「そう言えば財務部の久保田。あいつ広報の糸島さんと結婚するらしい」
「おい、それ本当か?糸島さんが結婚だなんて嘘だろ?あ~!ちくしょう!俺は彼女のファンだってのに何で結婚するんだよ!」
「俺も糸島さんのファンだ。だからこの話を訊いた時ショックを受けた。彼女、会えばいつも優しく微笑んでくれたから、てっきり俺のことが好きだと思ってた。それなのによりにもよって久保田だよ。久保田!」
「クソッ。なんでアイツなんだよ?第一にアイツ俺ら同期の中じゃ一番地味な男だぞ?」
「ああ。確かにあいつは俺らの中じゃ一番地味だ。だが財務部だから数字に強い。頭の中にコンピュータがあるんじゃねえかってくらい計算が早い。飲みに行った時の勘定は電卓叩くよりあいつに訊いたほうが早い」
「知ってる。あいつはお前の言うとおりで数字に強い。けど俺はそんな久保田と糸島さんとが話しが合うとは思えねぇ。第一に女は数字に細かい男は嫌いなはずだ。だから糸島さんはあいつのどこが良かったんだ?」
「知るかよそんなこと。けど糸島さんが久保田と結婚することだけは間違いない。何でも式場を予約したってことだ」
「そうか….。式場を予約か…と、なると既にふたりは互いの両親の顔合わせも済ませた。結納も済ませたってことか。つまりその話は実に現実味を帯びてる….、覆すことは出来ないってことだ。……てか、なんでお前がそれを知ってる?」
「ああ。偶然だが訊いたんだ。彼女がランチに出掛けて海外事業本部の牧野さんと話しているところをな。いや、勿論俺は訊くつもりはなかった。けどたまたま同じ店で観葉植物を間に挟んだ状態で背中合わせに座っていた俺の耳に入っちまったんだから仕方がない」
「そうか…..それにしても糸島さん。ついに彼女も結婚かぁ。彼女、俺たちよりもふたつ年上だけど年上を感じさせない可愛いさがある。それに美人で清楚だ。クソッ!久保田が羨まし過ぎるぜ!ちくしょう….俺も誰かと結婚してぇよ!」
したい。
したい。
したい。
分かるぞ、その気持ち。
司は喫煙ルームに入る男性社員の後姿に心の中で頷いていた。
彼が恋人との結婚を意識したのは17歳の時。
出会いは高校の階段で恋人が上から落ちてきた。
いや、それは恋人の友人であって恋人は上から落ちてきたのではない。
恋人は普通に階段を降りてきて司に説教を垂れた。
そして紆余曲折を経て今に至るが、あれ以来彼女と結婚したいと願っているが、未だにその願いは叶えられずにいた。
それにしても結婚というのは、ある程度の時が経てば簡単に出来るものだと思っていたが、まさかここまで結婚できないとは思いもしなかった。
そして司という男は、世間から見れば何に関しても非常に満足する状況にいる男で、まさかそんな男が常日頃好きな女と結婚できないのではないかという不安と闘っているとは誰も思わないはずだ。
だからこんな思いをするなら、いっそのこと社内メールの一斉送信で牧野つくしは支社長の恋人だという噂を社内に蔓延させるかとも思う。
だがそんなことをすれば、二度と口を利いてくれなくなる恐れがある。
だからそれは止めた。
とにかく好きで好きでたまらないのは、海外事業本部でバリバリと仕事をする女。
彼女は大財閥の御曹司で世界一カッコいいと言われる男の恋人でありながら、その男と結婚する気があるのかないのか。
もしかすると結婚する気がない?
いや結婚願望自体がない?
大財閥の跡取りである男との結婚は、賑やかな姉がいたり、鉄のような母親がいて色々と面倒でする気がない?
それとも、この状況は長すぎた春というやつか?
そんな考えたくもないことが時に頭を過ることもある。
だがそれを強く否定する自分がいるが、決して彼女が結婚する気がないというのではない。
ただ、今は仕事に熱中するあまり結婚という二文字を忘れているに過ぎないと思っている。
だがそうなると司の中にモヤモヤとした何かが湧きだし心が絡まってしまうことがある。
そんなモヤモヤとした気持ちを抱えている時に秘書がデスクの上に置いたのは香り高いコーヒーではなくオレンジ色の液体。
司はそれを凝視すると秘書に言った。
「おい西田。何だこれは?」
「はい。こちらはニンジンジュースでございます」
司はグラスを見つめていたが、目の前に置かれたグラスの中身がニンジンジュースなのは分かった。だが訊きたいのは、何故いつものコーヒーの代わりにニンジンジュースがあるのかということだ。
そして頭を過ったのは、もしかするとこれは恋人の差し入れなのではないかということ。
だから司は期待を込めて西田に訊いた。
「西田。グラスの中身がニンジンジュースだってことは分かった。俺が訊きたいのは何でニンジンジュースがここにあるのかってことだ」
だが西田の口から出たのは司が期待していた言葉ではなかった。
「はい。こちらは今朝北海道から送られて来たニンジンジュースでございます。只今北海道はニンジン収穫の真っただ中です。その中から選りすぐりのニンジンをジュースにしたもので、あちらでは魔法のニンジンジュースと呼ばれているそうです。それを支社長に飲んでいただきたいと先日の社内対抗のど自慢大会に出場した札幌支店の人間が送ってきました。
ニンジンは緑黄色野菜の代表格であり年中手に入り栄養価も高い野菜ではありますが、それだけを食べるとなりますと馬以外難しいものがあります。ですがジュースにすることで簡単に口にすることができ栄養素を取り入れることが出来ます。
最近の支社長は夜の接待が続いております。それについては毎晩遅くまで仕事をしていただき感謝しておりますが先程の昼食も料亭での会食です。
いえ。決して料亭の料理が悪い。食生活が乱れているとは申しませんが高価なものばかり食べておりますと栄養のバランスが偏ることになります。
つまり今の支社長は偏食傾向にあります。ですからこちらのニンジンジュースをお飲みいただければと思います。
それから余談ではございますが、北海道の牧場で余生を送るツカサブラックとツクシハニーはこちらのニンジンが大好きだと申しておりました。と、いうことから馬主である支社長にも是非同じニンジンから作られたジュースをお飲みいただければあの二頭も喜ぶと思います」
ニンジンジュースは恋人からの差し入れではなかった。
だから司は滔々と持論を展開する西田に煩いとばかりに「ああ、分かった。もういい。飲めばいいんだろうが。飲めば」と言いうとオレンジ色の液体が入ったグラスを掴んだ。
そして西田が執務室を出て行くと、秘書の言うことも一理あると思った。
つい先日の健康診断でコレステロール値の上昇が見られる。もう少し野菜を積極的に召し上がって下さいと医師から言われたところだ。それにさっき料亭で食べた料理が少し胃にもたれているような気がしていた。だからジュースを飲み干すと書類に目を通す前に少し休もうと目を閉じた。
司は女性用下着製造販売会社で取締役『ときめくブラ』事業本部長を務めていた。
会社は女性の下着が専門だからといって女性だけが働いているのではない。
それに会社は男性だから女性だからといった区別はなく、男性の意見も女性の意見も尊重していた。
だから男の司が女性のための下着を作る会社で本部長を務めることに差し障りなどあろうはずがなく、むしろ若くてイケメンの取締役の司は女性社員から人気があった。
そして司は、『ときめくブラ』シリーズの新作のブラジャーについての会議に出席していたが、そこにいるひとりの女性のことが気になっていた。
その女性は牧野つくし。
1年前に転職して来て司の部下になった彼女は司よりひとつ年下の29歳。
年のわりには若く見え、黒い大きな瞳がキラキラと輝き白く透き通るような肌の持ち主だ。
司は、そんな彼女から試作品である新作のブラジャーの付け心地についての報告を訊いていた。
「ブラジャーは女性の身体を美しくメイクするものです。寄せて上げるブラジャーは今では当たり前の存在です。ですが繊細な女性の身体を優しく包むものでなければなりません。
下着は直接肌につけるものですから肌にストレスを与えるようなものではいけません。
その点こちらのブラジャーは世界の厳選された素材を使い、縫製は日本一の技術を誇る我社ならではのものです。つまり丁寧な日本の縫製技術は肌あたりが優しく感じられます。
そしてデザインも日本人女性が好む可愛らしさを踏まえつつもセクシーさが感じられます。
大人の女性の魅力といったものも、このブラジャーからは感じることが出来るはずです。
年頃の女性は恋人が自分の下着姿をどう思うかを気にしています。可愛く見える方がいいか。それともセクシーに見える方がいいか。相手によって使い分けることがあると思います。そういった時、こちらのブラジャーはどちらのシーンでも対応できるのではないでしょうか?」
司は彼女の発言に頷いた。
そして進行役が他の社員からの意見を取りまとめると、最後に司に会議のしめくくりを求め会議は終了した。
午後8時を少し過ぎた頃。
司は人けのない資料室で雑誌をめくっている彼女の後ろに立った。
「牧野」
「キャッ!ああ、びっくりした。もう、どうしたんですか部長?」
振り向いた彼女は心底驚いた様子で司を見た。
「ああ。資料室に明かりがついているのが見えたんでな。誰がいるのか気になって来てみたがお前か。どうした何か探し物か?」
「はい。過去の広告が気になって。それで訊けば過去にうちの商品が掲載された雑誌がここに保管してあるというので探していたところです」
「そうか。それで目あての記事は見つかったのか?」
「はい。でも今日はもう帰ります。資料は明日またゆっくり見ることにします」
彼女はそう言って腕時計に目を落とした。
「それなら牧野。これから食事に付き合ってくれ。どうせまだなんだろ?それにしても今日の会議だがまさかお前からあのブラジャーの付け心地についての報告を訊くとは思わなかった。だからその話もゆっくり訊きたい」
すると彼女は少し考え、「では鞄を取って来ます」と言って司の誘いに応じた。

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「おい、それ本当か?糸島さんが結婚だなんて嘘だろ?あ~!ちくしょう!俺は彼女のファンだってのに何で結婚するんだよ!」
「俺も糸島さんのファンだ。だからこの話を訊いた時ショックを受けた。彼女、会えばいつも優しく微笑んでくれたから、てっきり俺のことが好きだと思ってた。それなのによりにもよって久保田だよ。久保田!」
「クソッ。なんでアイツなんだよ?第一にアイツ俺ら同期の中じゃ一番地味な男だぞ?」
「ああ。確かにあいつは俺らの中じゃ一番地味だ。だが財務部だから数字に強い。頭の中にコンピュータがあるんじゃねえかってくらい計算が早い。飲みに行った時の勘定は電卓叩くよりあいつに訊いたほうが早い」
「知ってる。あいつはお前の言うとおりで数字に強い。けど俺はそんな久保田と糸島さんとが話しが合うとは思えねぇ。第一に女は数字に細かい男は嫌いなはずだ。だから糸島さんはあいつのどこが良かったんだ?」
「知るかよそんなこと。けど糸島さんが久保田と結婚することだけは間違いない。何でも式場を予約したってことだ」
「そうか….。式場を予約か…と、なると既にふたりは互いの両親の顔合わせも済ませた。結納も済ませたってことか。つまりその話は実に現実味を帯びてる….、覆すことは出来ないってことだ。……てか、なんでお前がそれを知ってる?」
「ああ。偶然だが訊いたんだ。彼女がランチに出掛けて海外事業本部の牧野さんと話しているところをな。いや、勿論俺は訊くつもりはなかった。けどたまたま同じ店で観葉植物を間に挟んだ状態で背中合わせに座っていた俺の耳に入っちまったんだから仕方がない」
「そうか…..それにしても糸島さん。ついに彼女も結婚かぁ。彼女、俺たちよりもふたつ年上だけど年上を感じさせない可愛いさがある。それに美人で清楚だ。クソッ!久保田が羨まし過ぎるぜ!ちくしょう….俺も誰かと結婚してぇよ!」
したい。
したい。
したい。
分かるぞ、その気持ち。
司は喫煙ルームに入る男性社員の後姿に心の中で頷いていた。
彼が恋人との結婚を意識したのは17歳の時。
出会いは高校の階段で恋人が上から落ちてきた。
いや、それは恋人の友人であって恋人は上から落ちてきたのではない。
恋人は普通に階段を降りてきて司に説教を垂れた。
そして紆余曲折を経て今に至るが、あれ以来彼女と結婚したいと願っているが、未だにその願いは叶えられずにいた。
それにしても結婚というのは、ある程度の時が経てば簡単に出来るものだと思っていたが、まさかここまで結婚できないとは思いもしなかった。
そして司という男は、世間から見れば何に関しても非常に満足する状況にいる男で、まさかそんな男が常日頃好きな女と結婚できないのではないかという不安と闘っているとは誰も思わないはずだ。
だからこんな思いをするなら、いっそのこと社内メールの一斉送信で牧野つくしは支社長の恋人だという噂を社内に蔓延させるかとも思う。
だがそんなことをすれば、二度と口を利いてくれなくなる恐れがある。
だからそれは止めた。
とにかく好きで好きでたまらないのは、海外事業本部でバリバリと仕事をする女。
彼女は大財閥の御曹司で世界一カッコいいと言われる男の恋人でありながら、その男と結婚する気があるのかないのか。
もしかすると結婚する気がない?
いや結婚願望自体がない?
大財閥の跡取りである男との結婚は、賑やかな姉がいたり、鉄のような母親がいて色々と面倒でする気がない?
それとも、この状況は長すぎた春というやつか?
そんな考えたくもないことが時に頭を過ることもある。
だがそれを強く否定する自分がいるが、決して彼女が結婚する気がないというのではない。
ただ、今は仕事に熱中するあまり結婚という二文字を忘れているに過ぎないと思っている。
だがそうなると司の中にモヤモヤとした何かが湧きだし心が絡まってしまうことがある。
そんなモヤモヤとした気持ちを抱えている時に秘書がデスクの上に置いたのは香り高いコーヒーではなくオレンジ色の液体。
司はそれを凝視すると秘書に言った。
「おい西田。何だこれは?」
「はい。こちらはニンジンジュースでございます」
司はグラスを見つめていたが、目の前に置かれたグラスの中身がニンジンジュースなのは分かった。だが訊きたいのは、何故いつものコーヒーの代わりにニンジンジュースがあるのかということだ。
そして頭を過ったのは、もしかするとこれは恋人の差し入れなのではないかということ。
だから司は期待を込めて西田に訊いた。
「西田。グラスの中身がニンジンジュースだってことは分かった。俺が訊きたいのは何でニンジンジュースがここにあるのかってことだ」
だが西田の口から出たのは司が期待していた言葉ではなかった。
「はい。こちらは今朝北海道から送られて来たニンジンジュースでございます。只今北海道はニンジン収穫の真っただ中です。その中から選りすぐりのニンジンをジュースにしたもので、あちらでは魔法のニンジンジュースと呼ばれているそうです。それを支社長に飲んでいただきたいと先日の社内対抗のど自慢大会に出場した札幌支店の人間が送ってきました。
ニンジンは緑黄色野菜の代表格であり年中手に入り栄養価も高い野菜ではありますが、それだけを食べるとなりますと馬以外難しいものがあります。ですがジュースにすることで簡単に口にすることができ栄養素を取り入れることが出来ます。
最近の支社長は夜の接待が続いております。それについては毎晩遅くまで仕事をしていただき感謝しておりますが先程の昼食も料亭での会食です。
いえ。決して料亭の料理が悪い。食生活が乱れているとは申しませんが高価なものばかり食べておりますと栄養のバランスが偏ることになります。
つまり今の支社長は偏食傾向にあります。ですからこちらのニンジンジュースをお飲みいただければと思います。
それから余談ではございますが、北海道の牧場で余生を送るツカサブラックとツクシハニーはこちらのニンジンが大好きだと申しておりました。と、いうことから馬主である支社長にも是非同じニンジンから作られたジュースをお飲みいただければあの二頭も喜ぶと思います」
ニンジンジュースは恋人からの差し入れではなかった。
だから司は滔々と持論を展開する西田に煩いとばかりに「ああ、分かった。もういい。飲めばいいんだろうが。飲めば」と言いうとオレンジ色の液体が入ったグラスを掴んだ。
そして西田が執務室を出て行くと、秘書の言うことも一理あると思った。
つい先日の健康診断でコレステロール値の上昇が見られる。もう少し野菜を積極的に召し上がって下さいと医師から言われたところだ。それにさっき料亭で食べた料理が少し胃にもたれているような気がしていた。だからジュースを飲み干すと書類に目を通す前に少し休もうと目を閉じた。
司は女性用下着製造販売会社で取締役『ときめくブラ』事業本部長を務めていた。
会社は女性の下着が専門だからといって女性だけが働いているのではない。
それに会社は男性だから女性だからといった区別はなく、男性の意見も女性の意見も尊重していた。
だから男の司が女性のための下着を作る会社で本部長を務めることに差し障りなどあろうはずがなく、むしろ若くてイケメンの取締役の司は女性社員から人気があった。
そして司は、『ときめくブラ』シリーズの新作のブラジャーについての会議に出席していたが、そこにいるひとりの女性のことが気になっていた。
その女性は牧野つくし。
1年前に転職して来て司の部下になった彼女は司よりひとつ年下の29歳。
年のわりには若く見え、黒い大きな瞳がキラキラと輝き白く透き通るような肌の持ち主だ。
司は、そんな彼女から試作品である新作のブラジャーの付け心地についての報告を訊いていた。
「ブラジャーは女性の身体を美しくメイクするものです。寄せて上げるブラジャーは今では当たり前の存在です。ですが繊細な女性の身体を優しく包むものでなければなりません。
下着は直接肌につけるものですから肌にストレスを与えるようなものではいけません。
その点こちらのブラジャーは世界の厳選された素材を使い、縫製は日本一の技術を誇る我社ならではのものです。つまり丁寧な日本の縫製技術は肌あたりが優しく感じられます。
そしてデザインも日本人女性が好む可愛らしさを踏まえつつもセクシーさが感じられます。
大人の女性の魅力といったものも、このブラジャーからは感じることが出来るはずです。
年頃の女性は恋人が自分の下着姿をどう思うかを気にしています。可愛く見える方がいいか。それともセクシーに見える方がいいか。相手によって使い分けることがあると思います。そういった時、こちらのブラジャーはどちらのシーンでも対応できるのではないでしょうか?」
司は彼女の発言に頷いた。
そして進行役が他の社員からの意見を取りまとめると、最後に司に会議のしめくくりを求め会議は終了した。
午後8時を少し過ぎた頃。
司は人けのない資料室で雑誌をめくっている彼女の後ろに立った。
「牧野」
「キャッ!ああ、びっくりした。もう、どうしたんですか部長?」
振り向いた彼女は心底驚いた様子で司を見た。
「ああ。資料室に明かりがついているのが見えたんでな。誰がいるのか気になって来てみたがお前か。どうした何か探し物か?」
「はい。過去の広告が気になって。それで訊けば過去にうちの商品が掲載された雑誌がここに保管してあるというので探していたところです」
「そうか。それで目あての記事は見つかったのか?」
「はい。でも今日はもう帰ります。資料は明日またゆっくり見ることにします」
彼女はそう言って腕時計に目を落とした。
「それなら牧野。これから食事に付き合ってくれ。どうせまだなんだろ?それにしても今日の会議だがまさかお前からあのブラジャーの付け心地についての報告を訊くとは思わなかった。だからその話もゆっくり訊きたい」
すると彼女は少し考え、「では鞄を取って来ます」と言って司の誘いに応じた。

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部屋の中は明るかった。
つくしは目覚めたとき大きなベッドの真ん中に横たわっていたが、服は着ておらずバスローブを着ていた。
何故自分がこんな姿でここにいるのか。レコーディングを終えプロデューサーの道明寺司に飲みに行こうと誘われ、バーに着いてからジントニックを飲んだ後の記憶が無かった。
起き上がって顏にかかっていた髪を振り払い、バスローブをかき合わせ辺りを見回した。
そしてここがメープルの一室であることに気付いたのは、壁に掛けられている絵が印象的なもので見覚えのあるものだったからだ。
そうだ。つくしは以前この部屋に来たことがある。
それは道明寺司がこの部屋を自分の部屋として使用していて、打ち合わせで何度か訪れたことがあったからだ。
つくしを見出した道明寺司は、道明寺財閥の御曹司だが家業を継ぐことはなく音楽の道に入った。
それは御曹司のほんの気まぐれかと思われていたが、彼には音楽の才能があった。
そして俳優だと言われてもおかしくないその外見から女性にモテる男だった。
だから常に大勢の女性が彼の傍にいた。
そんな男のプロデューサーとしての才能は他の誰よりも秀でていて数多くの歌手を世に送り出した。
つくしは、その男に好きだと言われた。だが彼女は好きな人がいる。だから歌手を辞め、その人の傍にいたいと言った。
すると、好きだと言われ抱きしめられたが、つくしは彼の気持ちに気付いていた。
だが気付かないフリをしてきた。そうしなければ一緒に仕事をすることが出来なかったからだ。二人は仕事上の良きパートナー。そう思うようにしてきた。
だから気付いていたとはいえ、突然の告白にどう答えればいいのか分からず言葉に詰まった。たが彼は「分かった」と言って話はそれで終わった。
しかし、この状況からすれば話はそれで終わってはいなかったということになる。
バーでジントニックを飲んだ後のことは覚えていないということは、薬か何かが入った酒を飲まされたということになるが、これからどうすればいいのか。
ベッドに腰かけ考えていたが、逃げ出そうにも着ていた洋服は何処かへ持ち去られ着るものがない。
その時だった。
カチリと音がして扉が開き彼が入って来た。
そして後ろ手に扉を閉めると鍵をかけたのが分かった。
「気が付いたか?」
「気が付いたかって。こんなことしてどういうつもりなの?」
つくしはバスローブをかき合わせた姿勢で言った。
「どういうつもりか?」
「そうよ」
「つくし。俺はお前を諦めることが出来そうにない。それはお前の周りに大きな金が動いているからじゃない。その才能を終わらせることもだが、お前が俺の傍からいなくなることに耐えられそうにない。それに俺は本当にお前のことが好きだ。いや好き以上だ。愛してる。お前を放したくない」
司は言うと、着ている服を床に脱ぎ捨てながら彼女に近づいた。
そして驚いて司を見上げる大きな瞳をした女の頬に手を添え言った。
「俺はお前が欲しい。これまで出会ったどんなに才能豊かな歌手よりも、どんな美人の女優よりもお前の事が愛おしくてたまらない。歌手の代わりならいくらでもいる。女優の代わりもいくらでもいる。だが俺にはお前しか見えない。だから相手の男が誰であっても、その男にお前を渡すつもりはない」
司はつくしをベッドに押し倒すとローブを脱がせようとした。
「いや!道明寺!止めて!こんなことしないで!」
「暴れるな。暴れても無駄だ。男の力に女が敵うはずがない」
「違うの!道明寺!止めて!お願い訊いて!」
「何が違う?お前は俺じゃない男が好きなんだろ?」
「違うのよ!お願い訊いて!私が……私が好きなのはあなたなの!私が歌手を辞めて傍にいたいと思う人はあなたなの!」
「…..つくし」
司は押し倒した女の頬を流れる涙に気付いた。
「最近のあなたはどこか遠い眼をしてる。時々寂しそうな表情を浮かべてるわ。それはあなたのお姉さまが亡くなったことに関係あるんでしょ?あなたはお姉さまとは仲がよかった。それに私もお姉さまには大変よくしていただいた。お姉さまがお亡くなりになってからのあなたはひとりになったと思っているんでしょ?私はそんなあなたの傍にいたい。ひとりの女性としてあなたを支えたいの。だから歌手を辞めてあなたの傍であなたの仕事の支えになりたいの。だからいつかあなたに私の気持ちを伝えるつもりでいた。でも何か言おうにも言葉が見つからなかったの」
司は半年前に姉である椿を病気で亡くした。
そしてそれからの司は心の拠り所だった姉を亡くしたことで気持ちが沈むことがあった。
「つくし。お前、本当に俺のことが好きなのか?」
「ええ。好きよ。長い間歌手とプロデューサーとして過ごして来たけど、司のことが好きだった。ずっとあなたが好きだったわ」
「つくし……」
「司…..」
司はベッドに押し倒した女の髪に触れ、それから頬に手を触れた。
そして唇を重ねるため顏を近づけ_____
「支社長。それ以上お顔を書類に近づけるのはお止め下さい。そちらに欲しいのはサインであって唇ではございません」
司は西田の声に目を開いたが、目の前には手にしていた書類があった。
「あほう!こ、これは字が小さすぎて読めねえから顏を近づけただけだ!」
「そうですか。それではルーペをお持ちいたしましょうか?わたくしの私物ではございますがブルーライトがカットされている日本製で大変よく見えます。それから先日うっかりその上に腰を下ろしてしまいましたが壊れない優れものでございます」
司は西田の言葉を無視して書類を読むとサインをした。
「ねえ。海外事業本部の牧野さん。今までのど自慢大会出たことがなかったけど、彼女、上手いわね?」
「本当ね。あの伸びやかな声。凄いじゃない?それになりきってるって言うの?雰囲気までそっくりだったわ。もしかして優勝は彼女かもね?」
司は初めて社内対抗のど自慢大会の審査員として席に着いていた。
それは恋人が出場しているからだが、恋人からのど自慢大会に出ると訊かされ、どんなに多忙だろうとその日の夜はスケジュールを入れさせなかった。
そして社内行事とは言え本気の勝負。
だから恋人からは喉を労わりたいからと言って数日前からは愛し合うのも禁止となった。
会場は会社の近くのホールを貸し切り演奏はオーケストラによる生演奏。
司は恋人が心を込めて歌う曲を訊いていたが、『ブレーキランプ5回点滅。愛してるのサイン』という歌詞に、これからはそうしようと思った。
そして司会者が、「それでは最後の方です。どうぞ!」と言ってオーケストラが演奏を始めたのは、どこか悲しげなメロディー。
照明は少し暗めから徐々に明るくなり舞台の袖から出て来たのは、着物姿で日本髪を結った女性。その女性が『上野発の夜行列車おりた時から 青森駅は雪の中』と歌い始めて司は腰が抜けた。
「お、お袋!?」
舞台で恋に終止符を打った女の悲しみを歌うのは道明寺楓。
その時、以前秘書課の女性が話していた言葉が頭を過った。
『あの方にそんな暇ないわ』
『あの方は多忙を極めてるわ』
確かにあの方にそんな暇はない。
それにあの方は多忙を極めている。
そうだ。確か今朝はスイスにいたはずだ。
だがこの大会に出るために過密スケジュールをやり繰りして、わざわざスイスから来た。
そして大物演歌歌手並の堂々とした態度で歌う社長の登場に会場が息を呑んでいるのが分かった。
やがて天井から雪を表す白い紙がハラハラと舞い落ちて来たが、舞台中央で歌う女は冬の津軽海峡を越え北海道へ帰る女の気持ちを切々と歌った。
そして津軽海峡の冬景色を歌い上げると視線は見えるはずのない津軽半島の北の果てにある竜飛岬を見ていた。
「いやあ。まさか楓社長がいらっしゃるとは思いませんでしたが、今年の優勝は楓社長ですな」
司の隣にいる専務はそう言うと、「もちろん忖度などしておりません」と言葉を継いだが、他の審査員も同感だといった風に頷いた。
「ねえ。道明寺。まさかお母さまが参加されるとは思わなかったけど、お上手ね?」
司は帰りの車の中で恋人からそう言われ「そうか?」としか答えなかったが優勝したのは母親だった。
司は母親が歌を歌うのを初めて見た。
そして恋人の熱唱も。
つまり司は期せずして自分にとって大切な女性二人の本気の歌を訊いたことになるが、やはり恋人の方が上手いと思った。
だが思った。
もしかすると将来恋人も母親のように着物姿でああいった歌を歌うようになるのではないかということを。
だが司は嫌いではない。
人の心情を切々と歌い上げる母親の姿に何かを見たような気がしたからだ。
それは自分の気持ちを歌で表すということだが、司も自分の気持ちを受け止めて欲しいという思いからある歌を口ずさんだ。
だがそれは彼女だけに届けばいい歌声。
だから司は恋人の耳元に唇を寄せると、彼女のためだけに愛の歌を囁いていた。

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つくしは目覚めたとき大きなベッドの真ん中に横たわっていたが、服は着ておらずバスローブを着ていた。
何故自分がこんな姿でここにいるのか。レコーディングを終えプロデューサーの道明寺司に飲みに行こうと誘われ、バーに着いてからジントニックを飲んだ後の記憶が無かった。
起き上がって顏にかかっていた髪を振り払い、バスローブをかき合わせ辺りを見回した。
そしてここがメープルの一室であることに気付いたのは、壁に掛けられている絵が印象的なもので見覚えのあるものだったからだ。
そうだ。つくしは以前この部屋に来たことがある。
それは道明寺司がこの部屋を自分の部屋として使用していて、打ち合わせで何度か訪れたことがあったからだ。
つくしを見出した道明寺司は、道明寺財閥の御曹司だが家業を継ぐことはなく音楽の道に入った。
それは御曹司のほんの気まぐれかと思われていたが、彼には音楽の才能があった。
そして俳優だと言われてもおかしくないその外見から女性にモテる男だった。
だから常に大勢の女性が彼の傍にいた。
そんな男のプロデューサーとしての才能は他の誰よりも秀でていて数多くの歌手を世に送り出した。
つくしは、その男に好きだと言われた。だが彼女は好きな人がいる。だから歌手を辞め、その人の傍にいたいと言った。
すると、好きだと言われ抱きしめられたが、つくしは彼の気持ちに気付いていた。
だが気付かないフリをしてきた。そうしなければ一緒に仕事をすることが出来なかったからだ。二人は仕事上の良きパートナー。そう思うようにしてきた。
だから気付いていたとはいえ、突然の告白にどう答えればいいのか分からず言葉に詰まった。たが彼は「分かった」と言って話はそれで終わった。
しかし、この状況からすれば話はそれで終わってはいなかったということになる。
バーでジントニックを飲んだ後のことは覚えていないということは、薬か何かが入った酒を飲まされたということになるが、これからどうすればいいのか。
ベッドに腰かけ考えていたが、逃げ出そうにも着ていた洋服は何処かへ持ち去られ着るものがない。
その時だった。
カチリと音がして扉が開き彼が入って来た。
そして後ろ手に扉を閉めると鍵をかけたのが分かった。
「気が付いたか?」
「気が付いたかって。こんなことしてどういうつもりなの?」
つくしはバスローブをかき合わせた姿勢で言った。
「どういうつもりか?」
「そうよ」
「つくし。俺はお前を諦めることが出来そうにない。それはお前の周りに大きな金が動いているからじゃない。その才能を終わらせることもだが、お前が俺の傍からいなくなることに耐えられそうにない。それに俺は本当にお前のことが好きだ。いや好き以上だ。愛してる。お前を放したくない」
司は言うと、着ている服を床に脱ぎ捨てながら彼女に近づいた。
そして驚いて司を見上げる大きな瞳をした女の頬に手を添え言った。
「俺はお前が欲しい。これまで出会ったどんなに才能豊かな歌手よりも、どんな美人の女優よりもお前の事が愛おしくてたまらない。歌手の代わりならいくらでもいる。女優の代わりもいくらでもいる。だが俺にはお前しか見えない。だから相手の男が誰であっても、その男にお前を渡すつもりはない」
司はつくしをベッドに押し倒すとローブを脱がせようとした。
「いや!道明寺!止めて!こんなことしないで!」
「暴れるな。暴れても無駄だ。男の力に女が敵うはずがない」
「違うの!道明寺!止めて!お願い訊いて!」
「何が違う?お前は俺じゃない男が好きなんだろ?」
「違うのよ!お願い訊いて!私が……私が好きなのはあなたなの!私が歌手を辞めて傍にいたいと思う人はあなたなの!」
「…..つくし」
司は押し倒した女の頬を流れる涙に気付いた。
「最近のあなたはどこか遠い眼をしてる。時々寂しそうな表情を浮かべてるわ。それはあなたのお姉さまが亡くなったことに関係あるんでしょ?あなたはお姉さまとは仲がよかった。それに私もお姉さまには大変よくしていただいた。お姉さまがお亡くなりになってからのあなたはひとりになったと思っているんでしょ?私はそんなあなたの傍にいたい。ひとりの女性としてあなたを支えたいの。だから歌手を辞めてあなたの傍であなたの仕事の支えになりたいの。だからいつかあなたに私の気持ちを伝えるつもりでいた。でも何か言おうにも言葉が見つからなかったの」
司は半年前に姉である椿を病気で亡くした。
そしてそれからの司は心の拠り所だった姉を亡くしたことで気持ちが沈むことがあった。
「つくし。お前、本当に俺のことが好きなのか?」
「ええ。好きよ。長い間歌手とプロデューサーとして過ごして来たけど、司のことが好きだった。ずっとあなたが好きだったわ」
「つくし……」
「司…..」
司はベッドに押し倒した女の髪に触れ、それから頬に手を触れた。
そして唇を重ねるため顏を近づけ_____
「支社長。それ以上お顔を書類に近づけるのはお止め下さい。そちらに欲しいのはサインであって唇ではございません」
司は西田の声に目を開いたが、目の前には手にしていた書類があった。
「あほう!こ、これは字が小さすぎて読めねえから顏を近づけただけだ!」
「そうですか。それではルーペをお持ちいたしましょうか?わたくしの私物ではございますがブルーライトがカットされている日本製で大変よく見えます。それから先日うっかりその上に腰を下ろしてしまいましたが壊れない優れものでございます」
司は西田の言葉を無視して書類を読むとサインをした。
「ねえ。海外事業本部の牧野さん。今までのど自慢大会出たことがなかったけど、彼女、上手いわね?」
「本当ね。あの伸びやかな声。凄いじゃない?それになりきってるって言うの?雰囲気までそっくりだったわ。もしかして優勝は彼女かもね?」
司は初めて社内対抗のど自慢大会の審査員として席に着いていた。
それは恋人が出場しているからだが、恋人からのど自慢大会に出ると訊かされ、どんなに多忙だろうとその日の夜はスケジュールを入れさせなかった。
そして社内行事とは言え本気の勝負。
だから恋人からは喉を労わりたいからと言って数日前からは愛し合うのも禁止となった。
会場は会社の近くのホールを貸し切り演奏はオーケストラによる生演奏。
司は恋人が心を込めて歌う曲を訊いていたが、『ブレーキランプ5回点滅。愛してるのサイン』という歌詞に、これからはそうしようと思った。
そして司会者が、「それでは最後の方です。どうぞ!」と言ってオーケストラが演奏を始めたのは、どこか悲しげなメロディー。
照明は少し暗めから徐々に明るくなり舞台の袖から出て来たのは、着物姿で日本髪を結った女性。その女性が『上野発の夜行列車おりた時から 青森駅は雪の中』と歌い始めて司は腰が抜けた。
「お、お袋!?」
舞台で恋に終止符を打った女の悲しみを歌うのは道明寺楓。
その時、以前秘書課の女性が話していた言葉が頭を過った。
『あの方にそんな暇ないわ』
『あの方は多忙を極めてるわ』
確かにあの方にそんな暇はない。
それにあの方は多忙を極めている。
そうだ。確か今朝はスイスにいたはずだ。
だがこの大会に出るために過密スケジュールをやり繰りして、わざわざスイスから来た。
そして大物演歌歌手並の堂々とした態度で歌う社長の登場に会場が息を呑んでいるのが分かった。
やがて天井から雪を表す白い紙がハラハラと舞い落ちて来たが、舞台中央で歌う女は冬の津軽海峡を越え北海道へ帰る女の気持ちを切々と歌った。
そして津軽海峡の冬景色を歌い上げると視線は見えるはずのない津軽半島の北の果てにある竜飛岬を見ていた。
「いやあ。まさか楓社長がいらっしゃるとは思いませんでしたが、今年の優勝は楓社長ですな」
司の隣にいる専務はそう言うと、「もちろん忖度などしておりません」と言葉を継いだが、他の審査員も同感だといった風に頷いた。
「ねえ。道明寺。まさかお母さまが参加されるとは思わなかったけど、お上手ね?」
司は帰りの車の中で恋人からそう言われ「そうか?」としか答えなかったが優勝したのは母親だった。
司は母親が歌を歌うのを初めて見た。
そして恋人の熱唱も。
つまり司は期せずして自分にとって大切な女性二人の本気の歌を訊いたことになるが、やはり恋人の方が上手いと思った。
だが思った。
もしかすると将来恋人も母親のように着物姿でああいった歌を歌うようになるのではないかということを。
だが司は嫌いではない。
人の心情を切々と歌い上げる母親の姿に何かを見たような気がしたからだ。
それは自分の気持ちを歌で表すということだが、司も自分の気持ちを受け止めて欲しいという思いからある歌を口ずさんだ。
だがそれは彼女だけに届けばいい歌声。
だから司は恋人の耳元に唇を寄せると、彼女のためだけに愛の歌を囁いていた。

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神々しい横顔をした男がいる。
その男はまだ若く若さには自惚れが付きものだと言うが男の辞書に自惚れという文字はない。
だが世間はそれを自惚れと言うかもしれないが、男は世界中の誰もが認めるほどいい男だ。
だから、やはり自惚れという言葉は彼には当てはまらなかった。
そんな男が支社長を務める会社で毎年開催されるイベントがある。
それは社内対抗のど自慢大会。
大声で歌を歌うことでストレスを発散することが出来るが、のど自慢大会は日常からの解放であり、働き方改革のひとつで数年前から実施されていた。
大会は各部署の一番歌が上手い人間が出場するが、日曜の昼間に放送される某国営放送の番組とは違い、鐘が鳴ったら終わりではなく最後まで歌い切ることが出来る。
そして優勝者を出した部署に贈られるのは、支社長のポケットマネーからの金一封の百万円。その金をどう使おうと部署の自由。
だからどの部署も気合いを入れて歌い手を送り出すのだが、当然のことながらメイクも衣装もバッチリ。演出にも凝っていてシュレッダーの紙吹雪が舞い、銀テープが乱れ飛ぶ中、バックダンサーもいて本格的な舞台を見ることが出来た。
本気の仕事をする社員たちの本気ののど自慢大会。
そんな大会にある人物が出るという噂があるのだから誰もが驚いた。
「ねえ。あの噂本当だと思う?」
「う~ん。でも所詮噂でしょ?だってうちの会社の噂って噂の域を出たことがないでしょ?だから今回のその話も噂だと思うわ」
「そうよねえ……。それにあの方にそんな暇ないわよね?」
「そうよ。あの方は多忙を極めてるわ。だから社内対抗のど自慢大会に出るとは思えないわ」
最上階のフロアの片隅で交わされる重役付き秘書たちの話ぶりは落ち着いていた。
そしてその話を耳にした男は執務室に戻ると、先日恋人が作ってくれた自分の顏を模したクッキーを口に入れコーヒーを飲んだ。
必ず食べるようにと言われたクッキー。だから保存することなく毎日数枚ずつ食べていた。
多忙を極めるあの方と言われる人物の名前は道明寺司。
最上階の執務室が彼の職場であり、社内で見かけるチャンスは殆どなく、見かけるとすればビルの入口からエレベーターまで歩く短い距離。
そしてその男の声は魅惑のバリトンボイスと言われ、訊く者をうっとりさせる声をしているが、そんな男が社内対抗のど自慢大会に出る。そんな噂が社内に流れているが、そんなことは露ほども知らない男は、海外事業本部から牧野つくしが出場するという話を訊いて驚いた。
牧野がのど自慢大会で歌を歌う?
司はそんな話を本人の口からは訊いていない。
それに彼女が歌を歌っているところを見たこともなければ、訊いたこともない。
いや。料理をしながらの鼻歌なら訊いたことはあるがマイクを手に本格的に歌う姿を見たことがなかった。
だから上手いのか下手なのか分からなかった。
だが部の代表として出るからには上手いのだろう。
高校時代から付き合っている彼女が訊く歌は、いわゆる歌謡曲と呼ばれるものが多く、司が知らない歌手の曲も多かった。
だから司は彼女がどんな歌を歌うのか興味があった。
そこで司は彼女がもし歌手だったらと想像した。
真夜中のスタジオにいるのは人気歌手、牧野つくし。
そして司は敏腕と言われる音楽プロデューサーで、これまでも彼女の曲を数多く手掛けて来た。
司が彼女と出会ったのは新人歌手発掘のためのオーデション会場。
名前を呼ばれて入って来た時の第一印象は、化粧気もなく髪の毛を三つ編みにした地味でさえない子だと思った。
だが彼女の歌を訊いた瞬間、この子だと思った。
そしてオーデションを勝ち抜き、スポットライトを浴び歌う姿を見たとき間違いなくスターになると思ったが、ほどなくして司のプロデュースした曲を歌った彼女はすぐに売っ子の歌手になった。
それからは、まさにスターという言葉に相応しい活躍。
出す曲は全てミリオンセラー。
コンサートをすると決まればチケットは即完売。
それはまさに歌手として順風満帆な人生。
そして司はそんな彼女と共に曲作りをすることが楽しかった。
「今の音。もう一度プレイバックしてくれる?」
「どうした?まだ気になるところがあるのか?」
「ええ。ちょっとね」
「そうか。分かった。それで?どこから流す?」
「ダルセーニョからお願い」
司はその言葉に頷くと音を流した。
そして彼女はソファにもたれ目を閉じスタジオに流れる音に耳を傾けていた。
「ほら今の音。ちょっとキーが低いと思わない?だからもう一度取り直したいわ」
「そうか?俺にはこの音程が一番いいと思うが?」
「ダメよ。私の声はどうしても低くなりがちなの。だからもう一度お願い」
彼女はそう言ってガラスの向こう側に行くとヘッドフォンを付け、彼に向かって頷いた。
そして耳から流れる音楽に合わせ歌い始めたが、その歌声は訊く者の心を揺さぶるような切ない声をしていた。
司は彼女の声が好きだ。
これまで大勢の歌手を育てて来たが彼女ほど才能がある歌手はいないと思っていた。
だから彼女が望めばどんなことでもしてやるつもりでいた。
だがこのレコーディングを始める前、彼女から思いもしないことを告げられていた。
それは、このアルバムを最後に引退しようと思っているという言葉。
もちろん司は理由を訊いた。
「今、なんて言った?どうして歌手を辞める?君はスターだぞ?今、日本で一番売れている女性歌手だ。君はステージの上では輝いている。君の声は人の心を癒す。それなのに何故なんだ?」
「好きな人がいるの。だから歌手を辞めようと思うの。辞めてその人の傍にいたいの」
そんな彼女の言葉には歌手として大勢の人の前で歌うよりも、たったひとりの人の傍にいたいという思いが込められていた。
司は彼女の口から語られた言葉にショックを受けた。
何故なら彼はプロデューサーという立場だが彼女に恋をしていたから。
だから自分の恋は終わったことを知った。
言葉がもどかしい時というものがある。
だから司は彼女を抱きしめ言った。
「つくし。俺はお前のことが好きだ。初めはお前を単なる歌い手と見ていた。だが違う。いつの頃からかお前に恋をしている自分がいることに気付いた。だから俺がお前のために書いた曲は俺の気持ちが込められている」
「ええ。気付いていたわ。あなたの気持ちには……。だから私は___」
司は、それ以上の言葉を訊きたくなかった。
だから抱きしめていた腕を解くと背中を向けた。
そして「分かった」とだけ言ってレコーディングを始めようと言った。
だが心の中では彼女を奪った相手の男に対しての憎悪というものがあった。
そして同時に湧き上がったのは、彼女を他の男に渡したくはないという気持ちだった。

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その男はまだ若く若さには自惚れが付きものだと言うが男の辞書に自惚れという文字はない。
だが世間はそれを自惚れと言うかもしれないが、男は世界中の誰もが認めるほどいい男だ。
だから、やはり自惚れという言葉は彼には当てはまらなかった。
そんな男が支社長を務める会社で毎年開催されるイベントがある。
それは社内対抗のど自慢大会。
大声で歌を歌うことでストレスを発散することが出来るが、のど自慢大会は日常からの解放であり、働き方改革のひとつで数年前から実施されていた。
大会は各部署の一番歌が上手い人間が出場するが、日曜の昼間に放送される某国営放送の番組とは違い、鐘が鳴ったら終わりではなく最後まで歌い切ることが出来る。
そして優勝者を出した部署に贈られるのは、支社長のポケットマネーからの金一封の百万円。その金をどう使おうと部署の自由。
だからどの部署も気合いを入れて歌い手を送り出すのだが、当然のことながらメイクも衣装もバッチリ。演出にも凝っていてシュレッダーの紙吹雪が舞い、銀テープが乱れ飛ぶ中、バックダンサーもいて本格的な舞台を見ることが出来た。
本気の仕事をする社員たちの本気ののど自慢大会。
そんな大会にある人物が出るという噂があるのだから誰もが驚いた。
「ねえ。あの噂本当だと思う?」
「う~ん。でも所詮噂でしょ?だってうちの会社の噂って噂の域を出たことがないでしょ?だから今回のその話も噂だと思うわ」
「そうよねえ……。それにあの方にそんな暇ないわよね?」
「そうよ。あの方は多忙を極めてるわ。だから社内対抗のど自慢大会に出るとは思えないわ」
最上階のフロアの片隅で交わされる重役付き秘書たちの話ぶりは落ち着いていた。
そしてその話を耳にした男は執務室に戻ると、先日恋人が作ってくれた自分の顏を模したクッキーを口に入れコーヒーを飲んだ。
必ず食べるようにと言われたクッキー。だから保存することなく毎日数枚ずつ食べていた。
多忙を極めるあの方と言われる人物の名前は道明寺司。
最上階の執務室が彼の職場であり、社内で見かけるチャンスは殆どなく、見かけるとすればビルの入口からエレベーターまで歩く短い距離。
そしてその男の声は魅惑のバリトンボイスと言われ、訊く者をうっとりさせる声をしているが、そんな男が社内対抗のど自慢大会に出る。そんな噂が社内に流れているが、そんなことは露ほども知らない男は、海外事業本部から牧野つくしが出場するという話を訊いて驚いた。
牧野がのど自慢大会で歌を歌う?
司はそんな話を本人の口からは訊いていない。
それに彼女が歌を歌っているところを見たこともなければ、訊いたこともない。
いや。料理をしながらの鼻歌なら訊いたことはあるがマイクを手に本格的に歌う姿を見たことがなかった。
だから上手いのか下手なのか分からなかった。
だが部の代表として出るからには上手いのだろう。
高校時代から付き合っている彼女が訊く歌は、いわゆる歌謡曲と呼ばれるものが多く、司が知らない歌手の曲も多かった。
だから司は彼女がどんな歌を歌うのか興味があった。
そこで司は彼女がもし歌手だったらと想像した。
真夜中のスタジオにいるのは人気歌手、牧野つくし。
そして司は敏腕と言われる音楽プロデューサーで、これまでも彼女の曲を数多く手掛けて来た。
司が彼女と出会ったのは新人歌手発掘のためのオーデション会場。
名前を呼ばれて入って来た時の第一印象は、化粧気もなく髪の毛を三つ編みにした地味でさえない子だと思った。
だが彼女の歌を訊いた瞬間、この子だと思った。
そしてオーデションを勝ち抜き、スポットライトを浴び歌う姿を見たとき間違いなくスターになると思ったが、ほどなくして司のプロデュースした曲を歌った彼女はすぐに売っ子の歌手になった。
それからは、まさにスターという言葉に相応しい活躍。
出す曲は全てミリオンセラー。
コンサートをすると決まればチケットは即完売。
それはまさに歌手として順風満帆な人生。
そして司はそんな彼女と共に曲作りをすることが楽しかった。
「今の音。もう一度プレイバックしてくれる?」
「どうした?まだ気になるところがあるのか?」
「ええ。ちょっとね」
「そうか。分かった。それで?どこから流す?」
「ダルセーニョからお願い」
司はその言葉に頷くと音を流した。
そして彼女はソファにもたれ目を閉じスタジオに流れる音に耳を傾けていた。
「ほら今の音。ちょっとキーが低いと思わない?だからもう一度取り直したいわ」
「そうか?俺にはこの音程が一番いいと思うが?」
「ダメよ。私の声はどうしても低くなりがちなの。だからもう一度お願い」
彼女はそう言ってガラスの向こう側に行くとヘッドフォンを付け、彼に向かって頷いた。
そして耳から流れる音楽に合わせ歌い始めたが、その歌声は訊く者の心を揺さぶるような切ない声をしていた。
司は彼女の声が好きだ。
これまで大勢の歌手を育てて来たが彼女ほど才能がある歌手はいないと思っていた。
だから彼女が望めばどんなことでもしてやるつもりでいた。
だがこのレコーディングを始める前、彼女から思いもしないことを告げられていた。
それは、このアルバムを最後に引退しようと思っているという言葉。
もちろん司は理由を訊いた。
「今、なんて言った?どうして歌手を辞める?君はスターだぞ?今、日本で一番売れている女性歌手だ。君はステージの上では輝いている。君の声は人の心を癒す。それなのに何故なんだ?」
「好きな人がいるの。だから歌手を辞めようと思うの。辞めてその人の傍にいたいの」
そんな彼女の言葉には歌手として大勢の人の前で歌うよりも、たったひとりの人の傍にいたいという思いが込められていた。
司は彼女の口から語られた言葉にショックを受けた。
何故なら彼はプロデューサーという立場だが彼女に恋をしていたから。
だから自分の恋は終わったことを知った。
言葉がもどかしい時というものがある。
だから司は彼女を抱きしめ言った。
「つくし。俺はお前のことが好きだ。初めはお前を単なる歌い手と見ていた。だが違う。いつの頃からかお前に恋をしている自分がいることに気付いた。だから俺がお前のために書いた曲は俺の気持ちが込められている」
「ええ。気付いていたわ。あなたの気持ちには……。だから私は___」
司は、それ以上の言葉を訊きたくなかった。
だから抱きしめていた腕を解くと背中を向けた。
そして「分かった」とだけ言ってレコーディングを始めようと言った。
だが心の中では彼女を奪った相手の男に対しての憎悪というものがあった。
そして同時に湧き上がったのは、彼女を他の男に渡したくはないという気持ちだった。

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「ねえ。萌え萌えの支社長ってどんな感じだと思う?」
「え!?支社長が萌え萌え?キャー。そんなの想像出来ないけど見て見たい!」
「そうでしょ?でも想像出来ないって言うのか。想像しちゃダメなのか。とにかく萌え萌えの支社長がそこにいるとすれば、あんたも行くでしょ?」
「うん。行く、行く、もちろん行くわよ!道明寺支社長がいるなら絶対に行くわ!あたしあの低くてセクシーでちょっと卑猥に聞こえる声で名前呼ばれたら失神しちゃうかも!」
「キャー。同じよ!同じ!あの声で香織って呼ばれたらあたし失禁しちゃうかも!あたしにとって支社長は神に近い存在よ!あたし支社長とデート出来るなら全財産投げ出してもいいわ!それにあたし毎日支社長に会えるように祈ってるの!でも偶然の出会いってないのよねえ。でもいつか支社長があたしの前に現れて『香織。俺と付き合ってくれ』って言ってくれるのを待ってるわ!」
後ろ姿に背徳感がありすぎる男は女子社員の会話に背を向けその場を離れたが、聞こえてくる声は何かを祈っているように聞こえた。
人を祈る気持ちにさせる男はもはや宗教家。
だが司は宗教家ではく企業家だ。
それにしても「もえもえ」って何だ?
それに行くってのはどういう意味だ?
司は女子社員の会話に出て来た「もえもえ」という言葉の意味が分からなかったが、思い浮かぶのは「燃え燃え」。
つまりあの女子社員が言っているのは、司が燃える男と言っているのだと思った。
何しろ司は熱い男と言われたことがある。だからその熱さで何かが燃えるという意味なら「もえもえ」を漢字に変換するなら「燃え燃え」で合っているはずだ。
いや。だがよく分からない言葉の意味を放置しておくのは良くない。
だから司は執務室に戻ると秘書に訊いた。
「おい、西田。お前『もえもえ』って言葉を知ってるか?」
「もえもえ…..ですか?」
「ああ。さっき若い女子社員が廊下で話してたんだが、さっぱり意味が分かんねぇ。それに行くと言ってたがどういう意味か分かるか?」
西田は支社長がまた社内を徘徊していたのかと思ったが、30分くらいなら業務に差し障りのない許容範囲内だと認めていた。
だから30分で大人しく戻ってきた男に多分こうだろうと思うことを言った。
「恐らくですが女子社員が言った『もえもえ』と言うのは、ある物や人物に対し、一方的に強い愛着心や情熱、欲望といった気持ちを抱くことです。ですから漢字にすると草冠に明暗を分けるの「明」を組み合わせて萌えという漢字になります。すなわち『萌え萌え』というのは、その愛着を抱く対象に酷く心を奪われている。盲目的に愛しているということでしょうか」
愛着心。
情熱。
欲望。
盲目的。
司は、その言葉の全てが、自分が恋人に対して抱く感情と同じだと思った。
けれど司と恋人との関係は一方的ではない。
二人は相思相愛であり立場は対等だ。
だが気になるのは行くと言うことだが、一体どこに行くというのか?
「それで西田。行くってのは、どういう意味だ?」
「はい。恐らくそれは萌えの対象がいる店に行くという意味ではないでしょうか」
その時、西田の頭を過ったのは少し前に流行ったメイドカフェという言葉。
だがその言葉を口に出すことはなかった。
何故なら話をしていたのは若い女子社員だというのだから、女性がメイドカフェに足しげく通うというよりも別の場所に行くのではないかと考えた。
つまりそれは彼女たちの萌えの対象となる男性がいるであろう場所と言えば____
「ホストクラブ?」
「はい。やはり妙齢の女性が店に行くとすればホストクラブではないでしょうか?ですが悪いことにホストクラブで働く男性に入れ上げるあまり身を持ち崩してしまう女性も大勢います。お気に入りの男性のために昼間の仕事が終わった後、夜の仕事を始める女性も多いと言います。それは高価な品物をプレゼントして男性の気を惹くためであったり、男性の売り上げに貢献したいということで店で金を使い、彼女たちをそういった方向へ向かわせてしまうということです」
司も接待で銀座のクラブで飲んだことがある。
だがそれはあくまでも仕事であり、女を同席させることを望まない。
だから司が受ける接待で女が隣に座ることはなかった。
そして司は女子社員が全財産を投げ出してもいいと言っていたことから、その話に「なるほどな」と言いって西田が執務室を出た後、椅子に身体をもたせ掛け、いつものように目を閉じた。
「Flower4」と言う店は新宿のネオンがひしめく一角にあった。
そこは新宿で一番カッコいいという男達がいる店だと言われ、連日大勢の女性客が訪れていた。
実際そこにいる4人の男達は見目麗しい花と言われている。
だから店の名前はFlower4。そして彼らはF4と呼ばれていた。
男達は一様にパーティーへ出るような正装をして女性たちをもてなしていた。
いや。実際にはもてなしてなどいない。ただ男達はそこにいるだけだ。
身に付けているのは高価な腕時計やカフスボタンや指輪。
毎日のように大勢の女性客が詰めかけ、自分へ好意を向けて欲しいと、彼らに贈り物を差し出していたが、彼らの中でも一番人気があるのは司だった。
そして司の視線は心臓を10回くらい叩かれたほどの破壊力を持ち、見つめられた女は腰砕けになると言われていた。
「ねえ司。来週はあたしの誕生日だからドンペリプラチナでシャンパンタワーをするわ!それから来月の司の誕生日にはリシャールでブランデータワーをするわ!」
ドンペリの中でも最高ランクのドンペリプラチナの店での1本の値段は100万。
バカラ社のクリスタルのボトルに入ったリシャールは最高級ブランデーで店での値段は1本250万円以上。
タワーにするために沢山のグラスが使われるが、女性はタワーを3つ作ると言った。
そのグラスを満たすための酒は1本や2本では済まない。つまりその女性が自分の誕生日と司の誕生日に使う金は1億を超えるのではと言われていた。
そして誕生日当日。
「ねえ司。あたし贈り物を持って来たの。これ司に使って欲しいの」
女性が差し出したのは、1千万は下らないと言われるスイス製の腕時計の箱。
「司!お誕生日おめでとう。これ受け取って」
と言って別の女性が差し出したのは跳ね馬のエンブレムの車の鍵で、店の前に止められている赤い車にはゴールドのリボンがかけられていた。
そして別の女性が差し出したのは最近売り出された高級マンションの権利書。
そこに書かれていたのは司の名前。他にも司のためなら金に糸目を付けないといった贈り物が彼の前に並べられた。
だが司は、そういったものに興味はない。
何故なら彼は道明寺財閥の御曹司で金は唸るほどあるからだ。
それなら何故そんな男がホストクラブにいるのか。
それは仲間のあきらに「おい。司。俺らでホストクラブを経営したらどれだけ客を集めることが出来るか興味はないか?いやな。うちの親父の会社。新宿のビルを手に入れたんだが、そこを壊して新しいビルを建てるまでの間。自由に使っていいぞって言われた。だから試しにやってみねぇか?」
と言って誘われたからであり本業が大学生の彼らにすれば、ホストクラブは女達がどれだけ自分達の為に金を使うかを競うゲームの場だ。
だが司はその街でひとりの女性に出会った。
女性は小さな花屋で働いている牧野つくし。
店が終った早朝、いつもなら迎えの車に乗るところだが、その日は違った。
ブラブラと歩いているとき、花屋の店先で段ボールの箱を開け、伝票をチェックしながら花の状態を調べている彼女を見かけた。
冷たい水に花を生け、水切りをする様子を見つめた。
そして司はその女性に一目ぼれをした。
そこは繁華街に近いという場所柄、売り花だけでなく、近隣の店へ花を生け込みに行くこともあった。
そして配達することもあり、開店前の司の店にも彼女が花を届けに来たことがあったが、赤いバラの花束は司宛のもの。
それをアレンジしたのが彼女だと思うと、いつもは花など捨ててしまう男も、その花を持ち帰り部屋に飾った。
司は彼女の彼氏になりたかった。
だから、きっかけを作ろうと毎日花屋に立ち寄った。
そして彼女と親しくなった。だが司は自分が大財閥の御曹司でホストをしていることは言わず、大学生で経営を学んでいるとだけ伝えた。
やがて親しくなった二人はデートをするようになった。
そのデートは彼女の希望に合わせ動物園や公園といったもので、司が普段暮らしている華やかな世界には縁のない場所ばかりだった。
そして今日も都内の公園でデートをした二人は、夕暮れ時になりその場を離れようとした。
その時、司はプレゼントを貰った。それは紙袋に入れられた彼女の手作りのクッキー。
だがそれを受け取った時、誰かが司の名前を呼んだ。
「司?司でしょ?」
名前を呼ばれた司が振り向いたそこにいたのは店の常連客。
「嘘!本当に司なの?後ろ姿が似てたからまさかと思ったけど。でもどうして司がこんな所にいるの?」
そう言った女は近づいて来ると司の前で立ち止まり彼を見上げ、甘えた口調で言った。
「ねえ。司。あたしこの前お店に行ったけどいなかったわよね?会えなくて凄く寂しかったんだから!でもいいわ。今度お店にいったらあたしの傍から離れないでよね?」
そして女は司の隣に立つつくしに値踏みするような視線を向けた。
「ねえ司。誰この女?」
と言うと司に視線を戻し、「まさか付き合ってるなんて言わないわよね?こんな地味でさえない女と」と言った。
司は悪態をつき女に黙れと言った。だが女は黙らなかった。
それは女が見た司のつくしに向けた視線に、自分には向けられたことがない真摯な態度が感じられたから。
だから女は、つくしに向かって言った。
「ねえあなた。どれだけ司につぎ込んだか知らないけど、司があなたのような女と本気で付き合うわけないでしょ?だって司は新宿のホストクラブで一番カッコいいって言われている男よ?そんな男があなたみたいな地味な女に本気になるはずないでしょ?」
とそこまで言った女は笑った。
司は隣に立つつくしの顏を見た。
目に入ったのは、不自然なほど青白い顏。そして噛みしめた唇。
それは明らかに動揺している姿で、彼女は司の傍から一歩退いた。
するとその様子を見た女は再び笑った。
「あら。早速あたしの言うことを理解してくれたのね?あなた物分かりがいいようだから、もうひとつ教えてあげる。司はね道明寺財閥の御曹司なの。だから本気にならない方がいいわよ。彼のような人間はね、遊びならどこの誰と付き合っても許されるけど未来は決まってるの。つまり結婚相手は決まってるってこと。だから本気なら傷付くのはあなたよ」
司はペラペラと余計なことを喋る女を無視してつくしに言った。
「違うんだ。この女の言うことを信じるな。俺はお前のことは本気だ」
するとそれを訊いた女は高笑いをして言った。
「司が本気?冗談でしょ?」
「うるさい!黙れ!お前は黙ってろ!」
司は女を殺してやりたいと思った。
だから、つくしから視線を外し女の方に一歩踏み出した。
だがその時、手に握られていた紙袋がそっと引き抜かれ司は振り向いた。
「牧野?」
「ゴメンね。あたしが作ったクッキー。きっと口に合わないと思う。だから返して?」
そして踵を返すと走って行った。
「待ってくれ!」
司は追いかけようとした。だが女が抱きつき司は追いかけることが出来なかった。
そして女の力は強く、司の脚に縋りつき、引きずられても離れようとしなかった。
「離せ!離れろ!このクソ女!」
「どなたがクソ女ですか?」
パッと目を開いた男の前にいるのは西田。
だが今の司は西田の言葉に答えるよりも先にすることがあった。
それは彼女が高校生の頃にくれたクッキーの存在を確かめること。
司はあの時のクッキーを食べることなく保存していた。
それは自宅の冷凍庫の中と、執務室の隣にある仮眠を取るための部屋の冷凍庫の中。
そこに慌てて向かうと冷凍庫を開けた。そして自分の顏をしたクッキーが存在していることに胸を撫で下ろした。
「よかった……。マジで焦った」
と呟いたところで背後にいた西田が、「支社長。そちらのクッキーですがいつまで保存されるおつもりですか?」と、明らかに呆れた口調で言ったが、司にすれば、このクッキーは初め貰った彼女からの誕生日プレゼントであり記念として永久保存するつもりでいた。
だがあの時、ひとつだけ類に食べられたことは悔いが残っていた。
「いつまでだっていいだろ?俺はこのクッキーを眺める度にあの頃のことが思い出される。だから食べるつもりはない」
「そうですか。それではこちらは必要ございませんか?」
と西田が差し出したのは小さな紙袋。
「何だ?それは?」
「はい。さきほど牧野様からお預かりしました。3時の差し入れとのことです」
司は西田の手から紙袋をひったくるように受け取ると中を見た。
するとそこには少し焦げ魚の匂いがする司の顏をしたクッキーがあった。
「こちらですが久し振りに実家に帰ったので家の魚焼きの網で焼いてみたとおっしゃっていました。それからご伝言がございます。『保存せずに食べるように』とのことです」
司は届けられたクッキーを食べようか食べまいか迷った。
それは自分の顏をしたクッキーを食べることに躊躇いがあるのではない。
迷っているのは彼女があの当時のことを思い出して作ってくれたクッキーに愛を感じ眺めていたい気分になっていたからだ。
それにあの時と同じ魚焼きの網で焼かれたものは貴重であり、その網によって付けられた焦げさえも愛おしいと思えたからだ。
だが保存せずに食べろと西田が強調したことから、彼女の強い思いを感じ食べることにした。
ひと口かじった。
甘かったが魚の匂いがした。
二口目をかじった。
卵とバターの味がしたが焦げが口に入った。
そして三口目を口に入れたが、髪の毛の部分は少しほろ苦いココアの味がした。
そんなクッキーに感じられるのは優しさと温もり。
司は、やはりこのクッキーには愛があると感じた。
そして幸せを感じた。
だが司が永久保存を決めた高校生だった彼女が作ったクッキーには愛はなかったはずだ。
先に惚れたのは司であり愛の大きさから言えば彼の方が大きかった。
そして誕生パーティーに招待され仕方なく作ったとも言えるクッキー。
だから、あの時のクッキーに練り込められたのは愛ではない。
それなら何かと言えば、まだ胸の中に浮かぶことさえなかった感情とでも言えばいいのか。
何しろあの頃の彼女は意地っ張りで素直に自分の気持ちを認めることがなかったのだから。
だがそれも愛おしさのひとつだったが、あの時のクッキーの味は複雑な感情の味がするはずだ。
司は西田が運んで来たコーヒーを口に運ぶと机の上に積まれた書類を手に取った。
そして二つ目のクッキーを口に入れたが、このクッキーは司にとって至高の味。
それを味わえる幸せを噛みしめながら書類に目を通し始めた。

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「え!?支社長が萌え萌え?キャー。そんなの想像出来ないけど見て見たい!」
「そうでしょ?でも想像出来ないって言うのか。想像しちゃダメなのか。とにかく萌え萌えの支社長がそこにいるとすれば、あんたも行くでしょ?」
「うん。行く、行く、もちろん行くわよ!道明寺支社長がいるなら絶対に行くわ!あたしあの低くてセクシーでちょっと卑猥に聞こえる声で名前呼ばれたら失神しちゃうかも!」
「キャー。同じよ!同じ!あの声で香織って呼ばれたらあたし失禁しちゃうかも!あたしにとって支社長は神に近い存在よ!あたし支社長とデート出来るなら全財産投げ出してもいいわ!それにあたし毎日支社長に会えるように祈ってるの!でも偶然の出会いってないのよねえ。でもいつか支社長があたしの前に現れて『香織。俺と付き合ってくれ』って言ってくれるのを待ってるわ!」
後ろ姿に背徳感がありすぎる男は女子社員の会話に背を向けその場を離れたが、聞こえてくる声は何かを祈っているように聞こえた。
人を祈る気持ちにさせる男はもはや宗教家。
だが司は宗教家ではく企業家だ。
それにしても「もえもえ」って何だ?
それに行くってのはどういう意味だ?
司は女子社員の会話に出て来た「もえもえ」という言葉の意味が分からなかったが、思い浮かぶのは「燃え燃え」。
つまりあの女子社員が言っているのは、司が燃える男と言っているのだと思った。
何しろ司は熱い男と言われたことがある。だからその熱さで何かが燃えるという意味なら「もえもえ」を漢字に変換するなら「燃え燃え」で合っているはずだ。
いや。だがよく分からない言葉の意味を放置しておくのは良くない。
だから司は執務室に戻ると秘書に訊いた。
「おい、西田。お前『もえもえ』って言葉を知ってるか?」
「もえもえ…..ですか?」
「ああ。さっき若い女子社員が廊下で話してたんだが、さっぱり意味が分かんねぇ。それに行くと言ってたがどういう意味か分かるか?」
西田は支社長がまた社内を徘徊していたのかと思ったが、30分くらいなら業務に差し障りのない許容範囲内だと認めていた。
だから30分で大人しく戻ってきた男に多分こうだろうと思うことを言った。
「恐らくですが女子社員が言った『もえもえ』と言うのは、ある物や人物に対し、一方的に強い愛着心や情熱、欲望といった気持ちを抱くことです。ですから漢字にすると草冠に明暗を分けるの「明」を組み合わせて萌えという漢字になります。すなわち『萌え萌え』というのは、その愛着を抱く対象に酷く心を奪われている。盲目的に愛しているということでしょうか」
愛着心。
情熱。
欲望。
盲目的。
司は、その言葉の全てが、自分が恋人に対して抱く感情と同じだと思った。
けれど司と恋人との関係は一方的ではない。
二人は相思相愛であり立場は対等だ。
だが気になるのは行くと言うことだが、一体どこに行くというのか?
「それで西田。行くってのは、どういう意味だ?」
「はい。恐らくそれは萌えの対象がいる店に行くという意味ではないでしょうか」
その時、西田の頭を過ったのは少し前に流行ったメイドカフェという言葉。
だがその言葉を口に出すことはなかった。
何故なら話をしていたのは若い女子社員だというのだから、女性がメイドカフェに足しげく通うというよりも別の場所に行くのではないかと考えた。
つまりそれは彼女たちの萌えの対象となる男性がいるであろう場所と言えば____
「ホストクラブ?」
「はい。やはり妙齢の女性が店に行くとすればホストクラブではないでしょうか?ですが悪いことにホストクラブで働く男性に入れ上げるあまり身を持ち崩してしまう女性も大勢います。お気に入りの男性のために昼間の仕事が終わった後、夜の仕事を始める女性も多いと言います。それは高価な品物をプレゼントして男性の気を惹くためであったり、男性の売り上げに貢献したいということで店で金を使い、彼女たちをそういった方向へ向かわせてしまうということです」
司も接待で銀座のクラブで飲んだことがある。
だがそれはあくまでも仕事であり、女を同席させることを望まない。
だから司が受ける接待で女が隣に座ることはなかった。
そして司は女子社員が全財産を投げ出してもいいと言っていたことから、その話に「なるほどな」と言いって西田が執務室を出た後、椅子に身体をもたせ掛け、いつものように目を閉じた。
「Flower4」と言う店は新宿のネオンがひしめく一角にあった。
そこは新宿で一番カッコいいという男達がいる店だと言われ、連日大勢の女性客が訪れていた。
実際そこにいる4人の男達は見目麗しい花と言われている。
だから店の名前はFlower4。そして彼らはF4と呼ばれていた。
男達は一様にパーティーへ出るような正装をして女性たちをもてなしていた。
いや。実際にはもてなしてなどいない。ただ男達はそこにいるだけだ。
身に付けているのは高価な腕時計やカフスボタンや指輪。
毎日のように大勢の女性客が詰めかけ、自分へ好意を向けて欲しいと、彼らに贈り物を差し出していたが、彼らの中でも一番人気があるのは司だった。
そして司の視線は心臓を10回くらい叩かれたほどの破壊力を持ち、見つめられた女は腰砕けになると言われていた。
「ねえ司。来週はあたしの誕生日だからドンペリプラチナでシャンパンタワーをするわ!それから来月の司の誕生日にはリシャールでブランデータワーをするわ!」
ドンペリの中でも最高ランクのドンペリプラチナの店での1本の値段は100万。
バカラ社のクリスタルのボトルに入ったリシャールは最高級ブランデーで店での値段は1本250万円以上。
タワーにするために沢山のグラスが使われるが、女性はタワーを3つ作ると言った。
そのグラスを満たすための酒は1本や2本では済まない。つまりその女性が自分の誕生日と司の誕生日に使う金は1億を超えるのではと言われていた。
そして誕生日当日。
「ねえ司。あたし贈り物を持って来たの。これ司に使って欲しいの」
女性が差し出したのは、1千万は下らないと言われるスイス製の腕時計の箱。
「司!お誕生日おめでとう。これ受け取って」
と言って別の女性が差し出したのは跳ね馬のエンブレムの車の鍵で、店の前に止められている赤い車にはゴールドのリボンがかけられていた。
そして別の女性が差し出したのは最近売り出された高級マンションの権利書。
そこに書かれていたのは司の名前。他にも司のためなら金に糸目を付けないといった贈り物が彼の前に並べられた。
だが司は、そういったものに興味はない。
何故なら彼は道明寺財閥の御曹司で金は唸るほどあるからだ。
それなら何故そんな男がホストクラブにいるのか。
それは仲間のあきらに「おい。司。俺らでホストクラブを経営したらどれだけ客を集めることが出来るか興味はないか?いやな。うちの親父の会社。新宿のビルを手に入れたんだが、そこを壊して新しいビルを建てるまでの間。自由に使っていいぞって言われた。だから試しにやってみねぇか?」
と言って誘われたからであり本業が大学生の彼らにすれば、ホストクラブは女達がどれだけ自分達の為に金を使うかを競うゲームの場だ。
だが司はその街でひとりの女性に出会った。
女性は小さな花屋で働いている牧野つくし。
店が終った早朝、いつもなら迎えの車に乗るところだが、その日は違った。
ブラブラと歩いているとき、花屋の店先で段ボールの箱を開け、伝票をチェックしながら花の状態を調べている彼女を見かけた。
冷たい水に花を生け、水切りをする様子を見つめた。
そして司はその女性に一目ぼれをした。
そこは繁華街に近いという場所柄、売り花だけでなく、近隣の店へ花を生け込みに行くこともあった。
そして配達することもあり、開店前の司の店にも彼女が花を届けに来たことがあったが、赤いバラの花束は司宛のもの。
それをアレンジしたのが彼女だと思うと、いつもは花など捨ててしまう男も、その花を持ち帰り部屋に飾った。
司は彼女の彼氏になりたかった。
だから、きっかけを作ろうと毎日花屋に立ち寄った。
そして彼女と親しくなった。だが司は自分が大財閥の御曹司でホストをしていることは言わず、大学生で経営を学んでいるとだけ伝えた。
やがて親しくなった二人はデートをするようになった。
そのデートは彼女の希望に合わせ動物園や公園といったもので、司が普段暮らしている華やかな世界には縁のない場所ばかりだった。
そして今日も都内の公園でデートをした二人は、夕暮れ時になりその場を離れようとした。
その時、司はプレゼントを貰った。それは紙袋に入れられた彼女の手作りのクッキー。
だがそれを受け取った時、誰かが司の名前を呼んだ。
「司?司でしょ?」
名前を呼ばれた司が振り向いたそこにいたのは店の常連客。
「嘘!本当に司なの?後ろ姿が似てたからまさかと思ったけど。でもどうして司がこんな所にいるの?」
そう言った女は近づいて来ると司の前で立ち止まり彼を見上げ、甘えた口調で言った。
「ねえ。司。あたしこの前お店に行ったけどいなかったわよね?会えなくて凄く寂しかったんだから!でもいいわ。今度お店にいったらあたしの傍から離れないでよね?」
そして女は司の隣に立つつくしに値踏みするような視線を向けた。
「ねえ司。誰この女?」
と言うと司に視線を戻し、「まさか付き合ってるなんて言わないわよね?こんな地味でさえない女と」と言った。
司は悪態をつき女に黙れと言った。だが女は黙らなかった。
それは女が見た司のつくしに向けた視線に、自分には向けられたことがない真摯な態度が感じられたから。
だから女は、つくしに向かって言った。
「ねえあなた。どれだけ司につぎ込んだか知らないけど、司があなたのような女と本気で付き合うわけないでしょ?だって司は新宿のホストクラブで一番カッコいいって言われている男よ?そんな男があなたみたいな地味な女に本気になるはずないでしょ?」
とそこまで言った女は笑った。
司は隣に立つつくしの顏を見た。
目に入ったのは、不自然なほど青白い顏。そして噛みしめた唇。
それは明らかに動揺している姿で、彼女は司の傍から一歩退いた。
するとその様子を見た女は再び笑った。
「あら。早速あたしの言うことを理解してくれたのね?あなた物分かりがいいようだから、もうひとつ教えてあげる。司はね道明寺財閥の御曹司なの。だから本気にならない方がいいわよ。彼のような人間はね、遊びならどこの誰と付き合っても許されるけど未来は決まってるの。つまり結婚相手は決まってるってこと。だから本気なら傷付くのはあなたよ」
司はペラペラと余計なことを喋る女を無視してつくしに言った。
「違うんだ。この女の言うことを信じるな。俺はお前のことは本気だ」
するとそれを訊いた女は高笑いをして言った。
「司が本気?冗談でしょ?」
「うるさい!黙れ!お前は黙ってろ!」
司は女を殺してやりたいと思った。
だから、つくしから視線を外し女の方に一歩踏み出した。
だがその時、手に握られていた紙袋がそっと引き抜かれ司は振り向いた。
「牧野?」
「ゴメンね。あたしが作ったクッキー。きっと口に合わないと思う。だから返して?」
そして踵を返すと走って行った。
「待ってくれ!」
司は追いかけようとした。だが女が抱きつき司は追いかけることが出来なかった。
そして女の力は強く、司の脚に縋りつき、引きずられても離れようとしなかった。
「離せ!離れろ!このクソ女!」
「どなたがクソ女ですか?」
パッと目を開いた男の前にいるのは西田。
だが今の司は西田の言葉に答えるよりも先にすることがあった。
それは彼女が高校生の頃にくれたクッキーの存在を確かめること。
司はあの時のクッキーを食べることなく保存していた。
それは自宅の冷凍庫の中と、執務室の隣にある仮眠を取るための部屋の冷凍庫の中。
そこに慌てて向かうと冷凍庫を開けた。そして自分の顏をしたクッキーが存在していることに胸を撫で下ろした。
「よかった……。マジで焦った」
と呟いたところで背後にいた西田が、「支社長。そちらのクッキーですがいつまで保存されるおつもりですか?」と、明らかに呆れた口調で言ったが、司にすれば、このクッキーは初め貰った彼女からの誕生日プレゼントであり記念として永久保存するつもりでいた。
だがあの時、ひとつだけ類に食べられたことは悔いが残っていた。
「いつまでだっていいだろ?俺はこのクッキーを眺める度にあの頃のことが思い出される。だから食べるつもりはない」
「そうですか。それではこちらは必要ございませんか?」
と西田が差し出したのは小さな紙袋。
「何だ?それは?」
「はい。さきほど牧野様からお預かりしました。3時の差し入れとのことです」
司は西田の手から紙袋をひったくるように受け取ると中を見た。
するとそこには少し焦げ魚の匂いがする司の顏をしたクッキーがあった。
「こちらですが久し振りに実家に帰ったので家の魚焼きの網で焼いてみたとおっしゃっていました。それからご伝言がございます。『保存せずに食べるように』とのことです」
司は届けられたクッキーを食べようか食べまいか迷った。
それは自分の顏をしたクッキーを食べることに躊躇いがあるのではない。
迷っているのは彼女があの当時のことを思い出して作ってくれたクッキーに愛を感じ眺めていたい気分になっていたからだ。
それにあの時と同じ魚焼きの網で焼かれたものは貴重であり、その網によって付けられた焦げさえも愛おしいと思えたからだ。
だが保存せずに食べろと西田が強調したことから、彼女の強い思いを感じ食べることにした。
ひと口かじった。
甘かったが魚の匂いがした。
二口目をかじった。
卵とバターの味がしたが焦げが口に入った。
そして三口目を口に入れたが、髪の毛の部分は少しほろ苦いココアの味がした。
そんなクッキーに感じられるのは優しさと温もり。
司は、やはりこのクッキーには愛があると感じた。
そして幸せを感じた。
だが司が永久保存を決めた高校生だった彼女が作ったクッキーには愛はなかったはずだ。
先に惚れたのは司であり愛の大きさから言えば彼の方が大きかった。
そして誕生パーティーに招待され仕方なく作ったとも言えるクッキー。
だから、あの時のクッキーに練り込められたのは愛ではない。
それなら何かと言えば、まだ胸の中に浮かぶことさえなかった感情とでも言えばいいのか。
何しろあの頃の彼女は意地っ張りで素直に自分の気持ちを認めることがなかったのだから。
だがそれも愛おしさのひとつだったが、あの時のクッキーの味は複雑な感情の味がするはずだ。
司は西田が運んで来たコーヒーを口に運ぶと机の上に積まれた書類を手に取った。
そして二つ目のクッキーを口に入れたが、このクッキーは司にとって至高の味。
それを味わえる幸せを噛みしめながら書類に目を通し始めた。

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