2017
08.18

時の撚り糸 22

司が抱き寄せたのは、彼が手放すべきではなかった女性。
肩を震わせ泣いているのは、彼が生涯愛すると誓った女性。
その女性の肩を、背中を撫でながら、彼女が張り裂けそうな胸を抱えひとり泣いていた姿を思うと言葉が出なかった。

今は涙を流せばいい。たとえそれが9年前に終わったことだとしても。
だが止ってしまった二人の時間を動かそうとしたことが、彼女の心の奥に抱えていた哀しみを掘り起こしてしまったのだろうか。
そうだとすれば、二人の運命は思うより険しく厳しかったと思う。
特に彼女にとってはそうだったのではないか。
それは司がつくしを愛したため、運命が彼女を本来とは違う別の道へと導いてしまったのだろうか。
だが人生の扉はひとつではない。
哀しみは分かち合えばいい。
運命が険しければその運命を二人で乗り越えて行けばいいはずだ。
二人の愛を受けた命は失われてしまったが、それが自然の摂理なら短くも宿った命を誇りにすればいい。そして今願うのは、せめてその命が安らかな眠りについていることだ。

我が子を失った哀しみを忘れることは出来ないとしても、輝きに変えることは出来るはずだ。たとえ短い命だったとしても、赤ん坊がお腹にいる間、彼女は輝いていたはずだ。
だが彼女が小さな命を失い絶望の淵にいたとき、男の自分には推し量ることが出来ないほどの哀しみを感じたはずだ。
そして、今まで誰に話すことなく、ひとり哀しみを抱えて来たことが、彼女本来の輝きを失わせてしまったとすれば、それは傍にいてやることが出来なかった自分のせいだ。
本来であれば、子供の父親である自分が支えてやるべきだった。
だがそれを成し得なかったことに、自分自身に対する不甲斐なさを感じていた。

愛する人が心の底から微笑む顔を見ることが出来るなら、どんなことでもしたいと思う。
そしてあの笑顔を見せて欲しい。それは司を一瞬で虜にした笑顔。高校生の頃見せた時を止めてしまう笑顔をまた見せて欲しい。

『赤ちゃんが欲しかった。産んで_育てたかった。大きくなったらお父さんがどんな人で、どんなにあたしがあなたのお父さんを愛していたか伝えるつもりでいた』

司は、つくしの言葉に紛れもない愛情を感じていた。
彼女が意地を張る少女を演じるのを止めた日があった。
それは二人がまだ10代の頃、NYと東京で離れ離れになり、二人の間にすれ違いが感じられるようになったとき、パリで行われた結婚式に参加した時の話だ。

4年なんてすぐ経つと思っていたが、1日1日が長く感じられ、世界中の時計を早回ししたいと言ったことがあった。あれは彼女が素顔で生きることを決めた日だったはずだ。
だが時計を早回しすることが出来ず、秘密を抱えたまま生きなければならなかった4年は切なさばかりが感じられた時間だったはずだ。

だが今、司がこうしてつくしと会えたのは、時の流れが二人を引き寄せたから。
いや。もしかすると失われてしまった我が子が巡り合わせてくれたのかもしれない。
魂の存在といったものを信じたことはないが、もしかするとそういった力が働いたのかもしれない。母親が、自分の父親ではない誰か他の男性と結婚しようとしていることを止めさせようとしたのかもしれない。

愛する人を守りたかった。
愛するべきはずの子供を守りたかった。








「...道明寺...ごめんね」

繰り返されるその言葉は、司に向けられているが、かつては失ってしまった我が子に向けられたはずだ。
司はもういい、といった言葉を言おうとした。だが思い直していた。
本当ならそのとき話したかった言葉が沢山あったはずだ。だが誰にもその言葉を吐き出すことが出来ず、ずっと心の奥に仕舞いこんでいたことが精神的にいいはずがない。
そして、自分が傍にいれば、その哀しみを共に経験していたはずだ。だが経験しなかった。
それなら自分もあの時、つくしが経験したことを経験するべきだ。大切なことを大切な人と分かち合うことが必要なはずだ。それは、二人がこれから一緒に生きて行く上で必ず必要なことだ。今以上の哀しみがあの頃にはあったはずだ。父親になっていたはずの男がその哀しみを共に分け合わなくてどうするというのか。


「何があったのか、話てくれ」

つくしは広い胸に抱き寄せられ、涙が止まらなかったが、司のしわがれた声に顔を上げた。
深い悲しみといったものがあるとすれば、それは司の子供を授かったが産んであげることが出来なかったことだ。あの時の事を思い出すのは今でも辛い。だがこうして司の力強い腕に抱かれ、あやすように背中を撫でられれば気持ちも落ち着いて来た。
そして司があの日のことを知りたがっていることが感じられた。
それは親として、知らなければならない。知っておくことがこれから先、産まれ来ることのなかった子供への供養となるといった気持ちであると感じられた。

「痛みを感じて目が覚めたのは明け方だったわ。何かあったんだと思った。それからすぐタクシーを呼んで病院に行ったの。あたし、赤ちゃんを失いたくなかった。だから神様に祈ったわ。助けて下さいって..」

だが助からなかった。
それは神様が妻のある男性と付き合う女に下された罰だと自分を責めた。そして全てが終ったあと、医師の話をぼんやりと聞いていた。

「...流産した理由は分からないって...。こういったことはよくある話しだから。それから身体に何か問題があるわけではないから、この先も妊娠することは可能で心配しなくてもいいって言われたわ」

苦悩に苛まれた表情で見つめる司は、背中に回していた手を解き、つくしの頬に両手を添え親指で流れ出る涙を拭った。だが黒い瞳から溢れ出る涙は、司の指を濡らし続け、彼女の口から語られる言葉は司の心を揺さぶった。

「...それから何も考えられなくて、病院のベッドでじっとしていたの。病院の中から聞こえる赤ん坊の声があの子の声に思えてしまって...哀しくなって涙が止まらなかった。あたし、絶対あの子に淋しい想いなんてさせないつもりでいた。どんなことをしてでも育てるつもりでいたの」

つくしは、見上げた司の頬に涙を流した痕を見て取った。
どんな事にも動じないと言われる男のその姿は、今まで誰も見たことがないはずだ。
そして、彼が同じように哀しんでくれたことに、逆に彼を励まさなくてはならないと感じていた。だが司が自分の為に泣いていた。そして生まれて来ることのなかった我が子に対し、自分と変わらぬ愛情を持ってくれたことに、真実を伝えなければと思った。
それは、司は自分が傍にいなかったせいで、子供が生まれることがなかったと自責の念を抱いていると感じたからだ。

「道明寺、あんたのせいじゃないの・・道明寺が傍にいても赤ちゃんは駄目だったと思う。だから...あんたがそんなに苦しまなくていいの..それでも..あたしと一緒に哀しんでくれるだけであの子も喜んでいると思うわ」

だが、司には司なりに力になり、出来ることがあったはずだ。
それは、彼女の手をしっかりと握り慰めてやること。そして何があろうが愛してるといった言葉をかけてやること。誰かが傍にいれば、そんなことも出来たはずだ。だが誰も傍にいなかった。

それは、司がつくしと付き合うことで、彼女を独りぼっちの世界に追いやり、そして二人の関係を誰にも話すことが出来なかったことがそうさせた。滋もこのことは知らない事実であり、本当にひとり胸の内に抱えていた真実だ。

司は、そんな状況につくしを追い込んでしまったことで自分を責めた。
人生がひとつの本だとすれば、読みたいと思うページがこの9年間にあったのだろうか。
ひとり過ごした9年の歳月に挟まれた人生の栞(しおり)といったものは、哀しみだけで作られていたはずだ。それは産まれなかった子供、そしてまだ若いと言える両親の相次いでの死。楽しいばかりが人生ではないといったことは分かっていても、誰も好き好んで困難な道を選ぼうとはしないはずだ。そして出来れば哀しい想いは少ない方がいいと思う。だが避けることが出来ないなら、その想いを分かち合いたい。


「...俺が傍にいたらおまえを励ますことが出来た。おまえを哀しみの底にひとり置いておくことはなかったはずだ。それからおまえの力になれたはずだ」

やるせない思いとはいったい何か。
切ない思いといったものは何か。

二人が出会ったことが後悔といった二文字でないと信じたい。
司自身に色々なことがあったとしても、彼女のことを気に留めるべきだった。

人は哀しみの真っただ中にいると、哀しみが見えなくなる。逆に周りにいる人間の方がその哀しみを感じることが出来るほどだ。
今の司はまさにその状態で、つくしがの当時感じていた想いを細い身体を通し感じていた。

「...クソッ..俺は..おまえの傍にいたかった!」

強い口調で吐き出された言葉は紛れもない司の本心。
誰よりも近くにいて彼女を支えてやりたかった。
二人の愛が引き裂かれたとき、いつも見上げていたNYの摩天楼の空は東京の空へ繋がっていた。
距離があっても二人が同じ事を想い、同じ空を見上げていたことは確かだ。だがなぜ彼女のことが司に伝わってこなかったのか。それは、彼女がそうすることを望んだからだ。それに滋が知っていたとしても、司に伝わることはなかったはずだ。女の友情といったものは、時として強固な絆であり、一度固く結ばれた友情は沈黙を持って示されることもある。それは男同士とて同じだ。

「俺がおまえの傍にいたら、どんなことでもしてやった!この胸に抱きしめて、産まれなかった子供のことをおまえと一緒に哀しんだ。それにおまえを連れて帰ったら一日中この腕の中で、俺の腕の中に抱いていたはずだ!一緒に泣きながら時間を過ごした!」

ふいに言葉が止ったのは、司の唇がつくしの瞼に押し当てられたから。
瞼にキスをし、そして涙で濡れた頬に、それから唇に唇を重ねていた。

胸の中の哀しみを忘れろとは言わないが、ひとりで哀しむことはない。そしてごめんね、を繰り返すことはもう止めろと言いたい。運命が過酷だったとしても、哀しみが降りかかったとしても、もうこれ以上あの時の哀しい想いだけを抱え生きて欲しくない。


「はじめて愛してるって気付いたとき、切なさだけがあったが今もあの頃の想いは変わってねぇ。ただ9年間、おまえを気遣ってやれなかったことが悔やまれて仕方ねぇ...。
だけどな、俺たちの愛が終るなんてことがあるはずねぇだろ?今の俺とおまえの愛は遠回りして来ただけだ」

優しい口調と、優しい手はつくしの頬に触れたまま、司は再び唇を重ねた。
つくしは、司の優しさにあの頃を思い出していた。二人の間になんの障害も無く、未来を夢見ていた頃を。それは長い間二人が望んでいた結婚をし、家族を増やすこと。

「おまえにはこれ以上哀しい思いをして欲しくない」

震える声も、震える肩も司が守らなければならなかったもの。10代だろうが30代だろうが、記憶の中にあった彼だけの輝いていた宝石は、たとえ何年経とうがその輝きは変わらない。
そして、彼女の泣いた顔を見た瞬間二人の間にノスタルジーの風が吹き、遠い過去が甦り、己が口にした言葉を今更のように思い出していた。

それは司自身の手でつくしを幸せにすること。だが俺がおまえを幸せにしてやると誓った言葉の約束は果たされぬまま、時間だけが流れ9年前別れを迎えた。

もうこれ以上時間をかける必要はないはずだ。
人生は大きな賭けだというが、今の二人に賭けなど欲しくない。
それに神の奇跡が欲しいのではない。
だがもし奇跡が起きるなら、産まれることがなかった我が子を取り戻したい。
そして欲しいのは確実な未来だ。

司はつくしを腕に抱き、素早くベッドルームへと向かった。




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2017
08.13

時の撚り糸 21

かつて嵐の中を進む船は、二人の運命の方向を決定付けた。
この船があの時と同じだとは思わないが、それでも人生が大きく変わるようなことが起こる。そんな気がしていた。


「・・あのね、聞いて欲しいことがあるの」

長い沈黙を破り、つくしはかすれた声で言った。
それは勇気が挫ける前になんとか搾りだした声。

「ああ。なんだ。言ってみろ。おまえの言うことならどんなことでも聞いてやる。いや、聞かせてくれ」

司は重い口を開いたつくしの言葉を待っていた。
どんなことが語られても彼自身が知りたいと望んだことだ。
心の中に溜め込んでいた何かを話そうとしている。司はそう感じていた。
だがその何かを引き出そうとしても、そう簡単にはいかないこと分かっていた。
だからこれから語られる言葉のひとつひとつを心に刻み込むつもりだ。

口が開かれるまで時間がかかったのは、自分の思いを纏めようとしていたからであって、逃げるための言い訳を考えているわけではない。
だが、どこか強張ったような表情と声に緊張感が感じられた。

彼女の口からどんなことが語られようと受け止めるつもりでいた。
司が知らなかった9年の間に何かがあったのなら、もし彼女が傷ついているのならその気持ちを受け止めてやる。困ったことがあるのなら、どんな悩みでも解決してやる。今の司に望んで叶えられないことはひとつもない。だからつくしが何か望むならどんなことでも、何でも叶えてやれる。
それが4年間苦しい思いをさせたことへの贖罪になるとは思えないが、望みは全て叶えてやりたい思いがある。

司は、ありもしないものを、手にはいらないものを望んではいない。
ただ目の前のつくしが欲しいだけ。かつて結婚の約束をした女性と再び一緒にいたいだけ。
あの頃二人が望んでも叶わなかった想いを叶えたいだけだ。



つくしは少しだけ目を伏せ、そして息を吸った。
それから顔を上げ、司を真っ直ぐに見た。

「あたし、赤ちゃんがいたの」

司は一瞬その言葉の意味を受け止めることが出来なかった。
短い言葉で理解出来ない言葉ではない。だがその言葉が心に到達したとき、どんなことでも冷静に受け止めようと思っていた男の頭を過ったのは、彼女は自分と別れた後、他の男の子供を産んだということだ。

9年間知ることがなかったが、彼女は誰か他の男を好きになったということか。
自分が持っていた想いと、彼女が持っていた想いはすれ違っていたのか。
顔の見えない男の姿に司は言葉が出ないでいた。
そして、これだけ年月が経っていれば、彼女に子供がいてもおかしくないといった思いが頭を過った。何か重大なことを言われるのではないかと思ってはいたが、考えもしなかった彼女の言葉に、何を言えばいいのか思考が纏まらずにいた。

そうだ。ショックを受けていた。
そして生まれたのは嫉妬という感情。
それが紛れもない事実として心の中にあった。だが、自分と別れた後、彼女の人生の選択に文句を言える立場ではなかった。だがその言葉に冷静さが失われ、視線が彼女の顔を外れた。


「・・でも生まれなかったの・・」

その言葉に複雑な感情が湧き上がる。
そして司の視線は再びつくしの顔へと注がれた。慰めの言葉をかけるべきだと、そうしろという思いと共に別の感情があった。それは嫉妬という感情と入れ替わった安堵という思い。
本来なら彼女が哀しみに沈んでいるのであれば、その想いを共に受け止めてやるべきだろう。しかし心の中に思うのは、彼女が自分だけのものでいて欲しかったといった男のエゴ。
つくしは自分だけのもので、司自身は彼女だけのもの。そんな想いを抱えて生きていたからだ。
だがその想いを呑み込んだ。

「・・牧野_」

「ごめん道明寺・・。産んであげられなくて」

そのとき司が見たのは、雨に濡れたような黒曜石の瞳がじっと自分を見つめる様子。
その瞳はかつて澄んだ輝きを持って彼を見つめていた。だが今、その瞳は溢れんばかりの水をたたえ零れ出そうとしていた。

司は一瞬のうちに理解した。
どんな男でも今の言葉が理解できないはずがない。ついさっきまで、他の男との間に生まれた赤ん坊に対し、理不尽な嫉妬心が湧き上がっていたが、その感情を押さえ、突き付けられた事実を受け入れようとした男に向けられた言葉に衝撃を受けていた。
そして、真っ直ぐ司を見つめる瞳は、確かに彼女が言いたかった想いを伝えていた。

それは、牧野つくしは司の子供を身ごもっていたという事実。
だが過去形で語られるその言葉は、子供が生まれることがなかったという事実。
そのことが今、司の目の前にあった。

「・・・赤ちゃん・・・産んであげられなかった・・」

司はあまりにも動揺したせいか、言葉を失っていた。
そして心臓をわしづかみにされたような胸の痛みを感じ、かすれた声で繰り返された言葉を反芻しようとした。だが、脳は動きを止め、身体が震え、膝から崩れ落ちそうになっていた。
それでも、彼女の口から辛そうに語られた事実に応えなければならないと言葉を発した。

「・・いったい・・」

かすれた声は自分の声なのか?
空気を吸おうとしたが、肺が言うことを聞かず、苦しげに息を吐き出すことしかしない。
身体が震え、どこかにつかまらなければ倒れるのではないか。それでも、冷静に事実を受け止めようとしていた。

「どうしてか_分からないの。お腹に_痛みを感じて病院へ行ったときには_」

彼女は泣いている。
声は震え言葉は詰まり、溢れ出した涙が頬を伝い、肩は震えていた。
そしてその涙は止まることなく、息が詰まりそうになりながらも継ぐ言葉は哀しみだけが溢れていた。瞳に住み着いた哀しみが見え、これまで彼女がひとり胸に抱えてきた想いが手に取るように感じられた。

見返りを求めず愛だけを求めた彼女が失ってしまった小さな命。
司は二人が創造した尊い命を失い、つくしがひとり過ごして来た年月に己の年月を重ねていた。そして悔やんだ。なぜ彼女を諦めるようなことをしてしまったのか。
なぜ手を離してしまったのか。あの時、別れたのは彼女の幸せを願ったからではなかったのか。

「あたし_道明寺の赤ちゃんが欲しかった。産んで_育てたかった。大きくなったらお父さんがどんな人で、どんなにあたしがあなたのお父さんを愛していたか伝えるつもりでいた」

頬を伝う涙はポタポタと音を立てつくしの足元に落ちていた。
涙声で詫びるその姿に胸が張り裂けそうだ。

司はつくしの悲しみを吸収したかった。そして何も知らずにいたことに自責の念を感じていた。誰よりも人を思いやる心を持つ彼女が泣く姿が辛かった。
かつて我慢強いと言われた少女が嗚咽を漏らす姿は、我慢に我慢を重ねたが、ついに感情の堰を切った瞬間だ。それは赤ん坊のことだけではないはずだ。ひと目を避けるように過ごした4年間と両親の死。そして抑制し続けた孤独と胸の奥に閉じ込めていた憂いが溢れ出た瞬間だ。

そして司には、つくしが独り病院のベッドに横たわる姿が見えた。
たった独り誰に知らせるでもなく、身体が回復するのを待つ姿が見え、胸をえぐられた。
そして泣いているのは、自分を責めているということも。責任感の強い彼女は、子供が生まれなかったのは、自分のせいだと自分自身を責めている。人に頼ることなく、全てを自分ひとりが背負うことが当然だといった態度は昔からそうだった。それは泣きたいのに泣こうとせず、心の襞の奥に哀しみを抱え込み、その想いを自身の心の中で浄化させようとする姿。司はそんな彼女の姿を何度も目にしていた。

司は彼女の想いを受け止めたかった。
だが今の司は、彼女の言葉に応えるどころではなかった。
なぜなら、彼自身がつくしと同じ哀しみを胸に抱いていたからだ。
そして思い出すのは、二人が最後に過ごしたあの日。それは38歳の自分ではなく、29歳の自分。そして28歳のつくし。スローモーションのように目の前を流れるのは『さよなら』と言って部屋の扉が閉じられた9年前の別れ。

視界が霞んだのは、濡れた髪のせいではない。
それは瞳から溢れ出る涙。
今この瞬間、司は願った。
時間を戻して欲しい。
別れたあの日に戻り、何も無かったようにやり直したい。
愛は失われてはいない。愛は今も二人の間にある。

司が溢れる涙をそのままにつくしを両の腕で抱き寄せると、小さな身体は嗚咽を繰り返し、濡れた頬を彼のシャツに押し付けしがみついた。

「・・牧野・・なんで・・どうして俺に言わなかった?」

いつだって司は、つくしのためならなんでもするつもりでいた。
それは二人が愛を育み始めた頃から変わらない思い。
地獄の果てまで追いかけると言った。
彼女がどこにいようと、駆け付ける思いでいた。
彼女の哀しみも苦しみも全てを取り去ってやりたいといった思いは、今も変わらずこの胸の中にあった。

「言えなかった・・言えるはずがないじゃない・・」

結婚していた男を気遣ったその言葉は、紛れもない彼女の本心。
司は、9年前彼女が胸に抱く事がなかった我が子に思いを馳せた。
それは、自分が彼女の傍にいれば、助かったかもしれない命。二人にとってはかけがえのない命。どんなものにも代えがたい命。小さな命が彼女の身体に存在した事実はこれから一生忘れることはない。そして自分が抱く事がなかった我が子に詫びた。
傍にいてやれなかったことを。

離れたくはなかったが、離れなければならなかった司が感じているのは胸の痛み。
そしてそれよりも強いのは後悔の念。
あのとき、彼女の手は離しても、心まで離したわけではなかったのだから、もっと彼女のことを気にかけるべきだったと。


涙が出るほど誰かを愛したことがあるか、と問われれば勿論だと言える。
それは彼女と生まれることがなかった二人の子供に対しての想い。
司は、つくしを抱く腕に力を込め、その髪に顔を埋め、ただ泣いていた。





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2017
08.11

時の撚り糸 20

小さな奇跡が宿ったのを知ったのは、別れて間もなくのこと。
二人とも避妊には気を遣っていたが、必ずしもそれが100パーセント確実だとは言えないはずだ。規則正しく訪れていた生理が止り、吐き気と眠気が襲うようになれば、疑うことはただひとつ。密やかな愛の証がお腹の中にいる。そう思った瞬間、両手をお腹にあて、優しく包み込んでいた。

堕ろそうとは思わなかった。
産婦人科医院を出たとき、頭の中にあったのは産もうということだけで笑顔を浮かべた自分がいた。
あのとき、ひとりでも新しい一歩を踏み出そうとしていた。
失ってしまった彼の代わりに得た新しい命を喜んで受け入れた。
超音波装置の画面に映し出された小さな影は尊い贈り物ともいえた彼の子供。
結婚式がなくても、父親がいなくても構わない。どんなことがあっても産んで慈しんで育てようと決めた。

もし、あのとき彼がいたらどんな顔をしたか。
それはビーチで抱いた赤ん坊に目を細めた姿を見れば容易に想像できるはずだ。
きっとお腹の中にいる赤ん坊を心配し、何もさせようとはしないはずだ。
極端な話、箸の上げ下げまで制限されそうな気がした。

妊娠を知り1ケ月が経過すれば、お腹に赤ん坊がいることが現実味を帯びた。しかし体型が変わることはなく、服を新しく買う必要はなかった。2ヶ月経ってもそれは同じだった。
だから誰にも気づかれることはなく、赤ん坊と二人、静かに過ごすことができた。
それは彼の名誉を守るためでもある。結婚している男が外に子供を作ったとなれば、名門財閥と呼ばれた道明寺家の家名を汚すことになるからだ。

だが、神様からの貴重な贈り物を受け取ることは出来なかった。
ある日、激しい痛みで目が覚めタクシーで病院へ急行したが、残念です、と言われ赤ん坊を失ったことを知らされた。

遠く離れた場所にいる彼に伝えられることがなかった妊娠と流産。
仕方がなかった結婚とはいえ、彼は他の女性の夫だった。これから先後継者を必要とされる事態になれば、正式な妻との間に子供を作る必要があるはずだ。
そんな彼に生まれなかった子供のことを知らせても、傷つけるだけだと分かっていた。
だから知らせることはなかった。

それでも心は彼の元にあり、失ってしまった赤ん坊を知るはずのない彼の分まで涙を流した。それは家族も友人も知ることのない私ひとりの心にある出来事。彼と別れた私が気の抜けたような生活をしていると滋は言ったが、それは、赤ん坊と一緒に自分自身も失ってしまったように感じたからだ。そして暫くは、不安定な気持ちを抱え落ち込むこともあった。

あの頃、目を閉じ、瞼の裏に見えたのは、屈託なく笑う彼の姿。
もう会うことはないと思っていた私は、その姿を忘れることがないようにと、心に刻みつけようとしていた。
これが心の奥底に沈めていた想い。
誰にも気付かれることがなかった秘密だ。


やがて両親が相次いで亡くなり、父親の7回忌も終わりやっと落ち着いた今、叔母がいつまでも一人でいる姪に見合い話を持ってきた。

そんな状況の中、彼の離婚が成立したことを知った。
そして司はもう一度やり直そうと言っている。
もう一度恋をしようと言っている。
失った赤ん坊の父親である司は、今でも私を愛してると言った。
そんな彼と向き合いたい気持ちはある。
だが、それと同時に彼の子供を産んであげられなかったことに罪の意識がある。
そして、二度と会う事はないと思っていたとはいえ、彼の子供を産めなかったことは、申し訳なさを感じていた。


こうして彼と二人南の島でバカンスを過ごすことを決めたが、心の中にはあのことがわだかまっていた。
だから彼の腕の中に飛び込んで行くことが出来ないのだ。
妊娠も流産も伝えることがなく、彼と一緒に過ごすことなど出来ないはずだ。だが今更どう言えばいいのか、どう伝えればいいのか、わからなかった。
言えない言葉ではないはずだ。だが、9年を経て伝えられる言葉が耳に心地よいはずもなく、彼が傷つくだけだとわかっていた。
そして、何故、あのとき言わなかったのかと責めるはずだ。
どうして妊娠したことを教えてくれなかったのかと責めるはずだ。
いや。それは違う。責任は自分自身にあると己を責めるはずだ。
あの当時の二人の関係が私の心に大きな負担を強いていたことを、彼自身も分かっていたはずだから。




夕方になりビーチを離れ、島の中心部であるメインストリートに戻ったが、大勢いた観光客の数は減っていた。何か買い物でもするかと聞かれ、土産物屋に飾られていたぬいぐるみに目がいった。それはあまり日本では見かけることのないイグアナのぬいぐるみ。
彼は、おまえは相変わらず金の掛からない女だな。と言いながらも買ってくれた。
そして、おまえが気に入ったんなら、ひとつと言わず何個でも買ってやると言われたが、さすがにイグアナのぬいぐるみを10個も20個も必要ないと断った。
だが、もし子供がいたら、沢山のぬいぐるみに目を輝かせていたはずだ。







司は、赤ん坊を抱いたつくしの様子が極端すぎるほど変わったことに気付いていた。
ビーチでのあの一件は司の心に引っ掛かりを残していた。
展望台ではイグアナの出現に驚き、声を上げていたが楽しそうな顔をしており、司もわれ知らず笑みを浮かべていた。

だが、ビーチで見知らぬ女から、ほんの少しの間だけ赤ん坊を見ていて欲しいと言われ、その態度が急変した。心拍数が一気に跳ね上がったような慌てぶりは、突然押し付けられた幼子に対しての不安なのかと思ったが、違和感を覚えた。

女性なら誰もが持つと言われる母性本能が欠けているといった訳ではない。
子供は苦手かと聞いたが、子供は好きだと言った。そして遠い昔、二人で子供の数について話しをしたことがあった。あのとき、出来れば3人は欲しいといった話しをしたことがあった。それだけに、あの態度が腑に落ちないでいた。そして動揺を隠そうとする態度が見て取れた。それは視線を外し、海を見た姿勢に現れていた。そして緊張していると感じた。
どんなに長い間離れていたとしても、彼女のことなら分かる。
二人が別れたことが、何らかの影響を与えている。
それだけは、間違いないはずだ。

二人がひと目を避けた4年間は長い。
それはNYと東京での遠距離恋愛期間と同じだったが、その間にすべてが捧げられた訳ではない。心は互いのものだったが、身体は傍にいることが出来なかった。
だがつくしを抱く唯一の男は、司だけだ。これから先もずっとそのはずだ。
つくしが赤ん坊に対し見せた反応は、二人が持つことが出来なかった子供に対しての過剰反応なのか?もし、そうなら今からでも子供を作ればいい。
彼女の気持ちは、間違いなく自分にある。それが40を目前にした男の勘違いだとすれば、面白くはない。
そして、身体が半分過去に落ち込んでしまったような強い不安に襲われるのは、彼女の言葉に何かを感じているからだ。





二人が埠頭に戻ると、クルーズ船で来た観光客は、お目当ての免税品を買い求めたのか、大きな買い物袋を抱えた姿があちこちに見えた。やがて太陽が沈みかけ、辺りが暗くなると船に明かりが灯り、大勢の観光客を乗せたクルーズ船は出航して行った。

そしてクルーザーに戻ったとき、そこへ雨粒が落ち始めた。
天気予報ではこの先の天気は下り坂だと言っていたが、雨は思ったより早く降り始めていた。最初は弱い雨だったが、たちまち激しく降り始め、デッキいた二人は慌てて船内へ駆け込んだ。

「いきなり降り始めたな。天気予報じゃもう少し持つかと思ったが、思ったより雲の流れが早かったってことか」

激しく降り始めた雨に、司の髪の毛は、あっと言う間にストレートに変わり、つくしの髪も濡れていた。

「なあ、牧野。40を前にした男だが、まだイケてるか?」

司は優しく語りかけた。かつて癖の強い髪型が嫌だと言われ、本気でストレートに変えたことがあった。そしてそれが似合うと言われ、気を良くした男がいた。
そんな男の優しい口調は、重苦しさを感じた始めた二人の間の空気を払拭しようとしていた。

「俺はおまえとやり直したいただの男だ。今の俺たちには何のしがらみもないはずだ。俺とおまえが一緒になったからって誰も反対しねぇし、誰にも文句は言わせねぇ。
それに今おまえが何かを考えているのは分かるんだが、思ってることは言葉にしてくれ。いいか、牧野。俺はおまえの事ならどんなことでも理解してやるし、受け止めてやる。だから心の奥に溜め込んでることがあるなら言ってくれ」

そうは言ったがつくしは黙ったまま、二人の視線が絡まった。
そしてどちらもじっとして動かなかった。
動かないのは、緊張を意味しているのか。それとも言うことは無いということか?彼女を説得するのはいつも大変だったといくつかある過去の出来事を反芻した。そして、待てど暮らせど話そうとしない彼女に司はそれならば、と口を開こうとした。
だが、先に沈黙を破ったのはつくしの方だ。


「・・あのね、聞いて欲しいことがあるの」






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2017
08.10

時の撚り糸 19

二人に声をかけてきたのは、赤ん坊を抱いた若い女性。
ちょっとお願いがあります。といってつくしに子供を抱いて欲しいと言った。
見ず知らずの人間に、我が子を抱かせる母親がいることに耳を疑ったが、いったいどういったことなのか。すると、その女性はビーチへ財布を忘れたから取りに行くといい、その間この子を見て欲しいと言った。そして、あなたなら信じられるからお願いと言い、すぐ戻ってくるからと、赤ん坊をつくしへ押し付け慌ててビーチへ走って行った。
それはまさにあっと言う間の出来事で断る暇もなかった。

「あの!!ちょっと!!待って!!」

と呼んだところで振り返りもせず、すぐ目の前の白い砂浜へ駆けて行く姿を見送るしかない。そしてつくしの腕の中にいるのは、生後間もないと思われる赤ん坊。
肌が白く、まだ産毛の髪は黄金色で、瞳は目の前に広がる海のような色をしていた。

母親の腕から見ず知らずの人間の腕に抱かれ、いったい自分が誰の腕の中にいるのかと訝しげな顔をする赤ん坊は、それでも泣き出すこともなく、ひたすらつくしの顔を見つめていた。それは、初めて見る東洋人に戸惑っているのか、それとも珍しいものでも見たといった顔なのか。まだ小さく頼りない幼子は、自らが置かれた状況を理解出来ないまま、つくしの腕に収まっていた。

「道明寺お願い。あの人を呼んで来て!こ、こんなの困るわ!」

その声は本当にどうしたらいいのかと慌てていた。
だがそれは困惑といった感情ではなく、動揺に近いものが感じられた。そして腕の中の赤ん坊に、今まで見た事のない生物が突然現れたといった表情を向けていた。

「そんなに慌てんな。預かってやれ。それにすぐそこにいるんだ」

確かに目の前の砂浜はすぐそこで、赤ん坊の母親は目的の物を見つけたのか、こちらへ戻ってこようとしていた。

「それにあの女、かなりの焦りようだったぞ?まあ財布を無くしたとなれば慌てるのは当然だな」

と、司はさして気にもせず、呑気な声だ。

「・・そういう問題じゃないでしょ?いきなり他人に赤ん坊を預けるなんてどうかしてるわよ?・・それにもしあたしがこの子を連れていなくなったらどうするつもりなのよ?」

それは、生命を誕生させることが出来る同じ女性として、いとも簡単に我が子を見ず知らずの人間に渡してしまった母親を責める言葉だ。

「あの女、おまえなら信じられるって言ったが、確かにおまえの言うことは正しい。我が子を簡単に赤の他人に渡すような女は母親としてどうかと思うが、見ず知らずの人間を信じられるなんていうところは、おまえと似てんじゃねぇの?」

つくしはかつて人間性善説を信じる女だと言われていた。
騙されても、裏切られても、人を信じる心は強かった。それは司には無いもので、彼はそんな彼女のことを常に心配していた。

「けど、母親はすぐそこにいるんだ。心配するな。それにしてもこいつは随分とチビだな」

司はそう言うと、つくしから赤ん坊と取り上げた。そしてどこか慣れた手つきで胸の中に抱いていた。

「まだ生まれて間もないようだが、このチビはあの母親似か?」

そう思えるのは、姉である椿の子供が幼い頃を思い出していたからだ。
姉の椿は結婚してロスに住んでいるが、司には甥と姪が一人ずついた。そして兄にあたる甥は姉椿に似たはっきりとした性格で、叔父である司にも似たところがあり、大学を卒業後、道明寺HDに入社していた。

そんな甥は、外見が似ていることもあり、甥ではなく息子ではないか、隠し子ではないかと疑われたこともあった。
そしてもしそれが本当なら、彼が若い頃付き合っていた女性との間の子供ではないか?
そんな話が囁かれたこともあった。そうなると、今の結婚相手との間に子供が出来なくてもいいのではないか?そんな噂話が流れたこともあった。


赤ん坊をつくしに預けた母親は、すぐそこまで戻って来ていた。そして我が子を認めると二人に向かって手を振った。
やがて戻って来た母親は二人に礼を言い、赤ん坊を受け取るとビーチを後にした。








赤ん坊を見ては駄目。
つくしは自分に言い聞かせた。
だが赤ん坊は母親に抱きかかえられ、二人の視界からは去って行った。
つくしは、母親の姿を見送る司の口元がほころんだのを見たが、そんな司と目を合わせることが出来なかった。その代わり白い砂浜の向うに広がるエメラルドグリーンの海を見つめた。



つくしは心が痛んだ。

二人は別れて9年になるが、二人の間にはひとつの命が創造されていた。

それは二人の赤ん坊。

赤ん坊が腕の中に押し付けられたとき、身体が硬くなり、一瞬息が出来なくなった。
そして抱いているだけで精一杯だった。
司がつくしの腕の中から赤ん坊を取り上げ、慣れた手つきで胸の中に抱き、あやす姿を見るのが辛かった。あのとき、彼の腕に抱かれていたのが、二人の間に授かった赤ん坊だと思ったからだ。

そして母親が赤ん坊を抱き、去って行く姿を見る司の顔を見たとき、胸が痛んだ。

「どうした?赤ん坊を抱いて緊張したのか?」

司の言葉にはっとすると、視線を彼に戻す。

「え?そんなことないわ」

「おまえの弟の所は子供がいるのか?」

「・・うん。男の子と女の子がいるわ」

つくしにとっての甥と姪は、両親亡き後、家族の賑やかさを取り戻してくれたかけがえのない存在。

「そうか!ねーちゃんとこと同じだな。甥は今年、うちの会社に入社した。ねーちゃんに似てしっかりした男だ。将来はうちの社の一翼を担うことは間違いないはずだ」

司は自分に似ていると言われる甥が可愛かった。
姉の教育のおかげか、幼い頃からしっかりした子供だった。そして姉の口癖のひとつが、『あんたたちの叔父さんの若い頃は手が付けられなくて大変だったのよ?でもね、あたしの教育のおかげで今の叔父さんがいるの』そんなことを子供に言う姉は、今でも司のことを何かと気にかけてくれていた。

「・・なあ、牧野。俺たちの間にも子供が欲しいと思わねぇか?」

それは、司の望みであり、そうなるためには結婚を望んでいた。
本来なら13年前に二人は結婚していたはずだ。だが過去を悔やんだところで変わる未来はない。それならばこれから自分達の手で未来を作ればいい。そのために、この休暇を用意した。この旅は、彼女が自分を好きだと認めさせ、結婚をし、NYで一緒に暮らして欲しいと告げることを目的としていた。

「それともおまえは子供が苦手か?」

「・・そんなことないわ。好きよ」

突然司の口から出た子供が欲しいと思わないか。
その言葉につくしは顔をそむけ、再び視線を海へと向けた。
結婚したら子供は沢山欲しい。そんな話をしたことがあった。
あれは、いったいいつの話だったのか。そうだ、あれは二人の結婚が許されたときだ。
遠い昔のことだが、あの頃を思い出し胸が熱くなった。そして彼自身も同じようにあの頃を思い出していると感じた。

今二人は同じ時を心に描いているはずだ。
二人が共に生きる未来を描いていたあの頃を。


だが二人が結婚することはなかった。
そして9年前、二人の関係を終えた後、妊娠に気付いた。





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2017
08.09

時の撚り糸 18

司は、隣に立つほっそりとした身体を引き寄せたかった。
この手の届くところに彼女がいるのだ。身体を抱きしめ、心を抱きしめたい。
だがその前に彼女の唇を奪っていた。思わず動いてしまった身体は、ただ立ち尽くして待つのが嫌だったから。二人の間にあった時の流れを忘れたかったから衝動に従っていた。

こうして9年ぶりに会い、二人だけで船に乗っていることが、内心では信じられない思いでいた。
幾ら司が強引な男だとしても、そして滋の協力があったとしても、彼女も子供ではない。
自立した立派な女性だ。連れて来られることを拒もうと思えば出来たはずだ。
だが拒まなかった。その意味を理解するのは簡単なはずだ。


二人で生きていこうと決めたときからずっと彼女を守りたかった。
だが自分との4年の関係が、つくしを傷つけていたことに、良心が疼いた。
法律では結ばれない男との関係が、彼女の心の負担になったことが、別れるきっかけになったことは十分承知していた。だが、こうして離婚が成立した今、あの頃出来なかったことを彼女にしてやりたい。そして与えたいもの全てを抵抗なく受け取れるようにしたい。

あの当時、彼女へプレゼントしたいものは、幾らでもあった。
だが受け取ろうとはしなかった。
それが、つくしなりのケジメとでもいうのか。それとも昔と同じで対等でいたいといった気持ちでいたのか。元来高価なプレゼントを好まない女は、高校生の頃贈ったジュエリーだけを大切に身に付けてくれていた。

司はつくしが口を開くのを待った。
だが、彼女はただ手すりを握ったまま何も言おうとはしなかった。
何かが二人の間にある。司はそう感じていた。
だからこそ、それを知る必要がある。








セントトーマス島は、カリブ海クルーズの定番の寄港地になっており、多くの観光客で賑わっていた。アメリカ領ヴァージン諸島の首都でもあるこの島の中心地、シャーロット・アマリーは、タックスヘイブン(租税回避地)のため免税で買い物できることもあり、メインストリートには多くの店が立ち並び、ブランド品や、高級腕時計、高価なジュエリーを安く手にいれようと、クルーズ船を降りた買い物客で賑わっていた。

だが二人がまず初めに向かったのは、パラダイスポイントと呼ばれる小高い丘の上にある展望台。そこからは、エメラルドグリーンの美しい海や、街の景色を眺めることが出来た。
そして次に司が向かったのは、美しい光景とリラックスを求め、首都から車で20分ほどの場所にある世界一美しビーチに選ばれたこともあるメイゲンズベイ。美しい白い砂浜が広がり、海水浴とシュノーケリングが出来る場所。だが二人はビーチにあるカフェレストランのテラスに腰を下ろした。そこは、白く大きなパラソルが陽射しを遮り日陰を作っていた。

「なんだよ?せっかくカリブ海に来たのにもったいねぇな」

「なんだよって・・じゃああんたが入ればいいじゃない。あたしは止めとくわ。だいたい今回の旅行はNYに行く計画で、海に入る予定はなかったから水着なんて持ってきてないわよ。それにあたしの年で水着になれるわけないじゃない・・それにこの年で日に焼けたらシミになるもの」

海に入るかと聞かれ、つくしは断った。
NYのはずがカリブ海に司といることが、予定外なのは当然だが、水着になることなど考えていなかったからだろう。
司にしてみれば、カリブ海のリゾート地に水着は必須だといった思いで、つくしのクローゼットにもあれば、クルーザーにも用意してあった。そして水着姿の彼女を見たいと思った。

「俺に言わせれば休暇に計画が必要だとは思えねぇな。予定ってのはあってないようなものだ。それにおまえの年で水着になるのに抵抗があるなんておかしいだろ?こっちじゃ水着を着る年齢なんて関係ねぇぞ?」

欧米では何歳になろうが、体型が若いころとは随分変わっていたとしても、水着になることを躊躇う人間は少ない。そして、バカンスがあたり前の国々では、夏に肌を露出することに躊躇いはない。特に北欧諸国のように日照時間が少ない国では、好んで肌を焼きたがる。それはビタミンDが不足しているといったこともあり、太陽が出たらあたってビタミンを作ることを目的としていることもある。

そしてイタリアやフランスのように、小麦色に焼けた健康的な肌を見せることが、ひとつのステータスのような国もある。日焼けしている、イコール優雅なバカンスを海ですごしたという解釈をするからだ。化粧品にしてもだが、日本では美白が当たり前となっているが、海外では日焼けした肌に見せるためのファンデーションもあるほどだ。

だがつくしの肌は白く、日に当たれば赤くなるが、黒くなることはない。
そして司は彼女の白い肌が好きだ。華奢な肩と細い腕が離さないで、としっかり背中に回され、しがみついて来た時のことは今でもはっきりと覚えていた。
あれはキャンドルを灯し、愛し合ったクリスマスの夜。上気し、バラ色に染まった肌が、黄金色に光り美しかった。


「・・あのね。それは道明寺だから言えるの。庶民は休みも計画を立てて取るの。それに行くところも計画を立てていかなきゃ予定が立たないでしょ?あんたみたいに行き当たりばったりで目的地を変えるなんてこと出来ないの!それに海に入るなら女性は色々と準備があるの!」

「ああ・・そうだったな」

司は機械的に言った。そしてつくしを見つめ、遠い過去の記憶に触れていた。
男には理解できない準備をした身体へ、日焼け止めを塗ることが楽しみだったことを。
腕に脚に、そして背中へとゆっくりと撫で付けるようにすりこんでいく行為は、これ幸いといつの間にか別の行為へと変わっていったことがあった。

「・・それにしても相変らずだな、おまえは」

司の声は笑っていた。

「何がそんなにおかしいのよ?そんなの普通でしょ?女性は色々とあるんだからね!」

今もし司の頭の中に描かれていることが、つくしに知られたらと思うと笑みが浮かんだ。
そして司の行き当たりばったり的行動がおかしいといった女は、視線を海へと向けた。

「・・海、綺麗よね」

船の中から見た海にもそう呟いていた。
そしてあの時、つくしの横顔に思慮する様子を感じた。

「・・それにしてもイグアナがいたのには驚いた」

「ああ。カリブ海の島にはあちこち普通にいるらしいぞ?」

駐車場で車を降り、カフェまで歩いて来る途中もだが、展望台でも見かけた。
動物園で見る以外、イグアナなど見た事がなかったつくしは、岩の上で日光浴をしている個体に目を大きく見開き、驚きを隠さなかった。そして気付けば足元近くまで来ていたものもいて、思わずきゃあっと驚きの声を上げ、司の腕にしがみついていた。

「・・自然に暮らしてるイグアナなんて初めて見た。・・道明寺は野性のイグアナを見た事あった?・・あんなのがいきなり目の前に現れたらびっくりするわよね?」

「ふん。あんなデカいトカゲくらいどうってことねぇよ」

「動物が嫌いな人が何言ってるのよ?あんただってびっくりしてたじゃない?」

「アホか。あれはあいつらが急な動きをするからだ」

「それを驚いたっていうのよ?」

と、楽しそうに笑った。




二人は船を降りてから、こうしてごく普通に会話を交わしていた。
そして、つくしがこの旅を楽しむことにしたのか、それとも単に受け入れたのか。
どちらにしても、嫌々といった態度は感じられず、当初は硬いと思われていた表情も随分とまろやかになり、はじめて見る風景に目を輝かせていた。
だがほんの一瞬の隙をつくように見せる表情が、何かを感じさせた。それは再会してからずっと感じていた思い。会話が弾めば、まるで遠い昔の二人の会話が再現されるのだが、どこか違っていた。


その時、ひとりの女性が二人に声をかけてきた。






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2017
08.08

時の撚り糸 17

『高校時代に戻っておまえの心を取り戻す』

つくしは、はじめての出会いを思い出していた。
それはまるで20年前に戻った司を見たような気がしていた。
その眼差しに込められる思いが濃密すぎ、言葉を返すことが出来ずにいた。
そして再び司とのキスの味を知ってしまえば、もう後戻りが出来なくなるような気がしていた。

自分を取り巻く環境から、あえて正反対の方へ進んでいった高校生の頃。
恋をしたが素直ではなかった自分がいた。
そして、今のつくしは、彼の愛に絡め取られることを望んでいるのか、そうでないのか。
反芻すればするほど分からなくなっていた。


「_ったくおまえの優柔不断さは変わんねぇな」

司に言わせれば、つくしの言う『どうしたらいいのかわからない』と言った言葉は、まさに自分で決断することが出来ないと言っているのと同じだ。
だからこそ、二人の関係を蘇らせることが目的の司にすれば、彼女の気持ちが固まるまで時間をかけたいとは思わなかった。

「土壇場まで行っても決断出来ねぇのは今更だが、いいか?人生ってのは永遠に続くわけじゃねぇだろ?所詮人生は短い。後悔することもある。けど人間の寿命なんてたかが80年くらいのものだ。俺たちのくらいの年齢になれば迷ってる時間の方が勿体ないはずだ」

今はそう思う司だが、かつて人生などどうでもいいと思っていた頃があった。
いつ死のうが、財閥がどうなろうが関係ないといった態度を取っていた。だがつくしに出会ってから人生が変わった。彼女のため、人としての生き方を変えた。彼女と生きることに特別の意味があった。だから再び彼女と人生を過ごしたいと望んでいた。そして、迷っている暇があるなら共に過ごして欲しいといった思いがある。

「・・俺の父親もおまえの両親も80まで生きることはなかった・・それを思えば人生ってのは、ある人間には長いかもしれないが、ある人間には短い。俺もおまえもあとどのくらいの人生があるかそんなことは不透明だ。それを考えたら一分一秒も無駄に出来ねぇだろ。だから俺は全身全霊でおまえと向き合いたい」

あの頃と変わらない男がそこにいる。
熱い想いでつくしに向かってきた男が。
揺るぐことのない確信ともいえる言葉は、固い決意が感じられた。







数分後。
別荘を出た二人は車に乗り、港へと向かっていた。
待っていたのは、大型クルーザー。
かつて熱海の海で乗ったもの以上に洗練されたデザインと大きさだ。
司は船長に出航の合図を送り、つくしに言った。

「懐かしいだろ?こうやって二人だけで船に乗るなんて、滋に拉致された時以来だ」

高校生の頃、滋によって大河原家所有の無人島に、船で連れて行かれたことがあった。
あの頃の二人は、付き合ってはいたが、まだどこかぎこちなさがあった。だが二人が拉致され連れていかれた島での出来事が、二人の絆を深めた。しかしあの後、司は暴漢に刺され彼女の記憶だけを失ってしまう事態に陥った。そんな遠い昔を思い出させるような船旅を、これからしようというのだろうか?

やがてクルーザーが港を出ると、セントクロイ島の街並がゆっくりと後ろへ流れていく。
そして目の前に開けた海面は朝の光りを浴び、きらきらと輝いていた。
船がスピードを上げると、陸地は遠ざかり街並は小さくなった。

「おまえ、覚えてるか?あん時、何にもねぇ無人島で食いモン探してるとき、引き潮で打ち上げられた魚を見て、俺に素手で取ったのかって聞いたんだぜ?で、俺がなんて言ったが覚えてるか?熊じゃねーんだから素手で取れるかってな。おまえ、昨日テラスにいた俺を熊かと思ったって言ったよな?南の島に熊が出るなんて考え、あの頃からずっと変わってねぇってことか?」

司は、どこか懐かしそうに言ったがつくしの反応は無かった。

「どうした?不安なのか?船に乗ったからってまた俺が刺されておまえの記憶を失うなんてことにはならねぇから心配するな」

だが船にいい思い出のないつくしにしてみれば、遠い昔のことが思い出されていた。
そんなつくしのどこか不安そうな瞳を感じたのか、司は船内を案内すると言い彼女をエスコートした。

「ねぇ・・これからどこに行くか、今後の予定について聞いてないんだけど」

ここまでくると、成り行きに任せるしかないつくしは、とりあえず聞いた。

「これから行くのはアメリカ領ヴァージン諸島の首都があるセントトーマス島だ。今日はあの島を観光することにした。本当は別荘のある島の観光をするかと考えたんだが、これから先天気が崩れる予報が出てる。そうなると流石に嵐ん中、わざわざ航海しようなんて思わねぇだろ?だから先にセントトーマスに行くことにした。それともアレか?またあの時みてぇに嵐の中の船旅でも再現するか?」

不敵な笑みを浮かべた司は、つくしが成り行きに任せたとはいえ、この旅を受け入れたことに満足した。そして二人の視線が絡み合ったとき、同じことを考えていると感じた。

あのとき、二人は嵐の中を航行する船にいた。
それは本物の嵐だったが、彼女の心も嵐の中にあった。そして二人の恋も、嵐の中にあった。
それは、司もわかっていた。二人が共に手をとった時、愛は決して許されないものだったのだから。たかが17、8歳の少年と少女の真剣な恋。嬉しいような苦しいような感情に囚われ、運命的な流れを感じた恋。あの日、数時間前まで鍋を食べていた二人には、一秒、一秒が大切な時間だった。なぜならあの日を最後に、司はNYへ向かうことになっていたからだ。二人にしてみれば最後の晩餐とも言えた鍋だった。

そして今、こうして黙ったままの二人の間に流れる時間は、あの時と同じ時間。
一秒一秒の時間の経過と沈黙が、あの日の光景を思い出させていた。
そしてあの日、島で二人が経験した思いは、互いを深く愛する思い。感じたのは、決して離れたくないという思いだ。




つくしは司に連れられ、船内の様子を見て回ったが、豪華なクルーザーは、普段はここから1770キロほど離れたフロリダ州のマイアミにあるという。1770キロと言えば、東京から沖縄の船旅の距離とほぼ同じだ。そして所要時間が約50時間だというのだから、このクルーザーは遅くとも2日前には、マイアミを出航していたことになる。そうなると、やはりこの旅は、つくしがNYに到着する前から計画されていたことになる。

船内の見学を終えたつくしは、船長に話しがあるといって操舵室へ行った司と別れデッキへと戻った。そして手すりのそばに行き、海を眺めていた。
そして滋の言った言葉を考えていた。
心を開放しなきゃ。素直になりなさい。どちらの言葉も昔からよく言われてきた言葉だ。
自分の心に正直でいるべき。自分の心に背いては駄目。分かっているつもりでも今のつくしには、何をどう司に話せばいいのか分からなかった。

『言いたいことがあれば言え』

まるでつくしの心の中を見透かしたように言うその言葉。
確かに伝えたいことはあるが、言葉の順序を考えた方がいいのだろうか。それともありのままに伝えた方がいいのだろうか。

海風がワンピースの裾をそよがせ、懐かしい香りが漂った。
その香りはいとも簡単につくしの意識を占領する懐かしい香り。

「コーヒーでも飲むか?用意させるぞ?」

司が傍にやって来て尋ねた。

「・・うんうん・・今はいいわ・・食事のとき2杯飲んだから」

「・・そうか。もし欲しいものがあるんなら遠慮なく言ってくれ」

司は手すりに腕を乗せ、海を見つめた。

つくしは隣に立った司に視線を向けた。

「綺麗な海ね。はじめて来たけど、いい所ね?」

「そうだろ?俺も滅多に来ねぇけど、いい所だ」




つくしは黙っていた。司もそれ以上口を開こうとはしなかった。
それから二人は暫く無言で海を見ながら、太陽と風を感じていた。
果てしなく続く海はどこまでも青く、そして穏やかだ。
その中で司は気付いていた。つくしが何かを考えていることを。
そして言葉を選んでいることを。

それは、自分に伝えたい言葉であると分かっていた。






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2017
08.07

時の撚り糸 16

司は、今朝テラスでつくしと一緒に食事を取るつもりでいた。
だがそれはNYからの1本の電話に阻まれた。急遽取った休暇にそういった電話がかかることは、分かり切ったことだ。何しろ今まで休暇など取ったことがなく、仕事に全神経を傾けてきた男の突然の行動が、社内を混乱させたことは間違いないのだから。

だが今はあの頃のように会社に何かが起きるといったことはない。それにもし何かあったとしても、己の手で立て直す自信がある。その自信をつけたのは、この9年間だった。
それに、この機会を逃せば、彼女は見合い相手と結婚してしまうはずだ。だからこそ、この機会を逃さないと自分に誓うことにした。

その為には、つくしの考えを受け入れはするが、ただそれだけではないということを心に決めた。

そして、ひとつだけはっきりとしたことがある。
まさにこれはわくわくするほど望ましいチャンス。カリブの島でつくしに寄り添うように過ごすことにしたが、なにしろ10日間しかない。そしてそのうちの1日は終わった。あと9日間が終れば、またあの灰色の街へ戻らなければならない。だが一人で戻るつもりはない。

近くにいさえすれば、彼女を感じ、見つめることが出来る。若い頃は短慮と言われた司だったが今は違う。考えることなく行動に移すといったことは、なくなったはずだ。だが思わず口づけていた。




いきなり口づけをされ不意を突かれたのはつくしだ。
それは9年ぶりの口づけ。
昔の恋人とキスをするといったことが、衝撃的かと問われれば、そうだと答えるはずだ。
そして、その衝撃度合いを示せと言われれば、なんと答えればいいのか。
大きな手が両側から頬を包み、上向かせた形で降りて来た唇は、躊躇いなど感じさせない深く求めるような口づけ。それは恋人が愛しい人の全てを欲しがるような口づけだ。

司が結婚していた頃、付き合い始めた二人の関係に戸惑っていたつくしは、彼の口づけを受け入れることに躊躇っていた。それは罪悪感を覚え、自分自身を納得させることが出来なかったからだ。だが司はそんなつくしに躊躇うことなく口づけを繰り返した。そしてつくしも、それがいつの間にか当然のことと受け止めていた。

つくしは今この瞬間どうすればいいのか分からなかった。それでも頬を包む大きな両手に手を添え離そうとした。しかし、司は引かなかった。むしろつくしの手が添えられたことで、益々強く彼女の顔を引き寄せた。
息をしなさいと自分に言い聞かせてみても、大きな手に頬を包まれ、しっかりと唇を合わせてきた司に頭が混乱していた。
やがて、長々と続いた口づけは終わり、司がクシャリと彼女の髪をひと撫でした。
そして身を引くと、じっとつくしを見つめていた。

暫くぼんやりとしていたつくしが口を開いたのは、たった今キスをして来た男が得意そうに笑みを浮かべたからだ。だが言葉が出なかった。
笑みを浮かべたその顔に、何か言い返そうとするが、長々と続いた行為に頭が混乱し、息をするのを忘れていた。そして今は呼吸を繰り返すのが精一杯で言葉に詰まったままだ。

その態度に、司はつくしが文句を言いたくても言えない状態だと思うと、頬が緩み、眉が片方上がった。

「牧野。言いたいことがあるなら言えよ?」

そうは言ったが、司にしてみれば、つくしが何を言おうが、何を考えていようが関係なかった。彼女のペースに合わせると言ってはみたが、もし本当に彼女のペースに合わせれば、二人の関係が進展するとは思えないからだ。


そのとき、一陣の風が吹き、司が撫でた髪がつくしの顔に纏わりついた。
たった今口づけた唇にその髪が掛かると、彼女は右手で払い、耳に掛け、気は確かかといわんばかりに大きく見ひいた瞳で司を見返していた。

「い、いきなりなにするのよ!」

キスの不意打ちから完全には立ち直ってないが、言葉ははっきりとしていた。だが、詰まりながらで動揺が隠せないようだ。

「いきなりか?けどキスしたかったからキスした。何しろ9年ぶりだろ?おまえとのキスは」

「あ、あんた昨日あたしに何て言った?あたしのペースでいいから、自分とのことを考えろって言ったわよね?それなのに言ってることとやってることが全然違うじゃない!」

突然のキスも熱く見つめる視線も想定していないはずがない。
たとえ二人の間に9年という年月があったとしても、互いの性格は知り尽くしているはずだ。何しろ、二人は結婚を約束した恋人同士だったのだから。

「ああ、そのことか?確かにおまえのペースでいいって言った。・・けど言い忘れたようだ」

「な、何を言い忘れたっていうのよ?」

「俺は紳士でいることを止めた」

その言葉にぽかんとした顔をしたのはつくしだ。
「はあ?」

「聞こえただろ?おまえの前では紳士でいるのを止めたんだ。それにな。滋に言われた。不良中年になれってな」

司の言葉を、日本語の文法の間違い探しをするようにかみ砕いている様子が見て取れた。

「俺が言った意味は文字通りだ。何も難しく考える必要なんてねぇだろ?」

かつて日本語が不自由だと言われた男は、いまでは英語を母国語のように話すことが出来た。そんな男だからこそ、日本語がおかしいのではないかと思うつくしは、不良中年という言葉の意味を推し量っていた。

「牧野。何もそんなに考えることねぇぞ?俺が高校時代不良だったかって言われれば、それは広い意味でそうだったはずだ」

確かにそうだ。
制服があっても着ることはなく、授業に出席することもなく、やりたい放題の学生時代だった。だがそれが許されたのは、道明寺司という名前の男だったからだ。

「俺はもう一度あの頃に戻っておまえの心を取り戻すって決めた」

今、司を見つめるつくしの顔はとても平静とは言えず、いったい何と答えようかと言葉を探す様子が見て取れた。

知り合った頃は、鼻っ柱の強い女だと思った。
そんなところも司が好きになったところだったが、それから付き合いを深めていくにつれ、それだけの女ではないことを知った。初めから順風満帆とは言えなかった二人の交際も、年月を重ね大人になれば、彼女の中にある繊細さといったものを知った。
そうだ。彼女は繊細な部分を持ち合わせていた。

この9年で彼女は別れた頃より、自分を隠す術を知っている。
戸惑う心で上手な返事を探すのは年を取った証拠かもしれない。
相手の気持ちを推し量ろうとすることもあの頃より上手くなったとすれば、それも年をとった証拠。つまり、あの頃よりも自分の心を隠すことが上手くなったということだ。

だが、つくしが司のキスを無視できるわけがなかった。

言葉を蘇らせたい。
心に溜め込んで来た思いがあるなら、それを言葉にして欲しい。
心の奥にあるものを吐き出して欲しい。
そうすることが、二人の人生の新しいスタートとなるはずだ。
そして、二人が残してきた哀しみといったものがあったとすれば、それを取り除いてやることが自分の役目だと司は思っていた。





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2017
08.06

金持ちの御曹司~Crazy In Love ~

大人向けのお話です。
未成年者の方。またはそういったお話が苦手な方はお控え下さい。
なお、イメージが著しく壊れる恐れがありますので、笑って許して下さる方のみどうぞ。
****************************************






「ねえ・・もしかして道明寺支社長ってゲイなんじゃないの?」
「うそ!」
「だってさぁ、支社長って女の噂って全然聞かないでしょ?」
「うん・・確かにそれは言える。あれだけのイケメン支社長に女の影がないなんて信じられないけど、絶対に彼女がいるわよ!」
「そうよ!支社長ってアメリカ暮らしが長かったんだから、アメリカに彼女がいるんじゃない?」
「確かにねぇ・・それも考えられるんだけど、それにしても全然噂にならないじゃない?それって変じゃない?それにパーティ―で取引先のご令嬢とか、美人女優とか、モデルとか支社長の周りに集まっても全然興味なし。むしろ、そんな女が自分の周りにいることが汚らわしいって感じなのよ?」
「それはやっぱりアレよ?アメリカにいる彼女のことを愛しているから相手にしないだけでしょ?」
「そうかなぁ・・」
「そうよ!」
「でもさ、あたし変な妄想しちゃった。支社長のご友人で花沢物産の専務がいるじゃない?」
「え?もしかして花沢類さん?」
「そう!支社長と花沢さんって実は・・・だったりして!ほら、長年の男同士の友情がいつの間にか愛情に変わってた・・なんて!」







俺が?
女に興味がない?

司はたまたま耳にしたその話に頷く部分もあった。
ご令嬢とか、美人女優とかモデルとか一切興味がないのは話しの通りだ。そんな女が傍にいることが汚らわしといった意見は正しい。それに愛しい牧野と出会うまで、低俗で薄汚く、すぐに泣く女なんぞ反吐が出るほど嫌いだった。

けれど、その先の会話に眉をひそめた。
なんで俺がゲイなんだ?
それにどうして俺が類とそんな関係に陥る必要がある?
俺の頭にあるのは牧野と早く結婚したい思いだけだ。
おまえら仕事中に変な妄想すんじゃねぇよ!
仕事中は仕事に集中しろ!!



司は支社長室に戻り、革張りの椅子にドカッと腰を下ろし、イタリア製の高価な靴に包まれた両脚をデスクの上へ乗せた。
そして上体をそらし、胸の前で腕を組み、目を閉じた。
頭の中を過るのはつくしとの結婚式の場面。
白いドレスを着た牧野と白いタキシードに身を包んだ俺。
教会を埋め尽くす沢山の花。オルガニストが演奏する結婚行進曲。
ヴァージンロードを歩いて来る牧野。
・・あいつもうヴァージンじゃねぇけど、そんなの関係ねぇよな?

そうだ。今、頭の中にあるのは俺と牧野の結婚式だ。
そのためには、まずは女の前にひざまずいてプロポーズをするのが男の俺の役目。
OKを貰えばそれから彼女の指に指輪を嵌める。
そして立ち上ってキスをする。
これでプロポーズは完了する。
実は今までそれに近いことは何度もやってる。
けどアイツまだ仕事したいだなんて言いやがるから結婚出来ないでいる。
こうなりゃいっそのことあの女、クビにしてやろうか。
・・けど、そんなことしたら口利いてもらえなくなるから止めとく。


ところで逆に女が男の前にひざまずいてヤルことを知ってるか?
フェ・・・。
今それを口にすれば、間違いなくこの場の空気が乱れるから止めとく。
言っとくがフェラガモでもフェンディでもフェラーリでもない。
けど、なんでよく似た言葉はどれもイタリア語だ?
それにカタカナにしてみれば、どれもこれも同じ文字数だ。
ああそうか。語源はラテン語の『Fellare』(吸う)から来てるからか?
・・おい、待て。フェラーリは『Ferrari』って書くが、なんかスペルまで似てねーか?
これじゃあフェラーリ見るたび牧野が俺の前にひざまずいてヤッてるところを想像しちまう。
そしてその瞬間、30秒も経たないうちにカチカチになるアレ。
口に咥えられるとあまりの気持ちよさにうめき声が上がるが、執務室でヤル時には声が漏れねぇようにしねぇと西田に気付かれる。
・・けどアレは男が無力になる瞬間だ。
何しろ男の身体の中で一番デリケートな部分を咥えられてる。
ヤッてもらう時はある意味で命を預けるようなもんだ。
万が一のことがあって、もしその部分がどうにかなっちまって使い物にならなくなったら大変だ。万が一のことか?そりゃ色々あるだろうが。
歯を立てるのは構わねぇけど、喰いちぎられるなんてことになったら男としての役目が終っちまう・・。
まあ牧野がそんなことするはずねぇけど?

それにしても、あの行為は自尊心がくすぐられる。
なにしろどんなに強気の女でも男の前にひざまずけば、男を崇め立てる姿勢になることは間違いないからだ。

そう言えば一度フェラーリの中で牧野にヤッてもらったことがあったが、今思えばあれは夢みてぇなことだったな。
フェラーリの中でフェラ。
それも運転中に牧野にごっくんしてもらった。
あん時はハンドルさばきを誤れば崖からダイブすんじゃねぇかって感じだな。
まさに昇天させられるってのはアノことだ。
けどフェラーリでフェラされながら昇天。
そんなことになったら笑い話になんねぇ・・。
・・それにしても、アイツはいつになったら俺と結婚してくれるんだ?







「・・司。俺はおまえを牧野に渡さないよ」
「類!」
司が閉じていた目を開いたとき、デスクの前にいたのは類。
「・・おまえ、いつの間に来たんだ?」
司はデスクの上から両脚を下ろし、類を見た。
「いつの間にって、司は寝てたから気づかなかっただけだよ。・・ねえ司、今俺が言ったこと聞こえたよね?」
「・・俺を牧野に渡さないって・・いったいどういうことだ・・。まさかおまえまだ牧野のことが好きなのか?」
学生時代、一時つくしを巡って二人が火花を散らしたことがあった。
「まさか・・違うよ。俺が好きなのは司だよ・・気づいてたんだろ?俺の気持ち」
類は呟き、司を食い入るように見つめながら近づいた。
「・・いったい何の話だ・・」
「司。聞こえただろ?俺は初等部の頃から司が好きだった。自分がゲイだってことはもう随分と前から気付いてたけど、そんな俺は長い間自分を否定し続けた・・。だけど司が牧野と結婚するって決めたって聞いてもう自分を抑えることは止めた・・。だから司、一度だけでいいから俺のものになって」

類はひざまずき、司のスラックスのベルトを掴み、バックルを外し、ファスナーを一気に引き下ろし、ボクサーブリーフの上から股間を愛撫した。そして、心得た手つきでブリーフをずらし、まだ柔らかさの残るペニスを引き出し、しごき始めた。やがて硬さが感じられると、口に咥え喉の奥深くまで一気に差し込んだ。そこまでの行為はあっという間の出来事。司は、何が起きているのかと気づいた時には、類のペースで物事は運ばれていた。

「る、類っ!」

司の口からむせぶように名前を呼ばれ、類は唇の愛撫を繰り返し、睾丸を手のひらでこすり、
そして頂きを吸い、舌を根元に向かってゆっくりと滑らせた。

「・・類・・止めろ・・止めてくれ・・」

だが類は止めようとしない。
司の前で床に膝をつき、唇でしゃぶる男は根元までしっかりと咥え、離そうとはしない。
ズズッと音を立て吸い上げ、先端を咥え、歯を立てた。そして充血した亀頭を弄びながら手のひらは睾丸を揉んでいた。

「る・・類ッ・・」

類の舌と唇は敏感な箇所を的確に攻め、完璧なリズムで強く吸った。
吸い上げられる力が強くなればなるほど、司は経験したことがない境地に入った。
飽くことを知らない類は、一段と熱がこもったように貪り、離そうとはしない。
そして、上から下へ、下から上へと舌を這わせ、手と口は貪欲に司を貪った。

「・・クッ・・」

司は頭がくらくらすると、太腿の間に埋もれた類の頭を掴み、無造作に見えながら、実は念入りにスタイリングされた髪に指を絡めた。それは、幼い頃から知る友のサラサラとした髪。
その髪が下腹部を擦り、やがてチュパチュパと音を立て始めた。

「・・クソッ・・る・・い・・」

類が吸うたび司は悶絶を繰り返し、頭が痺れ、やがて目の焦点が合わなくなり、全身が緊張し、腰が椅子から浮き上がり前へと突き出した。そして頭をのけぞらせた瞬間、身体に戦慄が走った。







司はパッと目を開いたとき、ハアハアとした息遣いと共に己の身に何が起きたのか自問自答した。そして慌てて下半身に目を落した。
大丈夫だ。スーツは乱れることなく、スラックスのファスナーも閉められていた。
だが、嫌な汗が額を流れていた。
百歩譲って夢だとしても、見たくない夢だ。まさに悪夢としか言いようがない。
いつもなら牧野の夢のはずだ。なんで今日は類が出て来るんだよ!
それもなんであいつが俺を咥えてんだよ!


寿命が10年は縮んだ気がした。

司は罰当たりな言葉を吐き、デスクに片肘をつき、ガクッと項垂れた。
その姿勢はロダンの彫刻『考える人』が更に大きな苦悩を与えられ、打ちひしがれているように見えた。

そんな司に扉を開け入ってきた秘書の西田が声をかけた。
「支社長。お顔の色が悪いようですが、どうかされましたか?」
どうかされたのかと聞かれても、男に股の間を咥えられていたと言えるはずがない。
「いや・・なんでもねぇ・・ちょっと・・心の病だ」

そうだ。これは心が病んでいるに違いない。
何しろ牧野と1週間も会ってない。
そして司はショックを受けていた。
類にあんなことをされた夢を見てしまったことを。

「そうですか・・。それでは我社が後援する『心と身体の健康のためのセミナー』についてですが、ご参加されるということでよろしいですね?」
「・・西田。誰が心と身体が病んでるって?」
「はい。先ほどちょっと心の病だとおっしゃいましたので」
「・・・・西田。悪いが暫くひとりにしてくれ」


司は、もしかすると、己の日頃の行いがあんな夢を見させたのかと思った。
だが、ここ何年も品行方正と言われていた。ガキの頃のように誰かを貶めるようなことはしていないはずだ。
だが少し時間が経ち、夢の衝撃が収まると、西田を怨んだ。
クソッ。西田の野郎。なんで今日に限って途中で止めに来ねぇんだよ!
最後までイッちまったじゃねぇか!


類の顔は暫く見たくねぇ。


まあいい。
今日は牧野が海外出張から戻ってくる日だ。
類を忘れるくらい思いっきり抱いてやる。










ドイツの詩人ゲーテが言った『忍耐は美徳』って言葉があるが、今の俺に忍耐なんて言葉は関係ない。だいたい忍耐なんて言葉は高校時代、牧野を追いかけ回した時に使い果たした。
それに彼氏と彼女の間で忍耐なんて言葉不要だろうが。
ついでに言っとくが、自制とか我慢とかって言葉も不要だ。
いや。待てよ?俺は今でも耐えてるところがあるような気がする。

司はマンションまでたどり着くと、出張先から帰ってるはずのつくしを探した。
「・・牧野?」
とベッドルームの中にいたその姿は、バスタオルを1枚身体に巻いた状態。
シャワーを浴び、そのまんまベッドに倒れこんだとしか考えられねぇ。
その証拠にすっかりおなじみになった俺と同じ香りが鼻腔に広がった。
おい牧野。その恰好でベッドに横になるってことは、俺を誘ってるとしか言えねぇってこと分かってんのか?
そのとき、うーんと呻いて身体の向きを変えた牧野。
「・・・・・」
けど起きる気配全くなし。
起きてくんねぇかな・・
こんな時試されるのが、自制とか我慢とか、やっぱり忍耐。
けど、据え膳食わぬは男の恥って言葉もあるし、こいつが裸にバスタオル1枚なんて俺を待ってたってことだろ?
牧野?いいよな?いいんだよな?いいっていってくれ!
ま、別に言わなくてもいいよな?
司はスーツを脱ぎ捨て、シャツを脱ぎ、全てを脱ぎ捨てベッドに乗り上げつくしを上から見下ろした。
そのときぱっと開かれた大きな瞳。
「・・・あれ?・・どうみょうじ?帰ったんだ・・お疲れさま・・」
半分寝ぼけた様子の牧野。
「ああ。ただいま」
「・・?あれ?なんで道明寺ハダカ?」
「なんでっておまえが裸で寝てるからだろうが」
「え?」
「おまえ、裸で俺を待っててくれたんだろ?そうだよな。何しろ1週間もご無沙汰だ。寂しいかったんだろ?」
「え?ええ?ちょっと待って!」
「何が待ってだよ?ホントは俺が欲しかったんだろ?遠慮するな。俺の身体は全部おまえのものだ」
「え?ちょっと!ま、待って、今起きたばっかりで・・やあぁっ・・ん・・ぁっ・・」







妄想に頼ることない本物の行為は、ふたりの魂の間で行われる行為。
それは、優しさと思いやりと愛だけが感じられる時間。
そして彼女に対する思いを深める時間。

本当は寂しかったのは俺。
それに欲しかったのは俺。
おまえがいないせいで、変な白昼夢見ちまうし、やっぱおまえが傍にいないと夢見が悪い。
ひとりで寝るなんて選択肢は今の俺には考えられない。
それにおまえをひとりにすることも出来ればしたくない。
俺とおまえで抱き合って、溶け合って、いっそのことひとつになってしまいたい。
ひとつになれば、いつも一緒にいれるだろ?

司は、自分が堪能したばかりに消耗し、ぐったりと横たわるつくしの髪をクシャリと撫でた。
それは黒く艶やかで潤いを感じられる豊かな髪。
指に絡めるのはこの黒髪以外考えられない。

そして覆う物がない身体に上掛けを引き寄せ、
眠るつくしに最高に甘い微笑みを見せ、唇にそっとキスをした。




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2017
08.05

時の撚り糸 15

アメリカのパラダイスと言われるこの場所は、朝から好天に恵まれていた。
だが日中は雨が激しく降る時間帯があると聞かされた。カリブ海諸国の気候は熱帯から亜熱帯の海洋性気候で、1日の気温差が小さく1年中温暖な気候ではあるが、雨季と乾季に別れ、5月から10月までが雨季と言われている。しかし雨季と言っても、今の所雨が降る気配は感じられなかった。


シンプルな花柄のコットンのワンピースを着たつくしは、クロワッサンを半分に割り、口に運んだ。このワンピースもクローゼットに用意されていたものだ。高校生の頃、無理矢理南の島へ連れて行かれたことがあった。あの時、シャネルへ連れていかれ、ポップな感じにしてくれと分不相応な格好をさせられたことがあった。遠い昔の話だが、何故かそんなことが懐かしく、脳裏をよぎった。


朝食はテラスでお召し上がりください、と言われ案内されたのは、昨夜熊が出たのかと思ったダイニングルームのテラス。周囲には、ブーゲンビリアやハイビスカス、プルメリアといったつくしでも分かるものから、名前も知らない南国特有の花々が美しさを競い合うように咲いていた。だが、ただ単に咲いているといった状態ではない。明らかに人の手が加えられ、整えられた状態だということが分かる。それは、無造作に見えるが計算された美しさといったものだ。

過去に司と旅に出たとき、やはり道明寺家の別荘を利用したことがあったが、年に一度来るか来ないかといった場所でさえ管理の手が行き届いていた。それがごく当たり前なのが彼らの世界だ。つくしも司と付き合っていた当時、その当り前さを目の当たりにしたことがある。そして、いつ主が訪れてもいいように管理されているからこその別荘だと言われたことを思い出していた。


別荘の目の前は光り輝く海だが、敷地内には楕円形の大きなプールがある。
昨日、ホッキョクグマのため氷を浮かべやるか、と言ったプールが今目の前に広がるこれかと思った。もし、ホッキョクグマが見たいと言えば、本当に連れて来る事ができるのが彼だ。

そして、つくしがたったひと言いえば、どんなことでも叶えてやるというのが司という男だ。だから迂闊に口にすることは出来なかった。思えば、つくしがひと言口にしたばかりに、翌日、狭い部屋を埋め尽くすほど花が届けられたことがあった。それはもう随分と遠い昔のことだが、おまえが望むならどんなことでも叶えてやる。それがあの当時の彼の口癖だった。

だが叶えて欲しくても叶えられなかったこともある。
それは、二人が一緒に過ごすことが出来なかった年月。
それだけは、どんなに心の中で願ったとしても叶わなかった。
そして、二人が会った最後の日が鮮明に思い出され、思わず目を閉じた。





「牧野様。コーヒーのおかわりはいかがですか?」

「あ、ありがとうございます。いただきます」

つくしは目を開くと、テーブルの傍らに立つ男性を見た。
声をかけて来たのは、普段NYの邸で仕えているという日本人男性。恐らく50代後半。
そして秘書ではなく、執事と呼ばれる立場にいる人間だということは、態度から感じられた。男性はつくし達が着く2日前にこの場所に来たと言っていた。だがこの別荘に滞在しているといった訳ではなく、別の場所に滞在し、通いだと言った。
つまりこの別荘には夜間、使用人はいないということだ。

「牧野様。大変申し訳ございません。旦那様はNYから緊急の電話がかかってまいりまして、やはりご朝食はご一緒出来そうにないとおっしゃっていらっしゃいます」

「・・そうですか。道明寺・・副社長はお忙しそうですね?」

「はい。旦那様はいつもお忙しい方ですから。ですが、こうしてお休みを取られることも必要です。やはり人間には息抜きも必要ですから。それでは、何か御用がございましたらそちらのベルでお呼び下さい」

クラシカルなゴールドのディナーベルが、テーブルの上に置かれているのを見れば、まるで植民地時代に戻ったような気にさせられ、ちょっとやりすぎのような気もした。
だがつくしの感覚からすればそうだとしても、司にしてみれば違うはずだ。
物事の捉え方といったものは、生まれ育った環境に左右されるのだから、彼にとっては気に留めるようなことではないのだろう。

つくしは、スクランブルに調理された卵をフォークで掬い口に運んだ。
朝一番、どんな顔で会えばいいのかと思ったが、とりあえず食事の間は顔を合わせることはないようだと息を吐いた。


『俺たちを取り巻く環境は複雑か?』

昨日夕食のとき言われた言葉。
確かに複雑とは言えないはずだ。
かつて二人の間にあった複雑だったと言われた環境も今はもうない。
見合いにしてもそうだ。見合いといったものは、条件を提示し、打算と計算の上に成り立つものであり、割り切った態度でひとこと断ればいいだけの話だ。それが本来の見合いのシステムなのだから。だが彼はしきりに見合いのことを気にしていた。まるで見合いをしてしまったら、結婚をしなければいけないとでも思っているように。
それは高校生の頃に行われた滋との見合いが、結婚を前提としたものだったことに由来しているのだろう。
司が生まれ育った社会では、ごく当たり前だった政略結婚。だが彼はその結婚を壊し、つくしとの未来を選んだ。
しかし、二人は結ばれなかった。


『俺ともう一度恋をしてくれ』

分け合いたかった時間を再び分け合おう。
そう言っているように感じられた。
滋から二人とも道に迷っていたと言われた9年という歳月。その歳月は失われた30代と重なるものがあった。20代後半で司と別れたつくしは、両親が亡くなったこともあったが、37歳のこの年まで積極的に何かしようといった気になれなかった。それは心のどこかで司のことを思っていたからだ。
だから司からこの9年間のことを教えて欲しいと言われても、両親のこと以外話すようなことはなかった。そして、この9年間人生の楽しみを求めなかったことが、寂しい人間だと思われたとしても、それは事実で否定できなかった。


つくしはゆっくりと食事をしながら考えていたが、テーブルに影ができ、目の前に人の気配を感じ、顔を上げた。

「昨日はよく眠れたか?」

司はつくしの目を真っ直ぐに見据えた。

「え?うん。よく眠れた・・」

つくしは突然現れた男にびっくりした。
淡いピンクのポロシャツにベージュのコットンパンツに身を包んだ姿は、たった今、厄介だと思われる仕事の電話を済ませた男のようには見えず、まるでどこかのブランドが提案する夏のバカンススタイルのモデルのように見えた。

司はフォークにスクランブルエッグを乗せ、固まったつくしの姿に微笑んだ。

「そうか。しかし、おまえは朝からでも相変わらずよく食うな。まあ、食ってる時が一番幸せなんてことがあったが、やっぱり今でもそうか。昨日もよく食ってたもんな」

確かに昨夜のディナーは完食した。
だがそれは朝食を済ませてから何も口にしていなかったからだ、とつくしは思っている。

「あのね、今あたしが食べてるのは普通の量よ?」

思わず語気が強まった。

「ああ分かってる。そんなにムキになって言うな」

と、司は笑いを含んだ声で答えた。
そして、つくしが食べ物のことになると、相変わらずムキになるところがおかしかった。

「・・道明寺は・・これから食事?」

「いいや。俺はさっき仕事しながらコーヒー飲んだからいい」

つくしは、高校生の頃から司が朝食を食べる習慣がなかったことを思い出していた。

「それでもたまには食う事もあるぞ?ブレックファーストミーティングの時くらいだがな」

NYではよくある朝食と取りながらの社内会議。
健康を考えたメニューも多く、白身卵、ほうれん草、柑橘系サラダといった組み合わせのものから、ベーコンや卵料理、ソーセージ、マッシュルームやトマトなどが付くフルバージョンのイングリッシュブレックファーストの時もあった。

「・・ちゃんと食べなきゃ身体に悪いわよ?」

「それならおまえが食わせてくれ」

司がつくしの部屋へ泊っていった時は、彼女の作る朝食を食べていた。それはご飯に味噌汁、卵焼き、焼き魚といった日本人なら誰もが知る典型的な和定食から、洋食の時もあれば、パンケーキが出されることもあった。
だが最後の日だけは食べることはなかった。別れる二人が最後の食卓を囲むことほど悲しいことはないからだ。そして、それは高校生の頃、二人で鍋を囲んだ時を思い出させるからだ。
あの時の別れを踏襲するなどしたくはなかったからだ。

「食わせてくれって・・た、頼めばいいじゃない。ほらそこにベルがあるんだから呼べば_ちょっと!それあたしの_」

司はつくしの皿からソーセージを摘まみ上げ、口に放りこんだ。
そして咀嚼するとニッと笑った。

「おまえ、ソーセージひとつぐれぇで騒ぐなって。それにその卵料理食べんのか?それとも俺に食べさせてくれんのか?」

つくしの右手に握られたフォークにはスクランブルエッグが乗ったままだ。
彼女はそれを慌てて口に入れた。

「それより、メシ食ったら出掛けるぞ」

「で、出かけるって・・」

「おまえこの島に何しに来たと思ってんだ?休暇だろうが。バカンスだぞ。まあ、おまえがここから出たくねぇって言うなら、一日中ベッドで過ごしてもいいぜ?」

司を見るつくしの黒い瞳には、動揺が感じられた。
元恋人で身体の関係があった相手に今更何を動揺する必要があるのか。
それでも何故かつくしは動揺していた。

「冗談だ。いくら俺がおまえに飢えてるからってガキじゃねぇんだ。襲ったりしねぇよ。いいから行くぞ?それともまだメシ食うのか?おまえなぁ、もう若くねぇんだからそんなに食ってるとその脂肪、そのまんま身体につくぞ?」

つくしの皿に乗ったベーコンの切れ端は、フォークに刺され、彼女の口に消えた。

「うるさいわね。そんなこと言うならあんただってそうでしょ?」

「俺は昔と変わんねぇな。体脂肪率なんて20代前半と変わんねぇし、腹だって割れてるしな。なんならここで見せてやろうか?」

と、司はシャツの裾を掴むと脱ごうとした。

「ちょっと、いいからっ!脱がなくていいから!」

つくしは、何故自分が元恋人の裸を見ることに、こんなに動揺しなければならないのか分からなかった。そしてさっきから交わしている発言にしてもそうだが、昨日おまえのペースでいいからと言った男は、自らのペースにつくしを引きずり込もうとしているように感じられた。それだけに、つくしは自分が熱くなりすぎていることに気付くと、司から視線を反らした。すると、そのことに不満がある男は少しムッとした低い声で言う。

「何だよ?おまえは恋人の裸を見るのが嫌なんか?」

つくしは司のペースに巻き込まれまいと、彼の言葉を無視することにした。
そのとき、温かな大きな手が両側から頬を包み込み、つくしの顔を上向かせた。
そして、視線を合わせた。

「俺は元恋人でいるつもりはないって言ったよな?俺は今でもおまえの恋人でいるつもりだ。それから言っておくが、俺に反論するのは構わねぇ。言いたいことは言えばいい。だけどな、俺を無視することはしないでくれ」

つくしが司の瞳に見たのは、渇望。
その刹那、司に唇を塞がれていた。





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2017
08.04

時の撚り糸 14

司はつくしが自分と別れてからの9年間が知りたかった。
過去は気にしない男だ。とは言え、彼女のこの9年間のことは知りたいと思った。
もちろん、司がその気になれば、簡単に分かることもある。だが本人の口から聞きたいと思った。それが余計な詮索になると言われ、話したくないと言われれば無理にとは言わない。

だが、話して欲しいと思った。我ながら矛盾した考えだと思うが、いったん頭に引っかかったことは、はっきりさせなければ気になる性格だ。だがそれが性格だけのせいではないことは、分かっていた。性格云々ではない。彼女のことだから気になるのだ。それがたとえどんなに些細なことでもだ。今思えば、この9年間、よく彼女のことを封印して過ごせたものだと思う。

時は戻せない。だから過去に嫉妬するようなことがあったとしても、今の自分なら受け入れられる。彼女と再び恋をするため、乗り越えなければならないことがあるなら、乗り越えてみせる。
そうだ、やり直すのではなく、再び恋をすればいい。
恋をするのに遅いも早いもない。一度は心から結ばれた男と女だ。初恋を再び甦らせばいい。

出会った頃の二人は、命がけの恋をした。
何もかもが違った二人だったが、結ばれたのは運命だったはずだ。
そしてそれは純愛だ。ドラマティック過ぎると言われた恋だ。
事実、彼女と出会ったことで全てが輝き、胸がときめいた。
暗闇にいた男の周り全てが輝き始めた。人をあんなに好きになったのは初めてだった。
そして優しさと強さといったものを知った。

あの頃、愛し方さえ知らなかった男だったが、今は違う。愛し方なら百通りでも思いついてみせる。それに恋にルールはないはずだ。胸の中だけに留めておく思いなどクソくらえだ。



つくしは真剣な眼差しで司を見つめてきた。
その眼差しは、かつて何度も見た眼差し。決して見知らぬ他人を見るような眼差しではない。
嘘は嫌いといった真っ直ぐな瞳。いつも真実だけを見たいといっていた瞳。司が知っていたもっとも正直な瞳。それなら彼女の口から語られる言葉は、すべて真実だと思ってもいいはずだ。

「・・いったいあたしの何が知りたいの?」

ゆったりと椅子の背にもたれた男のつくしを見つめる目は、目の前に置かれた料理に興味はないといった目だ。そしてそれはつくしの目と同じで真剣な目。

「おまえのことなら何でもいい。この9年間何があったか・・。おまえが話してくれることならなんでもいい」

何でもいい。
本当に何でもよかった。何か習い事をしている、どこかへ旅行へ行ったでもいい。自分が知ることがなかった、知ろうとしなかった9年間。彼女が経験し、感じ思ったことを知りたかった。

「・・そんな・・話すことなんてないわ。・・仕事はずっと同じ会社だし、住んでる所も変わってないわ。それに両親が相次いで亡くなったからすることはいくらでもあったけど、それ以外話すようなことなんてないと思うわ。暫くは何もする気がなくなったしね」

両親が相次いで亡くなり、心の中にぽっかりと穴が開いたようになった状態だった。
彼女の言葉はそう伝えているように思えた。
ひとりきりで泣いていたはずの彼女の傍にいてやりたかった。
肩を抱き寄せて慰めてやりたかった。

両親という存在は、無条件で自分を愛してくれる人間であり精神的な支え。たとえ彼らがどこか頼りない存在だとしても、家族としての絆は他人には分からないものだ。


つくしは、司が黙っているのは、その先を促していると感じ言葉を継いだ。

「父が亡くなって母が一人暮らしだったアパートの片づけに時間を取られることも多くてね。人が暮らしていた痕跡を片付けるっていうのは、思ったより大変だった。家具とか電化製品とか処分するのも結構大変で・・それに簡単に捨てれるようなものばかりじゃないし、思った以上時間がかかるものなの。それに整理してたら、懐かしいものとか出て来ると、つい見入っちゃうから余計に時間がかちゃうし、捨てるには勿体ないって思うものもあるから、どうしようかって悩んじゃうしね・・本当、結構大変なのよ?・・こんな話、あんたにはあまり関係のないことかもしれないけどね」

遺品整理といったことを司はしたことがない。父親が亡くなったとき、事業と財産の相続はあったが、生前故人が使用していたものを処分するといったことには縁がない。広大な邸に
物を置くのに困るといったことは無縁なのだから。
それに、父親の遺品がいつまでもその場所にあったとしても、誰も文句など言わないからだ。だが賃貸物件はそうはいかない。早々に退去しなければ家賃が発生する。

「あたしも弟も仕事してるから、日曜にしか行けないでしょ?だからなかなか前に進まなくて、それでも早く済ませて次のことをしなきゃいけないし、休みの度に通ってた。とにかく3回忌とか、色々立て続けにあって忙しいってのもあったし、することはいくらでもあったから・・それにね、今年は父の7回忌で丁度それが終ったとこよ。これで父のことは一区切りつけることにしたわ」

誰もが経験する親の死。それは避けて通ることが出来ない人生の一端。
そして人は亡くなった後も色々あるということは、司も自分の父親の経験から知っていた。

「なに?」

つくしは黙って自分を見つめて来る男をじっと見つめた。

「大変だったな、おまえも」

司は改めて言葉にした。

「うん・・まあね。でも誰もが経験することだから・・あたしの9年間は・・こんなものよ?・・あんたが興味を持ちそうなことなんてないわ」

つくしは、そこで皿に置いていたナイフとフォークを取り上げた。
だが司の言葉に手を止めた。

「・・俺たちのこと、知ってたんだろ?」

低く硬い声が司の口をついた。
司の母親が知っていたのと同じように、彼女の母親も知っていたはずだ。
結婚の約束をしていた男が、別の女性と結婚したが自分の娘と付き合っていたことを。

「・・ん・・口にすることはなかったけど、知ってたと思う。母親っていうのは、なんでも知ってるっていうか、一緒に暮らしてない娘だとしてもわかっちゃうみたい・・」

司は、思いを過去へと引き戻していた。
娘さんと結婚したいといった言葉を彼女の両親に伝えたのは、まだ10代の頃。
だがその約束が果たされることはなく、世間に顔向けが出来ないと言われる関係に陥らせてしまっていた。親にしてみれば、自分の娘がかつての恋人の愛人といわれる立場にいたことを嬉しく思うはずがない。そして、そんな道を選んだ我が子に心を痛めたはずだ。


両親を亡くし、弟は既に家庭を築き、独りぼっちになってしまった彼女。
そんな彼女が自分の幸せを求めることを始めたとしても、傍にいなかった男に何が言える?
だがどうしても聞きたいことがある。

「・・そうか。おまえの話はそれだけなら俺から聞いていいか?」

つくしは一瞬考えた。そして言葉に詰まったがいいわ、と言った。

「おまえの見合いの話だ」

滋の口から語られたその言葉に、すぐさま反応したのはつい先日のことだ。

「・・その話、話さなきゃ駄目なの?」

「ああ。聞きたい。おまえが俺以外の男と結婚しようとしてるなら、阻止する必要がある。そのためにも相手の男について知っておきたい。それにおまえ、本気でその男と結婚する気か?」

脅しの表情ではなく、真剣な顔だ。
9年間の話は、つくしの口から語られたことがほぼ全てだろう。長女気質そのものであり、根が真面目な女は自分が果たさなければならないことは、どんなことでも責任を持ってやり遂げるはずだから。
むしろ、司の目下の懸案事項は見合いをした事実と、相手がいい返事を待っているといった段階にきていることだ。つまりそれは、彼女が「いいわ」と言えば、婚約したことになる。

どんなに長い歳月を経ようと人の性格といったものは、変わるものではない。
司は、つくしに関して確信できることがある。彼女には信念といったものがある。自分が正義だと信じれば、その道を進んで行くことだ。強い意思といったものを持つ女性が、こうすると決めたなら止めることなど出来ないと知っていた。

つくしは、手にしたナイフとフォークを再び皿に置き、言葉を選んでいた。

「・・あのね・・この際だから言うわね・・あたし達もういい大人で、お互いに年をとった・・。あんたはあたしとやり直したいっていったけど、正直戸惑ってる・・。あれから9年も経ってるから・・。いきなり現れて待たせたなって言われても・・どうしたらいいのかわからないの・・・あんたと向き合いたいって思うんだけど・・」

それが彼女の、牧野つくしの正直な気持ちなら、見合い相手がどんな男だろうと司はこの勝負に勝つ自信がある。
なんでも物事を複雑に考えたがる癖のある彼女が怖がって踏み出そうとしないは、昔と変わらない。

『どうしたらいいのかわからない』

そんな言葉も遠い昔耳にしたことがある。
恋愛に対しては奥手だったあの頃放った言葉。
気持ちを読み違えていなければ、間違いなく彼女はまだ自分に気持ちがあると感じた。

「牧野。今の俺たちを取り巻く環境は複雑か?そうじゃねぇはずだ。それでもやり直すのが無理って思うなら俺ともう一度恋をしてくれ。言ったはずだ。おまえの4年を償わせてくれってな。それに俺たちの恋はまだ終わってねぇだろ?俺たちはゴールしてねぇんだ。スタートした恋ならゴールしなくてどうすんだよ?それにリタイアなんてことは認めるつもりはねぇ」

だがリタイアしてしまった事実はある。
それは司のせいでリタイアせざるを得なかったからだ。
けれど、これから10日間は二人だけの世界。頭で考えるのではなく、心で感じて欲しい。

「俺の気持ちはあの頃と変わってない。今でもおまえのことが好きだ。だから俺はおまえに対してその気持ちを隠すつもりはない。・・牧野、これから10日、この島で俺と過ごしておまえの気持ちを確かめてくれ。それから・・マイペースでいい・・おまえのペースで進めてくれればいい。その代わりおまえも自分が大人の女だと思うなら、この島にいる間に自分の心の方向付けをしてくれ」






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