ベランダのサッシの網戸をカリカリと軽く擦る音がした。
それは夜11時と決まっていた。風の吹く日も、雨の日も、天気に関係なくまるで判を押したように同じ時間だった。
二階建てのアパートに住む私の元へ猫が現れるようになったのは3ヶ月前からだ。
はじめはその音が何の音であるかわからなかったが、窓を開けたとき、その猫と目が合った。
それはまさにこれから小さな右手が網戸を引っかこうとしていた時だった。
濡れたような漆黒の毛を持ち、目は黄金色の猫。子猫ではなく大人の猫だとわかった。
美し毛並みでどこかで飼われていたのではないかと思ったが、首輪はなかった。
もしかするとどこかから逃げ出してきたのだろうか。
だが猫に聞くわけにもいかず、確かめようがなく、私は迷うことなくその猫を部屋の中へ入れていた。
やがて毎晩決まった時間に現れるようになった黒い猫に愛情が芽生えた。
もし飼い主がいないなら飼おうかと思った。だがアパートで動物を飼うのは禁止されている。それに私は動物を飼ったことはない。どうやって世話をすればいいのかと思った。そして動物は人を見るという。本能的にその人が自分のことが好きなのか、それとも嫌いなのかを嗅ぎ分けると言われていた。私は猫が好きか嫌いかと聞かれてもわからない。
幼いころから動物を飼う余裕などあるはずもなく過ごしていた。
だからこの猫が人生ではじめて触れ合う猫だ。
もしかすると猫は私のことが嫌いかもしれないと思った。
だがそれは杞憂だったようだ。猫は嫌がることなく、大人しく私の腕に抱かれるようになっていた。
黒い猫はどこか高貴な雰囲気を感じさせた。
細く引きしまった身体をくねらせるようなことはなく、スッとした歩みで部屋のなかを横切っていく姿は草原の野生動物に似て優雅だ。
そしてその姿からは言葉に出来ない何かを感じることが出来る。
人間ならそれをオーラと言うのかもしれない。だが、猫にそんなものがあるのかと思ったが、恐らくそうなのだろう。しなやかな身体とその目がそう感じさせるのかもしれなかった。
じっと見つめる黄金色の目は他人に媚びることをしない目だ。気高く何者も寄せ付けようとしない冷たい目をしていた。
この猫は大人しいと思った。
鳴かないのだ。猫ならにゃあと鳴くものだと思っていたが、鳴かなかった。そして私の部屋に現れるといつも決まった場所に座る。それは殺風景な部屋の中に色を添えるクッションの上。パステルカラーの花柄のクッションの上に座る鳴かない黒猫。どこかミスマッチに思えるが、猫が気に入っているならそれでいい。
後で知ったのだが、猫は仕切られた狭いスペースを好むという。だから猫は本能でその場所を選んだのだろう。
動物など飼ったことのなかった私は猫がどんな習性を持つのか知らなかったが、世間で聞く話しとはどこか違うと思った。黒猫は遊んでくれとは言わない。カーテンをよじ登ったり、何かを齧ったりもしない。ただじっとクッションの上で寛いでいた。
そして猫は自由だと聞いていた。だがこの猫は夜、アパートに現れると朝まで私の傍で過ごすようになった。同じベッドに横になり、布団の中に入る。そして朝食にミルクと餌を与えると、今度は窓の内側をカリカリと掻いて外へ出せと言う。それはまるで食事が終ると出勤する私に合わせ外へ出て行くように思えた。
黒猫にはどこか住まいがあるのだろうか。
それとも野良なのだろうか。だとすれば私のアパートが猫の住まいになったということなのだろうか。もしあの猫が野良なら自分の猫にしていいはずだと思った。
そう思った私は首輪を買って来ると猫につけた。
黒い猫に赤い革の首輪を。もし飼い主がいるならつけられた首輪を外すだろう。そして何らかの方法で自分の猫だといった主張をするはずだ。猫に新しい首輪をつけ、もしかすると家から出さなくなるかもしれない。そうすると猫に会えなくなるが仕方がない。だが初めから私の猫ではない。もし猫が現れなくなったとしても仕方がないと、心のどこかに諦めなければならない気持ちを置くことに決めた。
11時前になった。窓を少し開け猫が来るのを待っていた。
今夜は首輪を付けた猫は現れるだろうか。もし来なければ猫にはやはり飼い主がいて、自由を奪ってしまったのかと考えてしまうだろう。
だが猫は現れた。いつもと同じ時間に窓の外のベランダに。
そして当然のように開けられていた窓から細い身体を部屋の中へと滑らせていた。
その日から猫は私の飼い猫になった。
それなら名前をつけなければと思った。
今までその猫に名前はなかった。自分の猫ではない。だから名前をつけることをしなかった。
でも今夜からこの猫は私の猫だ。
_私の猫。
だが猫は犬と違い人ではなく家につくと言う。それならこの猫は私にではなく、家に、この部屋についたということだろうか。
この部屋に猫を引き寄せるなにか特別なものがあると言うのだろうか。
引き寄せる特別なもの。
考えてみても思いつかないが、猫は気まぐれだ。
たまたまベランダの場所が猫の過ごす場所として適していたのかもしれない。
出会いなんて偶然の賜物だ。猫との出会いもそんなものなのかもしれない。
それでも構わないと思った。猫の帰る場所がこの部屋だとすれば、それでいい。
帰る場所があるということは、猫でも人でも安心してそれまでの時間を過ごすことが出来るからだ。
猫の寿命は何年くらいなのだろう。10年くらいだろうか?
でも私はこの猫が今何歳なのか知る由もない。それに猫に聞いたところで答えてくれるはずもなく、猫はじっと私を見つめるだけだった。この猫は何年生きるのだろう。あと何年こうして私と過ごすのだろう。もともとふらりと現れた猫だ。もしかすると気まぐれにどこかへ行ってしまうかもしれない。もしそうなら猫の自由にさせてやるつもりだ。動物は自由でいるのが一番いいはずだから。檻に閉じ込められるような生き方はさせたくなかった。
猫もそうだが人の命にも限りがある。
それは勿論生まれてきた人間なら誰もが知っている。
だが、その命にある日突然終わる日が訪れたとき、残された人間はどうすればいいのだろう。
ある日予期せぬ電話を受けた。
それは雨の降る夜、息が止るのではないかと思った。
あの人が乗った飛行機が消息を絶ったと聞かされたとき、目の前が真っ暗になった。
東京は春が過ぎ、雨が降り始めた季節、地球の裏側での出来事だった。
南米アマゾンの上空を飛行中の軽飛行機の機影が消えた。
そして着陸する予定の空港にあの人の姿はなかった。

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木々の青葉が茂り、バラの香りが微かに感じられるこの季節。
雨と共に悲しみだけが降り注ぐ。そんな日々が続いていた。
悲しみだけが世界を包んでいるが、ありふれた日々にありふれた日常が過ぎていた。
それは二人の間にあった約束が果たされることがないということだ。
雨に濡れたまま立ち尽くしたあの日と同じように。
涙に震える声が、何度あの人の名前を呟いたことだろう。
『道明寺HD副社長の乗った軽飛行機が消息を絶つ』
そのニュースが流れたとき、あの人が生きているか死んでいるか不明だと言った。
彼はアメリカで軽飛行機の免許を取り、アマゾンの上空を一人で飛んでいた。
緑が深い森の上空を飛んでいた理由は、はっきりしなかった。
テレビのニュースキャスターは淡々とあの人の事故を伝えていた。道明寺司は見つからないと。それはまるで飛行機ごとどこかへ消えてしまったようで、神隠しにあったようだと言っていた。
私はもちろん生きていると思った。
彼は強い男だ。
だから生きているはずだと自分の中ではどこか確信めいたところがあった。
だが私は祈った。
私はただ祈るしかなかった。生きていて欲しいと。無事でいて欲しいと。
本当はそんなことを考えたくなかったが、私は全ての神に祈った。
そしてこれはただの夢ですぐに覚めると思っていた。いや。思おうとしていた。これは何かの間違いだと。そんなはずはないと思おうとした。夜中に目が覚めるたび、何度も深呼吸しては自分に言い聞かせていた。
これは夢だと。
悪い夢だと。
だがどれだけ待ってもあの人は現れなかった。
鳴らなくなった携帯電話と届かなくなったメールが意味することは歴然としていた。
私たちが知り合ったのは、まだ高校生の頃。
あの頃、憂鬱な影を纏い、仏頂面ではなく冷たく無表情な顔をしたあの人と恋に落ちるとは思いもしなかった。
私が青春時代を過ごした高校は、裕福な家庭の子供が多く通った学園。母親の強い薦めで入った高校だったが、華やかな人間ばかりで賑やかな会話についていけるはずもなく、殆どの時間ひとりで過ごしていた。だからといって寂しいというわけもなく、淡々とやり過ごすと決めていた。決して目立つことのないようにと、クラスメートの口に名前が挙がることがないようにと、控えめに過ごしていた。
――あの人に出会いうまで。
怯むことなく見返した視線が絡んだのは、ほんの短い時間だった。
初めは恋愛感情なんて全くなかった。むしろ嫌悪していたほどだ。
だが、どこかの段階で恋に変わって、それから愛に変わった。
短い時間で恋に落ちた二人は、愛を重ねていく時間が惜しいと生き急いでいた。何故そんなに生き急がなければならなかったのか。その理由は今になって分かるような気がした。
思えば二人が出会ったことは、長い人生の中にある一瞬の瞬きだったのかもしれなかった。
それは私たちが生きてきた環境が、あまりにも違い過ぎたからだ。
そんな二人に間にありふれた毎日を願うことが出来ないと知っていた。
私たちは、ほどなく、別れた。
あれは永遠のさよならになる別れのはずだった。
あの頃、大学を出て社会人二年目だった私は彼との別れを選択した。
決して無理矢理別れさせられた訳ではない。
別れた理由は彼が結婚することになったからだ。
それはある日、突然持ち上がった結婚話だった。体調が優れなかった彼の父親が倒れ、急遽彼が跡を継ぐことになった。だが引き継いだ時点で経営が悪化していたこともあり、抜き差しならない状況に追い込まれていた会社を救うことが彼に課された使命だった。
その時の私は彼からの別れを黙って頷き受け入れた。
いつかはそんな日が来るのではないかと、心のどこかで感じていたからだ。
彼の魅力は私の前では決して嘘をつかないこと。
だから正直に話してくれた。見知らぬ人間と結婚しなければならなくなったと。
彫刻のように整った唇から放たれた言葉は、私にとっては辛い別れの言葉となった。
そして彼は決められたように結婚した。
その日から私は出来るだけ何かに没頭しようとした。
だが気づけばぼんやりと空を眺めていることが多かった。決して届かない手紙を待ち、何度もポストを覗き、鳴らない電話を待っている自分がいた。
与えられた以上のものを望んでも手に入らないと本能的に知っている私は、望んでも決して手に入らないものをこれ以上求めても仕方がないと思った。
だから諦めた。私は自分の思いにブレーキをかけた。
そう。あの日を境に。
彼の妻が妊娠をしたと知ったあの日に。
だが私と彼は再び出会った。
それは年が明けて間もなくのころ。10年ぶりの偶然の再会。
私が勤める商社が彼の会社との合弁事業を立ち上げた。
そのとき現れたのが彼だった。ロビーをこちらへ向かって来る集団の先頭に立つ彼。
私はそのとき意識が遠のくのではないかと思った。息が止るのではないかと思った。
10年ぶりに会う彼はあの頃より大人になっていた。そして何事にも動じない決然とした表情で真っ直ぐ前を見ていた。
私は動けなかった。動けば彼の視線がこちらを向くのではないかと思ったから。だが彼は気付いた。彼の目が私をとらえたとき、私たちは周囲にそれと気づかれぬよう挨拶を交わした。
ただ目を伏せるだけの短い挨拶を。
今はアメリカ人の妻と子供を持つ道明寺司。
失敗も成功も全てを自分のものとし、すべきことを成し遂げて来た一人の男。もう充分大人の男と言える彼は・・まだ私のことを愛していると言った。
そんな男と再び愛し合うようになった私。
今まで会えなかった時間を補うよう愛を重ねるようになった二人。
決して離れたくないと、あの時と同じ時を歩いているように二人は愛し合った。
あの人は大真面目な顔で、離れるつもりはないと言った。
だが既婚者であることを承知で付き合いはじめた私が、大っぴらに彼の傍に立つことはない。
そんな矢先での出来事だった。
世界中でたったひとりのあの人を失った悲しみは癒えるのだろうか。
もしかすると私が道明寺と愛し合わなければ、あんなことにならなかったのかもしれない。他人のものを盗むとバチがあたると言うが、これがそうなのだろうか?そんなことを思う私は、やはり彼と愛し合うべきではなかったのかもしれない。
そして好きだった人に永遠に会えなくなった悲しみは、まるで無間地獄にいるように思えた。
そんなとき、私の元を訪れるようになった黒い猫。
彼の生まれ変わりではないだろうか。そう考えてしまうのはどうかしているのだろうか。
もし人が生まれ変わるとしたら、それもこんなに短い時間で生まれ変わるなら猫になったとしてもおかしくはないはずだ。
だから私はその猫に名前をつけた。
愛しい人と同じ名前を・・
『 司 』と。
そして私はその日、久し振りに食事らしい食事をしたような気がした。

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何気ない毎日が手の届かない思い出になる。
飛ぶように駆け抜けたあの日々は色のない思い出となってしまう。
この世界が続くかぎり乗り越えなければならないことがあるとすれば、あの人と過ごした日々なのかもしれない。
生まれてきてから一番大切だと思った人。
はじめて自分から幸せにしてあげたいと思った人だったが、その思いを叶えることは出来なかった。
月日は人生に彩りを添えてくれると言うが、私の人生には感じられなかった。
出会いも別れも運命で決まっているというが、もしそれが本当なら私と彼の運命はあの日決まってしまったのだろうか。
あの人と恋に落ちてから自分が変わっていくのを知った。
初めてあの人のため涙を流したのは、あの人を傷つけたあの雨の日だった。
今思えばあの人と過ごした日は私にとって貴重な日々。
恐らくそれは人生が終わる日までそう感じるはずだ。そしてこうして毎日ありふれた日々を過ごしているが、こんな日もいつか思い出に変わって行くはずだ。
小さな出来事まで鮮やかに思い出し、忘れかけていたことも再び思い出し、面影を追うように日々をやり過ごすことしか出来なかった私の元に現れた猫。
今の私は、流れる時を私の猫と共に過ごしています。
あなたの名前をつけた猫と一緒に。
今を生きるために。
道明寺、今日の東京の空はあなたがいなくなったあの日と同じで雨が降っています。
一度私たちが別れを経験した時と同じような雨が__
でもこの街にあなたの面影はありません。
あの笑顔はもう二度と見ることはないのでしょう。
私の日常は相変わらず会社と自宅の往復で猫との暮らしは変わらなかった。
だが変わらない日々と思うのは私だけだったのかもしれない。
そしてある日。電話がかかって来た。
もしもし。と言ったが相手は応えない。沈黙だけが横たわり再びもしもし、と言ったがやはり応えはない。だが私は感じた。この電話は彼からだと。道明寺だと感じた。いや感じたのではない。分かったのだ。息遣いもなにも感じられなかったが感じるものがあった。
「道明寺でしょう?・・ねえ?道明寺なんでしょ!?」
何度も何度も名前を呼んだ。でも返事はなかった。それでも私は言った。
「道明寺!!ねえ、道明寺なんでしょう?お願い何か言って!!道明寺!!」
返事はない。
だが私は語りかけた。そうしなければ電話が切れてしまうような気がしたからだ。
言葉を紡ぐことで繋がっているような気がした。だから話続けた。
「ねえ、道明寺聞いて!あたし猫を飼いはじめたの。黒い猫でね、とってもきれいな子なの!赤い首輪をつけててね、道明寺が好きだった赤い色の首輪なの!それがとてもよく似合ってるの!道明寺は動物が苦手かもしれないけど、この子ならきっと好きになるから。道明寺もきっと好きになるから会わせたいの!」
何も言葉は返ってこなかった。
電話の向うは空気の流れだけが感じられるだけだ。音は何もしなかった。
それでも私はあなただと思った。この携帯電話は彼と私との間の専用電話だからだ。
番号は表示されていない。それでもあなただと思った。
でももしそうならどうして声を聞かせてくれないのですか?あれから7年経ち、会社はあなたのお姉さんのご主人が社長になり、道明寺が自らを犠牲としたあの頃と違い繁栄を続けています。
あなたの消息が途絶えたと連絡をくれたのはお姉さんでした。あなたと私が再び愛し合うようになったとき、影から見守ってくれたのはお姉さんでしたね。
ある日お姉さんは私に言ったのです。
「つくしちゃんの笑顔が見れなくなって淋しいわ」
大切な人を失った人は誰もがそうではないでしょうか?
でも私から笑顔を奪ったなどと考えないで下さい。
私の笑顔はあなただけのものだったのですから。
あなたが私の笑顔を覚えていてくれたらそれでいい。
そう思っています。
篠突く雨が降る日、奥様は、あなたがいないいまま葬儀を行った。
彼の立場に相応しい会場での立派な葬儀だった。けれど、大勢の参列者に見送られ、亡骸のない空の棺が黒い車で運ばれて行く様子は耐えられなかった。黒い傘を持つ私は信じられない思いでその光景を見つめていた。
そして形だけとは言え、何故そんなことが出来るのかと思った。
それでもそうしなければならなかった理由があったとしても、その理由を私は知る由もない。
その日の雨は私たちが別れを経験したあの日の雨だ。
あの雨はどうしていつまでも私たちに付き纏うのか。
それでも思った。
雨はあなたが流した涙なのではないかと。
この世に未練があったと思う私の勝手な思いかもしれないが、そう感じられた。
そしてその未練が私のことだといいと思った。
暫くして、葬儀が行われたのは、奥様の申し立てにより裁判所から失踪宣告がされたからだと知った。不在者が生死不明になってから7年が満了したとき、死亡したとみなされ、不在者についての相続が開始され、婚姻関係が解消すると知った。
あの人は永遠に戻ってくることは無い。
道明寺司という人間は、もうこの世には存在しない。
今までは、あの人はどこかで生きているのではないかと思っていた。だがそうではない。
そうすると、本物の絶望が私の前に広がり、何もする気がしなくなり、仕事に行くことが嫌になると、体調を崩したといって休暇をとり、部屋でぼんやり過ごすだけの日々が続いた。何もする気がないというのは食欲も無くなるものなのだと知った。食べることも寝ることもどうでもいいと思えるようになる。そんな時、いっそあの人の傍へ行こうかと考えた。
でも、そんなことをすればあの人が怒るのではないかと思った。
きっとあの人は怒鳴っていたはずだ。
そんな哀しみの中、私の傍にいてくれたのはあの黒い猫だった。
この街にも焼け付くような夏が来るのだろうか?
海辺に降る雨は穏やかに感じられ、傘を打つ雨音も優しく感じられた。
道明寺。あなたのお墓は鎌倉にある道明寺家の菩提寺にあります。そこは立派な山門がある歴史のあるお寺で、風の音だけが聞こえ、緑の木々が茂った山が迫ってくるように感じられる場所です。でもあなたはその場所にはいません。空の骨壺が置かれているだけですから。
それでも私はあなたのお墓に花を供えに行きます。
あなたの名前をつけた黒い猫と一緒に。

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飛ぶように駆け抜けたあの日々は色のない思い出となってしまう。
この世界が続くかぎり乗り越えなければならないことがあるとすれば、あの人と過ごした日々なのかもしれない。
生まれてきてから一番大切だと思った人。
はじめて自分から幸せにしてあげたいと思った人だったが、その思いを叶えることは出来なかった。
月日は人生に彩りを添えてくれると言うが、私の人生には感じられなかった。
出会いも別れも運命で決まっているというが、もしそれが本当なら私と彼の運命はあの日決まってしまったのだろうか。
あの人と恋に落ちてから自分が変わっていくのを知った。
初めてあの人のため涙を流したのは、あの人を傷つけたあの雨の日だった。
今思えばあの人と過ごした日は私にとって貴重な日々。
恐らくそれは人生が終わる日までそう感じるはずだ。そしてこうして毎日ありふれた日々を過ごしているが、こんな日もいつか思い出に変わって行くはずだ。
小さな出来事まで鮮やかに思い出し、忘れかけていたことも再び思い出し、面影を追うように日々をやり過ごすことしか出来なかった私の元に現れた猫。
今の私は、流れる時を私の猫と共に過ごしています。
あなたの名前をつけた猫と一緒に。
今を生きるために。
道明寺、今日の東京の空はあなたがいなくなったあの日と同じで雨が降っています。
一度私たちが別れを経験した時と同じような雨が__
でもこの街にあなたの面影はありません。
あの笑顔はもう二度と見ることはないのでしょう。
私の日常は相変わらず会社と自宅の往復で猫との暮らしは変わらなかった。
だが変わらない日々と思うのは私だけだったのかもしれない。
そしてある日。電話がかかって来た。
もしもし。と言ったが相手は応えない。沈黙だけが横たわり再びもしもし、と言ったがやはり応えはない。だが私は感じた。この電話は彼からだと。道明寺だと感じた。いや感じたのではない。分かったのだ。息遣いもなにも感じられなかったが感じるものがあった。
「道明寺でしょう?・・ねえ?道明寺なんでしょ!?」
何度も何度も名前を呼んだ。でも返事はなかった。それでも私は言った。
「道明寺!!ねえ、道明寺なんでしょう?お願い何か言って!!道明寺!!」
返事はない。
だが私は語りかけた。そうしなければ電話が切れてしまうような気がしたからだ。
言葉を紡ぐことで繋がっているような気がした。だから話続けた。
「ねえ、道明寺聞いて!あたし猫を飼いはじめたの。黒い猫でね、とってもきれいな子なの!赤い首輪をつけててね、道明寺が好きだった赤い色の首輪なの!それがとてもよく似合ってるの!道明寺は動物が苦手かもしれないけど、この子ならきっと好きになるから。道明寺もきっと好きになるから会わせたいの!」
何も言葉は返ってこなかった。
電話の向うは空気の流れだけが感じられるだけだ。音は何もしなかった。
それでも私はあなただと思った。この携帯電話は彼と私との間の専用電話だからだ。
番号は表示されていない。それでもあなただと思った。
でももしそうならどうして声を聞かせてくれないのですか?あれから7年経ち、会社はあなたのお姉さんのご主人が社長になり、道明寺が自らを犠牲としたあの頃と違い繁栄を続けています。
あなたの消息が途絶えたと連絡をくれたのはお姉さんでした。あなたと私が再び愛し合うようになったとき、影から見守ってくれたのはお姉さんでしたね。
ある日お姉さんは私に言ったのです。
「つくしちゃんの笑顔が見れなくなって淋しいわ」
大切な人を失った人は誰もがそうではないでしょうか?
でも私から笑顔を奪ったなどと考えないで下さい。
私の笑顔はあなただけのものだったのですから。
あなたが私の笑顔を覚えていてくれたらそれでいい。
そう思っています。
篠突く雨が降る日、奥様は、あなたがいないいまま葬儀を行った。
彼の立場に相応しい会場での立派な葬儀だった。けれど、大勢の参列者に見送られ、亡骸のない空の棺が黒い車で運ばれて行く様子は耐えられなかった。黒い傘を持つ私は信じられない思いでその光景を見つめていた。
そして形だけとは言え、何故そんなことが出来るのかと思った。
それでもそうしなければならなかった理由があったとしても、その理由を私は知る由もない。
その日の雨は私たちが別れを経験したあの日の雨だ。
あの雨はどうしていつまでも私たちに付き纏うのか。
それでも思った。
雨はあなたが流した涙なのではないかと。
この世に未練があったと思う私の勝手な思いかもしれないが、そう感じられた。
そしてその未練が私のことだといいと思った。
暫くして、葬儀が行われたのは、奥様の申し立てにより裁判所から失踪宣告がされたからだと知った。不在者が生死不明になってから7年が満了したとき、死亡したとみなされ、不在者についての相続が開始され、婚姻関係が解消すると知った。
あの人は永遠に戻ってくることは無い。
道明寺司という人間は、もうこの世には存在しない。
今までは、あの人はどこかで生きているのではないかと思っていた。だがそうではない。
そうすると、本物の絶望が私の前に広がり、何もする気がしなくなり、仕事に行くことが嫌になると、体調を崩したといって休暇をとり、部屋でぼんやり過ごすだけの日々が続いた。何もする気がないというのは食欲も無くなるものなのだと知った。食べることも寝ることもどうでもいいと思えるようになる。そんな時、いっそあの人の傍へ行こうかと考えた。
でも、そんなことをすればあの人が怒るのではないかと思った。
きっとあの人は怒鳴っていたはずだ。
そんな哀しみの中、私の傍にいてくれたのはあの黒い猫だった。
この街にも焼け付くような夏が来るのだろうか?
海辺に降る雨は穏やかに感じられ、傘を打つ雨音も優しく感じられた。
道明寺。あなたのお墓は鎌倉にある道明寺家の菩提寺にあります。そこは立派な山門がある歴史のあるお寺で、風の音だけが聞こえ、緑の木々が茂った山が迫ってくるように感じられる場所です。でもあなたはその場所にはいません。空の骨壺が置かれているだけですから。
それでも私はあなたのお墓に花を供えに行きます。
あなたの名前をつけた黒い猫と一緒に。

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道明寺家の菩提寺である寺は、鎌倉にある歴史のある古い寺だ。
そぼ降る雨に栄える立派な寺。
あなたはこの場所を訪れたことがあったのでしょうか?
あなたのご先祖が眠るこの寺には、あなたのお父様とお母様も眠っています。
お母様はあなたがいなくなってから4年後に倒れ、亡くなったのです。
鉄の女と呼ばれ、強い女性と言われた人でしたが、それでもたったひとりの息子がいなくなってしまったことが、何らかの影響を及ぼしたのかもしれません。
寒い日の朝、お邸にある執務室で倒れているのを発見されたが手遅れだったと聞いています。
誰かが手向けた花が活けてあった。そして線香が焚かれている。
いったい誰がと訝がることなくお姉さんだと思った。
お墓に供えるには不釣り合いと言われる花だが、3月の彼岸と9月の彼岸にも同じ花が活けてある。菊に混じって一本だけ手向けてある赤い花。それはあなたが好きだったバラだ。NYのお邸にも見事なバラの庭があったのを覚えている。
あれはもう何年前のことだろう。
あなたが大量のバラの花を贈ってくれたことがあった。今でもそのことを懐かしく思い出すことがある。狭いアパートの部屋を埋め尽くしていた赤いバラの花に正直戸惑った。だが嬉しかったのを覚えている。そして私は、猛スピードで恋におちていた。
あなたがいなくなった頃、お姉さんはたった一人の弟を亡くしたからと言って泣いている暇はなかった。財閥の仕事は待ってくれるはずもなく、弟を失った悲しみより、事業を優先しなくてはならなかった。それは自分の身を犠牲にし、世界各国に大勢いる従業員とその家族のことを考えたあなたと同じ思いのはずだ。
経営者の立場を優先する。その考えはあなたと同じだ。あなたと同じで生まれ持った宿命を理解していたお姉さんは、哀しみに沈む時を削っていた。
あの頃、充分な供養が出来なかった。その思いがそうさせるのだろう。今ではどんなに忙しくても年に2回ある彼岸には必ず足を運ぶ、とあなたの秘書だった男性から聞かされた。
そして、もちろん命日にも必ず訪れると。
「道明寺・・来たわ。道明寺の名前と同じ猫と一緒にね」
私は白い百合の花を飾り、瞼を閉じ、両手を合わせた。
あなたの命日と言われる日は、あなたの消息が途絶えた日だとされていますが、はっきり分かりません。
それでも確かなことがある。
それは地球の裏側である東京では雨の降る季節。
テレビの天気予報はいつも傘か雲のマークが地図の上に置かれていた。
私たちとは切っても切れない雨は、あなたがいなくなってもこうして私に纏わりつくのです。まるで涙のようなその雨は私の心を表しているように思え、あなたが私に泣いて欲しいと言っているようでまた哀しくなる。
道明寺・・
いえ、司。どうして私を置いて一人で逝ってしまったのですか?
なぜ、私を連れて行ってくれなかったのですか?
まるで風のように跡形もなく去ってしまったあなたを思うと今でも泣きたくなります。
雨は、切ないです。
本気で好きになった人に別れを告げたあの日を思い出すばかりです。
そして一途にときめいた心はまるで昨日のことのように私の中にあります。
あなたの笑顔は、私だけに向けられたあの笑顔を忘れることは出来そうにありません。
だが人生はこうして続いていくのだろう。
しかし、私の人生の物語が完結するまでまだ時間がかかりそうな気がする。
あなたは高く広い空のどこかにいて、私を見守ってくれているはずだ。
そんなとき、懐かしい笑顔が浮かんでは消えていく。
私だけに見せてくれたやさしい笑顔が。
帰る場所がある。
その場所で待つ人がいる。
自分を待つ人が。
それがどんなに素敵なことか。
そのことに気付いている人がどれくらいいるのか?
今の私にはそんな人はいない。
だが『司』は静かに私を待っていてくれる。
『司』はいつも冷静な目で私を見る。
尻尾をクエスチョンマークの形にし、首を傾げ、何かあったのかと言わんばかりの姿で、じっと見つめて来ることがある。猫は、黙って飼い主を受け入れてくれるが、その静かな物言わぬ生き物にどれだけ癒されていることか。そしてざらついた猫の舌は、私の唇を舐めるが、そんなことは気にしなかった。
私がキスをするのは、これから先も『司』だけだからだ。
「司はね、あたしの好きだった人と同じ名前なのよ?あなたの本当の名前は道明寺司って言うの」
私は連れてきた猫に話しかけた。
道明寺司はこれから先、恋をするつもりのない私にとって生涯でただ一度愛した男性だ。
決して忘れることはない。
人との出会いは不思議だ。
ほんの少しの時間の擦り合わせが他人同士を近づける。
そして知らない間に恋におちる。
私たちは格差社会の頂点にいる男と、その対極にいる女との恋だった。でもあなたはそんな事は気にしなかった。むしろそんなことを気にする私を厳しい声で叱った。そしてあなたは私に言った。
「おまえのためなら全てを捨てても構わない」と。
あの頃、私たちは空を自由に羽ばたく翼を持ってはいなかった。だが、今のあなたには、あの頃無かった、そして10年間無かった自由があるはずだ。
大きな空を自由に飛び回る翼が。
私はまた来ます。と小さく呟き、心の中に吹きすさぶ淋しさにそっと蓋をした。

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墓参を終えた私は来た道を戻っていた。
青々とした木々が並ぶ参道の石畳は、雨に濡れ色を濃くしている。
強い風が吹き、葉が落ち石畳に張り付いているが、降り続いていた雨は止んでいる。
ここにあの人はいない。だが心はこの場所に残りたがる。いつもそうだ。不思議なことだが、この場所に来ると道明寺に会えるような気がする。会えたことなどない。会えることなどないと分かっているが、何故かいつもそんな気持ちになっていた。
私の『司』はケージの中で大人しくしている。
だがそんな猫が突然みゃあみゃあと激しく鳴き始めた。
滅多に鳴くことがない黒い猫が突然鳴き始めたのだ。
ここから出してくれと。
今すぐここから出してくれと言っているのが分かる。いったいどうしたのか。
「司・・ここはあなたが普段暮らしている場所じゃないの。ここはお寺なの。こんなところで迷子になったら困るでしょ?帰れなくなっちゃうわよ?」
だが猫は大人しくしない。
アパートから離れた遠い場所で猫を放し、戻ってこなくなったら困ると思い、出すことを躊躇った。
やがてどうしても今、この場所で外に出してくれと言わんばかりに、切羽詰まった様子で鳴き始めた。
「どうしたの?トイレに行きたいの?仕方ないわね・・済ませたらすぐに戻ってくるのよ?」
ケージを開けた途端、猫は参道を一目散に駆け抜け墓地の方へと走って行った。
だがいつまでたっても戻っては来ない。
私は心配になってお寺の境内を探した。そして勿論広い墓地も探した。
でも猫はいない。
「つかさ!つかさ!戻っておいで!どこに行ったの?つかさ!」
それはまるで猫を呼ぶのではなく、あの人を呼んでいるようだ。
戻ってきて。私の傍に戻ってきて。
何度も何度も叫んだ。
つかさ、つかさ、戻って来てと。
だが猫は戻っては来なかった。
その時、後ろから誰かが私の名前を呼んだ。
「つくし・・」
振り返った私はその人を見て驚いた。
あの人が、死んだと言われたあの人がそこに居た。
生きていたあの頃の年のままの彼は、私の『司』を抱えそこに立っていた。
私は万感溢れる思いで目の前の男に語りかけた。
「道明寺なの?ねえ?道明寺・・道明寺・・ねえ。どうしていなくなったの?」
私は顔を歪め詰め寄った。
目の前にいるのは確かに道明寺だ。
その姿に身体が震え、涙が溢れ、言葉が震えた。
「俺はいなくなってねぇぞ?いつでもおまえの傍にいる。だからこうして猫を連れて来ただろうが。ほら、受け取れ。おまえの司だろ?」
「・・あたしの司は道明寺だけよ!ねえ道明寺・・どうして、どうして・・」
幽霊でもいい。幻でもいい。
何年も会えなかった人がすぐ目の前にいて、私と会話をしている。
「どうもこうもねぇな。飛行機が落ちて俺は死んだ。あれは運命だった」
私たちの出会いも運命だった。
だがその運命の歯車はどこかで間違った方向に回り始めたのだろうか。
「でもどうして・・道明寺の身体は見つからなかったのよ?道明寺はまだ生きているんじゃないの?ほら、ここにこうしているじゃない!」
色々なことが頭の中に溢れ、何を言えばいいのか分からなくなった。
「俺が落っこちたのはアマゾンだろ?身体はピラニアにでも喰われたんじゃねぇの?」
「バカ・・何言ってるのよ・・」
「ほら。そんなことより受け取れ。おまえの司だ。これからも俺だと思って可愛がってやってくれ。じゃあな。俺行くわ」
猫は男の腕から私の腕の中へ身を移し、大人しく抱かれた。
「い、行くってどこに行くの?」
と、手を伸ばしたが指先は彼の身体をすり抜けた。
「今の俺の居場所はここじゃねぇんだよ・・つくし、おまえはおまえの人生を精一杯生きろ・・」
道明寺は静かに微笑む。そして背を向けた。
参道を去って行く背中が振り向くことはない。
そしてその輪郭が薄れていくように感じられた。
駄目!いなくなっては駄目!
目から涙が溢れるのが感じられ、追いかけようとしたが足は動かない。
だから私は大声で叫んだ。
「待って!道明寺!行かないで!行くならあたしも一緒に連れてって!あたし、未練なんてないから!あんたのいない世界なんて未練なんてない!!」
「・・つ・・し?・・・・くし?」
誰かが名前を呼んでいた。
そっと優しく。
「つくし?大丈夫か?」
目を覚ました場所は車の中だった。そして私が見たのは隣に座る夫だ。
「つ、司?・・え?なに?どうしたの?」
「ああ。なんか車の前を横切ったらしい。おい、何があったか分かったのか?」
夫は運転手に声をかけた。
「申し訳ございません。猫が前を横切りまして・・その猫が車の下に入り座ったまま動こうとしません」
「そうか。・・それにしてもつくし。おまえは随分と気持ちよさそうに寝てたな。急ブレーキがかかっても動じねぇてのはよっぽど深い眠りか?おまえは昔から眠り姫だったけど、それは今でも変わんねぇな」
そうだ。深い深い眠りの中に落ちていた。
鎌倉にある道明寺家の菩提寺へ義母の墓参に出掛けた帰り、いつの間にか眠っていた。
そして夢を見ていた。
黒い猫と夫の夢を。
いつも上品だった義母は、はじめ私たちの交際に反対した。だがそんな義母もいつからか、私のことを認め、受け入れてくれるようになり、結婚を認めてくれた。そして最期は私の手をとり、息子である夫のことを頼みますと言って旅立った。
夢の中の夫は若い頃の夫だった。
あの頃と変わらず、抱えきれないほどの愛を与えてくれる夫は、どこか心配そうに私を見ていた。
私は車を降り、車体の下を覗いた。
するとそこには一匹の子猫がじっと私を見つめていた。
黒い子猫は雨あがりの濡れたアスファルトと同化しているように見えた。
だが、目だけは黄金色に輝き、私を見つめていた。
あの猫だ。
夢に出て来た猫だ。
司の代わりに私の傍にいてくれた猫だ。
この猫は子猫だけど、あの猫に違いない。
「・・つかさ・・。おいで・・こっちへおいで・・」
「おい、なんで猫を俺の名前で呼ぶんだ?」
車から降りてきた夫は、私と同じように車の下を覗き込む。
「え?だってなんとなくアンタに似てるもの」
私の夢に出てきた猫は、司という名前で呼ばれていたの。
とは、言わなかった。
やがて恐る恐る近づいて来た猫を抱き抱えた。
夢の中の猫は鳴かなかったが、私の腕に抱かれた猫は、甘えた声でみぃみぃと鳴いている。そして信頼に満ちた眼差しで私を見上げていた。
「・・あなたは鳴くのね?」
と、小さく呟いた。
「ねえ、司・・この猫を飼いたいんだけど・・・いい?」
今まで動物を飼ったことはなかったが、夫もそうだ。そして夫は犬が苦手なことは知っているが、猫はどうだろう。キュと上がった眉と一瞬引きつった頬の様子から、夫の動揺を感じたが、それでも何てことはない、と言った風貌を見せるところは負けず嫌いとしか言えなかった。
「猫か・・おう。いいぞ。子供達も巣立ったんだ。猫のいる生活も悪くはねぇかもな」
そこには、世界的企業である道明寺HD社長の厳しい顔は見当たらず、優しく微笑む夫の姿があった。
どんなに手を伸ばしても叶わないと思われていた恋を実らせた私たちは、結婚して25年が過ぎ、大人になった子供達はそれぞれ自立し、世田谷の邸を出て行った。
愛することを諦めず、愛し続けた私たちが人生で学んだのは、前を向いて生きることがどれだけ大切かということだ。
人生は積み重ねただけ学ぶことが多い。
そして苦労した分だけ、深みのある人間になれるはずだ。
夫婦二人だけの生活はまだ慣れないが、この猫がいればまた何か学ぶことがあるかもしれない。
時は絶え間なく流れ決して止まることはない。
私と夫は愛し合い、許し合い、語り合いながら時の流れを刻んできた。私は自ら運命を切り開いたが、この子猫も自ら運命を切り開くとばかり、車の前に飛び出してきた。それは、この子が生きる強さを持っているからだろう。まるで雑草のような逞しさを持っていた私のようだと思った。
そして、この子との出会いは運命だと思えた。
夢の中の『司』は恋人だったが、私はもうこの子猫の「ママ」になるつもりでいる。
黒い猫は不吉だと言われるが、夢で見た猫は違った。
あの猫は司を連れて来た。だから私にとって黒い猫は幸運の猫。
もしかすると、この子は私に拾われたくてあんな夢を見せたのかもしれない。
正夢にならないようにと、注意してくれたのかもしれない。
それとも、かつて魔女と言われた義母が差し向けたのだろうか。何しろ「黒猫は魔女の使い」と言われるからだ。だが、黒猫は幸運を運んでくれるとも言われている。
司・・・出会ったあの頃、二人で生きていこうと誓った。
永遠に一緒にいようと。
決して離れないと誓った。
だから夢でもあなたに会えて嬉しかった。
でもあれが夢で良かった。
それは6月の、まだ梅雨も上がらない真昼の出来事。
夢の中では雨ばかりが降っていたが、隠れていた青空が、そこに広がっているのを見た。
それは早い夏を告げる空だった。
<完>*時をこえて*

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青々とした木々が並ぶ参道の石畳は、雨に濡れ色を濃くしている。
強い風が吹き、葉が落ち石畳に張り付いているが、降り続いていた雨は止んでいる。
ここにあの人はいない。だが心はこの場所に残りたがる。いつもそうだ。不思議なことだが、この場所に来ると道明寺に会えるような気がする。会えたことなどない。会えることなどないと分かっているが、何故かいつもそんな気持ちになっていた。
私の『司』はケージの中で大人しくしている。
だがそんな猫が突然みゃあみゃあと激しく鳴き始めた。
滅多に鳴くことがない黒い猫が突然鳴き始めたのだ。
ここから出してくれと。
今すぐここから出してくれと言っているのが分かる。いったいどうしたのか。
「司・・ここはあなたが普段暮らしている場所じゃないの。ここはお寺なの。こんなところで迷子になったら困るでしょ?帰れなくなっちゃうわよ?」
だが猫は大人しくしない。
アパートから離れた遠い場所で猫を放し、戻ってこなくなったら困ると思い、出すことを躊躇った。
やがてどうしても今、この場所で外に出してくれと言わんばかりに、切羽詰まった様子で鳴き始めた。
「どうしたの?トイレに行きたいの?仕方ないわね・・済ませたらすぐに戻ってくるのよ?」
ケージを開けた途端、猫は参道を一目散に駆け抜け墓地の方へと走って行った。
だがいつまでたっても戻っては来ない。
私は心配になってお寺の境内を探した。そして勿論広い墓地も探した。
でも猫はいない。
「つかさ!つかさ!戻っておいで!どこに行ったの?つかさ!」
それはまるで猫を呼ぶのではなく、あの人を呼んでいるようだ。
戻ってきて。私の傍に戻ってきて。
何度も何度も叫んだ。
つかさ、つかさ、戻って来てと。
だが猫は戻っては来なかった。
その時、後ろから誰かが私の名前を呼んだ。
「つくし・・」
振り返った私はその人を見て驚いた。
あの人が、死んだと言われたあの人がそこに居た。
生きていたあの頃の年のままの彼は、私の『司』を抱えそこに立っていた。
私は万感溢れる思いで目の前の男に語りかけた。
「道明寺なの?ねえ?道明寺・・道明寺・・ねえ。どうしていなくなったの?」
私は顔を歪め詰め寄った。
目の前にいるのは確かに道明寺だ。
その姿に身体が震え、涙が溢れ、言葉が震えた。
「俺はいなくなってねぇぞ?いつでもおまえの傍にいる。だからこうして猫を連れて来ただろうが。ほら、受け取れ。おまえの司だろ?」
「・・あたしの司は道明寺だけよ!ねえ道明寺・・どうして、どうして・・」
幽霊でもいい。幻でもいい。
何年も会えなかった人がすぐ目の前にいて、私と会話をしている。
「どうもこうもねぇな。飛行機が落ちて俺は死んだ。あれは運命だった」
私たちの出会いも運命だった。
だがその運命の歯車はどこかで間違った方向に回り始めたのだろうか。
「でもどうして・・道明寺の身体は見つからなかったのよ?道明寺はまだ生きているんじゃないの?ほら、ここにこうしているじゃない!」
色々なことが頭の中に溢れ、何を言えばいいのか分からなくなった。
「俺が落っこちたのはアマゾンだろ?身体はピラニアにでも喰われたんじゃねぇの?」
「バカ・・何言ってるのよ・・」
「ほら。そんなことより受け取れ。おまえの司だ。これからも俺だと思って可愛がってやってくれ。じゃあな。俺行くわ」
猫は男の腕から私の腕の中へ身を移し、大人しく抱かれた。
「い、行くってどこに行くの?」
と、手を伸ばしたが指先は彼の身体をすり抜けた。
「今の俺の居場所はここじゃねぇんだよ・・つくし、おまえはおまえの人生を精一杯生きろ・・」
道明寺は静かに微笑む。そして背を向けた。
参道を去って行く背中が振り向くことはない。
そしてその輪郭が薄れていくように感じられた。
駄目!いなくなっては駄目!
目から涙が溢れるのが感じられ、追いかけようとしたが足は動かない。
だから私は大声で叫んだ。
「待って!道明寺!行かないで!行くならあたしも一緒に連れてって!あたし、未練なんてないから!あんたのいない世界なんて未練なんてない!!」
「・・つ・・し?・・・・くし?」
誰かが名前を呼んでいた。
そっと優しく。
「つくし?大丈夫か?」
目を覚ました場所は車の中だった。そして私が見たのは隣に座る夫だ。
「つ、司?・・え?なに?どうしたの?」
「ああ。なんか車の前を横切ったらしい。おい、何があったか分かったのか?」
夫は運転手に声をかけた。
「申し訳ございません。猫が前を横切りまして・・その猫が車の下に入り座ったまま動こうとしません」
「そうか。・・それにしてもつくし。おまえは随分と気持ちよさそうに寝てたな。急ブレーキがかかっても動じねぇてのはよっぽど深い眠りか?おまえは昔から眠り姫だったけど、それは今でも変わんねぇな」
そうだ。深い深い眠りの中に落ちていた。
鎌倉にある道明寺家の菩提寺へ義母の墓参に出掛けた帰り、いつの間にか眠っていた。
そして夢を見ていた。
黒い猫と夫の夢を。
いつも上品だった義母は、はじめ私たちの交際に反対した。だがそんな義母もいつからか、私のことを認め、受け入れてくれるようになり、結婚を認めてくれた。そして最期は私の手をとり、息子である夫のことを頼みますと言って旅立った。
夢の中の夫は若い頃の夫だった。
あの頃と変わらず、抱えきれないほどの愛を与えてくれる夫は、どこか心配そうに私を見ていた。
私は車を降り、車体の下を覗いた。
するとそこには一匹の子猫がじっと私を見つめていた。
黒い子猫は雨あがりの濡れたアスファルトと同化しているように見えた。
だが、目だけは黄金色に輝き、私を見つめていた。
あの猫だ。
夢に出て来た猫だ。
司の代わりに私の傍にいてくれた猫だ。
この猫は子猫だけど、あの猫に違いない。
「・・つかさ・・。おいで・・こっちへおいで・・」
「おい、なんで猫を俺の名前で呼ぶんだ?」
車から降りてきた夫は、私と同じように車の下を覗き込む。
「え?だってなんとなくアンタに似てるもの」
私の夢に出てきた猫は、司という名前で呼ばれていたの。
とは、言わなかった。
やがて恐る恐る近づいて来た猫を抱き抱えた。
夢の中の猫は鳴かなかったが、私の腕に抱かれた猫は、甘えた声でみぃみぃと鳴いている。そして信頼に満ちた眼差しで私を見上げていた。
「・・あなたは鳴くのね?」
と、小さく呟いた。
「ねえ、司・・この猫を飼いたいんだけど・・・いい?」
今まで動物を飼ったことはなかったが、夫もそうだ。そして夫は犬が苦手なことは知っているが、猫はどうだろう。キュと上がった眉と一瞬引きつった頬の様子から、夫の動揺を感じたが、それでも何てことはない、と言った風貌を見せるところは負けず嫌いとしか言えなかった。
「猫か・・おう。いいぞ。子供達も巣立ったんだ。猫のいる生活も悪くはねぇかもな」
そこには、世界的企業である道明寺HD社長の厳しい顔は見当たらず、優しく微笑む夫の姿があった。
どんなに手を伸ばしても叶わないと思われていた恋を実らせた私たちは、結婚して25年が過ぎ、大人になった子供達はそれぞれ自立し、世田谷の邸を出て行った。
愛することを諦めず、愛し続けた私たちが人生で学んだのは、前を向いて生きることがどれだけ大切かということだ。
人生は積み重ねただけ学ぶことが多い。
そして苦労した分だけ、深みのある人間になれるはずだ。
夫婦二人だけの生活はまだ慣れないが、この猫がいればまた何か学ぶことがあるかもしれない。
時は絶え間なく流れ決して止まることはない。
私と夫は愛し合い、許し合い、語り合いながら時の流れを刻んできた。私は自ら運命を切り開いたが、この子猫も自ら運命を切り開くとばかり、車の前に飛び出してきた。それは、この子が生きる強さを持っているからだろう。まるで雑草のような逞しさを持っていた私のようだと思った。
そして、この子との出会いは運命だと思えた。
夢の中の『司』は恋人だったが、私はもうこの子猫の「ママ」になるつもりでいる。
黒い猫は不吉だと言われるが、夢で見た猫は違った。
あの猫は司を連れて来た。だから私にとって黒い猫は幸運の猫。
もしかすると、この子は私に拾われたくてあんな夢を見せたのかもしれない。
正夢にならないようにと、注意してくれたのかもしれない。
それとも、かつて魔女と言われた義母が差し向けたのだろうか。何しろ「黒猫は魔女の使い」と言われるからだ。だが、黒猫は幸運を運んでくれるとも言われている。
司・・・出会ったあの頃、二人で生きていこうと誓った。
永遠に一緒にいようと。
決して離れないと誓った。
だから夢でもあなたに会えて嬉しかった。
でもあれが夢で良かった。
それは6月の、まだ梅雨も上がらない真昼の出来事。
夢の中では雨ばかりが降っていたが、隠れていた青空が、そこに広がっているのを見た。
それは早い夏を告げる空だった。
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