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2017
03.02

時の指先 1

『あなたは覚えていますか?』


司の顔に怪訝そうな表情が浮かんだ。
そんな声がどこからか聞こえたからだ。
誰かが自分に向かって確かにそう言った。
だが、いったい誰が?
そんな思いが頭の中を過った。

それは明け方に見た夢だったのかもしれない。
ここ何年も眠れない夜が続いていた。それはもう5年近くにもなる。全く眠らずに朝を迎えたこともあった。そんなとき、何をするでもなく、ただぼんやりと窓の外に広がる風景を眺めていたこともあった。だが、昨夜は思いのほか眠ることが出来た。
そんな中で見た夢だったのかもしれない。

明け方の夢は正夢や予知夢と言われている。
だから明け方見る夢には注意すべきだと言われていた。
そしてそんな夢には2種類あると言われている。
ひとつは神がその人に伝える何らかのメッセージを含んでいると言われている。
そして、もうひとつは自分の願望が夢となって現れることがあると言われていた。
それなら今朝見た夢はどちらだったのか。



『あなたは覚えていますか?』


だがいったい何を覚えていると言いたいのか?
思い出せなかった。
なぜ自分がこの部屋にいるのか。

そして自分の手の中にあるものが何故こんなにも懐かしいと感じるのか。
司はあるものを見つめていた。
それは何かの形を模ったネックレスだ。


ネックレスには世界的に名の知れた店で作られたものだと分かる刻印がクラスプにあった。
だがなぜこんなものがここにあるのかわからなかった。
この部屋は司の部屋ではない。彼の部屋から少し離れた場所にある物置のような部屋だ。
そしてここにあるのは、幼い頃、彼が遊んだ玩具や今は使われなくなった家財が置かれていた。そんな部屋の中、手の中にあるネックレスに見覚えはなかった。
それなら姉のものなのか。
いや。恐らくそれは違うだろう。これは姉の趣味ではない。だがもし姉の物なら誰かから贈られた物なのか。そうなのかもしれない。
だが何か違う。そう感じていた。




司は18年の歳月を経てこの国で暮らすことになった。
両親も姉も海外で暮らしている。だからこの邸に人が住むのは何年かぶりになるはずだ。
だが家人が暮らしていなくとも、使用人が留守を管理していた。

世田谷の一等地に建つ巨大な邸。周りから見ればまさにそれは大豪邸。
地価の高い東京に暮らす人間から見れば、贅沢極まりない土地の広さのある邸だ。
門から建物まで、車を使って移動しなければならないほど距離があり、外から中の様子を伺い知ることは出来ない造りとなっていた。

荘厳な邸宅と言われる道明寺邸。旧家であり資産家の家らしい造りと言えばそうなのかもしれない。だが、そんな邸に住んでいた司の記憶の中に、この邸でのいい思い出といったものはなかった。しかし、ここは自分のホームカントリー、祖国だ。何か思い出すかもしれない。そう思っていた。なぜそう思ったのか。彼の記憶はある部分が抜け落ちていると言われていた。
だがそれが何であるか。まったく見当がつかなかった。



司は高校を卒業すると、親の求めるままNYへと渡り、大学に通うかたわら家業である巨大企業の跡取りとしての教育を受けた。そして、それからずっとその街で暮らしていた。
生まれ故郷はこの国だが、すでに人生の半分を海外で暮らした男にとって、故郷と呼べるのは喧騒にまみれた街、ニューヨークなのかもしれなかった。

そんなNYの街中にいても、まわりに見劣りしない体格を持つ男は若い頃、暴力に明け暮れた時があった。学園の支配者と言われた高校時代。怒れる野獣と言われ、その凶暴さばかりが目立ったといわれた10代。誰も彼もが彼を恐れ、媚びへつらい、教師でさえ顔色を覗う始末。そんな学園で過ごした3年間、いい事など何ひとつなかった。

そしてあの街へと住まいを移したが、最初に味わったのは挫折感。
今まで知らなかった新しい世界を知った男に、あの街は厳しかった。
それは日本にいる間には感じられることがなかった焦りといったものを感じさせる場所でもあった。

司の両肩にのしかかるのは義務と責任という二つの言葉。道明寺財閥の跡取りとしての人生があの日から始まったが、まだ若かった男にその荷は大きすぎることもあった。そうすると、自分の意志や意思で動くことはできず、決められたレールの上を何も言わず進むしか出来なかった。そんなこともあり、強靭だと言われた精神も疲弊をきたし、夜ひとりになれば時に必要以上の酒を飲み、その日の憂さを晴らしたこともある。そして女を求めたこともあった。


社会に出れば人間誰しも変わる。
変わらなければ生きて行くことが難しいからだ。
幾重にも仮面を被り、時に他人のふりをする。
そして平気で嘘をつく。決して嘘などつきたくなくても、そうせざるを得ないこともある。
他人を平気で傷つける嘘もあれば、そうでもない嘘もある。
相手のため、敢えて嘘をつかなければならないことがあるからだ。

だがそれは、やさしい嘘なのかもしれない。



司は少し前、日本での全権を任され副社長として帰国し今に至る。
帰国してみれば、若かった自分の少しばかりの態度の悪さに気恥ずかしさを感じることがあった。

久しぶりに帰国した彼は、長い間留守にしていた自分の部屋に足を踏み入れ、懐かしさに浸った。そんな思いから邸の中を歩いてみようといった気になったのかもしれない。そんなとき、ふと足を止めたのがこの部屋の前だった。いや。足を止めたのではない。彼の足は何故かその部屋の前で引き留められていた。

だがこの部屋の存在自体、そして自分の手の中にあるものの存在など頭の片隅にもなかった。ただ、最近になって、18年前のあの頃、何か大切なものを失ったのではないかというような気がし始めていた。それはもしかすると、自分の祖国に帰ることになったことが関係しているのかもしれなかった。だがこの部屋と今回の帰国に何の関係があるのか。

不思議だった。
なぜそんなことを思うようになったのか。
今、こうして自分の手の中にあるネックレスにしてもそうだ。
どうしてこんなものがここにあるのか知りたいと思った。
そしてこみ上げる懐古の情。
なぜ、そんな思いがするのか。
知りたい。知りたいと思った。

だが何を?


そんな思いから、邸に古くからいる使用人である老婆に聞いた。
するとその老婆は淋しい微笑みを浮かべ、言った。

「それは坊っちゃんが大切に思われていた方から頂いたものですよ。」

哀しみとも言える表情を浮かべた老婆の言葉に好奇心を覚えた。
なぜそんなにも哀しそうな表情をするのかと。そしてそのネックレスを頂いたと言った言葉に心が動かされていた。どう考えても男の自分が身に着けるものではないからだ。
どちらにしても自分には大切にしていた女性がいたということを知った。
その女性とは、いったいどんな女性なのか。好奇心を抑えられず老婆に聞いた。

「・・・遠い昔のお話しですので、わたしの記憶も曖昧です。それにどうしてそれがここにあるのか・・。それはご自分で確かめてみられてはどうですか?坊っちゃんのお友達なら誰もがご存知のはずですから。」

確かに友人は知っていた。
何故、このネックレスが手元にあるのかを。
重い口を開いた友人の一人から聞かされた内容は、今まで考えもしなかったことが語られた。

そのネックレスの持ち主だったのは、牧野つくしという名の人物。
高校生の頃、その女性のことが好きで追いかけ回していたらしい。だがその女性はそんな男を受け入れようとはせず、逃げ回っていた。しかし、それから暫く経って、ようやく思いが叶うときが来た。

それは港で刺され、生死の彷徨うことになった日のことだ。
二人はこれから恋人同士として新たなスタートを切ろうと決めたばかりだった。だが、意識を取り戻し目覚めたとき、その女性のことを忘れてしまったと聞かされた。


過去の記憶の大部分は鮮やかに覚えているというのに、ある記憶だけが欠落していると言われていた。それが牧野つくしという女性のことだ。だが、今、こうして友人から話しを聞かされてもやはり思い出すことは出来なかった。二人で過ごした時間はあの日、跡形もなく霧散してしまったというのだろうか。


人は自分にとって都合の悪いことや、思い出したくない事柄は忘れ去ってしまうものだ。
そんな話しを聞いたこともある。それなら忘れ去ってしまったその女性は、自分にとって都合の悪い人間、思い出したくない人間だったのだろうか。その女性との間には何か不都合なことがあったのだろうか。

人は心に残る光景といったものが必ずある。
それなら過去の自分が見た光景のなか、心に残るものがあるとすればそれはいったい何なのか?いや。心に残る光景はなかったはずだ。

だがもしかすると、その女性と一緒に過ごした時間の中にそんな光景があったのかもしれない。司は思い出そうとした。だがどんなに記憶の扉を開こうとしても、錆びつき、鍵がなければ開かない箱のように、扉が開かれることはなかった。


司は年が明けカレンダーの一枚目が終るころ、36歳の誕生日を迎える。
その女性はひとつ年下の女性だと聞いた。
そして彼女の誕生日はカレンダーの一年を締めくくる最後の一枚の終わりごろだと知った。
年の締めくくりと、新しい年のスタートが誕生日だという二人。その女性に会ってみたいと思った。かつて自分が恋焦がれ、好きだと言って追いかけた女性に。そして自分の欠落した記憶を取り戻せはしないかと望んだ。

なぜ、急にそんなことを思ったのか。

わからない。
わからなかった。

だが、心の奥でそうしなければならないと言った声が聞えたからだ。
この部屋へ引き寄せられたことが、そんな思いを招いたのかもしれなかった。






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2017
03.03

時の指先 2

牧野つくし。
その名前の女性はすぐに見つかった。
彼女はホテルに勤務していた。それも司のグループ会社のホテルだ。
高校を卒業し、大学を出たその女性が選んだ就職先が彼の会社が経営するホテルだったとは、これは何かの巡り合わせなのか、それとも偶然なのか。

自分のホテルならもしかすると、どこかで会ったことがあるかもしれないと思った。だが思い出すことは出来なかった。なにしろ司は他人には興味がない男だ。仕事上、ライバルとなるような人間の顔と名前は覚えているが、それ以外の人間には全くといっていいほど興味がない。ましてや会社の、それもグループ会社のひとつであるホテルの従業員の顔などいちいち覚えてなどいない。それでも余程印象深い人間か、もしくは不祥事を起こした社員なら思い出したかもしれないが、そんなこともなければ、膨大な従業員のデーターから名前を探すことは、ない。


司が会いたいと望んだその女性は宿泊部門の課長として働いていた。
時に営業として旅行代理店との折衝。宿泊客から寄せられる無理難題を聞き入れ、突然の珍客にも対応しなければならない。そんな部署で課長となった女性。
再会を決めたが、どんな態度で臨めばいいのか迷いがあった。
経営母体の代表者としての顔なのか、遠い昔つき合ったことのある男としての顔なのか。

その男は彼女のことが記憶にないというのに、いったいどんな顔をすればいいのか。

だが牧野つくしという女性は、かつてつき合っていたと言われる男が会いたいと言っていると聞かされたとき、果たしてどんな顔をしたのか知りたいと思った。
そしてこれから実際会うその女性の顔にどんな表情が現れるのか見たいと思った。

自分のことを好きだと言ってくれたその女性の顔に移ろう表情を。







支配人室で待つ彼の元を訪れた女性は、肩の長さの髪をした女性。
黒く艶やかなストーレートの髪に、雌鹿のような瞳。
白い肌はおそらくノーメークでもシミひとつない肌のはずだ。
ホテルの制服である黒のスーツ。胸にはゴールドのネームプレートがあり、苗字がローマ字で記されていた。そしてそんな姿の女性はとても落ち着いて見えた。

「宿泊課の牧野です。お呼びだとお伺い致しましたが、何か不手際でもございましたでしょうか?」

その女性は即座に言った。
口ぶりは接客業ならではの礼儀正しさが感じられた。
その表情も彼が今まで目にしたことがあるホテルの人間の態度そのものだ。女性らしさをことさら強調することなく、あくまでもホテルの備品のように控えめで目立つことのない人工的な姿がそこにあった。

いつもなら何事に対しても躊躇などすることがない男は、そんな女性になんと声をかければいいのか迷っていた。笑顔も態度も全てが人工的でそつがない。型に嵌められたようなその態度は、いつも見慣れているはずだというのに。なにしろ、彼の周りにはそんな人間ばかりなのだから。だが今はその女性から本物のほほ笑みを向けられたいと思った。一人の人間が思いやりと愛を持ってほほ笑む姿を自分に向けて欲しいと感じていた。

「・・あなたが牧野さんですか?」

司は椅子に腰かけた姿勢で正面に立つ女性に聞いた。

「突然だが牧野さん。どこかでお会いしたことはありませんか?」

「大変申し訳ございません。わたくしの記憶違いでしたら大変申し訳ないのですが、お会いした覚えがございません。」

デスクの向う側にいる女性は落ち着いた声色で答えた。
声を聞けば何か思い出すかと思ったが、何も思い出せなかった。
それに、それは司が聞きたかった答えではなかった。
それならいったいどんな答えが聞きたかったのか。
昔、付き合っていたよしみから、お久しぶりですとでも言ってもらえると思ったのか?
自分は彼女のことを覚えていないというのに、そんな言葉を期待する男は一体何を求めているというのか。目の前にいる女性が自分にとってどんな女性だったか聞かされ知っているとはいえ、今、この女性は自分をどう思っているのか知りたいという身勝手とも言える思いが心の中にあった。

自分より一つ年下だと聞いたが実年齢より若く見える女性。
化粧は最低限と思われるほどで、職業柄匂いのするものはつけてはいない。身体の前で緩く重ね合わせた手の指には、薄いマネキュアが施されているが指輪はない。袖口から覗く時計が見えたがブランドものではなく、ごく一般的な文字盤が見えた。

そんな女性は頭の良い女性だと思った。
凛として咲く花の如く背筋をピンと伸ばし立っているが、この女性はどんな人間に対しても変わることがないものがあるのだろう。視線や言葉使いの勢いは相手がどんな立場にいようと変わることはないはずだ。しっかりと自分を持つ女性。そう感じられた。

この女性は今、何を考えているのだろう。
大きな黒い瞳は真っ直ぐこちらを見つめているが、表情はない。だが決して感情がない訳ではない。頭の中では、目まぐるしく考えているはずだ。どうして自分がこの場所に呼ばれたのかと。普段ホテル事業とは全くといっていいほど関係のない男に呼び出されたのだから。

友人から聞かされた二人の関係は、この女性にとって簡単に忘れられるものだったのだろうか。司はなんの表情も見せることなく佇む女性に再び声をかけた。

「・・そうでしたか。以前どこかでお会いしたような気がしていたのですが。気のせいでしたか。昔の知り合いに似ていたような気がしまして、話がしたいと思いお呼びいたしました。ですが、わたしの勘違いだったようです。申し訳ない。仕事に戻っていただいて結構です。」

女性は丁寧にお辞儀をすると、失礼いたします、とだけ言葉を残し、支配人室を出て行った。







閉じられた扉のこちら側は静寂が漂っていた。

そんななか、どこか懐かしい空気が感じられた。
どう表現すればいいのだろう。
人は匂いで古い記憶が思い出されることがあるという。
匂いというものは、頭の片隅の仄暗く思い出したくない記憶まで掘り起こしてしまうことがあるという。
だが、今の女性は香水などつけてはいなかった。
それなら何故?

それはその人が持つオーラという空気の流れなのかもしれない。
彼女が纏っている彼女自身の香りというものかもしれなかった。
司は言われたことがある。あなたは人が近づくことが躊躇われるようなオーラがあると。
それは言い換えればカリスマ性というのかもしれないが、彼には独特の雰囲気があった。

人は誰でも自分の周りに漂わせている空気の流れがある。司は自分の中でその女性の持つ空気を感じとっていた。司との接触を拒むかのような冷たさだったが、それでも感じるものがあった。そして、その空気が長い階段の上の方から強い下降気流のように一気に自分の方へと押し寄せてきたように感じられ、その瞬間、頭の中にあった古く錆びついていた鉄の扉が押し開かれたのがわかった。

身動きが出来なかった。
視線が彷徨った。
何かを求めて。
今まで見えなかった何かが見えた。
そして目を閉じた。

司は否定できない思いが湧き上がってくるのを感じていた。
彼女が、牧野つくしが自分の心の中に入り込んだのがわかった。

雨が降るたび、頭の中を過る光景があった。
それは激しい雨の降る夜の光景。司の前で傘をさすことなく佇む一人の少女の姿。
だが顔は見えない。その光景は眠れない長い夜の明け方に見た夢の中の光景だったのかもしれないが、その少女のことを責めている自分の姿があった。
夢の中の自分は、気持ちに整理をつけ別れた人がいた。
実らぬ恋に苦悩し、思い悩んでいる自分の姿が見えることがあった。
しかし、その別れた人物が誰であるかわからなかった。

だが、今わかった。

他の誰に言われなくとも。

さっきまで、目の前にいた人こそが、かつて自分が愛した人だと。

彼女こそが心の中にあった人だと。

かつて暗闇の中にいた自分の元へ届いた日の光りだった人。
自分の中にあった孤独を追い払ってくれた人。
司は目を開いた。

彼女の名前を口にしてもいいのだろうか。
その権利はまだ自分にあるのだろうか。
18年ぶりに口にするその名前。
唇は動くが言葉には出来なかった。
あの日からいったいどれだけの歳月が流れたか、考えるだけで恐ろしかった。


忘れたくないと思っていた当時の思いが甦る。
記憶に残る瞬間はいくつもあった。初めて出会ったあの階段。
あのとき、俺はあいつを天敵であるかのように睨みつけていた。
初めてキスをした船の上。不器用ともいえる二人がいた。
精一杯の気持ちを伝えたが親友が好きだと知った日があった。
雪山でいなくなったあいつを探し求め遭難しそうになったこともある。
走り去るバスを追いかけたこともあった。

あのとき、俺はなんと言った?

おまえじゃなきゃだめだ。
おまえのいない毎日は意味がない。
地獄だろうがどこだろうが、追いかけていって捕まえてやる。と。


――あぁ。


決して一生離さないと誓った人が目の前にいたというのに、手を伸ばすことは許されないのか。なぜなら、その女性は司と会った覚えがないと言った。

今、この瞬間は自分にとって歓びなのか。それとも苦悩なのか。
あいつの表情は俺を見ても変わらなかった。
会ったことがないと言い切った。
それはもう記憶の中に無いと言いたいのだろうか。
あの頃二人が共有した思いは、今はもう無いといいたいのだろうか。
思い出は風化するというが、あいつの中にはあの頃の思いはすでに無いということなのか。

だが覚えていないはずがない。
一度も会ったことがないふりをしていたのか。それともかつてつき合っていたことを俺に思い出させることが嫌だったからなのか。もし、後者だとすれば、あの時の態度が今も尾を引いているのだろう。記憶を失った男が女に浴びせかけた言葉に心を痛めたことは聞かされ知っている。二度と来るな、顔を見せるなと罵倒した。そんなことを言われ、もう二度と来ないと言って自分の前を立ち去った後ろ姿も思い出しているが、そのことを伝えることを躊躇している自分が滑稽だと思えた。

忘れていたおまえのことを思い出したと何故口にできない?
今すぐ走って行ってそう言えばいいはずだ。
だが出来なかった。
それはあいつの態度がそうさせるのかもしれない。

あいつは俺のことを自分の事を忘れ去った男として見ていた。
だから何も言わなかったのか?
今さら何を?そんな思いなのだろうか?
それなら、あいつの記憶がない男と思われている自分は、その男を見知らぬ男とし、接する女とこれから知り合えばいいではないか。

「まきの・・」

やっと口にすることが出来た愛しい人の名前。

だが、頭を過ったのは、

『お会いした覚えがございません。』


今の司には、人工的な受け答えを聞く事以外出来ないとしても、これから知り合えばいいはずだ。

たとえ、あなたのことは知りませんと言われたとしても。




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2017
03.04

時の指先 3

最後まで残っていた薄い雲が太陽の前を過った。
雨が上がり、車道のアスファルトから冷たい空気が立ち昇ってくるのが感じられた。
あの日のことが脳裏に浮かんでは消えていく。
冷たい雨の中、別れを経験した二人。

『あんたのことが好きだったらこんなふうに出て行かない。』

そう言って立ち去った少女の姿が見えた。

あの雨の日に経験した別れはこの場所だった。



司の今までの人生の中で一番辛い思い出が甦った。



長い夜、耳を塞いでも聞こえる雨の音が嫌いだった。
雨の日が嫌いだった理由が今なら分かる。
潜在意識の中にあったあの日の情景。
残る記憶とそうではない記憶があるとすれば、あの記憶は一生消えることはないはずだ。
あんな記憶、本来なら消えてしまってもよかったはずだ。だが消えなかったのは牧野つくしの記憶だったからだ。大切にとっておきたい記憶だったからだ。忘れ去ることが出来なかったのはそのためだ。自分にとって特別な人だったからこそ、そんな記憶も胸の奥深く生きていた。







「牧野は、俺たちのことを覚えてない。おまえに関係する人間のことは全て忘れちまった。」

執務室にあるソファに腰を下ろしたあきらは、真剣な口調でそう言った。
司が記憶を取り戻したと告げると、あきらは直ぐ司を訪ねてきていた。

ネックレスの持ち主は誰かと聞いたとき、重い口を開き、そして牧野つくしという名前を告げたのもあきらだ。そんなあきらに『思い出した。』のひと言だけ連絡があった。
だがそのひと言は司の苦悩を感じさせた。そんなことに気付くのもあきらだからだろう。

あきらという男は、昔から仲間内で一番常識があると言われた男だ。陰の要素を感じさせない明るい性格と言われるが、細やかな心遣いが出来る男でもあった。
そんなあきらの口から語られることは本当なのかといった思いと、自分を見ても何の反応も示さなかったことを思い返せば、そうだったのかといった思いが司の中にあった。だが、どうしてそんなことになったのか。理由が知りたかった。そしてあきらの口が開かれる瞬間、司の心に緊張が走った。

「おまえが刺されたあと、あいつは健気におまえの邸に通ってたよな?でも最後の日、おまえにボールを投げつけて帰ったあとだ。まるで何かを吹っ切ったみたいになってた。とにかくあの日を境にお前の話は一切しなくなった。そのうちお前が学園に来なくなって、NYに渡るってことを耳にしても、おまえのことを口にすることはなかった。それにあいつ、俺たちを避けるようになった。暫く見かけない日が続いてたんだが、あいつ、バイトとかで忙しい女だろ?だからそうだと思ってた。・・・でも違った。」

あきらの口は重かった。

「なにが・・だ?」

司の声は緊張に掠れたが、あきらの返答まで不自然な間が挟まれた。
それは、あきらが言葉を選んでいたせいかもしれない。そして、言いにくそうに口を開いた。

「・・なあ、司。おまえのせいじゃない・・」

何が司のせいではないというのか。
あきらの口から語られるその先を知りたいが、司は自分が記憶を失っていた間にいったい何が起きたのか知るのが怖かった。

「・・あいつあの事件のあと、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってた。あの病気は表面上何も変わらない心の傷だ。だから周りにいる人間は誰も気づかなかった。それにあいつ我慢するの得意だろ?だから苦しい思いをしても我慢してたんだろうな。それに自分で必死に精神のバランスを取ろうとしていたはずだ。でもある日、あいつにとっては決定的な事が起きた。」

「なんだよ?決定的なことって?」

「事件だ。フラッシュバックって言えばわかるか?おまえが刺された事件とは違うが、どこかの街で通り魔殺人があったってニュースがテレビから流れてきた。結構大きな事件で騒がれてたんだが、そのときあいつ、そのニュースを見て倒れたそうだ。それで・・それから俺たちのこと、つまり司に関連する人間のことは忘れてた。・・・おまえのことも含めて。」

あきらはひと呼吸置いた。
そして目の前にいる男の顔を窺いながらゆっくりと言い聞かせるよう言った。

「いいか司。牧野がおまえを忘れたのは、おまえのせいじゃない。今のおまえが何を考えてるのか当ててやろうか?おまえ自分のせいだって-」

「もういい・・あきら。」

司はあきらの言葉を遮った。

「俺のせいじゃないっていうが、俺のせいだ。俺があいつを忘れた。そのことであいつが傷ついたことに変わりはない。きっかけは俺があいつを、牧野のことを忘れたからだ・・」

二人が正真正銘の恋人同士になると決めた島から戻ったとき起こった事件。
あのとき船から降り、互いの手を掴む直前、一瞬の隙をつくかのように二人の間を切り裂いた刃があった。

「司。・・けど、あの事件はおまえが悪いんじゃないことくらい誰でも知ってる。おまえが何かした訳じゃないし、おまえが記憶を・・あいつのことを忘れたのは誰のせいでもないはずだ。あれは・・」

不慮の事故のようなものだ、とあきらは言いかけたが口をつぐんだ。親友は決して不慮だとは考えていないと知っていたからだ。
司の財閥の強引なビジネスのやり方に恨みを持つ男の犯行だ。明らかに殺意をもった行為は、恋人達の仲を引き裂くことになったのだ。それも18年という長い時間が過ぎていた。だがあきらにしても、周りの仲間にしても何もしてやることは出来なかった。

「いいんだ、あきら。話しの本質をそらす必要はない。・・あの事件で身体に傷を負ったのは俺だが、心の傷はなかった。・・俺は忘れた・・自分にとって大切な人を忘れたってことに気付かない俺は、・・何も感じなかったんだ。身体の傷なんてのは時間が経てば治る。けど心の傷は・・そうはいかない。そうだろ?あの事件で誰が犠牲になったとすればあいつだ。牧野だろ?何しろ俺はそんな傷ついた心を抱えた牧野のことを思い出すことがなかった。」

心の傷は見えないが、身体に負う傷と変わりない。
それなのに思い出すどころか、恋人に忘れられ、心に傷を負った少女を罵倒しなじり倒していた。本当ならあのとき、差し出された手を掴み新しい一歩を踏み出すはずだった。

激しい恋だった。
17歳の時、好きになった少女は真っ直ぐな瞳で司の心の中に入り込んでいた。
司が支配人室で見たあの瞳はあの頃と変わらなかった。
どうでもいいと思っていた人生を、彼女のためなら自分のその人生をかけてもいいとまで口にした人だった。何度も好きだと叫んだ人。

今の司は自分の過去の記憶の中にある現実を受け止めようとしていた。
人は過去の記憶の中に美しい思い出として残しておきたいものがある。だが、それはごくわずかだ。そんな中で牧野つくしとの記憶は美しい思い出として残したかったはずだ。だが、司が刺され、記憶を失ったという事実は、牧野つくしにとって苦痛を呼び起こす記憶でしかないということだ。だから心に深い傷を負い、今でも苦しんでいるということか?


「なあ、あきら。俺はどうしたらいい?あいつの・・こと・・」

「司・・おまえ、どうしたらってどういう意味だ?おまえは今でも牧野のことが好きなのか?いいか。よく考えろよ?あいつのことを思い出しても好きじゃないってこともあるんだぞ?なあ、司。どうなんだ?」

あきらはゆっくりと確かめるよう聞いていた。

「俺は好きだ。あの頃と変わらない思いがある。記憶を、あいつのことを思い出した瞬間、まるで高熱が出てうなされたあとのようだった。熱が下がっても暫く動けない・・そんな状態だった。・・けどあいつのことを忘れたのはタチの悪い風邪をひいたのとは訳が違う・・3日やそこらで治る風邪とは・・」

18年を3日で治るような風邪と一緒にすることは出来ない。

「ああ。そうだ。おまえは18年もあいつのことを忘れていた。それで、司、これからどうするんだ?あいつはおまえのことは_」

あきらは言葉に詰まった。

「いいんだ。覚えてないって言うなら。それでも。俺は俺を忘れたあいつを・・そんなあいつと最初から見知らぬ他人としてでもいい。やり直したい。俺があいつのことを好きな気持ちはあの時と同じだ。」


他人の18年というのは案外早く感じるものだ。
よくある話だが、知り合いの子どもがいつの間にか大きくなっているということがある。
そんなとき、「ついこの前までこんなに小さかったのに、いつの間にこんなに大きくなって。」そんな会話が交わされることがある。

司にとっての18年は文字通り人の一生に値するほどの長さがあるはずだ。
まさに子供がいれば、成人しようかという歳月が二人の間に流れていた。
そして司のことを忘れた少女も今は立派なひとりの女性として生活していた。

彼も彼女を忘れて18年。それなら、もう一度やり直せばいいはずだ。
司も今はあの頃と違い社会的地位のある大人だ。
あの頃と同じような失敗をすることはないと断言できる。
彼女との二度目の恋だと思えばいい。二度目なら一度目よりも上手く気持ちを伝えることが出来るはずだ。17歳の頃の自分よりも、もっと上手く愛していると伝えることが出来る。


人は別れた時の相手の年齢を自分の年齢と同じように重ねて思う。
長い間会わなくても、自分がこれだけ人間として成長しているなら相手も自分と同じだけの年齢を重ねていると想像する。だが、司は17歳のときつくしを忘れた。だから離れている間の年齢を重ねようがなかった。

なんの執着もない相手を思い出すことなどないのだから。

司は目を閉じあの頃の牧野つくしを思い出そうとした。

未だに18年ぶりに自分の前に現れたあの女性があの牧野つくしだと信じられない気持ちがあった。彼の中の牧野つくしはあの当時の少女のままだったのだから。想像もしなかった今の牧野つくしの姿は大人の女性。礼儀正しく、控えめで人工的な姿の女性。それは司の周りで働く人間に対し彼が求めていた姿だ。それならなにが不満だというのか。

だが今思い出すのは、大きな瞳で自分を見上げほほ笑む姿。
そして屈託のない笑顔。それはヒマワリが自分に向かって大輪の花を咲かせているようだった。あの頃、華奢で細かったが、今の牧野つくしは女性らしい変貌を感じさせた。それは司が今までつき合って来た女性とは違う女性らしさがあった。司はそんな思いのなか、気になることがあった。どうしても聞いておきたいことがある。
閉じていた瞼を開くと、言った。

「・・あきら。ひとつ教えて欲しいことがある。あいつは、類と・・」

類が牧野つくしの傍にいるような気がしていた。
牧野が困難に陥ったとき、いつも類が傍にいて励ましていた。そんな二人の間には奇妙とも言えるような親密さがあった。あの頃、それを妬んだ自分が理不尽とも言えるような喧嘩を類に仕掛けたことが何度もあった。誇り高いと言われた男だったがプライドより嫉妬が勝っていた。

「司。あいつが、牧野が、おまえが自分を忘れたからってそんなに簡単に他の男になびく女だと思うか?あいつは、おまえのことを忘れてもそんな女じゃなかった。あいつはおまえに忘れられてからも・・ずっとひとりだったぞ。」

司は彼女の、牧野つくしの人生を探りたいと思った。
知りたいと思った。牧野の人生に再び関わりたい。
あの頃と同じあいつの大切な人間の一人になりたい。

「・・なあ。司。もしあいつが、牧野がおまえなんか愛せないって言ったらどうする?」

不意に問われたあきらの言葉。
それは司の心の深い部分にある思いを代弁していた。

「そのときは・・友人としてもいい。・・傍にいたい。」

許されるなら。





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2017
03.05

時の指先 4

愛しい人の記憶を取り戻したが、どうしてもっと早くそうならなかったのかと考えても仕方がない。運命なのか、業(ごう)なのか。どちらも自分が決めたことではない。
今がそのタイミングだというなら仕方がない。
だがこの再会を誰が決めたとしても、20年近く経った今、気持ちを沈ませている時間はない。年月は経ってしまったが、まだこれから取り戻せることはある。


ホテル事業は司の専門ではない。
そんな男は当然だが今までホテルに足を運ぶことは少なかった。
だが、司はあれから何度も足を運んでいた。

ただ牧野つくしに会いたかったから。


初めのころ支配人室に呼び出し会っていた。
だが司がホテルへ足を運ぶことが増えた今、役員室の一室を彼の部屋として用意させていた。そんな男がこの場所にいる理由を見つけるのは簡単だった。NYから帰国し、日本でのホテル事業について現場の声が聞きたいと、事業を統括する部門の人間に伝え、実際現場に立つこともある課長級クラスの人間から話しを聞きたいと言った。

そんなもっともらしい理由をつけたが、18年の間自分が知らなかった牧野つくしについて知りたいが為の理由だ。そして再び出会った彼女のどんなことも見逃したくなかった。

やがてそんな思いから、こうして向かいあって珈琲を飲むまでの間になっていた。
とは言え、これはあくまでも仕事上のことだ。
そうでなければ、親会社の副社長と宿泊課長が一緒に珈琲を飲むなど考えられない。自分のような立場の人間が副社長と一緒に珈琲を飲むことは出来ない、と、なかなか腰を下ろそうとはしなかった。そんな彼女のため、立ち上がって傍まで行き、椅子をひき、無理矢理にでも座らせたかった。だがもしそんなことをすれば、それこそ座りはしないだろう。


癖のない黒髪はあの頃と変わって短くなったとはいえ、艶があり美しさは変わっていなかった。キュッと引き結んだ口元は、あの当時と同じで意思の強さを感じさせるところがあった。
そんな口から語られる言葉は明晰で淀みがない。そして的確な受け答え。

あの頃、司はその声ではっきりと言われたことがあった。
『あんたなんて井の中の蛙よ!』と。
記憶の底からはっきりと浮き上がって来たその言葉に苦笑したが、それは生意気だと思っていた女からの言葉でまさに事実だった。もう随分と昔の話だが、あの日の光景が頭の中に甦っていた。




「牧野さん。先月は客室の稼働率がかなりよかったようですが、何かイベント的なことでもありましたか?」

つくしは頷いた。

「はい。先月はここから近い場所にある大学病院の外科のドクターが会長をなさっている医学会があり、その参加者の宿泊が多かったことで稼働率100%の日が何日間かありました。」

テーブルの上に置かれたノートパソコンの画面を司に示すと共に、直近の稼働率が印刷された用紙を彼の前に置いた。

「そうですか。それは素晴らしい。」

司は説明を始めたつくしの様子を見ながら珈琲を口元へ運んだ。
仕事に集中している時の彼女は凛とした美しさがある。
その姿は、誰が見ても一流ホテルに勤務するホテル業界の人間だ。

「はい。おかげで飲食部門と宴会部門の売り上げも伸びました。宴会部門については、一番大きな宴会場を会員の懇親会の場として使用して頂けたこともありますが、分科会も当ホテルの会議室や宴会場を使用して頂いたこともあり、そうなると、珈琲や軽食の提供といったものも伴いました。それにこれだけ大きな学会ですと、医薬品業界主催の部会といったものもあり、小さな会議室も全て満室といった状況でした。」

言葉は切れ間があいた。
司は先を促すわけではないが、彼女が話しをするのが見たいと思い問いかけた。

「そうでしたか。それで何か問題が?」

司にしてみれば、こうして会話が出来ることが嬉しくて仕方がなかった。18年ぶりに聞く声が、ビシネスライクで人工的だったとしても構わなかった。どんな声であってもいい。
牧野つくしの声が聞きたい。

「いえ。何も・・。ですがああいった大きな学会があればいつものことですが、ゴーショウ(Go-Show)のお客様が何名様かいらっしゃいます。フロントで予約を入れたと言い張るのですが、予約の確認は取れません。もちろん空室があればご案内出来るのですが、満室ではこちららとしてはどうしようもありませんのでお断りせざるを得ないのですが、なかなかお引き取りいただけない場合もあります。・・普段ならそういったお客様には別のホテルを手配し、ご案内させて頂くのですが、流石にあれだけ大規模な学会になると、周りのホテルの客室も空きは無いといった状況になります。」

医学会の種類にもよるが、今回の外科の学会は全国各地からかなりの数の外科医が集まった。それに近年の海外からの観光客の増加により、慢性的なホテル不足に輪をかけたこともある。そんな中にあっても、利益を求めるあまり、予約のキャンセルを見越し予約を受け、実際にはキャンセルにならずオーバーブッキングするホテルもある。だが司のホテルでは、そんなことは信用に関わることだと空室状況は厳しく管理されていた。

「ゴーショウか。予約していないのに、いきなり現れて予約したと言い張る客か。確かに面倒だな。」

万が一それが、ホテルのミスで予約されていないことが分かれば、それはホテル側の責任になる。そうなれば、例え満室だろうが、なんとしても客の宿泊先を確保しなくてならなくなる。同等ランク、またはそれ以上のホテルを手配し、差額があれば支払い、代替施設までのタクシー代を負担することにもなる。だがそれ以上重要なのは、ホテルの信用に関わることだということだ。だから満室状態でゴーショウの客が現れると、フロントでは緊張が走る。

「はい。逆にノーショウ(No-Show)のお客様もいらっしゃいますが、どの時点でそれを判断するかが難しく、やはりお部屋を空けて待つことになるのですが、ホテルとしては折角目の前にご宿泊をしたいといらっしゃっているお客様がいらっしゃるのに、ご案内出来ないということは、結果として売れ残りの部屋を出してしまったことになります。」

「そうか。今度は予約したのに現れない客か。売りたいが売れない部屋が発生する。そうなると稼働率は落ちるが、それはホテルとしては仕方がないことだ。」

司は思わず微笑みを浮かべそうになった。
まさかこうしてつくしと仕事の話をするとは考えもしていなかっただけに、司にとっては妙な嬉しさだった。そして、背筋を伸ばし、椅子に腰かけ司の話を真剣な表情で聞く女性に、昔と変わらないところを見たような気がした。あの頃の牧野の性格はひと言で言えば真面目で頑固だった。そんな真面目な女の受け答えに、その性格の片鱗を見たような気がした。

とは言え社会に出て長い女は、なかなか本当の自分を見せるということはない。ましてや、今の牧野は表面的には落ち着き、部下に指示を出すことが出来る女性になっていた。

だが、そんな女性に昔のままの面影とも言えることがあることに安心した。
それと同時に思い出すのは、あの頃の牧野は悩みが多い女だったということだ。
自分の家のこと、友人のこと、どうでもいい赤の他人のこと。

そして司のこと。

心配ごとに知らん顔出来るような性分ではなかった。

そんな女の悩みを解決してやりたい。そんなことを何度も思った。
しかし頑固な女は司の助けを受け入れようとはせず、なかなか素直にうんとは言わなかった。
だが今、自分の立場で何か言えば牧野は言うことを聞くだろうか。
会社組織の頂点にいる男からの言葉なら、素直に聞くのだろうか。
18年前恋人だったとは思わない男からの言葉なら。

「牧野さん、あなたは記憶力がいい方ですか?」

司は手にしていた珈琲カップを置き、少しほほ笑んだ表情で聞いた。

「・・記憶力・・ですか?」

「ええ。実はわたしは18年前記憶を失ったことがあるんです。厳密に言えば高校生の頃の記憶なんですが、ある部分だけの記憶が抜け落ちている。当時そう言われてましてね。どうも何かのショックで記憶の一部分だけが失われてしまったようなんです。幸いわたしの場合は一部分だけでしたが、人によって人生の記憶全てを忘れてしまうこともあるらしいんです。」

司はひと呼吸置き、感情の流れが感じられないかとつくしをじっと見た。

「わたしはその記憶がわたしの運命を決める記憶だと思っていました。とても大切な人がその記憶の中にいる。そんな気がしていたんです。時々夢にその大切な人が出て来たことがあったんですが、顔が分からなかった。」

司の口調はどこか淋しさが感じられた。

「実は牧野さんに初めてお会いした日、あなたにお会いしたことがありませんかとお伺いしましたが、それはあなたがわたしの夢の中に出てくる人に似ていたからです。結局記憶は戻りましたが、その女性にはまだ会えない状態です。」

司はつくしの顔に移ろう何かを探していた。
だが司に向けられていた視線は、彼女が手にしていた珈琲カップに落とされただけだった。

もっと話がしたいと思った。
自分のことを聞いて欲しいと思った。
例え目の前の女性が自分のことを覚えてないとしても。
正直なところ、あの事件について話したかった。
だが話すことは出来ない。あの事件をきっかけに、PTSDを患ってしまった女性にストレスを与えてしまう恐れがある話しなど出来るはずがない。


だがどんな形でもいい。
牧野を傍に置きたい。
いや。俺が牧野の傍にいたい。

「牧野さん。あなたは優秀だと聞いている。そこであなたには、わたしの仕事を手伝ってもらいたい。」


好きになりはじめた当初はまだ子供だったが、今、目の前にいる女性はあの頃と違った眩しさが感じられた。
もし、手を伸ばし、その艶やかな髪に触れたらどうするだろうか。
さらに近づき、その匂いを深く吸い込みたいと言ったらどうするだろうか。
唇を捕え、キスをしたらどうする?

予期せぬ形で再び絡み合うことになった二人の人生。
あのとき、さよならなんて言葉は聞いた覚えがない。
だからまだ二人は終わってない。
牧野の記憶があの時点で終わっているなら、二人の関係はただ中断されただけだ。
共に相手のことが記憶になかったのだから、有難い話しなのかもしれない。
このまま牧野が俺のことを思い出さなくてもいい。
記憶が戻らなかったとしてもいい。
傍にいることが出来るなら。




あの頃、一度一緒に店で飲み物を頼んだことがあった。
あのとき俺が頼んだのは珈琲。そして牧野は甘い物を頼んでいた記憶がある。
こうして一緒に珈琲を飲むことなどなかったあの頃。
いや。一度だけあった。あれはネックレスを川に投げ捨てたときか。
そのネックレスは牧野が拾い上げたが・・・。

今の牧野は珈琲が好きなようだ。
こいつも大人になったということか。

だが、記憶の奥底に覚えているだろうか。


冗談を言って笑い合ったあの日のことを。





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2017
03.06

時の指先 5

言えない言葉があるとすれば、それはいったい何なのか。
おまえが好きだという言葉を心の中で何度も反芻するが口に出すことは出来なかった。

二人が出会ったとき、ひと目見て好きになった訳ではない。
嫌な男と嫌な女から始まった二人の出会い。
そんな二人がいつしか恋に落ちていた。
どの段階で相手を好きになったか。どんな恋愛にも始まりはある。
それなら二人の恋愛の萌芽はいつだったのか。
一瞬の胸のときめき、疼きといったものがあったはずだ。

嫌な男だった司の方が惚れた。
それなのに、忘れてしまったのは惚れた男の方だというのだから、それは司にとって負い目のようなものである。だが、今の自分は昔の自分とは違う。年齢を積み重ね、人としての経験も積んだ。だからこそ、こうして牧野に触れ合う機会を得た以上、無茶はしたくはない。

恋する人間はよく口にする。互いにひと目惚れだったと。
だが、恋に落ちるまで、相手を好きになるまでには、相手に対する感情のうねりがあったはずだ。それが例え短い間だったとしても。
そして今、こうして30代半ばの二人が再会すれば、それは20代の若者とは違った考え方をするのが当然だ。それぞれに暮らしてきた生活があり、人生があったのだから。
だが、相手は恋人だった男に忘れられ、捨てられた女。そしてその女は男を忘れた。
そんな女性に罪の意識を感じるのは当然なのかもしれない。だからこうして彼女の前でどこか戸惑い遠慮をする自分がいた。


怜悧な男と呼ばれ、世間に対し冷静不遜なほほ笑みを向ける男が、たった一人の女性に手をこまねいていることが信じられないと思うかもしれない。だがこれは紛れもない事実だ。彼女を愛しているから、嫌われたくないから、傍にいたいから何も出来ないのかもしれない。






ホテルに土日祝日は関係ない。
24時間、365日稼働しているのが当然の業界。
年が明け、カレンダーは新しい年の最初の一枚へと変わっていた。
彼女の誕生日は最後の一枚のカレンダーと共に過ぎてしまったが、本当は祝ってやりたかった。18年間祝うことが出来なかった分、思いっきり華やかに祝いたい。そんな思いが頭に浮んだとしても、今の司は牧野つくしの誕生日を祝うことは出来ないのが実情だ。

だが本当は胸に詰まっているつくしという名を口に出し呼びたかった。

ホテルのフロントから始めた仕事も、宿泊課の課長としてのキャリアを積み、仕事に相応しい雰囲気を纏った女性。いい年を重ねつつあるように感じた。司は自分の知らないつくしの18年はどんな年だったのかと思った。あきらから今までひとりだったと聞かされてはいたが、それでも誕生日を祝ってくれた人間はいたのかもしれない。


今の二人の関係は見知らぬ他人から始まって上司と部下となっていた。

30代には見えないところもある牧野は、抑制の取れた態度で女性管理職として、てきぱきと仕事をこなしていた。一般的に昔の恋人と一緒に仕事をすることが、嫌だという人間は多いはずだ。だが司にとって牧野つくしは昔の恋人などではない。今でも好きな女性は、彼の中では恋人だ。18年前のほんの短い付き合いだったとしても、司にとってあの時間は短くも長く感じられていた。そして再びこうして同じ時間を過ごすことが出来るようになった。そうしたいが為の口実をもうけて足しげくホテルを訪れるようになったのだから。

大人になった牧野つくしと一緒に仕事をする。思えばそんなことを考えたことなどなかった。だがあの頃、傲慢で身勝手に生きてきた男は彼女と出会って変わっていた。だから、思い出してあの頃と変わった男を見て欲しい。

だが現実と過去の間に流れた時は、彼女の記憶から司のことを奪い去っていた。
司も彼女の記憶が無かったころ、別の何かが頭の中を占領したことがあったはずだ。頭の片隅にある仄暗い記憶の中から彼女のことを思い出すまで、意識的に別の何かに占領させていたかもしれない。

もし、牧野が記憶を取り戻したとすれば、二人の関係はどうなるのか?
あきらが言ったように、もう愛せないと言われたらどうすればいいのか。
友人でも構わないとはいったが、あれは嘘だ。恋人であった事実を封印し、ただの友人になど戻れるはずがない。



やがてこうして一緒に仕事をしていれば、これまでと違った親しみを覚えたのだろうか。
今では幾分堅苦しさも取れ、控えめだが笑みが浮かぶようになっていた。
ある日、珈琲を飲みながら聞いて来たことがあった。

「・・あの・・副社長は、先日わたしに似ている人とまだ会えないと仰いましたが、まだお探しなんでしょうか?それとももうお会いになれたんでしょうか?」

気付いているだろうか。
その上目遣いが俺を悩ませたことを。
長い黒髪と黒い大きな瞳。そして心を惹き付ける笑顔を見るたび胸の高鳴りが抑えられなかったことを。その笑顔が未来永劫自分に向けられると信じていた頃があった。

「いや。まだ会えないから今も探してる。」

「そうですか。・・探してどうするおつもりですか?」

司は少し考えたが、自分の思いを伝えるいい機会だと思ったので言った。
たとえ、彼女がそれは自分に向けられたことだと分からないとしても。

「彼女が、幸せかどうか確かめたい。当時、わたしはその女性に酷いことをした。だから謝りたいと思ってる。だがもう18年も前の話だ。彼女がそのことを覚えているかどうか・・」

司は18年間眠り続けていた記憶から、思い出されたことをつくしに伝えることにした。

「18年前彼女が教えてくれたことがある。その頃のわたしは、何でも金で買えると思っていた。物は勿論そうだが、人の心も身体もだ。そんなわたしに人の心は金では買えないことを教えてくれたのが彼女だった。」

その言葉は彼女が言った言葉で一番印象深かった言葉だ。
例え金がいくらあろうと、人の心は買えないということを。あのとき、それまで金があれば何でも望み通りに出来ると考えていた男は返す言葉がなかった。それに、それまで司に面と向かって何かいう人間などいなかった。

「それに、彼女と出会ったことで17歳のどうしようもない男は自分が向き合う相手を教えてもらった。彼女と出会ったことで自分が取るべき態度を教えられた。彼女のためならどんなことでもしようと思った。・・彼女が望むことならどんなことでも。」

司はつくしの様子を見ながら言葉を継いだ。

「だが、最後に会ったとき、酷い言葉を言ってしまった。本当に酷いことを言ってしまったと後悔してる。だからそのことを謝りたいと思ってる。いや。謝りたいと思ってるじゃない。謝らなければならない。」

司は誰に理解を求めると言った風ではないが、その言葉はまさにつくしに向かって言った言葉だ。そして浮かべた表情は恐らく彼の人生のうち、何度と見ることが出来ない表情のはずだ。目の前にいる女性に向かって、永遠にいなくなって欲しくない相手に対して向けた微笑みとも言える表情。過分とも言える好意を寄せていると言える男の表情。

「・・そうですか。でもその方は許してくれるはずです。」
彼女は少し間をおいてから、そう言い出した。
「副社長がそうお考えならきっとその思いは伝わるはずです。」


彼女は自分の善意を信じる女性で、だから他人の善意を信じることが出来る女性だった。
相手があやまれば許すことが出来る。そんな少女。
そして自分の信じていることは貫く。そんな態度が時に眩しく感じられたことがあった。
それなら、俺があやまれば、どんなことでも許してもらえるのだろうか。

覚えていなくてもいい。
おまえが、俺が探している女性だとわからなくてもいい。
ただ、気づいて欲しい。今の俺はおまえと同じ独身で、恋人のいない孤独な男だということを。今の牧野に恋人がいるかどうかを調べせたが、いなかった。
そんなことを調べたと知れば怒るだろうが、どうしても知りたかった。

昔、二人は恋人同士だった。
その事実は変わらないものとしてある。決して風化などさせるつもりはない。
過去のものとして語り継ぐものにはしたくない。
だが牧野が過去を知らないというのなら、過去の恋愛関係を葬り去り、新しい関係を築けばいい。過去を意識の下深くに眠らせておきたいというのなら、それでも構わない。
今の二人の打ち解け具合が、上司と部下の範囲というなら、それを前進させればいいはずだ。
二人で過ごせるなら、それでいい。





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