2016
07.29

情景 前編

Category: 情景(完)
***********************
お読みになる皆様へ
こちらのお話はある病についての記述があります。
そう言ったお話がお嫌いな方はお控え下さい。
***********************











ごめんね、急な話しだけど旅に出ることにしたの。
また帰ったら連絡するからね。

親友宛てに届いたのはあまりにもそっけない文面の手紙。
そんな短い手紙が届いたのはある夏の晴れた日だった。




つくしが長年の夢だった船旅に出ると決めたのは半年前。
駅前の旅行代理店の店頭に並ぶクルーズ船が表紙となったパンフレットを手に取ったことは今までに何度もあった。憧れていた船旅。
船旅と言っても4カ月ほどで世界一周をするものから、短いもので言えば隣国の街へのものまで色々ある。
その中でつくしが選んだのは4カ月かけて世界一周をする船旅だった。
いくら有給休暇が残っているとはいえ4カ月も休めるはずもなく、つくしは会社を辞めた。

どうしても今行きたかった。

初めての船旅は、イギリスのサウサンプトン港を出航するイギリスが誇る世界で最も有名な豪華客船での船旅だ。
日本からイギリスまで移動し、そこから乗船する。
この船は出航から3ヶ月目には日本の港にも寄港する。豪華客船の一部区間のチケットを購入し日本から次の寄港地となる東南アジアの国までの旅も出来るが、つくしはそうはしなかった。4ヶ月かけて世界一周をしたいと願っていた。

費用は最低クラスの船室で約250万円。最高クラスともなると1000万円近くになる。
こういった船の乗客は夫がリタイアした年配の夫婦が多い。もしくは一部区間だけの利用をする若いカップルだ。
つくしはどちらにも属さないひとり旅。
独身の彼女が自由になるお金と言えば知れているが、最高クラスの船室のチケットを購入していた。

船では客室のグレードによって食事を取るレストランが決まっている。
最高クラスの客室に泊まるつくしは当然ならが最高グレードのレストランでの食事になる。
豪華客船の中の最高グレードのレストラン。当然だがドレスコードがある。
つくしはこの船旅のために衣装を全部新しくそろえた。今までたいしてお金を使うこともなく、地味な生活だったのだからこの船旅で奮発したと言ってもいいのかもしれない。

全財産を使い切ってしまっても構わない。
今のつくしはそう考えていた。
楽しめるときに楽しめばいい。
人生は一度きりだ。

つくしにとっての人生とは。

長い間待ちわびる人がいた。
だがその人はつくしの元に戻ってくることはなかった。
あれからもう何年が経ったのだろう。
いい加減に二人の関係はおしまいになったんだと納得するしかなかった。



本当にこれでおしまいなんだと分かったのは、半年前のことだ。
会社で受けた健康診断の結果、再検査を受けなさいとの文面が届いたとき、何かの間違いだと思っていた。最近なんとなく感じていたのは、眼が疲れやすく頭痛がするということだ。
単なる仕事のし過ぎで、パソコンの画面を長く見過ぎたせいだろうと思っていた。
再検査を受けなさいと言われたという話しはよく聞くが、検査を受け何も問題がないとわかることもよくある話しだ。

会社は再検査の結果までは知りたがらない。
つくしひとりにもたらされた再検査の結果はあまり芳しいものではなかった。
家族は弟がひとり。それも海外に暮らしていて連絡を取ることはなかった。
この結果を伝えていいものかどうかを考えたが、結局伝えないことにした。もう長い間弟には会っていないし、海外で仕事をしている弟にいらぬ心配をかけたくはない。
彼女は昔から自立心が旺盛な子供だった。人に頼ることが苦手な子供。人に迷惑をかけることに心苦しさを覚える子供。そんな彼女が選択したのは、誰にも真実を伝えることはしないということだ。

人生は短い。そう感じていても不思議はない。どうして自分がこんな運命をたどらなくてはならないのか。今まで何度考えただろう。
人は人生の途中で幾度か過去を振り返ることがある。彼女は数少ない思い出を頭の中に思い描くことで幸せだった時を噛みしめていた。



7年前に一度だけあの人に会った。
ホテルのロビーですれ違いざまに視線を交わしただけで、口を利く事はなかった。
視線を交わしたというよりも、何の興味も映していない瞳が向けられただけだった。
男の記憶は戻ることがなく、つくしのことは忘却の彼方へと捨て去られてしまったようで、あの日を境に彼の口から二度と彼女の名前が出ることはなかった。

もういい。
それでもいい。

今さら思い出されても、もうどうにもならないとわかってしまったのだから。
人生とはどうしてこんなに苛酷なのかと考えずにはいられなかった。


「 脳に腫瘍があります 」


医師から告げられた言葉につくしは息を呑んだ。
最近頭痛が激しくなっていたのはそのせいだったのかと納得していた。
手術すれば助かるはずです。医師からはそう言われた。
ただ・・・
大変難しい場所に腫瘍が出来ていますがその道の専門医に見てもらうことをお勧めします。
紹介状を書きますので、ぜひそちらを受診して下さい。医師はその場で紹介状を作成すると
なるべく早く行って下さいの言葉とともに彼女に手渡してきた。
普段ならどのくらい待たされるのか知らないが、彼女が受診することが出来たのは紹介状が出てすぐのことだ。
ああ・・。そんなに急ぐということは、自分の病気は相当悪いんだなと気づかされた。

診断結果は脳腫瘍。
再検査を受けた時と同じことを言われた。
聞かなければならないことはただひとつだけだ。

「長くてもあと1年の命でしょう。大変難しい場所に出来ています。手術をするとなれば、かなり高度な技術を必要とします。アメリカにこうした分野を得意とする医師がいますが・・・」

耳に入る言葉は頭の中から消えていった。

1年の命・・・

その言葉をどう受け取ればいいのだろうか。
あと1年なのか、まだ1年なのか。
どちらにしても彼女の命は期限がつけられてしまっていた。
1年の間に何が出来る?

神様はどうしてこんな運命を彼女にお与えになられたのだろうか。

彼女が過去に何かしたことへの報いを受けているというのだろうか。

期限があるというのだから仕方がない。
迷い考える時間は残されてはいないはずだ。
自分の残りの人生をいかに有意義に過ごすのかということが彼女の課題となっていた。
思い立ったつくしはすぐに行動に移していた。

全ての財産を処分して現金に換えた。その中には住んでいたマンションも含まれていた。
そのお金で自分に出来ることを選択した。その選択はまちがってはいないはずだ。
数ヶ月かけて船の旅に出る。その旅の途中で命が尽きるならそれでよかった。
船旅では船長の権限で水葬にされることがあると聞いていた。長い船旅で遺体の搬送が困難な場合に限られるがつくしもそうして欲しいと望んでいた。
もしそれが駄目なら遠い異国の地で荼毘に付してくれたらいい。その遺灰を海へと撒いて欲しい。そうすれば誰も自分を忍んで泣くことはないはずだから。
帰る場所のないあたしにはそうして貰えるほうが有難かった。

船旅が人生の最後の場となっても構わなかった。







***








司はいつの頃からか激しい頭痛に見舞われるようになっていた。
医者に見せても何も問題はないという。おそらくストレスによるものだろうとしか返されなかった。だが不意にパニックに襲われそうになることがある。ぐっしょりと汗をかき、目覚めることが幾度となくあった。眠れない夜が続き、体中の神経がぴりぴりとして心が休まることがない。いったい俺はどうしたというのか。
このままでは頭がどうかしてしまうのではないだろうか。

だがその疑問はある日突然解けることになった。

記憶が回復するということは、ある日突然起きるものだとは聞いてはいたが、司にとってはどうして今なのかということだけだった。

執務室で柔らかなレザーの椅子に腰かけ書類に目を通していた。その時、突然頭を過ったのはにこやかな笑顔で自分を見つめる少女の姿。
意識しなくても口をついて出た言葉は記憶の中に埋め込まれていた名前。
牧野つくしの名前だった。

呻き声を抑えることは出来なかった。人が見れば何らかのショックに見舞われたということがはっきりと分かる面持ちだったはずだ。万年筆を持つ右手が小刻みに震えていたが、やがてその手はペンを持つ力さえ失ったようだ。
司の手を離れた万年筆は床に転がった。瞬間、彼はデスクに両肘をつくと両手で顔を覆っていた。


俺には今とは別の人生があったはずだ。

まきの・・


司は目を閉じた。

心のどこかに常にあったはずの名前を口にすれば瞼の裏に甦るのは黒髪の少女の姿。
頭の痛みは去ったが心の痛みだけはそれ以上の痛みとなって司の心を苛んだ。
未来永劫一緒にいようと誓ったはずの女性を忘れ去っていたと罪の意識に苛まれた。

まきの・・どうしてあいつはここにいない?

どうして・・それは自分が残忍なやり方であいつを排除したせいだ。あんな女なんて知らないと蹴り出したのは自分だった。

だが苦悩している時間があるのなら、あいつの身を探すことがまず先だ。
司はぱっと目を見開くと、デスクのうえの受話器を掴んだ。
アメリカ大陸の東から太平洋を挟んだ向うにある国へと向かう準備を整えようとしていた。



ニューヨークからすぐに帰国した司はつくしの行方を捜した。
だが、誰も牧野のことを知らなかった。勤務先はすぐにわかったが、すでに退職していた。
退職理由は自己都合と書いてあったということだった。
かつて彼が知っていたつくしの親友も行先は分からないが旅に出るとだけ連絡があったと伝えてきた。
また帰ったら連絡するから、としか聞いてないというつくしの親友。
自宅を調べれば、売却されていたことがわかった。
不動産屋によれば売主から出来るだけ早く売って欲しいと頼まれていたそうだ。
買い手との値段が折り合わない場合は、値引きにも応じるので出来るだけ早くと言われたと言っていた。それが意味することは現金が欲しいということだろう。
あいつの家族は弟しかいないということと何か関係があるのかと訝ったが、海外で働く弟も姉がマンションを売り払い、旅に出たことは知らずにいた。
誰にも行先を告げることなく忽然と姿を消した牧野。
だが、不動産屋のひと言が彼の疑問を解決した。

「牧野さんは船旅が夢だといっていましたよ」


世界の海にどのくらいクルージングを楽しめる客船が就航しているのか。
調べるのに手間はかからなかった。
その中から牧野つくしという名前を探すことも司にしてみれば容易いことだった。








にほんブログ村

人気ブログランキングへ

応援有難うございます。
スポンサーサイト
Comment:10
2016
07.30

情景 中編

Category: 情景(完)
つくしは鍵穴に鍵を入れることに手こずっていた。
何度も失敗するのは病気のせいだろうかと思わずにはいられない。ようやく鍵を差し込むことができ、ドアを押し開けると客室の中に入った。
テーブルにイブニングバックを置き、広い部屋の奥まで歩いていくと、ベッドの上に腰を下ろした。処方された薬を飲まなくてはいけない。つくしは何種類もの薬を取り出すとミネラルウォーターのキャップを開けた。

夕食は最高グレードのレストラン。
丸テーブルに座るのはつくしと同じ最高クラスの客室に宿泊をする人間だ。
豪華客船でのラブロマンスが有名になったアメリカ映画があったが、今夜のディナーもそれぞれがドレスアップをし、まさにあの映画のような華やかさがあった。
あの映画は最後に悲劇的な結末を迎えてしまったが、この船にはロマンスも悲劇も待ち受けているようには思えなかった。

案内されたテーブルにいたのは皆、年配の夫婦でリタイアしたその後の人生を楽しむイギリス人だった。つくしが自己紹介をしたとき、日本人の若い女性がひとりで船旅をすることに疑問を持ったようだが、理由は聞かれなかった。ただ同じ旅をする人間として、楽しく語らえればそれでよかったのかもしれない。

これから先の船旅で、夕食はいつもこのメンバーになるがそれで良かった。年配の夫婦はつくしを孫ほどの年齢に思っているのかもしれないが、その扱いに不満はない。人生を自分の倍以上の年を生きてきた人たちとの会話は気を張る必要がないほど楽しいものだと思っていた。 ただ、あなたもこの年になれば分かるわよ?と言われたとき、つくしの脳裏を過ったのは年老いた自分の姿ではなかった。

自分の体に起こっている出来事に気持ちの区切りをつけると言うことがなかなか出来ずにいたが、いざ旅が始まってみれば今まで知り合うことが出来なかった人たちとの語らいや、見知らぬ風景がつくしの心を和ませてくれていた。
大海原の上で風と太陽を感じれば今までに起こったことなどちっぽけなことの様に思えてくるのだから不思議だ。今のつくしは大航海時代に水平線の向うには何があるのかと冒険に乗り出した船乗りのような気分でいた。



イギリスを出航して最初の寄港地はニューヨークだ。この街にはひと晩停泊する。
つくしにとっては苦い思い出だけが残る街でいい思い出などひとつもなかった。
会えるはずもないと分かってはいても、どうしても道明寺に会いたくて一度だけこの街を訪れたことがある。
例え会えたとしても振り向いてくれるはずもなく、つくしのことは最初から存在しなかったかのように消されてしまっているというのに、それでも会いたいと望んだ。

待ちわびた人が今も暮らしている街を部屋のバルコニーから眺めていた。
時刻は昼を少し回った時間。遠くに見える摩天楼のどこかに道明寺がいるはずだ。
だが彼はつくしのことを忘れ、今はもう別の人生を歩んでいた。

同じ街、同じ空の下にいるのなら最後にもう一度だけ会いたい。だがそれが無理だと言うことは分かり切ったことだ。今更会ってどうするというのだろう・・もう時間がないのだから何をしても無駄だと気づいてもよさそうなのに、道明寺のことを未だに忘れることが出来ないということがいかに自分の感情が複雑なのかということを再認識しただけだったのかもしれない。

つくしは部屋の中へ戻ると下船の為の準備に取り掛かった。




司はつくしの乗った客船がニューヨークに寄港していることを知るとすぐに行動を開始した。ジェットに乗り込むと、きつく両手を握りしめていた。そうでもしなければ体が震えて仕方が無かった。
牧野があの街にいると知った今、どうしてもあの街で会いたいと思っていたからだ。
帰国した司がつくしのことを調べれば調べるほど、彼女が取った行動は以前彼が知っていたつくしの行動に似ていた。

つくしが会社を自己都合で退職したということ。マンションを売り払い帰るところが無いということ。親友のもとに届いたあまりにもそっけない手紙。唯一の家族である弟に対しての態度。人に迷惑をかけることを嫌う女は雨が降るあの日、司を残しひとりどこかへ去ってしまっていた。

あの時の態度と似ている。

何かある。そう思っていた。

そんな中、偶然知ってしまった牧野の医療記録。

それである意味自分の人生の方向性が決まったと思った。
牧野を失うわけにはいかない。
あの街には牧野を助けることが出来る医者がいる。司はいつでも手術が出来るようにと医者の手配を済ませていた。牧野を助ける為なら幾ら金を積んでも惜しくはない。
アメリカの医療は超一流だが、金もかかる。日本のように国民皆保険制度は無い。あくまでも個人と保険会社との契約だ。それもかなりの条件があり、契約をしていても適用されないことも多い。
ましてや日本人の牧野がアメリカで手術を受けるとなると、費用は莫大なものとなるはずだ。
あいつの命が助かるなら、どんなことでもするつもりだ。
司はどうしてもつくしには生きていて欲しかった。


司の乗ったジェットが空港に着いたのが午後4時。
つくしの乗った客船が出航するのは午後5時。あと1時間しか時間がない。
車は司を乗せると客船ターミナルまでの距離を1時間もかからずに走った。
そろそろ出航時間が迫っているということもあり、大勢の乗船客が船へと戻って来ていた。
客船は乗船客以外乗り込むことが出来ないはずだが、司には司のルールがある。
それにニューヨークは彼の街だ。港湾関係者に便宜を図らせることも出来るのだろう。
いざとなれば出航時刻を遅らせることも可能だ。



司がつくしを見つけたのは、船がもう間もなく出航しようかという時間だった。

「まき・・の・・」
息せき切って走ってきた男は、はあはあと呼吸を繰り返しながらつくしの前に来ると彼女の両肩を掴んだ。
「す、すぐに船を下りろ」

つくしはいきなり自分の前に現れた男に動揺していた。
何年ぶりかに会ったという男はつくしの名前を呼んでいた。

「た、頼むから・・船を・・下りてくれ・・」
息が上がっていた。

つくしは意味が分からなかった。
いきなり目の前に現れた道明寺に下船しろと言われ、はい。わかりましたと言うほどお人よしではない。第一、この男はつくしのことは忘れ去っているはずだ。
そんな状況でなぜ自分の名前が呼ばれたのか困惑していた。

「まきの・・俺・・」
「あの・・どうして・・」

二人の言葉が重なると重い沈黙が流れていた。
司はひと呼吸おくと、言葉を継いだ。

「なんで黙ってた?」
「な・・なんのこと?」

まったく意味が分からなかった。黙るもなにも、もう何年も会っていない男に対して、ましてや自分のことを忘れた男はいったい何を言っているのだろう。

「おまえ、病気なんだろ?」

司の目は真剣だ。つくしの一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
瞳の中の動揺も見逃さないぞとばかり覗き込まれていた。

「いったい・・何のこと?」

司の口から出た病気なんだろうと言う問いかけはつくしにとっては驚くべきことだ。
つくしはしらを切った。どうしてこの男が自分の病気のことを知っているのかが不思議だった。誰にも話してもいなし、医療記録が外部に漏れるなどあってはならないことだからだ。
だがこの男は知っているという。何がしかの手を使って手に入れたのか、それとも偶然知ったのか。

「今さら隠さなくても俺は全部知ってる。おまえのことで知らないことなんてない」

そう言い切っていたが、司はつくしを忘れていたという負い目がある。
離れていた間に何があったのかは知らずにいた。

「あ、あたしの何を知ってるって言うのよ・・」
つくしは小さく呟いた。
「あたしは!・・・」
言葉に詰まった。
この男は何をどこまで知っていると言うのだろうか。それにどうしてこの場所に突然現れたのか。つくしの全てを知ると言う男はいったい何がしたいと言うのだろうか。

「なんだよ?言えよ?言ってくれ」司はせっついた。
「何かいいたいことがあるんだろう?」
両肩を掴んだままつくしの顔を覗き込んでいた。

「言うことなんて何もない・・」今さら何を聞きたいというのか。

「医者にはなんて言われたんだ?」
司は先をせっつくばかりだ。
「なあ、牧野。頼むから・・」

その口ぶりから大方のことは知っていると察した。
もうすぐ船はこの街を離れる。道明寺から解放して貰えるなら真実を伝えておくことも悪くはないはずだ。

「・・・あと半年」つくしは目を伏せた。
「あたし・・あと半年なの・・」

肩を掴まれたまま下を向くと、握り合わせた自分の手をじっと見つめていた。
つくしは司の顔を見る勇気がなかった。今彼の顔を見れば自分の心の内の全てが現れていると分かっているからだ。

「まきの・・頼む。俺の目を見てくれ!」
司の声は心から心配そうだ。
「おまえ・・ちゃんと診てもらったのか?」

「診てもらった・・」小さく呟かれた声。

「医学は進歩している。手術を受ければ助かるんだろ?」

まるで懇願しているかのような問いかけは、つくしに向けられたものなのか、それとも司自身への問いかけなのか、司の言葉はどちらにも取れた。

「・・もういいのよ・・どうせあんたはあたしのことを思い出さないままだし、記憶が戻ってないあんたに話しても仕方がないでしょ」

先程からの司の口ぶりに記憶が戻ったんだと分かっていたが、つくしにしてみればもうどうでもいいことだ。

「俺の記憶は戻ったんだ!だから黙ってないできちんと話しをしてくれ!」

やはりそうだったかと納得した。

「別に黙ってるわけじゃない・・道明寺があたしのことを思い出さないのに話しても仕方がないでしょ?」

例え記憶が戻ったとしても、今のつくしには何も言うことはない。

「ちくしょう!なにを・・おまえ・・なに言ってんだ!俺の記憶は戻ってるんだ!そんなことより、これからでも手術出来るんだろ?すれば助かるんだろ?なあ、牧野っ・・」


うつむいていた顔が上を向くと司の顔を見た。

つくしは泣いていた。


「わかってない・・手術しても絶対に助かるとは言えないのよ?それに・・記憶の戻らないあんたを見ているのは辛かったからもういいの・・これから先もあたしを忘れたままなら、手術はしなくてもいいと思った。あんたの記憶にないあたしがいなくなったとしても、あんたが悲しむこともないでしょ?だからもういいのよ・・もう遅いのよ・・どうみょうじ・・いったい・・何しに来たのよ・・」

今まで何度ひとりで涙を流してきたことか。ひとりになって布団の中で涙を浮かべ、嗚咽をこらえたことが何度あったことか。
泣いてどうなるものではないと分かってはいるが、涙は枯れることなく湧いて出て来た。
どうしてこのタイミングでこの男が自分の前に現れたのか・・

どうして・・

記憶が戻らなければあたしのことなんてずっと知らずにいてくれたのに・・
例えすれ違ってもわからなかったあの時のように・・
それなのに今になってあたしの前に現れるなんて・・
あたしになんか会いに来る必要なんて・・ないはずだ。




違う・・


もっと前に道明寺の記憶が戻ってくれていたら・・・
もっと前に道明寺が会いに来てくれたら・・・
あたしは自分自身でなんとかしようとしたかもしれない。

でも、もう無理だ。手遅れだ。

「いい加減にしろ!女が腐ったような泣き方するんじゃねぇよ」
司が鼻先で笑った。
「いったい何をしに来たかだと?そんなもん分かり切ったことじゃねーか。好きな女を迎えに来たんだ。それがわりぃいことか?それに何ぐずぐず考えてるんだ?おまえ本気で泣きたくなるようなことをしてやろうか?俺がついてるんだ絶対に治してやる。世界で一番の医者がこの街にいるんだ。すぐに手術が出来るように今も病院で待ってるんだぞ?」

司の顔には何が何でもつくしに手術を受けさせるという決意があった。

「おまえまさか、手術するのが怖いって言うんじゃねぇよな?」
彼の言葉はつくしの考えを読んだかのようだ。司は穏やかに話しを継いだ。
「なあ、牧野。頼む・・手術を受けてくれ・・なあ・・俺のために・・クソッ!おまえはそんな臆病な女なんかじゃねぇだろ?」

臆病な女・・
そうなのかもしれない。

「臆病かもしれない・・い、今のあたしはあんたの言うとおり、臆病な女かもしれない。もうこれ以上生きて・・」

つくしが言いかけた言葉は彼女を抱きしめた司の胸元でかき消されてしまっていた。
しっかりと抱きしめられ、司の温かさを体で感じている。
それに覚えのあるこの匂い。胸を満たすこの匂いは17歳の頃から変わらない道明寺の匂いだ。
体が震えているのは、はたしてどちらの方なのか。抱きしめられて目を閉じれば、思い出すのはあの頃の情景。記憶の中に残されているのは笑い合っていた二人の姿。
それは決して忘れることがなかったつくしの知っていた司の姿。

自分を忘れ去ってしまった男は本当にもういないのだろうか?
この手を彼の背中に回してもいいのだろうか?

触れ合いたいと願ってやまなかったはずの司の体は、つくしを抱きしめて・・・震えていた。

あのとき、何も起きなければ今日まではどんな日々をおくることが出来たのだろうか。
二人がいる船の上は否応なしにあの事件を思い出させてしまうが、記憶の中の情景は今ではもうあの日のことを消し去っていた。

つくしは司の背中に恐る恐る手を回した。
その瞬間、司が力強くつくしを抱きしめた。
「手術・・受けるよな?」
何も言わないつくしに聞いた。

つくしは司を見上げると小さく頷いた。
「あ、あたし・・」
望んだ答えが聞けた司の行動は早かった。
「よし。いますぐ船を下りて病院に行く」

「え?で、でも・・あ、あたしの荷物とか・・あのね、あたしの全財産はあの部屋に残っているものしかないの・・」

つくしは思い出に残るようなものは何一つ持ってはいないが、ひとつだけ手元に残しているものがある。それは司に貰ったネックレス。あれだけは処分することがなく残していた。

「大丈夫だ。心配するな。おまえの荷物はすぐに船から下ろす」
司はつくしを抱きしめたままで離そうとはしなかった。
以前より細くなった体が震えるのを感じていたからだ。
「牧野?」
「ふ、不安なの・・もし・・手術が成功しなかったら・・」
つくしは小さな声で呟いていた。

それは紛れもない本当の気持だ。脳の手術は高いリスクを伴うと聞いていた。
もしどこかの神経を傷つければ何らかの障害が残る可能性だってある。
それに当然だが開いてみなければ分からないはずだ。


「絶対に成功する。俺が言うんだから間違いない」
司は微笑んでみせたが急に真顔になった。
「それに最悪の状態になったとしても俺はおまえを離さないし、諦めない。ぜってぇに俺がおまえを助けてやる」
次に司の顔に浮かんだのは不適な笑みだ。
「いいか?俺たちは運命には逆らえねぇ。例えおまえが地獄へ逃げようが天国へ行こうがどこまでも追いかけてって俺の傍へ連れ戻してやるよ。おまえのいない人生なんて考えてねぇからな」

この出会いも運命なのか。

どこまでも追いかけていく・・・

それは遠い昔に聞いた言葉。



道明寺と会ったら・・記憶が戻った道明寺と会ったら言いたいことはいっぱいあったはずなのに言葉が出なかった。
だがこのとき抱きしめられた温もりは、きっと忘れることはないはずだ。


例え何が起ころうとこの腕の中にいれば守ってもらえるような、そんな気がしていた。








にほんブログ村

人気ブログランキングへ

応援有難うございます。
Comment:8
2016
07.31

情景 後編

Category: 情景(完)
脳神経外科では世界で一番の腕を持つという医師に一刻も早く手術をしましょうと言われ、 つくしの手術は翌日に決まった。
司は日本での検査画像をネットで送らせていた。

「手術をすれば助かります」

その言葉はふたりにとって未来が約束されたことを意味した。
だが何についても言えることだが、絶対に大丈夫だと言えることなど何もないはずだ。
医療の世界でもそれはよくある話しで万が一ということを考えないわけにはいかなかった。
その夜はもしかしたらふたりで過ごす最初で最後の夜になるかもしれない。

司の住まいであるペントハウスに着いたのはすでに深夜近い時間だった。
明日の手術のために早く眠らなくてはならないと分かっていたがつくしはこの日、自分の身に起きたことを思い出すと眠れそうになかった。

船から下り、司が暮らしている街をひとりで歩き、彼が仕事をしているビルを下から見上げていた。このビルのどこかに道明寺がいる。そう思うとつくしはビルの姿を頭の中に刻みつけた。もう二度と見ることのない風景は記憶の中の情景としていつかこの世を去る日まで頭の中に残るはずだと思っていた。
情景とは心にある感じ起こさせることだというが、つくしにとっての情景はまさにこの街の中にあった。

司と一緒に生きるため手術を受けることを決めたつくし。
つくしはそう思うとひとつの決断をした。

「どうみょうじ・・あのね。お願いがあるの」

もしかしたら今夜が最初で最後の夜になるかもしれない。
ペントハウスに案内されてからずっとつくしの頭の中にあったのはそのことだ。
記憶を失った道明寺が今までどんな暮らしをしていたかは知っている。少年だった頃の面影はあるが今では誰もが認める企業経営者として立派に仕事をこなしていた。
つき合いのあった女性がいたことも知っている。それは男として当然のことだろう。
それに誰かと結婚していたとしてもおかしくはなかった。だが司はまだ独身だ。

生きるチャンスがあるとしても、自分の身に何が起こるのかは手術が終わってみなければわからない。でも道明寺は必ず成功すると言った。信じているじゃなく成功すると言い切った。 その強さはいったいどこから来るのだろう。
でも、その強さからつくしは勇気をもらったはずだ。生きたいという勇気をもらった。
生きて道明寺と一緒に・・出来れば一緒に人生を歩みたい・・
だが、もしも・・・
そう考えれば今しかなかった。

それはつくしにとっては未知の世界だが道明寺にとっては違う。

「どうしたんだ?お願いってなんだ?」

まさかとは思うが手術が怖くなっただなんてことを言うのではないかと訝った。

「あのね・・どうみょうじ・・だ、抱いて欲しいの・・」

つくしの真正面に立つ男は身じろぎもしなかった。
ただ黙ってじっとつくしを見つめていた。

つくしは待った。
司の口からの言葉を。

人生は一度だけだ。もし生まれ変わるとしたらまた道明寺と巡り会いたい。
でもその前に一度だけでいい。道明寺の熱い体に抱きしめられて眠りたい。そうすれば今度生まれて来たときはすぐに道明寺に気づくはずだ。体と心に道明寺を焼きつけたい。
つくしに迷いはなかった。

「まきの・・おまえは本気で言ってんのか?」
司は探るようにつくしの顔を見た。
「も、もちろん本気よ・・だって・・も、もしかしたら今夜が道明寺との・・」唇を噛んだ。

最初で最後の夜になるかもしれないとは口に出来なかった。
言ってしまえば本当にそうなるかもしれないと怖れていた。だから言葉にはしなかった。

司は近くのデスクに置かれていたブリーフケースから一枚の紙を取り出した。

「俺は無責任なことをするつもりはない。これに署名捺印したらおまえを抱いてやるよ」

差し出されたのは婚姻届。

「おまえが俺と結婚するなら抱いてやる」
司は一方の口角を上げるとにやりと笑った。
「なにアホみてぇな顔してんだ?そんなに驚くことか?おまえは昔っから人生を深刻に考え過ぎだ。あんときだって・・・あの雨の日だって・・さっさとどっかへ逃げちまうし、ひとりで全人類の人生背負ってますなんて顔すんじゃねぇよ・・」
何も言わないつくしにゆっくりと諭すように言った。
「おまえが俺と結婚するっていうなら幾らでも抱いてやる。それに・・これから先はそんな時間は幾らでもある」

未来を見据えたその言葉につくしの心が動いた。
それに道明寺が言っていることはつくしとの結婚の話しだ。
結婚するなら抱いてやるだなんて言葉が言えるのは、いかにも道明寺らしいと思っていた。
それに世間では抱いてやるけど結婚は出来ないというのが普通だろう。

「あのね、結婚なんてそんな簡単に決めていいことじゃないでしょ?」

嬉しかった。
口では躊躇ってみせてもつくしは心の底から嬉しかったはずだ。
だが口にはしたくはないが、手術が上手くいかなかった場合のことを考えた。もしなんらかの後遺症が残って道明寺に迷惑をかけることになるかと思うと決断ができずにいた。
それに最悪の事態を想定した場合、道明寺は婚姻届のインクも乾かないうちに妻を亡くしてしまった男となってしまう。

「ぐずぐず言ってねぇでさっさとサインしろ。必要な書類は全部揃ってるしこっちの大使館で提出する。そうすりゃおまえが・・手術が終わって目が覚めたときはもう牧野つくしじゃねぇぞ。目覚めた瞬間からおまえは道明寺つくしになってるからな」

司が一旦こうと決めたら理論がどうのこうのは関係ない。
道明寺という男は昔からそうだったはずだ。

「おまえ、まさか病気を理由に俺との結婚が嫌だって言うんじゃねぇよな?そんな口実なんて許さねぇからな。結婚したくねぇって言うならはっきりとした理由を言ってみろ。俺が納得できる理由を言ってみろよ?」

司は暫く無言でつくしを見つめていた。
瞳の中に気持ちが揺らいでいるのが見え隠れしていた。何か理由を見つけて断ろうとでも言うのだろうか。つくしが司の負担となってしまうことを恐れているのは分かっていた。もしも何らかの後遺症でも残ったらと心配しているのだろう。

「おまえが・・俺の傍にずっといてくれるって言うんだったらおまえの言うことは何でも聞いてやる。月まで行ってうさぎと写真撮って来いって言うなら行って来てやるよ。けどな、まずはこの婚姻届だな。それから・・これだ」

司がポケットの中から取り出したのは二つの小さな箱だ。
ひとつは婚約指輪でもうひとつは結婚指輪だ。

「この指輪を嵌めてくれ。わかってる。手術中は外すことになってるってのはな。だから今夜だけでもいい・・嵌めてくれないか?俺とおまえが夫婦になった初めての夜なんだからな」

全てに於いて拒否権はないようだった。
司の中では失われていた記憶が戻った時点で全てのことは牧野つくしについての一点に絞られているようだ。
だが言わなければいけない。

「どうみょうじ・・あたしには・・あんたにあげるものが何も無いの・・・無いどころか逆にあんたのお荷物になるかもしれない・・」

「俺はどんな牧野でも構わねぇ。おまえと一緒に生きることが出来ればそれでいい。いいか?人はな、生きてるだけでも価値があるんだ。それを俺に教えてくれたのはおまえだろ?」

司は高校時代のことを思い出していた。暴力に明け暮れ、人を人とも思わなかった少年時代の自分の事を。あの頃はケンカ相手が死んでも構わないというような考えの持ち主だったはずだ。そんな時に出会ったのが牧野つくしだ。司に向かって命の大切さを解いた女が自らの命を蔑ろにすることが許されるはずがない。

「まきの・・そのネックレス・・おまえがまだ捨てずに持っていてくれたネックレス・・そのネックレスと一緒に明日は手術が終わるまで病院で待ってる。俺がおまえの傍にいるから大丈夫だ」

つくしの胸にかけられているのは船室から持ち出されたネックレスだ。
それは17歳の司が初めてつくしに贈った思い出の品だ。

「まきの・・サインしてくれるよな?おれは何があろうとおまえを一生守っていきたい」

司が示した婚姻届には既に道明寺司の名前と捺印がされていた。証人の欄にはつくしの親友、松岡優紀と司の良きライバル、花沢類の名前が書かれていた。

どんな道でも光はあるはずだ。
例え死の淵に立っていたとしても目の前に差し出された手を掴んで歩いて行くことが許されるなら、そうしたい。

つくしは勝ち目のないケンカでも受けて立ってきた。それは高校時代、司に赤札というゲームのターゲットにされたあの時からだ。

「サインしたら・・あたしを抱いてくれるの?」つくしは笑いながら念を押した。
「ああ。言っただろ?俺と結婚すればおまえが望むことは何でもしてやるってな」

司は穏やかにほほ笑むと胸元から万年筆を取り出した。
受けて立とうと思った。あの時とは違う意味で病に打ち勝って道明寺との人生にかけてみようと思った。不安がなくなったわけではないが迷いは捨てた。

つくしは婚姻届を受け取ると差し出された万年筆でサインを済ませた。

「よし。これでおまえは今日から道明寺つくしだ」
「まだ受理されてないのに何言ってるのよ?」つくしが笑った。
「だれが不受理なんかにすんだよ?こんなもんは書いた時点で受理されてんだよ!」

司はつくしに向かってほほ笑んだ。
「奥さん。今夜からよろしくな?」
目の前には差し出された司の手。
あのとき掴めなかった大好きな人の手を今こそこの手に掴みたい。

つくしは喜んで差し出された手を掴んだ。
今夜が永遠へとつながる一夜と言うのなら、道明寺の腕の中で永遠の夜を感じたい。

司はつくしを抱きしめると彼女の髪に顔を埋めた。遠い昔に触れた感触は今も変わってはいなかった。だが手術前には頭を剃らなければならない。これから暫くはこのきれいな黒髪ともお別れだ。髪の毛はいつかまた生えて来る。どちらにしてもこれからのつくしの生活は全てに於いて夫として司が守っていくつもりだ。
昔どうしても欲しかった少女は大人になった姿で司の腕の中にいる。
今夜抱いて欲しいというのは、つくしなりの気持の整理の付け方なのかもしれない。
明日、もしかしたら・・という思いだろう。

長い間離れ離れになっていた恋人同士はここに来てやっと結ばれる日が来たようだ。
司はいたわるように優しくつくしを抱いた。だが自分の中にある情熱を抑えることは難しかった。もし今夜が二人にとって最初で最後の夜になるのなら司にとっては一生の思い出となってしまうからだ。慈しみたいという思いと激しく愛し合いたいという思いが交錯するのは仕方がないことなのだろう。
神が二人にお示しになられたのは試練を乗り越えて深く結ばれなさいということなのかもしれない。今、二人の目の前にある試練はこの二人ならきっと乗り越えられるはずだ。そのことを神もご存知だからこそお与えになられた試練なのだろう。
一度は断ち切られた二人の絆が再び結ばれたとき、荒い呼吸を繰り返しながら二人はただ無言で抱き合っていた。

まるで救いを求めているかのように互いの体を求め合った二人。
どうか、明日の手術が無事に終わりますようにと願いを込めて抱き合ったはずだ。


そしてその先には二人の幸せな未来が見えるようにと、願わずにはいられなかった。



「俺はまだおまえに言ってないことがある。俺を許して欲しい」
唐突な発言につくしは聞いた。
「許すってなにを許すの?」
「おまえを忘れちまったこと」つくしのことだけを忘れ、長い間ずっと寂しい思いをさせていたことは男との経験がなかったことでわかったことだ。
「それからこれは俺の頼みになるけど聞いてくれるか?」
「うん、なに?」
「おまえ・・手術受けたあとで俺のこと忘れてたら承知しねぇからな!」
司は自分のことは棚に上げておいてのたまった。
「そ、それは道明寺じゃない!手術して目覚めたらあたしのことだけ忘れてたのはどこの誰だと思ってるのよ!」
「悪かった・・あれは俺がわりぃんだってことは分かってる。けどな、おまえ絶対に俺のこと忘れるなよ?」
「わ、わかったわよ・・忘れないから心配しないで」つくしは笑っていた。
「もしあたしがあんたのことだけ忘れてたら、何でもあんたの言うとおりにしてあげる」
「よし!言ったよな?いや待て。俺の言うことを何でも言うとおりにするってことはおまえが記憶喪失になるってことか?ダメだ、それだけはダメだ。家族の中に記憶が無くなったことがある人間なんて一人いれば十分だ」
「なあ。俺を許すって言ってくれ。これだけはどうしてもおまえの口から聞きたい」

司はどうしてもつくしの口から自分を許すという言葉が聞きたかった。
だがつくしを知らない女だと蹴り出しておいて今になってつくしの元へと現れたのだから普通の女なら身勝手な酷い男だと言って受け入れてはくれないはずだ。
けど牧野は普通の女じゃない。こいつは俺が心の底から惚れた女だ。最終的に蹴り出す前、何度でも邸を訪れては俺のことを心配してくれるような心の広い女だ。
だから許してもらえるはずだ。だがそうは思っていても二人の間に流れた年月は・・・もしかしたらという思いもあった。

「どうみょうじ・・許してあげる。あんたが悪いわけじゃない。それに許すとか許さないとかのレベルじゃないでしょ?あれは・・事故だったんだから。道明寺が悪いなんて思ってないから・・」
その言葉を聞いて安心したのか、「そうか・・よかった・・」と言うと司は目を閉じた。
今日一日で東京からニューヨークまで飛び、つくしを探して船まで乗り込んで来た。
それにつくしの病院での検査にも同行し疲れたのだろう。
閉じられた瞼は恐らく明日の朝まで開かれることはないだろう。

つくしは暫く横になったまま、司の顔を見つめていた。あの頃の面影を探したが、大人になった道明寺の顔には、ただ疲労だけが色濃く感じられていた。

どうみょうじ・・・

あたしのために・・
あんたの貴重な時間を費やしてまで明日の手術に付き合ってくれるんだね。
あたし、闘ってくる。
あの頃はいつも何かと闘ってるって言われてたけど大人になってからは、闘うことは止めていたのかもしれない。
つくしも目を閉じるといつの間にか、深い眠りの中へと落ちていった。
暫くたって目が覚めたとき、自分をにこやかなほほ笑みで迎えてくれた司の為に、つくしは今日一日を人生で最良の日にすることを誓っていた。











新しい一日を安らいだ気持ちで迎えることが出来ることが信じられない。
もう人生の終わりが見えたと思っていたが、道明寺がそれを変えてくれた。
誰かのために生きたいと思うことで体の中に今までにない思いが自然と湧き上がって来ていた。




つくしの手術は無事成功した。
「奥様の腫瘍はすべて取り除くことが出来ました」
頭に包帯を巻かれて手術室から運ばれて来たつくしは意識のない状態ではあったが執刀した医師の言葉に司は胸を撫で下ろしていた。
「それで・・後遺症はどうなんだ?何か問題はないのか?」
いつも堂々とした態度の男でも口ごもっていた。
「お目覚めになられてからでないと何とも言えませんが、恐らく何も問題はないはずです」
「あと・・どのくらいで意識は戻るんだ?」司は聞いた。
「もう少しかかると思いますが傍についていてあげますか?」
「ああ。ぜひそうさせてくれ」
司は妻の命を救ってくれた医師を見送るとつくしの枕元に付き添った。


手術前、病室からストレッチャーに乗せられて手術室へと向かう妻を心配した男の手にはつい先ほどまで妻が指に嵌めていた指輪とネックレスがしっかりと握られていたことを知る人間はいない。
手術室の前で、まるで祈りを捧げるかのような姿勢で椅子に腰かけていた男の手の中に握りしめられていた指輪とネックレス。
司はつくしの左手を取るとゆっくりと指輪を嵌めた。
この指輪はもう二度とこの指から離れることはないはずだと確信していた。
司はつくしの耳元で優しく囁いた。
「愛してる。つくし。これから先は一生おまえと過ごすんだから早く元気になってくれ」

次の瞬間、司が握っていた左手がぴくりと動いた。
「ど、どうみょ・・うじ・・」囁かれるような小さな声がした。
「ああ。俺だ。ここにいる」司はつくしの手をギュッと握りしめた。
「あ、あたしも・・あいしてる・・」
酸素マスクをつけた状態でもはっきりとした声が聞こえてきていた。








二人の間にはこれから永遠の夜が連なっているはずだ。
遠い昔に果たされなかった約束は、今ではもう過去の思い出となっているはずだ。

今の二人が思い浮かべる情景はいったいなんなのか。

それはほんの小さな出来事でしかないはずだが、二人にとっては大切なことなのだろう。

二人にしかわからない情景とは。

恐らくそれは短くも楽しかった高校生の頃の情景だろう。

その情景が心の中にある限り、二人の愛は決して揺らぐことはないはずだ。









< 完 > *情景*

にほんブログ村

人気ブログランキングへ

応援有難うございます。
Comment:18
back-to-top