「諸君。紹介する。今日からうちのメンバーに加わった牧野だ。滝川産業からの出向で期限付きだが副社長付として働いてもらうことになった」
つくしが連れて来られたのは『エネルギー事業部 石油・ガス開発部 別室』と書かれたプレートが扉の横の壁に取り付けられた広々とした部屋。
視線をめぐらせたが、広さのわりに置かれているのは、ファイルキャビネットやコピー機、個人用のデスクとミーティング用の大きなテーブルだけという贅沢な使い方がされていて、他のスペースには何もなく寒々とした印象を受けた。
だがそれは逆に滝川産業は物が多すぎたのかもしれない。
そして着任の挨拶をしなければならないが、副社長付という言葉に、ここにいる人間がどんな反応を示すのか。
意気揚々とまでは言わないが、この会社へ足を運んだときは考えてもみなかったことだが、こうして同僚になる人間の前に立ったとき頭を過ったのは、目の前の女は副社長の後ろ盾があるように思われているのでは?ということだ。
何しろ突然の出向者に首を傾げない方がおかしい。
滝川産業は、道明寺グループの中でも1年前にグループに加わったばかりの会社であり、繋がりが深い会社ではない。そんな会社から出向してきた女が副社長付になることを訝しく思う人間がいることは当たり前であり、特に道明寺司という人物が女性にモテる男だということを知っている以上、なんらかの勘ぐりがあったとしてもおかしくはない。
つまり恋人だ。愛人だ。そういった関係に思われたとしてもおかしくはないと言うことに、今更ながら気付いた。
だがそれを言えば自惚れるなと言われるはずで、何も気にすることはないはずだと気を取り直した。
「おはようございます。滝川産業から参りました牧野つくしと申します。本日から1年間こちらで勉強させていただくことになりました。滝川産業では営業のサポートをしており、こちらの仕事とは全く分野が異なりますが、色々勉強させていただきたいと思っております。皆様には色々とご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
と、つくしは深々と頭を下げた。
「よろしく牧野さん。田中です」
「どうも小島です」
「はじめまして。沢田です」
「おはようございます。佐々木です」
立ち上り名前を名乗ったのは男性3人と女性がひとり。
3人の男性は表情を崩すことはなかったが、紅一点佐々木と名乗った女性だけがつくしに微笑んだが、年の頃はつくしと同じ位。もしくは一つ二つ年上といった程度だと見た。
男性のうち二人は40歳前後。あとのひとりは20代の半ばといったところだ。
そして大企業で働くことを誇り思う人間は多いが、ここにいる4人もそういった雰囲気があった。それは外から来た人間だから分かるといったものなのかもしれないが、道明寺という知名度があり、待遇のいい会社に入社した、選ばれたという誇りといったものが感じられた。
そして、4月の異動時期とは外れた出向者を迎え入れることに、疑問を持たれることは分かっていたが、つくしに向けられた視線は案外あっさりとしたものだった。
「牧野は石油事業とはまったく関係がない仕事をしていた。その点については何故彼女がここにいるのかと思うだろう。だがこれは人事交流の一環であり忙しい職場を経験してもらうことで彼女は成長出来る。同じ仕事を毎日繰り返すことが悪いとは言わないが、別の会社を経験することで視野が狭くなることも防げるはずだ。また君たちも彼女を通して今までとは違った経験が出来るはずだ。そんな思いから彼女にはここで働いてもらうことにしたが、外で学ぶチャンスが与えられた人間は幸運なはずだ」
副社長にそこまで言われれば頷き返す以外なく、同じ仕事を繰り返すことで視野が狭くなるということはもっともな話だが、妙な期待をかけられたようで面映ゆい思いもしていた。
そして彼女を通して今までとは違った経験が出来るはずだの言葉は、迷惑をかけられることもある、といった意味に捉えたのは自分だけではないはずだ。
「早いところ会社の雰囲気に慣れてもらうためにも、牧野に頼みたいことがあれば何でも頼め。それがコピーだろうがファイリングだろうが結構だ。仕事はそういったことも重要だ。山積みにされた資料の整理も誰かがやる仕事であり誰かがやらなければ永遠に終わることがない仕事になる。そうだな?沢田?」
副社長の視線が向いたのは、メンバーの中で一番若い男性。
「あ、はい。すぐに片付けようと思ったんですがつい…」
沢田と名乗った男性がバツの悪そうな顔をしたが、それもそのはずだ。
副社長の厳しい視線が向けられたのは、沢田のデスクとその足下に置かれたいくつもの太いファイル。背表紙に書かれた文字からも資料であることが分かる。
大きな会社になればなるほど、資料室の他にも知的財産について調べるための図書室といったものを持つが、道明寺ほどのクラスになれば大きな図書室があるはずだ。そしてそこから借りてきた図書とファイルに挟まれた資料というものが、かなりの数置かれていた。
「言い訳をするな。いいか。資料は決められたところにあってはじめて資料としての役割を果たす。お前だけがいつまでもそばに置いていいものじゃない。他の人間が見ようとしてもそこになければそれは仕事を滞らせることになる。仕事は一人でするものじゃない。チームワークといったものが重要だ。これからお前も大きな契約を纏めていくことになれば、その重要性が分かるはずだがまだ分からないか?」
副社長の口調から感じられるのは、沢田と言う男性は今までも言われたことがあるということだ。
そして不用意なことに言い訳のような言葉を発し、副社長の顔が鋭くなったのを見たはずだ。
つくしもそれに気づき思わず声を上げた。
「あの。沢田さん。私がします。保管場所さえおっしゃって下さればその資料、私が片づけます」
横合いから口を挟んだ女に、隣に立つ男の視線が向き、眉がゆっくりと上がったような気がした。
もしかすると初日早々出過ぎたマネをしたかと思うも、まだ若い沢田という社員の動揺がつくしに伝わってきたのだ。それに出向してきた人間だからといって使うのを躊躇うことは止めて欲しかった。
「副社長もおっしゃいましたよね。コピーだろうがファイリングだろうが構わないから頼めと。ですからその仕事を私にさせて下さい。その程度ならすぐに出来ます。どうすればいいか指示して下さい」
つくしはそう言ったが沢田は恐縮した。
「でも、ここにある資料は、ここだけで片付くものではないんです。それに資料室だけではなく地下の倉庫から持って来たものもあるんです。ですから初日早々牧野さんにお願いする訳には_」
今の沢田の発言は、目の前にいる副社長と今日から自分たちと働くことになった女との関係を推し量っているようにも思えた。
だがそんな沢田の態度を一蹴したのは副社長だ。
「沢田。牧野がそう言っているんだ。やってもらえ。それに牧野は客じゃない。牧野は今日からこの会社の人間と同じに扱え。特別扱いをする必要はない」
沢田の言葉に被せるように言われた言葉は、その通りだと思う。
つくしは早速仕事が出来ることが嬉しかった。何もしないでいるよりも忙しくしている方が性に合っている。
「じゃあ早速これお願いします。場所は地下2階の資料室ですが、場所と行き方をお教えします」
と言われ渡された厚さ10センチのA4ファイルを受け取ったが、ぎっしりと紙が綴じられたそれは、かなりの重さがあったが「あと5冊ありますから」と言われ思わず嘘でしょ?と呟いていた。
司は牧野つくしを出向させた以上仕事をさせるつもりで遊ばせるつもりはさらさらない。
むしろ、しっかり働かせてやるつもりでいた。
そして人事考課の話をしたが、それは嘘ではない。そして評価通りだとすれば、どんな仕事だろうと前向きであり、成果を上げようとするはずだ。
そして司に秋波を送るような女なら、やはりこの女も男の金が目当てということになるのだが、それならそれでいい。虜にする手間が省けるというものだ。
落とすまでもない、所詮今まで周りにいた大勢の女と同じということだ。

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視線をめぐらせたが、広さのわりに置かれているのは、ファイルキャビネットやコピー機、個人用のデスクとミーティング用の大きなテーブルだけという贅沢な使い方がされていて、他のスペースには何もなく寒々とした印象を受けた。
だがそれは逆に滝川産業は物が多すぎたのかもしれない。
そして着任の挨拶をしなければならないが、副社長付という言葉に、ここにいる人間がどんな反応を示すのか。
意気揚々とまでは言わないが、この会社へ足を運んだときは考えてもみなかったことだが、こうして同僚になる人間の前に立ったとき頭を過ったのは、目の前の女は副社長の後ろ盾があるように思われているのでは?ということだ。
何しろ突然の出向者に首を傾げない方がおかしい。
滝川産業は、道明寺グループの中でも1年前にグループに加わったばかりの会社であり、繋がりが深い会社ではない。そんな会社から出向してきた女が副社長付になることを訝しく思う人間がいることは当たり前であり、特に道明寺司という人物が女性にモテる男だということを知っている以上、なんらかの勘ぐりがあったとしてもおかしくはない。
つまり恋人だ。愛人だ。そういった関係に思われたとしてもおかしくはないと言うことに、今更ながら気付いた。
だがそれを言えば自惚れるなと言われるはずで、何も気にすることはないはずだと気を取り直した。
「おはようございます。滝川産業から参りました牧野つくしと申します。本日から1年間こちらで勉強させていただくことになりました。滝川産業では営業のサポートをしており、こちらの仕事とは全く分野が異なりますが、色々勉強させていただきたいと思っております。皆様には色々とご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
と、つくしは深々と頭を下げた。
「よろしく牧野さん。田中です」
「どうも小島です」
「はじめまして。沢田です」
「おはようございます。佐々木です」
立ち上り名前を名乗ったのは男性3人と女性がひとり。
3人の男性は表情を崩すことはなかったが、紅一点佐々木と名乗った女性だけがつくしに微笑んだが、年の頃はつくしと同じ位。もしくは一つ二つ年上といった程度だと見た。
男性のうち二人は40歳前後。あとのひとりは20代の半ばといったところだ。
そして大企業で働くことを誇り思う人間は多いが、ここにいる4人もそういった雰囲気があった。それは外から来た人間だから分かるといったものなのかもしれないが、道明寺という知名度があり、待遇のいい会社に入社した、選ばれたという誇りといったものが感じられた。
そして、4月の異動時期とは外れた出向者を迎え入れることに、疑問を持たれることは分かっていたが、つくしに向けられた視線は案外あっさりとしたものだった。
「牧野は石油事業とはまったく関係がない仕事をしていた。その点については何故彼女がここにいるのかと思うだろう。だがこれは人事交流の一環であり忙しい職場を経験してもらうことで彼女は成長出来る。同じ仕事を毎日繰り返すことが悪いとは言わないが、別の会社を経験することで視野が狭くなることも防げるはずだ。また君たちも彼女を通して今までとは違った経験が出来るはずだ。そんな思いから彼女にはここで働いてもらうことにしたが、外で学ぶチャンスが与えられた人間は幸運なはずだ」
副社長にそこまで言われれば頷き返す以外なく、同じ仕事を繰り返すことで視野が狭くなるということはもっともな話だが、妙な期待をかけられたようで面映ゆい思いもしていた。
そして彼女を通して今までとは違った経験が出来るはずだの言葉は、迷惑をかけられることもある、といった意味に捉えたのは自分だけではないはずだ。
「早いところ会社の雰囲気に慣れてもらうためにも、牧野に頼みたいことがあれば何でも頼め。それがコピーだろうがファイリングだろうが結構だ。仕事はそういったことも重要だ。山積みにされた資料の整理も誰かがやる仕事であり誰かがやらなければ永遠に終わることがない仕事になる。そうだな?沢田?」
副社長の視線が向いたのは、メンバーの中で一番若い男性。
「あ、はい。すぐに片付けようと思ったんですがつい…」
沢田と名乗った男性がバツの悪そうな顔をしたが、それもそのはずだ。
副社長の厳しい視線が向けられたのは、沢田のデスクとその足下に置かれたいくつもの太いファイル。背表紙に書かれた文字からも資料であることが分かる。
大きな会社になればなるほど、資料室の他にも知的財産について調べるための図書室といったものを持つが、道明寺ほどのクラスになれば大きな図書室があるはずだ。そしてそこから借りてきた図書とファイルに挟まれた資料というものが、かなりの数置かれていた。
「言い訳をするな。いいか。資料は決められたところにあってはじめて資料としての役割を果たす。お前だけがいつまでもそばに置いていいものじゃない。他の人間が見ようとしてもそこになければそれは仕事を滞らせることになる。仕事は一人でするものじゃない。チームワークといったものが重要だ。これからお前も大きな契約を纏めていくことになれば、その重要性が分かるはずだがまだ分からないか?」
副社長の口調から感じられるのは、沢田と言う男性は今までも言われたことがあるということだ。
そして不用意なことに言い訳のような言葉を発し、副社長の顔が鋭くなったのを見たはずだ。
つくしもそれに気づき思わず声を上げた。
「あの。沢田さん。私がします。保管場所さえおっしゃって下さればその資料、私が片づけます」
横合いから口を挟んだ女に、隣に立つ男の視線が向き、眉がゆっくりと上がったような気がした。
もしかすると初日早々出過ぎたマネをしたかと思うも、まだ若い沢田という社員の動揺がつくしに伝わってきたのだ。それに出向してきた人間だからといって使うのを躊躇うことは止めて欲しかった。
「副社長もおっしゃいましたよね。コピーだろうがファイリングだろうが構わないから頼めと。ですからその仕事を私にさせて下さい。その程度ならすぐに出来ます。どうすればいいか指示して下さい」
つくしはそう言ったが沢田は恐縮した。
「でも、ここにある資料は、ここだけで片付くものではないんです。それに資料室だけではなく地下の倉庫から持って来たものもあるんです。ですから初日早々牧野さんにお願いする訳には_」
今の沢田の発言は、目の前にいる副社長と今日から自分たちと働くことになった女との関係を推し量っているようにも思えた。
だがそんな沢田の態度を一蹴したのは副社長だ。
「沢田。牧野がそう言っているんだ。やってもらえ。それに牧野は客じゃない。牧野は今日からこの会社の人間と同じに扱え。特別扱いをする必要はない」
沢田の言葉に被せるように言われた言葉は、その通りだと思う。
つくしは早速仕事が出来ることが嬉しかった。何もしないでいるよりも忙しくしている方が性に合っている。
「じゃあ早速これお願いします。場所は地下2階の資料室ですが、場所と行き方をお教えします」
と言われ渡された厚さ10センチのA4ファイルを受け取ったが、ぎっしりと紙が綴じられたそれは、かなりの重さがあったが「あと5冊ありますから」と言われ思わず嘘でしょ?と呟いていた。
司は牧野つくしを出向させた以上仕事をさせるつもりで遊ばせるつもりはさらさらない。
むしろ、しっかり働かせてやるつもりでいた。
そして人事考課の話をしたが、それは嘘ではない。そして評価通りだとすれば、どんな仕事だろうと前向きであり、成果を上げようとするはずだ。
そして司に秋波を送るような女なら、やはりこの女も男の金が目当てということになるのだが、それならそれでいい。虜にする手間が省けるというものだ。
落とすまでもない、所詮今まで周りにいた大勢の女と同じということだ。

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Comment:2
出向先は道明寺副社長が指揮を取るプロジェクト。
4月の異動があった後の再びの異動は誰もが驚くことであり、つくし自身も驚いているが、目の前にそびえ立つ地上55階地下4階建てのビル全てが道明寺ホールディングスのものだということにも、今更ながら驚いていた。
カルチャーショックとまでは言わないが、道明寺という会社の規模から当然と言われればそれまでだが、8階までしかなかったビルの中にあった滝川産業とは規模が違う。
そして従業員300名ほどの会社から4万人を抱えるコングロマリットの本体で働くことが、それがたとえ1年間のいう限られた期間であっても、チャレンジになることは分かっていた。
受付けで名前を名乗り、入館証を渡され、行き先は最上階の秘書室ですと言われ、そこにいたのは秘書室長であり道明寺司の秘書の男性。
つい先日滝川産業の応接室で顔を合わせた銀縁眼鏡の男性は、お待ちしておりましたと言ったが、一切の感情は見せず淡々と言われ、その人が道明寺司の懐刀と呼ばれる西田という男性だと知った。
「牧野さん。あなたのIDカードですがこちらになります。ですからそちらの入館証は受付けでお返し下さい」
と渡されたのは、写真入りのIDだが写真は滝川産業のものと同じだったが、どうやって手に入れたかなど考えても無駄だ。
同じグループ会社の中でのこと。どうにでもなるということだ。
「では、副社長室へご案内いたします。それから牧野さんの立場ですが、副社長付になります」
と言われ長い廊下の先にある執務室に案内されたが、黒檀で作られた家具と黒革のソファが置かれた部屋は、重厚さを感じさせ他人を圧倒する雰囲気があった。
「副社長。本日から勤務していただく牧野つくしさんです」
秘書がそう言ったが、デスクに向かっている男は顔を上げることはなかったが口を開いた。
「今手が離せない。そこのソファで待ってくれ」
とだけ言われ、つくしは秘書に促されソファに腰を下ろしたが、男は一度もこちらを見ようとはしなかった。
「では牧野さん。暫くお待ち頂きますがよろしいですね?」
「えっ?ええ勿論構いません」
別に待つのは構わなかった。
それに待つだの待てないだの言える立場ではないのだから。
だが人事交流での出向で副社長付になったのは、いったいどんな意味があるのか。
それはそのままの意味で受け取れば、つくしの立場は副社長補佐や特命事項の担当ということになり、新規事業や新規部門の立ち上げの前段階での呼称として考えればいいのだろうが、そういった立場を与えられることはおこがましい思いがしていた。
そんなつくしの思いをよそに、骨の髄まで完璧な秘書は、表情を変えず手にしていた書類をデスクに置くと「それでは牧野さん。後は副社長の指示に従って下さい」と言い執務室を後にした。
それにしても考えるは、何故自分が道明寺副社長と仕事をすることになったのかということだ。
だが副社長は、自分の会社の人事を好きに出来ると言えば語弊があるにしても、実際気に入らなければ飛ばすことも出来れば、逆に気に入れば傍に置くことも出来る。
仮にこの人事が副社長の気まぐれだとしても、この場所で働くことになった以上最善を尽くすしかないのだが、仕事の内容は畑違いもいいところだった。
かつて道明寺財閥が唯一持っていなかった事業として石油事業があったが、それを変えたのが副社長であり財閥の後継者である道明寺司だ。
彼がアブダビの石油王と提携を結んだのは、NYで暮らし財閥の経営を学んでいた二十歳の頃の功績で大きなニュースとして取り上げられた。
当時つくしは大学生で、ビジネスについて詳しくはなかったが、同じ年頃の青年が大きな契約を纏めたということが、学生の間でも話題になったことは記憶している。
そして彼が表紙を飾った経済誌は独占記事が載ったこともあり、その分野の雑誌としては、驚異的な売り上げがあったと訊いた。
それは、普段そういった雑誌には縁のない大勢の女性たちが購入したからだ。
だが石油王との提携は、あくまでも提携関係であり25年間という契約期間が決められている。そしてその契約期間のうち16年の歳月が流れ、残り9年となったところでの契約の延長というものが必要となるが、財閥としては更に25年の延長の合意を望んでいた。
そしてアブダビだけに頼ることなく、別の石油に関しての事業といったものを進めていたが、それがこのたび実を結んだ。
それは、北にはロシア。南にはイラン。
西にはジョージア、アルメニア、トルコ、黒海。
東はカスピ海に面し、南コーカサス地方と呼ばれ、長らくソビエト連邦だったアゼルバイジャン共和国に於けるカスピ海での油田開発事業に於いて新たな石油採掘の権利を取得したことだ。
アゼルバイジャンと言えば、ソビエト連邦以前の帝政ロシアの頃から石油の産出地として有名なバクー油田があり、ペルシャ湾の油田が見つかるまでは、世界一の油田と呼ばれていた場所だ。
つくしにとって全く畑違いの石油事業。
だから考えれば考えるほど、何故自分がと思う。
人事交流ならもっと楽な仕事といっては怒られるかもしれないが、何も道明寺副社長が指揮する仕事をしなくてもいいのではないかといった思いがあった。
「どうした?何か不満か?」
「えっ?」
つくしは考え事をしていて気付かなかったが、副社長である道明寺司は執務デスクの向うから悠然とつくしを見ていた。
ビジネスをする道明寺司は獲物を狙う豹のようだと言われるが、黒い瞳は鋭く、見る者を射抜いてしまう迫力があった。
それはあの面談では感じられなかった一面。
そして彼は立ち上がりソファまで来ると、つくしの真正面に腰を下ろした。
「牧野。今日から君のことは牧野と呼ばせてもらう。何しろ君は今日から私の部下になった。これから1年という期間だが出向して良かったと思えるような経験をしてもらえたらと思う。それにうちのグループは女性社員の地位の向上といったものに力を入れている。それから出向が終った時点で考えればいい話だが、君が滝川産業ではなくうちで自分の能力を試したいというなら歓迎する。何か質問はあるか?」
質問したいことがあるかと言われれば、勿論訊きたいことがあった。
どうして自分が人事交流の人材として選ばれたのか。
「あの….お聞きしたかったんです。どうして私がこちらの会社へ出向することになったのか。あの面談がきっかけだったんでしょうか。それ以外に考えられませんから。もしかするとあの時お話した内容で何か気になることがあったのでしょうか?」
司に向けられる眼差しが、真面目そのものであることは感じられた。
だが仕事では真面目な表情を浮かべる女が、別の顔を持つということはよくある話だ。
姪の結婚生活をめちゃくちゃにしようとしている図々しい女。
だが今の女は、あの時と同じ薄い化粧に地味な服装をしていた。
あの時はネイビーストライプのパンツに白いブラウスという服装だったが、道明寺での勤務初日も地味なチャコールグレーのスーツに最小限の化粧だ。
そしてそのスーツの色は、ネズミの色に見え、野ネズミなら野外に生息するネズミであり可愛いいものだが、牧野つくしは人家やその周辺に棲息するドブネズミで家人に被害を与える。
現にその被害を受けたのが姪だ。
仮に女が金と贅沢な暮らしを望んで姪の夫と付き合っているのなら、そのしっぽを掴めばいい話だが、姪が叔父である司に求めたのは、叔父の魅力で女を虜にし、捨てること。
そのために呼ばれたと知ったらこの女はどうするのか。
それを考えたとき、思わず浮かびそうになった笑みを抑え静かに言った。
「うちの会社では人事交流は盛んだ。ただ滝川産業とはまだなかった。だから先日面談をさせてもらったことがきっかけだと思ってくれていい。どうして君に決めたかだが人事考課を参考にしたが、評価が高かったことが決め手だ」
「そうですか…..」
人事考課は配置転換や出向の参考とされており、それに女は納得したのか呟いたが、その言葉はどこか不安そうだった。
「そんなに深く考える必要はない。先ほども話したが、うちで仕事をして続けたいと思えば残ればいい。そのあたりはグループ会社内での話だ。なんとでもなる」
と言ったが心の中では己の言葉に失笑していた。
牧野つくしが道明寺に残る確率などあるはずがないのだから。
女を誘惑し、夢中にさせ虜にする。
そして本性を暴いて捨てる。
そのためには甘い言葉のひとつも必要だな、と司は本来なら蔑みの表情を浮かべるところを、薄く笑みを浮かべていた。

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4月の異動があった後の再びの異動は誰もが驚くことであり、つくし自身も驚いているが、目の前にそびえ立つ地上55階地下4階建てのビル全てが道明寺ホールディングスのものだということにも、今更ながら驚いていた。
カルチャーショックとまでは言わないが、道明寺という会社の規模から当然と言われればそれまでだが、8階までしかなかったビルの中にあった滝川産業とは規模が違う。
そして従業員300名ほどの会社から4万人を抱えるコングロマリットの本体で働くことが、それがたとえ1年間のいう限られた期間であっても、チャレンジになることは分かっていた。
受付けで名前を名乗り、入館証を渡され、行き先は最上階の秘書室ですと言われ、そこにいたのは秘書室長であり道明寺司の秘書の男性。
つい先日滝川産業の応接室で顔を合わせた銀縁眼鏡の男性は、お待ちしておりましたと言ったが、一切の感情は見せず淡々と言われ、その人が道明寺司の懐刀と呼ばれる西田という男性だと知った。
「牧野さん。あなたのIDカードですがこちらになります。ですからそちらの入館証は受付けでお返し下さい」
と渡されたのは、写真入りのIDだが写真は滝川産業のものと同じだったが、どうやって手に入れたかなど考えても無駄だ。
同じグループ会社の中でのこと。どうにでもなるということだ。
「では、副社長室へご案内いたします。それから牧野さんの立場ですが、副社長付になります」
と言われ長い廊下の先にある執務室に案内されたが、黒檀で作られた家具と黒革のソファが置かれた部屋は、重厚さを感じさせ他人を圧倒する雰囲気があった。
「副社長。本日から勤務していただく牧野つくしさんです」
秘書がそう言ったが、デスクに向かっている男は顔を上げることはなかったが口を開いた。
「今手が離せない。そこのソファで待ってくれ」
とだけ言われ、つくしは秘書に促されソファに腰を下ろしたが、男は一度もこちらを見ようとはしなかった。
「では牧野さん。暫くお待ち頂きますがよろしいですね?」
「えっ?ええ勿論構いません」
別に待つのは構わなかった。
それに待つだの待てないだの言える立場ではないのだから。
だが人事交流での出向で副社長付になったのは、いったいどんな意味があるのか。
それはそのままの意味で受け取れば、つくしの立場は副社長補佐や特命事項の担当ということになり、新規事業や新規部門の立ち上げの前段階での呼称として考えればいいのだろうが、そういった立場を与えられることはおこがましい思いがしていた。
そんなつくしの思いをよそに、骨の髄まで完璧な秘書は、表情を変えず手にしていた書類をデスクに置くと「それでは牧野さん。後は副社長の指示に従って下さい」と言い執務室を後にした。
それにしても考えるは、何故自分が道明寺副社長と仕事をすることになったのかということだ。
だが副社長は、自分の会社の人事を好きに出来ると言えば語弊があるにしても、実際気に入らなければ飛ばすことも出来れば、逆に気に入れば傍に置くことも出来る。
仮にこの人事が副社長の気まぐれだとしても、この場所で働くことになった以上最善を尽くすしかないのだが、仕事の内容は畑違いもいいところだった。
かつて道明寺財閥が唯一持っていなかった事業として石油事業があったが、それを変えたのが副社長であり財閥の後継者である道明寺司だ。
彼がアブダビの石油王と提携を結んだのは、NYで暮らし財閥の経営を学んでいた二十歳の頃の功績で大きなニュースとして取り上げられた。
当時つくしは大学生で、ビジネスについて詳しくはなかったが、同じ年頃の青年が大きな契約を纏めたということが、学生の間でも話題になったことは記憶している。
そして彼が表紙を飾った経済誌は独占記事が載ったこともあり、その分野の雑誌としては、驚異的な売り上げがあったと訊いた。
それは、普段そういった雑誌には縁のない大勢の女性たちが購入したからだ。
だが石油王との提携は、あくまでも提携関係であり25年間という契約期間が決められている。そしてその契約期間のうち16年の歳月が流れ、残り9年となったところでの契約の延長というものが必要となるが、財閥としては更に25年の延長の合意を望んでいた。
そしてアブダビだけに頼ることなく、別の石油に関しての事業といったものを進めていたが、それがこのたび実を結んだ。
それは、北にはロシア。南にはイラン。
西にはジョージア、アルメニア、トルコ、黒海。
東はカスピ海に面し、南コーカサス地方と呼ばれ、長らくソビエト連邦だったアゼルバイジャン共和国に於けるカスピ海での油田開発事業に於いて新たな石油採掘の権利を取得したことだ。
アゼルバイジャンと言えば、ソビエト連邦以前の帝政ロシアの頃から石油の産出地として有名なバクー油田があり、ペルシャ湾の油田が見つかるまでは、世界一の油田と呼ばれていた場所だ。
つくしにとって全く畑違いの石油事業。
だから考えれば考えるほど、何故自分がと思う。
人事交流ならもっと楽な仕事といっては怒られるかもしれないが、何も道明寺副社長が指揮する仕事をしなくてもいいのではないかといった思いがあった。
「どうした?何か不満か?」
「えっ?」
つくしは考え事をしていて気付かなかったが、副社長である道明寺司は執務デスクの向うから悠然とつくしを見ていた。
ビジネスをする道明寺司は獲物を狙う豹のようだと言われるが、黒い瞳は鋭く、見る者を射抜いてしまう迫力があった。
それはあの面談では感じられなかった一面。
そして彼は立ち上がりソファまで来ると、つくしの真正面に腰を下ろした。
「牧野。今日から君のことは牧野と呼ばせてもらう。何しろ君は今日から私の部下になった。これから1年という期間だが出向して良かったと思えるような経験をしてもらえたらと思う。それにうちのグループは女性社員の地位の向上といったものに力を入れている。それから出向が終った時点で考えればいい話だが、君が滝川産業ではなくうちで自分の能力を試したいというなら歓迎する。何か質問はあるか?」
質問したいことがあるかと言われれば、勿論訊きたいことがあった。
どうして自分が人事交流の人材として選ばれたのか。
「あの….お聞きしたかったんです。どうして私がこちらの会社へ出向することになったのか。あの面談がきっかけだったんでしょうか。それ以外に考えられませんから。もしかするとあの時お話した内容で何か気になることがあったのでしょうか?」
司に向けられる眼差しが、真面目そのものであることは感じられた。
だが仕事では真面目な表情を浮かべる女が、別の顔を持つということはよくある話だ。
姪の結婚生活をめちゃくちゃにしようとしている図々しい女。
だが今の女は、あの時と同じ薄い化粧に地味な服装をしていた。
あの時はネイビーストライプのパンツに白いブラウスという服装だったが、道明寺での勤務初日も地味なチャコールグレーのスーツに最小限の化粧だ。
そしてそのスーツの色は、ネズミの色に見え、野ネズミなら野外に生息するネズミであり可愛いいものだが、牧野つくしは人家やその周辺に棲息するドブネズミで家人に被害を与える。
現にその被害を受けたのが姪だ。
仮に女が金と贅沢な暮らしを望んで姪の夫と付き合っているのなら、そのしっぽを掴めばいい話だが、姪が叔父である司に求めたのは、叔父の魅力で女を虜にし、捨てること。
そのために呼ばれたと知ったらこの女はどうするのか。
それを考えたとき、思わず浮かびそうになった笑みを抑え静かに言った。
「うちの会社では人事交流は盛んだ。ただ滝川産業とはまだなかった。だから先日面談をさせてもらったことがきっかけだと思ってくれていい。どうして君に決めたかだが人事考課を参考にしたが、評価が高かったことが決め手だ」
「そうですか…..」
人事考課は配置転換や出向の参考とされており、それに女は納得したのか呟いたが、その言葉はどこか不安そうだった。
「そんなに深く考える必要はない。先ほども話したが、うちで仕事をして続けたいと思えば残ればいい。そのあたりはグループ会社内での話だ。なんとでもなる」
と言ったが心の中では己の言葉に失笑していた。
牧野つくしが道明寺に残る確率などあるはずがないのだから。
女を誘惑し、夢中にさせ虜にする。
そして本性を暴いて捨てる。
そのためには甘い言葉のひとつも必要だな、と司は本来なら蔑みの表情を浮かべるところを、薄く笑みを浮かべていた。

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Comment:4
「お帰りなさい。牧野さん」
「あ、恵子ちゃん。ただいま。お散歩の帰り?」
「え?ええ....そうなんです。この時間ならまだ明るいし、この子も喜ぶかと思って。でもこれから雨のシーズンになるとお散歩も大変です。何しろこの子。雨が大嫌いなんですから。きっと足が濡れるのが嫌なんだと思うんですけど、まさかレインブーツを履かせるわけにもいかないし、私が抱っこして歩いてたんじゃ散歩にならないし、やっぱり雨の日には取り止めになっちゃうんですよね」
声をかけて来たのは、隣の部屋に住む岡村恵子だった。
そして彼女の腕には、超小型犬のクリーム色の雄のスムースコートチワワのレオンが抱かれ、左手に小さなトートバッグと紙の袋が握られていたが、トートバッグの中には犬の排泄物を始末するためのビニール袋やティッシュが入れられていて、それは恵子がレオンを散歩に連れて行く時は必ず持参するバッグだった。
「レオン。ママと一緒にお散歩に行ってたのね?よかったね?」
つくしが激しくしっぽを振るレオンの頭を撫でると、今にも零れ落ちそうな黒くまん丸な目が閉じられ、気持ちよさそうな顔をした。そしてつくしが手を離すとクーンと鳴いたが、それは甘えた鳴き声。
そしてレオンは恵子の腕の中からつくしの方へ身を乗り出し、抱いて欲しいといった様子を見せた。
「もうっ!レオンは牧野さんが好きなんだから!これじゃあどっちが飼い主か分からないわ」
と笑いながら言った恵子は、つくしが手にしていた鞄を受け取って代わりにレオンを渡した。
「レオンは牧野さんのことどう考えているのか知らないけど、飼い主は私なんだからね?」
レオンはつくしの腕の中に納まると飼い主である恵子に向かってひと鳴きしたが、それは分かってる、と言ったように聞こえた。
つくしの住むマンションはペットを飼うことが許されている。
ただし、居住者は必ず管理人に了解を得てということになっていて、極端に大きな動物、つまり大型犬は飼えないことになっていた。
そして当然のことだがトイレの躾。無駄吠えをしないといった常識的なマナーを守った上でのことであり、他の住人に迷惑をかけないことが前提だった。
岡村恵子が飼うレオンは、トイレのトレーニングのきちんとされていて、廊下やエレベーターの中で粗相をすることはない。そしてレオンは時々つくしの部屋に泊りに来ることがあった。
それはつくしと恵子の間ではお泊りと呼ばれていて、レオンは恵子が自分を抱き上げ今日はお泊りだからね、と言うと激しくしっぽを振り歓びの態度を示すのだが、まるで自分よりもつくしの方が飼い主のような歓び方が恵子には癪だった。
そしてつくしにレオンを渡すとき、必ず口にする言葉がエレベーターの前でも言った「レオンは牧野さんが好きなんだから。これじゃあどっちが飼い主かわからない」だった。
つまりそれくらいレオンはつくしに懐いていた。
レオンがつくしの部屋にお泊りをするようになったきっかけは、つくしがベランダで洗濯物を干していた日曜日の朝だった。
隣の部屋との間に設けられた仕切り板の下の僅かな隙間から、微かに聞こえるクンクンという音。
それまでそんな音を耳にしたことはなく、見れば隙間から犬らしき動物の小さな黒い鼻がつくしのベランダの匂いを嗅いでいた。そして見えないつくしに向かってキャンキャンと激しく吠え始めた。
それに気付いた岡村恵子は、部屋の中から飛び出してきたのか、仕切り板の向うから「すみません。うるさくて。こらっ!レオン止めなさい!吠えちゃダメでしょ?」と言い聞かせたが、それに対してつくしは「ワンちゃん、何犬ですか?私犬が好きなんですけど飼えなくて」と言ったところで「じゃあどうですか?見にいらっしゃいませんか?」と声をかけてきたのが1年前のことだった。
それまで隣人とは会えば会釈をする程度で犬がいる事すら知らなかったが、実は数ヶ月前から犬を飼い始めたということをその時初めて知った。
それまでは吠えると迷惑になるからと、ベランダに出したことはなく、部屋の中で生活させていたが、ベランダにいたのは、窓を閉め忘れていたことから外に出たということだった。
『犬を見にいらっしゃいませんか?』
それから二人の付き合いが始まったが、恵子はつくしより5歳年下の看護師で話しやすい相手だった。そして人を疑うということがない人間だった。いったん信じて心を許してしまえば、相手を疑うことをしない人間。自分が騙されるといったことはないとでも思っているのか。
二人はよき隣人であり友人として付き合い始めた。
そして看護師という仕事柄夜勤というものがあり、夜から翌日の朝までいない日があるが、それは金曜の夜だったり土曜の夜ということもあった。そんなとき、つくしは犬を預からせて欲しいと言った。
金曜の夜なら土曜の朝まで。
土曜の夜なら日曜の朝まで。
今まで動物を飼ったことはなかったが、犬は好きだった。だからいつか飼えればと言う思いから、ペットを飼うことが許されているこのマンションに暮らしていた。
そして予定が無ければレオン預かり時間を共にし、散歩に連れて行き、一時的ではあるが犬はつくしの家のペットになっていた。そんなレオンはつくしによく懐く賢い犬だった。
「そうなんだ。牧野さん出向になっちゃったんですね?」
その晩、つくしは恵子に誘われ一緒に食事をしていた。
知り合って以来レオンを間に挟み何度か食事をしたが、恵子は看護師という仕事柄体力を使うのかよく食べる。だが太っているということはなく、背の高さはつくしと同じくらいで、ほっそりとしていた。沢山食べても太らないんですよ。というところはつくしと似ていて、つくしも食べることは好きだが、30代も半ばになると少しだけ食欲が落ちたような気がしていたがこの日は食欲があった。
「うん。そうなのよ。だから恵子ちゃんが週末の夜勤のときなんだけどね、残念だけどレオンを預かることが出来ないと思うの」
つくしは、突然の辞令で親会社の道明寺本社で働くことになり、仕事が変わることを恵子に話した。そして訊かれることもなかったので意向無視と言ってもいいはずだが、突然の出向命令に驚いたことを告げた。
「そうかぁ….仕事が変わるんですから時間が読めないですよね。でも凄いじゃないですか。牧野さんあの道明寺へ出向だなんて。でも元々牧野さんは頭のいい方ですからどんな会社でもやって行けますよ」
「でもねぇ…..不安がないとは言えないのよ。だって副社長と一緒に仕事をするなんて想像もしてなかったし…..」
つくしは、出向先が副社長直属の部署であることを恵子に告げた。
「道明寺ホールディングスの副社長って道明寺司ですよね?雑誌で見かけることがありますけど凄い人物ですよね?イケメンでお金持ちで仕事が出来る。世の中の男性の憧れの的。
絵に描いたような男前ですよね?そんな人と仕事するなんてドキドキしますよね?うちの病院にもイケメンのドクターがいますけど、患者も看護師もみんなそのドクターの虜になります。だからつい手元が狂うっていうのか….看護師がそれじゃ困るんですけどねぇ」
と言って恵子は笑ったが彼女にはちゃんと彼氏がいた。
「それにしても恵子ちゃんのカレー。本格的で美味しいのよね。私が作ったカレーはレトルトに毛が生えたようなものだけど、恵子ちゃんのはスパイスがよく効いてて本当に美味しいわ」
夕食はカレーとサラダだったが、恵子は大量にカレーを作る習慣がある。
それは仕事から帰ってもすぐに食べられるからという理由で、冷凍保存するのだが、今日は丁度そのカレーを作り置きする日だった。
「そうですか?レシピは知り合いの喫茶店のマスターから教えてもらったんです。今はもうその店はないんですけどね。小さな店でお客さんが10人も入ればいっぱいになるような店だったんですよ?」
そして今は食後のデザートのアップルパイを食べコーヒーを飲んでいたが、アップルパイは恵子がレオンの散歩帰りに買って来たものだった。
「それで牧野さん、いつから新しい職場なんですか?」
「うん。それがね、来週からなのよ」
「えっ!そうなんですか?随分と急な話ですね?会社勤めってそんなものなんですか?急に転勤とか異動とかしちゃうものなんですか?」
「う~ん。そんなことはないんだけどね。今回は異例っていうのか。急だったのよね」
「そうですか….。じゃあこれから忙しくなりますね?レオンも寂しく感じちゃうかもしれませんけど、いつでもこの子、散歩に連れてって下さいね?」
と恵子に言われたレオンは、食事を済ませ自分専用の小さなベッドの中でウトウトしていたが、この子と言われ自分のことだと気付いたのか、丸まっていた身体を起し「おいで」と呼ぶまでもなく、つくしの足もとへ来ると、しっぽを振っていた。

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「あ、恵子ちゃん。ただいま。お散歩の帰り?」
「え?ええ....そうなんです。この時間ならまだ明るいし、この子も喜ぶかと思って。でもこれから雨のシーズンになるとお散歩も大変です。何しろこの子。雨が大嫌いなんですから。きっと足が濡れるのが嫌なんだと思うんですけど、まさかレインブーツを履かせるわけにもいかないし、私が抱っこして歩いてたんじゃ散歩にならないし、やっぱり雨の日には取り止めになっちゃうんですよね」
声をかけて来たのは、隣の部屋に住む岡村恵子だった。
そして彼女の腕には、超小型犬のクリーム色の雄のスムースコートチワワのレオンが抱かれ、左手に小さなトートバッグと紙の袋が握られていたが、トートバッグの中には犬の排泄物を始末するためのビニール袋やティッシュが入れられていて、それは恵子がレオンを散歩に連れて行く時は必ず持参するバッグだった。
「レオン。ママと一緒にお散歩に行ってたのね?よかったね?」
つくしが激しくしっぽを振るレオンの頭を撫でると、今にも零れ落ちそうな黒くまん丸な目が閉じられ、気持ちよさそうな顔をした。そしてつくしが手を離すとクーンと鳴いたが、それは甘えた鳴き声。
そしてレオンは恵子の腕の中からつくしの方へ身を乗り出し、抱いて欲しいといった様子を見せた。
「もうっ!レオンは牧野さんが好きなんだから!これじゃあどっちが飼い主か分からないわ」
と笑いながら言った恵子は、つくしが手にしていた鞄を受け取って代わりにレオンを渡した。
「レオンは牧野さんのことどう考えているのか知らないけど、飼い主は私なんだからね?」
レオンはつくしの腕の中に納まると飼い主である恵子に向かってひと鳴きしたが、それは分かってる、と言ったように聞こえた。
つくしの住むマンションはペットを飼うことが許されている。
ただし、居住者は必ず管理人に了解を得てということになっていて、極端に大きな動物、つまり大型犬は飼えないことになっていた。
そして当然のことだがトイレの躾。無駄吠えをしないといった常識的なマナーを守った上でのことであり、他の住人に迷惑をかけないことが前提だった。
岡村恵子が飼うレオンは、トイレのトレーニングのきちんとされていて、廊下やエレベーターの中で粗相をすることはない。そしてレオンは時々つくしの部屋に泊りに来ることがあった。
それはつくしと恵子の間ではお泊りと呼ばれていて、レオンは恵子が自分を抱き上げ今日はお泊りだからね、と言うと激しくしっぽを振り歓びの態度を示すのだが、まるで自分よりもつくしの方が飼い主のような歓び方が恵子には癪だった。
そしてつくしにレオンを渡すとき、必ず口にする言葉がエレベーターの前でも言った「レオンは牧野さんが好きなんだから。これじゃあどっちが飼い主かわからない」だった。
つまりそれくらいレオンはつくしに懐いていた。
レオンがつくしの部屋にお泊りをするようになったきっかけは、つくしがベランダで洗濯物を干していた日曜日の朝だった。
隣の部屋との間に設けられた仕切り板の下の僅かな隙間から、微かに聞こえるクンクンという音。
それまでそんな音を耳にしたことはなく、見れば隙間から犬らしき動物の小さな黒い鼻がつくしのベランダの匂いを嗅いでいた。そして見えないつくしに向かってキャンキャンと激しく吠え始めた。
それに気付いた岡村恵子は、部屋の中から飛び出してきたのか、仕切り板の向うから「すみません。うるさくて。こらっ!レオン止めなさい!吠えちゃダメでしょ?」と言い聞かせたが、それに対してつくしは「ワンちゃん、何犬ですか?私犬が好きなんですけど飼えなくて」と言ったところで「じゃあどうですか?見にいらっしゃいませんか?」と声をかけてきたのが1年前のことだった。
それまで隣人とは会えば会釈をする程度で犬がいる事すら知らなかったが、実は数ヶ月前から犬を飼い始めたということをその時初めて知った。
それまでは吠えると迷惑になるからと、ベランダに出したことはなく、部屋の中で生活させていたが、ベランダにいたのは、窓を閉め忘れていたことから外に出たということだった。
『犬を見にいらっしゃいませんか?』
それから二人の付き合いが始まったが、恵子はつくしより5歳年下の看護師で話しやすい相手だった。そして人を疑うということがない人間だった。いったん信じて心を許してしまえば、相手を疑うことをしない人間。自分が騙されるといったことはないとでも思っているのか。
二人はよき隣人であり友人として付き合い始めた。
そして看護師という仕事柄夜勤というものがあり、夜から翌日の朝までいない日があるが、それは金曜の夜だったり土曜の夜ということもあった。そんなとき、つくしは犬を預からせて欲しいと言った。
金曜の夜なら土曜の朝まで。
土曜の夜なら日曜の朝まで。
今まで動物を飼ったことはなかったが、犬は好きだった。だからいつか飼えればと言う思いから、ペットを飼うことが許されているこのマンションに暮らしていた。
そして予定が無ければレオン預かり時間を共にし、散歩に連れて行き、一時的ではあるが犬はつくしの家のペットになっていた。そんなレオンはつくしによく懐く賢い犬だった。
「そうなんだ。牧野さん出向になっちゃったんですね?」
その晩、つくしは恵子に誘われ一緒に食事をしていた。
知り合って以来レオンを間に挟み何度か食事をしたが、恵子は看護師という仕事柄体力を使うのかよく食べる。だが太っているということはなく、背の高さはつくしと同じくらいで、ほっそりとしていた。沢山食べても太らないんですよ。というところはつくしと似ていて、つくしも食べることは好きだが、30代も半ばになると少しだけ食欲が落ちたような気がしていたがこの日は食欲があった。
「うん。そうなのよ。だから恵子ちゃんが週末の夜勤のときなんだけどね、残念だけどレオンを預かることが出来ないと思うの」
つくしは、突然の辞令で親会社の道明寺本社で働くことになり、仕事が変わることを恵子に話した。そして訊かれることもなかったので意向無視と言ってもいいはずだが、突然の出向命令に驚いたことを告げた。
「そうかぁ….仕事が変わるんですから時間が読めないですよね。でも凄いじゃないですか。牧野さんあの道明寺へ出向だなんて。でも元々牧野さんは頭のいい方ですからどんな会社でもやって行けますよ」
「でもねぇ…..不安がないとは言えないのよ。だって副社長と一緒に仕事をするなんて想像もしてなかったし…..」
つくしは、出向先が副社長直属の部署であることを恵子に告げた。
「道明寺ホールディングスの副社長って道明寺司ですよね?雑誌で見かけることがありますけど凄い人物ですよね?イケメンでお金持ちで仕事が出来る。世の中の男性の憧れの的。
絵に描いたような男前ですよね?そんな人と仕事するなんてドキドキしますよね?うちの病院にもイケメンのドクターがいますけど、患者も看護師もみんなそのドクターの虜になります。だからつい手元が狂うっていうのか….看護師がそれじゃ困るんですけどねぇ」
と言って恵子は笑ったが彼女にはちゃんと彼氏がいた。
「それにしても恵子ちゃんのカレー。本格的で美味しいのよね。私が作ったカレーはレトルトに毛が生えたようなものだけど、恵子ちゃんのはスパイスがよく効いてて本当に美味しいわ」
夕食はカレーとサラダだったが、恵子は大量にカレーを作る習慣がある。
それは仕事から帰ってもすぐに食べられるからという理由で、冷凍保存するのだが、今日は丁度そのカレーを作り置きする日だった。
「そうですか?レシピは知り合いの喫茶店のマスターから教えてもらったんです。今はもうその店はないんですけどね。小さな店でお客さんが10人も入ればいっぱいになるような店だったんですよ?」
そして今は食後のデザートのアップルパイを食べコーヒーを飲んでいたが、アップルパイは恵子がレオンの散歩帰りに買って来たものだった。
「それで牧野さん、いつから新しい職場なんですか?」
「うん。それがね、来週からなのよ」
「えっ!そうなんですか?随分と急な話ですね?会社勤めってそんなものなんですか?急に転勤とか異動とかしちゃうものなんですか?」
「う~ん。そんなことはないんだけどね。今回は異例っていうのか。急だったのよね」
「そうですか….。じゃあこれから忙しくなりますね?レオンも寂しく感じちゃうかもしれませんけど、いつでもこの子、散歩に連れてって下さいね?」
と恵子に言われたレオンは、食事を済ませ自分専用の小さなベッドの中でウトウトしていたが、この子と言われ自分のことだと気付いたのか、丸まっていた身体を起し「おいで」と呼ぶまでもなく、つくしの足もとへ来ると、しっぽを振っていた。

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滝川産業で年に2度ある大きな人事異動は3月と9月。
全国の主要都市に支店があり、異動になれば4月1日付けと9月1日付けでの着任となるが、この度発表されたのは5月。それは同社にとってこれまでにない画期的な抜擢。
特に女性社員のあいだで大きな話題になっていた。
なぜならこの会社から一人の女性が道明寺本社へ1年間出向することになったから。
その女性は営業統括本部の牧野つくし。
仕事は営業のサポート。
産業機械専門商社としての商品の受注、納期の管理、請求書の作成から資料作成といったことを主な仕事としてこなしていた彼女がどうして道明寺へ出向するのか。
もしかすると先日の道明寺副社長の訪問と関係があるのか。
それとも道明寺副社長と個人的な関係があるのか。
社内ではそんな臆測が飛び交っていた。
あの日の朝。
女性社員がいくら化粧を頑張ったところで、道明寺司に会うことは出来なかった。
何故なら彼は、会社が始まるよりかなり前の時間に社内にいたからだ。
だが帰りはざわめきの中、大勢の人間が彼を見送ったが、その時の道明寺司の容姿とオーラとカリスマ性に人間は平等ではないことを改めて知った。
そしてあの時応接室に呼ばれた女は、女性の目で見た職場環境が知りたいという道明寺副社長との面談をこなした。
だが何故女が選ばれたのか。
人選をした専務によれば、副社長の秘書から営業に近い立場にいる30代半ばの中堅社員がいいと言われたからだが、それを聞いて悔しがったのは三条桜子だ。
「どうして先輩が選ばれたんですか?もし私が先に化粧室から出ていれば私が選ばれかもしれないんですよね?呑気に髪を梳かしている場合じゃなかったんですよね?」
と、帰り支度をするロッカールームで桜子は言ったが、あの時専務は、落ち着いた女性がいいと言った。
それを言葉そのまま桜子に伝えれば、どうしてですか!私だって落ち着いた大人の女性です!と憤慨することは目に見えている。だから言わなかった。
「あのね、桜子。たまたま私がそこにいたからよ?だって始業時間より前だったし、たまたまよ。たまたま。ホント。たまたま私がそこにいたからよ?もし桜子が一緒にいたら絶対桜子の方が選ばれてたはずよ?そうよ。絶対そう。そうに決まってるから」
桜子を慰めるではないが、何故かそう答えていた。
だが三条桜子との会話は、あくまでも冗談半分で屈託がない。
「本当ですか?」
そして受け答えをする桜子も決して本気ではない。
「そうよ。それにね、道明寺副社長もお忙しい方だから、桜子のこと待っていられなかったのよ?」
と、言えば桜子はプライドが満たされると言う訳ではないが膨らませていた頬を緩めた。
「あ~あ。でも私も道明寺副社長に会いたかった!先輩は信じられないくらいの幸運の持ち主ですよね?あの道明寺副社長と応接室で二人切りだったんですよね?二人切り!」
そう言った桜子の最後の言葉は、やたらと強調されていたが、二人の間に何かあったとでも思っているのだろうか。
「あのね、桜子。二人切りじゃなかったって言ったでしょ?秘書の人もいたの。銀縁眼鏡をかけた堅苦しそうな男性秘書がいたの。それにたとえ二人切りだったとしても道明寺副社長が何かするはずないじゃない」
名前は知らないがその男性が秘書であることは明らかで、ただじっとその場所に立っていることにまごついた訳ではないが、いつもこうして道明寺司の傍に控えているのだろうと想像するに容易かった。
「そんなこと言いますけど、道明寺副社長だって男ですからね。男と女が二人切りで....それもあんなにいい男ですよ?想像しちゃうじゃないですか!
でもどうして牧野先輩が出向なんでしょうね?それも5月ですよ?異動なら4月が通例ですけど、道明寺のような大きな会社になると例外があることも分かりますけど、それにしても急ですよね?」
と言って桜子の視線がつくしの顔をじっと見つめ、その先の言葉は彼女らしい想像力が働いていた。
「もしかして。先輩。個人的に道明寺副社長と話しをされたんですか?今の仕事が不満だとか。私を道明寺で働かせて下さいとか。だって道明寺で働けるなんてエリートですよ?あの会社で働きたいって女性は国際的に活躍したいって考えている人が多いんですよ?だから自ずと帰国子女の割合も高くて英語は出来て当然。他の国の言葉が話せるのも当たり前って感じの会社ですからね?海外勤務希望の女性も多いっていいますよ。
それに女性でもその気になれば道が開かれるって会社ですから仕事のやりがいは十分あります。実は私も就職先として考えたんですけど、ちょっと難し過ぎて無理でした」
確かに道明寺ホールディングスの本体である道明寺という会社で働けることが誇りだと考える人間も多いが、つくしはこの急な出向に疑問を感じたとしても、会社が決めたことなら受け入れるしかないのだから、理由を考えるだけ無駄だと思っている。
そしてそれが、道明寺副社長との面談がきっかけだとしても、1年間だけの話でまた戻ってくるのだから勉強だと思えばいい。
「それで、牧野先輩は道明寺でどんな仕事をするんですか?」
「うん。道明寺副社長が指揮を取る新規プロジェクトのチームの一員だって」
「えっ?!それって道明寺副社長と一緒に仕事をするってことですか?牧野先輩!それって凄いことじゃないですか!でもホントどうして牧野先輩なんでしょうね?もしかして昔上司だった専務の推薦ですか?」
「よく分からないけど…多分違うと思う….だって専務だったら絶対前もって打診をしてくれるはずよ?それなのにそんな話もなくいきなりだから驚いたっていうのが正直な気持ちなんだけどね….」
専務は入社した頃は事業部長で、かつての上司だ。
だから専務なら事前に言ってくるはずだ。だが何も言われずいきなりだった。
「……そうですか。じゃあもっと上の上層部で話しがあったってことですね?専務じゃなければ社長ってことになりますけど。でも仕方ないですよ。これが道明寺側からの申し出だとすれば社長は断われませんし、社長じゃなくても所詮うちの会社は道明寺グループの一員になったんですから親会社の言うことを訊くのが当たり前ですから」
勿論分かってる。
桜子の言う通りで社員は黙って上の言うことを訊くか、もしくは異議を唱えるかどちらかだが、企業組織を理解していれば異議を唱えても無駄だ。何しろ日本は長いものには巻かれろの社会なのだから。
「それにしても1年も向うの会社ですか。なんだか寂しいですね。牧野先輩がいなくなると。こんなこと言ったらアレですけど、こうして仕事終わりに先輩と話すのも、食事に行くのも楽しかったんですよね…….でもこれから1年はお預けってことですよね?
あ!先輩向うの会社でいい男見つけたから会社辞めるなんて言わないで下さいよ?抜け駆け反対!絶対反対ですからね!いい男がいたら私にも紹介して下さいね!絶対ですからね?」
「はいはい」
「も~。そんな投げやりな返事しないで下さい。言いたくはありませんが先輩も私も世間から見れば行き遅れなんですからね?いい男に巡り合えたら迷うことなく捕まえなきゃダメなんですからね?分かってますか先輩?」
「分かってるって」
桜子の強い出方の前では、反論など出来るはずもなく、投げやりではないが、ついああいった話し方になってしまった。
「でも道明寺副社長指揮の元で仕事をするとなると、かなりの時間一緒にいるってことですよね?それってもしかしたら微笑みかけられるかもしれませんよね?羨ましいです牧野先輩。あの道明寺副社長に微笑みかけられたら私死んでもいいです。
だって道明寺副社長ってひと前で笑わないんですよ?もし笑顔が見れたら息が止っちゃうかもしれません。いえ死んだら元も子もなくなりますから、仮死状態くらいで止めておきますけどね?」
つくしは、マンション入り口のオートロックを解除すると郵便ボックスの中を確認した。
そして届いていた封筒を取り出し鞄に入れエレベーターの前まで来ると、ボタンを押し点滅を繰り返す階数表示を眺めながらロッカーで桜子と交わした話を思い出していた。
桜子は道明寺司が笑わないと言ったがあの時、唇の端に薄い笑みが浮かんでいた。
それならあの笑みは非常に珍しいものということになるのだろうか。
つくしはそんなことを思いながら「笑わないなんて言うけど、笑ってたし」と独り言が口をついて出た。
だが今はそんなことより今夜の献立について考えを巡らせなければならないはずだ。
道明寺司の微笑みよりも冷蔵庫に何があったかを思い出す方が重要だ。
そんなことを考えながら、到着したエレベーターの扉が開き乗り込もうとした瞬間、後ろから声をかけられた。
「お帰りなさい。牧野さん」

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全国の主要都市に支店があり、異動になれば4月1日付けと9月1日付けでの着任となるが、この度発表されたのは5月。それは同社にとってこれまでにない画期的な抜擢。
特に女性社員のあいだで大きな話題になっていた。
なぜならこの会社から一人の女性が道明寺本社へ1年間出向することになったから。
その女性は営業統括本部の牧野つくし。
仕事は営業のサポート。
産業機械専門商社としての商品の受注、納期の管理、請求書の作成から資料作成といったことを主な仕事としてこなしていた彼女がどうして道明寺へ出向するのか。
もしかすると先日の道明寺副社長の訪問と関係があるのか。
それとも道明寺副社長と個人的な関係があるのか。
社内ではそんな臆測が飛び交っていた。
あの日の朝。
女性社員がいくら化粧を頑張ったところで、道明寺司に会うことは出来なかった。
何故なら彼は、会社が始まるよりかなり前の時間に社内にいたからだ。
だが帰りはざわめきの中、大勢の人間が彼を見送ったが、その時の道明寺司の容姿とオーラとカリスマ性に人間は平等ではないことを改めて知った。
そしてあの時応接室に呼ばれた女は、女性の目で見た職場環境が知りたいという道明寺副社長との面談をこなした。
だが何故女が選ばれたのか。
人選をした専務によれば、副社長の秘書から営業に近い立場にいる30代半ばの中堅社員がいいと言われたからだが、それを聞いて悔しがったのは三条桜子だ。
「どうして先輩が選ばれたんですか?もし私が先に化粧室から出ていれば私が選ばれかもしれないんですよね?呑気に髪を梳かしている場合じゃなかったんですよね?」
と、帰り支度をするロッカールームで桜子は言ったが、あの時専務は、落ち着いた女性がいいと言った。
それを言葉そのまま桜子に伝えれば、どうしてですか!私だって落ち着いた大人の女性です!と憤慨することは目に見えている。だから言わなかった。
「あのね、桜子。たまたま私がそこにいたからよ?だって始業時間より前だったし、たまたまよ。たまたま。ホント。たまたま私がそこにいたからよ?もし桜子が一緒にいたら絶対桜子の方が選ばれてたはずよ?そうよ。絶対そう。そうに決まってるから」
桜子を慰めるではないが、何故かそう答えていた。
だが三条桜子との会話は、あくまでも冗談半分で屈託がない。
「本当ですか?」
そして受け答えをする桜子も決して本気ではない。
「そうよ。それにね、道明寺副社長もお忙しい方だから、桜子のこと待っていられなかったのよ?」
と、言えば桜子はプライドが満たされると言う訳ではないが膨らませていた頬を緩めた。
「あ~あ。でも私も道明寺副社長に会いたかった!先輩は信じられないくらいの幸運の持ち主ですよね?あの道明寺副社長と応接室で二人切りだったんですよね?二人切り!」
そう言った桜子の最後の言葉は、やたらと強調されていたが、二人の間に何かあったとでも思っているのだろうか。
「あのね、桜子。二人切りじゃなかったって言ったでしょ?秘書の人もいたの。銀縁眼鏡をかけた堅苦しそうな男性秘書がいたの。それにたとえ二人切りだったとしても道明寺副社長が何かするはずないじゃない」
名前は知らないがその男性が秘書であることは明らかで、ただじっとその場所に立っていることにまごついた訳ではないが、いつもこうして道明寺司の傍に控えているのだろうと想像するに容易かった。
「そんなこと言いますけど、道明寺副社長だって男ですからね。男と女が二人切りで....それもあんなにいい男ですよ?想像しちゃうじゃないですか!
でもどうして牧野先輩が出向なんでしょうね?それも5月ですよ?異動なら4月が通例ですけど、道明寺のような大きな会社になると例外があることも分かりますけど、それにしても急ですよね?」
と言って桜子の視線がつくしの顔をじっと見つめ、その先の言葉は彼女らしい想像力が働いていた。
「もしかして。先輩。個人的に道明寺副社長と話しをされたんですか?今の仕事が不満だとか。私を道明寺で働かせて下さいとか。だって道明寺で働けるなんてエリートですよ?あの会社で働きたいって女性は国際的に活躍したいって考えている人が多いんですよ?だから自ずと帰国子女の割合も高くて英語は出来て当然。他の国の言葉が話せるのも当たり前って感じの会社ですからね?海外勤務希望の女性も多いっていいますよ。
それに女性でもその気になれば道が開かれるって会社ですから仕事のやりがいは十分あります。実は私も就職先として考えたんですけど、ちょっと難し過ぎて無理でした」
確かに道明寺ホールディングスの本体である道明寺という会社で働けることが誇りだと考える人間も多いが、つくしはこの急な出向に疑問を感じたとしても、会社が決めたことなら受け入れるしかないのだから、理由を考えるだけ無駄だと思っている。
そしてそれが、道明寺副社長との面談がきっかけだとしても、1年間だけの話でまた戻ってくるのだから勉強だと思えばいい。
「それで、牧野先輩は道明寺でどんな仕事をするんですか?」
「うん。道明寺副社長が指揮を取る新規プロジェクトのチームの一員だって」
「えっ?!それって道明寺副社長と一緒に仕事をするってことですか?牧野先輩!それって凄いことじゃないですか!でもホントどうして牧野先輩なんでしょうね?もしかして昔上司だった専務の推薦ですか?」
「よく分からないけど…多分違うと思う….だって専務だったら絶対前もって打診をしてくれるはずよ?それなのにそんな話もなくいきなりだから驚いたっていうのが正直な気持ちなんだけどね….」
専務は入社した頃は事業部長で、かつての上司だ。
だから専務なら事前に言ってくるはずだ。だが何も言われずいきなりだった。
「……そうですか。じゃあもっと上の上層部で話しがあったってことですね?専務じゃなければ社長ってことになりますけど。でも仕方ないですよ。これが道明寺側からの申し出だとすれば社長は断われませんし、社長じゃなくても所詮うちの会社は道明寺グループの一員になったんですから親会社の言うことを訊くのが当たり前ですから」
勿論分かってる。
桜子の言う通りで社員は黙って上の言うことを訊くか、もしくは異議を唱えるかどちらかだが、企業組織を理解していれば異議を唱えても無駄だ。何しろ日本は長いものには巻かれろの社会なのだから。
「それにしても1年も向うの会社ですか。なんだか寂しいですね。牧野先輩がいなくなると。こんなこと言ったらアレですけど、こうして仕事終わりに先輩と話すのも、食事に行くのも楽しかったんですよね…….でもこれから1年はお預けってことですよね?
あ!先輩向うの会社でいい男見つけたから会社辞めるなんて言わないで下さいよ?抜け駆け反対!絶対反対ですからね!いい男がいたら私にも紹介して下さいね!絶対ですからね?」
「はいはい」
「も~。そんな投げやりな返事しないで下さい。言いたくはありませんが先輩も私も世間から見れば行き遅れなんですからね?いい男に巡り合えたら迷うことなく捕まえなきゃダメなんですからね?分かってますか先輩?」
「分かってるって」
桜子の強い出方の前では、反論など出来るはずもなく、投げやりではないが、ついああいった話し方になってしまった。
「でも道明寺副社長指揮の元で仕事をするとなると、かなりの時間一緒にいるってことですよね?それってもしかしたら微笑みかけられるかもしれませんよね?羨ましいです牧野先輩。あの道明寺副社長に微笑みかけられたら私死んでもいいです。
だって道明寺副社長ってひと前で笑わないんですよ?もし笑顔が見れたら息が止っちゃうかもしれません。いえ死んだら元も子もなくなりますから、仮死状態くらいで止めておきますけどね?」
つくしは、マンション入り口のオートロックを解除すると郵便ボックスの中を確認した。
そして届いていた封筒を取り出し鞄に入れエレベーターの前まで来ると、ボタンを押し点滅を繰り返す階数表示を眺めながらロッカーで桜子と交わした話を思い出していた。
桜子は道明寺司が笑わないと言ったがあの時、唇の端に薄い笑みが浮かんでいた。
それならあの笑みは非常に珍しいものということになるのだろうか。
つくしはそんなことを思いながら「笑わないなんて言うけど、笑ってたし」と独り言が口をついて出た。
だが今はそんなことより今夜の献立について考えを巡らせなければならないはずだ。
道明寺司の微笑みよりも冷蔵庫に何があったかを思い出す方が重要だ。
そんなことを考えながら、到着したエレベーターの扉が開き乗り込もうとした瞬間、後ろから声をかけられた。
「お帰りなさい。牧野さん」

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司はネクタイの結び目を緩め、背広を脱ぎ、煙草を咥えていた。
執務室に届けられた全ての書類のサインが終わったとき、時計の針は夜の11時を指していた。それはスケジュールの変更に伴うしわ寄せ。
滝川産業へ行く予定は初めからあったが、牧野つくしに会う予定は無理やり入れた。
だがどうしてもあの女に会う必要があった。
それは腹立たしさが起こした行動。
写真だけではなく、実物の牧野つくしに早々に会う必要があった。
姪の美奈の夫の浮気相手という女がどんな女なのか知る必要があった。
そして司が牧野つくしと実際に会って感じたのは、どこにでもいる女という印象。
入社して13年の女は残業も厭わず、話をした限りでは結婚には興味がないといった口ぶりだったが、結婚したいと思う人間は、それなりの行動を起こすが、牧野つくしは妻がいる男と結婚を考えているのか。
あれから牧野つくしについてもっと詳しい情報を得るため、調査を依頼したが、社内データに無かったことで記載がされていたのは、両親が亡くなったこと。弟がひとりいること。
マンションで一人暮らしをしていること。
そして最近は見かけないが、女が何度かマンション近くの夜の公園で男と話しをしていたという情報があった。だがそれが美奈の夫なのかどうかまでは分からなかった。
だが美奈の夫が女の住むマンションに出入りしているところまでは分かった。
あの女は白石隆信より3歳年上だがそうは見えなかった。
最小限の化粧をしただけの女は、35歳という年齢を訊かなければ、20代後半といった容貌だったが、そんなところに美奈の夫は惹かれたのか。だが見た目が若くても、話をすればそうではないことは直ぐに分かる。
落ち着いた態度と口ぶりというものが実際の年齢を感じさせた。
言葉ははっきりとしていて、道明寺グループの副社長を前にしても言い淀むことも躊躇うこともなく話をする女。いかにも仕事一筋に見え、誰もあの女が妻のいる男と付き合っているなど思いもしないはずだ。
だが女という生き物は本能で男を騙す術を知っている。
それは着飾ることで自分を美しく見せ騙すという手段もあるが、頭の良さで男を手玉に取るということもある。
実際牧野つくしは頭がいい。
高校、大学と優秀な成績を収め滝川産業へ就職した。だがそこで人の上に立ちたいと望むこともなく淡々と仕事をする女は、何の不満もないように思えた。
だがあの女ならもっと上を目指せるはずだ。しかしそれをしないのは、今の仕事は居心地がいいということなのか。
一生あの会社で働きたいと言った女。
もし女が今のままの居心地の良さを求めるなら、妻がいる男と付き合いを止めることを勧める。いや。勧めるのではない。止めてもらわなければならない。そして二度と会うことがないようにさせる。そうさせるため司は牧野つくしに会った。実際に会ってどんな女かを確かめ、そして1億という金でも男と別れない女というのはどんな女かじっくり見たかった。
そして方法を考えたかった。
具体的にどうやって女と美奈の夫を引き離すのかを。
そして女に面談の礼の意味を込め握手を求めたが、それまで口ごもることなく話をしていた女が躊躇いながら手を差し出すと頬を染めた。
あれが演技だとすれば、見事な演技力であり女優としてやっていけるはずだ。
だが化けの皮というものは、どこかで剥がれることに決まっている。
そして牧野つくしは自分が敵意を抱かれているとは思わなかったはずだ。
あれは仕事で副社長と面談をしたに過ぎず、その裏に隠された思惑があることは知らないし考えもしないだろう。
だが彼女が部屋を去るそのとき、挨拶のため頭を下げたが、その間一瞬だったが冷やかな感情が表に出てしまった。しかしそれが見られたとしても気に留めることではない。
だがこれからは気を付けなければならない。
彼女に敵意があるなど感じさせてはならない。
むしろその逆だと思わせなければならないからだ。
そしてあの面談は、司が牧野つくしに近づくきっかけになった。
あの面談も最初から仕組んだものだったが、あのおかげで近づき易くなったのは事実だ。
人は一度でも言葉を交わし、挨拶をすれば知り合いという範疇に入るからだ。
司は心から女を好きになったことがない。
だから恋愛につきものの独占欲や嫉妬というものを経験したことがない。
だから正直なところ、姪がどうしてここまでの想いを抱くのか分からない。
それにもし司が結婚するとなれば、戦略的な結婚になるはずだ。だから相手に対して独占欲といったものも湧かないはずだ。
今までの女との付き合いは互いの合意の上の性行為。そしてパーティーへの同伴といったもの。だが幼馴染みの悪友たちの中には、嫉妬や独占欲といったものに煩わされる男もいるが、司が牧野つくしを虜にして捨てるという過程の中にそれらが含まれることはない。
女がいないと寂しいだろうと言っていたあきらは、若い頃10歳以上年上の人妻と付き合うのを好んでいた。
そんなあきらの不倫といえども純愛だという言葉を借りれば、牧野つくしと白石隆信は純愛なのだろうか。だが、あきらの場合はあの二人とは立ち位置が違う。
それに、あきらが年上の人妻好きだったのは、家庭環境が影響していると言われていたからだ。
そんなあきらなら不倫をする男と女の気持が分かるのか。
いつだったかあきらが言ったことがある。
不倫は純愛だが、いつ終わっても文句が言えない関係だから燃え上がると。
そして相手が誠実さを求めない関係だからいいと言う。だがそれは当事者だけであり、夫に浮気をされている姪は、いつかは終わるという二人の関係を、ただ指を咥えて待つつもりはない。
それに終わるとも限らない。
夫を愛しているから別れたくないという姪。
今の世の中離婚は不名誉なことではない。
それに司にしてみれば、愛しているという言葉は、意地であるような気もするが姪が決めたことだ。だから叔父として姪の幸せのため、力を貸してくれと言われればそうせざるを得ない。
「失礼いたします。滝川産業との出向による人事交流の件ですが、あの会社は同じグループ会社になったとはいえ、まだ1年しか経っておりません。企業風土も文化も違います。まったく別の会社と言ってもいいのが実情ですが彼女を出向させるということでよろしいのですね?」
司は煙草を灰皿で揉み消し、執務室に入って来た西田から書類を受け取り、すらりと長い指でペンを掴むとサインをした。そして椅子の背にもたれかかり考えるように数秒間目を閉じ、そして開いた。
「ああ。そうしてくれ。あの女を近くに置く。そうすればあの女の行動が見える。それに俺の傍にいるんだ。他の男と会う時間があると思うか?それにあの女の仕事に対する姿勢はある意味で立派だ。与えられた仕事は一生懸命やる。だからその姿勢を買ってやるつもりだ」

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執務室に届けられた全ての書類のサインが終わったとき、時計の針は夜の11時を指していた。それはスケジュールの変更に伴うしわ寄せ。
滝川産業へ行く予定は初めからあったが、牧野つくしに会う予定は無理やり入れた。
だがどうしてもあの女に会う必要があった。
それは腹立たしさが起こした行動。
写真だけではなく、実物の牧野つくしに早々に会う必要があった。
姪の美奈の夫の浮気相手という女がどんな女なのか知る必要があった。
そして司が牧野つくしと実際に会って感じたのは、どこにでもいる女という印象。
入社して13年の女は残業も厭わず、話をした限りでは結婚には興味がないといった口ぶりだったが、結婚したいと思う人間は、それなりの行動を起こすが、牧野つくしは妻がいる男と結婚を考えているのか。
あれから牧野つくしについてもっと詳しい情報を得るため、調査を依頼したが、社内データに無かったことで記載がされていたのは、両親が亡くなったこと。弟がひとりいること。
マンションで一人暮らしをしていること。
そして最近は見かけないが、女が何度かマンション近くの夜の公園で男と話しをしていたという情報があった。だがそれが美奈の夫なのかどうかまでは分からなかった。
だが美奈の夫が女の住むマンションに出入りしているところまでは分かった。
あの女は白石隆信より3歳年上だがそうは見えなかった。
最小限の化粧をしただけの女は、35歳という年齢を訊かなければ、20代後半といった容貌だったが、そんなところに美奈の夫は惹かれたのか。だが見た目が若くても、話をすればそうではないことは直ぐに分かる。
落ち着いた態度と口ぶりというものが実際の年齢を感じさせた。
言葉ははっきりとしていて、道明寺グループの副社長を前にしても言い淀むことも躊躇うこともなく話をする女。いかにも仕事一筋に見え、誰もあの女が妻のいる男と付き合っているなど思いもしないはずだ。
だが女という生き物は本能で男を騙す術を知っている。
それは着飾ることで自分を美しく見せ騙すという手段もあるが、頭の良さで男を手玉に取るということもある。
実際牧野つくしは頭がいい。
高校、大学と優秀な成績を収め滝川産業へ就職した。だがそこで人の上に立ちたいと望むこともなく淡々と仕事をする女は、何の不満もないように思えた。
だがあの女ならもっと上を目指せるはずだ。しかしそれをしないのは、今の仕事は居心地がいいということなのか。
一生あの会社で働きたいと言った女。
もし女が今のままの居心地の良さを求めるなら、妻がいる男と付き合いを止めることを勧める。いや。勧めるのではない。止めてもらわなければならない。そして二度と会うことがないようにさせる。そうさせるため司は牧野つくしに会った。実際に会ってどんな女かを確かめ、そして1億という金でも男と別れない女というのはどんな女かじっくり見たかった。
そして方法を考えたかった。
具体的にどうやって女と美奈の夫を引き離すのかを。
そして女に面談の礼の意味を込め握手を求めたが、それまで口ごもることなく話をしていた女が躊躇いながら手を差し出すと頬を染めた。
あれが演技だとすれば、見事な演技力であり女優としてやっていけるはずだ。
だが化けの皮というものは、どこかで剥がれることに決まっている。
そして牧野つくしは自分が敵意を抱かれているとは思わなかったはずだ。
あれは仕事で副社長と面談をしたに過ぎず、その裏に隠された思惑があることは知らないし考えもしないだろう。
だが彼女が部屋を去るそのとき、挨拶のため頭を下げたが、その間一瞬だったが冷やかな感情が表に出てしまった。しかしそれが見られたとしても気に留めることではない。
だがこれからは気を付けなければならない。
彼女に敵意があるなど感じさせてはならない。
むしろその逆だと思わせなければならないからだ。
そしてあの面談は、司が牧野つくしに近づくきっかけになった。
あの面談も最初から仕組んだものだったが、あのおかげで近づき易くなったのは事実だ。
人は一度でも言葉を交わし、挨拶をすれば知り合いという範疇に入るからだ。
司は心から女を好きになったことがない。
だから恋愛につきものの独占欲や嫉妬というものを経験したことがない。
だから正直なところ、姪がどうしてここまでの想いを抱くのか分からない。
それにもし司が結婚するとなれば、戦略的な結婚になるはずだ。だから相手に対して独占欲といったものも湧かないはずだ。
今までの女との付き合いは互いの合意の上の性行為。そしてパーティーへの同伴といったもの。だが幼馴染みの悪友たちの中には、嫉妬や独占欲といったものに煩わされる男もいるが、司が牧野つくしを虜にして捨てるという過程の中にそれらが含まれることはない。
女がいないと寂しいだろうと言っていたあきらは、若い頃10歳以上年上の人妻と付き合うのを好んでいた。
そんなあきらの不倫といえども純愛だという言葉を借りれば、牧野つくしと白石隆信は純愛なのだろうか。だが、あきらの場合はあの二人とは立ち位置が違う。
それに、あきらが年上の人妻好きだったのは、家庭環境が影響していると言われていたからだ。
そんなあきらなら不倫をする男と女の気持が分かるのか。
いつだったかあきらが言ったことがある。
不倫は純愛だが、いつ終わっても文句が言えない関係だから燃え上がると。
そして相手が誠実さを求めない関係だからいいと言う。だがそれは当事者だけであり、夫に浮気をされている姪は、いつかは終わるという二人の関係を、ただ指を咥えて待つつもりはない。
それに終わるとも限らない。
夫を愛しているから別れたくないという姪。
今の世の中離婚は不名誉なことではない。
それに司にしてみれば、愛しているという言葉は、意地であるような気もするが姪が決めたことだ。だから叔父として姪の幸せのため、力を貸してくれと言われればそうせざるを得ない。
「失礼いたします。滝川産業との出向による人事交流の件ですが、あの会社は同じグループ会社になったとはいえ、まだ1年しか経っておりません。企業風土も文化も違います。まったく別の会社と言ってもいいのが実情ですが彼女を出向させるということでよろしいのですね?」
司は煙草を灰皿で揉み消し、執務室に入って来た西田から書類を受け取り、すらりと長い指でペンを掴むとサインをした。そして椅子の背にもたれかかり考えるように数秒間目を閉じ、そして開いた。
「ああ。そうしてくれ。あの女を近くに置く。そうすればあの女の行動が見える。それに俺の傍にいるんだ。他の男と会う時間があると思うか?それにあの女の仕事に対する姿勢はある意味で立派だ。与えられた仕事は一生懸命やる。だからその姿勢を買ってやるつもりだ」

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Comment:2
扉をノックし、ひと呼吸置き、どうぞという声が無かったとしても扉を開けるタイミングは間違えてはいないはずだ。
つくしは中に入ると静かに扉を閉め挨拶をした。
「失礼いたします。営業統括本部の牧野と申します」
応接室でつくしを待っていたのは二人の男性。
ひとりはソファに座り、もうひとりはソファから離れた場所に立っていた。
二人とも黒っぽいスーツにネクタイ姿だが、立っている男性は銀縁の眼鏡をかけ、髪を後ろに撫で付けていて、ソファに腰をおろした男性が道明寺司であることは疑う余地はないが、思わず見入ってしまったのは、これまでに出会った男性の中で圧倒的な存在感が感じられたからだ。
それは長い脚をこれ見よがしに組んでいるからなのか。
それとも肘掛に片肘を乗せた態度に感じられる鷹揚さからなのか。
どちらにしても、これほどまでに整った顔を見るのは初めてだった。
雑誌やテレビで見たことはあるが、本物の道明寺司は彫刻されたようだ、としか言えなかった。
そして身に付けているものが既製品でないことは分かるが、非の打ち所がない容姿は、どんな物を纏ったとしても一流に変えてしまうだけのオーラがあり、意図を持ってセットされているはずの黒髪は癖があるのか捲いているが、その癖も男の美しさを損なうことはなかった。
そしてその顔が無表情でじっとつくしの顔を見つめていたが、どうぞお掛け下さいと言われない限りその場所で立ち尽くすことしか出来ず、そのまま真剣な面持ちで相手の凝視を受け止めていた。
桜子ほど目の前の人物に詳しい訳ではないが、会社が道明寺HDに買収されると訊いたとき、経営トップがどんな人物であるか調べたが、副社長である道明寺司は、つくしよりひとつ年上で長い間ニューヨークで暮らしていたが新規プロジェクト指示のため帰国した。
そんな男のビジネスに於いての評判はいい。
だが私生活や人柄といったものは、週刊誌に書かれることを鵜呑みにする訳ではないが、一般人が耳にするといえば、やはりそういったマスコミからの情報であり、その容貌とステータスから臆測を呼ぶような記事が書かれることもあった。
美人モデルを伴った海外旅行。
新人女優と一晩を過ごした。
深窓のご令嬢とのデート。
週刊誌に書かれていることを信じるなら、私生活は充実しているようだ。
だが道明寺司が雲の上の存在であり一般人には縁のない世界の住人であることは間違いなく、1年前に買収した会社を突然訪問する理由が何であったとしても、そこで働く社員が詮索することではない。
そして、座ってもいいと言われるまで座ることが出来ない立場の人間を、それこそ悪さをして呼び出した学生のように、いつまでも立たせたままにしておくと決めたのなら、それに従うしかないのが会社勤めの人間の当たり前の光景だ。
そして、何故か目の前の男性から感じられるのは敵意とまでは言わないが冷やかな感情。
スッと細められた瞳は、目の前の女の身体を上から下へと値踏みするように見た。
決して身構える訳ではないが、その視線は性的なものと言うよりも、バカにしたように感じられたのはつくしの思い込みかもしれないが、つまり呼んでおきながら歓迎していないのではないかと感じられた。
そしていつまで経っても口を開こうとしない男に、じっと立つ女という構図の先にあるのは何なのか。
つくしがここに呼ばれた理由は、女性の視点での今の会社の現状といったものが訊きたい。
女性の目で見た職場環境を知りたいと言うことだったが、それが本当なのだろうかと思い始めていた。
もしかすると何か別の意図があるのではないかと。
だがその時、彫刻された口が開いた。
「君が牧野さんか.....。座ってくれ」
「はい。ありがとうございます。失礼いたします」
その受け答えが正しいかどうかなどこの際関係ないのだが、ホッとした気持ちがあった。
そして座ることを許された女に訊きたいことがあるなら早く訊いて欲しいと思う。
何故なら長い沈黙と執拗な視線にさらされるというのは、正直居心地のいいものではないからだ。そして初めて聞いた声は深みのある声。
それは人を思いのままに動かすことが出来る声で強い要求を感じさせた。
つまり彼が命令すれば人は絶対に従うと確信している声だ。
「牧野さん。早速だが今日こちらに来て頂いたのは、この会社での女性の目で見た職場環境を知りたいからだ。君はここに勤めて何年になる?」
「はい。13年になります」
「大学を卒業してから?」
「はい。そうです」
「そうか。それでどうだ?この会社は女性にとって働きやすい環境か?それともそうでもないか。君は13年働いているが、入社した頃と今では環境の変化があったはずだがどうだ?」
質問は想定していたもので、答えは決まっていた。
そして会話が始まったことで、先ほどまで感じられた冷たさといったものが薄れたように感じられた。
「はい。女性にとって働きやすい環境かというご質問ですが、それについては問題ありません。この会社は歴史のある会社ですが考え方が古いといったことはありません。男性が多い職場ですが、女性が蔑ろにされるといった感じではなく、どちらかと言えば大切にされていると思います。それは女性が少ないからなのかもしれませんが、女性を怒らせて頼んであった仕事をしてもらえなくなれば困るのは男性ですから。それに女性だからといった差別はありません」
組織の仕事とはチームワークが必要だ。
だから信頼の置ける仲間であれば差別も区別もない。
「そうか。それでは別の質問をさせてもらう。女子社員の間でパワハラやセクハラといったことも話題として上がると思うがどうだ?そういった話を耳にしたことはないか?」
その質問も訊かれるだろうと思っていた。
だから躊躇することなく答えることが出来た。
「パワハラやセクハラは世間的にも大きな問題として取り上げられることがありますが、この会社ではそういった問題はないと思います。ですが、私が社内の女性社員の全てを知っている訳ではありませんので、正直な話分かりません。それから多分ひと昔前なら結婚退職を暗黙に促すようなこともあったかもしれませんが、この会社ではそういったこともありません。むしろ長く勤めてもらいたいといった考え方の会社です」
つくしの勤める会社は女性社員が若ければ若い方がいいといった考え方をする会社ではない。事実、今つくしと同じ部署にいる一番の若手と言われる女性社員は28歳。
彼女は一生ここで働きます。牧野先輩、三条先輩よろしくお願いしますと言った。
つまりそれは、つくしも桜子もこの会社に生涯を捧げていると思われたということだ。
「そうか。では君は….ごく個人的なことを訊くがいいか?不快感を覚えるかもしれないが、君も一生ここで働くと考えていいのか?」
その訊き方は興味半分といったところだが、不快感を覚えるかもと断わりを言われたのだから答えてもいいと思った。そして副社長のこの発言は、目の前の女が独身であることを知っていての発言ではないかとつくしは捉えていた。だが独身であろうと既婚であろうと定年まで働くつもりでいるのだからその思いを伝えた。
「ええ。そのつもりです。ただ、うちが買収されることが決まったとき、もしかするとリストラされるのではと思いました。でもそうならなかったことを感謝しています」
そう答えたのは本心からだ。
買収された会社は、バラバラにされる可能性もあるのだから、そうされなかったことに感謝しかないが、それはこの会社の社員全員が思っているはずだ。
そしてそこから先は、当たり障りのない会話が続いた。
それはつくしについてではなく、女性社員なら誰もが思っているようなこと。たとえば、産休や親の介護についてといった話だったが、今のところつくしには結婚の予定もなく、両親は既に亡くなっていて、もし義理の両親という存在が現れたとすれば、介護問題といったものが無いとは言えないが、今のところどちらも直接的には関係がない話だった。
だがつくしが話しをする間、男は熱心に耳を傾けて目を離さなかった。それはこの部屋に入った時のどこか冷たいと感じられた態度とは違っていた。そして話し終わると意外な行動が取られた。
「君の考えはよく分かった。牧野さん。女性社員の皆さんにはこれからも今以上にしっかり働いてもらえるような職場環境が必要だということだな。今日は有意義な時間が持てたことに感謝する」
と言って薄く笑みを浮かべテーブル越しに手を差し出してきた。
それは、つくしがその手を掴むまで引っ込めるつもりはないといった態度。
そして握手とは原則として目上の人間が先に手を出すのがマナー。
だが握手の相手が女性なら、女性の立場がどうであろうと、女性から手が差し出されるまで男性は手を出すことはしないのがマナー。
だが目上の副社長に手を差し出されて取らないという失礼なことが出来るはずがない。
つくしは差し出された手をおずおずと握った。
そしてすぐに離そうとしたが、しっかりと握られ離してもらえなかった。やがてそこに力が加わった途端、頬がじわじわと熱くなり、握られた手が熱をもったように感じられ、視線を手から副社長に合わせた。
「あ、あの。副社長_」
どぎまぎと口を開いたところでつくしの手を握っていた手は離れた。
握られていたのは、ほんの数秒だったが随分と長い間握られていたような気がした。
それから立ち上がり挨拶をして部屋を出たが、下げた頭を上げて前を見た瞬間、目の前の顔は部屋に入って来た時と同じ無表情に見えたがそれは一瞬のことで、唇の端には先程と同じ薄い笑みが浮かんでいた。
「西田。どう思う?」
問われた司の秘書は抑揚のない口調で話し始めた。
「はい。牧野さんはお話の最中副社長が見つめられても頬を染めることはございませんでした。それに女性が見せる媚びを売るという視線もございません」
「それはどういう意味だ?」
西田の言葉をそのまま受け取れば、外見のいい金持ちの男には興味がない。
好きな男以外に興味がない一途な女という意味になる。
だが今まで司の周りにそんな女がいたことはない。誰もが何らかの打算的な思いを持ち近づいて来た。人間誰しも多かれ少なかれ欲というものを持っているはずだ。
それも、今手にしている以上に自分の欲望を満たしてくれる人間が現れれば、そちらになびくはずだ。だが西田は違うという。
「はい。わたくしは、副社長秘書として大勢の人間を目にしてまいりました。その殆どの人間。いえ全ての人間は皆副社長に惹かれます。そして自分に興味を持って欲しいという態度を示します。しかし牧野さんの態度は副社長に手を握られるまで目の前にいる男性がどのような人物であろうと、ビシネスライクに接していらっしゃいました。所謂上司と部下という関係そのものです。それ以外の何ものでもないといった受け答えでした。
ですが手を握られた途端、頬が染まっていくのが分かりました。身体が反応したということでしょう。あの時は明らかに牧野さんの意識は握られた手を通して副社長の方へ向いていました」
西田はそこで一旦言葉を切り、銀縁眼鏡の縁を持ち上げる仕草をしながら言葉を継いだ。
「女性の心変わりというものは世間ではよくある話です」
司はたっぷり1秒間考え、そして握っていた女の手の感触を思い出すようにこぶしを握った。あのとき、司も女の反応を確かめるように手に力を加えていたが、その時の女の視線は握られた自分の手を見つめていて、たかが握手くらいで頬を染まっていく様子がおかしかった。
妻のいる男と付き合う、不倫をするような図々しい女が男に手を握られただけで頬を染めることが滑稽だと感じられた。
「西田。牧野つくしは俺に興味は持ったということか?」
「はい。間違いございません」
司が牧野つくしに近づくのは、姪の結婚生活からあの女の影を取り除くことが目的。
恋を仕掛けて夢中にさせ、虜にして捨てる。
それがあの女の存在に傷つけられた姪の望みだから。
だから牧野つくしが興味を持ってくれるのは結構なことだ。
その方が誘惑しやすい。
そしてどんな女も司の傍に寄りたがる。
それは例外なくということ。
だから牧野つくしが司に興味を持つのは当然の話。
そして今日のこの面談という場所で彼女を誘惑するのに何の問題もないことが分かった。
しかし自分の不倫相手の妻が道明寺司の姪だと知っていれば警戒されるはずだ。だがどうやらそれは無いと見た。
何しろ、美奈と会っても全く動じなかったということは、白石隆信は自分の妻がどこの誰であることを告げていないということになる。
だが考えてみればそうだ。道明寺グループの企業で働きながら、道明寺楓の孫と結婚している男と不倫が出来る女というのは、尋常ではない神経の持ち主ということになるからだ。
どちらにしろ、女は美奈の夫である白石隆信と別れ、道明寺司にも捨てられるはめになる。
だがそれは仕方がない。
付き合った相手が悪いのだから。

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つくしは中に入ると静かに扉を閉め挨拶をした。
「失礼いたします。営業統括本部の牧野と申します」
応接室でつくしを待っていたのは二人の男性。
ひとりはソファに座り、もうひとりはソファから離れた場所に立っていた。
二人とも黒っぽいスーツにネクタイ姿だが、立っている男性は銀縁の眼鏡をかけ、髪を後ろに撫で付けていて、ソファに腰をおろした男性が道明寺司であることは疑う余地はないが、思わず見入ってしまったのは、これまでに出会った男性の中で圧倒的な存在感が感じられたからだ。
それは長い脚をこれ見よがしに組んでいるからなのか。
それとも肘掛に片肘を乗せた態度に感じられる鷹揚さからなのか。
どちらにしても、これほどまでに整った顔を見るのは初めてだった。
雑誌やテレビで見たことはあるが、本物の道明寺司は彫刻されたようだ、としか言えなかった。
そして身に付けているものが既製品でないことは分かるが、非の打ち所がない容姿は、どんな物を纏ったとしても一流に変えてしまうだけのオーラがあり、意図を持ってセットされているはずの黒髪は癖があるのか捲いているが、その癖も男の美しさを損なうことはなかった。
そしてその顔が無表情でじっとつくしの顔を見つめていたが、どうぞお掛け下さいと言われない限りその場所で立ち尽くすことしか出来ず、そのまま真剣な面持ちで相手の凝視を受け止めていた。
桜子ほど目の前の人物に詳しい訳ではないが、会社が道明寺HDに買収されると訊いたとき、経営トップがどんな人物であるか調べたが、副社長である道明寺司は、つくしよりひとつ年上で長い間ニューヨークで暮らしていたが新規プロジェクト指示のため帰国した。
そんな男のビジネスに於いての評判はいい。
だが私生活や人柄といったものは、週刊誌に書かれることを鵜呑みにする訳ではないが、一般人が耳にするといえば、やはりそういったマスコミからの情報であり、その容貌とステータスから臆測を呼ぶような記事が書かれることもあった。
美人モデルを伴った海外旅行。
新人女優と一晩を過ごした。
深窓のご令嬢とのデート。
週刊誌に書かれていることを信じるなら、私生活は充実しているようだ。
だが道明寺司が雲の上の存在であり一般人には縁のない世界の住人であることは間違いなく、1年前に買収した会社を突然訪問する理由が何であったとしても、そこで働く社員が詮索することではない。
そして、座ってもいいと言われるまで座ることが出来ない立場の人間を、それこそ悪さをして呼び出した学生のように、いつまでも立たせたままにしておくと決めたのなら、それに従うしかないのが会社勤めの人間の当たり前の光景だ。
そして、何故か目の前の男性から感じられるのは敵意とまでは言わないが冷やかな感情。
スッと細められた瞳は、目の前の女の身体を上から下へと値踏みするように見た。
決して身構える訳ではないが、その視線は性的なものと言うよりも、バカにしたように感じられたのはつくしの思い込みかもしれないが、つまり呼んでおきながら歓迎していないのではないかと感じられた。
そしていつまで経っても口を開こうとしない男に、じっと立つ女という構図の先にあるのは何なのか。
つくしがここに呼ばれた理由は、女性の視点での今の会社の現状といったものが訊きたい。
女性の目で見た職場環境を知りたいと言うことだったが、それが本当なのだろうかと思い始めていた。
もしかすると何か別の意図があるのではないかと。
だがその時、彫刻された口が開いた。
「君が牧野さんか.....。座ってくれ」
「はい。ありがとうございます。失礼いたします」
その受け答えが正しいかどうかなどこの際関係ないのだが、ホッとした気持ちがあった。
そして座ることを許された女に訊きたいことがあるなら早く訊いて欲しいと思う。
何故なら長い沈黙と執拗な視線にさらされるというのは、正直居心地のいいものではないからだ。そして初めて聞いた声は深みのある声。
それは人を思いのままに動かすことが出来る声で強い要求を感じさせた。
つまり彼が命令すれば人は絶対に従うと確信している声だ。
「牧野さん。早速だが今日こちらに来て頂いたのは、この会社での女性の目で見た職場環境を知りたいからだ。君はここに勤めて何年になる?」
「はい。13年になります」
「大学を卒業してから?」
「はい。そうです」
「そうか。それでどうだ?この会社は女性にとって働きやすい環境か?それともそうでもないか。君は13年働いているが、入社した頃と今では環境の変化があったはずだがどうだ?」
質問は想定していたもので、答えは決まっていた。
そして会話が始まったことで、先ほどまで感じられた冷たさといったものが薄れたように感じられた。
「はい。女性にとって働きやすい環境かというご質問ですが、それについては問題ありません。この会社は歴史のある会社ですが考え方が古いといったことはありません。男性が多い職場ですが、女性が蔑ろにされるといった感じではなく、どちらかと言えば大切にされていると思います。それは女性が少ないからなのかもしれませんが、女性を怒らせて頼んであった仕事をしてもらえなくなれば困るのは男性ですから。それに女性だからといった差別はありません」
組織の仕事とはチームワークが必要だ。
だから信頼の置ける仲間であれば差別も区別もない。
「そうか。それでは別の質問をさせてもらう。女子社員の間でパワハラやセクハラといったことも話題として上がると思うがどうだ?そういった話を耳にしたことはないか?」
その質問も訊かれるだろうと思っていた。
だから躊躇することなく答えることが出来た。
「パワハラやセクハラは世間的にも大きな問題として取り上げられることがありますが、この会社ではそういった問題はないと思います。ですが、私が社内の女性社員の全てを知っている訳ではありませんので、正直な話分かりません。それから多分ひと昔前なら結婚退職を暗黙に促すようなこともあったかもしれませんが、この会社ではそういったこともありません。むしろ長く勤めてもらいたいといった考え方の会社です」
つくしの勤める会社は女性社員が若ければ若い方がいいといった考え方をする会社ではない。事実、今つくしと同じ部署にいる一番の若手と言われる女性社員は28歳。
彼女は一生ここで働きます。牧野先輩、三条先輩よろしくお願いしますと言った。
つまりそれは、つくしも桜子もこの会社に生涯を捧げていると思われたということだ。
「そうか。では君は….ごく個人的なことを訊くがいいか?不快感を覚えるかもしれないが、君も一生ここで働くと考えていいのか?」
その訊き方は興味半分といったところだが、不快感を覚えるかもと断わりを言われたのだから答えてもいいと思った。そして副社長のこの発言は、目の前の女が独身であることを知っていての発言ではないかとつくしは捉えていた。だが独身であろうと既婚であろうと定年まで働くつもりでいるのだからその思いを伝えた。
「ええ。そのつもりです。ただ、うちが買収されることが決まったとき、もしかするとリストラされるのではと思いました。でもそうならなかったことを感謝しています」
そう答えたのは本心からだ。
買収された会社は、バラバラにされる可能性もあるのだから、そうされなかったことに感謝しかないが、それはこの会社の社員全員が思っているはずだ。
そしてそこから先は、当たり障りのない会話が続いた。
それはつくしについてではなく、女性社員なら誰もが思っているようなこと。たとえば、産休や親の介護についてといった話だったが、今のところつくしには結婚の予定もなく、両親は既に亡くなっていて、もし義理の両親という存在が現れたとすれば、介護問題といったものが無いとは言えないが、今のところどちらも直接的には関係がない話だった。
だがつくしが話しをする間、男は熱心に耳を傾けて目を離さなかった。それはこの部屋に入った時のどこか冷たいと感じられた態度とは違っていた。そして話し終わると意外な行動が取られた。
「君の考えはよく分かった。牧野さん。女性社員の皆さんにはこれからも今以上にしっかり働いてもらえるような職場環境が必要だということだな。今日は有意義な時間が持てたことに感謝する」
と言って薄く笑みを浮かべテーブル越しに手を差し出してきた。
それは、つくしがその手を掴むまで引っ込めるつもりはないといった態度。
そして握手とは原則として目上の人間が先に手を出すのがマナー。
だが握手の相手が女性なら、女性の立場がどうであろうと、女性から手が差し出されるまで男性は手を出すことはしないのがマナー。
だが目上の副社長に手を差し出されて取らないという失礼なことが出来るはずがない。
つくしは差し出された手をおずおずと握った。
そしてすぐに離そうとしたが、しっかりと握られ離してもらえなかった。やがてそこに力が加わった途端、頬がじわじわと熱くなり、握られた手が熱をもったように感じられ、視線を手から副社長に合わせた。
「あ、あの。副社長_」
どぎまぎと口を開いたところでつくしの手を握っていた手は離れた。
握られていたのは、ほんの数秒だったが随分と長い間握られていたような気がした。
それから立ち上がり挨拶をして部屋を出たが、下げた頭を上げて前を見た瞬間、目の前の顔は部屋に入って来た時と同じ無表情に見えたがそれは一瞬のことで、唇の端には先程と同じ薄い笑みが浮かんでいた。
「西田。どう思う?」
問われた司の秘書は抑揚のない口調で話し始めた。
「はい。牧野さんはお話の最中副社長が見つめられても頬を染めることはございませんでした。それに女性が見せる媚びを売るという視線もございません」
「それはどういう意味だ?」
西田の言葉をそのまま受け取れば、外見のいい金持ちの男には興味がない。
好きな男以外に興味がない一途な女という意味になる。
だが今まで司の周りにそんな女がいたことはない。誰もが何らかの打算的な思いを持ち近づいて来た。人間誰しも多かれ少なかれ欲というものを持っているはずだ。
それも、今手にしている以上に自分の欲望を満たしてくれる人間が現れれば、そちらになびくはずだ。だが西田は違うという。
「はい。わたくしは、副社長秘書として大勢の人間を目にしてまいりました。その殆どの人間。いえ全ての人間は皆副社長に惹かれます。そして自分に興味を持って欲しいという態度を示します。しかし牧野さんの態度は副社長に手を握られるまで目の前にいる男性がどのような人物であろうと、ビシネスライクに接していらっしゃいました。所謂上司と部下という関係そのものです。それ以外の何ものでもないといった受け答えでした。
ですが手を握られた途端、頬が染まっていくのが分かりました。身体が反応したということでしょう。あの時は明らかに牧野さんの意識は握られた手を通して副社長の方へ向いていました」
西田はそこで一旦言葉を切り、銀縁眼鏡の縁を持ち上げる仕草をしながら言葉を継いだ。
「女性の心変わりというものは世間ではよくある話です」
司はたっぷり1秒間考え、そして握っていた女の手の感触を思い出すようにこぶしを握った。あのとき、司も女の反応を確かめるように手に力を加えていたが、その時の女の視線は握られた自分の手を見つめていて、たかが握手くらいで頬を染まっていく様子がおかしかった。
妻のいる男と付き合う、不倫をするような図々しい女が男に手を握られただけで頬を染めることが滑稽だと感じられた。
「西田。牧野つくしは俺に興味は持ったということか?」
「はい。間違いございません」
司が牧野つくしに近づくのは、姪の結婚生活からあの女の影を取り除くことが目的。
恋を仕掛けて夢中にさせ、虜にして捨てる。
それがあの女の存在に傷つけられた姪の望みだから。
だから牧野つくしが興味を持ってくれるのは結構なことだ。
その方が誘惑しやすい。
そしてどんな女も司の傍に寄りたがる。
それは例外なくということ。
だから牧野つくしが司に興味を持つのは当然の話。
そして今日のこの面談という場所で彼女を誘惑するのに何の問題もないことが分かった。
しかし自分の不倫相手の妻が道明寺司の姪だと知っていれば警戒されるはずだ。だがどうやらそれは無いと見た。
何しろ、美奈と会っても全く動じなかったということは、白石隆信は自分の妻がどこの誰であることを告げていないということになる。
だが考えてみればそうだ。道明寺グループの企業で働きながら、道明寺楓の孫と結婚している男と不倫が出来る女というのは、尋常ではない神経の持ち主ということになるからだ。
どちらにしろ、女は美奈の夫である白石隆信と別れ、道明寺司にも捨てられるはめになる。
だがそれは仕方がない。
付き合った相手が悪いのだから。

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週明け月曜の朝というのは、部署ごとに一週間の仕事のスケジュールを確認することから始まる。
つくしが席を置く営業統括本部での仕事は、所謂営業事務と呼ばれる営業のサポートであり、営業担当とのチームワークや顧客とのコミュニケーション能力が必要になる。
つい最近もその能力が必要となったことがあった。
産業機械専門の商社という特性から、扱うものは機械が多く、特に大きな案件ともいえる大型機械を海外から輸入するとなれば納期の確認は絶対だが、当初ユーザーから納期は3ヶ月先でいいと言われたものが、どうしても1ヶ月以内に納入して欲しいと言われ、急遽ベルギーに工場を持つメーカーへ顧客の要望を伝え急ぐように依頼し、輸送手段を船便から航空便に変更する手配をしたばかりだった。
今つくしが担当しているのは、飲料メーカーで使われるペットボトル成形用大型コンプレッサの納入。
コンプレッサとは空気を含むガスを圧縮する機械であり、風水力機械と呼ばれ、工場での様々な機械に空気を送る役目を担っており、ガスを送る場合は化学プラントやLNGプラント等でガス供給のため使用され、プラントの心臓部として活躍する。
日本にも同種の機械を製造するメーカーはあるが、今回のユーザーである飲料メーカーの工場は、長年の実績からどうしてもその会社の機械でなければならないという。そしてヨーロッパからの空輸となると運送費はかなりかかるがそれでもいいから急いでくれと言われ、メーカーとの間で手配が終ったのが先週の金曜日だった。
客先の要求に応えるのが商社の仕事であり、たとえ無理だとしても、しなければならないことがある。それは要望に応えることで次のビジネスに繋がるからだ。
そういったこともあり、先週はギリギリまで手配に追われ、土日でゆっくりと休みそして月曜の朝を迎え、今度は次の案件の手配に取り掛かる週の始まりだった。
それにしても先週の頭には、思いもよらない言いがかりをつけられた。
いきなり現れた女性に夫と別れて欲しいと言われ、1億円の小切手を突き付けられた。
相手は若い女性だったが迫力があった。
だがあれから何もないのだから多分相手は間違っていたことに気付いたのだろう。
仕事も忙しかったが、1億円の小切手の女性のこともあり、先週は精神的に疲弊した。
そして週が明けた今日はいつもの月曜のはずだった。
だが今朝は違った。
出社してみれば、社員がそわそわと社内を歩き回っている姿があるからだ。
それは事業部長、部長、次長、課長といった管理職に関わらずの落ち着きのなさで、男性社員は一様にネクタイを締め直していた。
そして、つくしが用を足し出て来た個室の4つある洗面台の鏡の前は、化粧直しに勤しむ女子社員ですべて塞がっていた。
制服のない職場のため、服装は様々だが、オフホワイトストライプのブラウスにラズベリー色のスカート姿で鏡に向かっていた三条桜子は、個室から出て来たつくしと鏡越しに目が合うと、どうぞ。と言って手を洗う場所を開けた。
鮮やかな色のスカートは、華やかな桜子にはピッタリで、その横に立ったつくしは、ネイビーストライプのパンツに白いブラウスという目立たない服装だった。
真夏の暑い季節ならいざ知らず、5月の晴れ渡った空の下、出社したばかりで化粧が崩れているとは思えないのだが、洗面台に居並ぶ顔は、皆熱心に顔の仕上げにかかっていた。
そんな中でも特に桜子は真剣な表情で眉間に皺が寄っていた。
だから訊いた。
「ねえ、今日何かあるの?」
「牧野先輩。それが大変なんですよ!なんとあの道明寺司がうちの社を訪問するそうです。それもこれからなんですよ?朝一番で来社されるそうです」
つくしが手を洗うすぐ横で、覗き込むように鏡を見る桜子は、紅筆に口紅を含ませ、ほんのわずか唇からはみ出させるように色を描いていた。
桜子曰く、唇より大きく筆を滑らせることで、セクシーな唇になるそうだが、自分の顔の中で一番気に入っているのは唇ですと言った女の唇は確かに肉感的だ。
何でもその唇は、アメリカの有名女優のセクシーな唇を真似て作ってもらったらしい。
そしてその上にグロスを乗せればよりセクシーな唇が完成するんですという女は、鏡の中に清楚だが華やかさを感じさせる自分の顔に目を輝かせていた。
「道明寺司?」
「そうですよ。うちの会社、1年前に道明寺ホールディングスに買収されたじゃないですか。そこの副社長が今日うちを訪問するんです。だから専務や常務が社内を歩き回っては粗相がないかチェックしてるんですよ。何しろうちがグループ会社になって初めての訪問ですからね。何かあったら大変ですから。それに買収された時の調印は当然道明寺の本社だったから道明寺副社長がうちへ足を踏み入れるのは今日が初めてなんですよ?」
と、言いながらポーチの中に口紅と紅筆を収めた女は、今度は櫛を取り出すと、緩くウェーブがかかった髪を丁寧にとかし始めた。
「だから?」
「え?」
「だからどうしてそんなに化粧に励むのよ?」
その問いかけに、桜子は髪をとかす手を止め、手を洗い終えたつくしをこの人は何を言っているのと言わんばかりの顔で見た。
そして呆れたような口調で言った。
「どうしてって当たり前じゃないですか。あの道明寺司がうちの会社に来るんですよ?牧野先輩もご存知でしょ?あの道明寺司ですよ?仕事の出来る超がつくイケメンでお金持ちで、道明寺財閥の跡取りですよ?後継者ですよ?うちの会社もですけど、道明寺グループの全ての会社がゆくゆくはあの人ひとりの物になるんですよ?天は二物を与えずって言葉がありますけど、そんな言葉なんて関係ない人なんですよ?もうね、手に触れたものを全て黄金に変えるミダス王並に凄い人なんですからね!牧野先輩この意味分かってますよね?」
力説する桜子は、そう言いながら再び髪をとかし始めた。
「あのね、牧野先輩。道明寺司という人物は、日本経済を背負って立つ人です。いえ日本だけじゃありません。世界に4万人の社員を抱えるコングロマリットの副社長ですよ?そんな人に会えるだけでも凄いことですから。だから皆気合いを入れてるんです。分かりますよね?」
だがつくしはそこまで言われても興味が湧かなかった。
いや。興味が湧かないのではない。関心がなかった。
何しろそんな別世界の人間に興味を抱いたところで一体何になるというのだ。
いくらイケメンだろうが、お金持ちだろうが、自分の生活に関わりようがない人間には全く関心がない。
だが勿論道明寺司については知っている。
桜子の言うように、世界中に大勢の社員を抱えグローバル展開をする道明寺ホールディングス副社長の男を知らないはずがない。
それに、会社が買収されるとき、この先どうなるのかといった不安が無かったと言えば嘘になる。業務の見直しが行われ人員整理が行われるかもしれない。会社は従来通りの名前を残したが、今まで通りではない。変化があると思っていた。そして道明寺という巨大組織のひとつの企業になれば、子会社や関連会社に飛ばされる人間も出て来ると思ったが、そういったことにはならずホッとした。
ただ唯一変わったのは、健康保険の保険者名称が道明寺健康保険組合に変わったことだ。
そして以前よりも手厚い福利厚生が受けられるようになっていた。
「いいですか、先輩。道明寺司という人は、とにかく凄い男なんですよ?そんな人に会えるんですから綺麗にしておくのは当たり前です。それにどうやら今日は道明寺副社長がうちの社員と面談って言ったら変ですが、社員数名を選んで会社について忌憚のない意見を訊く時間を持つそうです。
凄いですよね?大企業のトップ自らが、いち社員の話に耳を傾ける時間を持つなんて。
どこの部署から何人選ばれるか分かりませんが、もし私が選ばれたらと思うと足が震えます」
そうか。
だからこうして女子社員は鏡に向かって化粧直しに励んでいるのだとつくしは納得した。
だが自分が呼ばれることは無いはずだ。
ああいった面談の参加者は少なくとも前日までには知らされているはずだ。だから自分は絶対にないと言える。
「あ~。どうしよう!もう少し落ち着いた服装の方が良かったかもしれませんね?でももし私が選ばれて、道明寺副社長と面談中に見初められたら私、玉の輿に乗るんですよね?そうしたらもう働かなくていいってことですよね?変な話ですけど、先週先輩のところに1億の小切手を持ってきた女性と同じくらい裕福な人妻になれるってことですよね?いいえ。そんな女性よりももっと裕福な人妻になれちゃうんですよね?先輩どう思います?私呼ばれると思います?」
なるほど。
ここにいる女性社員は皆そのことを考えているということか。
つくしは、そんなことがあるはずがないと笑いそうになったが、夢を見るのは自由だ。
だから否定はしなかった。
「さあ?ま、呼ばれたら呼ばれたで頑張ってみたら?もしかすると桜子の魅力に副社長も囚われちゃうかもね?」
桜子や自分が呼ばれることは無いと思うが、人生何が起こるか分からない。
だが予期せぬ出来事言うものがこれから起きるなら、それは桜子にとって最高の瞬間となるはずだ。それに道明寺司の名前は確かに有名で、その名は煌びやかな女優やモデルと並び週刊誌の記事に書かれることもある。だが彼は芸能人ではなく経済人だ。
それなのに、多くの女性が彼を見てうっとりとするのは、それだけ魅力的な人間だということだ。
だがつくしは興味がない。
もし彼に興味を持つとすれば、今後も間違いなくこの会社が継続されるかどうかを確かめる時だ。会社がなくなれば、他に生きていく手段を見つけなければならないからだ。
「じゃあ桜子。私先に行ってるから」
つくしは、そう言って化粧室の扉を押して廊下に出た。
そして営業統括本部にある自分の席へ向かおうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「牧野くん!牧野くん!」
振り返ってみれば、小走りで駆け寄って来たのは専務。
つくしが入社した頃は事業部長だったこともあり、かつての上司だ。
そんな専務に頭を下げたが専務は息を詰まらせながら話し始めた。
「牧野くん…突然で悪いが実は今道明寺副社長がお見えなんだが面談に入ってくれ。
ふ、副社長の秘書の方から指示があったんだが、道明寺副社長は女性の視点での今の会社の現状といったものが訊きたいと仰っている。うちは男性社員の方が圧倒的に多い。だから女性の目で見た職場環境といったものを知りたいそうだ。対象者としては営業に近い立場にいる30代半ばの中堅社員がいいそうだ。だから牧野くん。君が副社長との面談に入ってくれ」
息を詰まらせながらも一気に話し終えた専務は、そう言ってつくしを促した。
「…私がですか?」
桜子から道明寺HDの道明寺司が来社する、社員と面談をすると訊いたが、何故自分がその社員なのか。専務の話では30代半ばということだが、それなら三条桜子も当てはまるはずだ。
「あの、専務。三条さんも30代半ばなんですが、どうして私なんですか?」
「秘書の方から指示があって道明寺副社長は落ち着いた女性がいいそうだ。だから君だよ、君。牧野つくし君!急いでくれ。副社長は既にお見えだ。社長室の隣の応接室にいらっしゃる。僕は君が席にいないから探し回ってたんだよ!」
そうは言われても、始業開始までまだ15分はある。
それに女子社員の仕事始まりは、化粧室からスタートすることくらい専務だって分かっているはずだ。
そしてつくしが会社に着いたのは始業30分前だったが、その時ビルのエントランスは静かだった。ということは、道明寺副社長はそれよりも早く来ていたということになる。
社員の目に留まることなくいつの間にか社内にいた道明寺副社長。仕事ができる男は、行動もスマートでしかも隠密に行動することが好きなのだろうか。
それにしても、桜子にとっては最高の瞬間になると言ったが、まさか自分が道明寺副社長と面談をするはめになるとは思いもしなかった。
「いいかね、牧野くん。粗相がないようにしてくれたまえ。まあ君のことだから心配してないが、副社長にはとにかくいい印象を与えてくれ。うちは真面目にコツコツと働く会社だ。派手じゃないただの産業機械専門商社だ。間違ってもセクハラが多い会社だなんて言わないでくれよ?ま、それは冗談だがとにかく急いで応接室へ行ってくれ」
つくしはそう言われ、エレベーターを待つよりも階段の方が早いと駆け上がり社長室の隣にある応接室へ走った。
それにしても、まさか月曜の朝から社内を走るとは思いもしなかった。それに専務にせかされたせいなのか、悪さをして呼び出しを受けた学生のような気分にさせられるのは何故なのか。
だがそんなことを考えている場合ではない。
それにしても、自分が道明寺司に会うことになるとは思いもしなかった。
だが女性の目で見た職場環境を知りたいというのだから、中堅社員として話すべきことは話しておこうと思う。
つくしは、応接室の前に立つと、呼吸を整え服装の乱れがないかを確認した。
そして息を大きく吸って扉をノックした。

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つくしが席を置く営業統括本部での仕事は、所謂営業事務と呼ばれる営業のサポートであり、営業担当とのチームワークや顧客とのコミュニケーション能力が必要になる。
つい最近もその能力が必要となったことがあった。
産業機械専門の商社という特性から、扱うものは機械が多く、特に大きな案件ともいえる大型機械を海外から輸入するとなれば納期の確認は絶対だが、当初ユーザーから納期は3ヶ月先でいいと言われたものが、どうしても1ヶ月以内に納入して欲しいと言われ、急遽ベルギーに工場を持つメーカーへ顧客の要望を伝え急ぐように依頼し、輸送手段を船便から航空便に変更する手配をしたばかりだった。
今つくしが担当しているのは、飲料メーカーで使われるペットボトル成形用大型コンプレッサの納入。
コンプレッサとは空気を含むガスを圧縮する機械であり、風水力機械と呼ばれ、工場での様々な機械に空気を送る役目を担っており、ガスを送る場合は化学プラントやLNGプラント等でガス供給のため使用され、プラントの心臓部として活躍する。
日本にも同種の機械を製造するメーカーはあるが、今回のユーザーである飲料メーカーの工場は、長年の実績からどうしてもその会社の機械でなければならないという。そしてヨーロッパからの空輸となると運送費はかなりかかるがそれでもいいから急いでくれと言われ、メーカーとの間で手配が終ったのが先週の金曜日だった。
客先の要求に応えるのが商社の仕事であり、たとえ無理だとしても、しなければならないことがある。それは要望に応えることで次のビジネスに繋がるからだ。
そういったこともあり、先週はギリギリまで手配に追われ、土日でゆっくりと休みそして月曜の朝を迎え、今度は次の案件の手配に取り掛かる週の始まりだった。
それにしても先週の頭には、思いもよらない言いがかりをつけられた。
いきなり現れた女性に夫と別れて欲しいと言われ、1億円の小切手を突き付けられた。
相手は若い女性だったが迫力があった。
だがあれから何もないのだから多分相手は間違っていたことに気付いたのだろう。
仕事も忙しかったが、1億円の小切手の女性のこともあり、先週は精神的に疲弊した。
そして週が明けた今日はいつもの月曜のはずだった。
だが今朝は違った。
出社してみれば、社員がそわそわと社内を歩き回っている姿があるからだ。
それは事業部長、部長、次長、課長といった管理職に関わらずの落ち着きのなさで、男性社員は一様にネクタイを締め直していた。
そして、つくしが用を足し出て来た個室の4つある洗面台の鏡の前は、化粧直しに勤しむ女子社員ですべて塞がっていた。
制服のない職場のため、服装は様々だが、オフホワイトストライプのブラウスにラズベリー色のスカート姿で鏡に向かっていた三条桜子は、個室から出て来たつくしと鏡越しに目が合うと、どうぞ。と言って手を洗う場所を開けた。
鮮やかな色のスカートは、華やかな桜子にはピッタリで、その横に立ったつくしは、ネイビーストライプのパンツに白いブラウスという目立たない服装だった。
真夏の暑い季節ならいざ知らず、5月の晴れ渡った空の下、出社したばかりで化粧が崩れているとは思えないのだが、洗面台に居並ぶ顔は、皆熱心に顔の仕上げにかかっていた。
そんな中でも特に桜子は真剣な表情で眉間に皺が寄っていた。
だから訊いた。
「ねえ、今日何かあるの?」
「牧野先輩。それが大変なんですよ!なんとあの道明寺司がうちの社を訪問するそうです。それもこれからなんですよ?朝一番で来社されるそうです」
つくしが手を洗うすぐ横で、覗き込むように鏡を見る桜子は、紅筆に口紅を含ませ、ほんのわずか唇からはみ出させるように色を描いていた。
桜子曰く、唇より大きく筆を滑らせることで、セクシーな唇になるそうだが、自分の顔の中で一番気に入っているのは唇ですと言った女の唇は確かに肉感的だ。
何でもその唇は、アメリカの有名女優のセクシーな唇を真似て作ってもらったらしい。
そしてその上にグロスを乗せればよりセクシーな唇が完成するんですという女は、鏡の中に清楚だが華やかさを感じさせる自分の顔に目を輝かせていた。
「道明寺司?」
「そうですよ。うちの会社、1年前に道明寺ホールディングスに買収されたじゃないですか。そこの副社長が今日うちを訪問するんです。だから専務や常務が社内を歩き回っては粗相がないかチェックしてるんですよ。何しろうちがグループ会社になって初めての訪問ですからね。何かあったら大変ですから。それに買収された時の調印は当然道明寺の本社だったから道明寺副社長がうちへ足を踏み入れるのは今日が初めてなんですよ?」
と、言いながらポーチの中に口紅と紅筆を収めた女は、今度は櫛を取り出すと、緩くウェーブがかかった髪を丁寧にとかし始めた。
「だから?」
「え?」
「だからどうしてそんなに化粧に励むのよ?」
その問いかけに、桜子は髪をとかす手を止め、手を洗い終えたつくしをこの人は何を言っているのと言わんばかりの顔で見た。
そして呆れたような口調で言った。
「どうしてって当たり前じゃないですか。あの道明寺司がうちの会社に来るんですよ?牧野先輩もご存知でしょ?あの道明寺司ですよ?仕事の出来る超がつくイケメンでお金持ちで、道明寺財閥の跡取りですよ?後継者ですよ?うちの会社もですけど、道明寺グループの全ての会社がゆくゆくはあの人ひとりの物になるんですよ?天は二物を与えずって言葉がありますけど、そんな言葉なんて関係ない人なんですよ?もうね、手に触れたものを全て黄金に変えるミダス王並に凄い人なんですからね!牧野先輩この意味分かってますよね?」
力説する桜子は、そう言いながら再び髪をとかし始めた。
「あのね、牧野先輩。道明寺司という人物は、日本経済を背負って立つ人です。いえ日本だけじゃありません。世界に4万人の社員を抱えるコングロマリットの副社長ですよ?そんな人に会えるだけでも凄いことですから。だから皆気合いを入れてるんです。分かりますよね?」
だがつくしはそこまで言われても興味が湧かなかった。
いや。興味が湧かないのではない。関心がなかった。
何しろそんな別世界の人間に興味を抱いたところで一体何になるというのだ。
いくらイケメンだろうが、お金持ちだろうが、自分の生活に関わりようがない人間には全く関心がない。
だが勿論道明寺司については知っている。
桜子の言うように、世界中に大勢の社員を抱えグローバル展開をする道明寺ホールディングス副社長の男を知らないはずがない。
それに、会社が買収されるとき、この先どうなるのかといった不安が無かったと言えば嘘になる。業務の見直しが行われ人員整理が行われるかもしれない。会社は従来通りの名前を残したが、今まで通りではない。変化があると思っていた。そして道明寺という巨大組織のひとつの企業になれば、子会社や関連会社に飛ばされる人間も出て来ると思ったが、そういったことにはならずホッとした。
ただ唯一変わったのは、健康保険の保険者名称が道明寺健康保険組合に変わったことだ。
そして以前よりも手厚い福利厚生が受けられるようになっていた。
「いいですか、先輩。道明寺司という人は、とにかく凄い男なんですよ?そんな人に会えるんですから綺麗にしておくのは当たり前です。それにどうやら今日は道明寺副社長がうちの社員と面談って言ったら変ですが、社員数名を選んで会社について忌憚のない意見を訊く時間を持つそうです。
凄いですよね?大企業のトップ自らが、いち社員の話に耳を傾ける時間を持つなんて。
どこの部署から何人選ばれるか分かりませんが、もし私が選ばれたらと思うと足が震えます」
そうか。
だからこうして女子社員は鏡に向かって化粧直しに励んでいるのだとつくしは納得した。
だが自分が呼ばれることは無いはずだ。
ああいった面談の参加者は少なくとも前日までには知らされているはずだ。だから自分は絶対にないと言える。
「あ~。どうしよう!もう少し落ち着いた服装の方が良かったかもしれませんね?でももし私が選ばれて、道明寺副社長と面談中に見初められたら私、玉の輿に乗るんですよね?そうしたらもう働かなくていいってことですよね?変な話ですけど、先週先輩のところに1億の小切手を持ってきた女性と同じくらい裕福な人妻になれるってことですよね?いいえ。そんな女性よりももっと裕福な人妻になれちゃうんですよね?先輩どう思います?私呼ばれると思います?」
なるほど。
ここにいる女性社員は皆そのことを考えているということか。
つくしは、そんなことがあるはずがないと笑いそうになったが、夢を見るのは自由だ。
だから否定はしなかった。
「さあ?ま、呼ばれたら呼ばれたで頑張ってみたら?もしかすると桜子の魅力に副社長も囚われちゃうかもね?」
桜子や自分が呼ばれることは無いと思うが、人生何が起こるか分からない。
だが予期せぬ出来事言うものがこれから起きるなら、それは桜子にとって最高の瞬間となるはずだ。それに道明寺司の名前は確かに有名で、その名は煌びやかな女優やモデルと並び週刊誌の記事に書かれることもある。だが彼は芸能人ではなく経済人だ。
それなのに、多くの女性が彼を見てうっとりとするのは、それだけ魅力的な人間だということだ。
だがつくしは興味がない。
もし彼に興味を持つとすれば、今後も間違いなくこの会社が継続されるかどうかを確かめる時だ。会社がなくなれば、他に生きていく手段を見つけなければならないからだ。
「じゃあ桜子。私先に行ってるから」
つくしは、そう言って化粧室の扉を押して廊下に出た。
そして営業統括本部にある自分の席へ向かおうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「牧野くん!牧野くん!」
振り返ってみれば、小走りで駆け寄って来たのは専務。
つくしが入社した頃は事業部長だったこともあり、かつての上司だ。
そんな専務に頭を下げたが専務は息を詰まらせながら話し始めた。
「牧野くん…突然で悪いが実は今道明寺副社長がお見えなんだが面談に入ってくれ。
ふ、副社長の秘書の方から指示があったんだが、道明寺副社長は女性の視点での今の会社の現状といったものが訊きたいと仰っている。うちは男性社員の方が圧倒的に多い。だから女性の目で見た職場環境といったものを知りたいそうだ。対象者としては営業に近い立場にいる30代半ばの中堅社員がいいそうだ。だから牧野くん。君が副社長との面談に入ってくれ」
息を詰まらせながらも一気に話し終えた専務は、そう言ってつくしを促した。
「…私がですか?」
桜子から道明寺HDの道明寺司が来社する、社員と面談をすると訊いたが、何故自分がその社員なのか。専務の話では30代半ばということだが、それなら三条桜子も当てはまるはずだ。
「あの、専務。三条さんも30代半ばなんですが、どうして私なんですか?」
「秘書の方から指示があって道明寺副社長は落ち着いた女性がいいそうだ。だから君だよ、君。牧野つくし君!急いでくれ。副社長は既にお見えだ。社長室の隣の応接室にいらっしゃる。僕は君が席にいないから探し回ってたんだよ!」
そうは言われても、始業開始までまだ15分はある。
それに女子社員の仕事始まりは、化粧室からスタートすることくらい専務だって分かっているはずだ。
そしてつくしが会社に着いたのは始業30分前だったが、その時ビルのエントランスは静かだった。ということは、道明寺副社長はそれよりも早く来ていたということになる。
社員の目に留まることなくいつの間にか社内にいた道明寺副社長。仕事ができる男は、行動もスマートでしかも隠密に行動することが好きなのだろうか。
それにしても、桜子にとっては最高の瞬間になると言ったが、まさか自分が道明寺副社長と面談をするはめになるとは思いもしなかった。
「いいかね、牧野くん。粗相がないようにしてくれたまえ。まあ君のことだから心配してないが、副社長にはとにかくいい印象を与えてくれ。うちは真面目にコツコツと働く会社だ。派手じゃないただの産業機械専門商社だ。間違ってもセクハラが多い会社だなんて言わないでくれよ?ま、それは冗談だがとにかく急いで応接室へ行ってくれ」
つくしはそう言われ、エレベーターを待つよりも階段の方が早いと駆け上がり社長室の隣にある応接室へ走った。
それにしても、まさか月曜の朝から社内を走るとは思いもしなかった。それに専務にせかされたせいなのか、悪さをして呼び出しを受けた学生のような気分にさせられるのは何故なのか。
だがそんなことを考えている場合ではない。
それにしても、自分が道明寺司に会うことになるとは思いもしなかった。
だが女性の目で見た職場環境を知りたいというのだから、中堅社員として話すべきことは話しておこうと思う。
つくしは、応接室の前に立つと、呼吸を整え服装の乱れがないかを確認した。
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姪の美奈は1億で女に自分の夫と別れるように言った。
まさかあの子が夫の浮気相手にそこまでの行動をするとは思わなかったが、姉や自分の性格を考えれば不思議なことではない。自分の思いをはっきりと形で表すことをする姪は、行動に移すのも早い。そして、祖母の楓から二十歳になれば受け取れる莫大な信託財産の使い道に躊躇はないようで、早速自分のために使うことにしたようだ。
自分の幸せを守るためならどんな手段でも用いる。
それをビジネスに置き換えたとすれば、祖母の楓のようになる可能性もあるということだ。
だがそれが悪いというのではない。それに彼女のその行動力はまさに道明寺家の特徴と言ってもいい。
目的のためには手段は選ばない。
それが楓のやり方であり、そのやり方が道明寺という財閥を大きくしていったのだから。
だがその楓も孫には甘い。
しかし、孫の夫が浮気をしていると知れば容赦はしないはずだ。美奈の言葉など無視して別れさせるかもしれない。
そして母親である椿に若さを理由に反対された結婚だっただけに、やはりと思われたくないという気持と心配を掛けたくないという気持があることも理解出来る。
だから叔父である司にどうにかして夫の浮気相手を遠ざけて欲しいと言って来た。
だが司は、姪が選んだ相手が気に入らないという訳ではないが、結婚してまだ間もないというのに早々に浮気をする男など別れてしまえばいいという思いもあった。
だからその思いをつい口にしてしまったが、人を好きになるという感情は他人には分からないものであり、何故こんな男と?と思ったとしても、逆もまた然りで感情というのは理性でコントロールできるものではないと言われている。
だが司が本気で女を好きになったことがあるかと問われれば、ノーと答える。
過去に付き合っていた女がいたとしても、どこか醒めた目で女を見ていた。女という生き物は、すぐに感情に訴える生き物であり、感情を制御して理性を働かせるといったことが苦手だ。つまりすぐに泣く生き物であり、泣けばなんとかなると思う女は司にしてみればただの煩い女に過ぎなかった。
だが姪は別だ。姪が流す涙は他の女とは別のものだ。
姪は司にとって数少ない家族であり、幼い頃から可愛がってきた姉の子供だ。あきらのような兄と妹との関係とは別の意味での絆や情といったものがあった。
美奈は結婚しているとはいえ、まだ20歳の大学生。
頭がいいとはいえ、司から見れば子供だ。
そしてお嬢さん育ちであることには間違いない。
それに二人が夫婦としてどんな生活を送っているのか知らないが、二十歳という年齢では知らないことも多いはずだ。
そんな姪が自分を頼っているというのだから、何とかしてやらなければと思うのが司だ。
それに例え夫と別れることになっても椿の娘であり、司の姪であり、楓の孫となれば未来はどうにでもなる。若い頃の結婚の失敗に心が傷つくことがあったとしても、時が経てば癒されるはずだ。
それにしても、1億で首を縦に振らなかった相手の女は、美奈がさらにもう1億出すと言っても同じ態度を取ったという。
それは白石隆信という男が、道明寺という日本で一、二を争う財閥の血筋の娘と結婚していることを知っていて、別れるならもっと多くの金を男の妻から引き出せると思っているからなのか。
だがそう考えているならそれは甘い考えであり無理だと分からせてやる必要がある。
そしてその女が金目当てなら司にはうなるほどの金がある。
それに、白石隆信と自分の容貌を比べれば、司の方が比べものにならないほど優れている。
それを充分理解している姪は、司のその魅力を使って女を虜にし、夢中にさせ捨てろと言う。
自分の心が傷ついたのと同じように、相手の女の心を傷つけてくれと言う。
それはある意味残酷な手段。
身も心も弄んで捨てろという言葉が美奈から出るとは思わなかったが、1億、いや2億でも首を縦に振らなかったというなら、相当したたかな女であり、傷付く心というものを持っていないということになる。
「どんな女か知らねぇが、さぞかし自分に自信がある女ってことか?」
司は言うと美奈から訊かされた、滝川産業という社名に皮肉な笑みが浮かんだ。
偶然とは言えその会社は道明寺HDが1年前に買収した会社。そして明日その会社を訪れることになっているからだ。
その会社にいる牧野つくしという女と美奈の夫の付き合いが1年になるというなら、同じグループの会社になったことがきっかけだったのだろうか。接点があるようには思えないが、それでもどこかで繋がりがあるから二人は付き合いを始めたということか。
司は美奈が帰ったあと、すぐに秘書に電話をした。
必ずスリーコール以内に出る男の声はいつもと同じで変わることはなく感情をあらわにすることはない。
そんな男にすぐに滝川産業の牧野つくしについて調べるように告げると、秘書はかしこまりましたと答え電話を切った。
そして世田谷の邸を後にしてペントハウスに戻ったところで電話が鳴った。
「ああ。__そうか分かったか。_____いや。パソコンの方へ送ってくれ。__そうだ。明日滝川産業に行くがその時、牧野つくしという女に会いたい。会えるようにしてくれ」
司はパソコンを立ち上げた。
そして秘書からのメールを開き、牧野つくしについて書かれている内容に目を通したが、それは道明寺グループの全社員についてのデータの中から抜き出されたもので、当然だが簡単にアクセス出来るものではない。
そしてそこに書かれているのは、牧野つくしが35歳で白石隆信より2歳上の女であり、都内の大学を卒業後、産業機械専門の商社である滝川産業に入社し、営業統括本部で営業のサポートをしていると書かれていた。
そして示されている写真はIDカード用に撮影されたもので、肩口で切り揃えられた黒髪に薄化粧なのか唇の色は殆どないといってもいいほど色がない。
だが顔の中で印象的なのは目だ。黒い大きな瞳がカメラ目線なのは当然だが、真っ直ぐこちらを見つめるその瞳の縁に派手な人工的な彩はなく、自然な瞳が強い光を湛えカメラのレンズの向うにいる人間を見ているが、その顔は真面目そのもので、妻のいる男をたぶらかす女には見えなかった。
「この女が牧野つくしか?」
思わず漏れた言葉は、司が想像していた女とは違ったからだ。
着ているものも、雰囲気も彼が考えていた女とはまるで違う。
美奈が提示した1億に頷かず、2億と言っても首を縦に振らなかった女には見えなかった。
いや。外見だけに惑わされるほど愚かしいことはない。
この女は強欲だが謙虚に見せるのが手口なのかもしれない。
何しろ女は化ける。キツネやタヌキと同じで自分の望む姿に化けることが出来る。
IDの写真が薄化粧なだけで、男をたぶらかすと決めれば、目の周りに派手な色を塗り、唇には扇情的な色が塗られるはずだ。
NYにもその手の女は幾らでもいた。つまり金持ちで見た目のいい男を捕まえるためならどんなことでもする女はどこにでもいるということだ。
だから写真とデータだけでは判断することは出来なかった。
司は姪から牧野つくしを虜にして捨ててくれと言われた時、躊躇した。
そんな手間がかかることをするよりも、手っ取り早く決着を付ければいいと感じたからだ。
それは、牧野つくしに自分の立場を認識させるということ。自分が相手にしている男は自分が働く会社の親会社にあたる道明寺財閥に繋がる男であり、男の妻はグループの社長である道明寺楓の孫であるということ。そして二人の関係で不利益を被るのは自分の方だということを。
たが、今は姪の願いを叶えることが面白そうだと感じ始めていた。
弄んで捨てて欲しい。
相手の女の心を傷つけて欲しい。
自分が傷ついたのと同じだけ傷つけて欲しい。
恋を仕掛けて捨てる。それが姪の願い。
それは司にとっては簡単なゲームになるはずだ。
何しろ、彼に堕ちない女はいないと言われているのだから。
司は、大した情報はなかったが必要なことを頭に入れるとメールを閉じた。
「牧野つくしか。会うのが楽しみだ」

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まさかあの子が夫の浮気相手にそこまでの行動をするとは思わなかったが、姉や自分の性格を考えれば不思議なことではない。自分の思いをはっきりと形で表すことをする姪は、行動に移すのも早い。そして、祖母の楓から二十歳になれば受け取れる莫大な信託財産の使い道に躊躇はないようで、早速自分のために使うことにしたようだ。
自分の幸せを守るためならどんな手段でも用いる。
それをビジネスに置き換えたとすれば、祖母の楓のようになる可能性もあるということだ。
だがそれが悪いというのではない。それに彼女のその行動力はまさに道明寺家の特徴と言ってもいい。
目的のためには手段は選ばない。
それが楓のやり方であり、そのやり方が道明寺という財閥を大きくしていったのだから。
だがその楓も孫には甘い。
しかし、孫の夫が浮気をしていると知れば容赦はしないはずだ。美奈の言葉など無視して別れさせるかもしれない。
そして母親である椿に若さを理由に反対された結婚だっただけに、やはりと思われたくないという気持と心配を掛けたくないという気持があることも理解出来る。
だから叔父である司にどうにかして夫の浮気相手を遠ざけて欲しいと言って来た。
だが司は、姪が選んだ相手が気に入らないという訳ではないが、結婚してまだ間もないというのに早々に浮気をする男など別れてしまえばいいという思いもあった。
だからその思いをつい口にしてしまったが、人を好きになるという感情は他人には分からないものであり、何故こんな男と?と思ったとしても、逆もまた然りで感情というのは理性でコントロールできるものではないと言われている。
だが司が本気で女を好きになったことがあるかと問われれば、ノーと答える。
過去に付き合っていた女がいたとしても、どこか醒めた目で女を見ていた。女という生き物は、すぐに感情に訴える生き物であり、感情を制御して理性を働かせるといったことが苦手だ。つまりすぐに泣く生き物であり、泣けばなんとかなると思う女は司にしてみればただの煩い女に過ぎなかった。
だが姪は別だ。姪が流す涙は他の女とは別のものだ。
姪は司にとって数少ない家族であり、幼い頃から可愛がってきた姉の子供だ。あきらのような兄と妹との関係とは別の意味での絆や情といったものがあった。
美奈は結婚しているとはいえ、まだ20歳の大学生。
頭がいいとはいえ、司から見れば子供だ。
そしてお嬢さん育ちであることには間違いない。
それに二人が夫婦としてどんな生活を送っているのか知らないが、二十歳という年齢では知らないことも多いはずだ。
そんな姪が自分を頼っているというのだから、何とかしてやらなければと思うのが司だ。
それに例え夫と別れることになっても椿の娘であり、司の姪であり、楓の孫となれば未来はどうにでもなる。若い頃の結婚の失敗に心が傷つくことがあったとしても、時が経てば癒されるはずだ。
それにしても、1億で首を縦に振らなかった相手の女は、美奈がさらにもう1億出すと言っても同じ態度を取ったという。
それは白石隆信という男が、道明寺という日本で一、二を争う財閥の血筋の娘と結婚していることを知っていて、別れるならもっと多くの金を男の妻から引き出せると思っているからなのか。
だがそう考えているならそれは甘い考えであり無理だと分からせてやる必要がある。
そしてその女が金目当てなら司にはうなるほどの金がある。
それに、白石隆信と自分の容貌を比べれば、司の方が比べものにならないほど優れている。
それを充分理解している姪は、司のその魅力を使って女を虜にし、夢中にさせ捨てろと言う。
自分の心が傷ついたのと同じように、相手の女の心を傷つけてくれと言う。
それはある意味残酷な手段。
身も心も弄んで捨てろという言葉が美奈から出るとは思わなかったが、1億、いや2億でも首を縦に振らなかったというなら、相当したたかな女であり、傷付く心というものを持っていないということになる。
「どんな女か知らねぇが、さぞかし自分に自信がある女ってことか?」
司は言うと美奈から訊かされた、滝川産業という社名に皮肉な笑みが浮かんだ。
偶然とは言えその会社は道明寺HDが1年前に買収した会社。そして明日その会社を訪れることになっているからだ。
その会社にいる牧野つくしという女と美奈の夫の付き合いが1年になるというなら、同じグループの会社になったことがきっかけだったのだろうか。接点があるようには思えないが、それでもどこかで繋がりがあるから二人は付き合いを始めたということか。
司は美奈が帰ったあと、すぐに秘書に電話をした。
必ずスリーコール以内に出る男の声はいつもと同じで変わることはなく感情をあらわにすることはない。
そんな男にすぐに滝川産業の牧野つくしについて調べるように告げると、秘書はかしこまりましたと答え電話を切った。
そして世田谷の邸を後にしてペントハウスに戻ったところで電話が鳴った。
「ああ。__そうか分かったか。_____いや。パソコンの方へ送ってくれ。__そうだ。明日滝川産業に行くがその時、牧野つくしという女に会いたい。会えるようにしてくれ」
司はパソコンを立ち上げた。
そして秘書からのメールを開き、牧野つくしについて書かれている内容に目を通したが、それは道明寺グループの全社員についてのデータの中から抜き出されたもので、当然だが簡単にアクセス出来るものではない。
そしてそこに書かれているのは、牧野つくしが35歳で白石隆信より2歳上の女であり、都内の大学を卒業後、産業機械専門の商社である滝川産業に入社し、営業統括本部で営業のサポートをしていると書かれていた。
そして示されている写真はIDカード用に撮影されたもので、肩口で切り揃えられた黒髪に薄化粧なのか唇の色は殆どないといってもいいほど色がない。
だが顔の中で印象的なのは目だ。黒い大きな瞳がカメラ目線なのは当然だが、真っ直ぐこちらを見つめるその瞳の縁に派手な人工的な彩はなく、自然な瞳が強い光を湛えカメラのレンズの向うにいる人間を見ているが、その顔は真面目そのもので、妻のいる男をたぶらかす女には見えなかった。
「この女が牧野つくしか?」
思わず漏れた言葉は、司が想像していた女とは違ったからだ。
着ているものも、雰囲気も彼が考えていた女とはまるで違う。
美奈が提示した1億に頷かず、2億と言っても首を縦に振らなかった女には見えなかった。
いや。外見だけに惑わされるほど愚かしいことはない。
この女は強欲だが謙虚に見せるのが手口なのかもしれない。
何しろ女は化ける。キツネやタヌキと同じで自分の望む姿に化けることが出来る。
IDの写真が薄化粧なだけで、男をたぶらかすと決めれば、目の周りに派手な色を塗り、唇には扇情的な色が塗られるはずだ。
NYにもその手の女は幾らでもいた。つまり金持ちで見た目のいい男を捕まえるためならどんなことでもする女はどこにでもいるということだ。
だから写真とデータだけでは判断することは出来なかった。
司は姪から牧野つくしを虜にして捨ててくれと言われた時、躊躇した。
そんな手間がかかることをするよりも、手っ取り早く決着を付ければいいと感じたからだ。
それは、牧野つくしに自分の立場を認識させるということ。自分が相手にしている男は自分が働く会社の親会社にあたる道明寺財閥に繋がる男であり、男の妻はグループの社長である道明寺楓の孫であるということ。そして二人の関係で不利益を被るのは自分の方だということを。
たが、今は姪の願いを叶えることが面白そうだと感じ始めていた。
弄んで捨てて欲しい。
相手の女の心を傷つけて欲しい。
自分が傷ついたのと同じだけ傷つけて欲しい。
恋を仕掛けて捨てる。それが姪の願い。
それは司にとっては簡単なゲームになるはずだ。
何しろ、彼に堕ちない女はいないと言われているのだから。
司は、大した情報はなかったが必要なことを頭に入れるとメールを閉じた。
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司が世田谷の邸に着いたのは13時半。
広いエントランスを抜け、向かう先の部屋で待っているのは姪の美奈。
20歳の美奈は、椿の容貌を受け継ぐ母親に勝る美人だ。
そして長い黒髪を持ち、背が高くスタイルがいい。見方によっては姉が二十歳の頃かと思うほど似ているところもあり、司は時に懐かしさを感じることもあった。
彼女は気質も姉によく似ていて、はっきりと物を言い行動的。
つまり有言実行であり、彼女の意思というものを簡単には曲げることが出来ない。
そして親である姉夫婦からして娘の意思を尊重しているのだから、叔父である司も美奈に甘くなるのは当然で彼女の願いを断ることは出来ないはずだ。
だが一体どんな頼みがあるというのか。
どちらにしても、姪の頼みを聞いてやるのだから考えるだけ無駄というものだ。
司が部屋に入ってくると美奈はソファから立ち上がり嬉しそうに声を上げた。
「叔父様!今日は本当にありがとうございます。せっかくのお休みのところお時間を作っていただけて本当に嬉しいです。それにこうして久し振りに叔父様に会えて本当に嬉しいです」
「美奈。久し振りだが元気そうだな」
司は美奈が明るい表情であることから、どんな頼みだろうと大したことはないと思っていた。そして二十歳という年齢から来る輝きというものも感じられ、姪は幸せそうだと感じていた。だが美奈はゆっくりとソファに腰を下ろし、正面に腰を下ろした叔父である司に向かって今にも泣きそうな顔をして見せた。
「叔父様。お願いがあるんです。でもロスにいるお母様には絶対に言わないで下さい。お母様には心配をかけたくないんです。もしこのことがお母様の耳に入ったら私….ほらご覧なさいって絶対に言われるわ。親の言うことに耳を貸さないからよって….。
でもお母様は自分が若い頃、おばあ様に反対されて本当に愛していた人と結婚出来なかったって聞きたわ。だから私のすることを許してくれたんだと思うの。でも、それが間違っていたということになる。だから….」
「美奈….」
司は話すのを止めた俯いた姪に声を掛けた。
「どうした?何があった?」
姪の口から出た『お母様は自分が若い頃、おばあ様に反対されて本当に愛した人と結婚出来なかった』というのは、椿が道明寺という家のため美奈の父親と結婚をしたことを言っているのだが、今の姉は母親が決めた結婚を恨んではいない。
少なくとも結婚してからの姉は、姉なりに夫となった美奈の父親を愛した。たとえ政略結婚だったとしても、今の二人にそんな過去はまったく感じられない。むしろ心から愛し合って結婚を決めた二人のようにしか思えなかった。
そんな二人の間には美奈の他にも男の子が二人いて、彼らの教育のためアメリカで暮らしている。
そして美奈が言った『私のすることを許してくれた』と言うのは、美奈が18歳で結婚することを許したということだ。
それは、美奈がアメリカで高校を卒業し、日本の大学へ進学したとき知り合った男性と結婚したいと言ってきたことだ。
椿は高校生の頃、他校のごく普通の家庭の男子生徒と恋をした。そしてその生徒と過ごす未来を考えた。だがそれが許されなかったのが彼女の人生。だから我が子が若くして結婚したいと言ってきたとき、それを許したのは、自分の恋を実らすことが出来なかった母が娘へ託した若かりし頃の想いというものがあったのかもしれない。
それに若いからといって反対したところで、美奈は訊く娘ではない。
彼女は強い意思の持ち主で、こうと決めたら貫くだけの根性がある。
それは叔父である司に似ているのかもしれない。何しろ司は、少年時代親の言うことにことごとく反抗した。親の言うことなど屁とも思わなかった。
だが美奈は女の子だ。もし反対して駆け落ちをするということになれば、それはそれで大変なことになる。だから、大学は必ず卒業することを条件に結婚を認めた経緯があった。
そして美奈の夫となった男は彼女より一回り年上の32歳。
知り合ったとき、18歳の姪と30歳の男ということを考えたとき、ティーンエイジャーが12歳も年上の男とどんな会話が成り立つのかと思ったが、美奈は頭がいい。
大学で自分の周りにいる男子学生では物足りなさを感じていたとき、その男と出会い惹かれたということなのだろう。
夫の仕事は道明寺グループの関連会社で役員をしているが、知り合ったのは、男が美奈の通う大学の卒業生であり、姉の椿と美奈が懇意にしている教授のところへ顔を出したことがきっかけだというのだから、男と女の出会いというのは分からないものだ。
司は俯いたまま泣き出した姪に声をかけた。
「美奈。いったい何があった?どうした?隆信(たかのぶ)と何かあったのか?」
美奈の夫の名前は白石隆信。
その名を出した途端、顔を上げた美奈の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
そして酷く苦しそうな声で驚くような言葉を口にした。
「叔父様。あの人、う、浮気しているの。愛人がいるの」
「愛人?」
司は唖然とした。
白石隆信には結婚式のとき会っただけだが、浮気をする、愛人を持つような男には見えなかったからだ。
そして当然だが道明寺グループの社員であるからには、姪の結婚相手としての身元調査も徹底した。だが何も問題はなかったが、それは今から2年前の話だ。
「美奈。それは本当か?お前の思い違いじゃないのか?」
「そうだといいと思った….でも違うの。もうすぐ1年になるの….白状したのよ叔父様。
初めは信じたくなかった。でも帰りが遅い日が増えて、どうしたのって聞いてもはっきり答えないの。仕事が忙しいっていうならまだ分かるけど何も言わないの。今日は朝から接待ゴルフだって言うけど、それも本当かどうか。もしかしたら女と会っているのかもしれない。叔父様。私はもう二十歳よ。成人よ?それに未成年だったとしても、結婚すれば法律上は成人とみなされるわ。私は妻として夫の行動を知る権利があるわ。だから言ったわ。調べればすぐに分かるのよって。そうしたら白状したの」
「美奈…..」
司は姪が涙を流しながら話す様子をどうしたらいいのかと考えあぐねていた。
もし目の前で泣いているのが自分に纏わりつく女どもの偽りの涙ならすぐに分かるし、例え本気で泣かれたとしても相手にすることなどない。だが大切な姪が泣いているとなると話は全く別だ。
「美奈。そんな男とはすぐに別れろ。そんな男はすぐに首にしてやる。お前の前に二度と現れないようにしてやる。だからすぐに別れろ。お前の母親には俺が話しをしてやる」
司はすぐにポケットから携帯電話を取り出し秘書に電話を掛けようとした。
「叔父様待って!首にはしないで。私….別れたくないの。あの人のことが好きなの。たとえ浮気されたとしてもやり直せると思うの。な、何を根拠にって言われたら困るけど、別れたくないの」
司は姉の娘であり姪である美奈から泣きながら頼まれれば、電話を掛けることは出来なかった。そして泣いている姪の口から思わぬことを頼まれた。
「叔父様。お願い。あの人が悪いんじゃないの。相手の女が悪いのよ。だから、叔父様があの女を彼から遠ざけて欲しいの。叔父様なら出来るでしょ?あの女を叔父様に夢中にさせて捨てて!」
「美奈お前…」
「私叔父様の噂は知ってるわ。女性はみんな叔父様のことを好きになるって。叔父様みたいな素敵な人ならどんな女も簡単に自分のものに出来ることも。私だってそのくらい知ってるわ」
姪は叔父が女にモテること。そしてどんな女も簡単に手に入れることが出来ることも知っている。女に関する叔父の評判というのを姪はよく知っているということだ。
それを知っていて、叔父に夫の浮気相手である女を自分に夢中にさせ捨てろと平気で口にすることが出来るのは、姪は姉の娘だが、祖母である道明寺楓の血も確実に受け継いでいるということだ。だから今のような策略的な言葉も平気で口にすることが出来るのだろう。
つまりそれは、敵対する人間に対して容赦がないと言われた鉄の女のDNAは間違いなく孫にも受け継がれているということだ。
「叔父様お願い。私、彼と別れたくない。彼の心は揺れているだけ。だからあの女を遠ざけて欲しいの。叔父様の魅力であの女を虜にして!」
美奈の泣き顔を見るのは、子供のころ転んで泣いた時以来だが、今の顔はあの頃とは違う。
涙を流す顔は愛する人を失いたくない女の顔だ。
司が心許せるのは姉と悪友たちで、姪の悲しみは姉の悲しみだ。
だから姉の悲しむ顔は見たくない。
そして叔父として姪の幸せを祈っている。
「それで?その女はどこの誰か分かっているのか?」
「分かってるわ。私、その女に会いに行ったの。1億で別れてって言ったの。でも彼のことなんて知らないってとぼけたの。私の話なんか聞かなかった。さっさと席を立ったわ。その女は滝川産業って会社に勤める女。名前は牧野つくしよ」

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広いエントランスを抜け、向かう先の部屋で待っているのは姪の美奈。
20歳の美奈は、椿の容貌を受け継ぐ母親に勝る美人だ。
そして長い黒髪を持ち、背が高くスタイルがいい。見方によっては姉が二十歳の頃かと思うほど似ているところもあり、司は時に懐かしさを感じることもあった。
彼女は気質も姉によく似ていて、はっきりと物を言い行動的。
つまり有言実行であり、彼女の意思というものを簡単には曲げることが出来ない。
そして親である姉夫婦からして娘の意思を尊重しているのだから、叔父である司も美奈に甘くなるのは当然で彼女の願いを断ることは出来ないはずだ。
だが一体どんな頼みがあるというのか。
どちらにしても、姪の頼みを聞いてやるのだから考えるだけ無駄というものだ。
司が部屋に入ってくると美奈はソファから立ち上がり嬉しそうに声を上げた。
「叔父様!今日は本当にありがとうございます。せっかくのお休みのところお時間を作っていただけて本当に嬉しいです。それにこうして久し振りに叔父様に会えて本当に嬉しいです」
「美奈。久し振りだが元気そうだな」
司は美奈が明るい表情であることから、どんな頼みだろうと大したことはないと思っていた。そして二十歳という年齢から来る輝きというものも感じられ、姪は幸せそうだと感じていた。だが美奈はゆっくりとソファに腰を下ろし、正面に腰を下ろした叔父である司に向かって今にも泣きそうな顔をして見せた。
「叔父様。お願いがあるんです。でもロスにいるお母様には絶対に言わないで下さい。お母様には心配をかけたくないんです。もしこのことがお母様の耳に入ったら私….ほらご覧なさいって絶対に言われるわ。親の言うことに耳を貸さないからよって….。
でもお母様は自分が若い頃、おばあ様に反対されて本当に愛していた人と結婚出来なかったって聞きたわ。だから私のすることを許してくれたんだと思うの。でも、それが間違っていたということになる。だから….」
「美奈….」
司は話すのを止めた俯いた姪に声を掛けた。
「どうした?何があった?」
姪の口から出た『お母様は自分が若い頃、おばあ様に反対されて本当に愛した人と結婚出来なかった』というのは、椿が道明寺という家のため美奈の父親と結婚をしたことを言っているのだが、今の姉は母親が決めた結婚を恨んではいない。
少なくとも結婚してからの姉は、姉なりに夫となった美奈の父親を愛した。たとえ政略結婚だったとしても、今の二人にそんな過去はまったく感じられない。むしろ心から愛し合って結婚を決めた二人のようにしか思えなかった。
そんな二人の間には美奈の他にも男の子が二人いて、彼らの教育のためアメリカで暮らしている。
そして美奈が言った『私のすることを許してくれた』と言うのは、美奈が18歳で結婚することを許したということだ。
それは、美奈がアメリカで高校を卒業し、日本の大学へ進学したとき知り合った男性と結婚したいと言ってきたことだ。
椿は高校生の頃、他校のごく普通の家庭の男子生徒と恋をした。そしてその生徒と過ごす未来を考えた。だがそれが許されなかったのが彼女の人生。だから我が子が若くして結婚したいと言ってきたとき、それを許したのは、自分の恋を実らすことが出来なかった母が娘へ託した若かりし頃の想いというものがあったのかもしれない。
それに若いからといって反対したところで、美奈は訊く娘ではない。
彼女は強い意思の持ち主で、こうと決めたら貫くだけの根性がある。
それは叔父である司に似ているのかもしれない。何しろ司は、少年時代親の言うことにことごとく反抗した。親の言うことなど屁とも思わなかった。
だが美奈は女の子だ。もし反対して駆け落ちをするということになれば、それはそれで大変なことになる。だから、大学は必ず卒業することを条件に結婚を認めた経緯があった。
そして美奈の夫となった男は彼女より一回り年上の32歳。
知り合ったとき、18歳の姪と30歳の男ということを考えたとき、ティーンエイジャーが12歳も年上の男とどんな会話が成り立つのかと思ったが、美奈は頭がいい。
大学で自分の周りにいる男子学生では物足りなさを感じていたとき、その男と出会い惹かれたということなのだろう。
夫の仕事は道明寺グループの関連会社で役員をしているが、知り合ったのは、男が美奈の通う大学の卒業生であり、姉の椿と美奈が懇意にしている教授のところへ顔を出したことがきっかけだというのだから、男と女の出会いというのは分からないものだ。
司は俯いたまま泣き出した姪に声をかけた。
「美奈。いったい何があった?どうした?隆信(たかのぶ)と何かあったのか?」
美奈の夫の名前は白石隆信。
その名を出した途端、顔を上げた美奈の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
そして酷く苦しそうな声で驚くような言葉を口にした。
「叔父様。あの人、う、浮気しているの。愛人がいるの」
「愛人?」
司は唖然とした。
白石隆信には結婚式のとき会っただけだが、浮気をする、愛人を持つような男には見えなかったからだ。
そして当然だが道明寺グループの社員であるからには、姪の結婚相手としての身元調査も徹底した。だが何も問題はなかったが、それは今から2年前の話だ。
「美奈。それは本当か?お前の思い違いじゃないのか?」
「そうだといいと思った….でも違うの。もうすぐ1年になるの….白状したのよ叔父様。
初めは信じたくなかった。でも帰りが遅い日が増えて、どうしたのって聞いてもはっきり答えないの。仕事が忙しいっていうならまだ分かるけど何も言わないの。今日は朝から接待ゴルフだって言うけど、それも本当かどうか。もしかしたら女と会っているのかもしれない。叔父様。私はもう二十歳よ。成人よ?それに未成年だったとしても、結婚すれば法律上は成人とみなされるわ。私は妻として夫の行動を知る権利があるわ。だから言ったわ。調べればすぐに分かるのよって。そうしたら白状したの」
「美奈…..」
司は姪が涙を流しながら話す様子をどうしたらいいのかと考えあぐねていた。
もし目の前で泣いているのが自分に纏わりつく女どもの偽りの涙ならすぐに分かるし、例え本気で泣かれたとしても相手にすることなどない。だが大切な姪が泣いているとなると話は全く別だ。
「美奈。そんな男とはすぐに別れろ。そんな男はすぐに首にしてやる。お前の前に二度と現れないようにしてやる。だからすぐに別れろ。お前の母親には俺が話しをしてやる」
司はすぐにポケットから携帯電話を取り出し秘書に電話を掛けようとした。
「叔父様待って!首にはしないで。私….別れたくないの。あの人のことが好きなの。たとえ浮気されたとしてもやり直せると思うの。な、何を根拠にって言われたら困るけど、別れたくないの」
司は姉の娘であり姪である美奈から泣きながら頼まれれば、電話を掛けることは出来なかった。そして泣いている姪の口から思わぬことを頼まれた。
「叔父様。お願い。あの人が悪いんじゃないの。相手の女が悪いのよ。だから、叔父様があの女を彼から遠ざけて欲しいの。叔父様なら出来るでしょ?あの女を叔父様に夢中にさせて捨てて!」
「美奈お前…」
「私叔父様の噂は知ってるわ。女性はみんな叔父様のことを好きになるって。叔父様みたいな素敵な人ならどんな女も簡単に自分のものに出来ることも。私だってそのくらい知ってるわ」
姪は叔父が女にモテること。そしてどんな女も簡単に手に入れることが出来ることも知っている。女に関する叔父の評判というのを姪はよく知っているということだ。
それを知っていて、叔父に夫の浮気相手である女を自分に夢中にさせ捨てろと平気で口にすることが出来るのは、姪は姉の娘だが、祖母である道明寺楓の血も確実に受け継いでいるということだ。だから今のような策略的な言葉も平気で口にすることが出来るのだろう。
つまりそれは、敵対する人間に対して容赦がないと言われた鉄の女のDNAは間違いなく孫にも受け継がれているということだ。
「叔父様お願い。私、彼と別れたくない。彼の心は揺れているだけ。だからあの女を遠ざけて欲しいの。叔父様の魅力であの女を虜にして!」
美奈の泣き顔を見るのは、子供のころ転んで泣いた時以来だが、今の顔はあの頃とは違う。
涙を流す顔は愛する人を失いたくない女の顔だ。
司が心許せるのは姉と悪友たちで、姪の悲しみは姉の悲しみだ。
だから姉の悲しむ顔は見たくない。
そして叔父として姪の幸せを祈っている。
「それで?その女はどこの誰か分かっているのか?」
「分かってるわ。私、その女に会いに行ったの。1億で別れてって言ったの。でも彼のことなんて知らないってとぼけたの。私の話なんか聞かなかった。さっさと席を立ったわ。その女は滝川産業って会社に勤める女。名前は牧野つくしよ」

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司がNYから東京へ住まいを移したのは、日本で立ち上げた新規プロジェクトの指示を出すため、二つの国の間を往復することを止めたからだ。
世間が思い描く独身30半ばの男の独り暮らしと言えば、猥雑な部屋での暮らしといったものを想像するかもしれないが、彼は道明寺財閥の後継者で道明寺ホールディングスの副社長であり大金持ちの男。
そんな男の広々とした部屋には本物の絵画がかかり、一流のインテリアコーディネーターのセンスが光る空間には、シンプルだが選び抜かれた調度品が並べられていた。
だが彼には世田谷に大きな邸があり、そこには大勢の使用人がいて日常生活に不自由することはないのだが、東京に住むことを決めたとき、誰かれなく訪ねてくることがある世田谷の邸ではなく、決められた人間だけが足を踏み入れることが出来るペントハウスに暮らすことを決めた。
それは、身の回りの雑事である洗濯や掃除する使用人といった類の人間以外の出入りは禁じられるということ。だからのんびりとした日曜の朝を迎えることが出来るのだが、休みだからといって世界の全てが休んでいるという訳ではない。
財閥のビジネスはグローバルビジネスであり、東京が日曜だからといって、他の場所が同じように日曜であると考えては駄目だ。つまりビジネスに休みはないということだが、それでも優秀な社員が集まれば、全てが司の指示を待つということもない。だが、送られてくるメールの中には重要案件も含まれていて、気に留めるべきこともあった。
司はベッドから出るとバスローブを羽織り書斎に向かった。
そしてノートパソコンを立ち上げパスワードを入力したが、隣に置かれたスマートフォンに着信があったことを知らせるライトが点滅していることに気付くと軽く舌打ちした。
それは司のプライベートな電話。
その番号を知る人間はごくわずか。
そして電話をかけてくる相手の見当はついていた。
だがその相手を確認することを後回しにした男は、煙草を吸いたい衝動を抑え、部屋を出てダイニングルームに続くキッチンスペースへと足を向けた。そして冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し蓋を開け傾けた。
ガス入りの水は心地よい刺激を喉に与えるが、昨日の酒が残っているというのではない。
それに男は二日酔いといったものを経験したことがない。どんなに飲んでも酒に飲まれることも、アルコールで顔が火照るといったこともない。
そんな男は昨夜ちょっとしたパーティーに参加したが、楽しもうと思った訳ではない。
それがどうでもいいものだとしても、ビジネスには時として受けなければならない接待というものがある。
そしてそのパーティーの主催者が司のために女を用意したと言ったが興味がなかった。
だが彼は禁欲主義者ではない。36歳の男に経験がない方がおかしい。
だが仕事がらみのパーティーで女を調達しようとは思わない。女を斡旋されてまで抱きたいとは思わないこともだが、パーティーピープルと呼ばれる類の女に興味はなかった。
そんな男が付き合っていた女と別れたのは2年前。
『ツカサは結婚する気がないのよね。多分誰とも結婚するつもりはないのよね?でも私は誰かと結婚したいの。それにツカサと付き合ってても、あなたと話をするより秘書の方と話をする方が多かったわ。まるで私の恋人は秘書の方だった。だから別れましょう。私はツカサには似合わないし、ツカサも私には似合わない。だからおしまいにしましょう』
それは揉めることも、禍根を残すこともない実に円満な別れ。
それから彼女は別の男と付き合い結婚し、双子の女の子の母親になった。
そして幸せな結婚生活を送っている。
恋人と別れひとりになった司が独身女性の垂涎の的であることは当然。
彼を射止めようとする女は大勢いた。だが誰かと付き合おうという気にはならなかった。
そして当然だが結婚する気がないのだから、どんなにいい女と言われる女が目の前にいても視界に入ることはなかった。
そしてその気になれば、どんな女もモノにすることが出来る男は、書斎まで戻ると届いたメールに目を通していた。
そしてビジネスメールに紛れ届いている1通のメールに目を留めた。
差出人は姪。
姪の母親は司の姉である椿。
椿は大学を卒業すると同時にロスに拠点を持つホテルチェーンの経営者と結婚した。そしてロスと東京を行き来しながら生活していたが、今はもっぱらロス暮らしだ。
そして姪の下にも男の子が二人いて、彼らも母親と同じアメリカで暮らしているが、姪は日本で暮らしていた。
そんな姪からのメール。
日曜日なら、普段から忙しいと言われている叔父から連絡がもらえると思ったのだろう。日付が変わった途端の時間で送信されていた。
司が東京で暮らすようになり1年になるが、これまで姪からメールが届いたことは一度もなく、もしかすると彼女の母親であり司の姉である椿に何かあったのではないかとクリックした。
だがそこに書かれていたのは姉の事ではなかった。
『叔父様へ
お願いがあります。叔父様だからお願い出来ることなんです。母には言えません。
どうしてもお願いを聞いて欲しいんです。詳しことは会ってお話しします。だから叔父様が都合のいい日に合わせます。お忙しいのは分かっています。叔父様お願いします。』
姪は子供のころ司をお兄ちゃまと呼んでいた。
そして姪は姉の次に自分の近くにいた女性であり、血の繋がりというのは不思議なもので切っても切れない絆というものを感じさせる。
それは両親に対しては感じたことのないまた別の想い。幼いからこそ守ってやらなければならないという心は、相手が女の子だから余計そう感じたのかもしれないが、姉が幼かったらきっとこんな子供だったと思える容貌もあった。
司が幼かった頃、両親は不在で姉の椿は母親代わりだった。
そして少年時代には荒れて迷惑をかけたことがある。
だから今でも姉には頭があがらないところがあるが、そんな姉の娘からお願いがあると言われれば、叔父として話を訊いてやるのは当然だ。
だが姪からのメールに切羽詰まった感はなかったが、切実さというものは感じられた。
だから司はすぐに返信した。
『都合がいいなら今日でもいい。14時に世田谷の邸で会うか?』
司は送信ボタンをクリックした。
すると、待ってましたとばかりにすぐに返事が来た。
『叔父様ありがとうございます。14時に伺います』
そのとき、スマートフォンが鳴り、先ほど着信を残していた人物からの電話だと知り、画面をタップした。
「___ああ。今起きた。何だ?___あ?昨日のパーティーか?面倒くせぇけど行った。ああ、そうだ。案の定女が用意されてた。___あほう。あんな女ども誰が相手にする?それにな、ビジネスと私生活は別だ。商売相手が用意した女なんぞ信じられるか?どれだけ自慢のドレスだか知らねぇけど、めかし込んだ女どものその上っ面が剥がれれば狐だ。あのパーティーにいたのはタヌキ親父が用意したキツネ女だ。______今日か?悪い。今日は14時に約束がある。___いや。女じゃない。姪の美奈だ。どうしても俺に頼みたいことがあるそうだ。だから会う約束をした。____いや。姉ちゃんに何かあったんじゃない。
とにかく、そういうことだ。だから悪いな、あきら」
日本に住まいを移してから、悪友どもと飲みに行くことも多いが、司に特定の女がいないことに余計な心配をする男は昔から世話を焼きたがる。
お前、女無しの生活は大丈夫なのか?
いい歳をした男が2年もヤッてねぇってとなると病気になるぞ。
定期的に出してんのか?まあ、お前の生活の中で何かが先細ることはないと思うが、いくら完全無欠だと言われても女が欲しい時もあるはずだ。いい女を紹介するがどうだ?と言うが余計なお世話だった。
司はそんなあきらからの電話を切り、他にも届いていたメールに目を通していた。
その中には1年前に買収し道明寺グループに加わった滝川産業の社長からのメールも届いていたが、それは司が訪問する日の予定について書かれていた。
買収したはいいが一度も足を運んだことがない会社は多く、日本に居を移したのだから、自分が買った会社を見ることも必要だと思うようになったのはつい最近のこと。
そしてその中のひとつが産業機械専門の商社である滝川産業だ。
滝川産業は1950年創業。従業員300名ほどの会社だが、一部上場であり株価も安定していて業績も悪くない。そして道明寺グループに加わったことにより、今後の経営も安定が見込まれると言われていた。
司は机の上の時計を見た。
世田谷の邸に行くにはまだ早い。
それなら、と秘書から手渡されていた書類に目を落とした。
それは、明日の朝一番に訪問する滝川産業に関する資料。
時間潰しという訳ではないが、姪と会うまでその会社の資料を読み込むことにした。

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世間が思い描く独身30半ばの男の独り暮らしと言えば、猥雑な部屋での暮らしといったものを想像するかもしれないが、彼は道明寺財閥の後継者で道明寺ホールディングスの副社長であり大金持ちの男。
そんな男の広々とした部屋には本物の絵画がかかり、一流のインテリアコーディネーターのセンスが光る空間には、シンプルだが選び抜かれた調度品が並べられていた。
だが彼には世田谷に大きな邸があり、そこには大勢の使用人がいて日常生活に不自由することはないのだが、東京に住むことを決めたとき、誰かれなく訪ねてくることがある世田谷の邸ではなく、決められた人間だけが足を踏み入れることが出来るペントハウスに暮らすことを決めた。
それは、身の回りの雑事である洗濯や掃除する使用人といった類の人間以外の出入りは禁じられるということ。だからのんびりとした日曜の朝を迎えることが出来るのだが、休みだからといって世界の全てが休んでいるという訳ではない。
財閥のビジネスはグローバルビジネスであり、東京が日曜だからといって、他の場所が同じように日曜であると考えては駄目だ。つまりビジネスに休みはないということだが、それでも優秀な社員が集まれば、全てが司の指示を待つということもない。だが、送られてくるメールの中には重要案件も含まれていて、気に留めるべきこともあった。
司はベッドから出るとバスローブを羽織り書斎に向かった。
そしてノートパソコンを立ち上げパスワードを入力したが、隣に置かれたスマートフォンに着信があったことを知らせるライトが点滅していることに気付くと軽く舌打ちした。
それは司のプライベートな電話。
その番号を知る人間はごくわずか。
そして電話をかけてくる相手の見当はついていた。
だがその相手を確認することを後回しにした男は、煙草を吸いたい衝動を抑え、部屋を出てダイニングルームに続くキッチンスペースへと足を向けた。そして冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し蓋を開け傾けた。
ガス入りの水は心地よい刺激を喉に与えるが、昨日の酒が残っているというのではない。
それに男は二日酔いといったものを経験したことがない。どんなに飲んでも酒に飲まれることも、アルコールで顔が火照るといったこともない。
そんな男は昨夜ちょっとしたパーティーに参加したが、楽しもうと思った訳ではない。
それがどうでもいいものだとしても、ビジネスには時として受けなければならない接待というものがある。
そしてそのパーティーの主催者が司のために女を用意したと言ったが興味がなかった。
だが彼は禁欲主義者ではない。36歳の男に経験がない方がおかしい。
だが仕事がらみのパーティーで女を調達しようとは思わない。女を斡旋されてまで抱きたいとは思わないこともだが、パーティーピープルと呼ばれる類の女に興味はなかった。
そんな男が付き合っていた女と別れたのは2年前。
『ツカサは結婚する気がないのよね。多分誰とも結婚するつもりはないのよね?でも私は誰かと結婚したいの。それにツカサと付き合ってても、あなたと話をするより秘書の方と話をする方が多かったわ。まるで私の恋人は秘書の方だった。だから別れましょう。私はツカサには似合わないし、ツカサも私には似合わない。だからおしまいにしましょう』
それは揉めることも、禍根を残すこともない実に円満な別れ。
それから彼女は別の男と付き合い結婚し、双子の女の子の母親になった。
そして幸せな結婚生活を送っている。
恋人と別れひとりになった司が独身女性の垂涎の的であることは当然。
彼を射止めようとする女は大勢いた。だが誰かと付き合おうという気にはならなかった。
そして当然だが結婚する気がないのだから、どんなにいい女と言われる女が目の前にいても視界に入ることはなかった。
そしてその気になれば、どんな女もモノにすることが出来る男は、書斎まで戻ると届いたメールに目を通していた。
そしてビジネスメールに紛れ届いている1通のメールに目を留めた。
差出人は姪。
姪の母親は司の姉である椿。
椿は大学を卒業すると同時にロスに拠点を持つホテルチェーンの経営者と結婚した。そしてロスと東京を行き来しながら生活していたが、今はもっぱらロス暮らしだ。
そして姪の下にも男の子が二人いて、彼らも母親と同じアメリカで暮らしているが、姪は日本で暮らしていた。
そんな姪からのメール。
日曜日なら、普段から忙しいと言われている叔父から連絡がもらえると思ったのだろう。日付が変わった途端の時間で送信されていた。
司が東京で暮らすようになり1年になるが、これまで姪からメールが届いたことは一度もなく、もしかすると彼女の母親であり司の姉である椿に何かあったのではないかとクリックした。
だがそこに書かれていたのは姉の事ではなかった。
『叔父様へ
お願いがあります。叔父様だからお願い出来ることなんです。母には言えません。
どうしてもお願いを聞いて欲しいんです。詳しことは会ってお話しします。だから叔父様が都合のいい日に合わせます。お忙しいのは分かっています。叔父様お願いします。』
姪は子供のころ司をお兄ちゃまと呼んでいた。
そして姪は姉の次に自分の近くにいた女性であり、血の繋がりというのは不思議なもので切っても切れない絆というものを感じさせる。
それは両親に対しては感じたことのないまた別の想い。幼いからこそ守ってやらなければならないという心は、相手が女の子だから余計そう感じたのかもしれないが、姉が幼かったらきっとこんな子供だったと思える容貌もあった。
司が幼かった頃、両親は不在で姉の椿は母親代わりだった。
そして少年時代には荒れて迷惑をかけたことがある。
だから今でも姉には頭があがらないところがあるが、そんな姉の娘からお願いがあると言われれば、叔父として話を訊いてやるのは当然だ。
だが姪からのメールに切羽詰まった感はなかったが、切実さというものは感じられた。
だから司はすぐに返信した。
『都合がいいなら今日でもいい。14時に世田谷の邸で会うか?』
司は送信ボタンをクリックした。
すると、待ってましたとばかりにすぐに返事が来た。
『叔父様ありがとうございます。14時に伺います』
そのとき、スマートフォンが鳴り、先ほど着信を残していた人物からの電話だと知り、画面をタップした。
「___ああ。今起きた。何だ?___あ?昨日のパーティーか?面倒くせぇけど行った。ああ、そうだ。案の定女が用意されてた。___あほう。あんな女ども誰が相手にする?それにな、ビジネスと私生活は別だ。商売相手が用意した女なんぞ信じられるか?どれだけ自慢のドレスだか知らねぇけど、めかし込んだ女どものその上っ面が剥がれれば狐だ。あのパーティーにいたのはタヌキ親父が用意したキツネ女だ。______今日か?悪い。今日は14時に約束がある。___いや。女じゃない。姪の美奈だ。どうしても俺に頼みたいことがあるそうだ。だから会う約束をした。____いや。姉ちゃんに何かあったんじゃない。
とにかく、そういうことだ。だから悪いな、あきら」
日本に住まいを移してから、悪友どもと飲みに行くことも多いが、司に特定の女がいないことに余計な心配をする男は昔から世話を焼きたがる。
お前、女無しの生活は大丈夫なのか?
いい歳をした男が2年もヤッてねぇってとなると病気になるぞ。
定期的に出してんのか?まあ、お前の生活の中で何かが先細ることはないと思うが、いくら完全無欠だと言われても女が欲しい時もあるはずだ。いい女を紹介するがどうだ?と言うが余計なお世話だった。
司はそんなあきらからの電話を切り、他にも届いていたメールに目を通していた。
その中には1年前に買収し道明寺グループに加わった滝川産業の社長からのメールも届いていたが、それは司が訪問する日の予定について書かれていた。
買収したはいいが一度も足を運んだことがない会社は多く、日本に居を移したのだから、自分が買った会社を見ることも必要だと思うようになったのはつい最近のこと。
そしてその中のひとつが産業機械専門の商社である滝川産業だ。
滝川産業は1950年創業。従業員300名ほどの会社だが、一部上場であり株価も安定していて業績も悪くない。そして道明寺グループに加わったことにより、今後の経営も安定が見込まれると言われていた。
司は机の上の時計を見た。
世田谷の邸に行くにはまだ早い。
それなら、と秘書から手渡されていた書類に目を落とした。
それは、明日の朝一番に訪問する滝川産業に関する資料。
時間潰しという訳ではないが、姪と会うまでその会社の資料を読み込むことにした。

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