2017
03.19

あの日、あの時 1

「お待ち合わせですか?」

そう聞かれ、男はなんと答えればいいのかわからなかった。
そして仕方なく答えた言葉は、深い声質のゆったりとした口調で返された。

「相手が来るかどうかわからない。」と。


席に着いた男は背が高く、滅多にお目にかかれないほどの美貌に威圧感が漂い、ひと目見て高級だと分かるスーツに身を包んでいた。危険な雰囲気を感じさせる男であるが、育ちの良さは付け焼き刃では身に付かないという言葉の通り、その男には持って生まれた品の良さが感じられた。

金のカフスボタンが付いたシャツの袖口から、薄い金の腕時計を覗かせ、カウンターに軽く腕を乗せた姿は、富と権力を持つ男の何気ない仕草に見え、それだけで絵になる姿だ。
そんな男は時計を気にしながらも、背後にある入口を決して振り返ることはなかった。
そして黙って煙草に火をつけた。


結局その日、相手は現れなかった。
それから毎日同じ時間になると、ホテルのバーカウンターに一人座り、バーボンのオン・ザ・ロックを口に運ぶ。二杯目を頼み、三杯目を頼むと、バーテンダーはもうそれ以上おかわりが注文されることはないと知っていた。なぜなら男は三杯目を最後にいつも帰って行くからだ。

待ち人が現れることがないと分かった男の三杯目のグラスの中は、氷が溶けだしておらず、そのままの形で残っていた。つまり、三杯目はストレートでひと息にあけるのと同じということだ。そんな男に適量といったものは無いのか、酔うことは決してなかった。

そして午前0時にはその場所を去っていた。



一週間が過ぎても、男はバーに通っていた。
そして、時が来るのを待っていた。
だがいったい何の時を待っているというのか。
口の中に苦いものを覚え、その度バーボンで洗い流すことをしているが、その苦さは、あの日の自分の決断だったのかもしれなかった。





第三世界と呼ばれる発展途上国のひとつの国より資産を持つと言われている男がいる。
彼の両親は息子が自分たちの選んだ家の娘と結婚することを望んでいた。
そして事業の拡大と、その事業を継続させるための子孫を作ることを要求していた。
それは生まれたとき決められた宿命とも言える要求で、本人の意見や同意を求められることはなく、既に決められたこととして受け入れろと言われていた。

結婚に恋や愛は必要ないと一蹴し、もし相手が美人だ、聡明だとしても、それは結婚の必要条件とは見なされはしなかった。どちらにしても、彼自身も美人だと言われる女でも恋になど落ちたことはなく、それ以前に人を愛したこともない。
人を愛する。それは家族の中で姉を除き、感じたことなどない感情だった。

そんな男が生まれてはじめて恋に落ちたのは、平凡な女。
彼の容貌にも財産にも興味がないと言ったただ一人の女。
どこにでもいる、ありふれた女子高校生だった。

当時、特権階級意識の強かった男は、その女性が発した痛烈な言葉が胸に突き刺さっていた。
それは世の中の全ては金次第だと思っていた男にとって理解出来ないことだった。

そんな男は彼女のことに興味を持ち、付き纏うようになった。やがて彼女のことを少しだけ理解出来るようになると、打ち解けた会話が交わされるようになり、二人の関係は緩やかだが彼が望む方へと進んで行くように思えた。だが人生は生まれた時から決められており、自由に過ごしているように思えても、見えない鎖とも言えるものが足枷のように嵌められているのは分かっていた。そしてその鎖を断ち切り、前へと進むことが許されるはずもなく、敷かれたレールの上を歩かなければならなかったこの8年があった。

目を閉じると古傷が疼き出すことがある。
あれは丁度8年前、好きだった女との別れを決めたときだ。
NYで大学に通うかたわら家業である道明寺HDの後継者としての人生をスタートし、母親である社長と交わした約束の4年が終り、さらに2年が過ぎたとき、過酷な現実を突きつけられた。

その現実とは道明寺財閥にとって厳しいもので、病に伏していた父親が前年に亡くなり、その後アメリカで新規参入した事業で発生した損失額が莫大なものとなり、負債が資産を上回る債務超過に陥ることになっていた。そんな中、社長である母親は海外事業におけるリスクの軽視といった責任を問われ辞任。そして財閥は解体の危機に陥った。
そのとき両肩にのしかかる重い責任を実感しないわけにはいかなかった。
日本を代表する一流企業の解体、そして倒産の危機に晒され、生き残るためには犠牲が必要だった。
そしてその犠牲は彼の結婚といった形で補われた。


自分のただひとつの愛が去ったのは、自分がそう決断したからだ。
だが自分なりの結論を出しつつも、彼女のことを忘れることは出来なかった。
最後に交わされた会話を今でも思い出すことが出来る。
あの日、NYへトンボ帰りとも言えるタイムスケジュールで東京へ降り立ち、このバーで待ち合わせをした。共に大人になった二人が酒を飲む機会は少なかったが、それでもワインの一杯くらいは付き合ってくれた。

「じゃあ、元気でね。・・お酒、飲み過ぎないでね。・・身体に気を付けて。」

たったそれだけの言葉で別れた二人がいた。

そして逃げるように背を向けていた。


愚かさと共に失って気付く事がある。
あの選択は間違っていたのかもしれなかった。
あの頃からずっと心は彼女のものだった。
彼女の前では、美しいと言われる女を100人集めたところで太刀打ち出来ない程の何かがあった。表面上のことではなく、彼女を好きになったのは、その精神から来るものだった。

彼女と出会った当時、全ての女に対し捻くれたものを持っていた。女など低俗で頭が悪く、醜くく汚い生き物だと思っていた。あの頃、酷く歪んだ人生を歩んでいると本心では分かっていても、周りの人間は、悪辣な態度を取る男を咎めることはなく、むしろどんなことでも受け入れていた。そんな中、正面切って見返す女が珍しく、他人に対しいかなる感情も抱いたことのない男がその女に惹かれていた。

どこが好きなのかと聞かれてもわからなかった。ただ毎日どんどん惹かれていくのだから理由などありはしない。自分がどうかしてしまったとのではないかと自問自答したこともあったが、理由が見つかるはずもなく、ただ彼女が好きだった。

あのとき、暗闇の中から足を踏み出すことが出来たのは、彼女の手を取ることが出来たからだ。今まで生きてきた中で、あれほど幸せを感じたことなどなく、自分の気持ちを隠すことなどしなかった。
そして、終生愛すると誓った人だったが、その人と過ごすことは出来なかった。

だが思い詰める時間が必要なように、誰にだって時間は必要だ。
そんな時間がやがて人生の転機となるようにと、与えられた時間の全てを仕事に費やした。
断固たる決意のもと、事業を立て直すため、彼女の姿や声を意識の外に押し出し、目標とすることを達成させることに邁進した。今まで他人任せであった少額の契約も詳細にチェックし、最終的な許可を与えるのは自らの責任として行っていた。社内にいる敵対勢力は、所詮親の七光りと、丁重このうえないビジネス用語で進言して来る者もいた。決定に厳しい目を光らせる輩もいた。だが、業績が上向いてくると、手腕を認めない訳には行かなくなっていた。やがて両肩にのしかかっていた重い責任の上に、称賛を積み上げることが出来た。
そして、上場廃止寸前だった道明寺HDの株価を以前の水準まで戻し、いやそれ以上に押し上げ、最終的に会社の全体的な支配権を取り戻すことに成功した。


結婚相手の女性は、あなたに憧れていたと言ったが、夫婦としての生活は無く、明らかに失敗と言える結婚。だがそれでもこの8年間過ごさなければならなかったのは、相手の家の財力が必要だっただけだ。だがそれももう終わりだと、離婚の申し立てをする丁度そのとき、邸に帰りついたところで一台の車が駐車されていることに気付いた。
いつもなら街中のペントハウスに泊まるのだが、その日は邸へと車を走らせていた。

その車が誰の車であるか分かっていた。それは妻となった女の恋人の車だ。明かりの灯らない邸の中、何が行われているか想像することは簡単だ。邸の中に入ることなく、車に引き返したところで、これで離婚に関し自分にとっての好条件が整ったと笑いを堪える己がいた。
もともと愛などない相手だ。誰と寝ようが関係なかったが、これでケリをつけることが出来たと、抑えていた笑いを堪えることを止めた。

離婚調停はNYで最高の離婚専門弁護士の手によって行われたが、相手に選択の余地がないほどの条件付けとなった。そして名目上の妻だった女との離婚が成立した。





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2017
03.20

あの日、あの時 2

世界がどんなに変わろうと、決して変わらないものがあるとすればそれは何か。
ひそやかに、音もなく変わるものがあるとすればそれは何なのか?
人は過去の人生の中、思い出として残したいものがあれば、それは何らかの形で心の中に残っている。しかし時が流れれば、全ての思い出は浄化されて行く。
だが彼女に対する思いは、どれほど時が流れようと変わることがなく、自分にとってかけがえのない日々を思い出になど出来なかった。いや、思い出になどしたくはなかった。
そして、あの頃の若く感じやすい心は決して失われることなく、今も心の中に息づいていた。



NYから日本支社へと来て二週間が過ぎた。
その間、司は会社とホテルのバーを往復する毎日に明け暮れた。
取引先との会食は早々に済ませ、長引きそうだと思えば、体調が優れないと嘘を言って断っていた。例え彼女が来なくても、あの場所での時間は誰にも邪魔されたくはなかった。
大切な人を悲しませた場所での時間を。

日本に着いて早々、鍵のかかった引き出しから取り出した小さな箱が頭から離れたことはなかった。今も自室のデスクの上に置かれた小さな箱。
それは随分と昔、イタリアで渡した指輪が入った箱だった。
とりあえず婚約だけでもしないかと、二人で結婚の約束をしたあの日、手渡したものだった。だがあのバーで別れを告げたとき、鞄の中からその箱を取り出され、カウンターの上にそっと置かれた。あの頃、大々的に発表された別の女との婚約発表が、どれほど深く彼女の気持ちを傷つけたかと、今更ながら思わずにはいられなかった。



「・・婚約者の人にあげて・・あ、そうようね、ごめんね。別の女にあげたものなんて失礼よね?」

と言って笑っていた。

カウンターに横並びで座った二人が、互いの顔を見ることなく会話を交わすことに不自然さはない。声だけ聴けば、切実さは感じられず、むしろあっさりとしたものに感じられた。
だが、彼女の顔はそうではないと分かっていた。少し俯いた顔は黒い髪に隠れ分からなかったが、聞こえて来た明るい声の裏側にはいつも意志的な顔をし、前を向いて歩く人間のプライドといったものが感じられた。
わざと明るい声を出し笑った彼女が痛々しかった。
そしてその顔に本物の笑顔が浮かぶことがないことが辛かった。

一番大切だった彼女の笑顔。
どんなに疲れていても彼女の笑顔を見れば安らぐことが出来た。その笑顔は自分が奪ってしまったのだと、感情を抑制させてしまったのは自分だと己を責めていた。だがそんな男の気持ちを察したのだろう。昔から揉め事や争い事が嫌いな女は自分を犠牲にし、言った。

「・・道明寺、自分を責めないで。あたしは今まで幸せだったよ?」

何かを決心した言葉は明瞭で淀みがなかった。
そして渡された小さな箱。
あの指輪は受け取ったままでいて欲しかった。
離れていた男が何もしてやれなかったことへの償いだと、幸せにしてやることが出来なかった男の償いだと、この指輪を売ればかなりの金額になる。だからいざとなれば売ればいいと。
だが持っていることは出来ないと、独り言のように呟く声が聞えた。
そして俺の心の負担を考え、道明寺の生き方が間違っているとは思わないで。そう言われた。

何かを犠牲にしなければ得られないものがあるとすれば、いったいそれは何なのか?

あの日から8年が過ぎ、彼女を傷つけてまでも救わなければならなかった会社は持ち直し、二度と、あの時の轍を踏むことのないようにと、全てに於いて危機感を持ち事業を進めていた。世界経済は刻一刻と変化する。激動といえることはないにしろ、いつ、どこで、何があるか分からない世の中だ。リスクを回避する為の手段は幾つあってもいい。
母親が社長だった頃、すべてを社長の独断で決めていたことも、大組織なるが故、物事の進みに歯がゆさを感じることがあれど、旧態依然とした制度は廃止し、各部門の責任者にある程度の権限を持たせた。
自分の身に何かあったとしても、会社は何事もなかったように回るようにと。


帰国してすぐ、牧野つくしの居場所を調べた。
自宅の住所は分かったが、訪ねる勇気が持てずにいた。
だから秘書から手渡された住所に手紙を送った。
必ず手元に届くようにとの手配を忘れずに。
そして配達された証拠である受け取りは確かにあった。

今更だと言われることはわかっていた。
だがどうしても会いたい。
だからあのバーで待つと手紙を書いた。

だが会いに来てはくれなかった。

いつも生きることにひたむきだった彼女。
彼女から聞かされる言葉は、厳しいビジネスの世界で生きる男にとって心が温まるような言葉ばかりだった。
そんな女性に8年前、自分の都合で別れて欲しいと言って別れた。
だが会いたい。一度手放したものを探しに行くことが許されるのなら、かすかな望みがあるなら、屈託のない笑顔で笑っていたあの時の彼女を抱きしめたい。


彼女の住むマンションの場所は頭の中にある。
そこは比較的新しいマンションで、独身者用によくみられるワンルームマンションではない。近くに公園があり、親子だったり、家族連れが賑わう場所だと聞いていたが、休日である今日、その公園の中に人影はなかった。

早春の今。
桜の花が咲くにはまだ早い。
夜は一睡もできないまま朝を迎えた。まるで子供が遠出する前の緊張から眠れない夜を過ごすかのように眠ることが出来なかった。そして自らの運転でここまで来たが、桜の木の下に車を止め、暫くハンドルを握りしめたまま動くことが出来なかった。もし、このままここで1時間を過ごせと言われても、容易く過ごすことが出来るはずだ。それほど足を外へと踏み出すのが躊躇われた。

ここまで来たんだ。何も急ぐことはないはずだ。
そんな思いもあるが、だからと言ってここでゆっくりする理由もない。
だが彼女が自分の到着を待っている訳ではない。
結局自分はいったい何がしたいのか。彼女に会いたいのではないか。
だが会ってどうするというのか。8年前に彼女を捨て、会社の為とは言え別の女性と結婚した。

あのとき、道明寺の生き方が間違っているとは思わないから。
今の自分が選んだ生き方が間違っているとは思わないで、と言われ、心のどこかでその言葉に彼女を捨てたことを許して貰えたと思っていた。

・・バカな。

そうではないはずだ。
許してもらえるなど考えてはいなかった。


8年前、彼女が去った店のなか、渡された小さな箱を手に何を思った?
男の身勝手とも言える別れの言葉を責めることなく、受け入れ、そしてそんな男に心配をかけまいと毅然とした後ろ姿ともいえる潔さに、彼女の精神の強さを見たはずだ。
彼女はいつもそうだった。
出会った頃から。
他人の為に犠牲になることを良しとするような女性だった。
そんな女性の、嬉しそうに笑う姿が思い出された。彼女が笑えば、自分もつい笑っていた。
彼女が嬉しいと、自分も嬉しいと感じるから。
だが、思考ばかり巡らせても仕方がない。辿り着く場所はいつも彼女のことなのだから。
それなら、直接会いに行けばいいはずだ。何もこの場所でハンドルを握りじっとしている理由はないはずだ。

司は車のドアを開け、足を外へと踏み出した。


雨上がりのアスファルトは水をはじいてはいるが、ところどころに水たまりがあった。
それを避けることなく真っ直ぐ歩けば、革の靴は濡れるはずだ。
今まで自分の前に、そんな水たまりがあることなど気に留めたことなどなかったが、それは常に誰かが前にある道を均していたからだ。
だが、水に濡れようが、泥を被ろうが構わない。

忘れようとしても忘れることなど出来なかった女性に会える。
8年前に途切れてしまった二人の関係を取り戻したい。
今の自分は懐かしさの一歩手前にいる。
鼻先で扉を閉められたとしても、それでも構わない。

かすかな望みがあるなら、この手に掴みたい。

そして同じ時を再び生きていきたい。 
もし、許してもらえるのなら。





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2017
03.21

あの日、あの時 3

アスファルトに出来た水たまりに気を取られることはない。
司は近くの公園を横目に見てマンションに足を向けた。
公園に人がいないのは、雨が上がって間もないからだろう。
太陽が顔を覗かせれば、子供たちの歓声が聞こえるようになるはずだ。
そして早春の陽射しが日々暖かさを増せば、桜の蕾もより一層綻ぶはずだ。



マンションのエントランスはオートロックで部屋の番号を呼び出さなければ入れない仕組みだ。上背のある男はその番号を押すことを躊躇っていた。ここまで来て引き返すつもりはないが、この躊躇いといったものは後ろめたさなのだろう。

昔の自分は決して我慢強い人間とは言えなかった。
だが10代の頃は問題児だったとしても、今の自分は我慢強い人間になっていた。その我慢とは、二人の間にどれほどの時が流れようが、どれほどの距離があろうが、それを超越することだ。離れようとしても離れることなど出来るはずもなく、彼女にかわる女性がいるはずもなく、二人の愛は終わるはずがない。出会ったときからずっと愛しているのだから。

だが出会いから別れまで6年と少し。そして別れから8年後、彼女に会いに来た男は果たしてどの面をして会えばいいのか。

ごく単純に別れたと言えば話しは違うだろうが、いずれ結婚するはずの女を事業継続の為とはいえ、捨てたと思われても仕方がないような別れだった。恐らくだがこの8年間、俺との過去を他人に揶揄されることもあったはずだ。そしてそのことに否応なく向き合わなければならなかったこともあっただろう。そんな中、どんな生き方をしてきたのか。

後ろめたさを打ち消すための心の操作と言ったものは持ち合わせてはない。
NYと東京でのつき合いとはいえ6年のつき合いだった。だが結局は彼女と結婚することは出来なかった結果になったことへの申し訳なさは、8年の歳月のあいだに風化することはなかった。それならこの8年以前に結婚しておけばよかったと思うのだが、当時24歳の自分がそこまで踏み込めなかったのは、自分に自信がなかったのか、それともまた何か別のものがあったのか。もしかすると、あの頃の自分は何か迷いがあったのか。だから人生について明確な地図が描けていなかったのかもしれなかった。そして彼女はその心を見透かしたのかもしれないと思った。

23歳の彼女が言った言葉がいつも頭の中にあった。

『自分が選んだ生き方が間違っているとは思わないで。』

自信に満ちた彼女の口ぶりが、迷いがあった自分の背中を押してくれたと感じた。

そして『道明寺が頑張らなきゃ誰が頑張るの。』

と言って励ます断固たる口調が、一切の不平不満はないと澄み切った光りを宿す大きな瞳が、道明寺司としてやるべきことがあるでしょ?と言っていた。
だからやるべきことは済ませた。

多くの時間をNYで過ごし、例え仕事で日本の地を踏めど、既婚という自分の立場を考えれば彼女に会えるはずもなく、次々と契約を結んでは契約書類を検討しながら、財政面での問題を解決し、道明寺を優良企業としての地位に押し上げるため自分の責務をこなしていた。

だがもういいはずだ。
道明寺司として果たさねばならなかったことは済ませたはずだ。
8年経ってようやく念願がかなうはずだ。
どれだけこの時を待ち望んだか。
やっと牧野つくしに会うことが出来る。

昔の恋人に会いに行く。
世間はそう思うだろう。

人と人との結びつきは結婚といった形ではなく、どんな制約にも縛られないというのなら、心はいつも彼女と一緒だった。だが心が望んでも、実情は望んだこともない戦略的な婚姻関係を結んでいた。しかしそれを解消した今、果たされるべき約束を、二人の結婚の約束を果たしたい。その思いだけで帰国した。

だがインターフォンを押したが応答はなく、彼女と会うことは出来なかった。
そして今後も恐らくバーに現れることはないだろう。それならこの場所へ毎晩通って、毎晩待とうか。そんな思いが頭を過った。そんなことより電話をかければいいものを、それさえも気後れするといったことが我ながら滑稽だ。連絡手段として手紙を選んだのも、彼女を困らせないためだった。

常に人生の底流にあった孤独というものがある。
この孤独を断ち切ることが出来たのは、彼女と付き合っていた間だけだった。だがそれは遠く離れた空の下でのつき合い。そんな状況でも、自分を支えてくれていたのは彼女だけだ。

若さの持つ荒っぽいエネルギーといったものは今、感じられないかもしれないが、若い頃の司は暗い影を持ち、激しい性格の持ち主だと思われていた。そんな男にとって、彼女は気持ちの拠り所であり、心が弱ったとき、黙って抱きしめてくれる存在だった。

例えそれがNYと東京という距離があったとしても、彼女の声を聞くだけで心が癒された。
だが自分を支えていた女性を切り捨て、別の女性と結婚すると言った身勝手な別れから8年が経っている。もしかすると彼女は、別の人間を心に宿しているかもしれない。
自分にとって稀有な存在だった女性は他の男にとっても恐らくそうだろう。実際司の親友もそんな彼女に惹かれていた。


心根の優しい真っ直ぐな女で根性があった。
そして若いのに腹が据わっていた。
大学もアルバイトで稼いだ金で通い、弟の学費も彼女が稼いでいた。

どれくらいその場所にいただろうか。
ぼんやりと遠い昔に記憶を巡らせていたような気がした。だがこれ以上この場所にいてもどうしようもないと、立ち去ろうと後ろを振り向いた瞬間、視線の先、背格好に見覚えがある人物が歩いて来るのが見えた。目を凝らすまでもなく、見間違えることもない8年間会いたかった人の姿を目にすることが出来た。

近づいてくる彼女は変わっていない。あのとき別れたときのままだ。
彼女と再び顔を合わせると思うと緊張する。それはまるで10代の頃、初めてデートをしたときのようだ。あの日の記憶がたちまち甦り胸が熱くなる。
司は徐々に近づいてくる人物に視線を合わせたままじっと立ち尽くしているが、彼女はまったく気付いていなかった。

「・・牧野」

「・・道明寺?」

つくしの目が驚きに大きく見開かれるのを司は見た。
そして、そこで見た光景に彼は言葉を失った。





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2017
03.22

あの日、あの時 4

彼女は男の子と手を繋いでいた。
暫く茫然と二人を眺めていたが、同時に二人を見つめようと瞳を凝らした。
女が春らしいコートを着ていることを頭が理解し、男の子はダッフルコートを着せられ、NYヤンキースの帽子を被っていた。

「道明寺・・・」

「お母さん!この人だれ?」

手を繋いでいる男の子が聞いた。
怪訝そうな顏と澄んだ黒い瞳は昔からよく知る顔だ。紛れもなくお母さんと呼ばれた女の遺伝子を引いているのが見て取れた。司は全神経を男の子に向けた。かつて彼が付き合っていた女性には子供がいて、母として暮らしていることを知った。


ああ、なんてことだろう・・。
彼女は、牧野つくしは既に結婚して子供がいるということか?
二人が過ごした6年のあと、俺が結婚していた8年という歳月の間に結婚し、子供をもうけたということか?

客観的に振り返れば、女にとって23歳からの8年は人生で一番輝いている時だ。その時間をどう過ごそうと俺が何か言う権利はない。
だが二人が別れたあの時の彼女の言葉に、愛情を感じたと思った言葉に、彼女の心はまだ自分にあると錯覚していたのか。会いに来るべきではなかったのだろうか。

ビジネスに於いては、母親譲りの鉄の自制心を持って臨むことが出来る。だが、好きだった女性に自分以外の男の子供がいることに、心を搔き乱された。

彼女に触れる男の手は自分以外にあり得ないと、自分以外の男と一緒にいるなど想像すること自体が辛い。
だが、彼女には彼女の人生がある。それを認めるべきなのかもしれない。
二人の間にあった愛はもう二度と息を吹き返すことはないと思うべきだろう。
何かを言いたい思いはある。だが何を言えばいいのか、どうすればいいのかわからなかった。
伝えたい思いもある。おまえには不滅の愛を誓ったと。他の女と結婚している間もおまえだけを思い過ごしていたと。

そして道明寺司としての義務は果たして来たと・・・。


頭の中に彼女と最後に会った日が思い出されていた。
あのとき長い髪をしていたが、今は肩口で切り揃えられた長さだ。地味な印象はあの頃と変わりなく、顔は驚いた様子だが、視線をとらえた途端、少し困ったような顔をした。
彼女に対し紳士的に振る舞うつもりでいるが、今の状況をどう捉えればいいのか。
手を繋いだ子供とはどういった関係なのか。子供がお母さんと呼んだ以上、分かってはいるが、はっきりとした答えを知りたい。
それに、牧野姓でいるなら離婚をしたということか?

その時、まだ幼い顔が司を見た。
そして不思議そうにつくしに言った。

「ねえお母さん!この人誰なの?お母さんのお友達なの?」

NYヤンキースの帽子を被った男の子は母親の手をギュッと握っていた。
臆することなくこちらを見つめる瞳。そして向けられる敵対心は幼いながらも母親を守ろうとする気合いが感じられた。

司は近づいて男の子をじっと見た。
身をかがめ、目を男の子と同じ高さにした。
そしてそのとき、ひとつの疑念が生まれていた。
気付いたことがある。昔からよく知る顔だと思うのも当然だ。毎朝鏡の中で見かける男を子供に戻せば彼と同じ姿になるはずだ。カエルの子はカエルといった言葉があるが、間違いないはずだ。だが確信があるかと言えば嘘になる。

子供は自分に近づいてきた男に眉根を寄せ、視線を跳ね返すかのように見返した。

「ねえ。おじさん誰なの?僕のお母さんに何の用があるの?」

「俺か?俺は君のお母さんの友達だ。君、何歳だい?」

司は、躊躇いがちにほほ笑み、自分によく似た面立ちを持つ子供に言った。
そしてその言葉の中にはある種の期待が込められていた。

「・・7歳よ。」

答えたのはつくしだった。

「お母さん!僕自分で答えられるよ!いつも言ってるでしょ?きちんと自分で答えなさいって。それに自己紹介をするときは名前から名乗りなさいって言ってるよね?」

少年は帽子を脱ぎ、司に挨拶をした。

「僕、牧野航(わたる)。7歳。おじさんは?」

司はその少年の髪の毛が自分と同じ緩やかな癖があることに確信を得ると結論に達した。
そして彼女に再会したこの瞬間、自分が父親になっていたことを知り、少年に手を伸ばさずにはいられなかった。

「俺か?俺は道明寺司。俺の髪と君の髪はよく似てるな。航くん。おじさんと握手してくれないか?」

「うん。いいよ!」
航は黒い瞳を輝かせ司の手をとった。
「おじさんの髪の毛もおじさんのお父さんと同じなの?僕の髪の毛は僕のお父さんと同じだってお母さんが言ってるんだ。・・・でも僕のお父さんはずっと外国に住んでいて帰ってこれないんだ。だから僕はお母さんと二人で暮らしてるんだ。でもいつかお父さんに会いに外国へ行くつもりだよ!」

本当なら誰かと結婚して外国に居るから会えない。
そう言うべきはずだ。


押し黙ってしまったつくしに、司は言った。

「・・・俺の子供なんだろ?」

彼女は、誤魔化しは苦手な性分だ。
事実は事実として伝えるはずだと司は思った。
そして事実を伝えてくれることを願った。

「・・そうよ・・この子は道明寺の子供よ。」

その言葉はどんな熱烈な愛の言葉より、彼女らしいひたむきな愛し方の現れだ。
二人の世界が傾いたとき、その傾きをひとりで支えたとも言える彼女の行為。
恋人の子どもを一人産み育てることが出来る懐の深さとも言える行為は、誰もが出来ることではないはずだ。そして8年という時間は短くはない。その時間を静かに過ごして来たわけではないだろう。子供を一人で育てることが、ましてや他の女と結婚してしまった男の子供を育てることが、どれほど心に負担がかかることか。ある種の感動が、司の心を覆っていた。教えられなかったことを罪だとは思わない。むしろここまで育ててくれたことを感謝したい。突然親となったことに戸惑いがないと言えば嘘になるが、今は彼女が慈しみ育ててくれた子供がいることがただ、嬉しいと思えた。





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2017
03.25

あの日、あの時 5

「入って、道明寺。」

つくしが玄関の扉を開けると、航は二人の間をすり抜け靴を脱ぎ、真っ先に部屋の中へと入っていった。

7歳の男の子は、おじさんが運転して来た車を見せてもらい興奮していた。
黒いメルセデスは航にとって普段見る車とは異なり高級感に溢れ、優雅で、運転して来た男によく似合っていた。いつも母親からよその人の車に触ってはダメと注意を受けているが、手を触れ、中に乗り込み、ハンドルを触らせてもらうことができ余程嬉しかったのだろう。
おじさんの車って凄いね!を連発していた。

「航!手を洗ってうがいをしなさい!それから・・」

「うん。わかってるよ!宿題でしょ?ちゃんとするから大丈夫だよ!おじさんまだいるんでしょ?僕あとで行くからもっと外国の話を聞かせてね!」

パタパタとスリッパを履いた足音が廊下の左側に消え、ドアがパタンと閉まる音がした。
つい先ほどまでエレベーターの中は、航のお喋りで賑やかだったがドアの向うに消えた途端、あたりがしんと静まった。子供が消えた部屋は恐らくバスルームで、母親の言いつけを守り手洗いうがいをするのだろう。つくしは玄関に脱いで置かれた航の帽子とコートを取り上げ、廊下の先の扉へ向かった。後ろをついて歩く司の耳にガラガラとうがいをする音が聞こえてきた。

司は案内された部屋の中を見渡した。
比較的新しいマンションは、中古で売りに出されていたところを購入したと聞かされた。
廊下の突き当りにある部屋はベランダに面し10畳ほどのリビングと、つづきのキッチンがあり、開け放たれたカーテンから自然光が差し込んでいた。リビングには座り心地の良さそうなソファが一脚置かれ、テーブルの上には花が飾られていた。

この部屋のいいところは眺めのいいところだ。
5階にある部屋から見える景色は、眼下に先ほど横目にした公園が広がっており、その脇に動かない大きな黒い蟲のように司が止めた車があった。

「・・あの子、風邪ひいちゃって・・だからまだ冬のコートを着せてるの。最初はこの季節だから花粉症かと思ったんだけど違ったみたい。」

春とはいえ、まだ少し肌寒いこの季節。つくしはエアコンのスイッチを入れ、手にした航の帽子とコートをソファの端に置き、どうぞ座って。と言ってコートを脱いでいた。
コートを脱いだ後ろ姿は相変わらず細く、昔からスレンダーな体型で肉感的なところがない身体だったが、それは子供を産んでも変わってないようで身体の線は崩れてはなかった。

短いが長いような時間が流れる中、振り向いたつくしは司と向き合っていた。
そんな中、先に口を開いたのはつくしだ。

「珈琲でも淹れましょうか。」
と、つづきのキッチンへと向かい
「道明寺御用達の珈琲は置いてないけどね・・」
と、言いながら珈琲の粉が収められている戸棚を開けた。

この数年、つくしは司についての記事を目にしていた。
自分たちが別れるきっかけとなったのは司の父親が亡くなり、その後アメリカでの事業での失敗から財閥が解体の危機に陥ったからだ。彼は当時社長だった母親から経営を受け継ぎ、会社を立て直すことになった。そのため他の女性と政略結婚をすることになったが、今では会社の立て直しにも成功し、事業規模の拡大にも成功した。そんな男が数ヶ月前に離婚したことを知ったのはつい最近のことだった。

そして日本に帰国したので会えないかと書かれた手紙を受け取った。
だが行かなかった。
と言うより子供のことがあり行けなかった。

それにもしかすると既に子供のことは知られており、子供の権利を主張しに来たのではないかと思っていた。航を跡取りとして自分の元へ引き取りたいと言い出すのではないかと考えていた。8年前に別れた恋人は自分の血を引く子供が欲しいと奪いに来たのではないか、そんな思いが頭の中を過っていた。


「・・あの子は知ってるのか?俺が父親だってことを。」

司は問いただすと言った様子ではないが聞くと、航の帽子を手に取り内側を見た。そこに書かれていた名前は「まきの わたる」。油性マジックで書かれたその名は大切な帽子を無くしたくないと言っているようだ。司が暮らしていた街の球団。NYヤンキースの帽子はどこで手に入れたのか。野球が好きだというなら、いつか一緒に見に行きたい。かつて一度彼女と野球を見に行ったことがあったと懐かしく思い出していた。

「・・航は知らないわ。だって父親は別の女性と結婚してるだなんて言えないでしょ?だからお父さんは外国で暮らしてるって言ったの。」

例え今は離婚していたとしても、7歳の息子に事情を説明するにはまだ幼く無理がある。

「なんで妊娠したことを俺に黙ってた?ひと言言ってくれても良かっただろ?それに、いつ・・わかったんだ?」

司は声を荒げることはなかった。
むしろ、その声は心配そうに聞いた。

「・・・言える訳ないじゃない。想像できるでしょ?道明寺は結婚することが決まっていたのよ?・・それともあの子のことを言わなかったこと怒ってる?それに分かったのは道明寺がNYに戻ってからなの。・・生理が来なくて妊娠検査薬で試してみた・・。それから病院に行って調べたら赤ちゃんが出来たって言われたわ。」

キッチンで珈琲を淹れる準備を始めたつくしは、しなやかな身のこなしで近づいて来た男の言葉を背中越しに聞いた。そしてすぐ真後ろに立つ男に振り向くことが出来なかったが、彼の言葉が過去と現在を一瞬のうちに繋いでいた。

子供が出来たとき、その子とその子の父親と暮らす未来を思い描いた。
だがその未来は叶えられないこと、願いは聞き届けられることはないと知っていた。第一他の女性と結婚している男性に何を言えばいいのか。それに別の道を、道明寺司としての人生を歩めと勧めたのは自分だ。だから現実を直視しなければならなくなったとき、ひとりで結論を出し、結果を受け入れることに迷いはなかった。

やがて息子が大きくなり、外国に住む父親に会いに行くと言ったら止めることは出来ないと分かっていた。それに父親が誰か教えなくとも、いずれ分かることだ。そして知る権利がある。

最近では何故自分の父親は、外国に行ったままなのかと不思議に思い聞いてくることもあった。そうなると、いつまでも嘘をつく訳にもいかず、いつか本当のことを話さなければならないと頭では分かっていた。
あなたのお父さんは、あなたが生まれる前、別の女性と結婚したの。
だから帰ってくることは出来ないのよ。その言葉をいつか口にする日が来ると思っていた。

「人生って面白いもので、なんとかなるものなの。みんな自分で自分の人生を歩んで行かなきゃならないでしょ?」

背中越しに感じる反応は静かだが、正視することなく話しが出来る方がいいのかもしれない。彼の顔見れば涙が出てしまいそうだから。

本当は会えなくって寂しかった。
道明寺への思いを断ち切ることが出来ず、色んなことを内向させ心にくすぶらせる日々が続いたこともあった。だから別れてから付き合いがあった彼の友人達とも離れることにした。近くにいれば彼のことが耳に入るからだ。そして妊娠が分かったとき、あれこれ推測されることは分かっていたから。

家族は娘のお腹に宿った命が誰の子供か知っていたが、すでに別れてしまった相手を追いかけることをしなかった娘の話を黙って聞いた。

『道明寺には道明寺司としての生き方があるから。』
と言った娘の言葉に同意した。
そして当時の財閥の状況も当然知っていた。

生まれた時から父親のいない息子が可哀そうだと思った。だが今は片親の家庭も多い。
妊娠が分かり当時勤務していた会社は辞め、出産後今の会社に再就職をした。
女性が一人で息子を育てているからといって何かを言われるという時代ではない。
息子は利発で外見は父親に似ていた。内面も勝気だが繊細なところもあり嘘をつくことはない。幸い母親に似ず、くよくよと悩んだり考えたりするタイプではない。ためらいや尻込みと言ったことも無縁だ。そんなところは父親譲りだと思っていた。

つくしはコーヒーメーカーをセットすると振り返った。
そして黙って司の顔を見た。








屈託なく話しをしていたが、生活を軌道に乗せることは大変だったはずだ。
昔から弱音を吐くことがなかった女は全てを心の内に溜め込むことが多かった。
8年も前の話だが家族は娘が結婚もせず妊娠したことを喜ぶはずがない。その責任は全て自分にある。道明寺を立て直す為、社員の為、そしてその家族の為とはいえ、別れたことを彼女にすまないと思わなかった訳ではない。そんな自分を言いくるめるように納得させた部分もあった。だが結婚した相手とは割り切った関係だったとはいえ、彼女を8年間一人にしたことが、一人で子供を産み育てさせたことが悔やまれてならなかった。子供のことは待ったなしの責任として親に降りかかってくる。その責任をひとりで背負うことになった彼女に対し申し訳ない思いに囚われていた。


子供が出来たことを知らせなかった理由は、恐らくこうだろう。
人は知らない事柄については悩まなくて済むからだ。だから知らせなかったということだ。
それは彼女の気遣いだと分かっていた。

息子がいることは言葉にならないほど嬉しいが、親子としての失われた歳月が悔やまれる。
失われた歳月は決して戻ることはない。それならこれ以上無駄な時間を過ごすことなく、結婚することが正しいと感じる相手と結婚したい。現に8年前は結婚するはずだった。
あのとき、財閥のことがなければ状況は違っていただろう。親子3人で幸せそのものの未来があったはずだ。夫にもならないで父親になったことが、順序が逆だとしても今更だ。
今から夫になればいい。司はその思いを加速させたい衝動が湧き上がっていた。


「牧野、俺は道明寺という家が求める人生は、道明寺財閥の道明寺司として求められる責任はもう十分果たしたはずだと思っている。これから俺は俺自身が求める人生を手に入れたい。」

緊張感を漂わせているつくしとは反対に、司は穏やかで暖かみを感じさせる声で言った。
彼が求める人生。
8年前別れたあの日から求めていたものがある。

「俺はおまえから離れたつもりはない。いつか必ずおまえの元へ戻るつもりでいた。俺が目指していたものは二つ。道明寺を立て直した時点で俺の目的はひとつ達成出来た。だからこれからは何を目指しているかと云われれば、それはおまえとの結婚だ。・・8年も経っちまって子供がいたことは知らなかったが、それは嬉しい驚きだ。それに誰だって自分の人生の最後は自分で決めたいはずだ。」

8年前、二人が別れを決める前6年間の記憶の中の楽しかったことが脳裏に浮かんでいた。

「なあ、牧野・・俺はあのとき、おまえが背中を押してくれたことで会社を、道明寺を立て直すことを決意した。それにおまえが待っていてくれると思ったから頑張れた。おまえも俺の性格はわかってんだろ?俺はしつこい男だからな。自分の大切なものを手放すつもりはねぇ。地獄だろうがどこだろうが追いかけて行って捕まえてやるって言ったよな?もしお前が他の男と結婚してたとしても、その男から奪ってやるつもりでいた。・・さっき下で子供を連れているおまえを見たとき、正直動揺したが、それでも関係なかった。おまえを取り戻せるなら何でもしてやると思った。牧野って姓なら離婚したんだってことで、その子とおまえを俺のものにしてしまえばいいことだろ?・・けど航が、俺の子だって知って驚いたが、嬉しかった。一人で産んで一人で育ててくれたことに誰が文句なんて言える?文句どころか感謝以外ねぇぞ?俺は17でおまえと出会っておまえ以外の女なんて知らねぇ男だぞ?この8年間、ずっとおまえの面影を抱いて生きてきた。だから人生の最後もおまえで終わるつもりだ。俺の気持ちは8年前と同じだ。だからおまえの元に戻ってきた。」

情熱の相手で初恋の相手である女性は、彼が話終えると泣き笑いといった表情を浮かべ、涙で目を潤ませていた。
つくしはつい先刻、司が子供だけが欲しいのではないかと頭を過ったことを恥じた。
道明寺司という男はそんな男じゃないと。

「・・人生の最後なんて、まだ考えるのは早いわ。だってあたし達には航がいるもの。あの子が大人になるまで人生を終えるつもりはないわ。」

「俺もだ。・・俺が今でもおまえのことを愛しているのはあの頃と変わりない。」

「ええ。そうね。・・もちろん分かってるわ。あたしだってあの頃と変わってないわ。だって毎日道明寺と会ってた。・・あの子を通して。・・でもあたしは特別な人間じゃないわ。母親として特別なことはしてこなかった。あの子を道明寺みたいに特別な子になるように育てては来なかったわ。だから・・あの子は普通の子よ?今の道明寺は巨大なビジネスを成し遂げた・・それに比べたらあたしは・・」

経済的に困窮したことはないが、親子二人生きて行くのは大変だった。
だが何から話せばいいか、何を話せばいいか・・。
記憶に残る場面は幾らでもある。航は産まれた瞬間から注目を浴びたいと泣き叫んでいた。
幼稚園に送って行けばお母さんと離れたくないと大泣きしていた。
一人で自転車に乗れたとき、手を叩いて喜んだ。
転べばまた大泣きしていたが、男の子がいつまでも泣いていてどうするの?と慰めた。

子供を産み育てることを決めたのは自分自身だ。
どんな状況だったとしても道明寺に罪の意識を持って欲しいとは思わない。子供に両親が揃っていなくても幸せになることは出来るはずだ。そう信じて生きてきた。
でも、心のどこかで道明寺がいてくれたら。そんな気持ちがあった。
人生を共に生きてくれる人が、彼がいてくれたら。と。

いいのだろうか・・再び彼と一緒になっても・・


「俺はおまえが大変だったとき、一人でデカい腹を抱えていたとき、それから子供を産んだとき、何もしてやれなかった。いいか?おまえは俺にとっては誰とも比べられねぇ女だ。俺とおまえが初めて出会ったとき、俺はおまえに足もとをすくわれた。あの日からずっとすくわれっぱなしだ。おまえには手も足も出なかったのを覚えてる。・・けどな、手も足も出せなかったとしても今の俺はおまえも航も二人とも欲しい。それからおまえ達の人生の責任を持ちたい。男として、ただおまえのことが好きな道明寺司としての義務ってのはそれ以外考えられねぇ。」

司はつくしの表情の変化の一片も見逃すまいと注意しながら、言葉を継いだ。

「・・だから躊躇う気持ちがあるなら、それは捨ててくれ。8年経っちまったけどまた俺とやり直そう。再会できてよかったって思える日が必ず来る。」

その言葉がつくしの中にあったどこかよそよそしかった態度を崩すと、はじかれたように司の胸に飛び込んでいた。

「・・随分自信たっぷりね?」
と、言ったがその顔は泣き顔になっていた。

「ああ。俺には自信がある。何が起ころうとおまえと航を幸せにしてやる自信がな。」






8年ぶりに飛び込んだ広い胸の中、つくしはシャツの腕に抱かれていた。
あの頃と変わらない温もりと、変わらない匂いがする胸が、自分と息子を守ってくれるはずだと分かっていた。
お互い愛し合っていたが、どうしようもない状態に陥った二人の運命。
自分たちの力ではどうしようもなかったあの時。
だが離れてしまっても互いに相手に対し誠実でいた。
互いが互いにしなくてはならないことを成し遂げ、そしてまたこうして会うことが出来た。
それは二人が強い愛情を持っていたからだろう。

「どんなときでも、背筋をピンとのばしたおまえが好きだ。昔から誰にも媚びなかったおまえが。」

司はつくしを抱きしめ、もう二度と一人にはしない、苦労はさせないと誓っていた。
五感の全てで彼女を抱きしめ、そっと顔を寄せ唇に唇を重ねていた。
航と彼女のために必要なことは何でもするつもりだ。だがその前に航に自分が父親だということを伝えたい。そして息子に受け入れられることを望んでいた。





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