2017
10.29

御礼とお知らせ

皆様こんにちは。
いつも当ブログをご訪問いただき、有難うございます。
毎回代わり映えのしない文章となりますが、お話がひとつ終わりましたので、こうしてご挨拶と御礼をさせて頂いております。
いつも温かいお心遣いをありがとうございます。お送り頂く拍手、コメントは執筆の励みとさせて頂いております。

さて、早いもので10月も間もなく終わりますが、南北に長いと言われる日本列島、皆様のお住まいの地域の季節は秋でしょうか?それとも、もはや冬と言ってもいい季節でしょうか?
そして、この季節にまさかの台風といった気象状況に驚くしかありません。
前回の台風では大きな被害を受けていらっしゃる地域もありますが、被害に遭われた皆様の生活が一日でも早く、元の生活に戻れますように。そして、今回の台風でこれ以上被害が大きくなることがないように祈りたいと思います。


さて、今後の予定と次回作ですが、頭の中にいる二人は、これは果たして花男なのか?といった気がしております。ただ、これはいつも思うことなのですが、作品を書いていく上で、どうしても原作の二人が変化していくことが多く、花男ファンの皆様には、これは司とつくしではないと思われるお話もあると思います。

そういった点を踏まえ、いつも書かせて頂いていますが、当ブログ、大人の二人のお話です。
設定ありきで書いているとはいえ、どうしても主観が入ってしまいますので、二人のキャラが原作とは違ったものだとしてもご容赦下さいませ。そしてご趣味に合わない場合は、どうぞページをお閉じ下さい。

ただ、坊ちゃんはひたすらいい男でいて欲しいといった気持ちがありますので、極端にキャラが変わるといったことは無いと思われます。但し、『金持ちの御曹司』はあのようなキャラです。(ゴメンね坊ちゃん、変な妄想ばかりさせて)

そしていくつかお話の候補はあるのですが、平行しての更新は、どちらかが滞ることになることは確実です。『Collector』のように中途半端にお待たせすることは避けたいと思いますので、お話はひとつ完結後に次といった形となります。但し短編はその限りではありません。

そしてアカシア、月末は多忙ですので、次回スタートは未定ですが、まずは短編を。と思っておりますが、よろしければお付き合い下さいませ。


それでは、今日一日が、皆様にとって素敵な日となりますように。
最後になりましたが、いつもお読みいただき、ありがとうございます。(低頭)


andante*アンダンテ*
   アカシア


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2017
10.27

もうひとつの橋 最終話

水溜まりへ映る陽の光の眩しさは目を細めるほどだ。
木々の間から零れる光りは、石が敷き詰められた小径にまだら模様の影を落とす。
風はなく空気を揺らすことはないが緑の匂いがするのは、朝方降っていた雨が止み、頭上には6月の太陽が顔を覗かせているからだ。


こんな晴れた日には、道端に咲く野の花を探して歩くのも悪くないはずだ。
なぜならその中に貴重な花を見つけることが出来るかもしれないからだ。
だが、それを見つけることが出来る人間は限られている。
そしてその花も見つけてくれる人間を選ぶはずだ。

花は選んだ人間が自分を見つけてくれるようにと、まるでそこだけに陽の光りがあたったように輝きを放つはずだ。
だが実際には、そんなことがあるはずもなく、見つけてもらえる偶然を待つしかない。
何故ならその花の傍には、見た目も香りも素晴らし花々が咲き乱れる花畑があるからだ。
だが、道端に咲くその花は、見た目は地味であり、芳しい香りもしない。間違ってもひと目を惹くような花ではない。
そして気づかぬまま、通り過ぎてしまえば、その花は別の人間に見つけられてしまうかもしれない。それとも、誰にも見つけられることはなく、その場でしおれてしまうかもしれない。

だがしおれてはしまうが、決して枯れることはない。
花は一度土に帰ったとしても、真夏の太陽をやり過ごし、秋風を土の下で感じ、自らの上に雪を頂いたとしても、春が来れば芽を出すはずだから。
元来雑草と呼ばれる花は、そういったものであり、ひっそりと光り溢れる春を待っている。





かつてひとりの少女が自らのことを雑草と言ったことがあった。

『あたしは雑草よ。どんな農薬にだって負けないわ』

だがその少女は一度負けそうになった。挫けそうになった。
それは、自分を好きだといった人から自身を強く否定されたからだ。
かつて愛おしそうに自分を抱きしめてきた腕は、他の女を抱いていた。
少女のことを何ひとつ覚えていない男のそれからの人生は、彼女の手が届く場所ではなく海外で送られた。
NYという街は遥か彼方にあり、貧しかった少女が簡単に訪れることが出来る街ではなかった。もし仮に訪れることが出来たとしても、会う事など出来なかったはずだ。
だから無くした恋を振り返るのは終わりにした。


それからは、前を向いた。
そして、自分が求められているのなら、と出逢った人達のため、人生の幾ばくかの時間を使ってきた。それが貴女らしいと言われることは分かっていたが、そうすることが性分として当たり前のように感じていた。なぜなら、そうしたことで自分が慰められたからだ。
そしてどんなに深く傷ついた心でも、いつか傷口は塞がり癒される時が来るはずだ。
そんな思いで新しい街で新たな人生を歩み始め、自分を忘れた男とは、二度と会うことはないと思っていた。



だが今、自らを雑草と呼んだあの少女は、自分を見つけ出した少年と白いドレスに身を包み、木漏れ日の中にいた。
そこにいるのは、あの頃より随分と大人になった二人。
そんな二人の結婚式は、身内と親しい友人だけを集め、軽井沢にある道明寺家の別荘で執り行われた。

男は少女の記憶を忘れ、17年の歳月を経て、彼女の元を訪れた。
その時、彼女は結婚していた。だがそれは永遠の約束を交わした結婚ではなかった。
それは、寂しさ感じた男女が寄りそうことを結んだ契約。友としての約束だった。

そしてその約束は、運命が別の運命を引き寄せることにより、別の約束へと変わった。
彼女の夫だった男の遺言となった言葉は、実に明確であり、それを実行することを彼女に求めていた。だから彼女は、友人であり夫だった男の言葉に背中を押され、自らの思いを打ち明けた。

あの頃と思いは変わらない、と。





高校生という多感な年齢のほんの短い間で育った恋が実を結んだ。
そうなるには、17年という長い年月がかかったが、二人は互いの思いを確かめ合った。
その恋に思うのは、純情だった二人の姿。
男は17年経ち、ようやく念願叶って好きだった女性と一緒になることが嬉しかった。
己が彼女を記憶の中から消し去っていたのだが、ある日突然戻った記憶は、細胞の全てが彼女を欲し熱いものが身体の中を駆け巡った。それはまるで17歳の少年が恋に堕ちた瞬間と同じだった。

しかしあの当時、恋についてよく知らなかった。

だが恋はパズルのようなものなのかもしれない。
それは欠片をひとつひとつ組み合わせ大きな一枚の絵を仕上げる過程が、心の欠片を集め恋の形を完成させる作業に似ているからだ。

初めは、どこにどの欠片を置けばパズルを完成させることが出来るのか?
どこにどの欠片を置けば自分の望む恋の形になるのか?
それが分らない分、悩むこともあれば間違った場所に欠片を置き、一向にパズルが完成されないこともある。
そしてそのまま完成を諦めてしまうこともあれば、バラバラになることもある。

だがもしバラバラになれば欠片を拾い集め、再び絵を仕上げればいい。
そしてその中には、真実の欠片というものがあるはずだ。
それは、パズルの最後の欠片であり、たったひとつ残された場所にピタリと納まる欠片。
その欠片が納まれば、恋という絵が完成する。
そして今の二人は、遠い昔未完成のまま放置されていたパズルを完成させた。
長い間空いていた場所へ、たったひとつ残されていた牧野つくしの記憶という欠片を嵌めることによって。




男が見つめた滲んだ瞳の中に見えた未来は、笑い合う二人の姿が見えたはずだ。
そして繋いだ手の暖かさは、暖かい家庭を感じさせ、重ね合わせた唇は、甘い砂糖菓子の味がしていた。
そして互いの指には、永遠の誓いを表す煌めきがあった。


いい大人が恋をした高校生の頃に戻ることを、参列者の誰もが喜んで見守っていたのは当然だが、彼女の魂の片割れと言われた男の発言は、その感覚を一気に昔へと引き戻していた。







「牧野。結婚おめでとう。凄く綺麗だよ」

「花沢類!」

後ろからの声に花嫁は振り返った。
花沢物産パリの支社長としてフランスに暮らす類は、薄茶色の瞳に少年めいた無邪気さと知的さを湛え、タキシード姿でそこに居た。

「本当に綺麗だ。そのドレスよく似合ってる。とても30代とは思えないよ。高校生の頃より若返ったような気がする。水のきれいな金沢で暮らしていたからかな?それとも冬に降る雪のせい?何だか前より色が白くなったような気がする」

つくしは、二度目の結婚であることを気にして、純白のドレスを着ることを躊躇った。
だが雄一との結婚は、書類上の結婚であり式は挙げていない。だからウエディングドレスを着るのは、これが初めてだ。

そんな彼女に、花婿は勿論、周りの人間も白いドレスを着ることを望んだ。
それに、今どき二度目だろうが三度目だろうが、そんなことを気にする女性はいないのが実情だ。何を遠慮することがあると真っ白なドレスが用意された。
それは、セクシー過ぎず、だからといって可愛らしいといったデザインではなく、大人の女性が身に纏うドレス。肌が白く、きめが細かいつくしには似合いのドレスだった。


「それにしても司はやっと牧野のことを思い出したんだね?17年も忘れてたなんて信じられないよ。俺さ、牧野が篠田さんと結婚したとき、ちょっとショックだったんだ。でも牧野が選んだ人生だし、俺が口を挟むことじゃないから何も言わなかった。だけど三条から結婚した理由は聞いてたからそのまま見守ることにしたんだ」

「・・おい、類。こいつを見守ってたってどういう意味だ?」

今はパリに暮らす男が、幼馴染みの結婚式に招待されたのは、言うまでもないが、つくしを見守っていたという発言に傍にいた花婿は、まるで18歳の少年のように類を睨んだ。

「・・司、居たの?」

「居たのじゃねぇだろうが!俺は花婿だ!居て当然だろうが!」

「ふうん。17年も牧野を忘れてた男がよく言うよ」

「・・・・」

辛辣さとダイレクトな言葉が今も昔と変わらない男は、花嫁の初恋の人と言われていた。
あの当時、他人と会話するのがメンドクサイと言っていた男は、何故か花嫁となった女性を前にすると、お喋りな男になっていた。
当時、恋愛関係ではなく、だからといって友人関係でもなく、傍から見れば、どちらともつかない曖昧と言われた関係の二人。類は、特別なポジションと言われる地位で彼女の中にいたが、それに嫉妬をしていたのが司だ。


「・・・類。こいつを見守ってたってどういう意味だ?」

「ん?・・司それを聞いてどうする訳?」

「・・どうもしねぇけど、聞かせろ!」

「どうもしねぇ・・。だったらいいじゃないか。聞いたところでお前は何も出来ないんだろ?それなら聞く必要なんてないだろ?それにもう済んだことだろ?」

「類・・お前って奴は久し振りに会ったと思えば相変わらずだな!ごちゃごちゃ言わずいいから聞かせろ!」

「司は煩いよ・・・せっかく牧野の晴れ姿を見に来たっていうのに。お前は牧野のことになると本当に目の色が変わるんだから」

声が大きくなる一方の花婿の顔に、あの頃と同じようにこめかみに青筋が浮かぶのはお馴染の光景。そしてそれに応える男の口調も、あの頃と同じでウザイといった顔にしぶしぶといった口調で答えていた。


「・・類。本当なの?」

類はその声に司の顔から隣に立つ女性に視線を移す。

大学を卒業し、小さな出版社に勤め始めたつくしを遠くから見守っていたという類。
もし何かあれば、手を貸すつもりでいたのは言うまでもない。
だが、自立心旺盛な彼女が人の援助を素直に受け入れるはずもなく、類は桜子からのメールでつくしの状況を知っていたという。

「篠田さんのことは残念だったけど、彼は牧野のことを本当に大切に思ってたよね?それに頭のいい人だったから、彼と一緒にいて色んな意味で人生を学んだよね?」

類は、篠田雄一が法曹家系の生まれであり、弁理士であり、真面目な人柄に安心していた。
だが、つくしが幸せを求めて結婚した訳ではなかったことを少し残念に思っていた。

「・・うん。雄一さんは本当にいい人だったよ。どこか花沢類に似てるところがあったのよ?」

「へぇ。そうなんだ。じゃあ牧野は俺と一緒に暮らしていく事になっても問題ないよね?
俺と一緒なら穏やかに暮らせると思うよ?なんなら今からでも遅くないと思うけど、どうする?牧野?司じゃなくて俺に乗り換える?だって司は牧野の貴重な17年を無駄にした男だよ?逆に牧野が今からでもポイ捨てしてもいいんじゃない?」

と類は言い、司の目をじっと見た。
それは、日本人離れしていると言われる二人の男の睨み合いとも言えるが、交わされているのは、それぞれの花嫁に対する想い。二人はかつて彼女を巡って争ったことがあった。
そして最終的に彼女が選んだのは司だった。

「・・類・・お前、聞いてりゃ好き放題言いやがって!俺は忘れたくてこいつを忘れた訳じゃねぇんだ!あれは・・」

怒りと弁解を半分ずつ顔に浮かべた男は親友に掴みかからんばかりで詰め寄った。
だがまさか結婚式の当日に殴り合うことはないだろうが、周りにいた仲間たちは、一触即発の事態かと空気が張りつめた。

だが、正面に立つ男は柔和な笑顔を浮かべていた。
それはあの頃から繰り返されて来た二人の掛け合いのひとつ。
類は、久し振りに幼馴染みの瞬間湯沸かし器のスイッチを入れてみたかっただけだ。
それは、普段は冷たさだけを顔に貼り付けていた男が、牧野つくしのことになると途端に熱くなっていた事実が今も健在かどうかを確かめたかったから。


「司。分かってる。今のは冗談だから。それにお前のNYでの色々も含め今までの事は若い頃の失敗ってことにしてやるよ。だけどこれから先牧野を不幸にするなら俺が許さない」

類の最後の言葉に嘘はない。
類は、この一点だけは司に言いたかった。
彼も、雄一が感じたのと同じように、つくしの傍にいれば癒されるのだから。



「・・類。あのね、大丈夫だから。あたし達、もう大丈夫だから。でも心配してくれてありがとう。類の気持ちはとても嬉しいよ。本当に。・・でもあたし、道明寺と一緒に生きていくことに決めたから。それに17年なんて過ぎてしまえばあっという間だったし、気にしてないから」

花嫁の言葉は、その場の空気を和ませるだけの力がある。
そしてその言葉は、二人が辿り着いた場所は同じ場所であり、これから先の人生を共に過ごすと決めたのだから、あの頃のことはもうどうでもいいと言っていた。

そして、その言葉は二人の男も心の中で分っていた言葉。だが類は敢えてその言葉を彼女に言わせた。何故なら、それが幼馴染みの聞きたいと思っている言葉だから。


「うん。分かってるよ。でもどうしても司に言いたかったんだ。だって俺、牧野のことが好きだから。友達以上にね」












胸が震えるほどの感動といったものがある。
それは人生の中でそう沢山あるものではない。
だが、誰にでも一度はあるはずだ。
それは、人それぞれだが、司の場合好きで好きでたまらないといった感情を抱いた女性と結婚できたことだ。

人を好きなるのに理屈はない。
人を好きだという感情の前では、どんな理屈も説得も及ばない。
そしてどんな妨害を受けたとしても跳ね返そうとする。
それが人を好きになるということ。
だが、もし好きな人の心を傷つけたなら、その心に塗る薬はひとつだけ。
それは愛という薬。

今の司は、その薬を両腕に抱えきれないほど持っている。
そしていつでもその薬を与えるつもりでいる。

遠い昔、橋を渡ることを躊躇っていた少女がいた。
けれど、彼女は橋を渡ることを選んだ。
だがその橋は脆くも崩れ去り、まわり道をしても渡る橋はなく、二人の間に架かっていた橋はなくなった。
それでも、心の中では橋の向うにいるたったひとりの人を想っていた。
それが司だった。


これから先彼女を愛するのは、司だけ。
これから先ずっと彼女を見つめることが許されるのは、司だけ。
夜明けまでずっと抱きしめていることが出来るのは、司だけ。
忘れていた夢があるのなら、その夢を二人で見たい。
時は流れたが、今はあの頃の二人がここにいるのだから。
そして運命がどこへ向かおうと、二人が一緒にいることが大切だ。

今、彼の隣に立つ女性は、彼を見上げている。
彼女だけを見つめる真剣な顔をじっと。
そして不意に笑って言った。
まるで17年間の想いを込めたように。


「奇跡みたいね。あたし達」と。





< 完 >*もうひとつの橋*

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2017
10.25

もうひとつの橋 33

二人の雨の思い出は、哀しさが一番に思い浮かぶ。
雨に打たれるということは、哀しみだけを感じるものであり、雨は遠いあの日を思い出すだけの冷たい雨でしかなかった。

だが今は違う。二人で眺める雨の景色は青葉時雨であり、降った雨は心が洗われる雨だ。
季節は確実に前へと進み、これから迎えるのは雨の季節。
今までは一番嫌いな季節だったが、二人でひとつの傘に入ることが出来るこの季節が、これからは好きになりそうだ。

そんな雨の降る夜。
リムジンから先に降りた男が、手を差し出した先にいる女は、彼が差しかけた傘の中へ納まるように足を踏み出した。そして大きな身体は、彼女が雨に濡れることがないようにと、傘の殆どを彼女だけに差しかけていた。




銀座の一等地より少し離れた場所にあるバーやクラブといった飲酒店ばかりが入ったテナントビル。その中の一軒の店のドアに掛けられているのは『店休日』のプレート。
中にいるのは、バーカウンターの内側に立つママである桜子。そして司、つくし、総二郎、あきらと滋の5人は、背の高いスツールに腰を降ろしていた。
だが類だけは、パリで開催される物産の重要会議のため、帰国出来ないと連絡があった。


あの頃の仲間に召集をかけたのは、桜子。
17年前ダメになった恋がまた元に戻ったことを告げ、祝いの席を設けるからと声をかけた。
カウンターには、九谷焼の皿に盛られた料理が並び、小さなケーキまで用意されているが、料理はすべて桜子のお手製だ。そしてそれぞれの手元には、好みの飲み物が置かれていた。


「道明寺さん。牧野先輩。お二人がまたこうして一緒にいるところを拝見出来て、本当に嬉しいです。私の今までの苦労が報われたと思うと涙が出ます」

ひと前で猫を被ることが得意と言われる桜子の言葉は、嘘なのか本当なのか。目元に指を当て、涙を拭う仕草をしたが、指先に光るものを確認することは出来ない。


「ほんと、あたしも嬉しいわ。つくし、あたし桜子ほど司のことに力を入れることが出来なくてごめんね。あたしが出来たのは、司がNYでバカな女だけには捕まらないようにすることだったわ」

桜子はNYにいる司の元を訪れては、つくしの様子を伝え、そしてその足でNYに暮らす滋の元を訪れては、状況を報告していた。

「おい滋。お前司がNYでバカな女に捕まらないようにって・・それどういうことだよ?」

あきらは揃って自分を見つめる二人の女性に言った。

「あたしだってこう見えても大河原財閥ご令嬢よ?NYの社交界には顔が利くからさ、あいつに近づこうとしたヤバイ女は蹴散らしてたの。女にはね、女の嗅覚ってのがあってね。まあ司も忙しい男でさ、社交界以外の女が傍にいることがなくてね。出会はどうしても仲間内のそういったパーティーなの。でもね、NY社交界って言ってもそこに集まる女が全員お嬢様ってわけじゃないでしょ?中にはおかしな女も紛れてるのよ。それにね、そんな中にも特にヤバそうな女ってのもいるのよ。そんな女が司に興味を持たないように色々と吹き込んだりしてたってわけ」

「おいおい、滋なんだよそれ?」

滋の訳ありな話に総二郎は興味津々といった口調だ。

「え?西門さん聞きたい?」

「ああ。聞かせてくれ」

「う~ん、でもねぇ。つくしもいることだし、その話はまた今度ってことで」

滋は、あきらと総二郎の言葉を遮り、つくしに視線を向けた。

「つくし、ゴメンね。なんか変な話しになっちゃって。本当はそこにいるポーカーフェイス気取りの二枚目にガンガン言いたい話なの。でもまあ、記憶がなかったってことで許してやってね?でももし許せなかったら殴っちゃえばいいのよ。その男、つくしのものなんだもの。顔が少しくらい変わっても気にならないでしょ?だいたい司はね、なまじ顔がいいから女が寄ってくるのよ。だからつくしの手でいじっても大丈夫よ?鼻なんか少し削ってやればいいのよ!」

滋はそう言ってつくしの隣に座る司へと視線を向け、そしてニヤッと笑った。

「おい。それいいな!司の男前を崩すことに賛成だ。だいたいこいつの枕詞のひとつに氷の男ってのがあるぞ。牧野、アイスピックで司の鼻削ってやれ」

総二郎は滋の意見に賛成だと言い、アイスピックを貸してやれと桜子に言った。

「ホント、司は顔もいいけど、身体もいいから女が放っておかなかったってのもあるのよね・・。確かに司の身体は美味しそうだもの!あ~、そう言えばあたしも昔一度こいつに迫ったことがあったのよね~。だけどあの時はすげなく拒否されたけど、記憶が無かったとき一度くらいお手合わせお願いすればよかったかも?あ、でもつくし。もちろん冗談だからね!仮に司があたしの前に裸で横たわっていたら、こいつの胸にツクシラブ、って文字を彫らせるわ!そうすれば司に抱かれる女はみんなつくしの名前を目にする訳でしょ?アメリカ女は嫉妬深いから他の女の名前のタトゥーが入った男なんて願い下げよ?でもさ、あっちじゃあるのよね?酒に酔って寝てる間に勝手に知らない女の名前が彫られてたなんて話。でも司の場合気付いちゃうよね?だったら縛ってから彫る?わ~なんだかそうなると別のプレイになっちゃうわよね?」

滋はウケを狙って言ったつもりだろうが、その話は妙にリアリティが感じられ、司のこめかみには青筋が浮かんでいた。そして、それを見たあきらは慌てて口を挟む。

「滋。冗談はこれくらいで止めとけ。今日は二人が新しい人生を始めることへの祝いだろ?そろそろポーカーフェイス気取りの二枚目が怒り出すぞ?」

滋は感情の裏表を感じさせない天真爛漫さが彼女の魅力。
だから思考そのままの人間だが、時に度が過ぎることもあり、そんな時は誰かが止めに入るのだが、それはいつもあきらの役目だ。

そして司から感じられるのは、やはり怒りのエネルギー。
こめかみに浮かんだ青筋の数を見ればどれくらい怒っているのが分ると言われる男は、不気味な静けさでグラスを傾けていた。
それにやっと気付いた滋は、ヤバイと思ったのか、司ではなく、つくしに謝っていた。

「・・つくしゴメンね。あたしあんた達が一緒になるって聞いてつい嬉しくなって喋り過ぎちゃって・・反省してます。ほんとごめんね」

その口調が本気の反省度合を示しているのか、滋の態度は先ほどとは打って変わってしおらしさが感じられた。

「滋さん、大丈夫だから。あたし気にしてないよ。過去を気にしても仕方がないでしょ?あたしは、本当に大丈夫だから」

「・・うん・・わかった。ありがと。つくし」

と滋は頷き、そして再び口を開く。

「それにしても今のつくしは固いバラの蕾が太陽に当たって開いたって感じよ?だってあの頃・・司がつくしを忘れて渡米した頃なんて、しおれた花だったものね」

「そうですよね・・」
と桜子が思い出したように息をつく。

「あの頃は本当に枯れてしまうかと思いました。先輩は恋愛に関しては真面目で素直だったからショックだったんですよね・・・」

桜子の言葉と視線は嫌味ったらしく司に向けられた。

「おいおい。おまえら、また話が元に戻ってんぞ!いつまでも昔ばなしばっかしてもしょうがねぇだろ?それに司のあの顔を見ろ。極悪な顔つきになってるぞ。おまえらは、あの顔のままサヨナラするんだろうが、そこから先、司の相手をするのは、俺と総二郎だぞ?もう過去の話をするな。話題を変えろ!司の前で昔ばなしはするな!」

そう言ってあきらは、二人の女に言い聞かせると司に話しかけた。

「それにしてもお前のお袋さん、牧野との結婚をよくすんなりと許したな。
俺は昔のお袋さんの姿を間近で見てるだけに未だに信じられねぇけど、なんかあったのか?」

「いや。特に何もねぇな」

「マジか?」

「ああ。マジだ」

何もないと言うが、心配症のあきらは、どうしてもつくしが何か言われたのではないかと思わずにはいられなかった。
あきらも、総二郎も類も司がつくしのことを忘れ、NYへ旅立ってからつくしとは疎遠になっていた。だが再びこうして会えば、やはり記憶はあの頃の事へと戻る。

「牧野。お前、司の母親に何か言われたんじゃねぇのか?何しろお前と司の母親との間には、色々とあっただろ?どうなんだ?またあん時みてぇなことになってんじゃねぇのか?」


あきらは、仲間内では、一番真面目と言われた男だ。司の顔に、時に牧野つくしはどうしているのだろうと思うこともあった。
そして今では、あきらも美作商事の専務として世界各国を飛び回る身だ。司の母親である楓ともビジネスで何度も顔を合わせているが、鉄の女は己というものを持っている。それは人の意見を聞くことがないということだ。確かに巨大企業のトップともなれば、他人の意見に耳を傾けるとはしない。全てが自己責任とも言える世界で判断を下していかなければならない。だから経営者は孤独だとも言われるが、それが企業トップというものだ。

今のあきらもそうだが、ジュニアと呼ばれる男達も、実際に社会に出ればそれが理解出来るようになる。だからこそ、楓がああいった女性でいる理由を理解出来ない訳ではないが、それでも、楓という女性は、ビジネスの厳しさに於いて今でも群を抜いている。
そして、一度決めたことはやり通すといった強い信念を持つ女性だ。それだけに、何故つくしのことを認めたのかが不思議だった。

「あきら。人間年を取れば多少は丸くなって来るモンだろ?俺たちには分からねぇ何かがあったのかもしれねぇけど、つくしが言うには、道明寺の家と財閥を任せると言われたそうだ」

「嘘!本当なのつくし?」
「本当ですか、先輩?」
「マジか・・」
「なんか信じられねぇな・・」

四人が四人とも同じ答えだが、司もつくしからその話を聞かされたとき、信じられない思いでいた。
そしてそれぞれの頭の中で思うことは同じのはずだ。
だがあの母親がつくしを相手にどんな話をしたにしても、最終的に彼女の存在を受け入れる判断を下したことが、17年という長い間には、人は変わることもあるということだ。
どんな時も己の判断が一番正しいといった道明寺楓。
その楓が認めたということは__いや。考えることは止めろ。認めたのだからそれでいい。
今の司は、母親の心に変化があったことだけを受け止めていた。




「それにしても、牧野が結婚してたって話は驚いた。まさかあの牧野がって思ったが、三条から聞いた話になるほどなって思えたな。けど、司は驚いたんじゃねぇのか?あの牧野が自分以外の男と結婚したのかって青くなったんじゃねぇの?・・けど、そうなったのは司のせいだから仕方ねぇよな?司が牧野を忘れたのが悪い。・・まあ、司も忘れたくて忘れた訳じゃねえけど・・。けどその相手の男は類タイプだったらしいな?もしかして牧野、今でも・・」

「美作さん!」

桜子の声にハッとしたあきらは、慌てて口を閉じた。
何しろあきら自身が言った極悪な顔の男がこちらを睨んでいたからだ。

「・・司・・今のは言葉のあやだ。いやそうじゃねぇな・・ちょっとした間違いだ。牧野はお前以外の男を好きになることはねぇからな。心配するな。それは俺が保障する」

とりあえずあきらは、この場を丸く収めることだけを念頭に置き言葉を収めた。








10代の後半、そして20代の10年間と聞いただけでも長いと感じるが、それにまだ年を重ね、30代の半ばになった二人。
17年というはてしない時間を経て再び恋をスタートさせた二人は、これ以上時間を無駄にしたくないと結婚を決めた。

そんな二人のどこが変わったのか。
外見の容貌は変わるのはあたり前だ。だから外見でものを言うことは出来ない。
ならば、何が変わったのか。それは精神的な成長があったということだ。

今、二人を見つめる四人の人間は、もし、どこかの誰かが「彼はこの女性のどこが好きなのか」と問われれば、答えは決まっている。

「あの二人は、互いでなければ駄目なんです。特に男の方が駄目になります。世界経済の未来を考えるなら、あの二人は一緒にいなければならないんです」と。


そして、隣同士に座っている二人は、互いの顔だけを見つめ、笑っている。
やがて何が可笑しいのか、男の方は込み上げてきたもの必死にこらえようとしている顔だ。

やっとあの頃の願いが叶えられようとしている男と女。
その男が女に何か囁いているのが聞えた。


「いいか。俺が恋をしたのはお前だけだ」





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2017
10.24

もうひとつの橋 32

テーブルの上に置かれているコーヒーの香りがうっすらと鼻先をかすめた。
それは司も好きだというブルマンの香りだが、母親である楓も同じ香りのするコーヒーを好むと知った。
そんな楓から、二人が結婚するには条件があると言われ、つくしの身体に緊張が走った。
もしそれが交換条件と言われる類のものなら、そんな条件を受け入れることなど出来ないからだ。


こうするからああしろ。

人が誰かを愛するのに条件を付けるだろうか?
親が子供を愛するのに条件を付けるだろうか?
愛は見返りを求めるものではないといった言葉があるが、楓は物事の全てに対価を求める人間なのだろうか。

17年前高校生だった二人の交際に反対した楓は言った。
あなたが司とつき合うのを止めるなら、あなたの周りにいる人間には手を出さないと。
あの時はそう言われ、彼に嘘をつき離れることを選択した。
それが雨の日の別れだった。
またあの日が繰り返されようとしているのか。
そんな思いが頭の中を過る。






「何もそんなに身構えることじゃないわ。簡単なことよ。・・あの子を幸せにしてやって欲しいの。それがあの子と一緒になることの条件よ」

つくしは、思わぬ言葉に目の前に座る女性の目を見返しながら口を開いたが、17年前の態度とはまるで正反対の態度と言葉に信じられない思いがした。

「・・あの、反対なさならいんですか?」

「今のあの子にそんなことをしても無駄だと分かっているわ。そうでしょ?それにもういい大人ですもの。何を言ったところでどうにかなるとは思えないわ。ご存知のようにあの子は一度こうと決めたことはやり遂げるわ。それがビジネスに於いて発揮されていれば何も問題はないわ」

楓はコーヒーを口にし、遠い昔を回想するように語り始めた。

「あの子の中にがむしゃらな光りを見たのは、あなたに会ってからよ。・・それまであの子がそんな目をしたところを見た事はないわ。それまでのあの子の目は憎しみしか湛えていなかった。親に対する憎しみ。道明寺という家に対する憎しみ。世の中のもの全てに対する憎しみ。そんなものを抱えていたわね。・・そしてそれがわたくしのせいだと分かっていた。
なにしろあなたもご存知の通り、道明寺の家は家族として機能はしていなかったわ」


それでも楓は、我が子が刺され、意識不明の重体となったとき、何もかも投げ出しNYから駆け付けた。
そしてあの事件の原因が財閥の強引な経営手法のせいだと知ったとき、すぐさま社内の改革を決意した。

だが、財閥は簡単に何かが変わるといった規模の会社ではない。それだけに、司を渡米させてから会社の経営方針を少しずつであったが変えていった。そして我が子が財閥の経営を担うとき、自分が行っていた強引な手法が引き継がれることがないようにした。

「あなたはあの子がNYへ渡ってからのことはご存知よね?」

つくしは、「はい」と静かに返事を返した。
すると、そのことを確かめた楓は話し始めた。

「あなたの事を忘れたあの子は、昔のあの子に戻ってしまった。それでもあの子にはビジネスの才能はあった。だからいずれビジネスの面白さを覚えると思っていたわ。
もちろん仕事というのは、才能だけで上手く行くとは思っていない。だけとあの子はやはり道明寺家の血筋なのよ。あの子の父親に似たのね。司はいつの頃からか企業経営を楽しんでいた」

楓の口ぶりは、我が子が財閥の経営を任せるに相応しい人間であることを喜んでいたが、そこでいったん口をつぐんだ。それはつくしの態度を見つつ、話を続けるか否かを考えたのだろう。だが決心したように言葉を継いだ。

「ただ、私生活は危険な火遊びに手を出さなければ見ないふりをしていたわ。
それでも親として経営者として息子がバカなことだけはしないように気を付けていたわ。
何しろあなたのことを忘れてからの司は、以前のあの子に戻ってしまったのだから。それにあの年頃の男が考えることなんて同じようなものね。ここまで言えばわかるわよね?」

楓はそこから先の話を躊躇うことなく続けた。
それは、聞かせることで、つくしの本気度を量ろうとしているように感じられた。

「でも、あの子はどれだけの女性と付き合おうと、心から求める女性はいなかった。
誰とも本気になどならなかったわ。その分、メディアで話題になることもあったのは、あなたもご存知よね?」

つくしはもちろん知っていた。
司が渡米したすぐの頃、真剣だった二人の思いが踏みにじられたような気がしていたのだから。

「あの子の傍にいたのは、どうするのが自分に得になるか。どうすれば損になるのか。そんなことを考えるような女性ばかりだったわ。だから男としての渇きを潤せばそれでおしまい。でもあなたは違う。あなたのことを思い出したあの子は二度と他の女を傍に寄せ付けることなどないはずよ」

母親の目から見た我が子の態度は、どう映っていたのだろう。
こうして楓の話を聞いていると、その口ぶりは、経営者としてよりも、親としての思いが強く感じられた。

「・・・正直あなたのことはあのまま思い出さないと思っていた。でもこうして思い出したんですもの。二人で幸せになりなさい。あの子を幸せにしてやって。それが牧野さん。あたなが司と一緒にいる条件よ」

そこまで一気に話をした楓は、つくしに向かって淡い微笑みを浮かべていた。
楓の言葉は、我が子が幼い頃、自分がするべき事をしなかった、出来なかったことへの後悔なのか。それとも何かの罪滅ぼしのつもりなのか。だがどんな理由があったとしても、つくしは楓に認められたことが嬉しかった。

「・・それから。あなたの前の夫である篠田雄一さん。わたくしはその方の未亡人となった奥様を知っているわ。お名前は篠田由美子さん。彼女は東京で弁護士をしていた。そうよね?彼女はわたくしの大学時代の友人の娘よ。だからあなたと篠田雄一さんとのことも聞いたわ」

思いもしなかった発言が飛び出し、つくしは驚いていた。
そして楓の口ぶりが何故か親身に感じられ、つくしは思わず言っていた。

「あの、ご存知なんですか?私と・・雄一さんの本当の関係を」

「ええ。知ってるわ。由美子さんは雄一さんと結婚するにあたって自分の母親に説明したのよ。昔別れた恋人と結婚することに決めたけど、相手には妻がいるとね。もちろん母親は大反対するわ。それでも由美子さんは母親に事情を説明した。雄一さんが余命幾ばくも無い。そして今の妻は本当の意味での妻ではない。だから直ぐにでも離婚は出来ると。
それでも母親としては複雑よ。いくら好きな男性とはいえ、相手は命が短い。そしてその男性は結婚しているとはいえ、本当の結婚ではないことから直ぐ離婚は成立。そんな状況で入籍しても果たして幸せと言えるのか・・・」

楓の目はつくしに問いかけていた。
その状況が幸せと言えるのかと。
だが幸せの姿は千差万別であって一概には言えない。
つくしは裕福な家庭では育たなかったが、家族は仲が良かった。
そして幸せだった。お金があるから必ずしも幸せだとは言えないことは、司が口にした言葉の中にもあった。つくしといることが幸せだと嬉しそうに笑った顔は今でも覚えている。


「それでも由美子さんはその人と結婚したいと言ったそうよ。・・親にしてみれば、娘が早々に未亡人になることが分かっていて相手の男性との結婚を許すことは簡単には出来ないはず。でも友人は許したわ。・・・どうせダメだと言っても意志が固い娘だから反対することはしなかったそうよ。・・その友人もわたくしと同じ経営者よ。だからある意味似ているところがあるの。それは相手を支配したがるといったところかしら。我が子を自分の分身のように考えてしまうのよ。子供は別の人格を持つ独りの人間なのにね。
彼女も娘を企業の戦略的な道具として結婚させようとしたこともあったわ。でも由美子さんは弁護士になった。自分で自分の道を切り開いた」

心の裡を晒すことがない人間は多い。
そして楓がこうして落ち着いた様子でつくしと話をするのはこれが初めてだが、おそらく今後こういった機会があるかと言えば、後にも先にも無いような気がしていた。


「話が少し横道に外れたわね。結局親というものはそういったものなのよ。最後は子供たちが本当に求めているものを与えてやりたいと思うものなの。それが燃え盛る炎の中にあったとすれば、火傷してでも取ってくるわ。親は自分が傷ついても我が子だけは守りたいといった気持ちが常にあるの。だから我が子の幸せのためならどんなことでもしてあげたいと思うものなの。それがわたくしは今頃訪れたということかしらね。それにしても、まさかあなたの名前を友人の口を通して聞く事になるとは思わなかったわ」

楓は小さな笑い声を漏らしたが話を続けた。

「先ほども言った通り、あなたと司が結婚することに反対はしないわ。ただ、あの子を幸せにしてやって欲しいの。・・・わたくしが出来なかった分まで。あなたなら出来るわよね?牧野さん?それにあの子を支えてやる自信がない・・そんな言葉は今のあなたなら言わないわね?自信があるからわたくしに会いに来た。違うかしら?」

17年前とはまったく違う楓の眼差し。
つくしはその眼差しに暖かさを感じていた。
幾年月経とうとも変わらない人の心といったものがあるのも事実だが、楓のように長い年月が心を変えるといったこともある。
何かが楓の心を変えたとすれば、それは年を重ねた母親の我が子を思う気持。つくしは、そう理解していた。


「はい。一緒に生きて行こうと決めた瞬間から私は彼の支えになりたいと決めました。
とは言え私の方が彼に支えてもらうことになるかもしれません。私は御覧の通りの未熟な人間ですから、結婚を許して頂いてもご不満に思うことも多いと思います」

「そう?でもあなたにはストレスとかプレッシャーといった言葉は関係なさそうに見えるわ。あなたにあの頃と同じパワーがあるならあの子と一緒に道明寺の家を、財閥を守っていけるはずよ?」

まさか、そういった言葉をかけて貰えるとは思いもしなかった。
そして自分のことを認められて嬉しいはずだが、道明寺の家を、財閥を守っていけるはずといった言葉の大きさに不安が過る。

「牧野さん。あなたは頭がいいから頭が身体をコントロールしようとするタイプの人間よ。
だから未経験の分野まで勝手に考えようとするの。頭でばかり考えても駄目なこともあるわ。だからあなた本来の姿で・・あの子とこの家を守って頂戴」





目の前の女性は沢山のものを持っている人だ。
世の中のどんなものでも手に入る人だ。
高校生の頃、その女性からの言葉は容赦がなかった。そしてその言葉に心が傷ついた。
けれど、たった今かけられた言葉は、全く違い優しさが感じられた。

楓という女性は複雑な女性だ。
感情を幾重にも折りたたんで心の中に収め、他人に見せることはほとんどないはずだ。
いや、ほとんどではない。この女性は決して人には言わず、生涯他人には打ち明けることはしないはずだ。
だがそんな女性と一緒にいることも、慣れてしまえば居心地が悪いことはないはずだ。
そして、こうして楓がつくしに話てくれた内容は、楓という女性の心の中にある掛け値なしの本音。
息子への思いだ。母親だ。
鉄の女と言われる道明寺楓という女性も母親だ。
つくしは、楓のそんな一面を目の当たりにし、会いに来てよかったと心から思っていた。






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2017
10.23

もうひとつの橋 31

リムジンの窓越しに見える延々と連なる鋳鉄のフェンス。
その奥にはコロニアル調の大豪邸がある。だがこの場所からその姿を窺うことは出来なかった。
やがて車はスピードを落とし門を抜け、膨大な敷地面積を有する道明寺邸のエントランスへと横付けされようとしていた。

つくしが初めてこの邸を訪れたのは、高校2年生の時、無理やり車に乗せられ連れてこられた。そして最後に訪れたのは、自らの足で歩いて来た。
それは、つくしのことを忘れ他の女を腕に抱き、お前のような女は知らない出て行け、と罵られた日だった。

あの日から17年。
思えば二人が一緒に過ごした時間というのは、とても短かった。
だが二人は、その短さに反比例するような時間を過ごした。まさにジェットコースターのような恋と呼ばれるに相応しい二人の関係がそこにあった。

そんな二人が17年の時を経て再会し、彼女の記憶を失っていた男があの頃と変わらない思いを抱え、そして忘れられた女もやはり同じ思いだったことを告げれば、大人になった二人は、迷うことは無かった。それは、今は亡き「元夫」であり友人であった雄一が背中を押してくれたこともあったが、司に対し決断出来ない女でいることは止めたからだ。


車のエンジンが止まると同時に、外からドアが開けられた。
使用人の出迎えを受け、足を踏み入れたのは、白い大理石の床。
その床は、滑りはしないかと思わずにはいられないほど、ぴかぴかに磨き上げられている。
つくしも、かつてこの邸で使用人として働いた時、床掃除に精を出したことがあった。
あの頃、司に対しての気持ちは、あやふやな思いでしかなく、恋すらよく分からない子供だった。

ふと、あの当時、使用人頭の老女から聞かされた話を思い出す。
彼の生活が荒み始めたのは、初等部の高学年になってからだと聞いた。
喧嘩に明け暮れ、その相手の返り血を浴び平然としている少年。
そんな息子を咎めることなく、息子の素行に関心を持たない母親。
だがそれもそのはずだ。本来なら一番身近にいるはずの母親は、ビジネスが最優先といった考えの元に行動していたのだから、傍にいることなど出来なかったはずだ。
そして少年には、そんな母親の態度が己への無関心だと感じたのだろう。
その悪循環とも言える積み重ねが長年続いた結果、孤独の海を彷徨う少年となった彼がいた。

両親以外の大人によって育てられる。
正直彼がああいった生育環境にあったことを可哀想だと思ったことがあった。
誰もが羨む家に生まれたとしても、母親の存在が希薄なうえ、金で物事の全てが決まるといった考えを持てば、人としてまともに育つはずがないと思うのが当たり前だ。
だから、そんな男と恋に堕ちるとは思いもしなかった。


そして今のつくしは、自ら望み、当時一番つくしのことを嫌っていた女性と会うため、使用人の制服を着た女性の背中を追っていた。
やがて重厚な扉の前で立ち止まり振り返った女性は「どうぞこちらでございます」と声をかけるとそのまま立ち去った。

この扉の向うに道明寺楓がいる。
そう思うと、長い間会う事のなかった人物の17年前の姿が思い浮かぶ。
つくしのことを溝鼠と呼び蔑んだあの頃の道明寺楓を。








ノックの音に返された声はあの頃と変わらない声色。
「どうぞ」と硬質だが上品な声に促され扉の向こう側へと足を踏み入れた。
扉の向うは異世界という訳ではないが、つくしにとって執務デスクの向う側に座る女性は、あの頃から別世界の住人だった。

仕立ての良い黒のスーツにシニヨンに結われた黒髪。
身に付けている装飾品はダイヤのネックレスと揃いのイヤリング。
それは、道明寺HDの社長として相応しい装い。
派手さと言うよりも、上品な装いといったものが感じられた。

つくしは、女性の前まで歩いていくと、デスクの前で立ち止まった。

「ご無沙汰しております」

「本当にご無沙汰ね。牧野さん。あれから何年かしら?」

「はい。17年経ちました」

「そうね。あの子があなたのことを忘れてからもうそんなに時間が経ったのね。でも司はあなたのことを思い出したようね?それで?今日はわたくしにお話があるとか。いったいどんなお話なのかしら?」

「はい。お忙しいところお時間を作っていただき、ありがとうございます」

「いいのよ。わたくしもあなたに会いたいと思っていましたから。どうぞ、そちらにお掛けになって頂戴」


そう言って楓に勧められたつくしは、楓が前に座るのを待ち、会釈をするとソファに浅く腰を下ろした。
すでに耳に入っているはずの、二人の同棲生活。
そしてやはり気づいているであろう二人の結婚の意志。
だからこそ、つくしが会いたいと言った願いを受け入れたのだろう。
だが道明寺楓は、そのことについて自ら口を開くことはしないようだ。

そんな楓に驚いたのは、あの頃と違い楓という女性が放つ印象の強さといったものが変わったと感じていた。
17年前、二人の付き合いが、家族や友人たちの人生を犠牲にしていることを知り、楓の執務室で、司と別れると告げた。あのとき、楓から感じたのは、蔑みの表情と高圧的な態度。その姿に、鉄の女の異名の通り強剛さが感じられた。
そして、たった数歩しか離れていなかった楓との距離だったが、途方もなく隔たりを感じ、それが司とつくしの住む世界の間にあった川だった。

そして、その目に見つめられ怖かった。
だが、今の楓の目は、つくしの目をしっかりと捉えているが、あの頃のような蔑みを浮かべた表情ではなかった。
それならいったい_


「それで。牧野さん。あなたのお話を聞かせてもらえないかしら?そのためにわたくしに会いに来たのでしょ?」

いくら楓の放つ印象の強さが変わり、蔑みが無いとしても、真正面からじっと見つめる視線の鋭さは、あの頃と変わらず有無を言わさないだけの力があり、早く話して頂戴と促されれば、早々に話さなければといった気にさせられ、つくしは急ぎ口を開いた。

「は、はい。私は司さんと結婚したいと思っています。それは二人が17年振りに再会して二人の気持ちがあの頃と変わっていないことを互いに確認しあったからです。ですから今日はお願いに参りました」

つくしは、そこで一旦言葉を切った。それは、コーヒーが運ばれて来たからだ。
そしてメイドが出て行くと、再び口を開き言葉を継いだ。

「ご存知だと思いますが、私は金沢で結婚をし、そして離婚をしています。私は離婚歴のある女です。そんな女ですがどうしても彼と、司さんと一緒にいたいんです。彼は反対されることを見越しています。ですから、親であるあなたに報告することなく入籍を済ませようとしました。でも、私はそんなことはすべきではないと思います。以前あなたはおっしゃっていました。結婚は個人の考えでするものではない。家と家、会社と会社の繋がりのためにするものだと。ですが私が司さんと結婚したところで、道明寺家にも道明寺財閥にも何のメリットもありません。それでも一緒にいたいんです」

あの頃、まだ高校生だというのに、大河原財閥の娘である滋との婚姻の話が持ち上がったことがあった。
そんなこともあり、人生の全てが決められたレールの上を走ることを求められていた男だった。だがその全てを捨て、つくしと一緒にいたいと言った男だった。
つくしは、その言葉を信じた。だから彼が自分のことだけ忘れたことが信じられなかった。
それからの17年間。いつか彼のことが忘れられると思ったが、いつまでたっても忘れられずにいた。
だが今は、二人はあの頃と同じ気持ちでいる。しかしそれは、司の母親である楓にとっては、やはり許されないことなのか。
いや、むしろ、あの頃よりもっと許されないことなのかもしれない。
何しろつくしは、離婚歴のある女なのだから。

「さすがに私もこの年になれば、全てが個人の自由でといった訳にはいかないと知っています。特に司さんのように立場がある人間はしがらみといったものがあるはずです。それでもこれから先は彼と一緒に過ごしたいんです」

かつてのつくしは、楓に向かって自分自身の思いをはっきりと告げていた。
そんな少女時代。今思えばあの頃は、怖い物知らずと言ってもいいほどだった。
そして今また、こうして司の母親に向かって自分の思いを述べることを楓はどう考えているのか。何を馬鹿げたことをと一蹴されるのか。


「そう、あなたのお話はそれだけ?他に言いたいことはないのかしら?それではわたくしの方から言わせて頂くわ。回りくどい言い方はしません。あなたも率直な方が分かりやすいでしょうから。構わないわよ。あなたと司が結婚しても」

つくしを見る目には、言っている言葉以外何も含まれていないといっていた。
昔会った時も、同じように話す言葉以外に何かを感じさせることなどなく、言葉そのものが全てだった。だから、楓の言葉に嘘はないはずだ。

「但し、ひとつ条件があるわ」

「・・条件・・ですか?」

いったいその条件は何なのか。
ビジネスの世界ではあたり前にある交換条件や条件闘争といったもの。
それをこの場で交わそうというのか。
だが、条件が折り合わなければ、結婚は認めないということか。
楓の言わんとする条件。
それがあの時と同じように誰かの犠牲を伴うなら、司に対する想いと、楓の言う条件を、心の中で綱引きすることになるのだろうか。


「ええ。ひとつだけ条件があるわ」





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2017
10.22

もうひとつの橋 30

*性的な要素が含まれますので、閲覧にはご注意下さい。







遠い昔、雪のように冷たい雨に打たれた二人がいた。
あの日、二人は傘を持っておらずただ、激しく降り続ける雨に打たれながら立ちすくんでいた。あの日の別れは、未成年の少年と少女が親の力に負けたとしか言えなかった出来事だった。
それから起きた司が刺され瀕死の重傷を負い、彼女の記憶を忘れたのは、元をただせばやはり司の母親のビジネス手法が招いた惨劇だ。

強権的な手法でビジネスを進めていた司の母親は、鉄の女と呼ばれ一目を置かれていた。そしてその権力の一端は、司が副社長という立場にいる以上まだ母親にあった。
笑った顔など見た事がないと言われる女だが、一ミリでも顔の輪郭にずれがあれば、その表情はまた違ったものになったはずだ。
だが少年と少女が目にしていたのは、冷たさだけが感じられる人間の姿だった。



結局あの事件から17年間、彼女についての記憶が戻らないまま時が過ぎたが、こうして思い出し、あの時掴めなかった手を取ることが出来たことは、忘れ去られていた初恋が戻ってきたとしか言えなかった。

そして今見えるのは、金沢から東京に戻って来ることを決めた彼女が、一緒に暮らすことに同意してくれたこと。そして結婚に同意してくれたことだ。
だが、その前に越えなければならないハードルがあるとすれば、それはやはり昔と変わらず母親の存在だ。










「つくし。お前本当に大丈夫か?」

「大丈夫よ。それにあたし達、もうあの頃と違うのよ?それに入籍する前のご挨拶をするのはあたり前でしょ?それくらいあんたも分るでしょ?」

「まあな・・」

どこか煮え切らない口調で返事をした司に対し『いい大人なんだから』そんな言葉も聞こえてきそうな彼女の口調だった。

だがそのとき、つくしはそうすることで何らかの不安を和らげようとしているのか、司から婚約の印として贈られたダイヤの指輪に触れていた。
司は、本当は今すぐにでも結婚指輪を嵌めたいくらいだ、と言った。だがまだ入籍をしていないのだから、とつくしは断った。
それは、司の指輪を嵌めることの意味を考えれば、やはり互いの両親に話もしていないのに、そんな勝手なことは出来ないといった思いがあるからだ。



数日前、司のペントハウスに越して来たつくしは、荷物の整理を済ませると、彼の母親である楓に会いたいと言った。勿論、その前に自分の両親に話をし、司を引き合わせていた。
司がかつて知っていた彼女の両親は、母親が賑やかで父親は世間の感覚から少しズレているような人間であり、家庭は困窮していた。だがそんな両親も、今では父親は真面目に働き、母親もパートに出ており、地道な人生を送っていた。

遠い昔、彼らは司と娘が結婚することを望んだが、司が彼女のことを忘れ、その望みが叶わないと知り、自分たちが思い描いた事が儚い夢だということに気付くと、娘が経験した哀しみを受け止めた。
親は我が子の幸せを一番に考える。
親は我が子が嘆く姿など見たくはない。
そして過去など忘れ新しい幸せを見つけることを願うはずだ。

それからは、娘が決めたことに反対をすることが無かったと言う。そして雄一と結婚した理由も知っていたようだった。だが初めは反対したと言う。けれど、とっくに成年した娘を相手に何を言っても、恐らく自分が決めたことはやり通すと思ったのだろう。
一度しかない人生の時間をどう使うかは、自分次第といったところもあるが、自分の娘を信頼していることが、雄一との結婚を理解することに繋がったはずだ。
だが親として気になるのは、娘の今度の結婚が2度目になることだったようだ。そのことをしきりと気にしていたが、司は気になどしていないのだから、返事は至って簡単だった。

「彼女に幾つ結婚歴があろうと構いません。それに今どき離婚をしたことが何かの問題になるとは思えません」


その言葉につくしの両親は、司がそれでいいのなら。と言ったが、かつて二人の間を裂こうと躍起になっていた母親に会うことは出来れば避けたい話だが、結婚するからにはどうしても必要だということは勿論理解している。
けれど、あの母親が彼女のことをどう考えているのか。司が突然仕事をキャンセルし金沢に行った理由も耳に入っているはずだ。
そしてこうして二人が一緒に暮らし始めたことも。
だが今の司が、自分の思い通りに動かせる人間でないことを母親も知っている。

あの頃、付き合うことを何度も妨害され、理不尽な別れを余儀なくされたこともあった。
まるで般若のような顔をしていた女は、牧野つくしを道明寺家の敵としてみなし、彼女だけでなく、友人や家族までも標的にしたことがあった。
だがそんな女であっても、愛する人の母親なら会うことに躊躇いはないと言うつくしは、やはりあの頃と変わらない強さといったものを持ち合わせていた。

自らを雑草だと呼んだ女の強さ。
それは司が望んでいた彼女らしさだ。









孤独だった無数の夜があっという間に消えた夜。
それは部屋の隅に置かれた間接照明の明かりが、白いシーツをオレンジ色の海へ変えるとき。
司は、照れて赤らんだつくしの頬に口づけをし、彼女が身に付けていたものを一枚一枚脱がせていた。自分で脱ぐからと言われたが、脱がしたかったのだ。それは大切な贈り物の包みを剥がす行為を彷彿とされるが、まさに司にとってはその通りなのだから。

その最中、いい年をして笑われるかもしれないけど経験がないの、と言った彼女に負い目を感じた司がいた。
それは、かつて好きな女以外に触れることが汚らわしいと言っていた男の罪悪感とも言える思い。その思いを彼女に伝えたいと思ったが何も言えなかった。

司は経験の浅い男ではない。彼女だけを思って眠れない思いを抱えていた男ではない。
女を誘う手続きが必要なかった男の過ぎた年月は、既に知られている。
だが出来ることなら、NYでの出来事は無かったことにしたいと思う。
あの頃の自分に出会うことが出来るなら、きっと刺々しい視線を向けてくるだろうが、それでも過去を思い出せときつく言い、そして自分自身に向かって罵りの言葉を吐くはずだ。
だが過去は変えることは出来ない。
その代わり共に未来を。
これから先二人は永遠に一緒なのだから。








「こんなに女の身体を知ったことはない」

司が呟いたその言葉は、女を抱いたことはあってもそれは愛のためではない。
もし愛情を持って抱けと言われれば、抱くことなどなかった男の言葉としては、最高の賛辞。

そしてこれから抱くのは、単なる男の生理的な欲望や征服欲ではなく、この世でたったひとり欲しかったと望んだ女性だ。
それは純粋な愛の行為。それを知ろうとする男は、彼女に何を与えればいいのか。
もちろん、愛以外何物でもないことは分かっているが、女にとってはじめて愛し合う行為が、最高のものでなければならないと思うのは、彼女が相手だからだ。

そして、本当に心から欲しいものを手に入れたとき、誰にも触れさせないようにと、大切に飾っておきたいといった思いと共に、自分の色に染めたいといった思いが交錯する。
これから先の人生、大切な物は何かと聞かれたとき、今これからの瞬間が司にとってかけがえのない宝物になる。

かつての司にとって自信に満ちた行為も、その唇がつくしの身体の全てを味わい、息が荒くなり、深い窪みを求め、自身の突起をその部分に埋めたいと望んだとき、それが単なる快楽を求めるのではなく、心から愛している人が欲しいといった気持ちから来るものだと知った。


「はじめは痛いかもしれねぇけど、我慢出来るか?」

今まで誰かにそんな言葉をかけた事などない男の口調は、限りなく優しい。

「・・うん・・大丈夫・・その代わり離さないで・・」

漆黒の闇のような黒い瞳は、彼女の顔を両手で挟み、額に唇を落し、そのまま瞼へと触れた。そして頬へと這わせ、最後に唇へ口づけをした。

「心配するな・・・離すわけねぇだろ・・二度と離さねぇから・・」

完璧な美しさと言われる男の身体が求めるのは、華奢な小さな身体。
そしてあの日、掴めなかった小さな手は、司の背中に縋りつき、二度と離れたくないと言っていた。


硬く熱い塊が求めるのは、柔らかな花芯の奥にある女の最も深い部分。
その場所へどこまでも奥深く入り込みたいと身体がぶるり、と震えた。
だが決して大切なものを奪い取る行為ではない。むしろ与えたいものがある。
自分が持っている全てのものを彼女に与えたい。
それが己の血の最後の一滴だとしても全てを彼女に。

「・・けど、痛かったら言えよ?」

「・・うん・・わかってる・・だから・・そんなに・・心配しないで・・」

掠れた声で息を継ぐが、その声さえ呑み込んでしまいたいと思う。
17年という時が流れ、今は大人となった二人。
求めるのは互いの肉体。だがそれには心も伴っていた。
そして身体と心の思いが同じだからこそ、愛し合うことの素晴らしさを感じることが出来るはずだ。

「・・つかさ・・」

「・・・つくし・・好きだ・・」

どんな女にも感じたことがない欲望が、目の前にある小さな身体の全てを欲しがり、震える脚を押し開き抱え上げた。隠されていた入口からトロトロと溢れ出る液体と、ひっそりと隠された小さな果実。
女の全てを晒す行為に、顔を真っ赤にしているが、その恥じらいとはまた別の表情がある。

それは欲しいものを求める迷いのないといった表情。

誰にも開かれなかったその身体は、全てに於いて真摯に取り組むことが当たり前の女からすれば、好きでもない男と関係を結ぶことが無かったということだ。
司はそれが、自分のことを思っていたからと知れば、途端に己の身体が汚らわしいもののように感じた。

だが人は、ひとたび恋をすれば、たとえ何歳であろうと、少年と少女の心に戻る。まさに今の司は、心はあの頃の少年のような思いでいた。だが身体は、あの頃以上に目の前の女を欲し、己のものにしなければといった思いに囚われていた。

女の秘めた場所を見つめたことなどなかった男が、つくしの身体だけは、全てを目に焼き付けておきたいと見つめるが、司の怒張は、すでに舌先で味わった未成熟な部分を自らも味わいたいと、これ以上ないほど硬く張りつめていた。
そして、その思いが切ないほど溢れるのか、先走った汁を頂いた昂りは、自らの意志を持ち、より一層前へ突き出されていた。

「・・俺はお前を離さねぇからな・・しっかり掴まえてやる」

自らの身体で濡れた堅い扉を押し開き壊す行為。
組み敷いた身体がのけ反ったが、狭い径路を躊躇なく進んだ。
慣れない異物の侵入に、押し返そうとする力が働くが、まだ誰も訪れたことがない場所へ辿り着いた途端、脳が痺れるような感覚に身体はもっと深い部分を求め、奥へ奥へと侵入を試みた。そして深い場所で締め付けられるたび、もっと欲しいと渇望が込み上げる。
暫くじっとしていたが、動かずにいることに耐えられなくなると、ゆっくりと律動を始めた。

「・・ああッ・・はぁ・・ああっ・・」

身体を動かすたび上がる声が愛おしく、そして締め付ける襞の温かさが司を快楽の絶頂へ連れて行こうとするが、かつて彼がこんなにも切なげに眉根を寄せ、女を見つめる姿があっただろうか。
それは、これほどぴたりと嵌まる肉体が過去にあったはずもなく、唇を塞げば感じる柔らかさと温かさは、他の女では感じたことなどなかったからだ。

「・・つくし・・愛してる・・お前だけを愛してる・・」

お前じゃなきゃダメだ、と叫んだあの日から己の命より愛おしと欲した女。
過去に身体を重ねた女はいたが、心など求めたことはなく、重ねたのはただの肉の塊でしかなかった。
だが今は違う。身体の全てを触れ合わせたい。
唇も頬も頭の先から爪先まで全てを。

「・・俺はもっと奥まで入りたい。お前の・・全てが欲しい」

その思いに応えるように、小さな身体がギュッと締め付ける。

「・・いいわ・・もっとちょうだい・・あんたを・・」

「・・ああやるよ・・一番奥まで・・入ってやる・・」

司の目の裡に黒い炎が宿り、男の原始的本能とも言える行為は、むさぼるように彼女を求めた。そして今は百万の言葉より、最も深い部分まで侵入して己の全てを与えたい。
かつて好きな女のいる場所なら、たとえ地獄にでも追いかけて行くと言った男は、今でもその思いは変わることはない。
他の女とでは決して上げることなどなかった野性の叫び声と言える咆哮を上げることが出来るのも彼女だからだ。
そして彼女と真摯に愛を交すことは、歓び以外の何ものでもなく、背中に回された腕と、離さないでと言って背中に食い込む爪の痛みが、彼女の身体の痛み以上になればいいと願う。

「・・つくし、おまえを離さねぇからな・・」

初めはゆっくりだった行為も、やがて緩急をつけ何度も繰り返しながら快楽の頂点を目指す。だが耐えがたいほどの締め付けは、まるで司の身体の水分をすべて搾り取ろうとしているようだ。けれど、司の身体と心が欲するものは、彼女の身体の中にだけにあり、離れることなど出来なかった。そして勿論離れようなど考えもしなかった。出来ることなら一生でも繋がっていたいと思うほど彼女が欲しかった。

そこは自分だけの庭。誰ひとり侵入しなかった自分だけの花が咲く場所。
その場所へ初めて脚を踏み入れた獣の雄が見たのは、今まで知らなかった男と女の世界。
それは身体を交えていたとしても純愛ともいえる感情だ。
遠い昔、手を握ることさえ恥ずかしがった女の全てを手に入れたことが嬉しかった。


やがてもっと奥まで入りたいと繋がりを深め、激しく腰の振りを繰り返し、女が絶頂を迎えるのを見届けると、獣のごとく咆哮し白い粘液を吐き出した。











息も絶え絶えといった状況が、初めての女に大きな負担を与えたとしても、呼吸が荒い以外問題はないはずだ。
司は枕に片肘をつき、つくしの額にかかった髪をそっと掻き上げた。

「・・つくし・・大丈夫か?」

口を開くが声も出せない様子で頷く姿が愛おしく、司は額に口づけを落した。
だが体力を使い果たしたのか、半睡状態に陥った顔は小さく笑っただけで、やはり何も言わなかった。しかしそれが性交の後の安らいだ顔だとすれば、夢の中に堕ちて行く姿が愛おしいと感じられた。

これまでの女との関係では考えられなかったとろりとした気分。
決して体力を使い果たした訳ではないが、司にも眠りの波が訪れようとしていた。

やがて腕の中から軽やかな寝息が聞えれば、司は二人の上に上掛けを引き寄せ、身体を優しく抱きしめた。
そして満ちてきた眠りの波に自らの身を任せた。





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2017
10.20

もうひとつの橋 29

 
「それにしても、先輩って本当に持ち物が少ないですよね?」

桜子が隣の部屋から声をかけてきた。
それはつくしの部屋の入口に立ち、中を覗き込むような姿勢だ。

「そう?」

つくしは、桜子の声がした方を振り返った。
引っ越しすることになり、それならば、と桜子が金沢旅行を兼ね、荷物の片づけを手伝いますと言ってつくしの元を訪れていた。

「そうですよ。だってこの街に住んで何年になります?絵本作家の方のためにこの街へ移り住んで、それから雄一さんと暮らして・・」

「そうね、5年になるかな・・」

桜子の言う通り、仕事で担当した女性絵本作家の最期を看取るため、この街へ住まいを移し、それから雄一と知り合い、互いの境遇を理解した上で、友人として結婚し2年間一緒に暮らした。それは縁もゆかりもなかった土地で暮らした長いようで短かった生活だ。

「5年ですか?それでこれだけしか荷物がないなんて・・。確かに先輩は昔から物を大切に使っていらっしゃいましたから分かりますけど・・食器にしてももう少しあってもよさそうなものですけど、本当に最低限ですね?」

最低限と言われ、確かにその通りだと思ったが、無駄がなくていいと思うのは、考え方の違いだろう。そして桜子から見れば、つくしの荷物の少なさは驚異的な事と映るようだ。
今着ている洋服にしてもそうだが、最新流行ファッションに身を包んだ友人とは雲泥の差だ。何しろつくしが今着ている服は、8年前にセールで買ったお気に入りの若草色をした春物ニットのアンサンブルなのだから。だが、流行に左右されないデザインであり、きちんと管理されていることから、とても8年前の洋服だとは思えなかった。

「だって使う物っていつも同じでしょ?それにシンプルで使い勝手がいいものがあればそれでいいのよ」

「それは先輩の理論ですから。私みたいにバーを経営してると、グラスひとつにしても拘りますからね?勿論お客様にお出しするお皿なんて窯元に頼んで焼いてもらってるくらいなんですよ?今回も金沢に来たついでに九谷焼の窯元でお皿をお願いしてきました。それにしても先輩も金沢に住んでいたんですから、九谷焼のお皿でも使えばいいのに、どうしてこんな真っ白なお皿ばかりなんでしょうね?」

桜子はそういって手にしている白い皿に目を落した。
まさにそれは、カレーにもパスタにも何でも使えますといった皿であり、割れてもすぐに替えが利くような皿だ。下手をすると100均で売っている物ではないかとさえ思う。
だが白いお皿が悪いという訳ではない。ただ、桜子的感覚からいけば、真っ白なお皿は淋しく感じていた。

「だって実用的なんだもの。それに白いお皿はどんな料理にでも合わせられるからいいのよ」

実に現実的な答えだが、それでは料理は舌だけではなく、目でも楽しむものといった考えを真っ向から否定されてしまいそうになる。そして、全身整形をするほど美意識が高い桜子にすれば、それが納得出来ずにいた。

「・・先輩。別に白が悪いって言うんじゃありません。ただお皿っていうのは、料理を引き立てる役割があるんですよ?大した料理じゃなくても素敵なお皿に盛りつけるだけで華やかで美味しそうな料理に見えるんですからね?先輩が得意なサバの味噌煮だって九谷焼に盛りつければ鯛に見えるはずですから!」

だが桜子が口にした九谷焼と言えば、金沢の伝統的な色絵の磁器だが、青や黄や緑といった濃色を使われており、豪華な色使いと派手な絵柄が特徴であり、ごく一般的な家庭料理には向かないような気がしていた。それでも、頂きものとして幾つかの器が箱から出されることなく眠っていた。そして、何故そのままになっているかには、もうひとつ理由があった。
それは勿体なくて普段に使うことが躊躇われていたのだ。

「それに東京に戻ったら道明寺さんと暮らすわけですから、ここにある真っ白なお皿はもう必要ないと思いますが、それでも持って行くんですか?」

「・・うん。だってこのマンションは雄一さんの奥様の物だし、いずれにしてもあたしと雄一さんが使ってた食器なんて要らないはずだから・・」

それなら捨てればいいものを、と言いかけた桜子は、その言葉を呑み込んだ。
桜子から見れば、あまりの物の少なさに、これでは一時ブームとなった断捨離はこの人には必要ないと実感し、もし今自分が手にしている皿を捨てれば、番町皿屋敷ではないが、お皿の数が足りない、と恨まれるような気がして思わず首を横に振った。

「確かにそれはそうですよね・・。いくら先輩とは単なる同居人だったとしても、別の女性と一緒に使ってた食器なんて要らないですよね?それに奥様、弁護士さんでしたよね?
いずれ東京に戻ってお仕事に復帰されるんですよね?そうなるとこのマンションは処分されるってことですよね?」

桜子は興味津々といった感じで聞いていた。

「・・うん。まだ暫くは住んでいいって言ってくれたけど・・あたしがいつまでもここに居ても仕方がないし・・それに・・」

「そうですよね。何しろ道明寺さんがお迎えに来て下さったんですから」

「・・うん・・」

少し恥ずかしそうに頷くつくしに、桜子はこれで長年の苦労が報われたと感じていた。

「でもね、先輩。私が道明寺さんからお預かりした名刺が先輩の元に届いてから、いつ道明寺さんが行動に移されるのかと思っていましたけど、意外と遅かったんですよね?本当に最初はあの道明寺さんがって思いましたけど、あの方も大人になったということで、考えることもあったんでしょうね?でもそこから先の先輩の決断も早かったです。やっぱり雄一さんの存在が大きかったのは分かりますけど昔の先輩ならお迎えに来られても、こんなに早く東京に戻ることを決断出来るとは思えませんから」


雄一の存在が大きかった。
桜子のこの言葉は間違っていない。
しつこいくらいつくしの背中を押した雄一は、彼女の性格を分かっていた。
それこそ、血を別けた自分の妹のように最期までつくしのことを気遣っていた。
本当にいい人だった。雄一の後押しがなければ、足を踏み出すことを躊躇っていたはずだ。
そしてそんなつくしの考えが伝わったのか、桜子は言った。

「先輩。私は暫くドイツで暮らしていましたから、周りはキリスト教徒の友人が多かったんです。そんなこともあって聖書に親しむことが多かったんですが、旧約聖書の中にこんな言葉があります。『何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある』
つまり生まれるのも、死ぬのも、泣くのも、微笑むのもすべてが時に従うようになっている。そんな意味です。だから先輩が雄一さんに出会ったのも、別れを迎えたのも、決められていたことなんです。それから道明寺さんと再びこうして歩んで行こうと決めたのも「時」によって決められていたことなんです。だから、先輩はこれから先、迷う必要はないと言うことですからね!これは決められた「時」なんですから今更時を戻さないで下さいね!」

ここまで自分のことを知られているというのか、心配しているというのか、桜子の態度は鬼気迫るものがある。だが長い間つくしの心配をして、NYまで足を運び、彼女のために心を砕いてくれたのは桜子だ。

「でも今の先輩の気持ちは、勢いがついて止まらないって感じに見えるので心配はしていません。・・例えるなら・・そうですね・・運動会の玉転がしみたいなものですね?」

「・・玉転がし?」

「そうです。赤白に別れて大きな玉を転がして行く競技です。でも転がしている途中で手を離しちゃってゴロゴロと転がって行っていつのまにか自分が追いつけないほどスピードが出ちゃって慌てて追いかけて行くアレです」

と言いつつ、桜子はつくしの反応を見ていた。
だが逆につくしは、桜子の口から出た思わぬ言葉に素朴な疑問をぶつけてみた。

「ねえ、桜子・・あんた玉転がしなんてやったことがあるの?」

「いいえ。ありません。でも運動会の映像で見たんです。可愛いですね、小学生は。小さな自分の身体より大きな玉を転がしているうちに加速がついて、そのまま転がっていった場面をです。あの玉は先輩の気持ちと同じじゃないですか?もう止められないと言う言葉を使うのは間違っているかもしれませんが、少なくとも、先輩はご自分の気持ちをきちんと道明寺さんに伝えることが出来たんですから良かったです。それにその玉の転がって行く先も見えているんですから何も迷う必要なんてありませんからね」

気持の行先は見えているという桜子は、他人の気持ちの動きに敏感だ。特に怪しい人間に対し向けられる彼女のアンテナの感度は高く、外れたことがない。
そして桜子の言葉はいつもはっきりしていて、駄目なものは駄目というタイプ。その代わり、自分が好きな人間のためには、性別は関係無しに身体を張る。本当におかしな話だが、つくしが嬉しそうに笑えば、彼女も笑う。それはつくしが嬉しいと自分も嬉しくなるからだ。

「でも道明寺さんは昔から世の中の男性と違って先輩が言いにくそうにしてることでも、なんとか分ろうと努力する人ですから男性としては貴重な方なんですよ?何しろ世の中の殆どの男性は女性が思っていることを分かろうとする努力さえしないんですから」

妙に説得力があるのは、桜子の経験が言わせるのだろう。
恋多き女の恋の話は、今まで沢山聞かされていた。だが桜子が決して結婚を避けて恋をしているのではない。ただ、彼女の場合は恋の駆け引きが好き、といった傾向にあり、恋愛ハンター体質と言ってもいいはずだ。

「でも先輩。本当に良かったですね。道明寺さんが来てくれて。それに雄一さんに出会えて・・」

少ししんみりとした桜子の口調に、雄一を思う桜子の気持ちを感じた。
桜子は、間もなくこの地を離れるつくしと雄一の墓参りをした。そして過去に一度だけ会ったことがある雄一の静かに漂う雰囲気を感じ、手を合せていた。そして雄一さんは本当にいい人でした。先輩も彼のような友人がいて良かったですね、と言った。

「・・先輩、もうすぐこの街ともお別れですけど、またいつでも訪ねてくることは出来ますから」

つくしも桜子も考えたことは同じだった。
たとえ亡くなった友人であっても、友人であることに変わりなく、遠い街にいても心のどこかで思うことが彼の供養になるということを。

「うん。そうだよね・・」

「そうですよ!じゃあ、このお皿も箱に詰めますね。早く終わらせてこの街で一番美味しい料理を食べに行きましょうよ!私、金沢で食べる魚料理を楽しみにしてたんです。やっぱり日本海の魚は違いますから!それに東京でこちらの蔵元のお酒を頂いたんですが、虜になったんです。だからうちの店にも置いたんですよ?バーなのに日本酒があるなんて可笑しいでしょ?でも本当に美味しいんです。だからいっそのこと、そのお酒も直接蔵元から買い付けようかと思ってるくらいなんです」

桜子が酔い潰れるのを見た事がないが、それは仕事柄といったこともあるのだろう。
けれど、本音は誰かの胸で酔い潰れてみたいと思っているはずだ。
彼女は、自分のことよりつくしの事ばかり心配しているが、それもそろそろ開放されるはずだ。

桜子という女性は、見た目だけでは分からないが、浪花節的な人生観を持ち、藩主に尽くす家来のような忠誠心を持っている。それが何故かつくしに対し向けられるのだが、そんな彼女にどうしてそこまで、と問えば、友情ですから、とあっさりとかわすはずだ。
そしてその態度は、一見冷たいように見えるが、火のように熱い心を持っている女性が三条桜子だ。そんな彼女は、つくしにとっても大切な友人だ。これからもずっと。
そして、今まで支えて来てくれた桜子には感謝の言葉しかない。


「じゃあ香林坊(金沢の繁華街)に手頃な割烹があるんだけど・・そこでもいい?今夜はあたしが奢るからね!」

「本当ですか?先輩が連れて行ってくれるお店なら美味しいに決まってますよね?そこでいいですから行きましょうよ!そのためにも早く荷造しますね!」








つくしは、明後日この部屋を出て東京へ引っ越す。
この街に来た時も身軽だったが、去る時も身軽だ。
少ない荷物だったが、それでも、どれを捨て、どれを残すか考えながらの作業だった。
縁があって移り住んだこの街には、沢山の思い出がある。
そう思った途端、寂しくなったが、あの時、手を掴んでもらえなかった人に再会し、友人から兄のような存在へと変わった雄一に助けられ、足を踏み出す決意をした。

東京で待つ司と一緒に踏み出す新たな未来のために。





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2017
10.19

もうひとつの橋 28

人と人との出会いは偶然ではなく特別なこと。
そんな言葉があるが、人の運命は母親のお腹の中に宿った瞬間に決まっているとすれば、司とつくしの運命は二人が互いの母親のお腹に宿った時、決まった。
それは、今までの二人がそれぞれの時を一緒に過ごした人間もそうだと言うのなら、雄一とつくしが出会ったことも運命のひとつ。そして司が雄一と出会ったのも運命だ。

そしてそれが特別なことであることは、今のつくしを見れば分る。

『四十九日が終ったら迎えに来て・・』

その言葉は、雄一がいたからこそ言えた言葉だ。
彼女にとってかけがえのない友人だった雄一は、彼女に未来を見つめることを教えてくれた。
勿論、その言葉を文字通り受け止めるほど司はバカではない。
司は雄一に話したいことがあったからここに来た。
そしてそれは、つくしにも一緒に聞いてもらいたいことだった。
だから彼女が戻って来るのを待っていた。







つくしは、何か言う代わりに司の顔をじっと見ていたが、早く車に乗ってくれと言われ、慌てて乗り込んだが、春先とは言え、まだ寒いこの季節。車内は暖房が利いており、彼女はコートを脱ぐと、丁寧にたたみ、膝の上へ置いた。

「どうした?俺の顔に何かついてるか?」

あまりにも自分をじっと見つめるつくしに、司は聞いた。

「・・・な、何も・・。あの・・雄一さんのためにわざわざ来てくれたの?」

意外そうに司を見る顔は、彼が北陸の地にいることを何故か信じられないようだ。
今日が日曜とはいえ、司ほどの立場なれば、日曜だからといって家でのんびり過ごせる人間ではないことを知っている。もっとも、彼がこうと決めたことは、誰に憚ることなく行動に移すことも知っている。

「たとえお前と雄一が名ばかりの夫婦だったとしても、あいつはお前の夫だった男だ。挨拶するのはあたり前だ。それにあいつには義理を通す義務があると思っている」

勿論、今の司は二人が夫婦だったことは気になどしていない。
夫だったとは言え、本当の夫婦ではなかったのだから。
むしろ、気にしなければならないのは、自分の17年間を振り返った時のことだ。
それは彼女と雄一が本当の夫婦だったとしても、彼らは互いに誠実であったはずだ、だから彼らと自分を比べれば、自分の行為は褒められたものではないからだ。
そして司が彼女を忘れていたとしても、あれほど三条が言って来たのに、牧野つくしという存在など端から頭の中になかったように無視していたことが、更に彼女を苦しめた結果となった。

そうだ。彼女が結婚していたことよりも、自分の過去は事実として記録されたものがある。その事の方が、罪とすれば余程大きいからだ。
それに彼女を忘れたのは自分だ。だから彼女のこれまでの人生にどんなことがあったとしても、何も言えない立場であることは十分承知している。だが、彼女の想いがブレる事がなかったことを知った。そして雄一という男が、友情という垣根を二人の間に築き、そして彼女の誠実な態度があったからこそ、やり直すことが出来たのだ。

男と女の間の友情を信じろと言われれば、類と彼女のことを思うが、まさにそれと同じだということだ。遠い昔、類に牧野をお前に託すから幸せにしてやれと言われた。だが未だに幸せにすることが出来ずにいた。恐らく類は、そんな男に呆れているはずだ。


「いいか。俺は雄一からお前を託された。だからこうすることが男としてのケジメだと思う。・・それに人は四十九日経てば仏に成る。あいつの魂はもうフラフラとその辺を彷徨うことなく墓にいる。それなら託されたお前を確かに幸せにしてやることを仏になったあいつに報告する義務がある」


司は信仰心が厚い人間ではない。
けれど、人の死は敬意をもって敬うべきことだと思っている。
人間に魂があるといったことを信じているのか、と言われればそれを感じたことがないのだから信じてはいない。そして目に映らないものを信じることはしない。それがビジネスの最前線で生きる男の考え方であり、現実主義者である男の思考の全てだからだ。
それでも、自分がこの世にいるのは、そして生かされているのは、次の時代への命のリレーといったものがあるからだ。

雄一との間はシンプルな友情と言える関係。
だが、シンプルだからこそ彼の言葉は心に響いた。
だから司は雄一が静かに眠りついた今、彼女のことは心配するなと言う為に、再び会いに来た。



「た、託されたってなによそれ。・・あたしは物じゃないわ!」

つくしは、17年前、自分は自分のものであって誰のものでもない、というあの頃の少女に戻って言っていた。ひとつ年下の彼女だが、二人の間に年齢による隔たりなど当然なく、あったのはただ格差社会に象徴される富の配分の違いだけだ。
だがそれを物ともせず司に立ち向かって来たのがつくしだった。

「まあそう怒るな。・・けど、あいつもおまえを貸してくれなんて言葉を使ったってお前に知られたら、あたしは物じゃないって怒るだろうって言ってたがな」

今の司を見つめる黒い瞳には、それは自分ではなく雄一が与えた輝きといったものが感じられた。
男として考えたとき、その輝きを与えたのが自分であって欲しかった。
正直に言えば二人の関係を妬いた。
だが今彼女があの頃と変わらない口を利いてくれるのは、雄一のお陰だ。
そして彼女も学生時代を思い出したに違いなかった。
生意気な女だと言われた頃から二人が恋に堕ちたと言われるまでの間を。
赤札と称するものを貼りターゲットにして苛めたこと。
嫌がる彼女を無理矢理車の乗せ、世田谷の邸へとさらったこと。
親友である類と彼女を巡って争ったこと。

あのとき、暴力に明け暮れていた男が芽生えた初恋から、痛みと、耐える心と、思いやりといったものを学んだ。そしてそれは、つくしのことを忘れるまで司の心にあった。

「そう・・彼がそんなことを・・」

彼女の瞳に一瞬憂いが宿った。

「ああ。あいつと初めて会った時、そう言った。あの頃のあいつには、お前しかいなかった。だからお前のことを貸してくれと言った。その気持ちがあの時の正直な気持ちだったことは間違いない。自分のことを最期まで見守ってくれる誰かがいて欲しいって思うのは、人として思うのは当然だ。・・けど、あいつも最期は好きだった女と一緒になれたんだ。旅に出るには最高の最期になったはずだ。・・お前もあれで良かったと思ったんだろ?」

「うん。あれで良かったと思ってるよ・・。だって雄一さんの顔、幸せそうだった・・」

躊躇うことなく口をついた言葉。
そしてつくしは、彼の最期の瞬間を思い出していた。
意識が混濁する前、驚くほど冷静だった。そして駆けつけた兄夫婦を見ていた。
やがて意識が混濁すると、付き添った看護師から話しかけてあげて下さい。たとえ意識がなくても、聞こえていますよ。と言われ皆で懸命に呼びかけた。
何を話したか。それは、ありがとうといった感謝の気持ちと愛してるの言葉。手を握った妻は何度も何度も呼びかけた。
人間の最期の瞬間というのは、あっけないというが、雄一は最期に大きな呼吸をし、やがて頬を一筋の涙が流れ落ち、呼吸が止まった。
それが命の灯が尽きた瞬間だったが、雄一は最期まで前向きだった。
今思い出しても涙が零れそうになるが、つくしはそれをグッと堪えていた。





「あいつ俺たちのこと最期まで気にしてくれただろ?」

司はつくしの表情を見ていた。
零れ落ちそうな涙を堪え、耐えている顔を。

「うん。最期の最期まで気にしてくれた。本当の兄みたいにね・・でもあたしには兄はいないから分らないけど、いたら彼みたいな人がいいと思ってた・・」

「そうか。・・お前、いい女になったな」

「え?」

「何をそんなに驚いてる?俺がいい女だって言ったらその通りだ。裏も表もねぇ正真正銘の気持ちだ。・・それにしてもお前は昔から頼まれもしねぇのに、他人の心の痛みに寄り添うことが好きだったよな?三条にしてもそうだが、他にもいたよな?騙されても恨むどころか相手の懐深くに飛び込んでいく女だった。まあ、そこが最終的に相手がお前を人として好きになるきっかけだろうが、お前は昔からある意味捨て身の女だったな」

彼女は本当にいい女になったと思っていた。人の心の痛みを感じることが出来るのは、あの当時と同じだが、まさに大切な人には誠心誠意尽くす女だと思った。
だからこそ、人に気に入られ好かれるのだが、もうこれ以上他の男に気に入られる必要はない。これから先は忘れていた人生の続きを彼女と一緒に過ごしたい。
そして、どんなに固く乾いたパンもミルクに浸されれば柔らかさを取り戻していくように司の心を解したのは、彼女だけだ。後にも先にも彼女だけだ。
今はもうあの頃の少女のような頑なさはないが、だがいつまだあの頑なさが現れるとも知れない。そう思うから雄一の前で言いたいことがあった。


「なあ・・お前の気持ちはあの頃と変わってねぇって言ったよな?それに東京に戻るって言ったよな?迎えに来てって言ったよな?だったら俺の所に来ればいい。俺と暮らせばいい」

司は自分の思いを告げ反応を窺った。

「それって・・」

「結婚だ。それに離婚後100日経過しなければ再婚出来ない話は、クリアしたから関係ないはずだ。それにお前が口にする前に言っておくが、お前が2度目の結婚だからって誰かが反対するとかそういったことは気にするな。今の世の中そんなことはよくある話だ。離婚が人生の汚点だなんて考えるような人間ばかりいるとは思うな。それにそんなことを言う奴がいたら俺が_」

そこまで言いかけたが、彼女が口を開くと彼は口を閉じた。
そしてどんな答えが返されるのか待った。

「・・それ・・本気なの?」

「ああ。勿論本気だ。本気で言ってる。俺はお前に対し嘘をついたことはなかったはずだ。・・ただお前の事を忘れていた頃、言った言葉は・・・あれは・・あの時は本当の自分じゃなかった。それに過去に女がいたとしても本気になった女はいなかった。代用品ですらなかった・・。
クソッ・・なんでこんな話をしなきゃならねぇんだ・・とにかく俺はお前と暮らしたい。失ってしまった時間を取り戻したい。もしまだ結婚出来ねぇって言うなら、一緒に暮らすだけでもいい」

司は、胸の裡にあった思いを一気に吐き出すと返事を待った。
だが大きな黒い瞳は司をじっと見つめているが、何と答えようかと考えているのが見て取れた。直ぐにイエスと言えばいいものの、考えるのはあたり前という思い反面、直ぐにイエスと言ってくれるものだと思っていただけに、また別の言葉を探さなければならないのかと司は考えた。
そして、あの頃とは違い大人になった彼女だが、その瞳はあの頃と変わっておらず、真っ直ぐな力を感じていた。

「・・なあ牧野・・ひとつの幕が閉じてまた別の幕が上がる・・人生の舞台なんてそんなモンだろ?最初の舞台は本物の舞台じゃなかった・・稽古みたいなものだ。・・けど稽古はもう終わった。俺はお前と俺とで新しい舞台を始めたい。主演は俺とお前だ。それに俺は結婚したら妻を愛してると、お前を愛してると公言して歩いてやる。舞台の上で大声で叫んでやる。そうすりゃお前が2度目だからと言ってどうこう言うような人間なんて出てこねぇはずだ」

もしも彼女が一度結婚していることを気にするなら、今の司は自分の持てる力を知っている。彼女に仇をなすような人間を許しはしない。彼女を傷つける人間を許しはしない。
そんな思いを込め言った。

だが彼女は司の言葉には答えず、暫く黙ったまま黒い大きな瞳で司を正視していた。
やがて車は、篠田家の菩提寺に着いた。
そこでつくしは、行きましょうと言い、コートを手に車を降りた。







そこは、由緒ある寺の格式ある墓地で、つい先ほど雄一の骨が収められた場所だ。
あの時は雨が降っていたこともあり、納骨と住職が上げる読経のため、雨除けの簡易テントが張られていたが、今は既に撤去され、少し傾いた陽の光りが黒々とした墓石に当たり石は乾いていた。だが、視線を少し上へと上げれば、遠くにはまだ白い雪を頂いた山が見えた。地上は雨だったが、標高の高い山の山頂では、雪が降っていたのだ。


「・・雄一さん。彼が・・道明寺が来てくれたわよ。・・それからね、報告があるの。あたし、彼に結婚して欲しいって言われた・・どうすればいいと思うなんて聞かないからね。
あたしね、雄一さんが背中を押してくれなかった東京へ帰ろうなんて思わなかった。でもこの人ね、あたしが四十九日が終ったら迎えに来てって言ったんだけど、本当に今日来たの。
・・・昔は日本語バカでよく分からない日本語を使ってた男だったけど、アメリカ暮らしが長いから、益々日本語が不自由になったのかと思ってた・・でもそれは違ったみたい。今日はね、雄一さんに義理を通しに来たんだって。・・男の義理なんて女からすればバカみたいに思えることがあるけど、聞いてくれる?」

だが、そう言ったつくしの声は湿っていた。


司は墓の前にしゃがむと手を合わせた。

「雄一。お前に言われた通り俺はこいつを幸せにしてやるつもりだ。今日はそれを伝えるためにここに来た。こいつはまさか俺がお前の納骨に合わせて来るとは思ってなかったようだが、俺は迎えに来いと言われた時、この日と決めていた。それにお前に言うなら今日がいいと思ったからだ。お前は俺と違って間違っても地獄に行くことなくあの世で仏になったことは分かってる。つまり今日は、お前にとってはめでたい日だ。だからその日に俺はこいつに結婚してくれと言った。お前とのことはケジメがついたはずだが、物事はさっさと行動しねぇと、こいつは迷い始める。お前は知らないかもしれないが、過去にそんなことがあってな・・・だから油断は出来ない女だ。・・雄一。お前証人になってくれるよな。こいつだってお前の前でダメだなんて言葉が言えるとは思ってねぇから」

司は、そこで同じように隣にしゃがんだつくしの瞳の底を覗き込むように言った。

「お前、仏になった雄一の前で嘘をつけるか?」

彼女は、黙ったまま暫く司の目を見つめたままだったが、静に首を横に振った。

「・・嘘はつけないよ。だって雄一さんはあたしの友人だったけど、兄だから・・。
・・・道明寺、さっきの返事だけどあたしで本当にいいの?あたしの気持ちは前も言ったけど、あの頃と同じ。でもあたしは・・一度結婚してるのよ?それでもいいの?」

「バカかお前は。さっきも言っただろうが。過去を気にするな。・・んなこと気にしてたら人生楽しめねぇぞ?他人の目を気にしてどうする?他人がお前を幸せにしてくれるか?俺がお前を幸せにしてやるって言ってんだ。・・だから他人意見は聞くな。俺の言葉だけ信じていればいい。本当ならこの言葉は17年前にお前に言うはずだった言葉だ・・。けどこんなにも時間がかかっちまって悪かったと思ってる。・・だけどな、これからはその分までお前を幸せにしてみせる。だから何も心配することはねぇ。俺について来てくれ。いや、違うな。俺と一緒にこれからの人生を歩んでくれ・・・って・・なあ、そろそろ立ち上がってもいいか?いつまでもこの姿勢じゃ流石に辛いものがある」

司はしゃがみ込んだ姿勢から立ち上るとつくしに手を差し出した。
立ち上って手を差し出す一連の動作さえ計算されたような美しさを感じる男。
彼女はその手を取り立ち上がった。
その間、司は彼女をじっと見ていた。彼女の視線が彼の視線を捉えるまでずっと。

「・・それで?お前の返事を聞かせてくれ」

その声に斜め下から見上げる黒い瞳は男の顔を見つめるが、見上げるその角度はあの頃と変わらずで、25センチ下の彼女の背の高さは、ハイヒールを履いた分だけ高くなっているが、それでもまだかなり低い。昔、二人でこんな風に話をしていたことを思い出す。
そして、下から自分を見つめる姿に心をときめかせていたことを。


「・・あんたはあたしが昔知ってた人によく似てるの」

司はその言葉に一瞬バスを追いかけたとき、彼女と一緒にいた男のことを言っているのかと心が軋んだが、その口調は明らかに冗談を言っているように感じられ、ホッと胸を撫で下ろす。

「へぇそうか。俺に似てるってことはいい男だったんだろ?」

「そうよ。いい男だったわよ。・・俺みたいないい男に気に入られるなんてお前は運がいいって言ってた・・。だけどもう忘れたわ。その代わり、今は新しい恋人が見つかったから」

柔らかな微笑みを浮かべたその顔は、どこか挑発するような態度だが、司はその微笑みの意味を理解した。よく似た男とは自分のことを言っていると。そして、そのことに直ぐに気付き、彼女の話に会話を合わせられることが嬉しく、こうした話をすることで、二人の関係がまたひとつ前に進んで行くと感じられ懐かしさが込み上げる。

「・・そうか・・その男のことは忘れたか・・・」

「ええ。・・時々思い出すかもしれないけど、大昔のことだから殆ど忘れたわ」

調子にのったように言い放つその言葉が生意気だがどこか小気味よく、まるで高校時代、二人が丁々発止とやりあっていた頃のように思え、再び懐かしさが込み上げた。

「へぇ。その男も気の毒だな。それに残念だったな。こんなにいい女に忘れられる男なんぞバカの極みだ」

司は自分自身をバカの極みと言った。
自分の事がバカだと言える男は、彼女にもバカだと罵られることを望んでいた。
まだどこか遠慮があるなら、言いたいことを口に出すことに躊躇いがあるなら、これを機に躊躇うことは絶対にして欲しくない。それは彼女のためでもあり、司がそうして欲しいのだ。
彼女を忘れた男は、罵られて当然なのだから。


「そうでしょ?その男はね、あたしのこと忘れたの。・・あたしを忘れるなんて大バカ者よね。・・・だから今度忘れたら絶対に許さないんだから!」

それは紛れもない彼女の本音だが、口元に自然の笑みが浮かんだように見えた。

「絶対に許さないって?」

「そうよ!もし忘れたら二度と口なんか利いてやらないから!・・それにもし戻って来たら今度は殴ってやるんだから!」

「怖ぇな・・昔ゲーセンで見たお前のパンチは相当だったからな。殴られた男は顔が変わるんじゃねぇの?」

司は言って笑って見せた。
こうした会話が交わせるのが楽しかった。

「そうよ!いくらいい男だとしても、顔が変わるくらい殴ってやるわ!」

怒ることに勢いがついたように言う彼女の頬は赤く染まっているが、それは怒りのせいのか。それともまだ肌寒いこの季節のせいなのか。どちらにしても可愛らしいと感じていた。

「いいんじゃねぇの?顔が変わっても。その男がそれでその女に許してもらえるならそれで本望だろ。それにその男の顔が好きで付き合ってた訳じゃねぇんだろ?」

「当たり前よ!あたしが外見やお金に惑わされるって思ってるなら、その男はあたしのことなんて全然わかってなかったことになるもの!」

司の言葉を強い調子で否定する彼女の言葉は正しい。
彼女のことを分からない男は多いかもしれないが、司だけは、彼女がどんな女か知っている。
素直じゃない。そして意地っ張り。自分が信じることに対し信念を貫く。だが心優しく、それが欠点になることもある。だから誰かが守ってやらなきゃいけない女だが、それが嫌だという。そんな女は男から見ればややこしい女だが、それでも司にとっては彼女が一番いい女だ。そして彼女だけがあの頃の彼の心に沿った。
いつの間にか心の中にいた。
そしてそのことに気付いたときから、一瞬たりとも彼女のことが頭から離れなくなっていた。

そんな女は、司の目の前で涙ぐみ、道明寺のバカ。大バカ。あんたなんか犬に噛まれて死んじゃえばいいのよ、と呟いているが、最後に呟いた「いいわ。あんたと結婚するわ。その代りあたしのこと忘れたら犬の群れの中に放り込むからね!それから雄一さんに言って取り憑いてもらうから!」の言葉に司は笑いながら彼女を力一杯抱きしめていた。





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2017
10.17

もうひとつの橋 27

つくしは、降った雨がまだ残る道を、黒い靴のヒールが滑らないように歩いていた。
今日は亡くなった雄一の四十九日法要の日だった。

2月半ばに亡くなった命日から数えれば、4月に49日目が来るが、四十九日法要が3ヶ月目に行われるのは、「始終苦しみが身に付く」といった言葉から避ける風習があり、2ヶ月以内に行われることが殆どだ。それは四十九を「始終苦」、三月を「身付き」と読ませる語呂から来ている単なる迷信なのだが、日本人はそういった迷信を信じることから、この風習が守られていることが多い。

雄一の法要も、やはりそういった風習から3月下旬のこの日となったが、法要の間、降り続いていた雨は、全ての命が芽吹くという柔らかな春の雨だと感じていた。
そして、春が見たいと言っていた雄一の言葉を思い出していた。
だから、この雨は雄一が降らせた春の雨ではないだろうか。だとすれば、春はすぐそこまで来ているのだろう。



葬儀の日、東京から来た司は、雄一の妻となった女性と挨拶を交わしていた。
東京で弁護士をしていた妻は、道明寺HDの副社長である司が、雄一の葬儀に現れたことに驚いていた。
だが、雄一がつくしと結婚した理由を話したとき、司の名前が出たのだろう。反応としては、遠い所をざわざわお越しいただいて。といったあっさりとしたものだった。
だが、その方が彼にとっても良かったはずだ。

東京から遠く離れた街とは言え、道明寺HDの名前を知らない人間はいない。
そして、雄一が弁理士といった仕事をしていれば、企業の経営者といった立場にいる人間の弔問も多く、司の顔を見ておやっと思う人間もいた。

ただでさえ、つくしと一緒にいるところを弔問客は目にしており、いったいどんな関係があるのか、という思いで見ていたことだろう。そういったことから、騒がれると雄一の家族に迷惑がかかる。声をかけるべきではなかったのでは、とつくしはあの日そのことを心配していたが、それは杞憂に終わっていた。


雄一の妻は赤く滲んだ目をしていたが、司の丁寧な挨拶に、覚悟はしていたことです。それに悲しむために結婚したのではありませんから。と言った。
そして、私は彼の命の期限を知った上で、自分の人生の生き方として、彼と一緒にいることを望んだと言葉を継いだ。


そしてつくしは、葬儀前日、通夜が終ると雄一の妻から一通の手紙を渡されていた。
僕が死んだら葬儀の前に彼女に渡してくれないか、と言われていたと言って。
それは、雄一が病床でしたためた手紙。いつ書かれたものなのか、文字が所々震えたように歪んでいる箇所もあった。
その手紙に書かれていたのは、雄一がつくしに話して聞かせた、自分の人生を自分の為に生きろ、と言ったことではなく、また別のことが書かれていた。
それは、頑固な彼女が言いつけを守るようにといった意味を込め書いたといった方が正しいのかもしれない。





『君は「人魚姫」か「幸福の王子」になりかねない』

そんな出だしから書かれた手紙の内容はこうだった。
そして例えに出された話は、どちらも自分を犠牲にする主人公の物語だ。

『僕の人生の物語は終わった。けれど、君の物語は続いていく。
ただし、哀しい恋の記憶と一緒にね。でも思い出は消さなくていいんだ。
だって哀しみも人生の一部だから。
それに君は今までは小さな空しか見てなかったけど、これからは大きな空の下で生活するんだろ?道明寺さんと一緒なら、どんな大きな空の下でも、これからは守ってもらえるから安心していいんじゃないかな。

でも、君はまだどこか悩んでる。それが君の悪い癖だってことは知っている。
今はまだ本当の愛の形が見えないかもしれないけど、胸を張って生きればいい。
それに再スタートの初めは手探りかもしれないけど、人生はいつも手探りだからね。
だって初めから先が見えてるようじゃ人生として楽しくないだろ?
だからお願いがある。いつまでもグズグズとせず、僕を見送ったら早く次のスタートを切って欲しい。まあ君としては、ケジメを重んじると思うけど、僕の為に一年も喪に服さなくていいから。だってそれは僕の妻の役目であって君の役目じゃない。
だから四十九日が済んだら東京へ戻って欲しい。金沢はもちろんいい街だけど、道明寺さんはいないからね。

いいかい。自分の人生あっての人生だから、人助けは程々にしないと駄目だよ、つくし。
たまたま僕と出会ったから良かったようなものだけど、僕の後に変な男に出会うんじゃないかと思うといたたまれない気持ちになるからね。でもいいタイミングで道明寺さんが現れてくれて良かったよ。だから頼む。僕の事はもういいから道明寺さんの所へ行ってくれ。
それにそうしてくれないと、僕は妻だけを見つめることが出来ないだろ?』



雄一という男は、最後の最後までつくしの事を気にかけていた。
どうしてそこまでつくしの事を気にかけてくれるのか。逆につくしが問いたいくらいだ。
だがそんな雄一も、今は寂然として金沢市郊外にある篠田家の菩提寺で安らかな眠りについた。


つくしは、雄一からの手紙に背中を押してもらった。
だから、葬儀のとき、司に迎えに来て欲しいといった言葉を口にすることが出来た。
だが実はあれでよかった、と思うまで30分くらいは考えていた。
だが口にしてよかったと思う。そうでなければ、また昔の自分に戻ったように、どこか優柔不断な人間に戻っていたはずだ。

人を好きになるのは理屈じゃない。
だからいつの間にか司を好きになっていた。
だが反面、嫌いになるのは、はっきりとした理由があると言われるが、彼のどんな話を聞いても、嫌いにはなれなかった。自分も同じようにひとつの恋に囚われることなく、何度でも恋を繰り返せばいいはずだ。だが、出来なかった。どうしても彼じゃなければ駄目だった。結局は、その思いの中に沈み込むようにして生きて来た。こんなことだから頑固だと言われたのか。だがこれで良かったのだ。性格は変わり様がないし、変えようがないのだから。


そのとき、後ろから車が近づいて来る気配を感じたつくしは、車が徐行しながら自分の横を通り過ぎて行くものと思い、やり過ごすため道の端へと身体を寄せた。
住宅街の道は、車2台がやっとすれ違える程の道だ。近隣住民の生活道路として使われおり、スピードを出す車はおらず、ゆっくりとした速度で走っていく。
だが、車はつくしの少し前方で止まった。そして後部座席のドアが開き、男が降りて来た。

「終わったのか?」

「ど、道明寺?!ど、どうしたの?」

いきなり現れた男に驚くしかないが、いったい何をしに現れたのか。
休日だというのに、スーツ姿ということは、仕事が目的でこの街を訪れたのか。
だがその考えはすぐに否定された。

「どうしたのって四十九日が終ったら迎えに来いって言ったのはお前だろうが」

一瞬つくしは考えたが、すぐに記憶の中にある言葉の意味を確かめた。

「た、確かに言ったわよ?でも、だ、だからって・・それは意味が違うから!あのね、法要が済んだからっていきなり東京へ行くなんて考えてないから!」

まさかとは思うが、法要が終ったからといってこのまま真っ直ぐ東京へ連れて行かれるのか。
それにしても、今のこの男が、言葉を文字通り受け取るとは思えないが、過去のこの男の行動パターンからすると、半ばあり得ない話ではないと、まさかのパターンが頭の中を支配した。
すると、

「ああ。言いたいことは分かってる。相変らず口から漏れてんぞ。何も今日これから東京へお前を連れて帰るつもりはねぇから安心しろ」

と、つくしの考えを否定した。
だがそれならいったい何をしにわざわざ金沢まで来たのか。

「じゃあいったい何_」

「ああ。ちょっと待て。話は車の中でするから乗ってくれ。いつまでも狭い道にこんなデカい車を止めるわけにはいかねぇだろ?」

司が乗っているのはリムジンではないが、外国製の大きな車で、金沢の街ではあまり見た事のない車だ。そして後方へ目をやれば、後続車がこちらへ向かって来るのが見て取れた。

「これからどこへ行くつもりなのか知らないけど、あたし喪服だしこんな服装でどこに_」

「・・雄一の墓だ・・墓参りに行く」






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2017
10.16

もうひとつの橋 26

薄く曇った空の下、司は雄一の葬儀に参列するため金沢を訪れた。
車窓から見える景色は立春を過ぎているとはいえ、春の光りを感じるとは言えず、斎場へ向かう道の両側にある街路樹は、昨夜降った雪を薄っすらと積もらせていた。
だが雪はやがて水となり大地に染み込み、春の息吹を芽吹かせるための命の水となる。
そして陽の光りが当たれば、水蒸気となって消えていく。雄一も、風の音と空の色を感じ、そして空気の匂いと共に白い煙となり天に昇っていこうとしていた。


開式時刻にはまだ随分と時間があった。だが待つのは構わなかった。それに彼女と、つくしと話がしたかった。
二日前、雄一が亡くなったと連絡を受けたとき、彼女がどんな気持ちで雄一の死を受け止めたのか考えた。
人の死に際し、かける言葉が見つからないといった言葉がよく使われるが、まさにそうだと感じていた。
そして、声の重さだけでは判断がつかない事もあり、言葉を選んでいた。

大変だったな。
そんなありふれた言葉をかけることが憚られた。
だがあのとき司は、大丈夫か、と言葉をかけたが、それもありふれた言葉であり、それが果たして適切だったかと言われれば、分からなかった。
もともと物事を突き詰めて考える女が、友人とはいえ結婚し、2年一緒に暮らした人間の死に向き合おうとしているとき、かける言葉を迷うのは当然だと思う。





斎場に着くには早いと思われていたが、仕事柄といったこともあるのか、すでに多くの弔問客が訪れており、喪服を着た係りの人間が彼らの乗ってきた車を誘導していた。

そんな中、車を降りた司の視線の先に、喪服を着たつくしの横顔が見えた。
雄一が亡くなる前に妻の座を去った彼女。そんな女が前の夫の葬儀に来ることを世間は不可思議なことだと捉えるだろう。まともに考えれば、どう見てもおかしいと思考を巡らせ考えるはずだ。

だが彼女は気にしてはいない。自分の揺るぎない信念、意思といったものを確立した女は、周りの目を気にすることはない。
そしてその女が、今となっては未亡人となった女性と一緒にいることを、弔問客はやはり不可思議なことだと思うはずだ。だが世間が何を思ったところで、彼らに物事の本質を知って欲しいとは思わないのだから、それでも構わないといった表情を彼女はしている。
それに、世間はそんな些細なことをいつまでも気にしているとは思えないからだ。
世の中は常に変化の波に襲われ、古い記憶はあっと言う間に薄れていくのが世の常だ。
とは言っても、亡くなった身近な人間のことを簡単に忘れることはない。むしろ、何年経とうが思い出は残るものであり、時に懐かしさを感じれば、遺影を前に話かけるといったことをするのが人間だ。





「・・牧野・・」

司は、俯いているつくしの傍まで行き声をかけた。

「・・道明寺・・あの、忙しい中ありがとう・・仕事の方、大丈夫なの?」

雄一と結婚した時点で、彼の死を覚悟していたからなのか、顔をあげた彼女の頬に涙の跡は見えない。そして人の死に直面し、重い口調になっているが、その言葉の中には、司を気遣った思いが感じられた。

「心配するな。仕事はどうにでもなる。・・けど雄一と会えるのは今日が最後だ。連絡をもらってからどんなことをしても来るつもりでいた」

司は連絡を受けてから、今日のスケジュールをすべてキャンセルし、雄一の葬儀に参列するつもりでいた。

「ありがとう・・・雄一さんも喜んでいると思うわ・・」




祭壇に飾られた雄一の写真は笑っていた。
それは癌が再発する前に撮られた写真。生きいきとした表情で若々しさが感じられた。
だがいつ再発してもおかしくないと覚悟を決めていたはずだ。そしてその頃から「時」の大切さを実感し、生きることを前向きに考えたはずだ。だが病は雄一から時を奪った。そしていつか来るその日まで共に過ごしてくれる人間が牧野つくしだった。

彼女は自分を必要としてくれる人を求めていた。
もし雄一と知り合わなければ、きっと他に自分を必要としてくれる人間を見つけ、その人間の心を癒そうとしながらも、自分も癒されたいと依存したはずだ。
だがその根本にあったのは、司が彼女を忘れた事がそうさせた。
だから、彼女の心を彷徨わせたのは、自分だと理解しているからこそ、雄一と彼女の関係を認めていた。

だが思い出してみても、実に奇妙な繋がりだと感じていた。
牧野つくしが結婚していた相手の葬儀に行くこともだが、あの頃、雄一が訪ねて来ることを考えもしなかった。そしてその男と気が合うとは思いもしなかった。
だが、今考えてみれば、見えない誰かの手があったのではないかと思う。
だからこそ、雄一が昔の恋人とよりを戻したのと同じように、自分たち二人の絆がまた結ばれようとしていた。

そして、雄一に感謝していた。
だから、感謝の言葉を述べるため、金沢まで足を運んだ。
だが、これから先のことが気になっていた。別の女性が妻となり、雄一が亡くなった今、葬儀についてもだが、その後の一切についての権限は妻にある。ましてや妻は弁護士だとすれば、そういった事に長けているのは間違いなく、彼女が何かする必要はないはずだ。
そんな思いもあり、今後のことを聞いた。



「・・お前・・これから先どうするんだ?」

そう言ってから司は、にこやかにほほ笑む雄一の遺影からつくしへと視線を移した。
離婚してからも以前と同じマンションに住んで欲しいと言われ、暮らしているようだが、いずれそのマンションも処分することになるだろう。
登記簿を見たが、二人が暮らしていたマンションは、雄一が現金で買ったのだろう。抵当権は設定されておらず、名義は雄一だ。
相続する権利は妻にあり、いずれつくしは出て行くことになる。だが、どの段階でそうなるのか気になっていた。
だからまだこの街に残りたいと言うのなら、別の住まいを用意してやるつもりでいた。


「うん・・もう少しこの街にいようと思う。・・・すぐにこの街を離れようって気にはなれなくて・・」

「・・そうか」

やはりそうだろうと思っていたが、司の思いは当たっていた。
だがそれは落胆した思いではない。
彼女なら、そうするだろうと思っていたからだ。
何故なら、簡単に気持ちの切り替えが出来る女ではないからだ。

「・・あたし、あんたに雄一さんが亡くなるまでは彼の傍にいたいって話をしたけど、彼とあたしは離婚して、彼はそれから結婚した。だから彼の傍には奥様がいてあたしは必要ないって思った・・だけど、亡くなるまでは近くで見守らせて欲しいって頼んだ・・。本当の夫婦じゃなかったけど、あたしと彼は・・とても近い友人だった。でも最後は兄と妹になったけどね。・・だから今は兄だった人の傍を直ぐに離れることは出来そうにない・・」

司を見上げ話すその姿は、かつて見たことがある表情だが、その瞳に浮かんでいるのは、ひとりの大人の女性として、自分の決めたことは最後までやり通すといった思いが感じられた。

「あたしね。あんたが初めて金沢まで会いに来てくれたとき、本当に嬉しかった。やっとあたしの事を思い出してくれたんだって。だから、今のあんたならあたしのことを分かってくれると思ってる」

私のことを思い出したなら、私の気持ちも分るでしょ?そう言っていると感じた。
そして、その言葉を言われれば、思い出すのは、いなくなった彼女を必死で探した冬の日。
必ずあんたの元へ戻ってくるからといった夜だ。

「・・最初は戸惑ったけど本当に嬉しかった。あたしね、あんたに忘れられてから本当に辛かった。あんたといたあの頃、短い時間だったけど、本当に幸せだって感じた。高校生の分際で人を幸せにしてあげたいって思ったのはあんたが初めてだった」

彼女の口から語られ始めた言葉は、司が初めて聞く言葉。
他のどんな女から聞かされる称賛の言葉より価値のある言葉。
言葉が形を持つなら、箱に入れ、大切に仕舞っておきたいと思う言葉だ。
そして、その言葉を発する表情が愛おしいと感じられた。

「・・あたしね、道明寺にあげられなかった思いを雄一さんに受け取ってもらってたと思う。誰も自分を求めてない、求められてないって思うと辛かったから・・・だからその寂しさを彼は受け取ってくれた・・。でもね、雄一さんにも本当は別の一面があった・・亡くなる少し前、彼女に自分の思いをもっと早く伝えていたらって後悔してた。その時言われたの。言いたいことがあれば、はっきり言うんだよって・・」

二人は、17年振りに顔を合わせたが、今の彼女の表情は、バスを追いかけたあの時と同じ、目にうっすらと涙を浮かべていた。
しかし、その表情に深い意味はないはずだ。何故なら今日は雄一の葬儀であり、誰に憚ることなく哀しみの態度を見せていい場所だ。
だが、司の顔に浮かんでいるのは、微かな期待といったものだ。
けれど、それが何を期待しているのかと言われれば、まだ分からなかったが、どこか懐かしいような、切ないような気持にさせられていた。
それは、10代の少年が切なさ一杯に見つめていた少女の口から語られる言葉なら、どんな言葉でも聞きたいと願った頃のようだ。
それでも、雄一に関する全てのことが終るまで、彼女の心の全てが自分に向けられるとは考えてはいなかった。そしてそれは、仕方がない話だと自分自身納得していた。
だが今は、昔の恋を忘れたまま過ごした17年が本当に許される瞬間のような気がしていた。


「・・だから道明寺・・四十九日が終ったら・・納骨が済んだら迎えに来て・・あたし、決めたから・・東京に戻るって・・だから迎えに来て」





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