皆様こんにちは。
いつも当ブログをご訪問下さりありがとうございます。
そして年末のお忙しいところにお時間をいただき、ありがとうございます。
さて、本日は今年最後のブログとなり、ご挨拶をと思い書かせていただきました。
この年末は平成最後の年末となりますが、今年は皆様にとってどのような一年でしたでしょうか?
振り返ってみれば災害の多い年という印象がありますが、平成という時代が色々なことが起きた時代といった印象があり、大きな事件や事故、災害があった時、自分の置かれた状況はどうだったかと振り返ってみれば、あの時はこうだったな….と思うことが沢山あります。
それにしても年末を迎える度、毎年思うのは、ああ。早いな。もう一年が経ったのか、ということです。そして間もなく新しい年を迎えますが、来年はどのような年になるのでしょう。
せめてお正月くらいは穏やかに過ごしたいと思うのですが、お仕事の皆様もいらっしゃると思います。そして年末を迎え寒さが厳しくなってまいりました。どうぞお身体にはお気をつけてお過ごし下さいませ。
さて当サイトですが、1週間ほどお休みいたします。年明けは5日か6日を予定しておりますので、その頃またお立ち寄り頂けると幸いです。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
最後になりましたが、新しい年が皆様にとって幸多き一年となりますよう心よりお祈りいたします。
それでは皆様よいお年をお迎え下さいませ。
andante*アンダンテ*
アカシア

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この年末は平成最後の年末となりますが、今年は皆様にとってどのような一年でしたでしょうか?
振り返ってみれば災害の多い年という印象がありますが、平成という時代が色々なことが起きた時代といった印象があり、大きな事件や事故、災害があった時、自分の置かれた状況はどうだったかと振り返ってみれば、あの時はこうだったな….と思うことが沢山あります。
それにしても年末を迎える度、毎年思うのは、ああ。早いな。もう一年が経ったのか、ということです。そして間もなく新しい年を迎えますが、来年はどのような年になるのでしょう。
せめてお正月くらいは穏やかに過ごしたいと思うのですが、お仕事の皆様もいらっしゃると思います。そして年末を迎え寒さが厳しくなってまいりました。どうぞお身体にはお気をつけてお過ごし下さいませ。
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父は華がある男だ。
それはいつも周りから言われることもだが、娘の私の目から見てもそうだった。
背が高い父は太ってはおらず、恰幅が良いとは違う。だからと言って痩せているわけではなく健康的な身体をしている。それは頑丈な欅(けやき)の木のように大黒柱として君臨する姿。まさに道明寺という大企業の社長に相応しい男性と言えるのが父の姿だ。
高校生の頃、同級生が遊びに来たとき父を見かけたことがあった。
黒い瞳は大人の知的さを湛えセクシーだと言われ、年齢に関係なく女性を虜にすると言われていた父。
そしてそのとき友人たちが「かっこいい」とため息をついたが、きっとその息の半分は私に対して羨ましいといった羨望が込められていて、若くはない男の魅力というものが同級生たちの心を捉えた瞬間だった。
そんな父のきちんと手入れがされた素晴らしく長い指が、幼い頃学んだというピアノを優雅に奏でることが出来るのを知っているのは家族と親しい人間だけだ。
そしてある日。タキシード姿の父が大勢の人の前でシューマンのトロイメライを弾き始めた時には誰もが驚いた。
だがそれもそのはずだ。今まで家族の前でしか弾いたことがないピアノを、愛する人、つまり父の妻であり私の母の誕生パーティーとは言え奏でることがどれほどのことか。
それは滅多に見られない光景であり、その場に招かれた客たちの眼差しは驚きと羨望を湛え、父の指先が奏でる音色をうっとりと訊いていた。
そして父は演奏を終えると母の傍に向かったが、その手にはピアノの上に置かれていた一輪の赤いバラが彩りを添えていた。
赤いバラは父の好きな花だ。
タキシードを着た父が堂々とした態度で、たった一輪のバラの花を手に妻の元に向かって歩くその姿は、エレガントにセクシーさがまざり、娘の私でもかっこいいと思えた。
そして父は自分に注がれる眼差しというものを一切気しない。それは幼いころからずっとそうだったからというのではなく、自分の興味がない人間に対しては、相手がどれほど偉い人間でも、いや、父の権力に匹敵する者などいるはずがなく、そしてどんなに美しい女性だとしても、美醜にも重きを置かない父は目を向けることはなかった。
そして家族以外の人間に感情を見せることはない父だが、母を相手にしている時だけ感情を見せる。それは普段の無表情さが影をひそめ、父は感情豊かな少年のようになり、「つくし」と母の名前を呼ぶとき、いつもは低い声のトーンが少しだけ上がり、きれいで男らしい声になる。
つまり父を喜ばせるのは母の笑顔だ。
だが母は父と結婚した当時、つり合いが取れないと言われた家の娘だった。
顔立ちも十人並で、勉強が好きだった母の学歴は良かったとしても、家庭の状況は祖母が望んでいたものとはかけ離れたものだった。
対して父はどんな女も、どんな遊びも望めば出来る男だった。だが父は母と出会って人生の全てが変わったと言った。そして私や弟たちが生まれこんなに幸せなことはないと言った。
ただ、父はいつも言っていた。
それは自分の至らなさを誰かのせいにして生きることはするな。
自分の人生はたった一度だけ。苦しみも辛さも、やがて誰にでも訪れる人生最大の悲しみも、すべては自分の生き様が現れている。それを理解して全てのことに感謝しろ。
若い頃の父を知る人が訊けば耳を疑うと言われるその言葉。
母と出会う前の父は手に負えなかったと父の姉であり伯母から訊いていた。
弟は虚無の世界に生きていた男で、世の中の全てのことに対して否定的だったと言った。
そしていつだったか祖母の口から語られた、あの子が道明寺を継いでくれることを望んでも叶えられないと思っていたわ。
だが今の父の姿からは、そんな過去を想像することは難しいはずだ。
つまり父はそれほどまでに変わったということだが、そうなったのは、自分の人生を伴走してくれる女性を見つけたからだが、それが母だ。
そして人は思いもかけない光景を目にすると言葉が出ないことがあるが、今はまさにその状況だ。
父は母の前まで来ると手にしたバラを母に差し出した。
勿論、私は父がバラを手にした時点で何をするのか分かっていた。
何故なら父は大変ロマンチストな人だからだ。
そしてここにいる大勢の招待客も薄々分かっていたはずだ。だがまさか父がひと前で母の唇にキスをするとは思いもしなかったはずだ。
「奥さん。誕生日おめでとう」
と言って185センチの高さから魅惑の眼差しを向ける父は家ではよき家庭人だが、そこには他のどんな男性も敵わない色気があった。つまり世間で言われるフェロモンというのは父のためにある言葉でその色気が母意外に向けられることはないのだが、それは大人の男の匂い。そんな父の傍に寄ればかすかな煙草の匂いがするが、それが私にとっての父の匂いだ。
「なに照れてんだ?」
父は母が照れることを見越してひと前でキスをした。
そして父は母の手を取り母が照れる様子を楽しんでいたが、今度はその手の甲にキスをすると、父は母が照れるほど幸福な顔をする。つまりそれだけ母の幸せが父の幸せだと言えた。
そして沢山の高価なプレゼントよりも、たった一輪の花を喜ぶのが母だと知っている父の喜ぶものは、母の作る出汁巻き卵だと私は知っている。
短期間のうちに恋におちた父。
それからもずっと恋におちている父。
子供たちの前でも照れることなく母を褒める父。
軽井沢や箱根の別荘へ父の運転する車で出掛ける時、母の作ったおにぎりを美味いといい食べる父。別荘ではしゃぐ子供たちを眼を細めて見るが、父が母を見つめる眼は子供たちを見る眼とは違っていた。だが実際子供の私から見ても母は可愛らしい女性だと思った。
「奥さん。どうした?」
父は母の手を取ったまま離さない。そして音楽が流れ始めると顔中に笑顔を広げた。
父は高校卒業と同時にニューヨークへ旅立った。そしてその時、4年後母を迎えに来ますと言った。
本来ならプロムでダンスを踊るはずだったふたり。だがそのダンスはふたりが結婚式を挙げるまでおあずけとなった。それ以来父は母の誕生パーティーにはダンスを踊る習慣があった。そしてこの時のためだけに用意されたオーケストラが奏でる音楽に乗ってふたりはワルツを踊り始めた。
華やかでお金持ちだと言われる父。
だが年を経てもジーンズが似合う父。
物の価値は画一的でしかなく、高いとか安いとかではなく、その物を必要とした人間がその価値を決めるという父。
だから父はどんなにお金を積まれても手に入れることが出来ないものがあることを知っている。それは人を愛する気持ち。一度手に入れようとして手に入れることが出来なかったという人の気持。それは贅沢とは無縁だった母と出会い知った気持ちだと訊かされた。
やがて父の髪がホワイトグレーに変わっても、父は今と変わらず母に愛を囁くはずだ。
そして父が愛おしそうに母を見つめる姿は、私の理想の男性の姿だ。
いつか父を超える男性が私の前に現れる時が来ると信じている。
それまでは父が私の恋人だ。と、そんなことを高校生の頃真剣に考えたことがあった。だが今の私には素敵な恋人がいる。
父の人生と母の人生があったから私は生まれた。
ふたりが巡り合わなければ私は生まれて来ることはなかった。
だから両親の誕生日が祝われることに歓びを隠せない。
だがいつまでも幸せな夫婦でいられるには、子供の私が知らないこともあったはずだ。
父に愛された母は幸せだ。
そして母に愛された父も幸せだ。
つくし、と愛おしげに、父は時々母を呼ぶ。
そして今日の記念日が父と母にとって何度目の記念日なのか。
それは私の人生にも重なることだが、記念日は何度祝っても幸せを感じることが出来た。
そして我が子だから容易に想像出来ることがあった。それは父の母を思う深い愛情は、寿命が尽きても変わらないはずで、墓場までと言わず、あの世に行っても母を思っているはずだ。
つまり、肉体が滅び魂だけになっても母の傍にずっといるということだ。
言い方を変えれば父の変質的とも言える愛。
だが若い頃、生きている意味が見いだせなかった父にとって、母と出会い母を愛したことで父は救われた。だから父の母を見る眼は今でもあの頃と同じだ。
そしてダンスを踊る父の顔から微笑みが消えることはなかった。
窓の外に雪がちらつく12月のこの日。
だが父と母の周りには温かな空気が感じられた。
優しい父の笑顔とそれに応える母の嬉しそうな顔。
この後、両親はいつものように短い旅に出る。
子供たちが大きくなってからの正月の箱根の別荘は、普段忙しい父が唯一ゆっくりと出来る時間だ。
来年銀婚式を迎えるふたり。これからもずっと人生の見本となるふたりでいて欲しい。
その思いを込めダンスを終え着替えを済ませたふたりに私は言った。
「ママ。お誕生日おめでとう。これからも健康に気を付けて過ごしてね。それからパパ。あんまり無理しないでね」
28歳と27歳で結婚したふたり。
「ありがとう彩。それからね、さっきあなたの好きなブルーベリーパイを焼いておいたの。だから食べてね!」
と言った母と、
「お前は自分の誕生パーティーの前にパイを焼くって何考えてるんだ?」
「だって彩が好きだし、暫く会わないから作っておこうと思って」
「だからって何もパーティーの前に焼くことねぇだろうが」
そんな会話が繰り返される両親。
そして母は、じゃあ行って来ます!と言って車に乗り込んだが、隣に座った父は、
「じゃあな。行ってくる」と真面目な顔で言ったが、その言葉は嬉しそうだった。
やがて車のドアが閉まり運転手付きの大きな車は邸を後にしたが、ふたりは後部座席でキスをしたはずだ。そして父は「誕生日おめでとう、つくし」と言うはずだ。
そして母は「ありがとう、司」と言って嬉しそうに微笑んでいるはずだ。
そんな両親は、これからふたりだけの誕生日パーティーをするはずだ。
そして父のことだから、別荘には母の為に沢山のプレゼントが用意されているはずだ。
そして母は、また無駄使いして!と怒りながらも甘やかな空気を纏い笑うはずだ。
夫婦となって24年。喧嘩をすることがあっても、これからもずっと素敵な夫婦でいて欲しい。
そして父と母には、これからも沢山の記念日を祝って貰いたいと願わずにはいられなかった。
< 完 > *Anniversary*
つくしちゃん、お誕生日おめでとうございます。
幾つになっても、いつまでも坊ちゃんとお幸せに。

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それはいつも周りから言われることもだが、娘の私の目から見てもそうだった。
背が高い父は太ってはおらず、恰幅が良いとは違う。だからと言って痩せているわけではなく健康的な身体をしている。それは頑丈な欅(けやき)の木のように大黒柱として君臨する姿。まさに道明寺という大企業の社長に相応しい男性と言えるのが父の姿だ。
高校生の頃、同級生が遊びに来たとき父を見かけたことがあった。
黒い瞳は大人の知的さを湛えセクシーだと言われ、年齢に関係なく女性を虜にすると言われていた父。
そしてそのとき友人たちが「かっこいい」とため息をついたが、きっとその息の半分は私に対して羨ましいといった羨望が込められていて、若くはない男の魅力というものが同級生たちの心を捉えた瞬間だった。
そんな父のきちんと手入れがされた素晴らしく長い指が、幼い頃学んだというピアノを優雅に奏でることが出来るのを知っているのは家族と親しい人間だけだ。
そしてある日。タキシード姿の父が大勢の人の前でシューマンのトロイメライを弾き始めた時には誰もが驚いた。
だがそれもそのはずだ。今まで家族の前でしか弾いたことがないピアノを、愛する人、つまり父の妻であり私の母の誕生パーティーとは言え奏でることがどれほどのことか。
それは滅多に見られない光景であり、その場に招かれた客たちの眼差しは驚きと羨望を湛え、父の指先が奏でる音色をうっとりと訊いていた。
そして父は演奏を終えると母の傍に向かったが、その手にはピアノの上に置かれていた一輪の赤いバラが彩りを添えていた。
赤いバラは父の好きな花だ。
タキシードを着た父が堂々とした態度で、たった一輪のバラの花を手に妻の元に向かって歩くその姿は、エレガントにセクシーさがまざり、娘の私でもかっこいいと思えた。
そして父は自分に注がれる眼差しというものを一切気しない。それは幼いころからずっとそうだったからというのではなく、自分の興味がない人間に対しては、相手がどれほど偉い人間でも、いや、父の権力に匹敵する者などいるはずがなく、そしてどんなに美しい女性だとしても、美醜にも重きを置かない父は目を向けることはなかった。
そして家族以外の人間に感情を見せることはない父だが、母を相手にしている時だけ感情を見せる。それは普段の無表情さが影をひそめ、父は感情豊かな少年のようになり、「つくし」と母の名前を呼ぶとき、いつもは低い声のトーンが少しだけ上がり、きれいで男らしい声になる。
つまり父を喜ばせるのは母の笑顔だ。
だが母は父と結婚した当時、つり合いが取れないと言われた家の娘だった。
顔立ちも十人並で、勉強が好きだった母の学歴は良かったとしても、家庭の状況は祖母が望んでいたものとはかけ離れたものだった。
対して父はどんな女も、どんな遊びも望めば出来る男だった。だが父は母と出会って人生の全てが変わったと言った。そして私や弟たちが生まれこんなに幸せなことはないと言った。
ただ、父はいつも言っていた。
それは自分の至らなさを誰かのせいにして生きることはするな。
自分の人生はたった一度だけ。苦しみも辛さも、やがて誰にでも訪れる人生最大の悲しみも、すべては自分の生き様が現れている。それを理解して全てのことに感謝しろ。
若い頃の父を知る人が訊けば耳を疑うと言われるその言葉。
母と出会う前の父は手に負えなかったと父の姉であり伯母から訊いていた。
弟は虚無の世界に生きていた男で、世の中の全てのことに対して否定的だったと言った。
そしていつだったか祖母の口から語られた、あの子が道明寺を継いでくれることを望んでも叶えられないと思っていたわ。
だが今の父の姿からは、そんな過去を想像することは難しいはずだ。
つまり父はそれほどまでに変わったということだが、そうなったのは、自分の人生を伴走してくれる女性を見つけたからだが、それが母だ。
そして人は思いもかけない光景を目にすると言葉が出ないことがあるが、今はまさにその状況だ。
父は母の前まで来ると手にしたバラを母に差し出した。
勿論、私は父がバラを手にした時点で何をするのか分かっていた。
何故なら父は大変ロマンチストな人だからだ。
そしてここにいる大勢の招待客も薄々分かっていたはずだ。だがまさか父がひと前で母の唇にキスをするとは思いもしなかったはずだ。
「奥さん。誕生日おめでとう」
と言って185センチの高さから魅惑の眼差しを向ける父は家ではよき家庭人だが、そこには他のどんな男性も敵わない色気があった。つまり世間で言われるフェロモンというのは父のためにある言葉でその色気が母意外に向けられることはないのだが、それは大人の男の匂い。そんな父の傍に寄ればかすかな煙草の匂いがするが、それが私にとっての父の匂いだ。
「なに照れてんだ?」
父は母が照れることを見越してひと前でキスをした。
そして父は母の手を取り母が照れる様子を楽しんでいたが、今度はその手の甲にキスをすると、父は母が照れるほど幸福な顔をする。つまりそれだけ母の幸せが父の幸せだと言えた。
そして沢山の高価なプレゼントよりも、たった一輪の花を喜ぶのが母だと知っている父の喜ぶものは、母の作る出汁巻き卵だと私は知っている。
短期間のうちに恋におちた父。
それからもずっと恋におちている父。
子供たちの前でも照れることなく母を褒める父。
軽井沢や箱根の別荘へ父の運転する車で出掛ける時、母の作ったおにぎりを美味いといい食べる父。別荘ではしゃぐ子供たちを眼を細めて見るが、父が母を見つめる眼は子供たちを見る眼とは違っていた。だが実際子供の私から見ても母は可愛らしい女性だと思った。
「奥さん。どうした?」
父は母の手を取ったまま離さない。そして音楽が流れ始めると顔中に笑顔を広げた。
父は高校卒業と同時にニューヨークへ旅立った。そしてその時、4年後母を迎えに来ますと言った。
本来ならプロムでダンスを踊るはずだったふたり。だがそのダンスはふたりが結婚式を挙げるまでおあずけとなった。それ以来父は母の誕生パーティーにはダンスを踊る習慣があった。そしてこの時のためだけに用意されたオーケストラが奏でる音楽に乗ってふたりはワルツを踊り始めた。
華やかでお金持ちだと言われる父。
だが年を経てもジーンズが似合う父。
物の価値は画一的でしかなく、高いとか安いとかではなく、その物を必要とした人間がその価値を決めるという父。
だから父はどんなにお金を積まれても手に入れることが出来ないものがあることを知っている。それは人を愛する気持ち。一度手に入れようとして手に入れることが出来なかったという人の気持。それは贅沢とは無縁だった母と出会い知った気持ちだと訊かされた。
やがて父の髪がホワイトグレーに変わっても、父は今と変わらず母に愛を囁くはずだ。
そして父が愛おしそうに母を見つめる姿は、私の理想の男性の姿だ。
いつか父を超える男性が私の前に現れる時が来ると信じている。
それまでは父が私の恋人だ。と、そんなことを高校生の頃真剣に考えたことがあった。だが今の私には素敵な恋人がいる。
父の人生と母の人生があったから私は生まれた。
ふたりが巡り合わなければ私は生まれて来ることはなかった。
だから両親の誕生日が祝われることに歓びを隠せない。
だがいつまでも幸せな夫婦でいられるには、子供の私が知らないこともあったはずだ。
父に愛された母は幸せだ。
そして母に愛された父も幸せだ。
つくし、と愛おしげに、父は時々母を呼ぶ。
そして今日の記念日が父と母にとって何度目の記念日なのか。
それは私の人生にも重なることだが、記念日は何度祝っても幸せを感じることが出来た。
そして我が子だから容易に想像出来ることがあった。それは父の母を思う深い愛情は、寿命が尽きても変わらないはずで、墓場までと言わず、あの世に行っても母を思っているはずだ。
つまり、肉体が滅び魂だけになっても母の傍にずっといるということだ。
言い方を変えれば父の変質的とも言える愛。
だが若い頃、生きている意味が見いだせなかった父にとって、母と出会い母を愛したことで父は救われた。だから父の母を見る眼は今でもあの頃と同じだ。
そしてダンスを踊る父の顔から微笑みが消えることはなかった。
窓の外に雪がちらつく12月のこの日。
だが父と母の周りには温かな空気が感じられた。
優しい父の笑顔とそれに応える母の嬉しそうな顔。
この後、両親はいつものように短い旅に出る。
子供たちが大きくなってからの正月の箱根の別荘は、普段忙しい父が唯一ゆっくりと出来る時間だ。
来年銀婚式を迎えるふたり。これからもずっと人生の見本となるふたりでいて欲しい。
その思いを込めダンスを終え着替えを済ませたふたりに私は言った。
「ママ。お誕生日おめでとう。これからも健康に気を付けて過ごしてね。それからパパ。あんまり無理しないでね」
28歳と27歳で結婚したふたり。
「ありがとう彩。それからね、さっきあなたの好きなブルーベリーパイを焼いておいたの。だから食べてね!」
と言った母と、
「お前は自分の誕生パーティーの前にパイを焼くって何考えてるんだ?」
「だって彩が好きだし、暫く会わないから作っておこうと思って」
「だからって何もパーティーの前に焼くことねぇだろうが」
そんな会話が繰り返される両親。
そして母は、じゃあ行って来ます!と言って車に乗り込んだが、隣に座った父は、
「じゃあな。行ってくる」と真面目な顔で言ったが、その言葉は嬉しそうだった。
やがて車のドアが閉まり運転手付きの大きな車は邸を後にしたが、ふたりは後部座席でキスをしたはずだ。そして父は「誕生日おめでとう、つくし」と言うはずだ。
そして母は「ありがとう、司」と言って嬉しそうに微笑んでいるはずだ。
そんな両親は、これからふたりだけの誕生日パーティーをするはずだ。
そして父のことだから、別荘には母の為に沢山のプレゼントが用意されているはずだ。
そして母は、また無駄使いして!と怒りながらも甘やかな空気を纏い笑うはずだ。
夫婦となって24年。喧嘩をすることがあっても、これからもずっと素敵な夫婦でいて欲しい。
そして父と母には、これからも沢山の記念日を祝って貰いたいと願わずにはいられなかった。
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「ねえ、この話ってパパとママのことでしょ?道明寺版赤ずきんちゃんとオオカミの話。このあとオオカミは女性と結婚して森の中に大きな家を建てて幸せな生活を送るのよね?」
「ああ。孤独な少年時代を送った父さんが可愛い赤ずきんちゃんに恋をして、間一髪のところを助けてストーカーになって、献身的な態度を示して結婚してもらって子供を3人儲けた話だ。父さんにかかったら自分達の出会いも好き勝手に創作される。それを絵本にして子供に話すのはどうかと思うけどな」
道明寺家には3人の子供がいるが、上の二人が男の子で三番目が女の子。そして子供たちがパパ、父さんと呼ぶ男は世界経済の中心にいて、動物の世界で言えばまさに巨大な群れのリーダーだった。
そんな父親は子供たちが幼い頃この話しをよく聞かせていた。
つまり子供たちにとって赤ずきんちゃんの話とは、女の子が悪いオオカミに騙されて食べられるのではなく、赤ずきんちゃんに惚れたオオカミがストーカーになり赤ずきんちゃんを守る話で、本来の赤ずきんちゃんとは似ても似つかぬ話に脚色されていた。
そして当然だがそんな話を絵本にして子供たちに訊かせていた父親は母親にひどく叱られていたが、そんな懐かしい絵本が末っ子の部屋の本棚から出てきたことから、兄弟たちは色褪せたその本の表紙を懐かしそうに見ていたが、そこには確かに『赤ずきんちゃんのお話』と書かれていた。
「それにしても何が赤ずきんちゃんとオオカミの恋だ。俺はかなりの年齢まで赤ずきんちゃんと言えば、オオカミの恋物語だと思ってたんだぜ?それが全くのデタラメだと知った時恥ずかしいったらなかったぜ?だいたい恋物語だなんて言うが父さんの一方通行から始まった恋だろ?」
大学4年の長男はそう言いながらも、母親が父親を見る瞳の中に大きな愛があることを知っていた。
「まあな…子供の頃の父さんはかなり屈折した子供だったし、オオカミのような凶暴さがあったて花沢のおじさんだって言ってただろ?父さんはキレると何をするか分かんねぇ男だったって。そんな獰猛なオオカミを飼いならしたのが母さんだろ?それにオオカミは群れを大切にする動物だ。だからあの4人は今でも固い友情で結ばれていて花の4人組って呼ばれる仲だろ?まあそんな友情も母さんの存在が大きいってのもあるよな?何しろ花沢のおじさん今でも母さんのことが好きだって言うくらいだからさ、案外父さんも気が気じゃないかもな」
次男は父親が母親に寄り添って立つ時、常に妻を守る姿勢でいることを知っていた。
その姿が親友で今も独身でいる花沢物産の社長から妻を守っているとすれば笑うしかないのだが、考えてみれば、そんな父親の態度は驚くことではなかった。
『類がね_』と母親が言い始めると過剰に反応する父親の態度は幼い頃から見慣れていたからだ。
だが鋭いと言われる父親の視線も、母親を見る時だけは柔らかな光を帯びていた。それは妻を愛する視線であり、妻の傍に立つ姿は男としての所有欲の表れだ。
父親の母親に対する愛は純粋で、それは子供たちから見ても時に熱っぽく秘めた欲望を示していた。そして妻に対してずっと献身的で情熱的な父親の姿は、深く愛し愛される男の姿であり、それは子供たちに対しても同じだった。
つまり子供たちから見ても親バカと言える父親の態度は、時に止めてくれと言いたくなるほど過保護なこともあった。
例えばそれは末の娘が初めてデートに出掛けたとき、眉間に皺を寄せた父親は、可愛い娘が無事に帰って来るまでイライラとして部屋の中を歩き回っていた。そしてデートの場所まで迎えに行くと言った夫に、そんなことしたらあの子に嫌われるわよ、と面白そうに笑う母親だったが、娘可愛さに夫の過保護が過剰になることを止める力を持っていた。
つまり父親はどんなに威圧的な態度を取っても、自分の妻だけには頭が上がらないところがあった。
そして両親は人目がない場所ではいつもイチャイチャしていた。
兄弟がまだ幼かった頃見たのだ。それは邸で開かれたパーティーの夜。
子供たちが寝たのを確かめに来た両親に頬を枕につけ眠っているフリをしたことがあった。
それは真夜中なのに両親がパーティーで着ていた服装のままでいたからだ。
だから兄弟は両親が何をするのか気になり自分達の部屋を抜け出し後をつけた。
すると誰もいなくなった大広間で、身体を寄せ互いの手をしっかりと握り、音楽に合わせて身体を揺らしている姿を見た。それは連れて行ってもらったばかりのミュージカルの中で、恐ろしい獣だった男が人間の姿に変わり美しい女の人を優しく抱きしめて踊っている姿と重なった。
そして道明寺家の習慣として、クリスマスイブは家族で過ごすことが決められていて、家ではかなり本格的にクリスマスを祝っていた。と言っても宗教的なことは抜きにだが、それは父親の希望であり母親の希望なのだが、子供たちがクリスマスを喜ぶ年齢ではなくなっても母親は部屋の飾りつけを張り切っていた。
そんなクリスマスイブが開けた翌日。子供たちは母親が飾り付けた部屋を見ていた。
モミの木のツリー。
ヒイラギのリース。
赤いポインセチア。
プレゼントを入れる靴下。
だが今はもうその靴下にプレゼントが入れられることはないが母親はそれでも飾った。
貧しい家に育った母親は手作りが当然だと言い、毎年料理も家族で食べるものだからと言って自ら邸の厨房に立ちローストビーフやドライフルーツの入ったケーキ。ジンジャービスケットを焼いていたが、何故かいつもその中に父親の顔を模したものがあり、それを手に取った父親の眼はいつも笑っていた。
そして部屋の入口に飾られているクリスマスイブの誕生花であるヤドリギ。
クリスマスイブの日、ヤドリギの下で出会った未婚の男女はキスをしていいという習慣があるが、とっくの昔に結婚して子供が3人もいる夫婦がキスをするのは、ほとんど父親の希望なのだが、妻を真摯な様子で見つめる父親の姿というのは、子供たちにとっては理想の夫の姿だった。
「それで?あのふたり。今日はどこへ行ったんだっけ?」
「決まってるじゃない。パパとママにとって大切な場所よ」
「ああ。あの教会か」
父親が母親にプロポーズをしたのはクリスマスの日。
場所は教会。その日が休みなら日中二人そろってその教会へ行く。
そして両親は神に感謝の祈りを捧げていた。
あの時、巡り合わせてくれたことの感謝を。
あの時、命を奪わなかったことを。
あの時、その時を与えてくれたことを。
子供たちは両親の恋の話を知っていた。
何故ならそれは『赤ずきんちゃんのお話』に書かれているのだから。
世間を冷やかに見つめていた男が出会った最愛の人は、神が男の元に遣わしてくれた天使だから夫となった男はそのことに感謝をしていた。
司の前に用意されていた運命の扉はひとつ。その扉を開けた先にいた女性が彼の人生を変えた。目の前には暗闇だけが広がり色のない世界に生きていた男の前に沢山の色の世界を見せてくれた。孤独なプライドを抱え喜怒哀楽の中で失われていた歓びと楽しみを与えてくれた。声に穏やかさを与え力とは何のためにあるかを教えてくれた。
だから男の人生哲学は、最愛の人と何時までも一緒に過ごすことで、そのためならどんなことでもするし、神や仏に祈りを捧げることも厭わない。
そして男にとって申し分のない人生とは妻と子供たちと幸せに暮らすこと。つまり男にとって一番大切なのは家族の存在だ。そして愛してるという言葉が素直に言え、素敵なことが素敵だと素直に言えるようになった男は、最高の夫と呼ばれることが嬉しかった。
人は年を取れば、やがて来るべき時を待つようになる。
そして祈りの場である静寂に包まれた教会は、多くの思いが溢れている場所だが、ここに集まる人間はその思いをひとりの男に向けていた。
司もその中の人間のひとりだが、クリスマスにしかここに現れない男にこの場所の主は何を思うのか。だがそんなことを思う男の手をそっと握る手があった。
司もその手を同じ強さで握り返したが、この手を離さないと誓ったこの場所で、こうして再び手を取ることが出来るのは、やはりこの場所の主のおかげだ。
そして司は、自分の手を握る女に訊いてみたいことがあった。
それはずっと訊きたかったが、今まで言えずにいた言葉。
その言葉を初めて口にした。
「つくし。お前は幸せか?」
その先に続く言葉は、俺と一緒になってお前は幸せか。
だが言わなくても妻は分かっているはずだ。そして24年間という過ぎ去った日々が走馬灯のように頭を巡った。
道明寺という家に嫁ぎ苦労もあったはずだ。
子育てに協力したつもりでも彼女に任せきりになったこともあったはずだ。
だが苦労を苦労だと思わない女は、いつも彼の隣で笑っていた。だがこうして答えを待つ間、隣に座る妻の顔を見ることが出来なかった。ふと口にした言葉に妻がなんと答えようかと考えている顔が見たくなかったからだ。
そして少しの間を置き妻の口から答えは出た。
「ええ。幸せよ」
静寂に包まれたこの場所が夫婦のスタート地点だった。
その答えは17歳の少年の手を取ってくれた16歳の少女の変わらぬ思いを今に伝えていた。
『俺は絶対にお前を幸せにするから』
『何があってもあんたについていくから』
プロポーズをしたこの教会で誓った言葉に嘘はなく、どんな時も支えてくれた妻。
そしてその妻から囁かれた幸せという言葉が司にとって最高のクリスマスの贈り物。
静寂が二人を包むこの場所こそが二人の愛の出発点。
だから、この場所に来年も必ず二人で来よう。
1年間が幸せに過ごせたことを感謝するために。
そして次の1年も家族が幸せに過ごすことが出来るようにと祈るために。
< 完 > *愛の静寂に*

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「ああ。孤独な少年時代を送った父さんが可愛い赤ずきんちゃんに恋をして、間一髪のところを助けてストーカーになって、献身的な態度を示して結婚してもらって子供を3人儲けた話だ。父さんにかかったら自分達の出会いも好き勝手に創作される。それを絵本にして子供に話すのはどうかと思うけどな」
道明寺家には3人の子供がいるが、上の二人が男の子で三番目が女の子。そして子供たちがパパ、父さんと呼ぶ男は世界経済の中心にいて、動物の世界で言えばまさに巨大な群れのリーダーだった。
そんな父親は子供たちが幼い頃この話しをよく聞かせていた。
つまり子供たちにとって赤ずきんちゃんの話とは、女の子が悪いオオカミに騙されて食べられるのではなく、赤ずきんちゃんに惚れたオオカミがストーカーになり赤ずきんちゃんを守る話で、本来の赤ずきんちゃんとは似ても似つかぬ話に脚色されていた。
そして当然だがそんな話を絵本にして子供たちに訊かせていた父親は母親にひどく叱られていたが、そんな懐かしい絵本が末っ子の部屋の本棚から出てきたことから、兄弟たちは色褪せたその本の表紙を懐かしそうに見ていたが、そこには確かに『赤ずきんちゃんのお話』と書かれていた。
「それにしても何が赤ずきんちゃんとオオカミの恋だ。俺はかなりの年齢まで赤ずきんちゃんと言えば、オオカミの恋物語だと思ってたんだぜ?それが全くのデタラメだと知った時恥ずかしいったらなかったぜ?だいたい恋物語だなんて言うが父さんの一方通行から始まった恋だろ?」
大学4年の長男はそう言いながらも、母親が父親を見る瞳の中に大きな愛があることを知っていた。
「まあな…子供の頃の父さんはかなり屈折した子供だったし、オオカミのような凶暴さがあったて花沢のおじさんだって言ってただろ?父さんはキレると何をするか分かんねぇ男だったって。そんな獰猛なオオカミを飼いならしたのが母さんだろ?それにオオカミは群れを大切にする動物だ。だからあの4人は今でも固い友情で結ばれていて花の4人組って呼ばれる仲だろ?まあそんな友情も母さんの存在が大きいってのもあるよな?何しろ花沢のおじさん今でも母さんのことが好きだって言うくらいだからさ、案外父さんも気が気じゃないかもな」
次男は父親が母親に寄り添って立つ時、常に妻を守る姿勢でいることを知っていた。
その姿が親友で今も独身でいる花沢物産の社長から妻を守っているとすれば笑うしかないのだが、考えてみれば、そんな父親の態度は驚くことではなかった。
『類がね_』と母親が言い始めると過剰に反応する父親の態度は幼い頃から見慣れていたからだ。
だが鋭いと言われる父親の視線も、母親を見る時だけは柔らかな光を帯びていた。それは妻を愛する視線であり、妻の傍に立つ姿は男としての所有欲の表れだ。
父親の母親に対する愛は純粋で、それは子供たちから見ても時に熱っぽく秘めた欲望を示していた。そして妻に対してずっと献身的で情熱的な父親の姿は、深く愛し愛される男の姿であり、それは子供たちに対しても同じだった。
つまり子供たちから見ても親バカと言える父親の態度は、時に止めてくれと言いたくなるほど過保護なこともあった。
例えばそれは末の娘が初めてデートに出掛けたとき、眉間に皺を寄せた父親は、可愛い娘が無事に帰って来るまでイライラとして部屋の中を歩き回っていた。そしてデートの場所まで迎えに行くと言った夫に、そんなことしたらあの子に嫌われるわよ、と面白そうに笑う母親だったが、娘可愛さに夫の過保護が過剰になることを止める力を持っていた。
つまり父親はどんなに威圧的な態度を取っても、自分の妻だけには頭が上がらないところがあった。
そして両親は人目がない場所ではいつもイチャイチャしていた。
兄弟がまだ幼かった頃見たのだ。それは邸で開かれたパーティーの夜。
子供たちが寝たのを確かめに来た両親に頬を枕につけ眠っているフリをしたことがあった。
それは真夜中なのに両親がパーティーで着ていた服装のままでいたからだ。
だから兄弟は両親が何をするのか気になり自分達の部屋を抜け出し後をつけた。
すると誰もいなくなった大広間で、身体を寄せ互いの手をしっかりと握り、音楽に合わせて身体を揺らしている姿を見た。それは連れて行ってもらったばかりのミュージカルの中で、恐ろしい獣だった男が人間の姿に変わり美しい女の人を優しく抱きしめて踊っている姿と重なった。
そして道明寺家の習慣として、クリスマスイブは家族で過ごすことが決められていて、家ではかなり本格的にクリスマスを祝っていた。と言っても宗教的なことは抜きにだが、それは父親の希望であり母親の希望なのだが、子供たちがクリスマスを喜ぶ年齢ではなくなっても母親は部屋の飾りつけを張り切っていた。
そんなクリスマスイブが開けた翌日。子供たちは母親が飾り付けた部屋を見ていた。
モミの木のツリー。
ヒイラギのリース。
赤いポインセチア。
プレゼントを入れる靴下。
だが今はもうその靴下にプレゼントが入れられることはないが母親はそれでも飾った。
貧しい家に育った母親は手作りが当然だと言い、毎年料理も家族で食べるものだからと言って自ら邸の厨房に立ちローストビーフやドライフルーツの入ったケーキ。ジンジャービスケットを焼いていたが、何故かいつもその中に父親の顔を模したものがあり、それを手に取った父親の眼はいつも笑っていた。
そして部屋の入口に飾られているクリスマスイブの誕生花であるヤドリギ。
クリスマスイブの日、ヤドリギの下で出会った未婚の男女はキスをしていいという習慣があるが、とっくの昔に結婚して子供が3人もいる夫婦がキスをするのは、ほとんど父親の希望なのだが、妻を真摯な様子で見つめる父親の姿というのは、子供たちにとっては理想の夫の姿だった。
「それで?あのふたり。今日はどこへ行ったんだっけ?」
「決まってるじゃない。パパとママにとって大切な場所よ」
「ああ。あの教会か」
父親が母親にプロポーズをしたのはクリスマスの日。
場所は教会。その日が休みなら日中二人そろってその教会へ行く。
そして両親は神に感謝の祈りを捧げていた。
あの時、巡り合わせてくれたことの感謝を。
あの時、命を奪わなかったことを。
あの時、その時を与えてくれたことを。
子供たちは両親の恋の話を知っていた。
何故ならそれは『赤ずきんちゃんのお話』に書かれているのだから。
世間を冷やかに見つめていた男が出会った最愛の人は、神が男の元に遣わしてくれた天使だから夫となった男はそのことに感謝をしていた。
司の前に用意されていた運命の扉はひとつ。その扉を開けた先にいた女性が彼の人生を変えた。目の前には暗闇だけが広がり色のない世界に生きていた男の前に沢山の色の世界を見せてくれた。孤独なプライドを抱え喜怒哀楽の中で失われていた歓びと楽しみを与えてくれた。声に穏やかさを与え力とは何のためにあるかを教えてくれた。
だから男の人生哲学は、最愛の人と何時までも一緒に過ごすことで、そのためならどんなことでもするし、神や仏に祈りを捧げることも厭わない。
そして男にとって申し分のない人生とは妻と子供たちと幸せに暮らすこと。つまり男にとって一番大切なのは家族の存在だ。そして愛してるという言葉が素直に言え、素敵なことが素敵だと素直に言えるようになった男は、最高の夫と呼ばれることが嬉しかった。
人は年を取れば、やがて来るべき時を待つようになる。
そして祈りの場である静寂に包まれた教会は、多くの思いが溢れている場所だが、ここに集まる人間はその思いをひとりの男に向けていた。
司もその中の人間のひとりだが、クリスマスにしかここに現れない男にこの場所の主は何を思うのか。だがそんなことを思う男の手をそっと握る手があった。
司もその手を同じ強さで握り返したが、この手を離さないと誓ったこの場所で、こうして再び手を取ることが出来るのは、やはりこの場所の主のおかげだ。
そして司は、自分の手を握る女に訊いてみたいことがあった。
それはずっと訊きたかったが、今まで言えずにいた言葉。
その言葉を初めて口にした。
「つくし。お前は幸せか?」
その先に続く言葉は、俺と一緒になってお前は幸せか。
だが言わなくても妻は分かっているはずだ。そして24年間という過ぎ去った日々が走馬灯のように頭を巡った。
道明寺という家に嫁ぎ苦労もあったはずだ。
子育てに協力したつもりでも彼女に任せきりになったこともあったはずだ。
だが苦労を苦労だと思わない女は、いつも彼の隣で笑っていた。だがこうして答えを待つ間、隣に座る妻の顔を見ることが出来なかった。ふと口にした言葉に妻がなんと答えようかと考えている顔が見たくなかったからだ。
そして少しの間を置き妻の口から答えは出た。
「ええ。幸せよ」
静寂に包まれたこの場所が夫婦のスタート地点だった。
その答えは17歳の少年の手を取ってくれた16歳の少女の変わらぬ思いを今に伝えていた。
『俺は絶対にお前を幸せにするから』
『何があってもあんたについていくから』
プロポーズをしたこの教会で誓った言葉に嘘はなく、どんな時も支えてくれた妻。
そしてその妻から囁かれた幸せという言葉が司にとって最高のクリスマスの贈り物。
静寂が二人を包むこの場所こそが二人の愛の出発点。
だから、この場所に来年も必ず二人で来よう。
1年間が幸せに過ごせたことを感謝するために。
そして次の1年も家族が幸せに過ごすことが出来るようにと祈るために。
< 完 > *愛の静寂に*

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父さんオオカミは殺された母さんオオカミの復讐を遂げた。
それは、人間が森の入口に立ち、他の動物を狙っていた時だった。父さんオオカミは後ろからそっと忍び寄り人間の首に噛みつき息の根を止めた。
だがその時、父さんオオカミも人間に殺され仔オオカミはひとりぼっちになった。
両親を人間に殺され、ひとりぼっちになった仔オオカミ。
遠吠えをしても応えてくれる声はなく、だが森の中のどこかに仲間がいるのではないかと探し歩いたこともあった。けれど他のオオカミに出会うことはなかった。
いつもひとりぼっちで自分と話していることが多かった。孤独だった。
暖かい被毛に覆われていても、夜の空気に感じられる冷たさに身体が震えることがあった。
母さんオオカミも父さんオオカミもいなくなり、ふえあえる相手が欲しかった。
特別な相手が欲しかった。
だが今は一人だとしても、いつか父さんオオカミと母さんオオカミが出会ったように、この森のどこかにいるメスのオオカミと出会うことが出来るのではないかと思っていた。
やがて仔オオカミの身体も父さんオオカミと同じくらい大きくなり、その姿は森の王者と呼ばれる大きな灰色オオカミに成長し、多くの動物から恐れられる存在になった。
そして大人になったオオカミは、両親を殺した人間を憎んでいた。
自分をひとりぼっちにした人間が憎かった。
だから人間が森に入れば後をつけ襲い殺していた。
だが彼はある日気付いた。
川の水面に映る自分の姿がオオカミではなく、自分が憎んでいる人間の姿に変わっていたことに。
だが何故自分が人間に変わることが出来るのか。父さんも母さんもいない今、誰もその理由を教えてくれることはなかった。
そして春になりオオカミは背が高く端正な顔の青年になり森の中を歩いていた。
腕も足も筋肉はオオカミの時とは違い太く逞しかった。
青年オオカミは森の外れに建つ小さな家まで歩いて来た。そこに古い家があることは、随分と前から知っていたが人がいる気配はなかった。
だがある日その家の窓に花模様の布が掛けられ、煙突から煙がゆったりと立ち昇り、玄関のドアが開けっぱなしになり、そこから人間が出て来るのを見た。
青年オオカミは母さんオオカミの腹を焼いた銃を持つ人間を憎んでいた。
父さんオオカミを死に追いやることになった人間を憎んでいた。
それに人間は俺たちの仲間を殺した。ただ平和に暮らす森の住人を意味もなく殺していた。
だから人間を憎み、森に入って来た人間を殺す時以外は人間に近づくことはなかった。
そして森の外れの小さな家に住む事を決めた人間がどんな人間だか分からないが、その人間もオオカミを捕まえて殺そうとするはずだ。
それなら、と青年オオカミは考えた。
殺される前にあの人間を殺さなければならないと。殺して自分の腹の中に収めてやろうと思った。だがその前にその人間がどんな人間かを知るため観察しようと決めた。
するとそこに住み始めたのは黒い髪と白い顔をした背の低い女だと知った。
長い髪をロープのように編み、井戸から水をくみ上げては家の中へ運んでいく女。
時に少しだけ森の中に入り、食べることが出来る植物を探している女。
大地に落ちている木の枝を拾う女の黒い瞳は時に周りの様子を気にしていた。
青年オオカミは時々ここに来て森の木々の間から見える女の姿を、息をこらえ、ただ見つめた。
そして暫くそこにいて、それからゆっくりと離れたが、母さんオオカミとも森の動物とも違う初めて見る人間の女は美しかった。胸が苦しかった。
そして思った。あの女がオオカミだったら良かったのにと。
もしかしたらあの女が、一匹狼と呼ばれ、たったひとりで過ごす自分の傍にいてくれる女ではないかと。愛が欲しい頃合いを迎えた自分の傍にいてくれる女ではないかと思った。
だが相手は人間の女。いずれ殺してしまわなければならないのだから恋をする相手ではなかった。
青年オオカミは森の中へ帰ると、ねぐらにしている洞窟に戻り眠るために目をつむった。
だが真夜中に瞼の上へ降りてくる白い顔があった。
そして眼を覚ますと耳をすませ、鼻をひくつかせた。
微かに音が聞こえていた。
微かに匂いが感じられた。
青年オオカミは身を起こし立ち上がると、森を抜けあの家に向かっていた。
何キロもの距離を一気に駆け抜けた丘の上から見下ろした森の外れの小さな家は、数名の男たちに取り囲まれ燃えていた。
あの女はどうしたのか。いずれ殺すつもりでいたのだから焼け死んだならそれでいいはずだ。だが何故かそうは思わなかった。
青年オオカミは丘を駆け降りると燃え盛る炎の中に飛び込んでいた。

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それは、人間が森の入口に立ち、他の動物を狙っていた時だった。父さんオオカミは後ろからそっと忍び寄り人間の首に噛みつき息の根を止めた。
だがその時、父さんオオカミも人間に殺され仔オオカミはひとりぼっちになった。
両親を人間に殺され、ひとりぼっちになった仔オオカミ。
遠吠えをしても応えてくれる声はなく、だが森の中のどこかに仲間がいるのではないかと探し歩いたこともあった。けれど他のオオカミに出会うことはなかった。
いつもひとりぼっちで自分と話していることが多かった。孤独だった。
暖かい被毛に覆われていても、夜の空気に感じられる冷たさに身体が震えることがあった。
母さんオオカミも父さんオオカミもいなくなり、ふえあえる相手が欲しかった。
特別な相手が欲しかった。
だが今は一人だとしても、いつか父さんオオカミと母さんオオカミが出会ったように、この森のどこかにいるメスのオオカミと出会うことが出来るのではないかと思っていた。
やがて仔オオカミの身体も父さんオオカミと同じくらい大きくなり、その姿は森の王者と呼ばれる大きな灰色オオカミに成長し、多くの動物から恐れられる存在になった。
そして大人になったオオカミは、両親を殺した人間を憎んでいた。
自分をひとりぼっちにした人間が憎かった。
だから人間が森に入れば後をつけ襲い殺していた。
だが彼はある日気付いた。
川の水面に映る自分の姿がオオカミではなく、自分が憎んでいる人間の姿に変わっていたことに。
だが何故自分が人間に変わることが出来るのか。父さんも母さんもいない今、誰もその理由を教えてくれることはなかった。
そして春になりオオカミは背が高く端正な顔の青年になり森の中を歩いていた。
腕も足も筋肉はオオカミの時とは違い太く逞しかった。
青年オオカミは森の外れに建つ小さな家まで歩いて来た。そこに古い家があることは、随分と前から知っていたが人がいる気配はなかった。
だがある日その家の窓に花模様の布が掛けられ、煙突から煙がゆったりと立ち昇り、玄関のドアが開けっぱなしになり、そこから人間が出て来るのを見た。
青年オオカミは母さんオオカミの腹を焼いた銃を持つ人間を憎んでいた。
父さんオオカミを死に追いやることになった人間を憎んでいた。
それに人間は俺たちの仲間を殺した。ただ平和に暮らす森の住人を意味もなく殺していた。
だから人間を憎み、森に入って来た人間を殺す時以外は人間に近づくことはなかった。
そして森の外れの小さな家に住む事を決めた人間がどんな人間だか分からないが、その人間もオオカミを捕まえて殺そうとするはずだ。
それなら、と青年オオカミは考えた。
殺される前にあの人間を殺さなければならないと。殺して自分の腹の中に収めてやろうと思った。だがその前にその人間がどんな人間かを知るため観察しようと決めた。
するとそこに住み始めたのは黒い髪と白い顔をした背の低い女だと知った。
長い髪をロープのように編み、井戸から水をくみ上げては家の中へ運んでいく女。
時に少しだけ森の中に入り、食べることが出来る植物を探している女。
大地に落ちている木の枝を拾う女の黒い瞳は時に周りの様子を気にしていた。
青年オオカミは時々ここに来て森の木々の間から見える女の姿を、息をこらえ、ただ見つめた。
そして暫くそこにいて、それからゆっくりと離れたが、母さんオオカミとも森の動物とも違う初めて見る人間の女は美しかった。胸が苦しかった。
そして思った。あの女がオオカミだったら良かったのにと。
もしかしたらあの女が、一匹狼と呼ばれ、たったひとりで過ごす自分の傍にいてくれる女ではないかと。愛が欲しい頃合いを迎えた自分の傍にいてくれる女ではないかと思った。
だが相手は人間の女。いずれ殺してしまわなければならないのだから恋をする相手ではなかった。
青年オオカミは森の中へ帰ると、ねぐらにしている洞窟に戻り眠るために目をつむった。
だが真夜中に瞼の上へ降りてくる白い顔があった。
そして眼を覚ますと耳をすませ、鼻をひくつかせた。
微かに音が聞こえていた。
微かに匂いが感じられた。
青年オオカミは身を起こし立ち上がると、森を抜けあの家に向かっていた。
何キロもの距離を一気に駆け抜けた丘の上から見下ろした森の外れの小さな家は、数名の男たちに取り囲まれ燃えていた。
あの女はどうしたのか。いずれ殺すつもりでいたのだから焼け死んだならそれでいいはずだ。だが何故かそうは思わなかった。
青年オオカミは丘を駆け降りると燃え盛る炎の中に飛び込んでいた。

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<愛の静寂(しじま)に> Christmas Story 2018
父さんオオカミと母さんオオカミは我が子がハンターに狙われないかと心配していた。
父さんオオカミと母さんオオカミは共に白っぽい灰色の被毛をしていたから雪の上でも目立つことはないが、子供のオオカミはまだ茶色い毛をしていて、遠くからでもその姿がすぐに分かるからだ。
仔オオカミは思った。どうして僕は父さんとも母さんとも毛の色が違うのか。
そんなことを思う仔オオカミに母さんオオカミは、「心配しないで。母さんも小さな頃は茶色い毛をしていたのよ。だからあなたも大人になって歳を取れば父さんや母さんのように灰色の立派なオオカミになるから」と言った。
仔オオカミの父さんと母さんは年老いていた。
父さんオオカミが母さんオオカミに出会ったのは、ふたりがそれぞれの仲間を失ってから。
オオカミはパックという群れを作り生活しているが、ふたりはそれぞれの仲間を人間によって殺され共にひとりぼっちになっていた。
そして出会ったふたりは、すぐに寄り添い恋におちた。そして仔オオカミをもうけたが、仔オオカミに兄弟はいない。両親は年を取り過ぎていて、ふたりの間に生まれたのは仔オオカミひとりだけだった。
ある日、仔オオカミは父さんと母さんに連れられ雪山の中を歩いていた。
そして時々雪に身体をすり寄せ遊んでいたが、父さんオオカミと母さんオオカミは、そんな風に遊ぶ我が子の姿を楽しげに見つめていた。
そして父さんオオカミと母さんオオカミも互いの身体をすり寄せながら雪山を歩いていた。
冬はオオカミにとって恋の季節だが、まだ若い仔オオカミは恋をしたことがない。
それでも父さんオオカミと母さんオオカミの仲の良さから、いつか自分もメスオオカミと出会って恋をするのだと思っていた。
そのとき、風に乗って今まで嗅いだことがない匂いを感じた。と同時に風が裂かれる音が聞えた。
仔オオカミは匂いと音がする方を見た。
するとそこにいたのは今まで見たこともない大きな影で今にも襲い掛かりそうに見えた。その姿は立ち上ったクマかと思ったが、それは違った。それにクマには森の中で何度か出会ったことがあるが、クマが風を引き裂く音を出すことはない。それに森の中で一番強いと言われる父さんオオカミが他の動物に襲われることはない。
だが大きな影は風を引き裂く長い木の枝のようなものを持っていた。
「逃げろ!」
父さんオオカミはそう言って母さんオオカミと仔オオカミに叫んだ。
だが仔オオカミは、初めて見た大きな影に興味を惹かれ駆け出すのが一瞬遅れた。
そして大きな影が木の枝を目の高さに水平に持ち、こちらに向けると枝の先から炎が上がるのが見えたが身体が動かなかった。
そんな仔オオカミを父さんオオカミは体当たりして逃げるように言った。
だから仔オオカミは大きな影に背中を向けると雪の上を走り出した。だが仔オオカミの毛色は茶色で白い雪の上では目立った。だから父さんオオカミと母さんオオカミは、その姿が大きな影から見えない様にかばっていた。そして早く走れ。スピードを上げろと後ろから仔オオカミの身体を押した。だから仔オオカミは、まだ両親よりも小さな身体だが、真っ白な雪原を懸命に走った。
だがその時、再び風の流れを引き裂く大きな音がして、何かが焼けたような臭いがした。
「走れ!後ろを振り向くな!逃げろ!」
父さんオオカミはそう言って仔オオカミを先に走らせた。
そして仔オオカミは父さんオオカミの声を訊きながら走り森の中へ逃げ込み、そこでようやく走るスピードを緩めた。そして振り向いたとき、少し遅れて仔オオカミのところへ辿り着いたのは、白っぽい灰色の被毛を赤く染めた母さんオオカミと、そんな母さんオオカミを支える父さんオオカミの姿だった。
「母さん!」
仔オオカミは母さんの名前を呼んだ。
父さんオオカミは、母さんオオカミの身体から溢れる赤い血を止めようと傷口を舐めていたが血は止まらなかった。そして母さんオオカミの身体から流れる赤い血が、葉の上に積もった真っ白な雪の上に点々と跡を残していた。
「母さん!」
仔オオカミは厚い冬毛に覆われた母さんオオカミの身体に顔を寄せたが、その身体がだんだんと冷たくなっていくのが感じられた。
そして母さんオオカミは、白っぽい灰色の身体が赤に染まり、苦しそうに息をしながら仔オオカミに言った。
「….人間には気をつけるのよ…」
人間。
あれが人間。今まで見たことがなかったが、父さんと母さんから訊かされていた。
人間は森の動物を狩る野蛮な生き物で、動物のようにルールがない。
それは動物を食料として食べるのではなく、自分達の楽しみのため狩る凶暴な生き物であること。そして彼らは火を噴く木の枝のようなものを持っている。それは森に仕掛けられるワナとは違い、その枝のようなものを向けられた動物はすぐに息絶えてしまうこと。
仔オオカミは死について知っている。
それは父さんオオカミと母さんオオカミが仔オオカミのためにエサを運んできてくれるからだ。そして父さんも母さんも年を取っているから自分よりも早く死が迎えに来ることを知っている。森の食物連鎖の頂点にいるオオカミも死ねば誰かのエサになり、他の動物の命を繋ぐ。だから仔オオカミの中での死は人間に殺されることではなかった。
「人間は俺たちオオカミを殺そうとする。だから人間は敵だ。いいか。あの影を見たら近づくな。だがもし傍にいたら殺せ。俺たちは森の奥深くで暮らしてきた。人間には迷惑をかけたことはなかった。だが人間は俺たちの仲間を殺していく。父さんの父さんと母さんも、母さんの父さんと母さんも、仲間たちもみんな人間に殺された。だから人間は敵だ。お前は敵を倒せる強いオオカミになれ。この森で一番のオオカミになれ」
父さんオオカミは仔オオカミにそう言って冷たくなってゆく母さんの身体を舐め続けていた。

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父さんオオカミと母さんオオカミは我が子がハンターに狙われないかと心配していた。
父さんオオカミと母さんオオカミは共に白っぽい灰色の被毛をしていたから雪の上でも目立つことはないが、子供のオオカミはまだ茶色い毛をしていて、遠くからでもその姿がすぐに分かるからだ。
仔オオカミは思った。どうして僕は父さんとも母さんとも毛の色が違うのか。
そんなことを思う仔オオカミに母さんオオカミは、「心配しないで。母さんも小さな頃は茶色い毛をしていたのよ。だからあなたも大人になって歳を取れば父さんや母さんのように灰色の立派なオオカミになるから」と言った。
仔オオカミの父さんと母さんは年老いていた。
父さんオオカミが母さんオオカミに出会ったのは、ふたりがそれぞれの仲間を失ってから。
オオカミはパックという群れを作り生活しているが、ふたりはそれぞれの仲間を人間によって殺され共にひとりぼっちになっていた。
そして出会ったふたりは、すぐに寄り添い恋におちた。そして仔オオカミをもうけたが、仔オオカミに兄弟はいない。両親は年を取り過ぎていて、ふたりの間に生まれたのは仔オオカミひとりだけだった。
ある日、仔オオカミは父さんと母さんに連れられ雪山の中を歩いていた。
そして時々雪に身体をすり寄せ遊んでいたが、父さんオオカミと母さんオオカミは、そんな風に遊ぶ我が子の姿を楽しげに見つめていた。
そして父さんオオカミと母さんオオカミも互いの身体をすり寄せながら雪山を歩いていた。
冬はオオカミにとって恋の季節だが、まだ若い仔オオカミは恋をしたことがない。
それでも父さんオオカミと母さんオオカミの仲の良さから、いつか自分もメスオオカミと出会って恋をするのだと思っていた。
そのとき、風に乗って今まで嗅いだことがない匂いを感じた。と同時に風が裂かれる音が聞えた。
仔オオカミは匂いと音がする方を見た。
するとそこにいたのは今まで見たこともない大きな影で今にも襲い掛かりそうに見えた。その姿は立ち上ったクマかと思ったが、それは違った。それにクマには森の中で何度か出会ったことがあるが、クマが風を引き裂く音を出すことはない。それに森の中で一番強いと言われる父さんオオカミが他の動物に襲われることはない。
だが大きな影は風を引き裂く長い木の枝のようなものを持っていた。
「逃げろ!」
父さんオオカミはそう言って母さんオオカミと仔オオカミに叫んだ。
だが仔オオカミは、初めて見た大きな影に興味を惹かれ駆け出すのが一瞬遅れた。
そして大きな影が木の枝を目の高さに水平に持ち、こちらに向けると枝の先から炎が上がるのが見えたが身体が動かなかった。
そんな仔オオカミを父さんオオカミは体当たりして逃げるように言った。
だから仔オオカミは大きな影に背中を向けると雪の上を走り出した。だが仔オオカミの毛色は茶色で白い雪の上では目立った。だから父さんオオカミと母さんオオカミは、その姿が大きな影から見えない様にかばっていた。そして早く走れ。スピードを上げろと後ろから仔オオカミの身体を押した。だから仔オオカミは、まだ両親よりも小さな身体だが、真っ白な雪原を懸命に走った。
だがその時、再び風の流れを引き裂く大きな音がして、何かが焼けたような臭いがした。
「走れ!後ろを振り向くな!逃げろ!」
父さんオオカミはそう言って仔オオカミを先に走らせた。
そして仔オオカミは父さんオオカミの声を訊きながら走り森の中へ逃げ込み、そこでようやく走るスピードを緩めた。そして振り向いたとき、少し遅れて仔オオカミのところへ辿り着いたのは、白っぽい灰色の被毛を赤く染めた母さんオオカミと、そんな母さんオオカミを支える父さんオオカミの姿だった。
「母さん!」
仔オオカミは母さんの名前を呼んだ。
父さんオオカミは、母さんオオカミの身体から溢れる赤い血を止めようと傷口を舐めていたが血は止まらなかった。そして母さんオオカミの身体から流れる赤い血が、葉の上に積もった真っ白な雪の上に点々と跡を残していた。
「母さん!」
仔オオカミは厚い冬毛に覆われた母さんオオカミの身体に顔を寄せたが、その身体がだんだんと冷たくなっていくのが感じられた。
そして母さんオオカミは、白っぽい灰色の身体が赤に染まり、苦しそうに息をしながら仔オオカミに言った。
「….人間には気をつけるのよ…」
人間。
あれが人間。今まで見たことがなかったが、父さんと母さんから訊かされていた。
人間は森の動物を狩る野蛮な生き物で、動物のようにルールがない。
それは動物を食料として食べるのではなく、自分達の楽しみのため狩る凶暴な生き物であること。そして彼らは火を噴く木の枝のようなものを持っている。それは森に仕掛けられるワナとは違い、その枝のようなものを向けられた動物はすぐに息絶えてしまうこと。
仔オオカミは死について知っている。
それは父さんオオカミと母さんオオカミが仔オオカミのためにエサを運んできてくれるからだ。そして父さんも母さんも年を取っているから自分よりも早く死が迎えに来ることを知っている。森の食物連鎖の頂点にいるオオカミも死ねば誰かのエサになり、他の動物の命を繋ぐ。だから仔オオカミの中での死は人間に殺されることではなかった。
「人間は俺たちオオカミを殺そうとする。だから人間は敵だ。いいか。あの影を見たら近づくな。だがもし傍にいたら殺せ。俺たちは森の奥深くで暮らしてきた。人間には迷惑をかけたことはなかった。だが人間は俺たちの仲間を殺していく。父さんの父さんと母さんも、母さんの父さんと母さんも、仲間たちもみんな人間に殺された。だから人間は敵だ。お前は敵を倒せる強いオオカミになれ。この森で一番のオオカミになれ」
父さんオオカミは仔オオカミにそう言って冷たくなってゆく母さんの身体を舐め続けていた。

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背中に衝撃を感じた瞬間。
つくしは足元がふらつき、前のめりになった。そして前に立つ男性の背中にぶつかった。
すると男性がびっくりした様子で振り向き、慌てて「す、すみません」と詫びた。
駅はそれなりに混雑していたが、通勤通学のラッシュ時ではない。
今の時間はホームの人影はまばらで、押し合うような状況ではない。それなのに突然強い力で背中を押された。
つくしは振り返り後ろを見た。けれど背後には誰もおらず、到着した電車の扉が開き乗客が降りて来ると、横を通り過ぎて行く。
そして人の流れはどんどん電車から離れて行き、発車しますとアナウンスが流れると、つくしは慌てて電車に乗った。
そして扉の傍に立ちホームを見た。やがて電車は緩やかに動き出始め、スピードを上げて行った。
それにしても今のは一体何だったのか?
背中を押されたのは偶然何かが当たったというのではない。
誰かの手で押されたのは確かで、ああいった行為は悪意があると言ってもおかしくないはずだ。
つくしは、ホームの先頭に並んでいたのではない。
そして幸い前いた男性はがっちりとした体格で、つくしがぶつかってもびくともしなかった。けれど、状況が違えば大変なことになっていてもおかしくない。
それにしても、一体誰がそんなことを?悪戯だとすれば許せなかった。そして暫くすると、ぞっとして背筋に冷たいものを感じた。
考えたくはなかったが、故意だとすれば何故?ということだ。
けれど、誰かが何らかの悪意を持っているとすれば誰が?ということになるが心当たりはなかった。
だがそれから目的地の駅まで、ひどく緊張した姿勢で立っていた。
そしてそのままの姿勢で電車を降り改札口に向かい目の前にそびえ立つ道明寺ビルへ向かったが、つくしは物事を悪い方へと考えるのは嫌だった。だから背中を押されたことは、単なる悪戯でつくしに対して何かをしようというのではないと思おうとしていた。
そうだ。つい先日もニュースで言っていた。駅の構内で通行人にわざとぶつかって歩く男の話を。だからあの出来事は質の悪い悪戯だと自分に言い聞かせ思考を切り替えた。
そして気を取り直してビルの受付けに着くと、「牧野と申します。3時に副社長秘書の西田さんとお約束があります」と言い取り次いでもらうと、入館証を貰い案内されたエレベーターに乗った。
今日はあの時の、財団の面接の日のような緊張感は無かった。
けれど、別の意味で緊張しているかもしれない。
だから何度か深呼吸をした。
何しろ行き先は最上階。そこが誰でもが簡単に行ける場所だとは思っていないからだ。
それにこちらは専用エレベーターですのでと言われ、操作パネルで入館証を読み取らせるとエレベーターは動き出したが、あっという間に最上階に着き扉が開くと、そこには秘書の西田が待機していた。
そして秘書に先導されて副社長室に入るが、そこは副社長応接室だと言われ今お茶をお持ちしますので、と言われソファに座って5分程待つと女性がコーヒーを運んで来た。そして今度は奥のドアが開いてダークスーツの道明寺副社長が現れた。
立ち上って挨拶をしようとしたつくしに、そのままでと言い真正面に座った道明寺副社長は、前のめりになりいきなり顏を近づけて来た。
その動作は初めて会ったとき、エレベーターが止り閉じ込められたことで約束の時間に遅れ、面接はしないと言われ立ち去る男を追いかけて行った時も廊下でもされたことで、あの時はぎょっとしたが今は驚かなかった。
何しろこの男性のすることは意表を突いているからだ。
だがそれでも、あまりの近さに思わず身体がのけ反っていた。

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つくしは足元がふらつき、前のめりになった。そして前に立つ男性の背中にぶつかった。
すると男性がびっくりした様子で振り向き、慌てて「す、すみません」と詫びた。
駅はそれなりに混雑していたが、通勤通学のラッシュ時ではない。
今の時間はホームの人影はまばらで、押し合うような状況ではない。それなのに突然強い力で背中を押された。
つくしは振り返り後ろを見た。けれど背後には誰もおらず、到着した電車の扉が開き乗客が降りて来ると、横を通り過ぎて行く。
そして人の流れはどんどん電車から離れて行き、発車しますとアナウンスが流れると、つくしは慌てて電車に乗った。
そして扉の傍に立ちホームを見た。やがて電車は緩やかに動き出始め、スピードを上げて行った。
それにしても今のは一体何だったのか?
背中を押されたのは偶然何かが当たったというのではない。
誰かの手で押されたのは確かで、ああいった行為は悪意があると言ってもおかしくないはずだ。
つくしは、ホームの先頭に並んでいたのではない。
そして幸い前いた男性はがっちりとした体格で、つくしがぶつかってもびくともしなかった。けれど、状況が違えば大変なことになっていてもおかしくない。
それにしても、一体誰がそんなことを?悪戯だとすれば許せなかった。そして暫くすると、ぞっとして背筋に冷たいものを感じた。
考えたくはなかったが、故意だとすれば何故?ということだ。
けれど、誰かが何らかの悪意を持っているとすれば誰が?ということになるが心当たりはなかった。
だがそれから目的地の駅まで、ひどく緊張した姿勢で立っていた。
そしてそのままの姿勢で電車を降り改札口に向かい目の前にそびえ立つ道明寺ビルへ向かったが、つくしは物事を悪い方へと考えるのは嫌だった。だから背中を押されたことは、単なる悪戯でつくしに対して何かをしようというのではないと思おうとしていた。
そうだ。つい先日もニュースで言っていた。駅の構内で通行人にわざとぶつかって歩く男の話を。だからあの出来事は質の悪い悪戯だと自分に言い聞かせ思考を切り替えた。
そして気を取り直してビルの受付けに着くと、「牧野と申します。3時に副社長秘書の西田さんとお約束があります」と言い取り次いでもらうと、入館証を貰い案内されたエレベーターに乗った。
今日はあの時の、財団の面接の日のような緊張感は無かった。
けれど、別の意味で緊張しているかもしれない。
だから何度か深呼吸をした。
何しろ行き先は最上階。そこが誰でもが簡単に行ける場所だとは思っていないからだ。
それにこちらは専用エレベーターですのでと言われ、操作パネルで入館証を読み取らせるとエレベーターは動き出したが、あっという間に最上階に着き扉が開くと、そこには秘書の西田が待機していた。
そして秘書に先導されて副社長室に入るが、そこは副社長応接室だと言われ今お茶をお持ちしますので、と言われソファに座って5分程待つと女性がコーヒーを運んで来た。そして今度は奥のドアが開いてダークスーツの道明寺副社長が現れた。
立ち上って挨拶をしようとしたつくしに、そのままでと言い真正面に座った道明寺副社長は、前のめりになりいきなり顏を近づけて来た。
その動作は初めて会ったとき、エレベーターが止り閉じ込められたことで約束の時間に遅れ、面接はしないと言われ立ち去る男を追いかけて行った時も廊下でもされたことで、あの時はぎょっとしたが今は驚かなかった。
何しろこの男性のすることは意表を突いているからだ。
だがそれでも、あまりの近さに思わず身体がのけ反っていた。

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研究室を出たつくしは、大学の最寄り駅に向かって歩きながら若林和彦の事を考えていた。
昨日の夕方和彦が銀座の有名洋菓子店の箱を持ち研究室を訪ねて来た。
荷物が届いたその日に電話で礼は言ってはいたが、改めて本当に貰ってもいいのかと訊いた。すると和彦は、
「勿論です。牧野先生のために揃えたんですから遠慮せずに使って下さい」
と言ったが、かなりの金額であることは確かで申し訳ないような、けれど有難い贈り物であることは嘘ではなく助かると言った。
そして柔らかな手触りの淡い水色のマフラーが、高級なものだと分かっているだけに、マフラーについての礼も言ったが、「昔牧野先生が身に着けていた色が水色でしたので、その色にしましたが、気に入っていただけたでしょうか?」と言われ、気に入らないとは言えず、やはり和彦は15年も前のことを覚えていたということになるが、それが嬉しいのか。それとも困惑なのかと問われれば、困惑の方だと言えた。
それに交際については断るつもりだから、もしマフラーに何らかの意味を込めているとすれば、受け取る訳にはいかないと思ったが、遠慮せず気軽に使って下さい。それに返されても困りますからと言われた。
そしてそのとき、「あのね、若林君_」と言いかけると、「先生。返事は急ぎません。だからゆっくり考えて下さい」と言われ、なるべく早く返事をしようと思っていたが、余りにも早い返事では全く考えなかったのではないか。と思われることから、お付き合いは出来ませんという言葉を言えずにいた。
そして今日訪れたのは、先生の研究室を見たかったからです。何かお役に立てることがあれば遠慮なく言って下さいと言われたが、自分に好意を持つ男性に頼みごとをするということは、相手に期待を持たせることになる。だから和彦の言う何かを頼むつもりはなかった。
そして夕方ということもあり、もしよかったらこれから食事に行きませんか?と言われたが、誤解を招く行動を取りたくなかった。そして明日の準備があるのでごめんなさいと断った。
「はぁ……若林くんのこともだけど、あのドレス一体どうすればいいのよ….」
若林和彦のこともだが、先日副社長に同伴したパーティーで着たドレスを返却するつもりで秘書に電話をした。
すると返却する必要はありません。差し上げますと言われたが、あのドレスは道明寺副社長の立場に合わせて用意されたもので、これから先サメの研究者に高価なオフショルダーのロングドレスを着る機会などあるとは思えず、仕事で同伴させていただいただけですから、頂く訳にはいきませんと言ったが、秘書は返されても困りますと言った。
つまり今のつくしは、二人の男性から思いも寄らない物を貰っていたが、どちらの男性も財力があり、つくしが気に掛けるほど気にしてないのが実情なのかもしれない。だから気にする方が間違っていると言うならそこで納得しなければならなかった。
そして今日は午後からの講義もなく、丸の内にある道明寺ビルに向かっていたが、ブレーンになると、突然呼び出されることはよくあるということなのか。
だが突然と言っても、昨日和彦が研究室を訪れる前、道明寺副社長の秘書から明日の午後3時。深海で繁栄しているサメの種類と何故繁栄しているのかについて教えて欲しいと言われた。つまり昨日和彦からの食事の誘いを断ったのは、誤解を招く行動を取りたくなかったこともあるが、この件の資料を準備するための時間が必要だったからだ。
それにしても、変わったことに興味を持つと思ったが、サメ自体に興味を持つ人間が少ないのだから、少しでも興味を持つ人間が増えることはいいことだ。
だがこの突然の呼び出しに若干訝しい気分を抱いていたが、5千万円寄付されたことを考えれば致し方ないことなのかもしれない。
つくしの服装はいつもロングスカートかパンツスーツだが、今日はパンツスーツだ。
その全体的な印象は大学准教授というよりも、普通の会社員といった感じで堅苦しさは感じられない。そして大人びた学生たちの中に入れば、同級生と思われることもあった。
だが午後のこの時間、駅につくしが知る学生の姿は無かったが、それでも普段から多くの利用客がいる駅は混雑していた。そして駅構内に向かう階段を登ったところで、つくしはふと振り返った。
何故振り返ったのか。
誰かに名前を呼ばれたのではないが、視線を感じたからだ。けれど見知った顔はいなかった。
だがこの駅は大勢の学生が利用する駅であり、自分が知らなくてもつくしが大学の職員だと知っている人間がいてもおかしくない場所だ。
だから誰かがつくしの名前を口にしたのかもしれない。そしてその声が風に乗って耳に届いたのかもしれない。
だから気にすることではない。用があれば声をかけてくるはずだ。
ホームに立ち、電車が来るのを待った。
そして電車がいつものように高い音を立ててホームに入って来るのが見えたが、その瞬間背中に衝撃を感じた。

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昨日の夕方和彦が銀座の有名洋菓子店の箱を持ち研究室を訪ねて来た。
荷物が届いたその日に電話で礼は言ってはいたが、改めて本当に貰ってもいいのかと訊いた。すると和彦は、
「勿論です。牧野先生のために揃えたんですから遠慮せずに使って下さい」
と言ったが、かなりの金額であることは確かで申し訳ないような、けれど有難い贈り物であることは嘘ではなく助かると言った。
そして柔らかな手触りの淡い水色のマフラーが、高級なものだと分かっているだけに、マフラーについての礼も言ったが、「昔牧野先生が身に着けていた色が水色でしたので、その色にしましたが、気に入っていただけたでしょうか?」と言われ、気に入らないとは言えず、やはり和彦は15年も前のことを覚えていたということになるが、それが嬉しいのか。それとも困惑なのかと問われれば、困惑の方だと言えた。
それに交際については断るつもりだから、もしマフラーに何らかの意味を込めているとすれば、受け取る訳にはいかないと思ったが、遠慮せず気軽に使って下さい。それに返されても困りますからと言われた。
そしてそのとき、「あのね、若林君_」と言いかけると、「先生。返事は急ぎません。だからゆっくり考えて下さい」と言われ、なるべく早く返事をしようと思っていたが、余りにも早い返事では全く考えなかったのではないか。と思われることから、お付き合いは出来ませんという言葉を言えずにいた。
そして今日訪れたのは、先生の研究室を見たかったからです。何かお役に立てることがあれば遠慮なく言って下さいと言われたが、自分に好意を持つ男性に頼みごとをするということは、相手に期待を持たせることになる。だから和彦の言う何かを頼むつもりはなかった。
そして夕方ということもあり、もしよかったらこれから食事に行きませんか?と言われたが、誤解を招く行動を取りたくなかった。そして明日の準備があるのでごめんなさいと断った。
「はぁ……若林くんのこともだけど、あのドレス一体どうすればいいのよ….」
若林和彦のこともだが、先日副社長に同伴したパーティーで着たドレスを返却するつもりで秘書に電話をした。
すると返却する必要はありません。差し上げますと言われたが、あのドレスは道明寺副社長の立場に合わせて用意されたもので、これから先サメの研究者に高価なオフショルダーのロングドレスを着る機会などあるとは思えず、仕事で同伴させていただいただけですから、頂く訳にはいきませんと言ったが、秘書は返されても困りますと言った。
つまり今のつくしは、二人の男性から思いも寄らない物を貰っていたが、どちらの男性も財力があり、つくしが気に掛けるほど気にしてないのが実情なのかもしれない。だから気にする方が間違っていると言うならそこで納得しなければならなかった。
そして今日は午後からの講義もなく、丸の内にある道明寺ビルに向かっていたが、ブレーンになると、突然呼び出されることはよくあるということなのか。
だが突然と言っても、昨日和彦が研究室を訪れる前、道明寺副社長の秘書から明日の午後3時。深海で繁栄しているサメの種類と何故繁栄しているのかについて教えて欲しいと言われた。つまり昨日和彦からの食事の誘いを断ったのは、誤解を招く行動を取りたくなかったこともあるが、この件の資料を準備するための時間が必要だったからだ。
それにしても、変わったことに興味を持つと思ったが、サメ自体に興味を持つ人間が少ないのだから、少しでも興味を持つ人間が増えることはいいことだ。
だがこの突然の呼び出しに若干訝しい気分を抱いていたが、5千万円寄付されたことを考えれば致し方ないことなのかもしれない。
つくしの服装はいつもロングスカートかパンツスーツだが、今日はパンツスーツだ。
その全体的な印象は大学准教授というよりも、普通の会社員といった感じで堅苦しさは感じられない。そして大人びた学生たちの中に入れば、同級生と思われることもあった。
だが午後のこの時間、駅につくしが知る学生の姿は無かったが、それでも普段から多くの利用客がいる駅は混雑していた。そして駅構内に向かう階段を登ったところで、つくしはふと振り返った。
何故振り返ったのか。
誰かに名前を呼ばれたのではないが、視線を感じたからだ。けれど見知った顔はいなかった。
だがこの駅は大勢の学生が利用する駅であり、自分が知らなくてもつくしが大学の職員だと知っている人間がいてもおかしくない場所だ。
だから誰かがつくしの名前を口にしたのかもしれない。そしてその声が風に乗って耳に届いたのかもしれない。
だから気にすることではない。用があれば声をかけてくるはずだ。
ホームに立ち、電車が来るのを待った。
そして電車がいつものように高い音を立ててホームに入って来るのが見えたが、その瞬間背中に衝撃を感じた。

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『はい』と電話に出た相手に「私です。今いいですか?」とつくしは言った。
そして1週間の間にあったことを話そうとしていた。
それは仕事で道明寺副社長のパートナーとしてパーティーに出席したことだが、前回の電話でパーティーに出席することについて話しをしていた。そして相手の男性について全ての事情を話すことは出来ないが、と前置きをして、その男性が社会的地位の高い人物で便宜を図ってくれるが厳しい人だという話をした。
だがこれから話すことは、その人のことではなく、少し困った状況にあることを話そうとしていた。それはかつて家庭教師をしていた6歳年下の男性から好意を持たれているということだ。
桜子は女性が6歳年上は世間ではよくある話しだと言ったが、つくしの知る限り周りそういった年の差のカップルはおらず、訊いたことがなかった。それに1、2歳の年の差ならまだしも、あまり一般的とは言えない歳の差はエキセントリック、つまり普通ではないと思われてもおかしくはなく、稀に聞く話として男性が一目惚れをした女性の実年齢を知って動揺し、たじろぐ姿が普通のはずだ。
だが若林和彦は、つくしとの年の差を知っていて思いを伝えて来た。
それを悪いとは言わないが彼の想いを受け入れることは出来なかった。
それにしても、いい返事を待っていると書かれたカードが添えられた淡い水色のマフラーは、あの頃愛用していた色と同じだった。
当時、服装と言えばシャツカラーで地味なパンツスタイルが多く冬のコートの色は黒色。愛用していた淡い水色のマフラーは、そんなコートに差し色として映え、和彦はそれを覚えていたということだ。だが今までそのことが頭の中にあったとすれば、相当長い間覚えていたことになるが、男子中学生の初恋というのはそういったものなのか。
弟の進とそういった話をしたことが無ければ、訊いたこともなかったが、思春期の少年にとって、つくし程年齢が離れた女性は眩しく印象深かったということだろう。
『どうかしましたか?』
「え?あ、ごめんなさい。電話なのに黙っているなんて」
『いえ。いいんです。それより何かありましたか?』
「ええ、まあ….」
と、つい言葉を濁してしまったが、電話の男性は、つくしよりもひとつ年上だと言ったが、それなら若林和彦と男性は7歳の年の差ということになるが、同じ男性として6歳年上の女性に対して何を思うか知りたいと思った。
だがそこでふと思った。つくしが夜の電話の男性について知っていることは年齢だけ。それも本当かどうか定かではなく、改めて思えば謎めいた存在だ。そして相手の言うことを疑えばきりがないのだが、電話の向こうにいる男性の声は信頼できる声をしていて、嘘をついているとは考えていなかった。
そしてつくしは先日パーティーであったことを話し始めた。
実は15年前に家庭教師をしていた6歳年下の男性と偶然出会い、その男性から好意を抱かれ付き合って欲しいと言われたという話を。
そしてまだその男性には話していないが付き合うつもりはないという話を。
しかし考えてみれば、実際に会った若林和彦よりも物理的に会ってもいない男性に自分の思いを打ち明けるというのもおかしな話だが、かえって何も知らない人だからこそ言えるということもある。
つまりそれは、和彦以上に電話の男性の方がつくしを惹きつけていて、例えその人の姿が見えなくても、一番近い存在は掌に乗る機械を通して繋がっている男性ということになる。
『そうですか。懐かしい人に出会ったが、その人はあなたに好意を抱いていると言った。それに対しあなたは彼の気持に応えることは出来ないということですね?』
「ええ。私には勿体ないような人だと思っています。それに教え子ですからとてもそんな気にはなれません」
『なるほど。かつての教え子は恋愛の対象には思えないということですか?』
「はい。とても優秀な少年でした。勉強熱心で頭のいい子でした。今もあの頃と同じような聡明さを感じさせる男性になっていました」
『そうですか。どうやらあなたのその話しぶりからすると、好青年のように思えますが、もしあなたが年齢差を気にしているならそれは杞憂かもしれませんよ?好きになれば6歳年上だろうと年齢は関係ないはずです。それにその人が何をしても可愛く見える。それが恋をする男だと思いますよ』
男性はそこで一旦言葉を切り、それから言葉を継いだ。
『その男性は6歳年下….つまり28歳と言えば結婚を考えていてもおかしくない。違いますか?付き合って欲しいと言われたということは、結婚を前提にではないでしょうか?』
「え?え….ええ。でも私はその方との結婚を考えていません。だからお付き合いすることはありません。つまりそのつもりもないのにお付き合いをして互いが傷つくことは出来れば避けたいと思っています。それにその方には私のように年上の女性よりも同じ年頃の女性の方がお似合いだと思います」
司は牧野つくしから打ち明け話を訊かされたが、それはパーティーで会った若林和彦のこと。そして帰りの車内で話をした時は結婚という言葉は出なかったが、若林和彦は牧野つくしと付き合うに際し将来を約束したようだ。
だが女の方は断ろうとしている。その理由は年上の女よりも同年代の女の方が似合うという理由。そしてその言葉は車内でも言っていた。
だがその言葉通り6歳年下だからという理由だけで断るとすれば、随分と勿体ない話だと思うが、他に何か理由があるのか。あるとすればその理由は何なのか。
互いが傷つくことは出来れば避けたいと言ったが、過去に男といざこざがあり懲りたのか?司とは別の意味で恋愛に失望を感じたのか。
それでも、若林建設の専務なら玉の輿と言えるはずだが、海洋生物学者で准教授の牧野つくしにとっては、そんな男は無意味な存在なのか。そんなことを思いながら訊いていたが、そこでふと思った。もしかして牧野つくしには結婚願望がないというのか?
そのことに気付くと、司は突然笑い出したい気持ちになっていた。最高に楽しい気分だった。
それは思いついたからだ。今まで牧野つくしという研究一筋の女にも裏表があることを、金がある男の前では態度が変わるはずだと。その事実を確かめるため、こうして電話の男の存在を作り出し牧野つくしの態度を見ていた。だがその策略は変えた方が楽しいことに気付いた。女が近づいて来るのを待つよりも、司が近づいて行けばいい。熱心に誘えばいい。自分に惚れさせればいい。そしてその時、牧野つくしはどうするかを見たいと思った。

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そして1週間の間にあったことを話そうとしていた。
それは仕事で道明寺副社長のパートナーとしてパーティーに出席したことだが、前回の電話でパーティーに出席することについて話しをしていた。そして相手の男性について全ての事情を話すことは出来ないが、と前置きをして、その男性が社会的地位の高い人物で便宜を図ってくれるが厳しい人だという話をした。
だがこれから話すことは、その人のことではなく、少し困った状況にあることを話そうとしていた。それはかつて家庭教師をしていた6歳年下の男性から好意を持たれているということだ。
桜子は女性が6歳年上は世間ではよくある話しだと言ったが、つくしの知る限り周りそういった年の差のカップルはおらず、訊いたことがなかった。それに1、2歳の年の差ならまだしも、あまり一般的とは言えない歳の差はエキセントリック、つまり普通ではないと思われてもおかしくはなく、稀に聞く話として男性が一目惚れをした女性の実年齢を知って動揺し、たじろぐ姿が普通のはずだ。
だが若林和彦は、つくしとの年の差を知っていて思いを伝えて来た。
それを悪いとは言わないが彼の想いを受け入れることは出来なかった。
それにしても、いい返事を待っていると書かれたカードが添えられた淡い水色のマフラーは、あの頃愛用していた色と同じだった。
当時、服装と言えばシャツカラーで地味なパンツスタイルが多く冬のコートの色は黒色。愛用していた淡い水色のマフラーは、そんなコートに差し色として映え、和彦はそれを覚えていたということだ。だが今までそのことが頭の中にあったとすれば、相当長い間覚えていたことになるが、男子中学生の初恋というのはそういったものなのか。
弟の進とそういった話をしたことが無ければ、訊いたこともなかったが、思春期の少年にとって、つくし程年齢が離れた女性は眩しく印象深かったということだろう。
『どうかしましたか?』
「え?あ、ごめんなさい。電話なのに黙っているなんて」
『いえ。いいんです。それより何かありましたか?』
「ええ、まあ….」
と、つい言葉を濁してしまったが、電話の男性は、つくしよりもひとつ年上だと言ったが、それなら若林和彦と男性は7歳の年の差ということになるが、同じ男性として6歳年上の女性に対して何を思うか知りたいと思った。
だがそこでふと思った。つくしが夜の電話の男性について知っていることは年齢だけ。それも本当かどうか定かではなく、改めて思えば謎めいた存在だ。そして相手の言うことを疑えばきりがないのだが、電話の向こうにいる男性の声は信頼できる声をしていて、嘘をついているとは考えていなかった。
そしてつくしは先日パーティーであったことを話し始めた。
実は15年前に家庭教師をしていた6歳年下の男性と偶然出会い、その男性から好意を抱かれ付き合って欲しいと言われたという話を。
そしてまだその男性には話していないが付き合うつもりはないという話を。
しかし考えてみれば、実際に会った若林和彦よりも物理的に会ってもいない男性に自分の思いを打ち明けるというのもおかしな話だが、かえって何も知らない人だからこそ言えるということもある。
つまりそれは、和彦以上に電話の男性の方がつくしを惹きつけていて、例えその人の姿が見えなくても、一番近い存在は掌に乗る機械を通して繋がっている男性ということになる。
『そうですか。懐かしい人に出会ったが、その人はあなたに好意を抱いていると言った。それに対しあなたは彼の気持に応えることは出来ないということですね?』
「ええ。私には勿体ないような人だと思っています。それに教え子ですからとてもそんな気にはなれません」
『なるほど。かつての教え子は恋愛の対象には思えないということですか?』
「はい。とても優秀な少年でした。勉強熱心で頭のいい子でした。今もあの頃と同じような聡明さを感じさせる男性になっていました」
『そうですか。どうやらあなたのその話しぶりからすると、好青年のように思えますが、もしあなたが年齢差を気にしているならそれは杞憂かもしれませんよ?好きになれば6歳年上だろうと年齢は関係ないはずです。それにその人が何をしても可愛く見える。それが恋をする男だと思いますよ』
男性はそこで一旦言葉を切り、それから言葉を継いだ。
『その男性は6歳年下….つまり28歳と言えば結婚を考えていてもおかしくない。違いますか?付き合って欲しいと言われたということは、結婚を前提にではないでしょうか?』
「え?え….ええ。でも私はその方との結婚を考えていません。だからお付き合いすることはありません。つまりそのつもりもないのにお付き合いをして互いが傷つくことは出来れば避けたいと思っています。それにその方には私のように年上の女性よりも同じ年頃の女性の方がお似合いだと思います」
司は牧野つくしから打ち明け話を訊かされたが、それはパーティーで会った若林和彦のこと。そして帰りの車内で話をした時は結婚という言葉は出なかったが、若林和彦は牧野つくしと付き合うに際し将来を約束したようだ。
だが女の方は断ろうとしている。その理由は年上の女よりも同年代の女の方が似合うという理由。そしてその言葉は車内でも言っていた。
だがその言葉通り6歳年下だからという理由だけで断るとすれば、随分と勿体ない話だと思うが、他に何か理由があるのか。あるとすればその理由は何なのか。
互いが傷つくことは出来れば避けたいと言ったが、過去に男といざこざがあり懲りたのか?司とは別の意味で恋愛に失望を感じたのか。
それでも、若林建設の専務なら玉の輿と言えるはずだが、海洋生物学者で准教授の牧野つくしにとっては、そんな男は無意味な存在なのか。そんなことを思いながら訊いていたが、そこでふと思った。もしかして牧野つくしには結婚願望がないというのか?
そのことに気付くと、司は突然笑い出したい気持ちになっていた。最高に楽しい気分だった。
それは思いついたからだ。今まで牧野つくしという研究一筋の女にも裏表があることを、金がある男の前では態度が変わるはずだと。その事実を確かめるため、こうして電話の男の存在を作り出し牧野つくしの態度を見ていた。だがその策略は変えた方が楽しいことに気付いた。女が近づいて来るのを待つよりも、司が近づいて行けばいい。熱心に誘えばいい。自分に惚れさせればいい。そしてその時、牧野つくしはどうするかを見たいと思った。

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『恋は好奇心から始まる』
牧野つくしにもあきらにも言われたその言葉。
だがあの女に対しての司の関心は恋ではない。
それは、今まで周りにいた女とは毛色が違うということに過ぎないはずだ。エレベーターに閉じ込められたことで面接に遅れ、そのことを非難した司に立ち向かって来たことが関心を引いたに過ぎず、それがたとえ他の女だったとしても同じような行動を取れば関心を寄せたはずで、あの女が特別な存在というのではない。
だから、あきらが言った牧野つくしはお前の初恋かの言葉にあえて反論はせず、単に片眉を上げただけだったが、仮に百歩譲ってあの女に対する気持ちが、あきらの言う通りの初恋だとすれば、苦笑せずにはいられなかった。
それは女を求めるよりも煙草を求める方が多い男の初恋ほどおかしな話はないからだ。
とにかく今は煙草が吸いたかった。
健康のために止めろと言われるが、そう簡単に止めれるものではない。
それに煙草を止めることで多少長く生きるくらいなら煙草を吸う方を選ぶ。
だが自宅に帰った司は煙草に火を点けるよりも前にパソコンを立ち上げると、牧野つくしのファイルを呼び出しその顔を見ていた。
世の中の女に合格、不合格を付けるとすれば、どちらでもないというごく平凡な容姿。
男に何かを求めるよりも、自分で未来を切り開いていく女。弱音も愚痴も一切吐かず全てをありのままに受け入れるが常に前を向いて歩く女。
あきらの言葉通りだとすれば、牧野つくしは気概がある人間ということになる。
そして外見という表面的なレベルや金には興味がない。だがそんな女には終ぞ出会ったことはなく、もし牧野つくしが本当にそんな女なら非常に珍しい女ということになるが、結論に達するにはまだ早い。
それは、夜の電話の男に対して見せる牧野つくしの態度は、若林和彦に出会ったことで変わるのではないかと思うからだ。
見ず知らずの相手と電話で話をすることは、自分を偽ることが出来る。ただし、それは相手が自分のことを知らなければの話で、司は女が牧野つくしであることを知っている。
だから実際に接している牧野つくしと比べ、電話の牧野つくしの態度が変わるとすれば、やはり牧野つくしも裏表のある女ということになる。
だが今のところ、司に対して欲求めいたことを口にすることはなかったが、それは全てをありのままに受け入れる女だからか。それとも年齢に伴う心の成熟がそうさせるのか。
人は学ぶことも出来るが、本来持って生まれたものの方が強いと言える。それなら愚痴を言うことがなく常に前を向いて歩くという姿に納得出来るものがあった。
何故なら人間の本質というのは、隠せたとしても変わることはないのだから。
そして週に一度電話で話をしようと言った女は、そろそろ電話をかけてくるはずだ。
プライバシーに関わることは話さないと決めた二人。
前回の電話でパーティーへ出席しなければならないと司に告げた。だから次にかかって来る電話の話は、あのパーティーのことになるはずだが、牧野つくしはどんなことを話すのか?
自分より6歳年下でかつて家庭教師として教えていた若林和彦のことを話すのか?
その男に好きだと言われたことを話すのか?
司はデスクの上に置かれた携帯電話が鳴ると、通知された番号を確かめ「はい」と出た。すると機械の向こうから「私です。今いいですか?」と声がした。
***
真理子は夫の誕生パーティーで道明寺司に伴われて現れた牧野つくしが海洋生態学が専門の大学准教授であることを知った。そしてそれ以外のことは興信所に調べさせた。
同じ年の女だが牧野つくしは真理子よりも若く見え、貧相な身体つきだったがミッドナイトブルーのドレスは、まるであつらえたように身体にピタリと合っていた。
真理子が銀座でホステスをしていた頃、自分のヘルプについていたホステスに牧野つくしによく似た女がいた。その女は真理子と同じ年で田舎から出て来たばかりだと言った。そして見るからに野暮ったい女だった。だが何故そんな女が銀座の一流店で働くことになったのか。そして何故ママがその子を雇ったのか理解に苦しんだ。
だがやがてそんな女も銀座の水に慣れたのか。数ヶ月もしないうちに醜いアヒルの子だったアヒルが白鳥に変わり輝き始めた。
歩合給のホステスはその日の売上が勝負を決める。
大学生のアルバイトとは言え、女の園の中でトップを目指したことがある真理子は、自分のヘルプについていた女に負ける訳にはいかなかった。そしてあの頃、大学を卒業する間際、道明寺司が店に来たことがあった。
道明寺司と言えば道明寺財閥の後継者であり高校時代はF4として名前が知られていた。
そしてひとつ年上の道明寺司は、ニューヨークの大学を卒業後、家業である道明寺ホールディングスに入社してニューヨークで働いていた。
そんな男が東京を訪れたのは取引関係にある会社を訪れる為であり、真理子が働いている店に現れたのは取引先の重役の接待によるものだった。
その重役は店を訪れれば、いつも真理子を指名してくれる客だったことから、その時も指名された。だが道明寺司が隣に座る重役に何か言うと、真理子はママに呼ばれ席を外すように言われた。そして代わりに座るように言われたのが田舎から出て来た女だった。
あの女が、牧野つくしに似ていた田舎臭いあの女が道明寺司のいる席に呼ばれた。
やがてその女は銀座のナンバーワンと呼ばれるホステスになり、今ではママとなり店を構えていたが、あの時真理子は売れっ子ホステスとしての立場をバカにされたと感じた。大学を卒業と同時にホステスを辞め高森の会社に入ることは決まっていたが、最後に花を咲かせたかった。それなのにあの男とあの女が邪魔をした。
だから道明寺司が牧野つくしとパーティーに現れたとき、一瞬だがあの女が現れたのかと錯覚した。
「それにしても男の趣味って変わらないものなのかしらね?でもいいわ。あの時は残念ながら逃したけど今度はどうかしらね?」

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牧野つくしにもあきらにも言われたその言葉。
だがあの女に対しての司の関心は恋ではない。
それは、今まで周りにいた女とは毛色が違うということに過ぎないはずだ。エレベーターに閉じ込められたことで面接に遅れ、そのことを非難した司に立ち向かって来たことが関心を引いたに過ぎず、それがたとえ他の女だったとしても同じような行動を取れば関心を寄せたはずで、あの女が特別な存在というのではない。
だから、あきらが言った牧野つくしはお前の初恋かの言葉にあえて反論はせず、単に片眉を上げただけだったが、仮に百歩譲ってあの女に対する気持ちが、あきらの言う通りの初恋だとすれば、苦笑せずにはいられなかった。
それは女を求めるよりも煙草を求める方が多い男の初恋ほどおかしな話はないからだ。
とにかく今は煙草が吸いたかった。
健康のために止めろと言われるが、そう簡単に止めれるものではない。
それに煙草を止めることで多少長く生きるくらいなら煙草を吸う方を選ぶ。
だが自宅に帰った司は煙草に火を点けるよりも前にパソコンを立ち上げると、牧野つくしのファイルを呼び出しその顔を見ていた。
世の中の女に合格、不合格を付けるとすれば、どちらでもないというごく平凡な容姿。
男に何かを求めるよりも、自分で未来を切り開いていく女。弱音も愚痴も一切吐かず全てをありのままに受け入れるが常に前を向いて歩く女。
あきらの言葉通りだとすれば、牧野つくしは気概がある人間ということになる。
そして外見という表面的なレベルや金には興味がない。だがそんな女には終ぞ出会ったことはなく、もし牧野つくしが本当にそんな女なら非常に珍しい女ということになるが、結論に達するにはまだ早い。
それは、夜の電話の男に対して見せる牧野つくしの態度は、若林和彦に出会ったことで変わるのではないかと思うからだ。
見ず知らずの相手と電話で話をすることは、自分を偽ることが出来る。ただし、それは相手が自分のことを知らなければの話で、司は女が牧野つくしであることを知っている。
だから実際に接している牧野つくしと比べ、電話の牧野つくしの態度が変わるとすれば、やはり牧野つくしも裏表のある女ということになる。
だが今のところ、司に対して欲求めいたことを口にすることはなかったが、それは全てをありのままに受け入れる女だからか。それとも年齢に伴う心の成熟がそうさせるのか。
人は学ぶことも出来るが、本来持って生まれたものの方が強いと言える。それなら愚痴を言うことがなく常に前を向いて歩くという姿に納得出来るものがあった。
何故なら人間の本質というのは、隠せたとしても変わることはないのだから。
そして週に一度電話で話をしようと言った女は、そろそろ電話をかけてくるはずだ。
プライバシーに関わることは話さないと決めた二人。
前回の電話でパーティーへ出席しなければならないと司に告げた。だから次にかかって来る電話の話は、あのパーティーのことになるはずだが、牧野つくしはどんなことを話すのか?
自分より6歳年下でかつて家庭教師として教えていた若林和彦のことを話すのか?
その男に好きだと言われたことを話すのか?
司はデスクの上に置かれた携帯電話が鳴ると、通知された番号を確かめ「はい」と出た。すると機械の向こうから「私です。今いいですか?」と声がした。
***
真理子は夫の誕生パーティーで道明寺司に伴われて現れた牧野つくしが海洋生態学が専門の大学准教授であることを知った。そしてそれ以外のことは興信所に調べさせた。
同じ年の女だが牧野つくしは真理子よりも若く見え、貧相な身体つきだったがミッドナイトブルーのドレスは、まるであつらえたように身体にピタリと合っていた。
真理子が銀座でホステスをしていた頃、自分のヘルプについていたホステスに牧野つくしによく似た女がいた。その女は真理子と同じ年で田舎から出て来たばかりだと言った。そして見るからに野暮ったい女だった。だが何故そんな女が銀座の一流店で働くことになったのか。そして何故ママがその子を雇ったのか理解に苦しんだ。
だがやがてそんな女も銀座の水に慣れたのか。数ヶ月もしないうちに醜いアヒルの子だったアヒルが白鳥に変わり輝き始めた。
歩合給のホステスはその日の売上が勝負を決める。
大学生のアルバイトとは言え、女の園の中でトップを目指したことがある真理子は、自分のヘルプについていた女に負ける訳にはいかなかった。そしてあの頃、大学を卒業する間際、道明寺司が店に来たことがあった。
道明寺司と言えば道明寺財閥の後継者であり高校時代はF4として名前が知られていた。
そしてひとつ年上の道明寺司は、ニューヨークの大学を卒業後、家業である道明寺ホールディングスに入社してニューヨークで働いていた。
そんな男が東京を訪れたのは取引関係にある会社を訪れる為であり、真理子が働いている店に現れたのは取引先の重役の接待によるものだった。
その重役は店を訪れれば、いつも真理子を指名してくれる客だったことから、その時も指名された。だが道明寺司が隣に座る重役に何か言うと、真理子はママに呼ばれ席を外すように言われた。そして代わりに座るように言われたのが田舎から出て来た女だった。
あの女が、牧野つくしに似ていた田舎臭いあの女が道明寺司のいる席に呼ばれた。
やがてその女は銀座のナンバーワンと呼ばれるホステスになり、今ではママとなり店を構えていたが、あの時真理子は売れっ子ホステスとしての立場をバカにされたと感じた。大学を卒業と同時にホステスを辞め高森の会社に入ることは決まっていたが、最後に花を咲かせたかった。それなのにあの男とあの女が邪魔をした。
だから道明寺司が牧野つくしとパーティーに現れたとき、一瞬だがあの女が現れたのかと錯覚した。
「それにしても男の趣味って変わらないものなのかしらね?でもいいわ。あの時は残念ながら逃したけど今度はどうかしらね?」

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「ところで司。二面性があるんじゃねぇかってお前が一人二役やって相手にしてる准教授とはどうなった?」
あきらは今から行くと言って美作商事と道明寺が共に投資を決めたペルーの銅鉱山開発の書類を手に執務室を訪ねたが、それは誰か別の人間が届けても良かった書類。
だがわざわざ口実を作ってまで訪れたのは、女に興味を持ったことが無かった男が自ら起こした行動に、『もしかするとその女がお前の運命の女かもしれねぇな』とあきら自身が口にした言葉を確かめたいという気持ちが働いたからだ。
二人とも女性経験は十分あり性欲もある。
それは30代の男として当たり前といえることで非難されることではない。
そして鍛えた肉体が性技に繋がっていることは当然で、どんな女も一度寝れば彼らの虜になり夢中になった。だが女がそうなればなるほど気持ちが醒めるのが早かった。
だから司が一人二役までしてその女の本質を知りたいと思うことが、あきらにすれば、もしかするとこれは、と思えたのだ。
つまりそれは恋をしたことがない男の初めての恋ではないかということだが、そのことについて話をしようにも、男はあきらの問いかけに返事もせず書類に目を通していた。
だから「おい司訊いてるのか?」と、あきらは何も答えない男に言ったが、やはり返事は無く、あきらには男が訊いてないと思え再び口を開こうとした。だが男は、「ああ、訊いてる。ちょっと待ってくれ」と言って手元の書類にサインを終えるとようやくあきらに顔を向けた。
「それで?あきら。お前がわざわざ書類を持ってここへ現れたのは、あの女の話が訊きたいからか?」
背中を椅子に預けた男の顔はいつもと同じ表情が固着していて、変化を期待していたあきらにすれば、少し残念な思いがしたがそれでも訊いていた。
「ああ。あれからどうなったかと思ってな」
「フン。その口の利き方は好奇心と興味が半々ってところか?」
「ああそうだ。それでその学者先生とはどうなった?お前が確かめたいと思った二面性はその女にあったのか?」
その問いかけに男は何も言わずに黙り込んだが、あきらはその態度に親友だからこそ感じられる何かを感じていたが、それは親友であり幼馴染みであるからこそ感じられる心の動きだ。
「なあ司。俺はあの時も言ったが、お前は女に興味を持ったことはなかった。それは俺たちの前にいたのはまがい物の女だったからだ」
「まがい物?」
「ああ。そうだ。けどお前の前に現れたその女がお前にとって本物の女ってことじゃねぇの?お前その女に何か感じるものがあったんだろ?だからその女をブレーンに加えたんだろ?」
司はつい先日高森開発の社長である高森隆三の誕生パーティーに牧野つくしをパートナーとして出席したことを話した。それは社長である母親からの命令で、ビジネスであることが強調されてはいたが、その実は女をブレーンに加えた息子が結婚することに望みを抱いたことがそうさせたと分かっていた。だから、逆にそのパーティーが女の本心を知ることが出来る機会だと同伴することに異を唱えなかった。
何しろ金持ちが大勢集まるパーティーというのは、それに出席する女達にとっては自分をアピールすることが出来る絶好のチャンスであり、人生の必需品と考える金持ちの男との出会いが期待出来る。だからいかに自分を美しく見せるかが女達の頭の中を占め他の女を値踏みするが、あのパーティーでその最たるものが高森の妻である真理子だったことが司にとってはバカの極みのように思えたが、牧野つくしと言えばパーティーに連れてこられたことを喜ぶこともなく、仕事だからといった態度を崩すことはなかった。
そしてパーティー会場にいる男達に目の色を変えることもなければ、誰かを興味深そうに見ることもなかった。
だから女の態度が変わることを期待していた司は、彼の隣で仕方なくとまでは言わないが、控えめな態度を崩さなかった女は男に興味がないのかと思った。
だがそれは違うと分かったのは、若林建設の専務の若林和彦が現れた時だ。
化粧室に行くと言い司の傍を離れた女が部屋に戻って来た時からその様子を見ていたが、若林和彦に対しての態度はそれまでとは違った。
そんな二人の関係はかつての家庭教師と教え子という関係だったが、和彦が女に好きだと言うと、言われた女は頬を赤らめてはいたが、その顔は満更でもないという顔ではなかった。
そして帰りの車の中でそのことについて訊いた時も、同じようにどこか困った表情を浮かべ、6歳年下の若林和彦には同じ年頃の女性の方が似合うと言い切った。
「なあ司。その学者先生だが、その先生は俺らの周りにいる女達とは違って自分の仕事に自信を持っているはずだ。だから男を作ることよりも研究が一番ってタイプの人間じゃねぇのか?俺らが考えているタイプの女とは全く別の次元にいる…..とまでは言わねぇが、学問一筋って女も稀にいるってことじゃねぇの?」
そしてあきらは、司が話した若林和彦のことを口にした。
「なあ俺たちは本物の恋愛をしたことがない。多分それは俺たちの周りに本物の恋愛をした人間がいないことが要因だ。だから俺たちは人の愛し方を知らないってことだ。だがな恋は人生の成長に必要だ。だから若林建設の専務が初恋だって言った学者先生に対する気持ちは今がどうであれ少年の頃の純粋な想いだ。その男が学者先生を好きだって言った言葉は嘘じゃないはずだ。それは俺やお前や総二郎には縁がない想いだが類なら分かるはずだ。あの男は子供の頃からずっと静が好きだった。あのピュアさがどこから来るのかって言われたら俺もわかんねぇけど、初恋って感情は永遠にそのまま。つまり大人になっても甘酸っぱさを残してるってことだ。それに男と女じゃ男の方がロマンチストだ。女達は恋をしていると言いながら現実を見極めるスピードは早い。つまり見極めれば簡単に別れを口にするのは女の方だ。だが男は違う。男と女のどっちが一途かと言えば断然男の方だ」
二人の親友であり幼馴染みの類は、幼い頃からずっと好きだった女性を追いパリへ追いかけて行ったことがあった。
「いいか司。人間の心ってのは不自由なものだ。頭で考えている事と心は別だ。それは身体と心が別っていう男の身勝手にも通じるところだが、お前がその学者先生に何を思うか知らねぇけど、それが分ったら俺にも教えてくれ。それから言っとくが恋は好奇心から始まるものだ。だからお前がその学者先生。牧野って准教授に好奇心を掻き立てられたってことは、それがお前の初恋かもしれねぇぞ?まあ、お前が恋に落ちることは無いんだろうが、それでも俺はお前が恋に落ちたところを見たいと期待するのは…..無理だよな。けど俺思うんだよ。心のどこかで待ってるんじゃねぇかって」
あきらは女と寝るが馴れ合わない司が自分の話をどこまで訊いているのかと思ったが、それはまるで親の心子知らずではないが、親友の心親友知らず、とでも言えばいいのか。
あきらはそこまで言って司が何か言うのを待った。
「何をだ?」
「だからその学者先生の女をだよ。話を訊く限りお前に色目を使う訳でもなし、連れて行かれたパーティーで金持ちの男を物色するでもなし、若い教え子に告白されても困惑する女。つまりその先生は男に対して何かを求めるってよりも、自分で切り開いていくってタイプの女だろ?恐らくそういったタイプの女は弱音も愚痴も一切吐かない。全てをありのままに受け入れるが常に前を向いて歩く。そんな女に巡り合えたお前はある意味運がいいって思うがな」
あきらは仲間の中で女に対しての気配りが一番出来ると言われているが、そのあきらが口にした、そんな女に巡り合えたお前は運がいい、の言葉は本心だというのか?
男の財産も容姿も無意味な物として気にかけない女というのが本当にいるとすれば、それが牧野つくしということか?
そしてあきらが口にした恋は好奇心から始まる、の言葉は牧野つくしが若林和彦に対しても使っていたが、今司が考えていることは、それらと同じだということか?
司は、あきらがじゃあな俺帰えるわ。何か進展があったら教えてくれ。と言って執務室を後にすると、話ついでのように持って来た書類に目を通し始めたが、今は銅鉱山への投資する数字の並びよりも牧野つくしの顔が脳裏に甦っていた。

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あきらは今から行くと言って美作商事と道明寺が共に投資を決めたペルーの銅鉱山開発の書類を手に執務室を訪ねたが、それは誰か別の人間が届けても良かった書類。
だがわざわざ口実を作ってまで訪れたのは、女に興味を持ったことが無かった男が自ら起こした行動に、『もしかするとその女がお前の運命の女かもしれねぇな』とあきら自身が口にした言葉を確かめたいという気持ちが働いたからだ。
二人とも女性経験は十分あり性欲もある。
それは30代の男として当たり前といえることで非難されることではない。
そして鍛えた肉体が性技に繋がっていることは当然で、どんな女も一度寝れば彼らの虜になり夢中になった。だが女がそうなればなるほど気持ちが醒めるのが早かった。
だから司が一人二役までしてその女の本質を知りたいと思うことが、あきらにすれば、もしかするとこれは、と思えたのだ。
つまりそれは恋をしたことがない男の初めての恋ではないかということだが、そのことについて話をしようにも、男はあきらの問いかけに返事もせず書類に目を通していた。
だから「おい司訊いてるのか?」と、あきらは何も答えない男に言ったが、やはり返事は無く、あきらには男が訊いてないと思え再び口を開こうとした。だが男は、「ああ、訊いてる。ちょっと待ってくれ」と言って手元の書類にサインを終えるとようやくあきらに顔を向けた。
「それで?あきら。お前がわざわざ書類を持ってここへ現れたのは、あの女の話が訊きたいからか?」
背中を椅子に預けた男の顔はいつもと同じ表情が固着していて、変化を期待していたあきらにすれば、少し残念な思いがしたがそれでも訊いていた。
「ああ。あれからどうなったかと思ってな」
「フン。その口の利き方は好奇心と興味が半々ってところか?」
「ああそうだ。それでその学者先生とはどうなった?お前が確かめたいと思った二面性はその女にあったのか?」
その問いかけに男は何も言わずに黙り込んだが、あきらはその態度に親友だからこそ感じられる何かを感じていたが、それは親友であり幼馴染みであるからこそ感じられる心の動きだ。
「なあ司。俺はあの時も言ったが、お前は女に興味を持ったことはなかった。それは俺たちの前にいたのはまがい物の女だったからだ」
「まがい物?」
「ああ。そうだ。けどお前の前に現れたその女がお前にとって本物の女ってことじゃねぇの?お前その女に何か感じるものがあったんだろ?だからその女をブレーンに加えたんだろ?」
司はつい先日高森開発の社長である高森隆三の誕生パーティーに牧野つくしをパートナーとして出席したことを話した。それは社長である母親からの命令で、ビジネスであることが強調されてはいたが、その実は女をブレーンに加えた息子が結婚することに望みを抱いたことがそうさせたと分かっていた。だから、逆にそのパーティーが女の本心を知ることが出来る機会だと同伴することに異を唱えなかった。
何しろ金持ちが大勢集まるパーティーというのは、それに出席する女達にとっては自分をアピールすることが出来る絶好のチャンスであり、人生の必需品と考える金持ちの男との出会いが期待出来る。だからいかに自分を美しく見せるかが女達の頭の中を占め他の女を値踏みするが、あのパーティーでその最たるものが高森の妻である真理子だったことが司にとってはバカの極みのように思えたが、牧野つくしと言えばパーティーに連れてこられたことを喜ぶこともなく、仕事だからといった態度を崩すことはなかった。
そしてパーティー会場にいる男達に目の色を変えることもなければ、誰かを興味深そうに見ることもなかった。
だから女の態度が変わることを期待していた司は、彼の隣で仕方なくとまでは言わないが、控えめな態度を崩さなかった女は男に興味がないのかと思った。
だがそれは違うと分かったのは、若林建設の専務の若林和彦が現れた時だ。
化粧室に行くと言い司の傍を離れた女が部屋に戻って来た時からその様子を見ていたが、若林和彦に対しての態度はそれまでとは違った。
そんな二人の関係はかつての家庭教師と教え子という関係だったが、和彦が女に好きだと言うと、言われた女は頬を赤らめてはいたが、その顔は満更でもないという顔ではなかった。
そして帰りの車の中でそのことについて訊いた時も、同じようにどこか困った表情を浮かべ、6歳年下の若林和彦には同じ年頃の女性の方が似合うと言い切った。
「なあ司。その学者先生だが、その先生は俺らの周りにいる女達とは違って自分の仕事に自信を持っているはずだ。だから男を作ることよりも研究が一番ってタイプの人間じゃねぇのか?俺らが考えているタイプの女とは全く別の次元にいる…..とまでは言わねぇが、学問一筋って女も稀にいるってことじゃねぇの?」
そしてあきらは、司が話した若林和彦のことを口にした。
「なあ俺たちは本物の恋愛をしたことがない。多分それは俺たちの周りに本物の恋愛をした人間がいないことが要因だ。だから俺たちは人の愛し方を知らないってことだ。だがな恋は人生の成長に必要だ。だから若林建設の専務が初恋だって言った学者先生に対する気持ちは今がどうであれ少年の頃の純粋な想いだ。その男が学者先生を好きだって言った言葉は嘘じゃないはずだ。それは俺やお前や総二郎には縁がない想いだが類なら分かるはずだ。あの男は子供の頃からずっと静が好きだった。あのピュアさがどこから来るのかって言われたら俺もわかんねぇけど、初恋って感情は永遠にそのまま。つまり大人になっても甘酸っぱさを残してるってことだ。それに男と女じゃ男の方がロマンチストだ。女達は恋をしていると言いながら現実を見極めるスピードは早い。つまり見極めれば簡単に別れを口にするのは女の方だ。だが男は違う。男と女のどっちが一途かと言えば断然男の方だ」
二人の親友であり幼馴染みの類は、幼い頃からずっと好きだった女性を追いパリへ追いかけて行ったことがあった。
「いいか司。人間の心ってのは不自由なものだ。頭で考えている事と心は別だ。それは身体と心が別っていう男の身勝手にも通じるところだが、お前がその学者先生に何を思うか知らねぇけど、それが分ったら俺にも教えてくれ。それから言っとくが恋は好奇心から始まるものだ。だからお前がその学者先生。牧野って准教授に好奇心を掻き立てられたってことは、それがお前の初恋かもしれねぇぞ?まあ、お前が恋に落ちることは無いんだろうが、それでも俺はお前が恋に落ちたところを見たいと期待するのは…..無理だよな。けど俺思うんだよ。心のどこかで待ってるんじゃねぇかって」
あきらは女と寝るが馴れ合わない司が自分の話をどこまで訊いているのかと思ったが、それはまるで親の心子知らずではないが、親友の心親友知らず、とでも言えばいいのか。
あきらはそこまで言って司が何か言うのを待った。
「何をだ?」
「だからその学者先生の女をだよ。話を訊く限りお前に色目を使う訳でもなし、連れて行かれたパーティーで金持ちの男を物色するでもなし、若い教え子に告白されても困惑する女。つまりその先生は男に対して何かを求めるってよりも、自分で切り開いていくってタイプの女だろ?恐らくそういったタイプの女は弱音も愚痴も一切吐かない。全てをありのままに受け入れるが常に前を向いて歩く。そんな女に巡り合えたお前はある意味運がいいって思うがな」
あきらは仲間の中で女に対しての気配りが一番出来ると言われているが、そのあきらが口にした、そんな女に巡り合えたお前は運がいい、の言葉は本心だというのか?
男の財産も容姿も無意味な物として気にかけない女というのが本当にいるとすれば、それが牧野つくしということか?
そしてあきらが口にした恋は好奇心から始まる、の言葉は牧野つくしが若林和彦に対しても使っていたが、今司が考えていることは、それらと同じだということか?
司は、あきらがじゃあな俺帰えるわ。何か進展があったら教えてくれ。と言って執務室を後にすると、話ついでのように持って来た書類に目を通し始めたが、今は銅鉱山への投資する数字の並びよりも牧野つくしの顔が脳裏に甦っていた。

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