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2016
09.19

恋人までのディスタンス 32

牧野の瞳に時々ぱっと現れる輝きが俺を惹きつける。
司はつくしの思わぬ発言に驚いたが、望みを告げて来た時の顔は楽しそうだった。
冒険を求める気持ちはあるということがわかり、それを叶えてやることが出来るのは自分だと知った。そしてそのことに思わぬ悦びを感じていたのも確かだ。
言った手前、あいつの望みを叶えてやらなければならない。
だがその前に例の偽者を捕まえておくことが先決かもしれない。




「最近ハリネズミを飼い始めたんだが、餌が悪いのかなかなか懐かねぇけど、なんとかなりそうだ」
司は友人を前に話しを始めた。
「は、ハリネズミって・・司がか?」

友人は予想外の話しの展開に戸惑いの表情を浮かべていた。
久しぶりに訪ねてみれば、ペットを飼い始めたと聞かされたのだから驚きを超えて戸惑うしかなかった。

「ああ。そうだ。小さいのを飼い始めたんだが針を立ててばっかで全然懐かねぇんだ」
「餌って・・ハリネズミの餌ってなんだよ?」
「これだ」

司が差し出したのは一枚の写真。

「なんだよこれ?おまえによく似てるよな?もしかしてアレか?おまえがニューヨークにいるのに東京に現れたって言うおまえに似てる男か?」
「そうだ。この男がハリネズミの餌だ」
「司、おまえの言ってることがよく理解できねぇんだけど?」

写真を手にした男はまじまじと司を見た。

司は執務室の応接であきらを相手に話し始めた。
あるパーティーをきっかけに牧野つくしという女に出会って惚れたこと。
その女の親友が司の名前を語る写真の男とつき合っていたが、ある日突然その男と連絡が取れなくなったこと。写真の男は司本人だと思われていたことから、牧野つくしは親友が司に会いたいという願いを叶えるため、パーティーを通じて司に近づこうとしていたこと。司は自分が殴られたことは言わなかったが、その男が司ではなかったと誤解が解け、今では牧野つくしと一緒に司の偽者と言われる男を探すことになった、ということをかいつまんで話した。

「しかし、おまえのそっくりさん。というか偽者だけど確かに似てる。でもよく見ると全然違うぞ」

顔と体つきは似ているが力強さも優美さも感じられない。
写真を通してでも感じられる本物の道明寺司にあるものが当然だがない。
つまりオーラがないと言うことだ。

「だろ?どうやったら俺とこの男が同じだなんて思えるんだ?」

「おまえの名前を語ったんだ。語られた方の女は信じるしかねぇだろ?
人は自分の信じたいことを信じるように出来ている。その女も信じたいことを信じたんじゃねぇのか?おまえとつき合えるってな。それにあなた本物の道明寺司ですか?なんて聞く女はいねぇだろ?それにたとえ偽者だとしても本物になろうって意志が働くならそう見えてもおかしくなかったんじゃねぇのか?」

「それならこの写真の男は今その意志がないからこんなふうに見えるのか?」

ふたりが見ている写真は力強さも優美さもないただの男が写っている。

「ああ。そうだ。それにどう考えてもおまえに成り代わるなんてことは出来ねぇよ。有名人のそっくりさんだなんてのは所詮まがい物で本物にはなれない。偽者は本物があるからこその偽者だ」

あきらの言うことはもっともだ。

「それで、この男はいったい何者なんだ?」

「ああ、この男か?」

冷静な満足感が目に浮かんでいた。
司は松岡優紀が製薬会社に勤めているということに着目していた。
インフルエンザの新薬の研究をしているという牧野の友人。
その友人を騙すようにしてつき合っていた司によく似た男。

「スパイだよ。スパイ。産業スパイだ」

調査員からの報告は至って簡単だった。

「産業スパイ?この男がか?」

あきらは写真を見ながら顔をしかめた。

「ああ。どうやらそうみてぇだ。騙された女が製薬会社の研究施設に勤めているんだが、その女から情報を引き出そうとしていたみてぇだ。だが男は女が目的としていた情報を持っていないとわかった途端、女を捨てたってわけだ」

「で、この男ってどこの誰かわかってんのか?」

「うちにも製薬事業部門があるが要は商売敵、ライバル会社の社員だ。この男は研究の進捗状況を知りたかったってわけだ」

「まじか・・。でも女の方だってそんなに簡単に研究のことを喋るとは思えねぇけどな。あれか、やっぱピロートークで何気に聞くってことか?」

あきらは少し考え込むようにすると納得したように頷いた。

「確かに俺がつき合ってた女の中には聞きもしないのに、自分の仕事を自慢げにペラペラ喋る女もいたな」

あきらは写真をテーブルに置くと、くつろいだ様子でソファにゆったりと体を預けた。

「なあ司。それよりおまえその牧野って女だけど、どんな女なんだ?」

司もソファに体を預けると胸の前で腕を組んだ。

「牧野がどんな女か。か?ひと言で言えば冬眠中のハリネズミだな」
司の口元がフッと緩んだ。

「おまえ、さっき言った飼い始めたハリネズミってのは牧野って女のことか?」
「ああ。そうだ。ちっちぇえんだけどなかなか根性がある女だ」

司は自分が殴られた時のことを思い出し顎に手をあてた。

「それにしてもハリネズミってのは冬眠するのか?」

「ああ。暑すぎたら夏眠して寒すぎたら冬眠するらしい。あの女の場合は社会生活から冬眠しているようなもんだ。だからちょっと刺激を与えてやんねぇと延々と眠ってしまう可能性が大きい」

「何だかよくわかんねぇけど、司がそんなに手間のかかる女に興味を持つとは思いもしなかったな。それに手に入れたいものを前に躊躇する姿を見ることになるなんて思わなかったぞ。おまえその女が欲しいんだろ?」

司は答えなかったが、あきらには分かっていた。
ビジネスに関しては天性の勘を持つといわれる男。
女に対しての態度は氷の男だと言われていても、親友の心の内には熱い情熱が潜んでいることを。そんな男を虜にした女はいったいどんな女なのかと興味が湧いていた。
それにどうやらその女は、際立つ美貌を持つ男にあまり興味を示していないようにも思える。金、権力、そして美貌を持つ男につれない女・・・
よほどの美人か?それともどこかの御令嬢か?

だが司が形容するのはハリネズミのような女_

「それで、司のいうハリネズミに似た女はどんなことをしたら喜ぶんだ?手に入れるために何か考えてるんだろ?」

あきらは今まで親友が女にプレゼントを買ったということを聞いたことが無かった。
そんな男がもし何か買ってやるとすれば、いったい何を買い与えるつもりなのか興味があった。金で買えないものはない男だ。車でも宝石でも女が欲しがるものならなんでも与えてやることが出来る。それに相手の女は何か要求したはずだ。
司は足元を見るまでもないほどの金持ちだ。いったい何をねだったのか_

「あいつ、空を飛びたいって言うからその望みを叶えてやることにした」
「空?なんだよそれ?ジェットで遊覧飛行でもするのか?」
「いや。違う。自分が飛びたいらしい」
「飛ぶ?」
「いや。あれは飛ぶじゃなくて落ちるか?」
「落ちる?」

予想外の答えにあきらの言葉には疑問符ばかりが増えていた。
まさか司にジェットを買えとおねだりしたってことか?

「ああ。パラシュートで降りて来るあれだ。あれ」
「あれってもしかして、スカイダイビングか?」
「ああ。あいつ空からダイブしてみたいって言うから今度の休みにつき合うことにした」
司は面白そうに笑っていた。

「つき合うって・・おまえ・・まさか一緒に飛ぶつもりか?」

「そうだ。せっかくだから最上級の4000メートルから飛ぶつもりだ」








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2016
09.18

金持ちの御曹司~危険な予感~

大人向けのお話です。
未成年者の方、またはそのようなお話が苦手な方はお控え下さい。
*******************************






美男子のDNAを持つと言われる男。自分の体で劣等感を持つようなところはない。
それは世間の誰もが認めることで疑いようのない事実であった。
そんな男は多様性を認める男でもある。
いったいどんな多様性を認めるというのだろうか?

男子高校生の頃の空想なんてたかが知れていたが大人になった司が思い浮かべるのは妄想の多様性。
生物の進化を求めるなら多様性は必要だ。
それは画一的な生物よりも多様性を持った生物の方が生き残りやすいからだ。
それに物事に多様性は必要だ。だからこそ、司はいつも妄想の翼を広げていた。

それに一貫性も大切な原理だ。
人は発言や態度、信念に対して一貫性の原理というものが働く。
言い変えれば信念を貫くという態度だ。
考えや態度や信念がころころと変わるような人間は社会から信用されない。
つまり一貫性のある人間は社会から高い評価を受けるということになる。
司はその点では高い評価を受けるはずだ。
なぜなら司は17歳で出会った初恋の相手以外には目もくれず、その初恋の相手、牧野つくしに一直線だからだ。
惚れたらどこまでも一途で信念を貫く男。まさに彼こそ一貫性がある男だ。


それに官能的な低音の声の持ち主といわれる司。
その声をもって耳元で囁けば恐らく殆どの女が腰砕けになるはずだ。
だが実際に囁く女はただ一人だけ。他の女の耳元で囁くなんてことは絶対にない。
それなのに、唯一囁きたい女は司の低音ヴォイスに反応が薄い。

あいつの耳はどうかしてんじゃねえのか?
世間の女は俺の声を聞いただけで濡れるなんていうらしいが、勝手に濡らすんじゃねぇよ。
俺の声で濡れていいのはあいつだけだ。

まあいい。

その話しはまた今度だ。
それよりも最近の司はちょっとしたアドベンチャーを求めていた。
そうだ。これは多様性のひとつと考えてくれたらいい。
ワイルドライフ・・高原での一件から野外活動ってのもなかなかいいもんだと気づいた。
アクティブさも必要だろ?それに生活にはメリハリがあった方がいいに決まってる。
どんなに仲がいいと言われる恋人同士でも倦怠期ってのが訪れるものだからな。
その倦怠期をいかにうまく乗り切るかも長い付き合いの中では必要だ。




司の考えたアクティブさとは。




ふたりはまだコンビを組んだばかりの刑事。
道明寺司と牧野つくし。略して刑事D&M。
いや、「刑事司&つくし」か?
道明寺司は牧野つくしの先輩にあたる刑事だ。
先輩刑事の司の言うことは絶対だ。
これは世界中の警察機構の中ではあたりまえのことで、相手がひとつでも階級が上なら絶対服従だ。

道明寺刑事は警部。牧野つくしはまだ新人デカ。
そんなふたりがどうしてコンビを組むことになったのか?
それはもちろん司の思惑があったからだ。
今ふたりが追っているのは結婚詐欺で手配中の男だ。
司の手には男の写真が握られていた。

「いいか。牧野。俺たちはこれからこの男を捕まえるために張り込みをする」
「ええ。わかったわ。道明寺刑事。それであたしはいったい何をしたらいいの?」

新人デカの牧野つくしは初めての張り込みに張り切っていた。
そこは犯人の住むアパートが見える路上の一角。暗がりの中、電柱の陰に隠れるようにしてふたりは立っていた。すぐ側には司の愛車である外国製高級車が止められている。

「いや。特に何もする必要はねぇ。俺たちは恋人同士を装ってこの場所からこの男の行動を見張ることだ。いいか長期戦になるから覚悟しとけよ?それから俺とおまえはこれから名前で呼び合う。俺はおまえをつくしって呼ぶ。だからおまえも俺のことは司って呼べ」

「そ、そう。わかったわ。つ、司。長期戦になるなら何かお腹に入れるものがいるわよね?ちょっと買ってくるから」

と、言って走って行ったつくしは暫くするとコンビニの袋を抱えて帰ってきた。

「お・・・おまたせ。つ、司。はいこれ」

ハァハァと息を切らせながら手渡されたのは缶コーヒー。
司はプルタブを引き上げるとひとくち口に含んだ。

「まじぃ・・・」
「ご、ごめんね。つ、司。ドリップした方がよかった?」
「いや。どうせコンビニのコーヒーだ。どっちにしても味なんか大して変わらねぇからな・・」

道明寺刑事は舌が肥えている。それは署内でも有名だ。
それに彼の実家は大金持ちで名の知れた財閥。
そんな男がなぜ刑事に?それはもちろん牧野つくしが警察に就職したからだ。
だがそれはあくまでも仮の姿。

「そう・・。じゃあこれは?」

次に手渡されたのは張り込みには定番のあんパン。
司は物珍しそうに眺めると袋を破った。

ビリッ

パクッ

「なんだ?これ?」
「張り込みには定番のパンだと聞いたの・・どうみ、つ、司の口には合わない?」
「こんなもん。俺の口には合わねぇな」

司は手にしていたコーヒー缶とあんパンを投げ捨てると、つくしの手を掴んだ。

「ちょっと来い。」
「ど、道明寺刑事?いえ。つ、司?」

司の動きは早かった。
つくしを荒々しく抱きしめるとスカートの中に手を入れ、ウエストまでめくり上げると車のボンネットの上へのせた。

「俺はおまえが食いたい。つくし、おまえを食わせろ」

つくしの下着が司に脱がされようとしていた。

「だ、ダメよ・・」慌てるつくし。
「何がダメなんだよ?俺とおまえは恋人同士なんだ。イチャイチャしてねぇと怪しまれるだろ?」
「で、でも・・こ、こんなところで・・」
「後部座席なんかにしけ込んだら犯人が出てきてもわかんねぇだろうが!おまえ俺の言うことが聞けないのか!」
「そ、そんな・・」

つくしは困惑していた。
先輩刑事の言うことは絶対だ。とはいえここは車のボンネットの上だ。
司はつくしの脚の間に体を捻じ込むと下着をむしり取った。
ビリっという音とともに裂けた布は司の上着のポケットの中に押し込められていた。

「あっ!か、返して下さい!」
「これは俺があずかっといてやるよ」

にやっと笑う司。
暗がりとはいえ、頭上には電柱に取り付けられた照明がふたりを照らしていた。
司はスラックスのジッパーを下ろし、前を開いて高まりを取り出すとつくしのソコに擦りつけはじめた。

「あ・・っ・・」

硬いモノを押し付けられたつくしのソコは擦られるたびにヌメる汁を溢れさせて来た。

「だ、だめ・・」

どんどん溢れてくるつくしのヌメリ。

「なにがだめなんだ?」

腰を奥深くねじ込んでボンネットの上につくしを押し倒した。

「だ、だって・・こ・・こんなところ・・誰かに見られたら・・」
「誰かに見られたらどうなんだよ?」
「け、警察を・・く、首になります・・あっ・・あっ!」
「いいじゃねぇか。願ったり叶ったりだ。まきの、道明寺へ来い。うちへ就職しろ。俺の秘書になれ・・そうすればいつでもおまえの秘所をかわいがってやる!」

司はつくしの上へとのしかかった。

「どうした?つくし?欲しいんだろ?欲しいって言えよ?お願いって言え!」
「ど、どうみょうじ・・」つくしは困惑した。
「俺は道明寺財閥の跡取りだ。おまえの欲しいものは何でも与えてやる」

司はここぞとばかり官能的な低音で囁いた。

「言ってくれ・・俺が欲しいって・・俺は初めておまえを見た時からずっと好きだった!高校の頃はまともじゃなかった俺だが、あれからおまえのことをずっと追いかけていた!刑事になったのもおまえを監視するのが目的だ!」

司の膨らんだ先端はもう我慢が限界だったが無理矢理つくしを奪うことは出来なかった。

「まきの・・答えてくれ・・・俺が欲しいって言ってくれ!」
「ど、どうみょうじ。そうだったの?し、知らなかったわ。・・ほ、欲しい・・お願い・・。あたしもどうみょうじが・・欲しいのっ!」

それを合図に司はつくしの中に一気に突き入れた。
強いピストンで奥まで深く突き入れ、出しては入れを繰り返しながら腰をまわしはじめた。

「クソッ!ま・・きのっ・・俺はおまえが・・好きだ!好きなんだっ!」

司は腰を激しく振った。
思考の全てはつくしに向いていて他のことなど全く頭にない状態だ。
まさに男としての本能だけで腰を振っていた。

ますますいい。

もう我慢も限界だ!

イクッ・・クソッ・・まきのっ!!







「支社長。申し訳ございませんがそろそろ白昼夢から目覚めて頂きませんと次の予定に支障が出ます」


司は釣られた魚のように自分の体が水の中から引き揚げられる光景が頭の中を過った。
釣り竿のリールがあっという間に巻き上げられ、まさに妄想から一気に現実世界に引き戻されていた。陸に上げられた魚は一瞬の出来事に呆然としているだろうが、それはまさに今の司かもしれない。西田から見た司の目はさしずめ死んだ魚の目、といったところかもしれない。


クソッ!
西田の野郎。
こいつ俺に恨みでもあるのか?
俺がおまえに何をしたって言うんだ?

まあいい。
いつものことだ。
今さらだ。

それよりも車のボンネットの上での行為に文句があるやつもいるだろう。
だが、倒錯も慣れれば普通だ。
それに公然猥褻?
そんなモンどうでもいいだろ?


俺がこんな妄想に走ったのは牧野と新しい車でドライブに行きたいからだ。
今度の週末には絶対にあいつとドライブに出かけてやる。






***








マンションに帰ると、司はシャワーの音を聞きながら服を脱ぎ始めた。
バスルームでは牧野がシャワーを浴びているはずだ。
背中を流してやろうか?それとも他のところを洗ってやろうか?
つくしは司に背を向け立っていた。

司はつくしとシャワーを浴びるのがお気に入りだった。
そっと扉を押し開いて入っていく司。

「ただいま。牧野」

背中からそっと抱きしめた。

「やだ。どうしたの?びっくりするじゃない。静か過ぎて全然わからなかった」
「そうだろ?俺は静かな男で存在感が薄い男だからな」
「なに言ってんのよ?道明寺ほど存在感がある男がいるはずないでしょ?」
「そのくせおまえは会社では俺の存在を無視するだろ?」
「だ、だってそれは仕方がないでしょ?つき合ってることは秘密なんだから」
「そんなモン公然の秘密って言うんだ。俺とおまえのことがバレてねぇわけねぇだろ?」
「たとえそうだとしても、秘密は秘密なの。だからこれからも絶対に会社では馴れ馴れしくしないでよね?」
「おまえ、それが彼氏に向かって言う言葉か?」
「もう。道明寺っ。ど、どこ触ってるのよ!」
と言いながらも笑う牧野。

「どこって俺が一番好きなところ」

そこは牧野の心臓のうえ。俺のハートを捕まえて離さない牧野の心がある場所だ。
もちろん、俺もこいつのハートは頂いてるけどな。
それにこいつのことは俺が一生守っていくと決めていた。
やわやわと胸を揉む手をペシッと叩かれた。
相変わらず初心な女。

「道明寺、あたし先にあがるね。なんだかもうのぼせそうなのよ」
「ああ。先にあがってろ。ぶっ倒れられたら困るからな」

別にシャワーを一緒に浴びることが出来なくても構わなかった。
実は昼間の刑事妄想物語には続きがある。
牧野つくしを世の中の災いから守ることが司の趣味なのだから文句はなかったが、あれからふたりで事後処理を済ませたところで犯人がアパートから出て来た。
カンカンカン・・・と高い音を響かせて鉄の階段を下りて来た男は俺たちがいる方向に向かって歩いてきた。
すぐにふたりで恋人同士を装ってイチャイチャし始めたが、牧野が犯人と目が合った瞬間、
俺たちのことを不審に感じた犯人があろうことかサバイバルナイフを取り出した。

「おまえらサツだろ!ぶっ殺してやる!」

ナイフを見た牧野は恐怖におののいて向かって来る男を避けるのが遅れた。

「まきのっ!!」

司の鍛えられた肉体が躍動した。
カラーン・・・
見事な右足ハイキックで男の手からナイフを蹴り落としていた。

「テメェ!牧野になにしやがるんだ!」

ガッ。バキッ。ドスッ。

司は男を殴打すると蹴りを入れた。

「大丈夫か!まきのっ!!」
「ど、どうみょうじっ!」
「泣くんじゃねぇ・・。おまえのことは俺が一生守ってやる。俺がおまえに怪我なんかさせるかよ」



司は妄想だろうが、空想だろうが、つくしの夢の中だろうが、牧野つくしに危機が迫れば助けに行くのがあたり前だ。

「こんな彼氏がどこにいんだよ?」

司は熱い湯に打たれながら呟いた。
どんな状況でもつくしが一番。
それがたとえ脳内の疑似的体験であってもだ。

「世界で一番優しい彼氏つかまえて世間には秘密だなんてなに言ってんだ?」
それは司のことだ。
「ま、おまえを守るのが俺の趣味なんだから仕方がねぇーよな」

金持ちであろうがなかろうがそんなことは関係がなかった。
どんな時代に生まれようと、どこの場所に生まれようと牧野と巡り会うことに決まってんだからおまえに纏わりつくのは当然だ。そんくれぇのことは理解しろ。

司はつくしが使っていた石けんを手にとると深く匂いを嗅いだ。


俺と同じ匂いを纏った牧野。


最高だ。


これから疑似じゃない本当の体験が始まるんだ。

覚悟しろよ?牧野。

今夜は寝させねぇからそのつもりでいろ。








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2016
09.17

恋人までのディスタンス 31

処女かと聞かれ、処女だと答える30過ぎの女が世の中のどこにいるというのだろう。
別にそのことを恥ずかしだなんて思ってもいないし、だからと言って堂々と認めることもどうかと思う。それにまさか食事中に道明寺からそんなことを聞かれるなんて思いもしなかった。

「で?どうなんだよ?牧野。」
正面に座る男はリラックスした表情でつくしを見ていた。

「ど、どうなんだって、何がどうなのよ?」
「だからおまえが男と・・」
「待って!も、もういいから!そ、それ以上言わなくていいから・・」

つくしは慌てて止めた。
考えもせずうっかり経験学習はまだなんてことを言ってしまった自分が悪いとわかっていたが、男の口から処女なんて言葉を必要以上に聞きたくはなかった。
さっきの言葉を撤回出来るものなら撤回したい。

「あの・・そんなこと知ってどうするのよ?そっ、それに関係ないでしょ?あなたには。」
「確かに俺がおまえの男性経験を知っても俺の生活は何も変わらねぇな。でもおまえの生活は変わるかもしれねぇ。」

司の目が挑戦的に光った。

「いったい何が変わるっていうのよ?」
「おまえは恋をしたことがあるのか?恋をするのに経験はいらないが冒険心は必要だ。おまえは冒険する気持ちはあるのか?そんなことよりも、そもそも冒険をしたことがあるのか?」

まるで過去を見て来たかのような話しっぷりにつくしは動揺した。
目の前の男が言う冒険がどんなものなのかはわからなかったが、石橋を叩いて渡るという性格のつくしは冒険などしたことがなかった。

「ちょっと待って。いったいなんの話しをしてるのよ?」
「だから俺と冒険するつもりはあるのかって聞いてるんだ。」

強烈な視線で見つめられると、つくしは落ち着きを失っていた。

「冒険もなにも・・あたしたちは・・その・・優紀の元彼を探すことが目的でしょ?」
「なんだよ。またその話に戻るのか?」
「その話に戻るって言ってもあたし達がこうして一緒にいるのはそれが本来の目的でしょ?」
「わかってる。それはあくまでも目的の一部にすぎねぇけどな。」
「も、目的の一部って・・な、なに・・」
「おまえ、俺と冒険してみろ。いきなり俺を好きになれとは言わねぇから人生をもう少し楽しむことをしたらどうだ?おまえは挑戦することは嫌いか?」

司はわざと声のトーンを一段落としていた。

「それともおまえは最初っから自分が敵う相手じゃないと思ったら尻尾を巻いて逃げるのか?」

逃げるのかと言われれば立ち向かってくる女だ。
そんな女は挑戦されて拒むことは出来ないはずだ。そうは言っても相変わらずの慎重さも感じられる。
まさかとは思ったが牧野つくしは男性経験ゼロとは思わなかった。
それに黙っているところを見れば新しいことに挑戦するのも悪くはないと考えているのは確かだ。それともこいつの頭の中じゃどうやったら俺の質問から上手く逃げれるのかと考えているのか?

「それで、牧野つくしはどんな冒険がしたいんだ?」

どうせなら俺を冒険の対象にしてくれてもいいが、それを言うにはまだ早すぎる。






冒険・・・

それはまるで心を躍らせるような言葉。

確かに今まで真面目にコツコツと生きてきた。
単調な毎日で職場と自宅との往復以外で立ち寄るところと言えば優紀の所ぐらいしかなく、休日は溜まっている家事を済ませることだけで終わっていた。
30歳を過ぎてからはその傾向が顕著に表れるようになり、どこかへ出かけようかと言う気がなくなって来たのも事実だった。

でも、あたしにどんな冒険が出来るの?

出来るとすれば長期休暇を取って海外旅行のパッケージツアーに申し込む・・そんなことしか思い浮かばなかった。
今までのあたしに足りないのは確かに冒険心かもしれない。
挑戦することは好きだが、それはあくまでも仕事に対してだけで、人生のアドベンチャーなんて経験したことがなかった。

そう言えば優紀に言われたことがある。
つくしはいつも男警戒モードでいるから男の人が近寄りがたいのよ。もっと気楽にしなきゃだめよ。そんなんじゃ誰からも声をかけられることなく、おばちゃんになってしまうわよ?
そんな優紀は道明寺司によく似た男に声をかけられてつき合った・・だけど上手くいかなかったじゃない?

「どうなんだ?牧野?」
「えっ?」
「えっじゃねえよ。おまえは俺と冒険する気があるのか?」

司の熱を持った視線がつくしを見つめた。


冒険・・

目の前の男はあたしを冒険に連れて行ってやると言っている。
オーダーメイドの高級スーツに上等の靴を履き、さりげなく優雅なスタイルで決めている男は欲しい物は手に入れるという男だ。そんな男が提案する冒険って・・

「ぼ、冒険って言っても・・いったい・・」
「おまえが思ってる冒険を言ってみろよ?チャレンジ精神が旺盛ならスポーツでもいいが、俺と一緒に海外旅行でもいいし、おまえがしたいことって何だよ?」
司の片方の口元が意味ありげに上がった。
「言ってみろよ?」

正直に言うべきか、それとも言わざるべきか。
つくしは軽く咳払いをしてみせた。
すると司はそんなつくしの様子がいつもと違うことに気づいた。
司と意見が合わないことの方が多い女が黙っているのだ。
それも落ち着かない様子で何か言いたそうだ。その態度は言いにくそうではあったが、今ここで言わせることが出来れば牧野つくしが足を踏み入れてみたいと考えている冒険を知ることが出来る。こいつはどんなことに興味を抱いているのか?
司は話しの糸口を与えることにした。

「こんなことはじめてだな。俺と意見が合わないのはあたり前になってるけど、黙っているところを見れば、おまえ何かやりたいことがあるんだろ?なんだよ?牧野。言ってみろよ?」

司はにやりとして、体を前に乗り出した。

「俺に出来ないことはまずない。遠慮することなんてない。言ってみろよ。おまえの思ってる冒険ってのを。」

道明寺司はじっと見つめて辛抱強く言葉を待っている。
言おうか言うまいか。
つくしは少しだけ躊躇していたが希望に満ちた顔で思い切って言った。

「だ、ダイビングがしてみたいの。」

「ダイビング?ダイビングってスキューバか?おまえ池にダイブしたばかりなのにまた水ん中に顔突っ込みたいのか?おまえよっぽど水ん中が好きなんだな?」

「ち、違うのよ・・」

つくしは顔を赤くしながら否定した。

「空よ。空。」

「空?なんだよ空って?」

「あ、あたし、スカイダイビングがしてみたいの。」








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2016
09.15

いつか晴れた日に 後編 2/2

司が17年前に失っていた記憶を取り戻した日から3日。
彼は病院にいた。
あの日から彼の時間の全ては息子のためにあった。
皺が寄ってしまった高級なスーツは彼がどれだけこの場所で過ごしてきたかを物語っていた。

類から粗方話しは聞かされた。
俺が渡米した頃、牧野が子どもを産んだということを。類もその事実を知らずにいたが街で偶然出会ったことで知る事になった。
学園を去り、仲間の元からも去らざるを得なかったのは、子どもを産むことがどれだけ周りに迷惑をかけるかということをわかっていたからだろう。いかにも牧野が考えそうなことだ。他人に迷惑をかけることが嫌いな女は昔から自立心だけは旺盛だった。

産まないという選択肢はなかったのか・・
司は頭を過る想いを振り払った。

もし類が牧野に出会わなければ今ここでこんなふうに過ごすことはなかっただろう。
高校を中退した牧野にどこにいたのかと類が聞いたとき、両親の田舎に身を寄せていたといい、そして出産もその街で行ったそうだ。
妊娠したことをどうして誰にも言わなかったのか?類がそう聞いたとき、牧野はこう言ったそうだ。

『 ものごとは必ず理由があって起こるものなの。道明寺があたしを忘れたのは、どこかであたしのことなんか忘れたいと思ったからなんだと思うの。あたしのことなんて必要ない。そんな風に思ったから、あたしのことだけ忘れたんだと思う。だからもういいのよ。
それにもう道明寺には新しい・・・恋人がいるんだからいいのよ、もう。でもあたしには新しい命をくれた。だからこの子と生きて行く。』

子どもとふたりで生きていく。
そう決めたとき、牧野はどんな思いでいたのか。
仲間とのつき合いもなくなり、やがて膨らんでいく腹を見つめながらどんな思いでいたのか。あれから長い年月が過ぎ、あの頃とは比べものにならないほど大人になった少女は今、目の前に横たわる息子をどんな思いで見つめているのか。
司はかける言葉が見つからずにいた。

過去に戻ってなにもかもやり直せるならやり直したい。
過ぎたことを悔やむなと言われても悔やまないわけにはいかない。
ふたりの再会は_考えうる最悪の状態での再会だ。自分たちの子どもがまさに死に直面している。そのことによって記憶が甦った。

神は俺の記憶を戻した代わりに息子を連れ去っていこうというのか?
その答えを見つけることは出来ないだろうが、どんな事をしても息子を死なせるわけにはいかない。俺の人生で一番幸せだった瞬間に命を授かった子どもだ。絶対に死なせるわけにはいかない。そのためにはどうすればいいのか。どんな形でもいい。司は見つけることの出来ない答えが欲しかった。



医者が入って来たので、司は顔を上げた。

「昏睡状態というのはいつまで続くんだ?」

「それはわかりません。良い状態か悪い状態かと言われれば、あまりいい状態ではないと言った方がいいかもしれません」

ベッドの側に立った医者はひと呼吸おくと話しを継いだ。

「いいですか?こう言った場合家族や彼の大切な人が傍にいて声をかけてあげることが大切なんです。昏睡状態というのは医学でもまだまだよく分からないところがあります。だからと言って回復しないということではありません。話しかけてあげて下さい。そうすれば息子さんの意識は必ず戻るはずです」

司は自分の隣で椅子に腰かけている女の手を握った。
それは17年ぶりに握るいとしい人の手。

小さなその手に温もりはなく、冷たさだけが感じられた。自分の手の温もりを分け与えてやりたい。この手で出来ることは何でもしてやりたい。そう願ってはいるが今は何も出来ないということだけはわかっていた。泣き続けた顔は疲れ切った様子で頬を流れる涙は止まってはいたが、唇は震えている。

旅先から急遽引き返して来た弟夫妻はつくしに駆け寄ると抱きしめあって泣いていた。

「姉さん・・航の容態は?」

「まだ・・意識が・・戻らないの・・」

つくしはそれ以上上手く話すことができず弟夫婦の顔を見つめる以外出来なかった。
鼻をつくような消毒薬の臭いに苦いものがこみあげてはいたが、何度も我慢を繰り返していた。気管内に挿管されていたチューブは外されていたが、両腕からはまだ何本ものチューブが機器に繋がれている。
目の前でただじっと横たわっている息子の姿は、あの日を思い出されると同時にあの時と同じ恐怖も甦っていた。

まさかこの子の記憶が・・
あたしのことを忘れるなんてことが・・
つくしはそんな思いを慌てて振り払っていた。


司は以前医者に言われていたことを思い出していた。
記憶を揺さぶるには何かショッキングな出会いが必要だということを。
それがまさにこの出会いだったのかもしれない。
それならこうして記憶を取り戻した今、彼がなすべきことは決まっていた。

はじめは空港で自分によく似た少年を見かけたことから始まっていた。
あの少年のことが気になっていたはずだ。気になったから調べようとしたがそのままになってしまい、何もすることはなかった。
あのとき調べていればこんな状況にはなっていなかったかもしれない。

「この子の髪の毛・・」
つくしが優しく頭を撫で始めた。
「水に濡れると真っ直ぐになるの」
何の気なしに呟かれた言葉。

「そうか・・」

司は自分の遺伝子が受け継がれている息子を見ながらあの日を思い出していた。
17年前、友人達が仕組んだ奇妙な小旅行で訪れた島での一夜。
互いの手以外は必要がないと掴んだ小さな温もり。

「この子はきっと助かるわ」
つくしは断言した。
「ねぇ・・道明寺もそう思うでしょ?必ず元気になってくれるわよね?」

「ああ。元気になってくれる」

司は深く頷いた。

「目を覚まして・・ねぇ・・・航・・・・」

つくしの目からは、はらはらと涙が落ちていた。

「母さんはここにいるのよ?」

頬を流れる涙をぬぐうことなく泣いていた。

「おねがい・・おねがいだから・・ないで・・いかないで・・戻ってきて・・あたしには・・」


あなたしかいない_



司にはそう聞こえていた。

「牧野・・俺は・・」

「ご、ごめん。道明寺・・今は・・この子のこと・・」

つくしは唇を噛み締めた。
今は何も話したくはない。
我が子を見つめてひたすら神に祈りたい。まるでそう言っているようだ。

「俺は・・まきの・・聞いてくれないか・・。俺の人生で・・はじめて・・」

司は言葉に詰まった。
そこで言葉が途切れてしまったのはこの瞬間、自分の心の痛みを告げるのではなく、目の前に横たわる少年の命の灯が消えてしまわないように祈ることが先だと気づいたからだ。
彼の傍で涙を流しているのは、司の心の痛みよりも遥かに大きな痛みを抱えている女性だからだ。零れ落ちる涙は目の前の少年の為だけであって司に向けられているものではない。
今までの人生で一番の悪夢を見ているようだとは言い出せなかった。

悪夢_

これは悪夢なのだろうか。
もし悪い夢なら醒めて欲しい。
17年前に自分に起こったことと同じことが・・息子に起きている。
腰に鋭い痛みが走り刺された場所だとわかった。だがそれは錯覚であって傷痕はあっても痛みはない。自分はこうして生きて過去の記憶を取り戻した。17年前牧野に最低のことをしたとしてもこれから先は二度と辛い思いをさせるつもりはない。
司は言葉を拾いながらも話しかけた。

「大丈夫だ。必ず意識は戻る。話しかけるんだ牧野。先生が言っただろ?」

少年を見つめながら過去の自分を重ね合わせていた。
17年前の自分はこのあと牧野のことを忘れ去って思い出すことはなかった。
もしあの頃に戻れるなら自分は何をする?
若い牧野はこの子を産んでひとりで育ててきた。
あの頃自分が傍にいたらどうしていた?
今となっては分からないがこれだけは言える。

永遠につながる日々を送っていたはずだ。
ふたりは永遠につながっていく未来を前にしていたはずだ。

今からでも遅くはない。
この少年が、いや、息子が事故にあったから牧野と再会出来た。
こうなる運命だったのか?
俺と牧野が再会するためには息子の犠牲が必要だったということか?

いや。それは違う。そうじゃない。ふたりのこれからの人生に犠牲なんて必要ない。
なんとしても息子を助けたい。
その為ならなんでもする覚悟はある。
司は背筋を伸ばすと頬に流れた涙のあとを拭った。

昏睡状態は長引けば長引くほど、回復の見込みはなくなってくる。
だからこそ早く目覚めて欲しい。
だがふたりは祈るしかなかった。

絶対に治る。治してみせる。
司は身動きしない息子の姿を眺めていた。
あの日、空港で目を見開いて自分を見つめていたのが最後だとは思いたくない。
無表情で横たわっている姿が最後だなんて思いたくない。
目を開いて俺の姿を見て欲しい。
俺がおまえの父親だと名乗りたい。
人工呼吸器につながれた姿はかつての自分と同じ姿。心臓は鼓動を繰り返しているが外せば呼吸は止まってしまう。

どんな声をしているのだろうか?
この子は自分と同じような声なのか?
どんな声で母親である牧野を呼んでいた?
戻って来い。父さんと母さんのところへ・・俺はおまえの父親だと言いたい。
司は目に涙が浮かんできてはまばたきを繰り返していた。

17年という歳月を経て再会したふたり。
司はつくしのことを考えずにはいられなかった。
喉が締め付けられ言葉は出ないが、こらえている感情は抑えることができなかった。
必死に生きてきたに違いない。若く何も持たない少女が子どもを産んで育てるということがどんなに大変なことなのか。男の俺には思いもつかないような苦労があったはずだ。
人生の一番輝かしいと言われる年齢で幼い子どもを抱え、生活の糧を得るために働くということがどれだけ大変なことなのか。司には想像もつかないことだらけだったはずだ。


あの日がなければ_


「こう・・航っ!・・母さんはここにいるわ!」

その声に司ははっとした。

「おねがいよ・・おねがいだから目を覚まして・・」

母親は目に涙をいっぱいためて息子に呼びかけていた。

「それに・・あなたの・・」

一瞬の間のあと語られた言葉に司は自分が許されたと感じていた。

「あなたの父さんもここにいるのよ?あ・・会いたかったんでしょ?ねえ?お願いだから目を覚まして・・・ここにいるのよ?あなたの父さんが・・あなたが会いたかった人が。」

それはまさにあの頃の牧野つくしだと思った。
司が当時理解できなかった彼女そのものだ。
自分に立ち向かってきた勇気。人に騙されても許せる寛容さ。友人に対して誠実でいるということ。

そしてあの頃と変わらないまっすぐな瞳。

許して貰えるならどんなことをしてもこのふたりを守りたい。
ふと目に止まったのは枕元に置かれていたうさぎのぬいぐるみ。
司はぬいぐるみを手に取った。

「俺も子どもの頃にこんなぬいぐるみを持っていた」
「これは・・道明寺のぬいぐるみよ」

つくしの目には涙が浮かんでいた。

「これ・・道明寺に返そうと思って・・返せなかった・・」
「俺の・・?」
「うん・・あんたのお母さんが・・あんたが刺された時、病院に持って来たぬいぐるみよ?ほら・・ここなんて擦り切れちゃってるでしょ?この子、耳をもって振り回すから、何度も取れちゃって・・縫い合わせるたびに短くなって・・こんなになったんだけど・・それでも捨てられずにいたの・・」

17年も前のぬいぐるみ。いやもっと昔に俺が手にしていたぬいぐるみが息子の成長を見守っていたということか?母親がいない寂しさをこのぬいぐるみが癒してくれたことがあったが、息子も働きに出ていた牧野からこのぬいぐるみを与えられていたということか。
心が癒されるようにと与えられたぬいぐるみ。そうは言っても親子は離れたくはなかったはずだ。

過ぎた17年が悔やまれてならない。
俺が傍にいればふたりに寂しい思いをさせずに済んだはずだ。

「航・・こう・・なあ、目を覚ましてくれ・・おまえの父さんは俺だ。・・ここにいる。おまえのすぐ目の前にいる!だから目を覚まして俺を見てくれ!」

司はつくしの目を見つめた。

「牧野・・俺は航の父親として・・出来る限りのことをしてやりたい・・だから」

父親としての権利を行使したいと言う言葉が口をついて出ようとしたが、押し留めた。
いきなり現れた自分がそんなことを言える立場ではないということはわかっていた。
記憶を無くし、何も知らなかったとはいえ余りにも都合が良すぎる。
だが、どうしてもふたりの傍にいたい。
ふたりが欲しい。
血を別けた息子とその母親が欲しい。
牧野をこの腕の中に抱きしめたい。そのことだけが脳裏に浮かんでいた。

「牧野。・・この子の命が・・助かったら・・いや。助かる、助けてみせる。だから・・俺と一緒に・・」

その先を言うには勇気が必要だった。だが言わずにはいられなかった。

「俺の夢を叶えてくれないか?」

今さら身勝手な男だと言われることは承知だったが言わずにはいられなかった。
だがどうしても共に生きる未来が欲しかった。
たとえ失った17年があったとしても、これから先は_

「おまえと一生一緒にいたい。それに航と一緒に・・俺の息子とおまえと三人で暮らしたい」


返事はなかった。


ただ黙って見つめられるだけで言葉はなかった。
そのことにたまりかねた司は言葉を継いだ。

「おまえが何も言わないのは無理もないと思う。俺はおまえを忘れ17年もひとりにしていた。あの日あの島で約束したことなんて忘れちまって、俺はおまえを・・」

司は最後まで言わなかった。いや、言えなかった。言葉は悪いが司は牧野つくしを捨てた。
そして彼女の人生を台無しにした。今こうして隣に座る女はあの頃彼の生きがいだったはずだ。あの日から17年。いったいどうすれば償えるというのか。司がつくしの記憶を失った代償は余りにも大きかった。自分に息子がいるということなど思いもしなかったが、その息子が父親に会いに来たというのに、気づきもせずに今日まで過ごしていた。

「あたしは、この子を産んだことを後悔なんてしてない。それにじ、自分の人生が台無しになっただなんて考えたこともなかったわ。この子がいるからあたしは生きることが出来たの。この子があたしの人生の灯だったの。」

人生の灯となっていた息子。
この子がいるから生きてこれたという思い。

「それにど、道明寺には道明寺の・・人生がある。それはあたしとこの子を知らなかった人生よ。一緒に暮らしたいって言っても無理よ。あたしとこの子はあんたの人生には必要がない人間だもの。あんたはお母さんのあとを継いでこれから先、会社をもっと大きくしていくんでしょ?そんなあんたにあたしは必要ない。この子だって同じ。」

言葉の端々に感じられるのは、道明寺家にはふさわしくないという思い。


「航は、俺の息子は今、命懸けで戦ってるはずだ。生きることに、生きることを望んでいるはずだ。この子が目を覚ましたとき、俺はこの子の父親としてこれからのこいつの人生にかかわっていきたい。それに航もそれを望んでいるはずだ。」

「この子が何を望んでいるかなんて、どうして道明寺にわかるのよ?今までこの子に父親なんていなかったのに必要としてるなんてどうしてわかるのよ?」

「じゃあどうして航は俺に会いに来たんだと思う?」

帰国した日に空港まで会いに来た息子のことを思い出していた。

「わ、わからない・・それは・・」

つくしは言い返す元気がなかった。
つい道明寺の言葉に反応してしまったが今は何も考えたくなかった。


司はつくしの不安の全てを拭い去ってやりたかった。
細い小さな体を守ってやりたいと思った。牧野の望みが息子の快復だけだとしても構わない。そばにいて守ってやりたい。

「なあ、牧野・・航が、俺たちの息子が事故にあった理由が、おまえは物事には理由があるって言ったんだよな?」
それは類から聞かされた牧野の言葉。
「この事故に理由があるなら俺とおまえを再会させるためだとは思えないか?俺は・・そう思っている。」

これは用意された再会だったのだろうか?

互いが運命の人ならこうしてまた再会することに決まっていたのだろうか?
離れ離れになった恋人同士がこうして再会を果たすことは決められていた運命なのだろうか?無くしたと思っていた愛がこの手に戻ってきた。そう思ってもいいのだろうか・・

次の瞬間、少年の頭が左に振れた。

「こ・・航!」
腕がぴくりと動いた。
「ど、道明寺・・航が・・航が動いた・・動いたわ!」

つくしはナースコールのボタンを押した。
ふたりは少年の声を耳にしていた。呼吸器のマスクの下から聞こえて来た声は弱々しいが確かに母さんと聞こえた。やがて瞼が震えると開かれた瞳は何かを求めて中空を彷徨っていた。

「航!母さんよ!母さんはここにいるわ!」

つくしはベッドの上へ身を乗り出していた。

「ここよ!ここにいるわ!母さんはここにいるわ!」

少年は何度か瞬きを繰り返すと顔を母親の方へと傾けた。

「か・・か・・あさん・・」




そのあとは、おぼろげな記憶しかなかった。
ばたばたと医者と看護師が駆けつけると、ふたりは病室から追い出され中では処置が施されていた。
やがて医者が出て来るとふたりに声をかけてきた。

「意識が戻りました。もう大丈夫です。さきほど検査をしましたが、反射神経にも問題はないようです。打撲傷は時間がたてば治ります。息子さんは車にぶつかったとき咄嗟に取った姿勢がよかったのでしょうね。何か運動でもされているのですか?」
「いえ。特になにも・・」
「そうですか。では運も味方したということでしょうね。」
「あ、あの・・入院はどのくらいすることになるんでしょうか?」
「1ヶ月くらいで退院できます。さあ、どうぞ中にお入りになって声をかけてあげて下さい」



3日間ひたすら待ち続けていた時間は終わった。

「母さん・・」
「航・・」

親子はただひたすら見つめ合っていたが少年は視線を母親の隣に移した。

「隣の人は・・道明寺さんだよね?」

確かめるように、そしてそうであって欲しいという願いが込められた問いかけ。
見つめる少年の瞳は司によく似ていた。

「ああ。はじめまして道明寺司だ。」
「はじめましてじゃないよね?一度会ったよね?」

司によく似た低い声。

「航、あのね、道明寺さんは・・」

「僕の父さんなんだろ?母さんは隠したつもりなんだろうけど僕は随分前からわかってた。 それに夢を見たんだ。父さんが僕に会いに来てくれる夢を。道明寺さん。そうだよね?僕の・・」

ひたむきに見つめる目と求めるような問いかけに司は大きく頷いた。

「ああ。君の父親は俺だ。それに君の母さんが認めてくれるならこれから一生一緒に生きていきたい」

つくしに向けられたゆるぎない情熱を秘めた視線。
それは随分と昔に司がつくしに向けていた視線だった。

「これから一生一緒に生きていきたいんだ。おまえと。」

長い間があり、司は最後の一節を繰り返した。

『 一生一緒に生きていきたい。 』


かつて自分が愛した女性と、その女性が産んでくれた息子を前に繰り返した言葉。
言うには遅すぎたかもしれないが、迷いはない。
司にしてもこれまでの経験が彼に与えたものは大きかった。ただあの頃のように自分の一方的な思いだけを押し付けるようなことはしたくはない。
17年ぶりに会うふたりはあの頃と違って大人になっている。それに今では16歳の少年の親でもあった。

「母さん、何か言いなよ?」

つくしは息子の言葉でわれに返った。
いったい今さらなにを?もう何も感じることはないと思っていた。

「道明寺・・あたしに気をつかう必要なんてないから・・心配しないで。今までもこの子とふたりで生きて来たから・・あたし達の息子に何か責任を感じるとかそんなことはしないで欲しいの。さっきも話したけど道明寺には別の人生があるわ。だからあたし達とは関わらない方がいいと思うの。」

「おまえは相変わらず強情な女だな。自分の気持を素直に認めようとはしない。」

司はつくしの言葉を一蹴した。

「い、いったい何が強情だって言うのよ?」

つくしにだって16年ひとりで子どもを立派に育ててきたという自負があった。
今さらぽっと出の人間に自分の感情をとやかく言われる筋合いはないという思いがあった。

「それならあのうさぎのぬいぐるみは、どうしてここにあるんだ?あんな古いぬいぐるみをいつまでもとっておくには理由があったんだろ?」

「道明寺さん、母さんは他にも大切にしてたものがあるよ?ネックレスとか・・」
「航!」
つくしは少年を咎めた。
「それにおまえはさっきあたし達の息子って言ったよな?」
「そ、それがなにか・・」
「嬉しかった。俺とおまえの息子だろ?俺を父親だって・・認めてくれたんだろ?航の父親は俺だって。なあ、そうだろう?認めてくれるんだろ?俺が航の父親だって。牧野、心を偽るのは止めてくれないか?」

「・・あたしの・・あたしの気持なんて道明寺が知るはずがない・・」


心を偽る。
そうしなければひとりで生きて行くのは辛かった。
母親ひとりで子どもを育てるなら、父親の役目もこなす必要があった。
小さな体に重い鎧を身に纏い生きなければいけなかった。
長い間そうしてきた。今さら何をどうすればいいというのだろう。
17年前の記憶を取り戻した男に今さら何を言えばいいというの?

「なあ、牧野。聞いてくれ。俺はずっと孤独だった。一度結婚もしたが相手のことを愛したことなんかなかった。好きでもなんでもない相手で仕事の為に結婚した。それは相手の女も同じだった。ビジネス契約みたいなもので、形だけの結婚だったんだ。別の女とつき合おうが何をしようが互いに好きなことをしてもいいような関係だった。縛りもなにもない。ただの見せかけの結婚だ。けどすぐに別れた。なんでだと思う?そんなどうでもいい相手でも一緒になんかいたくはなかったからだ。」

司は嘘偽りのない気持ちを、ありのままの思いをぶつけていた。

「今さら何を勝手なことをと言われるのはわかってる。だけどな、俺はおまえに再会して、記憶が戻って自分の思いが17年前よりも深くなっていることに気づいた。この3日間どうやって俺の気持を伝えようかと・・・。牧野、俺を締め出さないでくれ。頼む。俺にチャンスをくれないか?俺と航と三人で家族になるチャンスをくれないか?」

自分が守るべき人間が目の前にいるというのにそれさえ出来ないというのか?
俺には許されないことなのか?
司はどうすれば自分の思いが伝えられるかそればかりを考えていた。

「聞いてくれ、牧野。誰ひとり・・誰一人として俺の周りにいた人間はおまえのことを話しはしなかったんだ!」

司は声を詰まらせた。

「類が・・類が俺を・・ここに連れて来なければ・・俺は・・あのまま・・・」

恐らく二人を知ることもなく人生を過ごしていたはずだ。
世の中にはどれだけの嘘と真実が存在しているのかなどわかるはずもなく過ごしていた。


「どうしてあたしが道明寺にチャンスをあげなきゃいけないのよ?あたしには・・」

_チャンスなんてなかった。
罵声を受け、邸から追い返される日々。そして新しい恋人。
つくしは唇を噛み締めていた。
これ以上どう答えていいのかわからなかった。
それでも息子の父親である男性のことを求めている自分がいた。今こうして目の前にいる道明寺司を求めていいのか悪いのかさえわからなくなっていた。
それに今この場所でふたり、いや。子どもを交えてこんなことを話していること自体が信じられなかった。


「俺が・・俺が悪かったんだ・・俺がおまえを忘れたことが・・」

ただ悔やむしかないという表情だ。

「だけどな。俺に世界一ふさわしい女は牧野つくし以外いない。俺はそう思ってる。だから牧野。俺と結婚してくれないか?」

沈黙が流れた。
遠い日々の静けさと言えるような沈黙。
沈黙に重さがあるとしたらどのくらいの重さになるのだろうか。



「母さん・・母さんは・・道明寺さんのことが・・父さんのことが今でも好きなんだろ?そうじゃなきゃあんなもの・・野球観戦の半券なんかとっておくはずないよね?そうだろ?認めなよ母さん・・今でも父さんのことが好きなんだって・・」

ベッドに横たわる少年の口から出た言葉。
その言葉は司の背中を押してくれた。
いつの間にか父と子の自然な関係は既に築かれていたようだ。
それに男同士というのはすぐ徒党を組みたがるということを少年の母親は知らなかった。

「償いはする。これから一生かけてする。それに俺はおまえじゃなきゃだめだ。俺に世界一ふさわしい女は牧野つくししかいないんだからな。」

司の視線は揺るぎない。
あの頃、高校生の頃と変わらない情熱が感じられた。惚れたらどこまでも一途で信念を貫く男。これこそが道明寺司だ。

「でも・・・」

つくしは息子を見た。

頷き返された視線。


母さん、父さんと幸せになりなよ。

少年の視線はそう伝えていた。



それは少年の昔から変わらぬ心情。
母親の寂しさを知っていたからこそ、父親に会いたかった。
もちろん、自分の父親がどんな人間か知りたいという気はあった。だがそんなことよりも母親の気持を慮っていた。

運命の恋人と呼ばれていた父と母。

遠い昔、まだ彼が幼かった頃、父親の親友が言った言葉だった。

『 世界が変わったとしても、牧野と司の二人の運命は変えようがないんだ。
あのふたりの心が変わるなんてことは絶対にない。たとえ今、司が牧野を忘れていたとしてもいつか必ず思い出す。それがたとえ住んでいる国が違ったとしてもね。』


それに母さんは毎日父さんと会っていた。僕を通して父さんを見ていたのはわかっていた。
僕が大きくなるにつれ、時々涙で目をうるませている姿を見たこともあった。
だから、どうしても父さんと母さんを会わせたかった。
もしかしたら僕を見た父さんの記憶が戻るかもしれない・・そう願って空港まで会いに行った。
物事の明るい面だけを見て生きるように言ったのは母さんだったよね?
だから僕から母さんに言うよ。これから先は父さんと幸せな人生を歩んで欲しいんだ。

「ねえ、ふたり共、僕がいるからって遠慮することなんかないよ?僕だってもう大人なんだ。それに何も知らないわけじゃないからね?」

少年の言葉が引き金になったのだろうか。
彼が目にするのは両親が抱き合う姿。


「ねぇ、道明寺。あ、あたしが・・今でも道明寺を愛していたのを・・知っていた?」

あの日あの事件がなければ・・。
そう思わずにはいられないが、過去を変えることはできない。それならこれから先の未来で過去を塗り変えればいい。

「ああ。もちろんだ。あのとき、誓い合ったんだ。俺とおまえは一生一緒だってな。」
自信ありげに返された言葉。
「航には悪いが俺を愛してると認めるまでおまえを拉致してどこかに閉じ込めておくつもりだった。」

司はにやっと笑った。

「な、なによ・・その言い方。い、言っとくけど、もしまたあたしから離れて行ったら、もう二度と口を利かないから!」
つくしは宣言していた。

「上等だ。俺はもうおまえの傍を離れるつもりはねぇからな。おい航!」
司は少年に向かって宣言した。
「おまえの母さんはこれからは俺のものだ。おまえは16年もこいつの傍にいたんだからこいつを俺にくれ。」

まじめくさった顔で言ってはいたが瞳は面白そうに笑っていた。

「いいよ。僕は別に母さんがいないとダメな大人になんかならないから。」

高校生の分際で生意気なこと言ってんじゃねぇよ。そんな言葉が聞こえて来そうだ。



いつまでも昔にこだわるものではない。
今が目の前にあればそれでいい。過去にこだわって生きて行くことは決していいこととは言えなかった。物事の明るい面を見て生きて行く。それはつくしが自分の息子に伝えてきたことだ。
ふたりの人生は少しだけ違った方向に進んでしまっていたのかもしれないが、知り合ったばかりの親子はまるで生まれた時からの親子だったように打ち解けた会話が交わされていた。
過剰な反応を示すことなくごく当たり前に流れていく空気がそこにはあった。

親子で生死の境を彷徨うという経験をすると何かが違って見えてくるのだろうか?

ふと、そんなことが頭の中を過っていた。




外の景色は穏やかに晴れ渡った空が広がっているはずだ。
ひこうき雲がいつまでも消えずに残っていると天気が悪くなると言うが、つくしがあの日アパートの窓から見た雲は、あっという間にかき消されていった。
今日もあの日に見たような雲が浮かんでいたとしたら、あっという間に消え去ってしまっているはずだ。明日は晴れて穏やかな日になる。そう願わずにはいられなかった。








< 完 > *いつか晴れた日に*

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Comment:38
2016
09.14

いつか晴れた日に 後編 1/2

今では一分の隙もないほどの人生を歩んでいると言われる男だが、他人の人生を生きているような感覚があった。
まるで傍観者のようにも感じられる。
多くの人間に囲まれてはいても感じられる孤独感はいったい何なのか。
最近そんな思いがますます強くなっていた。
それは久しぶりに生まれ育った国へと戻って来たからなのか。
あの事件以前の俺は人の姿をしていても心がないと言われていた。そんな俺を知る人間は今の俺を見てどう思ってるんだ?
虚無感を抱え生きている俺はまるで誰かに遠隔操作されているかのような人間か?
ふと、そんなことが心を過ることがあった。

それにあの少年が気になっていた。
空港で目にした自分によく似た姿の少年。
今まで心の声に従って動いたことは無かったが、何故か司の心は突き動かされていた。

探してみるか・・

だがそんなことをすれば、周りの人間が興味を示すだろう。
もしかしたらあの少年は想像の産物で目の錯覚なのかもしれない。そう思おうとしたがどうしても気になっていた。


だがやがて忙しさに時は流され、あの少年のことは記憶の片隅へと追いやられていた。


そんなある日。
それは予想外の出来事として司の前に現れた。
運命のいたずらとはこういうことを言うのだろうか。
その日は邸を出るときから頭痛がしていた。いつもよりも痛みが鋭く、頭の中では誰かがさび付いた箱を無理矢理開けようとして金属が軋んでいる、そんな音がしていた。
おまけに目の焦点まで合わない。
執務室で書類の向きが変えられ渡されようとしたとき、司は何かの拍子に紙で指先を切ってしまった。
小さな痛みが走り切った箇所からうっすらと血が滲むのがわかった。
書類に血を付けるわけにはいかない。
司は受け取った書類をデスクの上に置くと息を吐いた。


司の署名が求められる書類。毎日数えきれないほどの書類が回されてくる。
その全てに目を通していた。
頭の痛みに気を取られ集中力が失われているのだろうか。
だがこれから会議に臨まなければならない。
頭が痛むからと言って会議を欠席することは出来ない。彼がいない会議なら開く必要などないと言われている。月に一度必ず行われる経営戦略会議は企業としての方向性を決める大切な会議だ。母親から経営を引き継いだ今、日本で立ち遅れている事業を前進させることが彼の使命だ。司は手渡された頭痛薬を飲み込むと立ち上がっていた。





類が予告なしで司を訪ねて来たのは何年ぶりのことだろうか。
ちょうど会議を終え、最上階の執務室へ戻った司を待っていた。
ニューヨークにいた頃、何度かそんなことがあったが、目の前に立つ男に会うのは随分久しぶりだ。花沢類は昔と変わらない態度でそこにいた。

「司、突然来て悪いけど俺と一緒に行って欲しいところがある。」

何年かぶりに会うというのに挨拶もなく、このあとの予定は全てキャンセルしろと言う顔はあらゆる感情を排除したように見えた。
印象的な瞳は影を落としたように暗く、話す口調は重苦しく感じられた。
そんな口調を耳にすると頭の痛みがますます激しくなっていくのがわかった。

「司に会って欲しい人間がいるんだ。若い男性なんだけど背が高くて髪は癖がある。目は鋭いんだけど視線は優しいよ。司の知り合いのなかに誰か心あたりはない?」

「そんな人間なら世の中にいくらでもいるだろ?」

司は類の余りにも真剣な表情に低い声で笑っていた。
なんの前ぶれもなく訪ねて来ることに不満はないが、このあとの予定を全てキャンセルしろということは受け入れられるはずがない。だが会わなければこの先後悔することになる。
おまえの一生にかかわる問題だと強く言われ、今までの類とは違った何かを感じていた。


一緒に行って欲しいところがあると口にはしたが、場所も理由も言わなかった。
類の行動は時間を無駄にしたくないとばかりせわしなかった。
何かあるのか。何かが起こっているのか?それが自分に関係あることなのか?
それを確かめなくてはいけないというのだろうか。


司が連れてこられたのは都内の病院の集中治療室の前。

「牧野。ごめん。余計なことだとわかってる。でも今はこうすることが一番いいと思うんだ。航君の為にも。」

つくしが腰かけた状態で顔を上げたとき、目に映ったのは類の顔。
そしてその後ろに見えるのはいつも見ている顔によく似た顔。
似ているわね。と言われたことは過去に何度かあったが他人の空似だと笑っていた。
だが今は言葉を失ったままその顔を見つめることしか出来ずにいた。

『 似て非なるもの 』

そんな言葉もあるがつくしの息子は父親である道明寺に似ていた。
外見だけと言うのではなく、心の奥底にある人としての優しさの本質が似ていた。
道明寺の優しさに触れ合えた時間は限られたものでしかなかったが、与えてくれたものはつくしの手元に残されたのだからそれで良かった。
たとえつくしのことを忘れてしまっていたとしても、手元に残されたものが彼女の生きる道を照らしてくれたのだから。

一緒に暮らしたことがあるわけでもないのに、親子というのは仕草までも似てくるものなのだろうか。まだ息子が幼い頃、そう漠然と思ったこともあった。勿論仕草だけではない。髪の毛、目、鼻筋、そして口元もそっくりだ。そんなことに目の前にいる男が息子の父親であるという事実を改めて思い出させていた。

つくしはかつて恋人だった男と17年ぶりに対面していた。

恋人であり、運命の人。

あの頃はそう思っていた。





航が交通事故にあったと連絡を受けたのは早朝、まだ日が昇っていない暗い時間で雨が降っていた。いつものように近くの新聞販売所から新聞を配達するために出かけた息子が車にはねられた。そのときつくしは配達を終えて戻ってくる息子のために朝食の支度をしていた。
夜間早朝に鳴る電話にろくなことはないと言うが、まさにその通りだと思った。
受話器をあげた瞬間、耳に飛び込んで来た言葉にそこから先のことはよく覚えていなかった。

運ばれたのは自宅からほど近い病院。
つくしは進に連絡を入れたがあいにく弟夫妻は旅先にいた。つくしの両親はすでに他界しており唯一の身内は弟夫妻だけとなっていたがすぐには戻ることは出来ないようだった。
そんな弟は花沢類に連絡を入れたらしい。そうでなければ今こうして目の前に類がいるはずがないからだ。


類__ 

昔と変わらない友情を今でも与えてくれる大切な友人だ。
つくしが高校を中退した後、何年か経って偶然出会ったのが類だった。
小さな子どもの手を引くつくしを見た類は事情を察してくれ、何かあればいつでも力になると言ってくれていたが、頼ることはしなかった。会えばどうしても道明寺を思い出してしまうから。


あのとき、道明寺が刺され昏睡状態に陥ったときの状況が思い出された。
まるであの日を再現しているような状況に、これは何かの間違いだと思いたかった。
あの日と同じように、これは真実ではない、悪い夢を見ているんだと思いたかった。




でもどうして?

どうして道明寺がここにいるの?

道明寺はいま、あたしの向う、ガラス窓の奥で目を閉じたままでいるはずだ。
沢山の器械に繋がれ、顔色は無くその体をベッドに横たえているはずだ。

そうでしょ?

あそこの寝ているのは・・

あれは道明寺でしょ?



違う。

あれはあたしの息子だ。

道明寺じゃない。

でもどうして・・


つくしは類を見た。

類なら今の自分が何を考えているのかわかるはずだ。そんな思いで顔を上げていた。

「牧野、司は航君の父親だからね・・たとえ今の司に記憶がなくてもこの状況で会わせておくことが司のためにもなるんだ。もしもの・・ことがあったとき、後悔しないためにも。わかるよね?牧野?」




ゆっくりと重なっていく光景。

時間が戻ることは決してないが、あのときのひとりの少女とふたりの少年の姿がそこに見えていた。

ひとりはベッドの上に横たわり、ひとりは涙が枯れて無くなるほど泣き続け、もうひとりの少年は泣き崩れる少女の傍にいてやることしか出来なかった。
そんなあの日の光景は大人になった少女の心の奥底に今でも焼き付いていた。



司はICUの前でガラスの向うにいる少年の姿を見ていた。
まるで自分がそこに横たわっているようだ。
そしてそこに横たわっている少年はあのとき、空港で見かけた少年だと気づいた。
少年が目を閉じていてもわかった。何か感じるものがあるというのはこういうことなのだろうか。

頭が割れるように痛んだ。


司は目の前にあるこの状況を自分が過去に体験したことがあるということを思い出していた。
あそこに寝ているのは自分で、ガラス窓のこちら側に立つ人間を遠い意識の中ではわかっていたということを。自分の名前を泣き叫ぶ声が耳に届いていなかったとしても、精神だけはガラス窓の向う側にいる誰かと繋がっていると感じていたはずだ。




「・・あの少年は・・」

「牧野の子どもだよ、司。」

類は司の隣に立つと、静かに事情を説明した。

「信号無視の車にはねられたんだ。雨の中、新聞配達の途中にね。」



司は足を一歩前に踏み出した。
歩みは遅くゆっくりと一歩ずつ前に進んでいた。
やがてICUとこちらを隔てるガラス窓の側まで近づくと両手をガラス窓についた。

「・・どう・・なんだ?あの子の容態は?」

自分によく似た少年は・・

若い頃の自分によく似た少年・・

彼はいったい誰なんだ?


すると突然、我が子の墓の前では泣きたくない。

そんな思いが彼の頭の中を過ると涙が目から溢れ、鼻を伝ってこぼれはじめた。


わかったのだ_



司は今、過去を旅していた。
これまでの人生が走馬灯のように頭の中を巡っていった。
思い出がじわじわと甦ってくる。なにもかもが違う・・違っている。
今まで真実だと思っていたことは違っていた。

そうだ_

ある女と出会い、その女が欲しくて欲しくてたまらなかった10代の頃の自分。
その女と一度だけ愛し合うチャンスに恵まれたこと。
そのとき幸せの頂きに立ったはずだったが一瞬でその幸せが奪われてしまったこと。
あれは船が埠頭に着き、降り立ってすぐの出来事だった。
刺されて横たわる自分に駆け寄ってきた女がいた。
あれから何年がたった?

17年_

そう自覚した途端、司の世界は足元から崩れ始めた。
心をかき乱されるような思い出が、17年間の記憶の重みが彼の心を苛んでいた。
どんな表情をしていいのか?笑っていいのか泣いていいのかわからなかった。
だが彼の目からは既に涙が溢れていた。
自分が置かれた状況に胸を突きさされたような痛みを感じていた。
それはあの日の痛みとはまったく違う心の痛み。

不意に言葉が口をついて出た。

「なんで・・こんなことになっちまったんだ?」

虚無感を抱え、生きることに大した価値を見出せずにいた男が呟いたひとこと。

「まきの・・俺は・・」

振り返った男の顔と、途切れた言葉。



失われていた記憶が戻った瞬間だった。








*後編2/2へ*

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2016
09.13

いつか晴れた日に 中編

彼は16年この街で暮らしている。

司の落ちてしまった記憶は決して戻ることは無かった。

優しい声で、優しい笑顔で自分のことを好きだと言ってくれた女がいたはずだ。
誰に言われるでもなく、なんとなく頭の中で繰り返されるその思い。
だがどうしても思い出すことは出来なかった。

記憶を無くしていると言われるまでは、自分に記憶の欠落があるとは考えもしなかった。
すべてが消え去っていたわけではなく、小さな欠片とも言える部分だけが抜け落ちているらしい。だがそれが何であるかがわからない。
誰かがおまえが思い出せないなら、それはそれで運命なんだろうから仕方がない。
そう言っていたのは覚えていた。
運命は変えられるのか。それとも変えることは出来ないのか。
どちらにしても、今さら記憶が戻ったからと言って人生が変わることもないはずだ。

時折頭の中を過る幾つかの光景があったが、いつも途中で途切れてしまう。
その先の展開を求めるように再び目を閉じるが、今しがた頭の中で見た光景は甦ることはなかった。
失われたと言われる記憶を求めようとすると、いつも頭が痛んだ。

目を閉じて痛みをこらえる。

記憶を揺さぶるにはショッキングな出会いが必要だと言われたことがあったが、そんな出会いがあるはずもなく、誰と会っても失ったといわれる記憶が戻ることはなかった。
もしかしたらそんな記憶は初めから無かったのではないか・・そう考えることもあった。

失われたという記憶が自分にとってどれだけのものだったのか。
それはわからないがこれ以上自分に精神的な負担を与えたくはないという気持ちもある。
あれから随分と時は流れ、無理に思い出さなくてもいいという思いもあった。
本当に必要とされる記憶なら周囲も取り戻させるため、なんらかの力を貸してくれるはずだがそれもないまま時は過ぎていった。司の家族にとってはどうでもいい記憶だったのだろう。 忘れ去っていても問題はないと一蹴していた。

それでも親友たちは、失われた記憶の中には大切なものがあると口にしていた。
だが他に考えることもあり、もうこれ以上過去を蒸し返してどうなるのかという思いもある。

あの事件から17年がたつ。
腰にある傷痕は一生消えることはないだろうと言われていた。あと数センチでも位置がずれていれば、恐らく命はなかっただろうと言われた。実際に司の体はあのとき反応を停止した。 命を手放す寸前にまで陥っていたことは事実だった。


もしかすると神は司の命と引き換えに、彼の一番大切な記憶を奪い去っていったのかもしれない。


今となってはその記憶がどんなものなのか確かめようもない。
だが失ったと言われる記憶以前のことははっきりと覚えていた。
覚えていたというよりも植えつけられた記憶なのかもしれない。
休暇で訪れていた島から帰ったところで事件が起こった。港で後ろから刺されたとき、自分の命は尽きると感じていた。あのとき、あの場所には親友たちしかいなかったはずだ。
今でもそう信じているが、それは間違いなのだろうか?
見知らぬ女が何度か訪ねて来たことがあったが、事件直後の記憶は曖昧でそんな女が本当にいたのかさえ確かではなかった。





『 道明寺ホールディングスCEO、道明寺司が日本に帰ってくる。
今後は母親から経営を引き継いで暫くは東京での生活を送ることになる 』

司は新聞をデスクの上に放ると椅子の向きを変え、窓の外を見た。

ニューヨークの夜景。

暫く見ることはない・・か・・・

決して心が和む街ではなかった。
ビジネスを優先し、生きる目標などなく毎日が過ぎて行くだけだった。
そんな毎日のなか、何かが足りないと心の渇望を感じてはいたが、手に取ったものは本当に欲しいものではなかった。
思えばこの街で欲しいと思えるものはなかったはずだ。
日本に帰れば本当に欲しいというものが見つかるのだろうか。



司が立ち上がると秘書が声をかけた。

「そろそろ出発しませんと。」
「おまえは俺の秘書になって何年になる?」
「10年ですが、それが何か?」
「・・いや。なんでもない。」

どこの国にいようと、殆どの時間を会社で過ごしている司にとって執務室が一番居心地のいい場所だ。
10年一緒にいるという秘書。
そんな男といる時間の方が、プライベートの時間よりも長いということがあたり前になっている司の人生。

ビジネスに集中している時が一番幸せだ。
自分が一番幸福を感じているのは、ビジネスが成功したときだ。そう思っていた。

だが、何かが足りなかった。

いったい何が足りないのか?それが何であるのかがわからなかった。
それはとても重要な・・手に入れなければならないものなのか?
いや。欲しいものは全て手に入れているはずだ。
だが司がここ最近見る夢の中では、いつも何かに責め立てられているように感じていた。
その何かは明るい光の中から俺を見つめ続けていた。だがその光が眩しすぎてその何かがわからなかった。逆光線のなか誰かがいる・・そんな気がしてならなかった。
どうして見えないのか?
俺が見ようと努力していないからか?
そこに誰かいるのか?
おまえは誰だ?


司はこめかみに手を当てた。

「代表?どうされましたか?」

「大丈夫だ。問題ない。」

手をあげて近寄る秘書を制止する仕草をした。


最近よく見るようになった夢は、東京に帰るということが、心のどこかに心理的な負担を与えているのではないかとさえ思うようになっていた。
生死を彷徨うことになった事件のあった国へ帰ることが・・・






***







「進、あの子が、航(こう)がいなくなったの。」
つくしは電話で弟に息子がいなくなったことを伝えていた。
「父親に・・道明寺に会いに行ったんだと思うの。」

新聞に載ったのは、道明寺が帰国して生活の拠点を日本に移すという話しだ。
自分が配達する紙面に見つけた道明寺の顔に何かを感じとったのだろう。
そして押し入れの奥深く、普段は目に触れないところにある箱を母親が大事にしているということは以前から知っていたはずだ。

箱の中には思い出の品以外の物も保管されていた。
道明寺に関する古い記事。その新聞記事に書かれていたのは遠い昔、彼が生死の境を彷徨ったということ。そしてその男が渡米したという記事もあった。
暫くして誰かと婚約をしたという記事。それから結婚し、その後すぐに離婚をしたという記事。

あの子は、気づいていたのだろう。
自分の父親が誰かということを。
牧野 航という名前で生きて来た息子は自分の出自を知りたいと思ったのだろう。

『 どうして父さんは僕を欲しがらなかったの? 』

それはあの人があたしを欲しがらなかったから。
そう言えばよかったのかもしれない。

道明寺家にその存在すら知られなかった息子。
あたしが道明寺とそんな関係になったのは一度だけ。
あれは船を下りる前の晩の出来事で、仲間の誰も知らない一夜だった。






***






.
司の乗った航空機は予定よりも1時間遅れて東京に到着した。
だが彼はすぐには立ち上がらなかった。
久しぶりの日本だと言うのに何故か足が重かった。
今までニューヨークで暮らしていたとしても、何度も訪れていた自分の母国。
その国に住むことになったというのに、気が重いのはなぜか。

「代表、そろそろ行きませんとこのあとの予定が詰まっております。飛行機が遅れたのは予定外でしたので急ぎませんと。」
「そうだな。」
「これからすぐにお邸の方で簡単ではございますがご帰国をお祝いしてパーティーがあります。」

司よりも司のスケジュールを知っている男によって流されていく時間。
世田谷の邸で行われる自分の帰国を祝ってのパーティー。
どのパーティーに参加しようが、どこの誰に会おうが司にとってはどうでもいいことだ。
時間の流れはどこの国にいても所詮同じことで、それがニューヨークだろうが東京だろうが変わるものではないのだから。


時間の流れを止めたいと思ったことがあっただろうか?

ふと、そんなことが頭を過ったがそれはないと強く否定していた。


道明寺財閥の後継者の帰国に多くのマスコミが集まるなか、颯爽と到着ロビーを歩く背の高い男。周りには警護の者か関係者と思われる人間が多く付き従っていた。
司の帰国は大きな注目を浴びている。こうしてマスコミ関係者の前を通るのもプレス対応のひとつだ。これから活躍の舞台をこの国に移すにあたってのいわゆるお披露目のようなものだった。

『 道明寺の後継者、満を持しての帰国 』

世間ではそう言われていた。


そんな彼の目の前に開ける道は、ロビーの外で待つ黒塗りの大型車まで続いている。
空港ロビー。
ここは大勢の人間の人生が交差する場所。
目的地が違う者がすれ違う場所。
だが司の前をすれ違うように横切る人間はどこにもいない。

俺の人生と本当の意味で交わる人間はどこにもいないはずだ。

誰が俺の前を横切るというのか?
いやそれはない。
今までもそうだった。

だがそのとき、司の時間がスローモーションのようにゆっくりと流れた。
それは突然の出来事。視界の端に少年の姿が写った。

あれは・・

一瞬だったが若い頃の自分がそこにいるかのような錯覚に襲われていた。
自分によく似た少年の姿に驚きが隠せなかった。
ジーンズを履き、黒のトレーナー姿の少年。
表情は硬く、こちらをじっと見つめている。
そんな少年の前を誰かが横切った。すると少年の姿はその場所から消えていた。
司は見えなくなった少年を探そうと思わず振り返ったが、その姿を見つけることは出来なかった。

どういうわけか気になった。
どこかで会ったことがあったかと考えたが、自分があの年頃の少年と接点などあるはずもないと言い聞かせようとした。
だが・・
何かが司を落ち着かない気分にさせた。
それがなんであるかを確かめなければいけない。
もしかしてあの少年は過去の自分なのか?
日本に帰国してまさか過去の自分に出会うとは思いもよらなかったが、そんな気にさせられた。

最近見る夢の中の誰か・・

逆光線の中の誰か・・

もしかしたらあれは昔の自分の姿なのか?

少年の姿となって現れたのか?

そんな気がするのはなぜだ?

何がひっかかり、心の暗がりへ滑り込んで来たような気がしていた。

だが自問自答すれど今の自分には分かりそうもない。



司は迎えの車に乗り込むと窓の外へと視線を向け、今しがた見た少年の姿を思い浮かべていた。









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2016
09.12

いつか晴れた日に 前編

母さん・・父さんってどんな人なの?

父さんの髪の毛も僕と同じなの?

教えて欲しいんだ。

どんな人なのか。

僕と同じように手は大きいのか。

僕と同じように背が高いのか。

どうしても知りたいんだ。








どうして僕を欲しがらなかったのか。









帰宅したつくしが見つけたのは、台所のテーブルの上に置かれていた手紙。
いつかはこんな日が来るのではないかと思っていた。
だがその日がなぜ今日なのか。

『 母さんへ
 どうしても会いたい人がいるから出かけて来る。
 帰りは遅くなるかもしれないから先に休んでいてもいいよ。
 でも明日の朝はいつもと同じ時間に出かけるから、心配しなくていいよ 』

簡素な文面は伝えたいことだけが書かれていた。
急に思い立ったのか、それとも計画していたことなのか。
前者の方が正解だと言っていいはずだ。

理由はわかっていた。
知ってしまったのだろう。

自分の父親が誰であるかを。



つくしは台所の窓から外を見た。
今日は風の強い一日で雲は早い速度で流れている。風の向きが変わったのか窓ががたついていた。今しがた通過した航空機が残したのか、ひこうき雲が浮かんでいるのが見えた。

青い空に刷毛で線を引いたように、残された雲は西の空へ向かって続いていた。
ぼんやりと眺めていれば、やがてその雲も空の青さにかき消されていった。
かき消されてしまった雲はどこへ行ったのか。そこには何も残ってはいなかった。
それはあの日まで二人の間に流れていた時間が一瞬にして失われたのと同じだと感じていた。

あの日はどうして起きてしまったのか。


あれからもう何年になるのだろうか?

つくしは遠い記憶の扉を開いていた。







あの日、病院の中は冷え冷えと感じられた。

目を閉じればいつも甦るのはあの日の光景だった。







「類、ど、どう・・みょう・・じは、彼は・・助かるの?助かる・・よね?」

つくしの頬には涙が流れたあとがあり、鼻水をすすりながらガラスの窓に両手をついていた。
右腕には採血後のテープがしっかりと貼られている。
輸血用に用意されていたB型の血液が足りず、自らの血液を提供していたが、それでもまだ足りないと言われ、自分の体中の血液全てを使ってくれてもいいと申し出ていた。
こんなとき自分の小さな体が疎ましかった。もっと体が大きかったら、もっと沢山自分の血を使ってもらえるはずだ。採血の間中、涙が止まらなかった。

人の涙というのは枯れることが無いのだろうか。涙を流すことがこんなにも辛いことだとは知らずにいた。それはまだ自分の人生が短いからだろうか。いや違う。人としての経験は短いが、今まで味わった哀しみの数だけは同じ年頃の人間よりも多いはずだ。



不公平だと思った。
やっと互いの気持が通じ合えたと思っていた。
それなのに神様は掴みかけた手を掴ませてはくれなかった。



「牧野・・ほら鼻水拭いて。大丈夫だよ・・司はこんなことで死ぬような男じゃない」

類はそう言ってハンカチでつくしの顔を拭いていた。

「どうみょうじ、お、おねがい・・・おねがいだから・・」

ICU、ガラス窓の向こうの部屋でベッドに横たわる長身な体は、点滅する光を発する沢山の機器に繋がれていた。だがつくしの目に入るのは、ベッドに横たわった男性の姿だけだ。
人工呼吸器に繋がれ、機械が出す断続的なビープ音が聞こえてくるようだ。
愛さずにはいられない男の瞳は閉じられ、顔はまったく生気を感じさせなかった。
その部屋の中で空気の流れが止まった時間があったはずだ。
空気の流れが止まる・・すなわち呼吸が止まるということだ。

「お、おねがいだから・・助かっ・・て・・どうみょうじ・・・」

つくしは両手をガラス窓にあてたままずるずると崩れるように床に座り込んでしまった。
ガラス窓には小さな手の跡ばかりがついていた。広げられた手のひらのあと、おそらく握りしめていただろう拳のあと。涙が飛び散ったのだろうかそんなあともついていた。

当時の二人はこれから新たな一歩を踏み出そうとしていた。
共に手を取って歩む未来を心に描いていたはずだ。

だが現実は違った。
司は暴漢に刺されたあと、生死の境を彷徨いつくしの記憶を失うこととなった。
そしてもう二度と彼女のことを思い出すことは無かった。

意識を取り戻した司は何度かまばたきをし目を覚ました。
そのときの彼にはつくしの事は記憶の欠片にもなかった。
つくしは司が記憶を失ったあの日から記憶が戻ってくれることを願い、邸に何度も顔を出した。
だが受け入れてもらえず、否定をされる日々が続いていた。
そんな日が続くと、やがてつくしも自分を否定され続けることが辛くなってしまい、邸を訪れることを止めてしまっていた。

あたしだけが知っていた道明寺はもういない。
それは別の人が彼の腕の中にいたからだ。
たとえあのときと同じように手を伸ばしたとしても、もう二度と掴んでもらえない。
彼の目を見てそう確信した。


やがて交わす言葉もなくなると、道明寺の心が見えなくなっていた。





妊娠を知ったのはそれから間も無くのことだった。


誰にだって時間は平等に流れていくはずなのに、ふたりの間には同じ時間は流れてはくれなかった。


誰か・・


時間を元に戻して・・


あの日に・・




突然耳に飛び込んで来たのは、救急車のサイレンの音。
つくしは、はっとすると首を軽く振った。
こちらに向かって近づいてくるサイレンの音を耳にすると、いつも緊張が走ってしまうのはあの時の影響なのだろうか。
そう思わずにはいられなかった。

つくしは手紙をテーブルの上に置いた。

台所にから居間へ行き、そこから襖一枚を隔てた自分の部屋へ入ると、押し入れの中に仕舞い込んでいるはずの靴箱を探していた。いつも布団の間に挟み込むように置かれているその箱は、痛んだ姿でそこにあるはずだ。

ない・・
箱がない。
確かここにあったはずだ。

だが小さなアパートの部屋の中、箱の行き場所はわかっていた。
いつかこんな日が来るとは思っていた。

かあさん、僕のとうさんはどうして一緒に暮らしてないの?

なんと答えたらいいのだろう。
答えを探したが自分でも納得できる答えが見つからずにここまで来た。
だが聞かれたのはあのとき一度だけ。
幼いながらも母親がすぐに答えなかったことから何かを感じたのだろう。
あの子は自分の中で勝手に答えを見つけたようだった。



とうさんは僕が欲しくなかったんだ・・・と。



16歳になる息子は中学に上がる頃になると、母親のことは自分が守らなければならないと思うようになっていた。男手が足りないということは不自由も多い。その不自由を感じさせないようにという気遣いさえも感じられるほどだった。
背は随分前に180センチを超え、逞しい体つきとなった息子。少年とはいえ精悍な顔立ちで、切れ長の瞳は澄んだ色をたたえていた。
周りからよく言われるのは、まるで彫刻を思わせるような顔。薄い唇はナイフのようだとも言われた。息子と似た唇から最後に聞いた言葉は冷たい罵りで、かつて優しい言葉を囁いてくれていたとは思えないほどだった。だが息子の口から語られる言葉はいつも母親を気遣うかのように優しかった。


声変りをした息子が、優しい言葉をかけてくれる度に思い出されることがあった。
だがそれも今はもう遠い記憶となっていた。

性格は真面目だが、どこが勝気なところがあり負けん気が強い子ども。
大人になるにつれ自分が誰でどこから来たのかを知りたがるのは当然だろう。
それは自分の命がどこから来たのかということだ。

つくしは息子の部屋へ行くと、思い出が詰まった箱をベッドの上に見つけた。
蓋が開かれた中には、青春時代が垣間見えた。

あのとき、ふたりが会った最後の日の風景が甦った。
返そうとしたが、結局渡すとこが出来ずに持ち帰ってしまったものがその箱には詰まっていた。
目に触れたと同時にふわっと何かが香ったような気がした。
それは感じられるはずのない懐かしい香りなのかもしない。いや。そんなことがあるはずがない。目に見えるものから匂いを感じさせるものはないはずだ。

箱の中身はふたりで野球観戦に出かけたときの半券、そこで手にしたボールや古いうさぎのぬいぐるみだ。このぬいぐるみは息子が小さな頃はいつも彼の傍にいた。

ああ・・

さっき香ったと思ったのは、このぬいぐるみが持つ匂いだったんだと気づいた。
汚れては洗ってを繰り返し、古ぼけてしまっていたぬいぐるみ。
箱から取り出すと懐かしさがこみ上げた。顔に近付け、深く息を吸った。

思い出すのはあの当時のふたり。

自分の年齢で愛せるだけ愛した人・・



両親はつくしが妊娠したことに驚いたが、黙って受け入れてくれた。
今まで頼りないと思っていた親も新しい命が宿った娘の意志を尊重してくれた。

産みたい。と言った娘の意志を。

高校は中退したが、これから先のことを考え卒業程度認定を取得した。
シングルマザーとして働いてきたつくしは、近くに住む義理の妹に息子の面倒を見てもらっていたことがある。息子は彼女のことを叔母さんとは呼ばず、お姉ちゃんと呼んでいた。
それは今でも変わらない呼び名。男の子の思春期特有の問題は弟が相談に乗ってくれていた。
父親がいなくても親子で仲良く暮らしていた。
子育ては決して楽ではなく大変だったが、息子も高校生になると新聞配達のアルバイトを始めていた。朝は早いがそれは苦にならないといって始めてはいたが、学業に支障が出るのではないかと心配した。
そんな気持ちを口にすれば、返される言葉はやはり優しさを感じさせた。

母子家庭にお金がいくらあっても余ることはないだろ?

親の思いをどれだけ汲み取ってくれたのか知らないが、勉強がおろそかになることもなく、成績は優秀だと言われていた。

だがいつも罪悪感に襲われていた。
かけがえのない息子ではあったが、彼の人生はもっと他にあったのではないかと言う思い。
それでもいつも自分に言い聞かせていた。
この子は幸せだ。
あたしはあの人を幸せにしてあげることは出来なかったがこの子は幸せにしてみせる。
とにかくそればかりを考えて生きてきた。

それでも息子は父親のことを気に留めないときはなかったはずだ。
だがあれから一度も聞かれることはなかった。決して興味を無くしたというわけではないのだろうが、聞かれることはなかった。

息子はハンサムになっていった。
ひどく低次元な言い方かもしれないが、周りからそんな目で見られるたび、ハンサムになっていくような気がしていた。父親に似てハンサムになっていくはずだ。
息子を知らない父親に似て。


つくしは靴箱の中からひとつの箱を取り出した。
小さな箱の中に収められているのは、あの子の父親から貰ったネックレスが入っている。永遠の輝きを放つ石が散りばめられたネックレス。もう長い間手に取ってみることはなかった。
そうしなかったのは彼を忘れるためだった。だがいつも自分の眼の前にいる息子がそうはさせてくれるはずもなく、忘れるということは永遠に成功しないということはわかっていた。

もし成功してしまったらどうだろう。
それはそれで悲しいことだとわかっていた。


妊娠を知ってからは動揺もあった。別れてしまったことの悲しみがないとは言えず苦しみもした。だが自分はひとりではないと・・お腹に宿った命と生きると決めたとき、新しい人生を生きると決めた。だからあの子の父親と連絡を取るつもりはなかった。
全てを忘れ去ってしまった男には新しい人生が待っているのだから。

だから息子にも父親のことを話しはしなかった。
だがいつかは知る事になる。
いつかは教えなければいけない。
法律上は関係がないとしても、生物学上では父親であるのだから。

父親が誰であるかを知る日。
それがたまたま今日だったということなのだろう。
自分が配達をしている新聞で、自分とよく似たあの人がこの国に帰ってくるということを知ったのだから。








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2016
09.11

金持ちの御曹司~陰の功労者 feat.オジ恋。~ 

本日の『金持ちの御曹司』は『l'oiseau bleu』 *ririko*様の『オジ恋。』とのコラボ企画。
『オジ恋。』の西田秘書と御曹司のコラボをお楽しみ頂ければと思います。
***************************************




司は朝から3杯目のコーヒーを口に運んでいた。
時間はまだ9時を少しだけ回った時間だ。
それなのに既にもう3杯目のコーヒーを必要とするのはなぜか?
理由はただひとつ。

欠勤はゼロ。遅刻もゼロ。早退もしない。
至って真面目な司の秘書はムダな時間ゼロの男だ。
西田は以前にも増して時間管理を徹底してくるようになった。
司はそんな西田が疎ましかった。
久しぶりに牧野と昼飯でも食いに行こうかと思えば、

『司様の自由裁量における時間の割り当ては金輪際認められません』
と言ってきた。

司の秘書は最近婚活を始めたらしく、定時で上がらせてくれと言って来るようになった。
そのせいで彼のスケジュールはぎっちりと詰め込まれるようになっていた。
少し前までなら牧野を探して社内をうろついても大した文句など言わなかった男がやたらと時間を気にする男になっていた。それもこれも5時の定時を目指すためだ。
そんな西田が司に放った言葉。

『西田、本日から婚活オジ恋はじめます』

オジ恋・・

オジ恋だと?

何がオジ様だ!

ただの中年オヤジの恋だろーが!

西田!!

てめぇの都合で俺の自由を奪うのはやめてくれ!!


そう言いたい衝動をグッと抑えたのは司にしても西田には幸せになって欲しいと思うところがあったからだ。あとふた月くらい我慢すれば元の状態に戻るはずだと司は踏んでいた。
そうだ。早いこと元の状況に戻ってもらわなくては、司にしてもつくしを探して社内を自由に歩き回ることが出来ないからだ。
あの男、西田の野郎はどこに行くにもついて来るようになった。
今まではあいつの目を誤魔化して牧野の元へ行けたのにどこへ行こうにもついて来る。
西田!おまえは金魚のフンか!



そんな西田の名前が敏行だと知ったのはつい最近だ。
西田敏行だと?西田の親は生まれたての子どもが将来どこかの俳優と同じ名前になるかなんてことは思いもつかなかっただろうが、今のこの男はあの俳優に似てるとか似て無いとかは関係なく名前だけで誤解を招くことは間違いがなかった。
イメージってのは恐ろしいものだからな。

この男とは長いつき合いだがいつも苗字の呼び捨てで名前なんか気に留めたことはなかったというのが正直な気持ちだ。
敏行か・・こいつ子どもの頃はなんて呼ばれてたんだ?
トシちゃんとか、トシ坊とかそんなモンだろうと予想はつくが、念のために聞きてみた。

「おい、西田。おまえガギの頃なんて呼ばれてたんだ?」
司の問いかけに答えた西田は西田でございますとそのまんまだった。

その西田は定期的にスポーツジムに通うようになってから腹も引き締まったらしく、スーツは以前よりサイズダウンをしたらしい。
おまけに何考えてんだか知らねぇけど、社交ダンスまで習い始めたとかで官能的になりましただなんてことまで言って来た。
なにがどう官能的なんだか知らねぇが、俺から言わせればいつもと同じ西田だけどな。
しいて言えば銀ブチ眼鏡が金ブチになったってことか?
それになんでも最近流行りのオンラインゲームも得意だとかで受付で4人の女に囲まれて携帯見せてる西田を見たときには思わず目を疑った。
あの西田がだ!!
いつも忌々しいほど落ち着き払ったあの西田がだ!!
今まで女に縁が薄かった男が4人の受付嬢からキャーキャー言われているのを見た日はまさに青天の霹靂だった。

それよりも今までのように勝って気ままに執務室を出入りすることを制限された司はイライラしていた。それなら秘書の男をイライラさせてやると決めた司は手にしていたカップをデスクの上に置いた。

「おい、西田。おまえ女と最後につき合ったのはいつだ?」
「支社長、わたくしの女性遍歴が気になるのですか?」
「アホか。気になんかなんねぇよ!」
「ではお聞きにならないで頂きたい」

西田は愛用の黒革の手帳をめくっていた。
司にとっては閻魔帳のような西田の手帳。そこには司のあずかり知らぬことも書いてあるはずだ。幼い頃から慣れ親しんだ男とはいえこの男のことの全てを知っているわけではなかった。そこで司はこの男について問いただすことに決めた。

「西田、言っとくが今の質問は女なら誰でも聞きたがるもんだ。もしおまえが誰かと真剣につき合うようになったら、相手の女は絶対に聞いてくるぞ?おまえどう答えるつもりなんだ?」
西田は司を見た。
「それにおまえ・・女の前でその木で鼻を括ったような喋りなんかしてたら嫌われるぞ」

司にしてみれば長年自分に仕えて来た男のそんな喋り方など気にしてはいなかったが、自分の経験から女には優しく甘い言葉をかけてやることも必要だとわかっていた。
言葉は大切だ。口に出さなければ伝わらないことが沢山ある。それは司の過去においても経験済みだった。昔、日本語が不自由だと言われていた男も今では数か国語を話せる男となっていたが愛を囁くにはやはり母国語が一番だ。

「それから言っとくが、女に対して、なんらかの説明をしなきゃなんねぇとか、弁明をしなきゃなんねぇってことは山のようにあるからな」

司は自業自得と言われるような経験をして来ただけに自らの経験を語り始めた。
彼にとっては人生の一大事、とばかりの経験だ。
最近の司は常につくしの後を追いかけては弁明と釈明に追われていた。
突然執務室を駆け出して行ったかと思えば暫く帰ってこない。
おまけにデスクに向かったままなにやらぼんやりと考え事をしていたと思えば、にやりとほほ笑んでいる。

「西田、おまえその髪は地毛だよな?植毛じゃねぇよな?」

西田は髪が薄くなりかけた中年親父ではなかったが司はもしかしたら自分の秘書がカツラなのかもしれないと思ったことがある。西田はいつも乱れることない整髪された頭をしていた。もしカツラなら西田のためにもっといいカツラを用意してやるつもりでいた。

「おまえ、セックスしたことあるんだよな?」
40を過ぎた男に向かってのあるまじき質問。

「まさかまだ童貞ってことはねぇよな?」
司は朝っぱらから執務室で話す内容ではないなど思いもしなかった。


「いいか?西田。もしおまえが初めてっていうなら俺が協力してやってもいい」
いったい何を協力すると言うのか。 

「そうだ。いいものやる」
と言って司が自分の財布の中から取り出したのは大人の男女がつき合いを望むなら準備万端、抜かりなく持っておくべきものだ。

「あ?西田のとサイズが合わねぇか?」
司は西田の下腹部に目をやった。まるでサイズを推し量るかのようなその視線。

「まあ、持ってないよりはマシだけどな。おまえも男ならこんくれーの備えぐれぇしとけよ」
司は立ち上がると西田の手に小さなパッケージを押し付けた。

「西田、それから下着には気を使えよ?いざって時に困るからな。セクシーさを追求するなら俺の愛用してるメーカーのボクサーブリーフがあるからおまえにやるよ。あれは牧野もお気に入りで上からでも可愛がってくれんだ」

上から可愛がるとはいったいどういった可愛がり方なのか。
今の司の頭の殆どはいつの間にかつくしのことでいっぱいだった。
そんな司はトイレに行くだけだからついて来るなと言うと執務室を出て行った。



司は廊下を歩きながら考えていた。
西田が女とつき合うことが想像できなかった。
しかしなんであいつは急に結婚したいだなんてことを考え始めたんだ?
あの男は道理をわきまえてるはずだ。無茶はしないとわかっているがそれでも司は思った。
西田がどっかの悪い女に騙されるんじゃねぇかと心配していた。


「トシちゃ~ん。あたしこの鞄が欲しいの」
「こちらの鞄でございますか?」
水商売の女に掴まって貢がされる西田。

「西田さん。あたし西田さんが好きなの。だから研究のために協力して欲しいの」
「良子さん・・」
堅物の大学教授に告白される西田。
「いったい何を協力すればよろしいのでしょうか?」
「あなたの優秀な頭脳を見越してお願いがあるの。だから・・この試験管にお願い」
と言ってエロ本と試験管を手渡される西田。
これじゃあ西田はモルモットじゃねぇかよ!

「西田衛門之助。苦しゅうない。面をあげよ。我が姫を嫁に取らせるぞ。良きにはからえ」
「お殿様、わたくしには勿体ないことでございます」
と頭を畳に擦りつける西田。
時代劇かよ!

司は化粧室に入り小便器の前に立つと僅かに首を左右に振った。
彼が想像した西田の婚活は恐ろしく悲惨なものだった。
女に貢がされ、モルモットにされ、嫁ぎ先の決まらない女を押し付けられる西田。
そして最後に司の頭を過ったのは・・・



まさかとは思うが女に調教される西田。

あの男にそんな趣味があるとは思えねぇが、あの冷たそうに見えるメガネの奥には計り知れない欲望が眠っているのかもしれねぇ・・・

司はふと自分自身を見た。
西田の調教?
その言葉に反応を示したムスコはいったい何を望んでいるのか。
司の体がブルッと震えた。
だが今は自分のことよりあの男のことだ。

司は思考を西田に戻すと息をついた。
西田のことだ。
恐らく子どもの頃から優等生と言われてきた男だ。
道に外れるようなことはした事がないはずだ。
いや。別にアッチの趣味が道に外れたなんてことは言わねぇけど、

あの男が?

調教される?

命令されることが好きだ?

あいつがか?

普段からあれだけババァに抑圧されてるって言うのにこれ以上なにを求めてるんだ?

あの男は真性のマゾか?





司の頭の中を過る光景は彼自身が今まで経験したことがないことだった。




「西田。」
女は命令した。
「何が欲しいか言ってごらん?」
西田は女の前で両手両足をついた姿勢で頭を上げた。
トランクス一枚、四つん這いで背中を反らし目の前の女を見つめていた。
「女王様・・」
黒革のボンテージ衣裳の女は身を屈め、西田の頬に息がかかるほど顔を近づけると顎を掴んだ。
「言いなさい西田。言わないとあげないわ」
西田は答えなかった。
「そう。言わないつもりなのね?」
女は顎から手を離すと西田の頬を平手打ちした。

バシッ!

指のあとがくっきりと残るほどの強さだ。
そうだ。これこそ私が求めていたものだ。
もっとぶって欲しい。
女の手の中にある鞭で叩いて欲しい。
西田は鞭で打たれたときの鋭い痛みがたまらなく好きだ。
意地悪な鞭で思いっきり叩かれたい。
それに高いヒールで踏みつけられたい。
赤い蝋燭に火を灯し、溶けた蝋を背中に垂らして欲しい。

西田は今頃になって気づいた。
普段命令されることに慣れてしまっていた自分にこんな趣味があったとは・・
どうして今までそのことに気づかなかったのか・・
自分は命令されることが快感だったのだ。

女はもう一度西田の顎を掴むとグッと力を込めた。

「どう?言う気になった?」

「っ・・つ、椿さま・・」


司はギョッとした。
おい!なんでここでねーちゃんが出て来るんだよ!
いくら暴力的な姉とはいえ、西田と椿がそんな関係に陥ることなど信じられない。
司は今自分がいる場所がそんな事を思い浮かばせたんだと思いたかった。
冗談じゃねぇぞ!!
ねーちゃんと西田がそんな関係になるなんて許せるわけねぇだろうが!

司は急いで自分自身を収めると執務室へと踵を返した。
慌てるあまり危うくムスコがジッパーに挟まれそうになっていた。

バンッと扉を開けた先にいたのは姉の椿と西田。
司は思わず姉の手元を見たがそこには何も握られてはいなかった。

「司。あんた西田の婚活に協力してあげてるんでしょうね?」
椿は険しい声で司に言った。
「あたしは西田にFACE BOOKをするように勧めたけど、あんたは何を勧めてるのよ?」
「ああ?・・ああ俺か・・?」

姉と弟は西田の婚活を応援してやることになっていた。
だが今のところ確実に女と親しくなるようなチャンスには恵まれていないはずだ。
司はふっと思いついた。

西田の誕生日っていつなんだ?

こいつの誕生日パーティーでも開いてやって女を集めればいい。
そうすりゃあ習い始めたダンスを口実に女の手を握ることも出来るし親近感も湧くはずだ。

「ねーちゃん・・。に、西田の誕生日パーティーを開くってのはどうだ?」

司は西田の婚活を道明寺家の力を持ってなんとかしてやりたいと思っていた。
「司、あんたいいこと思いついたわね?」
椿は司の背中をバシッと叩いた。
相変わらず姉の平手は力強い。
その手で西田の頬を平手打ちし、鞭を持って叩いているところを想像してしまった司は慌ててその思考を振り払った。


司の前には喜んで身を投げ出す女たちがごまんといるが、西田はそんな経験などないはずだ。それに西田の仕事の性格を考えれば自分が主役になることも永遠に来ないはずだ。
それならこの男が主役となっていい思いをさせてやるのも悪くはない。
司にしてみれば、自分とつくしの幸せな姿を見ているうちに西田も婚活を始めることにしたのではないかと思っていた。

司とつくしがここまで来るのに幸せの後押しをしてくれたのは西田だ。
プレッシャーに押し潰されそうになった司を支えてくれたのはこの男だった。
陰ながらいつも二人を応援してくれていたのもこの男だ。

秘書もそうだが大勢の人間に支えられて結ばれた司とつくし。

司とつくしの絆は永遠だ。
そんな絆をこの男にも持たせてやりたい。


司は鉄仮面の男からその仮面が外れる瞬間を見たいと心から思っていた。







*ririko*様記事へはこちらからどうぞ。→『オジ恋。~金持ちの御曹司の秘書Ver~』
公開は6時からです。西田目線の妄想御曹司のお話です。楽しいですよ?(笑)
*Special thanks to *ririko*様*

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2016
09.10

恋人までのディスタンス 30

レストランで食事をすることがあたり前かと問われれば、日常的なことだと答えるはずだ。
道明寺司という男はそういうライフスタイルの男だろう。
マンションだって全くと言っていいほど生活感が感じられなかった。

つくしは自分の皿の上に乗った肉の塊を丁寧に切っていた。
今夜は酒はなしだと言われ、テーブルの上にあるのは水の入ったグラスだけだった。
知らぬ間にじっと見つめられていたことに気づくと手を止めて司を見た。

「しかし、ボートから池に飛び込む女がいるなんてことが驚きだ。今だに信じられねぇ」
「べ、別に飛び込みたくて飛び込んだわけじゃないわ」
「まさか自殺願望があったわけじゃねぇよな?」
「だ、誰がそんなことおお、思うのよ!」
「へぇ?そうか?違ってんならそれでいい。まあおまえが心理的動揺ってヤツであんな行動をとったんだとしたら俺の目的は果たされたってことだ」
「どういう意味よ?」
「文字通りだ。臆病な女が取り乱したに過ぎないんだろ?おまえのダチを捨てた俺の偽者が見つかったら俺のことを知ることになるってことに動揺したんだろ?」
「べ、別に動揺なんてしてないわよ・・」

司の言葉に落ちつかない気分になっていたつくしだったが、熱いシャワーを浴びて出て来たときからずっと動揺していたと言ったほうがいいだろう。
あの部屋に入ったときからそうだった。一緒にいるだけで動揺してしまっていた。
今までも会えばいつもそうだ。
口を開けばいつも口論となり、逃げだしたくなっていた。

落ちつかない気分になったつくしを見て、司がにやりとした。
「そうか。それならいいんだ。」
「なにがいいのよ?」
「案外偽者が見つかるのは早いんじゃないかと思ってな」
「み、見つかったの?」

思わず出たのは大きな声。
ここがメープルのレストランだと言うことを忘れていたつくしはハッとして気まずそうに周りを見まわした。

「いや。まだだ」
「でも探し出せる見込みはあるってことなんでしょ?」
司は可能性があるとは言ったが全てを伝えることはしなかった。
「できる限りのことはやらせてるから心配すんな」
司の口の端が意味ありげに上がった。

「それよりもおまえが池にダイブする前の話しだけどな。人生を踏み外しそうになった経験があるかって聞いたよな?」
確かにそんなことを言っていた。
「俺は高校んとき自滅的な青春時代を送ってた。金持ちのドラ息子だなんて言われたこともあった。まあ早い話しが人生なんてどうでもいいなんてことを考えてた節があったな。今はそんなことは考えちゃいねぇ。自分の本分は理解してるつもりだ。それに女と無駄に戯れるようなこともしてねぇ。あれは世間が勝手に思っているようなことで本当の俺じゃない」

司は世間が自分のことをどう見ているのか知っていたが、否定も肯定もしてこなかった。
こうして説明することすら今までしたことがなかった。だからこそ真実を語っているのかもしれない。不自然に納得させようとか、自分のいいところだけを見せようとしているわけでもなさそうだ。

「牧野。おまえに俺を知って欲しいと言ったがおまえは他人の言うことをそのまま信じる女なのか?自分の目で確かめるということをしようとはしないのか?」

「いいえ。そんなことはないわ。あたし達はよく口論するけど偏見を持ったつもりはないわ」
つくしも自分の正直な思いを告げた。

「そうか。それなら俺のことを、本当の俺のことを知ってくれないか?」

司の口調は真面目だった。真正面から見つめ視線は強い意志が感じられた。

「俺は自分の気持に正直だ。直感を信じる人間だ。俺はおまえのことが好きだって言ったよな。それを今すぐ受け入れろとは言わない。その代わりおまえは俺を知る努力をしてくれないか?」

司はフッと口元を緩めた。

「おまえもいつまでも自分の気持に嘘をついてるとピノキオじゃねぇけど鼻が伸びちまうからな。お互いに最高の第一印象じゃない出会い方だったんだ。俺はおまえの勘違いで殴られる始末だったしな。今さら最悪の出会いから最高の出会いにしろなんてことを言うつもりはない。それに人との出会いってのはたいていの場合ゼロからスタートするが、俺たちの場合マイナスからスタートしてるようなもんだろ?だからとりあえずマイナスをゼロまで戻したい。それにマイナススタートじゃこれ以上悪くなりようもねぇよな」

追従に慣れきってしまい、他人を気遣うという感覚があるのかわからないが、意味もなく道明寺司がこんなことをいうはずがない。
ひと筋縄ではいかない相手だとわかっている。だからこそ世界的な企業の経営の一翼を担うことが出来るのだろう。
つくしはとんでもない相手にケンカを売ろうとしていたと言うことに今さらながら気づいた。

「ひとつ、質問してもいい?」
「ああ。なんでもいい。聞いてくれ。」
「どうして・・あたしが欲しいの?あたしのどんなところが・・」

つくしは言葉に詰まった。
自分のどんなところに魅力があるのかなど今まで聞いたことがなかったからだ。

「それにあたしのことなんて殆ど知らないじゃない。いったいどこが・・」
「いい質問だな。おまえは頭がいい。」
「あ、頭?」
「そうだ。俺はバカな女は嫌いだ」
「バカな女が嫌いなら・・あたしの、の、脳みそに惚れたってわけ?」

脳みそという言葉に司は笑っていた。

「アホか。脳みそに惚れてどうすんだよ?おまえは駆け引きをしない。なんに対しても真正面からぶち当たってくるような女だ。おまえをパーティーで見かけ始めた頃はどうせまたどっかのバカ女がわざとらしく秋波を送っては姿をくらますなんていうゲームを仕掛けて来たんだと思ってた。けど、結局それは違った」
司はグラスを掴むと水をひと口飲んだ。
「それに気づいたんだが俺は素朴な女が好きだったってことだ。胸が小さかろうとチビだろうとそんなことは関係ない」

実際牧野つくしに対してそんなことは気にしてはいなかった。
司は真顔になった。

「俺がおまえのことを殆ど知らないって?おまえは相手を好きになるのに全部知ってからじゃないと好きにならないのか?知ったことで何が判断基準になるんだか知らねぇけど
人を好きになるのに長い時間が必要か?言ったよな?俺は直感型の人間だ。いったん惹かれたら簡単に_」
「そんなこと・・誰にでもそんなことを言ってるんでしょ?」

つくしは話しを遮っていた。

「おまえ、誰を相手に話しをしてるのかわかってんのか?俺は女なら誰でもいいって男じゃねぇからな」
つくしはどぎまぎするほどの鋭い視線を向けられた。
「俺はおまえの質問に答えた。牧野、俺の質問に答えて欲しい。最後に恋愛をしたのはいつだ?最後に男とつき合ったのはいつだ?」

道明寺司と食事をすることを了承したときに、まさかこんな話しになるとは思ってもみなかった。
つくしは自分の過去の恋愛が悲惨だったことを思い出していた。

「こ、答えなきゃいけないの?」
「俺がここまで自分のことを話した女はおまえ以外いねぇな。人の話しを聞いといて自分のことはダンマリか?随分と失礼な話しだよな?とてもじゃねぇけど礼儀にかなってるとはいえねぇ。おまえは礼節に欠ける女か?」

話しの趣旨が違っているような気もするが、礼節に欠けるなどと言われ、真面目なつくしは答えてしまっていた。

「つ、つき合ったことは・・あるんだけど・・もう5年以上前の話しで・・」
「なんだ?おまえは5年も男の裸を見た事がないってことか?」
この前の昼食と違ってつくしはワインを飲んではいないが、顔は赤く染まっていた。
「ねえ、そんなこと関係ないでしょ?」
「別に恥ずかしがらなくてもいい。5年も男と寝てないっていうならそれなりに_」
「キスの経験ならあるわよ?こ、この前だってしたじゃない?」

取り澄ましたような顔のつくしは言葉に詰まっていた。

「ああ。俺たちは2回キスをしたよな?」
「そ、そうよ?あたし達は2回したわ」
「それで?」司は答えを促した。
「そ、それで・・?」
「おまえは男と5年も寝てないってことだよな?」
「説明するのは難しいんだけど、け、経験学習は・・まだ・・」

沈黙。

経験学習とは経験を通して学ぶこと・・

「おまえまだって言ったよな?」

司の視線はつくしの顔から体へと移っていった。

「牧野、おまえまだってことは・・おまえその年でまだ処女なのか?」







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2016
09.09

恋人までのディスタンス 29

逃げ出したい衝動に襲われるのはどうしてなの?
連れてこられたのは道明寺司が住むマンション。
もちろん超高級マンションと呼ばれる物件だった。
流石のつくしもここまで高級なマンションは販売したことがなかった。
まだ新しいここは道明寺財閥がプライベートで所有する物件で一般には販売していないマンションだろう。
どうやらその疑問は当たっていたようだ。

「このマンションは俺が所有している」

それならあたしからあの部屋を買うなんて無駄なことをしなくてもいいじゃない?
そう言いたかったが誰がどこの物件を買おうと販売する人間には関係ないことだもの。
つくしはそわそわと落ち着かない気持ちでスカートを撫でつけていた。
水を含んで重くなったスカートからはまだ水がしたたり落ちていて、ブラウスの裾が腰からはみ出ているのに気づくと慌てて中に押し込んでいた。
最上階の廊下は大理石で出来ていた。
それも黒い大理石。
磨き抜かれていて自分の顔が映るのではないかというくらいだ。
そんなところにまるで濡れネズミのような女がいることが不釣り合いのように感じられていた。


司は牧野つくしがあとから黙ってついてきているのを確認してドアを開けた。
「どうした?牧野。遠慮するな」

「お、おじゃまします」

つくしが迷いながらも足を踏み入れたとき、司の目が愉快そうな光を帯びた。
今日の出来事を不幸な出来事とは思っていなかった。
20センチ以上うえから見下ろす女の髪はまだ幾分濡れていた。
池の水はたいして冷たくはなかったが、引き上げられた牧野の唇が震えていたところを見ると寒かったったんだろう。

「こっちだ」

司はつくしをリビングに案内した。
マンションの最上階にある司の自宅。司がこの部屋へ女を連れて来るのは初めてだ。
その気になればどんな女でも手に入れることが出来る。
ただ今まで本気になれる女がいなかっただけだ。
魅力的な容姿と経済力があれば人の内面など気にしないような女は多い。
司は牧野つくしがもじもじとしながらも部屋を窺っているのを見ていた。
濡れた髪と洋服は相変わらずでストッキングは破れているところもあるが、足は真っ直ぐでほっそりとしていた。

メイプルで一夜を過ごしたときのことが思い出された。
司はあのとき、酔った女が熱いという言葉と共に脱ぎ始めたのを見ていただけだ。
だが無意識に自分で脱ぎ始めた女は何も覚えてなかった。
ふたりの間にはなにも無かったとはいったが、実はあのとき暫く抱きしめていた。

司にしてみればひとりの女にこうしてかかわること自体、恋に堕ちたとしか言えないとわかっていた。

素朴。

その言葉が牧野つくしにはあてはまる。
そう感じていた。俺の周りにいないタイプの女であることには変わりない。
色気には欠けるが求めているのは色気ではなかった。
癖のない真っ直ぐな黒髪は清潔感に溢れ、会う時はパリッとしたシャツブラウスにビジネススーツ。化粧は社会人として最低限のマナーと言えるようなものだ。

いつから俺は素朴な女に惹かれるようになったんだ?

それにしても池に落ちるとはまさに意外すぎる展開。
だがこうして池に落ちて濡れた洋服を乾かすという口実がなければ牧野がこの部屋へ来ることもないだろう。

自分でも不思議でならないが気持ちが抑えられなくなっていた。

「牧野、シャワーを浴びてこい。バスルームは向うだ」
「えっ?あっ、うん。ありがとう・・でも・・」
「ああ。着替えか?着る物はとりあえずそこらへんにあるものでも着てくれ」
「そ、そこらへん?」
「あ?ああ、バスルームにバスローブがあるはずだ。それからおまえの服は、俺の服もだがもう元には戻らねぇはずだ。新しい服は届けさせるから心配するな。それから靴も一緒に準備させる」
ふたりの靴は歩くたびにガボガボ鳴っていた。
「と、届けさせるってどういう・・・」
「秘書に頼んどいた。サイズは・・まあ俺の勘で選んどいた」
司はつくしの体を見やった。

ふたりの視線がぶつかった瞬間、あれほど口論を重ねていたのに何故か急に会話が続かなくなっていた。
一瞬どういう行動に出ればいいか迷ったがここに来た目的はこいつにシャワーを使わせて体を温め、風邪をひかないようにしてやることだ。
少なくとも、それを済まさないことには次に進むことは出来そうにないだろう。





***







つくしは目の前にあること以外考えないようにしていた。
使えと言われたシャワーを使うため、バスルームに足を踏み入れたが意外な美しさに驚いていた。
リビングもそうだったが男のひとり暮らしだというのに汚れたところは全くと言っていいほど見当たらなかった。
ハウスクリーニングサービスを使っているのだろうが、まるで生活感がないと感じられた。
それにまるでホテルのようだ。アメニティ―グッズが用意されていて・・
もしかしてここは来客用のバスルーム?
恐らくそうだろう。これだけのマンションだ。バスルームがひとつだなんてことがあるはずがない。泊りがけの客がいればここを使うんだろう。
泊りがけの客なんて女性よね?

服を脱ぐと力任せに絞ってみた。絞れば水が出るのはあたり前か。
もう着れないと言われたがなんとかなるのではないかと思っていた。
道明寺司が着る服は、値段を見ずに買うようなものでなんの負担も感じることがないだろう。だがつくしにとって新しい洋服を買うということは衝動的ではなく、計画に基づいたものだ。この洋服はクリーニングに出せばまた着れるはずだ。

つくしは石けんを泡立てながらボートの上で言われたことを思い出していた。
対極にあるから引き合う・・そんな言葉を言われたとき、どこかしら道明寺司に惹かれている自分がいることに気づいていた。
でもあの男とあたしではまさに対極にいる人間だ。
金持ちの男と庶民の女。
それに直感型の男と頑固な女・・

自分が頑固であることは認めていた。自分で自分に枠を作ってしまうということは知っている。冒険心がないと言われたことがあった。でもそれは自分の人生がそうさせているのかもしれない。長女気質とでも言うのだろうか。石橋を叩いて渡ることを好む自分がいることもわかっていた。我慢強いとか堅実だとか甘えるのか下手だとか・・・

つくしは溜息をついた。

石橋を叩いて渡るどころか、叩き過ぎて渡る前に橋が落ちてしまったことさえあった。
それは恋愛に関してだ。控えめにしてきたことが裏目に出たこともあった。
愛情表現の仕方が足りないと言われショックを受けたことがあった。そんなことを言われ恋愛に対して打ちのめされていた。だからこれから先はペットでも飼おうかと思っていたほどだ。ハリネズミなんかいいんじゃない?あれなら誰に迷惑をかけることもなくマンションの中でも飼える。
危険を察知したら体を丸めて棘を立てるが懐けばかわいいと聞いた。

つくしは二度目の大きな溜息をついた。

あたしは大人の女性だ。
何を変えればいいのかは理解しているつもりだ。
過去の失敗に学ぶことも出来るはずだ。それに悪い癖も治せるはずだ。

石けんの泡がシャワーで洗い流されるように、心の中で起きた思いも一緒に流してしまえたらいいのに・・何故かそんなことを考えていた。




***





熱いシャワーを浴びたおかげで気分が一新したような気がした。
そんなつくしを待っていたのは、さっぱりとした表情の道明寺司だった。
やはり自分が使ったバスルームは来客用だったのかと納得した。

つくしは自分の為に用意されていた洋服を着ていたが、その洋服を置いていったのはこの男だと思うと内心では動揺していた。シャワーを浴びて出たところに用意されていたのは下着からひと揃えされていて、もちろん靴も用意されていた。
この洋服を選んだのが誰だか知らないが、とても自分で買えるような値段ではないことは十分理解出来た。
間違いのない服装とでも言えるようなスタイル。
これならどんな場面にも大丈夫だと言えるような服装。
エレガントで女性らしいと言える服装は、それこそ今までつくしが着ていた洋服とは対極にあるものだった。

女性らしい服装・・
つくしはそんな自分の装いを見ていた。

「今夜なにか予定があるのか?」
唐突に司が尋ねた。
「えっ?」
つくしは顔を上げた。
「ええ。いいえ・・ないけど・・」
咄嗟のことに正直に答えていた。
「それなら俺とメシ食わねぇか?いや。きちんとした食事だ。おまえとまともに話しをしたことがねぇからな。俺とおまえは・・最初が悪かったんだ。だからお互いにあの最初は無かったと思って話しをしないか?」

人に命令することに慣れ、人を思い通りに動かすことが当然だと考えている男がそこまで言うとはつくしも思わなかったはずだ。
つくしは咳払いをした。

「わ、わかったわ。」
「それと・・」
司がにやりとした。
「それと?」つくしは司を見た。
「今夜は酒はなしだ」








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