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2018
06.18

出逢いは嵐のように 47

『今でも私と付き合いたいと思いますか』

司は今までそんな言葉を言われたことはなかった。
それは彼が自分から誰かと付き合いたいといった言葉を口にしたことがないのだから、当たり前なのだが、改めてそう言われると可笑しな気分だった。

だが恋を仕掛けたのは司であり、その網にかかったのが目的としていた獲物なのだから、何も考えずにそうだと言えばいいはずだ。
だが司は牧野つくしの真剣な瞳に、当初の目的とは別の想いを抱き始めたことを否定できなかった。そして牧野つくしが口にした言葉を確かめたいといった思いがしていた。

女の話を訊く限り、男女関係には疎いと言ったが本当にそうなのか。
誰かを傷つけてまで恋をしたくないと言い不倫を否定する女は、果たして本当に言葉通りの女なのか。そう考えると牧野つくしがどんな女か。美奈の言葉ではなく、自分自身が牧野つくしを調査すればいい。今初めてそんな気持ちになった。


「俺は今でもお前と付き合いたいと思ってる。それでお前はどうなんだ?」

女の口から司が好きだという言葉はないが、今の状況は過去の恋愛話の中で曖昧に頷いたことで付き合いを始めた時とは明らかに違うはずだ。
二十歳そこそこの大学生とは異なり、社会に出て何年も経つ人間となれば、思考の深い部分で考えることが出来るはずだ。それに司は、はじめこそ強引な態度だったが、グンター・カールソンが現れてからは距離を置くことをした。

それは、カールソンにお前の女は別の男と不倫をしていると告げるためであり、そしていずれ白石隆信にも同じことを分からせるつもりでいたからだ。
だがカールソンとはただの友人関係だと言い、誰かの幸せを奪ってまで男と付き合うつもりはないと言う倫理観の持ち主は、司の問いかけに何と答えるのか。



「…..怒ってますよね?」

答えは意外な言葉で返された。

「副社長、怒ってるんですよね?怒るのも分かります。私の過去の恋愛は能動的ではありません。思い切ったことが出来ない….つまり恋愛は受動型です。相手が言って来たから付き合ったといったパターンです。恋愛については自分から何かを踏み越えることはしてこなかったんです。同じ年頃の女性よりも数歩遠のいていたんです。
…..いえ、数歩どころじゃないと思います。何十歩も遠のいていたと思います。でもいつまでもこんな状況でいる自分ではいけないと思ったんです。いつの間にかですけど、副社長のことが気になるようになれば素直に自分の気持に向き合ってみることにしたんです。
…..だからお付き合いしたいと思ってます」


質問の答えは最後に返されたが、今の牧野つくしの顔は頬を赤く染め、緊張しているのか、奥歯を噛みしめじっと司を見ていて、放たれた言葉は精一杯の言葉だ。
そしてこんな態度でごめんなさいと言っているように思えた。

そんな女が示すこんな態度とは、今まで誰とも付き合うつもりはないと言っておきながら、掌を返すとは言わなくても、これまでは恐る恐るといった態度で近づいていた獣に対し、急に自らの手で餌を与えたいといった近寄り方だ。
だが同時に言いたいことを言ったことで、安堵とも満足とも言えない表情も見て取れる。
それにしても、司に怒っていると訊いたのは何故なのか。
司の態度に怒りを感じたということか?
黒い大きな瞳は司の反応を窺うように訊いていた。だから司は訊いた。


「どうして俺が怒ってると思うんだ?」

「だってそう見えるんです。グンターも言いましたが、副社長はひと前ではあらわな愛情表現をしない人だって言われました。それに_」

「牧野。お前、俺と付き合うなら軽々しく他の男の名前を口にするな」

司は女が言いかけた言葉を遮った。
それは感情が湧き上がったからだ。
だがその感情にはまだ名前はなかった。けれど、ほんの一瞬今の感情に名前を付けるとすれば、何と付けるのか。だが今はその感情に名前を付ける必要はない。

そしてそれがどんな感情だとしても、司と付き合うことになれば、美奈の夫である白石隆信を含む他の男との関係は一切なくなる。それに本当に牧野つくしが司の予想していた愛人像とはかけ離れた場所にいる女かどうか確かめるためにも、他の男が傍にいることは望ましくない。だから他の男の名前は必要ない。

「お前はカールソンのことは友達だと言った。だがカールソンは違う。あの男はお前から恋人にはなれないと言われるまでお前の恋人になりたかった男だ。お前のことを好きだと言った男だ。女の口から言われるいい人だけど友達だという言葉は、都合のいい言葉だ。お前の中では友達という曖昧な言葉で片付いたとしても、あの男の心の奥底はそうじゃないはずだ」

司はそこまで言うと深く腰掛けていたソファから立ち上がった。
そして司がテーブルの向うからつくしの方へ近づいて行くと、その様子に女は奇妙なほどうろたえた。それはまるで、この場所にいるのが二人だけだということに急に気付いたといった様子だ。そしてつられて立ち上がるではないが、何故か女も立ち上った。
だが立ち上がってみれば前はテーブル。後ろはソファ。そして身体を横に向ければ司が目の前に立っていて、ふたりの距離はわずかだった。

そこで女は何を言えばいいのか考えていたが、思いつかないのか。暫く黙ったまま司をじっと見つめていたが、司は女が口を開く寸前に彼女の頬に手を触れた。そして斜め下から見上げる黒々とした瞳が動揺した様子に笑った。

「俺たち付き合うんだろ?」

だがその問いかけに何と答えればいいのか。
女は考えていたが、ごくりと唾をのみ込んで頷いた。

「そうか。それならまず初めに挨拶が必要だ」

司はそう言うと頬に手を当てたまま、顔を近づけると唇にキスをした。





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2018
06.17

金持ちの御曹司~禁断は蜜の味~

愛の才能は人一倍あると自負する男は、いつ鍛えているのかいい身体をしている。
そして裸にネクタイが似合うと言われる男は、社員たちの前に立つ時は当然スーツだが、見ている女性社員たちからすれば、脱がないストリップダンサーのように見えて仕方がない。
なぜなら、その立ち姿だけでセクシーだと言われるからだ。

そして彼女たちは想像する。
セクシーな支社長がスーツを脱ぎ、ネクタイを外し、シャツを脱ぎ捨て黒のブリーフではなく、Gストリング、いわゆる「ひもパン」と言われる卑猥な下着姿のストリップダンサーになって自分だけのためにセクシーなダンスを踊ってくれることを。
一輪の真っ赤なバラを差し出してくれることを。
そしてそのバラの花びらを裸になった自分の身体の上に散らしてくれるのを。
だがそれは女性社員たちの妄想であり司の妄想ではない。

だがセクシーという言葉は、まさに司のために用意された言葉だが、そんな男はどこまでも果てしなく妄想の世界に堕落していきたいと考えている。
しかし普段その世界は司の心の中の奥深くに仕舞われた箱の中にだけ収められているのだが、時々その思いが表に溢れ出てしまうことがある。そして運が悪いことに、そういった時に限って西田がそこにいる。ついこの前は、西田の手を握ってしまうという考えられない失態を犯してしまった。だがまだ唇でなかっただけよしとしよう。
もしその手を引き寄せていたらと思うとゾッとした。


ところで司の好きな食べ物のひとつにお好み焼きがある。
お好み焼きにも種類があると知ったのは、ここ数年の話。
関西風、広島風と色々とあるらしいが、司の知るお好み焼きとは、いわゆる混ぜ焼きと言われるもので、生地となる小麦粉を溶いたものにみじん切りにしたキャベツを混ぜ、豚肉やイカやエビといったものから好きな具材を入れて焼くものだ。
そんなお好み焼きを知ったきっかけは幼い頃、姉に連れられて行った縁日の屋台だった。

だがお好み焼きは単価の安い食べ物であり、司は貧乏人の食べ物だとバカにしていた。
しかし実はそれが食べたくて仕方がなかった。だから姉に食べたいと強請った。
すると姉はお好み焼きの作り方を学び、弟のために焼いてくれるようになった。
だが大人になり、お好み焼きから離れた生活を送っていたが、なんとつくしが司のためにお好み焼きを焼いてくれるという。
それは司が何気なく漏らした「お好み焼きが食べたい」のひと言によって叶えられることになった。

子供の頃よく食べたお好み焼きは姉が焼いてくれた。
そして大人になって食べるお好み焼きは恋人が焼いてくれる。
だから司はお好み焼きを焼くため専用の鉄板をマンションのキッチンに用意させようとしたが、ホットプレートがあればいいと言われ笑われた。だがそのホットプレートが何であるか分からなかったが、急いで使用人に買いに行かせた。


そして想像していた。
牧野つくしがお好み焼き屋で働く姿を。










「いらっしゃい山本さん!お久しぶりですね?暫くお見えにならないからどうしたのかと思っていたんですよ?」

「ああ。ちょっと海外出張だったからな」

「そうですか。山本さんは大きな会社で働いてらっしゃるんですよね。お忙しいですよね」

「いや。それほどでもないが、まあ色々あるな」

司が道明寺ホールディングス日本支社近くにある細い路地の奥に、牧野つくしの切り盛りするお好み焼き屋を見つけたのは偶然だった。
この地域は司の会社によって再開発が予定されていて、近いうちに買収交渉にかかることになっていた。そしていずれこの場所は更地になり大きなビルが建つ。
その前に地上55階から見下ろす世界がどんなものなのか見てみたいといった気になり、ふらりと路地に足を向けた。
そしてその路地で見つけたのが、お好み焼きと書かれた色褪せた暖簾と、やはり同じように色褪せソースの名前が書かれたのぼり旗。

その時思い出したのは、子供の頃、姉と縁日に出掛け、そこで見かけたお好み焼きに興味を抱いたこと。そして姉が弟のためにお好み焼きを焼いてくれたこと。そんな懐かしい想い出とソースの匂いに釣られ引き戸を開けると、そこは5、6人も入ればいっぱいになるカウンターだけの店。そしてそこが白い大きなエプロンにソースのシミを付けた牧野つくしと出会った場所だった。





「ねえ。山本さん知ってたら教えて欲しいんですけど、道明寺支社長さんってどんな人なんですか?ここの土地を買いたいっていうあの会社。道明寺ホールディングスってどんな会社なんですか?あたし、この場所が気に入ってるんです。この店は両親が残してくれた店だし、出来ればここにいたいんです。でも無理ですよね…」

司はこの店の暖簾をくぐり、牧野つくしに会った途端恋におちた。
彼女が焼くお好み焼きの美味さに惚れた。
そして司は本当の名前は名乗らずこの店の常連になった。
何故なら道明寺と名乗れば、この場所を再開発しようとしている男が自分だと分かる。だから山本と名乗っていた。そして彼女からこの場所が道明寺ホールディングスに買収されることについての悩みを打ち明けられていた。この店は両親が残してくれた店だが、土地は借地であり、地上げが始まれば出て行かなければならなくなることを。

「そうだな。多分無理だ。あの会社は大きな会社だ。この辺り一体は買収されてビルが立つらしい。再開発されて生まれ変わることになるだろうな」

「そうですか。やっぱり無理ですよね…..」

「ああ。ちょっと難しいだろうな。けど物は考えようだ。ここじゃなくても移転先でもっと大勢の人間が集まれるいい店にすればいいんじゃないのか?」


司がこの店に通うようになり知ったことがある。
それは、この店は小さなコミュニティのような場所であり、ふらりと訪れる客は皆この場所を憩いの場所のように感じている。
そしてその場所を再開発で取り壊すことは、牧野つくしの人柄を知れば知るほど罪悪感に苛まれた。だが会社が決めたことを変えることは出来ない。ビジネスはビジネスだ。だから司は無理だと言った。だが考えていることがあった。

司は彼女に恋人になって欲しいと言うつもりでいた。そして恋人になった彼女の店を司が出してやるつもりでいた。
それも広く綺麗な場所に彼女が望むような店を用意してやろうと考えていた。
そして今日はその話しをするためにここを訪れていた。恋人になって欲しいと伝え、そして自分が誰であるか打ち明けるつもりでいた。そして分かってもらうつもりでいた。名前を隠したのは、先入観で自分のことを見て欲しくなかったからだと。

「牧野さん俺は……」

と司が声を掛けた時だった。
店の引き戸が開き、入ってきたのは司の秘書の男だった。

「道明寺支社長。こんなところにいらっしゃったんですか。お探ししたんですよ。いつもお昼になると行き先も言わずにお出かけになられるので心配しておりました。それからニューヨークから社長がお見えです。支社長を探していらっしゃいます。すぐに社の方へお戻り下さい」

司は突然現れ不用意な発言をした秘書を睨んだ。
だが時すでに遅し。牧野つくしは、司が山本という名前ではなく、道明寺という名前で呼ばれたことに怪訝な顔をすると彼が何者かということに気付いた。

「….山本さん、あなたは……」

「すまない。俺の名前は山本じゃない。道明寺だ。道明寺ホールディングス日本支社の支社長だ。この場所を再開発しようとしているのは俺の会社だ。俺だ。でも決して騙そうとしたんじゃない」

「酷いわ….騙したのね。あなたは名前を偽ってここに通って、ここを離れたくないって言うあたしを笑ってたのね。….あなたを信用して色々話したのに…あなたは心の中ではこんな古臭い店なんてさっさと畳んで出て行けって思ってたのね!….もう二度とここへ来ないで!あなたの顔なんてもう二度と見たくない!」

司はそう言われたあの日から、つくしの店を訪れることはなかった。
それから時は流れ、牧野つくしの店があった場所を含め、再開発予定地はすべて更地になった。
そして司はあの日以来彼女に会う事はなかった。







「おい!なんでこんな悲しい結末になるんだよ!」

「…..支社長。何が悲しい結末でしょうか?加藤君が説明されていることに何か問題でもあるのでしょうか?」

「……………」

司は会議室で会議中だ。
それも近々発表される某駅前再開発プロジェクトについて概要の説明を担当者の加藤から受けていた。そして再開発にあたり、そこに以前からあった店は、希望すれば新しいビルの中にテナントとして受け入れるといった話になっていて、開発業者と地権者との話し合いも円満に解決していた。だから何も問題はないはずだと西田の目は告げていた。だが、不用意な発言をして、つくしからもう二度と来ないでと言われることになったのは、秘書のせいだと恨んだが頭の中が会議室から遥か彼方にあったなど言えなかった。











「あ。お帰り道明寺!お疲れ様。お好み焼き。これから焼くからね」

司がマンションに帰ったとき、部屋にはあの光景と同じ白い大きなエプロン姿のつくしがいて、ホットプレートを前に焼く準備は出来たとばかり彼の帰宅を待っていた。

「ねえ、それで何を入れようか迷ったんだけどね。道明寺に訊いてからってことで、色々と揃えてるからね?ええっと….豚肉。イカ。タコ。海老。あ、牡蠣も用意してるの。ねえ何がいい?全部入れる?」

「お前は何が入れたい?」
「え?」
「だからお前は何を入れて欲しい?言ってみろ。何を入れて欲しんだ?」
「何をって….」
「だから俺に何を入れて欲しいんだ?」
「やだ、道明寺。何言ってるのよ。道明寺が食べたいものを入れるから言ってくれないと….」
「俺はイカでもタコでも海老でもなくお前が喰いたい。お前以外のものは喰いたくねぇ。それに入れるんじゃなくて入れたい。…..お前のナカに」 

司はつくしを貫きたくなっていた。
悲しい結末で終わってしまった白昼夢を打ち消すために一刻でも早くつくしが欲しかった。
だから彼女の身体を抱き上げると、ベッドルームへ運んだ。
そしてつくしも、そんな司の思いに応えるように彼の首に腕を回し身体を寄せた。



無垢な処女から情熱的な恋人へ贈られた愛。
二人が初めての時を迎えてからもう何年も経っているが、愛し合う時は素直になる彼女。
知り合った頃は満足なキスの経験もなく、長く熱いキスをしたら息をするのを忘れたと言ったこともあった。
だが二人の身体は互いと愛を交すように作られていて、身も心も奪われる歓びといったものを知った。そして純粋さと優しさと情熱に包まれるのが二人の愛のかたち。
だから司が両手で彼女の腰を掴み、息が荒く乱れ、ひとつに結ばれた身体を激しく、もっと激しく動かしたとしても、そこにあるのは深い絆だ。
そして司がつくしと一緒に頂点を極める瞬間は、女が彼の肩に爪を立てるとき。
そのとき、司は激しく腰を振り、女がイク瞬間を五感で掴み、神経の末端まで快感の波に包まれたことを知ると己を解き放つ。そして顎を彼女のなだらかな首筋にうずめて目を閉じ、それから二人は激しかった呼吸が収まるまでじっとしている。
すると柔らかな小さな手が司の髪の毛を優しく撫でてくれる。その瞬間が彼にとって何よりも幸せな時間だが、やがて彼女の口から出た言葉に司は笑った。

「ねえ…..お好み焼き…どうするの?焼くの?焼かないの?」

食べ物を粗末にすることを嫌う女の言葉は、実に彼女らしいと思う。
だから女の気持を尊重する男は、喜んで彼女が焼いてくれるお好み焼きを食べるつもりだ。

「ああ。焼いてくれ。運動して腹減ったしな。お前が焼いてくれるお好み焼きが食べたい」

すると嬉しそうに笑う女がいた。








司は翌日機嫌よく出社した。
そしてポケットの中に入れている口紅に指先で触れた。
それは、昨日司の部屋に泊ったつくしが忘れていった口紅で渡そうと持参していた。
だがポケットに手をいれ、口紅に触れた途端ふと思った。
この口紅は司が海外出張に出たとき、彼女に似合うと思い土産として買って帰ったもので、ふんだんに蜜ろうが使われている。
高いプレゼントは受け取らない女も口紅ならと今では愛用していて、その口紅を塗った女とキスをすることは司にとってこの上ない幸せな瞬間だ。

だが暫く会えないとその唇が恋しくなる。キスしたいと思う。
司は、もしかしてこの口紅はつくしの唇の匂いがするのではないかと思った。
だから口紅を取り出し蓋を開けた。
そして捻じってみた。
するとそこにつくしがいつも塗っているピンク色が現れたが、それを暫くじっと見つめた。
そして匂いを嗅いだ。
それは甘い香りがして、つくしの唇から感じる甘さを感じた。
だからつい口紅を自分の唇に少しだけ塗ったがそれは禁断の行為。
それから暫くぼんやりと口紅を眺めていたが、明日からはニューヨーク出張で、この口紅を持って行けば、つくしとキスした気分になれることに気付いた。

この口紅はあいつの唇を彩る色であり、あいつの唇を味わっている感覚が味わえる。
そうだ。この口紅を返すのは止めよう。その代わり帰国の時は大量に買うことにしよう。
そして、そのうちの幾つかを自分用に持っていればいい。但し、一度あいつの唇に触れさせてからだ。

そんなことを考えているとき、ドアをノックする音がした。
司はついいつもの調子で「入れ」と言ったが自分が口紅を塗っていたことを失念していた。
そして慌ててハンカチで口紅を拭おうとした。だが時すでに遅し。西田に見られてしまっていた。






人生は楽しい。
人を愛することは楽しい。
ビバ人生。
現実に引き戻されると嫌なことは多々あれど、それはそれでいいじゃないか。
司にとって牧野つくしが彼の人生で彼女さえいればそれで十分。
視線、仕草、熱い体温。司のその全てが一人の女性だけに向けられていた。
彼女以外は女じゃない。
それに彼女以外欲しくない。
そう思う男は西田の冷たい視線も余裕でスルーすると書類を受け取った。
だがひと言言った。

「あいつには言うなよ」

その時の西田は、いつもと変わらぬ鉄面皮だった。
そして言った。

「ええ。分かっております。男はまず一番に大切な人のことを考えることが必要です。
それに男はズボンのチャックを壊すことが成長の証ですから」

司は西田の言葉に片方の眉を吊り上げた。
そして分かった風なことを言う男が出て行くと、手にしていた口紅を再びポケットに入れたが、さっき唇に塗ったのは冗談であって二度とすることはない。
ただ男は受難に打ち勝つためのお守りとして、彼女の口紅をポケットの中に忍ばせておきたいと思っただけだ。
何しろ司が牧野つくしに差し出しているのは、前人未到の純愛なのだから。





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2018
06.16

出逢いは嵐のように 46

目的を持って近づいた男に信頼を寄せるようになる。
それがたとえ心理学上の出来事が大きく影響しているとしても、牧野つくしが口にした言葉は、司のことが好きだという意思を示していた。

司は牧野つくしに恋を仕掛けたが、結婚はもちろん婚約の経験もない男は本気で恋をするつもりはなく、あくまでも姪の美奈の願いを叶えるためだった。
そんな男に向かって放たれた男性と付き合った経験が少ないという言葉。それが本当なら美奈の夫との付き合いは、その数少ない内に入るのだろうか。これまでの人生で何人の男と付き合ったのか知らないが、司の視線に頬が赤く染まり、彼に反応しているのが分かる。

人間の本質というのは変わるものではない。
それは生まれ持ったものや育った環境という資質が影響を与える。だから牧野つくしがバカ正直にグンター・カールソンとのデートの結末を話したのは、生まれ持ったものがそうさせたのか。それとも親の教育の結果なのか。
どちらにして牧野つくしが複雑な女ではないことは証明された。
それならと司は思った。
もし今ここで、お前は白石隆信の愛人かと問えばなんと答えるのかと。

だが牧野つくしが司のことが好きだというなら、美奈の夫に近づかないように出来る。
そうだ。牧野つくしを誘惑して付き合うことは、はじめから予定していたことであり、今の司の見地から考えれば何も可笑しいことではないはずだ。
そしてにわかには信じがたいことだが、司は自分の中で湧き上がっている思いを確かめたかった。美奈のこととは別に心の中に居座りそうな何かの正体を知りたかった。
靴を買い与えたこともだが、牧野つくしの存在が心の中で大きくなってきたことに、信じられない思いがしていたからだ。

司はふと、なんの脈略もなく言葉を口にしていた。

「お前は男と付き合った経験が少ないと言ったが、過去にどんな恋愛をした?」

いきなり過去の恋愛経験を問われた女は、えっといった表情をした。
だが司は構わず訊いた。

「俺が訊きたいのは、過去の恋が楽しいものだったか。それとも辛いものだったか。その恋は自分だけのものだったか?そういったことだ」

再び同じ言葉を繰り返した司に、女は束の間逡巡する表情を見せたあと話し始めた。

「私の恋愛は大学生の頃、二人の男性から告白されたことをきっかけにお付き合いしたことです。でもどちらの男性とも長続きはしませんでした。一人は法学部で弁護士志望の人でもうひとりは経済学部の人でした。楽しい恋だったかと問われたら….弁護士志望の人は父親がやはり弁護士で優秀なお家の息子さんでした。それに完璧主義者だったので私とは合いませんでした」

と言った女は笑ったが、その微笑みは若い頃の懐かしい想い出を語るに過ぎず、青春の1ページとも言える経験を語ったに過ぎなかった。だが次に話し始めた男のことについては、表情が引き締まった。

「経済学部の人はあとから分かったんですが他の大学に彼女がいたんです。今思えば強引な人でした。そんな人に会ったことはなかったので正直どうしたらいいのか分かりませんでした。俺の彼女になってくれってバイト先にまで来るようになってしつこく何度も言われて曖昧に頷いてしまったんです。それから暫くお付き合いしたんですが、ある日デートの待ち合わせ場所に行っても来なかったので心配して電話をしたんです。そのとき電話に出たのは女性でした。….彼の携帯にです。あの時は慌てて切りました。
それになんとなく嫌な予感はしてたんです。少し前にデートの約束をキャンセルされたことがあったんですが、その時は男友達が病気になったから彼の代わりにバイトに入るって言われて….だから私はそのバイト先に行きました。でもそこにいたのは友達の方で、病気になんてなってませんでした。当然彼はバイトに出ていませんでした。嘘をつかれたんです。
その日は他の大学の彼女と会っていたんです。つまり二股を掛けられていたんです。…それから彼の携帯に出た女性ですが、その女性が別の大学の彼女だったんです。次の日の朝、思い切って彼に電話をしたんですが出たのはやはりあの時電話をとった女性でした。それでその時言われたんです。健一ならシャワー浴びてるから出れないって…….」

短い間を置いた女は、司が何も言わなかったことで、話を継いだ。

「これが私の過去の恋です。でもそれが恋だったのかと自分自身に問えば、今となっては分かりません。ただ思ったのは二股を掛けられるって自分に魅力がないからだと思いました。でもそんな私でも少しのプライドってものがあります。だから別れたあと、自分に出来ることを頑張ろうと思ったんです。つまり勉強することしか残されてないと思ったんです。それに私は誰かの大切な人を奪うようなことはしません。したくありません。誰かを傷つけてまで恋をしようとは思わないんです」

そこまで言うと牧野つくしは黙った。
司はそこまで話しを訊き、まるで詰まっていたものを一気に流したような顔をした女に詰問するではないが、女の言葉尻を掴まえ言った。

「お前は誰かを傷つけてまで恋をしようとは思わないそうだが、不倫についてはどう思う?」

女は思案の顔になった。
それは司が不倫という言葉を出したことに、自分がその立場にいることを考えたのかと思った。だがそれは単に口の動きを止めただけであり、そこから先の言葉は、先ほどと同じで思うことをはっきりとした言葉で言った。

「私は奥さんがいる男性と付き合いたいとは思いません。でも感情というものは、決められた化学実験のようにこの液体とこの液体を混ぜればこの反応が現れる。答えはこれだという答えはないと思うんです。人間の感情はビーカーの中で混ぜて作られるものじゃないですから…絶対にとは言えないかもしれません。それでもダメなものはダメです。過去に自分が傷付いたから言えることかもしれませんが、他に付き合っている人がいる男性や結婚している男性と付き合いたいとは思いません.....傷つくのも辛い思いをするのも自分ですから」

司はその答えに牧野つくしの本質に触れた気がした。
まっすぐな瞳が語る混じり気のない言葉は本心を語っている。
司はこれまで女と真摯な姿勢で会話をしたことがない。だがこうして牧野つくしと時間をかけ話してみれば、その言葉は自分の意思を確実に伝えて来た。
そしてそんなことを考えていたとき、逆に訊かれた。

「….あの副社長にお尋ねします。今でも私と付き合いたいと思っていらっしゃいますか?それとも.....もういいとお考えですか?」





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2018
06.15

出逢いは嵐のように 45

コーヒーを淹れ終えた早川が帰った部屋にいるのは、司と牧野つくし。
人間の感情は計算からは生まれないと言うが、それは本当なのかもしれない。
何故なら、真正面に座る女から何かにつけて感じられた頑なな態度も今はなく、感じられるのは恐縮しているという感情だからだ。
そして女はその思いを口にした。

「あの…副社長…靴をありがとうございました」

白い頬に少し赤味がさした牧野つくしは、そう言って頭を下げた。

「これ高いですよね?革も上等ですし、とても軽いですし、私が履いていた靴とは全然違います。あの靴の代わりにと思って下さったのは嬉しいんですが、本当に頂いてよろしんでしょうか?」

その口調は真剣だ。
精神と感情が同じ方向を向いているからこそ気持ちが言葉に表れ表情にも表れる。
だから口先だけの言葉は心に響かないと言うが、それは心に訴える感情というものがないからだ。
だが女の口から出た感謝の気持が込められたその言葉に嘘はない。だから司も気持ちそのまま返事をした。

「ああ。お前が履いていた靴はタッセルが取れた状態だ。それに傷だらけだったろ?靴は履く人間を表す。どんな人間かを見極めるとまで言わないが、その人間の生活が現れる。古くても手入れがされた靴ならいいが、あの靴は修理してまで履かなくてもいいはずだ」

そうは言ったが、女のために靴を買った自分のことが不可解だと感じていた。
だがそれは、多くの傷が付き、タッセルがちぎれてなくなった靴はあの出来事を思い出させるからだ。だから司は新しい靴を用意した。
ただ考えてみれば、その思いと共にあるのは、お人好しの無用心さを持つ女の生活の一部が靴に現れていたからなのか。
だがそれは司にとっては今までにない奇妙な混乱だ。大袈裟な言い方をすれば、女を助けたことで、その女の全ては自分のものであるように勘違いしたのかもしれない。

そして牧野つくしは、そんなことを思っている司の言葉に素直にありがとうございますと再び礼を言ったが、司は牧野つくしが履いていた靴がローファーであったことに意外性を感じていた。
ローヒールの靴を好む人間はしっかりとした考えを持ち、周りに流されないタイプで堅実な一面を持つと言われる。そしてハイヒールを好む人間は自己顕示欲が強く、存在感をアピールしたいという欲求が強い。
男をたぶらかすような女は旅先だろうと関係なく自己アピールをする。だが私服の牧野つくしは、地味な服装で靴はローファーだった。それはグンター・カールソンと会った時と同じ服装で、その恰好は男がそそられるどころかよくて女子大生並だ。いや。同じ女子大生なら美奈の方が余程大人っぽい服装をしている。

そして今の服装が牧野つくしの普段着だとすれば、どこにでも売られている丸首のカットソーにカーディガンを羽織り、膝が隠れるスカートを履いているが、それも色からして地味で派手さはない。
美奈の夫である白石隆信は、道明寺グループの関連会社である不動産会社の役員であり、持ち物が派手とは言わないがそれなりの物を持っている。
その隆信と牧野つくしの地味さは、知れば知るほど相容れることがない相手のように思えるのだ。それに牧野つくしが隆信の愛人なら、それなりの物というのも持っているはずだが、腕時計は国産のどこにでもあるもので、身に付けていてもよさそうな貴金属といったものは見当たらず、それなりの財産を持つ男と付き合っている女には見えなかった。
それに何度かした食事にしても、とても美食を重ねてきた女には思えないほど、出される食べ物に対して素直においしいと言える女だった。

「牧野_」

「副社長_」

同時に声を発したが、「すみません。どうぞ」と言ったのは女の方だ。

「訊きたいことがある。俺がお前のことを好きだ、惚れたと言ったのは覚えているよな?」

司の問いかけに女は何も言わなかったが、司は話しを続けた。

「そのことだが、グンター・カールソンとデートはどうだった?お前はグンターから交際を申し込まれているんだろ?それであの男と付き合うことにしたのか?」

司はグンター・カールソンが牧野つくしにデートを申し込んだとき傍にいた。
そしてグンターを挑発するような言葉を放ち、過去にフラれたことがある男が今更だと言った。
それに対し牧野つくしは、司には関係ないと言いカールソンとデートをすると言った。
それならカールソンとデートをして二人の男を比べてくれと言い、そしてカールソンに負けるつもりはないと言った。

そして今の牧野つくしは、その答えを求められている。
司の言葉に沈黙しているが、それは言葉を選んでいるのか。
だがやがておずおずといった形で口が開かれた。

「….あの私とグンターのことですが、あの日はニューヨークの街を案内してもらったんです。自由の女神の見学やタイムズスクエアに連れて行ってもらいました。お昼は中華を食べて夜はエンパイアステートビルから夜景を眺めました。それから食事をしました」

司は牧野つくしに付けた人間の報告から知っていた。
だから女が嘘を言ってはいないことは分かる。そのことからも、この女はやはりバカ正直なところがある。
だが夜の食事を済ませ、ホテルの部屋へ二人が消えたところから先は、男と女の話であり、話そうが話すまいがそれは勝手だ。
それに司が訊いたところで、本当のことを話すかどうか疑わしいところがある。それでも今の牧野つくしは、嘘を言うような女には見えなかった。

もしかするとそれは、「吊り橋の理論」なのかもしれない。
それは不安や恐怖を感じている時に出会った人間に恋愛感情を抱くことを言うが、司が牧野つくしが襲われていた所を助けたことで、恋愛感情とまでは言わないが、司のことを信頼出来る相手だと思っているようだ。
そしてあのことが女の態度を変えるきっかけだとすれば、あの出来事が偶然だとしても、今の牧野つくしは司に対し信頼を置いていることに間違いはない。


「それから部屋まで送ってもらってコーヒーを飲みました。そのとき、ミュージカルの話になって、見たい舞台があるならチケットを取ってあげると言われて見ることが出来たんです。私とグンターは友達です。でもたとえ友達でも男を部屋に招き入れることはするもんじゃないと怒られました。それからグンターは恋人になりたいと言いましたが、やっぱり彼のことは友達としか考えられないんです。それが私とグンターのデートの結末です」

そこで一旦言葉を切ると、女はテーブルの上に置かれている2杯目のコーヒーをひと口飲んだ。

「副社長。私は男性とお付き合いした経験が少ないんです。それは私の性格がそうさせるのかもしれませんが、友人にも奥手だと言われます。だから副社長が私のことを好きだと言って下さったことに戸惑いがあるんです。それに副社長は私のことを好きだと言いましたが、本気のようには思えない……言葉に心があるようには思えなかったんです」

それは疑わしい声だった。
司はまるで仕事の分析をするように牧野つくしの声を訊いていたが、言葉に心があるように思えなかったの言葉は、司自身、口先だけの言葉は心に響かないと思っていることと同じであり、牧野つくしが司の言葉を深く考えていたことを知った。

「だからカールソンの誘いを受けたって言いたいのか?」

「はい。あれは…..つい…..」

「つい?」

「……つい言ってしまったんです。副社長は私がご自分の秘書だからグンターとデートするはずがない。私のことをまるでご自分の付属品のようにおっしゃいました。それにいつも思っていました。副社長の言葉は心から出ているようには感じられませんでした。そう思うとムカついたんです」

「ムカついた?」

「そうです。たとえ好きな人の前でも本当の心を見せることがない人だと思ったんです。
それにグンターにも言われたんです。副社長の言葉にカチンと来たからデートしてくれたんだよねって。
それからこうも言われたんです。副社長はひと前ではあらわな愛情表現をしない人だって訊いてるって….。だから余計分からなくなったんです。好きだと言ったり、急に突き放したような態度を取られる副社長の態度もですが、私は…..自分の気持が…それにグンターと一緒にいても副社長のことばかりが頭を過ったんです」


今、司の前で話しをする女は真剣な表情で彼を見つめていた。
そして今は牧野つくしという女の本質を知るために設けた時間だが、思わぬ方向へ話しが進んでいた。
そしてこの状況は、司が目的を持って牧野つくしに近づいたことを考えれば願ったり叶ったりのはずだ。女を虜にして弄んで捨てる。それが美奈の願い。そして司もそうするつもりでいた。
だが、今抱いている感情はそういった企みを実行しようとするよりも別の感情だ。
そして目の前の女は、人を疑うことのないまっすぐな瞳で司を見つめていた。





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2018
06.14

出逢いは嵐のように 44

司がペントハウスの玄関を開けたとき、長い廊下の先にあるリビングの半開きになった扉の向うから聞こえてきたのは、女性二人の笑い声。
いつもなら誰もいないその場所は薄暗く迎えてくれるだけだが、扉の向うから漏れる灯りは廊下の途中まで届いていた。
そしてこの時間にそこにいるということは、食事は済ませたということだ。

司は、ニューヨークの道明寺邸から牧野つくしの世話をする人間を来させた。
何しろ冷蔵庫の中にあるのは、飲み物だけで食べる物は何も置かれていないからだ。
呼んだのは、早川という女とコック。早川は以前メープルでコンシェルジュの仕事をしていたが、その評価は高く細やかな気配りが出来る女性と言われていた。そして今は邸で開かれるパーティーでその手腕を発揮していた。

邸には数百人が入れる舞踏室というものがあり、年に何度か大きなパーティーが開かれることがあるが、幸い今あの邸に母親はおらずヨーロッパへ出張中だ。だからパーティーの予定はない。
そして司はそのパーティーに義理で顔を出したことはあったが、ここ何年も顔を出したことはない。何しろああいった行事に顔を出すということは、結婚相手を探しているということに取られかねないからだ。

司は誰かと結婚したいといった気持ちにはならなかった。
それに財閥に対して果たさなければならない義務というのは、石油事業を軌道に乗せたことで果たされたはずだ。
だからクリスタルで出来たシャンデリアが輝く舞踏室で繰り広げられる女どもの駆け引きといったものに興味はなかった。






昨夜の司の睡眠時間は5時間。
その時間が長いか短いかは別として、今夜は国際銀行業に携わる男との会食だった。
世界情勢は日々刻々と変わり、それに伴い経済状況も変化する。
その流れに一番敏感なのが銀行家や投資家だ。そして政治と経済は切り離すことが出来ないことからも言えるが、政治の流れを読むことが経営に携わる者の仕事だ。

だが今夜の銀行家の話は大した話しではなく気乗りがしなかった。
だからからなのか。会食の終わりが近づいたとき頭を過ったのは、牧野つくしのことだった。
恐らく昼近くまで寝ていたはずだが、疲れは取れたのかということもだが、ちゃんと食事は取ったのかということも気になっていた。
そしてこうして帰宅してリビングから聞こえる口調や言葉は明るく、昨夜の出来事は心に傷を残しているといった風ではないようだ。

だが何故こうも頭の中に牧野つくしが過るのか。
それはあの女の話から感じられた、お人好しの無用心さにも通ずる態度だ。
真夜中に男の前にバスローブ姿で現れた女は、いくら何もしないからと言われているとは言え、男に対するその警戒心の薄さは人を疑うことを知らないと言うのか。
それとも単なるバカ正直さの現れなのか。
姪の夫と不倫をしている女にしては、真夜中に男と二人。たとえ今はその男の女に対する興味が変わって来ているとしても、そのチャンスを利用するといったこともなく、狡猾さといったものが感じられなかった。

そして不倫をする女にしては、態度も発言もちぐはぐな感じがして、年端のいかない少女のようにも見えるのだが、もしかすると牧野つくしという女は華やいだ美女ではないが、涼しい顔をして男をたぶらかす魔性の女なのか?
だがそういった女は我を通すことが得意だ。
けれど黒い瞳は男を見つめることに慣れている瞳には見えなかった。
それでもまた別の意味で自分の意思を貫くことをする瞳だと感じた。

すると本当にこの女が美奈の夫、白石隆信の不倫相手なのかという疑問が浮かんでいた。
だが美奈は牧野つくしが夫の不倫相手だと主張している。だが、疑わしきは罰せずではないが、証拠と言えるものは無いに等しく、美奈がそうだと決めつけているのは、隆信の口から告げられた牧野つくしという名前だけだ。
そして司の手元にある牧野つくしが、どこかの男と話している写真は、男の顔は見えず隆信であるという確証にはならなかった。美奈の思いを汲んでやらない訳ではないが、今は姪の言葉だけを信じることは間違っているような気もするが、グンター・カールソンと二股をかける女という思いもある。
そして自分はどうして牧野つくしに靴を買ってやったのか。自分で自分のことが不可解でもあった。







「まあ、司様。お帰りなさいませ。申し訳ございません。お帰りになられたことに気づきませんでした」

半開きだった扉の前で暫く女同士の会話といったものを訊いていたが、扉が開かれた音に振り返り慌ててソファから立ち上がったのは早川だ。
と、同時に牧野つくしも立ち上がりお帰りなさいませと言って頭を下げた。

「今ちょうど食事が終わりコーヒーをお出ししていたところです。すぐに淹れてまいりますので、司様もいかがですか?」

時計の針は9時を指していた。
どうやら遅い夕食だったようだが、テーブルの上に置かれたカップの中身は殆ど無くなっていた。
これからコーヒーを淹れるとすれば、豆を挽くところから始め、湯が沸くまでの間の時間といったものがある。
早川がコーヒーを運んで来たら帰っていいと言おう。
司は女と話しがしたいと思った。
美奈が差し出した1億の小切手を突き返した女の本質を知るために。





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2018
06.13

出逢いは嵐のように 43

つくしが目覚めたとき、時計の針は午前11時を指していた。
それまで目が覚めなかったのは、分厚い遮光カーテンのせいなのか。それとも昨夜の出来事が影響しているのか。どちらにしてもよく寝たといった実感があった。

だが実際には手早くシャワーを浴び早く寝ようと横になったが、なかなか寝つかれず、やっと眠りについたと思えば直ぐに目が覚めた。
サイドテーブルの灯りをともし、腕時計を手に取り、時間を確認すると1時を過ぎていた。
目覚めた途端、喉の渇きを感じ部屋を出た。キッチンの場所は分かっていたつもりで、水を貰おうと開けた扉の向うに副社長がいた。つまりそこはキッチンではなくリビングで、開ける扉を間違えたということになるのだが、水が欲しいと言うと、キッチンまで行き、ミネラルウォーターのボトルを手に戻って来た。

眠れないのかと問われ、思わず首を横に振ったが、副社長こそ眠れないんですか、という言葉は呑み込んだ。
そして目の前に立つ男性のネクタイを外し、シャツのボタンをいくつか外した姿は初めて目にする姿で、自分がバスローブ姿でいることが急に恥ずかしいと思え数秒間狼狽した。

その時、目の前の男性が週刊誌や雑誌に書かれる女性との噂というものは、あながち嘘ではないと感じた。
それは、類い稀なという言葉に続く言葉として美貌や才能といったものが言われるが、この人の場合はそれに財産が加わるのだから、女性なら誰もが欲しいと思うのも当然だ。それに、そんな男性と噂になりたくて自ら噂を立てる人間がいてもおかしくはない。だからメディアが書き立てることが全て本当かと言えば、そうではないのかもしれないが、男としての魅力というものに溢れていることは否定できないと思った。

それにこの人は大勢の人の中にいてもその姿がぼやけることは決してなく、くっきりと、と言えばいいのか、際立つほど目立つ人だということを感じた。
そして路地の奥に現れた男の姿は、闇に同化した黒豹でありながら、その存在感はライオンだと感じた。

ライオンはハイエナの天敵と言われ、相手の首に噛みつき命を奪うが、面白半分に殺すこともあるという。あの時つくしを襲った男に見せた姿は、もしかしてそれに近いものだったのかもしれない。言葉はスペイン語で何を喋っているのか分からなかったが、冷気のような口調だった。そしてその姿はビジネスでは見たことがなかった姿で、昼間と夜では空に輝く星が違うように、豹変していた。

腕っぷしが強く、クールな外見を持つ裕福な男性は誰もが憧れる存在だ。
だがそんな人だからこそ、何故つくしのようにごく普通の目立たない女に興味を抱いたのか。
その理由を聞いたとき返されたのは、人を好きになるのに意味が必要かといった言葉だった。
だが今はつくしに好きだと言った男の、今では興味はないといったその態度の急変に意味を求めそうになっていた。
だが人を好きになるのに意味が必要かと言った人なら、人を嫌いになる意味もないと思えた。
何しろ人間という生き物は、物事への興味を簡単に失うことがある。だから興味がなくなった理由を聞かれても意味が必要かと言われるはずだ。
だが興味を失った女でも、こうして助けてくれたのは、自分の会社の社員となれば放っておくことが出来なかったということだろう。

つくしは、本当なら朝起きた時に話しをしようと思っていたことを話した。
男に暗い路地に連れ込まれる前、自分が何をしようとしていたかを。
その時の自分の顔はきまり悪さに満ちていたはずだ。だから一気に喋ったが、相手は沈黙していた。何も言わない相手に気まずさが湧き上がった。だからすぐさま踵を返し、部屋へ戻った。

つまり昨夜の出来事は、つくし一人が喋った夜であり、相手が何を思ってその話を訊いていたかは分からなかった。それでも助けてもらったのだから、礼を言うのは当たり前のことで、それと同時にここに連れて来てもらえたことへの気遣いといったことを感謝していた。

実際誰も知り合いのいない街の広いホテルの部屋で寝ることを考えたとき、聞こえない物音に耳をそばだててしまったはずだ。だが広いスペースとはいえ、誰かが同じ屋根の下にいるといった安心感というものが、心を落ち着けてくれた。だから話終えた後は、水を飲むと悪い夢を見ることもなく深い眠りにつくことが出来た。

だが今思えば、相手にとっては奇妙な可笑しさだったかもしれない。
すでに興味を失った女に言い訳のような話を訊かされたのだから、いい迷惑だったはずだ。




そしてつくしは、部屋でぼんやりと過ごしている訳にはいかなかった。
それは、ホテルから運ばれて来ているはずの自分の荷物を探さなければならないからだ。
何しろシャワーを浴びたあと、着ていた下着を石鹸で手洗いして干していたが、まだ乾いていなかった。だから水を貰いに来たとき、バスローブの下は下着の上に付けていたスリップ一枚という心もとない状態だった。決して裸だとは思わなかったが、男性の前にそんな姿でいたことはなく、内心ではどぎまぎとしたが、分厚いローブが透けて見えるはずはないのだからと普通でいられた。

だがまず荷物を探さなければと思い部屋を出た。
そして深夜に副社長と話したリビングへと足を向けたところで、背後から声を掛けられた。

「牧野様。ホテルからの荷物でしたらこちらの部屋に運ばせていただきました」

足音は全く聞えなかったから驚いた。
振り返った先にいたのは、紺のスーツを着たつくしよりも年を重ねた女性。
年は恐らく40代半ば。髪は黒くおかっぱ頭と言われる髪型で、その立ち姿というのか、姿勢はホテルのコンシェルジュのようだと感じ、親切で優しい印象を受けた。

「わたくし早川と申します。普段はニューヨークの道明寺邸におりますが、司様より牧野様のお世話をするように申し付けられております。お着替えが済まれましたらダイニングルームへお越しください。ちょうどお昼ですのでお食事をご用意しております」

そう言われたつくしは、早川と名乗った女性が示した部屋の扉を開けた。
するとそこには確かにつくしのスーツケースがあった。
そしてすぐ傍には靴の箱と思しきものがあった。訝しく思いながら蓋を取って中を見たところでやはり靴だった。

「そちらの靴は牧野様へとのことです。昨夜は大変な目に遭われたとお伺いしております」

早川は、昨夜つくしが襲われたことを訊いているようだ。
つくしの身体を気遣った後、お怪我はなかったようで何よりですと言うと言葉を継いだ。

「牧野様。ヨーロッパでは靴が幸せになれる場所へ連れて行ってくれる。だから女性は素敵な靴を履くと幸せが訪れると言います。
今牧野様が履かれている靴は履き慣れたものなのかもしれませんが、そろそろバトンタッチされた方がよろしいのかもしれませんね?」

つくしは自分の足もとを見た。
早川の言いたい意味は分かる。
ミュージカルに行くからと着替え、履き慣れたローファーに履き替えたが、男に襲われ引きずられた時に付いたのだろう。靴は傷だらけだった。そしてアクセントになっていたタッセルは片方が無くなっていた。
だが箱の中に納められている靴は、つくしの靴とよく似ていた。
しかし箱はニューヨークでも有名なブランドの名前が記されているのだから、随分と高い靴だということは分かる。そんな靴を貰ってもいいのだろうか。

「牧野様。悩むことなどございませんよ。新しい靴は運気を上げるといいます。昨日のことは忘れて運を上げるためにこちらの靴をお履きになればよろしいのですよ。司様のお気持ちですから」





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2018
06.12

出逢いは嵐のように 42

司の周りの女たちは、自分の身体を磨き立て男に見せびらかす。
女らしさを武器にして男をたぶらかそうとする。
だが牧野つくしという女は、司に対しては、一切そういったことが感じられなかった。

一般的に男というのは、可愛げがあり、甘えたところを見せる女が好きだ。
そして少し我儘な女の方が可愛いと言う。
そんな女に振り回される自分が楽しいという男もいる。
だが女たちのその態度は、計算されたものであり、演じている女も多いのが事実だ。
自分が男の目にどう映るか。それを計算して行動する女たちはいずれ主導権を握り、男を自分の思い通りに操ろうとする。

実際世の中には男を操縦できると思う女は多いが、司は違う。
女たちが恋の勝利者になることは絶対にない。
司は女に操られたこともなければ、主導権を握られたこともない。
そして司は女の拒絶というものにあったことがなかった。

昨日の夜。
厳密に言えば日付が変わっていたことから、今日と言えばいいのか。
午前1時過ぎだった。
司はリビングでソファに座り、グラスを片手に天井を眺めながら煙草をふかしていたが、扉が開く音に顔をそちらに向ければ、そこにいたのは、寝間着替わりにしたのだろう。バスローブの紐をきつく結んだ牧野つくしだったが、ここに来た時は青ざめていた顔もいつもの顔色に戻っていた。

まさか司がそこにいるとは思わなかったのだろう。
驚いた表情でお水をいただけませんか、と言った女は、司が煙草を揉み消し、キッチンまで行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し渡すと、「今夜は本当にありがとうございました」と頭を下げた。

司は「ああ」と答え、そのまま女が部屋を出て行くのを待った。
だが女はすぐに部屋に戻るかと思ったが、そうではなかった。
まだ何か言いたそうにそのまま動かなかった。

「どうした?眠れないのか?」

と訊いたが、女は首を横に振った。
そして司が訊ねるまでもなく言葉を継いだ。

「ミュージカルを見に出かけたんですが、帰りはタクシーでと思ったんです。でも終ったばかりの時間はタクシーがつかまえにくいと言われたので、少し時間を置いて帰ろうと思ったんです。だからそれまで近くのホテルで時間を潰そうと思っていたんです。それでホテルまで行く途中だったんです。でも気づいたら道を間違えたみたいで….」

と、そこまで言うと言葉に詰まった。

司は説教をするつもりはないが、それでも女の行動に言いたいことがあった。
どんな理由にしろ、ニューヨークで女がひとり夜道を歩くことは、何があってもおかしくはないということを頭に叩き込んでおかなければならない。

それに自分の身は自分で守らなければならないのが、この国が誕生した時からの決まり事だ。だが司が牧野つくしを見かけたとき、女は考え事をしていたようだ。
頭の中のことに気を取られ、周囲の状況を把握しきれていなかった。
犯罪を行おうとする人間は、隙がある人間を簡単に見分けることが出来る。
心ここにあらずといったアジア人の小柄な女など、どうにでもなると考える。
だがもし傍に男がいれば、また状況は違ったことになる。

それは司やグンター・カールソンのような男が傍にいることが女に対して行われる犯罪の抑止力となるということだ。
そんな思いから、お前の男は、グンター・カールソンはどうしたという言葉が口をつきそうになったが、司が口を開く前に思い詰めた表情になった女が口を開いた。

「副社長。本当にありがとうございます。ここに泊まれと言われた時はホテルまで送って下さいと言おうと思いました。でも考えてみれば、一人であの広い部屋に戻っても眠れなかったと思います。誰もいない広い部屋は他の部屋に誰かが潜んでいる。疑心暗鬼とまでは言いませんが、そんな思いに囚われていたと思います。何しろあの部屋は、私のマンションの部屋とは比べものにならないほど広いですから、ネズミに引かれるような気がしてたんです。でもこうして拝見する副社長のご自宅はもっと広いですよね」

女はまるで急かされるようにひと息に喋ると顔に小さく笑みを浮かべた。
来たことがある司の住まいだが、ゲストルームが何室もあるペントハウスの広さはホテルのスィートよりも広い。だが司にとっては、世田谷の邸に比べればこの部屋は大した広さではない。
 
そして次に女が口を開いたとき、一瞬言葉に詰まったものの、頭を下げながら言った。

「…..あの。副社長。3日間お世話になりますがよろしくお願いいたします」

丁寧にお辞儀をした女は、それだけ言うと今度はためらうことなく踵を返し、自分の部屋へ戻った。









真夜中に交わされた会話はそれで終わったが、司は女が部屋を出て行くと、暫くぼんやりとその場に佇んでいた。
腕時計を見た。牧野つくしがここに来て司と話した時間は15分。短く感じられたが、いつの間にか15分が経っていた。
その15分の間で司の中には牧野つくしに対し釈然としない何かが感じられた。
謝り方にしてもだが、印象が変わったような気がするのだ。
それは女の態度が変わったからだ。それまでいくら司が好きだ、惚れたと言っていても、その気はないと突っぱね言葉にも警戒心が感じられた。
だが今はそういったものは感じられなかった。

そう気付いてみると、牧野つくしの表情の目まぐるしい変化というものにも気付いた。
きまり悪そうな顔や思い詰めたような顔。
叱られたような顔や照れた笑み。
それは今まで司の前では見せなかった幾つかの表情。それを知った。







司はその日、牧野つくしに仕事は休めと言ったが、出勤前、女が泊っているゲストルームの前で足を止め、ドアをノックしようとしたが止めた。
部屋の中から物音はしなかった。まだ寝ているのだろう。
思案することは何もないはずだが、やはり朝起きても不可解な気持ちといったものを抱えていた。





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2018
06.10

金持ちの御曹司~将来の夢~

ある日、司の元へ届けられた一冊の文集。
それは間違っても「文春」ではなく「文集」であり、もし仮にそんな名前の週刊誌に司について書いていることがあったとしても、それは全て嘘であり虚言以外の何物でもない。

そして文集は司が英徳学園の幼稚舎時代に書かれたもの。
送って来たのはタマ。長年道明寺家のメイドとして働いた老女は、随分と年を取り身の周りの整理。いわゆる断捨離や終活といったものに励んでいた。
そこでタマの部屋の押し入れから出て来たのが、幼い司が書いた作文が綴られた卒業文集だった。
そのタイトルは「将来の夢」
子供の文字で書くと、「しょうらいのゆめ ばらぐみ どうみょうじ つかさ」

司はそんなものを書いた記憶がないのだから、懐かしさなどあるはずもなく、自分がどんなことを書いたのか分かるはずもなかった。
だがタマが大切に保管していた二十数年前の安い紙で出来た文集は、若干紙の端が黄色に変色しているが、比較的綺麗な状態だ。その表紙をそっと捲ってみれば、何人もの子供の字で書かれた文章が目に飛び込んできたが、さっそく司は自分が書いた文章を探した。
そして見つけたのは、どうみょうじ つかさ と書かれたページ。
そこに書かれていた幼い自分のつたない文字を追った。




『ぼくのゆめは、せかいをせいふくすること。
そしてねーちゃんのようなきれいな女のひとと、けっこんすること』

たったそれだけが書かれた文集だが、司はその言葉に笑っていた。
世界を征服するといったことを書く幼い子供がいるとすれば、彼くらいではないだろうか。

そして自分の姉を女性の基準と考えているところに、司の女の好みの原点があると言われている。何しろ司の恋人は、姉である椿並の強烈なパンチで彼をノックアウトした初めての女だからだ。だがそのパンチは恋のパンチであり、虚しさが溢れる日常から彼を別の世界へ導いてくれたパンチだった。

そしてその年頃の子供が書くことは、所詮その程度であり、誰も似たり寄ったりの内容だった。
ちなみに花沢類の作文は、

『ぼくのゆめは、ありません。
しずかといっしょなら、それでいいです』

そして西門総二郎はと言えば、

『ぼくのゆめは、おちゃをおいしくいれること。
それから、たくさんの女の子と、なかよくすることです』

ついでと言っては何だが美作あきらは、

『ぼくのゆめは、ほんとうにだいすきな人とあそぶこと。
おひるねは、まいにちちがう女の子のとなりでしたいです』

所詮幼い子供の戯言とも言える内容だが、何故か3人とも見事に将来を予見したような言葉が並んでいたことが可笑しかった。

だが親なら誰もが我が子に訊くはずだ。
あなたは将来何になりたいの?あなたの夢は?と。
だが司はそんな言葉をかけられたことはなかった。訊かれたことはなかった。
それは、彼の将来が生まれた時から決められていたから。
だから誰も彼に将来の夢など訊かなかった。そして司もある年齢に達した頃から、自分の将来が決められていて、自分の意思ではどうにも出来ないことが分かっていた。
だから思春期の反抗以上の行動を取ることになったのだが、その行動を止めるきっかけとなったのが、牧野つくしとの出会いだ。

司は牧野つくしに出会ってから人生が変わった。
司にとって牧野つくしは宗教のようなもので、まるで新手の宗教の勧誘にあったように彼女を崇拝した。寝ても覚めても牧野つくしで、それは牧野という名の沼の落ちたといってもいいほどで、その沼から這い上がることは自ら止めた。
出来ればずっとその沼の中に浸かっていたいほどだ。
そしてそこで、くんずほぐれつを繰り返したい。
あの温かく、ねっとりとした沼の中に永遠に浸かっていたい。
司だけが入ることを許されているあの沼の中へ。

だがその為には、まず彼女と結婚をしなければならなかった。
永遠という言葉を手に入れる為には結婚しかない。
だが世の中には結婚したくても結婚できない男というのも多いと訊く。
だがまさか自分が好きな女性との結婚に焦りを感じているなど、とてもではないが言えなかった。だが実のところできるだけ早く結婚したいと望んでいた。
それにしても、まさか自分がここまで結婚願望が強い男だとは思いもしなかった。
そんなことを思う自分はもしかすると迷路に迷い込んだ犬なのかもしれない。


結婚という名の迷路に迷い込んだ犬が見た夢は___









司は結婚相手を探すため結婚相談所を訪れていた。
だがそれは、道明寺財閥の当主であった父親の遺言を履行するためだ。
それは、父親が亡くなった日から半年以内に結婚して、それから1年以内に子供を作らなければ、財閥の財産は国沢亜門という自分にそっくりな男に行くと書かれていたからだ。
その遺言に、司は親父はとうとう頭のネジが外れたかと思った。
だが家族は知っていた。女嫌いで結婚しようとしない息子に業を煮やした父親が、なんとか結婚させようとそんな遺言を書いたということを。

つまり司がこのまま道明寺ホールディングスの経営を続けるためには、どうしても女と結婚する必要があった。
だが永遠の結婚生活を求めているのではない。
彼が求めるのは契約結婚。
決められた期間が過ぎれば、きれいさっぱり後腐れなく別れてくれる女が必要だった。
もちろん慰謝料はきちんと払うが、子供については道明寺家の跡取りとして置いていくこと。
そんな条件を飲む女を探すためこの場所に来た。




「お待たせいたしました。道明寺さんの幸せのお手伝いをさせていただきます牧野と申します」

司の前に現れたのは、結婚相談所の社員で牧野つくし。
司は彼女に会った途端、見惚れてしまった。
そして頭の中をこんな言葉が過っていた。

『ひと目会ったその日から、恋の花咲くこともある。
見知らぬあなたと、見知らぬあなたに
デートを取り持つ___』

「よろしく。道明寺だ」

司はすぐさま手を差し出し握手を求めた。
そしてここぞとばかりしっかりと彼女の手を握った。

「それでは道明寺さん。女性会員の方に見ていただくためのポートレート、お顔と全身のお写真を撮影しますので、そちらの帽子とサングラスとマスクを外していただけませんか?」

司は変装してこの場所を訪れていた。

「外すのは構わないが他の女性会員に見てもらう写真は必要ない」

女は司の言葉に戸惑っていた。
結婚相手を探すというのに、自分の写真を見てもらう必要がないという男に会うのは初めてだからだ。それに完全に顔を隠す行為は逆に目立つと思うが、もしかして自分の顔に自信がないのか?だがそうだとしても顔が全てではない。気にしないでいいと言うつもりだ。

「…..あの。道明寺さん。他の女性会員に見てもらう必要はないとおっしゃいますが、見て頂かなくてはお相手を探すことは出来ませんが?それに写真はどうしても必要なんですよ?でもお顔が全てではありませんから。それに内面を重視される方が多いのがうちの相談所なんですよ?ですから安心してご登録いただけますよ?」

「いや。もう相手は決めた。あなたです。私はあなたと結婚したい」

司は牧野つくしが気に入った。だから、他の女に自分の写真を見せる必要もなければ、見せたくない。そこで司は自分の顔を隠していた帽子もサングラスもマスクも外した。

「私は道明寺司と言います。道明寺ホールディングスの経営者です。あなたが気に入った。あなたと結婚したい。だから他の女性に見せる写真は必要ありません」


それから二人は順調に愛を育み結婚することになった。
期間が定められた契約結婚ではなく、本当の愛を見つけた男は晴れ晴れとした表情で彼女が教会の中を歩いて来るのを待っていた。
それは二人の結婚式。
6月の花嫁は幸せになると言われているが、司は牧野つくしを幸せにする自信があった。
それまで女にも結婚にも懐疑的だった男は、彼女に出会って変わった。
ああ、結婚とはなんと素晴らしいシステムだ。
彼女は司だけのものになり、永遠に自分の傍にいてくれる。
頭の中はハートでいっぱいで、心はウキウキを止められない。
司は結婚行進曲が流れるなか、前を向きヴァージンロードを歩いてくる牧野つくしを待った。
そして隣に純白のドレスを着た彼女が立ったのを感じた。
神父に促され二人で結婚の誓いの言葉を述べた。
指輪の交換をと言われ、彼女の方を向き、手を取り指輪を嵌めようとした。
だが掴んだ手はいつもの柔らかな感触とは違った。

硬い
ごつい。
たくましい。
薬指に指輪を嵌めようとしたが、嵌まらなかった。

司はそれまで女の手ばかり見つめていたが、そこでふと顔を上げた。
するとそこにいたのは西田。
そして掴んでいたのは、書類を渡そうとした西田の手。

「支社長。私の手に何か問題でも?」

司はパッと手を離すとクールに言った。

「書類を置いたらさっさと出て行け」










司は幼稚舎の卒業文集をマンションに持ち帰ると、リビングのテーブルの上に置いた。
そして笑いながらソファに座るつくしの隣に腰を下ろした。

「道明寺?それこの前タマさんが言ってた幼稚舎の頃の文集でしょ?何か面白いことでも書いてあったの?」

つくしは、タマから司が幼稚舎の頃に書いた文集が見つかったと訊き、司がどんなことを書いたのか知りたいと思い見せて欲しいと頼んだが、坊ちゃんに渡してあるから見せてもらいなと言われていた。

「将来の夢を書けって言われて書いてるらしいが、大したことは書いてねぇな」

司は見ていいぞ。見たいんだろ?と言い見ることを許したが、つくしがまずはじめに見つけたのは、花沢類のページ。そのことに司はムッとした。

『ぼくのゆめは、ありません。
しずかといっしょなら、それでいいです』を見て類っぽいと笑っていた。

「それで道明寺の子供の頃の夢って何だったの?」

つくしは、道明寺司のページを探しながら本人に訊いた。

「俺の夢か?俺の夢は世界を征服することらしい」

「あはは!道明寺らしいわね?だって道明寺って子供の頃から俺様で唯我独尊だったんでしょ?でもまさかそんなことを書いてたなんて、さすがと言えばさすがね?」

だが唯我独尊と言われていた男は、バカげたプライドを捨てると大切なものが何であるかを理解した。

「言っとくが、今の俺の夢はそんなんじゃねぇからな」

「そう?でも世界征服は当たってるんじゃない?だって道明寺の会社は世界中に支社があるし、世界中にネットワークがあるんだからあながち当たってないとは言えないでしょ?」

「まあそうだな。けど俺の夢はそんなモンじゃねぇんだ」

それなら司の今の夢は一体なんなのか。
そんなもの勿論決まっている。
いとしの牧野つくしと結婚することだ。
高校時代、初めて人に対して使った「愛してる」の言葉。
そして『もう かなった 一番欲しくて手に入らなかったもの』は嘘ではない。
だが実際に手に入れたのかと言えば、中途半端な状態だ。
何しろ未だに結婚には至ってないのだから。それに花開く大輪の決意とまで言われた司の牧野つくしに対する思いは、花で言えば8分咲きといったところで、満開とは言えなかった。

「あ!あった。ここ道明寺のページよ?ホントだ。せかいをせいふくするって書いてある!子供なのにこんなこと書くなんてさすが道明寺!」

と言って笑ったが、司はつくしから文集を取り上げると文字を書き加えた。

『俺の将来の夢は、牧野つくしと結婚すること。
子供を育て幸せな家庭を築くこと。
長生きしてジイさんとバアさんになったら手を繋いで散歩すること。
死んだら生まれ変わってまた牧野つくしと一緒になること』


夢が叶うノートがあるなら、今すぐに買いに走るし、なんとしても手に入れてやるつもりだ。だが、彼女は他力本願は嫌いだ。努力して自分の手で未来を掴み取ることが人間の生き方だと言った。だから司は今でも日々努力している。そして彼女の愛を疑うことはないが、牧野つくしの名前が道明寺つくしに変わるまで気を抜く事はしない。
司は書き終えると真剣な顔でつくしの顔を見た。
そして彼女の両手を取り言った。

「これが俺の夢。俺の人生の中で叶えたい夢。将来の夢じゃなくて出来れば近い夢であって欲しい」

司は黙ったままのつくしに満面の笑みを向けた。

「何してる。さっさと返事をしろ」

つくしは返事の代わりに司の唇にキスをした。
そして「よろしくお願いします」と言った。
だがそれがいつ叶えられるのか。
それは牧野つくし次第だが、司はこんな風にじゃれ合う関係でもいいと思っている。
何しろ牧野つくしと言えば、昔から考え過ぎるほど考える女で、簡単にはイエスとは言わない。だから「よろしくお願いします」の言葉もまたいつものことで、それに対し司は、内心苦笑しながらいつもこう言っていた。

「俺の人生でただひとり。惚れたのはお前だけだ。だからお前のことは間違いなく幸せにしてやるよ」

司はそう言うと、つくしを抱き上げた。
唇を重ね、ゆっくりとなめつくすようなキスをしながら二人を待つ大きなベッドへと向かった。

司はベッドにつくしを横たえると服を脱がせ、自らのシャツのボタンを外し床に脱ぎ捨てた。靴とスラックスを脱ぎ、身に付けているものを全て脱ぐと、つくしの隣に寄り添いブラとパンティを剥ぎ取った。そして司はゆっくりと覆い被さった。

「….道明寺…すき…..」

「分かってる。….俺も好きだ。愛してる」





大人になり愛し合うことが当たり前になった二人には、これ以上ベッドの上での言葉は必要なかった。
その代わり、司の身体をギュッと抱きしめてくれる柔らかな手があれば、それだけでよかった。
そして彼女に愛されることが最高の幸せだと考える男は、将来何があろうとその手を放しはしないと心に固く誓っていた。

そして、司の将来の夢は、いつかきっと叶えられるのだから、まだこうして二人だけの世界を楽しむのも悪くはない。そう思っていた。




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2018
06.09

出逢いは嵐のように 41

高速道路をハイスピードで走れば見ることのない景色というものがある。
それは見る必要もない景色でありどうでもいい景色。
それと同じで普段なら車窓を流れる外の景色など、どうでもいいと見ることはない。
だから街中で大勢の人間の中から一人の女に目が行ったのは、車のスピードが出て無かったからであり偶然がもたらしたに過ぎなかった。

だがもし司が女を見つけなければ、金を取られただけで終わらなかったはずだ。
当然女も自分の身に何が起こるか想像は出来たはずだ。
そしてブルブルと震え始めたその身体では、ひとりで歩けないことは分かっていた。
怯えた顔は過ぎ去った恐怖を思い出していたからだ。
だから司は抱き上げたが、捕まってろと言われた女は、彼の身体にしがみつくようにして首に手を回したが、両腕は細かった。

司は以前牧野つくしが会社で倒れ医務室に運ばれたとき、抱き上げ病院へ連れて行ったことがあった。あの時は捕まっていろとは言わなかった。だが今この瞬間首に回された腕と同時に押し付けられたのは小さな胸。たがわざと押し付けた訳ではない。その証拠に女の身体の震えが収まることはなかった。


薄暗い路地から大通に出たところに車は止められていた。
乗り込んだが女は俯き、両腕で自分の身体を抱くようにしてじっとしていた。
司はその様子を暫く見ていたが、「大丈夫か?」と俯いたその顔に声をかけた。
すると女は小さく頭を縦に振ったが、とても大丈夫なようには思えなかった。
考えてみれば、それもそのはずだ。恐怖心というのは、そう簡単に薄れるものではない。
だから余計な言葉をかけることなく黙っていたが、女も黙ったまま何も言わなかった。
いや、言えないことは分かっている。
震える身体が今の精神の状況を如実に表しているからだ。
もしかすると泣いているのかとさえ思った。


車は暫く走り、運転手から向かう先の確認があったが、司がペントハウスへ、と言うと女は顔を上げ彼を見た。その顔は青ざめていたが泣いてはおらず、ただ戸惑いが感じられた。
司は腕時計に目を落とした。時刻は11時を回っていた。

「今夜はひとりでホテルにいるより誰かといる方がいいはずだ。それに心配するな。部屋はいくらでもある。そこで休めばいい。それに言っておくが俺に襲われると思ってるならその心配はない」

その言葉は本心からであり、司の感情としての美奈のために女を懲らしめてやりたいといった思いとは別だ。それに男に襲われそうになった女を無理矢理どうこうするほど司は落ちぶれてはいない。

「….すみません。ご迷惑をおかけします」

女の表情が安堵の色に変わり、司の申し出を断わることなく受け入れたのは、強いショックを受けたことの表れだ。誰も知り合いのいないこの街でひとり部屋にいることに、たった今起きたことを思い出すではないが、言葉に出来ない恐怖を感じているのだろう。

そしてこの街で唯一の知り合いと言えるのが司だとすれば、頼る相手は彼しかいない。
それに司は牧野つくしの上司であり、今の女の立場は秘書だ。
上司が部下の心配をするのは当たり前であり、部下である女がそれを受け入れることに多少の躊躇いはあったとしても、今のこの状況下では断ることは出来ないということだろう。

やがて女の緊張も緩んだようだ。
黙り込んだままだが大きな黒い瞳に光りが戻り始めていた。だがそれが見えたのは一瞬で依然として顔は青白く血の気を失っている。それに膝の上に置かれた鞄の上でギュッと握られた手は小さくだが確かに震えていた。









車がペントハウスに到着したのは、11時40分。
行き交う車も人も少ないのは、ここがタイムズスクエアとは違い「超」が付く高級住宅街に立つ建物だからだ。そしてそんな場所で真夜中にうろつく人間がいれば不審者と認定される。
そして建物に24時間常駐している銃を持つ人間が、彼らがここで犯罪行為をすることを許さないはずだ。


牧野つくしはニューヨークに到着したその日、司のペントハウスで食事をしたことがあり、中の様子は知っていた。
だが知っているのは食事をした部屋であり、他の部屋は知らない。だから司が案内しなければ知らないのは当然だが、今夜のような事件の後では、何もする気にならないはずだと思いながら、女を部屋に案内すると扉を開け、壁にあるスイッチを押し明かりをつけてやった。

「ここはゲストルームだ。必要な物は揃ってるはずだ。バスルームは奥にある。今夜はここを使え。それから明日は休め」

「でも….」

「無理するな。怖い目にあったんだろ?俺はお前の上司であって鬼じゃねぇ。いいから休め。それからお前の荷物だが今取りに行かせてる。どうせこの街はあと3日だ。ここに移ればいい」

女は「でも」と言ったがそれ以上司に反論しなかった。
それどころか素直に頷き、ありがとうございますと言った。
それを意外だと思ったが、反論する元気がないのだろう。
そのことを少し残念だと思う自分自身が可笑しかったが、腕時計に目を落とせば時刻は間もなく12時を迎えようとしていたこともあり、いいからもう休めと言った。

司は頭を下げる女を残し、部屋の扉を閉めた。
だが少しのあいだ部屋の前で息を詰め中の様子を窺っていた。
立ち去り難い訳ではないが、女の様子が気になっていた。すると中からガタンと何かが倒れたような大きな音がした。

「どうした?大丈夫か?」

思わず声をかけたが、「大丈夫です。すみません。スタンドを….ライトを倒してしまいました。でも大丈夫です。ご心配をかけて申し訳ございません」と答えた。









司はリビングに引き上げ、上着を脱ぐとソファに放った。
そしてネクタイを引き抜き、テーブルに投げシャツの前を寛げた。
キッチンへ行き冷蔵庫からミネラルウォーターを取ってきてソファに腰を下ろし、暫くじっとしていた。
そしてテーブルの上のシガレットケースから煙草を取り出し火を点け、ソファにもたれ煙を深く吸い上に向かって吐き出した。

自分が何をしようとしているのか考えなければならなかった。
司は女が泣くことを望んでいて、本来ならこれは絶好のチャンスだったはずだ。
弱っている牧野つくしを気遣う必要などなく、放っておけばよかったはずだ。
強盗だがレイプ魔だか知らないが、成り行き上、助けたのだからホテルへ送り届けるだけでよかったはずだ。
だが俯いた顔が上げられ、大きな黒い瞳が司を見たとき、何故かそうは出来ない男がいた。





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2018
06.08

出逢いは嵐のように 40

車から人の流れを見ていたとき、牧野つくしを見かけた。
女がブロードウェイの舞台を見に出かけていることは知っていたが、まさか、夜の路上をひとりで歩く姿を見かけるとは思いもしなかったが、偶然というのが世の中にあるとすれば、まさにこのことか。

それにしても、あの女は夜のニューヨークがどんな街か分かっていない。
このまま放っておけば本人が思いもしない事態に巻き込まれることになるはずだ。
それは、性的な被害に遭うこともだが、金品を奪うことを目的に撃ち殺されることも想像に難くない。銃でなければナイフで刺されることになるが怖がりの犬のように走って逃げることが出来ればいいが、そう簡単にはいかないはずだ。

あの女が泣くことを望んでいるが、それはこういったことではない。
それに女は司の会社の社員だ。放っておく訳にはいかなかった。
司は車を止めさせすぐに降りたが、ついさっきまでいたはずの女の姿は消えていた。
恐らくどこかの路地に迷い込んだはずだ。だがビルの谷間の路地は光りが届かない。暗がりには酔っ払いが寝転がっていることもあるが、酔っ払いならまだ可愛いもので、タチの悪い人間が暗闇に隠れるように潜んでいる。

「….ったく、あの女はバカか?」

司は呟くとすぐにボディーガードに命令した。

「あの女を探せ!その辺りの路地に迷い込んでるはずだ!」

初夏のニューヨークの夜の空気はヒンヤリとしていて、その中に司の声が響いた。
司は最後に女がいた場所に一番近い路地に入った。左右はレンガ作りの高いビル。明かりはなく暗かったが、目を凝らせばなんとか見える状況だ。その路地の奥の暗闇から聞こえたのは、女の叫び声。その声に司の耳は尖り、目標を既に捉えているように走った。そしてその後ろを数名の黒ずくめの男たちが追った。









つくしは大通りを歩いていたつもりだった。
だがビルとビルの間の路地の前を通り掛かったとき、暗闇から伸びて来た手が彼女の腕を掴んだ。するとあっという間に路地に引き込まれ、口を塞がれ、ショルダーバックごと後ろから抱え込まれるようにして路地の奥へと引きずられていった。
いったい自分の身に何が起きたのか。人間の思考は予期せぬ出来事にパニックになるというが、それは暗闇に住まうハイエナが獲物の喉を狙うごとくあっという間の出来事で声が出せなかった。

そして口を塞いだ手は嗅いだことがないような嫌な臭いがして吐きそうになった。恐怖以外なにも感じられず、なんとか逃げようとしたが、大きな身体はつくしの身体を難なく引きずっていた。
だがなんとかして声を出さなければという思いから、身体をねじり暴れた。
すると口を覆っていた男の手が離れた。その瞬間大声で叫んだ。

「Help ! 助けて!」

咄嗟のことで頭は回らず英語が出たのはヘルプのひと言。
思考はそれだけを言うと日本語で騒ぐ以外何も考えられなかった。

「やめてっ!離してっ!いやっ!誰か助けてっ!」

男の口から出る罵りの言葉が英語なのかそれとも他の国の言語なのか。
全く分からず頭も回らない。再び口を塞がれそうになり、頭を振り身体をねじり男の腕を振り解こうとしたが出来なかった。そして、だんだんとあらがう力が奪われていくのが分かった。
か細い声しか出せなくなっていくのが分かる。
その時だった。
呻き声と共に身体を掴んでいた腕が離れた。






司は女の叫び声がする方へと走った。
するとそこにいたのは、牧野つくしを後ろから抱えた男。
片手は女の口を塞ごうとし、もう片手は女の身体を抱えていた。
つまり手に武器は持ってないということだ。

声は掛けなかった。
司は男が彼の存在に気付いた時には、男の右手を掴み背後へ回ると強い力でねじり上げた。

『いてぇ!』

痛みを訴える声と共に男が苦痛に表情を歪めた。
そして女を掴んでいたもう片方の腕が離れると、その手首を掴み、右手と同じように背後へねじり上げたが、その強烈な握力に男は再び声を上げた。

『いてぇよ!いてぇ!』

スペイン語を話す男は司より10センチ以上背が低く年も若いようだ。

『お前、何やってる!』

男は痛みを訴える以外言葉を口にしなかった。
だから司は両方の手首を後方でさらにねじり上げた。

『や、止めてくれ!う、腕が…折れる……』

司はその言葉に遠い昔を思い出していた。
喧嘩に明け暮れていた少年時代を。
今は抑えられているが暴力が日常だった頃を。
それにしても、まさかこの年になって自らの手で誰かの腕をねじり上げることがあるとは思わなかったが、懐かしさと共に頭に血がのぼるのを感じた。
今は一流のビジネスマンとして過ごしていても、血の匂いが自分の周りの空気を染めていたあの当時の凶暴さは変わらず身体のどこかに眠っていて、久し振りにそれが目覚めたといった感じだ。

『お前、この女を襲って何をするつもりだ?なあ。言ってみろよ?』

司はわざとゆっくりと喋りさらに腕をねじり上げた。

『言えよ。この女を襲って何をしようとした?』

痛みに呻く男は自分より背の高い男に背後から両腕をねじられ、何をされるか分からない恐怖におののいていた。それに相手の姿が見えないということは、それだけで恐ろしさを増幅させる。

『か、金だ。金が欲しかった。お前らアジア人だろ?金持ってんだろ?いい服着てんじゃねぇか。だから金だよ、金!金が欲しかったんだ!なあ、腕…放してくれ….折れちまう…』

まだ若い男は、喧嘩慣れしてないのか。それとも相手が自分よりも強いことを知り、歯向かうことを諦めたのか。男の声は弱々しく今にも泣き出しそうだ。
そんな男に司は口元を切り上げ言った。

『これは腕じゃねぇ。関節が外れるだけだ。それとも二度とこの腕で悪さ出来ねぇようにしてやろうか』

司はククッと笑い男の腕をねじり上げ、後ろへ強く逸らし両方の肩関節を外し、右足で男の脚を払い、足元へ崩れ落ち痛みに呻く男の脇腹を蹴り上げた。

『ふざけたマネしてんじゃねぇよ!このクソガキが!』

路上に寝転がった男は痛みを堪えながら、怯えた目で司を見上げ、彼の後ろに控える黒服の男達のうちの一人の腰に銃が収められたホルスターを認めると震え始めた。そしてネクタイを締めた男がただのアジア人のビジネスマンではないことに気付いたようだ。

『副社長。その辺りでお止め下さい。後はこちらで処理します』

司に声を掛けたのは、ボディーガードの中で一番年長で黒髪の男だ。
前職はアメリカ合衆国シークレットサービスの警護官だった男。その仕事柄医療や法律の知識にも長けており、事後処理は慣れたものだ。だが司も手加減はしていた。男の顔も殴らなければ、骨を折らなかったのだから、高校生の頃と比べれば随分と大人しいものだ。

「大丈夫か?」

司は黒服の男に支えられるように立つ女を見た。
黙って司のすることを見ていた女は、暗がりでも顔が青ざめ手が震えているのが確認できた。
やがて女の身体はブルブルと震え始めたが、それは緊張の糸が切れた証拠だ。
現実の危機が去ったあとのショック症状だ。

司は牧野つくしを抱き上げた。

そして「捕まってろ」と言うと踵を返し、暗い路地を車へ向かった。





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