか。
だが男性は納得した表情で言った。

「いや。あなたが謝る必要はない。彼女はあんな男でも夫がいる身だった。だから私からの花を自宅に持ち帰ることが躊躇われたんだろう。だが捨てることは出来ない。それであなたに差し上げることに決めたんでしょう」

名目だけの妻だった彼女には、やはり名目だけの夫がいた。
それも堂々と浮気を繰り返す夫が。それでも彼女は夫を気遣った。
だから彼女は男性から贈られたバラの花を自宅に飾ることはしなかった。

「昔ばなしだが」

男性はそう言って懐かしそうに話し始めた。

「私たちがまだ高校生だった頃、私は彼女に思いを伝えたくて彼女が暮らしていた狭いアパートにバラの花を大量に届けさせたことがあった。あの時「こんなに沢山のバラの花をどうするのよ!」と酷く怒られた。だが彼女は私の気持を理解してくれた。結局バラは1本だけ残して後は全て病院に寄付することにしたんだが、あれ以来バラの花を贈るとき気を付けていた。それは贈り過ぎないこと。だが長い間彼女と離れていたことからそのことを忘れていたようだ」

想いを形に表すことは出来ないとは言わないが難しい。
だが男性はそれを花で表すことにした。
あの時、私が彼女から受け取った赤いバラの花びらは肉厚でベルベットのような質感を持ち美しかった。
それに甘い匂いがしたが、あのバラは男性が彼女に贈ったものなら、あの匂いは男性の彼女に対する欲望の表れで、赤は再会した女性と再び愛を深めることを決めた男性の情熱の色だ。

「それに人妻の彼女に花を贈ってはいけないと気付けばよかったんだが、あの時は久し振りに彼女に会える嬉しさで冷静さを欠いてしまったようだ」

そう言った男性の顏が少し悲しげに歪んだ。
それは、謝る必要はないと言ったものの、彼女に贈られたはずのバラを私が持ち帰ったことで、自分の彼女に対する熱い思いを伝えきれなかったのではないかという思いがあるのだろう。
だが私は、あのとき彼女が花を1本だけ持ち帰ったことを覚えている。それを不思議に思ったが、男性の話を訊いて何故そうしたのかが分かった。
それは高校生の頃、男性から贈られた沢山のバラの花の中で1本だけ残したのと同じことをしたということ。
つまり彼女は、持ち帰った1本のバラに男性からの想いを見ていたはずだ。
だから私は彼女がバラを1本だけ持ち帰ったことを男性に話すことにした。そうだ。これは彼女のためにも話すべきことだ。
彼女は高校生だった頃のあなたがしたことを懐かしく思い、あの時と同じことをしたんです。だから、あなたの思いは伝わっていましたと。それにきっと彼女はあなたのどんな思いも知っていたと思いますと。

「あの、道明寺さん。あの時つくしさんは思い出したように、ごめんね。1本だけ抜いてもいい?と私に訊いたんです。私はもちろん構わないと言いました。だってそれはつくしさんが持って来たバラですから。あの時は何か不都合があったのかと思いましたが、理由は訊きませんでした。ただつくしさんは、もう一度ゴメンね。と言って花束の中から1本だけ抜いてそれを大事そうに持ち帰ったんです。それからつくしさんは私にどんなにあなたのことを愛しているか。その思いを話してくれました。短い間だったかもしれませんが、あなたとの時間はつくしさんにとってかけがえのないものだったはずです」

男性は私の言葉にゆっくりと目を閉じた。
そして開くと、「そうか。バラは1本だけ持ち帰ったのか」と言ったが、その表情はどこか嬉しそうだった。



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