つくしは朝から忙しくしていた。
道明寺社のワインの広告についての会議が、朝一番の仕事として予定されているからだ。
クライアントに出向き、これから作成するテレビコマーシャルについての話し合いをすることになっていた。広告はターゲットの年令層を引き上げたつくしの会社が受注したが、プレゼンのときに見せたイメージ動画では少し物足りないという意見が出ていた。
30代から40代の女性をターゲットにしたのだから、もう少しロマンティックな映像を、と、意見が出たのは担当者様となった道明寺支社長からだ。その結果、今日は再度作成した
イメージ動画の確認作業がある。
会議用の長いテーブルの中央に腰かける男は、上着を脱いでワイシャツにネクタイ姿だ。
ビジネスを重視する、の言葉どおり、つくしと個人的な繋がりがあるような態度を見せることなく、本日はよろしくお願いいたします、の挨拶ひと言で終わっていた。
他人の自信を揺るがす男。
つくしは道明寺司と仕事を始めるとすぐにそう感じていた。
鋭い視線を向けられたとき、思わず目を反らしてしまった。だが本来ならそんな失礼なことが許されるはずがないだろう。しかし目の前の男は、意味ありげに眉の片端だけを上げ訳知り顔でにやりと笑った。
つくしは困惑した。
お互いに礼儀正しく夜を終えることが出来ると思った会食の日のことが思い出され、動揺したというのが正直なところだ。握っていたペンが手から床へ滑り落ちると慌てて拾った。頬が熱を持っていることが感じられ、動揺した。神経を集中する先を間違えないようにしなければ。そう思ってもこの男のほほ笑みひとつで、こんなに動揺する自分が信じられなかった。
それは滋と桜子がつくしに話した内容にも原因がある。
反省会と称した3人の集まりで、滋と桜子がつくしに話した内容には続きがあった。
「先輩。あのときの生牡蠣、美味しかったですよね?」
「うん。生で食べるなんてはじめてだったけど、美味しかった。なんだか癖になりそう」
「いいことですよ。何しろ牡蠣は海のミルクと呼ばれていますし、高い栄養価もありますからね。それに古くから滋養強壮の強い効果があるって言われている食べ物ですから」
桜子の話に滋は言葉を継いだ。
「そうよね。あたし達が普通に口にする食材の中じゃ牡蠣は一番亜鉛が多いんだよね?」
結局海老ばかり食べていた滋は残りのシュリンプサラダを完食していた。
「滋さん、よくご存じですね?」
「知ってるわよ?亜鉛はホルモンの生成を補助してくれるんでしょ?だからあたし達世代には必要だもの。それにアッチ方面でも重要な役割があるもんね?ね?桜子?」
滋は桜子に同意を求めるとニヤッと笑った。
「ええ。牧野先輩はご存知ですか?亜鉛は別名″性のミネラル″と呼ばれているんですよ?亜鉛が不足すると性機能の低下が起きるんです。具体的に言えば、勃起障害とか精子の数の減少とか、射精能力の不全、あと硬さとか持続力とかでしょうか」
桜子は何故か男性機能について話し始めていた。
「桜子、そう言えばあんた昔フランス人とつき合ってなかった?フランス人って生牡蠣好きよね?生魚は嫌いだってフランス人も牡蠣だけは生じゃないと嫌だって言うくらいだもん。桜子の昔の彼は・・」
滋は悪戯っぽく笑っていた。
「ええ。そちらはまったく問題ありませんでした」
「そうなんだ!やっぱり世界2位だけのことはあるわね!」
滋は世界2位に納得した様子で頷いていた。だがつくしは何が2位なのかわからなかった。
「なに?何が2位なの?」
桜子は、知らないんですか、といわんばかりの目をつくし向けた。
「セックスの年間回数です。3日に1回はありましたね。さすがに2日に1回のギリシャには負けますけど、日本人の男性なんか比べものになりませんよ」
いったい誰がそんなことを調べるのか?
それは世界的なコンドームメーカーの調べだが、調査結果が本当か嘘かの真偽は不明だ。
「ねえ、桜子それってやっぱり牡蠣のおかげ?」
滋は興味津々といった様子で熱心に聞いた。
「ラテンの国の殿方は情熱的ですから。それに量より質ですからね?1回あたりの時間が長いんです」
スッと肩をすくめた女はフランス女性のように自由恋愛至上主義だ。相手が魅力的に思えなくなれば即別れる。
「それってやっぱり牡蠣を沢山食べるから持続性があるってこと?」
滋はいたく真剣な表情で聞いていた。そのことがこれからのことに役立つとでもいうのだろうか。偉く真面目な顔を崩そうとはしなかった。
「そういえば、道明寺さんも牡蠣がお好きだって仰ってましたよね?」
「桜子、あんたまさか司の性的機能を疑ってるわけじゃないわよね?司は牡蠣なんか食べなくても問題ないわよ?まあ、あたしは寝てないからわからないけど・・」
桜子は冗談言わないで下さいとばかりにじろりと滋を睨んだ。
「滋さん。道明寺さんがそんな心配してると思いますか?あれだけ男臭い男性で不全だなんて誰ひとり考えませんから」
「確かに。司は男の汗を感じさせるような男だもん。どう考えても司がそんなわけないわ。でもあのとき、つくしが牡蠣を食べてる姿を舐めるように見てたわよ?それこそ俺がそのまま食ってやろうかって感じだったわね」
「先輩が牡蠣ですか?それならまずその固い殻をなんとかしないと食べれませんね?」
「う~ん・・それもそうよねぇ・・」
「それに海外のことわざではRのない月に牡蠣を食べるなって言われてるんですから。早く召し上がっていただかないと道明寺さん、食中毒になっちゃいますからね?もしくは少し加熱して頂くとか。先輩はわたしに火をつけた人はいない、なんて言ったくらいですから」
「Rのない月ねぇ・・March、April、May・・ありゃ、5月からはRがないわ。じゃあ5月から8月は食べられないってことか・・・。でも大丈夫よ、司はそんなこと気にしないわよ?それにむしろ、つくしって言う牡蠣を食べて中毒になっても嬉しんじゃない?あ、でも少し加熱した方がいいのかも?」
滋がケラケラと笑い、桜子はにんまりとしてつくしを見た。
会話についていけなかったつくしは黙って聴き入る側にまわっていたが、そのとき、あの男に向かって何を言ったのか初めて自分の発言に気づかされた。
『 わたしに火をつけた人間なんていない 』
これではまるで恋愛経験が乏しいと言っているようなものだ。
まさにその言葉こそ道明寺司を煽ったともいえた。
「・・主任?」
「・・主任?牧野主任っ!道明寺支社長が呼んでますよ!」
「は、はい!」
つくしは隣に座る紺野の声で我に返っていた。
イメージ動画の再生はすでに終わっており、道明寺司はつくしの方をじっと見つめていた。
「博創堂さん。牧野主任。そういうことだからよろしく」
「は?そういうことだから・・ですか?」
オウム返しのように聞いたが、何がそういうことがピンとこなかった。それもそのはずだ。イメージ動画の再生より、滋と桜子の話を頭の中で再生していたのだから。
「しゅ、主任!聞いてなかったんですか?今度ワイナリーを見に行くんですよ?」
ワイナリーの見学?ワイン畑だとすれば山梨か?東京からなら近い。ワイナリー見学の経験はまだない。今後のためにも見学させてもらえるなら是非行きたい。
「それで、紺野君も行くんでしょ?日程はいつなの?」
つくしは鞄の中からスケジュール帳を取り出すと紺野に目を移す。
「もう・・全然聞いてなかったんですね?道明寺支社長と主任のお二人で行くんですよ?」
この男とあたしだけ?嫌な予感がする。何故かこの男はあたしに興味を持っておかしな行動を取る傾向にある。だがこれは仕事だ。ビジネスを重視すると言ったのだし、今日のおかしな行動は、にやりと笑ったくらいで他にはない。ビジネス重視。その言葉を信じていいだろう。
「それで、どこのワイナリーに行くの?」
「アメリカですよ、アメリカ!」
「あ、アメリカ?」
素っ頓狂な声が出た。
「はい。カリフォルニアです」
司は牧野つくしの反応を窺ったが、大きな目をそれよりもまだ大きく見開いていた。
恐らく頭の中では色々と巡っているということだけは、わかる。まさかこの前の夜のように突然叫ぶわけにもいかないはずだ。それに隣の男の説明を黙って聞いているということは、当然了承したということだろう。何しろビジネスを重視すると約束したからな。
「それでは牧野主任。よろしくお願いします」

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反省会と称した3人の集まりで、滋と桜子がつくしに話した内容には続きがあった。
「先輩。あのときの生牡蠣、美味しかったですよね?」
「うん。生で食べるなんてはじめてだったけど、美味しかった。なんだか癖になりそう」
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桜子の話に滋は言葉を継いだ。
「そうよね。あたし達が普通に口にする食材の中じゃ牡蠣は一番亜鉛が多いんだよね?」
結局海老ばかり食べていた滋は残りのシュリンプサラダを完食していた。
「滋さん、よくご存じですね?」
「知ってるわよ?亜鉛はホルモンの生成を補助してくれるんでしょ?だからあたし達世代には必要だもの。それにアッチ方面でも重要な役割があるもんね?ね?桜子?」
滋は桜子に同意を求めるとニヤッと笑った。
「ええ。牧野先輩はご存知ですか?亜鉛は別名″性のミネラル″と呼ばれているんですよ?亜鉛が不足すると性機能の低下が起きるんです。具体的に言えば、勃起障害とか精子の数の減少とか、射精能力の不全、あと硬さとか持続力とかでしょうか」
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「桜子、そう言えばあんた昔フランス人とつき合ってなかった?フランス人って生牡蠣好きよね?生魚は嫌いだってフランス人も牡蠣だけは生じゃないと嫌だって言うくらいだもん。桜子の昔の彼は・・」
滋は悪戯っぽく笑っていた。
「ええ。そちらはまったく問題ありませんでした」
「そうなんだ!やっぱり世界2位だけのことはあるわね!」
滋は世界2位に納得した様子で頷いていた。だがつくしは何が2位なのかわからなかった。
「なに?何が2位なの?」
桜子は、知らないんですか、といわんばかりの目をつくし向けた。
「セックスの年間回数です。3日に1回はありましたね。さすがに2日に1回のギリシャには負けますけど、日本人の男性なんか比べものになりませんよ」
いったい誰がそんなことを調べるのか?
それは世界的なコンドームメーカーの調べだが、調査結果が本当か嘘かの真偽は不明だ。
「ねえ、桜子それってやっぱり牡蠣のおかげ?」
滋は興味津々といった様子で熱心に聞いた。
「ラテンの国の殿方は情熱的ですから。それに量より質ですからね?1回あたりの時間が長いんです」
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「それってやっぱり牡蠣を沢山食べるから持続性があるってこと?」
滋はいたく真剣な表情で聞いていた。そのことがこれからのことに役立つとでもいうのだろうか。偉く真面目な顔を崩そうとはしなかった。
「そういえば、道明寺さんも牡蠣がお好きだって仰ってましたよね?」
「桜子、あんたまさか司の性的機能を疑ってるわけじゃないわよね?司は牡蠣なんか食べなくても問題ないわよ?まあ、あたしは寝てないからわからないけど・・」
桜子は冗談言わないで下さいとばかりにじろりと滋を睨んだ。
「滋さん。道明寺さんがそんな心配してると思いますか?あれだけ男臭い男性で不全だなんて誰ひとり考えませんから」
「確かに。司は男の汗を感じさせるような男だもん。どう考えても司がそんなわけないわ。でもあのとき、つくしが牡蠣を食べてる姿を舐めるように見てたわよ?それこそ俺がそのまま食ってやろうかって感じだったわね」
「先輩が牡蠣ですか?それならまずその固い殻をなんとかしないと食べれませんね?」
「う~ん・・それもそうよねぇ・・」
「それに海外のことわざではRのない月に牡蠣を食べるなって言われてるんですから。早く召し上がっていただかないと道明寺さん、食中毒になっちゃいますからね?もしくは少し加熱して頂くとか。先輩はわたしに火をつけた人はいない、なんて言ったくらいですから」
「Rのない月ねぇ・・March、April、May・・ありゃ、5月からはRがないわ。じゃあ5月から8月は食べられないってことか・・・。でも大丈夫よ、司はそんなこと気にしないわよ?それにむしろ、つくしって言う牡蠣を食べて中毒になっても嬉しんじゃない?あ、でも少し加熱した方がいいのかも?」
滋がケラケラと笑い、桜子はにんまりとしてつくしを見た。
会話についていけなかったつくしは黙って聴き入る側にまわっていたが、そのとき、あの男に向かって何を言ったのか初めて自分の発言に気づかされた。
『 わたしに火をつけた人間なんていない 』
これではまるで恋愛経験が乏しいと言っているようなものだ。
まさにその言葉こそ道明寺司を煽ったともいえた。
「・・主任?」
「・・主任?牧野主任っ!道明寺支社長が呼んでますよ!」
「は、はい!」
つくしは隣に座る紺野の声で我に返っていた。
イメージ動画の再生はすでに終わっており、道明寺司はつくしの方をじっと見つめていた。
「博創堂さん。牧野主任。そういうことだからよろしく」
「は?そういうことだから・・ですか?」
オウム返しのように聞いたが、何がそういうことがピンとこなかった。それもそのはずだ。イメージ動画の再生より、滋と桜子の話を頭の中で再生していたのだから。
「しゅ、主任!聞いてなかったんですか?今度ワイナリーを見に行くんですよ?」
ワイナリーの見学?ワイン畑だとすれば山梨か?東京からなら近い。ワイナリー見学の経験はまだない。今後のためにも見学させてもらえるなら是非行きたい。
「それで、紺野君も行くんでしょ?日程はいつなの?」
つくしは鞄の中からスケジュール帳を取り出すと紺野に目を移す。
「もう・・全然聞いてなかったんですね?道明寺支社長と主任のお二人で行くんですよ?」
この男とあたしだけ?嫌な予感がする。何故かこの男はあたしに興味を持っておかしな行動を取る傾向にある。だがこれは仕事だ。ビジネスを重視すると言ったのだし、今日のおかしな行動は、にやりと笑ったくらいで他にはない。ビジネス重視。その言葉を信じていいだろう。
「それで、どこのワイナリーに行くの?」
「アメリカですよ、アメリカ!」
「あ、アメリカ?」
素っ頓狂な声が出た。
「はい。カリフォルニアです」
司は牧野つくしの反応を窺ったが、大きな目をそれよりもまだ大きく見開いていた。
恐らく頭の中では色々と巡っているということだけは、わかる。まさかこの前の夜のように突然叫ぶわけにもいかないはずだ。それに隣の男の説明を黙って聞いているということは、当然了承したということだろう。何しろビジネスを重視すると約束したからな。
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Comment:2
「先輩。男っていう生き物は、氷のような女性を見ると自分の情熱で溶かしてみたくなるんですよ。だからわざと冷たくする女性までいるんですからね?」
「そうよ、つくし。男の征服欲っていうの?それを刺激するっていうの?とにかく自分の思い通りにならない女に対してムラムラする男も多いのよ?ごめん、桜子それ取って?」
滋は桜子の前にあるサラダが乗った皿を指差した。
「そうですよ。あえて困難を乗り越えることを選ぶような男性も多いんですよ?それに先輩がふわふわしたような頼りなげな女性だったら道明寺さんも選んでないと思いますよ?滋さん。エビばっかり取らないで下さいね?」
桜子は手渡しながら滋に文句を言っていた。見れば海老たっぷりのシュリンプサラダだというのに、エビが殆ど残っていなかった。
「もう、アボカドばかり残っても美味しくないじゃないですか!それに先輩はちっとも食べてないじゃないですか?ちゃんと召し上がって下さいね?」
会話が交わされているのはつくしのマンション。道明寺司と会った日の反省会と称した集まりが開かれていた。そんな中、つくしは桜子が言った困難という発言が気にかかっていた。
「ねえ?桜子。あたしって困難な女なの?」
「ええ。そうですね。時々難し女性になりますからね、先輩は。」
さすが辛口な女。ずばりと切り返して来た。
「だいたいつくしが司を挑発するようなことを言うからあいつも、司も闘志に火がついたのよ?」
滋は自分の皿に盛りつけたシュリンプサラダの海老を口に入れていた。
「と、闘志って何よ?闘志って!あたしは何もしてないわよ?」
「なに言ってるのよ?つくしは司に対して随分と挑発的なこと言ったじゃない?覚えてないなんて言わせないからね!」
滋は訳知り顔の笑みを浮かべると桜子に目配せした。
滋は会話を操るのが上手い。と言うよりも滋のペースに巻き込まれてしまうと言ったほうがいいはずだ。何も考えずにいると、気付けば滋の会話に巻き込まれ、いつの間にか物事が勝手に進んでいるからだ。
道明寺司と引き合わされた日もそうだ。
滋の言葉に言わなくてもいいことまで口にしていた。
言わなくてもいいこと。
気づいたときには、道明寺司にキスをされた。と叫んでしまっていた。
他に何か失礼なことをあの男に言った心当たりは、まったくなかった。
でもまさかとは思うが、また口から勝手に言葉が漏れていたのかもしれない。
「でもどうしてどんな女性でも手に入るような男が、牧野つくしのような平凡な女性に興味を持ったんでしょうね?」
桜子は多くの男性の心を奪っては、簡単に捨てた過去がある。
「どうしてなんだろうねぇ?胸が薄い女が司の好みだってだけなんじゃないの?」
「えぇ?先輩の胸ですよ?先輩の胸程度でいいなら、他にも女性は沢山いますよね?それとも道明寺さんは毎日美味しいものを食べ過ぎて、食欲減退しちゃったんでしょうか?」
相変わらず言いたい放題の二人のことはさて置き、つくしは記憶の回路を辿り始めていた。
あのとき、隣に座っていた桜子はブルゴーニュ産白ワインのシャブリを頼んでいた。いかにも桜子の選択らしいといえばそうかもしれない。シャブリは辛口白ワインの代表格と呼ばれている。シャープな酸味を感じさせるところは、まさに桜子の性格にぴったりだと感じていた。値段がどうのよりも、美味しく飲めるものが一番いいんです。と、ひと昔前の高級路線から方針転換をしたようだ。今の桜子には、高ければいいという価値観ない。
「よく冷えたシャブリにはやっぱり生牡蠣なんですよ?この組み合わせは最高ですから。それに先輩はこれから道明寺さんのところのワインの広告を手掛けるんですよね?そうなると当然ワインについても勉強が必要ですよね?このシャブリと生牡蠣はベストマリアージュ(好相性)ですから試してみて下さい?」
桜子は生牡蠣を勧めてきたが、つくしは手を出そうとはしなかった。牡蠣はあたると怖いというイメージがあり、食べることを躊躇っていた。
「先輩、大丈夫ですから。本当においしんですよ?それに滋さんのお宅のレストランに鮮度の悪いものなんて置きませんから」
「う、うん・・でも生牡蠣なんて食べたことがないから・・」
「シャブリは酸味が強いので殺菌作用もあるんですよ?だからそんなに神経質にならなくても大丈夫ですから。ね、牧野先輩?」
「・・うん・・」
しかし、つくしは躊躇っていた。確かにワインの広告を手掛ける身としては、少しでもワインの知識は身に付けたい思いがある。プレゼンにあたってワインについてある程度の勉強はしたものの、本格的というものではなく、あくまでもマーケティングについてだった。
「そのとおりだ。滋ンところのレストランに鮮度が悪りぃモンなんか置いてあるわけねぇだろ?」
向かいの席から声が飛んで来た。
道明寺司はすでに手にしたグラスからウィスキーを飲み干すと、グラスの縁を指でなぞっていた。
「食ってみろよ?食わず嫌いは勿体ねぇぞ?それともおまえは新しいことに挑戦するのが怖いのか?」
挑発的な男の言葉につくしはカチンときていた。
つい最近も、男が怖いのかと言われただけにつくしはムッとして答えた。
「怖くなんかありません。わたしは新しいことに挑戦することに躊躇なんてしません」
「そうか。なら食ってみろよ?」
「ええ。勿論」
売り言葉に買い言葉とでも言うのだろうか、勢いが口をついて出ていた。
こうなったら女は度胸。とばかり、心もち顎をあげ、挑戦的な態度の女は半身の牡蠣殻を掴むと、自らの口元へと近づけていた。
やがて殻を傾け、ゆっくりと、しかしどこか恐る恐る口の中に飲み込まれていく牡蠣。
咀嚼すると、ゴクリと嚥下した。
「どうですか?先輩?」
「・・うん。・・美味しい・・磯の香りっていうの?それにクリーミーな感じがした・・」
すると桜子はつくしの手にワイングラスを差し出した。
「そうでしょ?先輩飲んで下さい。生牡蠣とシャブリは最高ですから!」
桜子はつくしに生牡蠣を食べさせたことを手柄のように言った。
「道明寺さんもカキはお好きですよね?ニューヨーカーって牡蠣好きな人が多いですよね?それにグランドセントラル駅に有名なオイスターバーがありますものね?」
桜子はテーブルの上に身を乗り出すようにして言うと、司に向かってほほ笑んでいた。
「桜子っ!あんたなに司に色目使ってるのよ!」
桜子は滋の言葉にしまったとばかりかわいらしく舌を出し、つくしに体を向けていた。
「先輩は美味しいものには目がないはずなのに、食べ慣れてないものには腰が引けますよね?確かに牡蠣にあたると大変ですけど、ある程度の火傷も覚悟のうえで挑戦してみることも必要ですからね。火傷することを怖がっていたら何も出来ませんから」
桜子は牡蠣について話しているようにも聞こえるが、また違う意味だと感じることも出来た。
司はにやりとすると、桜子の意味ありげな言葉に話しを継いだ。
「おまえ火傷したのか?男との火遊びで?」
「火遊びなんかしてません。言っときますけど誰もわたしに火をつけた人間なんていません!」
つくしは即座に返事をした。
『 わたしに火をつけた人間なんていません 』
その言葉が司の闘志に火をつけた。だがつくしは気づいていなかった。
気付いていたのは滋と桜子と司の三人だけだった。
***
司は先日の食事を思い出していた。
あのとき挑戦的な笑みを浮かべる司を、不機嫌そうに睨みつけてくる牧野つくしの頬は紅潮していた。
それはワインのせいかもしれないが、やがて軽口を叩くようになれば、早口だった女も司に対して笑わせてくれるような発言を口にし始めていた。
『 わたしに火をつけた人間なんていない 』
はっきりとした口調で言い切った女。
司はまるで自分に対しての挑戦状のように感じていた。
ハートに火をつけてという意味か?
肩の力が抜けない女はいつも何かを考えているようだ。
そんな女も、たまに気の抜けたような表情もあり、司は牧野つくしに対してのイメージが一新されていた。わたしはビジネスウーマンよ。と、こむずかしく眉間に皺を寄せる女よりも、少し砕けた女の方がいい。
それに牧野つくしが着ていた洋服についてもだ。いつも地味なスーツを着た出来る女、牧野主任の胸元のあき加減に思わず目が行った。大きくはないが、いつも着ているスーツよりは目立っていた。
しかし女の胸を見て、それも全てが見えているというわけでもないのに、下腹部が妙に緊張するのが感じられた。女の胸なら今までも見てきたはずだというのに、俺は17歳の高校生か?それに滋と三条の話っぷりから、あいつの10代の頃はある意味俺と似たり寄ったりか?あいつは学業優秀で校内でも有名。片や俺の場合は別の意味で有名だった。
そんな女が牡蠣を口に含む姿に妙な色気を感じる男はおかしいのか?
顎を少し持ち上げ、中途半端に開かれた口から覗く舌に滑るように乗せられていく牡蠣に・・
その光景に熱い空気を感じたのは、司だけだ。

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「そうよ、つくし。男の征服欲っていうの?それを刺激するっていうの?とにかく自分の思い通りにならない女に対してムラムラする男も多いのよ?ごめん、桜子それ取って?」
滋は桜子の前にあるサラダが乗った皿を指差した。
「そうですよ。あえて困難を乗り越えることを選ぶような男性も多いんですよ?それに先輩がふわふわしたような頼りなげな女性だったら道明寺さんも選んでないと思いますよ?滋さん。エビばっかり取らないで下さいね?」
桜子は手渡しながら滋に文句を言っていた。見れば海老たっぷりのシュリンプサラダだというのに、エビが殆ど残っていなかった。
「もう、アボカドばかり残っても美味しくないじゃないですか!それに先輩はちっとも食べてないじゃないですか?ちゃんと召し上がって下さいね?」
会話が交わされているのはつくしのマンション。道明寺司と会った日の反省会と称した集まりが開かれていた。そんな中、つくしは桜子が言った困難という発言が気にかかっていた。
「ねえ?桜子。あたしって困難な女なの?」
「ええ。そうですね。時々難し女性になりますからね、先輩は。」
さすが辛口な女。ずばりと切り返して来た。
「だいたいつくしが司を挑発するようなことを言うからあいつも、司も闘志に火がついたのよ?」
滋は自分の皿に盛りつけたシュリンプサラダの海老を口に入れていた。
「と、闘志って何よ?闘志って!あたしは何もしてないわよ?」
「なに言ってるのよ?つくしは司に対して随分と挑発的なこと言ったじゃない?覚えてないなんて言わせないからね!」
滋は訳知り顔の笑みを浮かべると桜子に目配せした。
滋は会話を操るのが上手い。と言うよりも滋のペースに巻き込まれてしまうと言ったほうがいいはずだ。何も考えずにいると、気付けば滋の会話に巻き込まれ、いつの間にか物事が勝手に進んでいるからだ。
道明寺司と引き合わされた日もそうだ。
滋の言葉に言わなくてもいいことまで口にしていた。
言わなくてもいいこと。
気づいたときには、道明寺司にキスをされた。と叫んでしまっていた。
他に何か失礼なことをあの男に言った心当たりは、まったくなかった。
でもまさかとは思うが、また口から勝手に言葉が漏れていたのかもしれない。
「でもどうしてどんな女性でも手に入るような男が、牧野つくしのような平凡な女性に興味を持ったんでしょうね?」
桜子は多くの男性の心を奪っては、簡単に捨てた過去がある。
「どうしてなんだろうねぇ?胸が薄い女が司の好みだってだけなんじゃないの?」
「えぇ?先輩の胸ですよ?先輩の胸程度でいいなら、他にも女性は沢山いますよね?それとも道明寺さんは毎日美味しいものを食べ過ぎて、食欲減退しちゃったんでしょうか?」
相変わらず言いたい放題の二人のことはさて置き、つくしは記憶の回路を辿り始めていた。
あのとき、隣に座っていた桜子はブルゴーニュ産白ワインのシャブリを頼んでいた。いかにも桜子の選択らしいといえばそうかもしれない。シャブリは辛口白ワインの代表格と呼ばれている。シャープな酸味を感じさせるところは、まさに桜子の性格にぴったりだと感じていた。値段がどうのよりも、美味しく飲めるものが一番いいんです。と、ひと昔前の高級路線から方針転換をしたようだ。今の桜子には、高ければいいという価値観ない。
「よく冷えたシャブリにはやっぱり生牡蠣なんですよ?この組み合わせは最高ですから。それに先輩はこれから道明寺さんのところのワインの広告を手掛けるんですよね?そうなると当然ワインについても勉強が必要ですよね?このシャブリと生牡蠣はベストマリアージュ(好相性)ですから試してみて下さい?」
桜子は生牡蠣を勧めてきたが、つくしは手を出そうとはしなかった。牡蠣はあたると怖いというイメージがあり、食べることを躊躇っていた。
「先輩、大丈夫ですから。本当においしんですよ?それに滋さんのお宅のレストランに鮮度の悪いものなんて置きませんから」
「う、うん・・でも生牡蠣なんて食べたことがないから・・」
「シャブリは酸味が強いので殺菌作用もあるんですよ?だからそんなに神経質にならなくても大丈夫ですから。ね、牧野先輩?」
「・・うん・・」
しかし、つくしは躊躇っていた。確かにワインの広告を手掛ける身としては、少しでもワインの知識は身に付けたい思いがある。プレゼンにあたってワインについてある程度の勉強はしたものの、本格的というものではなく、あくまでもマーケティングについてだった。
「そのとおりだ。滋ンところのレストランに鮮度が悪りぃモンなんか置いてあるわけねぇだろ?」
向かいの席から声が飛んで来た。
道明寺司はすでに手にしたグラスからウィスキーを飲み干すと、グラスの縁を指でなぞっていた。
「食ってみろよ?食わず嫌いは勿体ねぇぞ?それともおまえは新しいことに挑戦するのが怖いのか?」
挑発的な男の言葉につくしはカチンときていた。
つい最近も、男が怖いのかと言われただけにつくしはムッとして答えた。
「怖くなんかありません。わたしは新しいことに挑戦することに躊躇なんてしません」
「そうか。なら食ってみろよ?」
「ええ。勿論」
売り言葉に買い言葉とでも言うのだろうか、勢いが口をついて出ていた。
こうなったら女は度胸。とばかり、心もち顎をあげ、挑戦的な態度の女は半身の牡蠣殻を掴むと、自らの口元へと近づけていた。
やがて殻を傾け、ゆっくりと、しかしどこか恐る恐る口の中に飲み込まれていく牡蠣。
咀嚼すると、ゴクリと嚥下した。
「どうですか?先輩?」
「・・うん。・・美味しい・・磯の香りっていうの?それにクリーミーな感じがした・・」
すると桜子はつくしの手にワイングラスを差し出した。
「そうでしょ?先輩飲んで下さい。生牡蠣とシャブリは最高ですから!」
桜子はつくしに生牡蠣を食べさせたことを手柄のように言った。
「道明寺さんもカキはお好きですよね?ニューヨーカーって牡蠣好きな人が多いですよね?それにグランドセントラル駅に有名なオイスターバーがありますものね?」
桜子はテーブルの上に身を乗り出すようにして言うと、司に向かってほほ笑んでいた。
「桜子っ!あんたなに司に色目使ってるのよ!」
桜子は滋の言葉にしまったとばかりかわいらしく舌を出し、つくしに体を向けていた。
「先輩は美味しいものには目がないはずなのに、食べ慣れてないものには腰が引けますよね?確かに牡蠣にあたると大変ですけど、ある程度の火傷も覚悟のうえで挑戦してみることも必要ですからね。火傷することを怖がっていたら何も出来ませんから」
桜子は牡蠣について話しているようにも聞こえるが、また違う意味だと感じることも出来た。
司はにやりとすると、桜子の意味ありげな言葉に話しを継いだ。
「おまえ火傷したのか?男との火遊びで?」
「火遊びなんかしてません。言っときますけど誰もわたしに火をつけた人間なんていません!」
つくしは即座に返事をした。
『 わたしに火をつけた人間なんていません 』
その言葉が司の闘志に火をつけた。だがつくしは気づいていなかった。
気付いていたのは滋と桜子と司の三人だけだった。
***
司は先日の食事を思い出していた。
あのとき挑戦的な笑みを浮かべる司を、不機嫌そうに睨みつけてくる牧野つくしの頬は紅潮していた。
それはワインのせいかもしれないが、やがて軽口を叩くようになれば、早口だった女も司に対して笑わせてくれるような発言を口にし始めていた。
『 わたしに火をつけた人間なんていない 』
はっきりとした口調で言い切った女。
司はまるで自分に対しての挑戦状のように感じていた。
ハートに火をつけてという意味か?
肩の力が抜けない女はいつも何かを考えているようだ。
そんな女も、たまに気の抜けたような表情もあり、司は牧野つくしに対してのイメージが一新されていた。わたしはビジネスウーマンよ。と、こむずかしく眉間に皺を寄せる女よりも、少し砕けた女の方がいい。
それに牧野つくしが着ていた洋服についてもだ。いつも地味なスーツを着た出来る女、牧野主任の胸元のあき加減に思わず目が行った。大きくはないが、いつも着ているスーツよりは目立っていた。
しかし女の胸を見て、それも全てが見えているというわけでもないのに、下腹部が妙に緊張するのが感じられた。女の胸なら今までも見てきたはずだというのに、俺は17歳の高校生か?それに滋と三条の話っぷりから、あいつの10代の頃はある意味俺と似たり寄ったりか?あいつは学業優秀で校内でも有名。片や俺の場合は別の意味で有名だった。
そんな女が牡蠣を口に含む姿に妙な色気を感じる男はおかしいのか?
顎を少し持ち上げ、中途半端に開かれた口から覗く舌に滑るように乗せられていく牡蠣に・・
その光景に熱い空気を感じたのは、司だけだ。

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振り返らなくてもわかる。
洗練された男が、彼独特のオーラを纏って歩いて来くる様子が目に浮かぶ。
″世界で最も結婚したい独身男性トップ10″に選ばれた男は今ではつくしのクライアントだ。
そんな男はまだつくしに気づいてない。それもそうだろう。背中を向けたつくしは、いつもとは雰囲気が違う。服装にしても、化粧にしても普段の彼女を知る人間からすれば、イメージに似合わないと思うはずだ。今まで間違っても選ばないような色のワンピースに、髪は軽く巻かれ、濃い色の口紅をつけていた。
そんな状況で椅子に腰かけたまま、緊張のあまり身動きすることなく、じっと前を向いて視線を下に落としていた。やがて男がテーブルを回ってつくしの前に来たのがわかった。
思わず身構えてしまうほど体に力が入っていた。
滋さんが紹介すると言った男がこの男だとわかったとき、紹介は必要ないと伝えればよかったのかもしれない。だが何故か言い出せずにいた。これからこの男と一緒に仕事を始めることを、何故言わなかったのかと問われれば、もしかすると、普段の道明寺司と会ってみたいという気持ちがあったのかもしれない。
だが、キスをされたことが脳裏に甦るにつれ、どんな顔をして相手を見ればいいのかと、考えれば考えるほど、体に力が入り動けなくなっていた。
やがて目の前の椅子が引かれ、男が腰を下ろしたのが感じられた。
「司、時間とってもらって悪かったわね?」
滋が咳払いをした。
「こちらがあたしの親友。恥かしがってるけどね、どうしても司に紹介したかったの。この子なら絶対に司と気が合うと思うの。つくしも仕事中毒でね、忙しくてデートしてる暇がないような子なの。だから気軽に食事でもするところから始めたらどうかと思って。ほらつくし、いつまで下向いてるのよ?せっかく男前が前にいるんだから見なさいよ?司ほどいい男なんて見たことないでしょ?」
つくしはクライアントでもあり、滋の友人の男、道明寺司が目の前に座ってこちらをじっと見ているのを感じていた。
つくしは何故か恥ずかしさでいっぱいだった。こうして引き合わされることは、わかっていたはずだ。それだけに、今まで本人を前に取った態度を思い出すと恥ずかしい思いがしていた。出来ることならこのまま下を向いていたい。いや、それよりも走って逃げたい気分だ。
だがつくしは勇気を振りしぼり、顔をあげた。
瞬間、容赦ない黒い瞳が、戸惑いと当惑を隠せないつくしの瞳と合った。
短い沈黙が二人の間に流れ、一瞬空気が凍ってしまったかのように感じられた。
「・・おまえ・・牧野か?」
ただ黙ったままのつくしに対し道明寺司はと言えば、驚いた様子で片眉を上げると、容赦なく感じられていた黒い瞳が少しやわらいだように見えた。
司の目の前にいるのは博創堂の牧野つくしで、キスした女で、彼の心の端を掴んだ女。
はじめのうちは端を掴まれただけだったが、いつの間にかがっちりと掴まれていた。
司は込み上げて来る笑いを堪えると、テーブルに片肘をつき、顎に手を当て、真向かいに座る女に視線を定めたまま口元に薄っすらと笑みを浮かべた。滋が紹介したがっていた女がまさか牧野つくしだとは考えもしなかった。
「司?」
滋は司に目を向けた。
次に滋は何かを見透かそうとするかのようにつくしを見ると、二人の間に流れる空気の流れを感じ取ったようだ。勘のいい滋はピンときたようで、訝しげに眉をひそめた。
「もしかして、あんたたち知り合い?」
つくしは強張ったほほ笑みを浮かべたが、頬が紅潮するのが感じられた。それにこれ以上ないほど恥ずかしかった。今この場で記憶喪失になれるなら喜んでなっていただろう。
「ちょっと・・えっ?なに?そういうことだったの?」
滋は二人の顔を交互に見た。
「嘘!やっぱりあんたたち知り合いなの?そうならそうと教えてくれたらよかったのに!つくしも水臭いんだから!」
「ち、違うのよ_」
「先輩ひどいっ!いつの間にそんなことになってたんですか?あたし達に秘密にしてたんですね!」
つくしが反応するよりも早く桜子が口を挟んだ。
「ホント、水臭いですよね?先輩は昔からいつもそうでした。何でもあたし達に相談なしで勝手に決めちゃうんですから!」
「み、水臭いも何も、あ、あたしたちそんなんじゃないから!たまたま仕事で一緒になっただけだから!」
つくしは言うと、あわてて司から目を反らした。
それでもつくしは、真正面に座る男から向けられている強い視線に戸惑っていた。それと共に口元に浮かんでいた微かな笑みにも困惑が隠せなかった。
「桜子、あのね、別に秘密にしていたわけじゃないのよ。ただ・・」
つくしの喉はカラカラに乾いていて最後まで言葉が出なかったが、ごくりと唾を飲み込んで、再び口を開こうとした。だが桜子の強い口調に黙り込んでしまった。
「ただなんですか?先輩はあたし達が紹介しなくても勝手に道明寺さんとお知り合いになっていたということですよね?あたし達がしたことって余計なお世話だったってことですか?」
三条桜子はお嬢様のように見えるが性格はかなりワイルドだ。三人の中では一番の武闘派で頭脳派。そして策士だと言われていた。真っ向からぶつかっていくよりも、策を巡らすことの方がより楽しいというタイプだ。
「だいだい先輩は嘘つきなんですよ!勉強なんてしてないなんて言って、いつも成績上位だったじゃないですか!就職だって人気の業界にいとも簡単に内定をもらうような人なんですからね!」
桜子の口調がだんだんと凄みを増してきたのが感じられた。
何かまずいことを言っただろうか。正直が最善の策だと考えるつくしだったが、道明寺司のことについては、すでに知り合っているとは言えなかったのだから、嘘つきだったかもしれない。
「桜子。もういいじゃない。つくしだって言いたくない事情があったのよね?」
言いたくない事情。
その言葉につくしはキスされたことを思い出すと、顔がカッと熱くなるのを感じた。
滋は黙ったまま隣にすわる司に目を移した。
「滋。世の中ってのは案外狭いもんだな」
相変わらずテーブルに片肘をついた男は何故か呑気な口調で言った。
「本当よね?まさか司がつくしのことを知ってたなんて意外も意外。ホント世の中って狭いものよね?桜子。あんたももうつくしに文句言うのは止めなさいよ?」
「だって酷いじゃないですか!先輩は水臭いですよ!」
拗ねたような視線をつくしに向ける桜子は滋の言葉に反論した。
「いいじゃない。二人とも、もうスタートしてるんだから、あたし達の手間が省けたってことでしょ?」
桜子はつくしが何も言ってくれなかったことに対して、納得出来ないという素振りを見せていたが、軽く頭を振り、ため息をつくと頷いた。
「そうですよね・・。何もあたし達が苦労する必要なんてありませんよね?先輩だっていい年なんですから」
桜子は司の外見に見惚れるあまり、冷静さを失っていたのだろうか。思いを率直に言うと、落ち着いていた。
「司とつくしがこうしてプライベートで会うことになって本当に良かった」
滋は仲人と言わんばかりの口調で頷いた。
「滋さんちょっと待って!会うことになったって、あたし達仕事で充分会うことがあるんだし、こ、これ以上会う必要なんてないと思うんだけど?」
「なに言ってるのよ?いい年した男と女がこうして共通の友達を通じて会うってことは、この先の展開なんて決まってるじゃない?」
滋はつくしの言い分をはねつけた。
「この先の展開って、なによそれ?」
「またぁ。男と女なんてすること決まってるじゃない?」
滋はあっけらかんとした口調で言うと悪戯っぽく笑った。
「でもあたしと、この・・道明寺さんはビジネス関係にあるわけで、そんな公私混同なんて出来るわけないじゃない!」
公私混同。
仕事絡みだと食事に誘われ、いきなりキスされた記憶がつくしの脳裏をよぎった。
「あのね。司くらいの立場になればそんなこと関係なく上手くやるから大丈夫だって!ねえ?司そうよね?」
「ああ。その点は問題ない」
は?問題は大ありでしょ?
それにこの男は何を言ってるのよ?
つくしは信じられない思いで男の顔を見つめ、視線をそのまま滋に移した。
「ほら見なさいよ?この男は出来る男だから、つくしがつき合うことになっても全然問題なんてないから!そうよね?司!」
「ビジネスを尊重しろって意味だろ?」
つくしは次に滋の隣に座る男に視線を移すと言った。
「ふ、二人とも、ちょっと待ってい、意味がわかんないんだけど?」
「あのね、司はつくしのことが気に入ったのよね?で、つくしはどうなの?」
「な、なに言ってるのよ?あたしは・・」
「なに?つくしは司とビジネスだけの関係でいいの?」
滋が悲しそうにつくしを見た。
「ビ、ビジネスだけの関係でいいに決まってるじゃない!あのね、言ってなかったけど、この男とビジネスをするのがどれだけ大変なのか・・」
滋の話があらぬ方向にどんどん転がっていくように感じられ、つくしは慌てた。
「そんなこと誰もが知ってることじゃない?司と仕事をするってことは死ぬ気で仕事をするってことなんだからね?この男、ビジネスに関しては_」
「こ、この男!いきなりキスして来たのよ!!」
「えっ?そうなの?さすが司!やることが早いわ。で、その先は?」
「あ、あるわけないじゃない!」
つくしは叫ぶと目の前に座る男をにらみつけた。
その横で滋は実に楽しそうに笑っているではないか。つくしは黙り込んだ。頭の中では、次に滋が何を言い出すのかということだけが過っていた。
牧野つくしの顔に浮かんだ表情を見て、司は笑った。
滋にいいようにおもちゃにされているのが見て取れた。だがいつまでも牧野つくしを怒らせているのは良くない。慌てふためいて、早口でまくし立てる姿は司が知っている牧野つくしの姿だ。滋が連れて来る女など、どうでもいいとばかりにここに来たが、うつむいていた女が顔を上げた瞬間、顔がにやけた。いつもと違う女の装いに頬が緩んだ。
にやける顔を隠すため、視線は鋭く女を見たが、口元が緩むのは隠しきれないとばかり、肘をつき、顎に手をあてると不機嫌さを装っていた。
牧野つくしの頭は頑固そうだが、司の頭も同じくらい頑固だ。それは、一度決めたことは最後までやり抜くという強い意志というものが彼にはある。司はあくまでも客観的な態度を見せようとするかのように、肩をすくめた。
「滋。おまえまたお得意の騒動を起こすつもりか?」
司は過去に滋との間であった騒動を思い出していた。
母親が滋との結婚話を持ってきたことがあった。だが、この女は自分の人生は自分で決めますと言い切ると、司に向かって冷やかに言った。
『 お互いにこんな家に生まれて哀れな人生だけど、生涯の相手くらい自分で決めさせて欲しいわよね? 』
その言葉に司も頷いていた。
あれ以来、司と滋は性別を超えてのつき合いが出来るようになっていた。
「冗談やめてよね?あたしは司とつくしが上手くいけばいいと思ってるだけよ?」
「なら、ちょっと黙ってろ」
滋は相変わらずの女だと司は思ったが、これもまたこの女の個性だとわかっていた。
滋は黙ったが、正面に座る牧野も黙って司をじっと見ている。
「牧野。おまえは俺と仕事だけしたいって言ってるように聞こえたけど、俺はおまえと恋がしたい。それに俺がおまえの気を変えることが出来ると思わねぇか?」
司はつくしの大きく見開かれた目を見つめた。
「道明寺さん!牧野先輩と恋愛したくなったんですか?先輩!羨ましいです!」
桜子は口を挟むとうっとりとした表情で司を見つめた。
「そうみたい!信じられないけど司はつくしと恋愛がしたくなったってことよね?」
「滋。少し黙ってろ。俺はこいつと、牧野と話しをしてるんだ」
「はーい。わかりました。黙ってます!」
滋は言うと確かに黙り込んだ。同じく桜子も。
つくしは信じられなかった。
二人がこの男とあたしをくっつけたがっていることは知っていたが、まさか、道明寺司が自分に言い寄っているという事実に信じられない思いがしていた。
この自信満々の男は本気なのだろうか?それとも遊びなのだろうか?
つくしはまさに蛇に睨まれたカエルになったような気がしていた。

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″世界で最も結婚したい独身男性トップ10″に選ばれた男は今ではつくしのクライアントだ。
そんな男はまだつくしに気づいてない。それもそうだろう。背中を向けたつくしは、いつもとは雰囲気が違う。服装にしても、化粧にしても普段の彼女を知る人間からすれば、イメージに似合わないと思うはずだ。今まで間違っても選ばないような色のワンピースに、髪は軽く巻かれ、濃い色の口紅をつけていた。
そんな状況で椅子に腰かけたまま、緊張のあまり身動きすることなく、じっと前を向いて視線を下に落としていた。やがて男がテーブルを回ってつくしの前に来たのがわかった。
思わず身構えてしまうほど体に力が入っていた。
滋さんが紹介すると言った男がこの男だとわかったとき、紹介は必要ないと伝えればよかったのかもしれない。だが何故か言い出せずにいた。これからこの男と一緒に仕事を始めることを、何故言わなかったのかと問われれば、もしかすると、普段の道明寺司と会ってみたいという気持ちがあったのかもしれない。
だが、キスをされたことが脳裏に甦るにつれ、どんな顔をして相手を見ればいいのかと、考えれば考えるほど、体に力が入り動けなくなっていた。
やがて目の前の椅子が引かれ、男が腰を下ろしたのが感じられた。
「司、時間とってもらって悪かったわね?」
滋が咳払いをした。
「こちらがあたしの親友。恥かしがってるけどね、どうしても司に紹介したかったの。この子なら絶対に司と気が合うと思うの。つくしも仕事中毒でね、忙しくてデートしてる暇がないような子なの。だから気軽に食事でもするところから始めたらどうかと思って。ほらつくし、いつまで下向いてるのよ?せっかく男前が前にいるんだから見なさいよ?司ほどいい男なんて見たことないでしょ?」
つくしはクライアントでもあり、滋の友人の男、道明寺司が目の前に座ってこちらをじっと見ているのを感じていた。
つくしは何故か恥ずかしさでいっぱいだった。こうして引き合わされることは、わかっていたはずだ。それだけに、今まで本人を前に取った態度を思い出すと恥ずかしい思いがしていた。出来ることならこのまま下を向いていたい。いや、それよりも走って逃げたい気分だ。
だがつくしは勇気を振りしぼり、顔をあげた。
瞬間、容赦ない黒い瞳が、戸惑いと当惑を隠せないつくしの瞳と合った。
短い沈黙が二人の間に流れ、一瞬空気が凍ってしまったかのように感じられた。
「・・おまえ・・牧野か?」
ただ黙ったままのつくしに対し道明寺司はと言えば、驚いた様子で片眉を上げると、容赦なく感じられていた黒い瞳が少しやわらいだように見えた。
司の目の前にいるのは博創堂の牧野つくしで、キスした女で、彼の心の端を掴んだ女。
はじめのうちは端を掴まれただけだったが、いつの間にかがっちりと掴まれていた。
司は込み上げて来る笑いを堪えると、テーブルに片肘をつき、顎に手を当て、真向かいに座る女に視線を定めたまま口元に薄っすらと笑みを浮かべた。滋が紹介したがっていた女がまさか牧野つくしだとは考えもしなかった。
「司?」
滋は司に目を向けた。
次に滋は何かを見透かそうとするかのようにつくしを見ると、二人の間に流れる空気の流れを感じ取ったようだ。勘のいい滋はピンときたようで、訝しげに眉をひそめた。
「もしかして、あんたたち知り合い?」
つくしは強張ったほほ笑みを浮かべたが、頬が紅潮するのが感じられた。それにこれ以上ないほど恥ずかしかった。今この場で記憶喪失になれるなら喜んでなっていただろう。
「ちょっと・・えっ?なに?そういうことだったの?」
滋は二人の顔を交互に見た。
「嘘!やっぱりあんたたち知り合いなの?そうならそうと教えてくれたらよかったのに!つくしも水臭いんだから!」
「ち、違うのよ_」
「先輩ひどいっ!いつの間にそんなことになってたんですか?あたし達に秘密にしてたんですね!」
つくしが反応するよりも早く桜子が口を挟んだ。
「ホント、水臭いですよね?先輩は昔からいつもそうでした。何でもあたし達に相談なしで勝手に決めちゃうんですから!」
「み、水臭いも何も、あ、あたしたちそんなんじゃないから!たまたま仕事で一緒になっただけだから!」
つくしは言うと、あわてて司から目を反らした。
それでもつくしは、真正面に座る男から向けられている強い視線に戸惑っていた。それと共に口元に浮かんでいた微かな笑みにも困惑が隠せなかった。
「桜子、あのね、別に秘密にしていたわけじゃないのよ。ただ・・」
つくしの喉はカラカラに乾いていて最後まで言葉が出なかったが、ごくりと唾を飲み込んで、再び口を開こうとした。だが桜子の強い口調に黙り込んでしまった。
「ただなんですか?先輩はあたし達が紹介しなくても勝手に道明寺さんとお知り合いになっていたということですよね?あたし達がしたことって余計なお世話だったってことですか?」
三条桜子はお嬢様のように見えるが性格はかなりワイルドだ。三人の中では一番の武闘派で頭脳派。そして策士だと言われていた。真っ向からぶつかっていくよりも、策を巡らすことの方がより楽しいというタイプだ。
「だいだい先輩は嘘つきなんですよ!勉強なんてしてないなんて言って、いつも成績上位だったじゃないですか!就職だって人気の業界にいとも簡単に内定をもらうような人なんですからね!」
桜子の口調がだんだんと凄みを増してきたのが感じられた。
何かまずいことを言っただろうか。正直が最善の策だと考えるつくしだったが、道明寺司のことについては、すでに知り合っているとは言えなかったのだから、嘘つきだったかもしれない。
「桜子。もういいじゃない。つくしだって言いたくない事情があったのよね?」
言いたくない事情。
その言葉につくしはキスされたことを思い出すと、顔がカッと熱くなるのを感じた。
滋は黙ったまま隣にすわる司に目を移した。
「滋。世の中ってのは案外狭いもんだな」
相変わらずテーブルに片肘をついた男は何故か呑気な口調で言った。
「本当よね?まさか司がつくしのことを知ってたなんて意外も意外。ホント世の中って狭いものよね?桜子。あんたももうつくしに文句言うのは止めなさいよ?」
「だって酷いじゃないですか!先輩は水臭いですよ!」
拗ねたような視線をつくしに向ける桜子は滋の言葉に反論した。
「いいじゃない。二人とも、もうスタートしてるんだから、あたし達の手間が省けたってことでしょ?」
桜子はつくしが何も言ってくれなかったことに対して、納得出来ないという素振りを見せていたが、軽く頭を振り、ため息をつくと頷いた。
「そうですよね・・。何もあたし達が苦労する必要なんてありませんよね?先輩だっていい年なんですから」
桜子は司の外見に見惚れるあまり、冷静さを失っていたのだろうか。思いを率直に言うと、落ち着いていた。
「司とつくしがこうしてプライベートで会うことになって本当に良かった」
滋は仲人と言わんばかりの口調で頷いた。
「滋さんちょっと待って!会うことになったって、あたし達仕事で充分会うことがあるんだし、こ、これ以上会う必要なんてないと思うんだけど?」
「なに言ってるのよ?いい年した男と女がこうして共通の友達を通じて会うってことは、この先の展開なんて決まってるじゃない?」
滋はつくしの言い分をはねつけた。
「この先の展開って、なによそれ?」
「またぁ。男と女なんてすること決まってるじゃない?」
滋はあっけらかんとした口調で言うと悪戯っぽく笑った。
「でもあたしと、この・・道明寺さんはビジネス関係にあるわけで、そんな公私混同なんて出来るわけないじゃない!」
公私混同。
仕事絡みだと食事に誘われ、いきなりキスされた記憶がつくしの脳裏をよぎった。
「あのね。司くらいの立場になればそんなこと関係なく上手くやるから大丈夫だって!ねえ?司そうよね?」
「ああ。その点は問題ない」
は?問題は大ありでしょ?
それにこの男は何を言ってるのよ?
つくしは信じられない思いで男の顔を見つめ、視線をそのまま滋に移した。
「ほら見なさいよ?この男は出来る男だから、つくしがつき合うことになっても全然問題なんてないから!そうよね?司!」
「ビジネスを尊重しろって意味だろ?」
つくしは次に滋の隣に座る男に視線を移すと言った。
「ふ、二人とも、ちょっと待ってい、意味がわかんないんだけど?」
「あのね、司はつくしのことが気に入ったのよね?で、つくしはどうなの?」
「な、なに言ってるのよ?あたしは・・」
「なに?つくしは司とビジネスだけの関係でいいの?」
滋が悲しそうにつくしを見た。
「ビ、ビジネスだけの関係でいいに決まってるじゃない!あのね、言ってなかったけど、この男とビジネスをするのがどれだけ大変なのか・・」
滋の話があらぬ方向にどんどん転がっていくように感じられ、つくしは慌てた。
「そんなこと誰もが知ってることじゃない?司と仕事をするってことは死ぬ気で仕事をするってことなんだからね?この男、ビジネスに関しては_」
「こ、この男!いきなりキスして来たのよ!!」
「えっ?そうなの?さすが司!やることが早いわ。で、その先は?」
「あ、あるわけないじゃない!」
つくしは叫ぶと目の前に座る男をにらみつけた。
その横で滋は実に楽しそうに笑っているではないか。つくしは黙り込んだ。頭の中では、次に滋が何を言い出すのかということだけが過っていた。
牧野つくしの顔に浮かんだ表情を見て、司は笑った。
滋にいいようにおもちゃにされているのが見て取れた。だがいつまでも牧野つくしを怒らせているのは良くない。慌てふためいて、早口でまくし立てる姿は司が知っている牧野つくしの姿だ。滋が連れて来る女など、どうでもいいとばかりにここに来たが、うつむいていた女が顔を上げた瞬間、顔がにやけた。いつもと違う女の装いに頬が緩んだ。
にやける顔を隠すため、視線は鋭く女を見たが、口元が緩むのは隠しきれないとばかり、肘をつき、顎に手をあてると不機嫌さを装っていた。
牧野つくしの頭は頑固そうだが、司の頭も同じくらい頑固だ。それは、一度決めたことは最後までやり抜くという強い意志というものが彼にはある。司はあくまでも客観的な態度を見せようとするかのように、肩をすくめた。
「滋。おまえまたお得意の騒動を起こすつもりか?」
司は過去に滋との間であった騒動を思い出していた。
母親が滋との結婚話を持ってきたことがあった。だが、この女は自分の人生は自分で決めますと言い切ると、司に向かって冷やかに言った。
『 お互いにこんな家に生まれて哀れな人生だけど、生涯の相手くらい自分で決めさせて欲しいわよね? 』
その言葉に司も頷いていた。
あれ以来、司と滋は性別を超えてのつき合いが出来るようになっていた。
「冗談やめてよね?あたしは司とつくしが上手くいけばいいと思ってるだけよ?」
「なら、ちょっと黙ってろ」
滋は相変わらずの女だと司は思ったが、これもまたこの女の個性だとわかっていた。
滋は黙ったが、正面に座る牧野も黙って司をじっと見ている。
「牧野。おまえは俺と仕事だけしたいって言ってるように聞こえたけど、俺はおまえと恋がしたい。それに俺がおまえの気を変えることが出来ると思わねぇか?」
司はつくしの大きく見開かれた目を見つめた。
「道明寺さん!牧野先輩と恋愛したくなったんですか?先輩!羨ましいです!」
桜子は口を挟むとうっとりとした表情で司を見つめた。
「そうみたい!信じられないけど司はつくしと恋愛がしたくなったってことよね?」
「滋。少し黙ってろ。俺はこいつと、牧野と話しをしてるんだ」
「はーい。わかりました。黙ってます!」
滋は言うと確かに黙り込んだ。同じく桜子も。
つくしは信じられなかった。
二人がこの男とあたしをくっつけたがっていることは知っていたが、まさか、道明寺司が自分に言い寄っているという事実に信じられない思いがしていた。
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牧野つくし。
その名はもはや司の呪文と化していた。
彼は牧野つくしのことばかり考えてその命を燃やしていた。司が生きていくうえで重要なことは、牧野つくしに必要とされることで、もし必要とされなくなったら絶望的になる。
過去に一度そんな絶望を感じたことがあった。あんな経験はもう二度としたくない。
だが今はそんなことになるとは、ひとかけらの心配もない。今の司は心が浮き立つようなことしかないからだ。
何故なら常に頭の中を巡るのは、その名前の女と愛し合うイメージ。
だからと言って、その思いが頭の中から漏れ出しているというわけではなかった。
いや。彼の傍にいる秘書なら知っているかもしれない。だがそれは実に危険なことだ。
何故なら司は今、大きな任務を背負っているからだ。
疼きと切迫感。
倒錯と官能。
そして危険とアクション。
司の中であるひとつの映像が浮かんでいた。
制服を着た運転手つきの豪華なリムジンから降りてくるタキシード姿の男。
ひと目で上質な生地で仕立てられたとわかる独特の光沢を放つ生地を纏った男。
その出で立ちは彼の生まれを表しているかのようだ。
彼は生まれた時から注目を集める男だった。
癖のある髪。アーチ型の綺麗な眉。切れ長の鋭い瞳。スッと通った鼻筋と薄い唇。そして綺麗に並んだ白い歯。声は年代物のバーボーンのように滑らかで、そしてハスキーで官能的。まさに抗いがたい魅力を持つ男だ。
そんな男が降り立ったのは某国大使館の入口。
彼はこれからその大使館で行われるパーティーに参加するためここに来た。
彼の名前は道明寺司。
道明寺財閥の御曹司で、世界的な大企業、道明寺ホールディングス日本支社の支社長を務めている。
そんな男に向けられるのは、見知らぬ大勢の女たちからの羨望のまなざし。
世界中から理想の男性と言われ、訪れる国によっては国家元首並の扱いを受ける。
彼の物腰と自信は、そこらの成金が身に付けようとしても身に付けられるものではない。
生まれと育ちの良さと教養がそうさせていた。
まさに誰もが知る男で、リッチなプレイボーイだと思われていた。
だが、そんな彼には別の顔もあった。
それは・・・
ある情報機関に所属する諜報員。
つまりスパイ。
コードネームはスネーク。
なぜ彼のコードネームがスネークなのか?
楽園でイブにりんごを食べるようそそのかしたのは蛇だ。
アダムとイブは蛇の勧めたりんごを食べたため、楽園を追われ原罪を受けた。
その神話に基づいたかのように、彼はタキシードを着た誘惑の悪魔と言われている。
女を惑わすことにかけては、彼の右に出る者はいないとまで言われていた。
そんな男に不可能なミッションはなかった。
どこかの映画のように変装することはない。
彼の武器はその美貌。
そしてどこか感じられる危険な炎。
それは暗く怪しく官能的な炎。
そんな炎に引き寄せられるのは女だけではない。
男たちもまた彼の危険な暗部に興味を抱いていた。
誰も彼もが彼と話しをしたいと近寄ろうとする。
だが今夜の司はそんな大勢の人間の相手をしている暇はなかった。
男が今夜このパーティーに参加したのには、ある目的があった。
スラックスを刻一刻とキツクさせる女。
男の体の特定の部分だけを変化させる女。
それは敵対する某国の女スパイ、牧野つくし。
今までも大使館のパーティーでは何度か見かけていた。
だが、本当の名前を知ったのはつい最近のことだ。それまでは謎の女として、いくつかの名前を使い分けていた。
女はその頭脳の良さを使ってコンピーターのシステムから情報を盗んでいた。決して痕跡を残すことはぜず、素早く、鮮やかな手口だ。そんなことから、司も何度かその女に先を越されたことがあった。
だが今回の仕事は情報を盗むことではない。
今夜の任務は女を寝返えらせること。
そして彼の女にすることだ。
招待客でいっぱいの広間の壁際に立つ女。
黒いシンプルなドレスにダイヤモンドのネックレス。黒い髪は頭の上で緩やかに纏められている。そして、大きな黒い瞳がダイヤモンドに負けないくらいの輝きを放っていた。
じっと見つめる視線に気づいたのか、女は司の方を向くと視線を合わせた。
彼はウェイターが捧げ持つトレーからシャンパンを手にすると、女の元へと近づいた。
「こんばんは。おひとりですか?」
「いいえ。連れがいますの。でも今は殿方の集まりに行ってますわ。」
「そうですか。今まで何度かお見かけしましたが、いつもおひとりだったと記憶しておりますが?」
「そう仰るあなたもですね?道明寺さん?」
司は鈴を転がすような声で名前を呼ばれ、そそられた。
大きな黒い瞳はあなたのことは全てお見通しよ、とばかり輝いていた。
司はシャンパンを飲み干すと、女の顔をじっと見つめた。
頭がよく、勇敢でセクシーな女。
まるで俺のために用意されたような女。
「踊らないか?」
生演奏の官能的な調べはタンゴ。
踊りながら互い体をぴったりとくっつけた。腕の中に包み込むように抱いた女は司の肩ほどの高さしかない。ふわりと香ったのは、女の髪から香る洗い立ての香り。
司の太腿と女の太腿が触れ、長い脚を女の脚の間に入れ、背中をのけ反らせた。
顔を近づけると大きな瞳を飾る睫毛の1本1本まで見えた。
二人は踊りながら広い広間を横切ると、鍵のかかっていない薄暗い部屋へとなだれ込んだ。
男と女は危険を冒すことをいとわない人間だ。
もしこれからこの場所で愛し合えと言うのなら、彼は喜んでそのミッションに従う。
だが、この出会いをゲームにはしたくない。
司は牧野つくしが心の底から欲しいと感じていた。
二人の間には何か独特のものがある。
それは決して断ち切ることの出来ない絆のようなもの。
アダムとイブがいたという楽園から追放されたのは、自分たちではないかという想い。
司は牧野つくしの大きく開いた背中に指を這わせた。
ゆっくりと。
焦らすように。
彼の体温が伝わるように。
細い腰に腕を廻したまま、マホガニーのデスクに押し付けていた。
司はつくしに体を重ね、いきなり唇を重ねた。
女の髪を解き、長い指先で丁寧に梳く。指に纏わりつく髪はしなやかで柔らかい。
だが、唇は決して離さない。押し付けた唇で女の唇を開かせ、舌で歯列をなぞる。
やがて男の手は、女のドレスの裾をゆっくりと持ち上げて行く。
そこに現れた太腿は、黒のガーターストッキングに包まれていた。
ガーターストッキングのいいところは、それを脱ぐことなくヤレることだ。
秘部を隠しているのは小さなシルク。
すでにソコは色が変わり、指で触れればはっきりと濡れているのが感じられた。
刺激的で途方もなく淫らなこの状況。
この部屋のドアに鍵はかけなかった。
いつ誰が入ってきても、おかしくはない。
それはこの部屋の主かもしれない。
スラックスの生地の形を変えるほど立ち上がった男の証。
司はその膨らみを女の濡れたソコに押し付けた。
「・・っふ・・ん・・」
悩まし気な声を上げる女は、今のこのスリリングな状況を楽しんでいるかのようだ。
本来ならベッドのある部屋が望ましい。だがこの部屋にはベッドはない。
この女と愛し合うなら堅いデスクではなく、柔らかいベッドの上がいい。
今ならまだ間に合うはずだ。
そう思いながら司は小さな物音に気付くと、後ろを振り返った。するとドアの内側に黒づくめの男がいた。そして男の手にはキラリと光る何かが見えた。
「危ない!」
「わかってる。おまえは心配するな」
司は言うよりも早く彼の右手には銃が握られていた。
左手を添えると、標的に向けて構えた。
狙った獲物は逃さねぇ。
彼の射撃の腕前は超一流。照準は確かだ。
「・・・し・・しゃ・・」
「し・・しゃちょ・・」
「支社長」
「支社長。大変申し訳ございませんが、わたくしに向かってその構えはお止め下さい」
「あ?」
司は指で作った銃の照準を西田に向かって合わせていた。
「ですから、そのように銃を構えるかのような姿勢はお止め下さい」
・・・やべぇ・・
もう少しで西田を射殺するところだったか?
だが西田であろうが誰であろうが、俺の牧野つくしを盗む野郎を生かしておくわけにはいかねぇ。
いや。盗まれたのは俺の方だ。
司が盗まれたものは彼のハート。
それは17歳の時すでに盗まれていた。
牧野はスパイどころか、大泥棒だ。
司はいつも考えていた。
たとえ、大企業のトップにいようと、経済界の頂点にいようと、原点回帰は大切だということを。どんなことがあってもそれだけは忘れてはならない。
それは人生にもビジネスにも言えることで、彼にとっては自分の人生が間違った方向に進まないためにも忘れてはならないことだ。
司の人生の原点。
それはもちろん牧野つくしと出会った日。
欲の塊ばかりの人間に囲まれていた頃、出会った彼の原点だ。
牧野と知り合ってから、俺の人生が変わったのは言うまでもない話しだ。
それまでは誰も彼の傍へは近づこうとは、しなかった。
だが今は違う。
牧野のおかげで、あいつのおかげで俺の周りにも人が集まることがある。
それは彼が大物になってきた証だ。本物の大物には、金や権力以外でもその人柄に惹かれ、人が集まってくるようになるからだ。
そんなことを考えていた司の元に、パソコンを抱えて牧野が飛び込んで来た。
なんだよ?
どうした?
パソコンの調子が悪いのか?
なんならすぐにでも新しいのを用意させるか?
「ちょっと道明寺大丈夫なの?」
「あ?」
「あって・・体調が悪いってメールが来たから心配になって・・」
そう言って昼休みに執務室まで来る女はいとしの牧野。
「ああ。なんかここが痛てぇんだ」
「こ、ここって・・」
司が指示したのは胸。
そこはいつもつくしのことを思って激しく鼓動していた。
先日の一件、つまり卑猥な内容のメールを送った結果、つくしが執務室に飛び込んで来て以来、社内メールが癖になった司。例え返信がなくても溢れる思いを書き綴ること止めようとはしなかった。いつも気の向くまま、思うまま一方的にメールを送り続けていた。
だがそれが司のストレス解消となるなら、と、つくしも認めていた。
読んだのか読んでないかと心配する必要はなかった。
彼の会社のメールのシステムでは、相手が読んだかどうかが瞬時にわかるシステムになっているからだ。既読されているとわかると頬が緩んだ。
それを見る西田も、支社長の業務が円滑に進むならと容認していた。
司は既読されていることで、気持ちを伝えることが出来たといつも満足していた。
だが、たまにはつくしが執務室に飛び込んで来て欲しいと思うこともあった。
そんな司が考えたのがあのメール。実にストレートで分かり易い。究極の文字の並び。
その結果、見事牧野をここへおびき寄せることが出来たんだから大したモンだろ?
「心臓が痛む」
この一行を読んだ牧野はいつもと違う俺からのメールにこうしてやって来た。
勿論、本当に心臓が痛いわけじゃねぇ。ただ、そんなメールを送ればどんな言葉が返されるかと期待したから送った。それなのに、牧野はわざわざ執務室までやって来た。
やっぱりこいつは、俺のことを心から愛していて、心配してるってことだよな?
「で、牧野。他にも送ったメールがあったろ?あれ読んだか?」
「な、なにそれ?あれだけじゃないの?読んでないわよ?いつ送ったのよ?」
「いつってあれからあんまし時間空けねぇで送ったけどな?」
つくしは持ってきたパソコンのメールを確認したが届いていなかった。
「道明寺?届いてないけど?」
「_んなわけねぇだろ?貸してみろよ?」
司はつくしのパソコンのメール受信を確認した。
が、送ったはずのメールは届いていなかった。
「ま、まさか間違えて送ったんじゃ・・」
二人は互いの顔を見合わせたが、言葉はなかった。
あのメールはいったいどこへ送信されたのか?
司は慌ててパソコンのメール送信履歴を見た。
「ねぇ知ってる?うちの会社のメールがハッキングされたんじゃないかって話し」
「うん。聞いた。なんでも支社長の名前で変なメールが届いたんでしょ?」
「そうなのよ。それもいやらしいことが書いてあったそうよ?」
「ええっ!そうなの?」
「なんでもかなり卑猥な内容だったらしくてね?犯人は誰だって話になってるらしいわよ?」
「それで、犯人はわかったの?」
「それがね、わからないそうよ?」
「それで、誰がそのメールを受け取ったの?」
「それがね・・」
送信者名 道明寺ホールディングス 道明寺司。
受信者名 海外事業本部 部長 牧田又蔵。
「ぶ、、部長!!」
「ああ、牧野君どうした?」
「お、おかしな内容のメールが届いてるって聞いたんですが!」
「ああ。そうなんだよ。差出人が支社長のお名前なんだか、内容がどうもおかしいんだ」
「あの、見せて頂いてもいいですか?」
「そんなことより牧野君、息が切れてるよ?走って来たのか?」
つくしは司の執務室から駆け下りて来た。
「み、見せて頂いてもいいですか?だ、誰か他に見た人は・・」
「いや。見せてはいないが、おかしなメールが届いたことだけは話をしたな。流石にあの内容を女性社員に見せるとセクハラになるからな。それに支社長のお名前であんなメールを送るなんて不届き者がいること自体が問題だ。あの内容では支社長の尊厳に関わる。例え偽装メールだとしても、むやみやたらと人の目に晒すものではないと思っている」
「そ、そうですか。そうですよね・・」
「申し訳ないが牧野君にも見せる訳には・・」
「あれ?おかしいな・・確かこのフォルダーに保存したんだが・・」
牧田又蔵は首を傾げメールを確認したが、そこに問題のメールは無かった。
最近は追いかけなくても、あいつから俺の胸に飛び込んで来ることがあったが、あのメール事件以来、俺から牧野への仕事以外での社内メールは厳禁となった。
クソッ!
あの部長。
なんで牧田なんて名前なんだよ!
司は社内のメールアドレス帳から登録されている牧野つくしのアドレスを選択するとき、選択を間違えていた。
『海外事業本部 部長 牧田又蔵 』
『海外事業本部 牧野つくし 』
俺は悪くねぇ。
紛らわしい名前が上下に並んでるのが悪りぃんだ!
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その名はもはや司の呪文と化していた。
彼は牧野つくしのことばかり考えてその命を燃やしていた。司が生きていくうえで重要なことは、牧野つくしに必要とされることで、もし必要とされなくなったら絶望的になる。
過去に一度そんな絶望を感じたことがあった。あんな経験はもう二度としたくない。
だが今はそんなことになるとは、ひとかけらの心配もない。今の司は心が浮き立つようなことしかないからだ。
何故なら常に頭の中を巡るのは、その名前の女と愛し合うイメージ。
だからと言って、その思いが頭の中から漏れ出しているというわけではなかった。
いや。彼の傍にいる秘書なら知っているかもしれない。だがそれは実に危険なことだ。
何故なら司は今、大きな任務を背負っているからだ。
疼きと切迫感。
倒錯と官能。
そして危険とアクション。
司の中であるひとつの映像が浮かんでいた。
制服を着た運転手つきの豪華なリムジンから降りてくるタキシード姿の男。
ひと目で上質な生地で仕立てられたとわかる独特の光沢を放つ生地を纏った男。
その出で立ちは彼の生まれを表しているかのようだ。
彼は生まれた時から注目を集める男だった。
癖のある髪。アーチ型の綺麗な眉。切れ長の鋭い瞳。スッと通った鼻筋と薄い唇。そして綺麗に並んだ白い歯。声は年代物のバーボーンのように滑らかで、そしてハスキーで官能的。まさに抗いがたい魅力を持つ男だ。
そんな男が降り立ったのは某国大使館の入口。
彼はこれからその大使館で行われるパーティーに参加するためここに来た。
彼の名前は道明寺司。
道明寺財閥の御曹司で、世界的な大企業、道明寺ホールディングス日本支社の支社長を務めている。
そんな男に向けられるのは、見知らぬ大勢の女たちからの羨望のまなざし。
世界中から理想の男性と言われ、訪れる国によっては国家元首並の扱いを受ける。
彼の物腰と自信は、そこらの成金が身に付けようとしても身に付けられるものではない。
生まれと育ちの良さと教養がそうさせていた。
まさに誰もが知る男で、リッチなプレイボーイだと思われていた。
だが、そんな彼には別の顔もあった。
それは・・・
ある情報機関に所属する諜報員。
つまりスパイ。
コードネームはスネーク。
なぜ彼のコードネームがスネークなのか?
楽園でイブにりんごを食べるようそそのかしたのは蛇だ。
アダムとイブは蛇の勧めたりんごを食べたため、楽園を追われ原罪を受けた。
その神話に基づいたかのように、彼はタキシードを着た誘惑の悪魔と言われている。
女を惑わすことにかけては、彼の右に出る者はいないとまで言われていた。
そんな男に不可能なミッションはなかった。
どこかの映画のように変装することはない。
彼の武器はその美貌。
そしてどこか感じられる危険な炎。
それは暗く怪しく官能的な炎。
そんな炎に引き寄せられるのは女だけではない。
男たちもまた彼の危険な暗部に興味を抱いていた。
誰も彼もが彼と話しをしたいと近寄ろうとする。
だが今夜の司はそんな大勢の人間の相手をしている暇はなかった。
男が今夜このパーティーに参加したのには、ある目的があった。
スラックスを刻一刻とキツクさせる女。
男の体の特定の部分だけを変化させる女。
それは敵対する某国の女スパイ、牧野つくし。
今までも大使館のパーティーでは何度か見かけていた。
だが、本当の名前を知ったのはつい最近のことだ。それまでは謎の女として、いくつかの名前を使い分けていた。
女はその頭脳の良さを使ってコンピーターのシステムから情報を盗んでいた。決して痕跡を残すことはぜず、素早く、鮮やかな手口だ。そんなことから、司も何度かその女に先を越されたことがあった。
だが今回の仕事は情報を盗むことではない。
今夜の任務は女を寝返えらせること。
そして彼の女にすることだ。
招待客でいっぱいの広間の壁際に立つ女。
黒いシンプルなドレスにダイヤモンドのネックレス。黒い髪は頭の上で緩やかに纏められている。そして、大きな黒い瞳がダイヤモンドに負けないくらいの輝きを放っていた。
じっと見つめる視線に気づいたのか、女は司の方を向くと視線を合わせた。
彼はウェイターが捧げ持つトレーからシャンパンを手にすると、女の元へと近づいた。
「こんばんは。おひとりですか?」
「いいえ。連れがいますの。でも今は殿方の集まりに行ってますわ。」
「そうですか。今まで何度かお見かけしましたが、いつもおひとりだったと記憶しておりますが?」
「そう仰るあなたもですね?道明寺さん?」
司は鈴を転がすような声で名前を呼ばれ、そそられた。
大きな黒い瞳はあなたのことは全てお見通しよ、とばかり輝いていた。
司はシャンパンを飲み干すと、女の顔をじっと見つめた。
頭がよく、勇敢でセクシーな女。
まるで俺のために用意されたような女。
「踊らないか?」
生演奏の官能的な調べはタンゴ。
踊りながら互い体をぴったりとくっつけた。腕の中に包み込むように抱いた女は司の肩ほどの高さしかない。ふわりと香ったのは、女の髪から香る洗い立ての香り。
司の太腿と女の太腿が触れ、長い脚を女の脚の間に入れ、背中をのけ反らせた。
顔を近づけると大きな瞳を飾る睫毛の1本1本まで見えた。
二人は踊りながら広い広間を横切ると、鍵のかかっていない薄暗い部屋へとなだれ込んだ。
男と女は危険を冒すことをいとわない人間だ。
もしこれからこの場所で愛し合えと言うのなら、彼は喜んでそのミッションに従う。
だが、この出会いをゲームにはしたくない。
司は牧野つくしが心の底から欲しいと感じていた。
二人の間には何か独特のものがある。
それは決して断ち切ることの出来ない絆のようなもの。
アダムとイブがいたという楽園から追放されたのは、自分たちではないかという想い。
司は牧野つくしの大きく開いた背中に指を這わせた。
ゆっくりと。
焦らすように。
彼の体温が伝わるように。
細い腰に腕を廻したまま、マホガニーのデスクに押し付けていた。
司はつくしに体を重ね、いきなり唇を重ねた。
女の髪を解き、長い指先で丁寧に梳く。指に纏わりつく髪はしなやかで柔らかい。
だが、唇は決して離さない。押し付けた唇で女の唇を開かせ、舌で歯列をなぞる。
やがて男の手は、女のドレスの裾をゆっくりと持ち上げて行く。
そこに現れた太腿は、黒のガーターストッキングに包まれていた。
ガーターストッキングのいいところは、それを脱ぐことなくヤレることだ。
秘部を隠しているのは小さなシルク。
すでにソコは色が変わり、指で触れればはっきりと濡れているのが感じられた。
刺激的で途方もなく淫らなこの状況。
この部屋のドアに鍵はかけなかった。
いつ誰が入ってきても、おかしくはない。
それはこの部屋の主かもしれない。
スラックスの生地の形を変えるほど立ち上がった男の証。
司はその膨らみを女の濡れたソコに押し付けた。
「・・っふ・・ん・・」
悩まし気な声を上げる女は、今のこのスリリングな状況を楽しんでいるかのようだ。
本来ならベッドのある部屋が望ましい。だがこの部屋にはベッドはない。
この女と愛し合うなら堅いデスクではなく、柔らかいベッドの上がいい。
今ならまだ間に合うはずだ。
そう思いながら司は小さな物音に気付くと、後ろを振り返った。するとドアの内側に黒づくめの男がいた。そして男の手にはキラリと光る何かが見えた。
「危ない!」
「わかってる。おまえは心配するな」
司は言うよりも早く彼の右手には銃が握られていた。
左手を添えると、標的に向けて構えた。
狙った獲物は逃さねぇ。
彼の射撃の腕前は超一流。照準は確かだ。
「・・・し・・しゃ・・」
「し・・しゃちょ・・」
「支社長」
「支社長。大変申し訳ございませんが、わたくしに向かってその構えはお止め下さい」
「あ?」
司は指で作った銃の照準を西田に向かって合わせていた。
「ですから、そのように銃を構えるかのような姿勢はお止め下さい」
・・・やべぇ・・
もう少しで西田を射殺するところだったか?
だが西田であろうが誰であろうが、俺の牧野つくしを盗む野郎を生かしておくわけにはいかねぇ。
いや。盗まれたのは俺の方だ。
司が盗まれたものは彼のハート。
それは17歳の時すでに盗まれていた。
牧野はスパイどころか、大泥棒だ。
司はいつも考えていた。
たとえ、大企業のトップにいようと、経済界の頂点にいようと、原点回帰は大切だということを。どんなことがあってもそれだけは忘れてはならない。
それは人生にもビジネスにも言えることで、彼にとっては自分の人生が間違った方向に進まないためにも忘れてはならないことだ。
司の人生の原点。
それはもちろん牧野つくしと出会った日。
欲の塊ばかりの人間に囲まれていた頃、出会った彼の原点だ。
牧野と知り合ってから、俺の人生が変わったのは言うまでもない話しだ。
それまでは誰も彼の傍へは近づこうとは、しなかった。
だが今は違う。
牧野のおかげで、あいつのおかげで俺の周りにも人が集まることがある。
それは彼が大物になってきた証だ。本物の大物には、金や権力以外でもその人柄に惹かれ、人が集まってくるようになるからだ。
そんなことを考えていた司の元に、パソコンを抱えて牧野が飛び込んで来た。
なんだよ?
どうした?
パソコンの調子が悪いのか?
なんならすぐにでも新しいのを用意させるか?
「ちょっと道明寺大丈夫なの?」
「あ?」
「あって・・体調が悪いってメールが来たから心配になって・・」
そう言って昼休みに執務室まで来る女はいとしの牧野。
「ああ。なんかここが痛てぇんだ」
「こ、ここって・・」
司が指示したのは胸。
そこはいつもつくしのことを思って激しく鼓動していた。
先日の一件、つまり卑猥な内容のメールを送った結果、つくしが執務室に飛び込んで来て以来、社内メールが癖になった司。例え返信がなくても溢れる思いを書き綴ること止めようとはしなかった。いつも気の向くまま、思うまま一方的にメールを送り続けていた。
だがそれが司のストレス解消となるなら、と、つくしも認めていた。
読んだのか読んでないかと心配する必要はなかった。
彼の会社のメールのシステムでは、相手が読んだかどうかが瞬時にわかるシステムになっているからだ。既読されているとわかると頬が緩んだ。
それを見る西田も、支社長の業務が円滑に進むならと容認していた。
司は既読されていることで、気持ちを伝えることが出来たといつも満足していた。
だが、たまにはつくしが執務室に飛び込んで来て欲しいと思うこともあった。
そんな司が考えたのがあのメール。実にストレートで分かり易い。究極の文字の並び。
その結果、見事牧野をここへおびき寄せることが出来たんだから大したモンだろ?
「心臓が痛む」
この一行を読んだ牧野はいつもと違う俺からのメールにこうしてやって来た。
勿論、本当に心臓が痛いわけじゃねぇ。ただ、そんなメールを送ればどんな言葉が返されるかと期待したから送った。それなのに、牧野はわざわざ執務室までやって来た。
やっぱりこいつは、俺のことを心から愛していて、心配してるってことだよな?
「で、牧野。他にも送ったメールがあったろ?あれ読んだか?」
「な、なにそれ?あれだけじゃないの?読んでないわよ?いつ送ったのよ?」
「いつってあれからあんまし時間空けねぇで送ったけどな?」
つくしは持ってきたパソコンのメールを確認したが届いていなかった。
「道明寺?届いてないけど?」
「_んなわけねぇだろ?貸してみろよ?」
司はつくしのパソコンのメール受信を確認した。
が、送ったはずのメールは届いていなかった。
「ま、まさか間違えて送ったんじゃ・・」
二人は互いの顔を見合わせたが、言葉はなかった。
あのメールはいったいどこへ送信されたのか?
司は慌ててパソコンのメール送信履歴を見た。
「ねぇ知ってる?うちの会社のメールがハッキングされたんじゃないかって話し」
「うん。聞いた。なんでも支社長の名前で変なメールが届いたんでしょ?」
「そうなのよ。それもいやらしいことが書いてあったそうよ?」
「ええっ!そうなの?」
「なんでもかなり卑猥な内容だったらしくてね?犯人は誰だって話になってるらしいわよ?」
「それで、犯人はわかったの?」
「それがね、わからないそうよ?」
「それで、誰がそのメールを受け取ったの?」
「それがね・・」
送信者名 道明寺ホールディングス 道明寺司。
受信者名 海外事業本部 部長 牧田又蔵。
「ぶ、、部長!!」
「ああ、牧野君どうした?」
「お、おかしな内容のメールが届いてるって聞いたんですが!」
「ああ。そうなんだよ。差出人が支社長のお名前なんだか、内容がどうもおかしいんだ」
「あの、見せて頂いてもいいですか?」
「そんなことより牧野君、息が切れてるよ?走って来たのか?」
つくしは司の執務室から駆け下りて来た。
「み、見せて頂いてもいいですか?だ、誰か他に見た人は・・」
「いや。見せてはいないが、おかしなメールが届いたことだけは話をしたな。流石にあの内容を女性社員に見せるとセクハラになるからな。それに支社長のお名前であんなメールを送るなんて不届き者がいること自体が問題だ。あの内容では支社長の尊厳に関わる。例え偽装メールだとしても、むやみやたらと人の目に晒すものではないと思っている」
「そ、そうですか。そうですよね・・」
「申し訳ないが牧野君にも見せる訳には・・」
「あれ?おかしいな・・確かこのフォルダーに保存したんだが・・」
牧田又蔵は首を傾げメールを確認したが、そこに問題のメールは無かった。
最近は追いかけなくても、あいつから俺の胸に飛び込んで来ることがあったが、あのメール事件以来、俺から牧野への仕事以外での社内メールは厳禁となった。
クソッ!
あの部長。
なんで牧田なんて名前なんだよ!
司は社内のメールアドレス帳から登録されている牧野つくしのアドレスを選択するとき、選択を間違えていた。
『海外事業本部 部長 牧田又蔵 』
『海外事業本部 牧野つくし 』
俺は悪くねぇ。
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司は珍しく世田谷の邸にいた。
それも珍しいことにプールで泳いでいた。
十往復泳ぎ終わるとプールサイドまで泳ぎ、タイル張りの縁へ上がったところだった。
彼は普段別の場所で一人暮らしをしていたが、ストレス解消、運動不足解消というわけではないが、気が向けば邸に戻って来ては泳いでいた。
ニューヨークのペントハウスで一人暮らしの気楽さを知った司は、周りに誰かいるという生活が鬱陶しいと感じるようになっていた。通いの使用人はいたとしても、簡単なことなら自分でも充分出来る。例えそれがコーヒーを入れることぐらいだとしても。
つい先日牧野つくしを送ったのは同じ世田谷だ。
中古マンションとはいえ4000万程するマンションにひとり暮らしの女。
独立心旺盛な女は男に頼ることなく、自分の収入で生活していく力があることは確かだ。
プレゼンでは自信たっぷりの態度を見せていた女。そんな中にも窺うことが出来たのは緊張感だ。それでも隙のない様を装って立っていた。
そんな女が興奮気味に目を輝かせたのは、自分の会社のプランが採用されたときだ。
対し、司の顔を見たときはしかめっ面にも似た顔をした。
あの女の本当の顔が見たい。
どうやったらその顔を見ることが出来る?
頭がいい、知的であることは間違いない。そんな女だからこそ、共有できることがあるはずだ。だから一緒に仕事が出来るように仕向けた。
牧野つくしが眉間に皺を寄せて司を見たとき、思わずその眉間に指を這わせていた。
その結果、理性を失い本能のままの行動に出てしまった。次の瞬間キスをしたのは、それまで押さえつけていた気持ちの反動だったはずだ。
キスしたことが悪いなんて思わなかった。湧き上がった欲望に素直に従った結果である以外のなにものでもないからだ。
食事の間、挑発的な言葉を繰り返してみたが反応はなかった。司にしてみればしぶしぶだが車に乗せ、自宅マンションまで送って行くことにした。住所を言わなくても自宅まで送られた女は、そのことを疑問に思っただろうがやはり何も言わなかった。まるで無視でもするかのような女の態度。
だが次のチャンスはすぐあることは、わかっていた。それは勿論仕事絡みだが、それで十分だ。そのときは上手くやって見せると自分自身に誓った。
いつも考えごとをする時は、ブラックコーヒーを何杯も飲んで答えを見つけていた。
だが今日はこうして体を動かしたことで簡単に答えにたどり着くことが出来た。
これからシャワーを浴び仕事に出掛けるわけだが、今夜は大河原滋との約束の日だ。
滋が紹介するという女。いったいどんな女なのか。どちらにしても、そんな女のことはどうでもいい。滋は会うだけでいいという話だったはずだ。
司は嫌な人間を見るときは、片眉を上げて目を細める。それをされた人間はもう彼の前では何も言えなくなる。彼の威圧感のある眼差しを受けた者は縮み上がる。それを女の前で見せればいいだけの話だ。そんな女のことはさっさと片づけて、牧野つくしとの仕事のことを考える方が余程いい。
そう思うと、司は顔に笑みを浮かべていた。
***
つくしは自分の呼吸の回数を数えようとしたが止めた。
どうしてこんなに呼吸をする回数が多いのか。それはいたって普通のはずだが、自分では過呼吸気味ではないかとさえ思えるほど緊張しているのがわかった。
仕事でも緊張することがあるが、ここまで緊張したことはない。しかし、ここのところ自分の身に起きたことが速度を増して展開されそうな気がしていた。
今まで仕事に集中し過ぎて、周りの事をさして気にしてはいなかったが、時にはうっとりするような雰囲気に憧れることもあった。それは映画を観た後に必ずそう思う時間があった。
周りはつくしが仕事人間だと思っている。
しかし心の中は違った。
実は恋愛映画は大好きだ。
それは自分が経験出来ないことを疑似体験できるからだ。だが周りの人間には内緒にしていた。しかしまさかその周りの人間が、つくしにロマンスを提供しようという気になったのはどうしてなのか・・
確かにもう長い間、そう言ったロマンスからは遠ざかっている。友人達はそのことを見かねたということだろう。しかし相手が悪い。相手が。何しろ相手は″あの道明寺司″だからだ。
結局滋には言いだせなかった。もちろん桜子にもだ。桜子に言えば滋に伝わることは、わかっていたが何故か言うのを躊躇ってしまった。
つくしは今夜これから道明寺司に会うことになっていた。
それは仕事ではない。滋がセッティングした出会いの場だ。
その前に二人の友人はつくしを滋の部屋へと呼び出すと、面白味のないつくしの洋服についての講義を始めた。
「先輩、いいですか?相手はあの道明寺さんですからね。世界中の美女が喜んで身を投げすゴージャスな男ですからね?」
だからどうしたと?
「それなのに、その地味な服装はなんなんです?どうして黒なんか着て来るんですか!黒なんておばあちゃんになってからでも充分間に合うんですからそんな地味な色なんて着ないで下さい!道明寺さんはそんな地味な洋服なんてお嫌いです!まったく先輩はどうしてファッションに無頓着なんでしょうね?」
つくしは普段からよく言われていた。色が少ない。どうしてそんな地味な色ばかり着るのか。
具体的に言えば、黒、グレー、紺。だがこれはビジネスでは一番活躍する色だ。
「先輩の肌は白いしキメも細かくて綺麗なんですからどんな色でもお似合いなんです。だからせめて仕事以外ではもっと明るい色を着て下さい!先輩の色のパレットの中にはカラフルという言葉はないんでしょうか?」
つくしから見た桜子はまさに色の女王様だ。
昔から極楽鳥のように華やかな女だったが、最近その極楽鳥はエレガントという言葉も身に付けている。
「とにかく、先輩は地味ですからもっと華やかな色を着て下さい。別に基本を変えろなんて言いません。せめてスーツの下に着るインナーにもう少し色を加えるとかでもいいんです。いつも白ばかり着ないで、色のついたものを着て下さい!どうせ先輩のことですから下着も地味なんですよね?勝負下着なんてのはお持ちじゃないんでしょ?」
「だ、だって桜子・・勝負なんてする予定はないんだし・・」
「なに言ってるんですか!そんなの女性としての身だしなみのひとつです!」
つくしは自分よりも友人達が一生懸命な姿になぜか笑いがこみ上げていた。
「いいですか?おしゃれに気を使うことを余計な時間だとか、無駄な時間だとかそんなふうに考えないで下さいね?おしゃれをすることで気持ちが盛り上がることもあるんです。色からパワーを貰って物事を前向きに考えれることもあるんです。それに明るい色を着ることは精神的にはいいことなんですからね!」
友人二人は以前つくしのマンションを訪れたとき、クローゼットの中を覗いて帰った。
そのとき二人の間で交わされた視線の結果が、目の前にある洋服だ。
桜子が用意してくれたのは、つくしのクローゼットには絶対にない色。それはワインレッドのワンピースに黒のボレロ。みれば高級ブランドのタグが付いていた。
「先輩、同じ黒を着るなら組み合わせで華やかに見えるようなものを着るべきです。そんな上下黒なんて格好してたら、カラスと間違われますからね?いいですか、これから会うのは道明寺さんなんです。そんな野暮ったい黒なんて絶対ダメですからね?それからそのメイク!全然ダメです。色が全然ないじゃないですか!」
つくしは普段から薄化粧だ。社会人のマナーとして最低限ともいえるほどで、男を惑わすようなメークをしたことがない。だが桜子の手にかかればそうはいかない。それに自分でも今夜は何故か身を守るものが欲しいと思っていた。桜子が用意してくれた洋服を着るならなおさら必要だろう。
桜子はつくしの顔にどんどん色を加えていくと、満足そうに見た。
「いいじゃないですか、先輩。これで少しは道明寺さんに相応しい女性に見えますよ。ねえ滋さん?」
すると、滋はつくしの両手を握った。
「つくし、いい?何も慌てて司とつき合わなくてもいいの。とりあえず今夜は会うだけでいいからね?」
滋の目は思いやりに溢れていた。
つくしの社交生活があまりにも不憫だとでも言わんばかりのその態度。
だが次に口を突いて出た言葉はあの男を庇うような言葉だ。
「あいつ色々と誤解されやすい男なのよ。だからって最初っから背を向けるのは止めてあげてくれる?どんな人間もゆっくり時間をかければ、それなりに良いところが見えてくるからね?」
女3人と男1人が会う場所となったのは、大河原財閥が所有するレストランだ。
移動の間、両脇をがっちりと抱えられた女は、まるで犯罪者か囚われた宇宙人かという体で席に座らされた。
つくしは言い出せなかった。今さらだが、はやり言うべきか、それとも言わざるべきか。
すでに道明寺司とは面識があってキスまでした仲だと。
滋はさばさばとした性格と態度で気取りがない。昔から自由奔放な考え方と行動で周りを振り回すことも多かったが、面倒見がよく誠実な女性だ。心を開いた相手には母性と愛情を持って接するタイプだ。その滋の口振りからすれば、道明寺司のことを人として認めているから、つくしに紹介して来たということだ。
それなら、いきなりキスをして来たあの男の行動をどう捉えたらいいのだろうか?
矛盾する。
滋さんが認めた道明寺司とつくしが知っている道明寺司とではイメージが違い過ぎる。
あの男は二重人格者か?
とにかく、この二人はつくしに考える隙など与えるかとばかりに次から次へと言ってくる。
すると突然滋が叫び声を上げた。
「つかさー!!」
振り向かなくても充分わかる人物が来たことがわかった。
「久しぶり!元気だった?」

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それも珍しいことにプールで泳いでいた。
十往復泳ぎ終わるとプールサイドまで泳ぎ、タイル張りの縁へ上がったところだった。
彼は普段別の場所で一人暮らしをしていたが、ストレス解消、運動不足解消というわけではないが、気が向けば邸に戻って来ては泳いでいた。
ニューヨークのペントハウスで一人暮らしの気楽さを知った司は、周りに誰かいるという生活が鬱陶しいと感じるようになっていた。通いの使用人はいたとしても、簡単なことなら自分でも充分出来る。例えそれがコーヒーを入れることぐらいだとしても。
つい先日牧野つくしを送ったのは同じ世田谷だ。
中古マンションとはいえ4000万程するマンションにひとり暮らしの女。
独立心旺盛な女は男に頼ることなく、自分の収入で生活していく力があることは確かだ。
プレゼンでは自信たっぷりの態度を見せていた女。そんな中にも窺うことが出来たのは緊張感だ。それでも隙のない様を装って立っていた。
そんな女が興奮気味に目を輝かせたのは、自分の会社のプランが採用されたときだ。
対し、司の顔を見たときはしかめっ面にも似た顔をした。
あの女の本当の顔が見たい。
どうやったらその顔を見ることが出来る?
頭がいい、知的であることは間違いない。そんな女だからこそ、共有できることがあるはずだ。だから一緒に仕事が出来るように仕向けた。
牧野つくしが眉間に皺を寄せて司を見たとき、思わずその眉間に指を這わせていた。
その結果、理性を失い本能のままの行動に出てしまった。次の瞬間キスをしたのは、それまで押さえつけていた気持ちの反動だったはずだ。
キスしたことが悪いなんて思わなかった。湧き上がった欲望に素直に従った結果である以外のなにものでもないからだ。
食事の間、挑発的な言葉を繰り返してみたが反応はなかった。司にしてみればしぶしぶだが車に乗せ、自宅マンションまで送って行くことにした。住所を言わなくても自宅まで送られた女は、そのことを疑問に思っただろうがやはり何も言わなかった。まるで無視でもするかのような女の態度。
だが次のチャンスはすぐあることは、わかっていた。それは勿論仕事絡みだが、それで十分だ。そのときは上手くやって見せると自分自身に誓った。
いつも考えごとをする時は、ブラックコーヒーを何杯も飲んで答えを見つけていた。
だが今日はこうして体を動かしたことで簡単に答えにたどり着くことが出来た。
これからシャワーを浴び仕事に出掛けるわけだが、今夜は大河原滋との約束の日だ。
滋が紹介するという女。いったいどんな女なのか。どちらにしても、そんな女のことはどうでもいい。滋は会うだけでいいという話だったはずだ。
司は嫌な人間を見るときは、片眉を上げて目を細める。それをされた人間はもう彼の前では何も言えなくなる。彼の威圧感のある眼差しを受けた者は縮み上がる。それを女の前で見せればいいだけの話だ。そんな女のことはさっさと片づけて、牧野つくしとの仕事のことを考える方が余程いい。
そう思うと、司は顔に笑みを浮かべていた。
***
つくしは自分の呼吸の回数を数えようとしたが止めた。
どうしてこんなに呼吸をする回数が多いのか。それはいたって普通のはずだが、自分では過呼吸気味ではないかとさえ思えるほど緊張しているのがわかった。
仕事でも緊張することがあるが、ここまで緊張したことはない。しかし、ここのところ自分の身に起きたことが速度を増して展開されそうな気がしていた。
今まで仕事に集中し過ぎて、周りの事をさして気にしてはいなかったが、時にはうっとりするような雰囲気に憧れることもあった。それは映画を観た後に必ずそう思う時間があった。
周りはつくしが仕事人間だと思っている。
しかし心の中は違った。
実は恋愛映画は大好きだ。
それは自分が経験出来ないことを疑似体験できるからだ。だが周りの人間には内緒にしていた。しかしまさかその周りの人間が、つくしにロマンスを提供しようという気になったのはどうしてなのか・・
確かにもう長い間、そう言ったロマンスからは遠ざかっている。友人達はそのことを見かねたということだろう。しかし相手が悪い。相手が。何しろ相手は″あの道明寺司″だからだ。
結局滋には言いだせなかった。もちろん桜子にもだ。桜子に言えば滋に伝わることは、わかっていたが何故か言うのを躊躇ってしまった。
つくしは今夜これから道明寺司に会うことになっていた。
それは仕事ではない。滋がセッティングした出会いの場だ。
その前に二人の友人はつくしを滋の部屋へと呼び出すと、面白味のないつくしの洋服についての講義を始めた。
「先輩、いいですか?相手はあの道明寺さんですからね。世界中の美女が喜んで身を投げすゴージャスな男ですからね?」
だからどうしたと?
「それなのに、その地味な服装はなんなんです?どうして黒なんか着て来るんですか!黒なんておばあちゃんになってからでも充分間に合うんですからそんな地味な色なんて着ないで下さい!道明寺さんはそんな地味な洋服なんてお嫌いです!まったく先輩はどうしてファッションに無頓着なんでしょうね?」
つくしは普段からよく言われていた。色が少ない。どうしてそんな地味な色ばかり着るのか。
具体的に言えば、黒、グレー、紺。だがこれはビジネスでは一番活躍する色だ。
「先輩の肌は白いしキメも細かくて綺麗なんですからどんな色でもお似合いなんです。だからせめて仕事以外ではもっと明るい色を着て下さい!先輩の色のパレットの中にはカラフルという言葉はないんでしょうか?」
つくしから見た桜子はまさに色の女王様だ。
昔から極楽鳥のように華やかな女だったが、最近その極楽鳥はエレガントという言葉も身に付けている。
「とにかく、先輩は地味ですからもっと華やかな色を着て下さい。別に基本を変えろなんて言いません。せめてスーツの下に着るインナーにもう少し色を加えるとかでもいいんです。いつも白ばかり着ないで、色のついたものを着て下さい!どうせ先輩のことですから下着も地味なんですよね?勝負下着なんてのはお持ちじゃないんでしょ?」
「だ、だって桜子・・勝負なんてする予定はないんだし・・」
「なに言ってるんですか!そんなの女性としての身だしなみのひとつです!」
つくしは自分よりも友人達が一生懸命な姿になぜか笑いがこみ上げていた。
「いいですか?おしゃれに気を使うことを余計な時間だとか、無駄な時間だとかそんなふうに考えないで下さいね?おしゃれをすることで気持ちが盛り上がることもあるんです。色からパワーを貰って物事を前向きに考えれることもあるんです。それに明るい色を着ることは精神的にはいいことなんですからね!」
友人二人は以前つくしのマンションを訪れたとき、クローゼットの中を覗いて帰った。
そのとき二人の間で交わされた視線の結果が、目の前にある洋服だ。
桜子が用意してくれたのは、つくしのクローゼットには絶対にない色。それはワインレッドのワンピースに黒のボレロ。みれば高級ブランドのタグが付いていた。
「先輩、同じ黒を着るなら組み合わせで華やかに見えるようなものを着るべきです。そんな上下黒なんて格好してたら、カラスと間違われますからね?いいですか、これから会うのは道明寺さんなんです。そんな野暮ったい黒なんて絶対ダメですからね?それからそのメイク!全然ダメです。色が全然ないじゃないですか!」
つくしは普段から薄化粧だ。社会人のマナーとして最低限ともいえるほどで、男を惑わすようなメークをしたことがない。だが桜子の手にかかればそうはいかない。それに自分でも今夜は何故か身を守るものが欲しいと思っていた。桜子が用意してくれた洋服を着るならなおさら必要だろう。
桜子はつくしの顔にどんどん色を加えていくと、満足そうに見た。
「いいじゃないですか、先輩。これで少しは道明寺さんに相応しい女性に見えますよ。ねえ滋さん?」
すると、滋はつくしの両手を握った。
「つくし、いい?何も慌てて司とつき合わなくてもいいの。とりあえず今夜は会うだけでいいからね?」
滋の目は思いやりに溢れていた。
つくしの社交生活があまりにも不憫だとでも言わんばかりのその態度。
だが次に口を突いて出た言葉はあの男を庇うような言葉だ。
「あいつ色々と誤解されやすい男なのよ。だからって最初っから背を向けるのは止めてあげてくれる?どんな人間もゆっくり時間をかければ、それなりに良いところが見えてくるからね?」
女3人と男1人が会う場所となったのは、大河原財閥が所有するレストランだ。
移動の間、両脇をがっちりと抱えられた女は、まるで犯罪者か囚われた宇宙人かという体で席に座らされた。
つくしは言い出せなかった。今さらだが、はやり言うべきか、それとも言わざるべきか。
すでに道明寺司とは面識があってキスまでした仲だと。
滋はさばさばとした性格と態度で気取りがない。昔から自由奔放な考え方と行動で周りを振り回すことも多かったが、面倒見がよく誠実な女性だ。心を開いた相手には母性と愛情を持って接するタイプだ。その滋の口振りからすれば、道明寺司のことを人として認めているから、つくしに紹介して来たということだ。
それなら、いきなりキスをして来たあの男の行動をどう捉えたらいいのだろうか?
矛盾する。
滋さんが認めた道明寺司とつくしが知っている道明寺司とではイメージが違い過ぎる。
あの男は二重人格者か?
とにかく、この二人はつくしに考える隙など与えるかとばかりに次から次へと言ってくる。
すると突然滋が叫び声を上げた。
「つかさー!!」
振り向かなくても充分わかる人物が来たことがわかった。
「久しぶり!元気だった?」

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Comment:5
わからない・・
まったくわからない・・
あの男の意図が。
キスしたかったからキスしたなんて、本能のままに行動するただの変態男だ。
それにあの態度。俺と色んなキスを試してみないかだなんて本気で言っているのだろうか。
つくしはあのとき交わされた会話を思い出していた。
『道明寺支社長。わたしと支社長はこれからひとつの目標に向かって仕事をするわけですから、私的な感情というのは控えていただきませんと』
『私的な感情か?』
『そうです』
『おまえ、男が怖いのか?』
あの男は黒い眉を上げるとにやついた笑みを浮かべて聞いた。
『怖くなんかありません。恐かったら男性の多い職場でなんか働けませんから』
『そうか、じゃあ俺が怖いか?』
『どうしてわたしがあなたを、いえ。支社長を怖がる必要があるんですか?』
あの日はもうあれ以上の会話は必要ないと思ったつくしは、黙って時間をやり過ごすことにした。大袈裟に反応してしまうのは、相手を煽るだけだとわかったからだ。
それに、むやみに口を開いて、酷い言葉を投げつけてしまうことを避けたいという思いもあった。
食事を済ませると、マンションまで送られたが、車内では黙って窓の外に目を向けていた。
どうして自宅の住所を知っているのかとは聞かなかった。どうせ支社長様はなんでもご存知でしょうから。
やたらと人を挑発するような態度を取る男だが、何しろ相手はクライアント様だ。なにが俺が怖いのかよ!いきなりキスなんかして、セクハラどころの騒ぎじゃない。でもこの仕事を他の会社には渡したくない。それにしてもあの男のどこか人を見下したような態度がしゃくにさわる。
「・・あの男、いったい何考えてるのよ・・」
「あの男って誰ですか?」
会議室でホワイトボードを見ていたつくしの言葉に紺野が声をかけてきた。
午後からこの部屋で行われるのは、受け入れられた広告案のコンセプトについての会議だ。
会議までまだ暫く時間があるが、つくしは既にこの部屋にいた。
「えっ?」
「主任、今言ったじゃないですか?あの男って」
「そ、そんなこと言ってないわよ」
「いいえ。主任は言いました。″あの男、何考えてるのよ″ってね。誰です?あの男って?」
「紺野君、君には関係ないでしょ?」
関係ないはずの紺野は、考え込む振りをすると気軽な口調で話し始めた。
「今の主任の周りにいる男と言えば、僕か、クリエイティブ部門の皆さんか、あとは・・誰かいましたっけ?」
紺野は熱いから気を付けて下さい。と、紙コップに入ったコーヒーをつくしに手渡してきた。 丁度飲みたいと思っていたところだ。つくしの好みは砂糖もクリームも入っていない、泥のように濃い色をした液体だ。礼を言うと口に運んだ。
「主任はもっと砂糖と脂肪分も取った方がいいですよ?主任は痩せてますが、男はもう少しふくよかな方が好きですからね」
最近の紺野は必ずと言っていいほど、ひと言多い。
「あっ!それより道明寺支社長との食事はどうだったんですか?どこに行ったんですか?僕あのとき支社長から君は来ないでくれ、なんて言われてショックでした。せっかく道明寺支社長を身近に感じることが出来たのに、どうして主任だけだったんでしょうね?」
紺野は言うと、つくしの顔を上から覗き込むようにして見た。
紺野は背が高い。何センチあるのか知らないが社内の男性陣の中でも高い方に入る。
最近どうも背の高い男から見下ろされることが多くなった気がする。
でもあの男より紺野は低い。
「_主任?ねえ主任?」
「な、なによ?」
つくしは紺野の呼ぶ声に意識を戻した。
「誰ですか?僕より背が高い男って?」
「だ、誰って・・?あたしそんなこと言ってないわよ?」
「いいえ。漏れてました。僕がいつも言ってますよね?主任はひとり言が多いんですから。気を付けて下さいね。傍で聞いた人は、自分に話しかけられたと思いますからね」
「・・わ、わかってるわよ・・」
部下に諭すように言われてつくしは心外だったが、困ったことに昔からの癖はなかなか治りそうになかった。
「主任、それより僕より背が高い男ってのは、さっき言ってた″あの男″と同じ人ですよね?あ!もしかして彼氏が出来たんですか?僕の知ってる人ですか?ねえ、主任、教えて下さいよ?」
「話すことなんて何もないわよ。言っとくけど彼氏なんて出来てないわ。だから当然″僕の知ってる人″でもないから。それから・・道明寺支社長のことだけど、あの日はうちの社のプランを選んだ理由をお話ししてくれただけで、何もなかったわよ」
「主任。何も僕は主任と道明寺支社長が何かあっただなんて言ってません。あの時は、お二人が知り合いだって聞いて驚きましたが、どう考えても主任と道明寺支社長じゃあ会話も噛み合うかどうか疑問ですし・・支社長の住む世界と我々とじゃ雲泥の差ですからね」
紺野は言うとホワイトボードの空いた部分に何やら書き始めた。
「いいですか?ここに道明寺支社長の立ち位置があるとします。ここです。この上の方です。
対して我々庶民はここ。下の方です。我々と道明寺支社長の間には川が流れていて、その川を渡ることはほぼ不可能です。この川は、そうですね・・ルビコン川だと思って下さい。この川を渡るということは、ものすごい決断を要するってことですから」
紺野は『道明寺支社長』と『牧野主任』という文字をそれぞれ円で囲むと、間に川の絵を描いてみせた。
あの男との間に川が流れていて、それはルビコン川か。
ルビコン川。
それは古代ローマ共和政時代、ローマと属州との境界線となった川。
ジュリアス・シーザーの放ったあまりにも有名な言葉、『賽は投げられた』はこの川を渡った故事から来ている。
当時、ルビコン川を武装して渡ることは法律で禁じられていた。そのため、それを犯すことは″宣戦布告″を意味していた。だがシーザーは武装して渡った。
つまりその川を渡るということは、その後の運命を決め、後戻りのできなくなるほどの重大な行動を取るということだ。その川は今もあるが、その実、大したことのない小さな川だ。幅は広い所でも5メートルほどで、狭い所は1メートル。歴史的に有名な川だが、大したことはない。
紺野が言いたいのは、あの男の住む世界と我々の世界の間には、目に見えない川が流れているということが言いたいのかもしれない。
その川を、ルビコン川を渡るというのは、覚悟を決めてもう後へは退けないという意味。
でも、どうしてあたしがその川を渡らなきゃならないのよ?
それにしても紺野はいちいち大袈裟にものを考えるふしがある。
「あ、それから主任。道明寺支社長ってお金持ちのプレイボーイってイメージがあるんですけど、実はそうでもないらしいって話しも聞きますし。本当の所は謎なんですよ。もしかしたら、何かの間違いで主任と恋に落ちるなんてこともあるかもしれませんよ!うわぁ~!そうなったら凄いことになりますよ!もしそうなったら主任はルビコン川を渡るんですね!」
紺野の頭の中では勝手に物語が出来上がっているようだ。
広告代理店の営業として想像力があるのはいいことだが、何か違っているような気がする。
「あぁ~っ。でもこの前お会いした道明寺支社長って本当にかっこよかったですよね!いいな~。主任は二人で食事が出来て。サイン頼めばよかった・・でも僕もまた会えますよね?」
紺野はあの男を崇拝し過ぎているのか、リッチでハンサムな映画スターと勘違いしているかのようだ。
「紺野君。ちょっと話しが違うような気がするんだけど?」
つくしは紺野がひとり自分の世界を彷徨い始めたのではないかと感じていた。
人に向かってひとり言が多いと言ったが、紺野も大概あたしと同じような気がした。
「主任!もしも道明寺支社長がですよ?仮に主任にアプローチしてくることがあったら拒まないで受け入れて下さい。道明寺支社長みたいに世界的にかっこいい人を間近に感じるなんて先輩の人生の中でもう二度とないと思いますから、人生が終わらないうちに色々楽しんだ方がいいと思いますよ?」
***
会議が終わってすぐ、ポケットの中の携帯電話が振動した。
画面を確認すると、大河原滋の名前が表示されていた。その電話の内容は安易に想像出来た。
男を紹介するからと言った滋は、その後海外へと出張していたが、こうして連絡が入ったということは、帰国の目途が立ったのだろう。
つくしは自分と道明寺司の間に起きていることを説明することにした。
「もしもし?」
『つくし?いい?来週絶対に来なさいよ?司は忙しい男だからなかなか時間が取れないの。でもね、あたしがあいつの時間をもぎ取ったから』
確かにその日のことについてはメールで送られて来ていた。
「あ、あのね。滋さん実はあたし・・」
『なに?まさかつくし、断るなんて言わないでよね?』
「実は、あたし道明寺・・さんと・・」
『つくし!いい?あんたもそろそろ現実を見なさいよ?いつまでもひとりで仕事ばっかりしてたら体が錆びちゃうからね!それに断るにしても一度だけでも会ってみてよ?いい男なんだから絶対気に入るから』
「滋さん相手は、本当に道明寺司って人で間違いない?あのね、実はあたしもうあの人と」
『えっ?なに?ちょっと今周りが煩いのよ、だからよく聞こえないんだけど?そうよ?道明寺司よ?いい男だから安心してよ!いい?来なかったらつくしのマンションまで行って部屋のドアをどんどん叩くからね!居留守なんか使ったらだめよ!』
滋ならやりかねない。
「わかったから、行くから。でも急な仕事が入ったら・・」
『何言ってるのよ!その日は大河原の仕事の日でしょ?うちの仕事の時間取ってるんでしょ?』
そうだ。その日は滋さんの会社のCMプランを持って行くことになっていた。
「滋さん。わ、わかったから・・行くから、じゃあね。_うん。_うん。」
つくしはため息をついた。
あの男と、道明寺司とすでに顔を合わせていると言えなかった。
言えなかったというよりも、言わせてもらえなかったという方が正解だろう。
まさか紹介されるまでもなく、既にあの男と出会っていて、それもクライアントと担当という立場で、あの男の奇妙な行動に悩んでるということを、伝えられずに電話は切られていた。

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あの男の意図が。
キスしたかったからキスしたなんて、本能のままに行動するただの変態男だ。
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つくしはあのとき交わされた会話を思い出していた。
『道明寺支社長。わたしと支社長はこれからひとつの目標に向かって仕事をするわけですから、私的な感情というのは控えていただきませんと』
『私的な感情か?』
『そうです』
『おまえ、男が怖いのか?』
あの男は黒い眉を上げるとにやついた笑みを浮かべて聞いた。
『怖くなんかありません。恐かったら男性の多い職場でなんか働けませんから』
『そうか、じゃあ俺が怖いか?』
『どうしてわたしがあなたを、いえ。支社長を怖がる必要があるんですか?』
あの日はもうあれ以上の会話は必要ないと思ったつくしは、黙って時間をやり過ごすことにした。大袈裟に反応してしまうのは、相手を煽るだけだとわかったからだ。
それに、むやみに口を開いて、酷い言葉を投げつけてしまうことを避けたいという思いもあった。
食事を済ませると、マンションまで送られたが、車内では黙って窓の外に目を向けていた。
どうして自宅の住所を知っているのかとは聞かなかった。どうせ支社長様はなんでもご存知でしょうから。
やたらと人を挑発するような態度を取る男だが、何しろ相手はクライアント様だ。なにが俺が怖いのかよ!いきなりキスなんかして、セクハラどころの騒ぎじゃない。でもこの仕事を他の会社には渡したくない。それにしてもあの男のどこか人を見下したような態度がしゃくにさわる。
「・・あの男、いったい何考えてるのよ・・」
「あの男って誰ですか?」
会議室でホワイトボードを見ていたつくしの言葉に紺野が声をかけてきた。
午後からこの部屋で行われるのは、受け入れられた広告案のコンセプトについての会議だ。
会議までまだ暫く時間があるが、つくしは既にこの部屋にいた。
「えっ?」
「主任、今言ったじゃないですか?あの男って」
「そ、そんなこと言ってないわよ」
「いいえ。主任は言いました。″あの男、何考えてるのよ″ってね。誰です?あの男って?」
「紺野君、君には関係ないでしょ?」
関係ないはずの紺野は、考え込む振りをすると気軽な口調で話し始めた。
「今の主任の周りにいる男と言えば、僕か、クリエイティブ部門の皆さんか、あとは・・誰かいましたっけ?」
紺野は熱いから気を付けて下さい。と、紙コップに入ったコーヒーをつくしに手渡してきた。 丁度飲みたいと思っていたところだ。つくしの好みは砂糖もクリームも入っていない、泥のように濃い色をした液体だ。礼を言うと口に運んだ。
「主任はもっと砂糖と脂肪分も取った方がいいですよ?主任は痩せてますが、男はもう少しふくよかな方が好きですからね」
最近の紺野は必ずと言っていいほど、ひと言多い。
「あっ!それより道明寺支社長との食事はどうだったんですか?どこに行ったんですか?僕あのとき支社長から君は来ないでくれ、なんて言われてショックでした。せっかく道明寺支社長を身近に感じることが出来たのに、どうして主任だけだったんでしょうね?」
紺野は言うと、つくしの顔を上から覗き込むようにして見た。
紺野は背が高い。何センチあるのか知らないが社内の男性陣の中でも高い方に入る。
最近どうも背の高い男から見下ろされることが多くなった気がする。
でもあの男より紺野は低い。
「_主任?ねえ主任?」
「な、なによ?」
つくしは紺野の呼ぶ声に意識を戻した。
「誰ですか?僕より背が高い男って?」
「だ、誰って・・?あたしそんなこと言ってないわよ?」
「いいえ。漏れてました。僕がいつも言ってますよね?主任はひとり言が多いんですから。気を付けて下さいね。傍で聞いた人は、自分に話しかけられたと思いますからね」
「・・わ、わかってるわよ・・」
部下に諭すように言われてつくしは心外だったが、困ったことに昔からの癖はなかなか治りそうになかった。
「主任、それより僕より背が高い男ってのは、さっき言ってた″あの男″と同じ人ですよね?あ!もしかして彼氏が出来たんですか?僕の知ってる人ですか?ねえ、主任、教えて下さいよ?」
「話すことなんて何もないわよ。言っとくけど彼氏なんて出来てないわ。だから当然″僕の知ってる人″でもないから。それから・・道明寺支社長のことだけど、あの日はうちの社のプランを選んだ理由をお話ししてくれただけで、何もなかったわよ」
「主任。何も僕は主任と道明寺支社長が何かあっただなんて言ってません。あの時は、お二人が知り合いだって聞いて驚きましたが、どう考えても主任と道明寺支社長じゃあ会話も噛み合うかどうか疑問ですし・・支社長の住む世界と我々とじゃ雲泥の差ですからね」
紺野は言うとホワイトボードの空いた部分に何やら書き始めた。
「いいですか?ここに道明寺支社長の立ち位置があるとします。ここです。この上の方です。
対して我々庶民はここ。下の方です。我々と道明寺支社長の間には川が流れていて、その川を渡ることはほぼ不可能です。この川は、そうですね・・ルビコン川だと思って下さい。この川を渡るということは、ものすごい決断を要するってことですから」
紺野は『道明寺支社長』と『牧野主任』という文字をそれぞれ円で囲むと、間に川の絵を描いてみせた。
あの男との間に川が流れていて、それはルビコン川か。
ルビコン川。
それは古代ローマ共和政時代、ローマと属州との境界線となった川。
ジュリアス・シーザーの放ったあまりにも有名な言葉、『賽は投げられた』はこの川を渡った故事から来ている。
当時、ルビコン川を武装して渡ることは法律で禁じられていた。そのため、それを犯すことは″宣戦布告″を意味していた。だがシーザーは武装して渡った。
つまりその川を渡るということは、その後の運命を決め、後戻りのできなくなるほどの重大な行動を取るということだ。その川は今もあるが、その実、大したことのない小さな川だ。幅は広い所でも5メートルほどで、狭い所は1メートル。歴史的に有名な川だが、大したことはない。
紺野が言いたいのは、あの男の住む世界と我々の世界の間には、目に見えない川が流れているということが言いたいのかもしれない。
その川を、ルビコン川を渡るというのは、覚悟を決めてもう後へは退けないという意味。
でも、どうしてあたしがその川を渡らなきゃならないのよ?
それにしても紺野はいちいち大袈裟にものを考えるふしがある。
「あ、それから主任。道明寺支社長ってお金持ちのプレイボーイってイメージがあるんですけど、実はそうでもないらしいって話しも聞きますし。本当の所は謎なんですよ。もしかしたら、何かの間違いで主任と恋に落ちるなんてこともあるかもしれませんよ!うわぁ~!そうなったら凄いことになりますよ!もしそうなったら主任はルビコン川を渡るんですね!」
紺野の頭の中では勝手に物語が出来上がっているようだ。
広告代理店の営業として想像力があるのはいいことだが、何か違っているような気がする。
「あぁ~っ。でもこの前お会いした道明寺支社長って本当にかっこよかったですよね!いいな~。主任は二人で食事が出来て。サイン頼めばよかった・・でも僕もまた会えますよね?」
紺野はあの男を崇拝し過ぎているのか、リッチでハンサムな映画スターと勘違いしているかのようだ。
「紺野君。ちょっと話しが違うような気がするんだけど?」
つくしは紺野がひとり自分の世界を彷徨い始めたのではないかと感じていた。
人に向かってひとり言が多いと言ったが、紺野も大概あたしと同じような気がした。
「主任!もしも道明寺支社長がですよ?仮に主任にアプローチしてくることがあったら拒まないで受け入れて下さい。道明寺支社長みたいに世界的にかっこいい人を間近に感じるなんて先輩の人生の中でもう二度とないと思いますから、人生が終わらないうちに色々楽しんだ方がいいと思いますよ?」
***
会議が終わってすぐ、ポケットの中の携帯電話が振動した。
画面を確認すると、大河原滋の名前が表示されていた。その電話の内容は安易に想像出来た。
男を紹介するからと言った滋は、その後海外へと出張していたが、こうして連絡が入ったということは、帰国の目途が立ったのだろう。
つくしは自分と道明寺司の間に起きていることを説明することにした。
「もしもし?」
『つくし?いい?来週絶対に来なさいよ?司は忙しい男だからなかなか時間が取れないの。でもね、あたしがあいつの時間をもぎ取ったから』
確かにその日のことについてはメールで送られて来ていた。
「あ、あのね。滋さん実はあたし・・」
『なに?まさかつくし、断るなんて言わないでよね?』
「実は、あたし道明寺・・さんと・・」
『つくし!いい?あんたもそろそろ現実を見なさいよ?いつまでもひとりで仕事ばっかりしてたら体が錆びちゃうからね!それに断るにしても一度だけでも会ってみてよ?いい男なんだから絶対気に入るから』
「滋さん相手は、本当に道明寺司って人で間違いない?あのね、実はあたしもうあの人と」
『えっ?なに?ちょっと今周りが煩いのよ、だからよく聞こえないんだけど?そうよ?道明寺司よ?いい男だから安心してよ!いい?来なかったらつくしのマンションまで行って部屋のドアをどんどん叩くからね!居留守なんか使ったらだめよ!』
滋ならやりかねない。
「わかったから、行くから。でも急な仕事が入ったら・・」
『何言ってるのよ!その日は大河原の仕事の日でしょ?うちの仕事の時間取ってるんでしょ?』
そうだ。その日は滋さんの会社のCMプランを持って行くことになっていた。
「滋さん。わ、わかったから・・行くから、じゃあね。_うん。_うん。」
つくしはため息をついた。
あの男と、道明寺司とすでに顔を合わせていると言えなかった。
言えなかったというよりも、言わせてもらえなかったという方が正解だろう。
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Comment:9
30分後二人はレストランにいた。
奥まった個室の席に座った瞬間から、見事なほどのポーカーフェイスの男を前に困惑が隠せなかった。
ホテルメープルのフランス料理は素晴らしいと言われているが、まさにその通りだと思った。ここは道明寺グループのホテルで、この男のお膝元とも言える場所だ。
食事は美味しいが、目の前に座る男が食事の魅力的なパート―ナーかと言えば、そうではない。会話もなく、ただ淡々と出されたものを口に運んでいた。
つくしは道明寺司という男は女癖が悪いのではないかと思わずにはいられなかった。
だが、そんな男とこれから仕事をするとは思いたくはない。
キスの衝撃ともいえる事態をなんとか乗り切ったのだから、理由が知りたい。理由が。
どうしていきなりあんなことをしたのか。つくしは気付けば、道明寺司に対して理由ばかり求めていた。
この男といることで、ずっと落ち着かない気持ちにさせられている。いらいらしたり、怒りっぽいのかと言われたり、普段は落ち着いて仕事をしている、文字通り地味な女のはずなのに、この男といると気持ちが高ぶってしまう。早く元の自分に戻らなくては。そのためにはこの男を克服することが先だ。
「あの、道明寺支社長・・あ、あの意味はなんでしょうか?」
努めて冷静を装った声を出した。ここで感情的な態度に出るべきではない。
この男には平然とした態度で臨まなければならない。相手のペースに巻き込まれてしまってはだめだ。だから車内でも何もなかったような振りをした。
道明寺司は大いに興味をそそられているといった視線でつくしを見た。
「意味か?」
「そ、そうです。道明寺支社長がわたしにしたことです」
「キスか?」
「き、キスかじゃありません!いったいどういうつもりなんですか!」
意に反して大きな声が出た。
「うるせぇ女だな。キスしたぐらいで騒ぐな。キスしたかったからしたんだ」
つくしはその答えに、目の前に出されていたデザートを手で掴んで投げつけてやろうかと思った。
「騒ぐなっておかしいでしょう?それにキスしたかったからだなんて、わたしとあなたはキスするような間柄ではありません。わたしたちは、顧客と担当というだけでそれ以上の関係なんてないんですから、キスなんてしないで下さい!厚かましいにもほどがあります!」
本来ならいきなりキスしてきた男の頬をひっぱたくのが普通だ。だが、何故かそれが出来なかった。それは飲み干したシャンパンの影響だと思おうとしていた。頬が熱くなっているのが感じられたのだから、あの一杯で酔いが回っていたのかもしれなかった。
つくしが熱くなってまくし立てるに対し、男は淡々とした受け答えだ。
世の中には物事を道徳的に考える人間とそうでない人間がいる。ただ各人の道徳の規準は違うだろうが、どう考えても二人は赤の他人、ましてやこれから一緒に仕事をする相手だ。そんな相手とキスをすること自体が不道徳だ。
正面に座る男は、つくしの言い分を聞くと
「そうか。おまえが思うキスするような間柄ってのはどんな間柄だ?」
と言って顔を赤らめている女に再び顔を近づけようとした。
テーブル越しに思わずのけぞるつくし。
「ど、どんな間柄だなんて、そんなこと決まってるじゃないですか!恋人とか夫婦とかそういった間柄に決まってます!」
いくら個室の中が広いからと言って逃げ回れる広さではない。顔を近づけられると、目の中の虹彩まで見えた。まさにそれは漆黒の瞳。見る者を虜にすることもあれば、あるときはナイフのように切り裂くと言われる瞳。今その瞳は誘惑の色を帯びているように思えた。
それにしても男にしては驚くほど長い睫毛の持ち主だ。
つくしは自分の顔が赤くなっていることはわかっていた。
頬が火照って、動悸がしていた。この分だと恐らく首まで赤くなっているはずだ。
道明寺司は危険なほど魅力的な男で、意識していないといえば嘘になる。
じっと見つめられ、思わず唾を呑み込んだ。ここから先、いったい何が起きるというのだろうかと不安を感じていた。
すると男は手を伸ばし、いきなりつくしの顎を掴んだ。
一気に固まるつくし。その手を払おうと思えば出来るはずだが何故かできなかった。
まるでその瞳に囚われたようで動けなかった。それはまさに蛇に睨まれた蛙のようで、ただじっとしている以外何も出来ずにいた。
司は思わず緩みそうになる口元を必死で引き締めた。
この女は軽くキスしたくらいで何をそんなに慌てる?
口の達者な女をじっと見つめれば、30過ぎた女がほんのりと頬を染める姿に司は驚いた。
プレゼンでは、びしっと決めたくせにキスひとつくらいで、それもほんの数秒触れたくらいで何をそんなに動揺する?それにあんなのキスの内には入るものではない。
「・・ふぅん。おまえあまりキスしたことがないってことか」
司はちらと微笑みを浮かべて言った。
「・・なっ・・!」
つくしのあせりが声に出た。
司の言葉は図星だったようだ。
男の手は離されたが至近距離で見つめられ、これから何をされるのかと身構えた。
だが、すぐに冷静さを取り戻したつくしは自分に言い聞かせた。あれはキスなんかじゃない。キスはもっと心を込めてするものであって、あんなに軽々しくするものじゃない。
それにしてもどうしてこの男はあんなことをしたのか。
もしそれが気まぐれだ、遊びだというなら他の女性として欲しい。
それにこの会話の行先が、締めくくりはどうしたらいいのか全くわからない。この男の真意が全く読めなかった。
「まあキスにも色々と種類があるが試してみるか?新しいことに挑戦することが好きな女なら俺と試してみるのもいいかもしれねぇぞ?」
新しいことに挑戦することは好きだ。まるでつくし性格を見透かしたような物言いに内心慌てた。だが、それは仕事のことであって、この男とキスの種類を試すことではない。
それにしても、つくしの会社のプランを取り上げ、これから一緒に仕事をして行こうというのに、何故困らすようなことをするのか。キスしたかったからキスしたなんて、いい大人が、それも天下の道明寺財閥の日本支社長が言った言葉だとは思いたくない。これは早々に滋さんに連絡をするべきだろう。道明寺司はとんでもない人間ですと。
こんな男をあたしに紹介するなんて、滋さんはどうかしてる!
それにしても、こんなに魅力的な容姿の人間がいるということを改めて知った。
それだけは、認めないわけにはいかなかった。
***
司は最高の気分だった。
計画は予定通り進行中だ。牧野つくしと仕事をすることが決まった。
司の目の前に座る女は、睫毛の下からこっそりと伺うようにこちらを見ている。
対して彼は黒い瞳で牧野つくしをじっと見つめていた。
唇はほんの数秒で離れたが、いきなりキスされて驚かないはずがない。
険しい目をして冷やかな口調で話しをしていた男の態度が急変したことに、牧野つくしは身動き出来ないほど固まってしまっていた。威圧的な存在感のある男がいきなり隣に座っている女にキスをする意味はいったいなんなのか。それにさっきまで交わされていた会話の意味を知りたいと思うのは当然だろう。イメージが混乱していると言った感じでこちらを見ているのがわかる。
『一緒に仕事をするにはやりにくい相手』
いったいどういった意味で仕事をするにはやりにくい相手なのか。
それに、いったいこの男は何を考えているのかさっぱり見当がつかない。そんな思いを抱えているのは顔に現れている。
いきなりキスをされ、動揺した女は車から降りるとき、躓きそうになっていた。
腕を支えてやらなければ、また転んでいたはずだ。
女は腕を振りほどくことはせず、大人しく支えられていたが動揺していることはわかった。
「ありがとうございます」と口にした女は落ち着かない様子でいた。
忍耐強い女だと仕事の上では言われている。
逆を返せばこの女は頑固だということか?
エレベーターの前での出会いから、キスをするまでの間に心の中にひとつの想いが湧き上がっていた。
こいつに本当の俺を知って欲しいという想いが今の彼の中にあった。
はじめて出会ってから、さして会話を交わしていなければ、会ってもいないが、気になって仕方がなかった。
司は牧野つくしに魅了されていた。
これまでつき合った、彼の周りにいた、どんな女とも違っていた。それを感じたのは、こいつを抱えて医務室まで運んだ時だ。それから後、今日に至って仕事に対するプライドと、すべてに於いての前向きさが気に入った。
司は今まで自分の外見や地位に群がる女を大勢見てきた。だが、そんな女たちも、どこか司から一歩引いた姿勢で彼のすぐ傍まで踏み込もうとはしなかった。
それは、司自身の他人を簡単に寄せ付けないというオーラがそうさせていたのかもしれなかった。だが、牧野つくしは違った。彼に向かって言いたいことは口にする。遠慮がない。
そんな経験はしたことがなかった。そんな理由からかもしれないが、今では、なじみのない小さな興奮の熾火(おきび)が心の中に置かれていた。
それはまさに恋の火種ともいえる。
司は決めた。
牧野つくしが欲しい。

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奥まった個室の席に座った瞬間から、見事なほどのポーカーフェイスの男を前に困惑が隠せなかった。
ホテルメープルのフランス料理は素晴らしいと言われているが、まさにその通りだと思った。ここは道明寺グループのホテルで、この男のお膝元とも言える場所だ。
食事は美味しいが、目の前に座る男が食事の魅力的なパート―ナーかと言えば、そうではない。会話もなく、ただ淡々と出されたものを口に運んでいた。
つくしは道明寺司という男は女癖が悪いのではないかと思わずにはいられなかった。
だが、そんな男とこれから仕事をするとは思いたくはない。
キスの衝撃ともいえる事態をなんとか乗り切ったのだから、理由が知りたい。理由が。
どうしていきなりあんなことをしたのか。つくしは気付けば、道明寺司に対して理由ばかり求めていた。
この男といることで、ずっと落ち着かない気持ちにさせられている。いらいらしたり、怒りっぽいのかと言われたり、普段は落ち着いて仕事をしている、文字通り地味な女のはずなのに、この男といると気持ちが高ぶってしまう。早く元の自分に戻らなくては。そのためにはこの男を克服することが先だ。
「あの、道明寺支社長・・あ、あの意味はなんでしょうか?」
努めて冷静を装った声を出した。ここで感情的な態度に出るべきではない。
この男には平然とした態度で臨まなければならない。相手のペースに巻き込まれてしまってはだめだ。だから車内でも何もなかったような振りをした。
道明寺司は大いに興味をそそられているといった視線でつくしを見た。
「意味か?」
「そ、そうです。道明寺支社長がわたしにしたことです」
「キスか?」
「き、キスかじゃありません!いったいどういうつもりなんですか!」
意に反して大きな声が出た。
「うるせぇ女だな。キスしたぐらいで騒ぐな。キスしたかったからしたんだ」
つくしはその答えに、目の前に出されていたデザートを手で掴んで投げつけてやろうかと思った。
「騒ぐなっておかしいでしょう?それにキスしたかったからだなんて、わたしとあなたはキスするような間柄ではありません。わたしたちは、顧客と担当というだけでそれ以上の関係なんてないんですから、キスなんてしないで下さい!厚かましいにもほどがあります!」
本来ならいきなりキスしてきた男の頬をひっぱたくのが普通だ。だが、何故かそれが出来なかった。それは飲み干したシャンパンの影響だと思おうとしていた。頬が熱くなっているのが感じられたのだから、あの一杯で酔いが回っていたのかもしれなかった。
つくしが熱くなってまくし立てるに対し、男は淡々とした受け答えだ。
世の中には物事を道徳的に考える人間とそうでない人間がいる。ただ各人の道徳の規準は違うだろうが、どう考えても二人は赤の他人、ましてやこれから一緒に仕事をする相手だ。そんな相手とキスをすること自体が不道徳だ。
正面に座る男は、つくしの言い分を聞くと
「そうか。おまえが思うキスするような間柄ってのはどんな間柄だ?」
と言って顔を赤らめている女に再び顔を近づけようとした。
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つくしは自分の顔が赤くなっていることはわかっていた。
頬が火照って、動悸がしていた。この分だと恐らく首まで赤くなっているはずだ。
道明寺司は危険なほど魅力的な男で、意識していないといえば嘘になる。
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まるでその瞳に囚われたようで動けなかった。それはまさに蛇に睨まれた蛙のようで、ただじっとしている以外何も出来ずにいた。
司は思わず緩みそうになる口元を必死で引き締めた。
この女は軽くキスしたくらいで何をそんなに慌てる?
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プレゼンでは、びしっと決めたくせにキスひとつくらいで、それもほんの数秒触れたくらいで何をそんなに動揺する?それにあんなのキスの内には入るものではない。
「・・ふぅん。おまえあまりキスしたことがないってことか」
司はちらと微笑みを浮かべて言った。
「・・なっ・・!」
つくしのあせりが声に出た。
司の言葉は図星だったようだ。
男の手は離されたが至近距離で見つめられ、これから何をされるのかと身構えた。
だが、すぐに冷静さを取り戻したつくしは自分に言い聞かせた。あれはキスなんかじゃない。キスはもっと心を込めてするものであって、あんなに軽々しくするものじゃない。
それにしてもどうしてこの男はあんなことをしたのか。
もしそれが気まぐれだ、遊びだというなら他の女性として欲しい。
それにこの会話の行先が、締めくくりはどうしたらいいのか全くわからない。この男の真意が全く読めなかった。
「まあキスにも色々と種類があるが試してみるか?新しいことに挑戦することが好きな女なら俺と試してみるのもいいかもしれねぇぞ?」
新しいことに挑戦することは好きだ。まるでつくし性格を見透かしたような物言いに内心慌てた。だが、それは仕事のことであって、この男とキスの種類を試すことではない。
それにしても、つくしの会社のプランを取り上げ、これから一緒に仕事をして行こうというのに、何故困らすようなことをするのか。キスしたかったからキスしたなんて、いい大人が、それも天下の道明寺財閥の日本支社長が言った言葉だとは思いたくない。これは早々に滋さんに連絡をするべきだろう。道明寺司はとんでもない人間ですと。
こんな男をあたしに紹介するなんて、滋さんはどうかしてる!
それにしても、こんなに魅力的な容姿の人間がいるということを改めて知った。
それだけは、認めないわけにはいかなかった。
***
司は最高の気分だった。
計画は予定通り進行中だ。牧野つくしと仕事をすることが決まった。
司の目の前に座る女は、睫毛の下からこっそりと伺うようにこちらを見ている。
対して彼は黒い瞳で牧野つくしをじっと見つめていた。
唇はほんの数秒で離れたが、いきなりキスされて驚かないはずがない。
険しい目をして冷やかな口調で話しをしていた男の態度が急変したことに、牧野つくしは身動き出来ないほど固まってしまっていた。威圧的な存在感のある男がいきなり隣に座っている女にキスをする意味はいったいなんなのか。それにさっきまで交わされていた会話の意味を知りたいと思うのは当然だろう。イメージが混乱していると言った感じでこちらを見ているのがわかる。
『一緒に仕事をするにはやりにくい相手』
いったいどういった意味で仕事をするにはやりにくい相手なのか。
それに、いったいこの男は何を考えているのかさっぱり見当がつかない。そんな思いを抱えているのは顔に現れている。
いきなりキスをされ、動揺した女は車から降りるとき、躓きそうになっていた。
腕を支えてやらなければ、また転んでいたはずだ。
女は腕を振りほどくことはせず、大人しく支えられていたが動揺していることはわかった。
「ありがとうございます」と口にした女は落ち着かない様子でいた。
忍耐強い女だと仕事の上では言われている。
逆を返せばこの女は頑固だということか?
エレベーターの前での出会いから、キスをするまでの間に心の中にひとつの想いが湧き上がっていた。
こいつに本当の俺を知って欲しいという想いが今の彼の中にあった。
はじめて出会ってから、さして会話を交わしていなければ、会ってもいないが、気になって仕方がなかった。
司は牧野つくしに魅了されていた。
これまでつき合った、彼の周りにいた、どんな女とも違っていた。それを感じたのは、こいつを抱えて医務室まで運んだ時だ。それから後、今日に至って仕事に対するプライドと、すべてに於いての前向きさが気に入った。
司は今まで自分の外見や地位に群がる女を大勢見てきた。だが、そんな女たちも、どこか司から一歩引いた姿勢で彼のすぐ傍まで踏み込もうとはしなかった。
それは、司自身の他人を簡単に寄せ付けないというオーラがそうさせていたのかもしれなかった。だが、牧野つくしは違った。彼に向かって言いたいことは口にする。遠慮がない。
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司は決めた。
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Comment:4
ビルの正面に止まっている車を見れば、まるでハリウッドスターが乗っていてもおかしくない大型車。運転手が開けて待つ後部座席のドアの窓ガラスは着色されていて、中を覗くことが出来ないようになっていた。
つくしは前を歩く男に続いて乗り込んだが、初めて乗るその車の内部に圧倒されていた。
贅沢な革張りのシートに、バーキャビネットまで備えられていて、それこそハリウッド映画でしか見たことがないような車内だ。成功した者だけが乗ることを許されるような車で堂々とした態度が取れる男は、生まれたときからその生活に馴染んでいるだけのことはあると感じていた。
すぐ隣にいる男を意識しないわけにはいかなかった。
おまえの会社に任せると言われたが、はっきりとした理由を聞きたい。あのプレゼンの何が気に入ったのか聞かせて欲しい。
つくしは口を開こうとしたが、道明寺司に先を越された。
「博創堂さんとの契約に乾杯しよう」
司は身を乗り出して、キャビネットからグラスを掴むと冷えたシャンパンを注ぎ、つくしを見た。
グラスを手渡されたつくしは慌てた。何しろ車の中でお酒を飲む経験は初めてだ。それこそハリウッド映画のワンシーンのような光景。受け取ったものの、素直に口をつけていいのか迷った。この男はこういった行為に慣れているのかもしれないが、庶民が乗る車にバーキャビネットは無い。
つくしは契約に乾杯しようと言った男に聞いた。
「あの、道明寺支社長。我社のプランの採用をお決めになられた理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
シートの上で長い脚を優雅に組む男は、グラスの縁に口を付けると言った。
「おまえのその態度だ」
「は?」
「だからおまえのその態度が気に入った」
意味がわからない。
態度とは?仕事に取り組む姿勢のことなのだろうか?
「いったいどういう意味ですか?わたしの態度って・・意味がわかりません。我社のプランが気に入ったということですよね?そう言っていただかないと社内に説明が出来ません」
毎日遅くまでプランを練ったチームの仲間は、プレゼン結果を気にしているはずだ。
つくしは片手に背の高いシャンパングラスを持ったまま大きく深呼吸をした。こんなものを車内で飲むとは、この男はいったいどういったライフスタイルを送っているのかと思わずにはいられなかった。
「それに今日のプレゼンだけで決まるなんて、前例が無いとは言いませんが、御社のように大きな会社で即決されることが可能なんでしょうか?それに支社長自らがご担当者様になるなんてことが、現実問題として可能なんでしょうか?」
トップダウンとも言えるこの決定の裏には何かあるのではないかという思いは拭えなかった。担当するなんて簡単に言うが、この男は担当の意味がわかっているのだろうか。
これから何度もある打ち合わせにいちいち顔を出すつもりなのか?
司は自分のパワーの使い方を知っているのか、相手を一瞬で黙らせることが出来るような鋭い目でつくしを見た。
「ごちゃごちゃとうるせぇ女だな。おまえの態度が気に入ったって言ってんだからそれでいいじゃねぇか」
司は言うと再びグラスを口へ運んだ。
「でも、態度ってどういう意味ですか?そんなことでは困ります!具体的に何が良かったのか仰っていただかないと、それではまるでわたしが・・・何かしたように思われます」
態度という具体性を欠ける答えでは納得出来ないのがあたり前だ。態度というなら一体どんな態度がこの男の眼鏡にかなったというのか教えて欲しい。
「枕営業ってわけじゃあるまいし、おまえが言いたいのはそのことなんだろ?」
その通りだ。女性の営業職で仕事を貰うとなると、そういったことを平気で提案する人間もいる。事実、そういった関係の提供を求めて来た人間もいた。
「道明寺支社長。どうして我社のプランが採用されたのか、それを仰って下さい」
「なんだよ?どうしても知りたいのか?」
「あたり前じゃないですか!わたしの態度がどうのこうのなんて、関係ないじゃないですか!」
つくしは手にしたグラスを邪魔だと感じると、中身を一気に飲み干し、その柄をきつく握りしめるとぴしゃりと言い返した。
「理由をお願いします、理由を!」
「おまえ、なんでそんなに怒りっぽいんだ?」
「わたしは怒りっぽい人間ではありません!」
怒りっぽいだなんて、今まで誰にも言われたことはなかったのだから心外だ。
どちらかと言えば、仕事以外ではのんびり構えていると言われるほどだ。だから恋人も出来ないんですと桜子に言われるくらいで、おまけに部下の紺野にはひとり言を慎めとまで言われる始末だ。
「わかったから落ち着け」
「わたしは落ち着いています」
つくしは息を大きく吸うと落ち着こうとしたが、なぜかこの男にからかわれているように感じていた。
「あのな。おまえのプランが駄目だと思ったら選んでない。それにこれから食事に行くのもその話をするためだ。だからもう少し・・」
「い、今教えて下さい!」
つくしは思わず叫んでいた。自分でも何故だかわからないが、何故かこの男を前にすると落ち着かなくなる。相手がクライアントの支社長という立場から礼儀正しくしなければという思いがあるが、どうしてもからかわれているような気がしてならないからだ。
司は今その話を聞きたいのかと聞いたが、つくしは勿論だと言い切った。
「_ったくうるせぇ女だな。教えてやるから黙って聞いてろ。いいか?口挟むんじゃねぇぞ?」
つくしは何もいわず、いわれるまま黙ると司の顔をじっと見つめた。
少しすると、司はつくしの赤くなった顔を見つめたまま話を始めた。
「ターゲット層についてだが、酒という嗜好品の性質から言っても好き嫌いがある。ワインという性質上、どうしても女がターゲットとして浮上して来る。ワインを飲むのは女の方が多いからな。その結果うちはあのワインのターゲット層を成人年令に達した女ならいいと考えた。その年令の女は大人になったばかりで、ワインを飲むことで大人としての雰囲気を出したいと思うはずだ。それに恋でもすれば、とりあえずビールだなんていうガキ臭い飲み物のことなんて考えねぇはずだ。だからターゲットは成人したばかりの女を含む20代から30代の独身の女あたりがいいんじゃねぇかって話しだった。ただ今度売り出すワインは高級な部類に入る。だから高い金を出しても飲んでみたいと思えるような広告が必要だ」
司は牧野つくしが理由を教えろと叫んだとき、思わず笑いだしそうになっていた。
そして今は黙って聞いてろと言われた手前、真剣な表情で話しを聞いている女の態度に笑いを堪えていた。
その態度から仕事熱心だとはわかっていたが、まさに仕事に命を懸けているかのようなその態度。そして自分に向かってくる態度。物事はすべて真正面から受け止めるという考え方。それはきちんとした筋道を立てることなく物事が進んでいくことを認めないとばかりだ。
こいつの性格はまさに真っ直ぐってところか?それとも馬鹿正直ってことか?まぁ、感情を隠すことが下手だってことは充分とも言えるほどわかった。
司は真剣な表情の女に話しを続けた。
「うちは20代から30代をターゲットだって言ったはずだ。それなのにおまえの会社は30代から40代の女をターゲットに提案してきた。理由はおまえが言った通りだとすれば学歴が高く、所得が高い女ほどワインを好むんだろ?まさにおまえみたいな女が好むってわけだ。確かに30過ぎた女なら今まで色んな酒を飲んだ経験から舌が肥えてる。そんな女たちは一度気に入れば長く飲み続けてくれるはずだ。若い女と違って本当にいいものを知れば、それを好んで飲むようになるからな」
それはつくしがプレゼンで言ったことだ。
大人として経験を積んだ女性をターゲットにし、そういった人間に長く愛飲してもらえるブランドに育てていけばいいという思いだ。
それに人間年を取ると目移りしなくなる。
一度習慣づけがされると、それ以外を受け付けなくなるという頑固さが生まれてしまうという面もあった。反対に若者は新しいものに目移りする傾向がある。
「嗜好品ってのは一度習慣づけられるとそう簡単に止めることが出来ねぇからな。それに好む銘柄が変わることもねぇ」
コーヒーや煙草や酒は嗜好品でなかなか止めることができないことはよく知られている。それに自分が気に入った銘柄以外は受け付けないことも多い。
「嗜好品じゃねぇがファーストフードが若年層をターゲットにするのは、子供の頃に覚えた味は一生忘れないってことで潜在的な顧客として確保できるからだ。刷り込みみたいなものだが、マーケティングとしてあいつらは賢い。だが酒は成人してからの嗜好品でさすがにそういうわけにはいかない。まあうちもその刷り込みとまではいかないが、若いうちにワインの味を覚えさせるかって考えた。だが、あのワインの値段は安くはない。高級路線で売るなら二十歳そこそこの女より、おまえの言った30代以上にターゲットを変えて、長く飲んでもらえるブランドに育てる方がいいってことに決定した。まあ最初はその路線も考えていたらしい。要はおまえのプレゼンの結果ってことだ」
司は軽く肩をすくめると、少し呆れたように言った。
「それにしても顧客の指定したターゲット年令層を別の年令層に変えろと言って来たのはおまえのところだけだ。とにかく、おまえの提案が受け入れられたってことだ」
司はそこまで言うと、つくしの手に握られている空になったグラスを取り上げ、キャビネットに戻した。
「それからおまえの態度だが、おまえの業界の人間は派手なタイプが多い。見た目も行動もな。だが優秀な広告マンの外見は意外と地味だ。それに内面は心配性で責任感が強い人間が多い。聞くところによると牧野って女は地味だが、心配性で責任感は人一倍だと聞いたが?」
司は目を険しく細め、つくしを見た。
「言っとくが、俺は一緒に仕事をするにはやりにくい相手だと思え」
冷やかな口調にその目つきはまるでサバンナのライオンが獲物を狙っているかのようだ。
本人にそのつもりがなくても、道明寺という男は相手を縮み上がらせることが得意なようだ。噂どおりこの男の仕事に対する態度は厳しいようだ。
そんな男は見た目が派手な広告マンよりも、地味な女を選んだ。
つまり地味な態度が気に入ったということなのか?
つくしは地味さなら自信があるとばかり頷くと、いたく真剣な口調で返事を返した。
「わかりました。ではわたしが女性であることは気になさらないで下さい。わたしのことは、あくまでも仕事相手としてお考えください。今回の食事もそのひとつでしょうから」
つくしはこの男が何か良からぬ事でも考えているのではないかと訝しがった自分がおかしかった。本気でうちのプランを認めてくれたというなら、これからこの男と取る夕食もさっさと済ませて社に戻ろう。早く戻ってこの吉報をチームの皆に伝えたい。
「そりゃ無理だ」
司の顔に笑みが浮かぶと、厳しかった目が急に温かみを増した。
「は?」
いったい何が無理だというのだろうか?突然口調が変わったことに驚いた。つい先ほどまで険しい目に冷やかな口調だったというのに、この変わりようはいったいどうしたことなのか?
次の瞬間、つくしの方へと身を乗り出して来た男は、顔を近づけるとつくしの眉間に寄った皺に指を当てた。
「おまえ、そんな怖い顔してこんな所に皺寄せてると取れなくなるぞ?」
と、からかう声が聞え、視線を合わせた男は唇を重ねた。

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すぐ隣にいる男を意識しないわけにはいかなかった。
おまえの会社に任せると言われたが、はっきりとした理由を聞きたい。あのプレゼンの何が気に入ったのか聞かせて欲しい。
つくしは口を開こうとしたが、道明寺司に先を越された。
「博創堂さんとの契約に乾杯しよう」
司は身を乗り出して、キャビネットからグラスを掴むと冷えたシャンパンを注ぎ、つくしを見た。
グラスを手渡されたつくしは慌てた。何しろ車の中でお酒を飲む経験は初めてだ。それこそハリウッド映画のワンシーンのような光景。受け取ったものの、素直に口をつけていいのか迷った。この男はこういった行為に慣れているのかもしれないが、庶民が乗る車にバーキャビネットは無い。
つくしは契約に乾杯しようと言った男に聞いた。
「あの、道明寺支社長。我社のプランの採用をお決めになられた理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
シートの上で長い脚を優雅に組む男は、グラスの縁に口を付けると言った。
「おまえのその態度だ」
「は?」
「だからおまえのその態度が気に入った」
意味がわからない。
態度とは?仕事に取り組む姿勢のことなのだろうか?
「いったいどういう意味ですか?わたしの態度って・・意味がわかりません。我社のプランが気に入ったということですよね?そう言っていただかないと社内に説明が出来ません」
毎日遅くまでプランを練ったチームの仲間は、プレゼン結果を気にしているはずだ。
つくしは片手に背の高いシャンパングラスを持ったまま大きく深呼吸をした。こんなものを車内で飲むとは、この男はいったいどういったライフスタイルを送っているのかと思わずにはいられなかった。
「それに今日のプレゼンだけで決まるなんて、前例が無いとは言いませんが、御社のように大きな会社で即決されることが可能なんでしょうか?それに支社長自らがご担当者様になるなんてことが、現実問題として可能なんでしょうか?」
トップダウンとも言えるこの決定の裏には何かあるのではないかという思いは拭えなかった。担当するなんて簡単に言うが、この男は担当の意味がわかっているのだろうか。
これから何度もある打ち合わせにいちいち顔を出すつもりなのか?
司は自分のパワーの使い方を知っているのか、相手を一瞬で黙らせることが出来るような鋭い目でつくしを見た。
「ごちゃごちゃとうるせぇ女だな。おまえの態度が気に入ったって言ってんだからそれでいいじゃねぇか」
司は言うと再びグラスを口へ運んだ。
「でも、態度ってどういう意味ですか?そんなことでは困ります!具体的に何が良かったのか仰っていただかないと、それではまるでわたしが・・・何かしたように思われます」
態度という具体性を欠ける答えでは納得出来ないのがあたり前だ。態度というなら一体どんな態度がこの男の眼鏡にかなったというのか教えて欲しい。
「枕営業ってわけじゃあるまいし、おまえが言いたいのはそのことなんだろ?」
その通りだ。女性の営業職で仕事を貰うとなると、そういったことを平気で提案する人間もいる。事実、そういった関係の提供を求めて来た人間もいた。
「道明寺支社長。どうして我社のプランが採用されたのか、それを仰って下さい」
「なんだよ?どうしても知りたいのか?」
「あたり前じゃないですか!わたしの態度がどうのこうのなんて、関係ないじゃないですか!」
つくしは手にしたグラスを邪魔だと感じると、中身を一気に飲み干し、その柄をきつく握りしめるとぴしゃりと言い返した。
「理由をお願いします、理由を!」
「おまえ、なんでそんなに怒りっぽいんだ?」
「わたしは怒りっぽい人間ではありません!」
怒りっぽいだなんて、今まで誰にも言われたことはなかったのだから心外だ。
どちらかと言えば、仕事以外ではのんびり構えていると言われるほどだ。だから恋人も出来ないんですと桜子に言われるくらいで、おまけに部下の紺野にはひとり言を慎めとまで言われる始末だ。
「わかったから落ち着け」
「わたしは落ち着いています」
つくしは息を大きく吸うと落ち着こうとしたが、なぜかこの男にからかわれているように感じていた。
「あのな。おまえのプランが駄目だと思ったら選んでない。それにこれから食事に行くのもその話をするためだ。だからもう少し・・」
「い、今教えて下さい!」
つくしは思わず叫んでいた。自分でも何故だかわからないが、何故かこの男を前にすると落ち着かなくなる。相手がクライアントの支社長という立場から礼儀正しくしなければという思いがあるが、どうしてもからかわれているような気がしてならないからだ。
司は今その話を聞きたいのかと聞いたが、つくしは勿論だと言い切った。
「_ったくうるせぇ女だな。教えてやるから黙って聞いてろ。いいか?口挟むんじゃねぇぞ?」
つくしは何もいわず、いわれるまま黙ると司の顔をじっと見つめた。
少しすると、司はつくしの赤くなった顔を見つめたまま話を始めた。
「ターゲット層についてだが、酒という嗜好品の性質から言っても好き嫌いがある。ワインという性質上、どうしても女がターゲットとして浮上して来る。ワインを飲むのは女の方が多いからな。その結果うちはあのワインのターゲット層を成人年令に達した女ならいいと考えた。その年令の女は大人になったばかりで、ワインを飲むことで大人としての雰囲気を出したいと思うはずだ。それに恋でもすれば、とりあえずビールだなんていうガキ臭い飲み物のことなんて考えねぇはずだ。だからターゲットは成人したばかりの女を含む20代から30代の独身の女あたりがいいんじゃねぇかって話しだった。ただ今度売り出すワインは高級な部類に入る。だから高い金を出しても飲んでみたいと思えるような広告が必要だ」
司は牧野つくしが理由を教えろと叫んだとき、思わず笑いだしそうになっていた。
そして今は黙って聞いてろと言われた手前、真剣な表情で話しを聞いている女の態度に笑いを堪えていた。
その態度から仕事熱心だとはわかっていたが、まさに仕事に命を懸けているかのようなその態度。そして自分に向かってくる態度。物事はすべて真正面から受け止めるという考え方。それはきちんとした筋道を立てることなく物事が進んでいくことを認めないとばかりだ。
こいつの性格はまさに真っ直ぐってところか?それとも馬鹿正直ってことか?まぁ、感情を隠すことが下手だってことは充分とも言えるほどわかった。
司は真剣な表情の女に話しを続けた。
「うちは20代から30代をターゲットだって言ったはずだ。それなのにおまえの会社は30代から40代の女をターゲットに提案してきた。理由はおまえが言った通りだとすれば学歴が高く、所得が高い女ほどワインを好むんだろ?まさにおまえみたいな女が好むってわけだ。確かに30過ぎた女なら今まで色んな酒を飲んだ経験から舌が肥えてる。そんな女たちは一度気に入れば長く飲み続けてくれるはずだ。若い女と違って本当にいいものを知れば、それを好んで飲むようになるからな」
それはつくしがプレゼンで言ったことだ。
大人として経験を積んだ女性をターゲットにし、そういった人間に長く愛飲してもらえるブランドに育てていけばいいという思いだ。
それに人間年を取ると目移りしなくなる。
一度習慣づけがされると、それ以外を受け付けなくなるという頑固さが生まれてしまうという面もあった。反対に若者は新しいものに目移りする傾向がある。
「嗜好品ってのは一度習慣づけられるとそう簡単に止めることが出来ねぇからな。それに好む銘柄が変わることもねぇ」
コーヒーや煙草や酒は嗜好品でなかなか止めることができないことはよく知られている。それに自分が気に入った銘柄以外は受け付けないことも多い。
「嗜好品じゃねぇがファーストフードが若年層をターゲットにするのは、子供の頃に覚えた味は一生忘れないってことで潜在的な顧客として確保できるからだ。刷り込みみたいなものだが、マーケティングとしてあいつらは賢い。だが酒は成人してからの嗜好品でさすがにそういうわけにはいかない。まあうちもその刷り込みとまではいかないが、若いうちにワインの味を覚えさせるかって考えた。だが、あのワインの値段は安くはない。高級路線で売るなら二十歳そこそこの女より、おまえの言った30代以上にターゲットを変えて、長く飲んでもらえるブランドに育てる方がいいってことに決定した。まあ最初はその路線も考えていたらしい。要はおまえのプレゼンの結果ってことだ」
司は軽く肩をすくめると、少し呆れたように言った。
「それにしても顧客の指定したターゲット年令層を別の年令層に変えろと言って来たのはおまえのところだけだ。とにかく、おまえの提案が受け入れられたってことだ」
司はそこまで言うと、つくしの手に握られている空になったグラスを取り上げ、キャビネットに戻した。
「それからおまえの態度だが、おまえの業界の人間は派手なタイプが多い。見た目も行動もな。だが優秀な広告マンの外見は意外と地味だ。それに内面は心配性で責任感が強い人間が多い。聞くところによると牧野って女は地味だが、心配性で責任感は人一倍だと聞いたが?」
司は目を険しく細め、つくしを見た。
「言っとくが、俺は一緒に仕事をするにはやりにくい相手だと思え」
冷やかな口調にその目つきはまるでサバンナのライオンが獲物を狙っているかのようだ。
本人にそのつもりがなくても、道明寺という男は相手を縮み上がらせることが得意なようだ。噂どおりこの男の仕事に対する態度は厳しいようだ。
そんな男は見た目が派手な広告マンよりも、地味な女を選んだ。
つまり地味な態度が気に入ったということなのか?
つくしは地味さなら自信があるとばかり頷くと、いたく真剣な口調で返事を返した。
「わかりました。ではわたしが女性であることは気になさらないで下さい。わたしのことは、あくまでも仕事相手としてお考えください。今回の食事もそのひとつでしょうから」
つくしはこの男が何か良からぬ事でも考えているのではないかと訝しがった自分がおかしかった。本気でうちのプランを認めてくれたというなら、これからこの男と取る夕食もさっさと済ませて社に戻ろう。早く戻ってこの吉報をチームの皆に伝えたい。
「そりゃ無理だ」
司の顔に笑みが浮かぶと、厳しかった目が急に温かみを増した。
「は?」
いったい何が無理だというのだろうか?突然口調が変わったことに驚いた。つい先ほどまで険しい目に冷やかな口調だったというのに、この変わりようはいったいどうしたことなのか?
次の瞬間、つくしの方へと身を乗り出して来た男は、顔を近づけるとつくしの眉間に寄った皺に指を当てた。
「おまえ、そんな怖い顔してこんな所に皺寄せてると取れなくなるぞ?」
と、からかう声が聞え、視線を合わせた男は唇を重ねた。

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「仕事だもの。そうよ、これは仕事・・契約は結ばれるんだもの、食事につき合うくらい問題ないじゃない・・」
道明寺司に握手を求められ、握った手は大きく美しい手だと感じた。
長い指は男性的ではあったが無骨さはなく、綺麗な指だと思った。そんな手で力強く握り返され驚いてしまった。
握手を交わす文化のない日本に於いて、力加減を知らない人間が多いが、道明寺司は海外での生活が長い男だ。男性が女性と握手する時の加減くらいわかっていそうなものだと思ったが、その手は力強く、素早く引っ込めようとしたが放してもらえなかった。
そんな状況に警戒心を抱くなという方が無理だろう。
その手はヒンヤリと感じられた。外見がクールに見える男はその手もクールなのだろうか?
足首を手当してくれた時にはそうは思わなかったが、さっきはそう感じられた。男性は女性よりも体温が高く、暑がりの人間が多いはずだがこの男はどうやら違うらしい。
この男がどんな態度を見せようが、求められているのは仕事だけのはずだ。
口よりも仕事の方には自信があるなんてことを言ったからには、ミスは許されない。
それはどんな仕事にも求められることだ。だがこの男との間に流れる妙な空気がつくしを落ち着かない気持ちにさせていた。
つくしは男のあとに続いて廊下を歩いていた。
前を歩く男は長い脚で優雅に歩く。歩く姿がなんとかと、花に例えがあるように、この男を花に例えるとすれば何の花になるのだろうか?
だが、全く思いつかなかった。だいたい男性を花に例えること自体がおかしい。
しかし道明寺司が稀に見るほどいい男だということを、つくしは認めないわけにはいかなかった。まさにモデルばりのルックスなのだから。
富も美貌も権力も、全てを備えた男がこの世の中にいることを実感するチャンスはなかったが、今まさにそのチャンスを得たようだ。
もし道明寺司が今の仕事についていなかったとしたら、やはりモデルをしていたかもしれない。そうよ、この美貌だもの。にっこりほほ笑めば、それだけで女性を虜にするはずだ。
でもこの男がほほ笑むところを見るチャンスがあるとは考えられなかった。徹底的な合理主義者と呼ばれる男だ。クールビューティー・・。まさにこの言葉がよく似合う。
それにその声も男の魅力のひとつだ。
官能的な低音と呼ばれる魅惑のバリトンヴォイス。この声がラジオから流れてくるとしたら、思わず手を止めて聞き入ってしまうはずだ。その容姿にその声。本当にこの男は並外れた魅力の持ち主だと認めないわけにはいかなかった。
しかし今はそんなことを気に留めている場合じゃない。
今回の仕事を無事に終えることが第一だ。それに前を歩く男もそれを望んでいるからこそ、あたしにこの仕事を任せてくれたはずだ。
やっぱり紺野を同席させるべきだったかもしれない。
だがこの男が来るなと言ったが為に、同席させることは無理だ。
いったい自分を何様だと思っているのか、と言いたいところだが、クライアント様である以上、顧客第一主義を掲げる会社の社員としては逆らうわけにはいかなかった。
つくしは男に続いてエレベーターに乗り込もうとしたが、またしても躓きそうになっていた。
「おまえはまたエレベーター前で転ぶつもりか?」
男は咄嗟につくしの肘を掴んだ。もし掴んでもらえなければ、エレベーターの中に転がり込んでいたかもしれない。いくら踵が高いと言われる靴を履いていたとしても、つくしの背が急に伸びたわけではない。相変らず見上げなければならない背の高い男は、冷やかな態度で見下ろしていた。
「あ、ありがとう・・」
顔が赤らんでいなければいいけど。
つくしは小さな声で礼を言うとエレベーターの中で向きを変えた。
食事を抜くと血糖値が下がって頭が回らなくなると言うが、それは本当なのだろうか。
午後からのプレゼンを前に緊張していたつくしは、昼食をいつもより控えめにとった。
食事を抜いたわけではない。だが足元がふらついたのは、やはり控えめに食べたせいなのだろうか?それともプレゼンを終え、それまで張りつめていた気持ちや、緊張の糸が切れてしまったからなのだろうか。
いい年をしてクライアントとなったこの男の前で、もうこれ以上みっともない真似だけはしたくなかった。それにしても本当にこの男と一緒に仕事をするのだろうか。肘を掴まれた瞬間、体の内側が反応したが深く考えないことにした。
何故か初っ端から噛みつくようなことを言ってしまったとつくしは反省していた。
これからは友好的な態度を崩すことなく、かつ、建設的な関係を築いていかなくてはならない。
エレベーター内での立ち位置は、男が奥の壁にもたれかかるようにして立つのに対し、つくしは前方操作パネルの前に立っていた。これは当然と言えば当然の立ち位置。
エレベーターの中にも席次がある。だからこの男が一番奥の右に立つのは当然で、つくしがその前に立って操作パネルを操作することになる。
扉が閉まったとたん、つくしは緊張感に襲われていた。
後ろから見られているのは当然で、視線を意識するなと言う方が無理だ。そう思うと急に今日着ているスーツが気になった。
チャコールグレーのビジネススーツはごく平均的なスタイルだ。きちんとした印象を与える以外どんな印象も与えはしないはずだ。間違ってもセクシーだなんて思われることはないと思っている。もし道明寺司が女を征服したいと考えるような男だとすれば、あたしみたいに平均的な女に手を出そうなんて考えもしないはずだ。だからこの食事だって深い意味はない。これは仕事よ。仕事。
とはいえ、背中に緊張感を背負ったまま小さく息を吐いた。
滋さんに道明寺司とこれから暫く一緒に仕事をするということを伝えた方がいいのだろうか。あのとき、桜子と三人でお酒を飲みながら恋愛事情について話しをしたが、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。まあ、後ろにいる道明寺司はそんなことなど知る由もないだろう。
あのとき滋さんは、いい男を紹介するから任せてよ!と言って親指を立てた。確かに道明寺司はいい男だと思うが、もし仮に、本当に仮定の話だが、つき合うことになったとしても、二人に共通点があるとは思えなかった。何しろ、この男は″華麗なる道明寺一族″なのだから。
今のこの状況を桜子だけにでも話しておくべきだろう。つくしは自分自身に頷いていた。
司は牧野つくしの後ろ姿を間近で眺めていた。
肩までの長さで切り揃えられた真っ直ぐで真っ黒な髪。洋服の上からでもわかる細い体の線。それは抱き上げたときにわかっていた。華奢な体は細く軽かった。もちろん触れた脚も細かった。胸の形はわからなかったが、転んだときに見えた下着の色は白。
プレゼンの順番が回って来たとき、会議室の前方に歩いて行く足取りはしっかりとしていたが、どうしてまたここで転びそうになるのか不思議だった。
こいつ、まさか俺の前で緊張しているのか?
「牧野主任」
「は、はい!」
背後から聞こえた低い声につくしは思わず跳び上がりそうになったが慌てて振り返った。
するとそこにいる男は壁にもたれ、胸の前で腕を組んでつくしを見ていた。
「さっきから何ひとり言いってんだ?おまえは一人で喋る癖があるのか?」
「えっ・・いえ。別に得意技とまでいきませんが・・たまに・・」
紺野にもよく注意されていることが、まさかこの男の前でも起こってしまったかとつくしはうな垂れた。
「そうか。まあ別にいいが、おまえのひとり言はひとり言になってないからな」
と、いう事は今までの思考はダダ漏れで、聞かれている部分もあるということだ。だがここで余計なことは言わない方がいい。つくしは冷やかな顔で見返され、気が重くなっていただけに
「・・よく言われます」
と、大人しく返事を返すだけにした。
司は牧野つくしがひとり言を呟いても、どうでもいいとばかりの態度を取っていた。
だが本当はこの女が何を考えているのか知ることが出来ると、内心ではほくそ笑む自分がいた。
小柄な女が近くで司の顔を見ようと思えば、必ず頭を上げなければならない。
それも45度の角度で。今の二人の距離は離れているが、握手を求めたときは近かった。
あのときは、まさに斜め下から見上げる形だった。
司が壁から身を離したときエレベーターが1階に着き、扉が開いた。
「牧野主任、では楽しい夕食に行こうか」

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長い指は男性的ではあったが無骨さはなく、綺麗な指だと思った。そんな手で力強く握り返され驚いてしまった。
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そんな状況に警戒心を抱くなという方が無理だろう。
その手はヒンヤリと感じられた。外見がクールに見える男はその手もクールなのだろうか?
足首を手当してくれた時にはそうは思わなかったが、さっきはそう感じられた。男性は女性よりも体温が高く、暑がりの人間が多いはずだがこの男はどうやら違うらしい。
この男がどんな態度を見せようが、求められているのは仕事だけのはずだ。
口よりも仕事の方には自信があるなんてことを言ったからには、ミスは許されない。
それはどんな仕事にも求められることだ。だがこの男との間に流れる妙な空気がつくしを落ち着かない気持ちにさせていた。
つくしは男のあとに続いて廊下を歩いていた。
前を歩く男は長い脚で優雅に歩く。歩く姿がなんとかと、花に例えがあるように、この男を花に例えるとすれば何の花になるのだろうか?
だが、全く思いつかなかった。だいたい男性を花に例えること自体がおかしい。
しかし道明寺司が稀に見るほどいい男だということを、つくしは認めないわけにはいかなかった。まさにモデルばりのルックスなのだから。
富も美貌も権力も、全てを備えた男がこの世の中にいることを実感するチャンスはなかったが、今まさにそのチャンスを得たようだ。
もし道明寺司が今の仕事についていなかったとしたら、やはりモデルをしていたかもしれない。そうよ、この美貌だもの。にっこりほほ笑めば、それだけで女性を虜にするはずだ。
でもこの男がほほ笑むところを見るチャンスがあるとは考えられなかった。徹底的な合理主義者と呼ばれる男だ。クールビューティー・・。まさにこの言葉がよく似合う。
それにその声も男の魅力のひとつだ。
官能的な低音と呼ばれる魅惑のバリトンヴォイス。この声がラジオから流れてくるとしたら、思わず手を止めて聞き入ってしまうはずだ。その容姿にその声。本当にこの男は並外れた魅力の持ち主だと認めないわけにはいかなかった。
しかし今はそんなことを気に留めている場合じゃない。
今回の仕事を無事に終えることが第一だ。それに前を歩く男もそれを望んでいるからこそ、あたしにこの仕事を任せてくれたはずだ。
やっぱり紺野を同席させるべきだったかもしれない。
だがこの男が来るなと言ったが為に、同席させることは無理だ。
いったい自分を何様だと思っているのか、と言いたいところだが、クライアント様である以上、顧客第一主義を掲げる会社の社員としては逆らうわけにはいかなかった。
つくしは男に続いてエレベーターに乗り込もうとしたが、またしても躓きそうになっていた。
「おまえはまたエレベーター前で転ぶつもりか?」
男は咄嗟につくしの肘を掴んだ。もし掴んでもらえなければ、エレベーターの中に転がり込んでいたかもしれない。いくら踵が高いと言われる靴を履いていたとしても、つくしの背が急に伸びたわけではない。相変らず見上げなければならない背の高い男は、冷やかな態度で見下ろしていた。
「あ、ありがとう・・」
顔が赤らんでいなければいいけど。
つくしは小さな声で礼を言うとエレベーターの中で向きを変えた。
食事を抜くと血糖値が下がって頭が回らなくなると言うが、それは本当なのだろうか。
午後からのプレゼンを前に緊張していたつくしは、昼食をいつもより控えめにとった。
食事を抜いたわけではない。だが足元がふらついたのは、やはり控えめに食べたせいなのだろうか?それともプレゼンを終え、それまで張りつめていた気持ちや、緊張の糸が切れてしまったからなのだろうか。
いい年をしてクライアントとなったこの男の前で、もうこれ以上みっともない真似だけはしたくなかった。それにしても本当にこの男と一緒に仕事をするのだろうか。肘を掴まれた瞬間、体の内側が反応したが深く考えないことにした。
何故か初っ端から噛みつくようなことを言ってしまったとつくしは反省していた。
これからは友好的な態度を崩すことなく、かつ、建設的な関係を築いていかなくてはならない。
エレベーター内での立ち位置は、男が奥の壁にもたれかかるようにして立つのに対し、つくしは前方操作パネルの前に立っていた。これは当然と言えば当然の立ち位置。
エレベーターの中にも席次がある。だからこの男が一番奥の右に立つのは当然で、つくしがその前に立って操作パネルを操作することになる。
扉が閉まったとたん、つくしは緊張感に襲われていた。
後ろから見られているのは当然で、視線を意識するなと言う方が無理だ。そう思うと急に今日着ているスーツが気になった。
チャコールグレーのビジネススーツはごく平均的なスタイルだ。きちんとした印象を与える以外どんな印象も与えはしないはずだ。間違ってもセクシーだなんて思われることはないと思っている。もし道明寺司が女を征服したいと考えるような男だとすれば、あたしみたいに平均的な女に手を出そうなんて考えもしないはずだ。だからこの食事だって深い意味はない。これは仕事よ。仕事。
とはいえ、背中に緊張感を背負ったまま小さく息を吐いた。
滋さんに道明寺司とこれから暫く一緒に仕事をするということを伝えた方がいいのだろうか。あのとき、桜子と三人でお酒を飲みながら恋愛事情について話しをしたが、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。まあ、後ろにいる道明寺司はそんなことなど知る由もないだろう。
あのとき滋さんは、いい男を紹介するから任せてよ!と言って親指を立てた。確かに道明寺司はいい男だと思うが、もし仮に、本当に仮定の話だが、つき合うことになったとしても、二人に共通点があるとは思えなかった。何しろ、この男は″華麗なる道明寺一族″なのだから。
今のこの状況を桜子だけにでも話しておくべきだろう。つくしは自分自身に頷いていた。
司は牧野つくしの後ろ姿を間近で眺めていた。
肩までの長さで切り揃えられた真っ直ぐで真っ黒な髪。洋服の上からでもわかる細い体の線。それは抱き上げたときにわかっていた。華奢な体は細く軽かった。もちろん触れた脚も細かった。胸の形はわからなかったが、転んだときに見えた下着の色は白。
プレゼンの順番が回って来たとき、会議室の前方に歩いて行く足取りはしっかりとしていたが、どうしてまたここで転びそうになるのか不思議だった。
こいつ、まさか俺の前で緊張しているのか?
「牧野主任」
「は、はい!」
背後から聞こえた低い声につくしは思わず跳び上がりそうになったが慌てて振り返った。
するとそこにいる男は壁にもたれ、胸の前で腕を組んでつくしを見ていた。
「さっきから何ひとり言いってんだ?おまえは一人で喋る癖があるのか?」
「えっ・・いえ。別に得意技とまでいきませんが・・たまに・・」
紺野にもよく注意されていることが、まさかこの男の前でも起こってしまったかとつくしはうな垂れた。
「そうか。まあ別にいいが、おまえのひとり言はひとり言になってないからな」
と、いう事は今までの思考はダダ漏れで、聞かれている部分もあるということだ。だがここで余計なことは言わない方がいい。つくしは冷やかな顔で見返され、気が重くなっていただけに
「・・よく言われます」
と、大人しく返事を返すだけにした。
司は牧野つくしがひとり言を呟いても、どうでもいいとばかりの態度を取っていた。
だが本当はこの女が何を考えているのか知ることが出来ると、内心ではほくそ笑む自分がいた。
小柄な女が近くで司の顔を見ようと思えば、必ず頭を上げなければならない。
それも45度の角度で。今の二人の距離は離れているが、握手を求めたときは近かった。
あのときは、まさに斜め下から見上げる形だった。
司が壁から身を離したときエレベーターが1階に着き、扉が開いた。
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