『俺はおまえとやり直したい。俺はおまえを思い出にしたくない』
そんな言葉で始まった奇妙な休暇。
2階建ての別荘からは白い砂浜と海が見え、潮の香りを感じることが出来た。
強い陽射しを浴びた海面は眩しいほどの輝きを放ち、風は吹いているが波は穏やかだ。
目の前に広がる海はただひたすら青く、広く、水平線は真っ直ぐで遮るものは何もない。
つくしは、NYにいる大河原滋を訪ねて来たはずだった。
だが今はこうしてカリブ海の島にある司の別荘にいた。
まさか海辺で過ごすことになるとは思いもしなかっただけに、荷物の中に、南の島で過ごすに適した服は、持ち合わせてはなかった。だがそんな心配をする必要がないのが、司のような男のライフスタイルだ。いつどこに身体ひとつで行ったとしても、クローゼットの中には、当然のように洋服が揃えてある。
そして、つくしの洋服がクローゼットにずらりと揃えられているのは、やはりこの旅は、初めから滋に仕組まれていたものだったと改めて納得した。
つくしも司や滋との付き合いから、ここに揃えられている洋服が、かなり値の張るものだということを知っている。なぜなら、目の前に並ぶのは、5番街に店を構える超一流と言われるブランドのものばかりだからだ。
その中から手にした一着が、果たして海辺で過ごすカジュアルなスタイルと言っていいのか疑問が残るところだが、ノースリーブのアイスブルーのワンピースはブランドもので、サンダルも帽子も同じブランドの名前が記されていた。
氷河が溶けたような水の色とされるアイスブルーは、見ているだけで涼しげな雰囲気があった。クールな色は、爽やかな大人の印象を与えるが、どこか甘さも感じさせた。だがこの色は、色の白い人間でなければ、着こなすことは出来ない透明感を感じさせる色。
このチョイスは間違いなく司のものだと感じていた。
子供の頃から常に最上の物を身に纏ってきた男はセンスがいい。それは環境がそうさせたのか、それとも生まれ持ったものなのか。それはおそらく後者。そして、元恋人であるつくしには、何が似合うかを知り尽くしていた。
9年も全く連絡を取ることのなかった二人が、これから10日間同じ屋根の下で夜を明かすことになるとは思いもしなかった。
だが、NYを訪れると決めたとき、心のどこかで望んでいたのかもしれない。
彼と会うことを。
正直、彼に会ってみたいと思った。
と、同時に怖かったのも事実だ。滋を訪ねたはずの今回の旅は、NYという街にも、彼にも未練はないはずだと自分自身に言い聞かせるためだった。
つくしは、明朗闊達とまでは言わないが、朗らかで明るい少女だった。
だが、感情的なことを考えれば、そうではない。細かいことをうじうじと考えてしまうことがある。それは高校時代、彼のことが好きだった頃からそうだった。
そんなつくしが見合いをしたのは、叔母の勧めもあったが、彼と別れたことへの、気持ちの整理が出来たと思ったからだ。そして、9年前に人を愛するということを止めてしまったが、それでも、また人を愛することが出来るか確かめたかったこともあった。
だが、見合い相手に、かつて心が感じていた人を愛するといった気持ちを持つことはなく、胸が熱くなるといったことはなかった。
別にひとりでいることが悪いとは思わなかった。
それでもふと思うことがあった。
人恋しいと。
彼が恋しいと。
さよならを告げたとき、彼には、道明寺家には、正式な妻から生まれる子供が必要だと思った。
だが、別れて暫くして自分自身に問いかけてみた。
すると、別れた理由はそれだけではないということが分かった。
ひとりでいることが、苦になることはなかったが、それはああいった関係に陥る前の自分がいたからだ。
当時、NYと東京での遠距離恋愛は既に7年にも及んでいて、その距離に、時間に慣れてしまった状況があった。そしてその延長ともいえる状況でのああいった関係だったのだから、ひとりでも耐えることが出来た。
それなら何が別れることを決めた要因だったのか。
それは、二人が会い、それから彼が部屋を後にするたび、再びこの場所へ戻ってくることが無いのではないかといった思いだ。
つくしが、あのとき向き合っていたのは、自分の心にある不安と孤独感だ。
決してそんなことはない。愛されていると分かっていた。
彼の愛に偽りを感じたことはなかった。それでも夜が明け、去っていく後ろ姿を見つめ、ひとり部屋に残され、空の彼方へと去っていく姿を思えば、愛された余韻が消えて行くような気がした。そしてひとり残されることが耐えられなくなっていた。
会えば嬉しかった。
会える日を指折り数えるが、待ち遠しささえ楽しく思えた。だが会えばその感情も消える。
そして、離れる日は辛く、離れてしまった後は苦い後悔に襲われていた。
それは、彼を愛するということは、誰かを傷つけるということだ。
それが例え政略結婚をした相手だとしても、つくしが知らない人間だとしても、罪の意識は常にあった。
不倫という二人の関係が始まった頃、確実な未来が欲しいと望んだことはない。
それでも時間が経てば、感情が錯綜するようになっていた。
これでいいのだ。このままでいいという自分もいたが、もう一人の自分は、今のままでいいはずがない。と呟いていた。
9年間、意識するなという方が無理だった。
彼と別れ、暫くその別れを引きずった。
だが、そのうち彼のいない日常生活が当たり前のように思えるようになっていた。
その時は自覚がなかったが、心というものは、気付かないうちに色んなものを溜め込んで行く。つくしの場合、それはもう誰も愛せないのではないかといった思い。見合いをして、改めてそれを実感した。
確かに、若い頃は気丈だと言われた。それでも、人は年を重ねていけば変わることもある。
9年という歳月を隔て再会した元恋人は、まだ私のことを好きだと言った。
あれから気持ちは変わっていないと言った。
だが、37歳になったつくしは、長い歳月を経て再会した元恋人に対して臆病さといったものがある。
素直に差し出された手を掴んでもいいのだろうか。
手放してしまった恋をまたこの手に掴んでもいいのだろうか。
遠い日々の想い出をもう一度蘇らせてもいいのだろうか。
心が揺れていた。

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そんな言葉で始まった奇妙な休暇。
2階建ての別荘からは白い砂浜と海が見え、潮の香りを感じることが出来た。
強い陽射しを浴びた海面は眩しいほどの輝きを放ち、風は吹いているが波は穏やかだ。
目の前に広がる海はただひたすら青く、広く、水平線は真っ直ぐで遮るものは何もない。
つくしは、NYにいる大河原滋を訪ねて来たはずだった。
だが今はこうしてカリブ海の島にある司の別荘にいた。
まさか海辺で過ごすことになるとは思いもしなかっただけに、荷物の中に、南の島で過ごすに適した服は、持ち合わせてはなかった。だがそんな心配をする必要がないのが、司のような男のライフスタイルだ。いつどこに身体ひとつで行ったとしても、クローゼットの中には、当然のように洋服が揃えてある。
そして、つくしの洋服がクローゼットにずらりと揃えられているのは、やはりこの旅は、初めから滋に仕組まれていたものだったと改めて納得した。
つくしも司や滋との付き合いから、ここに揃えられている洋服が、かなり値の張るものだということを知っている。なぜなら、目の前に並ぶのは、5番街に店を構える超一流と言われるブランドのものばかりだからだ。
その中から手にした一着が、果たして海辺で過ごすカジュアルなスタイルと言っていいのか疑問が残るところだが、ノースリーブのアイスブルーのワンピースはブランドもので、サンダルも帽子も同じブランドの名前が記されていた。
氷河が溶けたような水の色とされるアイスブルーは、見ているだけで涼しげな雰囲気があった。クールな色は、爽やかな大人の印象を与えるが、どこか甘さも感じさせた。だがこの色は、色の白い人間でなければ、着こなすことは出来ない透明感を感じさせる色。
このチョイスは間違いなく司のものだと感じていた。
子供の頃から常に最上の物を身に纏ってきた男はセンスがいい。それは環境がそうさせたのか、それとも生まれ持ったものなのか。それはおそらく後者。そして、元恋人であるつくしには、何が似合うかを知り尽くしていた。
9年も全く連絡を取ることのなかった二人が、これから10日間同じ屋根の下で夜を明かすことになるとは思いもしなかった。
だが、NYを訪れると決めたとき、心のどこかで望んでいたのかもしれない。
彼と会うことを。
正直、彼に会ってみたいと思った。
と、同時に怖かったのも事実だ。滋を訪ねたはずの今回の旅は、NYという街にも、彼にも未練はないはずだと自分自身に言い聞かせるためだった。
つくしは、明朗闊達とまでは言わないが、朗らかで明るい少女だった。
だが、感情的なことを考えれば、そうではない。細かいことをうじうじと考えてしまうことがある。それは高校時代、彼のことが好きだった頃からそうだった。
そんなつくしが見合いをしたのは、叔母の勧めもあったが、彼と別れたことへの、気持ちの整理が出来たと思ったからだ。そして、9年前に人を愛するということを止めてしまったが、それでも、また人を愛することが出来るか確かめたかったこともあった。
だが、見合い相手に、かつて心が感じていた人を愛するといった気持ちを持つことはなく、胸が熱くなるといったことはなかった。
別にひとりでいることが悪いとは思わなかった。
それでもふと思うことがあった。
人恋しいと。
彼が恋しいと。
さよならを告げたとき、彼には、道明寺家には、正式な妻から生まれる子供が必要だと思った。
だが、別れて暫くして自分自身に問いかけてみた。
すると、別れた理由はそれだけではないということが分かった。
ひとりでいることが、苦になることはなかったが、それはああいった関係に陥る前の自分がいたからだ。
当時、NYと東京での遠距離恋愛は既に7年にも及んでいて、その距離に、時間に慣れてしまった状況があった。そしてその延長ともいえる状況でのああいった関係だったのだから、ひとりでも耐えることが出来た。
それなら何が別れることを決めた要因だったのか。
それは、二人が会い、それから彼が部屋を後にするたび、再びこの場所へ戻ってくることが無いのではないかといった思いだ。
つくしが、あのとき向き合っていたのは、自分の心にある不安と孤独感だ。
決してそんなことはない。愛されていると分かっていた。
彼の愛に偽りを感じたことはなかった。それでも夜が明け、去っていく後ろ姿を見つめ、ひとり部屋に残され、空の彼方へと去っていく姿を思えば、愛された余韻が消えて行くような気がした。そしてひとり残されることが耐えられなくなっていた。
会えば嬉しかった。
会える日を指折り数えるが、待ち遠しささえ楽しく思えた。だが会えばその感情も消える。
そして、離れる日は辛く、離れてしまった後は苦い後悔に襲われていた。
それは、彼を愛するということは、誰かを傷つけるということだ。
それが例え政略結婚をした相手だとしても、つくしが知らない人間だとしても、罪の意識は常にあった。
不倫という二人の関係が始まった頃、確実な未来が欲しいと望んだことはない。
それでも時間が経てば、感情が錯綜するようになっていた。
これでいいのだ。このままでいいという自分もいたが、もう一人の自分は、今のままでいいはずがない。と呟いていた。
9年間、意識するなという方が無理だった。
彼と別れ、暫くその別れを引きずった。
だが、そのうち彼のいない日常生活が当たり前のように思えるようになっていた。
その時は自覚がなかったが、心というものは、気付かないうちに色んなものを溜め込んで行く。つくしの場合、それはもう誰も愛せないのではないかといった思い。見合いをして、改めてそれを実感した。
確かに、若い頃は気丈だと言われた。それでも、人は年を重ねていけば変わることもある。
9年という歳月を隔て再会した元恋人は、まだ私のことを好きだと言った。
あれから気持ちは変わっていないと言った。
だが、37歳になったつくしは、長い歳月を経て再会した元恋人に対して臆病さといったものがある。
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Comment:6
焼け付くような陽射しのなか、空港に着いた二人は、迎えの車で別荘へ向かっていた。
強力なエンジンを持つドイツ車は、スモークガラスが使われ、強い陽射しを遮る効果は十分あり問題ない。
島の観光と言えば、きらめく白い砂浜が有名だが、18世紀後半から19世紀後半までデンマークの植民地だったこともあり、その時代の建造物が数多く残されていた。
その中には要塞や、カリブ海のどこかの島が発祥の地と言われるラム酒の工場もあり、見学することが出来る。カリブ海の海賊の物語に必ず登場するラム酒は有名で、サトウキビが原料だが、カリブの島にサトウキビは自生しておらず、ヨーロッパ人が持ち込んだものと言われていた。
司の隣で視線を外へ向けた女は、色付きのガラスから見える景色を眺めているようだが、口数は少なかった。やはり何かが違う。9年の歳月が彼女を大人の女性へと成長させたとしても、大人し過ぎるような気がしていた。
別ればなしが切り出されたとき、いつまでもこんなことしてちゃダメと言われたが、その言葉には嫌いになったといった言葉は含まれていなかった。それに、相手を傷つけまいとして、遠回しの言葉を選んだとも思えなかった。あの時、司は彼女の求めに応じ別れた。それは彼女の置かれた状況が苦しいなら、といった思いからだった。そして、あの言葉はまさに彼女の本心だったと思う。
司は、今の自分が抱えている思いが決して独り善がりな思い過ごしだとは考えてない。
彼女も同じ気持ちでいるはずだ。まだ愛していてくれるはずだ。
もし、既に愛が無くなったというのなら、はっきりそう言えばいい。だが確かにいきなり現れた元恋人を前に、どんな話しをすればと思うだろう。
そして、その恋人は、当時他の女と結婚していたのだ。だが今は離婚も成立し、独身となった。それなら何が気になるというのか。
殺人的なスケジュールを無理やりこじ開け、勝ち取ったともいえる休暇は10日しかない。
そして、それが終れば彼女も日本に帰国してしまうが、本音を言えば帰したくない思いがある。またあの頃のように、ビジネスにかこつけ、彼女と会うといったことは、したくない。
一緒にNYで暮らして欲しい。だがそれを口にするのは、まだ早いのかもしれない。
しかし、最終的にはそうするつもりだ。
車が街の中心部に入り、信号待ちで止まったとき、隣に青いオープンカーが並んだ。
若い男女が乗っており、女が運転席に座る男の肩に頭をもたせかけた。
すると、男は女を引き寄せ、キスをした。信号が変わったが、暫くそのままでいた二人に、後続車からクラクションが鳴らされていた。
愛し合う男女が離れたくないと、いつまでも唇を重ね合わせた姿。
それはかつて二人も経験した光景。今日のように眩しい光りの中、ドライブへ出かけ、信号待ちで止り、隣に座る彼女の唇にキスをしたことがあった。
「俺たちにもああいった頃があったな」
「え?・・うん・・」
二人は同じ光景を見ていた。
懐かしそうに口を開いた司に対し、つくしの言葉は、どこか心ここにあらずと言った感じだ。
やはり、と司は思った。口数が少ないのだ。昔の男に再会し、突然旅に連れ出されれば、言いたいことは幾らでもあるはずだ。だがそういった文句もなく、大人しくしていることが、司にしてみれば、彼が知っている牧野つくしという女性とは違った印象を与えていた。
「・・牧野。おまえ、どうして大人しくジェットに乗った?昔のおまえならこんなこと許さなかったよな?」
勝手に何でも決めないで、と怒られたこともあった。
だが嫌だと言ったところで、連れて来ていたはずだ。
このチャンスを逃せば、彼女と一緒に10日も過ごすチャンスなどないのだから。
「・・なんでって・・・仕方ないじゃない。身の周りの物は全部飛行機の中だし、あそこであたしが何を言ったところで、滋さんと・・あんたに敵うとは思えないもの」
「ああそうだ。おまえが俺に敵うわけねぇな」
と、言葉を返してみたが、返事はなかった。
彼女が多弁とは言わないが、それでも昔はもっと話しをしていた。そんな女の口数が少ないことを訝しく感じていた。だが思い返せば、何を聞いても物事の本質を語ろうとしないことがあった。それは何か悩み事があれば、いつも一人で抱え込むことが普通だったからだ。それなら今の牧野つくしは、何か悩んでいるということか?だがそれは見合い相手のことではないはずだ。
「牧野、言いたいことがあるなら言ってくれ。おまえは昔から肝心なところで黙っちまう癖があっただろ?それは今も変わってねぇようだが今さら俺に遠慮してもしょうがねぇだろ?俺に対して言いたいことがあるなら言ってくれ」
いつも冷淡で何事にも動じないと言われる男も、彼女の前では違う。
今は他人の間柄だとしても、これから先そのつもりはない。彼女の全てを知っておきたいと思うのは、愛しているからだ。不安があるならその不安を取り除いてやりたいと思う。
だが無理矢理話をさせようとしたところで、話しはしないだろう。案の定、彼女は押し黙ってしまった。
「・・そうか。言いたくないか・・まあそれならそれでいい。何しろ俺とおまえには時間がある。10日間は二人で過ごすことが出来るんだ。その間に話しをする気になったら教えてくれ」
10日間。
捉えようによっては、長くもあり短くもある。
「・・俺は今でもおまえの事が好きだ。あれから9年経ったが気持ちは変わってない。9年もおまえを待たせる羽目になって悪かったと思ってる。本来ならもっと早く離婚を成立させておまえを迎えに行くつもりだったが出来なかった」
つくしも滋から聞かされていた。
相手の女性が別れようとしないと。
「牧野。俺はおまえとやり直したい。朝起きて思うのはいつもおまえのことだ。ガラス窓に雨が打ちつけるたび、思い出すのはおまえのことだ。・・ひとりになってから雨が降るたび思い出すのはあの日の光景だ」
それは、二人の人生の中で初めて経験した大きな別れ。
あの時、二人の愛は終わったかと思われていた。だがそうはならなかった。
だから、もう一度やり直せるはずだ。
「俺はおまえを思い出にしたくない。俺におまえが苦しんだ4年を償わせてくれないか?それからの9年もだ」
9年で全てが移り変わっていたとしても、彼女の心を取り戻したい。
いや。取り戻してみせる。
彼女が俺を信じてくれるなら。
「おまえ、休み取って来たんだろ?それなら俺とこの島で休暇を過ごしてくれ。俺が休暇を取るなんてことは今までなかったんだ」
司の休暇は10日間。
今まで何があっても休暇を取ることなどなかった。
それは、つくしとごく普通に交際していた頃を合わせても無かった話だ。
だがどんな事にも初めてはある。
それに、牧野つくしは、世界にたった一人の愛しい女だ。
代わるものなどない唯一の存在だ。
もう二度と手放さないと決めた女だ。
彼女を手にいれるためなら、どんなことでもするつもりだ。

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強力なエンジンを持つドイツ車は、スモークガラスが使われ、強い陽射しを遮る効果は十分あり問題ない。
島の観光と言えば、きらめく白い砂浜が有名だが、18世紀後半から19世紀後半までデンマークの植民地だったこともあり、その時代の建造物が数多く残されていた。
その中には要塞や、カリブ海のどこかの島が発祥の地と言われるラム酒の工場もあり、見学することが出来る。カリブ海の海賊の物語に必ず登場するラム酒は有名で、サトウキビが原料だが、カリブの島にサトウキビは自生しておらず、ヨーロッパ人が持ち込んだものと言われていた。
司の隣で視線を外へ向けた女は、色付きのガラスから見える景色を眺めているようだが、口数は少なかった。やはり何かが違う。9年の歳月が彼女を大人の女性へと成長させたとしても、大人し過ぎるような気がしていた。
別ればなしが切り出されたとき、いつまでもこんなことしてちゃダメと言われたが、その言葉には嫌いになったといった言葉は含まれていなかった。それに、相手を傷つけまいとして、遠回しの言葉を選んだとも思えなかった。あの時、司は彼女の求めに応じ別れた。それは彼女の置かれた状況が苦しいなら、といった思いからだった。そして、あの言葉はまさに彼女の本心だったと思う。
司は、今の自分が抱えている思いが決して独り善がりな思い過ごしだとは考えてない。
彼女も同じ気持ちでいるはずだ。まだ愛していてくれるはずだ。
もし、既に愛が無くなったというのなら、はっきりそう言えばいい。だが確かにいきなり現れた元恋人を前に、どんな話しをすればと思うだろう。
そして、その恋人は、当時他の女と結婚していたのだ。だが今は離婚も成立し、独身となった。それなら何が気になるというのか。
殺人的なスケジュールを無理やりこじ開け、勝ち取ったともいえる休暇は10日しかない。
そして、それが終れば彼女も日本に帰国してしまうが、本音を言えば帰したくない思いがある。またあの頃のように、ビジネスにかこつけ、彼女と会うといったことは、したくない。
一緒にNYで暮らして欲しい。だがそれを口にするのは、まだ早いのかもしれない。
しかし、最終的にはそうするつもりだ。
車が街の中心部に入り、信号待ちで止まったとき、隣に青いオープンカーが並んだ。
若い男女が乗っており、女が運転席に座る男の肩に頭をもたせかけた。
すると、男は女を引き寄せ、キスをした。信号が変わったが、暫くそのままでいた二人に、後続車からクラクションが鳴らされていた。
愛し合う男女が離れたくないと、いつまでも唇を重ね合わせた姿。
それはかつて二人も経験した光景。今日のように眩しい光りの中、ドライブへ出かけ、信号待ちで止り、隣に座る彼女の唇にキスをしたことがあった。
「俺たちにもああいった頃があったな」
「え?・・うん・・」
二人は同じ光景を見ていた。
懐かしそうに口を開いた司に対し、つくしの言葉は、どこか心ここにあらずと言った感じだ。
やはり、と司は思った。口数が少ないのだ。昔の男に再会し、突然旅に連れ出されれば、言いたいことは幾らでもあるはずだ。だがそういった文句もなく、大人しくしていることが、司にしてみれば、彼が知っている牧野つくしという女性とは違った印象を与えていた。
「・・牧野。おまえ、どうして大人しくジェットに乗った?昔のおまえならこんなこと許さなかったよな?」
勝手に何でも決めないで、と怒られたこともあった。
だが嫌だと言ったところで、連れて来ていたはずだ。
このチャンスを逃せば、彼女と一緒に10日も過ごすチャンスなどないのだから。
「・・なんでって・・・仕方ないじゃない。身の周りの物は全部飛行機の中だし、あそこであたしが何を言ったところで、滋さんと・・あんたに敵うとは思えないもの」
「ああそうだ。おまえが俺に敵うわけねぇな」
と、言葉を返してみたが、返事はなかった。
彼女が多弁とは言わないが、それでも昔はもっと話しをしていた。そんな女の口数が少ないことを訝しく感じていた。だが思い返せば、何を聞いても物事の本質を語ろうとしないことがあった。それは何か悩み事があれば、いつも一人で抱え込むことが普通だったからだ。それなら今の牧野つくしは、何か悩んでいるということか?だがそれは見合い相手のことではないはずだ。
「牧野、言いたいことがあるなら言ってくれ。おまえは昔から肝心なところで黙っちまう癖があっただろ?それは今も変わってねぇようだが今さら俺に遠慮してもしょうがねぇだろ?俺に対して言いたいことがあるなら言ってくれ」
いつも冷淡で何事にも動じないと言われる男も、彼女の前では違う。
今は他人の間柄だとしても、これから先そのつもりはない。彼女の全てを知っておきたいと思うのは、愛しているからだ。不安があるならその不安を取り除いてやりたいと思う。
だが無理矢理話をさせようとしたところで、話しはしないだろう。案の定、彼女は押し黙ってしまった。
「・・そうか。言いたくないか・・まあそれならそれでいい。何しろ俺とおまえには時間がある。10日間は二人で過ごすことが出来るんだ。その間に話しをする気になったら教えてくれ」
10日間。
捉えようによっては、長くもあり短くもある。
「・・俺は今でもおまえの事が好きだ。あれから9年経ったが気持ちは変わってない。9年もおまえを待たせる羽目になって悪かったと思ってる。本来ならもっと早く離婚を成立させておまえを迎えに行くつもりだったが出来なかった」
つくしも滋から聞かされていた。
相手の女性が別れようとしないと。
「牧野。俺はおまえとやり直したい。朝起きて思うのはいつもおまえのことだ。ガラス窓に雨が打ちつけるたび、思い出すのはおまえのことだ。・・ひとりになってから雨が降るたび思い出すのはあの日の光景だ」
それは、二人の人生の中で初めて経験した大きな別れ。
あの時、二人の愛は終わったかと思われていた。だがそうはならなかった。
だから、もう一度やり直せるはずだ。
「俺はおまえを思い出にしたくない。俺におまえが苦しんだ4年を償わせてくれないか?それからの9年もだ」
9年で全てが移り変わっていたとしても、彼女の心を取り戻したい。
いや。取り戻してみせる。
彼女が俺を信じてくれるなら。
「おまえ、休み取って来たんだろ?それなら俺とこの島で休暇を過ごしてくれ。俺が休暇を取るなんてことは今までなかったんだ」
司の休暇は10日間。
今まで何があっても休暇を取ることなどなかった。
それは、つくしとごく普通に交際していた頃を合わせても無かった話だ。
だがどんな事にも初めてはある。
それに、牧野つくしは、世界にたった一人の愛しい女だ。
代わるものなどない唯一の存在だ。
もう二度と手放さないと決めた女だ。
彼女を手にいれるためなら、どんなことでもするつもりだ。

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Comment:4
恋人の間にルールがあるとすれば、それが今の二人に適用されるのだろうか?
大騒ぎすることなく、大河原滋に背中を押され、ジェットに乗った女は、いったいどんな気持ちでこの旅を受け入れたのか。司は、つくしがこの旅を受け入れたことに安堵していた。
彼女の前にいる男の全ては、彼女のものであると知って欲しい。
不安は何もないと、誰も二人の間に立ち入る者はいないと、はっきりと伝えたい思いがある。
そして、決しておまえを離さないと伝えたい。
にやにや笑いをする友人に送り出されたのは、「アメリカのパラダイス」と呼ばれるカリブ海に浮かぶ、アメリカ領ヴァージン諸島のひとつであるセントクロイ島。
その島は、西側半分がアメリカの保護領であり、アメリカ最東端の場所。そして東側半分はイギリス領。NYからは、プライベートジェットで4時間足らずで到着する。
真っ青な空と、ターコイズブルーの海と白い砂浜。
それは息を呑むほど美しい景色。
海と空の境は、はっきりと見分けがつき、水平線は青く真っ直ぐな場所。
その場所をバカンスの場所として選んだのは司だ。
大河原滋からつくしの身は司に預けるから、と言われ、その島にある彼名義の別荘に連れて行こうとしていた。
その島に別荘を買うことに決めたのは、パーティーで出会った経済学者で、ノーベル経済学賞を受賞している人物が、その島の素晴らしさを話していたこともあったが、アメリカの最東端といった場所が気に入ったからだ。
だが実際には殆ど利用したことがない。なぜなら滋が言った通り、仕事に邁進していた男が休暇を取ることはなかったからだ。だがこれから10日間は、彼女とその別荘で過ごすことに決めた。
司にとって時間は大切なものだが、今はそれ以上に牧野つくしとの関係を結び直すことの方が大切だった。毎日予定がびっしりと詰まってはいたが、今の世の中、世界のどの場所にいても、仕事をすることは可能だ。そして、つい最近大きな案件をまとめたばかりの男は、彼女の訪米を期に休暇を取ることにした。それは、長い間取ることの無かった魂の休暇。
そして彼女の愛を取り戻すための時間。
思い出ではなく、彼女が欲しい。
そんな男にどこか不審そうに眼を向ける女は、急遽取ることにした休暇のため、書類にサインをする男を気にしながら雑誌を読んでいた。
そして、サインを終えた司が少し離れた席に座るつくしを見たとき、彼女は眠っていた。
その顔は、10代の頃とも20代の頃とも違う、司が初めて見る大人の女の寝顔。
そんな女は、昔からどこでも簡単に眠りにつくことが出来たが、その習慣は今でも変わってはいないようだ。そして、30代の彼女の寝顔に、越えて来た人生の一端を見ることはなく、どうやら時の経過は、彼女には緩やかだったようだ。
「相変らずどこでも簡単に寝る癖は変わってねぇな・・」
思い出すたび愛おしく感じるのは、やはり彼女を愛しているから。
そのとき司は、彼女に強いてしまった4年間を思い起こし、胸が痛むのを感じた。
20代の彼女は、司が彼女を欲したばかりに、心苦しい思いをさせてしまっていた。
そして、まだ少女の頃出会った彼女は、制服姿がよく似合う明るい少女。
万華鏡のようにくるくると変わる表情は、見ていても飽きることはなく、むしろ、次にどんな顔を見せるのかと、楽しんだことがあった。そして、次から次へと移り変わる表情をずっと見ていたいと、わざと怒らせたこともあった。
そんな少女は、道理が立たないことは受け入れることを拒み、立ち向かう少女だった。司も彼女のそんな姿を好きになっていた。司とて己の信じた正義といったものに重きを置いていた男だ。だが、そんな司は、滋の言葉を借りれば、社会に対するルール違反と言われるようなことを彼女にさせていた。
淋しい思いをさせたと思っている。
だが、これからは、そんな思いをさせるつもりはない。
この9年間、決して忘れたことはない。忘れはしなかった。
「・・牧野。俺はおまえのことを1日たりとも忘れたことはねぇ・・」
司はつくしの黒髪にそっと手を触れた。
短くなってはいても、豊かな髪はあの頃と変わらず艶やかだ。
今は閉じられているが、黒く大きな瞳は、あの頃と同じように澄んでいた。
その姿は、司の記憶の中にある牧野つくしと同じだった。
だが、何かどこかが違う。
だとすればそれはいったい何なのか?
それを知りたい。
滋は何も言わなかったが、大きな瞳の奥に見え隠れするものはいったい何なのか?
それが、見合いをした相手に対する思いだとは思えなかった。
遠いあの日の彼女の声が耳に甦った。
『あたしがあんたを幸せにしてあげる』
結婚を強いられた最初の4年間、確かに彼女が幸せにしてくれた。
だからこそ、これからは俺が彼女を幸せにしてやる。
そしてそれは他の人間になど出来ないはずだ。
普段、ジェットの後方にあるベッドルームを寝る為に使うことはないが、着替えをするため利用することがあった。司は、寝ている女にブランケットを掛け、ベッドルームへ向かい、着ていたデザイナーズブランドのスーツと革の靴を脱ぎ、シルクのネクタイとシャツを脱ぎ捨て、カジュアルな服装へと着替えた。
牧野つくしは、二人の再会に戸惑っている。
大河原滋は、今でも彼女は俺を愛していると言った。もしそれが本当なら、素直に受け入れて欲しい。だが、そう簡単に行かないのが、彼女の性分だ。
見合い相手を気遣っていると言った滋の言葉があったが、彼女はその気なのだろうか?
彼女の思いは俺とは別の道を選択してしまったのか?
どちらにしても、その男が誰だろうが退散してもらう。
これから見る海の風景は、彼女の目にどう映るのか。
18歳の時、南の島のコテージで結ばれることなく過ごしたことがあった。
我儘だった少年が大人への道を踏み出したあの日。
そして愛を愛することを知ったあの日。
あの日から彼女を愛することを止めることが出来ない。
二人のこれまでの人生は平坦ではなかったが、もう一度彼女と一緒にひとつの未来へ向かう道を歩んで行きたい。
そして、これからの時間は、あの時以上に二人の心を向かい合わせたい。
司は客室に戻り、つくしを見た。
そしてまだ眠っている彼女に近づき、頬にそっと唇を寄せた。

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大騒ぎすることなく、大河原滋に背中を押され、ジェットに乗った女は、いったいどんな気持ちでこの旅を受け入れたのか。司は、つくしがこの旅を受け入れたことに安堵していた。
彼女の前にいる男の全ては、彼女のものであると知って欲しい。
不安は何もないと、誰も二人の間に立ち入る者はいないと、はっきりと伝えたい思いがある。
そして、決しておまえを離さないと伝えたい。
にやにや笑いをする友人に送り出されたのは、「アメリカのパラダイス」と呼ばれるカリブ海に浮かぶ、アメリカ領ヴァージン諸島のひとつであるセントクロイ島。
その島は、西側半分がアメリカの保護領であり、アメリカ最東端の場所。そして東側半分はイギリス領。NYからは、プライベートジェットで4時間足らずで到着する。
真っ青な空と、ターコイズブルーの海と白い砂浜。
それは息を呑むほど美しい景色。
海と空の境は、はっきりと見分けがつき、水平線は青く真っ直ぐな場所。
その場所をバカンスの場所として選んだのは司だ。
大河原滋からつくしの身は司に預けるから、と言われ、その島にある彼名義の別荘に連れて行こうとしていた。
その島に別荘を買うことに決めたのは、パーティーで出会った経済学者で、ノーベル経済学賞を受賞している人物が、その島の素晴らしさを話していたこともあったが、アメリカの最東端といった場所が気に入ったからだ。
だが実際には殆ど利用したことがない。なぜなら滋が言った通り、仕事に邁進していた男が休暇を取ることはなかったからだ。だがこれから10日間は、彼女とその別荘で過ごすことに決めた。
司にとって時間は大切なものだが、今はそれ以上に牧野つくしとの関係を結び直すことの方が大切だった。毎日予定がびっしりと詰まってはいたが、今の世の中、世界のどの場所にいても、仕事をすることは可能だ。そして、つい最近大きな案件をまとめたばかりの男は、彼女の訪米を期に休暇を取ることにした。それは、長い間取ることの無かった魂の休暇。
そして彼女の愛を取り戻すための時間。
思い出ではなく、彼女が欲しい。
そんな男にどこか不審そうに眼を向ける女は、急遽取ることにした休暇のため、書類にサインをする男を気にしながら雑誌を読んでいた。
そして、サインを終えた司が少し離れた席に座るつくしを見たとき、彼女は眠っていた。
その顔は、10代の頃とも20代の頃とも違う、司が初めて見る大人の女の寝顔。
そんな女は、昔からどこでも簡単に眠りにつくことが出来たが、その習慣は今でも変わってはいないようだ。そして、30代の彼女の寝顔に、越えて来た人生の一端を見ることはなく、どうやら時の経過は、彼女には緩やかだったようだ。
「相変らずどこでも簡単に寝る癖は変わってねぇな・・」
思い出すたび愛おしく感じるのは、やはり彼女を愛しているから。
そのとき司は、彼女に強いてしまった4年間を思い起こし、胸が痛むのを感じた。
20代の彼女は、司が彼女を欲したばかりに、心苦しい思いをさせてしまっていた。
そして、まだ少女の頃出会った彼女は、制服姿がよく似合う明るい少女。
万華鏡のようにくるくると変わる表情は、見ていても飽きることはなく、むしろ、次にどんな顔を見せるのかと、楽しんだことがあった。そして、次から次へと移り変わる表情をずっと見ていたいと、わざと怒らせたこともあった。
そんな少女は、道理が立たないことは受け入れることを拒み、立ち向かう少女だった。司も彼女のそんな姿を好きになっていた。司とて己の信じた正義といったものに重きを置いていた男だ。だが、そんな司は、滋の言葉を借りれば、社会に対するルール違反と言われるようなことを彼女にさせていた。
淋しい思いをさせたと思っている。
だが、これからは、そんな思いをさせるつもりはない。
この9年間、決して忘れたことはない。忘れはしなかった。
「・・牧野。俺はおまえのことを1日たりとも忘れたことはねぇ・・」
司はつくしの黒髪にそっと手を触れた。
短くなってはいても、豊かな髪はあの頃と変わらず艶やかだ。
今は閉じられているが、黒く大きな瞳は、あの頃と同じように澄んでいた。
その姿は、司の記憶の中にある牧野つくしと同じだった。
だが、何かどこかが違う。
だとすればそれはいったい何なのか?
それを知りたい。
滋は何も言わなかったが、大きな瞳の奥に見え隠れするものはいったい何なのか?
それが、見合いをした相手に対する思いだとは思えなかった。
遠いあの日の彼女の声が耳に甦った。
『あたしがあんたを幸せにしてあげる』
結婚を強いられた最初の4年間、確かに彼女が幸せにしてくれた。
だからこそ、これからは俺が彼女を幸せにしてやる。
そしてそれは他の人間になど出来ないはずだ。
普段、ジェットの後方にあるベッドルームを寝る為に使うことはないが、着替えをするため利用することがあった。司は、寝ている女にブランケットを掛け、ベッドルームへ向かい、着ていたデザイナーズブランドのスーツと革の靴を脱ぎ、シルクのネクタイとシャツを脱ぎ捨て、カジュアルな服装へと着替えた。
牧野つくしは、二人の再会に戸惑っている。
大河原滋は、今でも彼女は俺を愛していると言った。もしそれが本当なら、素直に受け入れて欲しい。だが、そう簡単に行かないのが、彼女の性分だ。
見合い相手を気遣っていると言った滋の言葉があったが、彼女はその気なのだろうか?
彼女の思いは俺とは別の道を選択してしまったのか?
どちらにしても、その男が誰だろうが退散してもらう。
これから見る海の風景は、彼女の目にどう映るのか。
18歳の時、南の島のコテージで結ばれることなく過ごしたことがあった。
我儘だった少年が大人への道を踏み出したあの日。
そして愛を愛することを知ったあの日。
あの日から彼女を愛することを止めることが出来ない。
二人のこれまでの人生は平坦ではなかったが、もう一度彼女と一緒にひとつの未来へ向かう道を歩んで行きたい。
そして、これからの時間は、あの時以上に二人の心を向かい合わせたい。
司は客室に戻り、つくしを見た。
そしてまだ眠っている彼女に近づき、頬にそっと唇を寄せた。

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9年ぶりに再会した元恋人。
その女性を乗せた黒塗りのリムジンは、ドライバーの滑らかなハンドルさばきで車の列に割り込み、スピードを上げていった。
どこか不安そうな女と、そんな女とは対照的に、口の端に薄っすらと笑みを刻んだ男を乗せて。
司はつくしを探し5番街で車を走らせていた途中、ミッドダウンの花屋でバラを1ダース買い求めていた。それは、9年ぶりの再会を祝して。そして愛が戻ることを願って彼女に渡すために。だが贈られたバラは、彼女の手によってシートに座る二人の間に置かれていた。司は目を細め、憎々しい想いでバラの花を見た。
滋から彼女が見合いをしたと聞き、そして結婚するかもしれないと聞かされれば、心中穏やかとは言えなかった。そして、柔らかい革のシートに座った女は、隣に座る司の視線に戸惑った表情を浮かべていた。
その見合いにどんな経緯があったのか知らないが、30も半ば過ぎた女に親戚や周囲の人間が見合いを勧め、それを受けた女は恐らく押し切られるような形になっているはずだ。
昔からどこか優柔不断なところがあっただけに、周囲が勧めれば押し流される形で結婚まで行く可能性がある。それを阻止するのが司の役目だ。そして、二人の間にあった愛を再び手にすることが男の望み。笑顔の彼女の面影だけを追いかける日は、これ以上欲しくない。
18の頃、20年後の未来が見えるかと言われれば、見えると答えたはずだ。
だが、25のとき、未来が見えなくなり、彼女にも苦しい想いをさせた。
戸籍上の妻がいた男との間に夢をはぐくむ余地もなく、未来が見えない4年は損にこそなれ得になるはずもないと分かってはいたが、一度掴んだ手を放すことは容易ではなかった。
そんな二人は、4年の間、暗黙のルールがあったように、淋しいといった言葉は決して口にしなかった。もし、その言葉を口にすれば、二度と離れられなくなりそうだったから。
あれから9年経ったが、誰に負い目も遠慮もいらない関係に戻すのに、最初の4年も含め13年もかかっていた。だがこれから先の人生をどう使い、どう過ごそうと他人から非難されることはないと、彼女に分かってもらいたい。
そして、それを分かってもらうため、彼女の記憶を新たにしたい。
過去はどうでもいい。今からが二人の人生だ。
中途半端なことはしないと彼女に誓える。
つくしの顔を無言で見つめているばかりの司に、つくしは困惑の顔を向けた。
「・・道明寺・・・滋さんに頼まれたって言ったわよね?いったい何を頼まれたのよ?」
「滋か?行けばわかる」
9年ぶりの再会は、久しぶりとも元気だったとの挨拶もなく、いとも簡単にスタートした。
だが隣に座る女は、緊張した様子で膝の上に置かれた鞄の紐を握りしめていた。
二人の間に流れる奇妙な空気は、かつて恋人関係にあった男と女が持つ、精神的な繋がりが感じられた。それは誰もいない二人だけの部屋で過ごした9年前、互いが傍にいればそれでいいと願った頃と同じはずだ。たとえ多くのことが移り変わっていたとしても、遠ざかる記憶があっても、彼女の記憶だけは、消したくなかった。そんな思いが、二人にはまだ精神的な繋がりがある、二人の関係はまだ終わってはいないと思わせた。そうは言っても、やはり彼女は複雑な気持ちでいるはずだ。何しろひとり涙を流してから9年も経っているのだから。しかし、さし当たって今は、窓の外に視線をやり、黙り込んでしまった女を目的地まで運ぶことだけを考えることにした。
車が向かった先は、NYの隣、ハドソン川を挟んだニュージャージー州テターボロにあるプライベートジェット専用空港。空港に近づくと、ジェット機が次々と離陸し、飛んでいく姿が見えた。そして、ラウンジにいたのは大河原滋。
「滋さん!これ、どういうことなの?」
つくしは、今日の司との再会は、滋が仕組んだものだと確信していた。
そして酷く動揺していた。確かに会ってみたいといった思いが、なかったとは言えないが、心の準備といったものが必要だった。
「つくし!今日は本当にごめんね!ちょっと急用が出来ちゃって付き合えなくなっちゃたのよ」
だがそれが嘘であることは確実だ。
妙に明るく、そして楽しそうに放つ言葉はとても詫びているようには思えないからだ。
そして、当の本人もそれが嘘であることが、知られていると分かっているとばかり話しを継いだ。
「もうバレてると思うけど急用ってのは嘘。でもね、これはつくしの為なの。つくしを司に会わせたかったからなの。それはね、司ときちんと向き合って欲しいから。・・だってつくしは司のことが好きなんだから、見合い相手を気にするより、司の方を気にしなきゃだめじゃない!前にも言ったけど、つくしの運命の恋人は司なんだから!それからね、つくしが司の傍じゃないと幸せになれないのと同じで、この男も同じなのよ?」
滋はつくしの後方に立つ司に視線を向けた。
「滋。俺はこの男呼ばわりか?」
「いいから司は黙ってて!」
横から口を挟んだ男は一喝された。
そして、その口調には、どこか浮き立つような調子が感じられ、二人揃ったことがここぞとばかりで、自分が言わなければ他に誰が言うの?と言った調子で口を挟むことが出来そうにない。
「つくし、つくしは司といた時は幸せそうだったよ?・・でも別れてからは気が抜けたような生き方をしてた。司が結婚してた4年は社会に対するルール違反をしてるみたいに感じたかもしれないけど、それでもどこか幸せそうだった。それに今でも無関心じゃないし、忘れてもいないはずよ?それにもう誰にも遠慮はいらないし堂々と付き合えるのよ?司がたとえ国家的レベルの経済を動かすとしても、つくしの前ではただの男。それ以上でもそれ以下でもないの。だいだいねぇ、この男の高校時代のこと覚えてるでしょ?俺様で、野獣で、ストーカーだった男よ?今でこそこんな大人ぶってるけど、一皮剥けばあの頃と変わんないわよ?」
滋の言葉は、どちらの肩をもっているというものではない。
ただ滋が感じる想いが口にされるのだが、決して間違ったことは言ってないはずだ。
だから、司もつくしも滋の口から語られる懐かしい昔ばなしをただ黙って聞いていた。
「それにね、男と女ってのは、好きな者同士一緒にいなきゃダメになっちゃうのよ?いい例があんたたち二人。司なんかワーカホリックだし、ほんと働き過ぎよ!まあ会社が一時大変だったから仕方がないけど、ホントこの男、どこまで人の仕事横取りすれば気が済むのよ・・女っ気がないから仕事に邁進してんだろうけど、いい加減にして欲しいくらいよ?
それにつくし!あんたも同じじゃない?仕事、仕事で仕事人間だし、もう少し人生を楽しまなきゃ勿体ないでしょ?」
司とつくしを交互に見比べながら話す滋は目が輝いていた。
そして、滋の声には二人に対する愛情がたっぷり込められていた。
「あ~それにしてなんか久しぶりに高校時代に戻ったみたいに一席ぶったからスッキリした。それでねつくし、つくしの荷物ジェットに積み込んだから。・・ねえ司の方はもういんでしょ?」
「ああ。問題ねぇ。滋、色々と手間かけたな」
司はあっさりと答えた。
「うん、じゃあ、つくしのことよろしくね?ほら、つくし、何ぐずぐずしてんの!早く行きなさいよ!」
「い、行くってどこに?」
と、つくしは怪訝な顔で尋ねたが、滋の目に、いたずらっぽく探るような光りが宿った。
それを見たつくしは、嫌な予感がしていた。それは高校生の頃、滋の家の船で拉致されたとき見せた無邪気さを感じさせる表情。
「なに言ってんのよ。決まってるじゃない、つくしは今休暇中でしょ?それならやっぱり女同士じゃなくて、男と楽しまなきゃ!それにしてもいいわよね・・つくしは。こんなにいい男が旅に連れてってくれるなんてホント羨ましい。いい?つくし、あんたも司のことが今でも好きなんだから、暖かい所で凍りかけた愛を解凍しなきゃね?」
司はつくしから目を離さなかった。
そして、彼女がこの街へ来ると聞かされ、再び会える期待で胸の鼓動が速まった瞬間を思い出していた。
一度は愛し合えた二人なら、心が帰る場所は同じはずだと。

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滋から彼女が見合いをしたと聞き、そして結婚するかもしれないと聞かされれば、心中穏やかとは言えなかった。そして、柔らかい革のシートに座った女は、隣に座る司の視線に戸惑った表情を浮かべていた。
その見合いにどんな経緯があったのか知らないが、30も半ば過ぎた女に親戚や周囲の人間が見合いを勧め、それを受けた女は恐らく押し切られるような形になっているはずだ。
昔からどこか優柔不断なところがあっただけに、周囲が勧めれば押し流される形で結婚まで行く可能性がある。それを阻止するのが司の役目だ。そして、二人の間にあった愛を再び手にすることが男の望み。笑顔の彼女の面影だけを追いかける日は、これ以上欲しくない。
18の頃、20年後の未来が見えるかと言われれば、見えると答えたはずだ。
だが、25のとき、未来が見えなくなり、彼女にも苦しい想いをさせた。
戸籍上の妻がいた男との間に夢をはぐくむ余地もなく、未来が見えない4年は損にこそなれ得になるはずもないと分かってはいたが、一度掴んだ手を放すことは容易ではなかった。
そんな二人は、4年の間、暗黙のルールがあったように、淋しいといった言葉は決して口にしなかった。もし、その言葉を口にすれば、二度と離れられなくなりそうだったから。
あれから9年経ったが、誰に負い目も遠慮もいらない関係に戻すのに、最初の4年も含め13年もかかっていた。だがこれから先の人生をどう使い、どう過ごそうと他人から非難されることはないと、彼女に分かってもらいたい。
そして、それを分かってもらうため、彼女の記憶を新たにしたい。
過去はどうでもいい。今からが二人の人生だ。
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つくしの顔を無言で見つめているばかりの司に、つくしは困惑の顔を向けた。
「・・道明寺・・・滋さんに頼まれたって言ったわよね?いったい何を頼まれたのよ?」
「滋か?行けばわかる」
9年ぶりの再会は、久しぶりとも元気だったとの挨拶もなく、いとも簡単にスタートした。
だが隣に座る女は、緊張した様子で膝の上に置かれた鞄の紐を握りしめていた。
二人の間に流れる奇妙な空気は、かつて恋人関係にあった男と女が持つ、精神的な繋がりが感じられた。それは誰もいない二人だけの部屋で過ごした9年前、互いが傍にいればそれでいいと願った頃と同じはずだ。たとえ多くのことが移り変わっていたとしても、遠ざかる記憶があっても、彼女の記憶だけは、消したくなかった。そんな思いが、二人にはまだ精神的な繋がりがある、二人の関係はまだ終わってはいないと思わせた。そうは言っても、やはり彼女は複雑な気持ちでいるはずだ。何しろひとり涙を流してから9年も経っているのだから。しかし、さし当たって今は、窓の外に視線をやり、黙り込んでしまった女を目的地まで運ぶことだけを考えることにした。
車が向かった先は、NYの隣、ハドソン川を挟んだニュージャージー州テターボロにあるプライベートジェット専用空港。空港に近づくと、ジェット機が次々と離陸し、飛んでいく姿が見えた。そして、ラウンジにいたのは大河原滋。
「滋さん!これ、どういうことなの?」
つくしは、今日の司との再会は、滋が仕組んだものだと確信していた。
そして酷く動揺していた。確かに会ってみたいといった思いが、なかったとは言えないが、心の準備といったものが必要だった。
「つくし!今日は本当にごめんね!ちょっと急用が出来ちゃって付き合えなくなっちゃたのよ」
だがそれが嘘であることは確実だ。
妙に明るく、そして楽しそうに放つ言葉はとても詫びているようには思えないからだ。
そして、当の本人もそれが嘘であることが、知られていると分かっているとばかり話しを継いだ。
「もうバレてると思うけど急用ってのは嘘。でもね、これはつくしの為なの。つくしを司に会わせたかったからなの。それはね、司ときちんと向き合って欲しいから。・・だってつくしは司のことが好きなんだから、見合い相手を気にするより、司の方を気にしなきゃだめじゃない!前にも言ったけど、つくしの運命の恋人は司なんだから!それからね、つくしが司の傍じゃないと幸せになれないのと同じで、この男も同じなのよ?」
滋はつくしの後方に立つ司に視線を向けた。
「滋。俺はこの男呼ばわりか?」
「いいから司は黙ってて!」
横から口を挟んだ男は一喝された。
そして、その口調には、どこか浮き立つような調子が感じられ、二人揃ったことがここぞとばかりで、自分が言わなければ他に誰が言うの?と言った調子で口を挟むことが出来そうにない。
「つくし、つくしは司といた時は幸せそうだったよ?・・でも別れてからは気が抜けたような生き方をしてた。司が結婚してた4年は社会に対するルール違反をしてるみたいに感じたかもしれないけど、それでもどこか幸せそうだった。それに今でも無関心じゃないし、忘れてもいないはずよ?それにもう誰にも遠慮はいらないし堂々と付き合えるのよ?司がたとえ国家的レベルの経済を動かすとしても、つくしの前ではただの男。それ以上でもそれ以下でもないの。だいだいねぇ、この男の高校時代のこと覚えてるでしょ?俺様で、野獣で、ストーカーだった男よ?今でこそこんな大人ぶってるけど、一皮剥けばあの頃と変わんないわよ?」
滋の言葉は、どちらの肩をもっているというものではない。
ただ滋が感じる想いが口にされるのだが、決して間違ったことは言ってないはずだ。
だから、司もつくしも滋の口から語られる懐かしい昔ばなしをただ黙って聞いていた。
「それにね、男と女ってのは、好きな者同士一緒にいなきゃダメになっちゃうのよ?いい例があんたたち二人。司なんかワーカホリックだし、ほんと働き過ぎよ!まあ会社が一時大変だったから仕方がないけど、ホントこの男、どこまで人の仕事横取りすれば気が済むのよ・・女っ気がないから仕事に邁進してんだろうけど、いい加減にして欲しいくらいよ?
それにつくし!あんたも同じじゃない?仕事、仕事で仕事人間だし、もう少し人生を楽しまなきゃ勿体ないでしょ?」
司とつくしを交互に見比べながら話す滋は目が輝いていた。
そして、滋の声には二人に対する愛情がたっぷり込められていた。
「あ~それにしてなんか久しぶりに高校時代に戻ったみたいに一席ぶったからスッキリした。それでねつくし、つくしの荷物ジェットに積み込んだから。・・ねえ司の方はもういんでしょ?」
「ああ。問題ねぇ。滋、色々と手間かけたな」
司はあっさりと答えた。
「うん、じゃあ、つくしのことよろしくね?ほら、つくし、何ぐずぐずしてんの!早く行きなさいよ!」
「い、行くってどこに?」
と、つくしは怪訝な顔で尋ねたが、滋の目に、いたずらっぽく探るような光りが宿った。
それを見たつくしは、嫌な予感がしていた。それは高校生の頃、滋の家の船で拉致されたとき見せた無邪気さを感じさせる表情。
「なに言ってんのよ。決まってるじゃない、つくしは今休暇中でしょ?それならやっぱり女同士じゃなくて、男と楽しまなきゃ!それにしてもいいわよね・・つくしは。こんなにいい男が旅に連れてってくれるなんてホント羨ましい。いい?つくし、あんたも司のことが今でも好きなんだから、暖かい所で凍りかけた愛を解凍しなきゃね?」
司はつくしから目を離さなかった。
そして、彼女がこの街へ来ると聞かされ、再び会える期待で胸の鼓動が速まった瞬間を思い出していた。
一度は愛し合えた二人なら、心が帰る場所は同じはずだと。

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今日の最高気温は30度を超えると言っていたが、暑い夏の眩しい光りが二人だけを照らしているように感じられた。そして、走る車のボンネットやフロントガラスに反射する光りまでも、二人を照らしているようだった。
9年振りの再会は、まるで誰かに演出されたように感じるのは、気のせいではないはずだ。それは、二人を知る滋の仕業であることは、想像するに難しくない。急用が出来たと言ってつくしをひとり送り出したのは、この再会を計画していたからだ。
立ち止まった二人を避けて歩く人々の視線は、背の高い男性が小柄な女性の手首を握った姿を訝しく思っているようだが、女性が嫌がっている素振りを見せないのだから、恋人同士のじゃれ合いとでも思っているはずだ。だがそうでないと判断されれば、親切な誰かが女性に対し聞いてくるはずだ。お困りではないですか?・・と。
そういった気遣いが出来るのが、援助精神が豊かな男性だが、この街には、そういった男性が多いのも事実だ。
つくしは、手首を握った司の大きな手を見下ろしていた。
この手はつくしの全てを知っている手、そして大好きだった手だ。この手を掴み、共に歩き始めるまで色々なことがあった。だが、自ら手放してしまったのは9年前。
閉ざされた扉の中だけが二人の世界だった4年間。
夜明けの足音が聞こえるたび、さよならをしなければならなかった。
それが辛かったこともあったが、道明寺という家には跡継ぎが必要だったはずだ。だから彼女は身を引いた。それ以来一度も会ってはいない。だが今、司は離婚をし、一人になっていた。だから迎えに来た。そして長い間待たせて悪かったなと言った。
「・・牧野・・」
しっかりと掴まれていた手首は、脈でもとるような優しさで掴み直されると、そんな司の手を見つめていたつくしは、呼びかけられ、ハッとして顔を上げ司を見た。
斜め45度下から見上げる女の顔に、司は思わずフッと頬を緩めた。
それは懐かしい角度。見下ろす先に見えるのは、懐かしい顔。二人が別れてから9年が経っていたが、短くなった黒い髪も、大きな黒曜石の瞳もそのままで、あの頃と何が変わっているかと問われても、分からなかった。そして童顔だといわれた女は、いまだに可愛らしい顔をしていた。
司はどうしても伝えたかった。
一分一秒でも早く伝えたかった。彼女のことを愛していると。
これまで無駄にしてしまった9年間を取り戻したいと、これまで人生で無駄にした多くの時間を、かけがえのない人と過ごしたかったと伝えたかった。
だが、ここでそんな話はしたくはない。
「牧野、車に乗ってくれ。滋が待ってる」
大勢の観光客で賑わう5番街の歩道で、会話が弾むはずがないのは分かっていた。
車に乗れと言ったのは、ひと目のある場所で話をするつもりなどなかったからだ。路肩にリムジンが止っていることが珍しくない街だが、それでも警官の目がある。そして、ひと目を気にしている訳ではないが、必要以上にこの場所に留まっていることが決していいことだとは思えないからだ。何しろ、司はNYのビジネスシーンに於いては、顔が知られている。
いくら海外とはいえ、この街は司にとってホームグラウンドだ。そしてここは5番街の高級店が立ち並ぶ場所だ。必要以上に顔を晒すことが得だとは考えてはいない。それに、司自身はよくても、彼女のことを考えれば、今は必要以上にひと前で話しを大きくしたくない。
「滋さんが?」
「ああ。おまえがこの辺りにいるって話しも滋から聞いた。でなきゃマンハッタンでそう簡単におまえを見つけることなんて出来ねぇだろ?」
司はなんとかつくしを車に乗せようとした。嫌だと言えば、さらってもと思うが、だが彼女は少し考えてはいたが、仕方なく頷き、車に乗ることを同意した。意外だった。だがこれが歳月というものだろう。二人とももう子供ではない。それに互いに性格はよく分かっていた。心の奥を見透かすわけではないが司という男が、イエスという言葉を聞くまで、あるいは相手が根負けするまで諦めはしないということを知っているからだ。それとも、彼女も何か話したいことがあるということか?
そんな男はつくしの手を握ったまま、道路の一車線を塞ぐように止めてある艶やかな黒のリムジンへと案内した。
「おまえ・・結婚する気か?俺以外の男と」
車に乗る直前の急な話題の転換につくしは言葉に詰まっていた。
そして一瞬何を言っているのかと思ったが、すぐ我に返っていた。
「えっ?」
見合いの話が伝わっているのは、滋が話しをしたに決まっている。
つくしにとって大切な友人は、道明寺司のことも大切な友人だと思っている。
血の気の多い男と、同じように血の気の多い女は、性別こそ違えど、よく似た性格の二人だ。そんな滋は、司に対しおかしな献身と言えるような態度を取る。
司の考えていることで、つくしには理解出来ないことでも、何故か滋は簡単に理解してしまうことがあった。
そして男女の友情が成り立つのかと言われれば、それはないと言われるのが普通だが、司と滋の友情は成り立っていた。
「悪いな、牧野。その結婚は無いと思え」
「・・?・・なに、いきなり・・なに言ってるのよ?」
そう答えたつくしは、身体を車の中に押し込められようとしていた。
「いいからとりあえず車に乗れ」
「で、でも・・あのね、道明寺・・」
大人しく頷いて車に乗ることを了承した女は、ここに来て抵抗しようとしていた。
「いいから乗れ。滋から頼まれたんだ。おまえを連れて来いってな」
「ちょ、ちょっと待ってよ!滋さんに何を頼まれたのよ?あたしこれから_」
片手でショルダーバッグを押さえながら急に車に乗り込むことに抵抗し始めた女は、足を踏ん張っていた。司はつくしの抵抗など物ともせず、つくしの腰に腕をまわした。
その姿は、少し離れたところからなら、さっきまで手を握っていた男が、愛する女を車に押し付け、愛を囁いているように見えるはずだ。
「・・お、お土産を買おうと思ってたのよ・・・何かこの街の記念になるようなものを!」
進退きわまったと感じた女は思わず叫んでいた。
「誰に買うつもりだ?」
即座に返された男の言葉は、どんなものでも切り刻んでしまうナイフのように鋭く、断固とした口調だ。黒い柳眉は危険な曲線を描き、三白眼の瞳は冷たく射すくめるようにつくしを見た。そして薄い唇が緩くカーブを描くと、不遜な笑みを浮かべた。
「おまえをどこの馬の骨か知らねぇが、見合い相手と結婚なんぞさせねぇからな」

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9年振りの再会は、まるで誰かに演出されたように感じるのは、気のせいではないはずだ。それは、二人を知る滋の仕業であることは、想像するに難しくない。急用が出来たと言ってつくしをひとり送り出したのは、この再会を計画していたからだ。
立ち止まった二人を避けて歩く人々の視線は、背の高い男性が小柄な女性の手首を握った姿を訝しく思っているようだが、女性が嫌がっている素振りを見せないのだから、恋人同士のじゃれ合いとでも思っているはずだ。だがそうでないと判断されれば、親切な誰かが女性に対し聞いてくるはずだ。お困りではないですか?・・と。
そういった気遣いが出来るのが、援助精神が豊かな男性だが、この街には、そういった男性が多いのも事実だ。
つくしは、手首を握った司の大きな手を見下ろしていた。
この手はつくしの全てを知っている手、そして大好きだった手だ。この手を掴み、共に歩き始めるまで色々なことがあった。だが、自ら手放してしまったのは9年前。
閉ざされた扉の中だけが二人の世界だった4年間。
夜明けの足音が聞こえるたび、さよならをしなければならなかった。
それが辛かったこともあったが、道明寺という家には跡継ぎが必要だったはずだ。だから彼女は身を引いた。それ以来一度も会ってはいない。だが今、司は離婚をし、一人になっていた。だから迎えに来た。そして長い間待たせて悪かったなと言った。
「・・牧野・・」
しっかりと掴まれていた手首は、脈でもとるような優しさで掴み直されると、そんな司の手を見つめていたつくしは、呼びかけられ、ハッとして顔を上げ司を見た。
斜め45度下から見上げる女の顔に、司は思わずフッと頬を緩めた。
それは懐かしい角度。見下ろす先に見えるのは、懐かしい顔。二人が別れてから9年が経っていたが、短くなった黒い髪も、大きな黒曜石の瞳もそのままで、あの頃と何が変わっているかと問われても、分からなかった。そして童顔だといわれた女は、いまだに可愛らしい顔をしていた。
司はどうしても伝えたかった。
一分一秒でも早く伝えたかった。彼女のことを愛していると。
これまで無駄にしてしまった9年間を取り戻したいと、これまで人生で無駄にした多くの時間を、かけがえのない人と過ごしたかったと伝えたかった。
だが、ここでそんな話はしたくはない。
「牧野、車に乗ってくれ。滋が待ってる」
大勢の観光客で賑わう5番街の歩道で、会話が弾むはずがないのは分かっていた。
車に乗れと言ったのは、ひと目のある場所で話をするつもりなどなかったからだ。路肩にリムジンが止っていることが珍しくない街だが、それでも警官の目がある。そして、ひと目を気にしている訳ではないが、必要以上にこの場所に留まっていることが決していいことだとは思えないからだ。何しろ、司はNYのビジネスシーンに於いては、顔が知られている。
いくら海外とはいえ、この街は司にとってホームグラウンドだ。そしてここは5番街の高級店が立ち並ぶ場所だ。必要以上に顔を晒すことが得だとは考えてはいない。それに、司自身はよくても、彼女のことを考えれば、今は必要以上にひと前で話しを大きくしたくない。
「滋さんが?」
「ああ。おまえがこの辺りにいるって話しも滋から聞いた。でなきゃマンハッタンでそう簡単におまえを見つけることなんて出来ねぇだろ?」
司はなんとかつくしを車に乗せようとした。嫌だと言えば、さらってもと思うが、だが彼女は少し考えてはいたが、仕方なく頷き、車に乗ることを同意した。意外だった。だがこれが歳月というものだろう。二人とももう子供ではない。それに互いに性格はよく分かっていた。心の奥を見透かすわけではないが司という男が、イエスという言葉を聞くまで、あるいは相手が根負けするまで諦めはしないということを知っているからだ。それとも、彼女も何か話したいことがあるということか?
そんな男はつくしの手を握ったまま、道路の一車線を塞ぐように止めてある艶やかな黒のリムジンへと案内した。
「おまえ・・結婚する気か?俺以外の男と」
車に乗る直前の急な話題の転換につくしは言葉に詰まっていた。
そして一瞬何を言っているのかと思ったが、すぐ我に返っていた。
「えっ?」
見合いの話が伝わっているのは、滋が話しをしたに決まっている。
つくしにとって大切な友人は、道明寺司のことも大切な友人だと思っている。
血の気の多い男と、同じように血の気の多い女は、性別こそ違えど、よく似た性格の二人だ。そんな滋は、司に対しおかしな献身と言えるような態度を取る。
司の考えていることで、つくしには理解出来ないことでも、何故か滋は簡単に理解してしまうことがあった。
そして男女の友情が成り立つのかと言われれば、それはないと言われるのが普通だが、司と滋の友情は成り立っていた。
「悪いな、牧野。その結婚は無いと思え」
「・・?・・なに、いきなり・・なに言ってるのよ?」
そう答えたつくしは、身体を車の中に押し込められようとしていた。
「いいからとりあえず車に乗れ」
「で、でも・・あのね、道明寺・・」
大人しく頷いて車に乗ることを了承した女は、ここに来て抵抗しようとしていた。
「いいから乗れ。滋から頼まれたんだ。おまえを連れて来いってな」
「ちょ、ちょっと待ってよ!滋さんに何を頼まれたのよ?あたしこれから_」
片手でショルダーバッグを押さえながら急に車に乗り込むことに抵抗し始めた女は、足を踏ん張っていた。司はつくしの抵抗など物ともせず、つくしの腰に腕をまわした。
その姿は、少し離れたところからなら、さっきまで手を握っていた男が、愛する女を車に押し付け、愛を囁いているように見えるはずだ。
「・・お、お土産を買おうと思ってたのよ・・・何かこの街の記念になるようなものを!」
進退きわまったと感じた女は思わず叫んでいた。
「誰に買うつもりだ?」
即座に返された男の言葉は、どんなものでも切り刻んでしまうナイフのように鋭く、断固とした口調だ。黒い柳眉は危険な曲線を描き、三白眼の瞳は冷たく射すくめるようにつくしを見た。そして薄い唇が緩くカーブを描くと、不遜な笑みを浮かべた。
「おまえをどこの馬の骨か知らねぇが、見合い相手と結婚なんぞさせねぇからな」

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司は彼女の顔を、こちらへ向かって歩いてくる女の姿を見つめていた。
まず何と声を掛けるかと思ったが、彼女のひとり言が聞えた瞬間、掛ける言葉は決まった。
「何がどうしたらいいんだ?相変わらずひとり言の癖は抜けてねぇようだな」
今、司の目の前にいる女は、目をしばたたいた。そして立ち止まったまま、身体を硬くしたのが分かった。
「おい、そんなところでボケっと立ってたら通行の邪魔だろうが。車を待たせてるから乗れ」
黙りこくったつくしにかまわず、9年振りに会った男は、まるで昨日まで普通に会っていたように話しをする。
そして、その場所に固まったように立つつくしの手首を掴んだ。
だがつくしの身体はそこから動こうとはしなかった。
「道明寺・・」
戸惑いを隠せない声が司の名前を呼んだ。
司はその声に懐かしさを感じ、頭から爪先まで眺め、つくしの目をじっと見つめた。
驚いた彼女の目は大きく見開かれ、司を見返してはいるが、言葉はなく、じっとしていた。
「ああ。俺だ。おまえの所に戻ってきた。滋から聞いたんだろ?俺の離婚が成立したって話し。だからおまえを迎えに来た。牧野、長い間待たせて悪かったな」
強引さは、見方を変えれば一途さという長所だ。
つくしは、かつて司の強引さに戸惑いを隠せなかったが、その強引さが、彼女を引っ張って来た。だが今は正直なところ困惑していた。叔母から勧められて見合いをし、その相手からいい返事を期待しているといった趣旨の言葉を聞かされていたからだ。
この旅は過去を断ち切るための旅。
この旅でもうこの街に何の感傷もないと、この街に暮らすあの人のことは忘れると、別の人生を歩むべきだと自分自身に言い聞かせるための旅だ。だが忘れようとした人が目の前に現れ、一瞬のうちに過去に引き戻されていた。
滋から会ってみなさいと言われ、38歳になった道明寺と会ってみたい、といった気持ちが無かったと言えば嘘になる。記憶の中にあるのは、29歳の道明寺だけだったのだから、テレビや雑誌で見るどこか他人ごとのような状況ではなく、生身の人間らしさを感じられる今の状況は、互いに真剣だったあの頃が甦ったような気がしていた。
だが真剣だったあの頃の想いは、他人の好奇心の的になることも、邪魔されることもなく、終焉を迎えていた。
司は、彼女が自分に接近してくるまでを、つぶさに観察していた。
彼女は司の存在に気付いていなかったが、彼はつくしが自分の方へと歩いてくるのを見つめたまま、深く息を吸った。
はじめて出会った頃、彼女に意地悪することしか頭になかった男の心を掴んだのは、強い意志を秘めた瞳だ。今でもあの頃の彼女の瞳の輝きを覚えているが、その瞳が自分を捉える瞬間を待っていた。
ひっきりなしに鳴らされるクラクションや雑踏の中、前を見つめ歩いてはいたが、考え事をしていると分かった。視線は目の前の風景をなぞっているだけで、その大きな黒い瞳の中に映し込んではない。それでも手は身体に斜めに掛けたショルダーバッグに添え、何かを警戒しているように見えた。それは恐らく過去の経験がそうさせたと分かっていた。
ひとりでこの街を訪れたことがあったが、その時鞄を盗まれるという経験をしていたからだ。
世界中の観光客が訪れるこの街の中心部。
世界一高級なショッピングエリアと言われる5番街は、多くの国の言語が飛び交い、若者もいれば老いた人間もいる。男女が仲良く腕を組む姿もあれば、夫婦がベビーカーを押す姿もあった。ただ、そぞろ歩くだけかもしれないが、皆楽しそうな顔をしている。だが、背の低い女は何かを考えているのか、それとも一人でいるせいか、楽しいといった顔ではなかった。
髪は昔と違い短くなっていたが司は気に入った。
気取りのない髪型は、顔の小さな彼女によく似合っていた。何年も会っていなかったが、彼女はあまり変わっていなかった。
紺色のカットソーに薄いグレーのワイドパンツ、そしてやはり紺色の踵が低い靴を履いていた。昔から派手な色を好まなかったが、今でもそれは変わらないようだ。
身体は細いままで、まだ若々しい。37歳になる女は、まだ30歳だと言っても通用するはずだ。色の白さもあの頃と変わりなく、記憶にある通りだ。彼女の色の白さは東洋人ならではのきめ細かさがあった。化粧はそれなりにしているようだが、やはり昔と変わらず薄かった。
滋から連絡があり、今日はひとりで5番街をぶらついているはずだと言われ、直ぐに車を用意させた。行き先が5番街だと知った時点で、通りを走らせれば見つかるのではないかと考えた。その気になれば、探すことは簡単だが、本当にあっさりと見つかったことは、運がいいとしか言えなかった。
滋は不良中年になれと言い、その言葉を鼻で笑って見せたが、まんざらでもないと思っていた。
13年前、別の女と結婚し、人生最大の悲しみを経験した。
間違っても他の女と結婚などすることはないと考えていたが、思いもしない状況で足枷をはめられ、政略結婚をする羽目になった。それは己の身がチェスの駒になった瞬間だった。
だが道明寺司としての義務を果たさなければならなかったのは、はじめの4年間だけだ。
誇りや自信といったものがなんの意味を成さないといった状況があったが、あの4年間は彼女がいてくれたから乗り越えることが出来た。だがそれは、分別もあり、道徳心の高い彼女を苦しめることにもなった。そして、そんな状況に陥らせてしまった自分が情けなかった。
だが、誰かのひとことで明日が頑張れるとすれば、それは彼女の言葉だった。東京で彼女に会い、抱き合えば、それだけで力を貰えた。そんな4年間は、彼女にとっては苦しい時間だったのかもしれないが、その苦しみを最後の最後まで見せることはなかった。
だが、背中越しに聞いた別れの言葉は、無理に笑顔を作っていたはずだ。
ドラマティックな人生を歩む予定ではなかった彼女の人生は、一人の男と出会ったことによって変わった。それを牧野つくしが望んだか、望まなかったかと問われれば、司にはどちらとも言えなかった。ただ、この年で彼女を幸せにしてやれてないことが、司には悔やまれてならなかった。本来なら二人は既に結婚していたはずだ。
彼女は今もあの当時と変わらず、中堅の総合商社に勤めていた。そして真面目に働く彼女は、長らく休みを取っていなかった。そこへ滋が声をかけ、この街に来ることを決めたようだが、滋の口から結婚するかもしれないと聞かされ、一気に焦りを感じていた。そして怖いくらいの嫉妬に似た感情で身体が強張った。いや。あれは嫉妬に似た感情ではない。嫉妬そのものだ。あの瞬間から熱が身体の中に篭り、殴られたように身体に痛みを感じていた。
だが会えば、再び二人の時計が動き出す。
もう一度流れていく同じ時間の中にいたい。
今はあの頃とは違う。
再びこうして会えたのだからあの時の愛を取り戻してみせる。
司は、彼女の記憶を新たにする計画を立てていた。

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だがつくしの身体はそこから動こうとはしなかった。
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強引さは、見方を変えれば一途さという長所だ。
つくしは、かつて司の強引さに戸惑いを隠せなかったが、その強引さが、彼女を引っ張って来た。だが今は正直なところ困惑していた。叔母から勧められて見合いをし、その相手からいい返事を期待しているといった趣旨の言葉を聞かされていたからだ。
この旅は過去を断ち切るための旅。
この旅でもうこの街に何の感傷もないと、この街に暮らすあの人のことは忘れると、別の人生を歩むべきだと自分自身に言い聞かせるための旅だ。だが忘れようとした人が目の前に現れ、一瞬のうちに過去に引き戻されていた。
滋から会ってみなさいと言われ、38歳になった道明寺と会ってみたい、といった気持ちが無かったと言えば嘘になる。記憶の中にあるのは、29歳の道明寺だけだったのだから、テレビや雑誌で見るどこか他人ごとのような状況ではなく、生身の人間らしさを感じられる今の状況は、互いに真剣だったあの頃が甦ったような気がしていた。
だが真剣だったあの頃の想いは、他人の好奇心の的になることも、邪魔されることもなく、終焉を迎えていた。
司は、彼女が自分に接近してくるまでを、つぶさに観察していた。
彼女は司の存在に気付いていなかったが、彼はつくしが自分の方へと歩いてくるのを見つめたまま、深く息を吸った。
はじめて出会った頃、彼女に意地悪することしか頭になかった男の心を掴んだのは、強い意志を秘めた瞳だ。今でもあの頃の彼女の瞳の輝きを覚えているが、その瞳が自分を捉える瞬間を待っていた。
ひっきりなしに鳴らされるクラクションや雑踏の中、前を見つめ歩いてはいたが、考え事をしていると分かった。視線は目の前の風景をなぞっているだけで、その大きな黒い瞳の中に映し込んではない。それでも手は身体に斜めに掛けたショルダーバッグに添え、何かを警戒しているように見えた。それは恐らく過去の経験がそうさせたと分かっていた。
ひとりでこの街を訪れたことがあったが、その時鞄を盗まれるという経験をしていたからだ。
世界中の観光客が訪れるこの街の中心部。
世界一高級なショッピングエリアと言われる5番街は、多くの国の言語が飛び交い、若者もいれば老いた人間もいる。男女が仲良く腕を組む姿もあれば、夫婦がベビーカーを押す姿もあった。ただ、そぞろ歩くだけかもしれないが、皆楽しそうな顔をしている。だが、背の低い女は何かを考えているのか、それとも一人でいるせいか、楽しいといった顔ではなかった。
髪は昔と違い短くなっていたが司は気に入った。
気取りのない髪型は、顔の小さな彼女によく似合っていた。何年も会っていなかったが、彼女はあまり変わっていなかった。
紺色のカットソーに薄いグレーのワイドパンツ、そしてやはり紺色の踵が低い靴を履いていた。昔から派手な色を好まなかったが、今でもそれは変わらないようだ。
身体は細いままで、まだ若々しい。37歳になる女は、まだ30歳だと言っても通用するはずだ。色の白さもあの頃と変わりなく、記憶にある通りだ。彼女の色の白さは東洋人ならではのきめ細かさがあった。化粧はそれなりにしているようだが、やはり昔と変わらず薄かった。
滋から連絡があり、今日はひとりで5番街をぶらついているはずだと言われ、直ぐに車を用意させた。行き先が5番街だと知った時点で、通りを走らせれば見つかるのではないかと考えた。その気になれば、探すことは簡単だが、本当にあっさりと見つかったことは、運がいいとしか言えなかった。
滋は不良中年になれと言い、その言葉を鼻で笑って見せたが、まんざらでもないと思っていた。
13年前、別の女と結婚し、人生最大の悲しみを経験した。
間違っても他の女と結婚などすることはないと考えていたが、思いもしない状況で足枷をはめられ、政略結婚をする羽目になった。それは己の身がチェスの駒になった瞬間だった。
だが道明寺司としての義務を果たさなければならなかったのは、はじめの4年間だけだ。
誇りや自信といったものがなんの意味を成さないといった状況があったが、あの4年間は彼女がいてくれたから乗り越えることが出来た。だがそれは、分別もあり、道徳心の高い彼女を苦しめることにもなった。そして、そんな状況に陥らせてしまった自分が情けなかった。
だが、誰かのひとことで明日が頑張れるとすれば、それは彼女の言葉だった。東京で彼女に会い、抱き合えば、それだけで力を貰えた。そんな4年間は、彼女にとっては苦しい時間だったのかもしれないが、その苦しみを最後の最後まで見せることはなかった。
だが、背中越しに聞いた別れの言葉は、無理に笑顔を作っていたはずだ。
ドラマティックな人生を歩む予定ではなかった彼女の人生は、一人の男と出会ったことによって変わった。それを牧野つくしが望んだか、望まなかったかと問われれば、司にはどちらとも言えなかった。ただ、この年で彼女を幸せにしてやれてないことが、司には悔やまれてならなかった。本来なら二人は既に結婚していたはずだ。
彼女は今もあの当時と変わらず、中堅の総合商社に勤めていた。そして真面目に働く彼女は、長らく休みを取っていなかった。そこへ滋が声をかけ、この街に来ることを決めたようだが、滋の口から結婚するかもしれないと聞かされ、一気に焦りを感じていた。そして怖いくらいの嫉妬に似た感情で身体が強張った。いや。あれは嫉妬に似た感情ではない。嫉妬そのものだ。あの瞬間から熱が身体の中に篭り、殴られたように身体に痛みを感じていた。
だが会えば、再び二人の時計が動き出す。
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道明寺の離婚が成立した。
あのとき、つくしは、自分の思考が宙を彷徨っていた。
2日前、NYに到着した夜。こじんまりとしたイタリアンレストランで、滋は出されたワインをひと口飲んでからつくしに言った。
「つくし、ねえ、聞いてる?司の離婚が成立したの」
9年の歳月を経て、友人の口から再び語られたその名前。
勿論、滋が彼と仕事上の付き合いがあることは知っていた。かつての見合い相手である二人が結婚しなかったからといって、ビジネスの取引がなくなったわけではない。
それでも、滋はつくしの前で道明寺司の名前を口にすることはなかった。
それはもちろん親友であるつくしを気遣ってのことだと分かっていた。
「あいつの・・前の奥さん。なかなか別れてくれなくてね。つくしは知らないと思うけど、あの人の実家、あいつの会社が大変な時に財務支援してくれたんだけどね、義理の父親って人、随分と手の込んだ事をしようとしてたの。まずあいつと自分の娘を結婚させたのは、司の会社を乗っ取ることが目的だったの。始めはそうじゃなかったのよ?経営権はあくまでも道明寺にってことで司の母親も資金援助を受け入れたの。・・それから結婚もね」
会社の経営を立て直すための政略結婚。
滋はそうすることが、あたり前の階級に育ったが、そんな考え方には批判的だ。
NYと東京で離れ離れになっていた恋人同士の4年の約束が果たされることなく、それから3年が過ぎ、ようやく結ばれようとした矢先での司の政略結婚が残念でたまらなかった。
「でもね、暫くして分かったことがあるの。会社が傾いたとき、経営権を失わない程度で母親も司も手持ちの株を幾らか手放したんだけど、それが色んな買い手に渡っていったのは仕方がないことなんだけどね、ある頃から大口の買い手が道明寺HDの株を買い集めているのが分かってね、それがどこかの投資会社の名前だったんだけど、よく調べてみたら司の義理の父親が買い集めてたの。それからが大変だったのよ。義理の父親の会社から役員を送り込んでくるわ、経営に口出ししてくるわ、色々と調べてみれば、結局は司の母親を社長の椅子から引きずり降ろそうとしていたことが分かったの」
世界的な企業である道明寺HDは、たとえ一時経営難に陥ったとしても、他の企業から見れば魅力的な企業だ。その会社が欲しいと思う企業がいてもおかしくはない。
そして、弱っている時だからこそ、買い時だと思ったのは言うまでもない。
「幸いそれが分かった時点で、司のところも会社自体の体力は回復して来たから手放した株の買戻しをして、それから内部にいる義理の父親の息が掛かった人間の一掃とかしたわけ。でも奥さんは自分の父親の命令なんだろうけど、なかなか別れてくれなくてね、大変だったの」
父親の言いなりになり司と結婚した娘は貞淑とは言えず、父親から渡される金で遊び暮らしているような娘だった。結婚したのも、自分の望むライフスタイルを維持するための金が欲しかったからだ。
司と結婚している限り、父親から金が渡される。それが司の妻となることを了承した理由だというのだから、結婚したところで、同じベッドに寝ることもなければ、抱きもしないのだから、子供が生まれるはずもなく、名目だけの結婚だった。
だが、たとえ滋がそのことを知っていたとしても、つくしに伝えることはなかった。
二人は正式な結婚をしている夫婦だ。それに対し、つくしは道徳に反している関係に罪悪感を抱えていたのだから、話したところで、慰めになるとは思えなかったからだ。
「とにかく司がつくしと別れてからの9年間は色んなことがあったのよ?離婚なんて何年かかったことか・・何しろ相手はアメリカでも大企業の娘だもの」
なかなか別れようとしなかったのは、父親の差し金だということは、分かっていた。
そして、司と結婚している限り、父親から金が渡されるのだから、娘にすれば別れるだけ損だ。滋は、何度かパーティーで見かけたことがあったが、いつまでたっても親の脛を齧るバカな女といった印象しかなかった。そんな女とやっと離婚が成立した司には、幸せになって欲しい。そしてつくしに対しても同じことが言えた。
「・・ねぇ、つくし、司が離婚したんだから、会いに行きなさいよ。せっかくこの街まで来たんだからいいチャンスじゃない」
つくしは黙って聞いていた。
滋の口から語られた自分と別れたあとの司の9年間を。
そんな中で思い出されたのは、9年前の光景。
シャツを着る背中に向かって別れを告げたあの日。
「滋さん、あたしと道明寺はもう別れたのよ?もう何も関係ないわ。それに、あたし、お見合いしたって言ったでしょ?その人から結婚して欲しいって言われてるって・・」
叔母から持ち込まれた縁談。
この旅行から戻ったら返事をすることになっていた。
「ちょっとつくし!何言ってるのよ?何も関係ないなんてそんなことないでしょ?あんたがそんなに簡単に割り切れるような女じゃないってこと、あたしに分からないと思ってるの?あたしはつくしが司と別れたって電話くれた時、一緒に泣いたんだよ?いいつくし?その見合い相手からの話だけど、ダメよ!絶対ダメ!受けたらダメ!」
結婚を前提に付き合い始めるということは、婚約したようなものだ。
そうすれば、恐らく周囲から促され結婚へと向かうことになる。
そして、滋から見た今のつくしは、簡単に流されてしまいそうな空気があった。
「滋さん_」
「いい?つくしはね、司っていう運命の人がいるんだからその人結ばれなきゃダメなのよ?そうでしょ?つくしは司と別れてから恋人なんていなかったじゃない?いくら言い寄られても誰も相手になんかしなかったでしょ?」
「あのね、滋さん、確かに恋人はいなかったけど、友達くらいはいた_」
「つくし、あたしが言ってる意味がわかるでしょ?」
つくしが喋ろうとすると、滋の声が遮る。
もうこうなると、つくしが口を挟む余地はないのだから、黙って大人しく聞くしかない。
「つくしは、自分の周りに壁を築いてた。友達がいたなんて言うけど、違うでしょ?つくしが男とふらふら出歩いてるなんて信じないからね!つくしは自分の心に何を抱えているか分かってるはずよ?」
つくしは司と別れてから9年間、いやそれ以前の4年前を振り返った。
彼が結婚することになった頃を。
道明寺が結婚すると知ったとき、身体中の骨が軋んだ。
そしてもう2度と会えないと思ったとき、辛くて涙が出た。
それでも、傍にいて欲しいと、離れたくないと言われ、閉ざされた扉の中だけでも一緒にいることが出来るなら、その中で見せてくれる優しさが本物なら、自分の立場がどうであろうと構わないと思った。あの4年間は、一途で迷いのない4年だった。
「つくし、司のことが忘れられなかったからずっと一人だったんでしょ?恋人だって作ろうと思えば作れたはずよね?だけどそれもしなかった。・・つくし、素直になってよ!自分を・・心を開放しなきゃダメよ!あんたは9年経っても司のことが好きなのよ?つくし、あんたと司が一緒にいられなかったのは、二人とも道に迷ってたのよ?・・そうよ、二人とも迷ってたの。そう思いなさい?あんたたち二人とも同じ寂しさを抱えて生きて来たはずなの」
確かに、一人でいたこの9年間、彼に関する色々な思いに蓋をしていた。心の中に箱を作り、感情を投げ入れ、封印していた。別れて直ぐは、虚脱感といったものに襲われ、何もする気がしなくなった。そして、どんなに感情に蓋をしても、心は揺れ続けていた。
そうだ、ずっと揺れ続けたままでいた。
「つくし、いいから司に会いなさい?会わなきゃダメ。つくしの心は痛いくらいあたしには丸見えなんだから。それに、つくしが、この街に来たのは、司のことなんてもう気にしてないって自分自身に言い聞かせる為でしょ?今まであたしが何度誘っても行くなんて言わなかったけど、お見合いしてから急にその気になるなんておかしわよ。つくしは過去を清算しようとしてるのかもしれないけど、司のことが好きなのに、他の男と結婚して幸せになんかなれないからね?」
つくしは、5番街を南下しながら、2日前滋と交わした会話を思い出し、複雑な心境でいた。
『会いに行きなさいよ。せっかくこの街まで来たんだから』
勇気を持って会ってみるべきだろうか?
もし私が会いたいと言えば、滋は直ぐにでも道明寺に連絡を取るはずだ。
「はぁ・・どうしたらいいのよ、もう!」
「何がどうしたらいいんだ?相変わらずひとり言の癖は抜けてねぇようだな」
アルマーニのスーツにグッチの靴で一分の隙もない姿の男がそこにいたとしても驚くことはない。ここはNYだ。そんな男はいくらでもいるはずだ。だが目の前の男のように、魔力といえるほどのオーラを発散することが出来る男は他にはいないはずだ。

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2日前、NYに到着した夜。こじんまりとしたイタリアンレストランで、滋は出されたワインをひと口飲んでからつくしに言った。
「つくし、ねえ、聞いてる?司の離婚が成立したの」
9年の歳月を経て、友人の口から再び語られたその名前。
勿論、滋が彼と仕事上の付き合いがあることは知っていた。かつての見合い相手である二人が結婚しなかったからといって、ビジネスの取引がなくなったわけではない。
それでも、滋はつくしの前で道明寺司の名前を口にすることはなかった。
それはもちろん親友であるつくしを気遣ってのことだと分かっていた。
「あいつの・・前の奥さん。なかなか別れてくれなくてね。つくしは知らないと思うけど、あの人の実家、あいつの会社が大変な時に財務支援してくれたんだけどね、義理の父親って人、随分と手の込んだ事をしようとしてたの。まずあいつと自分の娘を結婚させたのは、司の会社を乗っ取ることが目的だったの。始めはそうじゃなかったのよ?経営権はあくまでも道明寺にってことで司の母親も資金援助を受け入れたの。・・それから結婚もね」
会社の経営を立て直すための政略結婚。
滋はそうすることが、あたり前の階級に育ったが、そんな考え方には批判的だ。
NYと東京で離れ離れになっていた恋人同士の4年の約束が果たされることなく、それから3年が過ぎ、ようやく結ばれようとした矢先での司の政略結婚が残念でたまらなかった。
「でもね、暫くして分かったことがあるの。会社が傾いたとき、経営権を失わない程度で母親も司も手持ちの株を幾らか手放したんだけど、それが色んな買い手に渡っていったのは仕方がないことなんだけどね、ある頃から大口の買い手が道明寺HDの株を買い集めているのが分かってね、それがどこかの投資会社の名前だったんだけど、よく調べてみたら司の義理の父親が買い集めてたの。それからが大変だったのよ。義理の父親の会社から役員を送り込んでくるわ、経営に口出ししてくるわ、色々と調べてみれば、結局は司の母親を社長の椅子から引きずり降ろそうとしていたことが分かったの」
世界的な企業である道明寺HDは、たとえ一時経営難に陥ったとしても、他の企業から見れば魅力的な企業だ。その会社が欲しいと思う企業がいてもおかしくはない。
そして、弱っている時だからこそ、買い時だと思ったのは言うまでもない。
「幸いそれが分かった時点で、司のところも会社自体の体力は回復して来たから手放した株の買戻しをして、それから内部にいる義理の父親の息が掛かった人間の一掃とかしたわけ。でも奥さんは自分の父親の命令なんだろうけど、なかなか別れてくれなくてね、大変だったの」
父親の言いなりになり司と結婚した娘は貞淑とは言えず、父親から渡される金で遊び暮らしているような娘だった。結婚したのも、自分の望むライフスタイルを維持するための金が欲しかったからだ。
司と結婚している限り、父親から金が渡される。それが司の妻となることを了承した理由だというのだから、結婚したところで、同じベッドに寝ることもなければ、抱きもしないのだから、子供が生まれるはずもなく、名目だけの結婚だった。
だが、たとえ滋がそのことを知っていたとしても、つくしに伝えることはなかった。
二人は正式な結婚をしている夫婦だ。それに対し、つくしは道徳に反している関係に罪悪感を抱えていたのだから、話したところで、慰めになるとは思えなかったからだ。
「とにかく司がつくしと別れてからの9年間は色んなことがあったのよ?離婚なんて何年かかったことか・・何しろ相手はアメリカでも大企業の娘だもの」
なかなか別れようとしなかったのは、父親の差し金だということは、分かっていた。
そして、司と結婚している限り、父親から金が渡されるのだから、娘にすれば別れるだけ損だ。滋は、何度かパーティーで見かけたことがあったが、いつまでたっても親の脛を齧るバカな女といった印象しかなかった。そんな女とやっと離婚が成立した司には、幸せになって欲しい。そしてつくしに対しても同じことが言えた。
「・・ねぇ、つくし、司が離婚したんだから、会いに行きなさいよ。せっかくこの街まで来たんだからいいチャンスじゃない」
つくしは黙って聞いていた。
滋の口から語られた自分と別れたあとの司の9年間を。
そんな中で思い出されたのは、9年前の光景。
シャツを着る背中に向かって別れを告げたあの日。
「滋さん、あたしと道明寺はもう別れたのよ?もう何も関係ないわ。それに、あたし、お見合いしたって言ったでしょ?その人から結婚して欲しいって言われてるって・・」
叔母から持ち込まれた縁談。
この旅行から戻ったら返事をすることになっていた。
「ちょっとつくし!何言ってるのよ?何も関係ないなんてそんなことないでしょ?あんたがそんなに簡単に割り切れるような女じゃないってこと、あたしに分からないと思ってるの?あたしはつくしが司と別れたって電話くれた時、一緒に泣いたんだよ?いいつくし?その見合い相手からの話だけど、ダメよ!絶対ダメ!受けたらダメ!」
結婚を前提に付き合い始めるということは、婚約したようなものだ。
そうすれば、恐らく周囲から促され結婚へと向かうことになる。
そして、滋から見た今のつくしは、簡単に流されてしまいそうな空気があった。
「滋さん_」
「いい?つくしはね、司っていう運命の人がいるんだからその人結ばれなきゃダメなのよ?そうでしょ?つくしは司と別れてから恋人なんていなかったじゃない?いくら言い寄られても誰も相手になんかしなかったでしょ?」
「あのね、滋さん、確かに恋人はいなかったけど、友達くらいはいた_」
「つくし、あたしが言ってる意味がわかるでしょ?」
つくしが喋ろうとすると、滋の声が遮る。
もうこうなると、つくしが口を挟む余地はないのだから、黙って大人しく聞くしかない。
「つくしは、自分の周りに壁を築いてた。友達がいたなんて言うけど、違うでしょ?つくしが男とふらふら出歩いてるなんて信じないからね!つくしは自分の心に何を抱えているか分かってるはずよ?」
つくしは司と別れてから9年間、いやそれ以前の4年前を振り返った。
彼が結婚することになった頃を。
道明寺が結婚すると知ったとき、身体中の骨が軋んだ。
そしてもう2度と会えないと思ったとき、辛くて涙が出た。
それでも、傍にいて欲しいと、離れたくないと言われ、閉ざされた扉の中だけでも一緒にいることが出来るなら、その中で見せてくれる優しさが本物なら、自分の立場がどうであろうと構わないと思った。あの4年間は、一途で迷いのない4年だった。
「つくし、司のことが忘れられなかったからずっと一人だったんでしょ?恋人だって作ろうと思えば作れたはずよね?だけどそれもしなかった。・・つくし、素直になってよ!自分を・・心を開放しなきゃダメよ!あんたは9年経っても司のことが好きなのよ?つくし、あんたと司が一緒にいられなかったのは、二人とも道に迷ってたのよ?・・そうよ、二人とも迷ってたの。そう思いなさい?あんたたち二人とも同じ寂しさを抱えて生きて来たはずなの」
確かに、一人でいたこの9年間、彼に関する色々な思いに蓋をしていた。心の中に箱を作り、感情を投げ入れ、封印していた。別れて直ぐは、虚脱感といったものに襲われ、何もする気がしなくなった。そして、どんなに感情に蓋をしても、心は揺れ続けていた。
そうだ、ずっと揺れ続けたままでいた。
「つくし、いいから司に会いなさい?会わなきゃダメ。つくしの心は痛いくらいあたしには丸見えなんだから。それに、つくしが、この街に来たのは、司のことなんてもう気にしてないって自分自身に言い聞かせる為でしょ?今まであたしが何度誘っても行くなんて言わなかったけど、お見合いしてから急にその気になるなんておかしわよ。つくしは過去を清算しようとしてるのかもしれないけど、司のことが好きなのに、他の男と結婚して幸せになんかなれないからね?」
つくしは、5番街を南下しながら、2日前滋と交わした会話を思い出し、複雑な心境でいた。
『会いに行きなさいよ。せっかくこの街まで来たんだから』
勇気を持って会ってみるべきだろうか?
もし私が会いたいと言えば、滋は直ぐにでも道明寺に連絡を取るはずだ。
「はぁ・・どうしたらいいのよ、もう!」
「何がどうしたらいいんだ?相変わらずひとり言の癖は抜けてねぇようだな」
アルマーニのスーツにグッチの靴で一分の隙もない姿の男がそこにいたとしても驚くことはない。ここはNYだ。そんな男はいくらでもいるはずだ。だが目の前の男のように、魔力といえるほどのオーラを発散することが出来る男は他にはいないはずだ。

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NYの裕福さの象徴と言える5番街。
マンハッタンを南北に縦断するアベニューと呼ばれる通り。
車道を走る車は、日本と違って頻繁にクラクションを鳴らす。それが赤信号を無視して渡る人間に対し、注意の意味で鳴らすなら分かるがそうではない。多人種のこの街では、出身国の運転スタイルをそのまま持ち込む場合も多く、NYのドライバーのマナーは悪いと言われていた。
少し前にも、赤信号で止まっていた先頭車の発進が2秒ほど遅れただけだったが、後方に止った車から幾つものクラクションが鳴らされていた。
つくしは身体に斜め掛けしたショルダーバッグだけの格好でこの街を歩いていた。
ここは大都会NY。以前一度この街を訪れたとき、鞄を盗まれたこともあり、身の回りの物に気を配ることは忘れなかった。あれはまだ高校生の頃。右も左も分からないこの街に1人脚を踏み入れた時のことだった。
好きな人を追いかけて来た真冬の大都会。東京とは違う雑踏があった。
あれから20年。この街の季節はあの時とは違い暑い夏だ。この街の緯度は、青森とほぼ同じで日本ほどはっきりではないが、四季があり、今日は30度を超える真夏日の陽気だと予報されていた。そのせいか、街を行く人々の多くは薄着だが、ビジネスの最前線で働く男たちは、ダークスーツを着こなし、颯爽とした足取りですれ違って行った。
世界の一流店が多く集まる5番街。とてもではないが買えるようなものはなかった。
入口には銃を構えたガードマンが立つのが普通の店も多く、敷居が高く、ましてや冷やかして回るような店もない。つくしにしてみれば、端からそのような店に興味もないのだが、せっかくこの街に来たのだから、何か思い出になるような物が欲しかった。
だが、目に留まる物は何もなく、人も、摩天楼の景色も、全ては目の上を通り過ぎていくだけだった。
そして摩天楼のさらに上、見上げた空は濃い青をしていた。
私がNYへ着いたのは、2日前。
友人である大河原滋から何度も遊びに来てと誘われていたからだ。
『つくし。あたしに会いに来てよ!心配しなくても大丈夫。旅費も宿泊費もいらないから。二人でこの街を楽しもうね!』
豪胆な性格の彼女だが、情に厚く真面目なところがある。そんな友人からの誘い。
だが今日の彼女は「急用が出来たの、ゴメンね」と言って私を置いて出かけて行った。
別にそれは構わなかった。こうして昔を思い出しながら街を歩くことが、いい気分転換になるからだ。
東京にいたなら、決して聞く事のないような多様な言語と文化の多様性を感じるこの街は、刺激に溢れていた。それに、絶えず付き添いが必要な子供ではない。いい年をした大人が、一人で行動出来ないはずがない。
大河原滋とはまだ10代の頃、知り合った。
それはある一人の男性を挟んでの関係から始まった。
彼女の見合い相手が私の好きな人だった。それは彼に用意されていた人生の一端。
そして彼女は、誰に遠慮することがないと思っていたその人に、自分の気持ちをはっきりと伝えた。
あの頃、私も彼のことが好きだった。だが、彼女にそのことを言えなかった。いや。言えなかったというより、彼女には敵わないといった思いに囚われ、自分の思いを伝えることが出来なかった。
そして彼女と彼は一時恋人同士になった。そんなある日、二人が口づけをしている場面を目撃した。その時、私の心の中には嫉妬といえるものが確かにあった。だがそれを心の奥底に沈めた。そして「おめでとう」と彼女を祝福した。
だが、偽りの心はいつか知られてしまう。
そして彼は彼女ではなく、私を選んだ。
あのとき以来、彼女は自分の恋は破れたが、私と彼の恋を応援してくれるようになった。
そしていつの間にか、二人は熱い友情で結ばれていた。
彼女は一つ年上だが、年の差を感じさせない付き合いをしてきた。
あけっぴろげな性格で、物怖じせず、どちらかといえば姉御肌のタイプ。そして優柔不断な友人を見るに見かね、手となり足となり、世話を焼いてくれるところがあった。
『つくし、あんた仕事し過ぎよ。会社の休み、沢山残ってるんでしょ?それ使いなさいよ?!・・ったくあんたって真面目過ぎるのよ!』
仕事は真面目、人間関係も真面目、少しは羽目を外しなさいと言われ、重いと言われる腰を上げた。そして彼女の元を訪ねてみようと思ったのは、この街には何の感傷もないと、自分自身に確認させるためだ。
あれから9年の歳月が経っていた。
あの頃、ただ傍にいたいといった思いから、愛していた人と、世間には公には出来ない関係を続けていた。この先どうなるのかと考えることはしなかった。それは、考えたところでどうなるものでもなかったからだ。
好きになった人は、日本を代表する財閥の御曹司。
財閥の跡取りとして生を受けた時点で、彼の人生は決まっていた。
だが、私と恋に堕ちたことで、彼の人生は変わった。そしてそれは私にも言えたことだった。
愛し方さえろくに知らなかったが、それでも人を愛することが素晴らしいことだと知ったのは、彼に出会えたからだ。
彼は私と一緒にいることが出来るなら、全てを失うことになっても構わないと言った。
だが、現実問題としてそんなことが許されるはずもなく結婚した彼。
そんな彼から自分の瞳に映るただ一人の人間として傍にいて欲しいと言われたのは、結婚して間もなくのことだった。
それから4年の間、待つだけの立場になった。
そんな立場になれば、彼がいない日は哀しいほど自由だったが、別にひとりでいることが、苦になるといったことはなかった。それに朝目覚めるたび、何かに追われるわけでもなかった。だが、いつまでもこの関係を続けて行くわけにはいかないと思った。
夜が明ければ、迎えの車に乗り去って行くことが当たり前となっていた彼。
ある日、黙ってシャツを着る背中に別れを告げた。
いつかは別れなければならないとすれば、あれでよかったはずだ。
愛されているのは分かっていた。それでも、離れることが必要だと思った。
それはひとえに彼の将来の為だ。ああいった家には、跡継ぎが必要になる。正式な妻から生まれた嫡出子が必要だ。だが未だに彼に子供が出来たといった話しは聞かなかった。
あのとき、1人になることを選んだ私は28歳になっていた。
そんな私は、いつまでたっても別れた彼のことが忘れられずにいた。
涙に暮れた日々はもうとっくの昔に過ぎたはずだ。
重ねた時は私を変えはしなかったが、失った恋を悲しむことは止めたはずだ。
それでも、ふと思い出すことがあった。
あの人のことを。
だが、時の流れと共にいつかは彼のことを忘れるはずだと思っていた。
忘れなければならないと思った。
そしてそんな私に、37歳にもなっていつまで一人でいるつもりなの?と、既に両親が他界してしまった姪に縁談を持ってきたのは、叔母夫婦だ。
相手は2歳上の建築設計士。第一印象は、口数の少ない物静かな男性だといった印象を受けた。だが話をしてみれば、口数の少なさといったものは、考え抜いた上の答えであり、相手の感情を読むといったことをしていると思った。
そして、言われたのは、わたしもこの年ですから、相手に多くのことを求めはしません。
パートナーとして共に過ごしてくれる人が欲しいんです。といった言葉だった。
見合いといったものは、結婚を前提としているものだ。相手の男性からは、ぜひまた会いたいと連絡があったと叔母から聞いた。
『つくし、何度か会ってみなきゃわからないでしょ?すぐに断るなんてことをしないで、会うだけ会ってみなさい。何度か会ってからの返事でいいからって先方もおっしゃってるわ』
あれから3度食事をした。
そして、返事を求められた。
だがまだ返事はしていない。この旅が終ってからと相手の男性には伝えてある。
この旅は過去を断ち切るための旅。
この旅でもうこの街に何の感傷もないと、この街に暮らすあの人のことは忘れると、別の人生を歩むべきだと自分自身に言い聞かせるための旅だ。
だがNYに着いた2日前、レストランで食事をしながら思わぬ話を聞かされた。
「あのね、つくし。司の離婚が成立したって。司、ひとりに戻ったって」

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ここは大都会NY。以前一度この街を訪れたとき、鞄を盗まれたこともあり、身の回りの物に気を配ることは忘れなかった。あれはまだ高校生の頃。右も左も分からないこの街に1人脚を踏み入れた時のことだった。
好きな人を追いかけて来た真冬の大都会。東京とは違う雑踏があった。
あれから20年。この街の季節はあの時とは違い暑い夏だ。この街の緯度は、青森とほぼ同じで日本ほどはっきりではないが、四季があり、今日は30度を超える真夏日の陽気だと予報されていた。そのせいか、街を行く人々の多くは薄着だが、ビジネスの最前線で働く男たちは、ダークスーツを着こなし、颯爽とした足取りですれ違って行った。
世界の一流店が多く集まる5番街。とてもではないが買えるようなものはなかった。
入口には銃を構えたガードマンが立つのが普通の店も多く、敷居が高く、ましてや冷やかして回るような店もない。つくしにしてみれば、端からそのような店に興味もないのだが、せっかくこの街に来たのだから、何か思い出になるような物が欲しかった。
だが、目に留まる物は何もなく、人も、摩天楼の景色も、全ては目の上を通り過ぎていくだけだった。
そして摩天楼のさらに上、見上げた空は濃い青をしていた。
私がNYへ着いたのは、2日前。
友人である大河原滋から何度も遊びに来てと誘われていたからだ。
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東京にいたなら、決して聞く事のないような多様な言語と文化の多様性を感じるこの街は、刺激に溢れていた。それに、絶えず付き添いが必要な子供ではない。いい年をした大人が、一人で行動出来ないはずがない。
大河原滋とはまだ10代の頃、知り合った。
それはある一人の男性を挟んでの関係から始まった。
彼女の見合い相手が私の好きな人だった。それは彼に用意されていた人生の一端。
そして彼女は、誰に遠慮することがないと思っていたその人に、自分の気持ちをはっきりと伝えた。
あの頃、私も彼のことが好きだった。だが、彼女にそのことを言えなかった。いや。言えなかったというより、彼女には敵わないといった思いに囚われ、自分の思いを伝えることが出来なかった。
そして彼女と彼は一時恋人同士になった。そんなある日、二人が口づけをしている場面を目撃した。その時、私の心の中には嫉妬といえるものが確かにあった。だがそれを心の奥底に沈めた。そして「おめでとう」と彼女を祝福した。
だが、偽りの心はいつか知られてしまう。
そして彼は彼女ではなく、私を選んだ。
あのとき以来、彼女は自分の恋は破れたが、私と彼の恋を応援してくれるようになった。
そしていつの間にか、二人は熱い友情で結ばれていた。
彼女は一つ年上だが、年の差を感じさせない付き合いをしてきた。
あけっぴろげな性格で、物怖じせず、どちらかといえば姉御肌のタイプ。そして優柔不断な友人を見るに見かね、手となり足となり、世話を焼いてくれるところがあった。
『つくし、あんた仕事し過ぎよ。会社の休み、沢山残ってるんでしょ?それ使いなさいよ?!・・ったくあんたって真面目過ぎるのよ!』
仕事は真面目、人間関係も真面目、少しは羽目を外しなさいと言われ、重いと言われる腰を上げた。そして彼女の元を訪ねてみようと思ったのは、この街には何の感傷もないと、自分自身に確認させるためだ。
あれから9年の歳月が経っていた。
あの頃、ただ傍にいたいといった思いから、愛していた人と、世間には公には出来ない関係を続けていた。この先どうなるのかと考えることはしなかった。それは、考えたところでどうなるものでもなかったからだ。
好きになった人は、日本を代表する財閥の御曹司。
財閥の跡取りとして生を受けた時点で、彼の人生は決まっていた。
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あのとき、1人になることを選んだ私は28歳になっていた。
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重ねた時は私を変えはしなかったが、失った恋を悲しむことは止めたはずだ。
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あの人のことを。
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相手は2歳上の建築設計士。第一印象は、口数の少ない物静かな男性だといった印象を受けた。だが話をしてみれば、口数の少なさといったものは、考え抜いた上の答えであり、相手の感情を読むといったことをしていると思った。
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あれから3度食事をした。
そして、返事を求められた。
だがまだ返事はしていない。この旅が終ってからと相手の男性には伝えてある。
この旅は過去を断ち切るための旅。
この旅でもうこの街に何の感傷もないと、この街に暮らすあの人のことは忘れると、別の人生を歩むべきだと自分自身に言い聞かせるための旅だ。
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日本の企業は年功序列と言われている。
それは、日本的経営の特徴と言われ、個人の能力や実績に関わらず、年齢や勤務年数のみで評価し、役職や賃金が上昇する。今でもそういった企業が多いのが日本の会社の実態。
英語でもNenko System と紹介されることもある年功序列制度。
だがうちは、道明寺HDは違う。うちの会社の本社はNY、アメリカだ。
だから年功序列なんて考え方はない。実力が物を言う会社だ。人種、性別、年齢なんて関係ない。
そんな会社は上司が自分より年下の時もある。
それに上司の言うことが正しい、絶対だといった考え方はしない。
けれど、ここは日本だ。たまには日本式でもいいと思う。
その方が今の俺にとっては都合がいいからだ。
ちなみに今、社内ではジョブローテーションを実施中だ。
うちの会社は、短縮してジョブローテと言うらしいが、これは人材研修のひとつだが、定期的に職場の移動や職務の変更を行い、それぞれの部署が、どんな仕事をしているか、またどんな人間がいるかを把握させ、将来会社を背負って立つ人材を育てることを目的としていた。
だがそれだけが目的ではない。それは、個人の持つ知識や情報を組織全体で共有し、有効活用することだ。
何しろ会社というものは、従業員共同体とも呼べる組織。その組織の成長と活性化をしていくことは重要だ。会社は風通しがいい方がいいに決まってるからな。それに社員の意見が上まで上がってこねぇような会社じゃ成長は見込めねぇだろ?
今回その研修に俺も参加したいと申し出た。
やはり支社長たる者、現場に立ち、社員がどんな仕事をしていて、どんな人間がいるかを詳しく知ることが必要だからだ。そんな俺が希望したのが、海外事業本部。
あいつ・・。西田の野郎。顔色ひとつ変えねぇで言いやがった。
『支社長は牧野様とご一緒に仕事をしたいのでしょうか?』
当然だろうが。牧野がいるからあの事業部の仕事を経験したいって言ったんだろうが。それ以外の部署なんて興味ねぇよ!間違っても経理部なんかに行かせるなよ?数字には強いが、何しろ端数ってのが面倒だ。100万以下は全て切り捨てろなんて言えるわけねぇしな・・・。
まあそんなことはどうでもいい。
今は牧野んとこの事業部へ行くことだけを考えていた。
あいつの上司、牧野によく似た苗字で牧田又蔵って言う男だが、牧野に送るはずのメールがその男のパソコンに届いたことがあった。
どんな内容かは言えねぇけど、「道明寺!いやらしい内容のメールを送ったんでしょう!」と言って牧田の所に走って戻った牧野。そのメールを見せてくれと直談判したが見せて貰えなかった。と、いうより、俺がシステム部の奴らに言って牧田又蔵宛に送ったメールは削除させたけどな。
とにかく、念願叶って今日一日海外事業本部長席に座ることになった俺。
一日海外事業本部長っていう一日警察署長みてぇな役職だがまあいい。
なにしろその席からの眺めは最高!!
ズラリと並んだデスクの、窓を背にした一番奥が俺の席。
そして俺の右斜め前が牧野の席。
牧野とこうして仕事をするなんて、まるで夢のような光景。
にやけるなって言う方が無理。
そこで発揮されるのが、日本的経営の特徴とも言える年功序列制度。
そして上司の言うことは、絶対服従だという言葉。
牧野の「上司」は俺だ。そうだ。まさに俺が直属の上司。
なんかいい響きだよな。上司って言葉。
だってそうだろ?上司って言葉の「上司」から「上」を取れば、残るのは「司」の一文字。
それってずばり俺のことだろ?
それに「上司」って言葉にはもうひとつ意味がある。
それは・・俺と牧野のラブライフについてだ。
寝るとき決まって上に乗っかるのは俺の方だから、「上司」ってのは、俺が上に乗ってるって体位を説明してるようで照れる。
だが牧野は「上司」って文字も意外と平気そうだが俺が気にし過ぎか?
牧野、本当にいいのか?俺が上に乗ってるって言ってるようなものだぞ?
とにかく、日本の会社組織的に言えば、上の者には絶対服従ってことなら、司に絶対服従ってことだろ?
「司に絶対服従・・」
なんかずげぇいい響き。
いつも牧野には逃げられてばかりだが、直属の上司の俺から逃げることなんて出来ねぇはずだ。
それに彼氏が上司ってものなかなかいいシュチュエーション。
いつも妄想の世界でしか味わえない色々が手を伸ばせば、すぐそこにあるってのは、満足度が高い。これから先もこの席で仕事をしたい思いがある。
いつも牧野の前では平身低頭になることもあるが、今日ばかりはそうはいかねぇからな。
なあ、そうだろ?牧野?
「牧野くん。これコピーを取ってくれないか」
「ど、道明寺・・ぶ、部長・・」
・・なんだよ。何言葉に詰まってんだよ。どもんじゃねぇよ・・。
いいか?道明寺ったら俺の名前でもあるが、会社の名前でもあるんだぞ!
そんなんで電話に出たとき、ちゃんと言えてんのか?
「なんだ?」
「大変申し訳ございません。1枚2枚のコピーならご自分でお願い致します」
・・・牧野。
おまえ、なんだよ自分の彼氏にその冷たい態度は!
いいか?俺はおまえの彼氏である以上に今は上司だ。
そんな上司の命令は絶対だろうが。
それにコピーの1枚や2枚じゃねぇんだよ。
そんな牧野の反抗的な態度のことも考え、前日西田に言って文書を配らせた。
「皆様、明日は道明寺支社長が海外事業本部の一日本部長となります。支社長は大変お忙し方ではございますが、現場の皆様の業務をぜひ知りたいと申しております。つきましては、皆様にお願いと注意点がございますので、こちらの文書をご一読いただきたいと思います」
それは、西田が支社長の俺を気遣って用意した文書と思わせているが、用意させたのは俺。
ただし、牧野に渡す文書にはちょっとした小細工がしてあった。
「牧野くん。大変申し訳ない。コピーといっても1枚や2枚じゃないんだ。海外プラント用の図面なんだが30部ほど頼みたい」
土木やインフラ、建設関連の図面は、大きすぎて普通のコピー機ではコピーできないものがある。
何故なら、図面のサイズがB0といった1030mm×1456mmといったサイズがあるからだ。それをコピーするとなると、このフロアに設置されたコピー機ではまず無理。
別室にあるコピー機でのコピーとなる。
そんなデカい図面、どうやって保存してるんだと思うかもしれねぇが、図面折りといった方法で、A4サイズに折り畳まれてるってんだから不思議だ。それもJIS規格(日本工業規格)で統一されてるらしいが、知らなかった。つまり俺にも知らねぇことがあるってことだ。
それに実務ってのは奥が深いってことを知り、いい勉強になった。
それはさておき、牧野にコピーを頼んだ。
この枚数と折り畳む手間を考えれば、仮にも直属の上司である俺に嫌とは言えないはずだ。
だってそうだろ?俺がそんなでけぇ図面コピーして、ちまちまと図面折りしてる絵が想像出来るか?出来るわけねぇだろうが。それにおまえ、そんなこと俺にやらせてるなんてことが知れたら周りのおまえを見る目が恐ろしいことになるんだろ?
何てったか忘れたけど、俺の親衛隊とかが騒ぐってことだろ?
けど、なんか知らねぇけど、怖えぇ顔して睨む牧野。
おまえ、まさかそれが無駄な業務だと思ってるんじゃねぇだろうな?
牧野、仕事を舐めるな。俺は仕事に対してはいつも真剣だ。
・・いや。
けどまあ・・実を言えばどうでもいい。
だってそろそろ何かの口実見つけて、牧野と二人っきりになりてぇじゃん。
それになんての?二人だけ別室に閉じこもって本物のオフィスラブ?っての経験してみてぇし。
「牧野くん。忙しいところ本当に申し訳ないが、お願い出来ないだろうか?」
警戒するように少し目を細め、眉間に寄った皺。
まるで俺の頭の中を読んでるみてぇな牧野の視線が痛い。
そんな牧野は西田が前日に配った紙を取り出し、俺について西田が書いたとされる、注意点とお願いを読み始めた。おい牧野。言っとくがそれは俺の取り扱い説明書じゃねぇぞ?
だがそこで気付いたようだ。
それは、「上司の指示に従うこと」の文言がいつの間にか「上」が取れ、「司の指示に従うこと」に変わっていることだ。つまり単なる上司ではなく、固有名詞で書かれた「司」ってところに意味がある。
牧野は目を凝らし、まじまじと文書を見つめているが、確かに文書を受け取ったとき「上司」となっていたはずだ。それならなぜ、「上」が書かれていないのか?そんなの簡単。時間が経てば消えるインクを使ってわざわざ「上」の一文字だけを書かせたからだ。
賢い牧野はそれに気づいたようだ。
すげぇ怖えぇ目つきで俺を睨んで来た。
けど、さすがに他の社員の手前、これ以上「上司」である男に従わないわけにはいかないと気づいたようだ。
「・・では、コピー室に行ってきます」
と、図面を抱え出て行った牧野。
おお、行って来い!
俺も後から行くからな!
ところで牧野。「待ってるわ」なんて目配せくれぇしてくれてもいいんじゃねぇの?
まあ会社で公私混同はしたくないっていう女がそんなことする訳ねーか。
司はつくしがいるコピー室へ向かった。
そこは、文字通り大型コピー機が置いてある部屋。
司がその部屋を訪れたことがあるはずもないのだが、そこは既に調べてあった。
コピー室とか資料室とか備品室とか、普段興味のない部屋だが、何故だかそそられるそういった部屋。なんとなく秘密の小部屋って感じがして、そこで恋人同士が人目を避け、愛を確かめ合ってるって気がするのは俺だけじゃねぇはずだ。
そしてついに、俺と牧野の本当のオフィスラブが実現する時が来た。
上司と部下の社内恋愛。
「道明寺部長!あたし、部長のことが好きなんです。奥様と別れてあたしと一緒になって下さい」
「牧野くん・・それは困るよ・・僕にはまだ小さい子供がいるんだ」
「ひどいわ!道明寺部長は、あたしのこと身体だけだったんですか?」
「違う・・そんなことはない。君のことは本気だ。だが子供が成人するまで待って欲しい」
「・・嘘つき・・部長はそう言っていつまでもあたしのことを本気で愛そうとはしないのね!いいわ・・それなら奥様にあたし達の関係を話すわ!」
おい!待て!
なんで俺が子持ちの部長なんだよ!!
これじゃ社内不倫じゃねぇかよ!!
消えろ、消えろ!こんな妄想は!!
司は気を取り直し、唾を呑み、コピー室の扉を開けた。
すると、そこにいたのは確かに牧野。
背が低く、小柄で可愛い牧野がコピー機の前で頭を下げ、機械を操作していた。
あのまま可愛らしい尻を掴み、スカートをたくし上げ、後ろからってのもそそられる光景。
今度こそ上司と部下の社内恋愛。
「・・まきの・・」
「ど、道明寺部長!?」
振り向いたつくしのすぐ前に立った司は、直ぐに彼女を後ろ向きに戻し、片手で彼女の腰を掴み、もう片方の手を尻に当てると、軽く揉んだ。そしてスカートの裾を掴み、たくし上げ、剥き出しになった下着をむしり取った。
すると剥き出しになったつくしの尻。だがしっかりと腰を掴まれた女は振り返ることは出来ず、前を向かされていた。
「な・・何を・・」
「何をって決まってるだろ?俺と愛し合うんだ」
「で、でもここで?ダメよ。誰か来るわ」
「心配するな。鍵を掛けた。誰も来やしねぇ」
背後から寄り添った司は、スラックスのジッパーを下ろし、つくしの身体を前屈みにさせ、指で尻を押し広げ、開かれた部分に肉棒をゆっくりと挿入した。
「ああっ!」
叫びと同時に硬直したつくしの身体。
司はつくしが快楽の声を上げるまで何度も抽出を繰り返し始めた。
「・・どうだ?・・気持ちいいか?・・なあ?・・声きかせろよ?ん?」
「やぁ・・やめて・・部長・・道明寺部長・・ダメ・・ああっ!」
背後から突き立てながら耳元で囁き、舌を挿し入れた途端、司を締め付けた胎内。
「ダメなもんか・・おまえのココはいいっていってるじゃねぇか」
・・・。
消えろ!!
こんな妄想も!!
それにしても、仕事とは全く無関係の目で見つめてしまうが、そんなことも今更だ。
それに、どうしても我慢出来なくなったんだからしょうがねぇだろうが。
充電切れなんだよ!
そんな俺の気配に気づいた牧野が振り返った。
そして目が合った。
けど、その目は笑ってねぇ。
怒ってる。
けど、ここで怯む訳にはいかねぇ。何しろ今日の俺はこいつの直属の上司。
「ちょっと、道明寺?いったいどう言うつもりなの?本当にこの図面が30部も要るの?」
本当は要らねぇ。
「何に必要なのよ?これ、もう随分と前に終わったプロジェクトの図面よ?それなのに_」
と、うるさく喋る口は塞いでやる。
「まきの・・司の指示に従うって書かれてんだろ?それなら俺の指示に従うのが当然だろうが・・それに俺が本当に必要なのは、おまえ」
司はつくしの首に手をまわして引き寄せると唇と唇を重ね合わせた。
すると、ついさっきまで、うるさかった唇が柔らかく溶け笑う形になった。
それはいつも司を甘く包み込んでくれる牧野つくしの身体そのもの。
司はつくしの身体を優しく持ち上げ、近くにある広い作業用デスクに座らせ、ゆっくりと押し倒した。すると司の首に回されていた手が、彼を求め引き寄せた。
これぞ恋人同士の社内恋愛ってヤツだろ?
無理矢理なんて味気のねぇことが出来るわけねーだろうが。
「まきの・・」
「どうみょうじ・・」
司はつくしに口づけをしようとした。
だがその瞬間、コピー室の扉が開く音がした。
「・・お取込み中大変申し訳ございません」
と、入口から掛かった西田の声に言語中枢が一時的に麻痺した俺と牧野。
だが回復が早かったのは牧野。
「ど、道明寺部長・・て、手伝って下さるのは嬉しいですが、もう少しきれいに折って頂かないと!」
「いてぇっ・・」
押し倒された姿勢からいきなり身体を起したつくしに頭突きされた形の司。
だが司も立ち直りは早かった。
「お、おう。そうだな・・こんなところに皺が寄ってちゃマズイよな?」
と、話の調子を合わせる俺と牧野。
コピー室での遊戯は実にあっけない幕切れで終わった。
B型は何よりも束縛を嫌うといわれるが、そんな男が一人の女には束縛されたがっていた。
それは、17歳で出会って以来、頭を離れない女。
いや。頭だけじゃない。心と身体からも離れない女。
そして今、その女にこき使われる俺。
牧野に図面折りってのを教えてもらってる。
「もう。道明寺、適当にしないできちんと折り目をつけて折らなきゃ駄目よ!」
それにしても、支社長自らが図面折りをする会社ってのも珍しいと思う。
だがこうして牧野と二人でする共同作業ってのも楽しいものだと思った。
そして妄想ではなく、リアルで西田に邪魔された俺。
あいつ、あまりにも俺の帰りが遅いもんだから、わざと様子を見に来たとしか思えねぇ。
西田の野郎、覚えてろ!
・・まあいい。
あの続きはマンションに帰ってからの楽しみってことだ。
司は隣に座り、小さな手で大きな図面を折り続けるつくしを見た。
すると、視線に気づいたつくしは手を止め、司の方を見た。
ひとりでに動いた司の手は、つくしの髪の毛をそっと撫でた。
そしてそっと唇を合わせた。
それは軽いキス。
あせりも、自己主張も、苛立ちも感じられないゆったりとした口づけ。
あからさまな欲求など感じない、二人の息が混ざり合う、愛情だけが込められた優しい行為。
なんか知らねぇが、こんなことでもすげぇ幸せって思える俺。
普段どんだけ煩悩にまみれているのかと深く反省した。
牧野と一緒にいれば、どんな時間でも楽しく感じられる。
たとえ、ここがコピー室で、デカいコピー機しかなくても、彼女といれば不確かな時間などない。彼女は運命が特別に用意してくれた大切な人。
二人の出会いは偶然ではなく必然。
どちらにしても、愛する女性が傍にいてくれる。
これ以上の望みはないし、これ以上の幸せはない。
彼女の陽気な声は、まるで魔法の声。
その声が司の心を癒し、その微笑みが彼の一日の疲れを取ってくれる。
司が愛する女性はただひとり。
世界中の誰よりも愛している人に、その思いを伝えることが彼の仕事。
牧野。早くこの仕事終わらせて帰っちまおうぜ。
今日は俺が上司だから、上になるのは俺なんだろうが、たまにはおまえが上になってヤラれるのもいい。
だから、今夜はおまえの熱い胎内に俺を包み込んで奪ってくれ。
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それは、日本的経営の特徴と言われ、個人の能力や実績に関わらず、年齢や勤務年数のみで評価し、役職や賃金が上昇する。今でもそういった企業が多いのが日本の会社の実態。
英語でもNenko System と紹介されることもある年功序列制度。
だがうちは、道明寺HDは違う。うちの会社の本社はNY、アメリカだ。
だから年功序列なんて考え方はない。実力が物を言う会社だ。人種、性別、年齢なんて関係ない。
そんな会社は上司が自分より年下の時もある。
それに上司の言うことが正しい、絶対だといった考え方はしない。
けれど、ここは日本だ。たまには日本式でもいいと思う。
その方が今の俺にとっては都合がいいからだ。
ちなみに今、社内ではジョブローテーションを実施中だ。
うちの会社は、短縮してジョブローテと言うらしいが、これは人材研修のひとつだが、定期的に職場の移動や職務の変更を行い、それぞれの部署が、どんな仕事をしているか、またどんな人間がいるかを把握させ、将来会社を背負って立つ人材を育てることを目的としていた。
だがそれだけが目的ではない。それは、個人の持つ知識や情報を組織全体で共有し、有効活用することだ。
何しろ会社というものは、従業員共同体とも呼べる組織。その組織の成長と活性化をしていくことは重要だ。会社は風通しがいい方がいいに決まってるからな。それに社員の意見が上まで上がってこねぇような会社じゃ成長は見込めねぇだろ?
今回その研修に俺も参加したいと申し出た。
やはり支社長たる者、現場に立ち、社員がどんな仕事をしていて、どんな人間がいるかを詳しく知ることが必要だからだ。そんな俺が希望したのが、海外事業本部。
あいつ・・。西田の野郎。顔色ひとつ変えねぇで言いやがった。
『支社長は牧野様とご一緒に仕事をしたいのでしょうか?』
当然だろうが。牧野がいるからあの事業部の仕事を経験したいって言ったんだろうが。それ以外の部署なんて興味ねぇよ!間違っても経理部なんかに行かせるなよ?数字には強いが、何しろ端数ってのが面倒だ。100万以下は全て切り捨てろなんて言えるわけねぇしな・・・。
まあそんなことはどうでもいい。
今は牧野んとこの事業部へ行くことだけを考えていた。
あいつの上司、牧野によく似た苗字で牧田又蔵って言う男だが、牧野に送るはずのメールがその男のパソコンに届いたことがあった。
どんな内容かは言えねぇけど、「道明寺!いやらしい内容のメールを送ったんでしょう!」と言って牧田の所に走って戻った牧野。そのメールを見せてくれと直談判したが見せて貰えなかった。と、いうより、俺がシステム部の奴らに言って牧田又蔵宛に送ったメールは削除させたけどな。
とにかく、念願叶って今日一日海外事業本部長席に座ることになった俺。
一日海外事業本部長っていう一日警察署長みてぇな役職だがまあいい。
なにしろその席からの眺めは最高!!
ズラリと並んだデスクの、窓を背にした一番奥が俺の席。
そして俺の右斜め前が牧野の席。
牧野とこうして仕事をするなんて、まるで夢のような光景。
にやけるなって言う方が無理。
そこで発揮されるのが、日本的経営の特徴とも言える年功序列制度。
そして上司の言うことは、絶対服従だという言葉。
牧野の「上司」は俺だ。そうだ。まさに俺が直属の上司。
なんかいい響きだよな。上司って言葉。
だってそうだろ?上司って言葉の「上司」から「上」を取れば、残るのは「司」の一文字。
それってずばり俺のことだろ?
それに「上司」って言葉にはもうひとつ意味がある。
それは・・俺と牧野のラブライフについてだ。
寝るとき決まって上に乗っかるのは俺の方だから、「上司」ってのは、俺が上に乗ってるって体位を説明してるようで照れる。
だが牧野は「上司」って文字も意外と平気そうだが俺が気にし過ぎか?
牧野、本当にいいのか?俺が上に乗ってるって言ってるようなものだぞ?
とにかく、日本の会社組織的に言えば、上の者には絶対服従ってことなら、司に絶対服従ってことだろ?
「司に絶対服従・・」
なんかずげぇいい響き。
いつも牧野には逃げられてばかりだが、直属の上司の俺から逃げることなんて出来ねぇはずだ。
それに彼氏が上司ってものなかなかいいシュチュエーション。
いつも妄想の世界でしか味わえない色々が手を伸ばせば、すぐそこにあるってのは、満足度が高い。これから先もこの席で仕事をしたい思いがある。
いつも牧野の前では平身低頭になることもあるが、今日ばかりはそうはいかねぇからな。
なあ、そうだろ?牧野?
「牧野くん。これコピーを取ってくれないか」
「ど、道明寺・・ぶ、部長・・」
・・なんだよ。何言葉に詰まってんだよ。どもんじゃねぇよ・・。
いいか?道明寺ったら俺の名前でもあるが、会社の名前でもあるんだぞ!
そんなんで電話に出たとき、ちゃんと言えてんのか?
「なんだ?」
「大変申し訳ございません。1枚2枚のコピーならご自分でお願い致します」
・・・牧野。
おまえ、なんだよ自分の彼氏にその冷たい態度は!
いいか?俺はおまえの彼氏である以上に今は上司だ。
そんな上司の命令は絶対だろうが。
それにコピーの1枚や2枚じゃねぇんだよ。
そんな牧野の反抗的な態度のことも考え、前日西田に言って文書を配らせた。
「皆様、明日は道明寺支社長が海外事業本部の一日本部長となります。支社長は大変お忙し方ではございますが、現場の皆様の業務をぜひ知りたいと申しております。つきましては、皆様にお願いと注意点がございますので、こちらの文書をご一読いただきたいと思います」
それは、西田が支社長の俺を気遣って用意した文書と思わせているが、用意させたのは俺。
ただし、牧野に渡す文書にはちょっとした小細工がしてあった。
「牧野くん。大変申し訳ない。コピーといっても1枚や2枚じゃないんだ。海外プラント用の図面なんだが30部ほど頼みたい」
土木やインフラ、建設関連の図面は、大きすぎて普通のコピー機ではコピーできないものがある。
何故なら、図面のサイズがB0といった1030mm×1456mmといったサイズがあるからだ。それをコピーするとなると、このフロアに設置されたコピー機ではまず無理。
別室にあるコピー機でのコピーとなる。
そんなデカい図面、どうやって保存してるんだと思うかもしれねぇが、図面折りといった方法で、A4サイズに折り畳まれてるってんだから不思議だ。それもJIS規格(日本工業規格)で統一されてるらしいが、知らなかった。つまり俺にも知らねぇことがあるってことだ。
それに実務ってのは奥が深いってことを知り、いい勉強になった。
それはさておき、牧野にコピーを頼んだ。
この枚数と折り畳む手間を考えれば、仮にも直属の上司である俺に嫌とは言えないはずだ。
だってそうだろ?俺がそんなでけぇ図面コピーして、ちまちまと図面折りしてる絵が想像出来るか?出来るわけねぇだろうが。それにおまえ、そんなこと俺にやらせてるなんてことが知れたら周りのおまえを見る目が恐ろしいことになるんだろ?
何てったか忘れたけど、俺の親衛隊とかが騒ぐってことだろ?
けど、なんか知らねぇけど、怖えぇ顔して睨む牧野。
おまえ、まさかそれが無駄な業務だと思ってるんじゃねぇだろうな?
牧野、仕事を舐めるな。俺は仕事に対してはいつも真剣だ。
・・いや。
けどまあ・・実を言えばどうでもいい。
だってそろそろ何かの口実見つけて、牧野と二人っきりになりてぇじゃん。
それになんての?二人だけ別室に閉じこもって本物のオフィスラブ?っての経験してみてぇし。
「牧野くん。忙しいところ本当に申し訳ないが、お願い出来ないだろうか?」
警戒するように少し目を細め、眉間に寄った皺。
まるで俺の頭の中を読んでるみてぇな牧野の視線が痛い。
そんな牧野は西田が前日に配った紙を取り出し、俺について西田が書いたとされる、注意点とお願いを読み始めた。おい牧野。言っとくがそれは俺の取り扱い説明書じゃねぇぞ?
だがそこで気付いたようだ。
それは、「上司の指示に従うこと」の文言がいつの間にか「上」が取れ、「司の指示に従うこと」に変わっていることだ。つまり単なる上司ではなく、固有名詞で書かれた「司」ってところに意味がある。
牧野は目を凝らし、まじまじと文書を見つめているが、確かに文書を受け取ったとき「上司」となっていたはずだ。それならなぜ、「上」が書かれていないのか?そんなの簡単。時間が経てば消えるインクを使ってわざわざ「上」の一文字だけを書かせたからだ。
賢い牧野はそれに気づいたようだ。
すげぇ怖えぇ目つきで俺を睨んで来た。
けど、さすがに他の社員の手前、これ以上「上司」である男に従わないわけにはいかないと気づいたようだ。
「・・では、コピー室に行ってきます」
と、図面を抱え出て行った牧野。
おお、行って来い!
俺も後から行くからな!
ところで牧野。「待ってるわ」なんて目配せくれぇしてくれてもいいんじゃねぇの?
まあ会社で公私混同はしたくないっていう女がそんなことする訳ねーか。
司はつくしがいるコピー室へ向かった。
そこは、文字通り大型コピー機が置いてある部屋。
司がその部屋を訪れたことがあるはずもないのだが、そこは既に調べてあった。
コピー室とか資料室とか備品室とか、普段興味のない部屋だが、何故だかそそられるそういった部屋。なんとなく秘密の小部屋って感じがして、そこで恋人同士が人目を避け、愛を確かめ合ってるって気がするのは俺だけじゃねぇはずだ。
そしてついに、俺と牧野の本当のオフィスラブが実現する時が来た。
上司と部下の社内恋愛。
「道明寺部長!あたし、部長のことが好きなんです。奥様と別れてあたしと一緒になって下さい」
「牧野くん・・それは困るよ・・僕にはまだ小さい子供がいるんだ」
「ひどいわ!道明寺部長は、あたしのこと身体だけだったんですか?」
「違う・・そんなことはない。君のことは本気だ。だが子供が成人するまで待って欲しい」
「・・嘘つき・・部長はそう言っていつまでもあたしのことを本気で愛そうとはしないのね!いいわ・・それなら奥様にあたし達の関係を話すわ!」
おい!待て!
なんで俺が子持ちの部長なんだよ!!
これじゃ社内不倫じゃねぇかよ!!
消えろ、消えろ!こんな妄想は!!
司は気を取り直し、唾を呑み、コピー室の扉を開けた。
すると、そこにいたのは確かに牧野。
背が低く、小柄で可愛い牧野がコピー機の前で頭を下げ、機械を操作していた。
あのまま可愛らしい尻を掴み、スカートをたくし上げ、後ろからってのもそそられる光景。
今度こそ上司と部下の社内恋愛。
「・・まきの・・」
「ど、道明寺部長!?」
振り向いたつくしのすぐ前に立った司は、直ぐに彼女を後ろ向きに戻し、片手で彼女の腰を掴み、もう片方の手を尻に当てると、軽く揉んだ。そしてスカートの裾を掴み、たくし上げ、剥き出しになった下着をむしり取った。
すると剥き出しになったつくしの尻。だがしっかりと腰を掴まれた女は振り返ることは出来ず、前を向かされていた。
「な・・何を・・」
「何をって決まってるだろ?俺と愛し合うんだ」
「で、でもここで?ダメよ。誰か来るわ」
「心配するな。鍵を掛けた。誰も来やしねぇ」
背後から寄り添った司は、スラックスのジッパーを下ろし、つくしの身体を前屈みにさせ、指で尻を押し広げ、開かれた部分に肉棒をゆっくりと挿入した。
「ああっ!」
叫びと同時に硬直したつくしの身体。
司はつくしが快楽の声を上げるまで何度も抽出を繰り返し始めた。
「・・どうだ?・・気持ちいいか?・・なあ?・・声きかせろよ?ん?」
「やぁ・・やめて・・部長・・道明寺部長・・ダメ・・ああっ!」
背後から突き立てながら耳元で囁き、舌を挿し入れた途端、司を締め付けた胎内。
「ダメなもんか・・おまえのココはいいっていってるじゃねぇか」
・・・。
消えろ!!
こんな妄想も!!
それにしても、仕事とは全く無関係の目で見つめてしまうが、そんなことも今更だ。
それに、どうしても我慢出来なくなったんだからしょうがねぇだろうが。
充電切れなんだよ!
そんな俺の気配に気づいた牧野が振り返った。
そして目が合った。
けど、その目は笑ってねぇ。
怒ってる。
けど、ここで怯む訳にはいかねぇ。何しろ今日の俺はこいつの直属の上司。
「ちょっと、道明寺?いったいどう言うつもりなの?本当にこの図面が30部も要るの?」
本当は要らねぇ。
「何に必要なのよ?これ、もう随分と前に終わったプロジェクトの図面よ?それなのに_」
と、うるさく喋る口は塞いでやる。
「まきの・・司の指示に従うって書かれてんだろ?それなら俺の指示に従うのが当然だろうが・・それに俺が本当に必要なのは、おまえ」
司はつくしの首に手をまわして引き寄せると唇と唇を重ね合わせた。
すると、ついさっきまで、うるさかった唇が柔らかく溶け笑う形になった。
それはいつも司を甘く包み込んでくれる牧野つくしの身体そのもの。
司はつくしの身体を優しく持ち上げ、近くにある広い作業用デスクに座らせ、ゆっくりと押し倒した。すると司の首に回されていた手が、彼を求め引き寄せた。
これぞ恋人同士の社内恋愛ってヤツだろ?
無理矢理なんて味気のねぇことが出来るわけねーだろうが。
「まきの・・」
「どうみょうじ・・」
司はつくしに口づけをしようとした。
だがその瞬間、コピー室の扉が開く音がした。
「・・お取込み中大変申し訳ございません」
と、入口から掛かった西田の声に言語中枢が一時的に麻痺した俺と牧野。
だが回復が早かったのは牧野。
「ど、道明寺部長・・て、手伝って下さるのは嬉しいですが、もう少しきれいに折って頂かないと!」
「いてぇっ・・」
押し倒された姿勢からいきなり身体を起したつくしに頭突きされた形の司。
だが司も立ち直りは早かった。
「お、おう。そうだな・・こんなところに皺が寄ってちゃマズイよな?」
と、話の調子を合わせる俺と牧野。
コピー室での遊戯は実にあっけない幕切れで終わった。
B型は何よりも束縛を嫌うといわれるが、そんな男が一人の女には束縛されたがっていた。
それは、17歳で出会って以来、頭を離れない女。
いや。頭だけじゃない。心と身体からも離れない女。
そして今、その女にこき使われる俺。
牧野に図面折りってのを教えてもらってる。
「もう。道明寺、適当にしないできちんと折り目をつけて折らなきゃ駄目よ!」
それにしても、支社長自らが図面折りをする会社ってのも珍しいと思う。
だがこうして牧野と二人でする共同作業ってのも楽しいものだと思った。
そして妄想ではなく、リアルで西田に邪魔された俺。
あいつ、あまりにも俺の帰りが遅いもんだから、わざと様子を見に来たとしか思えねぇ。
西田の野郎、覚えてろ!
・・まあいい。
あの続きはマンションに帰ってからの楽しみってことだ。
司は隣に座り、小さな手で大きな図面を折り続けるつくしを見た。
すると、視線に気づいたつくしは手を止め、司の方を見た。
ひとりでに動いた司の手は、つくしの髪の毛をそっと撫でた。
そしてそっと唇を合わせた。
それは軽いキス。
あせりも、自己主張も、苛立ちも感じられないゆったりとした口づけ。
あからさまな欲求など感じない、二人の息が混ざり合う、愛情だけが込められた優しい行為。
なんか知らねぇが、こんなことでもすげぇ幸せって思える俺。
普段どんだけ煩悩にまみれているのかと深く反省した。
牧野と一緒にいれば、どんな時間でも楽しく感じられる。
たとえ、ここがコピー室で、デカいコピー機しかなくても、彼女といれば不確かな時間などない。彼女は運命が特別に用意してくれた大切な人。
二人の出会いは偶然ではなく必然。
どちらにしても、愛する女性が傍にいてくれる。
これ以上の望みはないし、これ以上の幸せはない。
彼女の陽気な声は、まるで魔法の声。
その声が司の心を癒し、その微笑みが彼の一日の疲れを取ってくれる。
司が愛する女性はただひとり。
世界中の誰よりも愛している人に、その思いを伝えることが彼の仕事。
牧野。早くこの仕事終わらせて帰っちまおうぜ。
今日は俺が上司だから、上になるのは俺なんだろうが、たまにはおまえが上になってヤラれるのもいい。
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もし、あのまま別れずにいたら、どうなっていただろうか。
彼女が去って9年が経っていた。あのとき、たとえ形だけの婚姻関係とはいえ、法律上の妻がいたのだから、司には彼女が去ることを止める権利はなかった。
二人の間にあった4年という付き合いは、恋の波間を漂っていたのだと言われれば、そうなのだろう。そして4年間手放すことが出来なかったのは自分のエゴだと分かっていた。
世間的に言えば非常識な行為と言える二人の関係に、彼女が苦しんでいたことは理解していたつもりだ。
だが司の世界では、世間が非常識だと考えることも、時に常識的なこととして受け入れられる。それは、金持ちの男が愛人を囲っているのが当然の世界だということだ。
けれど、二人の関係に金銭の受け渡しといったものは一切なく、愛人などではなかった。
だからこそ、こうなった以上、二人の関係は対等であって欲しいと。そして、たった一枚の紙で証明される関係ではなく、心が繋がっていればいいと受け入れてくれた4年は、誰かに暴き立てられることもなく終わった。
9年前に終わった二人の愛。
NYと東京を往復する間、考えたこことは、ただひとつ。
行きはこれから会えることへの喜び。帰りは今度いつ会えるかといった思い。
ただその思いだけを胸に抱き過ごした13時間にも及ぶロングフライト。
彼女を愛したいと願いながら別れるのは、今までの人生の中で一番難しく、そして辛かった。
心の一番深い場所に彼女を抱きしめてはいたが、その心が掻きむしられるような思いで過ごしていた。
渡された写真を手にし、懐かしさが甦っていた。
20年前の彼女の姿に、気持ちはあの頃に戻っていた。
彼女はしっかりとした少女だった。どこか頼りない両親の元、彼らに代わって家計を支えていた。そしてそんな両親は、彼女を精神的な支えのようにして生きていた。
未成年の娘を支えに生きる親が、当時の司にしてみれば信じられない想いがしていた。だが家族は共に支えあって生きるものだと知ったとき、なんとなくだが彼らの気持ちを理解していた。
今、彼女はどうしているのか。
別れてから消息を調べることはしなかった。知ればまた会いたいといった思いが募るからだ。
それに別れを選んだのは、彼女だ。彼女が辛いと思ったなら別れてやるのが、男の優しさだと、そして自分が結婚している以上、本当の意味で幸せにしてやることなど出来ないのだからと気持ちを断ち切った。
だが会いたい。
彼女に。
牧野つくしに。
今なら会ってもいいはずだ。
司の中に甦った熱い想い。
もう一度彼女とやり直したい。
だが別れてから9年の時が流れている。
流れた時が二人の状況を変化させているのは仕方がない話しだが、彼女が結婚したといった話しは聞かされていない。お節介な滋がそんなことを告げなかったことが、そのことを確信させていた。
だが滋から思わぬ話を聞き、心が冷たくざわめいた。
「・・あのね、司・・言いにくいんだけどね、つくし、結婚するかもしれないの」
いきなりそう言われ、司は虚をつかれた。
だがすぐに口を開いた。
「誰だ?相手は」
「だ、誰って司の知らない人よ?」
滋が思わず口ごもったのは、司から殺気のこもった眼差しを向けられたからだ。
鋭角的な身体から発せられる研ぎ澄まされた視線と言葉は、ついぞ最近見せたことのないもので、少なくとも友人である滋に対してはなかったが、やはりそうだと思った。
滋は胸に引っかかったことは確認しなければ気が済まない質だ。
先程言ったまだつくしのこと好きなんでしょうの答えを聞いてない。
「あのね、つくしの事、好きだって、付き合ってくれって言って来た人は沢山いたのよ。あの子、年齢の割りにはスレてないし、真面目だから・・」
束の間の沈黙を挟んだのは、どちらだったのか。
それは滋の方だ。司から向けられた視線が、殺気のこもったものから、爬虫類のように、感情のこもらない冷たい視線に変わっていたからだ。
その視線が向けられた意味。それは、つくしに対し風化することなく続く想いを感じさせた。
そして視線に含まれているのは、自分以外の男が彼女に触れることに対する嫉妬。
滋は、今までつくしの近況を司に話したことはない。話せば司が苦しむことは目に見えて分かっていたからだ。そして好きだが、別れを決めてしまった恋人同士といったものは、傍で見ていても苦しいものがあったから。
つくしから司と別れたと連絡が来たとき、電話口で泣いているのが分かった。
大粒の涙をぽたぽたと膝に落としながら、無理矢理笑顔を作ろうとしている姿が想像出来た。昔から我慢強い人間ではあったが、何もこんな時、自分を偽ることなどしなくてもいいのに、と思った。そしてもし自分が好きな男と別れたなら、わんわんと声を上げて泣いていたはずだと思った。
だがつくしのその態度は、二人の関係が世間には公に出来ないことが影響していたのではないかと思った。たとえ、二人がそう思わなくても、世間はそれを不倫というのだから、その言葉がつくしの心にどれだけ重くのしかかっていたのかを考えたとき、秘密にしなければならなかった二人の4年間の重さといったものが、哀しみといった感情を抑制させてしまったのではないかと思った。
滋にとって受け入れ難かった二人の別れ。
そして今の気持ちは、高校生の当時、好き合っている二人の行動に苛立ちを感じたことがあったが、その時の感情とよく似ていた。あのとき滋は、二人の恋を応援すると決め、つくしとずっと友達でいると決めた時から、愛とか友情とか、と人がバカにするようなことにも必死になっていた。
「ねぇ、司。司はまだつくしのことが好きなのよね?そうなんでしょう?だったら・・不良中年になったら?あんた今までいい男過ぎたんだから。昔の司に戻ってもいいんじゃない?」
昔の司。
それは、牧野つくしに対し命がけで向かっていた少年。
一人っ子で兄弟のいない滋は、そんな司の一直線につくしに向かっていく姿に、男といった動物が本気で好きになった女に向ける一途さを感じ感動していた。
そしてそのことが羨ましくもあった。
あれほど本気で好きになれる人がいるということが。
滋の言葉に、男のこめかみに一瞬浮かんだのは青い筋。
「滋、誰が中年だ?俺が中年ならおまえもそうだろうが」
と、司は喉元で笑いながら言ったが、その笑いはすぐに消えた。
「それにしても不良中年ってか?面白れぇこと言うな、おまえも」
38歳の男は、中年と言われるにはまだ早いはずだが、若いとは言えないのも事実。
そして滋もいい年して何を言っているのかと自分自身に問いかけたが、恋は遠い日の花火、といった考えはない。それにまだまだ捨てたもんじゃない。
それに、道明寺司という男の持つ精神の強靭さといったものは、並大抵のものではない。
ビジネスに対してもそうだが、好きになった女に対してのその一途さは。
「・・司。実はね、つくし、明日この街に来るの」

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二人の間にあった4年という付き合いは、恋の波間を漂っていたのだと言われれば、そうなのだろう。そして4年間手放すことが出来なかったのは自分のエゴだと分かっていた。
世間的に言えば非常識な行為と言える二人の関係に、彼女が苦しんでいたことは理解していたつもりだ。
だが司の世界では、世間が非常識だと考えることも、時に常識的なこととして受け入れられる。それは、金持ちの男が愛人を囲っているのが当然の世界だということだ。
けれど、二人の関係に金銭の受け渡しといったものは一切なく、愛人などではなかった。
だからこそ、こうなった以上、二人の関係は対等であって欲しいと。そして、たった一枚の紙で証明される関係ではなく、心が繋がっていればいいと受け入れてくれた4年は、誰かに暴き立てられることもなく終わった。
9年前に終わった二人の愛。
NYと東京を往復する間、考えたこことは、ただひとつ。
行きはこれから会えることへの喜び。帰りは今度いつ会えるかといった思い。
ただその思いだけを胸に抱き過ごした13時間にも及ぶロングフライト。
彼女を愛したいと願いながら別れるのは、今までの人生の中で一番難しく、そして辛かった。
心の一番深い場所に彼女を抱きしめてはいたが、その心が掻きむしられるような思いで過ごしていた。
渡された写真を手にし、懐かしさが甦っていた。
20年前の彼女の姿に、気持ちはあの頃に戻っていた。
彼女はしっかりとした少女だった。どこか頼りない両親の元、彼らに代わって家計を支えていた。そしてそんな両親は、彼女を精神的な支えのようにして生きていた。
未成年の娘を支えに生きる親が、当時の司にしてみれば信じられない想いがしていた。だが家族は共に支えあって生きるものだと知ったとき、なんとなくだが彼らの気持ちを理解していた。
今、彼女はどうしているのか。
別れてから消息を調べることはしなかった。知ればまた会いたいといった思いが募るからだ。
それに別れを選んだのは、彼女だ。彼女が辛いと思ったなら別れてやるのが、男の優しさだと、そして自分が結婚している以上、本当の意味で幸せにしてやることなど出来ないのだからと気持ちを断ち切った。
だが会いたい。
彼女に。
牧野つくしに。
今なら会ってもいいはずだ。
司の中に甦った熱い想い。
もう一度彼女とやり直したい。
だが別れてから9年の時が流れている。
流れた時が二人の状況を変化させているのは仕方がない話しだが、彼女が結婚したといった話しは聞かされていない。お節介な滋がそんなことを告げなかったことが、そのことを確信させていた。
だが滋から思わぬ話を聞き、心が冷たくざわめいた。
「・・あのね、司・・言いにくいんだけどね、つくし、結婚するかもしれないの」
いきなりそう言われ、司は虚をつかれた。
だがすぐに口を開いた。
「誰だ?相手は」
「だ、誰って司の知らない人よ?」
滋が思わず口ごもったのは、司から殺気のこもった眼差しを向けられたからだ。
鋭角的な身体から発せられる研ぎ澄まされた視線と言葉は、ついぞ最近見せたことのないもので、少なくとも友人である滋に対してはなかったが、やはりそうだと思った。
滋は胸に引っかかったことは確認しなければ気が済まない質だ。
先程言ったまだつくしのこと好きなんでしょうの答えを聞いてない。
「あのね、つくしの事、好きだって、付き合ってくれって言って来た人は沢山いたのよ。あの子、年齢の割りにはスレてないし、真面目だから・・」
束の間の沈黙を挟んだのは、どちらだったのか。
それは滋の方だ。司から向けられた視線が、殺気のこもったものから、爬虫類のように、感情のこもらない冷たい視線に変わっていたからだ。
その視線が向けられた意味。それは、つくしに対し風化することなく続く想いを感じさせた。
そして視線に含まれているのは、自分以外の男が彼女に触れることに対する嫉妬。
滋は、今までつくしの近況を司に話したことはない。話せば司が苦しむことは目に見えて分かっていたからだ。そして好きだが、別れを決めてしまった恋人同士といったものは、傍で見ていても苦しいものがあったから。
つくしから司と別れたと連絡が来たとき、電話口で泣いているのが分かった。
大粒の涙をぽたぽたと膝に落としながら、無理矢理笑顔を作ろうとしている姿が想像出来た。昔から我慢強い人間ではあったが、何もこんな時、自分を偽ることなどしなくてもいいのに、と思った。そしてもし自分が好きな男と別れたなら、わんわんと声を上げて泣いていたはずだと思った。
だがつくしのその態度は、二人の関係が世間には公に出来ないことが影響していたのではないかと思った。たとえ、二人がそう思わなくても、世間はそれを不倫というのだから、その言葉がつくしの心にどれだけ重くのしかかっていたのかを考えたとき、秘密にしなければならなかった二人の4年間の重さといったものが、哀しみといった感情を抑制させてしまったのではないかと思った。
滋にとって受け入れ難かった二人の別れ。
そして今の気持ちは、高校生の当時、好き合っている二人の行動に苛立ちを感じたことがあったが、その時の感情とよく似ていた。あのとき滋は、二人の恋を応援すると決め、つくしとずっと友達でいると決めた時から、愛とか友情とか、と人がバカにするようなことにも必死になっていた。
「ねぇ、司。司はまだつくしのことが好きなのよね?そうなんでしょう?だったら・・不良中年になったら?あんた今までいい男過ぎたんだから。昔の司に戻ってもいいんじゃない?」
昔の司。
それは、牧野つくしに対し命がけで向かっていた少年。
一人っ子で兄弟のいない滋は、そんな司の一直線につくしに向かっていく姿に、男といった動物が本気で好きになった女に向ける一途さを感じ感動していた。
そしてそのことが羨ましくもあった。
あれほど本気で好きになれる人がいるということが。
滋の言葉に、男のこめかみに一瞬浮かんだのは青い筋。
「滋、誰が中年だ?俺が中年ならおまえもそうだろうが」
と、司は喉元で笑いながら言ったが、その笑いはすぐに消えた。
「それにしても不良中年ってか?面白れぇこと言うな、おまえも」
38歳の男は、中年と言われるにはまだ早いはずだが、若いとは言えないのも事実。
そして滋もいい年して何を言っているのかと自分自身に問いかけたが、恋は遠い日の花火、といった考えはない。それにまだまだ捨てたもんじゃない。
それに、道明寺司という男の持つ精神の強靭さといったものは、並大抵のものではない。
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