やがてゴンドラは時計で言えば10時の高さになった。
つまりもうすぐ頂点に達する。そしてこの高さまでくれば、遠くではあったが目線の先に見えるのは道明寺本社ビル。
最上階の自分の部屋の辺りに明かりはないが、他の部屋には明かりが灯っているのが分かる。いつもはあちら側から見ているこの場所に自分がいて、向う側を眺めるのは不思議な気持ちがするが新鮮な思いもしていた。
そして晴れた夜空に月が見えた。十五夜を過ぎるとゆっくりと昇って来るようになる月は、丁度この時間には空に昇り、いびつな楕円の黄色は押し潰されそうな卵の黄身ようにも見えるが、その月がゴンドラの中を照らし始めた。
「なあ、つくし」
ふたりは少しの間黙って月を見ていたが、司が口を開いた。
「ん?なに?まだ他に何かあるの?」
「お前覚えてるか。オーロラを見に行ったことを」
オーロラが見たいと妻が言い出したのは、3人の子供たちが家を出てアメリカに滞在している頃だった。
夏は白夜になることから見ることが出来ないオーロラを見るためには、暗い夜が長く続く真冬にオーロラベルトと呼ばれる北緯65度から70度付近一帯へ行かなければならないが、カナダにするか、アラスカにするか。それとも北欧にするか考えた末、ニューヨークからの帰路に寄ることが出来る場所にしようということから、月の光が邪魔をしない新月の日にアラスカのフェアバンクスを訪れたことがあった。だがその日に確実に見ることが出来るとは限らないが、ふたりが訪れたその日は見ることが出来た。
「勿論覚えているわよ。天空に舞う光の舞いだもの。大きな光りのカーテンが色と輝きを変えながら動くんだもの。手を伸ばせばすぐそこにあって掴めそうなくらいだった。奇跡としか言いようがなかった。本当に凄かったわ」
夫婦ふたりでマイナス20度近くに下がった11月の深夜。
夜空を見上げ空いっぱいに広がる天空の神秘を眺めた。そしてそれは、まるでふたりの為に演じられた舞のように思えた。
「でも寒かったわよね。マイナス20度なんて初めて経験するじゃない?だから寒いって言うよりも痛いって言う方が正しいかもしれないわね。鼻で息をしたら奥がツーンと痛くなるし、睫毛が真っ白になったけど身体は超あったか下着を着てたから問題なかったけど、まさか睫毛が白くなるなんて信じられなかったわよね?でもあれほど寒いなら昔テレビで見たんだけど冷凍バナナで釘が打てるかと思って本当かって訊いてみたけど、それは無理だって言われて残念と思ったけど濡れタオルはカチカチになったわよね?」
あの時は泊ったホテルのルームサービスでバナナを頼むから食べるかと思ったが、それを手に持ち外へ出たから何をするかと思えば、案内役の人間にこれを凍らせたら釘を打てますかと訊いた時は笑った。そしてその時の案内役は、
「日本人の方はこんなに寒いと必ずといっていいほど同じことをしたがるんですよ。でもバナナで釘が打てるようにするには、マイナス260度ほどで窒素凍結でもしなければ無理ですよ。それから凍った薔薇がパリパリと音を立てて砕けるのも同じですからね」と言って笑われた。
「ああ。そんなことがあったな。結局バナナは部屋に戻って喰ったんだったな」
「そうよ。バナナは所詮バナナで金槌ではないって言われたわ。でもコマーシャルでは凍ったバナナで釘が打てたのよ?」
司はそれがどんなコマーシャルだったかは知らないが、妻が子供の頃見たというコマーシャルでは寒さで凍ったバナナで釘を打つことが出来たらしい。
「でも自然って本当に凄いわね。オーロラってこの世のものとは思えない景色だったわね」
司はバナナはさておき、その意見には素直に同意していた。
だがあの時真っ白な息を吐きながらふたりで見上げた空もだが、今こうして都会の真ん中にぽっかりと開いた漆黒の空間に仄かな光を帯びて浮かぶゴンドラから見上げる空も美しいと感じていた。そしてゴンドラが頂点に達すると視界には月しかなかった。
「でもアラスカで見たオーロラも良かったけど、北欧で空の上から見たオーロラも良かったわね」
妻が言う空の上から見たオーロラ。
アラスカで見たオーロラを忘れることが出来ず、今度はロンドンからの帰り少し遠回りをしてフィンランドの北極圏上空を通過しながら見た。
「そうだな。あの時のオーロラも素晴らしかった」
窓なら幾つもあるのに、ふたりが額を寄せ合いひとつの窓から見た光りのカーテンの輝きは神秘的で美しかった。そしてそこは機内であり寒さが感じられない場所だったが、アラスカで見た時と同じ切れる程の空気の冷たさを感じた。だがそれは決して嫌なものではなく、むしろ清々しい冷たさだった。
そしてオーロラを見たこともそうだが、子供たちがふたりの手を離れると色々な所へ行った。子供が親の手から離れた夫婦は皆そうしているものだと思った。だがそうではないといった話も訊いたが、ふたりは出来る限り一緒にいた。
「ねえ。私に話したいのは遼のことは別として本当はオーロラの話なんかじゃないんでしょ?観覧車に乗ったのは考え事があるからって言ったわよね?」
頂点を過ぎたゴンドラがゆっくりと下降し始めた時、妻が向かいの席から言った。
「ああ。遼のことはそうだが、オーロラは月が綺麗だったから思い出した。空が近かったから思い出した」
「じゃあそろそろ話してくれる?本当は何を考えているのか」

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つまりもうすぐ頂点に達する。そしてこの高さまでくれば、遠くではあったが目線の先に見えるのは道明寺本社ビル。
最上階の自分の部屋の辺りに明かりはないが、他の部屋には明かりが灯っているのが分かる。いつもはあちら側から見ているこの場所に自分がいて、向う側を眺めるのは不思議な気持ちがするが新鮮な思いもしていた。
そして晴れた夜空に月が見えた。十五夜を過ぎるとゆっくりと昇って来るようになる月は、丁度この時間には空に昇り、いびつな楕円の黄色は押し潰されそうな卵の黄身ようにも見えるが、その月がゴンドラの中を照らし始めた。
「なあ、つくし」
ふたりは少しの間黙って月を見ていたが、司が口を開いた。
「ん?なに?まだ他に何かあるの?」
「お前覚えてるか。オーロラを見に行ったことを」
オーロラが見たいと妻が言い出したのは、3人の子供たちが家を出てアメリカに滞在している頃だった。
夏は白夜になることから見ることが出来ないオーロラを見るためには、暗い夜が長く続く真冬にオーロラベルトと呼ばれる北緯65度から70度付近一帯へ行かなければならないが、カナダにするか、アラスカにするか。それとも北欧にするか考えた末、ニューヨークからの帰路に寄ることが出来る場所にしようということから、月の光が邪魔をしない新月の日にアラスカのフェアバンクスを訪れたことがあった。だがその日に確実に見ることが出来るとは限らないが、ふたりが訪れたその日は見ることが出来た。
「勿論覚えているわよ。天空に舞う光の舞いだもの。大きな光りのカーテンが色と輝きを変えながら動くんだもの。手を伸ばせばすぐそこにあって掴めそうなくらいだった。奇跡としか言いようがなかった。本当に凄かったわ」
夫婦ふたりでマイナス20度近くに下がった11月の深夜。
夜空を見上げ空いっぱいに広がる天空の神秘を眺めた。そしてそれは、まるでふたりの為に演じられた舞のように思えた。
「でも寒かったわよね。マイナス20度なんて初めて経験するじゃない?だから寒いって言うよりも痛いって言う方が正しいかもしれないわね。鼻で息をしたら奥がツーンと痛くなるし、睫毛が真っ白になったけど身体は超あったか下着を着てたから問題なかったけど、まさか睫毛が白くなるなんて信じられなかったわよね?でもあれほど寒いなら昔テレビで見たんだけど冷凍バナナで釘が打てるかと思って本当かって訊いてみたけど、それは無理だって言われて残念と思ったけど濡れタオルはカチカチになったわよね?」
あの時は泊ったホテルのルームサービスでバナナを頼むから食べるかと思ったが、それを手に持ち外へ出たから何をするかと思えば、案内役の人間にこれを凍らせたら釘を打てますかと訊いた時は笑った。そしてその時の案内役は、
「日本人の方はこんなに寒いと必ずといっていいほど同じことをしたがるんですよ。でもバナナで釘が打てるようにするには、マイナス260度ほどで窒素凍結でもしなければ無理ですよ。それから凍った薔薇がパリパリと音を立てて砕けるのも同じですからね」と言って笑われた。
「ああ。そんなことがあったな。結局バナナは部屋に戻って喰ったんだったな」
「そうよ。バナナは所詮バナナで金槌ではないって言われたわ。でもコマーシャルでは凍ったバナナで釘が打てたのよ?」
司はそれがどんなコマーシャルだったかは知らないが、妻が子供の頃見たというコマーシャルでは寒さで凍ったバナナで釘を打つことが出来たらしい。
「でも自然って本当に凄いわね。オーロラってこの世のものとは思えない景色だったわね」
司はバナナはさておき、その意見には素直に同意していた。
だがあの時真っ白な息を吐きながらふたりで見上げた空もだが、今こうして都会の真ん中にぽっかりと開いた漆黒の空間に仄かな光を帯びて浮かぶゴンドラから見上げる空も美しいと感じていた。そしてゴンドラが頂点に達すると視界には月しかなかった。
「でもアラスカで見たオーロラも良かったけど、北欧で空の上から見たオーロラも良かったわね」
妻が言う空の上から見たオーロラ。
アラスカで見たオーロラを忘れることが出来ず、今度はロンドンからの帰り少し遠回りをしてフィンランドの北極圏上空を通過しながら見た。
「そうだな。あの時のオーロラも素晴らしかった」
窓なら幾つもあるのに、ふたりが額を寄せ合いひとつの窓から見た光りのカーテンの輝きは神秘的で美しかった。そしてそこは機内であり寒さが感じられない場所だったが、アラスカで見た時と同じ切れる程の空気の冷たさを感じた。だがそれは決して嫌なものではなく、むしろ清々しい冷たさだった。
そしてオーロラを見たこともそうだが、子供たちがふたりの手を離れると色々な所へ行った。子供が親の手から離れた夫婦は皆そうしているものだと思った。だがそうではないといった話も訊いたが、ふたりは出来る限り一緒にいた。
「ねえ。私に話したいのは遼のことは別として本当はオーロラの話なんかじゃないんでしょ?観覧車に乗ったのは考え事があるからって言ったわよね?」
頂点を過ぎたゴンドラがゆっくりと下降し始めた時、妻が向かいの席から言った。
「ああ。遼のことはそうだが、オーロラは月が綺麗だったから思い出した。空が近かったから思い出した」
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「会社のこと?それとも英(すぐる)のこと?あの子に何かあったの?」
考え事があった。
その言葉に返されたのは心配そうな表情と妻であり母である女のごく当たり前の言葉。
「いや。英のことじゃない。あいつは真面目にやってる。心配するな。何の問題もない」
「…..そう。それならいいんだけど。それなら駿のこと?あの子は中東にいるけど、何か問題でもあった?」
「いいや。あいつも元気にやってるから心配するな。向うでのビジネスは問題ない。アラビア語が出来るあいつは現地の有力者と懇意にしている。長年培ってきた人間関係の良さはあいつの人柄だがそれが役に立っているようだ」
ふたりの間には司の特徴的な髪の毛を受け継いだ3人の男の子がいるが、長男の英は道明寺ホールディングスの副社長として司の右腕として働いていた。そして次男の駿はやはり家業である道明寺へ入社すると、学生時代に身につけたアラビア語を生かし、中東で道明寺と現地の有力な財閥系企業との合弁会社である石油化学事業会社の社長をしていた。
「じゃあ遼のこと?」
三男の遼は銀行に就職し、ニューヨークで働いている。
上の二人の性格は司に似ていたが、三番目の遼は妻に似ていて子供の頃から数字に強く数学が得意だった。そしてその数字に向けられた興味は、やがて経済に向けられたが、道明寺に入社するよりも銀行で働くことを選び、ウォール街に支店を持つ日系の銀行で為替ディーラーとして働き始めたが、今ではアナリストとして時にテレビの経済ニュースで意見を述べる姿を見ることがあった。そんな遼は三人の息子の中で唯一の独身だったが、先日ニューヨークを訪れた司に結婚したい人がいると言って来た。
「実はな、ニューヨークで遼に会ったが結婚したい人がいると言って来た」
「嘘!遼が?」
「ああ。あいつ向うで知り合った女性と結婚を考えているらしい」
「あの子は数字が恋人だ。答えがひとつしかない数学の問題を解くと頭がスッキリするって言ってたけど、ついに結婚することにしたのね!」
男の子を育てた母親というのは、子供たちが大人になると自分から離れていくのを寂しいと感じるものだと訊く。
それは幼かった息子たちは母親にとっては恋人のような存在だと言われるからだが、親は親であり恋人ではないのだから、親離れをしようとしている我が子をいつまでも手元に置こうとする方がおかしい。だがその点妻は違った。親離れ大賛成。経済的に苦労した自分の経験がそうさせるのか。早くから自立した人間でいることを子供たちにも説いていた。
そして実際子供たちは、母親の言葉を実践ではないが早くから自立した生活を送るようになった。長男も次男も高校までは英徳だったが大学は海外。そして三男も上二人の兄と同じく海外だった。
そして上の二人が結婚を決めた時も一番に話しをしたのは、母親ではなく父親の司だった。
それは、家庭の中で父親の存在がそれほど遠いものだと考えなかったことにある。
それに男の子は母親とはいえやはり異性である親には言えないことがあるからだ。
そして男の子はある年齢が来ると父親の存在が自分の未来を映す鏡のように思えてくる。
だから子供たちは同性である父親に自分の未来の姿を見て、まず司に話しをしていた。
「それにしても女の子に全然興味がなかった遼がねぇ….。ねえ、それでどんな人?」
「ああ。同じ銀行に勤めるイギリス人らしい」
「イギリスの人?え?......どうしよう司。私それほど英語が得意じゃないんだけどお嫁さんになる人は日本語が話せるのかしら?」
と言うが若い頃司とニューヨークで暮らしたことがある妻の英語力は、日常の会話をするには十分だった。
「心配するな。あいつの話だとオックスフォード出身でハーバードに留学した才媛で日本語も問題ないそうだ。それに彼女の父親はイギリスで判事をしているらしい。それから兄と妹がいてその二人も優秀らしいぞ。遼のヤツ、随分と堅い家のお嬢さんとの結婚を決めたようだが、まあ真面目なあいつにはいいかもしれんな」
三兄弟の中で一番妻に似て真面目な性格の遼が選んだ相手が同じ職場の行員だとしても不思議ではない。だが逆に全く異なる環境の二人だったとしても、それは若い頃の自分達のようだと思うはずだ。
「….そう。お父様はイギリスの判事さんなのね?」
「そうだ。お前今イギリス人の判事と訊いて笑っただろ?」
司がそう訊いたのは、彼女の肩が小刻みに揺れていたからだ。
「べ、別に笑ってなんかないわよ!ただ、どんなに素敵な人でもあの法廷用のカツラを付けるのかと思うと笑えちゃって!だって音楽室に貼ってあったバッハのような髪型のカツラだなんてどう考えても笑えるじゃない?」
「ああ。確かにな。だが民事裁判じゃああいったカツラやガウン(法服)の着用は廃止になったがな」
イギリスの法廷では、男性女性に関係なく判事と弁護士の法廷用カツラや黒いガウンの着用が義務付けられている。それは18世紀から続く伝統で、公平な裁判を行うための匿名性、つまり年齢や国籍を隠すためと言われているが、2008年に民事と家事の裁判では廃止されていた。
「でも笑えるわよ。あのカツラ!いくら伝統だからって初めて見た時、思わず吹き出しそうになったもの」
かつて子供たちが幼かった頃、イギリスに数年滞在したことがあった。
その時、妻と子供たちは社会見学といってイギリスの裁判所で行われた模擬裁判を見学したことがあった。そしてその時、音楽教室に貼られていたバッハやモーツアルトのようなカツラをつけた判事や弁護士の姿に目を丸くしたと言った妻がいた。
「イギリス時代か。懐かしいな」
「そうね。短かったけど私にも子供たちにもいい経験になったわ」
ロンドンを起点に忙しいビジネスの合間を縫ってヨーロッパ各国を旅したことは、今では家族の大切な想い出だ。そして末っ子の結婚話は、夫婦にとって本当の意味でこれでやっと子供たちが一人前の大人として親の手から離れて行くことを意味していた。
「遼の選んだ人ってどんな人かしらね?可愛い人?それとも綺麗な人?ねえどっちのタイプだと思う?」
「さあ。どうだろうな。そのうち彼女を連れて挨拶に来るだろう。それまで楽しみに待てばいい」
「そうね。でも果報は寝て待てって言うけど本当にその通りね。あの遼が結婚するなんて凄いことだもの。それにしても相手のお嬢さんは目が高いわね!遼の顔はあなたに似てるけど、性格は私に似て真面目だからお嫁さんを泣かすことは絶対にないだろうし、30過ぎて独身でいた方が可笑しいのよ」
親が子を褒めることを親バカと言うが、妻のその口振りはまさにソレだ。
だが司は思った。
本当の意味で末の息子が親の手から離れていく事に寂しさを感じないのか。
同じ親でも男親と女親とでは違う。母親が自分のお腹を痛めて産んだ我が子は、男親が考える息子に対しての思いとは違うはずだ。それにいくら夫が傍にいるとはいえ、我が子は夫とはまた別の存在だ。
「….つくし」
「ん?なに?」
「寂しなら寂しいって言えよ。無理することねぇんだぞ?」
「何言ってるのよ。私の傍にはいつも司がいるじゃない。それに子供たちはいつか離れていくものよ。でも良かったわね。これで道明寺家は安泰ね!」
司は妻が言った私の傍にはいつも司がいるの言葉を否定するつもりはない。だから彼女の言葉に素直に頷いた。
「ああ。そうだ。俺はお前の傍を離れるつもりはねぇからな。何しろ神様の前で一生お前を愛するって誓ったんだからな」
神の前で誓い合った夜。言葉など要らないと抱き合ったあの夜からずっとその思いは変わらないのだから。

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考え事があった。
その言葉に返されたのは心配そうな表情と妻であり母である女のごく当たり前の言葉。
「いや。英のことじゃない。あいつは真面目にやってる。心配するな。何の問題もない」
「…..そう。それならいいんだけど。それなら駿のこと?あの子は中東にいるけど、何か問題でもあった?」
「いいや。あいつも元気にやってるから心配するな。向うでのビジネスは問題ない。アラビア語が出来るあいつは現地の有力者と懇意にしている。長年培ってきた人間関係の良さはあいつの人柄だがそれが役に立っているようだ」
ふたりの間には司の特徴的な髪の毛を受け継いだ3人の男の子がいるが、長男の英は道明寺ホールディングスの副社長として司の右腕として働いていた。そして次男の駿はやはり家業である道明寺へ入社すると、学生時代に身につけたアラビア語を生かし、中東で道明寺と現地の有力な財閥系企業との合弁会社である石油化学事業会社の社長をしていた。
「じゃあ遼のこと?」
三男の遼は銀行に就職し、ニューヨークで働いている。
上の二人の性格は司に似ていたが、三番目の遼は妻に似ていて子供の頃から数字に強く数学が得意だった。そしてその数字に向けられた興味は、やがて経済に向けられたが、道明寺に入社するよりも銀行で働くことを選び、ウォール街に支店を持つ日系の銀行で為替ディーラーとして働き始めたが、今ではアナリストとして時にテレビの経済ニュースで意見を述べる姿を見ることがあった。そんな遼は三人の息子の中で唯一の独身だったが、先日ニューヨークを訪れた司に結婚したい人がいると言って来た。
「実はな、ニューヨークで遼に会ったが結婚したい人がいると言って来た」
「嘘!遼が?」
「ああ。あいつ向うで知り合った女性と結婚を考えているらしい」
「あの子は数字が恋人だ。答えがひとつしかない数学の問題を解くと頭がスッキリするって言ってたけど、ついに結婚することにしたのね!」
男の子を育てた母親というのは、子供たちが大人になると自分から離れていくのを寂しいと感じるものだと訊く。
それは幼かった息子たちは母親にとっては恋人のような存在だと言われるからだが、親は親であり恋人ではないのだから、親離れをしようとしている我が子をいつまでも手元に置こうとする方がおかしい。だがその点妻は違った。親離れ大賛成。経済的に苦労した自分の経験がそうさせるのか。早くから自立した人間でいることを子供たちにも説いていた。
そして実際子供たちは、母親の言葉を実践ではないが早くから自立した生活を送るようになった。長男も次男も高校までは英徳だったが大学は海外。そして三男も上二人の兄と同じく海外だった。
そして上の二人が結婚を決めた時も一番に話しをしたのは、母親ではなく父親の司だった。
それは、家庭の中で父親の存在がそれほど遠いものだと考えなかったことにある。
それに男の子は母親とはいえやはり異性である親には言えないことがあるからだ。
そして男の子はある年齢が来ると父親の存在が自分の未来を映す鏡のように思えてくる。
だから子供たちは同性である父親に自分の未来の姿を見て、まず司に話しをしていた。
「それにしても女の子に全然興味がなかった遼がねぇ….。ねえ、それでどんな人?」
「ああ。同じ銀行に勤めるイギリス人らしい」
「イギリスの人?え?......どうしよう司。私それほど英語が得意じゃないんだけどお嫁さんになる人は日本語が話せるのかしら?」
と言うが若い頃司とニューヨークで暮らしたことがある妻の英語力は、日常の会話をするには十分だった。
「心配するな。あいつの話だとオックスフォード出身でハーバードに留学した才媛で日本語も問題ないそうだ。それに彼女の父親はイギリスで判事をしているらしい。それから兄と妹がいてその二人も優秀らしいぞ。遼のヤツ、随分と堅い家のお嬢さんとの結婚を決めたようだが、まあ真面目なあいつにはいいかもしれんな」
三兄弟の中で一番妻に似て真面目な性格の遼が選んだ相手が同じ職場の行員だとしても不思議ではない。だが逆に全く異なる環境の二人だったとしても、それは若い頃の自分達のようだと思うはずだ。
「….そう。お父様はイギリスの判事さんなのね?」
「そうだ。お前今イギリス人の判事と訊いて笑っただろ?」
司がそう訊いたのは、彼女の肩が小刻みに揺れていたからだ。
「べ、別に笑ってなんかないわよ!ただ、どんなに素敵な人でもあの法廷用のカツラを付けるのかと思うと笑えちゃって!だって音楽室に貼ってあったバッハのような髪型のカツラだなんてどう考えても笑えるじゃない?」
「ああ。確かにな。だが民事裁判じゃああいったカツラやガウン(法服)の着用は廃止になったがな」
イギリスの法廷では、男性女性に関係なく判事と弁護士の法廷用カツラや黒いガウンの着用が義務付けられている。それは18世紀から続く伝統で、公平な裁判を行うための匿名性、つまり年齢や国籍を隠すためと言われているが、2008年に民事と家事の裁判では廃止されていた。
「でも笑えるわよ。あのカツラ!いくら伝統だからって初めて見た時、思わず吹き出しそうになったもの」
かつて子供たちが幼かった頃、イギリスに数年滞在したことがあった。
その時、妻と子供たちは社会見学といってイギリスの裁判所で行われた模擬裁判を見学したことがあった。そしてその時、音楽教室に貼られていたバッハやモーツアルトのようなカツラをつけた判事や弁護士の姿に目を丸くしたと言った妻がいた。
「イギリス時代か。懐かしいな」
「そうね。短かったけど私にも子供たちにもいい経験になったわ」
ロンドンを起点に忙しいビジネスの合間を縫ってヨーロッパ各国を旅したことは、今では家族の大切な想い出だ。そして末っ子の結婚話は、夫婦にとって本当の意味でこれでやっと子供たちが一人前の大人として親の手から離れて行くことを意味していた。
「遼の選んだ人ってどんな人かしらね?可愛い人?それとも綺麗な人?ねえどっちのタイプだと思う?」
「さあ。どうだろうな。そのうち彼女を連れて挨拶に来るだろう。それまで楽しみに待てばいい」
「そうね。でも果報は寝て待てって言うけど本当にその通りね。あの遼が結婚するなんて凄いことだもの。それにしても相手のお嬢さんは目が高いわね!遼の顔はあなたに似てるけど、性格は私に似て真面目だからお嫁さんを泣かすことは絶対にないだろうし、30過ぎて独身でいた方が可笑しいのよ」
親が子を褒めることを親バカと言うが、妻のその口振りはまさにソレだ。
だが司は思った。
本当の意味で末の息子が親の手から離れていく事に寂しさを感じないのか。
同じ親でも男親と女親とでは違う。母親が自分のお腹を痛めて産んだ我が子は、男親が考える息子に対しての思いとは違うはずだ。それにいくら夫が傍にいるとはいえ、我が子は夫とはまた別の存在だ。
「….つくし」
「ん?なに?」
「寂しなら寂しいって言えよ。無理することねぇんだぞ?」
「何言ってるのよ。私の傍にはいつも司がいるじゃない。それに子供たちはいつか離れていくものよ。でも良かったわね。これで道明寺家は安泰ね!」
司は妻が言った私の傍にはいつも司がいるの言葉を否定するつもりはない。だから彼女の言葉に素直に頷いた。
「ああ。そうだ。俺はお前の傍を離れるつもりはねぇからな。何しろ神様の前で一生お前を愛するって誓ったんだからな」
神の前で誓い合った夜。言葉など要らないと抱き合ったあの夜からずっとその思いは変わらないのだから。

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妻の突然の行動。
それは昔からそうだったが、動き出そうとする観覧車の扉を開け乗り込んで来るという危険極まりない行為は褒められたことではない。
だがその行動力が時に司を引っ張り、時に悩ませながらも二人で人生を歩んで来た。
しかし、それでも危ないことはするな、と司が言ってやらなければ他の誰かが言えるはずもなく、司は呆れたように危ないじゃないか、と言ったが妻は気にしていなかった。
「大丈夫よ。まだ動いてなかったんだし平気、平気」
と言って笑いながらゆっくりと高度を上げていくゴンドラの中から外の景色を眺めているが、園内は明かりがなく、時折小さな光がチラチラと動いているのは巡回中の警備員で、昼間なら見えるはずの景色は見えなかった。
しかしそれでも夜空へゆっくりと上昇すれば、アクリル板の窓から見える景色は、遠くにビルの明かりや家々の明かりが眼下に見え始め、「わあ、きれいね」と妻の口から漏れれば、そうだな、と返すと外を見ていた妻が司の方へ顔を向けた。
「ねえ。それにしても懐かしいわね。ここ。あの時この遊園地でデートしたの覚えてる?あなたが庶民デートに耐えられるか。お金を使わず楽しむことが出来るか試したあのデート」
「ああ。勿論覚えてる。俺と付き合うことに決めたお前が俺を誘った」
使用人として道明寺の邸で働き始めた妻が2ヶ月ちゃんと向き合ってみると言った結果、普通の付き合いを望む彼女に付き合い庶民デートと呼ばれるダブルデートをすることになった。
「そうよ。でもデートしないって誘ったら嫌だって断られたわ」
「そうだったか?俺の記憶の中じゃ違うけどな」
「違わないわよ。知らない人間と遊べるかって怒った。でもちょっと遅れたけど来てくれたわよね?」
「まあな。あの時はお前がどうしてもっていう顔をしてたから仕方なく行ったんだ。それにダブルデートなのにお前がひとりじゃ可哀想だと思ってな」
渋谷のハチ公前で待ち合わせをするという彼女のレベルに合わせることが求められたデートだった。だが既にあの頃の司は彼女のためならどんなことでもするつもりでいた。
自分の我を通すより、彼女の望むように行動したいと思っていた。
ただ思いとは裏腹な言葉が出てしまうのは、我慢など必要としない世界に育った男が簡単には足を踏み入れることが出来ない彼女の世界に戸惑っていたからだ。
「ふふふ….分かってるわよ。今更そんな言い方しなくてもいいでしょ?私とデート出来ることが嬉しいから来たって言えばいいのに本当に意地っ張りなんだから」
「よく言うぜ。意地っ張りなのはお前の方だったろ?」
妻は違うわよ、と言って頬を膨らませ怒ったような顔をしたが、淡い夜間照明の中、きらきら光るふたつの大きな目は笑っていて小さく吹き出していた。
「そうね。よく考えてみれば私たちはふたりとも意地っ張りなところがあって素直じゃないところもあったわよね?でも司は結婚してからはいい旦那さんになったし、子供たちが生まれてからはいい父親になったわ。それに会社だってお母様の跡を継いで立派な社長さんになったし、昔を知る人間からすれば、人ってこんなにも変わることが出来るんだってことが信じられなかったかもしれないわね?それに人にはそれぞれに器があると言われるけど司の器は本物だった。世間が言ったようなただのお坊ちゃまじゃなかったものね?」
「お坊ちゃまか。随分と懐かしい呼び方をするな」
その言葉は使用人が幼い司を呼ぶ時そう呼ばれていたことがあった。
だが大人になってからのその呼び方には親の七光り。青二才。お前にビジネスの何か分かる。
そんな侮蔑的な意味が込められていた。
「そうよ。覚えてる?あの時、優紀が連れてきた中塚くんって人があなたのことをお坊ちゃまって言ったら青筋が立ってた。それにあのダブルデートは物凄い緊張感があってとても楽しめる状態じゃなかったわ。でもその中で唯一あなたも楽しめたのがこの観覧車だったわよね?」
あのデートの中で唯一甘い雰囲気があったとすれば観覧車の中だったが、あの時はキスをしようとした司に対し顔を真っ赤にして目を閉じた彼女がいたが、いいところでゴンドラは地上に降りた。それから彼女の友人が連れて来た男を殴ったが、それは彼女のことをバカにする発言があったからだ。
もともと司は惚れたらどこまでも一途な人間だ。
そんな男の拳は凶器と言われるほど威力があり、相手は恐れをなして逃げたが殴った理由を言わなかったために彼女と喧嘩になった。
司は周りからは他人を思いやる気持ちがないように思われていたが、表現方法が不器用なだけでそうではない。そのため誤解されることもあったが、大事な時は彼女の気持を優先し、いい時も悪い時も全てを自分の責任で彼女を守って来た。
そしてふたりの目の前にそびえていた現実の壁というものを乗り越え結婚した。
「ねえ。でもどうして突然ここに来ることにしたの?」
妻の問いかけに司は答えるべきかどうか迷ってから、「ちょっと考え事があってな」と答えた。

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それは昔からそうだったが、動き出そうとする観覧車の扉を開け乗り込んで来るという危険極まりない行為は褒められたことではない。
だがその行動力が時に司を引っ張り、時に悩ませながらも二人で人生を歩んで来た。
しかし、それでも危ないことはするな、と司が言ってやらなければ他の誰かが言えるはずもなく、司は呆れたように危ないじゃないか、と言ったが妻は気にしていなかった。
「大丈夫よ。まだ動いてなかったんだし平気、平気」
と言って笑いながらゆっくりと高度を上げていくゴンドラの中から外の景色を眺めているが、園内は明かりがなく、時折小さな光がチラチラと動いているのは巡回中の警備員で、昼間なら見えるはずの景色は見えなかった。
しかしそれでも夜空へゆっくりと上昇すれば、アクリル板の窓から見える景色は、遠くにビルの明かりや家々の明かりが眼下に見え始め、「わあ、きれいね」と妻の口から漏れれば、そうだな、と返すと外を見ていた妻が司の方へ顔を向けた。
「ねえ。それにしても懐かしいわね。ここ。あの時この遊園地でデートしたの覚えてる?あなたが庶民デートに耐えられるか。お金を使わず楽しむことが出来るか試したあのデート」
「ああ。勿論覚えてる。俺と付き合うことに決めたお前が俺を誘った」
使用人として道明寺の邸で働き始めた妻が2ヶ月ちゃんと向き合ってみると言った結果、普通の付き合いを望む彼女に付き合い庶民デートと呼ばれるダブルデートをすることになった。
「そうよ。でもデートしないって誘ったら嫌だって断られたわ」
「そうだったか?俺の記憶の中じゃ違うけどな」
「違わないわよ。知らない人間と遊べるかって怒った。でもちょっと遅れたけど来てくれたわよね?」
「まあな。あの時はお前がどうしてもっていう顔をしてたから仕方なく行ったんだ。それにダブルデートなのにお前がひとりじゃ可哀想だと思ってな」
渋谷のハチ公前で待ち合わせをするという彼女のレベルに合わせることが求められたデートだった。だが既にあの頃の司は彼女のためならどんなことでもするつもりでいた。
自分の我を通すより、彼女の望むように行動したいと思っていた。
ただ思いとは裏腹な言葉が出てしまうのは、我慢など必要としない世界に育った男が簡単には足を踏み入れることが出来ない彼女の世界に戸惑っていたからだ。
「ふふふ….分かってるわよ。今更そんな言い方しなくてもいいでしょ?私とデート出来ることが嬉しいから来たって言えばいいのに本当に意地っ張りなんだから」
「よく言うぜ。意地っ張りなのはお前の方だったろ?」
妻は違うわよ、と言って頬を膨らませ怒ったような顔をしたが、淡い夜間照明の中、きらきら光るふたつの大きな目は笑っていて小さく吹き出していた。
「そうね。よく考えてみれば私たちはふたりとも意地っ張りなところがあって素直じゃないところもあったわよね?でも司は結婚してからはいい旦那さんになったし、子供たちが生まれてからはいい父親になったわ。それに会社だってお母様の跡を継いで立派な社長さんになったし、昔を知る人間からすれば、人ってこんなにも変わることが出来るんだってことが信じられなかったかもしれないわね?それに人にはそれぞれに器があると言われるけど司の器は本物だった。世間が言ったようなただのお坊ちゃまじゃなかったものね?」
「お坊ちゃまか。随分と懐かしい呼び方をするな」
その言葉は使用人が幼い司を呼ぶ時そう呼ばれていたことがあった。
だが大人になってからのその呼び方には親の七光り。青二才。お前にビジネスの何か分かる。
そんな侮蔑的な意味が込められていた。
「そうよ。覚えてる?あの時、優紀が連れてきた中塚くんって人があなたのことをお坊ちゃまって言ったら青筋が立ってた。それにあのダブルデートは物凄い緊張感があってとても楽しめる状態じゃなかったわ。でもその中で唯一あなたも楽しめたのがこの観覧車だったわよね?」
あのデートの中で唯一甘い雰囲気があったとすれば観覧車の中だったが、あの時はキスをしようとした司に対し顔を真っ赤にして目を閉じた彼女がいたが、いいところでゴンドラは地上に降りた。それから彼女の友人が連れて来た男を殴ったが、それは彼女のことをバカにする発言があったからだ。
もともと司は惚れたらどこまでも一途な人間だ。
そんな男の拳は凶器と言われるほど威力があり、相手は恐れをなして逃げたが殴った理由を言わなかったために彼女と喧嘩になった。
司は周りからは他人を思いやる気持ちがないように思われていたが、表現方法が不器用なだけでそうではない。そのため誤解されることもあったが、大事な時は彼女の気持を優先し、いい時も悪い時も全てを自分の責任で彼女を守って来た。
そしてふたりの目の前にそびえていた現実の壁というものを乗り越え結婚した。
「ねえ。でもどうして突然ここに来ることにしたの?」
妻の問いかけに司は答えるべきかどうか迷ってから、「ちょっと考え事があってな」と答えた。

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<臥待月(ふしまちづき)>
「社長。おひとりで大丈夫ですか?」
西田がそう言うのは、もう何度目になるのか。
自分より年下の男に仕える秘書は心配そうに訊くが司は心配無用だといった表情を浮かべた。
「大丈夫だ。ここはいい。お前はもう帰れ。俺がここにいることはお前以外知らんのだから何も心配することはない」
「しかし……。そうはおっしゃいますがお待ちします」
「心配するな。帰れ。たまには早く帰って嫁さん孝行をしろ」
司はそう言って西田を帰らせようとしたが、秘書はここで待っていると言った。
時刻は午後9時。5時で閉園した遊園地に人影はなく風は冷たく感じられたが、その風が都会の淀んだ空気を一掃してくれたのか。夜空は晴れていた。
土日ともなれば大勢の人間でごった返すこの場所も、誰もいないとなれば寂しいもので、都会のど真ん中とは思えないほどの静けさがあった。
ゲートをくぐり園内に入ると何とも言えない匂いがした。
それはつい数時間前までここに大勢の人間がいた名残なのか。だがアスファルトの地面は綺麗に掃除がされ、食べ物の残りかすもキャンディの包み紙も落ちてはいなかったが、一瞬感じた匂いはどこか懐かしさを感じさせた。
そんな場所は賑やかな街の中にぽっかりと出来た暗がりで、昼間の明るさとは違う顔を見せ、まるで別世界に入り込んでしまったような感覚に陥った。
そして本来なら恐怖とスリルを感じさせる遊具も今は動きを止め、明日の喧騒に備えひっそりと暗がりに横たわっていた。
司はそんな遊具たちの傍を通り過ぎ真っ直ぐ目的の場所へ向かった。
ここには一度しか来たことがなかったが、足が迷うことなくその場所へ向かうのは、そこがどこから見ても分かる場所にあるからだ。
普段司がいるビルの最上階からも見えるそこは、二重の円を描く大きな鉄の輪が奇妙なほどゆっくりと回っていて、日暮れた空の残照にライトアップされた姿が浮かび上がり、雨になればその光が暗闇に滲む姿がそこにあった。
1回転する時間を計ったことがあったが、約20分かかるそれは観覧車。世の中の時の流れとはまったく違う時の流れがそこにあった。
そして下に立ち見上げるそれは、あの時と同じではない。あれから新しいものになった鉄の輪は大都市に相応しい大きさに変わっていた。そして淡い光に照らされていた。
観覧車を動かしてもらうことにしたのは、またいつか乗りたいと思っていたからだ。
あの時、他にも色々な遊具に乗ったが司は楽しめたとは言えず、恥ずかしい話だが酔ったようになった。だが一緒に乗った女は嬉しそうで楽しそうに笑っていた。
_こんなに笑ったの久し振り。
と言って笑いながら涙を浮かべていたが、4日前から付き合い始めたふたりが庶民デートだと言って訪れたのがこの遊園地だった。あれは今から40年も前の話。60歳を前にした男の記憶の片隅に残る想い出だ。だがあの日は喧嘩をした。それはダブルデートで一緒にいた彼女の友人の連れの男を殴ったことが発端だった。
「ちょっと待って!私も乗せて」
ゴンドラが動き出す直前に扉を開け、息を切らせながら乗り込んで来たのは妻だ。
「西田さんから連絡があったの。あなたがここに向かってるって。観覧車に乗るって。だから私も急いでここに来たの」
「西田が?」
「そうよ。西田さんからあなたが閉園後の遊園地を貸し切ったって話を訊いて飛んで来たの。でもどうしたの?いきなり遊園地を貸し切るなんて言い出して。それも自分だけ楽しもうとしたなら酷い裏切りよね?こういった楽しみはまず妻に声をかけるべきでしょ?」
そう言って司の前に座った妻は、あの時と同じように楽しそうに笑っていた。

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「社長。おひとりで大丈夫ですか?」
西田がそう言うのは、もう何度目になるのか。
自分より年下の男に仕える秘書は心配そうに訊くが司は心配無用だといった表情を浮かべた。
「大丈夫だ。ここはいい。お前はもう帰れ。俺がここにいることはお前以外知らんのだから何も心配することはない」
「しかし……。そうはおっしゃいますがお待ちします」
「心配するな。帰れ。たまには早く帰って嫁さん孝行をしろ」
司はそう言って西田を帰らせようとしたが、秘書はここで待っていると言った。
時刻は午後9時。5時で閉園した遊園地に人影はなく風は冷たく感じられたが、その風が都会の淀んだ空気を一掃してくれたのか。夜空は晴れていた。
土日ともなれば大勢の人間でごった返すこの場所も、誰もいないとなれば寂しいもので、都会のど真ん中とは思えないほどの静けさがあった。
ゲートをくぐり園内に入ると何とも言えない匂いがした。
それはつい数時間前までここに大勢の人間がいた名残なのか。だがアスファルトの地面は綺麗に掃除がされ、食べ物の残りかすもキャンディの包み紙も落ちてはいなかったが、一瞬感じた匂いはどこか懐かしさを感じさせた。
そんな場所は賑やかな街の中にぽっかりと出来た暗がりで、昼間の明るさとは違う顔を見せ、まるで別世界に入り込んでしまったような感覚に陥った。
そして本来なら恐怖とスリルを感じさせる遊具も今は動きを止め、明日の喧騒に備えひっそりと暗がりに横たわっていた。
司はそんな遊具たちの傍を通り過ぎ真っ直ぐ目的の場所へ向かった。
ここには一度しか来たことがなかったが、足が迷うことなくその場所へ向かうのは、そこがどこから見ても分かる場所にあるからだ。
普段司がいるビルの最上階からも見えるそこは、二重の円を描く大きな鉄の輪が奇妙なほどゆっくりと回っていて、日暮れた空の残照にライトアップされた姿が浮かび上がり、雨になればその光が暗闇に滲む姿がそこにあった。
1回転する時間を計ったことがあったが、約20分かかるそれは観覧車。世の中の時の流れとはまったく違う時の流れがそこにあった。
そして下に立ち見上げるそれは、あの時と同じではない。あれから新しいものになった鉄の輪は大都市に相応しい大きさに変わっていた。そして淡い光に照らされていた。
観覧車を動かしてもらうことにしたのは、またいつか乗りたいと思っていたからだ。
あの時、他にも色々な遊具に乗ったが司は楽しめたとは言えず、恥ずかしい話だが酔ったようになった。だが一緒に乗った女は嬉しそうで楽しそうに笑っていた。
_こんなに笑ったの久し振り。
と言って笑いながら涙を浮かべていたが、4日前から付き合い始めたふたりが庶民デートだと言って訪れたのがこの遊園地だった。あれは今から40年も前の話。60歳を前にした男の記憶の片隅に残る想い出だ。だがあの日は喧嘩をした。それはダブルデートで一緒にいた彼女の友人の連れの男を殴ったことが発端だった。
「ちょっと待って!私も乗せて」
ゴンドラが動き出す直前に扉を開け、息を切らせながら乗り込んで来たのは妻だ。
「西田さんから連絡があったの。あなたがここに向かってるって。観覧車に乗るって。だから私も急いでここに来たの」
「西田が?」
「そうよ。西田さんからあなたが閉園後の遊園地を貸し切ったって話を訊いて飛んで来たの。でもどうしたの?いきなり遊園地を貸し切るなんて言い出して。それも自分だけ楽しもうとしたなら酷い裏切りよね?こういった楽しみはまず妻に声をかけるべきでしょ?」
そう言って司の前に座った妻は、あの時と同じように楽しそうに笑っていた。

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7歳の子供が4歳の頃のことを覚えているかと問われても覚えてはいなかったはずだ。
だが司はあの日がいつだったのか、正確な日付は覚えていなくても7歳の時ウサギと交わした会話を思い出していた。
それは4歳の我が子が熱を出し、子供部屋のベッドで寝ている姿を見た時だった。
妻からのメールで、幼稚舎から電話があり蓮が熱を出したから迎えに行って来ると連絡を受けたのは経営会議の最中だったが、再び受けたメールに書かれていたのは、風邪をひいたということ。だが熱はたいして高くなく心配なさそうだとあった。
司は結婚して子供が三人いる。長男の圭は8歳の小学3年生。次男の蓮は4歳で幼稚舎に通っている。そして生まれて間もない3番目の子供は女の子の彩。
妻は初恋の人で大恋愛の末、結ばれたが、彼女と出会うまでの人生はウサギが7歳の少年に話した通りの人生だった。
あの時、ウサギと話をしてから1ヶ月ほど後、やっぱりこのウサギは自分の部屋には相応しくないと言ってタマの部屋へ持って行った。そして3年生になると小部屋の中のおもちゃをすっかり片付け模様替えをした。
それはおもちゃに興味がなくなったこともだが、その代わり覚えたのは喧嘩をすること。
3年生から4年生。そして5年生から6年生へと学年が上がるたび、喧嘩の回数が増え、人を傷つけることに罪悪を感じることがなくなりむしろ楽しさを覚えていた。
そしてエスカレーター式に進学する学園で彼に逆らう人間はおらず、ウサギが言った通り司の周りには彼の容貌と道明寺という名前と財力に惹かれた人間が集まるようになった。
だがそんな人間たちの人としての薄っぺらさが鼻につくようになれば、彼らが傍にいることが許せなくなった。だから司の周りにいたのは、幼い頃からの親友たちだけで、他の人間を近くに立ち入らせることは許さなかった。
やがて高等部で妻と出会ったが、初めは彼女のことが気に入らなかった。
その女が生涯を供にしたいと思える女だとは思えなかった。そして蛇だと言われたことがあった。だが気付けば蛇以上の執拗さで彼女を求め追いかけていた。
やがて真夏のひまわりのような彼女は司のことを好きになってくれた。
だが司は暴漢に襲われ意識不明の重体に陥り、目覚めた時には彼女のことを忘れ、別れを決めた彼女からウサギのぬいぐるみを渡されると同時に、野球のボールを頭にぶつけられ彼女のことを思い出し、再び目の前に現れたウサギに、あの時のことを思い出した。
そしてウサギがタマの手から母親の元に戻り、やがて恋人の手を経て司の元へ戻って来たことに巡り合わせを感じた。
7歳の頃、何かを宿していた白いウサギのぬいぐるみも今は古さが感じられる。
そしてあれは現実だったのか。それとも夢だったのか。だがどちらにしても大人になった男にウサギがあの時のように口を開くことがないと感じていた。
だが司の手元に戻って来た時のウサギの目には何かがあった。
それは、『やあ。また逢えたね』という懐かしさを感じさせる感情。だがウサギが発したのはそれだけで、それ以上は何も語らなかった。
「司?どうしたの?」
「いや、なんでもない。蓮のウサギはまだ新しいな」
「うん。でも生まれた時からいつも一緒にいて何度も洗濯してるから新品とは違うけどね。
それでもまだ4年なら新しい方かもしれないわね?蓮のウサギに比べたら圭のウサギは少し疲れてるかも。だって一度背中からパンヤ…..ええっと詰め物が覗いちゃって縫ったの。でも圭ったらあたしに見せる前に自分でなんとかしようとしたみたいで、接着剤で無理矢理くっ付けようとしたから布がおかしな方向に引きつってたの。でもそれをなんとか直したけどやっぱり後遺症っていうの?あのウサギの背中は変に硬くなっちゃって接着剤の跡が残ってるの。でもそれはウサギを大切に思う圭の気持だから。あの子が自分のウサギに愛着があった証拠だからあれでいいのよね。それにあの子はあたしに似て物を大切にする子でほんと良かったわ」
妻の言葉には若干の棘が感じられたが、司は無視をした。
そして子供たちは皆それぞれが1匹ずつウサギのぬいぐるみを持っていた。
それは妻が夫の母親に倣い与えたもの。
だが妻が彼の母親のように子供たちを置いて何処かへ出かけるということはなかった。
そしてそれぞれが名前を付け大切にしていたが、長男の圭は、既にぬいぐるみから卒業していて、今は棚に飾られているが、まだ4歳の蓮は広い邸のどこかに置き忘れたのか。ウサギを探して火が付いたように泣いていることがあった。そんな我が子のためウサギにGPS発信機を付けるべきか本気で悩んだことがあったという妻だったが、使用人総出で探せばすぐに見つかることから事なきを得ていたが、どうやら4歳の蓮にとってのウサギは友達とは違う存在らしい。そしてまだ赤ん坊の彩の枕元にあるウサギはヨダレでベトベトにされていた。
幼い子供にとってぬいぐるみとは。
ギュッと抱きしめて可愛がる対象であると同時に友達でもある。
夢の中まで付き合ってくれる大切な友達。だから我が子がぬいぐるみに向かって話かけていることもあった。
特に長男の圭は、今は大きくなりぬいぐるみに興味を示すことは無くなったが、まだ言葉が出なかった頃、ウサギに向かってよく話をしていた。それはもしかすると圭にだけに語りかけてきたウサギの言葉を理解していたのかもしれない。
そして司もぬいぐるみのウサギと会話をした。
だがあれは現実だったのか。それとも夢だったのか。
もし夢だとすれば、とっくに忘れていてもおかしくはないのだが、今でも記憶の片隅にあった。そしてあの時のことを誰かに言えば夢を見たんだと言われたはずだ。
だが現実だったにしろ、夢であったにしろ、清らかな何かが宿ったぬいぐるみは、司のことを本気で心配していた。
そしてあの時ウサギが言った過去も想い出も何も持たない人間はからっぽだの言葉は正しいと思えるようになっていた。過去があるから未来がある。想い出があるから人は生きていけるのだ。
「ねえ司。三人の子供たちには沢山の想い出を作ってあげようね。この子たちが大人になっても思い出してもらえるような楽しい想い出を沢山作ってあげようね。未来も大切だけど大切な想い出があるってことはこの子たちの財産だもの」
「そうだな。人生は後ろへは戻れないんだからな」
「そうよ。だから子供たちの想い出作りは親であるあたしたちの役目でしょ?」
そう言って冷却シートが貼られた蓮の額に触れた手は、クルクルと巻いた髪の毛をそっと撫でた。そして何気なく言われたその言葉は親なら誰もが思うこと。
だがそのことに気付く親ばかりではないことを司は知っている。
「ああ分かってる。俺たちの仕事は子供たちが喜んで振り返れる想い出を作ってやることだ」
司はそう言うと妻の肩に手を回し、部屋を出ようと促した。
過去に戻る道はないが未来へ通じる道はある。
だが想い出があれば、過去の自分に戻ることは出来る。
あの頃の幼かった自分に。
そしてあの経験は、7歳の子供に許された僅かな時間が見せた幻だったとしても、あれは紛れもなく想い出。
そして想い出の向こう側にあるもの。それは未来。
だが毎日は昨日と同じ日が繰り返されるだけのことだとしても、それが幸せだということを今の司は知っている。そして過去の積み重ねの上にあるはずの未来が今以上に幸せであるようにと家族を守るのが司の役目だ。
そして、歴史に『もし(IF)』がないのと同じで人生ですでに起きたことや、済んでしまったことを変えることは出来ない。だが犯してしまった過ちを見つめることで今を変えること。未来を変えることは出来る。それは想い出があるから出来ることであり、それを持ち合わせていない人間に過去を振り返ることは出来ない。
だから司は妻に出会う前の自分を振り返る。あの時こうしていれば、という言葉は使いたくはないが、もし、という言葉で過去に戻れるなら酷い人間になるという司を守ってくれると言ったウサギを手放すことをしなかったはずだ。だが司は妻と出会って変わった。いや。妻が自分を変えてくれたと思っている。
司は静かに子供部屋を出ると妻の手を取った。
そしてふたりは微笑みを交し東の角部屋へと向かっていたが、今はあの時のウサギも夫婦の寝室であるその部屋で、神様から遣わされた想い出を管理するおもちゃとしての役割を終えたとばかり白い身体を休めていた。
< 完 >*想い出の向こう側*

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だが司はあの日がいつだったのか、正確な日付は覚えていなくても7歳の時ウサギと交わした会話を思い出していた。
それは4歳の我が子が熱を出し、子供部屋のベッドで寝ている姿を見た時だった。
妻からのメールで、幼稚舎から電話があり蓮が熱を出したから迎えに行って来ると連絡を受けたのは経営会議の最中だったが、再び受けたメールに書かれていたのは、風邪をひいたということ。だが熱はたいして高くなく心配なさそうだとあった。
司は結婚して子供が三人いる。長男の圭は8歳の小学3年生。次男の蓮は4歳で幼稚舎に通っている。そして生まれて間もない3番目の子供は女の子の彩。
妻は初恋の人で大恋愛の末、結ばれたが、彼女と出会うまでの人生はウサギが7歳の少年に話した通りの人生だった。
あの時、ウサギと話をしてから1ヶ月ほど後、やっぱりこのウサギは自分の部屋には相応しくないと言ってタマの部屋へ持って行った。そして3年生になると小部屋の中のおもちゃをすっかり片付け模様替えをした。
それはおもちゃに興味がなくなったこともだが、その代わり覚えたのは喧嘩をすること。
3年生から4年生。そして5年生から6年生へと学年が上がるたび、喧嘩の回数が増え、人を傷つけることに罪悪を感じることがなくなりむしろ楽しさを覚えていた。
そしてエスカレーター式に進学する学園で彼に逆らう人間はおらず、ウサギが言った通り司の周りには彼の容貌と道明寺という名前と財力に惹かれた人間が集まるようになった。
だがそんな人間たちの人としての薄っぺらさが鼻につくようになれば、彼らが傍にいることが許せなくなった。だから司の周りにいたのは、幼い頃からの親友たちだけで、他の人間を近くに立ち入らせることは許さなかった。
やがて高等部で妻と出会ったが、初めは彼女のことが気に入らなかった。
その女が生涯を供にしたいと思える女だとは思えなかった。そして蛇だと言われたことがあった。だが気付けば蛇以上の執拗さで彼女を求め追いかけていた。
やがて真夏のひまわりのような彼女は司のことを好きになってくれた。
だが司は暴漢に襲われ意識不明の重体に陥り、目覚めた時には彼女のことを忘れ、別れを決めた彼女からウサギのぬいぐるみを渡されると同時に、野球のボールを頭にぶつけられ彼女のことを思い出し、再び目の前に現れたウサギに、あの時のことを思い出した。
そしてウサギがタマの手から母親の元に戻り、やがて恋人の手を経て司の元へ戻って来たことに巡り合わせを感じた。
7歳の頃、何かを宿していた白いウサギのぬいぐるみも今は古さが感じられる。
そしてあれは現実だったのか。それとも夢だったのか。だがどちらにしても大人になった男にウサギがあの時のように口を開くことがないと感じていた。
だが司の手元に戻って来た時のウサギの目には何かがあった。
それは、『やあ。また逢えたね』という懐かしさを感じさせる感情。だがウサギが発したのはそれだけで、それ以上は何も語らなかった。
「司?どうしたの?」
「いや、なんでもない。蓮のウサギはまだ新しいな」
「うん。でも生まれた時からいつも一緒にいて何度も洗濯してるから新品とは違うけどね。
それでもまだ4年なら新しい方かもしれないわね?蓮のウサギに比べたら圭のウサギは少し疲れてるかも。だって一度背中からパンヤ…..ええっと詰め物が覗いちゃって縫ったの。でも圭ったらあたしに見せる前に自分でなんとかしようとしたみたいで、接着剤で無理矢理くっ付けようとしたから布がおかしな方向に引きつってたの。でもそれをなんとか直したけどやっぱり後遺症っていうの?あのウサギの背中は変に硬くなっちゃって接着剤の跡が残ってるの。でもそれはウサギを大切に思う圭の気持だから。あの子が自分のウサギに愛着があった証拠だからあれでいいのよね。それにあの子はあたしに似て物を大切にする子でほんと良かったわ」
妻の言葉には若干の棘が感じられたが、司は無視をした。
そして子供たちは皆それぞれが1匹ずつウサギのぬいぐるみを持っていた。
それは妻が夫の母親に倣い与えたもの。
だが妻が彼の母親のように子供たちを置いて何処かへ出かけるということはなかった。
そしてそれぞれが名前を付け大切にしていたが、長男の圭は、既にぬいぐるみから卒業していて、今は棚に飾られているが、まだ4歳の蓮は広い邸のどこかに置き忘れたのか。ウサギを探して火が付いたように泣いていることがあった。そんな我が子のためウサギにGPS発信機を付けるべきか本気で悩んだことがあったという妻だったが、使用人総出で探せばすぐに見つかることから事なきを得ていたが、どうやら4歳の蓮にとってのウサギは友達とは違う存在らしい。そしてまだ赤ん坊の彩の枕元にあるウサギはヨダレでベトベトにされていた。
幼い子供にとってぬいぐるみとは。
ギュッと抱きしめて可愛がる対象であると同時に友達でもある。
夢の中まで付き合ってくれる大切な友達。だから我が子がぬいぐるみに向かって話かけていることもあった。
特に長男の圭は、今は大きくなりぬいぐるみに興味を示すことは無くなったが、まだ言葉が出なかった頃、ウサギに向かってよく話をしていた。それはもしかすると圭にだけに語りかけてきたウサギの言葉を理解していたのかもしれない。
そして司もぬいぐるみのウサギと会話をした。
だがあれは現実だったのか。それとも夢だったのか。
もし夢だとすれば、とっくに忘れていてもおかしくはないのだが、今でも記憶の片隅にあった。そしてあの時のことを誰かに言えば夢を見たんだと言われたはずだ。
だが現実だったにしろ、夢であったにしろ、清らかな何かが宿ったぬいぐるみは、司のことを本気で心配していた。
そしてあの時ウサギが言った過去も想い出も何も持たない人間はからっぽだの言葉は正しいと思えるようになっていた。過去があるから未来がある。想い出があるから人は生きていけるのだ。
「ねえ司。三人の子供たちには沢山の想い出を作ってあげようね。この子たちが大人になっても思い出してもらえるような楽しい想い出を沢山作ってあげようね。未来も大切だけど大切な想い出があるってことはこの子たちの財産だもの」
「そうだな。人生は後ろへは戻れないんだからな」
「そうよ。だから子供たちの想い出作りは親であるあたしたちの役目でしょ?」
そう言って冷却シートが貼られた蓮の額に触れた手は、クルクルと巻いた髪の毛をそっと撫でた。そして何気なく言われたその言葉は親なら誰もが思うこと。
だがそのことに気付く親ばかりではないことを司は知っている。
「ああ分かってる。俺たちの仕事は子供たちが喜んで振り返れる想い出を作ってやることだ」
司はそう言うと妻の肩に手を回し、部屋を出ようと促した。
過去に戻る道はないが未来へ通じる道はある。
だが想い出があれば、過去の自分に戻ることは出来る。
あの頃の幼かった自分に。
そしてあの経験は、7歳の子供に許された僅かな時間が見せた幻だったとしても、あれは紛れもなく想い出。
そして想い出の向こう側にあるもの。それは未来。
だが毎日は昨日と同じ日が繰り返されるだけのことだとしても、それが幸せだということを今の司は知っている。そして過去の積み重ねの上にあるはずの未来が今以上に幸せであるようにと家族を守るのが司の役目だ。
そして、歴史に『もし(IF)』がないのと同じで人生ですでに起きたことや、済んでしまったことを変えることは出来ない。だが犯してしまった過ちを見つめることで今を変えること。未来を変えることは出来る。それは想い出があるから出来ることであり、それを持ち合わせていない人間に過去を振り返ることは出来ない。
だから司は妻に出会う前の自分を振り返る。あの時こうしていれば、という言葉は使いたくはないが、もし、という言葉で過去に戻れるなら酷い人間になるという司を守ってくれると言ったウサギを手放すことをしなかったはずだ。だが司は妻と出会って変わった。いや。妻が自分を変えてくれたと思っている。
司は静かに子供部屋を出ると妻の手を取った。
そしてふたりは微笑みを交し東の角部屋へと向かっていたが、今はあの時のウサギも夫婦の寝室であるその部屋で、神様から遣わされた想い出を管理するおもちゃとしての役割を終えたとばかり白い身体を休めていた。
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机の上でゆらりと前へ傾いたウサギのぬいぐるみが頷いたように見えたのは気のせいか。
いや違う。確かに「うん」と頷いた。だから飛び上がるほど驚いた。
そして後ろへ下がった司に対しウサギが話しかけてきた。
_うん。またこの部屋へ戻ってこれて嬉しいよ。僕はいつも君を見守って来たからね。それなのに忘れちゃうなんて酷いよ。でもダメだよ。タマさんの言う通りでまだ僕の役目は終わってないんだから。
信じられないことが起こっている。
これは夢ではないか。
司は目の前で喋るウサギのぬいぐるみに信じられない思いで目を擦った。そしてこれは夢ではないかと右耳を引っ張ってみた。今ここでこうしてウサギを前にしていることもだが、タマと喋ったことも夢ではないかと思った。だから目を擦ればウサギは消えていると思った。だが消えてはいなかった。そして引っ張った耳は痛く、これが夢ではないことを少年に教えた。だがやはり信じられなくて今度は暫く目をつむった。それは時間をかければ次に目を開けた時、ウサギは消えていて、何も無かったのではないかと思ったからだ。
だが目を開けた時もウサギはそこにいて司をじっと見つめていた。
_どうしてそんなに驚くんだい?さっきも言ったよね?
僕はいつも君を見守って来た。それに君は僕の手を離しちゃ駄目だよ。
少なくとも今はまだ駄目だよ。
ウサギは目を開けた司に、ひと息つくと深刻そうな口調で言葉を継いだ。
_司くん。君は僕の手を離すととんでもない大人になるんだ。
だからそうならないためにも、僕が君の傍にいなきゃならないと思ってる。
人は後悔すれば素敵な人になれるけど、君はこれからちょっと困った少年になるから後悔するかと言えばそれは無いんだ。司くんは自分の人生は敷かれたレールの上を走るしかない、そう思った瞬間からどんどん酷い人間になって行くんだ。でもそれは本当の君の姿じゃない。だから僕は君がそうならないようにしたい。何しろ人生は後ろへは戻れない。前に進むしかないんだからね。それに君がずっと酷い人間でいたら僕は悲しいからね。
ぬいぐるみのウサギが語りかける。
目を擦っても耳を引っ張っても消えないウサギに、はじめは驚いたが何故か不思議なことに怖いとは思わなかった。
だから司は、白いウサギが喋る様子をじっと見ていた。
だがウサギが話している内容は未来のことでよく分からなかった。
何しろ7歳の子供が未来のことを真剣に考えているはずもなく、たまに会う母親から将来あなたは社長になると言われればそうなのだろうと漠然と考えるしかなかった。
つまり7歳の少年にすれば、向かう先など分からなくても、この車に乗れと言われれば乗るしかないのだから。
_それからひとりの人間が死ぬまでに会う人の数は知れてるけど、司くんの場合は普通の人よりも多いんだ。でもそれは未来の司くんがどんな人生を送るかによると思うけどね。
それに司くんもいつか自分にとって大切な人に出会うけど、その人を悲しませないためにも僕が傍にいる必要があると思うよ。
ウサギは司の未来を見て来たように話をするが、司にすれば未来の話などどうでもよかった。それに7歳児に向かって、いつか大切な人と出会うと言われても意味が分からなかった。
だが興味はあった。自分が酷い人間になると言われたことを聞き流すことは出来なかった。
「お前は俺の未来を知っているのか?」
_そうだよ。だから僕は君から離れる訳にはいかないんだ。
だって司くんが酷い少年になる姿は見たくないからね。
それに僕を手放したら君にとっての大切な想い出を手放すことになるんだよ。
タマさんも言ったよね?君が熱を出して寝込んでいる時、僕はずっと君の枕元にいた。胸の中に抱きしめられたこともあった。でも大人になって行くにつれ僕のことを忘れてしまうのは仕方がないよ。おもちゃっていうのはそんなものだから。
でも今よりもっと幼かった司くんは僕のことを大切に思っていてくれたよ。
ウサギは司の目をじっと見つめ言葉を継いだ。
_それからね。何かを大切にしたことがある人間は、その何かに守られるんだ。
つまり楽しかった想い出に守られるんだよ。司くんの場合は僕だ。君は僕を大切にしてくれた。だから僕には司くんを守る役目がある。
それに想い出っていうのは、買おうと思っても買えない。自分の心の中にあるもので、他の人には分からない。それが自分を守ってくれるんだ。
それから司くんはおもちゃもだけど、欲しいものは何でも持ってるよね。でも沢山持ち過ぎると何が本当に大切な物か分からなくなってくるんだよ。そうじゃない?欲しいものを全部貰ったとしても幸せだって思えないこともあると思うんだ。
ウサギはそこで一旦口を噤んだ。
_司くん。君が今より大人になって来ると、君の周りには沢山の人が集まってくる。
でもその人たちは君のことが本当は好きじゃない。だけど好きなフリをして近づいてくるはずだ。それは君が持ってるものが欲しいから。君の外見が素敵だから。君が将来社長になるから近づいてくる。君のことが好きじゃなくても周りにある物に惹かれて近づいて来るんだ。それを知った君は酷い人間になってしまうんだ。
ウサギはそこで再び口を噤んだが、司にしてみれば、よく喋るウサギだなと思っていた。
_でもね。そんな君はある時恋をする。その人は真面目で貧しい女性。そんな女性を君はお金を使って自分の傍に置こうとする。だけどその人は君のことを蛇のような男だって嫌がって逃げるんだ。でも君はその女性のことが好きで自分の全てを与えたいと思うんだ。やがてその人と心が通じ合って幸せを感じるようになる。君はその人と出会えたことを本当に喜んでいた。だけど__
司はウサギから自分がどんな大人になるか聞かされながら、その女性のことを考えてみたが、ウサギが黙ってしまったことに何とはなしに訊いていた。
「それでその人とはどうなるんだ?」
_ある日その人を忘れてしまうんだ。でもそれは君のせいじゃない。
だけどそこから先の君は、昔の恋を忘れた君はたとえ欲しいものを全部手に入れたとしてもちっとも幸せじゃなくなる。幸せの言葉の意味すら忘れた人間になって心の中にあった人を愛する気持ちを忘れて生きていく。君の人生は虚無だらけの人生になる。そしてかつて恋をした女性に蛇のようだって言われた君は、蛇以上に恐れられる人間になってしまうんだ。
ウサギはそう言うとプラスチックで出来た赤い目を曇らせた。
_司くん。大人になるとみんなが言う言葉がある。それは人は想い出だけでは生きていけないと言う言葉。でも人は想い出がなければ生きてはいけない。人が生きていくことが出来るのは、過去があるからだ。何の想い出もない人間は空洞だよ。からっぽだよ。
空洞。からっぽ。
司は空洞の意味は分からなかったが、からっぽの意味は分かった。
だが人間がからっぽの意味が分からなかった。それでもウサギの話に口を挟むことはなく訊いていた。
_とにかく人は沢山の想い出があるから人生を送ることが出来るんだよ。そして人生の最期に頭を過るのは沢山の想い出の中から自分にとって忘れられないこと。だから僕はこれからの君の未来に相応しい想い出を沢山作ってあげようと思ってここにいるんだ。最期に良い人生だったって言ってもらえるようにね。でも君は僕のことを忘れてしまう。今よりもっと小さな頃はいつも君の傍に僕を置いてくれたのにね。
ウサギはそこまで言うと喋り出した時が突然だったと同じように、今度は突然黙り込んでしまった。
司はウサギが再び口を開くのではないかと暫く待った。だがウサギはそれきり口を開くことは無かった。
そしてその顔はどことなく悲しそうな顔に見えた。

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いや違う。確かに「うん」と頷いた。だから飛び上がるほど驚いた。
そして後ろへ下がった司に対しウサギが話しかけてきた。
_うん。またこの部屋へ戻ってこれて嬉しいよ。僕はいつも君を見守って来たからね。それなのに忘れちゃうなんて酷いよ。でもダメだよ。タマさんの言う通りでまだ僕の役目は終わってないんだから。
信じられないことが起こっている。
これは夢ではないか。
司は目の前で喋るウサギのぬいぐるみに信じられない思いで目を擦った。そしてこれは夢ではないかと右耳を引っ張ってみた。今ここでこうしてウサギを前にしていることもだが、タマと喋ったことも夢ではないかと思った。だから目を擦ればウサギは消えていると思った。だが消えてはいなかった。そして引っ張った耳は痛く、これが夢ではないことを少年に教えた。だがやはり信じられなくて今度は暫く目をつむった。それは時間をかければ次に目を開けた時、ウサギは消えていて、何も無かったのではないかと思ったからだ。
だが目を開けた時もウサギはそこにいて司をじっと見つめていた。
_どうしてそんなに驚くんだい?さっきも言ったよね?
僕はいつも君を見守って来た。それに君は僕の手を離しちゃ駄目だよ。
少なくとも今はまだ駄目だよ。
ウサギは目を開けた司に、ひと息つくと深刻そうな口調で言葉を継いだ。
_司くん。君は僕の手を離すととんでもない大人になるんだ。
だからそうならないためにも、僕が君の傍にいなきゃならないと思ってる。
人は後悔すれば素敵な人になれるけど、君はこれからちょっと困った少年になるから後悔するかと言えばそれは無いんだ。司くんは自分の人生は敷かれたレールの上を走るしかない、そう思った瞬間からどんどん酷い人間になって行くんだ。でもそれは本当の君の姿じゃない。だから僕は君がそうならないようにしたい。何しろ人生は後ろへは戻れない。前に進むしかないんだからね。それに君がずっと酷い人間でいたら僕は悲しいからね。
ぬいぐるみのウサギが語りかける。
目を擦っても耳を引っ張っても消えないウサギに、はじめは驚いたが何故か不思議なことに怖いとは思わなかった。
だから司は、白いウサギが喋る様子をじっと見ていた。
だがウサギが話している内容は未来のことでよく分からなかった。
何しろ7歳の子供が未来のことを真剣に考えているはずもなく、たまに会う母親から将来あなたは社長になると言われればそうなのだろうと漠然と考えるしかなかった。
つまり7歳の少年にすれば、向かう先など分からなくても、この車に乗れと言われれば乗るしかないのだから。
_それからひとりの人間が死ぬまでに会う人の数は知れてるけど、司くんの場合は普通の人よりも多いんだ。でもそれは未来の司くんがどんな人生を送るかによると思うけどね。
それに司くんもいつか自分にとって大切な人に出会うけど、その人を悲しませないためにも僕が傍にいる必要があると思うよ。
ウサギは司の未来を見て来たように話をするが、司にすれば未来の話などどうでもよかった。それに7歳児に向かって、いつか大切な人と出会うと言われても意味が分からなかった。
だが興味はあった。自分が酷い人間になると言われたことを聞き流すことは出来なかった。
「お前は俺の未来を知っているのか?」
_そうだよ。だから僕は君から離れる訳にはいかないんだ。
だって司くんが酷い少年になる姿は見たくないからね。
それに僕を手放したら君にとっての大切な想い出を手放すことになるんだよ。
タマさんも言ったよね?君が熱を出して寝込んでいる時、僕はずっと君の枕元にいた。胸の中に抱きしめられたこともあった。でも大人になって行くにつれ僕のことを忘れてしまうのは仕方がないよ。おもちゃっていうのはそんなものだから。
でも今よりもっと幼かった司くんは僕のことを大切に思っていてくれたよ。
ウサギは司の目をじっと見つめ言葉を継いだ。
_それからね。何かを大切にしたことがある人間は、その何かに守られるんだ。
つまり楽しかった想い出に守られるんだよ。司くんの場合は僕だ。君は僕を大切にしてくれた。だから僕には司くんを守る役目がある。
それに想い出っていうのは、買おうと思っても買えない。自分の心の中にあるもので、他の人には分からない。それが自分を守ってくれるんだ。
それから司くんはおもちゃもだけど、欲しいものは何でも持ってるよね。でも沢山持ち過ぎると何が本当に大切な物か分からなくなってくるんだよ。そうじゃない?欲しいものを全部貰ったとしても幸せだって思えないこともあると思うんだ。
ウサギはそこで一旦口を噤んだ。
_司くん。君が今より大人になって来ると、君の周りには沢山の人が集まってくる。
でもその人たちは君のことが本当は好きじゃない。だけど好きなフリをして近づいてくるはずだ。それは君が持ってるものが欲しいから。君の外見が素敵だから。君が将来社長になるから近づいてくる。君のことが好きじゃなくても周りにある物に惹かれて近づいて来るんだ。それを知った君は酷い人間になってしまうんだ。
ウサギはそこで再び口を噤んだが、司にしてみれば、よく喋るウサギだなと思っていた。
_でもね。そんな君はある時恋をする。その人は真面目で貧しい女性。そんな女性を君はお金を使って自分の傍に置こうとする。だけどその人は君のことを蛇のような男だって嫌がって逃げるんだ。でも君はその女性のことが好きで自分の全てを与えたいと思うんだ。やがてその人と心が通じ合って幸せを感じるようになる。君はその人と出会えたことを本当に喜んでいた。だけど__
司はウサギから自分がどんな大人になるか聞かされながら、その女性のことを考えてみたが、ウサギが黙ってしまったことに何とはなしに訊いていた。
「それでその人とはどうなるんだ?」
_ある日その人を忘れてしまうんだ。でもそれは君のせいじゃない。
だけどそこから先の君は、昔の恋を忘れた君はたとえ欲しいものを全部手に入れたとしてもちっとも幸せじゃなくなる。幸せの言葉の意味すら忘れた人間になって心の中にあった人を愛する気持ちを忘れて生きていく。君の人生は虚無だらけの人生になる。そしてかつて恋をした女性に蛇のようだって言われた君は、蛇以上に恐れられる人間になってしまうんだ。
ウサギはそう言うとプラスチックで出来た赤い目を曇らせた。
_司くん。大人になるとみんなが言う言葉がある。それは人は想い出だけでは生きていけないと言う言葉。でも人は想い出がなければ生きてはいけない。人が生きていくことが出来るのは、過去があるからだ。何の想い出もない人間は空洞だよ。からっぽだよ。
空洞。からっぽ。
司は空洞の意味は分からなかったが、からっぽの意味は分かった。
だが人間がからっぽの意味が分からなかった。それでもウサギの話に口を挟むことはなく訊いていた。
_とにかく人は沢山の想い出があるから人生を送ることが出来るんだよ。そして人生の最期に頭を過るのは沢山の想い出の中から自分にとって忘れられないこと。だから僕はこれからの君の未来に相応しい想い出を沢山作ってあげようと思ってここにいるんだ。最期に良い人生だったって言ってもらえるようにね。でも君は僕のことを忘れてしまう。今よりもっと小さな頃はいつも君の傍に僕を置いてくれたのにね。
ウサギはそこまで言うと喋り出した時が突然だったと同じように、今度は突然黙り込んでしまった。
司はウサギが再び口を開くのではないかと暫く待った。だがウサギはそれきり口を開くことは無かった。
そしてその顔はどことなく悲しそうな顔に見えた。

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「タマ!」
少年は部屋の扉を開くと名前を呼んだ。
だが返事は無かった。
タマの部屋は、少年の祖父が彼女のために建てた和室。
畳の部屋が二間あり、和箪笥が置かれ、ちゃぶ台が置かれた部屋は、冬になればそれがこたつに変わり、火鉢に火が入れられる。物が多いとは思わなかったが使用人という仕事柄掃除は得意だから部屋はいつもきれいに片付けられていた。
そして和箪笥の上には写真が飾られていて、傍には花が飾られていたが、写った人物はタマの旦那さんだった人で、戦争で亡くなったと教えてくれた。
この邸に50年勤めているというタマの手は姉と違い枯れ木のような手だが、その手が旦那さん、と言って写真を撫でる姿を見たことがあった。
少年は手にしたウサギのぬいぐるみを飾り棚の上に置かれている陶器のウサギの隣に置いたが、久し振りにこの部屋に来た少年が目を止めたのは、新たに置かれた緑色のカエルと豚の姿をした陶器の置物。
つまりそこには、ウサギが二匹とカエルと豚が並んでいるのだが、何故かそれが滑稽に思えた。だがウサギは仲間が出来て嬉しそうに見えた。
少年はよし。これでウサギは寂しくないはずだ。そう思うと背中を向け部屋を出ようとしたところで後ろから声をかけられた。
「坊ちゃん駄目ですよ。そのウサギの居場所はここではありません」
誰もいないと思っていた部屋から聞こえる声は、聞き慣れた老女の声。
びっくりした司は後ろを振り返った。
「坊ちゃん。そのウサギをここに置いて行っては駄目です。その子がいる場所は坊っちゃんのお部屋です」
老女はそう言うとウサギのぬいぐるみを棚から取ると少年に手渡した。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、このウサギは坊ちゃんがまだお小さい頃、熱を出していた坊ちゃんの枕元にタマが置いたものです。同じ動物でもここにあるウサギやカエルたちとは意味が違います。なにしろそのウサギは坊っちゃんの傍にいることが出来ないお母様がお求めになられたものですから」
少年の母親は彼が高熱を出した時も傍にいなかった。
そしてそう言ったタマは振り返ると陶器で出来た置物たちの説明を始めた。
「ウサギとカエルは貯金箱です。背中に穴が開いていてそこに小銭を入れて溜めます。坊っちゃんは小銭をご存知ですか?お札ではなく細かいお金のことですが、見たことがありますか?世の中の人間はお財布に溜まった小銭をコツコツ溜めることをします。その小銭を溜めるための入れ物を貯金箱と言います。そちらの陶器のウサギは前からありましたが、一杯になったので新しくカエルを買いました。それから豚は蚊やり豚という名前がついていて、お腹の中がこのように空洞になっているのは、ここに緑色のグルグル渦を巻いたものを入れて火を点け蚊を落とすためです」
タマはそこまで言うと司の手を取り諭すように言った。
「坊ちゃん。ここにいる動物の置物はみんな意味があってここにいます。ただの飾りものではありません。みんなタマに必要とされているからここにいる。でもそのウサギはタマが必要としているものではありません。ウサギを必要としているのは坊っちゃんのはずです。
この子は柔らかい布で出来ていて、ベッドで一緒に寝ることが出来るのはこの子だけですから。それにこの子は坊っちゃんを守ってくれます。母親というのは、本当はいつも子供の傍にいたいものです。でもお母様はそれが出来ません。だから自分の代わりにこの子を置いていったんですよ?」
確かに少年のおもちゃは、みなプラスチックや超合金といった固いもので出来ていて、布で出来たものは無かった。
だがこのウサギが母親から贈られたものであっても、初等部2年生の少年がウサギのぬいぐるみと一緒に寝ているなど恥ずかしいことだと思っている。
それに母親が自分の代わりにウサギを置いていくとはどう考えても信じられなかった。
「坊ちゃん。この子は坊っちゃんを守ってくれるはずです。この子はたとえ坊っちゃんがこの子の存在を忘れたとしても、可愛がってくれたことは忘れません。人形には魂がありますからね。だからこの子をどこかにやるということはお止め下さい。お部屋の隅でもいいんです。せめてもう少しだけ沢山あるおもちゃと一緒に置いてあげて下さい。そしていつかお部屋から全てのおもちゃが移される時が来たら、その時はこの子をタマの所へお持ち下さい。この子がまた必要とされる時までタマがお預かりしておきますから」
タマにそう言われた少年は、再びウサギを手にすると自分の部屋へ戻り、学習机の上にウサギを座らせた。そしてプラスチックで出来た赤い小さな目をじっと見つめた。するとウサギの顔が微笑んだように見えた。
「なんだよ。また俺の部屋に戻れて嬉しいのか?」
少年が問い掛けた瞬間ウサギがゆらりと前へ傾いた。

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少年は部屋の扉を開くと名前を呼んだ。
だが返事は無かった。
タマの部屋は、少年の祖父が彼女のために建てた和室。
畳の部屋が二間あり、和箪笥が置かれ、ちゃぶ台が置かれた部屋は、冬になればそれがこたつに変わり、火鉢に火が入れられる。物が多いとは思わなかったが使用人という仕事柄掃除は得意だから部屋はいつもきれいに片付けられていた。
そして和箪笥の上には写真が飾られていて、傍には花が飾られていたが、写った人物はタマの旦那さんだった人で、戦争で亡くなったと教えてくれた。
この邸に50年勤めているというタマの手は姉と違い枯れ木のような手だが、その手が旦那さん、と言って写真を撫でる姿を見たことがあった。
少年は手にしたウサギのぬいぐるみを飾り棚の上に置かれている陶器のウサギの隣に置いたが、久し振りにこの部屋に来た少年が目を止めたのは、新たに置かれた緑色のカエルと豚の姿をした陶器の置物。
つまりそこには、ウサギが二匹とカエルと豚が並んでいるのだが、何故かそれが滑稽に思えた。だがウサギは仲間が出来て嬉しそうに見えた。
少年はよし。これでウサギは寂しくないはずだ。そう思うと背中を向け部屋を出ようとしたところで後ろから声をかけられた。
「坊ちゃん駄目ですよ。そのウサギの居場所はここではありません」
誰もいないと思っていた部屋から聞こえる声は、聞き慣れた老女の声。
びっくりした司は後ろを振り返った。
「坊ちゃん。そのウサギをここに置いて行っては駄目です。その子がいる場所は坊っちゃんのお部屋です」
老女はそう言うとウサギのぬいぐるみを棚から取ると少年に手渡した。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、このウサギは坊ちゃんがまだお小さい頃、熱を出していた坊ちゃんの枕元にタマが置いたものです。同じ動物でもここにあるウサギやカエルたちとは意味が違います。なにしろそのウサギは坊っちゃんの傍にいることが出来ないお母様がお求めになられたものですから」
少年の母親は彼が高熱を出した時も傍にいなかった。
そしてそう言ったタマは振り返ると陶器で出来た置物たちの説明を始めた。
「ウサギとカエルは貯金箱です。背中に穴が開いていてそこに小銭を入れて溜めます。坊っちゃんは小銭をご存知ですか?お札ではなく細かいお金のことですが、見たことがありますか?世の中の人間はお財布に溜まった小銭をコツコツ溜めることをします。その小銭を溜めるための入れ物を貯金箱と言います。そちらの陶器のウサギは前からありましたが、一杯になったので新しくカエルを買いました。それから豚は蚊やり豚という名前がついていて、お腹の中がこのように空洞になっているのは、ここに緑色のグルグル渦を巻いたものを入れて火を点け蚊を落とすためです」
タマはそこまで言うと司の手を取り諭すように言った。
「坊ちゃん。ここにいる動物の置物はみんな意味があってここにいます。ただの飾りものではありません。みんなタマに必要とされているからここにいる。でもそのウサギはタマが必要としているものではありません。ウサギを必要としているのは坊っちゃんのはずです。
この子は柔らかい布で出来ていて、ベッドで一緒に寝ることが出来るのはこの子だけですから。それにこの子は坊っちゃんを守ってくれます。母親というのは、本当はいつも子供の傍にいたいものです。でもお母様はそれが出来ません。だから自分の代わりにこの子を置いていったんですよ?」
確かに少年のおもちゃは、みなプラスチックや超合金といった固いもので出来ていて、布で出来たものは無かった。
だがこのウサギが母親から贈られたものであっても、初等部2年生の少年がウサギのぬいぐるみと一緒に寝ているなど恥ずかしいことだと思っている。
それに母親が自分の代わりにウサギを置いていくとはどう考えても信じられなかった。
「坊ちゃん。この子は坊っちゃんを守ってくれるはずです。この子はたとえ坊っちゃんがこの子の存在を忘れたとしても、可愛がってくれたことは忘れません。人形には魂がありますからね。だからこの子をどこかにやるということはお止め下さい。お部屋の隅でもいいんです。せめてもう少しだけ沢山あるおもちゃと一緒に置いてあげて下さい。そしていつかお部屋から全てのおもちゃが移される時が来たら、その時はこの子をタマの所へお持ち下さい。この子がまた必要とされる時までタマがお預かりしておきますから」
タマにそう言われた少年は、再びウサギを手にすると自分の部屋へ戻り、学習机の上にウサギを座らせた。そしてプラスチックで出来た赤い小さな目をじっと見つめた。するとウサギの顔が微笑んだように見えた。
「なんだよ。また俺の部屋に戻れて嬉しいのか?」
少年が問い掛けた瞬間ウサギがゆらりと前へ傾いた。

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姉の部屋へ向かっていた少年は、途中何人かの使用人に出会った。
するとそのたび立ち止まって頭を下げられるが、いつものことで気に留めなかった。
生まれた時から見慣れたそこは、どこまで歩いても行き止まることがないのではと思える長い廊下。だから本当に行き止まることがないのかを確かめるため、廊下の端から端まで走ったことがあったが、いくら走っても左右の壁が途切れることはなく、やっぱり行き止まることは無いのかと思っていたが、やがて着いた場所は天井が高くシャンデリアがいくつも吊り下げられた広くがらんとした部屋だった。
そして廊下のテーブルに置かれた花瓶や壁に飾られている絵画は、少年でも描けるような線だけの絵だったり、溶けていく時計の絵だったり、黄色い大きなひまわりが描かれているものだったりするのだが、彼には価値があるようには思えなかった。
それよりも実物を正確に再現して作られたミニカーの方が少年にとっては価値があった。
そして将来は、そのミニカーの本物に乗ると決めていた。つい最近もスピードの出る本物のスポーツカーに乗せてもらったばかりで、景色が高速でどんどん後ろへ流れて行く様子に心臓がドキドキした。
だが今は手にしたウサギを姉の部屋へ持って行くことだけを考えていたが、それは家庭教師の1人から訊かされた話しを思い出していたからだ。
『ウサギは仲間がいないと寂しくて死ぬことがあります。
大勢の仲間と一緒に仲良く遊ぶのがウサギです』
そんな話を訊かされていたのだから、たとえそれがぬいぐるみで本物のウサギではなくても、早く仲間の元へ返してやろうと思っていた。
そしてその時、誰かに名前を呼ばれたような気がして振り返った。
だがそこには誰もおらず長い廊下が続いているだけで、気のせいだった。
「ねーちゃん。部屋にいるかな?」
少年の姉は中等部1年だ。
だがすでに高等部の勉強をしていて頭がいい。だから家庭教師は姉のことを凄いと褒める少年にとっては自慢の姉だ。
それに幼い頃いつも傍にいてくれたのは姉と使用人頭のタマだった。
そこで少年は思った。もしかすると姉は勉強しているかもしれない。もしそうなら邪魔をしてはいけない。すると少年の足は自ずと止まった。そして考えた。そうだタマの部屋へ持っていこう。タマならこのぬいぐるみを預かってくれるはずだ。それに確かタマの部屋には陶器で出来たウサギがあった。だからこのウサギも寂しくないはずだ。
そうだ。そうしよう。少年はそう決めると向かう先をタマの部屋へと変更するため回れ右をした。
するとその時、また誰かに名前を呼ばれたような気がして、少年は振り向くとあたりを見回した。だが廊下には誰もいなかった。
そして手にしたウサギのぬいぐるみに目を落とした。
するとウサギの目に何かを慈しみたいといった表情が浮かんだように思えたが、気のせいだと思った。ただのプラスチックの赤い目にそんなものが浮かぶはずもなく、そこには少年の顔が映っているだけだった。

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するとそのたび立ち止まって頭を下げられるが、いつものことで気に留めなかった。
生まれた時から見慣れたそこは、どこまで歩いても行き止まることがないのではと思える長い廊下。だから本当に行き止まることがないのかを確かめるため、廊下の端から端まで走ったことがあったが、いくら走っても左右の壁が途切れることはなく、やっぱり行き止まることは無いのかと思っていたが、やがて着いた場所は天井が高くシャンデリアがいくつも吊り下げられた広くがらんとした部屋だった。
そして廊下のテーブルに置かれた花瓶や壁に飾られている絵画は、少年でも描けるような線だけの絵だったり、溶けていく時計の絵だったり、黄色い大きなひまわりが描かれているものだったりするのだが、彼には価値があるようには思えなかった。
それよりも実物を正確に再現して作られたミニカーの方が少年にとっては価値があった。
そして将来は、そのミニカーの本物に乗ると決めていた。つい最近もスピードの出る本物のスポーツカーに乗せてもらったばかりで、景色が高速でどんどん後ろへ流れて行く様子に心臓がドキドキした。
だが今は手にしたウサギを姉の部屋へ持って行くことだけを考えていたが、それは家庭教師の1人から訊かされた話しを思い出していたからだ。
『ウサギは仲間がいないと寂しくて死ぬことがあります。
大勢の仲間と一緒に仲良く遊ぶのがウサギです』
そんな話を訊かされていたのだから、たとえそれがぬいぐるみで本物のウサギではなくても、早く仲間の元へ返してやろうと思っていた。
そしてその時、誰かに名前を呼ばれたような気がして振り返った。
だがそこには誰もおらず長い廊下が続いているだけで、気のせいだった。
「ねーちゃん。部屋にいるかな?」
少年の姉は中等部1年だ。
だがすでに高等部の勉強をしていて頭がいい。だから家庭教師は姉のことを凄いと褒める少年にとっては自慢の姉だ。
それに幼い頃いつも傍にいてくれたのは姉と使用人頭のタマだった。
そこで少年は思った。もしかすると姉は勉強しているかもしれない。もしそうなら邪魔をしてはいけない。すると少年の足は自ずと止まった。そして考えた。そうだタマの部屋へ持っていこう。タマならこのぬいぐるみを預かってくれるはずだ。それに確かタマの部屋には陶器で出来たウサギがあった。だからこのウサギも寂しくないはずだ。
そうだ。そうしよう。少年はそう決めると向かう先をタマの部屋へと変更するため回れ右をした。
するとその時、また誰かに名前を呼ばれたような気がして、少年は振り向くとあたりを見回した。だが廊下には誰もいなかった。
そして手にしたウサギのぬいぐるみに目を落とした。
するとウサギの目に何かを慈しみたいといった表情が浮かんだように思えたが、気のせいだと思った。ただのプラスチックの赤い目にそんなものが浮かぶはずもなく、そこには少年の顔が映っているだけだった。

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どの子供にも大切にしているおもちゃがあるはずだ。
だが少年にはそういったおもちゃが無かった。
いや無かったのではない。沢山ありすぎてたったひとつの大切な物を見つけることが出来なかったという方が正しいはずだ。
少年は裕福すぎるほど裕福な家に生まれ、誰もが羨む生活を送っていた。
我儘は我儘とは言われず、当たり前の行動として受け止められ、欲しいものがあれば直ぐに手に入れること出来た。だがその生活は決して楽しいとは言えず、家庭教師が何人もいる生活に自由は無かった。
「あなたはこの家の跡取りよ。将来は会社の社長になるの。そのためには今から学ぶべきことが沢山あるわ」
そう言った母親は忙しい人で傍にいることはなかった。
鉄の女と呼ばれている自分の母親はビジネス優先で、子供のことなどどうでもいいと思っているのか。彼の誕生日だろうと、高熱で苦しもうと傍にいることはなかった。
そんなあるとき少年は沢山のおもちゃの中から、ふわふわとした手触りの白いウサギのぬいぐるみを見つけた。
それは初めて見るぬいぐるみで、白いウサギにはプラスチックで出来た赤い小さな目がついていて、まっすぐ少年を見つめていた。
少年は思った。
おかしいな。こんなぬいぐるみ見た事ないぞ。いったい誰がここに置いたんだ?
それに少年は初等部2年生で、ぬいぐるみで遊ぶような年齢ではない。
ましてやウサギのぬいぐるみなど男の子が持つものではないと思っている。それなら彼の仲間の誰かが持ち込んだものなのか?だが彼の仲間たちの中には、ぬいぐるみで遊ぶような人間はいない。いやかつて類がクマのぬいぐるみを大切にしていたが、今はもう違う。
だとすれば、このぬいぐるみは一体誰のものなのか?だが少年はピンときた。
「そうか!これはねーちゃんのものだ!」
少年には姉がいて、こういったぬいぐるみを幾つか持っていたことを思い出した。
だが何故そのぬいぐるみがこの部屋にあるのか。ここは少年の部屋の奥にあるおもちゃが沢山置かれている小部屋。棚には超合金で出来た変形するロボットや航空機のミニチュア。そしてミニカーが数多く飾られている男の子らしい部屋だ。そんな金属やプラスチックのおもちゃの中にポツンと置かれていたウサギのぬいぐるみは、まったく雰囲気にそぐわない異質の存在で、ウサギも異空間に迷い込んだと感じているはずだ。
「ねーちゃん、なんでこのウサギ。こんなところに置いてったんだ?」
そう呟いた少年は、白いウサギを手に部屋を出た。

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だが少年にはそういったおもちゃが無かった。
いや無かったのではない。沢山ありすぎてたったひとつの大切な物を見つけることが出来なかったという方が正しいはずだ。
少年は裕福すぎるほど裕福な家に生まれ、誰もが羨む生活を送っていた。
我儘は我儘とは言われず、当たり前の行動として受け止められ、欲しいものがあれば直ぐに手に入れること出来た。だがその生活は決して楽しいとは言えず、家庭教師が何人もいる生活に自由は無かった。
「あなたはこの家の跡取りよ。将来は会社の社長になるの。そのためには今から学ぶべきことが沢山あるわ」
そう言った母親は忙しい人で傍にいることはなかった。
鉄の女と呼ばれている自分の母親はビジネス優先で、子供のことなどどうでもいいと思っているのか。彼の誕生日だろうと、高熱で苦しもうと傍にいることはなかった。
そんなあるとき少年は沢山のおもちゃの中から、ふわふわとした手触りの白いウサギのぬいぐるみを見つけた。
それは初めて見るぬいぐるみで、白いウサギにはプラスチックで出来た赤い小さな目がついていて、まっすぐ少年を見つめていた。
少年は思った。
おかしいな。こんなぬいぐるみ見た事ないぞ。いったい誰がここに置いたんだ?
それに少年は初等部2年生で、ぬいぐるみで遊ぶような年齢ではない。
ましてやウサギのぬいぐるみなど男の子が持つものではないと思っている。それなら彼の仲間の誰かが持ち込んだものなのか?だが彼の仲間たちの中には、ぬいぐるみで遊ぶような人間はいない。いやかつて類がクマのぬいぐるみを大切にしていたが、今はもう違う。
だとすれば、このぬいぐるみは一体誰のものなのか?だが少年はピンときた。
「そうか!これはねーちゃんのものだ!」
少年には姉がいて、こういったぬいぐるみを幾つか持っていたことを思い出した。
だが何故そのぬいぐるみがこの部屋にあるのか。ここは少年の部屋の奥にあるおもちゃが沢山置かれている小部屋。棚には超合金で出来た変形するロボットや航空機のミニチュア。そしてミニカーが数多く飾られている男の子らしい部屋だ。そんな金属やプラスチックのおもちゃの中にポツンと置かれていたウサギのぬいぐるみは、まったく雰囲気にそぐわない異質の存在で、ウサギも異空間に迷い込んだと感じているはずだ。
「ねーちゃん、なんでこのウサギ。こんなところに置いてったんだ?」
そう呟いた少年は、白いウサギを手に部屋を出た。

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司はつくしが働き始めたホームセンターに顔を出すのは今日で5日目。
だが妻がここで働き始めて6日経っていた。
来ることが出来なかった1日というのは初めの1日だけ。何をバカなことを。いきなり近くのホームセンターでパートタイムで週3日働くと言い出した時は冗談だと思っていた。
それにすぐに辞めると高を括っていた。そして当然だが周りは驚いた。
道明寺つくしとなった女がパートで働く?誰がそんなことを考える?
どう考えてもまともだとは思わないはずだ。だが本気だと気付いたのは2日目の朝。
司が出かける支度を終える頃、同じように出かける支度をしている妻の顔は確固たる決意を持っていた。だからすぐにそのホームセンターに手を回し、旧姓で雇われた女が誰であるかを告げ身分を明らかにしてボディーガードを配置した。
それに働きたいなら財閥の仕事をすればいい。彼女がやりたいと望む仕事ならどんなものでも用意してやることが出来る。だがホームセンターがいいと言った妻の意図は今では十分理解していた。
ゼウスにお嫁さんを、と言った妻の言葉にいいぞと言えなかった男は、何故あの時ダメだと言ってしまったのか。
それは売り言葉に買い言葉。
「俺よりゼウスの方が大切なのか?」
「ええそうよ。司よりゼウスの方が可愛いわよ。それにゼウスを去勢したら子供が出来なくなるじゃない。彼の人生を奪わないでよ!」
「ゼウスはヤリたい年頃だ。お前があの犬を甘やかすから付け上がってんだ!」
「付け上がってなんかないわよ。私とゼウスは相性がいいのよ!あの子がああいった行動を取るのは嬉しいからよ。….それにお嫁さんがいれば違うわよ!」
それにしても犬を去勢することで喧嘩になった夫婦というのが世の中にいるのだろうか。
だがこの喧嘩の原因が犬の去勢についてではないことを二人は知っていた。
「赤ちゃんが欲しい」
それが彼女の望み。
一晩で何度ものぼり詰めるようなセックスをしていたが、まだ子供は出来なかった。
非常に矛盾する話だが、牧野つくしと出会うまで結婚など考えたことなどなかった男は、当然だが子供のことなど考えたこともなかった。だが結婚し、それまでの考え方やライフスタイルが変われは、すればすぐにでも子供が出来ると思っていた。
だが1年近く経つがその気配が見られなければ不妊を疑うのは当然で、妊娠の可能性は35歳で急激に下がると言われているが、34歳で結婚した女はゼウスを去勢すると言ったとき、彼の人生を奪わないでと言ったが、その言葉に含まれた彼女の思いを理解出来ない訳ではなかった。
子供が出来るチャンスがあるなら与えてあげたいと思う女が、ゼウスの子供が生まれることで、寂しさを紛らわそうとしているのではないか。
そして道明寺という家に嫁いだ女は自分が存在する意味を考えたとき、子供が出来ないことに申し訳ないといった気持ちを持っている。
そして由緒ある家なら言われる血縁の絶対化。つまり血の繋がりを考えている妻が夫の子供を宿すことが出来ないことを悩み始めていることは気付いていた。
だが妻だけに責任があるとは言えない。不妊の原因の3割は夫にあると言われているからだ。
どことなく感じていた妻の家族に対する思い。
犬と言えど今では家族の一員のようにゼウスを可愛がっている妻にすれば、犬でもいいから家族が増えることを望んでいる。そう考えてもおかしくはないはずだ。
だから司は彼女の気持を汲んでやるつもりでここに来た。
売れずに残っているメスのドーベルマンを買い、ゼウスの妻として迎え入れるつもりでここに来た。
「つくし。お前の気持は分かった。ゼウスに嫁さんをって気持ちは分かった。だからここのペットショップにいるドーベルマンをゼウスに連れて帰ってやろう。あいつを去勢することはしない。あいつにも家族を持たせてやればいい。何匹でも仔犬を産めばいい」
司はそう言ったが、しゃがみ込んだ姿勢の女は顏を上げることはなく苗が入ったポットを並べていた。
「つくし。悪かった。俺が悪かった。お前にとって、いや俺たちにとってゼウスは大切な家族の一員だっていう思いは十分理解しているつもりだ。それなのに去勢すればいいと言った俺が悪かった。あいつは家族だ。それに俺がいない間いつもお前の傍にいてお前を守ろうとしているあいつは立派な番犬だ。自分の役割を心得た立派な犬だ」
司が長い出張に出たとき、妻が同行することもあったが、世田谷の邸で待つことが殆どだ。そんなとき傍にいたのはゼウスだ。
司は妻の現状に向き合っているつもりだったが、子供が出来なことをふたりで真剣に話し合ったことはなかった。だから伝えていなかった。たとえふたりに子供が出来なかったとしても愛している、愛し合っていることに変わりはないのだから、ふたりの遺伝子が受け継がれなくてもいいと思っていた。ふたりで同じ人生を歩むことが重要であり、生命の誕生は自分たちの存在があってのことであり、子供を誕生させることが運命として背負わされているのではないということを伝えたかった。
「つくし…..」
そう言いかけたとき、しゃがんでいた妻が立ち上がり司の方を見た。
「司。私ね、私たちの間に赤ちゃんが出来ないのは私のせいだって思ってる。私たちの組み合わせが悪いんだと思えてならないの。だから私じゃなくって他の人。若い女性なら違うような気がする。このままじゃ司の跡を継ぐ人間がいなくなっちゃう。そのことを考えたらお母様に申し訳なく感じるの。それに司にも申し訳ないと思えるの」
そこで言葉は途切れ、そして瞳はいつもより弱々しく司を見ていた。
「つくし。俺たちは子供がいなけりゃどうにかなるような関係じゃないはずだ。それにそんなに真剣に考えるな。もっと気楽に思えばいい。お前は俺と結婚したんであって家と結婚したんじゃねぇだろ?お前は子供を産むための機械じゃない。それにたとえお前がおっぱい一個になったとしても俺は全然構わねぇ。もしそうなったとしても、その姿で何十年でも一緒いたいと思う。いいか?俺はお前という人間と結婚したんであって一緒に過ごせることが幸せだと思ってる。実際俺たちは今までそれで良かったろ?だから子供のことは気にするな。子供がいることが人生の全てじゃないはずだ」
司は結婚するまで夫婦としての在り方といったものが何であるかなど考えたことがなかった。だがそれはどこの男も同じはずだ。だが今は違う。夫婦のどちらかが精神的に満たされていない状況で過ごすことがいいはずがない。だからその状況を改善するためならどんなことでもすると決めていた。そして今は自分の思いが妻の心に届いてくれることを祈った。
「男と女の関係は家族になったとしても変わらないはずだ。子供を産むことだけが本当の夫婦になることじゃないはずだ。それに子供がいなくても深い絆で結ばれている夫婦はいる。子供がいなきゃふたりの間に安定化が図れない夫婦ならそれは夫婦じゃないはずだ」
そこまで言って司は黙って自分を見つめる女に、
「もし誰かにお子さんはって言われたら、余計なお世話だって言ってやれ」
と吐き捨てるように言って今度は優しく言葉を継いだ。
「子供のいない夫婦の在り方を他人に指図されるつもりはない。それに子供を間に挟まなくても夫婦として、男と女として一対一で向かい合うことが出来ることは悪いことじゃないはずだ。だから子供のことは気にするな。お前はお前でいてくれればそれでいい」
その言葉に曇っていた表情がわずかに和らいだのが感じられた。
そしてその顏には話し始めた時と違って幸福感が感じられ、口を開いた女は「うん」と言って小さく頷いたが、それは彼の言葉が妻の心に届いた証拠。そんな妻を司はぎゅっと抱きしめたが、胸に押し付けられた顔からは涙が流れていた。
そして暖かい小さな身体は背中を撫でる夫の手のやさしさに、こらえていたものを吐き出していた。
「あきらさん。どうやら大人の喧嘩は終わりを迎えたようです」
「お!そうだな。それにしてもホームセンターであの二人が抱き合う姿を見るとは思わなかったな。それにどんな会話が交わされたか知らねぇけど、司がやることは相変わらず派手だ。見ろよアレ。彼女を抱上げたぞ。おいおい。あのまま車まで行くようだぞ?今日の彼女の仕事はどうなるんだ?」
あきらが見つめる先にいるふたりは番(つがい)のオオカミよろしく互いの顔を突き合わせじゃれ合っているように見えた。そして妻を抱いた男はボディーガードたちを従え堂々とした足取りであきらと桜子の視界から消えた。
戌の日の水天宮の境内は、大勢の参拝客でごった返していた。
そんな中、本殿の前で背の高さと美貌がひと際目立つ男が手を合せていた。
妻が妊娠していることが分かったのは、ゼウスの花嫁のキナコが妊娠していることが分かったのとほぼ同じ。犬は安産の神様と言われているが、どうやらキナコが二人に赤ん坊を運んで来てくれたようだ。そしてキナコは7匹の仔犬を産んだ。
司は合掌を解くと、隣に立つ妻に目をやったが、まだ手を合せ瞑目している妻は我が子が丈夫で安全に生まれることを祈っていた。
妊娠5ヶ月の戌の日に行われた安産祈願。
晴れた休日の空に輝く太陽は、手を取り合い境内を歩く二人の姿を柔らかく包んでいた。
< 完 >

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だが妻がここで働き始めて6日経っていた。
来ることが出来なかった1日というのは初めの1日だけ。何をバカなことを。いきなり近くのホームセンターでパートタイムで週3日働くと言い出した時は冗談だと思っていた。
それにすぐに辞めると高を括っていた。そして当然だが周りは驚いた。
道明寺つくしとなった女がパートで働く?誰がそんなことを考える?
どう考えてもまともだとは思わないはずだ。だが本気だと気付いたのは2日目の朝。
司が出かける支度を終える頃、同じように出かける支度をしている妻の顔は確固たる決意を持っていた。だからすぐにそのホームセンターに手を回し、旧姓で雇われた女が誰であるかを告げ身分を明らかにしてボディーガードを配置した。
それに働きたいなら財閥の仕事をすればいい。彼女がやりたいと望む仕事ならどんなものでも用意してやることが出来る。だがホームセンターがいいと言った妻の意図は今では十分理解していた。
ゼウスにお嫁さんを、と言った妻の言葉にいいぞと言えなかった男は、何故あの時ダメだと言ってしまったのか。
それは売り言葉に買い言葉。
「俺よりゼウスの方が大切なのか?」
「ええそうよ。司よりゼウスの方が可愛いわよ。それにゼウスを去勢したら子供が出来なくなるじゃない。彼の人生を奪わないでよ!」
「ゼウスはヤリたい年頃だ。お前があの犬を甘やかすから付け上がってんだ!」
「付け上がってなんかないわよ。私とゼウスは相性がいいのよ!あの子がああいった行動を取るのは嬉しいからよ。….それにお嫁さんがいれば違うわよ!」
それにしても犬を去勢することで喧嘩になった夫婦というのが世の中にいるのだろうか。
だがこの喧嘩の原因が犬の去勢についてではないことを二人は知っていた。
「赤ちゃんが欲しい」
それが彼女の望み。
一晩で何度ものぼり詰めるようなセックスをしていたが、まだ子供は出来なかった。
非常に矛盾する話だが、牧野つくしと出会うまで結婚など考えたことなどなかった男は、当然だが子供のことなど考えたこともなかった。だが結婚し、それまでの考え方やライフスタイルが変われは、すればすぐにでも子供が出来ると思っていた。
だが1年近く経つがその気配が見られなければ不妊を疑うのは当然で、妊娠の可能性は35歳で急激に下がると言われているが、34歳で結婚した女はゼウスを去勢すると言ったとき、彼の人生を奪わないでと言ったが、その言葉に含まれた彼女の思いを理解出来ない訳ではなかった。
子供が出来るチャンスがあるなら与えてあげたいと思う女が、ゼウスの子供が生まれることで、寂しさを紛らわそうとしているのではないか。
そして道明寺という家に嫁いだ女は自分が存在する意味を考えたとき、子供が出来ないことに申し訳ないといった気持ちを持っている。
そして由緒ある家なら言われる血縁の絶対化。つまり血の繋がりを考えている妻が夫の子供を宿すことが出来ないことを悩み始めていることは気付いていた。
だが妻だけに責任があるとは言えない。不妊の原因の3割は夫にあると言われているからだ。
どことなく感じていた妻の家族に対する思い。
犬と言えど今では家族の一員のようにゼウスを可愛がっている妻にすれば、犬でもいいから家族が増えることを望んでいる。そう考えてもおかしくはないはずだ。
だから司は彼女の気持を汲んでやるつもりでここに来た。
売れずに残っているメスのドーベルマンを買い、ゼウスの妻として迎え入れるつもりでここに来た。
「つくし。お前の気持は分かった。ゼウスに嫁さんをって気持ちは分かった。だからここのペットショップにいるドーベルマンをゼウスに連れて帰ってやろう。あいつを去勢することはしない。あいつにも家族を持たせてやればいい。何匹でも仔犬を産めばいい」
司はそう言ったが、しゃがみ込んだ姿勢の女は顏を上げることはなく苗が入ったポットを並べていた。
「つくし。悪かった。俺が悪かった。お前にとって、いや俺たちにとってゼウスは大切な家族の一員だっていう思いは十分理解しているつもりだ。それなのに去勢すればいいと言った俺が悪かった。あいつは家族だ。それに俺がいない間いつもお前の傍にいてお前を守ろうとしているあいつは立派な番犬だ。自分の役割を心得た立派な犬だ」
司が長い出張に出たとき、妻が同行することもあったが、世田谷の邸で待つことが殆どだ。そんなとき傍にいたのはゼウスだ。
司は妻の現状に向き合っているつもりだったが、子供が出来なことをふたりで真剣に話し合ったことはなかった。だから伝えていなかった。たとえふたりに子供が出来なかったとしても愛している、愛し合っていることに変わりはないのだから、ふたりの遺伝子が受け継がれなくてもいいと思っていた。ふたりで同じ人生を歩むことが重要であり、生命の誕生は自分たちの存在があってのことであり、子供を誕生させることが運命として背負わされているのではないということを伝えたかった。
「つくし…..」
そう言いかけたとき、しゃがんでいた妻が立ち上がり司の方を見た。
「司。私ね、私たちの間に赤ちゃんが出来ないのは私のせいだって思ってる。私たちの組み合わせが悪いんだと思えてならないの。だから私じゃなくって他の人。若い女性なら違うような気がする。このままじゃ司の跡を継ぐ人間がいなくなっちゃう。そのことを考えたらお母様に申し訳なく感じるの。それに司にも申し訳ないと思えるの」
そこで言葉は途切れ、そして瞳はいつもより弱々しく司を見ていた。
「つくし。俺たちは子供がいなけりゃどうにかなるような関係じゃないはずだ。それにそんなに真剣に考えるな。もっと気楽に思えばいい。お前は俺と結婚したんであって家と結婚したんじゃねぇだろ?お前は子供を産むための機械じゃない。それにたとえお前がおっぱい一個になったとしても俺は全然構わねぇ。もしそうなったとしても、その姿で何十年でも一緒いたいと思う。いいか?俺はお前という人間と結婚したんであって一緒に過ごせることが幸せだと思ってる。実際俺たちは今までそれで良かったろ?だから子供のことは気にするな。子供がいることが人生の全てじゃないはずだ」
司は結婚するまで夫婦としての在り方といったものが何であるかなど考えたことがなかった。だがそれはどこの男も同じはずだ。だが今は違う。夫婦のどちらかが精神的に満たされていない状況で過ごすことがいいはずがない。だからその状況を改善するためならどんなことでもすると決めていた。そして今は自分の思いが妻の心に届いてくれることを祈った。
「男と女の関係は家族になったとしても変わらないはずだ。子供を産むことだけが本当の夫婦になることじゃないはずだ。それに子供がいなくても深い絆で結ばれている夫婦はいる。子供がいなきゃふたりの間に安定化が図れない夫婦ならそれは夫婦じゃないはずだ」
そこまで言って司は黙って自分を見つめる女に、
「もし誰かにお子さんはって言われたら、余計なお世話だって言ってやれ」
と吐き捨てるように言って今度は優しく言葉を継いだ。
「子供のいない夫婦の在り方を他人に指図されるつもりはない。それに子供を間に挟まなくても夫婦として、男と女として一対一で向かい合うことが出来ることは悪いことじゃないはずだ。だから子供のことは気にするな。お前はお前でいてくれればそれでいい」
その言葉に曇っていた表情がわずかに和らいだのが感じられた。
そしてその顏には話し始めた時と違って幸福感が感じられ、口を開いた女は「うん」と言って小さく頷いたが、それは彼の言葉が妻の心に届いた証拠。そんな妻を司はぎゅっと抱きしめたが、胸に押し付けられた顔からは涙が流れていた。
そして暖かい小さな身体は背中を撫でる夫の手のやさしさに、こらえていたものを吐き出していた。
「あきらさん。どうやら大人の喧嘩は終わりを迎えたようです」
「お!そうだな。それにしてもホームセンターであの二人が抱き合う姿を見るとは思わなかったな。それにどんな会話が交わされたか知らねぇけど、司がやることは相変わらず派手だ。見ろよアレ。彼女を抱上げたぞ。おいおい。あのまま車まで行くようだぞ?今日の彼女の仕事はどうなるんだ?」
あきらが見つめる先にいるふたりは番(つがい)のオオカミよろしく互いの顔を突き合わせじゃれ合っているように見えた。そして妻を抱いた男はボディーガードたちを従え堂々とした足取りであきらと桜子の視界から消えた。
戌の日の水天宮の境内は、大勢の参拝客でごった返していた。
そんな中、本殿の前で背の高さと美貌がひと際目立つ男が手を合せていた。
妻が妊娠していることが分かったのは、ゼウスの花嫁のキナコが妊娠していることが分かったのとほぼ同じ。犬は安産の神様と言われているが、どうやらキナコが二人に赤ん坊を運んで来てくれたようだ。そしてキナコは7匹の仔犬を産んだ。
司は合掌を解くと、隣に立つ妻に目をやったが、まだ手を合せ瞑目している妻は我が子が丈夫で安全に生まれることを祈っていた。
妊娠5ヶ月の戌の日に行われた安産祈願。
晴れた休日の空に輝く太陽は、手を取り合い境内を歩く二人の姿を柔らかく包んでいた。
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