一緒に踊ってくれないか?
永遠に。
共に人生のダンスを。
司はようやく女の姿を見つけた。
化粧室へ行くと言ってパーティーを抜け出した女がなかなか戻って来ないことが不安だった。女は昔から彼を心配させることばかりしてきた。いや。彼の方が女については心配し過ぎていることが多いのかもしれない。司はいつも女の姿を目で追っていた。
瞳はいつも女を欲しがっていた。
それは周りの誰もが知っていることで、隠すことのない欲望を含んだ視線。
はじめて視線を交わした瞬間から彼の中にあった想い。
だが、その瞳を受け止めてもらえるまでは随分と時間がかかった。
何故ならその瞳で見つめるたびに驚かせ、怖がらせることばかりだったから。
彼の瞳は見るものを虜にすると同時に恐怖を与えることもあった。
目で人を殺すという言葉があるが、それを体現させることが出来る男だと言われていた。
氷のように冷たく、ナイフのように鋭い視線。そんなことを言われていた時もあった。
だがそんな瞳も今は愛に溢れていた。
彼の瞳に溢れる愛。それは愛しい女を思えばこそ溢れる想い。
そんな瞳が語るのは、人を愛するとはこんなにも素晴らしいことだったのかという想い。
今までいったい何処にいた?
風が冷たい夜だというのに、テラスに佇む女。
眼下に広がる街の明かりを見ているのか、それとも見ていないのか。
大都会の中心部に建つホテルは彼のもので、その中で開かれているパーティーを抜け出した女。彼の目に映る後ろ姿は華奢で、抱き込めばその腕の中にすっぽりと納まるほど小さかった。
どうした?
何を考えてる?
そう思わずにはいられない姿がそこにあった。
静かに近づいた男は自分の上着を脱ぐと、寒そうに震える肩にそっと着せ掛けた。
幅の広い肩を覆っていたタキシードの上着は、女の体の全てを覆い隠してしまうほどだ。
ドレスシャツに蝶ネクタイ、引き締まった腰に巻かれたカマーバンド、そして長い脚を包む黒いスラックス姿の男。その姿はモデルよりもモデルらしい。そんな男の黒い髪が風に乱れると挑発的に見えるのは何故か。
彼は婚約者となった女の肩をそっと抱き寄せると、腰へと手をまわした。
そして優しくほほ笑みかけた。
「中へ入ろう。パーティーを楽しめ」
「誰のためのパーティーなの?」
と司を見上げて柔らかくほほ笑む女。
「俺とおまえのためのパーティーだ」
かつて世の中のルールなど全てを無視していた男。
自分の周りにいる全てのモノに反抗的な態度をとっていた男。
そんな男も愛する女が出来ると変わった。
だがまだその頃愛を知るには、本当の愛を知るには幼かった男だった。
彼の目に映るのは当時と同じ眩しいほどの輝きを持つ女。
キラキラと輝く瞳と豊な表情。それはいつまでたっても彼の心の中に刻み込まれている。
4年間という長い別れを経験し、もうだめかもしれない。そう思ったこともあった。
だがこうして二人は今も一緒にいる。
それは二人の愛の強さを証明してみせたことになる。どんなに離れていても、どれだけ時が流れようと変わらなかった二人の想い。互いを信じる気持ちさえあれば、どんなことでも乗り越えられる。そう信じていた。
「疲れたのか?」
「えっ?」
「無理すんな。こんなパーティーなんかよりおまえの体の方が大事だからよ」
「大丈夫だから・・」
いつもそうやって無理をする女。
だから俺が気を付けてやる。
昔っからこの女は全てのことに対し無理ばかりしていた。
そんなこいつが危なっかしくて、いつも後ろから追いかけていたのは俺。
他人に対して無防備で、それでもいつも周りにいる奴らに気を使い、頼まれれば決してノーとは言わない女。
そんな女が愛おしくて、振り向いてもらいたくて、いつも後ろを追いかけていた。
馬鹿みてぇな別れとか、どうしようもねぇ別れとかあったけど、それでも俺はこの女が忘れられなかった。
他人がどう言おうが、そんなことはどうでもいい。
ただ、この女が俺の傍にいてくれたらそれでいい。
そんな想いを抱えていた高校時代。だからこいつにも、周りの奴らにも迷惑をかけた。
恋の始まりは、春の野火が野原の枯草を燃やすようにゆっくりと、だが確実に彼の心に広がっていた。そして気づけば一気に燃え上がるほどの大火となっていた。
情熱の炎というものがあるなら、それはまさに彼の恋の炎。
一度放たれた炎は決して消えることが無く、今でも彼の心の中にある。
好きだ。
愛してる。
ずっと言ってきた想い。
決して静まることのないこの気持ち。
それは17歳の頃から変わらぬ愛しさ。
本物の愛を知ったあの頃から、いつまでたっても色褪せることのないこの想い。
彼は、司は彼女を心の底から愛している。
司はビジネスと事業計画については自信に溢れている男だと言われるが、こと愛する女のことになると不安を感じてしまうことがある。
どこか体の調子が悪いのではないか。
悩んでいることはないか。
昔の俺なら考えもしないようなことが次々と頭に思い浮かぶことがある。
今夜だってそうだ。
化粧室に行ったままでなかなか戻って来なかった。
探してみればひとりテラスでぼんやりしてるなんて、どう考えても悩みがあるとしか思えない。だが、この女は悩みがあっても自分ひとり抱え込む人間だ。
昔っから何度言ってもなかなか打ち明けようとはしない。
だから俺までイライラしちまう。
そうなると思わず周りの奴らにも当たり散らすことがある。
だから言ってるだろ?
おまえがなんか考え込んでると俺は不安なんだよ。
悩みがあるなら俺に言ってくれないか?
なあ。
ずっと言ってきただろ?
おまえのことが好きでたまんねぇって。
だからおまえのことは俺が一生守って行く。
昔経験したように不安という殻の中に閉じこもるってのは見たくない。
そのとき、ふとした仕草で見せるのはわたしと踊っての合図。
視線を斜め45度上目遣いに向けるのは、こいつの昔からのお願いスタイル。
そんな上目遣いに弱いのはあの頃と同じ。俺の瞳がおまえを欲しがるのと同じで、おまえの瞳も俺が欲しいと言ってるはずだ。
交わされる互いの視線に不思議な力があるのは、あの頃と違って二人が大人になった証拠。
背中に手にまわして踊るのはワルツ。
俺が高校を卒業するときのパーティーで踊ることが出来なかったが、あれからパーティーに出ることがあれば必ず1曲は踊る。
だから俺もこいつも今では息のあったダンスが出来る。
仕草だけで、言葉も会話もなく互いの想いを伝え合うことが出来ることが、今の二人にとってはいいのかもしれない。ヒールを履いても肩に届くか届かないかの背の高さは、俺にとっては一番抱き心地がいい。そんな女を胸の中に抱きしめると、決して離さないという想いを伝えることが出来る。
今夜こうして体を寄せ合って踊るだけで優しい気持ちにさせてくれるのは、この女が俺にかける魔法。
今宵が永遠に続けばいいといつも思うのは決して俺だけじゃないはずだ。
なあ。
俺に伝えたいことがあるんだろ?
おまえ、さっき何を考えてたんだ?
教えてくれないか?
司はつくしの匂いを吸い込みながら、その体を抱きしめていた。

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それは周りの誰もが知っていることで、隠すことのない欲望を含んだ視線。
はじめて視線を交わした瞬間から彼の中にあった想い。
だが、その瞳を受け止めてもらえるまでは随分と時間がかかった。
何故ならその瞳で見つめるたびに驚かせ、怖がらせることばかりだったから。
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氷のように冷たく、ナイフのように鋭い視線。そんなことを言われていた時もあった。
だがそんな瞳も今は愛に溢れていた。
彼の瞳に溢れる愛。それは愛しい女を思えばこそ溢れる想い。
そんな瞳が語るのは、人を愛するとはこんなにも素晴らしいことだったのかという想い。
今までいったい何処にいた?
風が冷たい夜だというのに、テラスに佇む女。
眼下に広がる街の明かりを見ているのか、それとも見ていないのか。
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どうした?
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彼は婚約者となった女の肩をそっと抱き寄せると、腰へと手をまわした。
そして優しくほほ笑みかけた。
「中へ入ろう。パーティーを楽しめ」
「誰のためのパーティーなの?」
と司を見上げて柔らかくほほ笑む女。
「俺とおまえのためのパーティーだ」
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自分の周りにいる全てのモノに反抗的な態度をとっていた男。
そんな男も愛する女が出来ると変わった。
だがまだその頃愛を知るには、本当の愛を知るには幼かった男だった。
彼の目に映るのは当時と同じ眩しいほどの輝きを持つ女。
キラキラと輝く瞳と豊な表情。それはいつまでたっても彼の心の中に刻み込まれている。
4年間という長い別れを経験し、もうだめかもしれない。そう思ったこともあった。
だがこうして二人は今も一緒にいる。
それは二人の愛の強さを証明してみせたことになる。どんなに離れていても、どれだけ時が流れようと変わらなかった二人の想い。互いを信じる気持ちさえあれば、どんなことでも乗り越えられる。そう信じていた。
「疲れたのか?」
「えっ?」
「無理すんな。こんなパーティーなんかよりおまえの体の方が大事だからよ」
「大丈夫だから・・」
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昔っからこの女は全てのことに対し無理ばかりしていた。
そんなこいつが危なっかしくて、いつも後ろから追いかけていたのは俺。
他人に対して無防備で、それでもいつも周りにいる奴らに気を使い、頼まれれば決してノーとは言わない女。
そんな女が愛おしくて、振り向いてもらいたくて、いつも後ろを追いかけていた。
馬鹿みてぇな別れとか、どうしようもねぇ別れとかあったけど、それでも俺はこの女が忘れられなかった。
他人がどう言おうが、そんなことはどうでもいい。
ただ、この女が俺の傍にいてくれたらそれでいい。
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恋の始まりは、春の野火が野原の枯草を燃やすようにゆっくりと、だが確実に彼の心に広がっていた。そして気づけば一気に燃え上がるほどの大火となっていた。
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それは17歳の頃から変わらぬ愛しさ。
本物の愛を知ったあの頃から、いつまでたっても色褪せることのないこの想い。
彼は、司は彼女を心の底から愛している。
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視線を斜め45度上目遣いに向けるのは、こいつの昔からのお願いスタイル。
そんな上目遣いに弱いのはあの頃と同じ。俺の瞳がおまえを欲しがるのと同じで、おまえの瞳も俺が欲しいと言ってるはずだ。
交わされる互いの視線に不思議な力があるのは、あの頃と違って二人が大人になった証拠。
背中に手にまわして踊るのはワルツ。
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今夜こうして体を寄せ合って踊るだけで優しい気持ちにさせてくれるのは、この女が俺にかける魔法。
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Comment:6
司は女との会話を楽しんでいた。
プレゼンで見せた冷静な語り口の女とは思えないテンポのよい会話。
コロコロと変わる豊な表情。そして言葉の中に感じられる刺激的な対立が楽しかった。
こうして口論出来ることが、そして生まれてはじめて女から拒否されたことが新鮮だと感じていた。そのことが西田の言ったように普段の司らしくない行動を取ることと関係があるとするならば、恐らくそうだろう。
牧野つくしと自分とのエネルギーの向かう先が違うとしても、女の瞳の中に溢れる生気が感じられる。それは今まで彼の周りにいた女には感じられなかったことだ。自分の脚で確実に大地に踏ん張っている感じのするその態度。それに妙に反抗的なその態度は、顧客第一主義を掲げる代理店の考えには反するはずだ。だがそのことにも猛然と立ち向かうような女。
そして司に向かって堂々と意見する女。
あのときは自分の脚で立つどころではなかったとしても、今のこの女が自分の脚で立ち、立ち向かってくる姿はなんとも言えず面白い。
こうして話してみれば、その生意気さがなんとも心地いい。
何故だかわからないが、妙に心が騒ぐ。
女に興味を持つということがこんなにも楽しいと思えるのは相手が牧野つくしだからか?
そんな女はやはり小型犬のようだ。犬の種類はわからないが、ちょこまかと動く犬としか言いようがなかった。
普通の小型犬なら大型犬にひと吠えされれば、飼い主の後ろへ隠れそうなものの、このちび犬は眉間に皺を寄せて立ち向かって来る。噛みつけば逆に噛みつかれるなんてことは頭の中にないのか、それとも逆に大型犬に噛みついてやろうとしているのか。
どちらにしても、その生意気な態度が男の征服欲を誘っているのは確かだ。今まで女に対してさしたる興味のなかった男は、牧野つくしの態度によって眠っていた男としての本能が呼び覚まされていた。
「どうしてわたしが、あなたと食事に行かなくてはいけないんですか?」
これからクライアントになろうかという相手に対してその態度かよ、と言いたくなるほど強気な女。司は意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうしてっておまえはうちの担当だろ?そうとなったら早いこと話を詰めておかなきゃなんねぇだろ?」
「だから、どうしてこれからなんですか?今これから話をすることなんてないはずです。それにこの件のご担当者様は道明寺支社長ではありませんよね?」
支社長自らがこの広告の指揮をとるとはとても思えなかったが、返された言葉は曖昧だった。
「いまのところはな」
広告の完成までは担当者と緊密な連絡を取ることは確かなだけに、その言葉の意味を考えると不安が過った。
まさか、担当が変わる?
それに道明寺司がこの広告に関すること以上のことを言っているような気がするのは気のせいなのか?いや。そうではないはずだ。現に関係を深めるなんて言葉まで出たのだから個人的な何かを求めているということは明らかだ。それに今までの経験から言っても、クライアントの中には自分の立場を利用してよからぬこと考える男がいたこともあった。
あのとき、医務室まで運んでくれたこの男に対してつくしが持っていた感情は、親切でいい人だという思い。だが、ここまで来るとこの男は自分の立場を利用して女性に対しての天賦の才を使おうとしているのではないかという思いが強くなっていた。
天賦の才。
この男の場合それは女性に対して与える危険な魅力。
つくしもそれくらいはわかっていた。この男には他の誰にもない危険な香りがする。
その腕に抱き上げられたときに、そのことは感じていたのだから、どこがどう危険かと言われても困るが、とにかく危険な男だ。
「あ、あの。主任・・僕のことは構いませんから、どうぞ道明寺支社長と食事に行って下さい。それに、クライアント様の仰ることは聞いた方がいいと思います」
紺野の声につくしはそれまでの思いを中断した。
そうよ。今ここでこんな言い合いをしている場合じゃない。
それにまだ正式な契約もしていないのに、こんな口の利き方をしていいはずはない。
相手は道明寺司だ。ビジネスに於いては合理主義者だと聞いている。無駄なことは一切省くという男だ。
つくしは考え方を改めた方がいいのかもしれない。
もしかすると、単に時間を無駄にすることが許せないということなのかもしれない。だから食事に行こうと誘われたことに深い意味はないのかもしれない。本当に仕事の話をしたいのかもしれない。それはまさにトップダウンとも言えるようなこの決定に現れているではないか。それに今まで色んな相手と仕事をして来た。その中には少し変わった担当者もいた。
ここは会社の一員として、分別のある行動を取らなくてはいけない場面なのかもしれない。
つくしは自分を戒めると唇を噛んだ。
「紺野君。わたしは道明寺支社長と少しお話をしてから社に戻るから、悪いけど先に帰ってくれる?それから契約がうちに決まったってことは、まだ言わないで欲しいの」
「どうしてですか?」
「まだ口約束だけで、正式な契約を結んだわけじゃないでしょ?だからチームのみんなには黙っててくれる?」
紺野はわかりましたと頷き、まるで睨み合っているかのような二人を心配そうに見たが、では先に社に戻りますと一礼をし、会議室を出て行った。
普通の状況なら絶対にこんな誘いに乗るべきではないと言うことは、わかっていた。
勿論今のこの状況が普通ではないということもわかっていた。
紺野がいなくなった部屋に感じられるのは、何ともいえない奇妙な空気だ。
二人は腕を伸ばせば届く距離にいる。その距離はあってないような距離だ。実際先ほどまで腕を掴まれていたのだから、また何かされるのではないかという思いが頭の中を過っていた。
そんな中、先に口を開いたのは道明寺司だ。
「おまえは随分と口が達者なようだが、仕事にも自信があるんだろうな?」
「あたり前です。口だけで仕事は出来ませんから。それにどなたかと違って外見で仕事ができないことも知っています」
男の黒い眉がぴくりと動いた。
今の言葉が道明寺司の神経にさわったことは直感でわかった。
つくしは一瞬、しまったと思った。どうしてこの男に対してこんな口の利き方をしてしまったのか自分でもわからなかったが、何故か男の外見を揶揄するようなことを言ってしまった。まるで外見や生まれ持ったステータスがこの男の立場を高めているような言い方をしてしまっていた。
目の前の男は、自分の外見を気にしていないだろうが、まるでそのことが生きていく上で特別なことであるかのように言われることを嫌うはずだ。それは生まれ持った容姿というだけで、仕事にはなんの関係もないはずだ。それなのにつくしは外見で判断するようなことを口にしてしまったと後悔した。それにこの男は仕事が出来る男ということは知っているはずなのに、何故こんなことを口にしてしまったのか。
「おまえ、随分と自分に自信がある口の利き方だな?」
司の口元がからかうように歪んだ。
「それに随分と辛辣なことを言ってくれたじゃねぇか?仕事は外見でするモンじゃねぇみてぇなことも言ったが、それは俺に向かってのあてつけか?」
やはりそう取られたかとつくしは思うと、心の中で詫びた。
「いいえ。そんなつもりはありません。わたしはあくまでも女性が仕事をしていく上で、そのことを全面に押し出すようなことはしないと言ったまでです。それに口よりも仕事の方には自信がありますから」
つくしの喉からは乾いた声が出た。それは緊張からだと気づいていた。この男を前に酷く緊張しているのがわかる。それに賢い女なら、もっとましな言い方が出来るはずだ。だがつくしの口は生意気な言葉を吐いてしまった。
司は意味ありげな笑みを浮かべた。
「そうか。博創堂さんは俺と仕事をすることに相当な自信があるようだ。わかった。それならあの広告の担当は俺だ。これから俺が全ての指揮をとる」
司は牧野つくしが強がりを言っていると分かっていた。
自分を強く見せる、自分を大きく見せようとするところは、まさに小さな犬が周りを威嚇しているとしか言えない。相変わらず踵の高い靴を履いているのも、そのせいだろう。
それにこの女の仕事は女が働きやすいという仕事ではないことも知っていた。そのせいで自分を強く見せる必要があるということは理解ができた。
俺に向かって外見がどうのと言ったのも、本当は言うつもりなどなかったと分かっていた。
言葉を吐いたすぐ後、悔やむ様子が仕草に見て取れた。牧野つくしは自分を戒めるときは唇を噛む癖がある。
それに司はそんなことは気にしていなかった。むしろ牧野つくしが自分の外見に興味があるとわかって、逆にそれを利用してやろうかと考えていた。
互いに立つ位置が近い場所でのこのやり取りに、何か感じ合うものがあるのは、わかっていた。男を意識しないようにと自分を繕う姿がおかしい程に感じられる。
それは、まさに男に慣れていない証拠だ。
司は敢えて礼儀正しさを装って右手を差し出した。
「お互いに密接なやり取りが必要になると思いますがよろしくお願いしますよ。牧野主任」
黒い瞳に浮かんだ表情はつくしを落ち着かない気持ちにさせていた。
つくしは差し出された右手の意味がわからない女ではない。ビジネス上で交わされる握手は契約成立を意味していた。ならばその手を握ればこの契約は結ばれたことになるはずだ。
司は女が手を差しだす様子を窺っていた。
迷う必要などないはずだ。何しろ大きな契約を結ぶことになるのだから。
だが女から渋々差し出されたような手。
司がその手を握ったとき、薄っすらと汗が滲んでいたのが感じられた。
それはまさに緊張しているという証拠だ。
彼はどうして自分がここまでこの女に興味を持つのか知りたいと思っていた。
もっとその表情が変わるところが見てみたい。そして噛んでしまって口紅が取れてしまった唇に触れてみたい。
司は差し出された手をしっかりと握っていた。

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コロコロと変わる豊な表情。そして言葉の中に感じられる刺激的な対立が楽しかった。
こうして口論出来ることが、そして生まれてはじめて女から拒否されたことが新鮮だと感じていた。そのことが西田の言ったように普段の司らしくない行動を取ることと関係があるとするならば、恐らくそうだろう。
牧野つくしと自分とのエネルギーの向かう先が違うとしても、女の瞳の中に溢れる生気が感じられる。それは今まで彼の周りにいた女には感じられなかったことだ。自分の脚で確実に大地に踏ん張っている感じのするその態度。それに妙に反抗的なその態度は、顧客第一主義を掲げる代理店の考えには反するはずだ。だがそのことにも猛然と立ち向かうような女。
そして司に向かって堂々と意見する女。
あのときは自分の脚で立つどころではなかったとしても、今のこの女が自分の脚で立ち、立ち向かってくる姿はなんとも言えず面白い。
こうして話してみれば、その生意気さがなんとも心地いい。
何故だかわからないが、妙に心が騒ぐ。
女に興味を持つということがこんなにも楽しいと思えるのは相手が牧野つくしだからか?
そんな女はやはり小型犬のようだ。犬の種類はわからないが、ちょこまかと動く犬としか言いようがなかった。
普通の小型犬なら大型犬にひと吠えされれば、飼い主の後ろへ隠れそうなものの、このちび犬は眉間に皺を寄せて立ち向かって来る。噛みつけば逆に噛みつかれるなんてことは頭の中にないのか、それとも逆に大型犬に噛みついてやろうとしているのか。
どちらにしても、その生意気な態度が男の征服欲を誘っているのは確かだ。今まで女に対してさしたる興味のなかった男は、牧野つくしの態度によって眠っていた男としての本能が呼び覚まされていた。
「どうしてわたしが、あなたと食事に行かなくてはいけないんですか?」
これからクライアントになろうかという相手に対してその態度かよ、と言いたくなるほど強気な女。司は意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうしてっておまえはうちの担当だろ?そうとなったら早いこと話を詰めておかなきゃなんねぇだろ?」
「だから、どうしてこれからなんですか?今これから話をすることなんてないはずです。それにこの件のご担当者様は道明寺支社長ではありませんよね?」
支社長自らがこの広告の指揮をとるとはとても思えなかったが、返された言葉は曖昧だった。
「いまのところはな」
広告の完成までは担当者と緊密な連絡を取ることは確かなだけに、その言葉の意味を考えると不安が過った。
まさか、担当が変わる?
それに道明寺司がこの広告に関すること以上のことを言っているような気がするのは気のせいなのか?いや。そうではないはずだ。現に関係を深めるなんて言葉まで出たのだから個人的な何かを求めているということは明らかだ。それに今までの経験から言っても、クライアントの中には自分の立場を利用してよからぬこと考える男がいたこともあった。
あのとき、医務室まで運んでくれたこの男に対してつくしが持っていた感情は、親切でいい人だという思い。だが、ここまで来るとこの男は自分の立場を利用して女性に対しての天賦の才を使おうとしているのではないかという思いが強くなっていた。
天賦の才。
この男の場合それは女性に対して与える危険な魅力。
つくしもそれくらいはわかっていた。この男には他の誰にもない危険な香りがする。
その腕に抱き上げられたときに、そのことは感じていたのだから、どこがどう危険かと言われても困るが、とにかく危険な男だ。
「あ、あの。主任・・僕のことは構いませんから、どうぞ道明寺支社長と食事に行って下さい。それに、クライアント様の仰ることは聞いた方がいいと思います」
紺野の声につくしはそれまでの思いを中断した。
そうよ。今ここでこんな言い合いをしている場合じゃない。
それにまだ正式な契約もしていないのに、こんな口の利き方をしていいはずはない。
相手は道明寺司だ。ビジネスに於いては合理主義者だと聞いている。無駄なことは一切省くという男だ。
つくしは考え方を改めた方がいいのかもしれない。
もしかすると、単に時間を無駄にすることが許せないということなのかもしれない。だから食事に行こうと誘われたことに深い意味はないのかもしれない。本当に仕事の話をしたいのかもしれない。それはまさにトップダウンとも言えるようなこの決定に現れているではないか。それに今まで色んな相手と仕事をして来た。その中には少し変わった担当者もいた。
ここは会社の一員として、分別のある行動を取らなくてはいけない場面なのかもしれない。
つくしは自分を戒めると唇を噛んだ。
「紺野君。わたしは道明寺支社長と少しお話をしてから社に戻るから、悪いけど先に帰ってくれる?それから契約がうちに決まったってことは、まだ言わないで欲しいの」
「どうしてですか?」
「まだ口約束だけで、正式な契約を結んだわけじゃないでしょ?だからチームのみんなには黙っててくれる?」
紺野はわかりましたと頷き、まるで睨み合っているかのような二人を心配そうに見たが、では先に社に戻りますと一礼をし、会議室を出て行った。
普通の状況なら絶対にこんな誘いに乗るべきではないと言うことは、わかっていた。
勿論今のこの状況が普通ではないということもわかっていた。
紺野がいなくなった部屋に感じられるのは、何ともいえない奇妙な空気だ。
二人は腕を伸ばせば届く距離にいる。その距離はあってないような距離だ。実際先ほどまで腕を掴まれていたのだから、また何かされるのではないかという思いが頭の中を過っていた。
そんな中、先に口を開いたのは道明寺司だ。
「おまえは随分と口が達者なようだが、仕事にも自信があるんだろうな?」
「あたり前です。口だけで仕事は出来ませんから。それにどなたかと違って外見で仕事ができないことも知っています」
男の黒い眉がぴくりと動いた。
今の言葉が道明寺司の神経にさわったことは直感でわかった。
つくしは一瞬、しまったと思った。どうしてこの男に対してこんな口の利き方をしてしまったのか自分でもわからなかったが、何故か男の外見を揶揄するようなことを言ってしまった。まるで外見や生まれ持ったステータスがこの男の立場を高めているような言い方をしてしまっていた。
目の前の男は、自分の外見を気にしていないだろうが、まるでそのことが生きていく上で特別なことであるかのように言われることを嫌うはずだ。それは生まれ持った容姿というだけで、仕事にはなんの関係もないはずだ。それなのにつくしは外見で判断するようなことを口にしてしまったと後悔した。それにこの男は仕事が出来る男ということは知っているはずなのに、何故こんなことを口にしてしまったのか。
「おまえ、随分と自分に自信がある口の利き方だな?」
司の口元がからかうように歪んだ。
「それに随分と辛辣なことを言ってくれたじゃねぇか?仕事は外見でするモンじゃねぇみてぇなことも言ったが、それは俺に向かってのあてつけか?」
やはりそう取られたかとつくしは思うと、心の中で詫びた。
「いいえ。そんなつもりはありません。わたしはあくまでも女性が仕事をしていく上で、そのことを全面に押し出すようなことはしないと言ったまでです。それに口よりも仕事の方には自信がありますから」
つくしの喉からは乾いた声が出た。それは緊張からだと気づいていた。この男を前に酷く緊張しているのがわかる。それに賢い女なら、もっとましな言い方が出来るはずだ。だがつくしの口は生意気な言葉を吐いてしまった。
司は意味ありげな笑みを浮かべた。
「そうか。博創堂さんは俺と仕事をすることに相当な自信があるようだ。わかった。それならあの広告の担当は俺だ。これから俺が全ての指揮をとる」
司は牧野つくしが強がりを言っていると分かっていた。
自分を強く見せる、自分を大きく見せようとするところは、まさに小さな犬が周りを威嚇しているとしか言えない。相変わらず踵の高い靴を履いているのも、そのせいだろう。
それにこの女の仕事は女が働きやすいという仕事ではないことも知っていた。そのせいで自分を強く見せる必要があるということは理解ができた。
俺に向かって外見がどうのと言ったのも、本当は言うつもりなどなかったと分かっていた。
言葉を吐いたすぐ後、悔やむ様子が仕草に見て取れた。牧野つくしは自分を戒めるときは唇を噛む癖がある。
それに司はそんなことは気にしていなかった。むしろ牧野つくしが自分の外見に興味があるとわかって、逆にそれを利用してやろうかと考えていた。
互いに立つ位置が近い場所でのこのやり取りに、何か感じ合うものがあるのは、わかっていた。男を意識しないようにと自分を繕う姿がおかしい程に感じられる。
それは、まさに男に慣れていない証拠だ。
司は敢えて礼儀正しさを装って右手を差し出した。
「お互いに密接なやり取りが必要になると思いますがよろしくお願いしますよ。牧野主任」
黒い瞳に浮かんだ表情はつくしを落ち着かない気持ちにさせていた。
つくしは差し出された右手の意味がわからない女ではない。ビジネス上で交わされる握手は契約成立を意味していた。ならばその手を握ればこの契約は結ばれたことになるはずだ。
司は女が手を差しだす様子を窺っていた。
迷う必要などないはずだ。何しろ大きな契約を結ぶことになるのだから。
だが女から渋々差し出されたような手。
司がその手を握ったとき、薄っすらと汗が滲んでいたのが感じられた。
それはまさに緊張しているという証拠だ。
彼はどうして自分がここまでこの女に興味を持つのか知りたいと思っていた。
もっとその表情が変わるところが見てみたい。そして噛んでしまって口紅が取れてしまった唇に触れてみたい。
司は差し出された手をしっかりと握っていた。

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つくしはまじまじと道明寺司の顔を見つめていた。
対して目の前の男は尊大な態度でつくしを見ていた。
いきなり目の前に現れた男は、つくしの会社に広告を任せると言い切った。
それもプレゼンが終わって間もないというのに、この決断の早さはどこから来るのか?
まさに1秒の遅れも許さないとばかりの素早い決断。カリスマ的経営者がいる企業はそういった手法で大きくなるものだ。だがこの会社がトップダウン経営とは思えないだけに、この案件に限ってなのだろうか?
「あの、道明寺支社長、ちょっとお話がよくわからないのですが?」
「ああ。ワインの広告は博創堂さんに任せることになった」
「で、でもプレゼンはさっき終わったばかりですし、それに一度だけですよ?本来なら何度かあるはずですよね?それって・・」
「おまえの会社はこの仕事が欲しくないのか?」
欲しいに決まてる。そのためにつくしはここにいるのだから。
この1ヶ月寝る間も惜しんで仕事をした。それはつくしだけではない。チームを組んだ仲間全員だ。会議室はいつも緊張感に包まれピリピリとする空気が流れていた。アートディレクターもコピーライターも髪を搔きむしりながら頭を捻っていた。そんな中でつくしの一番の仕事はチーム内を纏めること。そして今日のプレゼンが一番大きな仕事だったのだから、その成果が実って欲しいと願うのがあたり前だ。
「も、勿論欲しいです。わたしはそのために今日ここに来たんですから!」
「なら、いいじゃねぇか」
「で、でも・・」
「なんだよ?」
相変わらず強烈な視線を向けてくる男につくしはたじろいだ。
あの日、医務室まで運んでもらったというのに、まともに顔を見ることも出来ず、お礼さえ言えない状態だった。だからプレゼンの傍聴者の中に道明寺支社長の名前を見つけたとき、借りていたハンカチを返すことが出来る機会だと持参していた。
それなのに今、目の前のこの男性の態度をどう解釈すればいいのかわからなかった。
本来ならきちんと礼を述べ、大人の対応で済ませればいいはずだ。だがそれが出来そうにない雰囲気がして来た。
それにこの男性とまともに対峙したのは今日がはじめてだ。勿論、まともに口を利くのも今日がはじめてだ。あの日は二人とも殆どと言っていいほど話をしていない。と、言うよりも口が利けなかったのが実情だ。何しろつくしは、あの日はじめて男性の腕に抱きかかえられるという状況だった。それもモデル並にかっこいい男性の腕に抱かれていたのだから、動悸がしていたし、まともに相手の顔を見る事もできなかったのだから。
そんな男はこうして近くで見ると圧倒的な存在感がある。いや、近くで見なくても、会議室の後方に座っていた男のオーラは感じることが出来た。それは雑誌からでも感じられたくらいなのだから、目の前にいればそれこそ威圧的ともいえる存在感があった。
この男が会議室に姿を現したとき、室内に感じたあの空気感。ピンと張りつめ、その部屋にいる全ての人間の背筋が伸びるような緊張感。まるでこれから禅の修行でも行うのではないかといった静寂。ペンひとつでも落とそうものなら、音を出した人間はきつく恫喝されそうな雰囲気があった。
それにこの男なら暗闇の中にいても、その存在感を消すことは出来ないはずだ。実際室内の照明が落とされていたときでも、その存在が感じられた。まるで暗闇から獲物を狙う黒豹のようだと思ったほどだ。
まさかとは思ったが、この誘いは権力を持った者から立場を脅かされることになるのではないか。ふと、そんなことが頭を過った。
女性営業職にはよくある話しだが、契約を結んでやるから相手をしろ。
目の前の男がそんなレベル男だとは思いたくはないが、男は所詮男だ。女とは違う。
つくしだって今まで嫌な思いをしたことがあった。だからそれを疑うなという方が無理だ。
いくら相手がビジネス界のカリスマだとか有能な男だと言っても、契約のためにそんなことをしたくはないし、するつもりもない。
紺野の言葉を借りれば、いくら世界で最も結婚したい独身男性の上位に選ばれたからといって、それは全ての女性が思うことではないはずだ。
それにそんな記事が書かれるくらいの男だ。俺の誘いを断る女なんていないと思っているのかもしれない。だとすれば、道明寺司は自身過剰もいいところだ。
しかし、本当にこの男の誘いに乗らなければ契約しないとでも言うつもりなのだろうか。
もしそうだとしたら、最低な男だ。
こんなことなら滋さんにもっと話を聞いておくべきだった!仕事に関係なければ、それに滋さんの知り合いでなければ、こんな男なんて冷やかな態度で軽くいなしてやるのに!だがそれは出来ない。何しろ大きな契約がかかっている。
この仕事を手放すわけにはいかない!
「あの、道明寺支社長。そのお誘いは契約に関してと考えてよろしいのでしょうか?それならここにいるわたしの部下の紺野も同席させて頂きたいのですが」
従順な態度を見せながらも言いたいことは言った。
「いや。俺は君と話しがしたい。″博創堂の牧野さん″」
ことさら会社名を強調する男の態度につくしは神経質になっていた。会社の名前を強調して立場をわからせようとしているのか。それならばと、つくしは隣に立つ若い男性を盾にすることにした。
「どうして紺野が来たらダメなんですか?仕事ならここにいる紺野も同席させて下さい」
つくしは切り返すと紺野を見た。
「あ、あの、しゅ、主任?」
自分に話しを振られた紺野は、つくしと司の間に交わされていた視線が自分に向けられたことに動揺していた。
司は自分の容貌が便利なことがあることも知っている。
どの年代の女性にも言えることだが、彼がその黒い瞳を向けるだけで上の空状態になってしまうのを見て来た。だから秘書は男に限ると決めていたし、自分の周りにも男を置く方が多かった。だが今のこの状態で男の紺野が必要かと言えば、まったくない。
そんな司は同性からは羨望の眼差しを向けられているということも理解していた。
司の視線はつくしから隣に立つ若い男性に向けられた。
「君、紺野君と言ったね?悪いが牧野主任と話しがある。君は来ないでくれ」
司の命令口調に素直に頷く紺野。
「ちょっと!か、勝手に決めないで下さい!紺野君!なに勝手に頷いてるのよ!」
「だ、だって道明寺支社長が・・」
「あなたあたしの部下でしょう?」
「は、はい。勿論そうですが、クライアントの命令は絶対ですよね?主任は僕が入社したばかりのとき、そう言いましたよね?」
つくしは言葉に詰まっていた。
確かに入社したばかりの紺野にそう言ったことは確かだ。だからと言って今この男の前でそんなことを口にしなくてもよさそうなものを!だがその思いを遮るかのように男の口から放たれた言葉につくしは耳を疑った。
「おい、脱げ」
脱げの言葉と共にいきなり腕を掴まれたつくしは驚くと同時に後ろに一歩下がろうとした。 だが腕を掴んだ男の手はそのままで放そうとはしなかった。
「な、なんですか!いきなり!は、放してよ!」
放すどころか、逆に引き寄せようとしていた。
この男、頭がおかしいんじゃない!いきなり脱げって何考えてるのよ!
やっぱりそういうことなの?体と引き換えに契約をやるとか、そういうことなの?
出来る男だとか、カリスマだなんて言ってるけど、実はお飾り支社長なんじゃないの?
いったい何をされるのかという思いばかりが頭を過る。
だがここは会議室だ。それに紺野もいる。何か出来るはずがない!
でも紺野は既にこの男の下僕に成り下がっている!
なにが僕道明寺さんに憧れてますよ!こんな男に憧れてる場合じゃないでしょう?
それにしても道明寺という男には道徳観念というものが無いの?
これほど一発殴りたいという気持ちになった相手は初めてだ。でももし殴ったら今回の仕事は無くなるだろう。
だが仕事よりも自分の身の安全の方が大切だ。
「な、なにかしたら大声を上げるわよ!」
既に十分大きな声だ。
「うるせぇ。耳もとで叫ぶな!」
男の声も大きかったが、眉をひそめ、つくしを見る男は視線を下に落とした。
すると軽く咳払いをした男は、普通の声を出そうとしたのかもしれないが、かなり険悪な声で言った。
「そんなんじゃねぇよ。おまえ、なんか勘違いしてねぇか?おまえのその靴だ。なんでまたそんな踵の高い靴を履いてる?」
「えっ?」
「そんな靴履いて、またうちのビルで転んで労災で訴えるなんてことになったら困るからな」
まるで迷惑だと言わんばかりの態度で見下ろされているつくしの靴の踵は確かに高かった。
途端、それまで何かされるのではないかと恐怖に引きつっていたつくしの顔は、ムッとした表情に変わると共に冷静さを取り戻していた。
「あのね、自分で転んでおいて訴えるなんてことはしませんから」
「そうか。そうだったよな。あんときもおまえが下見て電話なんかしてるから自分で俺にぶつかっといて、勝手にひっくり返ったんだったよな」
「そ、そうよ。だから認めてるじゃない。あたしが自分で転んだってね!」
「随分と威勢がいい女だな。おまえ自分の立場を忘れてるんじゃねぇのか?」
「な、なにがよ?」
「その態度だよ。それが倒れて歩けないおまえを抱きあげて医務室まで運んだ人間に対しての態度か?」
つくしは言葉に詰まっていた。確かにこの男の言う通りだ。転んで足を捻ったつくしは立ち上がることが出来なかった。でもそんな言い方しなくてもいいでしょう?
つくしはあの時のことには感謝していた。わざわざ医務室まで運んでくれて、自ら手当までしてくれた男だ。だから感謝の言葉を伝えたと言うのに、男のこの態度。
それにしてもつくしは、さっきから言葉に詰まるばかりしていた。なんだかわけのわからないうちに、男のペースに乗せられているような気がしていた。
「それも大人しく俺の腕に抱えらえて気持ちよさそうに運ばれてたじゃねぇかよ?」
「ち、ちがうわよ!あれは、突然のことで言葉が出なかっただけで、気持ちよさそうとかそんなこと思ってません!」
「それは結構。あれは俺の思い違いか?」
その声はどこか笑いが含まれているように聞こえるのはつくしの気のせいなのか。
だがどうして自分が、からかわれなければならないのか、わからなかった。
それに、どうしてこんな言い合いになっているのかと自問していた。
広告を任せてくれると言った話しからどこをどうすれば、こんな話に変わってしまうのか。
そもそもどうしてあたしがこの男と食事に行かなきゃいけないのか、それさえも疑問だ。
ちゃんとお礼は言ったはずなのに、どうしてこうも絡むようなことを言ってくるのか理由がわからなかった。
それにしても滋さんから紹介されるのがあたしだってことに、この男は気づいていないのだろうか?いったい滋さんはこの男になんて話しをしているのか。滋は海外出張中でなかなか連絡を取ることが出来ないのだから仕方がない。
それに二人とも大人で、学生時代のように頻繁に連絡を取り合っているわけではなかった。
だから、この男に紹介されるのはまだ先の話だろう。
つくしはため息をつくと、すぐ傍で言い争う二人を見ていた紺野に目が向いた。すると紺野は何か言いたげにつくしを見た。その態度から紺野が何か誤解をしているという雰囲気がつくしには感じられた。
「こ、紺野君?これは誤解だからね。この人の腕に・・抱えられていたなんてことは・・」
なかったと言いたかったが言えなかった。
「主任・・僕知りませんでした。お二人がそういった関係だったなんて・・」
「ちょっと!!なによそのそういった関係って。それに勘違いしないでよ。あたしは、この人とどんな関係もないわよ!」
つくしは言うと司に同意を求めるように視線を向けた。
この人があたしのことを、そんな対象に思っているわけないじゃない。
何故かわからないけど、この人はあたしのことを嫌っているような気がする。
あたしを見る目が厳しくて、まるでバカな女を見ているような目だ。
「そうだ。俺たちはなんの関係もない」
ほらみなさいよ?
あたしとこの人がそんな関係になるはずないじゃない。
「だがこれからその関係を深めていくつもりだ」
つくしにとって意外な言葉が返ってきた。
そしてそのとき、傍にいた紺野が思わず「う、嘘っ・・」と呟いていた。

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まさに1秒の遅れも許さないとばかりの素早い決断。カリスマ的経営者がいる企業はそういった手法で大きくなるものだ。だがこの会社がトップダウン経営とは思えないだけに、この案件に限ってなのだろうか?
「あの、道明寺支社長、ちょっとお話がよくわからないのですが?」
「ああ。ワインの広告は博創堂さんに任せることになった」
「で、でもプレゼンはさっき終わったばかりですし、それに一度だけですよ?本来なら何度かあるはずですよね?それって・・」
「おまえの会社はこの仕事が欲しくないのか?」
欲しいに決まてる。そのためにつくしはここにいるのだから。
この1ヶ月寝る間も惜しんで仕事をした。それはつくしだけではない。チームを組んだ仲間全員だ。会議室はいつも緊張感に包まれピリピリとする空気が流れていた。アートディレクターもコピーライターも髪を搔きむしりながら頭を捻っていた。そんな中でつくしの一番の仕事はチーム内を纏めること。そして今日のプレゼンが一番大きな仕事だったのだから、その成果が実って欲しいと願うのがあたり前だ。
「も、勿論欲しいです。わたしはそのために今日ここに来たんですから!」
「なら、いいじゃねぇか」
「で、でも・・」
「なんだよ?」
相変わらず強烈な視線を向けてくる男につくしはたじろいだ。
あの日、医務室まで運んでもらったというのに、まともに顔を見ることも出来ず、お礼さえ言えない状態だった。だからプレゼンの傍聴者の中に道明寺支社長の名前を見つけたとき、借りていたハンカチを返すことが出来る機会だと持参していた。
それなのに今、目の前のこの男性の態度をどう解釈すればいいのかわからなかった。
本来ならきちんと礼を述べ、大人の対応で済ませればいいはずだ。だがそれが出来そうにない雰囲気がして来た。
それにこの男性とまともに対峙したのは今日がはじめてだ。勿論、まともに口を利くのも今日がはじめてだ。あの日は二人とも殆どと言っていいほど話をしていない。と、言うよりも口が利けなかったのが実情だ。何しろつくしは、あの日はじめて男性の腕に抱きかかえられるという状況だった。それもモデル並にかっこいい男性の腕に抱かれていたのだから、動悸がしていたし、まともに相手の顔を見る事もできなかったのだから。
そんな男はこうして近くで見ると圧倒的な存在感がある。いや、近くで見なくても、会議室の後方に座っていた男のオーラは感じることが出来た。それは雑誌からでも感じられたくらいなのだから、目の前にいればそれこそ威圧的ともいえる存在感があった。
この男が会議室に姿を現したとき、室内に感じたあの空気感。ピンと張りつめ、その部屋にいる全ての人間の背筋が伸びるような緊張感。まるでこれから禅の修行でも行うのではないかといった静寂。ペンひとつでも落とそうものなら、音を出した人間はきつく恫喝されそうな雰囲気があった。
それにこの男なら暗闇の中にいても、その存在感を消すことは出来ないはずだ。実際室内の照明が落とされていたときでも、その存在が感じられた。まるで暗闇から獲物を狙う黒豹のようだと思ったほどだ。
まさかとは思ったが、この誘いは権力を持った者から立場を脅かされることになるのではないか。ふと、そんなことが頭を過った。
女性営業職にはよくある話しだが、契約を結んでやるから相手をしろ。
目の前の男がそんなレベル男だとは思いたくはないが、男は所詮男だ。女とは違う。
つくしだって今まで嫌な思いをしたことがあった。だからそれを疑うなという方が無理だ。
いくら相手がビジネス界のカリスマだとか有能な男だと言っても、契約のためにそんなことをしたくはないし、するつもりもない。
紺野の言葉を借りれば、いくら世界で最も結婚したい独身男性の上位に選ばれたからといって、それは全ての女性が思うことではないはずだ。
それにそんな記事が書かれるくらいの男だ。俺の誘いを断る女なんていないと思っているのかもしれない。だとすれば、道明寺司は自身過剰もいいところだ。
しかし、本当にこの男の誘いに乗らなければ契約しないとでも言うつもりなのだろうか。
もしそうだとしたら、最低な男だ。
こんなことなら滋さんにもっと話を聞いておくべきだった!仕事に関係なければ、それに滋さんの知り合いでなければ、こんな男なんて冷やかな態度で軽くいなしてやるのに!だがそれは出来ない。何しろ大きな契約がかかっている。
この仕事を手放すわけにはいかない!
「あの、道明寺支社長。そのお誘いは契約に関してと考えてよろしいのでしょうか?それならここにいるわたしの部下の紺野も同席させて頂きたいのですが」
従順な態度を見せながらも言いたいことは言った。
「いや。俺は君と話しがしたい。″博創堂の牧野さん″」
ことさら会社名を強調する男の態度につくしは神経質になっていた。会社の名前を強調して立場をわからせようとしているのか。それならばと、つくしは隣に立つ若い男性を盾にすることにした。
「どうして紺野が来たらダメなんですか?仕事ならここにいる紺野も同席させて下さい」
つくしは切り返すと紺野を見た。
「あ、あの、しゅ、主任?」
自分に話しを振られた紺野は、つくしと司の間に交わされていた視線が自分に向けられたことに動揺していた。
司は自分の容貌が便利なことがあることも知っている。
どの年代の女性にも言えることだが、彼がその黒い瞳を向けるだけで上の空状態になってしまうのを見て来た。だから秘書は男に限ると決めていたし、自分の周りにも男を置く方が多かった。だが今のこの状態で男の紺野が必要かと言えば、まったくない。
そんな司は同性からは羨望の眼差しを向けられているということも理解していた。
司の視線はつくしから隣に立つ若い男性に向けられた。
「君、紺野君と言ったね?悪いが牧野主任と話しがある。君は来ないでくれ」
司の命令口調に素直に頷く紺野。
「ちょっと!か、勝手に決めないで下さい!紺野君!なに勝手に頷いてるのよ!」
「だ、だって道明寺支社長が・・」
「あなたあたしの部下でしょう?」
「は、はい。勿論そうですが、クライアントの命令は絶対ですよね?主任は僕が入社したばかりのとき、そう言いましたよね?」
つくしは言葉に詰まっていた。
確かに入社したばかりの紺野にそう言ったことは確かだ。だからと言って今この男の前でそんなことを口にしなくてもよさそうなものを!だがその思いを遮るかのように男の口から放たれた言葉につくしは耳を疑った。
「おい、脱げ」
脱げの言葉と共にいきなり腕を掴まれたつくしは驚くと同時に後ろに一歩下がろうとした。 だが腕を掴んだ男の手はそのままで放そうとはしなかった。
「な、なんですか!いきなり!は、放してよ!」
放すどころか、逆に引き寄せようとしていた。
この男、頭がおかしいんじゃない!いきなり脱げって何考えてるのよ!
やっぱりそういうことなの?体と引き換えに契約をやるとか、そういうことなの?
出来る男だとか、カリスマだなんて言ってるけど、実はお飾り支社長なんじゃないの?
いったい何をされるのかという思いばかりが頭を過る。
だがここは会議室だ。それに紺野もいる。何か出来るはずがない!
でも紺野は既にこの男の下僕に成り下がっている!
なにが僕道明寺さんに憧れてますよ!こんな男に憧れてる場合じゃないでしょう?
それにしても道明寺という男には道徳観念というものが無いの?
これほど一発殴りたいという気持ちになった相手は初めてだ。でももし殴ったら今回の仕事は無くなるだろう。
だが仕事よりも自分の身の安全の方が大切だ。
「な、なにかしたら大声を上げるわよ!」
既に十分大きな声だ。
「うるせぇ。耳もとで叫ぶな!」
男の声も大きかったが、眉をひそめ、つくしを見る男は視線を下に落とした。
すると軽く咳払いをした男は、普通の声を出そうとしたのかもしれないが、かなり険悪な声で言った。
「そんなんじゃねぇよ。おまえ、なんか勘違いしてねぇか?おまえのその靴だ。なんでまたそんな踵の高い靴を履いてる?」
「えっ?」
「そんな靴履いて、またうちのビルで転んで労災で訴えるなんてことになったら困るからな」
まるで迷惑だと言わんばかりの態度で見下ろされているつくしの靴の踵は確かに高かった。
途端、それまで何かされるのではないかと恐怖に引きつっていたつくしの顔は、ムッとした表情に変わると共に冷静さを取り戻していた。
「あのね、自分で転んでおいて訴えるなんてことはしませんから」
「そうか。そうだったよな。あんときもおまえが下見て電話なんかしてるから自分で俺にぶつかっといて、勝手にひっくり返ったんだったよな」
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「随分と威勢がいい女だな。おまえ自分の立場を忘れてるんじゃねぇのか?」
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つくしは言葉に詰まっていた。確かにこの男の言う通りだ。転んで足を捻ったつくしは立ち上がることが出来なかった。でもそんな言い方しなくてもいいでしょう?
つくしはあの時のことには感謝していた。わざわざ医務室まで運んでくれて、自ら手当までしてくれた男だ。だから感謝の言葉を伝えたと言うのに、男のこの態度。
それにしてもつくしは、さっきから言葉に詰まるばかりしていた。なんだかわけのわからないうちに、男のペースに乗せられているような気がしていた。
「それも大人しく俺の腕に抱えらえて気持ちよさそうに運ばれてたじゃねぇかよ?」
「ち、ちがうわよ!あれは、突然のことで言葉が出なかっただけで、気持ちよさそうとかそんなこと思ってません!」
「それは結構。あれは俺の思い違いか?」
その声はどこか笑いが含まれているように聞こえるのはつくしの気のせいなのか。
だがどうして自分が、からかわれなければならないのか、わからなかった。
それに、どうしてこんな言い合いになっているのかと自問していた。
広告を任せてくれると言った話しからどこをどうすれば、こんな話に変わってしまうのか。
そもそもどうしてあたしがこの男と食事に行かなきゃいけないのか、それさえも疑問だ。
ちゃんとお礼は言ったはずなのに、どうしてこうも絡むようなことを言ってくるのか理由がわからなかった。
それにしても滋さんから紹介されるのがあたしだってことに、この男は気づいていないのだろうか?いったい滋さんはこの男になんて話しをしているのか。滋は海外出張中でなかなか連絡を取ることが出来ないのだから仕方がない。
それに二人とも大人で、学生時代のように頻繁に連絡を取り合っているわけではなかった。
だから、この男に紹介されるのはまだ先の話だろう。
つくしはため息をつくと、すぐ傍で言い争う二人を見ていた紺野に目が向いた。すると紺野は何か言いたげにつくしを見た。その態度から紺野が何か誤解をしているという雰囲気がつくしには感じられた。
「こ、紺野君?これは誤解だからね。この人の腕に・・抱えられていたなんてことは・・」
なかったと言いたかったが言えなかった。
「主任・・僕知りませんでした。お二人がそういった関係だったなんて・・」
「ちょっと!!なによそのそういった関係って。それに勘違いしないでよ。あたしは、この人とどんな関係もないわよ!」
つくしは言うと司に同意を求めるように視線を向けた。
この人があたしのことを、そんな対象に思っているわけないじゃない。
何故かわからないけど、この人はあたしのことを嫌っているような気がする。
あたしを見る目が厳しくて、まるでバカな女を見ているような目だ。
「そうだ。俺たちはなんの関係もない」
ほらみなさいよ?
あたしとこの人がそんな関係になるはずないじゃない。
「だがこれからその関係を深めていくつもりだ」
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プロジェクターを使っての説明に落とされていた照明だったが、今はまた戻されていた。
司は牧野つくしを見ていた。
博創堂のプレゼンが始まってすでに20分が経過していた。
そんな中で女は落ち着いた声のトーンで話しをしていた。ぶつかって来た時は小型犬がキャンキャン吠える寸前だったが、さすがに今はあの時と顔つきが違う。顔を下げ資料を見ることなく、常に顔をこちらに向けるようにして話をする。そして話すスピードは恐らく普段よりゆっくりと話しているはずだ。そうしながらも説明の間に時々「間」を置いて傍聴者に問いかける姿勢を取る。相手に「うん」と頷く時間を与えることは、間の使い方を心得ているようだ。
牧野つくしはごく平均的な顔で、背は彼の肩にも届かないほど小さい。
それは彼に体当たりして来た時にわかった。
年は33歳だと西田から聞いていたが、他のこともすでに調べてあった。
仕事でもそうだが、相手の環境を知ることは大切だと言われている。
大学を卒業後、博創堂に入社して営業一筋。そして営業成績はいい。
つまりそれは努力家だと言うことだ。
3年前に世田谷に中古のマンションを購入。そのローンの支払いが月10万。
なんで西田はそんなことまで調べたんだ?
まあ年収が700万程と書いてあったからそれで充分払えるだろうが、その生活態度は堅実だということだ。趣味は仕事。そんな女に恋人はいない。そして仕事が忙しいほど燃える女と言われている。それはまるで自分と同じだなと、司は思った。
司は牧野つくしが傍聴者ひとりひとりに視線を合わせ、話をする様を見ていた。
プレゼンの手段では必ず用いられるこの方法。
聞き手は自分に向かって話をしていると感じ、話し手は熱意を伝えることが出来き、自分の考えをより直接的に伝えることが出来るはずだ。
当然だが自分とのアイコンタクトもあるはずだ。司は今回のプレゼンを傍聴するにあたって、少し離れた後ろの席を用意させた。そうすれば、最後に視線を合わせることになるのは、自分だとわかっているからだ。あのとき医務室まで運んだ女は、決して司とは視線を合わせようとはしなかった。だから彼は自分と視線を合わせた時の女の反応が知りたかった。
司は正直自分の気持ちに戸惑っていた。
牧野つくしとぶつかってからの数分間。大きな瞳が自分を見つめて声をあげた瞬間、どういうわけか心臓が激しく鼓動した。
次の瞬間には足を怪我した女を抱え上げていたのだから、西田が驚くのも当然だろう。
司がこのプレゼンに出席することを決めた段階で、社内はちょっとした騒ぎがあった。
たかが新製品のワインの広告のプレゼンごときに、支社長自らが出ることに誰もが理由を知りたがった。だが返って来た答えは、現場の動きを知るためだ、と言われただけで本当のことはわからなかった。
社のグループの商品にかかるCMは多いが、今まで支社長自らプレゼンに参加した商品はなかったのだから、当然だが担当部長は慌てた。いったいどういう理由があるのか。
その理由は一体何なのか。だが結局理由は思いつかないまま、支社長の席が設けられることになった。
彼は牧野つくしの話に説得力があると感じていた。
手元の資料など見る事なく、牧野つくしをじっと見つめていた。
プレゼンで何が重要かと言えば、わりやすさだ。何を置いてもこれが第一だ。
極端な話、子供や年寄りまでもわかる内容が一番優秀だと言われている。
そして求められる企画は派手な企画ではなく、確実に売り上げが上がる企画だ。
販促予算は充分にある。CMの出来によって商品にイメージがつく。だからこそ第一印象は大切だ。それは人間にも言えることだ。
やがて牧野つくしがひとりひとりにアイコンタクトを取りながらの話は、司のこところまで来た。あの黒い大きな瞳は真剣だった。
自分を見ている牧野つくしの視線は真っ直ぐな視線。
それは揺るぎのない、自分の仕事に自信を持った人間の視線だ。資料を読むことなく、自分の言葉で説明することが出来る女は、確かに仕事が出来る女だ。
司は思わず口の端だけをあげてほほ笑んでしまいそうになっていた。
あの時もそうだったはずだ。
牧野つくしは自分が女であることを意識していなかった。女というのは、仕事でも私生活でも計算ずくで女であることを強調したがるが、あの時の牧野つくしはまったくそれが感じられなかった。司にはそれが新鮮に感じられた。今までいつも自分の周りに近寄って来る女は、女であることを武器にするような浅はかな女ばかりだったからだ。
それにあの時、床に転がった女は気づいてなかったかもしれないが、立ち上ろうと試みるまで、スカートは太腿までめくれ上がって下着が覗いていた。
それを言いもせず見ていた俺も俺で、頬が緩むのを堪えるため、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
司は今までこんな衝動に駆られたことはなかったが、自らのスケジュールを変えてまで牧野つくしに近づきたかったのが正直な気持ちだった。
やがて牧野の持ち時間終了が近づいたのか、質問はないかという声が聞えた。
「ある」
会議室後方から聞こえた低い声に他の傍聴者は息を呑んだ。
他の代理店に対しては一切無言を通していた男が、ここにきて初めて声を上げたのだから、この部屋にいる全ての人間が一体何が聞きたいのかと耳をそばだてた。
司の低い声に女も背筋がぴんと伸びたようだ。今まで沈黙していた男が一体何を聞きたいのかと緊張したのがわかった。
司は革張りの椅子に腰かけたままで口を開いた。
「博創堂さん。牧野さんでしたね。あなたはこのワインの販売を30代、40代の女性をターゲットにと仰いました。失礼ですが、それはあなたの年代ですよね?大変個人的な質問で申し訳ないんだが、あなたはワインがお好きですか?」
その質問はまさに個人的な質問だったが、そのことについて正直に答えるべきかどうか迷っていた。つくしはお酒に弱い。全く飲めないわけではないし、ワインも飲めないわけではないが、グラスに1杯で充分だった。そんな状態なのにワインが好きだと言えるのだろうか?だが、ここで嫌いだと言えば、これからこの商品を販売する広告を担当する営業としては、失格なのだろうか。
だからと言って無理矢理好きになる必要もないし、これから先、もし日本酒の広告を手掛けることになれば、日本酒を好きにならなければいけないのだろうか?
どちらでもないなんて答えたらどうなるの?
いったいどんな返事を求められているのかと、つくしは頭をフル回転させていた。
言葉が見つからないこともあるものだと思っていた。
それは質問してきたのが、道明寺司だからだろうか?
つくしも意識していないわけではなかった。あのとき、わざわざ医務室まで運んでくれた人で、このプレゼンが終わったらあの時のことに対して礼を述べるとともに、足に巻いてくれたハンカチを返さなければと持参していた。
だが、今は仕事中だ。個人的なことを考えている場合ではなかった。
もしかして、この答え如何によっては業者の選択に影響が出るのだろうか?
「あの。お酒の席は楽しむ場だと思います。ですので、その場が楽しめるならどんなお酒でも楽しく飲めると思います」
***
「主任!お疲れ様でした。良かったですよ!でも最後の質問はちょっと困りましたね。何しろ主任はお酒が苦手ですものね」
プレゼンを済ませたつくしと紺野は、まだ残っている人間とありきたりの挨拶を交わすと会議室を出ようとしていた。
「うん。まあね。こればっかりはどうしようもないのよね」
つくしは自分の返事が的を射てなかったと反省していた。ワインが好きかと聞かれたのに、とんちんかんな返事をしたような気がしていた。
「でもどうして道明寺支社長は牧野主任だけにあんな質問をしたんでしょうね?」
「さあ・・。まあ、他の代理店はみんな男性が担当だったでしょ?男の人は大体何でも飲めるでしょ?だから聞かなかったんじゃないの?それに女はあたしだけだったから聞いてみたかったんじゃないの?」
「そうなんですか?でも質問するなら平等にすれば・・しゅ、主任っ!」
紺野はつくしの後ろに目を向けていた。
「博創堂の牧野さん」
「は、はい!」
つくしは聞き覚えのある声に一瞬緊張したが、慌てて振り返った。
「足の怪我は?」
そこに現れたのは道明寺司だった。
「あ、はい。先日は大変ご迷惑をおかけいたしました。またわざわざ医務室までおつき合いを頂きありがとうございました。本当ならもっと早くお礼のご挨拶をしなければいけなかったんですが、その・・あっ!・・これ、お借りしていたハンカチです」
つくしは手にした鞄の中から袋に入れられたハンカチを慌てて取り出したが、いきなり現れた男にしどろもどろになっていた。
「ええつ!牧野主任!道明寺支社長からハンカチをお借りしてたんですか?いつそんなこと・・」
「ちょっと!紺野、黙って・・」
つくしは言うと道明寺司の顔にさりげなく視線を走らせるとゴクリと唾を呑んだ。
一体なんの用があって声をかけてきたのかと気になったが、それでも相手の顔を観察してしまうのは、営業の癖なのだろうか?
癖のある髪の毛と漆黒の瞳はまるで月のない夜のようだ。
女性の感覚を惑わす危険な香りがする男。
最初の印象よりも背が高く感じられるのは何故?
それは恐らくつくしが床に尻もちをついた姿勢で見上げたことに関係があるはずだ。
そこから医務室に運ばれてベッドの上に降ろされるまで、一度もこの男と立った姿勢で対峙していないからだ。
あのとき、この男の腕に抱え上げられ運ばれたとき、優雅で滑らかなと言ってもいいほどの脚の運び方で安心感があった。そして男は肩幅が広かった。抱きかかえられたとき、妙な安心感があったのもそのせいなのか。
「おい?」
「主任!牧野主任!道明寺支社長が呼んでますってば!」
つくしはつい、いつもの癖で想像力を働かせていた。
「えっ?あっ?大変申し訳ございません。これ、お借りしていたハンカチです。あの時は本当にありがとうございました」
頭を下げると両手で袋を差し出していた。
「おまえ妄想する癖があるのか?」
「はあ?」
下げた頭を上に戻した。
「まあいい。そんなことより食事につき合え」
「な、なんなんですか?いきなり?」
「だから食事だよ。食事」
「ど、どうしてわ、わたしが・・」
「おまえの業界はクライアントの呼び出しは絶対だろ?」
「クライアントもなにも、さっきプレゼンが終わったところなんですけど?」
いったいこの男は何を言っているんだかの視線を向けた。
「さっきのプレゼンで決定した。広告はおまえの会社に任せることにした」

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司は牧野つくしを見ていた。
博創堂のプレゼンが始まってすでに20分が経過していた。
そんな中で女は落ち着いた声のトーンで話しをしていた。ぶつかって来た時は小型犬がキャンキャン吠える寸前だったが、さすがに今はあの時と顔つきが違う。顔を下げ資料を見ることなく、常に顔をこちらに向けるようにして話をする。そして話すスピードは恐らく普段よりゆっくりと話しているはずだ。そうしながらも説明の間に時々「間」を置いて傍聴者に問いかける姿勢を取る。相手に「うん」と頷く時間を与えることは、間の使い方を心得ているようだ。
牧野つくしはごく平均的な顔で、背は彼の肩にも届かないほど小さい。
それは彼に体当たりして来た時にわかった。
年は33歳だと西田から聞いていたが、他のこともすでに調べてあった。
仕事でもそうだが、相手の環境を知ることは大切だと言われている。
大学を卒業後、博創堂に入社して営業一筋。そして営業成績はいい。
つまりそれは努力家だと言うことだ。
3年前に世田谷に中古のマンションを購入。そのローンの支払いが月10万。
なんで西田はそんなことまで調べたんだ?
まあ年収が700万程と書いてあったからそれで充分払えるだろうが、その生活態度は堅実だということだ。趣味は仕事。そんな女に恋人はいない。そして仕事が忙しいほど燃える女と言われている。それはまるで自分と同じだなと、司は思った。
司は牧野つくしが傍聴者ひとりひとりに視線を合わせ、話をする様を見ていた。
プレゼンの手段では必ず用いられるこの方法。
聞き手は自分に向かって話をしていると感じ、話し手は熱意を伝えることが出来き、自分の考えをより直接的に伝えることが出来るはずだ。
当然だが自分とのアイコンタクトもあるはずだ。司は今回のプレゼンを傍聴するにあたって、少し離れた後ろの席を用意させた。そうすれば、最後に視線を合わせることになるのは、自分だとわかっているからだ。あのとき医務室まで運んだ女は、決して司とは視線を合わせようとはしなかった。だから彼は自分と視線を合わせた時の女の反応が知りたかった。
司は正直自分の気持ちに戸惑っていた。
牧野つくしとぶつかってからの数分間。大きな瞳が自分を見つめて声をあげた瞬間、どういうわけか心臓が激しく鼓動した。
次の瞬間には足を怪我した女を抱え上げていたのだから、西田が驚くのも当然だろう。
司がこのプレゼンに出席することを決めた段階で、社内はちょっとした騒ぎがあった。
たかが新製品のワインの広告のプレゼンごときに、支社長自らが出ることに誰もが理由を知りたがった。だが返って来た答えは、現場の動きを知るためだ、と言われただけで本当のことはわからなかった。
社のグループの商品にかかるCMは多いが、今まで支社長自らプレゼンに参加した商品はなかったのだから、当然だが担当部長は慌てた。いったいどういう理由があるのか。
その理由は一体何なのか。だが結局理由は思いつかないまま、支社長の席が設けられることになった。
彼は牧野つくしの話に説得力があると感じていた。
手元の資料など見る事なく、牧野つくしをじっと見つめていた。
プレゼンで何が重要かと言えば、わりやすさだ。何を置いてもこれが第一だ。
極端な話、子供や年寄りまでもわかる内容が一番優秀だと言われている。
そして求められる企画は派手な企画ではなく、確実に売り上げが上がる企画だ。
販促予算は充分にある。CMの出来によって商品にイメージがつく。だからこそ第一印象は大切だ。それは人間にも言えることだ。
やがて牧野つくしがひとりひとりにアイコンタクトを取りながらの話は、司のこところまで来た。あの黒い大きな瞳は真剣だった。
自分を見ている牧野つくしの視線は真っ直ぐな視線。
それは揺るぎのない、自分の仕事に自信を持った人間の視線だ。資料を読むことなく、自分の言葉で説明することが出来る女は、確かに仕事が出来る女だ。
司は思わず口の端だけをあげてほほ笑んでしまいそうになっていた。
あの時もそうだったはずだ。
牧野つくしは自分が女であることを意識していなかった。女というのは、仕事でも私生活でも計算ずくで女であることを強調したがるが、あの時の牧野つくしはまったくそれが感じられなかった。司にはそれが新鮮に感じられた。今までいつも自分の周りに近寄って来る女は、女であることを武器にするような浅はかな女ばかりだったからだ。
それにあの時、床に転がった女は気づいてなかったかもしれないが、立ち上ろうと試みるまで、スカートは太腿までめくれ上がって下着が覗いていた。
それを言いもせず見ていた俺も俺で、頬が緩むのを堪えるため、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
司は今までこんな衝動に駆られたことはなかったが、自らのスケジュールを変えてまで牧野つくしに近づきたかったのが正直な気持ちだった。
やがて牧野の持ち時間終了が近づいたのか、質問はないかという声が聞えた。
「ある」
会議室後方から聞こえた低い声に他の傍聴者は息を呑んだ。
他の代理店に対しては一切無言を通していた男が、ここにきて初めて声を上げたのだから、この部屋にいる全ての人間が一体何が聞きたいのかと耳をそばだてた。
司の低い声に女も背筋がぴんと伸びたようだ。今まで沈黙していた男が一体何を聞きたいのかと緊張したのがわかった。
司は革張りの椅子に腰かけたままで口を開いた。
「博創堂さん。牧野さんでしたね。あなたはこのワインの販売を30代、40代の女性をターゲットにと仰いました。失礼ですが、それはあなたの年代ですよね?大変個人的な質問で申し訳ないんだが、あなたはワインがお好きですか?」
その質問はまさに個人的な質問だったが、そのことについて正直に答えるべきかどうか迷っていた。つくしはお酒に弱い。全く飲めないわけではないし、ワインも飲めないわけではないが、グラスに1杯で充分だった。そんな状態なのにワインが好きだと言えるのだろうか?だが、ここで嫌いだと言えば、これからこの商品を販売する広告を担当する営業としては、失格なのだろうか。
だからと言って無理矢理好きになる必要もないし、これから先、もし日本酒の広告を手掛けることになれば、日本酒を好きにならなければいけないのだろうか?
どちらでもないなんて答えたらどうなるの?
いったいどんな返事を求められているのかと、つくしは頭をフル回転させていた。
言葉が見つからないこともあるものだと思っていた。
それは質問してきたのが、道明寺司だからだろうか?
つくしも意識していないわけではなかった。あのとき、わざわざ医務室まで運んでくれた人で、このプレゼンが終わったらあの時のことに対して礼を述べるとともに、足に巻いてくれたハンカチを返さなければと持参していた。
だが、今は仕事中だ。個人的なことを考えている場合ではなかった。
もしかして、この答え如何によっては業者の選択に影響が出るのだろうか?
「あの。お酒の席は楽しむ場だと思います。ですので、その場が楽しめるならどんなお酒でも楽しく飲めると思います」
***
「主任!お疲れ様でした。良かったですよ!でも最後の質問はちょっと困りましたね。何しろ主任はお酒が苦手ですものね」
プレゼンを済ませたつくしと紺野は、まだ残っている人間とありきたりの挨拶を交わすと会議室を出ようとしていた。
「うん。まあね。こればっかりはどうしようもないのよね」
つくしは自分の返事が的を射てなかったと反省していた。ワインが好きかと聞かれたのに、とんちんかんな返事をしたような気がしていた。
「でもどうして道明寺支社長は牧野主任だけにあんな質問をしたんでしょうね?」
「さあ・・。まあ、他の代理店はみんな男性が担当だったでしょ?男の人は大体何でも飲めるでしょ?だから聞かなかったんじゃないの?それに女はあたしだけだったから聞いてみたかったんじゃないの?」
「そうなんですか?でも質問するなら平等にすれば・・しゅ、主任っ!」
紺野はつくしの後ろに目を向けていた。
「博創堂の牧野さん」
「は、はい!」
つくしは聞き覚えのある声に一瞬緊張したが、慌てて振り返った。
「足の怪我は?」
そこに現れたのは道明寺司だった。
「あ、はい。先日は大変ご迷惑をおかけいたしました。またわざわざ医務室までおつき合いを頂きありがとうございました。本当ならもっと早くお礼のご挨拶をしなければいけなかったんですが、その・・あっ!・・これ、お借りしていたハンカチです」
つくしは手にした鞄の中から袋に入れられたハンカチを慌てて取り出したが、いきなり現れた男にしどろもどろになっていた。
「ええつ!牧野主任!道明寺支社長からハンカチをお借りしてたんですか?いつそんなこと・・」
「ちょっと!紺野、黙って・・」
つくしは言うと道明寺司の顔にさりげなく視線を走らせるとゴクリと唾を呑んだ。
一体なんの用があって声をかけてきたのかと気になったが、それでも相手の顔を観察してしまうのは、営業の癖なのだろうか?
癖のある髪の毛と漆黒の瞳はまるで月のない夜のようだ。
女性の感覚を惑わす危険な香りがする男。
最初の印象よりも背が高く感じられるのは何故?
それは恐らくつくしが床に尻もちをついた姿勢で見上げたことに関係があるはずだ。
そこから医務室に運ばれてベッドの上に降ろされるまで、一度もこの男と立った姿勢で対峙していないからだ。
あのとき、この男の腕に抱え上げられ運ばれたとき、優雅で滑らかなと言ってもいいほどの脚の運び方で安心感があった。そして男は肩幅が広かった。抱きかかえられたとき、妙な安心感があったのもそのせいなのか。
「おい?」
「主任!牧野主任!道明寺支社長が呼んでますってば!」
つくしはつい、いつもの癖で想像力を働かせていた。
「えっ?あっ?大変申し訳ございません。これ、お借りしていたハンカチです。あの時は本当にありがとうございました」
頭を下げると両手で袋を差し出していた。
「おまえ妄想する癖があるのか?」
「はあ?」
下げた頭を上に戻した。
「まあいい。そんなことより食事につき合え」
「な、なんなんですか?いきなり?」
「だから食事だよ。食事」
「ど、どうしてわ、わたしが・・」
「おまえの業界はクライアントの呼び出しは絶対だろ?」
「クライアントもなにも、さっきプレゼンが終わったところなんですけど?」
いったいこの男は何を言っているんだかの視線を向けた。
「さっきのプレゼンで決定した。広告はおまえの会社に任せることにした」

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Comment:7
男の腕に抱きかかえられ運ばれる女。
世間でいうお姫様抱っこ。
恐らく世の中の殆どの女性は恋人にその抱っこをされて、寝室まで運ばれることを夢見る。
だがつくしが運ばれたのは、医務室で恋愛とは全く関係がなかった。
それは怪我をした女を助けた男というシュチュエーション。
まるで外国映画にあるような一場面。それはそれでCM的には絵になるカットだ。
ただ問題は女性の顔を映さないということか・・
あくまでも主役は男性で・・・
「はぁ~こんなこと考えている場合じゃないわ・・」
あの時はまだあの男が道明寺司だなんて知らなかったのだから、男のことを広告のイメージモデルと思い込んでいた。そして隣にいる中年男性をマネージャーだと思っていた。
そんな中でその男をイメージキャラクターとして使う方法を考えているうちに、つくしの足はどんどん痛みを増していた。
「あたしって運がいいのか、悪いのか」
つくしは滋から紹介される予定の男と思わぬ形で出会ったということだ。
滋が言った道明寺司という名前の人間は、子会社の役員程度に考えていた。だが相手は道明寺財閥本家本元の道明寺司だというのだから、親友はいったい何を考えているのか。
あらかじめ相手を知ることは悪くはないが、二人の立場が違い過ぎるということは気にならないのだろうか?それにしても相手は″華麗なる道明寺一族″の御曹司だとは!
つくしは鏡に映った自分の顔を見ていた。
平凡な顔。特徴と言えば大きな瞳だけ。
あとは見事なまでに平均的。瞳はふたつ。鼻はひとつ。口もひとつ。あたり前か・・
それに比べてあの男。
彫の深い顔は日本人離れしていて、その背の高さを合わせれば本当にモデルとしてでも食べて行けそうな男だ。そして印象的なのは目だ。切れ長の三白眼は濃く長い睫毛が覆っていた。 人を射抜くような眼差しというのはああいった視線を言うのだろうか?ぶつかって床に座り込んでしまったとき、思わず下から見上げたあの男は、まるで珍しい動物か何かを見るような視線であたしを見ていた。
つくしはあのとき、思わず見惚れてしまっていたのは確かだ。
そうよ。男なのにどうしてそんなに綺麗なのよ!
だからモデルだなんて勘違いをしてしまった。だがその勘違いはすぐに解消されることになったのだが、滋さんは本当にこの男をあたしに紹介しようとしているの?
つくしの目の前には経済誌の最新号が広げられていた。
「まったく、あたしってどうしてすぐに気づかなかったんだろ」
写真からでもわかるが、道明寺という男は普通とは違う。
この写真からでもその圧倒的な存在感が感じられると言うのに、あの時のあたしはどうかしていたに違いない。
34歳の道明寺司はつくしや滋のひとつ上だ。
英徳学園の高等部を卒業するとニューヨークへ住まいを移し、大学を卒業し、最終学歴はハーバードビジネススクール。この写真の男はスーツをビシッと着こなし、手首からはゴールドの薄い時計が覗いていた。
写真を見なくても本人には会ったのだから、今更だと言われればそうなのだが、あのとき医務室でじっと見つめられ、その視線の強さに思わず目を反らしていた。
だがあのとき感じた空気は、目の前の写真を通しても感じられる。眉は優雅な弧を描いていて、唇は薄く引き締まり、口角は不機嫌そうに少しだけ下を向いている。そして、なんとなくだが感じられる面倒臭いという雰囲気。
だがシャープな顎のラインと顔の輪郭からはパワーが感じられた。
「ああっ、もうっ!」
「主任、どうしたんですか?鏡とにらめっこして?自分の顔に何か新しい発見でもあったんですか?それとも吹き出物でも出来てるんですか?」
椅子に腰かけ、手にしていた鏡を見ていたつくしは後ろを振り返った。
「何も発見なんてしてないわよ・・」
冷たく言い放ったが、まったく最近の若い子は。という言葉がまるで口癖のように出そうだったがそこは堪えた。
「あ、牧野主任それ道明寺支社長ですね?」
紺野はつくしが机の上に広げていたページに目を落とした。
「カッコいいですよね~。僕憧れてるんですよ。道明寺さんに。偶然でもいいからこの前会えないかなぁなんて期待しちゃったんですよ。でもやっぱり会えるわけないですよね?お忙し方ですし、下々の元へ降りて来るような方じゃないですからね。まさに雲の上の存在ですから」
「ま、また大袈裟なことを」
つくしは後輩の大袈裟な例えに口を挟んだ。
自分がエレベーターの前で転んだのは、その雲上人道明寺司にぶつかったせいだとは言えなかった。
だが紺野はまるでアイドルの話でもしているかのように目を輝かせていた。
「だってそうじゃないですか?道明寺財閥の御曹司ですよ?まさに銀のスプーンをくわえて生まれて来た人じゃないですか。でも道明寺さんなら銀どころか、金でしょうけどね。
それに知ってますか?アメリカの雑誌なんですけど世界で最も結婚したい独身男性の10人に選ばれたんですよ?凄いじゃないですか!アジア人じゃ初めてですよ?それにセックスアピールって言葉は道明寺さんのためにあるような言葉じゃないですか!」
紺野は勢い込んで言った。
「僕、男だけど道明寺さんにだったら抱かれてもいいかも!」
紺野君はゲイだった?
「牧野主任、僕はゲイじゃありませんからね。その口から漏れる独り言、いい加減に止めて下さいね!そんなんだから男の人が逃げるんですよ!本当に主任、気を付けて下さいね!」
紺野はひとしきり言うと、言葉を継いだ。
「主任、これから会議ですから急いで下さい!ああそれから白雪姫の意地悪な継母じゃあるまいし、先輩の顔は鏡に責任はありませんからね!」
***
広告代理店のクリエイティブ部門というのは、まさに芸術性に富んだ人間の集まりだと思っていた。クリエイティブディレクターを筆頭にコピーライター、グラフィックデザイナーと言ったアーティスト達が緊張感に包まれて仕事をしていた。
プレゼンまで1ヶ月しかないという現実。恐らくプレゼンは再々行って振るいにかけるはずだ。最後に残る一社になれるかどうかはプレゼン次第ということになる。
オリエンテーションを受け、すぐに基本方針を決める会議を開き、どんな内容にするかを決めるが、するべきことは山のようにあった。ターゲット情報やクライアント情報を基に広告の課題を見つけ、そこから課題解決のための戦略を練る。ターゲット情報はマーケティング部門が市場の分析をし、リサーチをし、どんな広告なら売り上げ向上につながるのか戦略を立てる。
1ヶ月しかないのだから最初の10日でデザイン案やコピーなどアイデアを練る。次に企画書やスライドや資料の作成だがこれも10日で作る。そして最後の10日を使って発表のための練習をする。
そしていよいよ本番ということになるのだが、問題はそのプレゼンに道明寺側から出席するメンバーに考えもしない人の名前があるということだ。
プレゼン当日の傍聴者は誰か。
その人の立場は?年齢は?性別は?
重要なのは傍聴者の情報だ。
誰がこのプレゼンの最高責任者になるのかによって話しかける相手が決まるからだ。
プレゼンとは、誰に向かって話をするのかが重要だ。
そう。最終的にはたった一人の人に伝えることが多いからだ。
そしてその傍聴者の中に見つけたのは、支社長、道明寺司の名前だった。

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恐らく世の中の殆どの女性は恋人にその抱っこをされて、寝室まで運ばれることを夢見る。
だがつくしが運ばれたのは、医務室で恋愛とは全く関係がなかった。
それは怪我をした女を助けた男というシュチュエーション。
まるで外国映画にあるような一場面。それはそれでCM的には絵になるカットだ。
ただ問題は女性の顔を映さないということか・・
あくまでも主役は男性で・・・
「はぁ~こんなこと考えている場合じゃないわ・・」
あの時はまだあの男が道明寺司だなんて知らなかったのだから、男のことを広告のイメージモデルと思い込んでいた。そして隣にいる中年男性をマネージャーだと思っていた。
そんな中でその男をイメージキャラクターとして使う方法を考えているうちに、つくしの足はどんどん痛みを増していた。
「あたしって運がいいのか、悪いのか」
つくしは滋から紹介される予定の男と思わぬ形で出会ったということだ。
滋が言った道明寺司という名前の人間は、子会社の役員程度に考えていた。だが相手は道明寺財閥本家本元の道明寺司だというのだから、親友はいったい何を考えているのか。
あらかじめ相手を知ることは悪くはないが、二人の立場が違い過ぎるということは気にならないのだろうか?それにしても相手は″華麗なる道明寺一族″の御曹司だとは!
つくしは鏡に映った自分の顔を見ていた。
平凡な顔。特徴と言えば大きな瞳だけ。
あとは見事なまでに平均的。瞳はふたつ。鼻はひとつ。口もひとつ。あたり前か・・
それに比べてあの男。
彫の深い顔は日本人離れしていて、その背の高さを合わせれば本当にモデルとしてでも食べて行けそうな男だ。そして印象的なのは目だ。切れ長の三白眼は濃く長い睫毛が覆っていた。 人を射抜くような眼差しというのはああいった視線を言うのだろうか?ぶつかって床に座り込んでしまったとき、思わず下から見上げたあの男は、まるで珍しい動物か何かを見るような視線であたしを見ていた。
つくしはあのとき、思わず見惚れてしまっていたのは確かだ。
そうよ。男なのにどうしてそんなに綺麗なのよ!
だからモデルだなんて勘違いをしてしまった。だがその勘違いはすぐに解消されることになったのだが、滋さんは本当にこの男をあたしに紹介しようとしているの?
つくしの目の前には経済誌の最新号が広げられていた。
「まったく、あたしってどうしてすぐに気づかなかったんだろ」
写真からでもわかるが、道明寺という男は普通とは違う。
この写真からでもその圧倒的な存在感が感じられると言うのに、あの時のあたしはどうかしていたに違いない。
34歳の道明寺司はつくしや滋のひとつ上だ。
英徳学園の高等部を卒業するとニューヨークへ住まいを移し、大学を卒業し、最終学歴はハーバードビジネススクール。この写真の男はスーツをビシッと着こなし、手首からはゴールドの薄い時計が覗いていた。
写真を見なくても本人には会ったのだから、今更だと言われればそうなのだが、あのとき医務室でじっと見つめられ、その視線の強さに思わず目を反らしていた。
だがあのとき感じた空気は、目の前の写真を通しても感じられる。眉は優雅な弧を描いていて、唇は薄く引き締まり、口角は不機嫌そうに少しだけ下を向いている。そして、なんとなくだが感じられる面倒臭いという雰囲気。
だがシャープな顎のラインと顔の輪郭からはパワーが感じられた。
「ああっ、もうっ!」
「主任、どうしたんですか?鏡とにらめっこして?自分の顔に何か新しい発見でもあったんですか?それとも吹き出物でも出来てるんですか?」
椅子に腰かけ、手にしていた鏡を見ていたつくしは後ろを振り返った。
「何も発見なんてしてないわよ・・」
冷たく言い放ったが、まったく最近の若い子は。という言葉がまるで口癖のように出そうだったがそこは堪えた。
「あ、牧野主任それ道明寺支社長ですね?」
紺野はつくしが机の上に広げていたページに目を落とした。
「カッコいいですよね~。僕憧れてるんですよ。道明寺さんに。偶然でもいいからこの前会えないかなぁなんて期待しちゃったんですよ。でもやっぱり会えるわけないですよね?お忙し方ですし、下々の元へ降りて来るような方じゃないですからね。まさに雲の上の存在ですから」
「ま、また大袈裟なことを」
つくしは後輩の大袈裟な例えに口を挟んだ。
自分がエレベーターの前で転んだのは、その雲上人道明寺司にぶつかったせいだとは言えなかった。
だが紺野はまるでアイドルの話でもしているかのように目を輝かせていた。
「だってそうじゃないですか?道明寺財閥の御曹司ですよ?まさに銀のスプーンをくわえて生まれて来た人じゃないですか。でも道明寺さんなら銀どころか、金でしょうけどね。
それに知ってますか?アメリカの雑誌なんですけど世界で最も結婚したい独身男性の10人に選ばれたんですよ?凄いじゃないですか!アジア人じゃ初めてですよ?それにセックスアピールって言葉は道明寺さんのためにあるような言葉じゃないですか!」
紺野は勢い込んで言った。
「僕、男だけど道明寺さんにだったら抱かれてもいいかも!」
紺野君はゲイだった?
「牧野主任、僕はゲイじゃありませんからね。その口から漏れる独り言、いい加減に止めて下さいね!そんなんだから男の人が逃げるんですよ!本当に主任、気を付けて下さいね!」
紺野はひとしきり言うと、言葉を継いだ。
「主任、これから会議ですから急いで下さい!ああそれから白雪姫の意地悪な継母じゃあるまいし、先輩の顔は鏡に責任はありませんからね!」
***
広告代理店のクリエイティブ部門というのは、まさに芸術性に富んだ人間の集まりだと思っていた。クリエイティブディレクターを筆頭にコピーライター、グラフィックデザイナーと言ったアーティスト達が緊張感に包まれて仕事をしていた。
プレゼンまで1ヶ月しかないという現実。恐らくプレゼンは再々行って振るいにかけるはずだ。最後に残る一社になれるかどうかはプレゼン次第ということになる。
オリエンテーションを受け、すぐに基本方針を決める会議を開き、どんな内容にするかを決めるが、するべきことは山のようにあった。ターゲット情報やクライアント情報を基に広告の課題を見つけ、そこから課題解決のための戦略を練る。ターゲット情報はマーケティング部門が市場の分析をし、リサーチをし、どんな広告なら売り上げ向上につながるのか戦略を立てる。
1ヶ月しかないのだから最初の10日でデザイン案やコピーなどアイデアを練る。次に企画書やスライドや資料の作成だがこれも10日で作る。そして最後の10日を使って発表のための練習をする。
そしていよいよ本番ということになるのだが、問題はそのプレゼンに道明寺側から出席するメンバーに考えもしない人の名前があるということだ。
プレゼン当日の傍聴者は誰か。
その人の立場は?年齢は?性別は?
重要なのは傍聴者の情報だ。
誰がこのプレゼンの最高責任者になるのかによって話しかける相手が決まるからだ。
プレゼンとは、誰に向かって話をするのかが重要だ。
そう。最終的にはたった一人の人に伝えることが多いからだ。
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道明寺ビルにある日本支社、支社長室の窓からは都心の緑を一望することが出来る。
司は広々としたこの執務室が気に入っていた。眼下の緑はニューヨークでのセントラルパークを彷彿とさせていた。今の季節に青々とした緑とは言えないが、それでも自然の風景が近くにあることに変わりがない。緑を目にすることで気持ちが安らぐような気がしていた。
それにニューヨーク時代とは違い、日本での生活は、女に騒がれることなく静かに過ごすことが出来ると感じていた。アメリカでは週刊誌に自らの記事が載ることで、ビジネス以外のことでも騒がれることがあったが、帰国してからは女関係についての記事が載ることはなかった。
だがそれは、滋が紹介するという女によって変わるかもしれないという思いがある。しかし母親から宛がわれる女よりはマシかと言う思いもあった。
滋が紹介するという女は、とりあえず会ってくれ程度だが、母親が連れて来る女は企業同士の戦略的な結婚相手となることだけは、確実に言えるからだ。
若い頃の司は、そんな女の首に割れたグラスの破片を押し当てると、低い声で脅し済ませることもしたが、年を重ねれば重ねるだけそんな行為も虚しいことだと気づいていた。
そして今、司の頭に中を過るのは1週間前に出会った女。
彼の胸にぶつかって来て目の前で尻もちをついた女。ぶつかる寸前に声をかけたが間に合わず、その体を受け止めようとしたが受け止めることも出来なかった。
その女が呆然と司を見上げている顔が可笑しかった。
今思い出しても頬が緩みそうになる。まるで小型犬が散歩中に電柱にぶつかったかのような表情。それもどうして電柱がこんなところにあるのよ!とばかりの顔。デカい目を見開いた顔はまさにこれから吠える寸前だったな。
それにしても小型犬が大型犬に立ち向かえば噛み殺されるってことが分かってないのか、それとも電柱ならしょんべんでも引っかけるつもりだったか?
全くあの顔は見物だった。
それに誰が想像する?自分のビルの中で俺に体当たりする人間がいるなんてことを。
俺の周りに近寄る人間がいるとすれば_
「支社長。第3四半期(10月~12月)の決算ですが今期もマイナス計上はございません」
秘書の西田くらいだ。
「西田。この前のあの女だが」
西田は司の口から突然放たれた言葉に一瞬驚いたが、表情は変わらなかった。
「俺が1週間前に医務室に運んだ女だが、あれから何か言って来たか?」
「いいえ。今のところは何も。ですが名刺を頂いております。あの方は博創堂の牧野様です」
「広告屋か?」
「はい。どうぞこちらでございます」
司は西田がデスクの上に置いた名刺を手に取った。
印刷されていたのは、博創堂株式会社 営業本部第一営業グループ 主任牧野つくしの名前。
「あの女、主任なのか?」
「そのようですね。牧野様はなかなかお仕事にご熱心な方のようです」
「どうしておまえがそんなことを知ってる?」
「名刺交換をさせていただいた方について知っておくことは重要です。特にわたくしの名刺をお渡しした以上、何方の秘書を務めているかということはわかりますので。そこからよからぬことを考える人間もいるということを考慮しませんと」
西田のいう事はもっともだ。
彼の名刺が欲しいという人間は多いはずだ。何しろ道明寺支社長と直接話が出来るチャンスを得ることが出来るかもしれないからだ。
「それに博創堂といえば、大手の広告代理店です。調べればすぐにわかります。牧野様は過去に大きな案件を他社と競り勝って、実績を上げていらっしゃいます。その時、社内表彰も受けていらっしゃいます。しかしあの業界で男性と渡り合うのはなかなか大変なことです。クライアントから呼び出しがあれば時間に関係なく駆け付けることもあるでしょう。休みも取れるか取れないかということもありますし、華やかなイメージがありますが体力のいるお仕事です。はっきり申し上げて女性が働き易い職場とは言えないでしょう」
広告業界は芸能人と仕事が出来るとか、海外ロケがあるなど華やかなイメージがあるが、実は地味な仕事だ。
「あの女はまだ若そうに見えるが?そんなに仕事が出来るのか?」
「そうですね。お若いという表現が適しているかどうかわかりませんが、学年は支社長よりひとつ下のようですね」
「あの女、30代なのか?そんなふうには見えなかったが?」
「そうですね。わたくしもそう思いましたが、女性は化粧でなんとでもなるものですから」
それにしても西田は上司の口から女という言葉を聞くのは実に久しぶりだった。
そしてあの女と言われた秘書がすぐに牧野つくしのことを口にしたのは、司が最近接触した女性と言えば彼女しかいなかったからだ。
道明寺司と言えば女嫌いとして知られていて、必要以上に女を寄せ付けることはしなかった。秘書は当然男の西田で、秘書室も女性よりも男性の方が多いという人員構成だ。
それなのに、司自らが自分とぶつかって倒れた女性を抱え上げ、医務室まで運ぶという行為に西田は確信を得た。
女が嫌いというわけではなく、やはり相手を選ぶということだ。
それに30半ばの男が、今まで女性に全く興味がないというわけでもなかった。過去につき合った女性もいたが、彼を束縛しようと考え始めると、まるでその気持ちを読み取ったかのように女性に贈り物が届けられ、それと共に終わりを迎えていた。
そんな贈り物の手配も秘書の役目のひとつで、西田も心得ていた。
それは司にしてみれば至極当然の考え方。
人生の中で女性とつき合うことに重きを置いてはいないと言うことだろう。
過去につき合った女性と別れ際に揉めたことなどなく、多少なりとも感謝の気持を込めた贈り物と共に綺麗に別れを済ませて来ていた。
司はつき合っている間に女性に贈り物をすることがない。だから彼から贈り物が届くということは、別れの挨拶だということだ。そして贈られた女性はその贈り物を受け取るしかなかった。彼が別れを決めたと言えば、女性はそれを拒むことは出来ないからだ。それがニューヨーク流かと言われればそうかもしれないが、道明寺司流女の別れ方だと言われればそうかもしれなかった。
だが、別れを決めた男からの贈り物を喜んで受け取る女性はいないはずだ。
例えそれが高価な宝石であったとしても、彼を本当に好きだった女性なら嬉しい贈りものではないだろう。高級宝飾店からの配達の記録は秘書の手元に届くのだが、受け取る女性はいなかった。それは女性のプライドがそうさせたのかもしれなかった。
そのことが意味するのは、ニューヨークの社交界では、道明寺司から贈られた宝石を身に付けている女性はいないということだろう。
要するに司は束縛を嫌い、相手に求める基準が高い男というだけで、女性とつき合うことが嫌いだというわけではなかった。そして当然だが今の段階で結婚することは彼の頭の中にない。
だが将来いつかその日が来ることは、わかっている。それは自分がもっと年をとってからでもいいと思っていた。その頃になれば彼の母親がどこかの若い娘を宛がって来るからだ。
それに下衆な話しだが男は歳をとっても子供を作ることは出来るからだ。しかし、その母親もいい加減息子に身を固めてもらいたいと考えていることがわかった。
「西田。あの女が言ってた広告のオリエンテーションだがどの商品の広告だ?」
「はい。我社が最近買収した飲料会社が発売するワインのマス広告です」
「そうか。媒体はテレビがメインか?」
「はい。新商品ですので大々的に宣伝をするようです。テレビ、ラジオ、新聞と雑誌です」
「ネットの広告は?」
「インターネットの場合は対象者を絞っての配信となりますので、まずはテレビからでしょう。いくらネット社会とはいえ、やはり誰もが一番目にするのはテレビですから」
「プロモーションはするのか?」
「ワインですので対象が成人に限られますし、アルコールという観点からそちらは大々的には行わないと思います。そういったイベントを開いて飲酒を積極的に勧めることは世間には喜ばれませんので。ただ屋外広告として看板は設置するかと思います」
屋外広告はセールスプロモーション広告と呼ばれ、他に折込チラシや電車の中吊り広告、キャンペーンなどもあった。
「それで、その商品のプレゼンはいつだ?」
「そちらの商品にご興味がおありでしたら、すぐにでも担当者を呼んで説明させますが?」
「いや。呼ばなくていい。それより、あの女からなんか連絡でもあったか?おまえのことだ。何かあったら連絡しろって言ってるんだろ?」
「はい。お怪我の具合が酷いようで何かあればご連絡をと申し上げております」
「そうか」
「支社長、気になるのですか?あの方が?」
唐突な質問だが、西田は思い切って聞いていた。
「支社長が女性のお話をされるのは、おつき合いされていた方にお別れをされる時くらいですから、わたくしも少し意外な気が致しますが」
沈黙が流れたが暫くすると、司は口を開いた。
「そのプレゼンの日のスケジュールはどうなってる?」
西田はそれまで女性のために自分の予定を変える男を知らなかったが、恐らくこれが最初の事例になるのではないかと感じていた。
「あの女の仕事ぶりに興味がある。西田。おまえあの女のことだがどう思う?」
司の問いかけは短かったが、その質問の内容は明らかだ。
道明寺司は牧野つくしに興味を持っている。
西田は重要な情報は必ず手に入れる男だ。その点は疑いの余地がない。今までも人物調査はこの男の手にかかれば、すぐに調べがついていた。
「そうですね。あの女性なら責任感も強そうですし、仕事をお任せになられてもきちんとこなしてくれると思われます」
司はそれ以上聞く必要はないと静かに頷いていた。

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司は広々としたこの執務室が気に入っていた。眼下の緑はニューヨークでのセントラルパークを彷彿とさせていた。今の季節に青々とした緑とは言えないが、それでも自然の風景が近くにあることに変わりがない。緑を目にすることで気持ちが安らぐような気がしていた。
それにニューヨーク時代とは違い、日本での生活は、女に騒がれることなく静かに過ごすことが出来ると感じていた。アメリカでは週刊誌に自らの記事が載ることで、ビジネス以外のことでも騒がれることがあったが、帰国してからは女関係についての記事が載ることはなかった。
だがそれは、滋が紹介するという女によって変わるかもしれないという思いがある。しかし母親から宛がわれる女よりはマシかと言う思いもあった。
滋が紹介するという女は、とりあえず会ってくれ程度だが、母親が連れて来る女は企業同士の戦略的な結婚相手となることだけは、確実に言えるからだ。
若い頃の司は、そんな女の首に割れたグラスの破片を押し当てると、低い声で脅し済ませることもしたが、年を重ねれば重ねるだけそんな行為も虚しいことだと気づいていた。
そして今、司の頭に中を過るのは1週間前に出会った女。
彼の胸にぶつかって来て目の前で尻もちをついた女。ぶつかる寸前に声をかけたが間に合わず、その体を受け止めようとしたが受け止めることも出来なかった。
その女が呆然と司を見上げている顔が可笑しかった。
今思い出しても頬が緩みそうになる。まるで小型犬が散歩中に電柱にぶつかったかのような表情。それもどうして電柱がこんなところにあるのよ!とばかりの顔。デカい目を見開いた顔はまさにこれから吠える寸前だったな。
それにしても小型犬が大型犬に立ち向かえば噛み殺されるってことが分かってないのか、それとも電柱ならしょんべんでも引っかけるつもりだったか?
全くあの顔は見物だった。
それに誰が想像する?自分のビルの中で俺に体当たりする人間がいるなんてことを。
俺の周りに近寄る人間がいるとすれば_
「支社長。第3四半期(10月~12月)の決算ですが今期もマイナス計上はございません」
秘書の西田くらいだ。
「西田。この前のあの女だが」
西田は司の口から突然放たれた言葉に一瞬驚いたが、表情は変わらなかった。
「俺が1週間前に医務室に運んだ女だが、あれから何か言って来たか?」
「いいえ。今のところは何も。ですが名刺を頂いております。あの方は博創堂の牧野様です」
「広告屋か?」
「はい。どうぞこちらでございます」
司は西田がデスクの上に置いた名刺を手に取った。
印刷されていたのは、博創堂株式会社 営業本部第一営業グループ 主任牧野つくしの名前。
「あの女、主任なのか?」
「そのようですね。牧野様はなかなかお仕事にご熱心な方のようです」
「どうしておまえがそんなことを知ってる?」
「名刺交換をさせていただいた方について知っておくことは重要です。特にわたくしの名刺をお渡しした以上、何方の秘書を務めているかということはわかりますので。そこからよからぬことを考える人間もいるということを考慮しませんと」
西田のいう事はもっともだ。
彼の名刺が欲しいという人間は多いはずだ。何しろ道明寺支社長と直接話が出来るチャンスを得ることが出来るかもしれないからだ。
「それに博創堂といえば、大手の広告代理店です。調べればすぐにわかります。牧野様は過去に大きな案件を他社と競り勝って、実績を上げていらっしゃいます。その時、社内表彰も受けていらっしゃいます。しかしあの業界で男性と渡り合うのはなかなか大変なことです。クライアントから呼び出しがあれば時間に関係なく駆け付けることもあるでしょう。休みも取れるか取れないかということもありますし、華やかなイメージがありますが体力のいるお仕事です。はっきり申し上げて女性が働き易い職場とは言えないでしょう」
広告業界は芸能人と仕事が出来るとか、海外ロケがあるなど華やかなイメージがあるが、実は地味な仕事だ。
「あの女はまだ若そうに見えるが?そんなに仕事が出来るのか?」
「そうですね。お若いという表現が適しているかどうかわかりませんが、学年は支社長よりひとつ下のようですね」
「あの女、30代なのか?そんなふうには見えなかったが?」
「そうですね。わたくしもそう思いましたが、女性は化粧でなんとでもなるものですから」
それにしても西田は上司の口から女という言葉を聞くのは実に久しぶりだった。
そしてあの女と言われた秘書がすぐに牧野つくしのことを口にしたのは、司が最近接触した女性と言えば彼女しかいなかったからだ。
道明寺司と言えば女嫌いとして知られていて、必要以上に女を寄せ付けることはしなかった。秘書は当然男の西田で、秘書室も女性よりも男性の方が多いという人員構成だ。
それなのに、司自らが自分とぶつかって倒れた女性を抱え上げ、医務室まで運ぶという行為に西田は確信を得た。
女が嫌いというわけではなく、やはり相手を選ぶということだ。
それに30半ばの男が、今まで女性に全く興味がないというわけでもなかった。過去につき合った女性もいたが、彼を束縛しようと考え始めると、まるでその気持ちを読み取ったかのように女性に贈り物が届けられ、それと共に終わりを迎えていた。
そんな贈り物の手配も秘書の役目のひとつで、西田も心得ていた。
それは司にしてみれば至極当然の考え方。
人生の中で女性とつき合うことに重きを置いてはいないと言うことだろう。
過去につき合った女性と別れ際に揉めたことなどなく、多少なりとも感謝の気持を込めた贈り物と共に綺麗に別れを済ませて来ていた。
司はつき合っている間に女性に贈り物をすることがない。だから彼から贈り物が届くということは、別れの挨拶だということだ。そして贈られた女性はその贈り物を受け取るしかなかった。彼が別れを決めたと言えば、女性はそれを拒むことは出来ないからだ。それがニューヨーク流かと言われればそうかもしれないが、道明寺司流女の別れ方だと言われればそうかもしれなかった。
だが、別れを決めた男からの贈り物を喜んで受け取る女性はいないはずだ。
例えそれが高価な宝石であったとしても、彼を本当に好きだった女性なら嬉しい贈りものではないだろう。高級宝飾店からの配達の記録は秘書の手元に届くのだが、受け取る女性はいなかった。それは女性のプライドがそうさせたのかもしれなかった。
そのことが意味するのは、ニューヨークの社交界では、道明寺司から贈られた宝石を身に付けている女性はいないということだろう。
要するに司は束縛を嫌い、相手に求める基準が高い男というだけで、女性とつき合うことが嫌いだというわけではなかった。そして当然だが今の段階で結婚することは彼の頭の中にない。
だが将来いつかその日が来ることは、わかっている。それは自分がもっと年をとってからでもいいと思っていた。その頃になれば彼の母親がどこかの若い娘を宛がって来るからだ。
それに下衆な話しだが男は歳をとっても子供を作ることは出来るからだ。しかし、その母親もいい加減息子に身を固めてもらいたいと考えていることがわかった。
「西田。あの女が言ってた広告のオリエンテーションだがどの商品の広告だ?」
「はい。我社が最近買収した飲料会社が発売するワインのマス広告です」
「そうか。媒体はテレビがメインか?」
「はい。新商品ですので大々的に宣伝をするようです。テレビ、ラジオ、新聞と雑誌です」
「ネットの広告は?」
「インターネットの場合は対象者を絞っての配信となりますので、まずはテレビからでしょう。いくらネット社会とはいえ、やはり誰もが一番目にするのはテレビですから」
「プロモーションはするのか?」
「ワインですので対象が成人に限られますし、アルコールという観点からそちらは大々的には行わないと思います。そういったイベントを開いて飲酒を積極的に勧めることは世間には喜ばれませんので。ただ屋外広告として看板は設置するかと思います」
屋外広告はセールスプロモーション広告と呼ばれ、他に折込チラシや電車の中吊り広告、キャンペーンなどもあった。
「それで、その商品のプレゼンはいつだ?」
「そちらの商品にご興味がおありでしたら、すぐにでも担当者を呼んで説明させますが?」
「いや。呼ばなくていい。それより、あの女からなんか連絡でもあったか?おまえのことだ。何かあったら連絡しろって言ってるんだろ?」
「はい。お怪我の具合が酷いようで何かあればご連絡をと申し上げております」
「そうか」
「支社長、気になるのですか?あの方が?」
唐突な質問だが、西田は思い切って聞いていた。
「支社長が女性のお話をされるのは、おつき合いされていた方にお別れをされる時くらいですから、わたくしも少し意外な気が致しますが」
沈黙が流れたが暫くすると、司は口を開いた。
「そのプレゼンの日のスケジュールはどうなってる?」
西田はそれまで女性のために自分の予定を変える男を知らなかったが、恐らくこれが最初の事例になるのではないかと感じていた。
「あの女の仕事ぶりに興味がある。西田。おまえあの女のことだがどう思う?」
司の問いかけは短かったが、その質問の内容は明らかだ。
道明寺司は牧野つくしに興味を持っている。
西田は重要な情報は必ず手に入れる男だ。その点は疑いの余地がない。今までも人物調査はこの男の手にかかれば、すぐに調べがついていた。
「そうですね。あの女性なら責任感も強そうですし、仕事をお任せになられてもきちんとこなしてくれると思われます」
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道明寺司はあの会社の支社長だった。
つくしはあの時の様子を思い出していた。
どうしてあのとき、何かおかしいと気づかなかったのか。
男の腕に抱きかかえられてエレベーターに乗り込むと、既に中に乗っていた人間が慌てて降りて行った。
頭を下げる姿を見て何事かと思ったが、そんなことよりも男の腕に抱えられているということの恥ずかしさの方が勝っていたから気が回らなかった。
つくしは昔からひと前で恥ずかしい思いをしたとき、顔が真っ赤になる癖があった。
そして必要以上に恥ずかしさには敏感だった。いつだったか、牧野の恥ずかしさは伝染すると言われたことがあった。確かに恥ずかしい思いは沢山して来た。だからあのとき、見ず知らずの男に抱きかかえられていること自体に死にたくなるくらい恥ずかしい思いをしていた。
幸い人が下りたエレベーターの中には眼鏡の中年男性と、モデル男、いや道明寺支社長とつくし以外誰もいないのだから、恥ずかしさはつくしひとりのものだったはずだ。
そんな中でも恥をかいて死ぬことはないからと自分に言い聞かせていた。
実際、立ち上がって歩くことが出来ないのだからどうしようも無かった。
電話で部下の紺野を呼ぶことも出来たが、オリエンテーションが始まる時間で、会社としてはそのオリエンテーションに誰も参加しないということは避けなければならない。参加しなければ、プレゼンに参加する権利は無くなる。それだけはどうしても避けたい思いがあった。
自信たっぷりで、まるで全ての権力を手中に収めているかのような態度でエレベーターに乗り込んだ男。今思えば支社長だと言うのだから当然だろう。
エレベーターが目的の階に着くまでどのくらいの時間がかかったのか、わからなかったが3人とも黙ったままだった。気まずい沈黙とでも言えばいいのか、思い出せばその場に漂う空気は今さらのように礼儀正しかったはずだ。
つくしにしてみればあの状況で口を開くことは躊躇われた。何しろ、すぐ近くに男の口があったのだから。口を開けば、男の息を吸い込んでしまいそうだと思っていた。
それに男の黒い瞳がつくしの顔に注がれているのは感じていた。だからこそ、黙っていることが最善のように思えていた。
あのときはただひたすら時間が早く過ぎればいい。早く目的地の医務室に着けばいいのにとそればかりを願っていた。
抱きかかえられた瞬間、男からいい香が漂ってきて、その香りに思わずクラリときそうになっていた。セクシーで、スパイシーで、どこか深みのあるその香り。もしこの男が香水の広告に出ていたとしたら、どんなCMになったかと考えてしまっていた。
裸で、一糸纏わぬ姿でベッドに横たわって・・腰から下だけをシーツで隠して・・カメラはその男を上から写している・・・。目線は挑戦的なアングルで下からカメラを見上げる感じがいいかもしれない。
いや、もっと別のスタイルがいいかもしれない。あの長身を生かしたい。やはり上半身は裸で少しだけボクサーブリーフの淵が見えるくらいスラックスを下ろして、片手はスラックスのウエスト部分に添えられていて、今にも脱ぎそうな雰囲気で・・・
「牧野主任!!なにボケっとしてるんですかっ!心配したんですよ?電話をかけて来るなんて言ってそれっきり戻ってこないんですから!オリエンテーションは始まっちゃうし・・」
道明寺ビルの医務室にいると連絡をしたのはオリエンテーションが終わってからだった。電話を受けた紺野は慌てて医務室まで来ると、帰りはタクシーですね。と言って腫れた足首を庇うようにゆっくりと歩くつくしの荷物を持っていた。
診察してくれた医師からは、足首の腫れは3日もすれば治りますよと言われ、胸を撫で下ろしていた。そして暫くは踵の高い靴は履かないようにと念を押されたが、勿論だと頷いていた。
「悪かったわね。エレベーターの前で転んじゃったのよ」
事実だけを淡々と話していた。
「主任。また無理して高いヒールの靴を履いたからじゃないですか?いくら男が多い環境だからといって無理して背を高く見せる必要はないんですからね!それとも、もう足腰が弱くなったとか?」
新入社員で入ってまだ2年しかたってない部下にからかわれるのは、いつものことだった。
それに最近の若い子はずけずけと物を言う。口の利き方がなってないというのか、礼儀を知らないというのか、どちらにしてもそんな若い後輩を育てていく立場でもあるのだから仕方がなかった。
「うるさいわね。あたしの歳で足腰が弱くなったら困るでしょ?」
「そうですよね?主任はまだ33でしたよね?今からそんなことになったら男を追っかけて行くなんてことが出来ないですよね?あ、それとも男から逃げるんでしたっけ?主任は足が速いって有名ですものね?それにいつだったかタクシーに荷物忘れて、走って追っかけたって話し知ってますよ?あの話、有名ですからねぇ」
有名だというつくしの逸話。
ちょうど今隣にいる若い男性と同じ位の年の話だ。クライアントからの帰りに利用したタクシーに大切な資料を置き忘れるという失態を犯してしまった。その事に気づいたのは、手にしていたはずの鞄のひとつがその手に無かったからだ。
タクシーはつくしを降ろすとすでにはるか前方に走り去っていた。間近に見えると思っても、いざ追いかけるとなると遠いものだが、つくしは赤信号で止まっているタクシーを捕まえるべく追いかけた。が、信号の色が変わればタクシーは動きだす。それまでのあいだ、一か八かと猛ダッシュで走った女。
そのとき、一緒にいた先輩社員に何故か思いっきり褒められた。なりふり構わずの態度がうちの社にあっていると言われ、そこから可愛がってもらえるようになっていた。
仕事に対しての姿勢というものが認められた瞬間だったのだろう。
広告のコピーやデザインを考えるクリエイティブ部門と違って営業は体力が勝負だ。
それだけに、つくしの健脚には期待される部分があったのかもしれない。
それにしても最近の新入社員は自ら仕事を奪いに行くという気力がない。
つくしが入社した頃はクライアント確保のための営業活動と称して、受話器と左手を紐で括り付けられ一日に何十本もの電話をかけさせられたこともあった。あの当時それがあたり前の世界だったのだから今とは大違いだ。
ただ、そのスパルタのおかげで、つくしは営業活動に対しての度胸を身に付けることが出来たのは確かだった。それに若い頃は無我夢中でなんでもやれると頑張っていた。今思えばあの体力はどこから来たのかと思ったが、高校時代から日々アルバイトに明け暮れていたせいなのかもしれなかった。
ただ、さすがに33ともなると、どこか体の変化も見られてくるようになっていた。
いつまでも自前の体力だけで乗り切るには、体が悲鳴をあげることもあった。
つくしは息を吐くと、タクシーのシートに背中を預けた。
「それよりオリエンテーションの内容は?」
「あ、はい。これです」
紺野はいくつかの資料を差し出してきた。
受け取ると早速中身の確認を始めていた。素早く目を通しながらも、要点だけは頭の中に叩き込んでいた。
「ねえ紺野君。扱う商品はワインなの?」
「はい。今度から道明寺で扱うワインです。テレビCMはこれから半年後の予定です」
今回のオリエンテーションで説明を受けたのは、道明寺ホールディングスが買収した総合飲料メーカーが扱うワインのマスメディア広告。
テレビでのCM放送開始はこれから半年後と決まっていた。
そしてプレゼンは今から1ヶ月後。
次の瞬間、つくしの頭からは道明寺司のことはすっかり消え仕事モードに切り替わっていた。

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つくしはあの時の様子を思い出していた。
どうしてあのとき、何かおかしいと気づかなかったのか。
男の腕に抱きかかえられてエレベーターに乗り込むと、既に中に乗っていた人間が慌てて降りて行った。
頭を下げる姿を見て何事かと思ったが、そんなことよりも男の腕に抱えられているということの恥ずかしさの方が勝っていたから気が回らなかった。
つくしは昔からひと前で恥ずかしい思いをしたとき、顔が真っ赤になる癖があった。
そして必要以上に恥ずかしさには敏感だった。いつだったか、牧野の恥ずかしさは伝染すると言われたことがあった。確かに恥ずかしい思いは沢山して来た。だからあのとき、見ず知らずの男に抱きかかえられていること自体に死にたくなるくらい恥ずかしい思いをしていた。
幸い人が下りたエレベーターの中には眼鏡の中年男性と、モデル男、いや道明寺支社長とつくし以外誰もいないのだから、恥ずかしさはつくしひとりのものだったはずだ。
そんな中でも恥をかいて死ぬことはないからと自分に言い聞かせていた。
実際、立ち上がって歩くことが出来ないのだからどうしようも無かった。
電話で部下の紺野を呼ぶことも出来たが、オリエンテーションが始まる時間で、会社としてはそのオリエンテーションに誰も参加しないということは避けなければならない。参加しなければ、プレゼンに参加する権利は無くなる。それだけはどうしても避けたい思いがあった。
自信たっぷりで、まるで全ての権力を手中に収めているかのような態度でエレベーターに乗り込んだ男。今思えば支社長だと言うのだから当然だろう。
エレベーターが目的の階に着くまでどのくらいの時間がかかったのか、わからなかったが3人とも黙ったままだった。気まずい沈黙とでも言えばいいのか、思い出せばその場に漂う空気は今さらのように礼儀正しかったはずだ。
つくしにしてみればあの状況で口を開くことは躊躇われた。何しろ、すぐ近くに男の口があったのだから。口を開けば、男の息を吸い込んでしまいそうだと思っていた。
それに男の黒い瞳がつくしの顔に注がれているのは感じていた。だからこそ、黙っていることが最善のように思えていた。
あのときはただひたすら時間が早く過ぎればいい。早く目的地の医務室に着けばいいのにとそればかりを願っていた。
抱きかかえられた瞬間、男からいい香が漂ってきて、その香りに思わずクラリときそうになっていた。セクシーで、スパイシーで、どこか深みのあるその香り。もしこの男が香水の広告に出ていたとしたら、どんなCMになったかと考えてしまっていた。
裸で、一糸纏わぬ姿でベッドに横たわって・・腰から下だけをシーツで隠して・・カメラはその男を上から写している・・・。目線は挑戦的なアングルで下からカメラを見上げる感じがいいかもしれない。
いや、もっと別のスタイルがいいかもしれない。あの長身を生かしたい。やはり上半身は裸で少しだけボクサーブリーフの淵が見えるくらいスラックスを下ろして、片手はスラックスのウエスト部分に添えられていて、今にも脱ぎそうな雰囲気で・・・
「牧野主任!!なにボケっとしてるんですかっ!心配したんですよ?電話をかけて来るなんて言ってそれっきり戻ってこないんですから!オリエンテーションは始まっちゃうし・・」
道明寺ビルの医務室にいると連絡をしたのはオリエンテーションが終わってからだった。電話を受けた紺野は慌てて医務室まで来ると、帰りはタクシーですね。と言って腫れた足首を庇うようにゆっくりと歩くつくしの荷物を持っていた。
診察してくれた医師からは、足首の腫れは3日もすれば治りますよと言われ、胸を撫で下ろしていた。そして暫くは踵の高い靴は履かないようにと念を押されたが、勿論だと頷いていた。
「悪かったわね。エレベーターの前で転んじゃったのよ」
事実だけを淡々と話していた。
「主任。また無理して高いヒールの靴を履いたからじゃないですか?いくら男が多い環境だからといって無理して背を高く見せる必要はないんですからね!それとも、もう足腰が弱くなったとか?」
新入社員で入ってまだ2年しかたってない部下にからかわれるのは、いつものことだった。
それに最近の若い子はずけずけと物を言う。口の利き方がなってないというのか、礼儀を知らないというのか、どちらにしてもそんな若い後輩を育てていく立場でもあるのだから仕方がなかった。
「うるさいわね。あたしの歳で足腰が弱くなったら困るでしょ?」
「そうですよね?主任はまだ33でしたよね?今からそんなことになったら男を追っかけて行くなんてことが出来ないですよね?あ、それとも男から逃げるんでしたっけ?主任は足が速いって有名ですものね?それにいつだったかタクシーに荷物忘れて、走って追っかけたって話し知ってますよ?あの話、有名ですからねぇ」
有名だというつくしの逸話。
ちょうど今隣にいる若い男性と同じ位の年の話だ。クライアントからの帰りに利用したタクシーに大切な資料を置き忘れるという失態を犯してしまった。その事に気づいたのは、手にしていたはずの鞄のひとつがその手に無かったからだ。
タクシーはつくしを降ろすとすでにはるか前方に走り去っていた。間近に見えると思っても、いざ追いかけるとなると遠いものだが、つくしは赤信号で止まっているタクシーを捕まえるべく追いかけた。が、信号の色が変わればタクシーは動きだす。それまでのあいだ、一か八かと猛ダッシュで走った女。
そのとき、一緒にいた先輩社員に何故か思いっきり褒められた。なりふり構わずの態度がうちの社にあっていると言われ、そこから可愛がってもらえるようになっていた。
仕事に対しての姿勢というものが認められた瞬間だったのだろう。
広告のコピーやデザインを考えるクリエイティブ部門と違って営業は体力が勝負だ。
それだけに、つくしの健脚には期待される部分があったのかもしれない。
それにしても最近の新入社員は自ら仕事を奪いに行くという気力がない。
つくしが入社した頃はクライアント確保のための営業活動と称して、受話器と左手を紐で括り付けられ一日に何十本もの電話をかけさせられたこともあった。あの当時それがあたり前の世界だったのだから今とは大違いだ。
ただ、そのスパルタのおかげで、つくしは営業活動に対しての度胸を身に付けることが出来たのは確かだった。それに若い頃は無我夢中でなんでもやれると頑張っていた。今思えばあの体力はどこから来たのかと思ったが、高校時代から日々アルバイトに明け暮れていたせいなのかもしれなかった。
ただ、さすがに33ともなると、どこか体の変化も見られてくるようになっていた。
いつまでも自前の体力だけで乗り切るには、体が悲鳴をあげることもあった。
つくしは息を吐くと、タクシーのシートに背中を預けた。
「それよりオリエンテーションの内容は?」
「あ、はい。これです」
紺野はいくつかの資料を差し出してきた。
受け取ると早速中身の確認を始めていた。素早く目を通しながらも、要点だけは頭の中に叩き込んでいた。
「ねえ紺野君。扱う商品はワインなの?」
「はい。今度から道明寺で扱うワインです。テレビCMはこれから半年後の予定です」
今回のオリエンテーションで説明を受けたのは、道明寺ホールディングスが買収した総合飲料メーカーが扱うワインのマスメディア広告。
テレビでのCM放送開始はこれから半年後と決まっていた。
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人に何かしてもらおうと思えば、相手を褒めちぎることが一番だ。
褒めて、褒めて、ひたすら褒めて、相手が恥ずかしくなるほど褒めることが重要だ。
もう止めてくれと言われてもひたすら褒める。
それは子供の教育にも言える。
褒めて伸ばすという教育だ。褒めることで自信が生まれ、認められたという意識が働く。
そしてそれは信頼してもらったという喜びに変わる。
だが司は親から褒められた覚えがない。
どちらかと言えば放任主義の家庭環境で育てられていた。
そんな彼は元々頭がよかったから放任されても問題なかった。
それに相手に対して友好的な態度を取ることも重要だ。
こちらが相手に対し友好的な態度を示せば、相手も態度を軟化させる。
逆に攻撃的な態度を見せれば、相手も同じく攻撃的な態度を見せる。
俺はこの解釈を誤ったばかりに牧野との始まりを間違えた。
あいつに対して攻撃的な態度で臨んだばかりに、痛い目にあったことは数限りなくあった。
まあそれも今となってはそれもいい思い出だ。
ちなみに悪態をつくのは心の健康にはいいらしい。
そうなると過去に散々悪態をついていたのは、心の健康のためだったということだ。
確かに昔の俺は心が病んでたって言われていたが、今は心の健康ってのが如何に大切な事かと思えるのは全て牧野のおかげだ。
そんな俺もたまに悪態をつくこともあるが、そんな態度を牧野に見つかるとお叱りを受けることになる。
そんなとき、つまり牧野が口うるさくなり始めたら、俺はひたすら牧野を褒めるという態度に出ることにしている。
まず褒められるのが嫌な人間はいないはずだ。
機嫌の悪い牧野も褒められ続ければ、あの口も少しは大人しくなってくれる。
なあ、牧野。
心の健康ってことが大切だってことはもう十分わかった。
だから今度は体の健康のことを考えてもらいたいと思うのは俺のわがままか?
そんな中での妄想は人生の薬味。
妄想は日常の生活に活力と想像力を与えてくれるはずだ。
つまりスパイスだ。
長い人生のなか、刺激を求めることも大切だろ?
それが脳の活性化に役立ち、ひいてはこの会社のために役立つともなれば、あいつも俺を拒むことなんて出来ねぇはずだ。
それに心と体が別物だなんてことを考える男もいるらしいが、俺の場合は心も体も常に一緒で、牧野のことしか考えてない。
いいか?そこが一番重要だ。
つまり心と体は一緒の行動を取るべきであって、心と体がウラハラだなんていうこと自体が信じられねぇな。
そんな俺が体の健康のことを考えるとき。
まずは牧野を褒めることから始める。
褒め殺しなんて言葉もあるが、あいつを殺してどうすんだよ?
牧野が死んだら俺は一生右手だけになるじゃねぇかよ!
そんなことになったら困るのは俺じゃねえぇかよ!
褒めても殺すんじゃなくて、天国に連れてってやるのが彼氏の役目だろ?
褒めて、天国に連れて行く・・
まぁ、ヤリ方なら幾らでもある。
ただ、あんまし熱心に褒めるとなんか下心があるんじゃねーかって思うのが人間だ。
だから褒められたことを素直に喜べない人間も多い。
だけどな。
俺が褒める相手は牧野以外にいねぇんだから素直に喜べ。
ありがとうって言え。
「なあ、牧野。おまえはかわいいな」
「ど、どうしたのよ?急に?」
「なんだよ?彼氏が彼女を褒めて何がわりぃって言うんだよ?おまえ、俺に褒められることが不満なのか?迷惑なのか?俺の行為は迷惑行為なのか?迷惑防止条例違反か?」
「べ、別にそんなこと・・」
「だろ?牧野。おまえは綺麗だ」
「だから、ど、どうしたのよ?道明寺なんか変よ?」
「何が変なんだよ?牧野。すげぇ綺麗だ」
「だ、だって・・なんでいちいち・・そんな・・えっと・・」
「なんだよ?俺に褒められるのがそんなに嫌なのか?それにいつも言ってることじゃねぇかよ、ベッドの中で」
「で、でもっ、どうしてそんなこと急に・・」
だから素直じゃねぇって言うんだよ、この女は!
褒められたら素直にありがとうって言えばいいんだよ!
でもって感謝の印に俺に抱きついてキスなんかしてくれたらもっといいんだが、それを期待するのは無理だよな?
何しろここはパーティー会場のど真ん中だ。
そうだ。どうでもいいパーティーだが、俺も会社の代表としての勤めっていうのがあるからな。勿論そんなパーティーに同伴するのは、いとしの牧野。
今日のこいつはいつもと違って俺の贈ったパーティードレスに踵の高い靴。
それに髪は頭の後ろの高い位置で纏められていた。
やべぇ・・・
俺の贈ったドレスってこんなに露出してたか?
なんか布の面積が少くねぇが、こんなモンか?
けど、両肩出して細せっぇ腕も丸見えだし、胸なんて今にも見えそうじゃねぇかよ!
それになんだよ、そのスケスケの足元は!太腿から下のその生地の薄さはなんだよ!
冷えは女の大敵だなんて言ってたけど、そんなんでいいのかよ!
それに体のラインに沿うドレスは下着のラインが出るとかで着けねぇって聞いた。
おまえ・・パンツ履いてるのか?
まさか履いてねぇなんてことねぇよな?
それにしてもこんなじゃ他の男の視線を集めまくりじゃねぇかよ!
まじやべぇ・・
他の男どころか俺がやべぇ・・
こいつ25センチ下からなんか出してんじゃねぇのか?
っうか、この女こんなに色っぽかったか?
昔俺に向かって跳び蹴りして来た女だぞ?
おまけにいつまでたっても俺のことを好きって言わなかった素直じゃねぇ女だぞ?
好きだ、愛してるだの言ってるのはいつも俺の方で、この女は普段全くそんなこと口にしねぇ女だぞ?
それなのに、どうして今夜に限ってそんなに艶っぽいんだよ!
まさか、なんかヤッてんのかこいつ?いや。そんな訳ねぇか・・
とにかく、こんなに色っぽい女をどこの馬の骨かわかんねぇような男どもの視線の前にさらすなんてことが出来るわけねぇ!
「牧野、ちょっと来い」
「え?なに?ど、どこ行くのよ・・」
「帰る」
「ええっ!だ、だって来たばっかりじゃない!」
「いいんだよ。顔だけ見せりゃそれで終わりだ!」
「いや。でもちょっと、いくらなんでも早すぎるでしょ?」
「るせぇ・・・・だよ・・」
「えっ?なに・・?」
「・・出来ねぇんだよ!」
「な、なにが?」
「おまえを抱きたくて我慢が出来ねぇんだよ!どーしてくれるんだよっ!責任取れ!見ろこんなになってんだぞ!」
と言ってつくしの手を掴むと下半身に押し当てた。
途端、固まったつくし。
「おまえ、俺の心と体の心配してくれるなら、責任とってくれるよな?この責任」
「ちょっと・・」
「だから責任問題」
「なにが責任・・」
「使用者責任つぅやつだ。俺とおまえは雇用関係にあるんだ。おまえが他人に損害を与えたときは、俺が損害賠償をしなきゃなんねぇ。だからこれから責任を取っておまえを愛してやる」
「な、なに?なにそれ?意味が全然わかんないじゃない!道明寺は被害者でも何でもないじゃない!それに他人に損害って、あたしが何の損害与えてるの・・」
「いいや。俺はおまえの被害者でもあり責任者だ。見ろ。パーティーだってのに、こんな状態でひと前に立つことなんて出来ねぇじゃねぇかよ?ま、ここは立ってるけどな」
「ちょっ!あ、あたしの手、う、動かさないでよっ!」
「だから責任問題。この会場に来てる面子に合わせるツラねーってことで」
「えっ・・ちょっとどこ行くのよ!」
「どこってどこがいいんだ?なんなら近場のトイレでもいいが?」
司はそれだけ言うと涼しい顔をした。
早くしてくれと苦悩にうごめくのは俺のムスコ。
だがここから先は牧野の次第だ。
何そんなに真剣な顔してんだよ?
悩んでんのか?
けどそんなところもかわいい。
こいつはいつまでたっても初心なんだよな。
つーか、いい加減その赤面やめろ。俺たち今まで何十回、いや何百回ってヤッてんだろ?
それにたまにはおまえから俺を求めてくんねぇかな・・
もっと俺を欲しがってくんねぇ?
そうは言っても俺は無理言わねぇから、嫌なら嫌だって言ってくれたらいいんだぞ?
俺はおまえに無理なことはさせたくない。
だから・・
だが返された言葉は_
「わ、わかったわ・・」
それだけ聞けば十分だった。
俺はその場所で牧野をぎゅっと抱きしめた。
ホテルの部屋に灯る明かりは、部屋の片隅に置かれているナイトスタンドの明かり。
薄いオレンジの光りは互いの顔を見るには充分の明るさだ。
タキシードの男とイブニングドレスの女は、互いの洋服を脱がせることだけを考えているか、言葉はなかった。
男の襟もとの蝶ネクタイの結び目を解くことが難しいのか、女の指先はいつまでも男の喉元にあった。
昔は待つのが得意だった男も、今は我を忘れたように女の唇を貪りながら、背中のファスナーを探していた。だが、見つからなかったのか、それとも我慢が出来なくなったのか、彼の両手はドレスの背中を真ん中からふたつに引き裂いた。
そんなとき、女が返す言葉は、『新しいドレスなら売るほどあるから買わないで』。
だが、彼は女のために買い物をするのが嬉しくて仕方がない男だ。
望めばどんなものでも買ってやる。
それが例え宇宙の彼方にあるものだとしても、どんな手段を用いても手に入れてやる。
そう言うと女はいつも、『あんたの買い物につき合うほど暇じゃないの』
と笑って断っていた。
司は牧野つくし以外興味がない。
牧野つくし以外の女は考えられない。
だから彼女の言葉が彼の全て。
彼女が望むことをすることが彼の幸せ。
その目に涙が浮かぶのは見たくないから、いつも笑顔でいて欲しいから、そのためには、どんなことでもするつもりの男。
それが彼、道明寺司という男。
牧野つくしを称えて紙吹雪を撒いてパレードをしてもいいほど崇拝していた。
毎晩でも愛し合いたいと思うのは男としての本能か。
いや。違う。好きだから。愛しているから抱き合いたい。
磁石の対極が引き合って離れないのと同じように、一度結び付いたら離れたくないのが本音だ。決して離れたくないと、二度と離れたくないと心と体の結びつきを何度も確かめたくなるのは、愛しているから。愛さずにはいられないからだ。
司はドレスを脱がせると、自らのタキシードを脱ぎ捨てた。
床に無造作に脱ぎ捨てられた男と女の衣裳は、所詮見かけだけの装いだ。
本当の二人は今、ここにこうして生まれたままの姿でいる。
これまでの人生の中、互いに相手はひとりだけ。
男も女も互いが初めての相手。
司の下半身は牧野つくし以外興味がない。
息つく暇もないほどに口づけを繰り返し、女の足を浮かび上がらせ抱き上げた。
ベッドに横たえ、両手を広げ、女の腰を掴んだが、思わず入った力に恐らく痣が出来るはずだ。
力の差は歴然だ。だが、その細い腰も、かわいらしく上を向く小さな胸も、全てが彼のものだとわかっていた。そして、彼もまた目の前の女の全てが彼のものだと主張していた。
組敷いて、のしかかる大きな体を歓迎してくれることが、司にとっての喜びだ。
いつも戻りたいのは彼女の傍で、いて欲しいのは彼の隣。
唇から漏れる己の名前に、彼が力強く突き入れる度に漏れる名前に、女が自分だけのものだと世界中に向かって叫びたかった。
どんな名声よりも、彼女の口から漏れる己の名前を聞く最後の瞬間、自分が如何にこの女の前では無力であるかということに気づかされていた。
愛してる。
だから、これからもずっと俺といてくれ。
ただそれだけが司の望みだった。
好きで好きでたまらなかった女を手に入れてからの彼は、人生が一変していた。
そんな女のために軟弱になる姿を見るのは、崇拝されている女と彼の近しい友人だけ。
友人達が彼にかける言葉は
「おまえ、牧野と結婚したら溺愛し過ぎてあいつ溺愛っていう海の中で溺れちまうぞ?」
とまで言われる始末だ。
「なんで俺があいつを殺さなきゃなんねぇんだよ!あいつには俺っていう救命胴衣があるだろうが!」
「おまえは救命胴衣ってよりも、あいつと一緒に沈んで行きそうだな」
愛に溺れるって意味ならそれは当たってる。
確かに俺は17であいつと出会ってからずっとあいつに溺れてるってのが正しい。
あいつの中で溺れ死んでもいいと思うくらいなんだから仕方ねぇよな?
いつも素直じゃねぇ女が素直に甘い言葉を返すってことを知ってるのは俺だけ。
互いを深く愛してるからこその行為の間に唇から漏れる名前もつかさの3文字だけ。
昔バカな男だった俺をここまでの男にしてくれたのはあいつ。
だから俺はおまえには一生の借りがある。
おまえに出会わなかったら、俺は今まで生きていなかったかもしんねぇ。
それに好きな女のために、捨て身になる男なんて理解出来なかったが、今はそう言ったことが全て理解出来る。
牧野。
俺のためにおまえの隣を空けておいてくれて、愛を返してくれて、愛してくれて感謝してる。
これから先も時が果てるまでずっと一緒にいてくれ。
ただ、それだけでいいから。
おまえは俺の精神安定剤。
いや、違うな。おまえは俺の生きる源だ。
だからこれから先も一生俺の隣で笑ってくれ。
それが俺の生涯の望みだから。

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応援有難うございます。
褒めて、褒めて、ひたすら褒めて、相手が恥ずかしくなるほど褒めることが重要だ。
もう止めてくれと言われてもひたすら褒める。
それは子供の教育にも言える。
褒めて伸ばすという教育だ。褒めることで自信が生まれ、認められたという意識が働く。
そしてそれは信頼してもらったという喜びに変わる。
だが司は親から褒められた覚えがない。
どちらかと言えば放任主義の家庭環境で育てられていた。
そんな彼は元々頭がよかったから放任されても問題なかった。
それに相手に対して友好的な態度を取ることも重要だ。
こちらが相手に対し友好的な態度を示せば、相手も態度を軟化させる。
逆に攻撃的な態度を見せれば、相手も同じく攻撃的な態度を見せる。
俺はこの解釈を誤ったばかりに牧野との始まりを間違えた。
あいつに対して攻撃的な態度で臨んだばかりに、痛い目にあったことは数限りなくあった。
まあそれも今となってはそれもいい思い出だ。
ちなみに悪態をつくのは心の健康にはいいらしい。
そうなると過去に散々悪態をついていたのは、心の健康のためだったということだ。
確かに昔の俺は心が病んでたって言われていたが、今は心の健康ってのが如何に大切な事かと思えるのは全て牧野のおかげだ。
そんな俺もたまに悪態をつくこともあるが、そんな態度を牧野に見つかるとお叱りを受けることになる。
そんなとき、つまり牧野が口うるさくなり始めたら、俺はひたすら牧野を褒めるという態度に出ることにしている。
まず褒められるのが嫌な人間はいないはずだ。
機嫌の悪い牧野も褒められ続ければ、あの口も少しは大人しくなってくれる。
なあ、牧野。
心の健康ってことが大切だってことはもう十分わかった。
だから今度は体の健康のことを考えてもらいたいと思うのは俺のわがままか?
そんな中での妄想は人生の薬味。
妄想は日常の生活に活力と想像力を与えてくれるはずだ。
つまりスパイスだ。
長い人生のなか、刺激を求めることも大切だろ?
それが脳の活性化に役立ち、ひいてはこの会社のために役立つともなれば、あいつも俺を拒むことなんて出来ねぇはずだ。
それに心と体が別物だなんてことを考える男もいるらしいが、俺の場合は心も体も常に一緒で、牧野のことしか考えてない。
いいか?そこが一番重要だ。
つまり心と体は一緒の行動を取るべきであって、心と体がウラハラだなんていうこと自体が信じられねぇな。
そんな俺が体の健康のことを考えるとき。
まずは牧野を褒めることから始める。
褒め殺しなんて言葉もあるが、あいつを殺してどうすんだよ?
牧野が死んだら俺は一生右手だけになるじゃねぇかよ!
そんなことになったら困るのは俺じゃねえぇかよ!
褒めても殺すんじゃなくて、天国に連れてってやるのが彼氏の役目だろ?
褒めて、天国に連れて行く・・
まぁ、ヤリ方なら幾らでもある。
ただ、あんまし熱心に褒めるとなんか下心があるんじゃねーかって思うのが人間だ。
だから褒められたことを素直に喜べない人間も多い。
だけどな。
俺が褒める相手は牧野以外にいねぇんだから素直に喜べ。
ありがとうって言え。
「なあ、牧野。おまえはかわいいな」
「ど、どうしたのよ?急に?」
「なんだよ?彼氏が彼女を褒めて何がわりぃって言うんだよ?おまえ、俺に褒められることが不満なのか?迷惑なのか?俺の行為は迷惑行為なのか?迷惑防止条例違反か?」
「べ、別にそんなこと・・」
「だろ?牧野。おまえは綺麗だ」
「だから、ど、どうしたのよ?道明寺なんか変よ?」
「何が変なんだよ?牧野。すげぇ綺麗だ」
「だ、だって・・なんでいちいち・・そんな・・えっと・・」
「なんだよ?俺に褒められるのがそんなに嫌なのか?それにいつも言ってることじゃねぇかよ、ベッドの中で」
「で、でもっ、どうしてそんなこと急に・・」
だから素直じゃねぇって言うんだよ、この女は!
褒められたら素直にありがとうって言えばいいんだよ!
でもって感謝の印に俺に抱きついてキスなんかしてくれたらもっといいんだが、それを期待するのは無理だよな?
何しろここはパーティー会場のど真ん中だ。
そうだ。どうでもいいパーティーだが、俺も会社の代表としての勤めっていうのがあるからな。勿論そんなパーティーに同伴するのは、いとしの牧野。
今日のこいつはいつもと違って俺の贈ったパーティードレスに踵の高い靴。
それに髪は頭の後ろの高い位置で纏められていた。
やべぇ・・・
俺の贈ったドレスってこんなに露出してたか?
なんか布の面積が少くねぇが、こんなモンか?
けど、両肩出して細せっぇ腕も丸見えだし、胸なんて今にも見えそうじゃねぇかよ!
それになんだよ、そのスケスケの足元は!太腿から下のその生地の薄さはなんだよ!
冷えは女の大敵だなんて言ってたけど、そんなんでいいのかよ!
それに体のラインに沿うドレスは下着のラインが出るとかで着けねぇって聞いた。
おまえ・・パンツ履いてるのか?
まさか履いてねぇなんてことねぇよな?
それにしてもこんなじゃ他の男の視線を集めまくりじゃねぇかよ!
まじやべぇ・・
他の男どころか俺がやべぇ・・
こいつ25センチ下からなんか出してんじゃねぇのか?
っうか、この女こんなに色っぽかったか?
昔俺に向かって跳び蹴りして来た女だぞ?
おまけにいつまでたっても俺のことを好きって言わなかった素直じゃねぇ女だぞ?
好きだ、愛してるだの言ってるのはいつも俺の方で、この女は普段全くそんなこと口にしねぇ女だぞ?
それなのに、どうして今夜に限ってそんなに艶っぽいんだよ!
まさか、なんかヤッてんのかこいつ?いや。そんな訳ねぇか・・
とにかく、こんなに色っぽい女をどこの馬の骨かわかんねぇような男どもの視線の前にさらすなんてことが出来るわけねぇ!
「牧野、ちょっと来い」
「え?なに?ど、どこ行くのよ・・」
「帰る」
「ええっ!だ、だって来たばっかりじゃない!」
「いいんだよ。顔だけ見せりゃそれで終わりだ!」
「いや。でもちょっと、いくらなんでも早すぎるでしょ?」
「るせぇ・・・・だよ・・」
「えっ?なに・・?」
「・・出来ねぇんだよ!」
「な、なにが?」
「おまえを抱きたくて我慢が出来ねぇんだよ!どーしてくれるんだよっ!責任取れ!見ろこんなになってんだぞ!」
と言ってつくしの手を掴むと下半身に押し当てた。
途端、固まったつくし。
「おまえ、俺の心と体の心配してくれるなら、責任とってくれるよな?この責任」
「ちょっと・・」
「だから責任問題」
「なにが責任・・」
「使用者責任つぅやつだ。俺とおまえは雇用関係にあるんだ。おまえが他人に損害を与えたときは、俺が損害賠償をしなきゃなんねぇ。だからこれから責任を取っておまえを愛してやる」
「な、なに?なにそれ?意味が全然わかんないじゃない!道明寺は被害者でも何でもないじゃない!それに他人に損害って、あたしが何の損害与えてるの・・」
「いいや。俺はおまえの被害者でもあり責任者だ。見ろ。パーティーだってのに、こんな状態でひと前に立つことなんて出来ねぇじゃねぇかよ?ま、ここは立ってるけどな」
「ちょっ!あ、あたしの手、う、動かさないでよっ!」
「だから責任問題。この会場に来てる面子に合わせるツラねーってことで」
「えっ・・ちょっとどこ行くのよ!」
「どこってどこがいいんだ?なんなら近場のトイレでもいいが?」
司はそれだけ言うと涼しい顔をした。
早くしてくれと苦悩にうごめくのは俺のムスコ。
だがここから先は牧野の次第だ。
何そんなに真剣な顔してんだよ?
悩んでんのか?
けどそんなところもかわいい。
こいつはいつまでたっても初心なんだよな。
つーか、いい加減その赤面やめろ。俺たち今まで何十回、いや何百回ってヤッてんだろ?
それにたまにはおまえから俺を求めてくんねぇかな・・
もっと俺を欲しがってくんねぇ?
そうは言っても俺は無理言わねぇから、嫌なら嫌だって言ってくれたらいいんだぞ?
俺はおまえに無理なことはさせたくない。
だから・・
だが返された言葉は_
「わ、わかったわ・・」
それだけ聞けば十分だった。
俺はその場所で牧野をぎゅっと抱きしめた。
ホテルの部屋に灯る明かりは、部屋の片隅に置かれているナイトスタンドの明かり。
薄いオレンジの光りは互いの顔を見るには充分の明るさだ。
タキシードの男とイブニングドレスの女は、互いの洋服を脱がせることだけを考えているか、言葉はなかった。
男の襟もとの蝶ネクタイの結び目を解くことが難しいのか、女の指先はいつまでも男の喉元にあった。
昔は待つのが得意だった男も、今は我を忘れたように女の唇を貪りながら、背中のファスナーを探していた。だが、見つからなかったのか、それとも我慢が出来なくなったのか、彼の両手はドレスの背中を真ん中からふたつに引き裂いた。
そんなとき、女が返す言葉は、『新しいドレスなら売るほどあるから買わないで』。
だが、彼は女のために買い物をするのが嬉しくて仕方がない男だ。
望めばどんなものでも買ってやる。
それが例え宇宙の彼方にあるものだとしても、どんな手段を用いても手に入れてやる。
そう言うと女はいつも、『あんたの買い物につき合うほど暇じゃないの』
と笑って断っていた。
司は牧野つくし以外興味がない。
牧野つくし以外の女は考えられない。
だから彼女の言葉が彼の全て。
彼女が望むことをすることが彼の幸せ。
その目に涙が浮かぶのは見たくないから、いつも笑顔でいて欲しいから、そのためには、どんなことでもするつもりの男。
それが彼、道明寺司という男。
牧野つくしを称えて紙吹雪を撒いてパレードをしてもいいほど崇拝していた。
毎晩でも愛し合いたいと思うのは男としての本能か。
いや。違う。好きだから。愛しているから抱き合いたい。
磁石の対極が引き合って離れないのと同じように、一度結び付いたら離れたくないのが本音だ。決して離れたくないと、二度と離れたくないと心と体の結びつきを何度も確かめたくなるのは、愛しているから。愛さずにはいられないからだ。
司はドレスを脱がせると、自らのタキシードを脱ぎ捨てた。
床に無造作に脱ぎ捨てられた男と女の衣裳は、所詮見かけだけの装いだ。
本当の二人は今、ここにこうして生まれたままの姿でいる。
これまでの人生の中、互いに相手はひとりだけ。
男も女も互いが初めての相手。
司の下半身は牧野つくし以外興味がない。
息つく暇もないほどに口づけを繰り返し、女の足を浮かび上がらせ抱き上げた。
ベッドに横たえ、両手を広げ、女の腰を掴んだが、思わず入った力に恐らく痣が出来るはずだ。
力の差は歴然だ。だが、その細い腰も、かわいらしく上を向く小さな胸も、全てが彼のものだとわかっていた。そして、彼もまた目の前の女の全てが彼のものだと主張していた。
組敷いて、のしかかる大きな体を歓迎してくれることが、司にとっての喜びだ。
いつも戻りたいのは彼女の傍で、いて欲しいのは彼の隣。
唇から漏れる己の名前に、彼が力強く突き入れる度に漏れる名前に、女が自分だけのものだと世界中に向かって叫びたかった。
どんな名声よりも、彼女の口から漏れる己の名前を聞く最後の瞬間、自分が如何にこの女の前では無力であるかということに気づかされていた。
愛してる。
だから、これからもずっと俺といてくれ。
ただそれだけが司の望みだった。
好きで好きでたまらなかった女を手に入れてからの彼は、人生が一変していた。
そんな女のために軟弱になる姿を見るのは、崇拝されている女と彼の近しい友人だけ。
友人達が彼にかける言葉は
「おまえ、牧野と結婚したら溺愛し過ぎてあいつ溺愛っていう海の中で溺れちまうぞ?」
とまで言われる始末だ。
「なんで俺があいつを殺さなきゃなんねぇんだよ!あいつには俺っていう救命胴衣があるだろうが!」
「おまえは救命胴衣ってよりも、あいつと一緒に沈んで行きそうだな」
愛に溺れるって意味ならそれは当たってる。
確かに俺は17であいつと出会ってからずっとあいつに溺れてるってのが正しい。
あいつの中で溺れ死んでもいいと思うくらいなんだから仕方ねぇよな?
いつも素直じゃねぇ女が素直に甘い言葉を返すってことを知ってるのは俺だけ。
互いを深く愛してるからこその行為の間に唇から漏れる名前もつかさの3文字だけ。
昔バカな男だった俺をここまでの男にしてくれたのはあいつ。
だから俺はおまえには一生の借りがある。
おまえに出会わなかったら、俺は今まで生きていなかったかもしんねぇ。
それに好きな女のために、捨て身になる男なんて理解出来なかったが、今はそう言ったことが全て理解出来る。
牧野。
俺のためにおまえの隣を空けておいてくれて、愛を返してくれて、愛してくれて感謝してる。
これから先も時が果てるまでずっと一緒にいてくれ。
ただ、それだけでいいから。
おまえは俺の精神安定剤。
いや、違うな。おまえは俺の生きる源だ。
だからこれから先も一生俺の隣で笑ってくれ。
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類は世田谷の道明寺邸に電話をかけていた。
司がラウンドすると言われていたゴルフ場に現れなかったからだ。
取引先の会長との回る予定だったが、先方が体調を崩したことにより急遽中止となったことはゴルフ場に着いてから知った。多くの政治家や有名人が好んで利用するゴルフ場は当然だが情報管理にも厳しい。誰がいつこの場所を訪れるかなど外部に漏れることは決して無い。
当然司のスケジュールなどわかるはずのない類だったが、思わぬところで知ることになった。司が一緒にラウンドする相手は、花沢物産とも懇意な関係にある会社の会長だったからだ。その会長の口から何気に漏れた司の名前とその日付。
類は今まで何度も司に連絡を取ろうと試みても、秘書がそれを受け入れることはなかった。
牧野つくしの一件以来、自分が憎まれていることはわかっているだけに、無駄だとは思っていても、会おうとすることを止めるわけにはいかなかった。
類は電話に出た使用人からの沈黙に耳を傾けていた。
暫くすると、当然のように司は留守だと答えが返って来た。どうすれば会えるかなど今更聞いても無駄だとわかっていた。
しかし、あの邸にいることはわかっていたが、訪ねたところで会えないこともわかっていた。
今、あの邸には二人の間に立って調整機能を果たしてくれる人間はいない。司のような男に意見が言えるとすれば、今日一緒にラウンドするはずだった会長くらいだ。だから司もゴルフにつき合うことにしたはずだ。
司のことだ。思わぬ時間を手に入れたからには牧野の所へ行くに決まっている。
その場所がどこだかわからないが、牧野欲しさにあれだけ追い回していた男だ。あの男がどんなに変わろうと恐らくその点だけは、昔と変わらないはずだ。
***
男が乗った車は雨の中、山荘までの山道を順調に走っていた。
到着に思ったほど時間がかかることはなく、予定していた時刻よりも早いくらいだ。
鋭く角ばった顔立ちは見れば印象に残る顔だ。だからいつも印象に残らないように工夫していた。だがこんな山の中で変装をする必要などない。そしてこの場所ならあと片づけをする必要もない。それが彼の仕事だとしても。
男が受けた命令は牧野つくしを息子の前から消すこと。
手段は問わず。
黒い噂がある道明寺の父親と息子。
この二人はどちらも頭がいい。目的を達成するまではその刃を収めることがない。
そして彼らの祖父もまた然りだった。
だからこそ、道明寺財閥は戦後の混乱期も潰れることなく大きくなっていった。
祖父、父親、そして息子と3代に渡って築き上げてきた企業は今では巨大化していた。
子会社は無数にあり、記念財団や美術財団までも有している。そして医療法人まであった。
あの親子はどちらも冷酷な決定を平気で下す。
だが息子は牧野つくしと再会してから、どこか変わったということだろう。父親は危惧すべきことが出て来たようだ。
息子が望んだのは、牧野つくしに子どもを産ませるということ。そして結婚するということだ。牧野つくしに再会する前の道明寺司なら、ほぼ父親の望むような男だった。ビジネスに冷酷で、政治家を利用し、例え国益に反しようが会社の利益が上がればそれでいいというような男だったはずだ。
ビジネスではいつも必ず勝者となる男。
真綿でじわじわと相手の首を絞めるのではなく、荒縄で一気に絞める男。
競争社会の勝者であり、格差社会の頂点にいる男。
そんな男だった息子が変わっていく姿を父親は許せなかったということか。
親子であって親子でない道明寺司とその父親。
この対決が大きなうねりとならないうちに押さえ込もうとする父親は、息子の幸せなどどうでもいいらしい。
だが、その場で押さえることが出来ても、別の場所で大きなうねりを作り出すこともある。 穏やかに寄せては返す波も、時に突然その大きさを増して襲いかかることがある。まさにそれと同じことが人生にも起こる。いつも良いことばかり続かないというのは、そういうことだ。
人生とは実にバランスよく出来ていて、良いことと悪いことが繰り返し起こるものだ。
男は山荘から少し離れた林に車を乗り入れるとエンジンを止めた。そしてハンドルに腕を乗せて暫くじっとしていた。やがて助手席に置かれている一枚の写真に目を向けていた。
そこに写る女は間違いなく牧野つくし。この写真はいつ撮られたものか。隠し撮りをされた写真は女のほほ笑みを綺麗に写し出していた。柔らかくほほ笑む姿は何を思ってほほ笑んだのか。
だが気の毒にと思わずにはいられなかった。あの父親に目を付けられてはどうしようもないだろう。例え息子が守ろうとしても、いつかのあの日の様に痛い目を見ることになる。
昔、男はある仕事をした。
だがそれはあくまでも不幸な事故だった。
あの頃はこの少女のことは知らなかった。
それに自分は血も涙もない殺し屋ではない。
「どちらにしても、厄介なことにならないうちに、なんとかするのがあの父親のやり方なんだろう」
***
昔と何も変わらない風景がそこにあった。
生まれてこのかた自然に興味など示したことがないというのに、こうして外の風景を眺めていると、幼かった日々が甦るようだ。
自分にも無邪気で世間の暗い部分を知らない頃があった。だが、いつの頃からか暗い闇が己の前に広がっていたことに気づいていた。そしてその暗闇はまだ彼の前に広がったままでいた。
自分はひとりで生きて来た。いつもひとりぼっちだった。
それは厳然たる事実で、その事実は常に邸の中にあった。幼い頃から両親はおらず、広大な邸に姉と年老いた使用人と暮らしているようなもので、その二人以外の人間とまともに口など利いたことがなかった。
両親に会うことは年に一度か二度あればいい方で、会わずに終わる年もあった。そんな中で久しぶりに会う自分の子どもに対する態度は、いつも″お好きなように″と言った態度だった。
そんな親を持ち、何をしても眉をしかめることもない人間に囲まれて育てば、人として何が許され、何が許さないのかも理解出来なかった。
ある日、邸の中に飾られていた花瓶を叩き壊して歩いたことがあった。
花瓶をつかみ、堅い床めがけて叩きつけて歩く。そんな自分の後ろには、粉々に砕け散った陶器が散乱していた。生けられていた花は足で踏みつけていた。
花なんぞ生けて何が楽しい?
花に色があることさえ憎らしい、すべてが暗闇に包まれてしまいえばいい。
自分と同じ暗闇に咲けばいい。
いつもそう考えていた。
ある時、邸の中に母親がいたことがあったが、それはまさに年に一度あるかないかの帰国。
そんな時もドアを開け放つと、あの女の前まで歩いていき、コンソールテーブルの上に飾られていた花瓶を掴んで床に叩きつけたこともあったはずだ。それなのに自分の子どもを叱るということもしない女。自分の子どもに興味がないのか表情が変わることはなく、デスクに向かって仕事を続けていた。
部屋から出る前、振り返って見ても変わらずの姿勢に、あの女が自分の母親であることは間違いない。そのことを確信した。
それはまさに、此の親にして此の子ありかと実感できた瞬間でもあったはずだ。
飾られていた花を息子の足で踏みつけられても、眉をしかめることもしない女。
そんな女だから、道端に咲く雑草のような花も平気で踏みつけることが出来ると知った。
あの女は、牧野つくしはそんな母親に屈服することなく戦ったこともあったはずだ。
それなのに、あの女は、牧野はどうして俺を捨てた?
ヘリは都内から牧野つくしのいる山荘に向かっていた。
ずっと一緒に居たいと願い、何もかも捨てるとさえ告げた女の元へ。
かつて司の居場所は彼女の傍だった。
そう_あの日までは。
狂った世の中を叩き壊す。
狂った時間を。
狂った夜を。
己の周りにある全ての物を壊してしまいたい。
そんな中で手にした女は司の心の中に巣食ってしまった。
手に入れた瞬間、歓びよりも復讐心の方が大きかったはずだ。それなのに今となっては、再会する以前の、会いたかったという思いの方が大きくなっていた。
だがこの世界は虚ろで、司の心は氷よりも冷たくなっていた。
目覚めて太陽の光を浴びても溶けることのない彼の心。そんな心と10年も過ごせば、己の心があるのかさえ分からなくなっている。その心を生み出したのはひとりの少女。
あの日の雨の中、自分を捨てて去った女。振り返ることなく去っていった後ろ姿が目に焼き付いていて、何年経とうが頭から離れようとはしなかった。その光景の中に何か見落としてしまったものがないかと、希望を見つけることが出来るのではないかと、幾度か思い出しても浮かぶことはなく、ただ、ひたすらあの雨の音と冷たさだけが思い出されて来るばかりだ。
だがもう10年も前の話だ。
まるで夢だったとでも言えるあの短い恋。
それは束の間の夢。
そしてそれはいつの頃からか見果てぬ夢となって、悪夢となって、司を、彼の心を蝕んでいた。だがあの女を手に入れた。どこにも逃がさないと閉じ込めた。そしてもう他の誰も触れることがない。それなのに心の飢えは収まることがなく、そして心が晴れることがない。
だが、今さら何を?心が晴れるだと?そんなことを望んだことなどなかったはずだ。
だがいったい自分は何をしているのか。
いったい自分は何をしたいのか。
今では自分の心の奥底を覗くことを避けようとしている。
皮肉な思いが頭に浮かんでいた。
自分と同じレベルまであの女を落として共に暮らすことだけを望んでいるのか。
人生を選択することが許されなかった自分と同じ状況に置きたいというのなら、もう十分その状況に置かれているはずだ。
狂った世の中から抜け出したい。
いや。
狂ったのは自分だけで、世の中は狂っていないのかもしれない。
ならばいっそ狂った己を壊してしまおうか。
狂ったと言われているこの精神を。そしてこの肉体を。
軋む骨から肉をそぎ落としてどこかの獣にくれてやるか。
道明寺という肥大化した組織からそぎ落とした肉を。
だがこの世界は狂ってしまう己のために用意されていたのかもしれない。
そんな思いが頭の中を過る。
今の司が囚われている世界は道明寺という檻。
他人は豪華なその檻の中に入りたがるが、彼はかつてその檻から抜け出そうとした。
そして実際抜け出せると思っていた。
常に苛立ちに襲われていたあの頃、檻から抜け出せると思った。
恋を知った高揚感に心が躍り、陶酔までした女のためにあの家を捨てようとした。
互いに惹きつけられた。それは確かにあったはずだ。
例えばあの日。
似合いもしない場所でコーヒーを飲み、あの邸を出ると言った。ガキの遊び場で、互いのプライドをかけたような遊びもした。深い意味はないと言われキスをされ、今までの人生で一番幸せな時間を経験したはずだった。
それはまるで、太陽が沈み切る前の最後の輝きだったかのようだ。
幸せな人生の始まりの光り。そう感じていた。だがやはりそれは、最後の輝きだったのかもしれない。
あの日、二人の関係は終幕を迎え、そして司は豪華な檻から抜け出すことは出来なかった。
あの手で連れ出して欲しかった。
司はあの日から誰にも傷つけられまいと、もう二度と本当の心をさらけ出さまいと決めた。
二度と傷ついてなるものかと。
再会して以来抵抗を示していた女は、いつの頃からか、まるでその肉体を古代の神に生贄として捧げられる処女のように受け身になっていた。略奪しかない行為に、愛など感じられるはずのない行為に、まるで男の欲望の捌け口としてそこにいるかのように大人しくなっていた。それは逃げないと言ってから、己の運命を受け入れたかのようでもあり、施しを与えるかのようでもあった。
自分の心を守ることを忘れたかのようなその行為。
かつて小憎らしいほど彼に歯向かって来た女はもういないのか。
華奢な体で立ち向かってきたあの少女は10年たった今、乳白色の肌をさらけ出して抱かれることを拒みはしなかった。
本当なら、二人で体を重ねることで、心を重ねることであの瞬間を夢みていたはずの少年の心があったはずだった。
司は口もとを歪めることが癖となっていた。
それはあの頃と違って笑いを含むものではなく、嘲りの微笑。
彼の心に吹きすさぶ風は、これから先も決して止む事はないだろう。
こんな世界は、狂ってしまった己の世界は、これからどの道破滅に向かっているはずだ。
まるで司の乗ったヘリが日没を迎える西の空に向かって飛行しているかのように。
西の国にあるという黄泉の国。そこで待つのは、冥府の王ハデスとなった己と共に地獄の底を歩いてくれる女なのか?それともそこから連れ出してくれる女なのか。
司はいつしか温かみが消えてしまったあの頃には戻りたくはなかった。
あの雨の日には。
だがいつか終わりが来る。
終わりが来るのか、己が終わらせるのか。
どちらにしても、誰かが二人の邪魔をしようとすることだけは、確信とも言える自信があった。それは砂時計の砂が落ちることを止めることが出来ないのと同じだ。
あのときこの手に掴んだと思った幸せが、まさに砂を掴んだ如く、さらさらと指の間から零れ落ちるのを見た。
砂は決して形を成さない。指の間から零れた砂はいつか風に吹かれてどこかへ飛ばされて行ってしまう。そして彼の足元に残されるものは、恐らく何もない。
幸せの定義があるなら教えて欲しい。
何を持って幸せというのか。
だが今の自分が感じているこの思いが幸せだと言うのなら、何をこんなに考える必要があるというのか。
あの日心にぽっかりと空いた穴を埋める砂はなく、いつまでたってもその穴が埋められることはなかった。やがて時の経過と共に流し込まれた砂は、留まることなく流砂となって全てのものを呑み込んでしまっていた。もがけばもがくほど沈み込んでいく砂のように、そこにあったはずの心もどこかへ行ってしまった。
こんな状況でもいつか誰かが二人の間の邪魔をする。
だが、それが誰であろうと司は許すつもりはなかった。

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司がラウンドすると言われていたゴルフ場に現れなかったからだ。
取引先の会長との回る予定だったが、先方が体調を崩したことにより急遽中止となったことはゴルフ場に着いてから知った。多くの政治家や有名人が好んで利用するゴルフ場は当然だが情報管理にも厳しい。誰がいつこの場所を訪れるかなど外部に漏れることは決して無い。
当然司のスケジュールなどわかるはずのない類だったが、思わぬところで知ることになった。司が一緒にラウンドする相手は、花沢物産とも懇意な関係にある会社の会長だったからだ。その会長の口から何気に漏れた司の名前とその日付。
類は今まで何度も司に連絡を取ろうと試みても、秘書がそれを受け入れることはなかった。
牧野つくしの一件以来、自分が憎まれていることはわかっているだけに、無駄だとは思っていても、会おうとすることを止めるわけにはいかなかった。
類は電話に出た使用人からの沈黙に耳を傾けていた。
暫くすると、当然のように司は留守だと答えが返って来た。どうすれば会えるかなど今更聞いても無駄だとわかっていた。
しかし、あの邸にいることはわかっていたが、訪ねたところで会えないこともわかっていた。
今、あの邸には二人の間に立って調整機能を果たしてくれる人間はいない。司のような男に意見が言えるとすれば、今日一緒にラウンドするはずだった会長くらいだ。だから司もゴルフにつき合うことにしたはずだ。
司のことだ。思わぬ時間を手に入れたからには牧野の所へ行くに決まっている。
その場所がどこだかわからないが、牧野欲しさにあれだけ追い回していた男だ。あの男がどんなに変わろうと恐らくその点だけは、昔と変わらないはずだ。
***
男が乗った車は雨の中、山荘までの山道を順調に走っていた。
到着に思ったほど時間がかかることはなく、予定していた時刻よりも早いくらいだ。
鋭く角ばった顔立ちは見れば印象に残る顔だ。だからいつも印象に残らないように工夫していた。だがこんな山の中で変装をする必要などない。そしてこの場所ならあと片づけをする必要もない。それが彼の仕事だとしても。
男が受けた命令は牧野つくしを息子の前から消すこと。
手段は問わず。
黒い噂がある道明寺の父親と息子。
この二人はどちらも頭がいい。目的を達成するまではその刃を収めることがない。
そして彼らの祖父もまた然りだった。
だからこそ、道明寺財閥は戦後の混乱期も潰れることなく大きくなっていった。
祖父、父親、そして息子と3代に渡って築き上げてきた企業は今では巨大化していた。
子会社は無数にあり、記念財団や美術財団までも有している。そして医療法人まであった。
あの親子はどちらも冷酷な決定を平気で下す。
だが息子は牧野つくしと再会してから、どこか変わったということだろう。父親は危惧すべきことが出て来たようだ。
息子が望んだのは、牧野つくしに子どもを産ませるということ。そして結婚するということだ。牧野つくしに再会する前の道明寺司なら、ほぼ父親の望むような男だった。ビジネスに冷酷で、政治家を利用し、例え国益に反しようが会社の利益が上がればそれでいいというような男だったはずだ。
ビジネスではいつも必ず勝者となる男。
真綿でじわじわと相手の首を絞めるのではなく、荒縄で一気に絞める男。
競争社会の勝者であり、格差社会の頂点にいる男。
そんな男だった息子が変わっていく姿を父親は許せなかったということか。
親子であって親子でない道明寺司とその父親。
この対決が大きなうねりとならないうちに押さえ込もうとする父親は、息子の幸せなどどうでもいいらしい。
だが、その場で押さえることが出来ても、別の場所で大きなうねりを作り出すこともある。 穏やかに寄せては返す波も、時に突然その大きさを増して襲いかかることがある。まさにそれと同じことが人生にも起こる。いつも良いことばかり続かないというのは、そういうことだ。
人生とは実にバランスよく出来ていて、良いことと悪いことが繰り返し起こるものだ。
男は山荘から少し離れた林に車を乗り入れるとエンジンを止めた。そしてハンドルに腕を乗せて暫くじっとしていた。やがて助手席に置かれている一枚の写真に目を向けていた。
そこに写る女は間違いなく牧野つくし。この写真はいつ撮られたものか。隠し撮りをされた写真は女のほほ笑みを綺麗に写し出していた。柔らかくほほ笑む姿は何を思ってほほ笑んだのか。
だが気の毒にと思わずにはいられなかった。あの父親に目を付けられてはどうしようもないだろう。例え息子が守ろうとしても、いつかのあの日の様に痛い目を見ることになる。
昔、男はある仕事をした。
だがそれはあくまでも不幸な事故だった。
あの頃はこの少女のことは知らなかった。
それに自分は血も涙もない殺し屋ではない。
「どちらにしても、厄介なことにならないうちに、なんとかするのがあの父親のやり方なんだろう」
***
昔と何も変わらない風景がそこにあった。
生まれてこのかた自然に興味など示したことがないというのに、こうして外の風景を眺めていると、幼かった日々が甦るようだ。
自分にも無邪気で世間の暗い部分を知らない頃があった。だが、いつの頃からか暗い闇が己の前に広がっていたことに気づいていた。そしてその暗闇はまだ彼の前に広がったままでいた。
自分はひとりで生きて来た。いつもひとりぼっちだった。
それは厳然たる事実で、その事実は常に邸の中にあった。幼い頃から両親はおらず、広大な邸に姉と年老いた使用人と暮らしているようなもので、その二人以外の人間とまともに口など利いたことがなかった。
両親に会うことは年に一度か二度あればいい方で、会わずに終わる年もあった。そんな中で久しぶりに会う自分の子どもに対する態度は、いつも″お好きなように″と言った態度だった。
そんな親を持ち、何をしても眉をしかめることもない人間に囲まれて育てば、人として何が許され、何が許さないのかも理解出来なかった。
ある日、邸の中に飾られていた花瓶を叩き壊して歩いたことがあった。
花瓶をつかみ、堅い床めがけて叩きつけて歩く。そんな自分の後ろには、粉々に砕け散った陶器が散乱していた。生けられていた花は足で踏みつけていた。
花なんぞ生けて何が楽しい?
花に色があることさえ憎らしい、すべてが暗闇に包まれてしまいえばいい。
自分と同じ暗闇に咲けばいい。
いつもそう考えていた。
ある時、邸の中に母親がいたことがあったが、それはまさに年に一度あるかないかの帰国。
そんな時もドアを開け放つと、あの女の前まで歩いていき、コンソールテーブルの上に飾られていた花瓶を掴んで床に叩きつけたこともあったはずだ。それなのに自分の子どもを叱るということもしない女。自分の子どもに興味がないのか表情が変わることはなく、デスクに向かって仕事を続けていた。
部屋から出る前、振り返って見ても変わらずの姿勢に、あの女が自分の母親であることは間違いない。そのことを確信した。
それはまさに、此の親にして此の子ありかと実感できた瞬間でもあったはずだ。
飾られていた花を息子の足で踏みつけられても、眉をしかめることもしない女。
そんな女だから、道端に咲く雑草のような花も平気で踏みつけることが出来ると知った。
あの女は、牧野つくしはそんな母親に屈服することなく戦ったこともあったはずだ。
それなのに、あの女は、牧野はどうして俺を捨てた?
ヘリは都内から牧野つくしのいる山荘に向かっていた。
ずっと一緒に居たいと願い、何もかも捨てるとさえ告げた女の元へ。
かつて司の居場所は彼女の傍だった。
そう_あの日までは。
狂った世の中を叩き壊す。
狂った時間を。
狂った夜を。
己の周りにある全ての物を壊してしまいたい。
そんな中で手にした女は司の心の中に巣食ってしまった。
手に入れた瞬間、歓びよりも復讐心の方が大きかったはずだ。それなのに今となっては、再会する以前の、会いたかったという思いの方が大きくなっていた。
だがこの世界は虚ろで、司の心は氷よりも冷たくなっていた。
目覚めて太陽の光を浴びても溶けることのない彼の心。そんな心と10年も過ごせば、己の心があるのかさえ分からなくなっている。その心を生み出したのはひとりの少女。
あの日の雨の中、自分を捨てて去った女。振り返ることなく去っていった後ろ姿が目に焼き付いていて、何年経とうが頭から離れようとはしなかった。その光景の中に何か見落としてしまったものがないかと、希望を見つけることが出来るのではないかと、幾度か思い出しても浮かぶことはなく、ただ、ひたすらあの雨の音と冷たさだけが思い出されて来るばかりだ。
だがもう10年も前の話だ。
まるで夢だったとでも言えるあの短い恋。
それは束の間の夢。
そしてそれはいつの頃からか見果てぬ夢となって、悪夢となって、司を、彼の心を蝕んでいた。だがあの女を手に入れた。どこにも逃がさないと閉じ込めた。そしてもう他の誰も触れることがない。それなのに心の飢えは収まることがなく、そして心が晴れることがない。
だが、今さら何を?心が晴れるだと?そんなことを望んだことなどなかったはずだ。
だがいったい自分は何をしているのか。
いったい自分は何をしたいのか。
今では自分の心の奥底を覗くことを避けようとしている。
皮肉な思いが頭に浮かんでいた。
自分と同じレベルまであの女を落として共に暮らすことだけを望んでいるのか。
人生を選択することが許されなかった自分と同じ状況に置きたいというのなら、もう十分その状況に置かれているはずだ。
狂った世の中から抜け出したい。
いや。
狂ったのは自分だけで、世の中は狂っていないのかもしれない。
ならばいっそ狂った己を壊してしまおうか。
狂ったと言われているこの精神を。そしてこの肉体を。
軋む骨から肉をそぎ落としてどこかの獣にくれてやるか。
道明寺という肥大化した組織からそぎ落とした肉を。
だがこの世界は狂ってしまう己のために用意されていたのかもしれない。
そんな思いが頭の中を過る。
今の司が囚われている世界は道明寺という檻。
他人は豪華なその檻の中に入りたがるが、彼はかつてその檻から抜け出そうとした。
そして実際抜け出せると思っていた。
常に苛立ちに襲われていたあの頃、檻から抜け出せると思った。
恋を知った高揚感に心が躍り、陶酔までした女のためにあの家を捨てようとした。
互いに惹きつけられた。それは確かにあったはずだ。
例えばあの日。
似合いもしない場所でコーヒーを飲み、あの邸を出ると言った。ガキの遊び場で、互いのプライドをかけたような遊びもした。深い意味はないと言われキスをされ、今までの人生で一番幸せな時間を経験したはずだった。
それはまるで、太陽が沈み切る前の最後の輝きだったかのようだ。
幸せな人生の始まりの光り。そう感じていた。だがやはりそれは、最後の輝きだったのかもしれない。
あの日、二人の関係は終幕を迎え、そして司は豪華な檻から抜け出すことは出来なかった。
あの手で連れ出して欲しかった。
司はあの日から誰にも傷つけられまいと、もう二度と本当の心をさらけ出さまいと決めた。
二度と傷ついてなるものかと。
再会して以来抵抗を示していた女は、いつの頃からか、まるでその肉体を古代の神に生贄として捧げられる処女のように受け身になっていた。略奪しかない行為に、愛など感じられるはずのない行為に、まるで男の欲望の捌け口としてそこにいるかのように大人しくなっていた。それは逃げないと言ってから、己の運命を受け入れたかのようでもあり、施しを与えるかのようでもあった。
自分の心を守ることを忘れたかのようなその行為。
かつて小憎らしいほど彼に歯向かって来た女はもういないのか。
華奢な体で立ち向かってきたあの少女は10年たった今、乳白色の肌をさらけ出して抱かれることを拒みはしなかった。
本当なら、二人で体を重ねることで、心を重ねることであの瞬間を夢みていたはずの少年の心があったはずだった。
司は口もとを歪めることが癖となっていた。
それはあの頃と違って笑いを含むものではなく、嘲りの微笑。
彼の心に吹きすさぶ風は、これから先も決して止む事はないだろう。
こんな世界は、狂ってしまった己の世界は、これからどの道破滅に向かっているはずだ。
まるで司の乗ったヘリが日没を迎える西の空に向かって飛行しているかのように。
西の国にあるという黄泉の国。そこで待つのは、冥府の王ハデスとなった己と共に地獄の底を歩いてくれる女なのか?それともそこから連れ出してくれる女なのか。
司はいつしか温かみが消えてしまったあの頃には戻りたくはなかった。
あの雨の日には。
だがいつか終わりが来る。
終わりが来るのか、己が終わらせるのか。
どちらにしても、誰かが二人の邪魔をしようとすることだけは、確信とも言える自信があった。それは砂時計の砂が落ちることを止めることが出来ないのと同じだ。
あのときこの手に掴んだと思った幸せが、まさに砂を掴んだ如く、さらさらと指の間から零れ落ちるのを見た。
砂は決して形を成さない。指の間から零れた砂はいつか風に吹かれてどこかへ飛ばされて行ってしまう。そして彼の足元に残されるものは、恐らく何もない。
幸せの定義があるなら教えて欲しい。
何を持って幸せというのか。
だが今の自分が感じているこの思いが幸せだと言うのなら、何をこんなに考える必要があるというのか。
あの日心にぽっかりと空いた穴を埋める砂はなく、いつまでたってもその穴が埋められることはなかった。やがて時の経過と共に流し込まれた砂は、留まることなく流砂となって全てのものを呑み込んでしまっていた。もがけばもがくほど沈み込んでいく砂のように、そこにあったはずの心もどこかへ行ってしまった。
こんな状況でもいつか誰かが二人の間の邪魔をする。
だが、それが誰であろうと司は許すつもりはなかった。

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つくしを医務室まで運んでくれた男は彼女をベッドの上に降ろすと、後ろへ下がった。
まさか横たわるわけにはいかないつくしは、ベッドの上に足を乗せたまま両腕を後ろにつき、上半身を起こした状態でいた。
「西田。医者はどこだ?」
「はい。社内の別の場所にいるとのことで、只今こちらに向かっております」
男はベッドの側へ椅子を置くと、腰を下ろした。
「看護婦も一緒か?」
「どうやらそのようですね。いかがいたしましょう?医師はすぐこちらに戻るとは言っておりましたが、こちらの方を一人残していくわけにはいかないでしょう」
眼鏡をかけた男は言うとつくしを見やった。
「あの。わたしなら大丈夫です。お、お手数をお掛けしました。ほ、本当にご迷惑をお掛けして申し訳ございません。あのお医者さんにわざわざ見て頂かなくても大丈夫です。ただの捻挫だと思いますので、本当にあのもう大丈夫ですから」
つくしはここまでされると本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。医務室までこうして運んでくれただけでも、もう十分だというのに医師が戻るまでここにいるということに申し訳なさを感じていた。だがどうしてここまで親切にしてくれるのかが不思議だった。
「そうは仰っても社内での怪我ですから、我社の責任になります。社内での怪我は場合によっては労災の申請にもかかわりますから」
「西田。こんなことで労災申請するのか?」
「はい。ケースバイケースですが、考えられないこともありません。フロアの配線が一部露出していたために、そこに足を取られて転倒したというケースがありますので」
「でもこいつは配線に引っかかったわけじゃねぇぞ?」
二人が交わす会話から、モデルかと思った男はどうやらこの会社の社員だということがわかった。そしてその態度から、眼鏡をかけた中年の男性は、この男の秘書だということが推測される。秘書がつく待遇と言えば、役員クラスということになる。と、なるとつくしの目の前で椅子に腰かけ、こちらを見ている男はまだ30代半ば程だと思われるが、間違いなく上級クラスの役員だ。つくしが前方不注意でぶつかった相手がクライアントになるかもしれない企業の役員だなんてことになると、これからの契約にも影響が出るのではないだろうか。何しろ印象は大切だ。それなのにつくしは、思わずどこ見て歩いているのよ!なんて言ってしまった。
それにまさか訪問先の企業の医務室にお世話になるなんて。とつくしは焦っていた。
簡素な椅子に腰かけ、両肘を膝につき、指先を組み合わせ前屈みになった姿勢で何かを見透かそうとするように、じっとこちらを見る男。
つくしはそんな男に視線を向けることが出来ず、秘書と思われる男性に向かって話をしていた。
「あの。本当に大丈夫ですから。ご心配をいただくようなことにはなりませんし、ご迷惑をおかけするような事態にはなりませんから」
相手がクライアントになる予定の会社の役員なら、これ以上手を煩わせるなんて出来ない。
つくしは必死だった。もうこの場から逃げ出したい思いだった。
それに目を向けることが出来ない男からの強烈な視線だけは感じられていた。いったい何なのよ!あたしに言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!その言葉が出かかったが、グッと呑み込んだ。相手がクライアントじゃなければ、言ってやるのに!
「失礼ですが、こちらのビルにはどういったご用件でお見えになられたのでしょうか?」
秘書の男からの落ち着いた言葉につくしは我に返った。
男二人の視線はつくしの首からぶら下げられた入館証に目が行っていることはわかった。
そうよ!新商品の広告のオリエンテーションに来たのに、こんなところで呑気に話し込んでる場合じゃないわ!
「あ、はい。先ほどのフロアでの会議に参加するためなんです」
「会議?」
「は、はいあの・・」
「おい。西田。今日あのフロアである会議ってなんだ?」
問われた男は手元のタブレット端末を確認すると答えた。
「あちらのフロアである本日の会議は新商品の広告のオリエンテーションですね。各代理店から担当者がお見えになられていると思います」
「そうか。西田、氷とタオルを持って来てくれ」
「氷でございますか?医務室に氷は置いてないと思いますが」
「ならなんか冷やすものでも探してくれ。こいつの足首、腫れてるから冷やしてやんねぇとな」
男が指摘したとおり足首は誰が見ても腫れているとわかるほどで、既に熱をもってジンジンとしていた。
言われた男は医務室の中にあるとすれば、と冷蔵設備から医療用のコールドパック(保冷剤)を取り出して来た。
「こちらでいかがでしょうか」
「ああ。悪いな」
男は受け取るとつくしの足首に視線を向け、上着のポケットからハンカチを出すとコールドパックをつくしの足首に当て、ハンカチで縛っていた。
男の意外な行動につくしは戸惑った。
まさかこの男がどうしてそこまでという思いがあった。
一瞬ひんやりとした感覚に体がぴくりと反応したが、熱を持った足首が徐々に冷やされていくのが感じられ気持ちよかった。そしてその手際の良さに思わず見入っていたつくしは、慌てて礼をいった。
「あ、あの、ありがとうございます」
元はと言えば、つくしが自らぶつかっておいての怪我だと言うのに、この男性にここまでしてもらえるとは思いもしなかったはずだ。
「あの。本当にありがとうございます。ここまでして頂ける理由なんてないのに、どうして・・」
実際、この男は他人にここまでするような男には見えなかった。どちらかといえば、やっかいなことは秘書に任せるのがいいと考えるタイプだと思った。
「さあな・・。西田。時間もねぇことだしそろそろ行くか?」
男は言うと立ち上がり、踵を返してさっさと出て行った。
そしてその後を眼鏡の中年男性がつくしに向かって一礼をし、扉の向うへと姿を消そうとした。瞬間、つくしはその男性を呼び止めていた。
「あの。あの人はこちらの会社の・・その、偉い方なんですよね?に、西田さんとおっしゃいましたよね?西田さん。わたし、ご迷惑をおかけしたと思うんです。あの方はいったい_」
誰なんですか?という言葉は最後まで言えなかった。何故か聞くのが怖くなっていた。
それに何か嫌な予感がしていた。
だが現状からすれば迷惑をかけたことは明らかだ。ここまで親切にしてくれた相手の名前を聞かない失礼な女ではいたくない。
医務室まで運んで来てもらい、自ら足首にコールドパックをあて、それを自分のハンカチで巻いてくれるなんて男性がいるなんてこと自体も驚きだ。それなのに、きちんと礼を言うことも出来ないなんて、いい年をした社会人としては失格だ。
「こちらはわたくしの名刺です」
「ありがとうございます。ではわたしの名刺も・・」
つくしは慌てて上着のポケットから名刺入れを取り出すと、一枚抜いて差し出した。
恭しく受け取ると、すぐに並んだ文字を目で追っていた。
「では、もしお怪我が酷くて何かあれば、わたくしまでご連絡をお願いいたします。十分な対応はさせて頂きます」
ぱっと顔を上げた時には、すでに西田の姿は扉の向うへと消えていた。
そして、入れ替わるように白衣を着た医師と看護婦が戻って来た。
縦書きの名刺に書かれていたのは、道明寺ホールディングス 道明寺株式会社日本支社
秘書課 秘書室 秘書室長の肩書。
と、いうことは、恐らく西田という人物は日本支社長の秘書だということだ。
そしてその結果導き出された答えは_
つくしがぶつかった相手は日本支社長。
名前は・・道明寺・・司・・
この名前は確か、滋さんが言っていた名前。
もしかして滋さんが紹介しようとしてる道明寺の役員って・・
あの男のこと?!

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まさか横たわるわけにはいかないつくしは、ベッドの上に足を乗せたまま両腕を後ろにつき、上半身を起こした状態でいた。
「西田。医者はどこだ?」
「はい。社内の別の場所にいるとのことで、只今こちらに向かっております」
男はベッドの側へ椅子を置くと、腰を下ろした。
「看護婦も一緒か?」
「どうやらそのようですね。いかがいたしましょう?医師はすぐこちらに戻るとは言っておりましたが、こちらの方を一人残していくわけにはいかないでしょう」
眼鏡をかけた男は言うとつくしを見やった。
「あの。わたしなら大丈夫です。お、お手数をお掛けしました。ほ、本当にご迷惑をお掛けして申し訳ございません。あのお医者さんにわざわざ見て頂かなくても大丈夫です。ただの捻挫だと思いますので、本当にあのもう大丈夫ですから」
つくしはここまでされると本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。医務室までこうして運んでくれただけでも、もう十分だというのに医師が戻るまでここにいるということに申し訳なさを感じていた。だがどうしてここまで親切にしてくれるのかが不思議だった。
「そうは仰っても社内での怪我ですから、我社の責任になります。社内での怪我は場合によっては労災の申請にもかかわりますから」
「西田。こんなことで労災申請するのか?」
「はい。ケースバイケースですが、考えられないこともありません。フロアの配線が一部露出していたために、そこに足を取られて転倒したというケースがありますので」
「でもこいつは配線に引っかかったわけじゃねぇぞ?」
二人が交わす会話から、モデルかと思った男はどうやらこの会社の社員だということがわかった。そしてその態度から、眼鏡をかけた中年の男性は、この男の秘書だということが推測される。秘書がつく待遇と言えば、役員クラスということになる。と、なるとつくしの目の前で椅子に腰かけ、こちらを見ている男はまだ30代半ば程だと思われるが、間違いなく上級クラスの役員だ。つくしが前方不注意でぶつかった相手がクライアントになるかもしれない企業の役員だなんてことになると、これからの契約にも影響が出るのではないだろうか。何しろ印象は大切だ。それなのにつくしは、思わずどこ見て歩いているのよ!なんて言ってしまった。
それにまさか訪問先の企業の医務室にお世話になるなんて。とつくしは焦っていた。
簡素な椅子に腰かけ、両肘を膝につき、指先を組み合わせ前屈みになった姿勢で何かを見透かそうとするように、じっとこちらを見る男。
つくしはそんな男に視線を向けることが出来ず、秘書と思われる男性に向かって話をしていた。
「あの。本当に大丈夫ですから。ご心配をいただくようなことにはなりませんし、ご迷惑をおかけするような事態にはなりませんから」
相手がクライアントになる予定の会社の役員なら、これ以上手を煩わせるなんて出来ない。
つくしは必死だった。もうこの場から逃げ出したい思いだった。
それに目を向けることが出来ない男からの強烈な視線だけは感じられていた。いったい何なのよ!あたしに言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!その言葉が出かかったが、グッと呑み込んだ。相手がクライアントじゃなければ、言ってやるのに!
「失礼ですが、こちらのビルにはどういったご用件でお見えになられたのでしょうか?」
秘書の男からの落ち着いた言葉につくしは我に返った。
男二人の視線はつくしの首からぶら下げられた入館証に目が行っていることはわかった。
そうよ!新商品の広告のオリエンテーションに来たのに、こんなところで呑気に話し込んでる場合じゃないわ!
「あ、はい。先ほどのフロアでの会議に参加するためなんです」
「会議?」
「は、はいあの・・」
「おい。西田。今日あのフロアである会議ってなんだ?」
問われた男は手元のタブレット端末を確認すると答えた。
「あちらのフロアである本日の会議は新商品の広告のオリエンテーションですね。各代理店から担当者がお見えになられていると思います」
「そうか。西田、氷とタオルを持って来てくれ」
「氷でございますか?医務室に氷は置いてないと思いますが」
「ならなんか冷やすものでも探してくれ。こいつの足首、腫れてるから冷やしてやんねぇとな」
男が指摘したとおり足首は誰が見ても腫れているとわかるほどで、既に熱をもってジンジンとしていた。
言われた男は医務室の中にあるとすれば、と冷蔵設備から医療用のコールドパック(保冷剤)を取り出して来た。
「こちらでいかがでしょうか」
「ああ。悪いな」
男は受け取るとつくしの足首に視線を向け、上着のポケットからハンカチを出すとコールドパックをつくしの足首に当て、ハンカチで縛っていた。
男の意外な行動につくしは戸惑った。
まさかこの男がどうしてそこまでという思いがあった。
一瞬ひんやりとした感覚に体がぴくりと反応したが、熱を持った足首が徐々に冷やされていくのが感じられ気持ちよかった。そしてその手際の良さに思わず見入っていたつくしは、慌てて礼をいった。
「あ、あの、ありがとうございます」
元はと言えば、つくしが自らぶつかっておいての怪我だと言うのに、この男性にここまでしてもらえるとは思いもしなかったはずだ。
「あの。本当にありがとうございます。ここまでして頂ける理由なんてないのに、どうして・・」
実際、この男は他人にここまでするような男には見えなかった。どちらかといえば、やっかいなことは秘書に任せるのがいいと考えるタイプだと思った。
「さあな・・。西田。時間もねぇことだしそろそろ行くか?」
男は言うと立ち上がり、踵を返してさっさと出て行った。
そしてその後を眼鏡の中年男性がつくしに向かって一礼をし、扉の向うへと姿を消そうとした。瞬間、つくしはその男性を呼び止めていた。
「あの。あの人はこちらの会社の・・その、偉い方なんですよね?に、西田さんとおっしゃいましたよね?西田さん。わたし、ご迷惑をおかけしたと思うんです。あの方はいったい_」
誰なんですか?という言葉は最後まで言えなかった。何故か聞くのが怖くなっていた。
それに何か嫌な予感がしていた。
だが現状からすれば迷惑をかけたことは明らかだ。ここまで親切にしてくれた相手の名前を聞かない失礼な女ではいたくない。
医務室まで運んで来てもらい、自ら足首にコールドパックをあて、それを自分のハンカチで巻いてくれるなんて男性がいるなんてこと自体も驚きだ。それなのに、きちんと礼を言うことも出来ないなんて、いい年をした社会人としては失格だ。
「こちらはわたくしの名刺です」
「ありがとうございます。ではわたしの名刺も・・」
つくしは慌てて上着のポケットから名刺入れを取り出すと、一枚抜いて差し出した。
恭しく受け取ると、すぐに並んだ文字を目で追っていた。
「では、もしお怪我が酷くて何かあれば、わたくしまでご連絡をお願いいたします。十分な対応はさせて頂きます」
ぱっと顔を上げた時には、すでに西田の姿は扉の向うへと消えていた。
そして、入れ替わるように白衣を着た医師と看護婦が戻って来た。
縦書きの名刺に書かれていたのは、道明寺ホールディングス 道明寺株式会社日本支社
秘書課 秘書室 秘書室長の肩書。
と、いうことは、恐らく西田という人物は日本支社長の秘書だということだ。
そしてその結果導き出された答えは_
つくしがぶつかった相手は日本支社長。
名前は・・道明寺・・司・・
この名前は確か、滋さんが言っていた名前。
もしかして滋さんが紹介しようとしてる道明寺の役員って・・
あの男のこと?!

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