徐々に意識を取り戻したつくしは、自分がどこにいるか確かめようとした。
それは今より前に目覚めた時、両手足を縛られていたからだ。
だから手足を動かし自分が置かれた状況を確かめたが、甦る記憶は川上真理子に誘拐され船に連れて行かれたこと。そこから逃げ出すため掃除道具入れに隠れ息を殺していたこと。そして勇気を出して海に飛び込むことを決めると扉を開け外に出た。
するとそこにいたのは道明寺司で彼に荷物のように担がれ尻を叩かれた。
そして抱きかかえられると、ヘリコプターに乗り込み病院へ運ばれ、縛っていたロープで擦れ赤くなっていた手首の手当を受けたが、今夜は泊まるように言われた。
そして目覚めた部屋の中は暗かったが、壁に灯った明かりが状況を教えてくれた。
それは、ここは病室で海に投げ込まれる心配はないということだ。
「良かった….」
口を突いたその言葉は心の底からの思いだ。
だがつくしは複雑な心境にいた。
それは助けられたことには感謝をするが、この事件の責任の所在は何処にあるかといえば、あの男にある。だが真理子の行動は完全なる逆恨みであり常軌を逸していた。
だから責める相手は道明寺司ではないと分かっている。誘拐という罪を犯したのは川上真理子であり、道明寺司に罪はない。頭ではそのことは理解しているが、あの男に嘘をつかれていたという感情が先に立ち道明寺司を責める気持ちがあった。
だが命を助けてくれた相手に対し、それではいけないということは理解している。だから複雑な心境なのだ。
つまり助けてもらったことに感謝して控えめな態度に出ればいいのか。
それとも嘘をつかれていたことは許してないと強気な態度に出ればいいのか。
道明寺司という男は、百人の女が彼とすれ違ったとしたら、その百人の女すべてが目を輝かせ振り返るような男だ。だから百歩譲ってつくしが平手打ちしたことは当然だと認めているとしても、こうしてつくしを助けた事に対しては感謝しろと言うのではないだろうか。
だが助けてもらった礼は言った。
「それにどんな顔して会えばいいのよ」
「何をブツブツ言ってる?それにどんな顔ってそのままでいいだろ?」
部屋の奥にいる人影に気付いたのはその時だった。
「気がついたか?」
その声の持ち主が誰であるかは顔を見なくても分かる。
だから今思えば夜の電話の男としての道明寺司と話をしていたとき、何故気付かなかったのか。だがそれは思いもしなかったことなのだから仕方がないと言えた。
そして近づいて来た人影がベッドの傍で立ち止まったとき、はっきりと顔が見えたが、その顔は真剣だった。
「痛むところはないか?」
そう訊かれたが、手当をされた手首以外はないと答えると、「すまない」と言って伸ばした手でつくしの頭に触れた。
そして「とんでもない目に遭わせて悪かったな」と言ったが、触れた手は大きく髪の毛を通しても暖かさが感じられた。
それは夜の海の上で冷たい風に晒されないようにと、包み込むように抱きかかえられた時と同じ暖かさが感じられた。
何か言わなければと思ったが、言葉が口を突かないのは、自分を見下ろす男の顔がこれまで見た事がないような表情を浮かべていたからだ。
それは憂いとでも言えばいいのか。とにかく今まで見たことがない顔だった。
そして何も言わず黙っているつくしに、「どうした?船の上では威勢が良かったが急に大人しくなったようだが舌を無くしたか?」と言って微笑んだ。
もちろんそれが冗談だと分かっていて、そんなことないわと言えればいいのだが、向けられている視線に何故か緊張していた。
それに船に拉致されてから水分を取っていなかった。
だから喉もだが唇が乾ききっていて思わず唇を舐めたが、ベッドの傍に立つ男の視線が唇に向けられていることに気付いた。
そういえば会社でこの人にキスされたことがあった。その時の様子が頭の中に過り顔が火照った。だが間接照明の明かりだけの部屋では、顔の赤みまでは分からないはずだ。
だが喉の渇きは抑えられなかった。
だから「お水….お水をお願いします。喉が渇いてるんです」と水を求めた。
すると「ああ。水か。ちょっと待ってろ。確か冷蔵庫にミネラルウォーターがあるはずだ」と言って頭に触れられていた手が離れたが、その言葉よりも心配そうに見つめていた目が今まで見ていた道明寺司の目とは違ったように思えた。
つくしはベッドから身体を起こし、枕を背に当て水を取りに行った男の背中を見ていたが、少しして戻って来た男は落ち着いた顔をしていた。
だからつくしは改めて助けてもらった礼を言うことにした。
「あの。船の上では失礼なことを言いましたけど、助けていただいたことは感謝しています。でもあなたが私に嘘をついていたことは、このこととは別です。でもあの件についてはもう終わったことですし今日を限りで私たちがお会いすることはないと思います」
道明寺司のことなど一切忘れてこれからもサメの研究に邁進すればいい。
そんな思いで礼とは別に言葉の半分は言ったつもりだったが、相手はそうは受け取らなかった。
「悪いがその申し出は拒否する。このこともあのことも関係ないと言わせるつもりはない。俺はお前のことが好きだと言った。だからこれから先も牧野つくしに係わるつもりだ」
そう言った男は、つくしに水の入ったボトルを渡すと「まず手始めはこれだ」と言ってほんの一瞬唇を重ねた。

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それは今より前に目覚めた時、両手足を縛られていたからだ。
だから手足を動かし自分が置かれた状況を確かめたが、甦る記憶は川上真理子に誘拐され船に連れて行かれたこと。そこから逃げ出すため掃除道具入れに隠れ息を殺していたこと。そして勇気を出して海に飛び込むことを決めると扉を開け外に出た。
するとそこにいたのは道明寺司で彼に荷物のように担がれ尻を叩かれた。
そして抱きかかえられると、ヘリコプターに乗り込み病院へ運ばれ、縛っていたロープで擦れ赤くなっていた手首の手当を受けたが、今夜は泊まるように言われた。
そして目覚めた部屋の中は暗かったが、壁に灯った明かりが状況を教えてくれた。
それは、ここは病室で海に投げ込まれる心配はないということだ。
「良かった….」
口を突いたその言葉は心の底からの思いだ。
だがつくしは複雑な心境にいた。
それは助けられたことには感謝をするが、この事件の責任の所在は何処にあるかといえば、あの男にある。だが真理子の行動は完全なる逆恨みであり常軌を逸していた。
だから責める相手は道明寺司ではないと分かっている。誘拐という罪を犯したのは川上真理子であり、道明寺司に罪はない。頭ではそのことは理解しているが、あの男に嘘をつかれていたという感情が先に立ち道明寺司を責める気持ちがあった。
だが命を助けてくれた相手に対し、それではいけないということは理解している。だから複雑な心境なのだ。
つまり助けてもらったことに感謝して控えめな態度に出ればいいのか。
それとも嘘をつかれていたことは許してないと強気な態度に出ればいいのか。
道明寺司という男は、百人の女が彼とすれ違ったとしたら、その百人の女すべてが目を輝かせ振り返るような男だ。だから百歩譲ってつくしが平手打ちしたことは当然だと認めているとしても、こうしてつくしを助けた事に対しては感謝しろと言うのではないだろうか。
だが助けてもらった礼は言った。
「それにどんな顔して会えばいいのよ」
「何をブツブツ言ってる?それにどんな顔ってそのままでいいだろ?」
部屋の奥にいる人影に気付いたのはその時だった。
「気がついたか?」
その声の持ち主が誰であるかは顔を見なくても分かる。
だから今思えば夜の電話の男としての道明寺司と話をしていたとき、何故気付かなかったのか。だがそれは思いもしなかったことなのだから仕方がないと言えた。
そして近づいて来た人影がベッドの傍で立ち止まったとき、はっきりと顔が見えたが、その顔は真剣だった。
「痛むところはないか?」
そう訊かれたが、手当をされた手首以外はないと答えると、「すまない」と言って伸ばした手でつくしの頭に触れた。
そして「とんでもない目に遭わせて悪かったな」と言ったが、触れた手は大きく髪の毛を通しても暖かさが感じられた。
それは夜の海の上で冷たい風に晒されないようにと、包み込むように抱きかかえられた時と同じ暖かさが感じられた。
何か言わなければと思ったが、言葉が口を突かないのは、自分を見下ろす男の顔がこれまで見た事がないような表情を浮かべていたからだ。
それは憂いとでも言えばいいのか。とにかく今まで見たことがない顔だった。
そして何も言わず黙っているつくしに、「どうした?船の上では威勢が良かったが急に大人しくなったようだが舌を無くしたか?」と言って微笑んだ。
もちろんそれが冗談だと分かっていて、そんなことないわと言えればいいのだが、向けられている視線に何故か緊張していた。
それに船に拉致されてから水分を取っていなかった。
だから喉もだが唇が乾ききっていて思わず唇を舐めたが、ベッドの傍に立つ男の視線が唇に向けられていることに気付いた。
そういえば会社でこの人にキスされたことがあった。その時の様子が頭の中に過り顔が火照った。だが間接照明の明かりだけの部屋では、顔の赤みまでは分からないはずだ。
だが喉の渇きは抑えられなかった。
だから「お水….お水をお願いします。喉が渇いてるんです」と水を求めた。
すると「ああ。水か。ちょっと待ってろ。確か冷蔵庫にミネラルウォーターがあるはずだ」と言って頭に触れられていた手が離れたが、その言葉よりも心配そうに見つめていた目が今まで見ていた道明寺司の目とは違ったように思えた。
つくしはベッドから身体を起こし、枕を背に当て水を取りに行った男の背中を見ていたが、少しして戻って来た男は落ち着いた顔をしていた。
だからつくしは改めて助けてもらった礼を言うことにした。
「あの。船の上では失礼なことを言いましたけど、助けていただいたことは感謝しています。でもあなたが私に嘘をついていたことは、このこととは別です。でもあの件についてはもう終わったことですし今日を限りで私たちがお会いすることはないと思います」
道明寺司のことなど一切忘れてこれからもサメの研究に邁進すればいい。
そんな思いで礼とは別に言葉の半分は言ったつもりだったが、相手はそうは受け取らなかった。
「悪いがその申し出は拒否する。このこともあのことも関係ないと言わせるつもりはない。俺はお前のことが好きだと言った。だからこれから先も牧野つくしに係わるつもりだ」
そう言った男は、つくしに水の入ったボトルを渡すと「まず手始めはこれだ」と言ってほんの一瞬唇を重ねた。

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Comment:8
「それにしても川上真理子という女性は先輩を誘拐してどうするつもりだったんでしょう?」
「西田さん。牧野さんは本当に大丈夫ですか?本当に怪我は無いんですか?」
三条桜子と若林和彦は、つくしが三浦半島沖の相模灘に浮かんでいたクルーザーで発見され、ヘリで道明寺財閥系列の病院に運ばれたと連絡を受けると、すぐに駆け付け病室の外で西田と話をしていたが、桜子の質問に対する答えはただひとつ。
真理子はつくしを海へ投げ込んでサメの餌にするつもりでいたということ。だが西田はその言葉を口にすることはなかった。
そして和彦は、まさか高森開発の社長夫人だった川上真理子が犯罪行為に走ったことを信じられない思いでいたが、その女性がつくしの手足を縛っていたと訊き恐怖を覚えていた。
「ご安心下さい。牧野様はご無事です。今は鎮静剤を打たれ眠っておられますが問題はありません。ですからお二人とも今夜はお帰りになってお休み下さい。病院は警備も万全です。これ以上牧野様に何かあることはございません」
きっぱりとした西田の言葉はこれ以上ないほど二人を安心させた。
そして付き添いたいと言った桜子の申し出を断った。
「あの西田さん。病院の看護体制や警備が万全なのは理解しています。でも私は先輩の友人として傍にいたいんです。それに先輩の目が覚めたとき傍にいたいんです。だって今先輩は_」
「三条様。今は副社長が傍に付き添っておられます。ですからご安心下さい」
西田は桜子の言葉を遮り言った。
「今回このようなことが起きたのは我社のビジネスが発端です。ですから副社長の牧野様に対するお気持ちは、それはもう大変申し訳ないという思いでいっぱいです。それに副社長は責任感の強い方ですのでこの件に関しては大きな責任を感じていらっしゃいます。それはご自身が好きになった女性を守ることが出来なかったことについてもですが、牧野様に対し嘘をついていたこともです」
桜子は西田という秘書を信頼に値する人物だと思っている。
副社長付の秘書になるということは、能力が高いということもだが、仕える人間のことをよく理解しているからだ。
それは桜子が大学教授秘書として働いているからこそ思うことで、たとえ仕える人間の職業が違っていたとしても、秘書という職業の人間が考えることは皆同じだ。
そして秘書は自分のミスは仕える人間のミスになるということも知っている。だから極力ミスはしない方がいい。だが仕える人間のミスは自分のミスとして謝ることが仕事だとも分かっている。だから今の西田の発言は、道明寺司の言葉でないとしても、西田のように聡明な秘書なら仕える人間の言葉を代弁することは簡単だ。
けれど桜子は思った。レストランに現れた道明寺司の態度は心から牧野つくしのことを案じていたと。それに自分の持てる力を使って牧野つくしを探し出した。だから西田の言葉があながち嘘ではないと思い背筋を伸ばし言った。
「分かりました。では今夜は帰ります。後は道明寺副社長にお任せします。ですがひと言言わせて頂いてもいいですか?」
「ええ。何なりとおっしゃって下さい」
「私は牧野つくしの友人です。友人であることもですが牧野つくしの人生に責任を感じている人間です。だからもしこれ以上道明寺副社長が牧野つくしを傷付けるようなことになれば、それなりの代償を払うことになるとお考え下さい」
「代償ですか?」
「ええ。道明寺副社長にサメの餌になって頂くこともあるということです」
「三条様。なかなか面白いことをおっしゃいますね。ですが必ず副社長にお伝えします」
***
「失礼致します」
西田が特別室の扉を開けたとき司は壁際に立って眠っている女を見ていた。
「三条様と若林様にはお帰りいただきました」
「そうか。それで?あの秘書は何か言ってたか?何しろあの秘書はひな鳥を守る親鳥だ。手厳しいことを言ったはずだ」
「はい。もしこれ以上牧野様を傷付けることがあればサメの餌にするとおっしゃられました」
その言葉に司は小さく微笑んだ。
「俺をサメの餌にするって?」
「はい。その目は真剣でした。あの方は心から牧野様のことを心配していらっしゃいます。ああいった方をご友人としてお持ちになることは牧野様にとっては心強いことでしょう」
確かにその通りだ。
人の心は金で買えるものではない。
それに司にも三条桜子のように自分のことを親身になって思ってくれる友人がいるから桜子の行動も理解出来た。
そして西田は人の心を読む達人だ。人の嘘を見抜くのが得意だ。
それはこの男の持って生まれた才能だと言ってもいい。そんな西田が三条桜子のことを褒めるのだから、少々厄介な女だとしても、あの女が牧野つくしの友人であることは司にとっては望ましいことだと言えた。
「それにしても牧野様を夜の海に放り込むなど川上真理子の考えることは普通の人間が考えることではありません」
「西田」
「はい」
「そう言うが俺が手に負えないガキだった頃のことを考えてみろ。あの頃の俺なら平気でそんなこともしたはずだ」
「確かに。あの頃の副社長は世間に対して厳しいお考えをお持ちでしたから」
西田の表情は真面目で言葉は婉曲しているが、司がガキと表現した高校生の頃の酷さは十分承知していた。
「それであの女は?それから一緒にいた男は何と言ってる?」
司は口元を引き締め西田からの報告を訊いた。
「はい。川上真理子と石田章夫は警察の取り調べを受けることになりますが、石田章夫の方は罪を犯している認識はなかったと言っています。あの男は川上真理子を手伝うことによって生じるメリットだけを考えていたと言っていいでしょう。つまり川上真理子と男と女の関係になることを求めていたに過ぎず、初めから牧野様を誘拐しようとは考えてはいなかったということです。ですが川上真理子は違います。川上真理子の行為は牧野様を誘拐し確実に相手が死ぬことを目的としていた。殺意を持っての行動であり確信犯罪者です」
川上真理子の牧野つくしに対する行動は司に対する復讐。
だが高森開発が破綻したのは司のせいではない。
それに財閥のビジネスは真っ当なものでその国の法を順守している。
だが世界を相手にするビジネスが必ずしも真っ当だとは言えないこともある。
それに法を犯すことがなくとも質の悪い輩はどこにでもいる。だからビジネスには高い判断能力が必要になるのだが、狂人相手となるとこちらも相手と同じ土俵に立たざるを得ないことがある。
それはやられたらやり返すということ。権力には裏表があり、聖人君子ではビジネスは成り立たないことを司は知っている。
「それにしても川上真理子は随分と安っぽいスリルを味合わせてくれたな」
不都合な出来事の揉み消し方を知る男は、その言葉に頷くと「それではわたくしは夜が明け次第警視総監に今後のことについてお話をさせていただきます」と言った。

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「西田さん。牧野さんは本当に大丈夫ですか?本当に怪我は無いんですか?」
三条桜子と若林和彦は、つくしが三浦半島沖の相模灘に浮かんでいたクルーザーで発見され、ヘリで道明寺財閥系列の病院に運ばれたと連絡を受けると、すぐに駆け付け病室の外で西田と話をしていたが、桜子の質問に対する答えはただひとつ。
真理子はつくしを海へ投げ込んでサメの餌にするつもりでいたということ。だが西田はその言葉を口にすることはなかった。
そして和彦は、まさか高森開発の社長夫人だった川上真理子が犯罪行為に走ったことを信じられない思いでいたが、その女性がつくしの手足を縛っていたと訊き恐怖を覚えていた。
「ご安心下さい。牧野様はご無事です。今は鎮静剤を打たれ眠っておられますが問題はありません。ですからお二人とも今夜はお帰りになってお休み下さい。病院は警備も万全です。これ以上牧野様に何かあることはございません」
きっぱりとした西田の言葉はこれ以上ないほど二人を安心させた。
そして付き添いたいと言った桜子の申し出を断った。
「あの西田さん。病院の看護体制や警備が万全なのは理解しています。でも私は先輩の友人として傍にいたいんです。それに先輩の目が覚めたとき傍にいたいんです。だって今先輩は_」
「三条様。今は副社長が傍に付き添っておられます。ですからご安心下さい」
西田は桜子の言葉を遮り言った。
「今回このようなことが起きたのは我社のビジネスが発端です。ですから副社長の牧野様に対するお気持ちは、それはもう大変申し訳ないという思いでいっぱいです。それに副社長は責任感の強い方ですのでこの件に関しては大きな責任を感じていらっしゃいます。それはご自身が好きになった女性を守ることが出来なかったことについてもですが、牧野様に対し嘘をついていたこともです」
桜子は西田という秘書を信頼に値する人物だと思っている。
副社長付の秘書になるということは、能力が高いということもだが、仕える人間のことをよく理解しているからだ。
それは桜子が大学教授秘書として働いているからこそ思うことで、たとえ仕える人間の職業が違っていたとしても、秘書という職業の人間が考えることは皆同じだ。
そして秘書は自分のミスは仕える人間のミスになるということも知っている。だから極力ミスはしない方がいい。だが仕える人間のミスは自分のミスとして謝ることが仕事だとも分かっている。だから今の西田の発言は、道明寺司の言葉でないとしても、西田のように聡明な秘書なら仕える人間の言葉を代弁することは簡単だ。
けれど桜子は思った。レストランに現れた道明寺司の態度は心から牧野つくしのことを案じていたと。それに自分の持てる力を使って牧野つくしを探し出した。だから西田の言葉があながち嘘ではないと思い背筋を伸ばし言った。
「分かりました。では今夜は帰ります。後は道明寺副社長にお任せします。ですがひと言言わせて頂いてもいいですか?」
「ええ。何なりとおっしゃって下さい」
「私は牧野つくしの友人です。友人であることもですが牧野つくしの人生に責任を感じている人間です。だからもしこれ以上道明寺副社長が牧野つくしを傷付けるようなことになれば、それなりの代償を払うことになるとお考え下さい」
「代償ですか?」
「ええ。道明寺副社長にサメの餌になって頂くこともあるということです」
「三条様。なかなか面白いことをおっしゃいますね。ですが必ず副社長にお伝えします」
***
「失礼致します」
西田が特別室の扉を開けたとき司は壁際に立って眠っている女を見ていた。
「三条様と若林様にはお帰りいただきました」
「そうか。それで?あの秘書は何か言ってたか?何しろあの秘書はひな鳥を守る親鳥だ。手厳しいことを言ったはずだ」
「はい。もしこれ以上牧野様を傷付けることがあればサメの餌にするとおっしゃられました」
その言葉に司は小さく微笑んだ。
「俺をサメの餌にするって?」
「はい。その目は真剣でした。あの方は心から牧野様のことを心配していらっしゃいます。ああいった方をご友人としてお持ちになることは牧野様にとっては心強いことでしょう」
確かにその通りだ。
人の心は金で買えるものではない。
それに司にも三条桜子のように自分のことを親身になって思ってくれる友人がいるから桜子の行動も理解出来た。
そして西田は人の心を読む達人だ。人の嘘を見抜くのが得意だ。
それはこの男の持って生まれた才能だと言ってもいい。そんな西田が三条桜子のことを褒めるのだから、少々厄介な女だとしても、あの女が牧野つくしの友人であることは司にとっては望ましいことだと言えた。
「それにしても牧野様を夜の海に放り込むなど川上真理子の考えることは普通の人間が考えることではありません」
「西田」
「はい」
「そう言うが俺が手に負えないガキだった頃のことを考えてみろ。あの頃の俺なら平気でそんなこともしたはずだ」
「確かに。あの頃の副社長は世間に対して厳しいお考えをお持ちでしたから」
西田の表情は真面目で言葉は婉曲しているが、司がガキと表現した高校生の頃の酷さは十分承知していた。
「それであの女は?それから一緒にいた男は何と言ってる?」
司は口元を引き締め西田からの報告を訊いた。
「はい。川上真理子と石田章夫は警察の取り調べを受けることになりますが、石田章夫の方は罪を犯している認識はなかったと言っています。あの男は川上真理子を手伝うことによって生じるメリットだけを考えていたと言っていいでしょう。つまり川上真理子と男と女の関係になることを求めていたに過ぎず、初めから牧野様を誘拐しようとは考えてはいなかったということです。ですが川上真理子は違います。川上真理子の行為は牧野様を誘拐し確実に相手が死ぬことを目的としていた。殺意を持っての行動であり確信犯罪者です」
川上真理子の牧野つくしに対する行動は司に対する復讐。
だが高森開発が破綻したのは司のせいではない。
それに財閥のビジネスは真っ当なものでその国の法を順守している。
だが世界を相手にするビジネスが必ずしも真っ当だとは言えないこともある。
それに法を犯すことがなくとも質の悪い輩はどこにでもいる。だからビジネスには高い判断能力が必要になるのだが、狂人相手となるとこちらも相手と同じ土俵に立たざるを得ないことがある。
それはやられたらやり返すということ。権力には裏表があり、聖人君子ではビジネスは成り立たないことを司は知っている。
「それにしても川上真理子は随分と安っぽいスリルを味合わせてくれたな」
不都合な出来事の揉み消し方を知る男は、その言葉に頷くと「それではわたくしは夜が明け次第警視総監に今後のことについてお話をさせていただきます」と言った。

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Comment:4
つくしは暗闇の中、ただひたすら息を殺しじっとしていた。
手にしたデッキブラシで戦うという危険な賭けに出なければならない状況が来た。
中から鍵をかけたとはいえ、鍵さえあればすぐに開けられる。
だが扉がすぐに開かれることはなく、だからと言って止まった足音が立ち去る様子はない。
それなら止まったと思った足音はひょっとして気のせいなのか。だが静まり返った扉の向こう側には誰かがいる気配がする。しかしそう感じるのが本当に気のせいだとしても、いつかは見つかる。それならやはり救命胴衣を見つけて海に飛び込んだ方がいいのだろうか。
どうすればいいのか。
今の状況を冷静に考えることは出来なかったが、いつまでもここにいては見つかることだけは確実に言えた。そしてもし見つかれば、足を縛られ海に投げ入れられることが考えられた。
もしかすると傷付けられ重石を付けられる可能性もある。
となると、まさに手も足も出せない状態で暗い海の底へ沈んで行くことになる。そして真理子が言ったようにサメに近づくことになる。
つまりそれはサメの研究者がサメに襲われて亡くなるということ。
だがそんな話があったとしても、それは不慮の事故であり事件ではない。だが今のこの状況はどう考えても事件だ。そして自分の身体がサメの餌になることを考えたとき、あの男の顔が浮かんだ。そして思った。あの時あの男のもう片方の頬も殴っておけばよかったと。
そして杉村と名乗ったあの男を信じた自分がバカだったのだと。
だがもうそのことは十分過ぎるほど理解している。それに今は論理的に物事を考えている場合ではない。
つくしは泳ぎが得意だ。だから手を縛られているとしても、足が自由なら浮かんでいることは出来ることから海に飛び込むことを決めたが、そのためには、海に浮かぶために浮力を持つものが必要だ。だがこの場所にそういったものはない。だから何かに縋る思いでデッキブラシをギュッと握った。この掃除道具が役に立つかどうかは分からなかったが、それでもきっと何かの役に立つはずだと思うしかなかった。そうだサメに襲われそうになったとき、このデッキブラシでサメの弱点である鼻柱を叩けばいい。何しろサメの鼻はレーダーであり非常に敏感な部分で触れられるとパニックを起こすからだ。
そして今のつくしに必要なのは、扉を開けるタイミングと海に飛び込む勇気だ。
つくしは鍵に手をかけると音を立てることなく静にゆっくりと回した。それから扉を少しずつ押し開けた。
すると目に飛び込んで来たのは眩しい光。
掃除道具入れが暗闇だったせいか、その光りは瞳孔を収縮させた。そして耐え切れず思わず目を閉じたが少しずつだが開いていくと瞬きをした。
するとその眩しい光は空からと海からもたらされていると気付いた。つまり空にはヘリが飛び、海にはボートと大型の船が浮かび投光器から真昼の太陽のような光がこちらに向かって注がれていた。
やがて目の焦点が回復してくると甲板に誰かが立っているのが分かった。
だが強い光を背中から浴びているその人物が誰であるか分からない。
男なのか。女なのか。真理子なのか。石田という男なのか。それともまた別の男なのか。
それとも助けなのか。その人物は何も言葉を発しようとはしなかった。
つまり敵か味方か分からないこの状況での躊躇は命取りになる。
それはサメを相手にしている状況と同じで油断は出来ないということだ。
だからつくしは迷うことなく手にしていたデッキブラシを相手に向かって突き出そうとした。だが両手を縛られた状態では上手くいくはずもなく、デッキブラシは無情にも手からすべり落ち甲板に当たり音を立てた。
そしてつくしも身体のバランスを崩し甲板に倒れそうになった。
万事休す。掴まって海に投げ込まれる。そんな思いが頭を過った。だが次の瞬間差し出された手が身体を支え頭上から声が聞こえた。
「随分と威勢がいいな。そのデッキブラシであいつらをぶちのめすつもりか?それともぶちのめしたいのは俺か?」
「え?」
その声の持ち主はあの男。
道明寺司がつくしを見下ろしていたが、その声がどこか笑いを含んだように感じられたのは気のせいではないはずだ。
だが次の瞬間、かろうじて立っていたつくしを抱き上げた男は、少し離れてはいるが左右を固めるように立っていた男達のひとりから、「すべて終了いたしました」と報告を受けると頷き彼女の顔を見ながら言った。
「終わったぞ」
「お、終わった?」
「ああ。終わった」
オウム返しのようにしか答えることが出来ないのは、突然目の前に現れた男に驚いたからなのか。それとも今のこの状況を信じることが出来ないからなのか。
どちらにしても海に投げ込まれることは無くなったということと、自ら海に飛び込む必要もなくなったということは理解出来た。
そしてその両方が頭の中にジワジワと浸透してくるにつれ、自分が道明寺司に身をゆだねているこの状況が間違っていると思った。
何しろ川上真理子に誘拐されたのは、道明寺司の恋人だと勘違いされたからだ。
それに男の腕に抱えられていることが間違ってないと言われたとしてても、大人しくこの男の腕に抱かれているつもりはなかった。それは道明寺司が自分を騙した男だからだ。だがそれを認めた男はそのことを詫びた。
けれど理由は何にしろ、今はとりあえずこの男の腕から逃れたかった。
「お、降ろして下さい」
「降ろす?」
「ええ。そうです。あなたに抱えられる理由はありませんから降ろして下さい。それからこの…..このロープを解いて下さい」
つくしは自分の両手を縛っているロープを見て言った。
「嫌だと言ったら?」
「は?」
「だから嫌だと言ったら?」
「嫌って….」
つくしは手を縛られたままの状態でいることが辛いから解いてくれと言った。
それは身体の一部を縛られた状態でいることが嬉しいと思う人間などいないはずだからだ。
だから何故この男は嫌だというのか。その理由が分からなかった。
「解いたら俺を殴るからだ。こんなことになったのは俺のせいだと分かってる。川上真理子は俺が高森開発を潰したと恨んでるようだが、あの会社は俺が潰したわけじゃない。ただ不明瞭な経理や政治家との不適切な関係があの会社をダメにした。俺のビジネスのゴタゴタに巻き込まれたことは謝るが、今のお前は俺が嘘をついたことに対しての怒りの方が大きい。だからその手を解いたらそのデッキブラシで俺を殴るはずだ」
「な、殴るつもりなんてないわ!あなたの顔なんて二度と見たくないと思ってるのは確かだけど….だけど私は暴力は嫌いです!」
「へぇ。言ってくれるな。あの時俺を平手打ちにした女はどこの誰だ?」
「それは….」
自分では平和主義者だと思っている女は言い返せるなら言い返したかった。けれども返す言葉が見つからず言葉に詰まった。だがとにかく降ろして欲しいことだけは訴えた。
「いいから、お、降ろして!どうしても降ろさないなら暴れるから!そんなことになったら私を担いで行くしかないわよ!」
「ああ。そうだな。言われなくてもそのつもりだ。何しろ手を縛れた女はフラフラで満足に自分で歩くことが出来ねぇだろ?だからこうして担いで行ってやる」
確かに今はめまいを覚えていた。それは緊張から解放されたからだが、つくしを腕に抱えて男は、たった今、口にした言葉を実行した。それは腕に抱えていたつくしを肩に担ぎ上げたということだ。
「ちょっと、何するのよ!」
「何するって担いで行けと言ったのはお前だろ?」
男の背中に顔を付けたつくしの姿は、バイキングが略奪した女を連れ去る時の様子に似ていた。
そして縛られた両手で必死に男の背中を叩いていたが尻を一度叩かれると、「何するのよ!この変態!」と声を上げた。
「力を抜け。でないといつまでもこの状態でいることになるぞ」
「何がいつまでもこの状態よ!人を荷物扱いしないでよ!」
「フン。どこにこんなにうるさい荷物がある?」
「私は荷物じゃないって言ってるでしょ!」
つくしはなんとかして男にダメージを与えようとしたが、がっしりとした広い背中はいくら叩いても動じなかった。
そしてつくしが背中を叩くのを止めたとき、彼女の身体の向きを変え再び腕の中に抱え込んだ。
「威勢がいいのは結構だ。怪我がないならそれでいい。けど今は力を抜いて大人しく俺に運ばれてくれ」
そう言われたつくしは、怒りこそすれ助けてもらった礼を言ってなかったことに気付くと、「あの。助けてくれて….助けに来てくれてありがとう」と、言い淀みながらだったが感謝の気持ちを口にした。
だがそれは今のつくしの複雑な感情が込められていたと言ってもいい。
その時ひんやりとした風が頬を撫でていったが、ぬくもりが感じられる腕の中は寒くはなかった。
すると、それまで張りつめていた緊張の糸が切れたように、どっと疲れが押し寄せていた。

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手にしたデッキブラシで戦うという危険な賭けに出なければならない状況が来た。
中から鍵をかけたとはいえ、鍵さえあればすぐに開けられる。
だが扉がすぐに開かれることはなく、だからと言って止まった足音が立ち去る様子はない。
それなら止まったと思った足音はひょっとして気のせいなのか。だが静まり返った扉の向こう側には誰かがいる気配がする。しかしそう感じるのが本当に気のせいだとしても、いつかは見つかる。それならやはり救命胴衣を見つけて海に飛び込んだ方がいいのだろうか。
どうすればいいのか。
今の状況を冷静に考えることは出来なかったが、いつまでもここにいては見つかることだけは確実に言えた。そしてもし見つかれば、足を縛られ海に投げ入れられることが考えられた。
もしかすると傷付けられ重石を付けられる可能性もある。
となると、まさに手も足も出せない状態で暗い海の底へ沈んで行くことになる。そして真理子が言ったようにサメに近づくことになる。
つまりそれはサメの研究者がサメに襲われて亡くなるということ。
だがそんな話があったとしても、それは不慮の事故であり事件ではない。だが今のこの状況はどう考えても事件だ。そして自分の身体がサメの餌になることを考えたとき、あの男の顔が浮かんだ。そして思った。あの時あの男のもう片方の頬も殴っておけばよかったと。
そして杉村と名乗ったあの男を信じた自分がバカだったのだと。
だがもうそのことは十分過ぎるほど理解している。それに今は論理的に物事を考えている場合ではない。
つくしは泳ぎが得意だ。だから手を縛られているとしても、足が自由なら浮かんでいることは出来ることから海に飛び込むことを決めたが、そのためには、海に浮かぶために浮力を持つものが必要だ。だがこの場所にそういったものはない。だから何かに縋る思いでデッキブラシをギュッと握った。この掃除道具が役に立つかどうかは分からなかったが、それでもきっと何かの役に立つはずだと思うしかなかった。そうだサメに襲われそうになったとき、このデッキブラシでサメの弱点である鼻柱を叩けばいい。何しろサメの鼻はレーダーであり非常に敏感な部分で触れられるとパニックを起こすからだ。
そして今のつくしに必要なのは、扉を開けるタイミングと海に飛び込む勇気だ。
つくしは鍵に手をかけると音を立てることなく静にゆっくりと回した。それから扉を少しずつ押し開けた。
すると目に飛び込んで来たのは眩しい光。
掃除道具入れが暗闇だったせいか、その光りは瞳孔を収縮させた。そして耐え切れず思わず目を閉じたが少しずつだが開いていくと瞬きをした。
するとその眩しい光は空からと海からもたらされていると気付いた。つまり空にはヘリが飛び、海にはボートと大型の船が浮かび投光器から真昼の太陽のような光がこちらに向かって注がれていた。
やがて目の焦点が回復してくると甲板に誰かが立っているのが分かった。
だが強い光を背中から浴びているその人物が誰であるか分からない。
男なのか。女なのか。真理子なのか。石田という男なのか。それともまた別の男なのか。
それとも助けなのか。その人物は何も言葉を発しようとはしなかった。
つまり敵か味方か分からないこの状況での躊躇は命取りになる。
それはサメを相手にしている状況と同じで油断は出来ないということだ。
だからつくしは迷うことなく手にしていたデッキブラシを相手に向かって突き出そうとした。だが両手を縛られた状態では上手くいくはずもなく、デッキブラシは無情にも手からすべり落ち甲板に当たり音を立てた。
そしてつくしも身体のバランスを崩し甲板に倒れそうになった。
万事休す。掴まって海に投げ込まれる。そんな思いが頭を過った。だが次の瞬間差し出された手が身体を支え頭上から声が聞こえた。
「随分と威勢がいいな。そのデッキブラシであいつらをぶちのめすつもりか?それともぶちのめしたいのは俺か?」
「え?」
その声の持ち主はあの男。
道明寺司がつくしを見下ろしていたが、その声がどこか笑いを含んだように感じられたのは気のせいではないはずだ。
だが次の瞬間、かろうじて立っていたつくしを抱き上げた男は、少し離れてはいるが左右を固めるように立っていた男達のひとりから、「すべて終了いたしました」と報告を受けると頷き彼女の顔を見ながら言った。
「終わったぞ」
「お、終わった?」
「ああ。終わった」
オウム返しのようにしか答えることが出来ないのは、突然目の前に現れた男に驚いたからなのか。それとも今のこの状況を信じることが出来ないからなのか。
どちらにしても海に投げ込まれることは無くなったということと、自ら海に飛び込む必要もなくなったということは理解出来た。
そしてその両方が頭の中にジワジワと浸透してくるにつれ、自分が道明寺司に身をゆだねているこの状況が間違っていると思った。
何しろ川上真理子に誘拐されたのは、道明寺司の恋人だと勘違いされたからだ。
それに男の腕に抱えられていることが間違ってないと言われたとしてても、大人しくこの男の腕に抱かれているつもりはなかった。それは道明寺司が自分を騙した男だからだ。だがそれを認めた男はそのことを詫びた。
けれど理由は何にしろ、今はとりあえずこの男の腕から逃れたかった。
「お、降ろして下さい」
「降ろす?」
「ええ。そうです。あなたに抱えられる理由はありませんから降ろして下さい。それからこの…..このロープを解いて下さい」
つくしは自分の両手を縛っているロープを見て言った。
「嫌だと言ったら?」
「は?」
「だから嫌だと言ったら?」
「嫌って….」
つくしは手を縛られたままの状態でいることが辛いから解いてくれと言った。
それは身体の一部を縛られた状態でいることが嬉しいと思う人間などいないはずだからだ。
だから何故この男は嫌だというのか。その理由が分からなかった。
「解いたら俺を殴るからだ。こんなことになったのは俺のせいだと分かってる。川上真理子は俺が高森開発を潰したと恨んでるようだが、あの会社は俺が潰したわけじゃない。ただ不明瞭な経理や政治家との不適切な関係があの会社をダメにした。俺のビジネスのゴタゴタに巻き込まれたことは謝るが、今のお前は俺が嘘をついたことに対しての怒りの方が大きい。だからその手を解いたらそのデッキブラシで俺を殴るはずだ」
「な、殴るつもりなんてないわ!あなたの顔なんて二度と見たくないと思ってるのは確かだけど….だけど私は暴力は嫌いです!」
「へぇ。言ってくれるな。あの時俺を平手打ちにした女はどこの誰だ?」
「それは….」
自分では平和主義者だと思っている女は言い返せるなら言い返したかった。けれども返す言葉が見つからず言葉に詰まった。だがとにかく降ろして欲しいことだけは訴えた。
「いいから、お、降ろして!どうしても降ろさないなら暴れるから!そんなことになったら私を担いで行くしかないわよ!」
「ああ。そうだな。言われなくてもそのつもりだ。何しろ手を縛れた女はフラフラで満足に自分で歩くことが出来ねぇだろ?だからこうして担いで行ってやる」
確かに今はめまいを覚えていた。それは緊張から解放されたからだが、つくしを腕に抱えて男は、たった今、口にした言葉を実行した。それは腕に抱えていたつくしを肩に担ぎ上げたということだ。
「ちょっと、何するのよ!」
「何するって担いで行けと言ったのはお前だろ?」
男の背中に顔を付けたつくしの姿は、バイキングが略奪した女を連れ去る時の様子に似ていた。
そして縛られた両手で必死に男の背中を叩いていたが尻を一度叩かれると、「何するのよ!この変態!」と声を上げた。
「力を抜け。でないといつまでもこの状態でいることになるぞ」
「何がいつまでもこの状態よ!人を荷物扱いしないでよ!」
「フン。どこにこんなにうるさい荷物がある?」
「私は荷物じゃないって言ってるでしょ!」
つくしはなんとかして男にダメージを与えようとしたが、がっしりとした広い背中はいくら叩いても動じなかった。
そしてつくしが背中を叩くのを止めたとき、彼女の身体の向きを変え再び腕の中に抱え込んだ。
「威勢がいいのは結構だ。怪我がないならそれでいい。けど今は力を抜いて大人しく俺に運ばれてくれ」
そう言われたつくしは、怒りこそすれ助けてもらった礼を言ってなかったことに気付くと、「あの。助けてくれて….助けに来てくれてありがとう」と、言い淀みながらだったが感謝の気持ちを口にした。
だがそれは今のつくしの複雑な感情が込められていたと言ってもいい。
その時ひんやりとした風が頬を撫でていったが、ぬくもりが感じられる腕の中は寒くはなかった。
すると、それまで張りつめていた緊張の糸が切れたように、どっと疲れが押し寄せていた。

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司がマリーナに着いたとき、高森隆三の名義だったクルーザーは既に出航していた。
葉山の隣街の逗子には財閥が所有するクルーザーが係留されている。それは普段から会社の接待用に使っている船で商談やパーティーに使われていた。
最新鋭の装備を備えたそのクルーザーはヘリが降りたつことが出来る。そして司が三浦半島に向かった時点でいつでも出航出来るように準備が整えられていて葉山のマリーナに接岸すると彼を乗せ海に出た。
月のない夜の海はただひたすら暗かったが穏やかで波頭は無い。
操舵室で舵を握るのはベテランの船長だが、司が気分次第で船を出すような男ではないことは知っている。だから深夜のこの出航が緊急性の高いものだということを理解していた。
そして物事を機械のように正確に処理する秘書の手際の良さから普段なら腕力など必要としないのだが、今夜司と一緒に乗船したのは、秘書やいつもの護衛だけではなく屈強な男達。
その男達が数歩の距離を置いて立っていた。
「追っている船の位置は分かるか?」
「はい。この船には最新鋭の監視システムが搭載されています。それにこの船は大きいですがスピードは追っているクルーザーよりも出ます。つまり目的の船に追いつくのは時間の問題かと」
豪華で性能が優れた船は音もたてず水面を航行しているが、船長の言う通り船首が水を切り進むスピードはかなりの早さだ。そして暗い海を突き進む船は更にスピードを上げた。
「御覧下さい。あそこにぼんやりとですが白い船体が見えます。我々が追っているのはあの船です」
双眼鏡を渡され見た白い船体は、その動きを止め停泊しているように見えた。
「あの船は動いてるのか?」
「いえ。止まっています。今はただ海の上で波に揺られている状況です」
司はその言葉にあらゆる状況を考えた。
それは既にあの場所で牧野つくしが海に突き落とされたなら、この船で近づくと危険だということ。何故ならこの船は大きなスクリューを備えていて巻き込まれる危険があるからだ。
そして牧野つくしの足に大きな傷跡を残した船の事故のことを考えた。大学生の頃、モーターボートのスクリューで大怪我を負い、その当時付き合っていた男から言われた言葉と行動が今でも心の傷となって男を寄せ付けようとしないことを。だが今はそんなことを考えるよりも、すぐに行動に移す必要があることだけは確かだ。
「副社長。この船で傍に近寄ることは危険です。それよりもボートを下ろし近づいた方がよろしいでしょう」
船長がそう言うと司は頷いた。すると数歩の距離を置き立っている男達は指示を待つこともなく直ぐに動いた。
***
掴まれていた腕を振り解いたつくしは、思いっきり身体をぶつけた男が背後で呻いたのを訊いた。それは身体をどこかへぶつけたからなのか。だがそれを確かめようとは思わなかった。
海風は冷たかったが、とにかく男から逃げることを考え甲板を走り角を曲がった。
そして男が追いかけて来る前に、どこかの部屋に入ろうと最初に目に入った扉を開けた。
だが部屋だと思ったそこは狭い場所にモップやデッキブラシといった掃除道具が並んでいた。だがここがどこだろうといい。海に突き落とされるよりはマシだ。
だから中に入ると急いで鍵をかけた。
そして息を殺し外の様子を窺っていたが船が動きを止めたのが分かった。
つくしは考えた。それはもしここに救命胴衣があるなら、それを着けここを出て海に飛び込み助けが来るのを待つべきか、ということだ。けれどいくら救命胴衣を着けたとしても冷たい夜の海に飛び込むということは生命に危険を及ぼす恐れがある。
それは海の冷たさもだがサメの存在があるからだ。夜行性のサメは夕暮れから早朝にかけて活動が活発になる。そしてサメは暗いところでも良く物が見え血の匂いに敏感だ。両手が縛られたこの状態は、ロープに血が滲んではいなかったが、夜の海面を漂う人間に反応しないとは言えなかった。
それに必ず助けが来るとは限らない。第一ここは海で、ここを特定するには時間がかかるはずだ。
それにしてもまさか自分が他人から危害を加えられる….いや。他人から命を狙われる立場に立つとは思いもしなかった。
だがそれは真理子の道明寺司に対する憎しみから生じたもので、本来ならつくしには全く関係ないはずだ。
けれど真理子の話の中にあったつくしを気に入らないという感情は、つくし個人に向けられたものだ。ホステスと働いていた頃つくしに似た女が真理子の近くにいて、その女が気に入らなかったと言った。だが今はそんなことを考えるよりもどうすればここから、この船から、川上真理子から逃れることが出来るかを考えるべきだ。
「なんとかしなきゃ…」
だが掃除道具が収められた狭い場所で何をどうすればいいのか。
両手が自由ならここにあるモップやデッキブラシで戦うことも出来たかもしれない。
けれどそれは危険な賭けだ。何しろ相手は二人。いや。この船には他にも誰か乗っていてもおかしくないからだ。
外で物音がしたのは、そんなことを考えていた時だった。
つくしは音を立てないように息を殺した。
何人かの男の声がして、甲板を走る足音が聞こえた。
やはりあの二人以外に誰かいてつくしを探しているということだ。
それにしてもこの場所は簡単に見つけられそうな気がするが、物置とも言えるこの場所につくしが隠れているとは思わないのだろうか。
だが見つかるのは時間の問題だ。
つくしは暗闇の中、縛られたままの手でなんとかデッキブラシと思われる柄を握り、いつ扉が開かれてもいいようにと手に力を入れ扉の方を向いた。
その時、足音が扉の前で止ったのを訊いた。

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葉山の隣街の逗子には財閥が所有するクルーザーが係留されている。それは普段から会社の接待用に使っている船で商談やパーティーに使われていた。
最新鋭の装備を備えたそのクルーザーはヘリが降りたつことが出来る。そして司が三浦半島に向かった時点でいつでも出航出来るように準備が整えられていて葉山のマリーナに接岸すると彼を乗せ海に出た。
月のない夜の海はただひたすら暗かったが穏やかで波頭は無い。
操舵室で舵を握るのはベテランの船長だが、司が気分次第で船を出すような男ではないことは知っている。だから深夜のこの出航が緊急性の高いものだということを理解していた。
そして物事を機械のように正確に処理する秘書の手際の良さから普段なら腕力など必要としないのだが、今夜司と一緒に乗船したのは、秘書やいつもの護衛だけではなく屈強な男達。
その男達が数歩の距離を置いて立っていた。
「追っている船の位置は分かるか?」
「はい。この船には最新鋭の監視システムが搭載されています。それにこの船は大きいですがスピードは追っているクルーザーよりも出ます。つまり目的の船に追いつくのは時間の問題かと」
豪華で性能が優れた船は音もたてず水面を航行しているが、船長の言う通り船首が水を切り進むスピードはかなりの早さだ。そして暗い海を突き進む船は更にスピードを上げた。
「御覧下さい。あそこにぼんやりとですが白い船体が見えます。我々が追っているのはあの船です」
双眼鏡を渡され見た白い船体は、その動きを止め停泊しているように見えた。
「あの船は動いてるのか?」
「いえ。止まっています。今はただ海の上で波に揺られている状況です」
司はその言葉にあらゆる状況を考えた。
それは既にあの場所で牧野つくしが海に突き落とされたなら、この船で近づくと危険だということ。何故ならこの船は大きなスクリューを備えていて巻き込まれる危険があるからだ。
そして牧野つくしの足に大きな傷跡を残した船の事故のことを考えた。大学生の頃、モーターボートのスクリューで大怪我を負い、その当時付き合っていた男から言われた言葉と行動が今でも心の傷となって男を寄せ付けようとしないことを。だが今はそんなことを考えるよりも、すぐに行動に移す必要があることだけは確かだ。
「副社長。この船で傍に近寄ることは危険です。それよりもボートを下ろし近づいた方がよろしいでしょう」
船長がそう言うと司は頷いた。すると数歩の距離を置き立っている男達は指示を待つこともなく直ぐに動いた。
***
掴まれていた腕を振り解いたつくしは、思いっきり身体をぶつけた男が背後で呻いたのを訊いた。それは身体をどこかへぶつけたからなのか。だがそれを確かめようとは思わなかった。
海風は冷たかったが、とにかく男から逃げることを考え甲板を走り角を曲がった。
そして男が追いかけて来る前に、どこかの部屋に入ろうと最初に目に入った扉を開けた。
だが部屋だと思ったそこは狭い場所にモップやデッキブラシといった掃除道具が並んでいた。だがここがどこだろうといい。海に突き落とされるよりはマシだ。
だから中に入ると急いで鍵をかけた。
そして息を殺し外の様子を窺っていたが船が動きを止めたのが分かった。
つくしは考えた。それはもしここに救命胴衣があるなら、それを着けここを出て海に飛び込み助けが来るのを待つべきか、ということだ。けれどいくら救命胴衣を着けたとしても冷たい夜の海に飛び込むということは生命に危険を及ぼす恐れがある。
それは海の冷たさもだがサメの存在があるからだ。夜行性のサメは夕暮れから早朝にかけて活動が活発になる。そしてサメは暗いところでも良く物が見え血の匂いに敏感だ。両手が縛られたこの状態は、ロープに血が滲んではいなかったが、夜の海面を漂う人間に反応しないとは言えなかった。
それに必ず助けが来るとは限らない。第一ここは海で、ここを特定するには時間がかかるはずだ。
それにしてもまさか自分が他人から危害を加えられる….いや。他人から命を狙われる立場に立つとは思いもしなかった。
だがそれは真理子の道明寺司に対する憎しみから生じたもので、本来ならつくしには全く関係ないはずだ。
けれど真理子の話の中にあったつくしを気に入らないという感情は、つくし個人に向けられたものだ。ホステスと働いていた頃つくしに似た女が真理子の近くにいて、その女が気に入らなかったと言った。だが今はそんなことを考えるよりもどうすればここから、この船から、川上真理子から逃れることが出来るかを考えるべきだ。
「なんとかしなきゃ…」
だが掃除道具が収められた狭い場所で何をどうすればいいのか。
両手が自由ならここにあるモップやデッキブラシで戦うことも出来たかもしれない。
けれどそれは危険な賭けだ。何しろ相手は二人。いや。この船には他にも誰か乗っていてもおかしくないからだ。
外で物音がしたのは、そんなことを考えていた時だった。
つくしは音を立てないように息を殺した。
何人かの男の声がして、甲板を走る足音が聞こえた。
やはりあの二人以外に誰かいてつくしを探しているということだ。
それにしてもこの場所は簡単に見つけられそうな気がするが、物置とも言えるこの場所につくしが隠れているとは思わないのだろうか。
だが見つかるのは時間の問題だ。
つくしは暗闇の中、縛られたままの手でなんとかデッキブラシと思われる柄を握り、いつ扉が開かれてもいいようにと手に力を入れ扉の方を向いた。
その時、足音が扉の前で止ったのを訊いた。

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「この女を甲板に連れてってちょうだい」
「理恵ちゃん。俺まさかこんなことを手伝わされるとは思ってもなかったよ。理恵ちゃんはこの人の知り合いだって言ったし、気分が悪そうだから送っていくって言うから手伝っただけなのにこんなことになるなんて思いもしなかったよ」
石田章夫はオロオロと言って理恵とつくしの顔を見比べた。
「あらそう?だって私はこの女が嫌いなんだもの。初めて会った時からそうよ。あの道明寺司の隣で真面目な顔をして立ってたこの女は昔同じ店で働いていた女とよく似ていたから、一瞬本人かと思ったくらいよ。私はその女が大嫌いだったわ。それにしても世界には自分に似た人間が3人いるそうだからあの女と牧野つくしはその中の二人なのかしらね?」
理恵は石田のお気に入りのホステスで彼女に入れ上げている。だから理恵の頼みならどんなことでも訊いてやるつもりでいた。店を出したいというならその望みも叶えてやってもいいと思っていた。
そして理恵と出掛けたレストランの化粧室で知り合いだという女性が気分が悪そうにしているからと送って行きたいと言われ、その言葉を信じ牧野つくしを車まで運び自宅まで送るつもりでいた。
だがこの家の中に運んで頂戴と言われ、明らかに誰も住んでいない家に運びこんだ時、何かがおかしいことに気付いた。
そして理恵が牧野つくしという女性を誘拐するために自分を利用したと分かった時には既に犯罪行為に加担していた。
そして理恵の言葉の中に道明寺司の名を訊き驚くと焦って言った。
「理恵ちゃん。今、道明寺司って言ったよね?もしかしてこの人あの道明寺司の恋人?だとしたら俺困るよ。だって道明寺財閥を敵に回したらうちの会社は潰れちゃうよ」
章夫の父親は大分で名の知れた建設会社を経営していて自身は後継者だ。
そして道明寺の名は例え地方だろうと関係なく強い影響力を持っている。だから目の前にいる女性が道明寺司の恋人なら、いや、これから理恵がしようとしていることが何であるかに気付くと、これ以上理恵に手を貸せば自分の身が危ないと感じ始めていた。
つまりこのままでは正真正銘自分が犯罪者になりかねないところまで来ていると気付いた。
それに理恵が行おうとしているのは、牧野つくしを夜の海に突き落とすという残忍な行為だ。そんなことをすれば命が失われることは子供でも分かる。
だからいくら理恵の頼みだとしても訊いてやることは出来なかった。
「今更何言ってるのよ。それに道明寺司なんて男。大したことないわよ」
「理恵ちゃん。ダメだよ。マズイよ。こんなことしたら_」
「犯罪者になるって言いたいんでしょ?でももう遅いわよ。だってあなたは牧野つくしを乗せた車を運転してここまで来たわ。でも安心して。目撃者はいないんだから」
真理子はそう言ったが章夫は否定した。
「理恵ちゃん…..。目撃者はいないなんて言うけど、この人はひとりで食事をしていたんじゃないよね?誰かと一緒だったよね?だからその人たちが探してるはずだ。それに今の世の中、防犯カメラがある場所は多い。それに道明寺財閥の道明寺司が相手となれば警察はどんなことでもするはずだ。だって社長の道明寺楓は警視総監と親しいって言われてる。それから訊いた話だけど道明寺司が未成年の頃に問題行動を起こしたとき、その問題を事件として扱うことなく終わらせたって話があるくらいだよ?」
地方都市に住む章夫でさえ知る道明寺司の若い頃の話。
今は一流の経営者だと言われているが、世界に名だたる道明寺家の御曹司には誰も逆らえないと言われ、10代の頃の道明寺司は英徳学園の支配者で教師といえども逆らうことなくひれ伏したと言われている。そしてモデルのように洗練された外見とは別に残虐さを持ち合わせていると言われ恐れられた。そんな話を同世代の章夫が知らないはずがない。
だが高校を卒業し、ニューヨークの大学へ進学してから変わったと言われていた。
そしてニューヨークで道明寺の経営に携わるようになると経済界のサメと言われるようになった。
「ええ。もちろん私も知ってるわ。だから面白いのよ。もしあの男がここに来るなら警察を引き連れてくるか。それとも自分ひとりで乗り込んでくるか。好きな女のためにはどんなことでもするはずよね?でもどちらにしても間に合わないんじゃないかしら?それにあの男が慌てるところを見たいと思わない?海に落ちた恋人を必死に探す男の姿がどんなものか。それに自分が大切にしているものを失う経験すればいいのよ!さあ、この女を甲板に連れてって!」
つくしは二人のやり取りを黙って訊いていた。
そして男の方が女の命令に従うことを躊躇っていることに気付いていた。
だから男に腕を取られソファから立たされたとき行動に出ることにした。
それは章夫に体当たりしてこの部屋から出ること。そしてどこか別の部屋へ逃げ込み鍵をかけ、そこで助けが来ることを待つことだ。
問題は誰が助けに来てくれるかということだが、突然姿を消した友人に桜子が警察に通報したのは間違いない。だがもしかすると道明寺司にも連絡をしたかもしれない。それは男が話していたように道明寺という日本を代表する企業を率いる男の依頼なら警察の動きも違うことを理解しているからだ。それに友人を騙した男は許せないとしても命には代えられないと考えるからだ。だとすれば桜子はあの男に連絡をしているはずだ。
そんな思いを巡らせたが、とにかく今はこの状況から逃げることを考えた。
だからつくしは男に腕を取られ部屋を出たとき、思いっきり身体をぶつけ男の手が腕から離れると甲板を走った。

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甲板から船内に入ったつくしは真理子に向かい側の席に座るように言われソファに腰を下ろした。
そこはサロンと呼ばれる船の応接室でインテリアは白と黒を基調に纏められているが、壁のいたるところに鏡が張り巡らされ部屋を大きく見せていた。
そして頭上には豪華なシャンデリアが輝いていた。
クルーザーが港を離れていくのは甲板を歩きながら感じていた。
つくしは仕事柄船に乗ることが多く船の動きには慣れている。それに今までも海洋調査船に乗り込み、真夜中の海での調査に臨んだこともあった。
けれど今のこの状況は専門的な知識を必要とする状況ではない。
何しろつくしは誘拐され縛られ船の上に連れて来られるという自らの意志とは全く関係ない状況にいるからだ。
いずれにせよ、どうにかしてここから逃げなければ自分の身が危ないということは理解出来た。だから必死に頭を働かせた。だが海の上は逃げ場がない。
鳥のように翼があれば飛んで逃げることも出来るが、手を縛られた状況では例え翼があったとしても羽ばたかせることは出来ない。だがこの縛めを解かれたなら、甲板から海に飛び込み魚のように泳いで逃げればと思うも、それがどれほど危険な事かは身をもって経験している。
それは大学生の時、沖縄の海で起こった事故のこと。
海に落ちた帽子を拾おうと何も考えずに飛び込みスクリューで脚に怪我をした。
あの時は小さなボートだったからよかったものの、大きなクルーザーのスクリューに巻き込まれることを考えれば海に飛び込むことは出来なかった。
それに昼間の葉山の海の青さは岸までの距離を掴むことが出来るが、夜の海ほど怖いものはない。遠くに明かりが見えたとしても、夜空に星が瞬いていても、その煌めきは小さすぎて月ほどに海を照らしてはくれず、岸まで辿り着ける自信がなかった。
「道明寺司の船に比べたらみすぼらしく見えるかもしれないけど我慢してちょうだい。あの男のクルーザーは巨大で豪華な邸宅だって言われるくらいですもの」
真理子にそう言われたが、つくしはこんなに豪華な船に乗るのは初めてで、ここは船というよりも高級ホテルに見られるような豪華さだった。
そしてつくしは道明寺司がまだ名前もない夜の電話の男性だった頃に交わした会話を思い出していた。
それは海の生物に興味があるかと訊いたとき、今はあまり行くことはないが海は好きだと言った。そして元気な頃はよく出かけていたと言った。
あの頃、電話の相手は体調が思わしくないことから、外出もままならないといったイメージを抱いていて男の話すことは真実だと思っていた。だが今となってはそれら全てが嘘だと知っている。
そして夜の電話の男が言った海が好きでよく出かけていたという話を真理子の言葉に重ねれば、あの男はこの船以上に立派な船を持ちクルージングを楽しんでいるということだ。
「何が元気な頃はよく出かけていたよ」
「あら。誰か元気がないのかしら?まさか道明寺司じゃないわよね?だってあの男は見るからに精力的だもの。それに聞いたことがあるわ。あの男はひと晩中でも出来る。精力に限りがないってね?だからお相手を務める女性は大変だってね」
つくしの呟きに真理子は笑いながらそう言ったが、その眼は笑ってはいなかった。
そしてその眼に浮かぶのは憎悪以外の何ものでもなかった。
「ねえ牧野さん。少しお喋りしない?あなたあの男のどこが好きなの?やっぱりお金?それともあの顔かしら?いいえ。それともセックスかしら?あの男は感情を表に出さないことで有名だけどあなたの前では感情を見せるのかしら?ねえ?あの男のセックスってどうなの?」
真理子はつくしがあの男の恋人だと思っているらしいが、そうではない。
だからそれを告げてはいたが、信じようとしない人間に言うべき言葉を見つけることは出来なかった。それなら真理子が望む通りに話を合わせた方がいいはずだ。
だがつくしは川上真理子という女性についてはよく知らない。
けれど、どんな人間も自分に対して否定的な言葉を浴びせる人間よりも、自分に共感し同調してくれる人間に心を許す。
だからつくしは、真理子が求めている話をしようとしたが、つくしは道明寺司と恋人ではないのだから、セックスについて訊かれても困る。そして今となっては全くの赤の他人であることが嬉しいくらいだが、自分が誘拐されたのは、あの男のせいだということも頭の中にあった。
だから腹立たしさを押さえ口にした言葉は、「ええ。司は私を眠らせてくれません。激しく愛されたあとは、いつもぐったりしてしまって身体がいうことを利きません。それに司はセックスするときサメの様に私を噛むんです」
それは普段真面目なつくしが話題にすることではない。
だが真理子にすれば、そんなつくしが話題を下半身へと落としていくことで機嫌を良くした。
「あはは!あの男がサメの様に噛むですって?」
「ええ。オスのサメは交尾のときメスの胸びれに噛みついて交接器を子宮の中に入れるんです。それはメスのサメを逃がさないためだと言われていますが、司は経済界のサメと言われていますが、彼の行動はサメです。サメなんです。だから私の身体はいつも傷だらけです」
自分で言いながら恥ずかしいとは思わなかった。
何故なら今話しているのは人間の話ではなくサメの交尾の話だからだ。
「それにしても面白いわね?道明寺司にそんな性癖があったなんて知らなかったわ」
知るも知らないも、つくしはあの男の性癖など知らない。
それに知りたいとも思わない。あの男が経済界のサメと呼ばれているのはビジネスの世界に於いてで、実生活のことなど知らなかったが、そんなことはどうでもいい。
今はそんなことより、どうすればこの状況から逃れることが出来るかを考えていた。
「それであなたの身体は傷だらけですって?あの男。あの外見からして凶暴だと思ったけど私は嫌いじゃないわ。でも私は傷つけられるより傷つける方が好きよ。と、なると道明寺司と私は同じ嗜好の持ち主かもしれないわね?」
道明寺司と川上真理子が同じ嗜好の持ち主だとすれば二人で仲良くすればいい。
道明寺司を殴るなり蹴るなり好きにすればいい。だからあの男に対する恨みを他の人間に転嫁するのは止めて欲しい。
けれど、そう思う反面この状況下から助けてくれる人物がいるとすれば、あの男しかいないような気がしていた。
それはつくしが平手打ちをした時に見せた殴られて当然だという態度。
コップの中に残っていた僅かな水と氷を浴びせかけた時、それを拭うことをしなかったこと。あの時、大勢のひと前でのつくしの行為を当然だと受け入れた。それはプライドが高いと言われる男にとって屈辱的なことではないか。だがそれらすべてを受け入れた男がいた。
だが真理子が道明寺司に恋人の命が惜しければここに来いと言っているとは思えなかった。
それにレストランにいたのは、桜子と若林和彦であり道明寺司ではない。だから今のこの状況があの男に伝わっているとは考えられず助けてくれると思うのは間違いだ。
だから自分で何とかしなければならなかった。
「それにしても道明寺司の真夜中の生態を調べるのは面白そうね?あなたもサメの研究よりそっちの方が興味深いんじゃないの?」
真理子は楽しそうに笑い声を上げたが、次に放った言葉は冷たい声に取って代わっていた。
「どちらにしてあなたのその研究は今晩で終わりよ。あなたあの男が助けに来るための時間稼ぎをしてるようだけど、あなたの持ち時間は終わり。それに私は言ったわよね?サメの研究者ならもっとサメに近づきたいでしょってね?」
そしてつくしは、真理子の言葉に自分を取り囲む海を無視することは出来なくなっていた。

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そこはサロンと呼ばれる船の応接室でインテリアは白と黒を基調に纏められているが、壁のいたるところに鏡が張り巡らされ部屋を大きく見せていた。
そして頭上には豪華なシャンデリアが輝いていた。
クルーザーが港を離れていくのは甲板を歩きながら感じていた。
つくしは仕事柄船に乗ることが多く船の動きには慣れている。それに今までも海洋調査船に乗り込み、真夜中の海での調査に臨んだこともあった。
けれど今のこの状況は専門的な知識を必要とする状況ではない。
何しろつくしは誘拐され縛られ船の上に連れて来られるという自らの意志とは全く関係ない状況にいるからだ。
いずれにせよ、どうにかしてここから逃げなければ自分の身が危ないということは理解出来た。だから必死に頭を働かせた。だが海の上は逃げ場がない。
鳥のように翼があれば飛んで逃げることも出来るが、手を縛られた状況では例え翼があったとしても羽ばたかせることは出来ない。だがこの縛めを解かれたなら、甲板から海に飛び込み魚のように泳いで逃げればと思うも、それがどれほど危険な事かは身をもって経験している。
それは大学生の時、沖縄の海で起こった事故のこと。
海に落ちた帽子を拾おうと何も考えずに飛び込みスクリューで脚に怪我をした。
あの時は小さなボートだったからよかったものの、大きなクルーザーのスクリューに巻き込まれることを考えれば海に飛び込むことは出来なかった。
それに昼間の葉山の海の青さは岸までの距離を掴むことが出来るが、夜の海ほど怖いものはない。遠くに明かりが見えたとしても、夜空に星が瞬いていても、その煌めきは小さすぎて月ほどに海を照らしてはくれず、岸まで辿り着ける自信がなかった。
「道明寺司の船に比べたらみすぼらしく見えるかもしれないけど我慢してちょうだい。あの男のクルーザーは巨大で豪華な邸宅だって言われるくらいですもの」
真理子にそう言われたが、つくしはこんなに豪華な船に乗るのは初めてで、ここは船というよりも高級ホテルに見られるような豪華さだった。
そしてつくしは道明寺司がまだ名前もない夜の電話の男性だった頃に交わした会話を思い出していた。
それは海の生物に興味があるかと訊いたとき、今はあまり行くことはないが海は好きだと言った。そして元気な頃はよく出かけていたと言った。
あの頃、電話の相手は体調が思わしくないことから、外出もままならないといったイメージを抱いていて男の話すことは真実だと思っていた。だが今となってはそれら全てが嘘だと知っている。
そして夜の電話の男が言った海が好きでよく出かけていたという話を真理子の言葉に重ねれば、あの男はこの船以上に立派な船を持ちクルージングを楽しんでいるということだ。
「何が元気な頃はよく出かけていたよ」
「あら。誰か元気がないのかしら?まさか道明寺司じゃないわよね?だってあの男は見るからに精力的だもの。それに聞いたことがあるわ。あの男はひと晩中でも出来る。精力に限りがないってね?だからお相手を務める女性は大変だってね」
つくしの呟きに真理子は笑いながらそう言ったが、その眼は笑ってはいなかった。
そしてその眼に浮かぶのは憎悪以外の何ものでもなかった。
「ねえ牧野さん。少しお喋りしない?あなたあの男のどこが好きなの?やっぱりお金?それともあの顔かしら?いいえ。それともセックスかしら?あの男は感情を表に出さないことで有名だけどあなたの前では感情を見せるのかしら?ねえ?あの男のセックスってどうなの?」
真理子はつくしがあの男の恋人だと思っているらしいが、そうではない。
だからそれを告げてはいたが、信じようとしない人間に言うべき言葉を見つけることは出来なかった。それなら真理子が望む通りに話を合わせた方がいいはずだ。
だがつくしは川上真理子という女性についてはよく知らない。
けれど、どんな人間も自分に対して否定的な言葉を浴びせる人間よりも、自分に共感し同調してくれる人間に心を許す。
だからつくしは、真理子が求めている話をしようとしたが、つくしは道明寺司と恋人ではないのだから、セックスについて訊かれても困る。そして今となっては全くの赤の他人であることが嬉しいくらいだが、自分が誘拐されたのは、あの男のせいだということも頭の中にあった。
だから腹立たしさを押さえ口にした言葉は、「ええ。司は私を眠らせてくれません。激しく愛されたあとは、いつもぐったりしてしまって身体がいうことを利きません。それに司はセックスするときサメの様に私を噛むんです」
それは普段真面目なつくしが話題にすることではない。
だが真理子にすれば、そんなつくしが話題を下半身へと落としていくことで機嫌を良くした。
「あはは!あの男がサメの様に噛むですって?」
「ええ。オスのサメは交尾のときメスの胸びれに噛みついて交接器を子宮の中に入れるんです。それはメスのサメを逃がさないためだと言われていますが、司は経済界のサメと言われていますが、彼の行動はサメです。サメなんです。だから私の身体はいつも傷だらけです」
自分で言いながら恥ずかしいとは思わなかった。
何故なら今話しているのは人間の話ではなくサメの交尾の話だからだ。
「それにしても面白いわね?道明寺司にそんな性癖があったなんて知らなかったわ」
知るも知らないも、つくしはあの男の性癖など知らない。
それに知りたいとも思わない。あの男が経済界のサメと呼ばれているのはビジネスの世界に於いてで、実生活のことなど知らなかったが、そんなことはどうでもいい。
今はそんなことより、どうすればこの状況から逃れることが出来るかを考えていた。
「それであなたの身体は傷だらけですって?あの男。あの外見からして凶暴だと思ったけど私は嫌いじゃないわ。でも私は傷つけられるより傷つける方が好きよ。と、なると道明寺司と私は同じ嗜好の持ち主かもしれないわね?」
道明寺司と川上真理子が同じ嗜好の持ち主だとすれば二人で仲良くすればいい。
道明寺司を殴るなり蹴るなり好きにすればいい。だからあの男に対する恨みを他の人間に転嫁するのは止めて欲しい。
けれど、そう思う反面この状況下から助けてくれる人物がいるとすれば、あの男しかいないような気がしていた。
それはつくしが平手打ちをした時に見せた殴られて当然だという態度。
コップの中に残っていた僅かな水と氷を浴びせかけた時、それを拭うことをしなかったこと。あの時、大勢のひと前でのつくしの行為を当然だと受け入れた。それはプライドが高いと言われる男にとって屈辱的なことではないか。だがそれらすべてを受け入れた男がいた。
だが真理子が道明寺司に恋人の命が惜しければここに来いと言っているとは思えなかった。
それにレストランにいたのは、桜子と若林和彦であり道明寺司ではない。だから今のこの状況があの男に伝わっているとは考えられず助けてくれると思うのは間違いだ。
だから自分で何とかしなければならなかった。
「それにしても道明寺司の真夜中の生態を調べるのは面白そうね?あなたもサメの研究よりそっちの方が興味深いんじゃないの?」
真理子は楽しそうに笑い声を上げたが、次に放った言葉は冷たい声に取って代わっていた。
「どちらにしてあなたのその研究は今晩で終わりよ。あなたあの男が助けに来るための時間稼ぎをしてるようだけど、あなたの持ち時間は終わり。それに私は言ったわよね?サメの研究者ならもっとサメに近づきたいでしょってね?」
そしてつくしは、真理子の言葉に自分を取り囲む海を無視することは出来なくなっていた。

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「ほら、しっかり歩きなさいよ」
つくしは手足を縛られていたが、建物の外に出るにあたって自らの足で歩くようにと縛めを解かれていた。そして建物を出て軽自動車に乗せられ少し走ったが、止まると外へ出るように言われ歩いて連れて行かれたのは、港に係留されているクルーザーの前だった。
「どう?あなたこの船をどう思う?素敵だと思わない?この船は元夫の船だったの。小さいけれど高速航行が可能で積んでいるエンジンは最高級なのよ。それに船内は高級ホテルの部屋にも負けない造りになってるわ」
小さいと言われたが充分な大きさで、素敵な船だと思わないかと言われたが、街灯の明かりのなか、はっきりと船の外観を見ることは出来なかったが白い船体を確認することは出来た。
そしてここが何処かということに気付いた。
それは、この場所に来たことがあるからだ。ここは部屋で思っていた通り三浦半島で、この場所は葉山だ。
葉山は研究室の主宰である教授の副島の生家がある。
そこは今では住む人もおらず、副島家の別荘として使われているが、夏に研究室のメンバーと何度か来たことがあった。
そして葉山は日本のヨットレース発祥の地と言われているだけに、ヨットの競技会が盛んに行われ、街には観光客が溢れ浜辺には海水浴客が大勢いた。
だが北風が吹く季節になれば観光客の足は遠のき静かな街になる。しかし今は真冬ではなく春は近い。だが海から吹く風はまだ冷たく、それに暗闇のなか船に乗ろうという人間はいなかった。
けれど川上真理子はこの船で沖に出ようとしていることは確かだ。
つくしはどうすればこの状況から逃れることが出来るかを考えた。
そしてまさかとは思うが彼女が考えていることが脳裡を過った。だから何とかしなければと考えたが、未だに手を縛られた状態では数歩走っただけですぐに掴まることは目に見えていた。
「どう牧野さん?気に入ってくれたかしら?この船いい船だと思うでしょ?でもサメの研究者であるあなたには勿体ない気もするわね?だってこのクルーザーはサメの漁をするには向いてないもの」と言ったが、「ほら行きなさいよ。乗るのよ。この船で沖に出るのよ。あなたは私とクルージングに出るの。楽しいわよ、きっと。」と言葉を継ぎ、つくしの背中を押した。
***
ヘリを降りた司はかつて高森隆三の別荘だった場所にいた。
そして窓のない地下室に残されていたロープに彼女が縛られていたことを確信した。
「牧野様はここに残された車とは別の車に乗せられて何処か別の場所に移動させられたようです。ただその場所がこの町の中なのか。それともまた別の場所なのか_」
「探せ。どんな方法でもいい。町じゅうを叩き起こしてでも探せ。ひとりの女の命がかかってる。もし誰かに何かを言われても死と隣り合わせにいる女を助けるためだと言え!」
西田の言葉を遮った司は、すぐに地下室を出ると、かつて真理子の夫だった高森隆三が何故この町に別荘を持つことにしたのかを考えた。つまり海辺の町に別荘を持つ者ならするであろうことを。
それはマリンスポーツ。もしくは釣りやクルージングといった類だが、あの年寄りがマリンスポーツを好むとは思えなかった。それなら釣りかクルージングということになるが、マリンスポーツと同じで隆三が釣りを好むという話は聞いたことがなかった。
となると、贅沢な暮らしを好む妻の真理子に頼まれクルーザーを所有していた可能性を考えた。
葉山にはマリーナがある。
そしてそこにはヨットやボートが係留されているが、その中にはクルーザーもあるからだ。
「西田。高森隆三はこの町のマリーナに船を持ってなかったか?」
「お待ち下さい」
西田はタブレット端末に表示された高森隆三がかつて持っていた資産に目を通していた。
「はい。高森隆三名義で船の登録があります。今その船はこの別荘と同じ地元の不動産会社の名義に変わっていますが以前は高森隆三のものです」
マリーナはここから車で5分程の場所にある。
もし牧野つくしがクルーザーに乗せられているのなら、逃げ場のない場所に閉じ込められたと同じ。いやそれよりも質が悪い。夜の海に突き落とされれば見つけることは簡単ではないからだ。
「….マリーナだ。あの女は牧野つくしをクルーザーに乗せて海に出た。すぐにマリーナへ向かえ!」

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つくしは手足を縛られていたが、建物の外に出るにあたって自らの足で歩くようにと縛めを解かれていた。そして建物を出て軽自動車に乗せられ少し走ったが、止まると外へ出るように言われ歩いて連れて行かれたのは、港に係留されているクルーザーの前だった。
「どう?あなたこの船をどう思う?素敵だと思わない?この船は元夫の船だったの。小さいけれど高速航行が可能で積んでいるエンジンは最高級なのよ。それに船内は高級ホテルの部屋にも負けない造りになってるわ」
小さいと言われたが充分な大きさで、素敵な船だと思わないかと言われたが、街灯の明かりのなか、はっきりと船の外観を見ることは出来なかったが白い船体を確認することは出来た。
そしてここが何処かということに気付いた。
それは、この場所に来たことがあるからだ。ここは部屋で思っていた通り三浦半島で、この場所は葉山だ。
葉山は研究室の主宰である教授の副島の生家がある。
そこは今では住む人もおらず、副島家の別荘として使われているが、夏に研究室のメンバーと何度か来たことがあった。
そして葉山は日本のヨットレース発祥の地と言われているだけに、ヨットの競技会が盛んに行われ、街には観光客が溢れ浜辺には海水浴客が大勢いた。
だが北風が吹く季節になれば観光客の足は遠のき静かな街になる。しかし今は真冬ではなく春は近い。だが海から吹く風はまだ冷たく、それに暗闇のなか船に乗ろうという人間はいなかった。
けれど川上真理子はこの船で沖に出ようとしていることは確かだ。
つくしはどうすればこの状況から逃れることが出来るかを考えた。
そしてまさかとは思うが彼女が考えていることが脳裡を過った。だから何とかしなければと考えたが、未だに手を縛られた状態では数歩走っただけですぐに掴まることは目に見えていた。
「どう牧野さん?気に入ってくれたかしら?この船いい船だと思うでしょ?でもサメの研究者であるあなたには勿体ない気もするわね?だってこのクルーザーはサメの漁をするには向いてないもの」と言ったが、「ほら行きなさいよ。乗るのよ。この船で沖に出るのよ。あなたは私とクルージングに出るの。楽しいわよ、きっと。」と言葉を継ぎ、つくしの背中を押した。
***
ヘリを降りた司はかつて高森隆三の別荘だった場所にいた。
そして窓のない地下室に残されていたロープに彼女が縛られていたことを確信した。
「牧野様はここに残された車とは別の車に乗せられて何処か別の場所に移動させられたようです。ただその場所がこの町の中なのか。それともまた別の場所なのか_」
「探せ。どんな方法でもいい。町じゅうを叩き起こしてでも探せ。ひとりの女の命がかかってる。もし誰かに何かを言われても死と隣り合わせにいる女を助けるためだと言え!」
西田の言葉を遮った司は、すぐに地下室を出ると、かつて真理子の夫だった高森隆三が何故この町に別荘を持つことにしたのかを考えた。つまり海辺の町に別荘を持つ者ならするであろうことを。
それはマリンスポーツ。もしくは釣りやクルージングといった類だが、あの年寄りがマリンスポーツを好むとは思えなかった。それなら釣りかクルージングということになるが、マリンスポーツと同じで隆三が釣りを好むという話は聞いたことがなかった。
となると、贅沢な暮らしを好む妻の真理子に頼まれクルーザーを所有していた可能性を考えた。
葉山にはマリーナがある。
そしてそこにはヨットやボートが係留されているが、その中にはクルーザーもあるからだ。
「西田。高森隆三はこの町のマリーナに船を持ってなかったか?」
「お待ち下さい」
西田はタブレット端末に表示された高森隆三がかつて持っていた資産に目を通していた。
「はい。高森隆三名義で船の登録があります。今その船はこの別荘と同じ地元の不動産会社の名義に変わっていますが以前は高森隆三のものです」
マリーナはここから車で5分程の場所にある。
もし牧野つくしがクルーザーに乗せられているのなら、逃げ場のない場所に閉じ込められたと同じ。いやそれよりも質が悪い。夜の海に突き落とされれば見つけることは簡単ではないからだ。
「….マリーナだ。あの女は牧野つくしをクルーザーに乗せて海に出た。すぐにマリーナへ向かえ!」

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「横浜横須賀道路を走っていた石田章夫の運転する車は逗子で下りたようです。しかしそこから先の行方がまだ分かりません」
その言葉に目だけで問い返す男の言わんとする事を理解出来るのは西田だからだ。
「ただ葉山には以前高森隆三のものだった別荘があります。今そこは地元の不動産会社の所有になってはいますが、その不動産会社と川上真理子は過去の仕事上の付き合いから懇意にしていたこともあり今でも真理子にはその別荘を自由に使っていいと言っているようです。恐らくそういったことから川上真理子と石田章夫は、その別荘にいるのではないかと思われます。そして牧野様もそちらにいらっしゃるはずです」
ヘリは既に三浦半島上空にいて、眼下には逗子の街の明かりが見えた。
そしてそのすぐ隣が葉山だ。
「それにしても不思議なのは、何故川上真理子が牧野様に対しこのような行動に出たということですが、やはり我社に対する恨みからでしょうか」
西田は社長の楓から司と牧野つくしとの関係を報告するように言われ状況を報告していたが、あるとき楓から言われたのは、『まるであの子は北風ね』の言葉。
それは「北風と太陽」という童話の北風のことだが、物語の内容は、北風と太陽のどちらが強いかということから力比べをすることになり、どちらが道を歩く旅人の上着を脱がせることが出来るかを競った話。
北風は冷たい風で旅人の上着を吹き飛ばそうとした。
しかし旅人は寒さに震え、上着をしっかりと押さえ脱がせることは出来なかった。
だが太陽は優しい暖かさで旅人を包み、やがて旅人はその日差しの強さに自ら上着を脱いだ。
つまり急いては事を仕損じるではないが、心から望むことなら時間をかけて行うべきなのだが、女を好きになったことがない我が子はそれが分からなかった。
『いくら自分の力を見せつけることをしても、牧野さんのような女性には通じないわ。
司は彼女に平手打ちされたそうだけど、牧野さんはわたくしの幼馴染みであり彼女が師事する副島の教え子よ。研究熱心であることは間違いないけれど意志が強い女性よ。乱暴に彼女の心を自分の方に向けようとしても無理。それよりもゆっくりと時間をかけて彼女の心を自分に向けさせることをしなくては』
西田は社長であり母である楓が我が子を試すではないが、心に分厚いコートを纏った女性を手に入れることが出来るか。男としての力量を試しているのではないかと感じていた。
だから姉を除き、女に叩かれたことがない我が子が平手打ちされたことをある意味喜んでいたのは間違いない。
それに息子は周りにチヤホヤされることを嫌っている。
自分の言いなりになるような女性は息子の好みではないことを知っている。
だからその息子が撥ね付けられても欲しいと思う女性こそが道明寺には必要だと考えているはずだ。
そして西田は自分が投げかけた問い掛けに対する男の返事を待っていた。
「西田。川上真理子がうちの会社というよりも俺に恨みを抱いていることは明らかだ。だがそうだとしても、それだけとは言えないはずだ」
「と、申しますと?」
「あの女は牧野つくしが俺と付き合ってると思ってる。あの女の贅沢な暮らしを奪ったのは俺で俺に恨みがあるとしても俺に手を出すことが簡単じゃねえと分かっている。だから牧野つくしを狙ったってことだが、あの女は牧野つくしが嫌いってことだ。人間は誰でも会った瞬間から虫が好かねぇ人間がいる。その人間は自分にとっては悪だ。害をなす相手としか考えねぇ。牧野つくしは高森隆三の誕生パーティーであの女と初めて会った。その時のあの女の顔は笑みを浮かべていたとしても眼はそうじゃなかった。あの時の川上真理子の眼は相手を見下すような眼をしていた」
司はビジネスで大勢の人間に会う。
顔には笑みを浮かべていたとしても、眼を見ればその人間の心が分かる。
そして司に向けられる眼に浮かぶのは畏怖の念であり、誰も彼と争おうとは考えなかった。
だがこれから司が相手にしようとする女は既に思慮分別を失っていると言えた。
「西田。今の川上真理子にあるのは人を憎む心だ。今のあの女の行動は腹を括っての行動とは違う。あの女の心は壊れている。罪を犯すことを何とも思ってねぇ危険な存在だ」
だからこそ、川上真理子の居場所を早急に見つける必要があった。
その時だった。
西田の電話が鳴り、番号を確認すると出た。
「手配中のレンタカーが葉山で見つかったそうです。場所は先ほど話していた以前高森隆三が所有していた別荘です。ですが中に人はいなかったそうです」

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その言葉に目だけで問い返す男の言わんとする事を理解出来るのは西田だからだ。
「ただ葉山には以前高森隆三のものだった別荘があります。今そこは地元の不動産会社の所有になってはいますが、その不動産会社と川上真理子は過去の仕事上の付き合いから懇意にしていたこともあり今でも真理子にはその別荘を自由に使っていいと言っているようです。恐らくそういったことから川上真理子と石田章夫は、その別荘にいるのではないかと思われます。そして牧野様もそちらにいらっしゃるはずです」
ヘリは既に三浦半島上空にいて、眼下には逗子の街の明かりが見えた。
そしてそのすぐ隣が葉山だ。
「それにしても不思議なのは、何故川上真理子が牧野様に対しこのような行動に出たということですが、やはり我社に対する恨みからでしょうか」
西田は社長の楓から司と牧野つくしとの関係を報告するように言われ状況を報告していたが、あるとき楓から言われたのは、『まるであの子は北風ね』の言葉。
それは「北風と太陽」という童話の北風のことだが、物語の内容は、北風と太陽のどちらが強いかということから力比べをすることになり、どちらが道を歩く旅人の上着を脱がせることが出来るかを競った話。
北風は冷たい風で旅人の上着を吹き飛ばそうとした。
しかし旅人は寒さに震え、上着をしっかりと押さえ脱がせることは出来なかった。
だが太陽は優しい暖かさで旅人を包み、やがて旅人はその日差しの強さに自ら上着を脱いだ。
つまり急いては事を仕損じるではないが、心から望むことなら時間をかけて行うべきなのだが、女を好きになったことがない我が子はそれが分からなかった。
『いくら自分の力を見せつけることをしても、牧野さんのような女性には通じないわ。
司は彼女に平手打ちされたそうだけど、牧野さんはわたくしの幼馴染みであり彼女が師事する副島の教え子よ。研究熱心であることは間違いないけれど意志が強い女性よ。乱暴に彼女の心を自分の方に向けようとしても無理。それよりもゆっくりと時間をかけて彼女の心を自分に向けさせることをしなくては』
西田は社長であり母である楓が我が子を試すではないが、心に分厚いコートを纏った女性を手に入れることが出来るか。男としての力量を試しているのではないかと感じていた。
だから姉を除き、女に叩かれたことがない我が子が平手打ちされたことをある意味喜んでいたのは間違いない。
それに息子は周りにチヤホヤされることを嫌っている。
自分の言いなりになるような女性は息子の好みではないことを知っている。
だからその息子が撥ね付けられても欲しいと思う女性こそが道明寺には必要だと考えているはずだ。
そして西田は自分が投げかけた問い掛けに対する男の返事を待っていた。
「西田。川上真理子がうちの会社というよりも俺に恨みを抱いていることは明らかだ。だがそうだとしても、それだけとは言えないはずだ」
「と、申しますと?」
「あの女は牧野つくしが俺と付き合ってると思ってる。あの女の贅沢な暮らしを奪ったのは俺で俺に恨みがあるとしても俺に手を出すことが簡単じゃねえと分かっている。だから牧野つくしを狙ったってことだが、あの女は牧野つくしが嫌いってことだ。人間は誰でも会った瞬間から虫が好かねぇ人間がいる。その人間は自分にとっては悪だ。害をなす相手としか考えねぇ。牧野つくしは高森隆三の誕生パーティーであの女と初めて会った。その時のあの女の顔は笑みを浮かべていたとしても眼はそうじゃなかった。あの時の川上真理子の眼は相手を見下すような眼をしていた」
司はビジネスで大勢の人間に会う。
顔には笑みを浮かべていたとしても、眼を見ればその人間の心が分かる。
そして司に向けられる眼に浮かぶのは畏怖の念であり、誰も彼と争おうとは考えなかった。
だがこれから司が相手にしようとする女は既に思慮分別を失っていると言えた。
「西田。今の川上真理子にあるのは人を憎む心だ。今のあの女の行動は腹を括っての行動とは違う。あの女の心は壊れている。罪を犯すことを何とも思ってねぇ危険な存在だ」
だからこそ、川上真理子の居場所を早急に見つける必要があった。
その時だった。
西田の電話が鳴り、番号を確認すると出た。
「手配中のレンタカーが葉山で見つかったそうです。場所は先ほど話していた以前高森隆三が所有していた別荘です。ですが中に人はいなかったそうです」

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サメに近づきたくはないかと言われ、全身の神経が一瞬にして張りつめた。
それは手足を縛られているからではない。この女性が何を考えているのか分からないからだ。
そして川上真理子の放った言葉の意味が経済界のサメと言われる男のことを言っているのではない事は、この状況の下ですぐに理解出来た。
「ところでここがどこだか分かる?あら、ごめんさない。分かる訳ないわよね?あなたは良く寝てたもの。実際化粧室に現れたあなたは気分が悪そうだった。だから薬を嗅がせたらすぐに気を失ったけど、ここに来るまで目を覚まさなかったのは助かったわ。だって途中で目が覚めて騒がれたら困るもの」
徐々に取り戻されてゆく記憶は、食事の途中で化粧室に行くと用を足し、洗面台で手を洗った時、突然背後から何かが襲い掛かって来て声を上げる余裕はなかった。それは口が何かで塞がれたからで、そこから先の記憶は一切なかった。
そして真理子の言葉もそうだが、つくしは今自分がどこにいるのか知りたかった。
だがサメに近づきたくはないか、の言葉からここが海に近い場所ではないかと感じた。
けれど今が何時なのか。縛られた腕に嵌められた時計を見ることは出来ず、窓のない部屋には時計もないのだから、いったい自分がどれくらいここで寝ていたのか分からなかった。
そして頬を叩かれたのは一度だったが、それでも叩かれた痛みは続いていた。
それは初めての衝撃だったがその時、自分が道明寺司の頬を平手打ちした時のことを想い出していた。
会う約束していたのは杉村という男性で、その人となら足の傷に心が囚われることなく接することが出来ると思っていたが、現れた道明寺司に欺かれたと感じ思わず手が出てしまった。
「牧野さん。あなた道明寺司が助けに来ると思ってるわよね?だってあの男はあなたの恋人ですものね?」
真理子はそう決めつけているようだが違う。
だがそれを再び口にすれば、また叩かれるような気がしていた。それに手足を縛られた状態では身を守る術もないのだから否定も肯定もせず口をつぐんでいた。
「あら。答えないつもり?つまりそれは、あの男が自分を助けに来ることが当たり前だと思っているってことね?」
と言った真理子は、「でも間に合うかしらね」と言って笑ったが、つくしはグッと感情を抑えた。それは川上真理子という女性が普通ではないと感じ始めていたからだ。
それは人を誘拐する人間の心理状態を考えれば当たり前のことなのだが、なるべく刺激するようなことは言うべきではないと思った。
だから黙ったままでいたが、真理子は、「あら。何も言わないということはあの男を信頼してるのね?」と言ったが、今のつくしにすればあの男ほど信頼に値しない男はいないと思っていた。
だからつくしは思わず言った。
「あの人は私に嘘をついた人です。だから私はあの人を信頼していません。信頼という言葉ほどあの人に似合わない言葉はありません」
と、否定的な言葉を口にしたが、川上真理子は微笑んだ。
それは冷たい微笑みだった。
「あら面白いことを言うわね。あなたたち喧嘩でもしてるのかしら?でも私に愚痴を言うのは止めて欲しいわね。恋人同士の喧嘩を聞かされるほど馬鹿なものはないもの」
真理子はそこまで言うと、つくしが寝ているベッドの傍を離れ扉の前に立った。
「それにしても日本の近海にサメがいるとは思いもしなかったわ。だってサメって大海原を獲物を求めて回遊しているイメージがあるじゃない?それなのにこの辺りにはサメが沢山いて日本人の名前が付けられたサメもいるって訊いたわ。それに夜行性のサメもいるそうね?」
つくしは真理子の言葉からこの場所がどこであるか推測しようとした。
この辺りにはサメが沢山いる。
そして日本人の名前が付けられたサメというのは、相模湾で発見され日本の動物学者である箕作(みつくり)博士の名前が付けられたミツクリザメのことを言っていると分かった。
ミツクリザメは深海ザメで水深が1000メートル以上になる深海湾で見られる。
つまりそのサメが沢山いる場所と言えば、相模湾でここは三浦半島ではないか。
そして夜行性のサメがいるという言葉から、今はまだ夜ではないかと思った。
「でも今のあなたが研究しているサメは経済界のサメと呼ばれる男。そしてあなたはサメの研究者だからそんな男を餌付けするのもお手の物ってことかしら?」
真理子はそう言うと部屋を出て行こうとしたが、そこで振り返って言った。
「そろそろ船の準備が出来た頃かしらね。確かめてこなければ。ええそうよ。あなたが乗る船よ」

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それは手足を縛られているからではない。この女性が何を考えているのか分からないからだ。
そして川上真理子の放った言葉の意味が経済界のサメと言われる男のことを言っているのではない事は、この状況の下ですぐに理解出来た。
「ところでここがどこだか分かる?あら、ごめんさない。分かる訳ないわよね?あなたは良く寝てたもの。実際化粧室に現れたあなたは気分が悪そうだった。だから薬を嗅がせたらすぐに気を失ったけど、ここに来るまで目を覚まさなかったのは助かったわ。だって途中で目が覚めて騒がれたら困るもの」
徐々に取り戻されてゆく記憶は、食事の途中で化粧室に行くと用を足し、洗面台で手を洗った時、突然背後から何かが襲い掛かって来て声を上げる余裕はなかった。それは口が何かで塞がれたからで、そこから先の記憶は一切なかった。
そして真理子の言葉もそうだが、つくしは今自分がどこにいるのか知りたかった。
だがサメに近づきたくはないか、の言葉からここが海に近い場所ではないかと感じた。
けれど今が何時なのか。縛られた腕に嵌められた時計を見ることは出来ず、窓のない部屋には時計もないのだから、いったい自分がどれくらいここで寝ていたのか分からなかった。
そして頬を叩かれたのは一度だったが、それでも叩かれた痛みは続いていた。
それは初めての衝撃だったがその時、自分が道明寺司の頬を平手打ちした時のことを想い出していた。
会う約束していたのは杉村という男性で、その人となら足の傷に心が囚われることなく接することが出来ると思っていたが、現れた道明寺司に欺かれたと感じ思わず手が出てしまった。
「牧野さん。あなた道明寺司が助けに来ると思ってるわよね?だってあの男はあなたの恋人ですものね?」
真理子はそう決めつけているようだが違う。
だがそれを再び口にすれば、また叩かれるような気がしていた。それに手足を縛られた状態では身を守る術もないのだから否定も肯定もせず口をつぐんでいた。
「あら。答えないつもり?つまりそれは、あの男が自分を助けに来ることが当たり前だと思っているってことね?」
と言った真理子は、「でも間に合うかしらね」と言って笑ったが、つくしはグッと感情を抑えた。それは川上真理子という女性が普通ではないと感じ始めていたからだ。
それは人を誘拐する人間の心理状態を考えれば当たり前のことなのだが、なるべく刺激するようなことは言うべきではないと思った。
だから黙ったままでいたが、真理子は、「あら。何も言わないということはあの男を信頼してるのね?」と言ったが、今のつくしにすればあの男ほど信頼に値しない男はいないと思っていた。
だからつくしは思わず言った。
「あの人は私に嘘をついた人です。だから私はあの人を信頼していません。信頼という言葉ほどあの人に似合わない言葉はありません」
と、否定的な言葉を口にしたが、川上真理子は微笑んだ。
それは冷たい微笑みだった。
「あら面白いことを言うわね。あなたたち喧嘩でもしてるのかしら?でも私に愚痴を言うのは止めて欲しいわね。恋人同士の喧嘩を聞かされるほど馬鹿なものはないもの」
真理子はそこまで言うと、つくしが寝ているベッドの傍を離れ扉の前に立った。
「それにしても日本の近海にサメがいるとは思いもしなかったわ。だってサメって大海原を獲物を求めて回遊しているイメージがあるじゃない?それなのにこの辺りにはサメが沢山いて日本人の名前が付けられたサメもいるって訊いたわ。それに夜行性のサメもいるそうね?」
つくしは真理子の言葉からこの場所がどこであるか推測しようとした。
この辺りにはサメが沢山いる。
そして日本人の名前が付けられたサメというのは、相模湾で発見され日本の動物学者である箕作(みつくり)博士の名前が付けられたミツクリザメのことを言っていると分かった。
ミツクリザメは深海ザメで水深が1000メートル以上になる深海湾で見られる。
つまりそのサメが沢山いる場所と言えば、相模湾でここは三浦半島ではないか。
そして夜行性のサメがいるという言葉から、今はまだ夜ではないかと思った。
「でも今のあなたが研究しているサメは経済界のサメと呼ばれる男。そしてあなたはサメの研究者だからそんな男を餌付けするのもお手の物ってことかしら?」
真理子はそう言うと部屋を出て行こうとしたが、そこで振り返って言った。
「そろそろ船の準備が出来た頃かしらね。確かめてこなければ。ええそうよ。あなたが乗る船よ」

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「あら。目が覚めたようね?」
黒のパンツに黒のレザージャケットを身に着けた女性につくしは見覚えがあった。
一度だけだが会ったその人は、強い印象を残していたからだ。
それは女性の夫の誕生パーティーへ道明寺司のパートナーとして同行した時、化粧室を出たところで呼び止められ、二人の関係について問われたからだ。
そして、それから後に女性の夫の会社は、道明寺ホールディングスに吸収されることになったが、それはいい方向とは言えない状況で女性は全てを失った。
だが何故その女性がここにいるのか。それに、どうして自分が縛られているのか。自分が置かれている状況を理解するには、目の前にいる女性と話をしなければならないと思った。
「どうやらその様子だと私のことを覚えているようね?」
つくしは喉がカラカラに乾いていたが、その人の名前を口にした。
「あなたは高森真理子さんですよね?」
「ええ。そうよ。でも今は夫と離婚して川上真理子よ」
手足を縛られベッドに横たわったつくしは文字通り手も足も出ない状況で近づいて来る真理子を見ていたが、どうして自分がこんな目に合っているのか訊きたかった。
だから当惑の表情を浮かべ言った。
「あの。これはいったい_」
「いったいどうしてこんな目に?そう言いたいのね?」
真理子はそう言うと、つくしを見下ろすようにベッドの傍に立った。
「あなたは道明寺司の恋人でしょ?だからよ。あの男は私の持ってるものを全て奪ったわ。だから私はあの男が持ってるものを奪うことに決めたの。だってそうしなければ不公平だと思わない?それに今の私にあるのは持たざる者の矜持よ」
真理子は自分のことを持たざる者と言い道明寺司の持っているものを奪うと言ったが、この女性は道明寺司に復讐したいというのか。だがつくしはあの男の恋人ではない。
それに恋人どころか関わりたくないと思っている。
だからつくしは、真理子が勘違いしていることを言わなければと口を開いた。
「あの。違います。私はあの人の恋人じゃありません。あなたは何か誤解をされています。私があなたのご主人の誕生パーティーに行ったのは、あくまでも仕事上の関係で恋人としてではありません。私は単なる同行者として__」
最後まで言わせてもらえなかったのは、顔を近づけて来た真理子に頬を叩かれたからだ。
「何が単なる同行者よ。笑わせないでちょうだい。男が本気かそうでないかくらい私には分かるのよ。どんな男も本気の女に見せる態度ってものがあるの。道明寺司は昔もそうだったけど今も女にも興味はないって顔をしてたわ。だけどあの時あなたを見る目は違った。あなたに興味があることは間違いなかったわ」
確かに道明寺司に惚れたと言われた。
だが少なくともあの頃はそんなことはなかったはずだ。
それは夜の電話の男と道明寺司という二人の男としてつくしを見ていて、この女は自分に対してどんな態度を取るのか。それを見極めようとしていただけだ。
そして真理子は昔もそうだったと言ったが、二人は過去に会ったことがあるのか。
そんな思いが伝わったのか。真理子は上からつくしを見下ろしながら言った。
「私は大学生の頃、銀座のクラブでアルバイトをしていたの。そこに道明寺司が客として来たわ。でも客と言っても接待で連れてこられただけ。あの男は女と遊ぶために銀座に来る必要はないわ。だって女の方から近づいて来るんですもの。そんな男があなたを見る目は違ったの」
「あの高森さん…」
つくしは言いかけたが、その言葉は冷たく遮られた。
「その呼び方は止めてちょうだい。私は高森じゃないわ。川上よ。でもお店では理恵って呼ばれてるけど。そうよ。夫と離婚してから銀座に戻ったわ。でもいつまでもホステスとして働くつもりはないわ。いずれママになるつもりよ。それにママと言っても雇われママじゃなくてオーナー兼ママよ」
真理子はそこまで言うと鼻で笑うそぶりを見せた。
「それにしてもあの道明寺司があなたみたいな女を恋人に選ぶなんて。あの当時もたいして美人でもない田舎から出て来たばかりの女を隣の席に座らせたけど、あなたみたいな女だったわ。だから思ったの。人の好みって案外変わらないものだってね。それに私はその女が気に入らなかったわ。でも今はそんなことはどうでもいいわ」と言うと、「あはっ」と笑い「それにしてもあなたサメの研究をしているらしいけど、もっと近づきたいんじゃない?そのサメに」
レストランの裏口から車に乗った司は、すぐにその足で道明寺ビルの屋上からヘリに乗ったが、そこで待っていたのは西田だ。
「レストランの裏を通った車の中にレンタカーがありました。そのレンタカーを借りたのは石田章夫。免許証の住所は大分県大分市です。その男が運転する車がNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)に写っているのが確認されました。向かった先は神奈川方面で車は横浜横須賀道路を下っています。地元の警察はこの車を手配車両として探しています。それから何を於いても牧野つくし様の安全を第一に考えるようにと伝えております」
西田が思慮深い表情で最後に当然のことを口にすると、ヘリは屋上から飛び立った。

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黒のパンツに黒のレザージャケットを身に着けた女性につくしは見覚えがあった。
一度だけだが会ったその人は、強い印象を残していたからだ。
それは女性の夫の誕生パーティーへ道明寺司のパートナーとして同行した時、化粧室を出たところで呼び止められ、二人の関係について問われたからだ。
そして、それから後に女性の夫の会社は、道明寺ホールディングスに吸収されることになったが、それはいい方向とは言えない状況で女性は全てを失った。
だが何故その女性がここにいるのか。それに、どうして自分が縛られているのか。自分が置かれている状況を理解するには、目の前にいる女性と話をしなければならないと思った。
「どうやらその様子だと私のことを覚えているようね?」
つくしは喉がカラカラに乾いていたが、その人の名前を口にした。
「あなたは高森真理子さんですよね?」
「ええ。そうよ。でも今は夫と離婚して川上真理子よ」
手足を縛られベッドに横たわったつくしは文字通り手も足も出ない状況で近づいて来る真理子を見ていたが、どうして自分がこんな目に合っているのか訊きたかった。
だから当惑の表情を浮かべ言った。
「あの。これはいったい_」
「いったいどうしてこんな目に?そう言いたいのね?」
真理子はそう言うと、つくしを見下ろすようにベッドの傍に立った。
「あなたは道明寺司の恋人でしょ?だからよ。あの男は私の持ってるものを全て奪ったわ。だから私はあの男が持ってるものを奪うことに決めたの。だってそうしなければ不公平だと思わない?それに今の私にあるのは持たざる者の矜持よ」
真理子は自分のことを持たざる者と言い道明寺司の持っているものを奪うと言ったが、この女性は道明寺司に復讐したいというのか。だがつくしはあの男の恋人ではない。
それに恋人どころか関わりたくないと思っている。
だからつくしは、真理子が勘違いしていることを言わなければと口を開いた。
「あの。違います。私はあの人の恋人じゃありません。あなたは何か誤解をされています。私があなたのご主人の誕生パーティーに行ったのは、あくまでも仕事上の関係で恋人としてではありません。私は単なる同行者として__」
最後まで言わせてもらえなかったのは、顔を近づけて来た真理子に頬を叩かれたからだ。
「何が単なる同行者よ。笑わせないでちょうだい。男が本気かそうでないかくらい私には分かるのよ。どんな男も本気の女に見せる態度ってものがあるの。道明寺司は昔もそうだったけど今も女にも興味はないって顔をしてたわ。だけどあの時あなたを見る目は違った。あなたに興味があることは間違いなかったわ」
確かに道明寺司に惚れたと言われた。
だが少なくともあの頃はそんなことはなかったはずだ。
それは夜の電話の男と道明寺司という二人の男としてつくしを見ていて、この女は自分に対してどんな態度を取るのか。それを見極めようとしていただけだ。
そして真理子は昔もそうだったと言ったが、二人は過去に会ったことがあるのか。
そんな思いが伝わったのか。真理子は上からつくしを見下ろしながら言った。
「私は大学生の頃、銀座のクラブでアルバイトをしていたの。そこに道明寺司が客として来たわ。でも客と言っても接待で連れてこられただけ。あの男は女と遊ぶために銀座に来る必要はないわ。だって女の方から近づいて来るんですもの。そんな男があなたを見る目は違ったの」
「あの高森さん…」
つくしは言いかけたが、その言葉は冷たく遮られた。
「その呼び方は止めてちょうだい。私は高森じゃないわ。川上よ。でもお店では理恵って呼ばれてるけど。そうよ。夫と離婚してから銀座に戻ったわ。でもいつまでもホステスとして働くつもりはないわ。いずれママになるつもりよ。それにママと言っても雇われママじゃなくてオーナー兼ママよ」
真理子はそこまで言うと鼻で笑うそぶりを見せた。
「それにしてもあの道明寺司があなたみたいな女を恋人に選ぶなんて。あの当時もたいして美人でもない田舎から出て来たばかりの女を隣の席に座らせたけど、あなたみたいな女だったわ。だから思ったの。人の好みって案外変わらないものだってね。それに私はその女が気に入らなかったわ。でも今はそんなことはどうでもいいわ」と言うと、「あはっ」と笑い「それにしてもあなたサメの研究をしているらしいけど、もっと近づきたいんじゃない?そのサメに」
レストランの裏口から車に乗った司は、すぐにその足で道明寺ビルの屋上からヘリに乗ったが、そこで待っていたのは西田だ。
「レストランの裏を通った車の中にレンタカーがありました。そのレンタカーを借りたのは石田章夫。免許証の住所は大分県大分市です。その男が運転する車がNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)に写っているのが確認されました。向かった先は神奈川方面で車は横浜横須賀道路を下っています。地元の警察はこの車を手配車両として探しています。それから何を於いても牧野つくし様の安全を第一に考えるようにと伝えております」
西田が思慮深い表情で最後に当然のことを口にすると、ヘリは屋上から飛び立った。

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