こちらのお話は、黒い坊っちゃんのお話です。
繊細なお心をお持ちの方、またはそういった彼を受け付けない方はお控え下さい。
*************************************
神が与えた最上の美を持つ男がいる。
アスファルトから透明な炎が立ち昇り、その向うにいるのは、強烈な魅力を持つ男。
静謐(せいひつ)さと妖艶さを合わせ持ち、声は低く視線は他を寄せ付けない厳しさを持つ。そして、その骨格が示すように頬から顎にかけてのラインは硬質な美しさがあり、横顔はミケランジェロの手によって造られた青年のような荘厳さを感じさせた。
だがアスファルトの炎とは別の世界がそこにあった。
シャツの下の肌は氷のように冷たいのではないかと言われる男。
己の人生に不運などなく、他人の不運など気にしたことのない男。
そんな男の非情な唇がわずかに上がるのを見た人間は、背筋が寒く感じられるはずだ。
だが、男の薄い唇から紡ぎ出される言葉にも、時に愛しい人の名前を呟くことがある。
つくし__と。
そして、表面上の冷たさそのまま冷たい男と呼ばれる男も、鈍い色の炎が燃え立つ瞬間がある。
誰にも気づかれることがないその感情。
それを人は嫉妬と呼ぶ。
道明寺司という男は、冷たい美貌を持つ危険な男と言われ、笑わないと言われていた。
いつもダークスーツを身に纏い、声は低く、凄みを感じさせ、到底28歳とは思えないほど落ち着いていた。そして、強い力を秘め、圧倒的な力と威厳を感じさせる男は、望めば叶わないことは無いと言われていた。
彼は、その容姿だけでも女を惹き付けること間違いないのだが、それとはまた別に社会的な魅力といったものがあった。
それはどこかの小国の国家予算よりも多いと言われる個人資産持っていること。
そして道明寺家という財閥の長男であり代々続く由緒正しい家柄を持つ男だということ。
彼の容姿にこの魅力が加われば、結婚相手としては申し分がない。そんなことから誰もが彼の目に留まろう、声をかけてもらおうとした。そしてそれがたとえ一夜限りだとしても、彼に愛されたいと願う女は常に周りにいた。
だが司は、そんな女に興味を示さない。むしろそんな女は目障りでしかない。
女は醜い生き物であり、容姿や財産に飛びつくような女には反吐が出た。
そして醜い生き物である女は、自身の醜さに気付いていない。
とは言え、利用できることだけを利用すればいいと考えていた。事実、司がちょっと指を動かすだけで、いとも容易く彼の腕の中に堕ちていた。だがそれは、健康な男なら誰もがすることであり、相手がどんな女だろうが部屋を出れば忘れていた。
司が牧野つくしと出会ったのは、新規プロジェクトに関する最終的な支出総額とそれに対する収益率に関する会議の場だ。
道明寺HDと言えば、建設、不動産、金融、医薬品、化学など幅広い部門で高い利益を上げる企業グループだ。副社長である司は、普段そういった会議に顔を見せることがない。だがそんな男が姿を見せ、会議室の中を見回したとき、その場にいた人間は男女問わず身体を硬くし、椅子の上で身構えた。
周りの全てに緊張を与える存在である男の冷たい視線は、まさに見る者を凍らせる視線。
だが、その中で唯一彼の視線を冷静に受け止めたのが彼女、牧野つくしだ。
司はその姿に一瞬眉をひそめた。そしてその冷静さと、臆することなく彼の視線を受け止めた姿勢にどこか生意気な態度が感じられ、今まで自分の周りにいなかったタイプの女に興味を持った。
会議が始まれば、他の人間は彼に遠慮し、口答えなどしない。
なぜなら司の意見が間違っていることはないからだ。そして最終的にはそれが彼の会社の役員連中の総意となるからだ。
だが、真っ直ぐな視線を彼に向け、臆することなく意見する女に周囲は慌てた。
副社長であり次期社長の男は、その実力と権限は誰もが認めるものであり、逆らえば閑職へ追いやられる。もしくは、どこかへ飛ばされるといったことが目に見えていたからだ。
だからその場にいた誰もが思った。
恐らく次の会議に牧野つくしが出席することはないだろうと。
だが、司は口元に薄っすらと笑みを浮かべ彼女を見ていた。
敵に回せば恐ろしいと言われる男が垣間見せた笑み。
それは司が彼女を対等な相手として認めた瞬間だ。
司は今まで自分の周りにいなかったタイプの女に会うのが楽しみになっていた。
彼に対し逆らうべきではない、彼の目に留まりたいという人間ばかりの中、その大きな黒い瞳が欲に輝くこともなければ、彼を恐れることもない。そして彼女が生意気であればあるほど、興味を抱いた。
だがその生意気さは彼にとって心地の良い生意気さ。どこか片肘を張り懸命に生きているように感じられると同時に、いじらしさといったものが感じられた。
だがそれは仕事に対してだけ向けられ、彼個人に対してといったものではない。
それでも司は彼女と仕事するのが楽しかった。
牧野つくしに、数字に関する細かさを求め、必要な情報をすぐに出させるように命じ、資料を自分の手元へ届けさせるように命じ、自分とのミーティングをするよう命じた。
「これから食事でもしながら数字を詰めないか」
だが彼女は断った。
「先約があります」と。
司がメープルで車に乗り込もうとしたとき、少し離れた場所からこちらを見つめている牧野つくしの姿が目に入った。だが彼女の視線は、司ではなく入口に立つ男女に向けられていた。
雷雨となった夏の夕暮れ、退屈をいたずらに持て余していた司は、その光景を見つめ何を意味するかすぐに理解出来た。男女のうち女が男の腕に自らの腕を絡め、身体を押し付けている姿。そして男がそんな女にキスをしている姿を見れば、二人の関係を推し量ることは簡単だ。
それは、誰がどう見ても二人が男と女の関係以外の何ものでもないと言っていた。
相手の女は彼女より年下なのか。それとも年上なのか。どちらにしても美しく化粧をし、着衣は今流行りの服装をしていた。
雨の日に出歩くと、雨の匂いが身体に染み付くと言われている。
視界を狭めるほど激しい雨は、アスファルトに叩きつけるように降り続けていたが、司は傘もささず立ち尽くす彼女を見つめていた。雨に濡れるその姿は、雨が全てを洗い流してくれることを望んでいるように思えた。そしてその姿は、いつもの彼女ではなかった。
「牧野。どうした?こんなところで傘もささず何をしてる?」
つくしは突然目の前に現れた司に傘をさしかけられ、ぼんやりと彼を見上げた。
この状況が状況でなければ、恐らく軽口が返されたはずだ。
だが彼女は口を開かなかった。いや開くことが出来ないといった方がいいのかもしれない。
しかし、何か言わなければと思った彼女は口を開いた。
「....何でもありませんから」
その言葉の意味は気にしなくていいと言っているのか。
それとも構わないでくれと言っているのか。
いつもなら司と対等に渡り合おうとする彼女も、その時ばかりは、警戒とも驚きとも言えないどこか伏し目がちな態度で小声だった。だがどちらにしても司は雨に濡れたつくしをこのままにしておけなかった。
そして司は思った。
彼女が悲しむ姿は見たくない。
彼女を慰めてやりたい。
つくしは、メープルのコーヒーラウンジで恋人と待ち合わせの約束をしていた。
そしてあと少しでホテルに到着しようとしていたが、突然の雨に見舞われ、慌てて駆け出そうとしたそのとき、恋人が見知らぬ女と腕を組み、口づけをしてホテルへ入って行く姿を見かけた。
その光景は第三者から見ればどこにでもある単純な光景だが、彼女にとっては受け入れ難いものだ。最近付き合い始めた恋人の様子がおかしと気付いていた。約束をしても待ち合わせ場所に現れない。そんなとき、電話をしても出ることはなく、メールに返事が来ることもなかった。余程彼の住むマンションを訪ねてみようかと思ったが、オートロック式の入口は、簡単に入れるはずもなく、一度訪ねたことがあったが、居留守だとしても応答はなかった。
そして一緒にいた女性は、今まで何度か見かけたことがあった。
それはつくしの住むマンションの近くであったり、近所のスーパーだったりした。
人形のように美しい顔をした女性。そしていつも何故かつくしを見ると笑みを浮かべていた。しかし、その笑みの意味が分からなかった。だが今やっとその意味が分かった。
つくしは恋人が、恋人だと思っていた男の裏切りを知った。
そんなとき、道明寺司に声をかけられた。
それは仕事で感じる彼の声とは違う優しい声。
差し掛けられた傘は大きく、降り注ぐ雨を遮った。
だが何かを語りかけるその声が遠くに聞こえ、やがて記憶が途切れていた。
そして気付いたとき、つくしは司の腕の中にいた。
それはリムジンの後部座席から降りる男に抱きかかえられている自分の姿だ。
「大丈夫か?」
司はつくしが目を覚ましたことに気付き、声をかけた。
「すみません・・ご迷惑をお掛けして・・あの、降ろして下さい。わたし、重いですから」
恐縮した声で詫びる彼女は、自分が誰の腕に抱きかかえられているか気付くと慌てた。
そして今自分がどこにいるのかと訝しがっていた。
「心配することはない。ここは俺の家だ」
司はそう言うと、少し不安げな顔で頷いたつくしを抱いたまま邸へと向かった。
その時、つくしには見えなかったが、司の顔には、どう抗っても無駄だといった表情が浮かんでいた。
司が仕掛けた罠につくしはわずか数分で陥った。
それは彼女が付き合い始めた男に対する罠とも言えた。
司は恋とは無縁に生きて来た男だが、牧野つくしを好きになっていた。
彼は偶然といったものを信じる男ではない。
世の中には偶然といったものは存在せず、この世で起こることは全てが必然であり、産まれた時に決められているということだ。そして必然には約束事がある。
それは、決められたことなら、その決め事を守らなければならないということだ。
この出会いは運命が導いた出会いであり、己に決められた出会いだと確信した。
司は食事の誘いを断られたとき、躊躇わず彼女のことを調べた。
そして彼女に最近付き合い始めた恋人がいることを知った。
それは諦めなければならないということか?
だが考え直した。
なぜ諦める必要がある?
諦めるといった言葉は敗者の使う言葉だ。
今まで欲しいと思って手に入らなかったものはない。
だがそれは人ではない。
彼が人を欲したのは、はじめてだ。
だがどうしても彼女が欲しかった。
今の司の身体を満たしているのは、これまで経験したことがない欲望。
そしてそれと同時に湧き上がったのは相手の男に対しての嫉妬。
司の中にある結論はただひとつ。
邪魔者は排除する。
そして彼女が喜ぶことならどんなことでもやってみせる。
世の中は金ではないというが、それは世間の建前であり戯言だ。
幼い子供が親から聞かされるのは、世の中にはお金では買えないものがある。といった言葉。
だが反面、買えるものはいくらでもある。
司はそれを身を持って経験していた。事実、金で買えないものは無い。
金を差し出せば人は何でもする。極端な話で言えば、命まで買える世の中だ。
あの男が彼女の恋人であったとしても、それはもう過去のものとなった。
他の女を好きになったなら、その女と何をしようと、そんなことは司には関係の無い話しだ。
だが彼女には見たくないものを見せてしまった。
それでも女にとって恋人の裏切りほど心を痛めるものはない。
だからああすることが一番手っ取り早いと分かっていた。
それにしてもあの女の演技の上手さに思わず笑いが込み上げてくる。まさかあの女、本気であの男を好きになったのか?
だがそんなことはどうでもいい。
しかし、彼女を傷つけた男は、確実に彼女の前から排除しなければならない。
司は、つくしが付き合い始めたばかりだった男を邸に呼びつけた。
その男は司の会社の海外事業部に勤務する男で、二人が知り合ったのが社内であることに間違いはない。そしてその男は、つい最近駐在先の中東から帰国したばかりだ。
男は異界ともいえる邸に目を見張った。
一介の社員が邸に呼ばれることなど滅多にない。足を踏み入れることが出来るとすれば、秘書くらいだと言われていたからだ。だが男はその秘書から、副社長が最近の中東情勢について話が聞きたいと言っていると言われ邸を訪れた。
そして通された部屋で司を待つ間、この邸に50年近く仕えるという老女が、音もなく男の前にコーヒーを置き出て行くと、暫くたってカップを口元へと運んだ。

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静謐(せいひつ)さと妖艶さを合わせ持ち、声は低く視線は他を寄せ付けない厳しさを持つ。そして、その骨格が示すように頬から顎にかけてのラインは硬質な美しさがあり、横顔はミケランジェロの手によって造られた青年のような荘厳さを感じさせた。
だがアスファルトの炎とは別の世界がそこにあった。
シャツの下の肌は氷のように冷たいのではないかと言われる男。
己の人生に不運などなく、他人の不運など気にしたことのない男。
そんな男の非情な唇がわずかに上がるのを見た人間は、背筋が寒く感じられるはずだ。
だが、男の薄い唇から紡ぎ出される言葉にも、時に愛しい人の名前を呟くことがある。
つくし__と。
そして、表面上の冷たさそのまま冷たい男と呼ばれる男も、鈍い色の炎が燃え立つ瞬間がある。
誰にも気づかれることがないその感情。
それを人は嫉妬と呼ぶ。
道明寺司という男は、冷たい美貌を持つ危険な男と言われ、笑わないと言われていた。
いつもダークスーツを身に纏い、声は低く、凄みを感じさせ、到底28歳とは思えないほど落ち着いていた。そして、強い力を秘め、圧倒的な力と威厳を感じさせる男は、望めば叶わないことは無いと言われていた。
彼は、その容姿だけでも女を惹き付けること間違いないのだが、それとはまた別に社会的な魅力といったものがあった。
それはどこかの小国の国家予算よりも多いと言われる個人資産持っていること。
そして道明寺家という財閥の長男であり代々続く由緒正しい家柄を持つ男だということ。
彼の容姿にこの魅力が加われば、結婚相手としては申し分がない。そんなことから誰もが彼の目に留まろう、声をかけてもらおうとした。そしてそれがたとえ一夜限りだとしても、彼に愛されたいと願う女は常に周りにいた。
だが司は、そんな女に興味を示さない。むしろそんな女は目障りでしかない。
女は醜い生き物であり、容姿や財産に飛びつくような女には反吐が出た。
そして醜い生き物である女は、自身の醜さに気付いていない。
とは言え、利用できることだけを利用すればいいと考えていた。事実、司がちょっと指を動かすだけで、いとも容易く彼の腕の中に堕ちていた。だがそれは、健康な男なら誰もがすることであり、相手がどんな女だろうが部屋を出れば忘れていた。
司が牧野つくしと出会ったのは、新規プロジェクトに関する最終的な支出総額とそれに対する収益率に関する会議の場だ。
道明寺HDと言えば、建設、不動産、金融、医薬品、化学など幅広い部門で高い利益を上げる企業グループだ。副社長である司は、普段そういった会議に顔を見せることがない。だがそんな男が姿を見せ、会議室の中を見回したとき、その場にいた人間は男女問わず身体を硬くし、椅子の上で身構えた。
周りの全てに緊張を与える存在である男の冷たい視線は、まさに見る者を凍らせる視線。
だが、その中で唯一彼の視線を冷静に受け止めたのが彼女、牧野つくしだ。
司はその姿に一瞬眉をひそめた。そしてその冷静さと、臆することなく彼の視線を受け止めた姿勢にどこか生意気な態度が感じられ、今まで自分の周りにいなかったタイプの女に興味を持った。
会議が始まれば、他の人間は彼に遠慮し、口答えなどしない。
なぜなら司の意見が間違っていることはないからだ。そして最終的にはそれが彼の会社の役員連中の総意となるからだ。
だが、真っ直ぐな視線を彼に向け、臆することなく意見する女に周囲は慌てた。
副社長であり次期社長の男は、その実力と権限は誰もが認めるものであり、逆らえば閑職へ追いやられる。もしくは、どこかへ飛ばされるといったことが目に見えていたからだ。
だからその場にいた誰もが思った。
恐らく次の会議に牧野つくしが出席することはないだろうと。
だが、司は口元に薄っすらと笑みを浮かべ彼女を見ていた。
敵に回せば恐ろしいと言われる男が垣間見せた笑み。
それは司が彼女を対等な相手として認めた瞬間だ。
司は今まで自分の周りにいなかったタイプの女に会うのが楽しみになっていた。
彼に対し逆らうべきではない、彼の目に留まりたいという人間ばかりの中、その大きな黒い瞳が欲に輝くこともなければ、彼を恐れることもない。そして彼女が生意気であればあるほど、興味を抱いた。
だがその生意気さは彼にとって心地の良い生意気さ。どこか片肘を張り懸命に生きているように感じられると同時に、いじらしさといったものが感じられた。
だがそれは仕事に対してだけ向けられ、彼個人に対してといったものではない。
それでも司は彼女と仕事するのが楽しかった。
牧野つくしに、数字に関する細かさを求め、必要な情報をすぐに出させるように命じ、資料を自分の手元へ届けさせるように命じ、自分とのミーティングをするよう命じた。
「これから食事でもしながら数字を詰めないか」
だが彼女は断った。
「先約があります」と。
司がメープルで車に乗り込もうとしたとき、少し離れた場所からこちらを見つめている牧野つくしの姿が目に入った。だが彼女の視線は、司ではなく入口に立つ男女に向けられていた。
雷雨となった夏の夕暮れ、退屈をいたずらに持て余していた司は、その光景を見つめ何を意味するかすぐに理解出来た。男女のうち女が男の腕に自らの腕を絡め、身体を押し付けている姿。そして男がそんな女にキスをしている姿を見れば、二人の関係を推し量ることは簡単だ。
それは、誰がどう見ても二人が男と女の関係以外の何ものでもないと言っていた。
相手の女は彼女より年下なのか。それとも年上なのか。どちらにしても美しく化粧をし、着衣は今流行りの服装をしていた。
雨の日に出歩くと、雨の匂いが身体に染み付くと言われている。
視界を狭めるほど激しい雨は、アスファルトに叩きつけるように降り続けていたが、司は傘もささず立ち尽くす彼女を見つめていた。雨に濡れるその姿は、雨が全てを洗い流してくれることを望んでいるように思えた。そしてその姿は、いつもの彼女ではなかった。
「牧野。どうした?こんなところで傘もささず何をしてる?」
つくしは突然目の前に現れた司に傘をさしかけられ、ぼんやりと彼を見上げた。
この状況が状況でなければ、恐らく軽口が返されたはずだ。
だが彼女は口を開かなかった。いや開くことが出来ないといった方がいいのかもしれない。
しかし、何か言わなければと思った彼女は口を開いた。
「....何でもありませんから」
その言葉の意味は気にしなくていいと言っているのか。
それとも構わないでくれと言っているのか。
いつもなら司と対等に渡り合おうとする彼女も、その時ばかりは、警戒とも驚きとも言えないどこか伏し目がちな態度で小声だった。だがどちらにしても司は雨に濡れたつくしをこのままにしておけなかった。
そして司は思った。
彼女が悲しむ姿は見たくない。
彼女を慰めてやりたい。
つくしは、メープルのコーヒーラウンジで恋人と待ち合わせの約束をしていた。
そしてあと少しでホテルに到着しようとしていたが、突然の雨に見舞われ、慌てて駆け出そうとしたそのとき、恋人が見知らぬ女と腕を組み、口づけをしてホテルへ入って行く姿を見かけた。
その光景は第三者から見ればどこにでもある単純な光景だが、彼女にとっては受け入れ難いものだ。最近付き合い始めた恋人の様子がおかしと気付いていた。約束をしても待ち合わせ場所に現れない。そんなとき、電話をしても出ることはなく、メールに返事が来ることもなかった。余程彼の住むマンションを訪ねてみようかと思ったが、オートロック式の入口は、簡単に入れるはずもなく、一度訪ねたことがあったが、居留守だとしても応答はなかった。
そして一緒にいた女性は、今まで何度か見かけたことがあった。
それはつくしの住むマンションの近くであったり、近所のスーパーだったりした。
人形のように美しい顔をした女性。そしていつも何故かつくしを見ると笑みを浮かべていた。しかし、その笑みの意味が分からなかった。だが今やっとその意味が分かった。
つくしは恋人が、恋人だと思っていた男の裏切りを知った。
そんなとき、道明寺司に声をかけられた。
それは仕事で感じる彼の声とは違う優しい声。
差し掛けられた傘は大きく、降り注ぐ雨を遮った。
だが何かを語りかけるその声が遠くに聞こえ、やがて記憶が途切れていた。
そして気付いたとき、つくしは司の腕の中にいた。
それはリムジンの後部座席から降りる男に抱きかかえられている自分の姿だ。
「大丈夫か?」
司はつくしが目を覚ましたことに気付き、声をかけた。
「すみません・・ご迷惑をお掛けして・・あの、降ろして下さい。わたし、重いですから」
恐縮した声で詫びる彼女は、自分が誰の腕に抱きかかえられているか気付くと慌てた。
そして今自分がどこにいるのかと訝しがっていた。
「心配することはない。ここは俺の家だ」
司はそう言うと、少し不安げな顔で頷いたつくしを抱いたまま邸へと向かった。
その時、つくしには見えなかったが、司の顔には、どう抗っても無駄だといった表情が浮かんでいた。
司が仕掛けた罠につくしはわずか数分で陥った。
それは彼女が付き合い始めた男に対する罠とも言えた。
司は恋とは無縁に生きて来た男だが、牧野つくしを好きになっていた。
彼は偶然といったものを信じる男ではない。
世の中には偶然といったものは存在せず、この世で起こることは全てが必然であり、産まれた時に決められているということだ。そして必然には約束事がある。
それは、決められたことなら、その決め事を守らなければならないということだ。
この出会いは運命が導いた出会いであり、己に決められた出会いだと確信した。
司は食事の誘いを断られたとき、躊躇わず彼女のことを調べた。
そして彼女に最近付き合い始めた恋人がいることを知った。
それは諦めなければならないということか?
だが考え直した。
なぜ諦める必要がある?
諦めるといった言葉は敗者の使う言葉だ。
今まで欲しいと思って手に入らなかったものはない。
だがそれは人ではない。
彼が人を欲したのは、はじめてだ。
だがどうしても彼女が欲しかった。
今の司の身体を満たしているのは、これまで経験したことがない欲望。
そしてそれと同時に湧き上がったのは相手の男に対しての嫉妬。
司の中にある結論はただひとつ。
邪魔者は排除する。
そして彼女が喜ぶことならどんなことでもやってみせる。
世の中は金ではないというが、それは世間の建前であり戯言だ。
幼い子供が親から聞かされるのは、世の中にはお金では買えないものがある。といった言葉。
だが反面、買えるものはいくらでもある。
司はそれを身を持って経験していた。事実、金で買えないものは無い。
金を差し出せば人は何でもする。極端な話で言えば、命まで買える世の中だ。
あの男が彼女の恋人であったとしても、それはもう過去のものとなった。
他の女を好きになったなら、その女と何をしようと、そんなことは司には関係の無い話しだ。
だが彼女には見たくないものを見せてしまった。
それでも女にとって恋人の裏切りほど心を痛めるものはない。
だからああすることが一番手っ取り早いと分かっていた。
それにしてもあの女の演技の上手さに思わず笑いが込み上げてくる。まさかあの女、本気であの男を好きになったのか?
だがそんなことはどうでもいい。
しかし、彼女を傷つけた男は、確実に彼女の前から排除しなければならない。
司は、つくしが付き合い始めたばかりだった男を邸に呼びつけた。
その男は司の会社の海外事業部に勤務する男で、二人が知り合ったのが社内であることに間違いはない。そしてその男は、つい最近駐在先の中東から帰国したばかりだ。
男は異界ともいえる邸に目を見張った。
一介の社員が邸に呼ばれることなど滅多にない。足を踏み入れることが出来るとすれば、秘書くらいだと言われていたからだ。だが男はその秘書から、副社長が最近の中東情勢について話が聞きたいと言っていると言われ邸を訪れた。
そして通された部屋で司を待つ間、この邸に50年近く仕えるという老女が、音もなく男の前にコーヒーを置き出て行くと、暫くたってカップを口元へと運んだ。

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Comment:16
ノックの音がした。
落ち着いた叩き方は男のもので、扉を開け入ってきたのは秘書の西田だった。
西田は司の影として仕えており、やはり彼も笑わない男と言われていた。
「副社長、そろそろお時間です」
「そうか。わかった。今行く」
司は腕に嵌められた時計を一瞥した。
「奥様は無事LAの椿様の所へ到着されましたのでご安心下さい」
長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、どこか場違いのような優雅な表情を浮かべ、それから西田に向かって言った。
「工事はこれからか?」
「はい。時間ですので始まっているはずです」
「そうか。ではその様子を少し見学して行こう」
時が流れ季節は移ろい夏を迎えていた。
そこは道明寺HD副社長である司の邸。
選ばれた人間だけが入ることを許される邸宅であり特別な場所。
敷地面積が約15万坪という広さの邸は、木立と高い塀に囲まれ広大な庭があり、とても都内の一等地にあるとは思えないほど森閑とし、今し方水を撒いたところなのか、陽炎がゆらめいているのが見えた。
そして広大な庭の中央には大きな池があり、多くの鯉が飼われていた。
だが、築庭に作られたその池とは別に、庭の片隅に水生植物が花をつける小さな池があった。
池は、司がつくしと結婚をした年に造られたものであり、出来て5年しか経っていない比較的新しい池だ。だがこれからその池を潰すことになっていた。
そこには、丁度この季節、晩春から秋にかけ水中から花茎を伸ばし、5センチほどの小さな黄色い花をつける『河骨(コウホネ)』が咲いていた。
川や池に多く見られるこの花は、睡蓮科の植物だが睡蓮のような派手さはなく、庭園の池で観賞用に栽培されることも多く、色鮮やかなピンクや紫色の睡蓮と共に、小さな黄色い花が池の一面を覆いつくす様子は、さながら極楽浄土の様相を呈していた。
河骨という名前の由来は、水の底にある根茎が白くゴツゴツとして人の背骨のように見えることから「河」の「骨」とその名が付いているが、泥の中に埋まるように横たわった根を目にすることはない。
二人が結婚したきっかけは、雨に打たれたつくしが熱を出し、肺炎になりかけたことだ。
司はひとり暮らしの彼女を心配し、暫く邸で静養するようにと言った。
彼女はそこまでしてもらう理由はないと断ったが司はそれを許さなかった。
何故なら、彼は彼女の日常を自分のものにしたかったからだ。
司が優しい言葉と真摯な態度で女性と向き合う姿は、今まで女を好きになったことがないと言われていた男の態度とは思えぬほどで、その変わりように邸の人間は驚いた。
信じられないことだが、身体を揺すって笑うことなど無かった男が、彼女の前では笑っていた。
そして、司が女性を邸に住まわせるということがどういう意味を持つのか。
長年この邸に仕える老女は直ぐに理解した。
今まで自分の孫のように可愛がってきた男の背後に見えていたのは、暗い闇だと言われていた。
そんな男が女性を連れて来たのだ。男がその女性を欲していることは明らかだった。
老女は、男の喜びを無上の喜びにしている。だから老女は目を細め、喜んでその女性の世話をした。
人は信頼していた人間から裏切られたとき、そして身体が弱っているとき、自分に対し優しい言葉をかけ、気遣ってくれる人間に対し心を寄せる。傷つき弱った心は守られることを望む。そしてその優しさに心が揺れ始める。
やがて、なだらかな坂道をゆっくりと転がるように彼女の心が司に近づいて来たとき、彼はその心を優しく抱きしめていた。
だが、司は恋人に裏切られたつくしに慰めの言葉をかけながらも、心の中では別のことを彼女に呼び掛けていた。
これは偶然ではない。
これは運命だ。
おまえは俺のものになる運命だと。
そして、ひそやかな欲望の炎を燃やし、人生で最高の贈り物を手に入れていた。
丁度その頃、司の会社の海外事業部に勤務する男が中東で行方不明になっていた。
赴任地から帰国してはいたが、現地に女がいたという噂があり、再び渡航したのではないかと言われていた。そして調べてみれば、確かにその男名義のパスポートで出国した記録が残されており、やはりそうだと社内では言われていた。
中東といった国は複雑だ。部族と民族が複雑に入り組んだ国も多く、宗教的対立も多い。
外国人が迷い込めば二度と戻れないと言われる魔窟ともいえるような場所もある。
そんな国では、政治情勢の不安定さもあり、行方不明になれば探し出すのは容易ではないと言われており、どこか諦めに近いムードが漂っていた。
そして今ではその男のことは、忘れられた存在となっていた。
司は秘書を連れ池の前に立ち、水が排出されていく様子を眺めていた。
「西田。あの男はなんという名前だったか?」
「あの男_でございますか?」
「ああ。あの男だ。海外事業部のあの男だ」
「佐々木と申します」
「そんな名前だったか。あの男は」
司の黒い瞳の奥に不快感が浮かび、水面に鋭い視線を向けた。
「はい。中東で行方不明のまま5年が経ちましたが、恐らく見つかることはないと思われます」
そして西田は、池を見つめ続ける司に静かに言葉を継いだ。
「それにしても、この池に咲く河骨はつくし様のお気に入りでしたが潰すとなればもったいないような気もいたしますが」
「心配するな。俺がつくしを悲しませるようなことをすると思うか?帰国するまでには別の場所に同じような池を作らせる。河骨も移させる。来年の今頃には花を咲かせるようにさせる」
司は煙草を取り出し、長い指に挟み火をつけると、パチンと音を立て、ライターの蓋を閉じた。
それから煙を吐き出すまでの数秒間、聞こえてくるのは池の水を排出するポンプのモーター音。
「それよりタマはなんと言ってる?」
「はい。硬いものを砕き過ぎたそうでミキサーが壊れたと申しておりました」
「そうか。それなら今のものより上等なものを買ってやれ_但し、1台ではなく2台だ。これから砕いてもらうものが増えるからな」
司は池の畔に立ったまま、じっと水面を見つめていたが、その目は気に入らない人間を見下す冷たい目に似ていた。
世の中に愚かな犯罪行為に走る者がいるが、その殆どが罰を受ける。
だが罰を受けない人間もいる。
なぜならこの世には、絶対的な力といったものが存在するからだ。
それは権力というものだ。
だが並大抵の人間が権力を持ったところで、その権力に振り回されるだけだ。
権力は使う人間を選び、権力を持つにふさわしい人間は罰を受けることはない。
そして権力を持つ人間は、どんな勝負にも勝ち続けると決まっている。
それが世の中の暗黙のルールだ。
そして、人に飼われる動物はいつか死ぬ運命にある。
それは、飼い主の判断によって生死が早まるということだ。
それが遅いか早いかは、飼われる人間次第だ。
佐々木という男は司の会社に飼われていた人間だ。
だから、彼の命は司の手の中にあった。
排水ポンプの音が変わり、池の底が見えて来た。
そして河骨の白い根茎が泥の中を縦横に走っている様子が見て取れた。
人間の背骨のように見える白い根茎。
だがその中に明らかに植物とは思えない状態のものがあった。
司の顔に無表情が広がった。
彼は黙ったまま、火のついた煙草を池の中に投げ込むと、ジュと音を立て火が消えた。
罪悪感といったものがあるとすれば、それはいったい何なのか。
それは人によって違うはずだ。
河骨の花言葉は『秘められた愛情』
それは“がく”が花弁やめしべを大切に守る花だからだ。
司のつくしに対しての想いはまさにこの花言葉が当てはまる。
自分が“がく”となり彼女を守るからだ。
そしてもう一つの花言葉は『崇高』
黄色い小さな花を一輪だけつける河骨は、まさにつくしのように凛とした美しさがあった。
それは他に比べるものがないといった司の中の美学的要素と言える気高さだ。
司は欲しかったものを手に入れた。
今、彼の頭の中にあるのは彼女のこと。
彼女の笑顔が見れるならそれでいい。
無表情であっても、彼の心はそうではない。
司が心からほほ笑むのは彼女の前だけ。
司は池に向かって微笑した。
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落ち着いた叩き方は男のもので、扉を開け入ってきたのは秘書の西田だった。
西田は司の影として仕えており、やはり彼も笑わない男と言われていた。
「副社長、そろそろお時間です」
「そうか。わかった。今行く」
司は腕に嵌められた時計を一瞥した。
「奥様は無事LAの椿様の所へ到着されましたのでご安心下さい」
長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、どこか場違いのような優雅な表情を浮かべ、それから西田に向かって言った。
「工事はこれからか?」
「はい。時間ですので始まっているはずです」
「そうか。ではその様子を少し見学して行こう」
時が流れ季節は移ろい夏を迎えていた。
そこは道明寺HD副社長である司の邸。
選ばれた人間だけが入ることを許される邸宅であり特別な場所。
敷地面積が約15万坪という広さの邸は、木立と高い塀に囲まれ広大な庭があり、とても都内の一等地にあるとは思えないほど森閑とし、今し方水を撒いたところなのか、陽炎がゆらめいているのが見えた。
そして広大な庭の中央には大きな池があり、多くの鯉が飼われていた。
だが、築庭に作られたその池とは別に、庭の片隅に水生植物が花をつける小さな池があった。
池は、司がつくしと結婚をした年に造られたものであり、出来て5年しか経っていない比較的新しい池だ。だがこれからその池を潰すことになっていた。
そこには、丁度この季節、晩春から秋にかけ水中から花茎を伸ばし、5センチほどの小さな黄色い花をつける『河骨(コウホネ)』が咲いていた。
川や池に多く見られるこの花は、睡蓮科の植物だが睡蓮のような派手さはなく、庭園の池で観賞用に栽培されることも多く、色鮮やかなピンクや紫色の睡蓮と共に、小さな黄色い花が池の一面を覆いつくす様子は、さながら極楽浄土の様相を呈していた。
河骨という名前の由来は、水の底にある根茎が白くゴツゴツとして人の背骨のように見えることから「河」の「骨」とその名が付いているが、泥の中に埋まるように横たわった根を目にすることはない。
二人が結婚したきっかけは、雨に打たれたつくしが熱を出し、肺炎になりかけたことだ。
司はひとり暮らしの彼女を心配し、暫く邸で静養するようにと言った。
彼女はそこまでしてもらう理由はないと断ったが司はそれを許さなかった。
何故なら、彼は彼女の日常を自分のものにしたかったからだ。
司が優しい言葉と真摯な態度で女性と向き合う姿は、今まで女を好きになったことがないと言われていた男の態度とは思えぬほどで、その変わりように邸の人間は驚いた。
信じられないことだが、身体を揺すって笑うことなど無かった男が、彼女の前では笑っていた。
そして、司が女性を邸に住まわせるということがどういう意味を持つのか。
長年この邸に仕える老女は直ぐに理解した。
今まで自分の孫のように可愛がってきた男の背後に見えていたのは、暗い闇だと言われていた。
そんな男が女性を連れて来たのだ。男がその女性を欲していることは明らかだった。
老女は、男の喜びを無上の喜びにしている。だから老女は目を細め、喜んでその女性の世話をした。
人は信頼していた人間から裏切られたとき、そして身体が弱っているとき、自分に対し優しい言葉をかけ、気遣ってくれる人間に対し心を寄せる。傷つき弱った心は守られることを望む。そしてその優しさに心が揺れ始める。
やがて、なだらかな坂道をゆっくりと転がるように彼女の心が司に近づいて来たとき、彼はその心を優しく抱きしめていた。
だが、司は恋人に裏切られたつくしに慰めの言葉をかけながらも、心の中では別のことを彼女に呼び掛けていた。
これは偶然ではない。
これは運命だ。
おまえは俺のものになる運命だと。
そして、ひそやかな欲望の炎を燃やし、人生で最高の贈り物を手に入れていた。
丁度その頃、司の会社の海外事業部に勤務する男が中東で行方不明になっていた。
赴任地から帰国してはいたが、現地に女がいたという噂があり、再び渡航したのではないかと言われていた。そして調べてみれば、確かにその男名義のパスポートで出国した記録が残されており、やはりそうだと社内では言われていた。
中東といった国は複雑だ。部族と民族が複雑に入り組んだ国も多く、宗教的対立も多い。
外国人が迷い込めば二度と戻れないと言われる魔窟ともいえるような場所もある。
そんな国では、政治情勢の不安定さもあり、行方不明になれば探し出すのは容易ではないと言われており、どこか諦めに近いムードが漂っていた。
そして今ではその男のことは、忘れられた存在となっていた。
司は秘書を連れ池の前に立ち、水が排出されていく様子を眺めていた。
「西田。あの男はなんという名前だったか?」
「あの男_でございますか?」
「ああ。あの男だ。海外事業部のあの男だ」
「佐々木と申します」
「そんな名前だったか。あの男は」
司の黒い瞳の奥に不快感が浮かび、水面に鋭い視線を向けた。
「はい。中東で行方不明のまま5年が経ちましたが、恐らく見つかることはないと思われます」
そして西田は、池を見つめ続ける司に静かに言葉を継いだ。
「それにしても、この池に咲く河骨はつくし様のお気に入りでしたが潰すとなればもったいないような気もいたしますが」
「心配するな。俺がつくしを悲しませるようなことをすると思うか?帰国するまでには別の場所に同じような池を作らせる。河骨も移させる。来年の今頃には花を咲かせるようにさせる」
司は煙草を取り出し、長い指に挟み火をつけると、パチンと音を立て、ライターの蓋を閉じた。
それから煙を吐き出すまでの数秒間、聞こえてくるのは池の水を排出するポンプのモーター音。
「それよりタマはなんと言ってる?」
「はい。硬いものを砕き過ぎたそうでミキサーが壊れたと申しておりました」
「そうか。それなら今のものより上等なものを買ってやれ_但し、1台ではなく2台だ。これから砕いてもらうものが増えるからな」
司は池の畔に立ったまま、じっと水面を見つめていたが、その目は気に入らない人間を見下す冷たい目に似ていた。
世の中に愚かな犯罪行為に走る者がいるが、その殆どが罰を受ける。
だが罰を受けない人間もいる。
なぜならこの世には、絶対的な力といったものが存在するからだ。
それは権力というものだ。
だが並大抵の人間が権力を持ったところで、その権力に振り回されるだけだ。
権力は使う人間を選び、権力を持つにふさわしい人間は罰を受けることはない。
そして権力を持つ人間は、どんな勝負にも勝ち続けると決まっている。
それが世の中の暗黙のルールだ。
そして、人に飼われる動物はいつか死ぬ運命にある。
それは、飼い主の判断によって生死が早まるということだ。
それが遅いか早いかは、飼われる人間次第だ。
佐々木という男は司の会社に飼われていた人間だ。
だから、彼の命は司の手の中にあった。
排水ポンプの音が変わり、池の底が見えて来た。
そして河骨の白い根茎が泥の中を縦横に走っている様子が見て取れた。
人間の背骨のように見える白い根茎。
だがその中に明らかに植物とは思えない状態のものがあった。
司の顔に無表情が広がった。
彼は黙ったまま、火のついた煙草を池の中に投げ込むと、ジュと音を立て火が消えた。
罪悪感といったものがあるとすれば、それはいったい何なのか。
それは人によって違うはずだ。
河骨の花言葉は『秘められた愛情』
それは“がく”が花弁やめしべを大切に守る花だからだ。
司のつくしに対しての想いはまさにこの花言葉が当てはまる。
自分が“がく”となり彼女を守るからだ。
そしてもう一つの花言葉は『崇高』
黄色い小さな花を一輪だけつける河骨は、まさにつくしのように凛とした美しさがあった。
それは他に比べるものがないといった司の中の美学的要素と言える気高さだ。
司は欲しかったものを手に入れた。
今、彼の頭の中にあるのは彼女のこと。
彼女の笑顔が見れるならそれでいい。
無表情であっても、彼の心はそうではない。
司が心からほほ笑むのは彼女の前だけ。
司は池に向かって微笑した。
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