いつだったか桜子に言われたことがある。
『先輩は時代を逆行してます。いい年してまともな恋愛をしてこなかったんじゃないですか』
それによく言われるのが、
『先輩恋人が欲しくないんですか?結婚したくないんですか?この先もずっと一人でいるつもりですか?』
恋人が欲しいとも欲しくないともはっきりとした返事をしたことはない。
結婚したいともしたくないとも言ったことはない。
この先ずっと一人でいるつもりかと問われたら…分からないと答えていた。
ただ、どの言葉にも心から自分を必要としてくれる人がいたら違うという言葉を添えていた。
それに当然のことだが、桜子が言うまともな恋愛とつくしのまともな恋愛の基準というのは大きく違う。
つくしにとってまともな恋愛は、それは使い捨ての恋ではなく、長く続く関係が構築できること。
ただ今までそういった相手に巡り合えなかっただけで、きちんと長く付き合える相手ならそれでいいと考えていたが、桜子はそれを頑固だと言う。
彼女の視点からすれば、それが時代に逆行しているらしい。
『その人が長く付き合える相手かどうかなんて付き合ってみなきゃ分からないじゃないですか。セックスの相性だって寝てみないと分からないじゃないですか。
いいですか、先輩。会った途端ぴんと来る人なんて簡単には見つかりません。
だから付き合って欲しいと言われたら深く考えちゃダメです。ある程度の基準を満たしていれば付き合ってみればいいんです』
別に選り好みをしているつもりはなかった。
社内恋愛は無かったが、桜子に誘われて合コンにも参加した。
そこで気に入られたこともあった。
短いけど大学時代に付き合ったこともあった。
ただ、グンター・カールソンのことは桜子に話していない。
何しろつくしが入社一年目の出来事であり桜子が入社する前の話だ。それにあの頃は遥か彼方の遠い国に住む人や、ましてや外国人と付き合うといったことを考えたことがなかった。
だがこれも桜子に話していれば、彼女は笑うはずだ。
『先輩は本当に時代遅れなんですから』と。
そんな女に13年前仕事で知り合った男性からの再びの告白は、それこそ青天の霹靂と言われるはずだ。
何しろ相手はヨーロッパの老舗企業の後継者であり副社長。まさか当時エンジニアだった男性がそんな立場に立つとは思いもしなかっただけに驚いた。
そしてその男性からのデートの誘いを受けることにした女は、もうひとり想いを伝えて来た男の冷やかな態度を感じていた。
惚れたと告白はされたが、つくしは道明寺司と付き合いたいと思わない。それに断った。
だが男はニューヨークでつくしの気持を掴みたいと言った。
そして迎えたニューヨークに着いて4日目の夜。
今夜は贈ったドレスを着てくれと言われ、しぶしぶ着たが、着なければならなかった理由が分かったような気がした。
車がレストランに到着し、支配人に案内されて店内を進むあいだ、客たちの視線が感じられた。見るからに高級そうな店の客は、日本人離れした容姿の男が誰なのか知っているのだろう。つくしに対しあからさまな視線を向けることはなかったが、それでも興味を持って見られているのは感じられた。
そして女性客に紺やグレーのスーツ姿は見当たらず、誰もがこの店の華やかさに合うドレスを着ていた。
つまりドレスを着ろと言ったのは、TPOをわきまえた服装ということになるのだが、いつものように真正面に座る道明寺司は端正な顔立ちでつくしに言った。
「そんなに俺と食事をするのは嫌か?」
「え?」
「嫌そうな顔をしてる」
「べ、別に嫌な顔はしていません」
そうだ。嫌な顔はしてないはずだ。それにこれは仕事の一部だと考えれば嫌な顔が出来る立場ではないからだ。
だが逆に訊きたかった。
目の前の男から好きだと言われた。だが毎晩こうして食事に連れて行かれても、好きな人を前に食事を楽しむといった態度ではないと感じていた。
それに今も冷やかな眼差しを向けられれば、とても好きな女を前に食事をしているといった様子は感じられず矛盾を感じるのだ。
それに好きな女の前にいるなら、多少なりとも自分心の裡を晒すはずだが、そういったこともなかった。だから何が楽しくて私とこうして食事をしているんですかと訊きたかった。
だがグンター・カールソンに対する態度は違った。
あれは自分のものを取られまいとするオスの態度だ。だがそれは単なるプライドの話なのかもしれないが、ヴァイキングの衣装も随分変わったの発言は、一歩間違えば無作法この上ない言葉だ。だがグンターは大人だった。それに長身で堂々とした体躯も端正な顔立ちもあの頃と変わらなかったが、目の前にいる男も大柄なグンターに全く引けを取らなかった。
それにしても、副社長のことなど気にすることなど何もないはずだが、好きだ。惚れてると聞かされれば気にしない方が無理なのかもしれない。
「お前は俺とこうして食事をするのは仕事の一部だと言いたいはずだ。そうだろ?だが俺としてはもっと楽しい話もしたいと思っている」
「え?」
一瞬自分の気持が声に出たかと焦り、間の抜けた返事をしてしまった。
「心配するな。言葉は漏れてない」
だがまるで考えを読んだように言われ緊張した。
だがそこで頼んでいた白ワインが運ばれてきて、テイスティングが終るまで二人は無言だったが、知らず知らずのうちに、グラスの柄を握った長い指に視線が吸い寄せられる。
すると手を握られキスをされた時のことが思いだされた。
やがて料理が運ばれ、誰もテーブルの傍にいなくなると男がワイングラスを掲げた。
そして笑ったのだ。
それは今まで見たことがないようなほほ笑み。
今まで何人の女性がそのほほ笑みを目にすることが出来たのか。
滅多に笑わない男の無言のほほ笑みというのは、どんな言葉も添える必要がないほどのパワーがある。こういうのを魅せられるというのだろう。
気が動転するではないが、相手から目をそらすことが出来なかった。
そして顔は赤くなっていたはずだ。
だが何故そんなほほ笑みが浮かんだのか。
目の前の男の感情の起伏の中で歓びを表現する顔は殆ど見ることはないと言われているだけに、魅入られたようになってぼんやりと見つめていたが、グラスをと言われ、無意識に掲げると口へ運んだが、妙な緊張で喉がカラカラに渇いていて、中身をゴクゴクと飲み干してしまった。
「それで?俺と過ごす休日よりグンター・カールソンと過ごす方がいいって?」
棘のある言い方で訊かれて言葉に詰まった。
あの時は、さもつくしが自分のものだという尊大で自信過剰な態度にムカついて腹が立った。だから本当ならカールソンの誘いはやんわりと断るつもりでいたものが、つい行きますと日曜に一緒に過ごす約束をした。
「はい。ニューヨークははじめてですし、せっかく懐かし人に会ったんですからデートを楽しんで来たいと思います」
と、務めてつっけんどんに答えたが、グンターなら話せばわかってくれるはずだ。
ごめんなさいという意味を。だがそれを目の前の男に話す必要はない。
それにしても道明寺司という男の恋愛感覚が分からない。
もしかするとこの男は屈折した恋愛感覚の持ち主なのかもしれない。
だが付き合うつもりはないつくしには関係ない。
それでも、ワイングラスを掲げ浮かべた笑みの意味を考えてしまった。
そしてグンターを見た瞳の冷たさに意味があるなら、その意味は__恋敵を睨んだ目なのか?
「そうか。まあいい。あの男と俺とどっちがいいか比べてもらって構わない。カールソンに負けるつもりはない。だから日曜はゆっくり楽しんでくればいい」
その言い方は最後に欲しいものを手に入れるのは自分だと言っているようなものだ。
だからつくしは正面から副社長を睨みつけ反発を込めて言った。
「比べてとおっしゃいましたが、ご自分の思い通りにいかなかったらどうするんですか?」
冷淡に言ったが、正面の男はニヤリとする。
「思い通りにいかなかったら?そんな言葉は俺の辞書にはない。それに俺が一度こうだと決めたらそうなるはずだ」

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恋人が欲しいとも欲しくないともはっきりとした返事をしたことはない。
結婚したいともしたくないとも言ったことはない。
この先ずっと一人でいるつもりかと問われたら…分からないと答えていた。
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それに当然のことだが、桜子が言うまともな恋愛とつくしのまともな恋愛の基準というのは大きく違う。
つくしにとってまともな恋愛は、それは使い捨ての恋ではなく、長く続く関係が構築できること。
ただ今までそういった相手に巡り合えなかっただけで、きちんと長く付き合える相手ならそれでいいと考えていたが、桜子はそれを頑固だと言う。
彼女の視点からすれば、それが時代に逆行しているらしい。
『その人が長く付き合える相手かどうかなんて付き合ってみなきゃ分からないじゃないですか。セックスの相性だって寝てみないと分からないじゃないですか。
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社内恋愛は無かったが、桜子に誘われて合コンにも参加した。
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短いけど大学時代に付き合ったこともあった。
ただ、グンター・カールソンのことは桜子に話していない。
何しろつくしが入社一年目の出来事であり桜子が入社する前の話だ。それにあの頃は遥か彼方の遠い国に住む人や、ましてや外国人と付き合うといったことを考えたことがなかった。
だがこれも桜子に話していれば、彼女は笑うはずだ。
『先輩は本当に時代遅れなんですから』と。
そんな女に13年前仕事で知り合った男性からの再びの告白は、それこそ青天の霹靂と言われるはずだ。
何しろ相手はヨーロッパの老舗企業の後継者であり副社長。まさか当時エンジニアだった男性がそんな立場に立つとは思いもしなかっただけに驚いた。
そしてその男性からのデートの誘いを受けることにした女は、もうひとり想いを伝えて来た男の冷やかな態度を感じていた。
惚れたと告白はされたが、つくしは道明寺司と付き合いたいと思わない。それに断った。
だが男はニューヨークでつくしの気持を掴みたいと言った。
そして迎えたニューヨークに着いて4日目の夜。
今夜は贈ったドレスを着てくれと言われ、しぶしぶ着たが、着なければならなかった理由が分かったような気がした。
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そして女性客に紺やグレーのスーツ姿は見当たらず、誰もがこの店の華やかさに合うドレスを着ていた。
つまりドレスを着ろと言ったのは、TPOをわきまえた服装ということになるのだが、いつものように真正面に座る道明寺司は端正な顔立ちでつくしに言った。
「そんなに俺と食事をするのは嫌か?」
「え?」
「嫌そうな顔をしてる」
「べ、別に嫌な顔はしていません」
そうだ。嫌な顔はしてないはずだ。それにこれは仕事の一部だと考えれば嫌な顔が出来る立場ではないからだ。
だが逆に訊きたかった。
目の前の男から好きだと言われた。だが毎晩こうして食事に連れて行かれても、好きな人を前に食事を楽しむといった態度ではないと感じていた。
それに今も冷やかな眼差しを向けられれば、とても好きな女を前に食事をしているといった様子は感じられず矛盾を感じるのだ。
それに好きな女の前にいるなら、多少なりとも自分心の裡を晒すはずだが、そういったこともなかった。だから何が楽しくて私とこうして食事をしているんですかと訊きたかった。
だがグンター・カールソンに対する態度は違った。
あれは自分のものを取られまいとするオスの態度だ。だがそれは単なるプライドの話なのかもしれないが、ヴァイキングの衣装も随分変わったの発言は、一歩間違えば無作法この上ない言葉だ。だがグンターは大人だった。それに長身で堂々とした体躯も端正な顔立ちもあの頃と変わらなかったが、目の前にいる男も大柄なグンターに全く引けを取らなかった。
それにしても、副社長のことなど気にすることなど何もないはずだが、好きだ。惚れてると聞かされれば気にしない方が無理なのかもしれない。
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「え?」
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だがまるで考えを読んだように言われ緊張した。
だがそこで頼んでいた白ワインが運ばれてきて、テイスティングが終るまで二人は無言だったが、知らず知らずのうちに、グラスの柄を握った長い指に視線が吸い寄せられる。
すると手を握られキスをされた時のことが思いだされた。
やがて料理が運ばれ、誰もテーブルの傍にいなくなると男がワイングラスを掲げた。
そして笑ったのだ。
それは今まで見たことがないようなほほ笑み。
今まで何人の女性がそのほほ笑みを目にすることが出来たのか。
滅多に笑わない男の無言のほほ笑みというのは、どんな言葉も添える必要がないほどのパワーがある。こういうのを魅せられるというのだろう。
気が動転するではないが、相手から目をそらすことが出来なかった。
そして顔は赤くなっていたはずだ。
だが何故そんなほほ笑みが浮かんだのか。
目の前の男の感情の起伏の中で歓びを表現する顔は殆ど見ることはないと言われているだけに、魅入られたようになってぼんやりと見つめていたが、グラスをと言われ、無意識に掲げると口へ運んだが、妙な緊張で喉がカラカラに渇いていて、中身をゴクゴクと飲み干してしまった。
「それで?俺と過ごす休日よりグンター・カールソンと過ごす方がいいって?」
棘のある言い方で訊かれて言葉に詰まった。
あの時は、さもつくしが自分のものだという尊大で自信過剰な態度にムカついて腹が立った。だから本当ならカールソンの誘いはやんわりと断るつもりでいたものが、つい行きますと日曜に一緒に過ごす約束をした。
「はい。ニューヨークははじめてですし、せっかく懐かし人に会ったんですからデートを楽しんで来たいと思います」
と、務めてつっけんどんに答えたが、グンターなら話せばわかってくれるはずだ。
ごめんなさいという意味を。だがそれを目の前の男に話す必要はない。
それにしても道明寺司という男の恋愛感覚が分からない。
もしかするとこの男は屈折した恋愛感覚の持ち主なのかもしれない。
だが付き合うつもりはないつくしには関係ない。
それでも、ワイングラスを掲げ浮かべた笑みの意味を考えてしまった。
そしてグンターを見た瞳の冷たさに意味があるなら、その意味は__恋敵を睨んだ目なのか?
「そうか。まあいい。あの男と俺とどっちがいいか比べてもらって構わない。カールソンに負けるつもりはない。だから日曜はゆっくり楽しんでくればいい」
その言い方は最後に欲しいものを手に入れるのは自分だと言っているようなものだ。
だからつくしは正面から副社長を睨みつけ反発を込めて言った。
「比べてとおっしゃいましたが、ご自分の思い通りにいかなかったらどうするんですか?」
冷淡に言ったが、正面の男はニヤリとする。
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Comment:8
司の言葉にカールソンは表情を変えなかったが心の裡が動いたのは感じられた。
そして3人の傍を通り過ぎていく社員たちは日本語が分からないのか。それとも分かっていたとしても見て見ぬ振りなのか。気に留めることもなく真っ直ぐ前を向いて通り過ぎて行く。
だがそれもそのはずだ。その場に立ち止まり副社長を見つめるなど恐れ多くて出来るはずもなく、もしそんなことをすれば職務怠慢と言われかねないから誰も足を止めることはなかった。
それにしても、もしここが重役会議の最中だとすれば、相手を見据える男の視線は見る者全てを凍らせる冷たい視線。だがここは会議室でもなければ重要会議の最中でもない廊下でのやり取り。そこで二人の男は彼らの間にだけに流れる空気を感じていた。
そして今ここにいる女は静かな湖面に動くことなく留まっている一艘の小舟だ。
どちらの男が先に桟橋を歩き小舟まで行き、繋がれたもやいを解くのか。
だがその小舟は、私は静かに浮かんでいたい。どちらの男も乗せたくはないと言うはずだ。
だがどちらかの男が動けば波が立つ。そして動いたのは青い瞳の男だ。
「そうですか。道明寺さんは牧野さんのことが好きだと?それでは私も言わせて頂きます。私は13年前に彼女と出会って好きになりました。そして出国する前に彼女に私の気持を伝えました。ですが残念なことにフラれましてね。国に帰ったあと他の女性との付き合いもありましたが彼女の可愛らしさを忘れることは出来ませんでした」
カールソンは昔を懐かしむように言ってすぐ隣にいるつくしに視線を落とし、再び司を見た。そして飾ることのない正直な思いを話はじめた。
「結局他の女性とはどうしても続かなかった。多分それは心の片隅に彼女の存在があったからです。それに今日こうして牧野さんに再会してみれば、あの頃の可愛らしさは全く変わりません。日本人は年を取ることを損のように考えますが、私の国の人間はそうは考えません。年を取ればそれだけ人としての厚みを増します。人生経験がその人を豊かにしてくれます。どんな経験もその人が生きていく上で邪魔になることはありません。それに今日ここでの偶然の再会は天の配剤に思えてなりません。私は牧野さんにお話しました。13年経った今、もう一度私と付き合うことを考えてくれませんかとね。丁度道明寺さんがエレベーターから降りて来る前の話です」
カールソンは話終えるまで司の顔に据えていた瞳を逸らすことはなかったが、司も同じで自分に据えられた瞳をじっと見返した。
「そうですか。それはまた随分と長い間彼女のことを思われていたということですね?」
「ええ。そうです。私は今日ここで牧野さんに会えたことを神に感謝しています。それからあなたがこの街に彼女を連れて来てくれた事にもです」
二人の男の間で交わされる言葉のやり取りは丁寧だが、ひんやりとしたものだ。
それは二人とも相手の能力の大きさを測りながらの会話だからだ。
その能力とは男としての器の大きさと精神力の強さ。そして腕っぷしの強さ。
それは、ビジネスを展開する人間なら当たり前のこと。そして初対面の相手なら尚更だ。
そしてどちらが初めに挑発的な態度をとったのかと言われれば、それは牧野つくしは自分のものだという態度を取った司の方だ。
そしてここにいる二人の男は、どちらも巨大組織の先頭に立つボスと呼ばれる立場にいる。
グンター・カールソンは金髪で紳士然とした態度を見せているが、司とはまた別の意味で自分に自信がある男だ。ただそれを前面に出すか出さないかの違いであり、育った国の伝統や文化が違ったとしても男が取る態度は決まっている。
そしてその身なりや雰囲気は一見したところ違うように見えても、互いのプライドの高さはさして変わらないはずだ。
それはまさに猿の群れの中にたった一匹いるアルファメイルと言われる自分の群れを率いるボス猿の姿。業種は違えど群れの大きさが互角の男たちは、メスを巡る戦いではないが、そんな様相を呈して来たのは気のせいではないはずだ。
そして互いの胸の裡を読もうとしている無言のやり取りに先に口を開いたのは司だ。
「ヴァイキングの衣装も随分変わったものだ」
それはカールソンの上等なスーツやイタリア製の靴を見ての言葉。
その言葉にカールソンはフッと笑った。
「道明寺さん、どういう意味でおっしゃったのか知りませんが私はスウェーデン人です。ヴァイキングはノルウェーですよ」
「それは失礼。ですがスウェーデンも同じスカンジナビア半島で隣国だ。ヴァイキングは日本に於いてはノルウェーのイメージが強いですが、かつてはスウェーデンもバルト海沿岸の国々と一緒に侵略と略奪を繰り返した。違いますか?」
その言葉は、司が狙いを付けた女をカールソンが奪いに来たと暗に言っていた。
「確かに。おっしゃる通りだ。遠い昔我々の祖先は侵略と略奪を繰り返してきた歴史があります。ですがそれは事実に反することもあります。彼らは正当な交易によって品物を得ていたという記録もあります。それに当たり前のことですが今はそのようなことはありません。我々は今では平和を愛する国民です。そうでなければノーベル賞の設立などあり得なかったはずですから」
スウェーデンの発明家アルフレッド・ノーベルの遺言によって始まったノーベル賞は、彼が発明したダイナマイトをはじめとする様々な爆薬の利益を元に設立された歴史と伝統がある権威のある賞だ。そしてその賞を授与する国は、古き自由な北の国と言われている。
「そうですか。それでは今は略奪行為をなさらないというとこですね?」
その言葉は、はやり自分のものを奪うことは許さないと言っているのと同じだ。
「ええ。そうですが、それが牧野さんに対してなら尚更そうです。私は無理やり彼女をどうこうしようなど考えていません。それは道明寺さんもですよね?そんなことをする人間は人を愛する資格などありませんから」
「ええ。そうですね。ですが私の方があなたより彼女の近くにいます」
口許を緩めた男は、牧野つくしの占有権は自分にあると主張していた。
司はカールソンとはまた別の意味で彼女を自分のものにするため傍に置くことにしたが、まさか本気で牧野つくしが欲しいという人間が現れるとは思いもしなかった。
そしてその男は、好きな女の前でひたむきな愛の言葉を並べていく男だと知った。
事実司の前で彼に向かって牧野つくしに対する思いを語った男の隠すことのない気持ちの表し方は、女を愛したことがない司が訊けば戯言のように感じられた。
何故なら司が語る牧野つくしに対する思いは、女を自分との恋に落とすために無理矢理かき立てたものだからだ。
「道明寺さん。私にもチャンスをくれませんか?あなたは牧野さんの気持ちを掴みたいために彼女を秘書として同行させたとおっしゃいました。確かに秘書は常にボスの傍にいることが当たり前です。私はあと1ヶ月この街にいる予定ですが、彼女は10日間の予定でこの街にいるということですがすでに4日過ぎました。どうでしょう?彼女にも休みはあると思いますがその休日を私に頂けませんか?……フェアプレーということで」
二人の男の会話は、つくしの意思など関係ないとばかり進んでいて、頭の上で交わされる言葉が日本語であり、傍を通る人間の大多数が理解出来ないことが幸いだとしても、これではまるで貸し出される本のようなものだ。
それにつくしはカールソンから付き合って欲しいと言われても、その気がないのはあの頃と同じであり、まさか彼があの頃と同じ思いを抱いているとは考えもしなかった。
だがそれは丁寧に断れば理解してもらえると思っていた。
それなのに本人の意思は関係ないといった態度を取り始めた男達。だがカールソンはそんな人ではない。少なくともつくしが知っていた陽気なエンジニアの男性はつくしの意思を尊重してくれる人だ。
「牧野さん。僕とデートして下さい。1日だけです。それにいくら牧野さんが道明寺さんの秘書だと言っても、彼があなたの休日を無理矢理奪うことは出来ないはずです」
カールソンは隣に立つつくしに笑顔を向け言ったが、その言葉を遮るように口を挟んだのは司だ。
「カールソンさん。牧野はあなたとデートする気はあるでしょうか?あなたは過去にフラれた男です。諦めてはいかがですか?」
つくしは、自分のことを秘書だからと彼の付属品のように扱う男の態度にムカつき始めていた。それに副社長はつくしの保護者でもなければ当然だが恋人でもない。
それに副社長は好きだ。惚れた。というがその言葉は心からの言葉には感じられず、矛盾が感じられる。それは何気ない態度に感じられることがある。何がと言われてもはっきりと言えないが、感覚がそう言っていた。
だがこれまで一緒に過ごしてみて、道明寺司という人物が仕事の出来る男性であることに間違いない。
大勢の女性からモテる男であることも間違いない。
けれど、どんなに大勢の女性からその存在が素晴らしいと言われたとしても、本当の心をひと前で見せたことがない人だ。
そんな男の言いように、腹が立つと同時にやはりムカつき、次第に気持ちが抑えられなくなっていた。
「道明寺副社長。勝手なこと言わないで下さい」
気づいたら言葉が口をついて出ていた。
「私とグンター…..いえカールソンさんのことは副社長には関係ないはずです。それに私が誰とデートしようと私の勝手です。それに日曜はお休みさせて頂けるんですよね?私、せっかくカールソンさんが誘って下さっているのでこの街を案内してもらおうと思います」

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そして3人の傍を通り過ぎていく社員たちは日本語が分からないのか。それとも分かっていたとしても見て見ぬ振りなのか。気に留めることもなく真っ直ぐ前を向いて通り過ぎて行く。
だがそれもそのはずだ。その場に立ち止まり副社長を見つめるなど恐れ多くて出来るはずもなく、もしそんなことをすれば職務怠慢と言われかねないから誰も足を止めることはなかった。
それにしても、もしここが重役会議の最中だとすれば、相手を見据える男の視線は見る者全てを凍らせる冷たい視線。だがここは会議室でもなければ重要会議の最中でもない廊下でのやり取り。そこで二人の男は彼らの間にだけに流れる空気を感じていた。
そして今ここにいる女は静かな湖面に動くことなく留まっている一艘の小舟だ。
どちらの男が先に桟橋を歩き小舟まで行き、繋がれたもやいを解くのか。
だがその小舟は、私は静かに浮かんでいたい。どちらの男も乗せたくはないと言うはずだ。
だがどちらかの男が動けば波が立つ。そして動いたのは青い瞳の男だ。
「そうですか。道明寺さんは牧野さんのことが好きだと?それでは私も言わせて頂きます。私は13年前に彼女と出会って好きになりました。そして出国する前に彼女に私の気持を伝えました。ですが残念なことにフラれましてね。国に帰ったあと他の女性との付き合いもありましたが彼女の可愛らしさを忘れることは出来ませんでした」
カールソンは昔を懐かしむように言ってすぐ隣にいるつくしに視線を落とし、再び司を見た。そして飾ることのない正直な思いを話はじめた。
「結局他の女性とはどうしても続かなかった。多分それは心の片隅に彼女の存在があったからです。それに今日こうして牧野さんに再会してみれば、あの頃の可愛らしさは全く変わりません。日本人は年を取ることを損のように考えますが、私の国の人間はそうは考えません。年を取ればそれだけ人としての厚みを増します。人生経験がその人を豊かにしてくれます。どんな経験もその人が生きていく上で邪魔になることはありません。それに今日ここでの偶然の再会は天の配剤に思えてなりません。私は牧野さんにお話しました。13年経った今、もう一度私と付き合うことを考えてくれませんかとね。丁度道明寺さんがエレベーターから降りて来る前の話です」
カールソンは話終えるまで司の顔に据えていた瞳を逸らすことはなかったが、司も同じで自分に据えられた瞳をじっと見返した。
「そうですか。それはまた随分と長い間彼女のことを思われていたということですね?」
「ええ。そうです。私は今日ここで牧野さんに会えたことを神に感謝しています。それからあなたがこの街に彼女を連れて来てくれた事にもです」
二人の男の間で交わされる言葉のやり取りは丁寧だが、ひんやりとしたものだ。
それは二人とも相手の能力の大きさを測りながらの会話だからだ。
その能力とは男としての器の大きさと精神力の強さ。そして腕っぷしの強さ。
それは、ビジネスを展開する人間なら当たり前のこと。そして初対面の相手なら尚更だ。
そしてどちらが初めに挑発的な態度をとったのかと言われれば、それは牧野つくしは自分のものだという態度を取った司の方だ。
そしてここにいる二人の男は、どちらも巨大組織の先頭に立つボスと呼ばれる立場にいる。
グンター・カールソンは金髪で紳士然とした態度を見せているが、司とはまた別の意味で自分に自信がある男だ。ただそれを前面に出すか出さないかの違いであり、育った国の伝統や文化が違ったとしても男が取る態度は決まっている。
そしてその身なりや雰囲気は一見したところ違うように見えても、互いのプライドの高さはさして変わらないはずだ。
それはまさに猿の群れの中にたった一匹いるアルファメイルと言われる自分の群れを率いるボス猿の姿。業種は違えど群れの大きさが互角の男たちは、メスを巡る戦いではないが、そんな様相を呈して来たのは気のせいではないはずだ。
そして互いの胸の裡を読もうとしている無言のやり取りに先に口を開いたのは司だ。
「ヴァイキングの衣装も随分変わったものだ」
それはカールソンの上等なスーツやイタリア製の靴を見ての言葉。
その言葉にカールソンはフッと笑った。
「道明寺さん、どういう意味でおっしゃったのか知りませんが私はスウェーデン人です。ヴァイキングはノルウェーですよ」
「それは失礼。ですがスウェーデンも同じスカンジナビア半島で隣国だ。ヴァイキングは日本に於いてはノルウェーのイメージが強いですが、かつてはスウェーデンもバルト海沿岸の国々と一緒に侵略と略奪を繰り返した。違いますか?」
その言葉は、司が狙いを付けた女をカールソンが奪いに来たと暗に言っていた。
「確かに。おっしゃる通りだ。遠い昔我々の祖先は侵略と略奪を繰り返してきた歴史があります。ですがそれは事実に反することもあります。彼らは正当な交易によって品物を得ていたという記録もあります。それに当たり前のことですが今はそのようなことはありません。我々は今では平和を愛する国民です。そうでなければノーベル賞の設立などあり得なかったはずですから」
スウェーデンの発明家アルフレッド・ノーベルの遺言によって始まったノーベル賞は、彼が発明したダイナマイトをはじめとする様々な爆薬の利益を元に設立された歴史と伝統がある権威のある賞だ。そしてその賞を授与する国は、古き自由な北の国と言われている。
「そうですか。それでは今は略奪行為をなさらないというとこですね?」
その言葉は、はやり自分のものを奪うことは許さないと言っているのと同じだ。
「ええ。そうですが、それが牧野さんに対してなら尚更そうです。私は無理やり彼女をどうこうしようなど考えていません。それは道明寺さんもですよね?そんなことをする人間は人を愛する資格などありませんから」
「ええ。そうですね。ですが私の方があなたより彼女の近くにいます」
口許を緩めた男は、牧野つくしの占有権は自分にあると主張していた。
司はカールソンとはまた別の意味で彼女を自分のものにするため傍に置くことにしたが、まさか本気で牧野つくしが欲しいという人間が現れるとは思いもしなかった。
そしてその男は、好きな女の前でひたむきな愛の言葉を並べていく男だと知った。
事実司の前で彼に向かって牧野つくしに対する思いを語った男の隠すことのない気持ちの表し方は、女を愛したことがない司が訊けば戯言のように感じられた。
何故なら司が語る牧野つくしに対する思いは、女を自分との恋に落とすために無理矢理かき立てたものだからだ。
「道明寺さん。私にもチャンスをくれませんか?あなたは牧野さんの気持ちを掴みたいために彼女を秘書として同行させたとおっしゃいました。確かに秘書は常にボスの傍にいることが当たり前です。私はあと1ヶ月この街にいる予定ですが、彼女は10日間の予定でこの街にいるということですがすでに4日過ぎました。どうでしょう?彼女にも休みはあると思いますがその休日を私に頂けませんか?……フェアプレーということで」
二人の男の会話は、つくしの意思など関係ないとばかり進んでいて、頭の上で交わされる言葉が日本語であり、傍を通る人間の大多数が理解出来ないことが幸いだとしても、これではまるで貸し出される本のようなものだ。
それにつくしはカールソンから付き合って欲しいと言われても、その気がないのはあの頃と同じであり、まさか彼があの頃と同じ思いを抱いているとは考えもしなかった。
だがそれは丁寧に断れば理解してもらえると思っていた。
それなのに本人の意思は関係ないといった態度を取り始めた男達。だがカールソンはそんな人ではない。少なくともつくしが知っていた陽気なエンジニアの男性はつくしの意思を尊重してくれる人だ。
「牧野さん。僕とデートして下さい。1日だけです。それにいくら牧野さんが道明寺さんの秘書だと言っても、彼があなたの休日を無理矢理奪うことは出来ないはずです」
カールソンは隣に立つつくしに笑顔を向け言ったが、その言葉を遮るように口を挟んだのは司だ。
「カールソンさん。牧野はあなたとデートする気はあるでしょうか?あなたは過去にフラれた男です。諦めてはいかがですか?」
つくしは、自分のことを秘書だからと彼の付属品のように扱う男の態度にムカつき始めていた。それに副社長はつくしの保護者でもなければ当然だが恋人でもない。
それに副社長は好きだ。惚れた。というがその言葉は心からの言葉には感じられず、矛盾が感じられる。それは何気ない態度に感じられることがある。何がと言われてもはっきりと言えないが、感覚がそう言っていた。
だがこれまで一緒に過ごしてみて、道明寺司という人物が仕事の出来る男性であることに間違いない。
大勢の女性からモテる男であることも間違いない。
けれど、どんなに大勢の女性からその存在が素晴らしいと言われたとしても、本当の心をひと前で見せたことがない人だ。
そんな男の言いように、腹が立つと同時にやはりムカつき、次第に気持ちが抑えられなくなっていた。
「道明寺副社長。勝手なこと言わないで下さい」
気づいたら言葉が口をついて出ていた。
「私とグンター…..いえカールソンさんのことは副社長には関係ないはずです。それに私が誰とデートしようと私の勝手です。それに日曜はお休みさせて頂けるんですよね?私、せっかくカールソンさんが誘って下さっているのでこの街を案内してもらおうと思います」

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「牧野?」
名前を呼ばれた女は振り返ったが、顔が赤く染まっていた。
司は鋭い眼差しで牧野つくしの後ろに立つ男を見た。
金髪で青い瞳の男の顔立ちは整っていて上背が司と同じくらいあるが、全身を眺めた後その男と視線を合わせた瞬間感じたのは、その顔の何かが変化したこと。だがそれは些細な変化で殆どの人間が気付かないはずだ。だが司には分かった。男がつい今しがたまで女に見せていた柔和な瞳が一瞬で青が本来持つ冷たい色に変わったのを。
そして司を見つめる男は、動じることなく彼の視線を受け止めた。
「これは道明寺副社長。はじめてお目に掛かります。私はオルソンのグンター・カールソンと申します」
三人の中ではじめに口を開いたのは青い瞳の男だった。
それも流暢な日本語がスラスラと口をついたのは意外だった。
そして上着の内ポケットから名刺入れを出し上質な紙で出来た名刺を差し出した。
オルソンと一括りに言ったが、オルソングループは産業機械企業の世界的トップブランドを保有するヨーロッパの老舗企業であり、ヨーロッパや北米に主な営業拠点と生産拠点を持つコングロマリットでありその名前は広く知られており司も知っていた。そして日本にも拠点があることも知っていた。
かつてオルソン社は、恐竜の発掘調査に鉱山採掘で培った採掘技術と自社の機械を提供したことから、確認されたことがない恐竜の化石が発見されたとき、オルソンの名前が付けられたことがあるが、企業名が学名に使われるということは、大変名誉な話であり、それだけオルソンという会社の活動を社会が認めているということだが、大企業なら求められる社会貢献を早くから行っていたオルソン社だからこそだ。そうでなければ一企業の名前が学名に使われることはないはずだ。
事実オルソン社は、自社の技術を使い、長年飲料水に恵まれない地域やアフリカで井戸を掘る作業を無償で続けて来ており、社会貢献としては実に有意義なことであり誰もが称賛することだ。
そして牧野つくしが語った一番印象に残った仕事は海外から納入された機械のトラブル。訊かされたあの手の機械を作っている会社はそう多くはなく、オルソン社のものであることは察しがついていたが、そのオルソン社の副社長と親しげに話していた牧野つくしはその男とどういった関係なのか?
『ミスター・カールソン。生憎私は名刺を持ち歩いておりませんのでお渡しすることは出来ませんが、もしご入用でしたら秘書に持たせましょう』
司は相手が流暢な日本語を話せることは、その口振りから理解したが英語で返した。
だがそれに対し相手は日本語で返してきた。
「いえ。とんでもない。ここでこうしてお会い出来ただけで光栄です。それにこの度は御社の鉱山開発に我社の機械をお使い頂くことになり、御礼方々打ち合わせにお邪魔した次第ですからお気遣いは無用です」
と言った男の顔は牧野つくしと向き合っていた時とは違い引き締まっていた。
『そうでしたか。それにしても副社長が自ら御礼に訪れるとはこれはまたご丁寧なお話ですね?』
「当然のことです。今の私は副社長ですが、スタートはただのエンジニアでした。そこから営業職を経て今に至ります。ですから嬉しかったんですよ。御社で我社の機械を使って頂けることが」
いかにも叩き上げといった風に言ったが、名刺にあるカールソンの名はオルソン社CEO(社長兼最高経営責任者)である男の名前と同じであり、グンター・カールソンが男の息子であることは間違いないはずで、いずれ父親の跡を継ぎ会社のトップに立つ男だ。
そんな男がなぜ牧野つくしと親しげに話をしていたのか?
「ところで道明寺副社長。私は日本で暮らしていたことがあり日本語は話せます。それに牧野さんは日本語の方が得意ですから、ここにいる彼女に理解出来ない話しをするのは彼女に失礼になりますから、日本語でお話いただければと思います」
男二人の話を黙って訊いている女は、自分の名前が出たことに戸惑ったのが分かる。
そして司は、カールソンが日本語で話していいといった一語に微かな反発を覚えていた。
それに男の口から牧野という名前が淀むことなく出たことに、二人が以前からの知り合いであることを確信したが、どういった繋がりがあるのか。
カールソンは司のそんな思いを汲み取ったように話を継いだ。
「牧野さんと私は随分前に仕事で知り合いましてね。先ほどもお話した通り、私は若い頃はエンジニアとして働いていましたが、その頃日本から修理依頼が来ましてね。日本を訪れたその時彼女と知り合いました。そんな彼女とまさかここで出会うとは思いもしませんでしたが、嬉しい驚きです。懐かしさでつい話し込んでしまいましたが、彼女は滝川産業からこちらへ出向していると言っていましたが、だとすれば牧野さんは大変な出世をしたことになりますがそうですか?もしかして牧野さんは道明寺副社長の部下ですか?」
カールソンは興味深そうな顔つきで司に訊いた。
司があらためて男の態度を見れば、女に対し距離を置いてはいるが、その距離は離れすぎの他人行儀な距離ではなく、だからといって近すぎて無遠慮という距離でもない。
男と女の間に置かれる距離の取り方として、知人よりも近い距離を取っているが、それは名刺を司に渡した後、さり気なく女の隣に立つことをしたからだ。
隣ならどんなに近くにいたとしても前を向いている限り近さは感じられない。それは見知らぬ他人と横並びの席に並んで座ったとしても気にしないといったことと同じ感覚。意識していなければ全く気にならないといった立ち位置。そこから女を見下ろすことが出来る男の顔は司の目をしっかりと見返していた。
そんなカールソンの態度に知り合い以上の感情があるように思え司は反応を探ることにした。
「ええ。そうです。彼女は私の第二秘書として働いてもらっていますが、外出先から戻れば新人秘書が席にいない。まさかとは思いましたがもしかすると社内で迷子にでもなっているのではと思いましてね。探していたところです」
「そうですか。迷子ですか。道明寺副社長は面白いことをおっしゃいますね?確かにこのビルは大きい。でも彼女は大人ですし英語もある程度話すことも出来ますし理解もできます。それは心配し過ぎのような気もしますが?」
司はカールソンの言い方がやんわりと彼の行動を批判しているように感じられた。
だが言葉は丁寧であり柔らかい。それでも微かに言葉の中に感じられる嫉妬とも思われる感情。
なるほど。と思った。グンター・カールソンは間違いなく牧野つくしに好意を抱いている。
そして司が迷子の秘書を探しに来たと言った時点で、カールソンは司を恋敵と見たようだ。
だがこの女はどこにてもいるような女だ。カールソンのような男なら美しいと言われるヨーロッパ女性がいくらでも手に入るはずだ。だがもしかするとこの男はオリエンタルの女が好きだという嗜好の持ち主なのかもしれない。
そして牧野つくしの顔が赤かったのは、カールソンから何らかの言葉を言われたからで、勿論その言葉は察して有り余るほどだ。
もしこの状況が、牧野つくしが美奈の夫と付き合っていなければ、好きにすればいいと思う。
だが今は女をカールソンに渡す訳にはいかない。もし渡してしまえばこの女は苦しむことなく幸せを掴んでしまうからだ。
だからカールソンが傍にいてもらっては困る。なにしろ牧野つくしは司と恋をして捨てられ、美奈が望んだ苦しみを味わってもらわなければならないのだから。
「そう思われますか?ですが迷子になることを心配しただけはないんです。何しろ彼女は可愛らしい女性だ。それに私は彼女のことが好きですから、社内で悪い蟲が付かないかと心配してしまったということです」
「ちょっと!こ.....こんなところでな、何を言ってるんですか!」
二人の男の話を訊いていた女は、司が何を言い出すのかとぴりぴりとした意識を抱えていたのは分かっていた。だがまさか司がカールソンの前でそんなことを言うとは思いもしなかったのか、いきなりの発言に声を上げたが、その声はほとんど叫んでいた。
だが司は慌てふためく女の言葉を無視するように言葉を継いだ。
「何をって俺の気持は伝えたはずだ。それを公言して何が悪い?」
司は日本で牧野つくしの同僚となった別室のメンバーの前で公言したが、社外の人間に言ったことはなかった。だがグンター・カールソンには、自分がこれから行うことを邪魔されないためにもはっきりと口にしておく必要を感じた。
「わ、悪いに決まってるじゃないですか。そんなことここで言わなくてもいいじゃないですか」
司はカールソンの隣で慌てながら真っ赤な顔をした女に笑って見せた。
そしてその視線をそのままカールソンに向けた。
「私は彼女が好きなんですが、御覧の通り彼女は遠慮深くて困りますね。私とは付き合えないというんです。ですがこの出張で彼女の気持を掴みたいと思ってますよ。その為にニューヨークまで同行させたんですから」

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名前を呼ばれた女は振り返ったが、顔が赤く染まっていた。
司は鋭い眼差しで牧野つくしの後ろに立つ男を見た。
金髪で青い瞳の男の顔立ちは整っていて上背が司と同じくらいあるが、全身を眺めた後その男と視線を合わせた瞬間感じたのは、その顔の何かが変化したこと。だがそれは些細な変化で殆どの人間が気付かないはずだ。だが司には分かった。男がつい今しがたまで女に見せていた柔和な瞳が一瞬で青が本来持つ冷たい色に変わったのを。
そして司を見つめる男は、動じることなく彼の視線を受け止めた。
「これは道明寺副社長。はじめてお目に掛かります。私はオルソンのグンター・カールソンと申します」
三人の中ではじめに口を開いたのは青い瞳の男だった。
それも流暢な日本語がスラスラと口をついたのは意外だった。
そして上着の内ポケットから名刺入れを出し上質な紙で出来た名刺を差し出した。
オルソンと一括りに言ったが、オルソングループは産業機械企業の世界的トップブランドを保有するヨーロッパの老舗企業であり、ヨーロッパや北米に主な営業拠点と生産拠点を持つコングロマリットでありその名前は広く知られており司も知っていた。そして日本にも拠点があることも知っていた。
かつてオルソン社は、恐竜の発掘調査に鉱山採掘で培った採掘技術と自社の機械を提供したことから、確認されたことがない恐竜の化石が発見されたとき、オルソンの名前が付けられたことがあるが、企業名が学名に使われるということは、大変名誉な話であり、それだけオルソンという会社の活動を社会が認めているということだが、大企業なら求められる社会貢献を早くから行っていたオルソン社だからこそだ。そうでなければ一企業の名前が学名に使われることはないはずだ。
事実オルソン社は、自社の技術を使い、長年飲料水に恵まれない地域やアフリカで井戸を掘る作業を無償で続けて来ており、社会貢献としては実に有意義なことであり誰もが称賛することだ。
そして牧野つくしが語った一番印象に残った仕事は海外から納入された機械のトラブル。訊かされたあの手の機械を作っている会社はそう多くはなく、オルソン社のものであることは察しがついていたが、そのオルソン社の副社長と親しげに話していた牧野つくしはその男とどういった関係なのか?
『ミスター・カールソン。生憎私は名刺を持ち歩いておりませんのでお渡しすることは出来ませんが、もしご入用でしたら秘書に持たせましょう』
司は相手が流暢な日本語を話せることは、その口振りから理解したが英語で返した。
だがそれに対し相手は日本語で返してきた。
「いえ。とんでもない。ここでこうしてお会い出来ただけで光栄です。それにこの度は御社の鉱山開発に我社の機械をお使い頂くことになり、御礼方々打ち合わせにお邪魔した次第ですからお気遣いは無用です」
と言った男の顔は牧野つくしと向き合っていた時とは違い引き締まっていた。
『そうでしたか。それにしても副社長が自ら御礼に訪れるとはこれはまたご丁寧なお話ですね?』
「当然のことです。今の私は副社長ですが、スタートはただのエンジニアでした。そこから営業職を経て今に至ります。ですから嬉しかったんですよ。御社で我社の機械を使って頂けることが」
いかにも叩き上げといった風に言ったが、名刺にあるカールソンの名はオルソン社CEO(社長兼最高経営責任者)である男の名前と同じであり、グンター・カールソンが男の息子であることは間違いないはずで、いずれ父親の跡を継ぎ会社のトップに立つ男だ。
そんな男がなぜ牧野つくしと親しげに話をしていたのか?
「ところで道明寺副社長。私は日本で暮らしていたことがあり日本語は話せます。それに牧野さんは日本語の方が得意ですから、ここにいる彼女に理解出来ない話しをするのは彼女に失礼になりますから、日本語でお話いただければと思います」
男二人の話を黙って訊いている女は、自分の名前が出たことに戸惑ったのが分かる。
そして司は、カールソンが日本語で話していいといった一語に微かな反発を覚えていた。
それに男の口から牧野という名前が淀むことなく出たことに、二人が以前からの知り合いであることを確信したが、どういった繋がりがあるのか。
カールソンは司のそんな思いを汲み取ったように話を継いだ。
「牧野さんと私は随分前に仕事で知り合いましてね。先ほどもお話した通り、私は若い頃はエンジニアとして働いていましたが、その頃日本から修理依頼が来ましてね。日本を訪れたその時彼女と知り合いました。そんな彼女とまさかここで出会うとは思いもしませんでしたが、嬉しい驚きです。懐かしさでつい話し込んでしまいましたが、彼女は滝川産業からこちらへ出向していると言っていましたが、だとすれば牧野さんは大変な出世をしたことになりますがそうですか?もしかして牧野さんは道明寺副社長の部下ですか?」
カールソンは興味深そうな顔つきで司に訊いた。
司があらためて男の態度を見れば、女に対し距離を置いてはいるが、その距離は離れすぎの他人行儀な距離ではなく、だからといって近すぎて無遠慮という距離でもない。
男と女の間に置かれる距離の取り方として、知人よりも近い距離を取っているが、それは名刺を司に渡した後、さり気なく女の隣に立つことをしたからだ。
隣ならどんなに近くにいたとしても前を向いている限り近さは感じられない。それは見知らぬ他人と横並びの席に並んで座ったとしても気にしないといったことと同じ感覚。意識していなければ全く気にならないといった立ち位置。そこから女を見下ろすことが出来る男の顔は司の目をしっかりと見返していた。
そんなカールソンの態度に知り合い以上の感情があるように思え司は反応を探ることにした。
「ええ。そうです。彼女は私の第二秘書として働いてもらっていますが、外出先から戻れば新人秘書が席にいない。まさかとは思いましたがもしかすると社内で迷子にでもなっているのではと思いましてね。探していたところです」
「そうですか。迷子ですか。道明寺副社長は面白いことをおっしゃいますね?確かにこのビルは大きい。でも彼女は大人ですし英語もある程度話すことも出来ますし理解もできます。それは心配し過ぎのような気もしますが?」
司はカールソンの言い方がやんわりと彼の行動を批判しているように感じられた。
だが言葉は丁寧であり柔らかい。それでも微かに言葉の中に感じられる嫉妬とも思われる感情。
なるほど。と思った。グンター・カールソンは間違いなく牧野つくしに好意を抱いている。
そして司が迷子の秘書を探しに来たと言った時点で、カールソンは司を恋敵と見たようだ。
だがこの女はどこにてもいるような女だ。カールソンのような男なら美しいと言われるヨーロッパ女性がいくらでも手に入るはずだ。だがもしかするとこの男はオリエンタルの女が好きだという嗜好の持ち主なのかもしれない。
そして牧野つくしの顔が赤かったのは、カールソンから何らかの言葉を言われたからで、勿論その言葉は察して有り余るほどだ。
もしこの状況が、牧野つくしが美奈の夫と付き合っていなければ、好きにすればいいと思う。
だが今は女をカールソンに渡す訳にはいかない。もし渡してしまえばこの女は苦しむことなく幸せを掴んでしまうからだ。
だからカールソンが傍にいてもらっては困る。なにしろ牧野つくしは司と恋をして捨てられ、美奈が望んだ苦しみを味わってもらわなければならないのだから。
「そう思われますか?ですが迷子になることを心配しただけはないんです。何しろ彼女は可愛らしい女性だ。それに私は彼女のことが好きですから、社内で悪い蟲が付かないかと心配してしまったということです」
「ちょっと!こ.....こんなところでな、何を言ってるんですか!」
二人の男の話を訊いていた女は、司が何を言い出すのかとぴりぴりとした意識を抱えていたのは分かっていた。だがまさか司がカールソンの前でそんなことを言うとは思いもしなかったのか、いきなりの発言に声を上げたが、その声はほとんど叫んでいた。
だが司は慌てふためく女の言葉を無視するように言葉を継いだ。
「何をって俺の気持は伝えたはずだ。それを公言して何が悪い?」
司は日本で牧野つくしの同僚となった別室のメンバーの前で公言したが、社外の人間に言ったことはなかった。だがグンター・カールソンには、自分がこれから行うことを邪魔されないためにもはっきりと口にしておく必要を感じた。
「わ、悪いに決まってるじゃないですか。そんなことここで言わなくてもいいじゃないですか」
司はカールソンの隣で慌てながら真っ赤な顔をした女に笑って見せた。
そしてその視線をそのままカールソンに向けた。
「私は彼女が好きなんですが、御覧の通り彼女は遠慮深くて困りますね。私とは付き合えないというんです。ですがこの出張で彼女の気持を掴みたいと思ってますよ。その為にニューヨークまで同行させたんですから」

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「良かったら僕と出かけない?ニューヨーク初めてなら色々と案内するよ?楽しいところも知ってるしね」
13年振りに会ったカールソンはそう言って悪戯っぽく笑ってウィンクしたが、その仕草にはあの頃の青年の爽やかさが感じられた。
だが相手は40歳。結婚していてもおかしくない年齢の男性がそんなことを言ってもいいのか。それにその誘いが純粋に街を案内したいという思いだとしても、既婚男性と二人切りで出掛けようとは思わなかった。
そんな思いからつくしは訊いた。
「グンターさん、そんなこと言っていいの?」
「何が?」
「何がってグンターさん奥様がいらっしゃるんでしょ?」
「まさか!僕は結婚してないよ。正真正銘の独身。それに今はガールフレンドもいない寂しい40歳だよ。だから誰に遠慮することもない。どう?休みくらいあるんだよね?予定がないなら僕に街を案内させてくれない?」
カールソンはそう言って左手を掲げ指輪が嵌っていないことを見せながら自分よりも25センチ低い女を見つめた。
「それからこんなことを今ここで言うのは場違いだって分かってるけど、幸いここには日本語が分かりそうな人間はいないようだから言うよ。僕は今でも牧野さんのことが好きだ」
「あの__」
つくしは思わず口を開いたが、途中で何を言えばいいのか考えると言葉が出なかった。
「分かってるよ。牧野さんは僕のことを恋愛対象と考えてない。いや。でも少なくとも知り合いって立場は与えてくれてるようだ。だってそうじゃなかったらこうしてここで会ったとしても無視したよね?でも違った。僕のことを懐かしそうに見てくれている」
と言ってカールソンは笑った。
『牧野さんは僕のことを恋愛対象と考えてない』
つくしは、あの日そんな言葉をカールソンに言った。
だが正確にはどんな言葉を言ったかはっきりと覚えていない。何しろ13年の歳月が流れているのだからその時どんな言葉を返したか覚えているはずがない。
だがそれは言った人間はそれきりだとしても、言われた人間は心の中にいつまでも残っていたのかもしれない。
カールソンが日本での滞在を終え、帰国することになったとき、つくしは空港まで見送りに行った。何故そうしたのか。それはただそうしたかったからに過ぎなかった。だがその時カールソンから言われたのは、僕は牧野さんのことが好きになりました。の言葉。流暢な日本語を話す外国人男性からの告白は予想外のことだった。
「あの日牧野さんは一瞬言葉に詰まりましたが、きっぱりと首を横に振って微かな笑みを浮かべて言いました。僕はあの日のことは忘れてませんよ。だからって執念深い男だと思わないで下さい。ただ切ない想い出ですから」
カールソンは思い出して目を細めている。
そして初めは軽やかだった口調が、しだいに真面目なものに変わり、表情が引き締まると青い瞳の底に力強さが感じられた。
それはあの頃より年を取ったこともだが、恋愛の匂いがする話しになったからか。向けられる眼差しは真剣だった。
つくしは22歳で恋らしい恋もしてこなかった自分の姿を思い出していた。
営業担当に誘われ外国から来たエンジニアの男性との食事に行き、カラオケにも気軽に付き合った。カラオケボックスの中でタンバリンを叩くカールソンのリズム感の良さを褒めた。
あの時の雰囲気は日本語がペラペラな陽気な外国人男性と仕事仲間との交流だった。だから出国間際の告白は思ってもみなかったことだった。だがつくしにその気は全くなく、そして相手が海外に住む人間であることからはっきりとした返事をすることを決めた。だから気持は嬉しいけれど、と断った。
「牧野さんが真面目な人だってことは分かっていました。だから僕に変な期待を持たせるような曖昧な返事はしなかった。僕は日本に暮らした経験があるので分かります。日本人はなかなか本音を話すことはありません。ましてや外国人の僕に対してなら尚更だと思いましたが、あの時のあなたは違った。はっきりと言った。だからあの時はきっぱりとフラれました。でも心のどこかにあの時の思いはずっとありました。ここまで言うとやはり執念深い人間のように思われるかもしれませんね?でも違います」
つくしの前で自分の思いを語る男性は、あの時つくしの頬にキスをしたが、それがさよならの挨拶であることは理解出来た。
そして帰国後修理に関する報告書がメールで送られて来たとき、御礼のメールを返したが私信は書かなかった。あくまでもビジネスライクな言葉を並べた。そしてそれっきりカールソンのことを思い出すことはなかった。
そして13年振りにこうして会えば懐かしさが先行したが、
「僕は今でも牧野さんのことが好きだ」の言葉に答えを返さなければならないのだが、答えは決まっていた。だがそのとき頭を過ったのは道明寺副社長のことだ。
好きだ。惚れた。と言われている女は断り続けているが諦めてくれない。
それならカールソンに恋人役を頼もうか。いや。そんなことをするとカールソンに失礼だ。でも事情を話せば引き受けてくれるかもしれない。いや。やはり駄目だ。
「牧野さん、あれから13年経ちました。もう一度僕と付き合うことを考えてくれませんか?実は副社長になってから何度も日本を訪問しています。あなたに会いに滝川産業まで行こうと思ったこともありました。今の僕はエンジニアではありません。こんな言い方をしては自慢をしているように思われるかもしれませんが、不自由はさせない付き合いが出来る。ベルギーと日本という距離があったとしてもその距離を感じさせない付き合いが出来ると思います。ですから考えてくれませんか?」
司は執務室へ戻り、牧野つくしが鉱山事業を管轄する鉄鉱石製鉄資源部に行ったと訊き、エレベーターに乗った。
社内見学する女は仕事熱心なようだ。それともじっと座っていることに疲れたか。
ニューヨーク本社で3日が過ぎたが女は真面目だ。ここでの仕事は、女にとって自分の仕事に全くと言っていいほど関係のない内容で、言葉も専門用語が多く難解で理解出来ないものが多い。だが辞書とタブレット端末を手に理解しようと努力をしていた。
そんな女は食事の席ではよく食べる。それは見ていて気持ちがいいほど見事な食べっぷりだ。黒い大きな目が生き生きと輝く瞬間や口許が緩む姿が何度かあったが、それは今まで司の周りにいなかった女の姿であり見ていて面白いと思えた。だから領事館を後にした時、今夜は何を食べさせてやろうかと考えた自分がおかしく、まるで餌付けをしているように思えた。だが実際あの女は食べ物に対しては柔軟だが、司に対しての態度は頑なであり、いつも引き締まった表情を浮かべるが、もしかして頑固ということか。
だが女のその態度が知らず知らずのうちに戦いを挑んでいるとは思わないようだ。
そしてその頑固さというのが、白石隆信に忠実さを示している元になっているとすれば、その頑なさを溶かさなければならないということになるが、それが固い岩盤なら鉱山を削るように岩盤を掘り起こせばいい。
だが今のペースでは埒が明かない。
それなら強力な削岩機で心を掘り出すか?
司がエレベーターを降りたとき、数メートル先に背中をこちらに向けた牧野つくしが男と話しをしているのを見つけたが、相手は金髪で女を見下ろすように立っていた。
見た事のない男だった。二人の間には初対面には思えない親しげな雰囲気が感じられる。だがニューヨーク本社へ来て4日目の女に知り合いはいないはずだ。
「牧野」
司の声が廊下に響いた。
女はその声に振り返ったが、顔が赤く染まっていた。

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13年振りに会ったカールソンはそう言って悪戯っぽく笑ってウィンクしたが、その仕草にはあの頃の青年の爽やかさが感じられた。
だが相手は40歳。結婚していてもおかしくない年齢の男性がそんなことを言ってもいいのか。それにその誘いが純粋に街を案内したいという思いだとしても、既婚男性と二人切りで出掛けようとは思わなかった。
そんな思いからつくしは訊いた。
「グンターさん、そんなこと言っていいの?」
「何が?」
「何がってグンターさん奥様がいらっしゃるんでしょ?」
「まさか!僕は結婚してないよ。正真正銘の独身。それに今はガールフレンドもいない寂しい40歳だよ。だから誰に遠慮することもない。どう?休みくらいあるんだよね?予定がないなら僕に街を案内させてくれない?」
カールソンはそう言って左手を掲げ指輪が嵌っていないことを見せながら自分よりも25センチ低い女を見つめた。
「それからこんなことを今ここで言うのは場違いだって分かってるけど、幸いここには日本語が分かりそうな人間はいないようだから言うよ。僕は今でも牧野さんのことが好きだ」
「あの__」
つくしは思わず口を開いたが、途中で何を言えばいいのか考えると言葉が出なかった。
「分かってるよ。牧野さんは僕のことを恋愛対象と考えてない。いや。でも少なくとも知り合いって立場は与えてくれてるようだ。だってそうじゃなかったらこうしてここで会ったとしても無視したよね?でも違った。僕のことを懐かしそうに見てくれている」
と言ってカールソンは笑った。
『牧野さんは僕のことを恋愛対象と考えてない』
つくしは、あの日そんな言葉をカールソンに言った。
だが正確にはどんな言葉を言ったかはっきりと覚えていない。何しろ13年の歳月が流れているのだからその時どんな言葉を返したか覚えているはずがない。
だがそれは言った人間はそれきりだとしても、言われた人間は心の中にいつまでも残っていたのかもしれない。
カールソンが日本での滞在を終え、帰国することになったとき、つくしは空港まで見送りに行った。何故そうしたのか。それはただそうしたかったからに過ぎなかった。だがその時カールソンから言われたのは、僕は牧野さんのことが好きになりました。の言葉。流暢な日本語を話す外国人男性からの告白は予想外のことだった。
「あの日牧野さんは一瞬言葉に詰まりましたが、きっぱりと首を横に振って微かな笑みを浮かべて言いました。僕はあの日のことは忘れてませんよ。だからって執念深い男だと思わないで下さい。ただ切ない想い出ですから」
カールソンは思い出して目を細めている。
そして初めは軽やかだった口調が、しだいに真面目なものに変わり、表情が引き締まると青い瞳の底に力強さが感じられた。
それはあの頃より年を取ったこともだが、恋愛の匂いがする話しになったからか。向けられる眼差しは真剣だった。
つくしは22歳で恋らしい恋もしてこなかった自分の姿を思い出していた。
営業担当に誘われ外国から来たエンジニアの男性との食事に行き、カラオケにも気軽に付き合った。カラオケボックスの中でタンバリンを叩くカールソンのリズム感の良さを褒めた。
あの時の雰囲気は日本語がペラペラな陽気な外国人男性と仕事仲間との交流だった。だから出国間際の告白は思ってもみなかったことだった。だがつくしにその気は全くなく、そして相手が海外に住む人間であることからはっきりとした返事をすることを決めた。だから気持は嬉しいけれど、と断った。
「牧野さんが真面目な人だってことは分かっていました。だから僕に変な期待を持たせるような曖昧な返事はしなかった。僕は日本に暮らした経験があるので分かります。日本人はなかなか本音を話すことはありません。ましてや外国人の僕に対してなら尚更だと思いましたが、あの時のあなたは違った。はっきりと言った。だからあの時はきっぱりとフラれました。でも心のどこかにあの時の思いはずっとありました。ここまで言うとやはり執念深い人間のように思われるかもしれませんね?でも違います」
つくしの前で自分の思いを語る男性は、あの時つくしの頬にキスをしたが、それがさよならの挨拶であることは理解出来た。
そして帰国後修理に関する報告書がメールで送られて来たとき、御礼のメールを返したが私信は書かなかった。あくまでもビジネスライクな言葉を並べた。そしてそれっきりカールソンのことを思い出すことはなかった。
そして13年振りにこうして会えば懐かしさが先行したが、
「僕は今でも牧野さんのことが好きだ」の言葉に答えを返さなければならないのだが、答えは決まっていた。だがそのとき頭を過ったのは道明寺副社長のことだ。
好きだ。惚れた。と言われている女は断り続けているが諦めてくれない。
それならカールソンに恋人役を頼もうか。いや。そんなことをするとカールソンに失礼だ。でも事情を話せば引き受けてくれるかもしれない。いや。やはり駄目だ。
「牧野さん、あれから13年経ちました。もう一度僕と付き合うことを考えてくれませんか?実は副社長になってから何度も日本を訪問しています。あなたに会いに滝川産業まで行こうと思ったこともありました。今の僕はエンジニアではありません。こんな言い方をしては自慢をしているように思われるかもしれませんが、不自由はさせない付き合いが出来る。ベルギーと日本という距離があったとしてもその距離を感じさせない付き合いが出来ると思います。ですから考えてくれませんか?」
司は執務室へ戻り、牧野つくしが鉱山事業を管轄する鉄鉱石製鉄資源部に行ったと訊き、エレベーターに乗った。
社内見学する女は仕事熱心なようだ。それともじっと座っていることに疲れたか。
ニューヨーク本社で3日が過ぎたが女は真面目だ。ここでの仕事は、女にとって自分の仕事に全くと言っていいほど関係のない内容で、言葉も専門用語が多く難解で理解出来ないものが多い。だが辞書とタブレット端末を手に理解しようと努力をしていた。
そんな女は食事の席ではよく食べる。それは見ていて気持ちがいいほど見事な食べっぷりだ。黒い大きな目が生き生きと輝く瞬間や口許が緩む姿が何度かあったが、それは今まで司の周りにいなかった女の姿であり見ていて面白いと思えた。だから領事館を後にした時、今夜は何を食べさせてやろうかと考えた自分がおかしく、まるで餌付けをしているように思えた。だが実際あの女は食べ物に対しては柔軟だが、司に対しての態度は頑なであり、いつも引き締まった表情を浮かべるが、もしかして頑固ということか。
だが女のその態度が知らず知らずのうちに戦いを挑んでいるとは思わないようだ。
そしてその頑固さというのが、白石隆信に忠実さを示している元になっているとすれば、その頑なさを溶かさなければならないということになるが、それが固い岩盤なら鉱山を削るように岩盤を掘り起こせばいい。
だが今のペースでは埒が明かない。
それなら強力な削岩機で心を掘り出すか?
司がエレベーターを降りたとき、数メートル先に背中をこちらに向けた牧野つくしが男と話しをしているのを見つけたが、相手は金髪で女を見下ろすように立っていた。
見た事のない男だった。二人の間には初対面には思えない親しげな雰囲気が感じられる。だがニューヨーク本社へ来て4日目の女に知り合いはいないはずだ。
「牧野」
司の声が廊下に響いた。
女はその声に振り返ったが、顔が赤く染まっていた。

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「牧野さん?牧野さんだよね?僕だよ僕。分からない?」
つくしが後ろを振り返ると、髪の毛が金色で青い瞳の背の高い男性が流暢な日本語で話し掛けて来た。
そしてその男性は僕だよ僕。と言ったが誰だか分からなかった。
それに金髪で青い目をした背の高い男性に心当たりは___
「え?.....もしかしてグンターさん?!」
「はい。グンターです」
「え?どうしてここにいるんですか?」
「それは僕が訊きたいくらいです。牧野さんこそどうしてここにいるんですか?」
「どうしてって...仕事ですけど....」
「勿論そんなことは分かっていますよ。何しろここは道明寺ニューヨーク本社ですから遊びに来るところではありませんよね?それに僕も仕事で来ていますから」
つくしに声を掛けてきたグンター・カールソンはつくしより5歳年上の40歳。
ドイツ系の名前にスウェーデン系の名字なのは母親がドイツ人で父親がスウェーデン人だから。そして彼は子供の頃、東京に住んでいて中学時代にスウェーデンに戻った。だから流暢な日本語を話すことが出来た。
そして彼がヨーロッパで就職した会社は、13年前つくしが滝川産業に入社してまだ間も無いころ、飲料メーカー向けのコンプレッサを発注した世界的な産業機械企業。
顧客からのクレームにより、製造会社からのエンジニアの派遣を求めたとき、派遣されて来たのがカールソンだった。
エンジニアのカールソンは、機械の不具合を調整した後も様子を見るため暫く日本に滞在することになり、彼とつくしは何度か食事やカラオケに行った。
だがそれは二人切りではなく、営業担当も一緒だった。
当時の営業担当は28歳。そしてカールソンが27歳。二人は年齢が近いこともあり気が合った。そして入社1年目のつくしも男二人じゃ味気ないと誘われていた。
そしてその時、日本で暮らしていた頃、自分の名前であるグンターを「群太」といった当て字を使いその名前の印鑑も作っていたという話を訊かされた。
なぜなら、銀行に口座を開設するとき印鑑登録が必要になるが、その印鑑に「群太」という漢字を使いたかったからだと言った。
そしてその印鑑を今でも大切に持っていると言っていたのを思い出した。
それにしてもまさか13年前何度か食事に行った日本語がペラペラのスウェーデン人にニューヨークで再会するとは思いもしなかった。
だが世の中には偶然というものが幾つかある。だからカールソンとの再会もそう言ったもののひとつなのだろう。
そして懐かしさが込み上げた。まだ入社間もなかった頃の風景が甦った。金髪で青い目をした男がカラオケボックスで日本の歌謡曲を熱唱する姿は面白かった。
「それから僕ね、今ベルギーであの会社の副社長なんだ」
「ええ?嘘!副社長?」
驚きのあまり大きな声が出た。
そんなつくし達の傍を通り掛かったブルネットの男性社員はチラっと視線をくべたが、日本語が理解出来ないのか、興味ないとばかり通り過ぎた。だが次に二人の傍を通り掛かった金髪の女性は、意味ありげな視線をカールソンに送ったが、カールソンは無視した。
「うん。あの会社父親が経営してるんだ。え?もしかして信じてない?あの頃の僕は一介のエンジニアだったから作業着が多くて今みたいにスーツを着て無かったからね。あまりの変わりように驚いた?」
あの時、つくしは実際に納入された機械を見るチャンスだと営業に頼み、ヘルメットを自前で用意し現場に連れて行ってもらったが、今でもそのヘルメットはロッカーの中にある。
そして派遣されて来た背が高く少し長めの金髪で青い目をしたグンター・カールソンは、エンジニアらしくラフな服装で現れ、作業用のつなぎに着替えると作業を始めたが、日本語がペラペラなことにも驚いたが、まさかあの会社の後継者だとは知らなかった。
それに食事に行った時もチノパンにシャツという姿で現れ、まるでバックパッカーで日本に遊びに来た外人といった風貌だった。それが今ではプレスされたばかりに見えるネイビーのスーツに落ち着いたパープルのネクタイ。長めの金髪は清潔感が感じられる長さに切られ綺麗にセットされまるでモデルのようだった。
そして青い瞳はつくしを見て笑っていた。
「え?うん....驚いたというよりも、別人みたい」
「そうかな?でも確かにあの頃の僕はキレイじゃなかったからね?」
確かにあの頃のカールソンは外見を気にしてなかったように思う。
だが今は服装もだが会社の副社長としての立場がそうさせたのか。経営者然とした態度といったものが感じられた。
そして話を訊けば当時のカールソンは社長である父親から現場に出て経験を積めと言われ、大学を卒業後エンジニアとして数年働き、それからいくつかの段階を経て今の地位に就いたと言う。
「でもどうして牧野さんがここにいるの?だって牧野さんは滝川産業だよね?」
「あ、あのね。うちの会社1年前に道明寺に買収されてね?それで...親会社に出向中なの。それで出張でここにいるの」
13年振りに合った昔の知り合いに今の状況を話すことは難しい。
だから事実を短く伝えた。
「そうか。でも親会社に出向してニューヨーク本社に来ることが出来るなんて凄いね?牧野さんは優秀なんだね?それでここにはどれくらいいるの?」
「うん、2週間なんだけど、来て4日目だからあと10日かな?グンターさんは?」
「僕はあと1ヶ月はここにいるだろうな。今度うちの機械が道明寺の鉱山開発で使われることになってね。だからその件でもう暫くこっちかな」
カールソンの会社『オルソン』は100年以上続く産業機械企業で土木鉱山機械も作っている。そして金融情報誌が毎年発表する「世界で最も持続可能な企業100社」に5年連続で選ばれている。つまり世界的に高い評価を受けている会社だ。
それにしても、あの時のバックパッカーのような男性がそんな会社の副社長になっているとは思いもしなかった。
「でも牧野さんはあと10日か。じゃあこの街で楽しむ時間は短いね?でも1日くらい休みはあるんだよね?良かったら僕と出かけない?ニューヨーク初めてなら色々と案内するよ?楽しいところも知ってるしね」
カールソンは悪戯っぽく笑ってウィンクしてみせた。
***
「道明寺副社長。今日はわざわざお時間を作っていただきありがとうございました」
「いえ。こちらこそお会い出来て良かったと思っております。総領事もそろそろこの国を離れることになられるとか。次はどちらかの国の大使として赴任されると言うことでしょうか?」
「どうでしょう。まだどうなるか分かりません。本国に帰国ということも考えられますが、どちらにしてもまたお会いすることに変わりはないでしょう」
司が在ニューヨーク日本国総領事と会っていたのは、異動が噂されているからだ。
総領事の竹下はもったいつけた話し方もしなければ、尊大なところもない。エリート外交官とは異なり庶民的な人間だった。
そんな竹下と司は、訪米してくる政治家を迎えるパーティーや在米日本企業の親睦会で顔を合わせることが多かった。それだけに次に赴任する国でもぜひ昵懇に、といった思いを持っていたが、次は中東の某国の大使になると噂があった。
そして総領事が話すことは当たっている。
財閥の仕事が世界規模である限り、彼がどこの国の大使になろうと、また顔を合わせることになるはずだ。そして大使殿には次の国での事業には力を貸して欲しいと思う。何しろその国の人間と肝胆相照らす仲になるには長い時間が掛かるが、国を代表している外交官の口添えというものは大きいからだ。
司は総領事と握手を終えると、車に乗り領事館を後にした。
そして今夜は女に何を食べさせてやろうかと考えていた。

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つくしが後ろを振り返ると、髪の毛が金色で青い瞳の背の高い男性が流暢な日本語で話し掛けて来た。
そしてその男性は僕だよ僕。と言ったが誰だか分からなかった。
それに金髪で青い目をした背の高い男性に心当たりは___
「え?.....もしかしてグンターさん?!」
「はい。グンターです」
「え?どうしてここにいるんですか?」
「それは僕が訊きたいくらいです。牧野さんこそどうしてここにいるんですか?」
「どうしてって...仕事ですけど....」
「勿論そんなことは分かっていますよ。何しろここは道明寺ニューヨーク本社ですから遊びに来るところではありませんよね?それに僕も仕事で来ていますから」
つくしに声を掛けてきたグンター・カールソンはつくしより5歳年上の40歳。
ドイツ系の名前にスウェーデン系の名字なのは母親がドイツ人で父親がスウェーデン人だから。そして彼は子供の頃、東京に住んでいて中学時代にスウェーデンに戻った。だから流暢な日本語を話すことが出来た。
そして彼がヨーロッパで就職した会社は、13年前つくしが滝川産業に入社してまだ間も無いころ、飲料メーカー向けのコンプレッサを発注した世界的な産業機械企業。
顧客からのクレームにより、製造会社からのエンジニアの派遣を求めたとき、派遣されて来たのがカールソンだった。
エンジニアのカールソンは、機械の不具合を調整した後も様子を見るため暫く日本に滞在することになり、彼とつくしは何度か食事やカラオケに行った。
だがそれは二人切りではなく、営業担当も一緒だった。
当時の営業担当は28歳。そしてカールソンが27歳。二人は年齢が近いこともあり気が合った。そして入社1年目のつくしも男二人じゃ味気ないと誘われていた。
そしてその時、日本で暮らしていた頃、自分の名前であるグンターを「群太」といった当て字を使いその名前の印鑑も作っていたという話を訊かされた。
なぜなら、銀行に口座を開設するとき印鑑登録が必要になるが、その印鑑に「群太」という漢字を使いたかったからだと言った。
そしてその印鑑を今でも大切に持っていると言っていたのを思い出した。
それにしてもまさか13年前何度か食事に行った日本語がペラペラのスウェーデン人にニューヨークで再会するとは思いもしなかった。
だが世の中には偶然というものが幾つかある。だからカールソンとの再会もそう言ったもののひとつなのだろう。
そして懐かしさが込み上げた。まだ入社間もなかった頃の風景が甦った。金髪で青い目をした男がカラオケボックスで日本の歌謡曲を熱唱する姿は面白かった。
「それから僕ね、今ベルギーであの会社の副社長なんだ」
「ええ?嘘!副社長?」
驚きのあまり大きな声が出た。
そんなつくし達の傍を通り掛かったブルネットの男性社員はチラっと視線をくべたが、日本語が理解出来ないのか、興味ないとばかり通り過ぎた。だが次に二人の傍を通り掛かった金髪の女性は、意味ありげな視線をカールソンに送ったが、カールソンは無視した。
「うん。あの会社父親が経営してるんだ。え?もしかして信じてない?あの頃の僕は一介のエンジニアだったから作業着が多くて今みたいにスーツを着て無かったからね。あまりの変わりように驚いた?」
あの時、つくしは実際に納入された機械を見るチャンスだと営業に頼み、ヘルメットを自前で用意し現場に連れて行ってもらったが、今でもそのヘルメットはロッカーの中にある。
そして派遣されて来た背が高く少し長めの金髪で青い目をしたグンター・カールソンは、エンジニアらしくラフな服装で現れ、作業用のつなぎに着替えると作業を始めたが、日本語がペラペラなことにも驚いたが、まさかあの会社の後継者だとは知らなかった。
それに食事に行った時もチノパンにシャツという姿で現れ、まるでバックパッカーで日本に遊びに来た外人といった風貌だった。それが今ではプレスされたばかりに見えるネイビーのスーツに落ち着いたパープルのネクタイ。長めの金髪は清潔感が感じられる長さに切られ綺麗にセットされまるでモデルのようだった。
そして青い瞳はつくしを見て笑っていた。
「え?うん....驚いたというよりも、別人みたい」
「そうかな?でも確かにあの頃の僕はキレイじゃなかったからね?」
確かにあの頃のカールソンは外見を気にしてなかったように思う。
だが今は服装もだが会社の副社長としての立場がそうさせたのか。経営者然とした態度といったものが感じられた。
そして話を訊けば当時のカールソンは社長である父親から現場に出て経験を積めと言われ、大学を卒業後エンジニアとして数年働き、それからいくつかの段階を経て今の地位に就いたと言う。
「でもどうして牧野さんがここにいるの?だって牧野さんは滝川産業だよね?」
「あ、あのね。うちの会社1年前に道明寺に買収されてね?それで...親会社に出向中なの。それで出張でここにいるの」
13年振りに合った昔の知り合いに今の状況を話すことは難しい。
だから事実を短く伝えた。
「そうか。でも親会社に出向してニューヨーク本社に来ることが出来るなんて凄いね?牧野さんは優秀なんだね?それでここにはどれくらいいるの?」
「うん、2週間なんだけど、来て4日目だからあと10日かな?グンターさんは?」
「僕はあと1ヶ月はここにいるだろうな。今度うちの機械が道明寺の鉱山開発で使われることになってね。だからその件でもう暫くこっちかな」
カールソンの会社『オルソン』は100年以上続く産業機械企業で土木鉱山機械も作っている。そして金融情報誌が毎年発表する「世界で最も持続可能な企業100社」に5年連続で選ばれている。つまり世界的に高い評価を受けている会社だ。
それにしても、あの時のバックパッカーのような男性がそんな会社の副社長になっているとは思いもしなかった。
「でも牧野さんはあと10日か。じゃあこの街で楽しむ時間は短いね?でも1日くらい休みはあるんだよね?良かったら僕と出かけない?ニューヨーク初めてなら色々と案内するよ?楽しいところも知ってるしね」
カールソンは悪戯っぽく笑ってウィンクしてみせた。
***
「道明寺副社長。今日はわざわざお時間を作っていただきありがとうございました」
「いえ。こちらこそお会い出来て良かったと思っております。総領事もそろそろこの国を離れることになられるとか。次はどちらかの国の大使として赴任されると言うことでしょうか?」
「どうでしょう。まだどうなるか分かりません。本国に帰国ということも考えられますが、どちらにしてもまたお会いすることに変わりはないでしょう」
司が在ニューヨーク日本国総領事と会っていたのは、異動が噂されているからだ。
総領事の竹下はもったいつけた話し方もしなければ、尊大なところもない。エリート外交官とは異なり庶民的な人間だった。
そんな竹下と司は、訪米してくる政治家を迎えるパーティーや在米日本企業の親睦会で顔を合わせることが多かった。それだけに次に赴任する国でもぜひ昵懇に、といった思いを持っていたが、次は中東の某国の大使になると噂があった。
そして総領事が話すことは当たっている。
財閥の仕事が世界規模である限り、彼がどこの国の大使になろうと、また顔を合わせることになるはずだ。そして大使殿には次の国での事業には力を貸して欲しいと思う。何しろその国の人間と肝胆相照らす仲になるには長い時間が掛かるが、国を代表している外交官の口添えというものは大きいからだ。
司は総領事と握手を終えると、車に乗り領事館を後にした。
そして今夜は女に何を食べさせてやろうかと考えていた。

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道明寺司がつくしを欲しがる執拗さは尋常ではない。
ニューヨーク本社での勤務は副社長付ということなのか?いや。まさにその通りで文字通り副社長に付いて回ることが求められたが、周囲がつくしを見る目はこの女はいったい何者か?
そんな思いが浮かんでいるのが見えた。
私はただの出向社員です。そんな言葉を言いたいが、訊かれもしないことペラペラと喋る必要はない。そして副社長の傍にいるニューヨーク本社勤務の社員は、エリートと呼ばれるだけのことはあり、中には日本語が堪能な社員もいたが、ここで働くということは、仕事のセンス、力量、手腕といったものが優れているはずで、その条件に全く合いそうにない女に意味ありげな視線が向けられた。
そして時に絡み付くような視線を向けられることがあった。
今までそんな視線が向けられたことは無く、それが嫉妬だとすれば大声で伝えたかった。
私は副社長の恋人でもなければ愛人でもありません。
それに女性社員の敵ではありません、と。
だが俺の望みはお前だ。の言葉は関係を持ちたいという意味だが、今までこんなことを言う男性に会ったことはない。だがこの国の男性は自分の思いを伝える言葉に迷いはない。
イエスかノーかの国であり、曖昧な言葉というのは理解されない。それを考えれば、アメリカ暮らしが長かった男の行動としては、ごく当たり前の言葉なのだろう。
それならば、つくしがそんな男の対処方法として分かるのはただひとつ。
申し訳ございません。私は副社長とはお付き合い出来ません。
その言葉しか見つからなかった。
そしてもしここが日本なら四六時中ひっきりなしに顔を合わせることもないのだが、今のこの状況で道明寺司のことを考えずにいることは至難の業だった。
何しろこの街でのつくしの立場は第二秘書として勉強中の女という肩書が付いていた。
つまり、秘書として副社長に同行する。それが自分に与えられた仕事ならこなさなければならないのが会社員だ。
そして大会議室の中で交わされる話が専門用語の並ぶM&Aや、現在のアメリカは大統領の呟きひとつで政策が変わるという状況から、ある日突然ホワイトハウスの主が変わった時の対応についてといった話や、ロビー活動についての報告に続き、この国の経済政策や通商が変更されるたびに発生するリスクといった話をパソコンの画面を眺め、ひとつひとつの事項に丹念に目を通しながら説明を求める男の姿は、噂に訊いていたビジネスマンとしての道明寺副社長の姿だ。
そしてつくしにとってこの状況は、一気にグローバルビジネスの最前線に立たされたようなものだ。
だがつくしは本来なら末席に座ることも許されないような立場の人間だ。
言語が英語から時にスペイン語に変わり耳に入るも、何を喋っているのか理解出来ないのは当たり前だが、自分は何をすればいいのか。まるで傍聴者のようにただ腰かけているとしか言えなかった。
だがこうして円卓から離れた場所で副社長の姿を見れば、誰もがその姿に惹き付けられるのも分かるような気がする。
何しろ道明寺司はビジネスの於いて他の追随を許さない男だ。そして世間が言う通りカリスマ性がある。
そんな人が自分のことを好きだと言った。だがその態度はこの人の本当の姿ではないような気がした。
それに弱い立場の人間を翻弄するようにも思えた。それと同時に副社長に惚れたと言われたことが圧力のように感じられた。そして今の状況は普通ならありえない環境に迷い込んでしまったとしか思えなかった。
だが仮定の話だが、もし初めから副社長のことを受け入れていればこうはならなかったのか?つまりこうしてニューヨークへ連れて来られることはなかったのではないか?
つくしはニューヨーク4日目にしてようやくひとりの時間が持てた中で考えていた。
今この時間の副社長は、在ニューヨーク日本国総領事と会談のため領事館まで出掛けていた。だからつくしは役員フロアに用意された自分専用の小さなオフィスでやっと一息つくことが出来た。
この3日間。会議、視察、会議と繰り返されていたが、会議は朝から夜まで続き、視察も朝から夜まで。つまり途切れることなくあくまでも効率的に組まれたスケジュールなのだが、会議に至っては目まぐるしく議題が変わった。
つくしはその全てを理解出来た訳ではない。手元の資料でなんとなくといった程度のものが多かった。
そして毎晩食事は一緒。初日はペントハウスだったが二日目からはレストラン。
恐らくとても有名な店なのだろうが、店の中は煌びやかすぎて自分には全く合わない店だと思った。そして初日の食事が終りホテルまで送られ、つくしがいくら遠慮しても部屋の前まで送ると言われ譲らなかった。
「あの…夕食ごちそうさまでした」
と礼を言ったが、つくしの緊張は隠せるはずもなく、それは相手にも伝わったはずだ。
そう思った刹那、
「そんなに緊張するな。いきなり部屋に押し入るつもりはない」
と言われ、歓迎会の時と同じように手にキスをされ、やはりあの時と同じで無理矢理引き抜いたが、男の顔には笑みが浮かんでいた。その笑みが意味するのは食事の時に言われた『男と女の関係は単純なことだ。好きならその女を自分のものにする。嫌いなら別れればいい。今の俺の望みはお前だ』の言葉だ。
あの時つくしはその言葉を受け流した。
そして嫌いになれば別れればいい、の言葉を解釈した。それは自分だけの気持を優先し、相手を切り捨てるように感じられ、この男性は今まで自分から人を好きになったことがないからそんなことが言えるのだと思った。そしてつくしのことを好きになったと言ったが、発せられたその言葉はつくしの気持ちにそぐう言葉ではなかった。
そんな気持ちを抱いた女は廊下を去っていく男を見送ったが、ドレッシングルームに足を踏み入れてみれば、つくしの物ではない有名ブランドのタグが付いたドレスが掛かっていた。そしてそれに似合うようにコーディネートされたバッグと踵の高い靴が棚の中にあった。
翌日、
「あんなドレスいただけません」
と言えば、
「必要経費だ。ここにいる間に必要になることもある」
と返されたが、2週間の間に必要になるとは思えなかった。
とにかく、何もかもが初めての3日間だった。
つくしは空いたこの時間。社内で自由に過ごしていいと言われていた。
だが自由に過ごせと言われても、宛がわれたこの部屋で辞書を片手に資料を読み込むことが仕事だ。
それでも化粧室に行くことは仕事以外の日常だ。
だから部屋を出たが、少し社内を見学するのは許されるはずだ。
つくしはそんな思いから、エレベーターに乗り込むと金属資源を扱う部門を探しに出かけることにした。何しろ滝川産業は産業機械専門の商社だ。そして扱っていた商品の中には土木鉱山機械と言ったものがあり、岩盤を砕く機械を手配したこともあった。
そんなことから道明寺の鉱山事業を行う部門を覗いてみたかった。
そして目指す部門があるフロアの廊下を歩いていたが、突然後ろから名前を呼ばれ振り向いた。

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ニューヨーク本社での勤務は副社長付ということなのか?いや。まさにその通りで文字通り副社長に付いて回ることが求められたが、周囲がつくしを見る目はこの女はいったい何者か?
そんな思いが浮かんでいるのが見えた。
私はただの出向社員です。そんな言葉を言いたいが、訊かれもしないことペラペラと喋る必要はない。そして副社長の傍にいるニューヨーク本社勤務の社員は、エリートと呼ばれるだけのことはあり、中には日本語が堪能な社員もいたが、ここで働くということは、仕事のセンス、力量、手腕といったものが優れているはずで、その条件に全く合いそうにない女に意味ありげな視線が向けられた。
そして時に絡み付くような視線を向けられることがあった。
今までそんな視線が向けられたことは無く、それが嫉妬だとすれば大声で伝えたかった。
私は副社長の恋人でもなければ愛人でもありません。
それに女性社員の敵ではありません、と。
だが俺の望みはお前だ。の言葉は関係を持ちたいという意味だが、今までこんなことを言う男性に会ったことはない。だがこの国の男性は自分の思いを伝える言葉に迷いはない。
イエスかノーかの国であり、曖昧な言葉というのは理解されない。それを考えれば、アメリカ暮らしが長かった男の行動としては、ごく当たり前の言葉なのだろう。
それならば、つくしがそんな男の対処方法として分かるのはただひとつ。
申し訳ございません。私は副社長とはお付き合い出来ません。
その言葉しか見つからなかった。
そしてもしここが日本なら四六時中ひっきりなしに顔を合わせることもないのだが、今のこの状況で道明寺司のことを考えずにいることは至難の業だった。
何しろこの街でのつくしの立場は第二秘書として勉強中の女という肩書が付いていた。
つまり、秘書として副社長に同行する。それが自分に与えられた仕事ならこなさなければならないのが会社員だ。
そして大会議室の中で交わされる話が専門用語の並ぶM&Aや、現在のアメリカは大統領の呟きひとつで政策が変わるという状況から、ある日突然ホワイトハウスの主が変わった時の対応についてといった話や、ロビー活動についての報告に続き、この国の経済政策や通商が変更されるたびに発生するリスクといった話をパソコンの画面を眺め、ひとつひとつの事項に丹念に目を通しながら説明を求める男の姿は、噂に訊いていたビジネスマンとしての道明寺副社長の姿だ。
そしてつくしにとってこの状況は、一気にグローバルビジネスの最前線に立たされたようなものだ。
だがつくしは本来なら末席に座ることも許されないような立場の人間だ。
言語が英語から時にスペイン語に変わり耳に入るも、何を喋っているのか理解出来ないのは当たり前だが、自分は何をすればいいのか。まるで傍聴者のようにただ腰かけているとしか言えなかった。
だがこうして円卓から離れた場所で副社長の姿を見れば、誰もがその姿に惹き付けられるのも分かるような気がする。
何しろ道明寺司はビジネスの於いて他の追随を許さない男だ。そして世間が言う通りカリスマ性がある。
そんな人が自分のことを好きだと言った。だがその態度はこの人の本当の姿ではないような気がした。
それに弱い立場の人間を翻弄するようにも思えた。それと同時に副社長に惚れたと言われたことが圧力のように感じられた。そして今の状況は普通ならありえない環境に迷い込んでしまったとしか思えなかった。
だが仮定の話だが、もし初めから副社長のことを受け入れていればこうはならなかったのか?つまりこうしてニューヨークへ連れて来られることはなかったのではないか?
つくしはニューヨーク4日目にしてようやくひとりの時間が持てた中で考えていた。
今この時間の副社長は、在ニューヨーク日本国総領事と会談のため領事館まで出掛けていた。だからつくしは役員フロアに用意された自分専用の小さなオフィスでやっと一息つくことが出来た。
この3日間。会議、視察、会議と繰り返されていたが、会議は朝から夜まで続き、視察も朝から夜まで。つまり途切れることなくあくまでも効率的に組まれたスケジュールなのだが、会議に至っては目まぐるしく議題が変わった。
つくしはその全てを理解出来た訳ではない。手元の資料でなんとなくといった程度のものが多かった。
そして毎晩食事は一緒。初日はペントハウスだったが二日目からはレストラン。
恐らくとても有名な店なのだろうが、店の中は煌びやかすぎて自分には全く合わない店だと思った。そして初日の食事が終りホテルまで送られ、つくしがいくら遠慮しても部屋の前まで送ると言われ譲らなかった。
「あの…夕食ごちそうさまでした」
と礼を言ったが、つくしの緊張は隠せるはずもなく、それは相手にも伝わったはずだ。
そう思った刹那、
「そんなに緊張するな。いきなり部屋に押し入るつもりはない」
と言われ、歓迎会の時と同じように手にキスをされ、やはりあの時と同じで無理矢理引き抜いたが、男の顔には笑みが浮かんでいた。その笑みが意味するのは食事の時に言われた『男と女の関係は単純なことだ。好きならその女を自分のものにする。嫌いなら別れればいい。今の俺の望みはお前だ』の言葉だ。
あの時つくしはその言葉を受け流した。
そして嫌いになれば別れればいい、の言葉を解釈した。それは自分だけの気持を優先し、相手を切り捨てるように感じられ、この男性は今まで自分から人を好きになったことがないからそんなことが言えるのだと思った。そしてつくしのことを好きになったと言ったが、発せられたその言葉はつくしの気持ちにそぐう言葉ではなかった。
そんな気持ちを抱いた女は廊下を去っていく男を見送ったが、ドレッシングルームに足を踏み入れてみれば、つくしの物ではない有名ブランドのタグが付いたドレスが掛かっていた。そしてそれに似合うようにコーディネートされたバッグと踵の高い靴が棚の中にあった。
翌日、
「あんなドレスいただけません」
と言えば、
「必要経費だ。ここにいる間に必要になることもある」
と返されたが、2週間の間に必要になるとは思えなかった。
とにかく、何もかもが初めての3日間だった。
つくしは空いたこの時間。社内で自由に過ごしていいと言われていた。
だが自由に過ごせと言われても、宛がわれたこの部屋で辞書を片手に資料を読み込むことが仕事だ。
それでも化粧室に行くことは仕事以外の日常だ。
だから部屋を出たが、少し社内を見学するのは許されるはずだ。
つくしはそんな思いから、エレベーターに乗り込むと金属資源を扱う部門を探しに出かけることにした。何しろ滝川産業は産業機械専門の商社だ。そして扱っていた商品の中には土木鉱山機械と言ったものがあり、岩盤を砕く機械を手配したこともあった。
そんなことから道明寺の鉱山事業を行う部門を覗いてみたかった。
そして目指す部門があるフロアの廊下を歩いていたが、突然後ろから名前を呼ばれ振り向いた。

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Comment:4
ホテルにチェックインしたのは夕方4時。
ホテルに着いたらゆっくり休めと言われ、勿論そのそつもりでいた。
だが案内された部屋が立派過ぎて驚いた。
なんとそこはスイートルーム。
贅沢な黒革のソファが置かれたリビングルーム。大きな長方形のテーブルが置かれたダイニングルーム。そしてドレッシングルームに大きなダブルベッドが置かれたベッドルームとバスルームから構成されているが、つくしにはドレッシングルームのハンガーに吊るされるドレスもなければ、棚に並べる靴もなく、その部屋はただ髪を乾かすだけの部屋になりそうだった。そしてそこにあったドライヤーにはメープルのロゴが入れられ、コストがかかっていることをうかがわせた。
それにバスルームは見たこともないようなセレブさが感じられ、大きなバスタブにお湯を溜めるとなれば時間がかかりそうだ。いやそれ以前にホテルにありがちなバスタブにあるはずの蛇口がなく、それならどうやって湯を溜めればいいのかと思うが、壁に埋め込まれたタッチパネルから操作するようになっていた。そして試しに押してみればバスタブの底から湯がわき上がるように流れ出すのを見てスイッチを切った。
それにしてもどの部屋も贅沢な広さが取られ、ひとりで泊るとするとネズミに引かれるのではないかと思えたが、スイートという部屋の構成から考えれば、つくし一人ではなく副社長も一緒に泊るのかと思ったのは言うまでもない。なにしろ副社長はつくしに惚れたと言った男だ。そのくらいのことは平気ですると思った。だが副社長はこの街に自分の住まいがあると言い、ホテルには泊まらないと言われホッとした。
そして移動初日は何も予定はないから休めばいいと言われ、広さを持て余すこの部屋でのんびりできるかと思ったが、食事に行くから7時に迎えに来ると告げられれば、ゆっくり休めの言葉は打ち消されたのも同じだ。
「はぁ…..全然ゆっくり出来ないじゃない。言ってることとやってることが違うじゃない」
それにしても公然とつくしに惚れたという男にどう対応すればいいのか。
それに7時に迎えに来る食事にドレスコードといったものは無いのか。
何も言われなかったのだからこのままでもいいのだろうか。
つくしはチャコールグレーのスーツ姿の自分を広すぎるドレッシングルームの鏡に映したが、これではまるでビジネスディナーだ。
だが何も言われなかった。それに副社長のためにおしゃれをする必要はない。
けれど、日本を出て10時間以上着ていたスーツが、くたびれた感じがするのは否めなかった。
機内での副社長はジェットが離陸すると背広を脱ぎ、書類を手にしていた。
そして暫くするとシートを倒し気怠そうに脚を投げ出していた。
その時、横を向いた男から上着を脱げばいいと言われたが脱がなかった。脱がなかったというよりも身を固くして座っていたたこともだが、脱ごうという気になれなかった。
「はぁ….」
つくしは鏡の中の自分に向かって再び溜息をつくと、自分が知らず知らずのうちに溜息ばかりついていることに気付いた。
「気が重いけど相手はこれから2週間避けることが出来ない人だものね。気持ちは嬉しいですけどって断るしかないのよね」
***
食事に行くからと連れてきたのはマンハッタンにある司のペントハウス。
大きな窓に張り付いた漆黒の闇の向うには、マンハッタンの夜景が見えるが、昼間見れば成功と大金のある場所と言われるビッグアップルの摩天楼が見えるはずだ。
そしてそれは誰もが一度は見たいと思う景色。但しその意味はただこの場所から見える夜景が見たいというのではない。司と一緒に見ることを女たちは望んでいた。
だが長年暮らした場所に女を招き入れたことはなかった。
そこに日本料理の料理人を呼び料理をさせた。その店は銀座に店を構える懐石料理の店。
一流の料理人の見事な包丁さばきで丁寧かつ繊細に調理された食材が器に映える和食は、ニューヨーカーにも人気があり数カ月先まで予約が取れないと言われていた。
そんな店に無理が効くのは、長年贔屓にしている司の依頼であり、道明寺の名前が持つ影響力が働いているのは当然だ。
「とりあえず乾杯だ」
ニューヨークの道明寺邸から派遣されて来た使用人が食前酒を運んで来ると、司は小さなグラスを手にした。
「…..あの。何に乾杯するのでしょうか?」
「何ってお前はニューヨークに来るのははじめてだろ?それならそれに乾杯だ」
司がそう言ってグラスを掲げ持てば、女はグラスを合わせた。
もろみを発酵させた微発泡うすにごりの日本酒はゆずの香りがした。
緊張した面持ちの女は司の指示に従うしかない状況にいる。食事に行くと言われれば行くしかないのだが、まさかペントハウスに招かれるとは思わなかったようだ。何しろ使用人が料理を運んで来るとはいえ、ここにいるのは二人だけ。
そして気を遣ったのか女は服を着替えていた。だがそれは司がドレスコードについて言わなかったことから無難な服装を選んだのだろう。めりはりのない細い身体を包んでいるのは、紺色のスーツだった。
司は、ことさら牧野つくしのことが気になっているといった態度は見せなかった。だが出された先付けをつぎつぎに平らげていく女の口許を見ていた。旺盛な食欲はステーキを食べた時にも感じたが、歓迎会でもそうだった。綻んだ口許は料理が美味いということだろう。
そしてその時気付いたのは、この女は食べることが好きということ。
男の捕まえるなら胃袋を掴めという言葉があるが、まさか女の気持を掴むため必要とされるのが美味い料理とは思いもしなかった。だが箸を口に運び味わう姿は紛れもなく食事を楽しんでいた。
そして料理を食べる女が箸を止めて司の顔を見るのは、彼が投げかける質問に答える時だ。
ホテルの部屋は問題ないか?と問えば、広すぎて豪華過ぎです。と答えたが、女から積極的に話そうという気はないようだ。それなら司が話せばいいだけだ。
「それで?今までの仕事の中で一番印象に残っているのはなんだ?」
司が訊いたのは、牧野つくしが滝川産業で働き始めてからどの仕事が一番印象に残っているのかだ。これは個人的な話ではない。仕事の話だ。ばかげた甘い言葉を囁くわけでもない。
だが「え?」と怪訝な顔をする女は司がそういった話をするとは思わなかったのだろう。
今までどこか身構えていた姿勢が緩んだ。
「今までの仕事の中で…..ですか?」
「ああ。そうだ。滝川での仕事の中でどの仕事が一番印象に残ってる?」
ビジネスで印象に残るのは成功よりも失敗。
それは人生も同じ。
人は同じ轍を踏まないように失敗から学び、それを教訓とする。
そしてそれは恋愛に於いても同じはずだ。成就する恋よりも実らなかった恋の方が印象に残る。失恋というのは苦い想い出となって澱のように心の中に沈んで行く。そして年をとってもあの時は、と失った恋を懐かしむか傷ついた心を慰めるかどちらかだ。
司が牧野つくしに与えたいのは懐かしいと想えるような恋ではない。
寝る男を間違え妻がいる男と付き合ったばかりにその後に訪れた恋は懐かしめるようなものではなく苦い思いだ。
そして司が別室の仲間の前で牧野つくしにお前に惚れたと言ったのは、司に捨てられたとき、彼らから哀れみの目を向けられることが望ましいからだ。
「それで?過去の仕事で一番印象に残っているものはなんだ?」
司は女が逡巡する様子を見ていた。
そして女が考えた末に喋り始めた話の内容を興味深そうな態度で訊いた。
「私が滝川産業に入社してから最初に担当したのは、飲料メーカーに納めるコンプレッサの手配でした」
名前を上げれば誰もが知っている飲料メーカーが水の美味しいと言われる場所に採水する工場を建設し、ミネラルウォーターの製造を始めることになった。
そしてそこに納められた機械はペットボトルを形成するために使われるもので、そのメーカーだけのために製造された世界に一台しかない受注生産品で海外からの輸入品。それをつくしは手配した。
「納入後試験運転を始めてボトリングされた水からオイルの匂いがすると苦情が来たんです。水にオイルが混ざることは絶対ありません。ですからペットボトルが原因ではないかと言われ焦りました。つまりペットボトルが匂いを発しているということです。
でも機械はうちが作ったものではありません。ですが手配して納入したのはうちの会社です。工場が稼働を開始する日は決まっていてその日を変更することは出来ません。問題を解決するための時間はあまりありませんでした」
エンドユーザーである顧客とサプライヤーである製造会社との間に立つ専門商社は、仲介役であるがゆえ板挟みになることが多い。つくしは営業ではないが、専門商社は細かな実務を任されることが多く、営業事務だからこそ営業担当よりも顧客と密に連絡を取る。
そして両社の要望を訊きどちらも顔が立つようにすることが仕事であり、対処の仕方によっては今後の受注を逃すことになる。それにもともと真面目で責任感の強いつくしは、問題を解決しようとする営業に付き合い夜遅くまで会社に残ったことがあった。
「その機械を製造した会社は日本に拠点を持っています。でも当時はその機械はまだ日本にはありませんでした。ですからそういった事例が他に無く何が原因か調べるのに海外の工場からエンジニアを呼ぶとことになりました。私はまだ入社して間もなかったこともですが、海外との直接的なやり取りも苦手でしたので営業担当が殆ど交渉してくれたんですが、もし工場が予定通りに稼働しなければ、損害賠償問題になっていたかもと訊きました。私は問題が解決されるまで毎日緊張した日々でした。それが一番印象に残っています」
つくしは訊かれたからペラペラと喋ったが、副社長のように石油事業を手掛ける男にこんな小さなビジネスの話をしたところで何も感心されないと思った。
「副社長のお仕事からすれば大した仕事ではありませんよね?」
だが話題が自分のこと以外なら仕事の話でも天気の話でも何でも良かった。
そして目の前の男性の興味が自分以外に向くことを願った。
「仕事に大きいも小さいもない。それにその飲料メーカーは今も顧客だろ?」
司が訊かされた会社の名前は、非上場だが知名度もありビールや洋酒も販売する会社で今も顧客として取引があると言う。つまり顧客は仲介役である専門商社の対応に満足した。
そして今も関係が続いていることがビジネスとしては重要であり、このまま良好な関係を続けていくことがビジネスとしては成功といえるはずだ。何しろちょっとした手違いから顧客を怒らせ、それまであった取引は全て中止になり、出入り禁止になることもあるからだ。
ここまで深くこの女と話しをしたことはなかったが、私生活は別として仕事に取り組む姿勢は文句がつけようがない。そうなるとただ残念なのは、妻がいる男と付き合っていることだ。それが姪の夫であるから尚更悪い。
そこから話しはニューヨークの話題に移ったが、暫くして話しが途切れたことで、女は次に何を訊かれるのかと構えたが、司に何か言われる前にと思ったのか口を開いた。
「あの。副社長。この出張の意味は別として、お気持ちは嬉しいんですが、今の私は誰かと付き合うことを考えていません。ですから申し訳ありません。私のことは諦めて下さいというと言葉は違うかもしれませんが….お気持ちだけいただいておきます」
司は自分の前で頭を下げる女を見ていたが、この数分間でこれまでのアプローチにも全くと言っていいほど動じない女に対する思いは全て変わった。
惚れたと言ったとき上司と部下でいい。上司と部下の距離を保つと言ったが、これからはぴったりと張り付くことにしようと決めた。
「俺はそういうお前が益々気に入った。俺の周りには自分を売り込む女ばかりだ。そんな女を相手にしてどこが面白い?それに言ったはずだ。応接室にお前が入って来たとき全神経がお前に向いたってな。それに男というものは不思議なもので、自分のことを避ける女に惹かれるものだ」
その言い方はどこか屈折した言い方だが、あの日全神経が向けられたのは嘘ではない。
それは白石隆信の浮気相手が司に対しどんな態度を取るのか見極めるだめだった。
だが今は美奈からの依頼は別として自分を避けようとする女を必ずものにしてやるといった強い思いが湧き上がっていた。
「牧野つくし。男と女の関係は単純なことだ。好きならその女を自分のものにする。嫌いなら別れればいい。今の俺の望みはお前だ」

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ホテルに着いたらゆっくり休めと言われ、勿論そのそつもりでいた。
だが案内された部屋が立派過ぎて驚いた。
なんとそこはスイートルーム。
贅沢な黒革のソファが置かれたリビングルーム。大きな長方形のテーブルが置かれたダイニングルーム。そしてドレッシングルームに大きなダブルベッドが置かれたベッドルームとバスルームから構成されているが、つくしにはドレッシングルームのハンガーに吊るされるドレスもなければ、棚に並べる靴もなく、その部屋はただ髪を乾かすだけの部屋になりそうだった。そしてそこにあったドライヤーにはメープルのロゴが入れられ、コストがかかっていることをうかがわせた。
それにバスルームは見たこともないようなセレブさが感じられ、大きなバスタブにお湯を溜めるとなれば時間がかかりそうだ。いやそれ以前にホテルにありがちなバスタブにあるはずの蛇口がなく、それならどうやって湯を溜めればいいのかと思うが、壁に埋め込まれたタッチパネルから操作するようになっていた。そして試しに押してみればバスタブの底から湯がわき上がるように流れ出すのを見てスイッチを切った。
それにしてもどの部屋も贅沢な広さが取られ、ひとりで泊るとするとネズミに引かれるのではないかと思えたが、スイートという部屋の構成から考えれば、つくし一人ではなく副社長も一緒に泊るのかと思ったのは言うまでもない。なにしろ副社長はつくしに惚れたと言った男だ。そのくらいのことは平気ですると思った。だが副社長はこの街に自分の住まいがあると言い、ホテルには泊まらないと言われホッとした。
そして移動初日は何も予定はないから休めばいいと言われ、広さを持て余すこの部屋でのんびりできるかと思ったが、食事に行くから7時に迎えに来ると告げられれば、ゆっくり休めの言葉は打ち消されたのも同じだ。
「はぁ…..全然ゆっくり出来ないじゃない。言ってることとやってることが違うじゃない」
それにしても公然とつくしに惚れたという男にどう対応すればいいのか。
それに7時に迎えに来る食事にドレスコードといったものは無いのか。
何も言われなかったのだからこのままでもいいのだろうか。
つくしはチャコールグレーのスーツ姿の自分を広すぎるドレッシングルームの鏡に映したが、これではまるでビジネスディナーだ。
だが何も言われなかった。それに副社長のためにおしゃれをする必要はない。
けれど、日本を出て10時間以上着ていたスーツが、くたびれた感じがするのは否めなかった。
機内での副社長はジェットが離陸すると背広を脱ぎ、書類を手にしていた。
そして暫くするとシートを倒し気怠そうに脚を投げ出していた。
その時、横を向いた男から上着を脱げばいいと言われたが脱がなかった。脱がなかったというよりも身を固くして座っていたたこともだが、脱ごうという気になれなかった。
「はぁ….」
つくしは鏡の中の自分に向かって再び溜息をつくと、自分が知らず知らずのうちに溜息ばかりついていることに気付いた。
「気が重いけど相手はこれから2週間避けることが出来ない人だものね。気持ちは嬉しいですけどって断るしかないのよね」
***
食事に行くからと連れてきたのはマンハッタンにある司のペントハウス。
大きな窓に張り付いた漆黒の闇の向うには、マンハッタンの夜景が見えるが、昼間見れば成功と大金のある場所と言われるビッグアップルの摩天楼が見えるはずだ。
そしてそれは誰もが一度は見たいと思う景色。但しその意味はただこの場所から見える夜景が見たいというのではない。司と一緒に見ることを女たちは望んでいた。
だが長年暮らした場所に女を招き入れたことはなかった。
そこに日本料理の料理人を呼び料理をさせた。その店は銀座に店を構える懐石料理の店。
一流の料理人の見事な包丁さばきで丁寧かつ繊細に調理された食材が器に映える和食は、ニューヨーカーにも人気があり数カ月先まで予約が取れないと言われていた。
そんな店に無理が効くのは、長年贔屓にしている司の依頼であり、道明寺の名前が持つ影響力が働いているのは当然だ。
「とりあえず乾杯だ」
ニューヨークの道明寺邸から派遣されて来た使用人が食前酒を運んで来ると、司は小さなグラスを手にした。
「…..あの。何に乾杯するのでしょうか?」
「何ってお前はニューヨークに来るのははじめてだろ?それならそれに乾杯だ」
司がそう言ってグラスを掲げ持てば、女はグラスを合わせた。
もろみを発酵させた微発泡うすにごりの日本酒はゆずの香りがした。
緊張した面持ちの女は司の指示に従うしかない状況にいる。食事に行くと言われれば行くしかないのだが、まさかペントハウスに招かれるとは思わなかったようだ。何しろ使用人が料理を運んで来るとはいえ、ここにいるのは二人だけ。
そして気を遣ったのか女は服を着替えていた。だがそれは司がドレスコードについて言わなかったことから無難な服装を選んだのだろう。めりはりのない細い身体を包んでいるのは、紺色のスーツだった。
司は、ことさら牧野つくしのことが気になっているといった態度は見せなかった。だが出された先付けをつぎつぎに平らげていく女の口許を見ていた。旺盛な食欲はステーキを食べた時にも感じたが、歓迎会でもそうだった。綻んだ口許は料理が美味いということだろう。
そしてその時気付いたのは、この女は食べることが好きということ。
男の捕まえるなら胃袋を掴めという言葉があるが、まさか女の気持を掴むため必要とされるのが美味い料理とは思いもしなかった。だが箸を口に運び味わう姿は紛れもなく食事を楽しんでいた。
そして料理を食べる女が箸を止めて司の顔を見るのは、彼が投げかける質問に答える時だ。
ホテルの部屋は問題ないか?と問えば、広すぎて豪華過ぎです。と答えたが、女から積極的に話そうという気はないようだ。それなら司が話せばいいだけだ。
「それで?今までの仕事の中で一番印象に残っているのはなんだ?」
司が訊いたのは、牧野つくしが滝川産業で働き始めてからどの仕事が一番印象に残っているのかだ。これは個人的な話ではない。仕事の話だ。ばかげた甘い言葉を囁くわけでもない。
だが「え?」と怪訝な顔をする女は司がそういった話をするとは思わなかったのだろう。
今までどこか身構えていた姿勢が緩んだ。
「今までの仕事の中で…..ですか?」
「ああ。そうだ。滝川での仕事の中でどの仕事が一番印象に残ってる?」
ビジネスで印象に残るのは成功よりも失敗。
それは人生も同じ。
人は同じ轍を踏まないように失敗から学び、それを教訓とする。
そしてそれは恋愛に於いても同じはずだ。成就する恋よりも実らなかった恋の方が印象に残る。失恋というのは苦い想い出となって澱のように心の中に沈んで行く。そして年をとってもあの時は、と失った恋を懐かしむか傷ついた心を慰めるかどちらかだ。
司が牧野つくしに与えたいのは懐かしいと想えるような恋ではない。
寝る男を間違え妻がいる男と付き合ったばかりにその後に訪れた恋は懐かしめるようなものではなく苦い思いだ。
そして司が別室の仲間の前で牧野つくしにお前に惚れたと言ったのは、司に捨てられたとき、彼らから哀れみの目を向けられることが望ましいからだ。
「それで?過去の仕事で一番印象に残っているものはなんだ?」
司は女が逡巡する様子を見ていた。
そして女が考えた末に喋り始めた話の内容を興味深そうな態度で訊いた。
「私が滝川産業に入社してから最初に担当したのは、飲料メーカーに納めるコンプレッサの手配でした」
名前を上げれば誰もが知っている飲料メーカーが水の美味しいと言われる場所に採水する工場を建設し、ミネラルウォーターの製造を始めることになった。
そしてそこに納められた機械はペットボトルを形成するために使われるもので、そのメーカーだけのために製造された世界に一台しかない受注生産品で海外からの輸入品。それをつくしは手配した。
「納入後試験運転を始めてボトリングされた水からオイルの匂いがすると苦情が来たんです。水にオイルが混ざることは絶対ありません。ですからペットボトルが原因ではないかと言われ焦りました。つまりペットボトルが匂いを発しているということです。
でも機械はうちが作ったものではありません。ですが手配して納入したのはうちの会社です。工場が稼働を開始する日は決まっていてその日を変更することは出来ません。問題を解決するための時間はあまりありませんでした」
エンドユーザーである顧客とサプライヤーである製造会社との間に立つ専門商社は、仲介役であるがゆえ板挟みになることが多い。つくしは営業ではないが、専門商社は細かな実務を任されることが多く、営業事務だからこそ営業担当よりも顧客と密に連絡を取る。
そして両社の要望を訊きどちらも顔が立つようにすることが仕事であり、対処の仕方によっては今後の受注を逃すことになる。それにもともと真面目で責任感の強いつくしは、問題を解決しようとする営業に付き合い夜遅くまで会社に残ったことがあった。
「その機械を製造した会社は日本に拠点を持っています。でも当時はその機械はまだ日本にはありませんでした。ですからそういった事例が他に無く何が原因か調べるのに海外の工場からエンジニアを呼ぶとことになりました。私はまだ入社して間もなかったこともですが、海外との直接的なやり取りも苦手でしたので営業担当が殆ど交渉してくれたんですが、もし工場が予定通りに稼働しなければ、損害賠償問題になっていたかもと訊きました。私は問題が解決されるまで毎日緊張した日々でした。それが一番印象に残っています」
つくしは訊かれたからペラペラと喋ったが、副社長のように石油事業を手掛ける男にこんな小さなビジネスの話をしたところで何も感心されないと思った。
「副社長のお仕事からすれば大した仕事ではありませんよね?」
だが話題が自分のこと以外なら仕事の話でも天気の話でも何でも良かった。
そして目の前の男性の興味が自分以外に向くことを願った。
「仕事に大きいも小さいもない。それにその飲料メーカーは今も顧客だろ?」
司が訊かされた会社の名前は、非上場だが知名度もありビールや洋酒も販売する会社で今も顧客として取引があると言う。つまり顧客は仲介役である専門商社の対応に満足した。
そして今も関係が続いていることがビジネスとしては重要であり、このまま良好な関係を続けていくことがビジネスとしては成功といえるはずだ。何しろちょっとした手違いから顧客を怒らせ、それまであった取引は全て中止になり、出入り禁止になることもあるからだ。
ここまで深くこの女と話しをしたことはなかったが、私生活は別として仕事に取り組む姿勢は文句がつけようがない。そうなるとただ残念なのは、妻がいる男と付き合っていることだ。それが姪の夫であるから尚更悪い。
そこから話しはニューヨークの話題に移ったが、暫くして話しが途切れたことで、女は次に何を訊かれるのかと構えたが、司に何か言われる前にと思ったのか口を開いた。
「あの。副社長。この出張の意味は別として、お気持ちは嬉しいんですが、今の私は誰かと付き合うことを考えていません。ですから申し訳ありません。私のことは諦めて下さいというと言葉は違うかもしれませんが….お気持ちだけいただいておきます」
司は自分の前で頭を下げる女を見ていたが、この数分間でこれまでのアプローチにも全くと言っていいほど動じない女に対する思いは全て変わった。
惚れたと言ったとき上司と部下でいい。上司と部下の距離を保つと言ったが、これからはぴったりと張り付くことにしようと決めた。
「俺はそういうお前が益々気に入った。俺の周りには自分を売り込む女ばかりだ。そんな女を相手にしてどこが面白い?それに言ったはずだ。応接室にお前が入って来たとき全神経がお前に向いたってな。それに男というものは不思議なもので、自分のことを避ける女に惹かれるものだ」
その言い方はどこか屈折した言い方だが、あの日全神経が向けられたのは嘘ではない。
それは白石隆信の浮気相手が司に対しどんな態度を取るのか見極めるだめだった。
だが今は美奈からの依頼は別として自分を避けようとする女を必ずものにしてやるといった強い思いが湧き上がっていた。
「牧野つくし。男と女の関係は単純なことだ。好きならその女を自分のものにする。嫌いなら別れればいい。今の俺の望みはお前だ」

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ニューヨーク近郊のプライベートジェット専用空港でタラップを降りれば、そこには運転手がリムジンのドアを開け待っていた。
大企業の経営者やハリウッドの大物俳優はプライベートジェトを利用するのが当たり前となっているが、その理由は極秘情報のやり取りや書類の作成といったものが出来ることもだが、プライバシーが守られる。他人の目を気にすることがないのが一番の利点だと言われている。
司のように名の知れた男となれば、パパラッチのカメラが常にその姿を狙っていた。
だがそれは今に始まったことではなく、彼が道明寺財閥の御曹司として生まれた時からあった。だから今更だという思いもあり、余程のことがないかぎり記事の訂正を求めることもカメラマンを告訴することもなかった。
だが極端にプラバシーが犯されるとなればそれはまた別のこと。
そうなれば相手を徹底的に潰していた。
男の切れ長の黒い瞳の深さや、すっきりと高い鼻。
はっきりとした顔立ちは東洋人、ひいては日本人のステレオタイプとはかけ離れており、被写体としての男の姿はモデルと見紛うばかりだ。そしてその外見と共に併せ持った財力に惹かれる女たちが大勢いた。
その中にはモデルや女優。そしてアメリカでも名だたる企業の令嬢もいるが、司はここ2年誰とも付き合っていなかった。それこそあきらではないが仕事の忙しさもあり女どころではなかった。そして女などその気になればいつでも手に入るという思いもあった。
そんな男は姪から夫の不倫相手を誘惑し弄んで捨てて欲しいの言葉に同意した。
その女はジェットがニューヨーク上空に差し掛かり、遠くにマンハッタンが見え始めたとき、額を窓に擦りつけるように近づけ外を見ていた。
それはこの街を初めて訪れる人間なら誰もが見せる態度。
東京も大都会でエキサティングな街だと言われているが、ニューヨークはそれ以上で訪れる者を夢中にさせる街だ。世界中から訪れる観光客は年がら年中引きも切らず、街を歩けばあらゆる場所にスマートフォンのカメラを向け撮影する。
今では街のどこにでも素人カメラマンが大勢いて、スクープ写真を撮ることを目的にしている観光客もいた。
それは司にとって見慣れた風景だが、女にとっては初めて見る風景だ。
だから司はリムジンの隣の席で黙って大人しく窓の外を眺めている女を観察することが出来た。
チャコールグレーのスーツに身を包んだ女は機内でも緊張した面持ちで隣に座っていたが、ここでこうして隣に座る女も緊張しているのが感じられた。
そしてその様子は自分のことを好きだと言った男が隣に座っているのに関心がない。男に魅力的に思われたいといった考えは全く感じられない。むしろ放っておいて欲しいように見える。
そして司がお前に惚れたと言った言葉など無かったかのような態度だ。
それはまるで司に対する心構えというものを自分自身に叩きこんで来た。あくまでも上司と部下であって恋人として関係を持ちたいといった態度はない。
だがたとえ女が職業意識の塊だとしても海外という環境に気持ちがおおらかになり、この出張を楽しんでやろうという気が起きてもおかしくないはずだ。
司も女がそうなると思っていた。つまり白石隆信のいないこの街で自分を好きだという男と楽しんでもいい。そんな思いがあってもいいはずだ。だが牧野つくしの態度にはそんな思いはひとかけらも感じられなかった。
「牧野」
その呼びかけにつくしの心臓は跳ね上がった。
はい、と答え顔を隣に向けた。そして何を言われるのかと構えた。
「長旅で疲れたか?」
だが問われた言葉は相手を気遣う言葉であり素直に答えることが出来た。
「いえ。大丈夫です。プライベートジェットに乗ったのは初めてですが、とても快適な旅でした」
「そうか。そうは言っても疲れたはずだ。今日の予定は特にない。ホテルに着いたらゆっくり休め」
「はい。ありがとうございます」
つい今しがた快適な旅と答えたが、二人の間に交わされた会話は快適には程遠く気楽とは言えなかった。
特につくしにとっては落ち着かないものだった。
次に何を言われるのか。いきなり直球が飛んで来るのではと考えれば言葉を選びながらの発言だ。だが努めて慌てず騒がす落ち着いた態度でいようと思い、それ以上何も問われなかったからホッと胸を撫で下ろし前を向いた。
それにしても、やはり自分が道明寺ニューヨーク本社を訪れなければならない意味が全く見いだせないでいた。だが別室の人間は皆快く送り出してくれた。
気を付けて行ってらっしゃい。ニューヨークは世界中にある特別な街と言われる街の中でも一番特別な街よ、と言ったのは佐々木純子だ。
『人種問わずの街だから東洋人だからって目立つこともないし、手ぶらで信号待ちをしていれば道を尋ねられるわよ?私はメイシーズ(アメリカのデパート)の中でトイレの場所を訊かれたことがあるの。旅行者なのによ?日本人なら東京で金髪の人間に道を尋ねることはないでしょ?でもね、向うでは髪の毛や肌の色がどんな色でも関係ないの。自分がその街以外の出身なら平気で訊いてくるから日本人からすれば、どうして私に訊くのって不思議な気分よ?でもそれがニューヨーク。だから私はそのときトイレはあっちよ、って言ったの。でも本当はトイレの場所なんか知らなかったけどニューヨーカー気取りが出来ると思って言ってみたわ。でも彼女。間に合ったのかしらね?』
佐々木はそう言って笑わせてくれたが、果たしてつくしがメイシーズへ買い物に行く機会があるのだろうか。
そして彼女は言葉を継いだ。
『それにしても牧野さん。あなた副社長に見初められるなんてシンデレラガールね?これからはあなたのこと、気軽に食堂に誘えないわ』
と言ったが、とんでもありません。私はその気はありませんと否定したが、本気とは受け取られなかった。
滝川産業にいた頃。
仕事帰りに桜子と食事に行ったり、時に買い物に行ったりしていた。
だが今のつくしは出向してからはそれが無くなった。だがその代わり副社長から告白され、ニューヨークの出張に同行を求められリムジンの中で隣に座っていた。
いや。厳密に言えば求めるではなく業務命令だ。そしてそれはつくしにとっては意外すぎる展開だ。
惚れたと言われるまで直ぐ近くにいたとしても客観的に見ることが出来た。
ハッとするほど整った顔だとしても気にならなかった。
だが今はすぐ隣に座る男性を意識するなという方が無理だ。
車に乗る時もお先にどうぞとばかりにエスコートされたが、それがアメリカでは当たり前の態度だとしても、ニューヨークに自分がいること自体が理解出来ないことであり、口説かれることが信じられなかった。
つくしは自分が平凡な人間で美人でもなければ、ひと目を引く人間でもない。
それに副社長とでは格の違いといったものは明らかだ。
そして桜子にも話したようにつくしには全くその気はないのだから、ニューヨークにいる間に俺のことを知ることになるはずだと言われたが、一体何を知って欲しいと言うのか。
「牧野?」
「は、はい!」
つくしは突然話かけられ、今度は一体何を言われるのかと身構えた。
「そう緊張するな。何もお前をいきなり取って喰おうっていうんじゃない」
男の目を見て頷くしかなかった。
そしてここは、その言葉を信じるしかないと自分自身に言い聞かせた。
そうだ。この街には仕事で来たはずだ。たとえ副社長の考えがどうであれ、この街に来たのは仕事のためだ。
やがて車が速度を落としはじめた。これから2週間滞在するホテルに着いたのだ。
そこはホテルメープルニューヨーク。ニューヨークにある高級ホテルの中でも上位にランクされているメープルは財閥の経営だ。そんなホテルのどんな部屋でもいい。
もうここまで来れば早く部屋の中に入って休みたいだけだった。

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大企業の経営者やハリウッドの大物俳優はプライベートジェトを利用するのが当たり前となっているが、その理由は極秘情報のやり取りや書類の作成といったものが出来ることもだが、プライバシーが守られる。他人の目を気にすることがないのが一番の利点だと言われている。
司のように名の知れた男となれば、パパラッチのカメラが常にその姿を狙っていた。
だがそれは今に始まったことではなく、彼が道明寺財閥の御曹司として生まれた時からあった。だから今更だという思いもあり、余程のことがないかぎり記事の訂正を求めることもカメラマンを告訴することもなかった。
だが極端にプラバシーが犯されるとなればそれはまた別のこと。
そうなれば相手を徹底的に潰していた。
男の切れ長の黒い瞳の深さや、すっきりと高い鼻。
はっきりとした顔立ちは東洋人、ひいては日本人のステレオタイプとはかけ離れており、被写体としての男の姿はモデルと見紛うばかりだ。そしてその外見と共に併せ持った財力に惹かれる女たちが大勢いた。
その中にはモデルや女優。そしてアメリカでも名だたる企業の令嬢もいるが、司はここ2年誰とも付き合っていなかった。それこそあきらではないが仕事の忙しさもあり女どころではなかった。そして女などその気になればいつでも手に入るという思いもあった。
そんな男は姪から夫の不倫相手を誘惑し弄んで捨てて欲しいの言葉に同意した。
その女はジェットがニューヨーク上空に差し掛かり、遠くにマンハッタンが見え始めたとき、額を窓に擦りつけるように近づけ外を見ていた。
それはこの街を初めて訪れる人間なら誰もが見せる態度。
東京も大都会でエキサティングな街だと言われているが、ニューヨークはそれ以上で訪れる者を夢中にさせる街だ。世界中から訪れる観光客は年がら年中引きも切らず、街を歩けばあらゆる場所にスマートフォンのカメラを向け撮影する。
今では街のどこにでも素人カメラマンが大勢いて、スクープ写真を撮ることを目的にしている観光客もいた。
それは司にとって見慣れた風景だが、女にとっては初めて見る風景だ。
だから司はリムジンの隣の席で黙って大人しく窓の外を眺めている女を観察することが出来た。
チャコールグレーのスーツに身を包んだ女は機内でも緊張した面持ちで隣に座っていたが、ここでこうして隣に座る女も緊張しているのが感じられた。
そしてその様子は自分のことを好きだと言った男が隣に座っているのに関心がない。男に魅力的に思われたいといった考えは全く感じられない。むしろ放っておいて欲しいように見える。
そして司がお前に惚れたと言った言葉など無かったかのような態度だ。
それはまるで司に対する心構えというものを自分自身に叩きこんで来た。あくまでも上司と部下であって恋人として関係を持ちたいといった態度はない。
だがたとえ女が職業意識の塊だとしても海外という環境に気持ちがおおらかになり、この出張を楽しんでやろうという気が起きてもおかしくないはずだ。
司も女がそうなると思っていた。つまり白石隆信のいないこの街で自分を好きだという男と楽しんでもいい。そんな思いがあってもいいはずだ。だが牧野つくしの態度にはそんな思いはひとかけらも感じられなかった。
「牧野」
その呼びかけにつくしの心臓は跳ね上がった。
はい、と答え顔を隣に向けた。そして何を言われるのかと構えた。
「長旅で疲れたか?」
だが問われた言葉は相手を気遣う言葉であり素直に答えることが出来た。
「いえ。大丈夫です。プライベートジェットに乗ったのは初めてですが、とても快適な旅でした」
「そうか。そうは言っても疲れたはずだ。今日の予定は特にない。ホテルに着いたらゆっくり休め」
「はい。ありがとうございます」
つい今しがた快適な旅と答えたが、二人の間に交わされた会話は快適には程遠く気楽とは言えなかった。
特につくしにとっては落ち着かないものだった。
次に何を言われるのか。いきなり直球が飛んで来るのではと考えれば言葉を選びながらの発言だ。だが努めて慌てず騒がす落ち着いた態度でいようと思い、それ以上何も問われなかったからホッと胸を撫で下ろし前を向いた。
それにしても、やはり自分が道明寺ニューヨーク本社を訪れなければならない意味が全く見いだせないでいた。だが別室の人間は皆快く送り出してくれた。
気を付けて行ってらっしゃい。ニューヨークは世界中にある特別な街と言われる街の中でも一番特別な街よ、と言ったのは佐々木純子だ。
『人種問わずの街だから東洋人だからって目立つこともないし、手ぶらで信号待ちをしていれば道を尋ねられるわよ?私はメイシーズ(アメリカのデパート)の中でトイレの場所を訊かれたことがあるの。旅行者なのによ?日本人なら東京で金髪の人間に道を尋ねることはないでしょ?でもね、向うでは髪の毛や肌の色がどんな色でも関係ないの。自分がその街以外の出身なら平気で訊いてくるから日本人からすれば、どうして私に訊くのって不思議な気分よ?でもそれがニューヨーク。だから私はそのときトイレはあっちよ、って言ったの。でも本当はトイレの場所なんか知らなかったけどニューヨーカー気取りが出来ると思って言ってみたわ。でも彼女。間に合ったのかしらね?』
佐々木はそう言って笑わせてくれたが、果たしてつくしがメイシーズへ買い物に行く機会があるのだろうか。
そして彼女は言葉を継いだ。
『それにしても牧野さん。あなた副社長に見初められるなんてシンデレラガールね?これからはあなたのこと、気軽に食堂に誘えないわ』
と言ったが、とんでもありません。私はその気はありませんと否定したが、本気とは受け取られなかった。
滝川産業にいた頃。
仕事帰りに桜子と食事に行ったり、時に買い物に行ったりしていた。
だが今のつくしは出向してからはそれが無くなった。だがその代わり副社長から告白され、ニューヨークの出張に同行を求められリムジンの中で隣に座っていた。
いや。厳密に言えば求めるではなく業務命令だ。そしてそれはつくしにとっては意外すぎる展開だ。
惚れたと言われるまで直ぐ近くにいたとしても客観的に見ることが出来た。
ハッとするほど整った顔だとしても気にならなかった。
だが今はすぐ隣に座る男性を意識するなという方が無理だ。
車に乗る時もお先にどうぞとばかりにエスコートされたが、それがアメリカでは当たり前の態度だとしても、ニューヨークに自分がいること自体が理解出来ないことであり、口説かれることが信じられなかった。
つくしは自分が平凡な人間で美人でもなければ、ひと目を引く人間でもない。
それに副社長とでは格の違いといったものは明らかだ。
そして桜子にも話したようにつくしには全くその気はないのだから、ニューヨークにいる間に俺のことを知ることになるはずだと言われたが、一体何を知って欲しいと言うのか。
「牧野?」
「は、はい!」
つくしは突然話かけられ、今度は一体何を言われるのかと身構えた。
「そう緊張するな。何もお前をいきなり取って喰おうっていうんじゃない」
男の目を見て頷くしかなかった。
そしてここは、その言葉を信じるしかないと自分自身に言い聞かせた。
そうだ。この街には仕事で来たはずだ。たとえ副社長の考えがどうであれ、この街に来たのは仕事のためだ。
やがて車が速度を落としはじめた。これから2週間滞在するホテルに着いたのだ。
そこはホテルメープルニューヨーク。ニューヨークにある高級ホテルの中でも上位にランクされているメープルは財閥の経営だ。そんなホテルのどんな部屋でもいい。
もうここまで来れば早く部屋の中に入って休みたいだけだった。

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Comment:8
「よお。司。久し振り」
スーツ姿のあきらは止まり木に腰を下ろしている司の隣へ座った。
そしてバーテンダーにスコッチを注文するとポケットから煙草を取り出し咥え、火を点けふぅっと煙を吐き出した。
「それにしても最近は堂々と煙草が吸える場所が少なくなったな。やっぱ煙草吸わねぇと寛げねぇよな。昔は民間機の中でも吸えてたのが嘘みてぇだ」
あきらは美作商事の専務として司と同じように忙しく海外を飛び回っていた。
そんなあきらとは電話で話しをすることはあるが、最後に話しをしたのは姪の美奈が牧野つくしのことでメールを送って来た日。
あの時のあきらは会えないかと言ってきたが、美奈との約束がありそちらを優先した。
そして久し振りにかかってきた電話は、昔よく行った六本木の店で飲まないかという誘いだった。
「これ。土産だ。シングルモルトだ。今度うちでスコットランドの蒸留所のウィスキーを扱うことになったんだがこれがそれだ」
あきらがテーブルの上に置いたのは、本場スコットランドのシングルモルトウィスキー。
シングルモルトウィスキーは大麦麦芽のみを使用し、尚且つ一つの蒸留所で作られたものをそう呼ぶが、つまりそれはワインと同じでそれぞれの蒸留所が置かれた環境を生かす地酒と言われていた。
「それにしてもスコットランドはいい場所だがさすがに遠いな。お前は行ったことがあるか?」
「スコットランドか?いや。ねぇな」
「そうか?モルトウィスキーが好きなら行ってみる価値はあるが、お前はニューヨーク暮らしが長かったからバーボンが好みだよな?」
確かに司はアメリカ暮らしが長かったせいかウィスキーはバーボンを好んで飲んでいた。
ストレートで飲むかオンザロックが殆どだが、ソーダで割ることもあった。だがどんな飲み方をしても、どれだけの量を飲もうと酔うことはなかった。そして今、口にしているのはオンザロックだった。
そしてあきらが司に会いたかったのはスコットランドの土産を渡すためではない。
実はな、と話し始めたのは、あきらの妹たちのこと。
あきらには年の離れた双子の妹がいるが、彼女たちは結婚適齢期と言われる年になり、縁談話といったものが持ち上がるようになった。
二人は美人姉妹と言われ美作商事社長であるあきらの父親も、かわいいと言われる母親も目の中に入れてもいたくないほどの可愛がりようだ。だがそれはあきらも同じだ。
美作家の妖精と言われた幼い頃の妹たちは兄であるあきらに甘え、いつも傍にいたがり、あきらとしては少々面倒くさい、うんざりと思うことがあったとしても、嫁に行くまでは兄である自分が妹たちの面倒を見るつもりでいた。
だがそんな妹たちが本当に結婚するとなると、寂しいといった気になるのは、もしかすると自分はシスコンなのではといった思いがしないでもないが、慌ててその思いを打ち消していた。
そして司に妹たちの話をしたのは、仲間内で唯一司に女の姉妹がいるからだ。だから司なら同じように女の姉妹を持つ自分の気持ちが分かってもらえると思い、話をしたいと思っていた。
何しろ、司は姉である椿に育てられたようなもので、姉だけには心を開いていた。
だから姉が嫁いで行ったとき、寂しさを感じた。喪失感というものを感じたはずであり、自分の気持も分ってもらえるのではないかと思っていた。
「そうか。双子たちも嫁に行く年頃か?」
「ああ。あいつらももう26だ。適齢期と言えば適齢期だろ?母親はまだまだ手放したくないようだが、父親はそうでもねぇな。娘が幸せになるなら早いとこ嫁にやってもいいって感じだ。まあうちの親父はお前のお袋さんと違って無理矢理嫁がせるなんてことはしねぇからな。縁談話が来たとしても、本人の意思に任せるって言ってる。だから双子も割とサバサバしてるって言うのか?見合いってのを楽しみにしてる節があるな」
司はあきらの話に椿が母親の思惑通りに結婚させられた時ことを思い出していた。
当時の司は結婚というものに何の関心もなかった。それに自分が将来誰かと結婚することなど頭の片隅さえなかった。だがいずれ自分が財閥のためにどこかの女と結婚させられるであろうことだけは分かっていた。そしてその決定に自らの意思が必要ないことも知っていた。
「俺はこの年になってこんな思いをするとは思わなかったが、いざ自分の妹が結婚するってなると複雑な思いがある。いつまでもチビで俺に纏わりついていたと思ったら、いつの間にか大人の女になってた。まあ大人ってもまだまだ子供っぽいところがあるが、女には変わりねぇ。いつか好きな男が出来てその男と結婚したいと言い出すことも分かっているが、まるで兄貴って言うより親の気分だ。それにいくら親父は無理矢理嫁がせるつもりは無いって言っても持って来る縁談は美作にとって利益をもたらす会社の跡取りばかり選んでる。だから結果としてその中の誰かを選んでくれればいいってだけの話だ。つまり選択肢の幅があるだけで、司の姉ちゃんの時と同じようなものだ。まあ、これが俺たちジュニアの運命と言えばそうなんだろうが、妹たちには家の犠牲になるような結婚だけはさせたくない」
そう言ったあきら自身も父親から結婚を急かされているが、仕事の忙しさを理由に拒んでいた。
「そうだな。俺たちの結婚相手は会社のために用意されているのが当たり前だった。あの当時の姉ちゃんもそれは分かっていた。だから最後には諦めにも似た気持ちで嫁いで行った」
だが椿の娘であり司の姪の美奈は自らの意思を貫き白石隆信と結婚した。
しかしその美奈の結婚生活はたった2年で暗礁に乗り上げている。
それが意味することは、結婚というのは自らの意思を通したとしても必ずしも幸せになるとは限らないと言うこと。何しろ美奈は若さを武器に強行突破するような結婚をしたが、今は不倫をする夫の気持を取り戻そうと叔父である司に助けを求めていた。
だがいくら司が相手の女を白石隆信から引き離したとしても、夫である隆信の気持が美奈から離れてしまっているなら夫婦の仲は終わりだ。同じ屋根の下に暮らしていたとしても、それは夫婦ではなく単なる同居人だ。
そのことを美奈がどう考えているのか分からないが、隆信とは別れたくないというのだから、本人の意思を尊重してやるしかない。
「そうだったな。姉ちゃんは最後は受け入れた。でもあの家にお前をひとり残していくことは悔やんでたはずだ。何しろお前にとって姉ちゃんは姉じゃなくて母親以上の存在で、あの家でお前を唯一理解してたのは姉ちゃんだった」
確かにそうだ。
司があの家で唯一心を許せたのは姉。そして彼のことを理解出来たのも姉ひとり。
それこそ幼い頃から姉に甘え、シスコンかと言われたこともあったくらいだ。
「そういやあお前に電話をしたとき、美奈ちゃんと会う約束があるって言ってたよな?何かあったのか?」
「ああ。まあな。何かあったと言われればそうだな」
司はあきらに美奈が抱えている問題をどう思うか聞いてみることにした。
「実はな、美奈の夫は他に女がいる」
「おいおい。女がいるって、それって浮気してるってことか?でもまだ結婚してそんなに時間は経ってなかったよな?」
「2年だ。2年しかたってねぇ。そのうちの1年は別の女の存在があったってことだ」
「結婚して1年で浮気か…..美奈ちゃんかなりショックだろ?それであれか?美奈ちゃんは夫を問い詰めたんだろうな?」
あきらも椿の娘の美奈の事は知っている。
母親の椿に似た美人で性格も母親譲り。物事の白黒をつけたがる性格は叔父である司にも似ていた。つまりひと言で言えば、名前は道明寺ではなくとも、道明寺家の人間らしい人間だと感じていた。
「ああ。美奈は夫から相手の女が誰だか訊き出し、その女の会社に乗り込んだ。そこで女に1億の小切手を示して別れてくれって言った。けど女は別れるもなにもそんな男は知らねぇって突っぱねたそうだ」
「突っぱねた?そりゃあ相手は相当な鉄面皮だな。会社に乗り込んできた男の妻からの1億の金を提示されて突っ返せるってことは、相手の女はあれか?やり手の女実業家か?」
司は美奈から牧野つくしについて訊かされ、その女に会うため滝川産業まで出向いた時のことを思い出していた。応接室の扉を開け入って来た女の見た目はごく普通であり、年齢よりも若く見え、一見して真面目な女は妻のいる男と付き合うようには見えなかった。
「いや。女は普通の会社員だ。それもうちが1年前に買収した会社で働いていて俺たちよりひとつ下だ。だから俺はその女の顔を見るためその会社まで出向いた」
「おい。グループ会社内での不倫か?確か美奈ちゃんの旦那って道明寺の関連会社の役員だったよな?なんか繋がりがありそうだな?それに俺たちよりひとつ年下ってことは35か?これもまた信じられねぇな。若い女と結婚した男は妻とかけ離れた年上の女に夢中ってことか?となると、その女余程の美人か?それとも身体の相性がいいってことか?どうなんだよ司。お前その女を見てどう思った?」
苦々しい思いで司は唇を歪めた。
「痩せた女で化粧も最低限。年よりも若く見える真面目な雰囲気がする女だ。お前がいつも付き合ってる人妻とはタイプが違う地味な女だ」
実際女に会うまでは男に色気を振りまくような女だと思っていた。だが身体の線も細く色気など全く感じられない女だった。だがそんな女でも美奈の夫には魅力的に思える何かがあったのだろう。
「それにあの二人が仕事上の繋がりを持つことはない。女の会社は産業機械専門の商社で美奈の夫は不動産開発だ。だから仕事の繋がりから二人が知り合ったとは考えられねぇな」
「そうか?けど男と女の関係はごく些細なことがきっかけになるもんだ。思いもしないことがきっかけだったってこともあるからな?例えば航空機の中で隣同士に座った見ず知らずの男女が12時間かけて目的地に着いたら結婚することを決めたって話もある。
それでその女をどうするつもりだ?お前が女にひとこと忠告すれば別れるんじゃねぇのか?それにその女。自分の男がお前の姪の夫ってこと知ってんだろ?それに美奈ちゃんは姉ちゃんにも話したんだろ?」
「いや。美奈は母親には言ってねぇ。美奈は白石隆信と結婚するとき、未成年の大学生だった。今も大学生だがそんな状況での結婚話に当然姉ちゃんは反対した。だが美奈はどうしても結婚したいと意思を曲げなかった。それに姉ちゃんにしてみれば、自分は母親に好きでもない男との結婚を強要された経緯がある。今のあの夫婦はそんなことは感じられねぇけどな。とにかく、娘には自分の好きな男と結婚させてやりたいってのが姉ちゃんの思いだった。だから認めた経緯がある。それに美奈も自分の我儘を認めさせて結婚したことは理解している。だから夫が浮気してるとは母親には言えないってことだ。そんな美奈は俺に二人を別れさせて欲しいと言ってきた。それにあの女は隆信の妻が俺の姪だってことは知らないようだ。もし知ってるとすれば、あの女相当な女優だ」
「….そうか。美奈ちゃんは女の所へ夫と別れてくれと直談判をしに行ったが相手の女がシラを切ったことに腹が立ったってことか….。それで姉ちゃんには言えないが叔父であるお前ならなんとかしてくれるはずだと頼んで来たって訳か。二人を別れさせて欲しいって頼まれたってことか。それなら簡単だろ?いきなり会社をクビにすることは出来なくても、その女を男と会えない遠くに飛ばせばいい。南の島でも北の大地でもお前の所のグループ会社なら幾らでもあるだろ?」
道明寺グループの企業は末端まで含めればかなりの数にのぼる。
そして地方の営業所やその取引先まで引き受け先なら幾らでもある。
会社をクビに出来ないならどこかへ飛ばし、男と会えなくすればいい。それは実に簡単なことだが、姪が望んでいるのはそういったことではなかった。
「いや。そんな単純なことじゃねぇんだ」
「どういう意味だ?」
「美奈は相手の女がただ別れるだけじゃ納得出来ないそうだ。相手の女にも自分と同じ心の痛みを感じさせることを望んでる。つまり俺にその女を誘惑して虜にして弄んで捨てて欲しそうだ」
二十歳の娘が考えるにしては、ちゃちな発想であり悪どい計画とも言えるが、目に涙を浮かべ懇願されれば望みを叶えてやりたいと思った。
「おいおい、美奈ちゃん考えることが下衆だな。けどさすが椿姉ちゃんの娘で道明寺司の姪だ。妻としてのプライドを傷つけられた女の逆襲は自分の心の痛み以上に女が傷付くことを望んでるってことか。で?その女はお前の欲望の対象になる女か?それでいつから始めるんだ?その女を虜にして弄んで捨てる作業は?」
「もう始めてる。その女を道明寺へ出向させて俺の目の届く場所に置いた。それに来週からニューヨークへ行くが連れて行くことにした」
「そうか。お前の手にかかればどんな女も簡単に堕とせるだろうよ。それにお前のような男に言い寄られて拒める女もいないはずだ。何しろお前は美奈ちゃんの夫のはるか上を行く男だ」
だがあきらは沈思黙考するように長めの沈黙を挟み、吸殻を灰皿の中でぐいっと捻り潰し言った。
「だがな司。気を付けろ。女は魔物だ。見た目が大人しい子ネズミのような女でも窮鼠猫を嚙むだ。それからお前が美奈ちゃんを大切に思う気持も分かるが、極端なほどの身内思いは禁物だぞ?俺も妹のことは可愛い。時に血の繋がりってのは身贔屓が強すぎることもある。つまりそれは先入観の元ってことだからな」

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スーツ姿のあきらは止まり木に腰を下ろしている司の隣へ座った。
そしてバーテンダーにスコッチを注文するとポケットから煙草を取り出し咥え、火を点けふぅっと煙を吐き出した。
「それにしても最近は堂々と煙草が吸える場所が少なくなったな。やっぱ煙草吸わねぇと寛げねぇよな。昔は民間機の中でも吸えてたのが嘘みてぇだ」
あきらは美作商事の専務として司と同じように忙しく海外を飛び回っていた。
そんなあきらとは電話で話しをすることはあるが、最後に話しをしたのは姪の美奈が牧野つくしのことでメールを送って来た日。
あの時のあきらは会えないかと言ってきたが、美奈との約束がありそちらを優先した。
そして久し振りにかかってきた電話は、昔よく行った六本木の店で飲まないかという誘いだった。
「これ。土産だ。シングルモルトだ。今度うちでスコットランドの蒸留所のウィスキーを扱うことになったんだがこれがそれだ」
あきらがテーブルの上に置いたのは、本場スコットランドのシングルモルトウィスキー。
シングルモルトウィスキーは大麦麦芽のみを使用し、尚且つ一つの蒸留所で作られたものをそう呼ぶが、つまりそれはワインと同じでそれぞれの蒸留所が置かれた環境を生かす地酒と言われていた。
「それにしてもスコットランドはいい場所だがさすがに遠いな。お前は行ったことがあるか?」
「スコットランドか?いや。ねぇな」
「そうか?モルトウィスキーが好きなら行ってみる価値はあるが、お前はニューヨーク暮らしが長かったからバーボンが好みだよな?」
確かに司はアメリカ暮らしが長かったせいかウィスキーはバーボンを好んで飲んでいた。
ストレートで飲むかオンザロックが殆どだが、ソーダで割ることもあった。だがどんな飲み方をしても、どれだけの量を飲もうと酔うことはなかった。そして今、口にしているのはオンザロックだった。
そしてあきらが司に会いたかったのはスコットランドの土産を渡すためではない。
実はな、と話し始めたのは、あきらの妹たちのこと。
あきらには年の離れた双子の妹がいるが、彼女たちは結婚適齢期と言われる年になり、縁談話といったものが持ち上がるようになった。
二人は美人姉妹と言われ美作商事社長であるあきらの父親も、かわいいと言われる母親も目の中に入れてもいたくないほどの可愛がりようだ。だがそれはあきらも同じだ。
美作家の妖精と言われた幼い頃の妹たちは兄であるあきらに甘え、いつも傍にいたがり、あきらとしては少々面倒くさい、うんざりと思うことがあったとしても、嫁に行くまでは兄である自分が妹たちの面倒を見るつもりでいた。
だがそんな妹たちが本当に結婚するとなると、寂しいといった気になるのは、もしかすると自分はシスコンなのではといった思いがしないでもないが、慌ててその思いを打ち消していた。
そして司に妹たちの話をしたのは、仲間内で唯一司に女の姉妹がいるからだ。だから司なら同じように女の姉妹を持つ自分の気持ちが分かってもらえると思い、話をしたいと思っていた。
何しろ、司は姉である椿に育てられたようなもので、姉だけには心を開いていた。
だから姉が嫁いで行ったとき、寂しさを感じた。喪失感というものを感じたはずであり、自分の気持も分ってもらえるのではないかと思っていた。
「そうか。双子たちも嫁に行く年頃か?」
「ああ。あいつらももう26だ。適齢期と言えば適齢期だろ?母親はまだまだ手放したくないようだが、父親はそうでもねぇな。娘が幸せになるなら早いとこ嫁にやってもいいって感じだ。まあうちの親父はお前のお袋さんと違って無理矢理嫁がせるなんてことはしねぇからな。縁談話が来たとしても、本人の意思に任せるって言ってる。だから双子も割とサバサバしてるって言うのか?見合いってのを楽しみにしてる節があるな」
司はあきらの話に椿が母親の思惑通りに結婚させられた時ことを思い出していた。
当時の司は結婚というものに何の関心もなかった。それに自分が将来誰かと結婚することなど頭の片隅さえなかった。だがいずれ自分が財閥のためにどこかの女と結婚させられるであろうことだけは分かっていた。そしてその決定に自らの意思が必要ないことも知っていた。
「俺はこの年になってこんな思いをするとは思わなかったが、いざ自分の妹が結婚するってなると複雑な思いがある。いつまでもチビで俺に纏わりついていたと思ったら、いつの間にか大人の女になってた。まあ大人ってもまだまだ子供っぽいところがあるが、女には変わりねぇ。いつか好きな男が出来てその男と結婚したいと言い出すことも分かっているが、まるで兄貴って言うより親の気分だ。それにいくら親父は無理矢理嫁がせるつもりは無いって言っても持って来る縁談は美作にとって利益をもたらす会社の跡取りばかり選んでる。だから結果としてその中の誰かを選んでくれればいいってだけの話だ。つまり選択肢の幅があるだけで、司の姉ちゃんの時と同じようなものだ。まあ、これが俺たちジュニアの運命と言えばそうなんだろうが、妹たちには家の犠牲になるような結婚だけはさせたくない」
そう言ったあきら自身も父親から結婚を急かされているが、仕事の忙しさを理由に拒んでいた。
「そうだな。俺たちの結婚相手は会社のために用意されているのが当たり前だった。あの当時の姉ちゃんもそれは分かっていた。だから最後には諦めにも似た気持ちで嫁いで行った」
だが椿の娘であり司の姪の美奈は自らの意思を貫き白石隆信と結婚した。
しかしその美奈の結婚生活はたった2年で暗礁に乗り上げている。
それが意味することは、結婚というのは自らの意思を通したとしても必ずしも幸せになるとは限らないと言うこと。何しろ美奈は若さを武器に強行突破するような結婚をしたが、今は不倫をする夫の気持を取り戻そうと叔父である司に助けを求めていた。
だがいくら司が相手の女を白石隆信から引き離したとしても、夫である隆信の気持が美奈から離れてしまっているなら夫婦の仲は終わりだ。同じ屋根の下に暮らしていたとしても、それは夫婦ではなく単なる同居人だ。
そのことを美奈がどう考えているのか分からないが、隆信とは別れたくないというのだから、本人の意思を尊重してやるしかない。
「そうだったな。姉ちゃんは最後は受け入れた。でもあの家にお前をひとり残していくことは悔やんでたはずだ。何しろお前にとって姉ちゃんは姉じゃなくて母親以上の存在で、あの家でお前を唯一理解してたのは姉ちゃんだった」
確かにそうだ。
司があの家で唯一心を許せたのは姉。そして彼のことを理解出来たのも姉ひとり。
それこそ幼い頃から姉に甘え、シスコンかと言われたこともあったくらいだ。
「そういやあお前に電話をしたとき、美奈ちゃんと会う約束があるって言ってたよな?何かあったのか?」
「ああ。まあな。何かあったと言われればそうだな」
司はあきらに美奈が抱えている問題をどう思うか聞いてみることにした。
「実はな、美奈の夫は他に女がいる」
「おいおい。女がいるって、それって浮気してるってことか?でもまだ結婚してそんなに時間は経ってなかったよな?」
「2年だ。2年しかたってねぇ。そのうちの1年は別の女の存在があったってことだ」
「結婚して1年で浮気か…..美奈ちゃんかなりショックだろ?それであれか?美奈ちゃんは夫を問い詰めたんだろうな?」
あきらも椿の娘の美奈の事は知っている。
母親の椿に似た美人で性格も母親譲り。物事の白黒をつけたがる性格は叔父である司にも似ていた。つまりひと言で言えば、名前は道明寺ではなくとも、道明寺家の人間らしい人間だと感じていた。
「ああ。美奈は夫から相手の女が誰だか訊き出し、その女の会社に乗り込んだ。そこで女に1億の小切手を示して別れてくれって言った。けど女は別れるもなにもそんな男は知らねぇって突っぱねたそうだ」
「突っぱねた?そりゃあ相手は相当な鉄面皮だな。会社に乗り込んできた男の妻からの1億の金を提示されて突っ返せるってことは、相手の女はあれか?やり手の女実業家か?」
司は美奈から牧野つくしについて訊かされ、その女に会うため滝川産業まで出向いた時のことを思い出していた。応接室の扉を開け入って来た女の見た目はごく普通であり、年齢よりも若く見え、一見して真面目な女は妻のいる男と付き合うようには見えなかった。
「いや。女は普通の会社員だ。それもうちが1年前に買収した会社で働いていて俺たちよりひとつ下だ。だから俺はその女の顔を見るためその会社まで出向いた」
「おい。グループ会社内での不倫か?確か美奈ちゃんの旦那って道明寺の関連会社の役員だったよな?なんか繋がりがありそうだな?それに俺たちよりひとつ年下ってことは35か?これもまた信じられねぇな。若い女と結婚した男は妻とかけ離れた年上の女に夢中ってことか?となると、その女余程の美人か?それとも身体の相性がいいってことか?どうなんだよ司。お前その女を見てどう思った?」
苦々しい思いで司は唇を歪めた。
「痩せた女で化粧も最低限。年よりも若く見える真面目な雰囲気がする女だ。お前がいつも付き合ってる人妻とはタイプが違う地味な女だ」
実際女に会うまでは男に色気を振りまくような女だと思っていた。だが身体の線も細く色気など全く感じられない女だった。だがそんな女でも美奈の夫には魅力的に思える何かがあったのだろう。
「それにあの二人が仕事上の繋がりを持つことはない。女の会社は産業機械専門の商社で美奈の夫は不動産開発だ。だから仕事の繋がりから二人が知り合ったとは考えられねぇな」
「そうか?けど男と女の関係はごく些細なことがきっかけになるもんだ。思いもしないことがきっかけだったってこともあるからな?例えば航空機の中で隣同士に座った見ず知らずの男女が12時間かけて目的地に着いたら結婚することを決めたって話もある。
それでその女をどうするつもりだ?お前が女にひとこと忠告すれば別れるんじゃねぇのか?それにその女。自分の男がお前の姪の夫ってこと知ってんだろ?それに美奈ちゃんは姉ちゃんにも話したんだろ?」
「いや。美奈は母親には言ってねぇ。美奈は白石隆信と結婚するとき、未成年の大学生だった。今も大学生だがそんな状況での結婚話に当然姉ちゃんは反対した。だが美奈はどうしても結婚したいと意思を曲げなかった。それに姉ちゃんにしてみれば、自分は母親に好きでもない男との結婚を強要された経緯がある。今のあの夫婦はそんなことは感じられねぇけどな。とにかく、娘には自分の好きな男と結婚させてやりたいってのが姉ちゃんの思いだった。だから認めた経緯がある。それに美奈も自分の我儘を認めさせて結婚したことは理解している。だから夫が浮気してるとは母親には言えないってことだ。そんな美奈は俺に二人を別れさせて欲しいと言ってきた。それにあの女は隆信の妻が俺の姪だってことは知らないようだ。もし知ってるとすれば、あの女相当な女優だ」
「….そうか。美奈ちゃんは女の所へ夫と別れてくれと直談判をしに行ったが相手の女がシラを切ったことに腹が立ったってことか….。それで姉ちゃんには言えないが叔父であるお前ならなんとかしてくれるはずだと頼んで来たって訳か。二人を別れさせて欲しいって頼まれたってことか。それなら簡単だろ?いきなり会社をクビにすることは出来なくても、その女を男と会えない遠くに飛ばせばいい。南の島でも北の大地でもお前の所のグループ会社なら幾らでもあるだろ?」
道明寺グループの企業は末端まで含めればかなりの数にのぼる。
そして地方の営業所やその取引先まで引き受け先なら幾らでもある。
会社をクビに出来ないならどこかへ飛ばし、男と会えなくすればいい。それは実に簡単なことだが、姪が望んでいるのはそういったことではなかった。
「いや。そんな単純なことじゃねぇんだ」
「どういう意味だ?」
「美奈は相手の女がただ別れるだけじゃ納得出来ないそうだ。相手の女にも自分と同じ心の痛みを感じさせることを望んでる。つまり俺にその女を誘惑して虜にして弄んで捨てて欲しそうだ」
二十歳の娘が考えるにしては、ちゃちな発想であり悪どい計画とも言えるが、目に涙を浮かべ懇願されれば望みを叶えてやりたいと思った。
「おいおい、美奈ちゃん考えることが下衆だな。けどさすが椿姉ちゃんの娘で道明寺司の姪だ。妻としてのプライドを傷つけられた女の逆襲は自分の心の痛み以上に女が傷付くことを望んでるってことか。で?その女はお前の欲望の対象になる女か?それでいつから始めるんだ?その女を虜にして弄んで捨てる作業は?」
「もう始めてる。その女を道明寺へ出向させて俺の目の届く場所に置いた。それに来週からニューヨークへ行くが連れて行くことにした」
「そうか。お前の手にかかればどんな女も簡単に堕とせるだろうよ。それにお前のような男に言い寄られて拒める女もいないはずだ。何しろお前は美奈ちゃんの夫のはるか上を行く男だ」
だがあきらは沈思黙考するように長めの沈黙を挟み、吸殻を灰皿の中でぐいっと捻り潰し言った。
「だがな司。気を付けろ。女は魔物だ。見た目が大人しい子ネズミのような女でも窮鼠猫を嚙むだ。それからお前が美奈ちゃんを大切に思う気持も分かるが、極端なほどの身内思いは禁物だぞ?俺も妹のことは可愛い。時に血の繋がりってのは身贔屓が強すぎることもある。つまりそれは先入観の元ってことだからな」

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Comment:7
1本のバラを手に持ち愛の告白をすることを恥ずかしいと思わない男。
低音でセクシーな声を出す男は、愛してると言われるために生まれてきた男。
だからと言って大勢の人間から愛してると言われることを望んでいるのではない。
そして誰もが口を揃えて言うのは、道明寺司はかっこいい。
だが男にとってかっこいいは誉め言葉ではなく正義。
つまり当たり前の言葉であり今更言われても困る。
そしてベッドの上では誰にも負けないと言われる男。
だがそんな男は遠い昔、好きな女をデートに誘いたくても誘えなかった。
それは言葉を裏返せば誘って欲しいが誘ってもらえない少年の姿と言ってもいい。
だが今では大好きな人に誘われれば何をすっ飛ばしても絶対に会いに行く男になっていた。
現に今日も西田からこちらをお読み下さいと言って渡された書類を放り出しデートの時間に当てた。
そんな男がモテたいのはたったひとりの女だけ。
男はたったひとりの人から言われる愛してるの言葉が待ち遠しくて、クールな見た目とは異なりいじらしいほど健気。そんな男だからこそ久し振りの休日デートに朝からソワソワしていた。
雨の季節にはまだ早く天気は快晴。
靴の中は乾いていてすこぶる調子がいい。
だが今日のデートは映画が見たいといった女のため、映画館を貸し切った。
勿論、世田谷の邸にはシアタールームがある。だが映画館の大画面で見ることをいとしの彼女は望んだ。
映画と言えば毎年5月にフランス南部の都市カンヌで開催されるカンヌ国際映画祭は、世界で最も有名な映画祭で、ベルリン国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭と併せ世界三大映画祭のひとつだ。
司は招待状が届いていたこともあり、カンヌまで行くか?と訊いたが牧野はいいと断った。
そして見はじめた映画は警察小説と言われる分野。
舞台は昭和の終わり。有名なヤクザ映画をオマージュしたと言われるハードボイルド作品。
現代版任侠映画のようにも思えるが何故その映画が見たいのかと訊けば、気になる俳優が出ているからという理由だった。
だが司にしてみれば気に入らなかった。
スクリーンの中とはいえ隣にはこんなにいい男が座っているというのに、自分以外の男をじっと見つめる女の姿に腹が立った。それに牧野の口から訊かされた気になる俳優という言葉にムッとした。
だがその男の身長は183センチで司より2センチ低い。そして顔も断然司の方がいい。
だが若手実力派俳優と呼ばれイケメン俳優の登竜門と呼ばれる「戦隊シリーズ」でデビューし「朝ドラ」でも活躍したと言う。訊かされた名前は…松坂….柿だったから栗だったか果物の名前がついていた。
だがどんな名前にしても桃栗三年柿八年の言葉があるように、何事も成就するためには、それ相応の年月がかかるのだから、この俳優もそれなりに努力をしていることは認めてやってもいい。
それにしても牧野が通称朝ドラと呼ばれる連続テレビ小説を見ていたとは知らなかったが、どうやら撮り溜めて見ていたらしい。
だがそれもそのはずだ。何しろあの時間の牧野は満員電車で出勤途中なのだから。
そしてその男は「R指定の舞台」と呼ばれる舞台に立ち、娼夫として艶技(えんぎ)を披露したらしいが、牧野が自分以外の男に興味を抱くことはやはり容認出来ない。
それに艶技なら司の方が場数を踏んでいる。
R指定の舞台俳優がいいなら司の方が経験豊富だ。
但し、それは司の頭の中で繰り返されることが多いのだが、司の方がいいに決まってるし、そんな男に負けるはずがない。
それにしてもまさかとは思うが牧野は「R指定の舞台」とやらを見に行ったのか?
司が知らなかっただけで男の妖艶な姿を見に行ったのか?
海外へ出張している間にその男の舞台を見に行ったのか?
そしてその舞台は映画になり、その男が大胆な濡れ場を披露したと言うが、まさか牧野は俺に隠れてこっそりと見に行ったのか?
司が見たR指定の映画と言えばそれはニューヨークにいた頃。
決して見たいと思って見たのではない。
そこに、たまたま、手元にあったから見ただけであり、自らが率先して見たのではない。
それにポルノではない。芸術だ。
それにそもそも芸術作品というものは、初めは受け入れなくても後世になればいい作品だと受け入れられることが多い。
だから司が見たR指定の映画も芸術作品だったと思っている。
それは『エマニュエル夫人』
それから『ナインハーフ』
そして、つい先日妄想世界で牧野のバッグを味わったが、あの妄想はこの映画から来たに違いないと言える『ラストタンゴ・イン・パリ』
色々と物議を醸した作品であれは潤滑剤としてバターが使われたが、さすがに司はバターを使おうとは思わなかった。理由は事後バターに塗れた自身を見たくなかったからだ。
それにしてもスクリーンに映し出される俳優は娼夫としてどんな演技をしたのか。
だがもし司が男娼として買われるなら牧野つくしだけに買われたい。
牧野つくしだけを喜ばせる男娼に____
司は罪深いほどのテクニックと低い声で女をイカせることが出来ると言われていた。
だが司の指名料は高く、そんな男を指名することが出来るのは金持ちのマダムと決まっていた。だが司の場合、指名を受けたからといって簡単に身体を与えることはしない。
彼に抱かれたいと思っても彼の方が抱く女を選ぶことが出来た。
そして司はその日の気分で抱く女を決める。
だがある日、相手をすることになったのはマダムではなかった。
それは司とさして年齢が変わらない女で遅すぎる経験をしたいと司を指名してきた女。
名前は真紀と名乗っていた。
司は思った。今どきその年でセックスの経験がない女は余程見た目が酷いのだろう。だから男に相手にされないのだろうと笑いたい思いを堪えどんな女か見てやろう。面白そうだと指名を受けた。そして司はホテルの部屋のドアをノックした。
内側から鍵が開き、女が姿を見せたが俯いた姿勢なうえに部屋の明かりはつけられておらず、顔ははっきりと見えなかった。
「司だ」
男はそれだけ言うと一歩退いた女の横を通り抜け、室内へ入って行った。
そこはメープルの最高級スウィートで司もよく知るリビングルーム。
ゆったりと座れるソファに大画面のテレビ。バーカウンターには沢山の酒が並んでいた。
大きな窓はカーテンが開け放たれ月明りが部屋の中央まで届いていた。
司は女を抱く時ホテルの部屋を指定していた。
ホテルで一番値段の高い部屋の料金が払えないような貧乏な女は司の客にはいないからだ。
それにセックスするならどこでもいいという訳にはいかない。女を楽しませるなら最高の舞台で演技する方が自分も相手の女も楽しむことが出来るからだ。
それに司は女を抱くことが商売だが彼にもプライドがあった。
たとえ一夜限りだとしても、高い金を払う以上今までどんな男とも感じたことがないような思いをさせてやると決めていた。恋人になりきり女を抱いてやると決めていた。
だが今夜抱いてやる女は経験がないという。
比べる相手はおらず、司がはじめての男になる。
それならどんなことをしてやろうか。司が経験のない女を抱くのは初めてだが、どんな女もすることは同じ。アバンチュールを求める女もいれば、欲求不満を解消したい女もいるが、どの女も自分をひとりの女として求めてくれる男を求めていた。
男を買う女は、ただ刺激が欲しいだけで、決して危険な関係を求めているのではない。
だから今までの司はそんな女たちの欲望を満たしていた。
だが今夜の女は自分のはじめてを見知らぬ一晩だけの男に捧げようとしていた。
それなら女の望みを訊いてやろうと思った。ロマンス映画やその手の小説の読みすぎで、どこかの国の王子様に愛される、大富豪に求愛されるといったありえない夢を持つ女もいるからだ。だからそんなフリをして女を愛してやるのも一興だと思った。
「それで?どうして欲しい?俺にどんなことをして欲しい?」
窓の外の景色を眺めていた男は振り返ったが、司の目の前に立つ女は既に着ていたものを脱ぎ、裸で立っていた。
黒い髪に黒い大きな瞳。司と同年代の女にしては童顔だ。可愛らしい顔をしていると思った。
そして小さな乳房に薄いピンク色の乳首。透き通るように白い肌。
誰にも抱かれたことがない女の身体は降り積もったばかりの雪のように無垢だ。
視線を下へ巡らせると肌の白さとは対照的に下腹部の小さな丘は生まれた時と同じ黒い毛が秘めた場所を守っていた。
下半身が疼いた。そこにはじめて分け入る男が自分だと思うとスラックスの中に硬く張りつめるものを感じた。
中に早く入りたいという衝動が湧き上がり、じっとしてなど居られないと女を抱き上げるとベッドルームへ向かった。
開け放たれた扉の向うには見慣れた大きなベッド。そこに女を下ろし司も服を脱いだ。
「俺がお前のはじめてを一生忘れられないものにしてやる」
そう言った司は女に触れた途端、まるで魂の片割れに出会ったような気がした。
何かが心の内に生じた。女の顔立ちも身体も今まで抱いてきたどんな女とも違うと感じた。
手ははじめての女を気遣いたいと思うも乳房を包む掌は力を弱めることはなかった。
唇を吸い舌を蛇のように絡め、柔らかな胸を揉みしだき、尖った乳首を舐め濡らし、さらに硬くなったところで口に含み舌で転がした。
この女が欲しい。今すぐに欲しい。女の全てが欲しい。
そんな思いが湧き上がり、硬く太くなったものをすぐにでも女の中に突き入れたかった。
下半身の高ぶりは勢いよく直立して女の濡れたソコを求め痛いくらいだ。
だが女は今夜がはじめてだ。
その証拠に指を挿れた空洞の奥に抵抗を感じた。そこを指で破ることも出来るが司は硬くなった身体ですぐさまその場所を自分のものにしたかった。
だが司は男娼だ。
自分の快楽よりも女を喜ばせることが仕事だ。
それに今までどれだけ身体を重ねても、どんな女にも本気になったことはない。
お願いなどされなくても女を貫いてきた。
それが彼の仕事だから。
だが今は、目の前の女に懇願されたいと感じた。
仕事ではなく恋人として司を欲して欲しいと望んだ。
大切にとっておいたものを司にくれることに歓びを感じていた。
司はハアハアと荒い息を繰り返す女の顔を見た。
「どうした?辛いのか?」
その問いかけに首を横に振る女。
「そうか?それならこのまま続けてもいいか?」
司は声を和らげ訊いた。
女は返事を返す代わりに司の首に手をまわした。
それを合図に司は中断していた行為を続けようとキスを貪ったが、商売抜きで女が欲しかった。
果てしなくキスを続けると、やがて黒い大きな瞳が濡れた黒曜石のようになるのを見た。
女は間違いなく感じていた。
だがはじめての感覚に戸惑いもあるのか、感じているのを悟られまいと声を上げようとしない。
司は女の声が訊きたかった。名前を呼んで欲しかった。そして真紀と名乗った女の本当の名前が知りたかった。イク時その名前を叫びたかった。
司は頭を下げ乳房にきつく吸い付いた。
「…んはぁっ.....はぁッ」
はじめて上がった女の甘い声。
だがその声に司は余計に渇望を感じもう一度声を上げさせたくて、今度は女の足首を掴み、大きく開脚させると濡れそぼった秘部を舐め上げた。
「あっ…あん….あっ….はぁ….」
逃げようとした腰を掴み、引き寄せさらに舐め、溢れ出した蜜を指先で掬い取り肉襞を押し分け指を挿し入れた。
「あああっ…!はぁ…っつ…」
司は本当の恋をしたことがなかった。
だが汚れた恋なら数えきれないほどした。
どこの女を抱こうと、誰が誰を好きになろうが関係なかった。
だが恋も愛も感じたことがない男がはじめてときめきを感じた。
そして生まれてはじめて男であることの意味をなぞった。
それはごく普通の男として恋をすること。
今、本当の恋をした。
それが体から始まる恋だとしてもいいはずだ。
司は下方から女を見上げ言った。
「名前を教えてくれ。お前の本当の名前を」
司は真紀と名乗った女の名前が知りたかった。
「あたしの名前?知ってどうするの?あなたとあたしは一夜限りの恋人でしょ?それなら知らない方がいいに決まってるわ」
「俺はお前の名前を知りたい。本当の名前を教えてくれ。イクときお前の名前を呼びたい。それに俺はお前に惚れた。だから名前を教えてくれ、本当の名前を」
「駄目よ。あたしは来月結婚するの。好きでもない人と結婚させられるの。だから名前は教えられないの。あたしはその人のことが嫌いなの。でもあたしはその人から逃げることが出来ないの。だからあの男以外の人にあたしのはじめてを奪ってもらいたかったの」
自分の意思ではない結婚から逃げることが出来ない。
嫌いな男に自分のはじめてを与えたくないから他の男に奪わせるという女。
司は女を守りたいと思った。だから相手の男の名前を訊いた。
「相手の男は誰だ?」
「知ってどうするの?あたしを連れて逃げてくれるの?」
「ああ。そうして見せる。逃げてやるよ。お前を連れてな!それで相手の男の名前は?」
「その人ね。子供の頃親が決めた婚約者なの。パパが借金をしてそのお金を肩代わりした代わりとしてあたしを…..」
司は泣き出した女を慰めようと唇に優しくキスをした。
「なあ名前を言え。言ってくれ」
「その人の名前は道明寺司って言うの。道明寺財閥の御曹司で冷たい男って訊くわ。あたしが会ったのは高校生の頃一度だけで爬虫類のような目をしてた。それに髪の毛がくるくるしてて、おかしな髪型だと思ったわ。それに日本語が不自由で暴力的で怖かったのを覚えてるわ。でも10年経った今はどんな男になってるのか分からないの。見たくもないし、知りたくもないからテレビも新聞もあの男の名前が挙がった途端、目を閉じてるの。耳を塞いでるの。あたし、本当にあんな男と結婚なんてしたくない!だからお願い!あたしを連れて逃げて!」
「わかった。俺がおまえを連れて逃げてやるよ。地の果てだろうが宇宙の果てだろうが逃げればいい。だから心配するな。俺と一緒に逃げてくれ!」
おい!おい!おい!
待て!待て!待て!
ちょっと待て!
これじゃああきらじゃねぇか!
大体なんで俺が男娼やって金持ちのマダム相手なんぞしなきゃなんねぇんだよ!
それになんだよこれは!
牧野は俺と結婚することになってるのに、どうしてその男と逃げんだよ!
いや。でもあの男娼も俺だよな?
もしかして一人二役?そして二人は一人の女を巡って争う?
だがどっちも俺だろ?そんなアホな話があるか?
クソッ!!それもこれも牧野が気になるって言った俳優のことが頭の中にあったからだ!
それに柿だか栗だか知らねぇけどそんな名前の男に牧野を取られてたまるか!
司は隣にいる女を見た。
いや。いるはずの女を見た。
だがいなかった。
「ま、牧野?まき…..?」
司は立ち上ると辺りを見回したがつくしはいなかった。
そして目の前にあるスクリーンに映し出されていた映画はとっくの昔に終わっていた。
「ゴホン。支社長。おやすみのところ申し訳ございません」
司は秘書の声に振り返った。
そしてそこにいる男を見据えた。
「…….西田。今日は休みだろうが。なんでお前がここにいる?まあいい。そんなことよりあいつがいなくなった。牧野が_」
「はい。牧野様でしたら少し前にこちらをお出になられました」
「なんだと?なんで牧野は_」
と司が言いかけたところで西田が遮るように話しを継いだ。
「実はこの映画館の近くでドラマのロケがございまして。そちらに牧野様の好きな_いえ。気になる俳優の方がいらっしゃっていることをお知りになられたようでして、その現場にお出かけになられたようです」
「誰だよ?その俳優ってのは!あれか?松坂…..柿か栗かそんな名前の男か?それにしてもなんであいつは俺を起さねぇんだよ!」
映画館で二人並んで座っていたはずなのに、目が覚めてみれば隣にいたはずの女はいない。
それがどれだけ虚しいことか。
「支社長。それは牧野様の思いやりです。映画が始まってすぐにお休みになられた支社長を気遣ってのことです。疲れが溜まっている支社長を思い、目が覚めるまで寝させてあげようというお心遣いです。ですからそうお怒りになられませんようお願いいたします。それに牧野様もせっかくお気に入りの…..いえ。気がかりの俳優の方を生で御覧になることが出来るのですからいいではありませんか。男たるもの女性の我儘も悩みも全て受け止めることが出来てこそ男です。それにいつか支社長のDNAの種の保存がされるとき、牧野様が結婚してよかったと思われる男性でいなければ未来はございません」
「………」
司は映画館を出るとドラマのロケ現場と言われる場所まで車で向かった。
そして彼女が戻って来るのを待っていた。
すると急いで走って来る女の姿があった。
「ごめん道明寺。映画が終ってね、支配人さんから近くでドラマのロケしてるって言われて見に行ってたの。凄かったよ。ドラマの撮影って初めて見たけどああやって撮るんだって勉強になった。それに役者さんってオーラがあるのよね….。簡単には近寄れない雰囲気があった。スターがスターって言われるだけのことはあると思った。手を伸ばしても届かない場所にいるからスターなのよね?」
司は息を切らせながら興奮気味に喋る女を見ていた。
「俺のスターはお前だな」
「え?」
「だからお前が俺の輝く星。ガギの頃は手が届かなかったお前がいた。だってそうだろ?すぐには俺のこと振り向いてくれなかっただろ?」
司は出会った頃、何をしてもつくしに振り向いてはもらえなかった頃のことを思い出していた。世間的に言えば、道明寺財閥の跡取りである司の方が天に輝く星と言われていた。
決して地上に降りて来ることのない男だと言われていた。だがそんな男は地上で輝く自分だけの小さな星を見つけた。そしてその小さな輝きが消えてしまわないように守っていくと決めたのが18歳の時。それ以来ずっとその星を守って来た。
自分だけの輝ける小さな煌めきを。
「あの頃の俺は褒められた男じゃなかった。けど今は違うだろ?」
過去を語る声はいくらか自嘲な調子があった。
だが今だから言える話であり、彼女と出会わなければ自身が変わることはなかった。
だから彼女に会えたことは司にとって人生の中で一番の贈り物だ。
「道明寺….。ありがと」
「何がだ?」
「だってこれ。サイン。貰ってくれたんでしょ?」
つくしは走って車に戻って来る途中、映画館の支配人に呼び止められた。
そして茶封筒を渡されたが、その中につくしが気になっていた俳優のサインが収められていた。
「まあな。お前が気になってんだから仕方ねぇだろ?それにあんな男のサインの一枚や二枚どうにでもなる。それに今度うちとCM契約することになったから撮影もあるぞ?」
司は好きな女のためなら何でもするが、自分はなんて甘い男だと思った。
そして笑った。
「お前のためならどんなことでもしてやりてぇって思うのが俺だ」
それはまだ二人が高校生だった頃、司が言った言葉。
お前のためなら親と縁を切ってもいい。なんだってしてやる。
その言葉は今も司の中では生きてきて、何があろうとその思いは変わらない。
好きな女が傍で笑ってくれることが司の幸せで、彼女が司にとっては輝く星。
そしてこれから日が暮れれば、二人だけの世界で共に高みに昇り空に輝く星になるはずだ。
何しろ二人にとってままならない休日昼間のデート。
そんな二人のデートはどんなことがあっても最後は必ず愛し合うことが決め事。
愛の言葉も零れるようなキスも全てが明日の活力となるから。
そして司の人生は最高の女が永遠に隣にいてくれることだけを望んでいた。
司は隣に座った女が彼の手をぎゅっと握ると同じように握り返した。
そしてその時、頬に彼女のささやきが当たった。
「道明寺。愛してる」
「俺も」
司は顔を横に向けると女の唇にキスをした。
そして今日一番の笑顔を愛しい人に向けた。
『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris)1972年 イタリア映画
『エマニュエル夫人』(Emmanuelle)1974年 フランス映画
『ナインハーフ』(9 1/2 Weeks)1986年 アメリカ映画

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低音でセクシーな声を出す男は、愛してると言われるために生まれてきた男。
だからと言って大勢の人間から愛してると言われることを望んでいるのではない。
そして誰もが口を揃えて言うのは、道明寺司はかっこいい。
だが男にとってかっこいいは誉め言葉ではなく正義。
つまり当たり前の言葉であり今更言われても困る。
そしてベッドの上では誰にも負けないと言われる男。
だがそんな男は遠い昔、好きな女をデートに誘いたくても誘えなかった。
それは言葉を裏返せば誘って欲しいが誘ってもらえない少年の姿と言ってもいい。
だが今では大好きな人に誘われれば何をすっ飛ばしても絶対に会いに行く男になっていた。
現に今日も西田からこちらをお読み下さいと言って渡された書類を放り出しデートの時間に当てた。
そんな男がモテたいのはたったひとりの女だけ。
男はたったひとりの人から言われる愛してるの言葉が待ち遠しくて、クールな見た目とは異なりいじらしいほど健気。そんな男だからこそ久し振りの休日デートに朝からソワソワしていた。
雨の季節にはまだ早く天気は快晴。
靴の中は乾いていてすこぶる調子がいい。
だが今日のデートは映画が見たいといった女のため、映画館を貸し切った。
勿論、世田谷の邸にはシアタールームがある。だが映画館の大画面で見ることをいとしの彼女は望んだ。
映画と言えば毎年5月にフランス南部の都市カンヌで開催されるカンヌ国際映画祭は、世界で最も有名な映画祭で、ベルリン国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭と併せ世界三大映画祭のひとつだ。
司は招待状が届いていたこともあり、カンヌまで行くか?と訊いたが牧野はいいと断った。
そして見はじめた映画は警察小説と言われる分野。
舞台は昭和の終わり。有名なヤクザ映画をオマージュしたと言われるハードボイルド作品。
現代版任侠映画のようにも思えるが何故その映画が見たいのかと訊けば、気になる俳優が出ているからという理由だった。
だが司にしてみれば気に入らなかった。
スクリーンの中とはいえ隣にはこんなにいい男が座っているというのに、自分以外の男をじっと見つめる女の姿に腹が立った。それに牧野の口から訊かされた気になる俳優という言葉にムッとした。
だがその男の身長は183センチで司より2センチ低い。そして顔も断然司の方がいい。
だが若手実力派俳優と呼ばれイケメン俳優の登竜門と呼ばれる「戦隊シリーズ」でデビューし「朝ドラ」でも活躍したと言う。訊かされた名前は…松坂….柿だったから栗だったか果物の名前がついていた。
だがどんな名前にしても桃栗三年柿八年の言葉があるように、何事も成就するためには、それ相応の年月がかかるのだから、この俳優もそれなりに努力をしていることは認めてやってもいい。
それにしても牧野が通称朝ドラと呼ばれる連続テレビ小説を見ていたとは知らなかったが、どうやら撮り溜めて見ていたらしい。
だがそれもそのはずだ。何しろあの時間の牧野は満員電車で出勤途中なのだから。
そしてその男は「R指定の舞台」と呼ばれる舞台に立ち、娼夫として艶技(えんぎ)を披露したらしいが、牧野が自分以外の男に興味を抱くことはやはり容認出来ない。
それに艶技なら司の方が場数を踏んでいる。
R指定の舞台俳優がいいなら司の方が経験豊富だ。
但し、それは司の頭の中で繰り返されることが多いのだが、司の方がいいに決まってるし、そんな男に負けるはずがない。
それにしてもまさかとは思うが牧野は「R指定の舞台」とやらを見に行ったのか?
司が知らなかっただけで男の妖艶な姿を見に行ったのか?
海外へ出張している間にその男の舞台を見に行ったのか?
そしてその舞台は映画になり、その男が大胆な濡れ場を披露したと言うが、まさか牧野は俺に隠れてこっそりと見に行ったのか?
司が見たR指定の映画と言えばそれはニューヨークにいた頃。
決して見たいと思って見たのではない。
そこに、たまたま、手元にあったから見ただけであり、自らが率先して見たのではない。
それにポルノではない。芸術だ。
それにそもそも芸術作品というものは、初めは受け入れなくても後世になればいい作品だと受け入れられることが多い。
だから司が見たR指定の映画も芸術作品だったと思っている。
それは『エマニュエル夫人』
それから『ナインハーフ』
そして、つい先日妄想世界で牧野のバッグを味わったが、あの妄想はこの映画から来たに違いないと言える『ラストタンゴ・イン・パリ』
色々と物議を醸した作品であれは潤滑剤としてバターが使われたが、さすがに司はバターを使おうとは思わなかった。理由は事後バターに塗れた自身を見たくなかったからだ。
それにしてもスクリーンに映し出される俳優は娼夫としてどんな演技をしたのか。
だがもし司が男娼として買われるなら牧野つくしだけに買われたい。
牧野つくしだけを喜ばせる男娼に____
司は罪深いほどのテクニックと低い声で女をイカせることが出来ると言われていた。
だが司の指名料は高く、そんな男を指名することが出来るのは金持ちのマダムと決まっていた。だが司の場合、指名を受けたからといって簡単に身体を与えることはしない。
彼に抱かれたいと思っても彼の方が抱く女を選ぶことが出来た。
そして司はその日の気分で抱く女を決める。
だがある日、相手をすることになったのはマダムではなかった。
それは司とさして年齢が変わらない女で遅すぎる経験をしたいと司を指名してきた女。
名前は真紀と名乗っていた。
司は思った。今どきその年でセックスの経験がない女は余程見た目が酷いのだろう。だから男に相手にされないのだろうと笑いたい思いを堪えどんな女か見てやろう。面白そうだと指名を受けた。そして司はホテルの部屋のドアをノックした。
内側から鍵が開き、女が姿を見せたが俯いた姿勢なうえに部屋の明かりはつけられておらず、顔ははっきりと見えなかった。
「司だ」
男はそれだけ言うと一歩退いた女の横を通り抜け、室内へ入って行った。
そこはメープルの最高級スウィートで司もよく知るリビングルーム。
ゆったりと座れるソファに大画面のテレビ。バーカウンターには沢山の酒が並んでいた。
大きな窓はカーテンが開け放たれ月明りが部屋の中央まで届いていた。
司は女を抱く時ホテルの部屋を指定していた。
ホテルで一番値段の高い部屋の料金が払えないような貧乏な女は司の客にはいないからだ。
それにセックスするならどこでもいいという訳にはいかない。女を楽しませるなら最高の舞台で演技する方が自分も相手の女も楽しむことが出来るからだ。
それに司は女を抱くことが商売だが彼にもプライドがあった。
たとえ一夜限りだとしても、高い金を払う以上今までどんな男とも感じたことがないような思いをさせてやると決めていた。恋人になりきり女を抱いてやると決めていた。
だが今夜抱いてやる女は経験がないという。
比べる相手はおらず、司がはじめての男になる。
それならどんなことをしてやろうか。司が経験のない女を抱くのは初めてだが、どんな女もすることは同じ。アバンチュールを求める女もいれば、欲求不満を解消したい女もいるが、どの女も自分をひとりの女として求めてくれる男を求めていた。
男を買う女は、ただ刺激が欲しいだけで、決して危険な関係を求めているのではない。
だから今までの司はそんな女たちの欲望を満たしていた。
だが今夜の女は自分のはじめてを見知らぬ一晩だけの男に捧げようとしていた。
それなら女の望みを訊いてやろうと思った。ロマンス映画やその手の小説の読みすぎで、どこかの国の王子様に愛される、大富豪に求愛されるといったありえない夢を持つ女もいるからだ。だからそんなフリをして女を愛してやるのも一興だと思った。
「それで?どうして欲しい?俺にどんなことをして欲しい?」
窓の外の景色を眺めていた男は振り返ったが、司の目の前に立つ女は既に着ていたものを脱ぎ、裸で立っていた。
黒い髪に黒い大きな瞳。司と同年代の女にしては童顔だ。可愛らしい顔をしていると思った。
そして小さな乳房に薄いピンク色の乳首。透き通るように白い肌。
誰にも抱かれたことがない女の身体は降り積もったばかりの雪のように無垢だ。
視線を下へ巡らせると肌の白さとは対照的に下腹部の小さな丘は生まれた時と同じ黒い毛が秘めた場所を守っていた。
下半身が疼いた。そこにはじめて分け入る男が自分だと思うとスラックスの中に硬く張りつめるものを感じた。
中に早く入りたいという衝動が湧き上がり、じっとしてなど居られないと女を抱き上げるとベッドルームへ向かった。
開け放たれた扉の向うには見慣れた大きなベッド。そこに女を下ろし司も服を脱いだ。
「俺がお前のはじめてを一生忘れられないものにしてやる」
そう言った司は女に触れた途端、まるで魂の片割れに出会ったような気がした。
何かが心の内に生じた。女の顔立ちも身体も今まで抱いてきたどんな女とも違うと感じた。
手ははじめての女を気遣いたいと思うも乳房を包む掌は力を弱めることはなかった。
唇を吸い舌を蛇のように絡め、柔らかな胸を揉みしだき、尖った乳首を舐め濡らし、さらに硬くなったところで口に含み舌で転がした。
この女が欲しい。今すぐに欲しい。女の全てが欲しい。
そんな思いが湧き上がり、硬く太くなったものをすぐにでも女の中に突き入れたかった。
下半身の高ぶりは勢いよく直立して女の濡れたソコを求め痛いくらいだ。
だが女は今夜がはじめてだ。
その証拠に指を挿れた空洞の奥に抵抗を感じた。そこを指で破ることも出来るが司は硬くなった身体ですぐさまその場所を自分のものにしたかった。
だが司は男娼だ。
自分の快楽よりも女を喜ばせることが仕事だ。
それに今までどれだけ身体を重ねても、どんな女にも本気になったことはない。
お願いなどされなくても女を貫いてきた。
それが彼の仕事だから。
だが今は、目の前の女に懇願されたいと感じた。
仕事ではなく恋人として司を欲して欲しいと望んだ。
大切にとっておいたものを司にくれることに歓びを感じていた。
司はハアハアと荒い息を繰り返す女の顔を見た。
「どうした?辛いのか?」
その問いかけに首を横に振る女。
「そうか?それならこのまま続けてもいいか?」
司は声を和らげ訊いた。
女は返事を返す代わりに司の首に手をまわした。
それを合図に司は中断していた行為を続けようとキスを貪ったが、商売抜きで女が欲しかった。
果てしなくキスを続けると、やがて黒い大きな瞳が濡れた黒曜石のようになるのを見た。
女は間違いなく感じていた。
だがはじめての感覚に戸惑いもあるのか、感じているのを悟られまいと声を上げようとしない。
司は女の声が訊きたかった。名前を呼んで欲しかった。そして真紀と名乗った女の本当の名前が知りたかった。イク時その名前を叫びたかった。
司は頭を下げ乳房にきつく吸い付いた。
「…んはぁっ.....はぁッ」
はじめて上がった女の甘い声。
だがその声に司は余計に渇望を感じもう一度声を上げさせたくて、今度は女の足首を掴み、大きく開脚させると濡れそぼった秘部を舐め上げた。
「あっ…あん….あっ….はぁ….」
逃げようとした腰を掴み、引き寄せさらに舐め、溢れ出した蜜を指先で掬い取り肉襞を押し分け指を挿し入れた。
「あああっ…!はぁ…っつ…」
司は本当の恋をしたことがなかった。
だが汚れた恋なら数えきれないほどした。
どこの女を抱こうと、誰が誰を好きになろうが関係なかった。
だが恋も愛も感じたことがない男がはじめてときめきを感じた。
そして生まれてはじめて男であることの意味をなぞった。
それはごく普通の男として恋をすること。
今、本当の恋をした。
それが体から始まる恋だとしてもいいはずだ。
司は下方から女を見上げ言った。
「名前を教えてくれ。お前の本当の名前を」
司は真紀と名乗った女の名前が知りたかった。
「あたしの名前?知ってどうするの?あなたとあたしは一夜限りの恋人でしょ?それなら知らない方がいいに決まってるわ」
「俺はお前の名前を知りたい。本当の名前を教えてくれ。イクときお前の名前を呼びたい。それに俺はお前に惚れた。だから名前を教えてくれ、本当の名前を」
「駄目よ。あたしは来月結婚するの。好きでもない人と結婚させられるの。だから名前は教えられないの。あたしはその人のことが嫌いなの。でもあたしはその人から逃げることが出来ないの。だからあの男以外の人にあたしのはじめてを奪ってもらいたかったの」
自分の意思ではない結婚から逃げることが出来ない。
嫌いな男に自分のはじめてを与えたくないから他の男に奪わせるという女。
司は女を守りたいと思った。だから相手の男の名前を訊いた。
「相手の男は誰だ?」
「知ってどうするの?あたしを連れて逃げてくれるの?」
「ああ。そうして見せる。逃げてやるよ。お前を連れてな!それで相手の男の名前は?」
「その人ね。子供の頃親が決めた婚約者なの。パパが借金をしてそのお金を肩代わりした代わりとしてあたしを…..」
司は泣き出した女を慰めようと唇に優しくキスをした。
「なあ名前を言え。言ってくれ」
「その人の名前は道明寺司って言うの。道明寺財閥の御曹司で冷たい男って訊くわ。あたしが会ったのは高校生の頃一度だけで爬虫類のような目をしてた。それに髪の毛がくるくるしてて、おかしな髪型だと思ったわ。それに日本語が不自由で暴力的で怖かったのを覚えてるわ。でも10年経った今はどんな男になってるのか分からないの。見たくもないし、知りたくもないからテレビも新聞もあの男の名前が挙がった途端、目を閉じてるの。耳を塞いでるの。あたし、本当にあんな男と結婚なんてしたくない!だからお願い!あたしを連れて逃げて!」
「わかった。俺がおまえを連れて逃げてやるよ。地の果てだろうが宇宙の果てだろうが逃げればいい。だから心配するな。俺と一緒に逃げてくれ!」
おい!おい!おい!
待て!待て!待て!
ちょっと待て!
これじゃああきらじゃねぇか!
大体なんで俺が男娼やって金持ちのマダム相手なんぞしなきゃなんねぇんだよ!
それになんだよこれは!
牧野は俺と結婚することになってるのに、どうしてその男と逃げんだよ!
いや。でもあの男娼も俺だよな?
もしかして一人二役?そして二人は一人の女を巡って争う?
だがどっちも俺だろ?そんなアホな話があるか?
クソッ!!それもこれも牧野が気になるって言った俳優のことが頭の中にあったからだ!
それに柿だか栗だか知らねぇけどそんな名前の男に牧野を取られてたまるか!
司は隣にいる女を見た。
いや。いるはずの女を見た。
だがいなかった。
「ま、牧野?まき…..?」
司は立ち上ると辺りを見回したがつくしはいなかった。
そして目の前にあるスクリーンに映し出されていた映画はとっくの昔に終わっていた。
「ゴホン。支社長。おやすみのところ申し訳ございません」
司は秘書の声に振り返った。
そしてそこにいる男を見据えた。
「…….西田。今日は休みだろうが。なんでお前がここにいる?まあいい。そんなことよりあいつがいなくなった。牧野が_」
「はい。牧野様でしたら少し前にこちらをお出になられました」
「なんだと?なんで牧野は_」
と司が言いかけたところで西田が遮るように話しを継いだ。
「実はこの映画館の近くでドラマのロケがございまして。そちらに牧野様の好きな_いえ。気になる俳優の方がいらっしゃっていることをお知りになられたようでして、その現場にお出かけになられたようです」
「誰だよ?その俳優ってのは!あれか?松坂…..柿か栗かそんな名前の男か?それにしてもなんであいつは俺を起さねぇんだよ!」
映画館で二人並んで座っていたはずなのに、目が覚めてみれば隣にいたはずの女はいない。
それがどれだけ虚しいことか。
「支社長。それは牧野様の思いやりです。映画が始まってすぐにお休みになられた支社長を気遣ってのことです。疲れが溜まっている支社長を思い、目が覚めるまで寝させてあげようというお心遣いです。ですからそうお怒りになられませんようお願いいたします。それに牧野様もせっかくお気に入りの…..いえ。気がかりの俳優の方を生で御覧になることが出来るのですからいいではありませんか。男たるもの女性の我儘も悩みも全て受け止めることが出来てこそ男です。それにいつか支社長のDNAの種の保存がされるとき、牧野様が結婚してよかったと思われる男性でいなければ未来はございません」
「………」
司は映画館を出るとドラマのロケ現場と言われる場所まで車で向かった。
そして彼女が戻って来るのを待っていた。
すると急いで走って来る女の姿があった。
「ごめん道明寺。映画が終ってね、支配人さんから近くでドラマのロケしてるって言われて見に行ってたの。凄かったよ。ドラマの撮影って初めて見たけどああやって撮るんだって勉強になった。それに役者さんってオーラがあるのよね….。簡単には近寄れない雰囲気があった。スターがスターって言われるだけのことはあると思った。手を伸ばしても届かない場所にいるからスターなのよね?」
司は息を切らせながら興奮気味に喋る女を見ていた。
「俺のスターはお前だな」
「え?」
「だからお前が俺の輝く星。ガギの頃は手が届かなかったお前がいた。だってそうだろ?すぐには俺のこと振り向いてくれなかっただろ?」
司は出会った頃、何をしてもつくしに振り向いてはもらえなかった頃のことを思い出していた。世間的に言えば、道明寺財閥の跡取りである司の方が天に輝く星と言われていた。
決して地上に降りて来ることのない男だと言われていた。だがそんな男は地上で輝く自分だけの小さな星を見つけた。そしてその小さな輝きが消えてしまわないように守っていくと決めたのが18歳の時。それ以来ずっとその星を守って来た。
自分だけの輝ける小さな煌めきを。
「あの頃の俺は褒められた男じゃなかった。けど今は違うだろ?」
過去を語る声はいくらか自嘲な調子があった。
だが今だから言える話であり、彼女と出会わなければ自身が変わることはなかった。
だから彼女に会えたことは司にとって人生の中で一番の贈り物だ。
「道明寺….。ありがと」
「何がだ?」
「だってこれ。サイン。貰ってくれたんでしょ?」
つくしは走って車に戻って来る途中、映画館の支配人に呼び止められた。
そして茶封筒を渡されたが、その中につくしが気になっていた俳優のサインが収められていた。
「まあな。お前が気になってんだから仕方ねぇだろ?それにあんな男のサインの一枚や二枚どうにでもなる。それに今度うちとCM契約することになったから撮影もあるぞ?」
司は好きな女のためなら何でもするが、自分はなんて甘い男だと思った。
そして笑った。
「お前のためならどんなことでもしてやりてぇって思うのが俺だ」
それはまだ二人が高校生だった頃、司が言った言葉。
お前のためなら親と縁を切ってもいい。なんだってしてやる。
その言葉は今も司の中では生きてきて、何があろうとその思いは変わらない。
好きな女が傍で笑ってくれることが司の幸せで、彼女が司にとっては輝く星。
そしてこれから日が暮れれば、二人だけの世界で共に高みに昇り空に輝く星になるはずだ。
何しろ二人にとってままならない休日昼間のデート。
そんな二人のデートはどんなことがあっても最後は必ず愛し合うことが決め事。
愛の言葉も零れるようなキスも全てが明日の活力となるから。
そして司の人生は最高の女が永遠に隣にいてくれることだけを望んでいた。
司は隣に座った女が彼の手をぎゅっと握ると同じように握り返した。
そしてその時、頬に彼女のささやきが当たった。
「道明寺。愛してる」
「俺も」
司は顔を横に向けると女の唇にキスをした。
そして今日一番の笑顔を愛しい人に向けた。
『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris)1972年 イタリア映画
『エマニュエル夫人』(Emmanuelle)1974年 フランス映画
『ナインハーフ』(9 1/2 Weeks)1986年 アメリカ映画

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