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2018
01.20

恋におちる確率 48

防弾ガラスの窓の中で床に伏せた二人は暫くそのままの状態でいたが、つくしが手にしていたイブニングバッグは床に転がり、中から口紅や携帯電話が飛び出していた。
そして今感じられるのは、緊迫した空気と自分の上に覆い被さっている男の体温と彼独特の匂い。

つくしは一体何が起こったのか分からなかったが、要人警護のプロの判断で車に押し込まれたことだけは理解していた。
そして彼らの判断は一瞬たりとも迷いはない。それは迷いや躊躇いといったものが命取りになることを知っているからだ。

今まで海外出張をこなしてきたが、危険な目に遭遇したことはない。
だがそれは、自分自身でも気を付けていたからだ。そして自分の身の安全は自分で守るということも理解していた。
しかし、今まで自分自身の身の安全を本心から心配したことはなかった。
だが道明寺HDの副社長ともなれば、いざという時の訓練といったものを受けているのだろう。それは身代金目的の誘拐といったものに対して敵から身を守ることもだが、それ以外にもアメリカにいたなら銃を扱う訓練も受けているはずだ。

そしてその身を守るための安全対策は、たとえ目に見えなくても幾重にも巡らされているはずだ。
だから自分の上に覆い被さった男が今もまだじっとしているなら、まだ動かない方がいいと思いじっとしていた。



だが、あれから随分と時間が経ったような気がする。
そして車の外も静かだ。
そんな状況につくしは自分の上からいつまでたっても動こうとしない男を不審に思うと、顔だけをそっと横に向け視線を上向けた。

すると上に乗っている男と視線が合ったが、顔は息がかかるほどの近さにあり、口の両端は笑みが広がるように上向いたのが見えた。と、同時に自分の心臓の音か相手の心臓の音か分からないが、どちらにしてもドキドキというのか、バクバクというのか鼓動が激しく響くのが聞えた。

そして胸に広がるざわめき。
だがつくしにとって殆ど初めてといった心臓の動きに何をどうすればいいのか分からなかった。何しろこれまで経験というのか、身に覚えがないのだから、どんな言葉を口にすればいいのか探しながらとりあえず口を開いた。

「・・あの?」

「なんだ?」

「な、なんだって・・そ、その外の様子は・・。えっと・・」

と、つくしはなんとか言葉を探し言おうとしたが、大きな身体が自分の上にあり、顔がすぐそこにあれば何を言おうとしたのか忘れてしまっていた。
そしてその身体のせいで身動きが出来ないのだから早く降りて下さいと言いたいのだが、言葉は喉の奥に貼り付き出てこなかった。

だが言葉は出なくてもこの状況がいいはずもなく、自分の上に覆いかぶさるその身体を早く取り除きたいのだが、腕も抱き込まれている状況では身動きも突き飛ばすことも出来ず、いや、実際出来たとしてもそれはしないが、どちらにしても今のこの状況を言葉にすれば、副社長の下にいる・・副社長に身体に押さえ込まれているという状況に頬が火照りどんどん赤くなるのが感じられた。

そして今身に付けているのは、今夜のために用意されていたミッドナイトブルーのオフショルダーのドレスと同系色のカシミアのコート。
だが肩に羽織っただけコートは、車に押し込まれた拍子にずり落ち、両肩は剥き出しになり、その片方の肩に感じられる男の暖かい息に背中が震えた。
そして、もしこの状態でドアが開かれ写真でも撮られれば、いったいどういった見出しが付けられるのかといった体勢だ。

『道明寺HD副社長。リムジンの後部座席の床で女性を襲う!』

そんな見出しが踊ったとしてもおかしくはないはずだ。


「なんだ?なんならもうちょっとこうしていた方が良かったが、もうシラフに戻ったか?」

「は?」

「だから、もう少しこのまま床にこうして寝てるのもいいんじゃねぇのかってことだ」

このまま床に寝ているのもいい?
今自分の上に乗っている男のその言葉に脈打っていた心臓が、これまで以上に脈打つのが感じられ、過剰に身体が反応してしまっていた。
だがとにかく早く自分の上から降りて欲しい思いからつくしは再び訊いた。

「お、おっしゃっている意味が分からないんですが?あの音は・・外の状況は大丈夫なんでしょうか?」

と言ったが、つくしを自らの身体で上から包んだ男の視線は攻撃的ではないが、一瞬垣間見えたのは、獣が狙った動物を仕留める前の瞳の煌めき。
だが開かれた口から聞こえたのは和やかな低い声。

「ああ。外の問題は解決してるはずだ。それに俺の言葉の意味か?男と女が一緒に横になる意味ならこれしかないだろ?」

その言葉と共に下りて来たのは上弦を描いた形のいい薄い唇。
それがつくしの唇に重なった。











銃声のような乾いた音。
それは車のバックファイアーであり、銃声ではなかった。
司はつくしを上から抱きしめながら、その事実を運転席からは独立した後部座席に取り付けられたスピーカーからドイツ語で告げられていた。
だがそれを彼女に告げることはなく、唇を重ねていた。
それから暫くたって状況を説明し、真っ赤な顔をして自分を見上げる顔にニヤッと微笑みを浮かべ、

「少しくらい髪が乱れたのも、紅潮した頬も俺たちの関係が本物だって世間に知らせることが出来るだろ?何しろこれから俺たちは恋人同士として台本なしの即興劇を演じるわけだ。だからこれは差し詰めこれから始まるドラマの前戯だ」

と言った。




今夜のこの会は、デュセルドルフ市長の主催であることから、行政関係者は勿論だが、地元企業の関係者も多く招待されている。
当初、地元企業であるバルテン社が外国資本の企業に買収されたとき、会社はどうなるのか?雇用はどうなるのか?といった不安が市民の間に広まった。

だが、道明寺HDがこの地に新たな工場を建設することが発表されると、市は多方面に渡り協力を申し出た。
そこには都市部に於ける工場建設の立地規制緩和といったものが含まれるが、それはあくまでも法律の許す範囲内だが、大型の投資である工場の建設は、多くの雇用も生み出すことになり、税収も見込まれ市の財政が潤うことは間違いない。

司は、つくしを恋人として伴い現れたが、その姿は堂々としており、世界的企業の副社長として、また市に莫大な投資をしてくれた企業の副社長として、あたたかい歓迎を受けた。
そしてビジネスとしてカメラ向きの笑みを浮かべ、写真に収まっていた。




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2018
01.19

恋におちる確率 47

眠れなかったと思ったが、いつの間にか眠りにおち、夢も見ることはなかった。
そして目が覚めてみると頭はすっきりとしていた。
起きると歯を磨き、顔を洗う。
時刻は午前6時。
冬のドイツの日の出は遅く、1月半ばのこの時期は8時半頃で、カーテンを開けた窓の外は暗闇が広がり、空には月が輝いていた。

幸いにも時差ぼけもなく、頭の中は東京にいた時と同じように動き始めていた。
だがいつもと違うのは、副社長を迎えに行かなくてもいいことだ。
何しろ扉一枚隔てたすぐ隣の部屋にいるからだ。

今日のスケジュールは、9時からバルテン社での会議に入り、一日中詰めることになる。
そして夜は市長主催の晩餐会。
つくしにとっては海外での大きなパーティーといったものは初めてだ。
しかもフォーマルだ。
そしてパーティーでは秘書ではなく、恋人としての役割といったものが求められるが、やはり思っているとおり、迷惑な女は外国人なのだろうか?
何しろ、副社長は海外生活が長かった男だ。日本人ではない可能性が高い。
もしかすると、最近売れている女優かもしれない。ふとそんなことも頭を過った。
そして、もしその女が現れるとすれば、秘書として副社長を守る決心はついている。

つくしは、化粧をしてパンツスーツに着替えを済ませると、副社長の部屋との間にある扉の前に立った。
鍵は掛かってないからと勝手に入ってもいいと言われていたが、いきなり入るには躊躇いがあった。

向うからは決して足を踏み入れないと言われてその言葉を信じた。
だがその言葉を信じるより頭の片隅で別のことを考えている自分がいたが、その考えを慌てて振り払い、よし、これからノックするぞ、という前に息を大きく吸い吐いた。
そしてドアをノックした。

「牧野です。失礼いたします」







***








ドイツでの初日は、バルテン社での会議から始まったが、つくしは、副社長が通訳を務める野崎と共に会議に入ると、その間、欧州支社長へ渡せと言われた書類を持ち支社へと足を運こんだ。

市内中心部のビルにある道明寺HD欧州支社は、副社長が乗り込んで来るのを戦々恐々といった思いで待っているが、それは今日ではない。
しかし欧州支社長は、秘書であるつくしの後ろに道明寺司が現れるのではないかといった目で彼女を見ていた。
だが、現れないと知ると、傍目にもどこかホッと胸をなでおろしている姿があった。
そして、頼まれた書類を渡し、再びバルテン社へと戻るためエレベーターに乗り込もうとしていたが、入れ替わるように降りて来た人物に呼び止められた。


「牧野さん!お久しぶりです!」

「お、太田君?」

「はい。僕のこと。覚えていてくれたんですね?インフラ事業部海外事業本部の太田正樹です。ご無沙汰しております」

つくしは、思いもしなかった人物に出会い、丁寧にお辞儀をされ、太田のことを思い出していた。

太田正樹はつくしが司の秘書になるきっかけを作ったと言ってもいい。
それは本来なら副社長へ届けられるはずの書類が、太田のミスで食品事業部のつくしの元へ届けられ、その書類を巡っての副社長の発言にキレた女がいたが、それがつくしだ。
そして何故か、つくしが副社長の秘書に抜擢されるという事態になったのだが、太田正樹は、自分のせいでつくしが異動になったと詫びた。そして、ランチをご馳走させて下さいと言い、つくしの行きつけの中華料理店で酢豚定食杏仁豆腐付きをご馳走してくれた。

だがそれ以来、太田と会う機会もなく、秘書になってからまさかドイツで彼に会うとは思いもしなかった。そしてふと思ったのが、まさかとんでもないミスをして海外に飛ばされたのではないかということだが、欧州支社なら左遷とは言わないはずだ。
それならいったい何をしたのか?
そんな思いからつくしは太田に訊いた。

「太田君・・どうしたの?まさかドイツに転勤?」

太田は自分に向けられた心配そうな顔と表情に笑って答えた。

「あ、もしかして牧野さん。僕が何かやらかしたとでも思ってませんか?それで飛ばされたとでも思ってるんじゃないでしょうね?言っておきますけど、それは違いますからね?僕はまだ海外事業本部にいますからね」

太田は明るい声で言い、それから少し間を置いて話しを継いだ。

「牧野さん例の書類。覚えていますよね?僕が間違って牧野さんに送ったあの書類です。あのウズベキスタンの大型発電プラントの案件。僕、丁度ウズベキスタンからの帰りなんですが、これからドイツで休暇を取るので、その前に支社に寄ったところなんです。それにしても、まさか牧野さんがドイツにいる時に僕がドイツにいるなんて、運命を感じます。もしかして僕と牧野さんってご縁があるのかもしれませんね?」

太田はつくしに会えたことが本当に嬉しそうに話をした。
それはあの時、つくしが彼を庇ったことに余程恩義に感じているのだろう。
だが、太田がつくしに運命を感じてもらっては困る。
それに弟のような太田には全く興味はない。
そして今、つくしの心を捉えているのは、道明寺司なのだから変な勘違いをされては困る。

「あのね、太田君。分かってると思うけど、あたしがここにいるのは、副社長がこの国にいるからなのよ?副社長の秘書として来てるの。太田くんとは運命を感じたことなんてないからね?」

つくしはちょっと自信ありげに話をする太田正樹を諭すように言った。
だが彼が仕事に対し前向きな姿勢でいることに良かったという思いはある。新人ながら頑張っている姿は先輩社員として嬉しいものがあった。

「牧野さん。勿論冗談ですよ!冗談!どう考えても僕と牧野さんじゃ姉と弟ですからね?それに牧野さんがドイツに副社長の秘書としていらっしゃったことは勿論知ってます。だってここの皆さんの空気はピリピリしてますからね?普段日本から遠く離れた場所でのびのびとしてる支社の皆さんは、副社長の渡独にドキドキしてるんじゃないですか?」

太田の言うことは当たっていると思う。
何しろさっき書類を渡した欧州支社長は、つくしの後ろに道明寺司の姿が見えるように頭を下げ書類をうやうやしく受け取っていたからだ。
そしてその姿を思い出したつくしは笑った。

「あ、でもそれは言えるかもしれないわね?でも太田君。冬のドイツで休暇なんてまたどうして?」

つくしは太田には興味がないが、冬のドイツで何をして過ごすのかということを訊いてみた。

「僕、母方の祖母がドイツ人なんです。つまり僕はクォーターなんです。それで、ドイツに住む祖母に会うために休暇を申請したんですが、冬のドイツもいいかなってこの季節にしたんですが、流石に真冬のドイツは寒いですね?あ、でもウズベキスタンの方がもっと寒かったですけどね?」

道明寺HDでは、社員全員に有給休暇を取得させるため、時季を指定して最低5日以上の休暇申請を提出させるが、どうやら太田は祖母に会うため真冬のドイツを休暇先として選んだようだ。
そしてつくしは、はじめて太田正樹に会った時、色白で薄茶色の瞳に、緩くウェーブがかかった髪をしたイケメンだと感じたが、四分の一ドイツ人であることが太田正樹の姿を個性のあるものにしたことを理解した。

「そう。太田くんのおばあ様はドイツの方なのね?」

「はい。祖母はドイツで日本人の祖父と出会って結婚し母を産みました。そして母は自分の父親の母国で日本人の父と出会って僕を産んだということです。だから僕、ドイツ語なら不自由はしません。もし、牧野さんがドイツで通訳が必要なら僕がお手伝いしますけど・・仕事でいらっしゃっているからそんな必要はないですよね?」

つくしの返事は決まっていた。
太田正樹が言ったように、この国には仕事で来ている以上、自由な時間はない。
それに通訳は欧州支社の野崎がいる。
だが、太田は背広から名刺入れを取り出し一枚抜き、空いたスペースにこれ祖母の家の住所と電話番号です。僕ここにいますから、もし牧野さんが個人的に困ったことがあれば連絡下さい。あの時のお礼も不十分ですし、と言い、それからこれは僕の携帯電話の番号です、と書き込みつくしに渡した。

太田は、じゃあお気をつけて。
ドイツ初めてでしたら楽しめる所もあるんですが・・。
またプライベートで来て下さいね。と言ってエレベーターに乗るつくしを見送った。










つややかな黒のリムジンは、防弾装備が施され、周りをガードするのは数名の日本人とドイツ人。
ダークスーツ姿の男達は、朝と同じでホテルのエントランス前に止められた車の傍で、道明寺HD副社長とその秘書が乗り込むのを待っていた。

二人は、これから市長主催の晩餐会に向かうことになっていた。
その晩餐会は道明寺HDの大型投資を歓迎して催されるが、ドレスコードは燕尾服を着るほどでもなく、黒のタキシードと胸元や背中が大きく開いた一流ブランドのドレスに笑顔を浮かべた女たちに迎えられるはずだ。

そんな場所に、つくしは司の秘書ではなく恋人として向かう。
そこに迷惑な女が現れるなら、彼女が立ち向かわなければならない。だが朝はあれほどやる気だったが、今は自信がない。
つくしの背は160センチしかなく、いくら踵の高い靴を履いたところで、165センチだ。
どう考えてもヨーロッパの女性に敵うはずがない。
それでもカシミアのロングコートを着た背の高い男性にエスコートされれば、今夜の身を割くような寒さも気にならなかった。

その時だった。突然タイヤの軋む音と銃声のような乾いた音がした。
その瞬間、警護していた男たちは、急いで二人を車の中に押し込み、周囲に素早く目を走らせ厳戒態勢を取り一気に緊張が高まった。
そして車内に押し込まれた男は咄嗟につくしを床に伏せさせ、その上に覆い被さっていた。





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2018
01.18

恋におちる確率 46

司はいま、この瞬間から彼女を誘惑したいと思った。
だがいきなりことを進めても彼女は尻込みするばかりだと分かっている。
何しろ牧野つくしは、司が片方の眉を少し上げただけで、スカートをめくり下着を下ろすような女ではないからだ。
だが、お前が本気になれば、どんな女も落とすことが出来るとあきらにも言われ、架空の迷惑な女の存在がバレねぇようにしろと言われた。
そして、新堂巧の存在が消えた今、司はこれまでどんな女に対してもしてこなかったことをしようとしていた。
それは強い決意を持ちながら、どこかに迷いを感じさせる女への優しさという彼が今まで他の誰にも見せたことがない態度だ。





「牧野。そんな部屋の隅で張り付いてないで中へ入れ」

司は感情を抑えて彼女に声をかけた。
だが彼女は、相変らずリビングの入口で足の裏が床に張り付いたように動こうとせず、背筋を真っ直ぐと伸ばしてはいるが、どうすればいいものかと考えているようだ。
そして司とじかに接触することを、必死で避けようとしていた。

その必死さが男の心をそそるのだが、時に必要とあらば、率直で正直な言葉を投げることをする。
それは、司の朝食の心配に始まったのだが、今はかりそめの恋人を自らが演じて見せるという言葉になった。そしてそれは、司にとって実に都合のいい話だが、それならそれで、それらしく見せる必要があるはずだ。そして彼女はそれを拒むことは出来ないはずだ。
だが一瞬黙り込んだ彼女の口から出たのは、否定の言葉だ。

「・・あの・・向うの部屋の入口は別にありますよね?それなら私はそちらの入口から出入りした方がいいと思うのですが・・」

もごもごと言いながら困ったような視線を司に向ける女がいるが、彼はその視線には気付かぬふりをしていた。
そして最近どこか元気がないと感じていた女を元気付けるではないが、明るめの声で答えた。

「どうした?この部屋が気に入らないのか?」

そう言ったが気に入るも気に入らないも、この部屋以外ないのだから、嫌だと言われても困るが言うはずがない。だが司の声の明るさに感じられた僅かな笑みに口を開いた女は、彼のその言葉を再びやんわりと否定しようとした。

「いえ、そうではなく・・入口が同じというのはどうかと思うんです。西田室長の気持ちは大変嬉しいんですが、私も今までひとりで海外出張もこなしてきましたので、気を付けることは分かっているつもりです。それにもし何かあれば、向うから扉を叩きますのでそれで充分ではないでしょうか?」

彼女はそう言うと、落ち着いた配色の部屋の中を見回した。
広々としたリビングはマホガニー色の革のソファが置かれ、ガラスのテーブルの上には花が飾られていた。そしてやはりマホガニー色の壁には、はめ込み式の大型テレビが設置され、大きなバーカウンターには沢山の酒の瓶が並び、天井には煌びやかなシャンデリアが輝いていた。

「お前、野崎の話を訊いてなかったのか?西田は治安の問題からお前がひとりでいることを心配した。それにお前は俺の恋人だろ?それなら同じ部屋でなくてどうする?あの迷惑な女はストーカーのように俺のことを追い回しているはずだ。そんな女から俺を守るのがお前の仕事だろ?」

だがそんな話は嘘だ。
それに考えれば分るはずだが、彼ほどの男が迷惑な女を排除することが出来ないはずがない。だが彼女はそこまで頭が回らなかったようで、司の言葉を疑わない。

「ええ。勿論それは分かっています。・・・そうではなく、プライバシーの問題があります。こ、恋人役を引き受けましたが、それは対外的なことであり、何も部屋まで一緒にしなくてもいいのではないでしょうか?それに_」

躊躇いながらも、自分の意見をはっきりと口にした女は、まだ何か言いかけたが、それを遮った司は、出来るだけ男女の感情を交えない口調でこれも仕事だともっともらしく言った。

「いいか。牧野。お前は俺の恋人だろ?それなら同じ部屋に泊まるのが当たり前だ。もしあの女に俺とお前が別の部屋に泊まってることが知れたらお前が俺の女だとは信じねぇはずだ」

彼女は、司の口から発せられた『あの女』の言葉に、そうだった。自分は秘書として上司のニーズに応えることが仕事だったと納得した顔をした。だがその顔が余りにも真面目だったため、思わず笑みが漏れそうになったが何とか留めた。
そして牧野つくしの中で、司がこしらえた架空の迷惑な女、彼の都合でいつでもどこでも簡単に出現させることが出来る女は、この国にいることになったことを理解すると、彼女の腕を取り、二つに分けられた客室の扉へと引っ張って行った。

「それに俺はこの扉の向うへはお前がいいと言わない限り足を踏み入れるつもりはない。だからお前のプライバシーは守られるってことだ」

そう言って司は真面目な表情を浮かべたが、それはつくしの警戒心を緩めるためだ。そして彼女の反応を窺った。
やがて暫く黙っていた女が、渋々といった形ではあったが、わかりました、と答えると掴んでいた腕を離した。












少なくとも頭の切り替えは出来た。
それは火照った顔を少しばかり冷やすため、窓を開け冷たい外気を浴びたからだ。
つくしは、ひとつ屋根の下と表現するには大きすぎる建物の、だがその屋根に一番近い最上階にあるスイートと一枚の扉を挟んだ部屋にいた。

自分の部屋には廊下に出る扉はあるが、そこからは出入りしません。
そう言ったが、実際部屋から出ることはない。
朝食はルームサービスで取ることが決まっていて、その時一日のスケジュールを確認することになっているからだ。

そして西田の言うとおり、海外ではいつどこでテロに遭遇するかわからない状況であり、今の世の中、どんなにいい環境にあると言われる建物であっても必ずしも安全とは言えないからだ。
それにホテルという場所柄、少なくともロビーは出入りが自由であり、ラウンジは待ち合わせや商談の場所として利用されている状況からしても、何があってもおかしくはない。
そしてそれもあるが、それだけではない。副社長と扉を一枚隔てている状況なら、仕事上何かトラブルがあったとしても、すぐに対処できるという便利さがある。そしてその扉は、つくしの方から開かれることはあったとしても、男の方から開かれることはないと約束をされた。

一度副社長のペントハウスで一夜を明かしたが、あの時は酔った自分の秘書の醜態を見かねたからだ。だが今のつくしは、気付いてしまった自分の気持に身動きが取れない状況にいた。
本音を言えば、一番のネックは副社長のかりそめの恋人、ダミーを演じることが出来るのかという不安があった。

スケジュールの中には、買収したバルテン社のリチリウムイオン電池生産の大型工場建設という投資を歓迎するデュッセルドルフ市長主催の晩餐会や、この街が州都である州知事主催のパーティー。そしてデュッセルドルフ日本総領事館での晩餐会といったものも組み込まれていた。
何しろ1000億円弱と言われる大型投資となるのだから、行政を挙げての歓待になるのは当然だ。

それを考えれば一瞬つくしは、日本に今すぐ帰りたいと思った。
自分の城であるマンションの部屋でソファに腰を下ろし、お気に入りのひざ掛けに包まりコーヒーを飲みたい気になっていた。
そこで一日の疲れを取り、のんびりと過ごすのだ。

もともと、つくしは派手なことが苦手だ。それなのに、世界中の注目を浴びる男の秘書としてこの国に来た。そして恋人役をしなければならない。だがそれは自らが言い出したことだ。
それに秘書として求められているなら、やるしかない。

だがつくしは、新堂巧にも話したが、日々自宅と会社を往復し、いつの間にか年を取り定年を迎えるような女だったはずだ。そしていずれ結婚し生まれる弟の子どもの優しい伯母さんになるつもりでいた。
仕事だけが取り柄の女でドラマチックなことなど起こり得ない平凡な毎日だったはずだ。
だが今は恋におちた自分がどうすればいいのか分からないままでいる。
そして相手は平凡とは程遠い男性。

キスなんてもう何年もしていない。
それにその先の経験はない。
それに恋愛映画にあるような奇跡が起こるとは考えられない。
けれど、ダイニングルームに運ばれて来た夕食を済ませ、二つの部屋を繋ぐ扉が閉じられる直前、ゆっくり休め。明日から忙しくなるからな。と優しく気遣う言葉をかけられ、ほとんど重さを感じさせない布団に潜り込んだとき、物足りなさを感じ眠れない自分がいた。





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2018
01.16

恋におちる確率 45

さらりと野崎の口から語られた言葉は、ホテルはコネクティングルームで手配しています。
それは誰の指示だったのか。
そしてその言葉は、誰に向けて言われたものなのか。
つくしの顔に浮かんだ困惑を野崎は理解したように答えた。

「第一秘書の西田さんから連絡があり、牧野さんのお部屋は副社長と直接繋がるようにとのことでした。ただあなたは女性ですから、コネクティングルームに戸惑いがあるかもしれませんが、西田さんにしてみれば、ご心配だったのではないでしょうか?ドイツは治安がいいと言われていますが、それでも最近は国際的な問題も抱え、時に物騒な事件もありますので、警護の関係からも同じお部屋の方が安心だということでしょう」

野崎が口にした国際的な問題。
ヨーロッパでは、数年前からテロが頻発するようになり、そのことを指していることは分かる。そしてドイツ国内に目を向ければ、移民や難民の受け入れに寛容な現政権の政策に反対をする国民も多いと言われ、外国人に対し良い感情を持たない人間が増えたと言われている。

それにしても、野崎の年齢は分からないが、40代前半ではないだろうか。
そんな男が、女がひとりホテルの部屋に泊まることを心配することは時代錯誤といった思いもあるが、女はか弱い生き物であり、守らなければならないといった意識が強い、騎士道精神的考えに基づくものだとすれば、あり得ない話ではない。

だがつくしは、ひとりで海外へ出張をしたことは何度もある。
それに、守ってもらわなければならないほどか弱い女ではなく、自立した生き方をしていた。

だが今それよりも頭にあるのは、副社長の部屋と続き部屋と言う事は、部屋を繋ぐ扉の鍵はどうなっているのかの方が気になっていた。
ただ唯一確かなのは、副社長はそのことを一切気にしていないということだ。
何故なら、野崎の言葉に全く反応を示さず、表情に変化もなく、つくしの隣で平然と書類に目を通していたからだ。
その姿は、つくしのことなど全く気にしていないように思え、まるで自分ひとりが、焦っているようでみっともない気がしていた。

もし久美子がつくしのそんな気持ちを知れば、

『つくし。告白しなさいよ!副社長も絶対あんたの事が好きだから!これであたしがプレゼントした下着が活躍するチャンスが来たってことね!』

と快活に言うはずだ。
そんなことを頭の隅で思いながら、副社長を意識して落ち着きがなくなって行く自分自身が嫌だった。









司は、西田の采配に頬が緩みそうになるのを抑え、片眉を上げた。
宿泊先のホテルでエレベーターに乗り、最上階のスイートに着いたのは、午後6時を30分程回った時間だった。
そして牧野つくしをリビングの中へ通したが、彼女は居心地が悪そうに入口で立っていた。

西田から事前に知らされてはいたが、このホテルの最高級スイートには、コネクトする部屋がある。
そこは、元はスイートの続き部屋だったものが、いつの頃からか扉が設けられ、鍵が取り付けられたという部屋だ。その結果、コネクトすることになった部屋は、後から廊下へ出入りする扉がつけられたという構造だ。そして当然だが二つの部屋を繋ぐ扉の鍵は彼の部屋側にある。

『いくらいくつかのベッドルームを備えた最高級のスイートだとしても、いきなり同じお部屋で宿泊となれば牧野さんは困惑するはずです。ですがコネクティングルームなら扉があります。それは彼女の心の扉とでも言いましょうか。その一枚の扉の意味はとても大きいものです。無理やり開こうとしてはいけません。つまり企業買収と同じで何事にもプロセスが必要ということです』

そう言って銀縁眼鏡の縁を持ち上げた男は、司の過去の女性関係を知る男であり、若かりし頃の悪行も知っている男だ。
そんな西田はある意味お目付け役のような男だった。


司が傍若無人と言われた高校時代。
それは自分の意思を持つ力を失った操り人形のように生きたくなかった男の反抗。
だが今は、欲しいものがあれば与えられるのではなく、その手で掴むことが男としての本能だと知っている。
そんな男は、今まで女に対し何かを求めたこともなければ、自分が決めたルールで関係を持っていた。

それは金も権力もある男に対し、本音を漏らすバカな女はいなかったからであり、愛想笑いを浮かべ、おもねる人間ばかりが彼の周りにいたからだ。だが彼はそんな人間には飽き飽きしていた。言いなりになる人間は欲しくない。 
そして富と権力を持つ人間は、気ままな人生を送ることが出来ないからこそ、自分に与えられた力の使い方は知っている。

そんな男は、まるで仕事上の分析をするように、彼女の思考を読むことをしていた。
そして自分が魅かれている女の反応が手に取るように分かった。
それは、考えもしなかった事態が生じたとき、古今東西女は皆同じ反応を見せると言われる戸惑いと困惑。
そしてそれを鎧で覆うように隠そうとしている。

だが彼女は一度、司のペントハウスに泊まったことがある。
同じ屋根の下で眠ったことがあった。だがあの時は、自らの意志ではなく、酒に酔った状態で連れ帰った結果だ。
それにあの時は、仕事に生きる女そのものであり、男だの女だの考えてはいなかった。
ただ自分の失態を詫びることに気持ちは向いていた。

だが今は、まるで何かを警戒するような態度で部屋の片隅にヤモリのように張り付き、奥まで入ることなく入口で足を止めているが、その様子がまた司にしてみれば可笑しかった。
みずから恋人役とでもいうのか、迷惑な女から防波堤の役割をするといった女にしては、矛盾しているとしか言えなかったからだ。
そして今まで司の周りにいた女は、どれだけ司の関心を引き寄せられるかを競っていたが、彼女はどれだけ近くにいても、それがない。

そしてそんな女は、自分に任された仕事を投げ出すことはしない。
任された以上、二言は無いではないが、どんなことがあってもやり通すといった意思を持つ。
だからその役割を如何なく発揮してもらうつもりでいる。
そして、本物の恋人になるつもりだ。
いや。つもりではない。必ずそうなるはずだ。




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2018
01.15

恋におちる確率 44

バルテン社はドイツ中西部の経済都市であるデュッセルドルフに本社があり、同じ街に欧州支社がある道明寺HDとは近い場所にある。

空港に迎えに来ていた車は3台。
1台は副社長の司と秘書であるつくし。そして欧州支社の野崎と名乗る男性が乗り込み、あとの2台には日本からのSP3人とドイツ人SPの3人が分乗した。

野崎は、ドイツ語が堪能で通訳を務める。だが国際的なビジネスマンは英語を話すのが当たり前であり、それはドイツでも同じだが、それでも母国語で話しをする人間がいるとすれば、当然だが通訳する人間が必要となるからだ。

だが、司はドイツ語が出来る。しかし、敢えて知らないフリをする方がビジネスでは有利に運ぶことがある。
それは彼がドイツ語を話せないことをいいことに、彼に知られたくない話を母国語ですることもあるからだ。そして司に訊かれたくない話といったものは、ほぼ彼にとっては有利な話になることが多い。

そして海外での司の行動は、巨額の資産を持つ道明寺HDの副社長ともなると、誘拐やテロの対象となることもあり、厳重な警護が付くのが当たり前だ。
だがつくしは、この何カ月間か一緒にいたが、あからさまに目に見える警護を目にしたことがない。
勿論警護がついていることは知っていたが、彼らはその存在を感じさせることがないほどさり気ないものだった。

それは、日本という世界の中でも極めて安全度が高いと言われる国にいたからであり、ある意味平和な社会に慣れていたせいなのかもしれない。
だが、つくしが今まで出張していた東南アジアも、危険がないとは言えなかった。
しかし何も起こらなかった。それは自分の立場が社会で広く認められた存在ではなく、どこにでもいる普通の女だからだ。普通の女は、自分の身の周りのことに気を付けることを、そこまで神経質になる必要が無かった。

しかし今は、自分の隣に座り、野崎から渡された書類に目を通す男の世界経済に於ける重要人物としての大きさを感じていた。
そして分っているとはいえ、一分の隙もなく仕立てられたスーツを堂々たる体躯に纏った姿は、東洋人の持つクールさと神秘さを表現しているように見えた。

そんな男を海外で守る要人警護のプロは、彼ら自身の存在を敵に見せつけるように警護する。それはあえて相手にその姿を見せつけることで敵を威嚇し、牽制するという意味があり、屈強な身体つきのゲルマン人は、この国の特殊部隊出身だと訊いた。

ジェットの重い扉が開き、機内に乗り込んで来た彼らは、日本から同行した警護の人間と言葉を交し、サングラスが掛けられた瞳を副社長に向け、状況を確かめていたが、彼らのダークスーツの下には、たくましい上腕二頭筋が隠され、その腕にぶら下がることも出来るはずだ。

そんな男たちに囲まれれば、普通の日本人男性ならその影は薄い。
だが道明寺司という人物は、東洋のビジネスマンというよりも映画スターのようにすらっとした高い背を持ち、端正な顔に黒い髪と印象的な切れ長の瞳は、見る人を引き付けずにはおかない。それはその外見や特出した出自や巨額の資産に関係のないものがある。

それは、オーラだ。
オーラが違うのだ。
海外で存在感を示すことが出来る日本人はそう多くはない。だが道明寺司という人物は、紛れもなくそう多くはない日本人のひとりだ。
それは、つくしがこの国に来て改めて感じた思いだ。

そして、ドイツ同行が決まったとき、秘書としての経験が浅い人間が、第一秘書の西田の代わりが出来るだろうか。という一抹の不安と共に、頭の中に浮かんだ思いがある。
それは、自分がドイツに連れてこられたのは、ドイツ人。もしくはヨーロッパのどこかの国の女性に対しての牽制のためなのかもしれないといったことだ。つまり迷惑な女性は日本人とは限らないということだ。
だがもしそうだとすれば、自分のような女がその役割を果たすことが出来るのかといった思いに駆られた。

そして相手はどんな顔をしているのか。
全くイメージが湧かない訳ではなく、漠然とだが思い浮かぶのは、モデルや女優のような美しい顔。それにヨーロッパなら何百年も続く由緒正しい貴族の生まれの女性かもしれない。
だが、引き受けた以上は相手がどこの国の人間だろうと、どんな立場の人間だろうと、自分の役割を果たさなければならない。







「・・牧野さん?聞いていらっしゃいますか?」

つくしは野崎から名前を呼ばれ、はっとして彼の顔を見た。

「え?あ、はい。勿論聞いてます。今日はこのままホテルへ入るんですよね?」

と、慌てて答えたが、道明寺司の気持ちに思いをめぐらせていたつくしは、詳しくは聞いてはいなかった。
そして、つい先ほど起きたことを思っていた。
それは車に乗り込むとき、いつもなら副社長が車に乗り込めば、つくしは反対側のドアから乗り込むのが常だったが、いつものその動作は男の手によって遮られ、彼の為に開かれたドアの中へエスコートされたのはつくしだった。
その態度はまるで大切な人をエスコートするような態度。その大きな手が腰に触れたとき、あのパーティーでその腕が腰に回され引き寄せられた時のことが思い出された。

そして機内で語られた、
『海外出張を成功させるコツは、一緒の空気を吸い、一緒の食事を取ること』

その言葉は男と女の関係性を深める言葉とも言えるはずだ。
どんなによそよそしい間柄にあった男女でも、同じ時間を長く過ごし、食事を共にすれば相手のことを知るようになり、親しみも湧いて来るはずだ。

だが二人の間に何かが起こるといったことは考えては駄目だ。
変な期待をするべきではない。
つくしは頭を軽く振り、思いを否定した。そして野崎の話に耳を傾けていた。

「ええ。まだ夕方の6時ですが今日はこのままホテルでお休み頂くことになります。ドイツ人は朝が早いのもありますが、基本的にドイツの夜は早いといった生活で夜遅くまで店が開いているということはありません。9時を回れば観光地でない限り街の人通りは途絶えます。まあ稀に騒々しい場所もありますが、それは若者が騒いでいる・・そんな場所です。ですからドイツでは静かな夜が過ごせることをお約束いたしますので牧野さんもごゆっくりお休みになれるはずです」

それは大変嬉しい話だが、実はジェットの中で知らぬ間に深い眠りについていた。
そして間もなく空港に着くという時に目が覚めたが、いつの間にか身体に掛けられていた毛布に気付いた。
それは、同行しているSPが掛けてくれたのか。
そうだと思いたいが恐らくそれは違うはずだ。
と、なればいったい誰が掛けたのかといったことは愚問だ。
そんな思いから隣の席に目をやれば、自分をじっと見つめる黒い瞳と目が合ったが、寝ている姿を見つめられていたとすれば、弱点など隠すことは出来なかったわけで、まだ副社長に対し何の思いも抱いていなかった頃、ペントハウスで目覚めたことがあったが、あの頃とは違い自分の気持ちに気付いてしまった今はただ頬を染めるしかなかった。

「それからホテルですが、ご指示通りコネクティングルームで手配させて頂いております」




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2018
01.14

恋におちる確率 43

高度1万2千メートルを飛ぶジェットの遥か下は、寒く暗く長い冬のシベリアの凍てついた大地。だが目的地はドイツ中西部に位置する街、デュッセルドルフ。
スイスアルプスを源流とするライン川河畔に位置するその街は、経済都市と呼ばれ多くの国際的企業が拠点を構えており、道明寺HDもEU脱退を決めたイギリスとは別に、その街に欧州支社を置いている。
時差は8時間あり東京の方が進んでいる。距離は9千キロと少し。
パイロットから今日のフライト所要時間は11時間だと言われた。

司は、牧野つくしを伴い、その街へ向かっているが、副社長の仕事とは、会社の組織原理に照らせば専門分野といったものは無く、毎月定例の報告書が出来上がってくるものに目を通すことや内部を統制することが仕事であり、会社の全てを把握しているとは言えない。
そして実際会社の全てを把握することは、不可能に近いものがある。

何故なら全てが報告される訳はないからだ。
そして報告書の内容が全てとは言えない。
だからこそ部門トップの判断といったものが重要度を増すことになり、彼らの判断を信頼するしかないのだが、今回のドイツ出張は、買収した電気機器メーカーとの統合プロセスが上手くいっているかを自身の目で確かめたい思いがあった。


それはヨーロッパに於けるEV(電気自動車)へのシフトが加速しているからだ。
まだ日本では馴染が薄いEV。だがその需要は確実に増えてはいる。

そしてどんなものにもメリット、デメリットがあるが、EVのメリットとして言われるのは、低排出ガスで環境に優しいことが一番に上げられ、地球温暖化問題解決のための大きな期待であることは間違いない。そして経済的にも、電気の方がガソリンよりコストが安いと言われている。
対しデメリットとして言われるのは、航続距離の短さや、車両価格が高い。充電インフラ数の不足といったものが上げられ、日本ではまだ一般的ではないといった声も訊かれる。

だが海外の車市場で注目されるのは、電気自動車であり、日本とは全く異なった車に注目が集まっているのが現状だ。そしてヨーロッパでEVシフトが加速した背景には、日本の自動車メーカーのハイブリッド技術に対抗し、ドイツの自動車メーカーが仕掛けたと言われている。

しかしそれはヨーロッパだけではない。
中国やインドも環境問題の深刻化でガソリン車からEVへの普及を推進しており、インドに於いては2030年までに国内販売される全ての自動車をEVのみとする政策を打ち出した。
そしてノルウェーでは、2025年までに全ての車をEVに切り替えることを決めた。
またフランスでは、2040年までに全廃する計画があり、英国も同様の方針だ。

そんなこともあり、EV部品で重要度が高い3つ「三種の神器」である電池、モーター、インバーターの需要が高まることは確実だ。
そして電池には使い切りの一次電池と充電可能な二次電池というものがあり、二次電池の一般的な呼び方としては、充電池といった言い方がされるが、学術用語としては「二次電池」「蓄電池」が認められた名称であり、EVに使用されるリチリウムイオン電池は二次電池になる。つまりEVは二次電池式自動車ということになる。

そしてその市場は世界ベースで拡大し、EVへの技術改革は市場が膨大であることから「三種の神器」に関わる企業には大きな利益をもたらすことになるのだが、その生産に大きく関わるのが道明寺HDと業務提携を結んだ菱信興産だ。

新堂巧が専務を務める日本を代表する大手総合化学メーカー菱信興産は、リチリウム新時代と呼ばれる現在に於いてリチリウムイオン電池を構成する正極材、負極材、セパレーター(絶縁体)、電解液の4部材のうちセパレーターと電解液の2部材を開発、生産しているが、特に電解液の技術は高く世界トップクラスだ。

道明寺HDはその部材を買収先の電気機器メーカー、バルテン社電池事業部のリチリウムイオン電池の生産に使い、二次電池市場に於いて世界一のシェアを目指す。
そのためEVに力を入れ始めたEU域内にあるドイツ企業を買収した。
何故ならヨーロッパでのリチリウムイオン電池の生産はまだ始まったばかりで不足分の殆どを日本や韓国の企業に頼っているのが現状なのだから、大きなビジネスチャンスとなることは確実だ。
それにEU域内の関税は無税となっており、ドイツ国内や近隣のEU加盟国に工場を構える自動車メーカーに電池を納めるとき日本から輸出するより安く販売できるからだ。


そしてこうしてドイツに向かうジェットの機内にいるが、今回同行するのは、西田ではなく牧野つくしを指名した。それはもちろん彼女との接点を増やすことが目的だ。
何しろ海外出張となれば一緒にいる時間が長くなる。現にこうしてジェットで長時間過ごすことが出来る。

西田はそれが公私混同だとは言わなかったが視線が懐疑的だったのは言わずもがなだ。
だが牧野つくしの秘書としての仕事ぶりは問題がないといった態度で、まあいいでしょう。と言った。
そしてくれぐれも牧野さんを困らせないで下さいと念を押された。

だが困らすもなにも司の機内での過ごし方は、書類に目を通すことが殆どだ。
今も手渡された書類に目を通し、読み終わるとサインをしたが、それが最後の書類だった。
そして通路を挟み隣の席に座る女に長い睫毛をぴたりと止め視線を合わせた。

「牧野。あのマフラーだが気に入ったか?」

司は自分が誕生祝いに渡したカシミアのマフラーについて聞いた。
それは優しい色合いと言われるクリーム色をしたマフラー。
自ら手に取り、その肌触りを確かめ購入を決めた。

今までの司なら女に誕生日のプレゼントをするなど考えもしなかった。
それも自らが誰かに贈る物を選ぶといったことをしたことがなく、西田から聞かされていた牧野さんに高額なジュエリーを贈られてもお喜びにはなりません、の言葉にそれなら何が喜ぶのかと考えていたが、まるで司の思いを読み取ったように西田が小さく口にした、

『上質のカシミアのマフラーなどいかがでしょうか。これから年が明け寒さも一段と厳しくなります。それに牧野さんのお帰りはご自分の足でお帰りになられます。暖かさの感じられる贈り物は嬉しいと思います』

その言葉に誕生日が冬であり、マフラーにしたのだが、その安さに本当にこんなものでいいのかという思いがしていた。

『贈り物は値段ではありません。贈り物というのは、その人が喜ぶ物は何かと考えることから始まるのです。受け取った人が、ああ自分のことを考えてこれをプレゼントしてくれたと思わせることが大切なのです。それに贈り物をした人間の心を考えてもらうことが贈り物の意図です。それからマフラーは普段から身に付けるものであり直接肌に触れるものですから、それを贈るということは独占欲の表れという意味があると言われています』

と言った西田の最後の言葉はまさに司の牧野つくしに対しての思いだ。だから今はマフラーを贈るという選択が間違っていたとは考えていない。



「はい。ありがとうございます。あれから使わせていただいています」

返された言葉は感謝の言葉だが、司は彼女がマフラーを捲いている姿を見た事がない。
それは車での移動が常となっている男なのだからそれもそのはずなのだが、彼女が自分の贈ったマフラーを捲いている姿を見たいと思う。だからこの出張でその姿を見ることを期待していた。それにしても、まさか自分がそんな些細なことを楽しみにするなど考えもしなかったことだ。

だが最近、年が明けてから彼女の態度にどこかぎこちなさを感じ、何かあったのかといった思いが頭を過る。それにパーティーで迷惑な女の盾となり恋人役を引き受けると言った時の明るさといったものが今は無い。

その原因のひとつとして考えられるのは、司が年末年始NYにいた間、新堂巧が彼女の元を訪れたと報告を受け、つけ回しているのかと思ったが、どうやらそれは違ったようで、それなら何があったのかという思いでいる。
そんな思いから司は訊いた。

「どうした?何か心配ごとでもあるのか?」

「え?いえそんなことはありません。・・初めての副社長との海外ですのでちょっと緊張しているだけですから・・大丈夫ですから・・・」

と言った彼女ははぐらかすようではないが、やはり言葉にいつもの明るさが感じられなかった。
そしてまるで自分のことはいいから、といったふうに司に訊いた。

「あの・・副社長が海外出張は多いことは存知上げていますが、出張を成功させるため気を付けていることはあるんですか?」

それは司をビジネスモードに引き戻すために訊かれたとしても、真面目な女の質問に答えることはやぶさかではない。それに彼女が何かを考えていたとして、無理矢理訊いたところで答えはしないだろう。
それなら彼女が自分に対し興味を抱いたことに答えることから始めるのも悪くはないと司は口を開いた。それに出張はこれからであり、牧野つくしと深く知り合う時間は幾らでもある。

「そうだな・・。海外出張を成功させるコツは、一緒の空気を吸い、一緒の食事を取ることだ。どんな仕事にしても仕事は人と人がするものだ。大切なことは直接会って話をするにこしたことはない。黙って目を見れば話が通じるということはビジネスの世界にはない。空気を読むという言葉もあるがそれが通じるのは日本人だけだ」

司は一旦言葉を切った。
そして静かに話を訊く姿勢の女に、その真面目な態度が彼女の持ち味であり、魅力のひとつだということに気付いていたが、偽物とはいえ二人はひと前では恋人関係だということを見せるつもりだ。だからもう少し肩の力を抜けと思うも、どこか心のガードといったものを感じながら話を継いでいた。

「最近の会議はモニター越しってことも多いが、相手の目を直接見れば心の奥に何を抱えているか分る。それに今回のドイツ出張は菱信興産との業務提携の成果が期待されるリチリウムイオン電池の生産にいいスタートが切れるようにしたい。そのためには向うの会社の、いやあの会社はもううちの会社だがPMI(Post Merger Integration 買収後の両社の統合プロセス)が上手くいっているかこの目で確認したい。お前も言ったよな?ドイツ人は日本人と同じ勤勉な国民性だ。従業員意識や管理体制の組織統合も問題ないだろうってな」

それを訊いた牧野つくしは、そうだったといった顔で頷いた。

司は彼女が秘書になったばかりの頃、彼女の仕事の力量を測るという意味もあり、どれくらい自分の話について来ることが出来るのかを試すため、PMIという言葉をそのまま口にしたが牧野つくしはその意味を理解していた。

だが今思えばすでにあの頃から彼女のことが酷く気になっていた。
いや。インフラ事業部の書類が間違えて彼女の元へ届き、それを手に自分の前に現れ、威勢の良さと大きな黒い瞳で睨みつけるようにして司を見た時から惹かれていた。
そして、今は彼女の一挙手一投足ではないが全てが気になる。だからどこか元気がない様子が気になっていた。

それにしても、空気を読むことが得意な日本人は多いが、司の話を訊いている女は空気を読むのが下手だということが分かる。そんなことから司は彼女のことを鈍感女とでも呼ぶかと思い、思わず口角が上がっていた。





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2018
01.13

恋におちる確率 42

アフリカ最高峰の山であるキリマンジャロは「神の家」という呼び名もあるが「キリマ(山)」と「ンジャロ(白さ)」という二つの言葉の組み合わせから「白く輝く山」の意味もあり、道明寺ビル55階のこのフロアも、まさに社内で一番輝く場所と言われ、ただの社員が足を踏み入れる場所ではない。

そしてヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』の冒頭に描かれている一匹の豹が何を求めてキリマンジャロの頂を目指したのか誰にも分からないというのと同じで、つくしも初めは何故自分がこの場所にいるのか分からなかった。

だが自分がこの場所、秘書課に異動になったのが運命だというのなら、そうなのかもしれない。しかし物語に出て来た豹は山頂近くで凍死した。それは普段自らがいるアフリカの草原ではなく、雪を頂く高い山に登った為だということは一目瞭然だが、豹がその場所に何かを求め登ったのだとすれば、それはそれで本望だったのかもしれない。
だが豹は間違いなく場違いな場所にいた。
そして悲劇的な最後を迎えた。

今のつくしは、場違いな場所にいたため亡くなってしまったその豹に自分をなぞらえていた。それはつい先日まで考えたこともなかったことであり、自分は任された仕事をする。
ただそれだけを考えていたはずだ。だがある日を境に副社長のことを上司としてではなく、ひとりの男性として見るようになっていた。

今までまともに恋などしたことがなかった。
だから久美子からも恋には疎いと言われていた。
学生時代は勉強とバイトに励み、道明寺HDに入社してからも努力を積み重ねキャリアを重ねた。合コンで紹介され付き合い始めた男性とは、短期間で別れ、それから付き合った人はいない。そして何をどう間違ったのか、副社長の秘書に抜擢され新堂巧に一目惚れされた。

そんな女は副社長に迷惑な女がいると知り、盾になると決め、かりそめの恋人としての役目を買って出た。だがミイラ取りがミイラになるではないが、新堂巧と話をしてから心の中にひとつの思いが浮かび、女に迷惑しているという人を好きになっている自分に気付いた。

だが生々しい恋をしたことがない女は、はっきり言って恋についてよく知らない。
そんなごく普通の、平凡な恋さえまともにしたことがない女だというのに、恋におちた相手はあの道明寺司だ。
道明寺財閥の御曹司。跡取り息子だ。
社内の女性社員のみならず世界中の女性を虜にすると言われる男のかりそめの恋人になっただけでも凄いことだというのに、久美子が言ったような本物の恋人になれる訳がない。
それにもし自分の思いを伝えたとしても、笑われるだけで想いをまともになど受け取ってもらえるはずがない。

そしてあの日から、物事の判別というものが恐ろしいほど疎かになっているような気がする。
秘書の仕事は仕える人物の傍にいることが当たり前なのだが、気持ちに余裕がないというのか、落ち着かないというのか。どちらにしても、秘書としてもっともらしい顔というのを作らなければならないはずだが、それも出来ずにいた。

そして迷惑な女に対して予防線として振る舞うことを求められた女の誕生日に贈られたマフラーに込められた思いなどなく、秘書のへの心遣いかと思えば心が淋しくなる自分がいた。

そしてそのマフラーも朝は自宅まで迎えの車が来ることもあり、捲かれることもなく、いつも鞄の中に入れられていた。だが帰りは室長である西田の担当であり、寒風吹きすさぶビル街を歩くとき、あのマフラーを捲いていた。

そして恋をするというのは、今まで気付かなかったことに気付かされるということだ。
いや違う。気付かなかったのではない。気にならなかったのだ。
それは、街を歩く人は、街を歩く恋人たちはどうしてあんなにも楽しそうなのか。
そして待ち合わせなのだろうか。そわそわと時間を気にする若い女の子の姿があれば、デートの約束なのだと思ってしまう。

そして今まで思ったことはあったが、気に留めなかったことが気になり始めた。
それは、低くしっかりと聞こえる声もだが、副社長独特の匂いがほんのり暖かく匂うことや、切れ長の黒い瞳と目が合ったとき、じっと見つめられ、その際立つほど整った容貌が多くの女性を惹き付けることが改めて分かった。そしてその美貌は恐らくこれから歳を重ねても変わらないはずで、50代になれば苦み走ったいい男と言われるようになるだろう。

つくしのこれまでの人生は、単調だが強い支柱に支えられていたと思っている。
それは仕事だ。そしてそれが人生の中の大きなウェイトを占めていた。
そして35歳の年齢相応な賢さもあると自負していた。
だが今は奥行きの知れない人生という箱の中にあった恋というものを手探りで見つけた状態だ。

それにしても、35歳にもなってまさに突然降って湧いたように恋をするというのは、こんなにも頭を悩ますものなのか。
それなら10代の若者の恋はいったいどれだけ頭を悩ますものなのか。いや。10代の若者と比較検討したところで、どうなるものでもない。
むしろ10代の若者の方が自分の気持ちを相手に伝えることを躊躇わないだろう。
そしてたとえ、傷ついても若さがその傷をカバーするはずだ。
そしてその傷の治りは早い。決して瘡蓋になることはないはずだ。

それにしても、今朝など必要以上に早く目覚め、早々に顔を洗い、食事を済ませ、迎えの車が来るのを待っていた。
そして副社長のペントハウスに迎えに行けば、今まで通りの男がいて・・だが以前とは違うのは、気取りがなくなったというのか。表面上はクールなのだが、確実に何かが違う。恐らくそれは、つくしのことを迷惑な女を避けるための予防線として考えていることからくる親しさなのだろう。だからパーティーで言ったように、親しくしたとしても決して勘違いしてはいけないのだ。

第一、副社長と秘書の間に恋が芽生えるなど、ロマンス小説の世界の話であり、シンデレラ物語は意地悪な継母や魔法使いやガラスの靴が必要だ。だがつくしには、その三要素がない。
だから、この胸の中に沸き起こった思いは、自分の胸の中にだけ留めておけばいい。
キリマンジャロで死んだ豹が何を考えていたか誰も知らないのと同じで、自分の考えが誰かに知られることはないのだから。



そしてキリマンジャロの山頂のような雪が冬のドイツに降るのだろうか。

年が明けた1月中旬。
道明寺HDが買収したドイツの電気機器メーカーであるバルテン社に副社長が出張することは決まっており、同行するのは第一秘書の西田だと思っていたが、つくしが指名された。

つくしは、飲料事業部時代に海外出張の経験はある。
それはコーヒー三課ということからコーヒーの生産量が多い国への出張だが、その中でも世界第2位のベトナムや、4位のインドネシアといった東南アジアが彼女の担当だったこともあり暑い国への出張が多く、冬のドイツは初めてだった。

そして副社長の秘書として初めての海外出張は、当然だが今までの出張とは違う。
それはプライベートジェットを利用することで無駄な時間を省くこともだが、西田によって決められたスケジュールが緻密であることだ。


「牧野さん。ドイツでは欧州支社の人間が同行しますからご心配には及びません。それに副社長はあの国については御詳しいですから大丈夫です」

と西田から言われたつくしの仕事は、決められたスケジュールが滞ることがないようにすることだ。
そんなことから、秘書である自分がオタオタとしていては目も当てられないはずで、つくしは渡独に向け、仕事を次から次へと片付けることだけに専念し、突然気付いてしまった副社長への気持ちを抑えると、ドイツへ向かうジェットの中にいた。
そして通路を挟んだ隣には副社長が座っていた。




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2018
01.12

恋におちる確率 41

雨はしとしとと降り続き、止みそうな気配はない。
とっぷりと日が暮れた街の比較的大きな通りから脇に入った路地はマンションまでの近道だ。そんな場所で背後から声をかけられ振り返ったが、いったい誰がという思いと共に、闇に紛れるような黒い服の男の姿につくしの身体に緊張が走った。
だが少し離れた場所から、街路灯の薄ぼんやりした明かりの下に現れた男に少しだけ安堵した。


「今晩は。牧野さん」

「・・新堂さん?」

弟の進を駅まで見送った帰り、自宅マンションまであと5分程という場所で名前を呼ばれ、振り返った場所にいたのは、黒いスーツ姿で黒い傘をさした新堂巧だったが、まさか彼がそこにいるとは思いもしなかった。
そして何故そこに彼がいるのかといった疑問に対しての答えは思い浮かばなかった。
だがひとつだけ言えるのは、ここは新堂巧が住む場所ではないということだ。

巧はメールで自分のプロフィールを書き連ねていたことがあったが、実家は元麻布の各国大使館が居並ぶ高級住宅街にあり、そこに菱信興産社長で父親の新堂健一郎が妻と巧の妹にあたる娘と暮らしている。そして巧は都内の別の場所の高層マンションに暮らしていた。

それに巧の友人がつくしの暮らす都心から離れた街に暮らしているとは考えられない。
だからこんな所で会う人物ではない。
それならやはり何故?という疑問がつくしの頭の中に浮かび、その中で一番強く感じた思いは、巧が好意を寄せる女性をつけ回すストーカーと化したのではないかということだ。
つまり、つくしをつけ回しているのではないかということだ。だが、臆測といったもので人を見てはいけないということもあり訊ねた。

「・・あの、どうされたんですか?」

その問いかけが適切かと言われればそのはずであり、他にかける言葉があれば教えて欲しい。そんなことを思うつくしに巧が訊いて来た。

「お正月休み。道明寺副社長はNYですよね?」

「え?・・ええ。そうですが・・」

つくしは、ついそうだと答えたが、秘書が仕える人間のスケジュールを簡単に教えるべきではないと気付いたが遅かった。そしてそんな彼女の心を読むように巧はじっとつくしの目を見つめ、何かを納得したふうに話し始めたがその声は落ち着いていた。

「牧野さんは道明寺副社長の恋人ですよね?それならどうして彼と一緒に行かなかったんですか?NYならカウントダウンパーティーといったものもあるでしょうし楽しいイベントもあるはずです。それに先日のパーティー。・・あれだけの人数の前であなたのことを自分の恋人だと言った男にしては随分と冷たいですね?それとも彼はあなたを誘わなかった?もしそうだとすれば、恋人として失格ですね?」

巧はそう言うと、動かないつくしの方へと近づいて来たが顔は真顔で彼女の顔に視線を向けたままだ。
つくしはそこで、彼ほどの男が気になる女のことを調べないはずがないといったことに気付いた。そしてわざわざつくしに聞かなくても、副社長である道明寺司が日本に居ないことを知っているはずだと思った。
そしてつくしの家の住所を調べるなど簡単なことであり、これは明らかな待ち伏せだ。だがいつからこの場所にいたのか?駅へ向かう時も同じ道を通ったが、もうしかしてその時から様子を窺っていたのだろうか?
そんな巧は、パーティ―の時と同じでつくしが道明寺司の恋人であることが嘘ではないかと疑っていることが分かった。そう認識した瞬間、近いはずの自宅までの距離が急に遠くに感じられた。

「あの・・新堂専務・・」

巧はつくしのすぐ傍まで来ると彼女の言いかけた言葉を遮り真剣な眼差しで言った。

「牧野さん。あなたは本当に道明寺副社長の恋人ですか?私にはあなたの態度が表面上のことであり、真実ではないように思えてなりません。・・それに不躾なことを訊いていると承知で言わせて頂きます。もしかしてあなたは彼に弱みを握られていて、それを盾に関係を迫られているのではありませんか?私にはあなたの態度もですが、二人が恋人関係にあるというのは、道明寺さんが急にこしらえた作り話のように思えてなりません」

暗がりで話される巧の声は恐ろしいほど淡々としていてつくしは黙って訊くしかないと思った。だが一旦口を閉じ、次に開いた口調はそれまでとは打って変わったように明るさが感じられた。

「牧野さん。もしあなたが彼に何か弱みでも握られ無理矢理付き合わされていると言うことなら、私がお力になります」

と主張した巧は究極のポジティブ思考の持ち主なのか。
そんな巧は余程つくしの言葉を信じられないのか、疑っていることは間違いない。
それは道明寺司の過去の恋人遍歴からしてつくしが彼の恋人にしては、華やかさに欠けるといったことが理由のひとつとして挙げられるのは間違いないのだが、たとえそうだとしても、つくしが巧と付き合う気が無いのだから信じてもらわなければならなかった。
それにしても巧が二人の関係が本物ではないと疑うというのか、見抜く力は素晴らしいと思うが、どちらにしても諦めの悪い男であることは間違いない。


「あの、新堂専務。私は本当に道明寺副社長・・・いえ・・つ、司さんとお付き合いをしています。決して弱みを握られたとか、無理矢理といった訳ではありません。ですから・・本当にすみません。もっと早くお伝えすればよかったんですが、出来なかったんです」

つくしはここまで来た以上、なんとかして自分が道明寺司と付き合っていることを巧に納得させようとしていた。そうしなければ、また巧からメールが送られてくるようになり、交際を求められることになるからだ。

「新堂さん。本当にすみません。私は・・副社長の・・彼の・・司さんのことが好きなんです。ですから・・申し訳ありません。新堂さんとはお付き合い出来ません」

二人は傘をさしていることもあり、その分の距離があるが、それでも雨が降る暗い夜道で目の前に背の高い男性に立たれれば威圧感を感じる。それに新堂巧のように高学歴で外見がいいと言われる男性は女性から交際を断られるといった経験はなさそうに見え、プライドが高いはずだ。だからそのプライドを傷つけないようにと思うのだが、そのことに囚われすぎたばかりに断るチャンスを逸してしまい、副社長に助け舟を出された。
だからつくしは、ここでまた言葉を濁しては駄目だという思いで話をしていた。

それに副社長に付き纏う迷惑な女性をなんとかしなければならないといったこともあり、中途半端な態度を避けたいといった意識が強く働いていた。
そしてこれは新堂巧ときちんと話しをするチャンスであることは間違いないのだから、話し始めた勢いに乗って口を開いたが、言葉を選ぶことだけは忘れなかった。

「新堂さん。新堂さんは素敵な方ですから私のようにどこにでもいる平凡な女よりももっと素敵な女性に出会うと思います。私は日々自宅と会社を往復しているような女です。そんな女は世の中に大勢いますがそんな女の一人です。いつの間にか年を取って定年までずっと働いていてもおかしくない人間です。ですから新堂さんのような方に好きになってもらうにはもったいない_」

つくしがそこまで言うと巧は傘を持たない掌を彼女に向け言葉を遮った。

「・・もういいですよ、牧野さん」

巧は大きなため息とも取れる息を吐いた。

「牧野さんははやり私が思った通りの人だ。あなたは自分のことより他人のことに気を遣い過ぎます。どちらにしてもあなたがそこまで道明寺さんのことを好きとおっしゃるなら仕方がありません。ですが私は自分の目に狂いはなかったと思っています」

巧は言葉を切り、つくしが自分の言葉に興味を抱き言葉を返すのを待った。
そして彼女が口を開こうか迷っている様子を見ていた。

「・・あの、それはどういう意味でしょうか?」

つくしはやはり巧が副社長と自分の仲が本物ではないと疑っていると感じた。
だが巧は彼女から望んだ通りの言葉が返されると、心もち口元を微笑みの形へ変えた。

「それはあなたの瞳には打算的な色といったものが無いからです」

「打算的な色・・ですか?」

つくしが見ている巧の表情はほんの数分前に見せた眼差しとは異なり冷静な経営者と言える顔をしていた。そして35歳の男性が見せる落ち着きと余裕といったものが感じられた。

「ええ。そうです。打算的な色です。
私は自分の立場を十分理解しています。今の私は専務ですがゆくゆくは父の跡を継ぎ社長になります。そんな自分が条件のいい結婚相手と言われていることも知っています。それに私に近づいて来る女性たちは私を見てはいません。それでは何を見ているのか。それは私の外見や財産といったものです。女性たちの目に映るのは私自身の本当の姿ではないのです。そんな私には今まで沢山の見合い話もありました。ですが私は自分が結婚する相手は自分自身がこの目で見て決めたいと思っています。そんな時、あの料亭であなたに出会った。そしてひと目であなたに心を奪われたんです。あなたとの出会いは天の配剤だと思いました」

巧は口を噤むとつくしの顔をじっと見つめていた。
そして彼女の顔に移ろう何かを感じ取ろうとしていた。

「牧野さん。恋をするのに時間がかかる人間もいるでしょう。私も自分自身そういった人間だと思っていました。でも違った。今の私は一目惚れを信じるかと問われれば信じると答えます。そこでですが私はあなたにひとつ聞きたいことがあります」

巧は、一旦言葉を区切るがその声色は落ち着き払ったものでつくしを見据えた目を逸らすこともせずにじっと彼女の顔を見つめていた。

「私と道明寺副社長との間に違いがあるとすれば、それは何でしょうか?私はあなたが道明寺副社長を好きになったのと、私と出会ったことに時間差といったものがあるように思えません。それに男としての力量といったものも同じ位だと思います。ですからもし違いがあるとすれば、それはタイミングだと思っています。私の方があなたに出会うのが少し遅かったということになりますが、それもやはり神によって決められたものでしょうね。つまりもし私が道明寺副社長よりも先にあなたに出会っていれば、あなたが好きになったのは私かもしれませんね」



つくしは巧の話を黙って聴いていた。
そうやって聴くことで、彼の気持ちが落ち着くならといった思いもあるが、巧とこうして話をするのも初めてだが、彼の話を聞きながら思った。
ハンサムで背の高い男性は、本人の言う通り結婚する相手としては好条件であり、頭がいいことも分る。そしてこうして話しをする姿は冷静で落ち着いていて、いい経営者になるはずだということも分かる。だがつくしは、そんな新堂巧と自分では合わないと感じていた。
それは、新堂巧がつくしに感じた直感的なものと同じで、つくしもまた直感的に新堂巧が運命の相手ではないと分かっていた。

「牧野さん。道明寺さんも私と同じような立場の人間です。あなたはそんな彼の何を好きになったんでしょうか?勿論、あなたが彼の外見や財産に目が眩んだのではないと分かっています。それならいったい彼のどこに惹かれたのでしょう?」

つくしは、新堂巧から副社長のどこに惹かれたのかと訊かれるとは思いもしなかっただけに、さあ困った、と思う。そして二人の間に暫く沈黙があり、つくしは何と答えればいいのか考えたが、嘘をついているのだから答えることが出来なかった。だが巧はそんなつくしの態度を好意的に捉えたようだ。

「・・そうですよね。秘めた思いは、本当に好きな人にだけ向けられるものであり、第三者には関係ない話だ。訊いた私が愚かでした。あなたは賢明な女性ですが、そんなあなたの可愛らしい一面を見ることが出来ただけでも私は満足です」

つくしは巧が言った可愛らしい一面のセリフに彼がまた勝手に新しい展開を考え始めたのではないかといった思いがしたが、口を開くことはしなかった。それは下手に言葉にして物事がまた別の方向へと進むことは避けなければならないと感じていたからだ。

「ですが道明寺さんはマスコミを賑わせる男性ですから、あなたも大変だと思います。牧野さん。もし道明寺さんのことが嫌いになったら私を思い出して下さい。私はいつでもあなたを受け入れることが出来ます。それにもし彼が浮気するようなら私は本気であなたを奪いに行きます」







新堂巧は、最後は笑って現れた時と同じように彼女の前から静かに去った。
そして言葉の最後に、『ビジネスの関係は、あくまでもビジネスです。だから気になさらないで下さい』とつけ加えた。

そんな巧につくしは頭を下げていたが、今までの人生の中、私は本気であなたを奪いに行きますと言われたことなどなく、そこまで自分のことを思ってくれた人がいたことに心から嬉しさを感じたが、それでも彼と付き合いたいといった気になれなかったのだからロマンスの神様はつくしに新堂巧を好きになれと啓示を示さなかったということになる。










つくしはマンションの部屋へ戻ると、一時淡々とした口ぶりで語った巧の姿を思い出していた。そして彼の言葉を反芻していた。

『私に近づいて来る女性たちは私を見てはいません。それでは何を見ているのか。それは私の外見や財産といったものです。女性たちの目に映るのは私自身の本当の姿ではない』

巧の話に感じたのは、本当の自分を知って欲しいということ。
だが巧には申し訳ないが彼のことを知りたいとは思わなかった。
それなら、その時頭に浮かんだのは誰なのか。
それは巧と同じ立場にあると言われる男のこと。
その人の秘書になってから何度か心がざわめくといった感情に見舞われた。
だがそれを無理矢理押さえつけてきた事実があった。そしてついさっき、新堂巧と会っていた時もその感情を振り払うようにしていた自分がいた。

つくしは首に捲かれたクリーム色の柔らかなマフラーを外し折り畳みながら、そのマフラーをプレゼントしてくれた人のことを思った。
すると何故か街を覆い隠していた深い霧が一瞬にして消し去られたように鮮明な視界が自分の前に広がる様子が見えた。
それは余りにも突然の出来事。そして今まですれ違っていた二つのブランコが突如同じ揺れ方を始めたような感覚が胸の中に沸き起こり、突然目の前に鏡を突き付けられたように自分の姿が見えた。
そしてその鏡に映る自分の姿に見えるのは、誰もが口を揃えたように言った感情のうねり。
と、同時に頭の中に思い浮かんだ人の姿に頬が熱くなる自分がいるのが分かった。
そして真っ直ぐに自分を見つめる瞳が思い出され、今まで気に留めたこともないバリトンと呼ばれる低くしっかりと聞こえて来る声が思い出され動揺した。
だがなぜ急にこんなことになったのか。それは新堂巧との会話がそうさせたのか。
たった一瞬の間に起きた心の動揺は間違いなく副社長に対しての思いだ。

「あたし・・どうしちゃったんだろう・・」

特別な気持ちが溢れてくるというのは、こういうことを言うのだろうか。
そしてその気持ちをどう言えばいいのだろうか。
その感情のうねりが誰もが口にする言葉だとすれば__

つくしは自分が恋におちたのかもしれないと感じていた。




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2018
01.11

恋におちる確率 40

日の入り時刻が早い冬。
東京の午後6時は既に暗く、アスファルトの舗道は雨で濡れ街路灯の明かりが水溜まりに映り込んでいた。
雨は冷たさもだが風も連れてきたようで、コートを着ていても身が縮むほどの寒さが感じられつくしは先を急いだ。そんな中、雨の音が激しい訳ではないが、それでもエンジンの音は女の耳に届いていないのか。車が近づいて来ても後ろを振り返ることはなかった。

年が明け、正月休みの最中、つくしはマンションを訪ねて来た弟を見送るため近くの駅まで歩いて出かけた帰りだが、いつもなら人通りがあるこの道も正月の休日、しかも雨ということもあり人通りはなかった。

両親をすでに亡くした姉と弟は、二人とも真面目に暮らしていた。
子どもの頃少し気が弱いと言われていた弟の進も一部上場企業で働いており、姉弟揃って優秀だと言われ、そんな二人を知る人間からすれば、彼らの両親が経済力のない頼りない親だったとは誰も気付かないはずだ。
そんな親のもと生活面で苦労はしたが、家族は仲が良く貧しさを卑屈に捉えたことはない。むしろ、そんな生活だったからの生活の知恵といったものを学ぶことができ、感謝していた。



『姉貴は相変わらず恋人はいないのか?』

と、つくしが作ったおせち料理を食べながら唐突に訊かれ、悪かったわね。その言葉そっくりあんたに返すから。と言ったがそのとき進は、

『俺。彼女が出来た。・・同じ会社に勤める女性なんだ。でもまだ何かを約束した訳じゃないからなんとも言えないけど、俺ももう32だし、決める時は早いと思うからそのつもりでいてくれ』

と言われ、真面目な弟のことだからきっとその女性と結婚するのだろうとつくしは思っていた。

「・・進ももう32だもんね・・。あたしも誕生日が過ぎてひとつ年を取ったし、年を取るのは早いわね・・」

と、独りごちると先日副社長と食事をした夜のことを思い出していた。
恋人としての出番だと言われ食事に出かけたが、その日はつくしの35回目の誕生日の前日だった。

まさか副社長に誕生祝いをしてもらうとは思わなかったが、迷惑な女を牽制するためだと言われれば、自らが予防線の役割をすると言った以上応じなければならなかった。

もしこれが他の男性なら、
「すみません今日は残業で」
と言って断ることが出来るが、副社長の秘書である以上、そしてつくしも自ら恋人役を名乗り出たのだから、こうした行事も確実にこなしていくことが、迷惑な女を遠ざけるためであると言われれば断ることは出来なかった。

それにしても何故あの時あんなことを口にしたのか。
だが言ってしまったものは仕方がないのだが、考えてみれば秘書である自分が副社長の恋人だとはどう考えても不釣り合いだ。
そしてそのことを専務秘書の野上に話してみれば、

『あら。牧野さんやるじゃない。私があと20歳若ければ喜んで副社長の恋人役をするわ。胸がドキドキするなんてこと今の私にはないけど、なんだかワクワクするわね。いっそのこと本当の恋人同士になれば?』

と言い常務秘書の石井は、

『牧野さん。辻褄が合わないなんて考えなくていいの。それにね、誰かが何かを言ったとしても副社長が守ってくれるから心配しなくてもいいのよ?恋なんてある日突然って言うでしょ?・・でもねぇ、これが本物の恋なら秘書課を挙げて応援するんだけど、残念だわ』

『あら、石井さん。でも酔いに任せて何か起きるってこともあるじゃない?人生は何が起こるか分からないでしょ?ある日突然恋愛の匂いを漂わせた牧野さんになるかもしれないわよ?』

と楽しそうに野上からも言われ、副社長と秘書である自分との間に恋愛の匂いが漂うとは思えないが、二人だけの食事は数えてみれば3度目であり、毎日会う相手なのだから、なんとなく慣れて来たように思えた。

食事の場所は一流レストランでのフレンチ。
とりあえず仕事の話から入り、思いつくままの会話での応酬は冗談もあり、思いのほか楽しかったが、野上が言った恋愛の匂いには程遠かったはずだ。

だが初めの頃、つまりつくしが秘書になった頃、理想の上司には程遠いと思われていたが、
親しげにレストランで話をしてみれば、道明寺司が、いくら創業家の人間だとはいえ、異例の早さで常務、専務、副社長と出世していった理由が分ったような気がした。

つくしが上司の善し悪しを判断する基準としては、その人を信頼できるかどうかが大きな判断材料となる。当初セクハラ発言もあったが、暫く仕事を共にすれば、経営については計算しつくした緻密さを感じさせ、仕事の出来ない社員や意思決定の遅い人間が嫌われる理由が分かったような気がしていた。
そして周りの反応からも、嫌われたら恐い人であることに間違いはなかった。

そしてそんな副社長から誕生日プレゼントだと渡されたのは、上質なクリーム色のカシミアのマフラーと花束。
それはまるで本物の恋人が選んだような温かさを感じさせる贈り物。いいから受け取れと言われるには値が張るものだと分かっていたが、秘書として働いてくれる感謝の気持ちみたいなものだと言われれば素直に受け取ることが出来た。

それに日本では一般的ではなく認知度は低いが、アメリカでは4月下旬に「秘書の日(Administrative Professionals Day)」と呼ばれる日があり、秘書を労うものだと言われ、ちょっと早いが気にするな。と言われた。

だが副社長のような男が女性に贈るのは、名の知れた高級宝石店のジュエリーだと言われており、値段は都内で高級マンションが買えるに等しいと言われている。 
しかし副社長とつくしは本当の恋人ではない。それにもしそうだったとしても、そんな高価なものを贈られても困る。だが渡されたマフラーは、たとえ値の張るものだったとしても、暖かみが感じられ、今もこうして捲いている。

そして花は赤いバラ。中途半端な色ではなく、堂々とした色の花は副社長らしいと思える花であり、恐らく今まで付き合ったどの女性にもそういった花が贈られてきたのだろうと容易に想像することが出来た。

だが女も独身で35回目の誕生日ともなると、人に祝ってもらうことに照れ臭さが感じられるが、素直にありがとうございます、と言うことが出来た。
だがあの食事のどこが迷惑な女に対しての予防線となるのかが、よく分からなかったが、例えその女が目の前に現れなくても副社長にとって意味のあるものだろう。

そしてその前日には、同期の原田久美子から『誕生日おめでとう!』と書かれたカードが添えられたプレゼントを渡された。
だが渡されたと言っても、ゆっくりと会う時間などなく、久美子はいつ渡そうかと思っていたと言い、いつもブリーフケースの中に入れ持ち歩いていたと言われた。

つくしの誕生日は12月の年の瀬と言われる忙しい時期であり、こういった時期に生まれた子供は、概ねクリスマスと一緒に祝われることが多い。そして幼い頃のつくしも、その例に倣っていた。だからプレゼントもクリスマスと誕生日とを兼ねてといったものが殆どだった。

『つくし。これ絶対に気に入るから。これから絶対に役立つものだから』

そう言われ、鞄の中から取り出された比較的薄い箱。
それは綺麗な包装紙に包まれ華やかなリボンが結ばれ、見ているだけで嬉しかった。
だがその箱の中身はいったい何なのか?
その時久美子から言われたのが、

『これからのつくしの恋の行方を左右するものかもしれないからね?それに聞いたわよ?副社長から秘書以上の関係だ、なんて言われたらしいわね?やっぱり副社長はつくしのことが好きなのよ!55階のロマンスの神様は新堂巧じゃなくて副社長に微笑んだってことね?』

そう言った久美子に誰にも言わないで、と事情を説明したが、ふふふっと分かったような笑みを浮かべられた。

『分ってるって。勿論言わないわよ。でも偽物の恋がこの箱の中身で本物になることを祈るわ!』

と意味深な言葉を言われた。
だがそんな久美子はプレゼントのセンスがいい。今までもつくしが欲しいと思っていたものを、さり気なくプレゼントしてくれた。

それは、海外でしか買えないチョコレートや、匠の技と呼ばれる熟練の職人が作ったスタイリッシュな高級な爪切りだったり、肩こりにはこれよ、と肩に乗せるマッサージ機だったりした。

だが若い子から見れば、どれもこれも実用的過ぎると言われ夢がないと思われるかもしれないが、仕事をする女には願ったり叶ったりといったプレゼントであることは間違いない。
だから、今回も久美子からのプレゼントに期待をしていた。
だが、恋の行方を左右するという言葉に魔よけの札か?それとも大願成就のお札か?といった思いもあった。
そんな思いを抱え一日を終え、自宅で渡された薄い箱を開けたとき、そこに収められた黒いレースの下着の上下を前に目を瞬かせた。そして箱の中に収められていた小さなカードに『これで副社長を悩殺出来るわよ?』と久美子らしい言葉が書かれていた。

「まったく久美子は何を考えてるのよ・・。ごく普通の会社員が本気で副社長と付き合える訳ないじゃない。それにあたしは予防線なんだからね?」

そんな言葉を呟いたが、道すがら副社長との会話を思い出していた。

『牧野。お前は運命の人の存在を信じるか?』

食事も終わりに近づいた頃、不意に訊かれたその質問は、つくしにとって意表をつかれる質問だった。
そして運命という言葉に、瞬間的に新堂巧の顔が脳裡に浮かんだが、それは巧からあなたとは運命を感じたと言われたからであり、つくしにすれば巧が運命の人とは思えず、黙って首を横に振った。それに一度だけ付き合った男性も運命の人ではなく、それからもそれらしい男性は現れなかった。だがもし運命の人が本当にいるのなら、もっと早くに現れてもいいはずだ。

だがそんな男性に巡り会うこともなく今に至るのだから運命の人は、つまり運命の赤い糸は電柱にでも繋がっているんじゃないかとさえ思えた。だがもしそうならつくしの運命は道端の電柱に粗相をする犬と繋がっているとでも言うのだろうか?
そんな思いが脳裡を過ぎるとつくしは副社長に同じ質問を投げかけた。

「副社長は運命の人の存在を信じていますか」と。

そしてその時、返された言葉は『ああ。俺は信じてる』だったが、その言葉はつくしにしてみれば意外だった。まさかあの道明寺司が、運命論者だとは思いもしなかったからだが、その時の副社長の視線は真っ直ぐに彼女に向けられ、揺るぐことがなかった。

それはビジネスでは一切の妥協を許さないと言われ、感情を表に出すことが無いと言われた男の瞳に浮かんだ柔らかな一瞬の光り。そう感じたが、あまりにも分別臭い今の自分はその瞳の中に見えた輝きが羨ましく感じられていた。

「あたしの運命の人なんて本当にいるのかどうか疑問だわ。それに恋なんてある日突然だなんて言うけど、まともな恋なんてしたことがないあたしに分かる訳ないじゃない」

と、小さなため息と共にそんな言葉を吐き出したその時だった。

「牧野さん」

後ろから名前を呼ばれたつくしは振り返った。




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2018
01.10

恋におちる確率 39

道明寺HD日本支社は日本企業の慣習に従い年末年始の休暇があり、司はその期間NY本社で仕事をしていたが、やはり休暇でNYにいたあきらと自宅であるペントハウスで会っていた。
そしてあきらがNYで耳にした話は、いくぶん興味深いものに変わっており、想像できない状況にそれは本当かとしか言えずにいた。







「・・・おい司。・・お前・・それで牧野つくしはお前の恋人になったってことか?いや、マジで信じられねぇけど、お前の秘書は職務を全うするじゃねぇけど上司のニーズに応えることが秘書の仕事だってお前の恋人になったってことか?」

とあきらは、司に向かって半信半疑な思いで訊いた。

「ああ。そういうことだ」

と、答えた男はキャビネットから取り出したウィスキーを二つのグラスに注ぎ、ひとつをソファに座るあきらに手渡し向かいの一人掛けのソファに腰を下ろした。
受け取ったあきらは礼を言うと煙草をクリスタルの灰皿で揉み消し、グラスを口へ運び香りを確かめ、それからゆっくりと喉の奥へと流し込んだ。

「いや、そう言うことだって可笑し過ぎるだろ?道明寺司ともあろう男が女に迷惑してるから予防線を張るために恋人が必要だってことで牧野つくしを恋人にしたってことだろ?・・それで彼女は、牧野つくしは納得したってことか?いや、やっぱどう考えてもそれは可笑しいだろ?まったくお前にしてもそうだが牧野つくしもいい年した大人が二人揃っておままごとをしているってどうだよ?」

あきらの言葉は確かにそのとおりだ。
ままごと遊びという幼女が好む遊びが楽しい訳がない。だが“ごっご遊び”を例えにするほど幼稚な嘘をつかなければ、牧野つくしの気を引く事ができないならそれも仕方がないが、今まで司が女に付き纏われ迷惑をかけられたことなどあるはずもなく、ましてや予防線を張る必要などどこにもなかった。だからそんな話は笑い飛ばしてしまうようなことで、あきらが呆れたようなセリフを吐くのも当然だ。
だが司自身でさえ策略を巡らすではないが、何故かそんな羽目になりムッとした表情を浮かべ答えた。

「・・仕方ねぇだろ?何しろ俺に遠ざけたい女がいるはずだと言い出したのは向うで僭越ながらお力になりますとまで言われたんだ。それならその思いに乗って何が悪い?相手の好意を無駄にすることなんて出来るか?」

あきらは目の前の男がウィスキーを味わうというよりも、喉の渇きを潤すだけのように流し込む様子を見ていたが、司という男は、相手の好意も何も女の言い分など無視をするような男であり、今のこの変わり様が可笑しく、理屈であるようで理屈ではない言い分に笑いを噛み殺していた。
そしてそんな男を振り回すことが出来る女に称賛の拍手を送りたい思いでいた。

「まあな・・せっかく相手がそう言ってくれるならそれを利用して親しくなるってのもひとつの手だが、それにしてもお前のどこを見て女に迷惑行為をされてると思ったのかそれが不思議だがな」

あきらは多くの財界関係者が出席したクリスマスのチャリティーパーティーには参加しなかった。だが事の顛末は静かな噂となり彼の耳にも届いていた。
それは、道明寺HDの副社長が女性をエスコートして現れたかと思えば、菱信興産の専務である新堂巧に、彼女は秘書だが二人の関係はそれ以上だと言ったらしいということだ。

だがなぜ“らしい”といった言葉になるのか。
それは男二人の会話がよく聞き取れなかったことで断定は出来なかったという理由だが、それは詭弁だ。
あの時、二人の男の間に流れる空気に近寄りがたいものがあり、すぐ傍にいた人間はほんの僅か。そんな人間たちの口伝えだから断定は出来ないということだが、あの場にいた人間ならそれが“らしい”ではないことは分かっている。

だが仮にだが、もし真実とは違う話をして、後で何か起こることだけは避けたい思いがある。
何しろ相手は道明寺司だ。下手なことを言うよりも、様子を見るだけの方がいいに決まっている。つまり彼らも自分の身は可愛い。それにもし司の意に沿わない方向に話が進めば、そんな話をした人間は彼の逆鱗に触れてしまうのではないか。だから断定はせず推測という形で物を言い保身をはかることをしていた。

それに滅多にパーティーに現れることがない男ではあるが、かなりの影響力といったものがある。そして司の発言というものは、どんな発言でもその場にいる全ての人間の気持ちをなびかせることが出来る。

それは高校時代もそうだったが、男は学園で起こる全ての物事の中心的存在として君臨しており、司のひと言で周りにいる人間たちはみな取り巻きと化し、逆らう者は排除されていた。
だからそんな男に歯向かう人間などいなかった。

そして上流階級と言われる男と女の間には、真実がなんであるのか分からないほどの数限りない嘘といったものが存在するから迂闊な言葉を口にすることはしない。
特に彼らの住む世界では、結婚していようが、恋人同士だろうが関係ない。道を外れた付き合いをしていたとしても誰かが文句を言うわけでもない。それに、体裁が整っていればいいという仮面夫婦は山のようにいる。

そんなことから男女の関係などいつの間にかくっついては、別れているといったことも多くある。だから道明寺司の恋愛もまた以前と同じすぐに終わると踏んでいる。何しろNY時代の司の女に対しての扱いは知られており、長続きするとは思えないからだ。

それに言っては悪いが、連れていた女性の素性は知らないが、どこかのお嬢様が社会勉強として道明寺HD副社長の秘書が務められるほどその業務が甘くないことは誰もが知ることであり、それなら西田秘書が鍛え上げた生え抜きということになり、気まぐれに付き合ったとしても、彼らの世界から見れば秘書は所詮会社の駒のひとつであり、決して結婚まで行く相手とは見ていない。だから誰も大騒ぎすることがないということだ。

つまり司のこの恋は本気だとは思われてはいないことになる。

だが司にとっては本気の恋だが、周りが騒がないことが逆に都合がいい。
それに牧野つくしが考えているような追い払いたい相手などいないのだから、司が作り上げた迷惑な女はどこでも簡単に出現させることが出来るし簡単に消し去ることも出来るということになり、ある意味そんな目に見えない女の存在は都合がいいということになる。

そしてその女はNY時代から司に付き纏い、迷惑している女だといった話を伝えれば、仕事に忠実な女は分かりましたと頷いた。




「それで?これからどうするんだ?牧野つくしのことは?お前ら恋人同士になったってことだろ?」

「ああ。表面上はな」

「そうだような。表面上ってことだよな。つまり表面上ってことは、牧野つくしがどんなセックスが好きだとか、好きじゃないとかまだ分かんねぇってことか?」

「・・・あきら」

司はあきらの言葉にジロリと彼を睨んだ。
それは目が鋭い男のひと睨みだが、ビジネスに徹した時に見せる目とは違い図に乗るんじゃねぇぞと言いたげな目だ。

「冗談だって、冗談。今のは完全な俺の失言だ。まあ表面上だとしてもいいじゃねぇか。そこから本物の感情ってのを呼び起こせばいいんだからな。・・それよりも新堂巧から牧野つくしに対するちょっかいってのは無くなったのか?」

「ああ。あれからメールが来ることは無くなったらしい」

あれほど毎日のように届いていた巧からのメールは、ピタリと止んだ。
その理由は、司が牧野つくしとは秘書以上の関係であることを知ったためだと理解している。だがメールが来なくなったからといって安心はできない。だから司が日本を離れている今も彼女の護衛はつけている。

「そうか。良かったな。これでライバルは消えたってことで、お前もこれから先は牧野つくしだけに気を回せばいいってことだな?」

あきらの言う通り新堂巧というライバルがいなくなった今、司は自分が作り出した迷惑な女を追い払うための作戦と名打って渡米前、彼女と食事に出かけたが、司が女と食事をすることを楽しみにするなど過去になかったことであり、例えそれが本物の恋人同士のデートでなくとも期待するものは大きかった。



それは彼女の誕生日の前日、レストランでの食事だ。
本当なら誕生日当日がよかったのだが、その日はすでにNY入りする予定があり、前日となった。
そして、テーブルを挟んで交わされた会話は純粋に世間話であり、司としても節度のある話をしたと思っていた。それは料亭での食事とも、ペントハウスでの食事とも違い、女に躊躇いが感じられながらも仕事だということになれば警戒心は無かった。
そんな女に司は恋人の役割を演じるなら今までとは違い親しくする必要があると話をした。
そしてその時、メインディッシュである鴨肉を切り分けていた女はナイフとフォークを置き、すっと居ずまいを正して口を開いた。

『・・あの』

『なんだ?』

『先日のパーティーで副社長と私は恋人同士になった・・・と、言いますか、勿論偽物の恋人関係だと理解していますが、すみません・・私がなかなか新堂さんに返事が出来なかったばかり副社長にご心配を頂いた結果がこんなことになってしまって・・』

新堂巧にはっきりとした態度を取らなかったため、司に迷惑をかけたことを申し訳なく思っていた女は、彼が自身の周りにいる迷惑な女を避けたいのなら恋人として盾になると言った。それは、ギブアンドテイクのような関係であり、持ちつ持たれつといった言葉が妥当だと考えているようだった。

『でも私は虚言癖とか誇大妄想を抱くことはありませんので、ご心配なさらないで下さい。
つまり勘違いはしないということです。ですから副社長が本当に大切にしたい方が現れたら私のことは捨てたと言って頂いてかまいませんから』

と言葉を継いだ。
そして再びナイフとフォークを手にし、鴨肉を口に入れ、美味そうに笑っていた。

だが司は勘違いして欲しいのだ。
だから新堂巧の前でわざわざ宣言をしたのだが、仕事が第一と考える女は、例え自分が男に捨てられた女になったとしても気にしないと言う。








「それで?司。お前が迷惑を被ってる女はどんな女だか話したのか?」

「ああ。図々しくどこにでも押しかけてくる女ってことにしてる」

「けど、お前、そんな女なんて実際にはいない訳だろ?それこそ嘘がバレねぇようにしろよ?もし騙してたことが知られたらお前はどうなる?何しろ牧野つくしは秘書の仕事だと思ってお前の恋人役を引き受けたって言うか、名乗りを上げたって訳だろ?それが実際にはそんな女はいないって知られたら彼女はどうするんだ?それに女ってのは男の嘘を許す女とそうじゃねぇ女がいるからな。それに一般的に言って女は信頼って言葉が好きだ。信頼出来ない男は嫌われるからな。
ま、可愛い嘘程度ならいいが、お前の場合はどっちだ?」

信頼という言葉はビジネスに於いても一番重要視される言葉であり、人間関係を築き上げていく上でも一番重要だ。だがその信頼を裏切ることをすれば、どんなに関係が深い相手だったとしてもその関係は簡単に破綻してしまう。
そしてその信頼を取り戻すための努力というものは、長い年月をかけることになる。

「あきら。お前が言わなきゃバレねぇだろ?それに言っとくが俺はマジだ。もし嘘がバレたとしてもその頃には笑い話で済ませてるはずだ」

恋におちたのは初めてだったとしても、司のような男が女を恋におとせないはずがないとあきらは思っている。だから親友の言葉に頷くことが出来るが、それでも万が一嘘がバレた時のことを考えなければならないはずだが、それは司のような男にしてみれば不得意なはずだ。

そうだ。
いつもクールな態度を貫いていた男が恋におち、嘘が相手にバレた時どうなるのか。
あきらはその時の男の様子を見てみたい思いもある。希代のモテ男が自分の秘書。それもごく普通の女にフラれる姿を見てみたいといった思いに駆られないと言えば嘘になるが、今は静かに見守る時だとすればそうするつもりでいた。

「・・なるほどな。ま、お前のお手並み拝見といこう。何しろお前から女に言い寄ったことはなかったんだ。せいぜい嘘がバレねぇようにしろよ?」





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