fc2ブログ
2018
11.18

金持ちの御曹司~愛はとまらない~

長い足に見事な逆三角形の背中。
広い肩端でピンストライプのダークスーツを着こなす男。
その姿は見事なまでのフォトジェニックで360度どの角度から写しても最高な写真が撮れると言われるが、司は経済誌以外の雑誌の表紙を飾ったことがない。
だがもちろん沢山のオファーはある。
それは司が表紙を飾ればその雑誌の売り上げが飛躍的に伸びるからだが、司は芸能人ではないのだから大衆に迎合する必要はないし顔を売る必要もない。
それでも、女性向けの雑誌や写真週刊誌に記事として取り上げられることはしょっちゅうある。それは彼の私生活を知りたいという大勢の女の期待に雑誌が応えようとするからだが、その全てが広報部を通した公式なものとは限らず、スクープ記事として扱われているものもあった。

だが司はそんな記事にいちいち目くじら立てることはしない。
むしろ記事を逆手に取るではないが、わざと写真を撮らせるということもある。
それはもちろん愛しい人と一緒にいる写真。
司には恋人がいて、その女とは深い付き合いであることを暗に知らしめるために利用するのだが、女の顔は絶対にバレないように気をつけていた。


「ねえ恭子、今週の『プレジデント』見た?尊敬される上司って記事の写真。道明寺支社長って年齢を重ねるたび素敵になっていくわよね~」

「ほんとよねぇ~。支社長って本当にいい男だわ!」

「そうよ。お金持ちで背が高くてハンサムで頭がいい。まさに希少価値が高い男性でしょ?世の中にはムダな肉ばっかり付けてる男が多いけど、支社長の場合スーツの上からでも分かるムダのない身体に美しい横顔のライン。道明寺支社長って本当に素敵!もしデパートの紳士服売り場に道明寺支社長みたいなマネキンがいたら、あたしそのマネキンを裸にして持って帰るわ!」

「うん。分かる分かる。なんかさぁ。支社長がそこにいるだけで磁場が狂うって言うの?その存在が女を引付けるって言うの?とにかくその存在が世の中の女性を惹き付けて止まないのよね。吸い寄せられちゃうのよね。本当に支社長って稀有な存在よねぇ。あたしこの会社に入るまであんなに素敵な男性見た事なかったもの。ホント、入社出来てよかったって今更だけど思うわ。でも最近全然見かけることがなくて、偶然会わないかなぁって思ってるんだけど全然会えないの。やっぱ秘書課じゃなきゃ無理なのかなぁ」

「そうよね….秘書課になれば最上階のフロア勤務だし、会えるのは確実だけど秘書課は高嶺の花よ。でも海外事業本部は違うわよ。支社長は時々あのフロアにいらっしゃるみたい。この前も突然現れてフロアをサッと眺めてすぐ帰っちゃったらしいわ。でも支社長の顔を見た牧田又蔵部長が慌てて走っていったらしいわよ?何かあったのかしらね?」

「牧田又蔵部長?あの部長も今じゃお腹が出てるけど若い頃はそれなりでモテたらしいわよ?それでね、この前それを確かめようと思って昔の社内報を見たら髪の毛がフサフサの牧田部長の写真があったから噂は本当だったって思ったわ」

「だけどさ。若い時は素敵だった男性も50代ともなればお腹も出るし、髪が少なくなっても仕方がないわよね。でもあたし思うんだけど本物のいい男は脱がなくても色気を感じるものでしょ?道明寺支社長は脱いでも凄いと思うけど、裸よりも着衣の方がいろいろと想像出来て楽しいわ!」

「分かるわ~。あたしなんて自分の手で支社長のネクタイを緩めるところを想像しただけでドキドキしちゃうもん。きっとその時は手が震えちゃって結び目を解くことが出来なくて、その時支社長が自分でやるってあたしの手に自分の手を添えて解こうとするの。それで見つめ合ってそれから支社長が顔を寄せてくるの!それで….キスするの!そこからベッドへ押し倒されて支社長が解いたネクタイで両手を縛られて自由を奪われるの。それでそこから支社長に好きにされるの。止めて下さいって言っても止めてくれなくて一晩中愛されて身体中キスマークだらけにされて朝になっても起きれなくて今日は仕事に行かなくていいって言われてそれからまた愛し合うの!」









そのシュチュエーションは過去にあったし、愛し合えば身体中キスマークだらけにするのはごく当たり前のこと。何しろ司は恋人のことは深く愛しているのだから愛することを止めることは出来なかった。
ところで司は、よく女子社員が自分のことを話すのを耳にする。
だがそれは訊こうと思って訊いているのではない。
たまたま偶然なのだが、それにしても何故うちの女性社員はこんなに自分の話ばかりするのかと思うも、こうした話から社員が何を考えているのか。社内で何が起きているのか知ることが出来るのだから別に構わなかった。
それに女性社員の会話から女が何を求めているのかといったことを知ることが出来るから、なにかと参考にしていた。

それにしても司そっくりなマネキンがいれば裸にして持って帰るという女性社員の言葉にいいことを訊いたと思った。
今まで考えもしなかったことだが、牧野つくしのマネキンを作るというのは実にいい考えだと思った。
そう言えばいつだったか牧野と見た映画の中にデパートのショウウィンドウでポーズを取るマネキンと恋におちた男の話があった。そのマネキンは古代エジプトの女性が転生したもので、男の前だけで人間の姿に変わるという話で、男はそのマネキンを大切に持ち歩くことをしていたが実に楽しそうだった。

司はいつもつくしの顔が見たかった。
出来ることならいつも一緒にいたかった。
ポケットに入るなら持ち歩きたかった。
彼女の優しい顔や笑顔。細い身体だが丸みのある胸や尻。そこに手のひらを押しつけて爽やかな香りを吸い込みたかった。いや、だがマネキンでは香りまでは出せない。
そんなことを考えながら執務室へ戻ると革の椅子に腰を降ろし目を閉じた。












「あの。あなたは誰?」

「俺か?俺は道明寺司だ」

「どうみょうじつかさ?」

「そうだ。道明寺司。お前を作った人間だ」

「作った?」

「ああ。お前の名前は牧野つくし。春になれば芽を出すつくしという植物の名前がお前の名前だ」



司は12年前若くして亡くなった恋人を忘れることが出来なかった。
そんな思いから恋人そっくりのロボットを作らせていた。だが彼が作ったのはただのロボットではない。
道明寺グループには産業用ロボットでは世界でトップクラスの企業がある。
そして彼はアメリカの軍事用ロボットを開発する会社を買収し、その技術を転用させ開発を命じたのは、基礎的な部分は牧野つくしだが、自分で学習し考えることが出来る成人した女の身体を持つアンドロイド。つまりAI(人工知能)を持つロボットだ。

だから彼は、つくしに人間としての日常生活を教えるため学習させた。
本を与えれば読みはじめ、テレビを見て言葉を覚え、人としての仕草を覚えたが、その学習能力は非常に高く、1週間もすればどこにでもいる人間の女性としての牧野つくしがそこにいた。
そしてその外見は人との境界を感じさせないと言われるほど人間らしかった。



「ねえ道明寺。私は若い姿をしているけど、あなたは今幾つなの?」

「俺か?俺は38歳だ」

12年かけ司が作らせた牧野つくしは人間の女そのもので、仕草や話し方は牧野つくしそのものだ。

「ねえ私はこの写真の人と同じ顔をしているわ。この人は25歳の時亡くなったって訊いたけど、この人があなたの恋人だった人ね?だから私はこの人と同じ顔で作られたのね?」

司はアンドロイドの牧野つくしに過去の二人のことを話し二人は恋人同士として暮らし初めていたが、ある写真の中に彼女と同じ顔、同じ髪型をした女を見つけていた。

「ねえ、それから私の隣にいる人は誰?」

司は写真を眺めている牧野つくしの隣で彼女の髪を撫でていたが、彼女が指差した写真には牧野つくしを間に挟み司と類が写っていた。

「こいつか?こいつは花沢類。俺の幼馴染みで親友だ」

「そう。道明寺の親友なら私も会ったことがあるわね?」

「ああ。あるな。俺と類は同じ学園に通っていた。そこで俺とお前は出会った」

「そうなのね。じゃあこの人も本当の私のことを知っている人なのね?」

アンドロイドの牧野つくしは、本当の私と言って過去の自分を表現するが、司にとっては今のつくしも過去のつくしも同じつくしだった。
彼にとっては最愛の人で人生を共に歩む人だった。だが25歳のとき交通事故で亡くなった。
あれから12年が経ったが、今は彼の傍には牧野つくしがいて、司は幸せだった。彼のことを見つめ彼の帰りを待ってくれる人がいるということが、彼女のいなかった12年間を考えれば夢のように思えた。

休みの日には二人で出掛け映画を見た。
車を運転してドライブへも出かけた。
時にはソファの上でゆっくりと寛いだ。
彼女が生きていたなら経験出来たはずのふたりの時間が甦ったように感じていた。
そして司にとって最愛の人の命日。
彼は牧野つくしを連れ彼女が眠る寺を訪れた。そして二人で本当の牧野つくしが眠る墓に花を手向け車に戻ろうとした。すると参道を前方から歩いて来る人影に出会った。それは片手に花束を携えた花沢類。

「….牧野?」

類は司の隣にいる女性の姿に信じられないといった表情を浮かべた。

「司。これはいったいどういうこと?」

「ああ。こいつは牧野つくしのアンドロイドだ。そっくりに作られたロボットだ」

「嘘だろ?」

「いや。彼女は牧野そのものだ。見ろ。この姿を。あの時の牧野と同じだろ?この顔もこの髪型も声もあの時の牧野つくしと同じだ」

「司。お前まだ牧野のことが忘れられないのか?だからこんな__」

と、類は言葉に詰まったが、あまりにも牧野つくしそっくりなその姿に言葉が出なかった。
だがそのとき司は、つくしの目が類を見つめる様子を見ていた。
表情には何の変化もなかったが、瞳には変化があったのを見た。
ああ、と思った。牧野つくしそっくりに作られたアンドロイドは感情も心も彼女の生き写しに作られている。彼女は司を好きになる前、類を好きになった。だからロボットとはいえ、牧野つくしの全てがプログラミングされているロボットは花沢類のことが好きになるのが分かった。好きにならなくても慕うことは間違いないと思った。
それは唐突な思いだったが、過去の事実としてあるのだから牧野つくしの心が花沢類へと傾くのは分かっていた。
そして感じる胸の奥の痛みはあの頃と同じで、それは司にとっては許し難いことだった。
今ではすべてを学習し、ひとりの大人の女性となったアンドロイドは、変化を求め世界の外へ出て行こうとするかもしれない。司が仕事に行っている間に外へ出て、類のところへ行くかもしれない。
そう思うと、いてもたってもいられなくなっていた。




そして類と会って以来、司は仕事を終えるとすぐに彼女と暮らす部屋へ戻った。

「お帰り」

と言われ食事の支度をする彼女の存在にホッとする間もなく、司は牧野つくしに訊いた。

「お前。類と会ってないだろうな?」

「え?何それ?何のこと?」

「俺が訊いた質問に答えろ!花沢類と会ってないだろうな?」

「やだ。どうしたの道明寺?何言ってるの?」

過去にこれと同じような会話をしたことがあった。
あの時は南の島の司の別荘に類や仲間たちと出掛けたとき。彼女は真夜中に部屋を抜け出し浜辺で類と会っていた。そしてキスをしている姿を目撃した。
司は再びその光景を見たくなかった。
彼女は自分だけのもので、自分だけを好きになって欲しかった。
その黒い瞳に映るのは自分だけでいて欲しかった。

司は牧野つくしの身体の内部について知っていた。
どこをどうすればその身体の機能が停止するのかを。
だから牧野つくしの腕を掴みベッドルームへ連れていくとベッドに押し倒し、エプロンをむしり取り、ブラウスのボタンを外し脱がせたが抗いはしなかった。
そして身体のある部分に隠されている小さなスイッチをオフにした。
すると牧野つくしは、自分の身体に起こりつつある変化に気付いたのだろう。静かに言った。

「道明寺….どうして?こんなことをするならどうして私を作ったの?私を作ったのは私のことが好きだったからじゃないの?それとも私のことが嫌いになったの?ねえ、どうして_________」

静かな時間が数秒間過ぎアンドロイドが完全に動きを止めたのを知った。
司は自分が深く暗い穴の中に落ちて行くのを感じていた。
そして動かなくなった姿に事故で彼女を失ったときよりもっと激しい喪失感に襲われていた。










「おい待て!なんだよこれは!なんで牧野が交通事故で死んでアンドロイドになるんだよ!うちには西田ってアンドロイドがいるだろうが!もうこれ以上アンドロイドは必要ねぇ!」

司は嫌な汗をかいたと手で額を拭ぐい、席を立つと廊下へ走り出た。
そして本物の牧野つくしが仕事をする海外事業本部へ向かったが、役員専用ではないエレベーターのなんと遅いことか。
このことから役員専用エレベーターを特別に海外事業本部のフロアにも停止させることに決定した。
だが肝心の牧野つくしは席におらず、どこへ行ったと訊けば多分お手洗いですと言われた男は、女性用化粧室へ向かった。そして迷うことなく扉を開けようとしたところで手を拭きながら出て来たつくしに会った。

「えっ?道明寺?あんたこんな所で何やってるのよ?」

「牧野!お前本物の牧野だよな?」

「はぁ?道明寺何言ってるのよ?どうかしたの?」

「だから、お前は本物の牧野かって訊いてる」

「本物の何もあたしは牧野つくしだけど?でもなんで道明寺がここにいるのよ?それも女性用のトイレの前で何してたのよ?やだもしかしてあたしの後をつけて来たの?そう言えばこの前牧田部長が言ってたけど支社長が突然現れたって驚いてたわよ?」

「ああ、あれはお前の顔を見に寄ったんだ。けどいなかった。それにここで何してたってお前に会いに来たんだろうが!」

「会いに来たってここ女性_」

司はつくしの身体を引き寄せると二度と放すものかとばかり、きつく抱きしめた。

「牧野!俺はお前が消えてしまうんじゃねぇかと思うと、いてもたってもいられなくなった。仕事なんぞ手につかねぇ。だから実際触って確かめて味わってみねぇと不安なんだよ!」

「え?な、なに?まさかここでキスするなんて嫌よ。ここ会社だし女性用トイレの前だし、ちょっと!待って道明寺っ!」

「待てねぇんだよ。それに待てって言われて待つのは犬だ」



司はつくしの前では犬でも良かったが、今は凶暴なライオンの気分だった。
愛しい人が自分を置いて亡くなってしまうという縁起でもない夢に嫌な汗をかき、おまけにアンドロイドのつくしが類に惹かれるという事態には気が狂いそうだった。
だから野蛮人と呼ばれても構わなかった。今ここでキスをして牧野つくしに殴られても、せずして後悔するよりマシだった。

そして顔を上げた司の率直なまなざしと態度は、慌てふためき驚いた顔をしていた女に伝わると、大きな瞳がゆっくりと閉じられ、キスを受け止める顏になった。
すると司は、「牧野。お前絶対に俺より先に死ぬなよ」と言って迷うことなくゆっくりと確実にその唇に唇を重ねていたが、唇が重なる寸前「道明寺こそあたしより先に死なないでね」と柔らかいその唇は言っていた。





にほんブログ村
Comment:6
2018
11.17

理想の恋の見つけ方 24

変わった人。
つまりそれは変人という意味だがつくしは自分が変人だとは考えたこともなかった。
それよりも5千万という大金をポンと寄付をする男性の方がよほど気まぐれの変人ではないかと思っていたが決してそのことは口に出さなかった。


つくしは、道明寺司が研究室を後にするのを見送ると、振り返って桜子を見た。
すると桜子は待ってましたとばかりに寄付金の額を訊いた。
そして5千万だと知ると飛び上がって喜んだ。

「それで5千万は振込ですか?それとも小切手ですか?まさか現金なんてことはないですよね?それにしても財団からの助成金は1千万でしたからその5倍ですよ?道明寺副社長は余程先輩の研究に興味を持ったということでしょうけど、凄い金額を寄付して下さいますね?でも道明寺副社長にすれば5千万は高級外車1台分ですから大した金額じゃありませんね。きっとそんな車を何台もお持ちでしょうから。でもお金持ちは違いますよね。個人的な資産ってどれくらいなんでしょうね?まあ今はそんなことはどうでもいいです。うちの研究室にとっての5千万は少なくとも1億の価値はあります。本当に大学の研究室って貧乏なんですよね。やっぱり大きなスポンサーでも付かないと研究を進めるのは大変です。でもこれで色々と助かりますよね?生物顕微鏡もいいのが買えるし、海外の学会へ行くにも助かりますよね?」

桜子は早速5千万の使い道を算段し始めたようだが、つくしはその前に言わなければならなかった。

「あのね桜子」

「はい?」

とウキウキとまでは言わないが弾んだ声が返され、つくしはついさっき道明寺司に言った言葉を口にすることが躊躇われたが口早に言った。

「実はその5千万の件なんだけど、少し待って下さいっていうのか、考えさせて下さいって言ったの」

すると明るい表情を浮かべていた桜子は、小首をかしげ黒い目を細くした。
そしてつくしの言葉をしっかりと理解すると今度は首を真っ直ぐに据え、目を見開きつくしを見た。

「ええっ!?それどういう意味ですか?借金じゃあるまいし少し待って下さいって何を待つ必要があるんですか?それに寄付ですよね?考える必要なんてないでしょ?はい。ありがとうございます。謹んでお受けいたしますって言えばそれで済む話じゃないですか?それなのにどうして考えさせて下さいなんて言ったんですか?」

桜子の言葉は当惑を通り越して怒っていた。
そして何故つくしがそんな言葉を言ったのか理由を求めていた。

「もしかしてお礼のことですか?道明寺副社長が希望されるお礼が出来そうにないから考えさせて欲しいって言ったんですか?そうですよね?それならを解決すればいい訳ですよね?それ何ですか?サメの歯じゃなかったとすれば、顎骨標本が欲しいとかですか?それなら全然問題ないですよね?うちにはそんなものはいくらでもありますから。もしかして特定のサメがいいとおっしゃるならそのサメを探せばいい話です。それで?何ですか?道明寺副社長がご希望のものは?」

桜子は早く言って下さいと急かすように言ったが、つくしは口を噤んでいた。

「もう!早く言って下さい。道明寺副社長は何が欲しいんですか?ジンベイザメがいいならどこかの漁協にお願いして_」

「それが道明寺副社長の欲しいお礼って….私に個人教授になって欲しいって。つまり個人的なブレーンになって欲しいって言われたの。深海での開発行為が深海ザメに与える影響について。海底資源の開発をすることで海底の環境が変わるか。開発の影響についての意見を訊きたいって。副社長が意見を求めたらそれに対しての助言が欲しいって言われたの」

つくしはそこまで言って桜子の反応を待った。すると、
「なんだ。そんなことですか。つまり時々先輩を道明寺副社長へ貸し出してくれってことですよね?」
と安心したように言った。

「ちょっと桜子。そんな気軽に言うけど私が道明寺副社長のブレーンなんて無理だから!」

無理だ。絶対無理だ。つくしは何故か躍起になって言っていたが、道明寺司が人間としてどうのというのではない。
それに物事に対しこんなに神経質になることなどないのだが、桜子が言った道明寺副社長に貸し出される自分を想像すると訳の分からない不安を覚えたのだ。
だが桜子は一向に気にしなかった。

「あのね先輩。何が無理なんですか?深海の環境については先輩の専門じゃないですか。それに道明寺副社長の希望されるお礼は深海のことを気に留めているってことじゃないですか。だから先輩はここを出て時々経済界で自分の意見を述べればいいだけじゃないですか」

「でもね_」

「先輩。でももヘチマもありません。受けて下さい。5千万ですよ?5千万!それに副島教授だって受けてくれって言うはずです。先輩を道明寺副社長に貸し出すことに異議はないはずです」









つくしは桜子に受けろと言われたが、研究室の主宰は副島教授であり5千万という金額を教授の副島に相談しない訳にはいかなかった。
だからアメリカに出張中の教授にメールを入れた。

『道明寺副社長からの寄付金の件ですが、財団からの助成金をはるかに上回る5千万円の申し出がありました。大変大きな金額です。私の一存で受け取ることは出来ません。それに道明寺副社長が求められているお礼ですが、副社長の会社は海底資源の開発をされていることから、開発行為が深海の環境にもたらす影響について助言をして欲しい。私に副社長の個人的なブレーンとして加わって欲しいとおっしゃっています。教授のお考えをお聞かせ下さい』

そして翌日の午前9時。ニューヨークにいる副島から研究室に電話がかかって来たが、サマータイム期間中の今、現地時間は午後8時だ。

『やあ、牧野くん。メールを見たよ。さすが道明寺財閥の御曹司は凄いね。財団からの助成金の5倍か。その見返りは君が彼の個人的なブレーンに加わることか。海底資源の開発に関わる企業が深海に興味を持ってくれるのは大変嬉しいことだ。だから受けたまえ。
ブレーンになって差し上げろ。副社長も君の大学での講義時間を削ることまでは求めないはずだ。それにこれは君のキャリアにもなる。経済界との繋がりが出来ることは我々にとっても大変ありがたい話だ。研究室の今後のためにも是非受けて欲しいね』


大学での教授と准教授とでは圧倒的に立場は教授の方が上で嫌とは言えなかった。
だからはいと答えるしかなかった。
そしてそのことを道明寺副社長に伝えなければならなかったが、何故か電話をかけることが躊躇われた。そして同じ電話をかけるなら、あの人に、と思ったがあの人とは週に一度しか話をすることが出来なかったが、何故か今のこの状況を訊いてもらいたかった。













「それで?返事はこれでいいかな?」

ニューヨークに滞在中の副島は、そう言って正面に座る人物に訊いた。
するとその人物は礼を言ってワイングラスを口元へ運んだ。




にほんブログ村
Comment:5
2018
11.15

優しい雨 <後編>

『こうすることがつくしさんのため』

楓はそう言ってコーヒーを口に運んだが、千恵子には意味が分からなかった。
自分が大切にしていた花瓶を割られただけで、結婚してまだ1年の娘を実家に帰すということのどこがつくしのためなのか。
娘は夫の母親を尊敬こそすれ憎みなどしていなかった。
嫁いだ以上夫を支え道明寺の家と会社を支えることが自分の役割だと言っていた。それが結婚を認めてくれた夫の母親への感謝の表れであると同時に、自分が選んだ人生だからと言っていた。
そしてそのことを姑も分っているはずだ。それなのに何故娘を傷つけるようなことをするのか。


「お母さん。私にはやはりおっしゃっている意味が分かりません。私はつくしの母親です。不甲斐ない父親に変わりあの子を育ててきました。貧乏な暮らしの中で育った子ですが、ご存知の通りあの子は清貧に甘んずる子で、家計を助けるためアルバイトをしながら学校に通う真面目な子でした。だから花瓶を割ったことは、それは大変申し訳ないことをしたと思っています。弁償出来るなら弁償したいと思うでしょう。でも弁償できるようなものでないことは、あの子が一番よく知っています。こちらのお家にあるものは、世界にひとつしかないといったものばかりでしょうから」

楓は千恵子の言葉に頷き、カップをソーサーと共にテーブルに置くと言った。

「そうね。世界にひとつしかないもの。世の中にはひとつだけしかないものが存在するわ。でもそれは花瓶などではないわ。ここにある花瓶がいくつ割れてもわたくしは気にしないわ。だってわたくしにとって一番大切なものは我が子。自分のお腹を痛めて産んだ子供は何があってもどんなことがあっても守りたい唯一の存在よ。だからお義母さんも我が子が傷つけられたことが許せなかった。傷ついた我が子を守るためにここに来た。つくしさんの幸せが何よりも大切だからここに来たはず。そうですわよね?」

千恵子の目には道明寺楓という人物は、母親であることより経営者としての道を選んだ女性として映っていた。だがたった今放たれた言葉は千恵子が思う道明寺楓の姿ではなかった。

「そこまで分かっていらっしゃるなら何故こんな_」

と、つっかかるように言いかけた千恵子がそこで口を閉ざしたのは、能面のようだった楓の顔にすうーっと影が過った気がしたからだ。そして切れ長の目が閉じられ再び開かれたとき、その表情はどこにでもいる母親の顔をしていた。そして意を決したように口を開いた。

「訊いていただけるかしら?」

楓のその言葉に千恵子は頷いた。










「男の子は母親に似た人と結婚するといいます。つくしさんはどこか私に似ているところがあります。強い意思と信念というものを持っています。こうと決めたら梃子でも動かない。それが彼女の性格です。わたくしもつくしさんと同じ物の考え方をします。だから司はつくしさんを選んだのでしょう」

そう言うと楓は軽く笑って言葉を継いだ。

「司もそんなつくしさんと結婚を決めるまで彼女の心に迷いがあってはいけないと待ちました。だから結婚が遅くなったということではないでしょうけど、今となってはその方が良かったのかもしれません。だってまだ結婚して1年。ふたりに子供はいません。つまりつくしさんは、あの子がいなくなれば、この家から出て行くことが出来る。自由になれます。でも彼女はそうはしない。だからそうしてあげるのがわたくしの役目です」

「お母さん?」

それまで家族という言葉と切り離されたところで生きていると思っていた女性は、息子の嫁として娘を迎え入れると、その性格を深く理解していると感じた。
それはかつて憎しみの対象だった娘が我が子の成長を助けたことを知っているから。
道明寺の家などどうでもいい。自分の代で無くなってしまえばいいと言っていたという息子が、娘と結婚出来るならどんなことも厭わないと言い、道明寺という家と会社を継ぐことを決めたのは、娘がいたからだということを知っているから。
だが千恵子は楓の口から出た『あの子がいなくなれば』の意味を図りかねていた。


「わたくしは息子がつくしさんと結婚してくれて本当に良かったと思っています。嬉しかったわ。何があってもあの子について行く。そんな意志を持って結婚してくれたつくしさんには感謝してもしきれないくらいだわ。でもそんな彼女だからこうするしかなかった。だって司がいなくなっても、つくしさんはこの家に残ると言うでしょう。そしてあの子の代わりになると言うはずです。わたくしを支える。そのために自分の人生を捨ててしまうはずです。でもわたくしはそんなことは望みません。つくしさんには幸せになって欲しい。だから彼女をこの家から追い出すことにしたんです。その為には理由が必要です。だからつくしさんが花瓶を割るように仕向けました。わたくしがつくしさんに花瓶を渡すとき、わざと早く手を離したんです」

「…..あのお母さん?」

千恵子は自分の声が緊張するのが感じられ背中に緊張が走った。
そして返された声はかすかに震えがあった。

「息子は….司は癌です」
















しんと静まり返り物音ひとつしない部屋に流れる空気。
部屋は完璧な空調が保たれているが逆にそのことに息苦しさを感じた。
そして時は確実に時間を刻むが、ふたりがこうして話はじめた頃、窓の外は晩秋の晴れ渡った空が広がっていたが、いつの間にか雨が降り出していた。
だが雨の音が中まで届くことはなく、ただ雨粒が窓を流れ落ちていく様子が見て取れたが、時折ザァーっと雨脚が強まっているのが感じられ、それはまるでふたりの母親たちの心の裡を表しているようだった。



「ロシアに行く2週間前、司は健康診断を受けました。その時医師からその疑いがあると言われました。でもそれは本人には伝えていません。古い付き合いがある医師はわたくしだけに連絡をしてきたのです。それからすぐに精密検査を受けさせました。それはデータがきちんと取れてなかった。採取した3本の血液のうち1本を紛失してしまったと言って再検査を受けさせたのです。役員の健康診断については、会社の経営に関わることから細心の注意を払う必要があります。ですから詳しく調べるのは当然のことで過去にもそういったことがあり息子も再検査を疑わなかったはずです」

千恵子は楓の話を黙って訊いていた。
そしてすぐに理解することが出来た。
楓が息子の嫁をこの家から追い出したのは、自分と似ているところがあると言うつくしなら、夫が亡くなったあと再婚もせずこの家に留まり、夫の母親の傍にいて仕事を手伝うと言うこと分かっているからだが、それは夫に操を立てるではないが、運命の恋人と呼ばれたふたりは死さえも超越する。たとえ肉体が滅びても魂がここにある限り、娘はこの家に残り、亡き夫の代わりに母親を支えると道明寺楓は知っているのだ。つまり娘はこの家に縛られることになってしまう。だから楓は自分が悪者になりつくしをこの家から追い出したのだ。

「医師からはまだ早期だから大丈夫だと言われました。ですから帰国次第手術を受けさせます。でもあの時のわたくしは一瞬何を言われたのか分かりませんでした。頭の中が真っ白になり、何も考えられなかったのです。でもぼんやりなどしていられません。まず考えたのは、つくしさんのことです。お義母様の前でこんなことを言うのは大変失礼かと思いますが、先ほど申し上げたように、つくしさんはわたくしに似ているところがあります。1本芯が通ったものの考え方。信念をもっているところ。夫を深く愛していること。だからつくしさんは__」

楓はそこまで言うと言葉に詰まった。
それは千恵子が初めて見た楓の動揺。
だが楓の言葉に母親としてのぬくもりを感じた。
目の前の女性も年を取ったと感じられた。
子供同士が結婚して義理の家族になったふたり。だがひとりは自分の生涯を家に捧げ、会社に捧げた。そんな女性とは価値観が違うと思っていた。だがこんな風に話し合うことで、今では同じ母親として子供たちを思う心は変わらないのだと知った。そして母親の道明寺楓が、まだ若い我が子の生命が断たれることよりも、残される義理の娘の未来を心配をしていることに怒った声が出た。

「お母さん。まだそうと決まった訳ではありません。早期だと言われたんですよね?何事も臆測だけで物を言うのはよくありません。私の娘があなたに似ているなら、あの子は既にお母さんの心を受け継いでいるはずです。あの子は弱くありません。それに司さんも同じです。それに覚えていらっしゃいますよね?司さんが生まれた時のことを。赤ちゃんは幸せな匂いがしたはずです。子供の誕生はお母さんにとって大変な歓びだったはずです。私たちが命を削るほど苦しい思いをして分け与えた命がそんなに簡単になくなるはずがありません。それにつくしは、何があっても司さんと一緒にいることを望みます。夫の傍を離れることは、あの子にとっては考えられないことです。それにつくしは、娘は、今頃お母さんのことを心配しているはずです。あの子は賢い子です。だから口ではお母様が大切にしていた花瓶を割ったことでこの家を追い出されたと言いましたが、本当はそんなことは思っていません。何かあったのだと感じています。それにあの子がお母さんに似たところがあるとおっしゃるなら、理由もなくお母さんがそんなことをするはずがないと分かっているはずです」

ふたりの母親の会話は決して諍いではない。
顔は平静を保ちながら話をしているが、心は絶え間なく揺れていて、それが年老いた母親たちの本当の姿だ。そしてどんな親もいつも子供のことを思う。親でいる限り死ぬまでそれは続く。それにたとえ我が子が罪を犯しても、何も聞かずに庇うことが出来るのは母親だけだ。
我が子を無条件で愛するのが母親だ。

「お母さん。大丈夫です。司さんも。つくしも。もしかすると、ふたりはもう知っているかもしれません。司さんは勘が鋭い人です。そして妻であるつくしは、そんな夫と一緒にいるんです。夫婦は互いの顔を見れば分かります。心に何かあればそれを感じることが出来ます。つくしは司さんといることが幸せなんです。お母さん。これからは闘いです。ふたりが闘うのを私たち母親が支え応援すればいいんです。いえ。しなければいけないんです。それに司さんは強い人間です。それに人間は良すぎると早く死ぬといいます。でも過去の司さんはそうではなかったと訊いています。だからあなたの息子さんは生きます。それに娘がそうさせます。絶対にね」









ふたりの母親は涙を流すことはなかった。
だがその代わりを果たしたのは窓を伝う雨だ。
気付けばいつの間にか降り出した雨は時折雨脚が強くなったこともあった。
だが今はその雨も細い雨に変わり、やがてポツポツと降る優しい雨となり、銀色の玉となってキラキラと輝きを放ち始めたが、それは空を覆っていた雨雲が去ったからだ。

「お母さん。あのふたりは夫婦です。夫婦には夫婦のルールがあります。越冬するため北の国から飛んで来た鶴の夫婦だって、どちらかが病に倒れて渡りが出来なくなると、夫婦で残ると言います。パートナーの病が治るまでずっと傍についていると言います。
それはあのふたりも同じです。一緒だから乗り越えられることがあります。ふたりが一緒にいることに意味があるんです。つくしの幸せはあの子が決めます。だからお母さん。私たちは、どんなことがあってもふたり応援するしかないんです」

そしてふたりの女性が窓越しに見たのは、雨上がりの晩秋の陽光がもたらした、たそがれの風景。
その風景を見ながら千恵子は楓が出来ることなら息子と変わってやりたいと思っていることは分かっていた。そしてふたりは、その風景の中で太陽が作り出した荘厳さを見た。

それは広大な敷地を持つ屋敷の庭に舞い降りた大きな二羽の鳥が羽根を休めている姿。
日の光りはまるでスポットライトのように鳥たちを照らしていたが、彼らは北から渡って来たつがいの鳥たちなのか。
雨で濡れた羽根がキラキラと輝いて見えたが、その姿が気高く尊いものに思え、彼らが来年の春、共に北帰行してくれることを願わずにはいられなかった。
そしてふたりは、その鳥たちに我が子の姿を重ね静に祈りを捧げていた。





< 完 >*優しい雨*

にほんブログ村
Comment:15
2018
11.14

優しい雨 <中編>

千恵子は意を決し世田谷の邸を訪ねたが、通された客間で娘の夫の母親である道明寺楓と向き合った瞬間、一分の隙もない姿で現れた女性に同じ子供を持つ母親としての温もりといったものは感じられず、初めて会った時と同じ感覚を覚えた。

それは息子と別れてくれと大金を持ち現れたあの日の光景。
血も涙もないと言われる鉄の女は、息子の交際相手として相応しくないと決めた娘の両親に金を払うから別れさせてくれと言った。

だが結婚した娘から訊かされる話の中には、「優しい人なのよ。いい人なのよ」といった言葉があった。それならやはり真意を問いただす必要がある。なぜ娘はこの家を追い出され実家に戻って来たのか。


「お母さん。いったいどういうことですか?娘が花瓶を割ったくらいで出て行けとはいったいどういうことですか?そんなことで娘を実家に帰らせるなんてどういうおつもりですか?それとも花瓶のことは口実で娘があなたの気に入らないことをしたのでしょうか?」

千恵子は真正面に座る楓に訊いた。
道明寺楓という女性は初めて会った時、冷やかなぞっとするような視線で千恵子を見た。
そして回りくどい言い方はしなかった。率直で言葉を選ぶことはなかった。差し障りいのない言葉を並べることもなかった。だから千恵子も思うことを率直に口にした。すると楓はそんな千恵子をまるで遠くから訪れた懐かしい友人に言葉をかけるように柔らかく言った。

「いらっしゃると思っていました。どうぞ冷めないうちにコーヒーを召し上がって下さい」

ソファに腰掛けた二人の間にあるテーブルには上等なコーヒーカップに淹れられたコーヒーがあったが、もし今ここで千恵子がそのカップを割れば、娘と同じようにここを追い出されるのか。そして楓の言葉に感じられた柔らかさは一体何を意味するのか。
そんな思いから口にした、「もし私がこのカップを割ったら娘と同じようにここを追い出されるのでしょうか?」の言葉には怒りを含ませていた。

「いいえ。こんなカップのひとつやふたつ割れたところで誰かが何かを犠牲にすることなどありません。形あるものはいずれ壊れると決まっています。それにわたくしはそこまで物に執着するような人間ではありませんわ」

千恵子は楓のその言葉にそれなら何故娘は花瓶を割ったくらいでこの家を追い出されなければならなかったのか。
その思いを楓にぶつけた。

「それなら何故うちの娘は、つくしは花瓶を割ったことでこの家を追い出されたんですか?そうですよね?娘が言うには、つくしはお母さんが大切にしている花瓶を割ったからこの家を追い出されたと言っています。いえ少なくともそうだと思っています。もしそのことが間違っているならそうおっしゃって下さい」

「いいえ。間違っていません。つくしさんはわたくしが大切にしている花瓶を割った。だからこの家を出ていってもらいました」

「ちょっと待って下さい。お母さんのおっしゃっていることには矛盾があります。ついさっき物には執着しないと言ったじゃありませんか?それなのに娘が割ったという花瓶に対しては別だとおっしゃるんですね?」

千恵子は言葉に強い怒りを込めて言ったが、相手は能面のように表情を変えなかった。
やはり花瓶を割ったことは万死に値するとでも言うのか。それにしても息子は自分が留守のうちに母親が妻を追い出したと知れば怒り狂うはずだ。

「お母さん。息子の嫁をこんな風に追い出しておいて、息子さんが知ったらどうなるか分かってるんですか?傷つくのはあなたの息子さんですよ?それにあなたの息子さんはうちの娘を、つくしのことを深く愛して_」

「ええ。分かってます。息子がつくしさんのことをどれほど愛しているのか」

その言葉に気のせいか今まで能面のようだった楓の顔に微かな表情が浮かんだように見えた。

「それならどうしてこんなことを?花瓶を割ったくらいのことでどう考えてもおかしいじゃないですか。私には納得がいきません」

「そうでしょうね。わたくしも納得がいきません。どうして__」

楓はそこで言葉を切った。

「お母さん?」

「ごめんなさい。でもこうすることがつくしさんのためになるはずです」




にほんブログ村
Comment:9
2018
11.13

優しい雨 <前編>

意匠を凝らした鋳鉄の柵が続く先に見えてきたのは大きな立派な門。
その門に表札はなくてもそこが誰の家であるか知っている。
そこは娘が1年前に嫁いだ家。だが家というには立派過ぎ、そこはまるで博物館か美術館のような佇まいがあった。

そして千恵子がその家を訪ねたことがあるのは過去に一度だけ。
娘の結婚が決まり姑となる人に招かれ食事をしたことがあったが、それ以来ここを訪ねたことはなかった。それは近くまで来たからといって娘に会おうと普段着で気軽に立ち寄れるような場所ではなかったからだ。

だがそんな家へ嫁いだ娘が突然帰ってきた。

「つくし。突然帰って来るなんてびっくりするじゃないの。どうしたの?近くまで来たの?」

千恵子はそう言って我が子が久し振りに顔を見せてくれたことを喜んだ。
だがいつもは明るい娘のどこか沈んだ様子に、「なんだか元気がないわね?」と声を掛けたが、「うん。ちょっとね」と言って口を噤んだ姿に身体の具合でも悪いのか。もしかして子供が出来たのかと訊いたが、暫く黙っていた娘が口にしたのは、姑に家を追い出された。荷物は後程こちらで纏めて送りますと言われたと言った。

「つくし。あんた何言ってるのよ?」

千恵子は娘の言葉に耳を疑った。
娘は夫である男性と深く愛し合っていた。ふたりの間には色々とあったが長い交際期間を経て1年前に結婚したばかりだ。そして初めはふたりの交際に反対していた姑も、やがてふたりの事を認め結婚することを許した。

そんな姑は敏腕女社長と呼ばれ厳しい人ではあるが、その厳格さの下に母親としての愛情を隠し持つ人で、義理の娘になったつくしに対しては、我が子と同じとばかりの厳しさがある反面、繊細な心遣いをしてくれる人だと言っていた。そんな姑に家を追い出されたというのだから千恵子は驚くと同時に娘が何かしたのではないかと考えた。

「あんた…..いったいどういうこと?お母さんと何かあったの?」

何も言おうとしない娘に千恵子が問い詰めると、「お母さまが大切にしていた花瓶を割ったからかもしれない」と言った。

「そんな…..番町皿屋敷じゃあるまいし花瓶を割ったくらいで何も追い出されることなんてないでしょ?」

番町皿屋敷と言えば、江戸時代、旗本の大きなお屋敷で働く貧乏な家の出のお菊という女中が、主が大切にしていた皿を無くしたことで、お手打ちにされるという話だが、その皿はお菊が気に入らない主の妻と古参の女中によって隠されていたという陰謀が招いた冤罪。だが現代社会の今、娘がお手打ちになることはない変わりに家を追い出されたということか?
だが花瓶を割られたくらいで息子の嫁を家から追い出す姑がどこにいる?
それにいくら大切な花瓶といっても、あの家には高価な花瓶が山ほどあるはずだ。その中のひとつが割れたくらいで目くじらを立てることでもないように思えたが、千恵子にその価値が分かるはずもないのだから、姑の怒りがどれほどのものなのか分からなかった。


「それで道明寺さんはどうしたの?家に帰ってあんたがいなくなってたら、びっくりするわよ」

千恵子は確かめておきたいことがあった。
それはこの状況を娘の夫は知っているのかということだ。

「今ロシアに出張してる」

訊けば3週間ロシアに滞在すると言った。
つまり姑は息子がいない間に娘を追い出したということになる。と、なるとこれはもしかすると計画的なことだったのかもしれないと思った。
何故なら普段ニューヨークで暮らしている姑は、息子がロシアに出張中と知っていて突然世田谷の家を訪れた。
そしてそれこそ番町皿屋敷のように娘に罪を着せる。娘がわざと花瓶を壊すようにもっていったのではないかと思った。何しろかつて姑は策略を巡らせふたりの恋を妨害した経緯があるからだ。

つまりふたりの結婚は認めたものの、やはり娘が気に入らないということなのか。
大事な跡取り息子をどこの馬の骨とも分からない娘と結婚させたことがやはり許せなかったのだろうか。それにいくら今の世の中全ての人間は平等だといっても、道明寺家は日本の経済界をリードする企業をいくつも有する名門の家柄。対し牧野家は貧しい家庭。初めから釣り合わない無理だと言われたふたりの恋愛。姑はやはり娘のことが気に入らなかったのか。
だがふたりは祝福され結婚したはずだ。それを今更どういうつもりなのかといった思いがあった。

そして千恵子はなんとか道明寺楓に会えるようにと連絡を付けると、どうして娘を追い出したのかを訊ねるためこの場所を訪れた。





にほんブログ村
Comment:8
2018
11.12

理想の恋の見つけ方 23

『5千万出そう』
その申し出は度肝を抜く金額としか言えなかった。
財団の助成金はひとりあたり1千万だが、その5倍の金額を個人的に出してくれると言う。
但し、そのことに対しての感謝気持ちの示し方として道明寺司のブレーンになることが求められた。

だがつくしは海洋生物学者であり、経済に詳しいとは言えない。
しかし求められるのは深海での開発行為が深海ザメに与える影響について。つまりそれは深海の環境についての助言でつくしの専門分野だ。とは言え、求められたとき助言をすることが寄付に対するお礼というのも、どうもおかしい気がした。だから何と答えていいか分からなかった。それに目標としていた助成金は1千万だ。だがそれをはるかに上回る金額を寄付してくれると言うが、その金額にも戸惑いがあった。

だが道明寺副社長のような立場になれば、5千万など大した金額ではないのかもしれない。
そう言えば、高級外車1台が5千万するという話を耳にしたことがあった。きっと副社長クラスになれば、そういった車に乗っているはずで、5千万などつくしが気にするほどの金額ではないのだろう。それでもやはり5千万という金額は、途方もない金額であることは間違いない。そしてその使い道を考えたこともないのだから、素直に受け取っていいものか悩まない訳にはいかなかった。


「あの。5千万とおっしゃいましたが、財団からの助成金はひとりあたり1千万ですよね?それをかなり上回る金額を寄付していただけることは大変有難い思いでいます。
色々とご期待をいただけていることは大変光栄です。ただその金額に関しては、予想外の金額です。私の一存で受け取るという訳には行きませんので教授の副島と相談させて下さい。それから私が道明寺副社長のブレーンになると言うのは_ええっと、その….」

小さな机を間に挟んではいるが、きっちりとネクタイを締めたスーツ姿の道明寺司に鋭い視線を向けられるのは、財団でのはじめての面接に臨もうとしたあの日と同じだ。
あの日、エレベーターに閉じ込められやっと救出されたと思えば、遅刻したことを責められ、挙句の果てに面接を反故にされ、立ち去る男を追いかけたが、逆に自分が追いつめられた動物のように壁際で鋭い視線を向けられた。そして今のこの状態は、状況は違えど、あの時と同じだ。

そしてその視線はクールで自信たっぷりな男の視線だ。
だからじっと見つめられ続けると、思わず言葉に詰まった。
だがここはつくしの大学で道明寺ビルではない。
それにここはエレベーターの前ではなく、つくしの研究室だ。
それなのに、何故こうも緊張しなければいけないのか。これではまるで蛇に睨まれたカエルだ。いや。相手は経済界のサメの異名を持つ男だからサメに睨まれたカエルになるのか?
だがカエルは海にはいない。それならサメが人間を襲う映画があったが、あの映画のようにサメに食べられてしまうのか。いや。まさか。どうして私がこの人に食べられなきゃならないのよ。そんな事を考えると頬が赤らむのを感じた。

「私の言葉に何か裏があると?」

「え?い、いえ。そういった訳ではないんですが」と口にしたが言葉に戸惑いは感じられたはずだ。それに目の前の男性が何を考えているのか分からなかった。だが一流の企業経営者と呼ばれる男性の脳内が分るはずもなく、サメの脳並などと言ったことは大きな間違いだったことは今では十分理解していた。

「牧野先生。そんなに悩む必要は無いはずだ。あなたは私から5千万の寄付を受け取ればいい。それに対しての礼は私のブレーンになること。だが何もそういった契約を結ぶ訳ではない。ただ私の疑問に答えてくれればいいだけだ」

「は、はぁ….」

つくしは正直言って困ったことになった。
なんと答えればいいかと言葉を探した。

「ところでウッズホールに行ったことは?」

「え?はい。一度ですが大学が休みになる夏休み期間中に訪れたことがあります」

海洋生物学者の間でウッズホールと言えば、アメリカ東海岸のマサチューセッツ州にあるアメリカ最古の海洋生物学の研究所であるウッズホール海洋生物学研究所のことだが、まさか道明寺副社長の口からその名前が出るとは思いもしなかった。

「私はハーバードビジネススクールで学んだが、同じ州内にあるあの施設のことは知っていた。もしかすると私たちは同じ州にいて同じ空気を吸っていた可能性もある」

確かにハーバードビジネススクールがあるボストンは同じマサチューセッツ州だが、ウッズホールは海辺の小さな街でかなり離れた場所にあり、同じ空気を吸っていたと言うには語弊があるような気がしたが、それは言わなかった。
それにしても、道明寺副社長のこの話はどこへ向かおうとしているのか。

「アメリカまで行くとなると交通費がかなりかかるはずだ。それに長期滞在となるとそれなりに金もかかる。准教授の給料はそれほど高くはないはずだが?5千万もあればこの研究室も随分と助かるはずだ」

道明寺司はバカではない。
サメ並の脳みその持ち主ではない。
ここに来るまでに、この研究室のことを調べていることが分かった。そして予算が苦しいこともだが、つくしのことも調べられていることが分かった。

来年の夏休み。出来ればウッズホールに行きたいと考えていたが、先立つものが不足していた。それに国内だけでなく海外の学会へも行くことも考えていた。だが財団からの助成金が夢と消えた今、道明寺副社長の5千万の寄付があればそれが叶うかもしれない。けれどやはり金額が大きすぎて自分だけでは決められなかった。それに寄付の礼として道明寺副社長のブレーンになるのは、どう考えても無理だ。

「あの道明寺副社長。今日はお忙しいなか、このような所まで足を運んでいただき、そのうえ大変有難いお話をお持ちいただきましたが、やはりこの件は副島と話をしてからお返事させていただきます」

つくしがそう言うと男は、「そうですか。ではいいお返事をお待ちしています」と言い、それ以上何も言わず立ち上った。

そしてつくしが部屋の扉を開けると、背後にいる男からこう言われた。

「金は邪魔にはならないはずだ。それを考えさせて欲しいとは、牧野先生は変わった人だ」




にほんブログ村
Comment:4
2018
11.11

理想の恋の見つけ方 22

「個人….教授ですか?」

「ああそうだ。個人教授だ」

「あの。おっしゃっている意味がよく分からないんですが?」

「何が分からないって?言葉通り取ってもらえばそれでいいんだが?」

「ですから言葉通りとおっしゃられても…道明寺副社長が求められている個人教授というのは_」



つくしがその先の言葉を言おうとしたとき、扉がノックされ桜子がトレイを手に現れた。
トレイには来客用のコーヒーカップとつくしのマグカップと、わざわざ買いに行ったという銀座の高級洋菓子店のクッキーが乗った皿が乗せられていた。

「お口に合うかどうか分かりませんが、どうぞお召し上がりください」

つくしは視線を落とし桜子が机にカップを置く様子を見ながら個人教授の意味について思考を巡らせていたが、やはり目の前の男性が言った言葉の意味がよく分からなかった。
そして最後にクッキーの皿を置き終えた桜子は、お辞儀をすると部屋を出て扉を閉めた。
そしてつくしは、日本の経済界を動かす、いや世界の経済も動かすことが出来る男とふたりきりで狭い部屋にいて、湯気を上げる見慣れた自分のマグカップから、その向うに置かれたコーヒーカップに視線を移し、これは来客用に6客買い揃えたが、そのうちのひとつは自分の不注意で割ってしまったものだと思いつつ視線を上げ男の顔に視線を据えた。

「あの、個人教授とは個人的に教えを請いたいという意味ですよね?サメについて道明寺副社長は学びたいということですよね?」

「そうだ。そのくらいしてもらってもいいと思うが?」

それは一種の命令に聞こえ尊大に感じられた。
だが援助してもらえるなら、「そのくらいしてもらっても」、と言われる「それくらい」が、どれだけのことを指しているのか分からなかったが、特に問題ないように思えた。
そしてつくしが口を開く前に、「決して金を出すから口を出すというのではない。研究に対してどのように金が使われようが、どんな研究だろうが文句を言うつもりはない」と言ったが、その言葉は研究者にとってはホッと胸を撫で下ろす有難い言葉だ。
それにしても、その態度は以前感じた偉そうにという程のものではないが、やはりこの男性の態度は大学界隈で見かける人間にはない態度で、これがビジネス界のサメと言われる男の態度の一端なのかと感じていた。

それに道明寺副社長のようにビジネスの世界で生きる人間は、この世の全てが自分のものだと思うことが当たり前なのかもしれない。そうだ。何しろ凶暴なサメは高次捕食者であり、食物連鎖の頂点にいて敵はおらず、全ては自分のものだと考えているからこんな態度なのだ。

つまりこの男性のこの態度は、彼の立場がそうさせるのであり、個人的に知り合えばまた違った一面を知ることになるのだろう。だが個人教授というのは、言葉を変えれば専属の教師であり家庭教師という意味になるはずだが、道明寺副社長は家庭教師的なものを求めているということなのか?だがどちらにしても、援助に対しての感謝の気持として出来ることはすると言った以上望みを訊かない訳にはいかなかった。

「あの、それでその個人教授といいますか….それは一度だけということで理解してよろしんですよね?」

「いや。そうじゃない。違うな」

道明寺副社長はそう言って、コーヒーカップに手を伸ばしたが、その時つくしのお腹がグゥッと鳴った。

「私に遠慮せず食べればいい」

と言われたがクッキーに手をつけるつもりはなかった。
13時の約束までには昼食を済ませておくつもりでいたのだが、午前中講義に出ていて、その後学生たちと話をしているうちに食事をする時間が無くなった。
だから道明寺副社長の訪問の後で何か食べるつもりでいた。

それにしても、ただでさえ狭い研究室で黙っていても威圧感を感じさせる男性とふたりきりでコーヒーを飲んでいるこの状況はなんとも言えない緊張感があった。
そして自分の研究室でクッキーを勧められるというこの状況は、まるでもてなされているのは、つくしの方ではないかとさえ思えた。

つまり道明寺副社長という男は、それだけ自分の雰囲気というものを持っていて、その場の空気を自分の色に変えてしまうことが出来るということになるが、それはやはりサメが周りに緊張感をもたらすのと同じということだ。
そして個人教授は一度だけではないという意味を訊かなければならなかった。

「あの。それで個人教授というのは_」

「ああ。牧野先生には私の個人的なブレーンになってもらいたい」

「は?」

「私はあなたの研究のための援助をする。その感謝の印としてあなたは私の興味を満たしてもらいたい。私の会社は海底資源開発にも力を入れている。日本の国土面積は世界第60位だが領海、排他的経済水域は世界第6位の広さがある。そこには豊富なエネルギー資源や鉱物資源が眠っている。日本近海は深海ザメの貴重な生息域であると同時に資源が豊富な海でもある。そういったことから人間の開発行為が深海にまで及ぶことにより、深海ザメに人為的な影響が出ることも考えられる。このことは、あなたの研究にも関係しているはずだ。だからあなたは私が意見を求めたとき、それに対して答えてくれればいい。つまり今回私が援助しようと言うのは、あなたの私に対する助言に対してのコンサルティング料のようなものだ」

つくしは高速で頭をフル回転させながら目の前でコーヒーを飲む男性の言葉を考えていたが、昼食がまだのせいか回転が悪いような気がしていた。
道明寺副社長の個人的なブレーン?
海洋生物学者が経済界のサメのブレーン?
いったいこの男性は何を求め何を考えているのか?
それに一番肝心なことを訊かなければならないことに気付いた。

「あの道明寺副社長。ひとつお伺いいたします。あの個人的に援助して下さるということですが、一体幾ら_」

「幾ら必要だ?財団での自然科学研究に対しての助成金は3億。その3億を応募者の中から選ばれた30名で分ける。つまり一人あたり1千万ということになるが幾ら必要だ?」

つくしが受け取ることが出来なかった1千万の助成金。
それがあれば学生たちに新しいウエットスーツが用意できる。それに今よりも新しい生物顕微鏡を手に入れることが出来る。他にも色々と揃えたいものがあった。それに学会に参加するための交通費も必要だ。
だが幾ら必要かと問われても、目標としていたのは1千万なのだから、それで充分だ。
それに個人的な援助。つまり寄付は寄付者のお志で、としか言えないのが研究者の性というものだ。

「あの_」

「5千万でどうだ?私のブレーンになるなら5千万出そう」





にほんブログ村
Comment:4
2018
11.10

理想の恋の見つけ方 21

司の個人的な空間に入れる人間はごく僅かだ。
そんな男の胸の中に飛び込んで来たのは、昨夜電話で話をした女。その女が扉を開けて物凄い勢いで前へ踏み出そうとしていたところを身体で受け止めた。

「す、すみません」

と胸元でくぐもった声で謝罪をして顔を上げた女は、自分がぶつかった相手に気付くと慌てて身体を離そうとした。
だが司は少しの間自分の胸に抱いた女の身体の感触を確かめた。
骨細の身体と肉の薄い胸は見ただけで分かっていたが、こうして抱きしめてみれば尚更その細さが感じられた。
そして、「あの道明寺副社長?」とどこか戸惑い気味に言われ、司が背中に回していた腕を離すと「わざわざ足をお運びいただいてありがとうございます。ここ分かりづらい場所ですよね?迷われたんじゃないですか?お迎えに行けばよかったんですが、気が付かなくて申し訳ございませんでした」と頭を下げたが、その姿は緊張していた。

「先輩?どうしたんですか?大丈夫ですか?」

司は牧野つくしの背後に目をやったが、そこに現れた女が彼に気付くと声を上げた。

「道明寺副社長!お待ちしておりました。さあ、中へどうぞ。私は副島研究室で副島の秘書をしている三条と申します。生憎副島はアメリカへ出張しておりますが、道明寺副社長の援助の話には大変喜んでおりました。本当にありがとうございます」

三条と名乗った女は、「ほら牧野先生もそんなところでボーっとしないで早く道明寺副社長を中に御通しして下さい」と言うと言われた女は、「え?ええっと。そうね。道明寺副社長どうぞこちらへ」と言って司は研究室の中に通されたが、そこはスチールグレーのファイルキャビネットやいくつものデスク、コピー機やパソコンや冷蔵庫が置かれ、さしずめどこにでもある小さな会社のオフィスといった感じの部屋で、見回してみても、ここがサメの研究をしていることを物語るような物は見当たらなかった。だがふと壁に目を向けたとき、そこに大きな口を開けたサメの顎骨が飾られているのを見つけた。

「あれは?サメか?」

「え?」

司の視線が向けられた場所を見た牧野つくしは、「はい。そうです。あれはアオザメの顎骨標本です。アオザメは全長3メートルくらいのサメでサメの中でも高速で泳ぐ非常に活動的な種類です。そんなサメですが鰭はフカヒレの材料として加工されるんですよ」と言った。

「牧野先生。立ち話をするよりも道明寺副社長にお座りいただいて下さいね。私は直ぐにコーヒーをお持ちしますから」

「え?そうね。すみません道明寺副社長。ここは学生部屋で普段学生がいる場所ですので、私の部屋へどうぞ。そちらでお掛けいただいてもよろしいですか?」

そう言われた司は牧野つくしの後に続いて学生部屋と呼ばれる部屋よりも小さな部屋に入ったが、そこは奥の窓の傍に机があり、両サイドの壁には書棚が据えられ、中央に小さな机と椅子が置かれていた。

「すみません。狭苦しい部屋ですが、どうぞそちらにお掛けになって下さい」

司は言われるまま椅子に座ったが、牧野つくしはすぐに座ろうとはせず、先ほど入ってきたドアの外を気にしている様子が見て取れたが、司はその姿に緊張を感じ取った。
サメに対しての情熱が人一倍ある女は、男とふたりでいることに緊張するのか。それとも相手が司だからか。そしてもし牧野つくしがここで司が媚びを売るようなことをすれば、所詮この女も今まで周りにいた女たちと同じということになるが果たしてどうなのか。女たちのそんな姿は見飽きたがどうなのか。

「牧野先生。あなたもお座りになりませんか?私がここに出向いたのは、あなたの研究に対し個人的に援助をしようと決めたことを直接お話したかったからだ」

そう言われた女は、「すみません。お忙しいところをお越しいただいたのに」と言って慌てて司の正面の椅子に腰を降ろし、机の上で手を組んだ彼の顔をじっと見た。

「早速ですがあなたは財団からの助成金を受け取ることは出来なかった。だが私はあなたの研究テーマに興味を持った。財団に提出してもらった過去の論文や今後の研究についてのあなたの話は、企業で言えば出資や融資を受けるための事業計画書だ。それが優れていると思ったから私はあなたの研究に資金を提供しようと決めた。だがそれには、ひとつだけ条件がある」

女は司の条件という言葉にエッという顔になった。

「そんなに驚くことか?研究に対しある程度まとまった額を寄付した場合それに対し感謝の意を示すのが普通だと訊いたが?」

司はそこまで言って相手が先ほどの驚いた顔から少しホッとした表情になったのを見た。それは感謝の意を示せの言葉が想定されていたということだ。

「あの。道明寺副社長。その件ですが実は感謝状を贈らせていただくことや、ニューズレターや学会誌を送らせていただくことで感謝の気持を示そうかとも考えたんです。ですが私はうちの研究室で出来ることで道明寺副社長がご希望されることをと思って今日それをお訊ねしようと思っていました。何かの形でということなんですが、どうぞご希望されることがあればおっしゃって下さい」

そう言われた男は、真っ直ぐに女の目を見つめながら言った。

「そうか。それは良かった。それでは私の望みを言わせてもらおう。私はあなたの研究に興味を持った。だから私はあなたから個人的に学びたいと思っている。つまり個人教授を頼みたい」





にほんブログ村
Comment:6
2018
11.09

理想の恋の見つけ方 20

司は会社を出ると牧野つくしが准教授を務める大学へ向かっていた。
昨夜の電話で明日サメのような人と会うと言った相手は司のことだが、サメが怖いと思わないと言った。それはつまり司と会うことを楽しみにしているといった意味なのか。
だがそれは司が個人的に援助することを決めたからなのか。スポンサーになる男に対して悪い感情はないということなのか。
どちらにしても、今日これから会うことになるが、司は牧野つくしにとっては金づるということになる。

司は、女は男を金づるとしか考えていないといった思いがあるが、それは贅沢な暮らしをしたい、自分を着飾りたいといったことが目的だが、牧野つくしの場合金の使い道はサメの研究という女なのだから他の女とは明らかに目的が違う。だから自分の身成りに気を遣うことはないのか。司は二度会ったがどちらも黒のパンツスーツ姿で化粧は薄かった。
そして昨日の話に出て来た好奇心と興味から派生したサメの研究が自分のライフワークになっているようだが、この先の研究を続けていくために手に入れようとしていた財団の助成金とは違い司の個人的援助をどう思うのか。媚びへつらうことはしないだろうが、それなりの見返りといったものを寄越すのだろうか。
もしそれがあるなら、それは一体どんなものなのかも気になるところだった。
そしてひとりの女の裏と表を見極めたいと望んだが、今のところ牧野つくしの行動は司の周りにいたどの女とも違っていた。
それは昨夜の電話も先日の面接も、どちらもさして態度の変わらない女がいるということだ。













「先輩!もうすぐいらっしゃいますよ。ちゃんと準備は出来ましたか?道明寺副社長が援助を申し出て下さることもですが、直々にこの研究室にお見えになるなんて凄いことですよ。でもせっかくお越しになられるのに、うちの大学は古いですからどうしても暗い感じがするんですよね。だからせめて緑くらい置いた方がいいと思って用意したんですけど、いいと思いませんか?」

桜子はそう言って今朝買って来た観葉植物の鉢の向きを変えていたが、研究室は間違ってもどこかのティールームのような雰囲気にはならなかった。だが部屋にひとつ緑があるだけで随分と雰囲気が変わったような気がした。
そして桜子は、副社長にお出しするコーヒーはブルーマウンテンですからね、と教えてくれたが、普段インスタントが主流の研究室にもコーヒーメーカーが置かれていて、たまにだが豆から淹れることもあった。

「それから道明寺副社長が寄付をして下さったことに対する研究室からの感謝の気持ですが、どう示すか決まりました?」

「うん….」

「もう先輩。うんじゃなくて、考えが纏まらなかったんですか?昨日何やってたんですか?ちゃんと考えて下さいって帰る前に言ったじゃないですか」

桜子は、そう言って鉢植えの向きが気に入らないのか、やっぱりこっちの方が葉がキレイに見えると言って鉢を動かしていた。

寄付行為に対してのお礼の気持を表す。
それは感謝状だったり、ニューズレターを送るといったことだったりするが、研究室が過去に寄付を受けたことはなく、感謝状を贈るなら副島研究室副島教授の名前で出せばいいのか。
それとも牧野つくし准教授の名前で出せばいいのか。
そして道明寺副社長はニューズレターや学会誌の送付を希望するだろうか。希望するなら送るが望まないなら何か他の方法で感謝の気持を示さなければと思うも、一体何をすればいいのか思いつかなかった。それに昨日は別のことが頭にあってお礼については失念していた。
こうなったらお礼は何がいいですかと本人に訊くのが一番いいはずだ。

「ねえ桜子。必要のない物をもらっても迷惑だろうし本人に訊いたら駄目?」

「あ、それいいかもしれませんね。経済界のサメと言われる道明寺副社長が何を希望されるのか想像もつきませんけど、寄付して下さるんですから出来るだけ寄付者の希望に沿うべきだと思います。でもハンサムな上にお金持ちの男性がうちの研究室に欲しいものがあるとは思えませんが、例えばサメの歯が欲しいとかそのくらいの希望なら簡単なんですけどね」

経済界のサメが本物のサメの歯が欲しい?
とてもそんなことを望むような男性には見えなかったが、金持ちは気まぐれだと言った桜子の言葉を借りれば、もしかすると道明寺副社長という男性は少し変わった嗜好の持ち主なのかもしれない。
そしてサメの歯だが、深海ザメではないがホホジロザメの歯なら今ここにあるが、サメ界のスターと呼ばれるホホジロザメの歯なら経済界のサメと呼ばれる男性にはピッタリかもしれない。

「それより先輩。道明寺副社長はここの場所がお分かりになると思います?うちの研究室かなり奥まった場所にありますけど大丈夫でしょうか。秘書の方はここを訪ねることで何もおっしゃらなかったんですよね?でもここ。かなり分かりにくいと思いますけどお迎えに行かなくても大丈夫ですか?」

そうだ。それは確かに言える。
つくしが所属している副島研究室は、訪れたことがない人間にとっては非常に分かりにくい場所にある。それにただでさえ大学の構内は分かりにくく、迷路のようだと言われていた。
そうなるとつくしが気遣いをしなければならなかったはずだ。せめて分かりやすい場所まで迎えに行くという気遣いが。

「ごめん。桜子。私ちょっと行って来るから」

「え?行くってどこに?」

「だから道明寺副社長を迎えに行くのよ」

そして時計が約束の時間である午後1時を指すと同時に研究室の扉を開け廊下へ出たが、そこにいた人物に思いっきりぶつかっていた。





にほんブログ村
Comment:4
2018
11.08

理想の恋の見つけ方 19

まさか明日会うことになっている女から仕事の話を訊いてもらってもいいですかと心の裡を訊かされることになるとは思いもしなかった。
司は個人が特定できる事は言わない。相手のプライバシーを詮索しない。匿名性を重んじようと言ったが女の求めに応じ年齢だけは告げた。
だがそんな女から今度は自分の仕事について話がしたいと言ってきた。
それは仕事にまつわる愚痴や不満をだらだらと打ちあけ、相手が耳を傾けてくれることが望みなのか。寡黙に話を訊く男と凡庸な優しさを求めているのか。それとも司の意見を求めるような話なのか。
暫くの沈黙の後、女が口を開くのを待った。

『ごめんなさ。あなたは….いえ、私たちは個人的なことは話さないと約束をしています。ですからなるべく具体的なことはお伝えしないで話したいと思います。私の仕事は….教育に関係することです。それで最近色々とあってと言うか。いえ、決してそのことが問題があるとか残念といったことではないんです。でも初めは残念だと思ったんですが、そこから嬉しいことがあったんです』

司は牧野つくしが口にした残念なことと嬉しいことが自分の研究に対することだと分かっていた。
そして残念なことが財団から助成金を受けることが出来なかったことであり、嬉しいことは司が個人的に援助をしようと言ったことだと推測出来るが、そのことについて何か思うことがあるのか。真面目な性格の牧野つくしは決して饒舌ではなく、次々と話題を提供するような女ではないことから、司は先を促すように「それは良かったですね。それでその嬉しいことに何かあったんですか」と訊いた。

『はい。あったというか……あの私はこれまで仕事には真面目に取り組んで来ました。でも私の仕事は金銭を貰ってする仕事というよりも自分の好奇心、つまり自分の興味を仕事にしたようなものなんです。だから私個人としては仕事をしてお金を頂けるという大変ありがたい仕事なんです。でもそれを続ける為にはお金が必要だということを感じさせられたと言えばいいのか、普段はお金に対しそこまでの必要性を感じていないのですが、今回はそういったことを考えなければならない状況でした』

牧野つくしの言葉の意味は司の思っていた通り、財団からの助成金が貰えなかったことを言っていた。

「なるほど。教育という仕事は未来がある子供たちを育てる。そして探求心を育てる仕事です。あなたはその仕事が自分の好奇心や興味の上に成り立っていることが悪いことのように思われるんですか?だがどんな仕事をするにしてもそれに見合う対価を受け取るべきだ。それに教育を受けるにもお金がかかるように、何かを極めようとするとお金が必要とされることがあります。こんな言い方をすれば身も蓋もないでしょうけど、どんなに綺麗事を言ったとしても生きて行くためにはお金が必要だということです。そのために厳しい道を選ぶ人もいるでしょう。それに何かを犠牲にする人もいるはずです。それにどんな仕事でも結果を必要としない仕事はありません。仕事は結果が全てですから」

司はビジネスに於いて相手の心理を読むことをするが、女の心理など考えたことはなかった。だから今の彼の言葉は寡黙に話を訊く男でもなければ、凡庸な優しさを感じさせる男の言葉でもなかったが、果たして相手が求めていたのはどんな言葉なのか。
そして決して会うことはないとは言っているが、牧野つくしの職業も年齢を知っている以上、稚拙な言葉を返そうとは思わなかった。だがつい押しの強い性質が出そうになり、今は紳士的に接することを演じなければと思いそれに相応しい言葉を探していた。

『ええ。そうですよね。あなたの言っていることはもっともだと思います。何かを続けていくためには、お金が必要になることもありますよね。私もその有難味はよく分かっているつもりです。ですが_』

「どうかしましたか?」

『はい。世の中には捨てる神あれば拾う神ありではありませんが、思いがけないこともあるんだなって。そんな事が今日あったんです』

「そうですか。それは良かったですね」

そこで司は、話のいきがかり上、牧野つくしが興味を持っていると言ったサメの話をすることにした。それは前回の電話でサメの話を訊いたとき牧野つくしに対する興味と相まって面白いと感じ、サメについて自分なりに調べたことがあった。

「ひとつ質問してもいいですか?私はあなたがサメに興味があると訊いて調べてみました。常に深海にいる大型の生物は、深海ザメとダイオウイカくらいしかいないと言われていますが同じ深海に棲む生物ならサメよりもダイオウイカの方が興味深いと思いませんか?」

ダイオウイカはここ数年話題の生物で、人の目に触れる機会も増えたが、知らない人間が多かったのも事実だ。
そしてあの面接で何故サメを研究対象にしたのかと今と似た様な質問をしたが、あの時は高校生の頃図書館で見た本でサメに興味を持ったと言ったが果たして今夜はなんと答えるのか。

『ええ。ダイオウイカも興味深い生物だと思います。でもイカには気持ちが向かなかったと言うか….。私はイカではなくサメのカッコ良さに惹かれたんです。サメは人を襲う生き物だと思われていますけど、そうではないんです。それはこの前もお話しましたよね?』

「ええ。人を襲うサメは5本の指で足りるそうですね」

『そうです。ホホジロザメやイタチザメ、オオジロザメといった一部のサメなんです』

サメの話になると取り留めがないというのか。他に心を惑わすものがないというのか。素人にしては詳し過ぎる話をする牧野つくしはやはり学者先生であると感じた。そして司にしてみればそれは分かり切っていることだが、それでも女は自分の職業が秘密にされていると思うのは、おめでたい人間だと言えた。

そして何故イカに興味を持たなかったのかと訊けば、サメの方がカッコいいからという当時高校生だったことを考えれば、らしいと言えばらしい率直な答えだ。だがそれが面接のとき語られることはなかったが、そのことが本音と建て前の建前の方であり、サメがカッコよかったという本音が語られなかったことは、悪意のない本音であり許されるものだ。

そんな女は電話の時間は30分と決めているのか。10時半になると話に区切りをつけ最後に、「明日は仕事で人と会う約束があるんですが、その人はサメのような人だと言われています。でも私はサメが怖いとは思いません。彼らも生きる為に努力をしていますから」と言ったが、司はサメのような人間が自分のことを指していることは分かっていた。
そして電話を切るまで自分とは全く正反対の身体が弱く殆ど外出することがない男のイメージで接し続けたが、サメは怖くないと言った女は、明日はどんな態度を見せるのか。司は暫く携帯の画面を眺めていたが、机の上に置くと椅子から立ち上った。





にほんブログ村
Comment:4
back-to-top