ホテルのロビーで人を待つ。
それが苦になるとは言わないが、約束をした訳ではなく、いつ現れるか分からない相手を待つほど退屈なことはない。だからロビーを行き交う人々を観察とまではいかないが、おのずと彼らに視線が向けられたが、老若男女。多様な人種。様々な人間がつくしの前を通り過ぎて行ったが、誰もが高級ホテルの名に相応しい装いと態度だった。
そして今は目の前を通り過ぎて行った女性に目を奪われていた。
その人は長い黒髪で背が高く、少し浅黒い肌からパッと見たところヒスパニック系に思えた。
白のインナーに鮮やかなピンクの上着を羽織り、パールのネックレスを首につけていて、その姿にセクシーさが感じられた。
その女性は、誰かと待ち合わせをしているのか。
つくしから少し離れた場所だが立ち止まり、人待ち顔でエレベーターの方を見つめていた。
眉はくっきりと描かれていて、唇にはたっぷりとグロスが塗られているのか艶やかだ。
年齢は恐らく30代ではなかろうか。
それは、研究仲間にスペイン人の女性もいることから年齢を推察したに過ぎないが、落ち着いた態度に大人の分別が感じられた。
そしてロビーにいる男たちの眼差しは彼女に向けられていた。
それは女性本人の意志とは関係なく男性を惹き付けているということ。アメリカでは女性の誉め言葉として言われるのは、可愛いよりもセクシーで、男たちの視線にはそういった称賛が見て取れた。
だがその女性は、そういったものを無視してエレベーターの扉を見つめていた。
誰かを待っているのは明らかだが、相手の性別は男性ではないかと思えた。
つまり恋人を待っているということ。
そしてその先に見えるのは、感動的な再会の場面であり、間違ってもつくしが道明寺司とメープルのラウンジで待ち合わせた時のように相手に平手打ちなどしないはずだ。
やがてエレベーターの扉が開き1人の男性が現れた。
すると女性は男性に駆け寄った。そして男性に抱きついてキスをした。
その光景はアメリカの空港や駅でよく見かける光景であり好奇の目が注がれることはない。その代わり注がれたのは、ロビーにいた男たちの残念そうな眼差し。
そして暫く抱き合っていた男女は見つめ合い言葉を交わすと互いの身体に腕を回し、つくしの前を通り過ぎていった。
道明寺司を待ち始めて2時間以上が経った。
時計の針は5時半を回っていて、たった今つくしの前を通り過ぎていった男女は、これから食事にでも出かけるのだろう。恋人同士の食事が何であれ、好きな人と食事をすることは楽しいはずだ。
果たして自分にそういった経験があったかと言えば、大学生の頃付き合っていた恋人との間にあったはずだが、今となってはそれを思い出すことは出来なかった。
その代わり思い出されるのは、記憶にも新しいあの男との食事だ。
『俺は今まで女と食事をして楽しいと感じたことはない。だがな、お前と行った中華料理屋の食事は楽しいと感じた』道明寺司はそう言ってつくしと同じ料理を食べた。
だが二人が楽しく食事をしたかと言えば、そうではない。
少なくともつくしは楽しいとは感じられなかった。あの食事は川上真理子のことを訊くための食事であり、仕方なく決めた店が行きつけの中華料理屋の丸源だった。
だからつくしは、食べ慣れた料理を黙々と口に運んだに過ぎなかったが、あの男はそんな女と食事をしたのが楽しかったというのだからある意味変わっている。
けれど、丸源の料理をお前の言う通りで美味いと言った。それは何でも率直に言う男の態度から、お世辞とは思えなかった。
男性と差し向かいで食事をする。
結婚して家族になればそれが延々と毎日続く。
もし道明寺司と結婚したら毎日あの顔と食事をすることになるが、嫌味なほど綺麗な顔を持つ男は箸を持つ姿勢も美しかった。
そんな男の前に出来上がった料理を運び、もぐもぐと口を動かしながらどんな会話が交わされるのか。いや、それ以前につくしの作る料理を食べるのか。あの男の舌は肥えているはずだ。だから庶民の味を受け入れるとは思えなかった。
けれど丸源の料理を口に運び見せた意外だといった顔が甦る。
だがそこで思考を止めた。
なぜ自分が道明寺司と食卓を囲むことを思うのか。
「……..?」
「…..おい?……野?牧野つくし?」
名前を呼ばれハッと我に返ったところで視界に入ったのはダークスーツの一団。
顔を上向けたそこにいたのは、今まで頭の中を占領していた道明寺司だった。

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それが苦になるとは言わないが、約束をした訳ではなく、いつ現れるか分からない相手を待つほど退屈なことはない。だからロビーを行き交う人々を観察とまではいかないが、おのずと彼らに視線が向けられたが、老若男女。多様な人種。様々な人間がつくしの前を通り過ぎて行ったが、誰もが高級ホテルの名に相応しい装いと態度だった。
そして今は目の前を通り過ぎて行った女性に目を奪われていた。
その人は長い黒髪で背が高く、少し浅黒い肌からパッと見たところヒスパニック系に思えた。
白のインナーに鮮やかなピンクの上着を羽織り、パールのネックレスを首につけていて、その姿にセクシーさが感じられた。
その女性は、誰かと待ち合わせをしているのか。
つくしから少し離れた場所だが立ち止まり、人待ち顔でエレベーターの方を見つめていた。
眉はくっきりと描かれていて、唇にはたっぷりとグロスが塗られているのか艶やかだ。
年齢は恐らく30代ではなかろうか。
それは、研究仲間にスペイン人の女性もいることから年齢を推察したに過ぎないが、落ち着いた態度に大人の分別が感じられた。
そしてロビーにいる男たちの眼差しは彼女に向けられていた。
それは女性本人の意志とは関係なく男性を惹き付けているということ。アメリカでは女性の誉め言葉として言われるのは、可愛いよりもセクシーで、男たちの視線にはそういった称賛が見て取れた。
だがその女性は、そういったものを無視してエレベーターの扉を見つめていた。
誰かを待っているのは明らかだが、相手の性別は男性ではないかと思えた。
つまり恋人を待っているということ。
そしてその先に見えるのは、感動的な再会の場面であり、間違ってもつくしが道明寺司とメープルのラウンジで待ち合わせた時のように相手に平手打ちなどしないはずだ。
やがてエレベーターの扉が開き1人の男性が現れた。
すると女性は男性に駆け寄った。そして男性に抱きついてキスをした。
その光景はアメリカの空港や駅でよく見かける光景であり好奇の目が注がれることはない。その代わり注がれたのは、ロビーにいた男たちの残念そうな眼差し。
そして暫く抱き合っていた男女は見つめ合い言葉を交わすと互いの身体に腕を回し、つくしの前を通り過ぎていった。
道明寺司を待ち始めて2時間以上が経った。
時計の針は5時半を回っていて、たった今つくしの前を通り過ぎていった男女は、これから食事にでも出かけるのだろう。恋人同士の食事が何であれ、好きな人と食事をすることは楽しいはずだ。
果たして自分にそういった経験があったかと言えば、大学生の頃付き合っていた恋人との間にあったはずだが、今となってはそれを思い出すことは出来なかった。
その代わり思い出されるのは、記憶にも新しいあの男との食事だ。
『俺は今まで女と食事をして楽しいと感じたことはない。だがな、お前と行った中華料理屋の食事は楽しいと感じた』道明寺司はそう言ってつくしと同じ料理を食べた。
だが二人が楽しく食事をしたかと言えば、そうではない。
少なくともつくしは楽しいとは感じられなかった。あの食事は川上真理子のことを訊くための食事であり、仕方なく決めた店が行きつけの中華料理屋の丸源だった。
だからつくしは、食べ慣れた料理を黙々と口に運んだに過ぎなかったが、あの男はそんな女と食事をしたのが楽しかったというのだからある意味変わっている。
けれど、丸源の料理をお前の言う通りで美味いと言った。それは何でも率直に言う男の態度から、お世辞とは思えなかった。
男性と差し向かいで食事をする。
結婚して家族になればそれが延々と毎日続く。
もし道明寺司と結婚したら毎日あの顔と食事をすることになるが、嫌味なほど綺麗な顔を持つ男は箸を持つ姿勢も美しかった。
そんな男の前に出来上がった料理を運び、もぐもぐと口を動かしながらどんな会話が交わされるのか。いや、それ以前につくしの作る料理を食べるのか。あの男の舌は肥えているはずだ。だから庶民の味を受け入れるとは思えなかった。
けれど丸源の料理を口に運び見せた意外だといった顔が甦る。
だがそこで思考を止めた。
なぜ自分が道明寺司と食卓を囲むことを思うのか。
「……..?」
「…..おい?……野?牧野つくし?」
名前を呼ばれハッと我に返ったところで視界に入ったのはダークスーツの一団。
顔を上向けたそこにいたのは、今まで頭の中を占領していた道明寺司だった。

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「申し訳ございません。当ホテルはお客様のお問合せにお答えすることは出来かねます」
「私は怪しい者じゃありません。彼の飛行機でこの国に来たんです。このホテルに宿泊しています。渡したいものがあるので彼の部屋番号を知りたいだけです」
つくしはそう言ってルームキーを示した。
それに必要とあればパスポートを提示するつもりでいた。
「お客様。お客様がおっしゃるその方は当ホテルにご宿泊をされているとおっしゃいましたが、当ホテルは宿泊されるお客様のプライバシーを第一に考えております。ですから、先ほども申し上げましたようにその方がご宿泊されているかどうかはもちろんですが、お客様の個人情報を第三者様への開示や提供はいたしません」
「そんな….」
つくしは、道明寺司にブローチを返すため部屋番号が知りたいと言った。
だがよく考えてみれば、サービスの行き届いたホテルだからといって高級ホテルが宿泊客のことを軽々しく他人に教えるはずがない。
それに部屋番号を知りたい相手は道明寺司だ。
超が付くほどのVIPで命が狙われる危険もある人物だ。
そんな人物がどの部屋に泊っているかなど漏らすことになれば安全面でのこともだが、ホテルとしての信用にも関わってくる。いや。それ以前にここに宿泊していることすら認めることはなかったが、つくしはあの男の同行者としてこのホテルに滞在している。だから教えてくれてもよさそうなものの、フロントの口は硬かった。
確かに、つくしが同行者であると言うのなら、部屋番号など本人から直接訊けばいい話であり、わざわざフロントで訊ねることはない。
それにつくしについて疑っていると言われればそれまでだ。
と、なれば、あの男に会うためには、ここであの男の帰りを待つしかないということになる。
つまりボディーガードの一団に囲まれたあの男が戻って来るまでロビーにいるしかないということだ。
だがビジネスで出掛けた男のスケジュールなど知るはずもなく、いつ戻って来るのか見当もつかなかった。もしかすると戻って来ない可能性もある。
「はあ…..。あの男。いつ戻って来るのよ」
つくしはフロントを離れると大きなため息をついた。
それにしても、出来ることなら会いたくないと思う男に自分から会うことを求めることになるとは思いもしなかった。
だがそれは高価なブローチを返すためであり、そうでなければ会う必要もなければ、会いたいとも思わなかったはずだ。
それにつくしは、自分が喜んでブローチを受け取ったなど思われたくなかった。
受け取らなければ部屋から出られない状況に置かれたから仕方がなく受け取った。
だからなんとしてもあのブローチを返さなければと思い腕時計を覗いて時間を確認したが、針は午後3時15分を指していた。
昼食を一緒に取れなくて申し訳ないと言ったが、夕食のことは言わなかった。
それは、端からつくしと一緒に夕食を取るつもりはないと言うことなのか。
それとも夕食の時間までには戻って来るということなのか。
別にあの男と一緒に食事を取ろうと考えてもないのだから、こんなことを考える必要はないのだが、もし今日会えないとなれば明日でなければ会えないということになるのかと考えた。
だがつくしは、明日は朝からウッズホールに行く予定にしている。
そして次の日も、その翌日も、そしてそのまた翌日もと予定を入れている。と、なると会うことが出来るのはいつになるのか。昼食を終え一度部屋に戻り、それからフロントへ降りて来たが、あの男がいつ戻ってくるか分からない以上ここで待つ以外会う方法がないというなら、ここにいるしかない。
だからつくしは、ここにいることに決め、ロビーに置かれている淡い色をしたソファに腰を下ろしたところでふと思った。
今の自分はあの男のことばかり考えている。
これではまるで道明寺司のストーカーではないか___
「じょ、冗談じゃないわよ!どうして私があの男をストーキングしなきゃならないのよ!」
思わず立ち上って口を突いた言葉は静まり返ったロビーに響いた。
そしてその声にこちらを向いて眉を上げた人間がひとりだけいて、つくしは思わず、すみません、と小声で呟いて腰を下ろした。
それにしても、どれくらいここで待てばいいのか。
待つことを決めた自分に内心呆れかえったが、待つと決めた以上待たなければならなかった。

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「私は怪しい者じゃありません。彼の飛行機でこの国に来たんです。このホテルに宿泊しています。渡したいものがあるので彼の部屋番号を知りたいだけです」
つくしはそう言ってルームキーを示した。
それに必要とあればパスポートを提示するつもりでいた。
「お客様。お客様がおっしゃるその方は当ホテルにご宿泊をされているとおっしゃいましたが、当ホテルは宿泊されるお客様のプライバシーを第一に考えております。ですから、先ほども申し上げましたようにその方がご宿泊されているかどうかはもちろんですが、お客様の個人情報を第三者様への開示や提供はいたしません」
「そんな….」
つくしは、道明寺司にブローチを返すため部屋番号が知りたいと言った。
だがよく考えてみれば、サービスの行き届いたホテルだからといって高級ホテルが宿泊客のことを軽々しく他人に教えるはずがない。
それに部屋番号を知りたい相手は道明寺司だ。
超が付くほどのVIPで命が狙われる危険もある人物だ。
そんな人物がどの部屋に泊っているかなど漏らすことになれば安全面でのこともだが、ホテルとしての信用にも関わってくる。いや。それ以前にここに宿泊していることすら認めることはなかったが、つくしはあの男の同行者としてこのホテルに滞在している。だから教えてくれてもよさそうなものの、フロントの口は硬かった。
確かに、つくしが同行者であると言うのなら、部屋番号など本人から直接訊けばいい話であり、わざわざフロントで訊ねることはない。
それにつくしについて疑っていると言われればそれまでだ。
と、なれば、あの男に会うためには、ここであの男の帰りを待つしかないということになる。
つまりボディーガードの一団に囲まれたあの男が戻って来るまでロビーにいるしかないということだ。
だがビジネスで出掛けた男のスケジュールなど知るはずもなく、いつ戻って来るのか見当もつかなかった。もしかすると戻って来ない可能性もある。
「はあ…..。あの男。いつ戻って来るのよ」
つくしはフロントを離れると大きなため息をついた。
それにしても、出来ることなら会いたくないと思う男に自分から会うことを求めることになるとは思いもしなかった。
だがそれは高価なブローチを返すためであり、そうでなければ会う必要もなければ、会いたいとも思わなかったはずだ。
それにつくしは、自分が喜んでブローチを受け取ったなど思われたくなかった。
受け取らなければ部屋から出られない状況に置かれたから仕方がなく受け取った。
だからなんとしてもあのブローチを返さなければと思い腕時計を覗いて時間を確認したが、針は午後3時15分を指していた。
昼食を一緒に取れなくて申し訳ないと言ったが、夕食のことは言わなかった。
それは、端からつくしと一緒に夕食を取るつもりはないと言うことなのか。
それとも夕食の時間までには戻って来るということなのか。
別にあの男と一緒に食事を取ろうと考えてもないのだから、こんなことを考える必要はないのだが、もし今日会えないとなれば明日でなければ会えないということになるのかと考えた。
だがつくしは、明日は朝からウッズホールに行く予定にしている。
そして次の日も、その翌日も、そしてそのまた翌日もと予定を入れている。と、なると会うことが出来るのはいつになるのか。昼食を終え一度部屋に戻り、それからフロントへ降りて来たが、あの男がいつ戻ってくるか分からない以上ここで待つ以外会う方法がないというなら、ここにいるしかない。
だからつくしは、ここにいることに決め、ロビーに置かれている淡い色をしたソファに腰を下ろしたところでふと思った。
今の自分はあの男のことばかり考えている。
これではまるで道明寺司のストーカーではないか___
「じょ、冗談じゃないわよ!どうして私があの男をストーキングしなきゃならないのよ!」
思わず立ち上って口を突いた言葉は静まり返ったロビーに響いた。
そしてその声にこちらを向いて眉を上げた人間がひとりだけいて、つくしは思わず、すみません、と小声で呟いて腰を下ろした。
それにしても、どれくらいここで待てばいいのか。
待つことを決めた自分に内心呆れかえったが、待つと決めた以上待たなければならなかった。

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つくしは1階のレストランで出されたステーキを見つめていたが、ナイフとフォークを手に取った。そして肉を切り始めたが、頭の中はあのブローチのことがあった。
ダイヤモンドとルビーで出来た鳩のブローチは部屋に置いて来たが、もし泥棒に入られたらどうしようという思いとともに、ああいった高価な宝石には保険がかけてあるはずで、自分が気にすることではないと頭を切り替えた。
それに受け取るつもりはない。
もし仮に受け取ったとしても、あんな高価な物を付けて行くような場所はない。
それにしても、あの男はいったいどういうつもりで鳩のブローチを贈りつけたのか。
まさか道明寺司は、平和の象徴と言われる鳩を自分達の間を取り持つ交渉の遣いとして寄越したつもりなのか。だが鳩は自身と同じ平和の象徴と言われるオリーブの枝を咥えてはいなかった。いや。今は鳩がオリーブを咥えていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。
それよりも女性に高価なジュエリーを与えることで相手の心を掴もうと考えているなら、それはつくしのことを全く理解していないということになる。
それにあの男は言ったではないか。
金や自身の容姿に惹かれるような女に興味はないと。
それはつくしも同じであり、たとえ相手が世界規模の巨万の富を持つ男だとしても、富や外見には一切興味がなかった。そして道明寺司はそんなつくしのことが好きになったと言った。
だからこそあのブローチの意味が全く分からなかった。
そんなことを考えながら切れた肉を口に入れ噛んだが、焼き具合はミディアムレアでと頼んだ通り柔らかさが楽しめた。
「おいしい….」
ボストンの高級ホテルで昼食を取るとは思わなかったが、出されたステーキは美味しかった。そして今は道明寺司のことを考えるよりも、目の前の料理を楽しむことに決めると、短い滞在期間のスケジュールを頭の中で確認した。
今日は到着したこともあり予定は入れてないが、明日は副島教授の紹介でサメの研究をしているブラウワー博士とウッズホールで会うことになっている。
そして明後日は若手のサメの研究者やエイの研究者と交流を深め研究情報を交換するつもりでいた。そしてその翌日はイカの研究者と会う約束をしていた。
そしてその次の日はハーバード大学が所有する博物館に行く予定にしていた。
だから道明寺司が言った『日常的な俺を知って欲しい』は無理だ。
それにあの男もビジネスでここに来たのだから忙しいはずだ。
だから二人が一緒に過ごす時間は無いに等しいと言っていい。
そう思うと、考える必要がないことを考えることはないと思えた。
それにあのブローチは帰りの機内で渡せばいい。だがホテルの部屋での保管状況には不安がある。それならやはり早々に贈り主に返すべきだろう。
つまり、平和の象徴と言われる鳩だが、高価な鳩はつくしの所に留まることはないということだ。
だが部屋がどこかは訊かされなかった。それにつくしも訊かなかったが、フロントで訊けば分かるはずだ。
そしてブローチを返す算段がつくと気持ちが楽になった。
***
「道明寺副社長。我社は道明寺グループの一員となりました。今回のことは我社が望んでのことですので、決して乗っ取りではありません。何しろ我社の研究には莫大な資金が必要になります。その点を踏まえてご興味を持っていただいた御社には感謝申し上げます」
司は買収に合意していた会社の買収を完了させるためにボストンに来た。
その会社は人工知能を備えたロボットの研究開発を手掛ける企業だが、合意から1年余りの期間を要し晴れて買収手続きが完了した。
「オブライエン社長。御社が我社のグループの一員となり今後も発展していくことが私の望みです。それから今後の人材育成や製造および量産体制を整えるためにも融資の方は間違いなく行われるますのでご安心下さい」
「そうですか。それは大変心強い。道明寺副社長のビジネス手腕は誰もが認めるところです。それに今後の我社を引っ張っていくことが出来る若手の人材を育成するためにも資金は不可欠ですからな。改めてお礼をいいますよ。御社が一番いい条件で我社を買ってくれたのですから」
司より年上の男性は、そう言って笑顔を浮かべ握手を求めたが、ここまで来るのに1年かかったということは交渉が難航したと言ってもいい。
この会社は今から25年前、社長のオブライエンがアメリカ屈指の名門と言われる多国籍コングロマリット企業を辞め起業した。つまり創業者である男は当時少壮気鋭の研究者だった。
だからたとえ経営権が自分の手から離れたとしても、我が子のように育てた会社の繁栄を望むのは当然だ。
そしてそんな男が交渉中に見せる表情には司と同じで冷たさしかなかったが、こうしてすべてが終わった今、男が笑った顔は好感が持てた。
つまり買収されたとはいえ、会社の繁栄を願って司に売ったということがその表情に現れていた。
「ところで今夜はディナーにご招待をしようと思いましたが、お忙しいとのことでしたな。もしかして女性とお約束でもおありでしょうか?いや、これは無粋なことを申し上げました。何しろあなたのような男性は女性が放っておかないと言われていますから相手がどのような女性か知りたいような気もしますが、どうぞボストンの夜を楽しんで下さい」
と言われたが、牧野つくしは手強い。
だがブローチは受け取ったと連絡があった。
そして突き返しに来ることは目に見えていた。
だから司はそれを楽しみにしていた。

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ダイヤモンドとルビーで出来た鳩のブローチは部屋に置いて来たが、もし泥棒に入られたらどうしようという思いとともに、ああいった高価な宝石には保険がかけてあるはずで、自分が気にすることではないと頭を切り替えた。
それに受け取るつもりはない。
もし仮に受け取ったとしても、あんな高価な物を付けて行くような場所はない。
それにしても、あの男はいったいどういうつもりで鳩のブローチを贈りつけたのか。
まさか道明寺司は、平和の象徴と言われる鳩を自分達の間を取り持つ交渉の遣いとして寄越したつもりなのか。だが鳩は自身と同じ平和の象徴と言われるオリーブの枝を咥えてはいなかった。いや。今は鳩がオリーブを咥えていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。
それよりも女性に高価なジュエリーを与えることで相手の心を掴もうと考えているなら、それはつくしのことを全く理解していないということになる。
それにあの男は言ったではないか。
金や自身の容姿に惹かれるような女に興味はないと。
それはつくしも同じであり、たとえ相手が世界規模の巨万の富を持つ男だとしても、富や外見には一切興味がなかった。そして道明寺司はそんなつくしのことが好きになったと言った。
だからこそあのブローチの意味が全く分からなかった。
そんなことを考えながら切れた肉を口に入れ噛んだが、焼き具合はミディアムレアでと頼んだ通り柔らかさが楽しめた。
「おいしい….」
ボストンの高級ホテルで昼食を取るとは思わなかったが、出されたステーキは美味しかった。そして今は道明寺司のことを考えるよりも、目の前の料理を楽しむことに決めると、短い滞在期間のスケジュールを頭の中で確認した。
今日は到着したこともあり予定は入れてないが、明日は副島教授の紹介でサメの研究をしているブラウワー博士とウッズホールで会うことになっている。
そして明後日は若手のサメの研究者やエイの研究者と交流を深め研究情報を交換するつもりでいた。そしてその翌日はイカの研究者と会う約束をしていた。
そしてその次の日はハーバード大学が所有する博物館に行く予定にしていた。
だから道明寺司が言った『日常的な俺を知って欲しい』は無理だ。
それにあの男もビジネスでここに来たのだから忙しいはずだ。
だから二人が一緒に過ごす時間は無いに等しいと言っていい。
そう思うと、考える必要がないことを考えることはないと思えた。
それにあのブローチは帰りの機内で渡せばいい。だがホテルの部屋での保管状況には不安がある。それならやはり早々に贈り主に返すべきだろう。
つまり、平和の象徴と言われる鳩だが、高価な鳩はつくしの所に留まることはないということだ。
だが部屋がどこかは訊かされなかった。それにつくしも訊かなかったが、フロントで訊けば分かるはずだ。
そしてブローチを返す算段がつくと気持ちが楽になった。
***
「道明寺副社長。我社は道明寺グループの一員となりました。今回のことは我社が望んでのことですので、決して乗っ取りではありません。何しろ我社の研究には莫大な資金が必要になります。その点を踏まえてご興味を持っていただいた御社には感謝申し上げます」
司は買収に合意していた会社の買収を完了させるためにボストンに来た。
その会社は人工知能を備えたロボットの研究開発を手掛ける企業だが、合意から1年余りの期間を要し晴れて買収手続きが完了した。
「オブライエン社長。御社が我社のグループの一員となり今後も発展していくことが私の望みです。それから今後の人材育成や製造および量産体制を整えるためにも融資の方は間違いなく行われるますのでご安心下さい」
「そうですか。それは大変心強い。道明寺副社長のビジネス手腕は誰もが認めるところです。それに今後の我社を引っ張っていくことが出来る若手の人材を育成するためにも資金は不可欠ですからな。改めてお礼をいいますよ。御社が一番いい条件で我社を買ってくれたのですから」
司より年上の男性は、そう言って笑顔を浮かべ握手を求めたが、ここまで来るのに1年かかったということは交渉が難航したと言ってもいい。
この会社は今から25年前、社長のオブライエンがアメリカ屈指の名門と言われる多国籍コングロマリット企業を辞め起業した。つまり創業者である男は当時少壮気鋭の研究者だった。
だからたとえ経営権が自分の手から離れたとしても、我が子のように育てた会社の繁栄を望むのは当然だ。
そしてそんな男が交渉中に見せる表情には司と同じで冷たさしかなかったが、こうしてすべてが終わった今、男が笑った顔は好感が持てた。
つまり買収されたとはいえ、会社の繁栄を願って司に売ったということがその表情に現れていた。
「ところで今夜はディナーにご招待をしようと思いましたが、お忙しいとのことでしたな。もしかして女性とお約束でもおありでしょうか?いや、これは無粋なことを申し上げました。何しろあなたのような男性は女性が放っておかないと言われていますから相手がどのような女性か知りたいような気もしますが、どうぞボストンの夜を楽しんで下さい」
と言われたが、牧野つくしは手強い。
だがブローチは受け取ったと連絡があった。
そして突き返しに来ることは目に見えていた。
だから司はそれを楽しみにしていた。

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つくしは男の口から飛び出したお前は鳩に似ている、の言葉に怪訝な顔をして男の方を向いた。
「私が鳩?」
「ああ。俺が幼稚舎の頃だが鷹にでも襲われたのか。灰色の毛の一部がむしられ傷ついた鳩が庭の片隅にうずくまっているのを見つけた。あの当時両親はアメリカ暮らしで俺は邸で姉と使用人の老婆と生活していた。老婆は傷ついた鳩を自分の部屋に連れて帰り介抱した。鳩は初め人の手から餌を貰うことを躊躇っていた。だがやがて老婆が与える餌を食べるようになり俺にも懐いた。知ってるか?鳩って鳥はグルルって鳴くことを」
司は生き物と親しく触れ合ったことがなかった。
それだけに初めて間近に接した灰色の鳩は陰鬱な色かもしれなかったが、首回りに緑や青を含んだ小さな頭をわずかに傾け、司を見る姿は可愛らしいと思えた。
「だがある日。老婆の部屋の鳥かごの中にいたはずの鳩はいなくなった。老婆は逃げたんだと言ったがそうじゃないことが今なら理解出来る。つまり傷が癒えたから逃がしたってことだ。その時野性の鳩を飼うことは出来ないって言われた。それに鳩には鳩の世界があるってな。たとえまた大きな鳥に狙われて傷ついたとしても、大空を飛ぶ鳩はその方がいいってな。それから何年か経った後、庭に鳩が巣を作ったと訊かされたが、その鳩があの時の鳩だかどうかは不明だ。それにその頃の俺はもう鳩に興味はなくなっていた。だから鳩が庭の木に巣を作ろうが卵を産もうがどうでもよかった。とは言っても一度だけ様子を見に行った。あいつらが互いに羽根をつくろい、餌を運んで来る姿は細やかな愛情ってものがあった。それは子供心にも感じられた。親が子を育てる姿ってのは、こういうもんだってな」
つくしは、経済界のサメと呼ばれ経営手腕に秀でた男も、幼少期には感情豊かな内面があったのだと知った。
そして男が少年時代は荒れていたという話と、幼い頃から両親と離れて暮らしていたという話を訊かされたが、気の毒に思えということなのか。誰かと心の結びつきが欲しいということなのか。
だが正直この話しをどう受け取っていいのか分からなかった。
それに鳩に似ていると言われたが、何がどう似ているというのか。
外見で似ていることと言えば、鳩の身体を覆うチャコールグレーの羽根が、いつも着ているスーツの色と同じだということと、目が丸いということだろうか。
けれど本質的な意味での言いたいことは理解出来ていた。
それは、鳩が傷を癒すと飛び立ったように、たとえ身体に傷跡があったとしても気にするなということだ。
今では遠い昔の話だが、当時付き合っていた恋人に傷跡を直視することが出来ないと言われ別れた。だがこうしてボストンまで一緒に旅をして来た男は、嘘をついたことは別としても、足に傷跡を持つ女を好きだと言う。
「鳩もそうだが動物の雄と雌の間は駆け引きや打算がない。牧野つくしという女は、自分の世界をしっかりと持っている。他人に流されることがない。それに地道な努力なしに大学の准教授になることは出来ないはずだ」
それは褒め言葉と取ればいいのか。
だが電話の相手だった男の言葉を真面目に受け取ったばかりに嘘をつかれていたことを見抜けなかった。だから道明寺司を相手にするなら用心深くしなければならなかった。
「俺が牧野つくしという女を好きな理由は話した通りだが、どんなに理由を話したとしても、人を理解することと、恋をすることは違う。恋は理解出来ない。分からないから人間は思いを抱くはずだ。だからこれから1週間という短い時間だが日常的な俺を知ってくれ」
『日常的な自分を知って欲しい』
道明寺司の話は車がホテルの車寄せに到着した時に終わったが、あの男の日常的な風景とはいったいどんな風景なのか。
それにしても、あの男の話が本当だとして、鳩に語り掛けている姿を想像すると可笑しかったが、幼少期がカトリックの聖人である聖フランシスコだった男は、フランシスコと同じ金持の家に生まれ大人になった。そして聖人とは異なった意味での奔放な青春時代を送ったのだから、そのことを考えると興味深いものがあった。
ホテルはボストンの中心部にあり、研究所があるウッズホールまでは、かなりの距離があるが車は自由に使えばいいと言われたが、ここに来た目的は研究所に行くことであり、そうさせてもらうつもりでいた。
そして部屋へ案内され暫くぼんやとした後、1階のレストランで食事をするつもりで外へ出ようとした。その時、部屋のベルが鳴りお届け物ですと届けられたのは小さな紙袋。
チョコレートか何かかと思ったが、ホテルの従業員とは別にブラックスーツの男性とセキュリティが付いていて受取りのサインを求められた。
と、言うことは、この紙袋の中身はチョコレートやクッキーといった食べ物ではないと気付いた。
そして、この現状で送り主の名を告げられなくても、あの男以外には考えられなかった。
だから断ろうとした。
だが3人の男達は、つくしが受け取るまではこの場を離れるなと言われていると言った。
つまり受け取らない限りは、食事に行くことが出来ないということだ。
だから仕方なくその紙袋を受け取った。そして『HARRY WINSTON』と文字が入った袋の中から出て来たのは濃紺の小箱。いったいあの男は何を贈って来たのか。
リボンが掛けられた紙袋と同じ色をした箱を開けると、やはり同じ色をしたベルベットのケースが出てきた。そしてその中に収められていたのは鳩のブローチ。
眩いばかりの煌めきはダイヤモンド。そしてダイヤモンドの次に硬いと言われるルビーが鮮やかな彩りを添えているが、それはピジョン・ブラッドと呼ばれる鳩の血の色でルビーの中では最高級の色のものだった。

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「私が鳩?」
「ああ。俺が幼稚舎の頃だが鷹にでも襲われたのか。灰色の毛の一部がむしられ傷ついた鳩が庭の片隅にうずくまっているのを見つけた。あの当時両親はアメリカ暮らしで俺は邸で姉と使用人の老婆と生活していた。老婆は傷ついた鳩を自分の部屋に連れて帰り介抱した。鳩は初め人の手から餌を貰うことを躊躇っていた。だがやがて老婆が与える餌を食べるようになり俺にも懐いた。知ってるか?鳩って鳥はグルルって鳴くことを」
司は生き物と親しく触れ合ったことがなかった。
それだけに初めて間近に接した灰色の鳩は陰鬱な色かもしれなかったが、首回りに緑や青を含んだ小さな頭をわずかに傾け、司を見る姿は可愛らしいと思えた。
「だがある日。老婆の部屋の鳥かごの中にいたはずの鳩はいなくなった。老婆は逃げたんだと言ったがそうじゃないことが今なら理解出来る。つまり傷が癒えたから逃がしたってことだ。その時野性の鳩を飼うことは出来ないって言われた。それに鳩には鳩の世界があるってな。たとえまた大きな鳥に狙われて傷ついたとしても、大空を飛ぶ鳩はその方がいいってな。それから何年か経った後、庭に鳩が巣を作ったと訊かされたが、その鳩があの時の鳩だかどうかは不明だ。それにその頃の俺はもう鳩に興味はなくなっていた。だから鳩が庭の木に巣を作ろうが卵を産もうがどうでもよかった。とは言っても一度だけ様子を見に行った。あいつらが互いに羽根をつくろい、餌を運んで来る姿は細やかな愛情ってものがあった。それは子供心にも感じられた。親が子を育てる姿ってのは、こういうもんだってな」
つくしは、経済界のサメと呼ばれ経営手腕に秀でた男も、幼少期には感情豊かな内面があったのだと知った。
そして男が少年時代は荒れていたという話と、幼い頃から両親と離れて暮らしていたという話を訊かされたが、気の毒に思えということなのか。誰かと心の結びつきが欲しいということなのか。
だが正直この話しをどう受け取っていいのか分からなかった。
それに鳩に似ていると言われたが、何がどう似ているというのか。
外見で似ていることと言えば、鳩の身体を覆うチャコールグレーの羽根が、いつも着ているスーツの色と同じだということと、目が丸いということだろうか。
けれど本質的な意味での言いたいことは理解出来ていた。
それは、鳩が傷を癒すと飛び立ったように、たとえ身体に傷跡があったとしても気にするなということだ。
今では遠い昔の話だが、当時付き合っていた恋人に傷跡を直視することが出来ないと言われ別れた。だがこうしてボストンまで一緒に旅をして来た男は、嘘をついたことは別としても、足に傷跡を持つ女を好きだと言う。
「鳩もそうだが動物の雄と雌の間は駆け引きや打算がない。牧野つくしという女は、自分の世界をしっかりと持っている。他人に流されることがない。それに地道な努力なしに大学の准教授になることは出来ないはずだ」
それは褒め言葉と取ればいいのか。
だが電話の相手だった男の言葉を真面目に受け取ったばかりに嘘をつかれていたことを見抜けなかった。だから道明寺司を相手にするなら用心深くしなければならなかった。
「俺が牧野つくしという女を好きな理由は話した通りだが、どんなに理由を話したとしても、人を理解することと、恋をすることは違う。恋は理解出来ない。分からないから人間は思いを抱くはずだ。だからこれから1週間という短い時間だが日常的な俺を知ってくれ」
『日常的な自分を知って欲しい』
道明寺司の話は車がホテルの車寄せに到着した時に終わったが、あの男の日常的な風景とはいったいどんな風景なのか。
それにしても、あの男の話が本当だとして、鳩に語り掛けている姿を想像すると可笑しかったが、幼少期がカトリックの聖人である聖フランシスコだった男は、フランシスコと同じ金持の家に生まれ大人になった。そして聖人とは異なった意味での奔放な青春時代を送ったのだから、そのことを考えると興味深いものがあった。
ホテルはボストンの中心部にあり、研究所があるウッズホールまでは、かなりの距離があるが車は自由に使えばいいと言われたが、ここに来た目的は研究所に行くことであり、そうさせてもらうつもりでいた。
そして部屋へ案内され暫くぼんやとした後、1階のレストランで食事をするつもりで外へ出ようとした。その時、部屋のベルが鳴りお届け物ですと届けられたのは小さな紙袋。
チョコレートか何かかと思ったが、ホテルの従業員とは別にブラックスーツの男性とセキュリティが付いていて受取りのサインを求められた。
と、言うことは、この紙袋の中身はチョコレートやクッキーといった食べ物ではないと気付いた。
そして、この現状で送り主の名を告げられなくても、あの男以外には考えられなかった。
だから断ろうとした。
だが3人の男達は、つくしが受け取るまではこの場を離れるなと言われていると言った。
つまり受け取らない限りは、食事に行くことが出来ないということだ。
だから仕方なくその紙袋を受け取った。そして『HARRY WINSTON』と文字が入った袋の中から出て来たのは濃紺の小箱。いったいあの男は何を贈って来たのか。
リボンが掛けられた紙袋と同じ色をした箱を開けると、やはり同じ色をしたベルベットのケースが出てきた。そしてその中に収められていたのは鳩のブローチ。
眩いばかりの煌めきはダイヤモンド。そしてダイヤモンドの次に硬いと言われるルビーが鮮やかな彩りを添えているが、それはピジョン・ブラッドと呼ばれる鳩の血の色でルビーの中では最高級の色のものだった。

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ボストンに到着したのは現地時間の昼前。
プライベートジェットの利点のひとつは入国審査の列に並ぶ必要がないことだと訊かされたが、道明寺司が列に並ぶことを想像することは出来なかった。
そして当然だがターンテーブルから荷物をピックアップする必要がない。だから小さな鞄だけを手に迎えの車に向かったが、そこには黒のスーツにサングラスをかけた屈強な男達が数名いて、彼らがボディーガードだということは誰が見ても分かるはずだ。
ここはアメリカだ。
だから彼らが銃を携帯していることは理解しているが、ひとりの男性の上着が風に煽られたとき、腰に着けられたホルスターに収められた銃が目に留まった。
この国では腰に拳銃をぶら下げて歩いている人間は珍しくない。だから驚くことではないのだが、それでも確実に人の命を奪うことが出来る武器が携帯されていることは、平和と言われる日本から来たつくしにすれば慣れないことだ。
だが自身はレストランのトイレから連れ去れる目にあったばかりで怖い思いをした記憶はまだ新しい。それに犯罪は時と場所を選ばないと言われている。そしてそれはどこの国でも同じはずだ。だからこの国で道明寺司のような企業経営者の警護に丸腰などありえない話だろう。
黒のリムジンは、空港を出るとホテルに向かったが、この街でビジネスの約束があると言った男は早速これから人と会うと言う。
「牧野先生。昼食に付き合えなくて申し訳ない」
道明寺司は、つくしのことを「牧野先生」と呼んでいるが、それはこの旅がビジネスを重視したものだと言いたいのか。そうだとすれば、このままビジネスライクを通してもらえれば有難い。何しろその方が余計なことを考えなくて済むからだ。
けれど、隣に座る男は、つくしのことを自分にぴったりの女だと言い、諦めるつもりはないとまで言った。
つまり、このアメリカ旅行を最大限に利用して何かしようと考えている可能性は大いにある。もしそうなら、それは無理だという意思表示をはっきりとすることが必要だ。
それは女性を海外旅行に連れ出せば簡単に落とせると思っているなら大間違いということをだ。
それにこの旅で二人は同じホテルに宿泊はするが、ひとりはビジネスのため。
もうひとりは研究活動の一環としての渡航であり、つくしにすれば、ここにいるのは同じ飛行機に同乗させてもらっただけで何の係わりもないという認識だ。
だから昼食に付き合えなくて悪いという男に、「どうぞお構いなく。ひとりで食事をするのは馴れてますから」と答えた。
すると、「ひとりの食事ほど退屈なものはないはずだ」と言われ、「いいえ。退屈なんかしません」と冷ややかに言うと、「いや。退屈なはずだ」と言って笑みを浮かべたが、勝手に決めつけないで欲しい。
「俺は今まで女と食事をして楽しいと感じたことはない。だがな、お前と行った中華料理屋の食事は楽しいと感じた。俺は人が美味そうに食べる姿を見たことがない。ビジネスランチや会食ってのはビジネスの一環で楽しむものじゃない。それに食事が待ち遠しい。そんな気持ちになったことはなかった。だがあの日は牧野つくしと食事がしたいと思った。それにあの時の食事は美味いと感じられた。それに女と食事をすることが楽しいことだと知った。それは純粋に食事を楽しむ女が目の前にいたからだ」
表情が豊かとは言えない男が見たことがないほど優しい目をしてつくしを見る。
それは喜怒哀楽を必要としなかった男が見せる喜びの表情だとすれば、鋭いと言われる二つの眼をここまで柔らかくすることが出来るのかと思った。
そして、そんなことを考えているうちに口にすべき言葉を失っていた。
それが相手の堂々とした態度に押され気味とは思わないが、つい物事に筋道を立てて考えてしまう性分を変えることは出来ない。だから何を言おうかと考えるつくしに対し男は続けた。
「俺はガキの頃から喧嘩は得意だった。誰かを殴りたくなれば喧嘩を仕掛けた。だが少し大人になってくると喧嘩を仕掛けるよりも誘い込むことをしていた。まあ時に意味もなく殴ることもあったが、それじゃあ面白くない。相手もその気になるから喧嘩は面白い。だから誘い込んだ。喧嘩というゲームにな。だが俺自身が殴られることもなければ負けたこともない。それがやんちゃだと言われた俺の青春時代だが、男はそうやって身体を使って勝負をする。腕力の世界の勝ち負けは誰が見ても分かるようにはっきりしてる。
だが女は同じ身体を使うにしても別の使い方をする。俺の周りにいた女たちは自分の身体を使って男を罠にかけることが当たり前だった。子供が出来たといって男を掴まえる女もいるが、そういった女は計画的だ。つまり女は裏表があるズルい生き物。それが俺が女に対して抱いていた感情だ」
若い頃やんちゃで喧嘩をしても負けることがなかった話は、足を捻挫し病院に運び込まれた時に手当をしてくれた医師から訊いた。その時、一度だけ深い傷を負ったという話も訊かされた。
そして道明寺財閥の後継者ともなれば、周りに集まる女性たちが道明寺司夫人の座を手に入れようとしていることは本人もよく分かっている。
けれど、つくしはそんなことに興味がない。
それに自分に嘘をついた男の女性に対する考えを訊かされても何を言えばいいのか。
いや。何も言う必要はない。だから黙って前を向いていた。
「だがな。どんなに女達が魅力的に振る舞おうと心はセックスで満たされることはない。それにお前は似てるんだよ。庭の片隅にうずくまってた鳩にな」

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プライベートジェットの利点のひとつは入国審査の列に並ぶ必要がないことだと訊かされたが、道明寺司が列に並ぶことを想像することは出来なかった。
そして当然だがターンテーブルから荷物をピックアップする必要がない。だから小さな鞄だけを手に迎えの車に向かったが、そこには黒のスーツにサングラスをかけた屈強な男達が数名いて、彼らがボディーガードだということは誰が見ても分かるはずだ。
ここはアメリカだ。
だから彼らが銃を携帯していることは理解しているが、ひとりの男性の上着が風に煽られたとき、腰に着けられたホルスターに収められた銃が目に留まった。
この国では腰に拳銃をぶら下げて歩いている人間は珍しくない。だから驚くことではないのだが、それでも確実に人の命を奪うことが出来る武器が携帯されていることは、平和と言われる日本から来たつくしにすれば慣れないことだ。
だが自身はレストランのトイレから連れ去れる目にあったばかりで怖い思いをした記憶はまだ新しい。それに犯罪は時と場所を選ばないと言われている。そしてそれはどこの国でも同じはずだ。だからこの国で道明寺司のような企業経営者の警護に丸腰などありえない話だろう。
黒のリムジンは、空港を出るとホテルに向かったが、この街でビジネスの約束があると言った男は早速これから人と会うと言う。
「牧野先生。昼食に付き合えなくて申し訳ない」
道明寺司は、つくしのことを「牧野先生」と呼んでいるが、それはこの旅がビジネスを重視したものだと言いたいのか。そうだとすれば、このままビジネスライクを通してもらえれば有難い。何しろその方が余計なことを考えなくて済むからだ。
けれど、隣に座る男は、つくしのことを自分にぴったりの女だと言い、諦めるつもりはないとまで言った。
つまり、このアメリカ旅行を最大限に利用して何かしようと考えている可能性は大いにある。もしそうなら、それは無理だという意思表示をはっきりとすることが必要だ。
それは女性を海外旅行に連れ出せば簡単に落とせると思っているなら大間違いということをだ。
それにこの旅で二人は同じホテルに宿泊はするが、ひとりはビジネスのため。
もうひとりは研究活動の一環としての渡航であり、つくしにすれば、ここにいるのは同じ飛行機に同乗させてもらっただけで何の係わりもないという認識だ。
だから昼食に付き合えなくて悪いという男に、「どうぞお構いなく。ひとりで食事をするのは馴れてますから」と答えた。
すると、「ひとりの食事ほど退屈なものはないはずだ」と言われ、「いいえ。退屈なんかしません」と冷ややかに言うと、「いや。退屈なはずだ」と言って笑みを浮かべたが、勝手に決めつけないで欲しい。
「俺は今まで女と食事をして楽しいと感じたことはない。だがな、お前と行った中華料理屋の食事は楽しいと感じた。俺は人が美味そうに食べる姿を見たことがない。ビジネスランチや会食ってのはビジネスの一環で楽しむものじゃない。それに食事が待ち遠しい。そんな気持ちになったことはなかった。だがあの日は牧野つくしと食事がしたいと思った。それにあの時の食事は美味いと感じられた。それに女と食事をすることが楽しいことだと知った。それは純粋に食事を楽しむ女が目の前にいたからだ」
表情が豊かとは言えない男が見たことがないほど優しい目をしてつくしを見る。
それは喜怒哀楽を必要としなかった男が見せる喜びの表情だとすれば、鋭いと言われる二つの眼をここまで柔らかくすることが出来るのかと思った。
そして、そんなことを考えているうちに口にすべき言葉を失っていた。
それが相手の堂々とした態度に押され気味とは思わないが、つい物事に筋道を立てて考えてしまう性分を変えることは出来ない。だから何を言おうかと考えるつくしに対し男は続けた。
「俺はガキの頃から喧嘩は得意だった。誰かを殴りたくなれば喧嘩を仕掛けた。だが少し大人になってくると喧嘩を仕掛けるよりも誘い込むことをしていた。まあ時に意味もなく殴ることもあったが、それじゃあ面白くない。相手もその気になるから喧嘩は面白い。だから誘い込んだ。喧嘩というゲームにな。だが俺自身が殴られることもなければ負けたこともない。それがやんちゃだと言われた俺の青春時代だが、男はそうやって身体を使って勝負をする。腕力の世界の勝ち負けは誰が見ても分かるようにはっきりしてる。
だが女は同じ身体を使うにしても別の使い方をする。俺の周りにいた女たちは自分の身体を使って男を罠にかけることが当たり前だった。子供が出来たといって男を掴まえる女もいるが、そういった女は計画的だ。つまり女は裏表があるズルい生き物。それが俺が女に対して抱いていた感情だ」
若い頃やんちゃで喧嘩をしても負けることがなかった話は、足を捻挫し病院に運び込まれた時に手当をしてくれた医師から訊いた。その時、一度だけ深い傷を負ったという話も訊かされた。
そして道明寺財閥の後継者ともなれば、周りに集まる女性たちが道明寺司夫人の座を手に入れようとしていることは本人もよく分かっている。
けれど、つくしはそんなことに興味がない。
それに自分に嘘をついた男の女性に対する考えを訊かされても何を言えばいいのか。
いや。何も言う必要はない。だから黙って前を向いていた。
「だがな。どんなに女達が魅力的に振る舞おうと心はセックスで満たされることはない。それにお前は似てるんだよ。庭の片隅にうずくまってた鳩にな」

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つくしは窓に額を押し付けるようにして眼下に広がる街を見つめていた。
徐々に高度を下げていくジェットは間もなくボストンの空港に到着すると言われ、シートベルトを締めた。
東京を飛び立ってから、二人が初めて口を開いたのは、ジェットが高度1万メートル以上に達し客室乗務員から飲み物はいかがですかと問われた時、「コーヒーを頼む。先生は何にする?」だった。
プライベートジェットの機内で隣の席に座った男は、つくしが乗り込んで来たとき既に書類に目を通していて、「ようこそ、牧野先生」と言い、つくしも「お世話になります」とだけ挨拶をして席に座った。
ボストンまで民間の航空機なら13時間余りかかるところだが、プライベートジェットは民間機よりも高い所を飛ぶことで、短い時間でボストンまで飛んで行くことが出来る。
だがだからと言って極端に短い訳ではない。それなりの時間を要した旅になるのだが、つくしの態度はよそよそしさ満載だった。だがそれでも礼儀だけは心得ていた。
だから何を飲むかと訊かれ紅茶をお願いしますと答えると、「ボストンに向かうから紅茶を頼んだのか?」と問われ一瞬何のことを言っているのかと訝しく思ったが、ああ、と気付いた。
ボストンと紅茶で思いつくのは、アメリカ独立戦争の引き金になったボストン茶会事件のことだが、まさか道明寺司がそのことをこんな風に口にするとは思わなかった。
だから、「いいえ。違います」と茶会事件を聞き流し窓の外を流れていく雲を見ていたが、隣の席に座った男は、窓から差し込む日差しを遮るためシェードを降ろすと書類にサインを始めた。
それから交わされた会話と言えば、
「楽にしてくれ」
「はい。ありがとうございます」
といった程度で特に何かが話題になるということはなかった。
そして太平洋上空で一度目の食事を済ませ、夜を迎え眠りにつくことになったが、贅沢な機内にはベッドルームがあるから使ってもいいと言われた。
だがこの状況での正しいマナーというのは、間違ってもベッドを使うことではない。だから勿論断った。それに座席を後ろに倒せば充分くつろげるのだからその必要はなかった。
やがて機内の明かりが薄明り程度に落とされると睡魔に襲われ眠りについたが、隣に座った男の頭上は明かりが灯されていた。
どれくらい眠ったのか。目覚めた時、隣の席の男と目が合った。
それはいつの間にか道明寺司の方を向いて寝ていたからだ。そして黙っている男が口を開き、「よく寝たか?」と言ったが、そう訊かれれば返す言葉は決まっている。
だから、「はい…おかげ様で」と答えたが、男にずっと寝顔を見られていたと思うと羞恥を感じていた。
そして何故自分は道明寺司の隣で横になった姿勢でいるのか____
「ウッズホールに行くつもりはないか?」
つくしは道明寺司にボストンに用があるがウッズホールに行かないかと誘われた。
ウッズホールはアメリカ東海岸マサチューセッツ州にある海辺の小さな街だが、そこにはアメリカ最古の海洋生物学の研究所があり、海洋生物学者の間では有名な町だ。
かつてその研究所で研究員を務めていた日本人がノーベル化学賞を受賞した。そして他にも多くのノーベル賞受賞者や優秀な研究者を輩出した研究所は、つくしも訪れたことがあった。
そしてつくしがまた再びその場所を訪れたいと望んでいることは、5千万の寄付の話があった時の会話の中にあった。
だから大学が春休みの今、訪れてみる気はないかと言った。
だがそれは決して押し付けでもなければ、ブレーンとしての命令でもない。
あくまでも本人の意思を確認してのことだが、つくしが師事する教授からの後押しとも言える発言があった。
「牧野君。チャンスじゃないか。道明寺副社長のジェットでアメリカまで旅が出来るんだ。旅費一切を持って下さると言うんだ。大学のことは気にしなくていいから行って来なさい。それに調査研究に必要なのは知識だけじゃない。国際的な人脈作りも大切だ。たとえ短い期間だとしても向うで研究されている先生方に会うことに意味がある。それに道明寺副社長の人脈も利用させてもらえばいいんだよ。彼ならアポイントがなくても会おうという人間は多いはずだからね?それから博物館も行くといい。ボストンもいいがニューヨークのアメリカンミュージアムもいいぞ。あそこにはいい標本が沢山ある。行くなら話をつけておくから標本観察をさせてもらえばいい。そうだ。それにあそこにはサメじゃないがシーラカンスの胎仔の標本があったな。胎仔だよ?胎仔。珍しいだろ?」
そこから始まったアメリカ行き。
ビジネスクラスにさえ乗ったことがない女がプライベートジェットに乗る。
通路を挟んだ隣にいる男はこのジェットの持ち主で、つくしのことを好きだと言う男。
そんな男との旅は始まっていて、ジェットは着陸態勢に入った。
そしてこの旅を勧めた教授の副島は、「牧野君。楽しんできたまえ」という言葉で話を結んだが、ウッズホール行きの話をした瞬間から抗える権利はなかったような気がしていた。

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徐々に高度を下げていくジェットは間もなくボストンの空港に到着すると言われ、シートベルトを締めた。
東京を飛び立ってから、二人が初めて口を開いたのは、ジェットが高度1万メートル以上に達し客室乗務員から飲み物はいかがですかと問われた時、「コーヒーを頼む。先生は何にする?」だった。
プライベートジェットの機内で隣の席に座った男は、つくしが乗り込んで来たとき既に書類に目を通していて、「ようこそ、牧野先生」と言い、つくしも「お世話になります」とだけ挨拶をして席に座った。
ボストンまで民間の航空機なら13時間余りかかるところだが、プライベートジェットは民間機よりも高い所を飛ぶことで、短い時間でボストンまで飛んで行くことが出来る。
だがだからと言って極端に短い訳ではない。それなりの時間を要した旅になるのだが、つくしの態度はよそよそしさ満載だった。だがそれでも礼儀だけは心得ていた。
だから何を飲むかと訊かれ紅茶をお願いしますと答えると、「ボストンに向かうから紅茶を頼んだのか?」と問われ一瞬何のことを言っているのかと訝しく思ったが、ああ、と気付いた。
ボストンと紅茶で思いつくのは、アメリカ独立戦争の引き金になったボストン茶会事件のことだが、まさか道明寺司がそのことをこんな風に口にするとは思わなかった。
だから、「いいえ。違います」と茶会事件を聞き流し窓の外を流れていく雲を見ていたが、隣の席に座った男は、窓から差し込む日差しを遮るためシェードを降ろすと書類にサインを始めた。
それから交わされた会話と言えば、
「楽にしてくれ」
「はい。ありがとうございます」
といった程度で特に何かが話題になるということはなかった。
そして太平洋上空で一度目の食事を済ませ、夜を迎え眠りにつくことになったが、贅沢な機内にはベッドルームがあるから使ってもいいと言われた。
だがこの状況での正しいマナーというのは、間違ってもベッドを使うことではない。だから勿論断った。それに座席を後ろに倒せば充分くつろげるのだからその必要はなかった。
やがて機内の明かりが薄明り程度に落とされると睡魔に襲われ眠りについたが、隣に座った男の頭上は明かりが灯されていた。
どれくらい眠ったのか。目覚めた時、隣の席の男と目が合った。
それはいつの間にか道明寺司の方を向いて寝ていたからだ。そして黙っている男が口を開き、「よく寝たか?」と言ったが、そう訊かれれば返す言葉は決まっている。
だから、「はい…おかげ様で」と答えたが、男にずっと寝顔を見られていたと思うと羞恥を感じていた。
そして何故自分は道明寺司の隣で横になった姿勢でいるのか____
「ウッズホールに行くつもりはないか?」
つくしは道明寺司にボストンに用があるがウッズホールに行かないかと誘われた。
ウッズホールはアメリカ東海岸マサチューセッツ州にある海辺の小さな街だが、そこにはアメリカ最古の海洋生物学の研究所があり、海洋生物学者の間では有名な町だ。
かつてその研究所で研究員を務めていた日本人がノーベル化学賞を受賞した。そして他にも多くのノーベル賞受賞者や優秀な研究者を輩出した研究所は、つくしも訪れたことがあった。
そしてつくしがまた再びその場所を訪れたいと望んでいることは、5千万の寄付の話があった時の会話の中にあった。
だから大学が春休みの今、訪れてみる気はないかと言った。
だがそれは決して押し付けでもなければ、ブレーンとしての命令でもない。
あくまでも本人の意思を確認してのことだが、つくしが師事する教授からの後押しとも言える発言があった。
「牧野君。チャンスじゃないか。道明寺副社長のジェットでアメリカまで旅が出来るんだ。旅費一切を持って下さると言うんだ。大学のことは気にしなくていいから行って来なさい。それに調査研究に必要なのは知識だけじゃない。国際的な人脈作りも大切だ。たとえ短い期間だとしても向うで研究されている先生方に会うことに意味がある。それに道明寺副社長の人脈も利用させてもらえばいいんだよ。彼ならアポイントがなくても会おうという人間は多いはずだからね?それから博物館も行くといい。ボストンもいいがニューヨークのアメリカンミュージアムもいいぞ。あそこにはいい標本が沢山ある。行くなら話をつけておくから標本観察をさせてもらえばいい。そうだ。それにあそこにはサメじゃないがシーラカンスの胎仔の標本があったな。胎仔だよ?胎仔。珍しいだろ?」
そこから始まったアメリカ行き。
ビジネスクラスにさえ乗ったことがない女がプライベートジェットに乗る。
通路を挟んだ隣にいる男はこのジェットの持ち主で、つくしのことを好きだと言う男。
そんな男との旅は始まっていて、ジェットは着陸態勢に入った。
そしてこの旅を勧めた教授の副島は、「牧野君。楽しんできたまえ」という言葉で話を結んだが、ウッズホール行きの話をした瞬間から抗える権利はなかったような気がしていた。

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会話の内容は何であれ、こうして二人で食事をすることに意義がある。
ここはどこにでもある町の中華料理屋で司が普段贔屓にしている店とは明らかに違う。
ビニールクロスが掛けられたテーブルや簡素な椅子。壁に貼られたビール会社のポスターや料理の案内といったもの。ガヤガヤとした雰囲気は、食事というものは静かにするものだと教えられて来た男にとっては初めてに近い経験だ。
そんな雰囲気の中、司は牧野つくしが美味そうに食べる姿を見ながら自身も箸を口に運んだが、豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せという料理は、コックが腕によりをかけて作るという料理ではない。それにこの料理に使われている食材はどこにでもある食材で安価なものばかりだ。だが白米に合う味付けがされていて美味いと感じられた。
そしてこういった料理が家庭料理と言われるものだと分かってはいるが、司は今までこういった料理を口にしたことがなかった。
「確かにお前の言う通りで美味い」
司は率直な感想を述べたが、腹が満たされつつある女は、それまで司に向けられていたつっけんどんだった態度が希薄になったように感じられ、「女将さんが喜びます」と言ったが、やはり顔は真顔で笑みはなかった。
そして継いだ言葉は、「川上真理子さんのことはよく分かりました。それから私は無責任なことは言えません。だからさっき話した以上のことは口に出来ませんし、後のことは警察にお任せすることだと思ってます」だったが、牧野つくしの目に憎悪の光りはない。
あるのは先ほどと同じ気の毒だという感情だが、司にすれば随分とお優しい感情で、と呆れるところだが、本人がそれでいいというものを、こうしろとは言えなかった。
そして、『人から大切に思われたいなら人を大切に思う心が必要』の言葉は司に向けられたものだ。
しかし司が夜の電話の男の杉村だと知ってからの牧野つくしは、高い壁を自分の周りに築いてしまった。けれど見え隠れする感情の中には、壁の内側に入ることが出来る扉が隠されている。それは病室でほんの一瞬だったが唇を重ねたとき感じたのだ。
そして彼女の言葉と感情の中にあるのは愛とは人を許すということ。
だから司は、許してもらう為にじっくりいこうと決めた。
「ああ。そうだな。川上真理子のことは警察に任せるしかない。だがお前がやっぱりあの女が許せないというならその時は言ってくれ」
司はそういったが、牧野つくしは首を横に振った。
それは思った通りのことだった。だから受け止め方としてはごく普通の態度をとった。
そしてじっくりいこうと決めた男は改めて自分の気持ちを伝えることにした。
「俺は今までこの世の中のどこかに自分にぴったりの女がいる。そんな考えを持ったことがない。だが今は違う。それから….」
牧野つくしの目をしっかりと見た司は一度言葉を止め、「俺は諦めるという言葉を知らない。だからそのつもりでいてくれ」と言った。
***
じっくりいこうと決めた男は、かかってきた電話の相手を確かめた。
「あきら。この前は助かった」
『気にするな。で?彼女はどうなった?牧野つくし先生は?』
「元気にしてる」
『お前......元気にしてるだけじゃ状況が分かんねぇだろう?どうなったって訊いたってことは、その後進展はあったかってことだ』
司はあきらに牧野つくしが好きだという思いを伝えていた。
そして川上真理子の情報をくれたのはあきらで、司の恋の行方を知りたがっていた。
「いや。今のところ特にない。ただ退院してから牧野つくしの馴染みの中華料理屋で食事をしたがそれだけだ」
『おい。天下の道明寺司が街中の中華料理屋って…..。ああ、そうだったな。お前にかかってきた間違い電話は中華料理屋宛だったよな?だからその中華料理屋に行ったってことか?』
「そうだ」
『おい司。お前えらく落ち着いてるが大丈夫か?』
「ああ。牧野つくしは物事が急速に変化するのを好まない女だ。だから俺はじっくりいくことを決めた」
『恋をしたことがないお前がじっくりっだって?大丈夫か?まあ俺たち企業人は相手を論破するより実績を積むことの方が重要だ。だからお前は誠意という実績を積んで相手の心を掴むってことか?それで何をするつもりだ?お前女が喜びそうなことを知ってるのか?』
それは恋をしたことが無い男に向かって言われた当然とも言える言葉だったが、司は「ああ。やるべき事は決まってる」と返事をした。

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ここはどこにでもある町の中華料理屋で司が普段贔屓にしている店とは明らかに違う。
ビニールクロスが掛けられたテーブルや簡素な椅子。壁に貼られたビール会社のポスターや料理の案内といったもの。ガヤガヤとした雰囲気は、食事というものは静かにするものだと教えられて来た男にとっては初めてに近い経験だ。
そんな雰囲気の中、司は牧野つくしが美味そうに食べる姿を見ながら自身も箸を口に運んだが、豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せという料理は、コックが腕によりをかけて作るという料理ではない。それにこの料理に使われている食材はどこにでもある食材で安価なものばかりだ。だが白米に合う味付けがされていて美味いと感じられた。
そしてこういった料理が家庭料理と言われるものだと分かってはいるが、司は今までこういった料理を口にしたことがなかった。
「確かにお前の言う通りで美味い」
司は率直な感想を述べたが、腹が満たされつつある女は、それまで司に向けられていたつっけんどんだった態度が希薄になったように感じられ、「女将さんが喜びます」と言ったが、やはり顔は真顔で笑みはなかった。
そして継いだ言葉は、「川上真理子さんのことはよく分かりました。それから私は無責任なことは言えません。だからさっき話した以上のことは口に出来ませんし、後のことは警察にお任せすることだと思ってます」だったが、牧野つくしの目に憎悪の光りはない。
あるのは先ほどと同じ気の毒だという感情だが、司にすれば随分とお優しい感情で、と呆れるところだが、本人がそれでいいというものを、こうしろとは言えなかった。
そして、『人から大切に思われたいなら人を大切に思う心が必要』の言葉は司に向けられたものだ。
しかし司が夜の電話の男の杉村だと知ってからの牧野つくしは、高い壁を自分の周りに築いてしまった。けれど見え隠れする感情の中には、壁の内側に入ることが出来る扉が隠されている。それは病室でほんの一瞬だったが唇を重ねたとき感じたのだ。
そして彼女の言葉と感情の中にあるのは愛とは人を許すということ。
だから司は、許してもらう為にじっくりいこうと決めた。
「ああ。そうだな。川上真理子のことは警察に任せるしかない。だがお前がやっぱりあの女が許せないというならその時は言ってくれ」
司はそういったが、牧野つくしは首を横に振った。
それは思った通りのことだった。だから受け止め方としてはごく普通の態度をとった。
そしてじっくりいこうと決めた男は改めて自分の気持ちを伝えることにした。
「俺は今までこの世の中のどこかに自分にぴったりの女がいる。そんな考えを持ったことがない。だが今は違う。それから….」
牧野つくしの目をしっかりと見た司は一度言葉を止め、「俺は諦めるという言葉を知らない。だからそのつもりでいてくれ」と言った。
***
じっくりいこうと決めた男は、かかってきた電話の相手を確かめた。
「あきら。この前は助かった」
『気にするな。で?彼女はどうなった?牧野つくし先生は?』
「元気にしてる」
『お前......元気にしてるだけじゃ状況が分かんねぇだろう?どうなったって訊いたってことは、その後進展はあったかってことだ』
司はあきらに牧野つくしが好きだという思いを伝えていた。
そして川上真理子の情報をくれたのはあきらで、司の恋の行方を知りたがっていた。
「いや。今のところ特にない。ただ退院してから牧野つくしの馴染みの中華料理屋で食事をしたがそれだけだ」
『おい。天下の道明寺司が街中の中華料理屋って…..。ああ、そうだったな。お前にかかってきた間違い電話は中華料理屋宛だったよな?だからその中華料理屋に行ったってことか?』
「そうだ」
『おい司。お前えらく落ち着いてるが大丈夫か?』
「ああ。牧野つくしは物事が急速に変化するのを好まない女だ。だから俺はじっくりいくことを決めた」
『恋をしたことがないお前がじっくりっだって?大丈夫か?まあ俺たち企業人は相手を論破するより実績を積むことの方が重要だ。だからお前は誠意という実績を積んで相手の心を掴むってことか?それで何をするつもりだ?お前女が喜びそうなことを知ってるのか?』
それは恋をしたことが無い男に向かって言われた当然とも言える言葉だったが、司は「ああ。やるべき事は決まってる」と返事をした。

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『特定の人間にだけ受け入れられる人間は誰かと訊かれたとき、支社長は誰の名前を挙げますか?』
雑誌に載ればそこからフェロモンが流れ出て来ると言われ、イケメンにもほどがあると言われる男に向けられたその質問に彼は答えた。
『そんなの決まってんだろ?牧野つくしだ。つまり特定の人間という言葉が指すのは俺のことを指すのであって、その人間に受け入れられる人間はひとりしかいない。それは牧野つくしという女だ。それに俺の身体は他の女にアレルギーを起こす。だから牧野以外の女とセックス_』
それは新年度を迎えた社内報のためのインタビューという形で西田が取り纏めようとしていた記事の一文だが、質問の意図することとは全く別のことを答える男の言葉は秘書によって速やかに削除され差支えのない記事へと変えられた。
世間では沼にはまるという言葉がある。
それはその人なりその物にはまり抜け出せなくなることらしいが、司の場合とっくに牧野という沼にはまっていた。
その沼にはまったのは17歳の時。
17歳の少年にとってのその沼は底なしの沼で、その沼にはまり早ン年。
だが思っていた。それは自分では沼にはまったと思っていたが、実は沼ではなく一生登頂出来ない山の途中にいるのではないかということだ。
その山の名前は牧野山。
標高は不明。頂は雲に覆われ下から見ることは出来ない。
だがその山は春になれば桜が咲き鳥たちのさえずりが聞こえ、夏は緑に覆われ心地いい風が吹く。秋になれば木は実を結び葉は赤く色付き、そして冬になれば雪に包まれ静寂を迎える。
そんな山にアタックを繰り返す男。
だが何度アタックしても山頂に辿り着くことは出来ずにいた。
そして二人が付き合うようになった迎えた何度目かの春。
街には真新しいスーツを着た新入社員と思われる若者が大勢いるが、司が支社長を務める道明寺ホールディングス日本支社にも大勢の新入社員が入社した。
思い起こせば司がアメリカの大学を卒業して数年を過ごし日本に帰国した時から牧野つくしと同じ会社で働けることを楽しみにしていた。
そして同じ会社で過ごす中で楽しいこともあれば悲しいこともあった。まさに悲喜こもごもと言ってもいい会社生活。だがそれでも楽しい会社生活。そしてどんなに苦しいことがあったとしても、牧野つくしがいれば乗り越えることが出来た。
だが牧野が司の会社ではなく別の会社を就職先として選んでいたらと思うことがあった。それは例えば花沢物産だったり、美作商事だったり、青池商会だったり、大河原財閥だったとしてもおかしくはない。そしてもし牧野が花沢物産に就職したとすれば、類の秘書になることは目に見えていた。
それに類のことだ。友達面して牧野の心を自分に振り向かせようとするはずだ。そうだ類は牧野の心を掴むのが上手い。事実高校生の頃、最初に彼女の心を掴んだのは類であり司ではない。そして彼女を取り合った。
そんな過去の想い出が脳裡を過るとモヤモヤとしたものが心に宿った。
そのとき、執務室のデスクの上に置かれた新聞記事が目に留まった。
それは『女性があこがれる制服の職業』
1位はキャビンアテンダント。
2位は巫女。
3位は看護師。
4位は警察官。
そして5位が医者となっていた。
司は思った。
『彼女が制服に着替えたら』。そんな映画があれば自分は牧野にどの制服を着させるか。
だが牧野つくしは、どの制服を着ても似合うはずだと思った。
例えばキャビンアテンダント。
航空会社の制服を着た牧野がキャリーケースを引き颯爽と空港内を歩く。その姿は凛とした中にも可愛さがあり男どもの目を惹く。
その可愛さから機内で男どもから名刺を渡され食事に誘われる………….。
「却下だ!」
そして2位の巫女。
だが巫女は神聖な職業であり、もし牧野が巫女になったとすれば、
『道明寺。私は神様に仕える巫女なの。だから私の身体は神様のものなの。ゴメンね、あんたとは一生清いままの関係でしかいれないの』と言って司とのセックスを拒むはずだ。
それなら看護師はどうだ?と考えたとき、看護師は夜勤がある。それに医者と看護師は不適切な関係に陥りやすい。だからやはり却下した。
そして4位の警察官。牧野つくしは曲がったことは大嫌いな性格で相手が誰であろうと怯むことなく正々堂々立ち向かう女だ。それに司のように学園の権力を握っていた男に宣戦布告をしたような女だ。そんな女の態度は司の心を掴み離さなかった。つまり『君の瞳をタイホする』とばかりに司は牧野つくしに逮捕されたと言ってもいい。
だが警察官という職業は危険が伴う仕事で、あの女の性格からして自らその危険に飛び込んで行くはずだ。だから却下した。
そして5位の医者。
つまり女医。
最後に残ったのは医療という場で患者のために人生を捧げることを選んだ女。
牧野つくしの白衣姿はクールで知的に見えるはずだ。
「それで道明寺さん。お腹の調子が悪いということですね?どのような症状がみられるのでしょうか?」
「どうもこのところ内側から突き上げるように激しく痛む」
「突き上げるようにですか?」
「ああ」
「そうですか。それは心配ですね?何か心あたりはありますか?」
「いや。特にないんだが」
「そうですか…..」
道明寺ホールディングスの産業医のひとりである牧野つくし。
今日の彼女は財団法人道明寺病院で司を診察していたが、はだけた司の胸に聴診器を当てる姿は真剣だった。そして司はそんな女の髪の毛から立ち昇るシャンプーの香りを嗅いでいた。
牧野つくしの存在は司にとってオアシスだ。
牧野つくしに会うことが仕事の励みになる。
だから本当は身体の調子は悪くないのだが、牧野つくしを間近に感じたいがために病院に通っていた。
「ところで道明寺さん今朝はお食事を召し上がられましたか?」
胸に聴診器を当てた女の声は司の裸の胸に響いた。
そして吐く息は胸をくすぐった。するとこのまま女の頭を抱え自分の胸に押し付けたい気持ちが湧き上がった。だがそれをグッと堪え答えた。
「いや。食ってない」
「そうですか。では昨夜はいかがですか?」
「いや。昨日の夜も食ってない」
「ではご提案したいのですが昨夜も今朝もお食事をされてないということですので、今日はこれから大腸の検査をさせていただきたいと思うのですがいかがですか?」
「大腸の検査?」
「ええ。大腸の検査です。お時間をいただくようになりますが何かご不便はありますか?もしなければ私は内視鏡検査をお勧めしたいと思っています。それから私の専門分野は消化器内科です。ニューヨークの大学病院で胃腸医学の世界的権威の先生から大腸内視鏡検査を直接ご指導いただきました。ですからご安心下さい」
司は良い悪いも返事をしなかった。
だが牧野つくしは、「それでは道明寺さんさっそく準備をしましょうか。服を脱いで検査着に着替えて下さい。それから下剤を入れていただきます。ええ。もちろんお尻からです。ご自分で入れることが出来ますか?もし出来ないとおっしゃるならお手伝いさせていただきますが?」
と言われ、はだけていたワイシャツを脱がされると、「さあ。どうぞ全部脱いで検査着に着替えて下さいね。それから下剤を入れてお腹の中に残っているものを出して下さい」と言われた。
司は女医の牧野つくしが好きだ。
だが彼女の専門が消化器内科でしかも内視鏡検査のエキスパートだとは知らなかった。
そしてこれから彼女に尻を向けそこから内視鏡を入れられることを想像した時、これが夢であることを切実に希望していた。
だから誰か早く起こしてくれ。目を覚まさしてくれ。西田はどうした。どこにいる?何故こんな危機的状況なのに誰も止めない?まさかこれは夢じゃなくて本物か?もしかして自分は異次元の世界にいて、女医の牧野つくしにケツから内視鏡を入れられることになるのか。
「おい。待ってくれ牧野。俺は本当はどこも悪くない。お前に会いたくて病院に来ているだけだ。だから内視鏡を入れる必要はない」
司は焦った。
何故なら牧野つくしは背中を向け検査の準備を始めていたからだ。そして振り向いたその手にはワイヤーロープのようなものが握られ、その先端には小さなカメラが付いていて司を見ていた。
「さあ。道明寺さん。早くズボンを脱いで下さい」
この状況でなければ牧野つくしからズボンを脱いでと言われることがどんなに嬉しいか。
だが今のこの状況下でズボンが脱げるはずがない。
しかしいつの間にか司のズボンは脱がされ検査着一枚の姿でベッドの上に横になっていた。
そして麻酔が効いているのか。身体の自由が効かなかった。
「止めろ。牧野。俺は元気だ!本当はピンピンしている。だから検査は必要ない!」
「道明寺さん。心配しなくても大丈夫ですよ。私は内視鏡検査は得意ですから。それとも私にお尻を見られるのが恥ずかしいですか?ご安心下さい。たとえあなたのお尻に恥ずかしい何かがあったとしても誰にもいいませんからね?」
そう言った消化器内科が専門の牧野つくしは、内視鏡を持ち司の方へ近づいて来たが、あれが自分のケツに入れられる。司はそう思うと恐ろしくなった。
「止めろ…..牧野。止めてくれ。お前は女医じゃなくて俺の会社に勤める会社員の女だ!これは夢だ!牧野っ!止めろ牧野!止めるんだ!止めてくれぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「支社長。何を止めるんですか?」
「西田!おせぇぞ!なんでもっと早く起こさねぇんだよ!」
「そうはおっしゃいますが、先ほどから何度も声をお掛けしております。しかし支社長はぐっすりとお休みでしてなかなかお目覚めにはなりませんでした」
西田が言う通りでなかなか目が覚めなかった。
だがまあいい。女医の牧野つくしにケツから内視鏡を入れられるところだったが、間一髪でそれを逃れた。
それにしても今日は疲れを感じていた。
だが新年度早々これでは駄目だ。リフレッシュが必要だ。
そんな時だった。一足先に帰った牧野から携帯にメールが届いた。
司はそのメールを確認すると西田に言った。
「西田。悪い。今日は帰るわ」
牧野つくしから届いたメールに書かれていたのは、
『仕事帰りだけどちょっと付き合ってよ』
だから彼女が待つ場所へ出向いた。そこは会社から歩いてすぐの場所。
夜7時。東京駅近くの八重洲さくら通りで見上げた空は満開のソメイヨシノが夜空を淡いピンクに変えていた。
「春爛漫って感じできれいよね~。ねえ道明寺。永遠は無いって言われてるけど、でもあるような気もする。だってこの桜を見て。花は一度咲いたら終わるけど来年またこの場所で同じように花を咲かせてくれるはずよ?だからこの木は永遠に桜でしょ?でも永遠に桜でいることも疲れるかもしれないけど、命ある限り桜は桜。それに桜を見てると春が来たって実感できると思わない?」
薄手のトレンチコートを着た女は、そう言って上を見たが、隣に立つ男は永遠も大切だが、愛しい人と同じ景色をこうして見ることの方が大切だと思った。
それは今を生きることが大切だと知っているからだ。
そして牧野つくしにとって春が来た実感が桜なら、司にとって春が来たと感じるのは、満開の桜を見て満面の笑顔を浮かべる女を見ること。だから二人でいつまでもこうして桜を眺めていたい。
だが勿論未来も大切だ。そして、どこもかしこも桜が満開の街で最愛の人の傍にいるだけで永遠の愛を感じていた。
司は満面の笑みで隣に立つ愛しい人を抱き寄せた。
「そうだな。春はやっぱり桜だな。来年もどこでもいいからお前と一緒に桜を見れたら俺は幸せだ」
その声が桜に届いたように一陣の風が吹き、花びらが二人の上に降り注いでいた。

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雑誌に載ればそこからフェロモンが流れ出て来ると言われ、イケメンにもほどがあると言われる男に向けられたその質問に彼は答えた。
『そんなの決まってんだろ?牧野つくしだ。つまり特定の人間という言葉が指すのは俺のことを指すのであって、その人間に受け入れられる人間はひとりしかいない。それは牧野つくしという女だ。それに俺の身体は他の女にアレルギーを起こす。だから牧野以外の女とセックス_』
それは新年度を迎えた社内報のためのインタビューという形で西田が取り纏めようとしていた記事の一文だが、質問の意図することとは全く別のことを答える男の言葉は秘書によって速やかに削除され差支えのない記事へと変えられた。
世間では沼にはまるという言葉がある。
それはその人なりその物にはまり抜け出せなくなることらしいが、司の場合とっくに牧野という沼にはまっていた。
その沼にはまったのは17歳の時。
17歳の少年にとってのその沼は底なしの沼で、その沼にはまり早ン年。
だが思っていた。それは自分では沼にはまったと思っていたが、実は沼ではなく一生登頂出来ない山の途中にいるのではないかということだ。
その山の名前は牧野山。
標高は不明。頂は雲に覆われ下から見ることは出来ない。
だがその山は春になれば桜が咲き鳥たちのさえずりが聞こえ、夏は緑に覆われ心地いい風が吹く。秋になれば木は実を結び葉は赤く色付き、そして冬になれば雪に包まれ静寂を迎える。
そんな山にアタックを繰り返す男。
だが何度アタックしても山頂に辿り着くことは出来ずにいた。
そして二人が付き合うようになった迎えた何度目かの春。
街には真新しいスーツを着た新入社員と思われる若者が大勢いるが、司が支社長を務める道明寺ホールディングス日本支社にも大勢の新入社員が入社した。
思い起こせば司がアメリカの大学を卒業して数年を過ごし日本に帰国した時から牧野つくしと同じ会社で働けることを楽しみにしていた。
そして同じ会社で過ごす中で楽しいこともあれば悲しいこともあった。まさに悲喜こもごもと言ってもいい会社生活。だがそれでも楽しい会社生活。そしてどんなに苦しいことがあったとしても、牧野つくしがいれば乗り越えることが出来た。
だが牧野が司の会社ではなく別の会社を就職先として選んでいたらと思うことがあった。それは例えば花沢物産だったり、美作商事だったり、青池商会だったり、大河原財閥だったとしてもおかしくはない。そしてもし牧野が花沢物産に就職したとすれば、類の秘書になることは目に見えていた。
それに類のことだ。友達面して牧野の心を自分に振り向かせようとするはずだ。そうだ類は牧野の心を掴むのが上手い。事実高校生の頃、最初に彼女の心を掴んだのは類であり司ではない。そして彼女を取り合った。
そんな過去の想い出が脳裡を過るとモヤモヤとしたものが心に宿った。
そのとき、執務室のデスクの上に置かれた新聞記事が目に留まった。
それは『女性があこがれる制服の職業』
1位はキャビンアテンダント。
2位は巫女。
3位は看護師。
4位は警察官。
そして5位が医者となっていた。
司は思った。
『彼女が制服に着替えたら』。そんな映画があれば自分は牧野にどの制服を着させるか。
だが牧野つくしは、どの制服を着ても似合うはずだと思った。
例えばキャビンアテンダント。
航空会社の制服を着た牧野がキャリーケースを引き颯爽と空港内を歩く。その姿は凛とした中にも可愛さがあり男どもの目を惹く。
その可愛さから機内で男どもから名刺を渡され食事に誘われる………….。
「却下だ!」
そして2位の巫女。
だが巫女は神聖な職業であり、もし牧野が巫女になったとすれば、
『道明寺。私は神様に仕える巫女なの。だから私の身体は神様のものなの。ゴメンね、あんたとは一生清いままの関係でしかいれないの』と言って司とのセックスを拒むはずだ。
それなら看護師はどうだ?と考えたとき、看護師は夜勤がある。それに医者と看護師は不適切な関係に陥りやすい。だからやはり却下した。
そして4位の警察官。牧野つくしは曲がったことは大嫌いな性格で相手が誰であろうと怯むことなく正々堂々立ち向かう女だ。それに司のように学園の権力を握っていた男に宣戦布告をしたような女だ。そんな女の態度は司の心を掴み離さなかった。つまり『君の瞳をタイホする』とばかりに司は牧野つくしに逮捕されたと言ってもいい。
だが警察官という職業は危険が伴う仕事で、あの女の性格からして自らその危険に飛び込んで行くはずだ。だから却下した。
そして5位の医者。
つまり女医。
最後に残ったのは医療という場で患者のために人生を捧げることを選んだ女。
牧野つくしの白衣姿はクールで知的に見えるはずだ。
「それで道明寺さん。お腹の調子が悪いということですね?どのような症状がみられるのでしょうか?」
「どうもこのところ内側から突き上げるように激しく痛む」
「突き上げるようにですか?」
「ああ」
「そうですか。それは心配ですね?何か心あたりはありますか?」
「いや。特にないんだが」
「そうですか…..」
道明寺ホールディングスの産業医のひとりである牧野つくし。
今日の彼女は財団法人道明寺病院で司を診察していたが、はだけた司の胸に聴診器を当てる姿は真剣だった。そして司はそんな女の髪の毛から立ち昇るシャンプーの香りを嗅いでいた。
牧野つくしの存在は司にとってオアシスだ。
牧野つくしに会うことが仕事の励みになる。
だから本当は身体の調子は悪くないのだが、牧野つくしを間近に感じたいがために病院に通っていた。
「ところで道明寺さん今朝はお食事を召し上がられましたか?」
胸に聴診器を当てた女の声は司の裸の胸に響いた。
そして吐く息は胸をくすぐった。するとこのまま女の頭を抱え自分の胸に押し付けたい気持ちが湧き上がった。だがそれをグッと堪え答えた。
「いや。食ってない」
「そうですか。では昨夜はいかがですか?」
「いや。昨日の夜も食ってない」
「ではご提案したいのですが昨夜も今朝もお食事をされてないということですので、今日はこれから大腸の検査をさせていただきたいと思うのですがいかがですか?」
「大腸の検査?」
「ええ。大腸の検査です。お時間をいただくようになりますが何かご不便はありますか?もしなければ私は内視鏡検査をお勧めしたいと思っています。それから私の専門分野は消化器内科です。ニューヨークの大学病院で胃腸医学の世界的権威の先生から大腸内視鏡検査を直接ご指導いただきました。ですからご安心下さい」
司は良い悪いも返事をしなかった。
だが牧野つくしは、「それでは道明寺さんさっそく準備をしましょうか。服を脱いで検査着に着替えて下さい。それから下剤を入れていただきます。ええ。もちろんお尻からです。ご自分で入れることが出来ますか?もし出来ないとおっしゃるならお手伝いさせていただきますが?」
と言われ、はだけていたワイシャツを脱がされると、「さあ。どうぞ全部脱いで検査着に着替えて下さいね。それから下剤を入れてお腹の中に残っているものを出して下さい」と言われた。
司は女医の牧野つくしが好きだ。
だが彼女の専門が消化器内科でしかも内視鏡検査のエキスパートだとは知らなかった。
そしてこれから彼女に尻を向けそこから内視鏡を入れられることを想像した時、これが夢であることを切実に希望していた。
だから誰か早く起こしてくれ。目を覚まさしてくれ。西田はどうした。どこにいる?何故こんな危機的状況なのに誰も止めない?まさかこれは夢じゃなくて本物か?もしかして自分は異次元の世界にいて、女医の牧野つくしにケツから内視鏡を入れられることになるのか。
「おい。待ってくれ牧野。俺は本当はどこも悪くない。お前に会いたくて病院に来ているだけだ。だから内視鏡を入れる必要はない」
司は焦った。
何故なら牧野つくしは背中を向け検査の準備を始めていたからだ。そして振り向いたその手にはワイヤーロープのようなものが握られ、その先端には小さなカメラが付いていて司を見ていた。
「さあ。道明寺さん。早くズボンを脱いで下さい」
この状況でなければ牧野つくしからズボンを脱いでと言われることがどんなに嬉しいか。
だが今のこの状況下でズボンが脱げるはずがない。
しかしいつの間にか司のズボンは脱がされ検査着一枚の姿でベッドの上に横になっていた。
そして麻酔が効いているのか。身体の自由が効かなかった。
「止めろ。牧野。俺は元気だ!本当はピンピンしている。だから検査は必要ない!」
「道明寺さん。心配しなくても大丈夫ですよ。私は内視鏡検査は得意ですから。それとも私にお尻を見られるのが恥ずかしいですか?ご安心下さい。たとえあなたのお尻に恥ずかしい何かがあったとしても誰にもいいませんからね?」
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「止めろ…..牧野。止めてくれ。お前は女医じゃなくて俺の会社に勤める会社員の女だ!これは夢だ!牧野っ!止めろ牧野!止めるんだ!止めてくれぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「支社長。何を止めるんですか?」
「西田!おせぇぞ!なんでもっと早く起こさねぇんだよ!」
「そうはおっしゃいますが、先ほどから何度も声をお掛けしております。しかし支社長はぐっすりとお休みでしてなかなかお目覚めにはなりませんでした」
西田が言う通りでなかなか目が覚めなかった。
だがまあいい。女医の牧野つくしにケツから内視鏡を入れられるところだったが、間一髪でそれを逃れた。
それにしても今日は疲れを感じていた。
だが新年度早々これでは駄目だ。リフレッシュが必要だ。
そんな時だった。一足先に帰った牧野から携帯にメールが届いた。
司はそのメールを確認すると西田に言った。
「西田。悪い。今日は帰るわ」
牧野つくしから届いたメールに書かれていたのは、
『仕事帰りだけどちょっと付き合ってよ』
だから彼女が待つ場所へ出向いた。そこは会社から歩いてすぐの場所。
夜7時。東京駅近くの八重洲さくら通りで見上げた空は満開のソメイヨシノが夜空を淡いピンクに変えていた。
「春爛漫って感じできれいよね~。ねえ道明寺。永遠は無いって言われてるけど、でもあるような気もする。だってこの桜を見て。花は一度咲いたら終わるけど来年またこの場所で同じように花を咲かせてくれるはずよ?だからこの木は永遠に桜でしょ?でも永遠に桜でいることも疲れるかもしれないけど、命ある限り桜は桜。それに桜を見てると春が来たって実感できると思わない?」
薄手のトレンチコートを着た女は、そう言って上を見たが、隣に立つ男は永遠も大切だが、愛しい人と同じ景色をこうして見ることの方が大切だと思った。
それは今を生きることが大切だと知っているからだ。
そして牧野つくしにとって春が来た実感が桜なら、司にとって春が来たと感じるのは、満開の桜を見て満面の笑顔を浮かべる女を見ること。だから二人でいつまでもこうして桜を眺めていたい。
だが勿論未来も大切だ。そして、どこもかしこも桜が満開の街で最愛の人の傍にいるだけで永遠の愛を感じていた。
司は満面の笑みで隣に立つ愛しい人を抱き寄せた。
「そうだな。春はやっぱり桜だな。来年もどこでもいいからお前と一緒に桜を見れたら俺は幸せだ」
その声が桜に届いたように一陣の風が吹き、花びらが二人の上に降り注いでいた。

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Comment:11
「川上真理子のことだが、あの女は逮捕された翌日、署内で外国人の男にスパナで頭を強打され開頭手術を受け集中治療室にいる」
「え?」
「頭蓋骨が陥没してかなり広範囲に損傷を受けた。この先あの女がどうなるかだが、障害が残ると言われている。だが未だに意識は戻らず集中治療室から出る目途は立ってない」
司は牧野つくしの顔を見ていた。
そしてその顔に浮かぶ感情を読み取ろうとしていた。
物事は何事も突然知らされることになる。だから誰でも予期せぬことに驚くのだが、人は自分を傷つけようとした人間に対し哀れむことが出来るのか。
そして牧野つくしの顔に浮かんだのは不安そうな表情。だがそれは当たり前の感情と言えた。
一般市民の誰もが警察署の中でそのようなことが思うとは考えてもいない。だからその思いが自然に口を突いた。
「どうしてそんなことに?署内ですよね?警察の中でそんなことが起きるなんて…」
だが署内とは言え、日本の警察署の入口に金属探知機が置かれていることはない。
だから誰でも簡単に何かを持ち込むことが出来る。
そしてスパナのような小さな工具も、行われたであろう所持品検査から何らかの形で漏れたとしたら、その理由が問われるはずだが人間誰しもミスはある。それにその外国人男性が誰かからスパナを受け取ったとしても不思議ではない。現に道具を使って警察から脱走するという事件もあった。
「ああ。あの女は署内で移動中に突然殴られた。殴った外国人の男は六本木の盛り場を根城によからぬ商売をしている男だ。自分が扱ってる商品に手ぇ出して幻想でも見たって話だ。
それからあの女の自慢のキレイな顔は、腫れ上がって別人のようになっていた」
司は秘書から報告を受けていたが、事実を確認するため病院に赴き真理子の顔を見た。
集中治療室で寝ている女の頭は白い布で覆われ顔は腫れ上がり、目と鼻と口は顔に埋もれるような状態で全くの別人だった。そして身体には何本ものチューブが繋がれ自慢の美貌は今では見る影もなかった。
司は、そんな状態の女に同情するつもりはない。
人の命を奪おうとした女が自業自得とも言える立場に陥っただけのことであり、ざまあみやがれ、と言いたい気持ちだった。だが司の話を訊いていた女は何か考えるような表情になり言った。
「お気の毒に…あの。川上…いえ。彼女はどうなるんでしょう?意識が回復しないということは、これから先もその状態が続くということでしょうか?」
意識がない状態が長く続くということは半死半生。
この先あの女がどうなるか。生命を維持するだけの状態になるとしても、それは神のみぞ知るとしか言えなかった。
「さあな。この先どうなるかは医者も分からないそうだが、お前にとってあの女は憎んでも同情する価値もない女のはずだが?」
と言った司に返された言葉は、「でも、お気の毒だと思います」
「気の毒?」
意外な答えに司は思わず聞き返した。
そして司の顔を見つめる女は、「そうです。気の毒だとは思いませんか?私は罪は罪として償ってもらえればそれでいいんです。だから彼女がそんな状態になったことを気の毒としか言えません」と言った。
「はい、お待ちどうさま!豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せ定食ふたつね!今日は牧野先生がお友達を連れて来てくれたからオマケしといたから。ほらこれ。春巻きふたつ。牧野先生は春巻きも好きでねぇ。よく出前でも頼んでくれるの。お友達の先生も気に入って下さると嬉しいねぇ」
賑やかな女将は二人の前に料理を置くと、「ゆっくり召し上がれ。それにしても彼氏とのデートなら、もっとおしゃれな店に行けばいいのにねぇ。でも牧野先生はそういった店が苦手なんだろうねぇ」と言って笑った。
「女将さん!ち、違います!この人は彼氏じゃありません!」
「そうかい。そうかい。そんなに強く言わなくてもいいから。とにかくうちの店でよかったらまた彼氏を連れておいで!」
そう言って女将は厨房に戻って行ったが、つくしは目の前の男が微動だにせず自分をじっと見ていることにグラスを掴むと水を飲み干したが、それを見ていた司はクスッと笑った。
「お前。変わってるな」
「何がですか?」
聞き返す女の様子は司が笑ったことにムッとした表情を浮かべていた。
「おしゃれな店が苦手なことですか?そんなこと今ここで関係ない_」
「洒落た店が苦手なことを言ってるんじゃない。自分を海に落とそうとした女を心配する。それが変わってるって言った。下手すりゃ死んでいたとしてもおかしくはない。それなのに真面目な大学の先生は犯罪者の心配までするのかってな」
司はあの日のことを思い出し彼女の言葉を遮るように言った。
それは惚れた女が自分のせいで殺されるかもしれない状況に置かれたことを悔いての発言。
そして今の自分の気持ちを率直に言った。
「犯罪者の心配をするなら俺のことも許してくれ。俺が嘘をついた。お前を騙した。そのことが許せないと言うが、あの女の罪を許せるなら俺のことも許してくれ」
「か、勝手な解釈をしないで下さい。それに私が川上真理子さんのことを気の毒だと思うのは、彼女が犯罪者だったとしてもそれは別です。身体に傷を負うことは、心に傷を負うことと同じだとは考えないんですか?たとえその人が罪を犯した人だとしても、傷付いて嬉しい人はいません。彼女も自分がどうしてこうなったのかと考えたとは思いませんか?
それに人の不幸を喜ぶような人間は人から大切にはされません。道明寺副社長。人から大切に思われたいなら人を大切に思う心が必要だと思いませんか?」
司が放ったあの女の罪を許せるなら俺のことも許してくれ。
それは随分と図々しい言葉だが今は全く自分を信用してない女に、そんな言葉を投げつけて何と答えるか。それが知りたかったから口にした。
「人から大切に思われたいなら人を大切に思う心が必要か」
「そうです。人から大切に思われたいと思うなら同じ思いを人に返す。その思いがなければ人から愛される人間にはなれません」
そして返された言葉は牧野つくしが薄情ではないことを語っていた。
つまり牧野つくしという女は、相手がどんな人間だろうと少しでも自分に係わりがあった人間に対し何もなかったように切り捨てることが出来ないということ。
それは情に厚いということだが、そんな人間は人の好意の全てを簡単には切り捨てることが出来ない。そして彼女の言葉は、おためごかしなどではなく心から川上真理子を気の毒だと思っていた。
司は牧野つくしがお人好しだという認識を深めたが、昔の司ならお人好しを見れば皮肉を込めた笑いで一蹴したはずだ。だが今は彼女のそのお人好しさが愛おしく思えるのだから、やはり司にとって牧野つくしという女は何ものにも代えがたい存在だということだ。
そして、牧野つくしが係わりたくないという司に対して真摯な態度で向き合っていることに、やはりこの女はお人好しでクソ真面目でひたむきさと不器用さを持つ女だと思った。
「牧野つくし」
司は低い声で名前を呼んだ。
「な、なんですか?」
その声は司の声の低さに何を言われるのかと構えた声。
「俺たちはここに食事に来たんだろ?それならとりあえず出されたものを食べようじゃねぇか。箸を持て。それから食え。それがここの女将が一番喜ぶことだろ?」
その時の牧野つくしの表情は、言われなくても分かってますといった顔をしていたが、箸を持った女は好物だと言われる料理を口に運び、「美味しい」と呟いていた。

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「え?」
「頭蓋骨が陥没してかなり広範囲に損傷を受けた。この先あの女がどうなるかだが、障害が残ると言われている。だが未だに意識は戻らず集中治療室から出る目途は立ってない」
司は牧野つくしの顔を見ていた。
そしてその顔に浮かぶ感情を読み取ろうとしていた。
物事は何事も突然知らされることになる。だから誰でも予期せぬことに驚くのだが、人は自分を傷つけようとした人間に対し哀れむことが出来るのか。
そして牧野つくしの顔に浮かんだのは不安そうな表情。だがそれは当たり前の感情と言えた。
一般市民の誰もが警察署の中でそのようなことが思うとは考えてもいない。だからその思いが自然に口を突いた。
「どうしてそんなことに?署内ですよね?警察の中でそんなことが起きるなんて…」
だが署内とは言え、日本の警察署の入口に金属探知機が置かれていることはない。
だから誰でも簡単に何かを持ち込むことが出来る。
そしてスパナのような小さな工具も、行われたであろう所持品検査から何らかの形で漏れたとしたら、その理由が問われるはずだが人間誰しもミスはある。それにその外国人男性が誰かからスパナを受け取ったとしても不思議ではない。現に道具を使って警察から脱走するという事件もあった。
「ああ。あの女は署内で移動中に突然殴られた。殴った外国人の男は六本木の盛り場を根城によからぬ商売をしている男だ。自分が扱ってる商品に手ぇ出して幻想でも見たって話だ。
それからあの女の自慢のキレイな顔は、腫れ上がって別人のようになっていた」
司は秘書から報告を受けていたが、事実を確認するため病院に赴き真理子の顔を見た。
集中治療室で寝ている女の頭は白い布で覆われ顔は腫れ上がり、目と鼻と口は顔に埋もれるような状態で全くの別人だった。そして身体には何本ものチューブが繋がれ自慢の美貌は今では見る影もなかった。
司は、そんな状態の女に同情するつもりはない。
人の命を奪おうとした女が自業自得とも言える立場に陥っただけのことであり、ざまあみやがれ、と言いたい気持ちだった。だが司の話を訊いていた女は何か考えるような表情になり言った。
「お気の毒に…あの。川上…いえ。彼女はどうなるんでしょう?意識が回復しないということは、これから先もその状態が続くということでしょうか?」
意識がない状態が長く続くということは半死半生。
この先あの女がどうなるか。生命を維持するだけの状態になるとしても、それは神のみぞ知るとしか言えなかった。
「さあな。この先どうなるかは医者も分からないそうだが、お前にとってあの女は憎んでも同情する価値もない女のはずだが?」
と言った司に返された言葉は、「でも、お気の毒だと思います」
「気の毒?」
意外な答えに司は思わず聞き返した。
そして司の顔を見つめる女は、「そうです。気の毒だとは思いませんか?私は罪は罪として償ってもらえればそれでいいんです。だから彼女がそんな状態になったことを気の毒としか言えません」と言った。
「はい、お待ちどうさま!豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せ定食ふたつね!今日は牧野先生がお友達を連れて来てくれたからオマケしといたから。ほらこれ。春巻きふたつ。牧野先生は春巻きも好きでねぇ。よく出前でも頼んでくれるの。お友達の先生も気に入って下さると嬉しいねぇ」
賑やかな女将は二人の前に料理を置くと、「ゆっくり召し上がれ。それにしても彼氏とのデートなら、もっとおしゃれな店に行けばいいのにねぇ。でも牧野先生はそういった店が苦手なんだろうねぇ」と言って笑った。
「女将さん!ち、違います!この人は彼氏じゃありません!」
「そうかい。そうかい。そんなに強く言わなくてもいいから。とにかくうちの店でよかったらまた彼氏を連れておいで!」
そう言って女将は厨房に戻って行ったが、つくしは目の前の男が微動だにせず自分をじっと見ていることにグラスを掴むと水を飲み干したが、それを見ていた司はクスッと笑った。
「お前。変わってるな」
「何がですか?」
聞き返す女の様子は司が笑ったことにムッとした表情を浮かべていた。
「おしゃれな店が苦手なことですか?そんなこと今ここで関係ない_」
「洒落た店が苦手なことを言ってるんじゃない。自分を海に落とそうとした女を心配する。それが変わってるって言った。下手すりゃ死んでいたとしてもおかしくはない。それなのに真面目な大学の先生は犯罪者の心配までするのかってな」
司はあの日のことを思い出し彼女の言葉を遮るように言った。
それは惚れた女が自分のせいで殺されるかもしれない状況に置かれたことを悔いての発言。
そして今の自分の気持ちを率直に言った。
「犯罪者の心配をするなら俺のことも許してくれ。俺が嘘をついた。お前を騙した。そのことが許せないと言うが、あの女の罪を許せるなら俺のことも許してくれ」
「か、勝手な解釈をしないで下さい。それに私が川上真理子さんのことを気の毒だと思うのは、彼女が犯罪者だったとしてもそれは別です。身体に傷を負うことは、心に傷を負うことと同じだとは考えないんですか?たとえその人が罪を犯した人だとしても、傷付いて嬉しい人はいません。彼女も自分がどうしてこうなったのかと考えたとは思いませんか?
それに人の不幸を喜ぶような人間は人から大切にはされません。道明寺副社長。人から大切に思われたいなら人を大切に思う心が必要だと思いませんか?」
司が放ったあの女の罪を許せるなら俺のことも許してくれ。
それは随分と図々しい言葉だが今は全く自分を信用してない女に、そんな言葉を投げつけて何と答えるか。それが知りたかったから口にした。
「人から大切に思われたいなら人を大切に思う心が必要か」
「そうです。人から大切に思われたいと思うなら同じ思いを人に返す。その思いがなければ人から愛される人間にはなれません」
そして返された言葉は牧野つくしが薄情ではないことを語っていた。
つまり牧野つくしという女は、相手がどんな人間だろうと少しでも自分に係わりがあった人間に対し何もなかったように切り捨てることが出来ないということ。
それは情に厚いということだが、そんな人間は人の好意の全てを簡単には切り捨てることが出来ない。そして彼女の言葉は、おためごかしなどではなく心から川上真理子を気の毒だと思っていた。
司は牧野つくしがお人好しだという認識を深めたが、昔の司ならお人好しを見れば皮肉を込めた笑いで一蹴したはずだ。だが今は彼女のそのお人好しさが愛おしく思えるのだから、やはり司にとって牧野つくしという女は何ものにも代えがたい存在だということだ。
そして、牧野つくしが係わりたくないという司に対して真摯な態度で向き合っていることに、やはりこの女はお人好しでクソ真面目でひたむきさと不器用さを持つ女だと思った。
「牧野つくし」
司は低い声で名前を呼んだ。
「な、なんですか?」
その声は司の声の低さに何を言われるのかと構えた声。
「俺たちはここに食事に来たんだろ?それならとりあえず出されたものを食べようじゃねぇか。箸を持て。それから食え。それがここの女将が一番喜ぶことだろ?」
その時の牧野つくしの表情は、言われなくても分かってますといった顔をしていたが、箸を持った女は好物だと言われる料理を口に運び、「美味しい」と呟いていた。

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川上真理子について話がある。
その言葉につくしは躊躇った。そして気を引き締めた。
自分を誘拐した女性は逮捕されたが、その後どうなったのか。知りたい思いもあったが敢えて自分から訊こうとは思わなかった。
だが現れた男は女性がどうなるか知りたいと思うはずだと言った。つまり何らかの動きがあったということなのか。それを知らせに来たというなら、話を訊かない訳にはいかなかった。
つくしは司の言葉に、「本当に食事だけですか?」と訊いた。
すると「ああ。食事だけだ」と返された。
それなら出来るだけ二人っきりにならない状況でいればいい。
食事をしたいというならひと目がある場所で長居が出来ない場所にすればいい。そうすれば話を切り上げるのも簡単だと思った。
「分かりました。じゃあ私が食べたいもの。行きたい店でもいいですか?そこでならお話をお伺いします」
と、つくしが言うと男は右手を少しだけ動かした。すると黒いリムジンがすぐ横で止り助手席から降りて来た男が後部座席のドアを開けた。
***
「いらっしゃいませ!あら。牧野先生いらっしゃい。今日は珍しくお連れさんがいるんだねぇ。それもとってもイケメンで映画俳優みたいな人じゃないか。もしかして彼氏?」
「違います!この人は彼氏じゃありません。大学の….大学の研究仲間です」
「へぇ~。そうなの?牧野さんの大学は優秀な学生さんが多いって訊くけどイケメンの学者さんもいるんだねぇ。はいお水。注文が決まったら呼んでちょうだいね?」
つくしが道明寺司との食事場所に選んだのは行きつけの中華料理店「丸源」。
丸源はメープルにあるような高級中華料理店ではなく、女将が前掛け姿で料理を運んで来る大衆的な店で間違っても道明寺司が足を運ぶ店ではない。
だからこんな店で食事が出来るかと言われればそれまでだが、男は当然のようにビニールクロスがかかった長方形のテーブルを前に腰を下ろした。そしてテーブルに置かれているメニューを手に取った。
この店に来る客の大半は作業着姿の人間や、くたびれたスーツ姿の外回りの営業だったりするのだから、仕立てのいいスーツを着て理知的な表情を浮かべた男が大衆的な中華料理店にいる姿は奇妙に映るはずで、思わず周りに視線を配ったが、やはりチラチラとこちらを見るサラリーマン風の男性の姿があった。
だが道明寺司は周囲を気にすることはなかった。そして注文が決まったのか。メニューを閉じると向かい合わせに座ったつくしに言った。
「決まったのか?」
「も、もちろん。私はここの常連です。だからメニューを見なくてもいいんです」
男が顔を上げた途端、一瞬口ごもったのは男を見ていたからだ。
伏せた目の睫毛が長いな。ふとそんなことを思ったが、決して見惚れていたのではない。
ただこの男はこの場所に似合わない。そう思いながら見ていただけだ。
「そうか。ここのメニューは熟知してるってことか。じゃあ注文しようじゃないか」
そう言われ、つくしは女将を呼んだ。
「はい。ご注文はお決まりですか?」
女将は伝票を手に訊いた。
「豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せをくれ。それからこれにライスとスープを付けてくれ」
「ご飯とスープ付きってことは豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せ定食ね。あとこれにはザーサイと杏仁豆腐が付きますからね。それで牧野先生は何にする?牧野先生もこの料理好きよね?」
「え?ええ….」
男が選んだ料理はつくしが好きな料理で、あとをひく味付けでよく注文していた。
そして男に間違い電話をかけたときも注文した料理だ。
もしかして目の前の男は、あの時の料理を覚えていて同じ料理を注文しているのではないか。つまり二人の電話について忘れたことはないと言うつくしに対するアピールなのか。
「それに牧野先生は一時こればっかり食べてたものね?同じ物ばかり食べると栄養のバランスがよくないって分かってても、つい好きなものを選んじゃうのよね?でも考えてみれば外食は好きなものを食べることに意味があるのよね?食べたくないものを、無理矢理食べたところで美味しくないもの。それでこちらの先生と同じでいいの?それとも他の料理にする?」
女将の言葉はその通りであり、食べたくないものを、無理矢理食べても美味しくない。
それにこの店に来ると決めたとき、口の中には、この料理の味が広がっていた。
だから少し躊躇ったものの、「同じものをお願いします」と言った。
「注文お願いしまーす!豚ニラもやし春雨卵定食ふたつね!」
女将が大きな声で注文を伝え厨房に戻ると、つい先ほどまで賑やかだったテーブルは静まり返った。
そしてつくしは本題に入ることを望んでいるが、目の前の男は口を開こうとはしなかった。
だからつくしは、「あの_」と言いかけたが、男が表情を変えることなく口を開いた。
「豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せ。電話でお前に言われた料理だ。どんな料理か興味があったからメニューの中に見つけて迷わず決めた」
やっぱり覚えていたのかと思った。
だが舌が肥えた男に庶民的な中華料理が口に合うのか。そんな思いでいるが、男はそんなつくしの考えを読んだように言った。
「どうした?この料理美味いんだろ?そうか。俺の口に合わないと思ってるのか?だから俺が失礼な態度を取ると考えている。違うか?言っとくが俺が育った家は食事のマナーには煩かった。だからどんな料理だろうと失礼な態度を取ることはない。それにここはお前にとっては大切な店なんだろ?それならなおさら俺の態度でお前が嫌な思いをすることはない」
その言葉は道明寺司には不似合いだと思った。
それは、そこまで神経を使うような男には見えないからだ。
そして、街の小さな中華料理店で妙に静かな目でつくしを見る男は、やっと本題に入ることに決めたのか。
「川上真理子のことだが」
と言葉を継いだ。

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その言葉につくしは躊躇った。そして気を引き締めた。
自分を誘拐した女性は逮捕されたが、その後どうなったのか。知りたい思いもあったが敢えて自分から訊こうとは思わなかった。
だが現れた男は女性がどうなるか知りたいと思うはずだと言った。つまり何らかの動きがあったということなのか。それを知らせに来たというなら、話を訊かない訳にはいかなかった。
つくしは司の言葉に、「本当に食事だけですか?」と訊いた。
すると「ああ。食事だけだ」と返された。
それなら出来るだけ二人っきりにならない状況でいればいい。
食事をしたいというならひと目がある場所で長居が出来ない場所にすればいい。そうすれば話を切り上げるのも簡単だと思った。
「分かりました。じゃあ私が食べたいもの。行きたい店でもいいですか?そこでならお話をお伺いします」
と、つくしが言うと男は右手を少しだけ動かした。すると黒いリムジンがすぐ横で止り助手席から降りて来た男が後部座席のドアを開けた。
***
「いらっしゃいませ!あら。牧野先生いらっしゃい。今日は珍しくお連れさんがいるんだねぇ。それもとってもイケメンで映画俳優みたいな人じゃないか。もしかして彼氏?」
「違います!この人は彼氏じゃありません。大学の….大学の研究仲間です」
「へぇ~。そうなの?牧野さんの大学は優秀な学生さんが多いって訊くけどイケメンの学者さんもいるんだねぇ。はいお水。注文が決まったら呼んでちょうだいね?」
つくしが道明寺司との食事場所に選んだのは行きつけの中華料理店「丸源」。
丸源はメープルにあるような高級中華料理店ではなく、女将が前掛け姿で料理を運んで来る大衆的な店で間違っても道明寺司が足を運ぶ店ではない。
だからこんな店で食事が出来るかと言われればそれまでだが、男は当然のようにビニールクロスがかかった長方形のテーブルを前に腰を下ろした。そしてテーブルに置かれているメニューを手に取った。
この店に来る客の大半は作業着姿の人間や、くたびれたスーツ姿の外回りの営業だったりするのだから、仕立てのいいスーツを着て理知的な表情を浮かべた男が大衆的な中華料理店にいる姿は奇妙に映るはずで、思わず周りに視線を配ったが、やはりチラチラとこちらを見るサラリーマン風の男性の姿があった。
だが道明寺司は周囲を気にすることはなかった。そして注文が決まったのか。メニューを閉じると向かい合わせに座ったつくしに言った。
「決まったのか?」
「も、もちろん。私はここの常連です。だからメニューを見なくてもいいんです」
男が顔を上げた途端、一瞬口ごもったのは男を見ていたからだ。
伏せた目の睫毛が長いな。ふとそんなことを思ったが、決して見惚れていたのではない。
ただこの男はこの場所に似合わない。そう思いながら見ていただけだ。
「そうか。ここのメニューは熟知してるってことか。じゃあ注文しようじゃないか」
そう言われ、つくしは女将を呼んだ。
「はい。ご注文はお決まりですか?」
女将は伝票を手に訊いた。
「豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せをくれ。それからこれにライスとスープを付けてくれ」
「ご飯とスープ付きってことは豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せ定食ね。あとこれにはザーサイと杏仁豆腐が付きますからね。それで牧野先生は何にする?牧野先生もこの料理好きよね?」
「え?ええ….」
男が選んだ料理はつくしが好きな料理で、あとをひく味付けでよく注文していた。
そして男に間違い電話をかけたときも注文した料理だ。
もしかして目の前の男は、あの時の料理を覚えていて同じ料理を注文しているのではないか。つまり二人の電話について忘れたことはないと言うつくしに対するアピールなのか。
「それに牧野先生は一時こればっかり食べてたものね?同じ物ばかり食べると栄養のバランスがよくないって分かってても、つい好きなものを選んじゃうのよね?でも考えてみれば外食は好きなものを食べることに意味があるのよね?食べたくないものを、無理矢理食べたところで美味しくないもの。それでこちらの先生と同じでいいの?それとも他の料理にする?」
女将の言葉はその通りであり、食べたくないものを、無理矢理食べても美味しくない。
それにこの店に来ると決めたとき、口の中には、この料理の味が広がっていた。
だから少し躊躇ったものの、「同じものをお願いします」と言った。
「注文お願いしまーす!豚ニラもやし春雨卵定食ふたつね!」
女将が大きな声で注文を伝え厨房に戻ると、つい先ほどまで賑やかだったテーブルは静まり返った。
そしてつくしは本題に入ることを望んでいるが、目の前の男は口を開こうとはしなかった。
だからつくしは、「あの_」と言いかけたが、男が表情を変えることなく口を開いた。
「豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せ。電話でお前に言われた料理だ。どんな料理か興味があったからメニューの中に見つけて迷わず決めた」
やっぱり覚えていたのかと思った。
だが舌が肥えた男に庶民的な中華料理が口に合うのか。そんな思いでいるが、男はそんなつくしの考えを読んだように言った。
「どうした?この料理美味いんだろ?そうか。俺の口に合わないと思ってるのか?だから俺が失礼な態度を取ると考えている。違うか?言っとくが俺が育った家は食事のマナーには煩かった。だからどんな料理だろうと失礼な態度を取ることはない。それにここはお前にとっては大切な店なんだろ?それならなおさら俺の態度でお前が嫌な思いをすることはない」
その言葉は道明寺司には不似合いだと思った。
それは、そこまで神経を使うような男には見えないからだ。
そして、街の小さな中華料理店で妙に静かな目でつくしを見る男は、やっと本題に入ることに決めたのか。
「川上真理子のことだが」
と言葉を継いだ。

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