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2017
08.31

時の撚り糸 30

待ち合わせの場所がメープルのコーヒーラウンジなのは、この場所で初めて相手と顔を合わせたからだ。それは今からちょうど3ヶ月前の話。それから3度食事をした。
約束の時間には少し早かったが、相手の男性は既に席についており、つくしに気付くと立ち上がって彼女が傍に来るのを待っていた。

大手の建設会社で働く2歳年上の建築設計士の男性は、つくしがテーブルを挟んだ向かい側の席に座ると、コーヒーでいいですか?と聞き、軽く片手を上げ、ウェイターに合図を送った。

男性は、やはり仕事帰りといった服装でスーツを着ていたが、やはり制服と呼んでいる仕事用スーツを着たつくしと一緒にいれば、まるでビジネスの延長線上、仕事の打ち合わせのように見えるはずだ。そしてそれは、どう見ても親しい間柄の男女の姿にはほど遠い雰囲気だ。

そして、運ばれてきたコーヒーを口元へ運び、それからつくしを見た。

「牧野さん。お帰りなさい。NYはいかがでした?お友達にお会いになるとおっしゃていましたが楽しんで来られましたか?」

穏やかな声で話しかけて来る男性の関心は今、つくしだけに向けられていた。
そして返事を待っている。それだけのため、今日ここへ来たのだということが感じられた。

悪い人ではない。つくしの年齢の女性たちから言えば十分及第点を越えていた。
学歴、職業、年収、家族構成そして容姿。どれを取っても問題はないはずだ。
だがこの男性は今まで結婚したいと思ったことはなかったと言う。それが何故かこの年になり、急に結婚したくなったというのだから、何か心境の変化があったとしか言えないはずだ。

だが、その変化について聞かなかった。もし聞いたとすれば、つくしに対しても同じ質問が繰り返されるからだ。しかしつくしは、その質問に答えることは出来なかったはずだ。
誰か傍にいて欲しかったといった言葉でも言えればいいのだが、叔母から見合いの話を持ち込まれ、ただなんとなく受けた状態だったのだから、理由などなかった。

だがもしつくしがNYへ滋に会いに行かなければ、目の前の男性と結婚していたかもしれない。
それは見合いというシステムから言えば、すでに3回も会っており、相手の男性に対し好きだという思いを抱かなくても、叔母に言わせれば、見合いなんてそんなものよ。結婚してから愛が芽生えることだってあるわ。それに、つくしの年齢から言えば、愛だの恋だのより、将来ひとりでいることを考えれば、誰か傍にいてくれる人がいるに越したことはないのよ?ひとりの老後は淋しいのよ?おひとり様だなんて言葉があるけど、誰も好きでひとりでいる人間はいなんだからね?つくしはまだ恵まれている方よ、こんないい人とお見合い出来たなんて。人によっては老いた親の面倒を見させる為の介護要員が欲しいから結婚したいだなんて男性もいるんだからね?いい、つくし。つくしがあの人と結婚してくれれば、千恵子姉さんも安心してくれるはずよ?

と、いうことになり、叔母から言わせれば、好条件であり、纏まりかけたこの見合い話を破談にしようとするつくしの気持ちが理解出来ないはずだ。

そして、どんな言葉で断ろうかと考えていたが、一向に纏まらず、一番初めに思い付いた言葉は気持的にしっくりこないだっただけに、その言葉で断ろうとしていたが、やはり言葉として足らないような気がしていた。

「あの、坂本さん」

「はい」

「あの_」

つくしは、結局この期に及んでも、まだなんと言えばいいかと言葉を探していた。
やはり滋に言われた通り、単刀直入に言うべきなのだろうか。

「つくしさんはNYでどちらへ行かれましたか?」

「えっ?どちらへ…ですか?」

「ええ。NYで観光されたんですよね?」

どちらへ行かれたか。と問われても実はどこへも行ってはいない。
5番街を歩いているとき、司に車へ押し込まれ、それからカリブ海へ向かったのだ。
だがそんなことが言えるはずもなく、以前訪れたとき行った場所を思い出していた。

「メトロポリタン美術館とエンパイアステートビル、…自由の女神それから…ミュージカルを見ました。それから他にも色々…」

真面目に思い出しながら答えたが、その記憶は大学生の頃の話でどれも司と二人で出かけたものだ。

「ミュージカルですか。僕も演劇は好きですよ。それでつくしさんはどんなミュージカルをご覧になられたんですか?」

「えーっと…」

しまった。
つい最近見たばかりだと言うのにタイトルを忘れている方がおかしい。
だが見ていないのだから今何を上演しているかなんて知らなかった。
遠い昔、司と見たのは“キャッツ”だったが今でも上演しているのか分からない。
つくしはNYで見たミュージカルの看板を必死に思い出そうとしていた。

「お、“オペラ座の怪人”です!オペラ座の怪人を見たんです!」

「そうですか。楽しかったですか?」

「はい。とても!」

向うで読んだ雑誌にオペラ座の怪人についての記事が載っていたのを思い出した。

「いい席が取れましたか?」

「えっ?…ええ。友人が用意してくれた席で…中央の席でとてもいい席でした」

「そうですか。それはとてもラッキーでしたね?…ところでどの場面が印象的でしたか?」

「えっ?ええっと…」

見ていないのだから印象も何もない。
それに適当にはぐらかそうとしたが、まさか坂本が演劇を好きだとは知らなかった。
つくしはあの時読んだ雑誌の記事を思い出そうとした。だが、思い出せそうにない。
何しろあの記事は、セントクロイ島の司の別荘で何気なく捲っていた雑誌に載っていた記事であり、絢爛豪華な美術セットの写真に目が奪われただけで、ぼんやりと眺めていたようなものだった。

ただ、オペラ座の怪人は有名な作品であり、世界中で上演されている話しだけに、なんとなく知ってはいるが詳しくは知らない。何しろ今まで見たミュージカルと言えば、司と一緒に見たキャッツだけなのだから。こうなったら話しを合わせるしかない。


「僕はやはりシャンデリアが落ちてくるシーンでしょうか。あの場面は有名ですから」

「あ、私もあのシーンは印象的でした。事故にならなくてよかったですよね?どうして落ちて来たんでしょうね?ふ、古いシャンデリアだったんですね、きっと…」

と、つくしが口にした途端、坂本は少し表情を変えた。
だがその表情は決して見ている方が不快に思うような表情ではなく、どこか困ったような顔だ。

「…あのシーンは怪人の嫉妬なんです。古いから落ちて来たのではありません。主役の女性を愛している怪人が他の男とキスをしている女性に嫉妬をしてその怒りがシャンデリアを女性の上に落としたんですよ」

「そ、そうだったんですね。英語だったからよくわからなくて…でも舞台は楽しかったです。それに、落ちたシャンデリアもそんなにたいしたことなくて…」

つくしは「あっ」と思った。
何故そう思ったのか。
思いのほか自分の声が上ずってしまったからだ。
それはまさに緊張のサインであり、言い訳がましいことを言わんとするとき、そういった特徴が出る。

「…つくしさん、あなた英語は得意だと言ってましたよね?それから落ちたシャンデリアはたいしたものですよ。何しろ客席の真上に設置された巨大なシャンデリアが落ちてくるんですから初めてあの舞台を見た人は、皆さんその迫力に驚くんですよ?…とは言え、実際には途中で止まり、客席までは落ちては来ません」

坂本は、そこで一旦言葉を切った。
そして苦笑いし、言葉を継いだが、表情には物淋しいかげりが感じられた。

「つくしさん、見てもない舞台について話さなければならないようなことでもあったんですか?」

二人の間には重苦しい空気が流れ、暫く沈黙が続いていた。
どうやらつくしが口を開けば開くほど、坂本にとっては虚しく感じられるようだ。
つくしは、もうこれ以上嘘をつくのは止めようと思った。
それに彼は気付いている。つくしが嘘をついていることも。そしてこの見合いを断ろうとしていることを。

「あの…ごめんなさい」

「そうですか。否定せず謝るということは、嘘をつくような何かがあった、ということですね?」

そうだ。あった。
あったからつくしはこの場にこうしているのが苦しくなっていた。
世間には見合いをしたからといって、結婚の約束をしているわけではないからと、他の男性と寝てもいいという女性もいる。だがつくしはその考えには否定的だった。結婚を前提にするのが見合いなのだから、もしかするとその人と一生を遂げるかもしれないのだ。そんな相手がいながら他の男性とそういった関係になることが決していいことだとは思わなかった。

それはあくまでもつくしの倫理観であり、法の上に定められたものではないのだから、気にするなと言われればそれまでのことだが、つくしは自分の思いが抑えられなかったばかりに、自分自信が持つ倫理観を裏切り、司とそういった関係になっていた。
それがたとえ坂本が知らないことだとしても、自分の中ではやはり坂本に対し申し訳ない気持でいた。
それは司と4年間不倫関係にあった時とはまた別の後ろめたさだ。


「あの、坂本さん。申し訳ございません。今回のお見合いの話は‥‥お断りさせて下さい」

つくしは頭を下げ、坂本の言葉を待った。
平気で嘘をつく女は嫌いだと言われてもいい。
裏切られた気分だと言われてもいい。
実際裏切っているのだから。
ところが坂本は、落ち着いた声で口をきった。

「いいんです。仕方がありません。これは見合いで二人ともそれぞれ断る権利があるんですから、つくしさんが断ったところで僕は何も言えません。…つくしさん頭を上げて下さい」

事実を知らないから言える言葉だと思った。
いくら見合いとはいえ、断わるまでは相手に誠実な態度でいるべきだった。
こうして本人を目の前にすれば、益々そういった思いに囚われてしまっていた。
だがつくしが頭を上げたとき、坂本はあっさりとした表情で彼女を見ていた。

「はじめてあなたを見たとき、どこか淋しそうな人だと思いました。その淋しさの向うに見えるのは人恋しさだと感じました。だから僕がその淋しさを補えるならと思いましたが、どうやらその淋しさを埋める人が現れたようですね?」

大人の顔をした本当の大人というのは、坂本のような人のことを言うのではないだろうか。
その顔は何かを達観しているように思えた。

「つくしさんは僕といる間、笑ったことはありませんでした。でもあなたの笑顔は素敵なんでしょうね。そしてその笑顔を引き出すことが出来る人がいる。そうですよね?」

つくしは何も言えなかった。
もしそうだと言えば、見合いをしながら別の男に心を動かしていたことになる。
それではあまりにも相手を傷つけるような気がした。だからただ黙って彼の話を聞くことしか出来なかった。

「本当に大事な物が見えたとき、人はそれを自らの手に欲しいと望むはずです。あなたはそれを見つけた_。つくしさん、僕のことは気にしないで下さい。これは見合いであり互いに対等な立場で臨んだはずですから。…まあ、僕としては残念としか言いようがないですが、こればかりは仕方がありません」

感情的になることなく淡々と語られるその声は、年こそ、つくしより二つ上だが、実際はもう少し上のような気がした。
そしてその時、ふと思っていた。
隣の部署の課長である高山とよく似ていると。

「…じゃあ、僕はこれで失礼します。二人の未来のベクトルは別の方向を向いていたということで」

坂本は、ここは僕がと言い、伝票を手に取り立ち上がった。
そして再び頭を下げたつくしに声をかけた。

「お幸せに」と。













午前中の太陽はすでに空の高い位置にあり、ガラス窓を突き抜けた9月の陽射しはまだ暑かった。
目の前を過ぎて行く航空機は離陸予定の機体だが、羽田空港の滑走路はいつも混雑している状態だ。その影響か、まるで道路が渋滞するように航空機は列を成し、滑走する順番を待っていた。

空を飛ぶ航空機の姿はカッコいいと思うが、大きな翼を持ちながら陸を走る姿は飛べない鳥のようでどこか滑稽だ。

羽田からNYまでのフライト時間は13時間弱。
本日のビジネスクラスは満席だといった表示がされていた。

優先搭乗となるビジネスクラスの客は殆どがビジネスマンであり、専用ラウンジで待つ間も、スーツを着た大勢の人間がパソコンを開き世界を相手に仕事をしている姿があった。

つくしは、ラウンジの片隅の席に座り窓の外を眺めていた。
見えるのは、青い空の彼方から飛んできた機体。その機体が上空で陽射しを反射しながら数珠つなぎ状態で着陸の順番を待っている様子が見て取れた。

もう間もなくすると、つくしの乗る航空機への搭乗案内がアナウンスされるはずだ。
そしてこれから向かう街は、つくしが愛する人のいる街。


暫くは、東京の景色も見ることはないはずだ。
窓から見える景色と、そして上空から見る景色が見納めになるとは思わないが、しっかりと心に刻み、瞼に焼き付けようと思う。

二人はこの街で出会い、この街で愛することを学んだのだから。






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2017
08.30

時の撚り糸 29

新し未来に向かってスタートするためには、それぞれが自分のことを成し遂げてからでなければスタートは出来ないはずだ。

それが大人というものだから。






『気を付けて行って来い。俺はここで待ってる』

その言葉を胸にNYから帰国したつくしは、勤務している会社へ退職願いを提出したが、理由は一身上の都合と明記した。そして休暇を取ってもまだ有り余っている有給休暇をあて、出社最終日を前倒しすることを決めた。

つくしは3年前、勤務する中堅総合商社で主任職に抜擢され、部下もいた。
主任というのは、自分の仕事もしながら、部下の仕事に気を配るといったことを求められる立場になる。部下の仕事の進捗状況を把握し、問題点があれば解決する。主に部下に対しての指導が求められる立場だが、部下も上司もいるといった状態で中間管理職のような立場だ。

何故自分が主任に選ばれたのか、理由はなんとなくわかっていた。
34歳で独身。社内の噂によれば男はいない。この先結婚する気はないはずだ。それなら家庭生活に時間を取られることなく働いてくれるはずだ。会社の思惑はそんなものだろうと初めから分かっていた。何しろつくしと同期だった女性は、結婚退職した者が大半だからだ。

仕事が出来ない部下がいれば、フォローをしなければならないのは当然で、この休みの間もタブレット端末でメールの確認だけはしていた。そして、問題があればその都度メールを返していた。

そんな仕事熱心なつくしが突然会社を辞めるというのだ。
長年勤めて来た会社を辞める理由は一身上の都合と書かれているが、NY旅行から戻ったばかりの提出に、何かあったのかと訝る同僚もいた。

実際興味深げに聞いて来る者もいたが、つくしはそんな時決まってこう答えていた。
NYで未来を見つけたの、と。
それは曖昧な言葉だが、それ以上言葉にする必要はないと感じていた。
それでも、実年齢より若く見られる37歳の女がNYでいったい何を見つけたのかと聞いて来る者もいたが、やはり答えは決まっていた。

「未来よ。未来を見つけたの」






つくしは、自分でひそかに「制服」と呼んでいる仕事用スーツ姿で社内食堂にいた。
昼休みはここで持参した弁当を食べるか、日替わりランチを食べるのが彼女の昼休みの過ごし方となっていた。今日も窓際の席で持参した弁当を広げていた。

黙って箸を動かしていたが、頭の中は見合いの相手に話す内容について考えていた。
NY旅行から戻ったら連絡を下さいと言われ、会えば話すことはひとつしかないのだが、言葉を選んでいた。
滋に言わせれば、そんなものはっきりと言えばいいのよ、と言われるが、それが出来ないのがつくしの性格だ。





「牧野さん。その席、座ってもいいかしら?」

「…高山課長。…どうぞ…」

つくしは箸を握りしめたまま答えた。
日替わりランチのプレートを手に、声をかけて来たのは隣の部署の40代半ばの女性課長だ。つくしと同じ独身で家族は猫だけだと聞いていた。
直接的な仕事の繋がりはないが、同じフロアにいることから何度か話しをしたことがあった。
彼女は、さあっさりとした性格と言われ、物事に強いこだわりを持つ人間ではないが、強いリーダーシップで部下を引っ張っていく人間だ。タイプで言えば、司の姉である椿に似ている。とつくしは思っていた。

どんな上司の元で働くかは会社員にとっては重要で、部下泣かせな上司もいるが、椿のような上司なら仕事もしやすいはずだ。実際彼女の部署は皆覇気があり、仕事に対し前向きだ。
上司に恵まれれば仕事の業績も伸びると言われているが、まさにその通りだと感じていた。


「ねえ、退職するって聞いたんだけど、本当?」

誰かが会社を辞める。
そんな話は伝わるのが早い。
どうして辞めるのか。それが誰もが興味を示すことだが、つくしも他の退職希望者が書くのと同じ、一身上の都合と書いていたが、その言葉が一番興味を引くことだということを、退職者は身をもって知ることになる。

「はい。来月末で退職することになりました」

「…そう。聞くところによるとNYで未来を見つけたとか?」

既に隣の部署の課長にまでそんな話が伝わっているとなると、恐らくつくしのいるフロア全ての人間が知っているはずだ。
37歳の中年女が何を血迷ったかNYで未来を見つけたなど言っていること自体がおかしいと。けれど、つくしは何を言われようと構わなかった。

「遠い昔に掴みたかったものが見つかったんです」

遠い昔、一度は掴んだ手。だが離すことを決めた手があった。
そしてその手を再び掴んだ。

「羨ましいわね。じゃあ退職したら向うへ行くのかしら?」

「はい」




『はい』

この言葉が言えるようになるまで20年という長い時間がかかってしまったことは、誰も知らない。それはもちろん、つくしが道明寺財閥の後継者である司と高校、大学、そして彼が結婚していた4年間も含め足かけ11年に渡って交際していたことも知らないはずだ。そしてその後、全く連絡を取ることがなかった9年間という時間が二人の間に横たわっていたことも。

「勿体ないわね、あなたみたいな優秀な女性が辞めるなんて。あなたならこれから先、昇進して行くことは間違いないはずよ」

高山は確信を込め言った。
つくしの勤務する会社の女性管理職は少なく、高山は頭もいいが、女性としての心配りもでき、女性管理職の見本だと言われていた。

「…もしかして男性かしら?あなたがNYへ行くのは?向うで素敵な男性にでも会ったんじゃないの?女性がキャリアを捨てるなんて、自分の人生をかけてもいい男性に会ったと考えるのが妥当でしょ?」 

その質問は当たっていた。
細かいことにも気を配ることが出来る。そんな女性だからだろうか、彼女の口から出た言葉につくしは図星をつかれうろたえた。
だが漸く、好きな人の元に行くことが出来るのだ。
つくしは言葉に出すことはなかったが、心の中ではそうなんです。やっと好きな人の元へ行けるんです。と呟いていた。

「牧野さんっていつも現状だけで満足している。そんな風に見えたわ。でも、本当は違うのね?だって…その年で全てを捨ててNYへ行こうとするなんて凄いことよ。私にはとても出来ないわ。あら、ごめんなさいね。その年でなんて年齢のことを言って。私ね、牧野さんを見ていて思ったの。彼女も私と同じでいずれこのままこの会社に骨を埋める人なんだってね」

つくしもそうなるだろうと思っていた。
だが見合いをした。そしてそのタイミングで以前から滋に誘われていたNYへ旅をした。
そして東京に戻って来たつくしが目にしたのは、見慣れた景色だったが、もうすぐこの景色とも別れる時が来る。

「それにね、牧野さんってどこか淋しさを抱えているように見えたの・・。人間誰でも淋しさを抱えて生きていて、その淋しさと折り合いをつけて生きている人が殆どだけど、牧野さんはまさにそうだと思ってた」

つくしは心の中で頷いていた。
確かに今まではそうだったと。

「_でもこれからは違うのね?」

「はい。これからは違います」

今なら自信を持って言える。違いますの言葉。
あと1時間しか会う時間は無い。そんな言葉を聞くことも無ければ次にいつ会えるのかと考えることもない。

「羨ましいわ。牧野さんが。なんだか今のあなたは輝いて見えるもの。NYで見つけたものは、あなたに輝きを与えてくれたみたいね?」

高山はそこまで言うと、頭を屈め小声になった。

「それからその時計。牧野さんに輝きを与えた人からの贈り物でしょ?ダメよ、否定しても。その時計、いくらこの会社の給料がいいからってそう簡単に買えるものじゃないもの。一見して地味に見えるけど、相当するわよ。こう見えても私、時計にはうるさいの。だからすぐに目が行ったわ」

ひそひそ声で言われ、つくしは時計に目を落した。
左手首に嵌められた時計は一見して派手さはなく地味だ。だが高いものだということは理解している。何しろ司がプレゼントしてくれたものだ。

NYを発つ前日贈られた時計。結婚の約束をしたのだから、婚約指輪も贈られたが、まさか仕事に大きなダイヤの指輪を嵌めて行くわけにもいかず、それなら時計ならいつも嵌めている物だからいいだろうといって贈られた。

「それに男性が女性に時計を贈るのは、一緒の時間を共有したいって意味があるわ。それから時計を贈る男性は独占欲が強い人。つまり嫉妬心も強い人。でも、裏返せば誠実な人よ。違うかしら?」

当たっている。
ズバリと言うか、まさにその通りだ。
独占欲も嫉妬心も強いが、つくしに対してはいつも誠実な人間だった。
迷うつくしに、俺を信じろといった言葉で引っ張って行く力強さと共に、優しさも兼ね備えていた。

「あら、もうこんな時間!牧野さんも早くお昼食べなくちゃお昼休みが終っちゃうわよ?ごめんなさいね、私が興味本位に話しかけたばっかりに貴重な休み時間を無駄なおしゃべりに付き合わせちゃって」

つくしは気にしないで下さいと言ったが、慌てて食事を済ませ、フロアに戻り席に着いた。
そして、今日の夕方、見合い相手と会うことを考えると頭が痛くなっていた。
昼休みに相手に話す言葉を考えていたが、高山課長に話しかけられ、考える時間を失っていた。

その時の気分や感情ではなく、きちんと話をしよう。
そう思っていただけに、言葉不足になりはしないか。
ただでさえ、昔から他人への思いやりが過剰だと言われて来たつくしは、なるべく相手を傷つけることなく、このお話は無かったことにして下さい。とひと言言えばいいと分かっていても、それでも相手の心の将来を考えると思わず机に突っ伏していた。






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2017
08.29

時の撚り糸 28

確実な、約束された幸せな将来といったものがあるとしよう。
それはごく稀に用意された将来。
だが殆どの人間にはそんな未来はない。
だからその未来を己の手で掴み取ろうと努力する。
ただ、努力すれば必ず手に入るかと言えばそうではない。
そして、隣の芝生は青く見える。そんな言葉があるように、他人から見れば幸せだと思えることでも、当人にとってはそうではないこともある。


司がもし道明寺といった財閥の家に生まれて来なければ人生はどうなっていたか?
彼は今まで何度もそんなことを考えたことがあった。
どうして人生は自分の思うように行かないのか。
そんなことは誰もが考えることだが司の場合、彼の人生に掛かるのは、多くの人間の生活といったものがあった。

それは、巨大な企業グループを統率していく家に生まれた人間が背負わなければならない宿命だ。そんな宿命を受け入れ、共に生きていく人を見つけることが出来たのは幸せなことだと言える。だが、一度二人は別れを決めた。それは哀しい別れだった。

けれど二人は今、間違いなく幸せだ。
長い間一緒に過ごすことが出来なかったが、これから先、ずっと一緒に過ごすことが出来るはずだ。

だがその前に、つくしがしなければならないことは、見合い相手に断りを入れることだ。






忙しいはずの司は、東京へ戻るつくしを空港まで見送りに来ていた。
彼はジェットで送らせると言ったが、帰りの航空券はあるんだし、自分ひとりの為に片道1千万円もかかるようなジェットを飛ばすなんて勿体ないとつくしは断った。
だが司はこの場所から見送りたくはなかった。プライベートジェットなら機内まで一緒に入っていけるが、民間機はセキュリティチェックや出国審査のためゲートの前で早々に別れなければならないからだ。そして遠い昔のことを思い出していた。


「ここでおまえを見送るのは3度目だが、前の2度はどっちもいい気はしなかったな」

1度目は高校生の頃、司を追いかけ、ひとりこの街へ来たとき、約束は守ってね、ああ守る、といった言葉が交わされたことがあった。そして2度目は大学生の頃、遠距離恋愛となった司に会うため訪れたときだ。

「だから言ったじゃない。見送るのも見送られるのも辛いから来なくいいからって」

「そんなことが出来るわけねぇだろ。それとも何か?婚約者の見送りが要らねぇって…まさかおまえは俺のことを愛してねぇのか?」

「あのね、そんなことあるわけないじゃない。…もう、どうしてそんなこと言うのよ?そんな訳ないでしょ?大人だと思ったら子供みたいなこと言うんだから」

つくしがそんな事を言ったのには理由があった。それというのも、彼女と恋人同士に戻り、時間が経てば経つほど年齢を逆行させ、まるで20代の若者が口にしそうなことを言うからだ。
だが司にしてみれば、25歳で別の女性と結婚し、それから付き合った4年間は、そういった軽口が叩けるような雰囲気とは言えなかったのだから、本来ならあの頃感じたかった想いを口にしたいと思うのは当然だ。
そして司のその態度は、男という生き物は、大人になっても少年のような心を持つと言われているそのものを表しているように感じられた。


「それにやっとひと前で堂々睦み合えるってのに、何を遠慮する必要がある?」

「だから、ひ、ひと前で睦み合うなんて、そんなこと出来ないわよ!」

「…ったくおまえは相変わらずかわいくねぇ口を叩く女だな…」


言葉使いだけは大人の表現だが、要はひと前でイチャイチャしたいといった意味だ。
だがそんなこと言われたところで元来恥ずかしがり屋のつくしに出来るはずがない。
だがここはアメリカだ。そして空港だ。
出会いと別れの場である空港では、あたり前のように繰り返されるキスとハグ。
司が求めているのは、まさにそれだ。
そしてこの国ではその光景を誰も気に留めることはないのだから、司にしてみれば、何を今更恥ずかしがってんだと言いたくもなるはずだ。


つくしは、不吉な予感がした。
それは司が黙りこんだと思った途端、口角を上げニヤッと笑ったからだ。
その瞬間、司の頭の中で考えていることが手に取るように分かってしまった。
それは恐らく昨日の夜のことだ。つくしは、自分がベッドの上で彼にどう応えたか思い出し、頬が火照ってくるのを感じていた。

つくしと別れてからの9年間、女はいなかったといった男だが、愛し方は若かったあの頃以上に心得ているといった感じで、言葉にするとすれば濃厚で激しいのひと言に尽きる。

それにしても限度といったものがあるはずだ。
つくしは、司しか知らないのだから男の生理についてはよく分からないが、はっきり言ってひと晩中離してもらえないといった状況だ。だが司にしてみれば、離れていた9年間の想いと、これから東京に戻るつくしがまた再びこの街へ戻って来るまでの充電といった理由があった。そしてそんな司に翻弄されたつくしは、最後には自分の方から求めずにはいられない状況に追い込まれる…。といった3日間だった。


すると案の定、司の口から昨夜のことが語られ始めた。

「昨日の夜のことだが、俺たちがベッドの上でヤッたことは_」

司が言いかけた途端、つくしは司のスーツの襟を掴み引き寄せ、そして唇で司の唇を塞いでいた。と、同時につくしの背中に回された司の腕は、彼女を自らへとギュッと抱き寄せた。
そして暫くそのままでいたが、やがて司の唇がゆっくりと離れはしたが、力強い腕の中から離してはもらえずにいた。そんな状況につくしは、ぼーっと彼の顔を見つめていたが、傍から見ればそれはまさに恋人同士が別れを惜しんでいる状態だ。

司はにやりと笑った。

「やれば出来るじゃねぇか」

つくしは、そこで我に返った。司の言葉に翻弄され、自らキスをしていたということを。
だが嫌ではなかった。ただ、ひと前での行為が恥ずかしかっただけだ。
だが司は欲しいと思ったものは諦めない人間だ。
だから彼女が東京に戻ってしまう前に彼女の唇が欲しかった。
次にこの街へ戻ってくるまでその唇の柔らかさを忘れないため、彼女の身体の柔らかさを忘れないため、その甘い匂いを忘れないため抱きしめてキスをした。そしてその望みが叶ったことに満足していた。


「気を付けて行って来い。俺はこの街で待ってる」

それは過去2度彼女がこの街を訪れたとき、言えなかった言葉。
あの頃は未熟だった二人がいた。
だが、遠い日の思い出はそのままに、今は迷うことなくはっきりと口にすることが出来る。


_待っていると。

潔く言えるその言葉。



彼女が自分と一緒にいることを選んでくれたこの街へ戻ってくるのを待つ。
それは司を知る人間なら彼のその行動を訝しがるはずだ。何しろ彼は獲物を狩る側の人間であり、待つといった行為は似合わないと思われているからだ。だが高校生の頃、彼はつくしの意思を尊重し待ったことがある。彼女のためなら幾らでも待つことが出来た男がいた。

だが実の所、司もつくしと一緒に東京へ行きたかった。そして彼女に関わるややこしい問題があるのなら、自分の力を使い解決したかった。
しかし司は待たなければならなかった。

それは彼女が東京に来る司を待った4年間何を思い何を感じていたか知っていたからだ。辛い思いをさせた4年間だった。愛人と呼ばれる立場になれば、会いたいと言った言葉が言えるはずもなく、今度いつ会えるのと聞くことをすれば、自分が辛いだけ。そんな思いを4年間もさせたのだ。だから今度は彼女がNYへ戻って来るまでの時間、司はこの街で待たなければならないのだ。しかし司が待つ時間など、彼女がただ待つことをした4年間に比べればほんの一時だ。
だがたとえ短い時間だとしても、司は彼女があの頃感じた思いを味合わうべきだ。

愛しい人が自分の元を訪れてくれることを待った彼女のように。

だが巡り巡った季節がやっと二人が一緒にいることを許してくれた。
9年という季節を繋ぎ今がある。
これから二人で繋いでいく季節は秋のNYから始まるはずだ。



司は、振り返り手を振ったつくしが、セキュリティチェック場の奥へと消えて行く姿を見送った。

そしてひとり呟いていた。

「・・・つくし、早く戻って来いよ…」と。

司は、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっとその場に立っていた。




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2017
08.28

時の撚り糸 27

世間では道明寺司のことを危険な略奪者と思っているかもしれないが、実際その通りだ。
だから今では彼を怒らすことは、どんな企業にとっても得策ではない。
そんな男が母親の楓から告げられたのは、司とつくしの結婚を期に経営トップの座を譲るという言葉だ。

最高経営責任者の地位を息子に譲るといった世襲が良しとされるかと言えば、いずれそうなることは、彼が道明寺HDの経営を立て直した時から暗黙の了解があったのだから、取締役会で反対の意見が出ることもなく了承されていた。
だがそれは、司の両肩に今以上に大きな責任が掛かることになるのだが、彼が本当に欲しかった人が傍にいてくれるなら、どんなことでも成し遂げてみせるといった想いがあった。






カリブ海から戻ったつくしは、帰国するまでマンハッタンにある司のペントハウスに滞在することになった。
司は10日間の休暇のうち3日を残し、職務に戻ったが、後ろ髪を引かれる思いだと言われ、いい子で待ってろと言って抱きしめキスをした。
いい年をして子供呼ばわりするのは止めてと言ったが、男にとっていい子は愛する人のことだと言われれば、頬を染め黙るしかなかった。


つくしは、楓と再会してから妙に心が落ち着いていた。
それは、ほっとしているといった気持ちの表れだが、つくしにはしなければならないことが残されていた。

叔母に紹介された見合い相手に断りを入れる。

この旅から戻ればきちんとした返事をすると約束をしていたが、それが断りだとしても、見合いという形を取る限り、言われた方は黙って受け入れるしかないのだから深く気にする必要はないはずだ。
だが、考え方にもよるが、見合い相手だからこそ、短い間とはいえ結婚を前提に交際していたようなものだ。そんな相手を出来るだけ傷つけることなく、断わる方法はないかと考えてしまうのがつくしだ。だがまさか昔の恋人に再会し、その人と結婚することになったと言えるはずもなく、気持ち的にしっくりこないと言ってしまうのが一番いいような気がしていた。







「つくし!あたし本当に嬉しいわ!あんたと司がまた一緒に、それも結婚することに決めたなんて!いい?天変地異が起こったとしても絶対にあいつから離れちゃダメよ!」

NYに戻ったと滋に連絡を取り、ランチをすることになったのだが、事の顛末を報告すると、元来感情表現がはっきりとした彼女が喜ぶ様子は、まるで我が事のようで、感涙にむせぶと言ってもいいほどの喜びようだ。大袈裟と言えばそうなのだが、それが滋の性格なのだから今更だ。

「あ、でもあいつのことだからそんな心配はないか。むしろ離れろって言ってもしがみついて来るのは司の方かもね?それにしてもあんた達ってもしかしたら南の島とか船旅とかって昔を踏襲するわけじゃないけど、そのシュチュエーションに燃えるんじゃない?」

滋はいつもと同じ陽気な口調で話しながら、ナイフとフォークを動かしていた。
そしてグラスを口元へと運び、ワインをひと口飲んだ。

「ねえ?ところで例のお見合い相手。日本に帰ったら断るんでしょ?相手の人、二つ上の建築設計士だっけ?つくしの帰国を首を長くして待ってるんだろうけど、フラれちゃうんだよね?なんだか可哀想な気もするわ。だって期待してると思うわよ、その人。でもつくしの運命の人じゃないからフラれても仕方ないのよね?」

「うん...相手の人には申し訳ないけど、断わるわ」

運命の人じゃない。
運命は変えられない、一度決められたことに対し忠実だとも言うが、そうでない場合もある。それは運命のいたずらと呼ばれるものだが、司とつくしの13年間は、運命のいたずらだった。

そして滋の言葉につくしは、胸に痛みを覚えていた。
首を長くして待っている、可哀想といった言葉もそうだが、間に立った叔母夫婦にも申し訳ない思いがしていた。こんなことならNYへ来る前に断っておけばよかったと思ったが、あの頃、まさか司と再び愛し合うようになるとは考えてもいなかった。

「ねえ、あたし彼氏と別れたところで今フリーだからさ、なんならあたしがその人引き受けようか?」

と言って滋は冗談交じりなのか笑っていたが、滋という女性は恋愛に関し、はっきりとした意見を持っていて、一瞬もしかすると本気なのではないかと思わされたが、つくしの困惑気味の表情に冗談だから!と言って笑っていた。
それにしても、つくしがNYに到着した時、まだ別れていなかったはずだと思い聞いた。

「滋さんやっぱり別れたの?」

「うん、そうなの。でもね、あたしもこれから本物の運命の人を探すことが出来るってことで王子様を探すつもりよ!」

と、言うなり店内にいる男たちの品定めを始めた。
滋はどんな大変なことがあっても、すぐ立ち直ることが出来ると言われていた。
それは、たとえ大型ダンプカーにはねられたとしても、直ぐに立ち直ってみせるわと言う位だ。その立ち直りの早さは、滋だから出来るのであって、つくしにはとてもではないが、真似が出来るといったものではなかった。

「ねえ見てつくし!あの人どう思う?あの人よ、ほら、一番向うのテーブルにいる人!こっち見てる人!同じアジア人だと思うけど、日本人かな?あたしね、年下でも構わないの。あたしよりも精神年齢が上の人なら全然問題ないわ」

そして海外での暮らしが長い彼女は自分がジロジロと見られたら、見返してやるわといった思考の持ち主で全く怯む様子はない。その態度は日本有数の資産家のお嬢様といった態度ではないかもしれないが、そんなことを気にするような彼女ではない。そしてバイタリティーに富んだ姿は高校生の頃から変わりはない。だがそんな滋の行動力のおかげで、つくしは司と再会し、共に気持ちを確かめ合うことが出来たのだ。だから滋には感謝の言葉しかない。

「あのね、滋さん。今回のこと、色々ありがとう」

「やだ、そんなのあたり前でしょ?あんた達、運命の恋人同士なんだから!今更そんな御礼なんて言わないでよ!あたしとつくしは親友なんだからそんなのあたり前でしょ?それにあんた達をくっつけることがあたしのライフワークみたいなものだったんだからね?それに_」

「あのね、滋さん聞いて欲しいの」

滋が話しを続けようとしたが、つくしの言葉が遮った。
そして滋は、つくしが真剣な表情をしていることに気付くと口を閉ざした。

「滋さん、あたしね、司と...道明寺と別れた後でお腹に赤ちゃんがいることが分かったの」

つくしは一旦言葉を切り、それから落ち着いた声で言葉を継いだ。

「でも産まれなかった。流産したの。ごめんね、滋さん、色々と心配してもらっていたのに、どうしても言えなかったの。もちろん道明寺も知らなかった。でも今回の旅行で話したの。一人で産んで育てようと思ってたって。それから_」

滋はテーブルの上に置かれていたつくしの手を取り、何を言うでもなく、その手を優しく握った。そしてつくしの顔を暫くじっと見つめ、それから口を開いた。

「いいよ。つくし。話さなくてもいいのよ。女同士だもん。あんたの気持ちは分かるから。
それにあたしに話さなかったことが悪いとは思わないで。いくら親友でも話したくないこともある...それはお互い様でしょ?話したくなければ話す必要はないし、どうしても聞いて欲しかったら話せばいい。無理に話せって言ったところで、気持ちの整理が出来ない状態で話しなんかしても、自分が苦しいだけだもの。でも司と会って話しをして気持ちの整理が出来たんでしょ?それならそれでいいじゃない。それに司のことだから、赤ちゃんのこと、一緒に哀しんでくれたんでしょ?あいつ、絶対泣いたはず。そうでしょ?」

滋は哀しい顔をしているつくしに向かってにっこりとしたが、すくに真面目な顔に戻り、心配そうな目でつくしを見つめた。

つくしは滋が心を痛めてくれたことを理解すると口を開いた。

「うん。一緒に泣いてくれた。あたしがひとりで病院にいたことも、赤ちゃんが失われてしまったことも哀しんでくれたわ」

「そっか、二人で哀しみを乗り越えることをしたのね?それならもう大丈夫よね?二人が赤ちゃんのことを一緒に哀しめたのなら、赤ちゃんもパパとママが哀しんでくれたって喜んでるはずよ?つくし。あんたたち結婚するんだからまた赤ちゃんが出来るわよ。ね?そうでしょ?」

つくしは頷きで滋の質問に答えを返した。

「そう。それならもう泣く必要なんてないじゃない。あんたにはこれから先、ずっと司が傍にいてくれるんだから何も心配することなんてないのよ、つくし?」

哀しい顔をしたままのつくしに、かける言葉は限られているはずだが、滋は難しい言葉を選ぶことなく、ごく簡単な言葉だったが、長い間持って行き場のない哀しみを抱えていたつくしにすれば、その言葉だけで十分だった。










「滋とのランチは楽しかったか?」

滋と別れたあと、つくしはペントハウスへ戻り、司の帰りを待っていた。
今夜はおまえの料理が食べたいと言われ、用意されていた材料で日本食を作っていた。
凝った料理は作れないし、腕前も昔と変わらないわよ、と言って司に言わせれば庶民が食べるような食事となったが、懐かしい味だな、美味いじゃないかこれ、と言いながら箸を運ぶ姿は昔と同じで、たとえそれが舌の肥えた男の世辞だとしても、つくしは嬉しかった。

「うん。それから色々ありがとうって言ってきた」

「あいつには世話になったからな」

司も次に滋に会えば、やはり同じような言葉を口にしているはずだ。

「...あのね、それから赤ちゃんのことも話したの」

司の箸の動きが止った。
つくしは躊躇いがちに口にしたが、果たして滋に話しをしても良かったのかといった想いに囚われた。司は二人の心だけに秘めておきたかったのではないか。滋に話す必要は無いと思っているのではないだろうか。

「...そうか。おまえが話したかったんなら話せばいい。あいつはおまえの事ならどんなことでもしてやりてぇって思ってる女だ。それに男の俺と違って女同士分かり合える部分もあるだろ?話せたことで少しでも気持ちが楽になれたならそれでいいんじゃねぇか?」

そのとおりだった。今まで滋に言わなかった、言えずにいたが話したことで、哀しみを分かち合ってくれた人が出来たことに、心の中が少し軽くなったような気がしていた。

「それで?帰国したら見合い相手に断りを入れて来るんだろうな?」

今の二人は同じ気持ちでいるのだから、見合い相手に嫉妬をする必要などないのだが、つくしが見合いをしたこと自体が気に入らないといった態度が感じられた。だが、その口調は嫉妬にしては優し過ぎ、眼差しから感じられるのは、おまえは俺を愛してるんだろ、といったニュアンスであり、その度合いは司の男としての自信が現れていた。


「勿論よ!」

つくしは目一杯力を込め言った。
二人が紆余曲折を経てやっと一緒になれる日が来たのだ。
最後のけじめを着けて来るのは、つくしの方となったが、見合い相手にははっきりと断りの意思を伝えると決めていた。そしてけじめを着けた後、勤務先へ退職願いを書き、定められた時間を過ごし、渡米すると決めていた。

司は、そんなつくしの意思を知っているはずだが、つくしは自分を見る司の不安そうな目を見逃しはしなかった。
それは遠い昔、まだ高校生の頃、あたしを信じて待っていて欲しい。と言ったつくしに向けられた表情と同じだ。
あの頃、二人の間には渡れない橋があると言われていた。その橋の向う側の世界、つまり司の世界とつくしの世界は決して交わることのない世界だと言われていた。

だが正反対な者ほど惹かれ合うというなら、それは二人のことだったのかもしれない。
子供のから贅沢に育った男と、赤貧な生活を送っていた女の立場の違い。オーダーメイドのタキシードを着こなし、パーティーに参加するような少年と、日々の暮らしを懸命に生きる少女。
だが二人は渡れないと言われた橋を渡り、乗り越え、互いの手を取った。そしてあの時、戻って来ねぇんじゃねぇかと思ったと言われ、力いっぱい抱きしめられていた。

「あたしを信じて待っていて」

「つくし、必ず戻って来いよ?」

司は、つくしの真剣な表情にあの時と同じ言葉を返していた。
そして、つくしの言葉にあん時と同じだな、と苦笑した男は、二人の間に在った渡れないと言われていた橋を渡った日のことを思い出していた。


「今のは冗談だ。おまえが戻って来ねぇなんて思ってねぇよ。気を付けて行って来い。俺はここで待ってる」

その声の響きは、言葉そのものと同じくらいつくしが他の男に心を奪われることはないといった確信が込められていたが、静かで落ち着いた言い方だ。
そしてそれは、彼女の言葉を信じているといった想いが感じられ、かつて二人の間にあった純粋な恋といったものを感じさせた。

だがそれは二人にしか分からないことだ。
司がつくしに惹かれたのも、つくしが司を好きになったのも他の誰かに分かってもらう必要などない。そして恋というものは、そういったものだ。

そして今も二人の間には、他人には分からない二人だけの情熱が確かに存在していた。





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2017
08.26

時の撚り糸 26

道明寺楓は長い間道明寺財閥の頂点に立ち、攻城を計画すれば必ず相手の城を落すと言われていた。だがその楓も随分と年を取ったように感じていた。それもそのはずだ。何しろ息子はもう間もなく40代になろうとすれば、楓が年を取るのも当然だ。

道明寺HDという大企業を率いる女性だが、夫が亡くなったとき、会社存続の危機を迎え、司の婚姻により危機を脱するも、その背後には楓を社長の座から追い落とそうとする陰謀があった。だがその危機を乗り越え、財閥のトップの立場に居続けてはいるが、楓も自分が年齢を重ねるにつれ、息子である司の気持ちを慮っていた。

楓には楓の論法といったものがあったが、それは強引な論法を押し通すことが多かった。
そして息子を財閥の駒として使うことが悪いと思わなかったのは、牧野つくしに出会う前の話だ。

ひとりの少女との出会いが息子を変え、そして楓の気持ちを動かしたのは事実だ。
それは、駆け引きも打算もない愛情といったものだ。牧野つくしという少女に出会う前、息子の傍にいたのは、財閥の甘い汁を吸おうとする人間ばかりで、司という男としての評価は二の次といった状態であり、いつの頃からか、おもねる、へつらう人間ばかりを従え、傍若無人な振る舞いをする人間へと成長していた。

勿論、母親である楓自身が息子の傍にいてやることが出来なかったことが、人としての人格を危ういものにしたことも認めている。だがそんな息子を人間として立ち直らせることをしたのが彼女だ。

息子が財閥のため結婚した後、牧野つくしと暫く続いていたことは黙認していた。
頭で考えるのと、心で考えることは違うといったことも理解していた。
大学を卒業した息子が3年間付き合った後、不倫相手と呼ばれる立場となった牧野つくしと4年間交際を続け、破局をしたという一連の流れは、決して嫌いで別れたのではない。
二人がそう決めた末の結論だと分かっていたが、それは恐らく牧野つくしの方が言い出したことだということも分かっていた。

牧野つくしと別れた息子は、自分の非力を悔やんでいた。
やがて財閥の経済状況が上向きになり、婚姻関係にあった女性との離婚を望んだが、司の妻となった娘は別れようとはせず、生活面の派手さばかりが目立つ人間だった。

そして9年の時を経て、再会した二人の間にあるのは、結ばれることがなかった遠い日の思い。司が突然休暇を取ることを決めた理由を聞かされたとき、ああ、やはり二人は離れることが出来ない運命にあるのかと、楓にしては妙な意識に囚われていた。

会ってみたい。
牧野つくしに。

そう思わせるのは、やはり息子には幸せになって欲しいといった思いがあるからだ。
そして人間は人生の末路が近づいて来たとき、心残りとなるようなことは避けたい思いがあるはずだ。今の楓を突き動かすのは、まさにその思いだ。









司に掛かって来た電話は、楓が牧野つくしと会いたいと告げていた。
セントクロイ島での休暇は6日目で打ち切られたが、二人ともそのことに不満があるわけではない。互いがまた一緒に過ごす、そして結婚することを決めたのだから、もう十分だと感じていた。

つくしは、司から楓が会いたいと言っていると聞き、会いたいと望んだ。
そして感慨深い思いがしていた。
二人は結婚をすることを決めたのだ。
一度は二人の結婚を認めてくれた女性だが、今でも二人が結婚することを認めてくれるだろうか。そんな思いを抱えNYに戻り、ニュージャージーにある道明寺邸へと向かった。



リムジンが大きな門をくぐり、絵画のように見える庭を抜け、玄関アプローチへと横付けされたとき、つくしの脳裏に浮かんだのは、まだ高校生だった頃、司に会いたくてこの場所を訪ねた時のことだ。あの時は、司にすげなく追い返されていた。そんな想い出のあるNYの道明寺邸は、あの当時と変わりなく大理石の床と豪華なペルシャ絨毯が出迎えてくれた。


気品と豪華さを横目に案内されたのは、謁見の間ではないかと見紛う程立派な応接室。

「牧野さん。お久しぶりね。どうぞお掛けになって」

黒に近い紺色のスーツを着た楓は、司抜きで会いたいと言い、つくしを待っていた。

「大変ご無沙汰しております」

果たしてその言葉が適切なのかと言われれば、どうなのか?
だがその言葉以外思いつかなかった。そしてつくしもいい年だが、正面に腰を降ろした道明寺楓も随分と年を取ったと感じていた。何しろこうして会うのは14年前、司との結婚の許しを得たとき以来だ。

司の母親である楓が、息子が結婚していた間の4年間、つくしと会い続けていたことは当然知っていたはずだ。だが何も言われることは無かった。それは二人の関係を黙認していたということだが、つくしとしては、やはりどこか後ろめたい気持ちがあったのは事実だ。

「あなた、そんなに緊張しなくてもいいのよ?」

そう言われても、はいわかりましたと気が抜けるはずもなく、やはり初めて会った時のように緊張していた。
言葉ありのままを言えば、元恋人だが不倫と呼ばれる関係にいた女を、母親としてはどう思っているのか。世間に知られなかったから黙認されていたのではないか。もし世間に知られていれば、財閥の跡取りである息子のダメージとなるのではないかと思ったのか。それとも彼らのような世界では、愛人と呼ばれる女がいるのはあたり前なのか。
楓の口から語られるのは、いったいなんなのか?
つくしは息を詰めていた。

「ご両親のことは残念だったわね」

楓は、つくしの両親へのお悔やみと言える言葉を述べた。

「あなたのご両親はとても正直な人たちだったわ」

どこの世界でも故人を悪く言うことはタブーとされており、楓の言葉はつくしの両親への最大級の弔辞だ。
そして思わぬ言葉をかけられ、つくしは礼を言った。
だがそこから先の言葉が口をつくことはなく、楓の言葉を待っていた。

「牧野さん。司と結婚するそうね?」

一度は許された二人の結婚だ。
楓の言葉に刺々しさは感じられなかったが、そこにいるのはありふれた女ではない。年を取っていたとしても、かつて鉄の女と言われ経済界の中心にいた女性だ。あの頃は許された二人の結婚だったが、あれから14年も経ったのだ。常識的な人間なら、考えも変わっているかもしれないと思うのが恐らく普通だろう。けれど、つくしは自分の気持ちを正直に伝えた。

「はい。そのつもりです」

「そう。それで?」

「え?」

「あなた司と結婚するのよね?」

つくしは、楓の発言に敏感になるあまり、確認とも言える言葉をどう捉えたらいいのかと考えていた。

「牧野さん?あなた司と結婚するのよね?」

何度も言わせないで頂戴といったニュアンスが含まれるその言葉は、つくしに応えを求めた。

「はい。そのつもりです」

と堂々と答え、楓の表情を窺っていたが、やはり昔と同じで表情を読むことが出来ずにいた。

「そう。そらなら早くしなくてはならないわね。どうせ司の事です。すぐにでも入籍を済ませたいと思っているはずよ?違うかしら?」

その問は、まさにその通りだ。
先に入籍を済ませ、それから式を挙げればいいと言われ、NYへ戻る機内には婚姻届が用意されていた。

「はい。司さんはNYへ戻る途中の機内に婚姻届を用意していました。それにサインしろと言いましたが犬や猫じゃありませんから、わたしはお母様にお話しをしないうちに勝手に物事を運ぶのは良くないと言ったんです」

「そうね、犬や猫ならお構いなしでしょうけど、あなた達は人間ですからね。やはりあなたは司とは違ってきちんと考えているようね?」

楓の言葉は、男という生き物は理性で欲望を追いやることが苦手と言われるのは当然だといった口調だ。

「牧野さん。いえ、つくしさん。あなたもよくご存じだと思うけど、わたくしは言葉に出す時はストレート過ぎることがあるわ。それでも言葉にすることが物事を伝える上で一番大切よ。あなたも高校生の頃は、わたくしに向かってはっきりと言って来たわ。今は大人になった分、遠慮といったものがあるでしょうけど、自分の望みは口にしなければ伝わらないわ」

確かにその通りだ。
だが今のつくしは、頭の中を無数の言葉が飛び交ってはいても、何故か口に出せずにいた。

「だからわたくしは、あなたの意思を確認したいの。司は休暇に入る前にあなたのことを伝えて来たわ。ようやく離婚が成立し、晴れて自由の身になれた。あなたと結婚したいってね?あの子のことだから、強引に物事を進めようとすることもあるわ。それは母親として十分理解をしているつもりよ。何しろわたくしの子供ですもの。だからわたくしは、あなたの想いを確かめたかったの」

真剣な眼差しは、我が子の幸せを願う母親の瞳だ。
そしてその瞳は司とよく似ていた。

「これからはあの子の自由を尊重するつもりよ。今の世の中結婚が個人の自由で許されるのが当たり前だけど司にはそれが許されなかったわ。それはあなたとの結婚よ。つくしさん、あなた、わたくしに変な遠慮をすることはないわ。これから先、あの子を支えてやって欲しいの。それがあなたの仕事であり妻としての役目よ?」

『あの子を支えて欲しい』
それは、14年前と同じ言葉。
そして人間誰にも言える言葉。
どんなに強いと言われる人間でもひとりでは生きて行けない。

「わたくしの話はこれでおしまい。いいわよ。司の傍に行きなさい。今頃心配して煙草の本数が増えているわね?あの子ね、例の女と結婚してから煙草の本数が増えたわ。そうだわ。あの子に煙草を止めさせることもあなたの仕事ね?そうなさい。これからの人生二人で生きていくなら健康が大切よ。いいわね?つくしさん」





今までが満足した生き方ではなかったとしても、これから満足する事が大切。
あとになってああすれば良かったといった後悔をしないこと。
楓は最後にそう言って話を締めくくった。
人生の先輩である楓は、やはり物事の本質を見極める力を持っていた。




そしてドアの外で待っていたのは司だ。
胸の前で腕を組み、壁にもたれかかった姿勢でつくしが出て来るのを心待ちにしていた。

「おい、お袋から何か言われたか?」

「うんうん。何も言われなかったわ」

司には分からない女同士の会話があったが、彼に話す必要はない。
息子が幾つになろうが母親にとっては子供であることは変わりがないといったことを。
そして親の愛情といったものが、必ずしも直接的に子供に伝わることがないということも。
楓という女性は、昔から愛情表現が希薄だと言われていたが、楓の中にも母親の愛といったものが十分にあることは知っていた。それは司が刺され意識不明の状態に置かれたとき、NYから駆け付けて来たとき感じていた。

「何も言われなかったなんてことはねぇはずだ。何か言われたんだろ?」

「うん。健康に気を付けて煙草を減らせって」

「煙草か・・。確かに昔に比べれば本数が増えたのは確かだ」
だが司が聞きたかったのはそんな話ではない。
「それでどうなんだ?」

司の目が応えを要求するように細くなった。

「え?何が?」

つくしは司が聞きたいことを分かってはいたが、とぼけてみせた。
そんなつくしに対し、もどかしげに息を吐いた司は、いいから早く話せと言った。
つくしは少し迷ったふりをしたが、司の余りにも真剣な目に真顔になり言った。

「二人で幸せになりなさいって」

司はたった今、つくしの口から出た言葉に、小さな身体をギュッと抱きしめた。





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2017
08.25

時の撚り糸 25

誰もが愛する人は必要だ。
人生は旅だと言われるが、そのパートナーとして求めたのは、今もあの頃と変わらぬどこか少年らしさを残した男。
9年前手を離してしまった人は、強いリーダーシップで多くの人間を引っ張っていく力を持ち、多くの人を惹き付ける力がある。そして行動力といったものを持っていた。そしてその行動力が如何なく発揮されるのは、つくしに対し思いが募ったときだ。そんな行動力が成し得た今回の旅は、二人の人生のスタートとなる旅。
二人とも29歳と28歳には戻れないのだから、この旅が二人の人生の門出だ。








同じページばかりぼんやりと眺めているのは、二人が結婚をすることにまだどこか実感が湧かないからだ。
手元にある雑誌は、カリブ海観光について書かれているが、書かれていることが頭に入ることもなく、目の前に置かれているだけだ。

つくしは、物事の急激な変化といったものに付いて行くことが苦手だ。
特に司といると、その傾向が顕著だ。生き急いでいるわけではないが、二人はもうすぐ40代を迎える。司にしてみれば急ぐなと言った方が無理なのかもしれないが、プロポーズを受け、腕の中に抱きしめられ、それから自制心の一部を無くした男に抱き上げられ、朝食の代わりにつくしが食べたいと言われ、ベッドへと降ろされるとそのまま愛し合っていた。

それは前夜の行為とはまた別の意味があった。
前夜の行為は産まれて来ることがなかった赤ん坊に対しての想いがあった。
だが結婚を承知してからの行為は、これから歩んでいく二人の未来を確かめるための行為で見えない優しさといったものが感じられた。

何があっても俺が守ってやるから。
そんな言葉が囁かれ、これから二人で同じ時を生きて行こうと言われた。
そして涙の兆候が見られれば、瞼に唇を当て、零れ落ちそうになる涙を唇で掬っていた。

つくしは若かった頃、手が付けられないほど意地っ張りだと言われたが、意地を張るのは遠い昔に止めていた。二人で幸せになりたい。今はその想いだけがあった。


ベッドの中でじっとつくしを見つめる瞳と、9年ぶりに感じたまだ剃られていない髭の感触が懐かしさを感じさせ、痛いよな、と聞かれたとき、首を横に振っていた。
それは9年ぶりに感じた身体の痛みと共に、もう忘れていた痛みだった。だがその痛みも心地よい痛み。そしてわざと髭を擦りつける行為が雄ライオンのマーキング行為だとしても、癖のある髪に指を差し入れ、頭を胸に掻き抱いていた。

そして歳月を経た分、力強さを増した顔は、30代後半から40代半ばが男として一番脂が乗っていると言われる年齢で、疑いようもないほどセクシーだ。そんな男がずっと自分を想っていてくれたことに、信じられない想いがしていた。そして感じたのは深い愛情。
ずっと愛していたという言葉は、つくしも同じだったのだから、二人が結婚することに迷いはない。だから見合いをした相手には、はっきりと断ると決めていた。






そしてあの日から2日が経っていた。
熱帯の朝の空気は清々しく、海から吹く風は爽やかだ。
つくしは、オレンジをもうひと切れ口に運んだ。
爽やかな甘みが口いっぱいに感じられたが、コーヒーでその甘さを流し込んだ。

テラスで朝食を取りながら、別荘の前に広がる海を眺めているが、海はどこまでも青く水平線は遥か彼方まで続いていた。遠くを大型の船が横切って行く姿を見たが、それ以外何も目にすることのない場所だ。この島の観光もこの2日間で終え、あとは思い出を踏襲して船でイカ釣りでもするかと言われ、思わず笑い出していた。

二人が初めてキスをしたのは、熱海の海に浮かぶクルーザーの上のハプニングであり、別に好き好んでしたキスではなかった。そしてあのとき、イカが何杯釣れるか競うことをしていたと思い出していた。

カリブ海でイカが釣れるとは思わないけど?と返したつくしに対し、イカはカリブでも釣れると言われたが、それはさておき、釣りをすることは集中力を高めると言われ、道明寺司という男が立派な釣り道具を仕立て、海の上で糸を垂れ、釣りをする姿を想像したとき、やはり笑ってしまっていた。

だがクルーザーがいつもマイアミに停泊しているといったことを思い出し、まさかとは思ったが本当に釣りをするのか聞いていた。なにしろフロリダはスポーツフィッシングの発祥の場であり、カジキマグロやキングフィッシュと呼ばれる大型の食用魚の宝庫だ。もしかすると、今の司には釣りという趣味があるのかもしれなかった。


「ねぇ。まさかあんた本当に釣りが好きなの?」

「ああ。運が良ければ釣ったばかりの魚が夕食に食えるぞ?つくし、おまえもやってみるか?釣り竿もリールもあるぞ?」

まさかカリブ海で釣りをしようと言われるとは思わなかったが、面白そうだと感じていた。

「でもあんたロクに休暇も取れなかったのに、よく釣りなんてしてる時間があったわね?」

「ビジネスだよ、ビジネス。こっちじゃ釣りの好きなビジネス界の大物も多い。それにフロリダに別荘があるなんて奴らはざらだ。現職の大統領だってそうだろ?ゴルフが好きな人間もいれば、釣りが好きな人間も多い。ビッグビジネスのきっかけは些細なモンだ。趣味が合えば、相手に親近感を覚えるもんだろ?だから俺にとっては釣りもビジネスツールのひとつだ」

「へぇ...そうなんだ」

つくしは妙なところで感心したが、高校生の頃のイカ釣りは冗談としても、やはり司が釣りをしている姿がどうもピンとこなかった。それなのに、彼の口から釣り竿だ、リールだといった言葉が出ること自体が不思議だったが、離れていた年数を考えればそういったこともあるのかと考えていた。

「おまえ、釣りをバカにしてるんじゃねぇだろうな?」

本気とも冗談とも感じられるその口調。

「べ、別にバカになんかしてないわよ?ただあんたのイメージとは随分とかけ離れてると思って」

つくしはそう言ってやんわりと否定した。

「...おまえなあ、俺のイメージって言うが、何をどう思ってんだか知らねぇけど俺は取り組むべきことは、マジに取り組んで来た。そうじゃなかったら会社はとっくの昔に潰れるか、他人のものになってたはずだ」

つくしはどこか曖昧な笑みを浮かべていたが、司の言葉にハッとした。
司が言いたいのは、政略結婚をしなければならなかった時のことだ。
したくはなかった結婚。そしてつくしとの別れ。あの頃、道明寺司が出来る精一杯のことをしたから今でも会社は彼ら一族のものだ。

「人間ってのはどうしようもない時もある。だけどそれを乗り越えなければ先は無い。今までの俺の人生ってのはアップダウンが激しい人生だった。その人生と折り合いをつけて生きて行くことも出来たかもしれねぇけど、俺は自分の人生を他人の手にゆだねることは望んじゃいねぇ。だから離婚をした今、自分の人生を取り戻しに来た。俺の人生はおまえと歩むことに決めていた。だから何年経とうがおまえの傍にたどり着くつもりでいた」

だが心のどこかには、その想いが叶えられないかもしれないといった部分もあった。
どんな強い人間も心に弱さを抱え、傷を抱えている。
強いと思われている人間も支えがなければ生きていくことが難しくなることもある。
そして一時的にその支えを失った男は、つくしが9年間どうしているのか調べなかった。

「釣りの話から反れちまったけど、とにかく、物事には真剣に取り組んどかねぇと、足元を掬われる羽目になる」

複雑な感情の中に見え隠れするのは、後悔と言う言葉。
あり得たかもしれない未来を失ってしまった後悔のはずだ。


そして朝食が終ろうとした頃、NYからお電話でございますと言われ、そんな電話が掛かってくるのは仕方がないことだと二人は頷きあっていた。だが、司が戻って来たとき、一瞬この休暇は今日で終わりではないかと思ったが、それはどうやら杞憂だった。

「心配するな。何でもねぇから。定時連絡みてぇなものだ」

副社長ともなると、休暇中とは言え、全く何の連絡も取らないといったことにはならないのは当然だ。司もそのことは理解していた。


そして司の口から語られた懐かしい人の名前。

「つくし、お袋がおまえに会いたいって言ってるんだがどうする?」






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2017
08.24

時の撚り糸 24

愛という言葉を初めて語ってから長い年月が過ぎたが、かけがえのない人はあれから変わることはなかった。
互いの昨日までは、今日から同じだと思いたい。
そしてもう一度ひとつの未来へ向かって歩いて欲しい。
これから先の運命に痛みが伴うとしても、二人が一緒なら乗り越えられるはずだ。

自分を責めることはよせと言った。
過去は鮮やかであることもあるが、産まれなかった赤ん坊のことは、こうして話しをしたことが供養となり、二人で忘れることがないようにすればいいはずだ。話しをするなとは決して言わない。言えるはずがない。話したくなればいつでも話せばいい。あの時、言えなかった言葉は幾らでも聞いてやるから。








司は目を開けた。
やわらげた照明が壁に掛けられた絵を照らしている様子が、彼が眠っている場所からでもぼんやりと確認することが出来た。
思わず時計を探したが、休暇中だということに探すことを止め、時間を気にすることを止めた。

目覚めた場所が船の中で、自分が裸で主寝室のベッドに寝ていることは分かっていた。
そして昨夜はつくしと9年ぶりに愛し合ったということも。だが隣に寝ているはずの女がいない。その時、どこかで物音がした。司はその音がした方向に目を向けたが、物音がしたのがバスルームだと分かり安心した。

改めて思えばここは船の上だ。仮に逃げ出そうとしたところで逃げることなど出来るはずがないのだから、慌てる必要はないはずだ。
それにつくしも逃げるつもりなどないのだから、これから二人で先のことを決めればいいはずだ。

それでも、自分のこの腕の中からいつの間にかいなくなっている女に腹を立てていた。
いや。腹を立てるといった言葉は間違いだ。腹など立ててはない。ただ、この腕の中からその存在が失われてしまった時のことを思い出していた。互いの腕の中で眠りに落ちたのは遠い昔だった。だが、あれから失われた柔らかな温もりを他の誰かに求めたことはなかった。
彼女以外愛せるはずもなく、彼女以外欲しくはないのだから。

9年ぶりの愛の交歓は、最後の一線を越えた瞬間といったものが感じられた。
そんなものは、とっくの昔に超えたはずだが、それでも感じたのは、9年ぶりの彼女の身体が、長い間男を受け入れてこなかった抵抗といったものが感じられたからだ。
司にだけ許された行為は、やはり彼だけのものであり、誰のものでもなかったことに、雄としての喜びを感じていた。




司は肘を折り、手で頭を支えた。
そして、つくしの頭が乗せられていた枕をぼんやりと見ていた。

『赤ん坊はどっちに似てたんだろうな』

思わず口をついて出た言葉に、真っ直ぐ司を見つめる瞳から溢れ出した涙を見たとき、もし取り戻せるなら二人の赤ん坊を取り戻したいといった気持ちでいた。
だから司はそうするつもりでいた。
二人で新しい命を創造すればいいはずだ。
おまえのためなら何でもしてやるといった男が、今まで果たせなかった約束を履行しようとすることを嫌だとは言わないはずだ。

司は暫くベッドの上でこれから何をすべきが考えていた。
二人は次のステージへと進むべきだ。
それはもちろん結婚してくれということだ。見合いをしたといったが、つくしは他の男と寝ながらまた別の男と結婚を考えるような女ではないからだ。



数分後、バスルームの扉が開き、バスローブに身を包んだつくしが出て来た。
それは、胸元をきっちりと合わせベルトを締めた姿。
ベッドの端へ座った姿勢でつくしを見つめる司は、その姿に今更だろと言いたいが、昔もそうだったと懐かしく思い出していた。
元来性に対して奥手と言われたのだ。妙なことで恥ずかしがるのは仕方がない。だがその変わりのないところが、司にしてみれば嬉しかった。そんな女をまじまじと見つめていれば、彼女は恥ずかしそうに笑った。

そんなにじろじろ見ないで。
ベッドの中でそんな言葉を言われたが、見つめられずにはいられない。そして案の定、彼女の口から昨日と同じような言葉が漏れた。

「....あのね、そんなにじろじろ見ないでくれる?」

そして司は、やはり同じセリフを返していた。

「9年ぶりだってのにじろじろ見なくてどうすんだよ?」

それは勿論本音だが、からかうのが楽しいということもあった。
だがそのからかいの言葉に含まれるのは、愛おしいといった気持ち。
そして彼女のどんな仕草でも見ていたいといった思いがそうさせる。

「だって、そんなに見られたら落ち着かないでしょ?それになんだかそんなにじっと見つめられると_」

「ハダカにされてるみたいって言いたいんだろ?けどな、今更だろ?」


そうだ今更だ。つくしとて生娘ではないのだ。
だがだからと言って、司の目の前を裸で歩き回ることなどしたことはない。
そして、付き合っていた頃、司が部屋の中を裸で歩き回る姿が恥ずかしく、何か着るようにといつも言っていた。

「それに隠しているから見たくなるんだろ?堂々としてれば見たいなんて思わねぇはずだ」

と、いう言葉も昔から言い続けていたが、司はそのたび笑い、つくしの着衣を冗談交じりに脱がそうとしたこともあった。それは、彼女に触れたい、触れていたいといった意識が働いていたからだ。だが、そんな司はつくしが嫌がることを強制したことはない。
裸で寝ることが苦手という彼女のため、最上級のシルクで作らせたドレッシングガウンをプレゼントしていた。そしてあの頃の二人は、結婚の夢を語り未来を語っていた。




つくしは、しょうがないわね、といった顔をして司を見た。その様子に司は笑わずにはいられなかった。そしてそんなつくしに向かって司は口を開いた。

「つくし、これからのことについて話し合わないか?」

その表情は真剣で心からの問いかけだ。

「俺は9年前、いや13年前、手に入れたかったものが欲しい」

司はつくしの目をじっと見つめた。
二人が再会してからもう何度目か分らないが、彼女も9年前別れた時のことを考えている、そして13年前のことを考えていると感じた。
本来なら結婚していたはずの二人。昨日の夜抱き合ったことで、はっきりと口に出さなかったが、つくしも同じ気持ちでいることを知った。それなら二人が結婚することに異論はないはずだ。


「俺はおまえを幸せにしたい。おまえには誰よりも幸せになって欲しい。俺とおまえが幸せのスタートを切るのに時間がかかっちまったけど、今からでも遅くはないはずだ」

司は、つくしの目を見つめ、彼女の心の奥を覗き込んでいた。
瞳を見れば、人間の感情の殆どを読み取ることが出来ると言われている。揺れ動く黒い瞳は、司の言葉を真剣に聞いていると感じられた。

「なあ。俺たち結婚しようぜ。約束してから随分と時間が流れちまったが、今も昔と変わらないほどお前を求めてる。....お前はどうなんだ?」

司は出来るだけ平静な物言いで、しかし率直に自分の気持ちを話し、沈黙が流れる中、応えを待った。そして、もし否定的な言葉が返されるなら、それを覆すつもりでいた。




つくしは胸がつまり、目頭が熱くなっていた。
それは、司と別れ、お腹の中に赤ん坊がいると分かったとき、ひとりぼっちでも産むと決めてはいたが、傍にいて欲しいと思っていた人からの心からの言葉だからだ。

「本当にあたしでもいいの?あたしはもう若くはないわ。こ、子供だって産めるかどうか分からないのよ?」

赤ちゃんを失ったとき、親として産んであげることが出来ず、自分の存在意義といったものが失われたような気になっていた。子供を産み育てることだけが人生ではないと分かっているが、それでも自分のお腹に宿った我が子を抱きたかった。
今のつくしの感情は大きな波に翻弄される小船のようにゆらゆらと揺れていた。言葉を探しているわけではないが、自分の口から滑り出るのはイエスなのかノーなのか。

「いいか。根本はそういった問題じゃねぇだろ?勿論子供は出来れば嬉しいにこしたことはない。けど子供は授かりものだ。それよりも俺は先ずお前が俺の傍にいてくれることが重要だ。二人が一緒にいることが大切だ。そう思わねぇか?今でも互いが互いを必要としているはずだ。そうだろ?...それに俺はこう思う。赤ん坊は、あの子にとってはあの時は産まれるべき時期じゃなかったんじゃないかってな」

最後に語られた言葉が本心ではなく慰めの言葉であることは、昨日の彼の態度からも分かるが、どこかひたむきな瞳といったものがあるなら、それは今の司の瞳ではないだろうか。
この瞬間を生きろ。欲しいものがあれば掴み取れといった表情は、俺の手を取れと言っていた。だがその瞳がフッと緩み、柔らかいものに変わった。たぐいまれなハンサムな男の微笑みは、どんな女でも虜にするはずだが、司がつくし以外の前でほほ笑んだことなどない。

「いつまでもグダグダ言ってねぇで俺の手を取れ。俺がおまえを幸せにしてやる。いや幸せにさせてくれ」

肝心なところでいつも優柔不断になるのは、昔も今も変わらないのだが、つくしは息を吸い込み、決意したような表情に変わった。

「本当にいいの?今のあたし達はあの頃と違うのよ?特にあんたは昔以上に責任のある立場よ?二人が生きている人生はあの頃とは違うはずよ?それに後継者だって必要になるはず。でも、あたしは、あたしが_」

司にはつくしが抱えていた哀しみが伝わってきた。
司も分け合ったあの哀しみが。


二人は互いの目を見ていたが、司がゆっくりと言い聞かせるように言った二人が一緒にいることが大切だの意味は通じたはずだ。そしてそれよりも少し優しく言葉を継いだ。

「お前は、お前のままでいればそれでいい。それともお前は他の誰かになりたいのか?そうじゃねぇだろ?昔も言ったが、お前はありのままのお前でいてくれたらそれでいい」

意地を張るのを止めた少女は大人になり、夢をみたはずだ。
だがその想いは叶えられず、ひとり哀しみの涙を流す日を迎えさせてしまっていた。
だが今はその涙を分け合ったはずだ。

「....あたしでいいの?」 

少し離れた場所に立つ女は、我慢強さばかりが目立つこともあったが、司は17歳のとき、そんなつくしに気が変になるほど惚れたのだ。そしてその想いは今も変わらない。

「本当にあたしでいいの?」

繰り返された言葉は涙ぐんでいたが、過去の痛みを抱きしめたようですすり泣いたその声に司はベッドから立ち上がった。

「ああ。いいに決まってんだろ?おまえの他に誰がいる?」

そして、13年前望んだが、叶えることが出来なかった想いが遂げられる瞬間を実感するように司は腕を伸ばし、つくしをきつく抱きしめた。






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2017
08.22

Partiality 後編

Category: Partiality
ノックの音がした。
落ち着いた叩き方は男のもので、扉を開け入ってきたのは秘書の西田だった。
西田は司の影として仕えており、やはり彼も笑わない男と言われていた。

「副社長、そろそろお時間です」

「そうか。わかった。今行く」

司は腕に嵌められた時計を一瞥した。

「奥様は無事LAの椿様の所へ到着されましたのでご安心下さい」

長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、どこか場違いのような優雅な表情を浮かべ、それから西田に向かって言った。

「工事はこれからか?」

「はい。時間ですので始まっているはずです」

「そうか。ではその様子を少し見学して行こう」











時が流れ季節は移ろい夏を迎えていた。

そこは道明寺HD副社長である司の邸。
選ばれた人間だけが入ることを許される邸宅であり特別な場所。
敷地面積が約15万坪という広さの邸は、木立と高い塀に囲まれ広大な庭があり、とても都内の一等地にあるとは思えないほど森閑とし、今し方水を撒いたところなのか、陽炎がゆらめいているのが見えた。

そして広大な庭の中央には大きな池があり、多くの鯉が飼われていた。
だが、築庭に作られたその池とは別に、庭の片隅に水生植物が花をつける小さな池があった。
池は、司がつくしと結婚をした年に造られたものであり、出来て5年しか経っていない比較的新しい池だ。だがこれからその池を潰すことになっていた。


そこには、丁度この季節、晩春から秋にかけ水中から花茎を伸ばし、5センチほどの小さな黄色い花をつける『河骨(コウホネ)』が咲いていた。

川や池に多く見られるこの花は、睡蓮科の植物だが睡蓮のような派手さはなく、庭園の池で観賞用に栽培されることも多く、色鮮やかなピンクや紫色の睡蓮と共に、小さな黄色い花が池の一面を覆いつくす様子は、さながら極楽浄土の様相を呈していた。 

河骨という名前の由来は、水の底にある根茎が白くゴツゴツとして人の背骨のように見えることから「河」の「骨」とその名が付いているが、泥の中に埋まるように横たわった根を目にすることはない。


二人が結婚したきっかけは、雨に打たれたつくしが熱を出し、肺炎になりかけたことだ。
司はひとり暮らしの彼女を心配し、暫く邸で静養するようにと言った。
彼女はそこまでしてもらう理由はないと断ったが司はそれを許さなかった。
何故なら、彼は彼女の日常を自分のものにしたかったからだ。

司が優しい言葉と真摯な態度で女性と向き合う姿は、今まで女を好きになったことがないと言われていた男の態度とは思えぬほどで、その変わりように邸の人間は驚いた。
信じられないことだが、身体を揺すって笑うことなど無かった男が、彼女の前では笑っていた。
そして、司が女性を邸に住まわせるということがどういう意味を持つのか。
長年この邸に仕える老女は直ぐに理解した。
今まで自分の孫のように可愛がってきた男の背後に見えていたのは、暗い闇だと言われていた。
そんな男が女性を連れて来たのだ。男がその女性を欲していることは明らかだった。
老女は、男の喜びを無上の喜びにしている。だから老女は目を細め、喜んでその女性の世話をした。



人は信頼していた人間から裏切られたとき、そして身体が弱っているとき、自分に対し優しい言葉をかけ、気遣ってくれる人間に対し心を寄せる。傷つき弱った心は守られることを望む。そしてその優しさに心が揺れ始める。
やがて、なだらかな坂道をゆっくりと転がるように彼女の心が司に近づいて来たとき、彼はその心を優しく抱きしめていた。

だが、司は恋人に裏切られたつくしに慰めの言葉をかけながらも、心の中では別のことを彼女に呼び掛けていた。
これは偶然ではない。
これは運命だ。
おまえは俺のものになる運命だと。
そして、ひそやかな欲望の炎を燃やし、人生で最高の贈り物を手に入れていた。



丁度その頃、司の会社の海外事業部に勤務する男が中東で行方不明になっていた。
赴任地から帰国してはいたが、現地に女がいたという噂があり、再び渡航したのではないかと言われていた。そして調べてみれば、確かにその男名義のパスポートで出国した記録が残されており、やはりそうだと社内では言われていた。

中東といった国は複雑だ。部族と民族が複雑に入り組んだ国も多く、宗教的対立も多い。
外国人が迷い込めば二度と戻れないと言われる魔窟ともいえるような場所もある。
そんな国では、政治情勢の不安定さもあり、行方不明になれば探し出すのは容易ではないと言われており、どこか諦めに近いムードが漂っていた。
そして今ではその男のことは、忘れられた存在となっていた。








司は秘書を連れ池の前に立ち、水が排出されていく様子を眺めていた。

「西田。あの男はなんという名前だったか?」

「あの男_でございますか?」

「ああ。あの男だ。海外事業部のあの男だ」

「佐々木と申します」

「そんな名前だったか。あの男は」

司の黒い瞳の奥に不快感が浮かび、水面に鋭い視線を向けた。

「はい。中東で行方不明のまま5年が経ちましたが、恐らく見つかることはないと思われます」

そして西田は、池を見つめ続ける司に静かに言葉を継いだ。

「それにしても、この池に咲く河骨はつくし様のお気に入りでしたが潰すとなればもったいないような気もいたしますが」

「心配するな。俺がつくしを悲しませるようなことをすると思うか?帰国するまでには別の場所に同じような池を作らせる。河骨も移させる。来年の今頃には花を咲かせるようにさせる」

司は煙草を取り出し、長い指に挟み火をつけると、パチンと音を立て、ライターの蓋を閉じた。
それから煙を吐き出すまでの数秒間、聞こえてくるのは池の水を排出するポンプのモーター音。

「それよりタマはなんと言ってる?」

「はい。硬いものを砕き過ぎたそうでミキサーが壊れたと申しておりました」

「そうか。それなら今のものより上等なものを買ってやれ_但し、1台ではなく2台だ。これから砕いてもらうものが増えるからな」

司は池の畔に立ったまま、じっと水面を見つめていたが、その目は気に入らない人間を見下す冷たい目に似ていた。




世の中に愚かな犯罪行為に走る者がいるが、その殆どが罰を受ける。
だが罰を受けない人間もいる。
なぜならこの世には、絶対的な力といったものが存在するからだ。
それは権力というものだ。
だが並大抵の人間が権力を持ったところで、その権力に振り回されるだけだ。
権力は使う人間を選び、権力を持つにふさわしい人間は罰を受けることはない。
そして権力を持つ人間は、どんな勝負にも勝ち続けると決まっている。
それが世の中の暗黙のルールだ。

そして、人に飼われる動物はいつか死ぬ運命にある。
それは、飼い主の判断によって生死が早まるということだ。
それが遅いか早いかは、飼われる人間次第だ。
佐々木という男は司の会社に飼われていた人間だ。
だから、彼の命は司の手の中にあった。




排水ポンプの音が変わり、池の底が見えて来た。
そして河骨の白い根茎が泥の中を縦横に走っている様子が見て取れた。
人間の背骨のように見える白い根茎。
だがその中に明らかに植物とは思えない状態のものがあった。



司の顔に無表情が広がった。
彼は黙ったまま、火のついた煙草を池の中に投げ込むと、ジュと音を立て火が消えた。
罪悪感といったものがあるとすれば、それはいったい何なのか。
それは人によって違うはずだ。



河骨の花言葉は『秘められた愛情』
それは“がく”が花弁やめしべを大切に守る花だからだ。
司のつくしに対しての想いはまさにこの花言葉が当てはまる。
自分が“がく”となり彼女を守るからだ。
そしてもう一つの花言葉は『崇高』
黄色い小さな花を一輪だけつける河骨は、まさにつくしのように凛とした美しさがあった。
それは他に比べるものがないといった司の中の美学的要素と言える気高さだ。




司は欲しかったものを手に入れた。

今、彼の頭の中にあるのは彼女のこと。
彼女の笑顔が見れるならそれでいい。
無表情であっても、彼の心はそうではない。
司が心からほほ笑むのは彼女の前だけ。


司は池に向かって微笑した。





*Partiality= 偏愛 

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2017
08.21

Partiality 前編

Category: Partiality
こちらのお話は、黒い坊っちゃんのお話です。
繊細なお心をお持ちの方、またはそういった彼を受け付けない方はお控え下さい。
*************************************










神が与えた最上の美を持つ男がいる。

アスファルトから透明な炎が立ち昇り、その向うにいるのは、強烈な魅力を持つ男。
静謐(せいひつ)さと妖艶さを合わせ持ち、声は低く視線は他を寄せ付けない厳しさを持つ。そして、その骨格が示すように頬から顎にかけてのラインは硬質な美しさがあり、横顔はミケランジェロの手によって造られた青年のような荘厳さを感じさせた。

だがアスファルトの炎とは別の世界がそこにあった。
シャツの下の肌は氷のように冷たいのではないかと言われる男。
己の人生に不運などなく、他人の不運など気にしたことのない男。
そんな男の非情な唇がわずかに上がるのを見た人間は、背筋が寒く感じられるはずだ。
だが、男の薄い唇から紡ぎ出される言葉にも、時に愛しい人の名前を呟くことがある。

つくし__と。


そして、表面上の冷たさそのまま冷たい男と呼ばれる男も、鈍い色の炎が燃え立つ瞬間がある。

誰にも気づかれることがないその感情。


それを人は嫉妬と呼ぶ。











道明寺司という男は、冷たい美貌を持つ危険な男と言われ、笑わないと言われていた。
いつもダークスーツを身に纏い、声は低く、凄みを感じさせ、到底28歳とは思えないほど落ち着いていた。そして、強い力を秘め、圧倒的な力と威厳を感じさせる男は、望めば叶わないことは無いと言われていた。

彼は、その容姿だけでも女を惹き付けること間違いないのだが、それとはまた別に社会的な魅力といったものがあった。
それはどこかの小国の国家予算よりも多いと言われる個人資産持っていること。
そして道明寺家という財閥の長男であり代々続く由緒正しい家柄を持つ男だということ。
彼の容姿にこの魅力が加われば、結婚相手としては申し分がない。そんなことから誰もが彼の目に留まろう、声をかけてもらおうとした。そしてそれがたとえ一夜限りだとしても、彼に愛されたいと願う女は常に周りにいた。

だが司は、そんな女に興味を示さない。むしろそんな女は目障りでしかない。
女は醜い生き物であり、容姿や財産に飛びつくような女には反吐が出た。
そして醜い生き物である女は、自身の醜さに気付いていない。
とは言え、利用できることだけを利用すればいいと考えていた。事実、司がちょっと指を動かすだけで、いとも容易く彼の腕の中に堕ちていた。だがそれは、健康な男なら誰もがすることであり、相手がどんな女だろうが部屋を出れば忘れていた。





司が牧野つくしと出会ったのは、新規プロジェクトに関する最終的な支出総額とそれに対する収益率に関する会議の場だ。
道明寺HDと言えば、建設、不動産、金融、医薬品、化学など幅広い部門で高い利益を上げる企業グループだ。副社長である司は、普段そういった会議に顔を見せることがない。だがそんな男が姿を見せ、会議室の中を見回したとき、その場にいた人間は男女問わず身体を硬くし、椅子の上で身構えた。

周りの全てに緊張を与える存在である男の冷たい視線は、まさに見る者を凍らせる視線。
だが、その中で唯一彼の視線を冷静に受け止めたのが彼女、牧野つくしだ。

司はその姿に一瞬眉をひそめた。そしてその冷静さと、臆することなく彼の視線を受け止めた姿勢にどこか生意気な態度が感じられ、今まで自分の周りにいなかったタイプの女に興味を持った。

会議が始まれば、他の人間は彼に遠慮し、口答えなどしない。
なぜなら司の意見が間違っていることはないからだ。そして最終的にはそれが彼の会社の役員連中の総意となるからだ。
だが、真っ直ぐな視線を彼に向け、臆することなく意見する女に周囲は慌てた。
副社長であり次期社長の男は、その実力と権限は誰もが認めるものであり、逆らえば閑職へ追いやられる。もしくは、どこかへ飛ばされるといったことが目に見えていたからだ。

だからその場にいた誰もが思った。
恐らく次の会議に牧野つくしが出席することはないだろうと。
だが、司は口元に薄っすらと笑みを浮かべ彼女を見ていた。
敵に回せば恐ろしいと言われる男が垣間見せた笑み。
それは司が彼女を対等な相手として認めた瞬間だ。



司は今まで自分の周りにいなかったタイプの女に会うのが楽しみになっていた。
彼に対し逆らうべきではない、彼の目に留まりたいという人間ばかりの中、その大きな黒い瞳が欲に輝くこともなければ、彼を恐れることもない。そして彼女が生意気であればあるほど、興味を抱いた。
だがその生意気さは彼にとって心地の良い生意気さ。どこか片肘を張り懸命に生きているように感じられると同時に、いじらしさといったものが感じられた。
だがそれは仕事に対してだけ向けられ、彼個人に対してといったものではない。
それでも司は彼女と仕事するのが楽しかった。
牧野つくしに、数字に関する細かさを求め、必要な情報をすぐに出させるように命じ、資料を自分の手元へ届けさせるように命じ、自分とのミーティングをするよう命じた。

「これから食事でもしながら数字を詰めないか」

だが彼女は断った。

「先約があります」と。









司がメープルで車に乗り込もうとしたとき、少し離れた場所からこちらを見つめている牧野つくしの姿が目に入った。だが彼女の視線は、司ではなく入口に立つ男女に向けられていた。

雷雨となった夏の夕暮れ、退屈をいたずらに持て余していた司は、その光景を見つめ何を意味するかすぐに理解出来た。男女のうち女が男の腕に自らの腕を絡め、身体を押し付けている姿。そして男がそんな女にキスをしている姿を見れば、二人の関係を推し量ることは簡単だ。
それは、誰がどう見ても二人が男と女の関係以外の何ものでもないと言っていた。
相手の女は彼女より年下なのか。それとも年上なのか。どちらにしても美しく化粧をし、着衣は今流行りの服装をしていた。

雨の日に出歩くと、雨の匂いが身体に染み付くと言われている。
視界を狭めるほど激しい雨は、アスファルトに叩きつけるように降り続けていたが、司は傘もささず立ち尽くす彼女を見つめていた。雨に濡れるその姿は、雨が全てを洗い流してくれることを望んでいるように思えた。そしてその姿は、いつもの彼女ではなかった。



「牧野。どうした?こんなところで傘もささず何をしてる?」

つくしは突然目の前に現れた司に傘をさしかけられ、ぼんやりと彼を見上げた。
この状況が状況でなければ、恐らく軽口が返されたはずだ。
だが彼女は口を開かなかった。いや開くことが出来ないといった方がいいのかもしれない。
しかし、何か言わなければと思った彼女は口を開いた。

「....何でもありませんから」

その言葉の意味は気にしなくていいと言っているのか。
それとも構わないでくれと言っているのか。
いつもなら司と対等に渡り合おうとする彼女も、その時ばかりは、警戒とも驚きとも言えないどこか伏し目がちな態度で小声だった。だがどちらにしても司は雨に濡れたつくしをこのままにしておけなかった。
そして司は思った。
彼女が悲しむ姿は見たくない。
彼女を慰めてやりたい。


つくしは、メープルのコーヒーラウンジで恋人と待ち合わせの約束をしていた。
そしてあと少しでホテルに到着しようとしていたが、突然の雨に見舞われ、慌てて駆け出そうとしたそのとき、恋人が見知らぬ女と腕を組み、口づけをしてホテルへ入って行く姿を見かけた。
その光景は第三者から見ればどこにでもある単純な光景だが、彼女にとっては受け入れ難いものだ。最近付き合い始めた恋人の様子がおかしと気付いていた。約束をしても待ち合わせ場所に現れない。そんなとき、電話をしても出ることはなく、メールに返事が来ることもなかった。余程彼の住むマンションを訪ねてみようかと思ったが、オートロック式の入口は、簡単に入れるはずもなく、一度訪ねたことがあったが、居留守だとしても応答はなかった。

そして一緒にいた女性は、今まで何度か見かけたことがあった。
それはつくしの住むマンションの近くであったり、近所のスーパーだったりした。
人形のように美しい顔をした女性。そしていつも何故かつくしを見ると笑みを浮かべていた。しかし、その笑みの意味が分からなかった。だが今やっとその意味が分かった。

つくしは恋人が、恋人だと思っていた男の裏切りを知った。



そんなとき、道明寺司に声をかけられた。
それは仕事で感じる彼の声とは違う優しい声。
差し掛けられた傘は大きく、降り注ぐ雨を遮った。
だが何かを語りかけるその声が遠くに聞こえ、やがて記憶が途切れていた。
そして気付いたとき、つくしは司の腕の中にいた。
それはリムジンの後部座席から降りる男に抱きかかえられている自分の姿だ。

「大丈夫か?」

司はつくしが目を覚ましたことに気付き、声をかけた。

「すみません・・ご迷惑をお掛けして・・あの、降ろして下さい。わたし、重いですから」

恐縮した声で詫びる彼女は、自分が誰の腕に抱きかかえられているか気付くと慌てた。
そして今自分がどこにいるのかと訝しがっていた。

「心配することはない。ここは俺の家だ」

司はそう言うと、少し不安げな顔で頷いたつくしを抱いたまま邸へと向かった。

その時、つくしには見えなかったが、司の顔には、どう抗っても無駄だといった表情が浮かんでいた。








司が仕掛けた罠につくしはわずか数分で陥った。
それは彼女が付き合い始めた男に対する罠とも言えた。

司は恋とは無縁に生きて来た男だが、牧野つくしを好きになっていた。
彼は偶然といったものを信じる男ではない。
世の中には偶然といったものは存在せず、この世で起こることは全てが必然であり、産まれた時に決められているということだ。そして必然には約束事がある。
それは、決められたことなら、その決め事を守らなければならないということだ。
この出会いは運命が導いた出会いであり、己に決められた出会いだと確信した。

司は食事の誘いを断られたとき、躊躇わず彼女のことを調べた。
そして彼女に最近付き合い始めた恋人がいることを知った。
それは諦めなければならないということか?
だが考え直した。
なぜ諦める必要がある?
諦めるといった言葉は敗者の使う言葉だ。
今まで欲しいと思って手に入らなかったものはない。
だがそれは人ではない。
彼が人を欲したのは、はじめてだ。
だがどうしても彼女が欲しかった。

今の司の身体を満たしているのは、これまで経験したことがない欲望。
そしてそれと同時に湧き上がったのは相手の男に対しての嫉妬。
司の中にある結論はただひとつ。
邪魔者は排除する。
そして彼女が喜ぶことならどんなことでもやってみせる。
世の中は金ではないというが、それは世間の建前であり戯言だ。
幼い子供が親から聞かされるのは、世の中にはお金では買えないものがある。といった言葉。
だが反面、買えるものはいくらでもある。
司はそれを身を持って経験していた。事実、金で買えないものは無い。
金を差し出せば人は何でもする。極端な話で言えば、命まで買える世の中だ。


あの男が彼女の恋人であったとしても、それはもう過去のものとなった。
他の女を好きになったなら、その女と何をしようと、そんなことは司には関係の無い話しだ。
だが彼女には見たくないものを見せてしまった。
それでも女にとって恋人の裏切りほど心を痛めるものはない。
だからああすることが一番手っ取り早いと分かっていた。
それにしてもあの女の演技の上手さに思わず笑いが込み上げてくる。まさかあの女、本気であの男を好きになったのか?
だがそんなことはどうでもいい。
しかし、彼女を傷つけた男は、確実に彼女の前から排除しなければならない。


司は、つくしが付き合い始めたばかりだった男を邸に呼びつけた。
その男は司の会社の海外事業部に勤務する男で、二人が知り合ったのが社内であることに間違いはない。そしてその男は、つい最近駐在先の中東から帰国したばかりだ。

男は異界ともいえる邸に目を見張った。
一介の社員が邸に呼ばれることなど滅多にない。足を踏み入れることが出来るとすれば、秘書くらいだと言われていたからだ。だが男はその秘書から、副社長が最近の中東情勢について話が聞きたいと言っていると言われ邸を訪れた。
そして通された部屋で司を待つ間、この邸に50年近く仕えるという老女が、音もなく男の前にコーヒーを置き出て行くと、暫くたってカップを口元へと運んだ。






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2017
08.19

時の撚り糸 23

雨に濡れながら大人になった夜があった。
あの日から随分と時間が経ち、二人は別れたがこうして再会した。
時が移ろいはしたが、心は移ろうことはなかった。
そしてほんの何気ない晴れた午後、海辺で思い出された彼女にとっては辛い過去。
だがそれは、司にとっても辛い知らせだった。



嫌いだから別れた二人ではない。好きだからこそ別れを選んだ。
つくしは司の将来のため、そして自分自身が感じる辛さから別れを決めた。
だが司は、つくしが法律上妻のいる自分と付き合い続けることへ罪の意識を感じ、深く心を痛めるといった犠牲を伴わせながらも、彼女と離れることが出来ずにいた。道徳心の強い彼女に、過ぎた要求をしたことは分かっていた。だから、4年で終止符を打つことに同意した。しかし本音を言えば、別れたくはなかった。だがそれは司の身勝手だと言われればそれまでだ。

しかし今、つくしは司の腕の中に確かに存在している。
髪に触れ、頬に触れ、そして唇にも触れた。
9年間会う事もなければ、触れることもなかった恋人は、哀しみを抱え司の元へ戻って来た。

ほっそりとした身体は、二人が分け与えた命を宿したが、産まれることがなかったと聞き、今でも哀しみに暮れるつくしに、激しい愛おしさを感じた司は決意を新たにした。
もう一度彼女とやり直したい。そして幸せにしてやりたい。


今、二人の間にあるのは、失ってしまった命に対しての想い。
だが二人が同じ哀しみを抱えていても、素直な夜が二人を連れて行くべき場所へと運んでくれるはずだ。そして、若かった二人が持っていた輝きを、遠ざかってしまったあの頃の光りを呼び戻すことが出来るはずだ。



腕に抱き上げられたつくしは驚いたがすぐに司の肩へ縋りついた。
それは、はじめての時を彷彿とさせた。NYで大学生活を送りながら社業を学ぶ司を訪ね、はじめて結ばれた二人。1万キロ以上の距離と13時間の時を超え、やっと会えた二人が相手の全てが欲しいと願うのは当然だと躊躇うことなく結ばれた。あの時、まだ若かった二人は情熱が抑えられなくなり、一晩中離れることなく抱き合っていた。
1歳の年齢差に関係なく対等だった二人。恋の習熟度合いは、共に同じで二人ともはじめてだった。そしてその日を境に、未熟だと言われた二人は大人へと成長した。


あれから随分と経ったが、まるであの時と同じで司はつくしを抱き上げ、ベッドへ寝かせた。
だがあの頃と違うこともある。あの時の二人はただ相手が傍にいて欲しくて、相手を自分の傍に引き寄せたくて離したくないといった思いが強かった。しかし今の司の表情に感じられるのは切ない想い。そしてその切なさとは、子供を失ってしまったつくしが、心にぽっかりと開いた穴を、誰の支えもなく、ひとりで自分の精神を立て直す方法を考えたことにある。
どうやってその哀しみを克服しようとしたのか。強引に心の隙間を埋めるようなことをしたのか。だが彼女は他の男と付き合わずにいた。その言葉の意味を考えたとき、心が変わることなく、ずっと自分を想っていた。そう想うことは、間違いではないはずだ。



司は、ベッドに乗り上げつくしの揃えられた脚を跨ぎ、両手を顔の脇へ着き、覆いかぶさるようにつくしを見た。

「...嫌なら言ってくれ」

今の司はただつくしを抱きたいといった想いではない。
だが自分からこれから彼女に対し行いたい行為を止めることは出来そうにない。しかし、嫌だと言えば止めなければならない。だが返された言葉は肯定的な言葉。

「嫌じゃない....」

つくしも、司の意図は分かっていた。
昔と同じように愛されたいといった想いが湧き上がり、自分の心に嘘をつくことは出来ないと感じていた。子供を失ったとき、愛する人が傍にいてくれたらといった想いはあった。
そして、大きな掌の温もりを感じたい。失ってしまった小さな鼓動の代わりに、力強い鼓動に守られたいと切望した。

「俺たち、なんで離れちまったんだ?あんなに愛し合ってたのにな」

離れたくはなかった。だが離れなければならなかった。
あの時、そう決断したのだ。
だがこれから二人は、本当ならあの時そうすべきだったことをしようというのだ。
別れる前の4年間、二人の関係は間違っている。こんなことしちゃいけないといった想いが彼女の心の片隅を占めていた。それでも別れることが出来ずにいた二人。
過去を変えることは出来ないが、記憶を塗り替えることなら出来るはずだ。







司は背中に手を回し身体を持ち上げ、背中のファスナーを下ろし、ワンピースを頭から脱がせた。下着姿になったつくしは、自分で脱ごうとしたが、司の手に阻まれた。
そして、司の手は大切な贈り物を開くようにブラジャーとパンティを取り去ると、床に落ちたワンピースの上に落とし、自らの服を脱ぎ、ベッドの上へと乗り上げた。

そして、つくしのきっちりと閉じられた腿を割り、その間にひざまずいた。
昔からそうだったが、つくしを愛するとき、徹底的に愛する男は、いつも時間をかけ、執拗なほど彼女を愛していた。だが9年ぶりに愛し合う行為は、子供を失い哀しむつくしを慈しむための行為だ。しかしそう想いながらも、一糸纏わぬ姿のつくしを前に、反面では彼女を貪欲に求めたい気持ちもあった。実際理性的に愛することなど出来るはずもなく、ましてや論理的に考えるなど出来るはずがない。



「....あんまりじろじろ見ないでくれる?」

司を見上げるつくしの姿は、9年経ってもあの頃のままだ。

「9年ぶりだってのにじろじろ見なくてどうすんだよ?」

ニヤッと笑った口角は不適な笑いを含んでいた。

「だ、だって恥ずかしいわよ・・あたし、もう若くないのよ?あの頃と違うわ」

「違わねぇ。おまえのどこが違う?俺にとっておまえはあの頃と同じだ。逆にどこか変わったことがあるなら教えてくれ」

司にすれば、つくしの身体に変わったところなど無く、白い肌も、細い腰も小さいが形のいい胸もあの頃と変わっていなかった。だがもし子供が生まれていれば、その胸の形も変わったのだろうか。小さな我が子に乳を与える姿を想像するのは簡単だった。その想いが司の中で大きくなると思わず口にしていた。

「なあ、赤ん坊はどっちに似てたんだろうな」

そんなことを言えばつくしの目に涙が滲むのは分かっていたが、思わず口をついて出た言葉。すると、やはりようやく止まったと思っていた涙が零れた。

「いいんだ。泣けばいい。こうして思い出してやることが、供養になるはずだ」

司は、零れた涙を舌先で掬い、唇を重ね押し開け、舌を挿し入れた。
それは軽いキスなどではなく、愛し合う行為の始まり。あの頃、互いの想いが募ればいつもこうして唇を重ねていた。そして一秒でも離れたくないと抱き合った。

だが今ははやる気持ちを抑えなければという思いがあるが、愛情表現が苦手とされていたつくしが、司の肩から首の後ろへと手を回し引き寄せれば、思いは同じだと知った。
昔からそうだったが、最初は躊躇いながら、やがて思いが募れば身体がひとつになる喜びに翻弄されていた。そして濡れた黒曜石の瞳は、司の知らなかった9年間の想いを伝えたがっていた。


司は首から胸へとキスを繰り返しながら、両手で胸のふくらみを包み、真ん中へと寄せた。
そして固く尖った頂きを交互に口に含み、甘噛みし、刺激を与えた。
唇から漏れた声と、のけ反るような身体が喜びを伝え、もっと声を上げさせたいと舌を使い刺激を与え続けた。

「....あっ!」

9年ぶりに聞くその声に思わぬ興奮を感じ、司ははやる気持ちを抑えきれなくなっていた。
声として戻ってくる反応と、目に映る反応は、どちらも二人が愛し合っていた時と同じだ。
そして、欲望はやがて大きな渦となり二人を呑み込んでいくことは分かっていたが、それは二人の間に愛が存在するからだ。愛のないセックスを平気でする人間もいるが、司には考えられないことだ。

「俺は今でもおまえを愛してる。この想いは何度でも言える」

司は平らなお腹に手を当てた。
自分の遺伝子を受けた子供がここにいたのだ。子供を身ごもったとき、この場所が少しずつ膨らんでいく様子につくしは喜んでくれた。そして司の手にすっぽりと収まる形のいい胸も、少しずつ大きくなったはずだ。

司は短く目を閉じ、その様子を思い浮べた。
二人の分身といえる赤ん坊は、二人の血と骨とを合わせ持ち、つくしのお腹の中でその命を成長させようとしていた。司の頭に過るのは、やはり自分が傍にいてやることが出来なかったことだ。だがこれからはずっと傍にいると決めた。


司はつくしの脚の根元の熱く濡れた場所を手で触れ、優しく指を動かした。

「....ん、ああっ..」

何度も指を出し入れし、身悶えする姿を愛で、それからたくましい身体の下に両脚を折り曲げた格好をさせ、男が女を愛する行為の中で一番親密だと言われる口づけを繰り返し、じわじわと懐かしい温もりの中へ身体を埋めていた。そしてその行為に愛してるの言葉を重ね、身体の先端が9年ぶりに感じる愛しい人の中で、最良の時間を長引かせようとしているのを感じていた。

何度も奥深くまで入り込み、二人同時にのぼりつめることを望み、時に込み上げる絶頂感を堪え、つくしの口から泣き声に似た叫び声が上がるまで愛し続けた。そして好きだ。愛してるの言葉を繰り返し、18歳の頃のからすでに倍以上生きた男であっても、おまえを想う気持はあの頃と変わらないと何度も伝えていた。

「...俺はおまえ以外の女は愛せない男だ..おまえ以外の女なんて俺は欲しくねぇ!」

激しく突き上げるたび、硬いものの周りに感じられる収縮はのぼりつめた証拠。
そして、つくしの唇の動きが、司と同じ言葉を繰り返したとき、長い間心の中に溜めていた想いが一気に溢れ出し、それと同時に腰から腹部にかけ溢れ出した9年分の想いを彼女の中に放っていた。

やがて感じられた充足感は、つくしだから感じられるもの。
そんな彼女の小さく開いた唇からありがとう、と呟かれ、規則正しい息が漏れ始めたとき、司は改めてつくしを抱きしめ、その頬に唇を寄せていた。




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