残酷な神様の悪戯。
そんな言葉で表された道明寺司の一番守りたいと思っていた人を忘れてしまった17年。
その女性の結婚に打ちひしがれている男に言ってやる前向きな言葉はないか。
総二郎は、そんな思いから桜子の口からゆっくりと漏れ始めた言葉に耳を傾けていた。
「そんなに難しく考える必要はありません。ごく単純な理由です」
女が結婚を考える単純な理由として一番に思い浮かぶのは妊娠だ。
司は、子供はいないといったが、それは間違いだったということか?
「おい・・・まさか、牧野に子供が出来たとか・・そういったことか?」
総二郎は思いをそのまま口にした。
「いいえ。それはありません。雄一さんは癌を患ってます。癌治療は放射線治療や抗がん剤の副作用で生殖機能がダメージを受けます。だから子供を持つことは難しいんです。それにもし子供が欲しいなら、治療を始める前に精子を凍結保存することになるはずです。でも先輩が篠田さんと出会った頃には、転移が確認されていた状況で抗がん剤を服用していましたから、そうしたくても出来ない状況でした」
自分の考えは間違っていた。
総二郎は、桜子の言葉に考えを改めなくてはならないのかといった思いにさせられていた。
牧野つくしは、本当に司のことを忘れ去ることを決め、他の男との間に子供を欲したのだと。
「牧野は・・その男との子供が欲しかったけど、諦めたってことか?」
「西門さん、子供の話は仮定ですから。まず初めに言っておきますが先輩が篠田さんと結婚したのは、愛しているからではありません。道明寺さんの時のように激しい恋に堕ちたわけではないんです。・・・それに恋にのめり込んでいたわけでもありません。どちらにしても、あの先輩ですから初めの頃は雄一さんに対する感情は曖昧でした」
それなら総二郎も分ると思った。
恋愛に奥手だった牧野つくしに、司のことを好きなのか、嫌いなのかと聞いたとき、自分でもよくわからないと言っていたことがあった。
だが愛してもない、恋に堕ちたわけでもない。そして曖昧な気持ちのまま結婚をするというのは一体どういった意味なのか。
「人は恋をすれば、陶酔感に見舞われますよね?まあ西門さんのお付き合いの場合、本気じゃないんですからそんなものを感じることは無いと思いますけどね。それと同じで牧野先輩が篠田さんから交際を申し込まれて付き合い始めても、そんなものは全くと言っていいほど無かったと思います」
本気じゃないから陶酔感もない。
恋に酔いしれることもなく付き合い結婚した。
それなら一体何のために結婚したのか?
そのことがひたすら頭に浮かんでいた。
「三条。おまえの言い方じゃあ牧野には愛だの恋だのは無かったってことだろ?じゃあなんで篠田雄一と結婚したんだよ?ただの弁理士だろ?それともアレか財産に目が眩んだとかか?篠田家は金沢の資産家で大地主だとか言うなよ?」
加賀百万石の城下町と言われる金沢には大名の末裔がいるが、そういった家系の人間ならそれも考えられる。だが、牧野つくしが相手の財産に左右される女ではないことは知っている。何しろ、道明寺財閥という世界的な財閥の後継者である男の後ろに見える全てを否定した女だ。
「それは違います。それに先輩がお金に目が眩むような人間だと思いますか?篠田家は土地や財産には恵まれたご家庭ですけど、派手な家ではありません。
次男の雄一さんは弁理士ですけどお兄様も弁理士で篠田特許事務所の所長です。それからお父様は検事から弁護士になられた方です。それにお父様のお父様、つまり雄一さんのおじい様も弁護士、それにお父様のご兄弟も検事や弁護士がいらっしゃいます。要するに法律に詳しい堅い家系ですから」
それは、まさに法曹一家といったところだ。
日本は法治国家であり、政治は法によって支配されている。だが、その法を自分の思い通りに動かすことが出来る男を総二郎は知っていた。
「ああ、分かった。それでどうして牧野はその男と結婚することにしたんだ?」
一番肝心なことが知りたいと総二郎は先を促した。
「自己肯定です。自分を肯定したかったんです」
「・・自己肯定?」
「そうです。先輩が男性と真剣に付き合ったのは、道明寺さんが初めてです。でもその恋はある日突然終わりました。終わりにしようなんて言葉もなく、恋にケジメなんてありませんでした。西門さんもご存知だと思いますけど、道明寺さんに忘れられて、どうして自分だけが忘れられたのか、怒ってましたよね?でもその後は、動揺したかと思えば泣いていました。気持ちの浮き沈みが激しくなったんです。だって自分自身の存在が好きだった人に否定されたんですよ?おまけに道明寺さんの元には泥棒猫がくっついていましたから。それって女にとってかなり辛い状況です」
泥棒猫と呼ばれた女は、直ぐにいなくなったが、それから間もなく男のNYでの生活が始まっていた。
「西門さん、自分を否定されることがどんなに辛いことか分かりますか?わたしも否定されたから分るんです。皮肉なことですけど先輩と同じ人に否定されましたから」
そう言った女は、だから痛みが分かるのだと話しを継ぐ。
「人から否定された人間は・・特に好きな人から否定された人間は自信が持てなくなります。
それは親の愛情にも言えるはずです。自分を一番守ってくれ、大切にしてくれる親から否定された子供はどうなりますか?」
親から否定された子供。
司という男は、親から否定された子供ではない。だが親がいて欲しい年齢の頃、傍にいることはなく愛されずに育った。そして司という子供の人格は否定され、心の中で求めるものは、全て否定された。
自分が存在する意味は財閥の後継のためであり、存在することだけを求められていた。
積極的に何かに取り組むといったことなどなく、何かに興味を示すこともなかった。
そんな男が興味を示し、やがて唯一無二の女性として求めた牧野つくし。それなのに、その存在を忘れ去った。
求められるだけ、求められ、ある日突然ゴミのように捨てられた女。
「親から否定された子供は萎縮して失敗を恐れます。失敗を恐れるようになると物事を前向きに捉えることが出来なくなります。ですが道明寺さんの場合それは当てはまりません。萎縮するどころかむしろ凶暴性を増した方ですから・・。でも牧野先輩は好きだった人から否定されて自信を失ったんです。あの先輩が物事を前向きに捉えられなくなったんですよ?自分に自信が持てなくなったんですよ?本当にそんな時があったんです。心が・・心が折れちゃったんです」
哀しみを押し殺したような静かな口調で淡々と語る桜子の言葉は、総二郎の胸に応えていた。
いつも物事を前向きに考えていた女の心が折れる。
確かに、どんなに強いと言われる人間でも、そういったことはある。
そして支えてくれる人間がいなければ、益々自分に自信が持てなくなる。
そんな状況に陥った牧野つくしを支えて来たのが、桜子だとすれば、語られる言葉の重みを受け止めなければならない人間は、17年の時を遡らなければならないはずだ。
もっとも、その人間は、記憶を取り戻した瞬間から過去の扉を開き、瞼の底から現れた情景に心を痛めていた。
「忘れられてから暫くは・・牧野先輩を良く知らない人には分からなかったと思いますが、そんな状況が続いていました。でもある絵本と出会ったことでまた前向きに物事が考えられるようになったんです。たった一言、たった一つの言葉で人間って変わるじゃないですか。
先輩はそんな言葉を見つけたんです。自分だけの言葉を。だから先輩は短い言葉と絵でも人に感動を与えることが出来る絵本の仕事に就いたんです。それからです。自分自身の存在を肯定することをしたんです。自分の失いかけていた長所も短所も含めて自分自信を積極的に認めるようになったんです」
「ある絵本ってのを描いた作家ってのが金沢にいた絵本作家か?」
「ええ。そうです。その人のお陰で先輩は立ち直りました。だからその人に恩返しがしたかったんです。身寄りのないその人の最期を看取ったのも恩返しです。それに先輩は絵本作家の方に育ててもらった。成長させてもらったっていう思いがあって誰かの力になりたいと思ったんです」
「それが篠田雄一か?」
「ええ。先輩のご主人です。出会いはご主人の方から声をかけたそうです。初め先輩は、そんなご主人に不信感を抱いたそうです。でも雄一さんという方は、花沢さんみたいな人らしいですよ?よく言ってたじゃないですか・・魂の片割れとか・・。だから気が合ったんでしょうね。友達としての付き合いが始まりました。
西門さんは男女の間に友情が存在することが信じられないかもしれませんが、二人の間に恋愛感情はありません。本当にあの二人はただの友人です。世間はそうは思わないと思いますけど、本当にそうなんですよ?」
パリで暮らすビー玉の目をした王子だと言われていた類。
確かに牧野つくしとは魂の片割れといったことが言われ、二人の間には友情が育っていった。
「とは言っても人の心の奥深い部分は分かりませんけどね。それに先輩も女ですから・・・。
でももし仮に先輩が雄一さんのことを好きだったとしても、雄一さんには好きな人がいましたから。ですが身体に癌細胞が取り付いることがわかって自分には未来がないからと別れを告げたそうです」
そこで桜子は、何かを思い出したように、ふっ、と笑った。
そして乾いた喉を潤そうとグラスを手に取り口へ運んだ。
「あの二人は、男と女じゃないんですよ。本当に。ボランティアっていったら変ですけど、そんな感じです。それに正式な夫婦だったら何かあったとき、色々と出来るじゃないですか。だから結婚したんです。・・雄一さんは延命治療を求めていません。でもお兄様はそうではなかったと聞いています。でももし何かあった時は配偶者である先輩の決断が優先されますから」
配偶者である彼女がいれば、親兄弟よりも、配偶者の意見が尊重される。
だから法律で結ばれる関係を選んだ。
「牧野先輩が金沢で結婚したのは、人助けがしたいって言ったら可笑しいかもしれませんが、簡単に言えばそう言うことです・・。でもそれって精神的にはかなり辛い人助けですよね?でも人は誰かに必要とされることで生きている嬉しさを味わうんです。だから先輩は雄一さんに最期まで寄り添ってあげるつもりです。あの人らしいじゃないですか・・自分を犠牲にして・・犠牲じゃないですね。先輩はそう思ってませんから。とにかく、自分より相手のことを考えるなんて、ほんと、牧野つくしらしいと思いませんか?」
呆れたようであり、どこか納得したようなその言葉に、総二郎も心の中で頷いていた。
そして、桜子が口にする言葉の端々に伺えた、牧野つくしと彼女の夫である篠田雄一の姿は、友人以外の何ものでも無いといったもので、戸籍上は夫婦だが本当の夫婦ではないと確信を持った。
「それにしても、あんな道明寺さんを目にするとは思いませんでした」
それは決してひと前では見せることのない男の憂いた姿を見たということだ。
「でも仕方がないですね。遅かったんです。思い出すのが・・・。西門さん、もし道明寺さんが先輩のことを思うなら、あと少しだけ・・17年も忘れていたんですから、その時間を考えたらあと少しくらい我慢出来るんじゃないですか?」
総二郎もそこまで話しを聞けば、牧野つくしがどんな人生を歩んできたのか、分かったような気がしていた。
そして桜子が言ったあと少しくらい我慢出来るんじゃないですか。
その言葉が意味するのは、篠田雄一の近い未来は決まっているのだと暗に告げていることを理解した。
「・・・聞いたか?」
一見してカウンターだけの店だと思われていた鮨屋。
だが総二郎が腰かけた席の背後には、襖で仕切られた和室が一つだけあった。
コトリとも音がしなかったその部屋。
その襖が開けられ、中にいた男が答えた。
「・・ああ。・・聞いた」

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自分の考えは間違っていた。
総二郎は、桜子の言葉に考えを改めなくてはならないのかといった思いにさせられていた。
牧野つくしは、本当に司のことを忘れ去ることを決め、他の男との間に子供を欲したのだと。
「牧野は・・その男との子供が欲しかったけど、諦めたってことか?」
「西門さん、子供の話は仮定ですから。まず初めに言っておきますが先輩が篠田さんと結婚したのは、愛しているからではありません。道明寺さんの時のように激しい恋に堕ちたわけではないんです。・・・それに恋にのめり込んでいたわけでもありません。どちらにしても、あの先輩ですから初めの頃は雄一さんに対する感情は曖昧でした」
それなら総二郎も分ると思った。
恋愛に奥手だった牧野つくしに、司のことを好きなのか、嫌いなのかと聞いたとき、自分でもよくわからないと言っていたことがあった。
だが愛してもない、恋に堕ちたわけでもない。そして曖昧な気持ちのまま結婚をするというのは一体どういった意味なのか。
「人は恋をすれば、陶酔感に見舞われますよね?まあ西門さんのお付き合いの場合、本気じゃないんですからそんなものを感じることは無いと思いますけどね。それと同じで牧野先輩が篠田さんから交際を申し込まれて付き合い始めても、そんなものは全くと言っていいほど無かったと思います」
本気じゃないから陶酔感もない。
恋に酔いしれることもなく付き合い結婚した。
それなら一体何のために結婚したのか?
そのことがひたすら頭に浮かんでいた。
「三条。おまえの言い方じゃあ牧野には愛だの恋だのは無かったってことだろ?じゃあなんで篠田雄一と結婚したんだよ?ただの弁理士だろ?それともアレか財産に目が眩んだとかか?篠田家は金沢の資産家で大地主だとか言うなよ?」
加賀百万石の城下町と言われる金沢には大名の末裔がいるが、そういった家系の人間ならそれも考えられる。だが、牧野つくしが相手の財産に左右される女ではないことは知っている。何しろ、道明寺財閥という世界的な財閥の後継者である男の後ろに見える全てを否定した女だ。
「それは違います。それに先輩がお金に目が眩むような人間だと思いますか?篠田家は土地や財産には恵まれたご家庭ですけど、派手な家ではありません。
次男の雄一さんは弁理士ですけどお兄様も弁理士で篠田特許事務所の所長です。それからお父様は検事から弁護士になられた方です。それにお父様のお父様、つまり雄一さんのおじい様も弁護士、それにお父様のご兄弟も検事や弁護士がいらっしゃいます。要するに法律に詳しい堅い家系ですから」
それは、まさに法曹一家といったところだ。
日本は法治国家であり、政治は法によって支配されている。だが、その法を自分の思い通りに動かすことが出来る男を総二郎は知っていた。
「ああ、分かった。それでどうして牧野はその男と結婚することにしたんだ?」
一番肝心なことが知りたいと総二郎は先を促した。
「自己肯定です。自分を肯定したかったんです」
「・・自己肯定?」
「そうです。先輩が男性と真剣に付き合ったのは、道明寺さんが初めてです。でもその恋はある日突然終わりました。終わりにしようなんて言葉もなく、恋にケジメなんてありませんでした。西門さんもご存知だと思いますけど、道明寺さんに忘れられて、どうして自分だけが忘れられたのか、怒ってましたよね?でもその後は、動揺したかと思えば泣いていました。気持ちの浮き沈みが激しくなったんです。だって自分自身の存在が好きだった人に否定されたんですよ?おまけに道明寺さんの元には泥棒猫がくっついていましたから。それって女にとってかなり辛い状況です」
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「西門さん、自分を否定されることがどんなに辛いことか分かりますか?わたしも否定されたから分るんです。皮肉なことですけど先輩と同じ人に否定されましたから」
そう言った女は、だから痛みが分かるのだと話しを継ぐ。
「人から否定された人間は・・特に好きな人から否定された人間は自信が持てなくなります。
それは親の愛情にも言えるはずです。自分を一番守ってくれ、大切にしてくれる親から否定された子供はどうなりますか?」
親から否定された子供。
司という男は、親から否定された子供ではない。だが親がいて欲しい年齢の頃、傍にいることはなく愛されずに育った。そして司という子供の人格は否定され、心の中で求めるものは、全て否定された。
自分が存在する意味は財閥の後継のためであり、存在することだけを求められていた。
積極的に何かに取り組むといったことなどなく、何かに興味を示すこともなかった。
そんな男が興味を示し、やがて唯一無二の女性として求めた牧野つくし。それなのに、その存在を忘れ去った。
求められるだけ、求められ、ある日突然ゴミのように捨てられた女。
「親から否定された子供は萎縮して失敗を恐れます。失敗を恐れるようになると物事を前向きに捉えることが出来なくなります。ですが道明寺さんの場合それは当てはまりません。萎縮するどころかむしろ凶暴性を増した方ですから・・。でも牧野先輩は好きだった人から否定されて自信を失ったんです。あの先輩が物事を前向きに捉えられなくなったんですよ?自分に自信が持てなくなったんですよ?本当にそんな時があったんです。心が・・心が折れちゃったんです」
哀しみを押し殺したような静かな口調で淡々と語る桜子の言葉は、総二郎の胸に応えていた。
いつも物事を前向きに考えていた女の心が折れる。
確かに、どんなに強いと言われる人間でも、そういったことはある。
そして支えてくれる人間がいなければ、益々自分に自信が持てなくなる。
そんな状況に陥った牧野つくしを支えて来たのが、桜子だとすれば、語られる言葉の重みを受け止めなければならない人間は、17年の時を遡らなければならないはずだ。
もっとも、その人間は、記憶を取り戻した瞬間から過去の扉を開き、瞼の底から現れた情景に心を痛めていた。
「忘れられてから暫くは・・牧野先輩を良く知らない人には分からなかったと思いますが、そんな状況が続いていました。でもある絵本と出会ったことでまた前向きに物事が考えられるようになったんです。たった一言、たった一つの言葉で人間って変わるじゃないですか。
先輩はそんな言葉を見つけたんです。自分だけの言葉を。だから先輩は短い言葉と絵でも人に感動を与えることが出来る絵本の仕事に就いたんです。それからです。自分自身の存在を肯定することをしたんです。自分の失いかけていた長所も短所も含めて自分自信を積極的に認めるようになったんです」
「ある絵本ってのを描いた作家ってのが金沢にいた絵本作家か?」
「ええ。そうです。その人のお陰で先輩は立ち直りました。だからその人に恩返しがしたかったんです。身寄りのないその人の最期を看取ったのも恩返しです。それに先輩は絵本作家の方に育ててもらった。成長させてもらったっていう思いがあって誰かの力になりたいと思ったんです」
「それが篠田雄一か?」
「ええ。先輩のご主人です。出会いはご主人の方から声をかけたそうです。初め先輩は、そんなご主人に不信感を抱いたそうです。でも雄一さんという方は、花沢さんみたいな人らしいですよ?よく言ってたじゃないですか・・魂の片割れとか・・。だから気が合ったんでしょうね。友達としての付き合いが始まりました。
西門さんは男女の間に友情が存在することが信じられないかもしれませんが、二人の間に恋愛感情はありません。本当にあの二人はただの友人です。世間はそうは思わないと思いますけど、本当にそうなんですよ?」
パリで暮らすビー玉の目をした王子だと言われていた類。
確かに牧野つくしとは魂の片割れといったことが言われ、二人の間には友情が育っていった。
「とは言っても人の心の奥深い部分は分かりませんけどね。それに先輩も女ですから・・・。
でももし仮に先輩が雄一さんのことを好きだったとしても、雄一さんには好きな人がいましたから。ですが身体に癌細胞が取り付いることがわかって自分には未来がないからと別れを告げたそうです」
そこで桜子は、何かを思い出したように、ふっ、と笑った。
そして乾いた喉を潤そうとグラスを手に取り口へ運んだ。
「あの二人は、男と女じゃないんですよ。本当に。ボランティアっていったら変ですけど、そんな感じです。それに正式な夫婦だったら何かあったとき、色々と出来るじゃないですか。だから結婚したんです。・・雄一さんは延命治療を求めていません。でもお兄様はそうではなかったと聞いています。でももし何かあった時は配偶者である先輩の決断が優先されますから」
配偶者である彼女がいれば、親兄弟よりも、配偶者の意見が尊重される。
だから法律で結ばれる関係を選んだ。
「牧野先輩が金沢で結婚したのは、人助けがしたいって言ったら可笑しいかもしれませんが、簡単に言えばそう言うことです・・。でもそれって精神的にはかなり辛い人助けですよね?でも人は誰かに必要とされることで生きている嬉しさを味わうんです。だから先輩は雄一さんに最期まで寄り添ってあげるつもりです。あの人らしいじゃないですか・・自分を犠牲にして・・犠牲じゃないですね。先輩はそう思ってませんから。とにかく、自分より相手のことを考えるなんて、ほんと、牧野つくしらしいと思いませんか?」
呆れたようであり、どこか納得したようなその言葉に、総二郎も心の中で頷いていた。
そして、桜子が口にする言葉の端々に伺えた、牧野つくしと彼女の夫である篠田雄一の姿は、友人以外の何ものでも無いといったもので、戸籍上は夫婦だが本当の夫婦ではないと確信を持った。
「それにしても、あんな道明寺さんを目にするとは思いませんでした」
それは決してひと前では見せることのない男の憂いた姿を見たということだ。
「でも仕方がないですね。遅かったんです。思い出すのが・・・。西門さん、もし道明寺さんが先輩のことを思うなら、あと少しだけ・・17年も忘れていたんですから、その時間を考えたらあと少しくらい我慢出来るんじゃないですか?」
総二郎もそこまで話しを聞けば、牧野つくしがどんな人生を歩んできたのか、分かったような気がしていた。
そして桜子が言ったあと少しくらい我慢出来るんじゃないですか。
その言葉が意味するのは、篠田雄一の近い未来は決まっているのだと暗に告げていることを理解した。
「・・・聞いたか?」
一見してカウンターだけの店だと思われていた鮨屋。
だが総二郎が腰かけた席の背後には、襖で仕切られた和室が一つだけあった。
コトリとも音がしなかったその部屋。
その襖が開けられ、中にいた男が答えた。
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Comment:8
「三条。開店前の忙しいところ悪かったな」
「いえ。構いません。西門さんこそいいんですか?わたしなんかと一緒で。これからどこかのお嬢様とお食事のお約束があるんじゃないんですか?」
「・・・いや。今夜の予定は特にねぇんだわ」
銀座の目抜き通りから1本奥に入った通りにある鮨屋に総二郎は桜子といた。
暖簾はかかっておらず、昼の営業時間が終り、夜の営業時間までの間。特別に店を開けてもらっていた。
ビルの1階に店を構える鮨屋の名前は、屋久杉の看板に濃墨で書かれているが、達筆過ぎて読めないと言われている。
二人はL字型カウンターの一番奥の席に座り、熱いおしぼりで手を拭き、大将と呼ばれる店主が、大間産天然本マグロを握る姿を見つめていた。
無駄のない動きでネタを握る姿は、茶道にも通じるものがあり、総二郎は大将の指の動きの素早さに、いつも感心した思いでいた。
「品書き」のない店で選ぶのは、大将が勧めてくるネタか、目の前にある鮨ネタが並んだガラスケースの中からだ。
そんな店の客層は、一見して財布の中身を気にすることがないと分かる年齢の高い富裕層。
もしくは、会社の接待で連れてこられた人々だ。
総二郎の行きつけであるこの店は、西門家のお坊ちゃまとして子供の頃から足を運んだ店で、大将とも顔なじみだ。中等部に入る頃になると、ぶらりと立ち寄っては、鮨をつまんで行くこともあった。
遊び相手をこの店に連れてくることはない。
何故なら、彼にとって隠れ家といってもいい店は、ひとりになりたいとき、考え事があるとき、邪魔されず静かに食事が出来るからだ。
そんな店で桜子と落ち着いて話す必要があった。
「西門さん、お話があるって先輩のことですよね?」
桜子は運ばれて来た生牡蠣にスダチを搾ってかけ、背の高いグラスに注がれているよく冷えた日本酒を口に運んだ。
生牡蠣なら白ワイン、シャブリがいいと言う桜子。だが、鮨屋ではそれに近いテイストを持つ辛口の日本酒を頼んでいた。
「ああ。お前が一番あいつのことを知ってるからな。どうしてあいつが篠田って男と結婚したのか教えてくれ。その男・・・癌だって言うじゃねぇか。それも結婚した時はもう転移してたっていう話だろ?それなのになんであいつはそんな男と結婚したんだ?普通の女ならそんな先が見えてる男と結婚したいと思わねぇだろ?」
だが心のどこかで、牧野つくしは普通の女ではないことは分かっていた。
何しろあの司と短い間だったとしても、恋人同士だったのだから。
当時の二人は嵐の中にいるような恋をし、大きな渦の中に巻き込まれ、その結果、投げ出されたのは互いのいない世界。そんな世界で生きることを強いられてしまった。
だが片方にとっては、それが初めから用意されていた生き方であり、嘘も真実も自分の都合のいいように捻じ曲げることが出来る世界だった。そんな中で暮らしていた男が、失われていた記憶を取り戻し、知った事実は、曲げることの出来ない真実だ。
総二郎は、金沢での出来事を桜子に説明した。
金沢で自分の講演会があり、そのとき司が牧野つくしと会い、短い会話を交わしたということを。
「道明寺さん、やっぱり先輩に会いに行ったんですね?」
「あたり前だろ?あいつがお前に名刺を渡しただけで済ませる男だと思うか?」
「・・いえ。そんなことは思っていませんでしたけど・・ただ、もっと早いかと思ってただけですから」
と、穏やかに言って微笑した。
その微笑は客相手に見せる魅惑の微笑み。
整形とは言え、その美しさは人の手が加わったといった違和感はなく、知らない人間が見れば、彼女の微笑みに惑わされるはずで、今ではその美しさにさらに金をかけ、磨き抜かれた美しさといったものが感じられる女だ。
そんな女に一瞬だが総二郎も胸の内が跳ねた。
だがその思いを慌てて取り払った。
総二郎は、桜子が銀座のバーを親族から引き継ぎオープンした当時からの常連だ。
あれから5年経つが小さな店の評判は良く、総二郎も時おりフラリと訪れてはグラスを傾けて行く。
そんな男が今飲んでいるのは、河豚の刺身と一緒に出されたヒレ酒。
煙草は抹茶の味を鈍らすと言って吸わないが、酒は幅広く好きだ。
炙り焼いた河豚のヒレを熱燗に入れた酒だが、河豚にはやはり河豚が一番合うといったところだ。
「とにかく、お前ならどうして牧野がそんな男を選んだか知ってるんだろ?」
桜子だけが、しつこく司の元を訪れては、牧野つくしのことを話していたのを総二郎も知っている。それだけに、彼女が別の男と結婚したことが信じられなかった。
そして、今でも何かと牧野の事を心配しているのも桜子だ。
桜子は、高飛車に見える女だが、実はそうではない。友情といったものに厚く、自分が大切にしたいと思った人間にはとことん尽くす女。
そんな女が男ではなく、女に尽くすというのだから、世の中はどうなってるんだ、と思うが、二人の女の間にあった過去の出来事を考えたとき、桜子がそうしたい気持ちも分っていた。
桜子は司によって気持ちを深く傷付けられ、そのことに拘り過ぎたため、司に対し歪んだ愛情を抱く人間になっていた。そんな思いから司が好きになった牧野つくしを傷つけ、司の心を打ち砕くことを望んだ。そして、牧野つくしを傷つけることに成功したが、再び自分が傷付く事態を招いてしまっていた。だが、そんな桜子の心を救ったのが牧野つくしだ。
それから桜子の牧野つくしに対する献身には、独りの女に縛られることを嫌う総二郎も頭が下がる思いだ。
だが司にとっては、初めは厭な女だった三条桜子。その彼女が今では、司の波立つ気持ちを和らげる何かを知っているといった確信がある。
「・・・牧野先輩が篠田雄一さんと結婚した理由ですか?」
「ああ。そうだ」
「西門さんは牧野先輩が道明寺さんを忘れ去って篠田さんを好きになったとは考えられませんか?」
桜子は策士な部分もあるが直球勝負もする。
対し、総二郎も女に対しての恋はいつも直球勝負。
たとえその場限りの恋だとしても、嘘や偽りのない恋をして来た。
そんな男への桜子の態度はやはり偽りはない。
だから桜子の今の言葉は、やはり本当なのか、といった思いが過る。
それに、司から牧野つくしが結婚したと聞いたとき、牧野も司のことを忘れ、新しい未来を歩むことを決めたのだと祝福したい気持ちでいた。
だが、すぐに司の心を慮ってその思いを打ち消した。
そして金沢で司と飲んだ夜、耳にした軋んだ男の声を思い出していた。
「ああ。俺には・・なんか信じられねぇっていうか、信じたくねぇっていうか。牧野に会ったのは、・・とは言え話をしたわけじゃねぇけど、短い時間でしかあいつには会ってねぇ。でも幸せな結婚をした女ってのには思えなかった。だって結婚してまだ2年だろ?それならもうちょっと・・なんて言うんだ?それらしい雰囲気があるだろ?それが感じられなかった。まあ旦那が癌を患ってりゃ幸せそうな顔も出来ねぇだろうけど、なんか違うんだよな。だって旦那が癌を患ってるのは結婚前に分かってたんだろ?」
牧野と何度か目が合った。
けれども、彼女の表情は硬かった。懐かしさといったものは感じられず、どこか頑なな印象があった。
「あら。西門さん、いつからマダムのことまで詳しくなったんですか?それは美作さんの分野ですよね?」
「・・・ったくお前は相変わらず嫌味な女だな。いいからどうして・・なんであいつが篠田って男と結婚したのか教えてくれ」
桜子は、生牡蠣に伸ばしかけた箸を静かに置き、総二郎の顔をじっと見た。
「だから牧野先輩は道明寺さんのことは忘れて篠田さんを受け入れたんです。だっていつまでも道明寺さんを待ってもしょうがないじゃないですか。それにいくらわたしが言っても聞こうともしない、失った記憶を思い出す努力もしない・・。そんな人をいつまでも思っても仕方がないじゃないですか」
「・・けど違う気がする。あいつがそんなに簡単に司のことを忘れて別の男と結婚するなんてことが未だに信じられねぇ。なあ牧野は本当に司のことはもういいのか?」
「いいんじゃないですか?だって現に篠田さんと結婚しているじゃないですか」
どこか突き放すような言葉を返されたが、総二郎は違うと感じていた。
司が刺された時、司の血で両手を真っ赤に染め、小さな身体で大きな男の身体を背負い、歩き出した少女の姿があった。そして自分の命に代えてでも司を助けて欲しいといった姿があった。あの日の光景は映画のワンシーンではないが、何年たっても色褪せることなく記憶の中にある。
「・・知りたいんですか」
桜子の口から呟くように漏れた言葉に総二郎は即座に頷いた。
「ああ。教えてくれ」
「知りません」
と言って桜子は置いた箸を再び手に取った。
そして牡蠣を口に運び、咀嚼することなく呑み込み、それからグラスの柄を掴み、酒をひと口飲んだ。
「三条・・お前・・俺をバカにしてんのか?」
桜子の言葉もだが、その態度に総二郎は言葉を荒げた。
だがすぐに、はっきりとした口調が返された。
「嘘です。知ってます」
4人の男たちの中で頭脳派と呼ばれる男も、昂然たる態度で答える女に振り回されていた。
小さな角を隠し、尖った尻尾を持つ女のその態度は、まさに小悪魔と言われた女のそれだ。
「あのな三条、おまえ司の前でそんな態度取ってみろ。絞殺されるぞ」
呆れた口調で言う総二郎は、遠い日々を回想し、激高する男を止めたのは、自分やあきらだったことを思い出していた。そしてそんな経験をこの年になってまたするのか、いい加減にしてくれといった思いが湧き上がる。それにそんな役目は自分ではなく、あきらの方だ。
だが乗りかかった船だ。総二郎は、桜子のペースに巻き込まれることがないように、分別のある言葉を探していた。
「大丈夫ですから。道明寺さんがそんなことしたら先輩のことが分からないじゃないですか」
と、もっともなことを言う桜子。
だが、その目は笑ってはいない。
「で、どうしてなんだ。聞かせてくれるよな?あいつが篠田と結婚した理由を」

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「いえ。構いません。西門さんこそいいんですか?わたしなんかと一緒で。これからどこかのお嬢様とお食事のお約束があるんじゃないんですか?」
「・・・いや。今夜の予定は特にねぇんだわ」
銀座の目抜き通りから1本奥に入った通りにある鮨屋に総二郎は桜子といた。
暖簾はかかっておらず、昼の営業時間が終り、夜の営業時間までの間。特別に店を開けてもらっていた。
ビルの1階に店を構える鮨屋の名前は、屋久杉の看板に濃墨で書かれているが、達筆過ぎて読めないと言われている。
二人はL字型カウンターの一番奥の席に座り、熱いおしぼりで手を拭き、大将と呼ばれる店主が、大間産天然本マグロを握る姿を見つめていた。
無駄のない動きでネタを握る姿は、茶道にも通じるものがあり、総二郎は大将の指の動きの素早さに、いつも感心した思いでいた。
「品書き」のない店で選ぶのは、大将が勧めてくるネタか、目の前にある鮨ネタが並んだガラスケースの中からだ。
そんな店の客層は、一見して財布の中身を気にすることがないと分かる年齢の高い富裕層。
もしくは、会社の接待で連れてこられた人々だ。
総二郎の行きつけであるこの店は、西門家のお坊ちゃまとして子供の頃から足を運んだ店で、大将とも顔なじみだ。中等部に入る頃になると、ぶらりと立ち寄っては、鮨をつまんで行くこともあった。
遊び相手をこの店に連れてくることはない。
何故なら、彼にとって隠れ家といってもいい店は、ひとりになりたいとき、考え事があるとき、邪魔されず静かに食事が出来るからだ。
そんな店で桜子と落ち着いて話す必要があった。
「西門さん、お話があるって先輩のことですよね?」
桜子は運ばれて来た生牡蠣にスダチを搾ってかけ、背の高いグラスに注がれているよく冷えた日本酒を口に運んだ。
生牡蠣なら白ワイン、シャブリがいいと言う桜子。だが、鮨屋ではそれに近いテイストを持つ辛口の日本酒を頼んでいた。
「ああ。お前が一番あいつのことを知ってるからな。どうしてあいつが篠田って男と結婚したのか教えてくれ。その男・・・癌だって言うじゃねぇか。それも結婚した時はもう転移してたっていう話だろ?それなのになんであいつはそんな男と結婚したんだ?普通の女ならそんな先が見えてる男と結婚したいと思わねぇだろ?」
だが心のどこかで、牧野つくしは普通の女ではないことは分かっていた。
何しろあの司と短い間だったとしても、恋人同士だったのだから。
当時の二人は嵐の中にいるような恋をし、大きな渦の中に巻き込まれ、その結果、投げ出されたのは互いのいない世界。そんな世界で生きることを強いられてしまった。
だが片方にとっては、それが初めから用意されていた生き方であり、嘘も真実も自分の都合のいいように捻じ曲げることが出来る世界だった。そんな中で暮らしていた男が、失われていた記憶を取り戻し、知った事実は、曲げることの出来ない真実だ。
総二郎は、金沢での出来事を桜子に説明した。
金沢で自分の講演会があり、そのとき司が牧野つくしと会い、短い会話を交わしたということを。
「道明寺さん、やっぱり先輩に会いに行ったんですね?」
「あたり前だろ?あいつがお前に名刺を渡しただけで済ませる男だと思うか?」
「・・いえ。そんなことは思っていませんでしたけど・・ただ、もっと早いかと思ってただけですから」
と、穏やかに言って微笑した。
その微笑は客相手に見せる魅惑の微笑み。
整形とは言え、その美しさは人の手が加わったといった違和感はなく、知らない人間が見れば、彼女の微笑みに惑わされるはずで、今ではその美しさにさらに金をかけ、磨き抜かれた美しさといったものが感じられる女だ。
そんな女に一瞬だが総二郎も胸の内が跳ねた。
だがその思いを慌てて取り払った。
総二郎は、桜子が銀座のバーを親族から引き継ぎオープンした当時からの常連だ。
あれから5年経つが小さな店の評判は良く、総二郎も時おりフラリと訪れてはグラスを傾けて行く。
そんな男が今飲んでいるのは、河豚の刺身と一緒に出されたヒレ酒。
煙草は抹茶の味を鈍らすと言って吸わないが、酒は幅広く好きだ。
炙り焼いた河豚のヒレを熱燗に入れた酒だが、河豚にはやはり河豚が一番合うといったところだ。
「とにかく、お前ならどうして牧野がそんな男を選んだか知ってるんだろ?」
桜子だけが、しつこく司の元を訪れては、牧野つくしのことを話していたのを総二郎も知っている。それだけに、彼女が別の男と結婚したことが信じられなかった。
そして、今でも何かと牧野の事を心配しているのも桜子だ。
桜子は、高飛車に見える女だが、実はそうではない。友情といったものに厚く、自分が大切にしたいと思った人間にはとことん尽くす女。
そんな女が男ではなく、女に尽くすというのだから、世の中はどうなってるんだ、と思うが、二人の女の間にあった過去の出来事を考えたとき、桜子がそうしたい気持ちも分っていた。
桜子は司によって気持ちを深く傷付けられ、そのことに拘り過ぎたため、司に対し歪んだ愛情を抱く人間になっていた。そんな思いから司が好きになった牧野つくしを傷つけ、司の心を打ち砕くことを望んだ。そして、牧野つくしを傷つけることに成功したが、再び自分が傷付く事態を招いてしまっていた。だが、そんな桜子の心を救ったのが牧野つくしだ。
それから桜子の牧野つくしに対する献身には、独りの女に縛られることを嫌う総二郎も頭が下がる思いだ。
だが司にとっては、初めは厭な女だった三条桜子。その彼女が今では、司の波立つ気持ちを和らげる何かを知っているといった確信がある。
「・・・牧野先輩が篠田雄一さんと結婚した理由ですか?」
「ああ。そうだ」
「西門さんは牧野先輩が道明寺さんを忘れ去って篠田さんを好きになったとは考えられませんか?」
桜子は策士な部分もあるが直球勝負もする。
対し、総二郎も女に対しての恋はいつも直球勝負。
たとえその場限りの恋だとしても、嘘や偽りのない恋をして来た。
そんな男への桜子の態度はやはり偽りはない。
だから桜子の今の言葉は、やはり本当なのか、といった思いが過る。
それに、司から牧野つくしが結婚したと聞いたとき、牧野も司のことを忘れ、新しい未来を歩むことを決めたのだと祝福したい気持ちでいた。
だが、すぐに司の心を慮ってその思いを打ち消した。
そして金沢で司と飲んだ夜、耳にした軋んだ男の声を思い出していた。
「ああ。俺には・・なんか信じられねぇっていうか、信じたくねぇっていうか。牧野に会ったのは、・・とは言え話をしたわけじゃねぇけど、短い時間でしかあいつには会ってねぇ。でも幸せな結婚をした女ってのには思えなかった。だって結婚してまだ2年だろ?それならもうちょっと・・なんて言うんだ?それらしい雰囲気があるだろ?それが感じられなかった。まあ旦那が癌を患ってりゃ幸せそうな顔も出来ねぇだろうけど、なんか違うんだよな。だって旦那が癌を患ってるのは結婚前に分かってたんだろ?」
牧野と何度か目が合った。
けれども、彼女の表情は硬かった。懐かしさといったものは感じられず、どこか頑なな印象があった。
「あら。西門さん、いつからマダムのことまで詳しくなったんですか?それは美作さんの分野ですよね?」
「・・・ったくお前は相変わらず嫌味な女だな。いいからどうして・・なんであいつが篠田って男と結婚したのか教えてくれ」
桜子は、生牡蠣に伸ばしかけた箸を静かに置き、総二郎の顔をじっと見た。
「だから牧野先輩は道明寺さんのことは忘れて篠田さんを受け入れたんです。だっていつまでも道明寺さんを待ってもしょうがないじゃないですか。それにいくらわたしが言っても聞こうともしない、失った記憶を思い出す努力もしない・・。そんな人をいつまでも思っても仕方がないじゃないですか」
「・・けど違う気がする。あいつがそんなに簡単に司のことを忘れて別の男と結婚するなんてことが未だに信じられねぇ。なあ牧野は本当に司のことはもういいのか?」
「いいんじゃないですか?だって現に篠田さんと結婚しているじゃないですか」
どこか突き放すような言葉を返されたが、総二郎は違うと感じていた。
司が刺された時、司の血で両手を真っ赤に染め、小さな身体で大きな男の身体を背負い、歩き出した少女の姿があった。そして自分の命に代えてでも司を助けて欲しいといった姿があった。あの日の光景は映画のワンシーンではないが、何年たっても色褪せることなく記憶の中にある。
「・・知りたいんですか」
桜子の口から呟くように漏れた言葉に総二郎は即座に頷いた。
「ああ。教えてくれ」
「知りません」
と言って桜子は置いた箸を再び手に取った。
そして牡蠣を口に運び、咀嚼することなく呑み込み、それからグラスの柄を掴み、酒をひと口飲んだ。
「三条・・お前・・俺をバカにしてんのか?」
桜子の言葉もだが、その態度に総二郎は言葉を荒げた。
だがすぐに、はっきりとした口調が返された。
「嘘です。知ってます」
4人の男たちの中で頭脳派と呼ばれる男も、昂然たる態度で答える女に振り回されていた。
小さな角を隠し、尖った尻尾を持つ女のその態度は、まさに小悪魔と言われた女のそれだ。
「あのな三条、おまえ司の前でそんな態度取ってみろ。絞殺されるぞ」
呆れた口調で言う総二郎は、遠い日々を回想し、激高する男を止めたのは、自分やあきらだったことを思い出していた。そしてそんな経験をこの年になってまたするのか、いい加減にしてくれといった思いが湧き上がる。それにそんな役目は自分ではなく、あきらの方だ。
だが乗りかかった船だ。総二郎は、桜子のペースに巻き込まれることがないように、分別のある言葉を探していた。
「大丈夫ですから。道明寺さんがそんなことしたら先輩のことが分からないじゃないですか」
と、もっともなことを言う桜子。
だが、その目は笑ってはいない。
「で、どうしてなんだ。聞かせてくれるよな?あいつが篠田と結婚した理由を」

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司はつくしに再会したあと、会館を後にした。
総二郎が用意してくれた再会の場所は、西門流金沢茶道会館。
この週末の予定は全てキャンセルさせ、金沢の街へ来た。
仕組まれた再会は、彼女を驚かせはしたが、いつかこの日が来ることを分かっていた。
そして、自分の夫のことも調べられていると分かっていた。
司が感じたのは、つくしはそんな司の態度に腹を立てるわけでもなく、逆に潔さといったものが感じられた。それは自分の夫の病が既に決められた場所へと向かっていることを理解し、命の限界を知っているが故に、人生の儚さを知った人間の持つ潔さとでもいうのか。
そこにはかつて司が知っていた牧野つくしの姿はなかった。
彼女は自分が担当していた絵本作家の最期も看取っていた。
人の死を看取ることは辛いことだが、自ら進んで看取った彼女。
恐らくそんな経験も今の彼女を作ったのだろう。
そして彼女は結婚している。
その事実が17年前の少女が司に対し抱いていた気持ちを消し去り、その名残りといったものも消し去ってしまったのだろうか。
彼女の口から出た言葉は、もう昔に連れ戻されることはない。と言っているように聞こえた。
二人の間には距離がある。17年という距離が。
その事実はどう足掻いたところで消す事の出来ない事実だ。
「司。で、どうだったんだ?牧野との再会は?あ、今は牧野じゃなかったな。篠田つくしか?」
総二郎は着物から着替えを済ませ、伊達男ぶりを発揮する服装に変わっていた。
二人は金沢市中心部にある総二郎が行きつけのバーにいた。
総二郎は、各地にある西門流の支部を回るたび、その街にある行きつけの店に行き、飲むことがパターンだ。
金沢の街にあるその店は、エレベーターでビルの最上階まで上り、ひとつしかない扉の向うにある高級会員制バー。窓からは金沢市内の夜景が見えるが、東京のような煌びやかさは無く、この街に相応しいしっとりと落ち着いた夜の姿があった。
そんな店のカウンターに腰を下ろした男の元へ、注文したウィスキーが運ばれて来た。
「司。水で薄めるとか氷を入れるとかした方がいいんじゃねぇのか?」
ストレートで3杯目を口にする男に総二郎は声をかけたが、司は答えなかった。
「おい司、聞いてんのか?胃潰瘍になったら困るだろ?そこから胃癌にでもなったらどうすんだよ。それから煙草も止めろ。まあいきなり止めろとは言わねぇけど、本数を減らせ。でねぇと肺癌になっちまうぞ?」
司は総二郎の話など聞いてないとばかり、シガレットケースから1本抜き取ると、それを口に咥え、ライターの火をつけた。
そしてグラスを口へ運び、ひと口飲み、煙を吐き出す。
「・・癌になればあいつが心配してくれるか?」
「はあ?」
「癌になればあいつが心配してくれるのか?」
「お前縁起でもねぇこと言うな。癌になってあいつの気を引くつもりか?」
「胃癌でも肺癌でもどっちでも構わねぇけど、あいつが気にしてくれるなら病気にでもなりてぇ気分だ」
司の態度は、飲むのと吸うのと一度に行えば、最低でもどちらかの病にでも罹ると思っているようだ。
「おい、今日牧野と会ったばかりで何でそんな縁起でもねぇことを言うんだよ?」
総二郎は、司が3杯目のグラスを一気に傾ける姿に、グラスを持つ手を止め、親友の姿を眺めた。そして、子供の頃から兄弟のように育った男の横顔をひとつひとつ確認した。
癖のある髪と綺麗なカーブを描く柳眉。
切れ長の鋭い瞳と筋の通った鼻。
そして酷薄と言われる唇。
由緒ある家柄に生まれ、金と権力と美貌を持ち、望めば手に入らないものは無いと言われる人生を歩んできた男の顔に、深い苦悩を抱えていることが見て取れた。
それは、好きだった女、いや、今でも好きな女が他の男と結婚していることに対する苦悩。
だが、今の男の顔に浮かんでいるのは、それだけではないような気がした。
「なあ。牧野元気そうだったじゃねぇか。それに大人になった分、大人の色気、いや、あいつの場合色気よりも食い気の方が先だろうけど、大人の可愛らしさってのが感じられたな。流石人妻だ。まあ人妻はあきらの専門分野だけどお前もその分野に進出か?」
総二郎は、つくしが結婚していると聞いたとき、彼女が選んだ結婚を、女として自分の幸せを掴んだと祝福し、司にも諦めろといった趣旨の話をした。
だがそうは言っても、運命の悪戯で好きな女の記憶を失った親友の気持ちを思えば、なんとかしてやりたいと思うのが総二郎の偽りのない気持ちだ。
そして、司が彼女を取り戻したいと望み、彼女もそれを望むなら力になってやりたいと考えていた。
だからひと肌脱ぎ、金沢での席を設けた。
だが今、その親友の態度にいつもと違う何かを感じた。
「おい、司。牧野と・・あいつに何かあったのか?」
「・・・・・」
司は黙り込み返事をしない。
「おい、司!」
茶人として煙草を吸わない総二郎は、他人が吸うことに文句は言わないが、今は隣に座った男が深く吸い、静に吐き出す。それを繰り返す様子を見ているだけで、息苦しくなっていた。
「・・んだよ・・」
その声に滲むのは、放っといてくれといった投げやりな態度。
ウィスキーのストレートを3杯飲んだだけで酔うような男ではないことは、総二郎も知っている。そんな男が酔いたいのか、酔いたくないのか分からないが、酒に酔う姿を見たことがない。
「司。何か言われたのか?牧野からなんか言われたんだろ?」
総二郎は、庭から見ていただけで、二人の間でどんな言葉が交わされたか知りようがない。
それでも、司と目を合わせた時、小さなほほ笑みが浮かんだのを見た。だが、それは勘違いだったのか。今は多くを語ろうとしない男に先を促した。
「おい、司なんとか言えよ。牧野と話しをしたんだろ?あいつ何を話した?」
「あいつの・・男は癌だ。癌を罹ってる」
静かに吐き出された言葉は、その静けさに値する内容だ。
何故なら誰もが癌という病を恐れ、その病名を耳にした途端、人生は終わったと思うからだ。
「・・あいつの男って、牧野の夫のことだよな?」
「ああ、そうだ。篠田雄一は癌だ。それは最初に調べた時、分かってた。・・けど癌って言っても今の世の中治療が早ければ完治する。けど、転移してる」
司はつくしと別れてから、すぐに雄一の病状について調べさせた。
勿論、個人の医療記録を調べるのは、簡単なことではなかったが、調査の結果、篠田雄一は癌だと、肺癌で限界が近づいているといった報告を受けた。
ステージ4で、余命は1年。だが余命1年と言われても5年生きることもある。しかし逆に3ヶ月で亡くなってしまう場合もある。そんな夫がいる女に自分の気持ちを押し付けることが、果たして良かったのか。それを自問していた。
「おい・・その話は本当か?」
「ああ。こんなことで嘘をついてどうする?」
「そうだな・・」
総二郎とて癌という病についての知識は少しくらいなら持っている。転移が認められるという意味も分かる。
それに、弟子の家族にも癌患者はいる。今の牧野つくしは、辛い状況に置かれているのではないか。
そう思うと、司から聞かされた状況に大きく息を吐いていた。
そして記憶を失ってしまい、好きだった女を忘れたことを負い目に感じている親友の心を慮った。
17年前。
あの時と同じ状況に戻ることは、誰にも出来ないと分かっているが、それでも司にしてみれば、同じでなくてもいいから好きな女の傍にいたいはずだ。
そして、彼女にもそれを求めようとするはずだ。
本当に手に入れたいと思ったものは、何としても手に入れようとしてきた男だ。
司や総二郎たちの暮らす世界では、不倫といったもののハードルは低い。
だが、牧野つくしをそんな世界に置くことに、総二郎は反対だ。
それに、あの牧野つくしが夫を裏切るといったことが出来るはずがない。
だがもし彼女の心を自分になびかせることが出来たとしても、病気の夫を抱えた牧野は、悩むはずだ。二人がそんな状況に陥ったとしても、牧野は絶対後悔する。自分を許せなくなる。それは司も同じことだ。牧野つくしが苦しめば司も苦しむ。
あの頃、唾を飛ばし子供のようにムキになって彼女と言い合う少年がいた。
それが照れ隠しだと知っていたのは、周りにいた仲間たちだ。
我儘に育った男だったが、それも彼女に出会ってから変わっていった。
しかし、4杯目のグラスに手を伸ばした男は手も足も出せない状況にいる。
強引に前に進もうとすれば、好きな女性を傷つけることになるかもしれない。
だからといって彼女のいない人生は考えられないといった男だ。
牧野つくしは、司にとっては初恋の女性だ。その女性の記憶を取り戻した以上、切なさばかりが溢れているはずだ。
そしてどうしたらいいのか分からない。
それは道明寺司という男にとって初めての経験のはずだ。
総二郎は司に断りを入れ、席をはずし少し離れた場所に移動すると、携帯電話を取り出した。それからアドレス帳を呼び出し、牧野つくしを一番よく知る人物の番号を鳴らしていた。

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そして、自分の夫のことも調べられていると分かっていた。
司が感じたのは、つくしはそんな司の態度に腹を立てるわけでもなく、逆に潔さといったものが感じられた。それは自分の夫の病が既に決められた場所へと向かっていることを理解し、命の限界を知っているが故に、人生の儚さを知った人間の持つ潔さとでもいうのか。
そこにはかつて司が知っていた牧野つくしの姿はなかった。
彼女は自分が担当していた絵本作家の最期も看取っていた。
人の死を看取ることは辛いことだが、自ら進んで看取った彼女。
恐らくそんな経験も今の彼女を作ったのだろう。
そして彼女は結婚している。
その事実が17年前の少女が司に対し抱いていた気持ちを消し去り、その名残りといったものも消し去ってしまったのだろうか。
彼女の口から出た言葉は、もう昔に連れ戻されることはない。と言っているように聞こえた。
二人の間には距離がある。17年という距離が。
その事実はどう足掻いたところで消す事の出来ない事実だ。
「司。で、どうだったんだ?牧野との再会は?あ、今は牧野じゃなかったな。篠田つくしか?」
総二郎は着物から着替えを済ませ、伊達男ぶりを発揮する服装に変わっていた。
二人は金沢市中心部にある総二郎が行きつけのバーにいた。
総二郎は、各地にある西門流の支部を回るたび、その街にある行きつけの店に行き、飲むことがパターンだ。
金沢の街にあるその店は、エレベーターでビルの最上階まで上り、ひとつしかない扉の向うにある高級会員制バー。窓からは金沢市内の夜景が見えるが、東京のような煌びやかさは無く、この街に相応しいしっとりと落ち着いた夜の姿があった。
そんな店のカウンターに腰を下ろした男の元へ、注文したウィスキーが運ばれて来た。
「司。水で薄めるとか氷を入れるとかした方がいいんじゃねぇのか?」
ストレートで3杯目を口にする男に総二郎は声をかけたが、司は答えなかった。
「おい司、聞いてんのか?胃潰瘍になったら困るだろ?そこから胃癌にでもなったらどうすんだよ。それから煙草も止めろ。まあいきなり止めろとは言わねぇけど、本数を減らせ。でねぇと肺癌になっちまうぞ?」
司は総二郎の話など聞いてないとばかり、シガレットケースから1本抜き取ると、それを口に咥え、ライターの火をつけた。
そしてグラスを口へ運び、ひと口飲み、煙を吐き出す。
「・・癌になればあいつが心配してくれるか?」
「はあ?」
「癌になればあいつが心配してくれるのか?」
「お前縁起でもねぇこと言うな。癌になってあいつの気を引くつもりか?」
「胃癌でも肺癌でもどっちでも構わねぇけど、あいつが気にしてくれるなら病気にでもなりてぇ気分だ」
司の態度は、飲むのと吸うのと一度に行えば、最低でもどちらかの病にでも罹ると思っているようだ。
「おい、今日牧野と会ったばかりで何でそんな縁起でもねぇことを言うんだよ?」
総二郎は、司が3杯目のグラスを一気に傾ける姿に、グラスを持つ手を止め、親友の姿を眺めた。そして、子供の頃から兄弟のように育った男の横顔をひとつひとつ確認した。
癖のある髪と綺麗なカーブを描く柳眉。
切れ長の鋭い瞳と筋の通った鼻。
そして酷薄と言われる唇。
由緒ある家柄に生まれ、金と権力と美貌を持ち、望めば手に入らないものは無いと言われる人生を歩んできた男の顔に、深い苦悩を抱えていることが見て取れた。
それは、好きだった女、いや、今でも好きな女が他の男と結婚していることに対する苦悩。
だが、今の男の顔に浮かんでいるのは、それだけではないような気がした。
「なあ。牧野元気そうだったじゃねぇか。それに大人になった分、大人の色気、いや、あいつの場合色気よりも食い気の方が先だろうけど、大人の可愛らしさってのが感じられたな。流石人妻だ。まあ人妻はあきらの専門分野だけどお前もその分野に進出か?」
総二郎は、つくしが結婚していると聞いたとき、彼女が選んだ結婚を、女として自分の幸せを掴んだと祝福し、司にも諦めろといった趣旨の話をした。
だがそうは言っても、運命の悪戯で好きな女の記憶を失った親友の気持ちを思えば、なんとかしてやりたいと思うのが総二郎の偽りのない気持ちだ。
そして、司が彼女を取り戻したいと望み、彼女もそれを望むなら力になってやりたいと考えていた。
だからひと肌脱ぎ、金沢での席を設けた。
だが今、その親友の態度にいつもと違う何かを感じた。
「おい、司。牧野と・・あいつに何かあったのか?」
「・・・・・」
司は黙り込み返事をしない。
「おい、司!」
茶人として煙草を吸わない総二郎は、他人が吸うことに文句は言わないが、今は隣に座った男が深く吸い、静に吐き出す。それを繰り返す様子を見ているだけで、息苦しくなっていた。
「・・んだよ・・」
その声に滲むのは、放っといてくれといった投げやりな態度。
ウィスキーのストレートを3杯飲んだだけで酔うような男ではないことは、総二郎も知っている。そんな男が酔いたいのか、酔いたくないのか分からないが、酒に酔う姿を見たことがない。
「司。何か言われたのか?牧野からなんか言われたんだろ?」
総二郎は、庭から見ていただけで、二人の間でどんな言葉が交わされたか知りようがない。
それでも、司と目を合わせた時、小さなほほ笑みが浮かんだのを見た。だが、それは勘違いだったのか。今は多くを語ろうとしない男に先を促した。
「おい、司なんとか言えよ。牧野と話しをしたんだろ?あいつ何を話した?」
「あいつの・・男は癌だ。癌を罹ってる」
静かに吐き出された言葉は、その静けさに値する内容だ。
何故なら誰もが癌という病を恐れ、その病名を耳にした途端、人生は終わったと思うからだ。
「・・あいつの男って、牧野の夫のことだよな?」
「ああ、そうだ。篠田雄一は癌だ。それは最初に調べた時、分かってた。・・けど癌って言っても今の世の中治療が早ければ完治する。けど、転移してる」
司はつくしと別れてから、すぐに雄一の病状について調べさせた。
勿論、個人の医療記録を調べるのは、簡単なことではなかったが、調査の結果、篠田雄一は癌だと、肺癌で限界が近づいているといった報告を受けた。
ステージ4で、余命は1年。だが余命1年と言われても5年生きることもある。しかし逆に3ヶ月で亡くなってしまう場合もある。そんな夫がいる女に自分の気持ちを押し付けることが、果たして良かったのか。それを自問していた。
「おい・・その話は本当か?」
「ああ。こんなことで嘘をついてどうする?」
「そうだな・・」
総二郎とて癌という病についての知識は少しくらいなら持っている。転移が認められるという意味も分かる。
それに、弟子の家族にも癌患者はいる。今の牧野つくしは、辛い状況に置かれているのではないか。
そう思うと、司から聞かされた状況に大きく息を吐いていた。
そして記憶を失ってしまい、好きだった女を忘れたことを負い目に感じている親友の心を慮った。
17年前。
あの時と同じ状況に戻ることは、誰にも出来ないと分かっているが、それでも司にしてみれば、同じでなくてもいいから好きな女の傍にいたいはずだ。
そして、彼女にもそれを求めようとするはずだ。
本当に手に入れたいと思ったものは、何としても手に入れようとしてきた男だ。
司や総二郎たちの暮らす世界では、不倫といったもののハードルは低い。
だが、牧野つくしをそんな世界に置くことに、総二郎は反対だ。
それに、あの牧野つくしが夫を裏切るといったことが出来るはずがない。
だがもし彼女の心を自分になびかせることが出来たとしても、病気の夫を抱えた牧野は、悩むはずだ。二人がそんな状況に陥ったとしても、牧野は絶対後悔する。自分を許せなくなる。それは司も同じことだ。牧野つくしが苦しめば司も苦しむ。
あの頃、唾を飛ばし子供のようにムキになって彼女と言い合う少年がいた。
それが照れ隠しだと知っていたのは、周りにいた仲間たちだ。
我儘に育った男だったが、それも彼女に出会ってから変わっていった。
しかし、4杯目のグラスに手を伸ばした男は手も足も出せない状況にいる。
強引に前に進もうとすれば、好きな女性を傷つけることになるかもしれない。
だからといって彼女のいない人生は考えられないといった男だ。
牧野つくしは、司にとっては初恋の女性だ。その女性の記憶を取り戻した以上、切なさばかりが溢れているはずだ。
そしてどうしたらいいのか分からない。
それは道明寺司という男にとって初めての経験のはずだ。
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Comment:6
眉の動かし方や、自嘲ぎみに口元に笑みを浮かべる仕草といったものは、つくしが初めて見るもので、彼女が好きだった少年の微笑みはそこに無かった。
今あるのは、大人になった男の何気ない仕草だ。
そして、その仕草に35歳の男の余裕といったものが感じられた。
他にどんな顔を持ち合わせているのだろうか。
新聞やテレビで見かける道明寺司に、無数の顔があるとは思えないが、少年だった頃つくしだけに見せていた笑顔は、まだあるのだろうか。もしあるのなら、その笑顔を誰かに見せたことがあったのだろうか。
彼のことを気にしなかったと言えばそれは嘘だ。
遠く離れた国に暮らしていても、世界は広いようで狭い。どんな情報でも簡単に知ることが出来る世の中に暮らしていれば、望まなくても目に触れることもあった。
そして、多くを語らくなった桜子に、NYでの彼がどんな暮らしをしていたのか理解していた。
思わぬ再会と告白に、どう返事をすればいいのか。
だが答えを求められたわけではない。
自分の気持ちを知って欲しいと言われただけだ。
17年経ったのだ。二人の間には17年という長い歳月が流れたのだ。
その間、つくしに流れた時間は、ごく人並の時間。
高校を卒業し、奨学金で大学を卒業し、希望した絵本の仕事にも就いた。
そして担当になった女性絵本作家の住む金沢を訪れるようになり、彼女の最期を看取り、夫となった雄一と知り合い金沢の街に暮らすことを決めた。
夫の命に期限が付けられていることを除けば、どこにでもいる女のごく普通の人生だ。
雄一が癌であることを知って結婚したが、恋人ではなく、友人からの結婚生活。
二人の間に愛や恋といった言葉はないが、互いを思いやる気持ちはある。
結婚当初、つくしは自分の過去を冗談交じりに話したことがあった。
高校生の頃好きになった人がいたが、ある日お前なんか知らないと言われ、フラれたとごく軽い調子で話しをした。
そんなつくしに雄一は、
『忘れられるって一番辛いことだよな。別れた後も全然思い出して貰えず、思い出としても残らないんだから。忘れられた方は消化しきれない想いを抱えることになるけど、大丈夫だった?』
と言ったが、笑って大丈夫だと答えた。
それから黙っていると、思い出しているんだね。と問われ、否定したが、否定しきれていないと感じた雄一は、慰めるつもりなのか、自分の別れた恋人について懐かしそうに話しを始めた。
『僕の場合、つき合い始めてすぐ口にしたのが結婚しようだった。それで新居で使う家具を見に行こうって行ったんだけど、一番に見るのがベッドっていうのもなんだか恥ずかしいものがあるけど、二人が一日の終わりを迎える場所だし、愛し合う場所だから結構気合いを入れて見て回ったことがあったな。勿論ダブルベッドなんだけどね、マットレスの硬さとかで揉めたりした。僕は硬い方がいいんだけど、彼女はもう少し柔らかいのがいいって言ってベッドの上で跳ねてたら店員に嫌な顔をされたな。でもそれも今ではいい思い出だよ。思い出って人間が生きて行く上でのエネルギーのひとつだと思う。だから思い出のない人間にはなりたくない。今の僕がこうして生きていられるのも沢山の思い出があるからだと思う』
雄一の話は、つくしを慰めるというよりも、自分自身を勇気づけているように思えた。
だが、嫌な感じには思えなかった。それは雄一の持つ雰囲気がそうさせるのかもしれない。
例え錯覚であっても、二人はどこか似たようなところがある。そう感じられた。
そしてそれは、感性が似ているといった言葉で表される感覚的なものだ。やはり雄一は、花沢類のような存在なのかもしれなかった。
『それに夢で逢えたらって言葉があるけど、思い出があるから夢の中でも会いたい人に逢えるんだと思う。だから思い出は生き続ける中で必要な要素のはずだ』
雄一という人間は強い。
彼の言葉は、生きることに前向きな考え方が出来る人間の言葉で、とても病に侵されている人間の言葉とは思えなかった。
『人間が生きていく上で本当に重要な相手ってのは、数えるほどしかいないけど、その人は重要な相手じゃなかったの?』
だが最後に言われた言葉に、思いが千々に乱れ、道明寺司という男に抱いていた気持ちを超えてしまう人に、これから出会うことがあるのかといった気にさせられた。
「道明寺・・あたし・・」
「牧野。答えなくていい。さっきの話は俺のお前に対する正直な気持ちだ」
躊躇を感じさせる言葉に司は言葉を挟んだ。
彼女の話すことならどんなことも遮ることなく記憶の手帳へ記そうとしたが、これから彼女の口をつく言葉は残そうとは思わなかった。
「それにお前の答えは聞かなくても分かってる。・・お前には・・家族になった男がいる。お前は家族を大切にする女だった。だから俺にこんなことを言われても困るって言いたいはずだ」
ついさっきは、夫という言葉を口に出来たが、やはりどうしてもその言葉を口にすることが出来ずにいた。
そして答えを出してしまえば、その答えを覆すことをしなければならなくなるはずだ。
だから答えて欲しくない。切ない気持ちだけを伝えたと思われることは分かっている。
だが、心の中は彼女でいっぱいになっているのだから、伝えずにはいられなかった。
そして本当の愛がこの手にあったのは、17年前の短い期間だったと今更ながら思っていた。
「篠田さ~ん!」
何の言葉も無くなった二人の耳に届いたのは、庭で総二郎と写真撮影をしていた同僚の坂本の声だ。その声につくしは庭を振り返った。
「ねえ!篠田さん足の痺れ治ったんでしょ?それなら一緒に西門さんと写真撮りましょうよ!あたしもう何枚も撮ってもらっちゃった!」
坂本はそう言ってつくし達のいる和室へ向かって歩いていた。
「ねえ早く出ていらっしゃいよ!」
坂本の視線はつくしに向けられているが、彼女の背後には司がいる。
今はまだ遠目であり、部屋中まで陽射しは届かず、誰がいるのかは分からないはずだが、坂本が道明寺司という人物を知っているかと言われれば、恐らく知っているはずだ。
そして、どうしてこの場に彼がいるのかと思うはずだ。
それから、どうしてつくしが彼と一緒にいるのかと思うはずだ。
束の間、つくしは坂本の呼びかけに、なんと答えようかと考えたが、男の低く静かな声が背中に響いた。
「じゃあな、牧野」
声の主の方へ振り返ったつくしが見たのは、庭に溢れる秋の陽射しへ視線を移し、それからつくしへ視線を移した男の無表情な顔だ。
だが一瞬の出来事だったが、眩しそうに庭を見た目は違った。
冷静な視線ではあったが、どこか微笑みが浮かんでいた。それは庭にいた西門総二郎に向けた笑みだったのかもしれない。
そして司は、つくしに背を向け、来た時と同じように敷き詰められた座布団を上手に避け部屋を出て行った。
「篠田さん?篠田さん?ねえ、さっき誰かといたでしょ?誰?この会館の人?」
縁側まで戻って来た坂本は、消えた人物に興味を示しつくしに聞いた。
「え?うん、ここの人。今日お土産にくれる和菓子について話してたの。ほら、新作の和菓子が食べれるって話しだったでしょ?」
坂本がつくしを誘ったのは、西門総二郎に会えることと、新作の和菓子が食べれるからといったことだった。だからつくしは、その話題で話しを逸らした。
「え?そうなの?それでどんな和菓子なの?」
「えっ?・・ひ、干菓子って言ってたかな?」
「え?御干菓子なの?御干菓子だけ?」
坂本はどこか残念そうな声を上げた。
干菓子は文字通り生菓子とは対照的に水分の少ない乾燥した菓子だ。茶の湯では出されることが多いが、それだけで食べると水分が少ない分ぱさぱさと感じられ、口の中の水分を奪われることになり、どうやら坂本はあまり好きではないらしい。
「うん。確か・・和三盆の落雁・・そ、それから生菓子もいくつかあるって!」
それが本当かどうかつくしは知らなかったが、想像で言っていた。
長い時間に感じられた再会だったが、本当は数分といったところだったのかもしれない。
やがて庭にいた人々が戻り、再び西門総二郎の話が始まった。
そして時々つくしを見る総二郎の視線は、何か言いたげだったが、話が終っても近づいて来ることはなかった。
彼は道明寺司の幼馴染みであり親友だ。
そんな男が女性達を引き連れるようにして庭へ出たのも、親友のための行動だと分かっていた。彼らF4と呼ばれた4人の結束は固く、例え喧嘩をしても、互いの心の中には仲間を信頼する気持ちがあった。
今日のことも、そんな仲間を思う気持からの男の友情といったものなのだろう。
日が傾き始めると、風が冷たく感じられ、厚めの上着を着てきて良かったと思う。
まだマフラーをするには早い気がして、用意してきたストールを襟元に巻き、つくしは茶道会館を後にした。

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今あるのは、大人になった男の何気ない仕草だ。
そして、その仕草に35歳の男の余裕といったものが感じられた。
他にどんな顔を持ち合わせているのだろうか。
新聞やテレビで見かける道明寺司に、無数の顔があるとは思えないが、少年だった頃つくしだけに見せていた笑顔は、まだあるのだろうか。もしあるのなら、その笑顔を誰かに見せたことがあったのだろうか。
彼のことを気にしなかったと言えばそれは嘘だ。
遠く離れた国に暮らしていても、世界は広いようで狭い。どんな情報でも簡単に知ることが出来る世の中に暮らしていれば、望まなくても目に触れることもあった。
そして、多くを語らくなった桜子に、NYでの彼がどんな暮らしをしていたのか理解していた。
思わぬ再会と告白に、どう返事をすればいいのか。
だが答えを求められたわけではない。
自分の気持ちを知って欲しいと言われただけだ。
17年経ったのだ。二人の間には17年という長い歳月が流れたのだ。
その間、つくしに流れた時間は、ごく人並の時間。
高校を卒業し、奨学金で大学を卒業し、希望した絵本の仕事にも就いた。
そして担当になった女性絵本作家の住む金沢を訪れるようになり、彼女の最期を看取り、夫となった雄一と知り合い金沢の街に暮らすことを決めた。
夫の命に期限が付けられていることを除けば、どこにでもいる女のごく普通の人生だ。
雄一が癌であることを知って結婚したが、恋人ではなく、友人からの結婚生活。
二人の間に愛や恋といった言葉はないが、互いを思いやる気持ちはある。
結婚当初、つくしは自分の過去を冗談交じりに話したことがあった。
高校生の頃好きになった人がいたが、ある日お前なんか知らないと言われ、フラれたとごく軽い調子で話しをした。
そんなつくしに雄一は、
『忘れられるって一番辛いことだよな。別れた後も全然思い出して貰えず、思い出としても残らないんだから。忘れられた方は消化しきれない想いを抱えることになるけど、大丈夫だった?』
と言ったが、笑って大丈夫だと答えた。
それから黙っていると、思い出しているんだね。と問われ、否定したが、否定しきれていないと感じた雄一は、慰めるつもりなのか、自分の別れた恋人について懐かしそうに話しを始めた。
『僕の場合、つき合い始めてすぐ口にしたのが結婚しようだった。それで新居で使う家具を見に行こうって行ったんだけど、一番に見るのがベッドっていうのもなんだか恥ずかしいものがあるけど、二人が一日の終わりを迎える場所だし、愛し合う場所だから結構気合いを入れて見て回ったことがあったな。勿論ダブルベッドなんだけどね、マットレスの硬さとかで揉めたりした。僕は硬い方がいいんだけど、彼女はもう少し柔らかいのがいいって言ってベッドの上で跳ねてたら店員に嫌な顔をされたな。でもそれも今ではいい思い出だよ。思い出って人間が生きて行く上でのエネルギーのひとつだと思う。だから思い出のない人間にはなりたくない。今の僕がこうして生きていられるのも沢山の思い出があるからだと思う』
雄一の話は、つくしを慰めるというよりも、自分自身を勇気づけているように思えた。
だが、嫌な感じには思えなかった。それは雄一の持つ雰囲気がそうさせるのかもしれない。
例え錯覚であっても、二人はどこか似たようなところがある。そう感じられた。
そしてそれは、感性が似ているといった言葉で表される感覚的なものだ。やはり雄一は、花沢類のような存在なのかもしれなかった。
『それに夢で逢えたらって言葉があるけど、思い出があるから夢の中でも会いたい人に逢えるんだと思う。だから思い出は生き続ける中で必要な要素のはずだ』
雄一という人間は強い。
彼の言葉は、生きることに前向きな考え方が出来る人間の言葉で、とても病に侵されている人間の言葉とは思えなかった。
『人間が生きていく上で本当に重要な相手ってのは、数えるほどしかいないけど、その人は重要な相手じゃなかったの?』
だが最後に言われた言葉に、思いが千々に乱れ、道明寺司という男に抱いていた気持ちを超えてしまう人に、これから出会うことがあるのかといった気にさせられた。
「道明寺・・あたし・・」
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「それにお前の答えは聞かなくても分かってる。・・お前には・・家族になった男がいる。お前は家族を大切にする女だった。だから俺にこんなことを言われても困るって言いたいはずだ」
ついさっきは、夫という言葉を口に出来たが、やはりどうしてもその言葉を口にすることが出来ずにいた。
そして答えを出してしまえば、その答えを覆すことをしなければならなくなるはずだ。
だから答えて欲しくない。切ない気持ちだけを伝えたと思われることは分かっている。
だが、心の中は彼女でいっぱいになっているのだから、伝えずにはいられなかった。
そして本当の愛がこの手にあったのは、17年前の短い期間だったと今更ながら思っていた。
「篠田さ~ん!」
何の言葉も無くなった二人の耳に届いたのは、庭で総二郎と写真撮影をしていた同僚の坂本の声だ。その声につくしは庭を振り返った。
「ねえ!篠田さん足の痺れ治ったんでしょ?それなら一緒に西門さんと写真撮りましょうよ!あたしもう何枚も撮ってもらっちゃった!」
坂本はそう言ってつくし達のいる和室へ向かって歩いていた。
「ねえ早く出ていらっしゃいよ!」
坂本の視線はつくしに向けられているが、彼女の背後には司がいる。
今はまだ遠目であり、部屋中まで陽射しは届かず、誰がいるのかは分からないはずだが、坂本が道明寺司という人物を知っているかと言われれば、恐らく知っているはずだ。
そして、どうしてこの場に彼がいるのかと思うはずだ。
それから、どうしてつくしが彼と一緒にいるのかと思うはずだ。
束の間、つくしは坂本の呼びかけに、なんと答えようかと考えたが、男の低く静かな声が背中に響いた。
「じゃあな、牧野」
声の主の方へ振り返ったつくしが見たのは、庭に溢れる秋の陽射しへ視線を移し、それからつくしへ視線を移した男の無表情な顔だ。
だが一瞬の出来事だったが、眩しそうに庭を見た目は違った。
冷静な視線ではあったが、どこか微笑みが浮かんでいた。それは庭にいた西門総二郎に向けた笑みだったのかもしれない。
そして司は、つくしに背を向け、来た時と同じように敷き詰められた座布団を上手に避け部屋を出て行った。
「篠田さん?篠田さん?ねえ、さっき誰かといたでしょ?誰?この会館の人?」
縁側まで戻って来た坂本は、消えた人物に興味を示しつくしに聞いた。
「え?うん、ここの人。今日お土産にくれる和菓子について話してたの。ほら、新作の和菓子が食べれるって話しだったでしょ?」
坂本がつくしを誘ったのは、西門総二郎に会えることと、新作の和菓子が食べれるからといったことだった。だからつくしは、その話題で話しを逸らした。
「え?そうなの?それでどんな和菓子なの?」
「えっ?・・ひ、干菓子って言ってたかな?」
「え?御干菓子なの?御干菓子だけ?」
坂本はどこか残念そうな声を上げた。
干菓子は文字通り生菓子とは対照的に水分の少ない乾燥した菓子だ。茶の湯では出されることが多いが、それだけで食べると水分が少ない分ぱさぱさと感じられ、口の中の水分を奪われることになり、どうやら坂本はあまり好きではないらしい。
「うん。確か・・和三盆の落雁・・そ、それから生菓子もいくつかあるって!」
それが本当かどうかつくしは知らなかったが、想像で言っていた。
長い時間に感じられた再会だったが、本当は数分といったところだったのかもしれない。
やがて庭にいた人々が戻り、再び西門総二郎の話が始まった。
そして時々つくしを見る総二郎の視線は、何か言いたげだったが、話が終っても近づいて来ることはなかった。
彼は道明寺司の幼馴染みであり親友だ。
そんな男が女性達を引き連れるようにして庭へ出たのも、親友のための行動だと分かっていた。彼らF4と呼ばれた4人の結束は固く、例え喧嘩をしても、互いの心の中には仲間を信頼する気持ちがあった。
今日のことも、そんな仲間を思う気持からの男の友情といったものなのだろう。
日が傾き始めると、風が冷たく感じられ、厚めの上着を着てきて良かったと思う。
まだマフラーをするには早い気がして、用意してきたストールを襟元に巻き、つくしは茶道会館を後にした。

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Comment:7
仕事上で会うどんな人間を前にしても緊張したことがない男が緊張する。
そんな彼の姿を見れば誰もが驚くはずだ。しかし、司の表情に緊張の色が浮かぶことはない。
それは勿論言葉使いも、態度もだが、長年ビジネスで培われたひと前での態度はそう簡単に崩れるものではない。
だが、今の彼の言葉には緊張が感じられた。
「話がしたいんだがいいか?」
どんな話しでも本人の口から語られる事実ほど重いものはない。
それが自分の聞きたい話しではなくても、聞かなければならないこともある。
実際知っていたとはいえ、本人の口から結婚した事実を改めて聞かされ心が痛みを感じていた。
それでも、会うと決めたとき、彼女の口から語られる言葉を決して遮ることなく、全てを記憶の手帳の中に記していくと決めた。
あの時、彼女を忘れてしまったばかりに失ってしまった17年分の想いが補えるとは思えないが、その一端でもいいから彼女のことが知りたかった。
だからこの機会を逃したくない。
司はそういった思いから再び聞いた。
「時間を貰えないか?」
つくしは後ろを振り返り、総二郎との写真撮影会となった庭に目をやった。
そしてそこにいるはずの同僚の姿を探し、彼女の姿を認めると再び司に視線を向けた。
「あたし、一緒に来た人がいるの。だから_」
「ああ。知ってる」
「・・そう。この講演会って偶然じゃないってことね?」
この場所に司が現れたことを偶然と片付けられるほどつくしは馬鹿ではない。
道明寺司の一日は値千金であり、北陸の小さな街に彼のような立場の男が訪れる意味といったものがあるなら教えて欲しいくらいだ。
だがそんな男が自分に会いに来ていることは分かっている。想定はしていた。
それに力のある男が名刺を人に預け、連絡を待つだけといったことをするはずがないと初めから分かっていた。そして、その目的が何であれ、いつか本人が目の前に現れることも分かっていた。
だが、もう二度と会うことはないと思っていた男から久し振りと言われたが、久し振りだといった言葉は返さなかった。
だから既に知っている事実を伝えた。
牧野つくしは結婚したと。昔とは違うのだと。
「お前の独り言は相変らずだな」
つくしは、自分が独り言を呟いていたことを司の言葉から知ったが構わないと思った。
逆に聞く手間が省けたくらいだと。
だが確実に感じていた。
錆び付き、回ることなく放置されていた古い水車の歯車が回転を始めたことを。
「この講演会が偶然かどうかって話しだが、もちろん偶然じゃねぇ。それに俺は回りくどいことを言うのは嫌いだ。だからはっきり言う。俺はお前に会いたかったからこの街へ来た」
つくしの心のざわめきを知らない司だが、彼にしてみれば、彼女とはまた別の思いがあった。
堕とした記憶を拾い上げたとき、今も彼女への変わらない愛があることを知った。
だから牧野つくしが結婚していたとしても、言わずに後悔するくらいなら自分の気持ちを伝えることにした。
「記憶が戻った俺はお前に会いたいと思った。・・けど直ぐにお前に会いに来なかったのは情けねぇ話だがお前のことを17年も忘れていた男がどの面下げてのこのこと会いに行ける?若い頃なら気にも留めなかったことも、この年になると気になるってのも妙な話だが・・そういうことだ。・・まあ、俺も成長したってことだろうな」
自嘲ぎみに笑ったがそれは事実であり、そのことを隠すつもりはない。
17年間司の思考の中に存在しなかった女に会いに行くことは、決して簡単なことではないということだ。だがそれは、彼女を忘れ去った男の勝手な思いだと言われれば、それまでのことだ。
「・・だから桜子に名刺を?」
戸惑いが感じられる言葉だが真っ直ぐな視線を受け止めた司は、はっきりとした言葉を返した。
「ああ。あいつだけがいつまでもお前のことを気にしてた。俺がお前のことを忘れても、しつこくお前のことを俺に伝えようとしたのはあいつだけだ」
そのことはつくしも知っていた。そしてそんな桜子に言ったことがある。
もういいからと。
あの時感じた嵐も、過ぎ去ってしまえば吹き過ぎた風のようなもので、飛んでいってしまったものは今更取り戻すことなど出来ないのだと。
大きな嵐を乗り越えようとした二人に吹いた風は吹き返すことはなく、数年に一度起こると言われる偏西風の蛇行のように、二人の人生を思いもしなかった場所へと運んでいったのだと。
10代の恋なんて長い人生の中の短いひとときであり、終わってみれば記憶に残らないことだってあるでしょ?と。
それでも桜子はつくしの恋を簡単に諦めきれないと言った。
なぜ、そこまでするのかと聞いたことがあった。
すると桜子は、
『先輩の恋はあたしの恋でもあるんです。あたしが道明寺さんに対して抱いていた恋は上手く言えませんけど恋であって恋ではなかったんです。でも先輩の恋はあたしとは違う種類の恋なんです。あの道明寺さんが本気で人を好きになるなんて、誰も考えたことがなかったことなんですよ?先輩に恋をした道明寺さんは、あたしが好きだった道明寺さんとは別の人でした・・・・。でもあの道明寺さんが先輩のために変わろうとしていた。それがあたしは嬉しかった。人として男として成長する道明寺さんが・・好きでした。でもそれは先輩が相手だからなんです。・・・先輩。あたしはお二人が好きなんです。それに二人の間には見えない糸で結ばれた愛の重さが感じられるんです。だからいつか必ず道明寺さんは先輩のことを思い出しますから』
それはひとりの男性を思うがため、自分の姿形を変えることに躊躇いを感じなかった女性が持つ恋に対する確固たる思い。
つくしには分からないが、桜子には桜子の強い思いがある。
それを感じた瞬間だった。
そして今、嵐ではなく、小さなつむじ風が、くるくると渦を巻き近づいてくるのが見えた。
今はまだ小さな風の塊が。
「昔の三条は俺が聞きたいとは思わなかったお前の話をする為わざわざNYまで来たこともあった。・・けど帰国してあいつの店に行ったとき、お前のことは何も教えてはくれなかった。おまえがどこに住んでいるのか。何をしているのか。・・結婚していることも」
まるで結婚の事実を司の耳に入れたくないように感じられた三条桜子の態度。
だが、その理由が今なら分かる。司はつくしを忘れたが、自分は懸命に牧野つくしのことを伝え続けた。それなのに司は思い出す努力もせず、月日が流れ、ある日突然現れた彼に、牧野つくしは他の男と結婚していますとは言えなかったということを。
それとも自分の口よりも、司自身、自ら調べてショックを受ければいいとでも思ったのか。
それが遠い昔の司に対しての三条の復讐だとすれば、ダメージを与える方法として実に効果的ではあるが、そうではないと司も分っていた。ただ、三条自身が自分の口から告げたくはなかったということだと理解していた。
そして司は、夫という言葉を口にすることが出来ずにいた。
それは、牧野つくしには、自分ではない男が夫として存在していることを認めたくないといった気持ちがあるからだ。そして湧き上がる嫉妬の気持ちを簡単には抑えることが出来ないからだ。
妻であれ、夫であれ、その呼び名には固い絆が感じられ、法的にも認められた関係であり、情緒的な関わりが存在するからだ。
自分ではない他の男が彼女を抱いていると。
「・・それでどれくらいなんだ?ステージって言うのか?」
その言い方は、ある病に関わりがある人間なら理解出来る言葉だ。
司は、つくしの夫の癌の進行度合いはどれくらいかと訊ねていた。
だがその瞬間、彼女の口元が固く引き締められた気がした。
そして口に出したあと、聞くべきではないことを口にしてしまったと感じていた。
彼女は、牧野つくしは弱い人間を守ろうとする人間だ。弱い人間を裏切ることはしない人間だ。自分の夫の病状をどんな理由を持って調べたのかと思うはずだ。
そして自分のことならまだしも、夫の病気のことまで調べられ、いい気はしないはずだ。
「・・そこまでは調べなかったの?」
だがその口調に嫌悪感はなく、むしろ調べられることを想定していたようで、知らなかったことに驚いていた。
「あ、ああ・・調べなかった。けど今の質問には答えなくていい。悪かった・・俺も随分と個人的なことを訊いた」
まさに病歴とは個人の生きる上での尊厳に繋がる大切なことであり、簡単に他人に話せるようなことではない。
だが本当は、それが一番聞きたかったことだ。
彼女の夫となった男の命がどうなるか知りたい。
だがそれを知ってどうするというのだ。
もし余命幾ばくも無いのだとすれば、自分はどうするつもりでいるのか。
自分のライバルの命の長さを推し量ることが、喜ばしいことだと言えないが、それでも男というのは、好きな女を自分だけのものにしたいといった独占欲は誰しもが持つものだ。
彼女がひとりになれば。
その思いがないとは言えない。
だが司は決して人の死を願うような男ではない。
何しろ人の命の大切さは彼女に教えられたのだから。
「・・東京にいた頃・・まだ結婚する前一度・・なってるの。完治したと思ったけど転移してたって・・でもまだ仕事は出来るの。そうはいっても机に座って調べものをすることが仕事だから・・」
思いもしなかった返事に司はなんと答えればいいのか言葉に詰まった。
彼女の話の中に見えたのは、砂時計の砂が限られた時を刻んでいるということだ。
砂は掴み取ろうとしても、指の間からサラサラと零れ落ちるが、それは自分の意志では食い止めようもない死に向かっている男の時間だ。
そんな男を夫に持つ彼女に何と声をかければいいのか、今の司は言葉を探していた。
そして分かってはいるが、彼女は情に弱い女性だ。
病気の夫がいるなら、見捨てるようなことは決してしない。
そんな彼女が大切だと思うのは、死の翳りを自覚している夫なのだろう。
だからこそ、ぶれることのない視線を自分に向けて来たことに司は気付いた。
司が過去に掴まえたはずの牧野つくしの心は今はもうない。
あの視線はそう言われたようなものではないか。
司は、ほんのついさっきまで、胸の奥にあった想いを伝えようとしていた。
それなのに、今では躊躇っていた。
自分の思いだけを押し付けることが愛ではないということを随分と昔に学習したはずだ。
かつて、そういった状況だったことがあったはずだ。
だが、どうしても伝えたい想いがある。
諦めたくはないが、諦めなければならないとしても伝えたかった。
今も変わらず愛していると。
「俺はお前を思い出し、もう一度お前とやり直したいと思った。だからここに来た。だがそれは男の身勝手な行動だと思ってもらってもいい。・・けど、どうしても気持ちだけは知って欲しい。・・ああ。分かってる。お前は結婚している。・・・それに病を抱えた夫がいる。
それでも俺はお前のことが好きだ。あの頃と同じだ。いや、今はあの頃以上にお前のことが好きだ」

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それは勿論言葉使いも、態度もだが、長年ビジネスで培われたひと前での態度はそう簡単に崩れるものではない。
だが、今の彼の言葉には緊張が感じられた。
「話がしたいんだがいいか?」
どんな話しでも本人の口から語られる事実ほど重いものはない。
それが自分の聞きたい話しではなくても、聞かなければならないこともある。
実際知っていたとはいえ、本人の口から結婚した事実を改めて聞かされ心が痛みを感じていた。
それでも、会うと決めたとき、彼女の口から語られる言葉を決して遮ることなく、全てを記憶の手帳の中に記していくと決めた。
あの時、彼女を忘れてしまったばかりに失ってしまった17年分の想いが補えるとは思えないが、その一端でもいいから彼女のことが知りたかった。
だからこの機会を逃したくない。
司はそういった思いから再び聞いた。
「時間を貰えないか?」
つくしは後ろを振り返り、総二郎との写真撮影会となった庭に目をやった。
そしてそこにいるはずの同僚の姿を探し、彼女の姿を認めると再び司に視線を向けた。
「あたし、一緒に来た人がいるの。だから_」
「ああ。知ってる」
「・・そう。この講演会って偶然じゃないってことね?」
この場所に司が現れたことを偶然と片付けられるほどつくしは馬鹿ではない。
道明寺司の一日は値千金であり、北陸の小さな街に彼のような立場の男が訪れる意味といったものがあるなら教えて欲しいくらいだ。
だがそんな男が自分に会いに来ていることは分かっている。想定はしていた。
それに力のある男が名刺を人に預け、連絡を待つだけといったことをするはずがないと初めから分かっていた。そして、その目的が何であれ、いつか本人が目の前に現れることも分かっていた。
だが、もう二度と会うことはないと思っていた男から久し振りと言われたが、久し振りだといった言葉は返さなかった。
だから既に知っている事実を伝えた。
牧野つくしは結婚したと。昔とは違うのだと。
「お前の独り言は相変らずだな」
つくしは、自分が独り言を呟いていたことを司の言葉から知ったが構わないと思った。
逆に聞く手間が省けたくらいだと。
だが確実に感じていた。
錆び付き、回ることなく放置されていた古い水車の歯車が回転を始めたことを。
「この講演会が偶然かどうかって話しだが、もちろん偶然じゃねぇ。それに俺は回りくどいことを言うのは嫌いだ。だからはっきり言う。俺はお前に会いたかったからこの街へ来た」
つくしの心のざわめきを知らない司だが、彼にしてみれば、彼女とはまた別の思いがあった。
堕とした記憶を拾い上げたとき、今も彼女への変わらない愛があることを知った。
だから牧野つくしが結婚していたとしても、言わずに後悔するくらいなら自分の気持ちを伝えることにした。
「記憶が戻った俺はお前に会いたいと思った。・・けど直ぐにお前に会いに来なかったのは情けねぇ話だがお前のことを17年も忘れていた男がどの面下げてのこのこと会いに行ける?若い頃なら気にも留めなかったことも、この年になると気になるってのも妙な話だが・・そういうことだ。・・まあ、俺も成長したってことだろうな」
自嘲ぎみに笑ったがそれは事実であり、そのことを隠すつもりはない。
17年間司の思考の中に存在しなかった女に会いに行くことは、決して簡単なことではないということだ。だがそれは、彼女を忘れ去った男の勝手な思いだと言われれば、それまでのことだ。
「・・だから桜子に名刺を?」
戸惑いが感じられる言葉だが真っ直ぐな視線を受け止めた司は、はっきりとした言葉を返した。
「ああ。あいつだけがいつまでもお前のことを気にしてた。俺がお前のことを忘れても、しつこくお前のことを俺に伝えようとしたのはあいつだけだ」
そのことはつくしも知っていた。そしてそんな桜子に言ったことがある。
もういいからと。
あの時感じた嵐も、過ぎ去ってしまえば吹き過ぎた風のようなもので、飛んでいってしまったものは今更取り戻すことなど出来ないのだと。
大きな嵐を乗り越えようとした二人に吹いた風は吹き返すことはなく、数年に一度起こると言われる偏西風の蛇行のように、二人の人生を思いもしなかった場所へと運んでいったのだと。
10代の恋なんて長い人生の中の短いひとときであり、終わってみれば記憶に残らないことだってあるでしょ?と。
それでも桜子はつくしの恋を簡単に諦めきれないと言った。
なぜ、そこまでするのかと聞いたことがあった。
すると桜子は、
『先輩の恋はあたしの恋でもあるんです。あたしが道明寺さんに対して抱いていた恋は上手く言えませんけど恋であって恋ではなかったんです。でも先輩の恋はあたしとは違う種類の恋なんです。あの道明寺さんが本気で人を好きになるなんて、誰も考えたことがなかったことなんですよ?先輩に恋をした道明寺さんは、あたしが好きだった道明寺さんとは別の人でした・・・・。でもあの道明寺さんが先輩のために変わろうとしていた。それがあたしは嬉しかった。人として男として成長する道明寺さんが・・好きでした。でもそれは先輩が相手だからなんです。・・・先輩。あたしはお二人が好きなんです。それに二人の間には見えない糸で結ばれた愛の重さが感じられるんです。だからいつか必ず道明寺さんは先輩のことを思い出しますから』
それはひとりの男性を思うがため、自分の姿形を変えることに躊躇いを感じなかった女性が持つ恋に対する確固たる思い。
つくしには分からないが、桜子には桜子の強い思いがある。
それを感じた瞬間だった。
そして今、嵐ではなく、小さなつむじ風が、くるくると渦を巻き近づいてくるのが見えた。
今はまだ小さな風の塊が。
「昔の三条は俺が聞きたいとは思わなかったお前の話をする為わざわざNYまで来たこともあった。・・けど帰国してあいつの店に行ったとき、お前のことは何も教えてはくれなかった。おまえがどこに住んでいるのか。何をしているのか。・・結婚していることも」
まるで結婚の事実を司の耳に入れたくないように感じられた三条桜子の態度。
だが、その理由が今なら分かる。司はつくしを忘れたが、自分は懸命に牧野つくしのことを伝え続けた。それなのに司は思い出す努力もせず、月日が流れ、ある日突然現れた彼に、牧野つくしは他の男と結婚していますとは言えなかったということを。
それとも自分の口よりも、司自身、自ら調べてショックを受ければいいとでも思ったのか。
それが遠い昔の司に対しての三条の復讐だとすれば、ダメージを与える方法として実に効果的ではあるが、そうではないと司も分っていた。ただ、三条自身が自分の口から告げたくはなかったということだと理解していた。
そして司は、夫という言葉を口にすることが出来ずにいた。
それは、牧野つくしには、自分ではない男が夫として存在していることを認めたくないといった気持ちがあるからだ。そして湧き上がる嫉妬の気持ちを簡単には抑えることが出来ないからだ。
妻であれ、夫であれ、その呼び名には固い絆が感じられ、法的にも認められた関係であり、情緒的な関わりが存在するからだ。
自分ではない他の男が彼女を抱いていると。
「・・それでどれくらいなんだ?ステージって言うのか?」
その言い方は、ある病に関わりがある人間なら理解出来る言葉だ。
司は、つくしの夫の癌の進行度合いはどれくらいかと訊ねていた。
だがその瞬間、彼女の口元が固く引き締められた気がした。
そして口に出したあと、聞くべきではないことを口にしてしまったと感じていた。
彼女は、牧野つくしは弱い人間を守ろうとする人間だ。弱い人間を裏切ることはしない人間だ。自分の夫の病状をどんな理由を持って調べたのかと思うはずだ。
そして自分のことならまだしも、夫の病気のことまで調べられ、いい気はしないはずだ。
「・・そこまでは調べなかったの?」
だがその口調に嫌悪感はなく、むしろ調べられることを想定していたようで、知らなかったことに驚いていた。
「あ、ああ・・調べなかった。けど今の質問には答えなくていい。悪かった・・俺も随分と個人的なことを訊いた」
まさに病歴とは個人の生きる上での尊厳に繋がる大切なことであり、簡単に他人に話せるようなことではない。
だが本当は、それが一番聞きたかったことだ。
彼女の夫となった男の命がどうなるか知りたい。
だがそれを知ってどうするというのだ。
もし余命幾ばくも無いのだとすれば、自分はどうするつもりでいるのか。
自分のライバルの命の長さを推し量ることが、喜ばしいことだと言えないが、それでも男というのは、好きな女を自分だけのものにしたいといった独占欲は誰しもが持つものだ。
彼女がひとりになれば。
その思いがないとは言えない。
だが司は決して人の死を願うような男ではない。
何しろ人の命の大切さは彼女に教えられたのだから。
「・・東京にいた頃・・まだ結婚する前一度・・なってるの。完治したと思ったけど転移してたって・・でもまだ仕事は出来るの。そうはいっても机に座って調べものをすることが仕事だから・・」
思いもしなかった返事に司はなんと答えればいいのか言葉に詰まった。
彼女の話の中に見えたのは、砂時計の砂が限られた時を刻んでいるということだ。
砂は掴み取ろうとしても、指の間からサラサラと零れ落ちるが、それは自分の意志では食い止めようもない死に向かっている男の時間だ。
そんな男を夫に持つ彼女に何と声をかければいいのか、今の司は言葉を探していた。
そして分かってはいるが、彼女は情に弱い女性だ。
病気の夫がいるなら、見捨てるようなことは決してしない。
そんな彼女が大切だと思うのは、死の翳りを自覚している夫なのだろう。
だからこそ、ぶれることのない視線を自分に向けて来たことに司は気付いた。
司が過去に掴まえたはずの牧野つくしの心は今はもうない。
あの視線はそう言われたようなものではないか。
司は、ほんのついさっきまで、胸の奥にあった想いを伝えようとしていた。
それなのに、今では躊躇っていた。
自分の思いだけを押し付けることが愛ではないということを随分と昔に学習したはずだ。
かつて、そういった状況だったことがあったはずだ。
だが、どうしても伝えたい想いがある。
諦めたくはないが、諦めなければならないとしても伝えたかった。
今も変わらず愛していると。
「俺はお前を思い出し、もう一度お前とやり直したいと思った。だからここに来た。だがそれは男の身勝手な行動だと思ってもらってもいい。・・けど、どうしても気持ちだけは知って欲しい。・・ああ。分かってる。お前は結婚している。・・・それに病を抱えた夫がいる。
それでも俺はお前のことが好きだ。あの頃と同じだ。いや、今はあの頃以上にお前のことが好きだ」

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司は金沢を訪れたことがなかった。
北陸という場所は東京から遠く離れており、今でこそ新幹線が開通し交通の便が良くなったと言えるが、以前なら航空機を使うことが一番に思い浮かぶような場所だ。
ましてやずっと海外で暮らしていた男が訪れる機会などあるはずもなく、街の名前は知っていたとしても、気に留めたこともない小さな地方都市のひとつに過ぎなかった。
今の司はその街を訪れることに何の迷いもない。
その街に彼がどうしても欲しいと望んだ女性が暮らしている。
だが長い間記憶の片隅にさえ存在しなかった女性だ。
そして、その女性に会うことに不安がないと言えば嘘になる。
記憶を失う前、掴み損ねた柔らかい小さな手があった。
もし、あの手を掴んでいれば、運命は変わっていたのだろうか。
あの手を掴んでいれば記憶を失うことは無かったのではないか。
ふと、そんなことが頭を過っていた。
今はあの日のことが鮮明に頭の中にある。
だがあの日のことを思い出せば、それと同時に腹の底が冷たくなる。それは彼女に対し冷たかった自分を想い出すからだ。取り返しのつかないことをした。思うのはただそのことだ。
リハビリを始めた男の元を、バイト帰り毎日のように訪れていた女を冷たく追い払い、他の女を招き入れるといったことを平気でしていた。
あの時、黒い瞳の奥に哀しみがあったはずだ。そんな目に見つめられ、どこか落ち着かない気持ちになったことがあった。なぜ、この女はそんな目で自分を見つめるのかと。
そしてそんな目で見つめられ苛立ちを感じていた。
いや、あの瞳に見られ感じたのは苛立ちだけではない。圧迫感といったものもあった。
誰かに無理矢理押さえつけられている。自分が望んだものはこんなものじゃない。そんな思いが何処かにあった。
あの時はそれが何であるのか分からずにいた。
だが今ならそれが何であったのか分かっていた。
彼女の瞳に映る自分の姿を見るのが嫌だったのだ。
何故、そう感じたのか。
それは、彼女のことを思い出さなかったとしても、心の奥深い場所にあったはずの彼女に対しての想いがそう感じさせたということだ。
潜在意識、つまり無意識の意識といったものがそうさせたと今なら理解することが出来た。
心の奥深くにあったはずの彼女の記憶。
それが、司に理解し難い苛立ちを感じさせていた。
総二郎と会ったあの日、この街で西門流の弟子を集めて講演会があると言われ、迷うことなく同行を決めた。それは、どんなチャンスも無駄にしたくないといった思いがそうさせた。
彼女の職場を調べ、水面下で手を回した。
講演会での参加人数は決められたものがあったが、総二郎は新たに二人分の席を用意し、人脈を使い、彼女の会社の同僚から篠田つくしを誘うように仕向けた。
それは、茶道を広めるため、今まで茶道に関心のなかった人間に興味を持たせたいといった趣旨を伝え、地元の人間ではないことを条件に出し、支店の中から誰かを連れてくるようにと指示を出した。
その結果、金沢支店の中で地元出身者以外と言えば、東京出身の篠田つくししかおらず、自ずと彼女が選ばれた。
そして、この場所に現れたのが、篠田つくしとなった牧野つくしだ。
だが、彼女が本当に来るのかといった思いもあり、もし、来なければまた別の手段を講じるつもりでいた。
「牧野・・・」
司の視界の中央で、背中を向けている女性がびくりと動いた。
だが直ぐに振り向くことはなかった。
司は息を詰め彼女の背中を見続けた。だがやはり振り返えろうとはしない。
会いたくないのか。顔も見たくないのか。
その両方だとしても何も言えなかった。
記憶の中に存在しなかった女性だが、その後ろ姿には覚えがある。
それは彼女を罵倒し、蔑み、二度と来るなと追い払った日。
司の元を去ったのと同じ後ろ姿があった。
あの日、立ち去った彼女は決して後ろを振り返ることはなかった。
そのとき、視線の先にいる女性が振り返った。
記憶を取り戻した司が17年振りに会う女性。
白い頬には薄っすらと化粧が施されているが、あの当時と同じ張りがあり、柔らかさが感じられた。そして黒々とした大きな瞳は、あの頃のままの輝きを放っていた。
だが、今ここにいるのは、あの時から17年という歳月を重ねた女性。
ひたすら可愛らしさを感じていた少女とはまた別の彼女がそこにいた。
人間も30を過ぎれば、誰もが生活の波に揉まれているはずだが、そんなことを感じさせないのは童顔と言われる彼女の顔がそう思わせるのか。
そしてそこに感じられるのは、驚いたというよりも戸惑ったような表情。そしてその顔が微かに揺れた。
それは、名刺が送られて来てからいつか本人が自分の前に現れることを彼女自身も分っていた。そんな表情が見て取れた。
二人がいる部屋から望む外の景色は、好天に恵まれた金沢の青い空が広がっており、晴れ渡った午後の明るい陽射しが感じられるが、長い庇(ひさし)のお陰で、その陽射しは部屋の中まで入り込むことはない。
司は沢山の敷かれた座布団を避けながら部屋の入口から中へと足を踏み入れた。
この再会を彼女はどう考えているのか。
記憶を取り戻してから、ずっと心のざわめきを感じていた。
彼女に会いたくて。彼女の今を知りたくて。
だが二人の間には長い年月が経過し、彼女は結婚し、牧野つくしではなくなっていた。
今の彼女の名前は篠田つくしであり夫の雄一という男は、東京でのサラリーマン生活を経て、兄が所長を務める篠田特許事務所で弁理士として働いている。そして病を抱えていた。
その病が癌であることまでは分かったが、どの程度なのか。報告書にはそこまで書かれてはいなかった。
そして添えられていた写真を見た。その写真の男が牧野つくしの惚れた男。
そう認識したとき、あれから17年経ったということが避けようのない事実であり、受け止めなければならない現実として司の前にあった。
写真の男は、背が高く細かった。
それは病気のため痩せてしまったのか。それとも元々がそういった体型だったのか。
そしてその写真に添えられたもう一枚の写真。
司の目は、その写真に吸い寄せられ暫く離れなかった。
写真は全てを伝えることはないと分かっていても、写真の中の彼女は、かつて彼に向けられた笑顔と同じような微笑みを浮かべていた。
そしてその視線の先にいたのは誰か。
何を見て笑っていたのか。
そのことを考えたとき、それまで心が傷つくことなどないと思っていた男の心に、無かったはずの薄い皮膜のようなものができ、その膜が破れ、心の中からゆっくりと流れていく何かがあった。
好きで彼女のことを忘れたわけではない。
望んで忘れたわけではない。
だが、忘れてしまった方が悪いと言われればそれまでだ。
司は動かないつくしの少し手前で立ち止まった。
何故なら、それ以上近づけば、彼女が逃げてしまうのではないかと感じていた。
そして目の前に立つ女性は司を真っ直ぐ見つめていた。
かつて彼が好きになったその黒い瞳は、あの頃と変わらぬ色を持っていた。
黒い瞳にどんな色があるのかと聞かれれば、それは清らかな黒。澄んだ黒。司の目にはいつもそう見えていた。
そんな瞳に見つめられ何と声をかければいいのか。ついさっきその背中に向かって言葉を投げかけることは出来たが、いざ正面に立ち、目をそらすことなく、揺るぎのない瞳で見つめられ、言葉を探してしまったのは、後ろめたさがあるからなのか。
そんな司に彼女も黙ったまま何も言わなかった。
司はそれでも口を開いた。
「・・・牧野・・久し振りだな」
久し振りだと言ったが、それは素直に懐かしがるといった感情ではない複雑な感情が含まれている。そんな思いを抱え思わず掠れそうになる声をなんとか堪えた。
そして言葉を継ごうとした。
だが司が口を開く前につくしが口を開いた。
「・・・道明寺・・あたし今は牧野つくしじゃない。2年前結婚したの」
目線はしっかりとしてぶれることない。
その瞳に吸い寄せられそうになる。
こういった再会に困る方はどちらなのか。
かつて愛した人を忘れ去った男なのか。
それとも忘れ去られた女の方なのか。
「・・ああ。そうらしいな・・」
再び口を開いたが、それ以上言葉が出なかった。
記憶の中にいた少女は大人になり、司のどこか緊張を含んだ声よりも、遥かに余裕を感じさせる静な声で話しをする。
そして、耳に届いた「結婚したの」の言葉が思いのほか心にもたれ、避けることの出来ない事実として司の前に置かれていた。

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ましてやずっと海外で暮らしていた男が訪れる機会などあるはずもなく、街の名前は知っていたとしても、気に留めたこともない小さな地方都市のひとつに過ぎなかった。
今の司はその街を訪れることに何の迷いもない。
その街に彼がどうしても欲しいと望んだ女性が暮らしている。
だが長い間記憶の片隅にさえ存在しなかった女性だ。
そして、その女性に会うことに不安がないと言えば嘘になる。
記憶を失う前、掴み損ねた柔らかい小さな手があった。
もし、あの手を掴んでいれば、運命は変わっていたのだろうか。
あの手を掴んでいれば記憶を失うことは無かったのではないか。
ふと、そんなことが頭を過っていた。
今はあの日のことが鮮明に頭の中にある。
だがあの日のことを思い出せば、それと同時に腹の底が冷たくなる。それは彼女に対し冷たかった自分を想い出すからだ。取り返しのつかないことをした。思うのはただそのことだ。
リハビリを始めた男の元を、バイト帰り毎日のように訪れていた女を冷たく追い払い、他の女を招き入れるといったことを平気でしていた。
あの時、黒い瞳の奥に哀しみがあったはずだ。そんな目に見つめられ、どこか落ち着かない気持ちになったことがあった。なぜ、この女はそんな目で自分を見つめるのかと。
そしてそんな目で見つめられ苛立ちを感じていた。
いや、あの瞳に見られ感じたのは苛立ちだけではない。圧迫感といったものもあった。
誰かに無理矢理押さえつけられている。自分が望んだものはこんなものじゃない。そんな思いが何処かにあった。
あの時はそれが何であるのか分からずにいた。
だが今ならそれが何であったのか分かっていた。
彼女の瞳に映る自分の姿を見るのが嫌だったのだ。
何故、そう感じたのか。
それは、彼女のことを思い出さなかったとしても、心の奥深い場所にあったはずの彼女に対しての想いがそう感じさせたということだ。
潜在意識、つまり無意識の意識といったものがそうさせたと今なら理解することが出来た。
心の奥深くにあったはずの彼女の記憶。
それが、司に理解し難い苛立ちを感じさせていた。
総二郎と会ったあの日、この街で西門流の弟子を集めて講演会があると言われ、迷うことなく同行を決めた。それは、どんなチャンスも無駄にしたくないといった思いがそうさせた。
彼女の職場を調べ、水面下で手を回した。
講演会での参加人数は決められたものがあったが、総二郎は新たに二人分の席を用意し、人脈を使い、彼女の会社の同僚から篠田つくしを誘うように仕向けた。
それは、茶道を広めるため、今まで茶道に関心のなかった人間に興味を持たせたいといった趣旨を伝え、地元の人間ではないことを条件に出し、支店の中から誰かを連れてくるようにと指示を出した。
その結果、金沢支店の中で地元出身者以外と言えば、東京出身の篠田つくししかおらず、自ずと彼女が選ばれた。
そして、この場所に現れたのが、篠田つくしとなった牧野つくしだ。
だが、彼女が本当に来るのかといった思いもあり、もし、来なければまた別の手段を講じるつもりでいた。
「牧野・・・」
司の視界の中央で、背中を向けている女性がびくりと動いた。
だが直ぐに振り向くことはなかった。
司は息を詰め彼女の背中を見続けた。だがやはり振り返えろうとはしない。
会いたくないのか。顔も見たくないのか。
その両方だとしても何も言えなかった。
記憶の中に存在しなかった女性だが、その後ろ姿には覚えがある。
それは彼女を罵倒し、蔑み、二度と来るなと追い払った日。
司の元を去ったのと同じ後ろ姿があった。
あの日、立ち去った彼女は決して後ろを振り返ることはなかった。
そのとき、視線の先にいる女性が振り返った。
記憶を取り戻した司が17年振りに会う女性。
白い頬には薄っすらと化粧が施されているが、あの当時と同じ張りがあり、柔らかさが感じられた。そして黒々とした大きな瞳は、あの頃のままの輝きを放っていた。
だが、今ここにいるのは、あの時から17年という歳月を重ねた女性。
ひたすら可愛らしさを感じていた少女とはまた別の彼女がそこにいた。
人間も30を過ぎれば、誰もが生活の波に揉まれているはずだが、そんなことを感じさせないのは童顔と言われる彼女の顔がそう思わせるのか。
そしてそこに感じられるのは、驚いたというよりも戸惑ったような表情。そしてその顔が微かに揺れた。
それは、名刺が送られて来てからいつか本人が自分の前に現れることを彼女自身も分っていた。そんな表情が見て取れた。
二人がいる部屋から望む外の景色は、好天に恵まれた金沢の青い空が広がっており、晴れ渡った午後の明るい陽射しが感じられるが、長い庇(ひさし)のお陰で、その陽射しは部屋の中まで入り込むことはない。
司は沢山の敷かれた座布団を避けながら部屋の入口から中へと足を踏み入れた。
この再会を彼女はどう考えているのか。
記憶を取り戻してから、ずっと心のざわめきを感じていた。
彼女に会いたくて。彼女の今を知りたくて。
だが二人の間には長い年月が経過し、彼女は結婚し、牧野つくしではなくなっていた。
今の彼女の名前は篠田つくしであり夫の雄一という男は、東京でのサラリーマン生活を経て、兄が所長を務める篠田特許事務所で弁理士として働いている。そして病を抱えていた。
その病が癌であることまでは分かったが、どの程度なのか。報告書にはそこまで書かれてはいなかった。
そして添えられていた写真を見た。その写真の男が牧野つくしの惚れた男。
そう認識したとき、あれから17年経ったということが避けようのない事実であり、受け止めなければならない現実として司の前にあった。
写真の男は、背が高く細かった。
それは病気のため痩せてしまったのか。それとも元々がそういった体型だったのか。
そしてその写真に添えられたもう一枚の写真。
司の目は、その写真に吸い寄せられ暫く離れなかった。
写真は全てを伝えることはないと分かっていても、写真の中の彼女は、かつて彼に向けられた笑顔と同じような微笑みを浮かべていた。
そしてその視線の先にいたのは誰か。
何を見て笑っていたのか。
そのことを考えたとき、それまで心が傷つくことなどないと思っていた男の心に、無かったはずの薄い皮膜のようなものができ、その膜が破れ、心の中からゆっくりと流れていく何かがあった。
好きで彼女のことを忘れたわけではない。
望んで忘れたわけではない。
だが、忘れてしまった方が悪いと言われればそれまでだ。
司は動かないつくしの少し手前で立ち止まった。
何故なら、それ以上近づけば、彼女が逃げてしまうのではないかと感じていた。
そして目の前に立つ女性は司を真っ直ぐ見つめていた。
かつて彼が好きになったその黒い瞳は、あの頃と変わらぬ色を持っていた。
黒い瞳にどんな色があるのかと聞かれれば、それは清らかな黒。澄んだ黒。司の目にはいつもそう見えていた。
そんな瞳に見つめられ何と声をかければいいのか。ついさっきその背中に向かって言葉を投げかけることは出来たが、いざ正面に立ち、目をそらすことなく、揺るぎのない瞳で見つめられ、言葉を探してしまったのは、後ろめたさがあるからなのか。
そんな司に彼女も黙ったまま何も言わなかった。
司はそれでも口を開いた。
「・・・牧野・・久し振りだな」
久し振りだと言ったが、それは素直に懐かしがるといった感情ではない複雑な感情が含まれている。そんな思いを抱え思わず掠れそうになる声をなんとか堪えた。
そして言葉を継ごうとした。
だが司が口を開く前につくしが口を開いた。
「・・・道明寺・・あたし今は牧野つくしじゃない。2年前結婚したの」
目線はしっかりとしてぶれることない。
その瞳に吸い寄せられそうになる。
こういった再会に困る方はどちらなのか。
かつて愛した人を忘れ去った男なのか。
それとも忘れ去られた女の方なのか。
「・・ああ。そうらしいな・・」
再び口を開いたが、それ以上言葉が出なかった。
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こちらのお話は、時代背景をご存知の方は、お分かりの部分もあると思いますが、
お分かりにならない方もいらっしゃると思います。
それでもよろしければどうぞ、のお話です。そして大人向けのお話です。
未成年者の方、もしくはそういったお話がお嫌いな方はお控え下さい。
************************************
無名の存在から突然脚光を浴びる男のことをシンデレラボーイと言う。
司の場合、生まれた時から財閥の跡取り息子として脚光を浴びていたのだから、その言葉は当て嵌まらないはずだ。
だが、どうしても言葉を当て嵌めろというなら、司の場合、銀のスプーンを咥えて生まれたゴールデンボーイということになる。
なにしろ司は生まれた時から唸るような金に囲まれていたのだから。
だが、ガラスの靴を履いたシンデレラと呼ばれていたのは、彼の愛しい人のことかもしれない。
ただ、王子に見初められたシンデレラは、一度は逃げたが、やがて王子に探し出され彼の元に嫁入りした。
辛い境遇に置かれている女を追いかける。
それはまさに司とつくしの事だといえる。
つまりシンデレラの物語というのは、牧野つくしの物語ということだ。
となると、必然的に王子様は司ということになる。
但し、司が自分自身で「俺は王子だ!」と言えば、「違うだろ!!」と、女の国会議員に怒鳴られるような気もするが、そんな議員なんぞ財閥の手にかかればすぐに失職することになる。
どちらにしても司は自分が王子様だろうが、王様だろうが、道明寺財閥の頂上にいることは間違いないのだから。
ところで最近、大阪の女子高生が踊るバブル時代を彷彿とさせるダンス動画がイケてるって話しを聞く。そう言えば司は若い頃、ナイトクラビング、なんて言葉を使っていた幼馴染みたちが、肩パットの入ったボディコン服で派手な扇子を持った女どもとディスコで踊っていたのを眺めていたこともあった。
だがあの頃、司は女に1ミクロンも興味はなかった。
そんなバブル時代、司はまだ高校生だったが、
「転がしてる?」
と言われれば、司にとっては車ではなく土地転がしのことだ。
あの頃、土地神話というものがあった。それはバブル景気に支えられ不動産価格は必ず値上がりするといった神話のような事態の事を言うのだが、財閥も転がされた土地を取得していたことがあった。だが土地転がしと言えば印象が悪い。だから財閥では転売された土地といった少し柔らかな言葉で言っていたと記憶している。
そしてアルマーニのダブルのスーツに先が尖った靴。
それが当たり前だったあの頃。携帯電話も「030」で始まり、通話先が一定距離以上離れた所になると「040」でかけ直せとアナウンスされていたと記憶している。
もし、牧野がバブル時代のOLだったら。
アッシーもメッシーも司なのは勿論だが、ミツグ君もキープ君も司だ。
言っとくが、アッシーと言ってもバブル当時、六本木のカローラと呼ばれたBMW3シリーズで迎えに行くことはない。司はリモ以外につくしを乗せることは絶対ない。
それも最高級クラスのリモだ。
そんな時、かかって来たあいつからの電話。
『しもしも?道明寺?』
「お、おう。牧野か?」
『今日19時からねるとんパーティーなの。でね、ケツカッチンだからお先にドロンしま~す』
「お、おい牧野っ?ま、待て!」
・・おい!冗談じゃねーぞ!
誰がねるとんパーティーになんか行かせるかよ!
それにあんなに仕事熱心だった牧野がお先にドロンってなんだよ!
それになんだよ!ケツカッチンってのは!
だいたい俺の牧野がそんな訳の分かんねぇ言葉なんか使うかよ!
クソっ!ダメだダメだ!
バブル時代のOL牧野は止めだ!
だがひとつ気になることがある。
それはキープ君という存在。
アッシーは脚になって車で送り迎えをする男。
メッシーは飯をご馳走する男。
ミツグ君は貢ぐ男。
けどキープ君の意味が今ひとつ理解出来ねぇ。
だから総二郎に聞いてみた。
「キープ君か?キープ君ってのはな、恋人や恋愛対象の本命じゃねぇってことだ。いいか、キープ君にされるってことは、男としてすげぇ情けねぇことだ。まあ、間違ってもお前がキープされる男になるなんてことはないから安心しろ。何しろお前はそのルックスに道明寺財閥の跡取り息子だ。女たちからすれば、本命も本命。大本命だ」
だが、そんな男をキープ君に出来る女がひとりいる。
世界広しと言えども、道明寺財閥の御曹司をキープ君に出来る女。
それが牧野つくしだ。
彼女がすることならなんでも許されるのが司の世界だ。
そして、彼女が舗道の割れ目で躓くことがないよう常に彼女の前を歩き、邪魔する人間は排除していくのが司の役目だ。
だがそんな司にとってキープは別の意味を持つ。
それは、セックスに於けるキープ力なら誰にも負けることはないと自信があるからだ。
テクニックは勿論だが持久力はオールナイト。
そうだ。このオールナイトで続けられることがまさに司のキープ力ということだ。
それにキープ力もだが硬さも自慢できる。
総二郎曰く、オリエンタルの男のアレは西洋人のアレより硬いらしく、その硬さに西洋人女は感激するらしい。
さすが茶の湯で世界を股に掛ける男のワールドワイドな女遍歴は馬鹿に出来ない。
だから、そのキープ力で牧野つくしの本命でいれば、お先にドロンなんて言わせねぇ。
ドロンどころか、永遠に俺の身体の下で喘がせ続けさせてやる!
そして、そこから先の世界に雑念が入り込む隙間はない。
なぜなら、司のつくしを愛する思いは全てを凌駕するからだ。
彼女を求め、喉が焼け付くような乾きを覚えるのは、高校生の頃から変わらない。
だが、剥き出しのあからさまな欲求といったものを表すようになったのは、社会人になってからだ。
「・・まきの・・どうだ?・・気持ちいいだろ?」
黒い長い髪の女とウェーブのかかった髪の男との愛の交歓。
二人の間に遮るものは何ひとつなく、司の身体の先端は暗く狭い場所で抽出を繰り返すが、ほとばしる力は、果てることはない。
そして時に腰を捻り上げながら奥深くを突いていた。
そんな男のあまりの激しさに、お願いもうイカせてと呟く女。そんな女から一端引き抜いた先端は、ヌメリを帯び、引き抜いた場所からはどろりとした液体が溢れ、シーツにシミを作った。
そして女が両脚を動かすごとに、益々溢れ出すどろりとした液体。
濡れてテラリと光る自らの怒張を掴んだ男は、つくしに対してだけ執拗だと言われるが、身体の動きまで執拗でいつまでも彼女を離そうとはしない。
それは持久力のなせる業なのか、それとも執着心のせいなのか。
司の腹には熱を持った塊があり、いつまでもつくしを欲しがるが、欲しがられた女はたまったものではない。
寝かせてもらえず、一晩中延々と啼かされ続け、今では水を欲していた。
かつて、檻の中に閉じ込められることを嫌った獣だった男は、つくしに対してだけは優しい男だが、今の司は別の男にすり替わったようにあの頃と同じ獣だ。
切れ長の目は怒りを湛え、まさに獣のように鋭い目つきに変わっていた。
「ねるとんパーティーとやらはどうだったんだよ?」
怒気を含んだ言葉と引き抜いた怒張の代わりに、両脚の間にぐいと差し込まれた長い指。
その指が中の襞を這い、再び溢れ始めたどろりとした液体を掻き混ぜ、もっと溢れ出させようと弄ぶ。
「ああっ!ど、どうって・・そんなの・・」
そして開かれた脚の間の中心にある小さな真珠の核は、司の指にいじられ、ひくひくと震えていた。
「なあ。いい男はいたか?・・いいか?おまえは俺だけの女だ。いつまでも俺が甘い顔してると思ったら大間違いだ。他の男に渡すつもりはねぇからな」
中で指先を曲げ、最奥の感じやすいと言われる部分をこれ以上ないほどきつく押し、快感のよがり声を上げさせ、司はその指先と言葉で彼女を煽っていく。
「見ろ。おまえのここは俺以外の男じゃ満足しないって言ってるぜ。もうグチョグチョ。どうすんだよ、こんなに俺の指をグチョグチョにして」
「あっ!あっ!あぁ・・はぁ!・・んんっ・・」
司はそそり立ったモノをそのままに、指でつくしの中を掻き回し、歓喜と嗚咽だけを上げさせた。
「そうか。喉が渇いて言葉が出ねぇって?そういやぁお前、水が欲しいって言ったよな。それならやるよ、水を」
不意に狂暴な衝動が身体の奥から湧き上がった司は指を引き抜き、つくしの胸に跨り彼女の口をこじ開け己の高まりを押し込んだ。
「グッ・・んっ!!!」
そして柔らかな喉の奥深くに先端を強く擦りつけ、腰を激しく打ちつけ始めた。
突然口の中をいっぱいにされ驚いた女は喘ぎ声も出せず、噎せ、ただ黒い瞳を大きく見開き、見上げることしか出来ずにいた。
「どうした?そんなに驚いた顔すんな。お前、俺のを咥えるのが好きだろ?それともアレか?俺のじゃ満足出来ねぇって?」
つくしは首を横に振ることも出来ず、その大きさに引き延ばされた唇と、高まりを押し込まれた口の中はいっぱいで喋ることなど出来るはずがない。
そんな女の口へ押し込まれた怒張が、早く深く抽出を繰り返し始めると、口腔内から溢れ出る唾液が顎を伝い流れ始めた。
「ほら。やるよ、水。欲しいんだろ?」
今の司は奉仕する優しい男ではなく、好きな女を服従させ乱暴に奪いたいといった思いに囚われ、どんな抵抗も許さない男だ。そんな男の鋭い目がすっと細められ、横たわったままのつくしの頭を掴み持ち上げると容赦なく喉の奥を突き始めた。
「・・どうだ?気に入ったか?」
気に入るも気に入らないもない。
呻き声も上げることが出来ないほどの大きさを口の中に押し込み、奪う行為は自慰と同じだが、今の男はそれを愉しんでいた。
そして一気に快感の高みに駆けのぼり、暖かくヌメル精液を女の口いっぱいに注ぎ込んだ。
「喉、乾いてんだろ?全部飲め」
そして、自身を引き抜き、女の口を手で塞ぎ、全てを喉の奥へと飲み込ませた。
「えーっと。司?」
「あ?」
「あ、じゃないでしょ?」
「・・・・」
司は一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
そして間抜けな返事を返していた。
だが直ぐに我に返り、辺りを見回した。
ここは、六本木のビルの中にある美術館。
つくしと一緒に展覧会を訪れていた。
「なに?さっきからひとりで笑って気持ち悪いわよ?」
「べ、別に笑ってなんかねぇよ!」
「え~でもそんなに顔を赤くしちゃって、なんか気持ち悪いわね?」
「あ、アホか。別に赤くなんてなってねぇぞ?こ、これは・・ここがっ・・だ、暖房が効き過ぎてんだ!・・・設定温度が高すぎんだよ!今度経団連のパーティーでこのビルの社長に会ったら地球温暖化を真面目に考えろと言ってやるつもりだ!」
確かに司なら『このビルの社長』にそんなことも言えるはずだ。
とは言え、つくしの言うとおり、司は顔もだが、身体も火照っていた。
それはあきらかに、彼が興奮した状態であることを示していた。
そのせいか、いきなりつくしが握っていた鞄を奪い取り、さりげなくズボンの前を隠した。
六本木という地名に遠い昔のバブル時代を思い出し、何故かボディコンに派手な扇子を持ったつくしの姿を想像してしまった司。
そしてそんなつくしの行動にヤキモチを焼いた。
しかし思った。やっぱりバブル時代より今の方がいい。
今の時代ならねるとんパーティーなんてものはない。
だがあの頃の景気の良さが再び訪れて欲しい思いもあるが、それは道明寺HD、そして当然だが、日本支社長である司の努力次第ということだ。
日本の景気を上げるため働く男。
学生時代、道明寺がどうなろうと構わないと言い放っていた自分がそんなことを思うとは。と笑みが零れていた。
だが、その笑みとは別に、鞄で隠したズボンの中は笑ってはいられない状態。
「つくし。これからメープルに行くぞ!」
「え?」
「だからメープルだ!」
司は片手につくしの鞄を持ち、もう片方の手でつくしの手を握ると、走り出していた。
バブルの頃、まだ高校生だった二人。
その恩恵を少しだけ味わったのは司だけだ。
まあ司にはバブルといった現象は関係ない話しではあったが。
それでも、今夜はつくしにあの当時の流行りの服を着させ、二人で盛り上がろうと思う。
そしてキャンドルライトを灯し、二人で踊り明かす。
ダンシングヒーローとヒロインとして。

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お分かりにならない方もいらっしゃると思います。
それでもよろしければどうぞ、のお話です。そして大人向けのお話です。
未成年者の方、もしくはそういったお話がお嫌いな方はお控え下さい。
************************************
無名の存在から突然脚光を浴びる男のことをシンデレラボーイと言う。
司の場合、生まれた時から財閥の跡取り息子として脚光を浴びていたのだから、その言葉は当て嵌まらないはずだ。
だが、どうしても言葉を当て嵌めろというなら、司の場合、銀のスプーンを咥えて生まれたゴールデンボーイということになる。
なにしろ司は生まれた時から唸るような金に囲まれていたのだから。
だが、ガラスの靴を履いたシンデレラと呼ばれていたのは、彼の愛しい人のことかもしれない。
ただ、王子に見初められたシンデレラは、一度は逃げたが、やがて王子に探し出され彼の元に嫁入りした。
辛い境遇に置かれている女を追いかける。
それはまさに司とつくしの事だといえる。
つまりシンデレラの物語というのは、牧野つくしの物語ということだ。
となると、必然的に王子様は司ということになる。
但し、司が自分自身で「俺は王子だ!」と言えば、「違うだろ!!」と、女の国会議員に怒鳴られるような気もするが、そんな議員なんぞ財閥の手にかかればすぐに失職することになる。
どちらにしても司は自分が王子様だろうが、王様だろうが、道明寺財閥の頂上にいることは間違いないのだから。
ところで最近、大阪の女子高生が踊るバブル時代を彷彿とさせるダンス動画がイケてるって話しを聞く。そう言えば司は若い頃、ナイトクラビング、なんて言葉を使っていた幼馴染みたちが、肩パットの入ったボディコン服で派手な扇子を持った女どもとディスコで踊っていたのを眺めていたこともあった。
だがあの頃、司は女に1ミクロンも興味はなかった。
そんなバブル時代、司はまだ高校生だったが、
「転がしてる?」
と言われれば、司にとっては車ではなく土地転がしのことだ。
あの頃、土地神話というものがあった。それはバブル景気に支えられ不動産価格は必ず値上がりするといった神話のような事態の事を言うのだが、財閥も転がされた土地を取得していたことがあった。だが土地転がしと言えば印象が悪い。だから財閥では転売された土地といった少し柔らかな言葉で言っていたと記憶している。
そしてアルマーニのダブルのスーツに先が尖った靴。
それが当たり前だったあの頃。携帯電話も「030」で始まり、通話先が一定距離以上離れた所になると「040」でかけ直せとアナウンスされていたと記憶している。
もし、牧野がバブル時代のOLだったら。
アッシーもメッシーも司なのは勿論だが、ミツグ君もキープ君も司だ。
言っとくが、アッシーと言ってもバブル当時、六本木のカローラと呼ばれたBMW3シリーズで迎えに行くことはない。司はリモ以外につくしを乗せることは絶対ない。
それも最高級クラスのリモだ。
そんな時、かかって来たあいつからの電話。
『しもしも?道明寺?』
「お、おう。牧野か?」
『今日19時からねるとんパーティーなの。でね、ケツカッチンだからお先にドロンしま~す』
「お、おい牧野っ?ま、待て!」
・・おい!冗談じゃねーぞ!
誰がねるとんパーティーになんか行かせるかよ!
それにあんなに仕事熱心だった牧野がお先にドロンってなんだよ!
それになんだよ!ケツカッチンってのは!
だいたい俺の牧野がそんな訳の分かんねぇ言葉なんか使うかよ!
クソっ!ダメだダメだ!
バブル時代のOL牧野は止めだ!
だがひとつ気になることがある。
それはキープ君という存在。
アッシーは脚になって車で送り迎えをする男。
メッシーは飯をご馳走する男。
ミツグ君は貢ぐ男。
けどキープ君の意味が今ひとつ理解出来ねぇ。
だから総二郎に聞いてみた。
「キープ君か?キープ君ってのはな、恋人や恋愛対象の本命じゃねぇってことだ。いいか、キープ君にされるってことは、男としてすげぇ情けねぇことだ。まあ、間違ってもお前がキープされる男になるなんてことはないから安心しろ。何しろお前はそのルックスに道明寺財閥の跡取り息子だ。女たちからすれば、本命も本命。大本命だ」
だが、そんな男をキープ君に出来る女がひとりいる。
世界広しと言えども、道明寺財閥の御曹司をキープ君に出来る女。
それが牧野つくしだ。
彼女がすることならなんでも許されるのが司の世界だ。
そして、彼女が舗道の割れ目で躓くことがないよう常に彼女の前を歩き、邪魔する人間は排除していくのが司の役目だ。
だがそんな司にとってキープは別の意味を持つ。
それは、セックスに於けるキープ力なら誰にも負けることはないと自信があるからだ。
テクニックは勿論だが持久力はオールナイト。
そうだ。このオールナイトで続けられることがまさに司のキープ力ということだ。
それにキープ力もだが硬さも自慢できる。
総二郎曰く、オリエンタルの男のアレは西洋人のアレより硬いらしく、その硬さに西洋人女は感激するらしい。
さすが茶の湯で世界を股に掛ける男のワールドワイドな女遍歴は馬鹿に出来ない。
だから、そのキープ力で牧野つくしの本命でいれば、お先にドロンなんて言わせねぇ。
ドロンどころか、永遠に俺の身体の下で喘がせ続けさせてやる!
そして、そこから先の世界に雑念が入り込む隙間はない。
なぜなら、司のつくしを愛する思いは全てを凌駕するからだ。
彼女を求め、喉が焼け付くような乾きを覚えるのは、高校生の頃から変わらない。
だが、剥き出しのあからさまな欲求といったものを表すようになったのは、社会人になってからだ。
「・・まきの・・どうだ?・・気持ちいいだろ?」
黒い長い髪の女とウェーブのかかった髪の男との愛の交歓。
二人の間に遮るものは何ひとつなく、司の身体の先端は暗く狭い場所で抽出を繰り返すが、ほとばしる力は、果てることはない。
そして時に腰を捻り上げながら奥深くを突いていた。
そんな男のあまりの激しさに、お願いもうイカせてと呟く女。そんな女から一端引き抜いた先端は、ヌメリを帯び、引き抜いた場所からはどろりとした液体が溢れ、シーツにシミを作った。
そして女が両脚を動かすごとに、益々溢れ出すどろりとした液体。
濡れてテラリと光る自らの怒張を掴んだ男は、つくしに対してだけ執拗だと言われるが、身体の動きまで執拗でいつまでも彼女を離そうとはしない。
それは持久力のなせる業なのか、それとも執着心のせいなのか。
司の腹には熱を持った塊があり、いつまでもつくしを欲しがるが、欲しがられた女はたまったものではない。
寝かせてもらえず、一晩中延々と啼かされ続け、今では水を欲していた。
かつて、檻の中に閉じ込められることを嫌った獣だった男は、つくしに対してだけは優しい男だが、今の司は別の男にすり替わったようにあの頃と同じ獣だ。
切れ長の目は怒りを湛え、まさに獣のように鋭い目つきに変わっていた。
「ねるとんパーティーとやらはどうだったんだよ?」
怒気を含んだ言葉と引き抜いた怒張の代わりに、両脚の間にぐいと差し込まれた長い指。
その指が中の襞を這い、再び溢れ始めたどろりとした液体を掻き混ぜ、もっと溢れ出させようと弄ぶ。
「ああっ!ど、どうって・・そんなの・・」
そして開かれた脚の間の中心にある小さな真珠の核は、司の指にいじられ、ひくひくと震えていた。
「なあ。いい男はいたか?・・いいか?おまえは俺だけの女だ。いつまでも俺が甘い顔してると思ったら大間違いだ。他の男に渡すつもりはねぇからな」
中で指先を曲げ、最奥の感じやすいと言われる部分をこれ以上ないほどきつく押し、快感のよがり声を上げさせ、司はその指先と言葉で彼女を煽っていく。
「見ろ。おまえのここは俺以外の男じゃ満足しないって言ってるぜ。もうグチョグチョ。どうすんだよ、こんなに俺の指をグチョグチョにして」
「あっ!あっ!あぁ・・はぁ!・・んんっ・・」
司はそそり立ったモノをそのままに、指でつくしの中を掻き回し、歓喜と嗚咽だけを上げさせた。
「そうか。喉が渇いて言葉が出ねぇって?そういやぁお前、水が欲しいって言ったよな。それならやるよ、水を」
不意に狂暴な衝動が身体の奥から湧き上がった司は指を引き抜き、つくしの胸に跨り彼女の口をこじ開け己の高まりを押し込んだ。
「グッ・・んっ!!!」
そして柔らかな喉の奥深くに先端を強く擦りつけ、腰を激しく打ちつけ始めた。
突然口の中をいっぱいにされ驚いた女は喘ぎ声も出せず、噎せ、ただ黒い瞳を大きく見開き、見上げることしか出来ずにいた。
「どうした?そんなに驚いた顔すんな。お前、俺のを咥えるのが好きだろ?それともアレか?俺のじゃ満足出来ねぇって?」
つくしは首を横に振ることも出来ず、その大きさに引き延ばされた唇と、高まりを押し込まれた口の中はいっぱいで喋ることなど出来るはずがない。
そんな女の口へ押し込まれた怒張が、早く深く抽出を繰り返し始めると、口腔内から溢れ出る唾液が顎を伝い流れ始めた。
「ほら。やるよ、水。欲しいんだろ?」
今の司は奉仕する優しい男ではなく、好きな女を服従させ乱暴に奪いたいといった思いに囚われ、どんな抵抗も許さない男だ。そんな男の鋭い目がすっと細められ、横たわったままのつくしの頭を掴み持ち上げると容赦なく喉の奥を突き始めた。
「・・どうだ?気に入ったか?」
気に入るも気に入らないもない。
呻き声も上げることが出来ないほどの大きさを口の中に押し込み、奪う行為は自慰と同じだが、今の男はそれを愉しんでいた。
そして一気に快感の高みに駆けのぼり、暖かくヌメル精液を女の口いっぱいに注ぎ込んだ。
「喉、乾いてんだろ?全部飲め」
そして、自身を引き抜き、女の口を手で塞ぎ、全てを喉の奥へと飲み込ませた。
「えーっと。司?」
「あ?」
「あ、じゃないでしょ?」
「・・・・」
司は一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
そして間抜けな返事を返していた。
だが直ぐに我に返り、辺りを見回した。
ここは、六本木のビルの中にある美術館。
つくしと一緒に展覧会を訪れていた。
「なに?さっきからひとりで笑って気持ち悪いわよ?」
「べ、別に笑ってなんかねぇよ!」
「え~でもそんなに顔を赤くしちゃって、なんか気持ち悪いわね?」
「あ、アホか。別に赤くなんてなってねぇぞ?こ、これは・・ここがっ・・だ、暖房が効き過ぎてんだ!・・・設定温度が高すぎんだよ!今度経団連のパーティーでこのビルの社長に会ったら地球温暖化を真面目に考えろと言ってやるつもりだ!」
確かに司なら『このビルの社長』にそんなことも言えるはずだ。
とは言え、つくしの言うとおり、司は顔もだが、身体も火照っていた。
それはあきらかに、彼が興奮した状態であることを示していた。
そのせいか、いきなりつくしが握っていた鞄を奪い取り、さりげなくズボンの前を隠した。
六本木という地名に遠い昔のバブル時代を思い出し、何故かボディコンに派手な扇子を持ったつくしの姿を想像してしまった司。
そしてそんなつくしの行動にヤキモチを焼いた。
しかし思った。やっぱりバブル時代より今の方がいい。
今の時代ならねるとんパーティーなんてものはない。
だがあの頃の景気の良さが再び訪れて欲しい思いもあるが、それは道明寺HD、そして当然だが、日本支社長である司の努力次第ということだ。
日本の景気を上げるため働く男。
学生時代、道明寺がどうなろうと構わないと言い放っていた自分がそんなことを思うとは。と笑みが零れていた。
だが、その笑みとは別に、鞄で隠したズボンの中は笑ってはいられない状態。
「つくし。これからメープルに行くぞ!」
「え?」
「だからメープルだ!」
司は片手につくしの鞄を持ち、もう片方の手でつくしの手を握ると、走り出していた。
バブルの頃、まだ高校生だった二人。
その恩恵を少しだけ味わったのは司だけだ。
まあ司にはバブルといった現象は関係ない話しではあったが。
それでも、今夜はつくしにあの当時の流行りの服を着させ、二人で盛り上がろうと思う。
そしてキャンドルライトを灯し、二人で踊り明かす。
ダンシングヒーローとヒロインとして。

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茶道西門流次期家元である西門総二郎の講演会は、西門流金沢茶道会館であると言われ、同僚の坂本からの誘いを断わり切れなかったつくしは、バスに乗り目的地へと向かっていた。
待ち合わせ場所は、その会館前。時間は1時半。
講演会は2時からだと聞き、自宅で食事を済ませたが、雄一は、「気にしなくていいよ。楽しんでおいで」とつくしを送り出した。
土曜は特許事務所も休みだが、「仕事で調べたいことがあるから部屋にいるよ。夜が遅くなっても構わないよ。たまには羽根を伸ばして来いよ」
と声を掛けられたがそれは雄一の気遣いだ。
雄一は、夜の外出を好まない。それは、癌の手術を経験してから後、体力が低下したこともあり、夜出歩くと疲れるということだ。だから二人で夜出歩くといったことはない。
だが、それは別に問題ない。つくしも夜遊びといったものには縁がなく、自宅でゆっくりと寛ぐ方が好きだ。
それにしても、桜子から送られて来た道明寺の名刺は、今まで遠くに感じていた過去を一気に身近に引き寄せ、物事が急に動き出したといった感じだ。
それは錆び付き、もう回ることがないと思っていた古い水車の歯車が、何故か突然回転を始めたといった感じだ。
それもガタガタと騒がしい音を立て、周りにその存在を知らしめるように。
そしてそのひとつが、こうして西門総二郎の話を聴くことなのだろう。
つくしは、大きなため息をついた。
出来れば行きたくなかった。それに会いたくなかった。
過ぎ去った過去を甦らせたいといった思いは、今はもう無いからだ。
それでも来てしまったものは仕方ない。
つくしは、自分自身に言い聞かせていた。
西門総二郎を直接目にするのは17年振りだが、彼は多くの浮名を流してきた男で、いちいち女の顔など覚えてないと公言するような男だった。だから自分の事など忘れているはずだと。
それに、講演会には大勢の人が来るはずだ。そんな中、俯き加減に座る女に目が留まるとは思えず、もしかして自分に気付くのではないかといったことは、自意識過剰だ。
だが、初めて訪れた茶道会館の建物に、つくしは自分が大きな勘違いをしていたことを知った。
会館と聞けば、市民ホールや公民館のようなコンクリートで出来た四角いグレーの建物に、広いホールや会議室がいくつかあり、パイプ椅子などの座席が設けてあるものだと思っていた。だが違った。
「篠田さん!今日は付き合ってもらってホントにありがとう!ねえ、素敵でしょ?西門流金沢茶道会館って!」
坂本は時間通りに現れたつくしに手を振った。
そしてつくしは、そんな坂本に控えめに手を挙げ応えた。
「西門総二郎、今日は着物かしらね?それともスーツでビシッと決めてると思う?いい男だからどっちでもいいけど、やっぱりこの建物だもの、着物がいいわよね?さあ、行きましょうよ!」
つくしより2歳年上の坂本は、お気に入りのアイドルにでも会うといった雰囲気で、つくしの前をどんどん歩いて行く。そしてそんな二人の前に見える西門流金沢茶道会館は、純和風の平家建築の建物で、門から玄関までの長いアプローチは敷石が敷かれ、水が撒かれ、玄関脇には手水鉢が置かれていた。そして畳6畳ほどありそうな玄関で靴を脱ぎ中に入れば、板敷の長い廊下に畳の部屋といった様式だ。つまりその畳に用意された座布団に正座をして話を聞く、といった状況であることを理解した。
と、なると収容人数は、つくしが当初考えていた人数とは大幅に異なり少数といったことになる。大勢の人間に紛れて座っていればいいと思ったがどうやらそれは無理のようだ。
実際、畳の上に置かれた座布団の枚数はざっと数えて40枚といったところだ。
それに、ここに来る女性達は西門総二郎目当てであり、皆彼を見つめているはずだ。だからそんな中にひとり俯いている女がいれば、逆に目立つといった方が正しいはずだ。
そして、別の意味でも目立っていた。何しろ今回の西門総二郎の講演会とは、弟子を対象にしているのだから、周りにいる女性達は皆、着物姿であり、洋服なのは坂本とつくしだけだ。
だからこそ余計に人目を惹いていた。
「・・・来るんじゃなかった」
「え?篠田さん、何か言った?それよりここ。ここ空いてるみたいよ?ここに座りましょうよ!」
坂本が指した座布団は幸か不幸か一番後ろの席。だが一番前よりはマシかと思う。
それでも学生時代の授業風景を思い出せば分ると思うが、発言者から一番遠い席といったものは、ある意味目立つ。目立ちたくなくても目立つ。
だがもうこうなれば普通にすればいいと腹を括るしかない。
それにもし話かけられても、まるで別の惑星で出会ったようにあっけらかんと笑えばいい。
そしてそれが道明寺司に伝わるならそれでいい。
結婚していることなど、どうせ調べられているはずだ。だから、牧野つくしは金沢で明るく楽しい結婚生活を送っていると伝わればいい。
それにつくしは、雄一と結婚を決めた時点で、古い記憶は胸の奥深くに封印し、自分自身と折り合いをつけたはずだ。
それでも、着物姿の西門総二郎が現れたとき、鼓動がいつもより大きく身体の中を駆けぬけたのが感じられた。
「金沢の皆さんこんにちは。今日はこうしてお会いするのを楽しみにしておりました」
滑らかに口をつく言葉は、ひと前で話し慣れた人物のそれだ。
子供の頃から高い教育を受けて来た男は、彼を含め当時F4と呼ばれた男達は、皆話をするのが上手い。だがそれもそのはずだ。一度テレビで見たが他人のことなど興味がないといった花沢類でさえ、大勢の人間の前に立てば堂々とした態度で物怖じすることはない。
それが彼らの持って生まれたものなのか。それとも置かれた立場のせいなのか。
どちらにしても、人間というのは、ある程度の年になれば、己が置かれた状況を理解するようになる。たとえそれが本人の望んだものではないとしても。
今、つくしの目の前で茶事(ちゃじ)の流れについて話しをしている男は、時に甘い言葉を交えながらも、次期家元として風格を備えて来たように思える。
知らないうちに、いや、知ろうとは思わないが、誰もが大人になって行く。
それは、新聞で見た道明寺司の姿がそうだったのと同じだ。
「そうよね・・誰もが年を取ってるんだし、大人になるのは当然よね」
と、つくしは呟いたが、隣に座る坂本は、目を輝かせ総二郎の話に聞き入っており、つくしの言葉を気にしなかった。だがそれは慣れているといった方が正しい。
つくしは、仕事中もパソコンの画面に向かい、独り言を呟いていることがあるからだ。
初めの頃、つくしの独り言を聞きつけた坂本が、どうかしたのかと聞いていたことがあった。だか、呟いたことを当の本人は気付いてないのだから、逆に坂本に向かって何ですか?と聞き返していた。
だから今ではつくしの独り言が意味を成さないものだと知っていた。
確かにつくしは、昔から聞く人がいなくても、喋ることがあった。
それは心の声が漏れていると言われていたが、癖なのかと言われればそうだが、独り言というのは、心のガス抜きをしているとも言われる。だから無理に止める必要はないとも言われていた。
そして彼女が言った誰もが年を取り、大人になるのは当然と言った言葉は、自らに語りかけていた。もし、ここに道明寺司がいたとしても、自分はもう結婚している。
あの頃の忘れられた少女ではないのだから、彼の前で物怖じする事はないはずだ。と。
「・・と、言うことで、皆さん。今日はお天気の方もいいようですので、少し庭に出てみましょう。それに秋の紅葉も始まったことですので、移り行く季節を楽しみませんか?」
これまでの話の中で何度か西門総二郎と目が合った。
そしてその目に浮かんだのは、驚きの表情といったものではなく、まるで久しぶりだな、と挨拶をしてきたように感じられた。
長い間会わなかったが、つくしのことを気付いていたようだ。
「・・篠田さん!・・篠田さん?行きましょうよ!西門総二郎と一緒に写真を撮ってもらえるそうよ!こんなチャンスもう二度とないわ。ほら行くわよ!」
つくしはぼんやりとしていたが、坂本の呼びかけにハッとすると、隣で立ち上がっていた彼女を見上げた。
「え?行くってどこに?」
「庭よ、庭。西門総二郎と一緒に写真を撮るのよ!」
坂本は座ったままのつくしを急き立てていたが、なかなか立ち上がろうとしないつくしに眉をひそめた。
「・・ねえ・・まさか足が痺れて立てないなんてこと言わないでよ?」
「ご、ごめんなさい。足、痺れたみたいで・・」
と、つくしは情けない声を出し、
「あの、坂本さん。わたしに構わず行って下さい。西門・・さんと写真撮って来て下さい。わたしはここで待ってますから」
と坂本に言った。
すると坂本は、気持ちは既に庭に向かっているようで、それじゃあちょっと行ってくるわね、と言い玄関に走って行った。
つくしは誰もいなくなった和室で、正座を崩し、ゆっくりと足を伸ばしていた。
本当は痺れてなんていない。ただ、外に行きたくなかったからだ。
それは西門総二郎の傍に行く理由が見当たらないからだ。
それに会えば色々と聞かれることは分かっていた。
だが過去は過去だ。
それがどんな顔をして現れても過去だ。
もうあの頃とは、高校生だった頃とは違う。
つくしは立ち上り、開け放たれた障子と長い縁側の向うに見える広い庭に目を移した。
その景色から西門流金沢茶道会館は、立派な日本庭園を持つ広い会館だということが見て取れた。そしてその庭でついさっきまで隣にいた坂本が、嬉しそうに総二郎との写真撮影に臨んでいた。
「・・・西門さん、相変らずモテるわね」
「そうだな。総二郎は相変わらずだ」
聞き覚えのある声が背中に響いた。
振り向かなくても分かるバリトン。
勿論分っている。この出会いが都合のいい偶然ではないということを。
過去が届いた。
そんな気がした。

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講演会は2時からだと聞き、自宅で食事を済ませたが、雄一は、「気にしなくていいよ。楽しんでおいで」とつくしを送り出した。
土曜は特許事務所も休みだが、「仕事で調べたいことがあるから部屋にいるよ。夜が遅くなっても構わないよ。たまには羽根を伸ばして来いよ」
と声を掛けられたがそれは雄一の気遣いだ。
雄一は、夜の外出を好まない。それは、癌の手術を経験してから後、体力が低下したこともあり、夜出歩くと疲れるということだ。だから二人で夜出歩くといったことはない。
だが、それは別に問題ない。つくしも夜遊びといったものには縁がなく、自宅でゆっくりと寛ぐ方が好きだ。
それにしても、桜子から送られて来た道明寺の名刺は、今まで遠くに感じていた過去を一気に身近に引き寄せ、物事が急に動き出したといった感じだ。
それは錆び付き、もう回ることがないと思っていた古い水車の歯車が、何故か突然回転を始めたといった感じだ。
それもガタガタと騒がしい音を立て、周りにその存在を知らしめるように。
そしてそのひとつが、こうして西門総二郎の話を聴くことなのだろう。
つくしは、大きなため息をついた。
出来れば行きたくなかった。それに会いたくなかった。
過ぎ去った過去を甦らせたいといった思いは、今はもう無いからだ。
それでも来てしまったものは仕方ない。
つくしは、自分自身に言い聞かせていた。
西門総二郎を直接目にするのは17年振りだが、彼は多くの浮名を流してきた男で、いちいち女の顔など覚えてないと公言するような男だった。だから自分の事など忘れているはずだと。
それに、講演会には大勢の人が来るはずだ。そんな中、俯き加減に座る女に目が留まるとは思えず、もしかして自分に気付くのではないかといったことは、自意識過剰だ。
だが、初めて訪れた茶道会館の建物に、つくしは自分が大きな勘違いをしていたことを知った。
会館と聞けば、市民ホールや公民館のようなコンクリートで出来た四角いグレーの建物に、広いホールや会議室がいくつかあり、パイプ椅子などの座席が設けてあるものだと思っていた。だが違った。
「篠田さん!今日は付き合ってもらってホントにありがとう!ねえ、素敵でしょ?西門流金沢茶道会館って!」
坂本は時間通りに現れたつくしに手を振った。
そしてつくしは、そんな坂本に控えめに手を挙げ応えた。
「西門総二郎、今日は着物かしらね?それともスーツでビシッと決めてると思う?いい男だからどっちでもいいけど、やっぱりこの建物だもの、着物がいいわよね?さあ、行きましょうよ!」
つくしより2歳年上の坂本は、お気に入りのアイドルにでも会うといった雰囲気で、つくしの前をどんどん歩いて行く。そしてそんな二人の前に見える西門流金沢茶道会館は、純和風の平家建築の建物で、門から玄関までの長いアプローチは敷石が敷かれ、水が撒かれ、玄関脇には手水鉢が置かれていた。そして畳6畳ほどありそうな玄関で靴を脱ぎ中に入れば、板敷の長い廊下に畳の部屋といった様式だ。つまりその畳に用意された座布団に正座をして話を聞く、といった状況であることを理解した。
と、なると収容人数は、つくしが当初考えていた人数とは大幅に異なり少数といったことになる。大勢の人間に紛れて座っていればいいと思ったがどうやらそれは無理のようだ。
実際、畳の上に置かれた座布団の枚数はざっと数えて40枚といったところだ。
それに、ここに来る女性達は西門総二郎目当てであり、皆彼を見つめているはずだ。だからそんな中にひとり俯いている女がいれば、逆に目立つといった方が正しいはずだ。
そして、別の意味でも目立っていた。何しろ今回の西門総二郎の講演会とは、弟子を対象にしているのだから、周りにいる女性達は皆、着物姿であり、洋服なのは坂本とつくしだけだ。
だからこそ余計に人目を惹いていた。
「・・・来るんじゃなかった」
「え?篠田さん、何か言った?それよりここ。ここ空いてるみたいよ?ここに座りましょうよ!」
坂本が指した座布団は幸か不幸か一番後ろの席。だが一番前よりはマシかと思う。
それでも学生時代の授業風景を思い出せば分ると思うが、発言者から一番遠い席といったものは、ある意味目立つ。目立ちたくなくても目立つ。
だがもうこうなれば普通にすればいいと腹を括るしかない。
それにもし話かけられても、まるで別の惑星で出会ったようにあっけらかんと笑えばいい。
そしてそれが道明寺司に伝わるならそれでいい。
結婚していることなど、どうせ調べられているはずだ。だから、牧野つくしは金沢で明るく楽しい結婚生活を送っていると伝わればいい。
それにつくしは、雄一と結婚を決めた時点で、古い記憶は胸の奥深くに封印し、自分自身と折り合いをつけたはずだ。
それでも、着物姿の西門総二郎が現れたとき、鼓動がいつもより大きく身体の中を駆けぬけたのが感じられた。
「金沢の皆さんこんにちは。今日はこうしてお会いするのを楽しみにしておりました」
滑らかに口をつく言葉は、ひと前で話し慣れた人物のそれだ。
子供の頃から高い教育を受けて来た男は、彼を含め当時F4と呼ばれた男達は、皆話をするのが上手い。だがそれもそのはずだ。一度テレビで見たが他人のことなど興味がないといった花沢類でさえ、大勢の人間の前に立てば堂々とした態度で物怖じすることはない。
それが彼らの持って生まれたものなのか。それとも置かれた立場のせいなのか。
どちらにしても、人間というのは、ある程度の年になれば、己が置かれた状況を理解するようになる。たとえそれが本人の望んだものではないとしても。
今、つくしの目の前で茶事(ちゃじ)の流れについて話しをしている男は、時に甘い言葉を交えながらも、次期家元として風格を備えて来たように思える。
知らないうちに、いや、知ろうとは思わないが、誰もが大人になって行く。
それは、新聞で見た道明寺司の姿がそうだったのと同じだ。
「そうよね・・誰もが年を取ってるんだし、大人になるのは当然よね」
と、つくしは呟いたが、隣に座る坂本は、目を輝かせ総二郎の話に聞き入っており、つくしの言葉を気にしなかった。だがそれは慣れているといった方が正しい。
つくしは、仕事中もパソコンの画面に向かい、独り言を呟いていることがあるからだ。
初めの頃、つくしの独り言を聞きつけた坂本が、どうかしたのかと聞いていたことがあった。だか、呟いたことを当の本人は気付いてないのだから、逆に坂本に向かって何ですか?と聞き返していた。
だから今ではつくしの独り言が意味を成さないものだと知っていた。
確かにつくしは、昔から聞く人がいなくても、喋ることがあった。
それは心の声が漏れていると言われていたが、癖なのかと言われればそうだが、独り言というのは、心のガス抜きをしているとも言われる。だから無理に止める必要はないとも言われていた。
そして彼女が言った誰もが年を取り、大人になるのは当然と言った言葉は、自らに語りかけていた。もし、ここに道明寺司がいたとしても、自分はもう結婚している。
あの頃の忘れられた少女ではないのだから、彼の前で物怖じする事はないはずだ。と。
「・・と、言うことで、皆さん。今日はお天気の方もいいようですので、少し庭に出てみましょう。それに秋の紅葉も始まったことですので、移り行く季節を楽しみませんか?」
これまでの話の中で何度か西門総二郎と目が合った。
そしてその目に浮かんだのは、驚きの表情といったものではなく、まるで久しぶりだな、と挨拶をしてきたように感じられた。
長い間会わなかったが、つくしのことを気付いていたようだ。
「・・篠田さん!・・篠田さん?行きましょうよ!西門総二郎と一緒に写真を撮ってもらえるそうよ!こんなチャンスもう二度とないわ。ほら行くわよ!」
つくしはぼんやりとしていたが、坂本の呼びかけにハッとすると、隣で立ち上がっていた彼女を見上げた。
「え?行くってどこに?」
「庭よ、庭。西門総二郎と一緒に写真を撮るのよ!」
坂本は座ったままのつくしを急き立てていたが、なかなか立ち上がろうとしないつくしに眉をひそめた。
「・・ねえ・・まさか足が痺れて立てないなんてこと言わないでよ?」
「ご、ごめんなさい。足、痺れたみたいで・・」
と、つくしは情けない声を出し、
「あの、坂本さん。わたしに構わず行って下さい。西門・・さんと写真撮って来て下さい。わたしはここで待ってますから」
と坂本に言った。
すると坂本は、気持ちは既に庭に向かっているようで、それじゃあちょっと行ってくるわね、と言い玄関に走って行った。
つくしは誰もいなくなった和室で、正座を崩し、ゆっくりと足を伸ばしていた。
本当は痺れてなんていない。ただ、外に行きたくなかったからだ。
それは西門総二郎の傍に行く理由が見当たらないからだ。
それに会えば色々と聞かれることは分かっていた。
だが過去は過去だ。
それがどんな顔をして現れても過去だ。
もうあの頃とは、高校生だった頃とは違う。
つくしは立ち上り、開け放たれた障子と長い縁側の向うに見える広い庭に目を移した。
その景色から西門流金沢茶道会館は、立派な日本庭園を持つ広い会館だということが見て取れた。そしてその庭でついさっきまで隣にいた坂本が、嬉しそうに総二郎との写真撮影に臨んでいた。
「・・・西門さん、相変らずモテるわね」
「そうだな。総二郎は相変わらずだ」
聞き覚えのある声が背中に響いた。
振り向かなくても分かるバリトン。
勿論分っている。この出会いが都合のいい偶然ではないということを。
過去が届いた。
そんな気がした。

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Comment:10
毎朝15分歩いてバス停まで行き、バスに乗り、大抵は立ったまま、ぼんやりと外を眺めながら、揺られて勤務先に着くが、今日は少し遅れていた。
時計の針は8時を少し回ったところで、交通量が多く、バスはなかなか進まなかった。
考え事をしていたつくしは、バス停に着く直前、携帯電話を自宅に忘れてきたことに気付き、慌てて取りに戻った。その為いつものバスに乗り損ねていた。
送られて来た名刺と、新聞に載った記事がつくしの脳裏をかすめていた。
まさか東京から遠く離れたこの土地で、雄一の口から道明寺HD副社長の帰国、といった言葉を聞くことになるとは思いもしなかった。
つくしが決めた篠田雄一との結婚は、友情から始まったものであり、恋に堕ちたものではなかった。そしてそれは、かりそめの結婚であり、本当の結婚ではない。
それでも、二人は仲良く暮らしていた。
長身で目鼻立ちも整った雄一は、女性にもてたはずだ。実際東京で仕事をしていた頃、付き合っていた女性がいた。だが生まれ故郷である金沢へ戻り、兄が所長を務める篠田特許事務所へ入所すると決めたとき、その女性とは別れたと聞いた。
どうして金沢へ戻ることにしたのか。
それは、彼の身体に癌が見つかったからだ。
だが癌になったからといっても、手術が成功すれば、社会復帰する人間は多い。
実際彼の手術は成功した。しかし、独り身の雄一は、東京で大手メーカーの知的財産部で働くよりも、兄が所長を務める事務所なら融通が利くと金沢に戻ることを決めた。
なぜなら癌になれば、一時的に治ったとしても再発や転移がないとは言えず、術後何年も経過を観察することが必要であり、体力や免疫力が低下するといった状況に不安を抱えての生活だ。身内が近くにいる方が精神的にも心強い。それに兄もそんな弟を心配し、戻って来いと強く勧めたと聞かされた。
男女のときめきがなくても夫婦でいることが出来ると知ったのは、彼が病を抱えていると知ったからだ。雄一がつくしにプロポーズした時、自分が病を抱えていると告げた。
つくしは、そんな雄一の気持ちが理解出来たから彼を受け入れた。
それは、亡くなった女性絵本作家のことがあったからだ。
病気になったからといって、世間と隔離されたような生活を送ることは辛い。
普通に生活したい。人生を楽しみたい。そんな思いを雄一の中にも見た。
だから友人として彼の傍にいようと決めた。
そして、雄一が女性として欲しかった人は、彼が別れを告げた女性で、つくしのことを女性として欲しかった訳ではないということも分かっていた。
だから二人は、夫婦という形の同居人であり寝室は別だ。
他人が聞けばそんなことが可能なのか、と思うだろう。だが実際可能だ。
なぜならつくしは、花沢類といった男性と愛情ではなく、友情で結ばれていたことがあったからだ。同じ布団の中で寝ても何もなかった一夜があった。
決して雄一が花沢類に似ているから一緒にいるのではない。
確かに雄一も背が高く、目鼻立ちもはっきりした顔で、色が白い。だがそれは、ただ単なる偶然であり、花沢類と雄一では性格が全く違う。それでも、どこか似ているところもあると感じていた。
だが雄一は明るい男性であり、類とは異なり物事を真正面から捉える男性だ。
そして人間の力が及ばない病と向き合い、生きることを諦めない。
恐らく最後までそのはずだ。大学生の頃、手に取った一冊の絵本は命の大切さについて描かれたものだったが、その主人公も同じように前向きに生きた人間だった。
雄一の姿は、あの絵本の中の主人公と同じ、未来への輝きが感じられた。
だが、それは限られた命の中での未来ではあるが、神様から与えられた生きるというチャンスを逃すまいとする人間の逞しさも感じられた。だから、つくしは雄一と一緒にいることを選んだ。
支えになりたいと。
だがそれは自分も支えて欲しいといった思いがどこかにあったはずだ。
人はひとりでは生きて行けない。
ひとりで生きていけるほど強くない。
人生は泡沫の夢。
だから相互依存といった関係を選んだと思う。
そんな雄一と仲良く朝食を食べ、互いのスケジュールを教え合い、仕事が遅くなるようなら連絡を入れ、互いを気遣いながら静かに流れて行く時を過ごす。
もちろん一緒に買い物にも行く。そんな二人は、傍から見れば仲の良い夫婦に見えるはずだ。
つくしは、カレーを食べたあの日。
雄一が風呂に入ったのを確かめると、彼が読んでいた経済新聞に目を通していた。
道明寺HDの副社長について書かれた記事を。
読んでどうなるといったものではないが、道明寺司が自分に会いたがっていると知った以上、無関心でいろという方が無理だ。
これからは日本に拠点を移し、日本支社で仕事をすると書かれた記事と写真。
その写真は35歳の男の精悍さと共に、経営者としての非情さといったものが感じられた。
その写真に送られて来た名刺を重ねた。
静けさを取り戻していた心に小さな波を立てた名刺。
そして、そこに自筆で書かれた携帯電話の番号。
この番号にかければ、写真の男に繋がる。
記憶を取り戻した道明寺に。
雄一は、つくしが司と付き合っていたことなど知るはずもないのだから、何の気なしに口にした道明寺という名前につくしが動揺するとは思ってもいないはずだ。
思い出してみても、二人が付き合ったのは、1年にも満たない期間であり、いい加減忘れ去ってもいいはずだ。それなのに、心はあの日に戻ってしまう。
そして、心の中に立った小さな波は、時間が経てば経つほど小舟を揺らすような大きな波に変わっていた。
あの男が電話を待っているというなら、かけた方がいいのだろうか。
そうしなければ、向うからやって来るはずだ。
何でも自分の思い通りに出来る男だ。そのうちきっと現れるはずだ。
「篠田さん。今日はギリギリね?」
慌てて走り込んで来たつくしに声をかけたのは、二つ年上の同僚社員の坂本だ。
「す、すみません。いつものバスに乗り損ねてしまって」
「あらそうなの?珍しいことがあるのね?もしかして寝坊したとか?何しろまだ新婚さんだもんね。旦那様が離してくれないんじゃない?羨ましいわ~」
ポワンとした口調に語尾が上がり、思わず顔が赤くなるが、つくしは強く否定し席に座ると、パソコンのスイッチを入れた。
「ま、まさか!うちはもう結婚して2年ですよ?そんなことありませんから!」
そうだ、そんなことない。
二人はそういった関係ではないのだから。
出版社を辞めたつくしが選んだ普通のOL生活は、空調メーカーの金沢支店。
たまたま欠員募集が出ていたとき採用され、営業補助として働いていた。
全く分野が違う業種への転職だが、安定性を重視した結果がその職場だった。残業といったものは、月末を除き殆どなく、ほぼ定時退社が出来る職場であり、予定も立てやすいことが一番の魅力だ。
今も、パソコンに届いたメールの内容を確認しながら、すべきことを頭の中で組み立てていた。
そんな時、隣の席に座る坂本が小さな声で囁きかけていた。
「ねえ篠田さん知ってる?明日の土曜日、西門総二郎が金沢に来るんですって!」
道明寺司の名前を聞いたと思えば、今度は西門総二郎。
「この街で西門流のお弟子さんを集めた講演会があるんですって。あたしね、西門流のお弟子さんで知ってる人がいるんだけど、その講演会の入場券を貰ったの!だから一緒に行かない?」
日本第3位の茶道人口を抱える石川県は、京都をしのぐ茶の湯の都と言われ、そんな県で西門総二郎の名前を知らない者はいない。今までも新聞に記事が書かれているのを目にしたこともあれば、デパートの中にある書店で出版した書籍のサイン会をしていたこともある。だが、つくしが自ら会いに行くといったことはなかった。
彼は遠い過去に一時友人としての関係があっただけだ。それに彼も覚えていないかもしれない。何しろ、繋がりを持ったのは、道明寺司がいたからだ。今はもう何の関係もない。
「ねえ、篠田さん。いいでしょ?ご主人だっていいって言ってくれるわよ!何しろ優しい人ですものね。それにね、その講演会。新作の和菓子が配られるそうよ?西門総二郎もいいけど、女性って花より団子ってところもあるじゃない?ねえ、行きましょうよ!」
金沢といえば、茶の湯文化のある京都、島根の松江と並ぶ和菓子処であり、市民は和菓子を生活に密着したものと捉え、口にする機会が多い。そして皆それぞれにお気に入りの和菓子があり、あそこのお菓子じゃないと駄目だ、といった声を耳にする。
まさに、行きつけの喫茶店ならぬ、行きつけの和菓子屋といったところだ。
「ねえ、篠田さんだって花より団子派でしょ?だからお菓子だけでも食べるつもりで行けばいいじゃない。ねえ、行きましょうよ!それに西門総二郎なんてそう簡単には会えない人よ?」
しょっちゅう顔を合わせていた。
そんな言葉を言えるはずもなく、そして断ろうにも、咄嗟のことで適当な口実が見つからなかった。やがて、そうこうしているうちに、営業時間が始まり、電話が鳴り始め、慌てて受話器を持ち上げ隣の坂本を見たが、彼女の口は「じゃあ、明日よろしくね!」と形を作っていた。

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時計の針は8時を少し回ったところで、交通量が多く、バスはなかなか進まなかった。
考え事をしていたつくしは、バス停に着く直前、携帯電話を自宅に忘れてきたことに気付き、慌てて取りに戻った。その為いつものバスに乗り損ねていた。
送られて来た名刺と、新聞に載った記事がつくしの脳裏をかすめていた。
まさか東京から遠く離れたこの土地で、雄一の口から道明寺HD副社長の帰国、といった言葉を聞くことになるとは思いもしなかった。
つくしが決めた篠田雄一との結婚は、友情から始まったものであり、恋に堕ちたものではなかった。そしてそれは、かりそめの結婚であり、本当の結婚ではない。
それでも、二人は仲良く暮らしていた。
長身で目鼻立ちも整った雄一は、女性にもてたはずだ。実際東京で仕事をしていた頃、付き合っていた女性がいた。だが生まれ故郷である金沢へ戻り、兄が所長を務める篠田特許事務所へ入所すると決めたとき、その女性とは別れたと聞いた。
どうして金沢へ戻ることにしたのか。
それは、彼の身体に癌が見つかったからだ。
だが癌になったからといっても、手術が成功すれば、社会復帰する人間は多い。
実際彼の手術は成功した。しかし、独り身の雄一は、東京で大手メーカーの知的財産部で働くよりも、兄が所長を務める事務所なら融通が利くと金沢に戻ることを決めた。
なぜなら癌になれば、一時的に治ったとしても再発や転移がないとは言えず、術後何年も経過を観察することが必要であり、体力や免疫力が低下するといった状況に不安を抱えての生活だ。身内が近くにいる方が精神的にも心強い。それに兄もそんな弟を心配し、戻って来いと強く勧めたと聞かされた。
男女のときめきがなくても夫婦でいることが出来ると知ったのは、彼が病を抱えていると知ったからだ。雄一がつくしにプロポーズした時、自分が病を抱えていると告げた。
つくしは、そんな雄一の気持ちが理解出来たから彼を受け入れた。
それは、亡くなった女性絵本作家のことがあったからだ。
病気になったからといって、世間と隔離されたような生活を送ることは辛い。
普通に生活したい。人生を楽しみたい。そんな思いを雄一の中にも見た。
だから友人として彼の傍にいようと決めた。
そして、雄一が女性として欲しかった人は、彼が別れを告げた女性で、つくしのことを女性として欲しかった訳ではないということも分かっていた。
だから二人は、夫婦という形の同居人であり寝室は別だ。
他人が聞けばそんなことが可能なのか、と思うだろう。だが実際可能だ。
なぜならつくしは、花沢類といった男性と愛情ではなく、友情で結ばれていたことがあったからだ。同じ布団の中で寝ても何もなかった一夜があった。
決して雄一が花沢類に似ているから一緒にいるのではない。
確かに雄一も背が高く、目鼻立ちもはっきりした顔で、色が白い。だがそれは、ただ単なる偶然であり、花沢類と雄一では性格が全く違う。それでも、どこか似ているところもあると感じていた。
だが雄一は明るい男性であり、類とは異なり物事を真正面から捉える男性だ。
そして人間の力が及ばない病と向き合い、生きることを諦めない。
恐らく最後までそのはずだ。大学生の頃、手に取った一冊の絵本は命の大切さについて描かれたものだったが、その主人公も同じように前向きに生きた人間だった。
雄一の姿は、あの絵本の中の主人公と同じ、未来への輝きが感じられた。
だが、それは限られた命の中での未来ではあるが、神様から与えられた生きるというチャンスを逃すまいとする人間の逞しさも感じられた。だから、つくしは雄一と一緒にいることを選んだ。
支えになりたいと。
だがそれは自分も支えて欲しいといった思いがどこかにあったはずだ。
人はひとりでは生きて行けない。
ひとりで生きていけるほど強くない。
人生は泡沫の夢。
だから相互依存といった関係を選んだと思う。
そんな雄一と仲良く朝食を食べ、互いのスケジュールを教え合い、仕事が遅くなるようなら連絡を入れ、互いを気遣いながら静かに流れて行く時を過ごす。
もちろん一緒に買い物にも行く。そんな二人は、傍から見れば仲の良い夫婦に見えるはずだ。
つくしは、カレーを食べたあの日。
雄一が風呂に入ったのを確かめると、彼が読んでいた経済新聞に目を通していた。
道明寺HDの副社長について書かれた記事を。
読んでどうなるといったものではないが、道明寺司が自分に会いたがっていると知った以上、無関心でいろという方が無理だ。
これからは日本に拠点を移し、日本支社で仕事をすると書かれた記事と写真。
その写真は35歳の男の精悍さと共に、経営者としての非情さといったものが感じられた。
その写真に送られて来た名刺を重ねた。
静けさを取り戻していた心に小さな波を立てた名刺。
そして、そこに自筆で書かれた携帯電話の番号。
この番号にかければ、写真の男に繋がる。
記憶を取り戻した道明寺に。
雄一は、つくしが司と付き合っていたことなど知るはずもないのだから、何の気なしに口にした道明寺という名前につくしが動揺するとは思ってもいないはずだ。
思い出してみても、二人が付き合ったのは、1年にも満たない期間であり、いい加減忘れ去ってもいいはずだ。それなのに、心はあの日に戻ってしまう。
そして、心の中に立った小さな波は、時間が経てば経つほど小舟を揺らすような大きな波に変わっていた。
あの男が電話を待っているというなら、かけた方がいいのだろうか。
そうしなければ、向うからやって来るはずだ。
何でも自分の思い通りに出来る男だ。そのうちきっと現れるはずだ。
「篠田さん。今日はギリギリね?」
慌てて走り込んで来たつくしに声をかけたのは、二つ年上の同僚社員の坂本だ。
「す、すみません。いつものバスに乗り損ねてしまって」
「あらそうなの?珍しいことがあるのね?もしかして寝坊したとか?何しろまだ新婚さんだもんね。旦那様が離してくれないんじゃない?羨ましいわ~」
ポワンとした口調に語尾が上がり、思わず顔が赤くなるが、つくしは強く否定し席に座ると、パソコンのスイッチを入れた。
「ま、まさか!うちはもう結婚して2年ですよ?そんなことありませんから!」
そうだ、そんなことない。
二人はそういった関係ではないのだから。
出版社を辞めたつくしが選んだ普通のOL生活は、空調メーカーの金沢支店。
たまたま欠員募集が出ていたとき採用され、営業補助として働いていた。
全く分野が違う業種への転職だが、安定性を重視した結果がその職場だった。残業といったものは、月末を除き殆どなく、ほぼ定時退社が出来る職場であり、予定も立てやすいことが一番の魅力だ。
今も、パソコンに届いたメールの内容を確認しながら、すべきことを頭の中で組み立てていた。
そんな時、隣の席に座る坂本が小さな声で囁きかけていた。
「ねえ篠田さん知ってる?明日の土曜日、西門総二郎が金沢に来るんですって!」
道明寺司の名前を聞いたと思えば、今度は西門総二郎。
「この街で西門流のお弟子さんを集めた講演会があるんですって。あたしね、西門流のお弟子さんで知ってる人がいるんだけど、その講演会の入場券を貰ったの!だから一緒に行かない?」
日本第3位の茶道人口を抱える石川県は、京都をしのぐ茶の湯の都と言われ、そんな県で西門総二郎の名前を知らない者はいない。今までも新聞に記事が書かれているのを目にしたこともあれば、デパートの中にある書店で出版した書籍のサイン会をしていたこともある。だが、つくしが自ら会いに行くといったことはなかった。
彼は遠い過去に一時友人としての関係があっただけだ。それに彼も覚えていないかもしれない。何しろ、繋がりを持ったのは、道明寺司がいたからだ。今はもう何の関係もない。
「ねえ、篠田さん。いいでしょ?ご主人だっていいって言ってくれるわよ!何しろ優しい人ですものね。それにね、その講演会。新作の和菓子が配られるそうよ?西門総二郎もいいけど、女性って花より団子ってところもあるじゃない?ねえ、行きましょうよ!」
金沢といえば、茶の湯文化のある京都、島根の松江と並ぶ和菓子処であり、市民は和菓子を生活に密着したものと捉え、口にする機会が多い。そして皆それぞれにお気に入りの和菓子があり、あそこのお菓子じゃないと駄目だ、といった声を耳にする。
まさに、行きつけの喫茶店ならぬ、行きつけの和菓子屋といったところだ。
「ねえ、篠田さんだって花より団子派でしょ?だからお菓子だけでも食べるつもりで行けばいいじゃない。ねえ、行きましょうよ!それに西門総二郎なんてそう簡単には会えない人よ?」
しょっちゅう顔を合わせていた。
そんな言葉を言えるはずもなく、そして断ろうにも、咄嗟のことで適当な口実が見つからなかった。やがて、そうこうしているうちに、営業時間が始まり、電話が鳴り始め、慌てて受話器を持ち上げ隣の坂本を見たが、彼女の口は「じゃあ、明日よろしくね!」と形を作っていた。

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『記憶の断片が戻った』
そう言って連絡を受けたのは西門総二郎だ。
昔からプレイボーイだと言われ、仲間内で一番の伊達男と誉が高い男は、司からの電話に口を開くと言った。
『放蕩息子のお帰りか』
そんな言葉を吐いた男は、約1時間後の午後11時には、広大な敷地面積を擁する世田谷の道明寺邸に現れた。そしてそんな男の髪は湿り気を帯びており、シャワーを浴びて来たのが感じられ、女と過ごしていたと分かる雰囲気があった。
男は、司の執務室のソファに腰を降ろし、すらりと長い脚を組み、肘掛に右腕を乗せ、指先でテンポ良くリズムを刻んでいた。
父親が茶道西門流の家元である総二郎は、二人兄弟の次男だが、兄である祥一郎は医者となり独立したため、次の家元は総二郎だと言われていた。
俺には兄貴みたいに人の身体を治すなんてことは出来ねぇけど、茶で人の心を癒すことなら出来るはずだ。
そう言ってはいるが、彼が癒すのは、もっぱら若い女性だと言われていた。
そんな総二郎と司は、子供の頃からお坊ちゃまと呼ばれ育った人間であり、何をしても許される環境にいた。そしてそんな二人には、隠す事の出来ない品というものがあった。
しかし、二人が決定的に違うのは、司という男は、一途で潔癖と言われ、本気で愛した女性はただ一人といった男だが、総二郎は司とは真逆のタイプであり、同時に何人もの女性と付き合うことが出来る人間だ。
そんな男の口から吐き出された『放蕩息子』。
それを言うならおまえだろうが、と司に言われた総二郎は軽やかに笑っていた。
だがその笑いを浮かべた表情は直ぐに打ち消され、真面目な顔をした男がいた。
「つーか、おまえ、あれから何年だ?俺たちはお前が無くした記憶に触れることはしなかったが、いつも心の中では気にしてたんだぞ?」
「・・ああ、分かってる」
ある特定の記憶を失ってから17年。
ポツリと呟くように言われた言葉は、年月の重みを感じさせた。
1年は長いが17年という歳月はとてつもなく長い。
まだ小さかった子供が大人へと成長し、技術の進歩で言えば、17年前の物など年を取った人間と同じで過去の遺物と言われていた。
「それにしても随分と時間が流れたな。あの頃、お前に思い出せっていくら言っても思い出すことは無かったけど、今更って言うか、なんて言えばいいんだろうな・・。まさかこんなに時間が経って忘れた記憶が戻るなんて思わなかったぜ」
そう言われた司は、自分でも何故今なのかと自問するしかない。
そして、それが今で良かったのか、それとも悪かったのかと考えていた。
帰国すると直ぐに三条桜子の店を訪ね、名刺を託し、牧野つくしからの電話を待った。
今まで名刺の行方など気に留めた事などなかったが、あの名刺が三条の手に渡った途端、
17年前への旅が始まった。それはまるで自分自身が名刺となり、三条の手により牧野つくしの所へ運ばれて行く。そんな感覚に陥り、彼女が自分の名刺を見たときどんな反応を示すか見たいといった気にさせられていた。
だが、連絡がないということは、分かっていた。
あれだけ司から好きだと言い、心から求めた女性を簡単に忘れ去り、挙句の果てに罵倒し、二度と自分の前に現れるなと拒絶しておいて今更何をと思うのは当然だ。
だから足を踏み出すことが出来ずにいた。
だが、いつまでも電話がかかってくることを待つつもりは無かった。
司は、能動的に振る舞う人間であり、人から何かをされるのを待つ人間ではない。
だから調べさせた。
17年間全く気にしなかった女性の現在を調べることは、本気になれば出来ないことはないと言われる司のビジネスにしてみれば、簡単なことだ。
だが、それを三条の元を訪れる前にしなかったのは、彼の存在がいきなり牧野つくしの前に現れることを避けたかったからだ。
せめて三条を通してでも、彼の記憶が戻ったといったことが伝わればいいと思ったからだ。
何故、そう思ったのか。それは罪悪感があったからだ。
勝手に忘れておいて、記憶が戻ったからといってどの面下げて会えばいいのか。
まさに身勝手の極みであり、深い罪悪感が彼の心を緊縛した。
だがそんな後ろめたい気持ちとは逆の、やはり知りたいといった気持ちの方が強かった。
「・・で、司。記憶が戻ったってことは牧野のことだろ?だから俺を呼んだんだろ?」
「ああ。そうだ」
総二郎の問に司は答えた。
「それで?牧野はどうしてるんだ?お前のことだ。調べたんだろ?」
「あいつ・・牧野はもう牧野じゃなかった」
「牧野じゃない?なんか意味が分かんねぇな。牧野じゃねえってそれなら何だ?まさかお前と同じで記憶喪失にでもなったか?」
まさか、牧野つくしが司に自分を忘れられた腹いせに、司の記憶だけを無くした訳でもあるまい。総二郎はそんな馬鹿なことがあるかといった思いで聞いていた。
牧野つくしが司と不本意な別れをした後、周りにいた仲間たちとの距離を置いたのは、つくしの方だ。その行動を理解出来ないほど、総二郎たちは無神経ではない。本人がそう望むのなら、そして望み通りにしてやることで、気持ちの整理が出来るならと、つくしの傍に近づくことはなかった。だから今の牧野つくしがどんな状況にあるのか知らずにいた。
「いや。そうじゃねぇ」
「それならなんだ?勿体つけねぇで早く言えよ?」
先を急がす総二郎の問いかけに、司はデスクチェアに座ったまま、暫く何も言わなかった。
決して言い淀んでいるのでは無い。ただ、自分の口から出る言葉を己が聞きたくなかったからだ。
「・・あいつ、結婚してた」
「結婚?!あいつがか?」
総二郎の驚いた姿は、信じられないといった様子だが、二人の間に流れた静寂はまた別の意味を持っていた。
「・・そうか。牧野、結婚したのか・・」
重苦しい沈黙が流れ、総二郎はそこで一旦話を切った。
そして何か考えている表情になり、それからはっきりとした口調で言葉を継いだ。
「なあ、司。お前には酷なようだが、今のあいつの置かれた状況ってのは、嵐が去って静けさを取り戻した心っての?そんなんじゃねぇのか?・・・いいか司。お前は好きだ愛してるって牧野を追いかけ回したが、きれいさっぱり忘れちまった。まあ、あれはわざとじゃねぇにしても、お前はあいつの事を思い出そうといった努力ってのもしなかったはずだ。仲間の誰かが言ったところでお前は聞く耳も持たなかった。頭っからはね付けてた。そんな中で三条がしつこいくらいお前に言ってたのは俺も知ってる。それでもお前は相手にしなかったよな?」
司は三条桜子から何度も訪問を受けた。
それはNYへ行ってからも続いたが、彼の耳に届けられた牧野つくしの状況は、全く関係のない女の日常であり、関係ないと一蹴していた。
だが、ある年からそれも途絶えた。
「・・牧野は、お前に忘れられてからは勉強を励みに人生の目標を見つけようとした。まあ、お前に出会う前は、元々そんな女だったろ?だからある意味元の状況に戻ったっていやあそうだった。だけどな、女としての幸せってのには縁遠くなったんじゃねぇの?何しろお前に捨てられた女だぞ?あれだけ追い回しといての結果がアレだ。それに周りの目を考えてもみろ。お前のそんな状況を知ってるんだぞ?面と向かって何も言われなかったとしても、高校生活なんてのは、針の筵だったんじゃねぇの?・・そんな牧野の傍にいつも一緒にいたのが桜子だったけどな」
総二郎は、手櫛で髪を掻き上げ、大きく息を吐いた。
「なあ、司。あいつが結婚したってことは、女として自分の幸せを掴んだ。そう思わねぇか?本当ならお前が与えたかったんだろうけど、無理だったんだから」
本当なら司が与えようとした幸せは、他の男の手によって与えられたということ。
その事実を総二郎は淡々と言っていたが、自分と違い昔から色恋沙汰に無縁だった男の初恋を周りの仲間は応援していた。だからその恋を、当の本人が、きれいさっぱり忘れ去ってしまったことに、訳の分からない悔しさといったものが込み上げていた。
「それで、牧野つくしの相手ってのは誰だ?」
「あいつ、今は金沢に住んでる。そこで知り合った弁理士が相手だ」
司は、何故つくしがあの街に住まいを移したか。
彼が入手した報告書に書かれていた内容について話しを始めた。
小さな出版社に就職し、担当になった絵本作家が金沢に住んでいた。その作家の晩年の作品を手掛けながら、最期を看取ったこと。そしてその後に結婚する相手に出会ったといったことを。
「金沢か・・・。あの街は茶の湯が盛んな街で俺も年に何度も行くが、あの街はいい街だ。落ち着いた趣があって人間も優しい。・・それにしても相手が弁理士か。随分と堅い職業の人間と結婚したもんだな。・・それで?結婚してどれ位経ってんだ?」
「2年だ」
「2年か・・。それで子供はいるのか?」
「いや。いない」
そう言った司の口調は、胸の中にある暗がりから出されたように低く、表情に翳りが感じられた。
総二郎は思った。
自分自身はいつも自分の置かれた世界を楽しんで来た。
だが今、目の前にいる人間は、世界中のビジネスを自分の物に出来る力を持つとか、どんな女も望めば自由になるとか、どれだけ金があるとか、そういったことは一切関係ないといった目をした男だ。
まさかこの年になって馬鹿なことはしないはずだが、あの頃、熱い感情の高まりを持て余していた男の、不完全燃焼とも言える恋は、どこへ向かおうとしているのか。
総二郎の胸を、そんな思いが過っていた。

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そう言って連絡を受けたのは西門総二郎だ。
昔からプレイボーイだと言われ、仲間内で一番の伊達男と誉が高い男は、司からの電話に口を開くと言った。
『放蕩息子のお帰りか』
そんな言葉を吐いた男は、約1時間後の午後11時には、広大な敷地面積を擁する世田谷の道明寺邸に現れた。そしてそんな男の髪は湿り気を帯びており、シャワーを浴びて来たのが感じられ、女と過ごしていたと分かる雰囲気があった。
男は、司の執務室のソファに腰を降ろし、すらりと長い脚を組み、肘掛に右腕を乗せ、指先でテンポ良くリズムを刻んでいた。
父親が茶道西門流の家元である総二郎は、二人兄弟の次男だが、兄である祥一郎は医者となり独立したため、次の家元は総二郎だと言われていた。
俺には兄貴みたいに人の身体を治すなんてことは出来ねぇけど、茶で人の心を癒すことなら出来るはずだ。
そう言ってはいるが、彼が癒すのは、もっぱら若い女性だと言われていた。
そんな総二郎と司は、子供の頃からお坊ちゃまと呼ばれ育った人間であり、何をしても許される環境にいた。そしてそんな二人には、隠す事の出来ない品というものがあった。
しかし、二人が決定的に違うのは、司という男は、一途で潔癖と言われ、本気で愛した女性はただ一人といった男だが、総二郎は司とは真逆のタイプであり、同時に何人もの女性と付き合うことが出来る人間だ。
そんな男の口から吐き出された『放蕩息子』。
それを言うならおまえだろうが、と司に言われた総二郎は軽やかに笑っていた。
だがその笑いを浮かべた表情は直ぐに打ち消され、真面目な顔をした男がいた。
「つーか、おまえ、あれから何年だ?俺たちはお前が無くした記憶に触れることはしなかったが、いつも心の中では気にしてたんだぞ?」
「・・ああ、分かってる」
ある特定の記憶を失ってから17年。
ポツリと呟くように言われた言葉は、年月の重みを感じさせた。
1年は長いが17年という歳月はとてつもなく長い。
まだ小さかった子供が大人へと成長し、技術の進歩で言えば、17年前の物など年を取った人間と同じで過去の遺物と言われていた。
「それにしても随分と時間が流れたな。あの頃、お前に思い出せっていくら言っても思い出すことは無かったけど、今更って言うか、なんて言えばいいんだろうな・・。まさかこんなに時間が経って忘れた記憶が戻るなんて思わなかったぜ」
そう言われた司は、自分でも何故今なのかと自問するしかない。
そして、それが今で良かったのか、それとも悪かったのかと考えていた。
帰国すると直ぐに三条桜子の店を訪ね、名刺を託し、牧野つくしからの電話を待った。
今まで名刺の行方など気に留めた事などなかったが、あの名刺が三条の手に渡った途端、
17年前への旅が始まった。それはまるで自分自身が名刺となり、三条の手により牧野つくしの所へ運ばれて行く。そんな感覚に陥り、彼女が自分の名刺を見たときどんな反応を示すか見たいといった気にさせられていた。
だが、連絡がないということは、分かっていた。
あれだけ司から好きだと言い、心から求めた女性を簡単に忘れ去り、挙句の果てに罵倒し、二度と自分の前に現れるなと拒絶しておいて今更何をと思うのは当然だ。
だから足を踏み出すことが出来ずにいた。
だが、いつまでも電話がかかってくることを待つつもりは無かった。
司は、能動的に振る舞う人間であり、人から何かをされるのを待つ人間ではない。
だから調べさせた。
17年間全く気にしなかった女性の現在を調べることは、本気になれば出来ないことはないと言われる司のビジネスにしてみれば、簡単なことだ。
だが、それを三条の元を訪れる前にしなかったのは、彼の存在がいきなり牧野つくしの前に現れることを避けたかったからだ。
せめて三条を通してでも、彼の記憶が戻ったといったことが伝わればいいと思ったからだ。
何故、そう思ったのか。それは罪悪感があったからだ。
勝手に忘れておいて、記憶が戻ったからといってどの面下げて会えばいいのか。
まさに身勝手の極みであり、深い罪悪感が彼の心を緊縛した。
だがそんな後ろめたい気持ちとは逆の、やはり知りたいといった気持ちの方が強かった。
「・・で、司。記憶が戻ったってことは牧野のことだろ?だから俺を呼んだんだろ?」
「ああ。そうだ」
総二郎の問に司は答えた。
「それで?牧野はどうしてるんだ?お前のことだ。調べたんだろ?」
「あいつ・・牧野はもう牧野じゃなかった」
「牧野じゃない?なんか意味が分かんねぇな。牧野じゃねえってそれなら何だ?まさかお前と同じで記憶喪失にでもなったか?」
まさか、牧野つくしが司に自分を忘れられた腹いせに、司の記憶だけを無くした訳でもあるまい。総二郎はそんな馬鹿なことがあるかといった思いで聞いていた。
牧野つくしが司と不本意な別れをした後、周りにいた仲間たちとの距離を置いたのは、つくしの方だ。その行動を理解出来ないほど、総二郎たちは無神経ではない。本人がそう望むのなら、そして望み通りにしてやることで、気持ちの整理が出来るならと、つくしの傍に近づくことはなかった。だから今の牧野つくしがどんな状況にあるのか知らずにいた。
「いや。そうじゃねぇ」
「それならなんだ?勿体つけねぇで早く言えよ?」
先を急がす総二郎の問いかけに、司はデスクチェアに座ったまま、暫く何も言わなかった。
決して言い淀んでいるのでは無い。ただ、自分の口から出る言葉を己が聞きたくなかったからだ。
「・・あいつ、結婚してた」
「結婚?!あいつがか?」
総二郎の驚いた姿は、信じられないといった様子だが、二人の間に流れた静寂はまた別の意味を持っていた。
「・・そうか。牧野、結婚したのか・・」
重苦しい沈黙が流れ、総二郎はそこで一旦話を切った。
そして何か考えている表情になり、それからはっきりとした口調で言葉を継いだ。
「なあ、司。お前には酷なようだが、今のあいつの置かれた状況ってのは、嵐が去って静けさを取り戻した心っての?そんなんじゃねぇのか?・・・いいか司。お前は好きだ愛してるって牧野を追いかけ回したが、きれいさっぱり忘れちまった。まあ、あれはわざとじゃねぇにしても、お前はあいつの事を思い出そうといった努力ってのもしなかったはずだ。仲間の誰かが言ったところでお前は聞く耳も持たなかった。頭っからはね付けてた。そんな中で三条がしつこいくらいお前に言ってたのは俺も知ってる。それでもお前は相手にしなかったよな?」
司は三条桜子から何度も訪問を受けた。
それはNYへ行ってからも続いたが、彼の耳に届けられた牧野つくしの状況は、全く関係のない女の日常であり、関係ないと一蹴していた。
だが、ある年からそれも途絶えた。
「・・牧野は、お前に忘れられてからは勉強を励みに人生の目標を見つけようとした。まあ、お前に出会う前は、元々そんな女だったろ?だからある意味元の状況に戻ったっていやあそうだった。だけどな、女としての幸せってのには縁遠くなったんじゃねぇの?何しろお前に捨てられた女だぞ?あれだけ追い回しといての結果がアレだ。それに周りの目を考えてもみろ。お前のそんな状況を知ってるんだぞ?面と向かって何も言われなかったとしても、高校生活なんてのは、針の筵だったんじゃねぇの?・・そんな牧野の傍にいつも一緒にいたのが桜子だったけどな」
総二郎は、手櫛で髪を掻き上げ、大きく息を吐いた。
「なあ、司。あいつが結婚したってことは、女として自分の幸せを掴んだ。そう思わねぇか?本当ならお前が与えたかったんだろうけど、無理だったんだから」
本当なら司が与えようとした幸せは、他の男の手によって与えられたということ。
その事実を総二郎は淡々と言っていたが、自分と違い昔から色恋沙汰に無縁だった男の初恋を周りの仲間は応援していた。だからその恋を、当の本人が、きれいさっぱり忘れ去ってしまったことに、訳の分からない悔しさといったものが込み上げていた。
「それで、牧野つくしの相手ってのは誰だ?」
「あいつ、今は金沢に住んでる。そこで知り合った弁理士が相手だ」
司は、何故つくしがあの街に住まいを移したか。
彼が入手した報告書に書かれていた内容について話しを始めた。
小さな出版社に就職し、担当になった絵本作家が金沢に住んでいた。その作家の晩年の作品を手掛けながら、最期を看取ったこと。そしてその後に結婚する相手に出会ったといったことを。
「金沢か・・・。あの街は茶の湯が盛んな街で俺も年に何度も行くが、あの街はいい街だ。落ち着いた趣があって人間も優しい。・・それにしても相手が弁理士か。随分と堅い職業の人間と結婚したもんだな。・・それで?結婚してどれ位経ってんだ?」
「2年だ」
「2年か・・。それで子供はいるのか?」
「いや。いない」
そう言った司の口調は、胸の中にある暗がりから出されたように低く、表情に翳りが感じられた。
総二郎は思った。
自分自身はいつも自分の置かれた世界を楽しんで来た。
だが今、目の前にいる人間は、世界中のビジネスを自分の物に出来る力を持つとか、どんな女も望めば自由になるとか、どれだけ金があるとか、そういったことは一切関係ないといった目をした男だ。
まさかこの年になって馬鹿なことはしないはずだが、あの頃、熱い感情の高まりを持て余していた男の、不完全燃焼とも言える恋は、どこへ向かおうとしているのか。
総二郎の胸を、そんな思いが過っていた。

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