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2016
09.29

恋人までのディスタンス 39

つくしは司に掴まれた自分の手を見つめるしかなかった。
スラックスの布越しとはいえ、手が触れているのは紛れもなく男性のあの部分。
息を止め、体は固まった状態で身じろぎひとつ出来ずじっとしていた。

「牧野、これがどういう意味かわかるよな?」

つくしは慌てて手を引っ込めようとしたが、司は放そうとはしなかった。

「これはおまえに魅力を感じて興奮してるからこうなるんだ」

耳たぶを甘噛みでもされそうなくらいの近さで囁かれ、つくしの体はびくんと動いた。
魅惑のバリトンヴォイスと呼ばれるその声。
それは甘い麻酔となってつくしの頭を麻痺させていた。

「俺を見てくれ。牧野」

つくしの手を脚の間に置いたまま荒い息をつき、口元をわずかに歪めた。

「おまえの傍にいると、俺はいつもこうなる。いつも軽い拷問を受けてるようだ」

つくしは司の顔を見たが何も言わなかった。
と、言うよりも何も言えなかった。まさにその顔に浮かんだのは驚愕の表情。視線は絡み合っていたが、目は大きく見開かれたままで硬直していた。どうしたらいいのか、どうすればいいのかわからないと言った状態だ。

がっちりと掴まれたつくしの右手。
無理矢理引き離そうと下手に手を動かせば、何かとんでもないことが起こりそうだ。
なんとか口を開こうとしても、衝撃的な現状に口ごもって何も言えなかった。
いったいこれから何が起きようとしているのか。司の熱い眼差しと断固とした口調につくしの平常心は大きく揺れていた。

掴まれた手の位置がゆっくりと動き始めた。
司はあえてつくしの手を動かしてみせた。その行為は自分を苦しめるだけだとわかっていても、止めたくなかった。司が掴んだ手は小さな手で柔らかい。その柔らかさが司を刺激した。

つくしの目はますます大きく開かれたが、言葉は出ない。
頬は赤く染まり、激しい動揺が感じられ、まるで陸に上がった魚が口をぱくぱくさせているようだ。

「俺がこうなるのは、本当に欲しいと思ってる女に対してだけだ。俺はおまえと知り合ってから誰ともつき合ってない」

つくしの視線は司に掴まれた自分の手を凝視していた。
指までがっちりと掴まれ逃れようがない。

「俺はしょっちゅうこんな状態になってるわけじゃない。だから、ここにはおまえに対する思いが込められている。別に今すぐどうこうしろとは言わないが、いつまでもこの状況じゃ男は辛いものがある。だから責任をとってもらわなきゃなんねぇ」

男のその部分に触れることが初めてのつくしは、恥じらい以上に動揺が大きい。
ほんの一瞬だが、そこが時に意志を持ったように動くからだ。
その瞬間司の目がきらりと光った。

「な?こいつもおまえが欲しいって言ってるんだ」

その口調は穏やかだが、はっきりと言い切っていた。
声もそうだが、匂いもつくしを刺激した。この男独特の香りがつくしの鼻腔に飛び込んできて離れない。動悸がしていつも分別の塊のようなつくしは体がバラバラになりそうだ。
ふたりの周りには明らかに熱い空気が存在していた。

牧野つくしは30代で仕事が出来る女と言われていた。
だが、一度も男性とセックスの経験がない。それなのに、いきなり手を掴まれたかと思うと男のあの部分に手を添えさせられるという行為に仰天していた。

男っぽい、いや男そのものを間接的とはいえ触っている。
つくしの顔にさらに赤みが増していた。

司は、にやっと笑った。

「リラックスしろ。今すぐどうこうしようなんて考えてねぇよ。それにそんなに硬くなってたら痛い思いをするのはおまえだ」

リラックスするなんて絶対に無理だ。それに言っていることがよくわからない。痛い思いをするのはおまえだなんて一体・・。それはつまり、今すぐどうこうしようと考えていると思った方が正しいだろう。つくしは司の隣で固まった姿勢で動くことが出来なくなっていた。いったいこれから何が起きるのか不安に苛まれていた。
ましてや、ここは船の中、逃げるところも隠れるところも、どこにも無い。
喉に何か大きな塊があって、言葉は出なかった。


意味ありげな視線はつくしの体を見ていた。
司はしばらくつくしを見つめていたが、なんらかの結論に達したらしく、掴んでいた手を離した。

その行動はつくしを眩惑の世界から解き放った。
解放された自分の手を見つめ、それから再び司の脚の間を見た。そして自分が何を見つめているかにハッとすると慌てて目をそらした。

司は立ち上がり、おもむろに着ていた上着を脱ぐとソファの背へと投げていた。
つくしは司の考えていることがわからなかったが、息を吸うたびに不安だけが湧き上がってくるようだ。まさか、これから何らかの行為が待ち受けているのではないか。
だが道明寺の表情をみれば白い歯を見せて笑っているではないか。

「冗談だ・・」
乾いた笑い声だ。
「おまえが嫌がることはするつもりはねぇから心配するな。今のはちょっとした戯れだ」

司にはつくしの考えていることが手に取るようにわかった。どう考えているか、どう感じるか、まさに表情をみているだけで心の中の動きがすべてわかるようだ。

「ちょっと新鮮な空気でも吸いにいかねぇか?」

司はつくしに声をかけるとサロンの外へと連れ出した。
デッキから見える光景はすでに夜の帳がおりていた。新月なのか光はなく、海は暗い。
新月は新しいことを始めるには適していると言われ、新月に願いごとをすれば叶うと言われていた。
そんな新月の薄闇の中、司は手すりに背を預けるとつくしに顔を向けた。船室からの光りは漏れてはいたが顔の半分には影が差しており、その表情ははっきりとは見ることが出来なかった。

「なあ、牧野?」
返事はない。
「牧野?」
「え?」

つくしは先ほどまでの戯れだと言われた行為に動揺していた。頭の中では先ほどまでの光景が手の中の感触と共に思い出され、思わず顔がかっとしていた。

「おまえ、俺のこと好きだよな?」

唐突に切り出された言葉。
司はまだその言葉をはっきりと聞いたわけではなかった。

「俺と恋がしたいって言ったけど、おまえまさか恋に憧れているってわけで俺と・・」
「ち、ちがうわ・・そんなことない」

つくしは否定した。

「本当のことを言うと、おまえがはっきり俺を好きだって言ってくれねぇのが不安だ。俺はおまえにはっきりと自分の気持は使えたが、おまえはどうなんだ?俺はキスひとつで燃え上がってしまうくらいになっている。さっきは・・おまえを動揺させてやろうかと思ってあんなことをしたが、自分で自分を危険地帯に追い込んじまったようなもんだ」

つくしは黙ったままで、話しを聞いていた。

「俺はごく普通の男だ。今まで女ともそれなりにつき合いがあった。それに男だから欲望がないって言うのは嘘だ。好きな女に欲望を感じない男なんてのは世の中にはいねぇからな。それにこの年で経験がない方がおかしい」

つくしは思わず言い返した。

「あたしは30過ぎても経験がないわ。でもそれが悪いことだなんて思ってない」
司は笑いだした。
「違う。誰もおまえの経験がないことが悪いだなんて思ってない。むしろ俺には嬉しい驚きだけどな。おまえの初めては俺のものだろ?」

「わ、笑わないでよ!な、なにもまだ決まったわけじゃないわ!それに道明寺のために初めてを取っておいたわけじゃない」

つくしは憤慨して司を睨んだ。
司はこの場所から逃れようとするつくしの腕を掴むと抱き寄せた。
この船にはふたり以外客は誰もいないのに、まるで独占するかのようにしっかりと抱いていた。

「おまえの経験の話しから、あんなことになったが、苦痛を与えるつもりはない。さっきのことは悪かった。ちょっとふざけ過ぎた。すまない」

つくしは暫く考えるように司を見上げた。

「ほ、本当に悪いと思ってるの?」

「ああ。思ってる。ただ、おまえに初めての手ほどきをするのが俺だと思ったら、我慢できなくなっちまったってのが本当だが・・いや。どちらにしてもちょっと悪ふざけが過ぎた。それにおまえがあまりにも可愛く見えたってのもあったんだ。このクルージングに連れて来たのも、おまえの持ち前の警戒心が少し緩んでくれればと思ったからだ」

司はひと呼吸おくと言葉を継いだ。

「なあ。牧野?おまえ俺のこと好きなんだろ?はっきりと言ってくんねぇと俺鈍感だからわかんねぇんだ。おまえと違ってな」

「な、なによ。その言い方。まるであたしが鈍感みたいじゃないの・・」

つくしはそこまで言って赤くなった。司の言葉にもっともなところがあったからだ。
道明寺と恋がしたいとは言ったが、好きだとは言っていなかった。
気持の中には確かにある想いだが、伝えていなかった。
そうだ。いつからか好きになっていた。だけどそのことに気づかないふりをしていた。

「あたしは、道明寺が・・道明寺のことが好き。そうじゃなかったら今日、ここには来なかった。あの、も、もしお望みなら今夜ここに泊まってもいいわ」








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2016
09.28

恋人までのディスタンス 38

『 道明寺と恋がしたいの 』

あの日の唐突な発言につくし自身も驚いていた。突然の告白に恐らくあ然とされるだろうとは思っていた。だが心に湧き起こった感情を思わず口に出していた。あれほど素直じゃなかった女がどうして急にそんなことを言い出したのかと思うだろう。大人の男としての道明寺を意識し始めたのはいつ頃だったのか。性的な対象として見ないわけにはいかなくなっていた。

時々見せる温かなほほ笑みが自分に向けられるたびに、心が動いた。だが厄介なことにいい年をして、と言われるかもしれないが自らの気持に気づくには少し時間がかかった。
いや、少しどころじゃないはずだ。随分と時間がかかったかもしれない。

道明寺が時間をかけてゆっくりと事を運ぶことを得意としているとは思えなかったが、意識し続けるうちにこの男にも変化が現れて来ていた。
大人の男の本気の誘惑というものに接したのは恐らくこれが初めてだった。



つき合い始めたんだからそれなりのデートをしようとふたりが向かったのは、東京近郊のマリーナに停泊している豪華クルーザー。50メートルほどのエレガントな白い船体は、あの池の手漕ぎボートと比べ物にならないのは当然だが、ふたりの生活レベルの違いをまざまざとつくしに見せつけていた。

ちょっとしたクルージングだと言ったが、金持ちの男とのデートなどしたことがないつくしは、こんな時はどうしたらいいのか勝手がわからなかった。
それでもクルージングが初めてのつくしには全てが目新しく映り、デッキで穏やかな陽射しを浴び、潮風を感じてのんびりと過ごすことは非日常を感じさせてくれることで楽しむことが出来たはずだ。


「くつろいでくれ」

と、言われたがどこでどうくつろげばいいのか。
船の中には船室がいくつかと、中央にはサロンと呼ばれる大きな部屋がある。
サロンは広く美しい設備が備えられていて、船の中とは思えないような快適さだ。

「あの、聞いてもいい?」
「ああ。なんだ?」
「この船って道明寺の物なの?」

これだけ大きな船だ。個人の所有かそれとも会社の所有物なのか興味があった。

「ああ。これは俺個人のものだ」

何しろこの男は桁はずれの金持ちだ。やはりそうかと納得した。

「あの池で乗ったボートもよかったが、あれはクルーズには不向きだからな。外洋に出るならこっちの方が乗り心地がいいはずだ」

真面目な顔で冗談をいう男はつくしのことをじっと見つめていた。

「牧野、そんなに緊張するな。なにもおまえを取って食おうだなんて思ってねぇよ」

あっさりと考えを読まれたつくしは顔を赤らめた。

「どこでもいい。とりあえず座れ」

つくしはサロン中央にあるソファに腰を下ろした。
船の中とは思えない造りに感心していたつくしだったがデッキとは異なり、室内に入ると司の存在が急に近くに感じられた。

司はバーカウンターの内側に入ると、つくしに聞いた。

「おまえ何飲む?酒もあるけど、おまえは酒を飲むとすぐ酔っぱらうからな。紅茶でいいか?」

おもむろに引き出しを開け閉めしたかと思うとティーパックしかないが、と言って、カップに入れるとお湯を注ぎはじめた。つくしはその様子に思わず見とれていた。
そんな姿はまるでこの男に似合わないが、どこか家庭的に思えた。

「えっ?う、うん。ありがとう」

思いもよらぬ行動にこの男の別の一面を見たような気がしていた。





俺と恋がしたいと言った牧野。

真正面に立ってカップを手渡したとき、緊張しているのが司にもわかった。
当然ながら船の中は逃げる場所などない。
司はつくしの凝視に気づいたが、わざと視線を合わすことはしなかった。
駆け引きとは言わないが、そんな様子が見ていておかしかった。
まさに穴が開くほど見つめると言っていいほどだった。興味はあるが手は出せないと言った様子でいた。

司の経験上、こんな状況ともなれば、これまでほとんどの女性が彼に強引に迫って来た。
だが牧野は相変わらず恥ずかしそうな態度を崩そうとはしない。
これほど奥手の女には出会ったことはなかったが、反面これほど愉快な女にも出会ったことがなかった。
恋がしたいと言ったくせに牧野は踏み出すことを恐れている。

そんな女のため時間と空間が取れ、二人っきりになれる場所。そう考えたとき思いついたのがこの船の中だった。それにここなら周りの目も気にしなくていいはずだ。

なんでも考え過ぎる女は真面目な性格のうえに、なかなか自分の気持を正直に話そうとはしない。
それなら司から行動をしないかぎり、ふたりの距離は縮まることはないだろう。

「なあ、牧野。聞きたいことがあるんだがいいか?」

司は少し距離を置いて腰を下ろすと脚を組んだ。片腕はソファの背にかけ、くつろいだ姿勢をとった。

「おまえが空から落ちてきたとき_」
「あ、あたしが空から落ちて来たとき?」
「ああ」
「おまえが空から落ちてきたとき、俺に向かって手を振ったよな?」
「う、うん」

スカイダイビングをしたとき、地上近くで道明寺を見つけたとき思わず手を振っていた。

「あのとき、なんで俺に手を振ろうなんて気になったんだ?」

司はつくしの表情を見守ることにした。感情が表に出やすい女はこれからどう表情が変わるのかと思ったからだ。
大きく見開かれた黒い瞳が司を見た。

「あたしが、今まで考えていたのは・・その・・想像していたのは全然ちがったの」

「何が違ったんだ?」

司はソファから身を乗り出すようにして聞いた。

「いつの日かあたしにも、また男性とつき合う日が来ると思ってた。でも、なかなか上手くいかなかったっていうのが正直なところなの。優紀にも言われたけど、男の人とつき合うのが苦手で、どちらかと言うと壁の花みたいなところがあったの。なかなか次の一歩が踏み出せなくて悩んでいるうちにフラれちゃった。なんてことがあったの。別に嫌な思いをしたとか言うんじゃなくて、ただ・・あたしが踏み出せなかった・・」

つくしはため息をついた。

「だから男性経験がないのは、仕方がないのよ。勇気がなかっただけなんだと思うの。でもいつか、また誰かと恋をしたいと思わないことはなかったの。でもそれが、道明寺みたいな男性だとは考えもしなかった」

「なんだよ?俺みたいな男ってのは?」

司は静かに切り出した。
恋に慣れてない女に対し自分の恋心を気づかせるのは力がいる。そう感じていたからだ。
恋は誰でも平等に落ちる病だが、牧野は自分の恋心をどうしていいのか知らないのだろう。

「だ、だってあたし達全然似てないもの」
「アホかおまえは。あたりまえだろうが。似ていたらつまんねぇだろうが」
「だってあたしは、美人でもないし、お金持ちでもないし、ましてや・・」
「何だよ?言えよ?」
「む、胸も大きくないし・・」
「おまえは・・そんなこと気にしてるのか?」
「き、気にするわよ。だって道明寺の昔の彼女なんて人は・・み、みんなスタイルがいい人ばかりじゃない?女優とつき合ってたって記事だって・・」

司の視線が呆れたようにつくしを見た。

「牧野。おまえは俺のことそんなふうに見てたのか?」
「だって見るもなにも・・」

生活レベルが違うからつき合っていくのは難しい。
このクルーザーにしても、普段の生活にしてもどう考えても違い過ぎる。そう思い始めていた。

「いい加減にしろ。おまえは救いがたい女だな。俺は色んな意味でおまえが好きだって言ったよな?」

「う、うん・・」

「俺の基準を勝手に決めんじゃねぇよ。胸がデカいとかちいせぇとか、美人だとか金持ちだとかそんなことは関係ない。俺はひとりの人間としておまえを見た。松岡のために必死になったおまえの姿勢もそうだが、仕事も真面目だ。少しくらい不真面目なところがあってもいいはずだが、それもない。それにおまえは性根が座ってる。何しろ怖いもの知らずで俺に立ち向かって来るような女だからな。正直おまえのあのパンチはマジで痛かったけど、今となってはいい思い出だ」

司はあの時のことを思い出して、笑いだしたい衝動にかられていた。
だが、今笑うわけにはいかなかった。目の前の女はえらく真剣な表情で司を見ていたからだ。

「あのね、道明寺。あたしは、スカイダイビングを経験してからもっと色んなことに挑戦したいって思えるようになったの。だけどあたしと道明寺の経験の差は、その大きくて・・そのことを考えると怖気づいてしまって・・それに・・」

「牧野。いい加減自分を卑下するのはやめろ。人がどうであろうとおまえはおまえが思うように生きてきたんだろ?それなら今の自分に自信を持てよ?そうだろ?他人がどうの、俺がどうのなんて思う必要なんてねーからな」

司はつくしの顔を見ながら落ち着き払って言った。
その眼差しは真剣だったがどこか茶目っ気が感じられた。

「それにおまえは魅力的だ。おまえの魅力がわかんねぇ男はアホだ」

司は立ち上がるとつくしの隣に腰を下ろし手首を掴んだ。
嫌がる様子はない。

「いいか。牧野。経験なんてのはどうにでもなる。そんなのはゆっくりでいいんだ。俺が教えてやるから心配するな」

司はつくしの表情に不安の色がないかと見たがそんな様子も見られなかった。
すると、つくしの手を自分の脚の間へと持って行くと、高ぶった体に触れさせた。
一瞬の出来事につくしの目は大きく見開かれた。

「これがなんだかわかるよな?おまえに魅力を感じてるからこうなってるんだ。他の女じゃこんなふうになんねぇんだ。だからおまえじゃないと俺が困るんだ」







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2016
09.27

Collector 22

Category: Collector(完)
男は駐車場に車を止めると外へ出た。
山間部を通る高速道路にある小さなパーキングエリアは人影もまばらだった。
それもそうだろう。ここはトイレと自動販売機があるだけのスペースで売店などは無く、無人化されていたからだ。

遠くに見えるはずの山がはっきりとした稜線を持って見えていた。
山が近くに見えると雨が降る。そんなことわざがあるが本当だろうか。
だとすれば、これから行く場所は雨になるということか?雪にならないだけまだマシか。

恋愛中の少年と少女というのはいったいどのような時を過ごすというのか。
葬儀屋風情の男はそんなことには興味がなかったが、道明寺という大きな財閥の次の総帥となる男の若い頃には興味があった。

道明寺司は男が仕える人物の息子だ。少年時代に恋をしたがその恋が実ることなく、何年も相手の少女の面影を追っていたと耳にしたことがあった。そして今では大人になったかつて少女だった女を山奥の山荘に監禁している。
その女の名前は牧野つくし。道明寺司のひとつ下の学年にいた女だと聞いている。

道明寺司が牧野つくしを監禁している。そんな記事が週刊誌に載ったとしたらどうなる?写真が世間にもたらす効果は絶大だ。だが彼のそんな私生活が世間に暴かれることは決してないだろう。

そう言えば、花沢物産の専務の話が週刊誌を騒がせたことがあったはずだ。
あれは専務が仕事もせずに女に金をつぎ込んでいる。確かそんな話しだったと記憶している。
明らかに書かせたものだとわかっていたが、人々は全てとは言わなくとも、書かれたことと見たことを信じるものだ。
それに確か同じ頃だったはずだ。花沢物産は提携工作を進めていた会社を道明寺HDにかすめ取られる形で失った。あの専務は道明寺司の親友だった男だ。だが牧野つくしを挟んで二人の仲は割れていた。

牧野つくしの両親が交通事故で亡くなったあと、姉と弟の力になったのは花沢物産の専務となったひとり息子だ。あの事故から10年、女は花沢邸で暮らしていたが邸を出てひとり暮らしを始めた途端、行方不明になっていた。だが失踪届は出されていない。いや、出されていたが握りつぶされていた。
握りつぶしたのは道明寺司で、花沢物産の専務は牧野つくしを探しているらしい。

はたして花沢類は牧野つくしのことが好きなのか?
そうでなければ邸に住まわせて面倒を見ることはしないはずだ。
そんな男を憎んでいるのは道明寺司だ。私生活の対立をビジネスにまで持ち込むようでは、まだまだ青いとしか言えないが、人の感情はそう簡単に割り切れるものではないはずだ。

道明寺司の父親は息子が一人の女に執着することに懸念を抱いていた。
牧野つくしを巡って花沢物産の跡取りとの揉め事など馬鹿バカしいにも程があるというものだ。それにこれ以上息子の人生がおかしくなるのを見過ごすわけにはいかないということだ。あの娘に道明寺家の跡取りを生ませるなど、とんでもない話しなのだろう。


道明寺司の父親。今でも多方面への権勢をほしいままにする男。その男から渡された紙は既に灰となって手元にはない。いつもそうだ。言葉に出さないし記録に残すことはしない。
渡された紙は読めばその場で火をつけ燃やされる。尋ねたいのはやまやまだが男は質問されるのを嫌う。故に書かれていたことが全てとなる。
例えその言葉が短くてもだ。

世の中には想像もつかない世界があるというが、唸るほどの金がある男の黒い瞳は、ひどく恐ろしい。

『 行った先で何をしたとしても私には関係がない 』

その言葉には言外の脅が含まれていた。だがそれはいつものことだった。
不愉快な仕事ではあるがそれが彼の仕事だと理解していた。
ミスを犯したことは一度もなかった。雇い主の命令を実行する。それが彼の使命なのだ。

男は車に乗り込むとエンジンをかけ、煙草に火をつけた。
ここから先、高速道路を降りた先の山道は、くねくねと曲がっているが運転しにくい道ではないだろう。恐らくあと1時間もすれば目的地に到着するはずだ。
フロントガラスにポツポツと雨粒が落ちてきたのがわかった。まだワイパーを動かすほどの雨ではなかったが、これから向かう先の雨はいったいどんな雨なのか。
男は時計を見て、ニューヨークの現地時間を計算した。真夜中か。連絡するなら全てが終わって夜が明けてからがいいだろう。







***








いつかここでの生活にも終わりが来る。
そう信じている。


冬の空気は乾燥し風は冷たい手となってつくしの頬を撫でていく。
いつまでこの山荘に留まることになるのか。季節は移ろい月日を重ねていた。
用意される洋服もこの寒さをやり過ごせるだけの物へと変わって来た。
とはいえ寒さを感じるのはこの空気のせいだけではなく、強い不安がそうさせるのだろう。
木々の葉は全て落ちてしまった淋しいしい風景の中、淋しい時間だけが流れていく。

深い思考に身を任せた。

道明寺の傍から逃げないと言った。
物理的に難しいからだというわけではなかった。
道明寺はあの頃ふたりで分け合っていたものを取り戻そうとしていると気づいたからだ。それを奪ってしまったのはあたしだ。そしてその時、道明寺は心を失った。

ふたりで分け合っていたもの_

高校生の分際で何を分けっていたのかと言われるかもしれない。だが当時のあたし達には確かに分け合ったものがあった。
未来へ向かっての跳躍途中にあるふたりの心の中には、どこか儚げではあったが掴みたい夢があったはずだ。たとえ一緒に過ごした時間が短かったとしても、ふたりには互いを思いやる気持ちがあった。分け合っていたのはそんな気持ちだったはずだ。



あたしは見かけ以上のものは持っていない少女だった。
それに対する道明寺は見かけ以上に全てを持っている少年。だがその少年は希薄な家族関係からなのか、母親からの母性愛を受けなかったからなのか、絶えず愛を求めていた。
自分の存在意義は認められていたとしても、それは道明寺家という家を受け継ぐだけの器だとしか考えていなかった。一度でもいいから両親から抱きしめてもらえていたなら。
一度でもいいから一緒に遊んでもらえたら。だが両親は自分の子どもを孤独の中に放置した。

親からしっかりと抱きしめられた記憶のない子ども。
愛されるということを与えてもらえなかった子どもが大人になるということは、酷く切ない話しだ。大人になった今、そのことはつくしにもよくわかっていた。

そんな育ち方をした人間は、自分に欠けているものを補おうとする。人間だれしもそうだろう。貧しければそれを補いたいと思うのも当然だろう。幼い頃、体が弱かった子どもが健康な体を取り戻し、出来なかったスポーツに励みたい。人それぞれだが自分に足らないものを補いたいと思うのは人間として当然の欲求だ。
道明寺の望みはたったひとつだけ。自分を愛して欲しい。愛してくれる人間が、親から与えられるはずだった無償の愛が欲しい。
ただ、それだけだった。

あの頃の道明寺には心があった。
だが、今は心があったはずの場所に巣食っているのはあたしに対しての復讐。
常軌を逸したこの行為は道明寺の怒りと悲しみと憎しみの全てが込められていた。道明寺は罪を犯しているとは考えていない。一度は自分の手の中にあったはずのものを取り返したと考えているからだろう。お金のために彼を捨てた氷の心を持つ女を。そして類の元にいた女を。

一度捕まえたら決して逃がしはしないとこの山荘に連れてこられたのは裏切った罰。
赤ん坊を孕ませて道明寺という家を継がせる。それが両親とあたしに対しての復讐だと言った。

だけどその方法で復讐出来る日は永遠に来ないはずだ。
つくしはそう言いたかった。
言えばここから解放されるのだろうか?

つくしはコーヒーを飲み、カップを置くと弱々しいほほ笑みを見せた。

「木村さん、外に出たいんですけど・・」

ここにいる限り会うのは管理人と道明寺のふたりだけだ。他に話しをする人間はいない。
だからおのずと木村と話しをするようになる。

「これからですか?」
「はい。ちょっと外の空気を吸いたいんです」

最近では人にほほ笑みかけることがなく、笑うという行為を忘れてしまいそうになっていた。だから木村に対してほほ笑みかけた。そうすることが自分にとって自然なことのように思えたからだ。今の自分の置かれた状況を考えてみれば、笑うことは不自然かもしれないが笑わないでいる方が辛かった。
笑いたかった。心の底から笑いたい。
いつかまた自然と笑いがこみ上げる日が来るのだろうか。

「そうですか。では少しお待ちください。外に出る準備をしますので」

山荘の管理人である木村の仕事はつくしの監視をすることだ。

「牧野様もくれぐれも暖かい服装でお願いいたします。外は冷えますので風邪などひかれては大変ですから」

風邪をひくと大変。
確かにこの山荘から病院に行くとなると大変だろう。

それなら_もし病気になればここから出て行くことが出来るということだろうか。
わざと風邪をひく。
ふと。そんなことを考えてしまった。


つくしは紅褐色のダウンジャケットを着ていたし、マフラーをし、手袋もはめていた。
だが冷気は隙間から滲み込んで来ては体温を奪っていくように感じられた。
冷たさが心を凍らせていくようだ。だが身も心も凍りつくような寒さとはまだ言えないはずだ。酷寒と呼ぶ季節とはまだ言えなかった。

いつもの小径をのんびりと歩く。
深く息を吸って吐いた。
外の空気は確かにひんやりとしていた。季節は確実に進んでいる。
見渡す景色はまだ白くはないが、いずれこの場所は雪に覆われる。
それでもあたしはまだこの場所で過ごすのだろうか。この場所には当然だがあたし以外は誰もいない。木村を除いて。

一羽の鳥が鳴き声をあげて空を横切った。すると続いて仲間の鳥たちだろうか。集団が追いつくと群れをなして空の彼方へと飛んで行くのが見えた。
一羽だけ飛んでいたのはリーダーだったのか。それとも集団から逃げようとしていた鳥だったのか。後者の鳥にかつての自分の姿を重ね合わせていた。

体に触れていれば、いつか心にも触れることが出来るのだろうか?
この手が道明寺の心に届く日がくるのだろうか?
たまらなく淋しかった。寒くて、淋しい。その思いは体が寒いだけではなく心が寒いということだ。もし時間が戻るならあの頃の、10年前の道明寺にしっかりと抱きしめて欲しい。
これまで起きたことを全て忘れ、つくしが欲しかったあの日の道明寺に会いたかった。

運命に抗うことは出来ない。
それならあたし達の運命はどこへ向かっているのだろう。

道明寺の傍から逃げないと言ったがそれは、屈辱的な降伏なんかじゃない。
今の状況は悪い夢だと思いたい。
あたしが会いたいのは心に闇を抱く男じゃない。
胸の中にある気持ちは、心の奥にある気持ちはあの頃と同じなのに、二人を隔てる壁は大きかった。またこうしてあたしが道明寺を愛するように仕向けることが復讐だとしたら、それはとっくに成功している。

だけど_

これは愛なんだろうか。

愛だとすれば、あたしは愛の奴隷だということだ。


このままでは、二人の愛の行きつく先は破滅だけだ。







***









司は世田谷の邸にいた。

「経営会議のメンバーを招集してくれ」
「経営会議のメンバーですか?」
「ああ。大至急だ」
唐突に言われた秘書だったが顔色ひとつ変えなかった。

「承知しました。1時間もあれば集まれるはずです」

秘書はそう言うと連絡を取るため部屋から出て行った。

本来なら今日は、取引先の会長とゴルフに出かけているはずだった。だが先方の体調が優れないということで急遽キャンセルになっていた。意図せず手に入れた自由な時間。それなら近々開かれる経営会議の参加者を呼び出して話しでも聞くかと考えていた。経営会議は会社の最高意思決定機関だが重要事項は司が判断し、経営会議が追認する形が殆どだ。だがその前に根回しをすることも重要だと気づかされた。根回しを怠ったために通すことが出来なかった案件もあったからだ。

廊下のはずれにある東の角部屋は長い間主がおらず空っぽだった。
忌まわしい部屋だと思っていた。思い出は幾つかあったがもうとっくに記憶の彼方へと消えていた。この部屋に存在するのは10年前の亡霊だ。夜になるとその亡霊が出て来て俺に悪夢を見させる。ぼんやりと暗闇を見つめれば、女に捨てられ荒んでしまったあの頃の俺の姿が見えた。

あの日から心を凍らせて生きて来た。
今夜もまたあの亡霊が現れるのだろうか。
哀しみに心が歪み、再びひとりになってしまったあの頃の自分に会わなければならないのか。ひとりの女に執着するあまり狂ってしまった男に。

自分の亡霊に会う_

冗談じゃねえ。

この亡霊を追い払ってくれるのはあいつしかいない。
だが夢の中で救いを求めて伸ばした手は、虚しく空を切るだけ何も掴むことは出来ない。


どれほど名前を呼んでも決して振り返ることなく去って行ったあの女。

まきの_

そうだ。あいつが俺にこんな亡霊を見させるんだ。
だから運命は決まっている。
たとえ復讐心が収まったとしても、罰を与えたいという気持ちがなくなったとしても、永遠に放しはしない。どうしようもなく歪んでしまった行動に終止符を打つ。そんなことは出来ないだろう。
亡霊は見たくない。そうなれば選択肢は他にない。

「ヘリを用意してくれ。山荘に向かう。会議は中止だ」








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2016
09.26

恋人までのディスタンス 37

今まで掲げられていた看板は『オフリミット』。立ち入り禁止の看板だった。
はじめての相手は夫がいいというタイプ。
男と深い関係になったことがないという女は、適齢を過ぎた処女だが知的で独立心が旺盛だ。
ハリネズミの様に針を身に纏っていた女は、今では複雑な動きを見せる台風のような女に見えてきた。

差し詰めまだどっちの方向に行けばいいのか迷っているといった感じだ。
それは俺と牧野つくしとの関係の行方だ。


そんな女はレストランの奥にある個室にいる。
一歩前に進むのにどれだけ時間がかかるのかというくらいの奥手の女。
だがそんな女の扱いにも慣れてきた。
自分の気持に素直になれ。と友人に言われてからの女は、二人で何かする時間というものを理解するようになっていた。そんな時間が増えてくれば、自ずと気安さというものが感じられるようになって来るから不思議だ。

自分の気持に素直になる。
そのためには時間も空間も必要だということだ。
だからレストランの個室を用意した。
俺とつき合うと言った牧野。
そう決めたのは松岡のことが解決した、ということもあったと言った。相変わらず素直じゃないその言い方に、そこがこいつらしいと思いながらその言葉を受け入れた。


「い、言っときますけどね?愛情とセックスは同義語じゃないの」

経験のない女の物言いにしては随分と大胆な発言だ。
どうしてこんな話しになったのか?それは愛情を感じた相手とならすぐに寝れるかというとこから始まっていた。初めは当たりさわりのない話しだったが、松岡の話しからこんな話題になっていた。

「まきの・・おまえはどうしてそんなに・・」

司はクッと笑うと仕方がないなという表情を浮かべた。
この女の突拍子もない発言にはいつも笑わされていたからだ。
いくらこの女が知ったようなことを言っても処女が何をと笑いたくなっていた。

「まあいい。おまえのそんな杓子定規な考えには慣れたが、男の〝好き〟と〝欲しい〟は別のものだからな。俺はおまえが好きだ。いいかそこを間違えるな?おれは色んな意味でおまえが好きだ。好きならその女の全てが欲しくなるのが男だ。それにつき合ってる相手と寝たいって思うのは、相手のことを知りたいってことがある。相手との距離を近づけたい。そう思うからだ」

30代の男女ともなれば、あけすけな話しも出来るというところが面白いところだ。
もちろん相手にもよるが、牧野が相手の場合はまるで恋愛の初心者講習会の様相だ。

「い、色んな意味ってどういう意味?」

つくしは今までこんなに男性を意識したことがなかったのだからわからなかった。
しかし相手は道明寺司だ。女なんていくらでも選べる男が色んな意味でというからには、他人には無い何かが自分にはあるのかと思わざるを得ない。それを面と向かって聞くのだからつくしにだって相当な勇気のいることだった。

「色んな意味か?」

司は女がずる賢いところや、噂話が好きな女は嫌いだ。
今、彼の目の前に座って美味そうにメシを食ってる女はそんな女ではない。
だから牧野つくしといるのが楽しかったし話しをするのが好きだった。
だがそれだけではないことは確かだ。

「俺は頭のいい女が好きだといったが、勉強が出来るとかそう言った意味じゃない。
俺もなんでおまえが好きなんだって自分でも考えたが、おまえは自分を隠すことはしない。だから考えていることがすぐに顔に出る」

それがいいことなのか、悪いことなのかと言われても困るが、裏表がない人間だということを認めていた。

司に近づいて来る人間は男女問わず皆下心がある。彼にとってそんな人間は鬱陶しいだけだ。金や権力というものは多くの人間を惹きつけるが、心が安らげるような人間に出会うことはなかった。どちらにしても魑魅魍魎がうごめくと言われるビジネスの世界で本心を見せるような人間は生き残れるはずもなく、如何に上手く仮面を被って生きて行くかが重要だ。だからこそ牧野つくしのように裏表のない人間に出会えたことはある意味司にとっての驚きだった。

「おまえは裏表のない人間だ。ただし、素直じゃねぇけど。初めの頃の俺たちの間にあるものは、男と女以外だとしたら、おまえの的外れな思い込みだけだったか?まあ、そんな的外れな結果で俺たちは知り合ったわけだが、これが俺とおまえの運命だと思わねぇか?運命には逆らえないって言うだろ?」

道明寺司は運命論者だったのか?

「言っとくが俺は真剣な関係を求めてる」

その口ぶりは真剣そのものだ。

「ただ、ひとつ言わせてもらえば、おまえの欠点は臆病だということだ。だけどそれはこの前の冒険でひとつ克服したんじゃないのか?」

まるでつくしの心を読み取ったかのような発言。
それはスカイダイビングだ。
危険だと言われる空のスポーツに挑戦してみた。
人は何か大きなことを成し遂げれば、そのことが自信となって自分に返ってくる。
つくしはスカイスポーツのひとつに挑戦したことで、どこか気持ちが吹っ切れていた。だからこうして道明寺と向き合うことに決めたはずだ。心境の変化とでもいうのだろうか。
あの空の旅は物の見方を変えたと同時に、自分にも新しい何かに挑戦できるんだという自信をつけさせてくれたはずだ。

「うん。空を飛んだとき、あたしにも新しい何かに挑戦できるんだってことがわかったの」

あの挑戦はつくし自身への挑戦だったはずだ。
つくし、あなたいつまで退屈な人生を送るの?
そんなことが頭を過ったからこそ選んだ冒険だろう。
新しいなにかに挑戦したい。そう考えたからだ。

「なあ。牧野。おまえの言う新しいってなんだ?今言った新しい言葉の定義を教えてくれないか?」
「あ、あたしの?」
「ああ。おまえの言う新しいってのは、いったいなんだ?」

司は言わせたかった。『新しい何か』がなんなのかを。
素直じゃない女には自ら口に出すことが必要だ。
新しい何かを自己認識をさせることこそ、これから先へ物事が進んで行くときに必要となるはずだ。

「あ、新しい?」
「そうだ。おまえの言う新しいの定義はなんなんだ?」


思えばいつからか、道明寺に対しては無防備だった。
いつも現実に立ち向かっていたから冒険なんてもう必要ないと思っていたけどもしかしたら、あたしの次の冒険になるかもしれない・・

新しい何かに挑戦できるかもしれない。

そう思ったつくしは、迷わなかった。

「あ、あたし。道明寺と恋がしたいの」







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2016
09.25

金持ちの御曹司~熱い想いを胸に~

大人向けのお話です。
未成年者の方、またそのようなお話が苦手な方はお控え下さい。
******************************








ピンと張りつめた静寂のなか、腰から上をむき出しにされてベッドの上に座る女。
小ぶりの胸の頂きは、すでに固い蕾となって誇らしげに上を向いている。
それはまるで早く口に含んで吸ってくれと訴えているかのようだ。

二人は向き合ったままで何も言わず、ただじっとしていた。
暗闇に包まれていても、飢えた色を浮かべた瞳が怪しくうごめくのはわかる。
その頬が朱に染まり、体から放たれる熱が感じられる。その熱に乗って漂うのは欲望の匂い。
ごくりと唾を飲む音が聞こえたような気がした。


男が握った手は小さな手。
その手は華奢で頼りない。だが司の全てを握る手。
彼の心も体もその全てを握るということは、世界を手にしているも同じ。
そんな手を握ったまま女の体をベッドの上へと押し倒した。

胸の中には不満が渦巻いていた。


まきの_


触れられなかった二週間。
頭の中にはいつもこの女の姿があった。
姿も香りも感触も、頭の中から決して離れることはなかった。

男というものは常に無理をしたがる生き物だ。
愛しい女に会うためにと、無理をしてでも帰国した。
だが、そんな俺を無視するような態度で迎えたこの女。
なにがあったか知らないが、そんな女に対して思い浮かぶのは危険な思考。

だが、決して傷つけることはしない。

呼吸は浅く吸って深く吐き出すが、体の他の部分は何もかも吐き出したくて疼いていた。
半ば目を閉じ見下ろす体は、程よい曲線を描くが華奢で美しい。
服をはぎ取っておまえを満たしてやるよ。俺のペニスで。


なあ?

まきの?

この体は俺だけのものだろ?

「あたしのことなんて忘れちゃったくせに」

過去の古い記憶を平気で掘り起こす女。

「道明寺なんてあたしのこと・・」


言うな。

もうそれ以上言わないでくれ。

二度とおまえを忘れることはないんだから。


司の過去の愚かな行為は山ほどあるが、その中でもそれは一番上にくる愚かさだ。
過去を振り返ることはしたくはないが、記憶を失った司がつくしを捨てしまったことだけは、何度詫びても詫び足りないほどだった。
出来ればもう一度高校時代に戻ってやり直したい。
だが古い俺は捨て去って、更生した俺は愛に溺れている。


愛に溺れる・・いい響きだ。


牧野の中にある海で溺れる。
この女は母なる海のように深い懐を持っている。
海が全ての生物を生み出したように、俺の全てはこの女の中から生み出される。

俺を再生させてくれたのは、この女。
それは誰も否定が出来ない事実だ。

それに、俺は人生を揺るがすほどの雨を経験した。
そんな雨の中で牧野との別れも経験した。だが夢が叶ったあとで、いつも思い出すのはあの雨の日だ。 今の俺は雨が嫌いじゃない。あの経験が俺を人として成長させたからだ。
それなのに、今日の雨は嫌いになりそうだ。


大粒の雨が降るなか、マンションに帰ったとき、テーブルに用意されていたのは2人分の食事と低俗な週刊誌。ニューヨークで女と密会していると書かれていた。

古い記憶を掘り起こした理由はこのことなのか?

それは嫉妬ということか?

仕事をバリバリこなす女が、実は同時にかわいらしさも身に付けているなんて、俺以外誰が知ってる?
手を伸ばして触れようとしたとき、身を引いたのがわかった。
だが司はつくしの手首を掴んで引き寄せた。

この女は俺がわかってない。
抵抗されればされるほど、飢えはきつくなって襲いかかってくる。
滑らかな肌に香る欲望。
少女から大人の女へと成長を遂げていても、変わらないのはその瞳と気持ちの強さ。
そんな女の凛とした立ち姿に惚れた。

熱いものに下腹を焼かれ、司の性器はズキズキと疼いた。
その場で女のブラウスを脱がせるとブラジャーを取り去った。
体を抱えると寝室へと運んでいった。



恋愛に中毒があるというのなら、司は牧野つくし中毒だ。
まさに立派な中毒患者。治療方法は永久に見つからない。
恐らく死ぬまで完治することは絶対にない。
いや、もしかしたら死んでからも魂の塊となってつくしの傍にいるかもしれない。
肉体的な飢餓感ではない。それは魂の飢え。
司を虜にして離さない女。気でも狂ったのかと言われてもいい。
出会ったときからこの女に狂っているんだから仕方がない。

どうしてもこの女が欲しい。

いますぐに。

この手と口で。

そしてこの体で。

全身全霊で愛したい。

細胞のひとかけらさえ愛おしい。

おまえを食べてもいいのなら、食べて消化してしまいたい。
肉のひとかけらでもいい。
食べさせてくれるなら離れていても俺の一部でいてくれるだろ?


暗闇のなか、月夜に照らされた白いシーツが海のように広がっている。
なあ牧野。過去を忘れ、歓びに身をゆだねてくれないか?
そうすればおまえの考えてることは間違いだって教えてやるよ。

温かく小さな体がかすかに震えているのが感じられた。

「おまえは、あんな記事を気にしているのか?」

できるだけ、柔らかく聞いてやる。それは女に対する気遣い。

だが答えはない。

無視すんじゃねぇよ。
答えねぇんならあんな雑誌をテーブルになんか置くな。

両手で腰を抱き、手を背中に回すとスカートを取り去った。片手を薄くてちっぽけなパンティの中へともぐらせると、引きずり下ろし、つま先から抜きとった。手のひらで尻の丸みを撫で、固く尖った胸の頂きを口に含んで舌で転がした。

「・・あんっ・・」

甘く切ない声をあげながら、司にしがみつく女。
身をゆだね、悶えながらも離さないと癖のある髪に指を絡め、のけぞっている。
いつもよりも無防備女。

「つか・・さっ・・」

かすれた声が俺の名をささやく。

もっと。

もっと蕩けさせてしまいたい。
骨の髄まで溶かして、いっそのこと俺の体の中に取り込んでしまいたい。

そんなじれったそうな目で見るな。


いつも散々いやらしい空想を巡らせているが、その空想は所詮妄想であって現実ではない。 だがこれは現実だ。これだけリアルなんだ。現実じゃないはずがない。
ふしだらで罪深いと言われる妄想も今のこの現実にはかなわない。

牧野が欲しい。
いますぐにものにしなければ、どうにかなりそうだ。
シャツのボタンを外すことさえじれったい。
いっそおまえのその手で引き裂いてくれても構わない。
その声が聞えたのだろうか?
つくしはシャツに手をかけると、ボタンをむしり取っていた。

牧野?
おまえもそんなに俺が欲しいのか?
なあ。俺が欲しいと言ってくれ。
司の血は沸き立っていた。
久しぶりにおまえの口から漏れる俺の名前が聞きたいんだ。

牧野の体の温もりにこの身を埋めたい。

ボタンをむしり取られたシャツは脱ぎ捨て、ベルトを外し、ジッパーに手をかけた。
スラックスと一緒に下着も脱ぎ捨てると、牧野の脚の間に身を置いた。
両手は太腿をそろそろと這い上がり、濡れた泉の奥へと指を差しいれた。
はじめは1本滑り込ませ、やがて2本目が入れられると、牧野は歓喜の声をあげた。
そして俺の名前を呼んでいた。

どうした?牧野?
指の動きに我慢ができないのか?
司はつくしの太腿の間に顔を入れると、両手で脚を大きく開かせた。
濡れて柔らかくなっていく牧野の女の部分は俺だけのものだ。
口を押し付け、舌を入れ、すくい取るように動かした。
その度に跳ね上がる体は俺の頭を抱え込んで離そうとはしない。

まきの。
俺が欲しいか?
欲しいんだろ?

欲求は募るばかりで、早く解放してくれと体は訴えていた。
顔を上げると、焦点の定まらない目で俺を見つめる女の口がゆっくりと動いた。

道明寺が欲しい・・と。

声にはならないような掠れた声が聞えた。

俺も。

おまえが欲しい。

司は左右の胸の頂きをひと舐めすると、気を引き締めて温かく滑らかな場所へ身を埋めた。
華奢な脚が司の腰に回されると、体の疼きが高まった。欲望の波が押し寄せてきて腰を激しく打ちつけることを止めることが出来なくなっていた。

「クソッ!」

このままじゃ牧野が壊れるかもしれねぇ。
だが、久しぶり過ぎてどうにもなんねぇ。
激しすぎて骨盤がぶつかる音まで聞こえて来そうだ。

「俺を見ろ。俺を見てくれ。他には誰も見るな。おまえが・・信じるのは俺だけだ!」

俺だけを信じろ。
低俗な雑誌なんか信じるな。
何をそんなに心配してんだか知らねぇが、俺はおまえ以外の女には興味がない。
そんなことはもうとっくにわかっていると思ったが、女って生き物はちょっとしたことで不安になるものだと今頃になって気づいていた。

俺はおまえを不安になんかさせたくない。
司はつくしにそう伝えたかったが、どうしたらその不安を取り除いてやれる?

だが、今はただ、俺におまえを愛させてくれ。







***









「ど、道明寺・・あたしのキーケース知らない?青色の・・確かこのあたりに置いたような気がしたんだけど見当たらないのよ!」

つくしは慌てていた。
昨日の夜、ここに置いたはずのキーケースがない。
鞄の中から寝室のテーブルの下に至るまで探していたが見当たらなかった。
いったいどこに行ったのか・・・
確かにこのテーブルに置いたような気がしたが、あれがないと自宅に入れないし、このマンションにも入れない。

「これのことか?」
司は満面の笑みを浮かべてつくしの部屋の鍵をゆらしてみせた。
「そ、それよ。それ!ちょっとか、返してよ!」
「ヤダ」
司はキーケースを返そうとはせず、自分の手の中に握りしめた。
「な・・なんで・・」
「返した途端、おまえ逃げるから」

過去、いつも司の前から走って逃げていた女は、今では彼の腕の中で大人しくするようになって来たとはいえ、油断は出来ない。そう考えた司はつくしがまだ寝ているうちにキーケースを自分の手元に隠していた。

悔しそうに下唇を噛みしめる牧野。
司は心中ひそかに狂喜乱舞した。
いつまでも思い通りに出来ると思うなよ?
それに今日はこのまま逃げられるわけにはいかなかった。

つくしは仕方がないという態度で、シャワーを浴びて来るからと言って寝室から出て行った。
ツマンネー記事に嫉妬をする牧野。
俺がおまえ以外の女と会うわけがねーだろうが!

司はベッドから出ると、床に投げ捨てられていたブリーフケースを取り上げ、中から小さな箱を取り出した。

そして、つくしがいつも使っている枕を引き寄せた。
牧野の匂いがする枕だ。
顔を埋めて深く息をすればあいつの匂いがする。
愛してる枕!

じゃねぇ・・・愛してる。牧野。

いつまでも、俺といてくれ。

永遠に。



司はつくしがシャワーを浴びて戻ってくることを心待ちにしていた。
いつもなら一緒に浴びたいとばかりに押しかけて行くが今朝はしなかった。

手にした小さな箱にはあいつに贈る世界でたったひとつの指輪が収められている。

写真に撮られた女はジュエリーデザイナーの女で幸せな結婚生活を送る女。
その女に指輪のデザインを任せていた。
枕を元通りにすると、小さな箱をその上に置いた。

この箱の中身を目にしたときのあいつの表情が早く見たい。

司は考えていた。
俺とつき合うということは、良いも悪いも注目を浴びる。
それが自分の望まないことであっても世間は面白おかしく書き立てる。
だがこれであいつの不安がひとつでも少なくなればそれでいい。
牧野の不安を取り除くことこそ俺の幸せだ。

俺の目に映るのは、牧野。


おまえだけだ。







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2016
09.24

恋人までのディスタンス 36

優紀との待ち合わせ場所に到着したつくしは腕時計を見た。
待ち合わせの時間よりも40分も早かったが遅れるよりはいい。
メープルの1階にあるラウンジには大勢の客がいたが、窓辺の席に案内された。

つくしはコーヒーを頼むと何をするでもなく、ただぼんやりと外の景色を眺めていた。
眺めは瞳に映るだけで頭の中では認識されてはいなかった。本来なら見える景色に何かを感じるはずだが、今のつくしにとっては、あの日の出来事から気持ちをそらす助けにはならなかった。

スカイダイビングをしてから物の見方が変わったような気がしていた。
大きな冒険をして、心が大きく開かれたような気持になったことは確かだ。
それと同時に心の内面に沸き起こった感情を無視することは出来なくなっていた。

つくしは運ばれてきたコーヒーをひと口飲んだ。

道明寺は背が高くて当然だけがつくしよりも体が大きい。それに力も強い。
だからと言って、今まで何度か抱きしめられたことがあったが暴力的な力強さはなかった。
あの日、固い胸に抱きしめられ、両手で頭を挟まれると何も言えないうちにキスをされた。
動悸がしていたが、胸に近い耳は道明寺の心臓の音を聞いていた。力強い鼓動が道明寺の揺るぐことのない意志の強さを感じさせた。

つくしは息を吐いた。

思い起こせばあの日のキスはふたりにとって三度目のキスだった。
一度目はマンション前の暗がりであいつからだった。
二度目は逃げるのかと言われ、その挑発に乗った形で自分からした。
そして三度目は・・ありがとうと言ったあと、唇を重ねていた。

あの時からふたりの関係は大きく変わりつつあると感じていた。
今までとはあの男を見る目が変わってしまっていた。何気ない仕草や眼差しなど気にも留めなかったというのに、意識が変わるとこうも態度に出てしまうものなのかと思わずにはいられなかった。

あの男を好きになり始めている。
道明寺を本気で好きになる。
まさかとは思ったが自分があの男を好きになるなんて。
つくしの思いはさまよった。

これは普通の恋愛なんだろうか。
普通の恋愛につきものの色んなことってなに?
この先どうなるのか全くわからないし予想もつかない。
でも決意表明が必要になるわけじゃあるまいし、好きになったからと言って・・

わからない。

それにあの男は道明寺司よ?つき合ったからといって一生の伴侶を探しているなんて思えないし、だからと言ってあたしは遊びで男性とつき合えるタイプじゃないことくらい、自分でもわかっている。

つくしは再び時計を見た。

そろそろ時間だ。
優紀がここに来る。
それに道明寺の偽者と本物も一緒にこの場所に来る。

優紀には全てを話してあった。
つき合っていた男は川森健一という男でK製薬に勤める元MR。
そして優紀に近づいた目的は優紀の会社が研究しているインフルエンザ治療薬の情報を盗むためだということも伝えていた。
莫大な研究開発費をかけている新薬の情報を盗み取ろうとしていた。それを知った優紀はショックのあまり数日間は食事も喉を通らなくなってしまったらしい。

優紀の頼みに応じて人探しをすることにしたのは友情の為だったが、結末までは予想していなかった。それに男を探し出したのは道明寺だ。
つくしにしても単に相手はプレーボーイの男で別の女に乗り換えた程度と考えていたら、スパイ行為を働くために優紀に近づいたなんて思いもしなかった。自分がつき合っていた男は、好きでもない相手と寝ることが出来る男だった。そんな現実を突きつけられた優紀は、それでも最後に川森と会うと言って来た。


「つくし!ごめんね。待った?」

ぼんやりと考え込んでいたつくしは優紀が傍に来るまで気がつかなかった。

「うんうん。大丈夫。あたしが少し早く来ただけだから」
「そう。・・・あのね、つくし・・今回の件では色々とお世話になっちゃって・・申し訳なかったっていうのか・・」

優紀にしてみれば何も関係のない道明寺司とつくしに迷惑をかけたと感じていた。

「なに言ってるのよ!気にしないでいいから。本当に・・それよりも、座って。ほら早く」
「ありがとう、つくし」
「それで、あの男に会う気持ちは変わってないの?」
優紀は腰を下ろすと頷いた。
「うん、変わってないわ。もう今さらって思うんだけど・・最後にきちんとお別れだけは言いたいから・・」

優紀の声は落ち着いていて、これから起こることを受け止めたいという気持ちが感じられた。もしかしたら緊迫した状況になるかもしれないと言ったが、それでも構わないと言っていた。
もちろんつくし達には道明寺司の警護にあたる人間がいるわけで、危険なことが起こるとは考えてもいなかったが、それでも口から出る言葉だけは止めることは出来ない。
女性として傷つけられるような言葉を耳にするかもしれないと思っていた。

「優紀、優紀はひとりじゃないからね。あたしも・・それから道明寺もついているし、警護の人間だっているから言いたいことを思い切って言えばいいのよ?なにかあったら・・あたし達が助けるから」

優紀は頷くと視線をつくしの後ろに据えた。

「つくし・・」
「なに?」
「眼鏡をかけた真面目そうな男性がまっすぐこっちに向かって来るんだけど、つくしの知り合い?」
「えっ?」

つくしが振り向くとそこには司の秘書が立っていた。

「牧野様。申し訳ございませんが、この場所では色々と問題がありますので別室をご用意しております。松岡様でいらっしゃいますね?ご足労をおかけいたしますがどうぞこちらへ」

と言って案内されたのはホテルの中にあるバンケットルームの前だった。

「どうぞ、中へ。こちらでお待ちになられております」

優紀を騙した男が中にいる。
でも道明寺司は?

「あの。西田さん。道明寺・・道明寺さんは?」
「支社長は中にいらっしゃいます」

つくしに緊張が走った。
あの男の顔に数発お見舞いするだなんてことを聞いていただけに、まさかとは思うがこの中で繰り広げられているのは・・

「ご心配はいりません。間違っても今の支社長は床に血が飛び散るようなことは致しません。ではどうぞこちらへ」

秘書はつくしの思考を読んでいたようだ。
ためらうことなくノックをすると扉を開けた。
中にいたのは道明寺司と川森健一。
そして屈強な6人の男達だ。

あの男が偽者?
道明寺司にそっくりだって言う男?
ただ立っているだけだが、本物の道明寺司とはまったく違う。
確かに目鼻立ちは似ているけど、どことなく貧弱で、それになんとなく背中が曲がっている。
第一本物のような存在感が全く感じられない。
着ている洋服だって皺だらけのスーツだ。それに見るからに疲れ切った表情をしている。
髪型だって憎ったらしいほどにくるくるしている髪とは_
全然違う。
川森健一の髪の毛はまっすぐだ。





司は怒りとも苛立ちとも取れるような表情で、川森の頭から爪先まで眺めていた。

「松岡、この男に言いたいことがあるんだろ?言ってやれよ?」
部屋の中に緊張感が走った。
「あの、わたし・・」
優紀はためらいがちに話しはじめた。

「本当の名前はか、川森さんっておっしゃるんですね?あたしと会っているときは道明寺さんだなんて呼ばれて嫌だったでしょ?」
川森は道明寺司の名前を語っていた。

だが返事はない。

「急に連絡が取れなくなったから心配したんですよ?」

やはり返事はない。

「別れたいなら別れたいって言ってもらえたら、あたしはきちんとお別れ出来たはずです。 どうしてひと言、言ってくれなかったんですか?突然連絡が取れなくなってあたし、心配したんですよ?」

返事はなかった。

「答えろよ?川森。おまえは俺の名前を語ってたんだろ?道明寺司だってな。俺の名前を語るんならそんなんじゃ困るんだよ?もっと堂々としてもらわねぇとな」

司は腕組みをすると値踏みするような視線を向けて男を嘲った。
だがそうしながらも怒りが喉でつかえていた。

「おまえのしたことは立派な犯罪だ。人の名前を語って女を弄んで捨てた。それに松岡の会社の情報を盗もうとしたな?なんとか言ったらどうなんだ?今さらしらばっくれてもわかってるんだ。インフルエンザの新薬騒動だっておまえの会社がわざと仕組んだんだろ?」

「い、いったいなんのことですか?」
川森ははじめて口を開いた。

「やっと口を開く気になったのか?新しいインフルエンザ治療薬をおまえのところの会社が開発しただなんてインサイダー情報を流して株価操作をしようとしたってことだ。新薬が開発されたとなれば、おまえの会社の株価は上がる。だが実際にはそんな新薬は開発されてなかったんだろ?だが数か月間は株価が高値で推移していた。丁度その頃だったんだろ?松岡の会社から情報を盗み取ろうとしていたのは?上手くいけばその情報を使って自分のところで本当に新薬を開発しようと思ったんだろうが、松岡は思ったほど重要な情報は握ってなかったってことだ。だからおまえは松岡の前から姿を消した。そうだよな?」

川森は立ったまま、口を開くどころか、身じろぎひとつしなくなった。というより、この場で真実を暴露され固まってしまっているようだ。

「結局新薬開発はされてなかったってことを発表するはめになったよな?それから株価は一気に値を下げた。残念だったよな。おまえの会社もおまえも」

司の口調は超然としていて落ち着きがあった。今までつくしが見ていた道明寺司とまったく違う。そう感じていた。まさに大企業の経営者でビジネスには手を抜かない、容赦しないといった態度だ。必要とあればどんな手を使ってもやり遂げるという男に見えた。
まさに仕事に対しては容赦ないと言われる男の顔がそこにはある。
司は優紀に視線を向けた。

「松岡?どうする?まだ何か言いたいことはあるのか?これ以上この男に話しかけても何も答えはしないはずだ。どうせこんな男は三流のMRだ。相手にするだけ損だぞ?」

優紀に対する気遣いに、つくしの心に何か温かいものが広がっていくのが感じられた。

優紀は暫く何も言えずに黙っていたが、静かに言った。

「もういいです。わたしはこんな人とは知り合いでもなんでもありません。川森だなんて人は知らない人ですから」
「へぇーそうか?」
「はい。こんな人より道明寺さんの方がよほど素敵です。もちろん、本物の道明寺さんですよ?」

優紀の話す声は心なしか弾んで聞えた。

「そうか。やっぱ俺の方がいい男だろ?こんな偽者なんて使い物になんてなんねぇよ。ろく
に情報を集めることも出来ねぇようじゃ企業スパイだなんて呆れる話だ」

「ちょっと、道明寺、そんな言い方したら優紀が・・」

大した情報も持っていない価値のない女のような言い方に、つくしは司を咎めた。

「ああ?わりぃ。別に変な意味はねぇからな。松岡。おまえは充分いい女だから心配するな。こんな男なんかより、もっといい男を紹介してやろうか?」

優紀に対して冗談を言う司だったが、次の瞬間には態度が変わっていた。

「川森。おまえの会社もおまえもインサイダー関連の罪に問われることだけは覚悟しろ。そのうち内部告発があるはずだ。今後はこの業界から足を洗うんだな。同業他社への転職も無理だと思え。いや。それ以外の業種でもおまえを雇う会社があるかどうか疑問だな」

司は声を低めて尋ねた。

「この男にはもう用はねぇよな?」
優紀が頷くと川森は司の警護の男達によって部屋の外へと連れて行かれた。

「牧野、松岡と話しがあるんだろ?俺は外に出てる。終わったら送ってってやるよ。松岡と一緒にな」



バタン。と部屋の扉が閉じられると優紀がつくしの両手を掴んだ。

「つくし。道明寺さんはつくしに恋してるんじゃないかと思うの」
「ば、ばかのこと言わないで!どうして道明寺があたしに恋をするのよ?そんなの馬鹿げてるわよ!」
「つくし、あたしに遠慮なんかしないで。いい?逃げちゃだめ。つくしは昔から男の人に苦手意識があったけど好きならちゃんと向かい合わなきゃダメよ?」

優紀はなにやら興奮した様子で話しをしていた。
とても昔の男との別れを済ませたばかりの女性には見えない。だがそれは優紀なりのつくしへの気遣いでもあり気持ちの切り替えでもあったはずだ。過ぎたことをいつまでもくよくよと悩んでいたのが嘘のようだった。また再び会ってみればどうして自分はこんな人間を好きになってしまったのかと自問していた。もう一度会いたい、話しをしたいと思ってはいたが、結局ひと言も言葉を交わすことなく終っていた。
一方のつくしは優紀がこんなに楽しそうにはしゃぐ様子は見た事がなかったはずだ。

「それにね。道明寺さんって、命令的でしょ?そんなところがつくしを引っ張って行ってくれると思うの。そこがつくしにぴったりなのよ!さっきだってつくしのこと見る目が違ってた。なんだかつくしのことを心配そうに見つめてた。ちょっと羨ましかったな」
と、優紀は小さくため息をついた。

「ど、道明寺があたしのことを心配そうになんか見つめてるわけがないじゃない!」

「いいのよつくし。あたしに遠慮なんかしないで。あたしもあんな偽者なんか早く忘れて新しい恋をしなきゃね?ほら、つくし。もういいから行って。あたしのことは心配しなくていいから。それに・・少しひとりになりたいの」

恐らく最後の言葉が一番言いたかったことなんだとわかった。

「帰りのことは心配しなくても大丈夫だから。あの秘書さんにお願いして送ってもらうから。ね?」

「優紀・・」

優紀は笑いながらつくしの手を引いて扉の外へ押し出した。
するとそこにはエレベーターに乗り込もうとする司の後ろ姿があった。

「道明寺さん!待って下さい!つ、つくしのこと。よろしくお願いします!」
「ちょっと!優紀なに言ってるのよ!」

優紀はつくしの手を掴んだままどんどん歩いて行くと司の前で止まった。

「つくしは男の人とのつき合いが苦手で、素直じゃありません。だけど一途で浮気なんてしません。それに他人に対しての優しさは、人一倍持ってます。だからつくしのこと、よろしくお願いします」

優紀はつくしの背中を押すとたった今到着したエレベーターの中に押し込んだ。

「つくし、道明寺さんと喧嘩しちゃだめよ!素直になりなさいよ!」
と、ドアが閉まる寸前にそんな声がかかった。



ふたりを乗せたエレベーターは奇妙な沈黙を乗せ、ゆっくりと降下して行った。

「牧野。いいのか?松岡をひとりにしておいて?」
「うん。少しひとりになりたいって・・それに帰りは西田さんにお願いするからって・・」

つくしは息を深く吸い込むと言葉を継いだ。

「あのね・・道明寺。優紀のこと、色々ありがとう・・」
「ああ。気にすんな・・おまえのダチだしな。適当なことなんて出来ねぇよ」

ふたりは互いの顔を見ることなく、点滅する階数表示を静かに見ていた。
そっと伸ばされたのはつくしの右手。その手は右隣に立つ男の指に触れた。
次の瞬間、大きな手が彼女の小さな手をそっと握りしめた。
司はその一瞬に紛れもなくほほ笑んでいた。








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2016
09.23

恋人までのディスタンス 35

道明寺司とのキス。
もう何度目のキスになるのかわからなくなっていたが、このキスを無視できるわけがなかった。
固い胸に抱きしめられていたが、パニックになることはなく、むしろ安らぎを感じることが出来た。今までこの男に対して持っていた警戒心という壁は取り払われてしまっていた。
全身が熱くなっていくのがわかった。動悸がして体の奥から今まで感じたことのないような熱い何かが駆け抜けて行った。

つくしも馬鹿ではないから、自分がどういった状況にいるか充分承知している。
こうするのは間違ったことではない。そう自分に言い聞かせていた。
こうなってしまうことは心のどこかでわかっていたのかもしれない。


_ただ、ここから先がわからなかった。


どうすればいい?
まずはお互いのことをもっと詳しく知らなければならないはず。
そうよ、もっとよく知らなければ。


そのとき、司の携帯電話が鳴った。
電話は鳴り止むことはせず、いつまでも鳴っている。
司はつくしの頭から手を離すと一歩身を引いて電話を取り出した。
番号を確認するとなにか納得したように話はじめた。

「もしもし。ああそうだ。今終わったところだ」

「_で?」

「そうか。_ああ。_わかった」

司は電話を切るとつくしに向かって手を差し出した。

「牧野。東京へ戻るぞ」
「えっ?」
「俺の偽者のウラが取れた」
「裏?」
「そうだ。おまえのダチを騙した俺の偽者が誰だかわかったってことだ」

司はつくしに問いかけるような目を向けていた。

「何だよ?何か不満そうな顔だよな?あれか?俺といい感じになって来たって時に電話に中断されて怒ってるのか?」

ニヤッと笑った。

「ま、まさか!ち、違うわよ!そんな・・」

「わかってる。おまえがそう簡単に俺のモノになるつもりがねぇってことくらいな。それよりおまえは冒険に満足したんだろ?それならこれからおまえのダチの為にひと肌脱いでやるよ。車が来た。牧野、来い」

いつの間にかふたりの側に近づいて来た車。
広大な牧場の中にある私設の滑走路まで向かうと、そこから東京に向かって飛び立っていた。


ジェットの広い座席に座る牧野がピンと緊張の糸を張っているのが伝わってきた。
ダイビングをする前とは違った緊張感が感じられる。
司はそれをいい兆候だと感じていた。今までにないほどの張りつめた空気。
それは男と女の間にだけ感じられる欲望を感じることが出来た。
牧場での短くも甘いキス。司は思い出したように笑みを浮かべていた。
電話が鳴ったのはあれでよかったと自分に言い聞かせていた。
あれくらいにしておかないと、どんどん先に進んで歯止めが効かなくなるはずだ。


東京に戻ったふたりを待っていたのは秘書の男。

「支社長お帰りなさいませ。ようこそいらっしゃいました牧野様」

つくしが名乗る前から当然のように名前を知っていた。

都内の一等地にそびえ立つ巨大なビルは一面ガラス張りの外壁で、周囲のビルを映し出していた。ひるむなと言う方が無理なほどの存在感を感じさせるこのビル。大理石で出来た床は顔が映り込むほど磨き抜かれており、つくしは支社長専用のエレベーターの前に立ったとき、思わず床に映る自分の顔を覗き込んでいた。

エレベーターで上がった先にあるのは、大企業の典型とも言えるような作りの広い空間だった。あまりにも広すぎてつくしが暮らしているマンションの部屋がすっぽりと収まるのではないかというほどだ。
重厚感溢れるホワイエと言われる空間。
その中央には大きなテーブルが設えてあり、飾られた花瓶には様々な花が芸術作品のように生けられていた。

その先に見える廊下の最奥、両開きの扉は押し開けるだけでも力がいりそうだ。
つくしは自分の前を歩く男によって押し開けられた扉の向うへと足を踏み入れた。
道明寺ホールディングス日本支社の支社長室は威圧的だと言われる趣がある。
そこにある途方もなく大きなテーブルは、ここで会議が開かれるときに使われるのだろう。

司はつくしをテーブルに導くと、彼女のために椅子を引いた。
やがて運ばれて来たコーヒーの芳しい香りが、つくしの嗅覚を刺激した。

「西田。牧野にこの男の正体を説明してくれ」

「この男性は川森健一と言い、K製薬という製薬会社に勤務しています」

秘書は言うと男の写真をつくしに手渡した。

「製薬会社ですか?それって優紀とおなじ業界の人間?」

優紀が言っていた道明寺司に似ていると言われた男の写真。
つくしは目を落として写真を見たが少し驚いたような表情をした。

「あの、この写真って・・その人の写真ですよね?」
「ええ。そうですよ、牧野様」

秘書の男は淡々と答えた。

「で、でもそんなにそっくりには見えないんですが?」
と、つくしは司を見た。
「やはりそう思われますか?この写真は髪型が支社長とは異なりますが、似ていると言われればそうかもしれません」

やはり牧野もそう思ったのかと司は頷くと、先を促した。

「K製薬は東京証券取引所一部上場企業です。資本金は約210億。昨年の売上高は3000億程の準大手の製薬会社です。3000億と言えば、日本では大企業と言われますが、製薬業界では準大手になります。何しろ製薬会社は多いですから大手と呼ばれるのは5000億以上の売り上げがある会社となります。
この会社は以前、業界屈指の営業部隊と呼ばれるMR(Medical Representative 医薬情報担当者)を大勢抱えていました。以前と申しましたのは、今はそれほど多くのMRはおりません。かなりの数を減らしております」

「その理由はなんだ?」

司はコーヒーを口にすると、顎に手をあて、革張りの椅子の背にもたれかかった。

「MRはご存知のとおり医療従事者相手の営業職です。つまり処方箋を書く医者に自社の医療用医薬品の情報を提供することです。ただ、売る製品があればの話しになります」

秘書の男は一旦つくしに目をやると、このまま話しを続けていいかと司を見た。

「いいぞ。続けろ」

「はい。どこの会社も新薬の開発には力を入れておりますが、そう簡単に開発が出来るものではなく、何年もかけて開発するようになります。上手くいくこともあれば、そうはいかないこともあります。つまり新薬の開発が上手くいかなければ売る薬がないということになります。それにジェネリック医薬品と呼ばれる安価な後発医薬品の影響もありますので、ますます売る薬がないと言う状況になります。そうなると会社としてはMRの数を削減せざるを得ないという状況になります」

秘書の男はつくしの反応をうかがいながら言葉を継いだ。

「この川森という男は削減されたMRのひとりです」

つくしは少し考えていたが秘書の言葉の意味が読み取れず聞いた。

「それって・・いったいどういう意味ですか?」

秘書は頷くと再び話し始めた。

「新薬を開発した会社はMRを大幅増員しています。理由は当然ですが多く販売しなければならないからです。K製薬はおそらく松岡様の会社で開発中のインフルエンザ治療薬に目をつけたのでしょう。元MRであるこの川森という男は知識もありますので松岡様から情報を盗み取ろうとしたようです。その情報を元にK製薬で新薬開発に成功すれば会社はMRを増やします。そうすれば、川森もMRとして復帰して給料も元の水準に戻るのでしょう。それに会社としても特許を得るでしょうから、情報には大きな価値があります。製薬会社にとっての知的財産は重要ですから」

「牧野、この川森って男はおまえのダチの松岡から新薬開発の進捗状況を聞き出そうとしていた。その為に松岡に近づいたんだ。それから俺の名前を名乗っていたのも外見がなんとなく似てるってことで名乗ったんだろう。道明寺の名前ならたとえ自分がいなくなっても女があとから調べるなんて思わなかったんじゃねぇの?」

確かに平凡な一般市民が道明寺司のことを調べようなんて思わないはずだ。

「と、いうことだ。牧野?この男をどうする?松岡は会いたいんだろ?それともこの結果だけ伝えてやるか?まあ俺はどっちでもいいが、もちろん松岡が自分で何かしたいって言うなら手を貸すが?どちらにしても俺の名前を語ったんだ。この男の顔に数発お見舞いしてもいいが、そんなことよりも確実に罰を受けさせるつもりだ」

司は立ち上がると、これで問題は解決したとばかりに話しを継いだ。

「これで偽者探しは一件落着ってことでいいな?牧野、おまえとの約束は果たしたんだ。これからは俺とマジで向き合ってくれ。なんならこれからさっきの続きをしてもいいが?」

確かに約束をしていた。
偽者探しが終わったら、自分を知って欲しいと言う道明寺司と向き合うと。


さっきの続きとは。

『 おまえの行くところは俺の胸の中以外ないと思うが?』

の続きということだ。


司の眼差しはこれ以上ないほど、真剣だった。








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2016
09.22

いつか晴れた日に 番外編 1

「司。おまえ17年ぶりに記憶が戻ったと思ったら牧野と結婚だけでも驚いたけど、16歳になる息子までいたんだって?」
「わりぃかよ?仕事が出来る男は何でも早ぇんだよ!」
「いや。何でも早いのがいいって言っても、おまえの息子は・・航君はあのとき、滋の島での一夜の子どもなんだろ?おまえらいつの間にそんなことしてたんだよ?」
「そんなことおまえらにいちいち説明する必要があんのか?」
「いや。別にそんなもん説明されても困るけどな。ただ・・・・」
「ただなんだよ?」
「おまえのかーちゃんはどうなんだよ?いきなり孫が現れたんだ。腰抜かしたんじゃねぇの?」
「ああ・・・そのことなら心配いらねぇ。ババァ・・いやお袋は航のことを気にいってる。 今じゃ俺が高校生だった頃よりも出来のいい孫のいいなりだな。あれは。」
「おまえのかーちゃんがか?」
「まじか?」
「まじだ。」


道明寺航は友人達と話しをする父親を見つめていた。
友人とは美作商事の専務と茶道西門流の次期家元だ。
父親の友人達からいつも言われるのは司の若い頃にそっくりだ。
まるで合わせ鏡を見ているようだ。
航はすべての容姿を司から受け継いでいるぞ。
同じように癖のある髪。同じくらいの身長に骨格はどう見ても司だよな。
だが決まって最後に言われるのは、性格まで受け継がなくて本当によかったよな。
そのひと言で締めくくられていた。

父さんの性格。

記憶を失っていた頃と今とでは、雲泥の差だと言われている。
新聞紙面で知っていた父さんは、ずば抜けた経営能力を持つ男だと言われていた。
経済界の大物で、いつも勝者でいる男。仕事に対しての評価は高く、全てにおいて自制心を失うことはない。鉄のような男。そんな形容詞がついていた。
だけど今となってはその形容詞も母さんの前で使われることはない。
鉄どころか溶かしたマシュマロみたいな時がある。男の僕でも思うけど、とてもじゃないけどあんな顔、家族以外に見せるものじゃない。
あれじゃあ会社経営者として締まりがなさすぎる。
息子の僕が言うんだからわかってもらえると思う。

家の中にいるときは母さんのことをつくしと呼び、傍に張り付いて離れない。
たまにチビと呼ぶときもあるけど、そんなときは決まって母さんに無視される。
確かにうちの家族のなかじゃ母さんは小さい。僕も父さんも180センチ以上あるんだから僕から見てもチビだと思う。そんな母さんに無視された父さんは慌てて母さんの後を追いかけて行くと悪かった、許してくれを連発している。

父さんのプライドの高さは有名だけどその反面、母さんに対する恐怖はプライドの高さ以上のレベルだと思う。母さんに口をきいてもらえなくなったら死んでやる、そんなことを平気で言ってのける人だとは思わなかった。そんな父さんと暮らすようになって、僕は人をありのままに受け入れることを学んだような気がする。これは僕が今まで知らなかった父さんの一面なんだと思うことにした。
どんなに英雄視される父さんでも間違いも犯す普通の人間だとわかって、どこかホッとしたような気がしていた。

『 いいか航。いいことと悪いことは表裏一体だ。悪いことがあるからいいことが際立つんだ。俺は17年悪いことしかなかった。だからこれから先17年は父さんにはいいことしか起きないからな。』

そんなことを真面目な顔して僕に言う父さんは、本当にあの道明寺司なんだろうかと疑いたくなった。


育ったのは小さなアパートで、物心ついた頃、父さんはいなかった。
それがあたり前ではないと知ったのはいつの頃だっただろう。
だがそのことで、泣いたり、わめいたりしたことはなかった。決して母さんを困らせるようなことはしなかったはずだ。
かつて幼い頃、同じ布団の中で母さんと寝たことがあった。

あれは_

いつの頃の話しだろう。

『 過ぎたことを悔やんでもしかたがないでしょ? 』

そう言って僕を励ましてくれたことがあった。
記憶の中にあるのはいつも前向きで明るい母さんで、決して僕の前では弱さを見せることはなかったはずだ。
そんな母さんだから新しい生活にもすぐに馴染んだようだ。

世田谷の道明寺邸に引っ越して来たのは3ヶ月前。
新たな視点で物事を見るということが必要となったが、僕はその事に抵抗はなかった。

『 物事の明るい面だけを見なさい 』

そう言って育てられて来たからだろうか。初めの頃は戸惑いもしたが、自分がどう言った立場に置かれた何者であるかということを理解するのは簡単だった。

父さんと母さんは高校時代に大恋愛をしたが、結ばれることはなかった。
運命の恋人。
仲間の間ではそう言われていたが、ふたりの運命が再び交わるまで随分と長い年月が経ってしまっていた。

両親から包み隠さず聞かされた話しは、正直言ってまるでドラマのようで、それこそ波乱に満ちた人生だった。
17年間ひとりぼっちだった母さん。

『航。ふたりで生きていこうね。』

そう言っていた母さんには、夢の中の王子様のような友人がいた。その人は母さんに結婚を申し込むことだって出来たはずだが恋愛感情はない。そう言ってほほ笑んでいたのを覚えている。



「それで、なんで牧野は類だけに航君のことを話してたんだ?」
「ち、ちがうのよ。たまたま類に見つかっただけで自分から話したわけじゃないの。」
「へぇー。さすが類だよな。類のアンテナって昔っから牧野の方を向いてたよな。」
「だよな。司が気づかねぇような、ちっちぇえことまで類は気づいてたよな?」
「おい。つくし。なんだよそのちっちぇえことってのは?」
「し、知らないわよ・・そんなこと・・」

ガチャン!


父さん!コーヒーカップが割れるから止めてくれよ!
母さんの言うことは本当だ。
僕が小さな頃、花沢さんに偶然出会ったという話し。
母さんは花沢さんを前に泣いてたから、僕はてっきりこの人が父さんなんだと勘違いをした。花沢さんが父さんだったらどんな父さんになったんだろう。こんなこと考えたら父さんに絞殺されるかもしれないね。

ある日。母さんは僕に言ったことがある。
あなたは愛に包まれて命を授かったのよ。愛の中で生まれて来たの。
その意味を理解するには時間がかかったけど、こうして両親の姿を見ていれば納得もできた。
友人達に囲まれても、恥ずかしげもなく堂々と手を握り合っている両親の姿。
30代半ばの夫婦ってこんなにも仲がいいものなんだろうか?



『 夜は自己鍛錬と忍耐のための時間だ。』

『 つくしが俺に冷たい。こいつ離れて行ったらもう二度と口をきかねぇっていうだろ?だから離れねぇようにベッドの中でも裸でくっついてたら、今度はいい加減離れろって言うんだぞ。おまえの母さんは言うことが支離滅裂だ!』


父さんはどんな時でも、いやになるほど物事をはっきり言うから母さんに怒られていた。
朝になってふたりの態度を見れば意味することは一目瞭然だったけど。玄関先で恥ずかしげもなくキスをする両親の姿も今では見慣れたもので、17年離れ離れになっていた時間を取り戻そうとしているのは理解出来た。


17年_


だが世の中には決して変わらないものがいくつかあると言うが、その中に含まれるのは僕の祖母だと言われていた。道明寺楓という人物は恐ろしいほど冷徹だと聞いていた。ニューヨークに住む祖母という人物に会ったのはまだ入院していた頃だった。
父さんも母さんもいない病室に突然現れ、枕元に置いてあったうさぎのぬいぐるみを見て目を細めて笑ったのを覚えている。

大財閥の跡取り息子に悪い虫がついたと母さんのことを認めなかったという祖母。
不思議なものでそんな人と話しをすることが苦ではなかった。
僕の中には祖母の血が受け継がれているのは確かなことなんだから。


「あなた。天国を覗いてきたのね?でも追い返されてしまったんでしょ?」

そのひと言で祖母がどんな人物かわかった。ユーモアがある。そう思った。

「司にそっくりだけど、あなたの中には司とつくしさんの両方が混じり合っているのね。」

孫の僕を見る目は17年前に母さんを見た目とは違うはずだ。

「あなたのことを過ちだとは思わないわ。あなたのお母さんと司が出会ったのは、あなたとあまり年が変わらない頃だったわね。早いものね。あの子のことを心配していたのがつい先日のことのように感じられるわ。」

それは父さんが刺され、病院に運ばれた時のことを言っているのだとわかった。

「あの頃は司もまだまだ子どもだった・・。あの子は小さい頃から一度決めたことはやり抜く子どもだったわ。それは大きくなっても変わらなくてね。それが悪い方に進んでいったのよ。あなたのお母さんに会うまではね。」

祖母から語られるのは僕が生まれる前の話しだ。

「あの頃は・・司には充分ではないと思っていたの。でもあのあと・・どんな女性があの子の前に現れても充分な女性はいなかったわ。」

母さんを充分ではないと思っていた。その言葉には嫌いという意味は含まれるのだろうか?

「あなたのお母さんは自分というものを持ってる人だわ。だからこうして・・あなたがここにいるのね。」

産まないという選択肢を取らなかったことを言いたいのだとわかった。

「あの邸で、あなたとつくしさんが幸せになれるといいいのだけど。」

そのとき気づいたのは、少なくとも今のこの人は父さんと母さんのことを認めているということだ。語る言葉に込められているのはあの頃の母さんへの祖母なりの詫びの気持が込められている。そう感じていた。

「あなたのお母さんを悪しざまに言ったことを・・ずっと後悔していたわ。」




そんな会話が交わされてから、色々なことががらりと変わったことだけは確かだ。
祖母と父さんと母さんは17年前のことなど無かったかのように打ち解けていた。
そうなる為には三者三様の思いを乗り越えたんだということだけはわかっていた。


航はコーヒーカップをテーブルに置くと立ち上がった。

「父さん、僕ちょっと西に行ってくる。」
「ああ。わかった。よろしく言ってくれ。」
「よろしくって何をよろしく言えばいいんだよ?」
「うちは広いだろ?同じ屋根の下にいても会えないこともあるからな。父さんも母さんも元気だって伝えてくれ。」


父親の育った邸の中を歩きながら、いつになったらこの場所に慣れるんだろうかと考えていた。そもそもここが家と言えるんだろうか?まるで美術館のような佇まいに慣れるまでは時間がかかりそうだ。
おまえの部屋の内装は好きにしろと言われたけど、今のままで充分だ。
それより母さんには、自分が幸せを感じられる部屋というものがあるんだろうか?
何しろ僕たち親子が暮らしていたアパートの部屋は、僕の部屋に全てが収まるほどだから、この邸は広すぎて疲れるほどだ。

廊下の至る所に置かれている花瓶や彫刻に気を使いながら歩かなくてはいけないなんて、やっぱりここは美術館か博物館としか思えなかった。


トントン 

扉をノックするとノブを掴んでまわした。


航は祖母の部屋を訪れた。

「楓さん。」

「あら。航さんよく来てくれたわね。いらっしゃい。いいの?こっちに来ても?」

「うん。父さんと母さんは高校時代の仲間と話しがはずんでいるみたいだから。」

「司の幼なじみね?」

普段ニューヨークに住む祖母は時々こうして東京にやって来る。
祖母と孫の間の呼び名は楓さんと航さん。
はじめて楓さんと呼んだ時、祖母は少し困惑したけど若いボーイフレンドが出来たみたいだと言って喜んでくれた。
それにおばあちゃんだなんて言ったら失礼にあたるくらい楓さんは若く見える。

航は楓に近づくと紙を差し出した。

「僕の成績なんだけど、高校を卒業したらニューヨークの大学に行こうと思ってるんだ。この成績で行けると思う?」

航の頭の中には父親のことが浮かんでいた。
母さんのことを忘れて渡米したという父さん。
そう差し向けたのは他ならぬ祖母だと聞いているが、そんなことは気にしていなかった。
過ぎたことを言ったところで、過去を変えることは出来ないのだから気にしても仕方がない。
恐らく祖母の頭の中にもあの頃のことが浮かんだに違いないはずだ。

ふたりが17年も離れ離れになるきっかけを作ったのは自分だという思いがあるかもしれない。
だが、祖母という人は惰性で謝ったりせず、謝るべきことはきちんと謝る人だ。
あの当時父さんをニューヨークに連れて行ったことは、当時の事情としては至極あたり前のことだったのだろう。
だが黙っているところを見れば、僕の言葉は祖母のふいを突いたのだろう。
まさかあの当時の父さんと同じ年を迎えようとする孫が、ニューヨークの大学へ行きたいと言うとは思いもしなかったはずだ。


暫くおいて、返事があった。

「航さん。このことは司もつくしさんも知っているの?」
どこか言葉を選んでいるといった口調だ。

航は首を縦に振った。

「うん。知ってるよ。だからニューヨークに行くなら楓さんに相談しなさいって言われた。」

「それで目的はなに?遊び目的なら相談には乗れないわ。」

「僕は父さんと違って道理のわかる人間だから。」

「航さんの言う道理ってなにかしら?」

「僕、父さんの跡を継ぎたいんだ。その為には父さんと同じようにニューヨークで大学に通いながら仕事を学びたい。」

楓にしてみればまさか孫が自らの意志で父親の跡を継ぐと言い出すとは思いもしなかったはずだ。だが嬉しい驚きだった。つい最近までその存在を知らなかった孫だったが、病院で会った時から心を奪われた。自分の息子の若い頃にそっくりな孫に。
そんな孫が会社を継ぐと言っている。

「厳しいわよ?学業との両立は。それにわかってると思うけど、経営者一族の出身だからと言って甘やかされると思ったら大きな間違いよ。」

歯切れのよい口調が戻った。
楓はどうして孫が父親の跡を継ぐ気になったのか知りたかった。

「航さん。どうして道明寺を継ごうと思ったのか聞いてもいいかしら?」

「どうしてかな。父さんと一緒に暮らすようになってからかな。父さんの仕事に対しての姿勢だとか、考え方とか見ていて思ったんだ。この人と一緒に仕事をしてみたいってね。それに徐々に固まって来たって言うのかな。男としての立場が。楓さん?僕は母ひとりで育ったから小さい頃からわかってたんだ。いつまでも子どもでいられるわけじゃないってね。」

航は片方の口角を上げ、父親によく似た笑みを浮かべた。

「それに18歳って言えば人生を変えるには丁度いい年だと思う。道明寺航としてニューヨークで新しいスタートを切りたいんだ。」

牧野航としての生き方を否定するものではなかったが、道明寺という名前は大きすぎて今の自分が名乗るには不十分な気がしていた。道明寺を名乗る以上はこの名前に負けないだけの実力を身に付けたい。そう考えていた。

「いいわ。賛成してあげる。わかっているでしょうけどアメリカは実力主義の国よ。少しでも気を抜けば他の人間に追い落とされるわよ。」

航の前にいるのは楓さんではなく鉄と呼ばれていた手強い女だ。そんな女性に賛成してもらえたことで胸のつかえがおりた感じがした。

「まあ、あなたの考えていることはだいたいわかってるわ。」

楓は口調をやわらげた。

「僕がニューヨークに行けば母さんは父さんとふたりの時間も増えるよね?それに母さんには早く楽をさせてあげたいって思っていたしね。」

そう言ってほほ笑む航の瞳は未来を見据えていた。

「そう?でもつくしさんが楽かどうかは、わからないわよ?もしかしたら弟か妹が出来るかもしれないわね?」

応える祖母の瞳も希望に溢れていた。






航はこれから先、弟か妹が出来ることが嬉しかった。
病室で祖母の言った言葉を思い出していた。

『 あの邸で、あなたとつくしさんが幸せになれるといいいのだけど。』

幸せは母さんが感じてくれたらそれでいい。

母さんが幸せなら僕も幸せだから。

一番大切なのは、父さんと母さんがふたりで幸せだと感じてくれること。

それが僕の願いでもあり、幸せだから。








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2016
09.21

恋人までのディスタンス 34

つくしは自分に嘘をついていた。

はるか上空から道明寺司を見つけたとき、自分をコントロールする力を失ったことに気づいた。それは自分の心が危険な状態に陥ったということだ。

パラシュートを自分でコントロールすることは出来ない。もちろんそれは未経験者だから
だ。つくしの細い腕で風向きの変化に対応することは出来ず、タンデムのパートナーに導かれなければ無事に地上へは戻ってこられなかった。

コントロール不能で戻ってこられない。

それはまさに今の状況だ。
つくしは自分の気持が道明寺司によってコントロール不能になったと感じていた。
それは出会ってからはじめて感じた思い。血圧が急上昇して、喉が渇いたような状態になっていた。この血圧の上昇は決して4000メートル上空から落ちてきたせいではない。
頭が朦朧とするのも三半規管が弱いとか酸欠とかではなかった。今まで親友の為にこの男と一緒にいると口走っていたが、それは自分に対しての嘘だ。自分の気持を誤魔化すための詭弁だったと気づいた。

他人に対して嘘などついたことがなかったのに、自分に対してはぬけぬけと嘘をついているではないか。

自分の気持に嘘をつく。

理由は理解出来た。

恋をするのが怖いのだ。

道明寺司に・・・


この男の全てに女として刺激を受けていた。
男はこうであるべきで、女はこうあるべきだ。そんな画一化したことを求めることなく、文句があるなら言ってみろ的な態度。そんな態度はつくしに論議をふっかけて楽しんでいるように思えるくらいだ。そんな男に思わず立ち向かいたくなってしまうのは紛れもない事実で、実際つくしは立ち向かっていた。

頭がいい女が好きだと言っていた。

それにつくしに殴られたときも、道連れとなって池に落ちたときも、まるで愛し合う恋人同士の些細な喧嘩だといった態度で済ませられると言うユーモアのセンスを持っている。
それからつくしが動揺するとわかっていて、わざと性的なことを匂わせるような会話をする。
知り合った頃はなんて独善的な態度を取る俺様男だと思った。

でもいつの間にか、この男のペースに引き込まれている自分がいた_

あたしと道明寺司の組み合わせ・・・

もしそうなったら世間はどう思うんだろうか・・・


つくしは上空から見た司の顔、そこに浮かんだ満足げな表情に目をそらすことが出来ずにいた。

無事地上に戻ったとき、やはり道明寺司はつくしの顔を見て満足げな笑みを浮かべていた。
だがその笑みはどこか笑いをこらえているようにも感じられた。
その理由はわかっていた。
着地し、体に装備されていた機材を外された途端、脚がふらついて派手に転んだからだ。

「よお。牧野。それでどうだった?おまえの冒険は?」

転んだつくしの頭上から聞こえたどこか笑いを含んだ声。

「えっ?・・うん・・最高だった!」

つくしは両手に付いた土を払うと、司の顔を見上げ笑顔で答えていた。
人に言えば恐らく止められていたであろうこの冒険。
だがこの男はやってみろと背中を押してくれた。今までこんなふうに自分の背中を押してくれた男性はいなかった。それまでつくしの周りにいた男性は、女性に求めるものが画一化した人間ばかりだった。個性が弱まる方向に持って行きたがる。そんな人間が多かったはずだ。

日本人は自分の意見を言わず、ひと前では好き嫌いを言わない。
だが外国暮らしが長かったこの男はつくしの個性を尊重してくれていた。
他人の基準で人生を決めることなく、自分で自分の人生を選んで行くということを認めてくれているように感じていた。

彼はそこに立ち、先ほどと変わらない笑みを浮かべた表情でつくしを見つめていた。
その表情はどこか優しく彼女を包んでくれるようだ。つくしはここがどこか知らない国で、周りには誰もいない。そんな気がしていた。

実際には先ほどまでこの場所には大勢の人間がいた。
つくしのタンデムインストラクターだった人間や司の警護の人間。万が一の事態に備え救急車まで用意されていた。だがいつの間にか彼らの姿は消えていた。

頬に感じるのはそよぐ風と柔らかい陽光。
そして感じるのはふたりの間に流れるエネルギー・・・
出会った頃とは違う、つくしが〝冒険〟をする前とは違う空気の流れ・・・

目が合ったまま、片手を差し出された。

「ほら。手ぇ出せよ。立たせてやる」

「でも、汚れているから・・」

つくしは土を払っていたがそれでも汚れていることは確かだ。

「いいから手ぇ出せよ。素直じゃない女は嫌われるぞ?」

素直じゃない女_
その言葉は今のつくしの心には響くものがあった。
自分に向かって差し出されている男らしい大きな手。
この手を素直に掴んでもいいのだろうか?

「うん・・ありがとう・・」

つくしが差し出された手を握ると、力強い手がひと息で引っ張り立たせた。


素直に言葉が口をついていた。

ありがとう・・と。




司はつくしの片手を掴んだまま、唇を見つめていた。
素直にありがとう。と呟いた唇を。

「ねえ・・ところでこれからどこに行く_ 」

つくしが言い終えないうちに固い胸にぶつかった。

司の胸_

「おまえの行くところは俺の胸の中以外ないと思うが?」

と、両手でつくしの頭をはさみ、何もいえないうちにキスをした。








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2016
09.20

恋人までのディスタンス 33

司はつくしの背中が震えているのを目にしていた。
自分から飛びたいと言った女もさすがにこの高さにはびびっているのか?
高度4000メートル。その高さはまさに眩暈がするような高さ。
日本最高峰と呼ばれる富士山は3776メートル。その高さよりも高い所から外へ飛び出そうというのだから、相当な勇気を必要とするはずだ。

スカイダイビングがしたい。

そのひと言にわかったと頷いた司はさっそく手配をしていた。
危険だから止めろとは言いたくはなかった。それは何故か?
牧野つくしの瞳の中に現れた輝きがまた見たいと思ったからだ。

変化を求めている。

自分で何かを変えようとしている。

そう感じたからだ。



牧野が求めていた冒険。

それにしても随分と危険な冒険を選んだものだ。
だが司はどこか自分と似ているところがるのではないか。そう思っていた。
アメリカで暮らしていた頃、司はスカイダイビングの経験があった。

渡米して間もない頃、刺激の強い非日常的なことを求めていたことがあった。それはある意味高校時代の延長のようなものだ。無軌道で自滅的な高校時代の名残とでもいうのだろうか。 危険だと言われるスポーツで憂さを晴らしていたことがあった。そうでもしなければストレスを発散するところがなかったからだ。大学に通いながら道明寺ニューヨークでも仕事もこなさなければならなかった日々。それは自らの運命を受け入れた日々ではあったが、全てを受け入れたわけではなかった。どこかで自由を手に入れたい。そう考えるとき、危険だと言われるスポーツに身を投じていた。
だが、代々にわたって築きあげられて来た道明寺という会社を自分の代で潰すわけにはいかない。そう自覚してからは危険だと言われるスポーツからは遠ざかり、ビジネスは容赦なく、女とは常に一定の距離を保つようになっていった。


牧野つくしと出会うまでは。


その牧野がこれから初めてのスカイダイビングをする。
セスナ機でダイビングポイント上空まで飛行し、タンデムジャンプをする。
タンデムジャンプとは1つのパラシュートに2人をくくり付けて飛び降りることだ。
お腹と背中がくっ付いた状態で、未経験者の人間の上に熟練者が被さるような姿勢で飛び降りる。

道明寺ホールディングスは北の大地に大規模な牧場を持っている。見渡す限り緑に覆われ、広さにして1500ヘクタールにもおよぶ草原。それは東京ドーム約320個分の広さ。その場所でダイビングをすることにした。

司は今回のダイビングに陸上自衛隊の落下傘部隊出身の男を、つくしのタンデムインストラクターに選んだ。
精鋭無比と呼ばれるスーパーエリート集団出身の男。その男のいた部隊は高い即応力と機動力を持ってあらゆる有事に対応できるように訓練を受けていた。
そんな男は今では司の警護の仕事を担っている。


タンデムの相手は女がいいのだが、その資格を持つような女は見当たらなかった。
それにもし、万が一のことを考えれば特殊任務についた経験のある人間の方がいいと考えた。もちろん同時に飛び降りる人間は司の他に同じく落下傘部隊出身の男達だ。
何かあれば、その男達がサポートすることになっていた。

まあ何かあったら困るんだが・・

「支社長。わたくしが責任を持って牧野様を快適な空の旅へとご案内いたします」

まるでどこかの航空会社のキャッチフレーズのような言い回しだが、司はその男に全幅の信頼を寄せていた。

「ああ。よろしく頼む」

司の隣にいる女は、はじめての経験に緊張しているのか、やけに大人しい。
それにしても、牧野つくしはどうしてスカイダイビングをしたいと言ったのか。
その言葉の真意を探りたかった。今、まさにこれから飛び降りようとする女は刺激が欲しくて飛び降りたいと考えているのか?

それとも_

「支社長。もうすぐポイントです。ご準備を」

震えていた女の背中に飛び降りる為の準備が施されていったとき、やがてその震えも収まっていた。牧野つくし。覚悟を決めたのか?
これから自分が望んだ冒険の世界へ足を踏み出そうとしている。こいつにとってはまさに思い切った行動だろう。牧野つくしのこの挑戦・・いったい何を意味しているのか?

「支社長。それでは先に牧野様をお連れします」

その言葉と共に牧野つくしは落下していった。








***










つくしは自分の冒険がこんなに早く叶うとは思いもしなかった。
ダイブした瞬間、全身の血がいつもと違う流れで体中を駆け巡って行く。まさにそんな感じがした。4000メートルのうち半分ほどはパラシュートを開くことなく、ただ落下していくだけだ。顔面には今まで感じたことがないほどの風圧を受け、重力に逆らうことなく、とてつもなく早いスピードで落ちていく。息をするのがやっとと言う状況に、声すらまともに出ることがなく、言葉を失ってしまったかのようだった。緑に覆われた地上がはるか彼方に見えているが、どんどん加速して行くばかりで、もしかしたらこのままパラシュートが開かずに地上に激突してしまうのではないかと恐怖が過った。
鼓動は激しく、今まで経験したことがないような音を奏でているかのようだ。



つくしはそんなとき、自問していた。

冒険したかったんでしょ?

新しい何かを経験したかったのよね?



「牧野様!」
頭の後ろから声が聞えた。
「パラシュートを開きます!5分空中遊泳になります!」

その声にバッと音がしてパラシュートが開かれると、体が一気に上へと持ち上げられていた。それと同時に体に固定されているベルトが反動で締め付けていた。
早いスピードで落下することを止めた体は、やがてインストラクターにコントロールされながら順調に地上との距離を縮め始めた。

つくしは思い切って足元を見た。
高度1500メートルほどの空中から視線を落とすと、見渡す限り緑が続くなだらかな丘陵地帯が見えた


わあ・・

こんな景色を見ることが出来るなんて・・


はるか彼方には放牧されているのだろうか。沢山の牛の姿が見えていた。
風を感じ、緑の色を目に映しながら空を散歩出来るなんて、今まで躊躇っていたこの冒険だったが道明寺のおかげで実現することが出来た。

やがてパラシュートがゆっくりと落下していくのが感じられた。
地上が近づいてくると余裕が出てきたつくしは、自分の周囲を見渡した。

そう言えば道明寺はどこに行ったんだろう?

セスナの中では何か話しかけられたような気もしたけど、記憶の中に残っていなかった。
地上を離陸してから飛び降りるまでの時間は、何がなんだかわからないうちに過ぎたと言った方がいいだろう。

飛び降りたのはあたしの方が先だったはずだけど、もしかして・・・




やだ。

着地ポイントで空を仰いでいるのは・・
あそこに立っているのは道明寺司なの?


つくしはおずおずと手を振った。

女性が異性に手を振るということは、相手にかなりの親しみを持っているということだ。
他国のように気軽にハグをする習慣のないこの国。そんな国で異性に手を振るという行為はハグに相当するほどの気持が込められているはずだ。まさに相手のことを思うからの表れと言えるだろう。

やがてその手も大きく振られるようになっていた。

つくしの顔には自然と微笑みが浮かび、自分を見上げている男に何か叫びたい気持ちになっていた。それは出会いからこれまでではじめて感じられる思い。





司は上空からゆっくりと降りてくるパラシュートを眺めていた。

牧野つくしは司の姿を認めると、最初はおずおずとだが手を振っていた。

やがて小さく振られていた手が左右に大きく振られるようになってくると、司の顔は満足げにほほ笑んでいた。









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