2017
07.11

真夏の恋 1

通勤ラッシュの地下鉄で、もみくちゃにされるのはいつものこと。
電車を降りたつくしは、人の流れにそって階段を上がり、地上へと出た瞬間、眩しさに目眩がしそうになった。

今年の夏は例年になく暑い夏になるといった予報が出ているが、まさにその通りだと思った。朝から強い陽射しが照り付け、最高気温は35度を軽く超えると予報されていた。

東京の夏はとにかく蒸し暑い。
高いビルに囲まれたビジネス街は特にそう感じられ、まだ朝だと言うのに、額にはじんわりと汗が浮かんでいた。歩道からは陽射しの照り返しが感じられ、それを防ぐ術もなく、ただ足早に目的地へと向かって行くしかない。

向かうのは、地下鉄の出口から歩いて10分ほどの場所にある大きなビル。
そのビルには何十社もの会社が入り、エレベーターホールは毎朝大勢の人間で混雑していた。それもそのはずだ。どの会社も始業時間は殆ど同じなのだから。

つくしはそのビルの中にある旅行会社で働いていた。
旅行会社といえば、ビルの1階に店舗を構え、店頭に沢山のパンフレットが並べられた店構えを想像するが、彼女が働いているのは一般客には関係のない部署だ。だから1階ではなく、もっと上のフロアにオフィスがある。

旅行会社には、店頭での営業の他に、修学旅行を専門として扱う修学旅行課や、企業の社員旅行などを扱う法人営業課などがある。
つくしは、法人営業課に所属し、コンベンションを専門に営業していた。
コンベンションと言っても、主に教育機関や大学病院が主催し、学者が研究成果を発表する、意見を交換する学術会議の宿泊や交通機関の手配が仕事だった。

宿泊など、個人でインターネットでの予約が当たり前な世の中だが、大会、学会期間中の予約は、全て指定された旅行会社を通さなければ予約が取れないことが殆どだ。
なぜなら、こうした大会や学会は、何年も前からスケジュールが決められており、ホテルの客室はすべて指定された旅行会社が抑えていることが殆どだからだ。
そんなことから、なぜ旅行シーズンでもないのに、ホテルの部屋がひとつもないのか、と不思議に思ったとき、そういったことが考えられる。




つくしは朝から気が重かった。
乗り込んだエレベーターの中で、点滅を繰り返しながら変わる数字に目をやってはいるが、頭の中は別のことを考えていた。それは仕事のことではない。プライベートな問題だ。


それは先週の金曜の夜の出来事だ。
その日、定年後の再雇用で参事補として働いて来た男性が、会社を辞めることになり、送別会が開かれた。

参事補は、言わば社内の困りごと相談係のような立場だった。
つくしはそんな参事補を頼りにしていた。長い間この会社で働いて来た経験と知識は、社内の人間の助けになった。そして営業といった仕事は、人間関係が大切だが、彼女が相手にするのは、社会の中でも高い地位についている人間が多かった。そんな人間との橋渡しをしてくれたのは参事補だ。仕事上のゆきづまりを感じたとき、相談に乗ってくれたのも参事補だ。
そして、会社の第一線からは退いた人間だが、若い後輩へ向ける角の取れた優しさが感じられた。
社内での父親のような存在の参事補の退職は、つくしにとってもだが、他の女子社員からも残念がられていた。

そんな参事補の送別会の二次会が終り、帰ろうとしたところでじゃあ次、と言われ、腕を掴まれバーへ連れて行かれた。




「ねえ・・真理子・・参事補ってどうして辞めちゃうんだろうねぇ・・」

つくしは、隣にいる真理子に残念そうに言った。

「真理子先輩は帰りましたよ。彼氏から電話がかかって来て早く帰って来いって言われたそうですよ?」

つくしの腕を掴み、バーに連れてきたのは、確かに同期入社の真理子だった。だがその真理子はいつの間にかいなくなっていた。

「・・そう。真理子帰ったんだ・・」

つくしは、そう言ってカウンターにうつ伏せた。
真理子が帰ったのなら、自分も帰ろうと思った。一次会は居酒屋で、二次会はカラオケへ行った。そして次がこのバー。だがここが、どこのバーだかさっぱり分からなかった。伏せていた顔を上げ、薄暗い店内を見まわしたが、やはりどこにいるのか見当がつかなかった。
そもそも酒に弱いつくしが、バーに足を運ぶこと自体あまりないと言うのに、分かるはずがない。


そして今、つくしと一緒にこの場所にいるのは、後輩の女性社員が二人。
つくしは、この二人も一緒に帰るなら三人でタクシーを捕まえればいいと考えた。

「牧野先輩!こんなところで寝ないで下さいね?ダメですよ?しっかりして下さい!」

隣にいる後輩の声が耳元で聞こえていたが、つくしは顔を上げなかった。いったい今が何時か分からないが、眠くて仕方がなかったからだ。
そしてそんなつくしを間に挟み、彼女の頭上で交わされる二人の会話が耳に入ると、身体が一瞬ビクリと動いた。

「それよりさっき道明寺司を見かけたの!」
「嘘!あの道明寺司?」
「そうよ!あの道明寺司よ?」
「えーでも道明寺司ってNYでしょ?そんな男がこんなところにいるはずないわよ。それってただのよく似た別人なんじゃない?」
「そうかなぁ・・でも写真で見るのとそっくりだったのよ?」
「そんなの他人の空似よ。あんたあんなにかっこいい人を見間違えるなんて、視力が相当悪いんじゃない?」
「でもここメープルのバーよ?道明寺系列のホテルよ?居てもおかしくないんじゃない?」

「嘘!ここメープルのバーなの?」

つくしは、ここがホテルメープルのバーであると言われ、伏せていた顔を上げると、一瞬にして酔いが醒めた。






弟の進から電話があったのは昨夜。
ぼんやりとテレビを見ていた時だ。

「姉貴、道明寺さんが帰って来るって」

まさか弟の口から彼の名前を聞くとは思わなかった。
つくしは、何を言えばいいのか分からず返答に迷った。
道明寺司は別れた・・・昔の恋人だからだ。






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2017
07.12

真夏の恋 2

後輩二人の会話がぴたりとやんだ。
気のせいか息を呑んだような音もした。スツールに座った二人の身体が半分後ろを向き、視線の先に誰かがいることは感じられた。

つくしは後ろを振り返りたい気持ちを堪え、前を向いたままでいた。
旧約聖書の中にあるソドムとゴモラが滅ぼされるとき、決して後ろを振り返ってはならぬと言った神のお告げに背き、その光景を見たばかりに、塩の柱にされたロトの妻ではないが、振り返ればよくないことが起こりそうな気がしたからだ。
だが、両隣に座る二人は立ち上り、つくしに言った。

「牧野先輩。あ、あたしたち・・お先に失礼します。あ、明日はお休みですから、どうぞごゆっくり・・」

そそくさとつくしの傍を離れて行った代わりに、隣に腰を下ろした男は、つくしの頭に浮かんだ人物。それは、世界的大企業と呼ばれる道明寺HDの後継者であり、副社長である男。



「牧野。久しぶりだな」

つくしは、26歳で司と別れ3年が経っていた。
久しぶりも久しぶり。だがあっと言う間の3年だったことは間違いない。

司とつき合っていた当時のつくしは、店頭営業と呼ばれるハイ・カウンターで当日の航空券や鉄道の乗車券を求める来店客の相手をしていた。ハイ・カウンターは座って接客するロー・カウンターとは違い、常に立ちっぱなしで窓口に立ち、端末を叩く。そして当然だが細かい神経を使う。
時刻表を確認したにもかかわらず、発券した乗車券では、乗り継ぎが出来なかったとクレームと受けたことが一度あった。だがそれ以降は一度もない。勿論それが当然と言えば当然なのだが、社会人一年生だった頃、ミスをし、お客様に怒鳴られ、酷く落ち込んだ時もあった。
だが司と別れ法人営業へ移り、今に至っていた。忙しさと神経の使い方はあの頃とは全く違うが、それでも仕事をしていれば、イライラすることもあれば、泣きたくなることもあった。
そんなつくしは今自分の目の前に現れた男に対し、何を感じているかと言われれば、複雑な思いがある。

別れた理由。
それはこの男の浮気。
付き合い始めた当初、NYと東京の距離が気にならなかったと言えば、それは嘘だ。約束の4年をNYで過ごし、帰国すると思っていた。
しかしその願いはあっけなく覆された。だがそれは仕方のない話しだ。

道明寺財閥の跡取り息子である彼の立場といったものは、公務員や会社務めの人間とは、比べものにならないほどの重責を担っていた。名門大学を卒業し、病の床に臥す父親に代わり采配を振ることを求められ、やがてその期待に沿うだけの人間に成長すれば、高校生の頃と違う生活スタイルが生まれるのはあたり前だ。

そして、NYでの暮らしぶりは、十分過ぎるほど伝わって来た。
当然ゴシップも。初めはそんなことはない。どこかのご令嬢をエスコートし、パーティーへ出かけなければならないのも仕事のひとつだと頭では理解していた。
だが、どこかで嫉妬していた自分がいた。


彼が浮気をしていないことは、分かっている。
そんな人間ではないことは、知っている。
だが一度口をついてしまった言葉を取り消すには、遅すぎた。
頭から否定する彼の言葉を信じることが出来ず、頑なな心で彼を拒否してしまった。
それは、つくしの昔からの悪い癖だ。頑固だと言われることもそうだが、傷付くのが怖かったこともあった。そして、酷い仲違いをしたその日は、彼が久しぶりに日本へ帰国した最後の日。翌日、彼はNYへ戻り、それから会うことはなかった。

あのとき、最後に言われたのは、勝手にしろ。そのひと言だった。
あの頃のつくしには、仕事をしていく上で抱えていた空虚感といったものがあった。
毎日の業務は、自分がやりたい仕事ではないと、不満を感じ始めていた頃だった。
そういった負の感情が、愚痴を言いたい時、聞いてくれない、抱きしめて欲しい時、抱きしめてくれない。やがてそのことが淋しく感じられ、いわれのない事実を聞いた頭は、それを信じてしまっていた。

だから悪いのはつくしだ。
そして、少しでも彼を信じる心を失ってしまった自分を恥じた。
3年前別れを切り出し、それから連絡を取ることもなければ、彼から連絡もなかった。
それは、彼も別れを了承したと言うことだ。だから、もう二度と会うことはないはずだと思っていた。










司はつくしの隣でバーテンにバーボンを注文していた。
カウンターに伏せている彼女を見つけたとき、飲めない酒を飲み過ぎ、酔っぱらった状態だとすぐに気付いた。
社会人になり、付き合い程度は飲めるとしても、許容量といったものは知れていた。
そんな女の両隣にいた若い女性二人は、司に気付くと声を詰まらせたが、指先ひとつで下がらせた。

前を向き、黙ったまま何も答えない彼女に、司は再び口を開く。

「牧野。無視するな」

なかなか振り返ろうとしなかったが、結局振り向くことなく、隣に腰を下ろした男が誰だか分かった瞬間、身体を硬くしていた。そんな女はゆっくりと司の方に頭をめぐらせ、口を開いた。

「相変らず人を驚かすのが得意ね?」

「フン。悪かったな。だが俺は別におまえを驚かそうと思って帰国したわけじゃねぇ」

ただその場にいるだけで威圧感の漂う男は、冷静な口調で言った。

「じゃあいったい何の用があって帰国したのよ?」
3年前と変わらない頑なな口調。
「言っとくけど、あたしはあんたに用はないから」

司は、運ばれてきたバーボンをひと口飲み、片眉をあげ、口を開く。

「おまえ、まだ怒ってんのか?」
彼女が頑なな口調なら、司は非難するような声だ。
「3年も前のことをまだグダグダ言ってんのか?」

「な、何がグダグダよ!あたしは別に3年も前のことなんて気にしてないわよ!」

「へぇ。そうか。3年も経てばおまえも少しは大人の考えが出来ると思たが、あの頃とちっとも変ってねぇんじゃねぇの?」

司は可愛げのない口を利く女の態度を戒めたが、彼女が憮然とした態度でこちらを見ていることに微笑んだ。そして、空気に飢えた男のように、深く息を吸った。

緊迫した数秒が流れ、つくしは、口元に笑みを浮かべる司を上から見下ろしてやろうと、立ち上がった。だがそれは失敗だった。
普段あまり飲みつけないお酒を口にしたばかりに、足元がおぼつかなくなっていた。
それに、脚の長い男が丈高いスツールに腰を掛けていれば、つくしの背は、やっと男の目線と同じ位の高さにしかならず、見下ろすことなど出来なかった。

「おっと・・あぶねぇ」

司は手を差し伸べ、ぐらついたつくしの身体を支え、再びスツールに座らせた。
3年ぶりに触れた彼女の身体。不覚にもその柔らかな感触に顔がほころんでいだ。



二人が出会ってから、いくつも障害はあった。
家柄が違うと言われた二人が、そう簡単に認められるとは考えていなかった。
そんな中、母親から突き付けられた条件をクリアするための努力をし、実績を積み重ね、誰にも文句など言わせないと、4年間をNYで過ごすことを決め、日本を発つ最後の夜。
南の島のコテージで彼女を抱くチャンスを得た。それまで時間をかけ、会話を積み重ね、手を繋ぐことさえ躊躇う彼女を柔らかく抱きしめキスをする。それしか出来なかった。そんな二人に訪れたチャンスだったが、最終的に結ばれたのは、彼女がNYの司の元を訪ねて来た時だ。

それからNYと東京での遠距離恋愛は続いたが、世の中はそう簡単にはいかないことがあることを、司は早くから理解させられていた。そして彼女も社会に出て、それを実感したはずだ。
そんなとき、彼女の口から聞かされた言葉は、何かの間違いではないか。冗談ではないか。そうとしか思えなかった。
それでも、日が経てば彼女の方から連絡があると信じていた。だが一度口に出したことを、簡単に翻ることをしない頑固な性格が災いした。彼女から連絡してくることは、二度となかった。


司にしてみれば何故、彼女がくだらない三流週刊誌の記事を鵜呑みにしたのか。それが信じられなかった。それまでどんなことがあろうが、信じることなどなかったからだ。

司は3年前、つくしが別れようと言ったことで、地獄に突き落とされたように感じていた。
そしてこの3年間その地獄の中で苦しんだ。
だが丁度その頃、会社も新規事業を立ち上げ、多忙を極めていた。そのこともあり、彼女との距離を取ることを選んだ。もちろん、彼女の近況は逐一報告させていた。そして、少し頭を冷やせば、真実は見えてくるはずだと。彼女も冷静な気持ちになると踏んでいた。

だがやがて司にも、彼女の気持ちに巣食った不安といったもの。そして彼女が置かれた立場といったものを知ることになった。

どんなに強い気持ちを持っていたとしても、人は一人では生きていけない動物。
だから番(つが)うことをする。話しを聞いて欲しいとき、聞いてもらえない。傍にいて欲しいとき、傍にいない。抱きしめて欲しいとき、抱きしめてもらえない。
そんな思いが蓄積され、やがて心の底に澱(おり)となって溜まっていったということを理解した。
端的に言えば、ストレスが溜まったということだ。
しかし、そのストレスはとっくの昔に解消されたはずだ。
ただ、勇気がないのは昔から。彼女が踏み出すのを待っていれば、いつになるか分かりはしない。
だから司は帰国した。彼女に会うため。会って彼女自身に自分の気持ちに向き合わせるため。
頑固な女はそうでもしなければ、前へ進むことがないのだから。



「牧野・・。いい加減意地を張るのはやめろ」

カウンターに並ぶ二人のうち、司がつくしの方へ身体を向けているのに対し、つくしは前を向いたままだ。

「あ、あたしは別に意地なんて張ってないわ」

「馬鹿かおまえは。おまえのその態度が意地張ってるって言うんだろうが」

「あ、あたしの態度のどこが意地を張ってるって言うのよ?」

言葉に詰まるのは、緊張の表れだ。

「いつまでたっても俺に連絡しようとしねぇところだ」

「はぁ?誰が?誰に連絡するのよ!言っときますけどね?あたしと、あんたは別れたの!だから連絡するもしないもないでしょう?」

司はつくしの横顔を見ているが、その顔に移ろう表情は、不安定な天気のようにコロコロと変わる。ツンと顎を突き上げるようにしたり、前を睨んだり、急にけわしい顔になったり。
言葉が表情となって現れるのは昔からだったが、どうせならその表情を正面から見せて欲しい。だが依然として彼の方を見ようとはしない。

「・・おまえ・・いい加減にしろ。それとも酔ってんのか?」

「酔ってないわよ!」

と、まるでプライドが傷つけられたように言った女は下唇を噛む。
だが酔っていることは確実だ。そんな彼女の怒った顔も好きだと言える司は、そんなに唇を噛むなと言いたかった。そしてどうせ噛むなら自分に噛ませてくれと言いたいと笑いを堪えた。

「そうか・・酔ってねぇって?・・俺は酔ってるお前も好きだがな」

と、言って司はバーボンを口にした。
彼女が無防備なところに付け込むことはしたくはないが、想いを伝えることを先送りにするつもりはない。

「それより・・い、いったい何よ?何の用があるのよ?」

司はやっとその答えを言うタイミングを得たような気がしていた。
とりあえず言いたいことは言わせる、吐き出させることが先決で、全て吐き出したなら、口は他のことに使えるはずだと言いたい。

「用か?決まってるだろうが。おまえを取り戻しに来た」





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2017
07.13

真夏の恋 3

『おまえを取り戻しに来た』

つくしは、司のその言葉に彼の方を向いた。
すっと細められた男の目は、獲物を狙う黒豹の目だ。

「と、取り戻しに来たって・・な、何よそれ?今のあたしは、誰のものでもないわ。あたしは、あたしのもの。うんうん・・違う。あたしはずっとあたし自身のものよ」

「嘘つけ。おまえは俺のものだ。過去も未来も俺だけのものだろうが」

司の断言する口調に、つくしはカチンと来た。

「そ、そんなことないわ。だって、あたし・・あんたと別れてからお見合いだってしたわ」

本音を言えば、したくてしたのではない。
30歳を前に女性は妙な焦りに囚われてしまうというが、つくしは違った。そんなことを理由に見合いを引き受けたわけではない。
どうしても、と勧められたのは、営業先の大学病院でのこと。
とある学術会議の会長を務める人物が、紹介してきたのは自分の部下の男性だ。

深く考えなくていい。軽い気持ちで会うだけ会ってくれないか。彼は牧野さんのことが気に入ったようだ。そんな言葉を訪問するたび言われ、会わざるを得なくなっていた。
だが相手は大学病院に勤務する30代半ばの医者。そしてつくしはごく普通の会社員。相手の男性はつくしの何を見ていたのか。何を求めていたのか。次に大学病院を訪問し、仲介となった人物から申し訳ないが、と、切り出されたとき、それはそれで良かったと胸を撫で下ろしたのだが、断わりの理由が気に入らなかった。見た目と違って年齢が思っていたより上だったと言われ、ムッとした。
女性の価値を若さだけで量るような男はこちらから願いさげだ。


「おまえ、俺に当てつけのつもりで受けたんだろうが」

司はつくしの3年間を知っている。
彼女がどんな生活を送ってきたのかを。
つくしが言うように、見合いとまではいかないが、そういった場に臨んだことも知っていた。
だがそれは、営業先でのどうしても、といったお願いを引き受けたに過ぎないことも知っていた。そして体よく断られたことも。
だがもし仮に相手が彼女を気に入ったとすれば、大学病院ごとぶっ潰す気持ちでいた。


こうして二人の会話に見え隠れするのは、少しばかりの女としての意地と頑固さ。
強情に引き結ばれた唇は、あの頃と変わらず、まるで高校時代に戻ったように生意気なことを言う。だが今は、その意地の張り具合がちょうどいいと感じられた。
その方が彼女らしいからだ。

だが今思うのは、二人きりになった時、その意地の張り具合がどこまで継続されるかということだ。司は3年も待った。今はもう彼女のペースに合わせるつもりはない。それに彼女の言い分はどうでもいい。今、隣にいる彼女が何を考えていようが関係ない。
司は彼女が欲しかった。



「おまえは俺が浮気なんてしてねぇってことはとっくに分かってたはずだ。それなのにそれを認めようとしない。それにおまえはあんな三流週刊誌の記事を信じるような女じゃねぇだろうが。おまえは俺と別れるだなんて言ったが、俺はそれを認めてねぇからな。俺もあの頃は仕事が忙しくておまえのことを構ってやれなかったのは、悪かった。だけどな、俺はおまえ以外の女に目を向けたことなんて一度もねぇからな!」

司は、3年前喧嘩別れてのような形で日本を去った自分と、今の自分は違うと思っている。
あの時は、彼も仕事のプレッシャーがあった。そして彼にしてみれば、唯一無二の存在であるつくしから信じてもらえないことに、失望ではないが、どこか心の中にあきらめに似た気持ちがあった。だから勝手にしろ、と言ってしまった。

あのとき、彼女の頑なさが癇に障ったが、同じような想いは二人が高校生の頃にもあった。
それは、彼女には彼女の、司の知らない、司には言えない気持ちがあるということだ。
だがそれは司にも言えた。司には司の、彼女が知らない、彼女には言えない気持ちがある。
それは男と女なら誰しもが持つ気持ちの一部であることは否めなかった。


だが今の司が自分の気持ちを切り替えるのに、時間はかからなかった。
二人が離れ離れになっていることが、決していいとは言えないことも分かっている。
3年という年月が流れたが、その歳月が二人をすれ違わせていくとは思えない。
司の心はいつもつくしにあった。距離が互いの言いたい、伝えたい言葉を遮るなら、二人の間にある距離を無くせばいい。
だからこそ彼女を取り戻しに来た。
彼女の心を。

まだ彼を思っているはずの彼女の心を。


「なあ。牧野・・あの頃の俺とおまえはすれ違うことが多かった。NYと東京の距離を承知で付き合い始めたが、淋しいこともあったのは分かる。俺も同じだった。だから俺たちは3年前少しの時間を設けただけだ。俺は別れたなんて思っちゃいねぇからな」

司は空になったグラスを置き、バーテンに手指のサインだけで注文を伝えた。

「もう一度言うが、おまえは俺に裏切られた、傷つけられたと思ったんだろうが、俺は裏切ったことは一度もねぇ。・・傷つけたってのは・・違う意味でそう感じさせたことがあったかもしれねぇけど、これから先は絶対そんなことはないと断言できる」

別れを決めた理由は、週刊誌の記事だと言ったが、それは違うはずだ。
彼女の心の中には、司に言えない何かがあった。
その一番最たるものは、傍にいないということだと分かってはいる。
だから涙をこぼし、笑顔を忘れたことがあったということも分かっている。

「しかし、意外だったな」

司の片眉が上がった。

「な、何が意外なのよ?」

「何がって、おまえが見合いなんてものを引き受けたこと」

司はニヤッと笑った。

「う、うるさいわね・・。いいじゃない!あ、あたしだってお見合いくらいしてみたいわよ!」

苛立った彼女は、司を真っ直ぐ見つめたが、ツンと上げた顎は意地っ張りの証拠。

「ま、おまえも社会経験として一度味わっとくのもいいんじゃねぇの?何しろ俺は高校生の頃、滋と見合いをしたからな。つまり俺とおまえの立場は、前以上に対等。これであいこってことだ」

二人の間に隠し事はしない。それが遠距離恋愛の鉄則と言われるが、今まで、距離が互いの想いを伝えきれなかったことは確かだ。だがこれからは、距離を感じさせるつもりはない。

司はバーテンと視線を合わせ、つくしの前に置かれたグラスに目線を落す。

「こいつのグラス、下げてくれ。それから水を_」

と、言った途端、つくしはグラスを掴み、黄色い中身を飲み干した。
グラスの中身はシャンパンカクテルのミモザ。
新鮮なオレンジを絞った果実が混ざったジュースと、シャンパンをほぼ半々に混ぜたものだが、それを一気に飲み干した女は、すでに酒に酔っていた。そして許容量はとっくに超えていた。これから先がどうなるか。それは司でなくとも目に見えてわかるはずだ。

「おまえ、カクテルってのは一気に飲むもんじゃねぇぞ?それにおまえ、飲みすぎだろうが。自分がどれだけ酒に弱いか分かって飲んでるのか?」

「う、うるさいわね・・ほっといてよッ!」

と、投げやりな口調で吐く息は、酔っ払いの出来上がりを表していた。








司は、酔っ払いの面倒を見るつもりでいた。
彼にとって、彼女ほど可愛らしい酔っ払いはいないのだが、アルコールを飲み慣れていないガキの頃、かなり酔って司の胸に嘔吐したことがあった。あの日のことは、今でも鮮明に覚えているが、大人になった今ではそんなことはないはずだ。
だが、どうやら司の考えは、大きな思い違いとなりそうな予感がした。

「・・ねぇ・・気持ち・・悪い・・もう家に帰る・・」

と、隣の席で呟いた女に当たり前だろうが。と言いたいところをグッと堪え、司はしょうがねぇなぁと呟き、酩酊状態に近い女を抱え上げ、メープルにある自室へ向かった。

司は思った。
意地っ張りの女をやっとこの腕に抱けて幸せだと。
懐かしい身体の重みと、柔らかな感触。そして生意気なことを言うその唇が、まるで司の口づけを待っているように思えた。本当は身体のそこかしこにキスをしたい思いがある。
だがそんな彼の想いを知ってか知らぬか、女は司の側頭部を手でひっぱたいた。

「イテッ!」

思わず上がった声だが、叩いた酔っ払いは無意識の行動だったのか、目を閉じ、浅い呼吸を繰り返していた。

「・・ったく・・相変わらずだな。おまえは」

司は、彼女を抱く腕を強めた。普段の彼女は、暴力を振るうような女ではない。
だが今は、腕を振り回そうが、脚で蹴られようが、きつく抱きしめ決して離しはしない。
どんな彼女でも愛おしく思える。それが酒臭かろうが、酩酊状態の女だろうが、構わなかった。

司はアルコールの匂いのする唇にキスをした。

司にとって3年ぶりの彼女の唇は、酒臭さは別として、柔らかく、暖かかった。






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2017
07.14

真夏の恋 4

見えない心が傷ついていたとしても、当然だが他人はその心を見ることは出来ない。
だからこそ、言葉で自分の思いを伝えることが重要なはずだ。
それがどんなに遠く、どんなに距離があったとしても、今の世の中、簡単に伝えることが出来るはずだ。そして、どんなに小さな声だろうと、司は彼女の言うことなら聞き取る自信があった。しかし、言葉にしなければ伝わることがない。

だが、今の司には彼女の心の中が見えていた。
本当の彼女の心の中は、自分を求めている。
何を根拠にと問われても、答えようがないが、軽い口論をしたとき、その表情に浮かんだのは、こともなげに言った見合いをしたかった、の言葉とは裏腹の後ろめたさのようなものがあった。


社会人となった二人が大きな喧嘩をしたのは、記事が出たあの時だけ。
あの時、大きな瞳が不安を湛え、司を見た。そしてその瞳からは感じたのは、揺れる彼女の想い。
司は彼女に対し、いつも筋の通った話しをしてきたつもりだ。だがそんな男の話が言い訳のように感じてしまったのか。そうだとすれば、今ではビジネスに欠かせない主要な言語を自由に操る男も、最愛の人に対し、ビジネスの延長のように接してしまったということになる。
仕事に追われ、余裕の無かった男は、知らぬ間にビジネスライクな感情を前面に出してしまっていた。



司の腕の中に抱えられた柔らかな身体。
そして胸板に感じる胸のふくらみ。一度も染めたことのない艶のある黒髪。
強情な線を描くが、柔らかく、暖かい唇。その全てが今彼の腕の中にあった。
本当ならすぐにでもこの身体を抱きたい思いがあるが、今はこの腕の中の重みを楽しむことしか出来そうにない。


司が部屋のドアを開けた途端、腕の中で動いた身体。
眠っている女は無意識のうち、司にしがみつくような形になっていたが、ベッドまで運び、膝を着き、そっと降ろす。そのとき口から漏れたつかさ・・と己の名を呼ぶ声。だが顔をしかめているのは、着ているスーツが苦しいからか、それからしきりと身体を動かしていた。

司は彼女が着ているスーツの上着とスカートを脱がせた。
だが、それ以上脱がせることはしない。その代わり、彼女の後ろに横たわり、背後からその身体を抱きしめた。

今夜はこうすることが目的で彼女に会いに来たのではない。
二人の歩いて来た道をひとつにし、もう決しておまえを一人にしないと言うために来た。
明日を約束する言葉を、それ以上の未来を約束する言葉を口にするために来た。
だが、そこへたどり着く前に気分が悪いと言い出した。

今のこの状況は、司にとっても苦しい状況だ。
愛している、抱きたい女が腕の中にいるが、抱けないといった状況。
遠い昔、何度か味わった蛇の生殺しといった状況が再びといった感じだ。

今夜の目的が達成されたとき、最終的には二人してベッドの上にたどり着くつもりだった。そしてそのことに自信があった。だがこの腕に抱かれて寝息を立てる女は、いつも俺の想いを簡単に裏切る。いや。裏切るのではない。気づかないだけだ。

付き合い始める前、女としての自分に自信がなかった彼女は、何故、自分が俺に気に入られたのかとしきりと気にしていた。当時の司にとって彼女は、眩しいほど輝いていた存在。その笑顔を向けて欲しいと望み、追いかけてやっと手に入れた。

あの頃、まだいかにも子供っぽかったそんな女も、年齢を積み重ねていけば、大人の女性として美しく開花した。
男を見下ろしてやろうとばかりに、スツールから降りるとき、ずり上がったスカートから覗いた脚の白さに一瞬目を奪われた。3年ぶりに会った女の、何気ない振る舞いに、身体の熱は高まる一方だ。


「・・ったく・・飲みすぎなんだよ・・これからだってのに何考えてんだよ。・・おまえは俺がいなかったらどうするつもりだったんだ?」

まさに最後のあの一杯でノックアウトされた彼女の思考。
ホテルのバーで女が一人で酩酊状態となれば、良からぬことを考える男がいてもおかしくない。そして、酔っ払い女は、一度こうなれば朝まで目覚めることはない。
そんな女に、朝目覚めたとき、誰だか知らない男のベッドの上にいる自分の姿を考えたことがあるのかと言ってやりたい。

今までそんなことが無かったのは、司が常に彼女の様子を監視させていたこともあった。それに、今のように酩酊するまで飲むことはなかった。自分の限度といったものを、わきまえていた。だが、目の前のグラスを掴み、一気に飲み干すといった行為は、自分がいるからこその行為だと考えたい。俺の前だから安心して飲めるといった気持ちの表れだと思いたい。


「・・元恋人だって思ってんなら、そんな男の前でこんなになるまで飲む女がいるか?」

声に出してひとりごちた司は、ため息をついた。

「・・ったく・・自立した女気取ってんなら、もう少し先のことを考えろ」

まるで彼の声が聞えたように、司の腕の中で、かすかに身じろぎする身体。
抱きしめた手が、胸のふくらみと細い腰のラインとの間にあるが、胸に触れることは出来なかった。意識のない女の身体をどうこうしようなど、はなから考えては無い。だが、中途半端に手を出してしまったばかりに、自らに拷問を与えてしまっていた。

酒を一気に煽った女の愚かな振る舞いを戒めたが、自分の今の状況も全く同じではないか。
まさにそれは天国にいながら、地獄の苦しみを味わう男の心境だ。
下腹部に集まる血液の流れは、止まることなく一点に向かって流れて行く。それは互いの理性を吹き飛ばすことが出来る存在。だが、今の司は、ただ静かに彼女を抱きしめることに集中した。

腕の中に抱きしめた身体の温もりは、司にとって最高に寝心地のいい抱き枕だ。
いや。抱き枕ではない。最愛の人だ。
抱きしめて、キスして、そして愛し合いたい。

けれど、腕の中の女の息遣いが一定の間隔になれば、眠りが深まったことが感じられた。

やがて、司にも眠りが下りてくれば、目を閉じ、彼女と同じリズムで深い眠りに落ちていた。










不承不承だが幸せな眠りについたはずの司は、目が覚めたとき、広いベッドの上で枕に顔を埋めていた。どこにいるのか思い出す必要もないメープルの自室。だが、腕の中に抱きしめ眠りに落ちた女は、隣にはいなかった。
ガバッと起き上ったが、やはり彼女の姿はない。

「クソッ!!逃げたか」

これでは、まるで高校時代と同じだ。
逃げる女を追う構図は、あの頃の二人の定番だった。
だが、今の司は自分の欲求だけを追求する男ではない。
彼女と愛し合うようになり、本当の自分を見つけることが出来たのだ。
ただ我儘だった少年時代は、とっくの昔に捨てた。
そして、その時同時に分かったことがある。自分が本当に幸せになりたいなら、本当に欲しいものを知り、それだけを求める男にならなければ、手に入れることが出来ないということを。


司にとって何が一番欲しいものか。
今更それを問う必要などない。
昔も今も、それは彼女だけ。
牧野つくしという女が欲しいだけだ。





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2017
07.15

真夏の恋 5

つくしが深い眠りから覚めたとき、隣に寝ていた男にギョッとした。
別れたはずの男のベッドに、それも、その男の腕に抱かれていた。

NYから来た男がおまえを取り戻しに来たと言ったとき、心の中で嬉しさが湧き上がっていた。だが口をついて出た言葉は、素直ではなかった。

つくしは、自分自身の性格が、神経質過ぎるところがあると感じていた。
いつも一人でああでもない、こうでもない、と他人のことに気を配り、挙句の果てにくよくよと考え、弱気になったり、勝手に寂しくなったりしていた。
もっと若い頃の自分は、そんな性格ではなかったはずだ。とつくしは思う。
だが遠い昔、彼と付き合いを始めると宣言したが、撤回したこともあった。

だがそんなつくしに対し、いとも簡単に行動に移すことが出来るのが、道明寺司という男だ。昔からそうだった。先を読む、石橋を叩いて渡るといったことはなく、感傷に浸るといった言葉が無縁のような強靭さを持ち、余計なことは考えるなといった態度でつくしを引っ張って行った。そして今、またその行動力が発揮される時が来たということだ。

そんな男から見れば、今のつくしは、支離滅裂に思えるはずだ。
今のつくしは、素の自分を前面に出すことが下手な女だ。
事実、心の中は矛盾だらけだ。

別れたはずの男の胸に抱かれ眠る女。
それは、3年前の根拠のない不安に襲われた結果の別れを引きずってない女の行動。
彼が来てくれたことが嬉しいくせに、差し出されたその手を素直に取ることが出来ない気持ちの表れだ。素直にゴメン。変な誤解をして。と言って彼の胸に飛び込めばいいものを、それが出来ないからこうして悩んでいた。

あの頃は二人の間に距離があった。それは心の距離ではなく、物理的な距離。
だが心の距離もいつの間にか存在していたのかもしれない。
しかし今なら互いの心が届く場所にいる。同じ街の、同じ空の下に。


「・・あたし、何してんだろ・・」

あれから3年。
3年しか経ってないのか、それとももう3年経ったのか。
どちらにしても3年ぶりに会った男は、変わっていない。

ホテルの部屋で目覚めたとき、身体に回されていた腕をそっと解き、ベッドの端へと身体を移し、そっと足を下ろすとクローゼットにかけてあったスーツを掴み、まるで悪戯が見つかるのを恐れた子供のように慌ててバスルームへ入って行った。

身支度を整え、恐る恐るバスルームの扉を開いたが、彼が起きている様子はなく、背を向け横たわっていた。疲れていたのだと思う。恐らく昨日、帰国したばかりで会いに来てくれたはずだ。それは3年前までもそうだった。忙しい身体で日本に戻ると、必ず最初の夜に会いに来てくれた。身体が疲れたといった言葉を口にすることはなく、心が疲れたといった様子も感じさせない男だった。だが、それはつくしの彼に対する思い込みだったのかもしれない。
いつも、彼女の前では、そんな素振りを感じさせることがなかった男だったから。

週刊誌の記事なんて嘘だと分かっていたが、最後の夜、喧嘩をし、勝手にしろと言われ傷ついた。多分、あのとき、彼のその言葉の前に、彼の言葉を遮るようなことを言ってしまったのだと思う。だから彼は勝手にしろと突き放すように言った。

あの頃、自分の仕事にゆきづまりを感じ、誰かに聞いてもらいたかった。
毎日の業務は、自分がやりたい仕事ではないと、不満を感じ始めていた頃だった。
そんな時、久しぶりに会った彼のぬくもりを感じたかった。
いつも当然のように与えられていた愛情を感じたかった。
だが口論したばかりに、それが感じられなかった。
自分を大切に、大事に想っていてくれることが、当たり前だと考えていた。そして彼からの優しさを当然のように受け取っていた。だから勝手にしろと言われ、ショックだった。

どちらの愛が強いかといえば、彼の方だと思っていた。
二人の愛のバランスは、いつもつくしが優位に立っていた。
つまり、つくしは彼の優しさに浸かり切っていたため、あの日の彼の態度に勝手に傷ついていた。
いつもなら、相手を思いやることが当たり前だったが、その気持ちが失われていた。


甘えていたのだ。

彼の優しさに。






今日は土曜だ。本来なら休日は、普段出来ない用事を済ませ、掃除をし、食料品の買い出しに出掛け、それから部屋でのんびりと過ごすのが定番だ。
だが1人で部屋にいると、どうしても彼の事ばかり考えてしまう自分がいた。
だからこうして外へ出た。

特にどこかへ行こうと思ったわけではない。だからといって目的もなく街をぶらつくといったことをしたいとは思わなかった。それならと思い付いたのは、近くの公園だ。
春は池のほとりの桜が水面にその姿を映し、夏は木々の緑が鮮やかさを増し、清々しい空気が楽しめる公園。木々が多いため、木陰も多く、ベンチで風を感じながら休むことも出来る。


7月の空は、珍しく朝から雲が多かったが、午後になり、その雲が空全体に広がってきた。ただでさえ蒸し暑い東京の夏。やがて空気が重い湿気を含んだように変わり、今にも雨が降り出しそうになっていた。

傘を持たずに出たが、この季節の雨は、スコールのように降り注ぎ、すぐに止むことが多い。
まるで熱帯の国のような気候だと言われるようになった東京の夏。
もし、長い時間降り注ぐなら、どこかで雨宿りでもすればいい。公園の近くには、セルフサービスのコーヒーショップもある。

今年のNYの夏は、やはり暑いのだろうか。
だが日本と違うのは、ここまで湿度が高くないということだ。
つくしがNYを訪れたのは、二度。一度目は高校生の頃、真冬のNYだった。
そして二度目は、二人が大学生だった秋。そのとき初めて彼に抱かれた。



大きな交差点に差し掛かると、案の定雨が降り始めた。
傘を持たないつくしは、降り始めた雨に濡れていた。だがまだ雨足は弱い。信号は赤だ。このまま信号が変わるまで待って進むか、それとも引き返すか。コーヒーショップはこの交差点の向うにある。

周りでは傘の花が咲き初め、交差点の向うには、一組の男女が1本の傘に収まっている姿があった。互いの身体に腕を回し、その姿は堂々としていた。別にそれが悪いといった訳ではないが、見ている方が恥ずかしく感じられることもあった。なぜなら、その男女は交差点の向うで唇を重ね合わせていたから。


やがて信号が変わり、コーヒーショップを目指し、つくしは横断歩道を渡り始めた。
同じように向う側から歩いて来る男女は、楽しそうに笑っていた。歩幅の大きな男性が歩みを緩め、彼女の足許を気遣い歩く姿は、見ていて羨ましいと感じてしまっていた。

周囲を気にすることなく、唇を重ね合わせ、互いの身体に腕を回し歩く姿は、世間のしがらみなど何も感じさせることがない明るさが感じられた。恐らくまだ20代前半の男女だ。彼らの明るさが眩しく、羨ましいと思った。
そして自分達にもあんな頃があったと懐かしく思った。


交差点を渡り切り、右に曲がった。信号が変わり、車道は車の往来が始まっていた。
雨は徐々に粒が大きくなり始めていた。だが走ることはしなかった。慌てたところで、交差点で信号が変わるのを待つ間にすでに濡れているのだから今更だ。そして暫く歩くと、目的地であるコーヒーショップが近づいて来た。

すると、一台の車が彼女の視線の斜め前に止った。
それは大きな車で、三車線ある車道のうちの一車線を完全に塞いでいた。周囲の迷惑など考えないその行為に、後続車からクラクションが鳴らされてもおかしくないはずだが、鳴らされることはなかった。何故なら、ロングボディの黒の大型車に乗る人物の素性を考えたとき、むやみやたらとクラクションを鳴し、何かあってはと考えるのが普通だからだ。

そして中から長身の男が差しかけられた傘の下、降りてくるのが見えた。
周囲の視線を全く意識しない堂々とした姿。高級そうな黒の靴は、雨に濡れたところで一向に構わないといった様子だ。高級そうではない。高級なのだ。つくしは、その靴が彼女の一か月分の給料以上の値段がすることを知っていた。そしてその男のスーツも、ネクタイも、左手首にいつも嵌められている金の時計も、全てが彼だけの為に作られたものであることを知っていた。




「・・牧野。やっと見つけた。まあおまえの行きそうな場所は頭の中にあるから簡単だがな」

と言った司は、つくしの頭上に傘を差しかけた。

「おまえ、傘も持たずに出かけたのか?朝から天気が悪かっただろうが。・・ったく手間のかかる女だな」

1本の傘に男女が収まる姿は、横断歩道ですれ違ったあの男女を彷彿させた。
互いの身体に腕を回し、唇を重ねていたあの二人に。

「・・で、牧野。おまえ、気持ちの整理はついたのか?」

勝手に寂しくなった女の気持ちの整理。
そんな女は、まるで今まで毎日会っていたように男に頷いた。

そんな女に対し、にやっ、と笑みを浮かべた男。

「そうか。ま、それならそれでいい。・・それより早く車に乗れ。いくら夏だからって雨に濡れてるのがいいわけねぇからな」

雨脚が強くなり、もうこれ以上雨に濡れることがないようにと、司は、つくしの肩をしっかりと抱き、車へと促した。
かすかにこわばった華奢な肩。だがそれは一瞬のことだ。

大きな傘は彼女の上だけに差しかけられ、高級なスーツの肩を濡らす雨は激しくなっていたが、司は気にはしなかった。遠い昔、二人は雨が降る夜、別れた時があった。
あのとき、やはり傘もささずにいた彼女に、早く車に乗れと言ったことがあった。
だが、彼女が車に乗ることはなく、二人はあの日別れを経験した。

「それにしてもおまえは気持ちの整理をつけるのに、どんだけ時間がかかるんだ?いいか?言っとくがおまえのその我儘に付き合える男は俺くらいなもんだ。・・・まあ。おまえのその強情さは今に始まったことじゃねぇってのは分かってるつもりだ。だいだい真面目な人間ほど柔軟性に欠けるってのがある。けど俺たちは4年っていう長い時間を離れて過ごした経験がある。それに俺には、おまえの為ならどんなことでも乗り越えられる自信がある」

司は高校生の頃、追いかけて、捕まえて、やっと手に入れた女を離すつもりはない。
あの頃も離れたことがあった。でも彼の元へ戻った。そして高校を卒業と同時に離れた。
だが二人は、気持ちだけは決して離れないと誓った。そんな男の、一途な気持ちはあの頃と変わることもなく、これから先も決して変わることはないと断言できる。

「いいか?牧野。おまえは俺の性分は分かってるはずだ。俺は一度こうと決めたことは、どんなことがあっても守る。昔言ったはずだ。俺はおまえのためならどんなことでもしてやるってな。それに俺はおまえ以外欲しくねぇし、他の女なんか目に入ったこともねぇ。その辺を歩いてるのは、犬か猫くれぇにしか思ってねぇ。だから犬や猫はその仲間内で相手を探せばいい。間違っても俺の傍には近寄らせねぇ。だいいち俺は犬も猫も苦手だ」

離れて、近づいて、そして離れたが、彼女以外欲しくない。
そして司の口はいつも真実しか伝えない。司はやっと自分の気持ちが彼女に伝わったと感じていた。身長差があり、傘をさしているため顔は見えなくとも、どんな気持ちでいるか感じることが出来た。彼女も司と同じで、彼女には彼しかいないと思っていると。


二人は、運転手がドアを開けて待つ車に乗り込んだ。

「なあ牧野。俺たちは同病相憐れむじゃねぇけど、俺もこの3年間すげぇ惨めだったんだぞ?」

つくしの方へ身体を向け、彼女の鼻先へ顔を近づけ言った言葉は、低い声を響かせるように愚痴めいた言い方だが、どこかあっけらかんとした口調だ。
だがそれは、彼女に負い目を感じさせないための気遣いだとつくしは思った。だからつくしは、3年前のことに後ろめたさと恥ずかしさを感じ、小さな声でしか返事を返すことが出来なかった。

「・・あたしだってそうよ」と。

途端、司の唇がつくしの唇に重なった。

それは、もうこれ以上の言葉は必要ないと言っていた。

今はただこの腕の中に大人しく抱かれてくれと、熱い思いを受け取ってくれと、司の唇は、ただそれだけを伝えていた。






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