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2017
12.20

恋におちる確率 33

司のムッとしたと言うよりも、どこか怒気を含んだような口調には苛立ちも含まれていた。
そしてそういった口調になったのは、彼女が新堂巧と一緒にいたからであり、頭の中を占領してしまった女が他の男といることに嫉妬したからのひと言に尽きる。そんなことから、あの男といて何が楽しかったのかと訊いていた。



「あの、新堂さんとのことは、会社にご迷惑を掛けるようなことをするつもりはありません。昨日も久美子・・友人と一緒に食事にしていたところで偶然新堂さんにお会いしたんです。ですから・・楽しかったと言ったのは、本意ではありません。こう言っては新堂さんには失礼だと思いますが、大人の会話によくある社交辞令的なものです」

つくしはそこで話を終えた。
だが司は彼女の新堂巧に対する気持ちが知りたかった。
目の前にいる女はそんな男の態度に気付いたのか口を開いた。

「それから新堂さんは私と真面目に付き合いたいとおっしゃいましたが、私はそのつもりはありません。それにいくら業務提携を結んだ会社とは言え、私が新堂専務とお付き合いすることは、立場上いいとは思えませんので」

それは、道明寺HDという会社の秘書であるつくしが、菱信興産の専務である男に対しての気持ちだ。
現に会話の中で、初めは新堂さんと呼んでいたのが、次に口にしたのは新堂専務という呼び名でありその態度は毅然としたものだ。

「ですから、副社長。私が新堂専務とお付き合いをして、何か問題が起こるといったご心配をされているのでしたら、それは杞憂だと思います」

と、つくしはそこまで言って司の言葉を待ったが、料亭で昼食を共にしてから副社長の、自分を見る視線が熱っぽく感じられるようになったが、それは多分気のせいだと自分に言い聞かせていた。

つくしは、自分と自分自身の人生を大切にしている普通の女だ。そして分をわきまえることを知っている。醒めない夢というものがないことも知っている。要は勘違いする恋をすることはないということだ。

だが別につくしが道明寺司に恋をしている訳ではない。
あくまでもただの上司だと考えている。けれど、初めて秘書として勤務を始めたころとは、明らかに態度が違う。これをどう捉えればいいのか。
そしてあの料亭での食事で、色々と訊かれたが、あれは新人秘書に対する上司としての態度がそうさせたのであって、それ以外の何ものでもないはずだ。現に本人もそう言った。
上司が部下のことを知らなくてどうするのかと。

それにあの時、自分の全てを話したわけではない。両親が既に他界したことや、子供時代のちょっとした話をして、大学は奨学金を貰っていたため、卒業後はその返済を滞ることなく済ませたといったことを話した。
そしてあの時は、過去の恋愛経験については訊かれることは無かった。
だがそれもそうだ。そもそも、副社長が秘書の恋愛について知りたがると思う方が間違っている。それにもし訊かれたとすれば、それこそセクハラだ。

つくしは、道明寺HDに入社してから付き合った男性がいた。
彼がはじめての恋人だった。
つくしは、背伸びしても届かない恋をした訳ではないし、そんな男性には関心がない。
それに自分の身の程をわきまえている。住む世界が違う人間同士はうまくいかない。
人にはそれぞれに相応しい生き方がある。だから恋人もごく普通の人だった。

相手は外資系証券会社に勤める男性。
出会いは頭数合わせに参加した合コン。
その気のないつくしは、美味しい物が食べれるだけで良かった。だから目の前にいた男性が声をかけて来たとき、口にはスペイン料理の代表格であるパエリアのムール貝が入っていた。

押しの強い男性で付き合って欲しいと言われ、周りからも勧められ付き合い始めた。
だがその恋人とはすぐに別れた。それ以来恋人はいないが別にそれで良かった。
けれど久美子は、あっさりと別れたつくしに、嘘もないかわりに本音もない。女性として醒めていると言った。

確かに醒めているのかもしれない。
あの付き合いも、周りに勧められたのと、相手の押しの強さに負けたと言ってもいい。
だがあの時、付き合い始めてまだ間もない頃、いきなりホテルの部屋へ連れ込まれそうになったことがある。こういうことは流れに乗るものだと言った男は、つくしが嫌だと言うと、ノリが悪いと言い放った。だがそういったことをノリでするということが、つくしには理解出来なかった。

久美子には言っていないが、つくしは男性経験がない。だが別に避けていたというのではない。そういった人に出会わなかったからだ。
それに、はじめてというものは、出来れば思い出になる状況といったものが欲しかった。
それを乙女チックだとか、純情だとか言われたとしても、あの当時はそう思ったのだから仕方がない。だから、付き合い始めた男にノリが悪いと言われ、自分の考え方に自信がなくなった。そして恐らくそんなつくしの考え方が受け入れられなかったのだろう。俺たち、別れようと言われ、短い恋は終わった。だが自分が恋をしていたという実感はない。
それは押しの強い男性と、周りからの勧めといったものに流されていたと言った方が正しい。

そしてそれから何度か男性を紹介されたことがあったが、好きになれる相手はいなかった。
だがもう30も過ぎると、どうでもいいというのか、それとも久美子があの時言ったように女性として醒めてしまったのか。恋といったものに縁がない。
そんなところに新堂巧の突然の告白に引くのは当然かもしれない。
はじめての恋人の押しの強さと、新堂巧が重なって見えたから。










司は、つくしの言葉に納得していた。
それは、彼女が真実を語るに相応しい目をしていたからだ。
真っ直ぐに司を見つめる黒い瞳に嘘は感じられなかった。
そして西田が言ったように、牧野つくしは真面目な女だ。
新堂巧のことは、本当に興味がないようで曖昧な部分は無かった。だがその言葉の裏に、男に興味がないといった空気が感じられた。

牧野つくしの過去の恋愛について調べたが、調査には上がらなかった。それに料亭で昼食を取ったとき、詮索はしなかった。何故しなかったのか。あの場面では話題に出すべきことではなかったからだ。あの日は上司が部下のことを知る、コミュニケーションを取るといったことを目的としたからだ。だから深く踏み込むことはなかった。
そして女は、上司である男がどんな言葉を返すのかと不安を見せることはなかったが、今は何を言われるのかといった態度が感じられる。



司は足を組んで座っていたが、立ち上がるとダイニングルームに足を向けた。

「そうか。じゃあ朝飯を食うか?」

鋭さのないその言葉に、どこかホッとしたような女の姿に頬が緩みそうになるところを引き締めた。そして饒舌ではなく、真摯に語った女は、はいと返事をし、彼の後ろに従った。







ダイニングルームに用意された朝食は、邸から来た使用人が用意し、皿を並べ終えると姿を消した。
今まで朝食を取ることがなかった男が初めて座ったダイニングテーブル。
そこに今まで食器が並べられたことがなかったが、二人の前には皿が置かれ、ホテルの朝食のような料理が並んでいた。
卵はスクランブル。ソーセージやベーコン。ポテトや焼かれたトマト。温野菜のサラダとクラムチャウダーにフレッシュなオレンジジュース。そして焼きたてのクロワッサンとコーヒー。

司は目の前の席に座ったつくしに視線を合わせたが、いただきます、と言いナイフとフォークを使い料理を食べる仕草は、和食を食べた時と同じで綺麗に食べていた。
そしてその表情は、やはり美味そうだ。一方司も、そんなつくしの姿に料理を味わうことを楽しんでいた。

食事というものは、ひとりで食べろと言われれば味気ないと思う人間は多く、誰かと一緒なら食が進むというがその通りだと感じていた。
今まで司にとって食事というものは、生命を維持するためのものであり、最低限食べればいいといったもので楽しむということはなかった。そして誰かと食事をして楽しさを感じたことはない。
それは、ビジネスなら尚更のことであり、世田谷の邸に暮らしていた少年の頃もやはり同じで、一流のシェフが作った料理に味はしなかった。何を噛んでも味といったものがあるとは思えなかった。そして誰もが言う家庭の味といったものが、彼の前に並ぶ料理には無かった。

司は美味そうに食べるつくしから目を離さなかった。彼女が目を上げると司の眼差しとぶつかったが、クロワッサンを口にし、目を輝かせた姿を見れば、あの日、彼女がコーヒーと一緒に差し出したクロワッサンに対しての名誉挽回といったところだ。

「お前の好きなクロワッサンだ。好きなだけ食べればいい。なんなら持ってってもいいぞ?」

と言えば、本当ですか。と嬉しそうに言う顔に自分の表情がフッと緩んだのが分る。
と同時に、こんなにも食事を楽しんだのは、料亭での昼食とこの朝食の時間だと気付く。
そして胃袋が食べ物を欲しがるのと同様に、腹部が熱く感じられた。それは病気とはまた別のうねるような思いが身体の中で熱い渦を巻き、心臓まで駆け上っていたからだ。
こんな姿を西田が見れば何を言うか。そんなことを思う自身が可笑しかったが、今この時間を楽しんでいる自分がそれ以上に可笑しかった。


「美味いか?」

「はい。とても!」

そう言われ司の手もクロワッサンに伸びていた。





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2017
12.19

恋におちる確率 32

つくしが目を覚ましたのは、広い部屋。
大きなベッドと暖かい空気。
そしてなんとも言えない雰囲気があった。
それはその部屋全体が落ち着いたマホガニー色と呼ばれる紅褐色をしているからだ。

ベッドのヘッドボードはマホガニー。小さな丸テーブルと肘掛椅子も同じマホガニー。
部屋の片隅に置かれた間接照明の灯りは飴を溶かしたような淡い黄色。カーテンもやはり紅褐色。この部屋は全体が暖かみのある雰囲気に仕上げられていた。

だがここがどこなのか。
今自分が置かれた状態がどういったものなのか。全く見当が付かなかった。
そして今が何時なのか。だがそれはサイドテーブルの上に置かれている自分の腕時計で確認することが出来た。時計の針は朝6時を少し回ったところだった。

それにしても、いったい自分はどこにいるのか。記憶はバーのトイレで吐き、それから偶然現れた副社長に連れられ車に乗ったところで途切れていた。
そしてそこから先、ゆらゆらと揺れながらどこかへ運ばれて行く記憶はあった。

それから・・・・

覚えていなかった。

「ああ・・・もう最悪・・」

つくしは、身体を起し、ベッドの上で頭を垂れ呻いた。
羽根布団の下にある身体が纏っているのは、下着だけ。
ベージュのスリップはそのまま。勿論、その下に着けているものもそのままだ。
今頭にあるのは、いったいどうして下着姿で寝ていたかということだが、昨日は最終的に副社長が一緒だったということを考えれば、こうしていることに、副社長が関係していることは間違いないはずだ。
そうだ。化粧室で吐く女の背中をさすってくれたのは、副社長である道明寺司だ。
よりにもよってあの道明寺副社長に吐いている姿を見られた。

だがつくしは我に返った。
そうだ副社長だ。朝のお迎えだ。お迎えに行かなければならない。
つくしは頭の切り替えは早い。そうでなければ一流の男に仕える仕事は出来ないからだ。
そしてここがどこであろうと仕事に行かなければならない。
それに今どうして自分がこの恰好なのかなどどうでも良かった。
こんなところでグズグズしている訳にはいかない。つくしの頭は朝から目まぐるしく回転を始めていた。
だがそのためには服がいるが、自分が着ていた洋服はいったいどこにあるのかと思えば、壁にいくつかの取っ手があるが、そのひとつがクローゼットだと気付いた。

つくしはベッドを抜け出しその取っ手を引いた。
そこは思った通りクローゼットで見覚えのあるコートがあり、服がある。だがそれは昨日着ていた服ではない。ナイロンカバーが掛けられたそれは真新しいビジネススーツであり、自分のコートと一緒にあることを考えれば、それを着ろということだと理解した。
そうだそうに決まってる。秘書が皺の寄ったスーツでいる訳にはいかないからだ。

それにそれしかないのだから、たとえそれはお前の服ではないと言われてもそれを着るつもりでいた。そうしなければ、会社へ行くことが出来ないからだ。
それにいつまでもスリップ一枚でいる訳にはいかなかったし落ち着かなかった。

人は着ているものを取られると、人としての威厳を失い自分に自信がなくなるというが、今のつくしはまさにそんな状態だ。それにビジネススーツというものは、つくしにとっては戦闘服のようなものなのだから、それを身に付けていないとどうも落ち着かない。

そんな思いからつくしは、急いでビニールカバーを外し、ブラウスとスカートを身に付け、上着を着た。幸いストッキングは履いたままだし伝染していない。
そして窓の傍まで行くと、急いでカーテンを開けた。だがまだ外は暗く、景色は見えなかった。
それから手櫛で髪を整え、腕時計を嵌めるためベッド脇のサイドテーブルまで戻ったが、その時、気付いた。
それはそこに揃えて置かれているスリッパ。
見覚えのあるそのスリッパにここが副社長のペントハウスであることを知った。
そして再び呻いていた。

「やっぱり・・」

副社長の家、つまりペントハウスにいる。その可能性を考えなかった訳ではない。
何しろ最後にリムジンに乗り込んだのだから、行き先を考えれば、自宅か副社長のペントハウスのふたつにひとつだと考えてもおかしくはない。だがもしかするとメープルではないかと思いもした。

そして何かがあったと考えるほど子供ではない。
下着をつけたまま、何か出来るとは考えていない。それに副社長の好みは肉感的な、つまりセクシーなモデルタイプの女性であり、つくしのように扁平と言われる身体ではない。だから考えること自体がおかしな話だ。
ただ今言えるのは、果てしなく迷惑をかけたという思い。

「あたし、秘書クビになるかもしれない・・・」

つくしはそう呟いたがスリッパを履くと両手で頬を叩いた。
それはなにやってるのよ。しっかりしなさいと自分に喝を入れるため。
そしてつくしは部屋の扉を開けたが、そこは廊下。そしてその廊下の先にある扉を開けば、広いリビングに辿りついたが、そこには背中を向けソファに座る男がいた。

もうここまで来ると腹を括るしかないといった思いを持った。
副社長に多大なる迷惑をかけたということだけは、間違いがないことだからだ。
そのことを考えれば、まな板の上の鯉ではないが、どこをどう切られても、突かれても文句は言えない立場にいた。
そしてソファに座る男が振り向いた。その姿は以前のようにバスローブではなく、スラックスにシャツを着ていた。と、いうことは、もう既にシャワーを済ませたということになる。
そしてネクタイを締めていない姿にシャツの一番上のボタンは外されていた。



「お、おはようございます」

「気分はどうだ?よく眠れたか?」

「・・はい。おかげ様ですっきりしました・・」

今の自分が果たしてどんな顔をしているのか。
それは愛想笑いだろうが、当惑顔だろうが今はただ迷惑をかけたことしか思い浮かばなかった。そしてこのことが仕事上の関係に何か影響を与えるだろうか。
つまり上司と秘書との関係にだ。いや与えるはずがない。何もなかったのだから与えるはずがない。
つくしは一瞬だが頭に浮かんだことを打ち消すように口を開いた。

「副社長。昨夜は大変ご迷惑をお掛け致しました。本当に申し訳ございません。それからこの服ですがありがとうございます」

つくしは頭を下げたまま、バーの化粧室で女の背中をさする道明寺司の姿を誰か見たことがあるだろうかと思った。

「牧野。気にするな。そんな些細なことを気にする男だと思ってんならそれは違う」

「は、はぁ・・」

そう言って頭を上げたが、意外な言葉になんと言っていいのか分からずそのまま黙ってしまった。それは副社長である男を前に失言をしないようにといった思いと、この状況をこれからどうすればいいのかといったことを考えているからだ。

このペントハウスに着の身着のまま泊まった女は自分が初めてではないはずで、相手は慣れたものできっとこんな経験は今まで何度もしてきたはずだ。
だがつくしは道明寺司の女ではない。秘書だ。そんな女はこの場合どういった態度を取ればいいのか考えていた。
するとその黙った隙を狙ったようにつくしのお腹がぐぅっと鳴った。
その音は、タイミングがいいのか。悪いのか。ソファに座る男はククッと笑った。

「牧野、今のお前は負い目があると感じてるんだろ?そう思うなら食事をしろ。ダイニングルームに用意させてる。しっかり食って仕事をしろ。それで昨日のことは忘れろ」

「・・はい」

今のつくしは、何を言われても素直にはいと答える他に言葉が見つからなかった。

そんな女の態度に司はここぞとばかり聞くことにした。
司は昨日の女の言葉が気になっていた。
『あの!今夜は楽しかったです!』
いったい新堂巧と何が楽しかったというのか。今は牧野つくしのどんな言葉も気になる。

「牧野。昨日新堂に楽しかったって言ったが何が楽しかったんだ?気分が悪くなるまで飲ませる男といて楽しい思いが出来たのか?」

司のムッとした言葉が女に当惑顔をさせたとしても、たとえ昨日の女の言葉が社交辞令の範囲だとしても、自分の気持ちを満たすためには、聞かなければならなかった。





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2017
12.18

恋におちる確率 31

司はウィスキーをストレートで飲んだとしても酔うことはない。
だが彼が横抱きに抱き上げた女は簡単に酔っ払う。
そんな女を抱え、リビングを横切りゲストルームと称される寝室へ運び込もうとする男の背後で、西田が声をかけた。

「副社長。どうされるおつもりですか?」

「どうもこうもねぇだろ?酔っ払いを送ってったところで、まともに目が覚めると思うか?たった1杯のカクテルで酔いが回った女が明日の朝時間通りにここに来れるとは思えねぇからな」

時計の針は午後11時を回っていたが、司にすれば遅い時間とは言えない。
そんな時間に女をペントハウスまで連れ帰ったのには、今の言葉以外にも理由がある。
それは、前後不覚とは言わないが、気分が悪そうな女をひとりマンションの部屋に送っていくことに不安があったからだ。

酔っ払いは無意識のうちに服を脱ぎ、風呂に入ろうとすることがある。そして、そのまま浴槽の中で寝込み溺れるといったことがあるからだ。
ただ、牧野つくしが酔った勢いで服を脱ぎ、風呂に入るかどうかは知らないが、世間ではそういった話はよくあることだ。そんな思いから連れて帰ったのだが、西田の声はそのことを咎めているように聞こえた。

「牧野さんは真面目な方です。いくらそのような理由があったとしても、独身の女性が男性のひとり暮らしの家に泊まるというのは、大きな誤解を招くおそれがあります」

「西田。何が言いたい?」

西田は元来真面目な男だ。
何かあっても表情に出ることはない。
そして決して司のすることを詮索するようなことはしない男だ。だがその西田が口を挟んだ。

「副社長のお気持ちは理解しております。ですが、いくら新堂様とのことがあるとは言え牧野さんのお気持ちを確かめないうちに、そういった関係に持ち込むことはよろしいとは思えません」

「西田。お前は俺が意識のない女を無理矢理抱くとでも思ってんのか?」

司は西田の言葉に不快さを感じたわけではないが、それでも長い付き合いであり、全くの赤の他人と見なしてはいない男の言葉に語気を荒げた。

「いえ。決してそのようなつもりで申し上げたのではございません。ただ、牧野さんは真面目な方です。たとえそのような関係にならなかったとしても、すでに副社長という男性の前で吐くという行為をされています。女性にとってそのようなことは、かなり恥ずかしい事です。ですからこれ以上彼女に恥ずかしい思いをさせない方がよろしいかと思います」

確かにいい年をした大人の女が悪酔いしたせいで、ひと前で吐く姿を見られるのは、かなりの屈辱のはずだ。そして、特に親しい間柄でもない人間に介抱してもらうことも恐縮する。
だが司はそんなことを気にしてはいない。むしろ新堂巧よりも先に彼女を抱き上げることが出来たことが良かったと思っている。そしてあの男の前からかっさらうように連れ帰った。だが、西田が口にした男と女の関係に持ち込もうなど考えてもいない。
それに意識のない女を抱いたところで何が楽しいと言うのか。

「西田。俺はこいつに恥ずかしい思いをさせるつもりはない」

「それなら_」

「ああ。守ってやりたい気持ちってやつだ。それに言っとくが俺は鬼畜でも人非人でもねぇし、相手がどんな女だろうと無理矢理抱いたことはない」

思春期の一時期、そういった人間になりかけたことがあった。
そして大人になり女と付き合うようになり冷たい男だと言われたことはあるが、そこまで堕ちてはいない。だがもし司がそんな男だとしても、そういった男に魅力を感じる女がいることも確かだ。

「そうですか。それなら副社長にお任せいたしますが、牧野さんは副社長の秘書であると同時に私の部下ですので無茶なことはなさらないようにお願いいたします」

そのとき腕の中に抱えた女は、うめくように何か呟いた。
化粧は取れ、ほとんど素顔の女は34歳には見えない。そして司に対して何の目論見もない善意の塊のような女。そんな女だから司は逆に手が出せないのだ。もし彼女がなんらかの野心を持っていれば簡単に抱くことが出来たかもしれない。だがそうではない。だから厄介なのだ。そんな思いをしながら司は笑っていた。

「ああ。分かってる。別に取って喰うようなことはしねぇよ。俺はこいつのことが心配なだけだ。それから西田。明日の朝は邸から誰か来させてくれ。メシ。作ってやってくれ。それと着替えを持って来るように伝えてくれ」

それは快活な声。
そして楽しげな声。
西田が今までに聞いたことがないような声だった。

「承知いたしました。では明朝牧野さんと無事ご出社なさって下さい。それから副社長。いきなり私に新潟に帰れとおっしゃらないで下さい」

司からいきなり休みを取れと言われた日。西田は自宅にいたが、そんな時、牧野つくしから副社長が手を怪我したと連絡があった。数日間は大袈裟に包帯が巻かれていたが、幸い大した怪我ではなく、今ではこうして女性を抱えていた。だが仮にもっと酷い怪我だったとしても、好きな女性を離すことはないはずだ。

「先日は突然休暇を頂きましたが、この次からは前もってご相談をお願いいたします。それからもうひとつ。新堂様の件ですが、相手は業務提携先の専務です。提携解消となるようなことだけは、お控え下さい」

西田はそう言って腕に掛けていたつくしのコートをソファの上に置いた。

「ああ、心配するな。俺のことを誰だと思ってる?そんなヘマしねぇよ」

「そうですか?それなら新堂様に牧野さんを取られないようにご検討をお祈りします。恋を手に入れるためなら手段は選ばないと言われますが、新堂様もその点は色々とお考えでしょうから」

頭脳戦、心理戦。そして強引な手段。
恋におちた男は相手の心を掴むためならどんな手段にも出る。
それがビジネスと同じというなら、新堂巧に負けるとは思えない。だが相手を軽く見ることは絶対にしない。何故ならビジネスと同じ足元を掬われるといったことを考えなければならないからだ。

そしてそんなことを思う司に西田は出過ぎたことを申しました、と言ったが本心はそうでないことを司は分かっている。西田という男は物事の本質を突くことが出来る男だ。そして時に何を考えているのか分からないこともある。そしてそんな男は策士と呼ばれていることを本人も知っているはずだ。

「ところで西田。お前はどっちの味方だ?」

「私は副社長にお仕えしている身です。ですから当然副社長の味方です。それでは、今夜はこれで失礼いたします」

西田はそう言うと、頭を下げ部屋を出ていった。

「ああ。じゃあな」

司は女を腕に抱えたまま話をしていたが、重いなど全く感じなかった。
むしろ、腕の中の重さから心地いい温もりを感じていた。
そして視線はストッキングに包まれた小さな爪先へ向いていた。

人は奇妙なことを印象深く覚えているものだが、今の司が思い出しているのは、手を怪我したあの日。スリッパを履かずに現れた女の爪先が思い起こされていた。
あのとき、スリッパを履いて来いと言われ、スカートの裾を翻し司の前から去った女の姿が何故か頭に思い浮かんでいた。そして女の足は、こんなにも小さく華奢なものなのかと初めて思った瞬間だった。

司は腕の中にいる女が眉間にかすかな皺を寄せ、息をしようと小さく口を開いたのを見た。
青みがかっていた唇も今では色を取り戻し、薄い桜色をしていたが、そこから吐き出される息はまだどこか辛そうだった。
だがその一瞬、司は顔を傾けそっと女の唇を塞いでいた。





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2017
12.17

恋におちる確率 30

ぴかぴかの大理石の黒い床にシャンデリアが輝く天井。
会員制高級バーというのは、化粧室まで会員制なのかというほどの豪華さがあり、常に掃除が行き届いているから床に座り込んでも問題はない。
そしてそこに飾られたひと抱えするほどの大きさの花瓶。活けられているのは、季節など関係ないといった南国に見られる艶やかな花。そんな花瓶のある女性用化粧室の個室で背中をさすられている女は、吐き終わると申し訳なさそうに顔を上げた。

「す、すみません・・・」

つくしは恐縮し、化粧気のまるでない顔で詫びた。
その顔は、目の下に薄っすらとクマができ、唇は青みがかり、吐き終えたばかりの人間によくある頬がこけたような顔。そして何かをやり終えたように深く息を吸い、短く吐き出したが吐くという行為は体力を使う。そのため、一時的ではあるが脳内の酸素が不足したような状態でぼんやりとしていた。

「すっきりしたか?」

黒服の店員から渡されていたタオルを司は差し出した。

「は、はい。おかげ様で」

つくしは床から立ち上がるとタオルを受け取った。
そして口の周りを拭き、洗面台まで向かうと口をゆすいだが、すぐ後ろに副社長がいることに気まずさは隠せない。そしてここは女性用化粧室のはずだが、その堂々した態度にここは男性用かと一瞬思ったが、洗面台に置かれた女性向けの気遣いの品々にやはりここは女性用だと安堵した。もしそうでなければ、誰か男性が入ってくれば身の置き所がないからだ。
そして真正面の鏡を見つめれば、目が合いそうになり、慌てて目を伏せた。そして後ろを振り返り再び詫びた。

「あの。副社長。ご迷惑をおかけしました」

そして次に来る言葉を予想した。

『お前は俺の秘書としての自覚があるのか?』

『いい年をした大人が飲酒の許容範囲を理解していないのは問題だ』

そしてそんな言葉を言われた時に返す言葉は決まっている。

『申し訳ございません』

と今までも何度も口にしてきたセリフで対応するしかない。
せっかく二人の関係が上司と秘書として円滑に進むことが出来るかと思っていたところにこの失態。いや。だがこれは失態と言えるのか。
第一今は勤務時間外だ。そんな時間に何をしようと勝手なはずだが、それでもやはり道明寺HD副社長の秘書という立場からすれば、自戒しなければならない事態なのかもしれない。

けれど、何故この場所に副社長であるこの男が現れたのかが疑問だ。
偶然ですね、と新堂巧は言ったような気がするが、会員制の高級バーというもののうち、企業トップにいる男たちが使う店というのは、限られたものになるのだろうか?
だから副社長も偶然この店を訪れ、酔っぱらった自分の秘書を見つけたということか。

男二人がどんな会話を交わしたのか。遠くで耳鳴りのように響いていたが、内容は理解できなかった。何しろ、胃の中は紅茶と濃いコーヒーとアルコール度数の高いオレンジ色の液体が混ざりあった状態だった。それはカクテル作りで言われるステアという軽くかき混ぜた状態ではなく、シェイクされた状態。そして吐きたい気持ちが高まり化粧室に行こうとしたが、足が萎え立てなかった。

それにしても、どうして副社長がこの店に現れたのか。もし偶然なら秘書のことなど放っておけばいいはずだ。それとも新堂巧が自分の秘書にアプローチしていることが気に入らないのか。だがあのとき巧は仕事抜きでつくしのことが好きだと言った。つくしが道明寺司の秘書であることは関係なしで付き合いたいと言ったがその何かが気に入らないのだろうか。
つくしは、副社長から返される言葉を待った。

「そうか。なら帰るか?」

「・・え?」

意外にもあっさとりした言葉が返され、つくしは思わず男の顔をじっと見た。

「どうした?何か問題でもあるのか?」

そう訊かれつくしは一緒に来た久美子の存在を口にした。

「・・あの。久美子が一緒なので・・友達の久美子が」

そうだ。久美子はどうしたのか?普通なら女友だちの具合が悪ければ、真っ先に飛んで来てもおかしくないはずだ。だがここにはいない。そんなつくしの考えが読めたのか、男は口を開いた。

「お前の友達ならうちの車が送っていったから心配するな。それにお前は明日も朝が早い。帰るぞ」

「・・あの!副社長で、でも_」

つくしは化粧室を出て行こうとする男の態度が全く理解出来ないまま、声を上げた。
だが自分が何を言おうとしているのか分からなかった。

「なんだ?なにか他に気になることがあるのか?それともこれからあの男と一緒にどこかに行くつもりだったのか?」

「ま、まさか!私と久美子は新堂さんとお酒を飲みに来ただけです。それに私と新堂さんがどこに行くって言うんですか!」

「どこって男と女が_」

司はそこで言葉を切った。
また言わなくてもいいことを口にしそうになったからだ。
それに今の牧野つくしは、吐いて胃の中はすっきりとしているが、アルコールが抜けた状態ではない。ウォッカの分量が多いこの店のスクリュードライバーは、男にすればオレンジジュースと同じだが、アルコールに弱い人間からすればキツイはずだ。
だから目の前にいる女の態度は、どこかまだ高揚したところが感じられた。

「とにかく帰るぞ。明日の朝遅刻して来るようなら秘書が遅くまで遊び歩くのはどうかと思うがな。それに明日二日酔いで頭が痛いだなんて言うなら秘書としては失格だ。そう思われたくないなら車に乗れ」

腕時計を見ると、時刻は午後10時半を過ぎていた。
いつの間に、と思うが吐いている時間は長かったということだ。



つくしは司の後ろを歩き化粧室を出たがそこにいたのは新堂巧だ。
女性用化粧室に足を踏み入れることはなかったが、彼女が化粧室に運ばれ、中で吐いている間じゅうそこにいた。そして司と一緒に出て来たつくしに声をかけた。

「牧野さん?大丈夫ですか?」

巧に視線を向けた男は、一瞬歩幅を緩めつくしの腕を取った。
そして店内を横切ろうとしていた。それは巧を無視しようと決めた態度。
だがつくしはそういう訳にはいかなかった。颯爽と歩く男に腕を取られ、足がもつれるように歩いていたが、心配そうにつくしを見る巧になんとか言った。

「あの、新堂さん。大丈夫ですから。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

つくしは、もうそうすることが仕事だと言うように先程からやたらと謝っていた。
副社長に謝り、新堂巧に謝り、だが気付けば自分がそんなに悪いことをしたのかと思うが、謝ることは人に迷惑をかけるような生き方だけはしたくない女の性とも言える。
それにこれが秘書の仕事だと思えば仕方がない。そして本音も建て前も合わせ大人の気遣いといったものを忘れる訳にはいかない。

「あの!今夜は楽しかったです!」

後ろに置いていかれる状態になった巧にそう叫んだことで、自分の腕を取った男がムッとした表情を浮かべたのは見えていない。
そしてエレベーターの前にいた男性が下ボタンを押した状態で待っているのを目にしたが、その男性が副社長の警護の人間であり、どこかに行く時、必ず別の車が後を付けていることに気付いたのは秘書の仕事について1週間後だった。

そんな調子でスタンバイされていたエレベーターに乗ったのは、副社長とつくしと警護の人間。やがて動き始めた箱はあっと言う間に1階に着いたが、ビルの外へ出たとき、ダークスーツの群れが大型車の周りにいるのを見れば、副社長の立場ともなれば、バーに出掛ける時も大名行列とまでは言わないが、それに近いものがあるのだと感じていた。

そしていつもの車内に訪れた沈黙とこの車の持ち主である男の香りの中、つくしは何故か気が抜けたようになった。
それはやはりここのところの寝不足状態とアルコールのせい。
程よく酔いが回った女は靴を脱ぎ、柔らかい革のシートに身を横たえ小さく息を吐いた。そしてゆっくりと瞳を閉じた。







司は上着を脱ぎ、酩酊状態ではないが酔った女の上へ掛けた。
女の世話などしたことがない、無関心な視線を向けるだけだった男のその態度に友人達は驚くはずだ。そしてバーの中での司を見ればこう言うはずだ。

『お前のその態度は嫉妬する男そのものだ』と。

確かにその通りだ。
誰に言われなくても分っている。だから質が悪い。
そして今まで嫉妬という感情など抱いたことがないのだから、その気持ちの持って行き方に苦慮していた。それに相手は仕事が一番といった女。そんな女を新堂巧と取り合うのだ。

「・・この酔っ払い女が」

苦笑しながらそう呟いた言葉は、女の耳には届かなかった。




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2017
12.15

恋におちる確率 29

秘書の仕事のひとつとなった送迎の同行は、朝は牧野つくしだが夜は帰りが遅くなることを配慮し、第一秘書の西田が同行している。だから女の夜は比較的自由が利くが、司はそんな女に警護の人間を付けていた。
だがそれは、副社長という重要人物の秘書だからというのではない。
そして仕事をすべき時間に私生活を持ち込むことなどなかった男だが、牧野つくしに付けた男からの連絡は、仕事を中断してもいいと判断された。

ビルの最上階の時計は午後9時を回っていた。その時間が大人が遊ぶ時間として遅いとは言わないが、惚れた女の行動時間としては気になる時間と言える。

女友だちと食事をしていた場所に新堂巧が現れた。
それが偶然なのか。それとも計画的なことなのか。それは恐らく後者の方だ。何故なら新堂巧がごく普通のレストラン。それも比較的早い時間に一人で食事をするといったことはあり得ないからだ。

司はライバルと捉えた男のライフスタイルを調べたが、それは彼と似たようなものだ。
平日はパーティーや会食といった予定がなければ、ほぼ仕事をしている。そして時にバーへ足を運ぶ。海外への出張は二カ月に一度程度。しかし最近は月に一度といったペース。
そして司の前で牧野つくしに一目惚れをしたと言ったが、その言葉通り他の女の影はなかった。

そして新堂のその行動は、牧野つくしのメールの返事に業を煮やしたということだ。
それにあの内容にあの男の持つ何かを刺激した可能性もある。
それは、自分に自信がある男は、自身を拒否されることを侮辱と捉えるからだ。

司は女に執着なとしたことがない。
だが彼の心の中に芽生えた思いは、執着と言える。
彼はインターコムに手を伸ばし、ボタンを押すと西田に告げた。

「西田。車を用意しろ」











「ちょっとつくし。大丈夫?まだ1杯しか飲んでないのにどうして今日はこんなにも酔いが早いのよ?まああんたは昔からアルコールには弱かったからねぇ・・」

久美子が言った通り、つくしはアルコールに対しての免疫力が低い。
カウンターの真ん中の席に座り、右側に新堂巧。左側に久美子が座っているが、視界の片隅に二人は映っていない。

久美子はまだ1杯しか飲んでないのにと言ったが、つくしが飲んだ1杯はウォッカをオレンジジュースで割ったスクリュードライバー。普段居酒屋でもよく飲むのだが、街の居酒屋と本格的なバーで飲むのとでは、ウォッカの分量が違うのか、酔いが回るのが早かったようだ。
だから目の回る酔いに襲われたつくしはカウンターに突っ伏せていた。
そして頭の上から聞こえる久美子の声は、全くこれじゃどうしよもないわ。と言っているように聞こえる。そしてつくしの頭越しに新堂巧に謝っている声が聞こえる。

「すみません。つくしは元々アルコールに弱いんですが、スクリュードライバーならいつも頼んでいるので大丈夫だと思ったんですが・・本当にすみません」

「いえ。気になさらないで下さい。それに言わなかった私も悪いんです。このバーでのウォッカベースのカクテルはウォッカが多めなんです。それにウォッカ自体は匂いも味も殆どありません。ですから口元まで運んでもどれ程のウォッカが使われているか分かりませんからね」

巧はそう言ってウィスキーの水割りを口にした。
それからグラスに残る琥珀色の液体を見つめた。

「そうですよね・・色が付いてないウォッカをオレンジジュースで割ればどれ程の分量のウォッカが入っているかなんて分かりませんよね・・・」

久美子は頷くとワインのグラスを手に取った。


つくしは頭の上の交わされる会話を聞いていたが、ここまで酔いが早く回ったのは、ウォッカのせいだけではないと思っている。実はここのところ、寝不足気味になっていて、それも酔いに拍車をかけたのだと思っている。

「それにしても、本当にすみません。つくしはお酒には慎重な方なのでいつもこんなに酔うことはなんです。なんだかこれじゃあご迷惑をお掛けするばかりになりそうですね・・。ほら、つくし?大丈夫?ねえ?気分が悪いの?大丈夫?」

つくしは、大丈夫といった意思を示そうとしたが、ちっとも大丈夫だとは思えなくなって来た。今日は元々食事だけの予定で、アルコールを取るつもりはなかった。
だから食後に飲んだ紅茶とその後に飲んだ濃いコーヒーに、度数の高いアルコールを重ねたせいか胃の調子が急激に悪くなっていくのが感じられた。
それはまさにネジ回し、スクリュードライバーという名の通り、喉の奥から胃に向かって一気に突き進んだアルコールが胃の中にねじりを加え始めた感覚。

「牧野さん?大丈夫ですか?」

「・・はい。・・だ、大丈夫です」

声をかけられつい大丈夫と言ったのは、新堂巧の前でみっともない姿を見せる訳にはいかなかったからだ。
道明寺HD副社長の秘書が、業務提携先の専務の前で醜態を晒す訳にはいかない。
そんなことから化粧室に行きたい思いがあるが、立ち上がることさえままならない。ウォッカは酔いが足に来るというが本当だと感じていた。

その時だった。
バーの扉が開き、ひとりの男が入口に立った。
そして中を見回し、3人が座るカウンターに向かって歩いて来た。
その足取りはしっかりとしており、歩幅は大きい。薄暗い店内でもハッと息を呑むほどの美貌と威圧感がある。そして中央に腰掛けた女がカウンターに突っ伏している姿に眉間に皺を寄せた。

「ど、道明寺副社長・・」

半身をつくしの方に向けていた久美子は、突然現れた副社長に言葉が詰まった。

「どうも、新堂専務」

と、司は背中を向けていた男が振り返ると視線を合わせた。

「これは、どうも道明寺副社長。偶然ですね?いや。それともよくここが分かりましたね、と言うべきでしょうか?」

司は、巧が牧野つくしに警護が付いていることを知っての発言に受けて立つつもりで口を開いた。

「ええ。偶然ですね。それにしても私の秘書をこんな状態になるまで飲ませるとは、新堂専務の良識を疑いたくなりますね?あなたは彼女が好きだとおっしゃいましたが、あなたの愛情表現は女を酔わせることから始まるということでしょうか?」

司の視線は男と女に挟まれる形でカウンターに突っ伏している女に向けられた。

「まさかご冗談を。私がお酒の力を借りて何かをしようとする男だとお思いなら、その考えを改めて欲しいですね?私はそんな男ではありませんから」

「そうですか。そうは見えませんが?」

「それならどう見えると?」

「言わせて頂いてよろしいのなら、言わせて頂きます。今のあなたは女の弱みに付け込むように見えますね?」

睨み合う形で互いの姿を眺める男の間には、目に見えない亀裂がそこにあるようだ。そしてその亀裂が音を刻んでいて、バーの店内にいる他の客の視線は好奇心をあらわに二人の男に向けられていた。

「あの・・道明寺副社長。違うんです、これはあの・・」

「君は?」

「つくしの友人です。つくしがこうなったのは決して_」

と久美子が口を開いたが、巧の声が割って入った。

「いいんですよ、原田さん。道明寺副社長に逆らわない方があなたの為です。私は誤解を受けるようなことはしていませんからご心配なく。私は牧野さんとお友達の方と楽しくお酒を飲もうとしただけですから」

司はその言葉が本当かどうかなどどうでもいい。
ただ、新堂巧が彼女と一緒にいることが気に入らない。
そしてその余裕を感じさせる態度が気に入らない。
鋭い視線を向ける男は牧野つくしの隣に座る男が気に入らない。

「そうですか。それならあなたが酔った女性に何かをするという薄汚れた考えをお持ちでないということでよろしいということですね?」

「道明寺副社長。随分な言い方をされますね?では私も言わせて頂きます。あなたは女の存在などどうでもいいといった考え方をお持ちだったと思いましたが、ここに来るということは、そのお考えを変えられたということでしょうか?」

二人の男の間に火花が見えたのは久美子だけではないはずだ。
会員制高級バーの中にいる客は、この男たちがどこの誰だか知っている。
そして道明寺司と新堂巧という経済界の申し子とも言える人物の会話に興味はあるが、下手な態度を取れば何をされるか分からないといった思いもある。
それに、ひとりの女を巡る男同士の闘いに第三者が首を突っ込むべきではないということを男達は知っている。そんなことから、ここは見て見ぬふりをするのが正解だと顔を背けることを決めたようだ。

その時、カウンターに突っ伏していた女が身体を起し、気持ち悪いと言った途端、彼女を抱き上げたのは司だった。そしてそのまま化粧室へと向かった。





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2017
12.14

恋におちる確率 28

つくしは思いもかけない人物に会い、慌てて立ち上がると頭を下げた。
菱信興産専務である新堂巧は、現在社長である新堂健一郎の長男で次期社長と言われる男だ。そしてそんな男からは、2度目の出会いから頻繁にメールが送られて来るようになった。
だがそれに対しての返事は、味も素っ気もないビジネスメールの延長線のようなものだ。
そしてそんなメールを送られた本人は、つい今しがた交わされていた女二人の会話の中に自分の名前があったのを聞いていたはずだ。そう思った瞬間つくしの頬が火照っていた。







巧は、牧野つくしを一目で気に入った。
一目惚れだった。だから2度目に会ったとき、その思いを本人に伝えた。
そして秘書が手に入れていた名刺に書かれていたメールアドレスにメールを送ったが、素っ気ない返事しか戻ってこなかった。

だがそれは、仕事先へのメールだからと巧は理解していた。何故なら、彼女は仕事に対して高い倫理観といったものを持ち合わせているからだ。
だから副社長の秘書という立場から、メールというツールの気安さに乗ることはなかった。
そしてそのことが好ましさを感じさせた。決して浮ついたところがない真面目な女性。
巧が第一印象で感じたそのままの女性だと改めて感じていた。

勿論彼女のことを調べた。両親は既に他界し、身内は弟だけ。
高校、大学と地味に過ごした学生時代。道明寺HDに入社してからは食品事業部に籍を置き、主任として仕事をし、海外出張もこなす彼女。そんな牧野つくしが突然副社長である道明寺司の秘書に抜擢されたという人事は、余程何かがあったとしか思えない。
そしてその何かとは。巧は男だからこそ分るものがあった。それはひとりの男として道明寺司も彼女のことが気になったということ以外考えつかなかった。

巧はビジネスという分野で道明寺司とは同じレベルにいる。
そしてこうして同じ女性を好きになった男として彼をライバルだと思っている。
だから正々堂々とあの男の前で彼女にアプローチすること告げた。
だがそれに対しての言葉は案外そっけないものだった。だがそれがあの男のプライドだということは分かる。ひと前で感情を見せることがないと言われる男の無表情は知られている。そしてあの時はまだ自分の気持ちに気付いていなかったということだ。
だが今は違うはずだ。


今夜こうして彼女と会えたのは、彼女の動向を知るため調査員を付けていたからだ。そしてその調査員から報告を受けた。
牧野つくしには警護がついていますと。実際このレストランの中にも客に紛れているはずだ。
それは道明寺HD副社長道明寺司の秘書という立場だからこその警護ではない。守りたいと思える存在に変わったからだ。いつどの段階でそうなったか巧には分からないが、道明寺司という男の今までの恋愛遍歴の中に、そこまでする女はいなかったはずだ。
そしてあの男は何かを決意すれば、即行動に移すと言われている。と、なるとあの男も本気だということだ。








「牧野さんもこちらでお食事でしたか。私も奥の席で学生時代の友人と食事をしていたところです。ああ、彼は先に出ましたのでご紹介できなくて申し訳ない」

巧は背後を振り返りそう言ったがそれは嘘だ。
友人などいない。ひとりでこの店にいた。そして彼女が女友だちと食事を終えるのを待っていた。
巧は女同士の独特の空気といったものにも慣れていた。だから彼女が友人といたとしても気にしてはいない。むしろひとりでいるよりも友人といる方が警戒心は薄れるからいいと思っている。

「そうでしたか。あの、こちらは私の友人の原田さんです」

つくしは、巧が久美子に視線を向けたのを見ると友人を紹介した。

「はじめまして。つくしの同期で友人の原田久美子と申します」

久美子はついさっきまで話題にしていた人物の突然の登場に驚いた様子はない。
むしろ副社長とは違い表情豊かな男の笑顔に久美子の瞳は輝いていた。
そして巧はそんな久美子の視線を捉えながら言った。

「菱信興産の新堂巧と申します。そろそろお食事もお済の様ですが、よろしければ、どこか別の場所でもう一杯お茶でもいかがですか?もしお茶でご不満ならお酒でもよろしいですよ?」

久美子は、つくしの反応を探るように見た。そしていいわよね、つくし。と無言の圧力とでも言える目配せで巧と一緒に行くことを促していた。何しろ相手は菱信興産次期社長と言われる男。そんな男が飲みに行きませんかと誘っているのだ。断る理由はないでしょ?と。

巧はそんな二人の意思の疎通を認めると、では私はあちらで待っていますからと言い、店の入口へと足を向けた。
そして二人が会計カウンターに立ったとき、お支払いは済んでおりますと言われ、新堂巧が二人のテーブルの支払いを済ませていることを知り、つくしは財布の中から二人分の食事代を取り出した。

「あの新堂さん。私たちの支払までして頂いたようですが、お支払いしますので」

「いや。いいんです。ここは私にご馳走させて下さい」

「でも・・ご馳走してもらう理由がありませんから・・」

男性が女性に食事を馳走するということは、相手からの見返りを期待するものだ。
だからつくしは男性に意味もなく食事をご馳走してもらったことはない。
だが副社長の時は違う。あれは秘書として食事に付き合っただけだ。それにインフラ事業部の太田の場合の酢豚定食も違う。あの二人には意味がある。けれど、この食事に全く関係ない新堂巧に支払いをしてもらう意味が分からない。

「はは・・理由ですか?私は言いましたよね?あなたに一目惚れしたって。それに好きになった女性に食事をご馳走したいと思っていたんです。こうしてあなたと会えたことでその夢がやっと叶ったと思っていますから。たとえそれがこれから飲むお茶だけだとしてもね」

つくしは、その言葉でやんわりと彼を避けていたことを見透かされていたと知り、気まずそうな顔になった。

巧は彼女から返されたメールの中に食欲がないからといった断りの文章があったことを気にしてはいない。それが体のいい断りの文言だと分かっていても、実際にはこの目で見た彼女に食欲があって良かったと思う。

なにしろ巧の趣味は料理だからだ。
MBAを取得するため社費留学でアメリカに渡っていたが、その時パリの料理学校『ル・コルドン・ブルー』へ足を運び料理を習った。そういったこともあり、食べることも好きだが、作ることも好きであり、申し訳程度にサラダしかつつかない女性は嫌いだ。だから彼女がしっかりと料理を楽しむ女性であることも好ましかった。


「つくし、いいじゃない。新堂さんがご馳走して下さるって言うんだからご馳走になりましょうよ?新堂さん。ご馳走様でした!それにお茶はさっき飲みましたからお酒にしませんか?つくしいいでしょ?」

久美子の淀みない言葉は、これをきっかけにつくしと新堂との今後の付き合いを期待しているようだ。
それは菱信興産の次期社長と言われる男が自分の親友に好意を抱いている結果を知りたいという思いもある。それに、仕事は出来るが恋には鈍感と言われる女の心を捉えることが出来るのかといった興味がある。そして、その鈍感な女の心の中で揺れ動き始めたもうひとつの男の存在にも気づいていた。だから、身動き取れないくらいの男に囲まれる経験をすることになりそうな親友がどうなるのか知りたい思いを持っていた。


そしてつくしは、新堂巧の姿をまじまじと見ていた。
業務提携先の専務である男と会うのは今日が3度目であり相手のことで知っているのは、久美子がうちの副社長と同じくらいいい男だと褒める端正なその姿。そして一方的に送られてくる情報。そしてつくしのことを好きだと言うこと。そして大企業の専務といえば、ここよりももっと高級なレストランが食事の場所としては似合うはずだが、ごく普通のレストランでの食事に気取りのない人柄を感じていた。そして久美子が一緒ならいいか。という気になっていた。

だがその時、先日副社長である男と料亭で取った昼食の時のことが思い出された。
男性なら早いペースで済ませる食事も、つくしのペースに合わせるようにきれいに箸を動かしていた姿を。そして知的で礼儀正しく感じられた態度を。

「ねえつくし、いいでしょ?せっかくお誘いいただいたんだもの。行きましょうよ?」

再び呼びかけてきた久美子の声につくしははっとして顔を上げた。
それは自分がこの場にいない人のことを考えていたから。
それもある日を境に急に態度が変わった副社長のことを。

「・・うん。そうね・・あ、でも明日の朝も早いから遅くまではいられないから・・」

「分かってるって!でもそうと決まったら早く行きましょうよ!ね、つくし早く。あ、つくしコート・・」

つくしはクロークへコートを預けていたが、私が、と言って受け取ったのは新堂巧だ。
そしてそれを彼女に着せ掛けたのも新堂巧だった。
だがその時感じた匂いは、いつも傍にいる人物とは違う匂い。
そしてそのとき頭を過ったのは、時に不機嫌そうな男の顔。
引き結んだ口元が緩むことなど無いと言われる男の顔だった。




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2017
12.13

恋におちる確率 27

「ねえ牧野さん。そう言えば最近の副社長って以前とは変わったような気がするの。
そうねぇ・・なんと言えばいいのかしらね。気のせいかもしれないけど丸くなったっていうのかしら。副社長は魅力がある人だけど、人を寄せ付けないタイプだったからなおさらそう感じるのかもしれないわね」

野上はそう言って秘書室に戻ったつくしに微笑みかけた。
今からちょうど5分前、エレベーターの前で副社長と西田が外出するのを見送った。

「そうよね?私もそう思うの。牧野さんが来る前の副社長は朝から機嫌が悪かったっていうのかしら?でも感情を表に出さない人だからそう感じていたのは、私だけかもしれないけど、最近は違うわよね?」

そう話を継いだのは、常務担当秘書の石井だ。
今ではすっかり気心が知れるようになった二人の先輩秘書。
慣れない仕事を懸命に理解しようとするつくしに秘書としてのものの考え方を教えてくれたのは、この二人だ。

「それにね、昨日副社長が西田室長と外出先からお帰りになられたとき、秘書室を覗かれたの。今まで副社長が秘書室に顔を出されるなんてことはなかったのよ?それなのにいきなり入って来たかと思うと何ておっしゃったと思う?牧野はどこだ?って真剣な顔で訊かれたの。だから私も真剣に答えたわよ?何しろ副社長はお茶を濁すような返事はお嫌いだから正直に答えたわ。お手洗いに行ってますってね。そうしたらね、いつものクールな表情で牧野が戻ったらコーヒーを淹れるように伝えてくれって言われたわ。あの時の副社長の顔はなんだか迷子になった仔犬を探してるような顔だったわ」

そう言った石井に頷く専務秘書の野上はおかしいわね。といった表情が浮かんでいたが、あからさまではない。

「あら石井さんもそう感じることがあるのね?私も最近の副社長は以前よりも表情が豊かになったような気がするの。私たち二人から見れば副社長は一回り以上も年が下だから弟ではないにしろ、どこか見守りたくなる存在ではあるの。勿論、仕事上ではそんなことは思いもしないわ。何しろあの方は道明寺財閥の跡取りで副社長という立場の方だからひと前では自分を見せることはないもの。でもね、ひとりになったら色々とお考えになることも多いはずよ?現に牧野さんが秘書として仕えるようになってからはなんとなくだけど、雰囲気が変わったもの」

二人の先輩秘書は、あくまでもこれは年より秘書の戯言だと言って笑った。
だがつくしも同じように感じていた。
あの日。料亭で食事をしてから副社長の態度は変わった。
つくしに質問を続ける姿は、見事な聞き役だと感じた。
あの時、他人に威圧感を与えることもできる男は礼儀正しかった。
そしてつくしがくつろげば、相手もくつろぐ姿が感じられた。だが副社長と秘書という立場から、打ち解けるというところまでは行かなかった。行かなかったというよりも、行けなかった。立場の違いというものがそこに存在するからだ。
二人は上司と部下。
副社長とその秘書といった立場以上の何かがあることは決してない。













「ねえつくし。副社長って匂いまで高貴な感じ?」

「匂い?」

「そうよ、匂いよ。あたしは副社長の傍になんて近寄れないから想像だけどいい匂いがするんでしょ?同じ車に乗っててクラって来ることもあるでしょ?」

同期の久美子とは、つくしが秘書室に異動になってからも時間が取れれば食事に行くことがある。
それは仕事帰りの居酒屋であったり少し洒落たレストランだったりするが、レストランの場合は、久美子の仕事のリサーチも兼ねていた。

つくしは以前飲料第二部コーヒー三課だったが、久美子は飲料第一部茶類課だ。レストランで食後に出される紅茶を飲み比べ、自社が輸入した商品を使ってもらえるように営業するのが彼女の仕事だ。だからリサーチ会社から提出された資料を元に、今どんな種類の紅茶が好まれるのかといった傾向を知る必要がある。そのため、実際にその店の料理を食べ、食後に出される紅茶の味を確かめていた。今日もそんな久美子のお供ではないが、レストランでの食事に出かけていた。

「うん・・いい匂いがするわよ?」

「いい匂いって・・ま、つくしは副社長の傍にいるんだからそりゃ匂いも感じるわよね?で、どんな匂いなの?でも洗い立てのシャツの匂いって言うの?ほら、清々しい匂いって感じじゃないのよね。なんていうんだろ。やっぱりセクシーでさ、女を悩殺するような匂い?シャープでセクシーって香り。どう?違う?」

久美子は社内に大勢いる道明寺副社長のファンを自認している。
だから副社長である男のどんな情報でもいいから知りたいといった思いがある。
だがいくら相手が親友でも、話をしていいことと悪いことの分別は持っている。
それに男の匂いについて語れと言われても、身近にいる弟はデオドラントに疎い。
それに当然だがつくしもよく分からない。ただ、いつも鼻をかすめる香りは、男らしくセクシーと言われる匂いであるということは分かる。だが久美子にどう伝えればいいか分からなかった。

「そうね・・・男の人のスーツの匂いって慣れてないから分らないのよ・・」

「ちょっとつくし。男の人のスーツの匂いって・・まさか副社長のスーツが防虫剤の匂いがするとは思わないけど、そうじゃなくて、あたしが訊きたいのは副社長自身の匂いのこと。スーツの匂いはどうでもいいの。でも噂では副社長は100着のスーツに100足の靴を持ってるって話だけど、それ本当なの?」

100着のスーツに100足の靴?
いったいいつそんなスーツを着るのかといった思いが頭を過るが、副社長クラスになれば当たり前の数なのかもしれない。

「ねえ、どうなのよ?つくし。あの噂本当なの?もし噂通りだとすれば、相当広いクローゼットが必要になるわね?でも副社長の世田谷のお邸なら100着なんてどうってことないわね?」

久美子の興味は尽きないようで、目が輝いている。

「ところでつくし。新堂巧とはどうなってるの?まだ会ってくれって言って来てるの?」

「うん・・。電話番号とか教えてないから会社のメールアドレスに送られてくるだけなんだけどね・・」

あれからも相変わらずメールは送られてくるが、最近ではビジネス絡みではなく、単独のメールが送られて来るようになっていた。

「ねえ、つくし。あんた身動き取れないくらいの男に囲まれるなんて経験したことがないでしょ?」

「あるわよ?」

「いつよ!いつそんな経験したのよ?」

「満員電車なんてしょっちゅうでしょ?」

「あのね、あたしが言ってるのは満員電車の中のことじゃないの。いい男のことよ。それこそ新堂巧とかうちの副社長とかよ。一度さぁ、新堂巧と会ってみたらいいじゃない?今つくしはフリーなんだし会うのはタダよ?会社には超絶いい男の副社長。私生活ではこれまたいい男の新堂巧。これを身動き取れないくらいの男に囲まれるって言わなくてなんて言うのよ?」

つくしは生々しい恋愛に手を出したことがない。
だから久美子の言葉にある身動き取れないくらい男に囲まれるという言葉に生々しさを感じていた。

「ねえ、それに新堂巧だけど、ナルシシズムの塊って訳じゃないでしょ?大企業の御曹司だけど世間の評判じゃあ割と普通の感覚の持ち主みたいだし、一度会ってみたら?会わなきゃわからないでしょ?それに世間の評判を確かめるためにも会ってみたら?」

久美子が言うナルシシズムの塊。
己の外見が素晴らしいとそういった傾向に陥る人間が多いと言うが、新堂巧はそういったタイプではないように思える。
だが、本当の所は分からない。ただ、ジュニアと呼ばれる人間のプライドの高さといったものだけは、理解しているつもりだ。だからなるべく相手のプライドを傷つけることはしないような断り方を考えてはいるが、どうも相手には伝わらないようだ。

そのとき、つくしは背後から男の声で自分の名前を呼ばれた。

「牧野さん。お久しぶりですね。お元気でしたか?」

つくしの座るテーブルの横に立ったのは新堂巧。
たった今、久美子と話題にしていたその人がいた。





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2017
12.12

恋におちる確率 26

財力も美貌も全てを手にした男の初恋というものが、やっかいだということを、あきらは身を持って感じていた。そしてそんなあきらのグラスは氷が乾いた音を立てた。

いつもの会員制高級バーであきらの隣に座りグラスを傾けている男は、女と寝ることに対し大して意味を持たなかった男。
その気になりさえすれば、女との関係をどんな形へでも容易に転化させることが出来る男。
だが、相手のその気がなければどうしようもないということに気付いている男は、その相手に対しどういった態度に出るのかあきらは興味があった。




「おい。司、お前その手どうしたんだ?まさか気に食わねぇことがあったって55階のガラス窓を叩き割ったなんてことねぇよな?」

あきらは司の左手に巻かれた包帯を目にした途端、遠い昔を思い出していた。
それは高等部の頃、突然気に入らねぇといって自らの拳で壁を殴りつけたことがあったからだ。だがあきらや他の仲間たちは男が何を気に入らないのか分からなかった。
ただ、虫の好かないことがあったのだろうとしか考えていなかった。何しろ若い頃の道明寺司といえば、何をしても注目の的であり憧れの存在ではあったが、反面恐ろしい男だったからだ。
一度どこかの男と、手加減なしの本気の殴り合いをして、相手を死なせる寸前までいったことがある。あの時は、周りにいた仲間と無理矢理引き離し事なきを得たが、司という男が本気になった姿は幼馴染みのあきらでさえ恐ろしいものがある。


「あきら、俺は18のガキじゃねぇぞ?_ンなこと今さらするか」

そうは言っても、生まれた時から闘争本能というものが司には備わっている。
そしてその本能は、今は上手く隠されているが、いつ何時その牙を剥くかもしれない。
特に今は男に影響を与える女の話を聞き、その女にもうひとりの男がアプローチをしてきていると聞いているからだ。だがまさかその男と女を巡って殴り合いをするとは思えず、改めて司の答えに胸を撫で下ろしていた。

「ま、そりゃそうだな。今は副社長の立場にいるお前がそんなことするはずねぇよな。それならマジでそれどうしたんだ?」

あきらの目は司の左手を捉えたまま、疑問を解決すべく興味深そうに訊いた。

「ああ。これか?これはコーヒーカップを落しちまって割ったんだがその破片を拾おうとして切っちまった」

あきらは目の前の男が割れたカップを拾うことがあるのかと驚いた。
そして事態が少し進展したことを知った。

「なるほどな・・そうか、わかったぞ。おまえ、自分の左手の不自由さを理由に牧野つくしを傍に置いたってことか?」

その問いかけに司は片眉を上げ答えた。
その答えにあきらはやっぱりな。と納得した。

あきらが先日司のデスクにある直通番号に電話をしたとき、秘書である牧野つくしが出た。
そして西田が休暇を取っているため、私が第一秘書としてお傍に仕えておりますと言われた。あきらはそこでピンときた。あの秘書が休暇を取るなんてことは今まで無かったと記憶していたからだ。何しろ西田という男は病といったものを受けつけない体質とでもいうのか、アンドロイドではないかというほど病気をしない。だから休むということはない。

だが確か一度だけあったと記憶しているが、それは母親が亡くなった時だったと思い出した。だから西田の休暇というのは、司が秘書に無理やり与えた休暇であることに気付いた。そしてそのことを踏まえ、あきらは司に再び訊いた。

「お前まさか、その日西田さんが休みだからってわざと切ったってことねぇよな?」

二人の距離を近づけるため、我が身を傷つける。そして同情を買う。
そういった話は、女が別れを求める男の気持ちを繋ぎ留める手段として用いられることがあるが、まさか司という男がそんなことをするとは思えないが、念のためという思いがある。

「・・あきら。いくらなんでも自分で好き好んで怪我しようなんて思わねぇよ。それにこの包帯は大袈裟に撒いてもらってるだけだ。ちょっと縫ったが大したことはねぇ」

砕けた口調の言葉が真実であることに違いはないはずだ。
だが念の為だと訊く。

「そうか?そう言うが今のお前が何をするかなんて俺には分かりようがないからな」

一度こうと決めた男は、他人の目など気にしないことをあきらは知っている。
それが今まではビジネス絡みのことだったが、これからはまた別の分野で新たな行動を起こそうとしているなら見守る必要があると思っている。

「それで、その日はずっと牧野つくしと一緒にいることが出来たんだろ?なんか進展はあったのか?お前は自分の気持ちに気付いたって言うんなら、それ相応のことはしたんだろ?何にもしねぇでただ見てるだけなら、男としての新堂巧に負けちまうからな」

「ああ。昼食はあいつと一緒だ。同じメシを食った」

普段仕方なしといった雰囲気で食事をする男の声は心なしか弾んでいた。

「へぇ。お前もなかなかやることが早いじゃねぇか?でメシは何を食った?ステーキか?それともフレンチか?イタリアンか?イタリアンが好きな女は多いからな。でもガーリックの匂いがするのは勘弁だが、二人ともならまあいいか?」

だがあきらは、吸血鬼ではないが、どんなに許し合った女でもニンニク臭いキスは嫌いだ。

「いや。和食だ。料亭でメシを食った」

「料亭でメシ・・ってことは、お前の行きつけの料亭か?」

あきらも司と訪れたことがある料亭。
誰もが簡単に訪れることが出来ないその料亭での食事は離れの個室だ。
そして誰かと秘密裏に会いたいといった場合、夜の闇に紛れといったことが多い料亭。
だが昼間の料亭は静かな落ち着いた佇まいを見せる日本庭園が素晴らしい。

「おいおい・・お前いきなり早すぎじゃねぇか?」

「何がだ?」

「いや・・料亭で女としっぽりってのは、いくらなんでもちょっと早いんじゃねぇのか?」

司はあきらの言葉がピンと来なかった。だから再び訊いた。

「だから何がだ?」

「あれだろ?その部屋の襖を開けたらもうひとつ部屋があって贅沢なダブルサイズの布団が敷いてある。枕元にはぼんやりとした灯りのランプが置かれ、その横には水を湛えた水差しが置かれてるってヤツだ」

司が隠れ家的なあの料亭に女を連れて行ったと聞いて、あきらが思い浮べているのは、どこかの悪徳企業家が、夫の借金のカタに妻である女を無理矢理抱くといった場面。
実はその企業家は彼女に恋をし、わざと夫を借金地獄へ落とした。そして夫の借金を帳消しにしてやる代わりに俺の女になれという話。

「あきら、お前の頭の中にあるのは空想の恋か?言っとくが俺はお前みてぇに会ったその日にどうこうしようだなんて考えてねぇからな!てめぇの不倫なんぞと一緒にすんじゃねぇよ!」

「そんなに怒るなよ司。冗談だ。冗談」

あきらは司のこめかみに浮かんだ青筋とあまりの剣幕に笑って誤魔化そうとした。
だが、よく考えてみれば親友の女に対する態度は、あきら自身より酷いところがあるはずだと気付く。なぜなら女を女とも考えない友人。女に対して優しさなど抱いたことがないお前の方がなじられても当然だといった思いが湧き上がる。

「いや。でもちょっと待て。お前どの口がそんなことを言う?お前の今までの行動を考えてみろよ?女とお前の関係なんてものは、通り過ぎていく束の間の触れ合い程度ってもんだったよな?それが今のお前の口ぶりじゃいったい全体どうなっちまったんだって思うぞ?つまりお前、その女のこと・・つまり牧野つくしのことは正真正銘本気なんだな?」

「ああ。あきら。俺は本気だ。本気であの女に恋をした。だから茶化すのは止めてくれ」

しかしまあなんと言うことだ。司という男の持つ独特の傲慢さといったものに惹かれる女が殆どだが、その男が自らの傲慢さを牧野つくしの前では捨てるというのか?
あきらは司が口を開くたびそんな思いがしていた。

「ああ、分かった。けどしかしまあ・・・どう言えばいいんだ?女にとってのお前は単なる上司だろ?どうすんだよ?その牧野つくしを。それに菱信興産の新堂巧も牧野つくしを狙ってる訳だろ?もしかするとお前に知らねぇところで接触してるかもしれねぇぞ?」

「ああ。あの新堂って男は牧野宛に毎日のようにメールを送り付けて来る」

「来るって・・司お前・・まさか他人宛のメールを読んだのか?」

「ああ。丁度あいつのパソコンのメール画面が立ち上がってたから見た」

「おい、マジか?いやぁ・・そりゃちょっとどうかと思うぞ?彼女宛に届いたメールだろ?・・・で、聞くが返信はどうだった?」

メールの画面が立ち上がっていたから見たというのは、菱信興産新堂巧という名前を探し出し、盗み見たということだ。
そして送信されて来たメールを見たのなら、返信したメールを見ているという確信はある。
司という男は目的のためなら手段を選ばないという人間だ。あきらはそんな男の行動を興味津々といった様子で訊いていた。

「ああ。そっけない返事が並んでた。あの文面なら牧野は今のところあの男と会おうって気はないようだ」

他人のメールを見たことを悪いと思わない男だが、それは社内メールであり、管理者なら簡単に見ることが出来る。だから司は気にしてはいない。

「そうか・・。でもな、司。言っとくぞ。彼女のようなタイプの女はお前のそのハイスペックな外見や財産、家柄ってのには興味がない女だ。しっかり者って印象がある。それに依頼心の強い人間じゃねぇな。だから人に何かをしてもらおうと考えるような女じゃない。
だからお前が高価な物を贈ったりしても無駄だからな。決して物に釣られるような女じゃない。ああいった女は心が大切だってタイプだ。気持ちだ。気持ちが一番の贈り物ってタイプだ。それに34まで独身ってことは下手をすれば仕事一筋ってタイプだ。事実そうだろ?牧野つくしって女は?」

「ああ。そうだな。確かに仕事に対しての熱意は十分感じられる。責任感は問題ないくらいある。それに確かに物に対する欲ってのはない。派手さはない。今でこそ爪が光っているが、それも殆ど色がない。身だしなみって言われる程度の輝きだ」

そして司の頭の中に過るのは、出会ってから今までの事柄。
仕事に対しての前向きな考えと、自分に任されたことは責任を持ちやり遂げようとする態度。

「そうか・・。なあ、司。これは俺が彼女と会ったとき感じたことだが、牧野つくしの場合、初めはその良さが分からなくても後からジワジワと分るタイプだ。まあ、お前もその口だな。つまり彼女の場合、今は男の匂いが感じなくても半年・・いや、3ヶ月経ってみろ。新堂巧じゃなくても他の会社の人間も彼女の良さに気付く人間はいるはずだ。何しろ彼女はお前について回る秘書だ。他の会社の人間の目にも触れる。それにお前が秘書として認めた女なら一流の人間であるってことだ。そうなると新堂だけじゃなく、どこかの会社のジュニアが目を付けるかもしれねぇぞ?・・まあお前の秘書って立場を考えれば、そう簡単に接触しようとは思わねぇだろうけどな」

それはそうだろうと、司も思う。
人を見る目がある企業人なら彼女の飾らない真っ直ぐとした人柄に触れるうちに、牧野つくしの本質といったものが見えてくるはずだ。人は会話を交せば、相手がどんなタイプの人間であるか分ってくるものだ。例えば理屈っぽい人間なのか。それともあまり物事に囚われない人間なのか。多くの人間と接する彼らなら牧野つくしという女性の持つ人柄といったものを理解するのは簡単だ。そしてその瞳の中に見える真摯な輝きといったものに魅了されてしまう。それは司がそうだったことと同じだ。

「それで?食事の間に彼女のこと、色々聞いたんだろ?身の上話ってやつ。何か人に自慢できるような話はあったのか?」

あきらの問いかけに司の思いは中断された。

「・・いや。いたって平凡な人生だな。これといって自慢出来るようなことは無かったが、学生時代の成績は間違いなく良かったようだ」

大学生活もバイトと勉強に明け暮れ、生活事態が地味だった。

「なるほどな。確かに頭は良さそうな顔をしてるからな。それで肝心の男関係はどうなんだ?まあ、新堂巧から付き合いたいと言われても彼氏がいるから付き合えませんって断らなかったところをみれば、男はいないってことだろうが・・どうなんだ?お前のことだ。とっくに調べはついてんだろ?」

「ああ。身近な男は弟だけだ」

司が調べた限り、付き合っている男は今はいない。

「と、いうことは今は蜘蛛の巣が張ってる状況ってヤツか」

あきらがニヤッと笑い言った言葉は悪いが事実そうだと思う。
今、付き合っている男はいないはずだ。だが過去にはいたとしてもおかしくない。
ネクタイにきれいな結び目を作ることが出来る女は、誰かに教えられたことは間違いないはずだ。そうでないとすれば・・・という理由は思い浮かばなかった。
だが過去に嫉妬したところで、どうすることも出来ない。それにしても、まさか自分が女の過去に嫉妬をするとは思いもしなかった。そして女という生き物に対して意識が希薄だった男の豹変に、あきらが面白おかしく言いたがることも分るような気がしていた。何故なら自分自身がそう思えるからだ。

「しかしな、司。まさかお前のような男が本気になった女に対しては、こうも奥手になるとは思わなかったぜ」

「うるせぇ」

そのとき、あきらがバーテンに目で合図をすると、新しいグラスが男二人の前にすっと差し出された。すると司はそれを一気に飲み干した。









夜の帳が降りた中、スローダウンしていたメタリックグレーの背の低い車が、エンジンの回転数を上げ走り出した。
その車はひとりの女性の後ろをつけていたが、彼女がマンションに入るところを見届けることが目的だったようだ。
運転していた人間が誰なのか。それは分からなかったが、車はテールランプの灯りだけを残し、あっと言う間に見えなくなっていた。




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2017
12.11

恋におちる確率 25

朝っぱらから怪しげな雰囲気でもいうのか、つくしにしてみれば、調子が狂う事ばかりだった。何故なら、今までなら不機嫌このうえないといった口調で感情の欠片さえ表さない男の豹変。無表情が板につき、口角が上がることがないと言われていた男の口元が緩んだ姿を見れば、いったい何事かと思う人間は多いはずだ。

そして、秘書になってからのつくしは、勤怠管理というものが殆ど意味をなさないものになっているが、それは仕方がないことだと分かっている。
朝はお迎え。帰りは第一秘書の西田が担当しているが、勤務時間は不規則になることが多い。
そしてまるでそのことを労うように秘書の仕事には慣れたかと聞かれ、食事はきちんと取っているのかと、つくしが言うべきセリフを言われた。

それに、食事らしい食事を取らないと言われている男が、まさか急に食欲が出たという訳でもあるまいが、今までなら第一秘書の西田に言われ仕方なくといった様子だった昼食も、恐ろしいほどの乗り気が感じられた。

そんな男に連れられ、つくしは車へ乗り込んだ。








道明寺HD副社長である司の行きつけの料亭は、新堂巧との会食のため訪れた料亭よりも格式が高い。その場所は、それと分る表示は何もなく、そこが料亭だと知らなければ立派な門構えの誰かの邸と思うはずだ。
そしてそこは、都内でこんなにも風情を感じさせる場所があるのかと思われるほどの静けさ。
そして先日訪れた料亭は、暗闇の中、オレンジ色の灯りがぼんやりと灯された庭だったが、二人が歩く長い廊下の脇に広がるのは、立派な石灯籠がある見事な日本庭園。
そこには、鯉の泳ぐ大きな池もあり、通された部屋の雪見障子から見える景色は風景画のような世界。
そして足を踏み入れた座敷は、何を言わなくても通されるこの料亭で最高の部屋だ。

司は挨拶に現れた女将にいつものお食事でよろしいでしょうか。と聞かれ「ああ。いつものでいい」と答えた。そして真正面に座った女の顔を見た。その顔は、障子の向うに広がる景色を眺めていた。

南に面したこの部屋は、離れの個室になっており、誰かが外の廊下を通ることもなければ、仲居が料理を運ぶ姿を見ることもない。
誰にも邪魔されることがない畳の部屋は、洋式生活が長かった男には似合わないと思われるが、昔邸にいた老婆の部屋を思い出させた。
そこは子供の頃、寝転んで天井を見つめ、楽しいと感じた場所。
そして女なんてすぐに泣くから嫌いだと言った司に、

『いつか坊ちゃんにも好きな人が現れます』

そう言われたことがあった。
そして、

『いつかお前も恋におちることがあるはずだ』

高校時代、仲間の誰かに言われた言葉が頭を過る。
そしてその言葉通り、恋におちた。
そうだ。司は認めていた。
今目の前で外の景色を眺める女に惚れた。
そしてその女を誰にも渡したくないという思いが確実にある。

だが出会いは険悪な雰囲気で、彼女を秘書にしてからもどこかそんな空気が漂い、相手を踏み込ませない、いや司の方が踏み込ませない空気を持っていたが、今はその空気を変えたいと思っている。だからこのチャンスを逃したくない。そして新堂巧が司を牽制したのなら、そんな牽制など屁とも思っていないことを分からせてやるつもりだ。そしてあの男が気付いた時には遅かったな、と言ってやるつもりだ。

司はそんな思いを抱き、女の顔を眺めていたが、やがて女将が仲居を従え現れ、自らの手で手際よく正確に料理を並べていく様子を見ていた。

そして今、司の目の前でゆっくりと箸を動かす女は、いつか西田が言った休むことなく手と口を動かしていたと言うには程遠い食事の仕方だ。爪は短く切り揃えられ、派手さは全くなく、きれいな箸使いをする。
そんな女は、ネクタイを上手く結ぶことが出来る。

そして初めて見る牧野つくしの食事をする姿。
骨と皮ばかりのモデルタイプが司の好みだと思われているが、健康的に食べる女の姿は、見ていて気持ちがいいものがある。

そう言えば、と司は今朝見た新堂巧へのメールを思い出す。
食欲がないと食事の誘いを断っていたが、どうやらそれはないようだ。
それならやはりあの男とは出かけたくないということなのか。
それともまだ相手の出方を見ているのか。それとも単に興味がないのか。
それならそうとはっきりと断ればいいものをと思うが、それが出来ない女。
それは、情に厚いということもあるが、優柔不断なところもあるということだ。
司は、牧野つくしの性格の一面を理解したような気がしていた。




食事というものは、肩の力を抜いてするから味が分るというものであり、二人で食事をするなら、相手のペースに合わせることがマナーというものだ。
だから司は、彼女と同じペースで箸を運んでいた。

「牧野。どうだ?この料亭とあの料亭の料理はどっちが美味いと思う?」

新堂巧と会った料亭と、司の行きつけのこの料亭。
ビジネス相手との会食がない日は、ここで食事をする。
ここの料理は、最高の食材を最高の料理人が調理したもので、口の肥えた男を満足させる。
だが先日の料亭の食材も料理人も優れている。ただ、味の好みはここの料理人の舌が司には合う。
それはしっかりと吟味された食材の使い方もだが、器や盛り付けは来る度に変わり、お客を愉しませることを考えている。
そこに企業努力といったものが感じられ、料理人の食に対する想いを感じることが出来る。
そして司はどんな仕事であれ、その道のプロであることを意識する人間を尊重する。そのことも、この店を贔屓にする理由だ。


「副社長はどちらのお食事が美味しいと思われますか?」

座布団の上で正座をした女は箸を置き、司を見た。

司はその答えに面食らった。
彼の周りにいたのは、おもねる者ばかりだっただけに、質問に質問で返す人間に出会ったことはなかったからだ。
それに司は女に何かを聞いたことすらない。意見を求めたことすらない。
女が何を好きで、何が嫌いかなどどうでもよかった。
それは相手に興味がなかったからだ。
だが今は、牧野つくしは何が好きかを知りたい。そして何が嫌いなのかを知りたい。
だから彼女の質問に答えた。

「俺か?俺はここの料理の方が上だと思う。確かにあそこの料亭も料理人も食材も一流だが、ここの方が美味いと思える」

「・・・そうですか。それでしたら私もこちらだと思います」

「なんだよ。そのそれでしたら、ってのは?」

司は気のない返事に慣れていない。
そのせいか、語尾が上がる。

「あの・・本当に私の意見が必要ですか?」

「どういう意味だ?」

「いえ。秘書の分際でといいますか、差し出がましいことをすると・・その・・」

彼女が言わんとしていることは分かる。
それは、秘書は黒子の存在であり、仕える人間の意見を尊重し、逆らわない。それを徹底すべきだと考えているということだ。
それに先日のクロワッサンの件をまだ気にしている。
だが今の司は彼女の言葉で彼女の意見が聞きたかった。
今まで周りにいた口先ばかりの人間は必要ない。
自分の考えを説明できる女がいい。

「お前はまだあのクロワッサンのことを気にしてるのか?あれはもう終った話だ。俺もきつく言い過ぎたっていったよな?それに食事の味ごときで何か言われると考えている方がおかしいはずだ」

司はビジネスで培った相手の心を読む能力と、瞬時に判断するということを行った。
そして相手に考える隙を与えまいとしていた。

「それに俺は考えてみれば秘書であるお前のことを知らなさすぎる。それは上司として問題だろ?俺は西田の母親の具合が悪いことを知っている。それを考えればお前のことを知ることも必要だ」

西田の話は適当に言った嘘だが、今の司は自分の論理で話を進めようとしていた。
それが悪いとは思わないが、あきらが聞けば大人げないやつだと言われることは間違いない。そして言われる言葉は分かっている。
女に本気になったことがない男は、好きな女が出来たが手も足も出なくなってんじゃねぇの?と。
そして好きな女に意地悪をしないだけ小学生よりはマシだな。と。
分っている。
だからせっかくこうして二人切りになったのだ。このチャンスを生かさなくてどうするといった思いがある。


「どうして私の事を知りたいと思うんですか?」

その質問に司は一瞬言葉に詰まる。

「どうしてって仕事を一緒にする上で大切なことは何か分るか?お前はそれが分ってない。いいか。一緒に働く相手のことをよく知ることは大切だ。チームワークってやつだ。それが秘書なら尚更だ。秘書は仕える相手の事を理解する必要があるが、仕えられる人間も秘書のことを知る必要があると思うが?」

今まで付き合った女の何かが知りたいなど考えたこともない。
もちろん西田の生活など知りたいとも思わない。
だが今の司は牧野つくしのことならどんな些細な情報でも知りたい気持ちになっていた。

「・・そうかもしれませんね」

小さく漏れたその言葉に司は話の取っ掛かりを見つけたとばかり食いついた。

「まあ、俺とお前の始まりはどこか険悪だった。けどもうあの話は済んだことだ。いい大人がいつまでも気にすることはない。それに仕事をしていく上で相手のことを理解することでいい仕事も出来るはずだ」

司のその言葉に女は考えたようだ。

確かにそれはそうだ。これから仕事を続けていく上で早く相手を理解することは必要だ。
そしてこうして差し向かいで話をするのは初めてだが、上司がそう言っているのだから、受け入れるべきだ。そうだ。出だしが悪かっただけだ。

それに仕事を円滑に進めるため、上司が自分のことを受け入れたいと思っているなら、その思いを受け入れるべきだ。いつまでもどこかギクシャクとした関係でいては、秘書としての仕事も上手くいかない日が来る。それに差し出された手を跳ね付けることは出来ない。

そんな結論を導き出しだのだろう。そして食事が進み、腹が満たされれば、気持ちが大きくなる。
女は、食事をする間、司の質問に答え続けた。

両親は既に亡くなっていること。
だから西田が高齢の母親のため、新潟を訪れる時間を持つことが出来るなら、役に立ちたいといった気持ちがあるということ。そして弟がひとりいること。
食べ物に好き嫌いは無いということ。

司は聞き役に徹した。
そして話の内容から道徳心と倫理観があるということが感じられた。
だが質問を続ける男の気持ちなど分るはずもないのだから、司が必要事項を記憶のノートに書き付けていることなど知るよしもなかった。




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2017
12.09

恋におちる確率 24

道明寺HD55階の役員フロアは、キリマンジャロの頂よりは低い。
だがこの場所は、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』に出て来る文章を思わせる。
それは、アフリカの大地、キリマンジャロの山麓にいる豹が、アフリカ最高峰の頂を目指したが力尽き亡くなった。そしてなぜ豹がキリマンジャロの頂を目指したのか、誰にも分らない。
という内容。
つくしは、目の前にいる男を豹に例えてみた。
そして豹が何故山の頂を目指したのか誰にも分らない、というその言葉の通りだと思わざるを得なかった。

それは、ビジネスに於いては隙がない。黒豹のような男と言われる副社長の態度だ。
まさに豹変するといった言葉を当てはめてもいいのではないだろうか。それとも気まぐれとでも言えばいいのだろうか。
いつもなら沈黙が流れる車内。
その車内でつくしが結んだネクタイの結び目を褒めた。但し、その前に男のネクタイを結んだことがあるのかと聞かれ、そして新堂巧との関係を窺うような言葉を吐いた。
だがつくしが、「違います」とひと言言った後、新堂巧のことは口に出さなかった。
それからタブレット端末を取り出し、今日の予定の確認をするため口を開いたが、いつもなら窓の外を見ているはずの男の視線が自分を見ていることに気付いた。そして笑わないと言われる男の口元に薄っすらとだが笑みが浮かんでいるように見え、目が合ったが慌てて逸らした。

新堂巧からは、相変らずメールが届く。
それも、社内のアドレスに送られてくるのだから、無下には出来ないのが難しいところだ。
何しろ相手は業務提携を結んだ会社の専務だ。無視する訳にはいかなかった。
そして、冒頭ではビジネスに関することを書き、末尾ではデートの誘い。
今朝もパソコンを立ち上げ、メール画面にログインすると、<菱信興産、新堂巧>からのメールが届いていた。たった二度顔を合わせただけの相手で、親しく話もしたことがない相手から、メールという気安さなのか、デートに誘われるといったことは今まで経験したことがない。

それにしても新堂巧という男性は、やはり自分の上司である斜め前に座る男と同じでよく分からない。
今朝は病院に行ったため、いつもより遅れ副社長室に入れば、そこに机がひとつ用意されていた。
専務秘書の野上から、西田室長からの指示でその席が設けられたと説明を受けた。
確かに左手が使えないというハンディはある。大袈裟にとは思わないが、撒かれた白い包帯はインパクトがある。そして事情を知った野上は、「牧野さん大変だけど頑張ってね」と言うと、「はい。これ、預かってたわ」と副社長の承認が必要な書類を渡された。

そして用意された机に座り、斜め前からの視線を感じ顔を上げれば、じっと見つめる男と目が合った。道明寺司の彫の深い美しい顔に慣れたとはいえ、じっと見つめられるとまた何か言われるのではないかと構えてしまうが、つくしがついさっきネクタイを結んだ男は、やはりどこか今までとは態度が違う。そんなことを思うつくしに男が口を開いた。

「牧野。その書類をくれ。それからコーヒーを淹れてくれ」

「あ、はい。申し訳ございません。すぐに淹れて来ます」

つくしは返事をすると立ち上がった。









司は、彼女に対する見方をがらりと変えた。
そしてそんな男の態度に戸惑いを隠せない女の態度といったものも、見え隠れし始めた。
じっと見つめれば慌てて目を逸らす。
上司である男の思ってもみない態度に動揺する姿が、今まで彼の周りにいた野心家の女たちとは違い新鮮だった。
はじめはちょっと気になっただけの女が、ここまで心を揺さぶる存在になるとは思いもしなかったが、なんでもないといったフリはもう出来ない。
そして運命はコントロール出来ない。


司はつくしが席を立ち、執務室を出て行くと彼女の席まで行った。
デスクの上にはいつも彼女が持ち歩いているシステム手帳があった。
それは、司が話した内容を書き留めるための手帳。
司は何げなくその手帳を開いた。そしてそこに書かれているのは、自分のスケジュール。
そして朝の所見とも言える言葉が書かれていた。
『今日はご機嫌』
怪我をした男のどこがご機嫌かと思うが、彼女から見た司の姿はそう見えたのだ。
だがご機嫌とまではいかないが、気分がいいのは確かだ。

そして立ち上ったメール画面に目を向けた。
湧き上がった牧野つくしに対する気持ちが好奇心に勝ち、司は手を伸ばしマウスを掴み受信トレイをクリックした。差出人の名前に目を通し、<菱信興産、新堂巧>を見つけてはクリックする。

開かれたメールの内容は、ビジネスに見せかけてはいるが、はっきり言ってその中身などうでもいいような内容だ。そして末尾に書かれているのはデートの誘い。

『今度食事に行きませんか?』
『映画でも見に行きませんか?』
『ドライブでも行きませんか?』

司と同じ年の男は、自分の家がどこにあり、家族が何人いて、趣味は何であるか。
そんなこともつらつらと書き連ねている。そして自分の思いを既に伝えている男は、躊躇うことなく気持ちをぶつけていた。

そんな新堂巧の行動は、陽性で行動的だ。つまり開放的ということだ。
そしてそんな男と対極にいるのが今までの司だ。
女に真剣になったことのない男が惚れた女は、秘書という仕事に全力を注ぐつもりでいる真面目な女。そしてそんな女には人の好さが感じられる。
つまりそれは間違っても男を罠にかけようとは思わない女だ。
そんな女は何度も口説かれれば、情にほだされてしまう。

男は女と違い情にほだされることはない。
だが女という生き物は違う。情というものに動かされる生き物だ。
そして新堂巧のアプローチは地味だが本気度合がどれほどのものか感じられる。
牧野つくしもそんなことから情にほだされる恐れがある。

だが司は絶対にあの男にだけは負けたくないといった思いがある。それは初めて会ったとき、あの男の何かが気に入らないと感じたことが関係しているはずだ。

司は送信トレイをクリックし、送信されたメールの中から新堂巧宛のものを見つけ、開いた。

『申し訳ございません。ここのところ食欲がないのでご遠慮させて下さい』
『申し訳ございません。その日は予定があります』
『申し訳ございません。速い車は苦手なんです』

嘘か本当か?
だが食欲がないようには見えない。
その日の予定ってなんだ?
速い車は苦手。それなら車高の低い派手な赤い車は苦手ということか?
どちらにしても断りのメールしか並んでいない。
そして会社のメールでこうしたやり取りがあると言うことは、プライベートの連絡先は教えていないということになる。そして返信内容は、そっけない。
いっそのことこのまま、私に付き纏わないで下さい。私は道明寺副社長と付き合っています。彼を愛しているんです。と返信してやるか。

だが司はそれ以上その場にいる訳にはいかなかった。
彼好みのコーヒーを淹れることが出来る女がそろそろ戻って来るはずだ。
そして案の定、自分の席に腰を下ろすと、扉がノックされ、彼女が戻って来た。
そして「すみません。少しお時間がかかってしまいました」と詫びた。
「ああ。構わない」気にする素振りも見せず答えたが、彼女がデスクに置いたコーヒーから立ち昇る香りは最高だ。

地味という平凡な秘書に何故と思うのは間違い。
ただ自分よりも先に彼女の魅力に気付いた男がいたことが悔しいと思う。
そして、どちらが男としての魅力があるか。その答えを出すのは牧野つくしということになるが、のんびりとなどしていられない。

司はコーヒーをひと口飲むと言った。

「牧野。西田からも言われたはずだが、今日はお前に俺の第一秘書としての役目を果たしてもらう。今日の予定は聞いたが、昼の会食は断ってくれ。何しろ左手がこの有り様だ。他人に無様な格好を見せたくない。それに怪我だ病気だってものはあらぬ臆測を呼ぶ」

と、司はこれ見よがしに手を見せた。

それは司にとって都合のいい選択。
だが彼女にしてみれば、頷けるものだったようだ。
分りましたと頷いた女は、それなら昼食はいかがいたしましょうか。
いつも副社長がお使いになられている料亭から食事を届けさせましょうか。と言ったが司は断った。

司はコーヒーと煙草だけで一日を終えることが出来る。
だが西田から昼食はなるべく口にしろと言われていた。そういったこともあり、会食の無い時は、無理矢理だったが馴染の料亭に足を向ける。だが彼女は付いて来たことはない。

「いや。料亭には行くがお前も一緒に食事をしろ」

高揚する気持ちを抑え、落ち着いた口調で言ったつもりだが、少し尊大に聞こえたかもしれない。それでも上司と秘書との間でそんな口の利き方も当たり前だと思ったのか、分かりましたと頷いた。

そして司は、意識し始めた自分の気持ちをなんとか抑え、午前中の仕事を片付けるため、デスクの上へ置かれた書類を手に取ったが、これは彼が人生で初めて女を食事に誘った瞬間だった。





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