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2018
01.31

今日のこの日を 後編

「パパ!お誕生日おめでとう!」

「ああ。ありがとう彩。パパはお前がパパの誕生日を祝ってくれるのが一番嬉しいぞ」

司の顔に自然に笑みが浮かぶのは、家族の前だけだと言われ、特に子供たちの中で唯一の女の子である彩の前ではデレデレになる男は、手にしたワイングラスを目の高さに上げた。
そして家族だけで祝う誕生日の夕食のテーブルには、妻が腕に撚りをかけて作った料理が並んでいた。

それは、誕生日は定番となった赤飯から始まり、おろし大根とシソが乗った和風ハンバーグ。イワシのつみれ汁。肉じゃが。蓮根のはさみ揚げ。えのきのベーコン巻き。きんぴらごぼう。豚肉と小松菜の炒め物。卵焼き。そして甘さ控えめの紅茶のシフォンケーキが焼かれていた。
それらは、どれもごく普通の家庭料理。
だがそれこそが司にとっては食べたい料理だ。

特に外食が何日も続いた後で口にする卵焼きは、出汁と卵の分量が絶妙で、それが司にとっての「家庭の味」の原点と言える味となっていた。
そして高校時代、妻が作ってくれた弁当は、司にとっては見たこともない衝撃的なものばかりが入れられ「これ。食べれるのか?」と訊いたことがあった。
中でも特に衝撃的だったのは、イソギンチャクと呼んだえのきのベーコン巻き。
それはとても人間が食べるものとは思えなかった。だが彼女が作った弁当の味は、それから彼の味覚の中では別格となった。

だが子供たちはいつも思う。
毎日でもいいからお前の作った卵焼きが食べたいという父親は、よく飽きないものだと。
そして母親は、コレステロールの摂り過ぎになるのではと心配していた。
なにしろ両親は、そういったことを気にしなければならない年齢なのだから。





「ねえパパ。パパに誕生日のプレゼントがあるの。受け取ってくれる?」

食事が落ち着いた頃、彩は父親に言った。

「ああ、勿論だ。彩からのプレゼントは毎年楽しみだからな。それで今年は何を作ってくれたんだ?」

彩は去年まで中学生だったこともあり、小遣いは少なく、彼女の中ではパパへのプレゼントは手作りが定番だった。
そして「初恋はお父さん」と言った娘から毎年贈られるプレゼントを大切にしていた。

幼い頃はクレヨンで書かれたパパの似顔絵が定番。
それが毎年贈られ上達していく様子が嬉しかった。
だから額に入れ執務室の壁に飾った。
そして小学生になると、フェルトという柔らかい布で作られた動物のマスコットに代わり、パンダだというそれが執務室のデスクの上に飾られたが、パンダには見えなかった。
そして毎年贈られるマスコットが6つになると、ガラスケースに収められキャビネットに飾られた。

やがて中学生になると、手作りのクッキーといったお菓子に変わり、母親から作り方を教えてもらったクッキーは懐かし味がした。
そして去年は手編みの青いマフラーをプレゼントされた。だが、娘が編んだそれは、どちらかと言えば下手な部類に入る。だがたとえ編み目が揃っていなくても良かった。父親というのは、娘がくれたものならどんなものでも嬉しいもので、カシミアの黒のロングコートに喜んでそのマフラーを使っていた。
そして周囲に自慢して歩き、今年は何をプレゼントしてくれるのかを楽しみにしていた。

「じゃあこれからプレゼントを渡すから付いて来てくれる?ママも一緒よ!」

彩はそう言うと父親と母親を別の部屋へと連れて行った。
そして圭と蓮も一緒だ。
そこは、大画面で映画が見たいと言った子供たちの願いに整えた、最新の音響システムを備えた通称映画ルームという部屋。だが司がその部屋で映画を見たことはなく、殆どと言っていいほど足を踏み入れたことがなかった。

何しろ道明寺邸には、司が足を踏み入れたことがない部屋が幾つもあり、何のための部屋かという部屋が数多く存在していて、そんな部屋を妻が子供たちを探して走り回っていたことがあった。
それはどういう訳か子供たちは狭い所が好きで、鬼ごっこをして使われていない部屋のクローゼットの中に隠れ、そのまま寝入ってしまったことがあり、その時は誘拐されたのではないかと大騒ぎになった。

そんなことを懐かしく感じるようになったのは、彼自身が年を取ってきたこともあるのだろう。だが誕生日を迎えること。年を取ることが嫌だということはない。なぜなら、彼の傍にはいつも愛する人がいるからだ。
そして永遠という時の流れの中で、一度しか出会うことが出来ない人との出逢いが家族を生み出した。
だが人生というのは時として残酷で、司が彼女のことを忘れ17年という歳月が流れ、その間二人は別々の道を歩んだ。
けれども、時の流れは再び彼女を連れて来ると、こうして家族を持つことが出来た。
そして今では思い出は二人が再会してからの方が多く、離れていた時間を忘れさせてくれた。



「パパはここに座って。それからママもパパの隣に座って」

彩にそう言われた二人は、大画面に向かい合うように置かれたソファに腰を降ろした。

「じゃあこれから始めます。パパ。これはあたしとお兄ちゃんたちからのプレゼントなの。楽しんでね!」
「彩。明かり消してもいいのか?」
「うん。お兄ちゃんお願い」

その言葉に部屋の明かりが消され、暗くなった部屋の、巨大な画面に表れたのは、
『ある愛の歴史』のタイトル。
やがて映し出されたのは、彼らが住む道明寺邸のとある一室。
そこにいるのは、くるくるとした髪の背の高い少年と真っ黒な長い髪の少女。
その二人が睨み合っていた。











『バカにしないでよ!あたしを品物みたいに買おうっていうわけ!?あたしはお金で買える女じゃないわ!』

『貧乏人のくせに自分を何様だと思ってるんだ!俺は道明寺財閥の跡取り息子だ!金で買えないものは世の中にひとつもねぇんだ!』

『ふん!あたしは無印良女よ。そのへんの女と一緒にしないで!何でもお金で買えると思ってるなら大間違いよ!』

少女はそう言うと大きく音をたて扉を閉め出て行った。
そしてそれを見送る少年の姿があった。

そして次に映し出されたのは、英徳学園の中庭の風景。
そこにいるのは、先ほどの少年と少女。

『俺のどこが不服なんだよ!俺ほど完璧な男がこの世の中にいるっていうのか!?』

『あんたのその変な髪型がいや!それに偉そうに私服で練り歩くところがいや!その自意識過剰な性格も、その蛇みたいな目がいや!あんたなんて大嫌いっ!』

『なんだとぉ!この貧乏女が!』

『うるさい!あんたなんて大嫌いっ!』

そして少女は少年を置き去りにして走り去った。
それから暫く映し出される映像には、互いを激しく罵り合う少年と少女の姿があった。
それは、相手の顔が見えなくても敵意を抱く二人の姿。
性格、考え方、価値観がことごとく合わないと言われていた二人。
だが「好き」と「嫌い」は紙一重。
いつの頃からか、少年は彼女のことを愛おしいと感じ、彼女の長い黒髪に手を触れたい。
その唇にキスをしたいと思うようになった。
すると、少女も少年のことを好きだと思うようになり、ある日隣に立つ背の高い少年の顔を見上げたとき、彼の目には今まで見たことがない優しさがあった。そして大きな手がそっと彼女の髪に触れたとき、彼の顔に浮かんだ笑みに心が大きく揺れた。

やがて徐々に二人の距離が近づくと、二人は心を通じ合わせ互いを思いやるようになり、暫くすると、揃って歩く姿が目撃されるようになった。
だが次の場面では、夜を濡らす雨の中、傘もささずに見つめ合う二人の姿があった。
そして映像はそこで終わっていたが、あの時の少年が言葉に出来ない切なさといったものがあることを知ったのは、それから随分と後のことだった。






若い頃の司とつくしに顏も背格好もそっくりな蓮と彩が両親の高校時代を演じた映像。
制服を着た少女が、少年から逃げ回る姿が面白おかしく演じられ、さまざまな色と光りの間を駆け抜けていく姿があった。それはまさに若い頃の自分達の姿。短かった青春。
そしてそこにはかつての司と同じ少年の瞳があった。
それは好きな女を見つめる男の真摯な瞳。
それが彼女に向けられたとき、彼は彼女を一生愛すると誓った。
だが高校生の二人はまだ幼く、運命が彼らに残酷な面を残していることを知らなかった。

司が港で刺され、生死の境を彷徨い、彼女のことを忘れ17年の歳月が流れるということを。


だが少年時代の司の姿は、すぐに54歳の己の姿に重なった。
欲しいものを欲しいと言わなくても簡単に手に入れることが出来た男。
与えられることに慣れていた男が努力して掴んだのは、初恋の人の心。
そしてその人は今は男の隣にいて、彼の彼女に対する想いはあの当時と変わらず、今も彼女を心の底から愛していた。



子供たちは、父親が母親の肩に腕を回し引き寄せる姿を見た。
そして母親が父親の肩に頭を寄せた姿に、そっと部屋を後にすると、静に扉を閉めた。

「それにしても花沢のおじさんが言ってたけど、昔の父さんって相当酷い男だったんだよな。それに俺、父さんの役をやって初めて知ったけど、父さんってあの外見から確実にSだと思ったけど実はMだってこと。信じられねぇけど、どう考えても父さんMだよな?」

「蓮。お前、今頃気付いたのか?今の父さんの母さんに尽くす姿を見ろよ。どう考えてもMだろ?MもM。ドMってヤツだ。それに高校時代の母さんは嫌がってるように見えたけど、あれで案外楽しんでたはずだ。つまり、父さんをいいように弄んでたってこと」

圭は大学生で大人だ。
父親の一連の言動から、父親が母親には絶対服従に近い男だということをとっくの昔に気付いていた。

「それって裏を返せば母さんはツンデレな少女だったってことだろ?父さんそんな母さんを好きになったってことか・・なんかやっぱ信じられねぇよ。道明寺司って言えば、鋭いナイフのような頭脳を持つカリスマ経営者って言われてる男だぞ?絶対に笑わないって言われてるような男だぞ?そんな男がM?・・けど俺たちが生まれてるってことは母さんも受け入れたってことだよな・・」

「そういうことだ。それに今でもあの夫婦。あの頃と同じってことだ。まあ夫は妻がツンデレでもそれでいいんじゃねぇの?それが父さんの好みで、あの夫婦がそれで円満に過ごせるなら」

圭と蓮はあの夫婦と呼んだ自分達の両親が互いを思いやる姿を知っている。
そして朝から頬を赤く染めた母親の姿を目すれば、夫が妻にあらゆる努力を惜しんでいないことを知る。

「ねぇ蓮お兄ちゃん。MとかSとかって何?パパの洋服のサイズMじゃないわよ?」

「え?ああ・・。まあな・・。違うけどいいんだ。あの夫婦はあれで」


子供たちが父親にプレゼントしたのは夫婦の懐かしい思い出だ。
遥か遠い昔の少年と少女の出会い。その出会いは過酷な時もあった。哀しい後悔があったと訊く。そして閉ざされた父親の記憶の中にいたという母親。
だから若い頃の二人が一緒に写った写真は一枚もなく、恋だ愛だと囁く時間は少なかったと言われている。
だが二人は今、こうして自分たちの親としてここにいる。
二人が乗り越えてきた時間と共に。



街の灯が誰かを幸せにしているように、子供たちの幸せは両親がいつまでも健康で長生きしてくれること。
そして二人が喧嘩をしたとしても、すぐに仲直りをしてくれることを望んでいた。
だが彼らの両親のうち、瞬間湯沸かし器のように頭に血がのぼるのはいつも父親で、そんな父親は我儘を言って母親を困らせ17歳の少年のようになる男だ。そしてそんな少年のような父親に、「男っていつまでたっても子供なんだから」と笑う母親。
それが彼らの両親。そんな二人の顔には優しい微笑みが浮かんでいるはずだ。











「あいつら。いつの間にこんなモン作ったんだ?お前は知ってたのか?」

大画面の中で繰り広げられているのは、少女がひたすら逃げ回っている姿。
それを大きな男が必死で追いかけるが、少女は逃げ足が速くて捕まらない。

「うん。航から圭たちが司の誕生日に何をプレゼントしていいか悩んでるって聞いてたから。それに類から圭があたし達の高校時代の話を訊きたいって言ってるって連絡があったの」

つくしは類からの電話で、圭が両親の出会いをドラマ仕立てに再現して父親に見せるから、馴れ初めを教えて欲しいと言われ話をした。そして詳しいことは自分の母親に訊くように言ったと連絡を受けた。だから子供たちに自分達の出会いについて話しをした。そして父親そっくりな我が子のひとりである高校生の蓮が司を演じ、娘の彩がつくしを演じた。

「それに学園の中を走り回るんだって許可をもらったし、子供たちだけで雨の降る夜に外であんなことさせられないでしょ?それからあんな言葉。司とあたしの会話なんてあの子たちが知るはずがないじゃない?」

「ああ。それもそうだな。しかし高校生の頃の俺はあんな酷い男だったか?もう少しお前に優しかったはずだ」

「え~?よく言うわね?あの通りよ!あの通り!出会った頃なんて本当に酷かったんだからね?忘れたとは言わせないからね!ホント、相当酷かった!」

「フン・・。大昔のことなんてとっくに忘れた」

「もう!自分に都合の悪いことはすぐ忘れるんだから!」

だが司は忘れてはいない。
彼女とのことならどんなことでも覚えているし、何年経っても出会った時の煌めきが消えることはない。好きな人に手が触れたのがいつだったが覚えている。それに初めてキスをしたのはいつだったか。初めて結ばれたのは勿論のこと、彼女のことならどんなことも見逃すことがないようにしていた。

だが予期せぬ出来事で当時付き合っていた少女のことを忘れた。
だから二人の青春時代はたった1年。郷愁に浸るとすれば、たった1年の間に起きた出来事しかない。出会い、喧嘩をし、絶交をし、恋じゃない、好きじゃないと言われた雨の夜があった。失恋の痛みを経験したかくも懐かしき高校時代。

子供たちは、その頃の自分達の姿を映像として見せてくれたが、あの頃、何億、何十億、何百億、何千億と積まれようが、彼女を手放すなど考えられなかった。彼女を待つだけで愛しさを感じた時間があった。

「それから航は今忙しくて行けそうにないからごめんって」

「そうか・・。あいつももうすぐ子供が生まれるんだ。今は俺の誕生日なんかよりそっちの方が大切だからな」

航はアメリカで3本の指に入ると言われる資産家の娘と結婚し、まもなく初めての子供が生まれることもあり、心配でNYを離れることが出来ないと分かっていた。それに航にとって初めての子供ということは、司にとっての初孫であり、自分がお爺ちゃんになることがまだ信じられないが、家族が増える歓びは何物にも代えがたい歓びであり、孫の誕生が待ち遠しく早く孫に会いたいと願い、抱きたいと思っていた。

そんな司は怖いくらい幸せを感じていた。
だが人生を試されたこともあった。
挫けそうになったこともあった。
だがそれが人生だということを知ったのは、彼女が傍にいてくれたから。
もしそうでなければ、司の人生は彼女を忘れ冷たい鉄のレールの上を走るだけの人生だった。
だが今ここにあるのは、永遠に結ばれることを約束した二人の気持ちだ。

「・・つくし・・お前は俺が都合の悪いことは忘れるって言ったが、俺はお前のことで忘れたことなんてねぇ・・どんな些細なことでも覚えてる。死ぬまでずっと覚えてるはずだ。それに100まで生きても今日のこの日も絶対忘れねぇからな」

今日という日はもう二度と来ない。
だからその日を目一杯幸せに生きる。
そして人間は生きていく上でたったひとつのことが生きる支えになることを司は知っている。

たったひとつ。

ただひとりの人が__。


その人は彼にとって唯一無二の存在。
ただひとりの大切な人。
世の中を生きていく上で、ただひとりの人が傍にいればそれで充分。
だから、たったひとり。彼女がいてくれればそれだけで幸せ。
二人が辿り着いた場所がどこであろうと二人一緒なら強くなれる。
手の温もりはいつもそこにあり、探していたものは全てここにあり、本当の愛の形は家族と過ごす時間だと教えてくれた人。
そしてこれからも、二人の前に未来は永遠に続いているのだから、見つめ合えるその人と子供の成長を見守り、幾千もの夜を過ごし、日々の暮らしに移ろいを感じ生きて行く。

彼女がすべて。彼女がいるから生きていける。生かされている。
人生が二度でも三度でも、何度巡って来ても彼女と出会うはずだ。そして何度も巡って来る幸せな時間を共に過ごす。
その思いを心に噛みしめている男は、自分が生まれた日を共に過ごしてくれる人に巡り会えたことを心から神に感謝していた。

そして肩にもたれかかる妻の唇にキスをした。

いつもありがとう、つくし。心から愛してると囁いて。



< 完 > *今日のこの日を*

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今日のこの日、司坊ちゃんお誕生日おめでとうございます。
いつまでも魅力的ないい男でいて下さい。
そして幾つになってもつくしちゃんと末長くお幸せに!^^
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2018
01.30

今日のこの日を 中編

『美味しいを分け合いたい。お袋ならそう言うだろうな。あの人は食べものを美味しく食べることが出来ればそれでいい人だから。けど、親父は食べ物に対してお袋とは比べものにならないほど興味がない。それに親父の場合食事は生きる為に仕方なく食べてる人だから自分の妻が作る料理以外はどうでもいい。世間でどんなに美味いと言われている食べ物にも興味は示さない。だから食べ物は止めたほうがいい。
それにその日のお袋は親父の好きな卵焼きとか、えのきのベーコン巻きだとかを作るに決まってる。だからお前たちは食べ物以外の何か別のものを考えた方がいいぞ?』

NYの航はそう言って一番上の弟である圭からの電話に応えた。

「・・・じゃあ何にしたらいいんだよ。毎年考えるともう思いつかなくなるんだよ。ネタ切れだよ。兄さん何かアイデアくれよ?」

『そうだな・・・。親父の喜びそうなものか・・。だけど俺は親父と暮らした時間は短いからな。正直親父が何を喜ぶかってことは分からないんだ』

航は高校生になってから自分の父親が道明寺司だと知り、それから世田谷の邸で暮らしたが、その期間は短く高校を卒業すると大学はNY。そして卒業後は道明寺NY本社の仕事を始めたこともあり、父親と暮らしたのは2年間。だから父親の細かい好みは知らなかった。

『まあ、間違いなく言えるのは、親父が喜ぶっていったらお袋絡みのこと以外ないからな。お袋が喜べば自分も嬉しい。それが親父だ。親父の幸せの基準はお袋だからお袋が幸せならそれでいいって人だ』

圭は航の話に頷いた。
彼が知る家での道明寺司は、書斎で仕事をする時以外、いつも母親の姿を目で追っているからだ。
そして偉そうに何か言うが、後でこっそりそのことの言い訳をしていることも知っている。

そして圭が今よりも幼かった頃こんな話があった。
母親が銀座のデパートのバーゲンセールに行くと言えば、反対した父親。
だが顔を曇らせた母親を見た父親は態度を変え、お前がどうしても行きたいならと言い、それから俺も一緒に行くと言った。
だがあの道明寺司がリムジンにボディガードを引き連れて行くものだから、デパート側は厳戒態勢を取らざるを得なくなり、客は入口で入店を規制される状態が発生。
そんな店内は、客がおらずガラガラで開店休業状態。
そしてそんな状況に、

「これじゃあ人混みに揉まれて掘り出し物を探す楽しみがない」
と言った母親。

「それならデパートごと買ってやる。そこで掘り出しものを探せばいい。ただし人混みは駄目だ。女はいいが男がお前の身体に触れるかもしれねぇから」
と言う父親。

そして呆れる母親という構図があった。

圭はそんな会話をする中年夫婦を見ながら成長した。
つまり圭たちの父親は誰よりも何よりも妻が大切。
そしてつまりそれは、妻は子供たちよりも上の存在。
だから父親が母親のことを愛し過ぎておかしくなったのかと思ったことがあった。

それはある日父親が呟いた言葉だ。

「俺は妖精に見放された・・」

小さなその呟きに一体父親に何が起きたのかと思ったが、丁度その日母親は、亡くなった父方の祖父の法事で北陸へ泊りで行っていた。そんな状況の中、まさか父親の口から妖精というまったく似つかわしくない言葉が出るとは思いもしなかったが、寂しそうな背中に妖精は母親のことであり、聞き間違いではなかったのだと確信した。なぜなら、翌日、妖精に見放されたと言った父親は、母親が戻って来た途端、暗い淵の底から這い上がってきたターミネーターのような不死身の男になっていたからだ。
その瞬間、父親にとって母親はかわいい妖精で、父親は自分だけの妖精を守る不死身の男だったのだと確信した。

だがだからこそ、航の言った親父はお袋が幸せならそれが幸せ、という言葉が信じられるのだが、今では人工衛星すら持つ父親。もしかすると空の上から母親を見ているかもしれない。
いや。かもではない。
断定していいはずだ。
絶対にやっているはずだ。
確実にやっているはずだ。
何しろ自分達の父親は、あの道明寺司なのだから。
だからこそ、そんな父親の誕生日に何をプレゼントすれば喜ばれるのか悩んだ。
だが圭はようやく考えが纏まった。
そしてこれなら父親が喜んでくれることは間違いないという自信を持ち、弟と妹を部屋に呼んだ。


「ねえ。圭お兄ちゃん。それでパパの誕生日のプレゼント、決まったの?」
「ああ。決まった。けどそのプレゼントは彩の協力が必要だ。それに蓮も」
「俺も?」
「ああ。これは俺たち三人で父さんに贈るプレゼントだ。だから当然三人が力を合わせる必要がある。それにこれは今の俺たちじゃなきゃ出来ない贈り物だ」

圭はそう言って弟と妹と頭を寄せ合った。




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2018
01.29

今日のこの日を 前編

こちらのお話は『いつか晴れた日に』の道明寺ファミリーのお話です。
登場人物は『いつか晴れた日に 番外編2』に登場した子供たちと両親。
司の誕生日のひとコマです。
**********************************







「おい。父さんの誕生日だけど、プレゼント何にする?」
「・・そうだな。毎年のことだけど、父さんは何でも持ってるから困るんだよな」
「じゃあパパは何が一番喜ぶの?」
「そりゃあ母さんからのキスだろ?でもそれは母さんからのプレゼントであって俺たちからのプレゼントじゃないからな・・」
「だよな・・。でもさ、あの父さんが未だに母さんからのキスを強請るって、子供の俺の目から見ても異様だぞ?いいか。冷静に考えてみろ?クールで苦み走ったいい男と言われるあの道明寺司が、母さんの前ではデレデレだ。あんな顔世間に見せたらこの先の日本経済が危ぶまれるって言われるのは確実だ」
「それマジ?」
「・・・ああ。多分な・・・」







道明寺家には4人の子供がいる。
1番目の男の子は航(こう)と言い、男の子という呼び方をするには無理がある30代後半。
彼は道明寺HD、NY本社で副社長として働いている。
そして随分と年が離れてはいるが2番目の男の子の圭は大学3年生。
その下の蓮は高校3年生。
そして4人の子供たちの末っ子は、子供たちの中で唯一の女の子で高校1年の彩。
その4人の子供たちのうち、世田谷の邸の一室で頭を寄せ話しているのは、航を除く三人の兄妹たちだ。

航は年が離れていることもあるが、NYで生活していることもあり、彼らが頭を寄せ合う場所にいることはない。それに彼らが幼かった頃からすでにNYで暮らしていることもあり、兄というよりも叔父さんに近い存在だ。

そしてそんな航はまるで判を押したか、同じ鋳型から作られたとでも言うように父親とよく似ているが、2番目の圭も3番目の蓮も何故か皆父親によく似ていて、両親のどちらの遺伝子が強いのかを如実に表していた。

だが末の娘だけは、母親の特徴を受け継いでいるのは間違いなく、黒い大きな瞳と真っ直ぐな黒い髪は父親にとっては若い頃の妻の姿を見ているようで、懐かしさと娘愛おしさで目に入れても痛くないほどの可愛がりようだ。
つまり、娘に対しては過保護な父親ということだ。
そして、娘が産まれた時、絶対に嫁にはやらねぇと言い切った父親だった。

だが何故航と他の弟妹との間にそんなにも年の開きがあるのか。
それは、彼らの両親の間に起こった物語があるからだ。

彼らの両親がまだ高校生だった頃。母親は父親に自分のことを忘れ去られた事があった。
その年月は実に17年にも及び、その間、母親は身ごもっていた長男の航をひとりで産み育てた経緯がある。そして父親である男が彼女のことを思い出したとき、再び二人の恋は始まった。やがて結婚した二人の間には、ふたりの男の子とひとりの女の子が誕生した。
そして、二人の間に生まれた子供たちは、子供にはめっぽう甘い父親と、躾には厳しい母親に見守られすくすくと成長していた。

そんな彼らが毎年悩むのは、父親の誕生日のプレゼントだ。
何故なら父親である道明寺司は、この世の中で手に入らないものは無いと言われるほどの金持ちだからだ。
だがその言葉にいつも反論するのは母親だ。

『世の中にはお金では買えないものがあるのよ』

いつも子供たちにそういって教育をしてきた彼女は、貧しいと言われる家庭で育ったが、お金に大きな価値を置く人間ではなかった。
貧しければ貧しいなりに工夫をすることを学び、生活の知恵といったものを身に付けると言われ、彼らに与えられる小遣いは大財閥の子どもたちにしては少額であり、その中でやり繰りすることを学ばされた。

だがかつて父親は、金で母親の気を引こうとしたことがあったという。
しかしそんな父親に振り向きもしなかった母親は、それから自分を追いかけ回す父親から逃げ回っていたとういうのだから、何故そんな母親が自分達の父親と結婚したのかが未だに疑問として子供たちの頭の中にある。

それでも、今の父親と母親の姿を見れば、そんな話は嘘ではないかというほど仲が良い。
たとえば、父親が母親に向かって何か言っている姿を目撃する。
多分それは、子供たちに小遣いとして毎月決まった金額しか渡さないと決めていたはずだが、夫がその決まりを破ったことが発覚し、妻に咎められた時だ。

すると父親は、自分に都合のいい理由を並べるが、母親の眉間には皺が寄る。
そして父親は、そんな細かいことを言うなと不機嫌になる。
その態度に母親はすっと席を立って部屋から出て行く。そして暫く経っても母親が部屋に戻ってこなければ父親は探しに行くのだが、広い邸の中を探し回り名前を呼び、見つけると拘束し、俺の相手をしろ、傍にいろといった態度を取るのだが、そんな夫に妻である母親は呆れてはいるが、それでも夫の我儘にも付き合うのだから、夫婦のことは夫婦でなければ分からない、という世間の言葉は本当なのだと兄妹たちはいつも思っていた。


そして結論としていつも思うのは、自分達の父親と母親は仲が良いということだ。
そんな父親の誕生日が間もなく来る。
1月31日は、道明寺財閥当主であり道明寺HD社長である道明寺司の54歳の誕生日。
欲しいものは何でも手に入れることが出来る男の誕生日に今年は一体何をプレゼントすればいいのか。
三人の子供たちは考えたが思い浮かばず、NYにいる一番上の年の離れた兄に相談することにした。




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2018
01.28

恋におちる確率 55

黒のロングコートの裾をはためかせ颯爽と歩く男。
いい匂いがして、一連の動きがスマート。
人種を問わず愛される男はどこにでもいるが、長い間外国に暮らすと、目に見えないその土地の空気を纏っているように感じられるが、つくしから見た道明寺司はまさにそう感じられた。

だからドイツにいても、その場の空気にも当然のように馴染み、マリアのような大柄のヨーロッパ女性の傍に立っていても違和感は無かった。それどころか、エキゾティックさが感じられたほどだ。
そんな男を好きになったが、簡単に気持ちを言葉できないのが今までのつくしだ。
だが今は違う。
『あのとき、もしも・・』
そんな言葉は使いたくないはずだ。それに言わなかったことで後悔はしたくない。
そしてつくしは、車を降りてからずっと同じことを考えていた。
今の自分が何を望み、何が欲しいのかを。



『好きだ』

それは荒い声ひとつたてずに獲物を射すくめる能力を持つ男の放った言葉。
そして初めて男性から言われた言葉。
今まで仕事だけを励みに生きて来た。確かな仕事がしたいといった思いから道明寺に入社した。他人に迷惑をかけることのないように自分の足で立ち生活してきた。

けれど今まで覚悟を決め、自分から何かにぶつかったことはない。
その何かとは恋のことだが、一度だけ付き合った人にはぶつかって行った訳ではない。
それにあの時は、つくしの乏しい反応とノリの悪さにイライラとした男がいた。

だが今は違う。相手は副社長という神々のフロアにいた雲の上の存在。
その人にぶつかっていこうと思う。いや。恋はぶつかっていくという言葉とは違うような気がするが、何しろ相手は強烈なカリスマ性を持つ男だけに、ぶつかっていくが相応しいような気がする。

それにこの人となら、まだ手にしたことがない本当の恋が出来そうな気がする。
ただそれは、普通の恋ではないのかもしれない。何しろ平凡を生きてきた女は、キスも下手なうえにそこから先の経験がない。愛し方を知らない。
それならそのことを話した方がいいのだろうか。
何しろ相手は経験豊富と言われるのだから、もしかすると未経験な女は面倒だと思うかもしれない。腐りかけた女か、と笑われるかもしれない。

こんなことなら久美子の恋愛講座をもっと真面目に訊いておけばよかったと思う。
それに相手は映画の世界で言えば主役だ。トップスターだ。それも国際的大スターだ。
けれど、その相手役は端役さえも射止めたことがない女。いくら女は女優だといっても、つくしが相手役を務めるには無理があるような気もする。

そして今こんなことを思うのは、あのキスがきっかけになっているはずだが、自分の心が求めるのは確かに副社長なのだから、ちゃんと自分の気持を伝えるべきだ。
そしてそう思う女の頬が火照っているのは、決して部屋の暖房のせいではない。それは、これから好きな人に私も好きですと告白するからだ。それに今言わなければ、いつ言うというのだ。
もし久美子がここに居れば、

『今でしょう!?今言わなくてどうするのよ?つくしは思ったことを心の奥に溜め込む性格なんだから、さっさと口に出さなくてどうするのよ!?』

と言われるはずだ。





「どうした?何か言いたいことがあるなら言ってくれ。ジェットの準備が出来次第出発する」

コネクティングルームと繋がったリビングの入口に立つ男のその言葉に、つくしはハッとし我に返った。
そうだった。相手はこれからスイスへ飛ぶというのに、秘書が時間を取らせてどうするというのか。それなら早く言わなければならないはずだ。

「あの。さっきの話ですが__ええっと・・ふ、副社長が私のことが好きだとおっしゃった件ですが・・・」

「ああ。どうした?その話ならスイスから戻ってからでいい」

と、言って腕時計に目を落した男は、つくしが扉の向うへ消えるのを待っているのだ。
だがつくしは今、ここで自分の気持を伝えたかった。だがそう思えば思うほど呂律が回らないわけではないが、思うように言葉が出なかった。それでもなるべく普段と同じように話そうとしたが、そうなると話が支離滅裂になるような気がして、やはりスピードを落とし話すことにした。

「あの。私・・今まであまりいい恋愛をしてこなかったこともあって・・いえ。ちゃんとしたお付き合いをしたことがなくて・・いえ。違います。勿論男性とお付き合いしたことはあります。でもその・・なんと言えばいいのか相性が悪かったのか、考え方が違い過ぎたのか・・いえ・・そうではなくて、別の人間ですから考え方が違って当然なんですが・・だから・・・」

そこまで言うと、部屋の入口に立っていた男がつくしの傍へ近づいた。そして見上げる格好になった彼女を覗きこんだ男の目は、話し始めた彼女を正視し先を促すのだが、あれこれ言葉を捏ね繰り回す様子を笑っているはずだ。

「だからどうした?」

「えーっと、だから・・」

「だから?」

「はい。私も副社長のことが・・」

「私も?」

何だか、同じ言葉を同じ調子での繰り返しでこれでは話が前に進まない。けれど、どうしても最後の好きですという言葉を口にするには勇気がいった。だが相手はとっくにつくしの気持に気付いているのか笑い出していた。

「牧野・・そう言えば、マリアの前でキスするとき、好きだって言わなかったな。普通好きな女に唇を重ねる時はそう言うはずだ。だからあの時の分は今言っとく。好きだ。お前が。で?」

「で?・・ですか?」

既につくしの気持に気付いている男は、敢えて彼女に訊いていた。
それは彼女の心を解き放つため。そして彼女に自分自身の気持を認めさせるためだ。
だから司は言わせたかった。いや。言わせるつもりだ。彼のことが好きだと。そして言って欲しかった。
だが大きく目を見開いた女は、しどろもどろになる話をこれ以上しても無駄と分ったのか、司を見上げたまま黙った。

「お前俺に言いたいことがあるんだろ?俺がスイスに行く前に言っておきたいんだろ?だからこうして話してんだろ?俺はちゃんとお前の口から出る言葉が訊きたい。それからいい恋愛をしてこなかったって言うなら、これから手順を踏んだいい恋愛をすればいいだろ?」

そこまで言われたつくしは、黙り込んだままではいられなかった。
それに言うと決めたはずだ。海外で仕事をすれば、ベビーフェイスと言われて来たが、子供ではないのだから、言わなくては相手に思いを伝えることが出来ないことを知っている。

「あ・・の。私も好きです・・副社長のことが」

「そうか。じゃあ、あらためてキスだ。これが恋の手順その1だ」

真面目なのかふざけているのか分からなかったが、恋愛のエキスパートと言われる男にそう言われれば、そうなのだろう。
じゃあ行って来る。と言われ、緩く笑いの形にカーブを描いた柔らかくも硬くもある唇が重ねられ二つの影が重なったが、それがつくしの恋のスタートだった。
そして首から耳までが赤く染まった女は息をしろ、と言われ、自分が息を詰めていたのを知り笑っていた。




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2018
01.27

恋におちる確率 54

車内は薄暗くても互いの顔ははっきと見え、隣に座る男の彫の深い顔に陰影を感じることが出来る。
そしてその顔が冗談ではなく本気と取れる表情を浮かべているのは気のせいではない。
それは道明寺司という男のたぐい稀な造形美の中で誰も見たことがない表情。
そしてそんな表情を見た女の顔に浮かんでいるのは、驚きと戸惑いと沈黙だ。

司は、牧野つくしと出会うまで恋をしたことがない。
それに男女の駆け引きというものを経験したことがない。
それは、彼が駆け引きをする必要性に駆られたことがないからだ。だが、もしそうなったとしても、自分が優位に立てる。相手を焦らすことが出来ると考えていた。
だがその考えは間違いだ。今の司は焦らされているのは自分だと感じはじめていた。

それは首を引き寄せられキスされたことからだが、舌は逃げ隠れてしまうといった決して上手なキスとは言えないキス。だが女の突然のその行動が、男の劣情を煽ることを知っているのか。だがとても彼女が知っているようには思えなかった。
恐らくあのキスは、仕事だから。といった意味でしたに過ぎない。

そして突然目の前にマリアが現れたことに、じわり、と心に喰い込む何かを感じ、嫌な匂いが残った。それはマリアがつけていた香水の匂い。その匂いがまだ感じられるが、それがマリアという人間を表しているとすれば、率直な言葉を話すあの女は、つけていた香水の名前通り毒をまき散らしに来たような女だ。そんな女に牧野つくしが立ち向かうことが出来るはずがない。

マリアの出現は嘘から出た実と言わざるを得ないが、あの女は、牧野つくしを排除しようとするはずだ。
だから牧野つくしをゆっくりと恋におとす時間は無くなり、状況が整おうが、整わまいが関係ない。あの女が彼女に近づく事を阻止することが、今の司がしなければならないことだ。


遊びでするキスなら数えきれないほどした。
それは中等部時代、近づいてくる女たちと交わした多くのキス。
だがキスをしたからといって、その女たちに気持ちがあった訳ではない。
ただ求められたからのキスで自らが求めたものではない。だが牧野つくしからのキスなら何度でも交わしたい。いやそれ以上のことをしたい。
愛し合いたい。
愛を交したい。
彼女に全てを与えたい。

そう思う司の表情が少しずつ緩み、結んだ口元に薄く笑みが広がり、顔の緊張を緩めた。
だが牧野つくしは、彼の言葉が信じられないのか、驚きを張り付けた顔はそのままだ。

「牧野。俺の言葉は理解出来たんだろ?俺はお前を好きだと言った。それならそれに対しての返事ってのを聞かせてくれないか?お前は俺のことをどう考えている?」

司はつくしの反応を窺うような目で彼女を見た。
彼女は司のすぐ隣に座っているのだから、質問をかわすことが出来ない。
そしてその近さから相手の鼓動が感じ取れ、脈拍まで感じとれたとしてもおかしくない。
実際牧野つくしは、背筋を真っ直ぐ伸ばし、キスの余韻を残したままの顔は頬が赤く染まり、下唇を噛んだその姿に血の流れまで感じ取れそうだ。

「あの・・副社長。私は__」

とつくしが言いかけたとき、司の携帯電話が鳴った。



つくしはその瞬間身を固くした。
車内に漂うのは、男と女の間に感じられる性的な空気。
だがそれを認めるのが怖い気がしていた。

つくしは道明寺司という男を好きになっていた。
だから私もあなたのことが好きです、と答えれば、この先どうなるのかといった思いが過る。
そして現実を見つめれば、副社長と平凡な秘書との恋など絵に描いた餅のようなもので、夢物語とか甘い夢と言われるはずだ。
それに相手は道明寺財閥の御曹司だ。
いくら久美子や先輩秘書が応援するからといったところで、叶えられるとは思えなかった。
そして傷つくのは自分であり、濃厚なキスとは逆の濃厚な絶望感といったものを抱えることは確実に予想出来る。

それならどうすればいいのか。
私はあなたのことは何とも思っていません。
キスをしたのは、あれは芝居ですと言えば済む話だ。
けれど、その言葉を口にすることは出来なかった。

いつも常識的な部分が多いと言われる女は、感情的な部分を忘れたのではないかと言われたことがあった。
それは短い間だが付き合った男性に、いきなりホテルに連れていかれそうになり断ったが、その時言われたノリが悪いという言葉。だがその人のことは周りに勧められ、相手の押しの強さに負け付き合い始めた人だった。
だが今は違う。
その男性には感じたことがない気持ちが、感情が道明寺司という男に対してはあった。

司は、鳴り続ける携帯電話を無視していたが、そのしつこさにタキシードのポケットから取り出し、液晶画面に目を落し舌打ちした。

「悪い。この電話には出なきゃいけない」

つくしは頷き前を向き、隣の男が会話を始めたのを訊いていたが、問われた答えを返す時間が先延ばしされたことに、考える時間が与えられたと思っていた。
だが、何を考えるというのか。いや、答えは出ているはすではないか。

「はい。__ええ。____そうですか。__分かりました」

そう話をする男の低い声に不機嫌さと苛立ちが感じられたが、隣に座るつくしはじっと動かずにいた。そして理性が感情を上回ると言われた女は、男の電話が終れば、口にする言葉を準備していた。

やがて電話が切られ、司がタキシードのポケットに携帯電話を突っ込んだ。

「牧野。これからスイスに飛ぶ。社長がダボスに居るが至急来いと言われた」

社長であり司の母親である道明寺楓は、毎年1月下旬にスイスのダボスで開催される世界経済フォーラムの年次総会であるダボス会議に出席しているが、その楓が息子である副社長の司を呼ぶことを決めたのは、一体どんな理由があるのか。

司は運転手にすぐにホテルに向かうように言うと、つくしの方を見た。
そして「あの・・」と言いかけたつくしを男は遮り話を継いだが、それは彼女の躊躇いの一瞬を読んだからであり、その瞬間、司は答えを待つことに決めた。

「牧野。行くのは俺だけでお前はいい。・・それからさっきの答えは後で訊かせてくれ。後って言っても俺がスイスから戻ったらでいい。その方が楽しみがある。ただ、お前のその顔を見てると、なんか知らねぇけど新堂巧の時のことを思い出すがな」

そう言われた言葉はどこか笑いを含んでいたが、自信めいたものが感じられた。
そして彼女の眉間に指を触れた。
「皺が寄ってるぞ」と言って。









二人はホテルに戻り、エレベーターで最上階のスイートに戻った。
そしてつくしは奥のコネクティングルームへ足を踏み入れるとき、後ろを振り返った。
そこにいるハンサムで頭がよく、自信に溢れた男に自分の気持を告げるために。




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2018
01.26

恋におちる確率 53

黒のリムジンは、司の指示でホテルに戻ることはなく市内を走っていた。
エンジンの音も振動も何も感じられない大型の高級車は、ただ静かに暗闇に包まれた道を走っているが、それはまるで足音を立てず忍び寄る猛獣のような慎重さ。
それは、中に乗っている人物の重要性を知っているからなのか。
運転席の男の隣にはドイツ人のボディーガードがひとり。そして後続の車にもドイツ人と日本人が別れて乗っているが、突然の予定変更に驚きはしなかった。
道明寺司がそうしろ、と言えばそうすることが彼らの仕事なのだから。
そしてリムジンの横を、緊急車両が派手にサイレンを鳴らしながら走って行ったが、その音が遠ざかると、車内には静寂が広がった。








「牧野。話がある」

「な、長いお名前ですね。マリアさん。シュタウ・・なんだか舌を噛みそうなお名前で一度聞いただけでは覚えられませんよね?」

後部座席に隣同士に座る男と女は同時に口を開いた。
だが二人とも互いの顔を見なかった。見れば目の動きと口の動きに気を取られてしまうから、その方がいいのかもしれない。
それに顔を見なければ、表情を知らなければ、互いの声だけに、言葉だけに集中出来るからその方がいいはずだ。

そして再び訪れた気まずい沈黙の時間。
だがそれは今まで何度もあった。
時に視線を合わせたまま、相手が何を考えているのかと思考を巡らせたことがあった。
それについ数時間前のリムジンの床でキスをした時もそうだ。
だがこれまでの二人は、二人の間に流れる意味の分からない沈黙を無理矢理打ち消していた。

しかし今は身体に残る強烈な感覚、それは激しいキスをした感覚が、車中という閉塞感に満ちた場所にいるにもかかわらず、そこに広がる沈黙という空間に耐えられなくなったのか。
二人同時に開いた口から出た言葉は「俺は」と「私は」。
だが「・・どうぞ副社長から・・」と言って譲ったのはつくしの方だ。



司は隣に座る女がどんな表情を浮かべているのか知りたいと思った。
だが今隣を見れば冷静な話が出来ないかもしれないと前を向いたまま口を開いた。
それは、マリア・エリザベート・フォン・シュタウフェンベルグと自分についての関係だ。

「マリアは俺が昔付き合っていた女だ。半年・・付き合ったか?確かそんなものだった。それに付き合ったと言っても真剣だったわけじゃない。互いを縛り付けるような付き合いはしないと言って始まった関係だ」

司がマリアと知り合ったのは、NYのパーティー。
どうでもいいと思うパーティーでも、出なければならないこともあった。
そんなパーティーで紹介されたのがオーストリア人で侯爵令嬢の称号を持つマリアだ。

「そんな関係が半年過ぎた頃からだったか。マリアはミセス・道明寺になりたいと言ってきた」

二人の関係は、はじめから身体だけの関係。
そしてマリアもはじめはそれだけで満足していた。
だが半年が過ぎた頃から、結婚といった言葉を匂わせるようになった。
そして昔からある古典的な罠を仕掛けようとした。
それは妊娠した。司の子供を身ごもったという罠。

だが、避妊に気を配っていた男が彼女の罠にかかることはなかった。
それにもし本当に妊娠したというなら、証拠を出せと言った。そしてそれと同時に、マリアが他の男とも関係していることを知り別れた。そしてNYを離れ日本へ住まいを移した。
それから後、彼女が子供を産んだという話を訊くことがなかったことから、彼女の話が嘘だったことが明確になった。


「マリアは、その美貌で男を手玉に取ることが好きな女だ。一族はオーストリアの侯爵家で先祖から受け継がれた広大な土地と城を持つ。その地位があの女の美貌をより魅力的に見せているのか男が放ってはおかない。それにマリアはもてはやされている自分が好きな女だ。そんな女はいつも最高級品を身に付け、自分が女としていかに魅力があるかということを見せたがる。要は外面的なことを重んじる女ってことだ」

司は若い頃からそんな女を何人も見てきた。
自分が生まれた環境にいる女は皆そうだった。
そんなマリアとも、はじめに身体だけの関係だと決めて付き合い始めたものであり、彼女が結婚という言葉を口にするとは考えもしなかった。

それにマリアとの付き合いは司が望んだものではなく、向うが強く望んだことであり、ましてや男女関係でマリアのように世間の注目を集めることを望んではいない。
そして司には数多い恋人がいたと言われているが、マリアが言ったように彼女と寝ながら他に女がいたこともなければ、同時に何人もの女と付き合った覚えもない。
それに悪い男というわけでもない。
ただマリアから見れば、エキゾティックな東洋の男であり、今まで付き合ったことのない男として映った。そして金がある男。
そんな男だから付き合いたかったということに過ぎないはずだ。

だが今夜突然現れたマリアは何を考えているのか?
彼女を美しいともてはやす男ならこのヨーロッパには大勢いるはずだ。
そしてマリアは気まぐれな猫のように気分が変わる女だとも言われ、付き合うなら自らが主導権を握ることを望む。

しかし司との場合それは土台無理な話でありベッドの中の行為にも無かった。
だがマリアという女は、開放的であり奔放な女だった。だからこそ、マリアの言った『あなたを取り戻すからと彼女に伝えてちょうだい』という言葉が気になった。


「俺とやり直したいと言ったあの女は、じっとして男を待つような女じゃない。舵を取る、男を自分の思うままに動かそうとする女だ。それにあの女は手に入らないものを欲しがる。手に入らないと思うと欲しくなる。そんな女だ」

司はそんな女が危険な女だと感じていた。
自分を見たあの瞳もだが、隣にいた牧野つくしを見た緑の瞳は悪意が感じられた。
鋭い爪を持つグリーンの瞳の白い猫は、船底にいるネズミを捕るのではない。
高貴な白い猫は頭を使い獲物をおびき寄せることをする。
牧野つくしは仕事は出来る女だが恋には疎い。
だから猫に弄ばれるネズミになって欲しくない。

だから自分の気持を伝えなければならない。
そして伝えたところで彼女をマリアから守らなければならないと感じていた。
何しろ牧野つくしは、引き受けた仕事はやり通すといった女だからだ。
ただ、マリアに対してのそんな行動は必要ないと伝えるつもりだ。


「牧野。お前は俺の恋人役として盾になる。防波堤になるつもりだろうが、あの女はやっかいな女だ。さっきのようなキスで誤魔化せる女じゃない。あの手の女には思慮分別ってのが欠けてる。だからさっきのキスはお前が盾になるつもりでしたならそんなキスは今後は必要ない」

司はそこでつくしに顔を向けたが、彼女はじっと前を向いていた。
だが彼が自分を見た事で、彼女は不思議そうに司の方を見た。
そして口を開き、
「なぜ_」
と言いかけたところで、司の言葉が遮った。

「俺はお前のことが好きだ。だからキスするなら本気でしてくれ。それから俺がお前にするキスは全て本物のキスだ」





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2018
01.25

恋におちる確率 52

二人を乗せたリムジンは、晩餐会の会場だったホテルを出ると、宿泊先へと向かったが、10分足らずの道のりですぐに到着するはずだ。
そして車内では、濃厚なキスに顔を火照らせ頭の中が混乱し、眩暈を起しそうになった女が自分の鼓動に耳をすませ、隣に座った男の態度を気にしていた。
だが男は黙ったままで、二人の間には沈黙が流れていた。







つくしは、副社長がマリアと呼んだ女性との会話が理解出来なくても、彼女が迷惑な女性だと確信していた。
いくら男関係が希薄だと久美子に言われても、その女性と副社長との間に何かがあったことは、女性の態度から感じられるものがあるからだ。

それは、手をのばし男の腕に触れようとした態度もだが、つくしに向けられた視線は、同性ならではの相手を値踏みする視線であり、見下すような視線だったからだ。
そしてその視線を向けられたつくしは、マリアにとっては取るに足らない存在なのだろうか。
口元には薄笑いが浮かんでいたように思えた。


マリアは背が高く、ウエストや手首が細く、胸は形のいい張りがあった。
そしてドレスの裾が長く見えなかったが、足首も細い女性だと確信していた。
だいたい美女というのは、今挙げたことが概ね該当している。
そしてそれは、つくしには永遠に手に入れることが出来ない体型だ。

本来なら比べるのもおこがましいことではあるが、オランダ人やドイツ人といった体の大きな女性の隣に立てば、彼らの子供よりも低いと言われる身長で胸も大きくはない。
それに欧米人が思うステレオタイプの日本女性、つまり素直でしとやかで、従順といった女性ではない。そんな女にチャームポイントを言えと問われれば、一体何を挙げればいいのかとさえ思う。
そんな思いを知ってか知らでか、マリアという女性はつくしのことを笑っているように見えた。


それにしても、副社長の好みのタイプというのは、ああいった女性なのだろうか。
だとすれば、自分のような女では箸にも棒にも掛からないと溜息が出そうになる。
そしてそれ以前の問題として、着飾るような美しさといったものはつくしにはないのだから。


けれど、こうして一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、どんどん惹かれていくのが分る。
だからあの女性の前でのキスも、迷惑な女を遠ざけるためには、やらなければならないのだと理由をつけたに過ぎず、本当はリムジンの中で触れたあの唇にもう一度触れたいと思っていた。だが思った以上に激しく唇を求められ、自分は一体どうなるのかといった気にさせられた。

だが自らキスをするという行動が、この状況を楽しんでいると勘違いされたかもしれない。
何しろ、かりそめの恋人役を買って出るほどなのだから、あの積極的な行為は演技だと思われているはずだ。

と、なるとあの激しく濃厚なキスは、つくしの演技に応え、副社長も演技に身が入り過ぎたということなのだろうか。
考えたくはないが、もしそうならこれから先、マリアというあの女性が副社長に近づいて来る度にキスを繰り返さなければならないのだろうか。
そしてその度、副社長の演技に合わせなければならない自分が愚かな女だと感じてしまうはずだ。
どちらにしても、好きになった男は、神よりも金持ちだと噂される人物であり、そんな男の人生に平凡な秘書が入り込む余地はないからだ。


そしてそんな男は、やはりマリアのような女性が好みなのだろうか。
つくしは今のこの沈黙に、居心地の悪さを感じて口を開いたが、声が高くなるのは緊張のせいなのか。それとも激しい口づけで血圧が上昇してしまったのか。
とにかくつくしは訊いておかなければならなかった。

「・・あの。副社長。先ほどの女性が迷惑な女性でしょうか?」

少しの沈黙のあと、返された言葉は、

「あの女はマリア・エリザベート・フォン・シュタウフェンベルグ。2年前NYで別れたオーストリア人だ。だが俺とやり直したいそうだ」









司は革のシートに深くもたれ、口を開き、次の言葉を継いだ。

「だが俺はそのつもりはない」

牧野つくしから訊ねられた迷惑な女。
それは司が2年前NYを去るとき別れた女。
正直に言ってまさかその女が突然目の前に現れるとは思いもしなかった。

司はチラリと隣に座る女に目をやった。
ドレスの上にコートを羽織った女は、真っ直ぐ前を向いていた。
だがその顔は、平静さと何気なさを装っているが、心は別のことを考えているはずだ。
そして積極的にキスをしてきた状況に驚かされたが、それが女の言う自らが迷惑な女への防波堤となる行為であることは分かっている。
だが彼女と大っぴらにキスが出来ることに、その状況を素直に楽しんだ。
しかし彼の秘書は、舌を入れた途端、身体が固まり、見つけ出そうとした女の舌は、まるでその存在は消えて無くなってしまったように隠れ、己の身を司の身体から離そうと必死になっていた。
それは彼女の理性が戻った瞬間。だが離すものかと力を込め抱きしめたが、マリアの言葉に渋々といった具合に彼女の身体を離した。

だがあの時のマリアとの会話がドイツ語だったのは良かったはずだ。
それは、耳に入れたくない言葉もあったからだ。
それに好きな女の前で、別れた女と話などしたくはない。

いずれにせよ、あの女が現れたことで、司がついた嘘が嘘ではなくなり、牧野つくしとの関係を進展させるスパイスとなるなら暫く放っておくという手もあるが、あの女の態度は今の司にとっていらだちの種でしかない。

そしてマリアの行動を気にかけなければならない。
それは、あの女の言葉が本気なら牧野つくしの身に何かあるかもしれないからだ。
だから彼女が傷つくような状況になることだけは、避けなければならない。
それに話しておくべきことは、話しておいた方がいいのかもしれない。
あの女の事もだが、司が彼女を、牧野つくしを好きだということを。
だが車は間もなくホテルに到着する。
司は運転手にもう暫くどこかその辺りを走ってくれと言った。





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2018
01.23

恋におちる確率 51

つくしは、気付けば男の腕の中にいた。
そしてどうすればいいのか分からずにいた。
ヨーロッパでは、ひと前でキスをすることに憚りを感じないとはいえ、日本人なら誰もが戸惑うはずだ。

そしてキスをされている間、自分の手のやりどころに困っていた。
それは、相手の身体に腕を回し、抱きしめるべきなのか。それともこのまま大人しく両手をだらりと下げたままでいるべきなのか。だがそんなことを考えている余裕は、正直なところ今のつくしには無いはずだ。

それは、今自分にキスをしている男が唇の使い方を心得ているとでも言えばいいのか。
初めは軽く羽根のように触れたかと思えば、すぐに顎を掴んでいた右手が離れ、今度はその手が頭の後ろに回されると引き寄せられ、より激しく唇を求められるといった状況に置かれたからだ。

そして、唇を唇で弄ばれるといった初めての経験。
それはリムジンの中でされたキスとは比べものにならないほどの濃厚さ。
ディナーの席でシャンパンは口にしなかったが、目を閉じればまるで頭の中で細やかな泡がパチパチと音を立て弾けては消えていく状況。
それは脳に直接アルコールを流し込んだような状態でキスされているのと同じだった。
そんな状況で、身体を抱きしめている左腕がなければ、ヘナヘナと床に座り込んでしまう。
まさに膝から崩れ落ちてしまう状況だ。

だがそんな状況下に於いて、つくしにキスをしている男と、今も目の前にいるはずの女性との会話の意味が理解できなかったとしても、その女性が自分を見る目には蔑みが浮かび、口調に皮肉めいた響きを感じ取れば、話の内容が穏やかなものではないことは分かる。
そして過ぎるほど整った顔立ちからして、かつて副社長と付き合っていた女性だということは安易に想像がついた。と、同時に彼女が迷惑な女と言われる存在であることも理解出来た。

それならつくしは、自分が求められた役割を果たすことをしなければならないはずだ。
そして今自分が出来ることと言えば、これしかないといった思いが湧き上がる。
それは、自らが主導権を持つキスだ。いやそこまで出来ないとしても積極的なキスをしなければという思いに囚われた。
だいたいキスのひとつやふたつ、どうってことはない。ヨーロッパのキスなど挨拶だ。
おはよう。おやすみと同じだ。だからキスなんて簡単だ。
けれど羞恥がないとは言えない状態だ。

だがここは外国だ。
周りに知り合いは誰一人としていない国だ。
それに今傍にいるのは、迷惑な女だけだ。その女から副社長を守ると約束したのは自分だ。
そう思うと、抱きしめられながらキスをされている自分の手が何もせずだらりと垂れさがった状態では駄目だということに気付き、両手で男の肩を掴むため一旦身体を離そうとした。
だが力強い腕に抱き寄せられ、身動きが取れなかった。それでも渾身の力でもう一度身体を押し、唇が離れたその隙に腕を上げ、相手の肩に両手をかけ視線を合わせ、そして引き寄せ首を抱きかかえ、唇を押し当てた。

それはつくしがどの男性に対してもこれまでしたことがない行為。
それもそのはずだ。自らキスしたいと思える男性などいなかったのだから。
だがその唇に再び触れた途端、物音は何も聞こえず、唇の感触と早鐘のように胸が鼓動する音だけが聞え、しっかりと背中に回された腕と掌の暖かさに安心感を与られ、守られているような気持になった。

そして・・
いったい何が起きたのか分からなかった。
それはつくしの思考が止りそうになった瞬間。

今、彼女がキスをしている相手はキスの達人なのかもしれない。
いや。間違いなくそうだ。
唇を押し当てたのはつくしだが、今はその唇をより激しく覆うように唇を求められ、やがて舌を使って愛撫するという行為に変わった。
そして時に歯を使い下唇を甘噛みされていた。
こうなるとつくしの手に負えるものではなく、ぼうっとした頭に与えられる刺激だけを受けるといった状態だ。そしてあまりの刺激のせいか意識が朦朧としそうだった。

だが突然舌が差し入れられ、閉じていた目を見開くとぼうっとした状態は跡形もなく吹き飛び、頭はいっきに覚醒し、男の首に回していた手を離したが、相手はつくしの身体をしっかりと抱き離そうとはせず身動きが取れない状態にされていた。
そして力強い手はつくしが離れようとしていることに気付いたのか、離さないとばかりその手に力が加わった。
だが、もういいはずだ。
もう離してもらってもいいはずだ。
そうでなければ口腔内に侵入して来た舌をどうすればいいのか分からないからだ。

その時声が聞え、やっと唇が離れキスが終った。


『ツカサ。いい加減にしてちょうだい。あなたのキスが最高なのはよく分かってるわ。だからそれをわざわざ私に見せつけなくても結構よ。それに私がここにいるのにいないように振る舞うのは止めてちょうだい』

司がかつてNYで付き合っていた女は、セックスだけの関係。
その女の真っ赤に塗られた唇から出る言葉はドイツ語でつくしには分からない。
だが内容を推し量ることは出来る。それは恐らく文句を言っているということだ。

『私は暫くヨーロッパにいるわ。だからその女の子に飽きたら連絡して。電話番号は変わってないわ。と、言ってもあなたが今でも私の番号を持ってるとは思わないわ。だから用がある時は私の弁護士に連絡してちょうだい。だってその女の子じゃベッドのお相手は楽しくなさそうだもの。キスの仕方も下手だし。でも私ならあなたを楽しませてあげることが出来るわ。以前と同じようにね?』

マリアはにっこりと笑った。
だが司は彼女を見据え感情とは無縁の淡々とした口調で答えた。

『マリア。俺の性生活はお前に関係ない。それに彼女は女の子じゃない。立派な大人の女で自分の足で立つことが出来る女だ』

マリアは牧野つくしが自分より年上であることは、信じられないだろう。
それは東洋人が若く見えることもあるが、ミッドナイトブルーのオフショルダーのドレスから覗くデコルテは、マリアのような白人とは異なるきめ細かさを持ち、35歳とは信じられないはずだ。
それは、ダイヤのネックレスやイヤリングのように金を出せば手に入るというものではない輝き。そしてマリアがそれを羨んでいることは一目瞭然だ。
だがマリアの場合、牧野つくしのデコルテを飾る豪華なダイヤのネックレスやイヤリングにも強く惹かれているはずだ。

『あらそう。彼女仕事をしているの?働きゃなきゃ生きていけない女性なのね?それにしても、まさか司の愛人が仕事をしている女だなんて!いったいどんな仕事をしているのかしらね?』

『それがお前に関係あるか?』

今のマリアも以前と同じで仕事はしていないはずだ。
生家が裕福な女は、仕事などせず社交生活だけで生きていくものだと考えているからだ。
だから生活の為に働く女を見下しているところがある。だがそれが貴族という家系に生まれた人間の性質なのかと問われれば、そうではない。
ヨーロッパの貴族社会はいくら立派な名前があろうと、名前だけでは生きていくことは出来ない没落貴族も大勢いる。そしてほとんどの貴族は、体裁を整えるため働いているのが実状だ。事実、マリアの父親も仕事をしているが、彼は成功した実業家だ。

『いいえ。彼女がどんな仕事をしていても全く関係ないし興味もないわ。だから教えてくれなくて結構よ。でも私はあなたを取り戻すからと彼女に伝えてちょうだい』

司は付き合っていた当時マリアと言う女が厄介だとは思わなかった。
ただ互いに都合のいい相手と考えていたからだ。だが今はマリアの自信満々な態度と、楓の存在を匂わされたことが気に障っていた。

『伝える必要はない。それに俺はお前と付き合うつもりはない。それからこいつは愛人じゃない。俺の恋人だ』

司はそこまで言うと、腕の中にいるつくしに日本語で言った。

「牧野、行くぞ」

日本語で急にそう言われたつくしは、目の前にいる女性が何か言いたげに自分を見ているのを感じていた。
だが司に腕を取られると、ホテルの長い廊下をエレベーターに向かって歩き始めた。

それでも、背中に感じる視線を意識しない訳にはいかなかった。





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2018
01.22

恋におちる確率 50

二人の前に立ち止まったのは、目の覚めるような美女。
その美貌は人工的なものではなく、生まれながらの美しさ。
背が高く、グリーンの瞳にシニヨンに纏められた濃いブロンドの髪。
黒のベルベットのロングドレスに豪華なルビーのネックレスとイヤリング。
そしてルビーよりも濃い赤が塗られた唇が開かれたとき、目の前に立つ男を親しげに呼んだ。

『ツカサ。久しぶりね?』

『・・・マリア』

低い声が答えはしたが、目の前の女を見る顔は、無情なまでの才気と冷酷さが張り付き、女を歓迎する色は一切なく、一体何の用があるのかといった顔だ。

だが司は内心呻き声をあげていた。
まさかここに2年前にNYで別れた女が現れるとは思いもしなかったからだ。
彼女は、オーストリア人の父親とドイツ人の母親を持つ、マリア・エリザベート・フォン・シュタウフェンベルグ。オーストリア人。31歳。
今現在オーストリアに貴族制度はないが、貴族の称号を名乗ることは許されており、彼女には侯爵令嬢という称号がついている。
そして母国オーストリアの生家は、先祖から受け継いだ広い敷地と城を持ち、称号に相応しいと言われる暮らしを送っているが、彼女は国を離れNYで暮らしていた。



『あら。随分とつれない返事ね?久しぶりに会ったのよ?もう少し喜んでくれてもいいんじゃない?それとも私とは会いたくなかったのかしら?』

『お前、なんでここに居る?』

『なんでって。偶然よ、偶然。ここのホテルの別の会場でパーティーがあったのよ。そこで耳にしたの。市長が晩餐会を開いてるってね?それもこの街に莫大な投資をした会社の副社長をもてなしているって。訊いてみればツカサの会社だったから驚いたわよ?だからあなたに会いに来たの。でも悪かったかしら?彼女に?』

そう言った女は、司が手を添えているつくしの方へ視線を向け、フッと笑みを浮かべた。
だがつくしが着けているキラキラと光るネックレスとイヤリングに目を向けると、その目を少し細め、司とつくしを交互に見比べ司に視線を定めた。

『ツカサ。まさかあなたこんな子供みたいな女と付き合ってるの?もしそうだとしても、あなたが未成年と付き合うとは到底思えないから・・・彼女、日本人よね?それなら日本人は若く見えるから本当の年は分からないけど・・・そうね?25歳くらいかしら?どちらにしても、あなたにはこんな子供みたいな女は似合わないわ』

女はそう言って司の顔をじっと見つめ、彼が言葉を返すのを待った。
だが司は、何も言わず掴んでいたつくしの腕を引き歩き出そうとした。
しかしその瞬間、女は男に一歩近づき、手で触れることが出来る近さに立つと口を開いた。

『待ってよ!私、まだツカサのことを愛してるの。ツカサは2年前NYから東京へ戻るから私とはサヨナラだって言ったけど、あれからツカサのことを忘れたことなんてないわ・・。私はいつもあなたのことを考えていたのよ?』

そして女は、完璧にマニキュアが施された指先で司の腕に触れようとした。
だが男の視線がそうはさせなかった。黒い双眸は、女の指が触れればその瞬間、冷たい一瞥では済まないことを語っていた。

『・・マリア、どの口が言ってんだか知らねぇが、俺のことを忘れなかったとはよく言いうぜ。お前は俺がサヨナラしたあと、すぐに別の男と付き合い始めただろうが。その男はオーストリアの伯爵様だったか?それともイギリスの侯爵様だったか?どっちにしてもつい最近まで付き合ってた男はどうした?』

『いないわよ。そんな人。それに私はツカサが私を捨てたあと、ずっとあなたのことだけを考えていたわ』

女は、そう言って伸ばしかけた指先を握りしめ拳を作った。

『マリア。お前とサヨナラするとき、それ相応の物は渡したはずだ。それに対してお前も文句はなかったはずだ。それに俺たちの関係に永続的な約束はない。大人として割り切った付き合いだった。それはお前も分っていたはずだ』


二人の会話はドイツ語であり、つくしには理解出来ない内容。
だが男の目のうらに蔑みが浮かび、それは目の前の女に対し攻撃的に働いていた。
そしてその顔から判断できるのは、目の前の女性に対し良い感情は抱いてはいないということ。だが女は身体を退けるどころか、堂々とした姿勢で男に向かって立っていた。

『あら。いつから私の気持が分るようになったのかしら?どちらにしても、あなたが女の気持ちを考えたことがあるとは思えないわ。あなたは冷たい男だったもの。
それともその女の気持なら考えられるってことかしら?その若そうに見える女の気持なら分かるのかしら?』

女は司の隣に立つつくしに視線を向けたが、またすぐに司に戻した。

『マリア。俺たちの関係が身体だけの関係で心はなかったのはお互い様だったはずだ』

司の声の調子は抑えられているものの、相手を黙らせるような険しさはあった。
だが女は冷然とした男の態度を気にする様子はない。

『随分とはっきり言うわね。確かにあなたに女を愛する感情があるとは思ってはいなかったけど、それでも私と付き合っている間は違うと思ってたわ。何しろあなたが今まで付き合った女の中で一番長く付き合ったんですもの。だから単なる情事だとは考えなかったわ』

女は肩をすくめ司をじっと見つめた。
だが司は鼻先で笑いそうになるのを堪えながら言った。

『フン。よく言うぜ。俺とお前は似たような考え方だったから長く続いただけだ。心を求めたこともなければ、いつも傍にいたいとも考えなかったはずだ。それにお前もその方が都合が良かったはずだ。何しろ俺以外の男とも関係を持ってた女だからな』

司は女との付き合いに重きを置いたことはない。
だがそれでも、他の男とひとりの女を共有することは嫌った。
そしてそんな男の女を見る目は冷静であり密に微笑んだ。

『何よ・・随分とはっきり言うのね?でも私が他の男と関係があったなんて証拠があるのかしら?』

『ああ。証拠が欲しいなら出してやるがどうする?それとも証拠が突き付けられる前に小賢しい言い訳を並べるなら訊いてやる。それに財産目当ての女には、はっきり言ってやるのが親切ってもんだろ?』

金があることが男としての一番の条件と考える女はどこにでもいるが、今彼の前にいる女もそうだった。
それに、今まで司の前に現れた女は全てがそういった女ばかりであり、珍しいことではなかった。そして幼い頃から人間としての価値を金と外見だけで決められて来た男は、NYを離れるとき全てを清算した。だから日本に帰国してからは、誰とも付き合ったことはない。

そんなとき、牧野つくしを見つけた。初めて見たのはベトナムの空港で係員に文句をいう威勢のいい女だったが、その女が社内にいたというところから始まり、秘書として起用した。
そして彼女の勘違いを上手く利用し、かりそめではあるが、恋人として同伴していた。
だが、まさかNY時代の女がドイツで目の前に現れるとは考えもしなかった。

『何よッ!ツカサだって他に女がいたはずよ!それなのに女にばかり誠実さを求める男の方がどうかしてるわよ!それに財産目当ての女だって言うけど、男だって外見が綺麗な女がいいって言うじゃない。それと同じだわ!それに家柄がいいに越したことはないはずよ?現にあなたのお母様はそういったことを重んじる女性だわ!だから私との付き合いはお認めになってたわ!』

司の母親は道明寺HD社長である道明寺楓。
NY本社ビル最上階の執務室で、道明寺HDの舵を握っている女。
その女がマリアとの付き合いを黙認したのは、彼女の家柄や血筋を重視したからだ。
そして金目当ての女とはいったが、生家は莫大な財産を持ち、彼女の父親は実業家であり、ヨーロッパの貴族社会の中では権力者として知られていた。

『言っとくが俺が母親の言うなりになる男だと思うか?それにそんな男がいいなら、お前と同じ世界に住む男から探せ。そんな男はヨーロッパにはいくらでもいるだろうが。俺みたいな東洋人の男じゃなくてもいいはずだ』

司はそう言いながら、マリアが偶然を装いながら何故突然ここに現れたのかが分かった。
それは、御託を並べながらも喋った話の中に、NYの母親のことが出たからだ。
そして間もなく、あの女が同じヨーロッパに来ることは分かっていた。
それは、毎年1月下旬にスイスのダボスで開催される、多国籍企業経営者や国際的な政治指導者などのトップリーダーが一堂に集まり論議する、世界経済フォーラムの年次総会、ダボス会議に出席するためだ。

『・・でも私はあなたのことが好きなのよ。今でもそれは変わらないわ。やっぱりツカサがいいのよ・・』

マリアは自分に向けられた視線が冷やかさを増したのを感じながらも、言葉を止めなかった。

『俺はお前には興味はない。それに俺とお前のことは2年も前の話でとっくの昔に終わった話だ。今の俺にはこうして好きな女がいる。こいつが俺の恋人だ』

司はそう言ってつくしの顎を指で掴み、あくまでも自然に彼女の唇に唇を重ねた。




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2018
01.21

恋におちる確率 49

いつ終わるとも知れない夕食の席で隣同士に座った男と女は、恋人同士。
それをこの場にいる誰もが認めている。
そして誰もが彼ら二人に笑顔を向けるが、それが道明寺HDの副社長とその恋人である女に向けられたものだということをつくしは理解しているつもりだ。

だが自分の気持に気付いてからは、明らかに落ち着きを失っていた。
車から降り、腰に腕を回されエスコートされ、テーブルにつくまでの間どぎまぎして仕方なかった。
しかし隣に座る男は、テーブルに置かれたワイングラスを手に取り何事もなかったように平然と食事をしている。

迷惑な女を近寄らせないための恋人役を買って出たのは自分。
だから、リムジンの中で恋人ならそれらしく見えるようにとされたキスが偽りのキスだと分かっている。
けれど、あの状況で相手が他の男性だったら、なんとかして自由になろうともがいたはずだ。
望まない状況から抜け出そうとしたはずだ。だがしなかった自分がいた。
それにキスをした回数は多くはないが、なんてキスが上手なのだろうと思っていた。
触れた唇が禁断の果実とまでは言わないが、世界中の女性が虜になってもおかしくはないと感じ、それにあのキスが前戯だとすれば、愛し合う時はいったい__。

馬鹿げた妄想かもしれないが、もしあのままキスが続いていたとすれば、今ごろどうなっていたかということが頭の中に浮かんだが、それでもすぐに妄想の世界から現実に戻ることを選んだ。そうしなければここでこんな風にテーブルについて食事をしていることなどないからだ。

だがつくしは思った。
もしかすると、隣に座る男は、彼女の申し出を戯れのひとつとして考え、戯れるだけ戯れようとしているのだろうかと。
そして台本なしの即興劇を演じると言われたが、その口調は楽しげで、まるでつくしの動揺した姿を楽しんでいるように見えた。
そんな男がリムジンの床に横たわった姿勢で女にキスをすることが手慣れたとは言わないが、考えてみれば彼のような男に恋の駆け引きなどしたことがない女が恋人を演じることが出来ると思った方が間違いだ。

そしてここがヨーロッパという土地柄から、特有の浮ついた戯れといったものがあることは知っている。それに道明寺司という人物の今までの女性関係からしても言えるはずだ。
それは男としてこれだけのものを備えているなら、海外のタブロイド紙や週刊誌に書かれていたこと以上のこともあるはずだ。

それでも、副社長に強く惹かれている自分がいるのは間違いない。

それにしても、せめてもう少し気持ちが落ち着いてから会場に入りたかった。
宿泊しているホテルから晩餐会の会場となったホテルに着くまで10分足らず。男に手を取られ車を降りた女は、すでに一杯口にしてきたのかと思われたとしてもおかしくないほど頬には赤味が差していた。






***






つくしは、現実世界での英語やドイツ語の会話が交わされるのを聴きながら、時にその会話に加わり、出されたワインには殆ど手を付けず、代わりにミネラルウォーターを飲み、やがてテーブルに置かれた最後の皿であるデザートに手を付けたが、やっと終わったという気持が正直なところだ。
そして運ばれてきたコーヒーをひとくち飲み、今夜の役割を終えられることにホッと息をついていた。

「道明寺副社長。今夜は大変有意義な時間が持てたことを嬉しく思います。今後も御社の益々のご発展をお祈り申し上げたいですね」

英語でそう話しかけたのは、真正面に座るホストである市長だ。

「正直バルテン社があなたの会社に買収されたと訊いた時は、どうなるのかと思いましたよ。ですが、この街に莫大な投資をして下さったことを改めて感謝申し上げます」

市長は、公務員らしからぬほどよく働くと評判の男だ。
それは、企業誘致に積極的な姿勢からも言えるが、市のためになるのなら、という思いが溢れる姿は、企業利益を考える男と同じとは言えないが、仕事に情熱を注ぐ姿は見ていて気持ちがいいものがあった。

「市長。こちらこそ色々とご協力をいただき、感謝申し上げます。何しろドイツでのこうした大規模な事業は初めてですから、今後も皆様のご協力の元に仕事を続けさせていただきたいと思っております。それに“ローマではローマ人達がするようにせよ”、の言葉もありますが、日本にも同じ意味の言葉があります。ですから、よその土地へ行けば、その土地の習慣に従うべきであり、日本のやり方を押し付けようとは思いません。そういった事からも、バルテン社での今後のオペレーションは、日本人ではなくバルテン社の皆さんにお任せするつもりですので、今後ともどうぞ宜しくお願いいたします」

司のその言葉に頷いた市長は、ドイツ人と日本人は真面目で勤勉ですからね。ご安心してお任せ下さい、と言い笑っていたが、強い影響力を持つ男に対し、へつらうことはしなかった。
そして市長は、司との会話を終え、今夜の晩餐会はお開きだといった体で客たちに向かって挨拶をすると、司とその同伴者であるつくしが席を立ち会場を後にするのを見送った。






「無事終わってよかったですね?」

つくしはエスコートされホテルの長い廊下を歩きながら言葉を探したが、他に言葉が見つからず、気持ちのやりどころに困っていた。
そして再び車中でキスされたことを思い出していたが、あれはどこで見ているか分からない迷惑な女を追い払う女の役作りの為であり、本物の恋人としてのキスではないのだとその光景を打ち消した。

「ああ。そうだな。市長はうちがこの街に新たな工場を建てることで雇用が増えることを喜んでいることは間違いない。それに税収が増えることもな」

「そうですね。どの街にも言えることですが、雇用が増えることはその街に活気が生まれますから」

「確かにそれは言えるな。どこかの国じゃねぇが自国の産業発展のためなら何でもするような男が代表者って国もあるからな。それにここの市長はなかなかの策士だが真面目な男だ。そんな男がこの街を今以上に発展させていくはずだ」

「・・策士ですか?」

「ああ。策士だ。目に見えて表立っての行動はなかったが、うちがバルテン社を買収すると分かった時点で今とは逆の・・妨害とは言わないがそれに近いことを画策したようだ。まあそれだけあの会社はこの地域にとっては大切な企業ってことだろうがな。それにどこの国でもそうだが、政治の世界もビジネスと同じで駆け引きがある」


今のつくしはこうしてビジネスの会話をしている方が有難かった。
何しろ経験の浅い恋愛について頭を使うよりも、秘書としての頭を使う方が楽だからだ。
そして自分の身なりを見返したが、普段着慣れないドレスを着てずっと緊張しっ放しだった。それに、いくら秘書として傍にいることに慣れたとは言え、好きになった人に自ら親密な態度を取らなければと意識すればするほど、心が複雑になっていくのを感じていた。

そのとき、つくしの腕を取って歩いていた男が急に立ち止まった。
と、なるとつくしも必然的に立ち止まり、いったいどうしたのかと男の顔を見上げた。

「・・・マリア」

見上げた男の口から出たのは女性の名前だった。




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