「牧野。お前がこの国にいるのは付き合ってる男がいるからだろ?それも妻子がいる男だ。
だからお前はその男が妻子を捨ててお前と一緒になってくれるのを待ってる」
司はそこまで言うと前を向き彼女の顏を見ることはしなかった。
それは突然暴露された自分の恋愛について狼狽している彼女を見たくなかったから。
それに彼女も見られたくはないはずだという思いから敢えて前を向いた。
そして否定も肯定もない沈黙は、司の言ったことが正しいということになる。
「牧野。いいんだ。隠す必要はない。お前は妻子持ちの男と付き合ってんだろ?その男から妻とは別れる。だからそれまで待ってくれ。子供が学校を卒業するまで待ってくれ。そんなことを言われてるんだろ?
だがな、そんなことを言う男が妻と別れることはない。それに世の中を見てみろ。口先だけで生きてる男は大勢いる。牧野。お前は危険な恋愛に足を踏み入れている。お前はその男に騙されてる。ただの都合のいい女にされてるだけだ。お前に相応しいのはそんな男じゃない」
思わず強くなった語尾。
それは他の女がどんな人生を送ろうと勝手だが、愛している女がひと目を忍んで妻子のある男と付き合っていることに、その男に甘い言葉で籠絡されていたことに腹が立ったからだ。
「隠さなくていい。昨日俺がお前の家を訪ねたとき扉を開けるまで時間がかかったのは、料理をしてたからじゃない。男とベッドにいて、急いで服を着たからだ。それに慌てて扉を閉めたのは中に男がいたからだ」
司は自ら口にしたその言葉に辛さを感じた。
彼女が自分以外の男とそういった関係になっていたことに紛れもなく嫉妬していた。
だがこれは受け入れなければならない現実であり、そうなったのは、司が16年も彼女を忘れていたからだ。
無駄に過ごした16年。それは実に勿体ない無意味な時間。取り戻せるなら取り戻したい。
だが取り戻すことは出来ないし、過去を変えることは出来ない。けれど、これから先の未来は変えることが出来る。
だからこれからふたりで新しい未来を築いていけばいい。
「牧野。よく考えるんだ。妻子のいる男と付き合っても未来はない。だから俺とやり直そう。俺はお前のことを思い出した瞬間からお前のことを愛してる。だから__」
と、言いかけたところで、やおら彼女が口を開いた。
「あたしが妻子のいる男性と付き合ってる?」
司は、「そうなんだろ?」と言って隣に座っている女に顏を向け目を合わせたが、眉間に皺が寄っているのが見て取れた。
「いったい何を言ってるのよ?」
「何をってお前が妻子がある男と付き合ってることだ。お前はその男に騙されてる。都合のいい女にされてることを言ってる」
司は不実な男に傷つけられた彼女のハートを癒すつもりだ。
優しく抱きしめ、痛みを和らげるためにキスをする。
ところが返ってきた言葉は、「バカじゃない」
「何だって?」
「言ったとおりよ。バカじゃないって!道明寺の副社長になったアンタがバカだったのは昔だけだと思った。でも今もそうみたいね?」
はあ?
「いい?よく訊いて。あたしは妻子ある男性と付き合ってない。それ以前に誰とも付き合ってないわよ!」
「付き合ってない?」
「ないわよ!」
「誰とも?」
「誰とも!」
司に向けられた挑むような瞳。
それは彼女を拉致して飾り立て金が全てだ。金で手に入らない物はないと言った司に対し、そのへんの女と一緒にしないでと言った時と同じ瞳だ。
あの時、司は恋におちた。
だが彼女が運命の女だと気付くのはそれから随分と後だったが__。
そして今、司の隣にいる女性はあの時と同じ瞳で司を見ているが、今の司は彼女が言った少年だった頃のバカな男ではない。
それなら何か。
ただ、彼女の記憶を取り戻し16年振りに会えた彼女を前に、あの頃どうしようもないほど恋焦がれていた女性に会えたことに、冷静に考えることが出来なかっただけだ。
そうだ。昔から彼女を前にすると自制する心を失ったように、思い込みで彼女が妻子ある男と付き合っていると言ってしまった。
「いい?あたしはこの国に来て男にうつつを抜かしたことはないの!あたしは大学で日本語の教師としてこの国の若者に日本語を教えるために来たの。それから今は日本語学校の教師と通訳として忙しい毎日を送ってるの。だから誰かと付き合うことを考えたことがないの。それから言っとくけどアンタとやり直すつもりはないから!」
司にそう言った女は、「あたしのことを何も知らないくせに…..」と呟くと運転席と後部座席との間の仕切りを叩き「運転手さん!車を止めて下さい。あのお店の角で車を止めて下さい」と英語で言った。
「牧野。家まで送らせてくれ。それにあの店はなんだ?」
「送ってくれなくて結構です!それにあの店はパン屋よ!明日のパンがないから買って帰るのよ!言っとくけどうちに来てもアンタのパンはないから!」
車が店の角で止ると彼女は降りた。
「牧野、待てよ……」司も慌てて車を降りると声をかけたが、彼女は振り返ることなく店の中に入って行った。

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だからお前はその男が妻子を捨ててお前と一緒になってくれるのを待ってる」
司はそこまで言うと前を向き彼女の顏を見ることはしなかった。
それは突然暴露された自分の恋愛について狼狽している彼女を見たくなかったから。
それに彼女も見られたくはないはずだという思いから敢えて前を向いた。
そして否定も肯定もない沈黙は、司の言ったことが正しいということになる。
「牧野。いいんだ。隠す必要はない。お前は妻子持ちの男と付き合ってんだろ?その男から妻とは別れる。だからそれまで待ってくれ。子供が学校を卒業するまで待ってくれ。そんなことを言われてるんだろ?
だがな、そんなことを言う男が妻と別れることはない。それに世の中を見てみろ。口先だけで生きてる男は大勢いる。牧野。お前は危険な恋愛に足を踏み入れている。お前はその男に騙されてる。ただの都合のいい女にされてるだけだ。お前に相応しいのはそんな男じゃない」
思わず強くなった語尾。
それは他の女がどんな人生を送ろうと勝手だが、愛している女がひと目を忍んで妻子のある男と付き合っていることに、その男に甘い言葉で籠絡されていたことに腹が立ったからだ。
「隠さなくていい。昨日俺がお前の家を訪ねたとき扉を開けるまで時間がかかったのは、料理をしてたからじゃない。男とベッドにいて、急いで服を着たからだ。それに慌てて扉を閉めたのは中に男がいたからだ」
司は自ら口にしたその言葉に辛さを感じた。
彼女が自分以外の男とそういった関係になっていたことに紛れもなく嫉妬していた。
だがこれは受け入れなければならない現実であり、そうなったのは、司が16年も彼女を忘れていたからだ。
無駄に過ごした16年。それは実に勿体ない無意味な時間。取り戻せるなら取り戻したい。
だが取り戻すことは出来ないし、過去を変えることは出来ない。けれど、これから先の未来は変えることが出来る。
だからこれからふたりで新しい未来を築いていけばいい。
「牧野。よく考えるんだ。妻子のいる男と付き合っても未来はない。だから俺とやり直そう。俺はお前のことを思い出した瞬間からお前のことを愛してる。だから__」
と、言いかけたところで、やおら彼女が口を開いた。
「あたしが妻子のいる男性と付き合ってる?」
司は、「そうなんだろ?」と言って隣に座っている女に顏を向け目を合わせたが、眉間に皺が寄っているのが見て取れた。
「いったい何を言ってるのよ?」
「何をってお前が妻子がある男と付き合ってることだ。お前はその男に騙されてる。都合のいい女にされてることを言ってる」
司は不実な男に傷つけられた彼女のハートを癒すつもりだ。
優しく抱きしめ、痛みを和らげるためにキスをする。
ところが返ってきた言葉は、「バカじゃない」
「何だって?」
「言ったとおりよ。バカじゃないって!道明寺の副社長になったアンタがバカだったのは昔だけだと思った。でも今もそうみたいね?」
はあ?
「いい?よく訊いて。あたしは妻子ある男性と付き合ってない。それ以前に誰とも付き合ってないわよ!」
「付き合ってない?」
「ないわよ!」
「誰とも?」
「誰とも!」
司に向けられた挑むような瞳。
それは彼女を拉致して飾り立て金が全てだ。金で手に入らない物はないと言った司に対し、そのへんの女と一緒にしないでと言った時と同じ瞳だ。
あの時、司は恋におちた。
だが彼女が運命の女だと気付くのはそれから随分と後だったが__。
そして今、司の隣にいる女性はあの時と同じ瞳で司を見ているが、今の司は彼女が言った少年だった頃のバカな男ではない。
それなら何か。
ただ、彼女の記憶を取り戻し16年振りに会えた彼女を前に、あの頃どうしようもないほど恋焦がれていた女性に会えたことに、冷静に考えることが出来なかっただけだ。
そうだ。昔から彼女を前にすると自制する心を失ったように、思い込みで彼女が妻子ある男と付き合っていると言ってしまった。
「いい?あたしはこの国に来て男にうつつを抜かしたことはないの!あたしは大学で日本語の教師としてこの国の若者に日本語を教えるために来たの。それから今は日本語学校の教師と通訳として忙しい毎日を送ってるの。だから誰かと付き合うことを考えたことがないの。それから言っとくけどアンタとやり直すつもりはないから!」
司にそう言った女は、「あたしのことを何も知らないくせに…..」と呟くと運転席と後部座席との間の仕切りを叩き「運転手さん!車を止めて下さい。あのお店の角で車を止めて下さい」と英語で言った。
「牧野。家まで送らせてくれ。それにあの店はなんだ?」
「送ってくれなくて結構です!それにあの店はパン屋よ!明日のパンがないから買って帰るのよ!言っとくけどうちに来てもアンタのパンはないから!」
車が店の角で止ると彼女は降りた。
「牧野、待てよ……」司も慌てて車を降りると声をかけたが、彼女は振り返ることなく店の中に入って行った。

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Comment:4
「何を考えてるのか知らないけど、人をからかうのもいい加減にして!アンタは道明寺の副社長でしょ?そんな立場の人間が通訳に勝手なこと言わせて….うんうん…違う。通訳に言葉を捏造させてそれでいいの?」
市長との1時間にわたる会談が終り、市役所を出たつくしは車に乗り込むと男に怒りをぶつけたが、同行していた西田と高橋は行く所があると言って既に別の車で市役所を後にしていた。
隣に座った男は会談中つくしに対しての思いを延々と語り続けた。
つくしは、そんな男の言葉を市長をはじめとしたアルマトイの行政に係わる人間が喜ぶ答えに捏造して答えるということを繰り返した。だから気疲れは相当なものがあった。
「ちょっと!訊いてるの?」
つくしは怒りをぶつけているつもりだが、隣に座っている男は彼女が怒っていることも気にならないのか。平然とした顏で言った。
「ああ訊いてる。俺はこの国の言葉は分かんねぇけど相手は満足そうに頷いてた。つまりお前が上手い事訳してくれたって事だろ?だからそれでいいんじゃねえの?」
実際市長をはじめとするこの街の人々は、つくしの口から語られるカザフ語に、その通りだと感心したように同意を見せることもあった。
そして時折つくしが言葉に詰まると男はまともな言葉を口にしてつくしに通訳するように言った。
つまり、つくしが訳した話を全く訊いていないというのではなかった。
だからつくしは、その言葉をカザフ語に訳して市長に伝えたが、会話の殆どがつくしの捏造によって成立していて、男がつくしの口を借りて道明寺の副社長として市長に語ったのは、市長個人に対する敬意を示す言葉くらいだった。
「あのね?あたしが言いたいのはそういったことじゃない。アンタはこの街の市長を前に….」
言い淀んだのは男が言った言葉を思い出していたから。
『俺はお前のことが今でも好きだ。愛してる。俺ともう一度付き合ってくれ。16年間忘れていた償いをさせてくれ。俺はお前以外の女は欲しくない。お前だけを味わい尽くしたい。お前に熱いキスをしたい……』
「市長を前にお前に対する俺の思いを語ったことが問題か?」
つくしは隣に座っている男がニヤッと笑ったのを見た。
それは彼女の思考を読んだということ。
「そ、そうよ!相手が日本語が分からないのをいいことに__」
「ああ。その通りだ。相手は日本語が分かんねぇ。だからあの場所は俺がお前に自分の気持ちを伝えるには丁度よかった。だってそうだろ?昨日のお前の態度じゃまともに話を訊いて貰えそうになかった。だからあの会談を利用させてもらった。
それにこういったものは形式的なものに過ぎねぇんだよ。市長が喋ったのはこの街に投資してもらえるなら最大限の便宜を図るだの、今後も道明寺とこの街の発展を願うだの、具体的な話はなにひとつない。つまり実務的なことは部下にさせていて、市長が直接何かをすることはない形だけのものだ。けどそれはうちも同じだ。うちのここでの仕事は高橋がすべてやっている。だから俺が市長に会ってすることは、この街で事業をさせてもらっている感謝の気持ちを示すことだ。
ま。この国に来たのはお前がいるからで、ビジネスは二の次だったが、あいつらが言うには折角この街に来たんだ。だから今後の事業のために会っておくことも必要だと言ったから会ったまでだがな」
そう言われたつくしは、あの場所に秘書の西田と駐在員の高橋がいて、男の口から語られた自分への思いを聞かれていたことに頬が熱くなった。
「言っておくが、俺は正直な気持ちを口にしただけで訊かれて恥ずかしいことを言ったつもりはない」
司は彼女と話をするためのチャンスを逃すつもりはない。
それに互いに言い合うことに異存はない。
むしろそうしたい。
心の内に溜め込んでいるよりも言いたいことをはっきりと言葉にしてもらう方が…..。
それに昔のように言いたいことを言う彼女が好きだ。
赤札を貼られイジメられても立ち向かって来た彼女が。
だがそれでも時に自分の気持ちを殺し我慢をしていた彼女もいたが、そうさせてしまったのは司のせいだ。
そして今彼女が付き合っている男が妻子のいる男で、男が妻と別れることを我慢強く待っているようだが、そんな不誠実な男に彼女を渡すつもりはない。
「なあ、牧野。俺はニューヨークの女どもとの関係は整理した。きっぱり別れた。だから他の女はいない。これからの俺はお前だけだ。それに俺たちは大人だ。過去に色々あったとしてもそれは人生経験だ。それからこれだけははっきり言える。俺は不実な男じゃない。
だから妻子のいる男と付き合うのは止めて俺と付き合ってくれ」

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市長との1時間にわたる会談が終り、市役所を出たつくしは車に乗り込むと男に怒りをぶつけたが、同行していた西田と高橋は行く所があると言って既に別の車で市役所を後にしていた。
隣に座った男は会談中つくしに対しての思いを延々と語り続けた。
つくしは、そんな男の言葉を市長をはじめとしたアルマトイの行政に係わる人間が喜ぶ答えに捏造して答えるということを繰り返した。だから気疲れは相当なものがあった。
「ちょっと!訊いてるの?」
つくしは怒りをぶつけているつもりだが、隣に座っている男は彼女が怒っていることも気にならないのか。平然とした顏で言った。
「ああ訊いてる。俺はこの国の言葉は分かんねぇけど相手は満足そうに頷いてた。つまりお前が上手い事訳してくれたって事だろ?だからそれでいいんじゃねえの?」
実際市長をはじめとするこの街の人々は、つくしの口から語られるカザフ語に、その通りだと感心したように同意を見せることもあった。
そして時折つくしが言葉に詰まると男はまともな言葉を口にしてつくしに通訳するように言った。
つまり、つくしが訳した話を全く訊いていないというのではなかった。
だからつくしは、その言葉をカザフ語に訳して市長に伝えたが、会話の殆どがつくしの捏造によって成立していて、男がつくしの口を借りて道明寺の副社長として市長に語ったのは、市長個人に対する敬意を示す言葉くらいだった。
「あのね?あたしが言いたいのはそういったことじゃない。アンタはこの街の市長を前に….」
言い淀んだのは男が言った言葉を思い出していたから。
『俺はお前のことが今でも好きだ。愛してる。俺ともう一度付き合ってくれ。16年間忘れていた償いをさせてくれ。俺はお前以外の女は欲しくない。お前だけを味わい尽くしたい。お前に熱いキスをしたい……』
「市長を前にお前に対する俺の思いを語ったことが問題か?」
つくしは隣に座っている男がニヤッと笑ったのを見た。
それは彼女の思考を読んだということ。
「そ、そうよ!相手が日本語が分からないのをいいことに__」
「ああ。その通りだ。相手は日本語が分かんねぇ。だからあの場所は俺がお前に自分の気持ちを伝えるには丁度よかった。だってそうだろ?昨日のお前の態度じゃまともに話を訊いて貰えそうになかった。だからあの会談を利用させてもらった。
それにこういったものは形式的なものに過ぎねぇんだよ。市長が喋ったのはこの街に投資してもらえるなら最大限の便宜を図るだの、今後も道明寺とこの街の発展を願うだの、具体的な話はなにひとつない。つまり実務的なことは部下にさせていて、市長が直接何かをすることはない形だけのものだ。けどそれはうちも同じだ。うちのここでの仕事は高橋がすべてやっている。だから俺が市長に会ってすることは、この街で事業をさせてもらっている感謝の気持ちを示すことだ。
ま。この国に来たのはお前がいるからで、ビジネスは二の次だったが、あいつらが言うには折角この街に来たんだ。だから今後の事業のために会っておくことも必要だと言ったから会ったまでだがな」
そう言われたつくしは、あの場所に秘書の西田と駐在員の高橋がいて、男の口から語られた自分への思いを聞かれていたことに頬が熱くなった。
「言っておくが、俺は正直な気持ちを口にしただけで訊かれて恥ずかしいことを言ったつもりはない」
司は彼女と話をするためのチャンスを逃すつもりはない。
それに互いに言い合うことに異存はない。
むしろそうしたい。
心の内に溜め込んでいるよりも言いたいことをはっきりと言葉にしてもらう方が…..。
それに昔のように言いたいことを言う彼女が好きだ。
赤札を貼られイジメられても立ち向かって来た彼女が。
だがそれでも時に自分の気持ちを殺し我慢をしていた彼女もいたが、そうさせてしまったのは司のせいだ。
そして今彼女が付き合っている男が妻子のいる男で、男が妻と別れることを我慢強く待っているようだが、そんな不誠実な男に彼女を渡すつもりはない。
「なあ、牧野。俺はニューヨークの女どもとの関係は整理した。きっぱり別れた。だから他の女はいない。これからの俺はお前だけだ。それに俺たちは大人だ。過去に色々あったとしてもそれは人生経験だ。それからこれだけははっきり言える。俺は不実な男じゃない。
だから妻子のいる男と付き合うのは止めて俺と付き合ってくれ」

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Comment:2
通訳の仕事で一番大切なのは誤訳をしないということ。
だから全神経を相手の言葉に集中させることだけをする。
そして通訳を頼まれる時には、どういった状況で誰の通訳を務めることになるのかを知らされるはずだが今回それは無かった。
道明寺のアルマトイ駐在事務所の高橋がつくしに通訳の仕事をお願いしたいと言って来たのは3日前。
その時言われたのは、「急で申し訳ないんですが日本から重役が来ることになったので彼のために通訳を頼みたいんです」ただ、それだけだった。
道明寺の重役クラス。それはエリートを意味するが、つくしを通訳として必要とするということは、ロシア語を話すことが出来ないということになる。
だからカザフ語が話せないのも当然だといえば当然だと言えた。
この国は120以上の民族が暮らしていると言われるが、ソビエトから独立して以来、国民の7割近くを占めるカザフ人が話すカザフ語を大切にしている。
そしてカザフ語を話すことを推奨している。
だからカザフ語を話す外国人は非常に歓迎されることから、つくしのようにロシア語とカザフ語が話せる人間は重宝される。つまり通訳の仕事の需要はそれなりにあった。
だがまさか通訳として同行する相手があの男だとは思いもしなかった。
道明寺司。
つくしを忘れて16年。
ニューヨークを拠点に仕事をしてきた男の噂は耳にしていた。
高校生の頃、潔癖と言われ女を寄せ付けなかった男は、華々しいニューヨーク社交界で数多くの女性を虜にしていて、三白眼の鋭いセクシーな瞳を持つ黒豹と呼ばれていた。
そしてその黒豹は簡単に女の手に堕ちることはないと言われているが、もしその法外な容姿を持つ男が誰かの手に堕ちるとすれば、それはどこかの国の王女クラスではないかと言われていた。
そんな男が昨日突然現れ、つくしのことを思い出したと言ったことからピンと来た。
それは高橋に頼まれた仕事は仕事という名を借りているだけで通訳としての体を成さないのではないかということ。
つまり、ただ単にあの男がつくしに会うための口実を作ったに過ぎないのではないかということ。
だが「牧野様。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです。それでは参りましょう」と言ったのは秘書の西田。
そしてリムジンの後部座席に乗り込んだ道明寺司と秘書の西田と駐在員の高橋とつくしが向かった先はアルマトイ市役所。
高橋はそこで市長との面会があると言った。
「実は道明寺副社長がアルマトイを訪問されることをお話したところ、是非会いたいとおっしゃいましてね。何しろ世界的企業の道明寺ホールディングスの副社長がこの国を訪れるんです。市長としてもこの街に投資をお願いしたいと考えているのではないでしょうか?」
その言葉につくしはホッとしていた。
公の場で通訳の仕事があるということは、この男から昨日のように愛してるだの、30を過ぎた女が中途半端な関係でいることで幸せになれるとは思えないと言った訳の分からない持論が展開されることはないからだ。
だがホッとするのは早かったかもしれない。
いつからこの男は耳が遠くなったのか。
「牧野さん。申し訳ない。どうも耳の調子が良くないようだ。もう少し近くで通訳してくれませんか?」
昨日とは打って変わったようにビジネスライクな態度を取る男は、つくしの顏をもっと耳元に近づけて欲しいと言った。
だからつくしは慌てて男の耳元に顏を近づけ市長が喋ったカザフ語を日本語に訳したが、それはどこにでもある型通りの挨拶であり訳すのは簡単だ。
そして次に男の口から発せられる言葉を待ったが、きっと市長と同じように、お会いできるのを楽しみにしておりました。といった型通りの挨拶が返されるはずだ。
だからつくしはその言葉を頭の中に用意して男が口を開くのを待った。
「牧野。昨日も言ったが俺はお前のことを愛してる。お前のことを忘れたのは本意じゃない。何も忘れたくて忘れた訳じゃない。それだけは分かってくれてるよな? 」
は?今、この男はなんと言った?
通訳であるつくしが普段隣に座っている人間の顏を見ることはない。
それは耳に全ての神経を集中させ、気になる言葉を素早くメモして頭の中で文章を組み立てることに懸命だからだ。
だがこの瞬間つくしは隣に座っている男の顏をまじまじと見つめたが、男はつくしを見ることなく、テーブルの向こう側に座っている市長に向けられていた。
そして市長は男が何を言ったのかをつくしの口から訊かされるのを待っているが、つくしは男の思いもしない態度に、いや言葉に動揺していた。
そしてその場に流れる静かな沈黙。
それは、ここにいる全員がつくしの口から語られる男の言葉をただひたすら待っているということ。
「あの….ええっと….『わ、わたくしもお会いできるのを大変楽しみにしておりました』」
つくしは頭の中で用意していた型通りの挨拶を口にしたが、それは通訳にあるまじき誤訳行為。だがこれは誤訳ではなく捏造と言った方が正しい。
だが市長をはじめ、テーブルの向こう側に座っている人間は、誰もがその言葉に満足そうに微笑みを浮べ喜んだ。
そしてつくしの隣に座っている駐在員の高橋と、男の隣に座っている秘書は、男の言葉に表情を変えることはなかった。
そしてそこから先、男は日本語を全く理解出来ないカザフスタンの人々を前に、この国にもこの街にも、ビジネスにも全く関係ないつくしへの思いを延々と語り続けた。
だからつくしも延々と捏造を続けるしかなかった。
「牧野。俺はお前とやり直したい。俺がお前を忘れたことは全面的に俺が悪い。お前が作った弁当を他の女が作ったと理解した俺の脳みそはどうかしていた」
『初めてこの国を訪れましたが、この街はとても美しいですね?』
「牧野。俺はお前のことを思い出してから自分がこれまで過ごしてきた時間を無駄にしてきたと後悔した」
『食べ物もとても美味しいですし、私はこの街が気に入りました。アルマトイの皆さんはとても親切です』
「牧野。俺は何度でも言う。お前のことを愛している。つまりこの気持ちは16年前、お前のことを忘れる前と同じだってことだ」
『あなた方はこの国でビジネスをする我々に対してとても協力的です。そのことについて大変感謝しております』
男の耳元でカザフ語を日本語に訳して伝え、男の日本語をカザフ語に訳す。
それも、男が喋った会話の長さ相当の長さで言葉を返すということに気を配り、市長をはじめとするテーブルの向こうに並ぶ人間が喜ぶであろう言葉を捏造し続ける。
つくしはもういい加減にして欲しいという思いが湧き上がったが、まさか市長の前で世界的な企業である道明寺の副社長に怒りをぶつける訳にはいかなかった。
だからただひたすらに、言葉を捏造し続けていた。

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だから全神経を相手の言葉に集中させることだけをする。
そして通訳を頼まれる時には、どういった状況で誰の通訳を務めることになるのかを知らされるはずだが今回それは無かった。
道明寺のアルマトイ駐在事務所の高橋がつくしに通訳の仕事をお願いしたいと言って来たのは3日前。
その時言われたのは、「急で申し訳ないんですが日本から重役が来ることになったので彼のために通訳を頼みたいんです」ただ、それだけだった。
道明寺の重役クラス。それはエリートを意味するが、つくしを通訳として必要とするということは、ロシア語を話すことが出来ないということになる。
だからカザフ語が話せないのも当然だといえば当然だと言えた。
この国は120以上の民族が暮らしていると言われるが、ソビエトから独立して以来、国民の7割近くを占めるカザフ人が話すカザフ語を大切にしている。
そしてカザフ語を話すことを推奨している。
だからカザフ語を話す外国人は非常に歓迎されることから、つくしのようにロシア語とカザフ語が話せる人間は重宝される。つまり通訳の仕事の需要はそれなりにあった。
だがまさか通訳として同行する相手があの男だとは思いもしなかった。
道明寺司。
つくしを忘れて16年。
ニューヨークを拠点に仕事をしてきた男の噂は耳にしていた。
高校生の頃、潔癖と言われ女を寄せ付けなかった男は、華々しいニューヨーク社交界で数多くの女性を虜にしていて、三白眼の鋭いセクシーな瞳を持つ黒豹と呼ばれていた。
そしてその黒豹は簡単に女の手に堕ちることはないと言われているが、もしその法外な容姿を持つ男が誰かの手に堕ちるとすれば、それはどこかの国の王女クラスではないかと言われていた。
そんな男が昨日突然現れ、つくしのことを思い出したと言ったことからピンと来た。
それは高橋に頼まれた仕事は仕事という名を借りているだけで通訳としての体を成さないのではないかということ。
つまり、ただ単にあの男がつくしに会うための口実を作ったに過ぎないのではないかということ。
だが「牧野様。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです。それでは参りましょう」と言ったのは秘書の西田。
そしてリムジンの後部座席に乗り込んだ道明寺司と秘書の西田と駐在員の高橋とつくしが向かった先はアルマトイ市役所。
高橋はそこで市長との面会があると言った。
「実は道明寺副社長がアルマトイを訪問されることをお話したところ、是非会いたいとおっしゃいましてね。何しろ世界的企業の道明寺ホールディングスの副社長がこの国を訪れるんです。市長としてもこの街に投資をお願いしたいと考えているのではないでしょうか?」
その言葉につくしはホッとしていた。
公の場で通訳の仕事があるということは、この男から昨日のように愛してるだの、30を過ぎた女が中途半端な関係でいることで幸せになれるとは思えないと言った訳の分からない持論が展開されることはないからだ。
だがホッとするのは早かったかもしれない。
いつからこの男は耳が遠くなったのか。
「牧野さん。申し訳ない。どうも耳の調子が良くないようだ。もう少し近くで通訳してくれませんか?」
昨日とは打って変わったようにビジネスライクな態度を取る男は、つくしの顏をもっと耳元に近づけて欲しいと言った。
だからつくしは慌てて男の耳元に顏を近づけ市長が喋ったカザフ語を日本語に訳したが、それはどこにでもある型通りの挨拶であり訳すのは簡単だ。
そして次に男の口から発せられる言葉を待ったが、きっと市長と同じように、お会いできるのを楽しみにしておりました。といった型通りの挨拶が返されるはずだ。
だからつくしはその言葉を頭の中に用意して男が口を開くのを待った。
「牧野。昨日も言ったが俺はお前のことを愛してる。お前のことを忘れたのは本意じゃない。何も忘れたくて忘れた訳じゃない。それだけは分かってくれてるよな? 」
は?今、この男はなんと言った?
通訳であるつくしが普段隣に座っている人間の顏を見ることはない。
それは耳に全ての神経を集中させ、気になる言葉を素早くメモして頭の中で文章を組み立てることに懸命だからだ。
だがこの瞬間つくしは隣に座っている男の顏をまじまじと見つめたが、男はつくしを見ることなく、テーブルの向こう側に座っている市長に向けられていた。
そして市長は男が何を言ったのかをつくしの口から訊かされるのを待っているが、つくしは男の思いもしない態度に、いや言葉に動揺していた。
そしてその場に流れる静かな沈黙。
それは、ここにいる全員がつくしの口から語られる男の言葉をただひたすら待っているということ。
「あの….ええっと….『わ、わたくしもお会いできるのを大変楽しみにしておりました』」
つくしは頭の中で用意していた型通りの挨拶を口にしたが、それは通訳にあるまじき誤訳行為。だがこれは誤訳ではなく捏造と言った方が正しい。
だが市長をはじめ、テーブルの向こう側に座っている人間は、誰もがその言葉に満足そうに微笑みを浮べ喜んだ。
そしてつくしの隣に座っている駐在員の高橋と、男の隣に座っている秘書は、男の言葉に表情を変えることはなかった。
そしてそこから先、男は日本語を全く理解出来ないカザフスタンの人々を前に、この国にもこの街にも、ビジネスにも全く関係ないつくしへの思いを延々と語り続けた。
だからつくしも延々と捏造を続けるしかなかった。
「牧野。俺はお前とやり直したい。俺がお前を忘れたことは全面的に俺が悪い。お前が作った弁当を他の女が作ったと理解した俺の脳みそはどうかしていた」
『初めてこの国を訪れましたが、この街はとても美しいですね?』
「牧野。俺はお前のことを思い出してから自分がこれまで過ごしてきた時間を無駄にしてきたと後悔した」
『食べ物もとても美味しいですし、私はこの街が気に入りました。アルマトイの皆さんはとても親切です』
「牧野。俺は何度でも言う。お前のことを愛している。つまりこの気持ちは16年前、お前のことを忘れる前と同じだってことだ」
『あなた方はこの国でビジネスをする我々に対してとても協力的です。そのことについて大変感謝しております』
男の耳元でカザフ語を日本語に訳して伝え、男の日本語をカザフ語に訳す。
それも、男が喋った会話の長さ相当の長さで言葉を返すということに気を配り、市長をはじめとするテーブルの向こうに並ぶ人間が喜ぶであろう言葉を捏造し続ける。
つくしはもういい加減にして欲しいという思いが湧き上がったが、まさか市長の前で世界的な企業である道明寺の副社長に怒りをぶつける訳にはいかなかった。
だからただひたすらに、言葉を捏造し続けていた。

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Comment:2
「おい…..あぶねぇだろうが!それに人の目の前でいきなり扉を閉めるってのは失礼だろうが!それが十何年振りに会った人間に対しての態度か?」
司は閉まった扉の向こうにいる女に叫んだ。
そしてドアノブを掴んで回したが扉は開かなかった。
「てめぇ…..一度開けた鍵をなんで閉めた?牧野!鍵を開けろ!ここを開けろ!」
ドアノブをガチャガチャと回す男は、扉を叩くことも忘れなかったが、その音はドンドンと大きな音で部屋の中に響いた。
だが扉の向こうにいる女は男の声を無視し、その音に負けないくらい大きな声で言った。
「なんでアンタがここにいるのよ!何が失礼よ!だいたい日本語が不自由だった男に日本語を忘れたなんて言われたくないわよ!」
つくしが扉を開けた先にいた男は、かつて彼女と付き合いながら彼女のことを忘れ、彼女が作った弁当を他の女が作ったものだと信じた味音痴の男だ。
そんな男が突然目の前に現れ、つくしのことを失礼だと言い、鍵を閉めた扉を叩いて開けろと喚いている。
それにしても何故あの男がここにいる?
だが頭の中に湧き上がったその疑問は男の言葉ですぐに解決した。
「牧野!いいか。よく訊け。俺はお前を思い出した。だからここに来た。お前を忘れたことを詫びにここに来た。だからこの扉を開けてくれ!」
男はつくしのことを思い出したと言ったが、本当にその言葉通りだとすれば、あれから16年経って男の中にある牧野つくしに関する記憶が浮上したということになるが、つくしの口をついた言葉は、「だから何?だから何なのよ?」
「だからって、お前それは_」
司は言いかけたが、扉の向こうにいる女は彼が言葉を継ぐ前に言った。
「アンタは16年もあたしのことを忘れていた。だけど突然あたしの事を思い出したから、詫びたいって言ったけど侘びてどうしたいのよ?言っとくけど今更愛してるって言葉は訊きたくない。それにあたしは大人の女で自分のことは自分で出来る。いつもそうしてるし、昔もそうしてきた。それはこの国に来ても同じ。だからほっといてよ!」
司は彼女の言葉に懐かしさを感じていた。
誰かに頼ることはしたくない。
かつてそう言って司に向けた瞳はまっすぐで生意気な瞳だった。
けれど今はふたりの間に扉があって、その瞳を見ることは出来ないが、扉を閉められる前に見た彼女の瞳はあの頃と同じだった。
だがたった今、彼女が言った「今更愛してるって言葉は訊きたくない」という言葉は、司がこうしてウズベキスタンに来たことを手遅れだと言っているのか。
つまりここに来るまでの車内で頭の中を過ったように、結婚に踏み切れず、かと言って別れることもせず曖昧な関係で彼女との関係を続けている男がいるということなのか。
そしてさっきは考えなかったが、もしかしてその男には妻子がいて、男は妻と別れて君と一緒になると言うセリフで彼女を傍に置いているのではないか。
だがそれは既婚男が女を繋ぎ留めておくための常套句で、その場しのぎの姑息な手だ。
つまり司の最愛の人は既婚男に都合のいい女にされているということになるが、もしそうだとすれば…..
恐らくだがこの結論は間違ってないはずだ。
それにもしかすると司が足を踏み出した瞬間、扉を閉めたのは部屋の中に男がいて、その男の存在を隠すためか?
料理をしていたというのは嘘で、裸でベッドにいた彼女は急いで服を着ていた?
そして男は部屋の奥で息を殺して隠れているのかもしれない。
だとすればこれはまさに不幸な状況だ。
けれどこうなったのは、司が彼女のことを忘れたからだ。
だが彼女のことを思い出した瞬間から愛は溢れて止まらなかった。
だから彼女が不幸になるのは見たくない。
司は怒鳴ってしまわぬように、ひと呼吸おいてから言った。
「牧野。お前、この国に男がいるのか?」
「はあ?」
「牧野。お前が今どんな状況にいても俺はあの頃と同じでお前のことを愛してる。俺はお前が不幸な目に遭うことを望んでない。いいか、牧野。よく訊け。30過ぎた女が中途半端な関係でいることで幸せになれるとは思えねぇ」
彼女はとぼけているようだが司は決意した。
こうなった何としても男から引き離さなればならないと。
そして引き離したところで、折を見て結婚してくれと言えばいい。
もし相手の男が何か言ってきたら….
いや。相手は妻子持ちだ。本気で妻子を捨てて結婚する気があるなら、とっくにそうしているはずだ。
だがそうしないところが既婚男のずる賢さだ。
「牧野。いいか。訊いてくれ。俺はお前を忘れるという罪を犯した。だがな。人は知らず知らずのうちに罪を犯していることもある。だからと言って俺の罪を許してくれとは言わない。
それから俺はお前に対してはどんなことがあっても全てを受け入れることが出来る。
それほどお前のことを愛してるってことだ。だからお前が何か罪を犯していたとしても構わねぇ。それに俺はお前が俺の傍にいてくれるなら過去に何があろうと、何をしていようと全く気にならねぇ」
そうだ。
司も彼女のことを忘れている間、ニューヨークで他の女と遊んでいた。
だから彼女が他の男と付き合っていたとしても、それは仕方がない。
その男が妻子持ちだとしても。
「牧野。とにかく俺はお前のことを思い出した瞬間からお前に対する愛がそこら中に溢れだした。他の女のことはこれっぽっちも頭にない。俺にはお前だけだ。これだけは信じてくれ。今は会いたくないって言うなら明日会おう。お前、明日通訳としてうちの仕事を受けてるよな?だから明日会社で待ってる」
司は扉の向こうにいる女にやさしく語りかけたものの、返事はなかった。

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司は閉まった扉の向こうにいる女に叫んだ。
そしてドアノブを掴んで回したが扉は開かなかった。
「てめぇ…..一度開けた鍵をなんで閉めた?牧野!鍵を開けろ!ここを開けろ!」
ドアノブをガチャガチャと回す男は、扉を叩くことも忘れなかったが、その音はドンドンと大きな音で部屋の中に響いた。
だが扉の向こうにいる女は男の声を無視し、その音に負けないくらい大きな声で言った。
「なんでアンタがここにいるのよ!何が失礼よ!だいたい日本語が不自由だった男に日本語を忘れたなんて言われたくないわよ!」
つくしが扉を開けた先にいた男は、かつて彼女と付き合いながら彼女のことを忘れ、彼女が作った弁当を他の女が作ったものだと信じた味音痴の男だ。
そんな男が突然目の前に現れ、つくしのことを失礼だと言い、鍵を閉めた扉を叩いて開けろと喚いている。
それにしても何故あの男がここにいる?
だが頭の中に湧き上がったその疑問は男の言葉ですぐに解決した。
「牧野!いいか。よく訊け。俺はお前を思い出した。だからここに来た。お前を忘れたことを詫びにここに来た。だからこの扉を開けてくれ!」
男はつくしのことを思い出したと言ったが、本当にその言葉通りだとすれば、あれから16年経って男の中にある牧野つくしに関する記憶が浮上したということになるが、つくしの口をついた言葉は、「だから何?だから何なのよ?」
「だからって、お前それは_」
司は言いかけたが、扉の向こうにいる女は彼が言葉を継ぐ前に言った。
「アンタは16年もあたしのことを忘れていた。だけど突然あたしの事を思い出したから、詫びたいって言ったけど侘びてどうしたいのよ?言っとくけど今更愛してるって言葉は訊きたくない。それにあたしは大人の女で自分のことは自分で出来る。いつもそうしてるし、昔もそうしてきた。それはこの国に来ても同じ。だからほっといてよ!」
司は彼女の言葉に懐かしさを感じていた。
誰かに頼ることはしたくない。
かつてそう言って司に向けた瞳はまっすぐで生意気な瞳だった。
けれど今はふたりの間に扉があって、その瞳を見ることは出来ないが、扉を閉められる前に見た彼女の瞳はあの頃と同じだった。
だがたった今、彼女が言った「今更愛してるって言葉は訊きたくない」という言葉は、司がこうしてウズベキスタンに来たことを手遅れだと言っているのか。
つまりここに来るまでの車内で頭の中を過ったように、結婚に踏み切れず、かと言って別れることもせず曖昧な関係で彼女との関係を続けている男がいるということなのか。
そしてさっきは考えなかったが、もしかしてその男には妻子がいて、男は妻と別れて君と一緒になると言うセリフで彼女を傍に置いているのではないか。
だがそれは既婚男が女を繋ぎ留めておくための常套句で、その場しのぎの姑息な手だ。
つまり司の最愛の人は既婚男に都合のいい女にされているということになるが、もしそうだとすれば…..
恐らくだがこの結論は間違ってないはずだ。
それにもしかすると司が足を踏み出した瞬間、扉を閉めたのは部屋の中に男がいて、その男の存在を隠すためか?
料理をしていたというのは嘘で、裸でベッドにいた彼女は急いで服を着ていた?
そして男は部屋の奥で息を殺して隠れているのかもしれない。
だとすればこれはまさに不幸な状況だ。
けれどこうなったのは、司が彼女のことを忘れたからだ。
だが彼女のことを思い出した瞬間から愛は溢れて止まらなかった。
だから彼女が不幸になるのは見たくない。
司は怒鳴ってしまわぬように、ひと呼吸おいてから言った。
「牧野。お前、この国に男がいるのか?」
「はあ?」
「牧野。お前が今どんな状況にいても俺はあの頃と同じでお前のことを愛してる。俺はお前が不幸な目に遭うことを望んでない。いいか、牧野。よく訊け。30過ぎた女が中途半端な関係でいることで幸せになれるとは思えねぇ」
彼女はとぼけているようだが司は決意した。
こうなった何としても男から引き離さなればならないと。
そして引き離したところで、折を見て結婚してくれと言えばいい。
もし相手の男が何か言ってきたら….
いや。相手は妻子持ちだ。本気で妻子を捨てて結婚する気があるなら、とっくにそうしているはずだ。
だがそうしないところが既婚男のずる賢さだ。
「牧野。いいか。訊いてくれ。俺はお前を忘れるという罪を犯した。だがな。人は知らず知らずのうちに罪を犯していることもある。だからと言って俺の罪を許してくれとは言わない。
それから俺はお前に対してはどんなことがあっても全てを受け入れることが出来る。
それほどお前のことを愛してるってことだ。だからお前が何か罪を犯していたとしても構わねぇ。それに俺はお前が俺の傍にいてくれるなら過去に何があろうと、何をしていようと全く気にならねぇ」
そうだ。
司も彼女のことを忘れている間、ニューヨークで他の女と遊んでいた。
だから彼女が他の男と付き合っていたとしても、それは仕方がない。
その男が妻子持ちだとしても。
「牧野。とにかく俺はお前のことを思い出した瞬間からお前に対する愛がそこら中に溢れだした。他の女のことはこれっぽっちも頭にない。俺にはお前だけだ。これだけは信じてくれ。今は会いたくないって言うなら明日会おう。お前、明日通訳としてうちの仕事を受けてるよな?だから明日会社で待ってる」
司は扉の向こうにいる女にやさしく語りかけたものの、返事はなかった。

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つくしは台所で調理中に家の外で車が止まった音を訊いた。
やがて玄関のチャイムが鳴り、扉がノックされる音を訊いたが、チャイムを鳴らしながらノックをするという、せっかちな人間は余程急いでつくしに会いたいということか。
「もう。誰よ?今忙しいんだから。ちょっと待ってよね?」
海外に暮らしていても、ひとり言を呟く癖は治らなかった。
訪問者は誰なのか。古い民家をリフォームした家に訪問者を確認できるカメラはなく、コンロの火を消して扉の前まで行くと「どなたですか?」とロシア語で訊いた。
すると扉の向こう側にいる人物は日本語で言った。
「牧野さん。高橋です。道明寺の高橋です」
「え?高橋さん?すみません。少しだけ待ってもらえますか?」
少し待ってもらうことにしたのは小麦粉まみれになっている手を洗うためだったが、明日通訳の仕事で訪れることになっている道明寺の駐在員である高橋が自宅を訪ねてきたことに、予定の変更があるのかと思った。
だがそれなら電話連絡で済むはずだと思いながら、もしかすると日本人会のことかと思った。それは定期的に開かれる食事会だが、用事がない限り出来るだけ参加するようにしていて、つくしがこの国に来たのと同じ頃に赴任してきたという男性とは、仕事とは別に日本人会で顏を合わせていた。
正確な年齢は知らないが40代後半と思われる男性は、話しやすく親しみのもてる男性だ。
その高橋から通訳として仕事を頼まれるようになったのは、大学での教師の仕事の任期が終了してから。それはロシア語とカザフ語のどちらも理解している日本人は貴重だという理由だったが、勤務先が道明寺だと言った男性に、自分を忘れた男のことが頭を過った。
日本を離れたのは5年前。
28歳で勤務していた会社を辞め、国際文化交流事業を行う団体の事業に応募してこの国に来た。そして任期が終わってからもこの国に残ることにした。
この国に来た理由。それは何かを変えたかったからだが、その何は何ですかと問われれば、『何か』としか言いようがない。
だが誰でも人生の中で一度はそういったことを思うはずだ。
つまり変わらなければと思う自分がいるということになるが、その根元が何であるかは分かっている。それは、まさかこの国に来てまで道明寺という名前に係わるとは思わなかったが、あの男のことだ。
5年前、あの男がつくしを忘れて11年が経った。
『十年一昔』という言葉がある。それは歳月の流れの10年をひと区切りとするなら、10年前に起こったことは昔のことであり古い話ということになる。
だから古い話にケリをつけるため、あの男のことを完全に忘れるために環境を変えようと思った。だから本当なら10年目に会社を辞めたかったが、任されていたプロジェクトを終えてという思いから1年伸びた。
そして会社を辞めた。
10年をひと区切りにする古い話。
つくしは、道明寺司という男と付き合い始めたばかりの時、その男に忘れられた。
だがそれは男が悪いのではない。
暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った男が命を取り留めることが出来たのは、あの男の体力と医学のおかげだが、まさか記憶障害を起こしているとは思いもしなかったが、そうなったことで男を責めることは出来なかった。
それに、いつかきっとぶっきらぼうな笑顔で自分の前に現れる男がいる。そう思っていた。
けれど、そんな男が現れることはなかった。
つまり男の記憶は10年間浮上しなかった。
だがつくしの気持ちが同じように浮上しなかったのではない。
仕事は入社してからすぐに大きなプロジェクトに参加したが、楽しかったしやりがいを感じた。ただ私生活に於いて、つまり男性と付き合うとか付き合わないとかということだが、その方面に対して興味がわかなかった。
そしてあの頃のことを知る人間に気を使われるのが嫌だった。
あの話はもう終わりにしたいと思った。
だからだろう。選んだ外国で日本語を教える仕事。
カザフスタンならあの男との接点はないはずだと思ったが少し考えれば分かることだ。
幅広い事業を展開する道明寺グループはこの国に駐在事務所を置いていて、係わることがないと思っていた名前に係わっていた。
つくしは手を洗い終えるとエプロンを外した。
そして玄関扉の前に立つと鍵を外して扉を開けた。
「おまたせしてすみません。今ちょうど料理をしていて__」
つくしが扉を開けた先にいたのは、やたらと目力の強い男。
その男がつくしの真正面に立って彼女を睨みつけていた。
「………」
人は本当に驚くと声が出ないというが、まさに今の彼女の状態はそれだ。
だからつくしはギョっとした顏に大きな目を見開いた状態で、穴が開くと言ってもいいほど目の前の男を見ていた。
「牧野様?牧野様?」
繰り返しつくしの名前を呼んだのは駐在員の高橋。
「は?…い?……え?」
つくしが言葉に詰まっているのは、どう反応していいのか分からないから。
そして口から発せられたそれは、ただ息が漏れただけと言ってもいいほどで自分でも何を言っているのかわからない。
だから突然目の前に現れた男に沈黙するしかなかった。
だがその沈黙はつくしが言葉を失った思考回路を取り戻そうとしている時間だ。
それはまるで初めてロシア語の通訳をした時、相手の言葉を要約しながら自分が喋る言葉を慎重に選んでいたのと同じで__
「牧野。お前言葉を忘れたか?….ったく日本語の教師をしている女が言葉を忘れてどうする?」
司はからかうように言って一歩足を踏み出したがその途端、目の前で勢いよく扉が閉められた。

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やがて玄関のチャイムが鳴り、扉がノックされる音を訊いたが、チャイムを鳴らしながらノックをするという、せっかちな人間は余程急いでつくしに会いたいということか。
「もう。誰よ?今忙しいんだから。ちょっと待ってよね?」
海外に暮らしていても、ひとり言を呟く癖は治らなかった。
訪問者は誰なのか。古い民家をリフォームした家に訪問者を確認できるカメラはなく、コンロの火を消して扉の前まで行くと「どなたですか?」とロシア語で訊いた。
すると扉の向こう側にいる人物は日本語で言った。
「牧野さん。高橋です。道明寺の高橋です」
「え?高橋さん?すみません。少しだけ待ってもらえますか?」
少し待ってもらうことにしたのは小麦粉まみれになっている手を洗うためだったが、明日通訳の仕事で訪れることになっている道明寺の駐在員である高橋が自宅を訪ねてきたことに、予定の変更があるのかと思った。
だがそれなら電話連絡で済むはずだと思いながら、もしかすると日本人会のことかと思った。それは定期的に開かれる食事会だが、用事がない限り出来るだけ参加するようにしていて、つくしがこの国に来たのと同じ頃に赴任してきたという男性とは、仕事とは別に日本人会で顏を合わせていた。
正確な年齢は知らないが40代後半と思われる男性は、話しやすく親しみのもてる男性だ。
その高橋から通訳として仕事を頼まれるようになったのは、大学での教師の仕事の任期が終了してから。それはロシア語とカザフ語のどちらも理解している日本人は貴重だという理由だったが、勤務先が道明寺だと言った男性に、自分を忘れた男のことが頭を過った。
日本を離れたのは5年前。
28歳で勤務していた会社を辞め、国際文化交流事業を行う団体の事業に応募してこの国に来た。そして任期が終わってからもこの国に残ることにした。
この国に来た理由。それは何かを変えたかったからだが、その何は何ですかと問われれば、『何か』としか言いようがない。
だが誰でも人生の中で一度はそういったことを思うはずだ。
つまり変わらなければと思う自分がいるということになるが、その根元が何であるかは分かっている。それは、まさかこの国に来てまで道明寺という名前に係わるとは思わなかったが、あの男のことだ。
5年前、あの男がつくしを忘れて11年が経った。
『十年一昔』という言葉がある。それは歳月の流れの10年をひと区切りとするなら、10年前に起こったことは昔のことであり古い話ということになる。
だから古い話にケリをつけるため、あの男のことを完全に忘れるために環境を変えようと思った。だから本当なら10年目に会社を辞めたかったが、任されていたプロジェクトを終えてという思いから1年伸びた。
そして会社を辞めた。
10年をひと区切りにする古い話。
つくしは、道明寺司という男と付き合い始めたばかりの時、その男に忘れられた。
だがそれは男が悪いのではない。
暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った男が命を取り留めることが出来たのは、あの男の体力と医学のおかげだが、まさか記憶障害を起こしているとは思いもしなかったが、そうなったことで男を責めることは出来なかった。
それに、いつかきっとぶっきらぼうな笑顔で自分の前に現れる男がいる。そう思っていた。
けれど、そんな男が現れることはなかった。
つまり男の記憶は10年間浮上しなかった。
だがつくしの気持ちが同じように浮上しなかったのではない。
仕事は入社してからすぐに大きなプロジェクトに参加したが、楽しかったしやりがいを感じた。ただ私生活に於いて、つまり男性と付き合うとか付き合わないとかということだが、その方面に対して興味がわかなかった。
そしてあの頃のことを知る人間に気を使われるのが嫌だった。
あの話はもう終わりにしたいと思った。
だからだろう。選んだ外国で日本語を教える仕事。
カザフスタンならあの男との接点はないはずだと思ったが少し考えれば分かることだ。
幅広い事業を展開する道明寺グループはこの国に駐在事務所を置いていて、係わることがないと思っていた名前に係わっていた。
つくしは手を洗い終えるとエプロンを外した。
そして玄関扉の前に立つと鍵を外して扉を開けた。
「おまたせしてすみません。今ちょうど料理をしていて__」
つくしが扉を開けた先にいたのは、やたらと目力の強い男。
その男がつくしの真正面に立って彼女を睨みつけていた。
「………」
人は本当に驚くと声が出ないというが、まさに今の彼女の状態はそれだ。
だからつくしはギョっとした顏に大きな目を見開いた状態で、穴が開くと言ってもいいほど目の前の男を見ていた。
「牧野様?牧野様?」
繰り返しつくしの名前を呼んだのは駐在員の高橋。
「は?…い?……え?」
つくしが言葉に詰まっているのは、どう反応していいのか分からないから。
そして口から発せられたそれは、ただ息が漏れただけと言ってもいいほどで自分でも何を言っているのかわからない。
だから突然目の前に現れた男に沈黙するしかなかった。
だがその沈黙はつくしが言葉を失った思考回路を取り戻そうとしている時間だ。
それはまるで初めてロシア語の通訳をした時、相手の言葉を要約しながら自分が喋る言葉を慎重に選んでいたのと同じで__
「牧野。お前言葉を忘れたか?….ったく日本語の教師をしている女が言葉を忘れてどうする?」
司はからかうように言って一歩足を踏み出したがその途端、目の前で勢いよく扉が閉められた。

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司が車窓から目にしたのは、国土の大半が砂漠や乾燥した大地の国とは思えないほど緑が豊かな街並み。だが着陸態勢に入っていたジェットから見た景色の中に緑はなく、荒涼とは言わなくとも乾いた大地が広がっていた。
「今でこそ近代的なビルが建ち並んでいますが、この街もソビエト時代はもっと緑が多い街だったそうです。
それに今では少なくなりましたが、かつて街の廻りには沢山のリンゴの木が植えられていたそうです。そのことからこの街の名前がリンゴの里を意味するアルマトイになったと言われていますが、私が学生時代、この街の名前はアルマアタと言っておりましたが、これはソビエト時代の呼び名です。
とにかくこの街はリンゴの街として有名ですが、それが関係しているのか。リンゴは北コーカサスが起源と言われていますが、本当はこの街が起源だという人間もいます。つまりこの街の人間はリンゴに対して強い思い入れがあるということになります。
その証拠にこの街の市章は雪豹が口にリンゴの花をくわえている姿です。ちなみに夏のアルマトイは35度以上になることも多いのですが、乾燥した土地ですので湿気がなく軽井沢のように爽やかで過ごしやすい街です」
空港で秘書と別れた司は、大型車の後部座席に一緒に乗り込んだ自分より年上の駐在員の話を訊いていたが、司にとってのリンゴの街と言えば、生活の拠点であるビッグアップルの愛称を持つニューヨークだ。
だがリンゴの話などどうでもいい。それよりも牧野つくしのことが知りたかった。
この街で日本語の教師をしている彼女がどんな暮らしをしているのかを。
だが駐在員は司と牧野つくしの過去など知るはずもなく、ただの昔馴染みだと思っていることから、どうでもいい話ばかりをしていた。
「ソビエト時代にはおしゃれなカフェはなかったのは当然ですが、今のアルマトイは中央アジアで一番流行に敏感な街だと言われています。ですが依然として日本から観光でこちらに来られる私と同年代の方の中には、暗かったソビエト時代のイメージをお持ちのようで、この国は貧しくて物がない国だと思われているようです。しかし今は全くそんなことはありません」
司より年上の男が話す、かつてない変貌を遂げた国の話は延々と続くかと思ったが、この街が普通に生活するには悪くないレベルの街だということに、彼女の生活もそれほど悪くはないのだと安心した。
「それから牧野様のお住まいは郊外のリンゴ畑が残っている場所ですので緑が多い場所になります」と言って時計に目を落とし、「そうですね....あと10分ほどで着くはずです」と言葉を継ぐと説明は終えたとばかりに静かになった。
長い間忘れていた最愛の人にあと10分で会える。
そのことが司の鼓動を早めた。
司よりひとつ年下の彼女は33歳。
互いに30の峠を越えての再会だが、女性にとって30という年齢は結婚や出産を考える年齢だと司も理解しているが、その時頭を過ったのは、もしかすると彼女がこの国に残ることを決めた理由は、好きな男がこの国にいるからではないかということ。
そしてこれから向かう先には、男と一緒に暮らしている彼女がいるのではないかということ。
だがそういった報告はなかった。
それに駐在員の口からも、そういった言葉は出なかった。
それでもやはり男がいて、その男は結婚に踏み切れず、かと言って別れることもせず曖昧な関係で彼女との関係を続けているのではないかという思いが浮かんだ。
だがもしそうだとすれば、自分はどうするだろうと自問したが、自分の思いを伝えることを止めるつもりはない。
そしてもし彼女が不幸な状況に置かれているのなら、強引にでも男から引き離すつもりでいた。
だが、自分は長い間彼女のことを忘れていた。その間の彼女の人生について何か言える立場にはない。
そう。司が彼女のことを忘れたばかりに、彼女はニューヨークではなく中央アジアのこの国いるのだ。
だが司は彼女のことを思い出した。
だから彼女を忘れたことについては、真摯な態度で謝り、俺たちの人生をやり直そう言うつもりだ。そしてその言葉の中に含まれているのは結婚して欲しいということ。
司は高校生の頃に彼女に結婚して欲しいと言ったことがあった。
だがあの時は、ふたりの仲を引き離そうとする母親から逃れるため思いついたことであって実現することはなかった。
そうこう思いを巡らせているうちに、車は彼女の家についたようだ。
「副社長。あちらが牧野様のお住まいになられている家です」
司が見つめているのは、ここまで来る道すがら見えていた集合住宅ではなく一軒の古びた家。
その家を取り囲むように木が生えていた。
「牧野様は古い農家をリフォームされた家に住んでいらっしゃいます。ですから庭付きであちらの木々はかつての農園の名残のリンゴの木ですが、牧野様はあちらの木になったリンゴでアップルパイをお焼きになれますが、それがとても美味しいんです」
「アップルパイ?」
司は駐在員の言葉に片眉が上がっていた。
「はい。牧野様は日本語学校の教師で通訳の仕事もなさっていますが、アップルパイを焼くのも大変お上手でして、時にご出席される日本人会の集まりにはパイを焼いてお持ちになられます。実は私は顔見知りでして何度かいただいたことがあります」
司は駐在員の話に自分の顏がムッとしているのが分かった。
そして、この社員をクビにしてやろうかと思ったが、ありったけの自制心を働かせ、それを口にすることはしなかった。

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「今でこそ近代的なビルが建ち並んでいますが、この街もソビエト時代はもっと緑が多い街だったそうです。
それに今では少なくなりましたが、かつて街の廻りには沢山のリンゴの木が植えられていたそうです。そのことからこの街の名前がリンゴの里を意味するアルマトイになったと言われていますが、私が学生時代、この街の名前はアルマアタと言っておりましたが、これはソビエト時代の呼び名です。
とにかくこの街はリンゴの街として有名ですが、それが関係しているのか。リンゴは北コーカサスが起源と言われていますが、本当はこの街が起源だという人間もいます。つまりこの街の人間はリンゴに対して強い思い入れがあるということになります。
その証拠にこの街の市章は雪豹が口にリンゴの花をくわえている姿です。ちなみに夏のアルマトイは35度以上になることも多いのですが、乾燥した土地ですので湿気がなく軽井沢のように爽やかで過ごしやすい街です」
空港で秘書と別れた司は、大型車の後部座席に一緒に乗り込んだ自分より年上の駐在員の話を訊いていたが、司にとってのリンゴの街と言えば、生活の拠点であるビッグアップルの愛称を持つニューヨークだ。
だがリンゴの話などどうでもいい。それよりも牧野つくしのことが知りたかった。
この街で日本語の教師をしている彼女がどんな暮らしをしているのかを。
だが駐在員は司と牧野つくしの過去など知るはずもなく、ただの昔馴染みだと思っていることから、どうでもいい話ばかりをしていた。
「ソビエト時代にはおしゃれなカフェはなかったのは当然ですが、今のアルマトイは中央アジアで一番流行に敏感な街だと言われています。ですが依然として日本から観光でこちらに来られる私と同年代の方の中には、暗かったソビエト時代のイメージをお持ちのようで、この国は貧しくて物がない国だと思われているようです。しかし今は全くそんなことはありません」
司より年上の男が話す、かつてない変貌を遂げた国の話は延々と続くかと思ったが、この街が普通に生活するには悪くないレベルの街だということに、彼女の生活もそれほど悪くはないのだと安心した。
「それから牧野様のお住まいは郊外のリンゴ畑が残っている場所ですので緑が多い場所になります」と言って時計に目を落とし、「そうですね....あと10分ほどで着くはずです」と言葉を継ぐと説明は終えたとばかりに静かになった。
長い間忘れていた最愛の人にあと10分で会える。
そのことが司の鼓動を早めた。
司よりひとつ年下の彼女は33歳。
互いに30の峠を越えての再会だが、女性にとって30という年齢は結婚や出産を考える年齢だと司も理解しているが、その時頭を過ったのは、もしかすると彼女がこの国に残ることを決めた理由は、好きな男がこの国にいるからではないかということ。
そしてこれから向かう先には、男と一緒に暮らしている彼女がいるのではないかということ。
だがそういった報告はなかった。
それに駐在員の口からも、そういった言葉は出なかった。
それでもやはり男がいて、その男は結婚に踏み切れず、かと言って別れることもせず曖昧な関係で彼女との関係を続けているのではないかという思いが浮かんだ。
だがもしそうだとすれば、自分はどうするだろうと自問したが、自分の思いを伝えることを止めるつもりはない。
そしてもし彼女が不幸な状況に置かれているのなら、強引にでも男から引き離すつもりでいた。
だが、自分は長い間彼女のことを忘れていた。その間の彼女の人生について何か言える立場にはない。
そう。司が彼女のことを忘れたばかりに、彼女はニューヨークではなく中央アジアのこの国いるのだ。
だが司は彼女のことを思い出した。
だから彼女を忘れたことについては、真摯な態度で謝り、俺たちの人生をやり直そう言うつもりだ。そしてその言葉の中に含まれているのは結婚して欲しいということ。
司は高校生の頃に彼女に結婚して欲しいと言ったことがあった。
だがあの時は、ふたりの仲を引き離そうとする母親から逃れるため思いついたことであって実現することはなかった。
そうこう思いを巡らせているうちに、車は彼女の家についたようだ。
「副社長。あちらが牧野様のお住まいになられている家です」
司が見つめているのは、ここまで来る道すがら見えていた集合住宅ではなく一軒の古びた家。
その家を取り囲むように木が生えていた。
「牧野様は古い農家をリフォームされた家に住んでいらっしゃいます。ですから庭付きであちらの木々はかつての農園の名残のリンゴの木ですが、牧野様はあちらの木になったリンゴでアップルパイをお焼きになれますが、それがとても美味しいんです」
「アップルパイ?」
司は駐在員の言葉に片眉が上がっていた。
「はい。牧野様は日本語学校の教師で通訳の仕事もなさっていますが、アップルパイを焼くのも大変お上手でして、時にご出席される日本人会の集まりにはパイを焼いてお持ちになられます。実は私は顔見知りでして何度かいただいたことがあります」
司は駐在員の話に自分の顏がムッとしているのが分かった。
そして、この社員をクビにしてやろうかと思ったが、ありったけの自制心を働かせ、それを口にすることはしなかった。

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「副社長。まもなく着陸します」
その声に何度かまばたきをして窓の外に目を向けるとジェットは着陸態勢に入ったのか。
徐々にその高度を下げていた。
普段なら機内で眠ることはない。けれどこの旅はビジネスではなく、愛しい人に会うための旅。彼女に会うことを考えた時、仕事をする気にはなれなかったが、秘書はそんな男の前に書類を置くことはなかった。
そして秘書は普段から睡眠は大切ですと力説していたが、今日の司は席に腰を下ろすとストンと落ちるように意識が無くなっていたが、そんな眠りの中で夢を見た。
その夢はこうだった。
司の前に現れた老人は人を探していると言った。
そして老人は手にしている小さな箱の中から古い地図と取り出すと、丸印がつけられた場所に探している人がいるはずだから連れて行って欲しいと司に頼んだ。
だが司はその地図がどこの場所を表しているのか分からなかった。
それに、書かれている文字は長い年月を経ているのか。
インクは薄れていて判別することが出来なかった。
そしてその老人は司の前から消えたが、次に現れたのは老婆。その老婆は司に言った。
この道を真っ直ぐ行けばあの人に会えますか。
どうすればあの人に会えますか。
そう言った老婆も古い地図を持っていて司に示した。
だがやはり司にはその場所がどこなのか分からなかった。
それに、老婆が手にしている地図も、やはり書かれている文字は薄れていて、何と書かれているのかはっきりとしなかった。
そして老人の時と同じように老婆は突然司の前から消えた。
夢というのは意外さと唐突さで繋がっている。
だからたった今見た夢は、単なる意味のない夢だと言ってもいい。
だが夢は潜在意識が見せるものだとも言われる。
夢は未来を暗示しているという話もある。
だとすれば、つい今しがた見た夢に出て来た老人は司の可能性もあった。
自分が訪れたい場所を永遠に探し求めて彷徨っている老人。
だが老婆が彼女だとすれば、司がこれから向かう先にいる女性は司に会いたいと思っているのではないか。
これまで顧みられることがなかった女性は情の厚い女性だった。
だから今でも司のことを思っていてくれるのではないか。
そう考えるのは司の身勝手だとしても、そう願っている己を否定することは出来なかった。
人が生まれてから死ぬまでの間に出会う人間はいったいどのくらいなのか。
そして幾つもの偶然が重なり出会った人間同士は、それを運命と感じるのか。
それとも宿命と感じるのか。
司が生まれながらに持つ宿命は、道明寺の家を継ぐこと。
ビジネスを拡大していくこと。
だから司の人生は敷かれたレールの上を走る列車のように決められていた。
そして彼女のことを忘れた男がレールを外れることはなく、アメリカの大学を卒業した男は道明寺に入社すると、まだ若い司が纏めることは出来ないと言われる難しい案件も纏めてきた。
そんな男はビジネスの世界では精力的で情けがないと言われ、他人に対しナーバスになったことはない。だが今はナーバスにならざるを得なかった。
何故なら、これから会う彼女のことは纏めなければならない案件ではないからだ。
「副社長。どうぞこちらへ」
司を出迎えた駐在員は、そう言って車へ案内したが、日本の春にはほど遠い寒さが足元から昇って来た。
ここはかつてこの国の首都だった第二の都市アルマトイ。
天山(てんざん)山脈の雄姿を臨むことができる中央アジアの近代都市。
経済、教育、文化の中心地であり日系企業の多くがこの街に拠点を置いていて、道明寺もこの街に駐在事務所を構えているが、彼女が住んでいるのはこの街の郊外。
駐在している道明寺の社員から通訳を頼まれた彼女が事務所に来るのは明日だが、司は着いたその足で彼女が暮らしている場所を訪れることを決めていた。
それは一刻も早く彼女に会いたかったから。
そして会って言いたかった。
「ごめん、お前を忘れて悪かった。俺は今でもお前のことを愛してる」
それ以外の言葉を言うつもりはないが、彼女は司の思いを受け止めてくれるだろうか。
だが司の存在は忘却の彼方へ追いやられていてもおかしくない。
それでも会って自分の思いを伝えなければならない。
そして閉ざされていた記憶の中にいた少女は、今はどんな姿なのか。
駐在員から彼女の写真を送りましょうかと言われたが必要ないと答えた。
それは、瞳の奥に、胸の奥に抱いている彼女の面影を大切にしたかったから。
それに、目を閉じれば浮かぶ姿に懐かしさとともに感じられる愛おしさがあった。
その思いを心に抱き彼女に会いたかったから写真は必要ないと言った。とは言え、自分に向けられる瞳に浮かぶ感情を知るのが怖いという思いもあった。

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その声に何度かまばたきをして窓の外に目を向けるとジェットは着陸態勢に入ったのか。
徐々にその高度を下げていた。
普段なら機内で眠ることはない。けれどこの旅はビジネスではなく、愛しい人に会うための旅。彼女に会うことを考えた時、仕事をする気にはなれなかったが、秘書はそんな男の前に書類を置くことはなかった。
そして秘書は普段から睡眠は大切ですと力説していたが、今日の司は席に腰を下ろすとストンと落ちるように意識が無くなっていたが、そんな眠りの中で夢を見た。
その夢はこうだった。
司の前に現れた老人は人を探していると言った。
そして老人は手にしている小さな箱の中から古い地図と取り出すと、丸印がつけられた場所に探している人がいるはずだから連れて行って欲しいと司に頼んだ。
だが司はその地図がどこの場所を表しているのか分からなかった。
それに、書かれている文字は長い年月を経ているのか。
インクは薄れていて判別することが出来なかった。
そしてその老人は司の前から消えたが、次に現れたのは老婆。その老婆は司に言った。
この道を真っ直ぐ行けばあの人に会えますか。
どうすればあの人に会えますか。
そう言った老婆も古い地図を持っていて司に示した。
だがやはり司にはその場所がどこなのか分からなかった。
それに、老婆が手にしている地図も、やはり書かれている文字は薄れていて、何と書かれているのかはっきりとしなかった。
そして老人の時と同じように老婆は突然司の前から消えた。
夢というのは意外さと唐突さで繋がっている。
だからたった今見た夢は、単なる意味のない夢だと言ってもいい。
だが夢は潜在意識が見せるものだとも言われる。
夢は未来を暗示しているという話もある。
だとすれば、つい今しがた見た夢に出て来た老人は司の可能性もあった。
自分が訪れたい場所を永遠に探し求めて彷徨っている老人。
だが老婆が彼女だとすれば、司がこれから向かう先にいる女性は司に会いたいと思っているのではないか。
これまで顧みられることがなかった女性は情の厚い女性だった。
だから今でも司のことを思っていてくれるのではないか。
そう考えるのは司の身勝手だとしても、そう願っている己を否定することは出来なかった。
人が生まれてから死ぬまでの間に出会う人間はいったいどのくらいなのか。
そして幾つもの偶然が重なり出会った人間同士は、それを運命と感じるのか。
それとも宿命と感じるのか。
司が生まれながらに持つ宿命は、道明寺の家を継ぐこと。
ビジネスを拡大していくこと。
だから司の人生は敷かれたレールの上を走る列車のように決められていた。
そして彼女のことを忘れた男がレールを外れることはなく、アメリカの大学を卒業した男は道明寺に入社すると、まだ若い司が纏めることは出来ないと言われる難しい案件も纏めてきた。
そんな男はビジネスの世界では精力的で情けがないと言われ、他人に対しナーバスになったことはない。だが今はナーバスにならざるを得なかった。
何故なら、これから会う彼女のことは纏めなければならない案件ではないからだ。
「副社長。どうぞこちらへ」
司を出迎えた駐在員は、そう言って車へ案内したが、日本の春にはほど遠い寒さが足元から昇って来た。
ここはかつてこの国の首都だった第二の都市アルマトイ。
天山(てんざん)山脈の雄姿を臨むことができる中央アジアの近代都市。
経済、教育、文化の中心地であり日系企業の多くがこの街に拠点を置いていて、道明寺もこの街に駐在事務所を構えているが、彼女が住んでいるのはこの街の郊外。
駐在している道明寺の社員から通訳を頼まれた彼女が事務所に来るのは明日だが、司は着いたその足で彼女が暮らしている場所を訪れることを決めていた。
それは一刻も早く彼女に会いたかったから。
そして会って言いたかった。
「ごめん、お前を忘れて悪かった。俺は今でもお前のことを愛してる」
それ以外の言葉を言うつもりはないが、彼女は司の思いを受け止めてくれるだろうか。
だが司の存在は忘却の彼方へ追いやられていてもおかしくない。
それでも会って自分の思いを伝えなければならない。
そして閉ざされていた記憶の中にいた少女は、今はどんな姿なのか。
駐在員から彼女の写真を送りましょうかと言われたが必要ないと答えた。
それは、瞳の奥に、胸の奥に抱いている彼女の面影を大切にしたかったから。
それに、目を閉じれば浮かぶ姿に懐かしさとともに感じられる愛おしさがあった。
その思いを心に抱き彼女に会いたかったから写真は必要ないと言った。とは言え、自分に向けられる瞳に浮かぶ感情を知るのが怖いという思いもあった。

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閉ざされていた扉が開き、司が失われていた記憶を取り戻したのは春を迎えた頃。
彼は1月に誕生日を迎え34歳になっていた。
記憶を取り戻した男がまず一番始めにしたのは、忘れてしまっていた女性の元を訪ねること。
だが、あれから干支はひと回り以上していて、彼女はもう自分のことなど忘れてしまったかもしれない。だがそれでも司は彼女の行方を探した。
だがいくら探しても彼女は見つからなかった。
だが男は、どうにか彼女が暮らす場所を見つけたが、そこは日本ではなかった。
それなら彼女は何処にいたのか。
そこはヨーロッパとアジアを合わせた大陸であるユーラシア大陸の中央。
司の最愛の人は中央アジアにあるカザフスタンの日本語学校で日本語の教師をしていた。
彼女が日本語教師としてその国に渡ったのは5年前。
外国語大学を卒業して就職した会社を辞め、その国の国立大学に設けられている日本語学科に任期付ネイティブ教師として赴き、日本企業に就職を目指す学生たちに実践的な日本語を教えていた。
やがて大学での任期が終わった彼女は、その国に残ることを望み、今は大学ではなく民間の日本語学校で日本語を教えていた。
道明寺ホールディングスは、その国に駐在事務所を置いている。
それはカザフスタンが石油や天然ガスといった燃料資源が豊富な資源大国であることが日本の産業に欠かせない国であるからだが、それと同時に新規ビジネスの発掘が見込める国だからだ。
司はすぐに彼女が教師として働いている日本語学校について調べさせた。
そして分かったのは、そこは経営がやっとという小さな学校であり、教師の給料は高いとは言えなかった。
それなら彼女はどうやって日々の暮らしの糧を得ているのか。
「はい。この国はロシア語とカザフ語が公用語で通じるのですが、牧野様はロシア語だけでなくカザフ語もマスターされており、どちらも話すことが出来る日本人は大変貴重です。
何しろこの街の人間の英語を話す割合は大変低いので。
ですから日本からの旅行者やビジネスでこの国を訪れる人間の通訳をして収入を得ておられます。我社も何度か通訳をお願いしたことがあります」
司は駐在員からその話を訊いたとき彼女らしいと思った。
生活能力の高い彼女は高校生の頃からアルバイトで家計を支えてきた。
それに自分のことを雑草だと言った彼女は、どんな環境でも生きていくことが出来ると言ったが、世界で第9位という広大な面積を持つ国は、冬になれば場所によってはマイナス30度以下になるが、そんな国でもたくましく生きているようだ。
だが、もし自分が彼女のことを忘れなければ、司はふたりの前にあった問題を解決し、今頃は彼女と結婚していたはずだ。
そうだ。司が彼女の事だけを忘れたがために、他の女を大切な人だと間違え、彼女を深く傷付けた。
だから己が取った行動に彼女が自分の前から去っても当然だと言えた。
そして、彼女がさよならを告げ、悲しそうに自分を見つめたあの日のことを思い出すと、こうして時間が経った今でもあの日の彼女の顏に目に浮かび心が痛んだ。
だが司は、いつまでも心を痛めているだけの男ではない。
司は中央アジアに飛ぶことを決めると、通訳として彼女を雇うように指示を出した。
ただし、彼女が通訳として同行する相手の名前は伝えるなと言った。
そんな司の手元には川に捨てたはずのネックレスがあった。
それは一度別れを決めた司が捨てたはずのネックレスだったが、今ここにこうしてあるのは彼女が川から拾い上げたから。
そして彼女を忘れ他の女を傍に置いた男にさよならを告げにきた彼女は、後ろを振り返ることなく司の前から去った。
あのとき涙に膨らんだ瞳を逸らしたことに気付かなかった。
だがよく見れば分かったはずだ。
彼女の瞳の中にあったその哀しみを。
もしあのとき彼女のことを思い出せば毎日会えた。
明日も、明後日も、その次も……。
だが、幾ら「もし」を繰り返しても過去を取り戻すことは出来ない。
だから司は前だけを向くことを決めるとタラップを上がった。

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彼は1月に誕生日を迎え34歳になっていた。
記憶を取り戻した男がまず一番始めにしたのは、忘れてしまっていた女性の元を訪ねること。
だが、あれから干支はひと回り以上していて、彼女はもう自分のことなど忘れてしまったかもしれない。だがそれでも司は彼女の行方を探した。
だがいくら探しても彼女は見つからなかった。
だが男は、どうにか彼女が暮らす場所を見つけたが、そこは日本ではなかった。
それなら彼女は何処にいたのか。
そこはヨーロッパとアジアを合わせた大陸であるユーラシア大陸の中央。
司の最愛の人は中央アジアにあるカザフスタンの日本語学校で日本語の教師をしていた。
彼女が日本語教師としてその国に渡ったのは5年前。
外国語大学を卒業して就職した会社を辞め、その国の国立大学に設けられている日本語学科に任期付ネイティブ教師として赴き、日本企業に就職を目指す学生たちに実践的な日本語を教えていた。
やがて大学での任期が終わった彼女は、その国に残ることを望み、今は大学ではなく民間の日本語学校で日本語を教えていた。
道明寺ホールディングスは、その国に駐在事務所を置いている。
それはカザフスタンが石油や天然ガスといった燃料資源が豊富な資源大国であることが日本の産業に欠かせない国であるからだが、それと同時に新規ビジネスの発掘が見込める国だからだ。
司はすぐに彼女が教師として働いている日本語学校について調べさせた。
そして分かったのは、そこは経営がやっとという小さな学校であり、教師の給料は高いとは言えなかった。
それなら彼女はどうやって日々の暮らしの糧を得ているのか。
「はい。この国はロシア語とカザフ語が公用語で通じるのですが、牧野様はロシア語だけでなくカザフ語もマスターされており、どちらも話すことが出来る日本人は大変貴重です。
何しろこの街の人間の英語を話す割合は大変低いので。
ですから日本からの旅行者やビジネスでこの国を訪れる人間の通訳をして収入を得ておられます。我社も何度か通訳をお願いしたことがあります」
司は駐在員からその話を訊いたとき彼女らしいと思った。
生活能力の高い彼女は高校生の頃からアルバイトで家計を支えてきた。
それに自分のことを雑草だと言った彼女は、どんな環境でも生きていくことが出来ると言ったが、世界で第9位という広大な面積を持つ国は、冬になれば場所によってはマイナス30度以下になるが、そんな国でもたくましく生きているようだ。
だが、もし自分が彼女のことを忘れなければ、司はふたりの前にあった問題を解決し、今頃は彼女と結婚していたはずだ。
そうだ。司が彼女の事だけを忘れたがために、他の女を大切な人だと間違え、彼女を深く傷付けた。
だから己が取った行動に彼女が自分の前から去っても当然だと言えた。
そして、彼女がさよならを告げ、悲しそうに自分を見つめたあの日のことを思い出すと、こうして時間が経った今でもあの日の彼女の顏に目に浮かび心が痛んだ。
だが司は、いつまでも心を痛めているだけの男ではない。
司は中央アジアに飛ぶことを決めると、通訳として彼女を雇うように指示を出した。
ただし、彼女が通訳として同行する相手の名前は伝えるなと言った。
そんな司の手元には川に捨てたはずのネックレスがあった。
それは一度別れを決めた司が捨てたはずのネックレスだったが、今ここにこうしてあるのは彼女が川から拾い上げたから。
そして彼女を忘れ他の女を傍に置いた男にさよならを告げにきた彼女は、後ろを振り返ることなく司の前から去った。
あのとき涙に膨らんだ瞳を逸らしたことに気付かなかった。
だがよく見れば分かったはずだ。
彼女の瞳の中にあったその哀しみを。
もしあのとき彼女のことを思い出せば毎日会えた。
明日も、明後日も、その次も……。
だが、幾ら「もし」を繰り返しても過去を取り戻すことは出来ない。
だから司は前だけを向くことを決めるとタラップを上がった。

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桜子が彼女に出会ったのは高校生の頃。
彼女は初恋の人が恋をしている女性だった。
だから彼女に対して激しい嫉妬を覚えた。
彼女は真面目な高校生で自分が女として贅沢な立場にいることに気付かなかった。
まるで漫画のごときふたりの男性がその人に熱をあげ、奪い合いが生じても自分がどれだけ人を魅了しているかに気付くことがなかった。
だからその人を騙し罠にかけ陥れた。
けれどその人は正義感の塊のような人で、彼女に対して行った全てを許してくれた。
そして守ってくれた。
そのとき、これまで自分が抱えていた屈折した気持ちが浄化されたのが分かった。
そして彼女は大切な友人になった。
その人に何かあれば全力で守る。
それはかつてその人に許してもらい守ってもらったからだけではない。
何しろ彼女は他の女性に対しての競争心や嫉妬心を持たない。
人と付き合うことに打算や計算を持たない。他人の思惑というものを気にしない。
だからかつて自分がしたように彼女がいいように利用されることがないように守りたいという思いがあった。
彼女は変な意味で母性本能をくすぐる女性だ。
そして彼女は周囲に甘えたり、我儘を言わない女性なのだが、そのことが時に誤解を生むことがある。
なにしろそれは自分が交際している男に対してもそうなのだから、相手の男にしてみれば、自分以外に他に頼る男がいるのではないか。そう考えてしまうようだ。
そしてその男は自分の持てる物全てを彼女に与えたいと思う男で独占欲が強い。
その男こそ桜子の初恋の男だが、かつて男の前で何も身に付けていない姿で立ったことがある。
その身体は世界最高の腕を持つと言われる美容整形外科医の手で作られた身体で、桜子の決意に見合うだけの身体だった。
そうだ。その身体で男を堕とそうとした。だがその男は見向きもしなかった。
そして桜子が作り出した媚態を見下したが、その態度は、ひとりの女性だけを愛していると、心の底から欲しいと思える女以外は欲しくないと言い放った言葉が嘘ではないということを確信した瞬間だった。
だがその男が現れれば、キャーキャーと黄色い声が上がると同時に溜息が漏れる。
それは女達の目を惹きつけるギリシャ彫刻にも似た彫の深い顏と、財力がそうさせるのだとしても、それだけではない。男には人を惹き付ける何かがあった。
そしてそんな男の恋人であり桜子の友人は、未だに恋人にじっと見つめられると恥ずかしくって勝手に照れる。考えていることが顏に出る。隠し事をするのが下手な女だった。
だから桜子はそんな友人の代わりに男の行動を探っていた。
それに桜子には人の思惑を見抜く自信があった。
怪しいと思われる人間には勘が働いた。
「道明寺さんはエッチな体つきをしてるから、私が恋人だったら人前でもその腰に抱きつきたいと思います。でも先輩はそんなこと思いもしないでしょ?それが世間の女性と先輩の違いなんです。先輩は自分の恋人がどれだけモテるか分かってないんです」
桜子は大切な友人の言葉に冗談のつもりでそう答えたが、友人は自分が目にした光景に動揺していた。
「道明寺が女性と抱き合っていた」
友人はそう言ったが桜子は、それは何かの誤解だと思っている。
それは、いつもはクールな目をした男が恋人を見るとき、その頭の中に描いているのは何であるか。桜子にはすぐに分かる。
早く、ふたりっきりになって恋人の服を脱がせたい。
他人には見せようとはしないが、微かに欲望を湛えた目は間違いなくそう言っていた。
だが、友人の話はこうだった。
仕事で相手先の人間と待ち合わせをしていたメープルのロビーで偶然見かけたのは、恋人が女性と親しげに会話をした後、抱き合っている姿。
そう言った友人の態度は普段とは違った。それは、嫉妬心など持たない友人が目にした自分よりも若い女性が恋人である男の腰に腕を回し抱きついていた光景は余程ショックだったのだろう。
「先輩。いいですか?道明寺さんは浮気するような男性じゃありません。だから何かの誤解だと思います」
だが友人は、普段自ら女性に近づくことがない男がにこやかにほほ笑んでいたと言った。
「先輩。それは絶対に誤解です。あの道明寺さんが先輩以外の女性に微笑むなんてことがありますか?」
だが友人は「でも…」と言って、今まで見たことがないほど落ち込んでいた。
だから桜子はその真相を確かめるため、友人の恋人が女性と抱き合っていたという場所にいて、友人が見たと思われる女性が建物から出て来るのを待っていたが、そこはホテルメープルの1階にあるコーヒーラウンジ。友人の恋人はこのホテルを経営する財閥の後継者であり、そんな男が自分のホテルで女性に抱きつかれてだらしない顏をするはずがない。
それに桜子が好きになった男は、ただひとりの人にしか興味関心がない男のはずだ。
いや。間違っても。絶対に他の女に気持ちを移す男ではない。
だからここで、その女性が現れるのを待っていたが、そうしながら思うのは、自分はまだ狂うほどの恋におちてしまえる相手に出会えてないということ。
そして理想なのは、友人とその恋人のような関係。
あのふたりのどちらの愛が強いか。それを考えたとき、どう考えても男の方が強く女を愛しているのが分かる。そして強いと言われる男の方が女を思い振り回される姿に大きな愛を感じることが出来る。彼女の全てが愛おしい。そう思える男の優しい眼差しには絶対の愛が感じられた。
とはいえ、桜子は友人のように恥ずかしがり屋でもなければ、ひと前で愛情を表現することが苦手ではない。むしろこれと思った男性には積極的に出るタイプだ。
けれど、桜子自身が絶対的な愛というものを信じることが出来るのかと問われれば、未だに与えられたことがないのだから、信じられると答えることが出来なかった。
だがそんな思いを抱えている桜子も、ふたりと一緒にいると不思議と心が浄化されていくのだから、彼らの愛の力というものが桜子には眩しかった。
だからこそ、男が他の女性と微笑みを交し、抱き合うなどあるはずがない。
そんなことを考えていた時だった。
ひとりの女性がロビーを早足で歩いている姿を見つけた。
そしてその女性が友人の言った特徴に良く似た女性だと気付いた。
それは目の覚めるようなピンク色のダウンジャケットに茶色い長い髪。
その女性はフロントに立ち寄ると話をしていた。だから桜子は立ち上るとその女性の後ろに近づき、女性が振り返るのを待った。
そして振り返った女性に驚いた。
何故ならその女性には友人の恋人の姉の特徴があったから。だから名前を訊いて納得した。
彼女の母親の名は椿。女性は椿の娘だが、父親がアメリカ人で、その容貌は父方の血を強く受け継いでいた。そしてまだ13歳だというが、背が高く大人びた容貌は、日本人の13歳の少女の平均と比べたとき、充分な大人の女性に見えた。
つまり抱き合っていたと見えたのは、アメリカ人の姪が叔父に無邪気とも言える親愛の情を込めて抱きついたということ。
そして男が今まで見たことがないほどにこやかな微笑みを浮べていたのは、相手が姪だからだ。
「先輩が見た女性は、椿お姉さんのお嬢さんです。あの頃の年頃の女の子は急に大人びます。
先輩が会わなかった間に随分と大人になったんだと思いますよ。だから分からなかったんですね?ましてやアメリカ人とのハーフですから、大人び方は半端ないですよ?だって胸だってかなりありましたから。それから椿さんはご一緒ではありませんでしたが、お父様のお仕事に付いていらっしゃったそうですよ」
桜子は電話でそう伝えるとメープルの最上階にあるバーのスツールに腰を下ろし、テキーラベースの目の覚めるようなエメラルドグリーンのカクテルを注文した。
それは、モッキンバードという名のカクテル。
モッキンバードとはメキシコなどの北アメリカ大陸にいる鳥。
だからメキシコを代表するスピリッツであるテキーラを使ったこのカクテルはモッキンバードと名付けられたと言われているが、彼らはオス・メス共に相手に忠実で生涯にわたり、つがいの関係を保ち続けると言われている。
そして和名を『マネシツグミ』と言うが、その名の通り他の鳥の声色やピアノや機械の音。犬の鳴き声や人の声など様々な音をそっくり真似る鳥だ。
桜子は自分の姿が本物ではないと分かっている。
だがそれはモッキンバードのように他者の真似したものではない。
だが何故か様々な音を真似することが出来るモッキンバードという鳥が好きだった。
だから鮮やかな緑色をしたカクテルが好きだったが、多分それは、桜子という名前が春を連想させるのと同じで、この色が春の息吹である若芽を感じさせるからだ。
だが本物のモッキンバードは青みがかったグレーの身体で、決してカクテルのような色鮮やかな鳥ではない地味な鳥。
そんなところが容姿を変える前の自分の姿に重なったのかもしれない。
地味だからこそ声色で他の鳥を惹き付けるようとする鳥に。
桜子は月に何度かメープルのバーに来る。
そしてぼんやりと考え事をする。
いつもならもう少し長居をするところだが、何故か今夜はそういった気分になれなかった。
だから今夜は一杯だけ飲んで帰ろう。そう思いグラスを口に運んだ。
その時、隣に誰かが座ったのが分かった。
「いい飲みっぷりですが、カクテルは一気飲みするものではありませんよ?」
隣に座った男は、そう言って「僕にも同じものを」と言って笑ったが、男は桜子と同じくらいの年齢に思えた。
銀縁メガネをかけたスーツ姿の男性は理知的に見えた。
そして「お付き合いしますよ。僕はこう見えて酒には強い男ですから」と言って再び笑った。
< 完 > *モッキンバード*

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彼女は初恋の人が恋をしている女性だった。
だから彼女に対して激しい嫉妬を覚えた。
彼女は真面目な高校生で自分が女として贅沢な立場にいることに気付かなかった。
まるで漫画のごときふたりの男性がその人に熱をあげ、奪い合いが生じても自分がどれだけ人を魅了しているかに気付くことがなかった。
だからその人を騙し罠にかけ陥れた。
けれどその人は正義感の塊のような人で、彼女に対して行った全てを許してくれた。
そして守ってくれた。
そのとき、これまで自分が抱えていた屈折した気持ちが浄化されたのが分かった。
そして彼女は大切な友人になった。
その人に何かあれば全力で守る。
それはかつてその人に許してもらい守ってもらったからだけではない。
何しろ彼女は他の女性に対しての競争心や嫉妬心を持たない。
人と付き合うことに打算や計算を持たない。他人の思惑というものを気にしない。
だからかつて自分がしたように彼女がいいように利用されることがないように守りたいという思いがあった。
彼女は変な意味で母性本能をくすぐる女性だ。
そして彼女は周囲に甘えたり、我儘を言わない女性なのだが、そのことが時に誤解を生むことがある。
なにしろそれは自分が交際している男に対してもそうなのだから、相手の男にしてみれば、自分以外に他に頼る男がいるのではないか。そう考えてしまうようだ。
そしてその男は自分の持てる物全てを彼女に与えたいと思う男で独占欲が強い。
その男こそ桜子の初恋の男だが、かつて男の前で何も身に付けていない姿で立ったことがある。
その身体は世界最高の腕を持つと言われる美容整形外科医の手で作られた身体で、桜子の決意に見合うだけの身体だった。
そうだ。その身体で男を堕とそうとした。だがその男は見向きもしなかった。
そして桜子が作り出した媚態を見下したが、その態度は、ひとりの女性だけを愛していると、心の底から欲しいと思える女以外は欲しくないと言い放った言葉が嘘ではないということを確信した瞬間だった。
だがその男が現れれば、キャーキャーと黄色い声が上がると同時に溜息が漏れる。
それは女達の目を惹きつけるギリシャ彫刻にも似た彫の深い顏と、財力がそうさせるのだとしても、それだけではない。男には人を惹き付ける何かがあった。
そしてそんな男の恋人であり桜子の友人は、未だに恋人にじっと見つめられると恥ずかしくって勝手に照れる。考えていることが顏に出る。隠し事をするのが下手な女だった。
だから桜子はそんな友人の代わりに男の行動を探っていた。
それに桜子には人の思惑を見抜く自信があった。
怪しいと思われる人間には勘が働いた。
「道明寺さんはエッチな体つきをしてるから、私が恋人だったら人前でもその腰に抱きつきたいと思います。でも先輩はそんなこと思いもしないでしょ?それが世間の女性と先輩の違いなんです。先輩は自分の恋人がどれだけモテるか分かってないんです」
桜子は大切な友人の言葉に冗談のつもりでそう答えたが、友人は自分が目にした光景に動揺していた。
「道明寺が女性と抱き合っていた」
友人はそう言ったが桜子は、それは何かの誤解だと思っている。
それは、いつもはクールな目をした男が恋人を見るとき、その頭の中に描いているのは何であるか。桜子にはすぐに分かる。
早く、ふたりっきりになって恋人の服を脱がせたい。
他人には見せようとはしないが、微かに欲望を湛えた目は間違いなくそう言っていた。
だが、友人の話はこうだった。
仕事で相手先の人間と待ち合わせをしていたメープルのロビーで偶然見かけたのは、恋人が女性と親しげに会話をした後、抱き合っている姿。
そう言った友人の態度は普段とは違った。それは、嫉妬心など持たない友人が目にした自分よりも若い女性が恋人である男の腰に腕を回し抱きついていた光景は余程ショックだったのだろう。
「先輩。いいですか?道明寺さんは浮気するような男性じゃありません。だから何かの誤解だと思います」
だが友人は、普段自ら女性に近づくことがない男がにこやかにほほ笑んでいたと言った。
「先輩。それは絶対に誤解です。あの道明寺さんが先輩以外の女性に微笑むなんてことがありますか?」
だが友人は「でも…」と言って、今まで見たことがないほど落ち込んでいた。
だから桜子はその真相を確かめるため、友人の恋人が女性と抱き合っていたという場所にいて、友人が見たと思われる女性が建物から出て来るのを待っていたが、そこはホテルメープルの1階にあるコーヒーラウンジ。友人の恋人はこのホテルを経営する財閥の後継者であり、そんな男が自分のホテルで女性に抱きつかれてだらしない顏をするはずがない。
それに桜子が好きになった男は、ただひとりの人にしか興味関心がない男のはずだ。
いや。間違っても。絶対に他の女に気持ちを移す男ではない。
だからここで、その女性が現れるのを待っていたが、そうしながら思うのは、自分はまだ狂うほどの恋におちてしまえる相手に出会えてないということ。
そして理想なのは、友人とその恋人のような関係。
あのふたりのどちらの愛が強いか。それを考えたとき、どう考えても男の方が強く女を愛しているのが分かる。そして強いと言われる男の方が女を思い振り回される姿に大きな愛を感じることが出来る。彼女の全てが愛おしい。そう思える男の優しい眼差しには絶対の愛が感じられた。
とはいえ、桜子は友人のように恥ずかしがり屋でもなければ、ひと前で愛情を表現することが苦手ではない。むしろこれと思った男性には積極的に出るタイプだ。
けれど、桜子自身が絶対的な愛というものを信じることが出来るのかと問われれば、未だに与えられたことがないのだから、信じられると答えることが出来なかった。
だがそんな思いを抱えている桜子も、ふたりと一緒にいると不思議と心が浄化されていくのだから、彼らの愛の力というものが桜子には眩しかった。
だからこそ、男が他の女性と微笑みを交し、抱き合うなどあるはずがない。
そんなことを考えていた時だった。
ひとりの女性がロビーを早足で歩いている姿を見つけた。
そしてその女性が友人の言った特徴に良く似た女性だと気付いた。
それは目の覚めるようなピンク色のダウンジャケットに茶色い長い髪。
その女性はフロントに立ち寄ると話をしていた。だから桜子は立ち上るとその女性の後ろに近づき、女性が振り返るのを待った。
そして振り返った女性に驚いた。
何故ならその女性には友人の恋人の姉の特徴があったから。だから名前を訊いて納得した。
彼女の母親の名は椿。女性は椿の娘だが、父親がアメリカ人で、その容貌は父方の血を強く受け継いでいた。そしてまだ13歳だというが、背が高く大人びた容貌は、日本人の13歳の少女の平均と比べたとき、充分な大人の女性に見えた。
つまり抱き合っていたと見えたのは、アメリカ人の姪が叔父に無邪気とも言える親愛の情を込めて抱きついたということ。
そして男が今まで見たことがないほどにこやかな微笑みを浮べていたのは、相手が姪だからだ。
「先輩が見た女性は、椿お姉さんのお嬢さんです。あの頃の年頃の女の子は急に大人びます。
先輩が会わなかった間に随分と大人になったんだと思いますよ。だから分からなかったんですね?ましてやアメリカ人とのハーフですから、大人び方は半端ないですよ?だって胸だってかなりありましたから。それから椿さんはご一緒ではありませんでしたが、お父様のお仕事に付いていらっしゃったそうですよ」
桜子は電話でそう伝えるとメープルの最上階にあるバーのスツールに腰を下ろし、テキーラベースの目の覚めるようなエメラルドグリーンのカクテルを注文した。
それは、モッキンバードという名のカクテル。
モッキンバードとはメキシコなどの北アメリカ大陸にいる鳥。
だからメキシコを代表するスピリッツであるテキーラを使ったこのカクテルはモッキンバードと名付けられたと言われているが、彼らはオス・メス共に相手に忠実で生涯にわたり、つがいの関係を保ち続けると言われている。
そして和名を『マネシツグミ』と言うが、その名の通り他の鳥の声色やピアノや機械の音。犬の鳴き声や人の声など様々な音をそっくり真似る鳥だ。
桜子は自分の姿が本物ではないと分かっている。
だがそれはモッキンバードのように他者の真似したものではない。
だが何故か様々な音を真似することが出来るモッキンバードという鳥が好きだった。
だから鮮やかな緑色をしたカクテルが好きだったが、多分それは、桜子という名前が春を連想させるのと同じで、この色が春の息吹である若芽を感じさせるからだ。
だが本物のモッキンバードは青みがかったグレーの身体で、決してカクテルのような色鮮やかな鳥ではない地味な鳥。
そんなところが容姿を変える前の自分の姿に重なったのかもしれない。
地味だからこそ声色で他の鳥を惹き付けるようとする鳥に。
桜子は月に何度かメープルのバーに来る。
そしてぼんやりと考え事をする。
いつもならもう少し長居をするところだが、何故か今夜はそういった気分になれなかった。
だから今夜は一杯だけ飲んで帰ろう。そう思いグラスを口に運んだ。
その時、隣に誰かが座ったのが分かった。
「いい飲みっぷりですが、カクテルは一気飲みするものではありませんよ?」
隣に座った男は、そう言って「僕にも同じものを」と言って笑ったが、男は桜子と同じくらいの年齢に思えた。
銀縁メガネをかけたスーツ姿の男性は理知的に見えた。
そして「お付き合いしますよ。僕はこう見えて酒には強い男ですから」と言って再び笑った。
< 完 > *モッキンバード*

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