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2020
04.06

愛を胸に抱きしめて~続・春を往け~

「ねえ。梓に彼氏が出来たみたい」

「…..今、なんて言った?」

どんなに仕事が忙しくて遅くなっても会食がある以外は家で食事を取ると決めている男は、食後のコーヒーを飲みながら訊かされた妻の言葉に眉をひそめた。

「ん?だから梓に彼氏が出来たって言ったわ」

「つくし。梓ってのは、うちの梓のことか?」

「そうよ。あたしと司の間に生まれた娘のことよ?あたしたちの娘も年頃よ?恋をする年齢になったの」

それは聞き間違いでなければ司のひとり娘に男が出来たということ。
1年前に英徳の高等部を卒業し大学生になった息子には付き合っている女性がいるが、卒業式当日に妻から言われたのは、息子に好きな女の子が出来たということ。
そして、母親の勘からして想いは伝えてないだろうということ。
だが卒業式を終えた息子が帰宅したとき、制服のネクタイがなければ、それは好きな子から思い出の品としてネクタイが欲しいと言われ手渡したということ。
それが意味するのは共に思いは同じだということ。
つまり相思相愛ということになるが、あの日。息子はネクタイをしていなかった。そしてプロムに出掛けたが、会場まで息子を送った車の運転手は途中花屋に寄ったと言った。

司はあのとき息子が意中の女性の心を掴んだことを知った。
それは大学生になった息子に恋人が出来たことを意味するが、息子の母親は我が子に恋人が出来たことを喜んだ。

「ねえ。司。彼女ってどんな女の子なのかしらね?それに巧は私たちに紹介してくれるのかしらね?それとも恥ずかしくて紹介してくれないのかしら?でも相手のご両親にはちゃんとご挨拶しているわよね?だってよそ様のお嬢様とお付き合いするんですもの。ちゃんとご挨拶しないとご両親も心配するわよね?あ、もしかするとご両親は巧と付き合うことを許して下さらなかったのかしら。そうなるとちょっと辛いわよね。でもまさかあたしと司の時のように派手な妨害をされることはないわよね?」

と言って妻は笑ったが、あのとき司は妻の言葉を鼻で笑った。
それは、どこの親が道明寺財閥の後継者と付き合うことを反対するかということだが、今は息子のことはどうでもいい。
それに息子の交際は順調だという話は妻から訊いていた。

それよりも今、問題にしなければならないのは、ひとり娘の梓に彼氏が出来たこと。
それにしても17歳の娘に彼氏が出来たことに気付かなかった。
それは司が男親だからなのか。
だが確かに司は娘が普段どんな風に過ごしているか詳しくは知らない。
それに娘が髪型や服装にこだわりを見せるようになっているとしても、やはりそれは男親だから正直気付かなかったし分からなかった。
だから妻の話を訊きながらムッとしていたが、そんなしかめっ面をした夫に、

「ねえ、司。梓の彼氏ってどんな男の子なのかしらね?同級生からしら。それとも年上からしら?もしかして年下?でもあの子は年下って感じじゃないから同級生か年上だと思うわ。
でもまだ付き合い始めたばかりみたいだから、そのうち紹介してくれると思うんだけど、楽しみよね?」と嬉しそうに言ったが何が楽しみなものか。

だが司は当時16歳の妻に恋をした。
荒んだ目をして、荒んだ毎日を送っていた男の前に現れた少女。
はじめは生意気で、どうってことのないただの平凡な女だと思った。
いや、それ以下だと思った。
だがそんな女に気持が高まった。彼女の顏を見ると胸の鼓動が高まり落ち着かなくなった。
そして心の芯を絡め取られ、彼女の大きな黒い瞳に自分の姿だけを映して欲しいと思うようになった。彼女に会いたい、傍にいたいという思いを抑えきれなくなると彼女を追いかけたが、友人達はそのことを相当な圧をかけて彼女に交際を迫ったと言った。
だがそんな男は彼女の両親に対して早い段階で自分の思いを伝えた。
だから、妻が言った息子は付き合う相手の両親に挨拶をすべきだという言葉が正しいなら、娘の彼氏は司に挨拶をしに来なければならないということになるが、その男はまだ司の前に現れない。

男親にとっての娘とは娘であって娘ではない存在。
それは妻とも違う。だからと言って恋人ではない。
それならなんなのかと問われれば、それはまさに目の中に入れても痛くない存在であり、自分の血を分け与えた分身であり、自分のDNAを受け継ぐこの世界の中でただひとりの娘。
形容しようにもしようが無いかけがえのない存在。だからそんな大切な娘の彼氏という男がどんな男なのか気にならないはずがない。
そう思う夫の気持を察した妻は、

「ちょっと、司。まさかとは思うけど、その男の子のことを調べたりしないでしょうね?
分からないなら言うけど、そんなことをしたら梓に嫌われるからね?
それに心配しなくても大丈夫。そのうち紹介してくれるはずよ?だからそれまで待つの。いい?知らんぷりするの」

そう言われたが、司は父親という立場から譲れないものがあった。
というよりも譲りたくないものがある。
古い人間だと言われてもいい。それに司は昭和生まれだ。だから古くて結構。
そんな男が譲れないもの。それは娘には本当に好きな人と初めてを迎えて欲しいということ。つまり無駄な通過儀礼など必要ないということ。傷付いて欲しくないということ。

司はモテる男だった。
少年時代から彼の周りには大勢の女が自分を見て欲しいと秋波を送っていた。
だがあの頃の司は、女は薄汚い生き物で触れたいと思う存在ではなかった。
だから初めての相手は妻で、それは妻も同じ。
そして二人が初めての夜を迎えるまで相当な時間要したが、奥手といわれた女のことを思った司は、いくらでも待つと言った。そして実際に待った。相手の気持をどこまでも尊重した。
だからこそ、娘の彼氏もそういった男でいて欲しいと思った。いや、思うではない、そういった男であって欲しいと願っている。だから相手がどんな男が知りたいと思うのが男親だ。
それになにより娘はまだ17歳。つまり未成年であり親の保護下にある。
だから親が守ってやらなくてどうするというのだ。
それにしても放熱した「あの時」は、人生で一、二を争うほど幸せな瞬間だったが___

「司?いい?今は梓のことはそっとしておくのよ?まだ恋は始まったばかりで微妙な時期なんだからね?親が口を出して別れちゃったりしたらあの子から口を利いてもらえなくなるわよ?」












司は風呂に浸かりながら考えた。
妻からはそっとしておけと言われたが、司にすれば娘が交際を始めた男が誰であるかを調べることなど造作無い。
だが娘が口を利いてくれなくなることは怖い。まだ娘がベビーベッドの中にいた頃、帰宅した司の顏を見上げて見てニッコリ笑う様子は、まさに天使の微笑みで、絶対にこの子と離れるものかと思った。嫁になどやるものかと思った。だがそうはいかないことは分かっている。
そんな司に同調したのは司と同じように娘を持つあきらで、「娘を持つ男親の気持ってのは複雑だからな」と言った。

それにしても、気になるのは相手の男は本当に梓のことが好きなのかということ。
つまり相手の男が梓と交際を始めたのは、道明寺という名前に惹かれているからではないかということだが、梓の父親がどんな男か知っていれば軽率な行動はとらないはずだ。

道明寺ホールディングスと言えば日本経済をけん引する企業を幾つも所有するコングロマリットだ。つまり男の態度次第では、どんな圧力がかかるか分かったものじゃない。
だがそれをすれば、かつて自分の母親が妻の家族や周囲に対して行ったことと同じ。
もっとも、司はかつて自分たちが経験したようなことをするつもりはない、
だが、仮にそんなことをしたとして、相手の男が簡単に梓を諦めるようなら、そんな男は娘には相応しくない。娘をそんな根性無しの男と付き合わせるわけにはいかない。
そうだ。司は妻と交際をすることを決めたとき、全てを捨てるつもりでいた。
そして何があっても彼女を守ると決めると、そのために前を向いたが、今思えば必死だった。
だが若さに必死は付随するものであり、この年になれば若いとき必死にならなくてどうするという思いがある。
だから相手の男が本当に娘のことが好きなら、どんな困難が前にあろうと立ち向かう男であることが望ましい。
そんなことを思いながら風呂から上がった。







数日後の夜。
司は自宅で家族と食事を済ませ執務室で仕事をしていたが、扉をノックする音に読んでいた書類から顏を上げ「入れ」と答えたが、開かれた扉の向こうから顏を覗かせたのは娘の梓だ。

「パパ。今いい?話したいことがあるの」

司には3人の子供がいる。上ふたりの男の子は司のことを父さんと呼び、末の娘はパパと呼ぶがその声は、どこか緊張していた。
そして司は話したいことがある。その言葉に妻が言った彼氏のことだと思い、「ああ。いいぞ」と答えたが、そこにあるのは妙な緊張感。
だがその緊張感を見せる訳にはいかなかった。だから平常心で娘が話し始めるのを待った。

「あのねパパ。私、付き合い始めた人がいるの。それでね。彼がパパとママに挨拶したいって言うから……それでそのことをママに言ったら直接パパにも話しなさいって言われたの。だから今度ママと一緒にその人に会って欲しいの」

来た。
ついに来た。
娘から彼氏に会って欲しいと言われる日が。
そして心配していた相手の男についてだが、交際相手の両親に挨拶をしたいと望むということは、どうやらまともな男のようだ。だから受けて立つつもりだ。

「そうか」

「うん」

「それでいつだ?」

「え?」

「だからいつ会って欲しいんだ?」

「うん。自分は学生だからいつでも大丈夫だって。だからパパの都合のいい日でいいからって言ってるの」

娘はそこまで言うと少し間をおいて、「だからパパ。都合のいい日が決まったら教え欲しいの」と言葉を継ぐと部屋を後にした。






娘の彼氏に会う。
まさか自分にそんな日が来ようとは。
だがそれは娘が生まれた瞬間から分かっていたはずだ。
そして司が親になって初めて知った親が子を思う気持。
例えばよく言われることだが、親は我が子が罪を犯せばその罪を庇う。
子の代わりに罪を被ろうとまでする。どんなことをしても我が子を守ろうとするそれは血を分けた我が子に対する無償の愛というもの。
司が少年だった頃、親は司の素行の悪さを金で揉み消し解決したが、そのことを何とも思わなかった。そしてそんな親を親と考えたことはなく冷やかに見ていた。
親のすることは、なんでもムカついて腹が立った。
だからそんな態度を取り続けた自分の子供は、いずれあの頃の自分と同じように親となった自分を見るのではないかという思いがあった。
だがそれは違う。妻のおかげでそうなることはなかった。

妻は大きな愛で子供たちを育てた。それは水鳥が羽毛の暖かさで雛たちを育てるように、子供たちを自分の胸にしっかりと抱き込み、暖かさと守られているという愛を与え続けることをした。
そして司は、水鳥が安全に暮らせるように大空の上で大きな翼を広げ守った。
だから子供たちは自分が愛されていることを知っていて、あの頃の司のようにはならなかった。
だが子育ては数学のようにひとつの答えに行き着くものではない。突然泣き出したり駆け出したりして思い通りに行かないのか子育てだ。

だが、つがいの鳥は間もなく子育てを終える。
そして、春に道端で見られるタンポポの綿毛に息を吹きかければ、ふわふわと空へと舞い上がるように、子供たちはいずれ親の元を離れ大きな空へと飛び立つが、春に舞い上がる綿毛はどこを目指して飛んで行くのか。
子供たちがまだ小さかった頃、庭の片隅に生えていたタンポポの綿毛を吹いて飛ばして遊んだのはつい最近のことのように思えたが、そんなタンポポの花言葉のひとつが「別離」だと知ったのは、つい最近のこと。
あのとき妻は司に言った。

「タンポポはアスファルトの割れ目からでも芽を生やすことが出来る強い雑草よ。どんなに厳しい環境でも育つことが出来るのよ?だからこの綿毛もどんなに酷い環境に飛ばされても力強い根を張って育つわよ?」

かつて自分のことを雑草だと言った妻。
あのとき妻は、自分の子供たちを綿毛のように遠い地に飛ばすことも厭わないと言った。
その言葉には、子供たちに自分の人生を自由に生きて欲しいという思いが込められていた。
そして司もそのつもりだった。だから子供たちが選ぶ人生を否定することはしないつもりだ。

それにしても、男の子と女の子ではこうも違うのか。
それは男の子の場合は同性ということもありサバサバと接することが出来る。
だが女の子の場合そうはいかない。異性ということもあり親子なのに意外と気を遣う。
けれど、司は娘を信頼している。
それに我が娘は司が思っている以上にしっかりしている。
だから、そんな娘が選んだ彼氏という立場を勝ち得た男はどんな男なのか。
会うのが楽しみだった。




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2020
04.03

幸福の黄色い絨毯

<幸福(しあわせ)の黄色い絨毯>









「それで?司の様子はどうなんだ?」

「あの子は大丈夫。ちょっと驚いただけよ」

「そうか。それにしても司が親になるとはな。何か信じられんような気もするが君はどう思う?」

「あなた。司は結婚したんですもの。それに妻となった女性を愛しているんですもの。
だから子供が出来ることに不思議はありませんわ。それにあなたもご存知の通り司はつくしさんに出会ってから変わりました。大学生の頃から早く結婚したいと口にしていたくらいですもの。それにしてもあの子が早く家庭を持ちたいと願うとは…昔のことを思えば信じられませんでしたわ」

「そうだな。司は道明寺の家など自分の代で潰してやる。どうなってもいいと言ったことがあったそうだが今の司はそうではない。それに今の司の顏は立派な男の顏だ。自分の立場を理解し家族を守ることを決めた男の顏だ。だから司がどんな親になるのか楽しみにしている。
だが私は司が子供の頃に傍にいることはなかった。親として何をしたかと言われれば何もしていない。そんな父親だがあの子は私を子供の祖父として受け入れてくれるだろうか?」

「あなた。受け入れるもなにも司は自分の父親のことを尊敬しています。それにあの子に拒否されると心配しているならそれは杞憂ですわ。あの子はつくしさんと出会ってから変わりました。つくしさんがいるから今のあの子がいるんです。だから司は父親であるあなたの事を迷惑だなんて思わないわ。喜んで祖父として受け入れてくれるはずです」

「そうか….そうだといいんだが….。
それにしても司の少年時代はわんぱく小僧だったが、今は副社長として立派に仕事をしている。それもこれもつくしさんに出会ったからだな。きっと司は彼女のためなら素手でライオンと戦うことも厭わんだろう」




楓は夫とジェットで太平洋の上を移動していた。
それは東京にいる息子の秘書からつくし奥様が破水して入院したという連絡を受けたから。
その連絡にすぐにジェットを用意しろと言ったのは夫だった。
道明寺財閥の総帥であり楓の夫である道明寺祐は病で命が危ぶまれたことがあった。
そのとき息子は財閥の跡取りとして渡米することを決めたが、我が子がひとりの女性のために自分を変えようとしたことを知った夫は、息子を変えた牧野つくしという少女に興味を持った。そして少女のことを調べ、彼女の人となりを気に入った。
それにしても、我が子の手に負えなかった少年時代をわんぱく小僧だと言って笑った夫は、自分の若かりし頃のことを息子に重ねているのか。
そう思う楓の脳裡にはまだ結婚する前の夫の姿が思い出された。










楓は美しさと聡明さを備えた娘だと言われていたが、自分の生き方を自由に選ぶことは出来ないと知っていた。
それは楓の家が旧家であり資産家だったから。だからその家柄に合う家へ嫁ぐことは分かっていた。そして女子大の卒業を間近に控えたある日。父親から道明寺家の長男と結婚することになったと告げられた。

親の決めた結婚相手に否とは言わなかった。
それに相手のことを知ろうとも思わなかった。
それは、これまで楓が誰かを好きになる。恋をするという経験をしてこなかったことから、結婚相手などどうでもいいと思っていたからだ。
だが道明寺家と言えば知らぬ者はいないと言われる資産家であり日本を代表する企業をいくつも所有する大財閥。その家の長男と結婚するということは、跡取りを生むという役目がある。つまり役目が果たせなければ、嫁としての立場が失われることも知っている。
夫になる男は楓に子供が出来なければ愛人を作るか。それとも楓とは縁を切ることを選び他の女性を妻として迎え入れることになるのか。どちらにしてもそれは旧家や資産家ではよくある話だ。

そしてその男と会う日。待ち合わせの料亭に現れたのは、ポマードでリーゼントを決めた頭に、鋲が打たれた黒い革ジャンとジーパン姿で大型バイクに跨った2メートル近い大きな男。
楓は思った。結婚する相手との顔合わせに砕けた服装で現れた人物は本当に道明寺家の跡取りなのかと。
だがその男の後ろに現れた黒縁の眼鏡をかけたスーツ姿の男性が慌てた様子で「専務。着替えをなさって下さい」と言ったことから、目の前の男が楓と結婚することになる道明寺祐だと知ったが、その風貌から街中を騒々しい音を立て走り回る暴走族だと思われてもおかしくはなかった。
それにバイクに現を抜かし、結婚相手との顔合わせの場で常識外れの格好をする男が道明寺家の跡取りだとすれば財閥の将来は見えたと思った。
だが男は言った。

「あなたが私と結婚する人ですか?申し訳ない。私はあなたと結婚するつもりはありません。いや失礼。あなたが嫌だと言うのではありません。いずれ私は誰かと結婚しなければならないことは分かっている。だが私はまだ自由でいたい。誰かに縛られるのはまだ早いと思う。だから今回のことは両親が決めたこととは言え無かったことにして欲しい。そのことを謝ろうと思いここに来ました。大変申し訳ない」

と言った男は頭を下げた。

「それにあなたもせっかくの休日を私のような男との会食に費やすよりもっと有意義なことにお使い下さい」

と言った男は楓に背を向けると立ち去ろうとした。
そのとき楓は咄嗟に男の革ジャンに手を伸ばし掴んでいた。
そして振り向いた男に言った。

「あの……バイク。後ろに乗せてくれませんか?」

少し沈黙があった。
男は「その恰好で?」と言った。
だから楓は「はい。この恰好ではダメですか?」と言ったが男は再び沈黙してから「いいよ」と言って笑った。







楓は男から、これを着てと革ジャンを渡されたことからワンピースの上に羽織ると、ハイヒールで大型バイクの後ろに乗ったが、初めて乗る大型バイクの後ろは、エンジンがかかると大きな音を立て、それと同時に振動が身体に伝わった。

「じゃあ行くよ。しっかり掴まって」

そう言われた楓はどこに掴まればいいのか分からなかった。
するとその躊躇いを感じ取った男は、「私の腰にだ」と言って楓の手を取り自分の腰に回させた。

初めて乗った大型のバイク。
いや、それ以前にバイクに乗ったことはない。だから風を切って走るのは初めてだ。
それに男の腰に腕を回し、しがみついたのも初めてだった。
そして大きな背中から伝わる温もりは、これまで感じたことのない温もりだった。

咄嗟に掴んだ男の革ジャン。
何故そうしたのか。
楓は自分が旧家の因習と保守。義務と責務に囚われているのに対し、道明寺祐は同じような家柄に有りながら、それらに反抗するようにリーゼント姿で大型バイクに乗っている。
だからその姿に自分に無い何かを感じた。

男がどこに向かうのか分からなかったが、バイクの後ろから黒塗りの車が追尾しているのは分かっていた。だから不安はなかった。
そしてバイクの後部座席から見る景色は、これまで幾度となく見た景色であり見慣れた景色。
けれど車の中から見える景色には色が付いてなかった。だが今こうして風を切って走るバイクの後部座席から見る景色には色があった。それは芽吹く木々の色。空の青さ。太陽の光りが反射するビルの窓。そして風の音と排気ガスの匂いだ。

やがてエンジン音を高鳴らせるバイクは混雑する都内を抜け、交通量の少ないどこかの街の中を通り抜け、くねくねと曲がる山道を通って行くと見晴らしのいい場所に出た。
そして男はバイクのエンジンを止めると後部座席から楓を降ろした。

「ここは?」

楓は隣に立つ道明寺祐に訊いた。

「ここは私のお気に入りの場所だ。ひとりになりたい時にここに来る。とは言っても厳密に言って私がひとりになれることはない」

振り向いたそこに見たのは黒塗りの車が2台。
それは道明寺家の車と楓の家の車。だが楓は車のことなどどうでもよかった。
それよりも目の前に広がるパノラマに心を奪われた。だから楓は静かに目に映る景色を眺めていたが、やがて訊いた。

「あの。ここにはいつもバイクで?」

「いや。車で来ることもある」

そう言った道明寺祐の視線が楓の横顔を見た。

「ここもいいけど、もっといい場所もあるが見るかい?」

「ええ」

楓は迷うことなく答えたが、連れて行かれたのは、そこから少し離れた日当たりのいい平坦な場所。目の前にあるのは三角定規の斜辺のような斜面。そこに見たのは黄色い花が絨毯のように広がる光景。

「この花はフクジュソウ。フクジュソウはスプリング・エフェメラル。春を告げる花と言うが、この花は一株に一輪しか花を付けない小さな花だ。それにスプリング・エフェメラルの名の通り花は初春に咲いて枯れる。春の短い命だ。だがまた来年には花を咲かせる。ここでね」

「きれいね」

楓は呟いた。

「それに可愛い花だわ」

「そう思うか?」

「ええ。でも可愛いだけじゃないわ。寒かった冬が終わって春が来る。そのとき一番に咲く黄色の花は力強いパワーを感じるわ。それに明るい未来を感じさせるわ。命の息吹を感じる。そう思わない?」

と言った楓は祐を見た。








あの日以来、楓は祐に誘われると、彼のバイクの後部座席に乗って出掛けるようになった。
それは、自分でも思いもしなかったことだが、祐にとっても同じだったようだ。
初めて会ったあの日。髪をリーゼントにしていたのは、その風貌を見た楓が彼との結婚話を断るようにするためだと言った。それに祐の髪は癖がある髪だったことから、ポマードを付けることでその癖を隠すことが出来るからだと言った。
そして女神アフロディーテに愛されたと言われるアドニスのような美しさを持つ男は、「私の髪は私と同じで扱いにくい髪なんだよ」と笑ったが、ポマードを付けない祐の髪は確かに癖の強い巻き髪だった。

そんな道明寺祐は頭のいい男性だった。
だがただ頭のいい男性ではなかった。
気骨のある、それでいて平気で冗談も言う男性は楓の心を掴んだ。

だがある晴れた日。祐は楓と一緒に出掛けた帰りに事故に遭った。
それは伊豆半島の道沿いにある駐車場から出ようとしたとき、楓が風で飛ばされたスカーフを追いかけ車道に出たことで起きた。
そのとき訊いたのは怒鳴り声。そして車の急ブレーキの音。
楓は気付けば車道の端にいたが、目の前には血を流した男性が倒れていて、それが祐であることに気付いたとき叫んでいた。

祐は走って来た車から楓を守ってはねられた。
幸い命は助かった。骨折はしたが折れた骨はいずれ繋がると言われた。
そして楓は見舞いのため何度も病院を訪れた。だが何度行っても会えなかった。
だから手紙を書いたが返事はなかった。
何故会えないのか。何故手紙の返事がこないのか。
やがて交通事故で入院していた道明寺祐が仕事に復帰したことが記事になった。
だから自宅にも会社にも電話をかけた。だが不在だと言われ繋いではもらえなかった。
そしてある日、父親から告げられたのは、道明寺祐との縁談は破談になったということ。
父親は理由を言わなかったが何かが起きたことだけは分かった。
そしてある日、楓はなんとかツテを頼って祐に会ったが、ホテルの部屋にいる彼はスーツ姿で窓辺に立っていた。

「祐さん。良かった。ご退院おめでとうございます。お身体が回復して本当に良かった」

楓は離れた場所でそう言葉をかけたが、本当はもっと近くへ行きたかった。
だが、そこにあるのはこれまでになかった遠慮。それは自分のせいで怪我をさせてしまった人への申し訳なさだ。

「楓さん。ご心配をおかけしました。お蔭様でこの通り元気になりました」

と答えた祐の態度はこれまでと変わらなかった。だがどこか違和感があった。
それは部屋の中にいるというのに祐の左手には革の手袋が嵌められていたからだ。

「ああ。これかい?バイクに乗ってきたからね」

楓の視線を感じた祐はそう言ったが、祐がスーツ姿で大型バイクに乗るとは考えられなかった。それに手袋はバイク用の手袋ではなく、しなやかで上品なブラウンの革手袋。それを片方だけ嵌めている。
楓は祐の傍に行くと、初めて会ったとき自分に背中を向けた男の革ジャンを咄嗟に掴んだのと同じように彼の左手を掴んだ。
するとその手には違和感があった。

「祐さん…….」

楓は言葉に詰まった。

「あなた…….」

「楓さん。そんな顏をしないでくれないか。これは君のせいじゃない。ただ私が上手く車をよけきれなかっただけの話だ。それにしても失敗したな。バイクに乗って来たなら片方だけの手袋じゃダメだ。両方嵌めるべきだった」と言った祐は笑みを浮かべた。

楓が祐の手袋が嵌められた左手に感じた違和感。
それは5本あるはずの指のうち小指の部分の指が感じられなかったこと。

「楓さん」

祐は楓の名前を呼ぶとひと呼吸おいてから言った。

「私の指が失われたからと言って、そのことで自分を責めないで欲しい。それに左手の指全部が無くなったんじゃない。無くなったのは小指の一部分だよ。
そんな指をあなたの目に触れさせたくなかった。だからこうして手袋を嵌めていたんだが、勘のいいあなたは部屋の中で手袋を嵌めている男をおかしいと思ったんだね」

楓は泣きたくなった。
祐は失ったのは小指の一部分と言ったが、楓を助けたことで失った指は第二関節から上の指。
自分のせいで好きになった人の大切な身体が傷つき、そして失われてしまった指を思えばどんなに謝っても許してはもらえないと思った。
そして結婚が破談になったのは、指を失うことになった女が許せないからだと思った。

「楓さん。泣かないで下さい。これは本当にあなたのせいじゃない」

「それなら!」

楓は思わず大きな声を上げていた。

「どうして私との結婚を止めたの?」

と言ったが祐に言われるまで自分が泣いていたことに気づかなかった。

「楓さん。私はあなたに私の怪我のことを悔いながら人生を送って欲しくない。
所詮私とあなたは親同士が決めた結婚相手だ。そんな私と無理に結婚する必要はない。それにもし罪の意識にかられて私と結婚するというなら、それは自分を犠牲にしているということになる。私は自分を犠牲にして結婚するような人とは結婚したくない」

と言った祐は左手を楓の手から引き離し、「何故なら私はあなたのことが好きだから。好きな人が私を見るたび辛い思をするなら結婚することは出来ないよ」と言葉を継いだが、その言葉に楓は涙が止まらなくなっていた。

「私は親が決めたからあなたと会っていたのではありません。それに罪の意識で結婚するんじゃありません。それにあなたにバイクで出掛けようと誘われて嬉しかった。だからいつも喜んで出掛けたわ。そんな私の気持をあなたは分かっていると思っていたわ」

楓は引き離された祐の左手を再び手に取った。

「私はあなたのことが好きだから結婚するんです。私はあなたと結婚したいんです!」










「楓。そろそろ東京に着くぞ」

「あら。もうそんなに時間が経ったの?」

楓は夫の声に瞳を開けたが、身体には毛布がかけられていた。

「ああ。君は目を閉じたと思ったら、そのまま寝てしまったようだが、微笑んでいたから何か楽しい夢でも見たのかね?」

そう言われた楓は笑みを浮かべて答えた。

「ええ。楽しい夢を見ました。私とあなたが出会った頃が夢に出てきたんです」

「そうか。懐かしい話だな」

「ええ。そうですわね。随分と懐かしい話ですわ。黄色いフクジュソウが沢山咲いていたあの場所。あの場所は今でもあるのかしら。もしそうなら今頃あの斜面には沢山の花が咲いているはずね?」

「そうだな。君と初めてあの場所に行ったのは丁度今頃の季節だったな。そう言えば、『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』という映画があったが、あそこは私たちにとっては幸せの黄色い絨毯だ。何しろフクジュソウの花言葉は幸せを招くと言うじゃないか。まさにその通りで私は君とあの場所を訪れて恋におちたんだからな。よし!孫に会った後、あの場所に行ってみるか?」

「ええ。いいわね。そうしましょう」

と言うと楓は自分の右側にいる夫の左手を握った。













暖かい風に乗って様々な匂いが香るようになった。
そして、世の中がどんなに殺伐としていても季節が廻れば花が咲く。
それはスイセンだったり桜だったりするが、このふたりの前に間もなく咲くのは小さな命の花。
いや。こうしている間に新しい命はもう咲いているかもしれないが、その命がこれから先どんなふうに花開くのか。
だがどんな花を咲かせようと、その命は尊いものであり、ふたりの命を受け継ぐかけがえのない命。そんな命の輝きは美しいはずだ。
だから、ふたりは会う前から小さな命の成長を心から楽しみにしていた。





< 完 > *幸福(しあわせ)の黄色い絨毯*
こちらのお話が、先が見通せない現在のこの状況に於いて癒しのひとつになれば幸いです。
そして皆様。張り詰めた毎日をお過ごしのことと存じますが、体調を崩されませんよう、どうぞご自愛下さい。   アカシア
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Comment:13
2020
03.22

また、恋が始まる 最終話

「おかえり!」

これまで人の気配がなかった部屋の奥から聞こえた声に司の心は和んだ。と、同時に漂うアップルパイの匂い。
世間で言ういい年をした男と女の交際は、彼女が仕事を辞めニューヨークに渡り一緒に暮らし始めたことで前へ進んだが、それは交際期間半年を経ての婚約だ。

カザフスタンを引き払いニューヨークの司のペントハウスで暮らすようになった女は、司の婚約者として発表されるとパーティーに出席することが増えたが、初めて華やかな姿で現れたとき、その姿はあの頃にはなかった大人の女の可愛らしさがあった。
そんな女の姿に見惚れていると、「どう?見直した?」と言ったが「ああ。馬子にも衣裳とはこのことか?」と言うとドレス姿の女は怒った顏をしたが、その顏も愛おしかった。
とにかく一切合切が愛おしく思えた。

司が16年前に好きになった女は、あの頃から志を立てて生きてきた女で、それを漢字ひと文字で表すなら操という字になるが、彼女がその字が持つ別の意味も立てていたことを知った。
それはふたりが付き合い始めて3ヶ月が経った頃。
性的に成熟していてもおかしくはない年齢の女は、かつて司の周りにいた同世代の女たちとは違った。
それは、あの頃から奥手と言われていた本人が「言っておくことがあるの。がっかりさせたならゴメン」と言って知ったが、それは男性経験がないということ。
そのことを知ったとき、がっかりどころか彼女を知るのは自分だけだと思うとそれだけで心が満たされたが、それは男という生き物が持つエゴを満たしたに過ぎず、お前以外の女は欲しくないと言っていた己の過去が甦ると、これまでの自分の行動を恥じた。
だから「ごめんな」という言葉が口を突いた。


恋には下心があり愛は真心があると言われるが、相手を愛おしいという気持ちにあるのは二度とその人を悲しませたくないという思い。
そんな思いを抱きながら彼女を抱いた。初めてだという相手に明け方少しだけ眠っただけで、ほぼ一晩中抱いたが性欲がそこまで高まったのは初めてで止めどなかった。

初めこそ目を閉じ苦し気な息を吐いていた姿も、躊躇うことなく司の首に回された腕に、ぴったりと密着して身体を揺らせば、ため息とも喘ぎとも取れる声が漏れ司を煽った。
だが初めてを考え慎重に扱ったが、佳境に入ると彼女が初めてであることを忘れた。
そうなると司の身体は彼女を求めることを止めなかった。
司を包み込んだ熱い感触と彼女がイク瞬間を感じながら身体をぶつけ追いかけ、過熱し過ぎた下半身が隔たれることがなく解き放たれた瞬間、己の細胞の全てが彼女の中に注ぎ込まれたことが嬉しかった。
司は避妊しなかった。けれど彼女は何も言わなかった。
だがそれは彼女に余裕がないからだと分かっていた。

この瞬間彼女の身体に自分の種が根付けばいいと思った。
いや、思っただけではない。強く望んだ。断ち切れない絆を結びたいと願った。
だから昼であろうと夜であろうと、彼女と愛し合いたいと思った。
だが聞かなければならなかった。
だから「大丈夫か?」と言ったが、見上げる瞳は「大丈夫だから」と答えた。
そのとき司の口を突いたのは、「愛してる」の言葉。誰よりも牧野つくしを愛してる。
そして返されたのは同じ「愛してる」の言葉。
これまでも大勢の女から言われたその言葉。だがこれまで女たちの口から放たれたその言葉は空疎で何も感じなかった。
だが今は違う。好きな人から言われるその言葉はこの世に存在するどんなものよりも重みがあった。

司は彼女の身体を己の身体の上に引き上げるとしっかりと抱いたが、胸に顏を埋めた姿は激しく愛され疲れたのか。小さな寝息を立て始めていたが、少年と少女だったふたりは、こうして愛し合うことで再び互いの存在を確固たるものに変えた。
そんな誰よりも愛しいと思える人。
その人の寝顔を見つめることが許された男は、やがて同じように眠りについた。











「ニューヨークの冬はこれからが本番だ」

ふたりは自由の女神が見えるマンハッタンの南端にある公園を散歩していたが、立ち止まった男が黒のカシミアのコートに最愛の人をすっぽりと包んで見たのは夕暮れのニューヨークの景色。
冷たくなった風に吹かれながら海に沈む夕日を眺めていたが、彼女のことを忘れなければ12年前にこの街の大学を卒業した男は、こうして彼女を抱いてこの景色を見ていたはずだ。
だが過去を振り返ったところで過去は変えることは出来ない。
けれど途切れた恋の糸はまたこうして結ばれた。
そして大人になったふたりは、躊躇うことなく手を繋ぐことが出来た。

けれど、司が差し出した手を握ったその姿には、あの時掴めなかった手を取ることが出来たことへの切ない思いがあるのではないか。
司も掴むことが出来なかった少女の手をしっかりと握ると、顏を見合わせて笑ったが、誰もいないところでは、泣いていた少女がいたのではないかと思った。
だから司は一緒に暮らすようになってから俺がお前を忘れてから泣いたかと訊いた。
すると少し黙り込んだ彼女は静かに口を開いた

「泣いたわよ。あんなことになって泣かない人間がいると思う?あの島でやっと自分の気持ちに素直になれて離れたくないって言った。アンタもずっと一緒にいるって言った。でもアンタはあたしを忘れてニューヨークへ行った。あたしのことなんて頭の片隅にもなかった」

あの島とはふたりの恋の行方を心配した友人が用意した島。
その島への旅でふたりは互いの気持ちを確かめ合った。
だがその旅を終え港に着いたふたりを待っていたのは、財閥に恨みを持つ男の刃。
ふたりが感じた幸福感はあっと言う間に消えそこには悲劇だけが残された。

「ひとりになって泣いた。周りに優しくされるほど辛かった。大丈夫だって言ったけど、それは我慢をしていただけ。自分を卑下すると涙が出るから常に上だけを見ていた」

司はその言葉に息が詰まってかける言葉を失った。
いくら強気の態度を見せてもやはり寂しかったのだ。
そして女は大きな目からぽろぽろと涙を流して泣いた。
それから司に抱きついて声を上げて泣いたが、その姿はニューヨークに行かないで。もう離れるのは嫌だと言って司に抱きついて泣いた姿に重なり胸が痛んだ。
だから強く抱きしめると「大丈夫だ。俺はもうどこにも行かねえ。ずっとお前の傍にいる」と言ったが、涙でぐちゃぐちゃになった顏が余りにも愛らしくて笑った。
するとそれを見た女は「笑わないでよ!」と泣きながら怒った。
そして抱きしめられた女は「道明寺のバカ!」と言って司の足を蹴った。
だから司は抱きしめたまま「俺が悪かった」と謝った。









間もなく太陽は海の彼方に沈むが、これまで一日が終ることがこんなにも意味を持つとは思いもしなかった。
陳腐な表現だとしても、彼女のことを思い出すまで感じることがなかったホッとする瞬間というのは、愛する人が傍にいるこういう時間のことを言うのだと思った。

「牧野」

「なに?」

「お前。覚えてるか?お前がこの街に俺を迎えに来た時のことを」

司は母親から彼女を守るためにニューヨークへ行くことを決めた。
そんな司を追いかけて来た彼女を追い返したが、最後に空港で交わした言葉は、約束は守るからだったが、ふたりの間で交わされていた約束は鍋をしよう。

「うん。覚えてる。鍋でしょ?ふたりで鍋をしようって約束したわ」

ふたりはその鍋の最中にさらわれた。
そしてあの事件が起きた。だからふたりの鍋の約束は未完のままだ。

「そうだ。その鍋だが寒くなって来た。だからあの約束を果たすには丁度いいんじゃねえの?」

その言葉に彼女は笑って頷いた。

「いいわよ。じゃあ今夜は鍋ね!そうと決まったら買い物しなきゃ。お豆腐はあるけど長ネギが無いわね。あ、でもニューヨークのスーパーでも長ネギ売ってる?それからつみれも作らなくちゃ。あ、でもイワシはないから__」

「牧野」

司は食材の心配をしている女の言葉を遮った。

「あの時の約束が果たせるならどんな鍋でもいい。お前が作る鍋なら中身はなんでもいいんだ。たとえ中にチョコレートが入ろうが、アップルパイが入ろうが中身に意味があるんじゃない。俺たちの鍋はふたりで食うことに意味があるんだ」

「そうよね.....どんな鍋でもあたし達が食べる鍋はふたりが美味しいと思えばそれでいいのよね?」

同意しながらも少しだけ間をおいて答えた彼女。
今のふたりの脳裡にあるのは、古びた狭いアパートの、ほとんど家具のない部屋におかれたテーブルの上で湯気を立てている鍋。
ふたりでスーパーに買い物に行って揃えた食材で作った鍋を美味いと言った男の姿に女は喜んだ。
けれど、守ってやりたかったのに、守ってやれなかった、の言葉に永遠の別れを感じた女はうつむいた。



「じゃあ今夜の夕食は鍋に決定!そうと決まったら早く帰って準備しなくちゃ。つみれは鶏肉で作るわね。それから道明寺。あの時と同じように手伝ってくれるでしょ?」

「ああ。勿論だ」

ふたりは手を繋ぐと黄昏に背を向けた。
司は結び合うように指を絡めると、その指を唇に運んだ。
そしてそこに嵌められている指輪にキスをしたが、夫婦になるまでの間は恋を楽しもうと決めていた。

あの頃出来なかった恋の続きを。




< 完 > *また、恋がはじまる*
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短編で終わる予定が長くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
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2020
03.19

また、恋が始まる 18

つくしの前にいる道明寺司という男は、確かにあの頃とは違う。
それは年を重ね大人になったからなのか。
それとも自分が持つ力の使い方を知っているからなのか。
ふたりの付き合い方はつくしのペースに合わると言いながら…..いや。合わせているように見えるだけで、物事の流れは確実に男のペースで進んでいた。

キルギスの邸にとどまったのはたった1日。
「お前が焼いたアップルパイを俺にも食べさせてくれ」その言葉に頷き付き合うことを了承すると、長いくちづけをした男はつくしの手を取り、「戻るぞ」と言って待たせてあった車に乗り込むと空港に向かい、キルギスを後にしてカザフスタンに戻ったが空の上で彼女の手を取り言った。

「牧野。俺たちの関係は16年前に一旦途切れたがまたこうして元に戻った。
過ぎたことを悔やんでも仕方がないことだが、俺とお前は過去を共有することが出来なかった。けど俺もお前も年を重ねた男と女だ。互いに人生について考えなきゃならん年齢だ。
だから言う。分かっていると思うが俺は俺たちの付き合いをただの付き合いにするつもりはない。俺が朝、目覚めたときに最初に見たいのはお前だ。隣にいて欲しいのはお前だ。
つまり俺たちの付き合いは結婚を前提だってことだ。
それから姉貴から訊かされただろうが、母親のことは気にしなくていい。
まず、いい年をした息子の人生の伴侶に対して母親がとやかく言う方がどうかしている。
それに俺は誰に文句を言われることがないほど道明寺の業績を上げてきた。だからこそ母親に意見をさし挟まれる筋はないと思ってる。
まあ、母親はお前のことに関しては何も文句はないはずだ。何しろいつまでも結婚しない息子に痺れを切らしたと言った方が正しいかもしれねえけど、お前のことは認めてるから心配するな。それに過去にお前には助けられたことがあっただろ?だからあんな母親だが見るところは見てる。結局相手の家に金があろうがなかろうが、身分がどうのは関係ない。
それにどんなに外側から力をかけたところで、人が相手を求めるのは生理的レベルだ。理屈じゃない本能が相手を見極める。人が人を欲しがるのは本能が動かす感情のレベルがどれだけ高いかだ。はっきり言ってこの16年の俺の感情のレベルは最低だった。つまり俺の本能は長い間眠っていた。だが目覚めた瞬間からお前を求めて動きだした。だから16年前の約束を果たす」

男はそう言うと、「それからこれはお前のものだ」と言ってつくしが返すつもりでベンチに置いたネックレスを彼女の手に握らせた。
「今のお前には子供っぽいかもしれねえけど、これは俺が初めてお前に贈ったものだ。だから出来れば大切にして欲しい」

つくしは、男の話を訊いていたが、とにかく男はよく喋った。
それはまるでつくしの口から否定的な言葉が出ることを恐れているように思えたが、道明寺司という男には昔と変わらない部分があった。
それは彼女の気持ちを尊重しようと言ったことだ。

「牧野。果てしない空の下でこうしてまたお前に会えたことは俺にとって幸運だったとしか言えない。それに俺は結婚を前提にと言ったが、お前の考えを尊重する。
これから付き合って行く中でやっぱり俺とは一緒にはやっていけないと思うなら言ってくれ。けどそうなると俺はお前を諦めることをしなきゃならんが、簡単にお前を諦めることは出来んだろうよ」

それは少しだけ悲し気に聴こえた。
だが継がれた言葉は力強く響いた。

「ただ、待って欲しい。時間が欲しいと言われれば俺は待つ。
俺にとって1週間は秒に過ぎない。つまり3カ月待つのは12秒で半年なら24秒。1年は48秒だ。そのくらい俺は待つことが出来る。だってそうだろ?俺たちの間には16年という時間が流れた。それに比べたら半年も1年も大差はない。それに人生を迷わない人間はいない。だから俺は待つ。お前の人生に俺を迎え入れてくれる日を」

そしてそこまで言った男は最後にこう付け加えた。

「ただ俺は間違った人生を送るつもりはない。それからお前に伝えておきたいことがある。
お前が俺と結婚するつもりがないって言うなら母親は荒れるだろうよ。お前も知っての通り、あの母親は自分の目的のためならどんなことでもする。それがビジネスだけでなく道明寺家の存続にかかわってくるとなれば尚更だ。もしかするとカザフスタンに乗り込んでくるかもしれん。そうだな……大金を持って現れて俺と結婚してやってくれって脅すかもな」

かつて息子と別れてくれと言って大金を持ってつくしの前に現れた道明寺楓は、瞬きひとつせずにつくしを正視していたが、今度は逆の意味であの時の状況が繰り返されるということ。
そんな脅しともとれる言葉を放った男はニヤッと笑った。

だが男が言いたかったことは待つということ。
それに忙しい男がカザフスタンに来たことで、仕事が滞ってしまっていることは察することが出来る。だから『俺は待つ。ニューヨークでお前を』と言って彼女を自宅まで送り届けるとキスを残し車に戻った。
そしてふたりの交際は男がニューヨークとアルマトイの間を行き来することで始まったが、男は地球を俯瞰するビジネスをしていることから距離がふたりの交際を妨げているとは感じなかった。

実際に男は中央アジアでのビジネスに絡み、カザフスタンを訪れることが多かった。
それは石油や天然ガスというかつて道明寺グループにはなかった分野の開発に力を入れているからだが、その時、通訳として呼ばれたが、もしかすると男はロシア語を理解しているのではないかと思った。

それは、何度目かの通訳をしていて気づいたこと。
かつて左耳に開けられていたピアスの穴はとっくに塞がっているが、あの頃と変わらずキレイな横顏は通訳者であるつくしには馴染みのものになった。
そんな顏のつくしに見える側の目尻に皺が寄ったのは、つくしが相手の言葉を日本語で伝える前だ。

人には本物の笑顔と偽物の笑顔がある。
それは愛想笑いと心からの笑い。本当の笑顔は目元に皺が寄ると言われていて、偽物の笑顔は目の周りに変化はなく口許だけで作られる。
つまりそれは目が笑っていないということだが、ビジネスの場に於いて作られる笑顔は口許だけの場合が殆どだが、あの時、男は相手がロシア語で言った笑い話をつくしが通訳する前に理解して心から笑ったということになる。
だから「もしかしてロシア語が分かるの?」と訊いた。
すると男は「ああ」と答えた。そして「ビジネスに於いては知らないフリをしている方がいいんだ。相手は俺がロシア語を理解できないと思うからこそ油断して俺に知られたくない話をすることもある。それはうちにとっての大きな情報だ。だから俺がロシア語を理解出来ることは誰にも言うなよ」と言葉を継いだが、それは正論であり、バカほど知識をひけらかし、賢い人間は知らないフリをすることで得ることや身を守ることが出来ると言うが、この男は後者のようだ。

そしてそんな男は、つくしの口から時々漏れる未整理な言葉も理解していた。

「お前の口から漏れる言葉に暗号解読表は必要ない。ま、かつてのソビエトのスパイもお前の口から漏れた言葉の意味を知っても不思議に思うだけだろうがな」

ひとり言を呟く癖は相変らずで、気付けば男に笑われていた。

そして、つくしは男がロシア語を理解していることを知ってから、相手の言葉を正確に伝える必要はなくなり、彼女の通訳としての役目は形だけのものになった。
だがロシア語を理解できない道明寺副社長の通訳として同席している以上、通訳として左斜め後ろという定位置に座り、正しい姿勢で男の耳元に言葉を伝えると男は頷いたが、その姿は通訳を通して語られた相手の言葉に頷いたように見えた。
だが、実のところそれはつくしの問いかけに応えている姿。
つくしが男の耳元に伝えたのは、「ねえ。昨日の夜アップルパイを焼いたの。だから食べるでしょ?」

男がつくしの元を訪れるたびに焼かれるアップルパイ。
今ではふたりにとっては欠かせないデザート。

「それからね。来月末で日本語学校の仕事を辞めることに決めたから」

その言葉に男は左後ろを振り返った。
そして立ち上ると彼女をきつく抱きしめた。




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2020
03.16

春を往け

Category: 春を往け
「最後にもう一度言おう。3年生の皆さん。卒業おめでとう。人生は一度だけです。その人生を存分に楽しんで下さい」

司は我が子の卒業式に来賓として出席したが、今は妻とふたりでリビングのソファに腰を降ろしコーヒーを飲んでいた。
今日は司が英徳学園を卒業してから27年目の春。
18歳の少年が今は45歳になり息子は18歳になったが、息子は司と同じ英徳に入学し無事高等部を卒業した。

息子は司が18歳の頃と同じで背は185センチあり、癖のある髪に鋭い目をしていた。
だが同じなのは外見だけで性格は全く違う。
息子の性格はどちらかといえば妻に似ていた。それは物事に対する取り組み方だが、息子は物事を考える時は慎重に考える。だが時に周りの誰もが思いもしないような大胆な行動を取ることがあるが、それは司の性質を受け継いでいると言えた。
そんな息子について妻は言った。

「ねえ、巧は好きな女の子がいるみたいよ?でもまだ想いは伝えてないみたい」

司はそう言われ息子が恋をしていることを知った。
子供も高校生になると幼かった頃のように何でも親に話すことはない。
だから司も息子の恋愛事情について知らなかったが、自分が同じ年頃だったことを思えば、恋のひとつやふたつしていたとしてもおかしくはない。だから「そうか」という思いだった。

司は目の前に好きな女がいれば、すぐにでも抱きしめたいと思っていたが息子はどうなのか。
そんな我が子のことを一番知っているのは母親なのかもしれない。
だから母親は嬉しそうに言った。

「あの子、卒業式の後で制服の第二ボタン欲しいって言われると思う?」

「制服の第二ボタン?」

「そうよ。ほら、卒業式が終ったら好きな人の第二ボタンを貰うっていうアレよ」

司はアレと言われても妻の話が全く分からなかった。だから訊いた。
するとこう言われた。

「卒業式が終ったらね、女の子は卒業する好きな男の子の制服の第二ボタンを貰う風習があるの。
どうして第二ボタンなのかは色んな説があるけど、その中のひとつは第二ボタンが1番心臓に近いからハートを掴むって意味があるからなの。つまり好きな人の心を掴みたいってことだけど、巧の心を掴みたいって思う女の子がいると思う?巧が好きな女の子が巧のことを好きだといいんだけど」

我が子が恋の行方について話す妻は嬉しそうだが、司は妻の話を訊きながら27年前を思い出していた。
そこに見えるのはひとりの女性を手に入れるため、それまでの生き方を変えることを決めた男の姿であり、定めがあるならその定めを乗り越え、好きな人を幸せにする力を手に入れるために離れ離れになる恋を選んだ男の姿だが、その人の誕生日にたった数分会うためにジェットを飛ばし、キスだけを残し立ち去ったこともあった。

「でも第二ボタンの風習は詰襟の学生服の風習なのよね。英徳はブレザーだから第二ボタンじゃなくてネクタイかもしれないわね?つまりネクタイを下さいってことだけど、もし卒業式の後で巧がネクタイを締めてなかったら、好きな女の子から告白されたってことになるわね?ねえ。司。巧の恋。上手くいくといいわね?もしかするとプロムでその女の子と踊るかもしれないわね?」

卒業式のあとに行われる英徳のプロムは小社交界と言われる華やかさがあるが、司がプロムで思い出すのは、
『4年後いい男になって戻ってきたら、あたしがあんたを幸せにしてあげてもいいよ』と言った少女の姿。
そしてその少女は言葉の通り司を幸せにしてくれた。
結婚したふたりの間には三人の子供がいて、その中で一番年長の子供が巧だ。
ふたりにとってはじめての子供は男の子。その次も男の子。そして三番目が女の子だがどこの子も可愛い。

だがやはり最初に生まれた子には特別な思いがある。
それは二人が手探りで始めた育児だからだが、実際に司が手伝ったことと言えば、オムツを替えることとミルクをあげることくらいだったが、妻はそれだけでも充分。あたしにはタマさんもいるからと言って笑った。
だからせめてという訳ではないが学校行事には積極的に参加した。
運動会があれば走った。時間が許す限り参観日にも足を運んだ。それは自分が子供だった頃に親にしてもらえなかったこと。
教室で後ろを振り返ったとき、そこにいたのは父でも母でもなく司の世話をしていた老婆。
司は老婆のことが好きだった。けれどそこに見たかったのは両親の姿だ。
だが生活の殆どを海外で過ごしていた両親は、仕事で忙しいといって学校行事に参加することはなかった。

だから親になった司は子供たちに親のいない寂しさを味合わせたくはないという思いがあった。それに子供たちがどんな日常を過ごしているのか気になったが、三人とも司のように問題を起こすことなく育ってくれた。

司はかつて自分にあったような期待をかけて息子を育てることはしなかった。
息子には息子の人生を歩んで欲しかった。だから息子には道明寺司の息子ではなく、ひとりの男として自分の人生を歩んで欲しいと思っている。
そんな長男は高等部の卒業式を迎えたが、これからは親の手を離れ大人の男として自分の行動に責任を持つ事になる。

「それでね。あたしも中学のとき友達から第二ボタンを貰うから付いて来て欲しいって言われて体育館の裏に付いて行ったことがあったの。あ、でも少し離れた場所にいたから現場は見てないんだけどね。なんかあたしまでドキドキしちゃった」

司は妻の語りを訊きながら思い出にひたっていたが、ふと思った。
それは、司が出席することが出来なかった卒業式の後こと。
妻が言ったように制服の第二ボタンの風習が英徳にもあったなら、司のことを好きだと言った女は詰襟の学生服の第二ボタンに匹敵するネクタイを欲しがらなければおかしいということ。だが妻は司にそういったものを欲しがらなかった。

「つくし」

「なに?」

「お前、俺が卒業したとき、俺の制服のネクタイを欲しいと思わなかったのか?」

「え?」

「え、じゃねえだろ?何でお前は俺にネクタイをくれって言わなかった?」

「何よ突然。それに何でって司は制服着てなかったじゃない?」

「着てなかったからってそれで済ませるつもりか?」

「済ませるもなにも実際そうでしょ?それにあたしが司の制服姿を見たのは一度だけなんだからね?」

そう言われて初めて気づいたが、司の記憶にある制服姿の自分は、妻に制服デートをしようと言われた時だけで他は全く覚えがなかった。

「それでも欲しがれよ。ニューヨークに旅立つ俺の代わりにネクタイが俺だと思えばいいだろ?」

「あのねえ。ネクタイが俺っていうけど普段身に付けてないものをもらっても嬉しくないわよ」

言われてみれば確かにそうだ。
もし司が妻の立場だとすれば、妻が身に付けたことがないものを妻だと思えと言われても、妻の匂いもしなければ妻の汗が染み付いていないものを受け入れることは出来ない。
だが思ったのは、卒業式の日に制服を着て来たという類は、「これ俺だと思って大切にして欲しい」と言って妻にネクタイを渡したのではないかということ。
何しろ類は妻のことが好きだった。だから叶わなかった恋に未練があって自らネクタイを外し渡したのではないか。27年前のことだが、そんな思いが頭の中に湧き上がった。

「つくし。お前、卒業式の日、類からネクタイを貰わなかったか?」

「はあ?」

「だから、俺がプロムに行くまでの間に類からネクタイを貰わなかったか?」

すると妻は司の言葉に呆れたように言った。

「あのねえ。何を言い出すかと思ったら、どうしてあたしが類からネクタイを貰わなきゃならないのよ?」

「だってそうだろうが。類はお前のことが好きだった。だから卒業の記念だとかなんとか言ってお前にネクタイを貰って欲しいと言わなかったか?」

「もう、いい加減にしてよね?類があたしのことが好きだったのは遠い昔の話で今は違うわよ」

妻はそう言ったが司はその話を信じていなかった。
何故ならあの男は未だに独身だからだ。

「それよりも今は巧のことよ。巧はネクタイ無しで帰ってくるかしらね?もしかしてプロムに行くのはその子とダンスをする約束をしているからじゃない?もしそうだとしたらどんな女の子なのかしらね?」

パーティーは好きじゃないという息子だが、妻に言わせればそんな息子がプロムに出るのは好きな女性とダンスを踊りたいから。
もし妻の言う通りだとすれば、息子はその女の子のことを本気で好きだということになるが、恋に興味がなかった男の本気の恋ほど恐ろしいものはない。
それは、Blood will tell. 血は争えないからだ。


司はあの時、プロムには遅れて到着した。だから妻とワルツを踊ることがなかった。
それが今でも心残りだ。何しろ人生の中で一度しかない卒業のセレモニー。
出来ることならあの時間をもう一度と思う。

「つくし」

「何?」

「あの時、俺たちはワルツを踊ることは出来なかったな」

英徳の生徒の誰もが憧れる男のダンスをする姿は、そこになかった。
ただそこにいたのは、愛している女と離れ遠い場所で暮らすことを選んだ男が、旅立ちの前にしっかりとその女を抱きしめている姿だ。

「そうね。あたしは司からドレスを貰ったけど、破れて着ることはなかった。
それに司は渡米前で忙しくて遅れてきたし、あたしたちがあの時過ごした時間は短かったわよね。でもあれから司とは何度もダンスをしたわ。それはあたしが卒業する時に司がニューヨークから来てくれた時もだけど、誕生日も踊ったわ。大学を卒業する時も。それに結婚式も。だから今はちゃんと踊れるわ」

道明寺ホールディングス社長道明寺司の妻としてこれまで夫と踊ったダンスは数知れず。
だが初めの頃ステップを間違えて足を踏むことが多かった。


司はソファから立ち上ると向かいの席に座る妻の手を取った。













子供の人生の節目である卒業に自分達が歩んで来た人生を振り返る。
それはどの親もすることかもしれないが、司は27年前のあの日に踏む事が出来なかったステップを踏む事を決めた。
だがそのステップはあの時流れていた優雅なワルツではない。
18歳の少年ではなく45歳の男が踊りたいのはチークダンス。
あの時、「宣戦布告だな、やってもらおうじゃん」と言った男は、瞳に涙を浮かべた恋人を見ていたが、その先に見えたのはふたりで過ごす未来の風景。
春は失うものもあれば、得るものもあるが司が見たのは得るものだけ。
そして心の中で言ったのは、頑張るからな、待ってろよ。

司は妻の身体を引き寄せた。
そして「踊ろう。あの時踊れなかったダンスを」と言って頬を寄せた。





< 完 > *春を往け(はるをゆけ)*
こちらのお話は、先日皆様からいただいた沢山の拍手とコメントの御礼として書かせていただきましたが、楽しんでいただけたなら幸いです。そして、今までこうして書き続けることが出来たのも皆様のおかげです。ありがとうございました。 アカシア
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