「はぁ~。参りました」
「何が参ったんだ?」
「この前ちょっと遅くなって午前様になったんです。そうしたらドアの内側にチェーンがかかって入れなかったんです」
「おいおい。それって締め出されたってことか?」
「そうなんです。あんなこと初めてだったから焦せりました」
「そうか。締め出されたのは初めてだったのか。まあ、お前はまだ新婚だ。あんまり遅く帰ると嫁さんは自分が放っておかれたって腹が立つんだろうよ。俺もたまに締め出されるが、そんな時はひたすら謝るしかないんだが、何しろマンションだろ?隣近所は寝静まってる状況で謝るわけだが、インターフォンに延々と話しかけてる男ってのは見られたモンじゃねぇぞ。もし誰か通り掛かってみろ。あそこのご主人締め出されたって言われることになる。だからそんな時は一旦マンションを出て携帯で電話をするんだ。そこで謝り倒す。ゴメン悪かった。もう二度とこんなに遅く帰らないって謝るしかない。
これは俺の長年の経験からも言えることだが、女ってのは夫がフラフラと外で飲み歩いて帰ってくることに腹立つ生き物だ。だから仕事じゃないなら午前0時には家に帰ることを勧める。それに遅くなるなら手土産のひとつでも持って帰れ。コンビニのスィーツでもいい。お前これ好きだろ?美味そうだったから買って帰ったとでも言え」
「そうですか。先輩でも締め出されることがあるんですか」
「ああ。どんなに外で偉そうにしている男でも家に帰ればただの男だ。嫁が恐ろしいって男は多いぞ?」
「でも道明寺社長の場合は違いますよね。あの方はどんなに遅くお家に帰られても奥様が起きて待たれていて、優しく迎えてくれるんでしょうね?」
「ああそうだ。俺は一度だけ夜遅くに西田室長の代わりに社長をお屋敷までお送りしたことがあったが、奥様は玄関までお迎えに出られた。それから俺にも労いの言葉を下さったが社長の奥様は素敵な方だ。社長と奥様は大恋愛で結婚されて、とにかく仲がいいらしい。けど社長はそれを外で見せることはない。分かるだろ?あのクールな顔。男の俺が見てもいい男だって思える。仕事は出来るし顏はいいし金持ちだ。天は二物を与えずっていうが道明寺社長の場合は二物どころか三物も四物も与えてるって感じだ。まあ世の中にはそんな男がいるということだが、社長の家庭生活ってのは、どんなものだか見て見たい気もするな」
「そうですよね。社長の家庭生活。なんだか想像するのは憚られますが、どんな生活をされてるんでしょうね?社長の若い頃から傍にいらっしゃる西田室長ならご存知ですよね?」
秘書室で働く二人の男性は、自分達の生活と社長の生活を比べようとは思わなかったが、家庭での社長はどんな表情を見せるのかが興味があった。
だから二人は社長秘書である西田に訊いた。
「下田さん。西川さん。社長はご家庭では良き父親であり良き夫ですよ」
「西田室長。でも社長は少年の頃ひどく荒れていた頃があったと訊きました。でもそれは嘘ですよね?あの社長が昔やんちゃだったとは思えなくて。だからその手の話は都会にある噂で信じるか信じないかはあなた次第って言うやつですよね?」
「そうですね。それは単なる噂でしょう」
西田は自分よりも若い二人の秘書にそう言ったが、世界的にも有数の企業と言われる道明寺ホールディングス株式会社の社長である道明寺司の幼さが残る頃を知る男は、何かを我慢していた少年の姿を覚えていた。
それは身体の内側に溜まった熱を解き放つことが出来ない少年の姿であり寂しさ故に心が荒れて凶暴だった少年時代の姿。
そんな少年がひとりの少女に出会い、はじめての恋に心を燃やすことで少年から大人の男へと変わった姿を知っていた。
だが少年は思いを仄かに燃やすというタイプではなく、心に宿ったのは燃え盛る炎であり一度心に灯った恋の炎は誰も消すことは出来なかった。
それは傍若無人な生き方をしていた男の心に宿った初めての恋心。
どれくらい相手を愛しているか伝える言葉すら満足に知らなかった少年の恋。
そんな恋もウエディングベルを鳴らしキスをすることで永遠のものに変わった。
そして大きな翼を持つ鳥がその翼の下に守るべきパートナーと結婚した時、男は初めて今まで周りにいた全ての人間に感謝することを覚えた。
それはどんなに偉いと言われる人間も、ひとりでは生きていけないということ。
惑うことなき今の生活は、家族が、親友たちが、彼の周りにいる全ての人間が二人を支えているからだ。
「それにしても今日は社長の誕生日ですけど、社長の誕生日のお祝いってどんなものを貰うんでしょうね?そう言えば、まだ未成年で免許も取ってないのにフェラーリをプレゼントされたって聞いたことがありますけど、室長それ本当ですか?」
「ええ。本当です。真っ赤なフェラーリでした」
18歳の誕生日に車を貰う。そんなことは意外ではなく、むしろ誰もが考え付くこと。
だからあの日プレゼントの中に何台もの車の鍵があった。
「はぁ~。流石道明寺社長。我々とはレベルが違いますね?きっと今夜も盛大なパーティーが催されるんですよね?」
「いいえ。社長は本来ご家族で静かにお祝いされる方がお好きです。今まで毎年パーティーが開かれていましたが、お子様もご成長されましたので今年から誕生パーティーを開くことをお止めになりました」
それまでは当然のように開かれていた道明寺家の一人息子の誕生日パーティー。
少年時代開かれていたパーティーは、所謂企業戦略のひとつとして開かれていたパーティーであり本人の意思には関係がなかった。
そして結婚してから数年間開かれていたパーティーというものは、自分がいかに妻を深く愛しているかを世間に知らせるためであり、子供が生まれれば子供たちの楽しみでもあったため開かれていたが、子供たちが成長したことを期に今年から開くことを止めた。
「そうですか。じゃあ今夜はご家族だけでということですね?」
「ええ。そうです。では私はこれから社長をご自宅までお送りしてきます。あなたたちも早く帰って下さい。定時で帰ることが出来るのは滅多にありませんから」
「西田。お前今夜何か予定があるか?」
西田は車の後部座席で隣に座る男からそう訊かれ、「いえ。ございません」と答えたが、男の問いかけは今までなかった問いかけだ。だから訊いた。
「何か御用がございますか?」
家族だけで自身の誕生日を祝うことが決められれば、今日のこの日の西田の仕事は世田谷の邸に男を送り届ければ終わる。だから西田にしてみれば形ばかりの問いかけだったが男は、「ある」と答えた。
西田は果たして家族で祝う誕生日にも秘書が必要な仕事があったかと思うも、あると言われれば返事は決まっていて、「承知致しました」と答えたが、邸に着けば、ついて来いと言われずとも行くべき部屋は決まっている。だから西田は玄関でいつものように夫を出迎えた奥様に挨拶をした。
「奥様。本日は社長のお誕生日です。こちらで失礼しようと思いましたが、用があるとおっしゃられましたので少しだけお時間を頂戴いたします」と言った。
「西田さん。いつもありがとうございます。司がこうして毎日仕事が出来るのは、西田さんのおかげです」
そう言われた西田は、道明寺つくしとなった女性の若い頃の姿を思い出しながら、「いえ。わたくしの仕事は社長にお仕えすることですから」と答えた。
そしていつものように執務室に向かおうとしたが、そこで男から「こっちだ西田」と言われ向かったのは、家族が集うダイニングルームだった。
そしてそこに居たのは、西田とは生まれた時からの付き合いがある二人の男の子とひとりの女の子。父親の誕生日を祝うべく席に座っていたが、女の子は立ち上がると西田に向かって言った。
「西田さん。ママが言うの。西田さんは会社でパパの女房役で大変だから結婚しなかったんだって。だからママは西田さんには申し訳ないって言うの。でも私もそれは本当だと思うの。だから西田さん。いつもパパのお世話をありがとうございます」
西田が道明寺を就職先として選択したのは、生涯の仕事として世界を飛び回ることが自分に相応しいと考えたからだ。だが配属されたのは秘書課であり、ビジネスマンとして世界を飛び回るのとはまた別のレベルで世界を旅していた。
それは道明寺楓の第一秘書に抜擢されてからだが、やがて息子の秘書になり今も世界を飛び回る生活が続いていた。だから忙しくて結婚することが出来なかったと思われているが、実はひとりでいる方が性に合っていた。
「望(のぞみ)お嬢様。わたくしはお父様の秘書であって女房役ではございません。お父様の女房はお母様のつくし様だけですよ」
西田はそう言ったが、「それは違うわ。西田さん」と、つくしに言われ「俺もつくしの意見と同じだ。西田は俺の女房役だ。俺にとっては欠かせない存在だ。俺はお前を尊敬している。我社にとって、いや。俺にとっては欠かせない人材だ」と、司からも言われ、西田は「ありがとうございます」と礼を言ったが、いつまでも家族の集まりを邪魔してはいけないという思いから男の方を見た。
すると、「西田。ここに座れ」と言われた場所は、料理が並べられ飾り付けがされたダイニングテーブル。
その一角に座れと言われた西田は戸惑った。
「いいから西田。お前はここに座れ」
それはまさに意表を突かれた行動としか言えなかったが、仕える男からここに座れと言われれば、断わることなど出来なかった。だから腰を下ろしたが、その真正面に腰を下ろした道明寺夫妻から言われた言葉に目をしばたたかせた。
「西田。今日は俺の誕生日だ。だから俺を祝ってくれ。どうせ帰っても暇だろ?それならここで一緒にメシ食っていけ。それにお前の誕生日も1月だったろ?祝ってくれた人間がいたかどうか知らねぇけどメシくらい付き合え。今までの俺の誕生日はパーティーが多かった。こうして家でゆっくりメシを食うことはなかった。だが今年からは、こうして家でのんびりする時間が取れるようになった。だからお前とこうしてメシも食える」
物言いは笑いながら砕けたものであり、それが心からの言葉だと分かるのは、長い付き合いだからだ。そして西田の私生活を知る男は彼を家族と同様に気にしていた。
「それからこれはお前への誕生日プレゼントだ」
西田は司から車の鍵を渡されたが、鍵のエンブレムはスリーポインテッド・スター。
それは言わずと知れたメルセデスのマーク。
「俺は18の誕生パーティーで車を何台も貰った。まだ免許も持ってねぇのにフェラーリを運転した。あの時こいつを助手席に乗せて走ったが、お前が乗った車が後をつけてたのは知ってた。それを撒いた俺の腕を褒めたお前は未成年の俺のお守りでさぞや大変だったはずだ。それこそ事故をおこすんじゃねぇかってハラハラしてたはずだ」
西田が司の秘書となったのは、司が社会に出てからだが、それ以前から社長に命じられ彼の世話をしていた。
「あんとき、お前にどれでも好きな車をやるって言ったが、お前は分不相応だって断った。
だが今のお前は俺の第一秘書であり腹心だ。お前はこの車に乗ることに値するはずだ。だから受け取ってくれ。ああ。駐車場の心配ならするな。ちゃんとお前のマンションに確保しておいた。けど乗らねぇで置きっぱなしじゃ車も可哀想だ。だからたまには乗ってやれ」
西田の上司はそう言うと隣に座る妻も頷いた。
西田が仕える男は好きな女性と結婚したことで成長した。
その人を幸せにしようと考え努力した。
愛する人が憂う事がないようにすることが男の幸せであり、家族の幸せだと気付いている。
だから男が語る言葉には重みがあったが、大きな愛情に満たされた男は、自分の誕生日にひとり身の秘書を気遣っていた。
世界一凶暴と言われたことがある男の誕生パーティー。
それは家族と家族同然の、いや。家族よりも今日の主役を知る秘書が共にテーブルを囲み過ごす時間。
今日誕生日を迎えた男に誕生日が二度あるなら、一度目はこの世に生を受けた日。
そして二度目は最愛の人と巡り合えた日。そして男の成長を見続けて来た秘書は、仕える男の幸せが彼の幸せでもあった。
「西田。笑えよ。俺の誕生日だぞ?嬉しくねぇのか?」
と言われた西田は、「はい」と言うと、これも秘書の仕事とばかりにっこりと笑ってみせた。
< 完 > *贅沢な時間*

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Thank you for being born.
司。生まれてきてくれてありがとう。
「何が参ったんだ?」
「この前ちょっと遅くなって午前様になったんです。そうしたらドアの内側にチェーンがかかって入れなかったんです」
「おいおい。それって締め出されたってことか?」
「そうなんです。あんなこと初めてだったから焦せりました」
「そうか。締め出されたのは初めてだったのか。まあ、お前はまだ新婚だ。あんまり遅く帰ると嫁さんは自分が放っておかれたって腹が立つんだろうよ。俺もたまに締め出されるが、そんな時はひたすら謝るしかないんだが、何しろマンションだろ?隣近所は寝静まってる状況で謝るわけだが、インターフォンに延々と話しかけてる男ってのは見られたモンじゃねぇぞ。もし誰か通り掛かってみろ。あそこのご主人締め出されたって言われることになる。だからそんな時は一旦マンションを出て携帯で電話をするんだ。そこで謝り倒す。ゴメン悪かった。もう二度とこんなに遅く帰らないって謝るしかない。
これは俺の長年の経験からも言えることだが、女ってのは夫がフラフラと外で飲み歩いて帰ってくることに腹立つ生き物だ。だから仕事じゃないなら午前0時には家に帰ることを勧める。それに遅くなるなら手土産のひとつでも持って帰れ。コンビニのスィーツでもいい。お前これ好きだろ?美味そうだったから買って帰ったとでも言え」
「そうですか。先輩でも締め出されることがあるんですか」
「ああ。どんなに外で偉そうにしている男でも家に帰ればただの男だ。嫁が恐ろしいって男は多いぞ?」
「でも道明寺社長の場合は違いますよね。あの方はどんなに遅くお家に帰られても奥様が起きて待たれていて、優しく迎えてくれるんでしょうね?」
「ああそうだ。俺は一度だけ夜遅くに西田室長の代わりに社長をお屋敷までお送りしたことがあったが、奥様は玄関までお迎えに出られた。それから俺にも労いの言葉を下さったが社長の奥様は素敵な方だ。社長と奥様は大恋愛で結婚されて、とにかく仲がいいらしい。けど社長はそれを外で見せることはない。分かるだろ?あのクールな顔。男の俺が見てもいい男だって思える。仕事は出来るし顏はいいし金持ちだ。天は二物を与えずっていうが道明寺社長の場合は二物どころか三物も四物も与えてるって感じだ。まあ世の中にはそんな男がいるということだが、社長の家庭生活ってのは、どんなものだか見て見たい気もするな」
「そうですよね。社長の家庭生活。なんだか想像するのは憚られますが、どんな生活をされてるんでしょうね?社長の若い頃から傍にいらっしゃる西田室長ならご存知ですよね?」
秘書室で働く二人の男性は、自分達の生活と社長の生活を比べようとは思わなかったが、家庭での社長はどんな表情を見せるのかが興味があった。
だから二人は社長秘書である西田に訊いた。
「下田さん。西川さん。社長はご家庭では良き父親であり良き夫ですよ」
「西田室長。でも社長は少年の頃ひどく荒れていた頃があったと訊きました。でもそれは嘘ですよね?あの社長が昔やんちゃだったとは思えなくて。だからその手の話は都会にある噂で信じるか信じないかはあなた次第って言うやつですよね?」
「そうですね。それは単なる噂でしょう」
西田は自分よりも若い二人の秘書にそう言ったが、世界的にも有数の企業と言われる道明寺ホールディングス株式会社の社長である道明寺司の幼さが残る頃を知る男は、何かを我慢していた少年の姿を覚えていた。
それは身体の内側に溜まった熱を解き放つことが出来ない少年の姿であり寂しさ故に心が荒れて凶暴だった少年時代の姿。
そんな少年がひとりの少女に出会い、はじめての恋に心を燃やすことで少年から大人の男へと変わった姿を知っていた。
だが少年は思いを仄かに燃やすというタイプではなく、心に宿ったのは燃え盛る炎であり一度心に灯った恋の炎は誰も消すことは出来なかった。
それは傍若無人な生き方をしていた男の心に宿った初めての恋心。
どれくらい相手を愛しているか伝える言葉すら満足に知らなかった少年の恋。
そんな恋もウエディングベルを鳴らしキスをすることで永遠のものに変わった。
そして大きな翼を持つ鳥がその翼の下に守るべきパートナーと結婚した時、男は初めて今まで周りにいた全ての人間に感謝することを覚えた。
それはどんなに偉いと言われる人間も、ひとりでは生きていけないということ。
惑うことなき今の生活は、家族が、親友たちが、彼の周りにいる全ての人間が二人を支えているからだ。
「それにしても今日は社長の誕生日ですけど、社長の誕生日のお祝いってどんなものを貰うんでしょうね?そう言えば、まだ未成年で免許も取ってないのにフェラーリをプレゼントされたって聞いたことがありますけど、室長それ本当ですか?」
「ええ。本当です。真っ赤なフェラーリでした」
18歳の誕生日に車を貰う。そんなことは意外ではなく、むしろ誰もが考え付くこと。
だからあの日プレゼントの中に何台もの車の鍵があった。
「はぁ~。流石道明寺社長。我々とはレベルが違いますね?きっと今夜も盛大なパーティーが催されるんですよね?」
「いいえ。社長は本来ご家族で静かにお祝いされる方がお好きです。今まで毎年パーティーが開かれていましたが、お子様もご成長されましたので今年から誕生パーティーを開くことをお止めになりました」
それまでは当然のように開かれていた道明寺家の一人息子の誕生日パーティー。
少年時代開かれていたパーティーは、所謂企業戦略のひとつとして開かれていたパーティーであり本人の意思には関係がなかった。
そして結婚してから数年間開かれていたパーティーというものは、自分がいかに妻を深く愛しているかを世間に知らせるためであり、子供が生まれれば子供たちの楽しみでもあったため開かれていたが、子供たちが成長したことを期に今年から開くことを止めた。
「そうですか。じゃあ今夜はご家族だけでということですね?」
「ええ。そうです。では私はこれから社長をご自宅までお送りしてきます。あなたたちも早く帰って下さい。定時で帰ることが出来るのは滅多にありませんから」
「西田。お前今夜何か予定があるか?」
西田は車の後部座席で隣に座る男からそう訊かれ、「いえ。ございません」と答えたが、男の問いかけは今までなかった問いかけだ。だから訊いた。
「何か御用がございますか?」
家族だけで自身の誕生日を祝うことが決められれば、今日のこの日の西田の仕事は世田谷の邸に男を送り届ければ終わる。だから西田にしてみれば形ばかりの問いかけだったが男は、「ある」と答えた。
西田は果たして家族で祝う誕生日にも秘書が必要な仕事があったかと思うも、あると言われれば返事は決まっていて、「承知致しました」と答えたが、邸に着けば、ついて来いと言われずとも行くべき部屋は決まっている。だから西田は玄関でいつものように夫を出迎えた奥様に挨拶をした。
「奥様。本日は社長のお誕生日です。こちらで失礼しようと思いましたが、用があるとおっしゃられましたので少しだけお時間を頂戴いたします」と言った。
「西田さん。いつもありがとうございます。司がこうして毎日仕事が出来るのは、西田さんのおかげです」
そう言われた西田は、道明寺つくしとなった女性の若い頃の姿を思い出しながら、「いえ。わたくしの仕事は社長にお仕えすることですから」と答えた。
そしていつものように執務室に向かおうとしたが、そこで男から「こっちだ西田」と言われ向かったのは、家族が集うダイニングルームだった。
そしてそこに居たのは、西田とは生まれた時からの付き合いがある二人の男の子とひとりの女の子。父親の誕生日を祝うべく席に座っていたが、女の子は立ち上がると西田に向かって言った。
「西田さん。ママが言うの。西田さんは会社でパパの女房役で大変だから結婚しなかったんだって。だからママは西田さんには申し訳ないって言うの。でも私もそれは本当だと思うの。だから西田さん。いつもパパのお世話をありがとうございます」
西田が道明寺を就職先として選択したのは、生涯の仕事として世界を飛び回ることが自分に相応しいと考えたからだ。だが配属されたのは秘書課であり、ビジネスマンとして世界を飛び回るのとはまた別のレベルで世界を旅していた。
それは道明寺楓の第一秘書に抜擢されてからだが、やがて息子の秘書になり今も世界を飛び回る生活が続いていた。だから忙しくて結婚することが出来なかったと思われているが、実はひとりでいる方が性に合っていた。
「望(のぞみ)お嬢様。わたくしはお父様の秘書であって女房役ではございません。お父様の女房はお母様のつくし様だけですよ」
西田はそう言ったが、「それは違うわ。西田さん」と、つくしに言われ「俺もつくしの意見と同じだ。西田は俺の女房役だ。俺にとっては欠かせない存在だ。俺はお前を尊敬している。我社にとって、いや。俺にとっては欠かせない人材だ」と、司からも言われ、西田は「ありがとうございます」と礼を言ったが、いつまでも家族の集まりを邪魔してはいけないという思いから男の方を見た。
すると、「西田。ここに座れ」と言われた場所は、料理が並べられ飾り付けがされたダイニングテーブル。
その一角に座れと言われた西田は戸惑った。
「いいから西田。お前はここに座れ」
それはまさに意表を突かれた行動としか言えなかったが、仕える男からここに座れと言われれば、断わることなど出来なかった。だから腰を下ろしたが、その真正面に腰を下ろした道明寺夫妻から言われた言葉に目をしばたたかせた。
「西田。今日は俺の誕生日だ。だから俺を祝ってくれ。どうせ帰っても暇だろ?それならここで一緒にメシ食っていけ。それにお前の誕生日も1月だったろ?祝ってくれた人間がいたかどうか知らねぇけどメシくらい付き合え。今までの俺の誕生日はパーティーが多かった。こうして家でゆっくりメシを食うことはなかった。だが今年からは、こうして家でのんびりする時間が取れるようになった。だからお前とこうしてメシも食える」
物言いは笑いながら砕けたものであり、それが心からの言葉だと分かるのは、長い付き合いだからだ。そして西田の私生活を知る男は彼を家族と同様に気にしていた。
「それからこれはお前への誕生日プレゼントだ」
西田は司から車の鍵を渡されたが、鍵のエンブレムはスリーポインテッド・スター。
それは言わずと知れたメルセデスのマーク。
「俺は18の誕生パーティーで車を何台も貰った。まだ免許も持ってねぇのにフェラーリを運転した。あの時こいつを助手席に乗せて走ったが、お前が乗った車が後をつけてたのは知ってた。それを撒いた俺の腕を褒めたお前は未成年の俺のお守りでさぞや大変だったはずだ。それこそ事故をおこすんじゃねぇかってハラハラしてたはずだ」
西田が司の秘書となったのは、司が社会に出てからだが、それ以前から社長に命じられ彼の世話をしていた。
「あんとき、お前にどれでも好きな車をやるって言ったが、お前は分不相応だって断った。
だが今のお前は俺の第一秘書であり腹心だ。お前はこの車に乗ることに値するはずだ。だから受け取ってくれ。ああ。駐車場の心配ならするな。ちゃんとお前のマンションに確保しておいた。けど乗らねぇで置きっぱなしじゃ車も可哀想だ。だからたまには乗ってやれ」
西田の上司はそう言うと隣に座る妻も頷いた。
西田が仕える男は好きな女性と結婚したことで成長した。
その人を幸せにしようと考え努力した。
愛する人が憂う事がないようにすることが男の幸せであり、家族の幸せだと気付いている。
だから男が語る言葉には重みがあったが、大きな愛情に満たされた男は、自分の誕生日にひとり身の秘書を気遣っていた。
世界一凶暴と言われたことがある男の誕生パーティー。
それは家族と家族同然の、いや。家族よりも今日の主役を知る秘書が共にテーブルを囲み過ごす時間。
今日誕生日を迎えた男に誕生日が二度あるなら、一度目はこの世に生を受けた日。
そして二度目は最愛の人と巡り合えた日。そして男の成長を見続けて来た秘書は、仕える男の幸せが彼の幸せでもあった。
「西田。笑えよ。俺の誕生日だぞ?嬉しくねぇのか?」
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司。生まれてきてくれてありがとう。
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Comment:9
静寂が広がる暗闇というのは怖い。何も見えないことで不安が募る。
人によっては吐き気や震え感じ思考が不明瞭になりパニックを起こす。
だが幸いつくしは暗所恐怖症ではない。
それは水深計を付けて潜る海の暗さを知っているからだ。
そこは切りたった岩場が深々と落ち込んでいる場所。
深々と落ち込んだ海の水は重く紺青の闇が広がり、魚の姿を見ることは出来ない。
そしてその先に棲むのは深海ザメであり、彼らは暗闇の中で生きている。今の自分がそのサメと同じだと思えばこの暗闇を怖がる必要はない。だが足首の痛さは暗闇の恐怖以上のものを与えていた。
もしかすると右足首が折れているかもしれない。
足首はズキズキと傷み立ち上がることは出来なかった。
正確に言えば痛むのは足首より少し上まであるショートブーツの中でだが、骨折だとすればこのままの状況でいいはずがない。
そして今は扉まで行くこと以外のことは頭になかった。早くここから出て誰か人を呼ばなければと思った。そして病院に行かなければと思った。
立ち上って歩くことが出来るなら部屋の入口へは数秒で行けるはずだ。
けれど暗闇の中、書架伝いに恐らくこちらがそうだと思える方向へ這って向かっているが、背の高い書架が倒れてくるのではないかという気にさせられるのは、ここが海ではないからだ。もし今この状況で地震が起これば書架が倒れ、古い本が頭の上にバサバサと降り注ぎ身体は本に埋もれてしまうのか。そして明日の朝まで誰にも気づかれずここにいることになるのか。
もしかすると明日の朝になっても誰もここを訪れることはなく、何日間も書庫の床に横たわったまま誰にも気づかれることはなく息絶えてしまうのだろうか。
ふと、そんな光景が頭を過ったが直ぐに打ち消すように言った。
「そんなことある訳ないじゃない。….でも地震はいつ起こってもおかしくないわよね…」
言った先から直ぐに自分の言葉を否定したが、それはあり得ない話ではないから。
けれど、そんな事を考えるよりも手を動かし前進するしかない。それにこうして少しずつでも移動できるだけでもいい。そして扉の外に出て誰かを呼ぶことをしなければ。だが今日は6時で閉館したのなら事務室に人が居ない可能性が考えられる。と、なると図書館の中には誰もいないということだ。だがなんとかなる。なるはずだ。今までだって何かあってもなんとかしてきたのだから。
***
「閉館?おかしいですね?21時まで開いているはずですが」
傘をさした司はそう言った秘書の隣に立ち、入口に閉館の札が掛けられた建物を見ていた。
羽田に着いた時はみぞれ交じりの雨だったが、今は小雨に変わっていた。
図書館は改修中で足場が組まれ防音シートで囲まれていることから窓を見ることは出来ず、明かり灯っていたとしても外からは見えなかった。
そして入口のガラス扉の奥は暗く、見えるのは緑の非常口誘導灯の明かりだけで、どう見ても人がいるようには思えなかった。
「本当に図書館に行くって言ったのか?」
司の問いかけに秘書は、「はい。施設管理棟に書類を届けたその足で図書館に行くと言っていました」と言って司の顔を見た。
「携帯は持ってないのか?」
「先輩は常に携帯がないと不安だという人間ではありません。どちらかと言えば携帯は持ち歩きたくないという人間です。それに図書館で携帯は必要ありませんから」と言ったが、「でも私は携帯はいつも持ち歩いて下さいとお願いしているんです。大学は広いですし急ぎの用があっても連絡が取りやすいですから」と言葉を継いだ。
司はその言葉に先日訪問した時、秘書がわざわざカフェテリアにいる牧野つくしを呼びに行くと言ったのは、そう言うことだったのかと納得した。
だがそう納得しながらも、牧野つくしは我が身を守る警報器を自ら手放していることを知った。
「この状況はおかしですよね。先輩は確かに図書館に行くと言ったんです。でも閉館しているなら研究室に戻って来てもいいはずです。それに夜です。荷物を置いてどこに行くって言うんですか?」
秘書はそう言って司の顔を見たが、その表情は研究室で司を見据えたものとは明らかに違い不安の色が浮かんでいた。
「ここの鍵は?」
「え?」
「牧野つくしはここに来ると言ったなら、ここから調べた方がいい。ここの鍵はどこで保管してる?」
「施設管理棟にあります。棟の中に警備室があります。夜は警備員が構内を見回り巡回をします。夜はそこで各建物の鍵を管理してます」
司は後ろに控える男たちに頷いた。
どこに行くにも影のように付いて来る男たちは司の身の安全を守り、命令に従うのが仕事だ。
そして秘書は、「私が鍵を借りて来ます。警備員は私のことを知っています」と言って司に「これ、すみません」と言って牧野つくしの荷物を預けると背を向け駆け出していた。

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人によっては吐き気や震え感じ思考が不明瞭になりパニックを起こす。
だが幸いつくしは暗所恐怖症ではない。
それは水深計を付けて潜る海の暗さを知っているからだ。
そこは切りたった岩場が深々と落ち込んでいる場所。
深々と落ち込んだ海の水は重く紺青の闇が広がり、魚の姿を見ることは出来ない。
そしてその先に棲むのは深海ザメであり、彼らは暗闇の中で生きている。今の自分がそのサメと同じだと思えばこの暗闇を怖がる必要はない。だが足首の痛さは暗闇の恐怖以上のものを与えていた。
もしかすると右足首が折れているかもしれない。
足首はズキズキと傷み立ち上がることは出来なかった。
正確に言えば痛むのは足首より少し上まであるショートブーツの中でだが、骨折だとすればこのままの状況でいいはずがない。
そして今は扉まで行くこと以外のことは頭になかった。早くここから出て誰か人を呼ばなければと思った。そして病院に行かなければと思った。
立ち上って歩くことが出来るなら部屋の入口へは数秒で行けるはずだ。
けれど暗闇の中、書架伝いに恐らくこちらがそうだと思える方向へ這って向かっているが、背の高い書架が倒れてくるのではないかという気にさせられるのは、ここが海ではないからだ。もし今この状況で地震が起これば書架が倒れ、古い本が頭の上にバサバサと降り注ぎ身体は本に埋もれてしまうのか。そして明日の朝まで誰にも気づかれずここにいることになるのか。
もしかすると明日の朝になっても誰もここを訪れることはなく、何日間も書庫の床に横たわったまま誰にも気づかれることはなく息絶えてしまうのだろうか。
ふと、そんな光景が頭を過ったが直ぐに打ち消すように言った。
「そんなことある訳ないじゃない。….でも地震はいつ起こってもおかしくないわよね…」
言った先から直ぐに自分の言葉を否定したが、それはあり得ない話ではないから。
けれど、そんな事を考えるよりも手を動かし前進するしかない。それにこうして少しずつでも移動できるだけでもいい。そして扉の外に出て誰かを呼ぶことをしなければ。だが今日は6時で閉館したのなら事務室に人が居ない可能性が考えられる。と、なると図書館の中には誰もいないということだ。だがなんとかなる。なるはずだ。今までだって何かあってもなんとかしてきたのだから。
***
「閉館?おかしいですね?21時まで開いているはずですが」
傘をさした司はそう言った秘書の隣に立ち、入口に閉館の札が掛けられた建物を見ていた。
羽田に着いた時はみぞれ交じりの雨だったが、今は小雨に変わっていた。
図書館は改修中で足場が組まれ防音シートで囲まれていることから窓を見ることは出来ず、明かり灯っていたとしても外からは見えなかった。
そして入口のガラス扉の奥は暗く、見えるのは緑の非常口誘導灯の明かりだけで、どう見ても人がいるようには思えなかった。
「本当に図書館に行くって言ったのか?」
司の問いかけに秘書は、「はい。施設管理棟に書類を届けたその足で図書館に行くと言っていました」と言って司の顔を見た。
「携帯は持ってないのか?」
「先輩は常に携帯がないと不安だという人間ではありません。どちらかと言えば携帯は持ち歩きたくないという人間です。それに図書館で携帯は必要ありませんから」と言ったが、「でも私は携帯はいつも持ち歩いて下さいとお願いしているんです。大学は広いですし急ぎの用があっても連絡が取りやすいですから」と言葉を継いだ。
司はその言葉に先日訪問した時、秘書がわざわざカフェテリアにいる牧野つくしを呼びに行くと言ったのは、そう言うことだったのかと納得した。
だがそう納得しながらも、牧野つくしは我が身を守る警報器を自ら手放していることを知った。
「この状況はおかしですよね。先輩は確かに図書館に行くと言ったんです。でも閉館しているなら研究室に戻って来てもいいはずです。それに夜です。荷物を置いてどこに行くって言うんですか?」
秘書はそう言って司の顔を見たが、その表情は研究室で司を見据えたものとは明らかに違い不安の色が浮かんでいた。
「ここの鍵は?」
「え?」
「牧野つくしはここに来ると言ったなら、ここから調べた方がいい。ここの鍵はどこで保管してる?」
「施設管理棟にあります。棟の中に警備室があります。夜は警備員が構内を見回り巡回をします。夜はそこで各建物の鍵を管理してます」
司は後ろに控える男たちに頷いた。
どこに行くにも影のように付いて来る男たちは司の身の安全を守り、命令に従うのが仕事だ。
そして秘書は、「私が鍵を借りて来ます。警備員は私のことを知っています」と言って司に「これ、すみません」と言って牧野つくしの荷物を預けると背を向け駆け出していた。

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書庫の電気が突然消えた。
「きゃっ…..」
一瞬何が起こったのか分からなかったが、入口の扉がバタンと閉まる音が聞こえ、続いてガチャリと鍵が締まる音がした。
「ちょっと待って!ここに居ます!ここに人が居ます!あ、灯りを点けて!」
だが声が聞こえなかったのか。扉が開くこともなければ灯りが点くこともなかった。
この状況は、もしかしてここに人がいるとは思わない誰かが灯りを消し、扉を閉めたということか。だとすれば、つくしはここに閉じ込められたということになり慌てた。
書架に囲まれた暗闇の中だということもあるが、はじめて来た場所であり周囲の状況を把握していないことに方向感覚が失われた。そしてその中で伸ばした手が触れるのは本だけだ。
真っ暗闇の中、今はその本伝いに歩みを進めなければならなかった。
「どうしよう….」
声に出した言葉は、まさに心の中そのままの気持だ。
だがどうしようも、こうしようもここから出なければならなかった。
方向感覚が失われたとしても、回れ右をすれば入口へ向かうことは出来るはずだ。それに外から鍵が掛けられたとしても、部屋の鍵というものは内側からなら開けられるはずだ。
だから時間がかかったとしてもここから出ることは出来る。閉じ込められるということはない。
「大丈夫よ。別に窮地に陥った訳じゃないんだから」
と、思いを口にして後ろを向こうとした。
だがその時、コートが何かにひっかかり身体が前につんのめり、右足を強くひねり途中何かを掴むことも出来ず身体は床に投げ出されるように倒れた。
そして痛みというのは動きも言葉も封じ込め、ただ呻き声を上げるしか出来なかった。
だがなんとか身体を起こし座り込むような形になった。それから立ち上がろうとしたが鋭い痛みが右足首を貫き出来なかった。そしてその時やっと言葉が口をついた。
「痛い….」
右足首がどうなったのか。暗闇ではそれを目視で確かめることは出来ない。だから履いている長いスカートを捲り上げ触れたが激痛が走った。
それは今まで感じたことがない痛みであり、悪いことは考えたくはないが、もしかすると骨が折れたのではないか。
「まさか….」
歩くのが無理だとすれば、どうしたらいいのか。
だが考えを巡らせたところで良い答えが出るとは思えなかった。
それにインフルエンザからは回復したが、まだ体力は本調子とは言えず、この状況でじっとしている訳にはいかなかった。
暗闇の中コートを着ているとはいえ、冷たい空気に満たされた書庫で座り込んでいれば風邪をひく。だから立てないなら這ってでも部屋の入口へ向かわなければならなかった。
それに暗闇にひとりでいることは怖い。だから理性を保つため言葉に出して自分に言い聞かせた。
「大丈夫よ。大丈夫。落ち着いて。それに扉まで行けば大丈夫」
だが足首は折れているかもしれないと自覚した途端痛みが増していた。
寒い部屋にいるのにそこだけが熱を持っているように感じられ、暗闇の中ということもあり不安が募った。
それでもその不安を押し殺し部屋の入口まで這うことを始めた。
***
司が牧野つくしの所属する研究室に足を踏み入れたのは午後7時45分。
そこには教授秘書がひとりだけで牧野つくしの姿はなかった。
そして秘書は司の突然の訪問に驚いた顔をしたが、彼がここに来る理由はひとつしかないのだから何かを訊くことはなく、「牧野先生は図書館に行ってらっしゃいます」と言って口を閉じ少し黙ってから「うちの図書館は9時まで開いていますから先生は暫く戻ってこないと思います」と言葉を継ぎどこか意味ありげに彼を見た。そして言った。
「あの。道明寺副社長。大変失礼ですが副社長は牧野先生のことをどうお考えですか?」
司は秘書の言葉に片眉を上げた。
その問いかけはまるで司の想いを推し量るような言葉。だが何故秘書がそんなことを訊くのか。
「差し出がましい事を申し上げますが、もし道明寺副社長が牧野先生の事を遊びでどうかなる女と思っているならそれは違いますから」
司を見据えそう言った秘書は一体何が言いたいのか。
「私は牧野先生の友人です。だから先生の….いえ牧野先輩が、あの人が傷つくのを見る訳にはいかないんです」
司は牧野つくしの友人だと言う秘書が彼女の語りたがらない何かを知っているのではないかと思った。だから秘書の言葉に先を促した。
「どうして俺が牧野つくしを傷つけると?」
「最近の先輩は以前とは違う表情を浮かべることがあります。それは今までにない嬉しそうな顔です。だから先輩は好きな人がいるんじゃないですか。恋をしてるんじゃないですかって訊いたんです。相手は道明寺副社長ですか?それとも若林建設の専務ですかって。その答えは気になる人がいるとだけでした。それからその人のことはこれからだと言いました。先輩は恋愛に興味がなかった人です。それに今まで先輩の傍には男性の影は一切ありませんでした。そんな人がそんなことを言い出したんです。今先輩の身近にいる男性は道明寺副社長と若林建設の専務だけです。だからお二人のうちのどちらかと思ったんです」
秘書から司への問いかけは、私の言葉に何か言いたいことはありませんか?ということを言外に言っていたが司は何も答えなかった。
そして秘書は司が何も言わない事に、それ以上何かを言うことはなかった。
「それにしても戻って来るのが遅いですね。いくら9時まで図書館が開いているからと言ってもギリギリまでいることはないんです。教授もお帰りになりましたし、そろそろ研究室の戸締りをしようと思います。でも先輩の荷物はここにありますから図書館まで持って行きますが、先輩にご用がおありならご一緒しませんか?」
司はそう言われ、秘書が牧野つくしの荷物を手に研究室の扉に鍵をかけると、「どうぞこちらです」と言われ後に従った。

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「きゃっ…..」
一瞬何が起こったのか分からなかったが、入口の扉がバタンと閉まる音が聞こえ、続いてガチャリと鍵が締まる音がした。
「ちょっと待って!ここに居ます!ここに人が居ます!あ、灯りを点けて!」
だが声が聞こえなかったのか。扉が開くこともなければ灯りが点くこともなかった。
この状況は、もしかしてここに人がいるとは思わない誰かが灯りを消し、扉を閉めたということか。だとすれば、つくしはここに閉じ込められたということになり慌てた。
書架に囲まれた暗闇の中だということもあるが、はじめて来た場所であり周囲の状況を把握していないことに方向感覚が失われた。そしてその中で伸ばした手が触れるのは本だけだ。
真っ暗闇の中、今はその本伝いに歩みを進めなければならなかった。
「どうしよう….」
声に出した言葉は、まさに心の中そのままの気持だ。
だがどうしようも、こうしようもここから出なければならなかった。
方向感覚が失われたとしても、回れ右をすれば入口へ向かうことは出来るはずだ。それに外から鍵が掛けられたとしても、部屋の鍵というものは内側からなら開けられるはずだ。
だから時間がかかったとしてもここから出ることは出来る。閉じ込められるということはない。
「大丈夫よ。別に窮地に陥った訳じゃないんだから」
と、思いを口にして後ろを向こうとした。
だがその時、コートが何かにひっかかり身体が前につんのめり、右足を強くひねり途中何かを掴むことも出来ず身体は床に投げ出されるように倒れた。
そして痛みというのは動きも言葉も封じ込め、ただ呻き声を上げるしか出来なかった。
だがなんとか身体を起こし座り込むような形になった。それから立ち上がろうとしたが鋭い痛みが右足首を貫き出来なかった。そしてその時やっと言葉が口をついた。
「痛い….」
右足首がどうなったのか。暗闇ではそれを目視で確かめることは出来ない。だから履いている長いスカートを捲り上げ触れたが激痛が走った。
それは今まで感じたことがない痛みであり、悪いことは考えたくはないが、もしかすると骨が折れたのではないか。
「まさか….」
歩くのが無理だとすれば、どうしたらいいのか。
だが考えを巡らせたところで良い答えが出るとは思えなかった。
それにインフルエンザからは回復したが、まだ体力は本調子とは言えず、この状況でじっとしている訳にはいかなかった。
暗闇の中コートを着ているとはいえ、冷たい空気に満たされた書庫で座り込んでいれば風邪をひく。だから立てないなら這ってでも部屋の入口へ向かわなければならなかった。
それに暗闇にひとりでいることは怖い。だから理性を保つため言葉に出して自分に言い聞かせた。
「大丈夫よ。大丈夫。落ち着いて。それに扉まで行けば大丈夫」
だが足首は折れているかもしれないと自覚した途端痛みが増していた。
寒い部屋にいるのにそこだけが熱を持っているように感じられ、暗闇の中ということもあり不安が募った。
それでもその不安を押し殺し部屋の入口まで這うことを始めた。
***
司が牧野つくしの所属する研究室に足を踏み入れたのは午後7時45分。
そこには教授秘書がひとりだけで牧野つくしの姿はなかった。
そして秘書は司の突然の訪問に驚いた顔をしたが、彼がここに来る理由はひとつしかないのだから何かを訊くことはなく、「牧野先生は図書館に行ってらっしゃいます」と言って口を閉じ少し黙ってから「うちの図書館は9時まで開いていますから先生は暫く戻ってこないと思います」と言葉を継ぎどこか意味ありげに彼を見た。そして言った。
「あの。道明寺副社長。大変失礼ですが副社長は牧野先生のことをどうお考えですか?」
司は秘書の言葉に片眉を上げた。
その問いかけはまるで司の想いを推し量るような言葉。だが何故秘書がそんなことを訊くのか。
「差し出がましい事を申し上げますが、もし道明寺副社長が牧野先生の事を遊びでどうかなる女と思っているならそれは違いますから」
司を見据えそう言った秘書は一体何が言いたいのか。
「私は牧野先生の友人です。だから先生の….いえ牧野先輩が、あの人が傷つくのを見る訳にはいかないんです」
司は牧野つくしの友人だと言う秘書が彼女の語りたがらない何かを知っているのではないかと思った。だから秘書の言葉に先を促した。
「どうして俺が牧野つくしを傷つけると?」
「最近の先輩は以前とは違う表情を浮かべることがあります。それは今までにない嬉しそうな顔です。だから先輩は好きな人がいるんじゃないですか。恋をしてるんじゃないですかって訊いたんです。相手は道明寺副社長ですか?それとも若林建設の専務ですかって。その答えは気になる人がいるとだけでした。それからその人のことはこれからだと言いました。先輩は恋愛に興味がなかった人です。それに今まで先輩の傍には男性の影は一切ありませんでした。そんな人がそんなことを言い出したんです。今先輩の身近にいる男性は道明寺副社長と若林建設の専務だけです。だからお二人のうちのどちらかと思ったんです」
秘書から司への問いかけは、私の言葉に何か言いたいことはありませんか?ということを言外に言っていたが司は何も答えなかった。
そして秘書は司が何も言わない事に、それ以上何かを言うことはなかった。
「それにしても戻って来るのが遅いですね。いくら9時まで図書館が開いているからと言ってもギリギリまでいることはないんです。教授もお帰りになりましたし、そろそろ研究室の戸締りをしようと思います。でも先輩の荷物はここにありますから図書館まで持って行きますが、先輩にご用がおありならご一緒しませんか?」
司はそう言われ、秘書が牧野つくしの荷物を手に研究室の扉に鍵をかけると、「どうぞこちらです」と言われ後に従った。

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4階の書庫の扉は開いていた。
「さむっ…」
ひんやりとした空気が感じられる部屋へ一歩入り壁にある照明のスイッチを入れた。
そこは3階にあった書庫が移動した場所で、以前2階で使われていた書架が、ひと一人がやっと通れるほどの間隔で並んでいて視界がいいとは言えなかった。そしてそこは、並べられている古い本が放つ独特の匂いが立ち込めていた。
つくしは書架の間を見て回ることにすると、ゆっくりと歩き始めたがカラスの気配はなかった。それなら鳴き声だと思った声は気のせいなのか。だが確かに4階から音が聞こえた。
それなら何か別の音だったと言うことか。だとすれば一体何の音だったのかということになるが、もしかして誰かいるのか。
だがそうだとすれば電気もつけない暗闇に一体誰がということになるが、何かが動く気配は感じられなかった。
それでも、つくしは念のため声を出してみた。
「誰かいますか?」
返事はなかった。
つい今まで暗闇だったのだから誰もいないのが当然だが、それでも何かに追いかけられるような視線が感じられた。
そして空間の中で感じられるのは寒さから感じられるキリキリとした空気。
だがそれは書庫という本に囲まれた場所で感じられるものではないはずだ。
何かがおかしい。そう思った瞬間、背後に感じられる気配があった。だが振り向いたがそこには誰もいなかった。それならたった今感じた気配はカラスの鳴き声が聞こえたのと同じで気のせいなのか。カラスの鳴き声は空耳だったのか。
だとすれば耳が悪くなったのか。だが自分では耳が悪いとは思えなかったが、自覚症状がなくてもそういったことは十分あり得る。
そしてそれはそれで問題だが、今は図書館での探し物は終えたのだから、書庫から出ることにした。
ここにカラスがいないことは確認した。それに誰もいなかった。
「さむっ…。本ばかりで人気のない場所だもの。寒くて当然よね」
あえてひとり言を言うのは、たった今感じた気配を打ち消すためだ。
だがそう口にした途端、部屋の電気が突然消えた。
***
すっかり日が暮れた東京の夜は厚い雲に覆われ、みぞれ交じりの雨が車の窓を洗い流すのを見ていた。
司は1万キロ離れたニューヨークから羽田に着くと牧野つくしの大学に寄ることにした。
だがジェットは予定よりも羽田に着く時間が遅れた。
それは悪天候のため空港上空を30分近く旋回した後、ようやく羽田に到着したからだが、時計の針は7時を回っていた。だから今の時間はもう大学にいないかもしれない。
彼女が知る固定電話の番号は常に転送されるため、どこにいたとしても必ず繋がる。
昨日受けた電話は、東京では午後10時だとしても時差の関係でニューヨークは午前8時。
だがビジネスの時間にはまだ早く、いつも彼女が決めている30分の時間を取ることは可能だった。
司は自分が演じ始めた男になり切ることが厭だとは思わなかった。
メープルから牧野つくしに中華料理を届けさせ、彼女の話を訊きながら相槌を打つ。
それを楽しいと思えたのは、浮気をする妻を見て快楽を得る夫である高森隆三のそれとは全く違う。
それに牧野つくしに話したことが、彼女に合わるため真実の半分だとしても、傷つけているのではない。それは相手の心の裡を知るために必要なことだ。
急速に接近したと言える夜の電話の男と牧野つくし。
杉村と名乗った男と長谷川と名乗ることを決めた女は、偽名とは言え名前を持つことで何かが変わった。
そして司が求めているのは、自分への遠慮がなくなってくれること。それこそが牧野つくしの剥き出しの感情であるからだ。
だが道明寺司としての男は牧野つくしから遠い場所にいた。
それは物理的ではなく心の問題。杉村である司へ見せる態度は好意的で、道明寺司に見せる態度とは全く違った。
もし杉村が会おうと言ったらどうするのか。
だがふたりが電話で会話を始めるにあたりルールを決めた。それは、司の方からは電話をしないということ。だがそのルールは破った。そしてもうひとつは、会わないということ。
そのことが牧野つくしの心を軽くしているとすれば、会うことを拒否するのか。それとも杉村が強く会おうと言い含めれば会うだろうか。
司は今では耳慣れた彼女の声を訊いた途端、自分自身の脈が普段よりも早く打つことを知っていた。
そして今の司は、彼自身がどんな女にも裏表があることを証明するため牧野つくしに仕掛けた誘惑の罠に自らが嵌ったと感じていた。
だが牧野つくしには確かに裏表がある。
それは『私にとって男性と親しくすることは勇気がいること』
その言葉の意味を知れば、誰とも付き合うつもりはないという言葉の意味を理解することが出来るはずだ。
司は拒否されると分かっていても、これまで自分の人生にはいなかったタイプの女に会いたかった。

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「さむっ…」
ひんやりとした空気が感じられる部屋へ一歩入り壁にある照明のスイッチを入れた。
そこは3階にあった書庫が移動した場所で、以前2階で使われていた書架が、ひと一人がやっと通れるほどの間隔で並んでいて視界がいいとは言えなかった。そしてそこは、並べられている古い本が放つ独特の匂いが立ち込めていた。
つくしは書架の間を見て回ることにすると、ゆっくりと歩き始めたがカラスの気配はなかった。それなら鳴き声だと思った声は気のせいなのか。だが確かに4階から音が聞こえた。
それなら何か別の音だったと言うことか。だとすれば一体何の音だったのかということになるが、もしかして誰かいるのか。
だがそうだとすれば電気もつけない暗闇に一体誰がということになるが、何かが動く気配は感じられなかった。
それでも、つくしは念のため声を出してみた。
「誰かいますか?」
返事はなかった。
つい今まで暗闇だったのだから誰もいないのが当然だが、それでも何かに追いかけられるような視線が感じられた。
そして空間の中で感じられるのは寒さから感じられるキリキリとした空気。
だがそれは書庫という本に囲まれた場所で感じられるものではないはずだ。
何かがおかしい。そう思った瞬間、背後に感じられる気配があった。だが振り向いたがそこには誰もいなかった。それならたった今感じた気配はカラスの鳴き声が聞こえたのと同じで気のせいなのか。カラスの鳴き声は空耳だったのか。
だとすれば耳が悪くなったのか。だが自分では耳が悪いとは思えなかったが、自覚症状がなくてもそういったことは十分あり得る。
そしてそれはそれで問題だが、今は図書館での探し物は終えたのだから、書庫から出ることにした。
ここにカラスがいないことは確認した。それに誰もいなかった。
「さむっ…。本ばかりで人気のない場所だもの。寒くて当然よね」
あえてひとり言を言うのは、たった今感じた気配を打ち消すためだ。
だがそう口にした途端、部屋の電気が突然消えた。
***
すっかり日が暮れた東京の夜は厚い雲に覆われ、みぞれ交じりの雨が車の窓を洗い流すのを見ていた。
司は1万キロ離れたニューヨークから羽田に着くと牧野つくしの大学に寄ることにした。
だがジェットは予定よりも羽田に着く時間が遅れた。
それは悪天候のため空港上空を30分近く旋回した後、ようやく羽田に到着したからだが、時計の針は7時を回っていた。だから今の時間はもう大学にいないかもしれない。
彼女が知る固定電話の番号は常に転送されるため、どこにいたとしても必ず繋がる。
昨日受けた電話は、東京では午後10時だとしても時差の関係でニューヨークは午前8時。
だがビジネスの時間にはまだ早く、いつも彼女が決めている30分の時間を取ることは可能だった。
司は自分が演じ始めた男になり切ることが厭だとは思わなかった。
メープルから牧野つくしに中華料理を届けさせ、彼女の話を訊きながら相槌を打つ。
それを楽しいと思えたのは、浮気をする妻を見て快楽を得る夫である高森隆三のそれとは全く違う。
それに牧野つくしに話したことが、彼女に合わるため真実の半分だとしても、傷つけているのではない。それは相手の心の裡を知るために必要なことだ。
急速に接近したと言える夜の電話の男と牧野つくし。
杉村と名乗った男と長谷川と名乗ることを決めた女は、偽名とは言え名前を持つことで何かが変わった。
そして司が求めているのは、自分への遠慮がなくなってくれること。それこそが牧野つくしの剥き出しの感情であるからだ。
だが道明寺司としての男は牧野つくしから遠い場所にいた。
それは物理的ではなく心の問題。杉村である司へ見せる態度は好意的で、道明寺司に見せる態度とは全く違った。
もし杉村が会おうと言ったらどうするのか。
だがふたりが電話で会話を始めるにあたりルールを決めた。それは、司の方からは電話をしないということ。だがそのルールは破った。そしてもうひとつは、会わないということ。
そのことが牧野つくしの心を軽くしているとすれば、会うことを拒否するのか。それとも杉村が強く会おうと言い含めれば会うだろうか。
司は今では耳慣れた彼女の声を訊いた途端、自分自身の脈が普段よりも早く打つことを知っていた。
そして今の司は、彼自身がどんな女にも裏表があることを証明するため牧野つくしに仕掛けた誘惑の罠に自らが嵌ったと感じていた。
だが牧野つくしには確かに裏表がある。
それは『私にとって男性と親しくすることは勇気がいること』
その言葉の意味を知れば、誰とも付き合うつもりはないという言葉の意味を理解することが出来るはずだ。
司は拒否されると分かっていても、これまで自分の人生にはいなかったタイプの女に会いたかった。

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設備管理部の仕事は文字通り大学の施設の維持管理が仕事だ。
つくしの部屋のエアコンの調子が悪いと言ったのが二日前。そして次の日さっそく修理が行われ暖かい空気が部屋の中を満たしてくれるようになった。だが修理時は講義中であり部屋におらず、サインが欲しいと言われた書類の提出がまだだった。
だからサインをすると自ら書類を施設管理部へ持参し、その足で図書館へ行くことにした。
「その後エアコンの調子は問題ありませんか?」
施設管理部の男性職員は書類を受け取るとそう訊いたが、昨日に今日のことで不具合を感じることはなく、「はい。問題ありません」と答えると「そうですか。また何か気になることがあればおっしゃって下さい」と言い短い会話は終了した。
書類を提出すると、さっき歩いて来た廊下を戻り再び屋外階段を下り図書館へ向かったが、夕暮れ時を迎えた構内は学生たちの姿はまばらだった。
たが平日の図書館の閉館時間は21時だ。だからその時間まで調べものをする学生もいた。
そして設備管理棟の工事もそうだが4階建ての図書館も去年の夏から改修工事が始まっていて、建物には足場が組まれ防音シートがかけられていた。だが内部はすでに終了していて3月には全ての工事が終わる予定だ。
改修以前の図書館の1階には事務室や会議室、館長室があったが、会議室だけを残し他は今まで書庫として利用していた3階へ移動させ、空いたスペースに図書館での長時間滞在も可能なようにリフレッシュエリアを設け飲食が可能なスペースが作られたが、他にも個人ブースやアーカイブズルームも作られた。そして3階の書庫機能は今まで利用されていなかった4階へと移動した。
そして2階には図書館本来の目的である本が並んでいるが、その一角に以前そこにあった固定書架は、女性でも簡単に動かすことが出来る制震機能が付いた電動式の書架に変わっていて、つくしの目的はその書架の中にある古い資料だった。
「それにしても寒い!こんなことならマフラーも巻いてくればよかった」
施設管理棟から図書館まで5分だがコートを着たつくしは足早に図書館の入口に急ぐ。
そして建物の中に入り2階への階段を上がり、コートを着たまま書架の前に立ち、目的の資料を探し始めたが、今日は珍しくそこには誰もおらず、つくしひとりがそこにいた。
「ええっと……ここじゃないわね…..」
図書館でひとり言を言えば煩いと言われるが、幸いにも誰もいないのだから気を使う必要はなかった。
そして誰もいない広い図書館というのは奇妙なほど静かだった。しかし本来図書館というのは静かな場所なのだから奇妙という言葉はおかしいのかもしれない。だが何故かこの静けさに不自然さを感じた。そしてその時、視界の端に誰かが動いた様子が感じられ、ああ他にも誰かいるのかと思った。だからこの静けさは気のせいだと思った。
そしてそんなことよりも、早く目的の資料を探し出し研究室へ持ち帰りたかった。
「牧野先生?お調べものですか?」
そう突然声を掛けられ驚いたが、近づいて来たのは顔なじみの司書の女性だ。
と、いうことは視界の端に感じられた人影は、その女性だったのかと思った。するとどこかホッとする気持ちになったのは、やはりあまりの静けさに緊張していたということなのだろう。だが今は顔なじみの女性に声を掛けられたことでその緊張も解けた。
「ええ。そうなんです。でも書架が新しくなって資料の場所が変わったので探すのが大変です」
笑顔を向けそう言うと、司書の女性も、「そうですか。何でもそうですが慣れるまでは大変ですよね?私も同じですよ」と笑いながら言ったが、そこから先は申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「それから先生。すみません。今日は18時で図書館を閉めることになってるんですが、もしかしてご存知なかったですか?」
「え?そうなんですか?」
「ええ。表の掲示板にも張り出してあったと思うんですが御覧になられてませんか?」
何故図書館に人がいないのか。
不思議に思ったが司書の言葉に納得できた。そして時計の針はあと10分で6時を指そうとしていた。つまり司書は閉館準備のため館内を見回っていたということになる。
と、なるとお目当ての資料を探す時間はあと10分だが、果たしてその時間で見つけることが出来るだろうか。
「すみません。見てませんでした。そうだったんですね?だから今日は人が少なかったんですね?」
「ええ。いつもならこの時間まだ学生が大勢いてもおかしくはないんですが、今日はそういったこともあって早い時間の利用で皆さん終わられたんですよ。でも先生おひとりなら少しくらい時間が延びてもいいですよ?表は閉館の札を掲げますが私も片付けに30分位はかかります。だからそのくらいなら居て下さっても大丈夫です」
「本当ですか?でも30分もかからないと思いますが助かります。ありがとうございます」
と、つくしが礼を言うと司書の女性は「終わられたら声をかけて下さいね」と言って背を向けた。
そして30分もかからず探していた資料を見つけると、3階の事務室まで上がり司書に終わったと声をかけ礼を言って階段を下りかけたところで4階からカラスの鳴き声のような声が聞こえた。確か4階は3階にあった書庫が移動したはずだったがどうなっているのか。
もしかすると閉め忘れた窓から入り込んだカラスがねぐらにしようとしているのか。
だとすれば司書に知らせた方がいいはずだが、彼女は忙しそうにしていた。それなら成りゆき上、自分が行って見てこよう。気のせいならそれでいい。
つくしは4階への階段を上り始めた。

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大坂なおみ選手、全豪オープンテニス優勝おめでとうございます!
世界ランキング1位おめでとうございます!
つくしの部屋のエアコンの調子が悪いと言ったのが二日前。そして次の日さっそく修理が行われ暖かい空気が部屋の中を満たしてくれるようになった。だが修理時は講義中であり部屋におらず、サインが欲しいと言われた書類の提出がまだだった。
だからサインをすると自ら書類を施設管理部へ持参し、その足で図書館へ行くことにした。
「その後エアコンの調子は問題ありませんか?」
施設管理部の男性職員は書類を受け取るとそう訊いたが、昨日に今日のことで不具合を感じることはなく、「はい。問題ありません」と答えると「そうですか。また何か気になることがあればおっしゃって下さい」と言い短い会話は終了した。
書類を提出すると、さっき歩いて来た廊下を戻り再び屋外階段を下り図書館へ向かったが、夕暮れ時を迎えた構内は学生たちの姿はまばらだった。
たが平日の図書館の閉館時間は21時だ。だからその時間まで調べものをする学生もいた。
そして設備管理棟の工事もそうだが4階建ての図書館も去年の夏から改修工事が始まっていて、建物には足場が組まれ防音シートがかけられていた。だが内部はすでに終了していて3月には全ての工事が終わる予定だ。
改修以前の図書館の1階には事務室や会議室、館長室があったが、会議室だけを残し他は今まで書庫として利用していた3階へ移動させ、空いたスペースに図書館での長時間滞在も可能なようにリフレッシュエリアを設け飲食が可能なスペースが作られたが、他にも個人ブースやアーカイブズルームも作られた。そして3階の書庫機能は今まで利用されていなかった4階へと移動した。
そして2階には図書館本来の目的である本が並んでいるが、その一角に以前そこにあった固定書架は、女性でも簡単に動かすことが出来る制震機能が付いた電動式の書架に変わっていて、つくしの目的はその書架の中にある古い資料だった。
「それにしても寒い!こんなことならマフラーも巻いてくればよかった」
施設管理棟から図書館まで5分だがコートを着たつくしは足早に図書館の入口に急ぐ。
そして建物の中に入り2階への階段を上がり、コートを着たまま書架の前に立ち、目的の資料を探し始めたが、今日は珍しくそこには誰もおらず、つくしひとりがそこにいた。
「ええっと……ここじゃないわね…..」
図書館でひとり言を言えば煩いと言われるが、幸いにも誰もいないのだから気を使う必要はなかった。
そして誰もいない広い図書館というのは奇妙なほど静かだった。しかし本来図書館というのは静かな場所なのだから奇妙という言葉はおかしいのかもしれない。だが何故かこの静けさに不自然さを感じた。そしてその時、視界の端に誰かが動いた様子が感じられ、ああ他にも誰かいるのかと思った。だからこの静けさは気のせいだと思った。
そしてそんなことよりも、早く目的の資料を探し出し研究室へ持ち帰りたかった。
「牧野先生?お調べものですか?」
そう突然声を掛けられ驚いたが、近づいて来たのは顔なじみの司書の女性だ。
と、いうことは視界の端に感じられた人影は、その女性だったのかと思った。するとどこかホッとする気持ちになったのは、やはりあまりの静けさに緊張していたということなのだろう。だが今は顔なじみの女性に声を掛けられたことでその緊張も解けた。
「ええ。そうなんです。でも書架が新しくなって資料の場所が変わったので探すのが大変です」
笑顔を向けそう言うと、司書の女性も、「そうですか。何でもそうですが慣れるまでは大変ですよね?私も同じですよ」と笑いながら言ったが、そこから先は申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「それから先生。すみません。今日は18時で図書館を閉めることになってるんですが、もしかしてご存知なかったですか?」
「え?そうなんですか?」
「ええ。表の掲示板にも張り出してあったと思うんですが御覧になられてませんか?」
何故図書館に人がいないのか。
不思議に思ったが司書の言葉に納得できた。そして時計の針はあと10分で6時を指そうとしていた。つまり司書は閉館準備のため館内を見回っていたということになる。
と、なるとお目当ての資料を探す時間はあと10分だが、果たしてその時間で見つけることが出来るだろうか。
「すみません。見てませんでした。そうだったんですね?だから今日は人が少なかったんですね?」
「ええ。いつもならこの時間まだ学生が大勢いてもおかしくはないんですが、今日はそういったこともあって早い時間の利用で皆さん終わられたんですよ。でも先生おひとりなら少しくらい時間が延びてもいいですよ?表は閉館の札を掲げますが私も片付けに30分位はかかります。だからそのくらいなら居て下さっても大丈夫です」
「本当ですか?でも30分もかからないと思いますが助かります。ありがとうございます」
と、つくしが礼を言うと司書の女性は「終わられたら声をかけて下さいね」と言って背を向けた。
そして30分もかからず探していた資料を見つけると、3階の事務室まで上がり司書に終わったと声をかけ礼を言って階段を下りかけたところで4階からカラスの鳴き声のような声が聞こえた。確か4階は3階にあった書庫が移動したはずだったがどうなっているのか。
もしかすると閉め忘れた窓から入り込んだカラスがねぐらにしようとしているのか。
だとすれば司書に知らせた方がいいはずだが、彼女は忙しそうにしていた。それなら成りゆき上、自分が行って見てこよう。気のせいならそれでいい。
つくしは4階への階段を上り始めた。

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「牧野先輩。ここ数日嬉しそうな顔をしてますけど何かあったんですか?」
桜子は講義が終わって研究室に戻って来たつくしにコーヒーを運んで来ると訊いた。
「え?そう?」
「ええ。そうですよ。私と先輩はもう何年付き合ってると思ってるんですか?それに先輩は考えてることが顔に出やすいんです。だから今までも、ああ何か考えてるとか心ここにあらずだってこともありましたよ?でもここ数日の先輩はどこか嬉しそうな顔をしてます。それが学問の方なのか。それともプライベートなことなのか知りませんけど、人は嬉しいことがあれば誰かに聞いて欲しいと思いますから、もし聞いて欲しいことがあれば聞きますから話して下さいね」
ここ数日嬉しそうな顔をしている。
それは、夜の電話の男性が中華料理のデリバリーを手配してくれた翌日から始まったはずだ。
今まで名前を呼ぶことがなかったその人を偽名とは言え杉村さんと呼び、つくしは自分を長谷川と名乗ることに決めた。
そしてあの日から次に電話をかける日まで一週間。その間に胸の奥に育ってきたものは、徐々に発酵したと言える杉村に対しての感情だ。
呼び名が『あなた』から名前に変われば親しみが感じられ、ふたりの話題は広がった。
それは、それまではプライバシーが明かされることがないようにと気を使いながら、つくしが一方的に話しをすることが多かった。
だが今は互いに最近読んだ本の話や興味があるものは何か。好きな食べ物は何かといった話をするようになった。それはつくしの一方通行ではなく杉村からの話もあった。そして話してみればふたりには様々な共通点があった。そうなれば、もっと早く話していれば良かったと思えた。
「ねえ先輩。もしかして恋をしてる。そうじゃないですか?」
「え?」
「違いますか?女性は恋をすると内面から輝きを放つと言われます。今の先輩は少し前の先輩とは違います。もしかしてお正月休みの間に何かあったんですか?でも先輩はインフルエンザで寝込んでいたんですよね?」
インフルエンザで臥せっていた話はしていたが杉村の話はしなかった。
何しろふたりは会ったことがないのだから話せなかったこともあるが、つくしに対しては心配症な桜子に話せば言われる言葉は分かっているからだ。
その人はどこの誰ですか?
何をしている人ですか?
先輩のことどれくらい知っているんですか?
だがそんなことを訊かれても答えることは出来なかった。
だから話せなかった。
「先輩?ぼんやりしないで私の質問に答えて下さい」
「え….うん……」
桜子の尋問口調は有無を言わせない強さがある。それは昔からそうだったが、30代も半ばを迎えればより強く感じられた。
「先輩がそうやって言葉に詰まるということは図星ですね?お正月休みの間に何かあったんですね?先輩は好きな人がいる。そうですね?それって若林建設の専務ですか?それとも道明寺副社長ですか?」
キラリと光った瞳は、返事を訊くまでこの尋問を止めないと言っているが、好きになった人は電話だけの男性でどこの誰かなど全く分からない男性であり、その人が誰であるかの手がかりと言えば、東京都内の固定電話の番号とメープルの中に入っている中華料理店だけ。そこから調べようと思えば調べることは出来るかもしれない。けれど、相手が自ら話そうとしないことを調べることで心が安心するのかと言えばそうではない。
つくしは自分の眼で見たもの。自分の耳で聞いた事を信じる人間だ。
「先輩?」
心配そうな顔になって桜子が訊いてくる。
つくしは桜子がそんな顏をする理由を知っている。それは桜子があの事を自分のせいだと思っているから。だから本当は桜子がこれ以上心配することがないようにしたい思いはある。だが杉村のことは、まだ自分の胸の中にそっと仕舞っておきたかったが、心配する友人に正直に答えた。
「あのね桜子。気になる人がいるの。だけどその人とのことはこれからなの。だから今は話せないの。それから何かあったら相談するから。だからごめんね」
つくしがそう言うと、桜子は分かったといった顔をしたが、それはぱっと見た目は派手に見えても道理には煩い女が見せた納得の表情だった。そんな表情をしたのは今までつくしがごめんねと言った時、それ以上何を訊いたところで答えてもらえないと分かっているからだ。
そしてそれが意思の強い女が見せる断固たる表情だから尚更何も言えなかった。だがつくしのそんな表情に何故かホッとしたような顔つきになって「分かりました。何か相談事があったら言って下さい。私が力になれることや出来ることがあるならどんなことでもお手伝いしますから」と言った。
「うん。分かったわ」
つくしはそう答えコーヒーを飲み終えると立ち上がった。
「桜子。私これから施設管理棟のへ行って来るわ。それから図書館にも行くから暫く戻ってこないから」
つくしのいる研究室から施設管理棟は歩いて5分の場所にあり、図書館はやはりそこから5分の場所にあることからコートを着て外へ出た。
4階建ての古く貫禄がある施設管理棟の玄関は工事中のため、3階にある設備管理部へ向かうには屋外階段を上らなければならなかった。
ゆっくりとした足取りで階段を上がり3階の踊り場に立つと下から冷たい風が吹いて来た。
古めかしい目の前の扉を開け建物に入り、廊下を目的の場所へ向かうが、途中で忙しそうに書類封筒を抱えて歩く女性職員とすれ違い挨拶を交わすと、少しして背後で扉が閉まる音が聞えた。

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桜子は講義が終わって研究室に戻って来たつくしにコーヒーを運んで来ると訊いた。
「え?そう?」
「ええ。そうですよ。私と先輩はもう何年付き合ってると思ってるんですか?それに先輩は考えてることが顔に出やすいんです。だから今までも、ああ何か考えてるとか心ここにあらずだってこともありましたよ?でもここ数日の先輩はどこか嬉しそうな顔をしてます。それが学問の方なのか。それともプライベートなことなのか知りませんけど、人は嬉しいことがあれば誰かに聞いて欲しいと思いますから、もし聞いて欲しいことがあれば聞きますから話して下さいね」
ここ数日嬉しそうな顔をしている。
それは、夜の電話の男性が中華料理のデリバリーを手配してくれた翌日から始まったはずだ。
今まで名前を呼ぶことがなかったその人を偽名とは言え杉村さんと呼び、つくしは自分を長谷川と名乗ることに決めた。
そしてあの日から次に電話をかける日まで一週間。その間に胸の奥に育ってきたものは、徐々に発酵したと言える杉村に対しての感情だ。
呼び名が『あなた』から名前に変われば親しみが感じられ、ふたりの話題は広がった。
それは、それまではプライバシーが明かされることがないようにと気を使いながら、つくしが一方的に話しをすることが多かった。
だが今は互いに最近読んだ本の話や興味があるものは何か。好きな食べ物は何かといった話をするようになった。それはつくしの一方通行ではなく杉村からの話もあった。そして話してみればふたりには様々な共通点があった。そうなれば、もっと早く話していれば良かったと思えた。
「ねえ先輩。もしかして恋をしてる。そうじゃないですか?」
「え?」
「違いますか?女性は恋をすると内面から輝きを放つと言われます。今の先輩は少し前の先輩とは違います。もしかしてお正月休みの間に何かあったんですか?でも先輩はインフルエンザで寝込んでいたんですよね?」
インフルエンザで臥せっていた話はしていたが杉村の話はしなかった。
何しろふたりは会ったことがないのだから話せなかったこともあるが、つくしに対しては心配症な桜子に話せば言われる言葉は分かっているからだ。
その人はどこの誰ですか?
何をしている人ですか?
先輩のことどれくらい知っているんですか?
だがそんなことを訊かれても答えることは出来なかった。
だから話せなかった。
「先輩?ぼんやりしないで私の質問に答えて下さい」
「え….うん……」
桜子の尋問口調は有無を言わせない強さがある。それは昔からそうだったが、30代も半ばを迎えればより強く感じられた。
「先輩がそうやって言葉に詰まるということは図星ですね?お正月休みの間に何かあったんですね?先輩は好きな人がいる。そうですね?それって若林建設の専務ですか?それとも道明寺副社長ですか?」
キラリと光った瞳は、返事を訊くまでこの尋問を止めないと言っているが、好きになった人は電話だけの男性でどこの誰かなど全く分からない男性であり、その人が誰であるかの手がかりと言えば、東京都内の固定電話の番号とメープルの中に入っている中華料理店だけ。そこから調べようと思えば調べることは出来るかもしれない。けれど、相手が自ら話そうとしないことを調べることで心が安心するのかと言えばそうではない。
つくしは自分の眼で見たもの。自分の耳で聞いた事を信じる人間だ。
「先輩?」
心配そうな顔になって桜子が訊いてくる。
つくしは桜子がそんな顏をする理由を知っている。それは桜子があの事を自分のせいだと思っているから。だから本当は桜子がこれ以上心配することがないようにしたい思いはある。だが杉村のことは、まだ自分の胸の中にそっと仕舞っておきたかったが、心配する友人に正直に答えた。
「あのね桜子。気になる人がいるの。だけどその人とのことはこれからなの。だから今は話せないの。それから何かあったら相談するから。だからごめんね」
つくしがそう言うと、桜子は分かったといった顔をしたが、それはぱっと見た目は派手に見えても道理には煩い女が見せた納得の表情だった。そんな表情をしたのは今までつくしがごめんねと言った時、それ以上何を訊いたところで答えてもらえないと分かっているからだ。
そしてそれが意思の強い女が見せる断固たる表情だから尚更何も言えなかった。だがつくしのそんな表情に何故かホッとしたような顔つきになって「分かりました。何か相談事があったら言って下さい。私が力になれることや出来ることがあるならどんなことでもお手伝いしますから」と言った。
「うん。分かったわ」
つくしはそう答えコーヒーを飲み終えると立ち上がった。
「桜子。私これから施設管理棟のへ行って来るわ。それから図書館にも行くから暫く戻ってこないから」
つくしのいる研究室から施設管理棟は歩いて5分の場所にあり、図書館はやはりそこから5分の場所にあることからコートを着て外へ出た。
4階建ての古く貫禄がある施設管理棟の玄関は工事中のため、3階にある設備管理部へ向かうには屋外階段を上らなければならなかった。
ゆっくりとした足取りで階段を上がり3階の踊り場に立つと下から冷たい風が吹いて来た。
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研究室の窓の向こうは雨が降っていた。
1月の雨は南岸低気圧によってもたらされたもので明け方には雪に変わると言われていたが、朝起きた時雪ではなく雨だった。
東京は雪に弱いと言われる街で、ひとたび雪が降れば車はスリップして道を塞ぎ電車は止まり交通機関は麻痺して機能を果たさなくなってしまうことが多い。だから雪が降ることがなくて助かったというのが正直な気持ちだ。
そして大学は、この季節になると慌ただしさを感じさせる。
それは入試のシーズンに突入するからだが、センター試験が始まり一般入試を経て3月の後期二次試験。そして3月下旬に合格発表がされるまでは落ち着かない気持ちにさせられる。それはひとりでも多くの学生が自分の望む大学に進学して欲しいという思いからだが、定員が決まっている以上、希望者全てが合格できるのではない。だから、せめて天気だけでもベストな状況で受験が出来ることを祈っていた。
そんな中で、つくしは卒業していく学生たちの開くゼミの打ち上げに参加していた。
「牧野先生。遠慮しないで飲んで下さいね」
女子学生からそう言われ「うん。ありがとう。じゃあ頂くわね」と言って目の前に置かれたワインの入ったグラスを手に取った。すると、「ええ。じゃんじゃん頂いて下さい。先生には本当にお世話になりました。ではみなさん乾杯をしましょう!」と言われ乾杯するとグラスを口に運んだ。
つくしのゼミは圧倒的に男子学生が多いことから、普段学生たちとの食事会と言えば居酒屋が多いが、今夜は卒業する学生のゼミの打ち上げということもあり、ちょっとリッチにいくことにしましたと言われ幹事の女子学生が手配したのはホテルメープルでの会食だった。
そしてその席に着いている学生たちは、スーツやワンピースといったホテルのレストランに相応しい服装をしていて大人びた風貌の学生もいた。
間もなく卒業する彼らは、学んだことを生かして環境ソリューション分野の会社へ就職する者もいれば、学んだこととは全く関係のない銀行やサービス業に就職を決めた者もいた。だがそれは海洋生物学という専門的なことを学んだ学生にはよくあることであり、必ずしも学んだことを生かせる仕事につけるとは限らないことを示していた。
そして中には道明寺グループの企業に就職が決まった男子学生もいた。
「俺さ。道明寺に就職が決まったけど海には全然関係ない仕事だろ?けど牧野先生のゼミで勉強したことはいい経験だと思ってる。中でも何が面白かったって言えば、初めての駿河湾での調査だな。あの時サクラエビ漁の漁師が深海から引き上げた生きた化石と呼ばれるラブカには感動した。身体を触ってみたらつるつるしてて気持ちが良かったのも以外過ぎて感動した。それからラブカが妊娠期間が最も長い動物だってことにも驚いたな。何しろ3年以上妊娠してるってんだからメスは大変だよな」
ラブカは3億5千年前にも生きていたと言われるサメ。
大きさが最大2メートル前後で外観はサメというよりもウナギに似ていて、ウナギのように身体を波打たせて泳ぐ。だから別名ウナギザメと呼ばれていた。
そして陸上の哺乳類で妊娠期間が一番長いと言われるゾウの妊娠期間は2年から2年半あるがラブカはそれよりも長い3年半あった。
「そうよね。私もラブカの妊娠期間が3年半だって知って驚いたわ」
女子学生は男子学生の隣で出されたコース料理の前菜を口に運びながら答え、ワイングラスを口元へ運んだ。
「だろ?ゾウの妊娠期間が2年くらいでそれでも長いって思うのに、3年以上ってどんだけ長いんだよな?」
と答えた男子学生も同じようにワインを口にした。
未成年でない彼らは堂々と酒が飲めるが、その態度はすでに社会人といってもおかしくないほど場慣れしていた。それはここが一流と呼ばれるホテルのひとつだというのに、臆することがないからだ。つまりそれは彼らが社交性に富んでいてこういった場所で食事をすることにも慣れているということなのか。だとすれば、つくしの学生時代とは大きな違いだった。
そしてこれからの彼らには、どんな未来が待っているのか。
どちらにしても彼らは色々な可能性を持っているはずだ。
「それにしてもラブカは出産する時だけ沿岸に近づいてくるっていうんだから、ウナギがマリアナ海溝まで行って産卵するのと同じってことよね?でも人間に置き換えて考えてみたら人間が3年半も妊娠してたら大変よ?」
「そうだよな。3年半も妊娠した状態でいたら大変だろうな。家事なんかどうすんだよ?掃除洗濯買い物。3年半も大きな腹でやるんだぞ?」
「何言ってるのよ?何も奥さんだけが全部するなんてことないでしょ?そんなの夫が手伝うのが当然でしょ?それに料理だって夫が作ってもいいのよ?いい?高橋君。そんな何でも女性にしてもらおうなんて甘いわよ。そんなんじゃ結婚してくれる人いないわよ?今の世の中、夫も妻を手伝うのが当たり前なんだからね?」
女子学生にそう言われた高橋は、「分かったって。そんなに言うなよ。俺だって掃除や洗濯くらい出来るぞ。それに料理だって男の料理なら作ってやれる」と言った。
「ふーん。でも高橋君の料理ってインスタントラーメンでしょ?それじゃあねぇ」
「別にいいだろ。喰えるんだから」
「あのね、妊娠した妻にインスタントラーメンを食べさせるなんて、どう考えてもおかしいわよ。お腹には大事な子供がいるのに、もっと栄養がある物を食べなきゃダメでしょ?」
栄養のあるものを食べなきゃダメ。
つくしは教え子たちの会話を訊きながら、その言葉を反芻していた。
インフルエンザから回復し食料を調達するためコンビニへ出かけようとした時かかってきた電話のことを。
あの日。これから食べ物を買いに行くと言った時、病み上がりで寒い中、外へ出るのは控えた方がいいと言われたが、まともに食べれる物が無い。それこそラーメンも無いと言った。
そしていつも出前を頼む中華料理屋は正月休みだと言われたと答えると、「ああ。私の電話番号と間違えたあの中華料理屋ですか」と言って笑うと驚くような事を口にした。
「あなたは中華料理がお好きなようですので次の番号に電話をすればいい。そこは私が懇意にしている中華料理店ですが、そこなら料理を配達してくれる。私はあなたの名前は知りませんが、あなたのことを長谷川という名前で話をつけておきます。それから私の名前は『杉村』ということにしておきます。だからあなたは電話で、長谷川だが杉村の件でと言えばいい。それで相手はわかる。外は寒い。病み上がりのあなたがわざわざ外へ出ていく必要なない。これは私からのお見舞いだと思ってください。私がご馳走します」
そう言って教えてられた番号はメープルの中にある東京で一番美味しいと言われる老舗中華料理店。迷ったがつくしは感謝の気持を持ちながら電話をすることに決めた。
それはその人のことを知りたいと思ったからだ。電話の男性はつくしが中華料理店に電話をしたことで、つくしの住所を知ることになるのか。だがそれなら逆につくしがその男性の何かを知ることが出来るはずだと思った。だが電話を受けた店の人間は、当店がお伺いしたお客様の情報はどなた様にもお知らせすることはありませんと言われた。
つまり顧客情報の管理は徹底していると言うことだ。
そして『長谷川様』にお届けする料理は、と言われ「髪菜(はっさい)と海鮮、フカヒレのスープ」「牛ヒレ肉とピーマンの細切り炒め」「トリュフの香りのきのこチャーハン」「北京ダックと点心盛り合わせ」「季節の果物」となっておりますが他にご希望があればなんなりとお伺いいたしますと言われた。
そして1時間後には夢のような料理がつくしの手元に届けられた。
「そう言えば俺の友達で高森開発に就職が決まってるのがいるんだけど、あんなことになっただろ?あんな風に会社がゴタゴタしてるから就職大丈夫かって心配してるぜ」
「そうよね。まさか高森開発があんなことになるなんて」
「だろ?でも道明寺が買うって話がある。けどまだ噂だからどうなるか分かんねぇよな」
つくしは学生たちの話に高森開発が出たことで、あの日のことを思い出していた。
それは道明寺副社長のパートナーとしてパーティーに出席したが、そこで高森真理子に化粧室の前で声をかけられ、道明寺副社長の恋人だと言われたことを。
だがつい先日テレビで見たのは、真理子の夫である社長の高森隆三が釈明をする姿であり、記者たちに向かって深々と頭を下げる姿だった。
「__牧野先生?牧野先生?」
「え?」
「そう言えば牧野先生は道明寺副社長のブレーンになったじゃないですか?いつだったか道明寺副社長が大学のカフェテリアに居たって話を訊きましたけど、先生は道明寺副社長に興味は無いんですか?私は本人を見たことがありませんけど、その時見かけた学生は凄くかっこよかったって自慢してたんですよ?それを訊いて凄い羨ましかったんですから」
つくしが彼女たちと同じ年だった頃、一回り以上も年が離れた男性を恋愛対象と見たことはなかったが、果たして教え子はどうなのか。まだ若いから人の本質よりも他の部分を見ているのか。だとしたら褒められたものではないが、それは今ここで言うことではない。
今夜はゼミの打ち上げであり、学生たちにとっては楽しい場であるのだから。
だからつくしは明るく答えた。
「やあねぇ。興味なんて無いわよ」
「そうなんですか?それ凄く勿体ない話ですよ。本当に興味がないんですか?道明寺ホールディングスの次期社長ですよ?凄いお金持ちでかっこいい男性ですよ?そんな人の傍に近寄ることが出来る女性なんてこの世の中に何人もいないんですよ?それなのに興味が無いんですか?」
「無いわよ。大体考えてみて。そんなにお金持ちの男性が大学で教えている女に興味を持つと思う?」
「え~。だって先生可愛いじゃないですか。年だって….そりゃ30代ですけど私たちと見た目はそんなに変わりませんから」
一回りも年下の学生からそう言われても本気にはしなかった。
そしてやはりさっきは言うまいと思っていたことを口にしていた。
「いい?あなたち。これから社会に出ても外見だけで人を判断してはダメよ。それから自分に自信を持って生きてね。あなたたちの未来はこれからよ。今からが人生のスタートよ!」
宣言するような言い方で道明寺司のことは食事の話題から外したが、女子学生からは、
「あ~あ。道明寺副社長のこと訊きたかったのに!」と残念そうに言われた。

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1月の雨は南岸低気圧によってもたらされたもので明け方には雪に変わると言われていたが、朝起きた時雪ではなく雨だった。
東京は雪に弱いと言われる街で、ひとたび雪が降れば車はスリップして道を塞ぎ電車は止まり交通機関は麻痺して機能を果たさなくなってしまうことが多い。だから雪が降ることがなくて助かったというのが正直な気持ちだ。
そして大学は、この季節になると慌ただしさを感じさせる。
それは入試のシーズンに突入するからだが、センター試験が始まり一般入試を経て3月の後期二次試験。そして3月下旬に合格発表がされるまでは落ち着かない気持ちにさせられる。それはひとりでも多くの学生が自分の望む大学に進学して欲しいという思いからだが、定員が決まっている以上、希望者全てが合格できるのではない。だから、せめて天気だけでもベストな状況で受験が出来ることを祈っていた。
そんな中で、つくしは卒業していく学生たちの開くゼミの打ち上げに参加していた。
「牧野先生。遠慮しないで飲んで下さいね」
女子学生からそう言われ「うん。ありがとう。じゃあ頂くわね」と言って目の前に置かれたワインの入ったグラスを手に取った。すると、「ええ。じゃんじゃん頂いて下さい。先生には本当にお世話になりました。ではみなさん乾杯をしましょう!」と言われ乾杯するとグラスを口に運んだ。
つくしのゼミは圧倒的に男子学生が多いことから、普段学生たちとの食事会と言えば居酒屋が多いが、今夜は卒業する学生のゼミの打ち上げということもあり、ちょっとリッチにいくことにしましたと言われ幹事の女子学生が手配したのはホテルメープルでの会食だった。
そしてその席に着いている学生たちは、スーツやワンピースといったホテルのレストランに相応しい服装をしていて大人びた風貌の学生もいた。
間もなく卒業する彼らは、学んだことを生かして環境ソリューション分野の会社へ就職する者もいれば、学んだこととは全く関係のない銀行やサービス業に就職を決めた者もいた。だがそれは海洋生物学という専門的なことを学んだ学生にはよくあることであり、必ずしも学んだことを生かせる仕事につけるとは限らないことを示していた。
そして中には道明寺グループの企業に就職が決まった男子学生もいた。
「俺さ。道明寺に就職が決まったけど海には全然関係ない仕事だろ?けど牧野先生のゼミで勉強したことはいい経験だと思ってる。中でも何が面白かったって言えば、初めての駿河湾での調査だな。あの時サクラエビ漁の漁師が深海から引き上げた生きた化石と呼ばれるラブカには感動した。身体を触ってみたらつるつるしてて気持ちが良かったのも以外過ぎて感動した。それからラブカが妊娠期間が最も長い動物だってことにも驚いたな。何しろ3年以上妊娠してるってんだからメスは大変だよな」
ラブカは3億5千年前にも生きていたと言われるサメ。
大きさが最大2メートル前後で外観はサメというよりもウナギに似ていて、ウナギのように身体を波打たせて泳ぐ。だから別名ウナギザメと呼ばれていた。
そして陸上の哺乳類で妊娠期間が一番長いと言われるゾウの妊娠期間は2年から2年半あるがラブカはそれよりも長い3年半あった。
「そうよね。私もラブカの妊娠期間が3年半だって知って驚いたわ」
女子学生は男子学生の隣で出されたコース料理の前菜を口に運びながら答え、ワイングラスを口元へ運んだ。
「だろ?ゾウの妊娠期間が2年くらいでそれでも長いって思うのに、3年以上ってどんだけ長いんだよな?」
と答えた男子学生も同じようにワインを口にした。
未成年でない彼らは堂々と酒が飲めるが、その態度はすでに社会人といってもおかしくないほど場慣れしていた。それはここが一流と呼ばれるホテルのひとつだというのに、臆することがないからだ。つまりそれは彼らが社交性に富んでいてこういった場所で食事をすることにも慣れているということなのか。だとすれば、つくしの学生時代とは大きな違いだった。
そしてこれからの彼らには、どんな未来が待っているのか。
どちらにしても彼らは色々な可能性を持っているはずだ。
「それにしてもラブカは出産する時だけ沿岸に近づいてくるっていうんだから、ウナギがマリアナ海溝まで行って産卵するのと同じってことよね?でも人間に置き換えて考えてみたら人間が3年半も妊娠してたら大変よ?」
「そうだよな。3年半も妊娠した状態でいたら大変だろうな。家事なんかどうすんだよ?掃除洗濯買い物。3年半も大きな腹でやるんだぞ?」
「何言ってるのよ?何も奥さんだけが全部するなんてことないでしょ?そんなの夫が手伝うのが当然でしょ?それに料理だって夫が作ってもいいのよ?いい?高橋君。そんな何でも女性にしてもらおうなんて甘いわよ。そんなんじゃ結婚してくれる人いないわよ?今の世の中、夫も妻を手伝うのが当たり前なんだからね?」
女子学生にそう言われた高橋は、「分かったって。そんなに言うなよ。俺だって掃除や洗濯くらい出来るぞ。それに料理だって男の料理なら作ってやれる」と言った。
「ふーん。でも高橋君の料理ってインスタントラーメンでしょ?それじゃあねぇ」
「別にいいだろ。喰えるんだから」
「あのね、妊娠した妻にインスタントラーメンを食べさせるなんて、どう考えてもおかしいわよ。お腹には大事な子供がいるのに、もっと栄養がある物を食べなきゃダメでしょ?」
栄養のあるものを食べなきゃダメ。
つくしは教え子たちの会話を訊きながら、その言葉を反芻していた。
インフルエンザから回復し食料を調達するためコンビニへ出かけようとした時かかってきた電話のことを。
あの日。これから食べ物を買いに行くと言った時、病み上がりで寒い中、外へ出るのは控えた方がいいと言われたが、まともに食べれる物が無い。それこそラーメンも無いと言った。
そしていつも出前を頼む中華料理屋は正月休みだと言われたと答えると、「ああ。私の電話番号と間違えたあの中華料理屋ですか」と言って笑うと驚くような事を口にした。
「あなたは中華料理がお好きなようですので次の番号に電話をすればいい。そこは私が懇意にしている中華料理店ですが、そこなら料理を配達してくれる。私はあなたの名前は知りませんが、あなたのことを長谷川という名前で話をつけておきます。それから私の名前は『杉村』ということにしておきます。だからあなたは電話で、長谷川だが杉村の件でと言えばいい。それで相手はわかる。外は寒い。病み上がりのあなたがわざわざ外へ出ていく必要なない。これは私からのお見舞いだと思ってください。私がご馳走します」
そう言って教えてられた番号はメープルの中にある東京で一番美味しいと言われる老舗中華料理店。迷ったがつくしは感謝の気持を持ちながら電話をすることに決めた。
それはその人のことを知りたいと思ったからだ。電話の男性はつくしが中華料理店に電話をしたことで、つくしの住所を知ることになるのか。だがそれなら逆につくしがその男性の何かを知ることが出来るはずだと思った。だが電話を受けた店の人間は、当店がお伺いしたお客様の情報はどなた様にもお知らせすることはありませんと言われた。
つまり顧客情報の管理は徹底していると言うことだ。
そして『長谷川様』にお届けする料理は、と言われ「髪菜(はっさい)と海鮮、フカヒレのスープ」「牛ヒレ肉とピーマンの細切り炒め」「トリュフの香りのきのこチャーハン」「北京ダックと点心盛り合わせ」「季節の果物」となっておりますが他にご希望があればなんなりとお伺いいたしますと言われた。
そして1時間後には夢のような料理がつくしの手元に届けられた。
「そう言えば俺の友達で高森開発に就職が決まってるのがいるんだけど、あんなことになっただろ?あんな風に会社がゴタゴタしてるから就職大丈夫かって心配してるぜ」
「そうよね。まさか高森開発があんなことになるなんて」
「だろ?でも道明寺が買うって話がある。けどまだ噂だからどうなるか分かんねぇよな」
つくしは学生たちの話に高森開発が出たことで、あの日のことを思い出していた。
それは道明寺副社長のパートナーとしてパーティーに出席したが、そこで高森真理子に化粧室の前で声をかけられ、道明寺副社長の恋人だと言われたことを。
だがつい先日テレビで見たのは、真理子の夫である社長の高森隆三が釈明をする姿であり、記者たちに向かって深々と頭を下げる姿だった。
「__牧野先生?牧野先生?」
「え?」
「そう言えば牧野先生は道明寺副社長のブレーンになったじゃないですか?いつだったか道明寺副社長が大学のカフェテリアに居たって話を訊きましたけど、先生は道明寺副社長に興味は無いんですか?私は本人を見たことがありませんけど、その時見かけた学生は凄くかっこよかったって自慢してたんですよ?それを訊いて凄い羨ましかったんですから」
つくしが彼女たちと同じ年だった頃、一回り以上も年が離れた男性を恋愛対象と見たことはなかったが、果たして教え子はどうなのか。まだ若いから人の本質よりも他の部分を見ているのか。だとしたら褒められたものではないが、それは今ここで言うことではない。
今夜はゼミの打ち上げであり、学生たちにとっては楽しい場であるのだから。
だからつくしは明るく答えた。
「やあねぇ。興味なんて無いわよ」
「そうなんですか?それ凄く勿体ない話ですよ。本当に興味がないんですか?道明寺ホールディングスの次期社長ですよ?凄いお金持ちでかっこいい男性ですよ?そんな人の傍に近寄ることが出来る女性なんてこの世の中に何人もいないんですよ?それなのに興味が無いんですか?」
「無いわよ。大体考えてみて。そんなにお金持ちの男性が大学で教えている女に興味を持つと思う?」
「え~。だって先生可愛いじゃないですか。年だって….そりゃ30代ですけど私たちと見た目はそんなに変わりませんから」
一回りも年下の学生からそう言われても本気にはしなかった。
そしてやはりさっきは言うまいと思っていたことを口にしていた。
「いい?あなたち。これから社会に出ても外見だけで人を判断してはダメよ。それから自分に自信を持って生きてね。あなたたちの未来はこれからよ。今からが人生のスタートよ!」
宣言するような言い方で道明寺司のことは食事の話題から外したが、女子学生からは、
「あ~あ。道明寺副社長のこと訊きたかったのに!」と残念そうに言われた。

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手の中の小さな機械のディスプレイに電話番号は表示されず相手が誰だか分からなかった。
いつも桜子からは、非通知の番号に出る必要はないと言われるが、この電話を無視しようとは思わなかった。
「もしもし?」
『もしもし。私です。今いいですか?』
電話の相手は、つくしが週に一度の約束で電話をかけている男性だった。
だが自分からはかけないと言っていた男性がどうしてかけて来たのかという思いが一番に頭を過った。何故なら今までの会話から感じられた男性のきっぱりとした話ぶりは、自分の言葉に自信を持ち、一度口にしたことは絶対であり、約束は守られるべきであるといった社会的な常識を強く意識させる話し方をしていたからだ。
だからそういった強い意思を持つ男性が何故電話をしてきたのか。
「あ、あの…」
言い淀んだのは予期せぬ電話なこともだが、『今いいですか』といつも自分が口にする言葉が相手の口から出たからだ。だからどう返事をしようかと言葉を探したが、口を突いたのは、
「え?ええ…大丈夫です。でもあの_」という途切れた言葉だった。
それは、これから近くのコンビニへ食べ物を買いに行こうとしていたからではない。
ただ、自分からは電話をかけないと言った男性が電話をかけてきたことに驚いたとしか言えず、言葉に詰まった。
けれど、それを驚きであり疑問と捉えると同時に淡い期待といったものが生じていた。
それはもしかすると、男性はつくしが暫く電話をかけなかったことを心配したと言うこと。
電話だけの相手だが、音沙汰がないことを気にしてくれたということだ。
『私から電話をかけることはないと言ったのに何故電話をかけて来たのか?あなたはそれを考えている。違いますか?』
それはまさにつくしが言いたかった言葉だが、男性は何も答えないつくしに言葉を置き換え再び訊いた。
『あなたは私からはかけないと言ったがどうして電話をしてきたのかを考えている。そうですね?』
まさにその通りだ。
何故自分から電話をかけてきたのか。だがら「ええ」と答え男性の言葉を待った。
『暫くあなたからの電話がなかったものですから心配になりましてね。どうしているのかと思ったんです。何しろ私にとって週に一度のあなたからの電話は楽しみだった。だから自分からはかけることはないと言ったがこうしてかけてしまいました。だがもしかするとあなたはもう私と話がしたくない。だから電話をかけるのを止めたのなら私はあなたに電話をするべきではなかったということになります。つまり私たちが電話で話をするのはこれが最後ということです』
男性の声は、いつもと同じでしゃがれていたが、久し振りに聞くその声は古くからの友人の声のように耳に響いた。そしてその声はつくしに安心感を与えた。
だから電話で話をするのは、これが最後だと言われたことにすぐさま否定の言葉を口にした。
「違います。ち、違うんです。クリスマスから年末にかけてお忙しいと思ったんです。
だからお電話しませんでした。それから年末にインフルエンザに罹って寝込んでいたんです。だから年が明けてから電話をしようと……思っていたんです」
一瞬言葉に詰まったのは、咳が出そうになったからだ。
だがそれをなんとか呑み込み言葉を継ぎ最後まで言った。
『そうでしたか。それは大変でしたね。インフルエンザとなるとかなりの高熱が出たのではないですか?』
「え?ええ。でも幸い近くに病院があるので駆け込みました。それに比較的手当てが早かったこともあったので熱は出ましたが翌日には徐々下がり始めました。ですから思ったほどではなかったんですが、でも身体は海の底に沈んでいるように重かったんです。だからずっと海の底に横たわっていました」
『海の底ですか?』
「ええ。そうです。海の底に押さえつけられている。そんなことは実際にはあり得ませんしもちろん経験したこともありませんが、身体がだるくて何もする気になれませんでした。だから電話をかけることが出来ませんでした。本当はかけたかったんです。話をしたかったんです。…..その....色々とです」
色々と話がしたかった。
それは道明寺副社長のことだが、そのことをある人から好意を寄せられているが困っていると話した。すると、その人が真剣なら話を訊いてみてはどうかと言われた。
つくしは強引な男性には慣れていない。だが電話の男性からの言葉に話を訊くだけならという思いを持った。
だから話を訊いた上できちんと断ればいいと思っていた。
けれど、道明寺副社長が自分の前に現れた若い男性を牽制するという行為は好ましいとは言えなかった。
だから話を訊くまでもなく自分の思いを伝えた。
__私はひとりでいたいんです、と。
だがこの思いは既に伝えていた思いであり、それを再び口にしただけだ。
『そうでしたか。もしかすると私はあなたに見限られたのではないかと思いましたが、そうではなかったということですね?』
「そんな。見限るなんてこと_」
そこまで言って急に今まで感じたことがない想いが心に宿った。
今紛れもなく心の中に存在しているのは夜の電話の男性であり、若林和彦でもなければ道明寺司でもなく、名前も知らなければ、どんな人間かも分からない男性。
今までピントが合わない。壊れていると言われていたカメラの露出が補正されたように、ひとつのことに焦点が合いフラッシュが焚かれた。
それは、まるで滅多に見ることが出来ないと言われている幻のサメに出会ったような気持ちだ。
だがサメと言えば経済界のサメと呼ばれる男性の姿が頭を過ったが、その人ではない。
それなら電話の男性を何と言えばいいのか。会ったことがないのだから例えることは出来なかったが、深海に棲む大きな緑色の眼に細く長い身体をした群れを作らないヨロイザメのように思えた。
ヨロイザメの顎は小さいが頑強で噛む力が非常に強いサメであり、深海における強力な捕食者だ。だが生息域が深海であるため人間に直接的な被害が及ぶことはないが、準絶滅危惧種だ。まさに電話の男性のようにひと目に触れることはなく、静かに暮らしていて、道明寺副社長のように広い海を回遊し、目の前にいる獲物の全てを喰らおうとするホホジロザメではない。そうだ。好きだからといっていきなりキスをするようなことはしないはずだ。
その人が心の中に入ってくる。電話の男性が心の中に入ってくるのが感じられた。
会ったこともなければ名前も知らない人だが、まさに初めてヨロイザメを見た時のように、その人が心の鍵を開けて入ってくる。長い間心の中に入って来る人はいなかったが、それは自分が傷つくのが嫌だから受け入れることが出来なかった。だが、この人は違うという漠然とした思いがあった。心が動くとはこういうことを言うのだろうか。だから電話で話しをすることを止めたくなかった。
『どうかしましたか?』
「え?いえ。なんでもありません」と答えたが、なんでもないは嘘だ。
心の中に宿ったのは、声だけの男性を好きになっている気持ちだった。

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いつも桜子からは、非通知の番号に出る必要はないと言われるが、この電話を無視しようとは思わなかった。
「もしもし?」
『もしもし。私です。今いいですか?』
電話の相手は、つくしが週に一度の約束で電話をかけている男性だった。
だが自分からはかけないと言っていた男性がどうしてかけて来たのかという思いが一番に頭を過った。何故なら今までの会話から感じられた男性のきっぱりとした話ぶりは、自分の言葉に自信を持ち、一度口にしたことは絶対であり、約束は守られるべきであるといった社会的な常識を強く意識させる話し方をしていたからだ。
だからそういった強い意思を持つ男性が何故電話をしてきたのか。
「あ、あの…」
言い淀んだのは予期せぬ電話なこともだが、『今いいですか』といつも自分が口にする言葉が相手の口から出たからだ。だからどう返事をしようかと言葉を探したが、口を突いたのは、
「え?ええ…大丈夫です。でもあの_」という途切れた言葉だった。
それは、これから近くのコンビニへ食べ物を買いに行こうとしていたからではない。
ただ、自分からは電話をかけないと言った男性が電話をかけてきたことに驚いたとしか言えず、言葉に詰まった。
けれど、それを驚きであり疑問と捉えると同時に淡い期待といったものが生じていた。
それはもしかすると、男性はつくしが暫く電話をかけなかったことを心配したと言うこと。
電話だけの相手だが、音沙汰がないことを気にしてくれたということだ。
『私から電話をかけることはないと言ったのに何故電話をかけて来たのか?あなたはそれを考えている。違いますか?』
それはまさにつくしが言いたかった言葉だが、男性は何も答えないつくしに言葉を置き換え再び訊いた。
『あなたは私からはかけないと言ったがどうして電話をしてきたのかを考えている。そうですね?』
まさにその通りだ。
何故自分から電話をかけてきたのか。だがら「ええ」と答え男性の言葉を待った。
『暫くあなたからの電話がなかったものですから心配になりましてね。どうしているのかと思ったんです。何しろ私にとって週に一度のあなたからの電話は楽しみだった。だから自分からはかけることはないと言ったがこうしてかけてしまいました。だがもしかするとあなたはもう私と話がしたくない。だから電話をかけるのを止めたのなら私はあなたに電話をするべきではなかったということになります。つまり私たちが電話で話をするのはこれが最後ということです』
男性の声は、いつもと同じでしゃがれていたが、久し振りに聞くその声は古くからの友人の声のように耳に響いた。そしてその声はつくしに安心感を与えた。
だから電話で話をするのは、これが最後だと言われたことにすぐさま否定の言葉を口にした。
「違います。ち、違うんです。クリスマスから年末にかけてお忙しいと思ったんです。
だからお電話しませんでした。それから年末にインフルエンザに罹って寝込んでいたんです。だから年が明けてから電話をしようと……思っていたんです」
一瞬言葉に詰まったのは、咳が出そうになったからだ。
だがそれをなんとか呑み込み言葉を継ぎ最後まで言った。
『そうでしたか。それは大変でしたね。インフルエンザとなるとかなりの高熱が出たのではないですか?』
「え?ええ。でも幸い近くに病院があるので駆け込みました。それに比較的手当てが早かったこともあったので熱は出ましたが翌日には徐々下がり始めました。ですから思ったほどではなかったんですが、でも身体は海の底に沈んでいるように重かったんです。だからずっと海の底に横たわっていました」
『海の底ですか?』
「ええ。そうです。海の底に押さえつけられている。そんなことは実際にはあり得ませんしもちろん経験したこともありませんが、身体がだるくて何もする気になれませんでした。だから電話をかけることが出来ませんでした。本当はかけたかったんです。話をしたかったんです。…..その....色々とです」
色々と話がしたかった。
それは道明寺副社長のことだが、そのことをある人から好意を寄せられているが困っていると話した。すると、その人が真剣なら話を訊いてみてはどうかと言われた。
つくしは強引な男性には慣れていない。だが電話の男性からの言葉に話を訊くだけならという思いを持った。
だから話を訊いた上できちんと断ればいいと思っていた。
けれど、道明寺副社長が自分の前に現れた若い男性を牽制するという行為は好ましいとは言えなかった。
だから話を訊くまでもなく自分の思いを伝えた。
__私はひとりでいたいんです、と。
だがこの思いは既に伝えていた思いであり、それを再び口にしただけだ。
『そうでしたか。もしかすると私はあなたに見限られたのではないかと思いましたが、そうではなかったということですね?』
「そんな。見限るなんてこと_」
そこまで言って急に今まで感じたことがない想いが心に宿った。
今紛れもなく心の中に存在しているのは夜の電話の男性であり、若林和彦でもなければ道明寺司でもなく、名前も知らなければ、どんな人間かも分からない男性。
今までピントが合わない。壊れていると言われていたカメラの露出が補正されたように、ひとつのことに焦点が合いフラッシュが焚かれた。
それは、まるで滅多に見ることが出来ないと言われている幻のサメに出会ったような気持ちだ。
だがサメと言えば経済界のサメと呼ばれる男性の姿が頭を過ったが、その人ではない。
それなら電話の男性を何と言えばいいのか。会ったことがないのだから例えることは出来なかったが、深海に棲む大きな緑色の眼に細く長い身体をした群れを作らないヨロイザメのように思えた。
ヨロイザメの顎は小さいが頑強で噛む力が非常に強いサメであり、深海における強力な捕食者だ。だが生息域が深海であるため人間に直接的な被害が及ぶことはないが、準絶滅危惧種だ。まさに電話の男性のようにひと目に触れることはなく、静かに暮らしていて、道明寺副社長のように広い海を回遊し、目の前にいる獲物の全てを喰らおうとするホホジロザメではない。そうだ。好きだからといっていきなりキスをするようなことはしないはずだ。
その人が心の中に入ってくる。電話の男性が心の中に入ってくるのが感じられた。
会ったこともなければ名前も知らない人だが、まさに初めてヨロイザメを見た時のように、その人が心の鍵を開けて入ってくる。長い間心の中に入って来る人はいなかったが、それは自分が傷つくのが嫌だから受け入れることが出来なかった。だが、この人は違うという漠然とした思いがあった。心が動くとはこういうことを言うのだろうか。だから電話で話しをすることを止めたくなかった。
『どうかしましたか?』
「え?いえ。なんでもありません」と答えたが、なんでもないは嘘だ。
心の中に宿ったのは、声だけの男性を好きになっている気持ちだった。

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司はあの夫婦がどんな措置を講じるか見ものだと思った。
だが結果は既に見えている。
粉飾は犯罪であり、高森開発が無傷でいることは無理だ。
司が高森隆三と面会してから数日後。週刊誌が高森開発と大臣との蜜月ぶりを取り上げた。
書かれている内容は高森から大臣への金の流れだが、そこから粉飾決算が発覚すると、テレビや新聞が大きく取り上げ騒ぎになった。
やがて週刊誌は、高森真理子についての記事を載せた。それは二回り以上年下の妻が、社内の人事に口を出し、気に入った男性社員を自分専用の運転手に配置転換をすると、誘惑しているという話を面白おかしく書き立てた。
司は、記事が出るより前に高森開発の駅前再開発事業に対して融資を決めていた銀行へ粉飾の情報は流していたが、その銀行の頭取とは、かねてから昵懇(じっこん)の間柄であり直接電話が出来る関係だった。
『道明寺副社長。先日は情報をありがとうございました。粉飾決算ともなれば、いったいどれほどの金額が本来の赤字としてあるのかということになりますが、まさか監査法人を巻き込んでいたとは。それにしても提出された決算書類が嘘だとは、さすがに我々もそこまで考えたことはありませんでしたが、週刊誌の記事やら何やらを考えれば、もしかするとあの監査法人は何か弱みでも握られていると考えてもおかしくはないですな』
頭取が言っているのは妻の真理子の記事についてであり、真理子の人事への口出しが社内では反感を買っていた。そして、こうなった今だからと社員の中には証言する者もいて、その中には司の耳に入っていなかったことが書かれた記事もあった。それは公認会計士のひとりが真理子と愛人関係にあったということだ。
『どちらにしてもあの会社は経営陣の退陣はもちろん、社長の資産の提供も必要になるでしょう。それからその後のことになりますが、つまり再建のスキーム準備となるわけですが、御社がお引き受けになる。つまり買収されるということですね?』
銀行は経営危機に陥った企業には冷たい。
景気の良い時は押し付けるように金を借りてくれと言い、返済についてはいつでもいいと約束する。だが、金貸しからいくら言質を取ったところで何の意味もなさないのと同じで、貸し剥がしは当たり前のように行われ全てを惜しみなく奪う。
つまり、いつ何時手のひらを返し金を返せというか分かったものではない。だから銀行を相手にするなら油断をするなと言うことだ。だから企業はなるべく銀行と付き合うことは避けるべきだ。
そして高森開発の株式を持つ銀行は、所有する株式が紙くず同然になるよりは、司の会社が高森を買い取り、再建を図る方が有益であると分かっている。
つまり銀行は絶対に自分が損をすることがないように動く。
そして道明寺の財務体力なら赤字を抱えている高森を抱えても、問題ないと知っているからこそ司の返事を早く訊きたがっていた。
「ええ。そのつもりです。あの会社は潰すにはもったいない。ですからうちで買い取りますよ。それから貴行に迷惑がかかるようなことにならないようにしたいと思いますのでご安心下さい」
『そうですか。道明寺副社長にそう言っていただけると安心です。何しろあの会社には、今までも随分と融資をしています。回収できないとなると当行の株主が文句を言います。それにしても高森開発が粉飾をしているとなると、今後調べて行けば会社資金の私的流用も考えられるということですな』
会社資金の私的流用。そうなれば会社に損害を与えたということから特別背任の罪に問われる。
会社というものは、一経営者の判断で繁栄もすれば破滅も招くが、高森夫妻はカマドの下の灰まで自分のもの。つまり会社のもの全てが自分の物であるという意識が強く働いていたということになる。それは小さな不動産屋ならまだしも、一部上場企業になればガバナンスが働くのが当然だが、それが欠如していたということだ。
そして司に言わせれば、調べてみれば高森開発はとっくの昔に破滅していたとしてもおかしくはなかった会社だ。
「頭取。高森についてはうちの不動産部門が吸収することになります。高森が開発しようとしていた駅前の土地は、うちで開発しますので楽しみにして頂ければと思います」
『ええ。どんな建物が立つか楽しみにしておりますよ、道明寺副社長。私の孫娘はあなたの従弟と結婚している。言わば私たちは親戚関係だ。ですから御社にはさらに発展していただければと望みます』
半年前。頭取の孫は道明寺グループの海運会社に勤務する司の従弟と結婚した。
つまり銀行と道明寺の関係は、浅からぬ縁が生じたことになり、頭取として直接的に道明寺に肩入れすることは出来なくても、気に掛けずにはいられない会社となった。
そして頭取は、全面的に司を信頼していることから語調は終始穏やかだった。
司は電話を切ると煙草に火を点けた。
週に一度。夜の電話の男にかかってくるはずの電話は、前回の電話から10日以上過ぎたが、かかってはこなかった。
あの日。大学のカフェテリアで誰とも付き合う気はないと司を拒否した女は、電話の男も拒否することに決めたのか。
それなら自分から電話をかけるか。
そして男性と親しくすることは勇気がいるの意味を訊くか。
だが夜の電話の男は、自分からはかけることはないと言った。
だからかけるとすれば口実が必要なはずだが何を口実にすればいい?
それにしても、まさか自分から女に電話をかける。そして女に電話をかける口実を探すとは思いもしなかった。
***
暮れから正月にかけて、大学が休みに入れば実家に顔を出すのが例年の行事だった。
だが今年の正月はひとり家で寝ていた。
それは、年末インフルエンザに罹ったことからむやみに出歩かない。外出すべきではないという結論に落ち着いたからだ。
冷凍庫にはいくらでも食料はあった。
だから食べるに困ることはない。
だが冷凍庫の中を見て思った。いったいいつ冷凍したのか分からない食品は冷凍焼けしていて、氷詰めの標本状態で酸化していて明らかでパサパサだった。と、なるとまともな食料は無いということになる。
「牡蠣ならあるけどフライにして食べる訳にはいかないしね….」
冬休みに入る前、広島にいるかつての教え子から研究室に送られて来た殻付きの牡蠣を桜子の家で鍋に入れて食べたが、あざやかな手つきで殻を開ける桜子から「これ。持って帰って下さい。フライにして食べたら美味しいですから」と言われ持ち帰った牡蠣は、冷凍保存されていて、それはまだ新しいことから新鮮さが感じられた。
牡蠣は海のミルクと言われ栄養が豊富だ。だが病み上がりの今、牡蠣を食べたいとは思わなかった。それなら近くの中華料理屋丸源に出前を頼めばいいと思い電話したが、年末ギリギリまで営業した店は、正月休みだと声が流れて来た。
「休みかぁ….」
1月の初旬は12月の温かさが嘘のように冷え込んでいた。
まさに空気が凍り付いたと言ってもいい冷え込みで小雪が舞っていた。だから外に出たくはなかったが、食べる物がない。
「はぁ……こんな日に外に出たくないけど仕方がないわよね。まともに食べれるものがないんだもの」
一番近くのコンビニまで信号待ちを含め片道10分はかかる。
元気な時ならなんとも思わないその時間も往復すれば20分。病み上がり寒風に晒されることを考えただけで背中が凍り付きそうになった。
そして手にしている携帯電話を眺めながら思った。
週に一度電話をかけると約束した男性に暫くかけてないが、クリスマスから年末という時期は、慌ただしい季節であり男性も忙しいはずだと電話を控えた。だから年が明けてかけようと思ったが、インフルエンザになって声が出し辛かった。
自分からはかけないと言った男性はつくしからの電話を待っているだろうか。電話がかかってこないことを気にしているだろうか。
その時、手の中の小さな機械が鳴った。

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だが結果は既に見えている。
粉飾は犯罪であり、高森開発が無傷でいることは無理だ。
司が高森隆三と面会してから数日後。週刊誌が高森開発と大臣との蜜月ぶりを取り上げた。
書かれている内容は高森から大臣への金の流れだが、そこから粉飾決算が発覚すると、テレビや新聞が大きく取り上げ騒ぎになった。
やがて週刊誌は、高森真理子についての記事を載せた。それは二回り以上年下の妻が、社内の人事に口を出し、気に入った男性社員を自分専用の運転手に配置転換をすると、誘惑しているという話を面白おかしく書き立てた。
司は、記事が出るより前に高森開発の駅前再開発事業に対して融資を決めていた銀行へ粉飾の情報は流していたが、その銀行の頭取とは、かねてから昵懇(じっこん)の間柄であり直接電話が出来る関係だった。
『道明寺副社長。先日は情報をありがとうございました。粉飾決算ともなれば、いったいどれほどの金額が本来の赤字としてあるのかということになりますが、まさか監査法人を巻き込んでいたとは。それにしても提出された決算書類が嘘だとは、さすがに我々もそこまで考えたことはありませんでしたが、週刊誌の記事やら何やらを考えれば、もしかするとあの監査法人は何か弱みでも握られていると考えてもおかしくはないですな』
頭取が言っているのは妻の真理子の記事についてであり、真理子の人事への口出しが社内では反感を買っていた。そして、こうなった今だからと社員の中には証言する者もいて、その中には司の耳に入っていなかったことが書かれた記事もあった。それは公認会計士のひとりが真理子と愛人関係にあったということだ。
『どちらにしてもあの会社は経営陣の退陣はもちろん、社長の資産の提供も必要になるでしょう。それからその後のことになりますが、つまり再建のスキーム準備となるわけですが、御社がお引き受けになる。つまり買収されるということですね?』
銀行は経営危機に陥った企業には冷たい。
景気の良い時は押し付けるように金を借りてくれと言い、返済についてはいつでもいいと約束する。だが、金貸しからいくら言質を取ったところで何の意味もなさないのと同じで、貸し剥がしは当たり前のように行われ全てを惜しみなく奪う。
つまり、いつ何時手のひらを返し金を返せというか分かったものではない。だから銀行を相手にするなら油断をするなと言うことだ。だから企業はなるべく銀行と付き合うことは避けるべきだ。
そして高森開発の株式を持つ銀行は、所有する株式が紙くず同然になるよりは、司の会社が高森を買い取り、再建を図る方が有益であると分かっている。
つまり銀行は絶対に自分が損をすることがないように動く。
そして道明寺の財務体力なら赤字を抱えている高森を抱えても、問題ないと知っているからこそ司の返事を早く訊きたがっていた。
「ええ。そのつもりです。あの会社は潰すにはもったいない。ですからうちで買い取りますよ。それから貴行に迷惑がかかるようなことにならないようにしたいと思いますのでご安心下さい」
『そうですか。道明寺副社長にそう言っていただけると安心です。何しろあの会社には、今までも随分と融資をしています。回収できないとなると当行の株主が文句を言います。それにしても高森開発が粉飾をしているとなると、今後調べて行けば会社資金の私的流用も考えられるということですな』
会社資金の私的流用。そうなれば会社に損害を与えたということから特別背任の罪に問われる。
会社というものは、一経営者の判断で繁栄もすれば破滅も招くが、高森夫妻はカマドの下の灰まで自分のもの。つまり会社のもの全てが自分の物であるという意識が強く働いていたということになる。それは小さな不動産屋ならまだしも、一部上場企業になればガバナンスが働くのが当然だが、それが欠如していたということだ。
そして司に言わせれば、調べてみれば高森開発はとっくの昔に破滅していたとしてもおかしくはなかった会社だ。
「頭取。高森についてはうちの不動産部門が吸収することになります。高森が開発しようとしていた駅前の土地は、うちで開発しますので楽しみにして頂ければと思います」
『ええ。どんな建物が立つか楽しみにしておりますよ、道明寺副社長。私の孫娘はあなたの従弟と結婚している。言わば私たちは親戚関係だ。ですから御社にはさらに発展していただければと望みます』
半年前。頭取の孫は道明寺グループの海運会社に勤務する司の従弟と結婚した。
つまり銀行と道明寺の関係は、浅からぬ縁が生じたことになり、頭取として直接的に道明寺に肩入れすることは出来なくても、気に掛けずにはいられない会社となった。
そして頭取は、全面的に司を信頼していることから語調は終始穏やかだった。
司は電話を切ると煙草に火を点けた。
週に一度。夜の電話の男にかかってくるはずの電話は、前回の電話から10日以上過ぎたが、かかってはこなかった。
あの日。大学のカフェテリアで誰とも付き合う気はないと司を拒否した女は、電話の男も拒否することに決めたのか。
それなら自分から電話をかけるか。
そして男性と親しくすることは勇気がいるの意味を訊くか。
だが夜の電話の男は、自分からはかけることはないと言った。
だからかけるとすれば口実が必要なはずだが何を口実にすればいい?
それにしても、まさか自分から女に電話をかける。そして女に電話をかける口実を探すとは思いもしなかった。
***
暮れから正月にかけて、大学が休みに入れば実家に顔を出すのが例年の行事だった。
だが今年の正月はひとり家で寝ていた。
それは、年末インフルエンザに罹ったことからむやみに出歩かない。外出すべきではないという結論に落ち着いたからだ。
冷凍庫にはいくらでも食料はあった。
だから食べるに困ることはない。
だが冷凍庫の中を見て思った。いったいいつ冷凍したのか分からない食品は冷凍焼けしていて、氷詰めの標本状態で酸化していて明らかでパサパサだった。と、なるとまともな食料は無いということになる。
「牡蠣ならあるけどフライにして食べる訳にはいかないしね….」
冬休みに入る前、広島にいるかつての教え子から研究室に送られて来た殻付きの牡蠣を桜子の家で鍋に入れて食べたが、あざやかな手つきで殻を開ける桜子から「これ。持って帰って下さい。フライにして食べたら美味しいですから」と言われ持ち帰った牡蠣は、冷凍保存されていて、それはまだ新しいことから新鮮さが感じられた。
牡蠣は海のミルクと言われ栄養が豊富だ。だが病み上がりの今、牡蠣を食べたいとは思わなかった。それなら近くの中華料理屋丸源に出前を頼めばいいと思い電話したが、年末ギリギリまで営業した店は、正月休みだと声が流れて来た。
「休みかぁ….」
1月の初旬は12月の温かさが嘘のように冷え込んでいた。
まさに空気が凍り付いたと言ってもいい冷え込みで小雪が舞っていた。だから外に出たくはなかったが、食べる物がない。
「はぁ……こんな日に外に出たくないけど仕方がないわよね。まともに食べれるものがないんだもの」
一番近くのコンビニまで信号待ちを含め片道10分はかかる。
元気な時ならなんとも思わないその時間も往復すれば20分。病み上がり寒風に晒されることを考えただけで背中が凍り付きそうになった。
そして手にしている携帯電話を眺めながら思った。
週に一度電話をかけると約束した男性に暫くかけてないが、クリスマスから年末という時期は、慌ただしい季節であり男性も忙しいはずだと電話を控えた。だから年が明けてかけようと思ったが、インフルエンザになって声が出し辛かった。
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「ねえ。支社長って最近太ったような気がするんだけど私の気のせい?」
「え?!美香もそう思ったの?」
「うん。昨日のテレビ朝礼見て思ったんだけど、なんだか顔がふっくらしてるように感じられたの」
「同じよ、同じ!私もそう感じたの。もしかして支社長体重が増えたんじゃない?」
「えー。嘘、やだ.....支社長がうちの部長みたいになったら嫌よ?そうなったら私ショックで寝込んじゃうわ」
「私だって嫌よ。支社長はあの背の高さにスラっとした身体で、でも脱いだらお腹がシックスパックに割れた筋肉質なイメージなのに!」
「そうよ。見たことないけど脱いだら凄いんだって噂だもん。それなのにお腹がブヨブヨした支社長なんて見たくないわよ。支社長はライザップの成功例CMに出れるくらい素敵な身体だと思ってるのに!」
道明寺ホールディングス株式会社日本支社の全てに於いて責任を持つ。つまりコミットすることが課せられた男は廊下の曲がり角で女性社員の話に耳をそばだてていた。
そして太ったんじゃないかと言われてショックを受けていた。
だが顔がふっくらして見えたのは歯の痛みのせいで片方の頬が腫れていたからで、決して体重が極端に増えているのではない。実際体脂肪率は6から8パーセントを維持していて決して10パーセントを超えることはない。
だが気を付けなければならないことがある。
それは鍋だ。冬と言えば鍋であり、鍋と言えばヘルシーだと言われ食べても太ることはないと言われているが実際はそうではない。
先日風邪気味の司のため恋人が用意してくれた鍋があったが、司は白ネギが好きでネギ多めと言ってネギを多めに入れた。だがだからと言ってネギばかりを食べていたのではない。
鶏肉や肉団子といったものが入っていて、恋人が用意してくれた鍋に入っていた鶏肉はヘルシーな胸肉ではなく脂肪分の多いもも肉だった。そして鍋と言えばシメの雑炊となるが実はそれが曲者だ。
それは鍋に残っただし汁には、たっぷりと脂が溶けだしているということ。
そこにご飯を入れ雑炊を作る。つまり脂をたっぷりと含んだ炭水化物というのは太る元であり、普段炭水化物をあまり食べない司にとって雑炊という食べ物は美味いのだが太る元凶だった。
そして冬は寒いから鍋がいいと言って週に一度の割合で鍋が出る。
それはモツ鍋だったり、しゃぶしゃぶだったりすることもあるが、どちらの肉も脂肪が多く、それらの残っただし汁の中に投入されたご飯で作られた雑炊を食べた結果が出ていないとは言えなかった。
だが司は恋人が作ってくれる料理を断ることは出来なかった。
そうだ。
顔がふっくらして見えるのは歯の痛みのせいだと言ったが、実は若干身体が重い。
だが最近は忙しく運動する暇がない。だがこのまま放置すると非常にマズイことになる。
司は執務室に戻り腰を下ろし考えた。
司は自分が太っていたらと想像したこともなければ、太るなど考えたこともない。
それは家族の中に太った人間はいないことから遺伝的にも自分は太らない体質だと思っていたからだ。だが、家族ではないがひとり思い当たる人物がいた。
それは、司の従兄の成宮清永。
あれは高校生の頃。司の偽者として現れた国沢亜門がなりすました成宮清永。
その時会った従兄は丸々とした顔をして太っていた。つまり司の中にある隠された遺伝子の中には、太る要素があってもおかしくはないということだ。
だから油断すると自分も太るのではないか。そんな思いが頭を過った。
「….マズイな。これは」
「あたし太った人は嫌いじゃないの。だって幼稚園の頃好きだった子はみんなポッチャリしてたから」
「は?」
「だからね。幼稚園の頃好きだったタダシ君もミノル君もマモル君もみんな太ってたの。だからあたしあんたが太ってても全然気にしないから。むしろ太っている方が頼もしい感じがしていいから。だから今日は腕によりをかけて作ったの。だから食べて。ね?ほら」
司は晴れて長年の恋人と結婚していて、妻が腕によりをかけて作ったという料理を見ていた。
それはオムライス。若鶏の唐揚げ。ピザにラーメンにチョコレートケーキ。それらは炭水化物であり脂肪であり、どう見ても高カロリーの食べ物。だが愛しい人が作った料理であり、食べてと言われれば食べない訳にはいかなかった。だから司はテーブルにつくと食べ始めた。
「どう?美味しい?」
「あ?ああ….美味い」
不味くはなかった。実際それらは美味かった。それは妻の愛情が込められているということも関係しているが、食べないことで彼女が悲しい顔をするのが見たくなかったから食べた。
「そう。良かった!あたし沢山食べる男の人が好きなの。だからどんどん食べて!おかわりならいくらでも作るから」
沢山食べる男が好き。
司はその言葉に食べ続けた。いや。食べ続けなければならなかった。
嬉しそうに微笑みを浮かべる顏が見たいから食べた。
だからとりあえず出されていたものは完食した。そして腹が一杯になると眠気に襲われた。
「お腹が一杯になったの?」
「あ….ああ。流石に腹が一杯になると眠くなるな」
「そう。それなら少し休んだら?」
「ああ。そうさせてもらうが、流石に今日は量が多いだろ?明日からはもう少し減らしてくれ」
「そうかしら?だってあなたが美味しそうに食べるから、つい多く作っちゃうの」
と、言われた司はソファに横になるとうつらうつらとし始めた。
そしてそのまま寝入った。
「…….それで、どうしたらいいの?」
司は暫くすると妻のヒソヒソと話す声に目が覚めた。
そして目が覚めたが起き上ることはせずじっとしていた。
それは後ろ姿の妻が真夜中に携帯電話で話している相手が誰なのか気になったからだ。
「ええ。分かったわ。今日も沢山食べさせたわ。不健康な食事そのものよ。それにどの料理にもマーガリンをたっぷり入れたわ。ええ。毎日続けているわ。昨日はカツカレーにベーコンをたっぷりいれたカルボナーラも食べさせたわ。____大丈夫。彼は全然疑ってないわ。____そうよ。あたしのことを愛してるから完食よ。ねえ、でもいくらカロリーが高くて脂肪が多いものを食べさせ続ければ身体に悪影響が出るからといっても本当にこれであの人が死ぬの?」
司は妻の口からあの人が死ぬの?の言葉に耳を疑った。
話の内容からして「あの人」が司のことであることは明らかだったからだ。
だが飛び起きることはなく、ソファに横になったまま話す様子を見ていた。
「ええ。もちろんそうよ。時間がかかっても自然な死を装うことが一番ですもの。それにあたしが愛しているのはあなたよ。類」
「うわ!冗談じゃねぇぞ!何で俺が牧野に命を狙われなきゃなんねぇんだよ!それになんであいつが愛してるのが類なんだよ!」
司は目が覚めた瞬間叫んでいた。
「ゴホン。支社長。命を狙われるとは随分と物騒な言葉ですね。それから痛め止めのお薬を飲むのもよろしいですが、予約も取れたことですし今日こそは歯科医院に行っていただきます。よろしいですね?」
西田はノックをしても返事がないことを気に留めなかった。
そしていつものように司の傍に立つと今度はいったい何が起こったと気にすることもなく、机の上に書類を置いた。そして歯科医院の診察券も置いた。
***
「道明寺。歯医者さんに行ったのね?」
「ああ。行った」
十数年振りに行った歯医者は、司の歯の美しさを褒めた。
そして褒めながら歯を削った。
「ねえ道明寺。今日ね、カルボナーラを作ったの。それから若鶏の唐揚げも」
「カルボナーラ?」
「そう。カルボナーラよ」
「若鶏の唐揚げもか?」
「そうよ?どうしたの?美味しいわよ?」
司はどこかで訊いたことがある料理に背中がゾッとした。
だがそこから先、恋人の口から訊かされた言葉に胸を撫で下ろした。
「それからグリーンサラダとフルーツもね。脂っこいものばかり食べてたら身体に悪いでしょ?野菜も沢山食べてビタミンも取ってバランスのいい食事にしなきゃね?」
司の恋人は愛情を込めて料理を作ってくれる。
そして彼女の手料理の美味さを知った男は、彼女の料理以外食べたいとは思わなかった。
それに他の女が作る料理など何が入っているか分かったものじゃない。
そんな司の恋は手軽な恋じゃない。
司が大切にしたいのはズブ濡れになって別れを決めたことがある女性。
だがあの時一度別れて知ったことがある。
それは司が愛することが出来るのは彼女だけ。
あの日。雨が打ちつける彼女の背中に背負われていたものを感じ取ることが出来なかった。
自分を捨てた女を憎んだが諦めきれずにいた。
それは激しく苦しく、切なく健気だった青春時代。
あの日以来何があっても、例え世界を巻き込んでも一生一緒にいると決めた。
そして巡る季節を共に過ごし、こうしてふたりは一緒に食事をすることが出来るが、彼女の作った料理を毎日口にしたい。彼女が作った弁当を毎日頬張りたいという思いでいっぱいだ。
一生10代。
そして一生恋愛関係。
でも早く結婚したい。
そして早く妻になって欲しい。
「牧野。俺のこと愛してるか?」
「え?何?」
「だから俺のこと愛してるかって訊いてる」
彼女はそう訊く司に微笑みを浮かべることが多い。
そして愛してるという言葉よりも、いつもこう言っていた。
「好きよ。道明寺」と。
そして純愛を掲げる男は、「俺も。愛してる。牧野」と、いつも切実な愛を伝えていた。

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「え?!美香もそう思ったの?」
「うん。昨日のテレビ朝礼見て思ったんだけど、なんだか顔がふっくらしてるように感じられたの」
「同じよ、同じ!私もそう感じたの。もしかして支社長体重が増えたんじゃない?」
「えー。嘘、やだ.....支社長がうちの部長みたいになったら嫌よ?そうなったら私ショックで寝込んじゃうわ」
「私だって嫌よ。支社長はあの背の高さにスラっとした身体で、でも脱いだらお腹がシックスパックに割れた筋肉質なイメージなのに!」
「そうよ。見たことないけど脱いだら凄いんだって噂だもん。それなのにお腹がブヨブヨした支社長なんて見たくないわよ。支社長はライザップの成功例CMに出れるくらい素敵な身体だと思ってるのに!」
道明寺ホールディングス株式会社日本支社の全てに於いて責任を持つ。つまりコミットすることが課せられた男は廊下の曲がり角で女性社員の話に耳をそばだてていた。
そして太ったんじゃないかと言われてショックを受けていた。
だが顔がふっくらして見えたのは歯の痛みのせいで片方の頬が腫れていたからで、決して体重が極端に増えているのではない。実際体脂肪率は6から8パーセントを維持していて決して10パーセントを超えることはない。
だが気を付けなければならないことがある。
それは鍋だ。冬と言えば鍋であり、鍋と言えばヘルシーだと言われ食べても太ることはないと言われているが実際はそうではない。
先日風邪気味の司のため恋人が用意してくれた鍋があったが、司は白ネギが好きでネギ多めと言ってネギを多めに入れた。だがだからと言ってネギばかりを食べていたのではない。
鶏肉や肉団子といったものが入っていて、恋人が用意してくれた鍋に入っていた鶏肉はヘルシーな胸肉ではなく脂肪分の多いもも肉だった。そして鍋と言えばシメの雑炊となるが実はそれが曲者だ。
それは鍋に残っただし汁には、たっぷりと脂が溶けだしているということ。
そこにご飯を入れ雑炊を作る。つまり脂をたっぷりと含んだ炭水化物というのは太る元であり、普段炭水化物をあまり食べない司にとって雑炊という食べ物は美味いのだが太る元凶だった。
そして冬は寒いから鍋がいいと言って週に一度の割合で鍋が出る。
それはモツ鍋だったり、しゃぶしゃぶだったりすることもあるが、どちらの肉も脂肪が多く、それらの残っただし汁の中に投入されたご飯で作られた雑炊を食べた結果が出ていないとは言えなかった。
だが司は恋人が作ってくれる料理を断ることは出来なかった。
そうだ。
顔がふっくらして見えるのは歯の痛みのせいだと言ったが、実は若干身体が重い。
だが最近は忙しく運動する暇がない。だがこのまま放置すると非常にマズイことになる。
司は執務室に戻り腰を下ろし考えた。
司は自分が太っていたらと想像したこともなければ、太るなど考えたこともない。
それは家族の中に太った人間はいないことから遺伝的にも自分は太らない体質だと思っていたからだ。だが、家族ではないがひとり思い当たる人物がいた。
それは、司の従兄の成宮清永。
あれは高校生の頃。司の偽者として現れた国沢亜門がなりすました成宮清永。
その時会った従兄は丸々とした顔をして太っていた。つまり司の中にある隠された遺伝子の中には、太る要素があってもおかしくはないということだ。
だから油断すると自分も太るのではないか。そんな思いが頭を過った。
「….マズイな。これは」
「あたし太った人は嫌いじゃないの。だって幼稚園の頃好きだった子はみんなポッチャリしてたから」
「は?」
「だからね。幼稚園の頃好きだったタダシ君もミノル君もマモル君もみんな太ってたの。だからあたしあんたが太ってても全然気にしないから。むしろ太っている方が頼もしい感じがしていいから。だから今日は腕によりをかけて作ったの。だから食べて。ね?ほら」
司は晴れて長年の恋人と結婚していて、妻が腕によりをかけて作ったという料理を見ていた。
それはオムライス。若鶏の唐揚げ。ピザにラーメンにチョコレートケーキ。それらは炭水化物であり脂肪であり、どう見ても高カロリーの食べ物。だが愛しい人が作った料理であり、食べてと言われれば食べない訳にはいかなかった。だから司はテーブルにつくと食べ始めた。
「どう?美味しい?」
「あ?ああ….美味い」
不味くはなかった。実際それらは美味かった。それは妻の愛情が込められているということも関係しているが、食べないことで彼女が悲しい顔をするのが見たくなかったから食べた。
「そう。良かった!あたし沢山食べる男の人が好きなの。だからどんどん食べて!おかわりならいくらでも作るから」
沢山食べる男が好き。
司はその言葉に食べ続けた。いや。食べ続けなければならなかった。
嬉しそうに微笑みを浮かべる顏が見たいから食べた。
だからとりあえず出されていたものは完食した。そして腹が一杯になると眠気に襲われた。
「お腹が一杯になったの?」
「あ….ああ。流石に腹が一杯になると眠くなるな」
「そう。それなら少し休んだら?」
「ああ。そうさせてもらうが、流石に今日は量が多いだろ?明日からはもう少し減らしてくれ」
「そうかしら?だってあなたが美味しそうに食べるから、つい多く作っちゃうの」
と、言われた司はソファに横になるとうつらうつらとし始めた。
そしてそのまま寝入った。
「…….それで、どうしたらいいの?」
司は暫くすると妻のヒソヒソと話す声に目が覚めた。
そして目が覚めたが起き上ることはせずじっとしていた。
それは後ろ姿の妻が真夜中に携帯電話で話している相手が誰なのか気になったからだ。
「ええ。分かったわ。今日も沢山食べさせたわ。不健康な食事そのものよ。それにどの料理にもマーガリンをたっぷり入れたわ。ええ。毎日続けているわ。昨日はカツカレーにベーコンをたっぷりいれたカルボナーラも食べさせたわ。____大丈夫。彼は全然疑ってないわ。____そうよ。あたしのことを愛してるから完食よ。ねえ、でもいくらカロリーが高くて脂肪が多いものを食べさせ続ければ身体に悪影響が出るからといっても本当にこれであの人が死ぬの?」
司は妻の口からあの人が死ぬの?の言葉に耳を疑った。
話の内容からして「あの人」が司のことであることは明らかだったからだ。
だが飛び起きることはなく、ソファに横になったまま話す様子を見ていた。
「ええ。もちろんそうよ。時間がかかっても自然な死を装うことが一番ですもの。それにあたしが愛しているのはあなたよ。類」
「うわ!冗談じゃねぇぞ!何で俺が牧野に命を狙われなきゃなんねぇんだよ!それになんであいつが愛してるのが類なんだよ!」
司は目が覚めた瞬間叫んでいた。
「ゴホン。支社長。命を狙われるとは随分と物騒な言葉ですね。それから痛め止めのお薬を飲むのもよろしいですが、予約も取れたことですし今日こそは歯科医院に行っていただきます。よろしいですね?」
西田はノックをしても返事がないことを気に留めなかった。
そしていつものように司の傍に立つと今度はいったい何が起こったと気にすることもなく、机の上に書類を置いた。そして歯科医院の診察券も置いた。
***
「道明寺。歯医者さんに行ったのね?」
「ああ。行った」
十数年振りに行った歯医者は、司の歯の美しさを褒めた。
そして褒めながら歯を削った。
「ねえ道明寺。今日ね、カルボナーラを作ったの。それから若鶏の唐揚げも」
「カルボナーラ?」
「そう。カルボナーラよ」
「若鶏の唐揚げもか?」
「そうよ?どうしたの?美味しいわよ?」
司はどこかで訊いたことがある料理に背中がゾッとした。
だがそこから先、恋人の口から訊かされた言葉に胸を撫で下ろした。
「それからグリーンサラダとフルーツもね。脂っこいものばかり食べてたら身体に悪いでしょ?野菜も沢山食べてビタミンも取ってバランスのいい食事にしなきゃね?」
司の恋人は愛情を込めて料理を作ってくれる。
そして彼女の手料理の美味さを知った男は、彼女の料理以外食べたいとは思わなかった。
それに他の女が作る料理など何が入っているか分かったものじゃない。
そんな司の恋は手軽な恋じゃない。
司が大切にしたいのはズブ濡れになって別れを決めたことがある女性。
だがあの時一度別れて知ったことがある。
それは司が愛することが出来るのは彼女だけ。
あの日。雨が打ちつける彼女の背中に背負われていたものを感じ取ることが出来なかった。
自分を捨てた女を憎んだが諦めきれずにいた。
それは激しく苦しく、切なく健気だった青春時代。
あの日以来何があっても、例え世界を巻き込んでも一生一緒にいると決めた。
そして巡る季節を共に過ごし、こうしてふたりは一緒に食事をすることが出来るが、彼女の作った料理を毎日口にしたい。彼女が作った弁当を毎日頬張りたいという思いでいっぱいだ。
一生10代。
そして一生恋愛関係。
でも早く結婚したい。
そして早く妻になって欲しい。
「牧野。俺のこと愛してるか?」
「え?何?」
「だから俺のこと愛してるかって訊いてる」
彼女はそう訊く司に微笑みを浮かべることが多い。
そして愛してるという言葉よりも、いつもこう言っていた。
「好きよ。道明寺」と。
そして純愛を掲げる男は、「俺も。愛してる。牧野」と、いつも切実な愛を伝えていた。

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