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2018
10.31

理想の恋の見つけ方 13

「もしもし」

『はい』

「あの、私です。分かりますか?」

『ええ。わかりますよ。電話してきて下さったんですね』




夜の10時。
つくしは匿名で話をしようと言われた男性に電話をすると、相手は3度目の呼び出し音で出たが何故この時間に電話をすることにしたのか。それは多分だがこの時間なら余裕がある時間だと思われたからだ。

見知らぬ男性との語らい。
つくしにしてみれば勇気がいる行為だったが電話をすると言った以上しなければという思いと、喋る言葉に嘘がないと感じ、どこか孤独を感じさせる相手に興味がないとは言えなかった。

今夜電話をしようと決めた時点で何を話そうかと思っていたが、今日は道明寺財団から連絡があり一度は駄目になりかけた研究助成事業の面接を受ける日が決まった。
それが嬉しくて話題になると思ったが、互いに正体は言わないと決めている以上、そのことを直接的に話すことは出来ないことから言葉を選んでいた。

「ええっと、何から話せばいいのか」

そう言ったところで男性が口にした言葉を思い出していた。
それは同じ列車に乗り、隣に座った人間と他愛もない会話を交わす。
それは決して珍しいことではない。いつだったか出張帰り新幹線の中で咳が止まらなくなったことがあった。すると隣に座った女性から、これをどうぞ。と言って飴を貰ったことがあった。それは女性の親切心がつくしに向けられた瞬間で、大丈夫ですか?と問われ、どちらまでですか?といった会話から始まり相手が下車するまで話をしたことがあったが、それが袖振り合うも他生の縁という言葉で表されることであり、男性が求めているのは、そういったものだと分かっているが、なにしろ相手は男性で、ましてや顔が見えないとなると何を話していいのかやはり躊躇いがあった。

『何から話せばいいのかとおっしゃるなら、とりあえず今晩はではないですか?それから今日の天気の話でもしますか?いいお天気でしたね。もう秋の空ですがあなたはどんな一日を過ごされましたか?』

そう言われ、今日の空は青く澄み渡っていたことを思い出したが、相手も同じ空を見たのだと思えば、そのことを話題にするのが一番いいと思えた。

「そうですね。今日はいいお天気でした。少し前までは暑いと感じていましたが、もうすっかり秋ですね?それに空が高く感じられて夜になれば空気も涼しく感じられます。私は__仕事が少し特殊ですがいい一日でした」

つくしが一瞬言葉に詰まったのは、思わず自分の職業を言いそうになったからだが、偶然同じ列車に乗り合わせた者同士が自分の仕事がなんであるかを詳しく話すはずもなく、出かかった言葉をなんとか呑み込んでいた。

『充実した一日だったという事でしょうか?』

「はい。今日はとても充実した一日でした。あなたは?」

『私ですか?私は代わり映えがしない日でした。毎日同じことの繰り返しです。私の仕事は在宅で出来る仕事ですからデスクワークですが、いつも同じです。やらなければならない仕事は山のようにありますが、その仕事が出来るのは私しかいない。それをこなすといった日々を過ごしています』

「そうですか....」

つくしはそう答えたが、言葉に詰まりその先が続かなかった。
相手が何か喋ってくれればいいのにと思いながら、沈黙を埋めるため何か口にしなければと思うも、言葉に詰まるのは相手のことを知らないこともだが、訊いてはいけない。話してはいけないといった制約があるからだが、もし何か共通の話題があれば違うはずだと思った。

だが相手の年齢も分からなければ、どんな話を持ち出せばいいのか分からなかった。
それでも、男性のしゃがれた声が極端に年を取っているとは感じられず、同じ30代か40代ではないかと感じた。
それなら、と、乾いた喉の奥に張り付くようにしていた考えを口に出してみることにした。

「あの。私たちは自分のことを詳しく話す必要はないということでしたが、やはりある程度知らなければ話づらいと思います。ですからせめて年齢…たとえば、30代なのか。40代なのか。それくらいは教え合いませんか?」









司はその時間はまだ会社にいて革椅子に座り、転送されて来た女の電話をスピーカー通話で話しながらパソコンの画面をスクロールしていた。
女が電話をかけて来るかどうか半信半疑なところもあり、まさか本当にかけて来るとは思わなかった。

牧野つくしについて身元調査をした結果、住所や職業、いや職業はすでに知っていたが、色々なことが分かった。家族は両親と弟。父親はごく普通の会社員で母親は専業主婦で教育熱心。弟は会社員で結婚していた。

修士課程を修了し、ドクターコースへ進み最短年数で学位を取った女は若くして准教授になっただけに頭がいい。
だからなのか。世間で言われる常識からすれば、見知らぬ男と電話で親しげに会話を交わすことが危険だという概念が薄い。つまり牧野つくしを特徴づけているとも言える黒い大きな瞳には知性が感じられるが、男に対しての知性が欠如している研究肌の女ということになり、自分の専門以外は疎いということになる。
そしてそれが意味することは、どんくさく騙されやすいということだ。

「私の年齢ですか?」

司は牧野つくしが34歳であることを知っているが、女はそれを知らない。
それなら何歳と答えるのがいいのか。

「私は35歳です」

司はかなり年上を装うことも考えたが、35歳と自分の本当の年齢を答えた。
それに対しせめて年齢くらいは教え合おうと言った牧野つくしは何と答えるか。
女は平気で嘘をつく。
それに電話で喋るだけの相手にありのままの年齢を伝える女がいるとは考えていない。
見えないということは気楽さを感じさせるもので、ましてや会うつもりはないと言った相手に嘘をついても罪の意識など持ちはしないのだから。

『そうなんですか?私は34歳です。すみません若い女性ではありませんがそれでも私と話したいと思われますか?』

だから見知らぬ他人に嘘をつかない女がいるということは、ある意味で期待を裏切られた。





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2018
10.30

理想の恋の見つけ方 12

司は電話を切ると牧野つくしの返事に思わず捕らえた獲物を弄ぶサメのような気分になった。

『あなたと話をしてみたいと思います』

その答えを予期していた訳ではないが、相手の顔は見えない。どんな素性か分からない。
そんな男の何が女の興味を惹いたのか。

女は二つのタイプに別れるというが、ひとつは危険だと思われることには近づかない。
もうひとつは、その逆であり危険なものに惹かれるというタイプ。
牧野つくしは後者には見えなかった。それなら何故見知らぬ男と電話で話をすることを選んだのか。
司は自分に好感を持たせ、牧野つくしの良心を掻き立てるため、数分間の会話のほとんどを彼が喋り、声はわざとしゃがれた声を出しはしたが、それが気に入った訳ではあるまい。

誰にでも気に入られそうな模範的なタイプの牧野つくし。
電話で話をすることで、そんな女の何が見えるのか。
1週間に一度の会話を交わすことで、どんな人間が現れるのか。
そしてサメを相手にしている女なら、自分を守ろうとする本能はあるはずだが、どちらにしても財団の面接で再び顔を合わせることになるが、その時が楽しみだった。
結婚歴なし。子供なし。34歳。
そう書いた紙をゴミ箱に放り捨てると寝室に戻った。







***







つくしは研究室でパソコンにデータを入力していた手を止めた。
誰もいない静かな部屋の中、考え事をするにはもってこいだ。そこで3日前電話で話をした男性のことを考えていた。

名前も知らない、どこの誰だか分からない男性と週に一度だけ電話で話をすることに同意した。
それにしても何故同意してしまったのか。
それは身体が丈夫ではない。外を出歩くこともあまりない。
人間関係を広げることがないと言われたことに同情したのだろうか。
いや違う。何故だか分からなかったが、どこか自分と似たところがあるような気がしたからだ。

つくしは大学院を卒業し、そのまま大学での研究生活に入ったが、振り返ってみればあれからずっと研究一筋だ。そして気づけば34歳。いつも化粧っ気のない顔をしていることから若く見られがちだが、鏡を見ればそこにいるのは年相応の女で、決して自分の年を忘れた訳ではなく、毎晩鏡を見れば改めて自分の年を認識させられていた。

そして桜子の言う通り学問一筋で、男性との付き合いといったものがなかった。
サメと結婚してる訳じゃあるまいし、そのエネルギーを少しは人間の男性にも向けて下さいと何度も言われ、生き方が真面目過ぎると言われた。
研究を離れて遊ぶ時間を作って下さいと言われたが、どうやって遊べばいいのか分からないと言うと、男性を紹介されるようになったが、どうもしっくりこなかった。

そして電話の声だけの男性の姿を想像したとき、在宅での仕事だと言ったことから、暗がりで育った植物のように細いといった印象を抱いた。
声は初めこそ怒ったような声だったが、途中から丁寧な口調に変わり、喋る言葉に品格が感じられ、知性を隠しているような気がしたが、普段人と接することが無いということから、あまり喋ることがないのか、ずっとしゃがれた声をしていた。

だが男性が話した内容をどこまで信じればいいのかわからなかった。
つくしはバカではない。世の中には虚偽があることも知っている。それに自分の知らない世界が幾つもあることも分かっているつもりだ。それでも男性が喋る言葉が嘘のない言葉に聞こえたのだ。

週に一度つくしから電話をする。
嫌なら掛ける必要はない。それにいつ掛けるとは決まってない。
選択権はつくしにあった。
嫌なら何もしなければいい。だが何もしなければこの出会いは終わる。
それにつくしは一度口にしたことは守るべきだと思っている。
だから今夜掛けるつもりでいたが、そんな中、つくしの携帯電話が鳴り出した。





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2018
10.29

理想の恋の見つけ方 11

司の頭の中で形を作り始めたもの。
それは、牧野つくしという女は警戒心が薄いお人好しの女であることから、良心的な女であることが推測できた。
そしてエレベーターの前でクリッとした大きな目が司と合ったとき、女が過敏なほど司を意識しているのが分かったが、そんな女が現実で司と対峙するのではなく、声だけの男に対しどういった感情を抱くようになるのか知りたかった。

つまり司のことは何一つ知らない。
名前も職業も容姿も関係なく接する女がいるのかを牧野つくしで試してみたかった。
だが何故そんなことを思ったのか。
司の周りに女は大勢いるが、牧野つくしという名前のどこにでもいる平凡な容姿を持つ少し変わった女が面白そうだと思ったからだ。そんな女で退屈な日常にスパイスを加えたいと思ったからだ。
そして司はそれをたった今から始めるべく、自分に好感を持たせ、牧野つくしの良心を掻き立てることを始めることにした。




「実は私はあまり身体が丈夫ではありません。そんなこともあり仕事は在宅でも出来る仕事をしています。それから身体がそんな状態ですので外を出歩くことも多くはないのです。つまり知り合いと話す以外は、新しい人間関係を築くチャンスがありません。そんな私は今の人間関係以外の誰かと話したいと思うことがあるんです」

司はそこで一旦話を切った。
そして相手が何か言うのではないかと間を置いた。だ何も返されないことから言葉を継いだ。

「そこでお願いがあります。私と電話で話しをする時間を持っていただけませんか?とは言え、こんなことを言う男は気味が悪いと思うはずです。いきなり見知らぬ男から話し相手になって欲しいなどどう考えてもおかしいと思うはずです。ですが週に一度だけ。もしよろしければあなたの方から電話を掛けて頂けませんか?私は着信履歴からあなたの電話番号を知ってはいますが、決して私からは掛けません。あくまでもあなたのご厚意で話し相手になって下さればと思っていますがいかがでしょう?」

司は再び話を切り相手の様子を窺った。
だがやはり返される言葉はなく、小さな機械は沈黙していた。

「それからあなたは私が誰だか知りたいと思うはずです。もしあなたが私が誰であるか知りたいとおっしゃるならある程度お話します。ですが互いに知らない者同士で会話をすることも時は楽しいと思いませんか?見知らぬ他人同士だから話せるといったこともあるはずです。つまり出来れば匿名で会話をすることを許してもらいたい。それから私の仕事についてですが、法に触れるようないかがわしい仕事ではありません」

司はそこまで言って反応を待った。
普通の女なら司の言葉を信じることはなく即座に断るはずだ。だが沈黙が返されるということは考えているということになるが、牧野つくしは一体どんな言葉を返して来るのか。

『…….あの、電話だけですよね?週に一度電話でお話をするだけでいいんですよね?』

「ええ。電話だけです。会いましょうとは決して言いません。同じ列車に乗り、たままた隣同士に座った者が天気の話をするようなものだと思っていただければありがたい。人は相手が二度と会うことがない人間だからこそ話せることもある。それと同じです」

司は会話をしながらパソコンのキーボードを叩き、牧野つくしのことを検索していたが、深海ザメの研究をしている女についてヒットするのは、大学のホームページで公開されていること以外なかった。
そして個人的な情報で知っているのは、財団のデータファイルに書かれている結婚歴なし。子供なし。34歳ということだけだが、どんなことでも調べればすぐに分かる。


『あの....』

「はい。なんでしょう?」

『匿名でとおっしゃいましたよね?』

「ええ。互いに自分の個人的な情報は一切言わない。ただその日にあったことや天気についてでもいい。そういった話をする。そんなことでいいんです。そして話したいことがあれば話す。見知らぬ他人だから言える。そんな話をしませんか?とは言え私のことが信用できないと思うなら電話はしないで下さい。私が言えるのはあくまでもあなたのご厚意に甘えさせていただきたいということですから」

司は慎重に言葉を選んだあと口を閉ざし、牧野つくしが何と答えるか待ったが、自分の正体を秘密にして誰かと話をするということが確実に退屈しのぎになると思い始めた。

それは牧野つくしが、今話をしている相手が司だということを知らず、司の方は相手が誰であるかを知っているという優位性がそう感じさせるからで、司がサメなら牧野つくしは捕食される魚であり、今のこの状況はサメが捕らえようとしている獲物を弄んでいるようなもので、思わずひそやかな笑みが浮かんでいた。

『あの。私____』

「はい」

司ははい、と返事をしただけで、女が言いかけた言葉の続きを促すことはしなかったが、言葉を選ぼうとしていることは感じていた。
果たしてどういった言葉が返されるのか。そう思いながら大学のホームページの教員紹介欄で公開されている牧野つくしの顔を見ていたが、その顔は見る者に安心感を与える顏だと思った。そして薄化粧の顔はまだ学生だと言っても通る顔だ。つまり童顔だということだ。
と、その時、パソコンの隣に置かれている電話から声が聞えた。

『お電話させていただいていいですか?週に一度。あなたと話をしてみたいと思います』






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2018
10.28

紅葉色の記憶

Category: 紅葉色の記憶
移り変わる季節を感じることが出来るひとつに紅葉がある。
そんな紅葉の季節になると一番に思い浮かぶのは楓の木だが、同じように美しく色付く木々の中にマルバノキ(丸葉の木)、別名ベニマンサクという木がある。
春先、青々とした葉を茂らせているその木が目立つことはなく目を止めることはない。
だがその木が秋になると赤紫に色を変え人々の目を惹く木に変わる。
それは楓も同じだが、その木も色を変えることで見る人の心を惹き付ける美しい木に変わっていく。

そんなマルバノキは本州中部以西の限られた場所を原産地とする落葉低木で、見ごろは10月中旬から11月と言われ、道明寺家の軽井沢の別荘にも自生しているその木を見に行こうと司は妻を誘った。

そしてその木はマルバノキと名前が付けられている通り丸い大きな葉をしているのだが、正確に言えば少し違う。
葉の形はハート型をしており、木々が紅葉する季節を迎えると、葉が燃えるように紅葉することから燃えるハートようだと言われ、下から見上げるハート型の真っ赤な葉は、ハートが秋色といった景色だった。

陽の光りに透かし見た葉は葉脈と呼ばれる筋があるが、それは植物にとって人間の血管と同じ役割を果たし、水や栄養分を運ぶ役割があるが、真っ赤なハート型の葉に流れるそれは最愛の人を想う熱い血ではないかと思うのは司だ。







「わあ~!凄いわね。この葉っぱ本当にハート型をしてる!」

「どうだ?俺の言った通りだろ?」

二人が見上げる木は、4メートルほどの高さで沢山の赤いハートが頭の上で陽光を浴び揺れていた。

「ホント!凄いね。こんな景色今まで見た事がないよ!」

「この木はな、紅葉が終って葉が散り始めると花を咲かせる。それも真っ赤な小さな花が2つ背中合わせで咲く。それに一緒に実を付けるが花が2つなら当然実も2つだがその形がハート型をしている。ハートの実がくっついてるんだ。まるで俺たちみたいだろ?」

星型のような額のような小さな赤い花を咲かせるマルバノキは、ハート型の実を2つ付ける。そして結実したそれは、ハートの尖った先端がくっついた状態で翌年の秋、熟してはじけるまで枝にあるが、それはまるで赤く染まったハートの葉が恋する想いを叶えハート型の実を結んだと言えた。

だが人も木もその時が来れば必ず実を結ぶという訳ではない。
世の中には人の手で変えることが出来ない自然の摂理といったものがある。
そしてこうして赤く紅葉したハート型の葉を見上げる女の頬は葉と同じ色に染まっているが、夫である司は妻の考えていることが手に取るように分かった。

春になれば青い芽が、青葉が芽吹き、花が咲き、実を結び種を蒔くように結婚すれば新しい命が生まれることが当たり前のように考えられているが、それは決して当たり前ではないのだ。
付き合い始めてから暫くは、二人に身体の関係はなかった。
だが婚約して2年。その間いつ子供が出来てもいいと周りは思っていた。
そして二人が結婚して2年が経ったが、子供が出来ないことに目に見えない同情が集まり始めると、夫である司は妻が言えない言葉を持っていることに気付いた。
そんな時、妻を連れハート型の葉を持つマルバノキが紅葉したこの場所を訪れた。すると妻に大きな変化が訪れた。
赤ん坊が出来たのだ。







あれから23年。
一生大切にすると言って結婚して25年。
秋はあの頃と同じように巡って来た。
そして銀婚式を迎える二人に子供たちがプレゼントしてくれたのは、想い出のアルバム。
二人の間には男の子がふたりと女の子がひとり。末の女の子も18歳を迎え二人が出会った頃の年齢を越えた子供たち。今ではそれぞれが大人になり親の手から離れていた。

そんな子供たちから二人の想い出が書かれているからと言って渡されたアルバム。
1ページ目を開いたそこには、二人の名前が相合傘に入れられて書かれていた。
子供たちから見た二人の姿は、そこに書かれている通り、仲睦まじい夫婦だったということだが、それを見た時ふたりで笑った。
だがそのアルバムを開くのが少しだけ怖かった。
それは、そのアルバムに書かれているのは、子供たちの目から見た親の姿ではないだろうか。
親としての出来不出来が書かれた通知表を渡されたように感じた。

だが次のページを開いたとき、そこにあったのはマルバノキの赤く色づいたハート型の葉が押し花のように貼られていて、その葉の色に一気に何十年という時を飛び越えたあの頃の二人の姿がそこにあった。
そして「一生」という言葉に見合うだけの年月を過ごした二人は一緒にページを見ていた。

「マルバノキの葉。あの子たちわざわざ軽井沢まで行ったのかしらね?」

「そうだろうな」

「きれいね。この赤。あの時見た赤と同じね?」

丁度この季節に真っ赤に紅葉するマルバノキ。
長男は両親がマルバノキを大切に思っていることを知っていて、その葉を求め軽井沢まで行ったはずだ。

計算してみると長男がお腹に宿ったのは、軽井沢の別荘で過ごしたあの夜だった。
あの日。ハート型の葉が赤く染まったのを見たとき、その花が2つ背中合わせで咲くこと、実がハート型をしてくっついていること。それを二人に例えたとき、何かが起きたはずだ。
あの日のことを思い出すと、秋の匂いも一緒に思い出されるが、それはいたずらな匂い。
その匂いを遠い日の想い出に重ねれば、あの頃と変わらぬ妻の微笑みに司は幸せを感じた。

「ああ。そうだな。自然の色は移り変わるが、この赤はあの時の赤と同じだ」

自然の色がその時々によって違うように、人の心も移り変わることがある。
だが妻と共に歩んで来た25年という歳月があの頃の二人の姿を滲ませたとしても、想いは変わらなかった。心が変わることはなかった。
そして二人の間に流れた歳月は、一瞬たりとも止まることのない砂時計の砂だったが、流れ落ちる砂は二人が紡いだ家族の時間であり、黄金よりも価値があった。
そして砂時計の砂は決して止まることはなく、今も流れ落ち続けていた。

「次のページには何があるのかしらね?」

妻が笑いながらページを捲る。

「なんだろうな。ハート型のマルバノキの次だろ?」

「あはは!雑草だって!」

次のページに貼られてあったのは、つくしで『雑草』と書かれていたが、それは母親を表していた。そして次のページを捲ると、真っ赤な薔薇の押し花が貼られていて、
『高校生の時、むせ返るほどの薔薇の花を贈る』と書かれていた。

「真っ赤な薔薇の花びら!司が高校生の頃、アパートの部屋に入りきらないほどプレゼントしてくれた薔薇ね?」

子供たちがプレゼントしてくれた想い出アルバム。
そこにあったのは、父親が母親に贈ってきた沢山の花の想い出。
子供たちは父親が花を抱えて帰ると、その花の名前を教えてもらい、一緒に持ち帰られた箱に目を輝かせた。何故目を輝かせていたのか。それは甘いものが好きだという母のために、いつも何か甘いものが添えられていたからだ。


細い指先が書かれている文字をなぞり、懐かしそうに触れる花々は、やがて褐色へと変わる。それでも想い出は色褪せることはない。
いつだったか高価な花ばかり贈る男に、花屋で一番安い花でいいから、と言ったことがあった。その時、司が選んだのはガーベラだった。
だからガーベラの花の押し花もあった。

「ガーベラ。覚えてるわ。一番安い花にしたってプレゼントしてくれたけど、花と一緒に貰ったものは安くなかったはずよ?」

「そうだったか?」

「そうよ」

勿論覚えていた。ピンクのガーベラと同じ色の包装紙に包まれた箱から出て来たのは、ピンク色のダイヤが散りばめられた腕時計。その日はピンクリボンの日だと言われ、その趣旨を理解している男は10月になればピンクのネクタイを身に着ける。そして道明寺グループも協賛企業としてその活動を支援していた。
そして愛する妻にはいつまでも元気でいて欲しという思いからピンクに関係するものを贈った。


二人は笑いながらページを捲った。
その度に匂わないはずの花の匂いが感じられ想い出が甦る。
季節は移り時が流れても、どの季節の花も忘れることはない。
そして二人にとってどの時間もかけがえのない時間であり、どの時間もどんな物とも交換出来ない想い出であり、司の前にある紅葉色の微笑みは、これからもそこにある。



「つくし。お前、25年俺と一緒にいるが幸せか?」

「やだ。今更なに言ってるのよ?私が不幸に見える?幸せに決まってるじゃない」

「そうか?」

「もちろんよ。もし私たちの人生がドラマになって放送されるなら絶対に見るから。それくらい素敵な人生ドラマだもん」

そう胸を張って答える妻は、「司はどうなの?ドラマになって放送されたら見るでしょ?だって司ほど強烈なキャラクターの主役はいないと思うもの。だから絶対に視聴率はいいと思うわ」

と言って笑い、「ほら見て。この花。覚えてる?母の日に司が子供たちと一緒にプレゼントしてくれたカーネーションね?」と言った。

「ああ。あん時は店中のカーネーションを買い占めるつもりで行ったが、誰も彼もがカーネーションを買うからどうなってんだって思ったがな」

司は母の日にカーネーションを贈るといった経験をしたことがなかった。
だが子供が生まれ、親となり子供たちが母の日を祝う習慣を家庭に持ち帰れば、自分の母親に花を贈るということをしてこなかった男も、妻と母に花を贈ることを始めた。

「やあねぇ。店ごと買い占めようとするんだから、他のお客さんがいい迷惑よ」

「別にいいだろうが。早いモン勝ちだ。それがビジネスに於ける競争原理だ」

とは言え、今の司は花瓶に挿せる量の花だけを買っていた。



二人がこんな風に想い出を巡ることが出来るのは幸せだから。
だが今の年齢で考える幸せは若い頃とは違うが、今はあの頃とは違う幸せを確かに感じていた。

そして今、自分を主張することがない秋の太陽の物憂げな光りが、アルバムを捲る二人の姿を包み込んでいた。




< 完 > *紅葉色の記憶*

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2018
10.27

理想の恋の見つけ方 10

司は真夜中の電話には慣れていた。
そして反射的にナイトテーブルの上に置かれた時計に目をやって時間を確認した。
それはニューヨークと東京の間の時差の関係から日本が午前1時過ぎなら向うは前日の午後12時過ぎで、ビジネスは日本時間に関係なく動いているからだ。
だが余程の事が無い限りこの時間にニューヨークから電話が掛かってくることはない。
それに掛かって来たのはプライベートな携帯電話で司が暮らすペントハウスの固定電話が転送されるこの番号を知る人間は限られている。
それなら余程の緊急事態かと頭に薄っすらともやがかかった状態で電話に出たが、耳に届く音はなく、間違い電話かと切ろうとしたその時だった。

「あのぉ…..もしもし?」
と声が聞え、安眠を妨害したのは姉でも秘書でもなくどこかの女だと分かった。
そしてその後、「あの、すみません。先日中華料理を注文した者なんですが…..」と話し始めたとき、司は苛立ちを声に表したが、その声は寝起きでしゃがれていて、低いと言われる声がさらに低さを増していた。

「誰だって?」

『あの、夜分遅くすみません。私は先日あなたに間違い電話をした者です。覚えていらっしゃいますか?あなたに中華料理を注文して一方的に喋って電話を切りました。それは番号をよく確かめなかった私が_』

「あんたが誰だか知らねぇが見知らぬ番号に電話してきてよくそんなに喋ることが出来るな。それも中華料理がどうのと真夜中に人の睡眠を邪魔して喋ることか?」

司は喋り続ける女の言葉を遮るように言葉を発したが、中華料理を注文して来た電話を覚えていた。あの時はあきらも一緒にいてそのことを喋った。
そして司の厳しい言葉に相手の女は黙った。だから司は迷惑な真夜中の電話を切ろうとした。

『すみません。そうですよね、こんな時間に突然電話をして非常識だと思います。でも訊いていただけませんか?決してこの時間に電話をしようと思ったんじゃないんです。たまたま電話を掛けてしまったと言った方が正しいんです』

と唐突に喋り始めたが、たまたま電話を掛けてしまったという言葉に、司は気が付くとこう言っていた。

「たまたまってことは掛けるつもりはなかったってことか?」

『え?はい。たまたまと言うか、ちょっとした操作のミスで電話が掛かってしまったんです。ですからもしお電話に出られたらお詫びを申し上げようと思ったんです。本当に申し訳ございませんでした』

司は間違い電話が掛かったとしても気に止めたことはなかった。
だが電話で中華料理を頼まれたことはなく、ましてや女からの一方的な電話などなく、今思えば笑い話だと思えた。確かあの時は豚肉とニラがどうの、と言っていたはずだ。

そしてこの女の声はどこかで訊いたことがあるような気がしていた。
確かあの時名前を名乗ったが覚えていなかった。
だが洞察力の鋭いと言われる男は早速その声を分析していたが、女は非常に真剣な様子で話しているのが感じられ、その時、頭に浮かんだのは牧野つくしというサメの研究を専門にしている准教授で、財団の研究助成事業に応募し書類選考をパスし面接に現れた女だ。

だが女はエレベーターに閉じ込められたと言い時間に遅刻をし、チャンスを逃したかと思われたが、エレベーターの故障は確かであり、女の面接は後日ということになったが、司に食い下がる女の姿が頭を過り、まさかと思ったが電話の相手の声はその女、牧野つくしに似ていて喋り方も似ていた。

それなら相手を確認したいという欲求が湧き上がり、ベッドから起き上がると頭から電話を遠ざけた。そしてスピーカー通話にして寝室を出ると執務室として使っている部屋へ行き、パソコンを立ち上げ電話を隣に置いた。そして財団のシステムにアクセスし、牧野つくしの情報を呼び出し、連絡先の電話番号を確認した。
するとそこにあるのは携帯電話の番号。
その番号は数日前ペントハウスに着信があった番号と同じ。
念のため調べるかと思うもそのままにしていたが、牧野つくしの掛けた電話は、司の携帯電話に転送され、その偶然に笑っていた。
そして個人情報として書かれているのは、結婚歴なし。子供なし。34歳。この情報を書いたのは誰なのか。そして34歳ということは司よりひとつ年下ということになるが、随分と若く見えた。


『あの?』

沈黙が続いていることに相手は戸惑いを隠せない様子で訊いてきた。
そしてその問い掛けは、侘びをいれたことを司が受け入れてくれたかを確認していた。

「訊いていますよ。すいませんね。私も寝起きですからつい声を荒げてしまったが、あなたの謝罪は受け入れます」

司はそれまでの口調をガラリと変え、丁寧な言葉で返したが、その言葉に相手がホッとしている様子が感じられた。

『本当ですか?ありがとうございます。本当にすみませんでした。それにこんな真夜中に電話を掛けてしまって重ね重ね申し訳ございませんでした。それからあなたがいい人で良かったです。実を言うと、間違って掛けたこの番号は消去するように言われていて、その作業をしようとしたところでまた掛けてしまったんです』

と言って、慣れないスマホの画面をいじっていて掛けてしまったと言葉を継いだ。

「いいんだ。誰にも間違いはある」

と、言いながら司の目には牧野つくしが頭を下げる様子が浮かんだ。と同時に思ったのは、相手がどんな人間だか分かりもしないのに、よくもこうペラペラと電話で話しが出来るものだということ。そして牧野つくしは警戒心が薄いお人好しの人間だということを知ったが、そんな女の指がうっかり滑った先が司のペントハウスの電話番号だったということになる。

そして司はこうしてあの日の間違い電話の相手が誰だか知った。
だが牧野つくしは相手が司であることを知らないが、相手に対して悪い印象は抱いていない。
そしてエレベーターの前での出来事はちょっとした戯れだったが、自分の研究に熱心な女は失言を侘び面接のチャンスを逃したくないと必死で、牧野つくしは間違いなく司を意識していた。
それは司の見た目がそうさせたのか。それとも金がそうさせたのか。
そんな女の今は間違い電話を掛けたことに対しての謝罪の言葉を言いながら、いつ電話を切ればいいのかを迷っていたが、司の頭の中でひとつの計画が形を作り始めていた。

「ところでこうして間違い電話を詫びていただいたあなたに、こんなことを申し上げては不審に思われるかもしれませんが、今後もこうして電話で話をする機会を持ちませんか?」





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2018
10.26

理想の恋の見つけ方 9

「それで面接のごたごたで訊き忘れてましたけど、私が紹介した人。どうでした?」

つくしは今日予定無いですよね?と桜子に誘われ夕食に行くと感じのいいバーがあるからと言われ飲みに行ったが、ふたりは研究室では准教授と教授秘書だがそれ以外では友人だ。

つくしはワインと共に溜息を呑み込むと、海洋調査に出掛ける前、桜子から紹介され食事をした10歳年上の男性のことを考えた。
恋人がいない女に世話焼きの後輩が紹介してくれたのは、製薬会社に勤める男性。
だが10歳も年上となると相手は44歳。ジェネレーションギャップというものが感じられ、話が合わないのは勿論だが、真面目な会社員は堅物そのもので、一度食事をしただけなのに、私の両親にはいつ会ってくれますかと言い始めた。
だから申し訳ないのですが長い船旅に出ますので無理ですと言った。

「やっぱり駄目でしたか?」

「あのね桜子。やっぱり駄目でしたかじゃなくて、一度会っただけで両親に会ってくれってどういう了見なのよ?両親に会うってことは結婚を前提って意味よね?だからこれから船に乗るので無理ですって言ったわ」

「船に乗るって、たった2週間じゃないですか」

「それは口実だってば。それにあの人食事の間ずっと自分のことを話していて、口を挟むきっかけを探すのが大変だったのよ?それからやたらと髪の毛に触るから頭ばっかり目が行ったわよ」

つくしは髪の毛に触れながら延々と自分のことを話す男性を前にサラダを口に頬張り、ただひたすら食事を続け、相手がやっと言葉を切ったときには食事を終えていて、食後のコーヒーが早く出されないかと待っていた。そして今ではその男性の頭は思い出されるが顔は思い出すことが出来なかった。

「そうですか。やたらとお喋りで髪の毛を何度も触る。食事のマナーとしては最低ですね。ところで先輩の求める理想の恋ってどんな恋なんですか?今まで何人か紹介してきましたがどの人も駄目。まさかとは思いますが男性に興味がない訳じゃないですよね?」

「どんな恋って言われても…..別にないわよ。それに男性に興味がない訳じゃないけど恋なんて絶対しなきゃいけないものなの?」

やたらと世話を焼きたがる女の口調は追及するではないが、それに近いものがあり、つくしはため息をつきながら答えたが、返された言葉はムッとしていた。

「ええ。した方がいいに決まってるじゃないですか。先輩は恋をしないで人生を終わるつもりですか。一生独身で終わるつもりですか?いくら深海ザメが研究のテーマだからって同じ深海に棲むシーラカンスのように生きた化石でいて欲しくないんです。先輩には恋をして欲しいんです。でもそのためには男性と知り合わなきゃデートも出来ないし恋も出来ないじゃないですか。でも大学にいるのは学生か教授。随分年下か随分と年上。そんな環境じゃあ恋人なんて出来ませんからね」

桜子は、時々つくしにデートして下さいと言って男性を紹介してくる。
それは、つくしが学問一筋でデートをすることがないからだが、紹介される男性は何故かナルシスト気味な男性が多く自分をどうだとアピールするが、頻繁に髪の毛に触れていた男性も自分に自信がある男性だった。

そして、大学という狭い社会でよく言われるのは象牙の塔だ。
現実を踏まえることなく、研究室に閉じこもってひたすら自分の興味があることに没頭する。
そんな環境が世間を知らない。了見が狭い人間を生み出してしまうと言われているが、確かに学内で結婚している教授の相手は、研究室の教え子だったり、同じ研究仲間だったりするが、それは自分のやりたいことを良く分かってくれる人間にパート―ナーとして傍にいてもらうことが居心地がいいからだが、つくしはそんな風には思ってはいなかった。
もしどうしても結婚しなければいけないと言うなら、もっと広い世界にいる人と一緒にいたいと思うはずだ。
それに自分が別世界にいるとは思ってない。むしろ現実と対峙して生きていると思っていた。

「先輩は素敵です。頭はいいし、30過ぎても可愛らしい人です。たとえそんな保守的な恰好をしていてもね」

桜子は明かりを落としたバーの中を見回したが、それは黒いパンツスーツに真っ黒な髪の女に言った誉め言葉だ。
バーには数名のカップルがいて、女性の方はカラフルで露出が多い服を着ている者もいた。
そして桜子も秘書という仕事柄、比較的地味な装いではあるが、明るい色の服装を好んでいて、ズボンを履くことは滅多にない。だが反対につくしはスカートを履くことは殆どなく、履いたとしてもロングスカート以外履いたことがなかった。

「先輩。今はひとりでもいいと思っていても、将来年を取ればひとりでいることが寂しいと感じる時が来るかもしれません。勿論、それからパートナーを探してもいいと思います。でも家族が欲しい。子供が欲しい。赤ちゃんを産みたいと思ったら早い方がいいですよね?サメは交尾して受精をして子供を産むのが当たり前ですが、そうではない事例もあります。それは先輩もご存知ですよね?アメリカでは水族館で長い間飼われていたメスのサメがオスと交尾しなくても子供を産んだ例もあります。でも人間はそうはいきませんから」

いわゆる処女懐胎。
交尾しなくても子供を産むことを単偽生殖と言い、動物や植物の世界では別に珍しいことではない。だが人間にそれはない。だから将来子孫を残そうと思うなら男性との行為が不可欠になる。

「でも大丈夫ですよ。先輩は頭でっかちじゃありません。いつか先輩の良さを分かってくれる人が現れますから。それに私は先輩の人生を確認する義務がありますから」

桜子はそれ以上何も言わず手にしていたグラスの中身を飲み干した。









アルコールが今日一日過敏だった神経を鈍らせてくれた。
深夜マンションに戻ると、一日の疲れを取るため早く眠りたかった。
だから服を脱ぎ、シャワーを浴びるとベッドに横になった。
だが眠ろうとしたが何故か目が冴えた。

そしてその時、桜子に言われたことが思い出された。
それは中華の出前を頼んだとき、追加注文で掛けた2度目の電話がどこかへ繋がり、間違い電話をかけたことを知ったが、その番号に再び掛けないように削除をしろと言われたこと。
そうだ。思い立ったが吉日ではないが、今やらなければ忘れてしまうはずだ。
だからベッドから起き上がり、携帯電話を手にするとベッドの端に腰を降ろしたが画面は午前1時を示していた。
なんとか操作をしようとしたが、やはりマニュアルを見なければ不安だとマニュアルを手にベッドに戻り目的のページを開いた。
そしてぎこちなくだが発信履歴を呼び出し、あの日の午後9時前に掛けた番号を削除することにしたが、画面に現れたのは、『電話をかける』の文字だけだった。

「ええっと__削除するってどうやったらいいのよ?」

つくしは『電話をかける』以外の場所に触れたつもりだった。
だが一瞬にして画面は変わり、削除するどころかスマホは勝手に電話を掛け始めた。

「やだ、ちょっと待って!なんで電話を掛けるのよ…..やだもう!」

すぐに切ろうと思った。だがアタフタではないがスマホは慌てたつくしの手から滑り落ち床に落ちた。幸いにもカーペットの上であり、画面を上にした状態で破損はなさそうだった。
だが、スマホを取り上げたとき、掛けるつもりがなかった番号の相手が出たのが分かった。
いや。出たといいうより単に通話状態になったと言った方が正しいはずだ。
そして無音の状態がその場に流れた。
だがつくしはここでハッとした。
つい先日失礼にも中華料理の注文を一方的に喋ったことを謝らなければならないと思いスマホを耳に押し当てた。

「あのぉ…..もしもし?」

だが機械の向こうから返事は聞えず、やはり無音状態で時間が流れていた。

「あの、すみません。先日中華料理を注文した者なんですが…..」

と、つくしは、そこまで言って深い深呼吸をして言葉を継ごうとした。
すると少しして、『.....誰だって?』と声が聞こえた。





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2018
10.25

理想の恋の見つけ方 8

「えっ!牧野先輩。道明寺副社長にサメ並の脳だって言ったんですか?!でもどうして道明寺副社長が先輩の面接に?だってそれ自体が凄いことですよ?でもそれって先輩の書かれた論文を読んで下さったってことですよね?それで副社長が深海ザメに興味を持たれたってことですよね?だからわざわざ時間を割いて面接にいらっしゃったってことでしょ?あの道明寺副社長が…..。ハァ~信じられない。本当に夢みたいなことですよ。それなのに私は先輩の言動が信じられません。先輩は言っていい事と悪い事はよく分かっているはずなのに、どうして道明寺副社長の脳がサメ並だなんてことを言ったんですか?もし道明寺副社長がその意味を知らなかったら誤魔化せたかもしれませんが、知ってたってことは誤魔化しようがないですからね。本当に最悪ですよ、最悪!もうなんてことをしてくれたんですか!」

つくしの所属する副島研究室の副島教授秘書でありつくしの高校の後輩の桜子は、研究室に戻って来たつくしに何があったのか訊くとガミガミと怒った。

「だ、だって仕方がないじゃない。エレベーターの故障で閉じ込められてたって言ってもなかなか信じてもらえなくて、おまけに人のことを上から目線で見下ろすように話すんだもの。そりゃあ相手は見上げるほど背が高いから上から見下ろされるのは仕方がないけど、話し方が偉そうなんだもの」

道明寺財団の理事に名を連ねている道明寺司は背が高く髪の毛が特徴的だった。
そんな男に鋭い視線で上から見下ろされ、嘘つき呼ばわりされ、まるで遅刻常習犯のように言われたことにカチンと来たが、それでもなんとか気持ちを抑えようとしていた。だが思わず口をついて出た言葉は脳がサメ並という言葉だった。
それは折しも面接に臨む前の日に桜子と道明寺司について話しをしたとき、あの男は経済界のサメだと言われ、凶暴性ではなく脳の大きさの方を思い浮べてしまったことが原因だ。

「あのね牧野先輩。いえ牧野准教授。道明寺副社長は偉そうなんじゃなくて、本当に偉い人なんです。あの会社の中で社長に次いで2番目に偉い人で社長の息子で次期社長になる人なんです。だから偉くて当然の人です。たとえ上から見下ろされようと、下から見上げられようと、ああいった人に対しては平身低頭でいるべきなんです。それが日本の会社組織に属する人間の当たり前なんです。そりゃあ先輩は他の教授に比べれば社会的常識はあると思いますよ。それでもこんな風になるんですから私が一緒について行けば良かったんですよね。何しろ携帯電話を忘れて行くから財団からまだ来てないと電話があっても連絡の取り様がないし、エレベーターの中に閉じ込められていたとしても財団に連絡する事も出来ませんし、これじゃあ副島教授と同じじゃないですか。いいえ。副島教授は暴言を吐きませんからまだマシです」

桜子はテーブルを挟み座っているつくしにコーヒーを出したが、その横に一緒に差し出されたのは、つくしがつい最近買い替えたばかりのスマホで、着信があったことを知らせる青色の点滅を繰り返しているが、その点滅は財団から牧野准教授がお見えになられませんと連絡を受けた桜子がつくしの携帯に電話をしたことを意味していた。

「ごめん。思わず言っちゃったのよ。ああ…本当にもう最悪よね?」

「本当に最悪です。これで道明寺財団からの研究助成金は露と消えましたね。もう少しで手が届きそうなところまで来ていたのに、それが先輩の不用意な発言で消えるなんて最悪どころか悪夢ですね、悪夢。よりにもよって経済界のサメにあなたバカですかって言ったんですから。でもどうして道明寺副社長だって気付かったんですか?先輩知ってるんですよね?道明寺副社長の顔」

「もちろん知ってるわよ。でも新聞やテレビで見るのと本物は違うのよ」

本物は違う。いくら新聞やテレビで見たことがあっても、それは動かない記事の写真であり、動いていたとしてもテレビのニュース映像で映る一瞬の姿だったりする訳で、初対面で名前も名乗らなければ分からなかったとしても仕方がないはずだ。
それによく言うではないか。隣に芸能人が立っていても全く気付かなかったということも。
だがよく見れば大学教授や財団職員とは違い成功者の装いだったはずだ。
纏う空気が違ったはずだ。だが約束の時間に遅れ、そのことを非難されて焦っていたつくしには、そんなことを気に止める精神的な余裕も時間もなかった。
そして脳がサメ並と言ったとき、表情に微かな変化があったが、目が細められ冷やかな視線と共に自分の脳がサメ並なら道明寺はとっくに潰れていると言われ、その時はじめて彼が道明寺司だと気付いた。

「あー。それにしても最悪です。最悪。本当に最悪です」

「桜子。そんなに最悪最悪言わないでよ。私だってまさかあんなことを言うとは自分でも思いもしなかったんだから」

「何言ってんですか!お金がないから買えないって言ってた新しい調査機器。助成金が出たら買いたいって言ってたのは誰ですか?それに研究に参加している学生のウエットスーツも新調出来るって喜んでましたよね?」

そうだった。
そんなことを桜子と話したが、それも今となっては捕らぬ狸の皮算用だったかもしれない。

「それで?」

「そ、それでって?」

「だからこれからどうなるんですか?道明寺副社長を侮辱したせいで道明寺財団の面接は本当に受けられなくなったんですか?先輩はその権利を放棄したんですか?」

「………」

「先輩!牧野准教授!黙ってないで言って下さい。道明寺副社長をバカだって侮辱しておいて帰りに受付に行ったんですよね?まさか_」

あの会話のあと、会議室を後にした道明寺司を追いかけ食い下がったことは言わなかった。
そしてそこで起きたこと、道明寺司にキスされそうになったことは勿論言わなかった。
そしてこの男はいったい何をしたいのかと思ったとき低い笑い声が聞え、からかわれたのだと分かった。
そしてその後つくしは自分がどうなるのかを訊くために覚悟を決め受付に行った。

「行ったわよ。たとえどんな状況だったとしても寄らない訳にはいかないでしょ?それに放棄出来る訳ないじゃない。だから恐る恐る行った受付で次の面接の日をいつにするかはまた追って連絡しますって言われてホッとしたわよ」

「本当ですか!ああよかった。先輩の話しを訊き始めた時点で、もうてっきりこの件は駄目になったと思ったんですがまだ望みはあるってことですね?ああ、よかった。本当に良かった。道明寺副社長は厳しい言葉を言われたようですけど、そこはやはり大人ですね。先輩の暴言もグッとお腹の中に収めてくれたってことですね?」

「多分ね……」

「なんですか。そのため息付きの多分って。道明寺副社長への暴言以外にも他にも何かあったんですか?」

「え?べ、別に何でもないわよ。と、とにかく面接の件はまた後日連絡をしますって言われたから連絡を待つわ」

「そうですね。今のこの状況はかろうじて首の皮一枚が繋がっている感じがしますけど、とにかく連絡待ちなんですね?それでその連絡はどこにあるんですか?ここですか?研究室ですか?」

「うんうん。私の携帯に連絡が入ることになってるの。だからこの電話は無くしたり、どこかに置き忘れることは絶対に出来ないわ」

つくしはそう言って、コーヒーの横に置かれていた電話をこんな所に置いていて、コーヒーが零れたら大変だと手に取った。

「そうですか….。私としては先輩がそうやって大事そうに電話を持っているよりも研究室に連絡をいただける方が余程安心感があります。何しろ先輩のその電話。最新型スマホ。ガラケーからいきなりそれですからまだ使い方がよく分かっていませんよね?電話に出るのも遅いですし、掛ける時も迷ってますよね?それに私思ったんですけど、先輩この前出前で中華頼んだけど届かなかったって言ってましたよね?あれもしかしたら番号間違えたんじゃないですか?リダイヤルで掛けなかったでしょ?リダイヤル機能分かります?」

桜子はつくしの沈黙に諦めの口調で言葉を継いだ。

「やっぱりね。そうだと思ってました。まだ慣れてないのは十分承知してます。先輩は中華料理屋に掛けたつもりだったんでしょうけど、どこか別の所へ電話をしたんですよ。だから料理が届かなかったんですよ。あの時電話は繋がったけど相手の人は何も言わなかったんですよね?多分びっくりしたと思いますけど、それ以上に先輩が慌てて喋ったから口を挟む間も無かったんでしょうね。いいですか先輩。早くその携帯電話に慣れて下さい。それからその間違えた番号。どこに繋がったか知りませんけど今後間違えて掛けないためにも消去して下さいね。今の世の中知らない番号に出ることもですけど、掛けた相手が誰だか分からないのも危険ですから」





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2018
10.24

理想の恋の見つけ方 7

厳しい表情に片眉が癖のある髪の生え際まで吊り上がれば怒っているということは一目瞭然で、つくしの頭の中では自分の発言にパニックが広がったが、道明寺司の背中に扉が閉まるのを見ると彼の後を追って廊下へ出た。だがほんの数秒扉を開けるのが遅れただけのはずだが、男はすでにかなり離れた場所にいた。

「待って下さい。あの、道明寺さん、道明寺副社長!」

つくしは言いながら走って後を追いかけたが、人の話に耳を貸さない男はまるでつくしの言葉が聞えないように足を止めることはなかった。

「お願いです。待って下さい!」

そう言ってやっと追いついたのはエレベーターの前。
だがそれはつくしが乗って来たエレベーターとはまた別のエレベーターの前だった。

「道明寺副社長…あの、先程の言葉はどういう意味でしょうか。面接を放棄って私はそんなつもりはありません。せっかく掴んだチャンスなんです。だから今日だって早くからこのビルの中にいました。それに遅れるつもりもありませんでした。いえ、その事はもう分かっていただいたんでした。それから先程の私の発言ですが、気分を害されるようなことを言ってしまったことはお詫びします」

つくしは懸命に話しかけたが、相手は扉の方を向いたままで彼女を見ようとはしなかった。

「あの道明寺副社長….」

「お前は普段から他人が気分を害するようなことを平気で言う人間か?」

つくしの方を向いた男は冷やかに言った。

「え?」

「違うか?もしそうなら感情を抑えることを学んだ方がいいんじゃねぇのか?教育機関に身を置く人間が感情的にものを言うのはどうかと思うが?それとも闘争心剥き出しでかかって来るサメを研究している人間は、相手を見れば食われる前に攻撃することを良しとしてるってことか?」

急に砕けた口調で喋り始めた男は、つくしに向かって一歩踏み出した。

「あの、おっしゃってる意味が分からないんですけど….」

「それともアレか?俺のことをバカだが感だけは鋭いサメだとでも思ったか?」

「あの….」

つくしが思わず後ずさりしたのは、男が動きを止めなかったからだ。
そしてふたりの間の距離が縮まっているのは彼女が後ずさりした分、相手が近づいて来るからだが、気付けば壁を背に立っていた。そしてその時男が動きを止めた。少なくともつくしはそう思った。だがそれは一瞬のことで、壁を背にしたつくしの顔の横に大きな手が突かれるとその手を見た。そして男が口を開くと視線を男に向けたが、すぐ目の前に顔があってつくしは息を飲んだ。そして飲んだまま息をすることが出来なかった。いや。出来ないのではない。男の顔が近すぎて息をすることを忘れていた。そしてその近さは体熱が伝わって来るほどの近さだ。

「サメは第六感を持っているそうだが、それが奴らを海の支配者でいることを助けている。だがビジネスの世界は感だけじゃ生き残ることは出来ない。まさにサメのような凶暴さも必要だ。だからサメと例えられるのは悪くはない。だが脳みそがサメ並だと言われるのは、心外だな。牧野先生」

つくしは男が話している間身体が固まったようにじっとして男の視線を受け止めることしか出来なかった。だがまさか男がサメに第六感があると言われていることを知っていることが意外だった。

それは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感に続く第六感という意味だが、サメには電気刺激、磁気を感知する能力がある。
生物は生きている間は身体から微弱な電気を発しているが、サメはこの電気を感知し砂の中に隠れている生物や光りの届かない深海にいる生物を捕食している。
それにしても道明寺司がそんなことを知っていたとすれば凄いことだが、もし知ったのがつくしの論文に目を通してくれたからだとすれば、まだ望みはあるはずだ。

そして目の前で酷薄な唇が動く様子を見ていたが、片方の口角が上がったのは錯覚だったかもしれないがそう見えた。
だが次の瞬間、男の口元には笑みが浮かんだ。だがその笑みはバカにしたような笑みだ。

「口は災いの元と言うが、どうやら牧野先生は男に対して対等だという気持ちが大きいようだが違うか?ま、俺は気が強い女は嫌いじゃない。自分の意見が言える女は悪くない。だがひと前で他人をバカにするような言葉は慎んだ方がいい」

つくしは、そんなことはない。
他人をバカにするようなことを普段から言っていると思われることは、それこそ心外だった。
だから何か言おうと口を開いたが、すぐには言葉が出ず開いたことをすぐに後悔した。
そして口を閉じたが、たった今目の前で吐き出された息を呑み込んでしまったが、それがとても親密な間柄に感じられ心臓が奔走し目の前の男を意識せずにはいられなかった。

道明寺司を意識している。
いや意識どころではない。
この状況で意識するなと言う方が無理だ。
そして世間では洗練されていると言われる男に対し感じているのは、傲慢という思い。
だが洗練と傲慢という言葉は一緒にあってもおかしくないと言われているが、目の前の男はまさにそれを具現化していた。
何しろ道明寺財閥の後継者は優秀で外見が同年齢の男性たちと比べても秀でていることを認めない訳にはいかなかった。
そしてこの男の洗練さレベルについて言うなら、仮にだが缶ビールを飲まなければならなくなった場合でも缶から直接は飲まずグラスに注いでからでないと飲まないと言うはずだ。

「どうかしたか?何か言いたいことがあれば言えばいい。何しろ牧野先生の考え方の根底にあるのは、思ったことは隠すことなく正直に言うことがモットーだ」

厭味ったらしいその言い方に痛いところを突かれたと思った。
確かにもっと若い頃、思ったことがそのまま口から出る事が癖だった。
だが今はもう30代も半ば。10代ではない。それに諸々の問題を抱える大人の女はたとえ目の前に___ダメだ。思考が停止するではないがこの近さで物事を考えることは難しかった。
それに財団の助成金を受けることが出来るかどうかという時に、道明寺司と言い争うことは避けたかった。
普段ならこんなことはないのだが、つい感情的になった自分が悪かったのだ。
それにしても道明寺司のこの傲慢さは頭にくる。それでもつくしは大人としての態度を優先して何も言わなかった。

「どうした?牧野先生は言葉が出ないか?出ないなら出るようにしてやろうか?」

「え?」

思考を巡らせていたつくしは、男の言葉が一瞬理解出来なかった。
だが理解する間もなく男の唇が近づいてくるのが分かった。
そしてキスされると思った瞬間目を閉じていた。
だが男の唇はつくしの唇に重なることはなく、ただ静かな息遣いだけがそこにあった。
それが男のものなのか。それともつくしのものなのか。つくしはそっと目を開けじっと自分を見つめる男と目を合わせた。
だが微かな音が聞こえると男は離れ、つくしに背を向けると降りて来たエレベーターに乗り込んだ。
そしてこちらを振り向いた男は呆然としているつくしに言った。

「受付に行け」

その短い言葉の後、エレベーターの扉は閉まったが、何故かその場には低い笑い声が残されたような気がしていた。





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2018
10.22

理想の恋の見つけ方 6

「お、遅れて申し訳ございません。ま、牧野です….牧野つくしです」

会議室を出ようとした司の前に飛び込んで来たのは、肩口で切り揃えられた黒髪に、黒々とした大きな瞳の黒いパンツスーツを着た小柄な女。
パッと見でそのスーツがどこにでもある吊るしであることは勿論だが、化粧も薄く唇の色も抑えられていて形容するならどこにでもいる平凡な容姿を持つ女。
そして司はその女と向かい合っていて、女の言葉は彼に向かって言われていた。

「エレベーターが35階で止ってしまって、救出されるまでに時間が掛かかり遅れてしまいました。本当にお待たせして大変申し訳ございませんでした」

司の前で頭を下げる女は肩で息をしながら言葉を継いだが、その言葉は本当なのか。
司は他人の言葉を簡単には信用しない。特に女の言葉はそうだ。
何しろ今まで何人もの女が彼の容姿や財産を目当てに近づいて来た。だから今彼の前にいて頭を下げた女の言っている言葉が真実かどうかを見極める必要がある。そんな思いから司は訊いた。

「あなたは今エレベーターが35階で止り、救出されるまでその中に閉じ込められていたといった趣旨の話をされた。そのことについてお伺いしたいことがあります。あなたは何時にエレベーターに乗ったんですか?余裕を持ってこちらに来るつもりは無かったということでしょうか?」

「え?」

と言って頭を上げたつくしは目の前にいる男性をまじまじと見つめた。
とりあえず遅れたことを謝らなければと扉を開けたすぐそこにいた男性に頭を下げたが、どこかで見たことがあるような気がしたが、分からなかった。だから思い出そうとしたが、見上げるほど背の高い男性の髪の毛は癖があるのか特徴的な髪型をしていた。鋭い眼光におもしろくなさそうにきゅっと結ばれた口許と、意志の強そうな顎のライン。
そして先ほどの口調とその態度は明らかに怒っているといった雰囲気があった。

「あなたとの約束の時間は2時だ。それなら少なくともその5分前には着いて受付けを済ませるべきだ。だからあなたは何時にエレベーターに乗ったんですか?もしかすると本当はあなたがこのビルに着いた時間はすでに2時を過ぎていて、たまたまエレベーターが故障したことをいいことにその遅れを誤魔化そうとしているのではないですか?それにいくらエレベーターが故障したとしても携帯電話は使えるはずだ。だから財団に電話すべきではないですか?現にうちの職員は時間になってもあなたが現れないことで、あなたの大学に連絡をした。そしてあなたは大学を出たと言われたところまでは確認が取れた。だが今あなたはこうして遅刻をしてここにいる。それも何の連絡を入れることもなくだ。これは社会人としてルール違反だと思いませんか?いや。社会人以前の問題だ。それに時間を守れない人間に助成金を出すことは金をドブに捨てるような気がする」

つくしはいきなり捲し立てられ、責めるように言われ困惑したが、こういった時こそ礼儀正しい言葉で返すことが重要だと思った。
そして携帯電話と言われ、その電話を大学に忘れて来たことに気付いたのは、彼女の自身財団に電話をしようと思って鞄に手を入れた時だった。
だから連絡をすることが出来なかった。それなら緊急連絡用マイクの向こう側にいる人に40階の財団に連絡をして欲しい。14時の約束の牧野つくしがエレベーターに閉じ込められていて遅れるということを伝えて欲しいと言った。だがどうやら伝わっていなかったということになるが、目の前の男性はつくしの言葉を簡単には信じるつもりがないように思えたが、それでも伝えなければ時間にルーズな女といった印象を与えてしまうことは確実だった。だからつくしはエレベーターの中での自分が取った行動を話はじめた。

「はい。もちろんこちらにお電話しようと思いました。ですが携帯電話を大学に忘れて来たことに気付いたんです。ですからご連絡することが出来ませんでした。
それから保守の方にこちらに向かっている牧野つくしがエレベーターの中に閉じ込められているということを伝えて欲しいとお願いしました。ですが、どうやら伝わっていなかったようです。それに私は遅刻などしておりません。実際エレベーターに乗ったのは….えっと、正確な時間は覚えていませんが、とにかく1時45分頃には35階にいました。いえ。35階でエレベーターに閉じ込められていたんです。防犯カメラがありますよね?それを見ていただければお分かりいただけると思います」

司は防犯カメラと言われ、確かにそうだと思ったが、そのことよりも何故か女の態度に気持ちが向いていた。真正面から司の顔を見つめ、しっかりと目を合わせ顎に力を入れ堂々と自分の意見を言う女は今までいなかった。そしてその黒い大きな瞳の奥には何かが燃え上がった様子が見て取れた。それが苛立ちなのか。それとも怒りなのか。
どちらにしても司が目の前に立つ女に感じたのは、どこか生意気な女ということだ。
だが同時に面白いと思った。なかなか手ごたえのある会話と物怖じしないその態度は聡明さから来るものであり、学者先生の世間を知らないことから来る態度ではないと見た。
そしてそんな女は理不尽な言いがかりをつけられたとばかり、時間に遅れたのはこのビルのエレベーターのせいだと言っていた。
だが確かに女の言う通り本当にエレベーターに閉じ込められていたとすれば、遅刻は女のせいではない。そしてそれをあからさまに強く言わないのは研究助成金を勝ち取るため、直接的な怒りを周りの誰かにぶつけることを抑えているということになる。
だが、こうしている間に財団の人間が本当に女がエレベーターの中に閉じ込められていたかを調べているはずだ。

司は腕時計に目を落とした。
時刻は2時半。そして司は背後に気配を感じ、そこに立つ男から紙を渡されそれを見ると片眉を上げた。

「牧野さん」

「は、はい」

「私とあなたがこうして話し始めて10分以上経過した。確かあなたの持ち時間は1時間。つまりあなたに与えられた時間は3時までのはずだ。その時間が半分過ぎだ。その時間で満足な面接が出来るとは思えない。今日は無かったことにしてもらいたい。つまりあなたは約束の時間に遅れたことで今回自分に与えられたチャンスを逃したということになる。非常に残念だが仕方がない。帰っていただいて結構です。それから財団から今後についての説明がありますから帰りに受付に寄って下さい」

司はそう言って目の前の扉に手を掛けた。

「ち、ちょっと待って下さい!ですから私は2時前にはエレベーターの中にいたんです。厳密に言えば1時55分にはエレベーターの中にいたんです。その時間は確実に言えます。そのとき時計を見たので確かなんです。だから遅れたのはこのビルのエレベーターのせいです。そのせいで遅れたからってチャンスを逃したって…そんなのおかしいじゃないですか!それにちゃんと調べて下さい。私はエレベーターの中に閉じ込められていたんです!」

男性はつくしの言葉に振り向いてこちらを見た。
そして目が合った。

「なによ….人の話をろくに訊こうとしないなんて!あなたサメ並の脳しかないんじゃない?」

その時、部屋の中で空気が大きく動いたのが感じられた。
それは会議室にいる選考委員が息を飲んだことによる動き。
サメ並の脳と言えばバカのたとえだと知っている人間の動揺だ。

つくしはそれまで非の打ちどころのない態度を取っていたつもりだった。
研究室の将来がかかっているとも言える財団からの助成金を受けるためには、完璧なまでの愛想よさを貫くつもりでいた。それなのに、エレベーターが動かなかったことでやりきれない思いに襲われていた。
そして扉の向こう側へ出て行こうとしている男につい言っていて、しまったと思った時には遅かった。
だが言われた相手がその意味を知らないのではないかと思ったが、表情が微かに変わったことからして、どうやらサメの脳のことを知らない訳ではないようだ。
つまりつくしは見上げるほど背の高い癖のある髪を持つ男性に対し暴言とも言える言葉を吐いてしまった。だが相手が誰なのか分からなかったが、どう考えても選考委員には見えなかった。それなら財団の運営に関わる人間ということになるが、もしそうなら大変なことをしてしまったはずだ。

「あの…..」

「そうですか。牧野准教授から見れば私の脳はサメ並ですか。それならそんな男と面接をするのは嫌でしょう。バカな男とは話す価値がないとお思いでしょうから。
それから帰りに受付に寄って下さいと言ったのは、あなたが確かにエレベーターに閉じ込められていたということが証明されたからです。あなたは時間通りこの場所を訪れようとしていた。ですから先程の言葉は日を改めて別の日を決めるという意味で申し上げましたが、どうやらあなたはそれを放棄されるようだ。それから申し上げておきますが私がサメ並の脳なら道明寺はとっくに潰れているはずだ」





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2018
10.21

キンモクセイの誘惑

毎年この季節になると香るのはキンモクセイ。
それは秋の訪れを感じさせる甘い香りで、庭の一角に植えられているその木は可憐な橙色の小さな花を枝に密生させていて、秋の日差しを浴び名前の通り金色に輝いて見えたが、開花時期が1週間足らずのその木の下には既に散った花弁があった。

「お義母様。ご無理はなさらないで下さいね」

「あら、大丈夫よ。わたくしはただ身体の中に出来た悪いものを取っただけですもの。無理などしてないわ」

「でも司が心配します。それに私も心配です」

「本当に大丈夫よ。もうこの年ですもの。孫たちと走り回ることはしないわ。それにひとりで大丈夫よ」

「でも私も一緒に」

「いえ。あなたはいいわ。ひとりで出てみたいのよ。それにわたくしの足腰はまだ弱ってないわ。それに今はわたくしのことよりも自分の身体のことを心配なさい」

付き添うと言った息子の嫁のつくしに大丈夫だからと言って楓はテラスから庭に出た。
そして庭を横切り5メートルほどの高さの木の下に立った。
キンモクセイの甘い匂いは数メートル離れていても秋の澄んだ空気に乗って香るが、夜は近くにいなくてもその存在を知らしめるように更に強く香る。
そして楓の目の前にある濃い緑の葉のキンモクセイは毎年必ず小さな橙色の花を付けるが、その木は楓と彼女の夫である道明寺祐(たすく)の結婚を記念して植えられた木。だが夫は既に亡くなりもう随分と時が流れた。
そして楓は1ヶ月の病院生活から自宅に戻ったところだったが、それは65歳の誕生日を数日後に控えた日だった。

「あなた。今年もキンモクセイが可愛い花を沢山付けたわ。まるでわたしくしの退院を祝ってくれているようにね。それからね、もうひとつお祝い事があるの。孫が産まれるのよ。司とつくしさんの間に4人目の子供が生まれるの」

楓の夫は息子が大学を卒業した年に亡くなったが、それから4年後、息子の司は結婚した。相手は高校時代の恋人。だが楓は初めて会った時いい印象を持たなかった。
家柄が違う。お金がないといったことを前面に別れることを強要した。

当然だが息子は反発した。だが初めは反発しながらも、二人の関係を認めてもらうための努力を始めた。
自分で決めたことだといって渡米し、彼女と結婚するため自分に課せられた使命を果たすとばかり自ら学ぶことを選んだ。

そんな我が子は楓の期待を裏切ることはなかった。
そしてつくしは、道明寺の家に見合う人間になると言って楓の言葉を真摯に受け止め学んだ。今では立派な道明寺社長夫人、そして3人の子供の親として、次に生まれて来る子供の母親としてどっしりとこの邸に根を下ろしていた。つまり今では子ライオンを守る立派な母親ライオンとして道明寺の未来を見つめていた。

結婚前の司に、「つくしさんのどこが好きなの?」と訊いたことがあった。
すると返された言葉は、「おっちょこちょいなところもあるが、思いやりと優しさは人一倍ある。たとえどんな状況に陥っても前を向いて歩く力を持つ。そんなところか?」だった。

どんな状況に陥っても前向いて歩く力を持つ。
その言葉に楓はつくしが自分と似たところがある女だと思った。
それは、司との交際を反対された時、何をされても、何があっても負けないといった強い瞳の輝きを見た時だった。この少女は強い意思を持つ子であり、負けず嫌いな子だと思った。
だがその負けず嫌いとは、他人に対しではなく自分の内面に対してのことであり、頭の回転が鋭い子だと感じた。そしてどこか自分に似たところがあると思った。

楓はビジネスの世界に生きてきた。
仕事以外では付き合いたくない人間だと言われていた。
だから合理的な考え方しか出来なくなっていた。だが孫が生まれるたび、その考え方が変わったと言われるようになった。

「男性のことを好々爺と呼ぶなら、楓さんは好々婆かな。今ではすっかりいいお祖母ちゃんだ」

夫が生きていれば、そう言ったかもしれないと思った。

「あなたにいいお祖母ちゃんと言われる年になったけど、あなたが生きていたらあなたはどんなお祖父さんになったのかしらね?」

そう言った楓はキンモクセイの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。












楓は退院した翌日から庭を歩くことを日課に決めた。
それは医者から適度な運動なら問題ないと言われたからだ。
だがさすがに1ヶ月も病院のベッドに横になっていた身体は、そう簡単には元のようにならなかった。だがそれでも人の手を煩わせることはしたくなかった。

「お義母様。あまり無理はなさらないで下さいね」

「つくしさん。無理などしていないわ。ただ、ここに来てキンモクセイを見上げていると昔を思い出すの」

楓はつくしに言った。
この木が夫であり司の父親が自分達の結婚を記念して植えた木であることを。
すでに成木だったその木はその年の秋には花を咲かせた。
そしてあれからもう随分と時が流れたが、ベテラン庭師によって手入れが行き届いている庭にあるキンモクセイは、枯れることはなく大きく育ち秋になれば可憐な小さな橙色の花を付けることを。そして、そのことをつくしに話した翌日には、そこにベンチが置かれていた。
それはつくしの話を訊いた息子が手配したもので、楓とつくしはそこに腰を降ろしていた。

「私にとってお義母のイメージは薔薇でしたが、お義父様にとってはキンモクセイだったのでしょうか?」

亡くなる前に何度か会ったことのある夫の父親は背が高く、整った面立ちも似ていて、息子が年を取ればこうなるであろうという未来の姿がそこにあった。

「そうね。わたくしは薔薇を育てるのも愛でるのも好きよ。香りも好き。でもあの人にとってのわたくしのイメージはキンモクセイだったの。だから主人から初めて貰った香水はキンモクセイの香りがしたわ。それは特別に作らせた香水で世界にひとつしかないオリジナルよ。東洋的な香りがする香水で、世界を相手にするならオリエンタルを感じさせる方があなたらしいと言ってね」

世界を相手にする。
その言葉にまだ若かった楓は具体的に何を相手にするのか実感が湧かなかった。
道明寺財閥の当主と結婚した彼女に求められるのは、海外から訪れる賓客をもてなすことくらいしか思いつかなかった。

「主人はとてもロマンティックな人だったわ。自分でイメージした香水を作らせて妻に贈る。今ならそれも当然の事のようにあるかもしれないけど、あの当時はそんなことをする男性はいなかったわ。でもそれが道明寺祐という男性。自分の妻に自分の好きな香りを纏って欲しい。そう思ったのね。ある意味でそれは独占欲の表れでしょうけど、司もそんな夫の性格を受け継いでいるからあの子もロマンティックなのよ。だってつくしさんにもあの子があなたをイメージして作らせた香水を贈ったほどですもの。足音が聞えなくても、姿が見えなくても香りだけでその人が分かる。それに香りは同じものをずっと使うことでその人になるわ。つまり香りはその人そのものでその人のサイン。だから司も若い頃からずっと変わらない同じ香りを付けているでしょ?それが自分自身である証拠なの。それに香りが無いと下着を身に着けてない。何か忘れものをしたように感じてしまうものよ」

楓は入院中の病室でも夫から贈られた香水の匂いを枕元に置いていた。
人の記憶は年と共に薄れていくが、ふとしたことで昔が甦るが楓にとってそれはキンモクセイの香りを嗅いだ時だ。だからここへ来て木を見上げていたが、それはここへ来れば夫を思い出し身近に感じるからだ。

「ねえ、つくしさん。司の父親は髪の毛が銀色に変わる前に亡くなったわ。でも司は夫の分も長生きするわ。だから心配しなくても、あなたがひとりになるのはずっと先の話よ」








今しか香ることのない匂いを嗅いだことが過去の想い出を蘇らせたのか。
その翌日ベンチに腰を降ろした楓はうつらうつらと夢を見た。
それは何故か夫の姿がキンモクセイの上にあり、その様子を見上げている自分の姿。
夫の髪の毛は銀色に変わり秋の陽光を浴び輝いていた。
それは楓の髪の毛の色と同じで共に年齢を重ねた姿だった。

「あなた。そんなところで何をしてらっしゃるの?」

「何をって。君を待ってたんじゃないか。もういいのか?大丈夫なのか?」

「ええ。もういいの。ここを切ったけど傷は大きくなくてね。お医者様がおっしゃるにはその傷跡もそのうち消えるって言われたわ」

楓はそう言ってお腹に手を置いた。

「そうか。それは良かった。ところで私は病院でもいつも君の傍にいたんだが、気付いていたかな?」

「ええ。もちろん。枕元に香水の瓶を持って行きましたもの。だからいつもあなたの気配を感じていましたわ」

そう答えたのは嘘ではなかった。
上等な特別室の中。そこにいたのは楓だけではなかった。そしているとすれば夫以外考えられなかった。

「そうか。君はあれからもずっと私が贈った香水を愛用してくれているから嬉しいよ」

夫の言うあれからとは、彼が亡くなってからもずっとという意味だ。

「だってこの香りはあたなたがプレゼントしてくれた香水ですもの。それにわたくしは一度これと決めたら簡単には変えない性格ですもの」

それは鉄の女と言われた楓の性格だ。
だがそれも年を取り丸くなったと言われていた。

「そうだったね。君は意思が固い人間だ。一度こうだと決めたらそれを通す。だからビジネスでも成功した。私が倒れた後も君はよく頑張った。本当にね」

夫が倒れた頃、会社は存亡の危機を迎えていた。
だがその危機を救ったのは、息子の嫁であるつくしだったと知った時は正直驚いた。

「あなた。わたくしはあなたが亡くなってから道明寺家に嫁いだ女としてこの家を守ったわ。それに会社もよ。おかげ様で今は司が跡を継いでくれたわ。あの司がよ?それにつくしさんと結婚して子供が3人いるの。今思えば、つくしさんと結婚してなかったらあの子はどうなっていたか。それからつくしさんのお腹には4番目の子供がいるわ。そんなわたくしは今では幸せなお祖母ちゃんだと自分でも思うわ。でもそれをあなたと一緒に感じたかったわ。あなたにも幸せなお祖父ちゃんを感じて欲しかった。一緒に孫のおもちゃを買いに行きたかったわ」

楓は木の上にいる夫に言った。
これは夢なのだから、何を言っても許されると思ったからだ。
それに夢だから言えることもあるはずだと更に言った。

「それなのにわたくしは一人でおもちゃを買っていた。確かにそれが不満だとは言わないわ。でも男の子のおもちゃに何を買えばいいのか分からないこともあったわ。本当に正直困ったわ。それに男の子はよく走るのよ。つくしさんに頼まれて預かったことがあったの。でも追いかけるのが大変だったのよ。司の時のわたくしはまだ若かったから追いかけることも出来た。でもお祖母ちゃんになれば走ることは出来ないわ」

すると木の上にいる夫はその言葉にククッと笑った。

「あなた。どうして笑うの?」

「だって君の言葉はだんだんと我儘をいう子供のようになってるから」

「我儘ですって?」

「ああ。そうだよ。まるでそれじゃあ子供の頃の司だ」

「失礼なことをおっしゃるのね。わたくしのどこが子供の頃の司なの?」

「いや。ごめん。本当なら私も君と一緒に孫たちを追いかけなければいけなかったんだ。いや。追いかけたかったよ。だが追いかけることは出来なかったね。本当に残念だよ」

「あなた….」

楓は夢の中で夫と話をしたのは初めてだった。
そして当然だが孫について話をしたのも初めてだった。
それに夢に出て来たのは過去に一度しかなかった。それは夫の納骨の日だった。
後のことを頼む、と言われたが、それから後に夫が夢に出て来たことはなかったからだ。

「私もそっちへ行っていいかな。君の傍に。そのベンチに一緒に座ろう」

そう言われた楓はベンチに腰を降ろした。すると夫は木の上から飛び降りると楓の隣に座った。それから二人でベンチからキンモクセイの木を眺めた。

「楓。お腹の傷だが本当は大きな傷だろ?まだ痛むはずだ。それなのに歩き回っても大丈夫なのか?」

実は夫の言った通りで楓の腹部には大きな傷があった。そしてベンチに座るとき、痛みを感じ一瞬だが顔を歪めた。

「大丈夫よ。それにじっとしているなんてわたくしには出来ないわ」

「そうか。だが無理はしないでくれ。ところで覚えているかな。結婚して間もない頃。私がキンモクセイの花をベッドにまき散らしたことを。身体の下に沢山の花弁を敷いて愛し合ったことを」

「ええ。覚えているわ。なんだかくすぐったい気持ちになったわ」

「そうだな。花はこんなに小さいんだ。身体のあちこちにくっついて大変なことになった。でも君はそのキンモクセイを見て笑った」

あれは結婚一年目の秋。
年の初めに結婚したふたりだったが、まだ子供が出来なかったことに悩んでいた妻を楽しませるため夫はシーツの上に橙色の花を撒いていた。

「それにしても、このキンモクセイも随分と長い間花を付けてきたが、今年はそろそろ終わりか?」

キンモクセイの花の命は約1週間だ。
夫の言葉に答えるように小さな花びらが二人の前に落ちた。
そして夫は楓の顔を見た。

「そうね。今年はもう終わりかもしれないわね。でもキンモクセイの寿命は100年あるとも言われるわ。また来年も花を咲かせてくれるはずだわ」

「そうだな。来年もここで君とふたりでこの花を見よう」

「ええ。あなた。またここに来てわたくしと一緒にこの花を見て下さいね」

















楓が邸に戻って来たのは、庭に散歩に出てから1時間経った後だった。

「お義母様…..」

なかなか戻ってこない楓を探しに出たつくしがベンチに腰を降ろした楓に後ろから声を掛けたとき、返事は無かった。慌てたつくしは直ぐに前に回り再び楓に声をかけた。
だが返事はなかった。それでも頬は紅を差したように赤らんでいて眠っているように思えた。

「おふくろは何か楽しい夢を見ながら逝ったはずだ」

司は落ち着いた声で答えた。
それは自分の母親の病状を知っている男の納得した声だった。
そして妻からあのキンモクセイが両親の思い出の木だと訊き、すぐにベンチを用意したが、そこで母親が息を引きとったことに見えない何かを感じていた。

「お義母様。まさかこんなに早く逝かれるなんて…..お医者様はあと半年は大丈夫だとおっしゃっていたのに」

道明寺楓はすい臓ガンだと言われ手術を受けた。だが転移が進んでいて身体の中にあるすべての腫瘍が取り除かれた訳ではなかった。そして医者からは余命半年だと言われていた。
だが司は医者の言葉を信じてはいなかった。それは手術が終わった時、彼だけに伝えられた言葉があったからだ。

『お母様の好きなことを好きなだけさせてあげて下さい』



「まさか。お義母様ご自分の病状のことご存知だったの?」

「どうだろうな。頭のいい人だから薄々気づいていたのかもしれねぇな。それに親父が迎えに来たような気がする」

「お義父様が?」

「ああ。なんとなくだがそんな気がする」

楓が最期に見た風景は花を散らそうとしているキンモクセイの姿。
その香りは母親がいつも纏っていた香りの中にあった。
人生の最期に花の散り際を選んだのは偶然だったのか。
そしてそこに現れたのは楓の夫であり司の父親。息子にはそう思えた。

あのベンチで交わされたはずの会話はどんな会話だったのか。
どちらにしても頬を微かに染めていたという母親の姿を息子である男は見ることは出来なかった。いや。息子である自分は見なかった方が良かったのかもしれない。

そして今、部屋の中で芳香を放っているのは、横たわる母親の枕元に飾られたキンモクセイの香り。
手折った枝はやがて枯れる。だが手折られた枝からは来年の春には新芽が出るはずだ。それは司の4番目の子供が誕生する頃。せめてその子の顔を見るまで生きていて欲しかった。
そして夫の誘いを断らなかった母親は、天国で息子には見せることがなかった恥じらいといったものを見せている。そんな気がしていた。





< 完 > *キンモクセイの誘惑*

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