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2016
12.19

エンドロールはあなたと 33

背の高い男の腕に抱えられ、医務室まで運ばれるのは二回目だ。
自分の気持ちに気付くと、普通の態度で接することが出来なくなってしまった。

会議中、目が合った瞬間、身体は大丈夫なのか。そんなことを口にしたのだから、その場にいた者の注目を浴びるのは当然だった。ばかげた心の動揺を抑えることが出来ず、コーヒーが入ったカップをひっくり返してしまい、慌てた。

テーブルの上に零したコーヒーは、まるで意志を持ったように、まっすぐ道明寺司の許へ流れて行った。その流れを止めようとしても、ますます事態は悪くなるばかりだ。

コーヒーがかかった右手はじんじんとした痛みを伴い、赤く腫れて来たのがわかった。
気持ちが高ぶっていたせいか、痛みよりも心の動揺の方が激しく、目の前にいたはずの男に、突然後ろから手を掴まれた瞬間、驚きと共に動揺した。
この心の動揺を知られてしまったとすれば、どんな態度で接すればいいのかと考えていた。

「あの、わたしは大丈夫ですから・・」

控えめに言ったが、本当なら叫びたかった。
周りの人間の目が痛いほど感じられ、全身を緊張したまま男の腕に抱えられている状況に、まるで丸太にでもなったかのように、じっとしていた。

何がなんだか分からないうちに抱き上げられるということが、世の中のどれくらいの女性に対して起こりうることなのか。そして道明寺司のような男性と、恋に落ちる確率はいったいどれくらいあるのか。考えても無駄なことだとわかってはいるが、心がかき乱されるのだから、考えてしまった。

今まで道明寺司を恋愛対象だと見て来なかっただけに、今さら気づいてしまった自分の気持ちに、驚きを持ってしまったことは間違いない。
今まで気づかなかったが、紺野にしても、周りの女性たちの反応にしても、見ればわかることがある。この男は、想像以上にモテる男だということが。

恋愛は好きになった方が負けだと言われるが、先に好きになったのは、この男のはずだ。
それならこの恋愛での勝者はあたしということになるのだろうか?
でも、それは違うような気がする。勝ち負けなんか関係ない。先にどちらが好きになろうと、相手をどれだけ深く思うか。それが恋愛における本来の姿のはずだ。


そう考えただけで、こうして道明寺司の腕に抱かれていることが、落ち着かなくなり、つくしはもぞもぞと身動きをした。

すると、たちまち厳しい声が聞えた。

「もぞもぞ動くな。じっとしてろ」

そう言われても落ちつかないのだから仕方がない。
意識するなという方が無理だ。以前と同じようにはいられない。

「・・大丈夫だから。あの、道明寺さん、自分で歩けます」

腕の中に抱えたつくしを見下ろす黒い瞳。
つくしのうろたえた顔を見た司は、声をやわらげた。

「大丈夫かどうかは俺が決める。それに俺はおまえをどうこうしようなんて考えてねぇ。だから肩の力を抜いて大人しく抱かれていろ」

有無を言わさぬ口調に、つくしの考えを払拭するかのような言葉。
つくしは、司が心配し過ぎだと思った。
それに、この男の腕の中で肩の力を抜けと言われても無理な相談だ。

「それにおまえは自分のことはなんでも自分でやりたいって思う女だろ?他人に頼るってことが嫌なのか、それとも迷惑をかけたくないって思うのか知らねぇけど、時には誰だって人の手を借らねぇとやっていけねぇことがあるってことだ。おまえが足を痛めたときもそうだが、今だってそうだ。右手はおまえの利き手だろ?診てもらえる状況にいるんだ。遠慮するな」

気づけば、いつの間にかエレベーターの中にいて、あの時と同じように男の腕に抱かれている。
意識の全てがこの男に向いていた。
つくしは心の動揺を悟られまいと、懸命に努力したはずだ。
だが、どうやらそれは難しいようだ。いつも紺野からも言われるではないか。考えていることが顔に出やすいと。


二度目の男の腕の中、つくしは一度目には感じられなかった温かみを感じていた。
それは、自分が意識し始めたからだとわかっていた。実のところ、あの時より何十倍にも感じられるものがあった。頭を胸に傾ければ、鼓動を感じる。
この男独特の香り。
そして、性的魅力。

どうしたらいいのか。
道明寺司のことが好きだということを、気づかれてしまっただろうか。
もしそうなら、どういった態度をとればいいのか。
心の中の声が漏れているというなら、この男に聞こえているはずだ。
医務室が近づくにつれ、鼓動はどんどん早くなっていた。
つくしは勇気を振り絞り、顔をあげ司を見た。

ひと目見たら決して忘れない男。
誰もが羨むステータスを持つ男。

つくしの視線に気づいた男は、下を見た。

二人は見つめ合った。

そのとき、男は黒い瞳にまじめな表情を浮かべ、つくしに顔を寄せた。

「俺とおまえの間にある仕事がどうの、立場が違う、そんなことは考えるな。ついでに言うが、恋愛について分析するのはやめろ。これから俺とおまえがつき合ってくってのに、他人の物差しで俺たちの事を図るな。他人は他人、俺たちは俺たちだ」

恋愛について分析するな。
まるで聞きかじりの知識しかないような物言いは、若いとは言えないつくしが、耳年増かのような発言。もしかしたら、知られているのかもしれない。経験がないことを。
そして、これから俺たちはつき合うんだという宣言とも言える言葉。
だが、つくしは黙ったままでいた。

そんな女にまるでキスするかのように、顔を寄せた司は、唇の数センチ手前で留まった。

「エレベーターの中で、キスするなんてことを考えたことはなかったが、おまえとならキス以外のことでもやりたいくらいだ」

司はニヤリとすると、露骨な視線を浴びせた。

「おまえがその気なら、俺はすぐにでもおまえと愛し合いたい」

コーヒーと煙草が混ざり合った息が、つくしの鼻をくすぐった。

キスされる、そう思った途端、唇が重なっていた。






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2016
12.18

金持ちの御曹司~お気に召すまま~

大人向けのお話です。
未成年者の方、またはそのようなお話が苦手な方はお控え下さい。
******************************







他人にはないものを持っている人間こそ、大物になれる。
そして、物静かな人物こそ大物。
それは、まさにオレの事だ。
俺が今こんなふうに思えるのも、ある女との出会いがあったからだ。

司の人生を変えるほどの衝撃的な出会い。
それは17歳の頃。
まさに内臓をわしづかみされ、口から引き出されるほどの衝撃的な出会いから始まった。
それ以来、司の人生はひとりの女性によって左右されることになった。
それまでの彼の人生は至って普通。ただし、それは彼が思っているだけで、周りの人間はそうは考えていなかった。
悪友たちが言った。

『 今までいったい何人の人間がおまえに振り回されて来たことか! 』

だが、そんな過去の話も今はどうでもいい。


それより今の司には悩みがある。
実は昔、牧野が世田谷の邸で司専属のメイドをしたことがあった。
その時のメイドの制服が今、再び司の目の前にあることだ。
執務室に持ち込まれたその制服。
きちんとクリーニングがされ、綺麗に箱に入れられたソレ。
色々あって行方知れずになっていたメイド服。
司はそのメイド服をつくしに着て欲しいと思っている。
そしてもちろん、彼専属のメイドとして傍に仕えて欲しいと願った。

なんとか叶えたいこの思い。
この機会を逃せば一生に一度のチャンスを失うことになる。
あれから何年だ?
いや。年を考えると恐ろしいことになるから考えることは止めた。
それにあいつにしても、このサイズの制服が入るかどうかが問題だ。
何しろあいつの胸はあの当時と比べれば、多少なりとも大きくなったはずだ。

俺の努力のおかげで。

まあいい。

胸のことはなんとでもなる。
むしろピチピチで弾けんばかりの方がいいに決まってる。
そんなことを思えば急にいっぱいいっぱいになる司のスラックス。
準備万端とばかりに立ち上がる興奮の証。
自動発火一歩手前。
まさにむせび泣く寸前だ。
いや。もう泣いているかもしれない。
そうなると、司の妄想は止まらなくなっていた。






邸にある執務室で新聞を広げる司。
コンコン。
ドアをノックする音がした。

「入れ」

その声に入口で一礼をし、足を踏み入れ、立ち止まる牧野。
やはりメイド服は胸のあたりが合わなかったのか、ボタンが外されていた。

「道明寺…」
「牧野、誰が道明寺だなんて呼び捨てにしていいっていった?おまえは俺専属のメイドだ。ご主人様と呼ぶのがあたり前だろ?」
「…はい。申し訳ございません…ご主人様」

あの当時から一度やってみたいと思っていたご主人様とメイドごっこ。
ご主人様とか、坊っちゃんとか、司様とか、旦那様とか色々と呼び方を考えたがどうもしっくりこねぇ。だがいつもとは違うシュチュエーションに燃えることは間違いない。
黒いワンピースの制服に、フリルの付いた白いエプロン。スカートの丈は短く、案の定、胸にある3つのボタンは外されていた。確かに高校生の頃に比べたら胸がデカくなったよな?
それは、ひとえにおれの努力の賜物だろ?


「こっちに来るんだ、牧野」

司は入口に立ち尽くすつくしを呼んだ。
真っ赤な顔に、どこか頼りなさげな仕草の牧野。
ぎこちなく司の傍へと歩み寄った。
途端、司は女の腰を掴み、ぐっと引き寄せ、後ろ向きに自分の膝の上に座らせた。
司の膝を跨ぐような姿勢。白いほっそりとした脚を開き、司のたくましい太腿の外へとかわされた。すると、彼は脚を開き、つくしの腿を大きく開く。

「じっとしてろ」
司が命じる。
「……あっ…!」

手がスカートの中へ差し込まれ、くちゅと音を立て指が2本入れられる。
ソコに飲み込まれた司の指は、つくしの蜜壺の中をゆっくりと掻き回す。
下着を着けるなと言われているつくしの下半身は丸見えだ。

「言いつけは守ったようだな?」

凄みのある声は昔の司を彷彿とさせる。
まだつくしを知らなかったあの頃、狂気と言われていた男の声。

「おまえ、信じられねぇくれぇぐっしょり濡れてるじゃねぇかよ?」

司の片手はつくしの顎を取り、振り向かせた。
すると、口元を、司の親指がゆっくりとなぞっていた。

「けど、なんで昨日の夜は俺の部屋へ来なかった?おまえの仕事は俺の夜の相手だろ?」

夜伽をしろと言われていた女。
つくしは膝の上で身体を強張らせ、目を見開き司の顔を見つめ、息をのんでいた。

「・・も、申し訳ございません。・・昨日は・・疲れて部屋で寝てしまいました」

嘘が嫌いな女のいう事は本当だろう。言うとスッと目を伏せた。

「おまえの態度は使用人としてどうなんだ?決められたことが守れねぇ。主人の言いつけが守れねぇって言うならお仕置きが必要だな。なあ牧野?」

にやっと笑った司は、つくしの下半身に差し込む指を増やし、緩急をつけて出し入れする。
深く押し入った指は角度を変え、内壁を擦る。
中で指を広げ、秘蜜を溢れさせ、身体の奥の疼きを引き出す行為を繰り返す。
司の太腿の上で、身をくねらせて逃げようとする女。
だが、司の手はそれを許そうとしない。脚を大きく開かせ、後ろから伸ばした手で蜜壺の蜜を溢れさせ、水音を聞かせ、容赦なくつくしの羞恥を煽った。

「・・・ぁん・・っ・・・ああっ・・!だ、駄目です・・っ・・あああっ!ああっん!」

ゆっくりと、抽出を繰り返す。
中を掻き混ぜ、ねっとりとした蜜を滴らせ、引き抜くと司は我慢しきれず、指を舐めた。

「・・たまんねぇな、その声・・」

顎を取った男の、妖艶な瞳がつくしを見据えた。
耳元に、低く響く男の声だけで、女は益々濡れていた。
興奮を呼び覚ます男のバリトンヴォイス。
どんな女も、その声だけでイってしまうと言われる美声。
だが、その声が愛を囁くのは牧野つくしだけ。

「どうした?牧野?おまえが昨日欲しかったモノをこれから与えてやろうって言うんだ。なにが不満なんだ?」

どうか、お願い。と泣いて言うまで繰り返されるその行為。
俺を求めて泣いてくれ。
俺が欲しいと言ってくれ。
必死に逃れようとする身体を、逃がすものかと己の身体に押し付け、親指で敏感な突起を潰し、擦る。

「・・ご、ご主人さま・・お願い・・・」

震える女の唇から漏れたお願いの言葉。
司がいつも聞きたいと思っていたつくしの懇願。
純真だった女がいつも口にすることを躊躇う言葉が聞けたと司は喜んだ。

「・・いい子だ。牧野。おまえが欲しがるものなら、なんでもやる」

司はつくしを膝の上から下ろし、デスクの上に横たえ、両脚を開くと肩の上へとかけた。

「痛かったら言えよ、つくし・・」


だがその瞬間は突然訪れた。
まさにつくしの身体を貫こうとした瞬間。

「・・・コホン」

司は瞬時に忘却の状態から甦った。
気付けば西田が真正面から見据えていた。

「支社長、いつまでその箱を抱きしめていらっしゃるおつもりですか?」

司はメイド服の入った箱を形が変わるほど抱きしめ、頬ずりしていた。

美しい堕天使と言われる男は、一瞬とぼけた顔になると、言った。

「・・・西田。誰にも言うな!」





***





その日の夜、マンションに帰った司はつくしの出迎えを受けた。
「道明寺。おかえり!」
つくしは司が抱えて帰ってきた箱に目をやると聞いた。
「ねえ?その箱なに?」
学校の制服が入っていそうなその箱。
「これか?なんか邸の大掃除してたら見つかったらしいぞ?おまえのモンだ」
「うそ!あたし世田谷のお邸に何か忘れ物でもした?」

ああ。何年も前に忘れたモノがある。
忘れたなんて言わせねぇ。
それは俺とおまえの懐かしい青春の思い出だ。

「開けてみろ」
言われたつくしはテーブル上に箱を置くと、蓋を取る。
「うわぁ!懐かしい!これ道明寺のところのメイド服じゃない?今のと違うけど、あたしが邸に住み込んでいた時の服よね?」
「これはおまえの着てた服だ」
「うそ!まだあったの?・・懐かしい・・」

その時、ちらっと視線を司に移したつくし。

「・・もしかして道明寺。このメイド服をあたしに着て欲しくて持って帰って来たんじゃない?」
まさに図星。司は慌てた。
「な、なに言ってんだ?そんなことあるわけねぇだろ?なんで俺がそんなこと考えるんだ?」
「ふーん。そっか。じゃあこのメイド服、どうして持って帰ったの?」
「それはおまえに懐かしいだろって見せる為で、別におまえに着て欲しいだなんて思ってねぇ・・・」
しかし言いながら、司の胸に期待が広がっていた。
「・・そう。・・・でも道明寺がお願いするなら・・着てもいい・・」
小声で呟くつくしの言葉に司の顔は緩んでいた。





どちらがご主人様だかわからない。
だがそれでもいい。
そうとも。この挑戦を止めるつもりはない。
何年かぶりのメイド服姿のつくし。
司はその姿に喜んだ。

これであとは、あの妄想通りに・・

・・・行くわけねぇか。

何故こんなことを思い立ったのか、今では理由はぼやけていた。
それに今では司の方がつくしの召使かもしれない。
だが、俺はそれで満足だ。
何しろお願いすれば、メイド服も着てくれる。
もちろん英徳の制服も。
そして彼が一番見たかった姿。
それは、司が買ったセクシーなランジェリー姿のつくし。
いつまでたっても恥ずかしがり屋の女だが、彼の願いは叶えてくれる。

『腹八分目に医者いらず』

そんな言葉があるが、目の前に牧野つくしが置かれれば、食べないわけにはいかない。
八分目だなんて冗談だろ?
全部食べないと気が済まねぇ。
そしてもちろん、他の誰にも渡さない。
牧野つくしは俺だけが食べていい。
それに牧野つくしに味付けは要らない。
ありのままのあいつが一番うまい。

・・だから・・・別に・・
メイド服なんて着なくてもいいんだが、大人の遊び心だと思ってくれ。

昔から食事の作法は一流と言われた俺。
もちろん牧野つくしを食べるとき、マナーを守って喰ってやる。

骨の髄まで残さず綺麗に。

それくらい牧野を愛してる。


禁欲生活だなんて文字は俺の辞書にはない。

愛とはどんなものか知ってるか?

愛する人と、決して離れないことだ。






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2016
12.17

Collector 25

Category: Collector(完)
雨がいつも激しく打ちつけるのは、あたしを叱っているのかと考える。

雨の日にあの人を捨てたあたしを罰している。いつもそう思っていた。

だが、雪はどうなのか。

雨になるか雪になるか。今のつくしにはこれから先の天気がどれほど変わったとしても関係ない。だが一度だけ雪によって運命が変わりそうになったことがある。冷たく湿った雪と風の吹く夜。雪嵐で死にかけたとき、助けに来てくれた男がいた。自らの命を顧みることなく、助けに来た道明寺。あの時のあたしの命は彼の手にかかっていた。
あの夜、彼ははっきり警告を与えることをした。
凍傷で足を切り落としたくなければ、死にたくなければと命の大切さを伝えた男。
裸で抱きしめられたとき、その身体を通して道明寺があたしを心配する心が伝わった。
痛いほどの寒さに震えた夜を二人で乗り越えたことがあった。

そして、今、灰色の空から落ちてくるのは雪。
この雪はあの時の雪と同じ雪になるのだろうか。
あの雪山で過ごした山荘の一夜のように激しく降り積もる雪になるのか。
もしそうなら、まさに今のあたしの運命は道明寺の手に握られている。


木村とつくしは山荘に向かって道を引き返していた。
雪はまだ足元を隠すほど積もってはおらず、滑ることもない。
だが、早く山荘にたどり着きたいとばかり、二人は急いでいた。

自然の中にいるといつも考える。人間はなんと我儘な生き物なのか。
川は、木は、森は、誰かから何かをされたからといって文句を言うことはない。長い年月をかけて育ったはずの自然なのに傷をつけられたからといって、切り倒されたからといって文句を言わない。
それなら自分もそうなればいい。10年という年月は人間を成長させてくれるに事足りるはずだ。自分の中には成長した女がいる。今の道明寺を許すことが出来る女。そして、彼を今の彼から解き放つことが出来るのは自分だけだという思いがある。

今夜、道明寺と話しをしたい。
人として、ひとりの女として、そして彼をひとりの男として見ていると伝えたい。

そして、あのとき、引き裂かれた二人の絆を取り戻したい。

明るかった空はいつの間にか暗く、山を呑み込んでいた。
雪雲を連れて来たのは道明寺なのだろうか。はじめは小さな雪の粒もやがてだんだんと大きくなっていった。まさか自分の生活がその日の天候に左右されるようになるとは、考えもしなかったが、山で暮らすということは、天気を把握しておくことが不可欠だと聞かされた。だがこの雪は予報とは違うようだ。

まるで二人の人生のような天気。
これからのことなんて予測できない山の天気と同じだ。


そのとき、つくし耳に、山の空気を震わせるような、乾いた音が響いていた。





***






これまで当然のように周囲の世界を支配してきた男。
他人の人生が自分の人生に混じり合うということを考えたことのない男。

だが、過去に一度だけそれを望んだことがあった。

あの少女と一緒ならと。

そしてあの時の少女は今、大人の女となって彼の世界の中にいる。
それが例え本人が選んだ形でなくても、望まない形だとしても、司の世界の中にいることだけは確かだ。

司の世界の中にあるのは深い闇と孤独だけ。
その世界が制御不能になることはなく、何も恐れるものはない。司を取り巻くすべてのものは、彼の支配下に置かれてコントロールされているからだ。だが、一時、そのコントロールが効かない事態に出会ったことがあった。
それまで彼が周りの全てを支配していたというのに、逆らう女がいた。あの女との出会いはまさに初めての経験。
彼にとっての未知だ。
そうだ。あいつは未知の女だった。
遠い知らない世界から来たような女。
その女に対しての激しい所有欲を感じた。
それは司自身が知ることがなかった性格の一面。

ある日。司は我を忘れた。彼は殺しかねない勢いで、すれ違っただけの学生に殴りかかっていた。ただ、そうしたかっただけ。何があったというわけではない。
殴り、蹴り上げ、頭を床に叩きつけ砕いてしまうほどの勢い。誰も止めるものはおらず、いや止められなかった。

理由は簡単だ。
司はそのとき、花沢類に初めて嫉妬した。
そして、その嫉妬は彼女に向けられた。
まだ少女だった牧野つくしに。

カッとなったのは、牧野の対応の仕方のせいだったのかもしれないが、あのとき抱いた気持ちは紛れもない嫉妬。この女を滅茶苦茶にしてやりたい。自分のものにしたい、壊してしまいたい。だが、彼がその手にかけようとした女の涙が、静かに頬を伝うのを見た瞬間、情け容赦のない男の行為は動きを止めた。


あの時、心の中に湧き上がったのは未知の思い。
生きとし生けるものなら誰もが感じる思い。
自分以外の誰かを大切にしたいという思い。
ただ抽象化され、白か黒かしか色がなかった司の世界にはじめて色が付いた瞬間だった。

遠い昔感じた未知の感覚というものも、今は思い出すことすらない。だが、思いもよらぬ形で心を鎮める時間を得ることがあった。そうなると、自分の人生の変貌について考えることになる。

ついさっきのヘリの中のように。

ヘリの扉が開いた瞬間、司は一瞬だったがいつもと違う表情を見せた。
誰にも見せることなく、隠してきた顔を。空高く両腕をあげ、掴めない何かを掴もうとした。まさにほんの一瞬、彼の顔に笑みが浮かんだはずだ。

そして、そのほほ笑みが浮かんだきっかけを彼は知っているはずだ。

かつて自分を見てほほ笑んでくれた女の顔を思い出し、軽やかな笑い声を聞きたいと思っていた。あの唇に触れたい。あたたかく、愛らしいと感じたあの笑顔が見たい。柔らかな胸に触れ、美しい黒髪を撫で、その香りを胸いっぱいに吸い込みたいと願う。だが、今の司は女の身体を貫き、奪い尽くすことしか出来ない男だ。過去、容赦を知らない野獣のようだと言われていた頃の自分がここにいる。誰にもしたことがないような激しさで、女を貫き、力の限りセックスをし、全てを奪いつくしたいという思い。そしてその反面、頭の中に思い浮かんだのは、また別の光景。慈しみたいという思い。

二つの思いが胸の中に去来する。

気づくと、司は空に向かって求めたのかもしれない。

あの頃の笑顔を、自分に向けて欲しいと。



本当に求めるものはいったい何なのか。

誰か、教えて欲しい。

神の啓示であっても構わない。
その啓示を読み取ってみせる。


猟銃の乾いた音が山に響き渡った瞬間、司は窓の外の景色を眺めていた。
雪が形を変え、大きくなってきたところだった。この山荘に続く道は私道でここが最終地点。ここから先、行く道はない。当然だがこの山一帯は道明寺家の所有する山林だ。

彼は神経質になる男ではなかったが、この山で猟が出来るのは当然道明寺家の者だけ。そして、狩が出来る立場の人間は司と彼の父親しかいない。それなら誰が?木村がいつも猟銃を携帯して山に出ることは知っている。何か動物でも撃ったか?森の木々の葉は落ち、緑色のものはない。寒さに震えるように立つ木々の間に何か動物でも見たか?
そう考えないこともないが、何故か嫌な思いが頭を過る。

司は素早く猟銃が保管されている部屋へと移動した。必ず鍵を掛けて保管することが定められている猟銃。だがこの山荘には鍵の掛からない場所へも銃がある。それは木村と司と彼の父親だけが知る場所。大きな梁の巡らされているこの山荘を利用する人間が限られているということもあるが、昔からその場所へ銃が置かれていた理由は誰も気にしたことがない。無登録の銃があってもおかしくないのが、彼の世界の常識だ。

司は銃と一緒にあったコートと革の手袋を掴むと、外へと飛び出していた。




司は、誰かのために走ったことがない。
いや。過去にあったかもしれない。あの女のために走った。
だが、いつ、なんのために走ったかなどもうとっくの昔に忘れ去っていた。
ただ走ったということだけは記憶の中にあった。
コートを着ると、革の手袋はポケットの中に突っ込んだ。
猟銃の扱いは幼い頃から慣れており、考えることなく扱うことが出来る。
幼い頃覚えたことは、頭でなく、身体が覚えているからだ。幾度となく狩に出ては銃の扱いについて教えられている。

山荘の周りに設けられている小径を数分走ったところで二人を見つけた。

「_木村。さっきの銃声はおまえが撃ったのか?」

息があがった突然の声につくしは悲鳴をあげると振り返った。
銃声に続き、司が目の前に現れたからだ。彼の手には木村と同じように猟銃が握られていた。幼い頃から父親に連れられて狩に出ていた男の手に握られた猟銃。木村がその手に銃を持って歩く姿は、今では慣れたものだが、司が手にした姿は初めて見るはずだ。国内で銃を手にする人間にお目にかかること自体がないだけに、二人の男性が銃を手にしているということに、戸惑いを隠せないように見ていた。


「司坊っちゃん!」

司よりも随分と年配の男は何年たっても彼を坊っちゃんと呼ぶ。
司にとってもそんな男は自分の父親よりもずっと親しみやすい存在だ。
幼い頃からこの山荘で自分たちの狩の世話をしてくれた男。

「いえ、違います。わたしは撃っていません。一発だけですが、あちらの山の方角から撃ってきました。まさか我々を猪や熊と間違えて撃つとは思えませんが、危険です。この界隈でこの山が道明寺家の山だと知らない人間がいるとは思えませんが、危険ですから牧野様を連れて急いで戻って下さい」

その言葉ははっきりと告げている。
誰かが故意に狙ったのではないかと言っていた。

「どの方角から撃って来たんだ?」
司の口調は荒くなった。
「どんなヤツが撃ったのかわかるか?」

「あちらです。後ろの山の中腹だと思われます。すぐに確認しましたが、何しろ林ですのでハンターは確認できませんでした」

警察上がりの木村は一般人とは観察眼が違う。ただの傍観者として周りを見ているわけではない。不用意な発言はしない男で、確証がない限り返事を返さない。長年道明寺家に仕える男だけのことはあり、主の求める答えを返していた。

「誰だか知らねぇが迷ったハンターか?」

司は示された山の中腹を見やった。が、すぐに視線を木村に戻すと聞いた。

「...恐らくそうだと」

言葉は曖昧に誤魔化されている。その理由はつくしが傍にいるからだと司はわかっていた。
身近に聞いた銃声に動揺している女。平静を装ってはいるが、表情に強張りが見て取れる。
女の不安を読み取った男は彼女を守ろうとするかのように銃を傾けた。
片目を細めるようにして、木村の指示した方角に照準を合わせた司。
真一文字に口を結ぶと、引き金を握った指に力を加えた。

山に響く銃声は2発。
大きな音が木霊となって谷から尾根伝いに響いていた。

「坊っちゃん!不用意に撃ってはいけません。相手にこちらの居場所を伝えるようなものです」

司の行動に木村は苦言を呈すが、その言葉の意味は相手がただのハンターではないと言外に匂わせたようなものだ。

「どこのハンターだか知らねぇが、うちの山で用もねぇのにぶっ放されたらいい迷惑だ」

司も木村の言いたいことはわかっている。こんな寒い、ましてや雪の降る山で誰が好き好んで狩などするというのか。相手が故意にこちらを狙って撃ったことはわかっている。
だから警告の意味を込めて2発発射した。


木村は山に住む人間として猟銃の扱いに慣れていると聞いた。だが司が銃を構えて撃つところを初めてみた女は、驚いていた。司の顔に浮かんだ厳しい表情は、いつも見慣れているこの男の表情とはまたどこか違っている。そう思っていることは確かだ。

「帰るぞ」

と、ただそれだけの言葉を残した司は、つくしの手を掴むと山荘へ続く小径をゆっくりと歩いていた。







自分の手を汚さず相手を苦しめる方法を、本能的に知っていると言われた男。

そんな男が自ら銃を撃った。

理由はただひとつ。

牧野つくしを守るため。

司は10年前のあの頃の自分の姿を思い出していた。
全てを犠牲にしても、道明寺という家を捨てても彼女といたいと思っていたあの頃の自分を。若く、何も恐れるものがなかったあの頃の自分。そんな自分が唯一恐れたのがこの女に拒否されるということだったというのだから、今の司からしてみれば酷く滑稽に見えるはずだ。




部屋に戻ったつくし。
そして司。

つくしは司が開かれたままのカーテンを閉める姿を見ていた。
後ろ姿からでも感じられる、彼独特の冷たい空気。こちらを振り向いた男の瞳はいったいどんな瞳なのだろうか?鋭い瞳でこちらを見返すのか、それもとも憂いを秘めた瞳でつくしを見るのだろうか。

振り返った男の姿に見たのは憂いを秘めた瞳。

「俺がおまえを狙わせたかと思ったか?」

司の唐突な問に首を縦にも横にも振らない女。
司の言葉がなくても、自分が狙われたのではないかという思いはあった。
着弾したのはさして離れていない場所だと木村の行動から知っていた。

「俺じゃねぇ」

つくしの目を見据える黒い瞳。

「信じてくれ」

そっと言い添えられた言葉。
つくしには真実だと思えたのか、ゆっくりと頷いた。
それに勿論わかっている。この男がそんなことをするはずがないと知っている。
この場所に無理矢理連れてこられ、監禁された生活を送っているというのに、頭がどうかしてしまったのかと言われるかもしれないが、つくしは司の言葉を信じた。

俺を信じてくれ。
彼の黒い瞳には、自分を愛してくれたあの少年の率直さがあった。過去に何度も言われたその言葉をどうして信じようとしなかったのか。彼がその言葉を与えた人間に対しては、絶対に約束を守ったはずだ。例え時間がかかったとしても、必ず。彼は、道明寺司という男は、簡単に言質を与える男ではない。



人を信じることは何より相手に信頼を与える。

その信頼関係を構築するためにはあたしは何をすればいい?


わかりきったことだ。たった今、あたしは道明寺を信じた。今は酷い男となっていても二人は根っこの部分で同じ考え方をする。1人の人間を純粋に愛するがために、自分を騙すことをしている。そして、過去にしたことがある。
だが、もう嘘はつきたくない。つくしも自分自身の中にどこか嘘をついていた部分があった。
あの頃の自分はあの時、どうすればいいのか分からない部分があった。別れを選択した理由さえ、今となってはなぜ?という思いがしていた。

自分自身を信頼してもらえるまで、繰り返せばいいだけだ。
道明寺司を愛することを。

今はもう愛を返してもらえないとしても、与え続ければいい。

つくしは司の目の前で服を脱ぎ始めた。
躊躇うことはしない。もう迷わない。誰かが邪魔をするのならすればいい。
つくしは何があってももう迷わない、逃げないと誓ったのだから。
自分の信じる道を進むしかない。過去はいらない。前だけを見て歩く。
そのために必要なことがあるというのなら、この身体が必要だというのなら、受け取って欲しい。
つくしは司の見つめる前で、全てを脱ぎ捨て、自分の胸の内にあった思いを打ち明けた。

「道明寺。あたしは今でもあんたのことが好き」






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エンドロールはあなたと 32

翌朝、随分と身体が楽になったと感じ、目を覚ました。
いったい何時間眠ったのかと思ったが、どうやら体内時計は元に戻ったようだ。ベッドから起き上がった身体は少しだるさを感じるが、出勤することに迷いはなかった。

キッチンのテーブルに目をやると、そこにはメープルから配達された容器があった。
道明寺司が手配してくれた食事。肉をひと口食べ、おいしいと思った。もちろん他のものもおいしいと感じた。いつもと同じひとりで食べる食事だが、彼の気遣いとやさしさが胸にしみた。

俺たちの出会いは運命だなんて言う男は信じられないと思っていた。
誰にでもそんなことを言う男も多いからだ。

つくしは深呼吸をした。
風邪のウィルスは去ったが、別のウィルスに感染してしまった。全身の細胞がそのウィルスに感染したおかげで、今までにない動きをしているように感じられる。そのうえ、今まで使ったことのない細胞までも動き出したような気がする。

何しろつくしにはそのウィルスに対する免疫がない。適齢期をとっくに過ぎ、仕事に邁進しすぎたせいと言えば聞こえはいいが、女という生物としては世間からは失格とも言われていた状況だっただけに、この細胞のざわめきをどうすればいいのかわからない。

だがあの男を、道明寺司を好きになったと親友たちが知れば、喜んでくれることに間違いないだろう。育ちのいい親友たち。もしかすると、口をぽかんと開けて嘘だと驚くかもしれない。それに間違いなく一人は背中をバンバン叩いて喜んでくれるはずだ。

どうしてあの男を?
出勤の準備をしながら考えたが、答えは見つからなかった。人を好きになる理由なんて、考えても見つからないのかもしれない。それに人は簡単には本音と向き合うことは出来ない。
好きになったからと言って、その思いを簡単に伝えることが出来るとは思えない。
あの男とあたしは立場が違う。少なくとも今はクライアントと担当者だ。それ以外のことは考えない方がいいかもしれない。

つくしは職場へ向かった。
あたしだって33歳のいい大人だ。自分の態度に責任を持つことの出来る年齢だ。仕事は仕事。私生活は私生活。公私混同は良くない。だから黒い瞳に、完璧に整った顔の男を前に理性を失うわけにはいかない。何しろこれからあの男との仕事が待っている。
細胞のざわめきには、この際少し待ってもらうしかない。


「牧野主任!お帰りなさい!あっちはどうでした?」

久しぶりに出社したつくしはデスクにつくと、カリフォルニアから持ち帰ったワインに関する資料を広げていた。そこへ近寄って来たのは後輩社員の紺野。

「ただいま。色々ゴメンね。急な出張で迷惑をかけたわよね?」

実際急な出張で、いくつかのスケジュールの変更を余儀なくされたが、日本での仕事はすべて紺野に任せていた。いくつか指示が欲しいとメールで連絡があったが、どうやら問題になるような事はなかったようだ。

「いいえ。何も問題なんて起こりませんでしたし、大丈夫ですよ。僕だって伊達に主任の下で鍛えられていませんからね!」

まるでつくしが紺野をしごいて来たかのような口振りだがそれは勿論冗談だ。

「そう。良かった。何しろ急だったから出発前はバタバタしちゃってごめんね。あ、そうそう、紺野君。これお土産。チョコレートなんだけどみんなで食べて?」

足元に置いた紙袋の中から、長方形の箱を取り出し紺野に渡たす。どこの国へ出張しても、職場への土産として定番なのはチョコレートだ。誰もが好きで間違いがないからだ。
紺野は受け取ると礼を言い、箱を自分のデスクの上へと置くと言った。

「ねえ、主任?」
「なに?あたしのいない間、やっぱり何か問題でもあった?」

持ち帰った資料の中から、広告の原案に盛り込めるものがないかと考えていた。
CM広告はターゲットの年齢層が上がったことにより、当初考えていた案よりも大人向けの案がいいかと考え始めていた。

「僕は牧野主任の私生活に口を挟むつもりはありませんが、道明寺支社長との出張はどうだったんですか?」
突然切り出された言葉にぎょっとしたつくしは紺野の方へ振り向いた。
「どうって何がどうなのよ?」
紺野は出発前から道明寺司とつくしの仲を妙な態度で気にしていた。
「だって地球上で一番かっこいい男性と一週間も一緒だったんですよ?何もないなんてことはないでしょ?」
どうやら紺野の中では、道明寺司は地球上で一番かっこいい男になったようだ。

「ねえ。主任?僕は別に生意気なことを言うつもりはありませんが、主任が道明寺支社長と何かあってもいいと思っていますから。で、どうだったんですか?道明寺支社長から何かアプローチでもあったんですか?ねえ?教えて下さいよ?道明寺支社長のプライベートジェットでの旅ですよね?いいなぁ」

うっとりとした口調で言う紺野。
まるでグリグリと肘でつくしの脇腹でも突いて来そうだ。

「な、なにもないわよ!あ、あるわけないじゃない!ど、どうして何かあるなんて思うのよ?」

つい強い口調になったつくし。
何をバカなことを言っているのかと、顔の前で否定するように手を振った。

「主任。なにそんなに慌ててるんですか?まさか!!これから毎晩一緒にいようなんて言われたんじゃないですよね?」
紺野の目は疑り深そうに細められた。
「もしそうなら_」

内緒話でもするかのように、つくしへと屈みこむような姿勢をとる。
つくしはそんな紺野に慌てて言った。

「な、なに言ってるのよ!そんなことあるわけないじゃない!これから毎晩一緒だなんて_」

つくしはその瞬間、頭の中に道明寺司の身体のことを考えていた。
コートを着せられ、後ろから抱きしめられ、男の吐息を間近に感じた。その体の熱を感じ_
いや、それよりも風邪で寝込んでいたつくしの身体に寄り添っていた裸の胸_

「主任?牧野主任?」
「えっ?な、なに?」

つくしは慌てて妄想を振り払った。

「まったく、また妄想ですか?いいですか主任。出会ったばかりでも本気になる恋は世の中にいくらでもあるんです。まあ、主任のことですから恋とか愛とかいきなり言われても困るかもしれませんが、知り合ってからの長さなんて関係ないんです。恋の花はいきなり咲くんですから!いつまでも球根でいたら根腐れしますからね?人生一度しかないんですから、ぱっと花を咲かせて下さいね!」





***






つくしは自分を𠮟りつけ、背筋をしゃんと伸ばし、仕事に取り掛かっていた。

それにしても心の準備が出来ていないうちに、道明寺司と顔を合わすことになるとは思いもしなかった。もっともいつまでたっても準備が出来るなんてことはないだろうけど、なんとか道明寺の視線を受け止めていた。

会議室に入って来た男を見た途端、自分の中の未知なる細胞が動き出したのが感じられた。
いつもながらビシッと決めた極上のスーツ姿の男。いつにも増してゴージャスだと感じられ、気もそぞろになりそうなところを、なんとか会議に集中しようとした。

「牧野主任。身体は大丈夫なのか?」

あれやこれやと世話をしてくれた男は、相変らず優しい。周りの目など全く気にしていないのか、身体は大丈夫なんて聞き方をすれば周りの人間が誤解することを知っているのか、知らないのか。もし知っているならわざと周りの人間に聞かせているということになる。

広告内容再検討会議でのひと言に、つくしの顔は突然真っ赤になっていた。
うろたえたつくしは、会議テーブルの上におかれたコーヒーカップに手を伸ばした途端、カップをひっくりかえしてしまった。

「主任!大丈夫ですか!」
隣の席にいた紺野が声をあげた。
「ご、ごめんなさ・・いえ、申し訳ございません!」

つくしは慌てて立ち上がり、上着のポケットからハンカチを取り出すと、テーブルの上を流れ始めた液体の流れを食い止めようとする。だが、ハンカチ一枚で茶色い流れが止められるはずもなく、流れはどんどん広がり、やがて反対側に座る道明寺司の前まで広がっていく。紺野も慌ててハンカチを差し出したが、やはり流れは止められない。それでもつくしは必死になっていた。

次の瞬間、つくしは後ろから手を掴まれていた。視線に入ったのは、白いワイシャツの袖口とホワイトゴールドのカフスに男らしい大きな手。

「牧野。止めろ。おまえ手を火傷したんじゃねぇのか?」

ひっくりかえしたコーヒーは、淹れ立てで湯気が立っていた。
確かにそのコーヒーを利き手に浴びた。だが火傷したかと言われればわからない。
今は自分の事を考えるより、テーブルに置かれていた資料の方に気が向いていたからだ。
汚すわけにはいかないと必死だった。

「そんなに慌てるな。それよりもおまえの手の方が心配だ。今すぐ冷やした方がいい」

今のつくしは自分の手よりも、男の目を見ていた。
瞬きも出来ず、視線を絡ませたまま、文字通り見つめ合っていると言った方がいいだろう。

「ほら、行くぞ」
と言って手首を掴まれた。
「ど、どこに行くんです?」
「どこって手を冷やしに行くに決まってるだろ?」

しどろもどろの女に司はイラついていた。熱いコーヒーを浴びた手の親指の付け根は赤くなっている。早く冷たい水で冷やしてやりたいという思いがあった。

「ま、牧野主任?」
という紺野の声に、つくしは我に返った。
「こ、紺野君、あのね・・」
言いかけたつくしの話に司が割り込んだ。
「おいおまえ。紺野か?会議の続きはおまえが進行しろ。牧野がいなくても出来るんだろ?俺はこれからこいつの手当がある」
「あ、あの、道明寺さん・・じゃなくて道明寺支社長、大丈夫ですから、ご心配いただかなくても、あの_」
「牧野、おまえちょっと黙ってくれ」
つくしが何か言おうとしたところに、司は再び口を挟むと言った。

「好きな女の心配をして何が悪い?」

低い声に甘い艶を加えて言い、つくしの身体を抱き上げた。





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エンドロールはあなたと 31

二人に間に流れる空気が変わった。
コートを着せ、後ろから抱きしめた瞬間、身体が触れ合い、体の温かさが伝わったはずだ。
今まで腕に抱き上げ運んだことはあったが、あの行動は意識して行った行動ではない。
足を痛めた女を運ぶという行為だけだった。
だが、こうして抱きしめ、女の香りを深く吸い込む行為は求めてそうした。
香水も何もつけない女の香り。微かに香るのはホテルに備え付けられているシャンプーの匂いなのか軽やかな花の香りがした。

一瞬の緊張と戸惑い。

司はつくしの体を抱きしめたが、すぐに放すと後ろへと退いた。
短い時間だったが、牧野が身をくねらせ嫌がることはなかった。だが、大きく息を吸い込んだのが感じられた。
一時の間を置き、振り返った女は、まだ痛む喉を潤すかのように唾を飲み込んでいた。
何も言わない女を司はじっと見つめ、やがてふっとほほ笑んだ。

「準備が出来たんなら出発しようか?」

そう声をかけた男に小さく頷く女。
その瞬間、確かに二人の間の何かが変わっていた。



一生懸命明るく振る舞う女。
今朝の牧野はどこか違う。
そうだ。まさにトゲが抜けた女だ。
相手に触れたいという思いが一方通行ではないと知ったような気がする。
それは、抱きしめた瞬間、感じられたような気がした。

司はつくしを観察し喜びを覚えた。
だが、その喜びを表に出すことはしなかった。逆にそんな女をからかった。
空港に向かう途中、なにか土産を買いたいと言った牧野。

「滋さんと桜子にお土産買わなくちゃ。な、なにがいいかな?カリフォルニアで有名な物ってなにが...」

リムジンが止まった店はカリフォルニアのドメスティックプロダクツを扱う店だ。

「あいつらならしょっちゅう旅してるんだから必要ねぇだろ?」
「あ、でも、桜子から...」

意味ありげな理由をつけた色の口紅を貰ったが、その理由が目の前の男に自分が発情したサインを送るためだとは言えるはずもなく、つくしは黙った。

「なんだよ?三条がコンドームでも渡して来たか?」
黙り込んだ女の表情は、まるで図星だったかのようで司は面白がった。
「こ、これなんかいいかも?」
顔を赤らめ、慌てる女が手に取ったのは、カリフォルニア北部にあるレッドウッドの森の古木から作られた品物。
「おまえ、滋や三条がそんなもん貰ってどうすんだよ?」

隣に立つ司が手に取ったのは、切り株を加工した木製のコースター。
司は笑いを堪えた。だが司が笑いたいのはつくしのことではない。あの二人がコースターを貰ってどういった表情をするのかを思い浮べていた。
俺なら牧野からどんな物をプレゼントされても嬉しい。金がかかっていようが、なかろうが、そんなことは関係ない。
だが、あの女たちはどうだ?

あの二人はどちらも物には不自由しない女たちだ。
そんな女たちと、ごく一般的な庶民の女が対等につき合えるところに、この女の気取りなさが感じられた。相手が金持ちだろうが、人としての価値を認めるのはステータスではなく、人間そのものを見ているということだろう。それなら牧野がこのコースターを買って帰ったとしても、あの二人は喜んで受け取るということか?

あの二人がこいつの友人でいるのは、俺より早くこの女の価値を知っていたということか?上っ面だけを見て、友人面する取り巻きじみた人間たちよりも、人間らしいつき合いの出来る牧野に価値を見出していたということだろう。

金で価値を決めるような人間は、こんな物を土産として渡すことはないだろう。だが立場が違っても、互いの存在を認めあえる女からの贈り物は心がこもっている。自分の出来る範囲で心を込めた贈り物をすることが出来る女。そしてそれには意味があるのだろう。
牧野はそんな女ということだ。

物の価値は人それぞれだが、高い物がいいというわけではない。
若い頃の司は、その意味が理解出来なかった。物の価値は全て金で決まると考えていた頃があった。
今はもうそんな考え方はしない。どんなに安い物でも、それがいい物だと思えば価値を見つけ出すことが出来る。
例え他人がそれを認めないとしても、今の司には本物を見るだけの目は備わっているはずだ。司はそんな思いで、つくしがコースターを品定めする姿を眺めていた。


乾燥した機内で牧野の風邪が再び悪化することがないようにと、気を付けていたが、なんの気なしに唇を舐める仕草。それがとてつもなく官能的な仕草に見えることに、間違いなくこの女が欲しいと感じていた。その仕草がわざとでないとしても、まだどこかぼんやりとしたところのある女の行動が司の欲望を煽った。

バージンは自分の行動が男に与える影響というものを知らないのだから仕方がない。
意識しないでの行動は始末に負えない。
司は今更だが、自分が少しぐらい威勢のいい女が好きだと気づいた。
牧野つくしのように、自分に体当たりしてくるような女が。
今は少し弱っている女だが、風邪も治ればまたいつものどこか生意気な女に戻るのだろうが、それが楽しみだった。

司は隣の椅子で眠るつくしを見た。
ジェットの中、牧野は食事を済ませると眠っていた。体調が回復途中の女はまだ薬を飲んでいる。
司は微笑んだ。この旅で求めていたもの。それはもっと自分に近づいてきて欲しい、自分を知って欲しいという考えから思い立ったようなものだ。仕事は後付けとでも言ってもいいほどだった。だが、風邪をひいたことで、少しだけ素直になった女の態度に微笑みを隠すことが出来ずにいた。

薄い毛布がずれていたのを直すと、司はこの旅で溜まっていた仕事に戻っていた。




サンフランシスコを発ったジェットが東京に着いたのは、午後を少しだけ過ぎた時間。
平日とは言っても流石に海外から戻ったばかりのつくしは、会社に行く必要はないとしても、道明寺司は違うようだ。一週間も日本での職務を離れれば、仕事が山積みなのだろう。機内で目が覚めたときも、目の前のデスクに書類が広げられていた。この男の立場を考えれば、今回の出張はこれから後に、相当な負荷がかかるのではないだろうか?ジェットが着陸し、携帯電話の電源を入れた途端、呼び出し音が途切れることはなかった。


マンションまで送られたつくしは、司に食べ物はあるのかと心配されていた。
確かに一週間も居ないとなると、冷蔵庫の中の生モノは処分して行くのが長期出張に出る時の決まりだ。だが、つくしは普段から作り置きをしてフリーザーに入れておくということをしている。これなら遅く帰っても料理をしなくて済むからだ。

「冷凍庫に作り置きがあるから」

恐らく道明寺には作り置きがどういう意味かわからないだろうが、聞かれもしないことを説明はしなかった。

「そうか。それなら今日はゆっくり休めよ。大人しくて早く寝ろ」

それだけ言うと、帰っていった。
それから部屋にたどりついたつくしの頭に浮かぶことと言えば、あの男のことばかりだ。

「おまえは俺の人生についてはいつでも閲覧可能だ。聞きたいことがあるなら何でも答えてやる」

閲覧可能だと言われても、そんなことが出来るはずがない。
あの男の人生は目に見えないインクで書かれていることもあれば、世界中の誰でも知っていることもある。

「そうは言っても、おまえの場合は俺に聞くより滋に聞くんだろ?もし、俺について聞きたいならそのコースターを渡すときでも聞けばいい。滋なら何でも教えてくれるはずだ。あいつもそんなに俺のことを知ってるとは言えねぇが、週刊誌よりも確かだ」

結局買った木製コースター。
つくしはそのコースターを手にぼんやりとしていた。
ただぼんやりとしているだけだというのに、やはり海外から戻ったばかりということもあるのか、風邪薬のせいなのか、それとも時差のせいなのか。目を閉じると、いつの間にか眠っていた。

気付けば何度目かのインターフォンの音で、目を覚ました。
どうにか立ち上がってカメラを確認すれば、ホテルメープルから配達だ、御届け物だと言われ驚いた。玄関先で受け取ったのは、大きな箱。
恐る恐る開け、驚いた。保温ボックスの中にあったのは、温かいスープ、温野菜のサラダ、見るからに柔らかそうな肉、このメニューにはどう考えても似合わないお粥。そしてみずみずしいフルーツが詰められた容器が入っていた。
誰が送ってきたか、すぐに察しがついたが、添えられていたカードを急いで開いた。

『 しっかり栄養をつけろ。ゆっくり寝ろ。 』

サインはもちろんあの男、『 道明寺司 』


旅に出る前、滋があの男を魅力的ないい男だと言うことが理解出来ずにいた。
だが今はその意味がわかったような気がする。
悔しいことに、つくしは道明寺司のことが気になっている自分に気づかされた。
胸がわけもなくざわめく。
今まで気づきもしないような事に気づくようになる。
それは、恐らくはじめて感じる思い。

つくしの手元にはコースターが4つあった。
滋と桜子への土産。それから自分への記念。
そして最後のひとつ。なぜかあの男の分まで買ってしまった。
看病してくれたお礼にと思ったが、こんなものをあの男が喜ぶはずがないと思いながらも買っていた。

マンションまで送られ、最後に大丈夫かと聞かれたが、大丈夫じゃない。
これから先、大丈夫かと聞かれても大丈夫でいることなんて出来ない。
彼を、あの男を好きになったことにたった今、気づいたばかりなのだから。






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2016
12.14

エンドロールはあなたと 30

つくしは幾分元気を取り戻していた。
旅の5日目に発病し、翌日は一日大人しく寝ていた。ベッドに横になり、処方された薬を飲み、食事をすれば体力の回復も早い。
こんなにゆっくり過ごす時間は初めてだ。今まで風邪をひき、多少の熱が出ても、体力に自信があったから仕事をしていた。しかし、今回こうして風邪をひいて体調を崩すことで、今までの人生を考える時間が出来たかもしれない。

幸か不幸か海外という地は、日本での仕事のことは考えなくていい。今、つくしが担当している道明寺社の仕事のおかげと言えばいいのか、他の仕事は担当してないのが実情だ。
そんな状況で余計なことが頭に侵入してくることがないのだから、無駄に時間があった。
恐らくこれは、社会人になって初めてのことだろう。今までは家にいても、常に頭の片隅には仕事のことがあった。この旅と風邪は、まるで疲れ切っていた頭をリセットしてくれるかのようだ。


そのきっかけはこの部屋にいるひとりの男性に因るところが大きい。


痛む喉を潤そうとミネラルウォーターに手を伸ばそうとすれば、大きな手がさっと伸び、キャップを外して渡してくれた。寝たら起きるなと言われ、まるで肺炎にでもかかった重病患者のような扱いをされた。

昨日は朦朧とした頭で何を言ったか覚えていないが、急に態度が変わった道明寺司に戸惑いを覚えてしまった。勿論、今までもアプローチをされていたが、今までの行為とはどこか違う優しさが感じられた。今まではどちらかと言えば自分の男としての魅力を全面に押し出してくるような男だったが、今は何気ないことが胸にしみた。

時々熱を測るかのように額に手を触れられると、身体がぞくぞくするのを感じた。
『人間として好きかもしれない。』
そんなことを口にしたような気がするが、よく覚えていなかった。

だが以前とは同じとは言えない気持ちになっていた。
どこがどうだとは言えないが、道明寺司とあたしの関係が変わったのが感じられた。
少し前なら何かされても、気持ちを切り替えることも出来たはずだが、何故か今はそれも出来なくなってしまったようだ。額に触れた手の温もりが嬉しいと感じてしまったのは、嘘偽りのない正直な気持ちだ。道明寺司のことなんて、気にならない・・
そう言いたいが、心の中には反対の声が上がっていた。

つくしはそんなことを思いながらも、目を閉じるといつの間にか眠っていた。





牧野つくしが一日ベッドに横になっている間、司は傍にいた。
司は穏やかな寝息に胸を撫で下ろしていた。
ただの風邪とはいえ、海外と日本とでは状況が異なる。外国で病気にかかるということは、常にリスクが伴うからだ。医者の手配はどうとでもなる。そのことは心配していない。
ただ、処方される薬の種類や量はアメリカ人基準で量られる。市販薬など小柄な日本人の女にはどう考えても量が多すぎる。それにこの国の薬は良く効くが副作用が伴うことも多い。
そんな薬を飲ませることは避けたい思いがあった。

風邪をひいたら一番の処方はただ寝る事だ。例え薬を飲まなくても一週間あれば風邪は治ると言われている。それに睡眠と栄養が一番いいというのは、昔から言われていることだ。
ただ、この女は働きすぎで疲れ果てていると言えるだろう。そんな状況の女を連れ出したのは司なのだから、彼にも思うところがある。この際、ゆっくり休ませてやる方がこの女のためだ。司は女を無理矢理にでも休ませるつもりでいた。

他人が彼に見せるのは媚びへつらう態度ばかりだ。歓心を買いたいとばかりに、仮面を被った女たちが大勢いた。そんな女の冷静で計算ずくの行動に慣れた司にとって、今までの牧野つくしの態度に戸惑っていたのは確かだ。だがその理由がわかった。牧野は男と愛し合った経験がない女。本人の口から聞いたわけではないが、今までの態度を思えば納得出来る。自分にアプローチしてくる男にどう接すればいいのか分からないのだ。それならアプローチの仕方を変える必要がある。それがこれまでの倍の努力が必要としてもやるつもりでいる。

ワイナリーの視察に代理が必要かと言えば必要ない。元々理由があって無いような視察だ。
この旅の最終日が一日中、ホテルの部屋に缶詰になっていたとしても構わない。
おかげで牧野について色々と知ることが出来た。

風邪で弱った女は、いつもと違って弱々しく、可愛らしい。鼻の頭を赤くしている姿は幼い少女のようで、潤んだ黒い瞳は捨てられた子犬のようだ。
そんな女はいつもと違い素直だ。

「いつもこんな女だといいんだが。俺も厄介な女に惚れたもんだ」

司は言うと、つくしの顔に頭を下げた。




***





帰国当日、熱が下がったつくしは身支度を整えたところで司の訪問を受けた。

「牧野?調子はどうだ?いいか?空いばりするなよ?辛いなら辛いって言えばいいんだからな」
いかにも病み上がりのような顔色の女はわかったと頷く。

「それにしてもおまえのその声。酷いな」
司は思わず本音が出た。
「・・ひ、酷いのは声だけでよかった・・か、顔まで酷いなんて言われたらどうしよかと思った」

つくしはまだうまく声が出ない。
だが冗談は言えた。

「まあ、普通の風邪でよかったな」
冗談が返せることは元気になったという証拠だと司は安心した。
「おかげさまでありがとう」

掠れた声で答える女はどこか素直になったようだ。
そんな女は暫く黙っていたが、ゆっくりと喋り始めた。

「・・あの、何から話せばいいのかわからないけど、色々とありがとう」

だが近視のように眉を寄せて司を見る女。
その顔は困っているのか、それとも考えているのか、大きく深呼吸をした女は司の目を見ると言った。

「あたし、道明寺さんのこと・・」
下唇を噛む女は司の前で躊躇した。
「あたし道明寺さんのこと誤解してたみたい。押し付けがましくて、傲慢な男だと思ってたけど、・・上手く言えないけどそうじゃなかった」

大きな瞳で司を見つめる女。
赤らんだ頬は風邪のせいなのか、それとも照れているのかわからない。だが言葉だけははっきりしていた。司は思わぬ言葉が聞けたと女に向かって笑い、得意そうに眉を上げた。

「俺のこと嫌いじゃないって言いたいんだろ?素直に認めた方がいいな。結構気に入ってくれたはずだ」
つくしは呆れたような目で司を見た。
だが、その目はすぐに笑みを含んだものに変わると
「少しは・・」と笑った。
「そうか。まだ少しか。まあいい」

司は少し嬉しそうにほほ笑み、クローゼットまで歩いて行き、扉を開くとコートを取り出し広げてみせた。

「牧野、おまえの新しいコートだ」
司は足を踏み出し、つくしに近づいた。
「コ、コート?」

つくしの驚いた顔をよそに、司の顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
いったいいつの間にそんなものがクローゼットに用意されていたのかと思えば、部屋の反対側にあるもうひとつの扉から出されたものだ。

「あの?意味が分からないんだけど?」
「おまえが風邪をひいたのは、そんな薄っぺらいコートを着てるからだろ?」

司が広げているのはサックスブルーのカシミアのコート。見るからに高級そうな質感。
対し、つくしが手にしているのは、ビジネススーツに似合うカーキ色のトレンチコートだ。

「あの・・」
「怒るなよ?怒りん坊の牧野。それに断るな。選択肢はない。その靴と同じだと思ってくれればいい。おまえが風邪をひいたのは俺のせいだからな」

コートを広げ持つ男は言うとつくしを見つめていた。

「後ろを向け。男がコートを広げて待ってるんだ。ここはアメリカだ。素直に俺に手伝わせてくれ」

男性が女性にコートを着せてあげる。
確かに日本ではあまり見かけることのない男性の行為だ。
つくしは戸惑ったが、ゆっくりと司に背を向けた。

「これが男の楽しみのひとつだと言われてるってことを知ってるか?」

背を向け、両腕をコートに通している女を手伝う男。
司の眼下には可愛らしいつむじが巻いているのが見える。つむじまで可愛く見えるとは、どれだけ目の前にいる女に惚れてしまったのか。司は自問しながら呆れていた。やがてコートを着終わった女は男の方を振り返ろうとした。

「俺は今までこれが楽しみだなんてことは信じられなかったが、今わかった」

司は広げていた腕を閉じ、つくしを後ろから抱きしめると、彼女の香りを吸い込んでいた。





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2016
12.13

エンドロールはあなたと 29

司が話し始めてからすぐ、牧野つくしが寝息を立て始めたのがわかった。
彼が部屋に戻って来た頃は寝入りばなだったようで、まさにこれから眠りに落ちようとしていた時だったはずだ。恐らく枕に頭を乗せるやいなや、眠りたかったのだろう。だが俺が部屋に戻って来ると言った以上、先に寝るわけにはいかないと思ったのかもしれない。
司はベッドに近づき、眠りに落ちた女を確認するとソファまで戻り、大きな体を窮屈そうに横たえていた。





つくしが目覚めたのは、すでに日が高くのぼったと感じさせる明るさの時間だった。
カーテンが閉められていても、感じられるほどの明るさだ。
あれから、つくしはバスルームに駆け込むことはなかった。どうやら吐き気は収まったようだが、体が重く、だるい、それに喉が痛い。
いったい今は何時なのかと、ベッドサイドのテーブルに置かれた腕時計に手を伸ばし、時間を確認するとベッドから上半身を起こした。

「嘘っ!どうしよう!」

時刻はすでに昼の12時近く。眠りについて、すでに半日近くが経っていた。
つくしは慌てた。今日は新たに別のワイナリーの見学に行く予定だ。
だが今にもくしゃみが出そうで、どうやら風邪をひいてしまったようだと感じられた。
しかし、すぐに頭を過ったのは、道明寺は、道明寺司はもう出かけてしまったのではないかということだ。
どうして起こしてくれなかったのかと男の行動を訝った。
だが今の状況を瞬時に理解することは出来なかった。
自分の隣に男が寝ている。
それだけでも理解出来ないのに、恐る恐る見れば、隣に寝ている男は道明寺司だ!
あの道明寺司が自分の隣で寝ている!それも同じベッドで!
つくしは一瞬言葉を失ったが、思わず叫んでいた。

「ちょっと!なっ、何してるのよっ!」

叫ぶと同時にベッドから飛び降りた。が、くしゃみが出た。
すると、隣に寝ていた男。いや、道明寺司が目を覚ましてつくしを見た。

「な、なんで道明寺が・・いえ、道明寺さんがあたしのベッドで寝てるのよ!」
「...うるせぇな、朝っぱらからなんだよ?」
つくしの声に男は面倒くさいとばかりに返事を返した。
「な、なんだよじゃないわよ!どうして人のベッドに寝てるのよ?」

全く動じることなくにやりと笑う男は、つくしが頭の中に思い描いた道明寺司の姿だ。
乱れたシーツに素っ裸で横たわる道明寺司がカメラに向かって『こっちに来いよ』と誘いかけている姿。
でも、この男が素っ裸かどうかまだわからない。とは言え調べるつもりはない。
だが男が上掛けを取っ払うと現れたのは、下着姿の男だ。それはまさに素っ裸に近い姿。
男は大きな欠伸をすると、片肘をつき、頭を乗せた姿勢でつくしをじっと見つめていた。
それはまさに男が女と一夜を共にした後のような悩ましさを感じさせる視線。

駄目だ。やっぱりあたしは風邪をひいている。そうよ、これは幻よ。
あの時の思いが頭を過るなんて脳みそがどうかしてしまったのかもしれない。それに急に起き上ったせいか、眩暈がする。
今のあたしは風邪なんてひいている暇なんてないはずだ。

道明寺司がこの部屋にいることを納得させられたのは覚えている。
吐いて気分が優れないつくしを心配した男は、今晩この部屋のソファで休むと言ったところまでは記憶にある。弱った女に手を出すつもりもないと言い切ったことも記憶にあった。
それなら、なぜ、この男が同じベッドに寝ていたのか。

つくしは自分のパジャマを確認した。ボタンはきちんとかけられている。問題ないはずだ。
だが目の前に横たわっている男を見れば裸だ。いや、厳密に言えば下着は履いている。
それに幻ではなく現実だ。


つくしにも弟がいる。男の裸くらい見たことがある。
だがこの男の黒の下着はピッタリとしたもので、弟が身に付けているものとは全然違う。つくしは焦りから思わず唾を飲み込んでいた。ボクサーブリーフだかジョッキーショーツだか忘れたが、下着の会社の広告にそんな名称が使われていたはずだ。確かそんな名前の下着のはずだ。

寝乱れた黒い髪、面白そうにこちらを見つめる黒い瞳、官能的と言える薄さを持つ唇、胸は逞しく、そして平たい腹部にあるくぼんだヘソと細い腰・・・
そこまで見たつくしは、慌てて目を反らした。

「どうした牧野?観察はもう終わりか?おまえの目から見て俺は合格点か?」

笑いを含んだ艶のある低い声は、まだ目覚めて間もないつくしの頭の中でこだましていた。
つくしは司の目を見た。途端、頬がカッと熱くなった。

「だ、だからどうしてあ、あなたがあたしのベッドにいるのよ?」

「どうしてって昨日言っただろ?おまえのことが心配だって。それにおまえ風邪ひいただろ?さっきからくしゃみしてるし、我慢してるだろ?」

目覚めた瞬間、体が重く、だるいと感じた。それに道明寺司の言うとおり、さっきから何度もくしゃみが出そうだが我慢していた。

「それに落ち着け。俺がおまえのベッドで寝ていたことで何をそんなに慌てる必要があるんだ?」
にこやかにほほ笑みを浮かべる男。

「あ、あるに決まってるじゃない!あなたどうしてあたしと同じベッドにいるのよ?ソファで休むって言ってたじゃない!」
つくしは言い張ったが喉が痛かった。

「ああ。そのことか。1時間くらいか?あのソファに横になったのは。けど、やっぱあのソファは寝るのには向いてねぇ。俺にはちっちぇえんだ」

そんなことは最初からわかり切っていたはずだ。何しろこの男は体が大きい。
だがソファで寝る事を了承したのだから、そうすべきだ。

「じゃあ自分の部屋に戻ればいいじゃない!」
「あほか。苦しんでる乙女を、いや30過ぎた女に乙女じゃ乙女が可哀想か?とにかく、好きな女が苦しんでるってのに、ほっとけるか?」

苦しんでる乙女...
つくしはそこの言葉に口をつぐんだ。
男が冗談で言ったのか、本気で言ったのか、わからないが、つくしはある意味乙女だ。だがその言葉を楽しむ余裕はない。

「_って言うのは嘘だ。おまえが寒そうにしてたから抱いてたんだよ。おまえ完全に風邪ひいてるぞ?ほっといたらどんどん悪くなる一方だ。医者の往診を頼んだ。もうすぐ来るはずだからベッドに入れ。大人しく寝ろ。海外でぶっ倒れたら困るだろ?」

確かにつくしは足元がふらついた。
何か言おとしたが、その前に電話が鳴った。司はベッドから起き上がると、ソファまで歩いて行き、傍のテーブルに置かれていた携帯電話を取った。

「ああ。俺だ_そうだ。今日の予定は全てキャンセルだ」
司は電話相手に話しを促すように言った。
「_ああ。今日はオフだ。電話もするな。_どうしても__ああ、そうだな。わかった」
司は電話を切ると、振り返ってつくしを見た。

「いつまでもそんな格好で布団から出てると悪化するぞ?それから俺の前で吐いて、自尊心が無くなったとかそんなことは気にするな。俺とおまえはひと晩ベッドを共にした仲だ。一緒に寝た仲だ。だから何も気にすることはねぇからな」

まさか・・・?
いや。それは絶対にない。それだけは確信を持って言える。
それに寒そうにしていたから抱いていたと言ったではないか。
ホテルは十分暖房が効いているが寒気を感じていたときがあった。いくら布団を引き寄せても暖かさを感じることがなかったのは確かだ。だがそんなとき、暖かく大きな塊に包まれた記憶がある。その温もりを求めて抱きしめたはずだ。
それが道明寺司だったなんて。

・・あたしはこの男の温もりを求めた。

だが、例え醜態を晒したとしても気にするなと憎らしいほど余裕を感じさせる男に向かってはっきりと言い放った。

「あのね、道明寺さん。確認しますけど、ベッドを共にしたんじゃありません。ベッドで・・過ごしただけ?違う・・ベッドを・・・とにかく同じベッドを使っただけで、何もなかったんですから、そんな言い方しないで下さい」
「そんな言い方ってなんだよ?」
「だから一緒に寝たとか言わないで下さい。あ、あたし達は一緒の部屋を使っただけですから」
「随分と冷てぇ言い方だな?看病してやった俺にその態度か?」
「看病もなにも・・・」

つくしは言葉に詰まった。
看病と言われるようなことがあったかと言えばそうでもない。でも本気で心配してくれているのは感じられる。それに気が弱っているときに傍に誰かがいてくれることで、安心感があったのは事実だ。

「何だよ?文句があるなら言えよ?」

片眉を上げ、携帯電話を持ち、何が悪いのかと堂々とした態度を見せる男。
文句と言われても文句は・・いや、あった。今すぐ解決したい問題がある。
つくしはにやついた半裸の男に向かって叫んでいた。

「お、お願いだから、早くなにか着て。目のやり場に困るのよ!」

「それを言うならおまえは早くベッドに入れ!」

つくしは言われると慌てて布団にもぐり込んだ。
威勢のいいことを言っていたが、どう考えても風邪をひいていた女。
その後、くしゃみが止まらず、おまけに鼻水まで出始めていた。


それからすぐに医者の往診を終えたつくしは、ベッドの中で大人しくしていた。
医者に断言され、本人が自覚した途端、なぜか悪化するのが風邪だ。
「風邪をひくなんて何年ぶりかな・・」
つくしの言葉に司は聞いた。
「こんなふうにひくことがか?」
「うんん。違うわ。風邪をひいてもこんなふうに寝てる時間なんてなかったの。それに看病してくれる人なんていないし、忙しかったから仕事を休んでる暇もなかった。でもそれは道明寺・・さんも同じでしょ?」
司はつくしのベッドの傍に腰をおろしていた。
「こんなにしてもらえるなんて、本当にありがとうございます。それに今日の視察はキャンセルされたんですよね?」
つくしは自分のせいだと責任を感じていた。
「気にするな。どうせ俺の思いつきで来た視察だ」
「そう言って頂けると、気持ちが楽です。なんだか気が弱くなっちゃったような気がするんです。病気のときに優しくされるとほだされるって言うのか・・。あたし男の人にこんなに優しくされたことがないんです」
つくしは司を見つめると、赤くなった。
「牧野。俺に対してそんなこと言ってもいいのか?そんなに俺を褒めて、なんかさせたいのかと思うぞ?」
少しのあいだ、探るような目でつくしを見つめた男は、薬が効いてきたのか、ウトウトし始めた女の髪を撫でていた。

「とにかく、今はゆっくり休んで早く治せ。風邪をひいたまま気圧の低いところに長時間いるのは辛いからな」
飛行機の機内は気圧が低い。
意味するのは帰国の日が近いということだ。

牧野つくしは、これまで女たちとつき合ってきた経験が、なんの役にも立たないほど別格だ。
司を利用しようとしない女。あくまでも対等な立場で女を主張することがない。
だが、性的なことを匂わせば乙女のように顔を赤らめる女。苦しんでる乙女という言葉に異常に反応したところが見物だった。

「まさか...この女、男との経験がないのか?」

司は低く呟いていた。
だからこんなにトゲトゲしいのか?
思えば心当たりがある。
″あたしに火をつけた人はいない″発言は挑戦的だと受け取ったが、そうではないということか?単なる経験が少ないだけの女かと思っていたが、違うということか?
アプローチの仕方が間違っていたということか?

司はバージンを相手にしたことはなかった。
思いがけず胸がときめく。
司をそんな気持ちにさせるのは、やはり牧野つくしだけだ。






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2016
12.12

エンドロールはあなたと 28

二人の距離を近づけるため自意識を殺す。
そこまでしても牧野つくしに近づいて来て欲しい。今は信頼関係を築いてコミュニケーションをとりたい。4日間そうした思いでいた。

本来なら今夜は部屋まで送ったあと、一杯飲まないかと誘うつもりでいた。そこから先、決めておかなければならないことは何もないと思っていたが、思わぬ形で牧野とひと晩一緒に過ごすことになった。だが、司が本来望んだ形で過ごすひと晩とは違った形となりそうだ。

司と目が合うと、きまり悪そうに視線を反らす女。
牧野は目の前にいる男の言葉を信じていいものかどうか、警戒の眼差しで見つめていた。
司が上着を脱いで、ネクタイを外すと焦った声を上げた女。さらに一歩近づこうとすれば、まるで混乱状態に陥った小動物のように目を見開き、助けを求め、すがるような視線に変わっていた。

「牧野。おまえ俺のこと何だと思ってんだ?鬼か?ろくでなしか?気分が悪いって苦しんで吐いた女に手を出すような男だと思ってるのか?」

ベッドの上に座る女は一瞬困ったような表情を浮かべたが、司の冗談めいた口振りにふっと息を吐く。吐いたばかりの体が辛いのか、背中を丸めた姿勢は、疲れ果て打ちひしがれたように見えた。

「とにかく、今夜はもう休め」
司がまじまじと見つめると、
「・・うん」
と、口ごもったように、短い返事しか返さない女だが、頭の中は簡単に読むことが出来る。 
今夜この部屋にいてやると言いだした司の意図を伺っているようだ。

「ねえ、本気でこの部屋にいるつもり?もう大丈夫だから。もう吐き気は収まったから心配してもらわなくても大丈夫だから」

案の定、司の顔を窺いながら聞く女は、彼がどんな思いで言っているのか推し量るような口振りだ。そんな女の顔に浮かぶのは、やや気詰まりとも言えるような表情だ。そしていつもと違ってどこか弱々しい女。司はそんな女を一人にしておけないと感じていた。

「おまえ寝てる間に吐いたものを喉に詰まらせて死んだらどうすんだよ?」
「そんなことないわよ、そんな_」
司はつくしの言葉を遮って話しを続けた。
「なんだよ?年寄りみてぇなことはないっていいたいのか?そんなモンわかるわけねぇだろう?寝てる状態で吐いて、吐いた物を喉に詰まらせるなんて話しはよく聞くだろうが」

誤嚥でもしたらどうするんだという男は、まるでつくしを年寄り扱いだ。すると司はバスルームまで戻ると、濡れたタオルを手に戻って来た。

「ちょっとじっとしてろ」
「な、なに・・」

つくしはビクッと体を強張らせた。相変わらずの強引さは感じられるが、司はやさしい仕草でつくしの口元の汚れをぬぐっていた。

「いいか。今おまえを襲うとかそんなことは考えてねぇから心配するな」
司はきっぱりと言い、つくしが口に挟んでいた髪の毛をそっとかきあげた。
「今夜はゆっくり休め。明日の視察は無理することねぇからな」
司はまじめくさった顔をして言うと後ろへ一歩下がった。

牧野は黙って頷いていた。もう今夜はこれ以上何も考えたくないというのが本心だろう。
二人で過ごしたこの4日間。いつの間にか神経をすり減らしていたと言ってもいいのかもしれない。ストレスとでもいうのか、この女は意外に繊細な神経の持ち主だと知った。
嫌々というのではないが、はっきり言って司の思いつきのような形でのこの旅だ。口紅の取れた唇は色がなく、薄化粧の女は目の下に薄っすらとクマが浮かんでいるのが見て取れた。

「その様子じゃ早く寝た方がいい。着替えたらもう寝ろ。それとも着替えを手伝ってやろうか?」

勿論冗談交じりの口調で、司も本気で言ったわけではないが、つくしは慌てた。

「じ、自分で出来るわよ。それに本当にひとりで平気だから・・」
平気だから、大丈夫だから、と、つくしは遮ったが司は続けた。
「平気だって言うがおまえ、相当調子が悪そうだ。やっぱり風邪でもひいたんじゃねぇのか?」

聞いた途端、小さなくしゃみをした女。
まさか風邪を引いたなどと考えたくはないだろうが、もしかしたらという思いがあるのかもしれない。女は体をブルッと震わせていた。

「やっぱりおまえ、風邪ひいたんだろ?なあ、もう今日は大人しく休め」

つくしは司をじっと見てから、目を伏せた。
体が辛いのか、司から言われたことで急に自覚したのか、どちらにしても早く横になりたいと考えているようだ。だが司が傍にいるせいで、横になることができないということは容易に推測出来た。着替えなければ、ベッドに横になることは出来ないからだ。

「ああ。わかってる。おまえの着替えるところを見るなってことだろ?」
つくしは言葉もなく司を見つめ、赤くなった。
「これから俺は部屋へ行ってくるが、また戻ってくる。だからそれまでに着替えておけ。俺が戻って来た時はベッドに入ってろ。頭まですっぽり布団を被ってろ。そうすりゃ俺の事も気にならねぇはずだ」

司は言うと部屋を出て行こうとしたが、振り返ると言った。

「鍵は俺が預かってるから、おまえが寝てたとしても問題ねぇから心配するな」

その顔は相変わらずまじめくさった顔だった。




***




30分後、司は部屋でシャワーを浴び、楽な服装に着替えるとつくしの部屋へと戻っていた。部屋の明かりは消されていた。つくしが既に寝ていると思った司は足を忍ばせベッドに近寄った。薄闇とも言える程度、部屋の片隅にある小さなランプが灯された状況で、司から言われた通り頭から布団を被った人の形がそこにあった。

...寝たか。

司はベッドから離れ、部屋の反対側にあるソファまで行き、腰を降ろすと長い脚を伸ばした。するとベッドからくぐもったような声が聞えた。

「...あの、道明寺さん。色々とありがとう」

司の耳に届いたのは、どうやらまだ寝ていなかった牧野つくしの声だ。だが司はすぐに返事をしなかった。彼はソファの傍にあるテーブルに置いたミネラルウォーターを手に取った。

「まだ起きてたのか?」

ボトルのキャップを緩めるとひと口飲んだ。司はソファにくつろいだ姿勢でいる。

「えっ?うん...」

牧野つくしが何か喋ろうとしているのが感じられたが、司はこの状況を利用することにした。互いの顔が見えないこの薄闇が、何故か司には心地いいと感じられる。
人は匿名を条件に他人に秘密を打ち明けることがある。それは自分の秘密であったり、他人の秘密であったりする。名前を明かさない、顔を明かさないことが秘匿性を高めるというのか、普段は決して口にしないことでも喋ってしまうことがある。
今の司は、牧野つくしに自分の顔が見えないことを利用しようとしているのかもしれない。



「俺はいつもこういうことから逃げていた」

司の低い声がつくしの耳に届いた。
ベッドの上で動く音が聞えると、つくしが体の向きを変えた。
彼女は司が座っているソファへと目を向けた。姿は見えなくても声の聞こえる方を向くことで、相手の思いを感じ取ろうとしたのだろう。

「な、なんの話?」
興味を持った女は司に聞いた。
「女だ。女と本気で関わりたいと思ったことがない。だから女とひと晩同じ部屋で過ごすなんてことを望んだことはない。昔つき合ってた女がいたが、そんな女とも朝まで一緒にいたいだなんて望んだことはないんだ。俺は」

司につくしの顔は見えないが、こちらを向いていることだけはわかる。今彼が口にしていることを、どう思っているのか移ろう表情を見たいと思ったが、やはりこの薄闇はそれを許してはくれないようだ。

「だがおまえは違う。おまえとは本気で関わりたいと思ってる。まあ、おまえはまだそんなことは考えられねぇかもしれねぇが、俺は本気だ。おまえのことがもっと知りたいし、俺のことももっと知って欲しい。本当は今夜おまえと別の場所で一杯飲みたいと思っていた。おまえは酒が苦手なのは知ってるが、付き合わせるつもりでいた」

司はつくしの沈黙に感じ取るものがあった。
身じろぎもせずに横たわる女が考えていることを、知っていると言わんばかりに言葉を継いだ。

「安心しろ。付き合わせるっても、無理に飲ませるつもりはなかった。言っとくが今の俺は理性的な大人の男だ。それに今だって弱った女に手を出すようなことはしねぇよ。今の俺はただ、おまえが心配なだけだ」

それが今の司にとっては至極当然の思いだ。司には金も力もある。
だが司はそんな理由で近寄って来る女に興味はない。彼は自分の直感とも言える動物的感覚で牧野つくしを好きになった。そんな女の警戒心を無くすためのこの旅だ。自意識を殺し、相手との距離を測りながら近づいて行く。そんな思いがあっての今夜のことは、司にとっては考えもしない形だったが、二人の距離を縮めたかもしれないと感じていた。

「けど、思わぬ一夜になったな。何しろ同じ部屋で一緒に寝るんだからな」

幸か不幸かこの薄闇は、司の嬉しそうなほほ笑みをつくしに見せはしなかった。







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2016
12.11

金持ちの御曹司~悪戯~

大人向けのお話です。
未成年者の方、またはそのようなお話が苦手な方はお控え下さい。
また、イメージを著しく損なう恐れがありますのでご注意下さい。
******************************









心浮かれる休日がある12月。
司は足取りも軽く支社長室へ向かって長い廊下を歩いていた。
すると、給湯室の中から声が聞こえて来た。


「ねえ、最近あたしが乗る電車に痴漢が出没するらしくてね、怖いのよ」
「えっ!そうなの?恭子大丈夫なの?あんた胸が大きいから狙われるんじゃない?」
「やだ、止めてよ!冗談じゃないわよ!」
「でもねぇ。どうせ痴漢されるなら支社長みたいなイケメンがいいわよね?」
「あっ!賛成!あたしも支社長が痴漢なら喜んでこの胸を差し上げるわ!」
「・・恭子、あんたそれ本気なの?」
「もちろんよ。女性はね。どこかそんなプレイに憧れてるんだから!あたしなら支社長に押し付けちゃうわ!」



司はいい事を耳にしたと思った。
思わず口元に手を当てニヤリとした。
最近牧野とのラブライフがマンネリ化して来たと感じていたからだ。
言っとくが盗み聞きをしたんじゃねぇ。
たまたま耳にしただけだ。
何しろここは俺のフロアだ。どこで何をしようが勝手だろ?


痴漢プレイ.......


そう言えばあいつの通勤は電車だ。
俺の車で送迎してやるって言っても平社員がリムジンで通勤してるなんておかしいでしょ?
なんて笑ってたよな?
けど、あいつの乗る電車はいつも満員だって言ってたよな?
と、いうことは、あいつも今まで痴漢にあったことがあるってことか?

・・・おい。

待て!

まさか、電車の中で痴漢野郎に喜んで胸を差し出してるなんてことはねぇよな?
俺が知らないだけで、あいつは胸揉まれて喜んでたなんてこと_
いや。あいつに限ってそんなことはねぇか・・
何しろ差し出すほどの胸はねぇもんな。
言っとくが別にサイズのことを問題にしてるわけじゃねぇ。
あいつの胸の大きさがどうだろうが、俺にはベストな掴み心地なのは間違いねぇ。

やべぇ・・

牧野の胸を思い出しただけで、武者震いがする。
想像しただけでイキそうになる。
この前あいつがインフルエンザで寝てるところを我慢できなくて味見しちまったけど、無抵抗な女にヤルってのもいいもんだな。

そっと触れるとぷにゅっとした柔らかさ。
なんか牛乳で作った白いプリンみてぇだよな?
その頂きを彩る俺だけのイチゴが乗っかってるんだが、舌先でひと舐めして咥えてやるとあいつの口からため息が出る。

しかし、痴漢ってのは具体的にどんなことやってんだ?
満員電車の中ってことは、身動きがとれねぇってことだよな?
ヤラレル方はほとんど抵抗出来ねぇってことだよな?
痴漢の奴らどんな手口を使ってるんだ?




司は急いで執務室に戻るとパソコンを叩いた。


・・カチッ


・・カチッ


マジか!
牧野はこんなプレイがしたいのか?

司は考えた。
社内組織の改革も大切だが、男と女の間にも常にチャレンジ精神が必要だ。
この際だ。愛しい女とのラブライフに新しい息吹を取り入れるべきだな。

だが司は電車に乗った経験はあまりない。
だからあくまでも妄想の世界でしか体験できないものだと考えた。
妄想の翼は司を広い世界へと連れて行ってくれる。
その翼でどこまでも飛んで行くと、司の頭の中にあり得ない光景を描いてくれる。
司にとっての妄想はまさに人生の薬味、スパイスであり、活力剤だ。




OL牧野つくしの通勤風景。


電車通勤編。




電車の扉が開き、大勢の人が下りるのと入れ替わるように、つくしは電車に乗り込んだ。
駅を出発すると、満員の電車からいつの間にか人がいなくなっていた。
なぜなら、それは司の頭の中だからだ。
彼の頭の中の電車に乗っているのは、己とつくしの姿以外ない。

つくしは右手にビジネスバッグを持ち、出入り口の扉に向かって立って外を眺めている。
そのとき、背後から近寄る怪しげな男がひとり。
仕立てのいいスーツを身に纏い、イタリア製の革靴を履いた男。
男は背が高く、髪には緩やかな癖があり、そして鋭い目をしていた。
まさに俺に逆らうヤツはぶっ殺すぞ!的な目つきだ。
彼の名は道明寺司。この沿線界隈では名の知れたいい男だ。
彼はずっと一人の女に目をつけていた。
女は高校時代の後輩にあたる牧野つくし。
いつも彼が追いかけ回していたが、逃げられ続け、恋が実ることが無かった。
だが、そんな女がいつもこの電車を使って通勤していると知ってから、彼もこの電車を利用するようになっていた。

そして、ある時からいつも彼女が決めた立ち位置の後ろが、彼の指定場所になっていた。


司は牧野つくしの真後ろに立つと、右手をそっと尻に這わせた。
ビクッとする牧野。

かわいそうに・・

毎日こうして痴漢行為に合ってるってのに、声を上げることもなくじっと我慢してるのか?

やがて、司の右手はつくしのスカートの裾から中へと差し入れられると、尻をもみしだいた。
つくしの前方は冷たいガラス窓。
そこへ司は後ろから体を押し付けると、甘く艶のあるバリトンで囁いた。

「牧野つくし。久しぶりだな」

「ど、どうみょうじ・・?」

体を押し付けられた女はガラス窓に映る男を確認した。

「ああ。俺だ。おまえよくも俺のことコケにしやがったな?あんときの礼がまだだったよな?おまえに特別にいいことしてやるよ」

司はつくしの体をよりいっそう強く窓に押し付け、スカートをウエストにたくし上げ、白いレースの下着の奥へと指を突っ込んだ。

ブスッ・・

あっ・・

途端、口から漏れたのは小さな悲鳴のような声。
つくしは唇を噛んで声を押し殺していた。

だが、司はその声が聞きたかった。我慢なんかさせず、声を上げさせたい。
俺の指で感じているところが、イクところが見たい。

花芽をいじり、指でつまんで潰し、押し広げ、擦る。
強くつまむと、女の体が後ろへしなった。
熱心な男は指と手のひらを使って後ろからつくしを責める。

やがて、ゆっくりと飢えた穴に指を一本すべり込ませた。

「ああ!」

「気持ちいいか?牧野?けどすぐにはイカせてやらねぇからな」

司はつくしの耳たぶを優しく噛んだ。

ひくつくソコを指で擦り上げ、角度を変え、出し入れするたび、ねっとりとした糸を引きながら司の指を濡らしていく女。彼が欲しくて仕方がなかった女の痴態がいま、目の前にある。

「なんだよ?もうこんなに濡らしてるのか?イヤラシイ女だな、おまえは」

司はわざと耳元で囁くと、濡れた指を唇で味わう音を聞かせ、女の羞恥心を煽った。
擦り、湿らせ、俺を突っ込んでイカせてやるよ。

「牧野。前屈みになってドアに両手を突け。尻を出して前に体を倒すんだ」

つくしが言われた通りの姿勢になると、司は両手でつくしの腰を力強く掴む。

「なあ、牧野。指だけじゃ足んねぇよな?俺が欲しいだろ?俺が。なあ、欲しがれよ?俺を」

ビリッ・・と引き裂かれた白いレースは足元へ落ちた。

司はスラックスのファスナーをおろして片手で自身を取り出し、つくしの尻に押し付ける。

「・・まきの・・俺が欲しいだろ?欲しがれよ?本能に従え?」

「・・どうみょうじ・・これは・・仕返しなの・・?あたしが、あんたを好きにならなかったから・・」

司は声をあげて笑った。

「まきの・・違うぞ?俺はおまえを愛したいだけだ」

俺がおまえに仕返しなんか出来るわけねーだろ?
こんなに愛してるのに。
プレイだよ、プレイ。
痴漢プレイだ。

「まきの・・なあ?俺が欲しいだろ?いま何をして欲しいか言ってみろ?」

「でも痛いのはいや・・」
司はもう一度笑った。
「俺がおまえに痛い思いなんかさせると思うか?」

「ああっ・・どうみょうじ・・」

「お願い司って言ってくれっ!」

クソっ!
もうこれ以上我慢出来ねぇ!


これこそ、痴漢プレイじゃねぇかよ!
いいのか?
今日はこのまま行けるのか?
西田、邪魔すんなよ?

司はつくしのかわいらしいお尻に激しく欲望の塊を打ちつけていた。
一回突き入れるたび、ひと突きごとに、上がるつくしの声に、司のソレは益々硬さを増していた。


_まきのッ!_


これが......。


・・これがッ・・・欲しかったんだッ!!






司はハアハアと息をしながら、パソコンの画面に映し出されているつくしの写真を見ていた。右手はイチモツを、いや、マウスをきつく握りしめていた。
流石の司も今回はこのままイキそうになっていた。
右手が無意識にイチモツを握りそうになったところを、かろうじてマウスを掴んでいた。


・・西田がいなくて助かった。
こんな姿、見せられねぇ。


錠前と鍵のようにきっちりと合うふたり。
妄想の中でも最高に相性がいい俺たち。

けど、痴漢な俺がどうしてあいつにお願いしてるんだ?

なんだよ?
結局いつもと同じで俺があいつを追っかけてるだけじゃねぇかよ!


チッ・・

舌打ちした。


まあいい。



ところでクリスマスにはどこにイク?
妄想だけじゃなくて、俺は本物のあいつが欲しい。

なあ。
牧野?
プレゼントはおまえだけでいい。
他には何も必要ない。

この妄想を叶えるために、電車が必要ならすぐにでも用意させる。
いつでもプレイできるだろ?
ちなみにどこの電車が好きなのか教えてくれ。
色も形もおまえの好きな車両にしてやる。
勿論おまえが嫌がることはしない。


なんならジェットにするか?

機長とキャビンアテンダントでもいいぞ?

おい、いいな。それ!

なにしろうちにはどっかの国の次期大統領に負けねぇくらい派手なジャンボがあるからな。




だが司が本当に考えていることは違う。
本当は愛という名の毛布に包まれて_
いや。俺という名の毛布に包んでやりたい。
寒い冬の夜は俺の愛に包んであいつを暖めてやる。

愛し合うという事は、司が妄想するのとは全く違う。
あらゆる意味で、司は自分を見失うほどの熱い思いを抱えている。
抱えきれないほどの愛と情熱を、あいつに注ぎ込みたい。
そんな男が受け止めたいのは、愛する女からの熱いキス。
それだけで十分だ。
我儘を言うつもりはない。
もちろん無理難題を言うつもりもない。
それはあくまでも妄想の世界であって、彼が求めるものはただひとつ。
牧野つくしからのキス。
長く、熱く、愛が込められたキスが欲しい。


あいつと過ごす熱いクリスマス。
牧野が傍にいてくれれば、ただそれだけでいい。
それだけで、俺の心は満たされる。
俺が安らぐのは、おまえの傍だけ。


だから俺はおまえの傍にいたい。



永遠に。






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2016
12.10

エンドロールはあなたと 27

カリフォルニアに来た翌日から、いくつかの有名ワイナリーの見学をこなし、長い一日を一緒に過ごすという日が4日目ともなると、つくしはごく自然に振る舞えるようになって来た。
いきなり何かされるのではないかと思っていたが、今ではそれは考え過ぎだと思っている。

ビジネス重視だと公言した男だけのことはある。
いくら公私混同の旅とは言え、やるべきこと、なすべきことは理解しているようだ。
実際昼間の道明寺司は相手に対して要求の厳しい男だと感じていた。
ワインの知識もあるようで、専門家が返事に困るようなことを聞いていることもあった。

毎晩夕食を共にするが、特に何かをして来るというわけでもなく、話の内容も訪れたワイナリーの話から、社会情勢に至るまで、ありきたりのものしかない。
なんだか拍子抜けしたと言ったら悪いが、あれだけ押しの強い男だと感じていた男が、ごく自然な振る舞いで、魅力的な食事相手に変わるというところに驚かされた。

そこがやはり庶民とは違うと感じさせられた。スムーズな会話運びは一流と呼ばれる男ならではの気遣いだ。いざとなれば、どうやったら相手に自分が魅力的に映るかということを十分理解している男だ。

今のこの男の態度は、きわめて礼儀正しいと言った方がいいかもしれない。
逆にそんな態度につくしは困惑した。
この態度は何かの前触れではないか。そんなことまで頭を過っていた。

そろってレストランを出ると、いつも部屋の前まで送るという行為に、不安を感じることはない。初日は頬にキスをされたが、何故か翌日からそんな様子は一切ないからだ。

「牧野、明日は朝が早いが大丈夫か?なんなら俺が添い寝してやろうか?」

にやりとした表情だが、今ではそれが冗談だと感じることが出来る。

「ご冗談を。あたしは自分ひとりで起きれます。子供じゃ_」

つくしは突然胃がせり上がって来るのを感じ、慌てて口元を抑えた。

「牧野?」

急いで部屋の中へ入ろうとしたが、鍵はバッグの中だと気づくと慌てた。
探そうと焦ってバッグを廊下に落としてしまったが、しゃがむと今にも吐きそうだ。

「気分がわるいのか?吐きそうなんだな?」

司は異変に気付き、床に落ちたバックの中から部屋の鍵を見つけると、急いで解錠した。
すると、つくしはバスルーム目がけて走っていた。

電気のスイッチを入れることさえ出来ないほど苦しく、とにかく吐きたい一心だったが、間一髪なんとか間に合ったようだ。
気分が悪い以外、何も考えられず、ひたすら胃の中のものを吐き出していた。
何度か嘔吐の波が襲い、少し落ち着くと、顔をもたげたが、便器を抱えたつくしの背中を、たくましい手が優しくさすっていた。

「・・あ、ありがとう・・」
ようやく落ち着いたところで、つくしは言った。

「風邪でもひいたか?それともさっき食べたものであたったか?」
司の声は心配そうだった。
「・・さっき食べたものって・・あたるようなものなんて・・・」

つくしは言うと、また吐いた。
それから暫く便器の前から動けずにいたが、吐き気が収まると、差し出されたペットボトルの水で口をすすいだ。

「ご、ごめんね・・なんだか・・凄いところを見せちゃって・・」
顔を上げ、隣に立つ司を見上げた。
「そんなこと気にするな。それより立てるか?」
「うん。もう大丈夫。ごめんね・・本当にお見苦しいところを見せちゃて・・」
立ち上がろうとしたが足がふらつくと、司の腕が支えた。
「あ、ありがとう」

司はサッとつくしを抱え上げ、ベッドへと連れていき、ゆっくりと座らせた。
放心状態のつくしは、自分の前に立つ男をぼんやりと見上げていたが、我に返ると改めて礼を言った。

「あの、本当にありがとう。もう大丈夫だから・・もう帰って・・部屋に・・」
「おまえ、ひとりで大丈夫なわけねぇだろ?」
司が上着を脱いでネクタイを緩めはじめると、つくしはひるんだ。

「な、なによ?ま、まさかこんな状態のあたしを襲うなんて_」
彼がネクタイを外したところで、つくしは口ごもった。

「あほか、おまえは。吐いてやつれた女を抱いて何が楽しんだよ?今夜は俺がここに一緒にいてやるよ」

「い、いいわよ!そんなことしなくても。あたしはひとりでも大丈夫だから!ちょっと食べ過ぎたか、疲れたとか、そんな程度だから、心配してもらっただけでいいから・・」

「いいや。よくねぇ。この旅の責任者は俺だ。博創堂さんの担当者が体調不良だってのに、ほっとけるか?」
「でも・・」

男は黒い眉を上げてつくしを見た。
その表情から道明寺司は他人に口を挟まれることに慣れていない。いや。彼の話を遮るような人物はいなかったはずだ。
黙って俺のいう事を聞け。その目はそう言っていた。



視察が始まってからの4日間、司は自意識を殺す行為に出ていた。
敢えてそうすることで、牧野つくしが司に対して持っている印象を変えようとしていた。
強烈な個を持つと言われる男に対し、恐れているというわけではないだろうが、どこか身構え、足を竦ませるような態度を見せている女に、司は自分のパーソーナルスペースへ立ち入って欲しくてそうしていた。



他の女には一切立ち入らせたことのない、司の心理的縄張り。
牧野つくしには、もっと近くまで立ち入って欲しい。
司はそう思っていた。






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