寒い夜に現実が戻ってきた。
つくしは寝室として与えられた部屋を出て廊下を進むと階段を降りた。
あいつが、道明寺が来た。
階下を動き回る男の足音が聞こえていた。
つくしが司に会うのは10日ぶりだった。
世田谷にいた時と違いこの10日間は眠るときは深い眠りが訪れていた。
道明寺の唇や手が自分の身体を這うことはなかったが、それでもその時のことを思い出して布団を蹴り飛ばしていたことがある。夢を見る日があった。だがそれは普通に見る夢ではなかった。
道明寺が深い眠りの中に入り込んできて、まるで悪夢のようにつくしの頭の中に入り込んで囁く声が聞えたことがあった。
唇が耳もとで囁く。
『 どうして俺を捨てた? 』
管理人の男が暖炉に薪をくべると食事の支度が出来たと声を掛けてきた。
司は手にしていた煙草を灰皿に置くとゆっくりと煙を吐き出した。煙は上にあがっていき大きく広がると消えていった。
暖炉の近くの安楽椅子に腰かけていた男はすでに一杯口にしていたのか、琥珀色の液体が入ったグラスを手に立ち上がると入口の扉のそばで佇むつくしの傍に来た。
司はつくしを観察した。
彼は今更だがつくしの目が自分を嫌っているのを感じていた。
分かり切っていたことだが、ニューヨークへ立つ前にここで抱いた女は相変わらずの態度だった。
灰皿に置かれた煙草の煙は静に上へとのぼり続けては消えていく。
二人は黙ったまま互いを見つめ合っていたが男が口を開いた。
「ここは相変わらずのようだ」
つくしはこの男が何を言いたいのかわからなかったが視線は遠慮なく自分の身体を見ているのを感じていた。
「胸がむかつく・・」
「ガキが出来たか?」
その答えは聞かなくても知っているはず。
つくしは決して怯えた姿など見せるものかと司を見た。
だが男の雰囲気はいつもと違うように思えた。とらえどころがないようでいて、わかりにくかった。いつものように怒りの感情とは違う何かが感じられた。この10日間に何かあったのかと思わずにはいられなかった。ニューヨークで何かあったのだろうかという気持ちが湧いてきて疲れているのではないかと心配をしていた。だがそれは人として他人を気遣う気持ちであってそれ以外ではないはずだ。
つくしはじっと見つめられて今の自分がどんな表情でいるのかが気になった。
気持ちがすぐに顔に表れると言われている自分だけにこの男に心を読まれてしまうのではないかと思っていた。
そのとき男は手を伸ばすとつくしの頬に触れてきた。
その行為をどう理解していいのかわからなかったが優しく触れられて遠い昔を思い出していた。
その手は優しくも力強くもある不思議な手で迷っていた自分を導いてくれる手だった。
そんな手で自分の頬に触れられていたつくしは心を奪われたように男の顔を見つめていた。
だが身を屈めて来られると酒の匂いを嗅ぎ取った。
「おまえも飲むか?」男はつくしの頬から手を下ろすと言った。
つくしが飲みたくないと言う前にグラスには赤色の液体が注がれていた。
暖炉で燃える薪の音がパチパチと聞こえる以外は静かな夕食だった。
ひっそりと静かな時間が流れているのではない。つくしにとっては屠られる羊が最後の食事を与えられているような心境で漂う空気は重苦しかった。
端正な男の顔に疲労の影が見えるような気がしたが気のせいだろう。
だが、都内からこの山荘までの距離は相当あると思われるだけにヘリを飛ばして来たのではないかと訝っていたが多分そうだろう。
使い切れないくらいの金を持つような男がなぜ今でも自分に執着するのが分からない。
たとえ金や地位がなくても生まれ持った魅力というものを持っているのが道明寺という男だ。こんな男から求められた女は虚栄心がくすぐられる思いだろう。
だが今のつくしにとって彼は何かに憑りつかれた恐ろしい男としか言えなかった。
沈黙が垂れこめるなかつくしは言った。
「無理矢理いうことを聞かせて面白いの?」
男と女である以上、力の差は歴然としている。どんなに抵抗したところで男の力に敵うだなんて思っていない。執着された人間はどうしたところで逃げようがなかったが聞かずにはいられなかった。
「面白いか面白くないかは俺が決める」
「食事が済んだんなら話でもするか?」
「それとも上に行くか?」司の目が危険な光をおびた。
「話がしたい。あんたとはきちんと話がしたい」
つくしはしっかりとした声で言った。
10日間ひとりでこの場所にいて考える時間はあった。
「何を話すんだ?」司は鼻先で笑った。
「おまえが行方不明になったと届け出が出されて、その届け出が灰になった」
司は淡々となんの感情も込めず話はじめた。
「だからおまえは行方不明でもないし、失踪者でもない」
「人知れずひっそりと生きようと思っていたんだろ?そんなおまえを探す人間なんていない」
「こんなところか?」
「進と類はわたしがいなくなったことを知ってる」
「あいつの・・類の名前を出すんじゃねぇ」
司の脳裏に思わぬ記憶が甦った。
こいつは俺を好きになる前は類のことが好きだった。
司は手元のグラスの中身を飲み干すとオレンジ色の炎が揺らめく暖炉の中へと投げ捨てた。
グラスは暖炉に当たって砕けた。
司はつくしの目を捉えた。
「おまえと類の関係はなんだ?あの男おまえに手も出さず一緒に暮らしてたなんてやっぱ不能か?」
「それともあれか?男が好きなのか?」
「馬鹿なこと言わないで!類はそんなんじゃないわ」
「フン、そんなことはどうでもいいか」
「お願い道明寺聞いて。わたし達はあの日に別れた・・・」
次の言葉を口にするとき、口ごもった。
それでもと意を決して言った。
わたしだってあの日を忘れたことは無かった。
「あんたと付き合ってたのは・・・お金の為だった・・」
つくしは平静を装って言ったがこの男の目が恐ろしかった。気が狂ったような男に何を言っても聞き入れてはもらえないと言う思いでいたが話を続けた。
「あんたがお金持ちだったから付き合った・・だけど・・あんたみたいに面倒くさい男なんてもう嫌になったから別れた・・」
「あんたのことなんて・・本当は愛してなんか・・好きじゃなかったわ」
言葉が堰を切るように出た。
「うちが貧乏だったってことはあんたもよく知ってたはずよね?」
「類よりあんたがお金持ちだったからあんたと付き合ったの」
つくしは目の前の男が恐ろしかったが冷やかに笑って見せた。
「そんなことに気がつかないなんてあんたもバカね」
つくしは男を愚弄した。
わたしはあんたみたいな男が相手にする女じゃない、そんな価値なんてない。そう思わせたかった。
お金に汚い女なんて道明寺が一番軽蔑するはずだ。
そうよ。こんな女なんてあんたが一番軽蔑する女でしょ?
だからもういいじゃない?復讐する価値もない女だと、相手にする価値もない女だと思われたかった。軽蔑に値するような女を傍に置いてもいいことなんてないとわからせたかった。
二人の関係は始まる前に終わっていたの。何も始まってなんてなかった。
あれは思春期によくある勘違いで、二人ともそんな感情に恋をしてた・・・
つくしは司にそう思って欲しかった。
牧野つくしはあんたなんて好きじゃなかった。
今となってはそう思ってくれる方がつくしには良かった。
でも道明寺がこんな人間になってしまったのはわたしのせいなんだろうけど・・
「そんなことはどうでもいい。おまえは勘違いしている」
「もうどうでもいいことだ。そんなことは」
「な、なにがどうでも・・」
「プライドの問題だ」
「いいか牧野。よく聞いておいたほうがいい。これは俺とおまえの問題だ」
司はずっと頭と心の中にいた女について話はじめた。
今でも思い出されるあの日の光景。
雨のなか立ち尽くす自分の姿・・・
あのときの絶望的な思いが甦った。
「俺がはじめて好きになった女がおまえだ。そんな女にコケにされて黙っていられるか?」
「この俺がだ!」
「面倒くさくなっただと?類なら面倒くさくはなかったのか?聞くが同じ金持ちでも類のところは面倒くさくなかったってことか?」
「答えろよ牧野?」
「答えてみろよ?」
「おまえら二人して俺をバカにしやがって・・」
司の声は険悪で低く黒い瞳はつり上がっていた。
「俺はおまえが、おまえのことが好きだった。おまえが欲しくてたまらなかった」
「10年もの間、何度かおまえの行方をあの男に聞いたが牧野つくしなんて知らないとしか言わなかった」
「あの会社でおまえを見つけたのは偶然だったが行方知れずの牧野つくしは花沢邸にいた。これをどうとればいい?」
あんな男に舐められてたまるか。そんな思いに司は頭がカッと熱くなった。
「おまえも類も許さない」
過去に白昼堂々と拉致されたことがあった。
まさか10年後にまたそんな目に遭うとは思わなかった。
だがあのときと違うのはこの男はもう少年ではない。
成人した男性で、自分自身の力で全てを自由にすることが出来る男だった。
「牧野、おまえは相変わらず言いたい放題だな」
司は軽蔑したように言ってはいたが口調は穏やかだった。
「何でも正直に言えばいいってものじゃないってことを習わなかったのか?」
「けどやっぱり牧野はこうじゃなきゃな」
「おとなしい人形みたいなのは牧野じゃないからな」
男の顔がやけに穏やかにほほ笑んだ。

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道明寺が深い眠りの中に入り込んできて、まるで悪夢のようにつくしの頭の中に入り込んで囁く声が聞えたことがあった。
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管理人の男が暖炉に薪をくべると食事の支度が出来たと声を掛けてきた。
司は手にしていた煙草を灰皿に置くとゆっくりと煙を吐き出した。煙は上にあがっていき大きく広がると消えていった。
暖炉の近くの安楽椅子に腰かけていた男はすでに一杯口にしていたのか、琥珀色の液体が入ったグラスを手に立ち上がると入口の扉のそばで佇むつくしの傍に来た。
司はつくしを観察した。
彼は今更だがつくしの目が自分を嫌っているのを感じていた。
分かり切っていたことだが、ニューヨークへ立つ前にここで抱いた女は相変わらずの態度だった。
灰皿に置かれた煙草の煙は静に上へとのぼり続けては消えていく。
二人は黙ったまま互いを見つめ合っていたが男が口を開いた。
「ここは相変わらずのようだ」
つくしはこの男が何を言いたいのかわからなかったが視線は遠慮なく自分の身体を見ているのを感じていた。
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「ガキが出来たか?」
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つくしは決して怯えた姿など見せるものかと司を見た。
だが男の雰囲気はいつもと違うように思えた。とらえどころがないようでいて、わかりにくかった。いつものように怒りの感情とは違う何かが感じられた。この10日間に何かあったのかと思わずにはいられなかった。ニューヨークで何かあったのだろうかという気持ちが湧いてきて疲れているのではないかと心配をしていた。だがそれは人として他人を気遣う気持ちであってそれ以外ではないはずだ。
つくしはじっと見つめられて今の自分がどんな表情でいるのかが気になった。
気持ちがすぐに顔に表れると言われている自分だけにこの男に心を読まれてしまうのではないかと思っていた。
そのとき男は手を伸ばすとつくしの頬に触れてきた。
その行為をどう理解していいのかわからなかったが優しく触れられて遠い昔を思い出していた。
その手は優しくも力強くもある不思議な手で迷っていた自分を導いてくれる手だった。
そんな手で自分の頬に触れられていたつくしは心を奪われたように男の顔を見つめていた。
だが身を屈めて来られると酒の匂いを嗅ぎ取った。
「おまえも飲むか?」男はつくしの頬から手を下ろすと言った。
つくしが飲みたくないと言う前にグラスには赤色の液体が注がれていた。
暖炉で燃える薪の音がパチパチと聞こえる以外は静かな夕食だった。
ひっそりと静かな時間が流れているのではない。つくしにとっては屠られる羊が最後の食事を与えられているような心境で漂う空気は重苦しかった。
端正な男の顔に疲労の影が見えるような気がしたが気のせいだろう。
だが、都内からこの山荘までの距離は相当あると思われるだけにヘリを飛ばして来たのではないかと訝っていたが多分そうだろう。
使い切れないくらいの金を持つような男がなぜ今でも自分に執着するのが分からない。
たとえ金や地位がなくても生まれ持った魅力というものを持っているのが道明寺という男だ。こんな男から求められた女は虚栄心がくすぐられる思いだろう。
だが今のつくしにとって彼は何かに憑りつかれた恐ろしい男としか言えなかった。
沈黙が垂れこめるなかつくしは言った。
「無理矢理いうことを聞かせて面白いの?」
男と女である以上、力の差は歴然としている。どんなに抵抗したところで男の力に敵うだなんて思っていない。執着された人間はどうしたところで逃げようがなかったが聞かずにはいられなかった。
「面白いか面白くないかは俺が決める」
「食事が済んだんなら話でもするか?」
「それとも上に行くか?」司の目が危険な光をおびた。
「話がしたい。あんたとはきちんと話がしたい」
つくしはしっかりとした声で言った。
10日間ひとりでこの場所にいて考える時間はあった。
「何を話すんだ?」司は鼻先で笑った。
「おまえが行方不明になったと届け出が出されて、その届け出が灰になった」
司は淡々となんの感情も込めず話はじめた。
「だからおまえは行方不明でもないし、失踪者でもない」
「人知れずひっそりと生きようと思っていたんだろ?そんなおまえを探す人間なんていない」
「こんなところか?」
「進と類はわたしがいなくなったことを知ってる」
「あいつの・・類の名前を出すんじゃねぇ」
司の脳裏に思わぬ記憶が甦った。
こいつは俺を好きになる前は類のことが好きだった。
司は手元のグラスの中身を飲み干すとオレンジ色の炎が揺らめく暖炉の中へと投げ捨てた。
グラスは暖炉に当たって砕けた。
司はつくしの目を捉えた。
「おまえと類の関係はなんだ?あの男おまえに手も出さず一緒に暮らしてたなんてやっぱ不能か?」
「それともあれか?男が好きなのか?」
「馬鹿なこと言わないで!類はそんなんじゃないわ」
「フン、そんなことはどうでもいいか」
「お願い道明寺聞いて。わたし達はあの日に別れた・・・」
次の言葉を口にするとき、口ごもった。
それでもと意を決して言った。
わたしだってあの日を忘れたことは無かった。
「あんたと付き合ってたのは・・・お金の為だった・・」
つくしは平静を装って言ったがこの男の目が恐ろしかった。気が狂ったような男に何を言っても聞き入れてはもらえないと言う思いでいたが話を続けた。
「あんたがお金持ちだったから付き合った・・だけど・・あんたみたいに面倒くさい男なんてもう嫌になったから別れた・・」
「あんたのことなんて・・本当は愛してなんか・・好きじゃなかったわ」
言葉が堰を切るように出た。
「うちが貧乏だったってことはあんたもよく知ってたはずよね?」
「類よりあんたがお金持ちだったからあんたと付き合ったの」
つくしは目の前の男が恐ろしかったが冷やかに笑って見せた。
「そんなことに気がつかないなんてあんたもバカね」
つくしは男を愚弄した。
わたしはあんたみたいな男が相手にする女じゃない、そんな価値なんてない。そう思わせたかった。
お金に汚い女なんて道明寺が一番軽蔑するはずだ。
そうよ。こんな女なんてあんたが一番軽蔑する女でしょ?
だからもういいじゃない?復讐する価値もない女だと、相手にする価値もない女だと思われたかった。軽蔑に値するような女を傍に置いてもいいことなんてないとわからせたかった。
二人の関係は始まる前に終わっていたの。何も始まってなんてなかった。
あれは思春期によくある勘違いで、二人ともそんな感情に恋をしてた・・・
つくしは司にそう思って欲しかった。
牧野つくしはあんたなんて好きじゃなかった。
今となってはそう思ってくれる方がつくしには良かった。
でも道明寺がこんな人間になってしまったのはわたしのせいなんだろうけど・・
「そんなことはどうでもいい。おまえは勘違いしている」
「もうどうでもいいことだ。そんなことは」
「な、なにがどうでも・・」
「プライドの問題だ」
「いいか牧野。よく聞いておいたほうがいい。これは俺とおまえの問題だ」
司はずっと頭と心の中にいた女について話はじめた。
今でも思い出されるあの日の光景。
雨のなか立ち尽くす自分の姿・・・
あのときの絶望的な思いが甦った。
「俺がはじめて好きになった女がおまえだ。そんな女にコケにされて黙っていられるか?」
「この俺がだ!」
「面倒くさくなっただと?類なら面倒くさくはなかったのか?聞くが同じ金持ちでも類のところは面倒くさくなかったってことか?」
「答えろよ牧野?」
「答えてみろよ?」
「おまえら二人して俺をバカにしやがって・・」
司の声は険悪で低く黒い瞳はつり上がっていた。
「俺はおまえが、おまえのことが好きだった。おまえが欲しくてたまらなかった」
「10年もの間、何度かおまえの行方をあの男に聞いたが牧野つくしなんて知らないとしか言わなかった」
「あの会社でおまえを見つけたのは偶然だったが行方知れずの牧野つくしは花沢邸にいた。これをどうとればいい?」
あんな男に舐められてたまるか。そんな思いに司は頭がカッと熱くなった。
「おまえも類も許さない」
過去に白昼堂々と拉致されたことがあった。
まさか10年後にまたそんな目に遭うとは思わなかった。
だがあのときと違うのはこの男はもう少年ではない。
成人した男性で、自分自身の力で全てを自由にすることが出来る男だった。
「牧野、おまえは相変わらず言いたい放題だな」
司は軽蔑したように言ってはいたが口調は穏やかだった。
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Comment:2
「社長、お電話でございます」
黒いスーツを着た男がプールサイドに現れた。
「誰だ?」
「北村商事の北村様です」
「今日は何日だ?」
「27日でございます」
「うせろ。そう言え」
黒いスーツの男は頷くと踵を返して去った。
司はプールに飛び込むと泳ぎはじめた。
滅多に使わない邸のプールだがいつでも使用できるように管理されていた。
彼は広いプールを何度か往復したあと水面を漂うかのように浮かんだ。
天井を見ながら、かつて誰よりも会いたいと願っていた女のことを思っていた。
あの日の記憶が心の中から消えることはない。
「すべてはあるべき形になってきた」
司はもはや自分を愛していないと言うひとりの女に執着するだけの男だった。
だがそれは個人的な問題であって他人に知られる必要はなかった。
そしてその思いは決して事業を蔑ろにすると言うわけではなかった。
帰国したが山荘に行く前に都内で片を付けたい仕事があった。
いま、彼が狙うのは最盛期を過ぎたと思われる中堅規模の総合商社だった。
そこは海外での事業を拡大し過ぎて債務超過に陥っていた。
一時はどこの日本企業も海外進出を積極的におこなっていた時期があった。
だが、その戦略が裏目に出た。海外の子会社に出資すればするほど赤字を生み出していくという状況だ。資源開発事業にも手を出したが失敗し、巨額の損失を計上した。
今ではその事業が金喰い虫となり資産を食い潰し身動きが取れない状況になっていた。
沈む船から逃げることねずみの如し。優秀な人材なら他社へと渡りをつけて移っていく。
いつの間にか姿を消す人間が増えてくれば、会社の運命を推し量ることが出来た。
会社が資金繰りに困ったとき、手持ちの有価証券の売却が一番手っ取り早い。
資産として保有している土地建物も売却を考えるが抵当に入っていればそれも出来ない。
銀行に融資を頼んでも受けてくれるところも無くなれば金策尽きたとしか言えない。
手形決済日が近づいてくれば、万策尽きたとばかりに白旗を上げるしかない状況に陥る。
会社更生法の申請をするしかないのか。
いよいよか・・あの会社も。
司は会社を手玉に取っている感覚が好きだった。
真綿で首を絞める様を眺めるのもいいが苦しむ人間に綱を渡してやれば、自らの手でその綱を絞める。
司は躊躇しなかった。猟でも同じだ。引き金を引くときは一気に引く。
急所を外せば獲物の苦しみが長引くだけだ。
いつもと同じだ。
どこの会社も。
さっさと支援を求めればいいものを。
あの会社は一度道明寺からの融資申し出を断っていた。
国内外の銀行からの融資を断られはじめたときに既に先はなかったはずだ。
だが道明寺から融資を受ければどうなるかが目に見えていたからこそ断って来たのだろうが、メインバンクに見放されれば末路は見えた。約手の不渡りが意味するところは倒産だ。
さっさと腹をくくればいいものを。
世田谷の邸で司は男の訪問を受けていた。
もちろん約束などしていない早朝の時間帯ではあったが面会を許可した。
それは昨日電話をかけてきた男だった。
「道明寺さんお願いします。お金が必要です」
「月末の手形の決済の為のお金が」
男は膝に手をついて頭を下げた。
「100億か?」司は口の端をかすかに歪めながら言った。
「どうしてそれを・・」
「あんた、うちが融資しようかと言ったとき必要ありませんと断ったが覚えているか?」
「どうせ100億なんて当座の金だろ?所詮持っても2ヶ月ってところか」
司の表情には冷笑が浮かんでいた。
「あんたオーナー経営者だよな?全てを売り払ってでもなんとかするもんだろ?」
「もちろん、そのつもりですが・・わたしの持っている資産はすべて抵当権が設定されています」
「ですから・・」
「無い袖は振れない・・か?」司はおっかぶせるように言った。
「言っとくが俺が欲しいのはあんたんところの子会社で他には興味がない」
「それにわかってると思うが、うちからの融資を受けると言うことはあんたの会社はそのうち無くなる。人員整理は早いほうがいいと思うぞ」
「まさか従業員だけに犠牲をしいて経営者が責任を逃れるなんてことはないよな?」
「無能なトップだと従業員は痛い目を見る」
「従業員の為を思うなら金のあるうちに退職金払って切り捨てろ」と口早に言った。
***
類はつくしの行方を捜していたが、足取りはつかめなかった。
弟の進からも何の連絡もなかった。
だが予想は出来る。司のところにいるはずだ。ただどこにいるのかがわからなかった。
つくしが働いていた会社の現状は知っていた。
あの会社の経済的苦境は目に余るものがあった。
自社ビルは抵当に入り、他の不動産も借入金の担保として銀行に差し押さえられていた。
もし銀行がすぐにでも貸した金を返せと融資の回収に乗り出せばこの会社は倒産だ。
司のところが貸付けていた金額も相当なものだろう。
倒産して会社更生法の申請をしたとしても、裁判所が更生開始の決定をしてくれなければ会社は消滅する。更生法の適用を受ければ会社は存続されるが、不採算部門を切り捨てて出直す以外ない。
そしてどこかの会社が買い取って子会社化をする。
そのどこかの会社が司の会社だったってことか。でも倒産寸前で莫大な負債を抱えているこの会社をわざわざ買い取るなんて、今までのあいつならそんなことはしない。
潰れた会社を買ったほうがよっぽど安上がりなはずだ。それに買い取ったとしても、すぐにバラバラにして売り払う男だ。
何か密約でもあるのだろうと勘ぐらずにはいられなかった。
司は金のかかるすご腕弁護士を大量に抱えている
あいつのことだ。何かしたとしても決して跡が残るようなヘマはしていないだろう。
「専務、そろそろお時間ですのでお願いします」
「ああわかった。いま行く」
類は時計に目を落とすと言った。
「悪いけど、道明寺の社長とのアポ取って欲しいんだ」
「社長といいますと、道明寺司様ですよね?」
「そうだね、代ってないなら」
「専務はご友人では?」
類の秘書は真顔で聞いた。
「どうだろう・・」
今は友人と言えるかどうかわからなかった。
高級スーツとイタリア製の靴と権力を身に纏った男は自分が知っていた男とは変わってしまっていた。
喧嘩っ早く、無軌道な男ではあったが心根は純真で自分の信念を貫く男だった。
だが今の司は節操がない。まるでハゲタカと呼ばれても仕方がないような男だ。
「そう言えば道明寺さんは北村商事を買収されるとか」
「ああ。あの会社」
「どうやら海外での事業がお荷物になって債務超過になっているようです」
「社長も交代するらしいです。新社長は道明寺グループから送り込まれるようですが、まあ前社長の海外での拡大路線が悪かったとしかいいようがありませんでしたので仕方がないですね」
「うちもあの会社とは取引がありますので、倒産しなくて良かったですよね?専務」
「経営は結果がすべてですから、専務も頑張って下さい」
「それって俺に対してのあてつけ?」
「いえ。専務は頑張っていらっしゃいます。他意はありません」
秘書は頭を垂れていた。

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「誰だ?」
「北村商事の北村様です」
「今日は何日だ?」
「27日でございます」
「うせろ。そう言え」
黒いスーツの男は頷くと踵を返して去った。
司はプールに飛び込むと泳ぎはじめた。
滅多に使わない邸のプールだがいつでも使用できるように管理されていた。
彼は広いプールを何度か往復したあと水面を漂うかのように浮かんだ。
天井を見ながら、かつて誰よりも会いたいと願っていた女のことを思っていた。
あの日の記憶が心の中から消えることはない。
「すべてはあるべき形になってきた」
司はもはや自分を愛していないと言うひとりの女に執着するだけの男だった。
だがそれは個人的な問題であって他人に知られる必要はなかった。
そしてその思いは決して事業を蔑ろにすると言うわけではなかった。
帰国したが山荘に行く前に都内で片を付けたい仕事があった。
いま、彼が狙うのは最盛期を過ぎたと思われる中堅規模の総合商社だった。
そこは海外での事業を拡大し過ぎて債務超過に陥っていた。
一時はどこの日本企業も海外進出を積極的におこなっていた時期があった。
だが、その戦略が裏目に出た。海外の子会社に出資すればするほど赤字を生み出していくという状況だ。資源開発事業にも手を出したが失敗し、巨額の損失を計上した。
今ではその事業が金喰い虫となり資産を食い潰し身動きが取れない状況になっていた。
沈む船から逃げることねずみの如し。優秀な人材なら他社へと渡りをつけて移っていく。
いつの間にか姿を消す人間が増えてくれば、会社の運命を推し量ることが出来た。
会社が資金繰りに困ったとき、手持ちの有価証券の売却が一番手っ取り早い。
資産として保有している土地建物も売却を考えるが抵当に入っていればそれも出来ない。
銀行に融資を頼んでも受けてくれるところも無くなれば金策尽きたとしか言えない。
手形決済日が近づいてくれば、万策尽きたとばかりに白旗を上げるしかない状況に陥る。
会社更生法の申請をするしかないのか。
いよいよか・・あの会社も。
司は会社を手玉に取っている感覚が好きだった。
真綿で首を絞める様を眺めるのもいいが苦しむ人間に綱を渡してやれば、自らの手でその綱を絞める。
司は躊躇しなかった。猟でも同じだ。引き金を引くときは一気に引く。
急所を外せば獲物の苦しみが長引くだけだ。
いつもと同じだ。
どこの会社も。
さっさと支援を求めればいいものを。
あの会社は一度道明寺からの融資申し出を断っていた。
国内外の銀行からの融資を断られはじめたときに既に先はなかったはずだ。
だが道明寺から融資を受ければどうなるかが目に見えていたからこそ断って来たのだろうが、メインバンクに見放されれば末路は見えた。約手の不渡りが意味するところは倒産だ。
さっさと腹をくくればいいものを。
世田谷の邸で司は男の訪問を受けていた。
もちろん約束などしていない早朝の時間帯ではあったが面会を許可した。
それは昨日電話をかけてきた男だった。
「道明寺さんお願いします。お金が必要です」
「月末の手形の決済の為のお金が」
男は膝に手をついて頭を下げた。
「100億か?」司は口の端をかすかに歪めながら言った。
「どうしてそれを・・」
「あんた、うちが融資しようかと言ったとき必要ありませんと断ったが覚えているか?」
「どうせ100億なんて当座の金だろ?所詮持っても2ヶ月ってところか」
司の表情には冷笑が浮かんでいた。
「あんたオーナー経営者だよな?全てを売り払ってでもなんとかするもんだろ?」
「もちろん、そのつもりですが・・わたしの持っている資産はすべて抵当権が設定されています」
「ですから・・」
「無い袖は振れない・・か?」司はおっかぶせるように言った。
「言っとくが俺が欲しいのはあんたんところの子会社で他には興味がない」
「それにわかってると思うが、うちからの融資を受けると言うことはあんたの会社はそのうち無くなる。人員整理は早いほうがいいと思うぞ」
「まさか従業員だけに犠牲をしいて経営者が責任を逃れるなんてことはないよな?」
「無能なトップだと従業員は痛い目を見る」
「従業員の為を思うなら金のあるうちに退職金払って切り捨てろ」と口早に言った。
***
類はつくしの行方を捜していたが、足取りはつかめなかった。
弟の進からも何の連絡もなかった。
だが予想は出来る。司のところにいるはずだ。ただどこにいるのかがわからなかった。
つくしが働いていた会社の現状は知っていた。
あの会社の経済的苦境は目に余るものがあった。
自社ビルは抵当に入り、他の不動産も借入金の担保として銀行に差し押さえられていた。
もし銀行がすぐにでも貸した金を返せと融資の回収に乗り出せばこの会社は倒産だ。
司のところが貸付けていた金額も相当なものだろう。
倒産して会社更生法の申請をしたとしても、裁判所が更生開始の決定をしてくれなければ会社は消滅する。更生法の適用を受ければ会社は存続されるが、不採算部門を切り捨てて出直す以外ない。
そしてどこかの会社が買い取って子会社化をする。
そのどこかの会社が司の会社だったってことか。でも倒産寸前で莫大な負債を抱えているこの会社をわざわざ買い取るなんて、今までのあいつならそんなことはしない。
潰れた会社を買ったほうがよっぽど安上がりなはずだ。それに買い取ったとしても、すぐにバラバラにして売り払う男だ。
何か密約でもあるのだろうと勘ぐらずにはいられなかった。
司は金のかかるすご腕弁護士を大量に抱えている
あいつのことだ。何かしたとしても決して跡が残るようなヘマはしていないだろう。
「専務、そろそろお時間ですのでお願いします」
「ああわかった。いま行く」
類は時計に目を落とすと言った。
「悪いけど、道明寺の社長とのアポ取って欲しいんだ」
「社長といいますと、道明寺司様ですよね?」
「そうだね、代ってないなら」
「専務はご友人では?」
類の秘書は真顔で聞いた。
「どうだろう・・」
今は友人と言えるかどうかわからなかった。
高級スーツとイタリア製の靴と権力を身に纏った男は自分が知っていた男とは変わってしまっていた。
喧嘩っ早く、無軌道な男ではあったが心根は純真で自分の信念を貫く男だった。
だが今の司は節操がない。まるでハゲタカと呼ばれても仕方がないような男だ。
「そう言えば道明寺さんは北村商事を買収されるとか」
「ああ。あの会社」
「どうやら海外での事業がお荷物になって債務超過になっているようです」
「社長も交代するらしいです。新社長は道明寺グループから送り込まれるようですが、まあ前社長の海外での拡大路線が悪かったとしかいいようがありませんでしたので仕方がないですね」
「うちもあの会社とは取引がありますので、倒産しなくて良かったですよね?専務」
「経営は結果がすべてですから、専務も頑張って下さい」
「それって俺に対してのあてつけ?」
「いえ。専務は頑張っていらっしゃいます。他意はありません」
秘書は頭を垂れていた。

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本日の『金持ちの御曹司』は大人向けの内容です。
未成年者の方、またそのようなお話が苦手な方はお控え下さい。
いつものことですがイメージを著しく損なう恐れがあります。
こんな御曹司だと財閥の将来が不安だと思われる方、道明寺司は仕事をしていますがやっぱりアレです(笑)
この御曹司は今後も多分こんな感じでパスワードが付くようなお話になると思われます。
それでもいいよ。の方のみどうぞ。
なお、本日の記事はこの記事の下にあります。
アカシア
未成年者の方、またそのようなお話が苦手な方はお控え下さい。
いつものことですがイメージを著しく損なう恐れがあります。
こんな御曹司だと財閥の将来が不安だと思われる方、道明寺司は仕事をしていますがやっぱりアレです(笑)
この御曹司は今後も多分こんな感じでパスワードが付くようなお話になると思われます。
それでもいいよ。の方のみどうぞ。
なお、本日の記事はこの記事の下にあります。
アカシア
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これからつくしが会う相手は全ての人々が自分よりも地位の高い人々だ。
道明寺ホールディングス新社長就任披露パーティー。
その新社長の後ろを歩くのは何故か場違いで不似合と思われるあたし。
だがそのことを表だって口にする輩はいなかった。
相手が悪すぎると言うのだろうか?
この男の逆鱗に触れるということは社会から抹殺されるとでも言うのだろうか?
いくらなんでもそれはないでしょう?
だが、つくしは自分のことを囁きあっている声を聞きとることは出来た。
「あの人が・・・道明寺様のお相手なの?」
「まさか・・あの?」
「あんなの単なる間違いでしょ?」
「でも・・」
「なによ!あんなブス!」
「だいたい道明寺様はひとりの女性と継続的な関係なんて続けるわけがないじゃない。この女なんて単なる遊び相手の一人よ!」
つくしはなるほど、この男がこんな女性達から身を守りたいと考えるのも分かるような気がした。
あの騒動が記事になることはなかったがネットの世界ではある程度広がってしまったのは仕方がない。
「道明寺社長、この度は御就任おめでとうございます」
とあちらこちらからかかる声を無視して人々の間を歩く男について行くあたし。
道明寺司が歩けばその行く手は自ずと開かれる。
行く手にいる人々は彼が歩けば目立たないようにそそくさと移動していく。
凄い!
それはまるで磁石が同極の金属を遠ざけて行くようだ。
見ているつくしはある意味面白かった。
道明寺司は俺に近寄るなと言う空気を発散しているのが分かる。
つくしのように客観的に見ていれば、それもまた面白い。
この人物は凄い!!
つくしは彼の後ろを歩きながら記者として益々興味を掻き立てられた。
若くして社長に就任するだけのカリスマ性がある。
黒のタキシード姿はまるで黒ヒョウのようにしなやかだった。
袖口から覗くドレスシャツの白さがアクセントになっていてこれまた美しい。
男の全体的な印象として言えるのは長い脚を持つ黒ヒョウは何かに挑むように挑戦的な態度だ。
きらびやかな服装の人々の間をすり抜ける姿は堂々として、なおかつ優雅だった。このパーティーに来た女性達はそんな男の姿を見るだけでも嬉しそうだ。
この男がにっこりほほ笑んだりしたら、この部屋にいる女性はどうなるんだろう?
悲鳴を上げて失神する?
つくしは新聞記者として例える言葉の間違いには目をつむるとして思った。
・・歩く姿は百合の花・・・これは男性の例えではないがそんな言葉が似合いそうだ。
でも・・・神様は公平なのかもしれない。
見た目はこんなに素敵な男性なのにあの性格。
世間はそれを知っているのだろうか?
嫌味な男だってことを。
どちらにしてもこの男の恋人・・・
それはあたしではない。
この男は嫌味な男だけど、本当の恋人には優しいのだろう。
多分・・
その本当の恋人を守るために、かりそめの恋人を立てるくらいなのだから。
****
舞台は整えられていた。
道明寺ホールディングスの新社長は祝いを述べに来た人々に挨拶をするとシャンパンの入ったフルートグラスを片手に会場内を巡り始めた。
この会場にいるのは、政財界の大物と呼ばれるような人物ばかりだった。
つくしがかつて取材をしようと試みた人物もいた。
当然ながら相手にもされなかったが。
ホストである道明寺司は久しぶりの日本のはずだが、そんなことは全く感じさせなかった。
それとも今までも定期的に帰国してはその人脈を生かして仕事をこなしてきたのだろうか?
「おい」
と呼ばれたのは自分のことだろうか?
「ぼけっとするな」
「え?あ、あたし?」
つくしはぼんやりとした視線で司を見た。
「これはこれは。道明寺さんのお連れの方は君に夢中なご様子で他のことなど、目にも入っていないようですね?」
つくしはその声にどこかで聞き覚えがあると思い、相手の顔を見て驚いた。
なんと!
現役総理大臣がそこにいるではないか!
そしてその傍にいるのは衆議院議長が!
これで最高裁判所長官がいれば三権の長が揃う。
つくしは眩暈がしそうになった。
「おい、挨拶は」
「は、あひ」
噛んだ。
「は、はい。ま、牧野つくしと申します。よ、よろしくお願い致します」
と頭を下げた。
道明寺司と言えば握手をしたり、話をしたりとパーティー会場の中である程度はくつろいでいるように見えた。
つくしは改めて周りを見渡してみた。
この場に居並ぶのは自分の外見とか努力とかでのし上がったような人物は見当たらないような気がする。
由緒正しい家柄と生まれながらの財力と美貌を備えたような人間ばかりのような気がしてならない。
やはり何をもって自分がこの男のかりそめの恋人に選ばれたのかが益々わからなくなってきた。適当だとは言われてみても、この男の適当の基準がわからない。
つくしは迷った。
だが疑問に思うことは聞いてみるのがブンヤの仕事だ。
「あの・・」
「よっ!司。いよいよおまえも社長か?」
道明寺司の前に立ったつくしの後ろから声がした。
「俺たちの中でおまえが一番最初に家業を背負って立つなんて流石だ」
「やっぱりハーバード出は違うよな」
やはり黒の正装に身を包んだ三人の男性が道明寺司の傍へと近づいて来た。
「おまえはいつも仕事の話ばかりだよな、司?」
「本当だ。たまには色気のある話でも聞きたいよな?」
四人の男性はありきたりの挨拶を交わしながらも親しそうだった。
「で、彼女は?」
司の傍に立つ小柄な女に気がついたのは優しさが感じられる微笑みを浮かべた男性だった。
三人の男性は視線を司からつくしへ移した。
「俺の恋人」
その言葉に男達は三人三様の顔をした。
「悪い、司。この女性が・・?」と信じられない表情。
「へぇ」と簡単な答え。
「なんかどっかで見た」
最後に瞳の色が薄く感情が乏しいと思われるような人物が言った。
「だろうな。ネットで出回った」
「司、この女性は・・公式な恋人なのか?それとも非公式なのか?」
と興味深い聞き方をしたのは女のことなら任せろと言わんばかりの態度の男性だった。
「公式の方だ」

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その新社長の後ろを歩くのは何故か場違いで不似合と思われるあたし。
だがそのことを表だって口にする輩はいなかった。
相手が悪すぎると言うのだろうか?
この男の逆鱗に触れるということは社会から抹殺されるとでも言うのだろうか?
いくらなんでもそれはないでしょう?
だが、つくしは自分のことを囁きあっている声を聞きとることは出来た。
「あの人が・・・道明寺様のお相手なの?」
「まさか・・あの?」
「あんなの単なる間違いでしょ?」
「でも・・」
「なによ!あんなブス!」
「だいたい道明寺様はひとりの女性と継続的な関係なんて続けるわけがないじゃない。この女なんて単なる遊び相手の一人よ!」
つくしはなるほど、この男がこんな女性達から身を守りたいと考えるのも分かるような気がした。
あの騒動が記事になることはなかったがネットの世界ではある程度広がってしまったのは仕方がない。
「道明寺社長、この度は御就任おめでとうございます」
とあちらこちらからかかる声を無視して人々の間を歩く男について行くあたし。
道明寺司が歩けばその行く手は自ずと開かれる。
行く手にいる人々は彼が歩けば目立たないようにそそくさと移動していく。
凄い!
それはまるで磁石が同極の金属を遠ざけて行くようだ。
見ているつくしはある意味面白かった。
道明寺司は俺に近寄るなと言う空気を発散しているのが分かる。
つくしのように客観的に見ていれば、それもまた面白い。
この人物は凄い!!
つくしは彼の後ろを歩きながら記者として益々興味を掻き立てられた。
若くして社長に就任するだけのカリスマ性がある。
黒のタキシード姿はまるで黒ヒョウのようにしなやかだった。
袖口から覗くドレスシャツの白さがアクセントになっていてこれまた美しい。
男の全体的な印象として言えるのは長い脚を持つ黒ヒョウは何かに挑むように挑戦的な態度だ。
きらびやかな服装の人々の間をすり抜ける姿は堂々として、なおかつ優雅だった。このパーティーに来た女性達はそんな男の姿を見るだけでも嬉しそうだ。
この男がにっこりほほ笑んだりしたら、この部屋にいる女性はどうなるんだろう?
悲鳴を上げて失神する?
つくしは新聞記者として例える言葉の間違いには目をつむるとして思った。
・・歩く姿は百合の花・・・これは男性の例えではないがそんな言葉が似合いそうだ。
でも・・・神様は公平なのかもしれない。
見た目はこんなに素敵な男性なのにあの性格。
世間はそれを知っているのだろうか?
嫌味な男だってことを。
どちらにしてもこの男の恋人・・・
それはあたしではない。
この男は嫌味な男だけど、本当の恋人には優しいのだろう。
多分・・
その本当の恋人を守るために、かりそめの恋人を立てるくらいなのだから。
****
舞台は整えられていた。
道明寺ホールディングスの新社長は祝いを述べに来た人々に挨拶をするとシャンパンの入ったフルートグラスを片手に会場内を巡り始めた。
この会場にいるのは、政財界の大物と呼ばれるような人物ばかりだった。
つくしがかつて取材をしようと試みた人物もいた。
当然ながら相手にもされなかったが。
ホストである道明寺司は久しぶりの日本のはずだが、そんなことは全く感じさせなかった。
それとも今までも定期的に帰国してはその人脈を生かして仕事をこなしてきたのだろうか?
「おい」
と呼ばれたのは自分のことだろうか?
「ぼけっとするな」
「え?あ、あたし?」
つくしはぼんやりとした視線で司を見た。
「これはこれは。道明寺さんのお連れの方は君に夢中なご様子で他のことなど、目にも入っていないようですね?」
つくしはその声にどこかで聞き覚えがあると思い、相手の顔を見て驚いた。
なんと!
現役総理大臣がそこにいるではないか!
そしてその傍にいるのは衆議院議長が!
これで最高裁判所長官がいれば三権の長が揃う。
つくしは眩暈がしそうになった。
「おい、挨拶は」
「は、あひ」
噛んだ。
「は、はい。ま、牧野つくしと申します。よ、よろしくお願い致します」
と頭を下げた。
道明寺司と言えば握手をしたり、話をしたりとパーティー会場の中である程度はくつろいでいるように見えた。
つくしは改めて周りを見渡してみた。
この場に居並ぶのは自分の外見とか努力とかでのし上がったような人物は見当たらないような気がする。
由緒正しい家柄と生まれながらの財力と美貌を備えたような人間ばかりのような気がしてならない。
やはり何をもって自分がこの男のかりそめの恋人に選ばれたのかが益々わからなくなってきた。適当だとは言われてみても、この男の適当の基準がわからない。
つくしは迷った。
だが疑問に思うことは聞いてみるのがブンヤの仕事だ。
「あの・・」
「よっ!司。いよいよおまえも社長か?」
道明寺司の前に立ったつくしの後ろから声がした。
「俺たちの中でおまえが一番最初に家業を背負って立つなんて流石だ」
「やっぱりハーバード出は違うよな」
やはり黒の正装に身を包んだ三人の男性が道明寺司の傍へと近づいて来た。
「おまえはいつも仕事の話ばかりだよな、司?」
「本当だ。たまには色気のある話でも聞きたいよな?」
四人の男性はありきたりの挨拶を交わしながらも親しそうだった。
「で、彼女は?」
司の傍に立つ小柄な女に気がついたのは優しさが感じられる微笑みを浮かべた男性だった。
三人の男性は視線を司からつくしへ移した。
「俺の恋人」
その言葉に男達は三人三様の顔をした。
「悪い、司。この女性が・・?」と信じられない表情。
「へぇ」と簡単な答え。
「なんかどっかで見た」
最後に瞳の色が薄く感情が乏しいと思われるような人物が言った。
「だろうな。ネットで出回った」
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パーティーに参加しろ。
着の身着のままでいいから会社まで来いと言われたつくしは、いつも通り代わり映えのしないビジネススーツで道明寺ホールディングスへと足を運んだ。
着る物は秘書が用意すると言ったんだからそれでいいじゃない。
どうせ雇われマダムみたいなものだ。あの男の隣でにっこりほほ笑んで見せればいいのだろう。
つくしはもともとパーティーに参加するような人間ではなかったので、どんな服装で参加すればいいのかよくわからなかった。
それにパーティーで着ると思われるようなドレスなんて一枚も持ってない。
だいたい冒険するような人間ではなく、どちらかと言えば保守的な考えかとも言われた。
だから服装もいたって地味だった。
これまで冒険するとか危険を冒すとか考えたこともなかった。
だから恋愛もなかなか上手くいかなかったのかもしれない。
これはある意味いい経験なのかもしれない。
そうよ!疑似恋愛だとでも考えてみればいい。
会場はホテルメープル東京で、としかわからなかった。
それにこの会社のいうドレスコードがどのあたりを指すのかもわからなかった。
道明寺クラスのパーティーにもなると格が違うと聞いたことがある。
政財界のトップクラスが参加して駐日外国公館の大使とか総理大臣経験者に現役総理大臣までが参加すると聞いたことがある。
そういえば首相動静欄で見たことがある。
『道明寺ホールディングス社長道明寺衡氏と山梨でゴルフ』とか
『ホテルメープル東京で道明寺ホールディングス主催のジャパンフォーラムに参加』
つくしも取材先がそんな会場になることがある。
互礼会とか賀詞交歓会とかどこかの会社の会長が叙勲したとか・・所詮新人記者が割り当てられるのはその程度だけど。
だが、今回は取材ではない。
でも仕事だ。
そう。これはつくしにとっての仕事であることにはかわりない。
それ以外にこの場所にいる理由はない。
なによ!そっちから時間を指定しておいて待たせるなんて。
とは言え、仕方がないのだろう。
それこそこの男のタイムスケジュールは総理大臣なみに細かく決められているのだろうが会議が長引いているのかつくしは執務室のソファで待ちぼうけを食っていた。
つくしは出されたお茶を飲み干すとじっとしているのも退屈だと部屋の中を歩き回っていた。
広い部屋だった。
一流企業の社長室とはこう言うものを言うのだと知った。
この前は部屋を見る余裕なんてなかったのでここぞとばかりに見学させてもらうことにした。
調度品は少なくてあっさりとした印象を受けた。
あの男の性格はあっさりとしているようには思えなかったが。
つくしが受けた印象はカッコイイけど嫌味な男だった。
広いデスクの上には電話とパソコンしか無かった。
極力ものを置かないと言う方針なのだろうか?
決済待ちの書類を入れるようなボックスも無かった。
それともあたしがここに入ることを見越して書類がデスクに乗っていないだけなのだろうか?いや。社内での書類の扱いが重要視されている現れなのかもしれない。
離席するときに個人情報が含まれた書類を扱っている場合などはその書類を裏返して離れる。
例えそれが社内の人間しかいない場所であっても情報漏れを防ぐ為に徹底している企業もある。
ブンヤと呼ばれる人間が社内いるとすれば書類の扱いに慎重になるのも当たり前か。
秘密保持契約の書類にはサインをした。だから例え今、ここで何かを知ったとしても喋るつもりはない。
壁に掛けられた絵は本物だろうか?
どこかの美術館にあってもおかしくないような絵が飾られていた。
つくしはよく見ようと思い絵に近づいた。
それは多分世界的名画と呼ばれる絵のひとつだった。
バブル時代に日本のいくつかの企業がそんな名画を買い漁ったことがあったと聞いたがその名残なのだろうか?
当時日本の企業が買い漁った名画で国内に残っているものは少なかった。
窓の外は高層ビル群が見える場所にこのビルは建っていた。
つくしは窓の外を見つめた。
東京の春。季節の変わり目だ。
ガラス越しに見る景色は夕陽に照らされている。
別にどこを見ていると言うわけでもなかったが、なんとなくぼんやりと外を見つめていた。
職場についての感想としてはおかしな言い方かもしれないが、この部屋の居心地は良さそうに思えた。
そりゃそうよね?都内の一等地にそびえ立つビルの最上階でこんな景色を見ながら仕事が出来るなんて羨ましいかぎりだ。
「時間を守る女に会うのは初めてだ」
挨拶もなしに入ってきた男はやっぱり嫌な男だった。
つくしは急いで窓の側を離れるとソファまで戻った。
「牧野様、お待たせして申し訳ございません」
あとに続いて入って来た西田秘書に言われた。
秘書の方がきちんと挨拶が出来るなんてと思わず笑いそうになった。
もしかしてこの秘書はこの男のお守役なのでは?と思った。
「いえ。お忙しいご身分ですから仕方がありません」
「それに私は呼ばれた身ですから」
人を呼んで待たせておいて詫びのひと言も自分で言わないなんて最低だとの思いを込めて言ってみた。
男はデスクの椅子に腰かけるとネクタイを緩めていた。
司は上着のポケットから万年筆を取り出すとデスクを叩いた。
それを合図とばかりに秘書は書類をデスクのうえへと滑らせていた。
書類に目を通しながらサインをしていく男を眺めながらあとどのくらいここでこうして待たされるのかとつくしは思わず漏れるため息を押さえていた。
暫くするとサインをする書類が終わったのか、椅子から立ち上がるとつくしに目を向けた。
「西田、ドンくさい女に用意したドレスは?」
「ホテルにご用意しております」
「あ、あのドレスっていってもあ、あたしのサイズ・・」
つくしがあげた声はまるで聞こえていないかのように無視された。
「しかし、子供服売り場でよく見つかったよな?」
「社長、子供服売り場ではございません。ホテルのブティックを通して用意させましたので何着がご用意しております」
「メープルで全部揃うのか?」
「はい。問題ありません」
「おい、おまえ」
「な、なによ?」
つくしは自分を無視して進められていた会話に突然加わることになった。
「契約したからには役をこなせ」
「そ、そのことで聞きたいんですが、恋人役が婚約者になっているみたいなんですけど」
「そんなこと知らねぇな」
「なんだよ?そんなことはどっちでもいい。おまえは所詮かりそめなんだから」
確かにそうだ。かりそめなんだからどっちでもいいと言われればそれまでた。
「で、でも・・あ、あたしたちの出会いとか聞かれたどうするの?」
いきなり役を押し付けられたような形で始まったのだから、口裏合わせとか打ち合わせとか何もなしと言う状況でどうやって演技をしろと言うのだろう。
それにどう見ても、いかにもぽっと出の駆け出し女優クラスなのに。
「笑っとけ」
のひと言で済まされた。
***
つくしはホテルの一室に用意されていた「衣装」に着替えていた。
馬子にも衣装とはまさにこのことだろうと思っていた。
こんなドレスなんて一般人には用がないと思われるような代物だった。
役に相応しいということか。
身体にはあっているんだから文句はない。だがどうやってあたしのサイズがわかったのかは知らない方がいいのかもしれない。
西田秘書の目から出たレーザー光線であたしのサイズを読み取ったのだとしたら凄い。
それとも道明寺司は女を見ただけで服のサイズがわかるような男なのか?
それは経験がそうさせるのか?
深く考えるのは止そう。
あたしには関係のない話だ。
あたしには夢がある!キング牧師じゃないけど目的があるから出来る。
つくしの目の前に黒の正装で現れた男はわが目を疑う以上にハンサムだった。
確かに並外れたカッコよさだとは思っていたが、生まれながらの品の良さというのか、人を圧倒するオーラというのだろうか。抵抗出来ない何かを備えた男と言うのはこう言う男のことを言うのだろうか?
そしてその全身を包むような冷たさはどこからくるのだろうか?
ビジネス界の若きプリンスはプライドの高を象徴するような視線でつくしを見た。
「来い。パーティータイムだ」

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着る物は秘書が用意すると言ったんだからそれでいいじゃない。
どうせ雇われマダムみたいなものだ。あの男の隣でにっこりほほ笑んで見せればいいのだろう。
つくしはもともとパーティーに参加するような人間ではなかったので、どんな服装で参加すればいいのかよくわからなかった。
それにパーティーで着ると思われるようなドレスなんて一枚も持ってない。
だいたい冒険するような人間ではなく、どちらかと言えば保守的な考えかとも言われた。
だから服装もいたって地味だった。
これまで冒険するとか危険を冒すとか考えたこともなかった。
だから恋愛もなかなか上手くいかなかったのかもしれない。
これはある意味いい経験なのかもしれない。
そうよ!疑似恋愛だとでも考えてみればいい。
会場はホテルメープル東京で、としかわからなかった。
それにこの会社のいうドレスコードがどのあたりを指すのかもわからなかった。
道明寺クラスのパーティーにもなると格が違うと聞いたことがある。
政財界のトップクラスが参加して駐日外国公館の大使とか総理大臣経験者に現役総理大臣までが参加すると聞いたことがある。
そういえば首相動静欄で見たことがある。
『道明寺ホールディングス社長道明寺衡氏と山梨でゴルフ』とか
『ホテルメープル東京で道明寺ホールディングス主催のジャパンフォーラムに参加』
つくしも取材先がそんな会場になることがある。
互礼会とか賀詞交歓会とかどこかの会社の会長が叙勲したとか・・所詮新人記者が割り当てられるのはその程度だけど。
だが、今回は取材ではない。
でも仕事だ。
そう。これはつくしにとっての仕事であることにはかわりない。
それ以外にこの場所にいる理由はない。
なによ!そっちから時間を指定しておいて待たせるなんて。
とは言え、仕方がないのだろう。
それこそこの男のタイムスケジュールは総理大臣なみに細かく決められているのだろうが会議が長引いているのかつくしは執務室のソファで待ちぼうけを食っていた。
つくしは出されたお茶を飲み干すとじっとしているのも退屈だと部屋の中を歩き回っていた。
広い部屋だった。
一流企業の社長室とはこう言うものを言うのだと知った。
この前は部屋を見る余裕なんてなかったのでここぞとばかりに見学させてもらうことにした。
調度品は少なくてあっさりとした印象を受けた。
あの男の性格はあっさりとしているようには思えなかったが。
つくしが受けた印象はカッコイイけど嫌味な男だった。
広いデスクの上には電話とパソコンしか無かった。
極力ものを置かないと言う方針なのだろうか?
決済待ちの書類を入れるようなボックスも無かった。
それともあたしがここに入ることを見越して書類がデスクに乗っていないだけなのだろうか?いや。社内での書類の扱いが重要視されている現れなのかもしれない。
離席するときに個人情報が含まれた書類を扱っている場合などはその書類を裏返して離れる。
例えそれが社内の人間しかいない場所であっても情報漏れを防ぐ為に徹底している企業もある。
ブンヤと呼ばれる人間が社内いるとすれば書類の扱いに慎重になるのも当たり前か。
秘密保持契約の書類にはサインをした。だから例え今、ここで何かを知ったとしても喋るつもりはない。
壁に掛けられた絵は本物だろうか?
どこかの美術館にあってもおかしくないような絵が飾られていた。
つくしはよく見ようと思い絵に近づいた。
それは多分世界的名画と呼ばれる絵のひとつだった。
バブル時代に日本のいくつかの企業がそんな名画を買い漁ったことがあったと聞いたがその名残なのだろうか?
当時日本の企業が買い漁った名画で国内に残っているものは少なかった。
窓の外は高層ビル群が見える場所にこのビルは建っていた。
つくしは窓の外を見つめた。
東京の春。季節の変わり目だ。
ガラス越しに見る景色は夕陽に照らされている。
別にどこを見ていると言うわけでもなかったが、なんとなくぼんやりと外を見つめていた。
職場についての感想としてはおかしな言い方かもしれないが、この部屋の居心地は良さそうに思えた。
そりゃそうよね?都内の一等地にそびえ立つビルの最上階でこんな景色を見ながら仕事が出来るなんて羨ましいかぎりだ。
「時間を守る女に会うのは初めてだ」
挨拶もなしに入ってきた男はやっぱり嫌な男だった。
つくしは急いで窓の側を離れるとソファまで戻った。
「牧野様、お待たせして申し訳ございません」
あとに続いて入って来た西田秘書に言われた。
秘書の方がきちんと挨拶が出来るなんてと思わず笑いそうになった。
もしかしてこの秘書はこの男のお守役なのでは?と思った。
「いえ。お忙しいご身分ですから仕方がありません」
「それに私は呼ばれた身ですから」
人を呼んで待たせておいて詫びのひと言も自分で言わないなんて最低だとの思いを込めて言ってみた。
男はデスクの椅子に腰かけるとネクタイを緩めていた。
司は上着のポケットから万年筆を取り出すとデスクを叩いた。
それを合図とばかりに秘書は書類をデスクのうえへと滑らせていた。
書類に目を通しながらサインをしていく男を眺めながらあとどのくらいここでこうして待たされるのかとつくしは思わず漏れるため息を押さえていた。
暫くするとサインをする書類が終わったのか、椅子から立ち上がるとつくしに目を向けた。
「西田、ドンくさい女に用意したドレスは?」
「ホテルにご用意しております」
「あ、あのドレスっていってもあ、あたしのサイズ・・」
つくしがあげた声はまるで聞こえていないかのように無視された。
「しかし、子供服売り場でよく見つかったよな?」
「社長、子供服売り場ではございません。ホテルのブティックを通して用意させましたので何着がご用意しております」
「メープルで全部揃うのか?」
「はい。問題ありません」
「おい、おまえ」
「な、なによ?」
つくしは自分を無視して進められていた会話に突然加わることになった。
「契約したからには役をこなせ」
「そ、そのことで聞きたいんですが、恋人役が婚約者になっているみたいなんですけど」
「そんなこと知らねぇな」
「なんだよ?そんなことはどっちでもいい。おまえは所詮かりそめなんだから」
確かにそうだ。かりそめなんだからどっちでもいいと言われればそれまでた。
「で、でも・・あ、あたしたちの出会いとか聞かれたどうするの?」
いきなり役を押し付けられたような形で始まったのだから、口裏合わせとか打ち合わせとか何もなしと言う状況でどうやって演技をしろと言うのだろう。
それにどう見ても、いかにもぽっと出の駆け出し女優クラスなのに。
「笑っとけ」
のひと言で済まされた。
***
つくしはホテルの一室に用意されていた「衣装」に着替えていた。
馬子にも衣装とはまさにこのことだろうと思っていた。
こんなドレスなんて一般人には用がないと思われるような代物だった。
役に相応しいということか。
身体にはあっているんだから文句はない。だがどうやってあたしのサイズがわかったのかは知らない方がいいのかもしれない。
西田秘書の目から出たレーザー光線であたしのサイズを読み取ったのだとしたら凄い。
それとも道明寺司は女を見ただけで服のサイズがわかるような男なのか?
それは経験がそうさせるのか?
深く考えるのは止そう。
あたしには関係のない話だ。
あたしには夢がある!キング牧師じゃないけど目的があるから出来る。
つくしの目の前に黒の正装で現れた男はわが目を疑う以上にハンサムだった。
確かに並外れたカッコよさだとは思っていたが、生まれながらの品の良さというのか、人を圧倒するオーラというのだろうか。抵抗出来ない何かを備えた男と言うのはこう言う男のことを言うのだろうか?
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Comment:2
いつの間に恋人役から婚約者役に役柄が変わったのだろうか?
「社主から道明寺司と経済部の牧野つくしのことを記事にするのは、まかり成らんと言われてね」
「なにしろ社主と彼の父親はとても親しい仲だからね」
「牧野君も心配することはないよ。多分どこの社も同じだと思うから」
局長の言わんとすることは・・・
道明寺ホールディングスの圧力が記事を書くことを差し止めたということか?
「たとえだがフリーのライターが記事を持ち込んだとしてもどこの社も相手にはしないと思うよ?」
「まあ、道明寺司と婚約しているのなら何も心配はいらないよ」
つくしが自宅のマンションに着いたのは、夜10時を回っていた。
確かにかりそめの恋人役を了承したが、いつの間に婚約者に変わったのか?
どちらにしても当人たちは互いに興味を持っているわけではないのだからどうでもいいことだった。
局長は本気であたしとあの男が婚約をしているなんて考えているのだろうか?
だいたいどこに接点があったと思っているのだろうか?
あの男は長年アメリカ暮らしであたしは東京。
どこをどうすれば道明寺ホールディングスの御曹司とあたしとの接点が見つかると言うのだろう。
あの男はあたしとの出会いをどう説明するつもりなんだろう。
まさか出会い系サイトで知り合っただなんてことは言わないと思うが・・
いくらアメリカではオンラインデートサービスが確立されているからと言って、こんなハイスペックな男がそんなことをしているだなんて誰も思わないだろうし、信じないはずだ。
そんなことしたら全米、いや世界中の独身女性からデートの申し込みが殺到するはずだ。
だがなぜ半年間という期限付きでかりそめの恋人が必要になったのだろうか。
でもそんなことはどうでもいいことだ。
つくしに理由は関係がなかった。
こうなったら早く半年が過ぎてくれればいいと言う思いだった。
半年後にあの男について自分の名前入りの記事を書くこと。
それが今のあたしの目標だった。
ちんちくりんと言われたことは何度もあるがドンくさい女と言われることには慣れていなかった。
役を引き受けたからには責任をもってやる!
つくしは恋愛に関するハウツー本を買い入れていた。
あんな男にあたしのことをバカになんてさせないんだから!
『 どうすれば男心がつかめるか 』
『 モテる女になるためには 』
『 お金持ちの彼氏と付き合うには 』
『 恋愛論 』
『 ふたりで過ごす夜のための下着選び 』
最後の本は間違えた。あたしには関係がない本だ。
これだけあればなんとかなるはずだ。
だが、これはあくまでも指南本で机上の空論だと言うことを心しなければ。
恋愛は頭で考えるのではなく心で感じるもの。
そして男という生き物は理性と欲望は別だということは昔の恋愛で学んでいた。
あの時は大惨事になる前に退散した。
だから男とは金輪際付き合わないと決めた。
独身の女が彼氏も作らずにいれば独り身が淋しいとか、切ないとか考えると思ったら大間違いだ。
あたしは仕事が充実していればそれで満足だ。
道明寺司がどんなタイプの男性なのか、だいたいのことは分かった。
とにかく嫌な男だった。嫌なと言うよりも嫌味な男だ。
典型的な自己中心的な男に見えた。
つくしは思い出したかのように鞄の底を探っていた。
出て来たのは先輩カメラマンが撮影したつくしとあの男の見つめ合う写真だった。
この男に抱きしめてもらえるなんて孫の代まで自慢が出来るじゃないかと言われた・・
つくしは手元の写真をじっと見た。
端正な横顔だ。堂々としていて男らしい。
男らしいのにまつ毛が長い。
鼻筋も通っていて、唇の形もいい。
髪の毛はくるくるしてるけど、問答無用でかっこいい男とはこう言う男のことを言うのだろう。一度みたら忘れられない男ってのはこんな男のことだと納得していた。
見た目は非の打ち所がないのにあの性格なのはもったいない。
あたしだって他人を見る目はあるはずだ。
こう見えても・・こう見えても・・
ダメだ。
あたしの恋愛経験値は限りなく低い。
新社長就任祝いのお披露目とやらに駆り出されるまでに少しでも女としての体裁でも整えておかないと、またあの男にドンくさい女だなんて言われるのだけは嫌だった。
***
つくしが道明寺司と会ってから1週間が経っていた。
あの男が言ったとおり二人についての話題は1週間と持たなかった。
余程道明寺ホールディングスの圧力が強かったのか、あの騒動なんてなかったようだ。
やはり各社道明寺系列の会社の広告が占める割合が大きいのだろうか。
どちらにしても、政財界を騒がすほどの話題では無かったと言うことだろう。
それもそうだ。単なる御曹司の交際相手の話であって興味のない人間にすればどうでもいいことだ。
だが東証一部上場企業で20代の息子が社長になるなんてことは、なかなかない。
いや。過去にないことも無かった。
とにかく、あの男にドンくさい女と言われないようにすることと、半年後を楽しみに
つくしは家を出た。
よし。
何がなんでも半年間無事に勤め上げてこの男の独占インタビュー記事を書いてやる!

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「社主から道明寺司と経済部の牧野つくしのことを記事にするのは、まかり成らんと言われてね」
「なにしろ社主と彼の父親はとても親しい仲だからね」
「牧野君も心配することはないよ。多分どこの社も同じだと思うから」
局長の言わんとすることは・・・
道明寺ホールディングスの圧力が記事を書くことを差し止めたということか?
「たとえだがフリーのライターが記事を持ち込んだとしてもどこの社も相手にはしないと思うよ?」
「まあ、道明寺司と婚約しているのなら何も心配はいらないよ」
つくしが自宅のマンションに着いたのは、夜10時を回っていた。
確かにかりそめの恋人役を了承したが、いつの間に婚約者に変わったのか?
どちらにしても当人たちは互いに興味を持っているわけではないのだからどうでもいいことだった。
局長は本気であたしとあの男が婚約をしているなんて考えているのだろうか?
だいたいどこに接点があったと思っているのだろうか?
あの男は長年アメリカ暮らしであたしは東京。
どこをどうすれば道明寺ホールディングスの御曹司とあたしとの接点が見つかると言うのだろう。
あの男はあたしとの出会いをどう説明するつもりなんだろう。
まさか出会い系サイトで知り合っただなんてことは言わないと思うが・・
いくらアメリカではオンラインデートサービスが確立されているからと言って、こんなハイスペックな男がそんなことをしているだなんて誰も思わないだろうし、信じないはずだ。
そんなことしたら全米、いや世界中の独身女性からデートの申し込みが殺到するはずだ。
だがなぜ半年間という期限付きでかりそめの恋人が必要になったのだろうか。
でもそんなことはどうでもいいことだ。
つくしに理由は関係がなかった。
こうなったら早く半年が過ぎてくれればいいと言う思いだった。
半年後にあの男について自分の名前入りの記事を書くこと。
それが今のあたしの目標だった。
ちんちくりんと言われたことは何度もあるがドンくさい女と言われることには慣れていなかった。
役を引き受けたからには責任をもってやる!
つくしは恋愛に関するハウツー本を買い入れていた。
あんな男にあたしのことをバカになんてさせないんだから!
『 どうすれば男心がつかめるか 』
『 モテる女になるためには 』
『 お金持ちの彼氏と付き合うには 』
『 恋愛論 』
『 ふたりで過ごす夜のための下着選び 』
最後の本は間違えた。あたしには関係がない本だ。
これだけあればなんとかなるはずだ。
だが、これはあくまでも指南本で机上の空論だと言うことを心しなければ。
恋愛は頭で考えるのではなく心で感じるもの。
そして男という生き物は理性と欲望は別だということは昔の恋愛で学んでいた。
あの時は大惨事になる前に退散した。
だから男とは金輪際付き合わないと決めた。
独身の女が彼氏も作らずにいれば独り身が淋しいとか、切ないとか考えると思ったら大間違いだ。
あたしは仕事が充実していればそれで満足だ。
道明寺司がどんなタイプの男性なのか、だいたいのことは分かった。
とにかく嫌な男だった。嫌なと言うよりも嫌味な男だ。
典型的な自己中心的な男に見えた。
つくしは思い出したかのように鞄の底を探っていた。
出て来たのは先輩カメラマンが撮影したつくしとあの男の見つめ合う写真だった。
この男に抱きしめてもらえるなんて孫の代まで自慢が出来るじゃないかと言われた・・
つくしは手元の写真をじっと見た。
端正な横顔だ。堂々としていて男らしい。
男らしいのにまつ毛が長い。
鼻筋も通っていて、唇の形もいい。
髪の毛はくるくるしてるけど、問答無用でかっこいい男とはこう言う男のことを言うのだろう。一度みたら忘れられない男ってのはこんな男のことだと納得していた。
見た目は非の打ち所がないのにあの性格なのはもったいない。
あたしだって他人を見る目はあるはずだ。
こう見えても・・こう見えても・・
ダメだ。
あたしの恋愛経験値は限りなく低い。
新社長就任祝いのお披露目とやらに駆り出されるまでに少しでも女としての体裁でも整えておかないと、またあの男にドンくさい女だなんて言われるのだけは嫌だった。
***
つくしが道明寺司と会ってから1週間が経っていた。
あの男が言ったとおり二人についての話題は1週間と持たなかった。
余程道明寺ホールディングスの圧力が強かったのか、あの騒動なんてなかったようだ。
やはり各社道明寺系列の会社の広告が占める割合が大きいのだろうか。
どちらにしても、政財界を騒がすほどの話題では無かったと言うことだろう。
それもそうだ。単なる御曹司の交際相手の話であって興味のない人間にすればどうでもいいことだ。
だが東証一部上場企業で20代の息子が社長になるなんてことは、なかなかない。
いや。過去にないことも無かった。
とにかく、あの男にドンくさい女と言われないようにすることと、半年後を楽しみに
つくしは家を出た。
よし。
何がなんでも半年間無事に勤め上げてこの男の独占インタビュー記事を書いてやる!

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ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した男は頭がいいのだろう。
相変らずの上から目線でつくしのことを見下していた。
見た目と頭脳は超一流かもしれないけど、この男の性格は知れば知るほど嫌な男だった。
西田秘書にパーティーには正装でお越し下さいと言われた。
正装とは?と聞けばドレスコードがありますのでと言われた。
ドレスコード?つくしの不思議そうな顔を見た西田秘書はレーザー光線でも出しそうな目でつくしを見ると、こちらでご用意致しますのでご心配なくと言った。
つくしは司の視線がまるで値踏みするかのように自分の顔から下へ降りるのを感じた。
なによ!いやらしいわね!じろじろ見るの止めてよ!
司は視線をつくしの顔に戻し顔をしかめると言った。
「西田、子供服売り場で探した方がいいかもしんねぇな」
つくしは目があった瞬間、この男いつか酷い目に合わせてやると心に誓っていた。
あれから道明寺ホールディングスの車で社まで戻ったつくしは自分の机に置かれたICレコーダーと鞄を目にした。
今日は散々な一日だったと鞄の中から普段持ち歩いているノートパソコンを取り出し電源を入れた。
メールを開いてみれば見れば道明寺司氏と経済部牧野つくしとの件についての一文が目に入った。
N新聞は道明寺司氏と牧野つくしの件についての他社媒体への対応はしない。
N新聞は三流のタブロイド紙ではない。だからこの件に対して騒ぐことなかれ。と。
つくしはそれを読んで思わず安堵のため息をついていた。
時計を見れば夜の7時を回っていた。
つくしが社に戻って来たときキャップもデスクも編集局長の席も空席で、聞けばどうやら会議に入っているらしい。
こんな騒ぎを引き起こした詫びをと思っていたつくしは機を逸したような気がしていた。
つくしは何故か笑われている気がした。
編集局内に流れるこの空気・・
いや、確かに笑われている。
一緒に取材に出た先輩カメラマンが訳知り顔で近づいてきた。
「笑いたかったら笑えば?」つくしはむすっとして言った。
「いや。別に転んだことがおかしいと言うわけじゃなくて・・」
「じゃあ何がおかしいのよ!」
なによ!転んだことがおかしいって今言ったでしょ?
そのうちにゲラゲラと声をあげて笑われていた。
「だ、だって・・おまえが道明寺社長の恋人だなんて勘違いされてることがおかしくて・・」
確かにそうだ。
今日だって取材に出るとき、お前にお色気作戦は無理だとか言われるような女があの道明寺司の恋人だなんて、つくしをよく知る人間から言わせればバカも休み休み言えと言う感じだろう。
「なあ牧野。いい絵が撮れてるから見るか?」
「いい絵?」
「ほら、あそこ・・」
カメラマンの指先が向けられたのは経済部のミーティングでよく使うホワイトボード。
「なにこれ!」
つくしは駆け寄るとそこに貼られた写真をまじまじと見つめた。
貼られていたのはつくしが自分を抱きしめた男をうっとりとしたような表情で見上げているところだった。
それは切り取られた真実の一部でもあり、捻じ曲げられた事実かもしれない。
写真は見る人によって受け取り方が違う。
ほほ笑みひとつにしても心から嬉しそうに見えるものと、哀しみを隠すためにほほ笑むと言うこともある。
このときのつくしはうっとりなんてしていない。
切り取られた一瞬の表情がたまたまそう見えるだけだ。
「お似合いだな、牧野」
「本当だ。良かったな牧野。道明寺司みたいないい男に抱きしめられるなんて、孫の代まで自慢が出来るな」
ホワイトボードの前で固まっているつくしの背後を通過する男達からそんな声を掛けられた。それは皮肉めいた口調だった。
確かにネットにアップされていたどの写真よりも良く撮れていた。
何しろカメラマンはつくしのすぐ隣にいたのだからアングル的には一番綺麗にファインダーに収まったはずだ。
「牧野、その写真全部おまえにやるから老後まで大事に取っとけよ?」
「うちのカミさんも道明寺司の大ファンだからおまえのこんな写真みたら羨ましがるな」
つくしは貼られていた写真をかき集めると自分の鞄の中に突っ込んだ。
うちの社で記事になることはない写真だが他社でも似た様な写真が撮られていることには違いがないはずだ。これから発売される週刊誌にはどんな写真が使われるのだろう。
もうこうなったら少しでもいいから人権に配慮して目だけは隠して欲しいとしか言えなかった。
でも自分が何か悪いことをしたわけでもないのだから、堂々としていればいい。
独占インタビュー欲しさにかりそめの恋人役を引き受けたことは、まだ誰にも言えない。
と言うか言えない。かりそめだと分かるとそっちの方が大変な事態になりそうだから。
そう、それよ!とにかく愛人契約とか恋人契約をしてるとかそんなことが社に知れたら大変なことになる。本当は違うがそんなことが信じてもらえるほど、大人の世界は甘くない。
人は言葉通りに受け取らない。言葉の裏を読みたがる。
特に男女関係についての話を聞かされている人間はどういう訳だか、自分の都合のいいように脳内で変換して理解しているふしがある。
勝手に頭の中でドラマを作り上げる。世間はそれを妄想と言うのだろうけど。
それに恋は勘違いから始まると言うではないか。
ま、妄想も恋も頭の中だけにしておけばいいんだけど・・・
一度口をついて出た言葉はどんなに釈明しても誤解を解くのは難しい。
男女の別れ話で揉めるのはお互い相手に対してかける最後の言葉が悪いからだ。
と、つくしは思っていた。
日本語は最後まで聞かなければ意味が解らない。
ある意味日本語の曖昧さはその言葉を受け取る人間によってとらえ方が変わってくるのだから有難いこともある。だが、新聞紙面に載る言葉は万人が同じように受け止めてもらえるように書かなければならなかった。
それはあくまでも事実としてだ。
「おい!牧野は帰って来たのか!」
会議が終了したのかデスクの叫ぶ声が聞えた。
つくしはひたすら詫びた。
「おまえの取材方法は体当たり戦法か!」とキャップから怒られ、デスクからは「どうせならもっと派手にやればよかったんじゃないか?」と笑われた。
だが、最後に局長が呼んでいると言われつくしは、ああついにあたしは販売局に異動になって、販売所で配達をすることになるのね。と考えた。
編集局長のデスクはガラス窓に囲まれた個室にある。
音は外には漏れないが、今、誰がその部屋にいるのか外から一目瞭然だった。
つくしが部屋に呼ばれて入ったとき、局長は腕組みをして下を向き、何かを考えているようだった。
「あの、牧野です」
つくしが声をかけると男は顔を上げた。
「ああ。牧野君、今日は色々と大変だったようだね?」
男は大きなメガネを外すと右手で眉間を揉んだ。
「あの・・今日はとんだ失態をしてしまい申し訳ございません」
つくしは次に男の口からなんと言う言葉が出るかと気を揉んだ。
「牧野君、実は・・・」
ああ、やっぱり販売局か?拡販事業部か?それとも販売所か?
生涯一記者でいたいと言う思いは夜露のように消えて無くなるのか・・
「道明寺氏の秘書の方から連絡がありました。君はある提案を受けたらしいね?」
局長は外していたメガネをかけ直した。
「君は・・彼の・・道明寺氏とお付き合いをしているのは本当か?」
なんと答えたらいいのだろうか?
本当は付き合うことに決めたのは今日で、でもそれはかりそめの恋人としてで
本当のお付き合いではなくて・・・
待って!局長はあたしがある提案を受け入れたと言った。
ある提案って言うのはかりそめの恋人のことなんだけど、局長は知っているの?
「あの・・ご存知なんですか?」
「ああ。聞いたよ、秘書の西田さんからね」
なんだ、局長が知っているなら話は早い。
良かった。
かりそめの恋人役を無事務めたあかつきには独占インタビューが約束されていると言うことを伝える手間が省けた。
「きみ、道明寺氏と婚約しているそうだね?」
は?
なに?
誰が?
「いや、知らなかったよ」

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西田秘書にパーティーには正装でお越し下さいと言われた。
正装とは?と聞けばドレスコードがありますのでと言われた。
ドレスコード?つくしの不思議そうな顔を見た西田秘書はレーザー光線でも出しそうな目でつくしを見ると、こちらでご用意致しますのでご心配なくと言った。
つくしは司の視線がまるで値踏みするかのように自分の顔から下へ降りるのを感じた。
なによ!いやらしいわね!じろじろ見るの止めてよ!
司は視線をつくしの顔に戻し顔をしかめると言った。
「西田、子供服売り場で探した方がいいかもしんねぇな」
つくしは目があった瞬間、この男いつか酷い目に合わせてやると心に誓っていた。
あれから道明寺ホールディングスの車で社まで戻ったつくしは自分の机に置かれたICレコーダーと鞄を目にした。
今日は散々な一日だったと鞄の中から普段持ち歩いているノートパソコンを取り出し電源を入れた。
メールを開いてみれば見れば道明寺司氏と経済部牧野つくしとの件についての一文が目に入った。
N新聞は道明寺司氏と牧野つくしの件についての他社媒体への対応はしない。
N新聞は三流のタブロイド紙ではない。だからこの件に対して騒ぐことなかれ。と。
つくしはそれを読んで思わず安堵のため息をついていた。
時計を見れば夜の7時を回っていた。
つくしが社に戻って来たときキャップもデスクも編集局長の席も空席で、聞けばどうやら会議に入っているらしい。
こんな騒ぎを引き起こした詫びをと思っていたつくしは機を逸したような気がしていた。
つくしは何故か笑われている気がした。
編集局内に流れるこの空気・・
いや、確かに笑われている。
一緒に取材に出た先輩カメラマンが訳知り顔で近づいてきた。
「笑いたかったら笑えば?」つくしはむすっとして言った。
「いや。別に転んだことがおかしいと言うわけじゃなくて・・」
「じゃあ何がおかしいのよ!」
なによ!転んだことがおかしいって今言ったでしょ?
そのうちにゲラゲラと声をあげて笑われていた。
「だ、だって・・おまえが道明寺社長の恋人だなんて勘違いされてることがおかしくて・・」
確かにそうだ。
今日だって取材に出るとき、お前にお色気作戦は無理だとか言われるような女があの道明寺司の恋人だなんて、つくしをよく知る人間から言わせればバカも休み休み言えと言う感じだろう。
「なあ牧野。いい絵が撮れてるから見るか?」
「いい絵?」
「ほら、あそこ・・」
カメラマンの指先が向けられたのは経済部のミーティングでよく使うホワイトボード。
「なにこれ!」
つくしは駆け寄るとそこに貼られた写真をまじまじと見つめた。
貼られていたのはつくしが自分を抱きしめた男をうっとりとしたような表情で見上げているところだった。
それは切り取られた真実の一部でもあり、捻じ曲げられた事実かもしれない。
写真は見る人によって受け取り方が違う。
ほほ笑みひとつにしても心から嬉しそうに見えるものと、哀しみを隠すためにほほ笑むと言うこともある。
このときのつくしはうっとりなんてしていない。
切り取られた一瞬の表情がたまたまそう見えるだけだ。
「お似合いだな、牧野」
「本当だ。良かったな牧野。道明寺司みたいないい男に抱きしめられるなんて、孫の代まで自慢が出来るな」
ホワイトボードの前で固まっているつくしの背後を通過する男達からそんな声を掛けられた。それは皮肉めいた口調だった。
確かにネットにアップされていたどの写真よりも良く撮れていた。
何しろカメラマンはつくしのすぐ隣にいたのだからアングル的には一番綺麗にファインダーに収まったはずだ。
「牧野、その写真全部おまえにやるから老後まで大事に取っとけよ?」
「うちのカミさんも道明寺司の大ファンだからおまえのこんな写真みたら羨ましがるな」
つくしは貼られていた写真をかき集めると自分の鞄の中に突っ込んだ。
うちの社で記事になることはない写真だが他社でも似た様な写真が撮られていることには違いがないはずだ。これから発売される週刊誌にはどんな写真が使われるのだろう。
もうこうなったら少しでもいいから人権に配慮して目だけは隠して欲しいとしか言えなかった。
でも自分が何か悪いことをしたわけでもないのだから、堂々としていればいい。
独占インタビュー欲しさにかりそめの恋人役を引き受けたことは、まだ誰にも言えない。
と言うか言えない。かりそめだと分かるとそっちの方が大変な事態になりそうだから。
そう、それよ!とにかく愛人契約とか恋人契約をしてるとかそんなことが社に知れたら大変なことになる。本当は違うがそんなことが信じてもらえるほど、大人の世界は甘くない。
人は言葉通りに受け取らない。言葉の裏を読みたがる。
特に男女関係についての話を聞かされている人間はどういう訳だか、自分の都合のいいように脳内で変換して理解しているふしがある。
勝手に頭の中でドラマを作り上げる。世間はそれを妄想と言うのだろうけど。
それに恋は勘違いから始まると言うではないか。
ま、妄想も恋も頭の中だけにしておけばいいんだけど・・・
一度口をついて出た言葉はどんなに釈明しても誤解を解くのは難しい。
男女の別れ話で揉めるのはお互い相手に対してかける最後の言葉が悪いからだ。
と、つくしは思っていた。
日本語は最後まで聞かなければ意味が解らない。
ある意味日本語の曖昧さはその言葉を受け取る人間によってとらえ方が変わってくるのだから有難いこともある。だが、新聞紙面に載る言葉は万人が同じように受け止めてもらえるように書かなければならなかった。
それはあくまでも事実としてだ。
「おい!牧野は帰って来たのか!」
会議が終了したのかデスクの叫ぶ声が聞えた。
つくしはひたすら詫びた。
「おまえの取材方法は体当たり戦法か!」とキャップから怒られ、デスクからは「どうせならもっと派手にやればよかったんじゃないか?」と笑われた。
だが、最後に局長が呼んでいると言われつくしは、ああついにあたしは販売局に異動になって、販売所で配達をすることになるのね。と考えた。
編集局長のデスクはガラス窓に囲まれた個室にある。
音は外には漏れないが、今、誰がその部屋にいるのか外から一目瞭然だった。
つくしが部屋に呼ばれて入ったとき、局長は腕組みをして下を向き、何かを考えているようだった。
「あの、牧野です」
つくしが声をかけると男は顔を上げた。
「ああ。牧野君、今日は色々と大変だったようだね?」
男は大きなメガネを外すと右手で眉間を揉んだ。
「あの・・今日はとんだ失態をしてしまい申し訳ございません」
つくしは次に男の口からなんと言う言葉が出るかと気を揉んだ。
「牧野君、実は・・・」
ああ、やっぱり販売局か?拡販事業部か?それとも販売所か?
生涯一記者でいたいと言う思いは夜露のように消えて無くなるのか・・
「道明寺氏の秘書の方から連絡がありました。君はある提案を受けたらしいね?」
局長は外していたメガネをかけ直した。
「君は・・彼の・・道明寺氏とお付き合いをしているのは本当か?」
なんと答えたらいいのだろうか?
本当は付き合うことに決めたのは今日で、でもそれはかりそめの恋人としてで
本当のお付き合いではなくて・・・
待って!局長はあたしがある提案を受け入れたと言った。
ある提案って言うのはかりそめの恋人のことなんだけど、局長は知っているの?
「あの・・ご存知なんですか?」
「ああ。聞いたよ、秘書の西田さんからね」
なんだ、局長が知っているなら話は早い。
良かった。
かりそめの恋人役を無事務めたあかつきには独占インタビューが約束されていると言うことを伝える手間が省けた。
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は?
なに?
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「では牧野様、早速ではございますが」
案内された部屋は成功者に相応しい部屋だった。
つくしは西田に勧められたソファに腰かけると出されたお茶を一気に飲み干していた。
さっきから喉が渇いて仕方が無かった。本当はお代わりを求めたいと思ったが止めた。
「牧野つくし26歳。思ったより年食ってんだな。もっと若いと思った」
司はソファに腰かけず大きなデスクの端へと身体を預けると腕組みをしてつくしを見た。
「ち、小さいし、どちらかと言えば童顔なので若く見られることは多いです」
「そんななりでもおまえ俺の恋人になったんだから、もう少しなんとかしねぇとな」
「どう思う?西田?」司は西田に目で問いかけた。
「そうですね、もう少し身だしなみには気をつけて頂かないといけませんね」
ジロリと見られ、つくしは慌てて髪に手をやると手ぐしで整えた。
そんなことは言われなくてもわかっていた。
元を正せば誰のせいでこんなことになったのか・・・
つくしは思い出した。自分のせいだ。自分が足を取られて転び損ねたせいだ。
あのままこの男に抱き留められることなく、いっそのこと顔面から床に打ちつけられていても構わなかった。
そうすればこんな騒動に巻き込まれてはいなかったはずだ。
「そ、そう言うど、道明寺さんはどうなんですか?」
「なにがどうなんだよ?」
「道明寺さんこそおいくつなんですか?」
「おまえよりいっこ上だ」
「27歳?」
つくしは驚いた。
実は道明寺司の年齢まで知らなかった。
大方30歳くらいだと思っていた。それにしても27歳で社長に就任するなんて余程のことなんだろう。余程優秀なのか、後継者問題に絡むお家事情があるとか。
確か前任の社長が退任を決めたのはつい最近の出来事だった。
前社長とは言っても道明寺司の父親で退任といってもその後は会長職に着く予定で
オーナー企業であることには変わりがない。
発行株式の半分近くを道明寺家で保有する筆頭株主であり世襲経営者だった。
そしてその息子もこれまた世襲だった。
どちらにしてもこの男の経歴はきらびやかで、その経歴にまたひとつその輝きが付け加えられるわけだろ。
そんな男がどうしてあたしにかりそめの恋人役なんてと驚く以外に何が言える?
「あの、色々とお聞きしたいことがあるのですが・・」
「何か気になることでもあるのですか?牧野様」
あるある!
「どうしてあたしにこんな・・・えっと、かりそめの恋人役なんて頼むんですか?」
司はつくしと目を合わせた。
「適当」
「て、適当?」つくしの声は素っ頓狂に裏返った。
「そうだ」
「そうだって・・・」
「だってそうだろ?おまえがたまたま近くにいたから、そうなった」
「たまたま・・近くに?」
確かにそれはそうだけど・・
「そ。それにおまえ新聞記者だろ?記者なんて特ダネ掴んでなんぼだろ?おまえみたいなドンくさそうな記者なら特ダネ欲しさに身売りでもするんじゃねぇの?」
「代議士の女秘書丸め込んで懇ろになって情報を聞き出すとか得意だろ、おまえら」
「男芸者みたいな記者知ってんぞ」
つくしはカチンときた。
「随分とあけすけにおっしゃいますね」
確かにそんな記者がいるとは聞いたことがある。
「そうか?正直に言っただけだけど?」
「それに新聞記者が恋人だなんて、マスコミ連中からしたら信じられねぇことだろうから面白そうだろ?あのマスコミ嫌いの道明寺司の恋人は新聞記者だった!なんてよ」
「だから自分達には取材させてもらえなかったんだって納得するだろ?」
「そうだ、これからは取材に来た記者どもには二人のことはおまえに聞いてくれって言えばいいな?」
司は口の端をかすかだが歪めた。
「そんなこと言って大丈夫なんですか?道明寺さん。随分とあたしのことを信用されてるみたいですけど?」
「そんなに言うならあることないこと喋るかもしれませんよ?」
つくしはムッとした口調で言った。
「牧野様、そのようにむきにならないで下さい」
「冗談ですから」
とても冗談には見えなかった。それに冗談だとしても侮辱するにも程がある。
が、もし冗談だとしたらこの男、相当芝居が上手いに違いない。男の態度に芝居じみたところなど感じられず、二人とも大真面目で言い合っていた。
企業経営者は本当の顔を見せることはないと言うのは分かってはいたが、この道明寺司と言う男、どこまでが本音でどこまでが冗談なのか、出会ったばかりのつくしには見極めることが出来なかった。
だが西田にきっぱりと言われ、話の接ぎ穂を失い司もつくしも黙り込んでいた。
こんな男の言う約束なんて信じられない。
まさかあたしと・・・いや考えたくもないがあたしを弄んで・・都合のいい女・・
なんてこと考えてないでしょうね?
うわっ!ダメよ、そんなこと考えたら。
心に思うと現実になってしまうこともある。
まずはきちんとした約束を取り付けなければ。
金銭的な見返りではなく、独占インタビューの約束だ。
つくしはあんたに気に入られようなんて思ってないんだから、言いたいことは言わせてもらうわよとばかりに男を睨んだ。
「牧野様、御含み頂きたいのですが。前社長は3月の取締役会で退任します。4月からは司様が新社長としてご就任されます」
「つきましては新社長就任披露のパーティーがございますので、そちらへ司様の恋人としてご出席をお願い致します」
「パ、パーティーですか?」
「お断りしてもいいですか?」
「そのお断りはこちらからお断りさせて頂きます」
と一刀両断された。

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つくしは西田に勧められたソファに腰かけると出されたお茶を一気に飲み干していた。
さっきから喉が渇いて仕方が無かった。本当はお代わりを求めたいと思ったが止めた。
「牧野つくし26歳。思ったより年食ってんだな。もっと若いと思った」
司はソファに腰かけず大きなデスクの端へと身体を預けると腕組みをしてつくしを見た。
「ち、小さいし、どちらかと言えば童顔なので若く見られることは多いです」
「そんななりでもおまえ俺の恋人になったんだから、もう少しなんとかしねぇとな」
「どう思う?西田?」司は西田に目で問いかけた。
「そうですね、もう少し身だしなみには気をつけて頂かないといけませんね」
ジロリと見られ、つくしは慌てて髪に手をやると手ぐしで整えた。
そんなことは言われなくてもわかっていた。
元を正せば誰のせいでこんなことになったのか・・・
つくしは思い出した。自分のせいだ。自分が足を取られて転び損ねたせいだ。
あのままこの男に抱き留められることなく、いっそのこと顔面から床に打ちつけられていても構わなかった。
そうすればこんな騒動に巻き込まれてはいなかったはずだ。
「そ、そう言うど、道明寺さんはどうなんですか?」
「なにがどうなんだよ?」
「道明寺さんこそおいくつなんですか?」
「おまえよりいっこ上だ」
「27歳?」
つくしは驚いた。
実は道明寺司の年齢まで知らなかった。
大方30歳くらいだと思っていた。それにしても27歳で社長に就任するなんて余程のことなんだろう。余程優秀なのか、後継者問題に絡むお家事情があるとか。
確か前任の社長が退任を決めたのはつい最近の出来事だった。
前社長とは言っても道明寺司の父親で退任といってもその後は会長職に着く予定で
オーナー企業であることには変わりがない。
発行株式の半分近くを道明寺家で保有する筆頭株主であり世襲経営者だった。
そしてその息子もこれまた世襲だった。
どちらにしてもこの男の経歴はきらびやかで、その経歴にまたひとつその輝きが付け加えられるわけだろ。
そんな男がどうしてあたしにかりそめの恋人役なんてと驚く以外に何が言える?
「あの、色々とお聞きしたいことがあるのですが・・」
「何か気になることでもあるのですか?牧野様」
あるある!
「どうしてあたしにこんな・・・えっと、かりそめの恋人役なんて頼むんですか?」
司はつくしと目を合わせた。
「適当」
「て、適当?」つくしの声は素っ頓狂に裏返った。
「そうだ」
「そうだって・・・」
「だってそうだろ?おまえがたまたま近くにいたから、そうなった」
「たまたま・・近くに?」
確かにそれはそうだけど・・
「そ。それにおまえ新聞記者だろ?記者なんて特ダネ掴んでなんぼだろ?おまえみたいなドンくさそうな記者なら特ダネ欲しさに身売りでもするんじゃねぇの?」
「代議士の女秘書丸め込んで懇ろになって情報を聞き出すとか得意だろ、おまえら」
「男芸者みたいな記者知ってんぞ」
つくしはカチンときた。
「随分とあけすけにおっしゃいますね」
確かにそんな記者がいるとは聞いたことがある。
「そうか?正直に言っただけだけど?」
「それに新聞記者が恋人だなんて、マスコミ連中からしたら信じられねぇことだろうから面白そうだろ?あのマスコミ嫌いの道明寺司の恋人は新聞記者だった!なんてよ」
「だから自分達には取材させてもらえなかったんだって納得するだろ?」
「そうだ、これからは取材に来た記者どもには二人のことはおまえに聞いてくれって言えばいいな?」
司は口の端をかすかだが歪めた。
「そんなこと言って大丈夫なんですか?道明寺さん。随分とあたしのことを信用されてるみたいですけど?」
「そんなに言うならあることないこと喋るかもしれませんよ?」
つくしはムッとした口調で言った。
「牧野様、そのようにむきにならないで下さい」
「冗談ですから」
とても冗談には見えなかった。それに冗談だとしても侮辱するにも程がある。
が、もし冗談だとしたらこの男、相当芝居が上手いに違いない。男の態度に芝居じみたところなど感じられず、二人とも大真面目で言い合っていた。
企業経営者は本当の顔を見せることはないと言うのは分かってはいたが、この道明寺司と言う男、どこまでが本音でどこまでが冗談なのか、出会ったばかりのつくしには見極めることが出来なかった。
だが西田にきっぱりと言われ、話の接ぎ穂を失い司もつくしも黙り込んでいた。
こんな男の言う約束なんて信じられない。
まさかあたしと・・・いや考えたくもないがあたしを弄んで・・都合のいい女・・
なんてこと考えてないでしょうね?
うわっ!ダメよ、そんなこと考えたら。
心に思うと現実になってしまうこともある。
まずはきちんとした約束を取り付けなければ。
金銭的な見返りではなく、独占インタビューの約束だ。
つくしはあんたに気に入られようなんて思ってないんだから、言いたいことは言わせてもらうわよとばかりに男を睨んだ。
「牧野様、御含み頂きたいのですが。前社長は3月の取締役会で退任します。4月からは司様が新社長としてご就任されます」
「つきましては新社長就任披露のパーティーがございますので、そちらへ司様の恋人としてご出席をお願い致します」
「パ、パーティーですか?」
「お断りしてもいいですか?」
「そのお断りはこちらからお断りさせて頂きます」
と一刀両断された。

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春の夜は暖かい夜もある。
そんなときは朝まで気温が下がらない。
冬の終を告げるこの季節は陽の光も幾分柔らかく感じられるようになってきた。
時刻は朝の6時。
日の出の時間を少しだけ回っていた。
彼はテラスに出ると朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
他の土地より少しだけ春の訪れが早い房総半島南部。
時折、海から吹く風が心地よく感じられ、両手を手すりに置くと遠くに見える海原を見つめていた。
風は決して髪の毛が乱れるほどではなかった。
まだ春の生暖かい風とはいえないが、心浮かれる自分の気持ちを優しく撫でてくれるようだった。耳に届く音は何もなくただ静けさに聞き入った。
彼は手にした煙草に火をつけようとしたが止めた。
彼女は煙草の匂いが嫌いだった。
昨日は最高だった。
過去を水に流し、捨てられるものは全て捨ててここに来た。
彼の本当に欲しいものは今、背後で穏やかな眠りについていた。
彼はようやく彼女を見つけた。
彼女が見つかった今こそ、その手を離すまいと決めていた。
彼女とは手を握りあっているだけでもよかった。
そうだ。手を取り合い一緒にいるだけでよかった。
馬鹿みたいだと思うかもしれないが、指先が触れ合えるだけでもよかった。
過去にどんなことがあろうと今があればそれでよかった。
室内に戻り服を着たところで、過去が甦った。
宿命の女か、運命の女か。
どちらにしても彼女は自分だけの女だった。
あの当時は二人が若い故に許されなかったことも今なら許されるはずだ。
彼は生まれ堕ちた瞬間から望まなくても陽が当たっていた。
自分の人生の大半が陽の当たり過ぎる人生だった。
そしてそこには身を隠す場所などなかった。
陰が欲しいと思った。身を隠す為の陰が。
暗闇が欲しいと思った。自分の全てを覆い隠す暗闇が。
そんな暗闇の中で出会ったのが彼女だった。
当時望んだのは彼女との逢瀬ではなく結婚だった。
だがその望みは叶うことがなく二人の恋は終わった。
決して自由を奪われてそうなったわけではなかった。
だが、陽の当たる人生、陽が当たり過ぎる人生は辛い。
彼の名前は望まなくても陽が当たる。
その陽は当然のように彼女にも当てられた。
彼女は決して高望みをする女ではなかった。
だから彼は彼女がその陽の当たる場所から去ることを許した。
幸せなときは幸せの有難みがわからないが、手放してからわかることの方が多い。
いくら飲もうと、いくら金を使おうと、彼女を忘れようとしても忘れられなかった。
自分の淋しさを紛らわすために他の女性と付き合ってもいつも退屈だった。
どこへ行っても彼女の面影ばかりがついてまわり、つきまとった。
たったひとりの女に恋い焦がれて過ごした歳月。
あのとき彼女の手を取って逃げればよかった。
だが自分の人生は逃げ出すことが許されなかった。
そんな昔の恋。
マンハッタンの街角で偶然出会った友人が声を掛けて来たことがあった。
「司、紹介したい女性がいるんだが会ってみないか?」
「いや。楽しくやってるから必要ない」
決まっていつもそう答えていた。
昔のことを思い出せばきりがなかったが、それでも思い出さずにはいられなかった。
酔っては友人たちに打ち明けた。
17の時からの想いを。
夢を見るのに年は関係ないだろう?
そんな思いで打ち明けていた。
自分の望むこと、その願望を。
「もういいじゃないか。そんな昔話なんて」
「もういいじゃないか。そんな望みなんて」
人生の大半が過ぎ、そんな過去の出来事は葬り去れと言われているようで、嫌だった。
そんなとき、司はパーティーでひとりの女性を見つけた。
退屈で面白味もなにもないパーティーで、大勢の人間を間に挟んで会場の端と端とで視線を合わせた。
手にしていた飲み物はお仕着せの黒い上着の男に押し付けた。
司はゆっくりとした足取りで彼女の元へと歩みを進めていた。
一歩ずつゆっくりとした足取りで彼女の元へと近づいていた。
本当は走り出したい想いだった。
走って行って抱きしめたい想いだった。
人生の殆どを陽の光の下で生きてきた男の表情は、はじめてその光の下で本当に輝いて見えたような気がした。
そんな彼の前にはおのずと道が開かれた。
まるで旧約聖書の中でモーゼが彷徨える民の為、手をかざして荒れ狂う海に道を切り開いたように。
実際彼が手を伸ばせば、手を触れれば全ての願いは叶えられてきた。
だが、ひとつだけ叶わなかったことがあった。
心の底から欲しかった女性。
その女性のことだけはどんなに自分に力があろうと彼の意志だけでどうにか出来るものではなかった。無理強いなど出来るはずがない。
彼女の幸せのためだと思って別れを許した過去があったから。
だが、今目の前にいるのは自分が心の底から欲しかった女性だった。
手を伸ばした先に求めていた女性が、いた。
年甲斐もなく彼女を見てかわいいと思った。信じられない、昔と変わっていない。
そんな思いで見つめていた。
疲れ果てていた彼の人生を見かねた友人が彼女に伝えてくれたのかもしれない。
もし今でも彼のことが好きなら一度会ってやってはくれないだろうか、と。
「ダンスをしよう。
あの日、出来なかったダンスを」と男は言った。
「いいわよ」
その女性は答え、彼は彼女の手を取った。
目を閉じれば、あの頃が甦った。
涙を流すことなく別れたときのことを。
その場にいた誰もが思った。
彼にもこんな表情が出来るものなんだと。
恍惚とした表情を浮かべてダンスをする彼を見るのは初めてだ。
二人は目を合わせ、世界の中心に二人だけという表情で踊っていた。
言葉を交わさなくても、互いの想いは伝えることが出来た。
ダンスが終わればどちらからともなく身振りで示し、会場に背を向けどこかへと消えていくふたり。
どこへ行こうが、他人が何を言おうが、自分達のことをどう思っているか、そんなことは関係がなかった。
うしろを振り返って他人の顔を確認する必要はなかった。
そんなことをして他人を気にしていると言うことを認める必要はなかった。
今までは行きたくもない場所へ行かねばならなかった。
だがこれから先は自分達二人が行きたいと思う場所へ行く。
歳月は二人の想いを風化させてはいなかった。
その日の午後、彼は彼女に聞いた。
「どこに行きたい?」
「どこでもいい」
澄み切った空の下、二人で菜の花が咲き乱れる丘の斜面に座り込んで海を眺めていた。
互いの顔は見ず、何かを語るということもせずただ前を、前だけを見つめていた。
そのとき二人の手は互いを求め、ふれあいを求めるようにそっと繋ぎ合わされた。
二人で何をしているのかと不思議に思うかもしれない。
何も言わずただ手だけを握り合っていた。
そうしなければ彼は彼女が逃げてしまうとでも思っているかのようだった。
やがて陽が傾いてくると空気はひんやりとしたものに変わってきた。
二人は静かに立ち上がると来た道を戻り始めた。
そこはもうすぐ春の宵闇に包まれようとしていた。
彼は彼女のことを思い、彼女は彼のことを思った。
二人は首をめぐらし、互いに見つめ合った。
「一緒にこないか?」
「どこへ?」
彼は間をおくと、言った。
「ニューヨークへ」
彼はそう言ったがニューヨークでも東京でもそんなことは関係がなかった。
彼女が自分と一緒にいてくれることが重要だった。
こうしてふれ合えるならどこでもよかった。
かつて退屈だった人生に本物の人生を与えてくれた彼女と、これから何年も続く夜を過ごしたい。
夢を見るには年を取り過ぎたと言われるかもしれないが人生はまだ長い。
それはゆっくりでもなく、足早でもなく過ぎて行くだろう。
春は別れと出会いの季節。
春に別れた二人は春が来て再び出会った。
生涯でたった一度の恋は、また再び始まっていた。

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彼はテラスに出ると朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
他の土地より少しだけ春の訪れが早い房総半島南部。
時折、海から吹く風が心地よく感じられ、両手を手すりに置くと遠くに見える海原を見つめていた。
風は決して髪の毛が乱れるほどではなかった。
まだ春の生暖かい風とはいえないが、心浮かれる自分の気持ちを優しく撫でてくれるようだった。耳に届く音は何もなくただ静けさに聞き入った。
彼は手にした煙草に火をつけようとしたが止めた。
彼女は煙草の匂いが嫌いだった。
昨日は最高だった。
過去を水に流し、捨てられるものは全て捨ててここに来た。
彼の本当に欲しいものは今、背後で穏やかな眠りについていた。
彼はようやく彼女を見つけた。
彼女が見つかった今こそ、その手を離すまいと決めていた。
彼女とは手を握りあっているだけでもよかった。
そうだ。手を取り合い一緒にいるだけでよかった。
馬鹿みたいだと思うかもしれないが、指先が触れ合えるだけでもよかった。
過去にどんなことがあろうと今があればそれでよかった。
室内に戻り服を着たところで、過去が甦った。
宿命の女か、運命の女か。
どちらにしても彼女は自分だけの女だった。
あの当時は二人が若い故に許されなかったことも今なら許されるはずだ。
彼は生まれ堕ちた瞬間から望まなくても陽が当たっていた。
自分の人生の大半が陽の当たり過ぎる人生だった。
そしてそこには身を隠す場所などなかった。
陰が欲しいと思った。身を隠す為の陰が。
暗闇が欲しいと思った。自分の全てを覆い隠す暗闇が。
そんな暗闇の中で出会ったのが彼女だった。
当時望んだのは彼女との逢瀬ではなく結婚だった。
だがその望みは叶うことがなく二人の恋は終わった。
決して自由を奪われてそうなったわけではなかった。
だが、陽の当たる人生、陽が当たり過ぎる人生は辛い。
彼の名前は望まなくても陽が当たる。
その陽は当然のように彼女にも当てられた。
彼女は決して高望みをする女ではなかった。
だから彼は彼女がその陽の当たる場所から去ることを許した。
幸せなときは幸せの有難みがわからないが、手放してからわかることの方が多い。
いくら飲もうと、いくら金を使おうと、彼女を忘れようとしても忘れられなかった。
自分の淋しさを紛らわすために他の女性と付き合ってもいつも退屈だった。
どこへ行っても彼女の面影ばかりがついてまわり、つきまとった。
たったひとりの女に恋い焦がれて過ごした歳月。
あのとき彼女の手を取って逃げればよかった。
だが自分の人生は逃げ出すことが許されなかった。
そんな昔の恋。
マンハッタンの街角で偶然出会った友人が声を掛けて来たことがあった。
「司、紹介したい女性がいるんだが会ってみないか?」
「いや。楽しくやってるから必要ない」
決まっていつもそう答えていた。
昔のことを思い出せばきりがなかったが、それでも思い出さずにはいられなかった。
酔っては友人たちに打ち明けた。
17の時からの想いを。
夢を見るのに年は関係ないだろう?
そんな思いで打ち明けていた。
自分の望むこと、その願望を。
「もういいじゃないか。そんな昔話なんて」
「もういいじゃないか。そんな望みなんて」
人生の大半が過ぎ、そんな過去の出来事は葬り去れと言われているようで、嫌だった。
そんなとき、司はパーティーでひとりの女性を見つけた。
退屈で面白味もなにもないパーティーで、大勢の人間を間に挟んで会場の端と端とで視線を合わせた。
手にしていた飲み物はお仕着せの黒い上着の男に押し付けた。
司はゆっくりとした足取りで彼女の元へと歩みを進めていた。
一歩ずつゆっくりとした足取りで彼女の元へと近づいていた。
本当は走り出したい想いだった。
走って行って抱きしめたい想いだった。
人生の殆どを陽の光の下で生きてきた男の表情は、はじめてその光の下で本当に輝いて見えたような気がした。
そんな彼の前にはおのずと道が開かれた。
まるで旧約聖書の中でモーゼが彷徨える民の為、手をかざして荒れ狂う海に道を切り開いたように。
実際彼が手を伸ばせば、手を触れれば全ての願いは叶えられてきた。
だが、ひとつだけ叶わなかったことがあった。
心の底から欲しかった女性。
その女性のことだけはどんなに自分に力があろうと彼の意志だけでどうにか出来るものではなかった。無理強いなど出来るはずがない。
彼女の幸せのためだと思って別れを許した過去があったから。
だが、今目の前にいるのは自分が心の底から欲しかった女性だった。
手を伸ばした先に求めていた女性が、いた。
年甲斐もなく彼女を見てかわいいと思った。信じられない、昔と変わっていない。
そんな思いで見つめていた。
疲れ果てていた彼の人生を見かねた友人が彼女に伝えてくれたのかもしれない。
もし今でも彼のことが好きなら一度会ってやってはくれないだろうか、と。
「ダンスをしよう。
あの日、出来なかったダンスを」と男は言った。
「いいわよ」
その女性は答え、彼は彼女の手を取った。
目を閉じれば、あの頃が甦った。
涙を流すことなく別れたときのことを。
その場にいた誰もが思った。
彼にもこんな表情が出来るものなんだと。
恍惚とした表情を浮かべてダンスをする彼を見るのは初めてだ。
二人は目を合わせ、世界の中心に二人だけという表情で踊っていた。
言葉を交わさなくても、互いの想いは伝えることが出来た。
ダンスが終わればどちらからともなく身振りで示し、会場に背を向けどこかへと消えていくふたり。
どこへ行こうが、他人が何を言おうが、自分達のことをどう思っているか、そんなことは関係がなかった。
うしろを振り返って他人の顔を確認する必要はなかった。
そんなことをして他人を気にしていると言うことを認める必要はなかった。
今までは行きたくもない場所へ行かねばならなかった。
だがこれから先は自分達二人が行きたいと思う場所へ行く。
歳月は二人の想いを風化させてはいなかった。
その日の午後、彼は彼女に聞いた。
「どこに行きたい?」
「どこでもいい」
澄み切った空の下、二人で菜の花が咲き乱れる丘の斜面に座り込んで海を眺めていた。
互いの顔は見ず、何かを語るということもせずただ前を、前だけを見つめていた。
そのとき二人の手は互いを求め、ふれあいを求めるようにそっと繋ぎ合わされた。
二人で何をしているのかと不思議に思うかもしれない。
何も言わずただ手だけを握り合っていた。
そうしなければ彼は彼女が逃げてしまうとでも思っているかのようだった。
やがて陽が傾いてくると空気はひんやりとしたものに変わってきた。
二人は静かに立ち上がると来た道を戻り始めた。
そこはもうすぐ春の宵闇に包まれようとしていた。
彼は彼女のことを思い、彼女は彼のことを思った。
二人は首をめぐらし、互いに見つめ合った。
「一緒にこないか?」
「どこへ?」
彼は間をおくと、言った。
「ニューヨークへ」
彼はそう言ったがニューヨークでも東京でもそんなことは関係がなかった。
彼女が自分と一緒にいてくれることが重要だった。
こうしてふれ合えるならどこでもよかった。
かつて退屈だった人生に本物の人生を与えてくれた彼女と、これから何年も続く夜を過ごしたい。
夢を見るには年を取り過ぎたと言われるかもしれないが人生はまだ長い。
それはゆっくりでもなく、足早でもなく過ぎて行くだろう。
春は別れと出会いの季節。
春に別れた二人は春が来て再び出会った。
生涯でたった一度の恋は、また再び始まっていた。

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