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2018
09.22

想い出の向こう側 2

姉の部屋へ向かっていた少年は、途中何人かの使用人に出会った。
するとそのたび立ち止まって頭を下げられるが、いつものことで気に留めなかった。
生まれた時から見慣れたそこは、どこまで歩いても行き止まることがないのではと思える長い廊下。だから本当に行き止まることがないのかを確かめるため、廊下の端から端まで走ったことがあったが、いくら走っても左右の壁が途切れることはなく、やっぱり行き止まることは無いのかと思っていたが、やがて着いた場所は天井が高くシャンデリアがいくつも吊り下げられた広くがらんとした部屋だった。

そして廊下のテーブルに置かれた花瓶や壁に飾られている絵画は、少年でも描けるような線だけの絵だったり、溶けていく時計の絵だったり、黄色い大きなひまわりが描かれているものだったりするのだが、彼には価値があるようには思えなかった。

それよりも実物を正確に再現して作られたミニカーの方が少年にとっては価値があった。
そして将来は、そのミニカーの本物に乗ると決めていた。つい最近もスピードの出る本物のスポーツカーに乗せてもらったばかりで、景色が高速でどんどん後ろへ流れて行く様子に心臓がドキドキした。
だが今は手にしたウサギを姉の部屋へ持って行くことだけを考えていたが、それは家庭教師の1人から訊かされた話しを思い出していたからだ。



『ウサギは仲間がいないと寂しくて死ぬことがあります。
大勢の仲間と一緒に仲良く遊ぶのがウサギです』


そんな話を訊かされていたのだから、たとえそれがぬいぐるみで本物のウサギではなくても、早く仲間の元へ返してやろうと思っていた。
そしてその時、誰かに名前を呼ばれたような気がして振り返った。
だがそこには誰もおらず長い廊下が続いているだけで、気のせいだった。


「ねーちゃん。部屋にいるかな?」

少年の姉は中等部1年だ。
だがすでに高等部の勉強をしていて頭がいい。だから家庭教師は姉のことを凄いと褒める少年にとっては自慢の姉だ。
それに幼い頃いつも傍にいてくれたのは姉と使用人頭のタマだった。
そこで少年は思った。もしかすると姉は勉強しているかもしれない。もしそうなら邪魔をしてはいけない。すると少年の足は自ずと止まった。そして考えた。そうだタマの部屋へ持っていこう。タマならこのぬいぐるみを預かってくれるはずだ。それに確かタマの部屋には陶器で出来たウサギがあった。だからこのウサギも寂しくないはずだ。
そうだ。そうしよう。少年はそう決めると向かう先をタマの部屋へと変更するため回れ右をした。

するとその時、また誰かに名前を呼ばれたような気がして、少年は振り向くとあたりを見回した。だが廊下には誰もいなかった。

そして手にしたウサギのぬいぐるみに目を落とした。
するとウサギの目に何かを慈しみたいといった表情が浮かんだように思えたが、気のせいだと思った。ただのプラスチックの赤い目にそんなものが浮かぶはずもなく、そこには少年の顔が映っているだけだった。






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2018
09.21

想い出の向こう側 1

どの子供にも大切にしているおもちゃがあるはずだ。
だが少年にはそういったおもちゃが無かった。
いや無かったのではない。沢山ありすぎてたったひとつの大切な物を見つけることが出来なかったという方が正しいはずだ。

少年は裕福すぎるほど裕福な家に生まれ、誰もが羨む生活を送っていた。
我儘は我儘とは言われず、当たり前の行動として受け止められ、欲しいものがあれば直ぐに手に入れること出来た。だがその生活は決して楽しいとは言えず、家庭教師が何人もいる生活に自由は無かった。


「あなたはこの家の跡取りよ。将来は会社の社長になるの。そのためには今から学ぶべきことが沢山あるわ」

そう言った母親は忙しい人で傍にいることはなかった。
鉄の女と呼ばれている自分の母親はビジネス優先で、子供のことなどどうでもいいと思っているのか。彼の誕生日だろうと、高熱で苦しもうと傍にいることはなかった。

そんなあるとき少年は沢山のおもちゃの中から、ふわふわとした手触りの白いウサギのぬいぐるみを見つけた。
それは初めて見るぬいぐるみで、白いウサギにはプラスチックで出来た赤い小さな目がついていて、まっすぐ少年を見つめていた。

少年は思った。
おかしいな。こんなぬいぐるみ見た事ないぞ。いったい誰がここに置いたんだ?
それに少年は初等部2年生で、ぬいぐるみで遊ぶような年齢ではない。
ましてやウサギのぬいぐるみなど男の子が持つものではないと思っている。それなら彼の仲間の誰かが持ち込んだものなのか?だが彼の仲間たちの中には、ぬいぐるみで遊ぶような人間はいない。いやかつて類がクマのぬいぐるみを大切にしていたが、今はもう違う。
だとすれば、このぬいぐるみは一体誰のものなのか?だが少年はピンときた。

「そうか!これはねーちゃんのものだ!」

少年には姉がいて、こういったぬいぐるみを幾つか持っていたことを思い出した。
だが何故そのぬいぐるみがこの部屋にあるのか。ここは少年の部屋の奥にあるおもちゃが沢山置かれている小部屋。棚には超合金で出来た変形するロボットや航空機のミニチュア。そしてミニカーが数多く飾られている男の子らしい部屋だ。そんな金属やプラスチックのおもちゃの中にポツンと置かれていたウサギのぬいぐるみは、まったく雰囲気にそぐわない異質の存在で、ウサギも異空間に迷い込んだと感じているはずだ。

「ねーちゃん、なんでこのウサギ。こんなところに置いてったんだ?」

そう呟いた少年は、白いウサギを手に部屋を出た。




こちらのお話は短編です。

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2018
09.14

凶暴な純愛 最終話

牧野つくしの夫が交通事故を起こし財閥系列の病院に運び込まれた。
その連絡があったのは、彼女からだったが短い沈黙の後、語られたのは夫は重傷だが生命には別状がないということだった。

だが暫く集中治療室へ入った後、一般病棟に移ったが、身体の様々な機能が失われ、四肢が動かない。言葉を発することが出来ない状態になっていた。
すると彼女は別れを決めた離婚調停中の男とはいえ、未だ夫という立場にある男の世話をし始めた。
それは愛してはいなくても、この状況で離婚をする。身体が不自由になった男を見捨てることが彼女には出来ないことだと分かっていても、不条理を感じていた。だが自分のことより先に人のことを考える。それが彼女の性格だから仕方がなかった。


だがそうそうなると、今まで学園で会えていた時間さえも病院に行くことで会いえなくなった。
それでも司は学園を訪ねると気遣う言葉をかけた。そして離婚調停中のあなたが彼の世話をする必要なないはずだと言った。
だが夫には近しい身内はいない。法律上の家族は自分だけだと言った。だから慈愛の精神といったものがそうさせていると感じていた。

だがそれでも彼女が自分の時間を、生活を、自分を裏切った男に差し出す必要はないはずだ。
そしてそこに浮かび上がるのは、身動きが出来ない男の身体をまるで壊れ物を扱うように丁寧に触れる姿。司がまだ触れたことがない柔らかな手が男の身体に優しく触れている姿。
だが仕方がないのだ。彼が好きになった女性はまだ彼のものではなく、ベッドの上で身動きが取れない男のものなのだから。

そしてその意味は、少しずつだが近づいてきた二人の距離が再び離れていくということ。
彼女が司の前から遠ざかっていくということだ。
だがこの状況は彼女の意思ではないはずだ。
そうだ。それにこの状況が彼女にとっていいはずがない。愛してもいない男の傍に縛られることは彼女の為にはならないはずだ。そして彼女を縛り付けようとする男が憎かった。










「道明寺さん。あの、このようなお部屋を用意して頂いてよろしいのでしょうか?」

司は病院を訪れ夫に付き添うため学園を休んでいた彼女に会った。
そして夫の病室を一般病棟から特別室へと変えさせたが、そこは廊下に子供の泣き声が響くこともなければ、看護師が笑う声が聞こえることもない場所であり、財力がある人間が使うに相応しい特別室の中でも一番いい部屋。
遠慮がちで申し訳なさそうに話す彼女に言ったのは、司が外部理事を務める学園に勤務する教師の家族だからこの待遇は当然だと言った。そしてここは、完全看護であり家族の手を煩わすことは一切ないと告げた。

「ええ構いません。それにここはずっと付き添っている必要はありません。あなたは疲れているはずだ。少しお休みになられた方がいい。学校と病院の往復ではあなたの身体が心配だ」

「すみません。色々とお心遣いを頂いてありがとうございます」

消え入りそうな声で答えると、薬で眠っている夫に視線を向けた。
そして司は彼女の別れるはずだった夫の顔を初めて見たが、すでに2ヶ月近く入院している男の頬はやつれ顔色は青白かった。だがそれよりも彼女の翳りのある顏が気になっていた。疲れている。そう感じていた。

「それにしてもご主人のことは大変でしたね。私に出来ることならどんなことでも言って下さい。私はあなたを大切に思っています。それにあなたがご主人と別れることを止めたとしても、私はあなたの傍にずっといるつもりです。あなたを支えていきたいと思っている。いえ。思っているではありません。私にあなたを支えさせて下さい。それに症状が固定したらリハビリを始めればいい。そうすれば状況も変わるはずです」

司は彼女を励まし、ベッドに横たわっている男に対しての憎悪は髪の毛一本にさえ表さなかった。

「牧野さん。今日はもうお帰りになられた方がいい。私の車で送って行きます。もしご主人に何かあればすぐに連絡があります。それに特別室の夜間の態勢は万全です。何しろ専属体制です。それに今夜は他の部屋に患者はいません。看護師長も夜勤に入ります。うちの看護師長は優秀です。もちろん当直医も優秀です。ですから安心して下さい」


司はそう言って牧野つくしを自宅アパートまで送っていった。
そして再び病院まで戻ると特別室の扉を開け、薄闇に目を凝らし、夫が事故にあったと彼女から連絡を受け、電話を切ると秘書と交わした会話を思い出していた。



「失敗した。川上陽介の命は助かった」

「ミスをしたということでしょうか?」

「ああ。どうやらそうだ」




司は牧野つくしの夫である川上陽介のことを調べ、男が週末になると山梨へ向かうことを知った。
それは釣りをするためだが、中央道を西に走っているところでハンドル操作を誤り中央分離帯に激突した。
だが、その事故はただの運転ミスではない。実は男の車には細工がしてあった。

自動車はもはや家電だと言われる昨今。
電子制御システムになった車は脆弱性がみられる。つまりその道のプロがソフトに細工をすれば、外部から操作することが出来る。運転を乗っ取ることが出来る。川上陽介の車は、ハンドルが固まり動かなくなる細工がされていた。
そして高架橋を走る車は、中央分離帯ではなく、反対側から谷底へ落ちるはずだった。
だがどうやら細工にミスがあったようだ。


「そうですか。これでは牧野様はご主人とは離婚が出来ませんね。あの方は真面目で責任感の強い方ですから」

そう言われた司は彼女の性格は分かっていたから、秘書の言葉を否定できなかった。
それに確実性を求めなかった自分が悪かったのだ。
だからこうしたことは自分の手で行うに限るのだ。どうしても成し遂げたいことがあるなら自分の手ですることが確実だ。
それに永遠に一緒にいたい人のためにすべき事は決まっていた。
神が司に示した方向はただひとつなのだから。







司は薬で眠っている男の傍へ立った。
そして枕元に置かれていた筒形の容器を手に取り蓋を開けた。そこからズルズルと濡れた紙を引き出し丁寧に広げた。一枚、二枚。そして三枚と取り出し重ねた。そして更にもう一枚取り出すとその上に重ね、それを男の顔の上にべたりと張り付けた。

しっかりと濡れたウエットティッシュが何枚も重ねられ、鼻と口を塞がれたとき、息を吸おうとするほど顏に張り付き息が出来なくなる。そして川上陽介は四肢が動かないことから顏の上に乗せられたものを取ることは出来ないが顏を左右に動かすことは出来る。だから司は目覚めた男の顎を掴むと動かないように抑えた。
そして声を出す事は出来ないが呻き声が聞え、なんとか息をしようとしている様子が微かな紙の動きから感じられたが、べったりと張り付いた白い紙に覆われた顔の表情を見ることはない。やがて暫くすると呻くような声は聞こえなくなった。
そして掴んでいた顎の力が緩んだのが感じられた。














2か月後。納骨を終えた女性に司は優しく声を掛けた。

「風が冷たくなった。早く車に戻ろう。足元に気を付けて」

司は彼女の背中に手を添え、身体を気遣う言葉を掛けながら、胸の奥では別のことを考えていた。それは、ずっと待っていた女性を手に入れ、彼女の身体も心も声も全てが司のものになること。

「何不自由させない。あなたのことは私が守るから」

司は車に乗り込むと彼女の頬に手を添えたが睫毛が震えているのが分かった。
だが今まで積み重ねて来たさり気ない日常と、なに気ない会話は彼女の心を掴んだはずだ。
そして雪の白さに負けない肌を持つ女の頬が赤く染まるのは心を許した印。
司は顔を傾け唇に唇を重ねていた。





< 完 > *凶暴な純愛*

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2018
09.13

凶暴な純愛 4

時刻は真夜中で最上階のフロアに残っている人間は秘書以外いなかった。
司はあれから何度か彼女を食事に誘ったが、あの日以来断られ続けていた。
そして離婚が成立していない女が夫以外の男性と出歩くことが良いとは思えない。こういったことは控えたいと言われた。





「何故です?私たちは食事をするだけで男女の仲ではない。何も気にすることはないはずだ」

「ええ…..でも….」

司が好きになった女性は離婚調停中であり彼女の意思を尊重すれば、会えるのは学園を訪れた時しかなかった。
だからその時間を大切にしていた。
彼女といると陽の光りの温かさを感じ、今まで気付かなかったが、心の奥底にあった名もなき花が柔らかな日差しを浴びるとゆっくりと開くように、彼女を見つめれば優しい気持ちになれた。彼女といることで温もりを感じていた。今まで誰にも見せたことがない表情になるのは彼女の前だけだ。そして出会えたことを感謝していた。

そして司には彼女の考えていることが手に取るように分かった。
それは離婚が成立していない女が夫以外の男と出歩くことがモラルに反する。罪悪感があることもそうだが、それと同時に教育者として示しがつかない。既婚女性が独身の男とふたりだけで会うことは、あるまじき行為だと思っていること。そして学園関係者にどう思われるかを心配しているということを。

だが道明寺という名前と莫大な寄付をする外部理事の立場は学園にとって絶対的な力を持ち、司が牧野つくしのことを気にかけている以上彼女のことが誰かの口に上ることはないはずだ。それにもし仮に品のない言葉をかける人間がいれば、その人間は職を失うことになることを彼らは知っている。


「牧野さん。私は私たちの間に何かあるとすれば、それはあなたが自由になった時だと考えていますよ。私はあなたのような女性に会ったことがありません。あなたは自分を飾り立てる人ではない。とても自然だ。それにあなたは誰かに迷惑をかけたり困らせたりすることは嫌いな人だ。違いますか?そんなあなたに私は迷惑をかけたいとは思いません。
むしろ守ってあげたいと思っています。だからあなたが自由になるまで待ちます。そしてあなたの心が私に向いてくれるのを待つつもりです。それに分かっているつもりです。私が傍若無人な振る舞いをすれば良くない結果になるはずだと」


司はあなたのことが好きになったと自分の思いを伝えていた。
そして彼女の司に対する態度は好意的だと思え、彼の言葉に小さく頷いたように思えたのは気のせいではないはずだ。
それに司は女から拒まれたことがなかった。
やんわりとだが断りの言葉を告げられたのは初めての経験だ。
だがそのことが、彼女が軽い女ではないことを表していた。
そして彼女が感情を内に秘めるタイプの人間であることを知った。
だから本当は司と一緒にいたいはずだが、自分の気持を告げることが出来ないのだ。

そして司には分っていた。彼女が彼のものだと。やっと見つけたと思った。目に見えない絆が二人の間にある。彼女こそ魂の伴侶で彼女こそ運命であり自分は彼女を待っていた。
だからどんな女が彼の前にいても心を動かされることはなかったのだ。

会うと心が安らぐのは、時がふたりを巡り逢わせたからだと感じていた。孤独だった幾千もの夜は過ぎ、世界は彼女の中にあって、その手が司を幸せへと導いてくれる。心の暗がりを照らしたのは、彼女の微笑みであり、彼女だけが飢えた男の心を満たす。
だから彼女が欲しかった。

たとえ何万人の女と出会おうと、司が欲しいのは彼女だけ。
世界の全てを手にすることが出来る男が欲しいのは魂が望む女。
そして自分の身の内に溢れんばかりの人を愛するという感情というものがあることを知った。と、同時にその時初めて愛に飢えていたことを知った。それははち切れんばかりの思い。
だから恋人になって優しいキスをしたい。
そして触れたい。触れて欲しい。
触れられることで歓びを感じたい。
そうだ。誰とも感じたことがない歓びを彼女と感じたい。
望むものはすべてこの腕に抱きしめたい。
今はまだ閉ざされている扉をひとつひとつ開いて彼女の心の奥深くに入り込みたい。
だが離婚届けに判を押さない夫がいることが彼女の心の重荷になっている。
つまり夫の存在が二人の関係を前に進める妨げになっているのだ。司を受け入れてもらえないのは、今はただ法律で繋がれた関係の男がいるからだ。

司は執務デスクの上の電話を取った。

「俺だ」

2コールで出た相手は司を待たせることはない。
だが司は椅子に背をもたせかけたまま沈黙していた。





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2018
09.12

凶暴な純愛 3

「牧野さん」

「ど、道明寺さん?ああびっくりした。どうしたんですか?」

「驚かせて申し訳ない。これを届けに来たんです」

と言って男はつくしの腕を離すと傘を持つ手に握り締めていた物を見せた。

「あ…」

「これはあなたのですよね?ほらあなたの名前が書かれている」

それは、小さなネームプレートに「マキノ」と書かれたアパートから駅までの通勤に使うために買った自転車の鍵。
どこで無くしたのか分からなかった。だから自転車は駅の駐輪場に置かれたままになっているが、鍵を届けに来てくれたのは、英徳出身で学園に強い影響力を持つ道明寺財閥の後継者、道明寺司だ。

「お困りですよね?もっと早くお渡ししようと思ったんですが、今日になってしまい申し訳ない」

そう言われたつくしは、礼を言って暫く握られていたことで熱を持った鍵を受け取った。







つくしが道明寺司と出会ったのは、ある画家の展覧会でのこと。
好きな画家が個展を開くというので脚を運んだが、その場所で道明寺司に出会った。
出会ったというよりも、ぶつかったという方が正しいはずだ。
そしてそのとき手にしていた鞄が床に落ち中身が散らばったが、その中に英徳学園の教師である身分証明書があった。
そしてそれを拾い上げた男は、自分は英徳の卒業生であると言い、つくしが英徳学園の教師をしていることに偶然ですねと言った。それが二人の出会いだったが、それ以来男は学園を訪れるたび、つくしと言葉を交わすようになった。
とは言えそれは挨拶程度のものだ。

そして今日は学園で理事会があったが、新校舎建設に莫大な金額を寄付した道明寺司が外部理事に就任したのはつい最近だと訊いた。そして今日の理事会に出席するためか。廊下で大勢の取り巻きに囲まれた男を見かけ会釈をしたが言葉を交わすことはなかった。


「牧野さん。気をつけて下さい。こんな雨の中、それもこんな暗がりを歩いて帰れば襲ってくれと言っているようなものです。それに最近この近くで事件があったと訊きました」

それはつくしの住むアパートの近くの空き倉庫で男性の遺体が見つかったという話。
その男性はフリーランスのカメラマンで、何らかのスクープ記事を狙っていたと言われていたが、なぜ何もない倉庫の中で倒れていたのか。外傷は見当たらず、体内から何かが検出されたという話も訊かなかった。それなら自然死ということになるが死亡原因が何であるか。発表されていたとしても、つくしはそこまで気にしていなかった。

「牧野さん。それはそうとお食事はお済ですか?もしそうでなければこれから簡単な食事でもいかがですか?」

「えっ?ええ…でも…..」

「何かご心配ごとでも?もしかしてご主人のことですか?それに学園内で何か困ったことはありませんか?今日は理事会に参加した後であなたとお話し出来ることを楽しみにしていましたが会えなくて非常に残念に思っていたところです。でもこうしてあなたに会うことが出来て嬉しいです」

つくしは、これまでも何度か食事に誘われたことがあった。
だが結婚しています。牧野と名乗っていますがこれは旧姓です。今の名前は川上と言いますが実は離婚調停中なんです。だから男性とふたりで食事に行くことは出来ませんともっともな理由をつけて断っていた。
そして言葉に詰まるのは、時間が遅いこともだが、相手の圧倒的な存在感がそうさせた。
それに学園に大きな影響力を持つ男性と食事をすることに躊躇いがあった。
私学は理事の考えが反映される。だから道明寺司と食事をすることで仕事に影響が出るのではないか。そんな思いがあった。
だが彼は離婚の調停については気にする必要ありません。
私が出来ることなら力をお貸ししましょう。いい弁護士を紹介しましょう。うちの顧問弁護士のひとりですから費用の心配はありませんと言われたが断った。
学園に影響力を持つ人物は、多方面に顔が利くことは知っているが、個人的な問題でありケジメは自分自身でつけるつもりでいた。

そしてつくしが黙っていると、「雨が酷くなりましたね」と言い再び「いかがですか?牧野さん。食事に行きませんか?お昼から何も食べてないとすれば身体に悪いですよ」と言って彼女をじっと見つめていたが、その瞳に捉えられたような感覚に陥った女は思わず「はい」と返事をしていた。





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