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2016
08.13

乾いた風 前編

Category: 乾いた風 (完)
大人向けのお話です。「愛人イベント」のお話です。
未成年者の方、またそういった設定を受け付けない、
もしくはそのようなお話が苦手な方はお控え下さい。
**************************












あたしは人生における最高の快楽を知った。
それは愛の匂いをあたしに感じさせる。誇り高い肉体を持つ男とはじめて関係を持ったのはいつのことだったのか。もう随分と昔の話しだが決して忘れることはなかった。

眠れぬ夜を幾夜も過ごし、横たわった姿勢で天井だけを見つめて過ごす部屋はいつもひとりぼっちだった。
朝日が東の空へと昇ると安堵するのは何故なのか。月が沈んで日が昇る。毎日繰り返される出来事がなぜこんなにも感情の満ち引きを引き起こすのか。日が昇れば楽しい気持ちにさせてくれるかもしれない。きっと新しい何かを運んで来てくれるはずだ。毎日そればかりを願って過ごしてきたはずだ。

夜の帳は孤独というものを実感させるからなのかもしれない。

そんな孤独な夜をやり過ごすため、どこか自分の心の中に逃げ場を作ることがいつの間にか癖になっていた。


今夜のテラスは夏の名残を色濃く残していた。
間近に海を見渡せるその場所は、空気が熱をもった状態でテラコッタタイルの古い床のうえを漂っている。
風は緩やかに下から吹き上げてくるようで、ときおり女の髪の毛を揺らしていた。
手すり越しに見えるのは漆黒の闇だけで、明かりはひとつもなく、ただのっぺりとした暗闇だけが広がっているだけで手を伸ばしたところで掴めるものなど何もないはずだ。




音はなく、静かな夜。



甘く艶のあるバリトンが耳元で囁いた。



「俺が欲しいか・・」



司はつくしの腰を両手で撫でまわすとその手を乳房まで滑らした。
指を使って女の小ぶりの乳房を揉み上げれば小さくあっと呻く声がした。
夜風にさらされた胸は乳首を硬く尖らせている。
司はその乳首を満足気に口に含むと強く吸った。

「あっ・・つ、つかっ・・さ・・」

熱い唇はぴちゃぴちゃと音を立て女の乳首をむさぼるように吸い続けていた。
つくしは視線を落とすと自分前にひざまずいた司の頭が左右に動いているのを眺めていた。
左右の胸をいとおしそうに吸い続ける司の唇。

「お、おねがい・・つ・・つかさ・・」

まるで赤子が母親の豊な乳房を求めるように乳首をきつく吸われていた。

「欲しいの・・」

「どうした?何が欲しいんだ?」

つくしは身を震わせると司の頭をよりいっそう自分の胸に強く引き寄せた。

つかさが欲しいの・・

「俺が欲しいんだろ?」

「欲しい・・つかさの全てが欲しい・・」

他には何もいらないから・・・

あんただけが・・

あんただけが欲しい・・

あんたの時間も愛情も全てが欲しい。

「ああっ!・・はっぁ・・つ・・つかさ・・・っ・・」

噛み千切られるほどの強さで乳首を咥えられると脳が痺れて立っていられなくなった。
激しい欲望と興奮だけが一気に押し寄せて来るようで、腰から崩れ落ちると四つん這いになってそのままうしろから繋がっていた。
力を込め突き入れられ、体の奥に感じた男の欲望に声を押し殺すことはしなかった。
つくしは自分が自制する心なんてもうとっくに捨てているとわかっていた。

「はっ・・・はあっ、ん・・」

「教えてくれ・・どうして欲しい?」

司は片手を二人が繋がった部分へと這わせると小さな突起を指で押し潰した。

「あぁっ!・・・はっあ・・」

二人が繋がった場所は司が突くたびにぐちゅぐちゅと淫らな水音を立てながら彼の性器を呑み込んでいく。濡れた割れ目に硬いものを突き入れるたびに溢れ出る愛液は床の上へ滴り落ちると小さな水たまりを作るほどだ。

「_つくしっ・・」

「おまえは俺だけのものだ・・」

男の口から囁かれる愛しい女の名前。
遠い昔、感じた思いは今も変わらない。彼の希望であり叶えたい夢でもあったはずだ。
だが叶わない夢は見れば見るだけ虚しさが募る。彼の夢はもう決して叶うことがないのだろうか。

「いっそのことおまえを・・壊して・・」

叶わない夢なら壊してしまおうとでも言うのか。
司は頭をのけぞらせ、目を閉じたままつくしの腰をつかんで連打をあびせていた。
繰り返される律動は力強くつくしの鞘の奥へと突き入れられている。

「クソッ・・」

低いかすれた声が司の口から漏れてはいるが、頭は興奮で何も考えてなどいないはずだ。
奥まで突き入れるたびにもっと奥へと引き込まれていくようで、喰いちぎられるのではないかと言う思い。司の欲望の塊は本来自分のいるべき場所へと戻って来たはずだ。理性も何もなくして、ただひたすら目の前の体を求めて会えずにいた日々の埋め合わせをしたいと望んでいた。細い体に小さな手。その手で自分の全てを掴んで欲しい。掴んで離さないでくれという思い。それは言葉に表すことが出来ない感情。それならと自分の体の全てを使って伝えていた。

人間の欲望というのは限りがない。生きている限り常に何かを求め続ける生き物だ。
ただ、それが一体なんなのか。
それは誰しもが求めて止まない心の渇望。自分をわかってくれる人をひたすら求めることしか出来なかったあの頃の思い。決して物欲では満たされることのない孤独な心。
愛が欲しい。愛して欲しい。愛されたいという思い。どんなに孤独に生きようと決めていても手を伸ばさずにはいられない存在が誰しもあるはずだ。

互いがいなくては生きていくのが辛い。
それならいっそ。という思い。

二人のどちらもが同じ思いでいるはずだ。


愛の姿は決して変わらない。
時は人を成長させるというが、例え何年経とうが二人の間にある愛の姿は変わることがなかったはずだ。






つかさ・・

何度も繰り返し叫んだ名前。
会いたくて、愛されたくて何度も繰り返し呼んだ愛しい人の名前。

壊されてしまってもいい。

この腕の中で永遠に過ごすことが出来るなら形なんてどうでもいい。
互いの肌の温もりを感じ、本能のままに上げる声を聞き、このままずっと繋がっていたい。
夜が始まったばかりのこの場所で、大きなベッドにひとりぼっちで横たわるのはもう嫌なの。もしも眠りにつくのなら、愛している人の腕に抱かれて眠りたい。


あのとき、はじめてあたしを抱いたときのように・・・






人の匂いは表現しにくいと言うがその男の匂いは昔から変わらなかった。二人がはじめて愛し合ったのは南の島のコテージ。人は匂いで思い出すことがある。嗅覚は五感の中では最も原始的な本能と言われ、食欲や性欲などと同じ本能をつかさどる部分へと結びついている。そのためか匂いの記憶は薄れにくく、ましてや匂いが恋愛感情と結びついた記憶なら長期間なかなか忘れることはない。それに匂いで昔の記憶が甦ることもある。
あの南の島のコテージではじめて知った男の匂い。
つくしにとって世界でいちばんの匂いは隣に横たわる男の匂いだ。


深く香るその匂い。


この匂いを嗅ぐと幸せな頃を思い出さずにはいられなかった。普段は自分の胸の奥深くにしまいこんだままだが、それでもこうしてこの男と過ごせば、遠い過去から現在までの懐かしい記憶が思い出された。この男特有の香りは他の誰かと同じものは世界にひとつと無い。
だからどこかでこの香りに出くわすことは決してなかった。それに自分以外の人間がこの香りを纏うだなんてことは無かった。

つかさ・・

この男への思いの深さに自分を抑えることが出来なかった。いつの頃からかこの男を自分のものにしたいという感情が心の中で抑えきれなくなっていたのを感じていた。

誰にも渡したくない・・

つくしは、男の美しい寝顔を見ていた。
硬質な美貌と呼ばれる端正で鋭い顔はあの頃と変わらない。
癖のある黒髪はあの頃と変わらず豊かだ。指に軽く絡んでは離れていく癖のある髪。
この黒髪を指で梳くということがこんなにも愛おしいことだとは昔は気づかなかった。

そう・・・

あの頃は。






16歳と17歳で出会った二人の恋は周囲に祝福されるものではなかったが、それでも互いを思い合う気持ちは強かった。
未成年者だった彼らの恋は司の母親によって一度は引き裂かれた。彼は一般庶民の家庭では想像もつかないような世界で暮らしている。司は財閥の後継者でひとり息子だ。すでに将来は決められていた。それはこの世に生まれ堕ちた瞬間から、いや母親のお腹の中に宿った時から決められていた彼の将来。
自分の意志が届かないところで決められていた未来。見えない掟に強いられて生きなければならない人生。それでも二人は走り抜けていく時を共に過ごしたいと願っていた。


二人は司がアメリカの大学を卒業するとニューヨークで一緒に暮らし始めた。
周囲がなんと言おうが関係なかった。ただ、司は与えられた仕事以上をこなそうとしていた。
それは二人の関係を認めさせるために、つくしがいればこそ仕事にも身が入るのだと母親に分からせるためでもあった。
そんな二人に時はそれほど早くもなく、遅くもなく流れていった。
司の母親は二人に対して何も言ってはこなかった。だがある日、まるで司がアメリカ国外へ出張しているのを見計らったかのように住まいを訪れた。滑稽なほど冷たい態度は昔と変わらなかった。

「こんばんは。お邪魔してもよろしいかしら?」断る理由はない。

「あの子の父親はもう長くはありません」

それは司が高校卒業と同時に渡米をしなければならなくなった理由。
父親の病状が悪化したということだ。

「牧野さん、そろそろあの子を、司を返してもらえないかしら?」

「あなたたちはもう十分恋を楽しんだはずよね?」

十分恋を楽しんだ・・・
つくしはその言葉に違うと言いたかった。
楽しんで恋をしているわけじゃない。
恋じゃなくてあたしは道明寺を心から愛している。

「あの子は道明寺の跡取りです。これ以上あなたと恋を楽しんでいる時間はないの」

「あの子の父親が亡くなれば財閥の中での派閥争いも表立ってくるわ。そうなる前にあの子のために確固たる地盤をつくってやらなければいけないの」

「わかるわよね?あなたも。司には大きな後ろ盾が必要なの」

鉄の女は決して二人を認めていたわけではなかった。
時期がくれば再び二人の仲を裂くつもりでいたのだ。

確固たる地盤と後ろ盾。

まだ若い司が大きな財閥を率いていくためには力が不足しているということか。父親が亡くなればそれまでなんとか保っていた社内のパワーバランスも崩れるということだろう。財閥内の権力争いに勝つために、母親が後ろ盾と見込んだ相手はアメリカ資本の石油メジャーだ。これまでも石油事業に興味を示していた母親は、業務提携先の会社を探していた。
そんな矢先に実にいいタイミングで飛びこんで来たのは石油メジャーのひとり娘と司の結婚話し。
石油メジャーの資本は巨大だ。石油価格が暴落したとしてもオイルマネーはうなるほどある。そんなメジャーと姻戚関係を結べるとは、まさに願ったり叶ったりの好条件だと司の母親は考えた。

今までもビジネス絡みの結婚話しは幾度かあったが上手く行かなかった。

ただ、今回の話しには大きな力が働いた。

ひとり娘は司を気に入り、父親に頼んだ。

彼が欲しいと。

金で買えるものなら何でも手に入れてきた娘は司に対してもまるで物を買うように欲しがった。
金で買えないものはない・・それはまるで司がつくしと出会う前の姿であり、女の姿はまるであの頃の映し鏡のように思えた。人こそ人の鏡。他人は自分の映し鏡というが、目の前に現れた女は過去の自分を映し出しているかのようだった。


司は自分には愛する女性がいて一緒に暮らしている。だから貴女とは結婚は出来ないと断った。まだ若い男は病床に伏す父親が亡くなるまでに、なんとか自分で事業を率いていけるだけの力を身に着けようとしていた。

だがそんなときに発覚したのは道明寺ホールディングスの贈収賄事件。
グループ内のある企業が起こした不祥事。まだ上場する前の会社の株式を複数の政治家や官僚にばら撒くという事態に親会社の道明寺は世間から、いや世界から叩かれることになった。 上場すれば確実に値上がりし、高値で取引をされる株式だ。売却すれば多額の利益が見込まれた。どう考えても賄賂性が高かったのは言う間でもない。

会社としての信用度は日本で最高ランクに格付けされた道明寺ホールディングスが起こした贈収賄事件。
司の父親は経営トップだ。本来なら公衆の面前に立ち企業経営者としての説明責任をになうべきだが、病のためそれも出来なかった。そのことも道明寺ホールディングスの世間に対する印象を悪くした。


政治家に賄賂を贈る・・

昔も今も決して変わらない悪しき習慣だろう。だがどうしてそのことが世間に知られることになったのか・・大きな力が働いたのかもしれなかった。

誰かがマスコミに情報を漏らしたのか?

考えられないこともなかった。


信用失墜は大きい。
早急にグループ内の粛正が求められたが業績が傾いてくるのは目にもわかるほどだった。
株価の下落は止まらず、売りばかりが目立ち、連日のストップ安で道明寺ホールディングスの株式は監理銘柄へ移される寸前まで行った。監理銘柄とは上場廃止基準に該当する恐れがある株式に割り当てられる特別な扱いだ。
監理銘柄に指定されるということは、道明寺ホールディングスが上場廃止になる恐れがあるということを表している。
上場廃止が決定すれば整理銘柄となり、原則1か月を過ぎれば上場廃止となる。

道明寺ほどの大企業が上場廃止となれば、世間への影響は計り知れない。
当然だが上場廃止となれば道明寺の株は価値がなくなる。それならその前にと売り逃げをする投資家が大量の株式を放出した。その結果東京の株式市場は連日全面安が続く展開となっていた。株式市場の低迷は日本経済の低迷を招く。

大きな企業が転ぶと日本経済は転覆してしまう恐れがあった。
売りばかりが先行する東京市場の状況が、東京発の世界的な金融恐慌を招きかねない状況へと変わっていくのは目前だった。
証券マンのメッカ、兜町界隈でまことしやかに囁かれはじめたのは道明寺が倒産するのではないかという噂だ。

大きすぎて潰せないという会社もあるが、道明寺の場合は潰れるかもしれない。
アメリカ政府はリーマンショックのとき、大きすぎて潰せないとして何社か救済に乗り出し助けた会社もあった。だが今回は政治家への贈賄事件だ。日本政府の金は国民の税金だ。その税金を使って贈賄側の会社の救済に乗り出せば、ときの政権は国民からの批判を浴びることは目に見えていた。
どちらにしても上場廃止になれば、資金調達が銀行からの借り入れだけに限られてくる。
ただ、銀行が融資をしてくれればの話しだが。

火のない所に煙は立たぬと言うくらいだ。まさかとは思うが道明寺は潰れるのか?
今の世の中、何が起きてもおかしくはない。

当然ながら経営陣の資質までもが問われる事態となって来ていた。そんな折、司の父親が亡くなった。恐らく病のこともあっただろうが、事業が困窮を究める様に心労が重なったこともあるのだろう。
大企業の経営者が亡くなれば、必ず後継の問題が浮上してくる。
経営の根幹を揺るがす事態にならないうちに財閥をひとつにまとめる必要がある。
だが司が後継者として独り立ちするのにはまだ力不足だった。しかし会社を潰すわけにはいかない。それは経営者の責任で大勢の人を使うなら当然のことだろう。何万という従業員とその家族を守るには自らが犠牲になることを暗に求められていることは十分わかっていた。


大きな後ろ盾が必要だ。


わかっている。


だがどちらかを選ぶなど今の自分に出来るだろうか?


会社のためとはいえ、別れなければならなかったふたり。


たったひとつの言葉だけが交わされた。


すまない・・・と。


二人で過ごした年月が最後はたった5分足らずの会話で終わっていた。
そこから先は断片的な記憶しか存在していなかった。

ただ、司はまっすぐに彼女の目を見ることが出来なかったことだけは覚えていた。





運命の歯車はまたどこかで噛み合うことがあるのだろうか?







あの贈収賄事件から10年経ち、司が東京に帰ってきたときつくしに再会した。ただそのとき、二人の間に交わされた眼差しは無言でゆきちがう以外何もなかった。だが互いの頭に過った思いは同じはずだ。

10年前の二人の別れは苦しみだけを残していた。さよならさえろくに言えずに別れた二人はこの10年を胸の内に哀しみだけを抱えて生きてきたはずだ。
もしその場に二人だけしかいなかったとしたら彼女を抱きしめていたはずだ。
抱きしめて彼女の懐かしい甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら唇を寄せていたはずだ。


忘れられない・・

忘れられるはずがない・・

忘れたことはなかった。

何をしてもひとりの女を忘れることなど出来るはずがない。

吐息とその肌の温もりを今でもこの胸に感じるというのに、忘れ去ることなど出来るはずもなく、小さな両手が司の背中に回されていた感触はいまでも確かに残っていた。


あの別れを思い出すたびに司の心は__あれ以来司の人生は、彼のアメリカ人の妻の存在を、彼のどうにもならなかった結婚を・・・・彼は自分の未来を否定し続けていた。
愛してもいない人間と一緒に暮らすなんてことは、司にとっては地獄だったはずだ。
だから彼は婚姻関係を結んだのち、半年を置いて妻と暮らす邸を出た。
だが空虚な毎日をやり過ごすだけの人生に未来などあるはずもなく、本当なら自分の腕の中にいたはずの女を思うだけの日々。未練は肉体に対してではないにしろ、他の女が欲しいとは思わなかった。

いっそ、時の経過が二人で過ごした全てを忘却の彼方へと持ち去ってしまえばいい。
そうでなければこれ以上の人生は虚しさが募るだけだ。常に冷静で感情に流されない男。世間は司のことをそう言った。


人としての生々しい感情というものは彼の心の中からいつの間にか消え去っていたのだろか。




心淋しかったはじめの短い期間のあとも、司の心は時が過ぎるのを忘れてしまったようにあの頃のままだった。


彼女以外絶対に愛せない。


再会をした二人には止められない思いだけがあったのは確かだ。
二人の逢瀬は司がニューヨークから日本へ帰国してくることで重ねられていく。
春が過ぎ、夏を迎え、秋を感じる。そして過ぎ去る冬。
慎重に立てた計画は東京から離れた人目につかない宿。海辺の別荘。山の上のロッジ。
場所は時をやり過ごすだけの器で二人が共に過ごせるならどこでもよかった。

あの頃と同じ夜を二人で過ごせるなら・・


ふたりの情事はやがて必然的に世間に知られるようになった。

情事・・世間はふたりの仲をそう表現した。

どれほど慎重に行動しても、所詮日本にいては知られてしまうということを二人は思い知らされた。

選択のない状況に追い込まれたわけではなかった。

だが人目を避けるには国外がいいいと決めたのは司だった。








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2016
08.14

乾いた風 中編 

Category: 乾いた風 (完)
地中海の香りを運んでくる風は遠くアフリカ大陸からの熱い南風。
この国ではシロッコと呼ばれ、北アフリカでは乾燥した風も海を渡ると高温湿潤の風となって時に運ばれて来た砂が嵐を起こす。

碧い空と碧い海。 
つくしは今この国にひとりで暮らしている。


そこは世界で最も美しいと言われるアマルフィ海岸。
長靴の形をしたイタリア半島西側の丁度足首の部分にあたり、地中海の海域のひとつであるティレニア海とソレント湾を望むことが出来る入り組んだ海岸線は30キロにもおよぶ。
ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが生涯にわたって愛した妖精の死を悼み、その亡骸を世界で一番美しいと言われるこの場所へと葬った。
その名を永遠にとどめておくために名づけたと伝説が残るこの場所。

イタリア屈指のリゾートは、美しい街並みが切り立った断崖絶壁に張り付くようにして点在している。
断崖を飾るパステルカラーで彩られた家々は、まるで海に落ちないようにと踏ん張っているようで、温暖な気候にカラフルな街並みは見ているだけで楽しい気持ちにさせてくれる。

だがここは山が海に直接落ち込む典型的なリアス式海岸だ。
風光明媚な景色とは裏腹に道は狭く、急カーブが続く海岸線。運転を誤ると真っ逆さまに海へと転落して行きそうだ。
そんな険しい岩陰の続く地形だが、それでも人々の暮らしは成り立っていた。狭い土地を段々畑として利用し、レモンやオレンジ、ぶどうの栽培や放牧などで生計を立てている。




司のニューヨークから東京への旅はこの街へと行き先を変えていた。
彼は月に一度はイタリアを訪れていた。
それは愛しい女が待っているからだ。

昨夜はひと月ぶりに抱き合った司とつくし。
時計はまだ午前5時を少しだけ回ったところだ。
美しい男は女に髪を触られてもまだ目を覚まさなかった。

つくしは動かない唇に自らそっと唇を押し当てた。
ついさっきまで触れられていた胸の先がちくちくと痛んだ。

司の瞼が薄く開かれた。

「どうした?」

「・・ん・・あんたを見てた」

今までもいつも見ていた。
だが決して傍には近寄れず、遠くから崇めることしか出来ない。
ひと前では赤の他人を見る目でしか見ることが出来ず、返されるのはよそよそしく、冷たい視線。それでもつくしはいつも彼の愛を信じていたから決して心を痛めることはなかった。
今ここで返される言葉は短くても温かみがあり、やさしさが感じられ、慈しみが感じられる。

この国なら司もあたしも人の目を気にせずに自由でいられる。

「つくし、あんなんでよかったのか?」

男の手はつくしの髪を優しく撫でていた。

夜が運んでくるもの・・・

それは男の体と長い指。
その指を飾るのはつい最近まで嵌められていたプラチナのリングではなかった。
偽りの指輪はもうその指には無い。

「うん、あたしはあんたとこうして一緒にいられるだけで・・それだけでいいから」

「そうか・・つくしがいいんなら・・」

司は彼女の人生で一番輝いていた時を奪った。
濡れて重くなった制服を脱ぎ捨て愛し合った南の島のコテージ。
あの時から二人は生涯を共にすることを誓っていた。
だがそれは叶わぬ夢だった。
偽りの結婚生活。
そこに重ねられた道ならぬ二人の関係は誰の目にも触れてはならなかった。
いや、触れられたくなかった。

体はここにいることは出来なくても、心だけはと彼女のために用意したものがあった。
それはつくしの誕生月である12月の誕生石であるラピスラズリの指輪。

指輪の色は二人が目にするアマルフィの海の色と同じ紺碧。

「結婚したかった・・・」

つくしの口から初めて聞かされたその言葉。
今まで決して口にしなかったその言葉に司の胸は刺されたように、激しく痛んだ。
生涯を共にしようと誓ったあの日からもう何年が過ぎ去っていたのだろうか。過ぎ去った日々を思えば、口の中には言葉に出来ない思いが苦い薬のように残っていた。

司がそっと指先で彼女の頬を撫でた。柔らかい頬は触れた指先を優しく包みこんでくれる。
だが頬は濡れていた。
涙をこらえほほ笑んでみせようとしたが、零れ落ちる涙を止めることは出来なかったのか彼女は泣いていた。司はその涙を指先で受け止めた。

「もうしてるじゃねぇか」

花が沢山飾られた教会を一緒に歩くのは彼女と決めていた。
だからこの場所で、古い教会を見つけて二人だけの結婚式を挙げた。
カトリックの教会は二人の愚行を認めはしないが、いまさら神の祝福など必要はなかった。
いかばかりかの金を積んでの善行を神父は不承不承受け入れた。
悪意のある神によって二人は一緒にはなれなかったが、形だけとはいえ結婚式を挙げさせてやりたかった。自分の精神と感情はすべてつくしだけのためにある。それに彼女以外は必要がない。祭壇で彼女を待つ間、もう二度と失いたくないと脚が震えていた。

「俺はもうどこへも行かねぇし、おまえの傍を離れるつもりはねぇ」

その言葉に嘘はないだろう。

花嫁は美しかった。
本当なら大勢の人間に祝福されて式を挙げさせてやりたかった。
だがそれは出来ない。
二人の結婚は法には縛られることはない。
司には既に戸籍上の妻がいる。

「これからはおまえの傍にずっといる」

10年前に結婚し最初の半年で司が邸を出たとはいえ、正式な妻はアメリカ人の女だ。
司は所有欲の強い妻とはあれから顔を合わせることはなかった。単なる法律に縛られただけの関係の女だ。正直どうでもよかった。
だがつくしと再会した今、司は離婚訴訟を起こした。

自分の全てを投げうってでも構わない。
金で全てが解決するならそれで構わない。今までその金を手に入れるために働いて来たようなものなのだから。自分の体以外なら全てをあの女にくれてやる。

アメリカでは州により法律が異なるが、弁護士に言わせれば簡単だと言う。だが女は離婚に応じない。それは自尊心や世間体を気にする以前の問題だろう。
もう10年近く一緒に暮らしていないのだから、世間はとっくの昔に道明寺夫妻の結婚生活が破たんしていることは知っている。
別れない理由はただひとつ。他の女に取られるくらいなら意地でも離婚などするものかと言うことだろう。


「どうしたの?」

「いや。なんでもねぇ」

男の手は優しくつくしの髪の毛を撫で続けていた。
指に絡ませてもするすると零れ落ちる黒い髪は昔から変わらなかった。


義務感に駆られ妻を抱こうとしたこともあった。だが抱けなかった。
司はもはやつくしの体以外には反応することがないのだから。
嘘ではない。
戸籍上の妻を抱けない。半年間で妻と暮らした邸を出たのもそのためだ。
そのことに対して後ろめたいという気は一切なかった。

これは不倫ではない。

刹那的な火遊びでもない。

不倫が背徳というのなら己の生殖器は永遠の愛を誓った相手以外には反応をしないはずだ。
だから司はつくし以外には反応しない。世間の倫理観なんて自分には関係ない。自分の善悪の全てはつくしの中にしかない。永遠の愛はつくしのためだけにある。
倫理に反するというのならあの女の顔を見て言えばいい。妻とは名ばかりの女の顔を。

よくある政略結婚。
司の後ろ盾となった女の父親は司の人生を買ったつもりでいる。
だが司は自分が飼い慣らされているとは思っていなかった。
あの結婚以降すぐ、義理の父親となった男の力を必要としなくていいだけの実力をつけた。
それは自分の人生に口出しをさせないためでもあった。

これからずっとつくしといるためにニューヨークでの仕事はすべて譲渡してきた。
働くことが無意味に思えたからだ。司が出社しなくても会社はきちんと成長を続けている。
司は自分が生きていくためにどれだけつくしが必要で、どれだけ愛しているのかと言うことに今さらながら気づかされた。つくしと再会してもうこれ以上離れていることが耐えられなくなっていた。
そのことに気づいたとき、今までの自分の人生がどれだけ薄っぺらいものかと気づかされた。




もうこれ以上離れていたくない・・

これからはずっとおまえの傍にいるから・・

「つくし、これから先は何があろうとおまえと一緒だからな」
司は断言した。

「いいか、俺を信じてついて来てくれ。なにも心配なんかすることはない」

「心配?」つくしは聞いた。

「あたしは、あんたを信じてるし何も心配なんてしてない」
つくしはさらりと言った。

周りから何を言われても、そんなことに耳を傾けることはとっくに止めていた。
人がなんと言おうがこの恋が二人にとって生涯をかけた恋であることは紛れもない事実。
こうして二人横たわって互いの鼓動を耳にすれば、同じリズムを奏でている。
同じ時を刻んで行きたい・・ただ、それだけの思いしかない。
もしまた二人が離れてしまうことになるのなら、いっそのこと刺し違えればいいという思い。

「俺たちはもう二度と離れねぇからな」

司は確信をこめた声ではっきりと伝えた。

黒い瞳は欲望の色を増すと、つくしの瞳の中にある何かを探した。
それは今の自分の思いと同じ官能の調べと不滅の愛。

多くの偽りの微笑みはもう必要がない。
今この腕の中にいるのは二度と離したくない女。
司が握るつくしの手は長い間失っていた彼の一部。
またいつか必ず自分の腕の中に欲しいと思っていたこの体。
そして何よりも触れ合いたいと思った彼女の心。

二人は一緒に生きるべきで、互いがいないと倒れてしまう。
ひとりの男とひとりの女がこれから生きて行く世界が例え嘘だとしても、二人の足元には同じ世界があるのだからそれで構わない。同じ時を生きていけるなら嘘でもいい。


司は自分の前で開かれた肉体へ自分自身を埋めたとき、はっきりと感じたのは絶望的なほどのこの女を愛している、もう二度と離れることは出来ないという思い。
動くたびに、言葉にしなくても感じられるのは女も同じだと言う思い。

「教えてくれ」

司は二人が結びついた部分に手を這わせた。濡れそぼったそこは司をきつく咥え込んだ。

「ああっ!つ・・つかさ!」

司の指が動き出すと女の頭はのけぞった。
彼の背中にしっかりと回された腕はもう二度と離したくないと、二人でいられるなら、どんなことでもあきらめられる、どんな些細なこともあきらめられるから、わたしを離さないでと伝えてきた。

「どうして欲しいか教えてくれ・・」

司が激しく突き上げるなか、息も絶え絶えに答えようとする愛しい女。

「つ、つかさが・・欲しい・・もう・・二度と・・おねがい・・」

「ああ・・わかってる。どうして欲しいんだ、つくし?」

もう二度と離れたくないという思いと離したくないという思い。

「もっと・・ねぇ・・おねがい・・つかさ・・」

「・・っつ・・くそっ・・」

司は腰を振ってつくしを求めた。
求めずにはいられなかった。
深く激しく愛すれば愛するほど止めることなど出来なかった。

「もっと欲しいか・・なあ・・つくし・・俺が欲しいのか?」

「はぁ・・あぁ・・おねがい・・」

ついて来いと命じる腰の動きは、突くごとに激しさを増していた。
心も体も全てを俺に預けてついて来い。
おまえのすべてが欲しい。
司はつくしの全てを望んでいた。

「なにが・・お願いなんだ?」

「つ・・つかさ・・もっと・・」

つくしは司の体の下で激しく突き上げられながらももっと欲しがった。

「おねがい・・もっと・・あっ・・あっ・・ああ・・」

「そうだ、もっとだ・・もっと俺を欲しがれ・・」

激しいリズムはつくしの体を前後に揺り動かしながら快感を煽った。
つくしの口から溢れ出すのは、愛しい男を二度と離したくはないという思い。
苦悶の表情を浮かべむせび泣くような喘ぎ声。
そんな渇望の叫び声は、やがて司の唇に塞がれていた。



二人の関係は過ちなんかじゃないはずだ。

どこまで行っても終わりが見えなかったトンネルに一筋の光りが見えた。
二人で向かう先はそのトンネルの出口。
どこかに二人だけの場所がある。
二人を待っている場所が・・

「これからはずっとおまえと一緒だ」

一分一秒でも長くこのままでいたい。

この思いだけは二人が初めて愛し合ってから変わることのない気持ち。



優しい男の声は真実だけを伝えてくれていた。







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2016
08.15

乾いた風 後編

Category: 乾いた風 (完)
風は緑色の木々をさわさわと揺らし続けていた。

夜が明けたばかりの時間、海岸線を走る一台の車がいた。
ドライブをするには申し分のない朝だった。
時間が早いせいかカーブが続く山道の海岸線はまだ車も少ない。
司はこの時間にこの場所をドライブするのが好きだった。
幌は後ろへと取り払われ、風を感じて走れるこの車は男のお気に入りだ。

海の香りを深く吸い込み、風を受けて走る。朝の空気はひんやりとして穏やかで心地いい。
頭上に広がる空は、白み始めたばかりでまだいつもの碧い空ではなかった。
陽の光を受ければコバルトブルーに輝く深い海は、まだその色を見せてはくれない。
そこはまだ暗い水面が見えるだけだ。


つくしと過ごした遠い日々の記憶が脳裏をよぎる。
すでに人生の大半が過ぎてしまったが、それでも司にはまだやり残したことがあった。

自分の人生が今と違うものだったらどんな人生だったんだ?
どうしてこんな家に生まれて来てしまったのだろうか?
今さらながらそう思った。

二人のいた場所は、いつまでもこのままの風景で時を重ねて行くのだろう。
ギリシャ神話の神々がいた頃と変わらないまま永遠を刻み過行く場所。

もう二度とあの場所には戻れない・・

だが、これから二人で生きて行く場所は誰にも邪魔はさせない。
そこは永遠という時が過ぎていくだけの場所で、もう決して二人が離れることがない場所だから・・・
長い間、胸を引き裂かれるような思いを抱えて生きてきたがそれも今日が最後だ。
見えない鎖につながれていた人生はもう終わったはずだ。
いつまでも誰かの飼い犬でいるつもりはない。
一度は彼女から顔をそむけることをした。遠ざかろうともした。
だが司はつくしと再会した。離れていたと思っていた間も、二人の間は見えない透明な糸で繋がれていて、一度結ばれた糸は決して切れることはなかった。
再会して失っていた心を取り戻したとき、愛があったあの頃がよみがえった。
彼女に出会うまでは夢も希望も見いだせなかったあの頃の思い。
生きる希望を手にした瞬間は今まで忘れたことはなかった。

人は思いがけないことに出会うものだが、司とつくしの出会いがまさにそうだった。ほんの少しの偶然が二人の人生の歯車を噛み合わせた。だがこの10年、ほんの少しで避けられた運命の悪戯が二人のうえに降りかかってきたとしか言えなかった。



人の縁は運命なのか?
運命だとしても与えられるものを黙って享受するだけではないはずだ。
運命とは自分の前に示されたものを選んでいくことだ。
あのときの二人にはそれぞれ示された選択肢があった。その中で選んだのは別れるということだ。あの別れは自らが選んだ別れだった。
だからこそ二人はあの選択は間違いだったと新しい運命を選んだ。
お互いに間違った選択はもうしたくない。
これからたとえどんな困難が待ち受けていたとしても、彼らは自分たちが選んだ道を前へと進むしかなかった。

二人はひとつの橋を渡った。
その橋は渡ると同時に崩れ落ち、もう後戻りは出来なかった。
どちらにしてももう戻るつもりはなかったから構わない。
逆に誰もその橋を渡ってこちらへ来ることが出来ないのだから丁度いいくらいだ。

遠い昔、橋を渡るということがどれだけ大変だということか経験したことがあった。
それは互いが暮らす世界を結ぶ細い橋。その橋は非常に困難な橋で、誰でも渡れるような橋では無かった。橋はたった一本。その橋を渡り切れず落ちるということは、もう二度と向うの世界へは渡れないということだ。

一度は二人で手を取りその橋を渡った。

だからまた渡ればいい。

失っていたものを取り戻した今、心の底に流れていた哀しみはもうなかった。




カーブが続く山道の運転は気が抜けない。
一方は断崖で、もう一方は岩の壁だ。
何度目かのカーブで対向車が来た。
ハンドルを戻すとタイヤがきしんだ。
次のカーブは生い茂る木々が見通しを悪くしていた。
だが対向車は来なかった。



耳許に聞こえるのは、かすかな風の音と低い車のエンジン音以外他にはない。
心を決めるときが近づいていた。感情を無くし生きてきた人生は愛も憎しみも無くしていた。だがこれまでなんの意味も持たなかった人生は、今ここから新しく生まれ変わろうとしていた。

司は隣に座る女性の手を握りしめた。
ぎゅっと力強く握り返された彼の大きな手。

この手を離さないで・・・

この手をとって連れていって・・

不安なんてないから。
離れていたのは体だけだったんだから、これからは心も体もずっと一緒でしょ?
二人はこれからずっと一緒なのよね?
そう語りかけてきた彼女の小さな手。


その瞬間、彼の心の中に湧き上がったのは解放感に満ち溢れた思い。
二度と感じることがないと思っていた感情が甦った瞬間、司は微笑むとつくしの手を強く握り返した。感傷が入り込むことが無かった彼の人生に再び灯された光がその手の中にあった。

二人の心は同じ方向を向いていた。



司は黙ったままアクセルを踏み込んだ。






彼は空を飛んでいる夢を見た。
ずっと昔からそんな夢を見ていた。
すべてを捨てて彼女と一緒に遠くへと飛び立つ夢。
長い間、心に残っていたしこりも今はもう溶けて無くなっていた。
いま、感じられるのは全身の力が抜け、心が解放されたという思いだけ。

目の前に広がるのは何もない空間。

太陽はまだ完全に顔を見せてはいない。
風は遠くアフリカ大陸から吹き寄せる風。

そして切り立った断崖に打ち寄せる波の砕ける音。

二人の耳に届いていたのは、ただそれだけだった。



















「車は・・?司の車が見つかったというのは本当ですか?」
類は尋ねた。

「残念ですがあまりいい状況ではありません。車だけは見つかりましたが、運転していた人間は見つかりませんでした」

二人の友人たちは警官の説明を静かに聞いていた。

「残念ですが、ここから落ちたら助かりませんよ」

見るも無残なほど、ぐしゃぐしゃにつぶれた金属の残骸が、トラックの荷台に乗せられて運ばれていくのが見えた。

「ブレーキをかけた形跡がありませんでしたので、運転を誤ったのか・・それとも・・」
警官は言葉を濁した。
「まあ、事件性はないと思います。ですが一応調べますが・・」
「もし・・・道明寺さんと牧野さんが・・見つかればご連絡いたします」

通訳を介して伝えられた言葉。
警官はそれだけ言うと大股で歩き去った。

現実離れした空間がそこにはあった。
誰もが信じられない。信じたくないという思い。
だが確かめなくてはならない。
それはここにいる誰もがそう考えているはずだ。

「な、なんで・・どうしてなのよっ!つかさ・・」
わっと声を上げて滋は泣き出した。
「先輩・・どうして?道明寺さんも・・どうしてなんですか?二人とも・・どうして・・」
「つ、つくしぃ・・なんで・・・どうしてよっ!あんたたち・・なんで・・どうして・・」

あきらは二人の女性の悲しみに暮れる顔を見ているのが辛かった。
彼も自分の幼い頃からの親友が事故にあったと聞いて信じられない思いがしていた。
ましてや、ここにいる誰もが二人の関係に心を痛めながらも見守ってきただけに、今の状況が信じられないという思いだ。

「なんで・・つ、つくし・・」

総二郎は泣き崩れた優紀の傍にしゃがみこむと優しく肩を抱いた。

「優紀ちゃん、車に戻ろう。あとは警察が・・」
唇を噛み締めると何か言いたそうに類を見た。

「類・・」


類は海を見つめながら、どこか無表情に見えたが蒼ざめたような顔で親友が車ごと落ちたという場所に立ちすくんでいた。

「悪いが先に行ってくれないか?」

類はその場にとどまると、ヘリコプターが海上を捜索している様子を眺めているしかなかった。




司と牧野の乗った車が崖から転落した。
その連絡を受けたのは類だ。


リアス式海岸は切り立った断崖だ。ほぼ垂直な斜面は勾配がきつ過ぎて人が登ることは出来ない。眼下に広がる海の潮流は早くはないが水深は深い。

彼らを最後に見た人間は、最後の目撃者は誰だったのか・・

『 彼はお金では買えないのよ 』

誰かがそんな言葉を言っていたのを思い出していた。

類が地元の警察から連絡を受けたのは理由がある。
つくしがイタリアへ移住するにあたって類が彼女の身元引受人となっていたからだ。
彼はフィレンツェにある自分名義のワイナリーを訪れることが多く、この国での事業経験も長い。そんな実績が彼にイタリアでの信用を与えていた。

牧野が司と会うだけのために、この国へ移り住むと聞いたとき、正直驚いた。
でもあの二人は一生離れられない運命にあることはわかっていた。
それは二人が出会ったあの頃に結ばれた縁だから。
司がいつだったか俺に聞いたことがあった。
今度はいつイタリアへ行くんだ?どのくらい滞在するんだ?
あの時は単なる興味半分で聞いたのだとしか思っていなかった。
あの頃の司はアメリカ人の妻と別れようとしていたが、離婚が成立したとは聞いていない。

「俺に立ち会って欲しかったんだね」小さく呟かれた言葉。

司が類に手紙を書き、投函したのがちょうど1週間前。
手紙に書かれていたのは、イタリアで牧野と暮らし始めたという内容だった。
電子メールは使わず、わざわざ手紙を書いていた司。
文章を考えたという手紙ではなかった。
この手紙は司の魂から出た想いだろう。
過去を振り返ることなく、前を向いて歩くとだけ書いてあった。
二人はこの土地で少なくとも幸せだったようだ。
想いのままに綴られた手紙が類の手元に届いたとき、二人の気持ちは決まっていたのだろう。

司と牧野の愛は海の底にあるのかもしれない。
それは海の底でしか得ることが出来ない・・・
深く、濃い青の・・・暗い海の底でしか。
海はどこまでも広がっていて果てしない。
二人はこれからどこへでも自由にいけるはずだ。
二人で永遠の旅に出よう。
何もかも捨て、もう誰にも邪魔されない二人だけの世界へ。
あの二人はそんな会話を交わしたのかもしれない。

「司、閉じた瞼の裏に見えたのは・・・幸福の情景だったんだろ?」


類は碧い空を見上げた。
この場所は世界で最も美しいと言われる海岸・・アマルフィ。
空は碧く、高く、海は紺碧で深い。
それはラピスラズリの色と同じ。


つくしの家に残されたラピスラズリのふたつの指輪。
内側に刻まれていたのは

You belong to me forever
『 おまえは永遠に俺のもの 』

I belong to you forever
『 わたしは永遠にあなたのもの 』

「司、牧野。この指輪、忘れてるよ」

類はふたつの指輪を握りしめ、大きく腕を振りかぶると紺碧の海へと投げ込んだ。

決して離れないようにと糸でしっかりと結ばれていた指輪。

「メッセージは確かに受け取ったよ、司」

手紙と一緒に同封されていたのは、フィレンツェにある類のワイナリーの写真。
その写真に写っているのは、四人の男と一人の女。


「もう二度と会うことはないんだね」

「わかってる。二人がどこにいようと幸せなんだってことは・・」

「さようなら。ふたりとも・・」



















空港に一組の男女が降り立った。
一人は小柄な東洋人の女で、もう一人もおそらく東洋人と思われる男だが、それにしては顔の造作が深い。
手に持つ荷物は最小限だが、洋服と持ち物はいい物だということはひと目でわかる。
二人の顔にはうっすらとほほ笑みが浮かんでいた。
その顔を友人が見たらなんと言っただろう。
長い間見ることが無かった彼らのほほ笑み。

それは決してうわべだけのほほ笑みではない。
魂が込められたほほ笑みだ。

迎えの車は二人を乗せるとスピードを上げて行く。
この場所は時がゆっくりと流れて行く場所で、時間の経過は過行くままだ。
二人が新しい人生を歩むことに決めた場所に、他人は必要ない。
一緒に過ごしたかった人生の大半を別々の場所で生きなければならなかった二人。
これからはたとえ名前が慣れ親しんだものと違ったとしても、二度と友人たちに会えなくても、二度と家族に会えなくても、そして二度と祖国の土を踏むことが出来なくても・・

そんなことはこの二人には関係は無い。

これまでの人生はすべて捨て去ってここに来た。

二人で一緒に過ごすことが出来れば、それだけで幸せなのだから。


そんな二人の指には、真新しい指輪が南国の太陽を浴びて輝いていた。








< 完 >  *乾いた風*

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2016
08.16

「乾いた風」あとがき。

Category: 乾いた風 (完)
皆様こんにちは。
「乾いた風」をお読み頂きありがとうございました。
いつもあとがきを書くことはないのですが、今回は内容が内容だけに書かせて頂きました。

実は今回のイベントのお題が「愛人」でしたのでかなり悩みました。
まずどちらかが、どちらかの愛人になるということは考えられないと言うところが正直なところでしょうか。そのためひたすら切ないお話になりました。
何しろ拙宅は司至上主義ですので、彼が不幸な目に合うことだけは避けなければと思っています。(笑)
ある意味大人の純愛にしたつもりなのですが・・・いかがでしたでしょうか?
ドロドロしたものも考えはしたのですがそれでは坊ちゃん可哀想かと思い止めました。(笑)
途中の描写に驚いた方もいらしたかもしれませんが、最後についてはふたりが一緒にいることが幸せだと思いあのような結末となりました。
例え司が結婚していたとしても、全てを投げ打ってでも愛する人の元にいたい。そんな思いが書けたらと思いました。
もしこの先、このような二人の関係を書くとしても、最後は幸せになれるようにと思います。
アカシアの書く坊ちゃんは原作とはかなり異なっているかと思いますし、大人の二人ですから色々とあるとは思いますがどんな形でも最後は必ず幸せにしてあげたいと思っています。

タイトルにある「風」はアフリカ大陸から地中海を渡りイタリアへ吹き寄せる風をイメージとしました。その風はイタリアではシロッコと呼ばれる初夏に吹く暑い南風です。
北アフリカでは乾いたい風も地中海を渡ると湿度が高く熱を持った暑い風となってイタリアへと吹き寄せます。二人の関係は愛人関係となりましたので司とつくしの間には熱い風が吹いているはずですが、司が結婚している以上は不毛な関係だと思いますので愛し合っていたとしても間に吹く風は熱くは無かったと思い「乾いた風」をタイトルとしました。

アカシアの愛人イベントのお話しはこれで終了しましたが、今週末は類君のお話でお楽しみ頂けたらと思います。


さて、早いもので8月も半ばとなりましたね。お盆休みをこれから取られる方もいらっしゃるのではないかと思います。どうぞよいお休みをお過ごし下さいませ。
帰省中はPCが手元にありませんでしたのでスマホ片手に誤字脱字を修正しておりましたが、小さな画面で見るのは結構大変でした(笑)
アカシアはこれからまた頭を切り替えて日々の生活と共にお話が書ける・・ようにしたいと思っておりますのでまた宜しければ定時に覗いてみて下さいませ。


andante*アンダンテ*
   アカシア


コメントを下さった皆様へ。これから順次お返事を書かせて頂きたいと思いますので少々お時間を下さいませ。


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