海が見えるこの街に暮らすようになって2年が経つ。
一年中晴れた日が多く、雨も少なく風も穏やかで寒さは厳しくない。
全国的に坂の街と言われる場所は多いが、この場所もそうだ。
多くの映画やドラマや文学の舞台になったことがある坂の多い街。古い神社や寺も多いが、全国的に有名になったのは映画の影響が大いきかもしれない。そんな影響からか観光客は、年間670万人も訪れると言うが、宿泊していくことはない。ここは小さな街で、一日いれば十分観光できるからだ。瀬戸内海に面した街、尾道とはそういった街だ。
この街は街全体が坂というわけではない。だがお気に入りは坂の上から見る景色だ。
坂を登り切り、てっぺんから見下ろせば、きらきらと光る海が見える。ただ、海といってもそこは対岸に見える島とこちら側に挟まれ狭くなっている部分で、海峡ではなく水道といわれ、船などの通り道で川のように見える海だ。そしてそんな海を横切るように対岸の島まで船が出ているが、たった5分ほどの船旅は、日本で一番短い船旅とも言われていた。
そんな海を大きさが異なる様々な船が行き交う様子を見ることが出来る坂の上。
日暮れになると残照を浴びた船は、白い船体を輝かせることがあるが、水面がきらきらと輝く夕映えはなんとも言えず郷愁を誘う。都会に暮らしていた人間には見る事ができない景色が広がるここは、穏やかな時間がゆっくりと流れて行く場所だ。
だが瀬戸内という場所は全く縁のない土地だ。
親戚もいなければ、知り合いも全くいない縁もゆかりもない場所。
そんな場所に暮らすようになった理由は仕事のためだ。
つくしの仕事はこの街にある企業保養所の管理人だ。
以前東京の親会社の総務で働いていたが、長年その施設で働いていた人が辞めたことをきっかけに今の仕事についた。
住まいはこの街に住む事に決めたとき、不動産屋に条件を伝え探してもらった。
今まで一軒家に住んだことがなかったから、この街に暮らすことになったとき、条件さえ合えば一軒家に暮らしてみたいと思っていた。そして紹介されたのは、坂の街らしく少し急な坂道の途中にある古い日本家屋を改装した家。昭和の時代に建てられた家の間口は狭いが、奥行きはそこそこあり狭いが庭もついていた。
坂の途中にある家というのは、日当たりがよく、そして風の通りがいい。
窓を開け放てば、川のような海から潮を含んだ風が部屋の中を通り過ぎていくのが感じられる。
心地よい風が。
そしてこの街には、東京という大都会にはなかった穏やかな時間があった。人もそんな時間に合わせたような、のんびりとした人が多いと感じられた。
それはもちろん、都会とは時間の流れが違うからだとわかっている。電車に乗るにも都会のようにひっきりなしに来るわけでもなく、朝夕の通勤時間帯を除けば、本数は少なかった。
別に遠くの街まで出かけようという気があるわけではないが、管理人という仕事柄、車が必要となることがあった。けれどペーパードライバーの私は、都内で運転をしたことがなかった。だがこの街に来てから必然的に車の運転をすることになった。
車は坂を下った場所に会社が借りてくれた駐車場があり、そこへ駐車している。
そして、その場所から坂の途中にある家まで荷物を運ぶことになるのだが、健康で足腰が丈夫な人間なら問題ないが、年を取れば上ることが辛いと感じられるようになるだろう。
事実、坂の途中にあるこの家も、以前の持ち主は老婦人だったという。そんなこともあり、年齢的にもう坂道の上り下りは辛いといって去ったそうだ。
だがこの街はこの坂があるからこそ情緒がある。そしてどこか懐かしさを感じさせる街だ。
もしふる里があるとしたら、こんな街なら毎年のように帰省したくなるはずだ。
はじめての地方暮らしは、思いの外、楽しかった。
東京にいた頃と違い何かに追われているといった切迫感がない。時の流れはどこの街にいても同じはずだが、この街の海と風が東京とはどこか違う時の流れを感じさせる。
そんな街に住んで良かった。仕事とはいえ今ではそう思っている。
現地の人間を雇ってもいいが、そこで働きたいと手を挙げたのはつくしだ。
あんな田舎に行くなんて本当にいいの?いい場所だけど東京で生まれ育った人間には田舎過ぎるんじゃない。そんなことを言われたが気にならなかった。
なぜなら東京を離れたいと思っていたから。だからこれがいいきっかけになると思った。
それに家族はもう東京にはいない。
両親は既に亡くなり、弟は海外にいる。
友人はいるが、多くない。
幼馴染みの女性は結婚し、遠い場所で暮らしていた。
彼女とは幼いころから仲がよく、それは成長しても変わらなかった。中学までは同じ学交に通ったが、高校に上がるとき、初めて別の道を歩むことになった。
彼女は今どうしているのか。結婚してすぐ子供を授かった友人。
ラジオから流れる懐かしい曲に耳を傾け、部屋の掃除をしていたとき手に取った年賀状が、過去を呼び覚ましていた。
振り返ってみれば、その子供もそろそろ高校を卒業するはずだ。
それとも、もう卒業してしまっただろうか?
毎年やり取りする年賀状も、年と共に印刷されたものに取って代わっていったが、おざなりにならないようにと、ひと言手書きで添えられる言葉も当たり障りのないものになっていた。
『いつか会いたいね、つくし』
そんな言葉が毎年手書きで書かれてはいるが、もう何年も会った試しがない。
だが、それでも良かった。それが互いの元気でいる証拠だから。
例え何年も会えなくても・・・・。
彼女とは会いたいと電話をし、都合をつければいつでも会えるはずだ。
行動さえ起こせば会える。
彼女とは・・・。
部屋の真ん中で座り込み、どのくらい時間が過ぎたのだろうか。
箪笥の上に置かれた時計は知らぬ間に時を刻んでいた。
そんなつくしの前にひとりの青年が現れたのは、庭に植えられた黄色いモッコウバラのアーチがゆらゆらと揺れる風の強い日だった。
開け放たれた窓の外に人の気配を感じていた。
暫くして玄関のチャイムが鳴る音がした。
立ち上って玄関に向かい鍵を開け、ドアを開けた。
するとそこに居たのは男性だ。背が高く、黒いスーツに身を包み立っている。
若く見えるが、大人の雰囲気は充分ある。
「牧野さんですよね?・・牧野つくしさんですよね?」
開口一番名前を呼ばれ、知り合いだったかと思いを巡らしたが、すぐに思い出すことが出来ずにいた。
「・・・あの・・どちらさまですか?」
考えたがやはり目の前に立つ人物には記憶がない。
整った目鼻立ちに、均整のとれた体型。そしてやけに落ち着いたその姿は、人の上に立つ人間が持つ独特の雰囲気を纏っていた。
「あの・・新聞の勧誘なら、間に合ってます」
「いえ。僕は新聞の勧誘員ではありません。僕は西園寺・・西園寺恭介と言います」
・・西園寺。
この街には古い寺が多いが、その中のひとつだろうか。だが近くにそんな寺はないと記憶している。それとも記憶違いだろうか。だが考えたが心当たりはなかった。
「・・・西園寺さん?ごめんなさい・・あの、保養所をご利用された方ですか?」
そう思ったのは、西園寺と名乗った青年の言葉が東京の人間の喋り方だと気付いたからだ。
そして頭を過ったのは、保養所を利用して何かあったのではないかということだ。
それにしても、わざわざ管理人の自宅を訪ねて来るということは、余程重大な問題でもあったのだろうか?だが自宅の住所をどうやって調べたのか。会社が簡単に教えるはずがない。そう思うと青年の行動が不審に思えた。
「いえ。保養所は利用したことはありません。僕はつい最近までNYで暮らしていて、東京へは2ヶ月前に戻って来たんです。ですからこちらへ来たのは初めてでして、あなたにお会いするのも今日が初めてです」
「・・そうですか・・それで・・いったいどういったご用件でしょう?」
保養所の利用者でなければ、この青年はいったい何者なのか?
そんな思いが通じたのか、青年はひと呼吸置いたあと再び口を開いた。そして、上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「僕は探し物があってこの街に来ました。これ、牧野さんのですよね?」
差し出されたのは小さな箱。
黒いベルベッドに覆われた高級そうな箱は、かつてつくしの手元にあったものとよく似ていた。
「どうして僕がこれを持っているのかと思っていますよね?・・牧野さん。東京に戻って来てくれませんか?」
じっとこちらを見つめる青年の瞳はどこかで見たことがあり、懐かしさを感じさせるものがあった。黒い双眸は切れ長で睫毛長い。今は穏やかさをたたえた目だが、その瞳が鋭く他人を見ることもあるはずだ。
そんな瞳を持つ人間は、相手が躊躇しようが関係なく、ぐいぐいと引っ張っていくタイプの人間だ。そしてその視線は、自信と余裕を感じさせ、拒むことを許さないといった視線。
揺るぎない態度といったものを持ち合わせた青年の視線。
つくしはそんな人間を過去に一人だけ知っていた。

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全国的に坂の街と言われる場所は多いが、この場所もそうだ。
多くの映画やドラマや文学の舞台になったことがある坂の多い街。古い神社や寺も多いが、全国的に有名になったのは映画の影響が大いきかもしれない。そんな影響からか観光客は、年間670万人も訪れると言うが、宿泊していくことはない。ここは小さな街で、一日いれば十分観光できるからだ。瀬戸内海に面した街、尾道とはそういった街だ。
この街は街全体が坂というわけではない。だがお気に入りは坂の上から見る景色だ。
坂を登り切り、てっぺんから見下ろせば、きらきらと光る海が見える。ただ、海といってもそこは対岸に見える島とこちら側に挟まれ狭くなっている部分で、海峡ではなく水道といわれ、船などの通り道で川のように見える海だ。そしてそんな海を横切るように対岸の島まで船が出ているが、たった5分ほどの船旅は、日本で一番短い船旅とも言われていた。
そんな海を大きさが異なる様々な船が行き交う様子を見ることが出来る坂の上。
日暮れになると残照を浴びた船は、白い船体を輝かせることがあるが、水面がきらきらと輝く夕映えはなんとも言えず郷愁を誘う。都会に暮らしていた人間には見る事ができない景色が広がるここは、穏やかな時間がゆっくりと流れて行く場所だ。
だが瀬戸内という場所は全く縁のない土地だ。
親戚もいなければ、知り合いも全くいない縁もゆかりもない場所。
そんな場所に暮らすようになった理由は仕事のためだ。
つくしの仕事はこの街にある企業保養所の管理人だ。
以前東京の親会社の総務で働いていたが、長年その施設で働いていた人が辞めたことをきっかけに今の仕事についた。
住まいはこの街に住む事に決めたとき、不動産屋に条件を伝え探してもらった。
今まで一軒家に住んだことがなかったから、この街に暮らすことになったとき、条件さえ合えば一軒家に暮らしてみたいと思っていた。そして紹介されたのは、坂の街らしく少し急な坂道の途中にある古い日本家屋を改装した家。昭和の時代に建てられた家の間口は狭いが、奥行きはそこそこあり狭いが庭もついていた。
坂の途中にある家というのは、日当たりがよく、そして風の通りがいい。
窓を開け放てば、川のような海から潮を含んだ風が部屋の中を通り過ぎていくのが感じられる。
心地よい風が。
そしてこの街には、東京という大都会にはなかった穏やかな時間があった。人もそんな時間に合わせたような、のんびりとした人が多いと感じられた。
それはもちろん、都会とは時間の流れが違うからだとわかっている。電車に乗るにも都会のようにひっきりなしに来るわけでもなく、朝夕の通勤時間帯を除けば、本数は少なかった。
別に遠くの街まで出かけようという気があるわけではないが、管理人という仕事柄、車が必要となることがあった。けれどペーパードライバーの私は、都内で運転をしたことがなかった。だがこの街に来てから必然的に車の運転をすることになった。
車は坂を下った場所に会社が借りてくれた駐車場があり、そこへ駐車している。
そして、その場所から坂の途中にある家まで荷物を運ぶことになるのだが、健康で足腰が丈夫な人間なら問題ないが、年を取れば上ることが辛いと感じられるようになるだろう。
事実、坂の途中にあるこの家も、以前の持ち主は老婦人だったという。そんなこともあり、年齢的にもう坂道の上り下りは辛いといって去ったそうだ。
だがこの街はこの坂があるからこそ情緒がある。そしてどこか懐かしさを感じさせる街だ。
もしふる里があるとしたら、こんな街なら毎年のように帰省したくなるはずだ。
はじめての地方暮らしは、思いの外、楽しかった。
東京にいた頃と違い何かに追われているといった切迫感がない。時の流れはどこの街にいても同じはずだが、この街の海と風が東京とはどこか違う時の流れを感じさせる。
そんな街に住んで良かった。仕事とはいえ今ではそう思っている。
現地の人間を雇ってもいいが、そこで働きたいと手を挙げたのはつくしだ。
あんな田舎に行くなんて本当にいいの?いい場所だけど東京で生まれ育った人間には田舎過ぎるんじゃない。そんなことを言われたが気にならなかった。
なぜなら東京を離れたいと思っていたから。だからこれがいいきっかけになると思った。
それに家族はもう東京にはいない。
両親は既に亡くなり、弟は海外にいる。
友人はいるが、多くない。
幼馴染みの女性は結婚し、遠い場所で暮らしていた。
彼女とは幼いころから仲がよく、それは成長しても変わらなかった。中学までは同じ学交に通ったが、高校に上がるとき、初めて別の道を歩むことになった。
彼女は今どうしているのか。結婚してすぐ子供を授かった友人。
ラジオから流れる懐かしい曲に耳を傾け、部屋の掃除をしていたとき手に取った年賀状が、過去を呼び覚ましていた。
振り返ってみれば、その子供もそろそろ高校を卒業するはずだ。
それとも、もう卒業してしまっただろうか?
毎年やり取りする年賀状も、年と共に印刷されたものに取って代わっていったが、おざなりにならないようにと、ひと言手書きで添えられる言葉も当たり障りのないものになっていた。
『いつか会いたいね、つくし』
そんな言葉が毎年手書きで書かれてはいるが、もう何年も会った試しがない。
だが、それでも良かった。それが互いの元気でいる証拠だから。
例え何年も会えなくても・・・・。
彼女とは会いたいと電話をし、都合をつければいつでも会えるはずだ。
行動さえ起こせば会える。
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部屋の真ん中で座り込み、どのくらい時間が過ぎたのだろうか。
箪笥の上に置かれた時計は知らぬ間に時を刻んでいた。
そんなつくしの前にひとりの青年が現れたのは、庭に植えられた黄色いモッコウバラのアーチがゆらゆらと揺れる風の強い日だった。
開け放たれた窓の外に人の気配を感じていた。
暫くして玄関のチャイムが鳴る音がした。
立ち上って玄関に向かい鍵を開け、ドアを開けた。
するとそこに居たのは男性だ。背が高く、黒いスーツに身を包み立っている。
若く見えるが、大人の雰囲気は充分ある。
「牧野さんですよね?・・牧野つくしさんですよね?」
開口一番名前を呼ばれ、知り合いだったかと思いを巡らしたが、すぐに思い出すことが出来ずにいた。
「・・・あの・・どちらさまですか?」
考えたがやはり目の前に立つ人物には記憶がない。
整った目鼻立ちに、均整のとれた体型。そしてやけに落ち着いたその姿は、人の上に立つ人間が持つ独特の雰囲気を纏っていた。
「あの・・新聞の勧誘なら、間に合ってます」
「いえ。僕は新聞の勧誘員ではありません。僕は西園寺・・西園寺恭介と言います」
・・西園寺。
この街には古い寺が多いが、その中のひとつだろうか。だが近くにそんな寺はないと記憶している。それとも記憶違いだろうか。だが考えたが心当たりはなかった。
「・・・西園寺さん?ごめんなさい・・あの、保養所をご利用された方ですか?」
そう思ったのは、西園寺と名乗った青年の言葉が東京の人間の喋り方だと気付いたからだ。
そして頭を過ったのは、保養所を利用して何かあったのではないかということだ。
それにしても、わざわざ管理人の自宅を訪ねて来るということは、余程重大な問題でもあったのだろうか?だが自宅の住所をどうやって調べたのか。会社が簡単に教えるはずがない。そう思うと青年の行動が不審に思えた。
「いえ。保養所は利用したことはありません。僕はつい最近までNYで暮らしていて、東京へは2ヶ月前に戻って来たんです。ですからこちらへ来たのは初めてでして、あなたにお会いするのも今日が初めてです」
「・・そうですか・・それで・・いったいどういったご用件でしょう?」
保養所の利用者でなければ、この青年はいったい何者なのか?
そんな思いが通じたのか、青年はひと呼吸置いたあと再び口を開いた。そして、上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「僕は探し物があってこの街に来ました。これ、牧野さんのですよね?」
差し出されたのは小さな箱。
黒いベルベッドに覆われた高級そうな箱は、かつてつくしの手元にあったものとよく似ていた。
「どうして僕がこれを持っているのかと思っていますよね?・・牧野さん。東京に戻って来てくれませんか?」
じっとこちらを見つめる青年の瞳はどこかで見たことがあり、懐かしさを感じさせるものがあった。黒い双眸は切れ長で睫毛長い。今は穏やかさをたたえた目だが、その瞳が鋭く他人を見ることもあるはずだ。
そんな瞳を持つ人間は、相手が躊躇しようが関係なく、ぐいぐいと引っ張っていくタイプの人間だ。そしてその視線は、自信と余裕を感じさせ、拒むことを許さないといった視線。
揺るぎない態度といったものを持ち合わせた青年の視線。
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午後の陽射しの中、長い坂道を上った。
あと少しで家に着く。
その道中考えていた。
2日前訪ねて来た西園寺恭介と名乗った青年の話を。
「東京に戻って来てくれませんか?」
晴れた午後に訪れた青年の言葉に心がざわめいた。
「この箱を持って現れた僕のことを誰だと思っていますよね?自己紹介が中途半端にならないうちにお話しておきます。僕の母は西園寺椿と言います。こう言えばもうお分かりですよね?・・道明寺司は僕の叔父にあたります。つまり僕は彼の甥です。僕がここに来たのは、あなたに叔父と会って欲しいからです」
答える言葉が見つからず、つくしはただ黙って話しを聞いていた。
玄関先でのこの話しは、いったいどこへと向かうのか。突然現れたあの人の甥と名乗る青年は、途切れることなく話を継いだ。
「突然現れた僕のこと疑ってますよね?僕が本当に椿の息子であるかどうか。・・でもあなたは簡単に人を信じると聞いてますからもう信じていますよね?・・それに僕は叔父に似てると言われることが多いんですよ?・・あなたもそう感じているのではないですか?」
青年の言葉は、少し前まで感じていた思いを確かなものに変化させていた。
道明寺椿の息子であり、あの人の甥。確かに似ている。そして過剰な自意識とまでは言わないが、青年は自分が叔父に似ていることを自負していると感じられた。それにしても、息子ではなく甥だというのに、こんなにも似てくるものだろうか。少し微笑んだように見える顔は、やはりあの人に似ている。屈託のない笑顔で笑っていたあの人に。
ふとしたはずみで男女の身体が入れ替わる。
そんな映画がこの街を舞台に作られたことがあったが、青年の姿は時空を超え、若い頃のあの人が目の前に現れたように感じられた。見れば見るほどあの人に見えてくる。目の前の青年があの人であるような錯覚を覚えてしまう。そしてあの人の匂いまで感じられるようだ。
もう何年前になるだろうか。
当時高校生だったつくしは、道明寺司と恋におちた。
まるで奇跡のようだと言われた二人の恋。
きっかけは、友人が彼に理不尽な言いがかりをつけられたことだ。
その瞬間スイッチが入った。何のスイッチかといえばそれは正義感。相手が誰であろうと関係なかった。それが学園を牛耳る男だったとしても。
道明寺財閥の一人息子と世間一般によくある家庭に育った少女の恋。
立場が違い過ぎるのは、はじめから分かっていた。だが、気持ちを抑えることは出来なかった。二人の前には、多くの困難が待ち受けていることは、分かっていた。よくある話しだが、立場が違い過ぎることが二人の仲を裂く。そんなこともあったが二人はそれを乗り越えた。
「もちろん牧野さんが会いたくないと仰るなら無理にとは言いません。ですが出来れば会って欲しいんです」
二人は確かに乗り越えた。立場の違いを。
そんな二人が求めたのは小さな幸福だった。だが相手が財閥の跡取り息子となると、そう簡単にはいかなかった。
人生が大きく動いたのは、26歳の時だ。
あの子と別れて欲しいの。そう言って来たのは彼の母親だ。その態度はどこか申し訳なさそうに、あなたからあの子にそう言って欲しいの。と言葉を継いだ。
財閥の経営が思わしくない。そう告げられ財閥のため、そこで働く従業員のため、選択しなければならない時が来たと言われた。
その先の話は聞きたくはなかったが、彼の母親は言った。
「息子が結婚することで、財閥の将来が救えるの。だから別れて欲しいの」
彼に別ればなしをするのは二度目だ。
一度目は高校生の頃。まだ二人が幼く、自分たちのことだけを考えていればよかったと思える世間に対する甘さがあった頃。だがそれでも、自分たちの周りの人間に迷惑をかけることは避けたいと、それなりの努力はしたつもりだった。
だから、あの頃の別れは仕方のない選択だったはずだ。
そして二度目の別れは、一度目よりもっと辛かった。
彼に嫌ってもらう別れ方をするために、再び演技をしなければならなかったからだ。
メープルの1階にあるコーヒーラウンジで待ち合わせをし、別れて欲しいと告げた。
普段から忙しい彼は、日本にいることが少なかった。その間に好きな人が出来た。
他に好きな人が出来た。あなたと付き合いながらその人とも付き合っていたと告げた。
だが、そんな言葉で簡単に納得する人ではなかった。それは既に一度経験した嘘と同じだと感じたのだろう。あの雨の日の別れ『あんたを好きならこんな風に出て行かない』と言った言葉が嘘だと知ったのと同じように。
あの時、さよならと呟いて席を立ちラウンジを出た。そしてすぐさまトイレに駆け込み、蓋を閉めた便器に腰をおろし泣いた。何故、男をふった女が泣かなければならないのか。そう思ったが、涙が後から後から溢れ止まらず、30分近くそのまま泣き続けていた。
「牧野さんと叔父が付き合っていたことは母から聞いています。・・今更だと思われるかもしれませんが分かっています。二人が別れた事情については母から聞かされましたから。それもこれも財閥のごたごたが原因だったということも。そしてそんな中、牧野さんが選んだ道も」
選択しなくてはいけなかったのは、彼の方だったのかもしれない。
だが彼の人生で選択出来るものは少なかった。そんな中にいたつくしは、その選択肢の中から姿を消すことを選び、暫く海外で暮らした。
そして、彼もどこか思うことがあったのだろう。社会に出れば、人生が自分ひとりのものではないと、理解できるようになっていた。ただ若さだけで突っ走る勢いといったものは、年月と共に失われていってしまったのかもしれなかった。
お互いに大人の選択をしたあの日。それからは、わき目もふらず生きてきた。
そしていずれ別れたあの日のことは、忘れて行くだけのはずだった。
「それから今の叔父は一人ですから。・・ご存知だと思いますが2年前に離婚しました。それからです。帰国したのは」
つくしが東京を離れると決めたのは2年前。
道明寺司がNYから帰国すると聞いたからだ。
同じ街にいれば、聞こえて来ることもある。耳にしたくないこともある。
だから遠く離れたこの街での仕事を希望した。ここなら東京の噂が耳に入ることはない。
地方紙の新聞はこの街の日常を伝えるが、遠い街で暮らす男の動向を伝えることはない。
だがふと、思い出すこともあった。
聞えて来る音が、時にあの人の事を伝えて来た。テレビのニュースで流れる経済ニュースは、嫌でもあの人のことを思い出させる。その名前を聞くたび胸を過る思いがあった。だが、胸の扉を開くことはしなかった。
もうあの人とは、別れたのだ。
二度と会うつもりはないと。
そう心に決めていた。

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あと少しで家に着く。
その道中考えていた。
2日前訪ねて来た西園寺恭介と名乗った青年の話を。
「東京に戻って来てくれませんか?」
晴れた午後に訪れた青年の言葉に心がざわめいた。
「この箱を持って現れた僕のことを誰だと思っていますよね?自己紹介が中途半端にならないうちにお話しておきます。僕の母は西園寺椿と言います。こう言えばもうお分かりですよね?・・道明寺司は僕の叔父にあたります。つまり僕は彼の甥です。僕がここに来たのは、あなたに叔父と会って欲しいからです」
答える言葉が見つからず、つくしはただ黙って話しを聞いていた。
玄関先でのこの話しは、いったいどこへと向かうのか。突然現れたあの人の甥と名乗る青年は、途切れることなく話を継いだ。
「突然現れた僕のこと疑ってますよね?僕が本当に椿の息子であるかどうか。・・でもあなたは簡単に人を信じると聞いてますからもう信じていますよね?・・それに僕は叔父に似てると言われることが多いんですよ?・・あなたもそう感じているのではないですか?」
青年の言葉は、少し前まで感じていた思いを確かなものに変化させていた。
道明寺椿の息子であり、あの人の甥。確かに似ている。そして過剰な自意識とまでは言わないが、青年は自分が叔父に似ていることを自負していると感じられた。それにしても、息子ではなく甥だというのに、こんなにも似てくるものだろうか。少し微笑んだように見える顔は、やはりあの人に似ている。屈託のない笑顔で笑っていたあの人に。
ふとしたはずみで男女の身体が入れ替わる。
そんな映画がこの街を舞台に作られたことがあったが、青年の姿は時空を超え、若い頃のあの人が目の前に現れたように感じられた。見れば見るほどあの人に見えてくる。目の前の青年があの人であるような錯覚を覚えてしまう。そしてあの人の匂いまで感じられるようだ。
もう何年前になるだろうか。
当時高校生だったつくしは、道明寺司と恋におちた。
まるで奇跡のようだと言われた二人の恋。
きっかけは、友人が彼に理不尽な言いがかりをつけられたことだ。
その瞬間スイッチが入った。何のスイッチかといえばそれは正義感。相手が誰であろうと関係なかった。それが学園を牛耳る男だったとしても。
道明寺財閥の一人息子と世間一般によくある家庭に育った少女の恋。
立場が違い過ぎるのは、はじめから分かっていた。だが、気持ちを抑えることは出来なかった。二人の前には、多くの困難が待ち受けていることは、分かっていた。よくある話しだが、立場が違い過ぎることが二人の仲を裂く。そんなこともあったが二人はそれを乗り越えた。
「もちろん牧野さんが会いたくないと仰るなら無理にとは言いません。ですが出来れば会って欲しいんです」
二人は確かに乗り越えた。立場の違いを。
そんな二人が求めたのは小さな幸福だった。だが相手が財閥の跡取り息子となると、そう簡単にはいかなかった。
人生が大きく動いたのは、26歳の時だ。
あの子と別れて欲しいの。そう言って来たのは彼の母親だ。その態度はどこか申し訳なさそうに、あなたからあの子にそう言って欲しいの。と言葉を継いだ。
財閥の経営が思わしくない。そう告げられ財閥のため、そこで働く従業員のため、選択しなければならない時が来たと言われた。
その先の話は聞きたくはなかったが、彼の母親は言った。
「息子が結婚することで、財閥の将来が救えるの。だから別れて欲しいの」
彼に別ればなしをするのは二度目だ。
一度目は高校生の頃。まだ二人が幼く、自分たちのことだけを考えていればよかったと思える世間に対する甘さがあった頃。だがそれでも、自分たちの周りの人間に迷惑をかけることは避けたいと、それなりの努力はしたつもりだった。
だから、あの頃の別れは仕方のない選択だったはずだ。
そして二度目の別れは、一度目よりもっと辛かった。
彼に嫌ってもらう別れ方をするために、再び演技をしなければならなかったからだ。
メープルの1階にあるコーヒーラウンジで待ち合わせをし、別れて欲しいと告げた。
普段から忙しい彼は、日本にいることが少なかった。その間に好きな人が出来た。
他に好きな人が出来た。あなたと付き合いながらその人とも付き合っていたと告げた。
だが、そんな言葉で簡単に納得する人ではなかった。それは既に一度経験した嘘と同じだと感じたのだろう。あの雨の日の別れ『あんたを好きならこんな風に出て行かない』と言った言葉が嘘だと知ったのと同じように。
あの時、さよならと呟いて席を立ちラウンジを出た。そしてすぐさまトイレに駆け込み、蓋を閉めた便器に腰をおろし泣いた。何故、男をふった女が泣かなければならないのか。そう思ったが、涙が後から後から溢れ止まらず、30分近くそのまま泣き続けていた。
「牧野さんと叔父が付き合っていたことは母から聞いています。・・今更だと思われるかもしれませんが分かっています。二人が別れた事情については母から聞かされましたから。それもこれも財閥のごたごたが原因だったということも。そしてそんな中、牧野さんが選んだ道も」
選択しなくてはいけなかったのは、彼の方だったのかもしれない。
だが彼の人生で選択出来るものは少なかった。そんな中にいたつくしは、その選択肢の中から姿を消すことを選び、暫く海外で暮らした。
そして、彼もどこか思うことがあったのだろう。社会に出れば、人生が自分ひとりのものではないと、理解できるようになっていた。ただ若さだけで突っ走る勢いといったものは、年月と共に失われていってしまったのかもしれなかった。
お互いに大人の選択をしたあの日。それからは、わき目もふらず生きてきた。
そしていずれ別れたあの日のことは、忘れて行くだけのはずだった。
「それから今の叔父は一人ですから。・・ご存知だと思いますが2年前に離婚しました。それからです。帰国したのは」
つくしが東京を離れると決めたのは2年前。
道明寺司がNYから帰国すると聞いたからだ。
同じ街にいれば、聞こえて来ることもある。耳にしたくないこともある。
だから遠く離れたこの街での仕事を希望した。ここなら東京の噂が耳に入ることはない。
地方紙の新聞はこの街の日常を伝えるが、遠い街で暮らす男の動向を伝えることはない。
だがふと、思い出すこともあった。
聞えて来る音が、時にあの人の事を伝えて来た。テレビのニュースで流れる経済ニュースは、嫌でもあの人のことを思い出させる。その名前を聞くたび胸を過る思いがあった。だが、胸の扉を開くことはしなかった。
もうあの人とは、別れたのだ。
二度と会うつもりはないと。
そう心に決めていた。

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「東京に・・東京に戻って来てくれませんか?」
執拗に東京に戻ることを訴える青年。
穏やかな語り口だが、目にこもる力強さは母親である椿のものだと感じた。
そして、それは彼の目と同じだと。
だが何故そんなに東京に来てくれというのか。理由が知りたかった。
それはもちろん彼の叔父についてだということは分かる。しかしはっきりとした理由が告げられることなく、来いと言われても返答に困る。ましてや戻ることなど考えてもいなかった。
今の仕事が気に入っていることもあるが、ベランダで鉢植えを育てるより庭のある一軒家を借り、花を育てることが楽しく感じられ、海の見えるこの街が好きになっていた。そして都会にはないのんびりとした雰囲気が気に入った。
だからこの街をふる里にしてもいいとさえ思い始めていた。
「仕事のことなら理解しています。牧野さんが責任感の強い人だということも母から聞いて知っています。・・それから頑固なところもあると・・。僭越ですが僕の方で仕事については代わりになる人間を手配させて頂きました。こんな強引なやり方をすると、牧野さんが嫌がるのは分かっています。でもこうでもしなければ仕事を放って東京に来るなんてことは出来ませんよね?」
椿の息子であり彼の甥である青年は、彼ら二人の強引さを受け継いでいた。
やはりあの家の人間は、そういった資質を備えて生まれてくるのだろうか。
人の上に立ち、そして強引ながらも引っ張っていく力が備わっている。
そしてそのことに有無を言わせることなく、物事を運ぶ力があるのもあの家の人間なら出来るはずだ。
「牧野さん。聞いて下さい」
青年は穏やかな表情でつくしを見つめていた。
だが次に口をついた言葉は穏やかさとは縁がないものだった。
「叔父は病気なんです。だから帰国したんです。だからあなたに戻ってきて欲しいんです。叔父に会って欲しいんです」
青年の言葉が途切れ、沈黙が流れ始め、つくしが口を開こうとしたその瞬間、彼は言った。
「叔父は・・・癌です」
青年は自分の言葉に目の前の女の動揺の気配を見たのだろう。
いきなり驚かせてしまって申し訳ないとあやまった。そしてそれから話を継いだ。
「結論から言います。叔父はあまり長くは生きられません。勿論このことを世間は知りません」
それから青年はふっつりと口をつぐんだまま暫くつくしの顔を見つめた。
やがて再び口を開くと、言葉を選びながらも話はじめた。
「15年前、叔父はあなたと別れたとき、大腸にポリープがあるのを知っていました。ほんの初期だったそうです・・だからあなたが別れて欲しいと言ったとき、形ばかりの抵抗をしたがあっさりと別れた・・。そうですよね?でもどうしてあの叔父があっさりとあなたと別れたか不思議に思いませんでしたか?」
青年の眼差しが訴えかけるようにつくしを見た。
だがその目はどこか非難するようにも感じられた。
あの叔父が。
その言葉の意味は勿論わかっている。この青年は過去二人の間に何があったのかを母親から聞いたのだろう。
決して諦めることなく執拗につくしを求めた男が、彼女に他に男が出来た。好きな人がいるといった言葉だけで簡単に別れるはずがないと。
それから青年は少し表情を変え、つくしの顏をじっと見つめたまま暫く黙っていた。答えを求められているのは分かっていた。だがつくしは答えられなかった。青年の背後から差し込む光は明るく暖かいはずだが、何故かその場所はひんやりとした空気に包まれてしまったかのように感じられた。
「それはあなたに迷惑をかけたくなかったからです。自分が病気になったことであなたに迷惑をかけたくないとの気持ちからです。・・祖母があなたに別れて欲しいと言ったのは、偶然です。祖母は叔父が病に侵されているとは知らなかったそうです」
青年の声は低く柔らかく、事実を冷静に淡々と伝えていた。
そして、少し間を置きはしたが、躊躇うことなく言葉を継ぐ。
「あの当時叔父は病気を大変気にしていたそうです。あなたに迷惑がかかると。でも自分から別れてくれとは言い出せなかった。・・あなたを深く愛していたから。だからあなたから別れを告げられたとき、その話に乗ったんです。あなたが本当に別れて欲しいと思っているなら、そうするべきだと。そうすれば、自分がこの世からいなくなったとしても、あなたは叔父のことを嫌いで別れたんですから、心に残ることはないと思ったんです」
数秒間の沈黙を挟み、青年はつくしの目をしっかりと見据え言った。
「勿論ご存知ないと思いますが、あなたと別れてから除去手術を受け、その後の経過は良好でした。年に一度の健康診断を自らに義務づけ、あれから異常は見当たりませんでした。ですが、リスクは常にありました。そしてつい最近の検査で肺に影があるのが分かりました。検査の結果、肺癌だと診断されたんです。・・肺に転移が見つかったんです」
つくしはただ黙って聞いていた。
表面上は落ち着いて見えたかもしれない。だがそれは余りにも突然のことで感情の起伏といったものが凍結されてしまったようになっていたからだ。見慣れた玄関が急に狭く感じられ、鼓動の高鳴りが激しくなり、青年にまで聞こえるのではないかと感じられた。
頭の中は、青年の言葉を理解しようとするも、すぐに理解出来ずにいた。だが何度か一つの言葉を反芻すると理解した。
彼の叔父である男は病魔に侵されている、と。
「叔父は知っています。・・告知されましたから。それに自分の死期を知っておくことは重要だと思っています。あの叔父はああ見えて几帳面なところがあるんです。自分がいなくなったあと、何をして欲しいかといったことを僕に伝えました。・・・その中にこのネックレスのことがあったんです。これをあなたに渡して欲しいと・・」
青年から語られる言葉は淡々とだったが、その言葉の中に感じられるのは、叔父を想う気持ち。そしてつくしを真っ直ぐに見つめる瞳は、伝えることで義務を果たそうといった気持ち。
それはまるで彼の母親である女性が弟を案ずる気持ちを代弁しているのではないか。
そう思えるほどだ。
あの頃、彼の姉である女性が言った。
ごめんなさい・・・と。
その言葉の意味は、道明寺の家のためにごめんなさい。といった意味が込められていることは理解できた。
「・・牧野さん・・」
西園寺恭介は名刺を一枚取り出すと、裏に数字を書き込んだ。
「これ、僕の携帯の番号です」
つくしは並んだ数字に目を落した後、顔を上げ青年の顔を見た。
「牧野さん、お願いです。東京に戻って来て下さい。もし、それが無理なら訪ねて来てくれるだけでもいいんです」
礼儀正しくそつがない青年は、その日の最終便の飛行機で東京に戻ると言っていた。
そして名刺と一緒に手渡されたのは東京までの航空券が数枚。
いつ乗っても大丈夫ですからと、まるでプライベートジェットのように1週間分の席が確保されていた。
つくしは航空券を見つめ、次いで受け取った名刺の表を見た。
そこに印刷されていたのは西園寺恭介の名前。
そして、道明寺ホールディングス専務の肩書だった。

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執拗に東京に戻ることを訴える青年。
穏やかな語り口だが、目にこもる力強さは母親である椿のものだと感じた。
そして、それは彼の目と同じだと。
だが何故そんなに東京に来てくれというのか。理由が知りたかった。
それはもちろん彼の叔父についてだということは分かる。しかしはっきりとした理由が告げられることなく、来いと言われても返答に困る。ましてや戻ることなど考えてもいなかった。
今の仕事が気に入っていることもあるが、ベランダで鉢植えを育てるより庭のある一軒家を借り、花を育てることが楽しく感じられ、海の見えるこの街が好きになっていた。そして都会にはないのんびりとした雰囲気が気に入った。
だからこの街をふる里にしてもいいとさえ思い始めていた。
「仕事のことなら理解しています。牧野さんが責任感の強い人だということも母から聞いて知っています。・・それから頑固なところもあると・・。僭越ですが僕の方で仕事については代わりになる人間を手配させて頂きました。こんな強引なやり方をすると、牧野さんが嫌がるのは分かっています。でもこうでもしなければ仕事を放って東京に来るなんてことは出来ませんよね?」
椿の息子であり彼の甥である青年は、彼ら二人の強引さを受け継いでいた。
やはりあの家の人間は、そういった資質を備えて生まれてくるのだろうか。
人の上に立ち、そして強引ながらも引っ張っていく力が備わっている。
そしてそのことに有無を言わせることなく、物事を運ぶ力があるのもあの家の人間なら出来るはずだ。
「牧野さん。聞いて下さい」
青年は穏やかな表情でつくしを見つめていた。
だが次に口をついた言葉は穏やかさとは縁がないものだった。
「叔父は病気なんです。だから帰国したんです。だからあなたに戻ってきて欲しいんです。叔父に会って欲しいんです」
青年の言葉が途切れ、沈黙が流れ始め、つくしが口を開こうとしたその瞬間、彼は言った。
「叔父は・・・癌です」
青年は自分の言葉に目の前の女の動揺の気配を見たのだろう。
いきなり驚かせてしまって申し訳ないとあやまった。そしてそれから話を継いだ。
「結論から言います。叔父はあまり長くは生きられません。勿論このことを世間は知りません」
それから青年はふっつりと口をつぐんだまま暫くつくしの顔を見つめた。
やがて再び口を開くと、言葉を選びながらも話はじめた。
「15年前、叔父はあなたと別れたとき、大腸にポリープがあるのを知っていました。ほんの初期だったそうです・・だからあなたが別れて欲しいと言ったとき、形ばかりの抵抗をしたがあっさりと別れた・・。そうですよね?でもどうしてあの叔父があっさりとあなたと別れたか不思議に思いませんでしたか?」
青年の眼差しが訴えかけるようにつくしを見た。
だがその目はどこか非難するようにも感じられた。
あの叔父が。
その言葉の意味は勿論わかっている。この青年は過去二人の間に何があったのかを母親から聞いたのだろう。
決して諦めることなく執拗につくしを求めた男が、彼女に他に男が出来た。好きな人がいるといった言葉だけで簡単に別れるはずがないと。
それから青年は少し表情を変え、つくしの顏をじっと見つめたまま暫く黙っていた。答えを求められているのは分かっていた。だがつくしは答えられなかった。青年の背後から差し込む光は明るく暖かいはずだが、何故かその場所はひんやりとした空気に包まれてしまったかのように感じられた。
「それはあなたに迷惑をかけたくなかったからです。自分が病気になったことであなたに迷惑をかけたくないとの気持ちからです。・・祖母があなたに別れて欲しいと言ったのは、偶然です。祖母は叔父が病に侵されているとは知らなかったそうです」
青年の声は低く柔らかく、事実を冷静に淡々と伝えていた。
そして、少し間を置きはしたが、躊躇うことなく言葉を継ぐ。
「あの当時叔父は病気を大変気にしていたそうです。あなたに迷惑がかかると。でも自分から別れてくれとは言い出せなかった。・・あなたを深く愛していたから。だからあなたから別れを告げられたとき、その話に乗ったんです。あなたが本当に別れて欲しいと思っているなら、そうするべきだと。そうすれば、自分がこの世からいなくなったとしても、あなたは叔父のことを嫌いで別れたんですから、心に残ることはないと思ったんです」
数秒間の沈黙を挟み、青年はつくしの目をしっかりと見据え言った。
「勿論ご存知ないと思いますが、あなたと別れてから除去手術を受け、その後の経過は良好でした。年に一度の健康診断を自らに義務づけ、あれから異常は見当たりませんでした。ですが、リスクは常にありました。そしてつい最近の検査で肺に影があるのが分かりました。検査の結果、肺癌だと診断されたんです。・・肺に転移が見つかったんです」
つくしはただ黙って聞いていた。
表面上は落ち着いて見えたかもしれない。だがそれは余りにも突然のことで感情の起伏といったものが凍結されてしまったようになっていたからだ。見慣れた玄関が急に狭く感じられ、鼓動の高鳴りが激しくなり、青年にまで聞こえるのではないかと感じられた。
頭の中は、青年の言葉を理解しようとするも、すぐに理解出来ずにいた。だが何度か一つの言葉を反芻すると理解した。
彼の叔父である男は病魔に侵されている、と。
「叔父は知っています。・・告知されましたから。それに自分の死期を知っておくことは重要だと思っています。あの叔父はああ見えて几帳面なところがあるんです。自分がいなくなったあと、何をして欲しいかといったことを僕に伝えました。・・・その中にこのネックレスのことがあったんです。これをあなたに渡して欲しいと・・」
青年から語られる言葉は淡々とだったが、その言葉の中に感じられるのは、叔父を想う気持ち。そしてつくしを真っ直ぐに見つめる瞳は、伝えることで義務を果たそうといった気持ち。
それはまるで彼の母親である女性が弟を案ずる気持ちを代弁しているのではないか。
そう思えるほどだ。
あの頃、彼の姉である女性が言った。
ごめんなさい・・・と。
その言葉の意味は、道明寺の家のためにごめんなさい。といった意味が込められていることは理解できた。
「・・牧野さん・・」
西園寺恭介は名刺を一枚取り出すと、裏に数字を書き込んだ。
「これ、僕の携帯の番号です」
つくしは並んだ数字に目を落した後、顔を上げ青年の顔を見た。
「牧野さん、お願いです。東京に戻って来て下さい。もし、それが無理なら訪ねて来てくれるだけでもいいんです」
礼儀正しくそつがない青年は、その日の最終便の飛行機で東京に戻ると言っていた。
そして名刺と一緒に手渡されたのは東京までの航空券が数枚。
いつ乗っても大丈夫ですからと、まるでプライベートジェットのように1週間分の席が確保されていた。
つくしは航空券を見つめ、次いで受け取った名刺の表を見た。
そこに印刷されていたのは西園寺恭介の名前。
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青年が用意していた席は、プレミアムクラスという国際線でのビジネスクラスに相当すると言われる座席。チェックインは専用カウンターで済ませ、航空会社のラウンジも利用でき、優先搭乗も出来る。広い座席は女性にとっては十分な大きさで、隣の席ともプライバシーが保てるようになっており、簡単な食事も付いていた。
青年にしてみればごく当然の座席も、つくしにしてみれば贅沢な座り心地がした。
その席の1A。客室一番前の左窓側の席が用意されていた。前方は壁になっていて、小さな液晶画面がはめ込まれていた。その画面を通し、あと何キロで羽田に着くといった数字が表示され、東京までのカウントダウンを刻んでいた。
広い世界の中でも大都会と呼ばれる東京へと向かう航空機は、高度1万メートルの晴れた空を東へと飛行を続けているが、窓から見える空はどこまでも繋がっていて、あの街へも続いている。
遠い昔、彼を追いかけて行ったあの街。
NYに行ったのは、あの時の一度だけ。
その当時の寂しい気持ちが甦った。
彼が別れを告げ、海外に旅立ったあの頃の想いが。
どうしても彼に会いたくて、会いたいよ、道明寺、と名前を口に出し、追いかけて行った真冬の大都会。10万キロ以上離れた場所、知り合いは誰もいない街へ身体ひとつで飛び立つ勇気があったあの頃。それは若さがあったから出来た無謀さなのだろう。
だが今はこうして東京に行くことさえ躊躇いを覚えている自分がいた。
ありふれた恋ではなかった。
二人で一緒に過ごした思い出が次々と浮かんでは消えて行く。
目まぐるしく色んなことが起きた果てに結ばれた恋だった。
それは彼にとっても自分自身が恋に落ちるとは信じられない思いだったはずだ。
初対面の印象は互いに最悪で、二人が顔を合わせるたび激しい火花が散った。
そこから始まった恋はジェットコースターのような恋と称された。
どこにでもいるような女学生と大財閥の跡取り息子との恋。
普通の女性である私と彼との恋は、周囲が羨ましいと思う恋だったかもしれない。
華々しいドラマだと感じたかもしれない。だが二人の間に流れた穏やかな時間があったのは、ほんの短い間だった。二人にとって平和な時期は長続きしない。
そう思えど、全てを乗り越え一緒にいたいと願った。
だがあの頃の二人には越えられない壁があった。
雨のカーテンが二人を隔ててしまったことがあったが、あの日の夜以上に越えられない大きな何かがあった。それは彼の会社のことであり、彼自身の問題とは別のことだとしても、財閥の家を継ぐ運命にあった人間の決められた道だったのかもしれなかった。
15年ぶりに会うかつての恋人。
どんな顔をして会えばいいのか。相手が病人だというならなおさらだ。
それからあの当時の彼のことを知った。
彼の甥が口にしたあの当時の彼の気持ちを。
そして最後の夜を思い出していた。二人とも何も言わず抱き合った夜を。
他に好きな男がいてもいいから、といって抱いた夜のことを。
あの夜、二人は何も話そうとはしなかった。言葉の代わりに与えられたのは、彼の想いだったのかもしれない。
まるで私の身体の全てをその目に焼き付けようとしているように、ただじっと見つめる時間があった。それはまだ少年と少女だった頃、結ばれることがなかった南の島のコテージで、ただ抱きしめ合って眠りについた夜のように感じられた。あのとき、その行為自体が怖くて、それでも彼を受け入れようとしていたあの夜のように、強い力で抱きしめてきた。
そして最後の逢瀬とでも言うように、ただ静かに、だが激しく愛を交した二人がいた。
こうして彼との出会いまで遡ってみたが、どの思い出も心に深く刻まれていた。
つくしは窓の外の景色からテーブルの上に置かれた箱に目を落した。
この箱の中には彼から贈られたネックレスが収められている。
だが別れを告げたとき、彼に返した。しかし今、その箱を手に現れた青年の言葉に、こうして彼に会いに行こうとしていた。
だが何のために会いに行くのか。
それは手元のカップに注がれているコーヒーが少なくなっていくように、彼の命が残り少なくなっているからだ。
あの人が好きだったコーヒーの香りは、今でも忘れることはない。そんなコーヒーをひと口飲むたび、彼の命が少なくなる。そう感じられた。そしてあの青年の目は、今会わなければ、もう二度と会うことが出来ないということを伝えていたからだ。
東京の景色は雨が降っていた。
この街を濡らし続ける雨は西から東へと移動したのだろう。向うを飛び立った時は晴れていたが、まるで先回りしたように雨は私を待っていた。
雨は私と彼の間の邪魔をする。人生の大きな決断をするとき、必ず雨が降るのは運命なのだろうか。二度目の別れを決めたのもこんな日だったから。
空港からはモノレールに乗り浜松町まで行き、そこから新橋まで行った。
西園寺恭介には連絡をしなかった。連絡をすれば迎えの車を差し向けると言うはずだ。
その車に乗れば、彼の入院している病院まですぐだ。そしてそれは何かを考える暇など無いということだ。
航空券にしても、彼の甥は準備万端整えることは得意のようだ。それはやはり母である椿の行動力なのかと思わずにはいられなかった。そんな青年の言葉に心が動いたのは確かだ。全く予想もしなかった言葉は、こうして私をこの場所に運んで来たのだから。
この意味はいったいなんだろうか。
やはり彼のことが気になるのだろうか。あの青年が残していったネックレスを携え、こうしてこの街に来た意味を考えた。まだ彼に未練があるのだろうか、と。
だが別れたあの日のことは、忘れていく一方だったはずだ。零れ落ちていく記憶を拾うことなくそのままにしていたはずだった。それなのに今、零れ落ちた記憶の欠片を拾い集め、この街へと戻ってきた。
二年ぶりの東京の街はこんなにも人が多かったのかと思う。
たった二年しか経っていなくても、この街の変わりようは信じられないほど早い。だが思えばここは世界一洗練度合の高い街東京だ。そんな街の移り変わりが、瀬戸内の小さな地方都市と比べること自体間違っていることに今更ながら気付かされた。
地下鉄の構内は、雨の匂いを纏った大勢の人間が足早に歩いているが、都会は田舎と違う。人の歩くスピードが速く感じられ、改めてこの街の時間の早さに置いていかれそうになっていた。
そんな場所にうごめく多くの人たちに、不治の病にかかった人がいるのだろうか。
あと数ヶ月の命だと知りながら、目の前を通り過ぎて行く人もいるのだろうか。
そして家族の中に、友人に、恋人にそういった人間がいてもおかしくないはずだ。
その人達は過ぎ行く時間をそのままに過ごしているだけなのだろうか。
今、心の中にあるのは、両親が亡くなった時とは違う想いだ。
家族の間に感じられる愛は実りを求めるものではない。だが愛した人との間にある愛には実りを求めてしまう。花を咲かせ、実をつけることを望むのが愛することの終着点とは言えないが、人は自分の終着点を求め生きているはずだ。
人はただ単に生きるだけではなく、目標があるから前を向いて生きて行ける。
それが家族の成長であったり、人生の何かを成し遂げることであったりするはずだ。
だがある日突然あなたの人生の終着点はこの日です、と言われればどうするだろう。抵抗してもどうなるものではない運命があるとすれば、その運命を受け入れなければならないのだろうか。
私が彼との別れを受け入れてしまったあの日のように。
夢を追いかけていくこともなく、目標があるわけでもなく、ただ生きていく私のように。
それでも、あの空の上で静かに考えたとき、哀しいほど切ない思いが溢れて来るのが感じられた。
そして、あの青年の言葉に、心は彼のことでいっぱいになっている私がいた。

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青年にしてみればごく当然の座席も、つくしにしてみれば贅沢な座り心地がした。
その席の1A。客室一番前の左窓側の席が用意されていた。前方は壁になっていて、小さな液晶画面がはめ込まれていた。その画面を通し、あと何キロで羽田に着くといった数字が表示され、東京までのカウントダウンを刻んでいた。
広い世界の中でも大都会と呼ばれる東京へと向かう航空機は、高度1万メートルの晴れた空を東へと飛行を続けているが、窓から見える空はどこまでも繋がっていて、あの街へも続いている。
遠い昔、彼を追いかけて行ったあの街。
NYに行ったのは、あの時の一度だけ。
その当時の寂しい気持ちが甦った。
彼が別れを告げ、海外に旅立ったあの頃の想いが。
どうしても彼に会いたくて、会いたいよ、道明寺、と名前を口に出し、追いかけて行った真冬の大都会。10万キロ以上離れた場所、知り合いは誰もいない街へ身体ひとつで飛び立つ勇気があったあの頃。それは若さがあったから出来た無謀さなのだろう。
だが今はこうして東京に行くことさえ躊躇いを覚えている自分がいた。
ありふれた恋ではなかった。
二人で一緒に過ごした思い出が次々と浮かんでは消えて行く。
目まぐるしく色んなことが起きた果てに結ばれた恋だった。
それは彼にとっても自分自身が恋に落ちるとは信じられない思いだったはずだ。
初対面の印象は互いに最悪で、二人が顔を合わせるたび激しい火花が散った。
そこから始まった恋はジェットコースターのような恋と称された。
どこにでもいるような女学生と大財閥の跡取り息子との恋。
普通の女性である私と彼との恋は、周囲が羨ましいと思う恋だったかもしれない。
華々しいドラマだと感じたかもしれない。だが二人の間に流れた穏やかな時間があったのは、ほんの短い間だった。二人にとって平和な時期は長続きしない。
そう思えど、全てを乗り越え一緒にいたいと願った。
だがあの頃の二人には越えられない壁があった。
雨のカーテンが二人を隔ててしまったことがあったが、あの日の夜以上に越えられない大きな何かがあった。それは彼の会社のことであり、彼自身の問題とは別のことだとしても、財閥の家を継ぐ運命にあった人間の決められた道だったのかもしれなかった。
15年ぶりに会うかつての恋人。
どんな顔をして会えばいいのか。相手が病人だというならなおさらだ。
それからあの当時の彼のことを知った。
彼の甥が口にしたあの当時の彼の気持ちを。
そして最後の夜を思い出していた。二人とも何も言わず抱き合った夜を。
他に好きな男がいてもいいから、といって抱いた夜のことを。
あの夜、二人は何も話そうとはしなかった。言葉の代わりに与えられたのは、彼の想いだったのかもしれない。
まるで私の身体の全てをその目に焼き付けようとしているように、ただじっと見つめる時間があった。それはまだ少年と少女だった頃、結ばれることがなかった南の島のコテージで、ただ抱きしめ合って眠りについた夜のように感じられた。あのとき、その行為自体が怖くて、それでも彼を受け入れようとしていたあの夜のように、強い力で抱きしめてきた。
そして最後の逢瀬とでも言うように、ただ静かに、だが激しく愛を交した二人がいた。
こうして彼との出会いまで遡ってみたが、どの思い出も心に深く刻まれていた。
つくしは窓の外の景色からテーブルの上に置かれた箱に目を落した。
この箱の中には彼から贈られたネックレスが収められている。
だが別れを告げたとき、彼に返した。しかし今、その箱を手に現れた青年の言葉に、こうして彼に会いに行こうとしていた。
だが何のために会いに行くのか。
それは手元のカップに注がれているコーヒーが少なくなっていくように、彼の命が残り少なくなっているからだ。
あの人が好きだったコーヒーの香りは、今でも忘れることはない。そんなコーヒーをひと口飲むたび、彼の命が少なくなる。そう感じられた。そしてあの青年の目は、今会わなければ、もう二度と会うことが出来ないということを伝えていたからだ。
東京の景色は雨が降っていた。
この街を濡らし続ける雨は西から東へと移動したのだろう。向うを飛び立った時は晴れていたが、まるで先回りしたように雨は私を待っていた。
雨は私と彼の間の邪魔をする。人生の大きな決断をするとき、必ず雨が降るのは運命なのだろうか。二度目の別れを決めたのもこんな日だったから。
空港からはモノレールに乗り浜松町まで行き、そこから新橋まで行った。
西園寺恭介には連絡をしなかった。連絡をすれば迎えの車を差し向けると言うはずだ。
その車に乗れば、彼の入院している病院まですぐだ。そしてそれは何かを考える暇など無いということだ。
航空券にしても、彼の甥は準備万端整えることは得意のようだ。それはやはり母である椿の行動力なのかと思わずにはいられなかった。そんな青年の言葉に心が動いたのは確かだ。全く予想もしなかった言葉は、こうして私をこの場所に運んで来たのだから。
この意味はいったいなんだろうか。
やはり彼のことが気になるのだろうか。あの青年が残していったネックレスを携え、こうしてこの街に来た意味を考えた。まだ彼に未練があるのだろうか、と。
だが別れたあの日のことは、忘れていく一方だったはずだ。零れ落ちていく記憶を拾うことなくそのままにしていたはずだった。それなのに今、零れ落ちた記憶の欠片を拾い集め、この街へと戻ってきた。
二年ぶりの東京の街はこんなにも人が多かったのかと思う。
たった二年しか経っていなくても、この街の変わりようは信じられないほど早い。だが思えばここは世界一洗練度合の高い街東京だ。そんな街の移り変わりが、瀬戸内の小さな地方都市と比べること自体間違っていることに今更ながら気付かされた。
地下鉄の構内は、雨の匂いを纏った大勢の人間が足早に歩いているが、都会は田舎と違う。人の歩くスピードが速く感じられ、改めてこの街の時間の早さに置いていかれそうになっていた。
そんな場所にうごめく多くの人たちに、不治の病にかかった人がいるのだろうか。
あと数ヶ月の命だと知りながら、目の前を通り過ぎて行く人もいるのだろうか。
そして家族の中に、友人に、恋人にそういった人間がいてもおかしくないはずだ。
その人達は過ぎ行く時間をそのままに過ごしているだけなのだろうか。
今、心の中にあるのは、両親が亡くなった時とは違う想いだ。
家族の間に感じられる愛は実りを求めるものではない。だが愛した人との間にある愛には実りを求めてしまう。花を咲かせ、実をつけることを望むのが愛することの終着点とは言えないが、人は自分の終着点を求め生きているはずだ。
人はただ単に生きるだけではなく、目標があるから前を向いて生きて行ける。
それが家族の成長であったり、人生の何かを成し遂げることであったりするはずだ。
だがある日突然あなたの人生の終着点はこの日です、と言われればどうするだろう。抵抗してもどうなるものではない運命があるとすれば、その運命を受け入れなければならないのだろうか。
私が彼との別れを受け入れてしまったあの日のように。
夢を追いかけていくこともなく、目標があるわけでもなく、ただ生きていく私のように。
それでも、あの空の上で静かに考えたとき、哀しいほど切ない思いが溢れて来るのが感じられた。
そして、あの青年の言葉に、心は彼のことでいっぱいになっている私がいた。

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哀しいほど切ない思いが溢れて来る。
だからその思いを伝えるためここに来た。
あの時二人が出した結論を取り消すために。そのチャンスが今しかないのだとすれば、その時が今なら、他の人が好きだと許されない嘘をついた私を許してもらいたい。
そして彼に残された時間を一緒に過ごしたい。
それが例え短い時間だとしても。
車両が入ってくると、大勢の人間が吐き出され、人ごみの入れ替えがされた。
つくしは席に腰を下ろし、反対側の窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。
地下をゆく車両の中は、雨を纏った人々から感じられる空気で生暖かく湿った匂いがする。
それをかき消すようなエアコンの冷たい風が吹き付けてきた。そして久しぶりの地下鉄に、鼓膜に伝わる圧力といったものが感じられた。
ふと、目を止めた中吊り広告。
暗いトンネルの中を走る車両の灯りは、大きな文字を読むには問題ないほどの明るさだが、細かい文字まで読み取ることは出来なかった。
高校時代彼が刺され入院した事があった。
あの頃、週刊誌の中吊り広告は彼の話題で持ち切りだった。そんなことを思い出し、広告を一瞥すると再び窓ガラスに映り込む自分の顔を見た。
彼が入院しているのは、あの事件の時と同じ病院。
その病院にある大きな特別室に彼はいる。あのとき私の顔を見ても誰だか思い出せず、自分の親友の女だと思った彼に無性に腹が立ったことを思い出していた。そして暫くは赤の他人として扱われ傷ついた。あのとき、あのまま思い出さず、別れてしまっていたとすれば、人生も変わっていただろうか。今とは違う生き方をした自分がいたのだろうか。
だがそんな仮定を考えたところで、今更何か変わるわけでもない。考えるだけ無駄なのかもしれなかった。
やがて地下鉄は目的の場所に着くと、大勢の人間を吐き出し入れ替えがされ、再びトンネルの暗闇を突き抜ける一本の光りのように去っていった。
地下鉄の出口から病院までは歩いて10分ほどで着いたが、足を踏み入れることを躊躇った。人の出入りが繰り返されるたび開くドアの向うに見える風景が、遠い昔を思い出させた。
だがあれからもう二十年以上経っていて、過去のその一点だけに思いを置くことはなかったはずだ。それなのに、この場所に立てばあの当時が鮮やかに思い出され再現されていた。
暴漢に刺され、生死の境を彷徨った彼の姿と泣き崩れていた自分の姿が。
入院病棟は建て替えられ、白さが隅々まで感じられ、光り輝いて見えた。
入口には受付がある。特別室に入っていると聞かされていたが、以前と建て替わっているだけに場所を聞いた。だが特別室には近づけませんと言われた。理由は言わずもがなだと感じた。彼が入院しているならそれは当然のことだからだ。
経済界の重要人物である道明寺HDの社長が病気だということが世間に知られれば、会社の先行きを心配する声が聞こえるからだ。だから、この入院は秘密事項のはずだ。でも会えないならここまで来た意味がない。だが受付けの人間は私の名前を尋ねた。すると、牧野つくしの名前は面会予定者のリストに名前があったのか、一番奥のエレベーターで最上階までお上がり下さいと言われた。
病棟のエレベーターは止まることなく最上階まで運んでくれた。
どうやらこの病院の特別室は、一般病棟とは扱いが違うようだ。
お金持ちはこういった生活が当然だ。普通の人間とは違った生活が。
だけど、お金があろうがなかろうが、死ぬ時はどんな所で死のうが同じはずだ。ただその場に誰がいたのか。誰がその人の傍に最後までいてくれるのか。誰がその人のため心から泣いてくれるのか。その方が重要なはずだ。今の彼にそんな人がいるとすれば、姉と甥くらいだろう。
ここまで来たつくしは、自分がどうしてこの場所にいるのか、はっきりと分かっていた。
彼のことが忘れられなかったからだ。
そしてここに来れば彼に会える。たとえ今の状況がどうであろうと。今のつくしには、彼の傍にいたいといった気持ちが湧き上がっていた。
過ぎた季節に何を重ねていたかといえば、彼は今どうしているのかといった思いだ。
15年間、心の奥底に眠らせていた思いを今なら彼に伝えることが出来る。
だから甥である西園寺恭介が手渡してくれたあのネックレスを着け、こうして病室の前に立つことを決めたはずだ。
道明寺の傍にいたいと。
彼が最期を迎えるまで傍にいたい。
そう思える気持ちが湧き上がっていた。
だが、扉を開けるのを躊躇っていた。
この扉の向うにいる彼の弱った姿を見たくないといった思いがあった。
最後に見た彼は精悍な顔でテレビに映っていた。
それが頬の肉が削げ落ち、目ばかりが目立つ。そんな顏を見たくはない。
やせ細った身体でベッドに仰臥している姿を見たくはない。今の彼の姿を想像したくない。
道明寺司という男は、いつも堂々とした態度でいて欲しい。負けず嫌いな男の見せる傲慢さを失って欲しくない。かつてその傲慢さが嫌いだったことがある。だが彼のその傲慢さといったものは、寂しさから出たものであって、決して彼本来の性格ではなかった。
つくしは大きく息を吸い気持ちを落ち着かせようとした。
もしかすると、あの青年の行為は望まれない行為なのかもしれない。
この扉の向うにいる男は、私が訪ねてくることを望んでいないかもしれない。
かつて彼の友人に誘われ特別室を訪ねたとき、出て行けといって罵倒された時のことを思い出していた。
だがいつまでも扉の前で躊躇っていても駄目だ。
今は目の前の彼に向き合う時だ。来るべき時が来るなら、その時を一緒に迎えたい。
今の私に出来ることがあるなら、そして彼がネックレスを渡して欲しいと言ったなら、その意味を知りたい。
もしやり直せるなら、二人もう一度同じ時を過ごしたい。
つくしは勇気を持ち、ゆっくりと扉を開いていた。
音を立てることなく、すうっと開く引き戸。
だが足を踏み入れたその部屋には誰もいなかった。しかしベッドには人が横になっていた後が見て取れたが、周りにあるはずの医療機器といったものはなく、病院なら感じられるはずの消毒薬の臭いもない。目に映る人の存在のない部屋に、時間がスローモーションのようにゆっくりと流れ、空気がひんやりと感じられた。
そのとき頭を過ったのは、彼に与えられていた現世での時間は終わったのではないかといった思い。
間に合わなかったのだ。
訪ねてくるのが遅かったのだ。
青年が手渡してくれた1週間分の航空券をもっと早く使うべきだったのだ。
時の流れは残酷で切ないと思った。
つくしは、愛している人の最期を見届けることが出来なかった。

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だからその思いを伝えるためここに来た。
あの時二人が出した結論を取り消すために。そのチャンスが今しかないのだとすれば、その時が今なら、他の人が好きだと許されない嘘をついた私を許してもらいたい。
そして彼に残された時間を一緒に過ごしたい。
それが例え短い時間だとしても。
車両が入ってくると、大勢の人間が吐き出され、人ごみの入れ替えがされた。
つくしは席に腰を下ろし、反対側の窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。
地下をゆく車両の中は、雨を纏った人々から感じられる空気で生暖かく湿った匂いがする。
それをかき消すようなエアコンの冷たい風が吹き付けてきた。そして久しぶりの地下鉄に、鼓膜に伝わる圧力といったものが感じられた。
ふと、目を止めた中吊り広告。
暗いトンネルの中を走る車両の灯りは、大きな文字を読むには問題ないほどの明るさだが、細かい文字まで読み取ることは出来なかった。
高校時代彼が刺され入院した事があった。
あの頃、週刊誌の中吊り広告は彼の話題で持ち切りだった。そんなことを思い出し、広告を一瞥すると再び窓ガラスに映り込む自分の顔を見た。
彼が入院しているのは、あの事件の時と同じ病院。
その病院にある大きな特別室に彼はいる。あのとき私の顔を見ても誰だか思い出せず、自分の親友の女だと思った彼に無性に腹が立ったことを思い出していた。そして暫くは赤の他人として扱われ傷ついた。あのとき、あのまま思い出さず、別れてしまっていたとすれば、人生も変わっていただろうか。今とは違う生き方をした自分がいたのだろうか。
だがそんな仮定を考えたところで、今更何か変わるわけでもない。考えるだけ無駄なのかもしれなかった。
やがて地下鉄は目的の場所に着くと、大勢の人間を吐き出し入れ替えがされ、再びトンネルの暗闇を突き抜ける一本の光りのように去っていった。
地下鉄の出口から病院までは歩いて10分ほどで着いたが、足を踏み入れることを躊躇った。人の出入りが繰り返されるたび開くドアの向うに見える風景が、遠い昔を思い出させた。
だがあれからもう二十年以上経っていて、過去のその一点だけに思いを置くことはなかったはずだ。それなのに、この場所に立てばあの当時が鮮やかに思い出され再現されていた。
暴漢に刺され、生死の境を彷徨った彼の姿と泣き崩れていた自分の姿が。
入院病棟は建て替えられ、白さが隅々まで感じられ、光り輝いて見えた。
入口には受付がある。特別室に入っていると聞かされていたが、以前と建て替わっているだけに場所を聞いた。だが特別室には近づけませんと言われた。理由は言わずもがなだと感じた。彼が入院しているならそれは当然のことだからだ。
経済界の重要人物である道明寺HDの社長が病気だということが世間に知られれば、会社の先行きを心配する声が聞こえるからだ。だから、この入院は秘密事項のはずだ。でも会えないならここまで来た意味がない。だが受付けの人間は私の名前を尋ねた。すると、牧野つくしの名前は面会予定者のリストに名前があったのか、一番奥のエレベーターで最上階までお上がり下さいと言われた。
病棟のエレベーターは止まることなく最上階まで運んでくれた。
どうやらこの病院の特別室は、一般病棟とは扱いが違うようだ。
お金持ちはこういった生活が当然だ。普通の人間とは違った生活が。
だけど、お金があろうがなかろうが、死ぬ時はどんな所で死のうが同じはずだ。ただその場に誰がいたのか。誰がその人の傍に最後までいてくれるのか。誰がその人のため心から泣いてくれるのか。その方が重要なはずだ。今の彼にそんな人がいるとすれば、姉と甥くらいだろう。
ここまで来たつくしは、自分がどうしてこの場所にいるのか、はっきりと分かっていた。
彼のことが忘れられなかったからだ。
そしてここに来れば彼に会える。たとえ今の状況がどうであろうと。今のつくしには、彼の傍にいたいといった気持ちが湧き上がっていた。
過ぎた季節に何を重ねていたかといえば、彼は今どうしているのかといった思いだ。
15年間、心の奥底に眠らせていた思いを今なら彼に伝えることが出来る。
だから甥である西園寺恭介が手渡してくれたあのネックレスを着け、こうして病室の前に立つことを決めたはずだ。
道明寺の傍にいたいと。
彼が最期を迎えるまで傍にいたい。
そう思える気持ちが湧き上がっていた。
だが、扉を開けるのを躊躇っていた。
この扉の向うにいる彼の弱った姿を見たくないといった思いがあった。
最後に見た彼は精悍な顔でテレビに映っていた。
それが頬の肉が削げ落ち、目ばかりが目立つ。そんな顏を見たくはない。
やせ細った身体でベッドに仰臥している姿を見たくはない。今の彼の姿を想像したくない。
道明寺司という男は、いつも堂々とした態度でいて欲しい。負けず嫌いな男の見せる傲慢さを失って欲しくない。かつてその傲慢さが嫌いだったことがある。だが彼のその傲慢さといったものは、寂しさから出たものであって、決して彼本来の性格ではなかった。
つくしは大きく息を吸い気持ちを落ち着かせようとした。
もしかすると、あの青年の行為は望まれない行為なのかもしれない。
この扉の向うにいる男は、私が訪ねてくることを望んでいないかもしれない。
かつて彼の友人に誘われ特別室を訪ねたとき、出て行けといって罵倒された時のことを思い出していた。
だがいつまでも扉の前で躊躇っていても駄目だ。
今は目の前の彼に向き合う時だ。来るべき時が来るなら、その時を一緒に迎えたい。
今の私に出来ることがあるなら、そして彼がネックレスを渡して欲しいと言ったなら、その意味を知りたい。
もしやり直せるなら、二人もう一度同じ時を過ごしたい。
つくしは勇気を持ち、ゆっくりと扉を開いていた。
音を立てることなく、すうっと開く引き戸。
だが足を踏み入れたその部屋には誰もいなかった。しかしベッドには人が横になっていた後が見て取れたが、周りにあるはずの医療機器といったものはなく、病院なら感じられるはずの消毒薬の臭いもない。目に映る人の存在のない部屋に、時間がスローモーションのようにゆっくりと流れ、空気がひんやりと感じられた。
そのとき頭を過ったのは、彼に与えられていた現世での時間は終わったのではないかといった思い。
間に合わなかったのだ。
訪ねてくるのが遅かったのだ。
青年が手渡してくれた1週間分の航空券をもっと早く使うべきだったのだ。
時の流れは残酷で切ないと思った。
つくしは、愛している人の最期を見届けることが出来なかった。

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