最悪の精神状態だった一週間前の日曜。
それから風邪をひき会社を休み、その間に色々と考えた。考えながら傷口を舐めた。
出社して道明寺司と話しをしたが、今度は姪の白石美奈が会いに来た。
用件を訊けば、先日のことを謝りたいと言った。
会うべきか。会わざるべきか。インターフォン越しに話を済ませることも出来た。
だが少し間を置き答えたのは、「どうぞお入り下さい」だった。
つくしはスリッパを揃え、彼女を中に通した。
「どうぞ座って下さい」
と言ってダイニングルームのテーブルに美奈を案内したつくしは、美奈の姿を見て随分と雰囲気が違うと感じていた。
つまりそこにいるのは、1週間前とまったく印象が異なる女性だった。
パールグレーのスーツを着た白石美奈は、あの時の優越感を感じさせた態度はなく、今は緊張した様子でダイニングテーブルを前に向かい合わせで座っているが、長かった黒髪は短くカットされ、つくしのそれと殆ど変わらなかった。
そしてあの時は赤く塗られていた爪も、淡いピンク色が塗られ、化粧は薄く清楚なお嬢様といった雰囲気を漂わせていた。だが実際彼女は道明寺司の姪なのだから、お嬢様であることは間違いなく、その美貌から化粧などしなくても存在感は十分あった。
そして左手の薬指に嵌っていた結婚指輪と思われた銀の輪は外されていた。
お茶を淹れテーブルに運んだ。
お茶を出したのは、家に上げた以上何も出さないのは失礼だからといった気持ちがあったからで、それにいきなり話始めるよりも、何らかの動作を挟むことで気持ちを落ち着けようと思ったからだ。そしてつくしは、自分の家なのに美奈が感じているのと同じで緊張していた。
だが、訪ねて来たのはお詫びをしたいと言った美奈の方なのだから、つくしが緊張する必要はない。しかし、そう思っても緊張を感じてしまうのは、叔父と姪の関係だが美奈の中に道明寺司の面影を探してしまうからなのか。そして似ているところを探してしまうのは、まだ心は癒えてないということなのだろう。そんな風に考えていると美奈が口を開いた。
「牧野さん、突然押しかけてしまって申し訳ございません。それにこうして会ってくれてありがとうございます。私はとんでもない間違いを犯していたことに気付きました。あなたは夫の浮気相手ではありませんでした。本当に申し訳ございませんでした」
と言った美奈は、立ち上がると床に正座をして両手を床につき頭を下げた。
「あなたのことが憎かったんです。あなたを訪ねていった会社で夫など知らないと無視されたことに腹が立ったんです。だから叔父に頼んだんです。あなたを懲らしめる目的で誘惑して欲しいと。弄んで捨てて欲しいと頼んだんです。それにあなたが叔父と付き合うようになれば夫は私の元へ戻ってくると思ったんです。本当ごめんなさい。夫の浮気相手はあなただと、あなただと信じていたんです。でも夫の相手は違ったんです」
若い女性が土下座をする姿というのを見た事があるのかと問われれば、即座にないと答えることが出来る。だがそれ以前に誰かに土下座をされ謝られたことはなかった。
それにしても美奈という女性は自分が望むことは、どんな手段を用いても叶えたいといった思いが強いこともだが、逆に自分に非があると認めれば、こうして謝りに来ると躊躇わずに土下座をすることが出来るとは思いもしなかった。
そして、腹の据わったと言ってもいい潔さは、恋は終わったと言った時の自分とどこか似た所があるように感じられた。
「あの、あなたの気持は分かりましたから顔を上げて下さい」
つくしは、悪かったと謝る人間を上から足蹴にするつもりはない。
それにいつまでも頭を下げたままでいる若い女性を見るのは忍びないと感じていた。
そして足元にひれ伏している人間とでは話など出来るはずもなく、顔を上げて欲しい。椅子に座って欲しいと言った。
「牧野さん。本当にすみませんでした」
椅子に座るように言われた美奈は立ち上がり腰を下ろすとつくしの顔をじっと見つめたが、その表情は女子高校生が担任に叱られたような顔に見えた。
だが思えば白石美奈はまだ二十歳。いくら大人っぽく見え結婚しているからと言っても、つくしからすれば、15の年の差は子供と言ってもおかしくはなく、よく見れば愛らしいとも言える。そしてその顔には、夫の浮気には全く関係の無かったつくしに対して悪いことをしたという後悔がありありと現れていた。
「あなたに叔父のことを話した後、母が…母は普段ロスで生活をしているんですが、その母が来たんです。それは私の夫が浮気をしていると叔父から訊いたからです。でもそれとは別に私が浮気相手に計略を巡らせたことを叱るためでもあったんです。叔父は私のあなたに対する計略を母に話していました。それを訊いた母は馬鹿なことをと叔父を叱ったそうです。でも頼んだのは私です。私が叔父の私に対する愛情を利用したんです。だから叔父を道明寺司を許してあげて下さい」
美奈はそう言って再び頭を下げた。
そして顔を上げたが、愛らしいと感じたその顔は、相手に自分の思いを分かってもらいたいという強い意志が感じられる顔。
「叔父は本気であなたを好きになりました。あの喫茶店で私があなたに私のたくらみを話した時、走り込んで来た叔父の姿は本当に慌てていました。私が喋ろうとした言葉を一喝するように遮った時、叔父はあなたに偽りの恋を仕掛けたことを知られたくなかった。叔父は本当にあなたのことが好きになっていたから訊かせたくなかったことが分かりました。
私は今まで叔父に怒られたことはありませんでした。叔父は本当に優しい人で叱られたことはありませんでした。私はその叔父の優しさを利用したんです。叔父なら私の願いを叶えてくれると思ったんです。そして実際に願いを叶えてくれました。でもそれは、叔父の心の中、心の奥にあった人を愛する気持ちに火を付けたということだと思います。ご存知のように叔父はあの外見でお金持ちですから、女性はいくらでも寄って来ます。目当ては叔父のお金や外見です。だから本気の恋などしたことがありません。その叔父があの時私に向かって腹を立てた姿は牧野さんを本当に好きになっていたからです」
そこで美奈は、失礼します。と言って出されていたお茶を口にした。
そして、美味しいですね。と言い言葉を継いだ。
「牧野さん。私は私に向かって声を荒げる叔父の態度が想像できませんでした。だから私は余程酷いことをしたんだと分かったんです。叔父の恋を駄目にしようとしたんだと.....。
牧野さん、叔父は悪くありません。頼んだのは私です。叔父があなたのことを好きな気持ちは本物です。叔父はそれに気づいたとき、あなたに嘘をついて近づいたことに後ろめたさを感じたはずです」
美奈の話は嘘を言っているようには思えなかった。
それでも分かったわ、と言って美奈の思いを汲むことは簡単ではなかった。
そして逆に訊きたかった。
浮気をされた美奈の左手の薬指に指輪はなかったが、離婚をする方向で話しが進んでいるのだろうか。相手は女性ではなく同性だと訊いた。となるとショックを受けているはずだ。
そして美奈がつくしに対してここまで踏み込んで来るなら、彼女の夫に対する思いを知りたいと思った。それに相手はつくしの住むマンションの管理人だと訊いたが、その場所に足を踏み入れたことをどう感じるのか。
つくしは不快な思いをいつまでも引きずる性格ではない。
それは子供の頃からそうだったが、非を認めた人間をいつまでも責めることもしない。
そして何故か美奈という人間が憎めなかった。だが桜子に言わせれば、先輩は人を簡単に許し過ぎですと言われるかもしれないが、美奈に対しては何故か保護者めいた気持ちで訊いていた。
「あの。あなたはご自分の叔父様の事ばかり心配されてますが、ご自身の結婚についてはいいんですか?あなたは私を夫の浮気相手だと思い引き離そうとしました。でも結局それは間違いで本当の相手は別にいた。その人についてはどうするんですか?」
その質問に美奈は一瞬だけ言葉に詰まった。
だがすぐに口を開いた。
「叔父から訊いてもうご存知ですよね?夫の相手は男性でこのマンションの管理人でした。このマンションに出入りしている姿を写真に撮られたことがありますが、その人に会いに来ていたんです。それに週末はゴルフだと言って出かけることも多かったんですが、その人と会っていたそうです。男同士でゴルフですから誰も怪しむことはないですしね。それから夫はその人とは別れられないと言いました。それに相手が男性だと分かったことで夫の性癖も知ったんですからやり直すことは無理です。別れます。もう一緒に暮らしていません。細かいことは弁護士を立てていますので、彼らがしてくれることになっています」
若くして結婚して夫に浮気をされる。そのことだけでも傷付くはずだが、浮気相手が男だったことにショックを受けたことは間違いないが、美奈の口調は意外とさばさばとしていた。
「相手が女なら取り戻してやろうと思いました。でも男ですからね?無理だと思いました。ここの管理人ですから牧野さんはご存知だと思いますが、真面目な人のようですし、夫も…白石も真剣ですから私たちが元に戻ることはありません。でも初めは驚きました。まさかって….。ご存知かもしれませんが私たちの結婚は私が彼を好きになってどうしてもと18歳で結婚したんです。母からは大学を卒業してからでもいいじゃない。待てないのと言われました。でも結婚出来なかったら駆け落ちするって言ったんです。それにどちらかと言えば私が押せ押せで結婚したようなものでしたから。今考えれば我儘な面も多かったと思います。難しいですね。結婚って」
美奈は、そこまで言うと笑った。
そして何故か急につくしのことをまるで親戚の姉のような態度で接し始めた。
つまりつくしの名前を名字ではなく、とても親しげに名前で呼んだ。
「つくしさん。やっぱり18での結婚って早すぎたってことですか?」
それならとつくしも、
「美奈さん。結婚だけが人生じゃないわ。それに若くして結婚生活に失敗したからって人生が終わる訳じゃないし、あなたはまだ若いでしょ?私は結婚したことがないから偉そうなことは言えないし、いいアドバイスも出来ないけど、生きていれば色んなことがある訳で、こんな言い方が正しいのか分からないけど他人が経験したことがないようなことを経験したって思うしかないわね?私なんて年だけはいってるけど、あなたのような経験はしたことないもの。男に好きな人を取られるなんて!」
と、たっぷりと嫌味を含ませた言葉で返したが、言われた美奈は気にしていないようで、逆にその言い方を面白がっていた。
「言いますね?つくしさんって面白い人ですね?そうですよね、男に男を取られるなんてそうそうある経験じゃないですよね?つくしさんって真面目そうに見えて面白い人ですね!なんだかつくしさんとは友達になれそうな気がする。うんうん違う。私弟が二人いるんです。長女なんです。でもお姉さんが欲しかったんです。だから私のお姉さんになって下さい」
それにしても、わだかまりというものは消える時はあっという間に消えるものなのか。
感情をストレートに出すことが出来る若い女性は、話しが出来て本当によかったです。ありがとうございました。と言って帰ったが、年上の女は年下の女を見送ったあと、少しだけ困惑して苦笑していた。

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それから風邪をひき会社を休み、その間に色々と考えた。考えながら傷口を舐めた。
出社して道明寺司と話しをしたが、今度は姪の白石美奈が会いに来た。
用件を訊けば、先日のことを謝りたいと言った。
会うべきか。会わざるべきか。インターフォン越しに話を済ませることも出来た。
だが少し間を置き答えたのは、「どうぞお入り下さい」だった。
つくしはスリッパを揃え、彼女を中に通した。
「どうぞ座って下さい」
と言ってダイニングルームのテーブルに美奈を案内したつくしは、美奈の姿を見て随分と雰囲気が違うと感じていた。
つまりそこにいるのは、1週間前とまったく印象が異なる女性だった。
パールグレーのスーツを着た白石美奈は、あの時の優越感を感じさせた態度はなく、今は緊張した様子でダイニングテーブルを前に向かい合わせで座っているが、長かった黒髪は短くカットされ、つくしのそれと殆ど変わらなかった。
そしてあの時は赤く塗られていた爪も、淡いピンク色が塗られ、化粧は薄く清楚なお嬢様といった雰囲気を漂わせていた。だが実際彼女は道明寺司の姪なのだから、お嬢様であることは間違いなく、その美貌から化粧などしなくても存在感は十分あった。
そして左手の薬指に嵌っていた結婚指輪と思われた銀の輪は外されていた。
お茶を淹れテーブルに運んだ。
お茶を出したのは、家に上げた以上何も出さないのは失礼だからといった気持ちがあったからで、それにいきなり話始めるよりも、何らかの動作を挟むことで気持ちを落ち着けようと思ったからだ。そしてつくしは、自分の家なのに美奈が感じているのと同じで緊張していた。
だが、訪ねて来たのはお詫びをしたいと言った美奈の方なのだから、つくしが緊張する必要はない。しかし、そう思っても緊張を感じてしまうのは、叔父と姪の関係だが美奈の中に道明寺司の面影を探してしまうからなのか。そして似ているところを探してしまうのは、まだ心は癒えてないということなのだろう。そんな風に考えていると美奈が口を開いた。
「牧野さん、突然押しかけてしまって申し訳ございません。それにこうして会ってくれてありがとうございます。私はとんでもない間違いを犯していたことに気付きました。あなたは夫の浮気相手ではありませんでした。本当に申し訳ございませんでした」
と言った美奈は、立ち上がると床に正座をして両手を床につき頭を下げた。
「あなたのことが憎かったんです。あなたを訪ねていった会社で夫など知らないと無視されたことに腹が立ったんです。だから叔父に頼んだんです。あなたを懲らしめる目的で誘惑して欲しいと。弄んで捨てて欲しいと頼んだんです。それにあなたが叔父と付き合うようになれば夫は私の元へ戻ってくると思ったんです。本当ごめんなさい。夫の浮気相手はあなただと、あなただと信じていたんです。でも夫の相手は違ったんです」
若い女性が土下座をする姿というのを見た事があるのかと問われれば、即座にないと答えることが出来る。だがそれ以前に誰かに土下座をされ謝られたことはなかった。
それにしても美奈という女性は自分が望むことは、どんな手段を用いても叶えたいといった思いが強いこともだが、逆に自分に非があると認めれば、こうして謝りに来ると躊躇わずに土下座をすることが出来るとは思いもしなかった。
そして、腹の据わったと言ってもいい潔さは、恋は終わったと言った時の自分とどこか似た所があるように感じられた。
「あの、あなたの気持は分かりましたから顔を上げて下さい」
つくしは、悪かったと謝る人間を上から足蹴にするつもりはない。
それにいつまでも頭を下げたままでいる若い女性を見るのは忍びないと感じていた。
そして足元にひれ伏している人間とでは話など出来るはずもなく、顔を上げて欲しい。椅子に座って欲しいと言った。
「牧野さん。本当にすみませんでした」
椅子に座るように言われた美奈は立ち上がり腰を下ろすとつくしの顔をじっと見つめたが、その表情は女子高校生が担任に叱られたような顔に見えた。
だが思えば白石美奈はまだ二十歳。いくら大人っぽく見え結婚しているからと言っても、つくしからすれば、15の年の差は子供と言ってもおかしくはなく、よく見れば愛らしいとも言える。そしてその顔には、夫の浮気には全く関係の無かったつくしに対して悪いことをしたという後悔がありありと現れていた。
「あなたに叔父のことを話した後、母が…母は普段ロスで生活をしているんですが、その母が来たんです。それは私の夫が浮気をしていると叔父から訊いたからです。でもそれとは別に私が浮気相手に計略を巡らせたことを叱るためでもあったんです。叔父は私のあなたに対する計略を母に話していました。それを訊いた母は馬鹿なことをと叔父を叱ったそうです。でも頼んだのは私です。私が叔父の私に対する愛情を利用したんです。だから叔父を道明寺司を許してあげて下さい」
美奈はそう言って再び頭を下げた。
そして顔を上げたが、愛らしいと感じたその顔は、相手に自分の思いを分かってもらいたいという強い意志が感じられる顔。
「叔父は本気であなたを好きになりました。あの喫茶店で私があなたに私のたくらみを話した時、走り込んで来た叔父の姿は本当に慌てていました。私が喋ろうとした言葉を一喝するように遮った時、叔父はあなたに偽りの恋を仕掛けたことを知られたくなかった。叔父は本当にあなたのことが好きになっていたから訊かせたくなかったことが分かりました。
私は今まで叔父に怒られたことはありませんでした。叔父は本当に優しい人で叱られたことはありませんでした。私はその叔父の優しさを利用したんです。叔父なら私の願いを叶えてくれると思ったんです。そして実際に願いを叶えてくれました。でもそれは、叔父の心の中、心の奥にあった人を愛する気持ちに火を付けたということだと思います。ご存知のように叔父はあの外見でお金持ちですから、女性はいくらでも寄って来ます。目当ては叔父のお金や外見です。だから本気の恋などしたことがありません。その叔父があの時私に向かって腹を立てた姿は牧野さんを本当に好きになっていたからです」
そこで美奈は、失礼します。と言って出されていたお茶を口にした。
そして、美味しいですね。と言い言葉を継いだ。
「牧野さん。私は私に向かって声を荒げる叔父の態度が想像できませんでした。だから私は余程酷いことをしたんだと分かったんです。叔父の恋を駄目にしようとしたんだと.....。
牧野さん、叔父は悪くありません。頼んだのは私です。叔父があなたのことを好きな気持ちは本物です。叔父はそれに気づいたとき、あなたに嘘をついて近づいたことに後ろめたさを感じたはずです」
美奈の話は嘘を言っているようには思えなかった。
それでも分かったわ、と言って美奈の思いを汲むことは簡単ではなかった。
そして逆に訊きたかった。
浮気をされた美奈の左手の薬指に指輪はなかったが、離婚をする方向で話しが進んでいるのだろうか。相手は女性ではなく同性だと訊いた。となるとショックを受けているはずだ。
そして美奈がつくしに対してここまで踏み込んで来るなら、彼女の夫に対する思いを知りたいと思った。それに相手はつくしの住むマンションの管理人だと訊いたが、その場所に足を踏み入れたことをどう感じるのか。
つくしは不快な思いをいつまでも引きずる性格ではない。
それは子供の頃からそうだったが、非を認めた人間をいつまでも責めることもしない。
そして何故か美奈という人間が憎めなかった。だが桜子に言わせれば、先輩は人を簡単に許し過ぎですと言われるかもしれないが、美奈に対しては何故か保護者めいた気持ちで訊いていた。
「あの。あなたはご自分の叔父様の事ばかり心配されてますが、ご自身の結婚についてはいいんですか?あなたは私を夫の浮気相手だと思い引き離そうとしました。でも結局それは間違いで本当の相手は別にいた。その人についてはどうするんですか?」
その質問に美奈は一瞬だけ言葉に詰まった。
だがすぐに口を開いた。
「叔父から訊いてもうご存知ですよね?夫の相手は男性でこのマンションの管理人でした。このマンションに出入りしている姿を写真に撮られたことがありますが、その人に会いに来ていたんです。それに週末はゴルフだと言って出かけることも多かったんですが、その人と会っていたそうです。男同士でゴルフですから誰も怪しむことはないですしね。それから夫はその人とは別れられないと言いました。それに相手が男性だと分かったことで夫の性癖も知ったんですからやり直すことは無理です。別れます。もう一緒に暮らしていません。細かいことは弁護士を立てていますので、彼らがしてくれることになっています」
若くして結婚して夫に浮気をされる。そのことだけでも傷付くはずだが、浮気相手が男だったことにショックを受けたことは間違いないが、美奈の口調は意外とさばさばとしていた。
「相手が女なら取り戻してやろうと思いました。でも男ですからね?無理だと思いました。ここの管理人ですから牧野さんはご存知だと思いますが、真面目な人のようですし、夫も…白石も真剣ですから私たちが元に戻ることはありません。でも初めは驚きました。まさかって….。ご存知かもしれませんが私たちの結婚は私が彼を好きになってどうしてもと18歳で結婚したんです。母からは大学を卒業してからでもいいじゃない。待てないのと言われました。でも結婚出来なかったら駆け落ちするって言ったんです。それにどちらかと言えば私が押せ押せで結婚したようなものでしたから。今考えれば我儘な面も多かったと思います。難しいですね。結婚って」
美奈は、そこまで言うと笑った。
そして何故か急につくしのことをまるで親戚の姉のような態度で接し始めた。
つまりつくしの名前を名字ではなく、とても親しげに名前で呼んだ。
「つくしさん。やっぱり18での結婚って早すぎたってことですか?」
それならとつくしも、
「美奈さん。結婚だけが人生じゃないわ。それに若くして結婚生活に失敗したからって人生が終わる訳じゃないし、あなたはまだ若いでしょ?私は結婚したことがないから偉そうなことは言えないし、いいアドバイスも出来ないけど、生きていれば色んなことがある訳で、こんな言い方が正しいのか分からないけど他人が経験したことがないようなことを経験したって思うしかないわね?私なんて年だけはいってるけど、あなたのような経験はしたことないもの。男に好きな人を取られるなんて!」
と、たっぷりと嫌味を含ませた言葉で返したが、言われた美奈は気にしていないようで、逆にその言い方を面白がっていた。
「言いますね?つくしさんって面白い人ですね?そうですよね、男に男を取られるなんてそうそうある経験じゃないですよね?つくしさんって真面目そうに見えて面白い人ですね!なんだかつくしさんとは友達になれそうな気がする。うんうん違う。私弟が二人いるんです。長女なんです。でもお姉さんが欲しかったんです。だから私のお姉さんになって下さい」
それにしても、わだかまりというものは消える時はあっという間に消えるものなのか。
感情をストレートに出すことが出来る若い女性は、話しが出来て本当によかったです。ありがとうございました。と言って帰ったが、年上の女は年下の女を見送ったあと、少しだけ困惑して苦笑していた。

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梅雨明けの発表と共に、長野の農協に勤める弟から野菜が送られてきたのは、土曜の午後だった。
届いた箱の中には、レタスや青いトマトと共に沢山のゴーヤが詰められていた。
そしてゴーヤの間に挟まれていた手紙には、「今年はゴーヤが豊作だ。夏バテ予防にどうぞ」と書かれていた。
いつもなら隣の岡村恵子にお裾分けをするのだが、実家に帰るといった恵子はまだ戻って来てはいなかった。だがどの野菜も比較的日持ちがするもので、数日間なら冷蔵庫の中で寝かせていたとしても問題はないはずだ。戻って来たら渡そうと思い新聞紙に包み冷蔵庫へ収めた。
ゴーヤといって思い浮かぶのは、チャンプルーだ。
だから土曜の夜はゴーヤチャンプルーを作り食べた。そして日曜は何の予定もない日曜だった。
病み上がりの週末ということもあり、ゆっくりと過ごそうと思いながら、回復すると途端に動きたくなり午前中に掃除や洗濯といった日常の生活を済ませた。
だが午後からは本でも読もうと思い一冊手にとるとソファに座りページを開いた。だが目は文字を追うが、文章は頭に残らず、主人公の気持に感情移入することは出来なかった。
だがその代わり頭に浮かんだのは、道明寺司のことだ。
愛という言葉を知らなかったという男の姿。弄んで捨てることを目的に近づいたことを認めた男は、殊勝な反省心を示し、真摯な態度で接してきた。
だが、心の中に引かれた線から向うへ足を踏み出だそうとは思わなかった。
だからといっていつまでも黙りこくっていても物事が前に進むはずもなく、冷淡な気持ちで愛について自分の考えを言った。
だが気持ちが千々に乱れていたのは否めなかった。
今まで人生の大切なことを決めるとき、考え過ぎる余り事態は思っていたこととは全く別の方へ向かっていったことがあった。
だから道明寺司とのことは、そうならないように正直に自分の思いを告げた。
その思いは夏の花火のように一度大きく花を咲かせると思ったが、それもなく終わった。
だが恋が駄目になったからといって人生が駄目になった訳ではない。
それに失恋したからといって自分を卑下する必要はない。
つくしは、手にしていた本を置き、コーヒーを淹れようと立ち上がった。
そのときインターフォンが来客を告げた。
モニターを見て息を飲んだ。そこに映し出されていたのは白石美奈。
彼女から衝撃の事実を訊かされたのが丁度一週間前の日曜の午後だったが、あれから一週間たち再び現れた道明寺司の姪は真っ直ぐな視線でこちらを見つめていた。
つくしは受話器を取るかどうか迷っていたが、小さなモニターの中の女性は、堂々とした姿で映っていて、とても二十歳には見えなかった。
すると美奈は再びボタンを押し、つくしが答えるのを待っていた。
それにしても一体何の用があって訪ねてきたのか。
居留守を使うことも出来るが、そうしたところで無駄なような気がしていた。
何しろ彼女は1億の小切手を手に、夫と別れて欲しいと会社まで会いに来た女性だ。
それに道明寺司と同じで、どんな用だか知らないが、いつかまた会わなければならないなら、早いに越したことはない。早々に会うことで、これ以上煩わされることがないなら会おうと思い受話器を取った。
「はい」
『美奈です。白石…..美奈です。牧野さん。お話したいことがあります。少しだけ時間を頂けませんか?』
その声は1週間前とは違い落ち着いた声で口調は丁寧だった。
そしてモニターから細かい表情までは分からなかったが、落ち着いているように見えた。
会おうと思い受話器を取ったが、やはり迷っていた。
話しがしたいと言われても、道明寺司の姪と何を話すというのだ。
それにあの時、彼女の叔父は言ったはずだ。牧野つくしは夫の浮気相手ではないと。
そして彼女も自分の夫の相手が誰であるか知ったと訊いた。つまり非難する根拠はなくなったのだから、話すことなどないはずだ。それに何か言われる筋合いもないはずだ。そんな思いからつくしは言った。
「あの。一体どういったご用件でしょうか?」
『牧野さん。お願いします。どうしても会って欲しいんです。今日はあなたにお詫びを申し上げるために来たのですから』

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届いた箱の中には、レタスや青いトマトと共に沢山のゴーヤが詰められていた。
そしてゴーヤの間に挟まれていた手紙には、「今年はゴーヤが豊作だ。夏バテ予防にどうぞ」と書かれていた。
いつもなら隣の岡村恵子にお裾分けをするのだが、実家に帰るといった恵子はまだ戻って来てはいなかった。だがどの野菜も比較的日持ちがするもので、数日間なら冷蔵庫の中で寝かせていたとしても問題はないはずだ。戻って来たら渡そうと思い新聞紙に包み冷蔵庫へ収めた。
ゴーヤといって思い浮かぶのは、チャンプルーだ。
だから土曜の夜はゴーヤチャンプルーを作り食べた。そして日曜は何の予定もない日曜だった。
病み上がりの週末ということもあり、ゆっくりと過ごそうと思いながら、回復すると途端に動きたくなり午前中に掃除や洗濯といった日常の生活を済ませた。
だが午後からは本でも読もうと思い一冊手にとるとソファに座りページを開いた。だが目は文字を追うが、文章は頭に残らず、主人公の気持に感情移入することは出来なかった。
だがその代わり頭に浮かんだのは、道明寺司のことだ。
愛という言葉を知らなかったという男の姿。弄んで捨てることを目的に近づいたことを認めた男は、殊勝な反省心を示し、真摯な態度で接してきた。
だが、心の中に引かれた線から向うへ足を踏み出だそうとは思わなかった。
だからといっていつまでも黙りこくっていても物事が前に進むはずもなく、冷淡な気持ちで愛について自分の考えを言った。
だが気持ちが千々に乱れていたのは否めなかった。
今まで人生の大切なことを決めるとき、考え過ぎる余り事態は思っていたこととは全く別の方へ向かっていったことがあった。
だから道明寺司とのことは、そうならないように正直に自分の思いを告げた。
その思いは夏の花火のように一度大きく花を咲かせると思ったが、それもなく終わった。
だが恋が駄目になったからといって人生が駄目になった訳ではない。
それに失恋したからといって自分を卑下する必要はない。
つくしは、手にしていた本を置き、コーヒーを淹れようと立ち上がった。
そのときインターフォンが来客を告げた。
モニターを見て息を飲んだ。そこに映し出されていたのは白石美奈。
彼女から衝撃の事実を訊かされたのが丁度一週間前の日曜の午後だったが、あれから一週間たち再び現れた道明寺司の姪は真っ直ぐな視線でこちらを見つめていた。
つくしは受話器を取るかどうか迷っていたが、小さなモニターの中の女性は、堂々とした姿で映っていて、とても二十歳には見えなかった。
すると美奈は再びボタンを押し、つくしが答えるのを待っていた。
それにしても一体何の用があって訪ねてきたのか。
居留守を使うことも出来るが、そうしたところで無駄なような気がしていた。
何しろ彼女は1億の小切手を手に、夫と別れて欲しいと会社まで会いに来た女性だ。
それに道明寺司と同じで、どんな用だか知らないが、いつかまた会わなければならないなら、早いに越したことはない。早々に会うことで、これ以上煩わされることがないなら会おうと思い受話器を取った。
「はい」
『美奈です。白石…..美奈です。牧野さん。お話したいことがあります。少しだけ時間を頂けませんか?』
その声は1週間前とは違い落ち着いた声で口調は丁寧だった。
そしてモニターから細かい表情までは分からなかったが、落ち着いているように見えた。
会おうと思い受話器を取ったが、やはり迷っていた。
話しがしたいと言われても、道明寺司の姪と何を話すというのだ。
それにあの時、彼女の叔父は言ったはずだ。牧野つくしは夫の浮気相手ではないと。
そして彼女も自分の夫の相手が誰であるか知ったと訊いた。つまり非難する根拠はなくなったのだから、話すことなどないはずだ。それに何か言われる筋合いもないはずだ。そんな思いからつくしは言った。
「あの。一体どういったご用件でしょうか?」
『牧野さん。お願いします。どうしても会って欲しいんです。今日はあなたにお詫びを申し上げるために来たのですから』

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1分近くの沈黙を挟み、つくしも相手の顔を見据えていた。
同じ職場の男性との恋が破綻した女性の中には、顔を合わせたくないから出社したくないという話も多いと訊く。
だが、つくしの性格上職場放棄など出来るはずもないのだから、考えてみれば、こうして早々に話をするチャンスが持てたことは、良かったのかもしれない。
職場恋愛が駄目になった男女は、なにもつくしだけではない。そんな男と女は世界中に大勢いる。それに二人は真正面で顔を突き合わせて仕事をしているのではない。
今日のこの時間を済ませば、度々顔を合わせることもないはずで、この先は上司と部下の関係で過ごすことが出来るはずだ。
「副社長にとって愛とは何ですか?今まで女性を好きになったことはないとおっしゃいましたが、人を愛する意味は何ですか?」
唐突に喋り始めた言葉は愛についてあなたの考えをお聞かせください。そんな意味が込められた問い掛けだった。
「….人を愛する意味か?」
つくしは語調を強め言ったが、そんな女を真剣な眼差しで見つめる男は静かに言葉を返した。そしてその態度は、今まで見たことがないほど真摯な姿勢で深い過ちに陥った人間の戸惑いを感じさせる声色をしていた。
司は心を試されていると思った。
それは誠意を示すことを求められているということだ。
今まで、女とは表面的なやり取りで真面目な返事をしたことがなかった。
それに人を愛する意味など訊かれたことがなかった。そして人を愛する意味など考えたこともなかった。だから直ぐに答えることが出来ず言葉を探していたが、誠実さを見せるなら考えることなどないはずだ。それが相手が気に入らない答えだとしても、心の中にある思いをそのまま伝えるまでだ。
「ええ。そうです。人を愛する意味です。副社長は女性を好きになったことがない。付き合った女性はいても心を奪われた女性はいなかったとおっしゃいましたが、そんな副社長が人を愛する意味を知っているか知りたいんです」
彼の姪から叔父が偽りの恋を仕掛けたと訊かされたとき、ショックだった。
まさか策略を巡らされた恋とは思いもしなかった。
そして好きでもない女を抱くことが出来た男が目の前に現れたとき、胃の奥でせり上がるものが無かったとは言えなかった。男性は気持ちが無くて抱けるということは理解していても、それが自分に対して行われたことにもショックを受けていた。
そして、女を好きになったことがないということは、執着といったものが無かったはずだが、この急激な変わりように疑問を持つなという方が無理だ。だからその心の変わりようを信じることが出来なかった。
もしかすると、隠された何かがあるのではないか。そう思うことがおかしいとは言えないはずだ。
「人を愛する意味か?確かに今までの俺は人を愛する意味など考えたことはなかった。愛という言葉を使ったことはなかった。男どもがその言葉を使うのは女を抱くだめの都合のいい言葉だと思っていた。女はその言葉を求めるが、だから世の中の男はその言葉を言うことで望みのものを手に入れていると思っていた。世間の男どもが口にする愛という言葉は付き合うための、女を抱くための決まり文句だと思っていた」
司は彼女に隠し事をしないと決めた。
だからその思いから自分の気持を正直に言った。
「そうですか…….副社長の中では愛という言葉は人に自分の気持を伝えるための言葉ではなかったということですね?私は恋愛経験が豊富ではありません。過去の恋愛もいい恋愛ではありませんでした。だから人を好きになることは簡単ではありませんでした。
でも、人を好きになる。人を愛するという意味は知っているつもりです。私の愛は、自分の全てをその人に与えたい。それは身体のことだけではありません。愛情がなければ女は、少なくとも私は愛情がなければ男性に抱かれたいとは思いません。
それに私は惚れっぽい人間ではありません。それは性格的なものがそうさせるのでしょう。だから副社長と恋をすることは私にとっては大きな意味もあったんです。前にも言いましたが二人の間に未来はないという話は、私もそれでいいと思っていました。それは….二人の立場からすれば永遠に続く恋だとは思っていませんでした。でもそのことと恋に対する思いは違います。好きになったんです。その思いだけは真剣に受け取ってもらえたと思っていました。でも残念ですが副社長はそうではありませんでした」
つくしは、そこまで言うと話しを締めくくろうとしていた。
だが司はそうはさせなかったし、そのつもりもなかった。こうやって話をするチャンスが再びあるとは言えず、この時間は司にとって貴重な時間だ。それを無駄にしたくはなかった。
「だがな、今の俺にとって愛の意味はお前だ」
司はここから先の言葉は、反応を見逃したくないといった思いから、腹に力を込め彼女の瞳を見つめながら言った。
「俺の生い立ちは誰もが知っている通りだが、子供時代の体験は知られてはいない。恵まれた環境で育ったと思っているだろうが、愛情というものは、本当の愛情というものは、姉から与えられたものだけだ。俺が子供の頃、大人になった今でもそうだが本物の愛を持って俺と接した女はいなかった。誰もが下心を持ち近づいて来た。だがお前は違う。牧野つくしという女は天衣無縫(てんいむほう)な女だ。俺はそんな女に初めて会った。つまり探していた女はお前。牧野つくしだ。俺が愛を知ったのはあの日からだ。だから過去には愛という言葉はなかったとしても今は違う。愛の意味は愛する人を理解するということだと知った。だからこれから俺にお前を理解するチャンスを与えてくれ」
性格や行動が自然で、とりつくろったり着飾ったりしない。それが彼女だ。
そんな女にはじめて会った。だから彼女から愛を教えられ愛を知った。女を好きになるという感情も彼女に出会ったから知った。
「牧野。俺はお前が望むならどんなことでも__」
と、司がそこまで言った時だった。
「おはようございます!」
大きな声と共に扉が開き、入って来たのは法務の沢田。
「道明寺副社長おはようございます。わ!牧野さん。お久しぶりです。お元気…じゃなかったですね?風邪良くなったんですか?大丈夫ですか?あまり無理しないで下さいね。
今朝は法務部の朝礼に出て来たんですが、意外と早く終ったんですよ。部長の話がいつもより短かったのが不思議ですけどね」
佐々木純子が言っていた各部署での朝礼が終わったということは、そろそろ技術の田中も財務の小島も戻って来るはずだ。
そして明るい性格の沢田の声は、二人の間にあった重苦しかった空気を押しやっていた。
「牧野さん。ニューヨークいかがでしたか?少しは楽しむ時間もあったんですよね?」
と沢田がそう訊いたとき、つくしは曖昧な返事で「うん」としか答えなかった。
そして天衣無縫と言われた女は、道明寺司がそういう印象を自分に持っていたのかということと、過去の自分の人生に於いて愛という言葉はなかったと言ったことに、何かを発見したような気がしていた。
だがいずれにしても、つくしは恋が終わったと思っている。
しかしそうは言っても、全く気にしないでいるのも無理だということも分かっていた。

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同じ職場の男性との恋が破綻した女性の中には、顔を合わせたくないから出社したくないという話も多いと訊く。
だが、つくしの性格上職場放棄など出来るはずもないのだから、考えてみれば、こうして早々に話をするチャンスが持てたことは、良かったのかもしれない。
職場恋愛が駄目になった男女は、なにもつくしだけではない。そんな男と女は世界中に大勢いる。それに二人は真正面で顔を突き合わせて仕事をしているのではない。
今日のこの時間を済ませば、度々顔を合わせることもないはずで、この先は上司と部下の関係で過ごすことが出来るはずだ。
「副社長にとって愛とは何ですか?今まで女性を好きになったことはないとおっしゃいましたが、人を愛する意味は何ですか?」
唐突に喋り始めた言葉は愛についてあなたの考えをお聞かせください。そんな意味が込められた問い掛けだった。
「….人を愛する意味か?」
つくしは語調を強め言ったが、そんな女を真剣な眼差しで見つめる男は静かに言葉を返した。そしてその態度は、今まで見たことがないほど真摯な姿勢で深い過ちに陥った人間の戸惑いを感じさせる声色をしていた。
司は心を試されていると思った。
それは誠意を示すことを求められているということだ。
今まで、女とは表面的なやり取りで真面目な返事をしたことがなかった。
それに人を愛する意味など訊かれたことがなかった。そして人を愛する意味など考えたこともなかった。だから直ぐに答えることが出来ず言葉を探していたが、誠実さを見せるなら考えることなどないはずだ。それが相手が気に入らない答えだとしても、心の中にある思いをそのまま伝えるまでだ。
「ええ。そうです。人を愛する意味です。副社長は女性を好きになったことがない。付き合った女性はいても心を奪われた女性はいなかったとおっしゃいましたが、そんな副社長が人を愛する意味を知っているか知りたいんです」
彼の姪から叔父が偽りの恋を仕掛けたと訊かされたとき、ショックだった。
まさか策略を巡らされた恋とは思いもしなかった。
そして好きでもない女を抱くことが出来た男が目の前に現れたとき、胃の奥でせり上がるものが無かったとは言えなかった。男性は気持ちが無くて抱けるということは理解していても、それが自分に対して行われたことにもショックを受けていた。
そして、女を好きになったことがないということは、執着といったものが無かったはずだが、この急激な変わりように疑問を持つなという方が無理だ。だからその心の変わりようを信じることが出来なかった。
もしかすると、隠された何かがあるのではないか。そう思うことがおかしいとは言えないはずだ。
「人を愛する意味か?確かに今までの俺は人を愛する意味など考えたことはなかった。愛という言葉を使ったことはなかった。男どもがその言葉を使うのは女を抱くだめの都合のいい言葉だと思っていた。女はその言葉を求めるが、だから世の中の男はその言葉を言うことで望みのものを手に入れていると思っていた。世間の男どもが口にする愛という言葉は付き合うための、女を抱くための決まり文句だと思っていた」
司は彼女に隠し事をしないと決めた。
だからその思いから自分の気持を正直に言った。
「そうですか…….副社長の中では愛という言葉は人に自分の気持を伝えるための言葉ではなかったということですね?私は恋愛経験が豊富ではありません。過去の恋愛もいい恋愛ではありませんでした。だから人を好きになることは簡単ではありませんでした。
でも、人を好きになる。人を愛するという意味は知っているつもりです。私の愛は、自分の全てをその人に与えたい。それは身体のことだけではありません。愛情がなければ女は、少なくとも私は愛情がなければ男性に抱かれたいとは思いません。
それに私は惚れっぽい人間ではありません。それは性格的なものがそうさせるのでしょう。だから副社長と恋をすることは私にとっては大きな意味もあったんです。前にも言いましたが二人の間に未来はないという話は、私もそれでいいと思っていました。それは….二人の立場からすれば永遠に続く恋だとは思っていませんでした。でもそのことと恋に対する思いは違います。好きになったんです。その思いだけは真剣に受け取ってもらえたと思っていました。でも残念ですが副社長はそうではありませんでした」
つくしは、そこまで言うと話しを締めくくろうとしていた。
だが司はそうはさせなかったし、そのつもりもなかった。こうやって話をするチャンスが再びあるとは言えず、この時間は司にとって貴重な時間だ。それを無駄にしたくはなかった。
「だがな、今の俺にとって愛の意味はお前だ」
司はここから先の言葉は、反応を見逃したくないといった思いから、腹に力を込め彼女の瞳を見つめながら言った。
「俺の生い立ちは誰もが知っている通りだが、子供時代の体験は知られてはいない。恵まれた環境で育ったと思っているだろうが、愛情というものは、本当の愛情というものは、姉から与えられたものだけだ。俺が子供の頃、大人になった今でもそうだが本物の愛を持って俺と接した女はいなかった。誰もが下心を持ち近づいて来た。だがお前は違う。牧野つくしという女は天衣無縫(てんいむほう)な女だ。俺はそんな女に初めて会った。つまり探していた女はお前。牧野つくしだ。俺が愛を知ったのはあの日からだ。だから過去には愛という言葉はなかったとしても今は違う。愛の意味は愛する人を理解するということだと知った。だからこれから俺にお前を理解するチャンスを与えてくれ」
性格や行動が自然で、とりつくろったり着飾ったりしない。それが彼女だ。
そんな女にはじめて会った。だから彼女から愛を教えられ愛を知った。女を好きになるという感情も彼女に出会ったから知った。
「牧野。俺はお前が望むならどんなことでも__」
と、司がそこまで言った時だった。
「おはようございます!」
大きな声と共に扉が開き、入って来たのは法務の沢田。
「道明寺副社長おはようございます。わ!牧野さん。お久しぶりです。お元気…じゃなかったですね?風邪良くなったんですか?大丈夫ですか?あまり無理しないで下さいね。
今朝は法務部の朝礼に出て来たんですが、意外と早く終ったんですよ。部長の話がいつもより短かったのが不思議ですけどね」
佐々木純子が言っていた各部署での朝礼が終わったということは、そろそろ技術の田中も財務の小島も戻って来るはずだ。
そして明るい性格の沢田の声は、二人の間にあった重苦しかった空気を押しやっていた。
「牧野さん。ニューヨークいかがでしたか?少しは楽しむ時間もあったんですよね?」
と沢田がそう訊いたとき、つくしは曖昧な返事で「うん」としか答えなかった。
そして天衣無縫と言われた女は、道明寺司がそういう印象を自分に持っていたのかということと、過去の自分の人生に於いて愛という言葉はなかったと言ったことに、何かを発見したような気がしていた。
だがいずれにしても、つくしは恋が終わったと思っている。
しかしそうは言っても、全く気にしないでいるのも無理だということも分かっていた。

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恋が終ったと言っている女ともう一度恋をすることは難しいのだろうか。
身体ではなく心が欲しいといった思いをしたことがない男がひとりの女の心を自分に向けたいと望むのは、難しいのだろうか。
女の気持を自分に振り向かせる。
司はそもそもそんな経験がないのだから分るはずもないのだが、その経験をこれからしようとしていた。
「副社長おはようございます。牧野さんもですが副社長もお早い出勤ですね?」
佐々木純子は部屋の入口に立つ男に声をかけた。
「ああ。おはよう」
司は返事をすると、つくしの方へ視線を移した。
そして純子と同じように、おはようございます、と朝の挨拶をした女をじっと見つめていた。
その視線に気づいた純子は、出張前の歓迎会で繰り広げられた出来事から、当然副社長と牧野つくしが交際を始めたと考えていて、恋人たちに気を利かせようとしたのか、
「そういえば経理が用があるって言ってたのを思い出したわ。牧野さん私ちょっと経理部まで行ってくるわ」
と言って自分の本来の所属である経理部まで行って来ると言って扉の方へ歩いて行った。
そして部屋を出る直前、
「それから技術の田中さんと財務の小島さん。法務の沢田君だけど、今朝は3人ともそれぞれの部署の朝礼に参加して来るって言ってたから申し訳ないんだけど牧野さん、ここ。お願いね?でも外線電話は9時までは掛かってこないから。それから仕事の色々は戻って来てから話すわ」
と言って部屋を出て行ったが、それは純子の気遣いなのか。電話の件など念押しのように言われ、目配せされたように感じたが、今のつくしにとってその気遣いは必要ないと言いたかった。
つくしは風邪をひき、ベッドで横になっているとき、取り憑かれたように頭を離れてくれなかった男を前に何を言えばいいのか考えていた。本当ならこんなに早く会うはずではなかった。だがそれはつくしだけの考えであり、ここが彼の会社である以上いつ道明寺司がつくしの前に現れてもおかしくないのだから、思っただけ無駄だった。
そして世間では時が止まる瞬間は恋におちた瞬間だと言われるが、つくしの前にある時間は恋でも愛でもなかった。それなら何かと問われれば、ただの沈黙だ。そしてその沈黙を自ら破るつもりはなく黙りこくっていた。
どう対応しようか。
そんな牧野つくしの心中を、司は感じ取っていた。
それは、表情や態度に現れているのではなく、空気そのものがその思いを伝えていた。
今までなら大きな黒い瞳や、赤く染まる頬が言葉の代わりに感情を伝えていたが、今目の前にいる女性から感じられるのは透明な肌の白さ。それが病み上がりのせいだと言われるのなら、それはそれで心配だが、それとは別に感じられるのは、話したくないというオーラ。
そんな言葉で言い表すことが出来る空気は、彼女の思いそのもので、口に出さずとも十分伝わっていた。
『私のことは放っておいて下さい』
今まで女と同じ部屋にいて居心地の悪さといったものを感じたことがない男が初めて感じる居心地の悪さ。だがそれは仕方がないのだ。
今のこの状況は彼が招いた結果であり、原因はすべて自分にあるのだから。
そして司は彼女に話さなければならなかった。
たとえ牧野つくしが自分には関係ない。訊く必要なないと突っぱねたとしても、まったくの誤解から彼女を騙し、恋を仕掛けた男として全てを彼女に話す義務があるはずだ。
それは、美奈の夫である隆信の相手は男であり、隆信が彼女の名前を口にしたのは、偶然に知った牧野つくしという名前が印象的であったことから口にしてしまったということを。
そして改めて自分の気持を伝える。
非難されても逃げることはせず、相手の言葉を受け止める。
訊きたいことがあればどんなことでも隠すことなく話す。
そして恋は終わったと言われたが、その恋を取り戻したい。彼女の心を取り戻したい。
簡単には許してもらえるとは思わないが、彼女が求める誠意の形はどんなものなのか。それを示したいと思う。
それに何らかの要求があるなら受け入れる。失われた恋を取り戻すためならどんな要求も飲むつもりでいる。
「牧野。風邪はもういいのか?無理することはないんだぞ?」
そう言った司は部屋の入口で立ち止まったままだったが、彼女の方へ少し近づいた。だが充分な距離を置き、近づき過ぎないようにした。
「牧野。話したいことがある。もう俺とは口を訊きたくないというなら、答えなくてもいい。だが訊いて欲しい」
司は弁解とは縁がない人生を送ってきただけに、自分の話ぶりが今のこの状況に於いて正しいのか分からなかったが、彼女の態度を見ながら話し始めた。
「美奈が、俺の姪がお前のことを夫の浮気相手だと思ったのは、隆信が..…隆信ってのは姪の夫の名前だが、隆信が美奈に浮気をしていることを知られ問い詰められたとき、お前の名前を口にしたからだが、隆信は相手が女じゃなかったことから自分の性癖と相手のことを考えて咄嗟にお前の名前を口にした。なんで何の関係もないお前の名前を口にしたかだが、偶然知った名前が印象的だったってことだけだ。つくしって名前が頭に残っていたこともあるそうだが、相手の男はお前のマンションの管理人だ。それにその男をマンションへ尋ねたとき、お前のことを見たことがあったそうだ。だから余計に印象に残っていたそうだ。それで咄嗟に出た名前がお前の名前だったと言った」
そこまで話しをして一旦口を閉じた。
何の反応も示さない彼女に対し、どうすれば反応を引き出すことが出来るのか。
だが反応を期待しては駄目だ。今はただ話を訊いて貰えるだけでいいはずだ。それが弁解であることは間違いないが、今まで見たことがない冷たさを感じる態度に、背中に冷たい物が流れ込んだような気がした。
そして司は一方的だが自分の嘘偽りのない気持ちを伝えることにした。
「弁解していると思っているはずだがその通りだ。美奈の計画に乗った俺が悪い。止めることが出来たはずだがバカなことをしたと思っている。本当に悪かった。だが俺はお前と知り合っていくうちにお前のことが本当に好きになった。今ならはっきり分かる。グンター・カールソンがお前にちょっかいを出し始めたとき腹が立った。あの男が俺よりも早くお前と出会っていたことに嫉妬した。俺は今まで女を好きになったことがない。付き合った女はいたが、お前のように心を奪われた女はいなかった」
司は、ひとりの人間とここまで真剣に対峙したことはかつてなく、そして信頼を取り戻すためここまでしたこともなく、ましてや女を相手に言い訳がましいことを口にしたことは無かった。だがそんな男は自分の言葉に対し、無言のつくしが口を開いてくれるのを待っていた。

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身体ではなく心が欲しいといった思いをしたことがない男がひとりの女の心を自分に向けたいと望むのは、難しいのだろうか。
女の気持を自分に振り向かせる。
司はそもそもそんな経験がないのだから分るはずもないのだが、その経験をこれからしようとしていた。
「副社長おはようございます。牧野さんもですが副社長もお早い出勤ですね?」
佐々木純子は部屋の入口に立つ男に声をかけた。
「ああ。おはよう」
司は返事をすると、つくしの方へ視線を移した。
そして純子と同じように、おはようございます、と朝の挨拶をした女をじっと見つめていた。
その視線に気づいた純子は、出張前の歓迎会で繰り広げられた出来事から、当然副社長と牧野つくしが交際を始めたと考えていて、恋人たちに気を利かせようとしたのか、
「そういえば経理が用があるって言ってたのを思い出したわ。牧野さん私ちょっと経理部まで行ってくるわ」
と言って自分の本来の所属である経理部まで行って来ると言って扉の方へ歩いて行った。
そして部屋を出る直前、
「それから技術の田中さんと財務の小島さん。法務の沢田君だけど、今朝は3人ともそれぞれの部署の朝礼に参加して来るって言ってたから申し訳ないんだけど牧野さん、ここ。お願いね?でも外線電話は9時までは掛かってこないから。それから仕事の色々は戻って来てから話すわ」
と言って部屋を出て行ったが、それは純子の気遣いなのか。電話の件など念押しのように言われ、目配せされたように感じたが、今のつくしにとってその気遣いは必要ないと言いたかった。
つくしは風邪をひき、ベッドで横になっているとき、取り憑かれたように頭を離れてくれなかった男を前に何を言えばいいのか考えていた。本当ならこんなに早く会うはずではなかった。だがそれはつくしだけの考えであり、ここが彼の会社である以上いつ道明寺司がつくしの前に現れてもおかしくないのだから、思っただけ無駄だった。
そして世間では時が止まる瞬間は恋におちた瞬間だと言われるが、つくしの前にある時間は恋でも愛でもなかった。それなら何かと問われれば、ただの沈黙だ。そしてその沈黙を自ら破るつもりはなく黙りこくっていた。
どう対応しようか。
そんな牧野つくしの心中を、司は感じ取っていた。
それは、表情や態度に現れているのではなく、空気そのものがその思いを伝えていた。
今までなら大きな黒い瞳や、赤く染まる頬が言葉の代わりに感情を伝えていたが、今目の前にいる女性から感じられるのは透明な肌の白さ。それが病み上がりのせいだと言われるのなら、それはそれで心配だが、それとは別に感じられるのは、話したくないというオーラ。
そんな言葉で言い表すことが出来る空気は、彼女の思いそのもので、口に出さずとも十分伝わっていた。
『私のことは放っておいて下さい』
今まで女と同じ部屋にいて居心地の悪さといったものを感じたことがない男が初めて感じる居心地の悪さ。だがそれは仕方がないのだ。
今のこの状況は彼が招いた結果であり、原因はすべて自分にあるのだから。
そして司は彼女に話さなければならなかった。
たとえ牧野つくしが自分には関係ない。訊く必要なないと突っぱねたとしても、まったくの誤解から彼女を騙し、恋を仕掛けた男として全てを彼女に話す義務があるはずだ。
それは、美奈の夫である隆信の相手は男であり、隆信が彼女の名前を口にしたのは、偶然に知った牧野つくしという名前が印象的であったことから口にしてしまったということを。
そして改めて自分の気持を伝える。
非難されても逃げることはせず、相手の言葉を受け止める。
訊きたいことがあればどんなことでも隠すことなく話す。
そして恋は終わったと言われたが、その恋を取り戻したい。彼女の心を取り戻したい。
簡単には許してもらえるとは思わないが、彼女が求める誠意の形はどんなものなのか。それを示したいと思う。
それに何らかの要求があるなら受け入れる。失われた恋を取り戻すためならどんな要求も飲むつもりでいる。
「牧野。風邪はもういいのか?無理することはないんだぞ?」
そう言った司は部屋の入口で立ち止まったままだったが、彼女の方へ少し近づいた。だが充分な距離を置き、近づき過ぎないようにした。
「牧野。話したいことがある。もう俺とは口を訊きたくないというなら、答えなくてもいい。だが訊いて欲しい」
司は弁解とは縁がない人生を送ってきただけに、自分の話ぶりが今のこの状況に於いて正しいのか分からなかったが、彼女の態度を見ながら話し始めた。
「美奈が、俺の姪がお前のことを夫の浮気相手だと思ったのは、隆信が..…隆信ってのは姪の夫の名前だが、隆信が美奈に浮気をしていることを知られ問い詰められたとき、お前の名前を口にしたからだが、隆信は相手が女じゃなかったことから自分の性癖と相手のことを考えて咄嗟にお前の名前を口にした。なんで何の関係もないお前の名前を口にしたかだが、偶然知った名前が印象的だったってことだけだ。つくしって名前が頭に残っていたこともあるそうだが、相手の男はお前のマンションの管理人だ。それにその男をマンションへ尋ねたとき、お前のことを見たことがあったそうだ。だから余計に印象に残っていたそうだ。それで咄嗟に出た名前がお前の名前だったと言った」
そこまで話しをして一旦口を閉じた。
何の反応も示さない彼女に対し、どうすれば反応を引き出すことが出来るのか。
だが反応を期待しては駄目だ。今はただ話を訊いて貰えるだけでいいはずだ。それが弁解であることは間違いないが、今まで見たことがない冷たさを感じる態度に、背中に冷たい物が流れ込んだような気がした。
そして司は一方的だが自分の嘘偽りのない気持ちを伝えることにした。
「弁解していると思っているはずだがその通りだ。美奈の計画に乗った俺が悪い。止めることが出来たはずだがバカなことをしたと思っている。本当に悪かった。だが俺はお前と知り合っていくうちにお前のことが本当に好きになった。今ならはっきり分かる。グンター・カールソンがお前にちょっかいを出し始めたとき腹が立った。あの男が俺よりも早くお前と出会っていたことに嫉妬した。俺は今まで女を好きになったことがない。付き合った女はいたが、お前のように心を奪われた女はいなかった」
司は、ひとりの人間とここまで真剣に対峙したことはかつてなく、そして信頼を取り戻すためここまでしたこともなく、ましてや女を相手に言い訳がましいことを口にしたことは無かった。だがそんな男は自分の言葉に対し、無言のつくしが口を開いてくれるのを待っていた。

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美味しいものには力がある。
そんな言葉をどこかで訊いたような気がするが、まさにそうだと感じた。
それは体力の回復が早かったからだ。
月曜の仕事帰りに立ち寄ってくれた桜子は、次の日も、そしてその次の日も立ち寄って料理を作ってくれた。そして夕食だけではなく、翌日の朝食と昼食まで作ると、これ食べて下さいと言って帰って行ったが、桜子の華やかな外見から色鮮やかで味の濃い洋食が似合いそうだが、実は和食が得意だと訊いた。そして桜子の味噌汁の出汁はお手軽な粉末ではなく、カツオ節や昆布から取る拘りがあるというのだから意外だった。
「先輩。私今はごく普通の会社員ですが、先祖は華族です。それなりの生活を送っていましたので、日本人としての生活の基本といったものをわきまえているつもりです」
と言われたが、手間暇かけて取った出汁が使われた味噌汁は確かに美味しかった。
そしてその出汁を使って焼かれただし巻き卵は、ふんわりとした完璧な見た目で、もちろん味も良かったが、それを褒めると、「先輩。男性の心を掴むには、まず胃袋からといいますよね?私はその為に料理も学びましたから」と言われた。
そしていつも帰る前に道明寺副社長から連絡はありましたか?何か言ってきましたか?と訊かれるが、うんうん何も。と言って首を横に振った。
桜子に明日から出社するつもりだと告げると、それじゃあ明日は朝食の分まででいいですね?と言ってサラダを作ると冷蔵庫に入れて帰ったが、翌朝取り出したサラダのレタスは、まるで人生の新しい門出を祝っているように瑞々しかった。
二日休めば出社できると思ったが、結局三日休み木曜に出社したが、まだ身体が本調子ではないこともあり、無理は禁物だと自分自身に言い聞かせていた。
そして病み上がりの身体のこともだが、心は沢山の感情がひしめいていた。
「恋は終わった」と告げ付き合うことを辞め、桜子にも大丈夫だからと言ったが思い残しが無いはずもなく、この三日間考えるのは道明寺司のことだった。
だが二人の間にあったのは芝居を打たれた恋であり筋書があった恋。
その筋書通りにことが運んだことに満足したはずだ。けれど用意周到だったかと問われれば、そうではなかった。筋書があったとはいえ、手の込んだ筋書ではなかった。
それは、つくしの方が彼に惹かれたからだ。
それに35歳にもなって大した恋をしてこなかった女を誘惑するなど簡単なことだったはずだ。そしてはじまりが突然なら終わりも突然で、締めくくりは雨に打たれた女が風邪をひいて終わった。
「私、これから先、恋をすることがある?」
そんな自問な呟きは、地下鉄の階段を登り出口から見上げた先にある道明寺ビルに向かって放たれた言葉だが、晴れた空に天高くそびえる難攻不落の城のように見える建物が答えを返してくれるはずもなく、今の気持は出向を命じられ初めてここに立った時と同じで緊張していた。そして出社するのは、出張したことと休んだこともあり実に半月以上ぶりだった。
正直なところ道明寺司と顔を合わせたくなかった。
それに社内恋愛が終焉を迎え、顔を合わせ気まずい思いをするのはどちらかと問われれば、つくしの方だ。なにしろ部署のメンバー全員の前で告白をされたのだから、気にするなという方が無理だ。
だから会社に向かって歩く足取りは重かった。けれど失恋を仕事に持ち込むことは大人の女性として失格だ。どんな状況でも私生活と仕事は別で仕事は仕事だ。
それに気まずさやバツの悪さといった混沌とした思いは、いずれろ過されて行くはずだ。
そして出向が終る頃には恋も思い出に変わっているはずだ。そうだ。常に前を向いて現実を冷静に受け止め生きて行くのがつくしの人生だ。だからろ過された思いは、いずれアスファルトに出来た水溜まりのように蒸発して消えるはずだ。
それに同じ部署の人間が二人をどう思うかは、彼らは上等な頭脳を持つ大人なのだから察するはずだ。
「おはようございます」
「あらおはよう。牧野さんもう大丈夫なの?それに随分と早いわね?」
佐々木純子は明るい表情でつくしに挨拶を返した。
時計の針は7時50分を指していて、早いと言われたが、純子の方はもっと早くからここにいたはずだ。その証拠に机の上は仕事を始めている様子が見て取れた。
つくしも2週間の海外出張と、それから風邪をひいて休んだことで申し訳なさがありいつもより早めに出社していた。
「佐々木さん。色々とご心配とご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんてとんでもない。大丈夫よ。それより夏風邪はちゃんと治しておかないと大変よ?本当にもう大丈夫なの?」
「はい。大丈夫です。あの、これ随分と遅くなりましたがお土産です」
そう言って差し出したのは、桜子や恵子に渡したものと同じチョコレート。
「わあ。ありがとう牧野さん。私チョコレート大好きなの。ここにいる男性たちは甘い物を食べないの。だからこれは私がひとりで食べる羽目になるのよね」
純子は微笑みを浮かべ、受け取った箱を机の上に置き、暫く黙ってつくしを見ていたが、口を開くと言った。
「病み上がりだから痩せたように見えるけど、本当に大丈夫?ちゃんと食事はしたの?」
純子はひとり暮らしで風邪をひいて寝込めば、食べることが疎かになっていたのではと心配してくれたが、桜子のおかげでそれはなかった。だから大丈夫ですと答えたが、純子の問い掛けには副社長が面倒見てくれたのかしら?といった好奇心が含まれているはずだ。
「はい。友人が食事を作りに来てくれましたので、その点は大丈夫でした」
「そう。それなら良かったわね?私はてっきり副社長が_」
と言いかけたところで一旦口を閉じた純子は、
「ごめんなさい。あの時はつい調子に乗って副社長に来てもらえばいいのにって言ったけど本当にごめんなさいね。仕事は仕事。プライベートはプラベートですもの。私が口出しをする権利はないし、すべきことでもないわ。でもね、副社長は牧野さんがお休みした日は本当に慌てたのよ?だからてっきりお見舞いに行ったと思ったけど…..。
まああの方はお忙しい方だから時間が取れないのね?あ、ごめんなさい。それこそこんな話しプライベートなことよね?いやぁね私ったら。興味津々の近所のおばちゃんみたいになっちゃって」
と言って話を継いだが、それ以上その話題には触れなかったが笑っていた。
そしてじゃあ、と言って仕事の話だけどね、と話し始めたとき、部屋の扉が開き顔をそちらに向ければ、たった今純子が話題にしていた人物がそこにいた。

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そんな言葉をどこかで訊いたような気がするが、まさにそうだと感じた。
それは体力の回復が早かったからだ。
月曜の仕事帰りに立ち寄ってくれた桜子は、次の日も、そしてその次の日も立ち寄って料理を作ってくれた。そして夕食だけではなく、翌日の朝食と昼食まで作ると、これ食べて下さいと言って帰って行ったが、桜子の華やかな外見から色鮮やかで味の濃い洋食が似合いそうだが、実は和食が得意だと訊いた。そして桜子の味噌汁の出汁はお手軽な粉末ではなく、カツオ節や昆布から取る拘りがあるというのだから意外だった。
「先輩。私今はごく普通の会社員ですが、先祖は華族です。それなりの生活を送っていましたので、日本人としての生活の基本といったものをわきまえているつもりです」
と言われたが、手間暇かけて取った出汁が使われた味噌汁は確かに美味しかった。
そしてその出汁を使って焼かれただし巻き卵は、ふんわりとした完璧な見た目で、もちろん味も良かったが、それを褒めると、「先輩。男性の心を掴むには、まず胃袋からといいますよね?私はその為に料理も学びましたから」と言われた。
そしていつも帰る前に道明寺副社長から連絡はありましたか?何か言ってきましたか?と訊かれるが、うんうん何も。と言って首を横に振った。
桜子に明日から出社するつもりだと告げると、それじゃあ明日は朝食の分まででいいですね?と言ってサラダを作ると冷蔵庫に入れて帰ったが、翌朝取り出したサラダのレタスは、まるで人生の新しい門出を祝っているように瑞々しかった。
二日休めば出社できると思ったが、結局三日休み木曜に出社したが、まだ身体が本調子ではないこともあり、無理は禁物だと自分自身に言い聞かせていた。
そして病み上がりの身体のこともだが、心は沢山の感情がひしめいていた。
「恋は終わった」と告げ付き合うことを辞め、桜子にも大丈夫だからと言ったが思い残しが無いはずもなく、この三日間考えるのは道明寺司のことだった。
だが二人の間にあったのは芝居を打たれた恋であり筋書があった恋。
その筋書通りにことが運んだことに満足したはずだ。けれど用意周到だったかと問われれば、そうではなかった。筋書があったとはいえ、手の込んだ筋書ではなかった。
それは、つくしの方が彼に惹かれたからだ。
それに35歳にもなって大した恋をしてこなかった女を誘惑するなど簡単なことだったはずだ。そしてはじまりが突然なら終わりも突然で、締めくくりは雨に打たれた女が風邪をひいて終わった。
「私、これから先、恋をすることがある?」
そんな自問な呟きは、地下鉄の階段を登り出口から見上げた先にある道明寺ビルに向かって放たれた言葉だが、晴れた空に天高くそびえる難攻不落の城のように見える建物が答えを返してくれるはずもなく、今の気持は出向を命じられ初めてここに立った時と同じで緊張していた。そして出社するのは、出張したことと休んだこともあり実に半月以上ぶりだった。
正直なところ道明寺司と顔を合わせたくなかった。
それに社内恋愛が終焉を迎え、顔を合わせ気まずい思いをするのはどちらかと問われれば、つくしの方だ。なにしろ部署のメンバー全員の前で告白をされたのだから、気にするなという方が無理だ。
だから会社に向かって歩く足取りは重かった。けれど失恋を仕事に持ち込むことは大人の女性として失格だ。どんな状況でも私生活と仕事は別で仕事は仕事だ。
それに気まずさやバツの悪さといった混沌とした思いは、いずれろ過されて行くはずだ。
そして出向が終る頃には恋も思い出に変わっているはずだ。そうだ。常に前を向いて現実を冷静に受け止め生きて行くのがつくしの人生だ。だからろ過された思いは、いずれアスファルトに出来た水溜まりのように蒸発して消えるはずだ。
それに同じ部署の人間が二人をどう思うかは、彼らは上等な頭脳を持つ大人なのだから察するはずだ。
「おはようございます」
「あらおはよう。牧野さんもう大丈夫なの?それに随分と早いわね?」
佐々木純子は明るい表情でつくしに挨拶を返した。
時計の針は7時50分を指していて、早いと言われたが、純子の方はもっと早くからここにいたはずだ。その証拠に机の上は仕事を始めている様子が見て取れた。
つくしも2週間の海外出張と、それから風邪をひいて休んだことで申し訳なさがありいつもより早めに出社していた。
「佐々木さん。色々とご心配とご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんてとんでもない。大丈夫よ。それより夏風邪はちゃんと治しておかないと大変よ?本当にもう大丈夫なの?」
「はい。大丈夫です。あの、これ随分と遅くなりましたがお土産です」
そう言って差し出したのは、桜子や恵子に渡したものと同じチョコレート。
「わあ。ありがとう牧野さん。私チョコレート大好きなの。ここにいる男性たちは甘い物を食べないの。だからこれは私がひとりで食べる羽目になるのよね」
純子は微笑みを浮かべ、受け取った箱を机の上に置き、暫く黙ってつくしを見ていたが、口を開くと言った。
「病み上がりだから痩せたように見えるけど、本当に大丈夫?ちゃんと食事はしたの?」
純子はひとり暮らしで風邪をひいて寝込めば、食べることが疎かになっていたのではと心配してくれたが、桜子のおかげでそれはなかった。だから大丈夫ですと答えたが、純子の問い掛けには副社長が面倒見てくれたのかしら?といった好奇心が含まれているはずだ。
「はい。友人が食事を作りに来てくれましたので、その点は大丈夫でした」
「そう。それなら良かったわね?私はてっきり副社長が_」
と言いかけたところで一旦口を閉じた純子は、
「ごめんなさい。あの時はつい調子に乗って副社長に来てもらえばいいのにって言ったけど本当にごめんなさいね。仕事は仕事。プライベートはプラベートですもの。私が口出しをする権利はないし、すべきことでもないわ。でもね、副社長は牧野さんがお休みした日は本当に慌てたのよ?だからてっきりお見舞いに行ったと思ったけど…..。
まああの方はお忙しい方だから時間が取れないのね?あ、ごめんなさい。それこそこんな話しプライベートなことよね?いやぁね私ったら。興味津々の近所のおばちゃんみたいになっちゃって」
と言って話を継いだが、それ以上その話題には触れなかったが笑っていた。
そしてじゃあ、と言って仕事の話だけどね、と話し始めたとき、部屋の扉が開き顔をそちらに向ければ、たった今純子が話題にしていた人物がそこにいた。

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「それにしてもよく降る雨だな。けどこの雨が上がればそろそろ梅雨も明けるか?この蒸し暑さとお別れしてカラッとした暑さと夏空に会える日が楽しみだ。まあそうは言っても毎年代わり映えしない夏が来るってことか」
六本木にある昔馴染みのバーで飲んでいる二人の男のうちのひとりは、夏の到来を楽しみにしているが、もう一人の男は琥珀色の液体が入ったグラスの底を見つめながら訊ねた。
「あきら。お前この前ここで飲んだ時、俺が話したことを覚えてるか?」
「ああ。覚えてる。美奈ちゃんの話だったよな。美奈ちゃんの夫が浮気をしているって話。あれからどうなった?」
前回あきらが司とこの店で飲んだとき、妹たちの結婚についての話をした。
司からは姪の夫が浮気をしていると訊かされたが、あれからどうなったのかは知らなかった。
そしてあきらの問い掛けに少し間を置いた司は、今までの事をかいつまんで話した。
美奈の夫の浮気相手と言われていた女と男女の関係になり、その女が美奈の言う浮気相手ではないと知り、そして好きになった。だが美奈が恋は仕掛けられたもので偽りだと告げたため女は去り、美奈の夫の浮気相手は男だと夫本人の口から訊いた。そして昨日の夜、風邪をひいて会社を休んだ女に今の思いを伝えようとしたが会ってはもらえず、友人という女に本気なら誠意を見せろと言われ、あしらわれたと言った。
するとあきらは、あの時言った言葉を再び言った。
「俺言ったよな?極端な身内思いは、身贔屓が強すぎるのは先入観の元だって。結局美奈ちゃんの夫の浮気相手は男で、お前は美奈ちゃんの口から出た女が浮気相手だと信じてその女を抱いてみれば間違いだったってことか?」
「ああ、そうだ。間違いだった」
司はそのことを改めて口にしてみれば、姪の言葉を安易に信じた自分の愚かさを悔いた。
「お前なぁ….簡単に間違いだったって言うが考えてみれば酷い話だぞ?
いいか。相手の女は恋を仕掛けられて捨てられる。いくらお前に抱かれていい思いをしたとしても、普通に別れるならまだしも手ひどく捨てられてみろ。傷つくぞ?けどお前は女を捨てるどころかその女に惚れた。だがお前の悪だくみ…..言葉は悪いがそれがバレてお前はその女にフラれたってことだろ?誰が悪いって言えば計画を立てた美奈ちゃんも悪いがその女が浮気相手だって言った美奈ちゃんの夫も悪い。けどな。実行犯はお前だろ?美奈ちゃんの願いを叶えようとしたお前が一番悪いんじゃないのか?そんなお前が相手の女に今更好きだって言ったところでフラれるのは当然だな」
あきらは呆れたように言って、グラスを口に運んだ。
以前ここで飲んだ時、あきらは親友から姪の夫が浮気をしている。姪から頼まれ相手の女を誘惑して弄んで捨てるという話を訊かされたとき、姪可愛さに話しを鵜呑みにする男にやんわりと釘をさした。だが司は訊き入れなかった。
そしてその結果が、あきらの目の前にいる男の姿に現れていた。
それは、あきらの顔を見た途端放たれた、「女に誠意を示すとすれば何が一番効果的か」の言葉が恋をしたことがない男が恋をしたことを物語っていた。
「それで?どうするんだ。その女のことは。お前好きなんだろ?」
だがあきらの問いに答えることなくカウンターの隣の席で落ち着き払った様子でバーボンのオンザロックを飲む男は、女の方から好きになられても、自分から好きになったことが無いのだから、初めて味わう人を好きになるという感覚に戸惑いもあるが、誠意を見せろと言われても何が誠意なのか分からないのだろう。
「おい司。確認させてもらうが、この件は言葉は悪いがお前と美奈ちゃんがその女にイチャモンをつけたってことだよな?言いがかりをつけたがそれが間違いでしたってことだな?」
「ああ。お前の言う通りだ」
そう答えた男は、一杯目を飲み干し二杯目をおかわりしたが一気に飲み干すと、三杯目を注文した。だが司は酒に浸るために飲むのではない。愚痴をこぼす助けに飲むのではない。
ただ喉を潤すために飲むのだが、気付けば幼馴染みであるあきらに相談していた。
「司。お前の考える誠意ってのはなんだ?女に金をかけてやることか?高い宝石を贈ることか?言っとくが女に金をかけてやることが誠意じゃない。誠意っては逃げないことだ。相手の言葉を真正面から受け止める。それは非があればそれを認めるってことだ。それに相手を尊重して裏切らない。隠し事はしない。それに理解してやることだ。自分の思いを殺しても相手を尊重してやること。だからって相手の言いなりになることじゃない。
つまり思いやる気持ちが恋愛に於いての誠意だ。間違っても宝石なんぞ贈って相手の気を引こうとするな。本気の女を物で釣るようなことはするな。馬鹿な女ならそれで機嫌を直すだろうが、しっかりと自分の意志を持つ女には、そんな小細工は通用しないはずだ。金で買える女じゃない。馬鹿にしないでくれって突き返されるのがオチだな」
牧野つくしのまったくの拒絶にあっている司は、あきらの話の中にまさに自分が行おうとしていたことを言われ、内心動揺していた。
「まあ、人妻相手の恋をしてきた俺に言わせれば、相手を立てることが誠意ってことになるがな。女の我儘も無理も叶えてやるのが俺の誠意ってことだが、誠意って言葉は難しいぞ。何しろ意味の幅が広い。それに相手の受け取り方次第でどうにでもなるからな」
そしてあきらはひとしきり喋ったあと、静かに司に言った。
「お前、その女にマジなんだな?お前が女に惚れたことは今までなかったが本気なんだな?お前の返答によって俺はお前の力になるかならないか考える。それで、どっちだ?」
本気の恋愛をしたことがない男が、女に対し自分の全てを開いてみせることが出来るのか?
道明寺司というプライドの高い男が誠心誠意女に尽くすことが出来るのか?
「あきら。俺は本気だ。あいつのことが、牧野つくしのことが好きだ。惚れた。けどあいつは俺がそう言っても信じようとしない」
「ああ。そうだな。ショックな話を訊かされたばかりでそう直ぐに騙した男の話を信じるほど女もバカじゃないはずだ。これから先は粘り強く行くしかない。それからその女の友達って女。お前に誠意を見せろって言った女。その女のことを教えろ。おまえの会社の社員だろ?女ってのは女同士しか分からん緊密な繋がりってのがある。うちの妹たちにしてもそうだが、女は感情的な生き物だ。相手に同意してもらうことで安心感を得る。だからお前のことで耳に入れてもらいたいことは親しい友人から語られる方がいい。本人が話すより断然いいはずだ」
あきらは隣に座る男がじっと真正面を向き、酒の瓶が並んだ棚を見つめている様子を見ていたが、今まで女のことで罪悪感を味わったことがない男が罪の意識にさいなまれているのを感じていた。
だがどんな男も恋をすればそうなる。
そして恋をしたことがなかった男が恋をした相手がどんな女か見てみたいという気になっていた。道明寺司という男の謝罪を一切受け付けず突っぱねた女は一体どんな女なのか。
「司。愛ってのは頭で考えても分からないものだ。だからって口に出してみれば分るというものでもない。どんなに偉い人間でも恋をすればタダの人になる。つまりお前もタダの男になったってことだ。ま、初めて恋をしたお前の為に俺が力になれることはしてやるよ」

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六本木にある昔馴染みのバーで飲んでいる二人の男のうちのひとりは、夏の到来を楽しみにしているが、もう一人の男は琥珀色の液体が入ったグラスの底を見つめながら訊ねた。
「あきら。お前この前ここで飲んだ時、俺が話したことを覚えてるか?」
「ああ。覚えてる。美奈ちゃんの話だったよな。美奈ちゃんの夫が浮気をしているって話。あれからどうなった?」
前回あきらが司とこの店で飲んだとき、妹たちの結婚についての話をした。
司からは姪の夫が浮気をしていると訊かされたが、あれからどうなったのかは知らなかった。
そしてあきらの問い掛けに少し間を置いた司は、今までの事をかいつまんで話した。
美奈の夫の浮気相手と言われていた女と男女の関係になり、その女が美奈の言う浮気相手ではないと知り、そして好きになった。だが美奈が恋は仕掛けられたもので偽りだと告げたため女は去り、美奈の夫の浮気相手は男だと夫本人の口から訊いた。そして昨日の夜、風邪をひいて会社を休んだ女に今の思いを伝えようとしたが会ってはもらえず、友人という女に本気なら誠意を見せろと言われ、あしらわれたと言った。
するとあきらは、あの時言った言葉を再び言った。
「俺言ったよな?極端な身内思いは、身贔屓が強すぎるのは先入観の元だって。結局美奈ちゃんの夫の浮気相手は男で、お前は美奈ちゃんの口から出た女が浮気相手だと信じてその女を抱いてみれば間違いだったってことか?」
「ああ、そうだ。間違いだった」
司はそのことを改めて口にしてみれば、姪の言葉を安易に信じた自分の愚かさを悔いた。
「お前なぁ….簡単に間違いだったって言うが考えてみれば酷い話だぞ?
いいか。相手の女は恋を仕掛けられて捨てられる。いくらお前に抱かれていい思いをしたとしても、普通に別れるならまだしも手ひどく捨てられてみろ。傷つくぞ?けどお前は女を捨てるどころかその女に惚れた。だがお前の悪だくみ…..言葉は悪いがそれがバレてお前はその女にフラれたってことだろ?誰が悪いって言えば計画を立てた美奈ちゃんも悪いがその女が浮気相手だって言った美奈ちゃんの夫も悪い。けどな。実行犯はお前だろ?美奈ちゃんの願いを叶えようとしたお前が一番悪いんじゃないのか?そんなお前が相手の女に今更好きだって言ったところでフラれるのは当然だな」
あきらは呆れたように言って、グラスを口に運んだ。
以前ここで飲んだ時、あきらは親友から姪の夫が浮気をしている。姪から頼まれ相手の女を誘惑して弄んで捨てるという話を訊かされたとき、姪可愛さに話しを鵜呑みにする男にやんわりと釘をさした。だが司は訊き入れなかった。
そしてその結果が、あきらの目の前にいる男の姿に現れていた。
それは、あきらの顔を見た途端放たれた、「女に誠意を示すとすれば何が一番効果的か」の言葉が恋をしたことがない男が恋をしたことを物語っていた。
「それで?どうするんだ。その女のことは。お前好きなんだろ?」
だがあきらの問いに答えることなくカウンターの隣の席で落ち着き払った様子でバーボンのオンザロックを飲む男は、女の方から好きになられても、自分から好きになったことが無いのだから、初めて味わう人を好きになるという感覚に戸惑いもあるが、誠意を見せろと言われても何が誠意なのか分からないのだろう。
「おい司。確認させてもらうが、この件は言葉は悪いがお前と美奈ちゃんがその女にイチャモンをつけたってことだよな?言いがかりをつけたがそれが間違いでしたってことだな?」
「ああ。お前の言う通りだ」
そう答えた男は、一杯目を飲み干し二杯目をおかわりしたが一気に飲み干すと、三杯目を注文した。だが司は酒に浸るために飲むのではない。愚痴をこぼす助けに飲むのではない。
ただ喉を潤すために飲むのだが、気付けば幼馴染みであるあきらに相談していた。
「司。お前の考える誠意ってのはなんだ?女に金をかけてやることか?高い宝石を贈ることか?言っとくが女に金をかけてやることが誠意じゃない。誠意っては逃げないことだ。相手の言葉を真正面から受け止める。それは非があればそれを認めるってことだ。それに相手を尊重して裏切らない。隠し事はしない。それに理解してやることだ。自分の思いを殺しても相手を尊重してやること。だからって相手の言いなりになることじゃない。
つまり思いやる気持ちが恋愛に於いての誠意だ。間違っても宝石なんぞ贈って相手の気を引こうとするな。本気の女を物で釣るようなことはするな。馬鹿な女ならそれで機嫌を直すだろうが、しっかりと自分の意志を持つ女には、そんな小細工は通用しないはずだ。金で買える女じゃない。馬鹿にしないでくれって突き返されるのがオチだな」
牧野つくしのまったくの拒絶にあっている司は、あきらの話の中にまさに自分が行おうとしていたことを言われ、内心動揺していた。
「まあ、人妻相手の恋をしてきた俺に言わせれば、相手を立てることが誠意ってことになるがな。女の我儘も無理も叶えてやるのが俺の誠意ってことだが、誠意って言葉は難しいぞ。何しろ意味の幅が広い。それに相手の受け取り方次第でどうにでもなるからな」
そしてあきらはひとしきり喋ったあと、静かに司に言った。
「お前、その女にマジなんだな?お前が女に惚れたことは今までなかったが本気なんだな?お前の返答によって俺はお前の力になるかならないか考える。それで、どっちだ?」
本気の恋愛をしたことがない男が、女に対し自分の全てを開いてみせることが出来るのか?
道明寺司というプライドの高い男が誠心誠意女に尽くすことが出来るのか?
「あきら。俺は本気だ。あいつのことが、牧野つくしのことが好きだ。惚れた。けどあいつは俺がそう言っても信じようとしない」
「ああ。そうだな。ショックな話を訊かされたばかりでそう直ぐに騙した男の話を信じるほど女もバカじゃないはずだ。これから先は粘り強く行くしかない。それからその女の友達って女。お前に誠意を見せろって言った女。その女のことを教えろ。おまえの会社の社員だろ?女ってのは女同士しか分からん緊密な繋がりってのがある。うちの妹たちにしてもそうだが、女は感情的な生き物だ。相手に同意してもらうことで安心感を得る。だからお前のことで耳に入れてもらいたいことは親しい友人から語られる方がいい。本人が話すより断然いいはずだ」
あきらは隣に座る男がじっと真正面を向き、酒の瓶が並んだ棚を見つめている様子を見ていたが、今まで女のことで罪悪感を味わったことがない男が罪の意識にさいなまれているのを感じていた。
だがどんな男も恋をすればそうなる。
そして恋をしたことがなかった男が恋をした相手がどんな女か見てみたいという気になっていた。道明寺司という男の謝罪を一切受け付けず突っぱねた女は一体どんな女なのか。
「司。愛ってのは頭で考えても分からないものだ。だからって口に出してみれば分るというものでもない。どんなに偉い人間でも恋をすればタダの人になる。つまりお前もタダの男になったってことだ。ま、初めて恋をしたお前の為に俺が力になれることはしてやるよ」

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司は三条と名乗った女がマンションから出てくるのを待っていた。
友人と名乗った女がどんな女か分からなかったが、堂々とした物怖じしない声と落ち着いた言葉の切り返しは、気の強さの表れで自分に自信があると感じた。
夜も9時を回れば、外出する人間は殆どいない。特に女となれば尚更だが、やがて年の頃からして牧野つくしと同輩と思われる女が出てくれば、それらしいと予想がついた。
そしてマンションの敷地を出たところで声を掛けた。
「お前が三条か?」
そう言って暗がりから現れた男に女はハッとした顔をしたが、司が誰だか分かっているからか、大して驚くこともなく返事をした。
「ええ。そうです。道明寺副社長。私にご用ですか?」
と、インターフォンから聞こえてきた声が答えた。
「私に先輩との仲を取り持つように頼もうとしているなら無駄ですよ。私は先輩の味方です。友人の思いを大切にするのが私のポリシーですから」
話しがしたい。車で送っていくと言って女を車に乗せた司は、その言葉から女が牧野つくしとのことについては、どんな約束も決して破ることがない義理堅さを持つ人間だと知った。
そして殆どの女は、司の傍に来ればうっとりとした視線を彼に向ける。
だが今向けられている冷やかな視線と態度は、司に対していい印象がないことをあからさまに示していて、淡々とした受け答えはインターフォン越しの態度と同じだ。
「そうか。それは牧野にとっては心強い友人だな。そんなお前に頼みたいことがある」
司は回りくどい言い方はしない。
そしてその言葉に向かいに座る女が態度を整えたのが感じられた。
「一体私に何を頼みたいとおっしゃるんですか?道明寺副社長は先輩に話しがあると言いましたが一体何を話そうというんですか?今更騙すつもりは無かったとでもおっしゃるんですか?嘘をついて牧野つくしに近づいたことはないと言うつもりですか?
いえそうじゃないですね?先輩を弄んで捨てるつもりでいたことは確かですよね?でも気持ちが変わったということなんでしょうけど、仲を取り持つことはしませんから」
きっぱりとした口調は司をけなしはしなかったが、非難していることは確実で、言葉から感じられる冷たさには嫌悪が感じられ、一筋縄ではいかない女だと感じた。
だが友情に厚い女は情にもろいはずだ。一見冷たそうに見えるが、義理に厚い女はお節介な部分も持ち合わせているはずだ。
司は情に訴えることをしたことがない。だが今は牧野つくしと話しが出来るならどんなことでもするつもりでいた。
会社で会うことは出来る。だが業務の一環として会うことを求めても、心の裡を語ることは決してないはずだ。牧野つくしは頑固だ。芯が通った人間だ。自分がこうと決めたらやり抜く女だ。そのことは普段なら褒められていいことだが、その姿勢が司に対して向けられたことは望ましいことではない。だから間に立つ人間が必要だ。それもなるべく彼女に近い人間が。
「お前は俺たちの間に起きたことを知っているようだが、確かに牧野つくしに近づいたのは姪の夫から引き離す為だった。だが俺は彼女のことが好きになった。つまりミイラ取りがミイラになったってことだ。この気持ちは本物で嘘じゃない」
偽りの恋を仕掛けたことを否定することなく口にした男の顔に自嘲の笑みが浮かんだが直ぐに消えた。
「これは本当ならもっと早く….ニューヨークで渡すつもりでいた。だが渡せなかった。だから帰国して渡すつもりでいた。彼女のために選んだ。特別なものだ」
司がポケットから取り出したのは、言葉通り日曜の夜の食事に招かれたとき渡すつもりでいたブローチが収められた小さな箱。大切にしたいと思った女のために選んだ宝石を目の前にいる女に渡せば必ず彼女の手に届くはずだ。だから自分の身勝手さを承知の上で女に渡そうとした。そして自分の思いも伝わると思った。たが女の態度は冷たいものだった。
「道明寺副社長。もしそれが高価な宝石だとしても、先輩は宝石に興味はありません。物は値段で決まるといった考えは持っていません。それから渡して欲しいとおっしゃるなら申し訳ございません。私はお預かりすることは出来ません。だってそうですよね?私は牧野つくしの友人であって道明寺副社長の友人ではありませんから」
「じゃあ俺の友人になればいい」
司は簡単に言うが彼が友人と認めた人間は数少ない。
ましてや女で友人と呼ばれる人間はいない。そんな男が三条という女を友人にしてもいいと感じたのは、単に牧野つくしの近くにいる女だからではない。
友人の為だからと司に向かって堂々とした口を訊き、怯むことがないその態度は、本当に大切な相手の事だけを考える無二の親友のそれだからだ。司は女のその態度が気に入った。
「随分と唐突ですね。いきなり友人になれと言われてなれるとお思いですか?言っておきますが、友情はお金では買えません。それに愛も同じです」
と桜子は冷たく言い放たれた言葉に言い返そうとした司を遮るように、男の掌の上にある箱に一旦目を落とし、それから司を見つめながら言った。
「牧野先輩は人を疑うことを知りません。いえ。全くといった訳ではありません。詐欺や犯罪行為といったことは社会人として見抜くことが出来ます。でも恋愛に関してはそういったアンテナは働きません。どちらかといえばその方面は鈍感です。恐らく先輩は男性との経験はなかったはずです。違いますか?道明寺副社長?」
そう言われた男は何も答えなかったが、そのことが肯定と受け取られたのは間違いない。
そして桜子は続けた。
「牧野つくしという女性は恋愛には鈍感ですが、自分がされて嫌なことは他人も嫌に決まってますから絶対にしません。それに律儀な性格です。真面目で律儀な性格っていったらどこで息抜きしてるのかって思いますけど、それが牧野つくしです。根気のいい真面目な人間なんです。そんな女が男に騙されて、それでも恋愛は自己責任だからって言う悲しさ。恋は終わったって言葉だけで恋を終わらせる35歳の女のことを考えてみて下さい。可哀想だと思いませんか?そう思うなら放っておいて下さい。先輩は自分のことを名前の通りで雑草のように強いと言いますが、どんなに強がっても女ですから。それに35歳にもなると恋で傷ついた心を癒すには、若い頃と違って時間もかかります。そこを理解して下さい」
そして『これ以上先輩を傷つけることは止めて下さい』と言って、ここで結構ですと車を止めさせたが、やはり小箱を預かることは出来ませんと言われた。
そんな女の口から語られたのは、司の前では見せなかった牧野つくしの姿。
それが等身大の姿であり垣間見えた心の有りようだった。
会話の殆どは女の話で終わった。だが司の思いは伝わったはずだ。
そのことを友情に厚い女が彼女に伝えようが伝えまいがどちらでも構わなかった。
そしてそのことで期待や落胆を味わうつもりはなかった。
だが車を降りる間際言われたのは、
『私も牧野先輩と同じ滝川産業で働いています。系列会社の社員ですから副社長のことも少しは存知上げていますし尊敬していました。でも今回のことで副社長を見損ないました。私のことを生意気だと思うならクビにして下さい。私は先輩が幸せになってくれればそれでいいと思ってます。そう願うことが友情ですから。副社長が本当に牧野つくしのことが好きなら誠意を見せて下さい。先輩は少なくとも人の厚意を無下に断る人間じゃありませんから』
車は女を降ろすとスピードを上げ自宅へ向かっていたが、牧野つくしは人の厚意を無下に断る人間ではない、の言葉は彼女の性格を表していると思った。
そして、その言葉は多少なりとも司の思いを汲み取った三条という女が彼に伝えたかったことなのか。
それなら彼女の心を取り戻すために出来ることを、誠意と厚意を示すまでだ。

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友人と名乗った女がどんな女か分からなかったが、堂々とした物怖じしない声と落ち着いた言葉の切り返しは、気の強さの表れで自分に自信があると感じた。
夜も9時を回れば、外出する人間は殆どいない。特に女となれば尚更だが、やがて年の頃からして牧野つくしと同輩と思われる女が出てくれば、それらしいと予想がついた。
そしてマンションの敷地を出たところで声を掛けた。
「お前が三条か?」
そう言って暗がりから現れた男に女はハッとした顔をしたが、司が誰だか分かっているからか、大して驚くこともなく返事をした。
「ええ。そうです。道明寺副社長。私にご用ですか?」
と、インターフォンから聞こえてきた声が答えた。
「私に先輩との仲を取り持つように頼もうとしているなら無駄ですよ。私は先輩の味方です。友人の思いを大切にするのが私のポリシーですから」
話しがしたい。車で送っていくと言って女を車に乗せた司は、その言葉から女が牧野つくしとのことについては、どんな約束も決して破ることがない義理堅さを持つ人間だと知った。
そして殆どの女は、司の傍に来ればうっとりとした視線を彼に向ける。
だが今向けられている冷やかな視線と態度は、司に対していい印象がないことをあからさまに示していて、淡々とした受け答えはインターフォン越しの態度と同じだ。
「そうか。それは牧野にとっては心強い友人だな。そんなお前に頼みたいことがある」
司は回りくどい言い方はしない。
そしてその言葉に向かいに座る女が態度を整えたのが感じられた。
「一体私に何を頼みたいとおっしゃるんですか?道明寺副社長は先輩に話しがあると言いましたが一体何を話そうというんですか?今更騙すつもりは無かったとでもおっしゃるんですか?嘘をついて牧野つくしに近づいたことはないと言うつもりですか?
いえそうじゃないですね?先輩を弄んで捨てるつもりでいたことは確かですよね?でも気持ちが変わったということなんでしょうけど、仲を取り持つことはしませんから」
きっぱりとした口調は司をけなしはしなかったが、非難していることは確実で、言葉から感じられる冷たさには嫌悪が感じられ、一筋縄ではいかない女だと感じた。
だが友情に厚い女は情にもろいはずだ。一見冷たそうに見えるが、義理に厚い女はお節介な部分も持ち合わせているはずだ。
司は情に訴えることをしたことがない。だが今は牧野つくしと話しが出来るならどんなことでもするつもりでいた。
会社で会うことは出来る。だが業務の一環として会うことを求めても、心の裡を語ることは決してないはずだ。牧野つくしは頑固だ。芯が通った人間だ。自分がこうと決めたらやり抜く女だ。そのことは普段なら褒められていいことだが、その姿勢が司に対して向けられたことは望ましいことではない。だから間に立つ人間が必要だ。それもなるべく彼女に近い人間が。
「お前は俺たちの間に起きたことを知っているようだが、確かに牧野つくしに近づいたのは姪の夫から引き離す為だった。だが俺は彼女のことが好きになった。つまりミイラ取りがミイラになったってことだ。この気持ちは本物で嘘じゃない」
偽りの恋を仕掛けたことを否定することなく口にした男の顔に自嘲の笑みが浮かんだが直ぐに消えた。
「これは本当ならもっと早く….ニューヨークで渡すつもりでいた。だが渡せなかった。だから帰国して渡すつもりでいた。彼女のために選んだ。特別なものだ」
司がポケットから取り出したのは、言葉通り日曜の夜の食事に招かれたとき渡すつもりでいたブローチが収められた小さな箱。大切にしたいと思った女のために選んだ宝石を目の前にいる女に渡せば必ず彼女の手に届くはずだ。だから自分の身勝手さを承知の上で女に渡そうとした。そして自分の思いも伝わると思った。たが女の態度は冷たいものだった。
「道明寺副社長。もしそれが高価な宝石だとしても、先輩は宝石に興味はありません。物は値段で決まるといった考えは持っていません。それから渡して欲しいとおっしゃるなら申し訳ございません。私はお預かりすることは出来ません。だってそうですよね?私は牧野つくしの友人であって道明寺副社長の友人ではありませんから」
「じゃあ俺の友人になればいい」
司は簡単に言うが彼が友人と認めた人間は数少ない。
ましてや女で友人と呼ばれる人間はいない。そんな男が三条という女を友人にしてもいいと感じたのは、単に牧野つくしの近くにいる女だからではない。
友人の為だからと司に向かって堂々とした口を訊き、怯むことがないその態度は、本当に大切な相手の事だけを考える無二の親友のそれだからだ。司は女のその態度が気に入った。
「随分と唐突ですね。いきなり友人になれと言われてなれるとお思いですか?言っておきますが、友情はお金では買えません。それに愛も同じです」
と桜子は冷たく言い放たれた言葉に言い返そうとした司を遮るように、男の掌の上にある箱に一旦目を落とし、それから司を見つめながら言った。
「牧野先輩は人を疑うことを知りません。いえ。全くといった訳ではありません。詐欺や犯罪行為といったことは社会人として見抜くことが出来ます。でも恋愛に関してはそういったアンテナは働きません。どちらかといえばその方面は鈍感です。恐らく先輩は男性との経験はなかったはずです。違いますか?道明寺副社長?」
そう言われた男は何も答えなかったが、そのことが肯定と受け取られたのは間違いない。
そして桜子は続けた。
「牧野つくしという女性は恋愛には鈍感ですが、自分がされて嫌なことは他人も嫌に決まってますから絶対にしません。それに律儀な性格です。真面目で律儀な性格っていったらどこで息抜きしてるのかって思いますけど、それが牧野つくしです。根気のいい真面目な人間なんです。そんな女が男に騙されて、それでも恋愛は自己責任だからって言う悲しさ。恋は終わったって言葉だけで恋を終わらせる35歳の女のことを考えてみて下さい。可哀想だと思いませんか?そう思うなら放っておいて下さい。先輩は自分のことを名前の通りで雑草のように強いと言いますが、どんなに強がっても女ですから。それに35歳にもなると恋で傷ついた心を癒すには、若い頃と違って時間もかかります。そこを理解して下さい」
そして『これ以上先輩を傷つけることは止めて下さい』と言って、ここで結構ですと車を止めさせたが、やはり小箱を預かることは出来ませんと言われた。
そんな女の口から語られたのは、司の前では見せなかった牧野つくしの姿。
それが等身大の姿であり垣間見えた心の有りようだった。
会話の殆どは女の話で終わった。だが司の思いは伝わったはずだ。
そのことを友情に厚い女が彼女に伝えようが伝えまいがどちらでも構わなかった。
そしてそのことで期待や落胆を味わうつもりはなかった。
だが車を降りる間際言われたのは、
『私も牧野先輩と同じ滝川産業で働いています。系列会社の社員ですから副社長のことも少しは存知上げていますし尊敬していました。でも今回のことで副社長を見損ないました。私のことを生意気だと思うならクビにして下さい。私は先輩が幸せになってくれればそれでいいと思ってます。そう願うことが友情ですから。副社長が本当に牧野つくしのことが好きなら誠意を見せて下さい。先輩は少なくとも人の厚意を無下に断る人間じゃありませんから』
車は女を降ろすとスピードを上げ自宅へ向かっていたが、牧野つくしは人の厚意を無下に断る人間ではない、の言葉は彼女の性格を表していると思った。
そして、その言葉は多少なりとも司の思いを汲み取った三条という女が彼に伝えたかったことなのか。
それなら彼女の心を取り戻すために出来ることを、誠意と厚意を示すまでだ。

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時計の針は午後8時を指していた。
司は西田に午後からのスケジュールを調整しろ、時間を空けろと言ったが海外から帰国したばかりの月曜は余裕がなく結局この時間になった。
端から電話をしても出ることがないと分かっていた。
それに寝ているところを起すのではないかと躊躇した。
そしてもし電話に出たとしても、何も言わず切られることは目に見えていた。
司はマンションの入口で、彼女の部屋の番号を押し返事が返ってくるのを待った。
だが返されたのは沈黙。風邪をひいた。熱があると訊かされていることから寝ているのかと思うも、再びインターフォンを押し返事が返ってくるのを待っていた。
起きているならモニターの向うで司の顔を見ているはずだ。嘘をついた。彼女を騙した男の姿を見ているはずだ。
今更どの面下げて会いに来たのかと罵られることがあってもおかしくない。だが罵倒されても構わなかった。それは相手に対し感情があるからだ。だが無視されるということは、相手に対し何の感情も持たないということ。興味がないということだ。
昨日の彼女は美奈のように目の前の男に手を上げるでもなく恋は終わった、の言葉を残し静かに去った。それは初めから二人に未来はないことを前提に付き合い始めた女の物分かりの良さがそうさせたのだろう。初めはその物分かりの良さが司にとっては都合がよかったが、今はあの頃とは逆で物の道理も分別もない女でいてくれる方がよかった。
暫く待ったがインターフォンは応答しない。
司は再びボタンを押し待った。
すると少しして『はい』と声がした。
「牧野?俺だ。道明寺だ。風邪をひいた。熱があると訊いた。大丈夫か?」
その呼びかけに返事はない。だがそんなことはどうでもよかった。一方的な会話だとしても話を訊いて貰えるなら構わなかった。
「牧野?話がしたい。頼む。入れてくれないか?…..いや長居をするつもりはない。お前が熱を出していると訊いて食事もままならないんじゃないかと思った。だから食べる物を持って来た。俺は料理が出来ないがメープルのシェフに作らせた。だから安心して食べてくれ。俺と話したくないならこの料理だけでも受け取ってくれ。部屋には入らない。ドアの前に置く。だからここを_」
その時、インターフォンから聞こえた声は堂々としていて物怖じしない声。
『道明寺さん。私は三条と言います。先輩の….牧野つくしの友人です。食事は私が作りました。それにもう済ませました。せっかくお持ちいただいたのに申し訳ありませんがお持ち帰り下さい。それに先輩はまだ熱があります。物事を考えるには無理があります。ですからお帰り下さい』
そう言われたが彼女がどうしているのか聞くまで司は帰るつもりはなかった。
「お前三条と言ったな?牧野は大丈夫か?熱は高いのか?病院には行ったのか?まだなら俺が今すぐ連れて行くがどうなんだ?」
『道明寺さん。ご心配頂くのは結構ですが、あなたはご自分が先輩に何をしたかお分かりですか?言わせて頂きますけど先輩は真面目な女性です。結婚している男性とお付き合いするような女性ではありません。それをあなたの姪とあなたは先輩に嘘をついて恋を仕掛けたんですよね?それなのに先輩は本気になって傷ついて….。あなたは女性をこんな形で傷つけて平気なんですか?多分先輩はあなたには何も言わないと思います。でも傷ついています。弱ってます。だから風邪をひいたんです。それに_』
声が一端途切れて、聞こえてきたのは牧野つくしの声。
『桜子。もういいから。止めて』
司はその声に向かって語り掛けるように言った。
「牧野。話しがしたい。ここを開けてくれ。長居はしない。無理はさせない。少しでいい。話しを訊いてくれないか」
『…..副社長。今日は休んでしまってすみません。出張から帰ってお休みまで頂いていたのに風邪をひいてしまうなんて、健康管理がなってませんよね…本当に申し訳ございませんでした』
司が訊きたいのは、決められたような文言でもなければ杓子定規な態度でもない。
彼女の感情が込められた言葉が訊きたかった。だが牧野つくしは、あくまでもビジネスライクを通そうというのか。そういった態度が彼女らしいと言えばらしいのだが、今はそんな態度は必要なかった。感情をあらわにしてもらった方がよかった。
だが彼女がそういった態度を取ることが無くても、司が自身の思いを伝えることは自由だ。
「牧野。お前が風邪をひいたのは俺のせいだ。俺がお前を雨の中帰らせたようなものだ。だから俺がお前の面倒を見る。いや見させて欲しい。風邪が治るまで俺が_」
『副社長。お気持ちは嬉しいですが私たちはもうそういった関係ではありません。それに大丈夫です。仕事は、明日は無理かもしれませんが、明後日には大丈夫だと思います。それから色々とありましたが、これからは上司と部下としてよろしくお願いします』
「牧野__」
と、司が言いかけたところでインターフォンは切られたが、耳に残ったのは、彼女がきっぱりとした口で言った言葉。
『私たちはもうそういった関係ではありません』
潔さを感じさせる口調は彼に向かって開いていた心を閉ざしてしまったことを伝えるに十分過ぎるほどで、その言葉が心に突き刺さっていた。
「先輩?大丈夫ですか?」
「うん平気、平気。だって終わった恋だもの」
澄ました顔とまでは言わないが、表情には笑みを浮かべた。
病気に対しての免疫力は弱っているかもしれないが、ひとりの大人として生きていく力は弱ってはいない。それに現に今までもひとりで生きて来た。
だから失恋したからといって今までと何かが変わることはないはずだ。
「そうですか?私は道明寺副社長のことは見損ないましたから、擁護するような言葉は出ませんけど、今あの人は心の鬼が身を責めているはずです。良心の呵責を感じているということですが、先輩が風邪をひいたのは自分のせいだと言っていましたが、そうじゃありません。風邪をひいたのは先輩が髪を乾かさずにエアコンの効いた部屋で寝たからです。でもそれは言う必要はありません。ああやって苦しめばいいんです。さあ先輩食事も終わったんですから、今夜は早く休んで下さい。睡眠と栄養。それが風邪を早く治す一番の近道ですからね」

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司は西田に午後からのスケジュールを調整しろ、時間を空けろと言ったが海外から帰国したばかりの月曜は余裕がなく結局この時間になった。
端から電話をしても出ることがないと分かっていた。
それに寝ているところを起すのではないかと躊躇した。
そしてもし電話に出たとしても、何も言わず切られることは目に見えていた。
司はマンションの入口で、彼女の部屋の番号を押し返事が返ってくるのを待った。
だが返されたのは沈黙。風邪をひいた。熱があると訊かされていることから寝ているのかと思うも、再びインターフォンを押し返事が返ってくるのを待っていた。
起きているならモニターの向うで司の顔を見ているはずだ。嘘をついた。彼女を騙した男の姿を見ているはずだ。
今更どの面下げて会いに来たのかと罵られることがあってもおかしくない。だが罵倒されても構わなかった。それは相手に対し感情があるからだ。だが無視されるということは、相手に対し何の感情も持たないということ。興味がないということだ。
昨日の彼女は美奈のように目の前の男に手を上げるでもなく恋は終わった、の言葉を残し静かに去った。それは初めから二人に未来はないことを前提に付き合い始めた女の物分かりの良さがそうさせたのだろう。初めはその物分かりの良さが司にとっては都合がよかったが、今はあの頃とは逆で物の道理も分別もない女でいてくれる方がよかった。
暫く待ったがインターフォンは応答しない。
司は再びボタンを押し待った。
すると少しして『はい』と声がした。
「牧野?俺だ。道明寺だ。風邪をひいた。熱があると訊いた。大丈夫か?」
その呼びかけに返事はない。だがそんなことはどうでもよかった。一方的な会話だとしても話を訊いて貰えるなら構わなかった。
「牧野?話がしたい。頼む。入れてくれないか?…..いや長居をするつもりはない。お前が熱を出していると訊いて食事もままならないんじゃないかと思った。だから食べる物を持って来た。俺は料理が出来ないがメープルのシェフに作らせた。だから安心して食べてくれ。俺と話したくないならこの料理だけでも受け取ってくれ。部屋には入らない。ドアの前に置く。だからここを_」
その時、インターフォンから聞こえた声は堂々としていて物怖じしない声。
『道明寺さん。私は三条と言います。先輩の….牧野つくしの友人です。食事は私が作りました。それにもう済ませました。せっかくお持ちいただいたのに申し訳ありませんがお持ち帰り下さい。それに先輩はまだ熱があります。物事を考えるには無理があります。ですからお帰り下さい』
そう言われたが彼女がどうしているのか聞くまで司は帰るつもりはなかった。
「お前三条と言ったな?牧野は大丈夫か?熱は高いのか?病院には行ったのか?まだなら俺が今すぐ連れて行くがどうなんだ?」
『道明寺さん。ご心配頂くのは結構ですが、あなたはご自分が先輩に何をしたかお分かりですか?言わせて頂きますけど先輩は真面目な女性です。結婚している男性とお付き合いするような女性ではありません。それをあなたの姪とあなたは先輩に嘘をついて恋を仕掛けたんですよね?それなのに先輩は本気になって傷ついて….。あなたは女性をこんな形で傷つけて平気なんですか?多分先輩はあなたには何も言わないと思います。でも傷ついています。弱ってます。だから風邪をひいたんです。それに_』
声が一端途切れて、聞こえてきたのは牧野つくしの声。
『桜子。もういいから。止めて』
司はその声に向かって語り掛けるように言った。
「牧野。話しがしたい。ここを開けてくれ。長居はしない。無理はさせない。少しでいい。話しを訊いてくれないか」
『…..副社長。今日は休んでしまってすみません。出張から帰ってお休みまで頂いていたのに風邪をひいてしまうなんて、健康管理がなってませんよね…本当に申し訳ございませんでした』
司が訊きたいのは、決められたような文言でもなければ杓子定規な態度でもない。
彼女の感情が込められた言葉が訊きたかった。だが牧野つくしは、あくまでもビジネスライクを通そうというのか。そういった態度が彼女らしいと言えばらしいのだが、今はそんな態度は必要なかった。感情をあらわにしてもらった方がよかった。
だが彼女がそういった態度を取ることが無くても、司が自身の思いを伝えることは自由だ。
「牧野。お前が風邪をひいたのは俺のせいだ。俺がお前を雨の中帰らせたようなものだ。だから俺がお前の面倒を見る。いや見させて欲しい。風邪が治るまで俺が_」
『副社長。お気持ちは嬉しいですが私たちはもうそういった関係ではありません。それに大丈夫です。仕事は、明日は無理かもしれませんが、明後日には大丈夫だと思います。それから色々とありましたが、これからは上司と部下としてよろしくお願いします』
「牧野__」
と、司が言いかけたところでインターフォンは切られたが、耳に残ったのは、彼女がきっぱりとした口で言った言葉。
『私たちはもうそういった関係ではありません』
潔さを感じさせる口調は彼に向かって開いていた心を閉ざしてしまったことを伝えるに十分過ぎるほどで、その言葉が心に突き刺さっていた。
「先輩?大丈夫ですか?」
「うん平気、平気。だって終わった恋だもの」
澄ました顔とまでは言わないが、表情には笑みを浮かべた。
病気に対しての免疫力は弱っているかもしれないが、ひとりの大人として生きていく力は弱ってはいない。それに現に今までもひとりで生きて来た。
だから失恋したからといって今までと何かが変わることはないはずだ。
「そうですか?私は道明寺副社長のことは見損ないましたから、擁護するような言葉は出ませんけど、今あの人は心の鬼が身を責めているはずです。良心の呵責を感じているということですが、先輩が風邪をひいたのは自分のせいだと言っていましたが、そうじゃありません。風邪をひいたのは先輩が髪を乾かさずにエアコンの効いた部屋で寝たからです。でもそれは言う必要はありません。ああやって苦しめばいいんです。さあ先輩食事も終わったんですから、今夜は早く休んで下さい。睡眠と栄養。それが風邪を早く治す一番の近道ですからね」

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「先輩大丈夫ですか?エアコンのかかった部屋で髪の毛乾かさずに寝るなんて、風邪をひいても仕方がないですよ。それにしても今回の風邪は質が悪そうですね?」
欠勤しますと会社に連絡をしてベッドに横たわると、ウトウトしながらひたすら水分を取っていたが、ちょうど昼休みに入った頃携帯に桜子からメールが届いた。そこには、ニューヨーク土産に渡したチョコの感想と共に、
『月曜出社。道明寺副社長と会いましたか?恋人になってから会社で顔を合わせるってどんな感じですか?』
と書かれていたが、風邪をひいて寝込んでいると返信をすると、『仕事終わったら行きますから』と返事が届くと夕方の早い時間に桜子はつくしのマンションを訪ねてきた。
「先輩大丈夫ですか?そんなんじゃ明日も会社は無理ですね?それに食事。してないでしょ?」
「うん….食欲なくてね。素麺でも茹でようかと思ったけど、昼は水とヨーグルトしか食べれなかったの」
トイレには何度か行ったが、動き回ると気分が悪くなり、台所に立つことも億劫で何かを作ろうといった気にはなれなかった。だが熱は38度から上がることはなく、薬のおかげか少しだけ下がっていた。
「そうですか。そうだと思いました。素麺もいいですけど栄養付けなきゃ駄目ですよ。風邪の時は身体に優しいタマゴ料理が一番です。卵とネギとしらすがたっぷり入ったお粥を作りますから先輩はゆっくりして下さい」
桜子はお粥を炊き、そこへ自らがスーパーで買ってきた食材を使い桜子特製という青ネギとしらすがたっぷり入った卵粥を作ってくれたが美味しかった。そしてこれも食べて下さいとプリンを差し出してきたが、口当たりがいいプリンはあっという間に胃の中へ消えていった。
「先輩たまにこうして風邪ひきますよね?でも今回の風邪はかなり重症ですね?それに夏風邪は長引きますから本当に気を付けないと身体が元通りになるには1ヶ月くらいかかりますからね?まずは水分を沢山とって、それから栄養のあるものを少しずつでも食べる。これしかないですからね?」
桜子は、佐々木純子と同じことを言ってつくしが食べた食器を洗い始めたが、対面式キッチンに立つ女は、昼間のメールの返事を訊くことにしたのか、
「ところで先輩。道明寺さんには連絡したんですよね?お忙しい方だと思いますけど、恋人が風邪をひいて苦しんでいるのを放っておくような人じゃないですよね?お見舞いに来られるんですよね?私もしかしてお邪魔ですか?」
と訊いたが、つくしは首を横に振った。
「うんうん。来ないわ」
その言葉に桜子は洗い物をする手を止め怪訝な顔をした。
「それ、どういう意味ですか?忙しくて無理だってことですか?それともまた出張に出られたんですか?」
いっそのことまた暫く出張に出てくれたらと思うがそうではない。
「うんうん。違うの。別れたの....恋は終わったの」
桜子は、流し台の前からつくしがいるダイニングテーブルに回って来ると、つくしの前に腰を降ろした。
「ちょっと先輩。それどういう意味ですか?だって付き合い始めたの、まだつい最近ですよ?それなのに別れた。終わったってどういう意味ですか?」
テーブルに前のめりの姿勢で訊ねる女は、怪訝だった顔が眉間に皺を寄せるような顔に変わっていて怖いほどに真剣だった。
何しろつい2日前ここで恋のスタートのお祝いだと言ってワインを開けパスタを食べたばかりだ。
それなのに何故こんな短期間で恋が終ったのかと考えるが、いくら桜子が頭の中で考えたところで、つくしの思考を読む事は出来ない。だから桜子は、口を開こうとしないつくしに再び訊いた。
「先輩。どうして道明寺さんと別れたなんて言うんですか?それ冗談か何かなら怒りますよ?」
「どうしてって…..別れたんだもの。それに冗談じゃなくて終わったとしか言えないんだもの」
仕掛けられた恋だった。関係を結び、弄んで捨てることを目的に近づいて来た。
そのことを昨日知った。
「終わったとしか言えないって…..先輩。それどういうことですか?ちゃんと説明して下さい。別れたなら別れた理由を教えて下さい」
そう言われても、心の中を言葉にするには、人に話すには少しの時間と勇気が必要だ。
ほんの短い間の恋が、いや恋と思っていた関係が偽りのもので、その全てが偽りであると知ったとき、自分がどんな顔をしていたか知らないが、白石美奈の言葉が頭の中に浸透するまでの数秒間さぞや間抜けな顔をしていたはずだ。
「先輩?」
「あのね、桜子。あの恋は嘘だったの」
つくしは言葉を捏ねることなく短く言った。
「嘘?……嘘ってどういう意味ですか?まさか道明寺副社長には先輩意外にも付き合っている人がいるとか、そういうことですか?まさか二股ですか?」
「うんうん。違うの…..そうじゃなくて、恋そのものが幻だったの」
「あの。先輩。もっと具体的に話して下さい。幻っていったい__?」
「….うん。私に夫と別れてくれって会社に1億の小切手を持って現れた女性の話をしたでしょ?覚えてる?」
受付けから来客だと言われロビーで待つ女性と会ったが、いきなり夫と別れてくれと言われ、手切れ金として1億の小切手を用意したと言われたことがつい先日のことのように思い出されていた。
「ええ。勿論覚えてます。若い女性でお金持ちのタイプって話でしたよね?その人が何か関係あるんですか?」
「うん….その女性が道明寺副社長の姪だったの。それで…..私が道明寺に出向になったのも、道明寺副社長の傍で働くようになったのも、ニューヨークへ出張したのも、その姪に頼まれたからなの」
事情が呑み込めない桜子は訝しげな表情を浮かべ、つくしが言葉を継ぐのを待っていた。
「あのね、副社長が私のことを好きだと言ったのは、姪の夫を奪った私に復讐することが目的だったの。夫から私を引き離すことが目的で近づいたの。だから本当の恋じゃなかったの。幻だったってわけ」
「え…でもそれって間違いですよね?先輩はそんな夫の存在は知らなかったんですし、あの頃その女性の勘違いで間違いだって話をしましたよね?それにそれっきりその女性は現れなかったし、間違いだって話でしたよね?」
間違いだ。勘違いだ。
それ以外思いもしなかった。だからあれ以来気に留めたことはなかった。
「うん。そう思ってた。でもそうじゃなかったの。その女性は叔父の道明寺副社長に夫の不倫相手を誘惑して弄んで捨てて欲しいって頼んだの」
まさか罠を仕掛けるではないが、夫の浮気相手と思われる女性にそんな仕打ちをしようと考えるとは思いもしなかった。
「それって、つまり、牧野先輩と道明寺副社長の恋は、姪の夫と不倫をしてる先輩を騙して捨てるつもりで始められたってことですか?」
「そう。そういうこと。だから恋はおしまい。だって彼は姪の頼みを訊き入れて目的を果たしたんだもの」
二人の関係の始まりは姪の頼みから始まったが、途中からはそうではなくなったと強く否定したが信じられなかった。
姪の結婚生活を守るためゲーム感覚で口説き落とすことを楽しんでいたはずだ。
「ちょっと待って下さい。....つまり恋がおしまいって…それって捨てられたってことですか?道明寺副社長が先輩を騙して捨てたってことですか?」
「うんうん。それは違うの。だってね、桜子。私あの人と恋をしたいと思ったから騙すことが目的で近づいて来たとしてもシンデレラの靴の気分は味わえたんだし、恋は自己責任だって言うでしょ?だから私からさよならしたの。恋は昨日で終わったの。もう忘れることにしたの」
そこまでの話を訊いた桜子は、
「先輩それって恋愛で騙された人がよく言うセリフです。自分が悪かった。恋は自己責任だって必ず言います。今の先輩はまさにそれです。それにしても道明寺副社長ってそんな人だったんですか?私見損ないました。いくらご自分の姪が可愛いからといって女性を騙して捨てるなんてことをしますか?自分を何様だと思ってるんですか?恋は対等にするものであって騙すとか罠にかけるとかするべきじゃないと思います」
と桜子は憤慨したが、自分の恋愛については、手練手管を駆使して目的を達成させるが、それとこれとは別のようだ。
「先輩。そんなことされて黙っていることないですよ。そんなこと許されません。道明寺副社長もですが姪にも呆れます。週刊誌でも何でもいいからこの状況を訴えたらいいんです!人の心を弄んで捨てるような男、週刊誌で叩かれればいいんです!
だいたい先輩は姪の夫となんの関係もないじゃないですか!よく調べもしないでどうしてそんなことが出来たんでしょうね?私幻滅しました。あの道明寺副社長がそんなことするなんて、お金持ちでカッコいいかもしれませんが人として最低です!」
と桜子は息巻くと、幾らか気持ちが落ち着いたのか、先輩食後のお薬飲んで下さいね。
お水汲んできますから。と言って椅子から立ち上った。
その時インターフォンが鳴り、誰かが訪ねて来たことを告げた。

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欠勤しますと会社に連絡をしてベッドに横たわると、ウトウトしながらひたすら水分を取っていたが、ちょうど昼休みに入った頃携帯に桜子からメールが届いた。そこには、ニューヨーク土産に渡したチョコの感想と共に、
『月曜出社。道明寺副社長と会いましたか?恋人になってから会社で顔を合わせるってどんな感じですか?』
と書かれていたが、風邪をひいて寝込んでいると返信をすると、『仕事終わったら行きますから』と返事が届くと夕方の早い時間に桜子はつくしのマンションを訪ねてきた。
「先輩大丈夫ですか?そんなんじゃ明日も会社は無理ですね?それに食事。してないでしょ?」
「うん….食欲なくてね。素麺でも茹でようかと思ったけど、昼は水とヨーグルトしか食べれなかったの」
トイレには何度か行ったが、動き回ると気分が悪くなり、台所に立つことも億劫で何かを作ろうといった気にはなれなかった。だが熱は38度から上がることはなく、薬のおかげか少しだけ下がっていた。
「そうですか。そうだと思いました。素麺もいいですけど栄養付けなきゃ駄目ですよ。風邪の時は身体に優しいタマゴ料理が一番です。卵とネギとしらすがたっぷり入ったお粥を作りますから先輩はゆっくりして下さい」
桜子はお粥を炊き、そこへ自らがスーパーで買ってきた食材を使い桜子特製という青ネギとしらすがたっぷり入った卵粥を作ってくれたが美味しかった。そしてこれも食べて下さいとプリンを差し出してきたが、口当たりがいいプリンはあっという間に胃の中へ消えていった。
「先輩たまにこうして風邪ひきますよね?でも今回の風邪はかなり重症ですね?それに夏風邪は長引きますから本当に気を付けないと身体が元通りになるには1ヶ月くらいかかりますからね?まずは水分を沢山とって、それから栄養のあるものを少しずつでも食べる。これしかないですからね?」
桜子は、佐々木純子と同じことを言ってつくしが食べた食器を洗い始めたが、対面式キッチンに立つ女は、昼間のメールの返事を訊くことにしたのか、
「ところで先輩。道明寺さんには連絡したんですよね?お忙しい方だと思いますけど、恋人が風邪をひいて苦しんでいるのを放っておくような人じゃないですよね?お見舞いに来られるんですよね?私もしかしてお邪魔ですか?」
と訊いたが、つくしは首を横に振った。
「うんうん。来ないわ」
その言葉に桜子は洗い物をする手を止め怪訝な顔をした。
「それ、どういう意味ですか?忙しくて無理だってことですか?それともまた出張に出られたんですか?」
いっそのことまた暫く出張に出てくれたらと思うがそうではない。
「うんうん。違うの。別れたの....恋は終わったの」
桜子は、流し台の前からつくしがいるダイニングテーブルに回って来ると、つくしの前に腰を降ろした。
「ちょっと先輩。それどういう意味ですか?だって付き合い始めたの、まだつい最近ですよ?それなのに別れた。終わったってどういう意味ですか?」
テーブルに前のめりの姿勢で訊ねる女は、怪訝だった顔が眉間に皺を寄せるような顔に変わっていて怖いほどに真剣だった。
何しろつい2日前ここで恋のスタートのお祝いだと言ってワインを開けパスタを食べたばかりだ。
それなのに何故こんな短期間で恋が終ったのかと考えるが、いくら桜子が頭の中で考えたところで、つくしの思考を読む事は出来ない。だから桜子は、口を開こうとしないつくしに再び訊いた。
「先輩。どうして道明寺さんと別れたなんて言うんですか?それ冗談か何かなら怒りますよ?」
「どうしてって…..別れたんだもの。それに冗談じゃなくて終わったとしか言えないんだもの」
仕掛けられた恋だった。関係を結び、弄んで捨てることを目的に近づいて来た。
そのことを昨日知った。
「終わったとしか言えないって…..先輩。それどういうことですか?ちゃんと説明して下さい。別れたなら別れた理由を教えて下さい」
そう言われても、心の中を言葉にするには、人に話すには少しの時間と勇気が必要だ。
ほんの短い間の恋が、いや恋と思っていた関係が偽りのもので、その全てが偽りであると知ったとき、自分がどんな顔をしていたか知らないが、白石美奈の言葉が頭の中に浸透するまでの数秒間さぞや間抜けな顔をしていたはずだ。
「先輩?」
「あのね、桜子。あの恋は嘘だったの」
つくしは言葉を捏ねることなく短く言った。
「嘘?……嘘ってどういう意味ですか?まさか道明寺副社長には先輩意外にも付き合っている人がいるとか、そういうことですか?まさか二股ですか?」
「うんうん。違うの…..そうじゃなくて、恋そのものが幻だったの」
「あの。先輩。もっと具体的に話して下さい。幻っていったい__?」
「….うん。私に夫と別れてくれって会社に1億の小切手を持って現れた女性の話をしたでしょ?覚えてる?」
受付けから来客だと言われロビーで待つ女性と会ったが、いきなり夫と別れてくれと言われ、手切れ金として1億の小切手を用意したと言われたことがつい先日のことのように思い出されていた。
「ええ。勿論覚えてます。若い女性でお金持ちのタイプって話でしたよね?その人が何か関係あるんですか?」
「うん….その女性が道明寺副社長の姪だったの。それで…..私が道明寺に出向になったのも、道明寺副社長の傍で働くようになったのも、ニューヨークへ出張したのも、その姪に頼まれたからなの」
事情が呑み込めない桜子は訝しげな表情を浮かべ、つくしが言葉を継ぐのを待っていた。
「あのね、副社長が私のことを好きだと言ったのは、姪の夫を奪った私に復讐することが目的だったの。夫から私を引き離すことが目的で近づいたの。だから本当の恋じゃなかったの。幻だったってわけ」
「え…でもそれって間違いですよね?先輩はそんな夫の存在は知らなかったんですし、あの頃その女性の勘違いで間違いだって話をしましたよね?それにそれっきりその女性は現れなかったし、間違いだって話でしたよね?」
間違いだ。勘違いだ。
それ以外思いもしなかった。だからあれ以来気に留めたことはなかった。
「うん。そう思ってた。でもそうじゃなかったの。その女性は叔父の道明寺副社長に夫の不倫相手を誘惑して弄んで捨てて欲しいって頼んだの」
まさか罠を仕掛けるではないが、夫の浮気相手と思われる女性にそんな仕打ちをしようと考えるとは思いもしなかった。
「それって、つまり、牧野先輩と道明寺副社長の恋は、姪の夫と不倫をしてる先輩を騙して捨てるつもりで始められたってことですか?」
「そう。そういうこと。だから恋はおしまい。だって彼は姪の頼みを訊き入れて目的を果たしたんだもの」
二人の関係の始まりは姪の頼みから始まったが、途中からはそうではなくなったと強く否定したが信じられなかった。
姪の結婚生活を守るためゲーム感覚で口説き落とすことを楽しんでいたはずだ。
「ちょっと待って下さい。....つまり恋がおしまいって…それって捨てられたってことですか?道明寺副社長が先輩を騙して捨てたってことですか?」
「うんうん。それは違うの。だってね、桜子。私あの人と恋をしたいと思ったから騙すことが目的で近づいて来たとしてもシンデレラの靴の気分は味わえたんだし、恋は自己責任だって言うでしょ?だから私からさよならしたの。恋は昨日で終わったの。もう忘れることにしたの」
そこまでの話を訊いた桜子は、
「先輩それって恋愛で騙された人がよく言うセリフです。自分が悪かった。恋は自己責任だって必ず言います。今の先輩はまさにそれです。それにしても道明寺副社長ってそんな人だったんですか?私見損ないました。いくらご自分の姪が可愛いからといって女性を騙して捨てるなんてことをしますか?自分を何様だと思ってるんですか?恋は対等にするものであって騙すとか罠にかけるとかするべきじゃないと思います」
と桜子は憤慨したが、自分の恋愛については、手練手管を駆使して目的を達成させるが、それとこれとは別のようだ。
「先輩。そんなことされて黙っていることないですよ。そんなこと許されません。道明寺副社長もですが姪にも呆れます。週刊誌でも何でもいいからこの状況を訴えたらいいんです!人の心を弄んで捨てるような男、週刊誌で叩かれればいいんです!
だいたい先輩は姪の夫となんの関係もないじゃないですか!よく調べもしないでどうしてそんなことが出来たんでしょうね?私幻滅しました。あの道明寺副社長がそんなことするなんて、お金持ちでカッコいいかもしれませんが人として最低です!」
と桜子は息巻くと、幾らか気持ちが落ち着いたのか、先輩食後のお薬飲んで下さいね。
お水汲んできますから。と言って椅子から立ち上った。
その時インターフォンが鳴り、誰かが訪ねて来たことを告げた。

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心臓が冷たくなるという感覚はそうあるものではない。
だがそれは失恋したと自覚したからだが、それとは別に風邪かな?と思った時にはもう風邪をひいていた。それは多分昨日お風呂から出た時のことだった。暑かったのでエアコンを付けた。髪を乾かさずそのまま寝た。つまり濡れた髪に冷たい空気が絡みつき風邪をひいたということだ。
早朝に目が覚めたのは、トイレのためだったが、ベッドから起き上がり、床に足を着けた途端、立ち眩みがした。
頭が痛い。喉が痛い。身体が熱っぽい。これは風邪の症状としか言えず、買い置きの風邪薬を飲んだ。そして熱を測ったが38度を超えていた。
「はぁ…体温計見たら余計熱があがりそう」
結局つくしはその日会社を休んだ。
風邪をひいて熱があると電話をしたが、その時電話を取ったのは、エネルギー事業部、石油ガス開発部別室唯一の女性社員の佐々木純子だった。ニューヨークから帰国して休んでいる間に風邪をひいたことは、社会人として自己管理が出来てないと思われても仕方がないのだが、佐々木は、
『夏風邪は油断したら駄目よ。それに気温が高いから体の熱さがわかりにくいけど、あまり冷えた部屋にいると回復が遅れるから気を付けて。身体を冷やし過ぎないでね。夏風邪は長引くからちゃんと治してから出てきた方がいいわ。大丈夫よ。副社長なら何も言わないから。だって牧野さんに惚れたって言うくらいですもの』
と言って電話の向うで笑ったが、その笑いは明らかに出張で何か進展があったことを期待しているように聞こえた。だがそれを口にしないのが大人だ。
『それより牧野さん。本当に大丈夫?あなた一人暮らしでしょ?』
一人暮らしが病気になると死んでしまうように大袈裟に心配する人間もいるが、今までも風邪をひいて熱を出したことが何度かあったが、なんとかしてきた。
それに幸いなことに近くに病院もあり、行こうと思えば行ける。だが身体がだるくて起き上がっていることが億劫に感じ病院へ行こうという気になれなかった。だから買い置きの薬を飲み様子を見ることにした。
「佐々木さん。大丈夫ですから。それに….いざとなれば近くに友達がいますから大丈夫です」
だが隣の岡村恵子は田舎へ行くと言っていたが、まだ戻って来てはないようだ。
『あら牧野さんったら。お友達を呼ぶより副社長に来てもらえばいいのよ。そうよ。副社長ならすぐに牧野さんのところへ駆けつけるはずよ』
佐々木は楽しそうに言ったが、つくしは道明寺司に会いたくはなかった。
それにつくしが会いたくない以前に相手が嫌がるはずだ。それにこうして風邪をひいて弱っているところで失恋したばかりの相手のことを考えたくはなかった。だが彼は上司だ。避けて通ることが出来ない人間だ。それに出張に出る前、部署全員の前で告白をされた。そのことを考えれば職場の空気が何某かの期待感に満ちていることは想像出来るが、残念ならがその期待に応えることは出来ない。何しろあれは偽りの恋で終わってしまったのだから。
「佐々木さん。….あの副社長は今日…その、そちらへ出勤されるんでしょうか?」
佐々木はニューヨークで二人に何があったのか。その後の二人に何があったかは知らないが副社長は知っている。だから失恋したから休んだとは思われたくなかった。
落ち込んでいると思われたくなかった。そんな思いから本当は出社したかった。だが熱がある身体ではどう考えても無理だった。だから休むことにしたが気になった。
『副社長?そうねぇ….帰国翌日の金曜は執務室に篭ってらっしゃったと思うけど、どうかしらね?うちの部署は副社長直属だから詳細は別にして副社長が国内にいるか、海外にいるかだけは把握できるんだけど、ちょっと待ってね。社内グループウェアでスケジュール確認してみるから………えっと…..』
つくしは、電話の向うで佐々木がパソコンを操作し終わるのを待っていた。
『そうね、今週は何も書かれてないから国内だと思うわ』
海外出張から戻れば、国内で溜まっていた仕事を片付けるのが当然で、今週は国内にいたとしてもおかしくない。だがそうだとしても、別室に頻繁に顔を出すとは限らない。
つくしは熱が下がれば出社するつもりでいるが、会うことを避けられそうにないと知った。
だがそんなことを気にしていては駄目だ。毎日とは言わなくても出向が終るまでは顔を合わせることになるのだから、初めから逃げてどうするというのだ。
それに二人の間に起きたことは、無理強いされた訳でもなく、むしろそれを望んでいた。
あの時、部屋を訪ねたのはつくしであり、副社長と恋をしたいと望んだのは自分だ。
たとえ騙されたとしても、恋は自己責任で誰も責めることは出来ないはずだ。
だがある日、目障りだと突然本来の勤務先である滝川産業に戻されるかもしれない。
それでも構わなかった。いっそそうして貰えた方が気楽かもしれない。それに副社長にしても、その方がいいはずだ。つくしに近づいたのは姪のためであって、本気で好きになったのではないのだから目的を果たした今、女の存在はただ目障りなはずだから。
『….牧野さん?聞こえてる?大丈夫?』
「え?あ、はい。大丈夫です。すみません。今日は申し訳ありません、お休みさせていただきますのでよろしくお願いします」
『分かったわ。今日なんて言わなくていいのよ。明日も無理しなくていいから。じゃあそろそろみんなが来るから電話切るわね。それからお大事にね。無理しないでゆっくり休んでね?』
「あ、はい。ありがとうございます。___はい。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
つくしは電話を切るとひと息ついた。
そして思った。
「好きでもない女を抱いた男の気持なんて分かるはずないし…..」
ひとり言が多いと言われたことがあったが、今こうしてひとり言にして気持ちの整理をするのは、いいことではないか。
だがこうして考え始めると今以上に熱が上がりそうに感じられる。だから考えない方がいい。済んだことをクヨクヨと考えても仕方がない。今は終わった恋のことを考えるより、早く風邪を治すことを考えなければならなかった。
薬は飲んだ。だからこれからは風邪の菌が弱まるのをひたすら待つしかない。
自分の身体のことは、自分が一番よく知っている。熱は別として喉の痛みの次は鼻水が出て、それから咳になるのがつくしのパターンで風邪の答えは出ている。今日はまだ第一段階の喉の痛みだが時間が経てば治る。もしかするとこの風邪は、道明寺司の恋の道化にまんまと騙された女に神様から与えられた再起を図る時間なのかもしれない。
そしてこの風邪が治ったとき、今まであったことはキレイに忘れることが出来るはずだ。
何故か知らないがそんな気がしていた。
***
「牧野は出社したか?」
眠れない朝を迎えた司は、出社すると「別室」へ足を運んだ。
帰国した翌日の金曜に一度顔を出したが、あの時は今のように沈んだ思いを抱えてはいなかった。だが今は大きな罪を背負った男がそこにいて、席についていた佐々木純子に訊いた。
「おはようございます副社長。牧野さん今日は風邪をひいてお休みするそうです」
「風邪?」
「はい。熱があるそうです」
「そうか…..」
少し間を置き司は言葉を継いだ。
「他に何か言ってたか?」
「…..何かですか?いえ、特になにも。出張から戻ってそのまま休んでしまって申し訳ありませんとだけ言っていましたが何かありましたか?」
佐々木純子は賢明な女性で不用意な発言はしないが、それだけに口にした「何かありましたか?」の問い掛けは単なる好奇心以上のものを感じさせたが、司は「いや。何でもない」とだけしか答えなかった。そして部屋を出ると執務室へ戻るためエレベーターに乗り、最上階のボタンを押し壁に背中をもたせ掛けた。
昨日の夕方から激しい雨が降りはじめ、足元がびしょびしょになるほどだったが、その雨に打たれたのだろうか。あの時、彼女は傘を持っていなかった。司が引き留めることが出来なかった女は、心に痛手を与えられ雨に濡れながら帰ったのだろうか。もしそうなら、そうさせたのは司だ。彼女の髪は綺麗に整えられていたが、その髪も服も雨に濡れてしまったのだろうか。そしてそのせいで風邪をひいたなら司のせいだ。
司は執務室に戻ると西田を呼んだ。
「西田。今日の午後のスケジュールはどうなってる?時間を空けてくれ」

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だがそれは失恋したと自覚したからだが、それとは別に風邪かな?と思った時にはもう風邪をひいていた。それは多分昨日お風呂から出た時のことだった。暑かったのでエアコンを付けた。髪を乾かさずそのまま寝た。つまり濡れた髪に冷たい空気が絡みつき風邪をひいたということだ。
早朝に目が覚めたのは、トイレのためだったが、ベッドから起き上がり、床に足を着けた途端、立ち眩みがした。
頭が痛い。喉が痛い。身体が熱っぽい。これは風邪の症状としか言えず、買い置きの風邪薬を飲んだ。そして熱を測ったが38度を超えていた。
「はぁ…体温計見たら余計熱があがりそう」
結局つくしはその日会社を休んだ。
風邪をひいて熱があると電話をしたが、その時電話を取ったのは、エネルギー事業部、石油ガス開発部別室唯一の女性社員の佐々木純子だった。ニューヨークから帰国して休んでいる間に風邪をひいたことは、社会人として自己管理が出来てないと思われても仕方がないのだが、佐々木は、
『夏風邪は油断したら駄目よ。それに気温が高いから体の熱さがわかりにくいけど、あまり冷えた部屋にいると回復が遅れるから気を付けて。身体を冷やし過ぎないでね。夏風邪は長引くからちゃんと治してから出てきた方がいいわ。大丈夫よ。副社長なら何も言わないから。だって牧野さんに惚れたって言うくらいですもの』
と言って電話の向うで笑ったが、その笑いは明らかに出張で何か進展があったことを期待しているように聞こえた。だがそれを口にしないのが大人だ。
『それより牧野さん。本当に大丈夫?あなた一人暮らしでしょ?』
一人暮らしが病気になると死んでしまうように大袈裟に心配する人間もいるが、今までも風邪をひいて熱を出したことが何度かあったが、なんとかしてきた。
それに幸いなことに近くに病院もあり、行こうと思えば行ける。だが身体がだるくて起き上がっていることが億劫に感じ病院へ行こうという気になれなかった。だから買い置きの薬を飲み様子を見ることにした。
「佐々木さん。大丈夫ですから。それに….いざとなれば近くに友達がいますから大丈夫です」
だが隣の岡村恵子は田舎へ行くと言っていたが、まだ戻って来てはないようだ。
『あら牧野さんったら。お友達を呼ぶより副社長に来てもらえばいいのよ。そうよ。副社長ならすぐに牧野さんのところへ駆けつけるはずよ』
佐々木は楽しそうに言ったが、つくしは道明寺司に会いたくはなかった。
それにつくしが会いたくない以前に相手が嫌がるはずだ。それにこうして風邪をひいて弱っているところで失恋したばかりの相手のことを考えたくはなかった。だが彼は上司だ。避けて通ることが出来ない人間だ。それに出張に出る前、部署全員の前で告白をされた。そのことを考えれば職場の空気が何某かの期待感に満ちていることは想像出来るが、残念ならがその期待に応えることは出来ない。何しろあれは偽りの恋で終わってしまったのだから。
「佐々木さん。….あの副社長は今日…その、そちらへ出勤されるんでしょうか?」
佐々木はニューヨークで二人に何があったのか。その後の二人に何があったかは知らないが副社長は知っている。だから失恋したから休んだとは思われたくなかった。
落ち込んでいると思われたくなかった。そんな思いから本当は出社したかった。だが熱がある身体ではどう考えても無理だった。だから休むことにしたが気になった。
『副社長?そうねぇ….帰国翌日の金曜は執務室に篭ってらっしゃったと思うけど、どうかしらね?うちの部署は副社長直属だから詳細は別にして副社長が国内にいるか、海外にいるかだけは把握できるんだけど、ちょっと待ってね。社内グループウェアでスケジュール確認してみるから………えっと…..』
つくしは、電話の向うで佐々木がパソコンを操作し終わるのを待っていた。
『そうね、今週は何も書かれてないから国内だと思うわ』
海外出張から戻れば、国内で溜まっていた仕事を片付けるのが当然で、今週は国内にいたとしてもおかしくない。だがそうだとしても、別室に頻繁に顔を出すとは限らない。
つくしは熱が下がれば出社するつもりでいるが、会うことを避けられそうにないと知った。
だがそんなことを気にしていては駄目だ。毎日とは言わなくても出向が終るまでは顔を合わせることになるのだから、初めから逃げてどうするというのだ。
それに二人の間に起きたことは、無理強いされた訳でもなく、むしろそれを望んでいた。
あの時、部屋を訪ねたのはつくしであり、副社長と恋をしたいと望んだのは自分だ。
たとえ騙されたとしても、恋は自己責任で誰も責めることは出来ないはずだ。
だがある日、目障りだと突然本来の勤務先である滝川産業に戻されるかもしれない。
それでも構わなかった。いっそそうして貰えた方が気楽かもしれない。それに副社長にしても、その方がいいはずだ。つくしに近づいたのは姪のためであって、本気で好きになったのではないのだから目的を果たした今、女の存在はただ目障りなはずだから。
『….牧野さん?聞こえてる?大丈夫?』
「え?あ、はい。大丈夫です。すみません。今日は申し訳ありません、お休みさせていただきますのでよろしくお願いします」
『分かったわ。今日なんて言わなくていいのよ。明日も無理しなくていいから。じゃあそろそろみんなが来るから電話切るわね。それからお大事にね。無理しないでゆっくり休んでね?』
「あ、はい。ありがとうございます。___はい。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
つくしは電話を切るとひと息ついた。
そして思った。
「好きでもない女を抱いた男の気持なんて分かるはずないし…..」
ひとり言が多いと言われたことがあったが、今こうしてひとり言にして気持ちの整理をするのは、いいことではないか。
だがこうして考え始めると今以上に熱が上がりそうに感じられる。だから考えない方がいい。済んだことをクヨクヨと考えても仕方がない。今は終わった恋のことを考えるより、早く風邪を治すことを考えなければならなかった。
薬は飲んだ。だからこれからは風邪の菌が弱まるのをひたすら待つしかない。
自分の身体のことは、自分が一番よく知っている。熱は別として喉の痛みの次は鼻水が出て、それから咳になるのがつくしのパターンで風邪の答えは出ている。今日はまだ第一段階の喉の痛みだが時間が経てば治る。もしかするとこの風邪は、道明寺司の恋の道化にまんまと騙された女に神様から与えられた再起を図る時間なのかもしれない。
そしてこの風邪が治ったとき、今まであったことはキレイに忘れることが出来るはずだ。
何故か知らないがそんな気がしていた。
***
「牧野は出社したか?」
眠れない朝を迎えた司は、出社すると「別室」へ足を運んだ。
帰国した翌日の金曜に一度顔を出したが、あの時は今のように沈んだ思いを抱えてはいなかった。だが今は大きな罪を背負った男がそこにいて、席についていた佐々木純子に訊いた。
「おはようございます副社長。牧野さん今日は風邪をひいてお休みするそうです」
「風邪?」
「はい。熱があるそうです」
「そうか…..」
少し間を置き司は言葉を継いだ。
「他に何か言ってたか?」
「…..何かですか?いえ、特になにも。出張から戻ってそのまま休んでしまって申し訳ありませんとだけ言っていましたが何かありましたか?」
佐々木純子は賢明な女性で不用意な発言はしないが、それだけに口にした「何かありましたか?」の問い掛けは単なる好奇心以上のものを感じさせたが、司は「いや。何でもない」とだけしか答えなかった。そして部屋を出ると執務室へ戻るためエレベーターに乗り、最上階のボタンを押し壁に背中をもたせ掛けた。
昨日の夕方から激しい雨が降りはじめ、足元がびしょびしょになるほどだったが、その雨に打たれたのだろうか。あの時、彼女は傘を持っていなかった。司が引き留めることが出来なかった女は、心に痛手を与えられ雨に濡れながら帰ったのだろうか。もしそうなら、そうさせたのは司だ。彼女の髪は綺麗に整えられていたが、その髪も服も雨に濡れてしまったのだろうか。そしてそのせいで風邪をひいたなら司のせいだ。
司は執務室に戻ると西田を呼んだ。
「西田。今日の午後のスケジュールはどうなってる?時間を空けてくれ」

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