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2016
11.01

愛は果てしなく 前編

地下鉄の構内には雨独特の臭いがしていた。
隣に立った男性が傘を持ち、洋服からも湿っぽい臭いがしていたからだ。
だがつくしの手には傘はない。思えばこの週は天気が悪かった。いつもどんよりとした曇り空で晴れ間が覗くことは少なかった。だからこそいつも持ち歩いていたはずの傘を今日に限って忘れていた。恐らく急に降り始めたのだろうが、この雨はいつまで降り続くのだろうか。

今朝見たテレビの天気予報では雨が降るとは言っていなかったはずだ。
かわいらしい女性の気象予報士は、今日の天気は曇りのち晴れだと言っていた。だがこの季節は天気が変わりやすい。朝曇りは晴れ、夕曇りは雨ということわざがあるが、どうやらそのことわざは今日の天気には当てはまらなかったようだ。
近年の気象状況は昔と違って予想がしやすいとはいえ、自然現象にはまだ人間の英知が及ばないこともある。突然の雨もそうだが嵐もまたそうだ。

人生の中に巻き起こる小さなつむじ風は何度か経験したことがあった。
それは身の周りの物をほんの少し動かす程度の風。
だが嵐はそうはいかない。
強い雨を伴う暴風だ。
静かに流れる川を溢れさせ、大地に根を張る大きな木をなぎ倒し、家々を破壊していく力がある。そして人の命を奪うこともあった。
だが始まりの予兆はある。
それはどんなことにもあるはずだ。

二人はそんな予兆に気づいていたが、嵐をやり過ごせると思っていた。
そしてその嵐が過ぎ去ったとき、二人の未来が開ける。そんなことを考えていたはずだ。
そうだ。一度は二人で嵐をやり過ごすことが出来た。
あれは冷たい雨の降る夜の出来事で、歩道を叩く雨が激しかったのを覚えている。

あの日も傘を持っていなかった。

思えばあれは嵐の前の静けさだったのかもしれない。


一度は乗り越えた二人の試練の夜。

しかし、雨というのはどうしてこうも人の感情を揺さぶるのだろうか。
雨に纏わる物語は数多くあるが、どの物語もどこか悲しげで悲哀に満ちた物語が多いのはなぜなのか。雨の降る場面での出会いは少ないが別れは数知れないほどある。それは雨が涙と似ているからだ。現に涙雨という言葉があるが、それは悲しみに同情して降る雨だ。

気づけばいつの間にか泣いていた・・そんな日があった。
頬を伝う涙は静かに流れて落ちる。
それはまるで雨だれが窓を伝って落ちるように。


つくしはこれまでそんな雨には背を向けてきた。

雨は嫌い。

同情されるような雨は嫌いだ。










『 牧野か?』

かかってきた電話の相手は美作商事の専務からだ。
息せき切った声は切羽詰まっていた。

『 今どこにいる?司が大変なんだ。すぐ来れるか?』

懐かしい人の声から、懐かしい人の名前が聞えた。
一日の仕事を終え、満員の電車に揺られて自宅に帰って来たときかかってきた電話。
夕暮れはとっくに過ぎていて、夜の帳が降りている時間帯だった。

人生の中にある絶望の時間帯というのは、いったいいつのことを言うのだろう。遠い昔、暗い闇の淵に立ったことがある。当然だが淵の底が見えるわけもなく、ただただ沈黙と共に暗闇が広がっているだけだった。それがつくしにとっての絶望の時間帯だったはずだ。

『 おい牧野っ!聞いてるのか!』 

つくしの脳裏に束の間の愛に笑い、哀しみに暮れた日々が甦った。
あの頃の牧野つくしはつましい生活を送る高校生だった。
容貌は十人並で目立つことなく、周りの生徒から見れば地味で、クラスメートたちはつくしがいることを気に留めもしなかった。
そんな少女の髪は漆黒で真っ直ぐ。
そして大きな瞳は未来を見つめて輝いていた。

入学した高校は格差社会の頂点に君臨する者たちの子弟が通う私立の学園。
親の見栄で入学したが、その環境はつくしの暮らす世界とは余りにも価値観の違う世界。簡単に馴染めるとは思えなかった。学園の生徒はみな日々の暮らしに不自由をしたことなどない人間ばかりで、その環境に麻痺しているかのように見えた。そんな環境だからこそ、刺激を求めていた人間も多くいたのだろう。

ひとりの人間をターゲットにして、その人格を貶めるようないじめが公然と行われていた。
つくしはそんなことに関わることなく、高校3年間はやり過ごすだけの日々だったはずだ。
だがそんなある日、出会ったのは道明寺司だった。

英徳学園のリーダーと言われる男。

そして学園の支配者。

あの当時の男は暗闇に生きる男だった。
始まりは人生で最悪の出会い。だが時が経つにつれ、芽生えたのは恋心。そして恋慕の思い。幼いと言われる程に幼くはなく、だからと言って大人とは言えず、中途半端な年頃の少女と少年の恋。
あの恋は本物の恋だったはずだ。そう思わずにはいられない。
だからこそ、この思いは心のどこかに潜んで、ふと何かの拍子にその出会いを懐かしんでいるのだろう。もう二度と会うことがないから懐かしく思うのかもしれない。

人は人生の中で何度人を好きになるのだろうか。つくしはあの日から人を好きになったことがなかった。

『 牧野っ!返事をしろっ!』

どこかの街で通り魔に人が刺されたというニュースをテレビで見ると目を背けていた。
似た様な事件を経験したからだ。あの日のことはこれからも忘れることはないはずだ。
ただ、どうして自分が刺されなかったのかと思わずにはいられなかった。
そうすれば、少なくとも道明寺が記憶を失うことにはならなかったからだ。

あの日、一生分の涙を流した。

あの日から感情を無くし、記憶を無くした男を身近に見た。
愛が甦ることはなく、激しい感情で結ばれていた二人は空虚な世界を彷徨うことになった。
ただ、そう思っていたのはつくしだけだった。
なぜなら記憶のない男は、二人で過ごしたことなどひと欠片も覚えていないのだから。

それまで二人が歩んできた短い時間の足あとは、あっという間にかき消されていた。
短い時間だったから簡単にかき消されたのだろうか?もし二人の過ごした時間が長ければ簡単に消されることはなかったのではないか。ふと、そんなことが頭を過ることもあった。


それからはただ時間だけが流れた。
そしてその時間にただ身を任せるしかなかった。

ひとり残された時間に。

時計の針が何周しようと、季節が幾度巡ろうと、あの日の思いはつくしの頭の中から消えることはなかった。



『 司が交通事故にあった。意識がない。もしかしたら_ 』

そんな言葉を聞かされたのだから、最後にもう一度会いたいと思うのは偽りのない気持ちのはずだ。

マンションを飛び出すと大通りまで走っていた。何も考えずに履いた靴はハイヒール。
走るに適しているはずもなく、爪先がアスファルトを離れるたび、踵が悲鳴を上げるのがわかった。雨に濡れた歩道はただでさえ滑りやすく、何度か転びそうになりながら、必死で目的地まで走っていた。傘もささず、夜道を走る女はひと目を引いたが気になどしていられない。


既に暮れた夜だが、さらに暗さを増したような気がしていた。
これ以上の闇はつくしには必要がなかった。暗闇は恐ろしい。心に巣食う何かを引き出してしまいそうで、自分がその闇の奥へと突き落とされるような気がするからだ。
ひとり、その闇の奥底へと置いて行かれる。そんな気がしてならない。だがやっとその闇からも抜け出せる。そう思い始めた頃だった。


雨は強く降っていた。

交通量の多い幹線道路まで出ればタクシーはすぐにつかまるはずだ。
だが空車表示のある車はなかなかつくしの前に現れることはなく、時間だけが経過していく。それでもやっとの思いで止めたタクシーに飛び乗ると、息を切らしながら病院の名前を告げ、シートに深くもたれ目を閉じていた。







バックミラー越しに後ろを見る運転手はこの雨の中、傘もささず舗道にいた女に興味を抱いたようだ。だが行先が病院だと聞いて粗方の予測は出来たようで、そんな乗客に話かける言葉を選んでいるように思えた。
女の顔面は蒼白で、心なしか震えているように思えた。濡れた髪の毛が一筋、頬に張り付いている。今夜の雨は冷たい雨で体の熱を奪って行ったのだろう。運転手はヒーターの温度を2度上げた。

「よく降りますね。今夜は本降りになりそうですね?」

選ぶ必要もない言葉が投げかけられた。

女は目を開くと小さな声で呟いただけだった。

「雨は嫌いなんです・・」

「わたしも雨は嫌いですよ。何しろ運転には気を使いますから。特に雨の夜は。」

運転手は話しかけたわけではなかったが、何か返事があると思った。
だが返事はなかった。
バックミラーに映る女はそれきりなにも言わず、ただ窓の外を眺めている。
雨が激しく打ちつける窓をただぼんやりと。

だがその目に映るものは自分の顔のはずだ。
この客は窓に映る自分の顔を見ている。何かを探すように。
そんなふうにしか見えなかった。




人はパニックに陥りそうな精神状態になりながらも、頭のどこかに冷静な部分があるのだろうか。つくしが左手に握りしめていたのはネックレスが収められた小さな箱。どうしてこの箱を掴んだのか。いつも目に着く場所には置いていないのに、タンスの引き出しの中から持ち出していた。


頭の中を過るのは、あの日の光景。
あのとき、もうダメかもしれないと言われたが奇跡が起きたと思った。
そうだ。
あれは確かに奇跡だった。だが人生の中でそう何度も奇跡が起こるとは信じていない。
もう二度とあんな経験はしたくない。だから道明寺に何かあってももう二度と会わない。
そう思っていたのに体は勝手に動いていた。


タクシーが救命救急センターの入口に着くと、釣りは要らないからと支払いを済ませる間も、ドアが開く時間も、勿体ないとばかりに飛び降りていた。
連絡を受けてどれくらいの時間がたったのか。赤色灯が回転している扉の前にいた男はつくしの姿を認めると駆け寄って来た。

「牧野!こっちだ!」

「み、美作さん!」

この廊下の先にいるのは、かつて愛した人。
だがもう二度と会うことはない。
そう思っていたのに運命は再び二人を巡り逢わせることにしたのか?
最後に一度だけ会わせてやろうという神の施しなのか。

「急げ!牧野!」

心の中にだけに道明寺を棲まわせ、誰にも知られていないと思っていた。だが彼の友人はつくしの気持ちを知っていたようだ。長い間会っていない美作商事の専務がつくしに連絡をくれたのは、やはりあの頃と変わらない彼の思いやりだろう。

「いいか牧野よく聞け。司の意識がない。事故だ。交通事故にあったんだ。あいつの乗った車に大型トレーラーが衝突した。司の車はトレーラーに押し出されて崖から落ちた。」

「そ、それで道明寺は・・」

走りながらの会話だが聞きたいことは教えてもらえた。

「ああ。車内に閉じ込められて、救助されたのは事故から1時間経ってからだ。」

「そ、そんな・・」

「救助に時間がかかったんだ。救急隊員が現場に着いたとき、すでに意識はなかった。ヘリでここまで運んで来たが、かなりの出血で一刻を争う状態だ。おまえは思い出したくないだろうが、刺された訳じゃねぇけどあの日と同じ状況だ。」

あの日と同じ状況。

あの日つくしが目にしたのは、男の体から大量に流れ出た血が血溜まりを作っていたこと。
その体を必死で抱き起して支えたこと。
誰かがすぐ傍で叫んでいたこと。
その叫び声は今でも思い出すことが出来る。
傷ついた動物の悲鳴はそんな声だったはずだ。
だが、果たしてそれが自分の声だったとつくしは気づいていただろうか?

そして命のやり取りがされる現場がすぐ目の前に広がっていたこと。
命のやり取りは神の裁量で決まる。
もしも男の原罪が深ければ彼の命は失われていたかもしれない。
だが神は彼の命を取り上げることはしなかった。
そのとき、つくしは神と取引をしたかもしれない。
例えそれが悪魔との取引だったとしても、彼の命を助けてくれるならこの身を捧げてもよかった。
確かにあの時つくしは神に祈った。
どんなことをしてもいいから助けて欲しいと。

神の裁量。

つくしはその時、囁く声を聞いたはずだ。
あなたが望むならこの男を助けてあげよう。
その代わり犠牲を強いることになるがそれでもいいかと。
神が求めた代償は、男の記憶からつくしの存在を忘却の彼方へと押しやってしまうという結果となってしまった。それはもしかするとあの男の罪の深さが仇となってつくしに降りかかったのかもしれない。今までこの男が犯した罪を許し、そして命を助けることの。

人はいつも何か犠牲を払う。
人はいつも犠牲を強いられる。
あの事件の犠牲者は道明寺かもしれないが、もう一人の犠牲者がここにいることに気づく人間は少ない。


道明寺_

どうしてまた繰り返されるのか。
どうしてまた道明寺なのか。
そしてどうして・・・またわたしがこの場所に立ち合うことになるのか。

この場所は知っている。あの日と同じだ。
この冷たい廊下も、この妙に静な白い空間も、そしてこの匂いも。
それは病院独特の匂い。
どんなに忘れようとしても、忘れることが出来なかった。
あの日から暫く病院に来ることが苦痛になっていた。

これが運命なら神は何度同じことを繰り返せば気が済むというのか。


どうして_

「いいか。牧野、あいつは意識がない。それに万が一のことが考えられる。だから_」

だから覚悟をしておけという言葉は聞きたくなかった。
あの日から今日まで一度も会うことがなく過ごしてきた10年。
時は流れ季節が移ろい人は年を重ねていく。それは誰にも訪れる時の流れ。
平等に、ゆっくりとではあるが確実に流れる時間がある。春になれば桜が咲き、夏にはひまわり、そして秋には金木犀の香りがした。


香り・・

今となっては想像の世界でしか思い出せない道明寺の匂い。
少年が纏う香りは彼独特の香りで世界にたったひとつだけの匂い。
スパイシーであり、柔らかく匂うその香りをもう二度と嗅ぐことはないと思っていた。

間接的にではあるが、その姿を目にすることは今までもあった。
メディア露出は決して多いとは言えないが、企業経営者としてインタビューを受ける姿を何度か目にしていた。

甘くハスキーな声は少年の声から大人の声へ変わっていたが、その声がつくしの名前を呼ぶことはもう二度とない。あの当時から言われていたこれ以上ないと言われる程の美貌も、彼が纏う香りも、もう二度つくしが経験することはない。そう思っていた。
もういい加減自分の気持ちにけりをつけてもいいものを、いつまでも忘れられずにいるのは悲しいかな、まだ道明寺のことが好きだからだ。だがもう潮時だと思っていた。
もういい加減あの人のことは忘れなければならない。新しい人生を歩むべきだ。

それなのに、こうして会いに行くのはなぜか。
これが最後という思いと、そして今生の別れとなる。そんな思いが頭を過ったからだろうか。

「クソッ!なんで司ばっかりこんな目に遭うんだ!」

あきらは叫んでいた。

あの当時の少年は皆大人になっている。もちろんつくしも。
だが何年会っていなくてもあの当時の面影は決して失われていない。
大人じみた子供だったこの人も今では美作商事の専務だ。

「あきら!牧野っ!!」

「は、なざわ・・さん・・お、お姉さん・・」


あきらとつくしが手術室の前に到着したとき、懐かしい人たちがいた。
そこにいたのは花沢類と司の姉の椿だ。

花沢類には長い間会っていなかった。

そしてこの女性にも・・
トレードマークとも言える長い黒髪は今もそのままで、年を感じさせることのないその容姿はあの頃と変わっていない。あの頃から美しく輝く女性ではあったが、年を重ねることで貫録というものが備わっているようい思えた。そして、その顔は弟であるあの男に似ていた。

「つくしちゃん・・」

声を詰まらせた椿はつくしの元に近寄ると、申し訳なさそうな顔をしていた。

「ごめんね。どうしてつくしちゃんに連絡しようかと思ったのか・・」

唇を噛み締め言葉を呑んでいた。

呼ばれた理由はどうでもいいのかもしれない。
何故どうしてという思いは10年前に経験している。あの時もいくら考えても理由など思い浮かばなかった。人は理由がなくても行動することもある。
理由付けが必要なら、あとから適当につければいい。
それがどんな嘘でも、自分を正当化するならそれでいいはずだ。

何故、道明寺がわたしのことを忘れたのか。
もうそのことを考えるのはある日から止めにしたのだからと椿に言いたかった。


「あきらから聞いたと思うが司は事故に遭った。対向車線を走っていた車がこの雨でスリップしたらしいんだ。司は意識がない状態でかなりの出血があったらしい。」


甦るのはあの日。

手が震えるのが抑えられない。それに胸が痛い。あの日に感じた恐怖と同じ感情が胸の奥から湧き上がってくるのがわかった。

「牧野!!」

つくしは眩暈がして体がふらついた。花沢類に支えられなければ床に倒れていた。
今まで何度この人に助けられたことだろう。

だが、つくしが本当に抱えられたかったのは_

抱きしめて欲しかったのは_

この扉の向うにいる男だった。


思わず両手で目を覆いたくなる光景が頭の中を何度もよぎる。あの頃は怒号と罵声と悲鳴の三重奏が耳を離れることなく、眠れない夜が続いていた。
すると、心と体が別のものになったように感じられた。

あの日からだ。


おまえのような女は知らない。
何度そう言われてもつくしは諦めなかった。
いや。諦めることが出来なかった。だからいつも心だけを道明寺の傍に置いてきた。
だが、ある日、目の前の光景に、見たくなかった光景に、身を翻し廊下を走り去ったことがあった。体の動きに心を沿わせることがあれほど難しいと感じたのは、あの時が初めてだった。だが、心だけは置いて来ていた。

『 俺がキスするのはおまえだけだ 』

そう言った男の姿はもうなかった。

短い恋だった。

そして激しい恋。


あの日以来つくしは司の元を訪れることはなかった。
道明寺の目を見ることが辛かったから。
彼の瞳が映し出す景色の中にわたしはいない。道明寺の瞳が映し出すのはつくしとは別の女性。もう二度と思い出してもらえないかもしれない。

だがそんな中でもいつか記憶が戻る。
そう信じていたがその兆候は見られなかった。
今は待つしかない。そう思って過ごした日々もやがて虚しい期待となっていくのが感じられた。そしていつの頃からか、その期待は絶望に変わっていた。


記憶を無くした男は母親に連れられ渡米すると、そのままその地で10年を過ごし、そして今回の帰国となった。
帰国が近づいてくると、華々しく報じられるのは道明寺グループの後継者の今後について。
新聞と週刊誌は彼の話題ばかりが目立つようになっていた。
そしてその中に書かれているのは彼の人生の大きな分岐点となる記事。


婚約者を友人達に紹介するための一時帰国。

そんなタイミングでのこの事故だった。







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2016
11.02

愛は果てしなく 中編 1/2

音楽が聞こえる。
そう思ったがそれは人の話し声だと気づいた。

司が目を覚ましたとき、部屋にいたのは姉と友人。
彼は目覚めたことを伝えなかった。
頭は覚醒していたが、一度開いた目を再び閉じていた。


トレーラーと衝突したということは覚えている。
だが記憶はそこまでで、気が付いたときはこの部屋にいた。
この部屋が病院の一室だということにすぐに気付いた。
白い壁に白い天井、そして独特の匂い。
この匂いは遠い昔に嗅いだ匂いだ。

体から何本かのチューブが出て機械と繋がっていることも、中身がなんだかわからないような透明な液体が入った袋がぶら下がっているのも、そして体が思うように動かせないことも。すべてが事故に遭ってこの場所に運ばれて来たことを裏づけていた。

今日は何日だ?

入院していると日にちの感覚がなくなり、今日が何日なのか、何曜日かさえわからなくなっていた。だが、そう思うと同時に今日が何日だろうが、ここがどこだろうが、どうでもいいという思いがあった。
そして、こうしてベッドに横たわっている己の姿を客観的に見ている自分がいた。

ニューヨークではペントハウスに帰れば何をするわけでもなく、酒を煽ってただ眠りにつく毎日だ。こうして横たわったまま何かを考える時間などなかったと気づいた。
そんな毎日から思えば今が貴重な時間に感じられた。
長い間感じたことのない感覚を感じていた。



10年ぶりの日本は彼の運命を変える何かが待ち受けていたのかもしれない。
司は高校卒業と同時にアメリカに渡っていた。その処遇は司にとっては決められていた運命。たとえ天地がひっくり返っても覆ることのない宿命。

今さらそれを否定したところでどうなる?

その思いは常に頭の中にあった。
会社の為に生きることを義務付けられていることは周知の事実で、彼もそれをいつの頃からか理解していた。
ただその覚悟を決めるまで時間が必要だったのかもしれない。だが司が自分の運命を受け入れるまでに必要とした時間は、彼にとって無駄ではなかったはずだ。

今では28歳の彼は道明寺グループの後継者として多忙を極める日々を送っていた。
ビジネスは常に完璧な確実さを求められ、小さなミスは足元をすくわれ命取りとなる。
ゼロになることが許されない世界で生きる男は、常に緊張の世界に身を置いていた。
望まずして与えられた地位ではあったが受け入れてしまえば、それに見合うように努力もした。

そして確かなことは、自分には無駄な時間などない。
そのことは確実に言える。
だが、どこかで『こんな人生クソくらえだ!』
そう思っている自分がいた。


日常生活は一切の無駄を省いた生活。
会社とペントハウスの往復で、食事は最低限の栄養が取れればそれでよかった。他人との付き合いなど面倒で女は必要がなかった。
人に惹かれるという思いをしたことがない。それは他人に興味がないということだ。
だが他人に興味がなくてもビジネスは出来る。
むしろその方が都合良かった。一切の感情を排除してロボットのように働けばそれでいい。どんなビジネススタイルだろうが、何をしようが、定められた宿命をこなしていけばそれでよかった。

だがそんな司にも、彼の社会的地位に見合うだけの人間が必要な時が来た。
それはあくまでもビジネスのひとつ。
今ではニヒリズム(虚無主義)の申し子と言われるほど冷徹な男になった彼には、愛とは無縁の結婚をすることが求められていた。愛はなくても跡継ぎは作れるはずだ。そんなことが囁かれているのは知っていた。

司にとっての結婚は信頼のおけるものではなかった。
家庭を顧みない両親のもとに育てば、結婚というものに価値を見出すことが出来なかったからだ。幸せな結婚生活を送る人間が周りにいなかったということだろう。
ただ一人、姉の椿を除いては。

パーティーでどんな女が近づいてこようが、一切興味がなかった。
そんな男に囁かれるのは同性愛者ではないかという言葉。だが誰も愛さない男が同性を愛することなどあるはずもなく、単なる噂として聞き流されたのはもう随分と昔の話だ。
今はもう誰もそんな噂を信じてはいない。ただ、道明寺司という男は人を愛さない。人を受け入れることがない男としてニューヨークの社交界では知れ渡っていた。

人を愛したことがない。

それが道明寺司だと。







音楽が聞えなくなった。

そんな思いがしたが、それは話し声が止んだからだと気づいた。
司はわざと大きく息を吸ってみせた。


「司っ?目が覚めたのね?気分はどうなの?」

意識が戻ったのは事故から4日目。
そして今日は7日目だと聞かされた。

「ああ・・姉ちゃん。そんなにデカい声で言わなくてもわかる。聞こえてる。」

「司!あんた・・・その言い方はなによ?死ぬか生きるかってところまで行って・・まったくあんたって子は幾つになってもあたしに心配ばかりかけるんだから・・」

「そうだぞ、司。おまえは4日も意識がなかったんだからな。まあ、とにかく目が覚めてよかったよ。あのまま寝たきりになるんじゃねぇかと思ったぞ?」

寝たきりになる。
その可能性もあったと聞いた。

声をかけてきたのは姉と友人の一人。
美作あきらは気の置けない昔からの友人で、司にとっては幼なじみにあたる男だ。

姉は毎日病室へ足を運んでくる。
親鳥が雛の面倒を見るが如く甲斐甲斐しく世話をするのは、弟が幼いころから面倒を見ていた名残なのかもしれない。そんな姉が母親のような態度を取るのも当然だろう。
そしてそこにもう一人いるのは、何の印象も残さないような女。
司の目はその女の目を見据えた。

その瞳は鋭く他人が近寄ることを許さない目。
ビジネスに於いては敵対する者を容赦しないという目。

「あきら・・その女は誰だ?」

「ああ、この人は・・」

問われたあきらは言葉につまっていた。
長い沈黙が意味するのは何か。言葉を探しているのがわかった。
司はあきらの返答を待っていた。あきらとは長い付き合いだ。互いの何もかもを知っていると言ってもいい。

「あきら君いいのよ。司、この人はあんたの・・お世話をしてくれる人よ。」

椿の言葉は司にとって意味を成さないものとして処理されようとしていた。
相手が男だろうが女だろうが、他人を寄せ付けることを許さない男の世話をするために女を宛がう姉が信じられなかった。





以前なら_

そう。

以前の俺なら。

この事故に遭う前の俺なら目の前にいる女など簡単に追い払うことが出来たはずだ。


そうだ。

俺はこの事故で、生死の境を彷徨うことで記憶が戻っていた。
すぐ目の前にいる女のことはよく知っている。
牧野だ。
牧野つくしだ。


どんなことをしてでも手に入れたいと願った女がすぐそこにいる。

だがどうしたらいいのかわからなかった。


人は経験するということで学ぶことがあるが、2度も生死の境を彷徨う経験をしたことに自分の運命を感じていた。そして、過去に犯した罪がどれほど深かったのかと思わずにはいられなかった。そうでなければ、こんな目には合わなかったはずだ。

神が下された罰なのか?
そう思わずにはいられなかった。

人生の経験と言うのは一瞬たりとも切り離すことは出来ないはずだ。
人は経験したことが連なって人生を成しているはずだ。それなのに、どうして二人が過ごした時間を忘れてしまったのか。なぜ、あの経験だけが抜け落ちてしまったのか。記憶の欠落はどうして起きてしまったのか。だが、今となっては誰に問いかけるわけにもいかなかった。

だが記憶は戻った。

しかし、まるでそのことと引き換えかのように脚が動かないということに気づいた。
意識が戻ったときはわからなかったが、今はもうこれが現実だということを受け入れないわけにはいかなかった。
地獄の業火で焼かれるはずだった男が、奇跡的に助かったことの見返りが、脚が動かないということと、記憶を取り戻したことだとは、神の悪戯にしては随分と用意周到だと感じていた。なぜならこの場に牧野がいるからだ。

まるで何かの罰のような行い。

司は意識が戻った3日前に、ベッドの側にいたつくしに気が付いていた。

牧野_

運命はなんと残酷な仕打ちを司にするのか。
求めていたときには与えてもらえず、求めていないとは言えないが、どうしてこのタイミングでかつて欲しかったものを与えようとするのか?

なぜだ?

「あ、あのっ・・お姉さんっ?」

つくしは椿の言葉に驚いていた。

「つくしちゃん・・お願い。お願いだから・・わたしの頼みを聞いて?司のことをあなたにお願いしたいの」



やめてくれ。

姉は自分がどれほどバカげたことを言っているのか、わかってない。
それが俺にとってどんなに辛いことか。
司は姉につくしを引き留めて欲しくなかった。
この事故はあの時の事件を彷彿とさせる。あのとき、刺されて血だまりの中に倒れた自分を。
そして記憶を失ってしまった俺がいた。あの事件の後、自分の中に足りない何かを求め苛立ちを感じていた。
そうだ。
苛立ちばかりが募り、ひどい言葉で牧野を罵っていた。
この世の中にある憎しみの全てをぶつけるように罵倒した。
それはまるで頭の上から唾を吐きかけるような醜さだったはずだ。


その結果、牧野を傷つけてしまい二度と俺の前に現れることはなかった。

そして今は脚が動かないことへの自分への苛立ちが、牧野に向かってしまうのではないかという思いがあった。
そんな俺の傍に牧野を置こうとする姉の考えがわからなかった。
記憶を無くした頃の俺の状況を知っているはずだが一体何がしたいと言うのか?

麻痺が一時的なものなのか、それとも永久的なものなのか。医者もはっきりとした答えは出すことが出来ないと言っていた。
それだけに、この先がどうなるかなんてわからない状況だというのに、姉は何がしたいのか?


「司さん!」

部屋に入って来たのは愛のない結婚でもいいと言った女。
新堂麻里子はビジネスの戦略のひとつとしての婚姻相手。同じような階級の、同じような育ちのかわいらしい女。社会の上層階級にいる人間は皆、似たり寄ったりだということはよくわかっていた。

親に決められた結婚であっても構わないという女。
果たしてそれは、司自身に魅力を感じているのか、それとも有り余る金に魅力を感じているのか。
どちらにしても、そんなことはどうでもよかった。それに今回の帰国の目的はこの女を婚約者として友人たちに紹介するためではなかった。あの記事はデタラメだ。
俺はこの女と結婚などするつもりはない。



「わたし心配で毎日夜も眠れなかったの。それなのに椿お姉さまは、わたしを病室に入れてくれなかったの。それなのにどうして・・」

麻里子は司のベッドに近づくと、つくしにチラリと目をやった。

「あのあ、あたし・・」

「つくしちゃん。いいのよ。いて頂戴。それから麻里子さん、今日からこちらの牧野さんに司の身の周りのお世話を頼むことにしたの。だからそのつもりでいてね。司はまだ暫く入院するから。それから司の脚のことも知ってるわよね?」

椿は残酷なくらいはっきりと物事を言うことがある。
それは弟と姉という二人きりの生活が長かった頃からの彼女の性格だ。物事を白黒はっきりと付けたがる所は、司もよく似ているだけにわかっていた。











意識が回復した日はまさに二度目の人生のスタートだった。
真夜中の病室で一人になった司の脳裏にあの日の、まさに刺される寸前の光景が甦っていた。
記憶の想起は余りにも突然で鮮やかだった。
頬を涙が伝っていたことに気づかないまま、暫く天井を眺めていた。

それはある島からの帰り。
二人が乗った船が埠頭に着いたとき、少女に向かって手を伸ばしていた。その少女は初めて恋をした相手で、誰よりも何よりも守りたい人だった。人生に色彩を与えてくれ、今まで感じたことのない温もりを与えてくれた。

その手は未来を見据えて伸ばした手。あと少しでその手を掴むことが出来たはずだった。
ほんのあと僅かな距離、指先がまさに触れ合う寸前、ほんの少しだった。
周りの喧騒などあってないようなもので、二人にだけ流れた空気がそこにはあった。
時は一瞬だが確かに止まっていたはずだ。

あとほんの僅かの距離_

手を伸ばせばそこには_

いとし人の手があった。

その瞬間、受けた衝撃は一瞬ではあったが目の前が歪んで見え、体が足元から崩れ落ちていた。鋭い刃は体の肉を引き裂き、意識の扉を閉ざすと、光の届かない暗闇へと司を連れて行った。

奈落の底へと。

まさに致命傷となったその刃。
刃が向けられたのは道明寺という名であって司自身ではなかったにしろ、恨みを買ったことに間違いはなかった。
あの日の情景が、あの日の陽射しが、あの時の怒号と罵声がまざまざと甦った。

あの手を掴んで連れて行きたかった。

そんな愛しい人が目の前にいるというのに、何も出来ないでいた。手を取ることが出来たとしても、こんな体になった自分に今更何が出来る?今の司は自らの脚で立ち上がることが出来なかった。
あのとき欲しかった手がこんなに近くにあると言うのに、その手を掴んで抱き寄せることも出来ないでいる。


姉の椿が牧野に頼んだのは、秘書の仕事の補佐。
秘書が仕事の管理なら、それ以外のことを牧野がすることになる。
再検査の結果、恐らく麻痺は一時的なものではないかと言われ、胸をなで下ろしている自分がいた。
当面は車椅子の生活で、そこからリハビリを経て、いずれは杖があれば歩行は可能になると言われていた。そしてその先、不確かではあるが、杖を持つことなく歩けるようになると言われていた。それはつまり、先のことはわからないということだ。
司は不確かなことを聞きたいとは思わなかった。確実性が求められた世界で生きて来た男に不確かなことは必要とされていなかったからだ。


補佐とは言え仕事は多方面に渡ってある。秘書からの指示を待つだけでは仕事は進められない。司の周りは常に緊張の糸が切れることがないほど張りつめた空気があるが、かつての自分ではない姿を見られたくはなかった。

こんな体になった俺を。




司はつくしの性格をわかっているだけに、記憶が戻っているということを言えなかった。
もし今それを口にすれば、彼女は決して自分の元を去らないということがわかっていた。
この仕事を引き受けた意図は、はっきりしなかったが、引き受けた以上は責任を持ってやり遂げる。牧野はそんな人間だ。途中で投げ出すなんてことはしない人間だ。
そして俺のことを憐れと思って見るはずだ。

憐れみをもって見られたくはない。
おまえに迷惑はかけたくはない。


牧野。
今でもおまえのことが好きだ。
そのことだけは、あの頃と変わらない。

もし、自らの脚で立ち上がることが出来るなら、思いを口にして、そしてきつく抱きしめるはずだ。

だが司はそれが決して許される事ではないと、ギュッと手のひらを握りしめていた。






退院から2ヶ月が経っていた。

記憶がないと信じられている司は、いや、そのふりをしている司は牧野つくしが傍にいることが辛かった。
本当なら記憶が戻ったことを伝え、抱きしめたい気持ちでいた。
だがそうすることは出来ない。
それに脚が不自由な男と一緒にいて楽しいはずがない。
右脚が動かないことに不自由を感じながらの生活は決して楽なものではなく、今はこうして杖を使うことになっていた。

新堂麻里子はそんな男の傍にいても構わないという女ではないはずだ。
いずれこの女も俺の元からいなくなる。例え金があったとしても、若い女に常に手を貸さなければならない夫がいるということは、耐えられないはずだ。
打算だけの関係の女だが、そんな女も脚の悪くなった婚約者を早々に捨てたのではバツが悪いということは、わかっているようだ。
端から結婚なんてするつもりのない女だ。どうでもよかった。
だが、利用はさせてもらうつもりだ。





「さわんじゃねぇよ。麻里子を呼べ。」

脚の動かない苛立ちを牧野にぶつけることで、ストレスを解放しているわけではなかったが、こんな惨めな姿の自分を見せたくはない。ただその思いだけがこんな態度を取らせていた。

「おまえみてぇな女がなんで俺の世話をしてるのか意味がわかんねぇな。おまえ、この仕事もう辞めろ!」

司はいかにも軽蔑したような笑みを浮かべながら言った。その表情は我ながらよく出来たものではないか。あの頃と同じ表情が浮かんでいるはずだと思っていた。

「そんな辛気臭い顔して俺を見るんじゃねぇよ!」

あの頃、牧野が足しげく通ってくれたこの邸は今も昔と寸分の違いはない。
そんな中に昔と変わらない、あの頃と変わらない牧野が傍にいるのに触れてはいけないような気がしていた。司の口は言いたくはないが言わなければと思い酷い言葉を紡ぎ出していた。


「道明寺さん。お願い。癇癪をおこさないで、きっと良くなるからだから・・」

「わかったような口を利くな!それにおまえには関係ないことだろうが!」

牧野、頼むからここから出て行ってくれないか?
これ以上おまえを罵るような言葉を言わせないでくれ。
俺から離れてくれ。
こんな俺に構わなでくれないか。
あの頃も今と同じような場面があったはずだった。そうだ。あの頃、この邸に通ってくる牧野を罵倒し続けた。そして怒りと憎悪に溢れた視線を向けていた。
司は自分の役を演じることに徹した。

「出て行け!ここはおまえみたいな貧乏人が来るところじゃねぇんだよ!姉ちゃんの知り合いだか知らねぇけど鬱陶しいんだよ!」

悪かった。そう思わずにはいられないが、こうしなければ牧野を追い払うことは出来ない。そうだ、これはあの時牧野がこの部屋で目撃した場面と似ていた。
どうでもいい女と抱き合っている場面と。

「あなたいつまで彼の傍にいるつもりなの?いくら椿さんがいて欲しいって言ってもいい加減に辞めたらどうなのよ?」

いくらそう言われても、仕事を辞めようとしない牧野。
それならどうしたら俺から去ってくれる?

あの頃と同じ。

あの時と同じ場面を。



司は麻里子を部屋に呼ぶと、牧野つくしを部屋に来るように呼んでいた。
5分後にノックがあったとき、司は麻里子を部屋に入れその体を抱きしめていた。
そして、麻里子の頭越しに牧野つくしと目を合わせていた。
それは彼の知っている牧野つくしの顔。10年前に彼が見たあの時と同じ顔があった。
だがその顔は何かを非難している訳ではなかった。あの時もそうだったはずだ。

物音ひとつしない静寂が不気味だった。感じるのは自分の心臓の鼓動だけ。見つめ合っていても、どちらも唇を開くことはなかった。
そして、司の目には背中を向けて去っていくつくしの姿が見えた。
そうだ。
これでいい。
おまえが愛してくれた俺はもういない。
あの時と同じ思いはしたくはないだろ?


だから、もう二度と俺の前には現れないでくれ。
司は自分に納得させようとしていた。
これでいいのだと。







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2016
11.03

愛は果てしなく 中編 2/2

雨除けの傘を持って来るべきだった。
人生の中で傘になってくれる人はいないのだから、自分で用意する意外方法はない。
つくしは人に守られるのは嫌な女だったはずだ。だが年令を重ねてくれば、どこか人に頼りたいと考えることもあった。17歳の時に目の前で人が刺されるという事件に遭遇すれば、その光景が目に焼き付き、悪い夢にうなされたこともあった。そんなときは誰か傍にいて欲しい。そう思うのは人としてあたり前の感覚のはずだから。


つくしは一通の手紙を置いてくるつもりでいた。
果たして道明寺がその手紙を見ることがあるかどうか、わからなかったがそれでも良かった。
読まずに破り捨てられても構わなかった。


「牧野。おまえいいのか?」

「いいのかって、もうわたしは必要とされてないから・・」


そうだ。もう必要はない。今では脚も元に戻りつつある男に手助けの必要はない。
椿に頼まれた時はどうして引き受けてしまったのかと後悔したが、10年も心に抱えていた想いの方が強かった。だから少しの間でも傍に居られるならと引き受けていた。
だが、いくら椿の頼みだからと言ってやはり引き受けるべきではなかった。道明寺は、彼はわたしみたいな女は嫌いだと言っていたではないか。10年前のあの日で終わりにすれば良かったものの、どうして傍にいたいだなんてことを考えてしまったのか。

その答えはわかっていた。

ただ、少しでもいいから傍にいたかった。
それだけの理由だった。

あの時出来なかったことをしてあげたいと思っただけだ。だがもう必要とされていないと分かったのだから、自分勝手な感傷に浸るべきではないと気づいた。それに彼には婚約者がいて、いずれは結婚する。だからあのときの思いはもう永久に伝わることがない。

「美作さん。お願いがあるの。これ、この手紙を道明寺に渡して欲しいの。本当はこんな手紙書くつもりなんてなかったけど、どうしてなのかわからないけど、あの頃伝えられなかった思いを書いたの。だから・・」

あの頃伝えられなかった思い。
だが自分は何を伝えようと言うのか?道明寺はわたしのことが誰だか、わかっていないと言うのに手紙を受け取ったところで困るはずだ。
たとえ手渡したのが彼の友人だったとしても、使用人の女からの手紙を受け取る理由はない。破り捨てられることはわかっていたが、どうしても書かずにはいられなかった。
それが自己満足だとわかっていても、文字にすることで自分の気持ちを確かめることが出来たのだから充分だった。


「ああ。わかった。必ず渡す。それに必ず読ませるからな。俺が責任持って読ませてみせる。」

「ありがとう。美作さん。」

「いや。いいんだ。俺がお前にしてやれることは少ないからな。しかし、おまえ本当に行くのか?」

「うん。」



あの日。
道明寺の意識が回復するまでの4日間。

つくしはベッドに横たわっている男の全身を眺めていた。
10年ものあいだ、一度も会わなかった男にこんな形で会うことになるとは思いもしなかった。あの頃は知らなかった男の体。広い肩はあの頃と変わらないが、筋肉がつき、胸には厚みがあり、その風貌は大人の男に変わっていた。少年から青年を経て引き締まった体つきになった男。顔つきも精悍となり、あの頃よりも危険な雰囲気が感じられた。

そんな男に触れるべきではなかった。
それなのに触れてしまった。
あの頃子供過ぎて触れることすら躊躇してしまっていた男の体に。
女性なら誰でも夢中になる男に。
だが決してつくしのものにはなることのない男。

この男には婚約者がいる。
どこかかわいらしさが残る美しい人。
自分のようにチビで瘦せっぽちの女なんかじゃない。
自分のように化粧っ気もなく佇む女なんかじゃない。
声を殺して泣くことしか出来ない女じゃない。

つくしはこれ以上、司の傍にいることは出来なかった。
もうこれ以上は。
それにもう用はないはずだ。彼は杖が必要ないところまで回復していた。

そうだ。
もうこれ以上傍にいる必要はない。
だから、もういい。
叶わない思いを抱えて生きることは精神的に辛すぎるから。

「牧野。本当に行くのか?もう一度聞くがおまえはもう司のことはどうでもいいのか?」

「うん・・美作さん。もういいの。道明寺はあたしのことを思い出さないんだし、これ以上傍にいる必要もないし、婚約者の人もいるでしょ?」

だからもうこの場所から離れたい。
どうしても離れたかった。道明寺が結婚するところなど見たくはないから。だが、いつかその日が来ることはわかっていた。しかし、それが自分の目の前で行われることには耐えられそうになかった。自分の片思いから始まった恋ではなかったのに、いつの間にか恋をし、自分の命までかけてもいい人になっていた。

つくしは自分が目にした光景を思い出すと、もうこれ以上司の傍にいることが辛かった。婚約者を引き寄せ抱きしめている光景が目に焼き付きていた。
それは10年前に邸を訪ねていた頃、目にした光景と同じだった。そんな二人の姿を目の当たりにすれば、もうこれ以上あの場所にはいられなかった。そして自分の立場を思い知らされていた。

「そうか。それで、これからどうするんだ?司のところを辞めるってことは仕事が無くなるってことだろ?」

「うん。大丈夫。暫く海外にでも行ってこようかと思ってるの。」
「海外?」
「うん。弟が今イギリスに駐在してるから居候って言ったら変だけどロンドンを起点にして少しだけ旅行してこようかと思って。」
「そうか・・気を付けて行けよ。」
「うん。ありがとう。美作さんもお元気で。」


つくしはそれから後、司の元での仕事を辞めた。
もちろん椿からは慰留されたが、首を縦に振ることはしなかった。もうこれ以上傍に居るのは辛いからと正直な気持ちを打ち明けていた。椿にすれば、つくしが近くにいれば弟の記憶が戻るではないかという思いがあったのかもしれないが、その望みは叶えられることはなかった。


今度こそ忘れよう。
忘れ去ってしまおう。
そうすることが自分にとって一番いいはずだ。
決断をした後、すぐに行動に移すと旅立っていた。









***










あれから半年。
新堂麻里子は司の脚が治らないのではないかと思ったのか、やはり婚約は無かったことにしてくれと言って来た。所詮ビジネスとして交わされた婚姻の約束だ。司はどうでもいいとばかりに頷いていた。最初から結婚などする気はなかったのだから、女の方から言い出さなくてもどこかでけりをつけていた。そんな女と別れた男は不自由を感じていた脚も元に戻ると、以前に増して精力的に仕事をこなすようになっていた。


他人に対して興味がないのは相変らずで、喜怒哀楽はなく、時折表情が変わるとすれば部下がミスをしたときだ。そして男が話しかける人間は秘書か友人に限られているという状況だった。

あきらはそんな司の元を久しぶりに訪ねていた。
牧野つくしから預かった手紙はまだあきらの手元にあった。
何故半年も前に預かった手紙を今頃渡すことになったのか。
それは本人から頼まれていたからだ。道明寺の脚が良くなってから渡して欲しいと。
もし良くならなかったら永久に渡せないということになる。
そして、道明寺に何か変化があった時に美作さんの判断で渡して欲しいと。
婚約者と別れた。それをあきらは判断材料と考えた。どんな内容の手紙か知らないが、今なら司も手紙を読むはずだと感じたからだ。もしあの当時渡していれば、恐らく破り捨てられていた。そんな気がしていた。

「司。おまえ牧野つくしのこと。覚えてるか?半年前におまえのところで働いていた女。」

あきらは司の顔を窺っていた。

「覚えてないなんて言わないよな?あれだけおまえの近くにいた女だ。」

秘書の補佐として、いつも司の傍に佇んでいた。

「誰だって?」

司は顔を上げることなくデスクに向かっていた。

「そうか。覚えていないか。それならこれ渡す必要もないか。」

あきらは手にしていた手紙を司のデスクに置いた。
だが司はなんの反応もみせなかった。

「なあ、司。この手紙、半年前に預かってた。だけどおまえに渡さなかった。なぜだと思う?」

やはりなんの反応も示さなかった。

「俺はこの手紙に何が書かれているかなんてことは、勿論知らない。ただ、預かっただけだ。おまえに確実に手渡すように。それから確実に読んでもらうためにだ。おまえは牧野のことを知らないかもしれないが、俺はあいつをよく知ってる。だからどうしても、おまえに読んでもらいたい。」

あきらは何も言わない友人がどうしてこうも頑ななのか知りたかった。だから思い切って今まで決して口にしなかった疑問をぶつけていた。
 
「司、おまえはいつまで仮面を被る気だ?記憶、戻ってるんだろ?なあ司。本当のこと言えよ!」

司はその言葉に顔を上げた。



仮面_


孤独という名の仮面を被り続ける。
司のこれまでの人生はそれでも良かったはずだ。記憶がない男ならそれでも。
だが今は違うはずだ。記憶は戻った。あの日の記憶と共にすべてが。

「気づいてたのか・・」

男の口から呟きとも言える声が聞えた。

「あたり前だ。あの事故の後だろ?記憶が戻ったのは?おまえの姉ちゃんだって気づいてたぞ。だから牧野をおまえの傍に置いたんだ!」

そうか_
姉の椿も気づいていた。
司は大きく息を吐いた。

「ああ。意識が戻ったとき、全部思い出した。何もかも全て」

あの日の光景から、遡る日々も全て。

「なんでだ、司!なんで言わなかったんだ牧野に!」

あきらの声は大きく部屋に響いていた。

「なあ、司、聞いてるのか?牧野だぞ?おまえが心から欲しかった女だろ?」

「ああ、聞いてるしわかってる。けど俺はあいつを追いかけていく資格がない男だ。」

「何言ってるんだ!牧野が、どうして牧野が今までひとりでいたかわかってるのか?あいつにだって幸せになる権利がある。その権利を取り上げたのはおまえだろ?おまえがあいつを・・」


忘れた。


「おまえ、あいつが・・おまえが病院に運ばれて・・手術中になんて言ったか知ってんのか!」

あきらはつくしの事が好きで好きで追いかけ回していた司を思い出していた。
どうしようもないくらい熱い思いを抱えていた男のことを。
それなのに、今彼の前にいる男は静かに椅子に腰かけている。

「わたしの前で死なないでって・・おまえ、牧野が、どんな思いでおまえに会いに来たのか・・あんな経験を2度もさせるなんて、俺は牧野を呼ぶんじゃなかったって後悔してる。おまえなんかに会わせるんじゃなかったってな!記憶が戻ってるなら何故・・どうして抱きしめてやらねぇんだ!おまえはっ・・」

想像しないことはなかったはずだ。
2度も生死を彷徨う羽目になった男の傍にいる女のことを。
もちろん、好きな女に心配をかけたくなんかなかった。

「あきら、俺はあいつの傍にいる資格はない男だ。あいつを忘れて10年だぞ?赤ん坊が10年たってみろ?どうなる?言葉を覚え、生意気な時を過ぎて・・」

司は言葉を詰まらせた。
10年ひと昔。

そんな言葉が頭の中を過ったが今では10年よりももっと短いスパンで物事は移り変わっていく。そして、時は知らぬまに過ぎていたとはいえ、取り返すことは出来ないとわかっている。それに今さらだという思い。
司の胸にはあの頃と同じ思いがあったが、牧野は自分のことなど、もう好きではないという思い。
そんなことばかりが彼の頭の中に去来していた。

「それにあの頃の俺には婚約者がいて、脚が元に戻るかわかんねぇ状況だったんだぞ?そんな状況であいつを抱きしめることが出来るか?そんなことをすれば、あいつに・・犠牲を強いるような羽目になることだけはわかっていた。」

だから決して自分の思いは口にすまいと心に決めていた。
牧野は自己犠牲をもいとわない女だ。
いつもそうだった。
記憶が戻ったことを伝えれば、自分を犠牲にして脚の悪い男に付き添おうとするはずだ。
司はそんなことを望んではいなかった。

だがその反面、傍にいて欲しかったのも実実で、自分の気持ちがどうしようもないくらい揺れていたのは確かなことだった。心の葛藤がなかったと言えば嘘になる。
司は酷い態度を見せる反面、心の中ではつくしの想いを感じていたはずだ。
司を見るあの大きな瞳が、憂いを含んだように自分を見るあの瞳が訴えてくるものが確かにあった。

「司、牧野はおまえにとって最初で最後の恋なんだろ?おまえにはあいつだけなんだろ?
そう言ってたじゃないか!なに遠慮してんだよ!たとえおまえの体がどうだろうと、そんなことを気にするような女か?牧野って女はそんな女じゃねぇだろ?」

あきらは親友が遠慮を口にする姿を信じられない思いで見つめていた。
この男がひとりの女に対してそんな態度を取るのは、やはり相手が牧野つくしだからだと納得した。だがいつまでたっても行動に移そうとしない男は若かったあの頃とは違っているということか?あの頃は考えるより先に行動していたはずだ。

「司、おまえの心はいつからそんなに″やわ″になったんだ?おまえの心はガラスで出来てるとでも言うのか?それに言っとくが完璧な人間なんてどこにもいねぇんだぞ!おまえは牧野に対して完璧な自分を見せたいのか?記憶が戻った男は完璧な自分を見せたかったのか?人は欠点があるから、その欠点を補うために誰かを求めるんだろ?おまえにとってそれが牧野なんだろ?おまえは完璧な人間なんかでいる必要はねぇんだよ!」

あきらは苛立ちのあまり感情的になっていたが、やがてひと息ついていた。

「いいか?牧野から預かった手紙は絶対に読め!」

あきらは強い口調で言うと、そこから先はまるで声をひそめるように話していた。

「俺はもう帰るがいいか?この手紙を読んで、それでも牧野のことがもうどうでもいいなら、それはおまえの決めたことだからこれ以上何も言わない。司、牧野はおまえがどんな状況に置かれようが、おまえを愛してる。わかるだろ?おまえの愛した女だろ?それから・・あいつは今この国にはいない。」


二つの世界がそこにあった。
18歳の少年と28歳の大人の男だ。この二人の男はいったい何を考えているのか。
司は28歳の今の自分ならどうしたいかと聞いてみるが、その男は勇気が持てなかった。
だが18歳の少年の頃の自分は違った。今すぐ追いかけるべきだと叫んでいた。
好きな女を追いかけないでどうするんだと叫んでいる自分が確かにいた。

「あきら・・牧野は、あいつはどこに行くって言ってた?」

「ああ。イギリスだ。弟があっちで暮らしてるらしいから、暫くあっちで世話になるって言ってたぞ?」

「イギリスか・・」

「追いかけて行くんだろ?司。」

「ああ。当然だろ?今さらだと思われてもいい。俺は・・牧野が受け入れてくれるなら、あいつが俺を傍に置いてくれるなら、ずっとあいつの傍にいたい。」

あきらは司の言葉に先ほどまで感じられなかった強さを感じていた。
そしてその瞳に宿った光を。

「そうか。おまえは10年も牧野を待たせたんだからな。ちゃんとしてやれよ、司。それから、牧野に甘えてこい。完璧な自分でいる必要はねぇからな。」

言われなくてもわかってると言いたかったのか、あきらはじろりと睨まれていた。









イギリスなんか選びやがって。
ただでさえ雨の多い土地を選ばなくてもいいだろう?
雨が降れば嫌なことを思い出す。それはあいつにも俺にも言えることだ。

司はジェットの用意が出来るとすぐに日本を離れた。
眼下に見える景色は滑走路に規則正しく並ぶオレンジ色の誘導灯。
やがてその灯りも小さく消えていった。
日没を迎えた西の空は茜色に染まっていた。だが太陽は今この国より遅い時差を持つイギリスの大地を照らしているはずだ。

ジェットは東京湾の上空で右に大きく旋回しながら、左手に都心のビルを眺めていた。やがて北の方向へ機首を向けると高度を上げて行った。高度1万メートルの世界は既に暗い。だが彼の心には光が射していた。


司は遠い昔過ごしたあの日々を、何と鮮やかに覚えていたことか。
それは決して遠い昔ではなかったはずだ。
潜在意識の中にはいつもいたはずだ。
牧野つくしが。

今、彼の手にはあきらから受け取った手紙が握られていた。
入院中もそうだったが、何年もの間流したことのない涙が頬を伝って流れているのが感じられた。


まきの_


「まきの・・」

「まきの・・」

「牧野・・おまえに・・会いたい・・」


司はやさしい声で愛しい人のその名前を繰り返し自分にだけ聞こえるように呟いていた。








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2016
11.04

愛は果てしなく 後編

司に忘れ去られた少女は学園を卒業すると地方の国立大学を卒業し、都内の会社に就職していたことは聞いていた。
真面目にコツコツと仕事をこなし、家と会社の往復だけの生活。

いかにもあいつらしい。

司はあきらから受け取った手紙を読み返していた。

そこには17歳の頃の思いが綴られていた。




道明寺司様。
この手紙を読むことを選択してくれてありがとう。
そして、わたしの事がわからなくても読んでくれてありがとう。
こんな手紙を書くべきじゃないとわかっていても、書かずにはいられませんでした。
覚えていないと思いますが、わたしとあなたは高校時代につき合っていました。
いえ。つき合いを始めたばかりでした。


いや。覚えてる。
今はあの頃の輝きを思い出すことが出来る。


わたしはあなたに出会った高校生の頃、素直じゃなくて自分の心があなたに向いていたのに、あなたの胸に飛び込んでいくことが出来ませんでした。
本心を隠さないあなたに対してのわたしは、いつもどこか迷いがありました。
今思えば随分と時間を無駄にしたものだと思っています。


なかなか素直に自分の気持ちを認めることが出来なかった少女は、今こうして自分の気持ちを打ち明けてくれた。


わたし達の間には、沢山の問題がありました。
でもあなたはそれを問題にしませんでした。
自分が持っている全てを捨てても、わたしを選ぶと言ってくれるほどの人でした。

知り合った初めのころは気が付きませんでしたが、あなたは誠実な人で自分を偽ることをしない人でした。わたしがそのことに気づいたのは、随分と後になってからでした。
だからわたしは後悔しています。何故もっと早くあなたの胸に飛び込んで行かなかったかと。

今更後悔しても遅いということはわかっています。
あの頃のわたしは、あなたの誠実さに応えてはいなかった。
いえ。応えるのが遅すぎたのかもしれません。

わたしの事を覚えていなくてもいいんです。
思い出さなくてもいいんです。
ただ、あなたの傍にいた牧野つくしという女は、あなたの事が大好きだった少女だったということを知って欲しかっただけです。

どうしてわたしのことを忘れたのか。それはわかりませんが、あなたはわたしのことを忘れてしまいました。決して泣き言をいうつもりはありませんが、あなたに忘れ去られてからは涙が枯れる程泣きました。
わたしのことを覚えていないあなたに、こんなことを書くべきではないと思いますが、当時のわたしはあなたが忘れたわたしのことを思い出してもらおうと努力しました。
ですが所詮高校生の努力なんて知れています。
わたしの力ではどうしようもできない。それが現実でした。


覚えてる。
おまえが作ってくれた弁当だろ?
他の女が作ったって勘違いしたんだよな?
それから・・
そうだ。昔のおまえに戻って俺に宣戦布告したよな?



あなたがアメリカに旅立つ日。わたしは遠くから見送りました。
これでもう二度と会う事はない。そう覚悟しました。
だから今回あなたが帰国すると聞いたとき、複雑な思いがありました。
そして交通事故にあったと聞いたとき、居てもたってもいられなくてある物を手に家を飛び出していました。
どうしてなのかわかりませんが、それをお守りのように思ったのかもしれません。
手術中、ずっと握りしめていました。
それはあなたが昔、プレゼントをしてくれたネックレスでした。


牧野。覚えてる。
まだ持っていてくれたんだな。
それに忘れるはずがない。
あのネックレスをおまえの首にかけた日を。
今、窓の外に見える星の輝きの中にあの時見た土星もあるはずだ。


あのネックレスは今でもわたしの宝物です。
あなたとつき合えたことは、短いつき合いだったけど一生の思い出です。
わたしの高校二年生は一生に一度の恋をした年でした。

道明寺、多分もう二度と会うことはないと思います。

だからお元気で。


そしてお幸せに。











牧野_



司は手紙を置くと目を閉じた。

おまえは今も昔と変わってない。
物事ってのは簡単に諦めるもんじゃねえ。
あの頃だって俺との立場の違いに悩んで俺のこと簡単に捨てようとしただろ?
それも土砂降りの雨の中。
それにやっぱりおまえは鈍感女だ。
俺の傍にいたのに記憶が戻ってることに気づきもしねぇ。

おまけに牧野は酷い女だ。
俺にこんな手紙なんか寄こしやがって。
だけど俺にとってもおまえとの事は一生に一度の恋だ。
だから逃がすわけにはいかねぇ。

おまえがどこへ逃げようが、追いかけて行くって話しを覚えているかどうか知らねえが、俺は覚えてる。
だから覚悟してくれ、牧野。

おまえを掴まえたら手放すつもりはない。








***









雨が降っているのに空は晴れていた。
天気雨と言われるこの雨がそんなに長く降ることはない。

つくしはロンドンの進の家にいた。
企業の駐在員としてこの地で暮らしている弟は当然だが日中は留守だ。
そんな中、居候のような存在の姉の果たす役割は家事全般となっていた。
そして家事を片づけたつくしが出掛けるのは、近くにある公園だった。

ロンドン市内中心部にあるハイド・パーク。 
東京の日比谷公園の約10倍にあたる広さ。
ベンチがそこかしこに置いてあり、くつろぐには丁度いい。
中央に大きな池があり、芝生が広がり、市民の憩いの公園だ。

そんな公園の一角にはスピーカーズ・コーナーと呼ばれる場所がある。
そこでは、英国王室への批判と政府転覆を企てる演説以外なら自分の主張したいことを大声で述べることが出来る。言論の自由のための場所として設けられ、歴史は古い。
そしてその場所で熱弁を振るった人間の中には、後に世界的政治家として名を馳せた者もいた。その中にマルクスやレーニンがいたというのだからこの場所に国籍は関係なかった。

ビールケースを逆さにしただけの演説台に乗り、拡声器など使わずただ声を張り上げて自分の言いたいことを主張する。その話題に興味のある人間が集まれば、おのずとその場で討論会を繰り広げることになるが、いかにもイギリス人らしく冷静かと思えば、熱くなることもあった。
まさに言いたい放題の時もあったが、それはそれで面白かった。

つくしは公園に行くかどうか迷っていた。
だがまだ雨は降り続いていた。

晴れているのに雨か。

「今日は、やめとこうかな・・」

そうは言ったが、やはり出かけることにした。
もしかしたら、また何か面白い演説を聞くことが出来るかもしれない。
最近ではそれを楽しみのひとつとしていた。

「傘は・・やっぱり持っていくべきよね?」

人生の中で傘になってくれる人はいない。
それなら自らの手で傘を開けばいいだけのことだ。
これから先、傘が無いことだってあるはずだが、ひとりで乗り切ることは出来るはずだ。

つくしは傘を手にすると部屋を出た。
やはり外はまだ雨が降っていた。
雨は嫌い。
だけどこの雨はやさしく降る。
そしてこの雨は花々と緑を美しく見せてくれていた。

この街に滞在するようになって気づいたことがあった。
この国では家々の前にあるフロントガーデンが外に向かって開放されているということだ。
日本の庭はどちらかといえば、内向きで家族だけが楽しめればいいという造りだ。
だが、この国では自分の庭を道行く人々にも見てもらいたいと開放的な造りになっている。

ガーデニングが好きな国民性を表すものだが、見ていて楽しかった。
通りによってはまるで花壇の間を歩いているような気にさせられる場所もあった。
つくしは通りを歩きながら、家々の庭を眺める楽しみを見つけていた。

日本に帰ったらわたしも土いじりを趣味にするのもいいかもしれない。
ふと、そんなことが頭を過ったが都内でそんなことが出来るなんて贅沢だと頭を振った。

でも、道明寺邸ならいくらでも出来るわよね?
あの広い庭なら花でも野菜でもいくらでも作ることが出来るはずだ。

でもまさか、道明寺のお邸でそんなことしてるわけないか・・

つくしはバカげた自分の考えに笑いを堪えていた。





「牧野っ!」

誰かが名前を呼んだ。
つくしはロンドンの街角で自分の名前を日本語で叫ばれるなんてと訝しがった。
この街に知り合いはいない。だがこの街に何人の牧野がいる?
間違いなく自分のことだと思った。
でもいったい誰が?
そう思いながらゆっくりと振り返ると、スーツを着た男が雨のなか傘もささずにつくしを見つめていた。




しとしとと降る雨に髪の毛は濡れ、スーツの肩には雨粒が落ちていた。
だが背の高い男はまるで雨に濡れることが大したことないとばかり佇んでいる。

その光景はいつか見た光景だった。
そうだ。10年前に見たあの時の男にそっくりだ。
ただあの日の二人は土砂降りの雨の中、傘もささずに見つめ合っていた。
そして別れを迎えた。
だが今日の雨はやさしく降り注いでいた。

つくしは一瞬夢ではないかと思った。そして時間が止まったように感じられた。
時間が過去に戻るはずはないが、二人はまるであの日のように黙って互いの顔を見つめ合っていた。



「ど、道明寺・・どうして・・ここに・・」

口をひらいたつくしは、言葉を詰まらせながら聞いた。

「おまえって女は酷い女だ。俺を刺激しといてさっさと逃げるんだからな。」

「いったいどうして・・どうしたの?し、刺激っていったいなんのこと・・」

なぜこの場所に道明寺がいるのか訳がわからなかった。
それに自分の名前を呼んだことにも。

「どうしたの・・か?俺はおまえのことを思い出したんだよ。」

考えもしない言葉が返された。

「い、いったい・・いつ・・」

「あの病院でだ。目が覚めたときには全てを思い出していた。」

「病院って・・事故のあと・・」

「ああ。あのとき病院で目が覚めたときだ。」

「でも、それって・・」

司の意識が戻ったとき、つくしは傍にいたはずだ。
それなら、なぜそれを言ってくれなかったのか。

「思い出してないふりをしてた。言えなかったんだよ。あんときの俺には名ばかりとは言え婚約者がいて、そのうえ脚が動かなかったんだ。そんな状況でおまえに記憶が戻ったなんて言えなかった。言ったところでどうにかなるなんてことも考えなかったけど、そこへねーちゃんが俺の世話をおまえになんて話しだ。どうすりゃいんだよ?自分の体が思うように動かせない惨めな姿の男が・・」

見せたくなかった。
牧野に自分の惨めな姿は見て欲しくなかった。それに牧野以外の女とビジネスとは言え婚約している自分が許せなかった。だから他人のふりをしていた。

「おまえ、あのとき俺がおまえを思い出したなんて言ったらどうしてた?」

返事はなかった。

「俺も最初は言おうと思ったぜ。それに、おまえが俺の傍にいることに甘えてみたかった俺もいた。けどな、傍にいることが嬉しい反面、やっぱり辛いことには違いねぇな。好きな女にあんな姿を見せるのは正直俺の男としてのプライドが許さなかった。だからおまえが仕事を辞めるように仕向けた。」

体の自由が効かない男の癇癪だと受け取れるように、わざと声を荒げ罵倒していた。
新堂麻里子と抱き合っていた姿もわざと見せていた。

「牧野、どうしてねーちゃんの頼みを聞いたんだ?あの時の俺は記憶が戻っていたが、それをおまえに言わなかった。あくまでも見知らぬ他人のふりをしていた。それなのにどうして引き受けたんだ?」

牧野つくしにとって答えにくい問いかけかもしれなかったが、司は答えが聞きたかった。
そしてその答えの中に司を求めていたからだという意味合いを見出したかったはずだ。
だから敢えてうんと返事が出来ない聞き方をした。

「おまえは俺に同情して傍にいてくれたんだよな?あの時は俺が可哀想だなんて思ったんだろ?だから引き受けたんだろ?」

司は同情なんかじゃないと言って欲しかった。
彼はつくしの目をじっと見つめていた。その大きな瞳の中につくしの本心を感じ取ろうとしていた。

「あきらから手紙を貰った。あの手紙に書かれていたのは、高校2年のおまえの気持ちだろ?今の気持ちはどうなんだよ?おまえの今の気持ちを聞かせてくれねぇか?」

司は優しい目でつくしを見た。

「なあ、今この場所に臆病者がいるとしたら、誰だと思う?自分のことを正直に言えなかった男か?それとも昔の気持ちなら素直に言えた女か?」

つくしは司の口から自分が臆病だと言う言葉が出るとは思いもしなかった。
つくしの知っていた道明寺司は誠実な男ではあったが、傲慢で自信に満ち溢れた男だったからだ。
今、目の前にいる男はあの頃と同じ人間だが、大人になった今では自分の弱さも認められる男になったということなのだろう。

道明寺・・・

つくしは自分が知らない間に司が大人になったということに、自分がまだ子供じみた考えをしているのではないかと感じていた。
だから今は素直に自分の気持ちを伝えることが重要だと気づいた。
今でも好きだという思いを伝えるべきだと。

「そうは言ってもおまえが自分の気持ちを正直に言うことがそう簡単じゃねえことは、わかってるつもりだ。」

自分の感情を押し殺すように司は視線を下に落とした。

「いい。無理してしゃべんなくても・・いいんだ。俺が、俺が全部悪いんだからな。何もかも許してくれ、忘れてくれとは言わない。だけど俺は・・俺はおまえが許してくれなくても、おまえに付き纏ってやる。おまえが迷惑だって言ってもな。」

次の瞬間、司はぱっと顔を上げてつくしを見つめた。

「牧野。10年もおまえを一人ぼっちにして、置き去りにして悪かったと思ってる。いや、謝ってすむような問題じゃねぇってことはわかってる。だけと俺はおまえが今でもひとりでいたこと。それからあの手紙を読んでわかったことがある。牧野つくしは今でも俺のことが好きだってことをな。なあ、そうだろ?」

瞬間、ニヤリと笑って決めつけるような言い方は高校生の頃の司を彷彿とさせた。

「牧野。俺と、俺と結婚してくれ。」

彼の片手はつくしの手を握ろうと差し出したが、途中で止めていた。

「おまえにあんな酷い態度を取った俺はこんなこと言える立場じゃねぇけど、おまえの未来の幸福は俺が・・俺がおまえを幸せにしてやる」

「なあ、牧野・・」

頼む。

この手を、あの時、掴めなかったこの手を掴んでくれ。


「道明寺、婚約が駄目になって話しは聞いた・・でも、脚はもういいんでしょ?それならまたあの人も戻って来てくれるんじゃない?」

「ああ、あの女か?あの女は俺の脚が元に戻んねぇんじゃねぇかと思ったんだろ。俺との結婚は嫌なんだと。」

「で、でも今はもう元通りなんでしょ?それなら・・」

「おまえ、それ本気で言ってんのか?あの女は所詮金目当てだ。俺が体の自由が効かなくなった途端に捨てるような女だ。それに言っとくが最初から結婚なんてするつもりはなかった。周りが勝手に婚約者だなんて決めただけで、おまえの記憶がなかった俺にはどうでもよかったんだ。」

どちらにしても他人に対して興味がなかった。
牧野つくし以外には。
駆け引きも何も必要としない女。
金にも権力にも魅力を感じない女。
そんな女は自分の信念だけは貫こうとする。
司はそんな女の気持ちにかけてみた。
まだ自分のことを愛しているはずだと信じていた。

牧野は下から覗きこむように見上げるのが癖だった。
その癖は今も変わらないようだ。声をひそめて話しかけたり、そうかと思えば弾んだ声で話しかけて来たこともあった。そんな声がまた聞きたい。
そしてその大きな瞳で、きらめくような瞳で見て欲しい。

「わ、わたしは・・違うから。」
つくしの口から途切れがちに言葉が出た。
「わたしは何があっても絶対に道明寺をひとりにしない。道明寺を置いていったりしない。だって・・道明寺を愛してるから・・」

つくしは自分の頬を雨ではない何かが伝い落ちていくのを感じていた。
だがその表情は微笑んでいた。

司の黒い片眉がいたずらっぽく上がった。

「フン、牧野つくしにしては随分と素直じゃねえかよ?」

つくしは自分の潤んだ瞳から涙が流れていることに気づいた。
そして唇がかすかに震えているのもわかった。
この震えがどこから来ているのか。それは嬉しかったからだ。

『 俺がおまえを幸せにしてやる 』

その言葉はあの頃、この男が言った言葉だ。
確かに高校時代のつくしは素直じゃなかった。それは認めていた。
だが、今こうして素直に認めることが出来たことは、比喩的な意味だが大人への階段を一歩登ったということだ。

つくしは司に近づくと、彼のネクタイを掴んで自らへと引き寄せていた。
それはまるであのとき、雨の別れの前にゲームセンターで過ごしたあと、別れ際にマフラーを引き寄せてキスをした時と同じだった。
だが、あの頃の少女も今ではもう大人の女だ。
そして少年だった男も今は大人の男だ。

司はつくしの腰に手を回すと己の体へとグッと引き寄せ、強く抱きしめていた。
これからするキスはさよならのキスなんかじゃない。
10年経った今でも愛しているという気持ちを表すためのキスだ。
優しさ、思いやり、情熱、そして愛。その全てを伝えるためにキスをしたい。
そして今は、ただこうして抱き合えることが二人にとって重要だった。

長い年月が二人の間に流れてはいたが、その間に二人の間に起こったすべてのことを流し去ってしまうだけのキスをした。

やさしい雨の中、抱き合う男女に傘は必要がなかった。



張りのあるバリトンは、ただ一人の人の名前を繰り返していた。

牧野。

牧野。

牧野、愛してる。と。

ただ、それだけを何度も繰り返していた。




天気雨は日射しを受けながら降る雨だ。
それだけに虹を見る確率が高い。

この雨はもう間もなく上がるはずだ。

雨の後にかかる虹は二人の愛の架け橋となってくれるはずだ。
あの頃も橋を渡ったことがあった。
ただ、その橋はあまりにも脆く、壊れやすい橋だった。

ハワイのことわざにこんな言葉がある。

『 No Rain 、 No Rainbow 』

雨がなければ虹はない。

雨が好きな人はあまりいないかもしれない。現にこの二人も雨は嫌いだ。
だが何か起きても、その後には必ずいいことが起こる。
これから先の二人の人生には困難も多いはずだ。
そんな時はその後に二人を待っているはずの出来事を楽しみにすればいい。
とりあえず今はこの雨があがったら、二人であの公園に出掛けてみるのもいいかもしれない。

雨があがったら。

二人で虹を見に行こう。

そしてこれから先も雨があがる度に虹を見に行けばいい。


その先に繋がる幸せを探すために。








<完> *愛は果てしなく*

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