母さん・・父さんってどんな人なの?
父さんの髪の毛も僕と同じなの?
教えて欲しいんだ。
どんな人なのか。
僕と同じように手は大きいのか。
僕と同じように背が高いのか。
どうしても知りたいんだ。
どうして僕を欲しがらなかったのか。
帰宅したつくしが見つけたのは、台所のテーブルの上に置かれていた手紙。
いつかはこんな日が来るのではないかと思っていた。
だがその日がなぜ今日なのか。
『 母さんへ
どうしても会いたい人がいるから出かけて来る。
帰りは遅くなるかもしれないから先に休んでいてもいいよ。
でも明日の朝はいつもと同じ時間に出かけるから、心配しなくていいよ 』
簡素な文面は伝えたいことだけが書かれていた。
急に思い立ったのか、それとも計画していたことなのか。
前者の方が正解だと言っていいはずだ。
理由はわかっていた。
知ってしまったのだろう。
自分の父親が誰であるかを。
つくしは台所の窓から外を見た。
今日は風の強い一日で雲は早い速度で流れている。風の向きが変わったのか窓ががたついていた。今しがた通過した航空機が残したのか、ひこうき雲が浮かんでいるのが見えた。
青い空に刷毛で線を引いたように、残された雲は西の空へ向かって続いていた。
ぼんやりと眺めていれば、やがてその雲も空の青さにかき消されていった。
かき消されてしまった雲はどこへ行ったのか。そこには何も残ってはいなかった。
それはあの日まで二人の間に流れていた時間が一瞬にして失われたのと同じだと感じていた。
あの日はどうして起きてしまったのか。
あれからもう何年になるのだろうか?
つくしは遠い記憶の扉を開いていた。
あの日、病院の中は冷え冷えと感じられた。
目を閉じればいつも甦るのはあの日の光景だった。
「類、ど、どう・・みょう・・じは、彼は・・助かるの?助かる・・よね?」
つくしの頬には涙が流れたあとがあり、鼻水をすすりながらガラスの窓に両手をついていた。
右腕には採血後のテープがしっかりと貼られている。
輸血用に用意されていたB型の血液が足りず、自らの血液を提供していたが、それでもまだ足りないと言われ、自分の体中の血液全てを使ってくれてもいいと申し出ていた。
こんなとき自分の小さな体が疎ましかった。もっと体が大きかったら、もっと沢山自分の血を使ってもらえるはずだ。採血の間中、涙が止まらなかった。
人の涙というのは枯れることが無いのだろうか。涙を流すことがこんなにも辛いことだとは知らずにいた。それはまだ自分の人生が短いからだろうか。いや違う。人としての経験は短いが、今まで味わった哀しみの数だけは同じ年頃の人間よりも多いはずだ。
不公平だと思った。
やっと互いの気持が通じ合えたと思っていた。
それなのに神様は掴みかけた手を掴ませてはくれなかった。
「牧野・・ほら鼻水拭いて。大丈夫だよ・・司はこんなことで死ぬような男じゃない」
類はそう言ってハンカチでつくしの顔を拭いていた。
「どうみょうじ、お、おねがい・・・おねがいだから・・」
ICU、ガラス窓の向こうの部屋でベッドに横たわる長身な体は、点滅する光を発する沢山の機器に繋がれていた。だがつくしの目に入るのは、ベッドに横たわった男性の姿だけだ。
人工呼吸器に繋がれ、機械が出す断続的なビープ音が聞こえてくるようだ。
愛さずにはいられない男の瞳は閉じられ、顔はまったく生気を感じさせなかった。
その部屋の中で空気の流れが止まった時間があったはずだ。
空気の流れが止まる・・すなわち呼吸が止まるということだ。
「お、おねがいだから・・助かっ・・て・・どうみょうじ・・・」
つくしは両手をガラス窓にあてたままずるずると崩れるように床に座り込んでしまった。
ガラス窓には小さな手の跡ばかりがついていた。広げられた手のひらのあと、おそらく握りしめていただろう拳のあと。涙が飛び散ったのだろうかそんなあともついていた。
当時の二人はこれから新たな一歩を踏み出そうとしていた。
共に手を取って歩む未来を心に描いていたはずだ。
だが現実は違った。
司は暴漢に刺されたあと、生死の境を彷徨いつくしの記憶を失うこととなった。
そしてもう二度と彼女のことを思い出すことは無かった。
意識を取り戻した司は何度かまばたきをし目を覚ました。
そのときの彼にはつくしの事は記憶の欠片にもなかった。
つくしは司が記憶を失ったあの日から記憶が戻ってくれることを願い、邸に何度も顔を出した。
だが受け入れてもらえず、否定をされる日々が続いていた。
そんな日が続くと、やがてつくしも自分を否定され続けることが辛くなってしまい、邸を訪れることを止めてしまっていた。
あたしだけが知っていた道明寺はもういない。
それは別の人が彼の腕の中にいたからだ。
たとえあのときと同じように手を伸ばしたとしても、もう二度と掴んでもらえない。
彼の目を見てそう確信した。
やがて交わす言葉もなくなると、道明寺の心が見えなくなっていた。
妊娠を知ったのはそれから間も無くのことだった。
誰にだって時間は平等に流れていくはずなのに、ふたりの間には同じ時間は流れてはくれなかった。
誰か・・
時間を元に戻して・・
あの日に・・
突然耳に飛び込んで来たのは、救急車のサイレンの音。
つくしは、はっとすると首を軽く振った。
こちらに向かって近づいてくるサイレンの音を耳にすると、いつも緊張が走ってしまうのはあの時の影響なのだろうか。
そう思わずにはいられなかった。
つくしは手紙をテーブルの上に置いた。
台所にから居間へ行き、そこから襖一枚を隔てた自分の部屋へ入ると、押し入れの中に仕舞い込んでいるはずの靴箱を探していた。いつも布団の間に挟み込むように置かれているその箱は、痛んだ姿でそこにあるはずだ。
ない・・
箱がない。
確かここにあったはずだ。
だが小さなアパートの部屋の中、箱の行き場所はわかっていた。
いつかこんな日が来るとは思っていた。
かあさん、僕のとうさんはどうして一緒に暮らしてないの?
なんと答えたらいいのだろう。
答えを探したが自分でも納得できる答えが見つからずにここまで来た。
だが聞かれたのはあのとき一度だけ。
幼いながらも母親がすぐに答えなかったことから何かを感じたのだろう。
あの子は自分の中で勝手に答えを見つけたようだった。
とうさんは僕が欲しくなかったんだ・・・と。
16歳になる息子は中学に上がる頃になると、母親のことは自分が守らなければならないと思うようになっていた。男手が足りないということは不自由も多い。その不自由を感じさせないようにという気遣いさえも感じられるほどだった。
背は随分前に180センチを超え、逞しい体つきとなった息子。少年とはいえ精悍な顔立ちで、切れ長の瞳は澄んだ色をたたえていた。
周りからよく言われるのは、まるで彫刻を思わせるような顔。薄い唇はナイフのようだとも言われた。息子と似た唇から最後に聞いた言葉は冷たい罵りで、かつて優しい言葉を囁いてくれていたとは思えないほどだった。だが息子の口から語られる言葉はいつも母親を気遣うかのように優しかった。
声変りをした息子が、優しい言葉をかけてくれる度に思い出されることがあった。
だがそれも今はもう遠い記憶となっていた。
性格は真面目だが、どこが勝気なところがあり負けん気が強い子ども。
大人になるにつれ自分が誰でどこから来たのかを知りたがるのは当然だろう。
それは自分の命がどこから来たのかということだ。
つくしは息子の部屋へ行くと、思い出が詰まった箱をベッドの上に見つけた。
蓋が開かれた中には、青春時代が垣間見えた。
あのとき、ふたりが会った最後の日の風景が甦った。
返そうとしたが、結局渡すとこが出来ずに持ち帰ってしまったものがその箱には詰まっていた。
目に触れたと同時にふわっと何かが香ったような気がした。
それは感じられるはずのない懐かしい香りなのかもしない。いや。そんなことがあるはずがない。目に見えるものから匂いを感じさせるものはないはずだ。
箱の中身はふたりで野球観戦に出かけたときの半券、そこで手にしたボールや古いうさぎのぬいぐるみだ。このぬいぐるみは息子が小さな頃はいつも彼の傍にいた。
ああ・・
さっき香ったと思ったのは、このぬいぐるみが持つ匂いだったんだと気づいた。
汚れては洗ってを繰り返し、古ぼけてしまっていたぬいぐるみ。
箱から取り出すと懐かしさがこみ上げた。顔に近付け、深く息を吸った。
思い出すのはあの当時のふたり。
自分の年齢で愛せるだけ愛した人・・
両親はつくしが妊娠したことに驚いたが、黙って受け入れてくれた。
今まで頼りないと思っていた親も新しい命が宿った娘の意志を尊重してくれた。
産みたい。と言った娘の意志を。
高校は中退したが、これから先のことを考え卒業程度認定を取得した。
シングルマザーとして働いてきたつくしは、近くに住む義理の妹に息子の面倒を見てもらっていたことがある。息子は彼女のことを叔母さんとは呼ばず、お姉ちゃんと呼んでいた。
それは今でも変わらない呼び名。男の子の思春期特有の問題は弟が相談に乗ってくれていた。
父親がいなくても親子で仲良く暮らしていた。
子育ては決して楽ではなく大変だったが、息子も高校生になると新聞配達のアルバイトを始めていた。朝は早いがそれは苦にならないといって始めてはいたが、学業に支障が出るのではないかと心配した。
そんな気持ちを口にすれば、返される言葉はやはり優しさを感じさせた。
母子家庭にお金がいくらあっても余ることはないだろ?
親の思いをどれだけ汲み取ってくれたのか知らないが、勉強がおろそかになることもなく、成績は優秀だと言われていた。
だがいつも罪悪感に襲われていた。
かけがえのない息子ではあったが、彼の人生はもっと他にあったのではないかと言う思い。
それでもいつも自分に言い聞かせていた。
この子は幸せだ。
あたしはあの人を幸せにしてあげることは出来なかったがこの子は幸せにしてみせる。
とにかくそればかりを考えて生きてきた。
それでも息子は父親のことを気に留めないときはなかったはずだ。
だがあれから一度も聞かれることはなかった。決して興味を無くしたというわけではないのだろうが、聞かれることはなかった。
息子はハンサムになっていった。
ひどく低次元な言い方かもしれないが、周りからそんな目で見られるたび、ハンサムになっていくような気がしていた。父親に似てハンサムになっていくはずだ。
息子を知らない父親に似て。
つくしは靴箱の中からひとつの箱を取り出した。
小さな箱の中に収められているのは、あの子の父親から貰ったネックレスが入っている。永遠の輝きを放つ石が散りばめられたネックレス。もう長い間手に取ってみることはなかった。
そうしなかったのは彼を忘れるためだった。だがいつも自分の眼の前にいる息子がそうはさせてくれるはずもなく、忘れるということは永遠に成功しないということはわかっていた。
もし成功してしまったらどうだろう。
それはそれで悲しいことだとわかっていた。
妊娠を知ってからは動揺もあった。別れてしまったことの悲しみがないとは言えず苦しみもした。だが自分はひとりではないと・・お腹に宿った命と生きると決めたとき、新しい人生を生きると決めた。だからあの子の父親と連絡を取るつもりはなかった。
全てを忘れ去ってしまった男には新しい人生が待っているのだから。
だから息子にも父親のことを話しはしなかった。
だがいつかは知る事になる。
いつかは教えなければいけない。
法律上は関係がないとしても、生物学上では父親であるのだから。
父親が誰であるかを知る日。
それがたまたま今日だったということなのだろう。
自分が配達をしている新聞で、自分とよく似たあの人がこの国に帰ってくるということを知ったのだから。

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僕と同じように手は大きいのか。
僕と同じように背が高いのか。
どうしても知りたいんだ。
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帰宅したつくしが見つけたのは、台所のテーブルの上に置かれていた手紙。
いつかはこんな日が来るのではないかと思っていた。
だがその日がなぜ今日なのか。
『 母さんへ
どうしても会いたい人がいるから出かけて来る。
帰りは遅くなるかもしれないから先に休んでいてもいいよ。
でも明日の朝はいつもと同じ時間に出かけるから、心配しなくていいよ 』
簡素な文面は伝えたいことだけが書かれていた。
急に思い立ったのか、それとも計画していたことなのか。
前者の方が正解だと言っていいはずだ。
理由はわかっていた。
知ってしまったのだろう。
自分の父親が誰であるかを。
つくしは台所の窓から外を見た。
今日は風の強い一日で雲は早い速度で流れている。風の向きが変わったのか窓ががたついていた。今しがた通過した航空機が残したのか、ひこうき雲が浮かんでいるのが見えた。
青い空に刷毛で線を引いたように、残された雲は西の空へ向かって続いていた。
ぼんやりと眺めていれば、やがてその雲も空の青さにかき消されていった。
かき消されてしまった雲はどこへ行ったのか。そこには何も残ってはいなかった。
それはあの日まで二人の間に流れていた時間が一瞬にして失われたのと同じだと感じていた。
あの日はどうして起きてしまったのか。
あれからもう何年になるのだろうか?
つくしは遠い記憶の扉を開いていた。
あの日、病院の中は冷え冷えと感じられた。
目を閉じればいつも甦るのはあの日の光景だった。
「類、ど、どう・・みょう・・じは、彼は・・助かるの?助かる・・よね?」
つくしの頬には涙が流れたあとがあり、鼻水をすすりながらガラスの窓に両手をついていた。
右腕には採血後のテープがしっかりと貼られている。
輸血用に用意されていたB型の血液が足りず、自らの血液を提供していたが、それでもまだ足りないと言われ、自分の体中の血液全てを使ってくれてもいいと申し出ていた。
こんなとき自分の小さな体が疎ましかった。もっと体が大きかったら、もっと沢山自分の血を使ってもらえるはずだ。採血の間中、涙が止まらなかった。
人の涙というのは枯れることが無いのだろうか。涙を流すことがこんなにも辛いことだとは知らずにいた。それはまだ自分の人生が短いからだろうか。いや違う。人としての経験は短いが、今まで味わった哀しみの数だけは同じ年頃の人間よりも多いはずだ。
不公平だと思った。
やっと互いの気持が通じ合えたと思っていた。
それなのに神様は掴みかけた手を掴ませてはくれなかった。
「牧野・・ほら鼻水拭いて。大丈夫だよ・・司はこんなことで死ぬような男じゃない」
類はそう言ってハンカチでつくしの顔を拭いていた。
「どうみょうじ、お、おねがい・・・おねがいだから・・」
ICU、ガラス窓の向こうの部屋でベッドに横たわる長身な体は、点滅する光を発する沢山の機器に繋がれていた。だがつくしの目に入るのは、ベッドに横たわった男性の姿だけだ。
人工呼吸器に繋がれ、機械が出す断続的なビープ音が聞こえてくるようだ。
愛さずにはいられない男の瞳は閉じられ、顔はまったく生気を感じさせなかった。
その部屋の中で空気の流れが止まった時間があったはずだ。
空気の流れが止まる・・すなわち呼吸が止まるということだ。
「お、おねがいだから・・助かっ・・て・・どうみょうじ・・・」
つくしは両手をガラス窓にあてたままずるずると崩れるように床に座り込んでしまった。
ガラス窓には小さな手の跡ばかりがついていた。広げられた手のひらのあと、おそらく握りしめていただろう拳のあと。涙が飛び散ったのだろうかそんなあともついていた。
当時の二人はこれから新たな一歩を踏み出そうとしていた。
共に手を取って歩む未来を心に描いていたはずだ。
だが現実は違った。
司は暴漢に刺されたあと、生死の境を彷徨いつくしの記憶を失うこととなった。
そしてもう二度と彼女のことを思い出すことは無かった。
意識を取り戻した司は何度かまばたきをし目を覚ました。
そのときの彼にはつくしの事は記憶の欠片にもなかった。
つくしは司が記憶を失ったあの日から記憶が戻ってくれることを願い、邸に何度も顔を出した。
だが受け入れてもらえず、否定をされる日々が続いていた。
そんな日が続くと、やがてつくしも自分を否定され続けることが辛くなってしまい、邸を訪れることを止めてしまっていた。
あたしだけが知っていた道明寺はもういない。
それは別の人が彼の腕の中にいたからだ。
たとえあのときと同じように手を伸ばしたとしても、もう二度と掴んでもらえない。
彼の目を見てそう確信した。
やがて交わす言葉もなくなると、道明寺の心が見えなくなっていた。
妊娠を知ったのはそれから間も無くのことだった。
誰にだって時間は平等に流れていくはずなのに、ふたりの間には同じ時間は流れてはくれなかった。
誰か・・
時間を元に戻して・・
あの日に・・
突然耳に飛び込んで来たのは、救急車のサイレンの音。
つくしは、はっとすると首を軽く振った。
こちらに向かって近づいてくるサイレンの音を耳にすると、いつも緊張が走ってしまうのはあの時の影響なのだろうか。
そう思わずにはいられなかった。
つくしは手紙をテーブルの上に置いた。
台所にから居間へ行き、そこから襖一枚を隔てた自分の部屋へ入ると、押し入れの中に仕舞い込んでいるはずの靴箱を探していた。いつも布団の間に挟み込むように置かれているその箱は、痛んだ姿でそこにあるはずだ。
ない・・
箱がない。
確かここにあったはずだ。
だが小さなアパートの部屋の中、箱の行き場所はわかっていた。
いつかこんな日が来るとは思っていた。
かあさん、僕のとうさんはどうして一緒に暮らしてないの?
なんと答えたらいいのだろう。
答えを探したが自分でも納得できる答えが見つからずにここまで来た。
だが聞かれたのはあのとき一度だけ。
幼いながらも母親がすぐに答えなかったことから何かを感じたのだろう。
あの子は自分の中で勝手に答えを見つけたようだった。
とうさんは僕が欲しくなかったんだ・・・と。
16歳になる息子は中学に上がる頃になると、母親のことは自分が守らなければならないと思うようになっていた。男手が足りないということは不自由も多い。その不自由を感じさせないようにという気遣いさえも感じられるほどだった。
背は随分前に180センチを超え、逞しい体つきとなった息子。少年とはいえ精悍な顔立ちで、切れ長の瞳は澄んだ色をたたえていた。
周りからよく言われるのは、まるで彫刻を思わせるような顔。薄い唇はナイフのようだとも言われた。息子と似た唇から最後に聞いた言葉は冷たい罵りで、かつて優しい言葉を囁いてくれていたとは思えないほどだった。だが息子の口から語られる言葉はいつも母親を気遣うかのように優しかった。
声変りをした息子が、優しい言葉をかけてくれる度に思い出されることがあった。
だがそれも今はもう遠い記憶となっていた。
性格は真面目だが、どこが勝気なところがあり負けん気が強い子ども。
大人になるにつれ自分が誰でどこから来たのかを知りたがるのは当然だろう。
それは自分の命がどこから来たのかということだ。
つくしは息子の部屋へ行くと、思い出が詰まった箱をベッドの上に見つけた。
蓋が開かれた中には、青春時代が垣間見えた。
あのとき、ふたりが会った最後の日の風景が甦った。
返そうとしたが、結局渡すとこが出来ずに持ち帰ってしまったものがその箱には詰まっていた。
目に触れたと同時にふわっと何かが香ったような気がした。
それは感じられるはずのない懐かしい香りなのかもしない。いや。そんなことがあるはずがない。目に見えるものから匂いを感じさせるものはないはずだ。
箱の中身はふたりで野球観戦に出かけたときの半券、そこで手にしたボールや古いうさぎのぬいぐるみだ。このぬいぐるみは息子が小さな頃はいつも彼の傍にいた。
ああ・・
さっき香ったと思ったのは、このぬいぐるみが持つ匂いだったんだと気づいた。
汚れては洗ってを繰り返し、古ぼけてしまっていたぬいぐるみ。
箱から取り出すと懐かしさがこみ上げた。顔に近付け、深く息を吸った。
思い出すのはあの当時のふたり。
自分の年齢で愛せるだけ愛した人・・
両親はつくしが妊娠したことに驚いたが、黙って受け入れてくれた。
今まで頼りないと思っていた親も新しい命が宿った娘の意志を尊重してくれた。
産みたい。と言った娘の意志を。
高校は中退したが、これから先のことを考え卒業程度認定を取得した。
シングルマザーとして働いてきたつくしは、近くに住む義理の妹に息子の面倒を見てもらっていたことがある。息子は彼女のことを叔母さんとは呼ばず、お姉ちゃんと呼んでいた。
それは今でも変わらない呼び名。男の子の思春期特有の問題は弟が相談に乗ってくれていた。
父親がいなくても親子で仲良く暮らしていた。
子育ては決して楽ではなく大変だったが、息子も高校生になると新聞配達のアルバイトを始めていた。朝は早いがそれは苦にならないといって始めてはいたが、学業に支障が出るのではないかと心配した。
そんな気持ちを口にすれば、返される言葉はやはり優しさを感じさせた。
母子家庭にお金がいくらあっても余ることはないだろ?
親の思いをどれだけ汲み取ってくれたのか知らないが、勉強がおろそかになることもなく、成績は優秀だと言われていた。
だがいつも罪悪感に襲われていた。
かけがえのない息子ではあったが、彼の人生はもっと他にあったのではないかと言う思い。
それでもいつも自分に言い聞かせていた。
この子は幸せだ。
あたしはあの人を幸せにしてあげることは出来なかったがこの子は幸せにしてみせる。
とにかくそればかりを考えて生きてきた。
それでも息子は父親のことを気に留めないときはなかったはずだ。
だがあれから一度も聞かれることはなかった。決して興味を無くしたというわけではないのだろうが、聞かれることはなかった。
息子はハンサムになっていった。
ひどく低次元な言い方かもしれないが、周りからそんな目で見られるたび、ハンサムになっていくような気がしていた。父親に似てハンサムになっていくはずだ。
息子を知らない父親に似て。
つくしは靴箱の中からひとつの箱を取り出した。
小さな箱の中に収められているのは、あの子の父親から貰ったネックレスが入っている。永遠の輝きを放つ石が散りばめられたネックレス。もう長い間手に取ってみることはなかった。
そうしなかったのは彼を忘れるためだった。だがいつも自分の眼の前にいる息子がそうはさせてくれるはずもなく、忘れるということは永遠に成功しないということはわかっていた。
もし成功してしまったらどうだろう。
それはそれで悲しいことだとわかっていた。
妊娠を知ってからは動揺もあった。別れてしまったことの悲しみがないとは言えず苦しみもした。だが自分はひとりではないと・・お腹に宿った命と生きると決めたとき、新しい人生を生きると決めた。だからあの子の父親と連絡を取るつもりはなかった。
全てを忘れ去ってしまった男には新しい人生が待っているのだから。
だから息子にも父親のことを話しはしなかった。
だがいつかは知る事になる。
いつかは教えなければいけない。
法律上は関係がないとしても、生物学上では父親であるのだから。
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Comment:17
彼は16年この街で暮らしている。
司の落ちてしまった記憶は決して戻ることは無かった。
優しい声で、優しい笑顔で自分のことを好きだと言ってくれた女がいたはずだ。
誰に言われるでもなく、なんとなく頭の中で繰り返されるその思い。
だがどうしても思い出すことは出来なかった。
記憶を無くしていると言われるまでは、自分に記憶の欠落があるとは考えもしなかった。
すべてが消え去っていたわけではなく、小さな欠片とも言える部分だけが抜け落ちているらしい。だがそれが何であるかがわからない。
誰かがおまえが思い出せないなら、それはそれで運命なんだろうから仕方がない。
そう言っていたのは覚えていた。
運命は変えられるのか。それとも変えることは出来ないのか。
どちらにしても、今さら記憶が戻ったからと言って人生が変わることもないはずだ。
時折頭の中を過る幾つかの光景があったが、いつも途中で途切れてしまう。
その先の展開を求めるように再び目を閉じるが、今しがた頭の中で見た光景は甦ることはなかった。
失われたと言われる記憶を求めようとすると、いつも頭が痛んだ。
目を閉じて痛みをこらえる。
記憶を揺さぶるにはショッキングな出会いが必要だと言われたことがあったが、そんな出会いがあるはずもなく、誰と会っても失ったといわれる記憶が戻ることはなかった。
もしかしたらそんな記憶は初めから無かったのではないか・・そう考えることもあった。
失われたという記憶が自分にとってどれだけのものだったのか。
それはわからないがこれ以上自分に精神的な負担を与えたくはないという気持ちもある。
あれから随分と時は流れ、無理に思い出さなくてもいいという思いもあった。
本当に必要とされる記憶なら周囲も取り戻させるため、なんらかの力を貸してくれるはずだがそれもないまま時は過ぎていった。司の家族にとってはどうでもいい記憶だったのだろう。 忘れ去っていても問題はないと一蹴していた。
それでも親友たちは、失われた記憶の中には大切なものがあると口にしていた。
だが他に考えることもあり、もうこれ以上過去を蒸し返してどうなるのかという思いもある。
あの事件から17年がたつ。
腰にある傷痕は一生消えることはないだろうと言われていた。あと数センチでも位置がずれていれば、恐らく命はなかっただろうと言われた。実際に司の体はあのとき反応を停止した。 命を手放す寸前にまで陥っていたことは事実だった。
もしかすると神は司の命と引き換えに、彼の一番大切な記憶を奪い去っていったのかもしれない。
今となってはその記憶がどんなものなのか確かめようもない。
だが失ったと言われる記憶以前のことははっきりと覚えていた。
覚えていたというよりも植えつけられた記憶なのかもしれない。
休暇で訪れていた島から帰ったところで事件が起こった。港で後ろから刺されたとき、自分の命は尽きると感じていた。あのとき、あの場所には親友たちしかいなかったはずだ。
今でもそう信じているが、それは間違いなのだろうか?
見知らぬ女が何度か訪ねて来たことがあったが、事件直後の記憶は曖昧でそんな女が本当にいたのかさえ確かではなかった。
『 道明寺ホールディングスCEO、道明寺司が日本に帰ってくる。
今後は母親から経営を引き継いで暫くは東京での生活を送ることになる 』
司は新聞をデスクの上に放ると椅子の向きを変え、窓の外を見た。
ニューヨークの夜景。
暫く見ることはない・・か・・・
決して心が和む街ではなかった。
ビジネスを優先し、生きる目標などなく毎日が過ぎて行くだけだった。
そんな毎日のなか、何かが足りないと心の渇望を感じてはいたが、手に取ったものは本当に欲しいものではなかった。
思えばこの街で欲しいと思えるものはなかったはずだ。
日本に帰れば本当に欲しいというものが見つかるのだろうか。
司が立ち上がると秘書が声をかけた。
「そろそろ出発しませんと。」
「おまえは俺の秘書になって何年になる?」
「10年ですが、それが何か?」
「・・いや。なんでもない。」
どこの国にいようと、殆どの時間を会社で過ごしている司にとって執務室が一番居心地のいい場所だ。
10年一緒にいるという秘書。
そんな男といる時間の方が、プライベートの時間よりも長いということがあたり前になっている司の人生。
ビジネスに集中している時が一番幸せだ。
自分が一番幸福を感じているのは、ビジネスが成功したときだ。そう思っていた。
だが、何かが足りなかった。
いったい何が足りないのか?それが何であるのかがわからなかった。
それはとても重要な・・手に入れなければならないものなのか?
いや。欲しいものは全て手に入れているはずだ。
だが司がここ最近見る夢の中では、いつも何かに責め立てられているように感じていた。
その何かは明るい光の中から俺を見つめ続けていた。だがその光が眩しすぎてその何かがわからなかった。逆光線のなか誰かがいる・・そんな気がしてならなかった。
どうして見えないのか?
俺が見ようと努力していないからか?
そこに誰かいるのか?
おまえは誰だ?
司はこめかみに手を当てた。
「代表?どうされましたか?」
「大丈夫だ。問題ない。」
手をあげて近寄る秘書を制止する仕草をした。
最近よく見るようになった夢は、東京に帰るということが、心のどこかに心理的な負担を与えているのではないかとさえ思うようになっていた。
生死を彷徨うことになった事件のあった国へ帰ることが・・・
***
「進、あの子が、航(こう)がいなくなったの。」
つくしは電話で弟に息子がいなくなったことを伝えていた。
「父親に・・道明寺に会いに行ったんだと思うの。」
新聞に載ったのは、道明寺が帰国して生活の拠点を日本に移すという話しだ。
自分が配達する紙面に見つけた道明寺の顔に何かを感じとったのだろう。
そして押し入れの奥深く、普段は目に触れないところにある箱を母親が大事にしているということは以前から知っていたはずだ。
箱の中には思い出の品以外の物も保管されていた。
道明寺に関する古い記事。その新聞記事に書かれていたのは遠い昔、彼が生死の境を彷徨ったということ。そしてその男が渡米したという記事もあった。
暫くして誰かと婚約をしたという記事。それから結婚し、その後すぐに離婚をしたという記事。
あの子は、気づいていたのだろう。
自分の父親が誰かということを。
牧野 航という名前で生きて来た息子は自分の出自を知りたいと思ったのだろう。
『 どうして父さんは僕を欲しがらなかったの? 』
それはあの人があたしを欲しがらなかったから。
そう言えばよかったのかもしれない。
道明寺家にその存在すら知られなかった息子。
あたしが道明寺とそんな関係になったのは一度だけ。
あれは船を下りる前の晩の出来事で、仲間の誰も知らない一夜だった。
***
.
司の乗った航空機は予定よりも1時間遅れて東京に到着した。
だが彼はすぐには立ち上がらなかった。
久しぶりの日本だと言うのに何故か足が重かった。
今までニューヨークで暮らしていたとしても、何度も訪れていた自分の母国。
その国に住むことになったというのに、気が重いのはなぜか。
「代表、そろそろ行きませんとこのあとの予定が詰まっております。飛行機が遅れたのは予定外でしたので急ぎませんと。」
「そうだな。」
「これからすぐにお邸の方で簡単ではございますがご帰国をお祝いしてパーティーがあります。」
司よりも司のスケジュールを知っている男によって流されていく時間。
世田谷の邸で行われる自分の帰国を祝ってのパーティー。
どのパーティーに参加しようが、どこの誰に会おうが司にとってはどうでもいいことだ。
時間の流れはどこの国にいても所詮同じことで、それがニューヨークだろうが東京だろうが変わるものではないのだから。
時間の流れを止めたいと思ったことがあっただろうか?
ふと、そんなことが頭を過ったがそれはないと強く否定していた。
道明寺財閥の後継者の帰国に多くのマスコミが集まるなか、颯爽と到着ロビーを歩く背の高い男。周りには警護の者か関係者と思われる人間が多く付き従っていた。
司の帰国は大きな注目を浴びている。こうしてマスコミ関係者の前を通るのもプレス対応のひとつだ。これから活躍の舞台をこの国に移すにあたってのいわゆるお披露目のようなものだった。
『 道明寺の後継者、満を持しての帰国 』
世間ではそう言われていた。
そんな彼の目の前に開ける道は、ロビーの外で待つ黒塗りの大型車まで続いている。
空港ロビー。
ここは大勢の人間の人生が交差する場所。
目的地が違う者がすれ違う場所。
だが司の前をすれ違うように横切る人間はどこにもいない。
俺の人生と本当の意味で交わる人間はどこにもいないはずだ。
誰が俺の前を横切るというのか?
いやそれはない。
今までもそうだった。
だがそのとき、司の時間がスローモーションのようにゆっくりと流れた。
それは突然の出来事。視界の端に少年の姿が写った。
あれは・・
一瞬だったが若い頃の自分がそこにいるかのような錯覚に襲われていた。
自分によく似た少年の姿に驚きが隠せなかった。
ジーンズを履き、黒のトレーナー姿の少年。
表情は硬く、こちらをじっと見つめている。
そんな少年の前を誰かが横切った。すると少年の姿はその場所から消えていた。
司は見えなくなった少年を探そうと思わず振り返ったが、その姿を見つけることは出来なかった。
どういうわけか気になった。
どこかで会ったことがあったかと考えたが、自分があの年頃の少年と接点などあるはずもないと言い聞かせようとした。
だが・・
何かが司を落ち着かない気分にさせた。
それがなんであるかを確かめなければいけない。
もしかしてあの少年は過去の自分なのか?
日本に帰国してまさか過去の自分に出会うとは思いもよらなかったが、そんな気にさせられた。
最近見る夢の中の誰か・・
逆光線の中の誰か・・
もしかしたらあれは昔の自分の姿なのか?
少年の姿となって現れたのか?
そんな気がするのはなぜだ?
何がひっかかり、心の暗がりへ滑り込んで来たような気がしていた。
だが自問自答すれど今の自分には分かりそうもない。
司は迎えの車に乗り込むと窓の外へと視線を向け、今しがた見た少年の姿を思い浮かべていた。

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司の落ちてしまった記憶は決して戻ることは無かった。
優しい声で、優しい笑顔で自分のことを好きだと言ってくれた女がいたはずだ。
誰に言われるでもなく、なんとなく頭の中で繰り返されるその思い。
だがどうしても思い出すことは出来なかった。
記憶を無くしていると言われるまでは、自分に記憶の欠落があるとは考えもしなかった。
すべてが消え去っていたわけではなく、小さな欠片とも言える部分だけが抜け落ちているらしい。だがそれが何であるかがわからない。
誰かがおまえが思い出せないなら、それはそれで運命なんだろうから仕方がない。
そう言っていたのは覚えていた。
運命は変えられるのか。それとも変えることは出来ないのか。
どちらにしても、今さら記憶が戻ったからと言って人生が変わることもないはずだ。
時折頭の中を過る幾つかの光景があったが、いつも途中で途切れてしまう。
その先の展開を求めるように再び目を閉じるが、今しがた頭の中で見た光景は甦ることはなかった。
失われたと言われる記憶を求めようとすると、いつも頭が痛んだ。
目を閉じて痛みをこらえる。
記憶を揺さぶるにはショッキングな出会いが必要だと言われたことがあったが、そんな出会いがあるはずもなく、誰と会っても失ったといわれる記憶が戻ることはなかった。
もしかしたらそんな記憶は初めから無かったのではないか・・そう考えることもあった。
失われたという記憶が自分にとってどれだけのものだったのか。
それはわからないがこれ以上自分に精神的な負担を与えたくはないという気持ちもある。
あれから随分と時は流れ、無理に思い出さなくてもいいという思いもあった。
本当に必要とされる記憶なら周囲も取り戻させるため、なんらかの力を貸してくれるはずだがそれもないまま時は過ぎていった。司の家族にとってはどうでもいい記憶だったのだろう。 忘れ去っていても問題はないと一蹴していた。
それでも親友たちは、失われた記憶の中には大切なものがあると口にしていた。
だが他に考えることもあり、もうこれ以上過去を蒸し返してどうなるのかという思いもある。
あの事件から17年がたつ。
腰にある傷痕は一生消えることはないだろうと言われていた。あと数センチでも位置がずれていれば、恐らく命はなかっただろうと言われた。実際に司の体はあのとき反応を停止した。 命を手放す寸前にまで陥っていたことは事実だった。
もしかすると神は司の命と引き換えに、彼の一番大切な記憶を奪い去っていったのかもしれない。
今となってはその記憶がどんなものなのか確かめようもない。
だが失ったと言われる記憶以前のことははっきりと覚えていた。
覚えていたというよりも植えつけられた記憶なのかもしれない。
休暇で訪れていた島から帰ったところで事件が起こった。港で後ろから刺されたとき、自分の命は尽きると感じていた。あのとき、あの場所には親友たちしかいなかったはずだ。
今でもそう信じているが、それは間違いなのだろうか?
見知らぬ女が何度か訪ねて来たことがあったが、事件直後の記憶は曖昧でそんな女が本当にいたのかさえ確かではなかった。
『 道明寺ホールディングスCEO、道明寺司が日本に帰ってくる。
今後は母親から経営を引き継いで暫くは東京での生活を送ることになる 』
司は新聞をデスクの上に放ると椅子の向きを変え、窓の外を見た。
ニューヨークの夜景。
暫く見ることはない・・か・・・
決して心が和む街ではなかった。
ビジネスを優先し、生きる目標などなく毎日が過ぎて行くだけだった。
そんな毎日のなか、何かが足りないと心の渇望を感じてはいたが、手に取ったものは本当に欲しいものではなかった。
思えばこの街で欲しいと思えるものはなかったはずだ。
日本に帰れば本当に欲しいというものが見つかるのだろうか。
司が立ち上がると秘書が声をかけた。
「そろそろ出発しませんと。」
「おまえは俺の秘書になって何年になる?」
「10年ですが、それが何か?」
「・・いや。なんでもない。」
どこの国にいようと、殆どの時間を会社で過ごしている司にとって執務室が一番居心地のいい場所だ。
10年一緒にいるという秘書。
そんな男といる時間の方が、プライベートの時間よりも長いということがあたり前になっている司の人生。
ビジネスに集中している時が一番幸せだ。
自分が一番幸福を感じているのは、ビジネスが成功したときだ。そう思っていた。
だが、何かが足りなかった。
いったい何が足りないのか?それが何であるのかがわからなかった。
それはとても重要な・・手に入れなければならないものなのか?
いや。欲しいものは全て手に入れているはずだ。
だが司がここ最近見る夢の中では、いつも何かに責め立てられているように感じていた。
その何かは明るい光の中から俺を見つめ続けていた。だがその光が眩しすぎてその何かがわからなかった。逆光線のなか誰かがいる・・そんな気がしてならなかった。
どうして見えないのか?
俺が見ようと努力していないからか?
そこに誰かいるのか?
おまえは誰だ?
司はこめかみに手を当てた。
「代表?どうされましたか?」
「大丈夫だ。問題ない。」
手をあげて近寄る秘書を制止する仕草をした。
最近よく見るようになった夢は、東京に帰るということが、心のどこかに心理的な負担を与えているのではないかとさえ思うようになっていた。
生死を彷徨うことになった事件のあった国へ帰ることが・・・
***
「進、あの子が、航(こう)がいなくなったの。」
つくしは電話で弟に息子がいなくなったことを伝えていた。
「父親に・・道明寺に会いに行ったんだと思うの。」
新聞に載ったのは、道明寺が帰国して生活の拠点を日本に移すという話しだ。
自分が配達する紙面に見つけた道明寺の顔に何かを感じとったのだろう。
そして押し入れの奥深く、普段は目に触れないところにある箱を母親が大事にしているということは以前から知っていたはずだ。
箱の中には思い出の品以外の物も保管されていた。
道明寺に関する古い記事。その新聞記事に書かれていたのは遠い昔、彼が生死の境を彷徨ったということ。そしてその男が渡米したという記事もあった。
暫くして誰かと婚約をしたという記事。それから結婚し、その後すぐに離婚をしたという記事。
あの子は、気づいていたのだろう。
自分の父親が誰かということを。
牧野 航という名前で生きて来た息子は自分の出自を知りたいと思ったのだろう。
『 どうして父さんは僕を欲しがらなかったの? 』
それはあの人があたしを欲しがらなかったから。
そう言えばよかったのかもしれない。
道明寺家にその存在すら知られなかった息子。
あたしが道明寺とそんな関係になったのは一度だけ。
あれは船を下りる前の晩の出来事で、仲間の誰も知らない一夜だった。
***
.
司の乗った航空機は予定よりも1時間遅れて東京に到着した。
だが彼はすぐには立ち上がらなかった。
久しぶりの日本だと言うのに何故か足が重かった。
今までニューヨークで暮らしていたとしても、何度も訪れていた自分の母国。
その国に住むことになったというのに、気が重いのはなぜか。
「代表、そろそろ行きませんとこのあとの予定が詰まっております。飛行機が遅れたのは予定外でしたので急ぎませんと。」
「そうだな。」
「これからすぐにお邸の方で簡単ではございますがご帰国をお祝いしてパーティーがあります。」
司よりも司のスケジュールを知っている男によって流されていく時間。
世田谷の邸で行われる自分の帰国を祝ってのパーティー。
どのパーティーに参加しようが、どこの誰に会おうが司にとってはどうでもいいことだ。
時間の流れはどこの国にいても所詮同じことで、それがニューヨークだろうが東京だろうが変わるものではないのだから。
時間の流れを止めたいと思ったことがあっただろうか?
ふと、そんなことが頭を過ったがそれはないと強く否定していた。
道明寺財閥の後継者の帰国に多くのマスコミが集まるなか、颯爽と到着ロビーを歩く背の高い男。周りには警護の者か関係者と思われる人間が多く付き従っていた。
司の帰国は大きな注目を浴びている。こうしてマスコミ関係者の前を通るのもプレス対応のひとつだ。これから活躍の舞台をこの国に移すにあたってのいわゆるお披露目のようなものだった。
『 道明寺の後継者、満を持しての帰国 』
世間ではそう言われていた。
そんな彼の目の前に開ける道は、ロビーの外で待つ黒塗りの大型車まで続いている。
空港ロビー。
ここは大勢の人間の人生が交差する場所。
目的地が違う者がすれ違う場所。
だが司の前をすれ違うように横切る人間はどこにもいない。
俺の人生と本当の意味で交わる人間はどこにもいないはずだ。
誰が俺の前を横切るというのか?
いやそれはない。
今までもそうだった。
だがそのとき、司の時間がスローモーションのようにゆっくりと流れた。
それは突然の出来事。視界の端に少年の姿が写った。
あれは・・
一瞬だったが若い頃の自分がそこにいるかのような錯覚に襲われていた。
自分によく似た少年の姿に驚きが隠せなかった。
ジーンズを履き、黒のトレーナー姿の少年。
表情は硬く、こちらをじっと見つめている。
そんな少年の前を誰かが横切った。すると少年の姿はその場所から消えていた。
司は見えなくなった少年を探そうと思わず振り返ったが、その姿を見つけることは出来なかった。
どういうわけか気になった。
どこかで会ったことがあったかと考えたが、自分があの年頃の少年と接点などあるはずもないと言い聞かせようとした。
だが・・
何かが司を落ち着かない気分にさせた。
それがなんであるかを確かめなければいけない。
もしかしてあの少年は過去の自分なのか?
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最近見る夢の中の誰か・・
逆光線の中の誰か・・
もしかしたらあれは昔の自分の姿なのか?
少年の姿となって現れたのか?
そんな気がするのはなぜだ?
何がひっかかり、心の暗がりへ滑り込んで来たような気がしていた。
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Comment:8
今では一分の隙もないほどの人生を歩んでいると言われる男だが、他人の人生を生きているような感覚があった。
まるで傍観者のようにも感じられる。
多くの人間に囲まれてはいても感じられる孤独感はいったい何なのか。
最近そんな思いがますます強くなっていた。
それは久しぶりに生まれ育った国へと戻って来たからなのか。
あの事件以前の俺は人の姿をしていても心がないと言われていた。そんな俺を知る人間は今の俺を見てどう思ってるんだ?
虚無感を抱え生きている俺はまるで誰かに遠隔操作されているかのような人間か?
ふと、そんなことが心を過ることがあった。
それにあの少年が気になっていた。
空港で目にした自分によく似た姿の少年。
今まで心の声に従って動いたことは無かったが、何故か司の心は突き動かされていた。
探してみるか・・
だがそんなことをすれば、周りの人間が興味を示すだろう。
もしかしたらあの少年は想像の産物で目の錯覚なのかもしれない。そう思おうとしたがどうしても気になっていた。
だがやがて忙しさに時は流され、あの少年のことは記憶の片隅へと追いやられていた。
そんなある日。
それは予想外の出来事として司の前に現れた。
運命のいたずらとはこういうことを言うのだろうか。
その日は邸を出るときから頭痛がしていた。いつもよりも痛みが鋭く、頭の中では誰かがさび付いた箱を無理矢理開けようとして金属が軋んでいる、そんな音がしていた。
おまけに目の焦点まで合わない。
執務室で書類の向きが変えられ渡されようとしたとき、司は何かの拍子に紙で指先を切ってしまった。
小さな痛みが走り切った箇所からうっすらと血が滲むのがわかった。
書類に血を付けるわけにはいかない。
司は受け取った書類をデスクの上に置くと息を吐いた。
司の署名が求められる書類。毎日数えきれないほどの書類が回されてくる。
その全てに目を通していた。
頭の痛みに気を取られ集中力が失われているのだろうか。
だがこれから会議に臨まなければならない。
頭が痛むからと言って会議を欠席することは出来ない。彼がいない会議なら開く必要などないと言われている。月に一度必ず行われる経営戦略会議は企業としての方向性を決める大切な会議だ。母親から経営を引き継いだ今、日本で立ち遅れている事業を前進させることが彼の使命だ。司は手渡された頭痛薬を飲み込むと立ち上がっていた。
類が予告なしで司を訪ねて来たのは何年ぶりのことだろうか。
ちょうど会議を終え、最上階の執務室へ戻った司を待っていた。
ニューヨークにいた頃、何度かそんなことがあったが、目の前に立つ男に会うのは随分久しぶりだ。花沢類は昔と変わらない態度でそこにいた。
「司、突然来て悪いけど俺と一緒に行って欲しいところがある。」
何年かぶりに会うというのに挨拶もなく、このあとの予定は全てキャンセルしろと言う顔はあらゆる感情を排除したように見えた。
印象的な瞳は影を落としたように暗く、話す口調は重苦しく感じられた。
そんな口調を耳にすると頭の痛みがますます激しくなっていくのがわかった。
「司に会って欲しい人間がいるんだ。若い男性なんだけど背が高くて髪は癖がある。目は鋭いんだけど視線は優しいよ。司の知り合いのなかに誰か心あたりはない?」
「そんな人間なら世の中にいくらでもいるだろ?」
司は類の余りにも真剣な表情に低い声で笑っていた。
なんの前ぶれもなく訪ねて来ることに不満はないが、このあとの予定を全てキャンセルしろということは受け入れられるはずがない。だが会わなければこの先後悔することになる。
おまえの一生にかかわる問題だと強く言われ、今までの類とは違った何かを感じていた。
一緒に行って欲しいところがあると口にはしたが、場所も理由も言わなかった。
類の行動は時間を無駄にしたくないとばかりせわしなかった。
何かあるのか。何かが起こっているのか?それが自分に関係あることなのか?
それを確かめなくてはいけないというのだろうか。
司が連れてこられたのは都内の病院の集中治療室の前。
「牧野。ごめん。余計なことだとわかってる。でも今はこうすることが一番いいと思うんだ。航君の為にも。」
つくしが腰かけた状態で顔を上げたとき、目に映ったのは類の顔。
そしてその後ろに見えるのはいつも見ている顔によく似た顔。
似ているわね。と言われたことは過去に何度かあったが他人の空似だと笑っていた。
だが今は言葉を失ったままその顔を見つめることしか出来ずにいた。
『 似て非なるもの 』
そんな言葉もあるがつくしの息子は父親である道明寺に似ていた。
外見だけと言うのではなく、心の奥底にある人としての優しさの本質が似ていた。
道明寺の優しさに触れ合えた時間は限られたものでしかなかったが、与えてくれたものはつくしの手元に残されたのだからそれで良かった。
たとえつくしのことを忘れてしまっていたとしても、手元に残されたものが彼女の生きる道を照らしてくれたのだから。
一緒に暮らしたことがあるわけでもないのに、親子というのは仕草までも似てくるものなのだろうか。まだ息子が幼い頃、そう漠然と思ったこともあった。勿論仕草だけではない。髪の毛、目、鼻筋、そして口元もそっくりだ。そんなことに目の前にいる男が息子の父親であるという事実を改めて思い出させていた。
つくしはかつて恋人だった男と17年ぶりに対面していた。
恋人であり、運命の人。
あの頃はそう思っていた。
航が交通事故にあったと連絡を受けたのは早朝、まだ日が昇っていない暗い時間で雨が降っていた。いつものように近くの新聞販売所から新聞を配達するために出かけた息子が車にはねられた。そのときつくしは配達を終えて戻ってくる息子のために朝食の支度をしていた。
夜間早朝に鳴る電話にろくなことはないと言うが、まさにその通りだと思った。
受話器をあげた瞬間、耳に飛び込んで来た言葉にそこから先のことはよく覚えていなかった。
運ばれたのは自宅からほど近い病院。
つくしは進に連絡を入れたがあいにく弟夫妻は旅先にいた。つくしの両親はすでに他界しており唯一の身内は弟夫妻だけとなっていたがすぐには戻ることは出来ないようだった。
そんな弟は花沢類に連絡を入れたらしい。そうでなければ今こうして目の前に類がいるはずがないからだ。
類__
昔と変わらない友情を今でも与えてくれる大切な友人だ。
つくしが高校を中退した後、何年か経って偶然出会ったのが類だった。
小さな子どもの手を引くつくしを見た類は事情を察してくれ、何かあればいつでも力になると言ってくれていたが、頼ることはしなかった。会えばどうしても道明寺を思い出してしまうから。
あのとき、道明寺が刺され昏睡状態に陥ったときの状況が思い出された。
まるであの日を再現しているような状況に、これは何かの間違いだと思いたかった。
あの日と同じように、これは真実ではない、悪い夢を見ているんだと思いたかった。
でもどうして?
どうして道明寺がここにいるの?
道明寺はいま、あたしの向う、ガラス窓の奥で目を閉じたままでいるはずだ。
沢山の器械に繋がれ、顔色は無くその体をベッドに横たえているはずだ。
そうでしょ?
あそこの寝ているのは・・
あれは道明寺でしょ?
違う。
あれはあたしの息子だ。
道明寺じゃない。
でもどうして・・
つくしは類を見た。
類なら今の自分が何を考えているのかわかるはずだ。そんな思いで顔を上げていた。
「牧野、司は航君の父親だからね・・たとえ今の司に記憶がなくてもこの状況で会わせておくことが司のためにもなるんだ。もしもの・・ことがあったとき、後悔しないためにも。わかるよね?牧野?」
ゆっくりと重なっていく光景。
時間が戻ることは決してないが、あのときのひとりの少女とふたりの少年の姿がそこに見えていた。
ひとりはベッドの上に横たわり、ひとりは涙が枯れて無くなるほど泣き続け、もうひとりの少年は泣き崩れる少女の傍にいてやることしか出来なかった。
そんなあの日の光景は大人になった少女の心の奥底に今でも焼き付いていた。
司はICUの前でガラスの向うにいる少年の姿を見ていた。
まるで自分がそこに横たわっているようだ。
そしてそこに横たわっている少年はあのとき、空港で見かけた少年だと気づいた。
少年が目を閉じていてもわかった。何か感じるものがあるというのはこういうことなのだろうか。
頭が割れるように痛んだ。
司は目の前にあるこの状況を自分が過去に体験したことがあるということを思い出していた。
あそこに寝ているのは自分で、ガラス窓のこちら側に立つ人間を遠い意識の中ではわかっていたということを。自分の名前を泣き叫ぶ声が耳に届いていなかったとしても、精神だけはガラス窓の向う側にいる誰かと繋がっていると感じていたはずだ。
「・・あの少年は・・」
「牧野の子どもだよ、司。」
類は司の隣に立つと、静かに事情を説明した。
「信号無視の車にはねられたんだ。雨の中、新聞配達の途中にね。」
司は足を一歩前に踏み出した。
歩みは遅くゆっくりと一歩ずつ前に進んでいた。
やがてICUとこちらを隔てるガラス窓の側まで近づくと両手をガラス窓についた。
「・・どう・・なんだ?あの子の容態は?」
自分によく似た少年は・・
若い頃の自分によく似た少年・・
彼はいったい誰なんだ?
すると突然、我が子の墓の前では泣きたくない。
そんな思いが彼の頭の中を過ると涙が目から溢れ、鼻を伝ってこぼれはじめた。
わかったのだ_
司は今、過去を旅していた。
これまでの人生が走馬灯のように頭の中を巡っていった。
思い出がじわじわと甦ってくる。なにもかもが違う・・違っている。
今まで真実だと思っていたことは違っていた。
そうだ_
ある女と出会い、その女が欲しくて欲しくてたまらなかった10代の頃の自分。
その女と一度だけ愛し合うチャンスに恵まれたこと。
そのとき幸せの頂きに立ったはずだったが一瞬でその幸せが奪われてしまったこと。
あれは船が埠頭に着き、降り立ってすぐの出来事だった。
刺されて横たわる自分に駆け寄ってきた女がいた。
あれから何年がたった?
17年_
そう自覚した途端、司の世界は足元から崩れ始めた。
心をかき乱されるような思い出が、17年間の記憶の重みが彼の心を苛んでいた。
どんな表情をしていいのか?笑っていいのか泣いていいのかわからなかった。
だが彼の目からは既に涙が溢れていた。
自分が置かれた状況に胸を突きさされたような痛みを感じていた。
それはあの日の痛みとはまったく違う心の痛み。
不意に言葉が口をついて出た。
「なんで・・こんなことになっちまったんだ?」
虚無感を抱え、生きることに大した価値を見出せずにいた男が呟いたひとこと。
「まきの・・俺は・・」
振り返った男の顔と、途切れた言葉。
失われていた記憶が戻った瞬間だった。
*後編2/2へ*

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あの事件以前の俺は人の姿をしていても心がないと言われていた。そんな俺を知る人間は今の俺を見てどう思ってるんだ?
虚無感を抱え生きている俺はまるで誰かに遠隔操作されているかのような人間か?
ふと、そんなことが心を過ることがあった。
それにあの少年が気になっていた。
空港で目にした自分によく似た姿の少年。
今まで心の声に従って動いたことは無かったが、何故か司の心は突き動かされていた。
探してみるか・・
だがそんなことをすれば、周りの人間が興味を示すだろう。
もしかしたらあの少年は想像の産物で目の錯覚なのかもしれない。そう思おうとしたがどうしても気になっていた。
だがやがて忙しさに時は流され、あの少年のことは記憶の片隅へと追いやられていた。
そんなある日。
それは予想外の出来事として司の前に現れた。
運命のいたずらとはこういうことを言うのだろうか。
その日は邸を出るときから頭痛がしていた。いつもよりも痛みが鋭く、頭の中では誰かがさび付いた箱を無理矢理開けようとして金属が軋んでいる、そんな音がしていた。
おまけに目の焦点まで合わない。
執務室で書類の向きが変えられ渡されようとしたとき、司は何かの拍子に紙で指先を切ってしまった。
小さな痛みが走り切った箇所からうっすらと血が滲むのがわかった。
書類に血を付けるわけにはいかない。
司は受け取った書類をデスクの上に置くと息を吐いた。
司の署名が求められる書類。毎日数えきれないほどの書類が回されてくる。
その全てに目を通していた。
頭の痛みに気を取られ集中力が失われているのだろうか。
だがこれから会議に臨まなければならない。
頭が痛むからと言って会議を欠席することは出来ない。彼がいない会議なら開く必要などないと言われている。月に一度必ず行われる経営戦略会議は企業としての方向性を決める大切な会議だ。母親から経営を引き継いだ今、日本で立ち遅れている事業を前進させることが彼の使命だ。司は手渡された頭痛薬を飲み込むと立ち上がっていた。
類が予告なしで司を訪ねて来たのは何年ぶりのことだろうか。
ちょうど会議を終え、最上階の執務室へ戻った司を待っていた。
ニューヨークにいた頃、何度かそんなことがあったが、目の前に立つ男に会うのは随分久しぶりだ。花沢類は昔と変わらない態度でそこにいた。
「司、突然来て悪いけど俺と一緒に行って欲しいところがある。」
何年かぶりに会うというのに挨拶もなく、このあとの予定は全てキャンセルしろと言う顔はあらゆる感情を排除したように見えた。
印象的な瞳は影を落としたように暗く、話す口調は重苦しく感じられた。
そんな口調を耳にすると頭の痛みがますます激しくなっていくのがわかった。
「司に会って欲しい人間がいるんだ。若い男性なんだけど背が高くて髪は癖がある。目は鋭いんだけど視線は優しいよ。司の知り合いのなかに誰か心あたりはない?」
「そんな人間なら世の中にいくらでもいるだろ?」
司は類の余りにも真剣な表情に低い声で笑っていた。
なんの前ぶれもなく訪ねて来ることに不満はないが、このあとの予定を全てキャンセルしろということは受け入れられるはずがない。だが会わなければこの先後悔することになる。
おまえの一生にかかわる問題だと強く言われ、今までの類とは違った何かを感じていた。
一緒に行って欲しいところがあると口にはしたが、場所も理由も言わなかった。
類の行動は時間を無駄にしたくないとばかりせわしなかった。
何かあるのか。何かが起こっているのか?それが自分に関係あることなのか?
それを確かめなくてはいけないというのだろうか。
司が連れてこられたのは都内の病院の集中治療室の前。
「牧野。ごめん。余計なことだとわかってる。でも今はこうすることが一番いいと思うんだ。航君の為にも。」
つくしが腰かけた状態で顔を上げたとき、目に映ったのは類の顔。
そしてその後ろに見えるのはいつも見ている顔によく似た顔。
似ているわね。と言われたことは過去に何度かあったが他人の空似だと笑っていた。
だが今は言葉を失ったままその顔を見つめることしか出来ずにいた。
『 似て非なるもの 』
そんな言葉もあるがつくしの息子は父親である道明寺に似ていた。
外見だけと言うのではなく、心の奥底にある人としての優しさの本質が似ていた。
道明寺の優しさに触れ合えた時間は限られたものでしかなかったが、与えてくれたものはつくしの手元に残されたのだからそれで良かった。
たとえつくしのことを忘れてしまっていたとしても、手元に残されたものが彼女の生きる道を照らしてくれたのだから。
一緒に暮らしたことがあるわけでもないのに、親子というのは仕草までも似てくるものなのだろうか。まだ息子が幼い頃、そう漠然と思ったこともあった。勿論仕草だけではない。髪の毛、目、鼻筋、そして口元もそっくりだ。そんなことに目の前にいる男が息子の父親であるという事実を改めて思い出させていた。
つくしはかつて恋人だった男と17年ぶりに対面していた。
恋人であり、運命の人。
あの頃はそう思っていた。
航が交通事故にあったと連絡を受けたのは早朝、まだ日が昇っていない暗い時間で雨が降っていた。いつものように近くの新聞販売所から新聞を配達するために出かけた息子が車にはねられた。そのときつくしは配達を終えて戻ってくる息子のために朝食の支度をしていた。
夜間早朝に鳴る電話にろくなことはないと言うが、まさにその通りだと思った。
受話器をあげた瞬間、耳に飛び込んで来た言葉にそこから先のことはよく覚えていなかった。
運ばれたのは自宅からほど近い病院。
つくしは進に連絡を入れたがあいにく弟夫妻は旅先にいた。つくしの両親はすでに他界しており唯一の身内は弟夫妻だけとなっていたがすぐには戻ることは出来ないようだった。
そんな弟は花沢類に連絡を入れたらしい。そうでなければ今こうして目の前に類がいるはずがないからだ。
類__
昔と変わらない友情を今でも与えてくれる大切な友人だ。
つくしが高校を中退した後、何年か経って偶然出会ったのが類だった。
小さな子どもの手を引くつくしを見た類は事情を察してくれ、何かあればいつでも力になると言ってくれていたが、頼ることはしなかった。会えばどうしても道明寺を思い出してしまうから。
あのとき、道明寺が刺され昏睡状態に陥ったときの状況が思い出された。
まるであの日を再現しているような状況に、これは何かの間違いだと思いたかった。
あの日と同じように、これは真実ではない、悪い夢を見ているんだと思いたかった。
でもどうして?
どうして道明寺がここにいるの?
道明寺はいま、あたしの向う、ガラス窓の奥で目を閉じたままでいるはずだ。
沢山の器械に繋がれ、顔色は無くその体をベッドに横たえているはずだ。
そうでしょ?
あそこの寝ているのは・・
あれは道明寺でしょ?
違う。
あれはあたしの息子だ。
道明寺じゃない。
でもどうして・・
つくしは類を見た。
類なら今の自分が何を考えているのかわかるはずだ。そんな思いで顔を上げていた。
「牧野、司は航君の父親だからね・・たとえ今の司に記憶がなくてもこの状況で会わせておくことが司のためにもなるんだ。もしもの・・ことがあったとき、後悔しないためにも。わかるよね?牧野?」
ゆっくりと重なっていく光景。
時間が戻ることは決してないが、あのときのひとりの少女とふたりの少年の姿がそこに見えていた。
ひとりはベッドの上に横たわり、ひとりは涙が枯れて無くなるほど泣き続け、もうひとりの少年は泣き崩れる少女の傍にいてやることしか出来なかった。
そんなあの日の光景は大人になった少女の心の奥底に今でも焼き付いていた。
司はICUの前でガラスの向うにいる少年の姿を見ていた。
まるで自分がそこに横たわっているようだ。
そしてそこに横たわっている少年はあのとき、空港で見かけた少年だと気づいた。
少年が目を閉じていてもわかった。何か感じるものがあるというのはこういうことなのだろうか。
頭が割れるように痛んだ。
司は目の前にあるこの状況を自分が過去に体験したことがあるということを思い出していた。
あそこに寝ているのは自分で、ガラス窓のこちら側に立つ人間を遠い意識の中ではわかっていたということを。自分の名前を泣き叫ぶ声が耳に届いていなかったとしても、精神だけはガラス窓の向う側にいる誰かと繋がっていると感じていたはずだ。
「・・あの少年は・・」
「牧野の子どもだよ、司。」
類は司の隣に立つと、静かに事情を説明した。
「信号無視の車にはねられたんだ。雨の中、新聞配達の途中にね。」
司は足を一歩前に踏み出した。
歩みは遅くゆっくりと一歩ずつ前に進んでいた。
やがてICUとこちらを隔てるガラス窓の側まで近づくと両手をガラス窓についた。
「・・どう・・なんだ?あの子の容態は?」
自分によく似た少年は・・
若い頃の自分によく似た少年・・
彼はいったい誰なんだ?
すると突然、我が子の墓の前では泣きたくない。
そんな思いが彼の頭の中を過ると涙が目から溢れ、鼻を伝ってこぼれはじめた。
わかったのだ_
司は今、過去を旅していた。
これまでの人生が走馬灯のように頭の中を巡っていった。
思い出がじわじわと甦ってくる。なにもかもが違う・・違っている。
今まで真実だと思っていたことは違っていた。
そうだ_
ある女と出会い、その女が欲しくて欲しくてたまらなかった10代の頃の自分。
その女と一度だけ愛し合うチャンスに恵まれたこと。
そのとき幸せの頂きに立ったはずだったが一瞬でその幸せが奪われてしまったこと。
あれは船が埠頭に着き、降り立ってすぐの出来事だった。
刺されて横たわる自分に駆け寄ってきた女がいた。
あれから何年がたった?
17年_
そう自覚した途端、司の世界は足元から崩れ始めた。
心をかき乱されるような思い出が、17年間の記憶の重みが彼の心を苛んでいた。
どんな表情をしていいのか?笑っていいのか泣いていいのかわからなかった。
だが彼の目からは既に涙が溢れていた。
自分が置かれた状況に胸を突きさされたような痛みを感じていた。
それはあの日の痛みとはまったく違う心の痛み。
不意に言葉が口をついて出た。
「なんで・・こんなことになっちまったんだ?」
虚無感を抱え、生きることに大した価値を見出せずにいた男が呟いたひとこと。
「まきの・・俺は・・」
振り返った男の顔と、途切れた言葉。
失われていた記憶が戻った瞬間だった。
*後編2/2へ*

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Comment:11
司が17年前に失っていた記憶を取り戻した日から3日。
彼は病院にいた。
あの日から彼の時間の全ては息子のためにあった。
皺が寄ってしまった高級なスーツは彼がどれだけこの場所で過ごしてきたかを物語っていた。
類から粗方話しは聞かされた。
俺が渡米した頃、牧野が子どもを産んだということを。類もその事実を知らずにいたが街で偶然出会ったことで知る事になった。
学園を去り、仲間の元からも去らざるを得なかったのは、子どもを産むことがどれだけ周りに迷惑をかけるかということをわかっていたからだろう。いかにも牧野が考えそうなことだ。他人に迷惑をかけることが嫌いな女は昔から自立心だけは旺盛だった。
産まないという選択肢はなかったのか・・
司は頭を過る想いを振り払った。
もし類が牧野に出会わなければ今ここでこんなふうに過ごすことはなかっただろう。
高校を中退した牧野にどこにいたのかと類が聞いたとき、両親の田舎に身を寄せていたといい、そして出産もその街で行ったそうだ。
妊娠したことをどうして誰にも言わなかったのか?類がそう聞いたとき、牧野はこう言ったそうだ。
『 ものごとは必ず理由があって起こるものなの。道明寺があたしを忘れたのは、どこかであたしのことなんか忘れたいと思ったからなんだと思うの。あたしのことなんて必要ない。そんな風に思ったから、あたしのことだけ忘れたんだと思う。だからもういいのよ。
それにもう道明寺には新しい・・・恋人がいるんだからいいのよ、もう。でもあたしには新しい命をくれた。だからこの子と生きて行く。』
子どもとふたりで生きていく。
そう決めたとき、牧野はどんな思いでいたのか。
仲間とのつき合いもなくなり、やがて膨らんでいく腹を見つめながらどんな思いでいたのか。あれから長い年月が過ぎ、あの頃とは比べものにならないほど大人になった少女は今、目の前に横たわる息子をどんな思いで見つめているのか。
司はかける言葉が見つからずにいた。
過去に戻ってなにもかもやり直せるならやり直したい。
過ぎたことを悔やむなと言われても悔やまないわけにはいかない。
ふたりの再会は_考えうる最悪の状態での再会だ。自分たちの子どもがまさに死に直面している。そのことによって記憶が甦った。
神は俺の記憶を戻した代わりに息子を連れ去っていこうというのか?
その答えを見つけることは出来ないだろうが、どんな事をしても息子を死なせるわけにはいかない。俺の人生で一番幸せだった瞬間に命を授かった子どもだ。絶対に死なせるわけにはいかない。そのためにはどうすればいいのか。どんな形でもいい。司は見つけることの出来ない答えが欲しかった。
医者が入って来たので、司は顔を上げた。
「昏睡状態というのはいつまで続くんだ?」
「それはわかりません。良い状態か悪い状態かと言われれば、あまりいい状態ではないと言った方がいいかもしれません」
ベッドの側に立った医者はひと呼吸おくと話しを継いだ。
「いいですか?こう言った場合家族や彼の大切な人が傍にいて声をかけてあげることが大切なんです。昏睡状態というのは医学でもまだまだよく分からないところがあります。だからと言って回復しないということではありません。話しかけてあげて下さい。そうすれば息子さんの意識は必ず戻るはずです」
司は自分の隣で椅子に腰かけている女の手を握った。
それは17年ぶりに握るいとしい人の手。
小さなその手に温もりはなく、冷たさだけが感じられた。自分の手の温もりを分け与えてやりたい。この手で出来ることは何でもしてやりたい。そう願ってはいるが今は何も出来ないということだけはわかっていた。泣き続けた顔は疲れ切った様子で頬を流れる涙は止まってはいたが、唇は震えている。
旅先から急遽引き返して来た弟夫妻はつくしに駆け寄ると抱きしめあって泣いていた。
「姉さん・・航の容態は?」
「まだ・・意識が・・戻らないの・・」
つくしはそれ以上上手く話すことができず弟夫婦の顔を見つめる以外出来なかった。
鼻をつくような消毒薬の臭いに苦いものがこみあげてはいたが、何度も我慢を繰り返していた。気管内に挿管されていたチューブは外されていたが、両腕からはまだ何本ものチューブが機器に繋がれている。
目の前でただじっと横たわっている息子の姿は、あの日を思い出されると同時にあの時と同じ恐怖も甦っていた。
まさかこの子の記憶が・・
あたしのことを忘れるなんてことが・・
つくしはそんな思いを慌てて振り払っていた。
司は以前医者に言われていたことを思い出していた。
記憶を揺さぶるには何かショッキングな出会いが必要だということを。
それがまさにこの出会いだったのかもしれない。
それならこうして記憶を取り戻した今、彼がなすべきことは決まっていた。
はじめは空港で自分によく似た少年を見かけたことから始まっていた。
あの少年のことが気になっていたはずだ。気になったから調べようとしたがそのままになってしまい、何もすることはなかった。
あのとき調べていればこんな状況にはなっていなかったかもしれない。
「この子の髪の毛・・」
つくしが優しく頭を撫で始めた。
「水に濡れると真っ直ぐになるの」
何の気なしに呟かれた言葉。
「そうか・・」
司は自分の遺伝子が受け継がれている息子を見ながらあの日を思い出していた。
17年前、友人達が仕組んだ奇妙な小旅行で訪れた島での一夜。
互いの手以外は必要がないと掴んだ小さな温もり。
「この子はきっと助かるわ」
つくしは断言した。
「ねぇ・・道明寺もそう思うでしょ?必ず元気になってくれるわよね?」
「ああ。元気になってくれる」
司は深く頷いた。
「目を覚まして・・ねぇ・・・航・・・・」
つくしの目からは、はらはらと涙が落ちていた。
「母さんはここにいるのよ?」
頬を流れる涙をぬぐうことなく泣いていた。
「おねがい・・おねがいだから・・ないで・・いかないで・・戻ってきて・・あたしには・・」
あなたしかいない_
司にはそう聞こえていた。
「牧野・・俺は・・」
「ご、ごめん。道明寺・・今は・・この子のこと・・」
つくしは唇を噛み締めた。
今は何も話したくはない。
我が子を見つめてひたすら神に祈りたい。まるでそう言っているようだ。
「俺は・・まきの・・聞いてくれないか・・。俺の人生で・・はじめて・・」
司は言葉に詰まった。
そこで言葉が途切れてしまったのはこの瞬間、自分の心の痛みを告げるのではなく、目の前に横たわる少年の命の灯が消えてしまわないように祈ることが先だと気づいたからだ。
彼の傍で涙を流しているのは、司の心の痛みよりも遥かに大きな痛みを抱えている女性だからだ。零れ落ちる涙は目の前の少年の為だけであって司に向けられているものではない。
今までの人生で一番の悪夢を見ているようだとは言い出せなかった。
悪夢_
これは悪夢なのだろうか。
もし悪い夢なら醒めて欲しい。
17年前に自分に起こったことと同じことが・・息子に起きている。
腰に鋭い痛みが走り刺された場所だとわかった。だがそれは錯覚であって傷痕はあっても痛みはない。自分はこうして生きて過去の記憶を取り戻した。17年前牧野に最低のことをしたとしてもこれから先は二度と辛い思いをさせるつもりはない。
司は言葉を拾いながらも話しかけた。
「大丈夫だ。必ず意識は戻る。話しかけるんだ牧野。先生が言っただろ?」
少年を見つめながら過去の自分を重ね合わせていた。
17年前の自分はこのあと牧野のことを忘れ去って思い出すことはなかった。
もしあの頃に戻れるなら自分は何をする?
若い牧野はこの子を産んでひとりで育ててきた。
あの頃自分が傍にいたらどうしていた?
今となっては分からないがこれだけは言える。
永遠につながる日々を送っていたはずだ。
ふたりは永遠につながっていく未来を前にしていたはずだ。
今からでも遅くはない。
この少年が、いや、息子が事故にあったから牧野と再会出来た。
こうなる運命だったのか?
俺と牧野が再会するためには息子の犠牲が必要だったということか?
いや。それは違う。そうじゃない。ふたりのこれからの人生に犠牲なんて必要ない。
なんとしても息子を助けたい。
その為ならなんでもする覚悟はある。
司は背筋を伸ばすと頬に流れた涙のあとを拭った。
昏睡状態は長引けば長引くほど、回復の見込みはなくなってくる。
だからこそ早く目覚めて欲しい。
だがふたりは祈るしかなかった。
絶対に治る。治してみせる。
司は身動きしない息子の姿を眺めていた。
あの日、空港で目を見開いて自分を見つめていたのが最後だとは思いたくない。
無表情で横たわっている姿が最後だなんて思いたくない。
目を開いて俺の姿を見て欲しい。
俺がおまえの父親だと名乗りたい。
人工呼吸器につながれた姿はかつての自分と同じ姿。心臓は鼓動を繰り返しているが外せば呼吸は止まってしまう。
どんな声をしているのだろうか?
この子は自分と同じような声なのか?
どんな声で母親である牧野を呼んでいた?
戻って来い。父さんと母さんのところへ・・俺はおまえの父親だと言いたい。
司は目に涙が浮かんできてはまばたきを繰り返していた。
17年という歳月を経て再会したふたり。
司はつくしのことを考えずにはいられなかった。
喉が締め付けられ言葉は出ないが、こらえている感情は抑えることができなかった。
必死に生きてきたに違いない。若く何も持たない少女が子どもを産んで育てるということがどんなに大変なことなのか。男の俺には思いもつかないような苦労があったはずだ。
人生の一番輝かしいと言われる年齢で幼い子どもを抱え、生活の糧を得るために働くということがどれだけ大変なことなのか。司には想像もつかないことだらけだったはずだ。
あの日がなければ_
「こう・・航っ!・・母さんはここにいるわ!」
その声に司ははっとした。
「おねがいよ・・おねがいだから目を覚まして・・」
母親は目に涙をいっぱいためて息子に呼びかけていた。
「それに・・あなたの・・」
一瞬の間のあと語られた言葉に司は自分が許されたと感じていた。
「あなたの父さんもここにいるのよ?あ・・会いたかったんでしょ?ねえ?お願いだから目を覚まして・・・ここにいるのよ?あなたの父さんが・・あなたが会いたかった人が。」
それはまさにあの頃の牧野つくしだと思った。
司が当時理解できなかった彼女そのものだ。
自分に立ち向かってきた勇気。人に騙されても許せる寛容さ。友人に対して誠実でいるということ。
そしてあの頃と変わらないまっすぐな瞳。
許して貰えるならどんなことをしてもこのふたりを守りたい。
ふと目に止まったのは枕元に置かれていたうさぎのぬいぐるみ。
司はぬいぐるみを手に取った。
「俺も子どもの頃にこんなぬいぐるみを持っていた」
「これは・・道明寺のぬいぐるみよ」
つくしの目には涙が浮かんでいた。
「これ・・道明寺に返そうと思って・・返せなかった・・」
「俺の・・?」
「うん・・あんたのお母さんが・・あんたが刺された時、病院に持って来たぬいぐるみよ?ほら・・ここなんて擦り切れちゃってるでしょ?この子、耳をもって振り回すから、何度も取れちゃって・・縫い合わせるたびに短くなって・・こんなになったんだけど・・それでも捨てられずにいたの・・」
17年も前のぬいぐるみ。いやもっと昔に俺が手にしていたぬいぐるみが息子の成長を見守っていたということか?母親がいない寂しさをこのぬいぐるみが癒してくれたことがあったが、息子も働きに出ていた牧野からこのぬいぐるみを与えられていたということか。
心が癒されるようにと与えられたぬいぐるみ。そうは言っても親子は離れたくはなかったはずだ。
過ぎた17年が悔やまれてならない。
俺が傍にいればふたりに寂しい思いをさせずに済んだはずだ。
「航・・こう・・なあ、目を覚ましてくれ・・おまえの父さんは俺だ。・・ここにいる。おまえのすぐ目の前にいる!だから目を覚まして俺を見てくれ!」
司はつくしの目を見つめた。
「牧野・・俺は航の父親として・・出来る限りのことをしてやりたい・・だから」
父親としての権利を行使したいと言う言葉が口をついて出ようとしたが、押し留めた。
いきなり現れた自分がそんなことを言える立場ではないということはわかっていた。
記憶を無くし、何も知らなかったとはいえ余りにも都合が良すぎる。
だが、どうしてもふたりの傍にいたい。
ふたりが欲しい。
血を別けた息子とその母親が欲しい。
牧野をこの腕の中に抱きしめたい。そのことだけが脳裏に浮かんでいた。
「牧野。・・この子の命が・・助かったら・・いや。助かる、助けてみせる。だから・・俺と一緒に・・」
その先を言うには勇気が必要だった。だが言わずにはいられなかった。
「俺の夢を叶えてくれないか?」
今さら身勝手な男だと言われることは承知だったが言わずにはいられなかった。
だがどうしても共に生きる未来が欲しかった。
たとえ失った17年があったとしても、これから先は_
「おまえと一生一緒にいたい。それに航と一緒に・・俺の息子とおまえと三人で暮らしたい」
返事はなかった。
ただ黙って見つめられるだけで言葉はなかった。
そのことにたまりかねた司は言葉を継いだ。
「おまえが何も言わないのは無理もないと思う。俺はおまえを忘れ17年もひとりにしていた。あの日あの島で約束したことなんて忘れちまって、俺はおまえを・・」
司は最後まで言わなかった。いや、言えなかった。言葉は悪いが司は牧野つくしを捨てた。
そして彼女の人生を台無しにした。今こうして隣に座る女はあの頃彼の生きがいだったはずだ。あの日から17年。いったいどうすれば償えるというのか。司がつくしの記憶を失った代償は余りにも大きかった。自分に息子がいるということなど思いもしなかったが、その息子が父親に会いに来たというのに、気づきもせずに今日まで過ごしていた。
「あたしは、この子を産んだことを後悔なんてしてない。それにじ、自分の人生が台無しになっただなんて考えたこともなかったわ。この子がいるからあたしは生きることが出来たの。この子があたしの人生の灯だったの。」
人生の灯となっていた息子。
この子がいるから生きてこれたという思い。
「それにど、道明寺には道明寺の・・人生がある。それはあたしとこの子を知らなかった人生よ。一緒に暮らしたいって言っても無理よ。あたしとこの子はあんたの人生には必要がない人間だもの。あんたはお母さんのあとを継いでこれから先、会社をもっと大きくしていくんでしょ?そんなあんたにあたしは必要ない。この子だって同じ。」
言葉の端々に感じられるのは、道明寺家にはふさわしくないという思い。
「航は、俺の息子は今、命懸けで戦ってるはずだ。生きることに、生きることを望んでいるはずだ。この子が目を覚ましたとき、俺はこの子の父親としてこれからのこいつの人生にかかわっていきたい。それに航もそれを望んでいるはずだ。」
「この子が何を望んでいるかなんて、どうして道明寺にわかるのよ?今までこの子に父親なんていなかったのに必要としてるなんてどうしてわかるのよ?」
「じゃあどうして航は俺に会いに来たんだと思う?」
帰国した日に空港まで会いに来た息子のことを思い出していた。
「わ、わからない・・それは・・」
つくしは言い返す元気がなかった。
つい道明寺の言葉に反応してしまったが今は何も考えたくなかった。
司はつくしの不安の全てを拭い去ってやりたかった。
細い小さな体を守ってやりたいと思った。牧野の望みが息子の快復だけだとしても構わない。そばにいて守ってやりたい。
「なあ、牧野・・航が、俺たちの息子が事故にあった理由が、おまえは物事には理由があるって言ったんだよな?」
それは類から聞かされた牧野の言葉。
「この事故に理由があるなら俺とおまえを再会させるためだとは思えないか?俺は・・そう思っている。」
これは用意された再会だったのだろうか?
互いが運命の人ならこうしてまた再会することに決まっていたのだろうか?
離れ離れになった恋人同士がこうして再会を果たすことは決められていた運命なのだろうか?無くしたと思っていた愛がこの手に戻ってきた。そう思ってもいいのだろうか・・
次の瞬間、少年の頭が左に振れた。
「こ・・航!」
腕がぴくりと動いた。
「ど、道明寺・・航が・・航が動いた・・動いたわ!」
つくしはナースコールのボタンを押した。
ふたりは少年の声を耳にしていた。呼吸器のマスクの下から聞こえて来た声は弱々しいが確かに母さんと聞こえた。やがて瞼が震えると開かれた瞳は何かを求めて中空を彷徨っていた。
「航!母さんよ!母さんはここにいるわ!」
つくしはベッドの上へ身を乗り出していた。
「ここよ!ここにいるわ!母さんはここにいるわ!」
少年は何度か瞬きを繰り返すと顔を母親の方へと傾けた。
「か・・か・・あさん・・」
そのあとは、おぼろげな記憶しかなかった。
ばたばたと医者と看護師が駆けつけると、ふたりは病室から追い出され中では処置が施されていた。
やがて医者が出て来るとふたりに声をかけてきた。
「意識が戻りました。もう大丈夫です。さきほど検査をしましたが、反射神経にも問題はないようです。打撲傷は時間がたてば治ります。息子さんは車にぶつかったとき咄嗟に取った姿勢がよかったのでしょうね。何か運動でもされているのですか?」
「いえ。特になにも・・」
「そうですか。では運も味方したということでしょうね。」
「あ、あの・・入院はどのくらいすることになるんでしょうか?」
「1ヶ月くらいで退院できます。さあ、どうぞ中にお入りになって声をかけてあげて下さい」
3日間ひたすら待ち続けていた時間は終わった。
「母さん・・」
「航・・」
親子はただひたすら見つめ合っていたが少年は視線を母親の隣に移した。
「隣の人は・・道明寺さんだよね?」
確かめるように、そしてそうであって欲しいという願いが込められた問いかけ。
見つめる少年の瞳は司によく似ていた。
「ああ。はじめまして道明寺司だ。」
「はじめましてじゃないよね?一度会ったよね?」
司によく似た低い声。
「航、あのね、道明寺さんは・・」
「僕の父さんなんだろ?母さんは隠したつもりなんだろうけど僕は随分前からわかってた。 それに夢を見たんだ。父さんが僕に会いに来てくれる夢を。道明寺さん。そうだよね?僕の・・」
ひたむきに見つめる目と求めるような問いかけに司は大きく頷いた。
「ああ。君の父親は俺だ。それに君の母さんが認めてくれるならこれから一生一緒に生きていきたい」
つくしに向けられたゆるぎない情熱を秘めた視線。
それは随分と昔に司がつくしに向けていた視線だった。
「これから一生一緒に生きていきたいんだ。おまえと。」
長い間があり、司は最後の一節を繰り返した。
『 一生一緒に生きていきたい。 』
かつて自分が愛した女性と、その女性が産んでくれた息子を前に繰り返した言葉。
言うには遅すぎたかもしれないが、迷いはない。
司にしてもこれまでの経験が彼に与えたものは大きかった。ただあの頃のように自分の一方的な思いだけを押し付けるようなことはしたくはない。
17年ぶりに会うふたりはあの頃と違って大人になっている。それに今では16歳の少年の親でもあった。
「母さん、何か言いなよ?」
つくしは息子の言葉でわれに返った。
いったい今さらなにを?もう何も感じることはないと思っていた。
「道明寺・・あたしに気をつかう必要なんてないから・・心配しないで。今までもこの子とふたりで生きて来たから・・あたし達の息子に何か責任を感じるとかそんなことはしないで欲しいの。さっきも話したけど道明寺には別の人生があるわ。だからあたし達とは関わらない方がいいと思うの。」
「おまえは相変わらず強情な女だな。自分の気持を素直に認めようとはしない。」
司はつくしの言葉を一蹴した。
「い、いったい何が強情だって言うのよ?」
つくしにだって16年ひとりで子どもを立派に育ててきたという自負があった。
今さらぽっと出の人間に自分の感情をとやかく言われる筋合いはないという思いがあった。
「それならあのうさぎのぬいぐるみは、どうしてここにあるんだ?あんな古いぬいぐるみをいつまでもとっておくには理由があったんだろ?」
「道明寺さん、母さんは他にも大切にしてたものがあるよ?ネックレスとか・・」
「航!」
つくしは少年を咎めた。
「それにおまえはさっきあたし達の息子って言ったよな?」
「そ、それがなにか・・」
「嬉しかった。俺とおまえの息子だろ?俺を父親だって・・認めてくれたんだろ?航の父親は俺だって。なあ、そうだろう?認めてくれるんだろ?俺が航の父親だって。牧野、心を偽るのは止めてくれないか?」
「・・あたしの・・あたしの気持なんて道明寺が知るはずがない・・」
心を偽る。
そうしなければひとりで生きて行くのは辛かった。
母親ひとりで子どもを育てるなら、父親の役目もこなす必要があった。
小さな体に重い鎧を身に纏い生きなければいけなかった。
長い間そうしてきた。今さら何をどうすればいいというのだろう。
17年前の記憶を取り戻した男に今さら何を言えばいいというの?
「なあ、牧野。聞いてくれ。俺はずっと孤独だった。一度結婚もしたが相手のことを愛したことなんかなかった。好きでもなんでもない相手で仕事の為に結婚した。それは相手の女も同じだった。ビジネス契約みたいなもので、形だけの結婚だったんだ。別の女とつき合おうが何をしようが互いに好きなことをしてもいいような関係だった。縛りもなにもない。ただの見せかけの結婚だ。けどすぐに別れた。なんでだと思う?そんなどうでもいい相手でも一緒になんかいたくはなかったからだ。」
司は嘘偽りのない気持ちを、ありのままの思いをぶつけていた。
「今さら何を勝手なことをと言われるのはわかってる。だけどな、俺はおまえに再会して、記憶が戻って自分の思いが17年前よりも深くなっていることに気づいた。この3日間どうやって俺の気持を伝えようかと・・・。牧野、俺を締め出さないでくれ。頼む。俺にチャンスをくれないか?俺と航と三人で家族になるチャンスをくれないか?」
自分が守るべき人間が目の前にいるというのにそれさえ出来ないというのか?
俺には許されないことなのか?
司はどうすれば自分の思いが伝えられるかそればかりを考えていた。
「聞いてくれ、牧野。誰ひとり・・誰一人として俺の周りにいた人間はおまえのことを話しはしなかったんだ!」
司は声を詰まらせた。
「類が・・類が俺を・・ここに連れて来なければ・・俺は・・あのまま・・・」
恐らく二人を知ることもなく人生を過ごしていたはずだ。
世の中にはどれだけの嘘と真実が存在しているのかなどわかるはずもなく過ごしていた。
「どうしてあたしが道明寺にチャンスをあげなきゃいけないのよ?あたしには・・」
_チャンスなんてなかった。
罵声を受け、邸から追い返される日々。そして新しい恋人。
つくしは唇を噛み締めていた。
これ以上どう答えていいのかわからなかった。
それでも息子の父親である男性のことを求めている自分がいた。今こうして目の前にいる道明寺司を求めていいのか悪いのかさえわからなくなっていた。
それに今この場所でふたり、いや。子どもを交えてこんなことを話していること自体が信じられなかった。
「俺が・・俺が悪かったんだ・・俺がおまえを忘れたことが・・」
ただ悔やむしかないという表情だ。
「だけどな。俺に世界一ふさわしい女は牧野つくし以外いない。俺はそう思ってる。だから牧野。俺と結婚してくれないか?」
沈黙が流れた。
遠い日々の静けさと言えるような沈黙。
沈黙に重さがあるとしたらどのくらいの重さになるのだろうか。
「母さん・・母さんは・・道明寺さんのことが・・父さんのことが今でも好きなんだろ?そうじゃなきゃあんなもの・・野球観戦の半券なんかとっておくはずないよね?そうだろ?認めなよ母さん・・今でも父さんのことが好きなんだって・・」
ベッドに横たわる少年の口から出た言葉。
その言葉は司の背中を押してくれた。
いつの間にか父と子の自然な関係は既に築かれていたようだ。
それに男同士というのはすぐ徒党を組みたがるということを少年の母親は知らなかった。
「償いはする。これから一生かけてする。それに俺はおまえじゃなきゃだめだ。俺に世界一ふさわしい女は牧野つくししかいないんだからな。」
司の視線は揺るぎない。
あの頃、高校生の頃と変わらない情熱が感じられた。惚れたらどこまでも一途で信念を貫く男。これこそが道明寺司だ。
「でも・・・」
つくしは息子を見た。
頷き返された視線。
母さん、父さんと幸せになりなよ。
少年の視線はそう伝えていた。
それは少年の昔から変わらぬ心情。
母親の寂しさを知っていたからこそ、父親に会いたかった。
もちろん、自分の父親がどんな人間か知りたいという気はあった。だがそんなことよりも母親の気持を慮っていた。
運命の恋人と呼ばれていた父と母。
遠い昔、まだ彼が幼かった頃、父親の親友が言った言葉だった。
『 世界が変わったとしても、牧野と司の二人の運命は変えようがないんだ。
あのふたりの心が変わるなんてことは絶対にない。たとえ今、司が牧野を忘れていたとしてもいつか必ず思い出す。それがたとえ住んでいる国が違ったとしてもね。』
それに母さんは毎日父さんと会っていた。僕を通して父さんを見ていたのはわかっていた。
僕が大きくなるにつれ、時々涙で目をうるませている姿を見たこともあった。
だから、どうしても父さんと母さんを会わせたかった。
もしかしたら僕を見た父さんの記憶が戻るかもしれない・・そう願って空港まで会いに行った。
物事の明るい面だけを見て生きるように言ったのは母さんだったよね?
だから僕から母さんに言うよ。これから先は父さんと幸せな人生を歩んで欲しいんだ。
「ねえ、ふたり共、僕がいるからって遠慮することなんかないよ?僕だってもう大人なんだ。それに何も知らないわけじゃないからね?」
少年の言葉が引き金になったのだろうか。
彼が目にするのは両親が抱き合う姿。
「ねぇ、道明寺。あ、あたしが・・今でも道明寺を愛していたのを・・知っていた?」
あの日あの事件がなければ・・。
そう思わずにはいられないが、過去を変えることはできない。それならこれから先の未来で過去を塗り変えればいい。
「ああ。もちろんだ。あのとき、誓い合ったんだ。俺とおまえは一生一緒だってな。」
自信ありげに返された言葉。
「航には悪いが俺を愛してると認めるまでおまえを拉致してどこかに閉じ込めておくつもりだった。」
司はにやっと笑った。
「な、なによ・・その言い方。い、言っとくけど、もしまたあたしから離れて行ったら、もう二度と口を利かないから!」
つくしは宣言していた。
「上等だ。俺はもうおまえの傍を離れるつもりはねぇからな。おい航!」
司は少年に向かって宣言した。
「おまえの母さんはこれからは俺のものだ。おまえは16年もこいつの傍にいたんだからこいつを俺にくれ。」
まじめくさった顔で言ってはいたが瞳は面白そうに笑っていた。
「いいよ。僕は別に母さんがいないとダメな大人になんかならないから。」
高校生の分際で生意気なこと言ってんじゃねぇよ。そんな言葉が聞こえて来そうだ。
いつまでも昔にこだわるものではない。
今が目の前にあればそれでいい。過去にこだわって生きて行くことは決していいこととは言えなかった。物事の明るい面を見て生きて行く。それはつくしが自分の息子に伝えてきたことだ。
ふたりの人生は少しだけ違った方向に進んでしまっていたのかもしれないが、知り合ったばかりの親子はまるで生まれた時からの親子だったように打ち解けた会話が交わされていた。
過剰な反応を示すことなくごく当たり前に流れていく空気がそこにはあった。
親子で生死の境を彷徨うという経験をすると何かが違って見えてくるのだろうか?
ふと、そんなことが頭の中を過っていた。
外の景色は穏やかに晴れ渡った空が広がっているはずだ。
ひこうき雲がいつまでも消えずに残っていると天気が悪くなると言うが、つくしがあの日アパートの窓から見た雲は、あっという間にかき消されていった。
今日もあの日に見たような雲が浮かんでいたとしたら、あっという間に消え去ってしまっているはずだ。明日は晴れて穏やかな日になる。そう願わずにはいられなかった。
< 完 > *いつか晴れた日に*

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高校を中退した牧野にどこにいたのかと類が聞いたとき、両親の田舎に身を寄せていたといい、そして出産もその街で行ったそうだ。
妊娠したことをどうして誰にも言わなかったのか?類がそう聞いたとき、牧野はこう言ったそうだ。
『 ものごとは必ず理由があって起こるものなの。道明寺があたしを忘れたのは、どこかであたしのことなんか忘れたいと思ったからなんだと思うの。あたしのことなんて必要ない。そんな風に思ったから、あたしのことだけ忘れたんだと思う。だからもういいのよ。
それにもう道明寺には新しい・・・恋人がいるんだからいいのよ、もう。でもあたしには新しい命をくれた。だからこの子と生きて行く。』
子どもとふたりで生きていく。
そう決めたとき、牧野はどんな思いでいたのか。
仲間とのつき合いもなくなり、やがて膨らんでいく腹を見つめながらどんな思いでいたのか。あれから長い年月が過ぎ、あの頃とは比べものにならないほど大人になった少女は今、目の前に横たわる息子をどんな思いで見つめているのか。
司はかける言葉が見つからずにいた。
過去に戻ってなにもかもやり直せるならやり直したい。
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ふたりの再会は_考えうる最悪の状態での再会だ。自分たちの子どもがまさに死に直面している。そのことによって記憶が甦った。
神は俺の記憶を戻した代わりに息子を連れ去っていこうというのか?
その答えを見つけることは出来ないだろうが、どんな事をしても息子を死なせるわけにはいかない。俺の人生で一番幸せだった瞬間に命を授かった子どもだ。絶対に死なせるわけにはいかない。そのためにはどうすればいいのか。どんな形でもいい。司は見つけることの出来ない答えが欲しかった。
医者が入って来たので、司は顔を上げた。
「昏睡状態というのはいつまで続くんだ?」
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司は自分の隣で椅子に腰かけている女の手を握った。
それは17年ぶりに握るいとしい人の手。
小さなその手に温もりはなく、冷たさだけが感じられた。自分の手の温もりを分け与えてやりたい。この手で出来ることは何でもしてやりたい。そう願ってはいるが今は何も出来ないということだけはわかっていた。泣き続けた顔は疲れ切った様子で頬を流れる涙は止まってはいたが、唇は震えている。
旅先から急遽引き返して来た弟夫妻はつくしに駆け寄ると抱きしめあって泣いていた。
「姉さん・・航の容態は?」
「まだ・・意識が・・戻らないの・・」
つくしはそれ以上上手く話すことができず弟夫婦の顔を見つめる以外出来なかった。
鼻をつくような消毒薬の臭いに苦いものがこみあげてはいたが、何度も我慢を繰り返していた。気管内に挿管されていたチューブは外されていたが、両腕からはまだ何本ものチューブが機器に繋がれている。
目の前でただじっと横たわっている息子の姿は、あの日を思い出されると同時にあの時と同じ恐怖も甦っていた。
まさかこの子の記憶が・・
あたしのことを忘れるなんてことが・・
つくしはそんな思いを慌てて振り払っていた。
司は以前医者に言われていたことを思い出していた。
記憶を揺さぶるには何かショッキングな出会いが必要だということを。
それがまさにこの出会いだったのかもしれない。
それならこうして記憶を取り戻した今、彼がなすべきことは決まっていた。
はじめは空港で自分によく似た少年を見かけたことから始まっていた。
あの少年のことが気になっていたはずだ。気になったから調べようとしたがそのままになってしまい、何もすることはなかった。
あのとき調べていればこんな状況にはなっていなかったかもしれない。
「この子の髪の毛・・」
つくしが優しく頭を撫で始めた。
「水に濡れると真っ直ぐになるの」
何の気なしに呟かれた言葉。
「そうか・・」
司は自分の遺伝子が受け継がれている息子を見ながらあの日を思い出していた。
17年前、友人達が仕組んだ奇妙な小旅行で訪れた島での一夜。
互いの手以外は必要がないと掴んだ小さな温もり。
「この子はきっと助かるわ」
つくしは断言した。
「ねぇ・・道明寺もそう思うでしょ?必ず元気になってくれるわよね?」
「ああ。元気になってくれる」
司は深く頷いた。
「目を覚まして・・ねぇ・・・航・・・・」
つくしの目からは、はらはらと涙が落ちていた。
「母さんはここにいるのよ?」
頬を流れる涙をぬぐうことなく泣いていた。
「おねがい・・おねがいだから・・ないで・・いかないで・・戻ってきて・・あたしには・・」
あなたしかいない_
司にはそう聞こえていた。
「牧野・・俺は・・」
「ご、ごめん。道明寺・・今は・・この子のこと・・」
つくしは唇を噛み締めた。
今は何も話したくはない。
我が子を見つめてひたすら神に祈りたい。まるでそう言っているようだ。
「俺は・・まきの・・聞いてくれないか・・。俺の人生で・・はじめて・・」
司は言葉に詰まった。
そこで言葉が途切れてしまったのはこの瞬間、自分の心の痛みを告げるのではなく、目の前に横たわる少年の命の灯が消えてしまわないように祈ることが先だと気づいたからだ。
彼の傍で涙を流しているのは、司の心の痛みよりも遥かに大きな痛みを抱えている女性だからだ。零れ落ちる涙は目の前の少年の為だけであって司に向けられているものではない。
今までの人生で一番の悪夢を見ているようだとは言い出せなかった。
悪夢_
これは悪夢なのだろうか。
もし悪い夢なら醒めて欲しい。
17年前に自分に起こったことと同じことが・・息子に起きている。
腰に鋭い痛みが走り刺された場所だとわかった。だがそれは錯覚であって傷痕はあっても痛みはない。自分はこうして生きて過去の記憶を取り戻した。17年前牧野に最低のことをしたとしてもこれから先は二度と辛い思いをさせるつもりはない。
司は言葉を拾いながらも話しかけた。
「大丈夫だ。必ず意識は戻る。話しかけるんだ牧野。先生が言っただろ?」
少年を見つめながら過去の自分を重ね合わせていた。
17年前の自分はこのあと牧野のことを忘れ去って思い出すことはなかった。
もしあの頃に戻れるなら自分は何をする?
若い牧野はこの子を産んでひとりで育ててきた。
あの頃自分が傍にいたらどうしていた?
今となっては分からないがこれだけは言える。
永遠につながる日々を送っていたはずだ。
ふたりは永遠につながっていく未来を前にしていたはずだ。
今からでも遅くはない。
この少年が、いや、息子が事故にあったから牧野と再会出来た。
こうなる運命だったのか?
俺と牧野が再会するためには息子の犠牲が必要だったということか?
いや。それは違う。そうじゃない。ふたりのこれからの人生に犠牲なんて必要ない。
なんとしても息子を助けたい。
その為ならなんでもする覚悟はある。
司は背筋を伸ばすと頬に流れた涙のあとを拭った。
昏睡状態は長引けば長引くほど、回復の見込みはなくなってくる。
だからこそ早く目覚めて欲しい。
だがふたりは祈るしかなかった。
絶対に治る。治してみせる。
司は身動きしない息子の姿を眺めていた。
あの日、空港で目を見開いて自分を見つめていたのが最後だとは思いたくない。
無表情で横たわっている姿が最後だなんて思いたくない。
目を開いて俺の姿を見て欲しい。
俺がおまえの父親だと名乗りたい。
人工呼吸器につながれた姿はかつての自分と同じ姿。心臓は鼓動を繰り返しているが外せば呼吸は止まってしまう。
どんな声をしているのだろうか?
この子は自分と同じような声なのか?
どんな声で母親である牧野を呼んでいた?
戻って来い。父さんと母さんのところへ・・俺はおまえの父親だと言いたい。
司は目に涙が浮かんできてはまばたきを繰り返していた。
17年という歳月を経て再会したふたり。
司はつくしのことを考えずにはいられなかった。
喉が締め付けられ言葉は出ないが、こらえている感情は抑えることができなかった。
必死に生きてきたに違いない。若く何も持たない少女が子どもを産んで育てるということがどんなに大変なことなのか。男の俺には思いもつかないような苦労があったはずだ。
人生の一番輝かしいと言われる年齢で幼い子どもを抱え、生活の糧を得るために働くということがどれだけ大変なことなのか。司には想像もつかないことだらけだったはずだ。
あの日がなければ_
「こう・・航っ!・・母さんはここにいるわ!」
その声に司ははっとした。
「おねがいよ・・おねがいだから目を覚まして・・」
母親は目に涙をいっぱいためて息子に呼びかけていた。
「それに・・あなたの・・」
一瞬の間のあと語られた言葉に司は自分が許されたと感じていた。
「あなたの父さんもここにいるのよ?あ・・会いたかったんでしょ?ねえ?お願いだから目を覚まして・・・ここにいるのよ?あなたの父さんが・・あなたが会いたかった人が。」
それはまさにあの頃の牧野つくしだと思った。
司が当時理解できなかった彼女そのものだ。
自分に立ち向かってきた勇気。人に騙されても許せる寛容さ。友人に対して誠実でいるということ。
そしてあの頃と変わらないまっすぐな瞳。
許して貰えるならどんなことをしてもこのふたりを守りたい。
ふと目に止まったのは枕元に置かれていたうさぎのぬいぐるみ。
司はぬいぐるみを手に取った。
「俺も子どもの頃にこんなぬいぐるみを持っていた」
「これは・・道明寺のぬいぐるみよ」
つくしの目には涙が浮かんでいた。
「これ・・道明寺に返そうと思って・・返せなかった・・」
「俺の・・?」
「うん・・あんたのお母さんが・・あんたが刺された時、病院に持って来たぬいぐるみよ?ほら・・ここなんて擦り切れちゃってるでしょ?この子、耳をもって振り回すから、何度も取れちゃって・・縫い合わせるたびに短くなって・・こんなになったんだけど・・それでも捨てられずにいたの・・」
17年も前のぬいぐるみ。いやもっと昔に俺が手にしていたぬいぐるみが息子の成長を見守っていたということか?母親がいない寂しさをこのぬいぐるみが癒してくれたことがあったが、息子も働きに出ていた牧野からこのぬいぐるみを与えられていたということか。
心が癒されるようにと与えられたぬいぐるみ。そうは言っても親子は離れたくはなかったはずだ。
過ぎた17年が悔やまれてならない。
俺が傍にいればふたりに寂しい思いをさせずに済んだはずだ。
「航・・こう・・なあ、目を覚ましてくれ・・おまえの父さんは俺だ。・・ここにいる。おまえのすぐ目の前にいる!だから目を覚まして俺を見てくれ!」
司はつくしの目を見つめた。
「牧野・・俺は航の父親として・・出来る限りのことをしてやりたい・・だから」
父親としての権利を行使したいと言う言葉が口をついて出ようとしたが、押し留めた。
いきなり現れた自分がそんなことを言える立場ではないということはわかっていた。
記憶を無くし、何も知らなかったとはいえ余りにも都合が良すぎる。
だが、どうしてもふたりの傍にいたい。
ふたりが欲しい。
血を別けた息子とその母親が欲しい。
牧野をこの腕の中に抱きしめたい。そのことだけが脳裏に浮かんでいた。
「牧野。・・この子の命が・・助かったら・・いや。助かる、助けてみせる。だから・・俺と一緒に・・」
その先を言うには勇気が必要だった。だが言わずにはいられなかった。
「俺の夢を叶えてくれないか?」
今さら身勝手な男だと言われることは承知だったが言わずにはいられなかった。
だがどうしても共に生きる未来が欲しかった。
たとえ失った17年があったとしても、これから先は_
「おまえと一生一緒にいたい。それに航と一緒に・・俺の息子とおまえと三人で暮らしたい」
返事はなかった。
ただ黙って見つめられるだけで言葉はなかった。
そのことにたまりかねた司は言葉を継いだ。
「おまえが何も言わないのは無理もないと思う。俺はおまえを忘れ17年もひとりにしていた。あの日あの島で約束したことなんて忘れちまって、俺はおまえを・・」
司は最後まで言わなかった。いや、言えなかった。言葉は悪いが司は牧野つくしを捨てた。
そして彼女の人生を台無しにした。今こうして隣に座る女はあの頃彼の生きがいだったはずだ。あの日から17年。いったいどうすれば償えるというのか。司がつくしの記憶を失った代償は余りにも大きかった。自分に息子がいるということなど思いもしなかったが、その息子が父親に会いに来たというのに、気づきもせずに今日まで過ごしていた。
「あたしは、この子を産んだことを後悔なんてしてない。それにじ、自分の人生が台無しになっただなんて考えたこともなかったわ。この子がいるからあたしは生きることが出来たの。この子があたしの人生の灯だったの。」
人生の灯となっていた息子。
この子がいるから生きてこれたという思い。
「それにど、道明寺には道明寺の・・人生がある。それはあたしとこの子を知らなかった人生よ。一緒に暮らしたいって言っても無理よ。あたしとこの子はあんたの人生には必要がない人間だもの。あんたはお母さんのあとを継いでこれから先、会社をもっと大きくしていくんでしょ?そんなあんたにあたしは必要ない。この子だって同じ。」
言葉の端々に感じられるのは、道明寺家にはふさわしくないという思い。
「航は、俺の息子は今、命懸けで戦ってるはずだ。生きることに、生きることを望んでいるはずだ。この子が目を覚ましたとき、俺はこの子の父親としてこれからのこいつの人生にかかわっていきたい。それに航もそれを望んでいるはずだ。」
「この子が何を望んでいるかなんて、どうして道明寺にわかるのよ?今までこの子に父親なんていなかったのに必要としてるなんてどうしてわかるのよ?」
「じゃあどうして航は俺に会いに来たんだと思う?」
帰国した日に空港まで会いに来た息子のことを思い出していた。
「わ、わからない・・それは・・」
つくしは言い返す元気がなかった。
つい道明寺の言葉に反応してしまったが今は何も考えたくなかった。
司はつくしの不安の全てを拭い去ってやりたかった。
細い小さな体を守ってやりたいと思った。牧野の望みが息子の快復だけだとしても構わない。そばにいて守ってやりたい。
「なあ、牧野・・航が、俺たちの息子が事故にあった理由が、おまえは物事には理由があるって言ったんだよな?」
それは類から聞かされた牧野の言葉。
「この事故に理由があるなら俺とおまえを再会させるためだとは思えないか?俺は・・そう思っている。」
これは用意された再会だったのだろうか?
互いが運命の人ならこうしてまた再会することに決まっていたのだろうか?
離れ離れになった恋人同士がこうして再会を果たすことは決められていた運命なのだろうか?無くしたと思っていた愛がこの手に戻ってきた。そう思ってもいいのだろうか・・
次の瞬間、少年の頭が左に振れた。
「こ・・航!」
腕がぴくりと動いた。
「ど、道明寺・・航が・・航が動いた・・動いたわ!」
つくしはナースコールのボタンを押した。
ふたりは少年の声を耳にしていた。呼吸器のマスクの下から聞こえて来た声は弱々しいが確かに母さんと聞こえた。やがて瞼が震えると開かれた瞳は何かを求めて中空を彷徨っていた。
「航!母さんよ!母さんはここにいるわ!」
つくしはベッドの上へ身を乗り出していた。
「ここよ!ここにいるわ!母さんはここにいるわ!」
少年は何度か瞬きを繰り返すと顔を母親の方へと傾けた。
「か・・か・・あさん・・」
そのあとは、おぼろげな記憶しかなかった。
ばたばたと医者と看護師が駆けつけると、ふたりは病室から追い出され中では処置が施されていた。
やがて医者が出て来るとふたりに声をかけてきた。
「意識が戻りました。もう大丈夫です。さきほど検査をしましたが、反射神経にも問題はないようです。打撲傷は時間がたてば治ります。息子さんは車にぶつかったとき咄嗟に取った姿勢がよかったのでしょうね。何か運動でもされているのですか?」
「いえ。特になにも・・」
「そうですか。では運も味方したということでしょうね。」
「あ、あの・・入院はどのくらいすることになるんでしょうか?」
「1ヶ月くらいで退院できます。さあ、どうぞ中にお入りになって声をかけてあげて下さい」
3日間ひたすら待ち続けていた時間は終わった。
「母さん・・」
「航・・」
親子はただひたすら見つめ合っていたが少年は視線を母親の隣に移した。
「隣の人は・・道明寺さんだよね?」
確かめるように、そしてそうであって欲しいという願いが込められた問いかけ。
見つめる少年の瞳は司によく似ていた。
「ああ。はじめまして道明寺司だ。」
「はじめましてじゃないよね?一度会ったよね?」
司によく似た低い声。
「航、あのね、道明寺さんは・・」
「僕の父さんなんだろ?母さんは隠したつもりなんだろうけど僕は随分前からわかってた。 それに夢を見たんだ。父さんが僕に会いに来てくれる夢を。道明寺さん。そうだよね?僕の・・」
ひたむきに見つめる目と求めるような問いかけに司は大きく頷いた。
「ああ。君の父親は俺だ。それに君の母さんが認めてくれるならこれから一生一緒に生きていきたい」
つくしに向けられたゆるぎない情熱を秘めた視線。
それは随分と昔に司がつくしに向けていた視線だった。
「これから一生一緒に生きていきたいんだ。おまえと。」
長い間があり、司は最後の一節を繰り返した。
『 一生一緒に生きていきたい。 』
かつて自分が愛した女性と、その女性が産んでくれた息子を前に繰り返した言葉。
言うには遅すぎたかもしれないが、迷いはない。
司にしてもこれまでの経験が彼に与えたものは大きかった。ただあの頃のように自分の一方的な思いだけを押し付けるようなことはしたくはない。
17年ぶりに会うふたりはあの頃と違って大人になっている。それに今では16歳の少年の親でもあった。
「母さん、何か言いなよ?」
つくしは息子の言葉でわれに返った。
いったい今さらなにを?もう何も感じることはないと思っていた。
「道明寺・・あたしに気をつかう必要なんてないから・・心配しないで。今までもこの子とふたりで生きて来たから・・あたし達の息子に何か責任を感じるとかそんなことはしないで欲しいの。さっきも話したけど道明寺には別の人生があるわ。だからあたし達とは関わらない方がいいと思うの。」
「おまえは相変わらず強情な女だな。自分の気持を素直に認めようとはしない。」
司はつくしの言葉を一蹴した。
「い、いったい何が強情だって言うのよ?」
つくしにだって16年ひとりで子どもを立派に育ててきたという自負があった。
今さらぽっと出の人間に自分の感情をとやかく言われる筋合いはないという思いがあった。
「それならあのうさぎのぬいぐるみは、どうしてここにあるんだ?あんな古いぬいぐるみをいつまでもとっておくには理由があったんだろ?」
「道明寺さん、母さんは他にも大切にしてたものがあるよ?ネックレスとか・・」
「航!」
つくしは少年を咎めた。
「それにおまえはさっきあたし達の息子って言ったよな?」
「そ、それがなにか・・」
「嬉しかった。俺とおまえの息子だろ?俺を父親だって・・認めてくれたんだろ?航の父親は俺だって。なあ、そうだろう?認めてくれるんだろ?俺が航の父親だって。牧野、心を偽るのは止めてくれないか?」
「・・あたしの・・あたしの気持なんて道明寺が知るはずがない・・」
心を偽る。
そうしなければひとりで生きて行くのは辛かった。
母親ひとりで子どもを育てるなら、父親の役目もこなす必要があった。
小さな体に重い鎧を身に纏い生きなければいけなかった。
長い間そうしてきた。今さら何をどうすればいいというのだろう。
17年前の記憶を取り戻した男に今さら何を言えばいいというの?
「なあ、牧野。聞いてくれ。俺はずっと孤独だった。一度結婚もしたが相手のことを愛したことなんかなかった。好きでもなんでもない相手で仕事の為に結婚した。それは相手の女も同じだった。ビジネス契約みたいなもので、形だけの結婚だったんだ。別の女とつき合おうが何をしようが互いに好きなことをしてもいいような関係だった。縛りもなにもない。ただの見せかけの結婚だ。けどすぐに別れた。なんでだと思う?そんなどうでもいい相手でも一緒になんかいたくはなかったからだ。」
司は嘘偽りのない気持ちを、ありのままの思いをぶつけていた。
「今さら何を勝手なことをと言われるのはわかってる。だけどな、俺はおまえに再会して、記憶が戻って自分の思いが17年前よりも深くなっていることに気づいた。この3日間どうやって俺の気持を伝えようかと・・・。牧野、俺を締め出さないでくれ。頼む。俺にチャンスをくれないか?俺と航と三人で家族になるチャンスをくれないか?」
自分が守るべき人間が目の前にいるというのにそれさえ出来ないというのか?
俺には許されないことなのか?
司はどうすれば自分の思いが伝えられるかそればかりを考えていた。
「聞いてくれ、牧野。誰ひとり・・誰一人として俺の周りにいた人間はおまえのことを話しはしなかったんだ!」
司は声を詰まらせた。
「類が・・類が俺を・・ここに連れて来なければ・・俺は・・あのまま・・・」
恐らく二人を知ることもなく人生を過ごしていたはずだ。
世の中にはどれだけの嘘と真実が存在しているのかなどわかるはずもなく過ごしていた。
「どうしてあたしが道明寺にチャンスをあげなきゃいけないのよ?あたしには・・」
_チャンスなんてなかった。
罵声を受け、邸から追い返される日々。そして新しい恋人。
つくしは唇を噛み締めていた。
これ以上どう答えていいのかわからなかった。
それでも息子の父親である男性のことを求めている自分がいた。今こうして目の前にいる道明寺司を求めていいのか悪いのかさえわからなくなっていた。
それに今この場所でふたり、いや。子どもを交えてこんなことを話していること自体が信じられなかった。
「俺が・・俺が悪かったんだ・・俺がおまえを忘れたことが・・」
ただ悔やむしかないという表情だ。
「だけどな。俺に世界一ふさわしい女は牧野つくし以外いない。俺はそう思ってる。だから牧野。俺と結婚してくれないか?」
沈黙が流れた。
遠い日々の静けさと言えるような沈黙。
沈黙に重さがあるとしたらどのくらいの重さになるのだろうか。
「母さん・・母さんは・・道明寺さんのことが・・父さんのことが今でも好きなんだろ?そうじゃなきゃあんなもの・・野球観戦の半券なんかとっておくはずないよね?そうだろ?認めなよ母さん・・今でも父さんのことが好きなんだって・・」
ベッドに横たわる少年の口から出た言葉。
その言葉は司の背中を押してくれた。
いつの間にか父と子の自然な関係は既に築かれていたようだ。
それに男同士というのはすぐ徒党を組みたがるということを少年の母親は知らなかった。
「償いはする。これから一生かけてする。それに俺はおまえじゃなきゃだめだ。俺に世界一ふさわしい女は牧野つくししかいないんだからな。」
司の視線は揺るぎない。
あの頃、高校生の頃と変わらない情熱が感じられた。惚れたらどこまでも一途で信念を貫く男。これこそが道明寺司だ。
「でも・・・」
つくしは息子を見た。
頷き返された視線。
母さん、父さんと幸せになりなよ。
少年の視線はそう伝えていた。
それは少年の昔から変わらぬ心情。
母親の寂しさを知っていたからこそ、父親に会いたかった。
もちろん、自分の父親がどんな人間か知りたいという気はあった。だがそんなことよりも母親の気持を慮っていた。
運命の恋人と呼ばれていた父と母。
遠い昔、まだ彼が幼かった頃、父親の親友が言った言葉だった。
『 世界が変わったとしても、牧野と司の二人の運命は変えようがないんだ。
あのふたりの心が変わるなんてことは絶対にない。たとえ今、司が牧野を忘れていたとしてもいつか必ず思い出す。それがたとえ住んでいる国が違ったとしてもね。』
それに母さんは毎日父さんと会っていた。僕を通して父さんを見ていたのはわかっていた。
僕が大きくなるにつれ、時々涙で目をうるませている姿を見たこともあった。
だから、どうしても父さんと母さんを会わせたかった。
もしかしたら僕を見た父さんの記憶が戻るかもしれない・・そう願って空港まで会いに行った。
物事の明るい面だけを見て生きるように言ったのは母さんだったよね?
だから僕から母さんに言うよ。これから先は父さんと幸せな人生を歩んで欲しいんだ。
「ねえ、ふたり共、僕がいるからって遠慮することなんかないよ?僕だってもう大人なんだ。それに何も知らないわけじゃないからね?」
少年の言葉が引き金になったのだろうか。
彼が目にするのは両親が抱き合う姿。
「ねぇ、道明寺。あ、あたしが・・今でも道明寺を愛していたのを・・知っていた?」
あの日あの事件がなければ・・。
そう思わずにはいられないが、過去を変えることはできない。それならこれから先の未来で過去を塗り変えればいい。
「ああ。もちろんだ。あのとき、誓い合ったんだ。俺とおまえは一生一緒だってな。」
自信ありげに返された言葉。
「航には悪いが俺を愛してると認めるまでおまえを拉致してどこかに閉じ込めておくつもりだった。」
司はにやっと笑った。
「な、なによ・・その言い方。い、言っとくけど、もしまたあたしから離れて行ったら、もう二度と口を利かないから!」
つくしは宣言していた。
「上等だ。俺はもうおまえの傍を離れるつもりはねぇからな。おい航!」
司は少年に向かって宣言した。
「おまえの母さんはこれからは俺のものだ。おまえは16年もこいつの傍にいたんだからこいつを俺にくれ。」
まじめくさった顔で言ってはいたが瞳は面白そうに笑っていた。
「いいよ。僕は別に母さんがいないとダメな大人になんかならないから。」
高校生の分際で生意気なこと言ってんじゃねぇよ。そんな言葉が聞こえて来そうだ。
いつまでも昔にこだわるものではない。
今が目の前にあればそれでいい。過去にこだわって生きて行くことは決していいこととは言えなかった。物事の明るい面を見て生きて行く。それはつくしが自分の息子に伝えてきたことだ。
ふたりの人生は少しだけ違った方向に進んでしまっていたのかもしれないが、知り合ったばかりの親子はまるで生まれた時からの親子だったように打ち解けた会話が交わされていた。
過剰な反応を示すことなくごく当たり前に流れていく空気がそこにはあった。
親子で生死の境を彷徨うという経験をすると何かが違って見えてくるのだろうか?
ふと、そんなことが頭の中を過っていた。
外の景色は穏やかに晴れ渡った空が広がっているはずだ。
ひこうき雲がいつまでも消えずに残っていると天気が悪くなると言うが、つくしがあの日アパートの窓から見た雲は、あっという間にかき消されていった。
今日もあの日に見たような雲が浮かんでいたとしたら、あっという間に消え去ってしまっているはずだ。明日は晴れて穏やかな日になる。そう願わずにはいられなかった。
< 完 > *いつか晴れた日に*

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Comment:38
「司。おまえ17年ぶりに記憶が戻ったと思ったら牧野と結婚だけでも驚いたけど、16歳になる息子までいたんだって?」
「わりぃかよ?仕事が出来る男は何でも早ぇんだよ!」
「いや。何でも早いのがいいって言っても、おまえの息子は・・航君はあのとき、滋の島での一夜の子どもなんだろ?おまえらいつの間にそんなことしてたんだよ?」
「そんなことおまえらにいちいち説明する必要があんのか?」
「いや。別にそんなもん説明されても困るけどな。ただ・・・・」
「ただなんだよ?」
「おまえのかーちゃんはどうなんだよ?いきなり孫が現れたんだ。腰抜かしたんじゃねぇの?」
「ああ・・・そのことなら心配いらねぇ。ババァ・・いやお袋は航のことを気にいってる。 今じゃ俺が高校生だった頃よりも出来のいい孫のいいなりだな。あれは。」
「おまえのかーちゃんがか?」
「まじか?」
「まじだ。」
道明寺航は友人達と話しをする父親を見つめていた。
友人とは美作商事の専務と茶道西門流の次期家元だ。
父親の友人達からいつも言われるのは司の若い頃にそっくりだ。
まるで合わせ鏡を見ているようだ。
航はすべての容姿を司から受け継いでいるぞ。
同じように癖のある髪。同じくらいの身長に骨格はどう見ても司だよな。
だが決まって最後に言われるのは、性格まで受け継がなくて本当によかったよな。
そのひと言で締めくくられていた。
父さんの性格。
記憶を失っていた頃と今とでは、雲泥の差だと言われている。
新聞紙面で知っていた父さんは、ずば抜けた経営能力を持つ男だと言われていた。
経済界の大物で、いつも勝者でいる男。仕事に対しての評価は高く、全てにおいて自制心を失うことはない。鉄のような男。そんな形容詞がついていた。
だけど今となってはその形容詞も母さんの前で使われることはない。
鉄どころか溶かしたマシュマロみたいな時がある。男の僕でも思うけど、とてもじゃないけどあんな顔、家族以外に見せるものじゃない。
あれじゃあ会社経営者として締まりがなさすぎる。
息子の僕が言うんだからわかってもらえると思う。
家の中にいるときは母さんのことをつくしと呼び、傍に張り付いて離れない。
たまにチビと呼ぶときもあるけど、そんなときは決まって母さんに無視される。
確かにうちの家族のなかじゃ母さんは小さい。僕も父さんも180センチ以上あるんだから僕から見てもチビだと思う。そんな母さんに無視された父さんは慌てて母さんの後を追いかけて行くと悪かった、許してくれを連発している。
父さんのプライドの高さは有名だけどその反面、母さんに対する恐怖はプライドの高さ以上のレベルだと思う。母さんに口をきいてもらえなくなったら死んでやる、そんなことを平気で言ってのける人だとは思わなかった。そんな父さんと暮らすようになって、僕は人をありのままに受け入れることを学んだような気がする。これは僕が今まで知らなかった父さんの一面なんだと思うことにした。
どんなに英雄視される父さんでも間違いも犯す普通の人間だとわかって、どこかホッとしたような気がしていた。
『 いいか航。いいことと悪いことは表裏一体だ。悪いことがあるからいいことが際立つんだ。俺は17年悪いことしかなかった。だからこれから先17年は父さんにはいいことしか起きないからな。』
そんなことを真面目な顔して僕に言う父さんは、本当にあの道明寺司なんだろうかと疑いたくなった。
育ったのは小さなアパートで、物心ついた頃、父さんはいなかった。
それがあたり前ではないと知ったのはいつの頃だっただろう。
だがそのことで、泣いたり、わめいたりしたことはなかった。決して母さんを困らせるようなことはしなかったはずだ。
かつて幼い頃、同じ布団の中で母さんと寝たことがあった。
あれは_
いつの頃の話しだろう。
『 過ぎたことを悔やんでもしかたがないでしょ? 』
そう言って僕を励ましてくれたことがあった。
記憶の中にあるのはいつも前向きで明るい母さんで、決して僕の前では弱さを見せることはなかったはずだ。
そんな母さんだから新しい生活にもすぐに馴染んだようだ。
世田谷の道明寺邸に引っ越して来たのは3ヶ月前。
新たな視点で物事を見るということが必要となったが、僕はその事に抵抗はなかった。
『 物事の明るい面だけを見なさい 』
そう言って育てられて来たからだろうか。初めの頃は戸惑いもしたが、自分がどう言った立場に置かれた何者であるかということを理解するのは簡単だった。
父さんと母さんは高校時代に大恋愛をしたが、結ばれることはなかった。
運命の恋人。
仲間の間ではそう言われていたが、ふたりの運命が再び交わるまで随分と長い年月が経ってしまっていた。
両親から包み隠さず聞かされた話しは、正直言ってまるでドラマのようで、それこそ波乱に満ちた人生だった。
17年間ひとりぼっちだった母さん。
『航。ふたりで生きていこうね。』
そう言っていた母さんには、夢の中の王子様のような友人がいた。その人は母さんに結婚を申し込むことだって出来たはずだが恋愛感情はない。そう言ってほほ笑んでいたのを覚えている。
「それで、なんで牧野は類だけに航君のことを話してたんだ?」
「ち、ちがうのよ。たまたま類に見つかっただけで自分から話したわけじゃないの。」
「へぇー。さすが類だよな。類のアンテナって昔っから牧野の方を向いてたよな。」
「だよな。司が気づかねぇような、ちっちぇえことまで類は気づいてたよな?」
「おい。つくし。なんだよそのちっちぇえことってのは?」
「し、知らないわよ・・そんなこと・・」
ガチャン!
父さん!コーヒーカップが割れるから止めてくれよ!
母さんの言うことは本当だ。
僕が小さな頃、花沢さんに偶然出会ったという話し。
母さんは花沢さんを前に泣いてたから、僕はてっきりこの人が父さんなんだと勘違いをした。花沢さんが父さんだったらどんな父さんになったんだろう。こんなこと考えたら父さんに絞殺されるかもしれないね。
ある日。母さんは僕に言ったことがある。
あなたは愛に包まれて命を授かったのよ。愛の中で生まれて来たの。
その意味を理解するには時間がかかったけど、こうして両親の姿を見ていれば納得もできた。
友人達に囲まれても、恥ずかしげもなく堂々と手を握り合っている両親の姿。
30代半ばの夫婦ってこんなにも仲がいいものなんだろうか?
『 夜は自己鍛錬と忍耐のための時間だ。』
『 つくしが俺に冷たい。こいつ離れて行ったらもう二度と口をきかねぇっていうだろ?だから離れねぇようにベッドの中でも裸でくっついてたら、今度はいい加減離れろって言うんだぞ。おまえの母さんは言うことが支離滅裂だ!』
父さんはどんな時でも、いやになるほど物事をはっきり言うから母さんに怒られていた。
朝になってふたりの態度を見れば意味することは一目瞭然だったけど。玄関先で恥ずかしげもなくキスをする両親の姿も今では見慣れたもので、17年離れ離れになっていた時間を取り戻そうとしているのは理解出来た。
17年_
だが世の中には決して変わらないものがいくつかあると言うが、その中に含まれるのは僕の祖母だと言われていた。道明寺楓という人物は恐ろしいほど冷徹だと聞いていた。ニューヨークに住む祖母という人物に会ったのはまだ入院していた頃だった。
父さんも母さんもいない病室に突然現れ、枕元に置いてあったうさぎのぬいぐるみを見て目を細めて笑ったのを覚えている。
大財閥の跡取り息子に悪い虫がついたと母さんのことを認めなかったという祖母。
不思議なものでそんな人と話しをすることが苦ではなかった。
僕の中には祖母の血が受け継がれているのは確かなことなんだから。
「あなた。天国を覗いてきたのね?でも追い返されてしまったんでしょ?」
そのひと言で祖母がどんな人物かわかった。ユーモアがある。そう思った。
「司にそっくりだけど、あなたの中には司とつくしさんの両方が混じり合っているのね。」
孫の僕を見る目は17年前に母さんを見た目とは違うはずだ。
「あなたのことを過ちだとは思わないわ。あなたのお母さんと司が出会ったのは、あなたとあまり年が変わらない頃だったわね。早いものね。あの子のことを心配していたのがつい先日のことのように感じられるわ。」
それは父さんが刺され、病院に運ばれた時のことを言っているのだとわかった。
「あの頃は司もまだまだ子どもだった・・。あの子は小さい頃から一度決めたことはやり抜く子どもだったわ。それは大きくなっても変わらなくてね。それが悪い方に進んでいったのよ。あなたのお母さんに会うまではね。」
祖母から語られるのは僕が生まれる前の話しだ。
「あの頃は・・司には充分ではないと思っていたの。でもあのあと・・どんな女性があの子の前に現れても充分な女性はいなかったわ。」
母さんを充分ではないと思っていた。その言葉には嫌いという意味は含まれるのだろうか?
「あなたのお母さんは自分というものを持ってる人だわ。だからこうして・・あなたがここにいるのね。」
産まないという選択肢を取らなかったことを言いたいのだとわかった。
「あの邸で、あなたとつくしさんが幸せになれるといいいのだけど。」
そのとき気づいたのは、少なくとも今のこの人は父さんと母さんのことを認めているということだ。語る言葉に込められているのはあの頃の母さんへの祖母なりの詫びの気持が込められている。そう感じていた。
「あなたのお母さんを悪しざまに言ったことを・・ずっと後悔していたわ。」
そんな会話が交わされてから、色々なことががらりと変わったことだけは確かだ。
祖母と父さんと母さんは17年前のことなど無かったかのように打ち解けていた。
そうなる為には三者三様の思いを乗り越えたんだということだけはわかっていた。
航はコーヒーカップをテーブルに置くと立ち上がった。
「父さん、僕ちょっと西に行ってくる。」
「ああ。わかった。よろしく言ってくれ。」
「よろしくって何をよろしく言えばいいんだよ?」
「うちは広いだろ?同じ屋根の下にいても会えないこともあるからな。父さんも母さんも元気だって伝えてくれ。」
父親の育った邸の中を歩きながら、いつになったらこの場所に慣れるんだろうかと考えていた。そもそもここが家と言えるんだろうか?まるで美術館のような佇まいに慣れるまでは時間がかかりそうだ。
おまえの部屋の内装は好きにしろと言われたけど、今のままで充分だ。
それより母さんには、自分が幸せを感じられる部屋というものがあるんだろうか?
何しろ僕たち親子が暮らしていたアパートの部屋は、僕の部屋に全てが収まるほどだから、この邸は広すぎて疲れるほどだ。
廊下の至る所に置かれている花瓶や彫刻に気を使いながら歩かなくてはいけないなんて、やっぱりここは美術館か博物館としか思えなかった。
トントン
扉をノックするとノブを掴んでまわした。
航は祖母の部屋を訪れた。
「楓さん。」
「あら。航さんよく来てくれたわね。いらっしゃい。いいの?こっちに来ても?」
「うん。父さんと母さんは高校時代の仲間と話しがはずんでいるみたいだから。」
「司の幼なじみね?」
普段ニューヨークに住む祖母は時々こうして東京にやって来る。
祖母と孫の間の呼び名は楓さんと航さん。
はじめて楓さんと呼んだ時、祖母は少し困惑したけど若いボーイフレンドが出来たみたいだと言って喜んでくれた。
それにおばあちゃんだなんて言ったら失礼にあたるくらい楓さんは若く見える。
航は楓に近づくと紙を差し出した。
「僕の成績なんだけど、高校を卒業したらニューヨークの大学に行こうと思ってるんだ。この成績で行けると思う?」
航の頭の中には父親のことが浮かんでいた。
母さんのことを忘れて渡米したという父さん。
そう差し向けたのは他ならぬ祖母だと聞いているが、そんなことは気にしていなかった。
過ぎたことを言ったところで、過去を変えることは出来ないのだから気にしても仕方がない。
恐らく祖母の頭の中にもあの頃のことが浮かんだに違いないはずだ。
ふたりが17年も離れ離れになるきっかけを作ったのは自分だという思いがあるかもしれない。
だが、祖母という人は惰性で謝ったりせず、謝るべきことはきちんと謝る人だ。
あの当時父さんをニューヨークに連れて行ったことは、当時の事情としては至極あたり前のことだったのだろう。
だが黙っているところを見れば、僕の言葉は祖母のふいを突いたのだろう。
まさかあの当時の父さんと同じ年を迎えようとする孫が、ニューヨークの大学へ行きたいと言うとは思いもしなかったはずだ。
暫くおいて、返事があった。
「航さん。このことは司もつくしさんも知っているの?」
どこか言葉を選んでいるといった口調だ。
航は首を縦に振った。
「うん。知ってるよ。だからニューヨークに行くなら楓さんに相談しなさいって言われた。」
「それで目的はなに?遊び目的なら相談には乗れないわ。」
「僕は父さんと違って道理のわかる人間だから。」
「航さんの言う道理ってなにかしら?」
「僕、父さんの跡を継ぎたいんだ。その為には父さんと同じようにニューヨークで大学に通いながら仕事を学びたい。」
楓にしてみればまさか孫が自らの意志で父親の跡を継ぐと言い出すとは思いもしなかったはずだ。だが嬉しい驚きだった。つい最近までその存在を知らなかった孫だったが、病院で会った時から心を奪われた。自分の息子の若い頃にそっくりな孫に。
そんな孫が会社を継ぐと言っている。
「厳しいわよ?学業との両立は。それにわかってると思うけど、経営者一族の出身だからと言って甘やかされると思ったら大きな間違いよ。」
歯切れのよい口調が戻った。
楓はどうして孫が父親の跡を継ぐ気になったのか知りたかった。
「航さん。どうして道明寺を継ごうと思ったのか聞いてもいいかしら?」
「どうしてかな。父さんと一緒に暮らすようになってからかな。父さんの仕事に対しての姿勢だとか、考え方とか見ていて思ったんだ。この人と一緒に仕事をしてみたいってね。それに徐々に固まって来たって言うのかな。男としての立場が。楓さん?僕は母ひとりで育ったから小さい頃からわかってたんだ。いつまでも子どもでいられるわけじゃないってね。」
航は片方の口角を上げ、父親によく似た笑みを浮かべた。
「それに18歳って言えば人生を変えるには丁度いい年だと思う。道明寺航としてニューヨークで新しいスタートを切りたいんだ。」
牧野航としての生き方を否定するものではなかったが、道明寺という名前は大きすぎて今の自分が名乗るには不十分な気がしていた。道明寺を名乗る以上はこの名前に負けないだけの実力を身に付けたい。そう考えていた。
「いいわ。賛成してあげる。わかっているでしょうけどアメリカは実力主義の国よ。少しでも気を抜けば他の人間に追い落とされるわよ。」
航の前にいるのは楓さんではなく鉄と呼ばれていた手強い女だ。そんな女性に賛成してもらえたことで胸のつかえがおりた感じがした。
「まあ、あなたの考えていることはだいたいわかってるわ。」
楓は口調をやわらげた。
「僕がニューヨークに行けば母さんは父さんとふたりの時間も増えるよね?それに母さんには早く楽をさせてあげたいって思っていたしね。」
そう言ってほほ笑む航の瞳は未来を見据えていた。
「そう?でもつくしさんが楽かどうかは、わからないわよ?もしかしたら弟か妹が出来るかもしれないわね?」
応える祖母の瞳も希望に溢れていた。
航はこれから先、弟か妹が出来ることが嬉しかった。
病室で祖母の言った言葉を思い出していた。
『 あの邸で、あなたとつくしさんが幸せになれるといいいのだけど。』
幸せは母さんが感じてくれたらそれでいい。
母さんが幸せなら僕も幸せだから。
一番大切なのは、父さんと母さんがふたりで幸せだと感じてくれること。
それが僕の願いでもあり、幸せだから。

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「わりぃかよ?仕事が出来る男は何でも早ぇんだよ!」
「いや。何でも早いのがいいって言っても、おまえの息子は・・航君はあのとき、滋の島での一夜の子どもなんだろ?おまえらいつの間にそんなことしてたんだよ?」
「そんなことおまえらにいちいち説明する必要があんのか?」
「いや。別にそんなもん説明されても困るけどな。ただ・・・・」
「ただなんだよ?」
「おまえのかーちゃんはどうなんだよ?いきなり孫が現れたんだ。腰抜かしたんじゃねぇの?」
「ああ・・・そのことなら心配いらねぇ。ババァ・・いやお袋は航のことを気にいってる。 今じゃ俺が高校生だった頃よりも出来のいい孫のいいなりだな。あれは。」
「おまえのかーちゃんがか?」
「まじか?」
「まじだ。」
道明寺航は友人達と話しをする父親を見つめていた。
友人とは美作商事の専務と茶道西門流の次期家元だ。
父親の友人達からいつも言われるのは司の若い頃にそっくりだ。
まるで合わせ鏡を見ているようだ。
航はすべての容姿を司から受け継いでいるぞ。
同じように癖のある髪。同じくらいの身長に骨格はどう見ても司だよな。
だが決まって最後に言われるのは、性格まで受け継がなくて本当によかったよな。
そのひと言で締めくくられていた。
父さんの性格。
記憶を失っていた頃と今とでは、雲泥の差だと言われている。
新聞紙面で知っていた父さんは、ずば抜けた経営能力を持つ男だと言われていた。
経済界の大物で、いつも勝者でいる男。仕事に対しての評価は高く、全てにおいて自制心を失うことはない。鉄のような男。そんな形容詞がついていた。
だけど今となってはその形容詞も母さんの前で使われることはない。
鉄どころか溶かしたマシュマロみたいな時がある。男の僕でも思うけど、とてもじゃないけどあんな顔、家族以外に見せるものじゃない。
あれじゃあ会社経営者として締まりがなさすぎる。
息子の僕が言うんだからわかってもらえると思う。
家の中にいるときは母さんのことをつくしと呼び、傍に張り付いて離れない。
たまにチビと呼ぶときもあるけど、そんなときは決まって母さんに無視される。
確かにうちの家族のなかじゃ母さんは小さい。僕も父さんも180センチ以上あるんだから僕から見てもチビだと思う。そんな母さんに無視された父さんは慌てて母さんの後を追いかけて行くと悪かった、許してくれを連発している。
父さんのプライドの高さは有名だけどその反面、母さんに対する恐怖はプライドの高さ以上のレベルだと思う。母さんに口をきいてもらえなくなったら死んでやる、そんなことを平気で言ってのける人だとは思わなかった。そんな父さんと暮らすようになって、僕は人をありのままに受け入れることを学んだような気がする。これは僕が今まで知らなかった父さんの一面なんだと思うことにした。
どんなに英雄視される父さんでも間違いも犯す普通の人間だとわかって、どこかホッとしたような気がしていた。
『 いいか航。いいことと悪いことは表裏一体だ。悪いことがあるからいいことが際立つんだ。俺は17年悪いことしかなかった。だからこれから先17年は父さんにはいいことしか起きないからな。』
そんなことを真面目な顔して僕に言う父さんは、本当にあの道明寺司なんだろうかと疑いたくなった。
育ったのは小さなアパートで、物心ついた頃、父さんはいなかった。
それがあたり前ではないと知ったのはいつの頃だっただろう。
だがそのことで、泣いたり、わめいたりしたことはなかった。決して母さんを困らせるようなことはしなかったはずだ。
かつて幼い頃、同じ布団の中で母さんと寝たことがあった。
あれは_
いつの頃の話しだろう。
『 過ぎたことを悔やんでもしかたがないでしょ? 』
そう言って僕を励ましてくれたことがあった。
記憶の中にあるのはいつも前向きで明るい母さんで、決して僕の前では弱さを見せることはなかったはずだ。
そんな母さんだから新しい生活にもすぐに馴染んだようだ。
世田谷の道明寺邸に引っ越して来たのは3ヶ月前。
新たな視点で物事を見るということが必要となったが、僕はその事に抵抗はなかった。
『 物事の明るい面だけを見なさい 』
そう言って育てられて来たからだろうか。初めの頃は戸惑いもしたが、自分がどう言った立場に置かれた何者であるかということを理解するのは簡単だった。
父さんと母さんは高校時代に大恋愛をしたが、結ばれることはなかった。
運命の恋人。
仲間の間ではそう言われていたが、ふたりの運命が再び交わるまで随分と長い年月が経ってしまっていた。
両親から包み隠さず聞かされた話しは、正直言ってまるでドラマのようで、それこそ波乱に満ちた人生だった。
17年間ひとりぼっちだった母さん。
『航。ふたりで生きていこうね。』
そう言っていた母さんには、夢の中の王子様のような友人がいた。その人は母さんに結婚を申し込むことだって出来たはずだが恋愛感情はない。そう言ってほほ笑んでいたのを覚えている。
「それで、なんで牧野は類だけに航君のことを話してたんだ?」
「ち、ちがうのよ。たまたま類に見つかっただけで自分から話したわけじゃないの。」
「へぇー。さすが類だよな。類のアンテナって昔っから牧野の方を向いてたよな。」
「だよな。司が気づかねぇような、ちっちぇえことまで類は気づいてたよな?」
「おい。つくし。なんだよそのちっちぇえことってのは?」
「し、知らないわよ・・そんなこと・・」
ガチャン!
父さん!コーヒーカップが割れるから止めてくれよ!
母さんの言うことは本当だ。
僕が小さな頃、花沢さんに偶然出会ったという話し。
母さんは花沢さんを前に泣いてたから、僕はてっきりこの人が父さんなんだと勘違いをした。花沢さんが父さんだったらどんな父さんになったんだろう。こんなこと考えたら父さんに絞殺されるかもしれないね。
ある日。母さんは僕に言ったことがある。
あなたは愛に包まれて命を授かったのよ。愛の中で生まれて来たの。
その意味を理解するには時間がかかったけど、こうして両親の姿を見ていれば納得もできた。
友人達に囲まれても、恥ずかしげもなく堂々と手を握り合っている両親の姿。
30代半ばの夫婦ってこんなにも仲がいいものなんだろうか?
『 夜は自己鍛錬と忍耐のための時間だ。』
『 つくしが俺に冷たい。こいつ離れて行ったらもう二度と口をきかねぇっていうだろ?だから離れねぇようにベッドの中でも裸でくっついてたら、今度はいい加減離れろって言うんだぞ。おまえの母さんは言うことが支離滅裂だ!』
父さんはどんな時でも、いやになるほど物事をはっきり言うから母さんに怒られていた。
朝になってふたりの態度を見れば意味することは一目瞭然だったけど。玄関先で恥ずかしげもなくキスをする両親の姿も今では見慣れたもので、17年離れ離れになっていた時間を取り戻そうとしているのは理解出来た。
17年_
だが世の中には決して変わらないものがいくつかあると言うが、その中に含まれるのは僕の祖母だと言われていた。道明寺楓という人物は恐ろしいほど冷徹だと聞いていた。ニューヨークに住む祖母という人物に会ったのはまだ入院していた頃だった。
父さんも母さんもいない病室に突然現れ、枕元に置いてあったうさぎのぬいぐるみを見て目を細めて笑ったのを覚えている。
大財閥の跡取り息子に悪い虫がついたと母さんのことを認めなかったという祖母。
不思議なものでそんな人と話しをすることが苦ではなかった。
僕の中には祖母の血が受け継がれているのは確かなことなんだから。
「あなた。天国を覗いてきたのね?でも追い返されてしまったんでしょ?」
そのひと言で祖母がどんな人物かわかった。ユーモアがある。そう思った。
「司にそっくりだけど、あなたの中には司とつくしさんの両方が混じり合っているのね。」
孫の僕を見る目は17年前に母さんを見た目とは違うはずだ。
「あなたのことを過ちだとは思わないわ。あなたのお母さんと司が出会ったのは、あなたとあまり年が変わらない頃だったわね。早いものね。あの子のことを心配していたのがつい先日のことのように感じられるわ。」
それは父さんが刺され、病院に運ばれた時のことを言っているのだとわかった。
「あの頃は司もまだまだ子どもだった・・。あの子は小さい頃から一度決めたことはやり抜く子どもだったわ。それは大きくなっても変わらなくてね。それが悪い方に進んでいったのよ。あなたのお母さんに会うまではね。」
祖母から語られるのは僕が生まれる前の話しだ。
「あの頃は・・司には充分ではないと思っていたの。でもあのあと・・どんな女性があの子の前に現れても充分な女性はいなかったわ。」
母さんを充分ではないと思っていた。その言葉には嫌いという意味は含まれるのだろうか?
「あなたのお母さんは自分というものを持ってる人だわ。だからこうして・・あなたがここにいるのね。」
産まないという選択肢を取らなかったことを言いたいのだとわかった。
「あの邸で、あなたとつくしさんが幸せになれるといいいのだけど。」
そのとき気づいたのは、少なくとも今のこの人は父さんと母さんのことを認めているということだ。語る言葉に込められているのはあの頃の母さんへの祖母なりの詫びの気持が込められている。そう感じていた。
「あなたのお母さんを悪しざまに言ったことを・・ずっと後悔していたわ。」
そんな会話が交わされてから、色々なことががらりと変わったことだけは確かだ。
祖母と父さんと母さんは17年前のことなど無かったかのように打ち解けていた。
そうなる為には三者三様の思いを乗り越えたんだということだけはわかっていた。
航はコーヒーカップをテーブルに置くと立ち上がった。
「父さん、僕ちょっと西に行ってくる。」
「ああ。わかった。よろしく言ってくれ。」
「よろしくって何をよろしく言えばいいんだよ?」
「うちは広いだろ?同じ屋根の下にいても会えないこともあるからな。父さんも母さんも元気だって伝えてくれ。」
父親の育った邸の中を歩きながら、いつになったらこの場所に慣れるんだろうかと考えていた。そもそもここが家と言えるんだろうか?まるで美術館のような佇まいに慣れるまでは時間がかかりそうだ。
おまえの部屋の内装は好きにしろと言われたけど、今のままで充分だ。
それより母さんには、自分が幸せを感じられる部屋というものがあるんだろうか?
何しろ僕たち親子が暮らしていたアパートの部屋は、僕の部屋に全てが収まるほどだから、この邸は広すぎて疲れるほどだ。
廊下の至る所に置かれている花瓶や彫刻に気を使いながら歩かなくてはいけないなんて、やっぱりここは美術館か博物館としか思えなかった。
トントン
扉をノックするとノブを掴んでまわした。
航は祖母の部屋を訪れた。
「楓さん。」
「あら。航さんよく来てくれたわね。いらっしゃい。いいの?こっちに来ても?」
「うん。父さんと母さんは高校時代の仲間と話しがはずんでいるみたいだから。」
「司の幼なじみね?」
普段ニューヨークに住む祖母は時々こうして東京にやって来る。
祖母と孫の間の呼び名は楓さんと航さん。
はじめて楓さんと呼んだ時、祖母は少し困惑したけど若いボーイフレンドが出来たみたいだと言って喜んでくれた。
それにおばあちゃんだなんて言ったら失礼にあたるくらい楓さんは若く見える。
航は楓に近づくと紙を差し出した。
「僕の成績なんだけど、高校を卒業したらニューヨークの大学に行こうと思ってるんだ。この成績で行けると思う?」
航の頭の中には父親のことが浮かんでいた。
母さんのことを忘れて渡米したという父さん。
そう差し向けたのは他ならぬ祖母だと聞いているが、そんなことは気にしていなかった。
過ぎたことを言ったところで、過去を変えることは出来ないのだから気にしても仕方がない。
恐らく祖母の頭の中にもあの頃のことが浮かんだに違いないはずだ。
ふたりが17年も離れ離れになるきっかけを作ったのは自分だという思いがあるかもしれない。
だが、祖母という人は惰性で謝ったりせず、謝るべきことはきちんと謝る人だ。
あの当時父さんをニューヨークに連れて行ったことは、当時の事情としては至極あたり前のことだったのだろう。
だが黙っているところを見れば、僕の言葉は祖母のふいを突いたのだろう。
まさかあの当時の父さんと同じ年を迎えようとする孫が、ニューヨークの大学へ行きたいと言うとは思いもしなかったはずだ。
暫くおいて、返事があった。
「航さん。このことは司もつくしさんも知っているの?」
どこか言葉を選んでいるといった口調だ。
航は首を縦に振った。
「うん。知ってるよ。だからニューヨークに行くなら楓さんに相談しなさいって言われた。」
「それで目的はなに?遊び目的なら相談には乗れないわ。」
「僕は父さんと違って道理のわかる人間だから。」
「航さんの言う道理ってなにかしら?」
「僕、父さんの跡を継ぎたいんだ。その為には父さんと同じようにニューヨークで大学に通いながら仕事を学びたい。」
楓にしてみればまさか孫が自らの意志で父親の跡を継ぐと言い出すとは思いもしなかったはずだ。だが嬉しい驚きだった。つい最近までその存在を知らなかった孫だったが、病院で会った時から心を奪われた。自分の息子の若い頃にそっくりな孫に。
そんな孫が会社を継ぐと言っている。
「厳しいわよ?学業との両立は。それにわかってると思うけど、経営者一族の出身だからと言って甘やかされると思ったら大きな間違いよ。」
歯切れのよい口調が戻った。
楓はどうして孫が父親の跡を継ぐ気になったのか知りたかった。
「航さん。どうして道明寺を継ごうと思ったのか聞いてもいいかしら?」
「どうしてかな。父さんと一緒に暮らすようになってからかな。父さんの仕事に対しての姿勢だとか、考え方とか見ていて思ったんだ。この人と一緒に仕事をしてみたいってね。それに徐々に固まって来たって言うのかな。男としての立場が。楓さん?僕は母ひとりで育ったから小さい頃からわかってたんだ。いつまでも子どもでいられるわけじゃないってね。」
航は片方の口角を上げ、父親によく似た笑みを浮かべた。
「それに18歳って言えば人生を変えるには丁度いい年だと思う。道明寺航としてニューヨークで新しいスタートを切りたいんだ。」
牧野航としての生き方を否定するものではなかったが、道明寺という名前は大きすぎて今の自分が名乗るには不十分な気がしていた。道明寺を名乗る以上はこの名前に負けないだけの実力を身に付けたい。そう考えていた。
「いいわ。賛成してあげる。わかっているでしょうけどアメリカは実力主義の国よ。少しでも気を抜けば他の人間に追い落とされるわよ。」
航の前にいるのは楓さんではなく鉄と呼ばれていた手強い女だ。そんな女性に賛成してもらえたことで胸のつかえがおりた感じがした。
「まあ、あなたの考えていることはだいたいわかってるわ。」
楓は口調をやわらげた。
「僕がニューヨークに行けば母さんは父さんとふたりの時間も増えるよね?それに母さんには早く楽をさせてあげたいって思っていたしね。」
そう言ってほほ笑む航の瞳は未来を見据えていた。
「そう?でもつくしさんが楽かどうかは、わからないわよ?もしかしたら弟か妹が出来るかもしれないわね?」
応える祖母の瞳も希望に溢れていた。
航はこれから先、弟か妹が出来ることが嬉しかった。
病室で祖母の言った言葉を思い出していた。
『 あの邸で、あなたとつくしさんが幸せになれるといいいのだけど。』
幸せは母さんが感じてくれたらそれでいい。
母さんが幸せなら僕も幸せだから。
一番大切なのは、父さんと母さんがふたりで幸せだと感じてくれること。
それが僕の願いでもあり、幸せだから。

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