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2018
03.31

残照 5

Category: 残照(完)
「凄い!見て!あんなに沢山!それあんなに高いところまで舞い上がってるわ!」

子供のようにはしゃぐ妻。
二人の目の前に広がる風景は遠い昔見た景色。
それは妻が見たいと言っていた日本海の風物詩と言われ冬の能登の風物詩である波の花。
海が荒れ波が高く寒さが厳しい日に現れる現象。
気象条件が揃ったその日。打ち寄せる波がせっけんの泡のようになり、風に乗って高く舞っていた。









タクシーを降りた二人は、目の前の海岸に荒波が打ちつけ泡が舞う様子を眺めていたが、司の目に映る妻は正常な状態でいることは分っていたが珍しいことだと思った。

それは能登に着いた昨日。
冷えたこの場所の空気に脳が覚醒したのか。それともこの土地の記憶といったものが脳に何らかの作用をもたらしたのか。ここに来たいと願った妻の心に何らかの働きをもたらしたのか。
夕食を食べ始めると正常に戻りそれからも変わることなく朝起きても変わらなかった。
そして今の妻は寒さに頬を赤く染め海を見ていた。

夜明けを迎え隣に寝ていた妻の姿は健やかだった。
何かに困惑したような表情もなければ、眉間に皺を寄せ司の顔を見てあなたは誰とは言わなかった。思考が途切れたようになり、遠くを見るような瞳で焦点が合わないような表情をすることも無かった。

そして二人は昨日抱き合った。
それは何年振りかの行為。
それが妻が妻でなくなる前に神が与えた夫婦としての最後の夜だとすれば、愛さずにはいられなかった。だから心と身体の全てを使って愛した。

妻が今のような状態になって間もない頃一度だけ抱こうとしたことがあった。
それは自分の愛で状況を変えたいと思ったから。抱き合えば何かが変わるのではないかといった願いもあった。

だがそのとき妻の顔に浮かんだのは17歳の少女のような戸惑い。
それはまるでまだ互いの身体を知る前の表情。
そして微かに浮かんでいる怖いといった思い。だから抱く事は出来なかった。その代わり髪を撫でた。撫で続ければ表情が和らいた。それから頬を撫で、指で唇に触れた。そして眠りにつくまでずっと抱いていた。

あの日、司の腕の中にいた妻の姿は遠い昔、南の島のコテージで抱き合おうとした若かった二人の姿に重なるものがあった。それは無理に抱く事はなく唇を額に押しあてた少年の想い。
人を守ることを知らなかった少年が初めて守りたいと思えた人への慈しみ。
18歳の少年と17歳の少女の純情とも言える一夜。
そして共に切なさを抱えたまま迎えた別れの朝。
けれどあの朝、彼は彼女に会うこともなければ別れの言葉を告げることもなく旅立った。

だが昨日の夜は違った。
二人にとってこの場所は結婚してから訪れた想い出の場所。
その場所で求めたのは妻の方だ。それは何かを自分の身体に刻み込むような求め方。
司の全てを受け入れてくれた。
心が繋がっていると感じた。
愛があると感じた。
だから司はこれまでの人生の全てを注ぎ込むつもりで抱いた。

それは言葉に表すことが出来ない感情。
愛おしくて、慈しみたくて、離したくないといった想い。だから愛してるの言葉を囁き、あたしも愛してるという言葉を囁かれた。
たとえそれが夢の中の出来事だとしても良かった。
司の胸に顔を埋めている姿が幻だとしても愛してるの言葉が訊けただけでよかった。
そして妻が辿り着く先がどんな世界だとしても、胸の中には変わらぬ愛があるのだから、その世界を受け止めてやる覚悟は出来ていた。
見えない迷路に迷い込んだとしても、付き添ってやるつもりでいた。
やがて変わり果てていく姿があったとしても、それでも妻は妻だ。

人は誰ひとりとして同じ人間はいないという。
それは育ってきた環境や生き様が違うから。だが二人は同じ人生を背負ってここまで生きてきたのだからある意味同じ人間であり、二人で一人の人間だ。だからどちらか片方がいなくなるということは残された人間は生きていくことが出来なくなる。

だが妻から渡されている封筒に収められている手紙は、自らの意思で命を絶つといった想いが書かれていた。
そして自分がいなくなっても、この手紙があれば大丈夫だからと言った。
誰にも迷惑をかけることはないからと。

辛く哀しく我儘な思いだけど叶えて欲しいと言って。



手紙を受け取った司は、妻が決めた覚悟といったものを理解させられた。
だから妻の周りの警護を強化した。
自分が傍にいなくても24時間必ず誰かが傍にいた。それは過去になかった妻に対する警護態勢。決して一人っきりにはさせなかった。

だが今、こうして妻にせがまれこの場所に立ち、海に起こる自然現象を目の当たりにし、日常生活から解放されたようになれば、妻の想いを、妻が望むことをさせてやることが彼女の幸せなのかとも思う。自分が自分でなくなる、自分が失われていく現実から解放してやりたいといった想いが過る。


人はいつか空へ帰るのだから。

波の花がやがて消えていくのと同じで、人も風に乗り高い空へと昇っていくのだから。


だが、かつての妻は命の尊さを彼に解いた。
生きることの歓びを司に教えた。
二人の間に新しい命を生み出した。
だがそのこともいずれ忘れてしまうという。
だからそれが辛いのだと。
自分が自分でなくなることの辛さに負けてしまうと。
想い出が駄目になってしまうのが辛いのだと。


老いは誰にでも訪れるとはいえ早すぎるこの状況に何故どうしてという思いばかりが溢れたことがあった。もしかするとこれは過去に自分が犯した罪が起因しているのではないか。ふいにそんな思いが浮かんだことがあった。だが今はそんなことを考えることは間違っていると思えるようになっていた。

因果応報などあってたまるか。

二人は生死を越えた場所で繋がっているのだから。



「つくし。もういいだろ?もう十分見ただろ?いつまでもここにいても風邪をひく。旅館に戻ろう」

「….うん。そうね。ありがと、司。ここに連れて来てくれて」

命じるように言ったが、そのあと素直に返された言葉に涙が溢れそうになった。
他愛もない会話が交わせることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。


「つくし…愛してる。俺は結婚したとき一生お前を愛し続けると誓った。だからその想いはこれから先、何があったとしても変わらない」

二人は司のコートのポケットの中で手を繋いで互いの手のぬくもりを分かち合っていたが、彼の言葉にギュッと握り返された小さな手。
それは、彼女は司だけが頼りで、彼の手を握っていれば何も怖くない。迷うことなどないと信頼を寄せる手。
彼もまた彼女のその温もりを失いたくない。
それは唯一愛した人の手であり彼を孤独の闇から救い出してくれた人の手。
かけがえのない彼だけの温もりで失いたくない温もりを持つ人の手。
繋いだ手のひらは彼だけのもので失いたくない。

そう願う男が妻の瞳の中に見る己の姿は、紛れもなく彼女に終生の愛を誓った男の姿。

だが『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しい』
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』と言った妻。

司は妻の手を取り待たせていたタクシーへ向かっていたが、妻が正常でいる以上否が応でもその言葉を引き寄せなければならなかった。






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2018
03.30

残照 4

Category: 残照(完)
座卓の上に夕食の準備が整ったのは午後7時。
それは妻がいつも食事をする時間。
並べられているのは天ぷらや刺身。加賀料理のひとつである治部煮や胡麻豆腐。固形燃料の上に置かれた鉄鍋には蓋がされていた。そして大きなカニが一杯付いていた。

「どうぞ。こちらが“干しくちこ”です」

と言って着物を着た若い丸顔の娘は、司の前にだけそれを置いた。

「干しくちこ」はナマコの生殖巣を原料とした乾物で日本酒との相性が抜群だと言われているが、三味線のバチの形をしたその乾物には、約50匹のナマコの卵巣が使われていることから、能登の最高級珍味で珍味の極めつけと言われている。
だが司は頼んだ覚えはなかった。そんな男の表情を見た娘は言葉を添えた。

「宿からのサービスです。いいんです。今の季節お客さんが少ないですから、いつまでも置いていても仕方がありませんから。それから熱燗はどちらに置きましょうか?」

と言われ司は自分の方へ置いてくれと言った。
そして娘は緑色の固形燃料に火をつけ、お食事が終わられましたらお電話下さい。と言って部屋から出ていった。






「牧野。食事をしよう。こっちへ来て座るんだ」

司は客室内ベランダの椅子に腰掛けている妻に声をかけたが、彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。だが視線の先は暗闇で何も見えるはずはないのだがそれでも外を眺めていた。
そしてガラス窓には司と妻の顔が映っているが、夫と視線が合った妻は振り返ると立ち上がった。そして大人しく座卓に着いた。

「司。連れて来てくれてありがとう。約束守ってくれたのね?」

脳は不思議なもので突然覚醒することがあると言われていたが、妻が自分のことを司と呼んだ瞬間、嗚呼、彼女が戻ってきたと嬉しくなった。黒い瞳が意思を持って自分を見ていることが嬉しかった。
だがまたいつ元の状態に戻るか分からない。だから話したい大切なことがあるなら今なのだが、自分の話しよりもまず妻の言いたいことを訊くべきだと分かっていた。だから「ああ」と返事をすると妻が言葉を継ぐのを待った。

「波の花。見れると思う?」

「多分見れるはずだ」

と答え妻の顔をじっと見つめた。




『司。お願いがあるの。あたしが司のことを忘れてしまう前に、何もかも忘れてしまう前に行きたい所があるの。能登半島のあの景色が見たいの。若い頃二人で行ったあの景色が見たいの』

それは妻が正常な状態のとき言われた言葉だが、その願いを叶えるためここに来た。
だがそれが意味するのは、今が妻にとって何もかも忘れてしまう前のかけがえのない時間だということになる。
その意味を妻は理解しているのか。それともそうではないのか。
夫のそんな思いをよそに、妻は微笑みを浮かべていた。

「そう。良かった。ねえ、それあたしが注いであげるから」

そう言って司の方へ置かれていた徳利に手を伸ばした。そんな妻に司は猪口を手に取ったが「少しでいいから」と差し出した。

高校生の頃から当たり前のように酒を飲んでいた男は、渡米してから酒を控えるようになった。それは、酒を飲んで憂さを晴らす必要が無くなったからだ。
そして結婚してからの司は、外で飲むのは仕事の付き合いだけになった。

人間は目標が出来れば前を向いて歩くことが出来る。
初めての恋を成就させるためならどんなことでも出来た。若い司の一直線ともいえる思いは、過去の自分を捨て、目的に向って前を見つめ歩くことだけをした。そして初恋の人と一緒になり人生最大の幸福を感じた。

長い結婚生活の中で楽しい思い出は沢山あるが、年を重ねると、家ではこうして妻に酌をしてもらうこともよくあった。その時はしみるほど幸せを感じた。
子供が生まれた時もそれは嬉しかった。
幸せな出来事は数えきれないほどあった。

そして子供たちが結婚するとまた二人だけの生活になり、人生を楽しもうとしていた矢先、認めがたい現実というものに出くわした。
あの時妻はこれも運命だと受け止めた。そしてこれからの人生について考えた。

司は妻が無邪気な少女のような姿になることが悲しいのではない。
ただ自分のことを忘れ、二人の想い出を忘れていくことが哀しかった。
二人にとってかけがえのない想い出が妻の中から失われていくのが辛かった。

だが認めなければならない。
夫のことを忘れ、子供たちのことを忘れ、自分が誰であるかを忘れていく妻を。
けれど、目の前で添えられたスプーンで胡麻豆腐を掬い美味しそうに食べる姿は以前と同じ妻だ。だからその姿に希望が見えることもある。

「…..ねえ。司。あたしのもうひとつお願い覚えてるわよね?」

手を止め口をついたその言葉。
何の話しをしようとしているのか分かった。
大きな黒い瞳は、真剣な色を湛え彼を見ていたが、司もまたそんな妻を見つめていた。
そして嘘をついても仕方ないという思いから正直に答えた。
何しろ妻がこうして正常でいる時間がどれくらいなのか分からないのだから、会話が成り立つ時は真摯に答えていた。

「ああ。覚えてる」

「そう。良かった」

と言って再び豆腐を掬う妻はどこかホッとしたような顔をしていた。






『そう。良かった』

その言葉の意味は、彼女のもうひとつの願いを叶えてやること。
いや。叶えて欲しいと言われた。

あたしの記憶が消え去ってしまう前に願いを訊いて、必ず叶えて欲しいと言われた。
それは波の花を見ることと同じくらい大切なことだからと。

『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しいの』

終生の愛を誓ってから随分と時が経っていたが、これほど辛いと感じたことはなかった。
愛しているからこそ彼女の願いならどんなことでも叶えてやりたい。だが彼女のその願いだけはどうしても叶えてやることは出来ない。
だがそのことを見越していたのか妻は言った。

『あたし辛いの。司のことを忘れてしまうのが。一生この人と生きて行こうって。一生この人を愛していこうって決めた人を忘れるのが辛いの。司の顔を見て誰って言ったときの司の顔を想像すると辛いの』

そう言ってぽろぽろと涙を零す姿が瞼に焼き付いている。
黒い瞳に浮かんだ涙がどんなものだろうと、どんな涙が零れ落ちようと、その涙は全て受け止めると結婚したとき誓った。
そして全ての涙をゆだねて欲しいと言った。
だから妻の流す涙は夫である自分が受け止めてやらなければならなかった。
だが彼女のあの時の涙をどうすればいいのか分からなかった。
流れ続ける涙を止めてやることが出来なかった。


そして渡された封筒。
結婚してから自分の我を通したことのない妻が、これだけはどうしても叶えて欲しいと言い手渡してきた封筒。
そして言った言葉。

『冬の月を見上げても探さないで欲しい』

その言葉がふざけて言ったなら彼にも分る。
だが低く真剣な声色で言われ、司を黙らせるだけの落ち着きがあった。
そして彼女の表情は弛緩などしておらず、瞳もはっきりとした意思を示していた。
その瞳はかつて司を虜にした真っ直ぐな瞳。信念を持つ女の強い瞳。
周りが止めたところで、自分が信じることはやり抜くといった女の瞳。
だから恐かった。と同時に妻の言葉に込められた意味を充分理解した。

だがその言葉がどんなに夫を傷つけたか妻は分かっていたのか。

だから明日ばかりは、妻が正常な状態でいないで欲しいと心から願わずにはいられなかった。





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2018
03.29

残照 3

Category: 残照(完)
『ねえ。どうしてあたし達こんなところにいるの?』

司はそう訊かれたが黙ったまま彼女を見つめていた。
だがそれは最近ではいつもそうだった。
どうして?
なぜ?
質問ばかり繰り返す。
そして司が何も言わないことに女は再び訊いた。
どうして、と。

だが何度訊かれても返す答えはいつも同じだ。

「ここが牧野のいる場所だからだ。お前がここに来たいと言ったからだ」

「そんなこと言った覚えがないわ」

「いや。言ったんだ」

「嘘よ。あたしそんなこと言わないもの。それにこんな所に来たいだなんて言ってないわ」

「牧野…。いいか?お前がここに来たいといったから俺はお前とここに来た」

すると彼女は黙った。
だが再び口を開くと言った。

「あなた…誰?」

「牧野。道明寺だ。道明寺司だ。お前の夫だ」

「嘘。あたし道明寺と結婚なんかしてないわ。道明寺はニューヨークにいるもの」

「牧野…..まあいいからここへ来て座りなさい」

司はそう言って立ち上がるとコートを脱がせ座卓の前に座らせた。
そして彼女が淹れられたお茶に口を付け、まんじゅうを包む薄紙を剥がす様子を眺めていた。










二人は夫婦だ。
生きていくことの素晴らしさを教えてくれたのは妻だ。
彼が生きていく上で欠かせない人だ。
出逢いのその日から彼女に惹き付けられた。
だが彼女が司に振り向いてくれるまで時間がかかった。何でも自分の想い通りにして来た少年は、他人の心を理解することが出来なかった。他人を傷付けることなど気に留めたこともなかった。
だが彼は変わった。人の心を理解しようとした。そして彼女に自分と同じ気持ちになって欲しいと望んだ。やがてその願いが叶い、二人で幸せになりたくて出来ることなら何でもした。
二人の前に立ちはだかる高い壁というものがあるなら、それをぶち壊してやると言った。
だが彼女はそれを壊すのではなく、乗り越えることを望んだ。だからNYと東京で離れ離れになった4年間というものがあった。そして晴れて彼女と生きて行くことが出来たのは、司が大学を卒業して3年が経ってから。付き合い始めて7年という時が流れていた。


妻のこの症状はかつて司が陥った記憶喪失ではない。
ただ、記憶があやふやになっているだけだ。
そして彼が妻のことを牧野と呼ぶのは、彼女がその呼び名が好きだから。
彼がかつてそう呼んでいた名前で呼ばれることで安心するから。
そして夫である司のことも道明寺と呼ぶ。
それは彼女がそう呼ぶのが好きだから。
結婚するまでの間その名前で彼を呼んでいたから、今は遠い昔に呼び合っていた名前で呼ぶことで、彼女が彼を何者であるか理解することが出来るから道明寺と呼んでいた。

司はそれでも構わなかった。自分のことを理解出来るなら道明寺だろうが、司だろうが構わなかった。たとえ時に彼が誰か分からなくなり、彼と結婚していることを忘れているとしても、道明寺という名前を覚えているだけでよかった。



妻が認知症と呼ばれるものを患ったのは58歳のとき。
65歳未満の人間が発症すれば若年性認知症と呼ばれるが、妻の場合はアルツハイマー型認知症。
だが最初は気付かなかった。
些細なことを忘れてもそれは疲れていたから。もう歳だから。
ちょっとした失敗もよくあることと片付けていたから。
約束の時間を忘れたのは、手帳を見なかったから。
年を取れば徐々に身体が衰えるのは当たり前であり、若い頃と同じようには行かなくなると分かっていたから認知機能の低下とは思わなかった。

発症の平均年齢は約51歳と言われ、早ければ40代前半からということも訊く進行性の病気は、完治は難しいと言われ徐々に認知機能が失われて行く。
今日が何年の何月何日なのかも、自分の名前も、人間の基本的動作である食事や排泄の仕方といったことも忘れ、人として尊厳を保つことが難しくなり日常の生活にも支障をきたすようになる病。
そうなることを恐れる人間は多いが、まさか妻がその病に罹るとは思いもしなかった。
だがそれは、本人も思いもしなかったことだ。

司は世界中の医師に訊いた。
どうすればこの病を治すことが出来るのか。
完全に治らなくとも進行を止めることは出来ないのかと。
だが大勢の医師に問うたが答えは皆同じで首を横に振る。

現代の医療で治すことは出来ません。
特効薬を発見することが出来ればノーベル賞ものだと言われる病に治療薬はございません。

だが一時回復に向ったこともあった。
そして時に正常に戻っていることもあった。
そんな時は司と呼び、瞳にはっきりとした意思が宿る。若い頃、彼が惚れた強い意思を湛えたきらきらとした黒い瞳がじっと司を見つめ問いかける。

『あたしどうしたの?』と。

そしてごく普通の会話が成り立つことがある。
そんな時、愛しさと悲しさと嬉しさの全てが混ざり合い、抱きしめて名前を呼ぶ。

「つくし。つくし。お前どこに行こうとしてる?」

すると笑って答える。

「え?なに?あたしどこへも行かないよ?ずっと司の傍にいるって約束したでしょ?」

その答えを訊くたび胸のうちに吹き荒れる風がある。
その笑顔を見るたびそのままでいて欲しいと願う。時が止ればいいと願う。
そして必ず抱きしめて言う。
「大丈夫だ。俺がついてる。俺がいるから大丈夫だ」と。
だが何が大丈夫なのかと妻は訊かない。
そして司も大丈夫だからとしか言えなかった。

そして思う。彼女が自分を置いて別の世界へ行こうとしていることをどうしたら止めることが出来るのかと。だがどんなに金を積もうとこの病を治すことは出来ない。
どれだけ高名な医師に尋ねても治療方法は確立されてないと言う。
だから司に出来ることは、彼女の傍にいて彼女のすることを見て、彼女の考えを汲み取ってやること。
少しでも思考が保たれているのならその思いを理解してやること。
それが出来るのは自分だけなのだから。


そして61歳になった今。この半年で彼女の病は進んでいた。
医師はおずおずとだがはっきりと言葉にした。
自宅で見ることが難しくなれば入院をお考え下さい。その時は万全を期して奥様のお世話を致しますと。
そして言った。
来年の今頃にはご主人のことも理解出来なくなるでしょうと。



妻は自分の病を知った時、これから自分が向かう先に見える世界を知り言った。

「司。お願いがあるの。あたしが司のことを忘れてしまう前に、何もかも忘れてしまう前に行きたい所があるの。能登半島のあの景色が見たいの。若い頃二人で行ったあの景色が見たいの」


それは冬の能登の風物詩と言われる「波の花」。
11月中旬から2月下旬の海が荒れ波も高く寒さが厳しい日に現れる現象。
気温が2度以下、7メートル程度の風速が発生条件だと言われ、見ることが出来れば幸運と呼ばれる波の花は、海水中に浮遊する植物性プランクトンの粘液が岩にぶつかるたび空気を含み、せっけん状の泡が作られて雪のように海岸を覆い、風に乗って高く舞う。
だが、海が汚染されていると泡が作られにくいと言われている。
それを見に行ったのは、病を寄せ付けることがないと言われ、元気だけがあたしの取り柄だからと言っていた頃、テレビ番組を見ていた妻が言ったひと言。


『あの景色が見たい』

それは、自らどこかに行きたいと言ったことのない妻の口から珍しく出た言葉で、司は願いを叶えてやろうと思った。
だから能登の天候と自分のスケジュールを照らし合わせ、思い立ったら吉日とばかりジェットを飛ばし行ったが、あれから何年経ったのか。


『あの景色が見たい』

そんな妻の思いを叶えてやれるのは、今年の冬が最後だと医師から言われた。
それは二人だけで行動できるチャンスは今だけと言う意味。
今ならまだ司ひとりで彼女の世話ができる。
だから司は妻を連れこの場所に来た。





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2018
03.28

残照 2

Category: 残照(完)
宿の主人は二人を旅館の中で一番いい部屋へと案内した。
だが元々ここは、海に面していることから釣り人が好んで泊る宿であり、どの部屋がどうといった優劣もない。そしてこの季節は釣り人が来ることもないのだから閑散とし、部屋も空いている。だから当然日当たりが良く、海の見える二階の角部屋を用意した。

扉の向うは三畳ほどの次の間に十畳の和室。そしてトイレと風呂がある。
建物は海に面していることから長い間海風に晒されているが、日本家屋はきちんと建てれば長持ちすると言われており、数年前に水回りの修繕をしていることもあるが、二階建てのこの宿は古いがしっかりとした造りだった。

窓の外は灰色の雲と、海は冷たい北風を受け白い波頭が立っていた。
奥能登の海の先は大陸で冬は厳しい寒さがやって来るが、もうそろそろ春の兆しが感じられてもいい頃だ。だがまだ寒いこの季節は観光には向いていない。

こういった商売は意味のない問いかけをすることもあるが、今回は別だ。主人は目の前の二人に興味があった。
だからそんな思いから何故この季節に奥能登を訪れることにしたのか訊きたいと思った。それは宿の主人が客に訊くこととしてはごく普通の問いかけであり、特段おかしなことではないはずだ。

主人は男がコートを脱ぎ寛いだ様子で座卓の前に座っているのとは対照的に、コートを着たまま窓の外をじっと眺めている女に訊くことにしたが、もし女が男の妻なら奥様と呼ぶべきだが、二人を夫婦と断定することは出来ず、その呼び方はしなかった。


「お客様、奥能登は初めてですか?それとも以前いらしたことがあるのですか?」

主人は女に訊いたつもりだったが、その質問に答えたのは男の方だった。

「ああ。以前一度来たことがあるがその時は和倉温泉に泊った」

「そうですが。それはよろしいですね。あそこにはいい旅館が沢山ありますから」

と、主人は答えたが、その時思ったのは、堂々と和倉温泉に宿泊したということは、二人は先ほど考えていた道ならぬ恋をしているのではないということだ。
それならこの二人は何故隠れるようにひなびたこの宿へ来たのか。奥能登の観光なら和倉温泉に泊まっても出来るはずであり、こうして隠れるように田舎のひなびた宿に泊まる必要はないのではと思う。

しかし今の世の中どこで誰が見ているのか分からない。それにもし男が名の知れた大企業の重役なら、地方の温泉地だとしても、彼の顔を知っている人間がいるかもしれないからこの宿を選んだのか。

だがどちらにしても、相手の女を「まきの」という名字と思える名で呼ぶのなら、二人は夫婦ではない。それに男が「中村」だとすれば、左手に嵌った指輪から彼にも家族がいるはずだ。と、なるとやはり今でいうところのW不倫という言葉が当てはまるのだろう。
それにしても、男が主人の思う通り大企業の重役だとすれば、こうしたことが公になれば色々と不味いこともあるはずだ。
それならやはり何も訊くべきではないという結論に至り、主人は館内の説明と食事は何時にお持ちしましょうかと訊き、直ぐに温かいお茶をご用意致しますのでと言って部屋を後にしたが、廊下を進みながら考えた。
もし二人が道ならぬ恋を自分達の命をかけ成就させようとするなら、止めなければといった思いがある。それはどんな事情があろうとも、自ら命を断つといったことだけはしてはならないことだ。死んであの世で結ばれようとするなど考えてはならないことだ。

主人は廊下の突き当りの階段まで来ると一番奥の部屋を振り返った。そしてまさかとは思うが何も起こらないで欲しいと願った。










「奥能登の春は都会より遅いのでもう少し寒い日があるようですけど、すぐに暖かくなるはずです。どうぞお茶とお菓子をお持ちしましたのでお召し上がりになって下さい」

と、着物を着た丸顔の若い娘が二人分のお茶とお菓子を盆に乗せ現れたが、それに答えたのは男の方だ。

「ああ。ありがとう。東京の方がここより暖かいな」

「お客さん東京からですか?東京はここと違って暖かいんでしょうね?」

ああそうだな、と答えた男は薄く笑ったがそれ以上会話をする気は無いのか「これを」と心付けを渡した。受け取った娘は丁寧に礼を述べ、胸元へそれを収めると、次の間まで下がり、襖を静かに締め部屋を出て行った。
だが部屋の中の女は相変わらず窓の外を眺めていて男の方を見ることはなかった。

「牧野。こっちに来て座ろう」

そう言われたが女はじっと外を眺めていた。
だから男は再び言った。

「牧野。座ってお茶を飲もう」

すると女は振り向き言った。

「ねえ。どうしてあたし達こんなところにいるの?」





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2018
03.27

残照 1

Category: 残照(完)
北陸の地から日本海に突き出た能登半島の春はまだ先という頃、一組の男女が乗ったタクシーが奥能登の海に面したひなびた旅館の前に到着した。

降りて来たのは中年よりも年を重ねた男女。
二人は冬のコートを着ていたが、今の能登の寒さには丁度いいはずだ。そして荷物は男が手にしたボストンバックひとつといった少なさだった。

ガラガラと引く扉が開かれれば、その音を訊き付け奥から出て来たのは、年配の男でこの宿の主人。いらっしゃいませと声をかけたが到着した客に目を見張った。

殺風景な玄関に佇む男は背が高く誰もが目を奪われるほど目鼻立ちがはっきりとして、まるで往年の映画俳優のようなオーラが感じられた。もしかすると、近くで映画のロケでもしているのではと思うほど整った顔立ちをしていたが、髪には所々銀色に光るものが見えた。
そして隣に立つ女の方は男より随分と背が低いが、見た所同じ年頃で大きな黒目が印象的な優しそうな顔立ちをしていた。

そんな二人は、どう見ても田舎のひなびた旅館に泊まるような人間には見えなかった。
何故ならひと目見て上等な身なりをしていることが分るからだ。
そして二人の身なりもだが、それとなく感じられる雰囲気といったものもあった。
それを品と言う言葉で表すなら、まさに男の方は堂々としていて風格といったものが感じられ、大企業の重役ではないかといった雰囲気があった。誰にも文句は言わせないといった意思の強さが感じられた。


今日の宿泊客は一組だけで、その一組は東京からの客だという。
そして予約台帳に住まいは東京都世田谷区だと書かれているが、宿の主人は確か世田谷という場所は金持ちが住む地域があったな、とテレビ番組か何かで見たような気がしたと思い出していた。

そんな客ならなおさらこんなひなびた旅館でなくとも中能登へ行けば、七尾湾に面した場所に立派な旅館が立ち並ぶ日本有数の温泉地がある。主人の前に立つ男女はどう考えてもそちらの方が似合う。それなのに何故?といった思いがあるが、旅館が客を選べるはずもなく、こんな古い旅館に来てくれただけでも、ありがたいというものだ。

予約は中村という名前で入っているが、果たしてそれが本当の名前なのか。
男女二人の関係を訊ねることもないのだが、年の頃からすれば夫婦と考えるのが普通だが、そうでもないことも考えられる。

もしかすると、二人は道ならぬ恋をしているのではないか。
そう思ってしまうのは、やはりどう考えてもこんな宿に泊まるような人間ではないと感じるからだ。だから人目を引くことのない、ひなびた宿に泊まることを選らばざるを得ない関係と思ってしまうのが、長年旅館を経営してきた人間の考えることだ。

だが二人がどんな関係だろうと主人には関係のない話しだ。
それでも、こういったひなびた宿で道ならぬ仲の二人が、思いを遂げるということもあり、主人はさりげなく二人の左手を見た。するとそれぞれの薬指に嵌められた指輪が目に止まり、夫婦かと少し安堵した思いで言った。

「どうぞ。お上がりになって下さい。寒かったことでしょう。さあさあどうぞ中へお入り下さい」

そう言われた男は靴を脱ぎ、低い上がり框に揃えて置かれているビニールで出来たスリッパを履いた。
そして連れの女に声をかけた。

「牧野。行こう」

主人は、ああ、自分の見立ては間違っていたかと思う。
長年の勘でだいたいのことは分かるのだが、女の名は「まきの」という名字なのだと自分の考えが外れたのだと思う。
そして男の名前はなんと言うのか知らないが恐らく中村というのは偽名のはずだ。
そうなるとやはりこの二人は道ならぬ恋の最中、つまり不倫旅行ということなのだろうか。
だがそんな主人の思いなど全く気にすることなく男は再び女に声をかけた。

「牧野。靴を脱いで」

そう言われた女は靴を脱ぐとスリッパを履いた。





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2018
03.25

金持ちの御曹司~桜が咲く頃には~

「道明寺!」

と、気軽に呼ぶが、この名字の偉大さを牧野は分かっているのか訊いてみたい気がする。

つい先日だが某国営放送『人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!』という番組の中で「なぜか憧れる名字ベスト10」のうちの8位にランクインをした「道明寺」という名前。

ちなみに俺の周りの奴らの名字で唯一ランクインしたのは、藤堂静の「藤堂」が道明寺よりひとつ上の7位だが、花沢も西門も美作もその中には入ってなかった。
ま、それだけ俺の名字は憧れの的という訳だが、どうして道明寺が8位に選ばれたか知りたいか?
なら教えてやろう。

それは言葉のリズムがいい。
濁点がつく名前は堂々としている。
良家の名前で金持ちのイメージがあると言われているが、一番の理由は考えれば簡単だろ?
それは誰もが憧れる男の名字だからだ。
何しろ世界で一番いい男と言われる俺。
いいか?口に出してみろ。
道明寺。実にいい響きじゃねぇか。
だからって気安く呼ぶんじゃねぇぞ?
けど会社の名前が道明寺ホールディングスって言うんだから、例え日本に唯一の名前だとしても、この名前は世界的に有名で誇れる名前だ。

そんな大勢の人間が憧れる名字を持つ男が愛する女の名前は牧野つくし。
牧野。
その名前がどこにでもあるありふれた名前だとしても、「つくし」って名前はそうあるもんじゃねぇよな?
でも春らしくていいじゃねぇか。
春になれば道端に芽を出すつくし。
まさに春の雑草として代表的な草。
そして佃煮にして食べれると言うが、まだ食べたことはない。
だがそのうち食べさせられるなら、覚悟は出来ている。


そんな俺の恋人がよりにもよって犬を飼いたいと言ってきた。
それも秋田犬。
なんでも最近あったオリンピックでゴールドメダルを取ったフィギュアスケート選手がその犬をご所望だと来た。
優しさと強さを持つと言われる秋田犬。
犬と比べるのは癪だが、だがそれなら俺で充分なはずだ。
何しろ俺は牧野を溺愛する男だ。
いや。普段ライオンだと言われる俺が犬と同等に扱われることはないが、牧野のためなら犬になるのはやぶさかではない。
それにかつて道明寺、犬みたいと呼ばれた男だ。まさにアイツが呼べばすぐに駆けつけるつもりでいる。だから仲間内では忠犬司と呼ばれているとかいないとか。

いや、今はそんな話しはどうでもいい。
今の俺と牧野は決算で忙しい日々を過ごしデートをする時間がない。
だがせめて桜くらい一緒に見てぇだろ?
牧野との花見。その場所は毎年決まっている。
それは、世田谷の道明寺邸。
そこには大きな桜の木があるが、今年の桜はいつもより随分と早く花を咲かせた。
その下でシェフ特製の花見弁当を食いながら桜を愛でるのが恒例だが、今年はあいつらが押しかけて来るとは思いもしなかった。



「よう司!今日はいい天気でまさに花見日和だな!こんな天気なら野点するのもいいかもな」

「俺、桜の下で弁当喰うっての久々」

「俺は牧野が来るならどこで弁当喰ってもいいけどね?」

そんなことを言う幼馴染み3人。

「本当ですよね?こんなにいい天気にお庭で桜を見ながらお食事が出来るなんて素敵です。でも私の美貌と桜の美しさとを比べれば、私の方が断然綺麗ですけどね?」

「ちょっと桜子!あんた言うわね?桜と自分を比べるなんて、そんなこと出来るのはあんただけよ」

「滋さん。当たり前じゃないですか。私の名前は桜子ですよ?桜の季節に生まれたからこの名前なんです。それに名は体を表すって言うじゃないですか。日本の美を代表する桜の美しさ、しとやかさってまさに私のことですから」

「げ。どこがしとやかなんだか。それより司!あんたんちの桜って本当に凄いよね?」

と、のたまう女たち。
こんな調子で仲間が集まれば、ワインの瓶や熱い酒の入った徳利が回され、花見というよりもただの酒飲みの集まり状態だが、いつも誰かが海外といった状況で、こうやって全員が揃うことは滅多になく、だからこうして集まることは司にとって嬉しいはずだが何故かムカつく。

「類!お前、何こいつの弁当に入れてんだ!」

桜の木の下。
ピクニックシートの上に、類と司はひとりの女性を挟み座っていた。

「うん。だって俺緑の豆嫌いだから。牧野に食べてもらうと思って」

「何だよ!緑の豆ってのは!」

「あ~それうぐいす豆よね??類くん嫌いなんだ」

うぐいす豆とは青えんどうを甘く柔らかく煮た物で、うぐいす色をしているため、そう呼ばれていた。

「うん。そう。俺緑の豆が甘いっての?どうも苦手」

「類。お前フルーツグラタンが好きななら緑の豆が甘くても喰えるだろうが!」

「だめ。どうも視覚と味覚が一致しないっていうの?緑っていったら野菜だろ?それが甘いってのが無理」

そう言った類の箸は器用に豆を摘まみ、隣の女の弁当箱に移していた。

「きゃははは!類くんらしいわよね?で?司も甘い物が苦手だけど、うぐいす豆食べてるんだ。やっぱつくしの教育の賜物ね?好き嫌いしたら嫌われちゃうもんね?」

「うるせぇ。滋。お前ら弁当喰ったらとっとと帰れ!本当なら今日は俺と牧野だけの花見だったんだ!それなのに湧いて来やがって!」

「うわ!湧いて来ただなんて酷い!でも分ってるって。二人とも忙しい中でなかなか会えないんでしょ?だから今日が久々の逢瀬っての?大丈夫、夜には帰るから二人でゆっくり夜桜でも楽しんでよね?」

と、分かった風に笑う女は、筍の木の芽和えを口に運び美味しいといい、若竹とハマグリの葛打ちの椀に手を伸ばす。

「あたりめぇだ!久々の休みだってのにいつまでもこいつにくっついてるんじゃねぇよ!特に類!お前、それ以上豆を移すな!食え!ダメなら滋にやれ!」

司は、そうは言っても、春物のニットのアンサンブルにスカートの女が、久し振りに会う仲間と楽しそうにしている姿を見ることが嬉しかった。
大きな会社の後継者である彼らは、社会に出ればそれぞれに役割といったものがある。それを果たすことは、生まれた時に決められていたことだ。だから誰も抗うことはなかったが、それでも高校時代の彼らはやりたい放題な人間だった。

一晩だけの恋愛。
年上の女との逢瀬。
とても真面目な高校生とは言えなかった彼ら。
そして惰眠を貪ることが最高の幸せという男。
だがそんな仲間も今は大人になり、社会の第一線で活躍していた。
そんな彼らとの久し振りの集まりは、誰に気兼ねすることなく、言いたいことを言って時間が過ぎていく。

そして弁当も食べ終わり、デザートの菓子までたどり着いたとき、ほうじ茶と一緒に出されたのは桜餅。
つまりそれは別名道明寺。
それは憧れの名字。
司は思った。
日本人の憧れの名字の道明寺が食い物と同列に扱われるってのもどうかと思うが、関西ではその呼び名が使われてるって言うんだから仕方ねぇと。

だが司は甘い物が苦手だ。
だが司の恋人は甘いものが大好きな女だ。
何しろ高校時代団子屋でアルバイトをしていただけに、洋菓子もだが和菓子にも目がない。
だから隣に座る女にやるつもりだが、彼女の向うに座る類は、そんな司に冷たい視線を向けた。

「司。俺に甘い豆を自分で食えって言ったよね?その桜餅だけど、当然食べるよね?牧野。司の桜餅。受け取ったらダメだからね?俺に緑の甘い豆食べろって言うんだ。当然自分が嫌いな物を食べて見本を見せるのが大人のやり方だよね?」

と言った類は、このピンクの餅って道明寺って言うんだよね?牧野。これ食べるとき司を食べてるって想像しちゃわない?と確かめるように訊いたがそれにいち早く反応したのが滋だ。

「やだ類くん!つくしがこれ食べるとき、『道明寺って美味しそう!頂きます!』って食べちゃうってこと?やだ~なんかイヤラシイ!でも司のってピンク色?」

「滋!お前帰れ!」

「きゃー冗談だから!それにさ。あたし自分の裸は見せたけど、司の裸は見たことないから知らないの!ゴメンねつくし分ってあげられなくて!」



仲間が集まってのこうしたやりとりの最後には、決まってつくしが真っ赤になるのだが、それも今更で、誰もがいつまでたってもどこか少女のような女と大財閥の後継者との関係を微笑ましく見つめていた。









「ねえ。今日は皆でお花見出来て楽しかったよね?ホント、何年振り?それにしても類がうぐいす豆が嫌いだなんて知らなかった」

「お前な。類のことより俺の桜餅のことを心配しろ」

司は類にうぐいす豆を食えと言った手前、何故か類から桜餅を食べろと言われ食べた。
食べたというよりも、丸呑みしたといった感が大きく、その後ほうじ茶をがぶ飲みしたが、喉の奥にどうも餡の味がして仕方がない。だから今はシャンパンを片手に桜を見ていた。

今二人がいるのは、道明寺邸の一角に造られた離れ。
高級旅館にも負けない贅沢な造りの和室。
そこから見える庭には、大きな枝垂れ桜が見事な花を咲かせていた。
そしてその桜の向うに、椿と水仙が同時に花を咲かせていた。
つまり、桜色と赤色と黄色がいっぺんに花を咲かせているが、すでに暗闇となり、色は見えなかった。それでもまだ明るいうちは春が一度に来たように思え、賑やかで楽しい庭があった。

「なあつくし。あいつら突然押しかけて来たが、今日は楽しかったか?」

「うん。楽しかったよ?皆に会えたのも久し振りだしね。なんだかリフレッシュ出来た」

「そうか」

と言って笑ったが、司は自分の類に対する嫉妬心があまりに幼いことに苦笑した。
勿論、類が言うことは全て冗談だと分かっているが、人を愛してしまうと、ほんの些細なことさえ気になるのだから恋するという心は、不可解だとしか言いようがない。
そしてどうして彼女を好きになったのか理由を言えと問われても、それは天から恋の矢が放たれたとしか言いようがない。

「綺麗だよね?こうして今年も二人で桜を見ることが出来て良かったね?」

庭園灯に明かりが灯り、漆黒の闇をバックに浮かび上がる枝垂れ桜は、二人だけの桜として誰にも邪魔されず二人で見ることにしていたが、今年の桜はいつも以上に美しいと感じた。

ものには、始まりと終わりがあるように、花にも命がある。
だが花は散れど、樹齢1000年を超える桜もあるという。
二人だけの桜はそんな木と比べればまだ若い木だが、二人が成長すればこの木も大きくなる。

司は暫く窓の外に見える桜を見上げていたが、シャンパングラスを置くと、バスローブを着た女を抱上げた。

「つくし。桜もいいが、俺はもう一度お前が欲しい」

二人は、仲間が帰ったあと離れに移り抱き合った。
年度末となり休日でさえ仕事をしなければならない日が続いていた。
だから今日の日曜は、二人にとって貴重な休日。司は無理やり休んだに近いが、二人で桜を見るチャンスはこの日しかなかった。そんな二人は桜が間近に見えるこの離れがお気に入りだ。



司は自分と同じシャンパンの味がする唇に口づけをした。

そして彼の胸に顔を埋めた女をぎゅっと抱きしめた。

「いいよな?」

と言って。

それにうん。と小さく頷く女がいた。




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*NHK総合『人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!』3月1日放送分にて、なぜか憧れてしまう名字第8位として「道明寺」が取り上げられました。ちなみに第1位は「西園寺」さんでした。
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2018
03.23

幸せの前ぶれ ~続・雨の約束~ 

「アナタハ カミヲ シンジマスカ?」

つくしは、そう言って声をかけて来た怪しげな人間を無視して手首の時計に目を落すと歩くスピードを上げた。そして隣で歩く女に声を掛けた。

「もう……遅いんだから…何やってるのよ。先方との約束は13時でしょ?化粧直しに時間取られてる場合じゃないでしょ?ほら。早く!」

「だって先輩。これから向かう会社の副社長って凄い有名な人なんですよ?お金持ちで美形で背が高くて、知ってます?足なんて凄い長いんですよ?こーんなに長いんですよ?それにお金持ちの規模だって日本一ですよ?世界でも上位20に入るんですよ?そんな人に会いに行くのに口紅を塗り直すくらいいいじゃないですか。本当ならファンデーションも全部落として初めから塗り直したいくらいなんですからね?それに言わせて頂きますけど、私は先輩のその無頓着さが信じられません!先輩こそ口紅塗り直して下さいよ!そんなんじゃ逆に相手に失礼です。それに、これから人に会うって言うのにどうして昼食にペペロンチーノが食べれるんですか?せめてミートソースにして下さいよ?あれなら匂わないじゃないですか」

足がこーんなに長いと自分の身体を使って男を形容する女は、塗り直し桜色になった唇の形を不満げに変えた。


つくしは、グラフィックデザイナーとして広告代理店から依頼を受け、打ち合わせのためクライアントである会社に向かっていた。
そして彼女の助手として付いて来たのは、同じ事務所で働いている三条桜子。
二人が向かっているのは、目の前にそびえ立つ地上55階建ての道明寺ホールディングス日本支社。春の陽射しを受けたビルは輝いて見えた。


「あのね。ミートソースはソースが飛び散るかもしれないからダメ。だからペペロンチーノにしたの。それに私は顔で仕事をしようなんて考えてないの。いい?桜子。仕事は頭でするもの。顔じゃないの。それに相手だって仕事相手に顔を求めてるわけじゃないでしょ?
いくらこれから行く会社の副社長が美形の男だからって、頭が良くなきゃ副社長なんてやってられないでしょ?それにその人アメリカ帰りでしょ?仕事に性的なことを持ち込めばセクハラになるってことも理解してるはずよ?だから口紅が少しくらい落ちてても何も言わないし、気にしないわよ。それにニンニクの匂いなんて近寄らない限り分からないから大丈夫。それより時間に遅れる方がビジネスにはマイナスよ!だから急いで!」

そう言って桜子を急がせる女は、肩に掛けた鞄をかけ直す仕草をした。

「わ、分かりましたから!それにしても先輩ったら仕事ばっかりで男のことに興味ないんですか?そんなんじゃ行き遅れになりますよ?」

「何言ってるのよ?男なんて星の数ほどいるんだから、そのうち自分に一番合う人に巡り逢うわよ?だいたい桜子は目移りし過ぎなの。いい加減一人の人に決めなさい?あっちもこっちもじゃ、あんたいずれ刺されるわよ?」

三条桜子は、細身だがダイナマイトボディの持ち主で色気がある。
そしてその色気でどんな男も手玉に取ると言われる美貌の持ち主だ。
だから、すれ違う男性の視線は桜子に向けられているが、彼女はそれが当然といった顔で全く気止めることはない。それに桜子は、相手から言い寄られるよりも、自分から仕掛けに行く所謂肉食系女子と言われるタイプで、ここぞという時は、狙った男を完璧に仕留める女だ。

「ご心配には及びません。私は男とは節度をもって付き合ってますから。それにそんなこと言いますけどね?先輩は真面目過ぎて男と付き合わないじゃないですか。言わせていただけば、先輩はもう少し男に興味を持った方がいいと思います。それに先輩は分かったような口の利き方をしますけど、男性経験なんて無いでしょ?後生大事にとは言いませんけど、いつまでもバージンを守ってるようじゃ人生の一番いい時が失われてしまいますからね?それに男がいない人生なんて楽しくないじゃないですか?」

つくしは、足早に歩きながら桜子の言う節度を知りたいとは思わなかったが、隣を歩く女の言葉に決然と言った。

「別に男がいなくても楽しいわよ?男だけが人生じゃないもの」

「またそんなこと言って。先輩は人生の半分を無駄にしてます。
いいですか?人生の半分は睡眠ですが、それを除いた残り半分の時間はとっても大切な時間ですよ?それを仕事ばかりしてどうするんです?この前だって休日を返上して仕事したんじゃないですか?それはデートする相手がいないからですよね?いいですか、先輩。人は愛し愛されるからこそ楽しい人生を送ることが出来るんです。先輩もその気になれば恋が出来るはずです。だからその気になって下さい。なんなら私が誰かお世話しましょうか?男と対等に働きたいって気持ちも分りますけど、先輩は女なんですからね?時に男を頼ってもいいんですからね?」

また始まった。
つくしは桜子の説教とまでは言わないが、恋をしろという言葉は耳にタコが出来るほど訊かされていた。それに桜子の言う通り29歳のつくしはバージンで、男と女の関係については疎い。けれど別にそのことが悪いとは思ってはいない。
それにいつか運命の人に出会えることを夢見ている。
だがそれを桜子に言えば笑われるに決まっている。だから言わなかった。


いつかきっと会えるから。

誰と会えるのか分からないが、時々夢に現れる人が言うその言葉が好きだった。
そしてその人と出会えば、名前など知らなくても、二人とも互いが互いに求めている人だと分かるはずだ。

つくしが密かに夢の中の恋人と呼んでいる人の顔は分からないが、低く優しい声をしていた。そして近くに行くことは出来なかったが、背の高い人だということは分かる。

いつかきっと会えるから。

その人がそう言うのだから、いつか会う日が来ると信じていた。
きっと二人は出会うことが約束されているはずだから。










二人は道明寺ビルのロビーに足を踏み入れたが、そこでつくしの足が止った。

「桜子。ごめん。ちょっとこれ持ってて」

と言われた桜子は、つくしが肩から掛けていた鞄を受け取った。
そしてつくしがスーツの上着の左右のポケットに手を入れ何かを探す様子を見ていた。

「先輩どうしたんですか?何か忘れ物ですか?」

「うん。無いのよ?おかしいな.....確かここに入れたはずだったんだけど」

「何を入れたんですか?」

「うん。これから向かう場所を書いた紙。おかしいわね?確かにここに入れたんだけど」

「先輩。それならどこかの会議室じゃないですか?それにたとえ場所を忘れたとしても、受付けで聞けばどこで何があるか教えてくれますから大丈夫です。先輩って変んなところでおっちょこちょいというか、慌てますよね?大丈夫ですから。さあ行きましょう」

そう言われ、それまでつくしが先を歩いていたが、そこから先はまるでつくしが後輩か付き添いかといった風に桜子が前を歩き出し、つくしが後ろを歩き出そうとしていた。
その時だった。
後ろから風が吹き、自動ドアが開いたのか感じられた。
そしてふわりと春の風が吹き込むと同時に深呼吸した瞬間、感じられた微かな香り。
それまでロビーに満ちていた声はどこかに吸い込まれるように消え、その場にいた人間の視線がつくしの後方に動いたのが感じられた。
だからつくしも振り向いた。するとひとりの男がこちらに向かって歩いて来ていた。
そしてその後に続く大勢の男たちがいた。

だが誰もがひとりの男に注目していた。
それは先頭を歩く背の高い男。
印象的な切れ長の瞳と癖のある黒い髪が特徴的。
長い脚で力強く歩く姿は自信に満ち、自分の前に立ちはだかる人間はなく、神のように振る舞うことを許されたといった態度。
そしてつくしはその男と目が合った。
それは数秒という短い一瞬。
だがその瞬間、何かが甦った気がした。
不思議な気持ちがした。
世界が広がった気がした。

そして男も彼女に視線をしっかりと合わせた。
その表情は平静で瞳は彼女を見ているようで、見ていないように感じられた。
だが次の瞬間、男の表情が変わった。
笑ったのだ。
だがそれは、僅かに唇の両端を上げた程度。


「牧野先輩!先輩!早くして下さい。打ち合わせ始まっちゃうじゃないですか!遅れるって心配してたのは先輩でしょ?ほら早くして下さい!エレベーター閉まちゃいますから!」

「えっ?う、うん。い、今行くから!」

気付けば桜子はエレベーターの前でつくしを呼んでいた。
そしてつくしの横を通り過ぎようとしていた男は、何故か突然彼女に近づくと耳元に口を近づけ言った。

「お前、ニンニク臭いな。あの店のマルゲリータは美味いが仕事前にペペロンチーノは止めた方がいいな」

「え?」

それは一瞬の出来事。
きょとんとした顔をした女は、遠ざかって行く男の背中を見送った。









二人の人生が過去から綴られているなら、それは幾億もの夜を越え繋がっている。
そしてそれを運命というのなら、過去が哀しみや切なさが溢れたものだったとしても、これからの二人の間には、穏やかで幸せな時の流れがあるはずだ。


恋は何度してもいい。
それが過去から決められているなら、なおさらいい。
それにたとえ問題があったとしても、それを乗り越えることが恋の醍醐味だ。
だから二人はこれから恋をする。
少なくとも男の方は既に恋におちていた。

そしてそれは、二人は永遠の恋におちると前世から決められた運命だから。
二人の運命の歯車は、たった今、回り始めた。





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2018
03.21

雨の約束 最終話

あれから6年が経ったが鳥の鳴き声が記憶の想起となり忘れていた人を思い出した。
だがその人は忘れたくて忘れた人ではない。忘れたくはなかった人だ。
その人は世界のどこにいても会いに行くと言ってくれた人で、どんな涙も引き受けてくれる人。そして時に優柔不断な私を引っ張って行ってくれる人。
夜明けのベッドの中、目覚めた私に口づけ、お前はまだ寝てろと言ってシャツを着る人は情熱をぶつけて来る人。それは出会ったその日からずっとそうだった。

あの日まで。







つくしはじっと前を向いたまま彼を見ていた。
すると彼はそんなつくしに、白い布を取る手を止め彼女を見た。

「牧野。思い出したか?」

突然そう言われ、

「…え?な、何?」

と言ったが掠れた声しか出なかった。

「思い出しだんだろ?」


思い出した___。

記憶の扉が音を立て開いた瞬間、目の前の男の存在がどれほど大切な人だったかに気付いた。だがそれと同時に感じたのは、これが現実なのか、それとも夢なのかということだ。
それは頭の中が混乱しているということだ。だから今の感情を言葉にしようとしたが、口をつくのは戸惑いの言葉だった。そして何か言おうとするが言葉が上手く出なかった。

「あの….」

「牧野?どうした?言ってくれ。俺が誰か思い出したんだろ?俺とお前が恋人同士だったことを思い出したんだろ?なあ牧野。俺のことを思い出したんだろ?そうだろ?」

「お、お願い。ちょっと待って」

と答えたが彼は引き下がらなかった。
訊く事を止めなかった。
まるで人が変わったように熱心に訊いた。

「思い出したんだろ?俺のことを思い出したんだよな?」

そして近づいてくると、ポケットからライターを取り出し矢継ぎ早に言った。

「このライターはお前が俺の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。煙草を止めろと言ったが、止められない俺にお前がくれた!お前が就職して最初の年にくれた誕生日プレゼントだ!高い買い物だったはずで無理しやがってと俺は言った。
けど、このライターをお前だと思えば大切に扱えるはずだ。火を点ければ熱い思いをするのはあたしなのよ?だから火を点けないでってお前、俺にくれただろ?
そのお返しってったら変だが、お前に何かプレゼントしてやりたかった俺は、あの部屋で寒そうにしてたお前にファンヒーターを買った!」

分ってる。
思い出した。
見覚えのある喫茶店。
見覚えのあるゲームセンター。
見覚えのあるレストラン。
そして見覚えがある風景。
全て二人で一緒に行った場所だ。
二人の間に起きたことで覚えていないことなどないのだから。

そして部屋にあるファンヒーターは彼が買ってくれたものだ。
就職して最初の年ということは、今から11年前のものだ。あの当時、まだお金がなく、今のようなマンションではなく、古いアパートの一室に暮らしていた。部屋には備え付けのエアコンはあったが古いもので、なかなか暖かくならず寒い思いをしていた。だからファンヒーターか電気ストーブがあればと言った。すると買ってやると言われたが断った。そして彼の誕生日に18金で縁取りされた黒いライターを買いイニシャルを入れてもらいプレゼントしたが、それは煙草を止めさせるため。そのライターを私だと思うことで火を点けることを躊躇えばと願ったから。
あの時、こんなモン買う位ならヒーターでも買えばいいものを、無理しやがってと言われた。だけど嬉しそうに笑った。大切にすると言った。そして翌日には狭いアパートの部屋なら直ぐにでも温まると言われたヒーターが届けられた。



「道明寺…うん。分かってる。思い出したよ。アンタのことも何もかもね」

つくしが口を開くと、男は小さな笑みを口元に浮かべた。
そして静かに言った。

「一緒に行ってくれるか?」と。

どこへ行くのとは訊かなかった。
何故ならどこへ行くのか分っているから。
そして、この人と一緒ならどこへでも行けると思ったから。
何も怖くはなかった。それとは逆に温かい気持ちが溢れ、涙が溢れた。



巻き戻る記憶は6年前のあの日を脳裡に映し出した。
だが記憶というのは目で見たものだけを映し出すのではない。
音や匂い。手触りといったものまで記憶されていて、あの瞬間のことが目の前に現れたように感じられた。


それは悲しい別れの記憶。

6月の日曜。
冷たく激しい雨がアスファルトを叩く、昼と夜との境目の明るさの時間。
二人は事故に遭った。
あの日、道明寺の運転する車は、北軽井沢の別荘から都内に戻るため高速道路を走っていたが、激しい雨で前が見えにくかった。
そしてその時、前方を走る車がスリップしたのか、ガードレールにぶつかり跳ね返り回転しながらこちらへ向かって横滑りをしてくるのが見えた。その車を避けようとしたが、避けきれず衝突した。 

その瞬間、フロントガラスは砕け、雨のように降り注いだ。それと同時に雨が顔を叩いた。
そしてシートベルトが身体に喰い込み痛かった。一瞬のことで自分の身に何が起きたか理解するのに数秒かかったが意識はあった。だが身体は金属の塊に挟まれていた。
そして鼓膜に甦るのは、自分が上げた声。
それは叫び声。つんざくように響いたのは彼の名前。
だが何度呼んでも返事がなかった。
助手席に座っていた私は、運転席に座る彼を見たが、後ろへ倒れた頭は動かなかった。
道明寺、しっかりして!と叫び声を上げ泣いた。なんとかシートベルトを外し彼の顔に手を触れ、そして再び叫んだ。道明寺、しっかりして!と。だが返事はない。それでも何度も名前を呼んだ。
道明寺!道明寺!しっかりして!お願い目を開けて!

手を触れた頬の温もりは、雨に濡れ冷たくなっていくのが感じられた。けれど、微かな息遣いと共に色を失いつつある目を開き私を見た。だが暫く何も言わなかった。そしてあの時、小さな声で言った。


俺はもう駄目だがお前はまだ大丈夫だ。
生きることが出来る。だから俺の分まで生きてくれ。
いや。駄目だな。お前が来るまで一人で待つには長すぎる。
だから俺はまたいつかお前の前に現れる。
だからその時は俺と一緒に行ってくれるな?

いつかきっと会えるから。


いつかきっと___


だから___














記憶の奥底に封じ込められていたあの日の光景が、頭の中で崩れ溢れ出てくるのが分かった。おびただしい血が雨で流れていく様子が目の前に現れたが、つくしの身体から流れたものなのか。それとも彼の身体からのものなのか。
雨は二人の身体から流れ出る血と体温を奪った。
それは、空からの雨と一緒に涙の雨が頬を伝ったあの日の光景。


いつまでも一緒にいようと誓ったふたり。
離れたくなかった。
いつまでもずっと触れていたかった。たとえその身体が冷たくなっても一緒にいれば幸せだから。だから一緒に行きたかった。彼と同じ場所へ。
待つのは厭だから今すぐ一緒に連れてってと言った。
だが連れていってはくれなかった。

そして意識を失った。
次に目覚めたとき病院のベッドの上にいた女は彼の記憶がなかった。何ひとつ覚えてなかった。そして長い入院生活を過ごし退院したが誰も彼のことを話さなかった。
それは事故の話に過敏な反応を示していたからだ。あの頃、誰かが事故の話しをしようとすれば、発作を起こしたように身体が痙攣した。そして暫くの間、雨が降る夜外に出るのが厭だった。そんな女を見た医者は、彼のことを覚えていないなら話さない方がいいでしょうと言ったが、何のことか分からなかった。そして付き合っていた彼のこと、彼に繋がる人の事を忘れ生活していた。
だから三条桜子に会っても気が付かなかった。


だが三条桜子は今この国にいない。
いや違う。彼女はこの世にいない。
彼女は私たちが事故に遭う前、フロリダの高速道路で事故に遭い亡くなった。
彼女の住まいだったあの邸の門は、固く閉ざされ出入りする人間は誰もいない。
そしてかつて沈丁花が香っていたあの広い庭も今は草が生い茂っているはずだ。
あの桜の木はどうなったのだろう。
あの日ライトアップされていた桜は?
彼女がつけていた桜色の口紅と同じ色の桜の花を咲かせる木は?

だが確かに三条桜子はいた。
交差点で信号待ちの私の横で具合が悪そうにしゃがみこんだ。
あれは彼女が亡くなったとき胸が痛かったということなのか。そうだ。胸を強く打ちつけて亡くなったと訊いた。

あの日。家の前で見送られた時、彼女は微笑みを浮かべていた。
けれど背後にある夜は暗かった。それは彼女の姿を呑み込んでしまう暗闇だった。
そして車に乗り振り返ったとき、彼女の姿がぼやけ始めたように見えた。
やがて車がスピードを上げると、小さくなるその姿は闇に呑まれ消えた。
それはあの夜は闇が深かったからだと思った。だが違う。三条桜子は別の世界から訪ねてきたということだ。あの時飲んだお茶は、特別なお茶だと言ったが、それは道明寺を思い出させようと淹れたものだったのかもしれない。

そしてあの日から夢を見るようになっていた。
夢の内容はいつも同じでそれは行ったことも、見たことももない場所の夢。
それが喫茶店でありゲームセンターだった。
そして目の前に現れる長く暗いトンネル。
その向うから微かな光りが差し込み、やがてトンネルの中が真っ白な光りで満たされ視線の先に人影が見える。その人に近づこうとしてトンネルの中を走って行くが、いつまでたってもその人が立つ場所に近づくことが出来なかった。そして夢の中なのに、はっきりとした雨の匂いを感じることが出来た。


「あの時、俺は神と取引をした。お前を生かす代償として俺の記憶を全て消すと言われた。
お前の中にある俺という男の存在を全て。それが神との約束だった。それにお前も俺のことを覚えてたら哀しむだろ?
ただし、それはあくまでも短い期間。けどな、愛してる女の記憶から二人で過ごした時間を消されることは辛かった」

忘れ去られること。
それは、自分が存在したことを否定されること。
故人は誰かの記憶の中で生き続けることで自分が生きた証を確かめる。
それは、愛しい人や家族だったりする。
だが私は、彼の思い出だけを置き去りにして生きてきた6年間があった。

「それからお前の病気のことだが、知っている」

「え….」

この人は分かっているから迎えに来た。
私が苦しむのを見たくないからなのだろう。
三条桜子を助けた日。あの日の前日、健康診断の再検査の結果を訊くため医者を訪れた。
そして告げられたのは、末期ガン。
長くてあと半年と言われた。


あの日、この世にいない人、他の人には見えない人を助け会話をした。
だからあの交差点で誰もふたりの方を見なかった。誰も助けようと手を差し出さなかった。それもそのはずだ。あの時はつくしひとりが、しゃがみこんだとしか見えなかったはずだ。
それは物を落した人間が何かを拾おうとする姿に見えたのだろう。
そして喫茶店では紅茶を二つ頼んだが、ウェイトレスは可笑しいと思ったはずだ。だが何も言わなかった。

そして人生で一番愛した人に再会した。

心も身体も深く結びついた人に。


「牧野。お前が苦しむ姿は見たくない。だから行こう。俺と一緒に。少し早いかもしれねぇけどいいだろ?」

差し出された手はいつかの手と同じ。
高校生の頃、彼が命を落としそうになった時も同じように手が差し出された。

「なあ。俺だけだろ?お前の手を取ることが出来るのも、お前を愛せるのも。それにお前が愛せるのは俺だけだ」

自信満々に言うその姿。
だが確かにそうだ。
私が愛することが出来るのは彼だけだ。だからあの事故以来誰とも付き合う気にはなれなかった。誰も好きになることはなかった。

「俺は忘れられている間もずっとお前の傍にいた。ずっとお前を見ていた」

そうだろう。
彼は知り合った頃しつこい男だった。
初めそんな男が嫌いだった。
けれどいつの間にか心の奥にいた。
だから傍にいたというのは本当だと思う。
二人は目には見えない絆で繋がっていたのだから。


「牧野…」

つくしは頷いた。
そして手を差し出した。
魂が眠るとき一緒にいたいと願った人と旅立つことに何を恐れる必要があるというのか。
それに生まれ変わっても愛し合える自信がある。
きっとまた巡り合うことが出来るはずだ。

あの雨の日に約束した。

いつかきっと会えるからと。



「牧野。会いたかった」

そう言って、ふわりと抱きしめられた胸は温かかった。

「道明寺。あたしも会いたかった。ごめんね。6年も忘れてて」













10日後、ひとりの女性が病院で静かに息を引き取った。
そして失いつつある意識の中で思い浮かべたのは遠い昔の楽しかった思い出。
もう決して離さないといった男の優しい手。
今、やっとその手を掴むことが出来た。
迷いも不安もなかった。
そして悔いはなかった。



本当ならあの雨の夜に共に旅立っていた命だったのだから。

そしてその日は、今から6年前の事故と同じ雨の日曜日だった。




< 完 > *雨の約束*

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2018
03.20

雨の約束 5

『姉さん。最近日曜に電話しても全然出ないけど、どこか出かけてるのか?』

「え?うん…友達と会って食事したりしてるから」

『そっか。それで、最近身体の調子はどうなんだ?』

「うん。いいわよ?でもどうしてそんなこと聞くの?」

『いや。別に深い意味はないんだけどさ。なんか最近楽しそうだから何かいいことでもあったのかと思って』

弟の進が電話をかけて来たのは、月曜の夜だった。
結婚した弟とは滅多に会うことはないが、たった二人の姉弟だ。
かつては姉の方がどこか気の弱い弟の心配をしていたが、今では結婚と同時に家長としての自覚が芽生え、家族を養うため銀行員として真面目に働いている。そして時にひとり暮らしの姉が心配なのか電話をかけてくるが、今ではそんな弟が自慢だ。

『姉さん。例えばの話しだけど、もし好きな人が出来て恋がしたいって思ったらすればいいんだからね?』

「何?どうしたの急に?」

『いや。別にどうもしないけど、もしそうならそれでいいと思うからさ。俺どんな人が相手でも姉さんがよければ反対なんて絶対しないからさ』

弟の口ぶりは、まるで最近の姉の様子を知っているようだと思えた。
だが知るはずもないのだが、たった二人の身内となった今、姉の微かな変化を感じ取ることが出来るようになったのだろうか。
最後は陽気な声で、じゃあ姉さん身体に気を付けてと言って電話を切った。








6月に入り雨が降る日が多くなった。
二人が会う日曜はいつも雨だったが、その週の始まりの日曜も雨だった。
梅雨という季節は、梅雨寒と言う言葉があるように時に肌寒さを感じさせる日がある。
そんな日は暖房があってもいいと思えるが、エアコンのスイッチを入れるほどでもない。
それならと長年愛用しているファンヒーターのスイッチを入れた。

それは随分と長い間愛用している代物だが、実によく働いてくれる。
恐らく10年は使っているはずだ。
物を大切にする家庭で育ったことから、たとえ時代遅れになろうと、電気代がかかろうと、おいそれと処分することは出来ない。だから壊れない限り現役で、出かける前の身支度をする間、ちょっとした短い時間に対応してくれる使い勝手の良さが気に入っている。
それにどこにでも持ち運びができ便利だ。だから冬になれば浴室の脱衣所に持ち込むこともあった。

だがこのヒーターがどういった経緯で自分の手元にあるのか。
10年も前のつくしは、就職したばかりで、ヒーターを買う余裕は無かったはずだ。
それなら貰ったのかと考えるが、いったい誰からと考えるも思い出せなかった。




時計の針が11時を指す前、つくしは待ち合わせの場所に急いだ。
それは彼女が暮らすマンションから少し離れた場所にある公園の前。
いつもの通り黒のメルセデスが止り、その横に黒い傘をさした男が立っていた。
そしてつくしに笑顔を見せた。

車の中で待っていればと言ったことがあるが、それでも彼は外で傘をさし彼女を待つ。
それが彼の流儀ならそれでいいのだが、言われたことがあった。
黒い車に黒い服を着た男が乗っている車は怖いだろ?だから外に出て人待ち顔でいる方がいいんだと。

確かに彼は黒い服装が多かった。
だが彼の立場を考えれば外に出ていることは、安全上問題があるのではないかと思った。
それに彼のような男性が傘をさし立っていればひと目を引くはずだと思ったが、気にしなくていいと言われた。
それは、つくしには見えないが、どこかに警護の人間がいるという意味なのだろう。

そして最初に交わされる言葉は、

「よく降る雨だな」

「そうね」

そんな短い言葉を交わすことが二人の間の決まり事のようになったのは、いつの頃からだったのか。今では日曜に雨が降ることが当たり前のように感じられるようになっていた。

「今日は少し遠出をしようと思う。いいか?」

初めから決めていたかのように車が向かったのは北軽井沢。
行き先は道明寺家の別荘だと言われた。

東京を出た時は雨で暫く降り続いていたが、軽井沢の街を抜ける頃には止んだ。
そして国道146号線を北上するうちに太陽が顔を覗かせるようになった。
すると雨に洗われた木々の葉の一枚一枚が目に入るようになり、緑が迫るように感じられ、左手に見える茶色の浅間山とのコントラストが鮮やかに感じられた。やがて葉の間から漏れる光りが強くなり、道路にまだらな影を落とすようになった。
そして柔らかな風が吹けばプリズムのようにキラキラと反射する様子があった。


「もう少しで着く」

そう言われたが車は暫く走った。
別荘地として有名なこの場所は、道からは見えない場所に豪華な建物が立つ。
だが別荘地であるがゆえに、普段は住む人もおらず、人の気配もなく今は静な佇まいを見せている。何しろこの場所に人が戻るのは夏を迎えてからだ。

やがて幹線道路から脇道に入り、右手に高く長い塀が続く場所まで来ると、その先に見える大きな鋳鉄の門が自動で開くのが見えた。そして車は門を抜け、塀に囲まれた敷地内の道を進んで行くと、目の前には周囲に背の高いカラマツを配し、緑に囲まれるように二階建ての大きな洋館が立っていた。

カラマツは、秋になれば黄金色に紅葉してその葉を落し、一面が黄金を敷き詰めたようになり、楓とはまた別の紅葉する風景を楽しむことが出来るが、つくしはその風景を見たことがあるような気がした。

そしてカラマツの紅葉と言えば、北軽井沢だと誰かから訊いたことを思い出した。
だが北軽井沢に来た覚えはなく、それならテレビで黄金色に紅葉したカラマツを見たのだろうか。それとも雑誌か何かで目にしたのだろうか。秋の空を黄金色に染めるカラマツを。

やがて車は建物の正面で動きを止めた。そしてエンジンが切られると外へ出た。

「冬の間は誰もここに来ることはない。だからって管理が行き届いていないことはない」

それは管理人が定期的に窓を開け、風を通し手入れをしているという意味だと分かる。
そのとき、東京では訊く事のないピリリリッという鳥の鳴き声が聞えた。

「今のはエナガって鳥だ。14センチくらいの小さな鳥で綿を丸めたようなふわふわした毛で覆われてる。森の妖精って言われる鳥だ。北海道にいるヤツは真っ白で雪の妖精って言われてる。ここは野鳥が多いが窓辺にエサを置けば来ることもある。それにリスもいる」

そう言って建物の中に案内されたが、中は普段使われていないことを示すように、調度品には白い布が掛けられていたが、彼はひとつの部屋に入るとそれを一枚一枚剥がしていく。

「ここは俺が子供の頃、親父が建てたが本人は殆ど来たことはない。高校生の頃名義を俺に書き換えてからは俺が勝手に使っていたが静かでいい所だ。ひとりになりたい時はここによく来た。好きな女を連れて来たこともあったが彼女もここが気に入っていた。いつだったかエナガが可愛いって言うから、とっ捕まえて飼うかって言ったら野鳥を捕まえて飼うのは法律違反になるって怒られた。…あいつ堅苦しい女でそんなモンばれなきゃいいんだろって言ったがアンタが良くてもあたしは法律を破ってまで鳥を飼いたいと思わないからって怒ってたな」

問わずとも語られた過去の話し。
二人が付き合い始めてまだ間がないが、そういった話しが今までされたことは無かった。
好きな女を連れて来た。
彼女もここが気に入っていた。
その声が今まで訊いたことがないほど寂しそうで耳に残る。
そして何かひっかかる。

「けどあいつ、本当にその鳥のことが気に入ってた」

再び呟かれた声は懐かしそうだった。
つくしは、改めて思考の全てを整理することにした。
それは、以前から感じていたこの人を何年も前から知っていて、深く関わって来たという感覚。その感覚の正体は一体何なのか。

それは、部屋の入口に立つつくしに視線を向けることなく、呟かれるように言われた言葉。

『けどあいつ、本当にその鳥のことが気に入ってた』

そしてエナガという鳥の名前。
ピリリリッ。と鳴く鳥の声。
ねえ。バードウォッチングに行こうよと言った自分の声。
それに応えるように誰かの声が頭の中に響き渡った。

『そんなにバタバタ音立てると鳥は逃げちまうぞ?』



記憶を全て失った人の感覚というのは、どういったものなのだろう。
思い出すことの出来ない自分というのは辛いはずだ。
だが、閉ざされていた記憶の扉が音を立て開いたとき、人はどういった行動を取るのか。

突然甦ってきたあの日の光景。
この別荘に来たことがある。
あの時も彼はああやって掛けてあった白い布を剥がしていた。
それを一緒に手伝った。
そして二人で台所に立ち料理をした。
夜は二階の部屋の同じベッドに寝て、翌朝パンの欠片を窓辺に置き、窓を閉めエナガが来るのを二人で待った。
鳴き声が可愛らしくて、その姿を近くで見たいと思った。

二人?

誰と?

それは今目の前にいる男だ。




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2018
03.19

雨の約束 4

「大丈夫ですか?」

そう声を掛けられ、いったい自分がどういった状況に置かれているのか確かめずにはいられなかった。
確か三条桜子にお茶を飲むように勧められ、香りのよいアールグレイの茶葉を楽しんだ。
だが頭がすっきりとしない。
いつもなら紅茶を飲めば気持ちが落ち着くが、今日はそうはならなかった。
何故か急に心地良い眠気が訪れ意識は薄れていった。そしてソファに横になり全身に肌触りのよい毛布が掛けられていることを知った。

ゆっくりと半身を起し、足を床に着け身体に掛けられていた毛布を取り畳んだが、アームチェアに座る男の背後に見える窓の外の景色は、既に日が落ち、ライトアップされた庭が見えた。漆黒の闇の中に浮かぶのは桜の木。いったい自分はどれくらいこの場所で眠っていたのか。腕時計を見たが針は止まっていた。

「あの。すみません。今何時でしょうか?」

その時、風が吹き白い花がはらはらと舞う様子が見えた。
雪のように降る桜の花びらは、地面に落ちた途端、消えてなくなることはないが、その風景は積もれば雪のように見えるのではないかと感じた。

「今ですか?午後9時ですね。あなたが気持ちよさそうに眠っていたので起こすことは躊躇われました。ですから目覚めるまでそっとしておこうと思いましてね」

そう言われ戸惑った。
なぜならその言葉は、寝顔をずっと見つめられていたということを意味するからだ。
出会ったばかりの全く知らない人間に寝顔を見つめられるのは正直気味が悪い。
そして突然言われた言葉に返す言葉が見つからなかった。

「牧野さん。私と付き合ってくれませんか?」

その言葉は聞き間違いではないか。
冗談ではないか。そう思った。
何故なら道明寺司という人物が、大勢の女性が思いを寄せる名の知れた人物であることは知っている。
そんな人物が今日会ったばかりの女性に対しそんなことを言うことが信じられないからだ。
それに彼とつくしとでは立場が違い過ぎる。そして出会ったばかりの人間からの言葉にしては、いきなり過ぎる。
だが彼はそんなことなど全く気にしないように言葉を継いだ。

「あなたは先ほど三条の質問にこう答えた。付き合っている男性はいないと。それなら私とお付き合いして下さい。誰かと付き合おうという気にならなかったとおっしゃいましたが、今は違う。そうじゃないですか?私のことが気になるはずだ。だから私と付き合って下さい。ここでこうして会ったのが運命だとすれば、私はこの奇跡のようなこの出会いを逃したくはない」

つくしの戸惑いをよそに、男は真面目な顔で、その目は彼女をしっかりと捉えていた。
そしてその漆黒の瞳に囚われたと感じていた。

だが相手が真面目ならつくしも真顔で口を開いた。

「あの。私は誰かと付き合おうといった気になれなかったと言いましたが、今もそうなんです。誰かと付き合おうという気にはなれないんです」

同じ言葉の繰り返しになったが、そうとしか言えなかった。
たが返事は今すぐとは言わない。だから考えて欲しいと言われ、その日は三条桜子に見送られ男の車で自宅まで送られた。そして「おやすみなさい」と低い声で言われ、同じ言葉を返した自分がいた。


そして日曜日に会って以来度々会社に電話がかかってくるようになった。
だが何故か嫌な気はしなかった。電話を切ればあの日のことを思い出し、顔や声。静かに漂うオーラといったものが感じられ、まるで目の前に本人がいるように感じられた。
大した会話を交わしてもいない。ただ声だけでそんなことを思う。
それは何故ともなく気になるということであり、彼に惹かれている自分がいた。
だから携帯電話の番号を彼に教えた。

そんなある日、携帯電話に初めてかかってきた声の向うに微かな沈黙が感じられたとき、彼が聞いた。

『明日は何か予定はありますか?』

「明日ですか?」

『ええ。明日です。日曜日。牧野さんは何か予定がありますか?』

「いいえ。ありません」

つくしは即座に答えていた。








日曜日。午前11時。雨が降っていた。
迎えに来たのは、本人が運転する黒のメルセデス。
軽い挨拶のあと食事をしようと連れて行かれたのは、ホテルメープルのメインダイニングであるフレンチレストラン。休日の昼間ということもあり、8割がた埋まっていた。


「あなたのことを教えてくれないか?」

「…..私のことですか?」

「ああ。あなたのことを教えて欲しい。あなたのことを知りたい」

だが私のことを話して欲しいと言われても、何を話せばいいのか。
そして付き合って欲しいと言われたが、なぜ私のような人間と付き合いたいと思うのか。
なぜ道明寺司のような人物が自分に興味を抱くのか。
わからない。わからなかった。この人の真意が。
だがそんな私の思考を読んだのか。真摯な声で言った。

「ひと目ぼれだ。だから私の気持を素直に受け取って欲しい。それにあなたは気持ちがきれいで我慢強い人だ」

そう言われたつくしは、自分のことを話し始めた。
付き合うならどうしても知っておいて欲しいことがあると。
そのことを理解してくれるなら、という条件を付けた。

家族は両親と弟の4人家族だったこと。だったと過去形で語られたのは、両親は既に亡くなり今は弟と二人になっているからだ。だがその弟も2年前に結婚したこと。
平凡で特段変わったことのない人生を歩んできたこと。

だが27歳のとき交通事故に遭い生死の境を彷徨ったこと。
そしてその時の記憶が全く無く、なぜ交通事故に遭ったのか分からないこと。
無理矢理思い出そうとすると動悸が激しくなり全身が震え出すこと。頭の芯がズキズキと痛み、吐き気がすること。
だからその時のことは思い出さないようにしていること。
その事故に関係することは家族の誰も話さない、話さなかったこと。今ではあの日の出来事は封印され思い出すことはないこと。だが自分では完全に立ち直っていると思うが、それでも何故自分が瀕死の重傷を負うような事故に遭ったのか考えると哀しみが押し寄せ、息が止まりそうになることがあること。
そんなこともあり、あの日以来誰かと付き合おうといった気にはなれずにいた。 
彼はそんな話しをただ黙って訊いていた。





そしてあれから一ケ月。
緑が街を包み、新芽の匂いが感じられる頃二人は付き合い始めた。
それは毎週日曜日の午前11時に彼が迎えに来るといった約束から始まったが、この約束だけはどんなことをしても守るからと言われた。だから日曜日は予定を入れないで欲しいと言われた。

そして普段は忙しい彼に遠慮して電話をすることはなかった。だからメールを送り合うことで二人の気持を確かめることをした。
ひと目ぼれだと言われたが、いつの間にかつくしも好きになっていた。
どんどん気持ちが彼に惹かれていくのが分かった。
初めて会った時は感じられなかった相手に対する愛しさといったものが溢れてくるようになった。
しかし、すぐに平凡で単調な生活を送る女に退屈するだろうと思っていた。ある日、一方的な別れのメールといったものが送られてくるのではないかと思っていた。

そして会う約束の日曜の前日、不意に声が訊きたいと思い自分から初めて電話をした。しかし、何度呼び出し音を鳴らしても相手は出なかった。それを翌日会ったとき告げたが、すまない電話の傍にいなかったと言った。
そしてそれが特段不思議だとは思わなかった。
相手は忙しい人なのだから仕方がないと思った。

毎週日曜にデートをする。
過去の経験からそういったことは無かった。
そしてこんなに人を好きになるという気持は初めてだ。
つくしよりひとつ年上の男性は、都会的で洗練されているが、時に少年のような清々しい笑みを浮かべることがある。
そして知り合ってまだ間もないというのに、何年も前から彼を知っていて、深く関わってきた人のように感じる。その感覚がどこから来るものなのか分からなかったが、それを運命というならそうなのだろう。

そして、そんな彼に連れられ毎週のように色々な場所に連れて行かれた。
可愛らしい内装の喫茶店では、これ美味いからと言われパフェを食べた。
学生が多くたむろするゲームセンターでは、彼がパンチングマシーンを叩き壊した。
マルゲリータピザが絶品だというイタリアンレストランで熱いピザを頬張った。
まるで少年少女のように過ごすことが懐かしいと感じた。だが何故自分がそう感じるのか分からなかった。





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