Against All Odds ~困難を乗り越えて~
Christmas Story 2016
********************
雨が大地を潤すなら、雪は何をもたらしてくれるのか。
最初に落ちて来たひとひらの雪もやがて形を変え大きな雪の粒へと変わっていく。
この地に降り始めた雪はこの世界を変えてくれるのか。
この腕に抱きしめる人がいないこの世界を。
温もりが消えてしまったこの世界を。
空から降る雪は、まるで延々と押し寄せてくる波のようだ。
白い波が空から押し寄せて来る。
決して途切れることなく。
こんな雪の中、かつて彼の手の中にあったあの小さな手の温もりが欲しい。
一度は掴んだと思ったその手を再び掴みたい。
もし、彼女が許してくれるなら。
雪雲が追い払ってしまった太陽の光を浴びたい。
暗くなってしまった空を再び照らす太陽を。
強い風に煽られたのか新聞が空を舞っていた。
それはまるで大きな羽根のある扇風機が回され、空高く押し上げようとしているように見えた。
高く、高く、空高く。
そのうち新聞も見えなくなるかもしれない。上空を流れる偏西風に乗って遠い旅に出るかもしれない。どこか遠く知らない場所へ。書かれた文字が読めない国まで旅をするかもしれない。だがそんなことが実際にあるとは思えなかった。
扇風機が掻き回した空気は渇いた冷たい風。
ひんやりとした冷たい風は街の匂いを変える。
ときおり突風となって地上のものを巻き上げる風。
夏場淀んだ空気によって悪臭を放っていた街の片隅にあるゴミ箱からも、散歩中の犬がもたらした、すえたような匂いも、冷たい風は取り去ってくれる。
そして、そこにあった誰かの思い出も一緒に。
冷たい北風を運ぶ扇風機はいつまでも回転を続けるはずだ。
この季節が終わるまで、ずっと。
地上60階の窓から見上げる空は濃いグレーの雲に覆われており、ときおり雲の隙間から陽の光りが射しこんでいる。それはまるでスポットライトのような一筋の光り。その光りはいったいどの場所を照らしているのか。その場所にあるものは何なのかと思わずにはいられないほど、ある一点を照らしている。彼は思った。その光の下には舞台があって、白いドレスを着た女が踊っているのではないか。そんな光景が頭に浮かんでいた。
雪の結晶を纏った女が。
寒さが厳しく感じられるようになり、街を歩く人々の服装も防寒仕様に変わっていた。
派手な紫色のダウンジャケットを着た若者がいたり、シックで上質なロングコートを纏った老婦人を見かけたりする。街を歩けば目にする光景は派手な装飾の店であったり、入口に銃を持つガードマンが目を光らせる高級店であったりする。一年の中で一番街が光り輝くこの季節。田舎の街ならひっそりと訪れる季節の変わり目も、この街では考えられない話しだ。
ある日、突然街にクリスマスのイルミネーションが輝き始める。
そんな中を誰もが幸せそうな顔をし、街を行き交っていた。
何か欲しいものがあるのか、それとも親しい誰かへの贈り物を探しているのか、わき目もふらず歩く人々。浮かれ騒ぐ街のなか、彼らを見ていると、自分がひとりだと感じられてしまうのは仕方がないことだろう。彼はひとりで生きることを決めたのだから。
この街は人種のるつぼ、メルティングポットと呼ばれている。
移民社会のアメリカでは、それぞれの文化が混じり合い同化する。それを象徴する言葉として有名だが最近では、混ぜても決して同化することがなく、溶け合わないという意味からサラダボウルと言われ、人種のサラダボウルと言われる方が多い。
そんな多民族国家のこの国で、彼のような東洋人は珍しくない。彼がこの街で暮らすようになって既に15年が過ぎていた。
毎年思う。
今年の冬はいったいどんな冬になるのだろうかと。
つい先日、例年より早い雪が降った。街は薄っすらとした雪景色に変わったが、その雪は間もなく顔を出した太陽によってあっという間に溶かされていた。
雪は好きだ。クチナシの花の白であり、アラバスターのような白。
女性の肌の白さの例えとして、アラバスターのような肌と形容されることがあるが、白く滑らかな肌触りは彼女のための言葉だと思った。
あの頃。
二人で永遠を語りあった。愛があれば全てのことを乗り越えられると。
互いが誰よりも大切な人だと感じていた。
だが彼らの永遠は長くは続かなかった。
司が愛した人は今この場所にいない。
今あるのは彼女の面影だけ。
そしてこの場所にいるのは抜け殻となった男。
知り合ったのは高校生の頃。
はじめは彼の周りの人間とは違う風変りな人間が、分不相応な人間が紛れ込んだと思っていた。そんなことを思う男は、あの頃自分が作った地獄に住んでいた。
学園における特権階級劇場最上段席に居た男。
彼はその場所でマリオネットたちが繰り広げる寸劇を眺めていた。
卑怯者が臆病者を苛めて楽しむ姿を。
男は眠れない夜、他人を傷つけながら街を歩く。
そんな毎日を過ごしていた。
救いようがない愚かな男がそこにいたはずだ。
イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリが書いた「神曲」という散文詩がある。
イタリア文学最大の古典として、世界の文学界でも重きをなしている。
それは地獄、煉獄、天国の3部からなる物語でルネッサンス時代に書かれていた。
煉獄というのはキリスト教の中でもカトリックの教義だけにある。
天国と地獄の間にあって、どちらへも行くことの出来ない人間がいる場所とされている。煉獄にいる人間は苦罰を受けることによって罪を清められた後、天国へと入ることが許される。
物語は主人公のダンテが地獄から天国への道を辿る話し。
地獄にいた彼は煉獄を抜けなければ天国への階段を上ることは許されない。だが煉獄には高い山がある。その山を登ることで罪が清められていく。ダンテはその山を登りやがて天国に一番近いとされる煉獄山の山頂に立った。その場所で待っていたのはひとりの少女。その少女から差し伸べられた手を掴めば、天国へと引き上げられる。
司の人生にもそういったことがあった。
彼に差し伸べられた手。
それはまさにダンテの神曲の中に描かれた少女と同じ手だったはずだ。
物語の主人公のダンテはひとりの少女、ベアトリーチェによって天国へ引き上げられた。
男にとってその少女は女神であり、崇拝の対象だった。
ベアトリーチェとはこの物語の作者であるダンテが心惹かれた少女の名。
だが彼女は夭逝してしまい、それを知ったダンテは嘆き悲しんだと言われている。
司にも同じような少女がいた。
その少女の名前は牧野つくし。
物語の中と違って司はその手を掴むことを許されなかった。
あともう少しと手を伸ばしたが、少女の手を掴むことは出来なかった。
ある日、彼は一人の暴漢によって死の淵を彷徨うことになる。
神はその時、司を煉獄に留めることに決めたのだろう。
そしてそれまで犯した罪を償うための罰を与えたのかもしれない。司が煉獄で受けた苦罰は、少女の存在を忘れ去ってしまうことだった。彼が神の恵み、天国の喜びをあずかるためには、その苦罰が必要だったのだろう。そして、その罰は長い年月を必要としたということだ。
だが神の教えは、人が罪を犯した後に味わう苦しみは、神が罰として与えるものではなく、罪そのものがもたらすものだと説いている。
それなら司の失った記憶は彼自身の罪がそうさせたということだ。
運命は人の意思に関係なく紡がれていく。
やはりそこに働いているのは神の御意思と采配と言えるのかもしれない。
司の記憶が戻ったのは、ある寒い日。
ちょうど5年前の今日。
なにもかもが寸分の狂いもなく過ぎていく日常の朝。
記憶の想起というものは、まさにある日突然だった。
朝目覚めたとき、見える景色がいつもと違って見えた。
冬は太陽の位置が低い。
カーテンが開け放たれた窓から朝の太陽が、斜めに差し込む光が、司の目の奥に射しこんできた瞬間、涙が溢れた。それまで頭の中に痛みの塊のようなものがあったが消えて無くなっているのがわかった。
部分部分でしか理解できなかったことが、やがてひとつの形を作っていくのが感じられた。
聞えないはずの時計の秒針の音が、まるでメトロノームのように規則正しくリズムを刻むように聞こえた。一秒ごとに甦っていく過去への想い。
記憶は螺旋階段のように上へ上へと伸びていて、その階段を一段登る度にひとつ、またひとつと記憶の扉が開かれていった。
閉ざされていた過去の扉は今、彼の前で開かれた。
大きな扉が開き、過去が一気に彼の頭の中に溢れ、全世界が色を持った瞬間。
_ああ。
俺は思い出したんだ。
あの日のことを、そしてあの少女のことを。
煉獄山の頂上で掴めなかったあの少女の手。
掴みたかった。
あの手を。
地獄に落とされた死者は最後に見た光景を死後も忘れることがなく、その瞼に焼き付けるというが、もしそれが本当なら、彼の瞼に焼き付けられたのは、記憶がなくなる寸前の光景だったはずだ。だが古い記憶が浮上してくるものの、司の空白の時間は余りも長く、過去を辿るには遠すぎるほどだ。
彼の時間はどこで止まってしまったのか。
静寂のなか、時を刻む時計の針は止まることを知らない。たとえ誰かがその針を止めたとしても、また別の時計が時を刻む。時は止まることはないし、止めることも出来ない。
_誰にも。
何もなかった10年とは言えなかった。
だがなぜ、今なのか?
どうして今の季節なのか?
あのとき、そう思った。
太陽の光はいつも彼の頭上にあった。窓から差し込む光もいつもと変わらない。
だがあれはもしかすると、神の光りだったのかもしれない。
神はその日、彼をお許しになられたのだろう。
司は牧野つくしのことを思い出した。
鮮明に、はっきりと。
そして、そのとき感じた。
もう時間が経ち過ぎていると。
二人の愛はあの時点で一度終わったと。
だから記憶が戻っても会いに行くことはしなかった。
決して愛が甦らなかったわけではない。
だがもう時間が経ち過ぎている。
共に別の人生を歩んでいる。
もう終わった恋だと。
過ぎ去った恋だと。
忘れなければならない恋だと_
司は一度、牧野つくしの行方を捜した。
そのとき、彼女が同じ街に住んでいると知った。
だが、訪ねて行くことはしなかった。
会いに行くことはしなかった。
出来なかった。
彼には。
司は牧野つくしの人生に何の幸せも与えたことがなかったからだ。逆を言えば、不幸を与えたのかもしれない。彼女を忘れてしまうということで苦しめてしまった。
何度も彼に会いに来てくれた女性だというのに、追い返してしまったのだから。
そして、ついには、彼女の存在など虫けらのように見ていた。
忘却の彼方へと忘れ去ってしまった女性に記憶が戻ったからと言って会いにいけるはずがない。司も、かつて愛した女性も、すでに別の人生を歩んでいるのだから。
そして今日。5年前と同じような朝を迎えた。
低い位置から差し込む陽の光りを浴び、彼は目覚めた。
いつものようにシャワーを浴び、用意されている服を着る。
白いワイシャツにカフスを留め、黒のスーツにネクタイを絞める。
最後に薄い時計を腕にはめた。
朝食はコーヒーだけ。そして迎えの車に乗る。
この街には多くの教会がある。
彼の目に映る古い教会。
今まで毎日この教会の前を車で通り過ぎるだけだった。
だが今日は何故かこの場所に、ひとけのないこの場所に足を踏み入れたいと思った。
車を止めた男は、運転手がさしかける傘を遠ざけ、教会の扉の前に立った。
__不思議だ。
そして、この場所がなぜか特別な場所のような気がする。
まるで誰かに呼ばれているような気がした。
だが、こんな男を誰が呼ぶ?
キリスト教徒でもない男にここの神が何を語りかけてくるというのか?
愛した女を忘れ、過去を振り返ることなく、全てを捨てた男を。
だが、この世のすべての者たちに、人を愛することを伝えようと神になった男がそこにいる。
救いようもない愚かな男を救ってくれる神がいるなら、人生というパズルをもう一度やり直したいと考える男を救ってくれる神に会えるなら。
そんな思いを抱え、司は教会の扉を引いた。

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雨が大地を潤すなら、雪は何をもたらしてくれるのか。
最初に落ちて来たひとひらの雪もやがて形を変え大きな雪の粒へと変わっていく。
この地に降り始めた雪はこの世界を変えてくれるのか。
この腕に抱きしめる人がいないこの世界を。
温もりが消えてしまったこの世界を。
空から降る雪は、まるで延々と押し寄せてくる波のようだ。
白い波が空から押し寄せて来る。
決して途切れることなく。
こんな雪の中、かつて彼の手の中にあったあの小さな手の温もりが欲しい。
一度は掴んだと思ったその手を再び掴みたい。
もし、彼女が許してくれるなら。
雪雲が追い払ってしまった太陽の光を浴びたい。
暗くなってしまった空を再び照らす太陽を。
強い風に煽られたのか新聞が空を舞っていた。
それはまるで大きな羽根のある扇風機が回され、空高く押し上げようとしているように見えた。
高く、高く、空高く。
そのうち新聞も見えなくなるかもしれない。上空を流れる偏西風に乗って遠い旅に出るかもしれない。どこか遠く知らない場所へ。書かれた文字が読めない国まで旅をするかもしれない。だがそんなことが実際にあるとは思えなかった。
扇風機が掻き回した空気は渇いた冷たい風。
ひんやりとした冷たい風は街の匂いを変える。
ときおり突風となって地上のものを巻き上げる風。
夏場淀んだ空気によって悪臭を放っていた街の片隅にあるゴミ箱からも、散歩中の犬がもたらした、すえたような匂いも、冷たい風は取り去ってくれる。
そして、そこにあった誰かの思い出も一緒に。
冷たい北風を運ぶ扇風機はいつまでも回転を続けるはずだ。
この季節が終わるまで、ずっと。
地上60階の窓から見上げる空は濃いグレーの雲に覆われており、ときおり雲の隙間から陽の光りが射しこんでいる。それはまるでスポットライトのような一筋の光り。その光りはいったいどの場所を照らしているのか。その場所にあるものは何なのかと思わずにはいられないほど、ある一点を照らしている。彼は思った。その光の下には舞台があって、白いドレスを着た女が踊っているのではないか。そんな光景が頭に浮かんでいた。
雪の結晶を纏った女が。
寒さが厳しく感じられるようになり、街を歩く人々の服装も防寒仕様に変わっていた。
派手な紫色のダウンジャケットを着た若者がいたり、シックで上質なロングコートを纏った老婦人を見かけたりする。街を歩けば目にする光景は派手な装飾の店であったり、入口に銃を持つガードマンが目を光らせる高級店であったりする。一年の中で一番街が光り輝くこの季節。田舎の街ならひっそりと訪れる季節の変わり目も、この街では考えられない話しだ。
ある日、突然街にクリスマスのイルミネーションが輝き始める。
そんな中を誰もが幸せそうな顔をし、街を行き交っていた。
何か欲しいものがあるのか、それとも親しい誰かへの贈り物を探しているのか、わき目もふらず歩く人々。浮かれ騒ぐ街のなか、彼らを見ていると、自分がひとりだと感じられてしまうのは仕方がないことだろう。彼はひとりで生きることを決めたのだから。
この街は人種のるつぼ、メルティングポットと呼ばれている。
移民社会のアメリカでは、それぞれの文化が混じり合い同化する。それを象徴する言葉として有名だが最近では、混ぜても決して同化することがなく、溶け合わないという意味からサラダボウルと言われ、人種のサラダボウルと言われる方が多い。
そんな多民族国家のこの国で、彼のような東洋人は珍しくない。彼がこの街で暮らすようになって既に15年が過ぎていた。
毎年思う。
今年の冬はいったいどんな冬になるのだろうかと。
つい先日、例年より早い雪が降った。街は薄っすらとした雪景色に変わったが、その雪は間もなく顔を出した太陽によってあっという間に溶かされていた。
雪は好きだ。クチナシの花の白であり、アラバスターのような白。
女性の肌の白さの例えとして、アラバスターのような肌と形容されることがあるが、白く滑らかな肌触りは彼女のための言葉だと思った。
あの頃。
二人で永遠を語りあった。愛があれば全てのことを乗り越えられると。
互いが誰よりも大切な人だと感じていた。
だが彼らの永遠は長くは続かなかった。
司が愛した人は今この場所にいない。
今あるのは彼女の面影だけ。
そしてこの場所にいるのは抜け殻となった男。
知り合ったのは高校生の頃。
はじめは彼の周りの人間とは違う風変りな人間が、分不相応な人間が紛れ込んだと思っていた。そんなことを思う男は、あの頃自分が作った地獄に住んでいた。
学園における特権階級劇場最上段席に居た男。
彼はその場所でマリオネットたちが繰り広げる寸劇を眺めていた。
卑怯者が臆病者を苛めて楽しむ姿を。
男は眠れない夜、他人を傷つけながら街を歩く。
そんな毎日を過ごしていた。
救いようがない愚かな男がそこにいたはずだ。
イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリが書いた「神曲」という散文詩がある。
イタリア文学最大の古典として、世界の文学界でも重きをなしている。
それは地獄、煉獄、天国の3部からなる物語でルネッサンス時代に書かれていた。
煉獄というのはキリスト教の中でもカトリックの教義だけにある。
天国と地獄の間にあって、どちらへも行くことの出来ない人間がいる場所とされている。煉獄にいる人間は苦罰を受けることによって罪を清められた後、天国へと入ることが許される。
物語は主人公のダンテが地獄から天国への道を辿る話し。
地獄にいた彼は煉獄を抜けなければ天国への階段を上ることは許されない。だが煉獄には高い山がある。その山を登ることで罪が清められていく。ダンテはその山を登りやがて天国に一番近いとされる煉獄山の山頂に立った。その場所で待っていたのはひとりの少女。その少女から差し伸べられた手を掴めば、天国へと引き上げられる。
司の人生にもそういったことがあった。
彼に差し伸べられた手。
それはまさにダンテの神曲の中に描かれた少女と同じ手だったはずだ。
物語の主人公のダンテはひとりの少女、ベアトリーチェによって天国へ引き上げられた。
男にとってその少女は女神であり、崇拝の対象だった。
ベアトリーチェとはこの物語の作者であるダンテが心惹かれた少女の名。
だが彼女は夭逝してしまい、それを知ったダンテは嘆き悲しんだと言われている。
司にも同じような少女がいた。
その少女の名前は牧野つくし。
物語の中と違って司はその手を掴むことを許されなかった。
あともう少しと手を伸ばしたが、少女の手を掴むことは出来なかった。
ある日、彼は一人の暴漢によって死の淵を彷徨うことになる。
神はその時、司を煉獄に留めることに決めたのだろう。
そしてそれまで犯した罪を償うための罰を与えたのかもしれない。司が煉獄で受けた苦罰は、少女の存在を忘れ去ってしまうことだった。彼が神の恵み、天国の喜びをあずかるためには、その苦罰が必要だったのだろう。そして、その罰は長い年月を必要としたということだ。
だが神の教えは、人が罪を犯した後に味わう苦しみは、神が罰として与えるものではなく、罪そのものがもたらすものだと説いている。
それなら司の失った記憶は彼自身の罪がそうさせたということだ。
運命は人の意思に関係なく紡がれていく。
やはりそこに働いているのは神の御意思と采配と言えるのかもしれない。
司の記憶が戻ったのは、ある寒い日。
ちょうど5年前の今日。
なにもかもが寸分の狂いもなく過ぎていく日常の朝。
記憶の想起というものは、まさにある日突然だった。
朝目覚めたとき、見える景色がいつもと違って見えた。
冬は太陽の位置が低い。
カーテンが開け放たれた窓から朝の太陽が、斜めに差し込む光が、司の目の奥に射しこんできた瞬間、涙が溢れた。それまで頭の中に痛みの塊のようなものがあったが消えて無くなっているのがわかった。
部分部分でしか理解できなかったことが、やがてひとつの形を作っていくのが感じられた。
聞えないはずの時計の秒針の音が、まるでメトロノームのように規則正しくリズムを刻むように聞こえた。一秒ごとに甦っていく過去への想い。
記憶は螺旋階段のように上へ上へと伸びていて、その階段を一段登る度にひとつ、またひとつと記憶の扉が開かれていった。
閉ざされていた過去の扉は今、彼の前で開かれた。
大きな扉が開き、過去が一気に彼の頭の中に溢れ、全世界が色を持った瞬間。
_ああ。
俺は思い出したんだ。
あの日のことを、そしてあの少女のことを。
煉獄山の頂上で掴めなかったあの少女の手。
掴みたかった。
あの手を。
地獄に落とされた死者は最後に見た光景を死後も忘れることがなく、その瞼に焼き付けるというが、もしそれが本当なら、彼の瞼に焼き付けられたのは、記憶がなくなる寸前の光景だったはずだ。だが古い記憶が浮上してくるものの、司の空白の時間は余りも長く、過去を辿るには遠すぎるほどだ。
彼の時間はどこで止まってしまったのか。
静寂のなか、時を刻む時計の針は止まることを知らない。たとえ誰かがその針を止めたとしても、また別の時計が時を刻む。時は止まることはないし、止めることも出来ない。
_誰にも。
何もなかった10年とは言えなかった。
だがなぜ、今なのか?
どうして今の季節なのか?
あのとき、そう思った。
太陽の光はいつも彼の頭上にあった。窓から差し込む光もいつもと変わらない。
だがあれはもしかすると、神の光りだったのかもしれない。
神はその日、彼をお許しになられたのだろう。
司は牧野つくしのことを思い出した。
鮮明に、はっきりと。
そして、そのとき感じた。
もう時間が経ち過ぎていると。
二人の愛はあの時点で一度終わったと。
だから記憶が戻っても会いに行くことはしなかった。
決して愛が甦らなかったわけではない。
だがもう時間が経ち過ぎている。
共に別の人生を歩んでいる。
もう終わった恋だと。
過ぎ去った恋だと。
忘れなければならない恋だと_
司は一度、牧野つくしの行方を捜した。
そのとき、彼女が同じ街に住んでいると知った。
だが、訪ねて行くことはしなかった。
会いに行くことはしなかった。
出来なかった。
彼には。
司は牧野つくしの人生に何の幸せも与えたことがなかったからだ。逆を言えば、不幸を与えたのかもしれない。彼女を忘れてしまうということで苦しめてしまった。
何度も彼に会いに来てくれた女性だというのに、追い返してしまったのだから。
そして、ついには、彼女の存在など虫けらのように見ていた。
忘却の彼方へと忘れ去ってしまった女性に記憶が戻ったからと言って会いにいけるはずがない。司も、かつて愛した女性も、すでに別の人生を歩んでいるのだから。
そして今日。5年前と同じような朝を迎えた。
低い位置から差し込む陽の光りを浴び、彼は目覚めた。
いつものようにシャワーを浴び、用意されている服を着る。
白いワイシャツにカフスを留め、黒のスーツにネクタイを絞める。
最後に薄い時計を腕にはめた。
朝食はコーヒーだけ。そして迎えの車に乗る。
この街には多くの教会がある。
彼の目に映る古い教会。
今まで毎日この教会の前を車で通り過ぎるだけだった。
だが今日は何故かこの場所に、ひとけのないこの場所に足を踏み入れたいと思った。
車を止めた男は、運転手がさしかける傘を遠ざけ、教会の扉の前に立った。
__不思議だ。
そして、この場所がなぜか特別な場所のような気がする。
まるで誰かに呼ばれているような気がした。
だが、こんな男を誰が呼ぶ?
キリスト教徒でもない男にここの神が何を語りかけてくるというのか?
愛した女を忘れ、過去を振り返ることなく、全てを捨てた男を。
だが、この世のすべての者たちに、人を愛することを伝えようと神になった男がそこにいる。
救いようもない愚かな男を救ってくれる神がいるなら、人生というパズルをもう一度やり直したいと考える男を救ってくれる神に会えるなら。
そんな思いを抱え、司は教会の扉を引いた。

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Comment:12
世界中の誰よりも一番幸せになって欲しい。
毎年この季節になると、そんな思いを込め祈りを捧げていた。
あたしが出来ることは、ただ祈ることだけ。
ただひたすら、あの人が幸せに過ごせますようにと。
この場所に膝をつき、目を閉じ、祈りを捧げる。
そうすることで、日々の中で味わった喜びや悲しみの全てをあの人に伝えることが出来るのではないか。そう思っていた。
__道明寺、元気にしてる?
あんたの噂は色々聞くけど、大変だね?
でも仕事は順調そうだし、元気でよかった。
あたしも元気にしてるよ。
かつて愛し合った人がいた。
だが、今その人はここにいない。
例え全てを投げ出していたとしても、手に入らない人だった。
失った恋人は彼女の事を忘れてしまったが、つくしは自分を忘れた恋人のことを、忘れたことはなかった。どんな境遇にいようと、忘れられなかったということだ。
この街に暮らして6年が経つ。その間、何度か彼を見かけたことがある。
街の雑踏に紛れた女が彼を見ることが出来たのは、セレブリティの集うパーティー会場となったホテルエントランス。多くの有名人が集まるパーティー。誰が来るのかと入口で待つ人間たちがいるが、つくしもその中にいた。
ひと目でいいから会いたい。そう思って足を運んだ。
だが、彼の目につくしの姿は映らなかった。黒く冷たい瞳は誰の姿も映し出すことなく、ただカメラのレンズのように、目の前のモノを認識しているだけだった。
忘れられた恋人。
そんな言葉が繰り返し使われたこともあったが、もう随分と昔の話だ。今ではもう誰も彼女のことなど口にしなくなっていた。そんな女は恋人の親友たちとも縁を切っていた。
つくしは人に頼ることが苦手な女だ。小さい頃からなんでも自分で決めなければならない環境で育ったこともあり、自分ひとりでなんとかしようとする癖がついていた。だから、ひとりでいる方が楽だった。
いつもこの季節になると教会へと足を運ぶ。
この場所ならあの人の魂がある様な気がするからだ。あの時、失われてしまった彼の心がここにある。そんな気がしていた。
神様はあの時の道明寺の心を預かってくれている。だから、いつかその心を彼に返してくれるはずだ。それがいつになるかわからないが、それでもいい。5年だろうと、10年だろうと、あの人があの頃の心を取り戻してくれるなら。そして、神様が早くあの人に心を返してくれますようにと祈る。あたしにはそれくらいしか出来ないとわかっている。
思い出に形を与えることは出来ない。
いつまでも色褪せることがない思い出は、あたしの心の中にあればいい。
かつて二人が恋人同士として過ごした短い時間が確かにあった。
だが、あれからつくしの前には沈黙の時間しかなかった。
そんなとき、沈黙にむかって涙を流すことがあった。涙がひっそりと頬を流れて落ちる。幾千もの長い夜もひとりで過ごしてきた。涙を呑んで暮らす日々が何日も続いたことがあった。そんな日々が暫く続くと、やがて時の経過と共に思い出も少しずつ変わっていったのかもしれない。
時の流れは誰にも平等に訪れる。
そして人生は限られている。
人生の中に巻き起こった嵐とも言える恋。
それはひとときの一瞬とも言える時間だったのかもしれない。
余りにも短すぎた恋だった。
だが、彼を知り、愛することが出来た。
そして、もう誰も他の人を愛することは出来ないと知った。
離婚が成立したのは5年前。
つくしは年の離れた大学教授だった男と離婚した。
結婚したのは6年前。
たった1年の短い結婚生活だった。
相手は初婚で50代の男性。紹介され、請われ、形だけの結婚。それは始めから告げられていたことで、それならとつくしも了承した。夫婦となったが一緒に暮らしたことはない。まさに名前だけの結婚。連絡があるのは、夫婦として行事に参加しなければならない時だけで、あくまでも他人だった。
形だけの結婚を承諾したには理由がある。
それは結婚相手が、この街の大学で教鞭をとることになったと聞いたからだ。
不純な動機だとわかっていたが、道明寺が暮らすこの街に住む事が出来るならと承諾した。
恐らくその頃のあたしは、孤独感にうちひしがれていたのかもしれない。誰の心にもふっと忍び寄る哀しみと寂しさ、そして孤独に。だが、だからと言って結婚相手と一緒に暮らしたいとは思わなかった。
孤独感にうちひしがれる。
どうしてあの頃、そんなことを感じてしまったのか。それは、彼が、道明寺の婚約の話が出たからだ。誰かと婚約する。そして結婚する。あの頃、そんな話があったはずだ。その季節もちょうど今と同じ冬だった。だが、道明寺は結婚しなかった。理由は知らないが結果として彼は結婚しなかった。記憶を無くした男は相変わらず他人を受け付けることをしないようだ。
結局、あたしは1年も経たずに離婚した。
大学教授という立場がどんな立場か理解出来ないが、独身でいることよりも、結婚しているということが重要だったのかもしれない。だがどうして自分が選らばれたのかわからなかった。他人から結婚した理由を聞かれたとき、なんと答えたのか、もう覚えていなかった。
なにしろ、何の関係もない名ばかりの夫だったのだから。
人は一生に一度恋をするとは限らない。
何度も恋をして、自分に相応しい人を探し続ける人もいる。
だが、どうやらそれはあたしには当てはまらないようだ。
あたしの恋はあの時の一度だけでもう恋は出来ない。
だから求めに応じ、形だけの結婚を受け入れてしまったが、それすら無理だということがすぐにわかった。自分の気持ちに嘘はつけない。妥協なんてするべきじゃない。かつて優柔不断と言われた女だったが、別れを決めるのは早かった。
例え道明寺があたしのことを思い出さなくても、二人で一緒に生きることが出来なくても、あの人を愛し続ける。
道明寺以外愛せない。
あいつ以外に愛されたくなんてない。
あたしの心の中には、まだ道明寺への愛がある。
涙とともに去った日々も、今はもう過去だ。
また今日から、この祈りを捧げた日があたしにとって新たな一年のスタートだ。
どれほど二人の関係が離れていようと構わない。
あの頃だってそうだったはずだ。二人の周りにあったのは悪意と偏見と嫉妬。
だがそれすらバネにした。
もし、誰かに恋をしたことがあるか、と聞かれれば自信を持って言える。
一生に一度の恋をしたと言える。
そしてそれが最後の恋だと。
二人の思い出は少ない。だからどんな些細なことも、痛みを伴うことになった出来事も、全てが懐かしい思い出となって心の中にある。激しい雨に打たれることもあったが、二人が経験した雨のような雨はまだ経験したことがない。
ただ、あの日だけは思い出にしたくない。
あの日を思い出すたびに、離婚後一人旅で訪れた国の街を思い出す。
ローマにあるバチカン市国。
イタリアの中にあっても独立したひとつの国家として認められている世界最小の国家。
言わずと知れたキリスト教、カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ寺院がある。
大聖堂のなか、そこに聖母マリアに抱かれるイエス・キリストの姿を見ることが出来る。
死んで十字架から降ろされた息子であるキリストを抱く聖母マリア。
ひとりの女が息絶えた男を腕に抱く姿がある。聖母マリアの悲しみは、愛する者を永遠に失った悲しみの顔。もう二度と彼女の腕に抱かれた男が甦ることがないと伝えている。
十字架から降ろされた、キリストを抱くマリアの姿を描いた絵画や彫刻は、イタリア語でピエタと呼び、意味は慈悲、哀れみだ。多くの芸術家たちが作成して来たその姿。
なかでも、ミケランジェロが2年の歳月をかけ作り上げた大理石の薄衣を纏った二人の姿は、他を圧倒する。それは時を超越して、神話となった二人の姿。
この寺院を訪れた者全てが必ず見るといわれる彫刻は、静かな佇まいを持ってそこにある。
肉体が衰えるような劣情を抱いたことがない聖母マリアの姿は、自然の摂理に逆らっていると言われている。それは、聖母マリアは息子であるイエス・キリストの姿よりも若い姿をしていると言われているからだ。そのため、このマリアは不滅の純潔の象徴とも言われている。
つくしは以前その場所を訪れたとき、足をとめ、その彫刻の前で心に痛みを覚えた。
あのとき、血を流して倒れた道明寺と、聖母マリアの腕に抱かれた男の姿が重なって見えた。彼女の手の届かない場所へと旅立った男を胸に抱き、哀しみに暮れる女性。その女性に自分を重ねていた。
そして、原罪なく妊娠した女性と同じ、まだ誰のものにもなったことのない自らを重ねていた。
つくしの時間はあの日で止まってしまったようだ。
愛したひとりの男性を思ったまま。
だから、他の男性を愛することは出来ない。
扉が開かれ、背後で誰かが入って来たことがわかった。
外の光りがつくしの足元まで差し込んで来たが、扉はすぐに閉じられた。
次に祈りを捧げる人が待っている。その人のためにこの場所を明け渡さなければ。
つくしは立ち上って振り向いた。入口にいるのが男性だと気づいたが、光の届かないその場所で顔を見ることは出来なかった。だが背が高い男性がコート姿でその場に立っていることはわかった。
しかし、その場所から動こうとしない男性につくしは不安を覚えた。
だがここは小さな教会とはいえ、祈りの場所であり、神の家だ。
この場所で何かが起こるとは考えもしなかったが、それでも暗がりに立つ男性に、どこか不安が過り、呼吸が速まった。
そのとき、聞えるか、聞こえないかのような微かな呟き。
まきの_
と呼ばれたような気がした。
呟きだったのか、囁きだったのか。
どちらにしても、つくしの耳には確かにそう聞こえていた。

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毎年この季節になると、そんな思いを込め祈りを捧げていた。
あたしが出来ることは、ただ祈ることだけ。
ただひたすら、あの人が幸せに過ごせますようにと。
この場所に膝をつき、目を閉じ、祈りを捧げる。
そうすることで、日々の中で味わった喜びや悲しみの全てをあの人に伝えることが出来るのではないか。そう思っていた。
__道明寺、元気にしてる?
あんたの噂は色々聞くけど、大変だね?
でも仕事は順調そうだし、元気でよかった。
あたしも元気にしてるよ。
かつて愛し合った人がいた。
だが、今その人はここにいない。
例え全てを投げ出していたとしても、手に入らない人だった。
失った恋人は彼女の事を忘れてしまったが、つくしは自分を忘れた恋人のことを、忘れたことはなかった。どんな境遇にいようと、忘れられなかったということだ。
この街に暮らして6年が経つ。その間、何度か彼を見かけたことがある。
街の雑踏に紛れた女が彼を見ることが出来たのは、セレブリティの集うパーティー会場となったホテルエントランス。多くの有名人が集まるパーティー。誰が来るのかと入口で待つ人間たちがいるが、つくしもその中にいた。
ひと目でいいから会いたい。そう思って足を運んだ。
だが、彼の目につくしの姿は映らなかった。黒く冷たい瞳は誰の姿も映し出すことなく、ただカメラのレンズのように、目の前のモノを認識しているだけだった。
忘れられた恋人。
そんな言葉が繰り返し使われたこともあったが、もう随分と昔の話だ。今ではもう誰も彼女のことなど口にしなくなっていた。そんな女は恋人の親友たちとも縁を切っていた。
つくしは人に頼ることが苦手な女だ。小さい頃からなんでも自分で決めなければならない環境で育ったこともあり、自分ひとりでなんとかしようとする癖がついていた。だから、ひとりでいる方が楽だった。
いつもこの季節になると教会へと足を運ぶ。
この場所ならあの人の魂がある様な気がするからだ。あの時、失われてしまった彼の心がここにある。そんな気がしていた。
神様はあの時の道明寺の心を預かってくれている。だから、いつかその心を彼に返してくれるはずだ。それがいつになるかわからないが、それでもいい。5年だろうと、10年だろうと、あの人があの頃の心を取り戻してくれるなら。そして、神様が早くあの人に心を返してくれますようにと祈る。あたしにはそれくらいしか出来ないとわかっている。
思い出に形を与えることは出来ない。
いつまでも色褪せることがない思い出は、あたしの心の中にあればいい。
かつて二人が恋人同士として過ごした短い時間が確かにあった。
だが、あれからつくしの前には沈黙の時間しかなかった。
そんなとき、沈黙にむかって涙を流すことがあった。涙がひっそりと頬を流れて落ちる。幾千もの長い夜もひとりで過ごしてきた。涙を呑んで暮らす日々が何日も続いたことがあった。そんな日々が暫く続くと、やがて時の経過と共に思い出も少しずつ変わっていったのかもしれない。
時の流れは誰にも平等に訪れる。
そして人生は限られている。
人生の中に巻き起こった嵐とも言える恋。
それはひとときの一瞬とも言える時間だったのかもしれない。
余りにも短すぎた恋だった。
だが、彼を知り、愛することが出来た。
そして、もう誰も他の人を愛することは出来ないと知った。
離婚が成立したのは5年前。
つくしは年の離れた大学教授だった男と離婚した。
結婚したのは6年前。
たった1年の短い結婚生活だった。
相手は初婚で50代の男性。紹介され、請われ、形だけの結婚。それは始めから告げられていたことで、それならとつくしも了承した。夫婦となったが一緒に暮らしたことはない。まさに名前だけの結婚。連絡があるのは、夫婦として行事に参加しなければならない時だけで、あくまでも他人だった。
形だけの結婚を承諾したには理由がある。
それは結婚相手が、この街の大学で教鞭をとることになったと聞いたからだ。
不純な動機だとわかっていたが、道明寺が暮らすこの街に住む事が出来るならと承諾した。
恐らくその頃のあたしは、孤独感にうちひしがれていたのかもしれない。誰の心にもふっと忍び寄る哀しみと寂しさ、そして孤独に。だが、だからと言って結婚相手と一緒に暮らしたいとは思わなかった。
孤独感にうちひしがれる。
どうしてあの頃、そんなことを感じてしまったのか。それは、彼が、道明寺の婚約の話が出たからだ。誰かと婚約する。そして結婚する。あの頃、そんな話があったはずだ。その季節もちょうど今と同じ冬だった。だが、道明寺は結婚しなかった。理由は知らないが結果として彼は結婚しなかった。記憶を無くした男は相変わらず他人を受け付けることをしないようだ。
結局、あたしは1年も経たずに離婚した。
大学教授という立場がどんな立場か理解出来ないが、独身でいることよりも、結婚しているということが重要だったのかもしれない。だがどうして自分が選らばれたのかわからなかった。他人から結婚した理由を聞かれたとき、なんと答えたのか、もう覚えていなかった。
なにしろ、何の関係もない名ばかりの夫だったのだから。
人は一生に一度恋をするとは限らない。
何度も恋をして、自分に相応しい人を探し続ける人もいる。
だが、どうやらそれはあたしには当てはまらないようだ。
あたしの恋はあの時の一度だけでもう恋は出来ない。
だから求めに応じ、形だけの結婚を受け入れてしまったが、それすら無理だということがすぐにわかった。自分の気持ちに嘘はつけない。妥協なんてするべきじゃない。かつて優柔不断と言われた女だったが、別れを決めるのは早かった。
例え道明寺があたしのことを思い出さなくても、二人で一緒に生きることが出来なくても、あの人を愛し続ける。
道明寺以外愛せない。
あいつ以外に愛されたくなんてない。
あたしの心の中には、まだ道明寺への愛がある。
涙とともに去った日々も、今はもう過去だ。
また今日から、この祈りを捧げた日があたしにとって新たな一年のスタートだ。
どれほど二人の関係が離れていようと構わない。
あの頃だってそうだったはずだ。二人の周りにあったのは悪意と偏見と嫉妬。
だがそれすらバネにした。
もし、誰かに恋をしたことがあるか、と聞かれれば自信を持って言える。
一生に一度の恋をしたと言える。
そしてそれが最後の恋だと。
二人の思い出は少ない。だからどんな些細なことも、痛みを伴うことになった出来事も、全てが懐かしい思い出となって心の中にある。激しい雨に打たれることもあったが、二人が経験した雨のような雨はまだ経験したことがない。
ただ、あの日だけは思い出にしたくない。
あの日を思い出すたびに、離婚後一人旅で訪れた国の街を思い出す。
ローマにあるバチカン市国。
イタリアの中にあっても独立したひとつの国家として認められている世界最小の国家。
言わずと知れたキリスト教、カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ寺院がある。
大聖堂のなか、そこに聖母マリアに抱かれるイエス・キリストの姿を見ることが出来る。
死んで十字架から降ろされた息子であるキリストを抱く聖母マリア。
ひとりの女が息絶えた男を腕に抱く姿がある。聖母マリアの悲しみは、愛する者を永遠に失った悲しみの顔。もう二度と彼女の腕に抱かれた男が甦ることがないと伝えている。
十字架から降ろされた、キリストを抱くマリアの姿を描いた絵画や彫刻は、イタリア語でピエタと呼び、意味は慈悲、哀れみだ。多くの芸術家たちが作成して来たその姿。
なかでも、ミケランジェロが2年の歳月をかけ作り上げた大理石の薄衣を纏った二人の姿は、他を圧倒する。それは時を超越して、神話となった二人の姿。
この寺院を訪れた者全てが必ず見るといわれる彫刻は、静かな佇まいを持ってそこにある。
肉体が衰えるような劣情を抱いたことがない聖母マリアの姿は、自然の摂理に逆らっていると言われている。それは、聖母マリアは息子であるイエス・キリストの姿よりも若い姿をしていると言われているからだ。そのため、このマリアは不滅の純潔の象徴とも言われている。
つくしは以前その場所を訪れたとき、足をとめ、その彫刻の前で心に痛みを覚えた。
あのとき、血を流して倒れた道明寺と、聖母マリアの腕に抱かれた男の姿が重なって見えた。彼女の手の届かない場所へと旅立った男を胸に抱き、哀しみに暮れる女性。その女性に自分を重ねていた。
そして、原罪なく妊娠した女性と同じ、まだ誰のものにもなったことのない自らを重ねていた。
つくしの時間はあの日で止まってしまったようだ。
愛したひとりの男性を思ったまま。
だから、他の男性を愛することは出来ない。
扉が開かれ、背後で誰かが入って来たことがわかった。
外の光りがつくしの足元まで差し込んで来たが、扉はすぐに閉じられた。
次に祈りを捧げる人が待っている。その人のためにこの場所を明け渡さなければ。
つくしは立ち上って振り向いた。入口にいるのが男性だと気づいたが、光の届かないその場所で顔を見ることは出来なかった。だが背が高い男性がコート姿でその場に立っていることはわかった。
しかし、その場所から動こうとしない男性につくしは不安を覚えた。
だがここは小さな教会とはいえ、祈りの場所であり、神の家だ。
この場所で何かが起こるとは考えもしなかったが、それでも暗がりに立つ男性に、どこか不安が過り、呼吸が速まった。
そのとき、聞えるか、聞こえないかのような微かな呟き。
まきの_
と呼ばれたような気がした。
呟きだったのか、囁きだったのか。
どちらにしても、つくしの耳には確かにそう聞こえていた。

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司は教会の扉を引いた。
空気はひんやりとしている。そして静かだ。
大きな教会によくある荘厳な雰囲気とは違い、そこはこじんまりとした教会。小さな教会の中に灯された明かりは、蝋燭の淡いオレンジ色のともしびだけ。ゆらゆらと揺れることなく、ぼんやりとした明かりでその場を照らしていた。薄暗く、くすんだ石の床、そして視線の先には磔にされた男の姿がある。
この家の主であるイエス・キリスト。
司は視線をまっすぐ前に向けていた。
もし奇跡が起こるなら、天からの贈り物があるとすれば、こんな場所ではない。神はもっと華やかな場所が好きなのではないか。彼は単純にそう思っていた。それはまさに祈りなど捧げたことのない男、信仰心がない男が考えることだ。
イエス・キリストと呼ばれる神の家へと足を踏み入れる。
そのこと自体が実に滑稽だと彼自身思う。だがどうしても、この場所へ足を踏み入れるべきだと感じていた。しかし彼は懺悔を聞いてくれる司祭を探しているわけではない。ここはある意味、孤独に生きることを選んだ男には似合いの場所なのかもしれない。心を壁で囲い、誰も寄せ付けないようにして来た男にとって。
イエスも孤独な男だったと聞く。
だが、イエスは言った。
「あなたは一人ではない」と。
決して人は一人ではない、孤独ではないと。
孤独でいることと、一人でいることは違うというが、何が違っているというのか。人は一人でいることから逃げようとする。そして一人でいることを嫌う。だが司は一人でいることを求めた。一人でいることを孤独とは思わなかった。むしろ物事を深く考えることが出来ると思った。
教会の薄暗さに目が慣れるまで、司はその場所に立ち尽くしていた。
やがてその暗さに目が慣れると、司の口から声にならぬ声が漏れた。
神よ_
信じられないという思いで佇む男。
神の名など口にしたことがない男の口から漏れた主の名。
たとえそれが幻影だったとしても、夢だとしても、そこに彼女がいた。この場所に足を踏み入れ、周囲を一瞥したが、他に人がいることに気づかずにいた。まるで背景に溶け込むかのような黒色のコートを着た女。青白い顔に相変わらず大きく黒い瞳が印象的な女。彼を見据えるその瞳は、大きな衝撃を受けたように見開かれている。
だが_
あの長い髪はどうした?
俺が当時知っていた少女はどこにいった?
あの頃輝いていた少女は・・・。
暗がりの中でもわかる、すこし痩せたような女。
沈黙の中であったが、どこか、なにか表情が現れはしないか。そう思って目を凝らしたが、何も見つからなかった。
かつて喉が渇いた人間が、水を求めるのと同じように彼は彼女を求めた。
欲しくて欲しくてたまらなかった女性が今、目の前にいる。
だが心臓の動きが、一瞬だが動きを止めてしまったかのようになり、身体が動かなくなった。満足に息をつくことが出来ない。
手を伸ばせばすぐそこにあの時の少女がいるというのに、脚が動かない。
ふたりは長いことお互いを見つめ合っていた。
いつも笑顔だった顔はそこにない。
あの明るさを奪ったのは誰なんだ?
それは恐らく自分だ。
決して自負があるわけではないが、彼はそう考えた。
いや、心のどこかでそう思った。
両手は抱きしめたい人を求め差し出そうとするが、震えていた。
まるで全身に震えが憑りついたように、心の奥底から湧き上がる思いが彼の身体を震わせた。目に涙が沁みるのがわかったが、涙は頬を伝うことはない。なぜなら瞬きをしたくないからだ。目を閉じた瞬間、目の前の女が消えてしまわないかと思った。
二度と会えない、会うべきではない女性、会ってはいけない。
そんな女性に会えた。それが頭の片隅で幻ではないとわかっているが、心の中の己はそれを信じていない。目で見る光景と心が感じる想いは違う。脳が、目が、ひとつになって彼の前に立つ女性を映し出しているというのに、心が追いついていかない。
足を踏み出せば、抱きしめることが出来るはずだ。
手を伸ばせば、触れることが出来るはずだ。
その髪に。
その頬に。
そして、その唇に。
触れたい。
だが、牧野は結婚している。
司が彼女の行方を調べたとき、彼女は牧野ではなかった。
だがどうしても抱きしめたい。
許されないことだとわかっていても彼女を抱きしめたい。
おまえは今幸せなのか?
想像の世界ではそう聞いたことがある。
頭の中で何度かそんな言葉が過ったことがあったはずだ。
そのとき、もし願いが叶うならと、どこか心の中で祈ったかもしれない。
会いたいと。
長い沈黙が支配する教会のなか、口を開いたのはどちらなのか?
薄暗い明かりしかないこの場所で、女の口が動き、聞き取れぬ言葉をつぶやいた。
道明寺、と。
司は確かにその声を聞いた。
自分の名を呼ぶ声はあの当時と変わらない優しい声。途端、彫像のように動けなかった身体が、命が吹き込まれたかのように、動き出す。
それまでは、まるでその場所から動いてはいけないと見えない力が働いていたが、彼女が彼の名前をつぶやいた途端、まるで呪縛が解けたように足が前へ出た。
彼女の温かい体温を感じたい。
その腕で抱きしめてもらいたい。
そのとき、薄暗い教会のなか、二人の上から一筋の光が差し込んだ。
雲の隙間を縫い、教会のステンドグラスから漏れる光の筋。
それはまさに神の国から彼らのもとへ下ろされた光の梯子。
雲の切れ間から差す梯子のような光。
それは、まさに 『 天使の梯子 』 と呼ばれる光。
旧約聖書に由来するが、天から地上を差す光を使い、天使が上り下りしている姿を見たという記述に由来していた。
その梯子が今、二人に向かって降ろされた。
暗がりに差し込む一筋の光。
司は60階の執務室から見た一筋の光はこの光だったのではないかと思った。
あのとき見た一筋の光が差し込んだ場所は、この教会だったと今、わかった。
それは司だけに示された神の啓示。
神の遣わした天使が、この場所を司にお示しになられた。
そして、今日がその時だと。
話したいことは山ほどある。だが今は何も話したくはない。
ただ、会いたかった人に会えた。それだけの思いで抱き合いたいだけだ。
今はただそれだけでいい。何もかも忘れて二人だけの世界で抱き合いたい。
もし、涙を流すなら一人になってからと、幼い頃一人で過ごす広大な邸の中で覚えた。
決してひと前で涙は流さないとそう決めた。
だが_
まきの・・
会いたかった!
頬が冷たく、何かで濡れているのが感じられた。
司はつくしをきつく抱きしめた。
ずっとこうしたかったはずだ。
心の中にはこうすることを望んだことがあったはずだ。
記憶が戻ってから、すぐにでも彼女の傍に行って抱きしめたかった。
「あたしを覚えてる?」
と、言った女。
「覚えてない」
と、言った男。
だがすぐに言った。
牧野、牧野、牧野、と。
バリトンの太さと有無を言わさぬ力強さが、愛しい人の名を耳元で囁いていた。
やがて少しして、落ち着ついたところで、女は言った。
「長い旅をして来たのね?」
決して責めるような言葉は口にしない女。
「ああ。長すぎたが会いたかった」
優しく抱くと低い声を耳元で囁く。
一番言いたかった言葉は会いたかった。
何度でも言える。
スッと細めた目は愛おしそうに腕の中に閉じ込めた女を見た。
「こんなふうにおまえを抱くことが出来るなんて思わなかった」
まるで欠けていた何かが手元に戻ったようだ。
会いに行こうと思えばいつでも会いにいける距離にいた。同じ街にいたが、会いに行くことが出来ずにいた。彼女がいない世界など想像できなかったはずだというのに、彼はこの街で15年、ひとり生きてきた。そして彼女も沢山の思いを抱え生きていた。司が記憶を回復し、彼女の行方を調べたとき、結婚してこの街にいた。だが、それから後、1年足らずで離婚したと聞かされた。司の目は彼女の左手へ動いた。結婚指輪はしていなかった。
同じ街で、ほんのわずかな距離にいながら、互いのことを知らずにいた。
司が記憶を回復したタイミングと、つくしが離婚したタイミングのずれは、たった1年だけだった。
不釣り合いだと言われた二人。
一枚の板の上に立つとすれば、つり合いがとれるはずもなく、片方はいつも沈んでいた。
だから二人が知り合ったのは、まさに偶然。神の悪戯か、気まぐれか。
そして離れ離れになった二人。
だがそんな二人がまたこうして同じ場所に立っている。
あの当時と同じで不釣り合いなままかもしれない。
だがそれでもいい。気持ちはあの頃と同じで変わってない。
偶然立ち寄っただけのこの教会。
神は二人を再び引き合わせた。
長い間、触れ合うことのなかった恋人同士がこうして再び神の家で会う事が出来た。
人はそれを運命というはずだ。
偶然という運命によって出会った若い頃の二人。
そして再び偶然によって引き合わされた今の二人。
だが、これは必然だと思いたい。
神の意志が働いたとしか言えない出会い。
大都会の片隅にある古い教会のなか。
目を閉じればあの頃が、若かった二人が甦るはずだ。
道明寺、と。呼ばれ、
牧野、と。呼んだ。
そう呼び合えた頃のあの日の二人の姿が。
今からでも決して遅くない。
はじまりはいつもある。
そう、物語のはじまりは。
今日、この場所からはじめればいい。
長い旅をしてきた二人。
それは、それぞれ別の道を別の列車で移動したようなもの。だがその軌道は今、再び交わった。幾つかの駅を通過し、そして止まり、別の列車に乗り換える。そんなこともあったかもしれない互いの人生。だがどの列車も乗客はただひとり。彼も彼女も乗った列車の乗客は自分だけ。ひとりだけだった。互いに孤独の旅だったはずだ。だがここがターミナル、終着駅だ。
ニューヨークにある神の家と呼ばれる教会。
二人の人生の再スタートには相応しいはずだ。
ひとりぼっちで生きる人生は長い。
だが二人でいれば、長い道のりも短く感じるはずだ。
例えどんな環境にいようと、二人が一緒なら。
司は言った。
これからのおまえの人生は俺に預けてくれないか?
人生はどこかで帳尻があうようになっているという。
いい事が長く続かないのと同じで、悪いことも長く続かない。
それなら俺たち二人は残りの人生を幸せに過ごせば、辻褄があう。
だってそうだろ?
今まで二人が過ごせなかった幸せな時間をこれから過ごせばいい。
神は二人が一緒に過ごせなかった幸せをこれから与えてくれるはずだ。
それが二人の人生のあるべき方向のはずだ。
過去を遡ることはしなくていい。
これからは未来だけを見て進めばいい。
二人の間に流れた長い時間はもう終わった。
司はつくしの両手を取ると、見下ろした。
そして言った。
「もう決して、この手は離さない」
*Against All Odds~困難を乗り越えて~ < 完 >
Happy Holidays & God Bless You!

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大きな教会によくある荘厳な雰囲気とは違い、そこはこじんまりとした教会。小さな教会の中に灯された明かりは、蝋燭の淡いオレンジ色のともしびだけ。ゆらゆらと揺れることなく、ぼんやりとした明かりでその場を照らしていた。薄暗く、くすんだ石の床、そして視線の先には磔にされた男の姿がある。
この家の主であるイエス・キリスト。
司は視線をまっすぐ前に向けていた。
もし奇跡が起こるなら、天からの贈り物があるとすれば、こんな場所ではない。神はもっと華やかな場所が好きなのではないか。彼は単純にそう思っていた。それはまさに祈りなど捧げたことのない男、信仰心がない男が考えることだ。
イエス・キリストと呼ばれる神の家へと足を踏み入れる。
そのこと自体が実に滑稽だと彼自身思う。だがどうしても、この場所へ足を踏み入れるべきだと感じていた。しかし彼は懺悔を聞いてくれる司祭を探しているわけではない。ここはある意味、孤独に生きることを選んだ男には似合いの場所なのかもしれない。心を壁で囲い、誰も寄せ付けないようにして来た男にとって。
イエスも孤独な男だったと聞く。
だが、イエスは言った。
「あなたは一人ではない」と。
決して人は一人ではない、孤独ではないと。
孤独でいることと、一人でいることは違うというが、何が違っているというのか。人は一人でいることから逃げようとする。そして一人でいることを嫌う。だが司は一人でいることを求めた。一人でいることを孤独とは思わなかった。むしろ物事を深く考えることが出来ると思った。
教会の薄暗さに目が慣れるまで、司はその場所に立ち尽くしていた。
やがてその暗さに目が慣れると、司の口から声にならぬ声が漏れた。
神よ_
信じられないという思いで佇む男。
神の名など口にしたことがない男の口から漏れた主の名。
たとえそれが幻影だったとしても、夢だとしても、そこに彼女がいた。この場所に足を踏み入れ、周囲を一瞥したが、他に人がいることに気づかずにいた。まるで背景に溶け込むかのような黒色のコートを着た女。青白い顔に相変わらず大きく黒い瞳が印象的な女。彼を見据えるその瞳は、大きな衝撃を受けたように見開かれている。
だが_
あの長い髪はどうした?
俺が当時知っていた少女はどこにいった?
あの頃輝いていた少女は・・・。
暗がりの中でもわかる、すこし痩せたような女。
沈黙の中であったが、どこか、なにか表情が現れはしないか。そう思って目を凝らしたが、何も見つからなかった。
かつて喉が渇いた人間が、水を求めるのと同じように彼は彼女を求めた。
欲しくて欲しくてたまらなかった女性が今、目の前にいる。
だが心臓の動きが、一瞬だが動きを止めてしまったかのようになり、身体が動かなくなった。満足に息をつくことが出来ない。
手を伸ばせばすぐそこにあの時の少女がいるというのに、脚が動かない。
ふたりは長いことお互いを見つめ合っていた。
いつも笑顔だった顔はそこにない。
あの明るさを奪ったのは誰なんだ?
それは恐らく自分だ。
決して自負があるわけではないが、彼はそう考えた。
いや、心のどこかでそう思った。
両手は抱きしめたい人を求め差し出そうとするが、震えていた。
まるで全身に震えが憑りついたように、心の奥底から湧き上がる思いが彼の身体を震わせた。目に涙が沁みるのがわかったが、涙は頬を伝うことはない。なぜなら瞬きをしたくないからだ。目を閉じた瞬間、目の前の女が消えてしまわないかと思った。
二度と会えない、会うべきではない女性、会ってはいけない。
そんな女性に会えた。それが頭の片隅で幻ではないとわかっているが、心の中の己はそれを信じていない。目で見る光景と心が感じる想いは違う。脳が、目が、ひとつになって彼の前に立つ女性を映し出しているというのに、心が追いついていかない。
足を踏み出せば、抱きしめることが出来るはずだ。
手を伸ばせば、触れることが出来るはずだ。
その髪に。
その頬に。
そして、その唇に。
触れたい。
だが、牧野は結婚している。
司が彼女の行方を調べたとき、彼女は牧野ではなかった。
だがどうしても抱きしめたい。
許されないことだとわかっていても彼女を抱きしめたい。
おまえは今幸せなのか?
想像の世界ではそう聞いたことがある。
頭の中で何度かそんな言葉が過ったことがあったはずだ。
そのとき、もし願いが叶うならと、どこか心の中で祈ったかもしれない。
会いたいと。
長い沈黙が支配する教会のなか、口を開いたのはどちらなのか?
薄暗い明かりしかないこの場所で、女の口が動き、聞き取れぬ言葉をつぶやいた。
道明寺、と。
司は確かにその声を聞いた。
自分の名を呼ぶ声はあの当時と変わらない優しい声。途端、彫像のように動けなかった身体が、命が吹き込まれたかのように、動き出す。
それまでは、まるでその場所から動いてはいけないと見えない力が働いていたが、彼女が彼の名前をつぶやいた途端、まるで呪縛が解けたように足が前へ出た。
彼女の温かい体温を感じたい。
その腕で抱きしめてもらいたい。
そのとき、薄暗い教会のなか、二人の上から一筋の光が差し込んだ。
雲の隙間を縫い、教会のステンドグラスから漏れる光の筋。
それはまさに神の国から彼らのもとへ下ろされた光の梯子。
雲の切れ間から差す梯子のような光。
それは、まさに 『 天使の梯子 』 と呼ばれる光。
旧約聖書に由来するが、天から地上を差す光を使い、天使が上り下りしている姿を見たという記述に由来していた。
その梯子が今、二人に向かって降ろされた。
暗がりに差し込む一筋の光。
司は60階の執務室から見た一筋の光はこの光だったのではないかと思った。
あのとき見た一筋の光が差し込んだ場所は、この教会だったと今、わかった。
それは司だけに示された神の啓示。
神の遣わした天使が、この場所を司にお示しになられた。
そして、今日がその時だと。
話したいことは山ほどある。だが今は何も話したくはない。
ただ、会いたかった人に会えた。それだけの思いで抱き合いたいだけだ。
今はただそれだけでいい。何もかも忘れて二人だけの世界で抱き合いたい。
もし、涙を流すなら一人になってからと、幼い頃一人で過ごす広大な邸の中で覚えた。
決してひと前で涙は流さないとそう決めた。
だが_
まきの・・
会いたかった!
頬が冷たく、何かで濡れているのが感じられた。
司はつくしをきつく抱きしめた。
ずっとこうしたかったはずだ。
心の中にはこうすることを望んだことがあったはずだ。
記憶が戻ってから、すぐにでも彼女の傍に行って抱きしめたかった。
「あたしを覚えてる?」
と、言った女。
「覚えてない」
と、言った男。
だがすぐに言った。
牧野、牧野、牧野、と。
バリトンの太さと有無を言わさぬ力強さが、愛しい人の名を耳元で囁いていた。
やがて少しして、落ち着ついたところで、女は言った。
「長い旅をして来たのね?」
決して責めるような言葉は口にしない女。
「ああ。長すぎたが会いたかった」
優しく抱くと低い声を耳元で囁く。
一番言いたかった言葉は会いたかった。
何度でも言える。
スッと細めた目は愛おしそうに腕の中に閉じ込めた女を見た。
「こんなふうにおまえを抱くことが出来るなんて思わなかった」
まるで欠けていた何かが手元に戻ったようだ。
会いに行こうと思えばいつでも会いにいける距離にいた。同じ街にいたが、会いに行くことが出来ずにいた。彼女がいない世界など想像できなかったはずだというのに、彼はこの街で15年、ひとり生きてきた。そして彼女も沢山の思いを抱え生きていた。司が記憶を回復し、彼女の行方を調べたとき、結婚してこの街にいた。だが、それから後、1年足らずで離婚したと聞かされた。司の目は彼女の左手へ動いた。結婚指輪はしていなかった。
同じ街で、ほんのわずかな距離にいながら、互いのことを知らずにいた。
司が記憶を回復したタイミングと、つくしが離婚したタイミングのずれは、たった1年だけだった。
不釣り合いだと言われた二人。
一枚の板の上に立つとすれば、つり合いがとれるはずもなく、片方はいつも沈んでいた。
だから二人が知り合ったのは、まさに偶然。神の悪戯か、気まぐれか。
そして離れ離れになった二人。
だがそんな二人がまたこうして同じ場所に立っている。
あの当時と同じで不釣り合いなままかもしれない。
だがそれでもいい。気持ちはあの頃と同じで変わってない。
偶然立ち寄っただけのこの教会。
神は二人を再び引き合わせた。
長い間、触れ合うことのなかった恋人同士がこうして再び神の家で会う事が出来た。
人はそれを運命というはずだ。
偶然という運命によって出会った若い頃の二人。
そして再び偶然によって引き合わされた今の二人。
だが、これは必然だと思いたい。
神の意志が働いたとしか言えない出会い。
大都会の片隅にある古い教会のなか。
目を閉じればあの頃が、若かった二人が甦るはずだ。
道明寺、と。呼ばれ、
牧野、と。呼んだ。
そう呼び合えた頃のあの日の二人の姿が。
今からでも決して遅くない。
はじまりはいつもある。
そう、物語のはじまりは。
今日、この場所からはじめればいい。
長い旅をしてきた二人。
それは、それぞれ別の道を別の列車で移動したようなもの。だがその軌道は今、再び交わった。幾つかの駅を通過し、そして止まり、別の列車に乗り換える。そんなこともあったかもしれない互いの人生。だがどの列車も乗客はただひとり。彼も彼女も乗った列車の乗客は自分だけ。ひとりだけだった。互いに孤独の旅だったはずだ。だがここがターミナル、終着駅だ。
ニューヨークにある神の家と呼ばれる教会。
二人の人生の再スタートには相応しいはずだ。
ひとりぼっちで生きる人生は長い。
だが二人でいれば、長い道のりも短く感じるはずだ。
例えどんな環境にいようと、二人が一緒なら。
司は言った。
これからのおまえの人生は俺に預けてくれないか?
人生はどこかで帳尻があうようになっているという。
いい事が長く続かないのと同じで、悪いことも長く続かない。
それなら俺たち二人は残りの人生を幸せに過ごせば、辻褄があう。
だってそうだろ?
今まで二人が過ごせなかった幸せな時間をこれから過ごせばいい。
神は二人が一緒に過ごせなかった幸せをこれから与えてくれるはずだ。
それが二人の人生のあるべき方向のはずだ。
過去を遡ることはしなくていい。
これからは未来だけを見て進めばいい。
二人の間に流れた長い時間はもう終わった。
司はつくしの両手を取ると、見下ろした。
そして言った。
「もう決して、この手は離さない」
*Against All Odds~困難を乗り越えて~ < 完 >
Happy Holidays & God Bless You!

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