NYでの生活は形ばかりの結婚生活。妻と暮らしたのは、最初の1年だけ。
その中でいつも彼女のことを考えていた。
結婚しなければならなかった理由は会社のため。
4年連続の赤字決算を出し、立て直しが迫られていた。
そんなとき、吸収合併したオーストラリアの会社の役員が不正経理を行っていたことが発覚し、財務状況が一気に悪くなった。そして事業に関係ない投資が焦げ付いた。
悪いことが重なる時は重なるもので、ちょうどその頃、病に臥せっていた父親が亡くなった。そんな状況から会社を救う目的で結婚を求められた。だが司は拒否した。牧野つくし以外と結婚するつもりなどなく、ましてや会社のための結婚をするなど考えてもいなかった。だが彼女から他に好きな男が出来たと聞かされ、別れたいと言われた。信じられなかった。それは高校生の頃、一度別れを経験した雨の日と同じ嘘だと思いたかった。そして恐らくそうであろうということは、彼女の下手な芝居とでもいえる態度から感じ取ることが出来た。
そんなとき、身体の中に自覚のない変化が生じたことを知った。
大腸に出来たポリープの細胞検査の結果は、良性ではあったが未来はどうなるか分からないといったことを示していた。そんなことから彼女の意思を尊重した。
他に好きな男が出来た。
それがたとえ嘘だとしても、彼女の未来のため、彼女が幸せになるためなら、と別れを決断した。
幸い毎年行っている健康診断に異常は見られない。だが常にリスクはある。いつ自分の命が失われてもおかしくないことは自覚している。今回の入院は休養も兼ねての検診となり、通常より長い1週間。
恭介は、その間に彼女が病院を訪ねてくれることを望み、7枚の航空券を渡していた。
そして彼女が訪ねて来たのは、恭介が訪問してから4日目。随分と時間がかかったと思ったが、彼女に文句を言うつもりはない。検査は終わり、あとの3日はまさに休養するための時間なのだから、彼女が4日目に来たのも運命なのかもしれない。
長い間離婚せずにいたのは、ただ都合が良かったから。
名目上の結婚であり、夫婦としての生活もなく、同居人ですらなかった。だが離婚を決めたのは、やはり彼女のことが忘れられなかったから。人生の半分を過ぎ、ここから先、生きていくうえで彼女に傍にいて欲しいと思うようになっていた。愛という言葉を語る人が傍にいて欲しかった。そしてそれは17の時初めて女に向かって言った言葉。ただし、それは彼女に対してしか口にしたことはない。
司は2年前帰国したが、彼女の元を訪ねることはしなかった。
それはやはり身体の不安が心にあったから。
帰国してすぐ、どうしているか知りたいと思った。
だが知り過ぎると怖い。
知り過ぎたばかりに心が痛むといったことがある。だから敢えて調べなかった。
だが東京から遠く離れた場所に暮らしていることだけは知っていた。
その場所へ自ら転勤願いを出したことも。
それは、まるで司のことを避けているように思えた。だから余計連絡を取ることが躊躇われた。そんな男を見て痺れを切らしたのが、姉椿の息子である恭介だ。
叔父の不甲斐なさを情けなく思い、自らが行動した。だがそれは椿の差し金に違いない。
恭介の行動は、まさに姉の意を汲んでのこと。この一件の黒幕が、姉の椿であることは間違いない。
弟思いの姉らしい行動とはいえ、自らではなく息子を使うところが、確信犯的行動だ。
見知らぬ青年の訪問は彼女を驚かせたかもしれないが、その口から語られたことはインパクトがある。そして、椿より息子の恭介の方が演技力がある。
つまり嘘が上手いということだ。
ある日、見知らぬ青年が突然訪ねてきて、そこで昔の恋人である男が不治の病にかかり死の縁にいる。だから会いに来て欲しいといった話しをする。
姉はドラマチックな性格だが、その性格がここまでさせたのだろうか?
甥の演技力に感服しなければならないのだろうが、病気が嘘だと知られた以上、正攻法で行くしかない。
折角姉と甥が作ったチャンスだ。無駄にすることはない。
あの頃と同じ堂々とした態度で彼女に愛を伝える。
そのことに何の躊躇もない。
司は恭介に騙されたと知ったときの彼女の顔を思い出していた。
涙で潤んだ瞳が睨みつけて来た顔を。
そして彼女と再会してからはじめて笑いが込み上げて来るのを感じていた。
あの頃変わらない大きな瞳は、睨んでは来たがどこか気迫に欠けていた。
どこか戸惑いが隠せず、まるで目の前に置かれていた餌が急に無くなり、半べそをかいた犬のように感じられた。唖然と言おうか、呆然と言おうか、やがてその顔が怒りに真っ赤になった。
そして相変わらず逃げ足の速い女が航空機に乗った形跡はない。
ならば新幹線ということになる。
東京駅から乗った新幹線が、彼女の住む街に着くまで随分と時間がかかると思ったが、向うで待つしかない。
東京より西にある街は、当然だが日の入りが遅く、空はまだ十分明るい。
だが日の入りは今日の終わりを告げる。
今日のこの日はつくしにとっていったい何だったのか。
今朝、東京へ向けて旅立ったが、一日が終わる前にはまたこの街へと戻ってきていた。
哀しみだけを抱えてあの街へ降り立ったはずが、今は腹立たしさを抱えていた。
道明寺は死の縁になどいなかった。
あの男の甥が仕組んだ質の悪い悪戯だったのだ。
人の死を利用しようとするあの青年にまんまと騙され悔しかった。
あの青年が現れてから今日まで悩んだことが虚しく感じられた。
「・・はぁ・・」
つくしは小さくため息をついた。
あの男のために流した涙はいったい何だったのか?
心の中に葛藤を抱え悩んでいたことがバカバカしく感じられ、そして徒労感に襲われていた。
つくしを乗せた列車は、間もなく彼女が住む街の駅に着く。
アナウンスが聞えてくると席を立ち、乗降口があるデッキへと向かった。
やがて滑らかに止まった新幹線から降りた。
そして1階にある改札に向かうためホームを歩き始めた。
その時だった。彼の姿を認めた。
人の流れに逆行して歩いて来る背の高い男を。
平日夕方の新幹線はビジネスマンの利用が多く、逆行して歩いて来る男の顔に視線を定めると、皆一様にハッとして道を開ける。それはまさに旧約聖書の中に書かれているモーゼが目の前にある海に手をかざし、分かち、道を生み出したような光景だ。それは田舎町の新幹線のホームの光景としてはある意味異様かもしれない。だがモーゼがある民族にとっての指導者として尊敬されるなら、背の高い男はビジネスマンの尊敬の対象のはずだ。
ダークスーツを身に纏った男は、見覚えのあるネクタイを締めていた。
それはつくしが昔プレゼントしたものだ。
そして近づいて来る男の手にはあるものが握られていた。
徐々に近づいて来る彼の香りは病室でも感じたが、今も昔と変わらない。
その香りが潜在意識の奥深くに眠る何かを揺り起こした。その何かとは、いったい何なのか。
「・・よお。随分と時間がかかったじゃねぇか」
口の端を微かに歪めて言った言葉。
つくしは目の前の男がどういった交通手段でこの場所に来たのか知っている。
公共交通機関なるものを使わなくても、いとも簡単にこの場所を訪れることが出来ることを。
そんな男を無視して通り過ぎようとした。
だが、司は彼女の後ろについて来た。
「・・牧野。おまえ何か勘違いしてるようだが、俺はおまえを騙してねぇからな。今日のことは恭介が勝手に計画したことだ」
事実司は知らなかった。
恭介が母である椿から聞かされた二人の話に、実らなかった恋のキューピッドを務めようとした。そしてそれは、健康診断を受けるため病院にいた男の元に、牧野つくしを呼びよせることを計画したということだ。
「・・・・」
「牧野。無視するな。いいから少し話しを聞け」
二人の間には15年の歳月が流れているというのに、司はまるで昨日まで普通に会っていたように話しかけていた。そんな言葉につくしは立ち止ると彼の方を振り返った。
「・・・いつから・・待ってるのよ?」
「おまえが新幹線に乗ってから。・・そうだな1時間半くらいしてからか?」
ニヤリと笑みを浮かべた男。
それはつくしが乗った新幹線が浜松辺りを通過した頃だ。
だとすれば、少なくとも2時間はこの場所で待っていたことになる。すると司はつくしの考えを読んだように言った。
「2時間だろうが5時間だろうが、おまえを待つのに時間なんて関係ねぇよ。昔だって雨の中、随分と長い間待たされたことがあっただろうが」
確かにあった。
雨の中この男を散々待たせたことが。
「おかげでこれ何個食ったと思ってんだ・・。ほら、おまえも食え」
司が差し出したのは、手に握られていたソフトクリーム。
さっきから気になってはいたが、確かこの男は甘い物が苦手だったはずだ。それなのに、何個も食べたと言った。
「あんた・・甘い物は苦手だったでしょ?」
「ああ。・・けどな、この年になって味覚が変わったっての?こん位の甘さなら割と普通に食えるようになった」
と、言ってあの頃と変わらない微笑を見せた。
「あんた、本当に何個も食べたの?」
「ああ。列車が入って来るたび、おまえが降りて来るんじゃねぇかって思って買って待ってた。イライラしてる女には甘いものが一番だろ?・・けど降りて来ねぇから結局俺が食った。・・そうは言っても流石にそう何個も食えねぇな・・」
うんざりとした調子で答える男がおかしく、フッと、つくしの口から笑い声が漏れた。
最高級の香り高いコーヒーを好む男が、スーツ姿でソフトクリームを何個も食べる姿を想像して吹き出しそうになった。そして思い出していた。まだ高校生だった頃、二人で入った店で、食べなさいよと言ってパフェをスプーンでひと口掬って差し出したが、甘いと言って苦笑した顔を。そんな男の変わり様がおかしかった。けれど、全部を自分で食べたというのは絶対に嘘だ。きっとこのホームの隅にでもいる秘書に食べさせたに決まってる。
「_んだよ?ひとりで笑って気持ち悪りぃな」
いい年をした男が笑うと目じりに皺が出来たが、見せる白い歯が若々しさを感じさせた。
許そうと思った。
西園寺恭介のついた嘘を。
東京を発った新幹線の中で考えていた。
改めて思った。この人のことを愛している。15年振りに会った道明寺のことを。どんなに忘れようとしても忘れることは出来なかった。
突然現れた彼の甥の言葉に心が動いたのもそのせいだ。だから会いに行った。もう会えなくなる。その思いがつくしを突き動かした。離れていた15年間があったが、はじめから分かっていた。彼の代わりになる人はいないということを。
今、目の前にいる男は、ただ黙って私を見ている。そしてその目は言葉を待っているように感じられた。
「なんで入院してたのよ?」
どこか半信半疑な気持ちもあるが、入院していたのは確かなはずだ。
その理由が知りたい。
「オーバーホールだ。年に一度身体中検査してもらってる」
司は一旦言葉を切った。
そして心配そうに彼を見つめる瞳をじっと見つめ、慎重に言葉を継いだ。
「恭介が話したと思うが、あの頃ポリープが出来たって話しは本当だ。あれは結局良性だったから問題なかった。・・まあ、また出来る可能性は無いとは言えねぇけどな」
良性のポリープはすべて除去され、問題ないと言われていた。
そして事実、あれ以降司の身体に何か起こることはなかった。
だがリスクはある。一度出来たということは、また再び出来る可能性はないとは言えなかった。
「そんなことよりこれ食えよ。溶けるだろうが」
つくしの口元へ差し出されたソフトクリーム。
そして目で食べろと言っていた。
彼女はそれを少しだけ口に含んだ。
「あん時一緒に食ったパフェより美味いだろ?」
そう言って満足そうに笑う男の白い歯が眩しかった。
そんな男は、やはりあの時のことを覚えていた。
そして今のつくしは、かつてのように感情を誤魔化すことはしない。
今は正直に気持ちを伝えることが出来る。
「うん。美味しい・・・甘くて美味しいよ、道明寺」
それは甘かった。
何年かぶりに食べるソフトクリームの甘さは舌の上でゆっくりと溶けたが、甘い物が苦手な男の我慢を感じた瞬間でもあった。
それはつくしの為に、大して食べられもしない甘い物を食べようとしている姿が、15年前と変わらぬ男の思いを感じさせた。それがつくしの思い過ごしかもしれないとしても。
「なあ、俺たちやり直さねぇか?」
そのとき口の中にあった甘さが心の中に広がった。
そして、その言葉に誰にも言わずこっそりと隠し持っていた孤独が、心の奥底に沈めていたはずの想いが浮かび上がり、胸の底に落としたものを見つけたような気がした。
15年振りに会う男は、相変らず強引で俺様だ。
でもそれでもいいと思った。今はそれが懐かしくもあり、そしてまた嬉しかった。
彼ともう二度と会うことはないと思っていただけに、まさかこうしてまた会えるとは思いもしなかった。
それに何故か妙にすっきりとした気持ちになっていた。それは、過去の事は、どうでもいいではないかといった気持ちだ。
だがつくしは思わず言っていた。
「・・嘘つき」
「俺が嘘ついたんじゃねぇぞ?あれは恭介が_」
司は言葉を切った。
二人のうちのどちらが嘘つきか。それはお互い様だと思っていた。
別れたとき、二人とも互いの気持ちを偽っていたからだ。
女は彼の会社のため身を引いた。そして男は彼女の幸せのため身を引いた。
「それにおまえの方が嘘つきだろうが。他に好きな男が出来た。他の男とも付き合ってるなんて下手な嘘つきやがって。おまえが二股掛けれる訳ねぇだろうが。仮にそうだとしても、最後におまえを抱いたとき、あれが他に男がいる女の態度とは思えなかったがな」
軽快な声で笑いながら応じる男の声。
ああ。この人は全てを知っていた。
でも私は知らなかった。この人が病気を抱え、それを気にして、他に男が出来たから別れたいと言った私の言葉を受け入れたことを。もし、彼の病気を知っていたら別れはしなかった。彼の傍にいたはずだ。
「ごめん・・道明寺・・」
今なら潔く言える。
あの頃、あんたの思いを知らなくて。
そして今でもあんたを愛していると。
あのとき、それぞれの愛は同じ方向を見ていたが、それでも結ばれることはなかった。
だが今、時の流れを忘れさせるほどあの頃と同じ思いを抱えた二人は、長い時間を経て再び会うことが出来た。
二人がこれまで心に留めていた切ない思い出が消えることはないが、その切なさの上に別のものを重ねていけばいい。
これから先、二人が見る未来がどんなものだとしても、この先に哀しみが訪れるとしても、それを二人で乗り越えていけばいい。
互いの心がひとつであればそれも出来るはずだ。だがもし、心に足らないものがあれば、二人で足していけばいい。
今の二人はあの頃とは違う。雨に打たれた日もあった。風に流されそうになったこともあった。だが乗り越えて来たはずだ。だからこれからの人生も、もう一度二人で乗り越えられるはずだ。
「牧野・・おまえ、昔と全然変わんねぇな」
何が変わらないのか?含み笑いをしながらの言葉に何が変わらないのか聞きたかった。
だがその答えを聞くことは出来なかった。
何故なら、彼の唇がゆっくりと下りて来たからだ。
それは懐かしい唇。
そしてその唇が近づき重なる寸前、囁くように言われた。
「なあ、俺たち結婚しようぜ」
そのとき、プラットホームを風が駆け抜けた。
それはこの駅に停車することのない列車が起こした風。
熱かった。
その風が。
それはまるで時計回りの風のように感じられた。
時計回りの風。それは高気圧のことだ。
道明寺司という男は、高気圧のように熱い男だった。
そして彼の周りに吹く風は熱い風だ。
その風が再びつくしの元へ吹き寄せていた。
つくしは身体の力を抜き、司にあずけた。
そして大きな腕で抱きしめられると、その腕の中で大きく息を吸った。
彼の全てを嗅ぎ取ってしまうように。
生きていれば色んなことがある。
この年になればそれも理解出来る。
心が、別れたあの日に戻ることがあるかもしれない。
けれど、終わり良ければ総て良しという言葉がある。
過ぎて来た時を振ることが悪いとは思わないが、二人とも今はもう前を向いて歩くことしか考えてない。人生の後半が素晴らしければそれでいい。今ではそんな考え方が出来るようになっていた。だから離れていた15年を無駄だとは思わない。それぞれが人生の経験を積んで来たはずだから。
太平洋高気圧が張り出せば雨の季節は終わる。
それは梅雨が上がるということ。
どんよりとした雲が去り、じめじめとした季節が終り、熱く乾いた空気が感じられるようになる。
やがて突き抜けるような青い空に夏の太陽が顔を出す。
それは、二人の再会を祝福するようであり、踏み出す未来を表しているはずだ。
< 完 >*時計回りの風*

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結婚しなければならなかった理由は会社のため。
4年連続の赤字決算を出し、立て直しが迫られていた。
そんなとき、吸収合併したオーストラリアの会社の役員が不正経理を行っていたことが発覚し、財務状況が一気に悪くなった。そして事業に関係ない投資が焦げ付いた。
悪いことが重なる時は重なるもので、ちょうどその頃、病に臥せっていた父親が亡くなった。そんな状況から会社を救う目的で結婚を求められた。だが司は拒否した。牧野つくし以外と結婚するつもりなどなく、ましてや会社のための結婚をするなど考えてもいなかった。だが彼女から他に好きな男が出来たと聞かされ、別れたいと言われた。信じられなかった。それは高校生の頃、一度別れを経験した雨の日と同じ嘘だと思いたかった。そして恐らくそうであろうということは、彼女の下手な芝居とでもいえる態度から感じ取ることが出来た。
そんなとき、身体の中に自覚のない変化が生じたことを知った。
大腸に出来たポリープの細胞検査の結果は、良性ではあったが未来はどうなるか分からないといったことを示していた。そんなことから彼女の意思を尊重した。
他に好きな男が出来た。
それがたとえ嘘だとしても、彼女の未来のため、彼女が幸せになるためなら、と別れを決断した。
幸い毎年行っている健康診断に異常は見られない。だが常にリスクはある。いつ自分の命が失われてもおかしくないことは自覚している。今回の入院は休養も兼ねての検診となり、通常より長い1週間。
恭介は、その間に彼女が病院を訪ねてくれることを望み、7枚の航空券を渡していた。
そして彼女が訪ねて来たのは、恭介が訪問してから4日目。随分と時間がかかったと思ったが、彼女に文句を言うつもりはない。検査は終わり、あとの3日はまさに休養するための時間なのだから、彼女が4日目に来たのも運命なのかもしれない。
長い間離婚せずにいたのは、ただ都合が良かったから。
名目上の結婚であり、夫婦としての生活もなく、同居人ですらなかった。だが離婚を決めたのは、やはり彼女のことが忘れられなかったから。人生の半分を過ぎ、ここから先、生きていくうえで彼女に傍にいて欲しいと思うようになっていた。愛という言葉を語る人が傍にいて欲しかった。そしてそれは17の時初めて女に向かって言った言葉。ただし、それは彼女に対してしか口にしたことはない。
司は2年前帰国したが、彼女の元を訪ねることはしなかった。
それはやはり身体の不安が心にあったから。
帰国してすぐ、どうしているか知りたいと思った。
だが知り過ぎると怖い。
知り過ぎたばかりに心が痛むといったことがある。だから敢えて調べなかった。
だが東京から遠く離れた場所に暮らしていることだけは知っていた。
その場所へ自ら転勤願いを出したことも。
それは、まるで司のことを避けているように思えた。だから余計連絡を取ることが躊躇われた。そんな男を見て痺れを切らしたのが、姉椿の息子である恭介だ。
叔父の不甲斐なさを情けなく思い、自らが行動した。だがそれは椿の差し金に違いない。
恭介の行動は、まさに姉の意を汲んでのこと。この一件の黒幕が、姉の椿であることは間違いない。
弟思いの姉らしい行動とはいえ、自らではなく息子を使うところが、確信犯的行動だ。
見知らぬ青年の訪問は彼女を驚かせたかもしれないが、その口から語られたことはインパクトがある。そして、椿より息子の恭介の方が演技力がある。
つまり嘘が上手いということだ。
ある日、見知らぬ青年が突然訪ねてきて、そこで昔の恋人である男が不治の病にかかり死の縁にいる。だから会いに来て欲しいといった話しをする。
姉はドラマチックな性格だが、その性格がここまでさせたのだろうか?
甥の演技力に感服しなければならないのだろうが、病気が嘘だと知られた以上、正攻法で行くしかない。
折角姉と甥が作ったチャンスだ。無駄にすることはない。
あの頃と同じ堂々とした態度で彼女に愛を伝える。
そのことに何の躊躇もない。
司は恭介に騙されたと知ったときの彼女の顔を思い出していた。
涙で潤んだ瞳が睨みつけて来た顔を。
そして彼女と再会してからはじめて笑いが込み上げて来るのを感じていた。
あの頃変わらない大きな瞳は、睨んでは来たがどこか気迫に欠けていた。
どこか戸惑いが隠せず、まるで目の前に置かれていた餌が急に無くなり、半べそをかいた犬のように感じられた。唖然と言おうか、呆然と言おうか、やがてその顔が怒りに真っ赤になった。
そして相変わらず逃げ足の速い女が航空機に乗った形跡はない。
ならば新幹線ということになる。
東京駅から乗った新幹線が、彼女の住む街に着くまで随分と時間がかかると思ったが、向うで待つしかない。
東京より西にある街は、当然だが日の入りが遅く、空はまだ十分明るい。
だが日の入りは今日の終わりを告げる。
今日のこの日はつくしにとっていったい何だったのか。
今朝、東京へ向けて旅立ったが、一日が終わる前にはまたこの街へと戻ってきていた。
哀しみだけを抱えてあの街へ降り立ったはずが、今は腹立たしさを抱えていた。
道明寺は死の縁になどいなかった。
あの男の甥が仕組んだ質の悪い悪戯だったのだ。
人の死を利用しようとするあの青年にまんまと騙され悔しかった。
あの青年が現れてから今日まで悩んだことが虚しく感じられた。
「・・はぁ・・」
つくしは小さくため息をついた。
あの男のために流した涙はいったい何だったのか?
心の中に葛藤を抱え悩んでいたことがバカバカしく感じられ、そして徒労感に襲われていた。
つくしを乗せた列車は、間もなく彼女が住む街の駅に着く。
アナウンスが聞えてくると席を立ち、乗降口があるデッキへと向かった。
やがて滑らかに止まった新幹線から降りた。
そして1階にある改札に向かうためホームを歩き始めた。
その時だった。彼の姿を認めた。
人の流れに逆行して歩いて来る背の高い男を。
平日夕方の新幹線はビジネスマンの利用が多く、逆行して歩いて来る男の顔に視線を定めると、皆一様にハッとして道を開ける。それはまさに旧約聖書の中に書かれているモーゼが目の前にある海に手をかざし、分かち、道を生み出したような光景だ。それは田舎町の新幹線のホームの光景としてはある意味異様かもしれない。だがモーゼがある民族にとっての指導者として尊敬されるなら、背の高い男はビジネスマンの尊敬の対象のはずだ。
ダークスーツを身に纏った男は、見覚えのあるネクタイを締めていた。
それはつくしが昔プレゼントしたものだ。
そして近づいて来る男の手にはあるものが握られていた。
徐々に近づいて来る彼の香りは病室でも感じたが、今も昔と変わらない。
その香りが潜在意識の奥深くに眠る何かを揺り起こした。その何かとは、いったい何なのか。
「・・よお。随分と時間がかかったじゃねぇか」
口の端を微かに歪めて言った言葉。
つくしは目の前の男がどういった交通手段でこの場所に来たのか知っている。
公共交通機関なるものを使わなくても、いとも簡単にこの場所を訪れることが出来ることを。
そんな男を無視して通り過ぎようとした。
だが、司は彼女の後ろについて来た。
「・・牧野。おまえ何か勘違いしてるようだが、俺はおまえを騙してねぇからな。今日のことは恭介が勝手に計画したことだ」
事実司は知らなかった。
恭介が母である椿から聞かされた二人の話に、実らなかった恋のキューピッドを務めようとした。そしてそれは、健康診断を受けるため病院にいた男の元に、牧野つくしを呼びよせることを計画したということだ。
「・・・・」
「牧野。無視するな。いいから少し話しを聞け」
二人の間には15年の歳月が流れているというのに、司はまるで昨日まで普通に会っていたように話しかけていた。そんな言葉につくしは立ち止ると彼の方を振り返った。
「・・・いつから・・待ってるのよ?」
「おまえが新幹線に乗ってから。・・そうだな1時間半くらいしてからか?」
ニヤリと笑みを浮かべた男。
それはつくしが乗った新幹線が浜松辺りを通過した頃だ。
だとすれば、少なくとも2時間はこの場所で待っていたことになる。すると司はつくしの考えを読んだように言った。
「2時間だろうが5時間だろうが、おまえを待つのに時間なんて関係ねぇよ。昔だって雨の中、随分と長い間待たされたことがあっただろうが」
確かにあった。
雨の中この男を散々待たせたことが。
「おかげでこれ何個食ったと思ってんだ・・。ほら、おまえも食え」
司が差し出したのは、手に握られていたソフトクリーム。
さっきから気になってはいたが、確かこの男は甘い物が苦手だったはずだ。それなのに、何個も食べたと言った。
「あんた・・甘い物は苦手だったでしょ?」
「ああ。・・けどな、この年になって味覚が変わったっての?こん位の甘さなら割と普通に食えるようになった」
と、言ってあの頃と変わらない微笑を見せた。
「あんた、本当に何個も食べたの?」
「ああ。列車が入って来るたび、おまえが降りて来るんじゃねぇかって思って買って待ってた。イライラしてる女には甘いものが一番だろ?・・けど降りて来ねぇから結局俺が食った。・・そうは言っても流石にそう何個も食えねぇな・・」
うんざりとした調子で答える男がおかしく、フッと、つくしの口から笑い声が漏れた。
最高級の香り高いコーヒーを好む男が、スーツ姿でソフトクリームを何個も食べる姿を想像して吹き出しそうになった。そして思い出していた。まだ高校生だった頃、二人で入った店で、食べなさいよと言ってパフェをスプーンでひと口掬って差し出したが、甘いと言って苦笑した顔を。そんな男の変わり様がおかしかった。けれど、全部を自分で食べたというのは絶対に嘘だ。きっとこのホームの隅にでもいる秘書に食べさせたに決まってる。
「_んだよ?ひとりで笑って気持ち悪りぃな」
いい年をした男が笑うと目じりに皺が出来たが、見せる白い歯が若々しさを感じさせた。
許そうと思った。
西園寺恭介のついた嘘を。
東京を発った新幹線の中で考えていた。
改めて思った。この人のことを愛している。15年振りに会った道明寺のことを。どんなに忘れようとしても忘れることは出来なかった。
突然現れた彼の甥の言葉に心が動いたのもそのせいだ。だから会いに行った。もう会えなくなる。その思いがつくしを突き動かした。離れていた15年間があったが、はじめから分かっていた。彼の代わりになる人はいないということを。
今、目の前にいる男は、ただ黙って私を見ている。そしてその目は言葉を待っているように感じられた。
「なんで入院してたのよ?」
どこか半信半疑な気持ちもあるが、入院していたのは確かなはずだ。
その理由が知りたい。
「オーバーホールだ。年に一度身体中検査してもらってる」
司は一旦言葉を切った。
そして心配そうに彼を見つめる瞳をじっと見つめ、慎重に言葉を継いだ。
「恭介が話したと思うが、あの頃ポリープが出来たって話しは本当だ。あれは結局良性だったから問題なかった。・・まあ、また出来る可能性は無いとは言えねぇけどな」
良性のポリープはすべて除去され、問題ないと言われていた。
そして事実、あれ以降司の身体に何か起こることはなかった。
だがリスクはある。一度出来たということは、また再び出来る可能性はないとは言えなかった。
「そんなことよりこれ食えよ。溶けるだろうが」
つくしの口元へ差し出されたソフトクリーム。
そして目で食べろと言っていた。
彼女はそれを少しだけ口に含んだ。
「あん時一緒に食ったパフェより美味いだろ?」
そう言って満足そうに笑う男の白い歯が眩しかった。
そんな男は、やはりあの時のことを覚えていた。
そして今のつくしは、かつてのように感情を誤魔化すことはしない。
今は正直に気持ちを伝えることが出来る。
「うん。美味しい・・・甘くて美味しいよ、道明寺」
それは甘かった。
何年かぶりに食べるソフトクリームの甘さは舌の上でゆっくりと溶けたが、甘い物が苦手な男の我慢を感じた瞬間でもあった。
それはつくしの為に、大して食べられもしない甘い物を食べようとしている姿が、15年前と変わらぬ男の思いを感じさせた。それがつくしの思い過ごしかもしれないとしても。
「なあ、俺たちやり直さねぇか?」
そのとき口の中にあった甘さが心の中に広がった。
そして、その言葉に誰にも言わずこっそりと隠し持っていた孤独が、心の奥底に沈めていたはずの想いが浮かび上がり、胸の底に落としたものを見つけたような気がした。
15年振りに会う男は、相変らず強引で俺様だ。
でもそれでもいいと思った。今はそれが懐かしくもあり、そしてまた嬉しかった。
彼ともう二度と会うことはないと思っていただけに、まさかこうしてまた会えるとは思いもしなかった。
それに何故か妙にすっきりとした気持ちになっていた。それは、過去の事は、どうでもいいではないかといった気持ちだ。
だがつくしは思わず言っていた。
「・・嘘つき」
「俺が嘘ついたんじゃねぇぞ?あれは恭介が_」
司は言葉を切った。
二人のうちのどちらが嘘つきか。それはお互い様だと思っていた。
別れたとき、二人とも互いの気持ちを偽っていたからだ。
女は彼の会社のため身を引いた。そして男は彼女の幸せのため身を引いた。
「それにおまえの方が嘘つきだろうが。他に好きな男が出来た。他の男とも付き合ってるなんて下手な嘘つきやがって。おまえが二股掛けれる訳ねぇだろうが。仮にそうだとしても、最後におまえを抱いたとき、あれが他に男がいる女の態度とは思えなかったがな」
軽快な声で笑いながら応じる男の声。
ああ。この人は全てを知っていた。
でも私は知らなかった。この人が病気を抱え、それを気にして、他に男が出来たから別れたいと言った私の言葉を受け入れたことを。もし、彼の病気を知っていたら別れはしなかった。彼の傍にいたはずだ。
「ごめん・・道明寺・・」
今なら潔く言える。
あの頃、あんたの思いを知らなくて。
そして今でもあんたを愛していると。
あのとき、それぞれの愛は同じ方向を見ていたが、それでも結ばれることはなかった。
だが今、時の流れを忘れさせるほどあの頃と同じ思いを抱えた二人は、長い時間を経て再び会うことが出来た。
二人がこれまで心に留めていた切ない思い出が消えることはないが、その切なさの上に別のものを重ねていけばいい。
これから先、二人が見る未来がどんなものだとしても、この先に哀しみが訪れるとしても、それを二人で乗り越えていけばいい。
互いの心がひとつであればそれも出来るはずだ。だがもし、心に足らないものがあれば、二人で足していけばいい。
今の二人はあの頃とは違う。雨に打たれた日もあった。風に流されそうになったこともあった。だが乗り越えて来たはずだ。だからこれからの人生も、もう一度二人で乗り越えられるはずだ。
「牧野・・おまえ、昔と全然変わんねぇな」
何が変わらないのか?含み笑いをしながらの言葉に何が変わらないのか聞きたかった。
だがその答えを聞くことは出来なかった。
何故なら、彼の唇がゆっくりと下りて来たからだ。
それは懐かしい唇。
そしてその唇が近づき重なる寸前、囁くように言われた。
「なあ、俺たち結婚しようぜ」
そのとき、プラットホームを風が駆け抜けた。
それはこの駅に停車することのない列車が起こした風。
熱かった。
その風が。
それはまるで時計回りの風のように感じられた。
時計回りの風。それは高気圧のことだ。
道明寺司という男は、高気圧のように熱い男だった。
そして彼の周りに吹く風は熱い風だ。
その風が再びつくしの元へ吹き寄せていた。
つくしは身体の力を抜き、司にあずけた。
そして大きな腕で抱きしめられると、その腕の中で大きく息を吸った。
彼の全てを嗅ぎ取ってしまうように。
生きていれば色んなことがある。
この年になればそれも理解出来る。
心が、別れたあの日に戻ることがあるかもしれない。
けれど、終わり良ければ総て良しという言葉がある。
過ぎて来た時を振ることが悪いとは思わないが、二人とも今はもう前を向いて歩くことしか考えてない。人生の後半が素晴らしければそれでいい。今ではそんな考え方が出来るようになっていた。だから離れていた15年を無駄だとは思わない。それぞれが人生の経験を積んで来たはずだから。
太平洋高気圧が張り出せば雨の季節は終わる。
それは梅雨が上がるということ。
どんよりとした雲が去り、じめじめとした季節が終り、熱く乾いた空気が感じられるようになる。
やがて突き抜けるような青い空に夏の太陽が顔を出す。
それは、二人の再会を祝福するようであり、踏み出す未来を表しているはずだ。
< 完 >*時計回りの風*

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今はもう全てが終った後なのだろうか。
あの人に会えると思ってここまで来た。
けれど気持を伝えることが出来なかった。
何年も会っていない人だが、それでも最後に会いたいと思ったからこそこの街へ来た。
だが、間に合わなかった。どんな言葉で話しかけようかと悩んだがそれも出来なかった。
彼にどれだけの時間が残されていたのか、知らなかった。
それならどうして西園寺恭介は、もっと早く足を運ぶようにと強く言ってくれなかったのか。
あの時、彼が刺され入院した特別室と、今のこの病室は違うが、それでもこの場所はつくしにあの時の思いを蘇らせた。
命は人の意志とは関係なく奪われることがあるが、記憶も奪い去ってしまうこともあると知ったあの日。
これからまたあの時と同じような思いを抱えて生きていかなければならないのだろうか。
あの時は理不尽だと思った。
今またあの時と同じことが再び起きていた。
それは、私の知らないうちに彼は逝ってしまった。それがあの時と同じだと感じられた。
伝えたいことがあった。
言いたいことがあった。
あやまりたいことがあった。
今でもあなたを愛している。
そう言いたかった。
けれど、彼はもうこの世にはいない。
少しの間、ぼんやりとその部屋の中に佇んでいた。
最上階にあるこの部屋のカーテンは開け放たれ、窓から見える景色は、道明寺HDのビルが正面に見えた。都心の一等地にあるそのビルは、雨上がりの陽射しを浴び、ガラス窓がキラキラと反射していた。堂々としたそのビルはまだ完成して間もない新しいビルだ。彼はあのビルを見ながら何を思ったのだろう。まだやりたいことがあったはずだ。道半ばで旅立たなければならなかった悔しさがあったはずだ。今、彼の会社は順調に発展していた。あの頃、彼が結婚によって贖わなければならなかった負債も今はもうない。
恐らく彼の死は公表されるまで時間がかかるはずだ。企業トップの死は、会社の株価に反映する。トップが交代することにより、経営方針や業績が大きく変わることがあるからだ。そんな理由から今後の体制を整えてからの公表となるだろう。
立ち去ろう。いつまでもここでこうしている訳にはいかない。
そのとき、自分が泣いていることに気付いた。
涙は音もなく静かに流れ落ちるが、いつの間にか頬を伝い、唇を濡らし、顎を濡らしていた。
零れた始めた涙は15年分の想い。好きだったが別れることを選ばなければならなかったあの日の嘘を悔いていた。せめて最後にもう一度だけ会いたかった。会ってあの日ついた嘘をあやまりたかった。
終わるべき時はまだ先であって欲しかった。
私が来るのを待っていて欲しかった。
そのとき、右手にある引き戸が音もなく開いた。
誰もいないと思っていたこの部屋でのそれはあまりにも突然のことで、つくしは反応することが出来ずにいたが、ゆっくりと顔を右に振り向けた。
そして中から出て来た人間と目が合った。
その瞬間時が止った。何が起きたのか分からなかった。
「・・まきの?」
バスローブ姿のその人は、あの当時と変わらないバリトンの音色でつくしの名前を呼び、つくしもその人の名前を呼んだ。
「ど、道明寺!?」
「おまえ、何やってんだ?」
「何っ・・やってるって・・あんたこそ・・」
つくしは言葉に詰まった。死んだんじゃなかったの?
そう言いかけ止めた。どう見ても目の前の人物は生きている人間で、足も二本ある。そしてシャワーを浴びたばかりのその身体を真っ白なバスローブに包み、髪の毛は濡れ、ストレートになっていた。頬が削げ落ちることもなく、痩せて目だけが目立つこともなく、元気そうな顔でつくしをまじまじと見つめていた。
そこでピンと来た。
騙されたのだと。
いくら鈍感だと言われた女でもそのくらいわかる。
それは現実味があり過ぎたドラマだったからか。それとも遠い昔、ドラマチック過ぎる青春時代を過ごした経験から、教えられたことを単純に信じてしまったのか。他人を簡単に信じ過ぎると言われる性格が災いしたのか。
どちらにしても、あの西園寺と名乗った青年に騙されたのだ。と、なるとあの青年の名前さえ本当の名前なのか疑いたくなる。
「まきの・・?」
目の前にいる男は、いい年になっても相変わらずだ。
変わってない。整った目鼻立ちは、何ひとつ変わることなく年を重ねた分、怜悧なニヒルさといったものが増し、男として今が一番といった精悍さがあった。
腹が立った。
無性に。
15年振りに会った元恋人に。
「いったいどういうつもり?このペテンにあんたもかかわってるんでしょ!」
つくしは強い調子で男に詰め寄った。
「まきの・・落ち着け・・いったい_」
司は何故ここにつくしがいるのか戸惑っていた。
シャワーを浴び、出て来たこところに、牧野つくしがいるのだから驚くなという方が無理だ。
黒い瞳は今にも零れ落ちそうなほど潤んでいて、目の縁が赤くなり明らかに泣いていた。
そして今、その女は頭に血が上ったのか、カンカンになって怒っていた。だが彼女が怒っている理由が理解出来ず、そして何故ここに彼女がいるのかわからなかった。
その時、入口の引き戸が開き、あの青年が、西園寺恭介と名乗った男が現れた。
「あ!牧野さん?やっと来てくれたんですね?」
恭介はつくしが来ることは分かっていたが、どうしてこんなに時間がかかったのかと言った口調だ。そしてにこやかに笑っていた。
「なかなか来てくれないから、どうしたのかと思いましたよ。母から優柔不断なところがあるとは聞いてましたが、今でもそれは変わらないんですね?」
青年はあっけらかんとした口調で楽しげに言った。
その声にケンカ腰の女は彼を睨んだ。
「ちょっとあなた!これ、どういうことなの?道明寺・・いえ、この人は肺癌で死にそうだって言ったわよね?そんな男が・・なに呑気にシャワーなんて浴びてるのよ!」
そして、どう見ても元気そうな「この人」を指差し睨んだ。
この人呼ばわりされた男は、ベッドまで行くとサイドテーブルの中から煙草を手に取り、つくしの前に戻って来た。そしてまさにこれからその煙草を吸おうかとしているではないか。
その様子から肺癌は嘘だと確信したが、ここは院内だというのに、煙草を吸おうとするその男に益々腹が立ち、思わず何かを投げつけてやりたい気になっていた。
「あれ?バレちゃいました?」
「何がバレちゃいましたよ!あなた・・あたしのこと騙したんでしょう!」
青年の堂々とした態度につくしは噛みついた。
そして混乱した頭は、この状況をどうしたらいいのかと考えていた。
だが考えられるはずもなく、目の前にいる男のバスローブから覗く胸が目に入った。
背の高い男は、普段から鍛えているのか、中年の域に達したというのに、体型はあの頃と変わることなく引き締まっていた。
すらりとした手脚を持つ男がスーツを着た姿は、顔立ちの良さも相まって、多くの女性の目をくぎ付けにするが、それは決して見た目だけではない。
オーラがあるのだ。この男には女性が逆らえないオーラがある。いや。それは女性だけではない。この男は男女問わず多くの人間を惹き付ける。
それも腹が立つほどの魅力がある。
「牧野。落ち着け」
つくしは近づいて来た男から離れようと、一歩後ろへと下がったが、男は離れるどころか更に近寄った。途端、懐かしい香りが鼻腔の奥を駆け抜けた。
「何が落ち着けよ!人が心配してここまで来てみれば、肺癌で死にそうな人間が呑気にシャワーを浴びてるなんて話し聞いた事がないわよ!それに何よ、その煙草は!」
感情を高ぶらせた声は震えていたが、視線は司が手にした煙草を睨みつけた。
「誰が肺癌だって?」
「誰がって・・道明寺がよ!」
言いながら、つくしはネックレスを外し、司に向かって投げつけた。
咄嗟に受け取った男は、手の中のそれにじっと目を落し、投げつけられた物が二人にとって思い出となった物だと知ったとき、訝しげにつくしを見た。
「なんでおまえがこれを?」
「な、なんでって、この人が持って来たのよ!」
司は、つくしが睨みつけた男を見て、何かを察したように、そしてため息交じりに言った。
「恭介。おまえ・・」
「あの・・二人共落ち着いて下さい。それから牧野さん、事情は僕が説明しますから。それから叔父は今回のことについて何も知りませんから」
事情を説明する。
言い訳を探すわけではないだろうが、いったい何を説明するというのか。
人をバカにするのもいい加減にして欲しい。もしこのことが青年の言う通りひとりで仕組んだことだとして、元気な人間を不治の病で死にそうだと嘘をつき、人をこの街へ来させようとするとは、西園寺恭介という男は本当にあの椿の息子なのだろうか。道明寺椿という女性は何事も正面切って堂々とする女性だ。間違っても人の気持ちを弄ぶような嘘をつくような人ではない。だがここの場にいる男二人はよく似ており、血の繋がりがあることは間違いない。それなら、本人が言うように椿の息子であることに間違いはないのだろう。
そんな男二人の視線は、つくしに向けられ彼女の言葉を待っているように感じられた。
途端、つくしはくるりと身体の向きを変え、病室を飛び出し走り出した。
「牧野!ちょっと待て!おい!」
いきなり部屋を出ていった女に、司はバスローブのまま病室を飛び出したが、逃げ足の速い女が飛び乗ったエレベーターはすでに1階を目指し下降していた。
「クソッ!!相変わらずあの女逃げ足早ぇな・・」
司は緩んだバスローブの紐を締め直していた。
「恭介!おまえ追いかけて掴まえろ!」
まさかこのままの姿で追いかけて行くわけにはいかなかった。だが、彼は高校生の頃、彼女から電話を貰い、バスローブのまま彼女が住むアパートへ駆けつけたことがあった。もう随分と昔の話だったが、それでもつい最近のことのように覚えていた。
「嫌だよ。叔父さん追いかけて掴まえたら?だって俺の彼女じゃないもん。叔父さんの彼女でしょ?なら叔父さんが掴まえなきゃ意味がないと思うよ。あ、彼女じゃないよね?元カノだ」
甥の元カノ発言に司はムッとし、憎々しげに睨んだ。
それにしても、甥は何を考えてこんなことをしたのか。
「恭介、おまえ何でこんなことをした?」
「何でって・・叔父さん、まだ牧野さんのことが好きなんだろ?忘れられないから日本に戻って来たんだろ?俺、母さんから聞いてるよ。叔父さんが牧野さんと別れた理由。道明寺のために好きでもない人と結婚したことも」
恭介は、一旦言葉を切り、叔父である司の表情を窺った。
まるで我が子のように自分を可愛がってくれた叔父に子供はいない。
そんな叔父は結婚していたが、愛してもいない女性との間に子供を作る気は無いといった話しを母親が喋っているのを耳にしていた。そして、愛していた女性がいたが別れ、会社のための結婚をしたことも後から知った。
それなら、離婚した今、愛している女性が他にいるならその女性と結ばれて欲しいと恭介は思った。
そしてそれは今からでも遅くはないはずだ。
「お節介かもしれないけど、人生なんて一度きりだろ。叔父さんだってよく言ってるじゃないか。人の一生なんて短いもんだ。やりたいように生きろって。叔父さんは若い頃色々とあったっていうけど、今じゃなんだか守りに入ってるように感じられるよ。女性だってより取り見取りなのに、全然興味を示さないし、あの人のことが忘れられないからだろ?牧野さんのことが。僕は牧野さんをここまで呼び寄せることまではした。だからあとは叔父さんが自分でなんとかしなよ?」
明るい笑顔を浮かべる甥は、ここからが司の腕の見せ所だと言わんばかりに言った。
「生意気言うんじゃねぇよ。クソッ・・」
司は苛立たしげに髪をかき上げたが、濡れていた髪は既に乾き、いつものようにうねっていた。そして40代の男の髪に白髪は無く豊かだった。
「そんなこと言っても叔父さん、帰国してもう2年だろ?それなのに未だに牧野さんに会いに行こうとしないからだよ。だから俺が手を貸したんじゃないか。一人の女性にそこまで手をこまねくなんて、道明寺司の名前が泣くだろ?昔のお叔父さんなら考えるより先に行動してたよね?」
恭介は、司と本音で話しが出来る数少ない人間だ。
甥であることもそうだが、司に対し率直な物言いは、まさに姉椿の性格をそのまま受け継いでいた。そしてすぐ傍でうるさく喋る甥が、まるで姉のように思えていた。
姉も同じようなことを司に言っていたからだ。
離婚したんだから、さっさとつくしちゃんに会いに行きなさいと。そして、あの時、彼女が好きな男が出来たから別れたいと言って来たことは、すべて嘘だったと聞かされた。それは、彼女の方から別れて欲しいと言ってくれないかと、亡くなった母親が頼んでいたと聞かされた。
だからと言って、彼女が未だに一人でいることが、今でも司のことを好きだとは限らない。けれど、椿は確信を得たように言っていた。
『つくしちゃんは今でもあんたのことが好きなのよ』と。
だがそれを確かめる勇気がなかった。
そんな弟の不甲斐なさに業を煮やした椿は、自分の息子に話し、その息子である恭介は叔父のためひと肌脱いだということだ。
司はバスローブを脱ぎ捨て、クローゼットからシャツを取り出すと羽織った。
そしてスラックスを履き、ベルトを締め、ジャケットを着た。それからネクタイをポケットに押し込んだ。
「恭介、おまえ・・・どうしてこのネックレスを?」
司は投げつけられたネックレスの球体を、掌の上、指で転がし弄んだ。
イタリアの一流ブランドで作らせた彼女だけのオリジナルのネックレス。それは高校生の時、初めて贈ったジュエリーであり二人の思い出の品だ。
「ああ、これ?母さんが教えてくれたんだ。世田谷の叔父さんの部屋にあるからって」
「姉ちゃんが?」
「そうだよ。母さんが教えてくれた。叔父さんがこのネックレスを大切にしてる理由もね?」
椿は司がつくしと別れたとき、つくしから返されたネックレスが、今は世田谷の司の部屋にあることを知っていた。そしてそれを弟が箱に収め大切にしていることも。
姉は弟のことなら何でもお見通しと言わんばかりだ。
「叔父さん?迎えに行くよね?牧野さんを?」
迎えに行く。
本当なら帰国した2年前、会いにいくべきだった。だが何故か躊躇われた。
15年前自分の気持ちに蓋をし、体調の思わしくない自分が彼女の心の負担となることを考え別れることに同意した。
だが今は迷うことなく、彼女に会いに行ける。
自分に会いに来てくれた彼女の気持ちは、あの頃と変わってないと確信を得たからだ。
いくら別れた男の余命が短いからといっても、気持ちが無ければ会いになど来ないはずだ。
そして大きな黒い瞳は、涙を浮かべ赤くなっていた。
「恭介・・俺が目の前に現れた獲物をそう簡単に逃すわけねぇだろうが」
司はネックレスを手に、かつて生意気な口を利いた女の今を感じていた。
今も遠い昔と変わらない彼女の率直さを。
出会って間もない頃、″あの生意気な女″と吐き捨てるように言った彼女の存在が、いつの間にか愛おしい存在に変わって行ったことを思い出していた。
「さすが叔父さんだ!それでこそ道明寺司だよ!」
恭介は、牧野つくしを追いかけていた叔父の武勇伝を椿から聞いていた。
彼女のためならどんなことでもしたという叔父の一途さを。
「なあ、恭介・・おまえあいつの家に行ったんだろ?」
「あ?うん。尾道の家にね」
恭介はどこか言葉に詰まったような叔父の言葉に躊躇いを感じとった。
それは_
「叔父さん、牧野さんに男の人はいないよ。あっちでの生活のことは調べたから。男っ気なんてなかった。それに向うの生活は・・古い家に住んでて地味だったよ?」
相変わらず地味な生活をしている女に男はいない。
司は、手にしていたネックレスをポケットに突っ込み病室を出た。
恭介がついた嘘などもうどうでもよかった。むしろ、こうして彼女に会えたことが嬉しく、きっかけを作ってもらえたことに礼を言うべきだろう。
牧野つくし。
黒い大きな瞳に涙を浮かべたまま怒り出し、言葉に窮し走って逃げるところが、昔と変わらないと感じていた。
それは、まだ付き合い始めて間もない頃。
恥かしがり屋の彼女は、答えに窮すると顔を赤らめ黙り込むこともあった。実際に走って逃げることはなかったが、心の中ではそうしたいと思ったこともあったはずだ。
別れたばかりの頃、ネックレスは自分から遠い所へ置き、切り離し、忘れてしまおうとした。
いっそ捨ててしまおうかと考えたこともあった。
だが出来なかった。そしていつの間にか、彼女の代わりのような存在になっていた。
それはネックレスという物ではなく、彼女そのものだった。
だからこそ切り離すことも、捨てることも、忘れることも出来ず常に身近に置き大切にしてきた。
姉はその存在意義に気付いていた。だからこそ恭介に話しをしたのだろう。
それが二人にとって魂を結びつけるような存在だったということを。
そして、そのネックレスを彼女は身に付け、死の縁に立っているはずの男に会いに来た。
どんなにバカな人間でもその意味は理解出来るはずだ。
彼女に会いに行くことに躊躇いはない。
ついさっきまで触れるほど近くにいた彼女に会いに行くことに。

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けれど気持を伝えることが出来なかった。
何年も会っていない人だが、それでも最後に会いたいと思ったからこそこの街へ来た。
だが、間に合わなかった。どんな言葉で話しかけようかと悩んだがそれも出来なかった。
彼にどれだけの時間が残されていたのか、知らなかった。
それならどうして西園寺恭介は、もっと早く足を運ぶようにと強く言ってくれなかったのか。
あの時、彼が刺され入院した特別室と、今のこの病室は違うが、それでもこの場所はつくしにあの時の思いを蘇らせた。
命は人の意志とは関係なく奪われることがあるが、記憶も奪い去ってしまうこともあると知ったあの日。
これからまたあの時と同じような思いを抱えて生きていかなければならないのだろうか。
あの時は理不尽だと思った。
今またあの時と同じことが再び起きていた。
それは、私の知らないうちに彼は逝ってしまった。それがあの時と同じだと感じられた。
伝えたいことがあった。
言いたいことがあった。
あやまりたいことがあった。
今でもあなたを愛している。
そう言いたかった。
けれど、彼はもうこの世にはいない。
少しの間、ぼんやりとその部屋の中に佇んでいた。
最上階にあるこの部屋のカーテンは開け放たれ、窓から見える景色は、道明寺HDのビルが正面に見えた。都心の一等地にあるそのビルは、雨上がりの陽射しを浴び、ガラス窓がキラキラと反射していた。堂々としたそのビルはまだ完成して間もない新しいビルだ。彼はあのビルを見ながら何を思ったのだろう。まだやりたいことがあったはずだ。道半ばで旅立たなければならなかった悔しさがあったはずだ。今、彼の会社は順調に発展していた。あの頃、彼が結婚によって贖わなければならなかった負債も今はもうない。
恐らく彼の死は公表されるまで時間がかかるはずだ。企業トップの死は、会社の株価に反映する。トップが交代することにより、経営方針や業績が大きく変わることがあるからだ。そんな理由から今後の体制を整えてからの公表となるだろう。
立ち去ろう。いつまでもここでこうしている訳にはいかない。
そのとき、自分が泣いていることに気付いた。
涙は音もなく静かに流れ落ちるが、いつの間にか頬を伝い、唇を濡らし、顎を濡らしていた。
零れた始めた涙は15年分の想い。好きだったが別れることを選ばなければならなかったあの日の嘘を悔いていた。せめて最後にもう一度だけ会いたかった。会ってあの日ついた嘘をあやまりたかった。
終わるべき時はまだ先であって欲しかった。
私が来るのを待っていて欲しかった。
そのとき、右手にある引き戸が音もなく開いた。
誰もいないと思っていたこの部屋でのそれはあまりにも突然のことで、つくしは反応することが出来ずにいたが、ゆっくりと顔を右に振り向けた。
そして中から出て来た人間と目が合った。
その瞬間時が止った。何が起きたのか分からなかった。
「・・まきの?」
バスローブ姿のその人は、あの当時と変わらないバリトンの音色でつくしの名前を呼び、つくしもその人の名前を呼んだ。
「ど、道明寺!?」
「おまえ、何やってんだ?」
「何っ・・やってるって・・あんたこそ・・」
つくしは言葉に詰まった。死んだんじゃなかったの?
そう言いかけ止めた。どう見ても目の前の人物は生きている人間で、足も二本ある。そしてシャワーを浴びたばかりのその身体を真っ白なバスローブに包み、髪の毛は濡れ、ストレートになっていた。頬が削げ落ちることもなく、痩せて目だけが目立つこともなく、元気そうな顔でつくしをまじまじと見つめていた。
そこでピンと来た。
騙されたのだと。
いくら鈍感だと言われた女でもそのくらいわかる。
それは現実味があり過ぎたドラマだったからか。それとも遠い昔、ドラマチック過ぎる青春時代を過ごした経験から、教えられたことを単純に信じてしまったのか。他人を簡単に信じ過ぎると言われる性格が災いしたのか。
どちらにしても、あの西園寺と名乗った青年に騙されたのだ。と、なるとあの青年の名前さえ本当の名前なのか疑いたくなる。
「まきの・・?」
目の前にいる男は、いい年になっても相変わらずだ。
変わってない。整った目鼻立ちは、何ひとつ変わることなく年を重ねた分、怜悧なニヒルさといったものが増し、男として今が一番といった精悍さがあった。
腹が立った。
無性に。
15年振りに会った元恋人に。
「いったいどういうつもり?このペテンにあんたもかかわってるんでしょ!」
つくしは強い調子で男に詰め寄った。
「まきの・・落ち着け・・いったい_」
司は何故ここにつくしがいるのか戸惑っていた。
シャワーを浴び、出て来たこところに、牧野つくしがいるのだから驚くなという方が無理だ。
黒い瞳は今にも零れ落ちそうなほど潤んでいて、目の縁が赤くなり明らかに泣いていた。
そして今、その女は頭に血が上ったのか、カンカンになって怒っていた。だが彼女が怒っている理由が理解出来ず、そして何故ここに彼女がいるのかわからなかった。
その時、入口の引き戸が開き、あの青年が、西園寺恭介と名乗った男が現れた。
「あ!牧野さん?やっと来てくれたんですね?」
恭介はつくしが来ることは分かっていたが、どうしてこんなに時間がかかったのかと言った口調だ。そしてにこやかに笑っていた。
「なかなか来てくれないから、どうしたのかと思いましたよ。母から優柔不断なところがあるとは聞いてましたが、今でもそれは変わらないんですね?」
青年はあっけらかんとした口調で楽しげに言った。
その声にケンカ腰の女は彼を睨んだ。
「ちょっとあなた!これ、どういうことなの?道明寺・・いえ、この人は肺癌で死にそうだって言ったわよね?そんな男が・・なに呑気にシャワーなんて浴びてるのよ!」
そして、どう見ても元気そうな「この人」を指差し睨んだ。
この人呼ばわりされた男は、ベッドまで行くとサイドテーブルの中から煙草を手に取り、つくしの前に戻って来た。そしてまさにこれからその煙草を吸おうかとしているではないか。
その様子から肺癌は嘘だと確信したが、ここは院内だというのに、煙草を吸おうとするその男に益々腹が立ち、思わず何かを投げつけてやりたい気になっていた。
「あれ?バレちゃいました?」
「何がバレちゃいましたよ!あなた・・あたしのこと騙したんでしょう!」
青年の堂々とした態度につくしは噛みついた。
そして混乱した頭は、この状況をどうしたらいいのかと考えていた。
だが考えられるはずもなく、目の前にいる男のバスローブから覗く胸が目に入った。
背の高い男は、普段から鍛えているのか、中年の域に達したというのに、体型はあの頃と変わることなく引き締まっていた。
すらりとした手脚を持つ男がスーツを着た姿は、顔立ちの良さも相まって、多くの女性の目をくぎ付けにするが、それは決して見た目だけではない。
オーラがあるのだ。この男には女性が逆らえないオーラがある。いや。それは女性だけではない。この男は男女問わず多くの人間を惹き付ける。
それも腹が立つほどの魅力がある。
「牧野。落ち着け」
つくしは近づいて来た男から離れようと、一歩後ろへと下がったが、男は離れるどころか更に近寄った。途端、懐かしい香りが鼻腔の奥を駆け抜けた。
「何が落ち着けよ!人が心配してここまで来てみれば、肺癌で死にそうな人間が呑気にシャワーを浴びてるなんて話し聞いた事がないわよ!それに何よ、その煙草は!」
感情を高ぶらせた声は震えていたが、視線は司が手にした煙草を睨みつけた。
「誰が肺癌だって?」
「誰がって・・道明寺がよ!」
言いながら、つくしはネックレスを外し、司に向かって投げつけた。
咄嗟に受け取った男は、手の中のそれにじっと目を落し、投げつけられた物が二人にとって思い出となった物だと知ったとき、訝しげにつくしを見た。
「なんでおまえがこれを?」
「な、なんでって、この人が持って来たのよ!」
司は、つくしが睨みつけた男を見て、何かを察したように、そしてため息交じりに言った。
「恭介。おまえ・・」
「あの・・二人共落ち着いて下さい。それから牧野さん、事情は僕が説明しますから。それから叔父は今回のことについて何も知りませんから」
事情を説明する。
言い訳を探すわけではないだろうが、いったい何を説明するというのか。
人をバカにするのもいい加減にして欲しい。もしこのことが青年の言う通りひとりで仕組んだことだとして、元気な人間を不治の病で死にそうだと嘘をつき、人をこの街へ来させようとするとは、西園寺恭介という男は本当にあの椿の息子なのだろうか。道明寺椿という女性は何事も正面切って堂々とする女性だ。間違っても人の気持ちを弄ぶような嘘をつくような人ではない。だがここの場にいる男二人はよく似ており、血の繋がりがあることは間違いない。それなら、本人が言うように椿の息子であることに間違いはないのだろう。
そんな男二人の視線は、つくしに向けられ彼女の言葉を待っているように感じられた。
途端、つくしはくるりと身体の向きを変え、病室を飛び出し走り出した。
「牧野!ちょっと待て!おい!」
いきなり部屋を出ていった女に、司はバスローブのまま病室を飛び出したが、逃げ足の速い女が飛び乗ったエレベーターはすでに1階を目指し下降していた。
「クソッ!!相変わらずあの女逃げ足早ぇな・・」
司は緩んだバスローブの紐を締め直していた。
「恭介!おまえ追いかけて掴まえろ!」
まさかこのままの姿で追いかけて行くわけにはいかなかった。だが、彼は高校生の頃、彼女から電話を貰い、バスローブのまま彼女が住むアパートへ駆けつけたことがあった。もう随分と昔の話だったが、それでもつい最近のことのように覚えていた。
「嫌だよ。叔父さん追いかけて掴まえたら?だって俺の彼女じゃないもん。叔父さんの彼女でしょ?なら叔父さんが掴まえなきゃ意味がないと思うよ。あ、彼女じゃないよね?元カノだ」
甥の元カノ発言に司はムッとし、憎々しげに睨んだ。
それにしても、甥は何を考えてこんなことをしたのか。
「恭介、おまえ何でこんなことをした?」
「何でって・・叔父さん、まだ牧野さんのことが好きなんだろ?忘れられないから日本に戻って来たんだろ?俺、母さんから聞いてるよ。叔父さんが牧野さんと別れた理由。道明寺のために好きでもない人と結婚したことも」
恭介は、一旦言葉を切り、叔父である司の表情を窺った。
まるで我が子のように自分を可愛がってくれた叔父に子供はいない。
そんな叔父は結婚していたが、愛してもいない女性との間に子供を作る気は無いといった話しを母親が喋っているのを耳にしていた。そして、愛していた女性がいたが別れ、会社のための結婚をしたことも後から知った。
それなら、離婚した今、愛している女性が他にいるならその女性と結ばれて欲しいと恭介は思った。
そしてそれは今からでも遅くはないはずだ。
「お節介かもしれないけど、人生なんて一度きりだろ。叔父さんだってよく言ってるじゃないか。人の一生なんて短いもんだ。やりたいように生きろって。叔父さんは若い頃色々とあったっていうけど、今じゃなんだか守りに入ってるように感じられるよ。女性だってより取り見取りなのに、全然興味を示さないし、あの人のことが忘れられないからだろ?牧野さんのことが。僕は牧野さんをここまで呼び寄せることまではした。だからあとは叔父さんが自分でなんとかしなよ?」
明るい笑顔を浮かべる甥は、ここからが司の腕の見せ所だと言わんばかりに言った。
「生意気言うんじゃねぇよ。クソッ・・」
司は苛立たしげに髪をかき上げたが、濡れていた髪は既に乾き、いつものようにうねっていた。そして40代の男の髪に白髪は無く豊かだった。
「そんなこと言っても叔父さん、帰国してもう2年だろ?それなのに未だに牧野さんに会いに行こうとしないからだよ。だから俺が手を貸したんじゃないか。一人の女性にそこまで手をこまねくなんて、道明寺司の名前が泣くだろ?昔のお叔父さんなら考えるより先に行動してたよね?」
恭介は、司と本音で話しが出来る数少ない人間だ。
甥であることもそうだが、司に対し率直な物言いは、まさに姉椿の性格をそのまま受け継いでいた。そしてすぐ傍でうるさく喋る甥が、まるで姉のように思えていた。
姉も同じようなことを司に言っていたからだ。
離婚したんだから、さっさとつくしちゃんに会いに行きなさいと。そして、あの時、彼女が好きな男が出来たから別れたいと言って来たことは、すべて嘘だったと聞かされた。それは、彼女の方から別れて欲しいと言ってくれないかと、亡くなった母親が頼んでいたと聞かされた。
だからと言って、彼女が未だに一人でいることが、今でも司のことを好きだとは限らない。けれど、椿は確信を得たように言っていた。
『つくしちゃんは今でもあんたのことが好きなのよ』と。
だがそれを確かめる勇気がなかった。
そんな弟の不甲斐なさに業を煮やした椿は、自分の息子に話し、その息子である恭介は叔父のためひと肌脱いだということだ。
司はバスローブを脱ぎ捨て、クローゼットからシャツを取り出すと羽織った。
そしてスラックスを履き、ベルトを締め、ジャケットを着た。それからネクタイをポケットに押し込んだ。
「恭介、おまえ・・・どうしてこのネックレスを?」
司は投げつけられたネックレスの球体を、掌の上、指で転がし弄んだ。
イタリアの一流ブランドで作らせた彼女だけのオリジナルのネックレス。それは高校生の時、初めて贈ったジュエリーであり二人の思い出の品だ。
「ああ、これ?母さんが教えてくれたんだ。世田谷の叔父さんの部屋にあるからって」
「姉ちゃんが?」
「そうだよ。母さんが教えてくれた。叔父さんがこのネックレスを大切にしてる理由もね?」
椿は司がつくしと別れたとき、つくしから返されたネックレスが、今は世田谷の司の部屋にあることを知っていた。そしてそれを弟が箱に収め大切にしていることも。
姉は弟のことなら何でもお見通しと言わんばかりだ。
「叔父さん?迎えに行くよね?牧野さんを?」
迎えに行く。
本当なら帰国した2年前、会いにいくべきだった。だが何故か躊躇われた。
15年前自分の気持ちに蓋をし、体調の思わしくない自分が彼女の心の負担となることを考え別れることに同意した。
だが今は迷うことなく、彼女に会いに行ける。
自分に会いに来てくれた彼女の気持ちは、あの頃と変わってないと確信を得たからだ。
いくら別れた男の余命が短いからといっても、気持ちが無ければ会いになど来ないはずだ。
そして大きな黒い瞳は、涙を浮かべ赤くなっていた。
「恭介・・俺が目の前に現れた獲物をそう簡単に逃すわけねぇだろうが」
司はネックレスを手に、かつて生意気な口を利いた女の今を感じていた。
今も遠い昔と変わらない彼女の率直さを。
出会って間もない頃、″あの生意気な女″と吐き捨てるように言った彼女の存在が、いつの間にか愛おしい存在に変わって行ったことを思い出していた。
「さすが叔父さんだ!それでこそ道明寺司だよ!」
恭介は、牧野つくしを追いかけていた叔父の武勇伝を椿から聞いていた。
彼女のためならどんなことでもしたという叔父の一途さを。
「なあ、恭介・・おまえあいつの家に行ったんだろ?」
「あ?うん。尾道の家にね」
恭介はどこか言葉に詰まったような叔父の言葉に躊躇いを感じとった。
それは_
「叔父さん、牧野さんに男の人はいないよ。あっちでの生活のことは調べたから。男っ気なんてなかった。それに向うの生活は・・古い家に住んでて地味だったよ?」
相変わらず地味な生活をしている女に男はいない。
司は、手にしていたネックレスをポケットに突っ込み病室を出た。
恭介がついた嘘などもうどうでもよかった。むしろ、こうして彼女に会えたことが嬉しく、きっかけを作ってもらえたことに礼を言うべきだろう。
牧野つくし。
黒い大きな瞳に涙を浮かべたまま怒り出し、言葉に窮し走って逃げるところが、昔と変わらないと感じていた。
それは、まだ付き合い始めて間もない頃。
恥かしがり屋の彼女は、答えに窮すると顔を赤らめ黙り込むこともあった。実際に走って逃げることはなかったが、心の中ではそうしたいと思ったこともあったはずだ。
別れたばかりの頃、ネックレスは自分から遠い所へ置き、切り離し、忘れてしまおうとした。
いっそ捨ててしまおうかと考えたこともあった。
だが出来なかった。そしていつの間にか、彼女の代わりのような存在になっていた。
それはネックレスという物ではなく、彼女そのものだった。
だからこそ切り離すことも、捨てることも、忘れることも出来ず常に身近に置き大切にしてきた。
姉はその存在意義に気付いていた。だからこそ恭介に話しをしたのだろう。
それが二人にとって魂を結びつけるような存在だったということを。
そして、そのネックレスを彼女は身に付け、死の縁に立っているはずの男に会いに来た。
どんなにバカな人間でもその意味は理解出来るはずだ。
彼女に会いに行くことに躊躇いはない。
ついさっきまで触れるほど近くにいた彼女に会いに行くことに。

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哀しいほど切ない思いが溢れて来る。
だからその思いを伝えるためここに来た。
あの時二人が出した結論を取り消すために。そのチャンスが今しかないのだとすれば、その時が今なら、他の人が好きだと許されない嘘をついた私を許してもらいたい。
そして彼に残された時間を一緒に過ごしたい。
それが例え短い時間だとしても。
車両が入ってくると、大勢の人間が吐き出され、人ごみの入れ替えがされた。
つくしは席に腰を下ろし、反対側の窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。
地下をゆく車両の中は、雨を纏った人々から感じられる空気で生暖かく湿った匂いがする。
それをかき消すようなエアコンの冷たい風が吹き付けてきた。そして久しぶりの地下鉄に、鼓膜に伝わる圧力といったものが感じられた。
ふと、目を止めた中吊り広告。
暗いトンネルの中を走る車両の灯りは、大きな文字を読むには問題ないほどの明るさだが、細かい文字まで読み取ることは出来なかった。
高校時代彼が刺され入院した事があった。
あの頃、週刊誌の中吊り広告は彼の話題で持ち切りだった。そんなことを思い出し、広告を一瞥すると再び窓ガラスに映り込む自分の顔を見た。
彼が入院しているのは、あの事件の時と同じ病院。
その病院にある大きな特別室に彼はいる。あのとき私の顔を見ても誰だか思い出せず、自分の親友の女だと思った彼に無性に腹が立ったことを思い出していた。そして暫くは赤の他人として扱われ傷ついた。あのとき、あのまま思い出さず、別れてしまっていたとすれば、人生も変わっていただろうか。今とは違う生き方をした自分がいたのだろうか。
だがそんな仮定を考えたところで、今更何か変わるわけでもない。考えるだけ無駄なのかもしれなかった。
やがて地下鉄は目的の場所に着くと、大勢の人間を吐き出し入れ替えがされ、再びトンネルの暗闇を突き抜ける一本の光りのように去っていった。
地下鉄の出口から病院までは歩いて10分ほどで着いたが、足を踏み入れることを躊躇った。人の出入りが繰り返されるたび開くドアの向うに見える風景が、遠い昔を思い出させた。
だがあれからもう二十年以上経っていて、過去のその一点だけに思いを置くことはなかったはずだ。それなのに、この場所に立てばあの当時が鮮やかに思い出され再現されていた。
暴漢に刺され、生死の境を彷徨った彼の姿と泣き崩れていた自分の姿が。
入院病棟は建て替えられ、白さが隅々まで感じられ、光り輝いて見えた。
入口には受付がある。特別室に入っていると聞かされていたが、以前と建て替わっているだけに場所を聞いた。だが特別室には近づけませんと言われた。理由は言わずもがなだと感じた。彼が入院しているならそれは当然のことだからだ。
経済界の重要人物である道明寺HDの社長が病気だということが世間に知られれば、会社の先行きを心配する声が聞こえるからだ。だから、この入院は秘密事項のはずだ。でも会えないならここまで来た意味がない。だが受付けの人間は私の名前を尋ねた。すると、牧野つくしの名前は面会予定者のリストに名前があったのか、一番奥のエレベーターで最上階までお上がり下さいと言われた。
病棟のエレベーターは止まることなく最上階まで運んでくれた。
どうやらこの病院の特別室は、一般病棟とは扱いが違うようだ。
お金持ちはこういった生活が当然だ。普通の人間とは違った生活が。
だけど、お金があろうがなかろうが、死ぬ時はどんな所で死のうが同じはずだ。ただその場に誰がいたのか。誰がその人の傍に最後までいてくれるのか。誰がその人のため心から泣いてくれるのか。その方が重要なはずだ。今の彼にそんな人がいるとすれば、姉と甥くらいだろう。
ここまで来たつくしは、自分がどうしてこの場所にいるのか、はっきりと分かっていた。
彼のことが忘れられなかったからだ。
そしてここに来れば彼に会える。たとえ今の状況がどうであろうと。今のつくしには、彼の傍にいたいといった気持ちが湧き上がっていた。
過ぎた季節に何を重ねていたかといえば、彼は今どうしているのかといった思いだ。
15年間、心の奥底に眠らせていた思いを今なら彼に伝えることが出来る。
だから甥である西園寺恭介が手渡してくれたあのネックレスを着け、こうして病室の前に立つことを決めたはずだ。
道明寺の傍にいたいと。
彼が最期を迎えるまで傍にいたい。
そう思える気持ちが湧き上がっていた。
だが、扉を開けるのを躊躇っていた。
この扉の向うにいる彼の弱った姿を見たくないといった思いがあった。
最後に見た彼は精悍な顔でテレビに映っていた。
それが頬の肉が削げ落ち、目ばかりが目立つ。そんな顏を見たくはない。
やせ細った身体でベッドに仰臥している姿を見たくはない。今の彼の姿を想像したくない。
道明寺司という男は、いつも堂々とした態度でいて欲しい。負けず嫌いな男の見せる傲慢さを失って欲しくない。かつてその傲慢さが嫌いだったことがある。だが彼のその傲慢さといったものは、寂しさから出たものであって、決して彼本来の性格ではなかった。
つくしは大きく息を吸い気持ちを落ち着かせようとした。
もしかすると、あの青年の行為は望まれない行為なのかもしれない。
この扉の向うにいる男は、私が訪ねてくることを望んでいないかもしれない。
かつて彼の友人に誘われ特別室を訪ねたとき、出て行けといって罵倒された時のことを思い出していた。
だがいつまでも扉の前で躊躇っていても駄目だ。
今は目の前の彼に向き合う時だ。来るべき時が来るなら、その時を一緒に迎えたい。
今の私に出来ることがあるなら、そして彼がネックレスを渡して欲しいと言ったなら、その意味を知りたい。
もしやり直せるなら、二人もう一度同じ時を過ごしたい。
つくしは勇気を持ち、ゆっくりと扉を開いていた。
音を立てることなく、すうっと開く引き戸。
だが足を踏み入れたその部屋には誰もいなかった。しかしベッドには人が横になっていた後が見て取れたが、周りにあるはずの医療機器といったものはなく、病院なら感じられるはずの消毒薬の臭いもない。目に映る人の存在のない部屋に、時間がスローモーションのようにゆっくりと流れ、空気がひんやりと感じられた。
そのとき頭を過ったのは、彼に与えられていた現世での時間は終わったのではないかといった思い。
間に合わなかったのだ。
訪ねてくるのが遅かったのだ。
青年が手渡してくれた1週間分の航空券をもっと早く使うべきだったのだ。
時の流れは残酷で切ないと思った。
つくしは、愛している人の最期を見届けることが出来なかった。

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あの時二人が出した結論を取り消すために。そのチャンスが今しかないのだとすれば、その時が今なら、他の人が好きだと許されない嘘をついた私を許してもらいたい。
そして彼に残された時間を一緒に過ごしたい。
それが例え短い時間だとしても。
車両が入ってくると、大勢の人間が吐き出され、人ごみの入れ替えがされた。
つくしは席に腰を下ろし、反対側の窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。
地下をゆく車両の中は、雨を纏った人々から感じられる空気で生暖かく湿った匂いがする。
それをかき消すようなエアコンの冷たい風が吹き付けてきた。そして久しぶりの地下鉄に、鼓膜に伝わる圧力といったものが感じられた。
ふと、目を止めた中吊り広告。
暗いトンネルの中を走る車両の灯りは、大きな文字を読むには問題ないほどの明るさだが、細かい文字まで読み取ることは出来なかった。
高校時代彼が刺され入院した事があった。
あの頃、週刊誌の中吊り広告は彼の話題で持ち切りだった。そんなことを思い出し、広告を一瞥すると再び窓ガラスに映り込む自分の顔を見た。
彼が入院しているのは、あの事件の時と同じ病院。
その病院にある大きな特別室に彼はいる。あのとき私の顔を見ても誰だか思い出せず、自分の親友の女だと思った彼に無性に腹が立ったことを思い出していた。そして暫くは赤の他人として扱われ傷ついた。あのとき、あのまま思い出さず、別れてしまっていたとすれば、人生も変わっていただろうか。今とは違う生き方をした自分がいたのだろうか。
だがそんな仮定を考えたところで、今更何か変わるわけでもない。考えるだけ無駄なのかもしれなかった。
やがて地下鉄は目的の場所に着くと、大勢の人間を吐き出し入れ替えがされ、再びトンネルの暗闇を突き抜ける一本の光りのように去っていった。
地下鉄の出口から病院までは歩いて10分ほどで着いたが、足を踏み入れることを躊躇った。人の出入りが繰り返されるたび開くドアの向うに見える風景が、遠い昔を思い出させた。
だがあれからもう二十年以上経っていて、過去のその一点だけに思いを置くことはなかったはずだ。それなのに、この場所に立てばあの当時が鮮やかに思い出され再現されていた。
暴漢に刺され、生死の境を彷徨った彼の姿と泣き崩れていた自分の姿が。
入院病棟は建て替えられ、白さが隅々まで感じられ、光り輝いて見えた。
入口には受付がある。特別室に入っていると聞かされていたが、以前と建て替わっているだけに場所を聞いた。だが特別室には近づけませんと言われた。理由は言わずもがなだと感じた。彼が入院しているならそれは当然のことだからだ。
経済界の重要人物である道明寺HDの社長が病気だということが世間に知られれば、会社の先行きを心配する声が聞こえるからだ。だから、この入院は秘密事項のはずだ。でも会えないならここまで来た意味がない。だが受付けの人間は私の名前を尋ねた。すると、牧野つくしの名前は面会予定者のリストに名前があったのか、一番奥のエレベーターで最上階までお上がり下さいと言われた。
病棟のエレベーターは止まることなく最上階まで運んでくれた。
どうやらこの病院の特別室は、一般病棟とは扱いが違うようだ。
お金持ちはこういった生活が当然だ。普通の人間とは違った生活が。
だけど、お金があろうがなかろうが、死ぬ時はどんな所で死のうが同じはずだ。ただその場に誰がいたのか。誰がその人の傍に最後までいてくれるのか。誰がその人のため心から泣いてくれるのか。その方が重要なはずだ。今の彼にそんな人がいるとすれば、姉と甥くらいだろう。
ここまで来たつくしは、自分がどうしてこの場所にいるのか、はっきりと分かっていた。
彼のことが忘れられなかったからだ。
そしてここに来れば彼に会える。たとえ今の状況がどうであろうと。今のつくしには、彼の傍にいたいといった気持ちが湧き上がっていた。
過ぎた季節に何を重ねていたかといえば、彼は今どうしているのかといった思いだ。
15年間、心の奥底に眠らせていた思いを今なら彼に伝えることが出来る。
だから甥である西園寺恭介が手渡してくれたあのネックレスを着け、こうして病室の前に立つことを決めたはずだ。
道明寺の傍にいたいと。
彼が最期を迎えるまで傍にいたい。
そう思える気持ちが湧き上がっていた。
だが、扉を開けるのを躊躇っていた。
この扉の向うにいる彼の弱った姿を見たくないといった思いがあった。
最後に見た彼は精悍な顔でテレビに映っていた。
それが頬の肉が削げ落ち、目ばかりが目立つ。そんな顏を見たくはない。
やせ細った身体でベッドに仰臥している姿を見たくはない。今の彼の姿を想像したくない。
道明寺司という男は、いつも堂々とした態度でいて欲しい。負けず嫌いな男の見せる傲慢さを失って欲しくない。かつてその傲慢さが嫌いだったことがある。だが彼のその傲慢さといったものは、寂しさから出たものであって、決して彼本来の性格ではなかった。
つくしは大きく息を吸い気持ちを落ち着かせようとした。
もしかすると、あの青年の行為は望まれない行為なのかもしれない。
この扉の向うにいる男は、私が訪ねてくることを望んでいないかもしれない。
かつて彼の友人に誘われ特別室を訪ねたとき、出て行けといって罵倒された時のことを思い出していた。
だがいつまでも扉の前で躊躇っていても駄目だ。
今は目の前の彼に向き合う時だ。来るべき時が来るなら、その時を一緒に迎えたい。
今の私に出来ることがあるなら、そして彼がネックレスを渡して欲しいと言ったなら、その意味を知りたい。
もしやり直せるなら、二人もう一度同じ時を過ごしたい。
つくしは勇気を持ち、ゆっくりと扉を開いていた。
音を立てることなく、すうっと開く引き戸。
だが足を踏み入れたその部屋には誰もいなかった。しかしベッドには人が横になっていた後が見て取れたが、周りにあるはずの医療機器といったものはなく、病院なら感じられるはずの消毒薬の臭いもない。目に映る人の存在のない部屋に、時間がスローモーションのようにゆっくりと流れ、空気がひんやりと感じられた。
そのとき頭を過ったのは、彼に与えられていた現世での時間は終わったのではないかといった思い。
間に合わなかったのだ。
訪ねてくるのが遅かったのだ。
青年が手渡してくれた1週間分の航空券をもっと早く使うべきだったのだ。
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青年が用意していた席は、プレミアムクラスという国際線でのビジネスクラスに相当すると言われる座席。チェックインは専用カウンターで済ませ、航空会社のラウンジも利用でき、優先搭乗も出来る。広い座席は女性にとっては十分な大きさで、隣の席ともプライバシーが保てるようになっており、簡単な食事も付いていた。
青年にしてみればごく当然の座席も、つくしにしてみれば贅沢な座り心地がした。
その席の1A。客室一番前の左窓側の席が用意されていた。前方は壁になっていて、小さな液晶画面がはめ込まれていた。その画面を通し、あと何キロで羽田に着くといった数字が表示され、東京までのカウントダウンを刻んでいた。
広い世界の中でも大都会と呼ばれる東京へと向かう航空機は、高度1万メートルの晴れた空を東へと飛行を続けているが、窓から見える空はどこまでも繋がっていて、あの街へも続いている。
遠い昔、彼を追いかけて行ったあの街。
NYに行ったのは、あの時の一度だけ。
その当時の寂しい気持ちが甦った。
彼が別れを告げ、海外に旅立ったあの頃の想いが。
どうしても彼に会いたくて、会いたいよ、道明寺、と名前を口に出し、追いかけて行った真冬の大都会。10万キロ以上離れた場所、知り合いは誰もいない街へ身体ひとつで飛び立つ勇気があったあの頃。それは若さがあったから出来た無謀さなのだろう。
だが今はこうして東京に行くことさえ躊躇いを覚えている自分がいた。
ありふれた恋ではなかった。
二人で一緒に過ごした思い出が次々と浮かんでは消えて行く。
目まぐるしく色んなことが起きた果てに結ばれた恋だった。
それは彼にとっても自分自身が恋に落ちるとは信じられない思いだったはずだ。
初対面の印象は互いに最悪で、二人が顔を合わせるたび激しい火花が散った。
そこから始まった恋はジェットコースターのような恋と称された。
どこにでもいるような女学生と大財閥の跡取り息子との恋。
普通の女性である私と彼との恋は、周囲が羨ましいと思う恋だったかもしれない。
華々しいドラマだと感じたかもしれない。だが二人の間に流れた穏やかな時間があったのは、ほんの短い間だった。二人にとって平和な時期は長続きしない。
そう思えど、全てを乗り越え一緒にいたいと願った。
だがあの頃の二人には越えられない壁があった。
雨のカーテンが二人を隔ててしまったことがあったが、あの日の夜以上に越えられない大きな何かがあった。それは彼の会社のことであり、彼自身の問題とは別のことだとしても、財閥の家を継ぐ運命にあった人間の決められた道だったのかもしれなかった。
15年ぶりに会うかつての恋人。
どんな顔をして会えばいいのか。相手が病人だというならなおさらだ。
それからあの当時の彼のことを知った。
彼の甥が口にしたあの当時の彼の気持ちを。
そして最後の夜を思い出していた。二人とも何も言わず抱き合った夜を。
他に好きな男がいてもいいから、といって抱いた夜のことを。
あの夜、二人は何も話そうとはしなかった。言葉の代わりに与えられたのは、彼の想いだったのかもしれない。
まるで私の身体の全てをその目に焼き付けようとしているように、ただじっと見つめる時間があった。それはまだ少年と少女だった頃、結ばれることがなかった南の島のコテージで、ただ抱きしめ合って眠りについた夜のように感じられた。あのとき、その行為自体が怖くて、それでも彼を受け入れようとしていたあの夜のように、強い力で抱きしめてきた。
そして最後の逢瀬とでも言うように、ただ静かに、だが激しく愛を交した二人がいた。
こうして彼との出会いまで遡ってみたが、どの思い出も心に深く刻まれていた。
つくしは窓の外の景色からテーブルの上に置かれた箱に目を落した。
この箱の中には彼から贈られたネックレスが収められている。
だが別れを告げたとき、彼に返した。しかし今、その箱を手に現れた青年の言葉に、こうして彼に会いに行こうとしていた。
だが何のために会いに行くのか。
それは手元のカップに注がれているコーヒーが少なくなっていくように、彼の命が残り少なくなっているからだ。
あの人が好きだったコーヒーの香りは、今でも忘れることはない。そんなコーヒーをひと口飲むたび、彼の命が少なくなる。そう感じられた。そしてあの青年の目は、今会わなければ、もう二度と会うことが出来ないということを伝えていたからだ。
東京の景色は雨が降っていた。
この街を濡らし続ける雨は西から東へと移動したのだろう。向うを飛び立った時は晴れていたが、まるで先回りしたように雨は私を待っていた。
雨は私と彼の間の邪魔をする。人生の大きな決断をするとき、必ず雨が降るのは運命なのだろうか。二度目の別れを決めたのもこんな日だったから。
空港からはモノレールに乗り浜松町まで行き、そこから新橋まで行った。
西園寺恭介には連絡をしなかった。連絡をすれば迎えの車を差し向けると言うはずだ。
その車に乗れば、彼の入院している病院まですぐだ。そしてそれは何かを考える暇など無いということだ。
航空券にしても、彼の甥は準備万端整えることは得意のようだ。それはやはり母である椿の行動力なのかと思わずにはいられなかった。そんな青年の言葉に心が動いたのは確かだ。全く予想もしなかった言葉は、こうして私をこの場所に運んで来たのだから。
この意味はいったいなんだろうか。
やはり彼のことが気になるのだろうか。あの青年が残していったネックレスを携え、こうしてこの街に来た意味を考えた。まだ彼に未練があるのだろうか、と。
だが別れたあの日のことは、忘れていく一方だったはずだ。零れ落ちていく記憶を拾うことなくそのままにしていたはずだった。それなのに今、零れ落ちた記憶の欠片を拾い集め、この街へと戻ってきた。
二年ぶりの東京の街はこんなにも人が多かったのかと思う。
たった二年しか経っていなくても、この街の変わりようは信じられないほど早い。だが思えばここは世界一洗練度合の高い街東京だ。そんな街の移り変わりが、瀬戸内の小さな地方都市と比べること自体間違っていることに今更ながら気付かされた。
地下鉄の構内は、雨の匂いを纏った大勢の人間が足早に歩いているが、都会は田舎と違う。人の歩くスピードが速く感じられ、改めてこの街の時間の早さに置いていかれそうになっていた。
そんな場所にうごめく多くの人たちに、不治の病にかかった人がいるのだろうか。
あと数ヶ月の命だと知りながら、目の前を通り過ぎて行く人もいるのだろうか。
そして家族の中に、友人に、恋人にそういった人間がいてもおかしくないはずだ。
その人達は過ぎ行く時間をそのままに過ごしているだけなのだろうか。
今、心の中にあるのは、両親が亡くなった時とは違う想いだ。
家族の間に感じられる愛は実りを求めるものではない。だが愛した人との間にある愛には実りを求めてしまう。花を咲かせ、実をつけることを望むのが愛することの終着点とは言えないが、人は自分の終着点を求め生きているはずだ。
人はただ単に生きるだけではなく、目標があるから前を向いて生きて行ける。
それが家族の成長であったり、人生の何かを成し遂げることであったりするはずだ。
だがある日突然あなたの人生の終着点はこの日です、と言われればどうするだろう。抵抗してもどうなるものではない運命があるとすれば、その運命を受け入れなければならないのだろうか。
私が彼との別れを受け入れてしまったあの日のように。
夢を追いかけていくこともなく、目標があるわけでもなく、ただ生きていく私のように。
それでも、あの空の上で静かに考えたとき、哀しいほど切ない思いが溢れて来るのが感じられた。
そして、あの青年の言葉に、心は彼のことでいっぱいになっている私がいた。

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その席の1A。客室一番前の左窓側の席が用意されていた。前方は壁になっていて、小さな液晶画面がはめ込まれていた。その画面を通し、あと何キロで羽田に着くといった数字が表示され、東京までのカウントダウンを刻んでいた。
広い世界の中でも大都会と呼ばれる東京へと向かう航空機は、高度1万メートルの晴れた空を東へと飛行を続けているが、窓から見える空はどこまでも繋がっていて、あの街へも続いている。
遠い昔、彼を追いかけて行ったあの街。
NYに行ったのは、あの時の一度だけ。
その当時の寂しい気持ちが甦った。
彼が別れを告げ、海外に旅立ったあの頃の想いが。
どうしても彼に会いたくて、会いたいよ、道明寺、と名前を口に出し、追いかけて行った真冬の大都会。10万キロ以上離れた場所、知り合いは誰もいない街へ身体ひとつで飛び立つ勇気があったあの頃。それは若さがあったから出来た無謀さなのだろう。
だが今はこうして東京に行くことさえ躊躇いを覚えている自分がいた。
ありふれた恋ではなかった。
二人で一緒に過ごした思い出が次々と浮かんでは消えて行く。
目まぐるしく色んなことが起きた果てに結ばれた恋だった。
それは彼にとっても自分自身が恋に落ちるとは信じられない思いだったはずだ。
初対面の印象は互いに最悪で、二人が顔を合わせるたび激しい火花が散った。
そこから始まった恋はジェットコースターのような恋と称された。
どこにでもいるような女学生と大財閥の跡取り息子との恋。
普通の女性である私と彼との恋は、周囲が羨ましいと思う恋だったかもしれない。
華々しいドラマだと感じたかもしれない。だが二人の間に流れた穏やかな時間があったのは、ほんの短い間だった。二人にとって平和な時期は長続きしない。
そう思えど、全てを乗り越え一緒にいたいと願った。
だがあの頃の二人には越えられない壁があった。
雨のカーテンが二人を隔ててしまったことがあったが、あの日の夜以上に越えられない大きな何かがあった。それは彼の会社のことであり、彼自身の問題とは別のことだとしても、財閥の家を継ぐ運命にあった人間の決められた道だったのかもしれなかった。
15年ぶりに会うかつての恋人。
どんな顔をして会えばいいのか。相手が病人だというならなおさらだ。
それからあの当時の彼のことを知った。
彼の甥が口にしたあの当時の彼の気持ちを。
そして最後の夜を思い出していた。二人とも何も言わず抱き合った夜を。
他に好きな男がいてもいいから、といって抱いた夜のことを。
あの夜、二人は何も話そうとはしなかった。言葉の代わりに与えられたのは、彼の想いだったのかもしれない。
まるで私の身体の全てをその目に焼き付けようとしているように、ただじっと見つめる時間があった。それはまだ少年と少女だった頃、結ばれることがなかった南の島のコテージで、ただ抱きしめ合って眠りについた夜のように感じられた。あのとき、その行為自体が怖くて、それでも彼を受け入れようとしていたあの夜のように、強い力で抱きしめてきた。
そして最後の逢瀬とでも言うように、ただ静かに、だが激しく愛を交した二人がいた。
こうして彼との出会いまで遡ってみたが、どの思い出も心に深く刻まれていた。
つくしは窓の外の景色からテーブルの上に置かれた箱に目を落した。
この箱の中には彼から贈られたネックレスが収められている。
だが別れを告げたとき、彼に返した。しかし今、その箱を手に現れた青年の言葉に、こうして彼に会いに行こうとしていた。
だが何のために会いに行くのか。
それは手元のカップに注がれているコーヒーが少なくなっていくように、彼の命が残り少なくなっているからだ。
あの人が好きだったコーヒーの香りは、今でも忘れることはない。そんなコーヒーをひと口飲むたび、彼の命が少なくなる。そう感じられた。そしてあの青年の目は、今会わなければ、もう二度と会うことが出来ないということを伝えていたからだ。
東京の景色は雨が降っていた。
この街を濡らし続ける雨は西から東へと移動したのだろう。向うを飛び立った時は晴れていたが、まるで先回りしたように雨は私を待っていた。
雨は私と彼の間の邪魔をする。人生の大きな決断をするとき、必ず雨が降るのは運命なのだろうか。二度目の別れを決めたのもこんな日だったから。
空港からはモノレールに乗り浜松町まで行き、そこから新橋まで行った。
西園寺恭介には連絡をしなかった。連絡をすれば迎えの車を差し向けると言うはずだ。
その車に乗れば、彼の入院している病院まですぐだ。そしてそれは何かを考える暇など無いということだ。
航空券にしても、彼の甥は準備万端整えることは得意のようだ。それはやはり母である椿の行動力なのかと思わずにはいられなかった。そんな青年の言葉に心が動いたのは確かだ。全く予想もしなかった言葉は、こうして私をこの場所に運んで来たのだから。
この意味はいったいなんだろうか。
やはり彼のことが気になるのだろうか。あの青年が残していったネックレスを携え、こうしてこの街に来た意味を考えた。まだ彼に未練があるのだろうか、と。
だが別れたあの日のことは、忘れていく一方だったはずだ。零れ落ちていく記憶を拾うことなくそのままにしていたはずだった。それなのに今、零れ落ちた記憶の欠片を拾い集め、この街へと戻ってきた。
二年ぶりの東京の街はこんなにも人が多かったのかと思う。
たった二年しか経っていなくても、この街の変わりようは信じられないほど早い。だが思えばここは世界一洗練度合の高い街東京だ。そんな街の移り変わりが、瀬戸内の小さな地方都市と比べること自体間違っていることに今更ながら気付かされた。
地下鉄の構内は、雨の匂いを纏った大勢の人間が足早に歩いているが、都会は田舎と違う。人の歩くスピードが速く感じられ、改めてこの街の時間の早さに置いていかれそうになっていた。
そんな場所にうごめく多くの人たちに、不治の病にかかった人がいるのだろうか。
あと数ヶ月の命だと知りながら、目の前を通り過ぎて行く人もいるのだろうか。
そして家族の中に、友人に、恋人にそういった人間がいてもおかしくないはずだ。
その人達は過ぎ行く時間をそのままに過ごしているだけなのだろうか。
今、心の中にあるのは、両親が亡くなった時とは違う想いだ。
家族の間に感じられる愛は実りを求めるものではない。だが愛した人との間にある愛には実りを求めてしまう。花を咲かせ、実をつけることを望むのが愛することの終着点とは言えないが、人は自分の終着点を求め生きているはずだ。
人はただ単に生きるだけではなく、目標があるから前を向いて生きて行ける。
それが家族の成長であったり、人生の何かを成し遂げることであったりするはずだ。
だがある日突然あなたの人生の終着点はこの日です、と言われればどうするだろう。抵抗してもどうなるものではない運命があるとすれば、その運命を受け入れなければならないのだろうか。
私が彼との別れを受け入れてしまったあの日のように。
夢を追いかけていくこともなく、目標があるわけでもなく、ただ生きていく私のように。
それでも、あの空の上で静かに考えたとき、哀しいほど切ない思いが溢れて来るのが感じられた。
そして、あの青年の言葉に、心は彼のことでいっぱいになっている私がいた。

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「東京に・・東京に戻って来てくれませんか?」
執拗に東京に戻ることを訴える青年。
穏やかな語り口だが、目にこもる力強さは母親である椿のものだと感じた。
そして、それは彼の目と同じだと。
だが何故そんなに東京に来てくれというのか。理由が知りたかった。
それはもちろん彼の叔父についてだということは分かる。しかしはっきりとした理由が告げられることなく、来いと言われても返答に困る。ましてや戻ることなど考えてもいなかった。
今の仕事が気に入っていることもあるが、ベランダで鉢植えを育てるより庭のある一軒家を借り、花を育てることが楽しく感じられ、海の見えるこの街が好きになっていた。そして都会にはないのんびりとした雰囲気が気に入った。
だからこの街をふる里にしてもいいとさえ思い始めていた。
「仕事のことなら理解しています。牧野さんが責任感の強い人だということも母から聞いて知っています。・・それから頑固なところもあると・・。僭越ですが僕の方で仕事については代わりになる人間を手配させて頂きました。こんな強引なやり方をすると、牧野さんが嫌がるのは分かっています。でもこうでもしなければ仕事を放って東京に来るなんてことは出来ませんよね?」
椿の息子であり彼の甥である青年は、彼ら二人の強引さを受け継いでいた。
やはりあの家の人間は、そういった資質を備えて生まれてくるのだろうか。
人の上に立ち、そして強引ながらも引っ張っていく力が備わっている。
そしてそのことに有無を言わせることなく、物事を運ぶ力があるのもあの家の人間なら出来るはずだ。
「牧野さん。聞いて下さい」
青年は穏やかな表情でつくしを見つめていた。
だが次に口をついた言葉は穏やかさとは縁がないものだった。
「叔父は病気なんです。だから帰国したんです。だからあなたに戻ってきて欲しいんです。叔父に会って欲しいんです」
青年の言葉が途切れ、沈黙が流れ始め、つくしが口を開こうとしたその瞬間、彼は言った。
「叔父は・・・癌です」
青年は自分の言葉に目の前の女の動揺の気配を見たのだろう。
いきなり驚かせてしまって申し訳ないとあやまった。そしてそれから話を継いだ。
「結論から言います。叔父はあまり長くは生きられません。勿論このことを世間は知りません」
それから青年はふっつりと口をつぐんだまま暫くつくしの顔を見つめた。
やがて再び口を開くと、言葉を選びながらも話はじめた。
「15年前、叔父はあなたと別れたとき、大腸にポリープがあるのを知っていました。ほんの初期だったそうです・・だからあなたが別れて欲しいと言ったとき、形ばかりの抵抗をしたがあっさりと別れた・・。そうですよね?でもどうしてあの叔父があっさりとあなたと別れたか不思議に思いませんでしたか?」
青年の眼差しが訴えかけるようにつくしを見た。
だがその目はどこか非難するようにも感じられた。
あの叔父が。
その言葉の意味は勿論わかっている。この青年は過去二人の間に何があったのかを母親から聞いたのだろう。
決して諦めることなく執拗につくしを求めた男が、彼女に他に男が出来た。好きな人がいるといった言葉だけで簡単に別れるはずがないと。
それから青年は少し表情を変え、つくしの顏をじっと見つめたまま暫く黙っていた。答えを求められているのは分かっていた。だがつくしは答えられなかった。青年の背後から差し込む光は明るく暖かいはずだが、何故かその場所はひんやりとした空気に包まれてしまったかのように感じられた。
「それはあなたに迷惑をかけたくなかったからです。自分が病気になったことであなたに迷惑をかけたくないとの気持ちからです。・・祖母があなたに別れて欲しいと言ったのは、偶然です。祖母は叔父が病に侵されているとは知らなかったそうです」
青年の声は低く柔らかく、事実を冷静に淡々と伝えていた。
そして、少し間を置きはしたが、躊躇うことなく言葉を継ぐ。
「あの当時叔父は病気を大変気にしていたそうです。あなたに迷惑がかかると。でも自分から別れてくれとは言い出せなかった。・・あなたを深く愛していたから。だからあなたから別れを告げられたとき、その話に乗ったんです。あなたが本当に別れて欲しいと思っているなら、そうするべきだと。そうすれば、自分がこの世からいなくなったとしても、あなたは叔父のことを嫌いで別れたんですから、心に残ることはないと思ったんです」
数秒間の沈黙を挟み、青年はつくしの目をしっかりと見据え言った。
「勿論ご存知ないと思いますが、あなたと別れてから除去手術を受け、その後の経過は良好でした。年に一度の健康診断を自らに義務づけ、あれから異常は見当たりませんでした。ですが、リスクは常にありました。そしてつい最近の検査で肺に影があるのが分かりました。検査の結果、肺癌だと診断されたんです。・・肺に転移が見つかったんです」
つくしはただ黙って聞いていた。
表面上は落ち着いて見えたかもしれない。だがそれは余りにも突然のことで感情の起伏といったものが凍結されてしまったようになっていたからだ。見慣れた玄関が急に狭く感じられ、鼓動の高鳴りが激しくなり、青年にまで聞こえるのではないかと感じられた。
頭の中は、青年の言葉を理解しようとするも、すぐに理解出来ずにいた。だが何度か一つの言葉を反芻すると理解した。
彼の叔父である男は病魔に侵されている、と。
「叔父は知っています。・・告知されましたから。それに自分の死期を知っておくことは重要だと思っています。あの叔父はああ見えて几帳面なところがあるんです。自分がいなくなったあと、何をして欲しいかといったことを僕に伝えました。・・・その中にこのネックレスのことがあったんです。これをあなたに渡して欲しいと・・」
青年から語られる言葉は淡々とだったが、その言葉の中に感じられるのは、叔父を想う気持ち。そしてつくしを真っ直ぐに見つめる瞳は、伝えることで義務を果たそうといった気持ち。
それはまるで彼の母親である女性が弟を案ずる気持ちを代弁しているのではないか。
そう思えるほどだ。
あの頃、彼の姉である女性が言った。
ごめんなさい・・・と。
その言葉の意味は、道明寺の家のためにごめんなさい。といった意味が込められていることは理解できた。
「・・牧野さん・・」
西園寺恭介は名刺を一枚取り出すと、裏に数字を書き込んだ。
「これ、僕の携帯の番号です」
つくしは並んだ数字に目を落した後、顔を上げ青年の顔を見た。
「牧野さん、お願いです。東京に戻って来て下さい。もし、それが無理なら訪ねて来てくれるだけでもいいんです」
礼儀正しくそつがない青年は、その日の最終便の飛行機で東京に戻ると言っていた。
そして名刺と一緒に手渡されたのは東京までの航空券が数枚。
いつ乗っても大丈夫ですからと、まるでプライベートジェットのように1週間分の席が確保されていた。
つくしは航空券を見つめ、次いで受け取った名刺の表を見た。
そこに印刷されていたのは西園寺恭介の名前。
そして、道明寺ホールディングス専務の肩書だった。

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執拗に東京に戻ることを訴える青年。
穏やかな語り口だが、目にこもる力強さは母親である椿のものだと感じた。
そして、それは彼の目と同じだと。
だが何故そんなに東京に来てくれというのか。理由が知りたかった。
それはもちろん彼の叔父についてだということは分かる。しかしはっきりとした理由が告げられることなく、来いと言われても返答に困る。ましてや戻ることなど考えてもいなかった。
今の仕事が気に入っていることもあるが、ベランダで鉢植えを育てるより庭のある一軒家を借り、花を育てることが楽しく感じられ、海の見えるこの街が好きになっていた。そして都会にはないのんびりとした雰囲気が気に入った。
だからこの街をふる里にしてもいいとさえ思い始めていた。
「仕事のことなら理解しています。牧野さんが責任感の強い人だということも母から聞いて知っています。・・それから頑固なところもあると・・。僭越ですが僕の方で仕事については代わりになる人間を手配させて頂きました。こんな強引なやり方をすると、牧野さんが嫌がるのは分かっています。でもこうでもしなければ仕事を放って東京に来るなんてことは出来ませんよね?」
椿の息子であり彼の甥である青年は、彼ら二人の強引さを受け継いでいた。
やはりあの家の人間は、そういった資質を備えて生まれてくるのだろうか。
人の上に立ち、そして強引ながらも引っ張っていく力が備わっている。
そしてそのことに有無を言わせることなく、物事を運ぶ力があるのもあの家の人間なら出来るはずだ。
「牧野さん。聞いて下さい」
青年は穏やかな表情でつくしを見つめていた。
だが次に口をついた言葉は穏やかさとは縁がないものだった。
「叔父は病気なんです。だから帰国したんです。だからあなたに戻ってきて欲しいんです。叔父に会って欲しいんです」
青年の言葉が途切れ、沈黙が流れ始め、つくしが口を開こうとしたその瞬間、彼は言った。
「叔父は・・・癌です」
青年は自分の言葉に目の前の女の動揺の気配を見たのだろう。
いきなり驚かせてしまって申し訳ないとあやまった。そしてそれから話を継いだ。
「結論から言います。叔父はあまり長くは生きられません。勿論このことを世間は知りません」
それから青年はふっつりと口をつぐんだまま暫くつくしの顔を見つめた。
やがて再び口を開くと、言葉を選びながらも話はじめた。
「15年前、叔父はあなたと別れたとき、大腸にポリープがあるのを知っていました。ほんの初期だったそうです・・だからあなたが別れて欲しいと言ったとき、形ばかりの抵抗をしたがあっさりと別れた・・。そうですよね?でもどうしてあの叔父があっさりとあなたと別れたか不思議に思いませんでしたか?」
青年の眼差しが訴えかけるようにつくしを見た。
だがその目はどこか非難するようにも感じられた。
あの叔父が。
その言葉の意味は勿論わかっている。この青年は過去二人の間に何があったのかを母親から聞いたのだろう。
決して諦めることなく執拗につくしを求めた男が、彼女に他に男が出来た。好きな人がいるといった言葉だけで簡単に別れるはずがないと。
それから青年は少し表情を変え、つくしの顏をじっと見つめたまま暫く黙っていた。答えを求められているのは分かっていた。だがつくしは答えられなかった。青年の背後から差し込む光は明るく暖かいはずだが、何故かその場所はひんやりとした空気に包まれてしまったかのように感じられた。
「それはあなたに迷惑をかけたくなかったからです。自分が病気になったことであなたに迷惑をかけたくないとの気持ちからです。・・祖母があなたに別れて欲しいと言ったのは、偶然です。祖母は叔父が病に侵されているとは知らなかったそうです」
青年の声は低く柔らかく、事実を冷静に淡々と伝えていた。
そして、少し間を置きはしたが、躊躇うことなく言葉を継ぐ。
「あの当時叔父は病気を大変気にしていたそうです。あなたに迷惑がかかると。でも自分から別れてくれとは言い出せなかった。・・あなたを深く愛していたから。だからあなたから別れを告げられたとき、その話に乗ったんです。あなたが本当に別れて欲しいと思っているなら、そうするべきだと。そうすれば、自分がこの世からいなくなったとしても、あなたは叔父のことを嫌いで別れたんですから、心に残ることはないと思ったんです」
数秒間の沈黙を挟み、青年はつくしの目をしっかりと見据え言った。
「勿論ご存知ないと思いますが、あなたと別れてから除去手術を受け、その後の経過は良好でした。年に一度の健康診断を自らに義務づけ、あれから異常は見当たりませんでした。ですが、リスクは常にありました。そしてつい最近の検査で肺に影があるのが分かりました。検査の結果、肺癌だと診断されたんです。・・肺に転移が見つかったんです」
つくしはただ黙って聞いていた。
表面上は落ち着いて見えたかもしれない。だがそれは余りにも突然のことで感情の起伏といったものが凍結されてしまったようになっていたからだ。見慣れた玄関が急に狭く感じられ、鼓動の高鳴りが激しくなり、青年にまで聞こえるのではないかと感じられた。
頭の中は、青年の言葉を理解しようとするも、すぐに理解出来ずにいた。だが何度か一つの言葉を反芻すると理解した。
彼の叔父である男は病魔に侵されている、と。
「叔父は知っています。・・告知されましたから。それに自分の死期を知っておくことは重要だと思っています。あの叔父はああ見えて几帳面なところがあるんです。自分がいなくなったあと、何をして欲しいかといったことを僕に伝えました。・・・その中にこのネックレスのことがあったんです。これをあなたに渡して欲しいと・・」
青年から語られる言葉は淡々とだったが、その言葉の中に感じられるのは、叔父を想う気持ち。そしてつくしを真っ直ぐに見つめる瞳は、伝えることで義務を果たそうといった気持ち。
それはまるで彼の母親である女性が弟を案ずる気持ちを代弁しているのではないか。
そう思えるほどだ。
あの頃、彼の姉である女性が言った。
ごめんなさい・・・と。
その言葉の意味は、道明寺の家のためにごめんなさい。といった意味が込められていることは理解できた。
「・・牧野さん・・」
西園寺恭介は名刺を一枚取り出すと、裏に数字を書き込んだ。
「これ、僕の携帯の番号です」
つくしは並んだ数字に目を落した後、顔を上げ青年の顔を見た。
「牧野さん、お願いです。東京に戻って来て下さい。もし、それが無理なら訪ねて来てくれるだけでもいいんです」
礼儀正しくそつがない青年は、その日の最終便の飛行機で東京に戻ると言っていた。
そして名刺と一緒に手渡されたのは東京までの航空券が数枚。
いつ乗っても大丈夫ですからと、まるでプライベートジェットのように1週間分の席が確保されていた。
つくしは航空券を見つめ、次いで受け取った名刺の表を見た。
そこに印刷されていたのは西園寺恭介の名前。
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午後の陽射しの中、長い坂道を上った。
あと少しで家に着く。
その道中考えていた。
2日前訪ねて来た西園寺恭介と名乗った青年の話を。
「東京に戻って来てくれませんか?」
晴れた午後に訪れた青年の言葉に心がざわめいた。
「この箱を持って現れた僕のことを誰だと思っていますよね?自己紹介が中途半端にならないうちにお話しておきます。僕の母は西園寺椿と言います。こう言えばもうお分かりですよね?・・道明寺司は僕の叔父にあたります。つまり僕は彼の甥です。僕がここに来たのは、あなたに叔父と会って欲しいからです」
答える言葉が見つからず、つくしはただ黙って話しを聞いていた。
玄関先でのこの話しは、いったいどこへと向かうのか。突然現れたあの人の甥と名乗る青年は、途切れることなく話を継いだ。
「突然現れた僕のこと疑ってますよね?僕が本当に椿の息子であるかどうか。・・でもあなたは簡単に人を信じると聞いてますからもう信じていますよね?・・それに僕は叔父に似てると言われることが多いんですよ?・・あなたもそう感じているのではないですか?」
青年の言葉は、少し前まで感じていた思いを確かなものに変化させていた。
道明寺椿の息子であり、あの人の甥。確かに似ている。そして過剰な自意識とまでは言わないが、青年は自分が叔父に似ていることを自負していると感じられた。それにしても、息子ではなく甥だというのに、こんなにも似てくるものだろうか。少し微笑んだように見える顔は、やはりあの人に似ている。屈託のない笑顔で笑っていたあの人に。
ふとしたはずみで男女の身体が入れ替わる。
そんな映画がこの街を舞台に作られたことがあったが、青年の姿は時空を超え、若い頃のあの人が目の前に現れたように感じられた。見れば見るほどあの人に見えてくる。目の前の青年があの人であるような錯覚を覚えてしまう。そしてあの人の匂いまで感じられるようだ。
もう何年前になるだろうか。
当時高校生だったつくしは、道明寺司と恋におちた。
まるで奇跡のようだと言われた二人の恋。
きっかけは、友人が彼に理不尽な言いがかりをつけられたことだ。
その瞬間スイッチが入った。何のスイッチかといえばそれは正義感。相手が誰であろうと関係なかった。それが学園を牛耳る男だったとしても。
道明寺財閥の一人息子と世間一般によくある家庭に育った少女の恋。
立場が違い過ぎるのは、はじめから分かっていた。だが、気持ちを抑えることは出来なかった。二人の前には、多くの困難が待ち受けていることは、分かっていた。よくある話しだが、立場が違い過ぎることが二人の仲を裂く。そんなこともあったが二人はそれを乗り越えた。
「もちろん牧野さんが会いたくないと仰るなら無理にとは言いません。ですが出来れば会って欲しいんです」
二人は確かに乗り越えた。立場の違いを。
そんな二人が求めたのは小さな幸福だった。だが相手が財閥の跡取り息子となると、そう簡単にはいかなかった。
人生が大きく動いたのは、26歳の時だ。
あの子と別れて欲しいの。そう言って来たのは彼の母親だ。その態度はどこか申し訳なさそうに、あなたからあの子にそう言って欲しいの。と言葉を継いだ。
財閥の経営が思わしくない。そう告げられ財閥のため、そこで働く従業員のため、選択しなければならない時が来たと言われた。
その先の話は聞きたくはなかったが、彼の母親は言った。
「息子が結婚することで、財閥の将来が救えるの。だから別れて欲しいの」
彼に別ればなしをするのは二度目だ。
一度目は高校生の頃。まだ二人が幼く、自分たちのことだけを考えていればよかったと思える世間に対する甘さがあった頃。だがそれでも、自分たちの周りの人間に迷惑をかけることは避けたいと、それなりの努力はしたつもりだった。
だから、あの頃の別れは仕方のない選択だったはずだ。
そして二度目の別れは、一度目よりもっと辛かった。
彼に嫌ってもらう別れ方をするために、再び演技をしなければならなかったからだ。
メープルの1階にあるコーヒーラウンジで待ち合わせをし、別れて欲しいと告げた。
普段から忙しい彼は、日本にいることが少なかった。その間に好きな人が出来た。
他に好きな人が出来た。あなたと付き合いながらその人とも付き合っていたと告げた。
だが、そんな言葉で簡単に納得する人ではなかった。それは既に一度経験した嘘と同じだと感じたのだろう。あの雨の日の別れ『あんたを好きならこんな風に出て行かない』と言った言葉が嘘だと知ったのと同じように。
あの時、さよならと呟いて席を立ちラウンジを出た。そしてすぐさまトイレに駆け込み、蓋を閉めた便器に腰をおろし泣いた。何故、男をふった女が泣かなければならないのか。そう思ったが、涙が後から後から溢れ止まらず、30分近くそのまま泣き続けていた。
「牧野さんと叔父が付き合っていたことは母から聞いています。・・今更だと思われるかもしれませんが分かっています。二人が別れた事情については母から聞かされましたから。それもこれも財閥のごたごたが原因だったということも。そしてそんな中、牧野さんが選んだ道も」
選択しなくてはいけなかったのは、彼の方だったのかもしれない。
だが彼の人生で選択出来るものは少なかった。そんな中にいたつくしは、その選択肢の中から姿を消すことを選び、暫く海外で暮らした。
そして、彼もどこか思うことがあったのだろう。社会に出れば、人生が自分ひとりのものではないと、理解できるようになっていた。ただ若さだけで突っ走る勢いといったものは、年月と共に失われていってしまったのかもしれなかった。
お互いに大人の選択をしたあの日。それからは、わき目もふらず生きてきた。
そしていずれ別れたあの日のことは、忘れて行くだけのはずだった。
「それから今の叔父は一人ですから。・・ご存知だと思いますが2年前に離婚しました。それからです。帰国したのは」
つくしが東京を離れると決めたのは2年前。
道明寺司がNYから帰国すると聞いたからだ。
同じ街にいれば、聞こえて来ることもある。耳にしたくないこともある。
だから遠く離れたこの街での仕事を希望した。ここなら東京の噂が耳に入ることはない。
地方紙の新聞はこの街の日常を伝えるが、遠い街で暮らす男の動向を伝えることはない。
だがふと、思い出すこともあった。
聞えて来る音が、時にあの人の事を伝えて来た。テレビのニュースで流れる経済ニュースは、嫌でもあの人のことを思い出させる。その名前を聞くたび胸を過る思いがあった。だが、胸の扉を開くことはしなかった。
もうあの人とは、別れたのだ。
二度と会うつもりはないと。
そう心に決めていた。

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その道中考えていた。
2日前訪ねて来た西園寺恭介と名乗った青年の話を。
「東京に戻って来てくれませんか?」
晴れた午後に訪れた青年の言葉に心がざわめいた。
「この箱を持って現れた僕のことを誰だと思っていますよね?自己紹介が中途半端にならないうちにお話しておきます。僕の母は西園寺椿と言います。こう言えばもうお分かりですよね?・・道明寺司は僕の叔父にあたります。つまり僕は彼の甥です。僕がここに来たのは、あなたに叔父と会って欲しいからです」
答える言葉が見つからず、つくしはただ黙って話しを聞いていた。
玄関先でのこの話しは、いったいどこへと向かうのか。突然現れたあの人の甥と名乗る青年は、途切れることなく話を継いだ。
「突然現れた僕のこと疑ってますよね?僕が本当に椿の息子であるかどうか。・・でもあなたは簡単に人を信じると聞いてますからもう信じていますよね?・・それに僕は叔父に似てると言われることが多いんですよ?・・あなたもそう感じているのではないですか?」
青年の言葉は、少し前まで感じていた思いを確かなものに変化させていた。
道明寺椿の息子であり、あの人の甥。確かに似ている。そして過剰な自意識とまでは言わないが、青年は自分が叔父に似ていることを自負していると感じられた。それにしても、息子ではなく甥だというのに、こんなにも似てくるものだろうか。少し微笑んだように見える顔は、やはりあの人に似ている。屈託のない笑顔で笑っていたあの人に。
ふとしたはずみで男女の身体が入れ替わる。
そんな映画がこの街を舞台に作られたことがあったが、青年の姿は時空を超え、若い頃のあの人が目の前に現れたように感じられた。見れば見るほどあの人に見えてくる。目の前の青年があの人であるような錯覚を覚えてしまう。そしてあの人の匂いまで感じられるようだ。
もう何年前になるだろうか。
当時高校生だったつくしは、道明寺司と恋におちた。
まるで奇跡のようだと言われた二人の恋。
きっかけは、友人が彼に理不尽な言いがかりをつけられたことだ。
その瞬間スイッチが入った。何のスイッチかといえばそれは正義感。相手が誰であろうと関係なかった。それが学園を牛耳る男だったとしても。
道明寺財閥の一人息子と世間一般によくある家庭に育った少女の恋。
立場が違い過ぎるのは、はじめから分かっていた。だが、気持ちを抑えることは出来なかった。二人の前には、多くの困難が待ち受けていることは、分かっていた。よくある話しだが、立場が違い過ぎることが二人の仲を裂く。そんなこともあったが二人はそれを乗り越えた。
「もちろん牧野さんが会いたくないと仰るなら無理にとは言いません。ですが出来れば会って欲しいんです」
二人は確かに乗り越えた。立場の違いを。
そんな二人が求めたのは小さな幸福だった。だが相手が財閥の跡取り息子となると、そう簡単にはいかなかった。
人生が大きく動いたのは、26歳の時だ。
あの子と別れて欲しいの。そう言って来たのは彼の母親だ。その態度はどこか申し訳なさそうに、あなたからあの子にそう言って欲しいの。と言葉を継いだ。
財閥の経営が思わしくない。そう告げられ財閥のため、そこで働く従業員のため、選択しなければならない時が来たと言われた。
その先の話は聞きたくはなかったが、彼の母親は言った。
「息子が結婚することで、財閥の将来が救えるの。だから別れて欲しいの」
彼に別ればなしをするのは二度目だ。
一度目は高校生の頃。まだ二人が幼く、自分たちのことだけを考えていればよかったと思える世間に対する甘さがあった頃。だがそれでも、自分たちの周りの人間に迷惑をかけることは避けたいと、それなりの努力はしたつもりだった。
だから、あの頃の別れは仕方のない選択だったはずだ。
そして二度目の別れは、一度目よりもっと辛かった。
彼に嫌ってもらう別れ方をするために、再び演技をしなければならなかったからだ。
メープルの1階にあるコーヒーラウンジで待ち合わせをし、別れて欲しいと告げた。
普段から忙しい彼は、日本にいることが少なかった。その間に好きな人が出来た。
他に好きな人が出来た。あなたと付き合いながらその人とも付き合っていたと告げた。
だが、そんな言葉で簡単に納得する人ではなかった。それは既に一度経験した嘘と同じだと感じたのだろう。あの雨の日の別れ『あんたを好きならこんな風に出て行かない』と言った言葉が嘘だと知ったのと同じように。
あの時、さよならと呟いて席を立ちラウンジを出た。そしてすぐさまトイレに駆け込み、蓋を閉めた便器に腰をおろし泣いた。何故、男をふった女が泣かなければならないのか。そう思ったが、涙が後から後から溢れ止まらず、30分近くそのまま泣き続けていた。
「牧野さんと叔父が付き合っていたことは母から聞いています。・・今更だと思われるかもしれませんが分かっています。二人が別れた事情については母から聞かされましたから。それもこれも財閥のごたごたが原因だったということも。そしてそんな中、牧野さんが選んだ道も」
選択しなくてはいけなかったのは、彼の方だったのかもしれない。
だが彼の人生で選択出来るものは少なかった。そんな中にいたつくしは、その選択肢の中から姿を消すことを選び、暫く海外で暮らした。
そして、彼もどこか思うことがあったのだろう。社会に出れば、人生が自分ひとりのものではないと、理解できるようになっていた。ただ若さだけで突っ走る勢いといったものは、年月と共に失われていってしまったのかもしれなかった。
お互いに大人の選択をしたあの日。それからは、わき目もふらず生きてきた。
そしていずれ別れたあの日のことは、忘れて行くだけのはずだった。
「それから今の叔父は一人ですから。・・ご存知だと思いますが2年前に離婚しました。それからです。帰国したのは」
つくしが東京を離れると決めたのは2年前。
道明寺司がNYから帰国すると聞いたからだ。
同じ街にいれば、聞こえて来ることもある。耳にしたくないこともある。
だから遠く離れたこの街での仕事を希望した。ここなら東京の噂が耳に入ることはない。
地方紙の新聞はこの街の日常を伝えるが、遠い街で暮らす男の動向を伝えることはない。
だがふと、思い出すこともあった。
聞えて来る音が、時にあの人の事を伝えて来た。テレビのニュースで流れる経済ニュースは、嫌でもあの人のことを思い出させる。その名前を聞くたび胸を過る思いがあった。だが、胸の扉を開くことはしなかった。
もうあの人とは、別れたのだ。
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海が見えるこの街に暮らすようになって2年が経つ。
一年中晴れた日が多く、雨も少なく風も穏やかで寒さは厳しくない。
全国的に坂の街と言われる場所は多いが、この場所もそうだ。
多くの映画やドラマや文学の舞台になったことがある坂の多い街。古い神社や寺も多いが、全国的に有名になったのは映画の影響が大いきかもしれない。そんな影響からか観光客は、年間670万人も訪れると言うが、宿泊していくことはない。ここは小さな街で、一日いれば十分観光できるからだ。瀬戸内海に面した街、尾道とはそういった街だ。
この街は街全体が坂というわけではない。だがお気に入りは坂の上から見る景色だ。
坂を登り切り、てっぺんから見下ろせば、きらきらと光る海が見える。ただ、海といってもそこは対岸に見える島とこちら側に挟まれ狭くなっている部分で、海峡ではなく水道といわれ、船などの通り道で川のように見える海だ。そしてそんな海を横切るように対岸の島まで船が出ているが、たった5分ほどの船旅は、日本で一番短い船旅とも言われていた。
そんな海を大きさが異なる様々な船が行き交う様子を見ることが出来る坂の上。
日暮れになると残照を浴びた船は、白い船体を輝かせることがあるが、水面がきらきらと輝く夕映えはなんとも言えず郷愁を誘う。都会に暮らしていた人間には見る事ができない景色が広がるここは、穏やかな時間がゆっくりと流れて行く場所だ。
だが瀬戸内という場所は全く縁のない土地だ。
親戚もいなければ、知り合いも全くいない縁もゆかりもない場所。
そんな場所に暮らすようになった理由は仕事のためだ。
つくしの仕事はこの街にある企業保養所の管理人だ。
以前東京の親会社の総務で働いていたが、長年その施設で働いていた人が辞めたことをきっかけに今の仕事についた。
住まいはこの街に住む事に決めたとき、不動産屋に条件を伝え探してもらった。
今まで一軒家に住んだことがなかったから、この街に暮らすことになったとき、条件さえ合えば一軒家に暮らしてみたいと思っていた。そして紹介されたのは、坂の街らしく少し急な坂道の途中にある古い日本家屋を改装した家。昭和の時代に建てられた家の間口は狭いが、奥行きはそこそこあり狭いが庭もついていた。
坂の途中にある家というのは、日当たりがよく、そして風の通りがいい。
窓を開け放てば、川のような海から潮を含んだ風が部屋の中を通り過ぎていくのが感じられる。
心地よい風が。
そしてこの街には、東京という大都会にはなかった穏やかな時間があった。人もそんな時間に合わせたような、のんびりとした人が多いと感じられた。
それはもちろん、都会とは時間の流れが違うからだとわかっている。電車に乗るにも都会のようにひっきりなしに来るわけでもなく、朝夕の通勤時間帯を除けば、本数は少なかった。
別に遠くの街まで出かけようという気があるわけではないが、管理人という仕事柄、車が必要となることがあった。けれどペーパードライバーの私は、都内で運転をしたことがなかった。だがこの街に来てから必然的に車の運転をすることになった。
車は坂を下った場所に会社が借りてくれた駐車場があり、そこへ駐車している。
そして、その場所から坂の途中にある家まで荷物を運ぶことになるのだが、健康で足腰が丈夫な人間なら問題ないが、年を取れば上ることが辛いと感じられるようになるだろう。
事実、坂の途中にあるこの家も、以前の持ち主は老婦人だったという。そんなこともあり、年齢的にもう坂道の上り下りは辛いといって去ったそうだ。
だがこの街はこの坂があるからこそ情緒がある。そしてどこか懐かしさを感じさせる街だ。
もしふる里があるとしたら、こんな街なら毎年のように帰省したくなるはずだ。
はじめての地方暮らしは、思いの外、楽しかった。
東京にいた頃と違い何かに追われているといった切迫感がない。時の流れはどこの街にいても同じはずだが、この街の海と風が東京とはどこか違う時の流れを感じさせる。
そんな街に住んで良かった。仕事とはいえ今ではそう思っている。
現地の人間を雇ってもいいが、そこで働きたいと手を挙げたのはつくしだ。
あんな田舎に行くなんて本当にいいの?いい場所だけど東京で生まれ育った人間には田舎過ぎるんじゃない。そんなことを言われたが気にならなかった。
なぜなら東京を離れたいと思っていたから。だからこれがいいきっかけになると思った。
それに家族はもう東京にはいない。
両親は既に亡くなり、弟は海外にいる。
友人はいるが、多くない。
幼馴染みの女性は結婚し、遠い場所で暮らしていた。
彼女とは幼いころから仲がよく、それは成長しても変わらなかった。中学までは同じ学交に通ったが、高校に上がるとき、初めて別の道を歩むことになった。
彼女は今どうしているのか。結婚してすぐ子供を授かった友人。
ラジオから流れる懐かしい曲に耳を傾け、部屋の掃除をしていたとき手に取った年賀状が、過去を呼び覚ましていた。
振り返ってみれば、その子供もそろそろ高校を卒業するはずだ。
それとも、もう卒業してしまっただろうか?
毎年やり取りする年賀状も、年と共に印刷されたものに取って代わっていったが、おざなりにならないようにと、ひと言手書きで添えられる言葉も当たり障りのないものになっていた。
『いつか会いたいね、つくし』
そんな言葉が毎年手書きで書かれてはいるが、もう何年も会った試しがない。
だが、それでも良かった。それが互いの元気でいる証拠だから。
例え何年も会えなくても・・・・。
彼女とは会いたいと電話をし、都合をつければいつでも会えるはずだ。
行動さえ起こせば会える。
彼女とは・・・。
部屋の真ん中で座り込み、どのくらい時間が過ぎたのだろうか。
箪笥の上に置かれた時計は知らぬ間に時を刻んでいた。
そんなつくしの前にひとりの青年が現れたのは、庭に植えられた黄色いモッコウバラのアーチがゆらゆらと揺れる風の強い日だった。
開け放たれた窓の外に人の気配を感じていた。
暫くして玄関のチャイムが鳴る音がした。
立ち上って玄関に向かい鍵を開け、ドアを開けた。
するとそこに居たのは男性だ。背が高く、黒いスーツに身を包み立っている。
若く見えるが、大人の雰囲気は充分ある。
「牧野さんですよね?・・牧野つくしさんですよね?」
開口一番名前を呼ばれ、知り合いだったかと思いを巡らしたが、すぐに思い出すことが出来ずにいた。
「・・・あの・・どちらさまですか?」
考えたがやはり目の前に立つ人物には記憶がない。
整った目鼻立ちに、均整のとれた体型。そしてやけに落ち着いたその姿は、人の上に立つ人間が持つ独特の雰囲気を纏っていた。
「あの・・新聞の勧誘なら、間に合ってます」
「いえ。僕は新聞の勧誘員ではありません。僕は西園寺・・西園寺恭介と言います」
・・西園寺。
この街には古い寺が多いが、その中のひとつだろうか。だが近くにそんな寺はないと記憶している。それとも記憶違いだろうか。だが考えたが心当たりはなかった。
「・・・西園寺さん?ごめんなさい・・あの、保養所をご利用された方ですか?」
そう思ったのは、西園寺と名乗った青年の言葉が東京の人間の喋り方だと気付いたからだ。
そして頭を過ったのは、保養所を利用して何かあったのではないかということだ。
それにしても、わざわざ管理人の自宅を訪ねて来るということは、余程重大な問題でもあったのだろうか?だが自宅の住所をどうやって調べたのか。会社が簡単に教えるはずがない。そう思うと青年の行動が不審に思えた。
「いえ。保養所は利用したことはありません。僕はつい最近までNYで暮らしていて、東京へは2ヶ月前に戻って来たんです。ですからこちらへ来たのは初めてでして、あなたにお会いするのも今日が初めてです」
「・・そうですか・・それで・・いったいどういったご用件でしょう?」
保養所の利用者でなければ、この青年はいったい何者なのか?
そんな思いが通じたのか、青年はひと呼吸置いたあと再び口を開いた。そして、上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「僕は探し物があってこの街に来ました。これ、牧野さんのですよね?」
差し出されたのは小さな箱。
黒いベルベッドに覆われた高級そうな箱は、かつてつくしの手元にあったものとよく似ていた。
「どうして僕がこれを持っているのかと思っていますよね?・・牧野さん。東京に戻って来てくれませんか?」
じっとこちらを見つめる青年の瞳はどこかで見たことがあり、懐かしさを感じさせるものがあった。黒い双眸は切れ長で睫毛長い。今は穏やかさをたたえた目だが、その瞳が鋭く他人を見ることもあるはずだ。
そんな瞳を持つ人間は、相手が躊躇しようが関係なく、ぐいぐいと引っ張っていくタイプの人間だ。そしてその視線は、自信と余裕を感じさせ、拒むことを許さないといった視線。
揺るぎない態度といったものを持ち合わせた青年の視線。
つくしはそんな人間を過去に一人だけ知っていた。

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一年中晴れた日が多く、雨も少なく風も穏やかで寒さは厳しくない。
全国的に坂の街と言われる場所は多いが、この場所もそうだ。
多くの映画やドラマや文学の舞台になったことがある坂の多い街。古い神社や寺も多いが、全国的に有名になったのは映画の影響が大いきかもしれない。そんな影響からか観光客は、年間670万人も訪れると言うが、宿泊していくことはない。ここは小さな街で、一日いれば十分観光できるからだ。瀬戸内海に面した街、尾道とはそういった街だ。
この街は街全体が坂というわけではない。だがお気に入りは坂の上から見る景色だ。
坂を登り切り、てっぺんから見下ろせば、きらきらと光る海が見える。ただ、海といってもそこは対岸に見える島とこちら側に挟まれ狭くなっている部分で、海峡ではなく水道といわれ、船などの通り道で川のように見える海だ。そしてそんな海を横切るように対岸の島まで船が出ているが、たった5分ほどの船旅は、日本で一番短い船旅とも言われていた。
そんな海を大きさが異なる様々な船が行き交う様子を見ることが出来る坂の上。
日暮れになると残照を浴びた船は、白い船体を輝かせることがあるが、水面がきらきらと輝く夕映えはなんとも言えず郷愁を誘う。都会に暮らしていた人間には見る事ができない景色が広がるここは、穏やかな時間がゆっくりと流れて行く場所だ。
だが瀬戸内という場所は全く縁のない土地だ。
親戚もいなければ、知り合いも全くいない縁もゆかりもない場所。
そんな場所に暮らすようになった理由は仕事のためだ。
つくしの仕事はこの街にある企業保養所の管理人だ。
以前東京の親会社の総務で働いていたが、長年その施設で働いていた人が辞めたことをきっかけに今の仕事についた。
住まいはこの街に住む事に決めたとき、不動産屋に条件を伝え探してもらった。
今まで一軒家に住んだことがなかったから、この街に暮らすことになったとき、条件さえ合えば一軒家に暮らしてみたいと思っていた。そして紹介されたのは、坂の街らしく少し急な坂道の途中にある古い日本家屋を改装した家。昭和の時代に建てられた家の間口は狭いが、奥行きはそこそこあり狭いが庭もついていた。
坂の途中にある家というのは、日当たりがよく、そして風の通りがいい。
窓を開け放てば、川のような海から潮を含んだ風が部屋の中を通り過ぎていくのが感じられる。
心地よい風が。
そしてこの街には、東京という大都会にはなかった穏やかな時間があった。人もそんな時間に合わせたような、のんびりとした人が多いと感じられた。
それはもちろん、都会とは時間の流れが違うからだとわかっている。電車に乗るにも都会のようにひっきりなしに来るわけでもなく、朝夕の通勤時間帯を除けば、本数は少なかった。
別に遠くの街まで出かけようという気があるわけではないが、管理人という仕事柄、車が必要となることがあった。けれどペーパードライバーの私は、都内で運転をしたことがなかった。だがこの街に来てから必然的に車の運転をすることになった。
車は坂を下った場所に会社が借りてくれた駐車場があり、そこへ駐車している。
そして、その場所から坂の途中にある家まで荷物を運ぶことになるのだが、健康で足腰が丈夫な人間なら問題ないが、年を取れば上ることが辛いと感じられるようになるだろう。
事実、坂の途中にあるこの家も、以前の持ち主は老婦人だったという。そんなこともあり、年齢的にもう坂道の上り下りは辛いといって去ったそうだ。
だがこの街はこの坂があるからこそ情緒がある。そしてどこか懐かしさを感じさせる街だ。
もしふる里があるとしたら、こんな街なら毎年のように帰省したくなるはずだ。
はじめての地方暮らしは、思いの外、楽しかった。
東京にいた頃と違い何かに追われているといった切迫感がない。時の流れはどこの街にいても同じはずだが、この街の海と風が東京とはどこか違う時の流れを感じさせる。
そんな街に住んで良かった。仕事とはいえ今ではそう思っている。
現地の人間を雇ってもいいが、そこで働きたいと手を挙げたのはつくしだ。
あんな田舎に行くなんて本当にいいの?いい場所だけど東京で生まれ育った人間には田舎過ぎるんじゃない。そんなことを言われたが気にならなかった。
なぜなら東京を離れたいと思っていたから。だからこれがいいきっかけになると思った。
それに家族はもう東京にはいない。
両親は既に亡くなり、弟は海外にいる。
友人はいるが、多くない。
幼馴染みの女性は結婚し、遠い場所で暮らしていた。
彼女とは幼いころから仲がよく、それは成長しても変わらなかった。中学までは同じ学交に通ったが、高校に上がるとき、初めて別の道を歩むことになった。
彼女は今どうしているのか。結婚してすぐ子供を授かった友人。
ラジオから流れる懐かしい曲に耳を傾け、部屋の掃除をしていたとき手に取った年賀状が、過去を呼び覚ましていた。
振り返ってみれば、その子供もそろそろ高校を卒業するはずだ。
それとも、もう卒業してしまっただろうか?
毎年やり取りする年賀状も、年と共に印刷されたものに取って代わっていったが、おざなりにならないようにと、ひと言手書きで添えられる言葉も当たり障りのないものになっていた。
『いつか会いたいね、つくし』
そんな言葉が毎年手書きで書かれてはいるが、もう何年も会った試しがない。
だが、それでも良かった。それが互いの元気でいる証拠だから。
例え何年も会えなくても・・・・。
彼女とは会いたいと電話をし、都合をつければいつでも会えるはずだ。
行動さえ起こせば会える。
彼女とは・・・。
部屋の真ん中で座り込み、どのくらい時間が過ぎたのだろうか。
箪笥の上に置かれた時計は知らぬ間に時を刻んでいた。
そんなつくしの前にひとりの青年が現れたのは、庭に植えられた黄色いモッコウバラのアーチがゆらゆらと揺れる風の強い日だった。
開け放たれた窓の外に人の気配を感じていた。
暫くして玄関のチャイムが鳴る音がした。
立ち上って玄関に向かい鍵を開け、ドアを開けた。
するとそこに居たのは男性だ。背が高く、黒いスーツに身を包み立っている。
若く見えるが、大人の雰囲気は充分ある。
「牧野さんですよね?・・牧野つくしさんですよね?」
開口一番名前を呼ばれ、知り合いだったかと思いを巡らしたが、すぐに思い出すことが出来ずにいた。
「・・・あの・・どちらさまですか?」
考えたがやはり目の前に立つ人物には記憶がない。
整った目鼻立ちに、均整のとれた体型。そしてやけに落ち着いたその姿は、人の上に立つ人間が持つ独特の雰囲気を纏っていた。
「あの・・新聞の勧誘なら、間に合ってます」
「いえ。僕は新聞の勧誘員ではありません。僕は西園寺・・西園寺恭介と言います」
・・西園寺。
この街には古い寺が多いが、その中のひとつだろうか。だが近くにそんな寺はないと記憶している。それとも記憶違いだろうか。だが考えたが心当たりはなかった。
「・・・西園寺さん?ごめんなさい・・あの、保養所をご利用された方ですか?」
そう思ったのは、西園寺と名乗った青年の言葉が東京の人間の喋り方だと気付いたからだ。
そして頭を過ったのは、保養所を利用して何かあったのではないかということだ。
それにしても、わざわざ管理人の自宅を訪ねて来るということは、余程重大な問題でもあったのだろうか?だが自宅の住所をどうやって調べたのか。会社が簡単に教えるはずがない。そう思うと青年の行動が不審に思えた。
「いえ。保養所は利用したことはありません。僕はつい最近までNYで暮らしていて、東京へは2ヶ月前に戻って来たんです。ですからこちらへ来たのは初めてでして、あなたにお会いするのも今日が初めてです」
「・・そうですか・・それで・・いったいどういったご用件でしょう?」
保養所の利用者でなければ、この青年はいったい何者なのか?
そんな思いが通じたのか、青年はひと呼吸置いたあと再び口を開いた。そして、上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「僕は探し物があってこの街に来ました。これ、牧野さんのですよね?」
差し出されたのは小さな箱。
黒いベルベッドに覆われた高級そうな箱は、かつてつくしの手元にあったものとよく似ていた。
「どうして僕がこれを持っているのかと思っていますよね?・・牧野さん。東京に戻って来てくれませんか?」
じっとこちらを見つめる青年の瞳はどこかで見たことがあり、懐かしさを感じさせるものがあった。黒い双眸は切れ長で睫毛長い。今は穏やかさをたたえた目だが、その瞳が鋭く他人を見ることもあるはずだ。
そんな瞳を持つ人間は、相手が躊躇しようが関係なく、ぐいぐいと引っ張っていくタイプの人間だ。そしてその視線は、自信と余裕を感じさせ、拒むことを許さないといった視線。
揺るぎない態度といったものを持ち合わせた青年の視線。
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応援有難うございます。
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皆様こんにちは。
いつも当ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。
そして、また大変ご無沙汰しております。
相変わらずいつもと同じご挨拶となりますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか?
前回のご挨拶が2月末でしたので、3ヶ月以上経過してしまい、大変失礼致しました。
さて、今回は無事「Collector」の連載が終りホッとしております。
何しろこちらのお話しは、内容が内容だけに遅筆となり、お読み頂いている皆様には大変お待たせ致しました。そのような中で、沢山の拍手、コメントをお寄せいただき大変励みになりました。いつも温かい応援に感謝しておりますが、こちらのお話しは楽しいお話しではなかったような気がしますが、いかがでしたでしょうか?
そしてこちらのお話は、当初短編で書いたものでしたが、続きが読みたいといったご意見を頂き、連載として書き始めたのですが、ラブコメと同時進行となると頭の切り替えがなかなか出来ず、月に一度程度の更新となっておりました。しかし、これではいつまでたっても終わらないと思い「エンドロールはあなたと」が終ったのを期に、こちらのお話をメインに致しました。
二人にとっては色々とあり過ぎたお話だったかもしれませんが、最後までお付き合いを頂き、大変有難うございました。
書き始めた以上は、完結させたいと思っておりましたが、随分と長い時間がかかったことをお詫び申し上げます。
さて、今後ですが、前回も書かせて頂きましたが、大人の二人のお話しの新連載を・・と思っていますが、アカシアは月末が忙しくなる人間ですので、恐らく来月からと思われます。
とは言え、それまでの間に短編をと思っていますが、いつも申し上げますが、アカシアの好みの都合上、やはり大人の二人のお話しになります。皆様それぞれ二人に対するイメージといったものがあると思いますので、ご趣味に合わない場合はお控え下さい。
ちなみに、今頭の中にいる坊っちゃんは、かなり大人の坊っちゃん。セクシー坊っちゃん、但し御曹司のようなエロ坊っちゃんではありません。そして若干(?)ダークな坊っちゃんです。どの坊っちゃんが出て来るかは未定ですが、この中のどれかの坊っちゃんの短編となる予定です。
それでは、本日が皆様にとって素敵な1日となりますように。
最後になりましたが、いつもお読みいただき、ありがとうございます。
andante*アンダンテ*
アカシア
追伸:コメント返信は順次させて頂きますので、少々お待ち下さいませ。

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そして、また大変ご無沙汰しております。
相変わらずいつもと同じご挨拶となりますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか?
前回のご挨拶が2月末でしたので、3ヶ月以上経過してしまい、大変失礼致しました。
さて、今回は無事「Collector」の連載が終りホッとしております。
何しろこちらのお話しは、内容が内容だけに遅筆となり、お読み頂いている皆様には大変お待たせ致しました。そのような中で、沢山の拍手、コメントをお寄せいただき大変励みになりました。いつも温かい応援に感謝しておりますが、こちらのお話しは楽しいお話しではなかったような気がしますが、いかがでしたでしょうか?
そしてこちらのお話は、当初短編で書いたものでしたが、続きが読みたいといったご意見を頂き、連載として書き始めたのですが、ラブコメと同時進行となると頭の切り替えがなかなか出来ず、月に一度程度の更新となっておりました。しかし、これではいつまでたっても終わらないと思い「エンドロールはあなたと」が終ったのを期に、こちらのお話をメインに致しました。
二人にとっては色々とあり過ぎたお話だったかもしれませんが、最後までお付き合いを頂き、大変有難うございました。
書き始めた以上は、完結させたいと思っておりましたが、随分と長い時間がかかったことをお詫び申し上げます。
さて、今後ですが、前回も書かせて頂きましたが、大人の二人のお話しの新連載を・・と思っていますが、アカシアは月末が忙しくなる人間ですので、恐らく来月からと思われます。
とは言え、それまでの間に短編をと思っていますが、いつも申し上げますが、アカシアの好みの都合上、やはり大人の二人のお話しになります。皆様それぞれ二人に対するイメージといったものがあると思いますので、ご趣味に合わない場合はお控え下さい。
ちなみに、今頭の中にいる坊っちゃんは、かなり大人の坊っちゃん。セクシー坊っちゃん、但し御曹司のようなエロ坊っちゃんではありません。そして若干(?)ダークな坊っちゃんです。どの坊っちゃんが出て来るかは未定ですが、この中のどれかの坊っちゃんの短編となる予定です。
それでは、本日が皆様にとって素敵な1日となりますように。
最後になりましたが、いつもお読みいただき、ありがとうございます。
andante*アンダンテ*
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人を愛して、愛しすぎて自分の気持ちを抑えることが出来なくなる。
それが道明寺司だったのかもしれない。
世の中に法律というものがあるが、それさえも凌駕する権力と財力を持つ家に生まれた男が17歳で恋をした。そんな男は、かつて女に興味がないと言い切った。
だが恋に堕ちた男は、はじめての恋を実らせようと懸命になった。その姿は、仲間が見ていても滑稽だと感じることがあった。
恋をした相手は長い黒髪と大きな瞳を持ち、貧弱な身体でお世辞にも美人とは言えない少女。ただし、逃げ足だけは素早く、脚が丈夫だと自慢出来るような少女。その少女の眩しいほどの生命の輝きを感じさせる瞳は、彼の心を捉え離さなかった。その瞳がキラキラと反応することが楽しくて、その反応を引き出す彼女の心が欲しかった。
彼女に注目してもらうためには、どんなことでもした男。
やがてその少女との恋が始まれば、彼女の優柔不断さに戸惑いながら、時にきっぱりとした態度を見せるその仕草がなんとも言えず魅力的に思え、怒りたくとも怒れない状況に陥ることもあった。そして、そんな彼女の態度が愛おしと思え、楽しんでいる男がいた。
きっぱりとした態度と強い意思を持つ少女でありながら、顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯く仕草は、今まで彼の周りにいた女性には見られない態度。そして、時に斜め45度下から見上げるその仕草がどこか甘えたように見え、愛おしく、守ってやりたい思いに駆られていた。
彼女のためならどんな事でも出来る。
彼女のためなら全てを捨てる。その覚悟で臨んだ恋。
その言葉に嘘はなく、負けたことがない喧嘩をわざと負けたこともあった。
もっとも自分の中で沸き起こった感情を、彼女に素直に伝えることが出来なかったのだから、恋を恋と認めるまで時間がかかったことは否めなかった。
誰よりも大切で、誰よりも近くにいたいと願った人。
その人の全てを抱きしめたかった。
周りの仲間は応援した恋。
星降る夜に自分の思いを伝え、やがて彼女も彼を愛するようになり、相思相愛となった二人。だがそんな二人に時の流れは冷たかった。それでも、二人の心が揺れることはなかった。
しかし互いが互いを想えば想うほど、彼らを取り巻く風は冷たく激しく吹き、二人の想いを揺れ動かし始めた。
若い二人が恋をすれば、周りは見えなくなることがある。だが、彼らの間にそれは許されなかった。共に過ごした黄昏の街を後にしたとき、優しさだけを心に留めた男に突然降り出した雨は、優しくはなかった。
やがて別れを経験した二人。
心に素直になった結果ではない。
司にとっては置き去りにされた愛。
忘れることが出来ず面影を追いかけたこともあったはずだ。
たとえ心の奥深くに沈めた愛だったとしても、思い出に変えることなど出来るはずもなく、心の中で何度もあの日と、あの日までの日々を辿ったはずだ。
彼女が好きだった物を、場所を思い出すたび、思い浮かぶのは笑顔の彼女だったはずだ。
そして何度も繰り返し思い出すたび、あの日の冷たい雨が心に沁み、身体から温かさを奪い、やがて人としての感情を奪って行った。
最後に司が見た情景は、土砂降りの雨の中、傘を差すこともなく、彼の前に佇む彼女の口から語られる別れの言葉を聞くことだった。
そしてもうあの日を振り返るのを止めた。
何も求めなくなった。何も見えなくなった。見なくなった。
それからの彼は虚無を抱え生きた。それでも時に心の隙間に入り込む何かに苛立ちを感じ、その感情の捌け口を女に求め、ビジネスに向けた。だがどれも彼の心の隙間を埋めることは出来なかった。彼の周りにいた誰一人としてその隙間を埋めることなど出来ず、荒んでいく心は地の底へと堕ちた。
道明寺司の人生は、彼女と別れてからの彼の10年は、いったい何だったのか。
それを語れる人間がいるとすれば__
パーティーはお開きになったが、つくしの傍にいる男は席に着いたままだ。
「どうしたの?どこか痛い?気分が悪いの?」
つくしは司の顔を覗き込むように言った。
「いや。大丈夫だ」
彼は言い、彼女の心配を打ち消そうとした。
二人の間に距離はなく、互いの顔がつきそうなくらいだ。
父親の葬儀で左脇腹を刺された男は、大量の出血を伴う大けがをし、命が失われる寸前まで行ったが一命を取り留めた。
そして、退院後初めて自社主催のパーティーに出席したが、着席形式で身体を労わることが出来た。
「花沢専務、道明寺社長の隣の女性はどなたですか?」
最近類の秘書として傍に付いた男は尋ねた。
類は、遠く離れた席から二人の姿を見つめていた。
「彼女は司....道明寺社長の奥さんだよ」
「そうですか!ご結婚をされたとは存じ上げませんでした」
それもそのはずだ。司の入院中に入籍だけを済ませた二人が、そろって公の場に姿を現したのは、まだ数えるほどしかない。
そんな二人は遠いあの日から結びついている。司が牧野つくしに恋をしたあの日から。
そして、彼女がすることは司の人生を左右して影響を与えている。
このパーティーもつくしが参加しようと言い出したものだ。以前なら絶対にそんなことを言わなかった彼女が、最近は積極的にパーティーに顔を出すようにしていた。ひと前に堂々と出るなど考えられなかった彼女が、そうしているのは全て司のため、道明寺財閥のためだ。
それは、ビジネスのやり方を変えると言った男の今までを払拭する目的があった。
彼は変わったのだと。もう以前のような攻撃的な態度を示すことがないといったことを、アピールする目的もあった。
「お子さんはいらっしゃるんですか?」
「ああ。子供なら今彼女のお腹の中にいる」
「そうですか。大企業の跡取りともなると奥様も責任重大ですね」
「さあ.....どうだろうね」
類は感心なさげに答えたが、彼女ならどんな責任でも引き受けるつもりでいることを知っていた。何しろあの長女気質だ。責任を責任などと考えるはずもなく、どんなことでも受け止めていくはずだ。そしてそれを苦とは思わない。
類も司と同じ大企業の跡取り息子と呼ばれているが、まだ結婚する気はない。
それに結婚したい相手などいなかった。
パーティーの参加者は、ホストである道明寺司への挨拶を済ませると、皆足早に会場を後にしていた。つくしは立った姿勢で挨拶を受けていたが、司は席を立つことがなかった。
「専務、道明寺社長は御加減がよろしくないのでしょうか?」
「いや.....そんなことはないと思うけど?」
類は親友の醸し出す雰囲気も以前とは変わったと感じていた。
だが相変わらず眼光だけは鋭く他人を見るが、それでも以前とは何かが違っていた。
それは、隣に立つ女性の温もりを感じることが出来る男の余裕といったものなのかもしれなかった。遠い昔、その目が蛇のようだと怖れていた彼女も、今ではその目の持つ意味を知った。愛しい人をじっと見つめるその目は、彼女の一挙手一投足を見逃さまいとしていた。
それは、まるで仔犬が親犬を目で追っているかのような視線。
まさか自分が犬に例えられているとは知らないだろうが、司という男は、彼女には忠実な犬のようだと例えられたこともあった。一時は命が危ういと言われていたが、まさにその犬並の回復力があったからこそ、ここまで回復したはずだ。
「さて、俺たちもそろそろ引き上げよう」
類は席を立ち、二人の傍まで行くと立ち止まった。
「司、牧野。俺そろそろ帰るよ」
「類、今日は来てくれてありがとう」
「うん。久しぶりに牧野に会いたいと思ってたんだ。実は俺、来月からパリに行く。暫くあっちかな?それから紹介するよ、司。花沢ニューヨークから来た戸嶋。新しい俺の秘書」
「は、はじめまして道明寺社長、奥様」
戸嶋は、NY時代の道明寺司を知っているだけに緊張した。
知っていると言っても、直接会ったことはなく、新聞や雑誌に載るゴシップ記事程度だ。
だがビジネスについてのやり方は知っていた。それだけに、もし一人で道明寺司と会えと言われれば、尻込みしていたはずだ。
「ああ、よろしくな。偏屈な男の秘書を務めるなんぞおまえも大変だな」
司は砕けた口調で言った。
「はじめまして戸嶋さん。座ったままでごめんなさい」
と、つくしは挨拶を受け司の着席を詫びた。
戸嶋はそのとき初めて道明寺司の傍に杖があることに気がついた。
どこか怪我でもしたのだろうかと思ったが初対面の、しかも道明寺社長に尋ねるわけにもいかなかった。戸嶋はあとで専務に尋ねることにした。そして見舞いを届ける手配をしなければと思案した。
「専務、道明寺社長はお怪我でもされたのですか?」
「ん?....うん」
「そうですか。ではお見舞いを」
「あれからもう半年か」
「半年も.....前ですか?」
「そう。ちょっとした事故かな」
「事故ですか?」
戸嶋は怪訝な顔で聞き返し、思い出しハッとした。
「もしかして.....お父様の葬儀で刺されたあの....」
戸嶋は司が妻に支えられ立ち上がると、杖をつきながら、ゆっくりと会場を出て行く姿を目で追っていた。
「戸嶋、見舞いは要らないから」
「でも....」
「司は、そんなもの嫌がるから」
類は二人が仲睦まじい様子で話をしながら、司が杖を握る反対側の手を、妻の指にしっかりと絡めている様子を見ていた。
そして、少し間を置くと言った。
「司は左脚が不自由なんだ。でも同情なんてしなくていい。あの二人はあれでいいんだから」
そう言われたが戸嶋は同情を禁じえなかった。
道明寺司といえば、世の中全ての女を好き勝手に出来るとまで言われた男だ。周りの者を寄せ付けない空気を持ち、堂々とした態度で歩いていた男が足を引きずるようにして歩く姿が、NY時代を思えば考えられなかった。
だが見たところ二人共楽しそうに笑っているではないか。
そしてお互いにどれほど愛し合っているのかが傍目にも感じられる。
だがやはり気の毒だという言葉が喉まで出かかっていたが、その言葉を呑み込んだ。
類はそんな戸嶋の思いを読み取ったように言った。
「あの二人は魂が結ばれているからいいんだ。司は心の底から欲しかった女性を手に入れたんだから。これ以上あの男には欲しいものなんてないはずだと思うけど」
かつて情熱の行き場を失っていた男の今は、あの頃とは違う。強権を持つ男は、愛する人が傍にいることで立ち直った。そして努力している。妻となった女性と生れ来る子供のために。
「道明寺社長の脚は...」
「そうだね。リハビリを頑張れば違うんじゃないの?」
類の言葉は本心からだ。
司は自分に打ち勝って未来を築く力を持つ男だ。
それは高校生の頃、類が見た彼の一片(いっぺん)。
好きな女のためならプライドを捨て何でもする男だった。
それでも、司の愛は攻撃的過ぎて彼女には受け止めきれない時もあった。
愛するがゆえ彼女を攻撃していたが、それがいつの日からか守ることに転じていた。
愛するがゆえに、愛しすぎたために自分自身が壊れるところまで行った。
彼女を閉じ込め、自分の檻の中へ閉じ込めようとした。
だが彼女が撃たれたとき、自分が撃たれた方がよかったと思ったはずだ。
あの時の司は生と死の狭間を彷徨う彼女の傍で気がおかしくなりそうだった。
どうか死なないでくれと祈る男は、牧野の命が助かるならどんな取引にでも応じただろう。
たとえそれが悪魔との取引でも。
それに対し、彼女もそうだ。司が刺され、命が尽きる寸前まで行ったとき、わが身を捨ててもいいとまで言い放っていた。
牧野つくし。いや、道明寺つくしは不思議な女性だ。
自分の愛する男だけに愛情を注げばいいものを、その男の周りにいる人間まで変えてしまう力を持っている。それは、自分の周りにいる全ての人間に愛情を与えようとするからだ。その愛情が行き渡るはずがないと思ったとしても、何故か行き渡っているから不思議だ。
そして、その愛情を受けた人間は、彼女の虜になるのだから不思議だ。
類は、それが自分自身であることも知っていた。だが、その魅力に一番初めに気付いたのは、彼女の夫となった司だ。司は彼女と出会って変わった。
だがそれは、類にも言えることだった。
人は一人で生きていくことは出来ないと、二人を見れば理解できた。
いつか、自分にもそんな人が現れる。そう思えることが出来るようになったのも、彼女を知ったからだ。そして人生には良い時も悪い時もあるということも。
但し、あの二人は極端すぎるところがある。類は二人ほど激しい恋は自分には出来ない。そう思った。だがあの二人は命がけの恋をした。だからなのか、ああして二人一緒にいる姿に強い絆を感じることが出来る。
二人には勇気があったのかもしれない。
とてつもなく大きなものを乗り越えるだけの勇気が。
そして、あの二人は遠い昔から結びついていた。
まだ二人が巡り逢う前の遠い昔から。
「戸嶋。これからあの夫婦のいざこざに巻き込まれることを覚悟して」
「専務?それはいったいどういう意味ですか?」
「ん?あの夫婦。比翼の鳥じゃないけど、片方がいなくなったら飛べなくなるから煩いんだよ。特に男の方が」
雌雄それぞれが、目と翼を一つずつ持ち、二羽が常に一緒に飛ぶ鳥。互いが互いの目となり翼となり大空を羽ばたくとされている空想上の鳥。だからこそ、互いの翼が触れ合う場所でなければ休むことは出来ない鳥。
あの二人は共に身体に大きな傷を持つ。
そして心にも。
それは互いの父親のこと。
だがそれは過去になった。
司は彼女が誰よりも近くにいなければ心を休めることが出来ない。だからこれから彼女が自分の目の届くところにいなければ、大袈裟に騒ぐに決まってる。
そう思う類の薄茶色の瞳が映す未来は、外れたことがない。
そして類も、これから彼ら夫婦の小さないざこざに巻き込まれることを承知していた。
何しろ、あの夫婦の一番の親友は自分だと自負していたから。
季節は急に変わることなく、ゆっくりと流れて行く。
毎日が少しずつ確実に時を刻んで行くのがわかる。風の匂いが変わり、光りの強さが変わり、焼け付く夏の景色を窓から眺めることを止め、秋の気配を感じさせる季節が過ぎ、本格的に訪れる冬を前にした今、新たな命の誕生を待つばかりとなっていた。
「もし」
と間を置いた男は妻となった女に囁いていた。
「生まれ変わったとしたら、その時はまたおまえを見つけてやるよ。今度は優しさと強さとを持ち合わせた男で生まれてぇ。それからおまえを愛する気持ちだけは忘れねぇ」
闇の中、ベッドの上で囁かれるそれは、死の縁に立たされた男の今際の際の言葉。
この世の終わりかと思われたとき、「もし」の始まりで彼の口から紡ぎ出された言葉は、二人にとってこれから先も、忘れることが出来ない言葉だ。そして、その言葉を何度でも繰り返す男は、残りの人生を幸せに暮らせば、今までのことは全てが帳消しとなるはずだと信じていた。
何故なら、人生は最期に帳尻が合うようになっているからだ。
刺されたことは、己の傲慢さの上にある不遜さが招いたこと。それを今では理解していた。
「狂ったようにおまえを愛した頃が懐かしい」
それは山荘に閉じ込めていた頃の話。
今ではあの頃とった自分の態度を逡巡することなく口にするが、それに対し〝忘れようとしても忘れられない経験″と返される言葉に悪意はない。
もうすぐ二人の間に子供が生まれる。
その子がどんな人生を送るのか。親として愛情を持って育てて行くつもりでいる。
そして人として何が一番大切なのかということを、教えていくつもりでいた。
運命の恋は一度二人の元から去った。
だが再び二人の元へ戻って来た。
二人は正式に結婚はしているが、式は挙げていなかった。
それは、この先いつでも出来ることだ。
二人の間に子供が産まれ、大きくなった頃でもいい。
だが二人共そのことに拘りはない。
司が欲しかったものは、今この手の中にある妻の手。
そして妻が胎内で慈しみ、育んでくれる命。
それは、思いもしなかった神からの贈り物。
新しい命が、家族としての絆をより一層深めてくれるはずだ。
心だけが追いかけて行ったあの頃とは違う。
欲しかったものは、もうこの手の中にある。
そして、手を伸ばせば、すぐそこに求めた人がいた。
夫となった男は、お腹の大きな妻の身体を、後ろからそっと抱きしめた。
司の掌に感じるのは、二人の未来に向けた新しい命の鼓動。
それは、過去の哀しみを消し去り、明るい未来へと連れて行ってくれる命。
その命の誕生を心待ちにしながら眠りにつく。
身体も心も全てをその腕に抱きしめ、もう決して離さないと囁きながら。
< 完 > *Collector*

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最後までお読みいただき、有難うございました。
今後の予定につきましては、明朝定時にお知らせ致します。
それが道明寺司だったのかもしれない。
世の中に法律というものがあるが、それさえも凌駕する権力と財力を持つ家に生まれた男が17歳で恋をした。そんな男は、かつて女に興味がないと言い切った。
だが恋に堕ちた男は、はじめての恋を実らせようと懸命になった。その姿は、仲間が見ていても滑稽だと感じることがあった。
恋をした相手は長い黒髪と大きな瞳を持ち、貧弱な身体でお世辞にも美人とは言えない少女。ただし、逃げ足だけは素早く、脚が丈夫だと自慢出来るような少女。その少女の眩しいほどの生命の輝きを感じさせる瞳は、彼の心を捉え離さなかった。その瞳がキラキラと反応することが楽しくて、その反応を引き出す彼女の心が欲しかった。
彼女に注目してもらうためには、どんなことでもした男。
やがてその少女との恋が始まれば、彼女の優柔不断さに戸惑いながら、時にきっぱりとした態度を見せるその仕草がなんとも言えず魅力的に思え、怒りたくとも怒れない状況に陥ることもあった。そして、そんな彼女の態度が愛おしと思え、楽しんでいる男がいた。
きっぱりとした態度と強い意思を持つ少女でありながら、顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯く仕草は、今まで彼の周りにいた女性には見られない態度。そして、時に斜め45度下から見上げるその仕草がどこか甘えたように見え、愛おしく、守ってやりたい思いに駆られていた。
彼女のためならどんな事でも出来る。
彼女のためなら全てを捨てる。その覚悟で臨んだ恋。
その言葉に嘘はなく、負けたことがない喧嘩をわざと負けたこともあった。
もっとも自分の中で沸き起こった感情を、彼女に素直に伝えることが出来なかったのだから、恋を恋と認めるまで時間がかかったことは否めなかった。
誰よりも大切で、誰よりも近くにいたいと願った人。
その人の全てを抱きしめたかった。
周りの仲間は応援した恋。
星降る夜に自分の思いを伝え、やがて彼女も彼を愛するようになり、相思相愛となった二人。だがそんな二人に時の流れは冷たかった。それでも、二人の心が揺れることはなかった。
しかし互いが互いを想えば想うほど、彼らを取り巻く風は冷たく激しく吹き、二人の想いを揺れ動かし始めた。
若い二人が恋をすれば、周りは見えなくなることがある。だが、彼らの間にそれは許されなかった。共に過ごした黄昏の街を後にしたとき、優しさだけを心に留めた男に突然降り出した雨は、優しくはなかった。
やがて別れを経験した二人。
心に素直になった結果ではない。
司にとっては置き去りにされた愛。
忘れることが出来ず面影を追いかけたこともあったはずだ。
たとえ心の奥深くに沈めた愛だったとしても、思い出に変えることなど出来るはずもなく、心の中で何度もあの日と、あの日までの日々を辿ったはずだ。
彼女が好きだった物を、場所を思い出すたび、思い浮かぶのは笑顔の彼女だったはずだ。
そして何度も繰り返し思い出すたび、あの日の冷たい雨が心に沁み、身体から温かさを奪い、やがて人としての感情を奪って行った。
最後に司が見た情景は、土砂降りの雨の中、傘を差すこともなく、彼の前に佇む彼女の口から語られる別れの言葉を聞くことだった。
そしてもうあの日を振り返るのを止めた。
何も求めなくなった。何も見えなくなった。見なくなった。
それからの彼は虚無を抱え生きた。それでも時に心の隙間に入り込む何かに苛立ちを感じ、その感情の捌け口を女に求め、ビジネスに向けた。だがどれも彼の心の隙間を埋めることは出来なかった。彼の周りにいた誰一人としてその隙間を埋めることなど出来ず、荒んでいく心は地の底へと堕ちた。
道明寺司の人生は、彼女と別れてからの彼の10年は、いったい何だったのか。
それを語れる人間がいるとすれば__
パーティーはお開きになったが、つくしの傍にいる男は席に着いたままだ。
「どうしたの?どこか痛い?気分が悪いの?」
つくしは司の顔を覗き込むように言った。
「いや。大丈夫だ」
彼は言い、彼女の心配を打ち消そうとした。
二人の間に距離はなく、互いの顔がつきそうなくらいだ。
父親の葬儀で左脇腹を刺された男は、大量の出血を伴う大けがをし、命が失われる寸前まで行ったが一命を取り留めた。
そして、退院後初めて自社主催のパーティーに出席したが、着席形式で身体を労わることが出来た。
「花沢専務、道明寺社長の隣の女性はどなたですか?」
最近類の秘書として傍に付いた男は尋ねた。
類は、遠く離れた席から二人の姿を見つめていた。
「彼女は司....道明寺社長の奥さんだよ」
「そうですか!ご結婚をされたとは存じ上げませんでした」
それもそのはずだ。司の入院中に入籍だけを済ませた二人が、そろって公の場に姿を現したのは、まだ数えるほどしかない。
そんな二人は遠いあの日から結びついている。司が牧野つくしに恋をしたあの日から。
そして、彼女がすることは司の人生を左右して影響を与えている。
このパーティーもつくしが参加しようと言い出したものだ。以前なら絶対にそんなことを言わなかった彼女が、最近は積極的にパーティーに顔を出すようにしていた。ひと前に堂々と出るなど考えられなかった彼女が、そうしているのは全て司のため、道明寺財閥のためだ。
それは、ビジネスのやり方を変えると言った男の今までを払拭する目的があった。
彼は変わったのだと。もう以前のような攻撃的な態度を示すことがないといったことを、アピールする目的もあった。
「お子さんはいらっしゃるんですか?」
「ああ。子供なら今彼女のお腹の中にいる」
「そうですか。大企業の跡取りともなると奥様も責任重大ですね」
「さあ.....どうだろうね」
類は感心なさげに答えたが、彼女ならどんな責任でも引き受けるつもりでいることを知っていた。何しろあの長女気質だ。責任を責任などと考えるはずもなく、どんなことでも受け止めていくはずだ。そしてそれを苦とは思わない。
類も司と同じ大企業の跡取り息子と呼ばれているが、まだ結婚する気はない。
それに結婚したい相手などいなかった。
パーティーの参加者は、ホストである道明寺司への挨拶を済ませると、皆足早に会場を後にしていた。つくしは立った姿勢で挨拶を受けていたが、司は席を立つことがなかった。
「専務、道明寺社長は御加減がよろしくないのでしょうか?」
「いや.....そんなことはないと思うけど?」
類は親友の醸し出す雰囲気も以前とは変わったと感じていた。
だが相変わらず眼光だけは鋭く他人を見るが、それでも以前とは何かが違っていた。
それは、隣に立つ女性の温もりを感じることが出来る男の余裕といったものなのかもしれなかった。遠い昔、その目が蛇のようだと怖れていた彼女も、今ではその目の持つ意味を知った。愛しい人をじっと見つめるその目は、彼女の一挙手一投足を見逃さまいとしていた。
それは、まるで仔犬が親犬を目で追っているかのような視線。
まさか自分が犬に例えられているとは知らないだろうが、司という男は、彼女には忠実な犬のようだと例えられたこともあった。一時は命が危ういと言われていたが、まさにその犬並の回復力があったからこそ、ここまで回復したはずだ。
「さて、俺たちもそろそろ引き上げよう」
類は席を立ち、二人の傍まで行くと立ち止まった。
「司、牧野。俺そろそろ帰るよ」
「類、今日は来てくれてありがとう」
「うん。久しぶりに牧野に会いたいと思ってたんだ。実は俺、来月からパリに行く。暫くあっちかな?それから紹介するよ、司。花沢ニューヨークから来た戸嶋。新しい俺の秘書」
「は、はじめまして道明寺社長、奥様」
戸嶋は、NY時代の道明寺司を知っているだけに緊張した。
知っていると言っても、直接会ったことはなく、新聞や雑誌に載るゴシップ記事程度だ。
だがビジネスについてのやり方は知っていた。それだけに、もし一人で道明寺司と会えと言われれば、尻込みしていたはずだ。
「ああ、よろしくな。偏屈な男の秘書を務めるなんぞおまえも大変だな」
司は砕けた口調で言った。
「はじめまして戸嶋さん。座ったままでごめんなさい」
と、つくしは挨拶を受け司の着席を詫びた。
戸嶋はそのとき初めて道明寺司の傍に杖があることに気がついた。
どこか怪我でもしたのだろうかと思ったが初対面の、しかも道明寺社長に尋ねるわけにもいかなかった。戸嶋はあとで専務に尋ねることにした。そして見舞いを届ける手配をしなければと思案した。
「専務、道明寺社長はお怪我でもされたのですか?」
「ん?....うん」
「そうですか。ではお見舞いを」
「あれからもう半年か」
「半年も.....前ですか?」
「そう。ちょっとした事故かな」
「事故ですか?」
戸嶋は怪訝な顔で聞き返し、思い出しハッとした。
「もしかして.....お父様の葬儀で刺されたあの....」
戸嶋は司が妻に支えられ立ち上がると、杖をつきながら、ゆっくりと会場を出て行く姿を目で追っていた。
「戸嶋、見舞いは要らないから」
「でも....」
「司は、そんなもの嫌がるから」
類は二人が仲睦まじい様子で話をしながら、司が杖を握る反対側の手を、妻の指にしっかりと絡めている様子を見ていた。
そして、少し間を置くと言った。
「司は左脚が不自由なんだ。でも同情なんてしなくていい。あの二人はあれでいいんだから」
そう言われたが戸嶋は同情を禁じえなかった。
道明寺司といえば、世の中全ての女を好き勝手に出来るとまで言われた男だ。周りの者を寄せ付けない空気を持ち、堂々とした態度で歩いていた男が足を引きずるようにして歩く姿が、NY時代を思えば考えられなかった。
だが見たところ二人共楽しそうに笑っているではないか。
そしてお互いにどれほど愛し合っているのかが傍目にも感じられる。
だがやはり気の毒だという言葉が喉まで出かかっていたが、その言葉を呑み込んだ。
類はそんな戸嶋の思いを読み取ったように言った。
「あの二人は魂が結ばれているからいいんだ。司は心の底から欲しかった女性を手に入れたんだから。これ以上あの男には欲しいものなんてないはずだと思うけど」
かつて情熱の行き場を失っていた男の今は、あの頃とは違う。強権を持つ男は、愛する人が傍にいることで立ち直った。そして努力している。妻となった女性と生れ来る子供のために。
「道明寺社長の脚は...」
「そうだね。リハビリを頑張れば違うんじゃないの?」
類の言葉は本心からだ。
司は自分に打ち勝って未来を築く力を持つ男だ。
それは高校生の頃、類が見た彼の一片(いっぺん)。
好きな女のためならプライドを捨て何でもする男だった。
それでも、司の愛は攻撃的過ぎて彼女には受け止めきれない時もあった。
愛するがゆえ彼女を攻撃していたが、それがいつの日からか守ることに転じていた。
愛するがゆえに、愛しすぎたために自分自身が壊れるところまで行った。
彼女を閉じ込め、自分の檻の中へ閉じ込めようとした。
だが彼女が撃たれたとき、自分が撃たれた方がよかったと思ったはずだ。
あの時の司は生と死の狭間を彷徨う彼女の傍で気がおかしくなりそうだった。
どうか死なないでくれと祈る男は、牧野の命が助かるならどんな取引にでも応じただろう。
たとえそれが悪魔との取引でも。
それに対し、彼女もそうだ。司が刺され、命が尽きる寸前まで行ったとき、わが身を捨ててもいいとまで言い放っていた。
牧野つくし。いや、道明寺つくしは不思議な女性だ。
自分の愛する男だけに愛情を注げばいいものを、その男の周りにいる人間まで変えてしまう力を持っている。それは、自分の周りにいる全ての人間に愛情を与えようとするからだ。その愛情が行き渡るはずがないと思ったとしても、何故か行き渡っているから不思議だ。
そして、その愛情を受けた人間は、彼女の虜になるのだから不思議だ。
類は、それが自分自身であることも知っていた。だが、その魅力に一番初めに気付いたのは、彼女の夫となった司だ。司は彼女と出会って変わった。
だがそれは、類にも言えることだった。
人は一人で生きていくことは出来ないと、二人を見れば理解できた。
いつか、自分にもそんな人が現れる。そう思えることが出来るようになったのも、彼女を知ったからだ。そして人生には良い時も悪い時もあるということも。
但し、あの二人は極端すぎるところがある。類は二人ほど激しい恋は自分には出来ない。そう思った。だがあの二人は命がけの恋をした。だからなのか、ああして二人一緒にいる姿に強い絆を感じることが出来る。
二人には勇気があったのかもしれない。
とてつもなく大きなものを乗り越えるだけの勇気が。
そして、あの二人は遠い昔から結びついていた。
まだ二人が巡り逢う前の遠い昔から。
「戸嶋。これからあの夫婦のいざこざに巻き込まれることを覚悟して」
「専務?それはいったいどういう意味ですか?」
「ん?あの夫婦。比翼の鳥じゃないけど、片方がいなくなったら飛べなくなるから煩いんだよ。特に男の方が」
雌雄それぞれが、目と翼を一つずつ持ち、二羽が常に一緒に飛ぶ鳥。互いが互いの目となり翼となり大空を羽ばたくとされている空想上の鳥。だからこそ、互いの翼が触れ合う場所でなければ休むことは出来ない鳥。
あの二人は共に身体に大きな傷を持つ。
そして心にも。
それは互いの父親のこと。
だがそれは過去になった。
司は彼女が誰よりも近くにいなければ心を休めることが出来ない。だからこれから彼女が自分の目の届くところにいなければ、大袈裟に騒ぐに決まってる。
そう思う類の薄茶色の瞳が映す未来は、外れたことがない。
そして類も、これから彼ら夫婦の小さないざこざに巻き込まれることを承知していた。
何しろ、あの夫婦の一番の親友は自分だと自負していたから。
季節は急に変わることなく、ゆっくりと流れて行く。
毎日が少しずつ確実に時を刻んで行くのがわかる。風の匂いが変わり、光りの強さが変わり、焼け付く夏の景色を窓から眺めることを止め、秋の気配を感じさせる季節が過ぎ、本格的に訪れる冬を前にした今、新たな命の誕生を待つばかりとなっていた。
「もし」
と間を置いた男は妻となった女に囁いていた。
「生まれ変わったとしたら、その時はまたおまえを見つけてやるよ。今度は優しさと強さとを持ち合わせた男で生まれてぇ。それからおまえを愛する気持ちだけは忘れねぇ」
闇の中、ベッドの上で囁かれるそれは、死の縁に立たされた男の今際の際の言葉。
この世の終わりかと思われたとき、「もし」の始まりで彼の口から紡ぎ出された言葉は、二人にとってこれから先も、忘れることが出来ない言葉だ。そして、その言葉を何度でも繰り返す男は、残りの人生を幸せに暮らせば、今までのことは全てが帳消しとなるはずだと信じていた。
何故なら、人生は最期に帳尻が合うようになっているからだ。
刺されたことは、己の傲慢さの上にある不遜さが招いたこと。それを今では理解していた。
「狂ったようにおまえを愛した頃が懐かしい」
それは山荘に閉じ込めていた頃の話。
今ではあの頃とった自分の態度を逡巡することなく口にするが、それに対し〝忘れようとしても忘れられない経験″と返される言葉に悪意はない。
もうすぐ二人の間に子供が生まれる。
その子がどんな人生を送るのか。親として愛情を持って育てて行くつもりでいる。
そして人として何が一番大切なのかということを、教えていくつもりでいた。
運命の恋は一度二人の元から去った。
だが再び二人の元へ戻って来た。
二人は正式に結婚はしているが、式は挙げていなかった。
それは、この先いつでも出来ることだ。
二人の間に子供が産まれ、大きくなった頃でもいい。
だが二人共そのことに拘りはない。
司が欲しかったものは、今この手の中にある妻の手。
そして妻が胎内で慈しみ、育んでくれる命。
それは、思いもしなかった神からの贈り物。
新しい命が、家族としての絆をより一層深めてくれるはずだ。
心だけが追いかけて行ったあの頃とは違う。
欲しかったものは、もうこの手の中にある。
そして、手を伸ばせば、すぐそこに求めた人がいた。
夫となった男は、お腹の大きな妻の身体を、後ろからそっと抱きしめた。
司の掌に感じるのは、二人の未来に向けた新しい命の鼓動。
それは、過去の哀しみを消し去り、明るい未来へと連れて行ってくれる命。
その命の誕生を心待ちにしながら眠りにつく。
身体も心も全てをその腕に抱きしめ、もう決して離さないと囁きながら。
< 完 > *Collector*

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今後の予定につきましては、明朝定時にお知らせ致します。
Comment:36
はじめからこの恋は困難の連続だった。
絶対に認めないといわれた交際。
だが愛に認めるも認めないもない。同じ時代に生まれた二人にどんな障害があるというのか。もし障害があるのなら、道は二人で切り開いていけばいい。
愛には地位も名誉も、親も金も関係ない。そう考えていた。
愛して傷ついて、それでも愛することを止めることが出来なくて苦しんだ。
あの頃、彼はこっちが恥ずかしくなるほどの愛を注いでくれた。
けれど、二人の間に何も起こらない日はないといったほど、何もかもが一度に押し寄せることもあった。
それでも、二人の愛は誰にも邪魔をさせないと、この愛は永遠だと、自分を信じてついてくればいいと言った。そんな彼に言いたくもない言葉を口にし、雨の中に置き去りにし、彼の想いを踏みにじった。
あの頃のつくしには、受け止めなければならなかった現実社会といったものがあり、その現実に背を向けることが出来なかった。所詮高校生だ。どんなに自分の思いを伝えたところで、物事がそう簡単に行くはずがないということを思い知らされた。
だが、今は違う。
今はもう彼の情熱から逃げることはしない。二人は過去を過去とし、前を向いて歩く事を決めた。その未来が今、身体に宿っている。明日へ繋がる未来がここにある。
つくしは下腹部に目をやった。
卵巣が片方しかないことから、妊娠は難しいかもしれないと言われていたが、小さな命が宿っていると言われた。その瞬間、幸福感が身体に広がった。命が育っていることが信じられなかった。そして家族が増えることが嬉しかった。新しい家族が増える。それは二人が結婚の約束をしていたから嬉しかったのではない。たとえ結婚していなくても子供を産むことに躊躇いはない。
二人にとってこの子は大きな贈り物のはずだ。
両親はなく、家族と呼べる存在は弟一人になったこともそうだが、彼も父親を亡くした。
道明寺貴。彼の父親であり、道明寺HD前会長は急性心筋梗塞で突然この世を去った。
たとえ分かり合える相手ではなかったとしても、子供が生まれることで未来が変わることがあると思った。憎しみを流し去ることが出来る。そう信じていた。だがその人に子供のことが伝わることはなかった。
分かった時点て伝えておけばよかったのかもしれない。
道明寺に。
笑顔で流す涙を二人で感じたかった。
だが伝えることが出来たのは、彼が刺され、冷たい床に横たわった状態だった。
時の流れがこんなにも遅いと感じたのは初めてだ。
この時が立ち止まることなく過ぎてくれることを祈った。
今は夜が無事に明けることを祈り、明日が訪れることを願った。
ただそれだけを望んでいた。
出会ったことを思い出に変えてしまう。
それだけは__したくない。
そして、我が子に会う前に彼が死んでしまうことは考えたくない。
だが今のつくしは、怖がっていた。恐れていた。
彼を失うことを。
「牧野。手術が始まってもう8時間だ。少し横になれ」
つくしは、総二郎の言葉に顔を仰ぎ見た。
出棺間際に刺され、搬送された病院での手術は既に8時間を経過し、時刻は23時を回っていた。葬儀はあのまま中止となり、貴が荼毘に付されることは見送られ、遺体は葬儀業者の手により保管されていた。
「それに着替えてこい。いくらここに居たいからってさすがにその恰好のままじゃ疲れるだろ?」
あきらはそう言って、つくしが憔悴しきった顔でいることに心を痛めた。
妊娠していると聞かされたとき、誰もがつくしの身体を心配した。まだ初期段階とはいえ、精神に大きな負担となるこの事件が、彼女の身体に影響を与えるのではないかと心配した。
そして、手術室の前にある長椅子に腰かけているつくしは喪服のままだ。
総二郎もあきらも類も、そして椿も母親である楓も着替えていた。だがつくしは着替える気にはならなかった。かつて自分が銃撃され、彼が今の自分と同じように、血にまみれた姿のまま、手術が終わるのを待っていたと聞かされたとき、やはり同じように考えた。
彼の血が付いた服を脱ぎたくないと。
そして背が高く力強い姿の男が、血にまみれ冷たい床に横たわった姿が瞼の奥に貼りつき、これから生きている限りその光景を忘れることはないと確信していた。
「牧野。おまえも知ってるだろ?司は犬並の回復力を持つ男だ。簡単にくたばる男じゃない」
類はつくしの隣に腰をおろし、未だに震える彼女の手を握った。そして大丈夫だ、というように頷いた。
「おい、類。牧野の手なんか握ったのがバレたら、あいつに殺されるぞ?」
「いいよ。それくらい司が元気ならね。それに俺だってあいつに殺される前にやり返すけど?」
冗談を言ってはいるが、3人の男達は皆心配していた。
医者も看護師も出てくることのない白い扉の向うでは、いったいどんなことが起きているのか。切迫した状況が続いていることは分かっている。葬儀会場から搬送された男の手術は、一刻を争うと言われ、文字通り生死の境を彷徨っていた。そして、ここでこうして待つ者にとっては、恐怖との闘いと言えるはずだ。
それは、死に対する恐怖。
大切な人がいなくなってしまうかもしれないといった恐怖は、誰もが一度は経験するはずだ。
つくしは既に両親を亡くしているが、あの時は自分もベッドの上にいた状態で、類が全てを執り行ってくれた。そのせいか実感がわかなかった。それに、親は自分より先に亡くなるものだといった概念があった。それは厳しい環境で育った人間が、未来を考えたとき、頭の中に常にあることかもしれなかった。頼りない両親を持てば、そんな思いがあったとしてもおかしくはないはずだ。
だが時が経つにつれ、湧き上がる思いがあった。
それは、両親が亡くなったのは、自分のせいではないか。といった思い。
そして父親が仕出かしたであろう行為がわだかまった。だが、その思いを振り切った。
過去ばかり見つめていても仕方がない。時は過ぎていく。その時の流れに逆らって哀しみばかりを探す必要はない。変わって行くことも必要だと。
だから今では誰にも負けないくらい幸せになろうと思った。
その幸せのためにも、彼に、道明寺に生きていて欲しい。
そんな、つくしに出来ることは、ただ祈ることだけだ。
「あんたたち・・明日も仕事でしょ?もういいわよ・・ここは」
「姉ちゃん心にもないこと言うなよ。俺らは4人いるからF4だぞ?それが一人でも欠けたら意味ねぇじゃん」
同じ時を過ごした男達は、仲間に何かあればどんなことでもするつもりでいた。
それが暫く疎遠だった男だったとしても、今は違う。
それを知る椿も彼らの気持ちは分かっている。弟の幼馴染は、皆それぞれ個性的な人間だが、
優しい心を持っていた。
彼らが見守りたい二人は互いに手を取ることが出来た。互いの手を強く握り返すことが出来る手を。それをこれから先もずっと見ていたいはずだ。それが兄弟同然に育った仲間の想いだと分かっていた。
「・・あんたたち・・」
「椿。いいわよ・・いてもらいなさい。皆さんがそれでもいいと仰るなら」
およそ人に頼み事などしたことがないような女の口から出た言葉は、何故か頼み事のように聞こえる気がした。『いてもらいなさい』ではなく『いて欲しい』と聞こえるのは気のせいなのだろうか。
「ああ。全然構わねぇ。俺らと司は兄弟だ。血が繋がってなくてもな。そんな兄弟が痛い目に合ってるってのに、おまえ一人で頑張れなんてことが言えると思うか?おばさん」
楓がおばさんと呼ばれたことがあったのは、もう随分と昔の話だ。
司の元へ遊びに来ていた3人がそう呼んだことがあった。あの頃はまだ子供だった彼らも今はそれぞれが自分の進むべき道を歩んでいた。
表情こそ変えなかったが、心の中では息子の幼馴染みの変わらぬ態度が嬉しかった。
それは何があろうと、あの頃と同じで息子を支えようとしている彼らの気持ちが感じられたからだ。
そして今、我が子である司も新たな道を歩み始めたばかりだった。
「牧野さん・・司の・・あの子の子供がいるというのは本当なのね?」
夫の死、そして我が子の命が危ない状態の今、楓は自分の血を引く、そして司の血を引く子供が目の前の女性の身体に宿っていることに、何とも言いようもない思いを感じていた。
連綿と受け継がれて来た道明寺の血が、牧野つくしの身体に受け継がれたことを。
「・・はい。先日病院で診察してもらいました。でも彼には話してなかったんです。・・私の身体のことはご存知のとおりです。ですからどこか不安があったんです。そんな思いから少しだけ時間を置こうと思ったんです。でもその矢先にご主人様がお亡くなりになったので話すタイミングを逸したんです。今はこの子の事よりご主人様の事の方が重要ですから・・・だから葬儀が終ったら話そうと思っていたところでした」
と、つくしは躊躇いがちに笑い、まだ膨らんでもいないお腹に手を添えた。
今の心境はとても笑えるような気持ではない。それでも少しだけ微笑むことが出来たのは、お腹の中に未来があるからだ。それは二人にとっての未来。そして家族全員の未来であって欲しいと望んでいた。
司とつくしに関わる人間全員にとっての未来がここにあるはずだ。
「つくしちゃん・・ごめんね・・あなたにそんな気を遣わせちゃって」
椿は、つくしの傍に来ると、隣に座り彼女の手を握りしめた。慰めるような、それでいて詫びているような態度は、いつも強気な態度を見せる椿自身も、弟のことに不安があるからだ。だが弟の子供がつくしのお腹に宿っていると知り、嬉しくもあった。
「・・そうね。あの子も哀しみの中、喜びを表すことは難しいでしょうから」
楓はつくしの思いを受け取った。
父親が亡くなったことを、哀しむ素振りも見せない男が、我が子が誕生するかもしれないと知ったとき、見せる喜びが場にそぐわないと思ったのだろう。今は亡くなった父親のことを哀しむことが第一だと言いたかったのだと楓は理解した。
それがたとえ自分達の仲を再び引き裂こうとした男だとしても、父親であることに変わりないのだから。
そして親は選べない。そう思うのは、牧野つくしも同じだからだと知っていた。
今、ここにいる人間は、抵抗不可能な未来と対峙しているのだろうか。時間だけが刻々と過ぎ、しんと静まり返ったこの場所は、闇の中に沈んだように感じられるはずだ。
だがその中に一筋の希望の光りを求めているのは、誰もが同じだ。
沈黙を破ったのは、手術室の扉が開いた音だ。
グリーンの手術着の男性が扉の向うから姿を現し、その場にいた全員が立ち上った。

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絶対に認めないといわれた交際。
だが愛に認めるも認めないもない。同じ時代に生まれた二人にどんな障害があるというのか。もし障害があるのなら、道は二人で切り開いていけばいい。
愛には地位も名誉も、親も金も関係ない。そう考えていた。
愛して傷ついて、それでも愛することを止めることが出来なくて苦しんだ。
あの頃、彼はこっちが恥ずかしくなるほどの愛を注いでくれた。
けれど、二人の間に何も起こらない日はないといったほど、何もかもが一度に押し寄せることもあった。
それでも、二人の愛は誰にも邪魔をさせないと、この愛は永遠だと、自分を信じてついてくればいいと言った。そんな彼に言いたくもない言葉を口にし、雨の中に置き去りにし、彼の想いを踏みにじった。
あの頃のつくしには、受け止めなければならなかった現実社会といったものがあり、その現実に背を向けることが出来なかった。所詮高校生だ。どんなに自分の思いを伝えたところで、物事がそう簡単に行くはずがないということを思い知らされた。
だが、今は違う。
今はもう彼の情熱から逃げることはしない。二人は過去を過去とし、前を向いて歩く事を決めた。その未来が今、身体に宿っている。明日へ繋がる未来がここにある。
つくしは下腹部に目をやった。
卵巣が片方しかないことから、妊娠は難しいかもしれないと言われていたが、小さな命が宿っていると言われた。その瞬間、幸福感が身体に広がった。命が育っていることが信じられなかった。そして家族が増えることが嬉しかった。新しい家族が増える。それは二人が結婚の約束をしていたから嬉しかったのではない。たとえ結婚していなくても子供を産むことに躊躇いはない。
二人にとってこの子は大きな贈り物のはずだ。
両親はなく、家族と呼べる存在は弟一人になったこともそうだが、彼も父親を亡くした。
道明寺貴。彼の父親であり、道明寺HD前会長は急性心筋梗塞で突然この世を去った。
たとえ分かり合える相手ではなかったとしても、子供が生まれることで未来が変わることがあると思った。憎しみを流し去ることが出来る。そう信じていた。だがその人に子供のことが伝わることはなかった。
分かった時点て伝えておけばよかったのかもしれない。
道明寺に。
笑顔で流す涙を二人で感じたかった。
だが伝えることが出来たのは、彼が刺され、冷たい床に横たわった状態だった。
時の流れがこんなにも遅いと感じたのは初めてだ。
この時が立ち止まることなく過ぎてくれることを祈った。
今は夜が無事に明けることを祈り、明日が訪れることを願った。
ただそれだけを望んでいた。
出会ったことを思い出に変えてしまう。
それだけは__したくない。
そして、我が子に会う前に彼が死んでしまうことは考えたくない。
だが今のつくしは、怖がっていた。恐れていた。
彼を失うことを。
「牧野。手術が始まってもう8時間だ。少し横になれ」
つくしは、総二郎の言葉に顔を仰ぎ見た。
出棺間際に刺され、搬送された病院での手術は既に8時間を経過し、時刻は23時を回っていた。葬儀はあのまま中止となり、貴が荼毘に付されることは見送られ、遺体は葬儀業者の手により保管されていた。
「それに着替えてこい。いくらここに居たいからってさすがにその恰好のままじゃ疲れるだろ?」
あきらはそう言って、つくしが憔悴しきった顔でいることに心を痛めた。
妊娠していると聞かされたとき、誰もがつくしの身体を心配した。まだ初期段階とはいえ、精神に大きな負担となるこの事件が、彼女の身体に影響を与えるのではないかと心配した。
そして、手術室の前にある長椅子に腰かけているつくしは喪服のままだ。
総二郎もあきらも類も、そして椿も母親である楓も着替えていた。だがつくしは着替える気にはならなかった。かつて自分が銃撃され、彼が今の自分と同じように、血にまみれた姿のまま、手術が終わるのを待っていたと聞かされたとき、やはり同じように考えた。
彼の血が付いた服を脱ぎたくないと。
そして背が高く力強い姿の男が、血にまみれ冷たい床に横たわった姿が瞼の奥に貼りつき、これから生きている限りその光景を忘れることはないと確信していた。
「牧野。おまえも知ってるだろ?司は犬並の回復力を持つ男だ。簡単にくたばる男じゃない」
類はつくしの隣に腰をおろし、未だに震える彼女の手を握った。そして大丈夫だ、というように頷いた。
「おい、類。牧野の手なんか握ったのがバレたら、あいつに殺されるぞ?」
「いいよ。それくらい司が元気ならね。それに俺だってあいつに殺される前にやり返すけど?」
冗談を言ってはいるが、3人の男達は皆心配していた。
医者も看護師も出てくることのない白い扉の向うでは、いったいどんなことが起きているのか。切迫した状況が続いていることは分かっている。葬儀会場から搬送された男の手術は、一刻を争うと言われ、文字通り生死の境を彷徨っていた。そして、ここでこうして待つ者にとっては、恐怖との闘いと言えるはずだ。
それは、死に対する恐怖。
大切な人がいなくなってしまうかもしれないといった恐怖は、誰もが一度は経験するはずだ。
つくしは既に両親を亡くしているが、あの時は自分もベッドの上にいた状態で、類が全てを執り行ってくれた。そのせいか実感がわかなかった。それに、親は自分より先に亡くなるものだといった概念があった。それは厳しい環境で育った人間が、未来を考えたとき、頭の中に常にあることかもしれなかった。頼りない両親を持てば、そんな思いがあったとしてもおかしくはないはずだ。
だが時が経つにつれ、湧き上がる思いがあった。
それは、両親が亡くなったのは、自分のせいではないか。といった思い。
そして父親が仕出かしたであろう行為がわだかまった。だが、その思いを振り切った。
過去ばかり見つめていても仕方がない。時は過ぎていく。その時の流れに逆らって哀しみばかりを探す必要はない。変わって行くことも必要だと。
だから今では誰にも負けないくらい幸せになろうと思った。
その幸せのためにも、彼に、道明寺に生きていて欲しい。
そんな、つくしに出来ることは、ただ祈ることだけだ。
「あんたたち・・明日も仕事でしょ?もういいわよ・・ここは」
「姉ちゃん心にもないこと言うなよ。俺らは4人いるからF4だぞ?それが一人でも欠けたら意味ねぇじゃん」
同じ時を過ごした男達は、仲間に何かあればどんなことでもするつもりでいた。
それが暫く疎遠だった男だったとしても、今は違う。
それを知る椿も彼らの気持ちは分かっている。弟の幼馴染は、皆それぞれ個性的な人間だが、
優しい心を持っていた。
彼らが見守りたい二人は互いに手を取ることが出来た。互いの手を強く握り返すことが出来る手を。それをこれから先もずっと見ていたいはずだ。それが兄弟同然に育った仲間の想いだと分かっていた。
「・・あんたたち・・」
「椿。いいわよ・・いてもらいなさい。皆さんがそれでもいいと仰るなら」
およそ人に頼み事などしたことがないような女の口から出た言葉は、何故か頼み事のように聞こえる気がした。『いてもらいなさい』ではなく『いて欲しい』と聞こえるのは気のせいなのだろうか。
「ああ。全然構わねぇ。俺らと司は兄弟だ。血が繋がってなくてもな。そんな兄弟が痛い目に合ってるってのに、おまえ一人で頑張れなんてことが言えると思うか?おばさん」
楓がおばさんと呼ばれたことがあったのは、もう随分と昔の話だ。
司の元へ遊びに来ていた3人がそう呼んだことがあった。あの頃はまだ子供だった彼らも今はそれぞれが自分の進むべき道を歩んでいた。
表情こそ変えなかったが、心の中では息子の幼馴染みの変わらぬ態度が嬉しかった。
それは何があろうと、あの頃と同じで息子を支えようとしている彼らの気持ちが感じられたからだ。
そして今、我が子である司も新たな道を歩み始めたばかりだった。
「牧野さん・・司の・・あの子の子供がいるというのは本当なのね?」
夫の死、そして我が子の命が危ない状態の今、楓は自分の血を引く、そして司の血を引く子供が目の前の女性の身体に宿っていることに、何とも言いようもない思いを感じていた。
連綿と受け継がれて来た道明寺の血が、牧野つくしの身体に受け継がれたことを。
「・・はい。先日病院で診察してもらいました。でも彼には話してなかったんです。・・私の身体のことはご存知のとおりです。ですからどこか不安があったんです。そんな思いから少しだけ時間を置こうと思ったんです。でもその矢先にご主人様がお亡くなりになったので話すタイミングを逸したんです。今はこの子の事よりご主人様の事の方が重要ですから・・・だから葬儀が終ったら話そうと思っていたところでした」
と、つくしは躊躇いがちに笑い、まだ膨らんでもいないお腹に手を添えた。
今の心境はとても笑えるような気持ではない。それでも少しだけ微笑むことが出来たのは、お腹の中に未来があるからだ。それは二人にとっての未来。そして家族全員の未来であって欲しいと望んでいた。
司とつくしに関わる人間全員にとっての未来がここにあるはずだ。
「つくしちゃん・・ごめんね・・あなたにそんな気を遣わせちゃって」
椿は、つくしの傍に来ると、隣に座り彼女の手を握りしめた。慰めるような、それでいて詫びているような態度は、いつも強気な態度を見せる椿自身も、弟のことに不安があるからだ。だが弟の子供がつくしのお腹に宿っていると知り、嬉しくもあった。
「・・そうね。あの子も哀しみの中、喜びを表すことは難しいでしょうから」
楓はつくしの思いを受け取った。
父親が亡くなったことを、哀しむ素振りも見せない男が、我が子が誕生するかもしれないと知ったとき、見せる喜びが場にそぐわないと思ったのだろう。今は亡くなった父親のことを哀しむことが第一だと言いたかったのだと楓は理解した。
それがたとえ自分達の仲を再び引き裂こうとした男だとしても、父親であることに変わりないのだから。
そして親は選べない。そう思うのは、牧野つくしも同じだからだと知っていた。
今、ここにいる人間は、抵抗不可能な未来と対峙しているのだろうか。時間だけが刻々と過ぎ、しんと静まり返ったこの場所は、闇の中に沈んだように感じられるはずだ。
だがその中に一筋の希望の光りを求めているのは、誰もが同じだ。
沈黙を破ったのは、手術室の扉が開いた音だ。
グリーンの手術着の男性が扉の向うから姿を現し、その場にいた全員が立ち上った。

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