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2017
11.30

恋におちる確率 17

料亭での会食と言えば密会といったイメージがあるが、あなたの話が聞きたい、ゆっくりと話がしたい、といったことから儲けられることが多い。
そして、食事の時間といったものは、人が最も気を許す時間だと言われており、差しつ差されつといった状況を作ることで、二人の間にある距離といったものを詰めることが出来る。

そして、こうした会食の席が設けられる理由は、業務提携を結んだ相手の思考の中にあるビジネス以外の何かを知ることにより、人と成りといったものを知ることが出来るからだ。

それは家族の話であったり、趣味の話であったりするが、高齢の経営者の口から語られるのは、概ね孫のこと。その時はどんなに厳しい顔をしている男も好々爺の顔になり、財布を開け持ち歩いているという写真を見せてくれることもある。

また趣味の話では、どこかの政治家とゴルフをしたといった話しから、持ち馬がレースに勝ったといった話になることもあるが、その話の内容から、彼らの人と成りの一部と、人生の一部を知ることが出来る。

それに業務提携を結んだからとは言え、夫婦関係と同じで、ある日突然提携関係を解消するといったことはよくある話しだ。だから同じ船に乗っているからとは言え、安心ができないのがビジネスの世界だ。そのため、相手のことを知るということは重要だ。

そして、本来今日の会食は新堂巧ではなく、彼の父親の新堂健一郎との予定だった。
だが健一郎の体調不良により息子である巧が現れた。そして司と同じ年の巧は、やはり司と同じ企業経営者の息子としての人生を歩んで来た。

そんな男と司は、今の景気状況について話をしていたが、話が一段落したところに次の料理が運ばれて来た。そして二人はしばらくの間、口をきかずに料理が並べられる様子を見ていた。やがて二人の前に料理が並び終わり、運んできた人間が出て行くと、巧が次に話し始めたのは、これまで話していた内容とは向かう先が変わってきていた。


「私と道明寺さんは同じ年で、互いにそれぞれの会社の創業家に生まれた。
社長の一人息子という立場も同じです。そしてこの年で私は専務。道明寺さんは副社長という立場ですが、世間から見れば超スピード出世といわれる立場にいます」

新堂巧が話しているのは、世間から見れば二人は親が敷いたレールの上を外れることなく歩いていると言いたいのだろう。
だがこの年でと言うが、一部上場企業で20代の人間が社長になった例はいくつもある。
しかし、道明寺HDほどの大きさの企業でのそれはない。


「しかし企業が巨大化する中で古い体質ともいえる世襲といったことに全ての役員が賛成するとは限りません。親の期待通り社長になれるかと言えば、入社後の本人の努力といったものが問われる。実績を残さなければ、ぼんくら息子が親の七光りで掴んだ地位だと言われます」

司も入社当時言われていたのは、所詮親の七光り。井の中の蛙。虎の威を借る狐といった言葉。彼の高校時代を知る重役は、バカ息子がいずれこの会社を潰してしまうだろうと言っていたそうだ。

だが司は、道明寺HDへ入社すると、常務、専務、副社長と3年ごとに昇進し、今では社長に次ぐナンバー2だ。そしてそれは、決して親の七光りでもなければ、虎の威を借る狐でもなく、本人の力が与えた地位だ。

「道明寺さんの場合は実力があるからこその今の地位でしょう。でも私の場合はそうではないかもしれません」

司はビジネスで会う相手のことは調べることにしている。
それは相手とどれくらい発展的な関係が築けるかどうかといったことを知るためでもある。
そして新堂巧のことを調べさせたが、彼が謙遜して話していると知っている。新堂巧という男も実力があっての今の地位だ。


「うちは派閥争いといったものもありました。何も知らない若造と言われることも多かったんですが、なんとかここまで来ることが出来ました」

そう言った巧は、テーブルの上に運ばれてきていたウィスキーの水割りをひと口飲んだ。
酒に強いという新堂巧。だが司は自分ほどではないと思っている。何故なら巧の頬は、これまで口にした日本酒のせいで少し赤味を帯びていたからだ。だが呂律はしっかりとしていて、酔っているという訳ではない。

「・・あの道明寺さん、彼女・・・あなたの秘書の方ですが牧野さんとおっしゃいましたよね?」

少し間をおき話し始めたのは、司の第二秘書である牧野つくしのことだ。
司は新堂巧が口元を綻ばせ自分に訊く顔を見据え答えた。

「ええ。そうですが彼女が何か?」

答えた司は巧の綻んだ口元が引き締められたのを見た。
そして好奇心とも取れるような表情に似ているが、そうではない表情が浮かんでいるのを見た。そして目の前に座る男の目線が司から外れ、牧野つくしが座っていた場所へと動いたのを見た。そして再び司を見た。

「すみません、単刀直入にお伺いたします。道明寺さんは彼女とお付き合いをされている訳ではないですよね?いや。こんなことを言うと大変失礼なことになると承知の上で言わせて下さい。役員クラスになると秘書が・・その・・愛人といったことがあります。いえ、決して道明寺さんがそのようなことをする人だとは思っていません」

愛人関係。社内不倫。役員とその秘書との関係としてはよくある話だ。
だが司は独身だ。もし仮に付き合ったとしても、愛人関係とは言わないが、恋愛感情がなく、セックスだけの関係ならその言葉は正しいと言える。


「それにあなたは簡単に女性を寄せ付ける男ではない、女性の好みは超一流と言われています。ましてやあなたはひとりの女性と未来永劫を誓う、死ぬまで一緒といった言葉が嫌だと言われている。そんなあなたが牧野さんのような女性を恋人にするはずがない。何しろ彼女は真面目そうだ。遊びで付き合うような女性ではない。それにこんなことを言ったら彼女に失礼になりますが、彼女はあなたのタイプではない」

新堂巧は司に向かってはっきりと言葉を口にした。
その言葉の端々には、菱信興産の次期社長と言われる男の思いといったものが感じられた。
そして酒のせいで赤味を帯びていたと思われていた頬は、今はもうない。
司は、何も答えずに男の次の言葉を待った。
新堂巧の話の結論を聞くために。


「低次元な話で申し訳ございません。ですが一応確認したかったんです」

新堂巧はそう言うとひと呼吸置くように口を閉じた。
そして真正面に座る司に気恥ずかしそうに言った。

「参ったな・・。私は今夜こんな話をするつもりはなかったんですが、彼女を見た瞬間運命を感じました。天の配剤だと感じたんです」












ダークスーツに白いシャツ、ワインレッドのネクタイを締めた男は、送って下さらなくて結構ですからと断わる秘書を自宅まで送ると言い、運転手に彼女の住まいへと向かうように言った。
そしてリムジンの中で向かいに座る女を見つめていた。

車内はいつもと同じで静まり返り、都心から離れるにつれ夜道は空いていて、車の流れはスムーズだった。
顏をしかめてタブレット端末を見る女は、明日の予定を確認しているのだろう。
だが司の視線に気付くと顔を上げ何か御用ですか?と訊いた。だが、いや、何でもない。と答え、司は窓の外へ視線を向け流れる風景を見ていた。

11時を過ぎた街の景色は灯りの消えた窓も多く、24時間営業のコンビニエンスストアの灯りだけが、不夜城のように白い光りを放っていた。
司はふと思い出し、食事は済ませたのかと訊き、はい、料亭で。と答えられれば、そうか美味かったか?と訊けば、再びはい、と返事があった。

必要以上に会話がなく、沈黙が流れるのはいつものことだが、何故か今はもう少し話がしたい気になっていた。だが、それからすぐに牧野つくしの住むマンションの近くに着き、リムジンが入れない道であるため、彼女はここで止めて欲しいと言いそこで降りた。そして一礼をし、車が動き出すのを待っていた。
それは司が乗った車を見送るためだ。

だが車は動き出さなかった。
普通ならあり得ないことだが、司は女をマンションまで送るため車を降りた。
そして驚く女と一緒に暫く暗がりの道を歩き、
「明日も時間通りだ」
と言い、彼女がマンションの中に入る直前「遅くまで悪かったな」と声をかけ車まで戻った。
そして運転手に合図をしたが、明日は牧野つくしを乗せて来てくれと言った。





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2017
11.29

恋におちる確率 16

牧野つくしがこれほどまでにおっちょこちょいとは思いもしなかった。
いや、あわてんぼうといった言葉も当てはまるのかもしれない。
そしてそういったことは、人物評価には書かれていなかったことだ。

時計の時間を戻すのを忘れる。
スカートのファスナーを上げ忘れる。
ブラウスのボタンを留めるのを忘れる。

どれもほんの些細な身の回りのこと。それすら出来ない女が司に向かって生活習慣病について、といった言葉を口にすることが滑稽だと感じていた。
そしてそんな牧野つくしの失敗をからかうのは、日常における暇つぶし程度に考えていた。

だが今まで周りにいなかったタイプの女は、根本的に頭がいいのは分かる。
しかし、どこか抜けているというのか、やはり言葉を選ぶなら、おっちょこちょいといった言葉が一番当てはまるのだろう。そして彼女自身の性格として、お節介な部分もある。

他の部署のミスを庇う。
他人の身体の心配をする。

ビジネスの関係を考えることなく、人としての在り方が大切だといった性格の持ち主。
人を大事にする。人が困っているならそれを助けたいといった気持ちが強いことは分かる。
だがそれを押し付ける人間ではない。だがたまにやり過ぎてお人好しと言われてきたこともあったはずだ。

そして、そういったことも、他人に好かれたいからやっているのではない。人がどう思おうが自分が信じることをする。それが牧野つくしという人間の本質なのだろう。

人間の本質は変えられないというが、それなら、牧野つくしは昔からずっとお人好しの部分があったということだろう。そんな人間は今まで司の周りにはひとりもおらず、私利私欲のため、自分本位といった人間ばかりが目についたのが彼の人生だ。
だから物珍しさもあり、彼女を秘書として傍に置いてみることにした。

だが何故かついからかいたくなるのだ。そしてその反応を見るのが楽しい。
車内でタブレット端末を見つめ、本日の予定ですと語る様子に、椅子になった女が文句を言うという妙な想像をしたのも、自分で思っている以上に牧野つくしのことが気になっているからなのだろう。

今は廊下を進む司の後ろをしずしずと付いて来る女は、車から降りる前は、怒りのオーラを発していた。感情を隠すのが下手な女。それが牧野つくしだ。
だから彼女の顔に過る感情を知ることが楽しいのだ。









午後7時半からの予約に、先に座敷にいたのは、菱信興産専務の新堂巧の方だった。
ここまで案内してきた着物姿の女性は、廊下に正座し、どうぞこちらでございます。と言って静かに襖を開けた。


「これはどうもお久しぶりです。道明寺さん」

新堂巧は、広々とした座敷に秘書と思える男と一緒にいた。
そして座布団の上で居住まいを正した姿に、司はどうぞ楽にして下さいと言ったが、巧は深々と頭を下げた。

「道明寺さん、本当なら父が来る予定でしたが、大変申し訳ない。昨夜遅くに熱を出しまして、本人は朝になれば下がると思っていたようですが、下がりませんでした。そういったことで今朝すぐに医者に見せましたが、単なる風邪ということで安堵したんですが、今日は大事を取って会社の方は休ませることにしました。この会食も私が代理として参りましたが役不足でしたら大変申し訳ございません」

「いえ。とんでもない。それよりも社長のお身体の方が心配です。どうぞお大事になさって下さい」

今夜の会食は新堂健一郎の招きということもあり、司にしてみれば健一郎と話しをするつもりでいた。だが相手が父親ではなく、息子である巧に代わったが、その男がいったいどんな話しをするのかといったことに興味はあった。

司と同じ年で世襲と言われる後継者の立場の男は何人かいるが、新堂巧は、幼馴染みである美作あきらや花沢類といった男達とはまた違うタイプの人間だと考えたからだ。

「これはどうもありがとうございます。道明寺さんにそう言っていただければ父も安堵します」

新堂巧は、パーティーで何度か顔を合わせ、挨拶だけは交わしたことがあるが、こうして話しをするのは初めてだが厭な感じの男ではない。
口調は丁寧であり、態度も柔らかい。社長である父親を気遣う息子の姿は、どこに出しても恥ずかしくない姿であることはひと目でわかる。
誰もが真面目な印象を受ける男の目鼻立ちがはっきりとした顔は、父親に似ていることがよく分かる。
そして年の取り方としては、司と同じ年齢ということもあり、同程度の年齢の重ね方が見て取れた。


「ところで、失礼ですがそちらの方は秘書の方ですか?」

巧の視線は司から彼の背後に控える女に向けられた。

「ええ。私の秘書です」

つくしは頭を下げただけで名前は名乗らない。秘書は秘書であり黒子だ。
そんな影の存在に名前は要らないからだ。

「あのお名前をお伺してもよろしいですか?」

だが新堂巧は名前を訊ねた。
そして巧の視線は司ではなく、彼の後方に座っているつくしをじっと見ていた。

「牧野と言います。申し訳ない。秘書はすぐに退室させます」

司の言葉に巧は視線を彼に戻し、そして言った。

「いえ。いいじゃないですか。父は会食の席に秘書を同席させませんが私は気にしません。申し遅れましたが私の秘書は上条といいます。彼は私が入社以来ずっと仕えてくれている男で信頼がおける人間です。ここでお話した内容が外に漏れるようなことは決してありません」

一旦言葉を切った巧は、少し残念そうに言葉を継ぐ。

「そうは言ってもやはり皆さん秘書を同席させることには抵抗がおありのようですので、今日のところは、といいますか、今後も同席は見送った方がいいでしょうね」

少し笑った巧がそう言って後ろに控える男に頷くと、秘書の男は頭を下げ、立ち上って畳の上から立ち去った。
司も同じように振り返り、つくしに頷いた。




やがて料理が運ばれてくると、巧は司に酒を勧め、司は礼を言って猪口を差し出した。
この料亭の料理は、最高級の旬の素材が使われており、季節を味わう贅沢さに加え、全てにおいて味のバランスが取れていると言われ、美食家たちの舌を満足させていた。
特に最高級の黒毛和牛のステーキは、口の中でとろけると言われ、溢れ出す肉汁は、それだけをスープとして飲んでも旨いと言われていた。

食べ物に然したる興味がない司だが、ふとそのとき思い浮かんだのが、クロワッサンに情熱を燃やす牧野つくしがこの料理を見たらなんと言うかということだ。

第二秘書である彼女が、司と食事をすることは勿論ないが、朝食を食べないと言った男がこれだけの料理を口に運ぶことを知れば、満足するのではないだろうか。
だが逆にいいものを食べ過ぎで今度は痛風になるとでも言われそうだ。
西田の話によれば、社員食堂で豚の生姜焼き定食といったものを食べることに幸せを見出していたという牧野つくし。ある日西田が見た光景は、いっときも休まず手と口を動かす姿だったという。



「道明寺さん?どうかされましたか?」

「・・いや。何でもありません」

「そうですか?何か楽しいことでも思い出されたのかと思いましたよ」

その言葉は司の何を見て言ったのか。
司はひと前で表情を崩すことはないと言われているが、もしかすると、平凡といった形容詞が似合う女のことを思い浮かべたとき、思わず頬が緩み、何らかの表情が浮かんでいたのかもしれない。
そしてそれを新堂巧は見たということだろう。


司はこの料亭のどこかにいる女のことを考えていた。
だがそれと同時に目の前の男の表情が気になっていた。
業務提携先の企業の後継者であるこの男の何かが気に入らなかった。





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2017
11.28

恋におちる確率 15

いつもと変わらぬ朝の風景のひとつとして、女性秘書が迎えに来ることが当たり前のようになれば、迎えの車の中は、やはりいつもと同じ態度で当日のスケジュールが読み上げられていく。
慣れというものは不思議なもので、互いに持ち場を守ればいいといった空気が生まれれば、それはそれで仕事がしやすくなるものだ。そしてそういった職場環境というのは、どこの世界にもあるはずだ。

静寂に包まれた車内は、男が書類を捲る音と、女がタブレット端末を触る姿があるだけで、会話はなかった。それが気まずいとか不愛想なことかと言われれば、そうではない。
すでにビジネスとしての時間は始まっていて、沈黙がその場を支配することが、当たり前のことと感じているからだ。

あの日、食べることを拒否されたクロワッサンは、結局つくしが食べ、あれから後に出されることはなかった。
そして、会議から戻ってきた男にコーヒーを淹れるように言われ、今朝は差し出がましいことをしましたと詫びた。だがそれに対しての返事はなく、黙ったままパソコンのキーボードを叩く音だけがしていた。

やがてビルの正面へ車が到着すれば、中に乗っていた男と女は降りていく。
そして役員専用エレベーターに乗れば、あっという間に最上階に着き、扉が開けばそこに秘書室長の西田がいた。
それが、今では副社長と新人秘書の日常のひとつと言えるようになりつつあった。








「副社長。本日の菱信興産社長とのご会食の件ですが、変更がございます。先方様、ご体調不良ということで専務であるご子息様がご出席になられるそうです」

司に続き副社長室に入った西田は、つくしがコーヒーを運んで来たのと同時に話し始めた。
そして彼女がデスクの上へカップを置き、彼の隣に立つと言葉を継いだ。

「それから本日はわたくしではなく、牧野さんがご一緒させて頂きます」

西田が言った会食とは夕食のことであり、本来なら西田が同行するはずだった。
だが、つくしが同行するということは、彼女が予想していなかった言葉であり、一瞬戸惑ったがすぐに落ち着いた表情を見せた。

しかし実は今夜は約束があった。
同期入社の原田久美子と久し振りに食事に行こうと約束をしていたのだ。だが、突然のスケジュール変更は、秘書という仕事をしている以上仕方がない。久美子には申し訳ないと断りを入れ、また今度という話にしてもらうしかない。


「社長が体調不良だと?」

コーヒーをひと口飲んだ司が聞いた。

「はい。昨夜から熱があるとのことで、本日は出社もされていらっしゃらないそうです」

「それで代わりに息子か?」

「はい。専務の新堂巧様です」

菱信興産は日本を代表する大手総合化学メーカーで100年以上の歴史がある会社だ。
道明寺HDは、石油化学品の分野に於いて菱信興産と業務提携を結ぶことを決め、両社の技術とネットワークを使い、事業領域の拡大を図ることになったのだが、そういったこともあり、菱信興産の社長とは会食を重ねていた。

そして新堂巧は、菱信興産社長である新堂健一郎の息子だ。
菱信興産は創業以来新堂家の人間が社長を務め、将来は息子である巧が跡を継ぐ事が決まっているが、その男も司と同じで、創業家の同族経営にありがちな、生まれた時から将来が決められていたということだ。

司は先日会った社長である新堂健一郎の顔を思い出していた。
面長で目鼻立ちがはっきりとし、紳士然とした顔。
確か年齢は母親である楓と同じ位だったと記憶していた。そして息子である新堂巧は、自分と同じ年だということは、知っている。

そして今までもパーティーで幾度か挨拶を交わしたことはあるが、話しをしたことはない。
ただ、話しをした父親の口からは、独り者である息子には早く身を固めてもらいたいといった話があった。だとすれば、新堂巧という男も自分と同じ女に対しシニカルなのか。と思う。


「それから牧野が同行するって?」

「はい。今夜は牧野さんに行っていただきます」

「他に変更事項はあるのか?」

「いいえ。他にはございません。牧野さん?よろしいですね?今までは夜の行事は男のわたくしが対応してきましたが、そろそろあなたにも夜のご会食のお手伝いをお願いしたいと思います」

つくしは、はいと答えたが、秘書の仕事に慣れてきたとは言え、副社長と夜の外出は初めてだ。
だが夜の外出と言っても、つくしは秘書として会食に同行するだけであり、一緒に食事をする訳ではない。それに会食相手である人物と秘書が話をすることはない。
何故なら彼らは、道明寺司と食事をするのであって、つくしと食事をするのではないからだ。

だが先輩秘書の野上から言われたことがある。
相手は、秘書の態度も常に見ていると。だから私達の何気ない仕草でも、相手にとっては気になることもあるのよ、と。そして、変な誤解を与えることもあるから気を付けてね、と言われた。


「牧野さんなら大丈夫だけど、例えば、やたらと髪を触る女性がいるわよね?ほら、髪を耳に掛ける仕草を繰り返す。あの仕草はね、あなたの話をもっと聞きたいわって意味があると深層心理では言われているの。だからね、男性の前でそんな仕草をすれば、私を誘ってちょうだいって言っているようにも思えるらしいわよ?
でも殆どの女性はただ髪が邪魔だから耳に掛けることをしていると思うの。でも中には・・・勘違いする男性もいるの。特に夜の会食の席はお酒を飲むでしょ?そうなると普段は真面目な人格者も人が変わったようになることがあるの。だから女性秘書がそういった会食の場所に同行するとなると注意が必要なの」

そんなことを言われれば、警戒しなければいけないのかと思うが、野上はつくしの考えを読んだように言った。

「でもあなたは道明寺副社長の秘書ですもの。いくら勘違いした男性でもあなたに何か言ってくることはないと思うわ」


だからその言葉を信じてつくしは車に乗り込んだ。
濃紺のビジネススーツは、つくしには手の出せない値段のスーツで靴も同じ。
書類を入れるブリーフケースも、名刺入れも足を踏み入れることを躊躇する店のものだ。
だから道明寺HD副社長の秘書として、向かいの席に座る男に恥をかかせないための装いは完璧のはずだ。
だが目の前の男は西田ではなく、つくしが同行することをどう考えているのか?



車がビルを出たのは7時過ぎで、陽はもうとっくに落ち、あたりはすっかり暗くなっていたが、クリスマス前の街は、イルミネーションが施された店舗も多く、街はいつもよりも華やいで見え賑わいを感じさせた。

だが今のつくしの心は、華やいでも賑わってもいない。
正直言って緊張していた。まさに輝かしい風景の中にある暗い穴に落ちて行く気分だ。
何故なら、これから向かうのは料亭で、つくしは料亭に行くのは初めてだ。
34歳になって初めての料亭デビュー。それが遅いのか早いのか分からないが、とにかく料亭は今まで縁がなかった場所だ。

そしてその場所は、政治家や財界の大物が利用すると言われる一見さんお断りの高級料亭。
つまり会員制の料亭と言われるものだ。
そんな場所での立ち振る舞いは、先輩秘書の野上の経験を参考にするとしても、スマートにことが運ぶかどうか心配だった。
そしてひたすら粗相のないようにと願えば、こうして副社長である男と向かい合い黙って座っていることが、これから向かう先でのぎこちなさをそのまま表しているようで、益々緊張した。

それにしても、向かいに座る男は、何を考えているのか知らないが、つくしと世間話をするつもりもないだろうから、副社長と新米秘書の距離が縮まるはずもなく、いつもこうして黙ったままだ。
それに、ずっと黙ったままでいることも、おかしく感じられ、何か話しでもしようとつくしは口を開こうとした。
そしてそう言えば、副社長とは最初から色々とあったと思い返す。

だがその時、男の方が先に口を開いた。

「牧野」

「は、はい」

つくしは、口を開こうとした矢先だったが、何を言われるのかと思わずどもった。

「お前、スカートの後ろ。ちゃんと閉めてんだろうな?」

「なっ・・!」

なんてこと言うの!と言いたかったはずだが言葉に詰まる。
何故なら目の前の男がほくそ笑んでいるからだ。それでも冷静に冷静に。あくまでも冷静に。
そんな気持ちでいたいのだが、相変らずの男の発言に、今のつくしの気持ちは確率で言えば100パーセント怒っていた。

「だってそうだろ?何にしても初めての時ってのは緊張するって言うからな。それにどう見てもお前のその緊張した態度からすれば、料亭は初めてだってことが分かる。だから確認してやった。またベージュのスリップ覗かせて歩かれたら困るからな。それに新堂巧も色気のねぇ下着の女に誘われても困るはずだからな」

低い声で面白そうに言う男につくしは猛然と反論したくなった。

「いい加減にして下さい!それに今日はベージュじゃありませんから!」

「へぇ。そうか。それなら何色だ?」

「そ、そんなことあなたに関係ないでしょ?」

「ああそうだな。確かに俺には関係ねぇな。けどな、お前、胸のボタンは留めろ。相手に媚び売る必要があるなら外せばいいが、そうじゃねぇんなら嵌めろ」

つくしは慌てて視線を下げた。
するとブラウスのボタンが外れていた。
それもちょうど胸の辺りがひとつだけ。
そうだ。出かける前、トイレで下着の位地を直すため外したのだ。
そしてボタンをかけ忘れたのだ。

「だから今日もベージュだろ?」

はっとして顔を上げると、男の視線とつくしの視線が合った。
見えていた。
見られていた。
また副社長であるこの男に!

今は頭に血を登らせている場合ではないはずなのに、つくしの頭は沸騰する一歩手前だった。道明寺司と一緒にいて、ほのぼのとした時間といったものを持つことは無理だと分かっているが、車は間もなく目的地に着く。そうすれば、この男を会食に送り出し、ひとりで静かに気持ちを落ち着けることをすればいい。

そして、車を降りた先にあるのは、つくしの思いを呑み込んでくれるはずの数寄屋造りの料亭。
水が打ってある御影石の広い玄関ホールに立てば、奥から現れた着物姿の女性に「ようこそ道明寺様。新堂様がお待ちです」と言われた。





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2017
11.27

恋におちる確率 14

「なんだこれは?」

「ご覧の通りパンです。クロワッサンです」

「そんなものは見れば分る」

「ではどうぞ召し上がって下さい。このクロワッサンは社員食堂で焼かれたものです。とっても美味しいんです。それにコーヒーによく合います」

2年前に建て替わった道明寺HDのビル。
その中の社員食堂は、名門「ホテルメープル」の料理が楽しめるのだが、庶民的と言われる豚の生姜焼き定食は勿論のこと、本格的な網焼きサーロインステーキをリーズナブルに食べることが出来る。

食堂は、ホテル仕込みの料理だけのこともあり、味に狂いはなく、海外駐在経験が多い社員の肥えた舌を満足させると言われていた。

そして、いつの時代にも言われることだが、一人暮らしの男性の傾向として、朝食を食べないといったことが話題となる。そして誰もがそれがいいとは言えないことを理解していて、朝食を取らないことにメリットなどなく、デメリットばかりが目立つのが事実だ。

それは朝食を食べないことで頭に十分なブドウ糖が回らず、脳の働きが悪くなると言われていることだ。そしてそのことが、集中力に欠ける、記憶力が低下するといったこと繋がると言われていた。
つまりは仕事に影響を及ぼすことになるということで、大袈裟な言い方だが最終的には会社に損失を与えるということだ。
そういった考え方と、社員の健康管理を目的とし、会社は朝の時間にも食堂を開けることを決め、朝食のサービスを始めていた。

メニューは和定食と洋定食があり、洋食は併設されたおしゃれなカフェテリアで出されるのだが、つくしはそこで出される焼きたてのクロワッサンがお気に入りだ。だから時々朝食を家で食べることなくわざわざカフェテリアで食べることもあった。

ホテルメープル仕込みのクロワッサンは、良質のバターをたっぷりと練り込んであり、小麦も最高のものを使っていると言われ、サクサクとした食感と香りと甘みがなんともいえず、初めてこのパンを食べたとき感動し病みつきになり、毎日でも食べたいと思った。

だからつくしは、普段社員食堂など利用しない、朝食を食べない副社長にも、そのクロワッサンを食べて貰おうと考え、副社長が最上階で出迎えた西田と話しをしている間に食堂へ走った。そして、予め頼んでおいたパンを受け取り55階へ戻り、コーヒーを淹れ、一緒にデスクへ置いたが、その反応は思った通りだが、流れた沈黙は、戸惑いというよりも、つくしが行った行為が差し出がましいことだということが目に現れていた。

「なんで俺がこのパンを食べなきゃならない?」

司は椅子に背をもたせ、運ばれて来たデスクの上のパンに視線を落とすことなく、立っているつくしを見つめた。

「なんでって、副社長は朝食を召し上がっていらっしゃいませんよね?」

「だから?」

「だからです」

「意味が分かんねぇな。だからってどういう意味かちゃんと説明しろ」

「だから社員の健康管理を言うならご自身の健康について考えられてはどうですか?」

「どういう意味だ?」

「だってそうじゃないですか。朝食を食べない社員の為に食堂は朝食のサービスをしているのに、このビルの最高責任者である副社長が食べないなんておかしいじゃないですか?それに朝食を食べないことで生活習慣病に罹るリスクも高まります」

つくしは秘書として、朝食のことを口にした事が差し出がましいことをしたとは思ってない。
むしろ、秘書として仕える人物が仕事を円滑に進めるために必要なことだと考えたからだ。

ただし、道明寺司に対し集中力に欠ける、記憶力が低下するといった言葉を当てはめることは出来ない。だから生活習慣病といった言葉を用いた。
だがそれがお節介だと言われれば、それはその通りなのだが、突然ひらめいたというのか、思い付いたというのか行動に移していた。

だが突然目の前にパンを出された男は、口の端を歪め硬質な声で言った。

「おまえは医者か?違うだろうが。それなら何にしても余計なことをするな。俺は朝食は食わねぇって決めてる。それに朝はコーヒー以外必要ねぇことはお前も理解してんだろうが。それともアレか?ちょっと美味いコーヒーを淹れることが出来るからって奢ってんじゃねぇのか?」

最後の言葉は嘲るような言い方で、頭の切れ具合は姿かたちに現れると言われるが、引き締まった体躯は食事を抜こうが関係ないといった様子だ。
そして男はカップを手に取り口に運び、腕時計に目を落すと椅子から立ち上った。
時刻は9時5分前。9時から役員会議室での会議が始まる。そのために部屋を出ていくのだろう。

「俺は今までもこうして朝はコーヒーだけだ。一時不味い水を飲まされた時以外はな。いいか?言っとくが余計なことは二度とするな」

再び余計なことをするなと硬い口調で言われ、つくしは口を開かなかった。
何をどう答えても、目の前の男に通じないと分かったからだ。
そして、よく磨かれた革靴と、一流の職人が仕立てたスーツを着た男は、それだけ言うと、つくしの傍を通り過ぎ、彼独特のコロンの匂いを彼女の鼻先に残し部屋を出た。





つくしは、正直あそこまで冷たく言われるとは思いもしなかった。
副社長の秘書になって2週間。誰もが低頭する男の傍にいて慣れたと言えば慣れたのだが、反論を許さない声というのは、ああいった声のことなのだろう。

地の底を這うような低い声であり、誰もが身の縮む思いをする声。
その声に余計なお世話だと言われ、確かにそうかもしれないが、これはちょっとした気遣いのつもりだった。

けれど、実際実行に移すまで何十回も悩み、迷った。だがあの男にしても、もう少し言い方といったものがあるはずだが、冷たい言葉は冷たい心を感じさせ、つくしの心遣いを突き返してきた。

この会話の結論として、つくしが感じたのは、まだ副社長の性格といったものが掴めていないということだ。
だが、秘書になった以上、第一秘書の西田とまでとは言わないが、信頼のおける秘書になろうと努力していた。

そしてひとりになって数十秒。
デスクに置かれたクロワッサンをぼんやりと眺めていたが、自分にはぼんやりとしている時間などないのだと、副社長であるあの男の目に触れることがないよう皿を片付けなければと持ち上げた。

だが副社長の言葉の中に、美味いコーヒーといった言葉が聞け、目の前のカップが空になっていることは嬉しかった。

だが朝食と取らない男へのこの行為は、出過ぎたことだったのかと思い反省した。

「・・でも本当に美味しいのにね・・。このクロワッサン」












「ああ。いたいた。やっぱここか?」

「・・うるせぇな_んだよ?」

舌打ちとも取れる音は、幼馴染みに向けられた言葉。
司は会員制高級クラブのカウンターでウィスキーを飲んでいた。
全く酔わないといってもいい男のグラスは、氷も水も入れられず、そのまま口に運ばれていた。

「なんだって・・お前に用があって電話したらマキノって言う女の秘書が出たぞ?お前女の秘書は嫌いじゃなかったのか?いつだったかクソ不味い色の付いた湯を飲まされた挙句、香水の匂いをそこら中にまき散らすような女が秘書だったことがあっただろ?・・そうだ!お前が帰国してまだ間もない頃の話だ。女の秘書なんて冗談じゃねぇって西田さんを呼び寄せたんだろ?それなのにどうしてまた女の秘書がお前に付いてるんだ?」

美作商事専務の美作あきらは、司の幼馴染みで親友だ。
あきらは、女と付き合うなら原則として人妻以外手を出さないと言われ、情事が一番だと言い、高校生の頃からマダムキラーと呼ばれていた。

そんな男がつい先日司に電話をしたが、会議中だと言われ、電話の相手に司の第二秘書だと名乗られ我が耳を疑った。そしてあの日以来どうして女の秘書が親友に付いたのか知りたいと思っていた。

「おい、理由を教えろよ。なんで女がお前の秘書になってる?」

「なんとなくだ」

「はぁ?なんだよそのなんとなくってのは?」

「気が向いたからだ」

「だからなんだよその気が向いたってのは?」

あきらはバーテンから受け取ったグラスと一緒に、目の前に置かれたナッツを掴み口に入れ隣に座る男を見たが、ピッチの速さは相変わらずで、手にしたグラスの中身は殆どない。
そんな男の受け答えは、完璧に感情を隠した声。そして煙草に火を点け、顔の前に青い煙をたなびかせ始めたが、やがて口に運び白い煙を吐き出した。
そんな仕草も絵になる男は、あきらの問いにやはり表情の欠けた声で答えた。

「ああ。面白そうな女だから秘書にした」

「おいおい。面白そうだからってお前はそんな理由で秘書を決めたのか?」

「ああ。それが悪いか?」

「いや、別に悪いとは言わねぇけど、道明寺司ともあろう男がそんな簡単な理由で秘書を決める、それも女の秘書を自分の傍に置くってことは、相当インパクトがある事件じゃねぇのか?」

あきらは、予想もしなかった答えに驚くと同時に、親友にちょっとした変化が生じたのではないかと考えた。
道明寺司はという男は、笑わない男と世間で言われていることが嘘ではないと知っている。
だがそんな男は、恋愛を求める女にすれば、その冷たさが魅力的に映ることは間違いないのだが、本人は今まで本気で女を好きになったことがない。

それは、どんなに美しいと言われる女でも、一晩か二晩、よく続いて半年といった関係で終わっていることが証明していた。
そんな男が言った面白そうだから女を秘書にした。
その言葉の意味を考えたとき、あきらは親友にも、どうやら遅い春が訪れようとしているのではないかと感じ興味を抱き聞いた。

「で、そのマキノって女。どんな女だ?」

「チビで時々爆発寸前になる女だな」

「爆発寸前?」

「ああ。何に対しても真剣で、真面目な女だが、他人のことを心配する癖がある。そんな女だ」



あきらは司の言葉に今まで感じたことのないニュアンスを感じていた。
何故か急に楽しげに話をし始めた友人は、必死さや感情の波といったものに弄ばれたことがない。そんな男の口元が微かに笑みを浮かべたのを確かに見た。
もう随分と見たことがない男の笑い顔。
あきらにしても、司にしても幼い頃から周りにいたのは、作り笑いをして彼らに媚び諂う人間ばかりだった。
そして、世間に広く名を知られている男達は、容姿や財力抜きで彼ら個人を愛してくれる人間を見つけるのは難しい。だからこそ、あきらも司も本気の恋などしないのだ。
だが、恋におちたことがない男が、もしかすると初めての恋といったものを始めようとしているのではないか。

感情の波に弄ばれたことがない男が言った爆発寸前になる女。
あきらはその言葉の意味から、いったいどんな女が道明寺司の好奇心を掻き立てたのか、知りたくなっていた。




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2017
11.26

金持ちの御曹司~Top Secret~

大人向けのお話です。
著しくイメージを損なう恐れがあります。
未成年者の方、またはそのようなお話が苦手な方はお控え下さい。
********************************










NYから東京までの距離は1万キロと少し。
時差は14時間。
サマータイムなら13時間。
司はNYでのビジネスを終え、東京へ戻るジェットの中にいた。


二人の間を隔てる距離も時間も彼の力なら克服することが出来る。
そうだ。そんなことを気にしていては、恋など出来ないからだ。

民間旅客機は高度1万メートルを飛ぶが、司が乗るプライベートジェットはそれより2~3千メートル高い所を飛ぶ。そこは空の混雑や天候を気にすることのない世界。
そして空気が薄いため、機体にかかる抵抗力が少なくなりスピードが速くなる世界。
だからその分早く目的地へ着く。そしてエアポケットの影響も少なく揺れも少ない。

だが司は、最近最新型のビジネスジェットを購入した。
そのジェットは高度1万メートルよりも5千メートル高い所を飛ぶことができる。
つまり今までのものよりもよりさらに飛行時間が短縮されるということだ。

そうなると、今までよりも早く彼女に会うことが出来るが、司にとってその時間が1分だろうが1時間だろうが彼女に会えない時間の長さは同じだ。
なぜなら、離れていることが問題だからだ。だが今までのジェットよりも飛行時間が短縮されることを喜ばないはずがない。

そしてそのジェットには、フル装備のキッチンやバーは勿論、衛星電話やインターネットも装備されており、地上との連絡に不便はない。そしてジェットはアメリカ空軍の技術と同じものが装備されており、赤外線カメラの視線での飛行が可能であり、濃霧であっても着陸できる。だからどんなに天候が悪かろうが必ず目的地を目指し着陸する。

一般庶民の感覚からすれば、とんでもない値段がするプライベートジェット。
だが司には値段など関係ない。
何故なら、司は道明寺財閥の御曹司であり金は唸るほどあるのだから。
それに、愛しい人に一秒でも早く会えるなら金など惜しくない。

そして、そんな男の乗るジェットには、女の客室乗務員はいない。
それは女に近くをうろうろされるのが嫌いだからだ。
だが愛しい人が客室乗務員ならまた話しは別だ。
しかし客室乗務員になるためには、訓練が必要となる。

もし、牧野つくしが客室乗務員として航空機で働くことを望むなら、是非自分の所有するジェットで働かせたい。
いや、他のジェットでなど働かせるものか。

だがその為には、保安要員としての厳しい訓練を受ける必要がある。

司はそんなことを思いながら、快適な空の旅の中、心地よい眠りに落ちていた。











羽田にある道明寺HDの子会社であり、日本を代表する航空会社である道明寺エアライン株式会社。
その会社は、最上のおもてなしと安全を提供する世界でもトップクラスの航空会社だ。
そして、毎年行われる世界の航空会社格付けランキングでは必ず上位3位までに入るのだが、今年は惜しくも4位だった。ちなみに1位は中東の航空会社だが、来年は必ず1位を奪取してやると社長は息巻いていた。


そんな会社の客室教育・訓練センターにひとりの女性がいた。
彼女の名前は牧野つくし。
難関と言われる試験を見事に突破し、念願が叶っての入社となった。


そしてそこに、顔に似合うのか似合わないのか分からないが、サディストと言われる教官がいた。


「牧野つくし!どうしてこんな簡単なことが覚えられない!せっかくお前に目をかけてやったのに、どうしてそれを無駄にする?」

つくしは、普段から教官である男から熱心な指導を受けていた。
そして客室乗務員としての厳しい訓練も残りわずかとなり、彼女は最終試験に臨み、合格するものだと思っていた。だが結果は不合格となった。


「ああっ!教官止めて下さい!」

客室乗務員の訓練生の制服を着た女が、ブラウスの前のボタンを外され、スカートは脱がされていた。
ブラウスの下はブラジャー、下半身はパンティと黒いハイヒールだけ。
そして、手錠をされた両手首は、背の高い磔台から垂れた鎖に繋がれ、やっと足が床に着く状態にされていた。

「止めることは出来ねぇな。何しろお前は俺が覚えろといったことを覚えてなかった。俺のお前に対する努力を無駄にした。だからお前はこれからお仕置きを受けるんだ」

訓練センターの地下には誰も知らない部屋がある。
その部屋の鍵を持つ男は教官である道明寺司。
彼は道明寺HDの御曹司であり、この訓練センターの教官を務めていた。
そこで教え子の中のひとりの女性に好意を持った。そして彼女を手に入れるため、わざと試験を落第させ、彼女を再教育だと言って呼び出した。

「牧野・・お前は俺の期待を裏切って不合格となった。だから罰を与える」

司はおもしろそうな声で言って、ブラウスを引き裂き、ブラジャーを引き千切り、パンティもむしり取った。そして全裸に黒のハイヒール姿にさせた。

「いやぁぁぁっ!教官!お願いです!止めて下さい!」

「ダメだ。牧野つくし。お前は478期生の中でも一番ダメな生徒だ。お前はドジでのろまな亀だ。だから俺がお前を別のやり方で一人前の立派な客室乗務員にしてやる!」

「・・いや・・止めて・・教官!止めて下さい!道明寺教官!」

「言ったろ?止めることは出来ねぇってな。何しろ一度決めたことは最後までやり通すのが俺のポリシーだ」

司の目の前にあるのは、色白で細やかな肌。
そして彼の手には乗馬用の鞭が握られ、裸になった白い肌の上を撫でるように滑った。
顎の先に触れると、首から肩へと下り、既に硬くなった胸の頂きに軽く触れ、そして腹の上を過ぎ、しっかりと閉じられていた太腿の上で止った。

「お前はこれから俺が教育をしてやる。だから脚を開け」

無理矢理捻じ込まれるようにして入れられた鞭の先。
それがゆっくりと股の付け根を前へ後ろへと擦ってゆく。

「あっ!あああっ!!止めて・・止めて下さい・・教官!」
「どうした?怖いのか?」

司の低い含み笑いが聞えた。

「いいか?牧野。何も怖がることはねぇぞ?俺がお前を調教してやる。楽しませてやる。まずは・・そうだな、ウォーミングアップってところからいくか?」

司のよこしまな手は、脚の間から鞭を抜くと、つくしに後ろを向かせ、彼女の尻にゆっくりと鞭を使い始めた。

ピシッ・・ピシッ・・

「ああっ!・・・やっ・・ああっ!」

「なんだ。鞭の先をこんなに濡らしやがって。お前止めてくれって言う割りには感じてたってわけか」

司は女の股の間で擦られた鞭の先が濡れ、革が色を変えていることに低く笑ったが、尻を打つ鞭を止めることはない。

「ああっ!・・ああっ!・・ああっ!」

「痛いか牧野?痛いんだろ?痛いっていえよ?そうでもないのか?そうか。お前はもっと強く打たれたいのか?・・いいだろう。お前が痛いっていうまで叩いてやる。俺はその世界では鞭使いの名人と言われた男だ。存分に楽しませてやる」

初めは手加減していた司の手も、やがて自身が興奮したのかリズムが変わり、激しく音がするように打ちつけ始めた。

バシッ・・バシッ・・

「あっ!あっ!止めて・・お願いっ!・・教官!道明寺教官お願い止めて!」

つくしは、ぶら下がるような形の身体に鞭を振るわれ、焼け付くような痛みを感じた。

「この鞭はな、俺の持ってる競走馬に使ってた鞭だ。今季限りで引退する馬だがな。いい馬だった。ツカサブラックって名前だが今日もこれから東京競馬場で走る。お前の調教が終ったら見に行く予定だ。そうだ。牧野。お前も連れてってやる。それにな、その馬の女の名前はツクシハニーって言ってな。お前と同じ名前だ。偶然だと思うか?いや違う。俺はお前をイメージしてその馬に名前を付けた。その馬も小股の切れ上がったいい女でな。ツカサブラックは種牡馬入りするがその牝馬以外とはヤリたがんねぇはずだ。まあ俺としては別にそれでいいと思ってる。何しろあいつら今まで我慢してたんだから、ヤリたいだけヤレばいい。それが馬主の愛情ってモンだ」

鞭はさらに激しくつくしの尻に振り下ろされた。

「ああっつ!」

「話が逸れちまったけど俺はお前を卒業させたくない。だけど大空を羽ばたきたいというお前の夢は叶えてやりたい。けどな。俺はお前が男の前でサービスをする姿は許せねぇ。だから俺がお前の夢は叶えてやる。いいか?再試験はない。俺専属の乗務員として俺のジェットに搭乗しろ。俺だけにサービスしろ。嫌か?けどな。嫌とは言わせねぇ」

その声はひとりの女を思うあまり、狂気に走った男の声。

「それにしても俺の印がお前の身体に付くのは最高だな。お前が苦痛に身をよじる姿を見るのは最高だ」

「ああっ!道明寺教官っ!止めて!」

ひと打ちごとに、赤味が増していく肌に司は己が興奮していくのが感じられた。
それは、今まで他の女とでは経験したことがなかった快感。
司はさらに激しく鞭を打ち下ろした。

「お願い!止めて!道明寺・・」

あまりの痛みなのか、女はついに男を呼び捨てにしたが、そんな男は、つくしを繋いでいた鎖を外し、手錠を外し、履いていたヒールを脱がせ、ベッドへ横たえ教官の制服をバサバサと脱ぎ捨てた。

そこに見えるのは、見事に割れた腹筋を持つセクシーな男の身体。
その身体でつくしの上へのしかかり、彼女の脚を大きく開かせると、秘口の濡れ具合を確かめるため、指を深く潜らせ内側の壁をなぞった。

「すげぇ濡れてる。・・こんなに濡らしやがって、お前は俺に鞭で打たれて感じたってことか?それにまだ溢れて来てるじゃねぇかよ」

男に鞭で打たれ、ぐったりとした女は口を開くことが出来ず、ハアハアと肩で息をしていた。
そして、つくしの下半身は、司の言葉通り、しとどに濡れていた。

「そうか。お前は俺に苛められるのが好きか?」

司はそう言ってククッと低く笑い、彼女の唇にキスをした。

「じゃあもっとこれからお前を苛めてやるよ」

既に膨れ上がった自身を女の秘口に当て、何も言わずいきなり全てを押し込んだが、微かな抵抗を感じ、女の口から漏れる悲鳴に自分が初めての男だと感じ歓びを感じた。そして女に痛みに取って代わる快感を得させようと繰り返し身体を動かし始めた。

「牧野っ、俺はお前のことが好きだ!絶対に離さねぇからな!こうやって・・お前を・・ベッドに・・一生縫い付けてやる!」

ひと言ごとに、ぐいっと腰を突き出し、速く、深く、激しく時間をかけ突き上げる行為を繰り返し、エロテックな水音を響かせながら二人の身体が繋がった部分に手を伸ばした。
そして黒いカールの奥にある突起を擦り上げながら腰を使い、硬く尖った肉棒を一番奥まで突き入れ、司の下で声を上げる女を責め続けた。

「ああっ!・・あ・・あ・・ああっ・・はっあっ!」

「なあ、俺に満たして欲しいんだろ?ん?どうした?もっと激しいのがいいのか?」

貫いて、愛撫して、キスをして、弱まることのない欲望に女の脚の間で腰を振った。
喘ぐばかりで何も言わない女に、一瞬だけ動きを止め聞いたが、自身が締め付けられることで返事を得たとばかりに、もう一度女の腰を引きよせ、女の全てを自分のものにし、誰にも渡さないように印を付けるため、さらに激しく腰を振り容赦なく責め立てる。

「ああっ!・・ああっ・・んっあっ! 」

そして身体を前に倒し、華奢な脚を今以上大きく開き、胸につくほど折り曲げさせ、片方の胸の先端に舌を走らせ、もう片方にも同じことをした。そしてその先端を強く噛んだ。

「ああっ!」

高い叫び声が上がり、その声に男の唇は先端を咥え、きつく吸っては再び噛み、舌先で舐めを繰り返しながら、指でもう片方の先端を摘まみ、転がし、潰した。
そうする度に上がる高い声を抑えるように、暴力的といっていいほど激しく口づけし、その唇を噛んだ。そして耳元で囁いた。

「欲しいか?・・俺が欲しいんだろ?欲しいって言え。俺はお前が欲しくて仕方がなかった!授業の間もいつもお前ばかり見ていた。だからお前を離したくねぇ・・いや離さねぇ!俺はお前と永遠にこうしていたい」

そうだ。初めて会った時から彼女のことが欲しかった。
教官と生徒というよりも、女として牧野つくしを見ていた。

そして司は誰よりも優秀であり、誰よりも金持ちだ。
もし女が逃げたとしたら、どんな手を使ってでも見つけ出し、この腕の中に取り戻せるだけの力がある。
そして今まで考えもしなかったが、本当に欲しいと思ったものへの所有欲は人一倍あると気付く。だから牧野つくしを手放すことなど絶対に出来ない。その代わり、全てを彼女に与えてやる。

「いけよ。快感を味わえ。この身体はお前のものだ。お前に与える為にある身体だ。だからお前の身体も俺にくれ・・それからその心もだ」

その言葉に彼女の身体が彼を締め付け、収縮すると、司は一層激しく腰を振り、部屋の中に身体と身体がぶつかり合うエロティックな音が大きく響く。たくましい男根が何度も激しく女の中に突き入れられ、凶暴とも言える激しさで女の全てを奪う。
そして絶頂を迎えた女の声を聞いて、司は歯を食いしばりながら一線を越えた。

「・・ぃ・・クッソッ・・・俺はお前が好きだ!お前は一生俺の傍にいろ!俺が一生お前を大切にしてやる・・絶対不幸にはしねぇ。・・だからずっと俺の傍にいてくれ!俺はお前を愛してる!」

その瞬間頭が白くスパークする。
強烈な快感が腰から背中に抜け、脳内に届く。
共に絶頂に達し、全てを彼女の中に放ち、暫く深く突き入れたものを抜くことをしなかった。そして唇に、頬に、額に口づけをした。
















「・・・司様?司様?間もなく着陸します」

司は西田の声で目が覚めた。

「東京か?」

「はい。あと15分です」

司が目を向けた窓の外は眩しい光りが降り注いでいた。
遠く1万キロの彼方から巨大なビジネスを動かす男が目指したのは極東の小さな国。
世界から見れば資源のない小さな島国だが、その島国は、世界でも稀に見る経済発展を遂げた国でもある。
そして、青い水平線の向うにあるのが、そんな小さな島国であったとしても、そこに愛しい人がいるなら、そこは司にとってのパラダイスだ。


司が見た今日の夢は、今までにないほど激しい夢だったが、少年の頃、彼女が欲しくて追いかけていた頃の自分に似ていた。
しかし随分と極悪な夢を見たものだと笑った。
彼女を鞭で打つなどもっての外であり、彼女の身体を傷つけるくらいなら、自分の身体が傷ついた方がいい。
いやだからと言って司が鞭で打たれるのが好きかと言えば、それは多分違う。
それに、どちらかと言えば、打たれるより打つ方が好きなはずだ。と笑ったが、それなら今見た夢は、潜在意識のなせる業だったのかもしれない。



若いころ、心があてどなく彷徨い虚ろな思いを抱えていた。
だがそんな思いを愛に変えてくれた人がいた。
その人に出会ってから人生がスタートした。
迷いのない大きな瞳が彼を導き、彼の心に人を愛する炎を灯した。
だがその炎は彼女だけに捧げる炎であって他の女の傍で燃えることは決してない。

だから今、彼は自身の燃える思いを彼女に届けたい。
それも今すぐに。
あんな夢を見たばかりに、彼女が欲しくて身体が燃えていた。

「司様。間もなく着陸いたしますのでベルトをお締め下さい」

「ああ。わかった」

客室乗務員の声に、司はもしこの男が牧野つくしだったら、とあらぬ思いを描いていた。
それは機内でのサービスの色々だ。
そんなことを考えれば顔に出たのだろうか。秘書の西田がひと言言った。

「牧野様がお迎えにお見えになられているそうです」と。

「そうか。わかった」

司はまさか今日彼女が来ているとは思わなかった。
だが、嬉しかった。彼女が来ていると聞いた瞬間、吹くはずのない風が吹いたような気がした。そしてそれは時計の針がNYから東京の時間へと変わった瞬間だ。

離れていた時間がどんなに短い時間だったとしても日は巡り、季節は巡る。
だがそんな巡る季節も彼女がいなければ意味がない。
そして時はいつも彼女と共にあるから、司はいつも彼女の傍にいたい。
何故なら彼女がいない世界は、時間の流れが信じられないほど遅く楽しくないから。
だが彼女に会った途端、遅いと感じられていた時間は一気に加速して、ときめきの世界へと動きだす。


そしてその世界はタラップを降りればすぐそこにある。


「道明寺!お帰り!」


と言って駆けて来る人の腕の中に。

そして「ただいま。牧野」と司は愛しい人を抱きしめた。



ただし、あんな夢を見たことは、絶対に秘密だ。






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2017
11.25

恋におちる確率 13

色付き窓ガラスのリムジンは、マンションのエントランス前でエンジンがかけられた状態で待っていた。運転手はいつもの男で、司が近づくと後部ドアのハンドルに手をかけ「おはようございます。副社長」と言ってドアを開けた。

いつもと同じ運転手に、いつもと同じ車。
シートの革の柔らかさもいつもと同じで座り心地は完璧。車内の温度も快適。
だが違うのは反対側のドアを自ら開け乗り込んだ西田ではない新人秘書、牧野つくし。
肩口で切りそろえた黒い髪と、黒い大きな瞳と、時に息巻いて鼻をふくらませて話すことがある女は豊かな表情を持っていた。

それは言葉を変えれば、感情が漏れやすいということだ。
そしてそんな女は、中途半端なところで背伸びして自分をよく見せようとるす女ではなく、どこか生真面目なところがあり、どこにでもいる平凡な女だ。そして司の周りにはいなかったタイプの女だ。


司は長い脚を動かし、ゆったりとした姿勢で背中を座席にもたせかけ、コンソールに肘をついた。そして向かいの席に座った女がタブレット端末を取り出し、「では本日の予定を読み上げます」とスケジュールを読み上げる様子をじっと見ていた。

女は新しいスーツを着て見栄えのする小さな靴を履いているが、明らかに昨日着ていたものと違う。そしてそれが、西田が言った副社長の秘書としての身だしなみの結果だということはわかった。

だが司にしてみれば、副社長の秘書として相応しい身だしなみといったものに興味はない。
しかし、生地が違う、裁断が違う、縫製が違う。高級ブランドには、確かにそういった違いがあり、いくら形を真似ようとしても、見る者が見ればその違いを見抜くことが出来る。

そして、司の周りには目が肥えた人間が多く、彼自身も最高の物を常とするのが当たり前の人間であり、どんなものでも本物か偽物かを見分けることが出来るが、それは人間に対しても同じだ。


かつて司の周りにたむろしていた人間は、道明寺という巨大財閥の金に群がるハイエナのような存在であり、彼自身をひとりの人間として見てくれる人物は誰ひとりとしていなかった。
それは女も同じであり、本当の彼を見ているといった女はどこにもいなかった。

そして、女を社内の何かに例えるなら、消耗品だと考えていた。
しかしたった今、同じ車に乗り込んだ女は消耗品とは思えなかった。
例えるなら備品といったところだろう。

一度使用すれば終わるのが消耗品だが、長い間そこにあるものが備品だ。
そしてそれは、どんな扱いにも耐えるように作られているが、牧野つくしは耐えることが得意といった風に見えた。

例えばデスクや椅子といったものが備品として該当するが、仮に彼女が椅子だとしよう。
司の身体にはサイズの合わない小さな椅子。
それがうるさく喋るのを想像したとき、何故か奇妙な笑いを誘っていた。
きっとその椅子はこう言うはずだ。






「ちょっと!勝手にあたしの上に座らないでよ!もうッ・・重いのよ!早くどいてよ!」

女にあたしの上から早くどいてくれと言われたことはない。

「もう!止めてよ!いつまで座ってるのよ!早く降りてよ!潰れちゃうじゃない!」

それに女にもっと続けて、お願い。と喘ぎながら言われたことはあるが、止めてよと言われたことは一度もない。
だがそんな女たちは消耗品であり、本当の意味で深く付き合ったことはなく、別れるときは落ち着いた有無を言わせぬ口調で告げていた。

司は、画面を見ながら話す女が椅子になった姿に笑いが込み上げたが、気付かれないように口の端を小さく歪めていた。

「以上が本日の予定となっております」

端末から顔を上げた女は司を見た。

「副社長?聞いていらっしゃいますか?」

そして訝しげな顔で再び聞いた。

「ああ。聞いてる。9時から経営戦略会議。昼は菱信興産社長との会食。15時からバルテン社のPMIについての会議か?お前はこの件についてどう思う?」

司は、牧野つくしは仕事が出来ると聞いた以上、自分の話について来る事ができるのか知りたい思いがあった。だから彼女が話した予定の中に語られなかった言葉を使い聞いた。
それはPMIという言葉だ。

道明寺HDは最近ひとつの会社を買収したが、買収後の両社の統合プロセスのことをPMI(Post Merger Integration)と言うが、統合がうまくいかなかった場合、買収したがそれにより期待されていた効果を得ることが出来ず、業績が悪くなる場合もある。だからPMIというのは買収の成否を決める重要なプロセスだが、司の秘書として働く以上ビジネスに関する言葉を全く何も知らない、興味がないということでは困る。だからといって全てを知っていろというのではなく、会話として成り立つかどうかが知りたかった。

「M&A(買収)後の統合作業ですね?バルテン社はドイツの電気機器メーカーです。ドイツ企業でしたら企業文化が違ったとしても、勤勉な国民性は日本人と同じですから、従業員意識や管理体制の組織統合が難しいとは思えません。戦略も道明寺と似ていると思いますので大きな問題が起こるとは思えません」

どうやら牧野つくしは、食品事業部でコーヒーの淹れ方だけを学んでいたわけではないようだと、司はその答えに片眉を上げた。
そして、負けるもんですか!と気合いを入れていた女が、まだ何か?といった様子で司を見たが、早いうちに言っていた方がいいだろうと口を開いた。


「牧野。お前の尻。人に見せて歩く趣味がねぇんなら何とかした方がいいんじゃねぇのか?」

言われた女は腰を浮かせ、慌てて後ろに手をやると、スカートのファスナーを引き上げた。
自宅マンションを出た時から開いていたが気が付かなかったのだ。それは時計の針が進んでいた事とは別の恥ずかしい失敗だ。そして見られていたのだ。副社長であるこの男に。

そしてこの男のマンションまでどうやって来たか思い返した。秘書の分際で自宅までリムジンが迎えに来るはずもなく、ひとりでここまで来た。だがそれ以前に住まいの近くにそんな車が入るような道もなく、電車と地下鉄に乗った。そして歩いてマンションまで行ったが、11月上旬のこの日は暖かくコートも着ていない。途端、顔に血が駆けのぼった。

「いやな。お前の趣味かと思って言わなかったんだが、やっぱり言わなかった方がよかったか?」

司の前にいたのは、真っ赤な顔で、どこに下着を見せて歩く趣味の女がいるのよ!と今にも叫びそうな女。
そして、もしこれ以上何か言うつもりなら殴るわよ、といった空気が感じられたが、司は気にしなかった。

「それにしてもベージュのスリップか?俺を誘うつもりならもう少し色気のある色にした方がいいんじゃねぇの?赤や黒のセクシーなやつ。なんなら俺が買ってやろうか?」











強い意思と正義感。
それが、社会の中で役に立つかと言われれば、はい、と答えるのが牧野つくし。
そんな彼女がインフラ事業部の太田のミスに付き合った結果、秘書課への異動へと繋がった。

今では、副社長をマンションまで迎えに行き一日の予定を伝え、出社するとコーヒーを淹れることが仕事の中でのルーティンとなり、二週間が過ぎたが、いつもコーヒーカップが空になっていることが嬉しくて、コーヒー三課にいた人間としての面目躍如といった思いがしていた。そしてカップに頬ずりしたくなっていた。

そして、今日も副社長が9時からの新規事業立ち上げの会議に出席する前、コーヒーを彼の元へ運び、デスクの上に置き、頭を下げ早々に部屋を後にしたが、あの日以来、家を出る前には必ずスカートの後ろを確認することにしていた。

そしてあの日のスリップの色がどうの、といった発言は、先輩秘書が言った
『秘書になるということは、上司の癖を知ることも必要なの』の言葉に、副社長のああいった発言は癖なのだという結論に持っていくことにした。




しかし、ひとつ気になることがある。この二週間、自宅マンションに迎えに行き、玄関先で待つのだが、朝食を食べた様子がないことだ。だが男の独り暮らしについては、弟の進の生活態度からも知っている。進は、朝はコーヒーだけの生活を送っていたからだ。

朝、お腹に何か入れなければ仕事にならないわよ?と言ったことがあったが、「姉貴は俺の心配より自分の彼氏の心配でもしろよ」と笑われたが、彼氏がいない姉に向かってのその態度に「うるさいわね!ほっといてよ!」と言葉を返すしか出来なかった。

思い切って副社長に朝食は取られているのですか?と聞いてみようかと思ったが、自己管理が出来るいい大人を相手に余計なお世話だと言われることが目に見えているようで、聞くのが躊躇われた。

それに秘書の仕事はビジネスの補佐であり、身の回りの補佐ではないからだ。
だがそれでも、先輩秘書である野上の言葉にあったように、やはりそこはそう簡単に割り切れるものではないと納得した自分がいた。それに室長の西田にもある程度秘書が補佐する必要があると言われたはずだ。だから、二人の先輩秘書の言葉を総合的に判断すれば、やはり女性秘書としての気遣いを見せるべきではないだろうか。と、思いながらも朝食の件は本人に聞く事はしなかった。





副社長が第一秘書の西田と会議に入れば、つくしは秘書室で仕事をしているのだが、副社長宛の電話の対応や、各部署から承認を求めるため届けられる書類の整理、また郵便物や届けられる荷物といったものを確認する作業に追われていたが、新人秘書であるつくしは、目立たずひっそりと、だがわき目もふらず仕事をしていた。

そんなある日、専務秘書の野上から聞かれた。

「牧野さん?どう?慣れてきた?」

「はい。おかげさまでなんとか少しずつ」

と、答えたが、つくしは気になっていたことを野上に聞いてみた。

「あの。野上さんは副社長が朝食を召し上がっていらっしゃるかどうかご存知ですか?」

本来なら西田に聞けばいいのだが、何故か野上に聞いていた。

「ええ。知っているわ。秘書課の人間なら誰でもね。副社長は朝食をお召し上がりにはならないわ。朝召し上がるのは執務室で飲むコーヒーだけよ。だから朝のコーヒーは重要なの。今までは西田室長が淹れていたわ。でも今はあなた。秘書室のみんなは美味しいコーヒーを淹れる人が副社長の秘書になってくれたことを本当に喜んでいるのよ?何しろ西田室長がNYからいらっしゃるまでは、コーヒーじゃなくて色水だったんですもの。短い間だったけどね?その頃の副社長のご機嫌はいつも悪かったわ」

それは、女を前面に出すような人だと言われて短期間で異動になった以前の女性秘書のことだ。

「その人はね、コーヒーよりも自分が放つ匂いの方が気になるような人だったから」

そう言えば、とつくしは思い返した。
副社長は、つくしが初めて彼に淹れたコーヒーの香りを、ワインをテイスティングするように確かめた仕草があった。そして唇にやっとわかるほどの微かな笑みを浮かべていた。




つくしは、翌日コーヒーと一緒にクロワッサンをひとつデスクへ運んだ。

それを見た副社長がなんと言うかなど気にせずに。





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2017
11.23

恋におちる確率 12

「秘書になるということは、上司の癖を知ることも必要なの」

と、教えてくれた専務秘書の野上は専務付になって10年が経つという。

「牧野さん、長く仕えればそれだけ相手のことが理解出来るのは当然なの。
だからあなたもこれから副社長の傍にいれば、色々と分るようになってくると思うわ。
今日は朝一番のコーヒーに合格点が貰えたようだし、これから先が楽しみね?」

そう言われた初日。
副社長の秘書としてあなたにもっと合う洋服を揃えましょうと言われ、銀座のとある有名ブティックへと連れて行かれた。
決してつくしが着ている洋服が悪いというのではない。ただ、まだ若いのだから、その若さを生かし、もう少し色を加えることと、もっと仕立てのいいものにしましょうと言われ、その店で一番いいと言われるスーツを何着が買い入れた。

企業トップの秘書でいるということは、あなたもそれに近い立場でいるということよ。
だから身だしなみには人一倍気を遣わなければならないの。一流の人間の傍にいる人間は、一流のものを身に付けておく必要があるの。
先輩秘書から語られる言葉は、全てに重みがあり従わざるを得ない雰囲気にさせられ、気付けば思い悩む暇などなく物事が進んでいた。

そして費用は副社長が出すのだから気にしなくていいと言われ、あの男の指示なのだと知り、複雑な思いと共に正直ホッとしていた。
何故なら、世界的に名の知れた店のスーツの値段など知るのが恐ろしいからだ。
それに、そんなものを何着分も支払えと言われれば、まちがいなく貯金を切り崩さなければならないからだ。

そして、朝の迎えの事を話したとき、秘書としての仕事は、仕える相手が効率よく仕事が出来るようにすることであり、身の回りを補佐することではないと言われても、やはりそこはそう簡単に割り切れるものではないと言われた。
それは秘書室長である西田にも言われた話しだが、つくしもやはりそういうものなのかと再び納得した。

だからつくしは、こうして西田室長から教えられた通りの手順で、副社長である道明寺司の住む都内では最高級と呼ばれる高層マンションのペントハウスの扉の前に立つのだが、何度チャイムを鳴らしても返事がない。

室長の西田から、寝起きが悪いですので簡単に扉が開くことはありませんと言われていたが、まさか中で倒れているのではないか。
そんな思いが頭を過り、どうしたらいいものかと考えたが警察沙汰に出来るはずもなく、ひたすらチャイムを鳴らすしかないと結論付け、何度も押してみる。
と、同時に教えられている副社長の携帯電話へと電話をするが、呼び出し音がするだけで出る気配はない。

だが諦めるわけにはいかない。
それにお迎え初日だというのに、遅れるわけにはいかない。
それなのに副社長であるあの男は新人秘書に協力しようという気はないのだろうか?

室長は、何事にも初めがあるものです。大丈夫です。あなたならひとりでお迎えに行けますと言われたのは、銀座から戻り一日の業務が終る頃だった。そして、初日でお疲れでしょうからもう帰って頂いて結構ですからと言われ、早々に55階をあとにした。
そしてビルの外で大きく息を吐いた。だからその後の副社長の動向は知らない。
そして昨日は初日の疲れからいつもより早くベッドに入った。

確かに朝の迎えは、ただ迎えに行き、当日のスケジュールを伝えるだけだ。
だが車という密室の中で2人っきりになることになることに不安を覚えた。
何故なら、秘書になる前、執務室でセクハラ発言があったからだ。だがきっとこれからは、部下として敬意を払って接してくれるはずだと思い、あの時のことは、何かの間違いだと自身の中で不問に付すことに決めた。

そしてあの時のことがきっかけで副社長の秘書という大役を仰せつかり、こうして与えられた仕事をこなすべく、部屋の前でチャイムを鳴らしていた。だが、もう何回目のチャイムを押したのか分らなくなっていたが、内側から音がしてやっと扉が開かれた。




「道明寺副社長おはようございます。お迎えに_」

「・・・ったく朝からうるせぇな・・何度もしつこく鳴らしやがって」

と言って舌打ちと共に出て来た男は、長身な身体にバスローブ姿で髪は濡れていた。
そしてウエストに緩く撒かれたベルトは、指をかければ簡単に解けそうに垂れさがっていた。

ピンで留められた訳ではないのだが、つくしの足は床に貼りついたようになり動かなかった。そして視線は目の前に見える開けた胸に惹き付けられた。
男は、スーツを着た見た目がモデル以上だと言われていたが、背が高いからといって長身痩躯ではなく、ローブから覗く上半身は見事な逆三角形であり、筋肉がつき、鍛えられているのが分る。

ゴージャスでセクシー。
モデル以上の美貌。
抱かれたい男ナンバーワン。

道明寺司につけられたいくつもの常套句がつくしの頭の中を過る。

まさに今ここにいる男は、神によって命が吹き込まれた大理石の彫刻のような身体をしていた。
それにしても、いったいどうやってその完璧な身体を維持しているのか?
忙しいと言われる男だがスポーツジムにでも通っているのか?
いやそれよりも何故今この恰好でいるのか?
濡れた髪からしてシャワーを浴びたことは分かるが、出勤前の忙しい時間に呑気にシャワーを浴びている時間などないはずだ。
それでも考えられる理由がひとつある。
それは奥の部屋には女性がいるということだ。つまり一夜を明かした誰かがいて、朝しかシャワーを浴びる時間がなかったということだ。

だとすれば、もし裸の女性が目の前に現れたら秘書としてどうしたらいいのか。
見て見ぬふりをするのは当然だが、それより他に対処の仕方など知らない。
こんなことなら、副社長の部屋に女性がいた場合どういった対応を取ればいいのかと西田室長に確認すべきだったのかもしれない。


「・・まあいい。入れ。これから支度するところだったんだ。中で待ってろ」

だが女秘書が動かないことに男の声は不機嫌になる。

「牧野つくし!何してる!ボケっと突っ立てねぇでさっさと入れ!」

「は、はい!」

その身体に見惚れていた訳ではないが、考え事をしていたつくしの頭の上に怒声が降っていた。




男の後について歩いた長い廊下の先にある部屋は、見渡すほど広く、副社長室と同じ黒を基調に整えられており、重厚な黒い革張りのソファ、その前にはガラスのテーブルが置かれ、落ち着いた雰囲気があった。
そして、そこに座れと言われ腰かけたが、裸にバスローブ姿で立つ男を前に、落ち着けるはずがない。
何故なら、目の前で腕組みする男の顔は険悪で、つくしのことを恨みに満ちた目で見ているからだ。だがそんな目で見られる意味が分からない。

「ったく、なんでいつもより迎えが早い?」

「は?」

「だからなんでいつもより迎えの時間が早いって聞いてんだ!」

「いえ。いつもと同じ時間ですが?」

「・・・おまえの時計はどこの国を基準にしてる?」

「いったいどういう意味_」

と言いかけたつくしは、自分の腕時計の時刻が30分早いままになっていたことに気付いた。そして身体から血の気が引いて行くのが感じられた。
そうだ。遅れる訳にはいかないと、昨夜就寝前に時計を早めたのだが、それをすっかり忘れていた。

「申し訳ございません!腕時計の時間を早めにしていたのを戻すのを忘れていました・・」

と、つくしは立ち上って頭を下げたが、見えた男の足元に目が行き、身体の作りが完璧と言われる男は、足の爪の形さえ美しいことに気付く。
そして、その爪先から徐々に視線を上げたが、目が合った途端、きつく結ばれていた男の口元が緩んだような気がしたが、それはつくしがジロジロと見ていたことに気付いたからだ。

「まあいい。今日は初日だから許してやる。ところでお前はさっきから俺の身体をジロジロと見てるが、俺がこの恰好でいる理由はわかるよな?お前がいつもの時間よりも早く来過ぎたんだ。だからお前に何やってんだって目で見られる理由はねぇからな」

「・・はい」

と小さく答えた。

秘書は謙虚に礼儀正しく、仕える人間に忠誠を誓うではないが控えめな態度が求められることは十分理解している。だが決して奴隷ではない。だから言いたいことは言わせてもらうつもりだが、こんな単純な失敗をしているようでは、言いたいことがあったとしても言えそうにない。

「時間に遅れるよりはマシだが、あんまり早く迎えに来られても困る。俺は毎朝この時間にはシャワーを浴びてる。まあ、お前が俺と一緒にシャワーを浴びるってならこの時間に来ることは間違ってねぇけどな」

執務室でのセクハラ発言に続きこの発言。
つくしは副社長の性格が分かったような気がした。この男は絶対に女を甘く見ている。
いやそうではない。女性の秘書が嫌いだという噂は否定されたが、西田室長が自分の補佐として選んだつくしが気に入らないのかもしれない。何しろ人の印象を左右するという第一印象が悪かったのだから。だがもし気に入らないとしても、大人としての対応で乗り切ってみせる。そしていつかお前の淹れたコーヒーは美味いと言わせてみせる。









それから15分後、本来の迎えの時間。
司はネクタイを締め、上着を着ると、腕に時計を嵌めた。
今日から牧野つくしが朝の迎えに来ると分っていたが、まさかいつもよりも早い時間に来るとは思いもしなかった。
そして、うるさく鳴るチャイムにわざとゆっくり出た。
それも裸にバスローブ姿で。
だがその前はバスタオルを腰に巻いただけの姿で出てやろうかと思いもしたが、あまりにも刺激が強いだろうということで止めた。

扉が開かれた先にバスローブ姿の男を見た大きな瞳は、睫毛を瞬かせ、そしてあ然とした表情を浮かべていた。それから何を考えているのか知らないが、思考がくるくると目まぐるしく変わる様子が見て取れた。
思わず一緒にシャワーを浴びるかといった発言をしたが、その時の牧野つくしの表情は、
バカなこと言わないで下さい、と言わんばかりの険しい顔をしたが、その顔は真っ赤になっていた。
そして今は、玄関でかしこまった姿勢で主を待つ犬のようにおとなしくしているが、いちいち大袈裟な反応を繰り返す姿にからかい甲斐を感じ、これまで経験したことがないほど気分が高揚した。それは実利主義と言われる男が感じた初めての気持ちだ。

「それじゃあ行こうか。新人秘書。牧野つくし」

司がそう声をかけると、後ろをついて来る女は、負けるものですか!といった空気でヒールの音を響かせていた。





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2017
11.22

恋におちる確率 11

食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課にいたつくし。
コーヒーの淹れ方には自信があった。それはコーヒー豆の輸入業務に携わっていた関係もあり、ペーパードリップの場合どんな淹れ方をすれば豆の旨さが引き出せるのかといったことを学んでいた。

よく言われるのは、湯の注ぎ方だが、確かにそれは大切だ。
湯を慎重に「のの字」を書くように注ぐことは有名だが、予定の抽出量に達したら、フィルターの中にある粉が窪み、湯が全て落ちる前、雑味が落ちないうちに、すぐにドリッパーを下ろすことも重要だ。そしてコーヒーは生鮮食品であり、香り高いコーヒーを最後まで楽しむなら保存方法も重要だ。

だがさすが副社長秘書ともなれば、完璧な淹れ方をマスターしていて当然だった。
西田室長の淹れ方は丁寧でありながら、無駄な動きがなく、まるで茶道の作法のような切れがあった。

「牧野さん。副社長にお出しするコーヒーのお湯の温度は90度でお願いいたします。蒸らしは30秒。そして飲まれる時は70度に落ち着くようにお出し下さい」

「わかりました。お湯が沸騰しましたら30秒ほど待てばよろしいですね?」

温度の指定があるのは、お湯の温度で香味が変わるからだ。
湯は沸騰して20秒から30秒置けば96度から90度に下がる。そして温度が高いと苦みが強く味が重めになるが、副社長の好むブルーマウンテンは、調和のとれた優しい酸味と甘みが特徴と言われるコーヒーであり、そのコーヒーに合う湯の温度は90度が適正だと言われており、どうやら副社長の好みは王道を行くようだ。

「牧野さん。あなたはコーヒー三課で色々なコーヒーについて学ばれたようですが、わたしの話を一度で理解出来ることは流石です。それからご存知かと思いますが1分以内にお出しするようにして下さい」

コーヒーは温めたカップに淹れられたとしても、時間が経てばどんどん温度が下がる。
70度で飲むとするなら1分以内に運ばなければならない。
そしてコーヒー本来の味を楽しめる時間は5分と言われており、コーヒーにうるさい人間にすれば、それ以降になればただの色の付いた湯となってしまう。
副社長である道明寺司がコーヒーにうるさい人間なら、冷めたコーヒーなど出されれば、ご機嫌斜めになるということだ。

「それからこれからの季節は部屋の室温が少し高めですので、その点を考えれば冷える速度は少し遅いですが、逆に夏場冷房が効いている場合は冷える速度は早くなりますのでより早くお出しすることがよろしいかと思われます」

1分以内ではなく、30秒以内に出せと言いかねない秘書。
だがコーヒーに拘る人間なら当たり前のことであり、別に驚くことではなかった。
そしてつくしは、西田室長に負けないだけのコーヒーを淹れる自信がある。

「よろしいですね?」

「はい」

「ではさっそくお願いいたします」










今目の前にいる人物は、自分の前に障害物などひとつもない人生を歩んできたに違いない。
つくしが秘書としての一歩を踏み出した一日目は、まず上司である副社長へ出すコーヒーを淹れることから始まったが、何か言われるのではないか。不味いといって突き返されるのではないか。そればかりを考えデスクへカップを運んだが、これはコーヒー三課にいた人間のプライドをかけ淹れたコーヒーであり、味にうるさいと言われる男の口に合うのか、確かめたい思いがあった。
だから、副社長が書類をめくる手を止め、繊細な作りのカップを持ったとき、力の強そうな大きな手に意識を集中し見ていたが、口をつける瞬間、長い睫毛を伏せ、香りを確かめる姿がまるでワインをテイスティングする姿に見え、唇にやっとわかるほどの微かな笑みが浮かんだのを見た瞬間、よし!と心の中でガッツポーズを作っていた。

だが、次の瞬間、
「・・牧野。俺の顔に何かついているか?」

と、男の視線がつくしの方へ向けられ二人の眼差しが絡み合った。
それは数秒ほどのことだが、力強い視線で男としての強さが感じられる視線。
その視線に何故か一瞬言葉を失ったが、慌てて返事をした。

「い、いえ。何もついていません」

「それなら出て行ってくれないか?それとも何か用があるのか?」

スケジュールが決まっている人間の忙しさを考えれば当たり前の言葉だが、つくしは自分が淹れたコーヒーの感想を聞きたかった。だがまさか飲んで感想を聞かせて下さいとは言えず、失礼しましたと言い部屋をあとにした。

それから30分後書類を持参すると、飲み干されたカップがそこにあることが、満足いく味であったいうことを証明していた。
何故なら、不味ければ飲まないことが分かっているからだ。
以前副社長の秘書だった女性が淹れたコーヒーは、口に合わなかったと聞いた。
そしてその時、闇よりも濃い色をした色水が、カップの中に残されていたのを古参の秘書が見ていた。

たかがコーヒー一杯。と言われるかもしれないが、自分が出したコーヒーに合格点が与えられたことが嬉しかった。
そして、そのことが新しい仕事を前向きに頑張れる。
その勇気が貰えたような気がしていた。
人は誰かに認められ、何かを認められ、自信を深めていく。
だから、新しい仕事についたその日に認められたのが、コーヒーの味だけでも嬉しいと感じられた。









「副社長。牧野様のコーヒーはいかがでしたでしょうか?」

「副社長?」

「ああ?美味かった。お前が淹れたコーヒーと同じくらいな」

デスクに向かい書類にサインをしていた男が視線を上げた先には、西田が分厚いファイルを持ち立っていたが、そのファイルをデスクの上へと置いた。

「そうでしたか。それはよろしゅうございました」

「それで・・牧野つくしは今何をしている?」

司は西田が置いたファイルを取り上げ、中を開く。
そしてそこに書かれている数字を目で追い、その書類に太田正樹の名前を見つけ口の端を上げた。

「はい。仕事は実践からで机上で覚えることはないと申しましたが、今専務秘書の野上くんに秘書としての経費の申請の方法と女性秘書としての身だしなみといったものをレクチャーさせております」

「身だしなみか?」

司は視線をファイルから西田に移し、そして話を促した。

「はい。おしゃれと身だしなみは違います。秘書としての品格に必要なのは身だしなみです。本日の牧野様のお召し物は紺のスーツに黒い靴。インナーは白。そして真っ黒な髪。見た目は清楚ですが、やはりあの服装はリクルート活動ではないのですから、30過ぎの女性には少し地味ではないかと」

だが紺色という濃い色が、額縁効果をもたらし肌の白さを引き立てたのは間違いない。
しかしリクルート活動という言葉にも一理ある。そして色はいいとしても、やはり生地や素材といったものは、ひと目で分るものがあり、仕立てについては目が肥えた人間には分かるからだ。

「それに、今後副社長の秘書として地位の高い方々との会合の場といったものにも同席して頂くことがありますので、それなりの服装といったものが必要となります。ですから野上くんには、副社長の秘書としてどのような服装が相応しいかといったことも話をさせておりますが、やはり服装の話となると、男であるわたくしが話しをするより女性同士の方が話しやすいということもありますが、説得しやすいということもあります。それに野上くんからの提案になら間違いなく従ってくれるはずです」

西田が言いたいのは、牧野つくしに秘書としての品格を持たせるための装いを揃える、ということだが、同性の先輩の存在というものが、役に立つということを司は初めて知った。

「そんなものなのか?」

「はい。男のわたくしからいきなりこれを着なさいと言わるよりは、同性の先輩社員からの言葉の方が素直に受け取ることが出来るはずです。それに理由付けがないままの状態ではあの方はいつまでも考え込んでしまう恐れがあります。人は自分自身に自信を持つためには揺るぎないなにか、というものが必要ですから」

それは確かに言える、と司は思う。
なぜ自分が司の秘書に抜擢されたのかについても、理由があり、その理由が納得できるものなら、それを即座に受け入れることが出来る。そんな女だからこそ、秘書として長いキャリアを持つ人間からの言葉には、素直に耳を傾けることが出来るということなのだろう。

「ですので、牧野様は午後から野上くんと一緒にスーツを仕立てに行っていただきます。それからパーティー等にも対応できるようにそちらのドレスも数着仕立てるように伝えております」

西田はそこで言葉を切った。
そしてため息交じりの呆れ果てたような口調で言葉を継いだ。

「・・・それにしても、わたくしの母親の具合が悪いなど、どこから思いつかれたのか・・。
母は5年前に他界しておりますので今後どのような対応をすればいいのか・・」

「何をだ?」

と言い、司はデスクの上に両肘をついた。

「ですからわたくしの母親の件です。母はもうこの世におりません。それを具合が悪く田舎の老人ホーム暮らしなどと申されるのですから、どうすればそのお話を牧野様に信じて頂けるか咄嗟に考えましたが、まさかわたくしがあのような嘘をつくとは・・」

西田は上司である司をじっと見つめた。
これまでこのような嘘をついたことがない。だが司が言った話を否定すれば、上司のニーズに応えていないことになる。それでは道明寺HDナンバー2の人物の秘書としての名折れだ。
だが当の本人は果たして秘書の気持ちを理解しているのか?

「気にするな。あの場限りで済ませた嘘だ」

どうやら気にしていないようだ。

「いいえ。あの場限りだとは考えない方がよろしいと思います。副社長はお気づきではありませんでしたか?あの方の心配そうな顔を。あの顔は心底心配している顔です。恐らく今後、何かある度わたくしの母のことを聞いてくることは間違いないでしょう。そうなるとその時の対応を考えなければいけません。それに時に新潟へ帰ったフリをしなければなりません」

「西田。お前は本当に新潟出身だったのか?」

司は西田がどこの出身か知らなかったが、まさか本当に新潟だったとは思わなかった。

「はい。西田家は新潟で日本酒の蔵元をしております。家業は兄が継いでおりわたくしは一人息子ではございません。それにしても一度ついた嘘というものは、後で取り消すとなると大変なことになることもございますので、気を付けませんと嘘を嘘で済ませることが出来なくなります」

そのとき、眉根を持ち上げ西田を見た司は、親の言うことに逆らう子供のような目をしていた。
まさにその目は、今は立派になった男が少年だった頃を知る西田にすれば、悪ガキとしか言えない目。
そしてそんな目をしていた少年は、女性に冷たく、笑わないと言われる男になっていた。
だが今は時に笑いを含んだ表情をする。
そして今はまだ秘書の女性に対し、好奇心といったものしか持ち合わせていないが、いずれその女性が本当に欲しいと思える人だと気付いたとき、彼女を手に入れるためには、どんなことでもする人間であると知っていた。






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2017
11.21

恋におちる確率 10

55階で仕事をするにあたり覚悟を決めてきたが、副社長付の秘書として、その業務に男の自宅へのお迎えといったものが含まれるとは考えもしなかった。

つくしは、目の前に座る男から何故かリラックスした雰囲気を感じたが、その男の態度は無視し、秘書室長の西田に向かって言った。

「あの、西田さんちょっと待って下さい。今秘書は上司の経営の補佐が仕事であり身の周りのお世話や健康管理は秘書の仕事ではないとおっしゃいましたよね?それなら朝のお迎えも秘書の仕事ではありませんよね?」

西田の言葉を正確に読み取っていたはずのつくしは、確信を持って言った。

「ええ。確かに言いました」

「それなら_」

と、言いかけたところで銀縁眼鏡の奥に冷静な目を持つ男は、彼女の言葉を遮った。

「但し、副社長の場合はある程度補佐する必要がある、とわたくしは付け加えました。いいですか牧野さん。あなたも社会人となって随分と経っている。そうすれば、ものごとには例外といったものが幾つもあるということは、お分かりのはずです。副社長の場合はその例外だとお思い下さい。いえ、例外ではありませんね。副社長の立場になれば秘書が迎えに行くのは当然のことと言えるはずです。何しろ副社長はお忙しい方です。スムーズに行動して頂くためにも、車内では当日のスケジュール等の確認をしなければなりません。決して一分一秒を争う訳ではございませんが、それでも副社長の時間というのは、大変貴重な時間であり、無駄な時間はございません」

勿論、つくしだってそのくらい理解している。
経営トップの身体はひとつしかないが、彼に係る仕事は多いはずだ。そして、そのひとつひとつが例え小さな事であっても、数が集まれば、塵も積もれば山となるではないが、膨大な仕事量をとなる。そしてそれを一日のうちの決められた時間でこなさなければならないのだから、時間が貴重だということは十分理解出来る。

だが今まで秘書室長の西田が行っていたことなら、そのまま彼が続ければいいはずだ。
それに社内の噂によれば、女の秘書が嫌いという男の元へ女の自分が毎朝迎えに行くことを、この部屋の主は認めているのか?
そして、その思いを口に出し言いたいが、果たしてそんな言葉を口にしていいのかといった躊躇いがあった。

「いいですか牧野さん。秘書になったからといって決して滅私奉公をしろと言っている訳ではございません。ただ、あなたには道明寺HDの副社長の秘書になるといった自覚を持って頂きたいのです。先ほども言いましたように、秘書の仕事は上司のニーズに応えることです。ですから副社長が何を求めてらっしゃるのか。そういったことも考えて行動しなければなりません」

それなら、やはり是非とも聞いてみたいといった気になる。
あなたは女性秘書がお迎えに伺うことになってもいいのかと。
そして、どうして自分があなたの秘書として仕えなければならないのかと。
ひとつ質問するならふたつだって変わりはしないはずだ。

「では、まずは副社長のお好みのコーヒーの淹れ方からお伝えしたいと思いますので、給湯室へ参りましょう」

西田はそう言って背中を向けたが、つくしの足は、ふたつの質問をぶつけたい、とその場所に貼りついていた。
そして思わず口を開く。

「あの!」

「はい。なんでございましょう?」

こちらを振り返った西田だが、つくしの視線は執務デスクの向うにいる男に向けられていた。そして、男の黒い目もつくしをじっと見つめていた。だがその目には、先ほどまでのリラックスしていた態度は見当たらず、射すくめるではないが、何の感情も見当たらず冷たさが感じられた。

「副社長にお尋ねしたいことがあります。初日にこんなことを聞く失礼をお許し下さい。
私の上司だった人は、どうして私が秘書課に異動になったのか教えてくれませんでした。彼らの答えは咳払いをするか、口ごもることでした。ですからお聞きしたいんです。何故私があなたの秘書になることになったのかを。きちんとした理由があるなら教えて下さい。それにあなたは女性の秘書が嫌いだといった噂があります。それなのに何故女性である私があなたの秘書になることが出来たのでしょうか?」

それは、ある意味挑戦的な質問の仕方かもしれない。
だがつくしにしてみれば、この異動は絶対にインフラ事業部のあの一件が発端だと思えるからだ。

そして、自分の立場を利用して、弱い者いじめとは言わないが、副社長である男は、あの日彼のことを最低とのたまった女に嫌がらせでもしようとしているのではないか。その思いは辞令が出た時からずっと頭の中にある。だから負けるものですか!といった気持ちでいるが、本当は違うというのなら、そう言って欲しい。




「お前が異動になった理由か?」

「はい」

司を見るつくしの表情は真剣だ。
その視線を受け止める男はつくしが納得するような理由を教えてくれるのか。
そしてその理由によっては、これから始まる新しい仕事に対するモチベーションといったものが変わる。
男の黒い瞳もつくしをじっと見つめているが、その目には何の表情も浮かんでいない。だが共に互いの瞳から視線を離さずにいた。





黒い大きな瞳は、嘘や偽りは聞きたくないといった思いが感じられ、司は口を開く。

「西田の母親がここの所具合が悪い。この男の母親は高齢で今は田舎の老人ホームで暮らしているが医者からはいつ何時がないと言われたそうだ。そうだな?西田?」

男の言葉につくしは後ろを振り返った。

「はい。わたくしの母は新潟で暮らしておりますが、最近体調が思わしくありません。もうかなりの年ですので覚悟はしておりますが、母の子供はわたくしだけでして息子としての役割といったものを果たすべき時期が来たかと思っております」

「まあ。それは・・・」

そこまで言われれば、つくしも理解出来る。
忙しいと言われる副社長に同行しなければならない秘書は、自分の年老いた母親がいつ何時ないと知ったとき、どんな気持ちでいただろう。
つくしには弟がいるが、両親は既に亡くなっている。だから西田の気持ちが理解出来る。

「わたくしとしては東京の介護施設に転居して欲しいと思っておりましたが、母は周りの環境が変わる、東京の言葉や気候に馴染めないと言い、生まれ育った場所から離れることには抵抗があるようです。ですから新潟へ行くための時間を取る必要があるのですが、何しろわたくしは副社長の秘書としてお傍に控える必要がございます。今はそういったことからなかなか故郷へ戻る時間を見つけることが出来ずにおります」

無表情な銀縁眼鏡の男だが、語られる言葉は紛れもなく老いた母を思う言葉だ。

「牧野さん。ここからは、どうしてあなたが副社長の秘書に抜擢されたのか。わたくしがお話致します。それは先日の出来事が関係あります。あなたもご存知の通り、あの時わたくしもここにおりました。その時あなたのようにはっきりと物が言える人間なら女性だとしても副社長の秘書として相応しいと感じ、あなたには食品事業部から秘書課へ異動して頂くことに致しました。あなたにしてみれば思いもよらなかった事だったでしょう。これはある意味わたくしの都合であり、もしあなたがあの日のことを気にしていらっしゃるとしても、副社長に他意はございません」

語られた西田の口調は静かで、表情は真面目だった。
それに先輩女性秘書から、あなたを選んだのは西田室長だと聞かされていただけに、その話に頷けた。

「そうですか」

つくしは、西田の言葉に、自分が選ばれたのは、真っ当な理由があったのだと、朝からピリピリと感じていた胃の痛みが少し和らいだと感じていた。

「それから副社長が女性の秘書が嫌いだという噂ですが、そのようなことはございません。NYでわたくしの下についていたのは女性秘書でしたが、彼女に対しての副社長の態度はわたくしに対する態度と変わりませんでしたので」

そこまで言われれば、つくしも納得しない訳にはいかなかった。
そして自分が思っていたように、道明寺司が自分に対し、何らかの嫌がらせをしようとしていると考えているのは勘違いだったのだと安心した。
そうすると、それまで肩に力が入っていたのが、すうっと抜けたように感じられた。

「牧野さん。ご納得いただけたのなら、給湯室へ参りましょう。副社長のコーヒーをお淹れいたしませんと」

つくしは、今度は司に一礼をすると、彼に背中を向けた。
そして西田の後に続き、部屋を出た。








静かに椅子に座ったまま司は閉じられた扉を見つめていた。
牧野つくしは、思っていることがすぐに顔に現れる。
目の前の扉は、少し前まで彼女にとって開きたくない扉だったはずだ。
だが、一礼した彼女の表情は入って来た時に比べ和らいでいた。
そしてこの次に扉を開けて入ってくるとき、どんな表情をしているか。
それが楽しみだった。





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2017
11.20

恋におちる確率 9

つくしは、入社して以来こんなに緊張したことはない。
入社試験の時、筆記試験や作文、そして面接を何度も繰り返したが緊張などしなかった。
けれど、今朝は妙に早く目が覚め、部屋のカーテンを開けた。だがまだ日の出前の時刻であり、視線の先には薄ぼんやりとした暗闇だけが広がっていた。

試験の結果が送られて来たとき、せっかくですが当社とはご縁がございませんでした。といった文言を目にすることなく、歓びを噛みしめた。そして、あの日の歓びを無駄にすることなく今日まで仕事に励んで来た。

そんな平凡な毎日に、今日という日が特別な日といった訳ではない。
ただ、今日から55階にある秘書室勤務となるつくし。
突然の異動は何を示しているのか。それとも何かを示そうとしているのか。
考えたところで分からないのだから、考えるのは止めた。

その代わり胸の中にあるのは、やってやるわよ、かかってきなさいよ。といった思い。
だが何に対して敵対心を向けているのか。それは、勿論副社長である道明寺司に対してだ。
何故なら、この季節外れの突然の異動はあの男の思いつき以外に考えられないからだ。
そして、これが思いつきだろうと、気まぐれだろうと、所詮しがない会社員は会社の命令に従う以外なかった。


そして、つくしが知る秘書の仕事と言えば、仕える人間のスケジュールを管理するといった事くらいしか頭になかった。
そんなつくしだが、秘書は人一倍身なりに気を遣わなければならないことは知っている。
だからスーツは、いつものスーツ以外に2着新調した。だがさすがに一度に2着は痛い出費となった。


いつもより30分早い電車に乗り込み、会社を目指す。
何故なら、初日から遅刻するような羽目にはなりたくないからだ。
そして、いつもと同じ会社だというのに、まるで登る山が違うように感じられるのは、最上階の55階がアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロと同じ別名を持つからだ。

キリマンジャロは現地の言葉では「神の家」と呼ばれており、コーヒー三課にいたつくしにすれば、キリマンジャロは馴染のある名前だが、そのキリマンジャロと同じ意味を持つ「神々のフロア」にある秘書室に勤務するのだから緊張するなと言われる方が無理だ。

あの日訪れた55階は、キリマンジャロの頂上のように空気が薄い場所ではなかったが、間近で道明寺司を見た瞬間は息が詰まりそうになる思いをした。だが、執務室でのセクハラ発言に頭の中は沸騰直前のやかんのようになったはずだ。
コーヒーを淹れる湯の温度は80度くらいから97度がベストだと言われるが、もしつくしがやかんなら、あの時コーヒーに一番いいと言われる温度でいたのかもしれない。

そして今は、外面はやる気のあるビジネスウーマンだが、内面はいったいどんな業務を任されるのかと胃に若干ピリピリと痛みを感じながら、エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す女だ。だがその途端、周りの視線が感じられた。

だが周りの目は気にしない。それにエレベーターが上昇するにつれ、次第に覚悟が出来た。
それは、雑草を自負する女の心の中にある、踏みつけられたとしても立ち上がってみせるといった覚悟。だがあまり気負っても駄目だと考えを改める。

そうだ。秘書の業務といったものは、今までの仕事とは違い、自分のペース配分といったものは関係ない。相手に合わせることが求められるはずだ。
それにしても、いったい誰の担当になるのか。まさか、あの男の担当になるとは考えていないが、何故か嫌な予感が頭を過る。




つくしは、9時からの業務開始に対し、8時には55階のフロアにいた。
少し早すぎたのではないかといった思いがあるが、その時、秘書室の扉が開き、ひとりの女性が出て来た。上品な装いの50代前半といった年令に見えるその女性は、開口一番言った。

「あなたが牧野つくしさんね?」

装いが上品なら、声も上品だ。
つくしがはい、と答えると女性は万事心得た様子で自己紹介を始めた。

「私は野上。野上雅子です。専務担当秘書よ。随分と早く出社したのね?でも感心だわ。秘書としての勤務は9時からかもしれないけど、それ以前にすることはあるものね。西田室長は副社長と一緒に出社されるからまだだけど、どうぞこちらへ」

と言って秘書室へ案内された。
そして背を向けていた女性に、
「石井さん。こちら今日から秘書課で働くことになった牧野さん」
と紹介された。

「はじめまして牧野さん。常務担当秘書の石井誠子です。随分と早く出社したのね?でもあなた偉いわね?」

久美子が言っていた専務や常務といった役員にはお局クラスの秘書がいるといった話しは、この二人のことだろう。二人とも同じ年頃であり、随分と落ち着いて見えた。
そして考えてみたが、もしかすると二人のうちのどちらかが、秘書の仕事から離れることになり、その後任としてつくしが選ばれたのかもしれないといった思いが過る。
そして、そんな二人から感じられるのは、母か姉かといった雰囲気で、よくある新人に対し意地悪をするとか、仲間外れにするという低次元の話はここにはないようだ。

「牧野さん。あなた副社長の秘書として西田室長の下に付くことになったそうだけど、あの副社長が女性秘書を受け入れるなんて信じられないことなのよ?」

「そうよ?秘書課の女性はわたし達二人だけで、あとの役員についているのは男性なの。以前副社長がNYからこちらにいらした時、女性の秘書がついたことがあったのよ?だけどすぐに異動させられたわ。まあね、彼女は秘書というよりも、女を前面に出すような人だったから副社長にしてみれば目障りだったんだと思うわ。何しろ副社長は公私混同を嫌う方なの。だから彼女のような人はお嫌いだったの。はっきり言えば人選を間違ったとしか言いようがないの。でも今回あなたを選んだのは西田室長だから、心配してないわ」

二人の女性の会話から、つくしが思い描いたどちらかの女性の後任として抜擢されたという微かな期待は、見事に打ち消された。そしてやはり自分が仕えるのは、副社長である道明寺司であることがはっきりした。

「でも牧野さんは食品事業部だったのよね?それもコーヒー三課。じゃあ副社長のお好みのコーヒーの淹れ方もすぐにマスターできるわね?あの方はブルマンのブラックがお好みなの。でもね、淹れ方は副社長の好みがあるの。だからそれは西田室長から直接教えてもらえばいいと思うけど頑張ってね。朝まず飲まれるのはそのコーヒーだからその一杯が重要よ?まさにその一杯が副社長のご機嫌を左右するではないけれど、無きにしも非ずってところかしらね?だから牧野さん次第で副社長の一日が決まることになるのかもしれないわね?」


秘書課の古参秘書から聞かされる話に耳を傾けていたが、そうこうするうちに秘書室の監視モニターが映し出したのは、開いたエレベーターの扉からひとりの男が降りて来た姿と、彼の後ろに従う男の姿だ。

「あら。今日はいつもより早いわね?さあ、牧野さん。副社長がいらしたわ。ご挨拶に行きましょう」









司は、今まで秘書からおはようございます、と声をかけられてもそちらを見ることはなかった。
だが今朝の彼は機嫌が良かった。
ものごとは、思い通りに行くことと、そうでないことがあるが、司の場合思い通りに行かないことはない。
そんな彼の前にある日突然現れた牧野つくしは、思わぬ楽しみを味あわせてくれた。
今まで彼の周りにいた容姿だけが取り柄で頭はカラッポといった女と違い、司に意見するだけの気骨があった。
だが仕事上で相手に合わせなければならないことは、合わせることが出来るのだろう。
牧野つくしについて調べさせた結果、周りから見た仕事の評価もよく、そして人柄も問題ないと書いてあった。
そしてあの日の出来事から、とにかく、正義感が強い女だということは理解出来た。
自分が信じることに対しては、揺るぐことない信念を持ち行動する女。
そんな女が目新しいと感じたのか、それともただ単に退屈しのぎとして傍においてみたいと感じたのか。どちらにしても、彼女は今日から司の秘書として彼の傍で働く事になった。

だがまさか、その年になって秘書として働き始めることになるとは、思いもしなかったはずだ。
何故なら、司の会社では異動があるとしても、ある程度関連のある部門への異動が殆どだったからだ。だから今回のようにまったく違う部署への異動は稀な話であり、誰もが驚いて当然だ。そして本人が嫌だと言っても、社員である以上嫌だとは言えない立場にあり、もし嫌だと言えば、辞めざるを得ない。そんなことからも、当の本人がしぶしぶ承諾する様子が目に浮かんだ。


司は彼女に視線を向けたが、特に何も言わず、目の前を通り過ぎ、執務室へと向かった。
その代わり西田が彼女に声をかけた。

「牧野さん。さっそくですが本日より宜しくお願いいたします。それでは、副社長室へどうぞ。そちらで詳しいお話をさせていただきます」

司は牧野つくしへの奇妙な反応を抑えつけ、落ち着いた口調で有無を言わさないと言われる西田の声を背中で聞いていた。そしてその声に静かに答える声は、本人は隠そうとしているが、緊張が感じられ、先日の勇ましさを今はどこかへ収めているのだろうと感じていた。

さしずめあの時は、針を纏った河豚だったが、今は野兎の毛皮を纏ったリスといったところだ。恐らく買ったばかりのスーツを身に纏い、武装ではないが、その姿は彼女がイメージする秘書といったものを表しているはずだ。

地味な紺のスーツに地味な靴。
そして恐らく一度も染めたことなどない真っ黒な髪。
だが紺という色は、色の濃い分、額縁のように中にある肌を引き立たせるが、まさに細く白い首筋を引き立たせていた。だがキュッと結ばれた唇と大きな瞳は、相変わらず司のことを最低な人と思っているようだ。

あの時、太田という社員を庇うようなことなど口にしなければいいものを、あの出来事は後悔していないように見える。だが、何故自分が55階で仕事をすることになったのかは、薄々気づいているはずだ。

だがそれは、司にも言えることだ。牧野つくしを女として意識している気持ちが無いのかと言われれば、それは違うはずだが、まずは牧野つくしの感情の移り変わる様子が面白く、近くで見てみたいといった気にさせられていた。

いずれにせよ、執務室の中、ほんの1週間前に立っていたその場所で、今は西田に秘書としての心得といったものを伝授されようとしている女が、これからどういった働きをしてくれるのか楽しみだ。



「あなたは本日よりわたくしの下で副社長の秘書として働いて頂くことになります。秘書の仕事というものは、机上で学ぶことはありません。仕事は実践あるのみということで身体で覚えて頂きますが、秘書の仕事は他人には見えずらい仕事といったものが殆どです。
そして秘書の仕事は評価されにくい仕事です。この仕事をしたからといって数字が上がるといった訳でもございません」

司は西田の話を聞きながら、牧野つくしが今何を考えているのか知ろうとした。
だがその表情は、1週間前の態度とは大違いで、これから仕える男に失礼にならないようにといった気持ちが現れていた。


「しかしながら多くの機密文書も扱うことになります。ですからご自分の立場をきちんと理解して頂くことが必要です。つまり口は堅くといったことが要求されます。いいですか。牧野さん。秘書の仕事は上司のニーズに応えることが役目です。ですが、上司に言われてからでは遅いことがあります。ですから、そういったことが無いように、自らが上司のニーズを把握し、自分の役割を認識することが重要となります。そして秘書というのは、上司の経営の補佐といったものが仕事であり、本来なら身の回りのお世話や健康管理といったものは秘書の仕事ではありません。ですが副社長のように独身となりますとある程度秘書が補佐する必要がある。そうお考えいただけたらと思います」

西田はそこで一旦話しを終えたが、次の言葉が口をついたとき、司の目の前に立つ女の大きな瞳が、つい先ほどとは一転し、あの時と同じように険悪な表情で彼を見つめる様子に笑いを堪えた。

「と、いうことで牧野さん。明日から副社長のお迎えは牧野さんがいらして下さい」





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