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2018
02.14

恋におちる確率 69

ドン・ジョヴァンニのようなプレイボーイではなかったとしても、司の年の男ならそれなりの経験があって当然だ。
だがNYから東京へ戻ってからは誰とも関係を持たず、誰かとそういった関係になりたいと思ったこともなかった。

司にはこれまでの人生のなか、無意識に蓄えた経験といったものがある。
それが今夜見たオペラの主役が女を口説く姿と同じかと言われれば、それは根本的に違う。
あの男は見境なく女を誘惑する。だが司は女を誘惑する必要がない。どんな女も彼が望めば簡単に手に入る。
しかし、今までの人生で望んで手に入れた女はいない。それはマリアにしてもそうだが、女には女の打算が働き、司には男としての欲求を解消するといった人間の本能に準じた行動を取ったに過ぎず、それが合致した結果の付き合いだった。

そして司は、近づいてくる女を手あたり次第という男ではない。当然だが自らが口説いたこともなければ、ひとりの女と付き合っている時はその女だけだ。
少なくともその女に対しては誠実でいた。だから司は自分は硬派だと答えるはずだ。

牧野つくしは、この年で経験がないことが恥ずかしいと言ったが、司にとってそんなことは関係ない。あろうがなかろうがその人の何かが変わる訳ではないのだから。それに彼女は自分の信じる道を進む。人生を真っ直ぐ歩きたいという女だ。
だがかつて彼女が付き合った男は、いい加減で軟派な男だ。どう考えても真面目な牧野つくしが付き合うような男ではない。そしてその男と別れてからは誰とも付き合ったことがないという。
だが二人とも昔ばなしは終わった。
だから過去は必要ない。
そして彼女が司を欲しいと思うのと同じで、司も彼女が欲しいのだから。







「本当にいいんだな?お前はお前のペースで愛してくれればいいんだぞ?NYから東京へ戻ってから女とそういう関係にはなってねぇが別に飢えてるわけでもねぇ。….けどな。据え膳食わぬは男の恥じゃねぇが、好きな女から抱いてくれって言われたら嫌だとは言えねぇのが正直な気持ちだ。だからもう一度聞く。本当に今でいいんだな?ここで。この部屋で」

「…..うん」

顔を真っ赤にしたつくしが頷いた。

「そうか。なら_」

「ま、待って!」

司はつくしを抱上げようとしたが、彼女は彼の胸に両手を当て押しとどめた。

「シャワー…浴びて来ていい?あたし、シャワー浴びたいの。やっぱりほらベッドに寝るんだからシャワー浴びないと…..汗かいてるし…..汚いから」

真冬の寒さの中、大汗を掻いているわけでもなかろうが、それでも彼女は匂いを気にしていた。だが本当は匂いだけでそんな言葉を言ったのではない。初めての経験を前に緊張がそんな言葉を言わせた。

「そうか?俺は汗だろうが垢だろうが好きな女の身体に付いていたものを汚いとは思わねぇが、お前がしたいようにすればいい。シャワーは俺の部屋にもあるが、どうする?俺の部屋で浴びるか?それともお前の部屋で浴びてくるか?」

「うん…あたしの部屋にあるならそこで浴びて…..来るから。だから部屋で待ってて」

「ああ分かった。それならそうしよう。それはそうと夜は長い。シャワーはゆっくり浴びればいい。それからベッドだけが愛し合う場所とは限らねぇけどな。それにシャワーだがなんなら一緒に浴びるか?恋人同士なら互いの身体を洗ってやるってのも愛し合う行為のひとつだが?早速試してみるか?」

司が口にした言葉にギョッとした表情を浮かべたが、そういった知識もあるはずだ。顔を火照らせた女は無知でもなければ、耳に栓をして生きてきたのではないということだ。それにしても、そんな言葉にいちいち反応する女は今まで司の傍にはいなかった。
だが心の中をそのまま映し出したようにコロコロと変わる表情に愛しさが感じられた。

二十代の若者ではない男が、そんなことを思うとは考えてもみなかったが、そうした自分が新鮮で、こうしたやり取りが楽しいと感じていた。
何故そんなことを思うのか?それは、過去に関係した女の中にはバスローブも羽織らず裸のまま平気で歩く女もいたからだ。だがこの分ではバスルームで愛し合う行為は随分と先になりそうだ。

「冗談だ。初心者にベッド以外の場所で愛し合えって言っても無理だろ?その楽しみはもう少し先に取っておくことにするか。いいからもう行け。シャワーを浴びてこい。俺は自分の部屋で待ってる」

「うん」

つくしは小さく頷いた。
だが直ぐに自分の部屋に行こうとはせず、そのまま司を見上げ動かなかった。
しかし視線は首から肩にかけて向けられており、司の顔を見ているのではない。
それはまるで背が高く逞しい男の身体の大きさを測っているようだ。そしてもしかするとやっぱり無理だ。とでも考えているのか。何しろ二人の体格の差はかなりある。

司はそんな女の為に流れを用意した。
恋人に抱かれたいと言ったとしても、気が変わることもある。それに司は初めての女を相手にしたことがないから分からないが、勇気が要るのではないかと感じていた。本来女は弱く、どんなに抗っても男の力には敵わない。そして男は一度始めれば抑えることも、止めることも出来ないからだ。だが今ならまだ止めることが出来る。
初めての経験を後悔で終えて欲しくない。その為に彼女の意思をもう一度確認した。

「やっぱり今日は止めるって言うならそのまま自分の部屋で寝ろ。無理することはない。お前はオペラで気分が高揚している。だからあんなことを言った。そう思ってやるから気にするな。何も今日じゃなくても愛し合える日はある」

司はそう言って自分のベッドルームの扉を開いた。

だがつくしはバスルームから出ると、素肌に白いバスローブを羽織り、司のベッドルームの扉をノックした。

そして自分の気持を伝えた。

迷いはないと。






司はすでにベッドの中で待っていた。
「子供のような身体でごめん」と小ぶりな胸に女は言ったが、司は彼女を隣へ引き寄せ髪を撫で、そしてささやくような優しいキスをした。

「こうしたかった。けど、お前本当にいいんだな?言っとくが、始めたら途中で止めることも出来ねぇし、中途半端なこともしない。俺は全身全霊でお前を愛するつもりだ。けどお前は初めてだ。だから嫌なら嫌だって言えよ?」

「だからって怖いことをする訳じゃないでしょ?」

そう言って柔らかく微笑みを浮かべた女。
だがそうはいっても、微かに震える細い身体は、これから経験することが怖くないはずがない。
だから司は「怖いことか」と笑った。

「怖いことなら世の中いくらでもある。けど俺たちがこれからすることは、怖いことなんかじゃない。怖い経験なら俺はお前が川に落とされたときした。あの経験で確実に寿命が10年は縮んだはずだ」

「それだけ?他にはない?」
「なんだよ。それだけって?」
「西田室長の件で嘘ついたでしょ?あのことがバレて寿命が縮まらなかった?」

西田の母親の体調が思わしくない。そんな嘘をつき彼女を騙した。

「ああ。あれか。あんなことがバレたくらいで寿命が縮まるか。もう済んだことだ。いつまでも蒸し返すな」
「ひどっ_」


司はつくしを引き寄せ、唇を塞いだ。
それはこれからの時間に言葉は必要ないと伝えるため。
呼吸と鼓動さえあれば、何もいらないと。
だが息苦しくなってもがく女を離すと耳元で囁いた。

「つくし。今夜はその口から訊きたい言葉は、司好き。司愛してるだけだ」

そして再び重ねた唇は今までとは違い優しさはなかった。
それは貪り奪うようなキス。
つくしも腕を司の背中に回し引き寄せ、唇を合わせ言葉を封印した。

それから流れた時間はいったいどれくらいなのか。
何度も唇を重ね、互いの口から漏れるのは、喘ぎ声と名前を呼ぶ声。
たとえ初めての行為でも、太古から受け継がれた愛のリズムは身体の奥深くで眠っている。経験がなくても本能が覚えている。そして自我を捨て勝手に動き出す。


「俺の名前を呼んでくれ…」

両脚の間に頭を入れた男は、己の頭を掴んだ女に言った。

「…..つかさっ!」

両手でしっかりと腰を掴み、舌の先を深く突っ込んだのは、これから行われる行為のため。

「痛くねぇようにしてやるから」

それは動物が傷を負った仲間を癒すように丁寧に優しく行われる行為。
ぴちゃぴちゃと止まない水音は、一瞬の痛みだとしても、火傷のような痛みを伴う行為から少しでも女の身体を守るためのもの。
だが考えもしなかった刺激だったのか。舌を動かし出し入れするたびに腰が上がる。

つくしがその行為の意味が分かったのは、膝に脚を割られ、きれいだ。しっかり捕まっていろと言われた瞬間だった。
司はこれから彼女の身に起こることを共に分かち合いたいと思った。
いずれは、愛し合う行為にも馴れ、赤面することが無くなり、ぎこちなさが無くなったとしても、この日が永遠に二人の記念日であって欲しいと思う。

「つくしっ….お前を愛するあいだ、俺を見ていてくれ。ずっと俺を見てろ。お前は俺が唯一愛した女だ」

その瞬間。中に入ることを許された男が侵入した。
そこは、閉ざされていた門の内側。今まで誰も入ったことのない場所。
胸も腹部も脚も全てを触れ合わせ、互いの身体の熱を分け合いながらも奪うという行為に、まだ誰のものでもなかった身体は痛みに両目から涙を零したが、司はその涙をキスをするように唇で吸い取った。そのとき、涙が海水のようにしょっぱいものだと初めて知った。そして細い声が彼の名前を呼んだ。

「司….すき。愛してる…」と。

そして彫りの深い端正な顔は、彼女の顔を見下ろし同じ言葉を返した。

「俺もだ」と。

ゆっくりと優しく動く身体は、組み敷いた細い身体になるべくその重みを感じさせまい、負担をかけまいとしたが、男の本能がそうはさせなかった。
やがて暗闇に隠れていた獣が、隠れていた獲物を見つけたように激しい動きに変わった。
それは、抜き差しの角度を変え、とどめを刺すような動き。
だが獣は獲物を捕らえ殺すのではない。荒々しさがあるが感じられるのは、捕まえたら二度と離さないという思い。

「つくし…愛してる。お前は…俺の女だ」

今まで人に対し執着などしたことがない男が、はじめて本気で好きになった女に向けられた独占的な思い。そしてこの女を守りたい。この女と全てを分かち合いたい。
そう思える感情が男の中にあった。

やがて荒い息遣いを繰り返し、ぐったりとした身体を抱えた男は、痛みと入れ替わるように特別な感覚を受け入れた女を優しく抱きしめた。
そして、受け入れてくれた痛み以上に愛を与えられたと信じながらそっとキスをした。

「大丈夫か?」

司が覗き込んだ瞳は、焦点が合わないのか、ぼんやりとしていたが、微かに笑みを浮かべた。
吐き出される息はまだ荒く、頬はピンクに色付いていたが、唇が大丈夫と言い、彼の左胸に手を触れた。
女の初めては、司にとっても初めての経験だった。
激しい行為の中にも、今まで感じたことのない優しさと穏やかさが感じられた。
それは、本当に好きな人と愛し合うことで与えられると知った。
誰もが本当の愛を探す旅に出ようとするのは、こういった経験をしたいからだ。
そして身体だけが満足しても、心が満たされない日々とはなんと虚しいのかと知った。

司は唇にキスをして細い身体を抱き込んだ。そしてくるりと身体を回転させ、仰向けになり自分に覆いかぶさるように身体を引っ張り、胸の上に頭をのせさせた。
その時、司の脳裏に浮かんだのは、ぎこちない歩き方をする女の姿。
それは今夜の行為が初めての身体に残した愛の痕跡。
他にも身体中に行為が残した痕があるが、明日の朝、それを見た女はなんと言うだろう。それを思えば自然と笑みが浮かんだ。
そしてしっかりと抱き寄せ「ゆっくり休め」と言って瞳を閉じた。




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2018
02.13

恋におちる確率 68

「楽しめたか?オペラは単純だ。言葉が分からなくても内容は理解出来るはずだがどうだ?」

「うん。楽しめた。連れて来てくれてありがとう」

つくしには素直の心からそう思える感動があった。
初めて見たオペラは『ドン・ジョヴァンニ』。
オーケストラの演奏と俳優たちの声によって進められていく舞台がここまで感動を味合わせてくれるとは思わなかった。

主人公のプレイボーイ、ドン・ジョヴァンニの声はバスとテノールの間のバリトンで、悪い男の魅力を伝えるには十分な魅惑的な声。
ボックス席でつくしの隣に座っていた男の声もやはりバリトン。
そしていい男の声というのは、得てして低い声と決まっているのだろうか。
魅惑のバリトンボイスは女に有無を言わせぬ何かがある。だから大勢の女たちはドン・ジョヴァンニの手の中に落ちた。そう考えてもおかしくないはずだ。

それにしても、突然の思いつきでいい席が取れたことを不思議に思うのが普通の人間だが、道明寺司ともなれば、どうにでもなるということだろう。
世界最高峰の歌劇場は、白の大理石を基調に金の装飾が施された内装で、気後れしそうなほど豪華だが、そこで世界最高の男と呼ばれてもおかしくない男とオペラを見る。
とにかくつくしにとって人生で初めてのオペラ鑑賞は感動的だった。
幕間に飲んだシャンパンもそうだったが、オペラに酔ってシャンパンにも酔う。
そんな言葉が似合う夜だと感じていた。

劇場を出て車に乗り、何か食べるかと言われたが断った。
昼食が遅かったこともだが、夜が遅くなることも初めから分かっていた。だから出掛ける前に少しお腹に入れておいたこと、シャンパンとカナッペを食べたこと。そして舞台を見た感動といったもので胸が一杯で食べ物は欲しくなかった。
だが今のつくしは食べ物ではない別のものが欲しいと感じていた。








司はホテルに着くと時計をちらりと見た。
針は11時を指していた。

「お前の部屋は向うだ。荷物は運ばせている。風呂に入ってゆっくり休め。明日は市内観光に出かけるぞ」

二人が宿泊するのは、ウィーンで一番と言われるホテルのスイートルーム。
上品で豪華だが、ドイツで宿泊したホテルとは違いコネクティングルームはない。それでも同じ客室の中には他にベッドルームがあり、その中のひとつに彼女の荷物を運ばせていた。

男と女の間に横たわる沈黙は時に様々な色を見せてくれる。
それは、ドス黒い憎しみの色だったり、拒絶の色だったりすることがあるが、今二人の間にある沈黙は戸惑い色。それは恋人同士なら同じ部屋に泊まり、同じベッドで休まなければと思う女から流れてきた淡い色。
だがその淡い色が何色かと問われれば司には分からなかった。

同じ部屋を使うかどうかは司が決めることではない。
決めるのは彼女でいい。そう思えるのは他人を大切に思う心を初めて知ったから。

今までの司は、他人を大切に思うといった感情がなかった。
それは彼女にも話したが、若い頃から周りが余りにも自分の外見に興味を抱くことにうんざりしたからだ。だから自分を大切に思うことはなく自分に関心がない人間だった。
そんな人間が他人を大切にしようといった気持ちがあるはずもなく、かつて付き合った女に対しても相手の気持などどうでもよかった。
だが今は違う。自分のことを後回しにして恋人を想うということが当たり前だと思える。
だから男としての情熱に駆られたとしても、無理に抱くことはしたくない。
だが同じ部屋に、同じベッドに寝ればどうしても抱きたくなる。だからベッドルームは別にしたが、それを戸惑っている女は果たして自分欲しいと言っているのか。

そんな思いから司は口を開いた。

「牧野_」

「つ、司。自分のこと司って呼べっていうなら、あたしのことも名前で呼んで欲しいの。だって牧野なんてそれこそ仕事の延長じゃない?」

「は?」

「だ、だから。えっと…。だから_あたしのこともプライベートでは名前で呼んで欲しいの。そうじゃなきゃおかしいでしょ?それに恋人になったんだから同じ部屋で寝るのが当たり前でしょ?そ、そうじゃなきゃ恋人になったと言えないじゃない」

そうすることが当たり前だと言ったが、そうとも限らない。
久美子は男と同じベッドで寝るのは勘弁してほしい時もあったと言った。
仕事で疲れている時、男のいびきがうるさいといったことがそれに該当するらしいが、つくしは男と同じベッドで寝るどころか、同じ部屋でさえ寝たことがないのだから久美子の言葉を信じる訳にはいかない。それに、なんとなくだが、道明寺司はいびきをかかない気がする。けれど、仕事で疲れていたとすれば、別の部屋を用意されても仕方がないのかもしれない。

「お前…じゃねぇな。つくし。お前勘違いしてるだろ?男と女が付き合い始めたからって何も同じベッドで寝る必要はねぇんだぞ?お前も分ってると思うが男はそういった状況になれば止めることは出来ねぇ生き物だ。それにまだあの事件から時間も経ってねぇし、身体はいいのか?」

司はつくしが後ろ手に縛られていた姿を思い出し胸が痛んだ。
マリアに突き飛ばされ氷が張った冷たい川に落ちた瞬間、自分の心臓も止まりそうになり、彼女が死ぬかと思った。
それにしてもいきなり何を言い出すのかと司は眉根を寄せた。

「いいの。大丈夫だから」
つくしは正直に答えた。
「だってただ川に落ちただけだし、別にどこか怪我をした訳じゃないし、問題ないから」

「嘘つけ。マリアに手首を紐で縛られた痕が残ってるだろ」

「司。ここがいいの。ここが……」

と、つくしは唐突に言った。
だが聞こえなかったのだろう。ただつくしの顔をじっと見つめる瞳は静かだった。
二人の間の距離はつくしが部屋の入口。そして司がリビングルームの中央。
その短い距離をつくしは走った。走ったというより体当たりした。司はつくしに抱きつかれ思わず後ろへ下がり、彼女を抱きとめた。

「ここがいい。ウィーンが…..。でもね、話さなきゃいけないことがあるの。経験がないの….。だから司を満足させられるかどうか自信がないの。でもそれで良ければなんだけど_」

司はつくしを抱きながら彼女の言葉を頭の中で咀嚼した。
『経験がない』
その言葉の意味を文字通り理解すればそれは未経験。
だが何の経験がない?

「だからね?経験がないけど、ここが_ここがいいの。ウィーンが。この街が」

と言って何も言わない司の顔を仰いだ。
たが見上げている顔は、真剣な面持ちで彼女を見つめ、そして何かを考える顔になった。

「お前経験がって…おまえ、いやつくし、お前はいい恋愛をしてこなかったとは聞いたが、男と寝たことがなかったのか?お前処女か?」

司は抱きとめていた身体を離した。
そして目の前で自分を見つめる赤い顔をじっと見つめた。

「う、うん…ごめん..もし期待してたなら….ほらこの年だしそれなりに愛し方も知ってると思うなら期待外れになるかもしれないけど….。なんて言うの?今までそういった気にならなかったっていうのか…チャンスがなかったって言うのか...」

つくしはそこまで言って言葉に詰まった。
言葉を選ぼうにもどう選べばいいのか分からなかった。

「何だ?話したいことがあるなら話してくれ。お前いい恋愛をしてこなかったってことは何か嫌なことがあったってことか?だから付き合った男と寝なかったってことか?」

司は彼女が自分のことを知りたがったと同じように、彼もつくしの言いかけた言葉から彼女のことを知りたいと思った。だが過去は変えられないことは勿論分っている。過去に嫉妬したところでどうにもならないことも。

「うん…嫌なことっていうか、気持ちの問題だから....」

男はセックスのためのセックスが出来る。
相手のことが嫌いでも、興味がなくても、感情抜きの身体だけの関係を結ぶことが出来る。
だが女はそうはいかない。
女の身体はそういった考えが出来ない。身体が結ばれればいつか心も結ばれると考える女が殆どだ。だから言葉の続きが気になった。

「それで?気持ちの問題ってのは何だったんだ?」

つくしも話はじめた以上最後まで話さなければ相手が納得しないと分かっている。秘書として働き始めれば、道明寺司は物事を白黒はっきりとさせる性分だと分かったからだ。

「付き合い始めたばかりの頃、いきなりホテルへ連れて行かれそうになったの。でも断ったの。まだそういった関係になるには早すぎたって言うのか、相手のことがそこまで好きじゃなかったって言うのか…。その人と付き合い始めたのは、相手が気に入ってくれたのと、周りがその人を勧めたからで、今思えばなんとなくとなく付き合い始めた人だった…。でも付き合えば好きになることもあるって言うし、初めはこんなものかと思って付き合ったんだけど嫌だって言ったら_」

司はそこまで聞けばその先が分かった。
男の中には女に拒否され、カッとなって暴力をふるう、無理矢理自分のものにしようとする男がいることも知っている。
そしてそのことを想えば己の若い頃が思い出された。女には手を上げたことは無かったが、それでも男に対しては容赦なく暴力を振るったことを。そしてその時のことが頭を過れば、口の中に苦いものが広がった。そしてもし牧野つくしがそんな目に遭ったとすれば、今からでも遅くない、その男を探し出しそれ相応の償いをさせてやると決めた。

「お前、その男に暴力を振るわれたのか?」

「うんうん!違うの。それは違うから!」

司の顔に浮かんだ表情につくしは慌てて否定した。
それは一瞬垣間見えた凄みのある瞳と獣のような気配が身体全体を包んだからだ。
それが少年の頃の男の姿を現していると今では分かる。だが時に素直な少年のような笑みを浮かべることもある。だが内なる凶暴性は大人になり抑えられているだけで、この人が本気で怒れば怖いと知っている。だがそれが自分に向けられることはないことも知った。

「あのね。その時言われたの。ノリが悪い女だなって。あたしね、男と女が愛し合うことをノリで片づけるような人とは出来ないと思った。でもその人もノリが悪い女とは付き合えないから別れてくれって言ったの。だから経験がないの。それにその人と別れてから縁がなかったっていうのか…だから女として司に相応しいかどうか分からないけど、それでも好きだから…..」

恋愛についての話や、こういう状況の自分には、不慣れで自信がない。
それに相手ががっかりする顔は見たくない。
けれど、好きになった人には知っておいてもらいたい。自分がこういった考えの持ち主で、古臭いと言われるかもしれないが、人生を真っ直ぐ歩きたいと、自分に嘘はつきたくないと歩く人間であることを。







「いいんじゃねぇの?」

「え?」

「その男のことは何とも思ってなかったから出来なかったってことだろ?」

言われる通り自分から好きになった人ではない。相手から付き合おうと言われ、周りから勧められて付き合い始めた人だ。自分からは積極的になれない相手だった。

「人を愛するタイミングがあれば、受け入れるタイミングもある。経験がないことを恥ずかしいと思う必要がどこにある?経験があろうがなかろうがそんなことは本人の勝手だ。お前はお前の時間を大切にした。だからその男と付き合った時間はお前が人を愛するタイミングじゃなかった。男を受け入れるタイミングでもなかっただけの話だ。けど俺とのことは今がそのタイミングなら….いいんだな?」




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2018
02.12

恋におちる確率 67

急速に深まった二人の関係。
つくしは司が自分の過去を打ち明けてくれたのは、嬉しかった。
しかし今度は逆につくしが自分の過去を話さなければならない日が来る。
だがそれを話すべきなのか。それとも話す必要はないのか。
それは、この年になっても男性経験がないことだ。

まさか嘘だろ?どうして?と驚かれることは目に見えている。
それに初めての女が彼のような男を満足させられる自信はない。
だがいつか話さなければと思う。

それにしても、
『お前も分るだろ?男ってのはやっかいなもので女が欲しくなる時がある』
といった言葉がなんの躊躇いも無く出るということは、つくしに経験がないとは考えてもいないはずだ。
だが全く知識が無い訳ではない。男の生理といったものも理解しているつもりだ。だがその知識も久美子から聞く話に限られている。
だがこれから二人は普通の恋人同士で、手順を踏んだ時間の過ごし方をすればどうにかなるはずだ。







ウィーンは東京と同じ23区から成り立っている街。
ヨーロッパ有数の世界都市だが東京とこの街では当然だが時間の流れが違う。空気が違う。
東京の街しか知らない人間なら、この街はクラッシックで保守的だと感じるかもしれない。
そしてこの街は政略結婚により広大な領地を獲得し、ヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家の栄華が色濃く残る街。日本にある侘びとは正反対の華やかな宮殿がある街。
ところどころに公園があり音楽の都の名のとおり有名作曲家の彫像が数多く立つ街。
その街にちょっと寄ってこうと言った恋人。
だが何故この街に?



「でもどうしてウィーンに?」

そう訊いたつくしに、

「オペラを見るためだ。お前はオペラを見たことがあるか?」

「…『オペラ座の怪人』なら見たことがあるけど、オペラは見た事ないわ」

つくしがオペラとつくもので見たことがあるのは、『オペラ座の怪人』と言うミュージカルでオペラではない。それに、オペラと言えばクラッシックと同じ高尚なイメージがあり、イタリア語で上演されるものが多く理解出来ないといったことがあり足を運んだことがない。

「そうか。オペラはいいぞ。言葉が分からなくても演劇とオーケストラの演奏で構成される舞台芸術は初めて見た人間でも感動するらしい。だからお前もきっと感動するはずだ」

つくしは、道明寺司クラスの人間になれば、オペラくらい行ったことがあるのは当然だと納得できるが、それでも音楽に興味があるということが意外だった。
だが聞けば幼いころから英才教育を受けており、その中のカリキュラムとしてピアノがあったと言う。そして音楽といえば、クラッシックが好きだというのだからそれも意外だったが、育ちの良さと品というものは、どんなに荒れた少年時代だったとしても失われることはなかったということだ。

「ねえ。今でもピアノは弾けるの?」

そう訊いたのは、この人がピアノを弾く姿は美しく絵になるだろうと思ったからだ。

「ピアノか….。大昔の話だが練習すればなんとかなるかもな?」

と言ってゆっくりと笑顔を作った司はつくしの掌を掴むと、膝の上で握りしめた。

それは秘書としてではなく、恋人としてのつくしの手を掴んだ大きな手。
男らしく逞しく、指は長く爪の形まで美しかった。
もしピアニストになっていたら、この手はどんなメロディを奏でたのか。
その姿を想像するのは簡単で、ダイナミックなベートーヴェンから繊細なショパンの調べまで、曲のイメージそのままに完璧に弾きこなすことが出来るはずだ。

それにしても、この手はどんな風に女性を愛するのだろうか。
ふと、そんなことが頭に浮かび、つくしは顔が赤らむのが感じられ、取られている自分の掌を引き抜こうとしたが離してもらえず、男の顔を見れば甘い顔で見つめられていた。

「どうした?」

「あ、あのね。手….」

「手がどうした?」

「だから手を握らなくてもに、逃げないから!」

「当たり前だ。なんで逃げる必要がある。それにキスはいいが手を握るのは駄目か?」

「いや、そうじゃなくて…」

機内で自分からキスしたのは、下着の話をされたから。今までも何度も口にされた下着についての会話。スカートのファスナーが開いている。胸もとのボタンが外れている。そしてどちらの時も色はベージュ。あの事は忘れたと思っていたのに、何故それを口にするのか。もう言わないでといった思いから口を塞いでいた。
だがキスしたかったからキスをしたのは正直な気持ちだ。そしてそれから重ねられた唇は優しかった。

「それなら握らせてくれ。こうやって手を握ると温かい気持ちになれる。それはこの手がお前の手だからだと思うがな」

そんな風に言われれば、嫌とは言えずそのままずっと握られていた。

そして堅苦しい呼び方は止めろと言われ、二人の会話がごく普通の言葉使いになったのは、ジェットを降り車に乗ってから。

「プライベートで副社長と呼ぶのはやめてほしい」
「じゃあなんて…..」
「名前でいい」
「名前?」
「ああ。司だ。司と呼んでくれ」

だがまだどうしても司と呼び捨てにすることは出来ずにいた。





ウィーンに着いたのは昼過ぎで、それからオペラを見に行くためのドレスを買うと言われ、世界的に名の知れた高級店が軒を連ねる通りのブティックに連れて行かれ、つくしの背の高さでは合うサイズがないと思っていたが、用意されていたのは、彼女の背丈に見合うものばかりだった。それを何故?と疑問に思うことは愚問であり、資本主義の国で金を使うことは経済を活性化させることになるから気にするなと言われれば、それはそれで納得していた。

当然だがドレスは有名デザイナーのもので、値段を訊いたとしても払えるはずがないのだが一応訊いてみた。

「ねえ、このドレス高いでしょ?あたし、いいから。そんなドレスばかりいいから。日本から持ってきたのがあるし、ほら。晩餐会で着たドレスがあるから買わなくていいから」
と言えば、
「あれはあれ。これはこれだ。それに好きな女に服を買ってやるのが悪いことか?いいからつべこべ言わず受け取れ」
と言われた。

そしてオペラと言えば、ミラノのスカラ座やパリのオペラ座が有名だが、今夜ウィーンの国立オペラ座で演じられる『ドン・ジョヴァンニ』はこの国が生んだモーツアルトの作品だ。
司はドイツ語で演じられるそのオペラを見るためつくしをウィーンに連れて来た。

物語は、女たらしのスペイン貴族ドン・ジョヴァンニが主人公。
ドン・ジョヴァンニとはイタリア語の呼び名で、スペイン語ではドン・ファンと言い、今ではプレイボーイの代名詞として使われている。


物語の主人公であるドン・ジョヴァンニは悪い男で、老若、身分、容姿を問わず次々と女を誘惑する中で、ひとりの貴族の娘に夜這いをかけモノにしようとするが、抵抗し助けを求めた娘の父親に見つかり、殺されそうになり逆に彼を殺してしまう。だがその後も女を誘惑する行為は続き、人を殺した後悔はない。
そして墓場で、自分が殺した父親の石像の側を通りかかったとき、その石像を戯れに宴会へ招待したが、本当にその石像が亡霊として現れ、ドン・ジョヴァンニに悪行を悔い改めろと迫るが、拒否した男は石像によって地獄に引きずり込まれ死を迎えるという内容。
つまり悪いことをすれば、地獄に堕ちるといった話。

だが何故司はそのオペラをつくしに見せたかったのか。
別に大した意味はない。演目は何であろうと構わなかった。
ただ、一緒の時間が過ごしたかったから。
彼女と一緒に楽しい夜が過ごせることを望んだから。

そして司の親友にまさにドン・ファンと呼ばれる男がいる。
その男は大勢の女と付き合うが本気の恋はしない。だが、憎めない男で手を出す相手は見極めている。そして全ての女を平等に愛している。そんな男の話を笑い話としておかしく話してやるつもりだ。

それにドイツ出張で散々な目に遭わせたのだから、東京へ戻る前に二人でゆっくり過ごしたい気持ちがある。
だがどこか緊張している姿に恋に不慣れな女だと分かった。
だから急ぐつもりはない。
今夜は二人でゆっくり過ごせればそれでいい。

だがキスより先に進めていいならそうするつもりだ。




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2018
02.11

恋におちる確率 66

ドイツ出張はつくしにとって思いもよらない経験が伴った。
それはマリアという女性に出会い、誘拐され、監禁され、川に突き落とされたこと。
多分、いや恐らくもう二度と経験しないことだと分かっているが、そんな経験をした当事者は、直ぐにでも退院したい。秘書としての仕事をしなければとベッドの上で考えていた。だがそれを許さなかったのが恋人となった男性と東京から飛んで来た秘書室長の西田だ。

見舞いに訪れた西田はつくしの頬に腫れと少しの傷を認めると、顔をしかめドイツでの仕事は心配しなくてもいいと言った。
そして、ドイツを立つという最終日前日に退院すると、扉を挟んだ部屋にいる男性のことを考えていた。


この部屋に泊まることを告げられたとき、二人の部屋の間の扉は、お前が開かない限り俺から開くことはないと言われた。
だが二人は付き合うことに決めたのだから、そんなことはもう関係ないと思う。
だから今夜一緒にいて欲しい、と喉元まで出かかったが恋人が先に口を開いた。

「おやすみ。ゆっくり休め」

そして頬に残った小さな傷に手を触れ言葉を継いだ。

「無理するな」と。

だがあの経験が生存本能を発動させたのか。
病院のベッドの上で濡れたスーツ姿で抱きしめられたとき、離れたくないと思った。あのままずっと抱いていて欲しいと思った。濡れたスーツを脱いで一緒にベッドに入って欲しいと思った。それに今は自分を守りたいといった考えはなかった。35歳のバージンなんて自慢にも何もならないのだが、別に意図して守っていた訳ではない。なんとなくそうなっただけだ。

かつて付き合いを始めたばかりの男性に、いきなりホテルに連れて行かれそうになり断るとノリが悪いと言われ、別れようと言われた。
あの当時、まだ若く漠然とだが初めて結ばれる人は結婚相手だと考えていた。女性なら誰もがそう思うはずだ。それがおかしいとは思わないはずだ。だがノリといった言葉を使った男性は、そういったことを真剣に考えてくれる人ではなかったということだ。

それにつくしもその人との行為にそれ相応の覚悟といったものは無かった。いや好きな人に抱かれるならそんな覚悟は必要ないはずだ。純粋にその人が欲しい。傍にいて欲しいと思うから抱かれたいと思うはずだ。だがあの時、そんな気にはなれなかった。

だが今のつくしは、自分の方が恋人となった男性と一緒にいたいといった思いがあった。
だが抱かれたからといって責任をとって結婚しろとは言わない。さすがにそこまで図々しいことは言えない。ただそれでも付き合ったその先に未来があればいいと思う。
それなら扉を開け恋人の元へ行けばいい。勇気を出して恋人になった男性の元へ行くのよ!扉は簡単に開くのだから!と心は叫んでいた。だがそれが出来ない女なのだからどうしようもない。

「ハァ….機を逸しちゃったのよね….何やってんだろあたし」

そんな自分に情けなさを感じたが、最後に言われた無理するな、の言葉はそういった意味を含んでいるはずだ。
それにこういったことは、出来れば男性の方からアプローチして欲しいと思う。
だいたい何も経験のない女が、世界中の女にモテる男を相手にどうすればいいのか分かるはずがないのだから。






***







「え?ウィーンですか?」
「ああ」
「日本へ、東京へ帰るんじゃないんですか?」

東京へ向かうはずのジェットは、デュセルドルフを飛び立つとウィーンへ向かっていた。
だがつくしには知らされておらず、突然の変更に何があるのかといった思いがある。
何しろウィーンといえばマリアの母国であるオーストリアの首都。
マリア出身地はウィーンではないが何か関係があるのかと考えてしまう。だが向かい合わせに座る男から聞かされたのは思いもよらぬ言葉だった。

「俺とお前は付き合うことになったが、マリアのせいでとんでもない目に合わせちまったな。悪かったと思ってる。その罪滅ぼしじゃねぇがせっかくドイツまで来たんだ。ウィーンで過ごすのも悪くないと思ってな。お前はウィーンに行ったことがあるか?」

「いいえ、行ったことはありませんが、でも一度行ってみたいと思っていたんです」

と、つくしは正直に答えた。
音楽の都、ウィーン。
クラッシック音楽が盛んな街といったイメージのウィーンは世界的に美しい街だとは聞いている。だから興味はあった。

「そうか。それなら丁度いい。ちょっと寄ってこう。寒いが観光だ」

と言うが、まるで近所の居酒屋で一杯やって行こうといった物言い。
だが考えてれみれば、道明寺司が居酒屋を訪れることはないはずだ。
だからその言い方がおかしかったのだが、秘書としては、忙しいスケジュールをそんなに簡単に変えていいのかといった疑問が生じる。それに西田室長はこのことを了承しているのか。そんな思いからつくしは訊いた。

「でも、仕事は大丈夫ですか?今後のスケジュールに影響が出ませんか?」

「構わねぇよ。ドイツでのビジネスは全て上手くいった。西田にもスケジュールを空けさせた。お前が気にすることはない」

司は怪訝な顔をした女にそこまで言うと笑みを浮かべたが、少しすると不満げな顔になった。

「なあ、牧野つくし」

「は、はい」

「その敬語は止めろ。俺とお前は恋人どうしだろ?その言葉使いは止めろ。恋人ならもっと恋人らしく話せ」

「あの…でもまだ仕事中ですから…」

つくしの視線は、客室の前方に座る警護の人間に向けられた。
いくら付き合うことを決めたとは言え、公私混同をすることは性格上できなかったからだ。
実際副社長の恋人役として振る舞うのと、本当の恋人となれば勝手が違う。
だが司にしてみれば、公私混同もなにも、初めからそのつもりだったのだから人目など気にもかけてない。

「牧野。ジェットの中に他に誰がいる?ああ、警護の連中なら気にするな。連中を気にしてたら何も出来ねぇだろ?」

司はそこで一旦言葉を切った。
それは、牧野つくしが恥ずかしそうな顔をしたからだ。
そして再び口を開いたとき、まだ訊けてなかったことを訊いた。
それは、どうしてマリアと一緒にいたかということだ。

「牧野、それにしてもお前どうしてマリアにのこのこ付いて行った?あの女はお前の手に負えるような女じゃないことくらい分っていたはずだ」

楓からマリアと牧野つくしが一緒の写真を見せられたとき、あの女から接触があったとしても無視しろと言うべきだったと悔やんだ。

「それはマリアさんに言われたからです。昔の道明寺司がどんな人間か興味があるでしょって。それに私は副社長の盾になるって言いましたから、その為にもマリアさんを知る必要があったからです」

「そうか….。昔の俺か。そんなに知りたかったのか?」

「はい。興味がありました。…好きな人のことなら興味を持たない女はいないと思います。でも私は過去に拘る人間ではありません。自分ではそのつもりでいます。前を向いて生きることが私の人生のポリシーですから。でもおかしいですよね?矛盾してますよね?過去に拘らないと言っても好きな人のことは....気になるんですから」

つくしは正直に答えたが、司はしばし考える表情になった。
だが牧野つくしの思いが嬉しかった。好きな人のことは気になると言った言葉が。

「そうか。それなら話しておくか。ちょっと長くなるがいいか?」

一体何を話すのか?
つくしが頷くと司は息を吐き、少し沈黙したあと口を開いたが、それは考えた末といった感じだ。もしくは秘密の告白とでもいった雰囲気だ。
それも長い脚を組み、肘掛に腕を乗せた姿は、ノーの言葉を受け付けない空気がある。
それは簡単に他人を寄せ付けない雰囲気と、天性の色香といったものを合わせもつ男独特のオーラだ。

「俺は今でこそ副社長として、大人としてビジネスに打ち込んでる。会社の発展のため働いている。だがガギの頃は相当悪かった。悪いってモンじゃねぇな。外道って言われたとしてもおかしくなかったな。意味もなく人を殴り、物を壊すようなガキだ。生まれた時から何でも周りにある子供で望まなくても手にいれることが出来る子供だ。つまり生意気なガキ。それが俺だ。それは金があることがそうさせたんだが、外見も同じだ。自分が望んでこの顔に生まれた訳じゃない。金も自分の力で手に入れたものじゃない。けどこの見た目で女が声をかけ来る。キスしてくれと唇を寄せてくる。たまたま金持ちの家に生まれ、綺麗な顔に生まれただけの男にな」

傍若無人な少年。
だが周囲の大人たちはそんな少年を叱ることはない。
人と馴れ合うこともなく好戦的。それが10代の司だ。

「それに自分に関心がなかった俺は、周りが俺の外見に興味を抱くことにうんざりした。親は海外生活が殆どで不在。だが家の跡継ぎとして当たり前のように政略結婚の話も来た。それも高校生の頃からだ。俺に求められたのは見てくれと金と血筋だけ。そうなると人間扱いされてないって感じだ。物だ、器だ。だから反抗しまくって荒れてた。とにかく若い頃の俺はそんな男だったってことだ。それが道明寺司の若い頃の姿だ」

人としての本質は見て貰えず、人間の形をした器だけが求められた。
道明寺家に生まれた以上、生きる道は生まれたとき決められ選択肢はなかった。
今の姿からは想像も出来ない少年時代の男の姿がそこにあった。

そしてそれは、つくしにはまったく縁のないお金持ちの生活。だがその口ぶりから、お金があることが必ずしも幸せであるとは限らないということを知った。

「それからマリアのことだが、俺とあの女との会話でわかったと思うが、戯れって言葉は違うかもしれねぇけど、NY時代。つまり東京へ戻るまではそんな女が何人かいたことは確かだ。なんて言えばいい?まあお前も分るだろ?男ってのはやっかいなもので女が欲しくなる時がある。マリアとの関係もそういった類のひとつだった。けどお前とのことは違う。俺は本気でお前のことが好きだ。マリアに川に突き落とされたとき、心臓が止まりそうになった。だからそのあとすぐにあの女を殺してやろうと思った」

殺してやろうと思った。
そんな物騒な言葉をさらりと口にする男は、一瞬切れ長の目がきつい目になった。だが次にはその目は笑ったが、口元は笑わなかった。そして一瞬見えた目が若い頃の男の姿なのだろう。
だが病院のベッドの上でつくしを抱きしめた男は、背を屈めた弱った獣のようだった。
そしてそんなことを思うつくしの前で司はやっと口元を緩め言った。

「牧野お前今本気でビビっただろ?言っとくが俺が本気で殺すわけねぇだろ?冗談だ、冗談。けど昔の俺なら....まあ要はそんな男だったってことだ。ああ、それからついでに話すが、西田の母親はとっくに死んでる。いつ何時ないってことはない。だから母親を見舞いに行く必要はない」

「は?」

思わず出た素っ頓狂な声。
子供の頃の話を訊き、裕福な家に生まれ何不自由なく育ったとしても、苦悩があるのだとしんみりとした思いに浸っていた。隣の芝生は青く見えるではないが、幸せそうに見えても色々とあるのだと思った。だが西田の母親はとっくに死んでいると言われると、額に皺が寄り思考がストップした。

「….それって私に嘘をついたってことですか?副社長もですが西田室長も?」

つくしは、自分が秘書に抜擢されたとき、西田から新潟の老人ホームで暮らす高齢の母親を見舞うため休みが取りたい。そのために第二秘書が必要だと言われ秘書として働く決意を固めた経緯がある。

「お前、怒ると額に皺が寄るぞ。まあそんなに怒るな。お前を俺に秘書にするために必要な嘘だったが今更別にいいだろ?それに西田も普段取れない休みを取れたんだ。だから嫌な顔はしてなかったはずだ」

だが西田は突然休めと言われ迷惑な話だと困惑していた事実がある。

「…そんな…だって秘書になって間もない頃、室長がお休みになられて、どれだけ大変だったか…西田室長まで嘘をついていたなんて!」

つくしは真剣に怒っていた。
仕事に対して生真面目と言われる女は秘書になりたての頃、アフリカ最高峰の山キリマンジャロに匹敵する神々のフロア55階で仕事をするため、それこそ高い山を登ることで息切れしないように呼吸を整え、気持ちを整え毎朝副社長の自宅まで迎えに行っていた。それなのにその努力が無駄になったように感じられた。

「ああ。悪かった。慣れない仕事で気を遣わせたはずだ。だがな、お前が慌てふためく姿は面白かった。ところで話は変わるが、お前、相変らず下着の色が地味だな。川に落ちたお前の服を脱がせたときベージュ_」

それは笑いながらしみじみと言われた言葉。
切れ長の目についさっきまで見えた厳しさはなく、ただつくしをからかうのが楽しいという表情。
あの日、服を脱がせたのは目の前の男で、ベージュと言われた途端、恥ずかしさにそれ以上喋らせまいと取った行動は、相手の唇を自分の唇で塞ぐことだった。

それは、そうしたかったからつくしが自分から唇を求めた。
だがここはジェットの中とはいえ、他に人がいる場所だと気づき慌てて唇を離した。

そして数秒の短い間、互いの顔を見つめていたが、次に唇を寄せたのは司。
つくしは美しい唇に見惚れていたが、やがてそっと瞳を閉じた。




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2018
02.10

恋におちる確率 65

「クソッ!牧野っ!」

司はマリアが両手を突き出したその瞬間悪態をつき、つくしの身体を捕まえようと飛び出した。
が、時すでに遅く彼女が川に落ちるのを阻止できなかった。
だが一瞬後には着ていたコートを脱ぎ捨て頭から川の中へ飛び込んだ。
と同時に薄い氷が割れ水柱が上がった。まさにあっと言う間の出来事で司の後ろにいた男達が止める暇もなかった。

冬の午後の陽射しは冷たく気温は4度を少し上回ったほどで水温は零度あるかないか。そんななか、好んで水泳をするのはロシア人くらいだと言われている。
だが司は躊躇わなかった。身体が水の冷たさに一瞬強張りはしたが、氷の下に潜り込むように暗い水の中に沈んでいく女の身体を見つけ捕まえた。
鍛え上げられた身体と両足に力を入れ、水を蹴り数秒後には女の身体を抱え水面に顔を出し息を継いだ。そして荒く息を吐き叫んだ。

「医者だ!医者を手配しろ!」

すぐにボートが近づき二人を抱え上げたが、女は顔が真っ白で唇は青く身体が硬直し、心臓が止まっている。息をしていないように感じられた。
そしてそこにあるのは司が今まで感じたことがない気持ち。
それは大切な人を失うかもしれないといった恐怖心。

「牧野?牧野?しっかりしろ!牧野!」

つくしを抱えた司は、縛られている手首に目をやり、渡されたナイフを手首の紐にあてがい注意深く刃先を滑らせ切ったが、縛られ血が通わなかったそこが痣として暫く残るはずだ。
そして紐が切られた瞬間、力なくだらりと垂れさがった腕にどんなことをしても助けてやると誓った。

「牧野っ?おいしっかりしろ!牧野っ?」

だが何度呼びかけても返事はなく、抱えた身体はぴくりともしない。

「おい牧野?牧野っ!」

「副社長!これからヘリでお二人を病院へ運びます!ですが濡れた服のままでは低体温症になります!機内には軍事訓練用の服がありますのでそちらにお着替え下さい!それからご安心下さい。彼は軍医ですからすぐに処置にかかれます!」

乗ってきた最新型のヘリは州政府が用意したもので、道明寺HD副社長という男の万が一を考えてのものであり、装備としてはなんらかの事態に対しての備えがされていると思ってはいた。だがまさか軍医まで乗っていたとは。だがそうしてもらえたことを感謝するしかない。

「ああ。頼む。絶対にこいつを死なせるな。いくら金がかかろうが構わん。どんなことをしても絶対助けろ!」

陸に上がった司はつくしを抱いたままヘリまで走った。
そこからは軍医の指示に従い濡れた服を脱がせなければならなかったが、一刻一秒でも早く治療を開始するため躊躇することなく服を脱がせようとした。だが水をたっぷりと含んだ生地は重さが感じられるのと同時に、身体に張り付いたようになり手間取ったが下着だけを残し全てを脱がせた。
本来なら自分の身体で温めたい思いがあるが、自身の身体も冷えている以上それは出来なかった。だから川に飛び込むとき脱ぎ捨てたカシミアのロングコートで包んだ。
そしてその上に渡された毛布を掛けた。

「牧野、温めてやるからな。心配するな。大丈夫だ」

低体温症にならないようにするには、とにかく身体を温めなければならない。
だから司はなんとかしてつくしの身体を温めようとした。
だが今ここで出来ることは限られている。
そんな状況のなか、診察を始めた軍医からご心配要りません。大丈夫です。今は気を失っているだけです。それに水に浸かっていた時間が短かったことが幸いですと訊かされるまで生きた心地がしなかった。

「着陸します!ご注意下さい!」

パイロットが着陸を告げ機体が病院のヘリポートへ着陸したが、司は病院まで10分足らずのフライトの間に着替えることはなく、酸素マスクを付け点滴を受ける女に寄り添っていた。
そして待機していた看護師の手でストレッチャーへ移されすぐに救急救命センターに運ばれるまでずっと傍にいた。

だから身体に張り付いた濡れたスーツを脱ぎ、ストレートになった髪を震える手でかき上げたのは、病室で意識を回復した牧野つくしの姿を目にしてからだ。
冷たかった、と小さな声で言われたとき、自分のせいでこんなことになったことを申し訳ないと思いながらも、良かったと言葉を返し髪を撫でるのが精一杯だった。だが、副社長、服着替えて下さいね?風邪ひきますよ?と言われ思わず覆い被さり細い身体を抱きしめていた。





***






胸糞悪くなる女の顔は二度と見たくない。
司のその想いをドイツの警察は汲んだ。
彼らは有能なだけでなく、国際的ビジネスマンである男の神経を逆なでることをしないだけの優秀さを持っている。だがそれは国のトップからの指示があったことは間違いない。

マリアが犯した罪はこの国の法に従い罰せられる。
本当なら殴り倒してやりたい。だが怒りが渦巻いている以上会えばそれだけでは済まないことは分かっていた。
だから全てをこの国の法に任せたが、オーストリアのシュタウフェンベルグ家のホテル事業とワイナリーは道明寺グループに吸収された。つまりマリアは生家である城を失い、伝統あるワイナリーとも別れることになった。
そしてマリアはもうオーストリアの侯爵家の令嬢ではない。
今は称号無しで呼ばれる犯罪者だ。

共犯の男と言われた従弟は、マリアがアルコール依存症であり、精神のバランスを崩していることを知っていて心配していたと言った。だからマリアから牧野つくしに対する計画を訊かされ仕方なく手を貸したという。そしてその言葉には、自分が一緒だったからこそ、マリアがあれ以上酷いことしなくて済んだという勝手な言い分も付いていた。





***






司がちらりと前を見れば、事件の知らせを受けすぐに飛んで来た西田の視線にぶつかった。
銀縁眼鏡越しに見える目は、どんなことにも動じないといった目。
片眉を上げることさえなく、口元も緩むことがないと言われ理性の塊と言われる男。
その西田が入院している牧野つくしに代わりドイツで秘書として仕事を始めた。
そして二人が乗った車は、つくしが入院している病院へ向かっていた。

「副社長。それにしても牧野さんとドイツに出張したのはよろしいですが、何故このようなことになったのでしょう。シュタウフェンベルグ家のご令嬢とは2年前に別れたと思っておりましたが、今でもご交流があったということでしょうか?」

司は平然とそんなことを言う西田の口に、あの日飲んだ冷たい川の水を注いでやろうかと思った。森の中を流れる川の水はきれいだが、何も直接川から飲む必要はないはずだ。
だがそれは、たとえ火の中水の中、の言葉通り彼女のためならどんなことでも出来る。
どんな犠牲も払うことが出来る。だから迷うことなく川の中へ飛び込めた。
だがマリアと関係があった頃、そんなことは思いもしなかった。

「西田。誰があんな女と交流したいと思う?それにあの女。あの後捕まえようとした人間に噛みつこうとしたそうだ」

マリアはあの後、気が狂ったように暴れたという。
その時のマリアを想像すれば、侯爵令嬢としてのプライドといったものは、なかったということだ。

「そうでしたか。ですが今回の件は、副社長がきちんとお別れをされなかったことが発端だとは思われませんか?」

西田が急遽ドイツまで来ることになったのは、司が過去の女の対処を誤ったからだと言わんばかりだ。だがそれは司にとっては心外だ。

「俺は別れるときはケジメをつけて別れてきた。それにあの女とは身体だけだ。それはあの女も最初から分かってたはずだ」

西田はそれでも気にしない訳にはいかなかった。
なにしろ牧野つくしは彼の部下でもあり道明寺HDの社員なのだから。
そして司は西田が何を言いたいのか分かっている。
それは、牧野つくしを傷つけるなと言うことだ。

「それにしてもお二人はお付き合いすることに決めたそうですが、またこういったことがあれば、傷つくのは牧野さんですからもう一度身辺をお確かめになられた方がよろしいのではないでしょうか?」

「言っとくがマリア以上に強烈な女は絶対に出て来ることはない。それに過去の女は綺麗に整理した」

「そうですか」

ムッとした態度の男に素っ気なく答えた西田は、だがその男が隣の席に置いているものに目をやった。
それは、間違っても花を抱えて歩くことのない男が自ら買い求めた白いバラの花束。
過去に秘書である西田を通し、花を頼んだことがあったがそれは別れの花であり、花に添えられた宝石箱はそれまでの感謝の印。
だがこれから向かう先にいる女性に渡すのは愛が込められた花束。
そして今はまだないが、近いうちに小さな箱が用意されるはずだ。
そして図らずもこの事件が二人の間にあった距離をグッと近づけることになった。
つまり、道明寺司という男にとって牧野つくしという女性がかけがえのない人になったことを西田は理解した。




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2018
02.09

恋におちる確率 64

バシッ!

つくしは無理やり立ち上らされると思いっきり頬を叩かれた。
そして腕を縛られたままの身体は、叩かれた反動で後ろへよろめき倒れそうになった。

「あなたまだ私のことを甘く見てるようね?」

マリアは、そう言ってつくしの顔を真っ直ぐに見つめていた。

「なによ?なにか言いたいんでしょ?言いたいことがあるなら言いなさいよ!往生際の悪い女だって言いたいんでしょ!?未練がましい女だと思ってるんでしょ!?」

「マリアさん…」

叩かれた頬は熱く熱を持った。
そして彼女の右手に嵌められている指輪の硬い石が頬を擦ったのが感じられた。だが手を縛られている以上触れて確かめることは出来ないが、叩かれたのとは別のヒリヒリとした痛みが広がり頬が焼け付くような感じがした。

「やっぱりダメよ….彼のことは諦められない。どうして私が彼を諦めなきゃならないのよ。…どうして私が…だって彼が愛しているのはこの私だったのよ?いいえ、違うわ。今でも彼が愛してるのは私よ?そうよ。そうに決まってるわ。だって彼のような男にお似合いなのは私のように美しい女だもの。それに私は侯爵令嬢よ?」

マリアはお構いなしに喋っているが、目の前にいるのがつくしだと分かって言っているのか。
それとも相手が誰だろうと構わないと話しているのか。
それは自問自答とも言える言葉で時につくしに向かって小首を傾げて見せるが、それは同意を求めているからなのか。

つくしはマリアの話を訊きながら、なぜマリアはこんなに道明寺司に執着するのだろうかと思っていた。だが感情に任せたまま話すマリアにまともに向き合ったところでどうにもならないことを理解した。
そしてこのままここにいてはいけない。
これ以上ここにいたらマリアは何をするか分からない。
マリアの出すサインが彼女の身体から感じられる。
まさかこんな経験をするとは思ってもみなかったが、このままここにいては命が危ないのではといった思いが頭を過る。
と、そんなつくしの思いを感じたのか。マリアはつくしの前へ一歩近づくと思い出し笑いをするように顔をほころばせた。そして再び手を上げ頬を叩いた。

バシッ!と二度目に叩かれた頬は時間が経てば腫れるはずだ。

「何か言いなさよ?言いたいことがあるんでしょ?言えばいいのよ!言えば!マリアは狂ってるってね!」

再びよろめいたが、なんとか倒れずに済んだ。だがもはや感情の起伏が激しいという言葉とは違うマリアの状況。まさにマリアが口にした言葉通りで狂っている。通常の感情ではない。
それは心の中にある何かが崩れているとしか考えられない。そしてこの抜き差しならない状況からなんとかして抜け出さなければ危険だと感じていた。

「彼は私の良さが分かってないのよ….」

と、今度は先ほどとは打って代わり涙ぐんでいるようになるマリア。
そしてドイツ語で何かを呟いていたが、それが苛立ちなのか。それとも罵りなのか。
どちらにしても今のつくしには関係ない。頭を巡らせどうしたらこの状況から抜け出すことが出来るか考えなければならなかった。
携帯電話が鳴り響いたのはその時だ。マリアは近くのテーブルに置かれている電話に出るためつくしに背を向けた。







***








「ここか?」

「はい。ここがシュタウフェンベルグ家が持つ城です。ヘリはこのまま庭に着陸します」

レストランを飛び出し待機していたヘリに乗ったが、一番早い移動手段はヘリであり、そのヘリは州政府が用意した最新型のヘリ。ドアが閉まりここまでは10分足らずで来た。

シュタウフェンベルグ家が持つ城は、広大な森の中を流れる川に隣接した水城。最後の城主であるマリアの伯父が亡くなってからは、遺産としてマリアの母親に引き継がれていた。

その城に牧野つくしがいるといった確証はない。
だが今は住む者がいないこの城の敷地に止められている一台の黒い車が、中に誰かがいることを教えてくれていた。そして牧野つくしはここにいると司の勘がそう言っている。

司と共にヘリから降りてきたのは軍人上がりの男達。
そして別のヘリから降りてくるのは軍関係者。
それは万が一テロリストや過激派といった人間が、この件に関わっていることを懸念した現政権のトップの判断で派遣されていた。

「副社長。車はあの一台だけですから、人数は限られているはずです。敵は多くても4人程度とみておりますが、恐らくこの件に関わっているのは女が一人と男が一人。つまりマリア・エリザベート・フォン・シュタウフェンベルグとその従弟でしょう。ですから事態が収拾されるのは早いはずです」

敵は、といったいかにも軍人らしい言葉を使う男たちは銃を抱えており、事態は既に掌握されているといった顔をしていた。そして何かあれば撃つことが当たり前だと考えている。
たとえその対象がオーストリアの侯爵令嬢だとしても関係ない。
それは民主主義の国であるならば、法の下の平等という言葉に相応しいといえばその通りであり、外国人だとしても罪を侵せば罰せられるのは当然だ。

司にとってはもう二度と耳にしたくない名前。
まさか自分がかつて付き合っていた女が嫉妬のあまり事件を起こすとは思いもしなかった。
それも短い付き合いの中、女の性格の全てを知っていた訳でもなく、所詮身体だけの関係だから知りたいとも思わなかったのだが、今回のことは、付き合い始めることを決めた牧野つくしにとってはショックだったはずだ。ともすれば、こんな事件に巻き込まれ付き合いは止めると言われるかもしれない。だが今はそんなことを頭の片隅に置くべきではないのだが、それでもそんな思いが頭を過った。

「そうか。分かった。それより_」

「お待ちなさい!」

言い争う声が耳に飛び込んで来たのは、城の入口である正面玄関の扉を開いた瞬間だった。
その声は右手から聞こえたのが分かった。そしてその声が誰の声だかすぐに分かった。
なぜなら複数ある声のひとつは日本語だからだ。

司はつくしの声が聞こえた方を目指して廊下を走っていた。
そしてそのすぐ後を数名の男達が追う。だが城は広く声がどの部屋から聞こえたのか分からなかった。だから手あたり次第に扉を開けるがそこにはいない。

「クソッ!無駄な部屋ばかり作りやがって!牧野っ!牧野っ!どこにいる!叫べ!声を出せ!」

広い城の中、居場所を確かめるには声だけが頼りだ。
するともう一度声がした。

「副社長っ!ここです!ここにいます!」

「どこだ!声をあげろ!大声をあげろ!」

司はつくしの声が聞こえる方へと走ったが、広い部屋を抜け、テラスで目に飛び込んできた光景に心臓が縮み上がった。

「待ちなさい!逃がさないわ!」

それはマリアと牧野つくしが対峙している姿。
だがつくしは後ろ手に腕を縛られた状態。
そして手すりのないテラスに立つ彼女の背後には、城に隣接した川があり、水面からテラスまでの高さは1メートルほどあるのが見て取れた。
そこはあと少しでも後ろへ下がれば水の中に落ちてしまう場所。正面に立つマリアがその手でつくしを押せば川へ落ちてしまう場所だ。

「副社長!」

つくしは司に気付き叫んだ。

「牧野っ!それ以上後ろに下がるな!後ろは川だ!いいか。そこでじっとしてろ!動くな!絶対に動くな!」

その声が聞えたマリアはつくしに視線を向けたまま司に言った。

『あら。ツカサ、もう来たの?でも少し遅かったかしら?あなたならもっと早く来ることも出来たはずだけど?でもヘリで来たのね?派手な音がしたもの、とても派手な音が』

と、どこか楽しそうに笑う。

「マリア。ドイツ語は止めろ。英語で話せ。…それにお前何やってる!自分がやってることが分かってるのか!」

司が大声で叫んだのは、つくしが後ろ手に腕を縛られていること。そして殴られたのだろう。頬が腫れているのが見て取れ怒りが込み上げたから。そして英語で話せと言ったのは、頭は確かなのか。アルコール依存症の女が今の自分の行動をどこまで理解しているのかを確かめたかったから。だが顔が見えない今、素面なのか、それとも酒に酔った状態なのか分からなかった。それでも声だけ聴けば酔っているようには思えない。

「ええ。分かってるわ。このまま私が真っ直ぐ手を出せばミスマキノは水に落ちるわ。でも彼女泳げるのかしら?あらでも腕が縛られているから泳げないわ、きっと沈んでしまうわね?」

と言って笑った女はやはり酔っているのか。
どちらにしても表情が見えない女が頭に描いていることは確認できた。
牧野つくしを川に突き落とそうとしていると。
だがそれを止めるにはどうすればいいのか。マリアが今すぐにでも実行しそうに思え、司は諭すように言った。

「マリアお前のしようとしていることは人の命を危険に晒しているんだぞ!そんな危険なことは止めろ。それにそこは寒いし危険だ。中へ入れ」

テラスは冬の冷たい風が吹き川には氷が張っている。
だが氷は厚くはない。その上に人が落ちれば簡単に割れる。そして腕を後ろ手に縛られた状態では泳ぐことが出来るはずもなく、ましてや冷たい水の中に落とされれば心臓麻痺を起してもおかしくない。

「そうね。この川の水はとても冷たそうだもの。落ちたら心臓が止まってもおかしくないわね?」

マリアは誰もが思うことを口にはしたが、どうでもいいといった口調だ。
司はそんな女の背後に語りかけた。

「マリア。お前何が気に入らない?何がしたい?何が望みだ?牧野を連れ去って何をしようとしてる?」

「別に…何もしようと思ってないわよ?ツカサが私の元へ戻って来てくれればね?」

だがそれは絶対にないと言える。
司はつくしのことをどれだけ好きかということを考えていた。だから答えはノーだ。

「戻るも何もねぇだろうが。俺たちはとっくの昔に別れた。それに付き合い始めるとき将来の約束はしなかったはずだ。どちらか一方でも飽きたら終わり。それだけの関係だったろうが」

つい語尾が荒くなってしまうが、それを何とか抑え言葉を継ぐも、感情が高ぶるのを抑えるのは容易ではない。

「そうね….確かにそうだったわ。でも私は途中で気が変わったの。あなたも、あなたのお金もあなたが持つ全てが欲しくなったの。だから私は別れたくなかった」

大人の男と女が初めに決めたのは、身体だけの関係でありそこに感情や知性といったものは必要ではなく、二人の間にあったのは欲望だけだ。

「でもツカサと別れてから付き合った男はいたわよ?けどそれはただの暇つぶしで好奇心だったわ。だから好奇心なんて所詮好奇心で終わったわ。それで考えてみたらやっぱり私はツカサのことが好きだって分かったの。だから彼女が邪魔なのよ。ミスマキノが」

好奇心で他の男と付き合ったと言ったマリア。
だが司も初め牧野つくしのことは好奇心以外の何ものでもなかった。
それは、今までどんなことに対しても好奇心を抱いたことがなかった男の初めての自発的感情。
性的欲求を果たす以外関心がない女に対して初めて抱いた興味。
だがそこから恋に発展した。
だから好奇心を持つことが悪いとは思わない。
だが今のマリアの司に向けられている感情は、愛ではなく金と司という男の持つステータスと外見といったものに向けられている単なる欲望だ。

だが司も牧野つくしと出会うまで愛という感情は知らなかった。
だから何を偉そうなことを言っていると言われればそれまでのはずだ。だがそんな男は過去の話であり今は違うと言える。好きになれば、その人だけしか目に入らなくなるのだから他の女には興味がない。
そんな思いで司は目の前で自分に背中を向けている女に訊いた。

「マリア。俺は絶対にお前のものにはならないと言ったらどうするつもりだ?」

「どうする?そんなの決まってるわ」


その時だった。
後ろからは見えなかったが、笑みを浮かべたであろうマリアの両手がつくしに向かって伸びた。




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2018
02.08

恋におちる確率 63

この中に牧野つくしがいるのかもしれない。
だがぶ厚い扉を開いた空調管理がされた無菌室のようなそこに彼女の姿はなかった。
その瞬間頭の中を過った嫌なものが再び甦り増殖しはじめると結論を下した。
それは金や自尊心を満足させるため、マリアが牧野つくしを連れ去ったということだ。

「あの女...」

つくしのマフラーを握り、そう呟いた司の背後で軍人上がりのボディガードの中でも一番優秀だと言われる男が声をかけた。

「副社長。ドイツ政府と州知事。市長にライン川を行く船舶への立ち入り検査を要請しました。ですがすでに上陸している可能性もありますので陸上での捜索も開始しております。デュッセルドルフ市長も州知事も政府も全面的に協力するということです。それからオーストリアのシュタウフェンベルグ家の人間の所在を確認しましたが、両親はオーストリアの城におります。ただ、マリアの両親と一緒に暮らす弟のように可愛がっていた従弟が二日前から城に戻ってきておらず連絡もないようです」

手渡された写真に写っているのは、濃い金髪でマリアと同じ緑の瞳をした男だ。
そしてどことなくマリアに似ていた。

「この男が彼女とマリアをボートに乗せたということか?」

「はい。恐らくそうではないかと。それにその男は船舶免許も持っていますので、モーターボートの運転も問題なく出来るはずです」

そう言った男は、司に冷静な視線を向けられ顎が強張った。
それは自分達がミスしたのだから殴られるのではないかといった気がしたからだ。
だが司はそうはしなかった。その代わり鳴り出した携帯電話を上着のポケットから取り出した。

「これはどうもわざわざお電話を頂きまして申し訳ございません。この度はお力添えを頂けることに感謝いたします。___ええ。そうです。私の恋人がトラブルに巻き込まれましてね。いえ___それは問題ないのですが、___はい__いえ、相手はテロリストや過激派ではありません。__ええ。そうです。恐らくすぐに片付くと___はい。では失礼いたします」

電話の相手はドイツ連邦共和国のトップに立つ人物。
ビジネスと政治の繋がりは切っても切れないことであり、何度か顔を合わせたことがあった。その人物が司のちょっとした依頼を快く受け入れてくれたのは、この国に大規模投資をするからだということは分かっている。自国に利益をもたらしてくれる相手に親切にしておく方が得策であり、それが打算的な動きであることは分かっている。

まるで映画か小説の中のようだと言われるかもしれないが、道明寺HD副社長の司には信じられないほどの権力がある。それこそ小さな国の指導者の頭を変えることは簡単だ。
そしてビジネスには明るい面ばかりではなく、その反対側に光りが当たらない暗闇があるということも理解している。だから使える権力は使わなければ意味がない。

だがそれでいい。
ビジネスマンとしての倫理や道徳といったものが存在していたのは数時間前まで。
なぜなら牧野つくしを連れ去ったマリアにはそんな言葉は関係ないからだ。
司は愚かな女のために大切な人が傷つくのは見たくない。
そして彼女の身に起きていることを正確につかむために考えなければならなかった。
そんな男の切れ長の瞳が半ば開き、半ば閉じられた状態が何かを考えている姿だとすれば今の司はかつてマリアが口にした言葉を思い出そうとしていた。
牧野つくしを探し出すヒントになるような言葉を。

その時、目の前に立つ男から求めていた答えを与えられた。

「副社長。シュタウフェンベルグ家はここから70キロほど離れた森の中に城を持っています。そこは城主が亡くなってからは誰も住んではおらず、閑散として今は訪れる人間はいないと言われています」

司は、マリアが自分の母親がドイツの貴族出身であることからこの国にも一族の城があるといったことを自慢していたのを思い出した。
そしてそこに牧野つくしがいる気がした。


「行こう。そこだ。そこに彼女がいるはずだ!」






***







「...痛ッ...」

つくしは目覚めたとき、腕が痛い身体が窮屈だと感じた。
それは後ろ手に回された腕が縛られ床に寝かされていたからだ。
そしてこの場所がどこなのか分からなかった。
だがここが広い場所だと感じられた。

それは目の前に見える範囲からも分るが空間の広さと空気の冷たさからだ。
そして寝かされている美しい寄木細工の床の延長線上には大理石の台が置かれ、大きな花瓶が置かれていた。そしてその上部の壁には肖像画が掛けられていた。

あれはいったい誰の肖像画なのか。
単純にそんなことを考えたが、今自分がどこにいるのか全く見当もつかなかった。
だが、ここに来る前に話していたのは、マリアだ。
それならここはマリアのお邸なのだろうか。と、なるとドイツではなくオーストリアにいるということになるのだろうか。
だがそんなことを考えている場合ではない。なんとかして腕を縛っている紐を解かなくてはならない。それに何故自分がこんな目に合っているのか分からなかった。
そして紐が捲きついた手首が痛かった。それに時間を知りたいが腕時計は後ろ手に縛られた左手に嵌められていて見ることは出来なかった。






「あら。お目覚めかしら?とてもよく眠っていたようだけど、余程疲れていたのかしらね?それとも司が寝させてくれなかった?でもそれは違うわよね?あなたまだツカサと寝てないんだから」

「マリアさん...」

派手な香水の香りと背後からの声に縛られた窮屈な身体で頭だけで振り返えると、そこに立つマリアに斜め上から見下ろされていた。

「ご気分はどうかしら?クロロホルムって独特の甘い匂いがするから嫌いなんだけど、他に思いつかなかったの。それも少しの量じゃ全然効かないからタップリ染み込ませて使ったんだけど気分が悪くならなかったかしら?ああ、でもその前に気絶したものね?」

マリアはそう言ってじっとつくしを見下ろしていたが、その目が煌めき、口元に冷笑を浮かべた。

「それにしてもあのクサい芝居を見抜けないんだから、あなた簡単に人に騙されるタイプなのね?私のこと酔っ払いだと思ったんでしょ?あのね、私の家はワイナリーを経営してるのよ?そこの娘があれくらいのお酒で酔う訳ないじゃない?ホント、あなたは単純ね?」

レストランでの恫喝や猫なで声で話す態度は、芝居だったと言うマリア。
そして今のマリアはつくしをバカにしたように言い、本人は酔っていないと強く否定した。
だがどう考えても酔っているはずだ。しかし酒に酔った自覚がないなら、それは病気としか考えられなかった。
どんなものでもそうだが、依存症というのは自覚症状がない。そうなるとマリアはアルコール依存症ではないかとしか考えられなかった。

それにしても、何故自分が縛られて床に寝かされているのか理由が分からない。
いくらマリアが昔の恋人である道明寺司とやり直したいからといって邪魔な存在の女に対し何かしようとしているとは考えたくはない。だが今こうして腕を縛られ床に転がされている状況下では、何かされることも頭の片隅におかなければならないということなのか。

「ねえ、ミスマキノ。あたなどうして自分がこんな状況にいるのか考えているんでしょ?
ふふふ...そんなの簡単よ。だって私あなたのことが嫌いだからよ?何度も言わせないでくれる?私ね、本当にあなたみたいな女をどうしてツカサが好きになったのか理解に苦しむわ」

つくしは床に寝かされている以上、上目遣いでマリアを見るしかないのだが、マリアはちらりとだけ笑い言葉を継いだ。

「ねえ?いくらあなたが高級なお洋服を着ても、所詮は秘書でしょ?そんな女が彼の恋人でいるなんて間違ってるの。だからね、私がその間違いを正してあげようと思うの。そのためにはあなたがツカサと別れてくれなきゃ困るのよ?でもね?私にはお金も必要なの。だからね?もしツカサがどうしてあなたが欲しいって言うならお金で解決してもいいと思ってるわ。
それに今私の従弟がツカサの会社宛にメールを書いてるの。牧野つくしを返して欲しければ500万ユーロ払えってね?円に換算すれば5億超えるほどの金額かしらね?ツカサにとっては小遣いでしょ?そんな金額で好きな女を返してもらえるなら安いものよね?ねえ?そう思うでしょ?ミスマキノ?」

マリアの話は問いかける形だが、途切れることなく続き、つくしに口を挟む隙を与えなかった。
それに見方を変えてみれば分かった。その口ぶりは神経が高ぶっている証拠だ。
やはりアルコールの飲みすぎで精神が病んでいるのかもしれない。それにお金を払えばという言葉に、これが身代金目的の誘拐ならマリアは立派な犯罪者だ。
そして犯罪行為の被害者の立場にいる自分に気付くと、顔から血の気が引くのと同時に縛られている腕がじんじんと痺れてきたのを感じていた。そしてこのままでは大変になることが実感されてくる。

「マリアさん。お願い、腕の紐を解いて。私何もしないから。ね?マリアさん?」

つくしの言葉にマリアの頬がピクリと動く。
それはつくしの言葉を信じていないということだ。
そして今のこの状況は、よくある話だが恋におちた相手の昔の恋人に刺されるかもしれない、といったことが現実味を増してきたように感じられていた。

「でもね、ツカサを諦めるならこれくらいはしなきゃ気が済まないわ!」

「!」




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2018
02.07

恋におちる確率 62

「・・・だからね、ミスマキノ。邪魔しないで欲しいの」

つくしはそう言った女の右手を懸命に振りほどこうとしたが、マリアは上背もあり体格からしても握力の差は歴然で振りほどくことは出来なかった。

ゲルマン民族は狩猟民族で狩をして生きてきた。そんな彼らは常に敵を探す習性がある。
だが日本人は農耕民族でひとつの場所にとどまり稲作を主体に生きてきた。だから共同作業を好む日本人は味方を作りたがる、群れを作りたがる習性がある。そんな遠い過去のDNAの記憶が二人の力の差を生み出しているとすれば、間違いなくマリアはつくしの手を離してくれないはずだ。
何故なら、今のマリアはつくしを敵だと見なしているからだ。

そして彼女の瞳につくしの姿は映ってはいるが、その目はまるで魚の目のように膜がかかったように見え、もしかするとつくしの姿はぼんやりとしか見えておらず、自分が何をしているのか分かっていないのかもしれない。

「ねぇ。男ってきれいな花が好きだと思わない?美しくて匂いのいい花が。でも普段高価な花ばかり見てると多分飽きちゃうのね? だからその辺の雑草を眺めたくなるのね?」

緑の瞳を持つ女は、酔っているとはいえ言葉は明瞭だが、花がどうだとか自分が言っている言葉を理解しているのか。それに恫喝したと思えば猫なで声で語りかけて来るマリアは、もしかすると酒癖が悪いのかもしれない。
そうなるとさすがにつくしもこれではマズイことに気付き、なんとか腕を振りほどき食事をした場所へ戻ろうとした。
なにしろ化粧室を出たばかりのこの場所は曲がりくねった廊下の先であり、つくしの後をついて来た警護の人間はおらず、それに他に誰かがくる気配もない。だが戻れば人目がある。そこでならマリアのおかしな言動を周囲に訴えることが出来る。

「マリアさん?お願い離して!離して下さい!それから席に戻りましょう?ね?話なら向うですればいいでしょ?」

だがいくら話かけてもマリアはつくしの腕を掴んだ手を離さない。むしろ掴んだ手に力を込めた。そして困惑した顔になりつくしを見つめ喋り始めた。

「・・ねえ?せっかくドイツまで来たんですもの。もっと観光しなきゃ勿体ないわよ?あなたまだどこにも行ってないんでしょ?それなら私があなたをドイツ観光に連れて行ってあげる。いいのよ。遠慮なんかしなくても。この国は母の国だから私の第二の故郷よ?観光客が行かないような素敵な場所を知ってるの。だから任せてちょうだい。だってあなたの為に特別なプランを用意したんですもの」

「マリア_」

つくしが口を開こうとしたのと、後ろから何かで口を塞がれたのは同時だった。
そしてスーッと意識が遠のくと暗闇の中に堕ちていくのが感じられた。







***






デュッセルドルフに着いたのは午後1時を過ぎていた。
司を乗せた車は牧野つくしがいるレストランへ向かったが、途中彼女に付けたボディガードから牧野つくしがいなくなったと連絡があった。
それは彼女が席を立ち化粧室へ向かったが、なかなか戻ってこないことにその場に駆け付けたが姿が無かったということだ。そしてそれと同時にマリアもいなくなっていた。
化粧室は店の一番奥にあり、その場所は行き止まりでどこにも行きようがない。
それならいったいどこへ消えたのか。




「一体どういうことだ?」

全身から獰猛な気配が漂う男の姿は、牧野つくしに付けた警護が役に立たなかったことに腹を立てていた。それと同時に冬だというのに背中を冷たい汗が流れた。

司は若い頃、暴力という行為が悪いと思わなかった時期があった。
仲間に言わせれば、司は獰猛な獣で、暴力の使い手であり人間凶器とまで言われていた。
だが大人になり、ビジネスがそれを凌ぐ面白さであることを知り、それ以来暴力という言葉から離れていたが、牧野つくしが昔付き合っていた女によってどこかへ連れ去られたことを知り、残酷な男だと言われていた当時を思い出していた。

相手を情け容赦なく叩きのめし、倒れたところで顔を踏みつけ腹を蹴り上げる。
腕をへし折り学園の中を引き回す。たとえ相手が血だらけになろうと関係ない。
そういったことも顔色を全く変えず平然とやっていた男だった。だから返り血で服が真っ赤に染まっても気に留めたことすらない。
だが大人になった今、自らの手でそういったことをしようとは思わない。
だが今はそうしたい気持ちが湧き上がっていた。そして相手が昔付き合った女だとしても容赦はしない。

そして今司の前に立つのは、彼女の警護に二人の男を付けていたが、そのうちのひとりである日本人の男だ。

「大変申し訳ございません。牧野様が化粧室へ立たれた後、シュタウフェンベルグ様が暫くしてお席を立たれやはり化粧室へ行かれるところまでは見ておりましたが、何しろ化粧室は廊下の先の行き止まりにあり、それ以上行く所はございません。それに店に入った時、化粧室の中を確認いたしましたが誰かが隠れているといったこともなく、それから後にも誰かが化粧室へ行くこともなく牧野様の後をついていくことは致しませんでした」

女性が化粧室へ行くことがプライバシーにかかわることだということは司も理解している。
自分が用を足している間、外で待たれるといったことを嫌がったとしてもおかしくはない。
だが、どんなに安全だと言われる場所でも何が起こるのか分からないのが世の中であり、そのために大切な人の安全を守ることに重きをおいたが、それを怠ったことが問題だ。
だが今はそんなことよりも早く彼女を探さなければならなかった。
何しろ、マリアはただでさえ気性の激しい女だ。そしてその女はアルコール依存症で酒の量が多ければ多くなるほど、何をするか分からないからだ。

それにしても二人はいったいどこへ行ったのか?
店の奥には出入り口はなく、こちらへも戻って来なかった。

「それならどこへ行った?二人が化粧室から忽然と消えたってことか?」

司は思いをそのまま口にしたが、まさかとは思うがマリアが牧野つくしを気に入らない、邪魔だからといって誘拐するとは考えられなかった。
だが楓から聞いた話によれば、シュタウフェンベルグ家の経済状況は良くないというが、そのために牧野つくしを誘拐して身代金を要求するということか?
だがそれが事実だとすれば、あの女が一人で出来るはずがない。
それなら協力者がいるということか?だが一体誰が?そしてどうやって?
思考を巡らせれば巡らせるほど、悪い方へと思いが向いていた。

その時、ドイツ人のボディガードが化粧室へと続く廊下から走って戻って来た。

「副社長!女性用の化粧室ですがそこの清掃用品入れとして使用している扉の向うに隠し扉があります!」

その時、司は彼がつくしに贈ったクリーム色のカシミアのマフラーを手にしていたが、それを手に男を見た。

「説明しろ」

言われた男は司の冷たい声と鋭い視線に一瞬間を置いたが、しっかりした声で話はじめた。

「はい。ここは以前城でしたが、当時の趣を残したまま改築をしてレストランになりました。
その扉も何らかの理由でそのまま残してあったということでしょう。その扉の向うには下へ降りる階段があります。そこを降りるとすぐ横を流れるライン川に面した水門があり船着き場がありました。つまりそこに船をつける・・小型ボートを付けることができます。それから支配人に話を訊きましたが、ここの地下には当時の地下牢がそのまま残され、ワインセラーに改造して使われているそうです」

船で運ばれてくる物資を運び入れるための水門があるというこの場所。
そして地下牢と言えば天井が低くじめじめとした場所。
どちらも今の状況では望ましい場所とは言えない。

「案内しろ!」

司はその言葉にすぐさま反応し、そして指示を出す。
それはどんなことも時間というものが重要だからだ。ビジネスに於いても一分一秒を争うのが司の世界だ。そして一瞬頭の中を過ったものをすぐに打ち消した。

「いいか。それからライン川を行くボート、船、とにかく川を航行するものは全て検査しろ。ドイツ政府のトップに伝えろ。片っぱしから調べろ。牧野つくしという名の東洋人の女が乗っているか調べろ!」

もしかするとマリアによってワインセラーに監禁されているかもしれないが、船着き場もあるのだから、ここからボートでどこかへ行った可能性もある。だから司は川を航行する船舶の全てを調べろと指示を出し、その中に牧野つくしという名前の東洋人の女がいないか調べろと命令した。だが願わくばワインセラーの中にいて欲しい思いがある。
マリアが牧野つくしに嫉妬をしたなら、そこに閉じ込めた程度のことで済ませて欲しい。
見つけたら長々と念入りなキスをして大丈夫かと抱いてやるつもりだが、それにしてもマリアにのこのこついて行くなんて、あの女はどういうつもりだ?


そしてすぐさま向かった女性用化粧室の清掃用品入れと書かれた扉の、その先には確かにもうひとつ扉があった。今は取り払われた清掃道具だが、ここを調べた時には、扉の存在を隠す様に置かれていた。だからボディガードは隠された扉に気付かなかったということだ。

司が扉の向うにある石段を駆け降りた先には、さほど大きくない船着き場があった。
そして別の方向に目を向けたとき、ワインセラーのぶ厚い扉を見つけた。
この中に牧野つくしがいるかもしれない。
それを願い力を込め扉を開いた。




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2018
02.06

恋におちる確率 61

「マ、マリアさん?!」

怒りに酔った目。
つくしの腕を掴んだのはそんな目をした女だった。
身体が大きく背の高い美しい女性は、自分より背が低い東洋人の女の言動が気に入らなかったのだろう。つくしが化粧室から出て来るところを待ち伏せ、腕を掴み、彼女の身体を振り向かせた。

「あなたさっきは分かったような口を利いたけど、一体自分を何様だと思ってるのよ?それにあなたまだツカサと寝てないんでしょうけど、それは自分が大切にされていると思うなら大きな間違いよ!いい?ツカサはね?子供みたいな身体の女なんて抱く気がしなかったからあなたを抱かないのよ!それにあなたのことなんて本気じゃないわ。そうよ・・そうに決まってるわ!」

いきなり一方的に、そして捲し立てるように話はじめたマリアの斜め上から見下ろす表情は暗く、ドス黒い憎悪といった感情がつくしに向かって流れて来た。
そして彼女の息は、明らかにワインの飲みすぎだと分かるが、腕を掴んだその手にぎゅっと力が入ると恐怖が感じられ、つくしはたじろぎ、手をふりほどこうとしたがマリアの力は強かった。

「マ、マリアさん、あの・・」

「何がマリアさんよ!どうせ心の中じゃ捨てられた女だとでも思っているんでしょ?!心の中じゃ可哀想にって笑ってるんでしょ?私はね、男に捨てられてことなんて今までなかったわ?いつも男に別れようって言うのは私の方なの!男に別れようなんて言われたことはなかったわ!ツカサに捨てられた以外なかったのよ?私は侯爵令嬢よ?その私を簡単に捨てるなんて・・それも子供みたいな女の為に!」

酔っている。
マリアはどう見ても酔っていた。
だがその声は力強く、自信に満ちているがつくしには意味が分からなかった。
マリアと司が別れたのは2年も前の話であり、つくしは二人が別れたころ副社長に出会ってもいなければ、その存在すら目にしたことがなかった。それに当然だがマリアという女性と副社長の関係も知らなかった。

そして今のマリアから感じられるのは、アルコールの匂いと熱い息づかい。
視線はつくしを見ているが、怒りに酔ったその目は何も映していないように見え、理性と狂気との感情の境目といったものがあるなら、マリアは明らかにその境目を越えている。そしてつくしの掴んだ腕を更に強く締め付けるように握った。
その瞬間、つくしの腕に痛みが走った。

「マリアさん・・お願い冷静になって・・私は2年前にはまだ・・」

「お黙んなさい!どうせツカサと二人で私のことを話して笑ってるんでしょ?侯爵令嬢が・・侯爵令嬢のマリアは金に困ってる女だってね!」

マリアは恫喝するように語気を荒げつくしの言葉を制し、怒りに満ちた顔をしていた。
今までつくしはひとりの男を巡って争ったことなどない。こんな経験、つまり修羅場と言われるものは初めてだが、マリアの言いたいことは十分伝わっていて、ただ冷静さを欠いたマリアの姿は恐怖以外の何ものでもなく、明らかに酔っぱらっているマリアをなんとか落ち着かせようとした。

「そ、そんなことありません!私と彼はあなたのことを笑ったりしてませんから。それにあなたがお金に困ってるなんてことも知りませんから」

と言ったがマリアは甲高い声を上げ笑う。

「ふふ・・あはは!・・ミスマキノ。あなたどこまで私をバカにすればいいの?どうして私が東洋の泥棒猫に自分の男を取られなきゃならないのよ?どう考えてもおかしいでしょ?あなたみたいな女に彼を取られるなんて!」

「マリアさん。落ち着いて下さい。私はあなたから副社長のことを取ったりしてません!それに私はあなたをバカになんてしてません!」

つくしはマリアの言葉を否定し、彼女を落ち着けようとしたが非難する声は止まなかった。
そして笑いながら赤い唇の両端を持ち上げた。

「私ね。あなたみたいな女が一番嫌いなの。ツカサがすぐに手を出さないから大事にされてるって思ってるんでしょ?真面目な顔して大切にされてますって顔。そんな顏をしている女が一番嫌いよ?それにね?一族の財産を守るのは私の勤めなの。だからどうしてもツカサが欲しいの。それに彼のことが忘れられないのよ?分るかしらあなたに?まだ彼と寝たことがない子供のようなあなたに!」

ガッシリと腕を握られたつくしは、離れることが出来ず、ただマリアの話を訊いていた。
そして一瞬だが緩やかにほほ笑みを浮かべたマリアは、やがて少しずつその顔が厳しいものに変わった。

「なによ?その顔は!私に同情しようって言うの?フン・・冗談じゃないわ。どうして私があなたに同情されなきゃならないのよ?私だって昔はツカサに愛されたのよ!それに私には貴族の娘としてのプライドがあるの。だからどうしてもツカサが欲しいのよ!」

緑の瞳はそれから瞬きもせずつくしをじっと見つめ、今度はゆっくりとした猫なで声が言った。

「・・・だからね、ミスマキノ。邪魔しないで欲しいの」








***








司が楓から受け取った封筒の中には牧野つくしとマリアが一緒に写った写真と共に、一枚の紙が入っていた。それはマリアについての報告書。
そこに書かれていたのは、マリアはアルコール依存症だと記されていた。
そんな女の手に握られているのはワイングラス。
中身は赤い液体。それが意味するのは、中身は酒であり水ではないということだ。
そしてその事実が何を意味するのか。

アルコール依存症は脳が麻痺していて、アルコールを飲み始めると、ここで止めようといった制御が効かない。自分の意思で飲酒をコントロールできない。となれば、マリアがワイングラスを手放すことはない。そして酔った女は誤った思考判断をする。極度の思い込みや被害妄想といったものが強くなる。やがて飲酒量が増え、暴言を吐き暴力を振るようになる。

「司?あなた彼女に警護をつけているの?今のマリアはあなたが付き合っていた頃の彼女とはかなり違うはずよ?」

楓は牧野つくしを称賛も否定もしなかった。
偏った先入観といったものも持たなかった。
ただ事実だけが分かればいい。息子が彼女のことを真剣だと知った以上、知らせてやるのが親の務めだといった態度を取った。
そして楓の言葉を即座に理解した男は執務室を飛び出し、使用人に大声で叫び駆け出していた。

「すぐにジェットの準備をしろ!」




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2018
02.05

恋におちる確率 60

お茶でも飲みましょう、とマリアは言ったが、つくしが連れてこられたのは気どったウェイターと白い皿とワイングラスがテーブルの上に並んでいる店だった。



「どうしたの?ミスマキノ。本当にお茶だけだと思ったの?でもいいでしょ?もうすぐお昼ですもの。それにここのレストランはとても美味しいって有名なの。私はドイツに来るたびここに立ち寄って昼食を頂くの。だからお味は保証するわ。もちろん日本人のあなたがドイツの食事が口に合わないというなら別のお店でもいいわよ?なんなら日本料理の店でもいいわ。何しろデュッセルドルフは日本人も多いから日本料理の店も沢山あるのよ」

つくしは城の中にあるカフェテリアでお茶だけのつもりでいただけに、連れてこられた場所に戸惑った。
マリアにとても素敵なお店があるの、と車に乗せられ連れてこられたのは、ライン川の畔にある趣のある古い建物。
だがそれ以前に彼女の車に乗るには躊躇いがあった。
はっきり言って彼女は全く知らない人間であり、マリアを信用するに値する何かが欠けていた。だが大丈夫よ。別にあなたに何かしようなんて考えてないもの。ただ話がしたいだけよ。それに私のような立場の人間が罪を犯すと思う?私にも立場というものがあるわ。と言われ車に乗った。
そしてここはドイツ料理のレストランだ。だが周りに客はおらず、まるで二人だけといった雰囲気だ。

ドイツと言えば思い浮かぶのはウィンナーとザワークラウト(キャベツの漬物)といった程度であまり詳しくはない。
だがどこの国にでもその土地ならではの美味しい食べ物がある。以前出張で何度も訪れた東南アジアの国々でも、その土地独特の料理といったものを味わった。だから現地の料理を拒むつもりはない。けれど正直なところ、マリアと食事をして食べ物が美味しく感じられるのかと考えたとき、そうではないはずだ。

「私ね。あなたと話がしたいと思ったの。昨日は久し振りにツカサに会って懐かしさでついドイツ語で話し込んでしまって・・。後で考えて見ればあなたをのけ者にしてしまった。大変失礼なことをしてしまったと思ったの。だから今度あなたに会えたらちゃんと英語で話をしようと思ったのよ?だからこうしてまたすぐに会えて本当に嬉しいわ。私たち同じ男性を好きになった女同士ですもの。話は弾むはずよ?」

マリアはそう言ってウェイターに目配せした。するとソムリエがワインリストを見せに来てマリアはその中から何か選んだようだが、ドイツ語での会話はつくしには理解出来なかった。
そしてマリアは二人だけになると、緑の瞳でつくしの目をじっと見つめた。
だがその目つきは親しげに話す言葉とは裏腹にどこか小馬鹿にした目つきだと感じていた。

副社長がかつて付き合っていたマリアから声をかけられ、有無を言わせぬ口調でお茶に誘われたが、マリアの放った言葉に興味がなければ彼女の誘いには乗らなかった。
何故なら、好きになった人のことに興味を持たない女はいないはずだ。
それに彼女は昔の恋人である道明寺司にやり直しましょうといった言葉を放った女性だ。
それも、つくしがいる前で言ったというのだからある意味喧嘩を売られたようなものだ。

それに副社長がマリアを迷惑な女と考えているのなら、彼女を彼の傍に寄せ付けることがないように防波堤の役割をすることが秘書としての役割だ。
だから今のつくしは、はっきり言って、私生活と仕事の両方が同時に頭の上に降りかかって来たようなものだ。

だがそれならそれで別に構わなかった。
つくしは小さい時から依存心というものがなく、自立した人生を送って来た人間だ。
それは両親が頼りないこともあったからだが、大人になってからもその傾向は変わらず、もしかすると、自分が以前付き合った男性と上手くいかなかったのは、その自立心が旺盛だったことも関係あったのかもしれない。何しろ自分でも相手に甘える、頼るということが下手だということは性格上仕方がないのかもしれないが、こうしてマリアの誘いを受けたのは、自立心の旺盛さがそうさせたのだと感じていた。

いくら副社長と付き合うことに決めたからといって、あの人に頼った女でいるつもりはない。それに海外では大人しいと思われる日本人女性だが、だてに海外出張をこなして来た女じゃない。そんな思いが今のつくしの心の中に湧き上がっていた。
それに、マリアの話す言葉は、言葉としては普通に聞こえるが、その響きの中には傲慢さが含まれている。
だがマリアがどうしても話がしたいというのなら、食事をすることなど大した苦痛ではないはずだ。
しかしこれから交わす会話は、決して当たり障りのないものだとは考えてはいない。
だがだからと言って目の前の女性が何かするとは思っていない。せいぜい言葉での応酬といったことになるはずだ。





マリアが注文したのは、赤ワイン。
それは彼女の生家のワイナリーで作られたワインだと言われた。
そしてマリアは肉料理を食べながら自分の家の話を始めたが、オーストリアの侯爵家は先祖から受け継がれた広大な敷地を持ち、ワイナリーの経営からホテルといった観光事業を手広く手掛けているといった話をされた。

所謂それは、生家の自慢と世間話といった類のものだが、そんな話を訊きながらつくしは、出されたワインを口にしていたが、お酒があまり得意ではない女が大量に飲めるはずもなく、グラスの中身はなかなか減らない。
するとマリアはうちのワインはお口に合わないかしら?とつくしに向かって片眉を上げたが、その表情は明らかに気に入らないといった顔だ。

そしてこの調子では、長い食事のあいだでマリアが本題に入るまでどのくらいかかるのかといった思いがしていたが、生家のワインに自信を持つ女は、すでに何杯も飲み干し顔を赤くしていたが、ウエィターが空になったワイングラスに更にワインを注ぐと突然本題とも思われる話を始めた。

「ねえ。ミスマキノ。あなたツカサと結婚する気?」

何の脈絡も言われたその言葉につくしはどう答えればいいのか分からなかった。
するとマリアは、つくしがイエスともノーとも言わないことに緑の瞳を細め、言葉を継いだ。

「ねえ?あなたツカサがひとりの女に落ち着くと本気で思ってるの?彼のような男がひとりの女の傍で過ごせる男だと本気で思ってるの?それにあなた生活の為に働いているただの秘書でしょう?どう考えてもツカサや私とは住む世界が違うわよね?そんな女がツカサと付き合っているなんて過去にも聞いたことがないわ。それにあなたの家柄はごく普通の庶民だそうね?あら、驚いた?私は直ぐにあなたのことを調べたの。日本にもそれなりの家柄っていうのがあるでしょうけど、あなたは何もない家の娘で財産もないのね?でも私の家は何世紀も続いた一族で、あなたには想像もできないような大きなお城も持ってるわ。だから私のような女の方がツカサには相応しいのよ?それにあなたにはあなたに相応しい身分の男がいるはずよ?だからツカサは私に返してちょうだい。私は彼が欲しいのよ。どうしてもね」

とマリアは笑ったが、赤い顔は明らかに酔いが回っていた。

「それにね?ツカサが女性にモテるのはお金持ちで、あのルックスでセックスも上手いからよ?彼は女性を引き付けるものを全て持ってるの。だから女性が放っておかないの。あなたもその口なんでしょ?」

道明寺司が女性にモテるのは、そういったことが全てじゃないとつくしは思った。
だから反論しようとした。だが再びマリアが話し始めた。

「ねえ?あなたツカサとセックスしたんでしょ?彼、凄いでしょ?だってツカサはひと晩中だって出来る男だもの。それに彼とっても激しいから大変よね?」

と、笑いながらあっけらかんと言われたが、まだそういった関係ではない女の顔をマリアは目ざとく見ていた。

「まさか。あなたまだツカサと寝てないの?嘘でしょ?だって私は彼と出会ったその日にはもうベッドの中にいたわ。それから眠らせてもらえなかったわよ?それなのにあなた_」

マリアはそこで口を閉じた。
そしてどこか考えるような顔になりつくしには理解の出来ないドイツ語で何かを言ったが、その口調は美しく洗練された女性の口から出るに相応しいとは思えなかった。
だから言葉の意味は分からなくても、彼女が何かに酷く腹を立てていることだけは感じられた。
そして「あの男。そういうつもりなのね?」と小さく呟かれた言葉は英語だった。

つくしはマリアが口を閉ざしたのを見て取ると彼女に向かって言った。

「マリアさん。あなたの話から大きな歴史的価値のあるお城で育つ人は凡人には分からない暮らしをしていることは分かります。自分の出自に誇りを持っていることも分かります。
それからあなたは彼を返して欲しいとおっしゃいましたが、彼は物ではありません。返すも何もありません。それに返して欲しいならその理由はなんですか?今のあなたの話の中には何故彼を返して欲しいかといった言葉はありませんでした。それにあなたは彼に何を求めているのですか?お金やルックス・・性的なことだけが目的ならそれは人間として見るべきことではないと思います。私はそんなことで彼を見てはいませんから」

つくしはそこまで言うと、ちょっと失礼しますと言って席を立ち化粧室へと向かったが、今のような会話を交わした相手の車に再び乗ろうとは思わなかった。
それに姿は見えないが、ボディガードがついていることを思えば、帰りは心配していなかった。だからマリアからの誘いを受け入れたのも、見守られているといった安心感があり、いざとなれば何とかしてもらえる。そんな思いがあったからだ。
だからテーブルへ戻ったらデザートまで待たず店を出ようと思っていた。
それに、マリアに向かって言った言葉は彼女を怒らせてしまったはずだ。だが彼女も言いたい放題言ったのだから、つくしの言葉はマリアに比べれば控えめなはずだ。

だいたいマリアのように人を外見やお金といったものを基準に考えることがおかしいのだ。
人は人であり自分の目的を果たす為のモノではない。そんな思いから口をついて出たのは、批判的な言葉だったが、ふと、副社長の顔が浮かび、もし彼がここにいたとして今の場面を見てどう思うだろう。そんなことが頭の中を過っていた。







このレストランは古い趣のある建物だが、化粧室へ向かう廊下の壁に掛けられていた案内によれば、ここは昔、城だったと書かれていた。その古い建物を生かしたということなのか、化粧室は曲がりくねった廊下を進んだ遥か先にあることが分かり、急ぎ足で向かった。そして用を済ませ廊下を歩き出したところで、突然後ろから腕を掴まれた。




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