「あなた、そんなことも知らないの?」
義理の母は厳しい人で何も知らない私は叱られっぱなしだった。
「駄目ね。行儀作法がなってない」
と言った義理の母の目は笑うことがなかった。
「その服はなに?下品ね。着替えてきなさい」
品のいいスーツを着たその人は隙の無い物腰で言った。
「気持を声や顏に出すのは頭の悪い人間のすること。あなたは少なくとも頭はいいはずでしょ?」
きつい言葉。
冷やかな声。
表情が変わらない無情このうえない顏つき。
これらのことから言えるのは、その女性が冷酷な性格だということ。
それにその女性は、他人が何を言おうが目的に向かって突き進むことを止めない人間であり、人の心の中に生まれる曖昧な感情というものが嫌いだ。
そして、上流階級の女性の言葉に本音と建て前というものはない。
つまりすべてが本音であるということ。
だから冷やかな声で話される言葉は、鋭い刃物となって私に斬りかかった。
女性の息子が交際相手として私を母親の前に連れて行ったのは、彼の誕生パーテイー。
会場は彼の自宅だが、招待状がなければ入れることが出来ない煌びやかな場所。
私はそんな所に着ていくような華々しい洋服を持っておらず、友人の姉から借りたドレスを着て行った。
そして母親に会わせるという彼の言葉に、私は慌てて髪の乱れを直しドレスの裾を整えた。
「あなた、どちらのお嬢さん?」
私とまったく違う世界に身を置いている女性は自分達とは違う匂いに敏感だ。
「間違った場所に間違った人がいてはお互いに楽しくないわね」
私は言われなくても自分が場違いな場所にいることは感じていた。
家柄の差というものは、彼と出会った時から感じていた。
何しろ彼の家は、都内に広大な土地を所有する資産家であり企業をいくつも経営している。
そして母親の家は華族の家柄だ。
だが彼は「お母さん。彼女は私が選んだ人です。どの世界に住んでいるかは関係ありません」と言って眉根を寄せた母親と私の間に立った。
しかし母親はふたりの交際に反対した。
そして私は彼と別れた。
それはそうしなければならない理由が生じたからだが、彼はその理由を一蹴した。
そしてポケットの中から手を出せない私の腕をつかみ、左手の薬指に指輪を嵌めた。
「結婚して欲しい」
驚いて指輪を見つめる私に彼は言った。
だが彼は私のような女にプロポーズしなくても、他にいくらでも結婚相手を見つけられる人間。しかし、私は彼を愛していたからその言葉に頷いた。
そして彼は「後悔はしないか?」と訊いた。
それは自分と結婚するということは、この家のために人生の全てをかけることになるがいいかという意味だ。
私は彼と交際を始めたとき覚悟を決めていた。
だから「後悔しない」と答えた。
そして私たちは紆余曲折を経て結婚した。
それからの私は彼の母親に認められるように努力した。
この家に相応しい人間になるように努めた。
だが夫には見逃せる欠点も、勝気な義理の母には見逃せないものなのか。
唇を噛んだことがあった。
瞳が涙で膨らんだこともあった。
不合格のスタンプをいくつも押された私は、くじけそうになった。
それでも私は負けなかった。義理の母に認めてもらうため努力を続けた。
だがある日。夫の出張中に事件が起きた。
「いったいどういうことなの?この花瓶はこの家に代々伝わる物で金銭的価値は国宝クラスよ」
私は邸の入口に飾られていた花瓶を真っ二つに割ってしまった。
それは義母から生けられている花を変えるように言われた時だった。
濡れた手で花瓶を持ち上げてしまった私は手を滑らせた。
「まったく….花を変える。こんな簡単なことも出来ないならこの家から出て行きなさい。あなたはこの家には必要のない人間よ」
義理の母に言われた、あなたはこの家には必要のない人間という言葉。
だが私は出て行かなかった。
そして言った。
「お母様。申し訳ございません。濡れた手で花瓶を持った私が至りませんでした。もし今後私が花瓶だけではなく何かを割るようなことがあれば私の手を叩いて下さい。いえ。使いものにならないこの手を切り落としていただいても構いません」
私は今、ソファに座ってアルバムを捲っていた。
貼られている写真に写っているのは結婚式の私。
白いドレスを着た私は晴れやかな笑顔を浮かべてはいるが緊張していた。
そして私たち夫婦の両隣に立っているのは義理の両親だ。
新婚旅行はヨーロッパ。
王女が新聞記者と恋に落ちた映画の舞台になった街の階段で、同じようにアイスクリームを食べた。泉に背を向けコインを投げ、また二人で来ようと誓った。
パリで一番高い丘に登ったとき、夫に勧められ名もない絵描きに似顔絵を描いてもらった。
そして夫は帰国すると、描いてもらった絵を額に入れ寝室に飾ろうとした。だが恥ずかしいから止めて欲しいと言った。
ロンドンで世界最大級と言われる大きさのダイヤモンドを見ているとき、「このクラスのダイヤならうちにもある。英国王室もたいしたことないな」と笑い「うちも博物館を作って展示するか」と言った。
ページを捲るたびに懐かしい記憶が甦る。
次に捲って出てきたのは南フランスにいるふたり。
世界一おいしいブイヤベースを食べに行こうと言ってコートダジュールの小さな村へ行った。そこは地中海に面した断崖に立つホテルのレストラン。
「ここのシーフードは生きているだろ」
と言った夫は、実は今日はこのホテルの料理長をパリのうちのホテルの料理長にスカウトしに来た。と言って笑った。
そして最後に捲って出てきたのは10代後半の私と夫の姿。
それはふたりが出逢った頃に写されたもの。
私はじっと写真の自分の顏を見つめる。
そこに写る私は派手な化粧と髪型に当時流行の最先端と言われたミニスカートを履き、踵の高い靴を履いていた。
長い睫毛に囲まれた黒い瞳はしっかりと前を見ていた。
私は勉強ができた。
そして見映えもよかった。
そんな私の家は戦後、父が事業を起こし成功した所謂成金。
だが9歳のとき父が亡くなり破産した。
それでも母は、当時私が通っていた私立のミッションスクールを辞めさせることなく通わせた。そこは、小学1年の頃から外国人教師から英語を習うような学校。だから小学校を卒業し公立の中学に入学して手にした教科書は、すでに小学生の頃に終えた内容のものでつまらなかった。
そんな私は世間に対し斜に構えていた。
やがて高校生になり、踊りに出かけた私は、そこで道明寺家の御曹司に見初められ恋に落ちた。
そして結婚しようと言われたが、彼の母親は落ちぶれた家の娘との結婚に反対した。
だから私は裕福な親戚の家に養女として入り、大学を卒業し、世界に名だたる道明寺財閥の次の当主に嫁いだ。
財閥の後継者だった彼は結婚するとき私のことを全力で守ると言った。
だが世間では、プロポーズの言葉は政治家の公約と同じだと言う。
つまり守られないということ。だがそんなことはなかった。
彼はその言葉通り私のことを守ってくれた。
そして、ふたりの息子も妻となる女性に同じ言葉を言った。
だが彼女は人生の厄介事の数々を笑い飛ばす力を持っている。
それに、ありのままの自分を受け入れ、前に進む力がある。
だから守られる必要はないと言う。
それに彼女は私と同じで芯が通っている。
だからこそ彼女は息子のいい伴侶になるはずだ。
それにしても、歴史は繰り返すのかもしれない。
何しろこの家の当主となる男は自分にはなびかない。
一筋縄ではいかない少し生意気な女が好みなのだから。
「ねえあなた。血は争えないわね」
私は写真の中の夫に語りかけた。
そのとき、ノックの音がして扉が開いた。
「楓。時間だ。そろそろ行こう。遅れたら大変だ」
今日は息子の結婚式。
「おや?随分と懐かしいものを見ていたんだね?」
「ええ。昔のアルバムよ」
「そうか。あの頃の私たちは若いな」
夫は視線を下に落として微笑んだ。
「あら、あなた。わたくしはまだ若いつもりでいます」
私は自信を持って言った。
すると夫は「そうだな。楓は若い。あの頃と変わらないよ。それに私は楓の若い頃を忘れていない」と言った。
あのとき、パリで描かれた似顔絵は立派な額に入れられ夫の執務室に置かれていた。
私はアルバムを閉じると立ち上がったが、いつかこのアルバムを息子の妻に見せるつもりだ。その時、あの子がどんな顏をするのか楽しみだ。
「さあ、行きましょうか。この家の次の当主夫妻の結婚式に」
< 完 > *思い出をつないで*

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「駄目ね。行儀作法がなってない」
と言った義理の母の目は笑うことがなかった。
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品のいいスーツを着たその人は隙の無い物腰で言った。
「気持を声や顏に出すのは頭の悪い人間のすること。あなたは少なくとも頭はいいはずでしょ?」
きつい言葉。
冷やかな声。
表情が変わらない無情このうえない顏つき。
これらのことから言えるのは、その女性が冷酷な性格だということ。
それにその女性は、他人が何を言おうが目的に向かって突き進むことを止めない人間であり、人の心の中に生まれる曖昧な感情というものが嫌いだ。
そして、上流階級の女性の言葉に本音と建て前というものはない。
つまりすべてが本音であるということ。
だから冷やかな声で話される言葉は、鋭い刃物となって私に斬りかかった。
女性の息子が交際相手として私を母親の前に連れて行ったのは、彼の誕生パーテイー。
会場は彼の自宅だが、招待状がなければ入れることが出来ない煌びやかな場所。
私はそんな所に着ていくような華々しい洋服を持っておらず、友人の姉から借りたドレスを着て行った。
そして母親に会わせるという彼の言葉に、私は慌てて髪の乱れを直しドレスの裾を整えた。
「あなた、どちらのお嬢さん?」
私とまったく違う世界に身を置いている女性は自分達とは違う匂いに敏感だ。
「間違った場所に間違った人がいてはお互いに楽しくないわね」
私は言われなくても自分が場違いな場所にいることは感じていた。
家柄の差というものは、彼と出会った時から感じていた。
何しろ彼の家は、都内に広大な土地を所有する資産家であり企業をいくつも経営している。
そして母親の家は華族の家柄だ。
だが彼は「お母さん。彼女は私が選んだ人です。どの世界に住んでいるかは関係ありません」と言って眉根を寄せた母親と私の間に立った。
しかし母親はふたりの交際に反対した。
そして私は彼と別れた。
それはそうしなければならない理由が生じたからだが、彼はその理由を一蹴した。
そしてポケットの中から手を出せない私の腕をつかみ、左手の薬指に指輪を嵌めた。
「結婚して欲しい」
驚いて指輪を見つめる私に彼は言った。
だが彼は私のような女にプロポーズしなくても、他にいくらでも結婚相手を見つけられる人間。しかし、私は彼を愛していたからその言葉に頷いた。
そして彼は「後悔はしないか?」と訊いた。
それは自分と結婚するということは、この家のために人生の全てをかけることになるがいいかという意味だ。
私は彼と交際を始めたとき覚悟を決めていた。
だから「後悔しない」と答えた。
そして私たちは紆余曲折を経て結婚した。
それからの私は彼の母親に認められるように努力した。
この家に相応しい人間になるように努めた。
だが夫には見逃せる欠点も、勝気な義理の母には見逃せないものなのか。
唇を噛んだことがあった。
瞳が涙で膨らんだこともあった。
不合格のスタンプをいくつも押された私は、くじけそうになった。
それでも私は負けなかった。義理の母に認めてもらうため努力を続けた。
だがある日。夫の出張中に事件が起きた。
「いったいどういうことなの?この花瓶はこの家に代々伝わる物で金銭的価値は国宝クラスよ」
私は邸の入口に飾られていた花瓶を真っ二つに割ってしまった。
それは義母から生けられている花を変えるように言われた時だった。
濡れた手で花瓶を持ち上げてしまった私は手を滑らせた。
「まったく….花を変える。こんな簡単なことも出来ないならこの家から出て行きなさい。あなたはこの家には必要のない人間よ」
義理の母に言われた、あなたはこの家には必要のない人間という言葉。
だが私は出て行かなかった。
そして言った。
「お母様。申し訳ございません。濡れた手で花瓶を持った私が至りませんでした。もし今後私が花瓶だけではなく何かを割るようなことがあれば私の手を叩いて下さい。いえ。使いものにならないこの手を切り落としていただいても構いません」
私は今、ソファに座ってアルバムを捲っていた。
貼られている写真に写っているのは結婚式の私。
白いドレスを着た私は晴れやかな笑顔を浮かべてはいるが緊張していた。
そして私たち夫婦の両隣に立っているのは義理の両親だ。
新婚旅行はヨーロッパ。
王女が新聞記者と恋に落ちた映画の舞台になった街の階段で、同じようにアイスクリームを食べた。泉に背を向けコインを投げ、また二人で来ようと誓った。
パリで一番高い丘に登ったとき、夫に勧められ名もない絵描きに似顔絵を描いてもらった。
そして夫は帰国すると、描いてもらった絵を額に入れ寝室に飾ろうとした。だが恥ずかしいから止めて欲しいと言った。
ロンドンで世界最大級と言われる大きさのダイヤモンドを見ているとき、「このクラスのダイヤならうちにもある。英国王室もたいしたことないな」と笑い「うちも博物館を作って展示するか」と言った。
ページを捲るたびに懐かしい記憶が甦る。
次に捲って出てきたのは南フランスにいるふたり。
世界一おいしいブイヤベースを食べに行こうと言ってコートダジュールの小さな村へ行った。そこは地中海に面した断崖に立つホテルのレストラン。
「ここのシーフードは生きているだろ」
と言った夫は、実は今日はこのホテルの料理長をパリのうちのホテルの料理長にスカウトしに来た。と言って笑った。
そして最後に捲って出てきたのは10代後半の私と夫の姿。
それはふたりが出逢った頃に写されたもの。
私はじっと写真の自分の顏を見つめる。
そこに写る私は派手な化粧と髪型に当時流行の最先端と言われたミニスカートを履き、踵の高い靴を履いていた。
長い睫毛に囲まれた黒い瞳はしっかりと前を見ていた。
私は勉強ができた。
そして見映えもよかった。
そんな私の家は戦後、父が事業を起こし成功した所謂成金。
だが9歳のとき父が亡くなり破産した。
それでも母は、当時私が通っていた私立のミッションスクールを辞めさせることなく通わせた。そこは、小学1年の頃から外国人教師から英語を習うような学校。だから小学校を卒業し公立の中学に入学して手にした教科書は、すでに小学生の頃に終えた内容のものでつまらなかった。
そんな私は世間に対し斜に構えていた。
やがて高校生になり、踊りに出かけた私は、そこで道明寺家の御曹司に見初められ恋に落ちた。
そして結婚しようと言われたが、彼の母親は落ちぶれた家の娘との結婚に反対した。
だから私は裕福な親戚の家に養女として入り、大学を卒業し、世界に名だたる道明寺財閥の次の当主に嫁いだ。
財閥の後継者だった彼は結婚するとき私のことを全力で守ると言った。
だが世間では、プロポーズの言葉は政治家の公約と同じだと言う。
つまり守られないということ。だがそんなことはなかった。
彼はその言葉通り私のことを守ってくれた。
そして、ふたりの息子も妻となる女性に同じ言葉を言った。
だが彼女は人生の厄介事の数々を笑い飛ばす力を持っている。
それに、ありのままの自分を受け入れ、前に進む力がある。
だから守られる必要はないと言う。
それに彼女は私と同じで芯が通っている。
だからこそ彼女は息子のいい伴侶になるはずだ。
それにしても、歴史は繰り返すのかもしれない。
何しろこの家の当主となる男は自分にはなびかない。
一筋縄ではいかない少し生意気な女が好みなのだから。
「ねえあなた。血は争えないわね」
私は写真の中の夫に語りかけた。
そのとき、ノックの音がして扉が開いた。
「楓。時間だ。そろそろ行こう。遅れたら大変だ」
今日は息子の結婚式。
「おや?随分と懐かしいものを見ていたんだね?」
「ええ。昔のアルバムよ」
「そうか。あの頃の私たちは若いな」
夫は視線を下に落として微笑んだ。
「あら、あなた。わたくしはまだ若いつもりでいます」
私は自信を持って言った。
すると夫は「そうだな。楓は若い。あの頃と変わらないよ。それに私は楓の若い頃を忘れていない」と言った。
あのとき、パリで描かれた似顔絵は立派な額に入れられ夫の執務室に置かれていた。
私はアルバムを閉じると立ち上がったが、いつかこのアルバムを息子の妻に見せるつもりだ。その時、あの子がどんな顏をするのか楽しみだ。
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『トランクひとつだけで浪漫飛行へ In The Sky
飛びまわれ このMy Heart 』
懐かしい曲に導かれて…..
*********
空港に迎えに来ていたのは白いリムジンのロールスロイス。
そこはパスポートもビザも要らない場所。
上着を脱ぐとネクタイを外した。
靴下を脱ぎ棄てると、靴を脱いだ。
腕時計を外すと放り投げた。
そして「よし!行くぞ!」と言った男は隣に立つ女の手を掴むと、砂浜を海に向かって走り出した。
「え?ちょ__ちょっと!いきなり__!!!」
と叫んだ女は戸惑いながらも男と一緒に走りだしたが、その足は速かった。
何しろ女は昔、追いかける男を振り切って逃げたことがある。
あのとき、足の早さは誰にも負けないと豪語した。
やがて女は男の手を振りほどき、砂に足を取られることなく男より先に波打ち際まで行った。
そして靴を脱ぐと躊躇う事なく水の中に足を踏み入れた。
するとすぐに波が足を包み込んだ。
「ねえ!早く来なさいよ!気持いいわよ!」
女は振り返り、はじけるような笑い声で言った。
だが、女が海に背を向けている間に波は突然盛りあがると、浜に襲いかかってきた。
「きゃー!この服、昨日買ったばかりなのに!」
誰もいない砂浜。
ふたりの目の前にあるのは大きく広がる眩いばかりの海。
台風のせいで昨日まで高かった波も今日は比較的穏やかだ。
だが時に大きな盛りあがりも見せていた。
「もう….あんたっていつまでたっても強引なところは変わらないわね?」
恋人は呆れたように言った。
「いや」司は小さく微笑むと「変わるもなにもこれが俺だ。それにお前も強引な俺が好きなはずだ」と言った。そして「それで?何があった?」と言葉を継いだ。
司はここ最近、落ち込んでいる恋人の姿を見ていた。
だから恋人を連れて道明寺が所有している南の島を訪れた。
ここはプライベートアイランドで、今この瞬間この島にいるのは、司と恋人と使用人だけで他には誰もいない。
「俺はお前には落ち込んでいる姿は似合わないと思っている」
「だからここに連れてきてくれたの?」
「ああ」
司は自分を見上げる恋人の頬に手を当てた。
すると唇を噛んで躊躇っていた恋人は「実は…….」と言って話し始めた。
砂浜に座ったふたり。
司は恋人の話に耳を傾けていた。
「そうか。廃刊が決まったか」
「だから違うの。廃刊じゃなくて休刊。うちの雑誌は廃刊じゃなくて休刊なの。いい?廃刊は完全に雑誌がなくなって二度と復活しないって意味だけど、休刊は継続して発行するのが難しいだけで、復刊する可能性があるってこと。そこのところ間違えないでくれる?」
「分かった。分かった。休刊な。だがどのみち、お前が記事を書いている雑誌は半年後には世の中に出ることは無くなるってことだろ?」
「うん…..社内では噂があったけど、ついにその日が来たみたい」
司の恋人は大学を卒業して新聞社に就職すると文化部に配属された。
文化部は文字通り文化的な読み物を届ける部署。政治部、経済部、社会部といった部の記者とは違い、夜討ち朝駆け、つまり事件や事故によって昼夜問わず現場に駆け付けることはない。
恋人は自分の配属先が文化部に決まると「残念!経済部だったらあんたの記事が書けたのに」と言ったが、司はそうならないように、また、恋人が危険な現場に出掛けることがないよう配属先について手を回したことは秘密だ。
そして恋人は数年経って系列の出版社が発行しているリベラル路線を売りとする老舗週刊誌の記者になった。だがその週刊誌も売り上げ部数の減少により廃刊が決まった。
「もう私ショックで…….」
週刊誌に移った恋人が名前入りの記事を書くようになってから3年。
週刊誌の読者といえば中年男性がターゲットだと言われているが、恋人が異動した週刊誌は、女性や主婦も読者層と捉え、政治や経済、難しいと言われる社会問題も分かりやすく書く事で女性の支持も得ていた。
そしてそれらの記事を書いていたのが恋人。
新聞社にいた頃の文化的な記事とは違い、様々な記事を書くことになった恋人は仕事が楽しいと言った。だからよけい廃刊が堪えるのだ。
「半年後かあ……私、次はどこに異動になるのかなあ…..」
恋人はため息をつくと、遠くに目をやった。
「どこだろうな。けど、どこに異動になってもお前は記者を続けるんだろ?」
「うん。続けたいと思ってる」
そう答えた恋人は隣に座る司をまっすぐ見た。
だから司も恋人のまっすぐな視線を受け止めた。
「それでね、結婚なんだけど、もう少しだけ待ってもらってもいい?」
結婚の約束をしている恋人は申し訳なさそうに言った。
司は早く彼女と結婚したかった。
その思いは出会った時から変わらない。
そしてその思いは恋人も知っている。
だが司は恋人の思いや考えを否定することはしない。
それに立ち止まるのも人生。
もし恋人が少し立ち止まりたいと言うならそうすればいい。
だが前へ進むのが人生。
そして運命が彼女を捕まえ司の前に連れてきた。
しかし当然ながら当たり前の愛などない。
だからこれから先、約束された喜びも、約束された哀しみも、すべてをふたりで分け合うつもりでいる。
「しょうがねぇなぁ。待ってやるよ」
「本当?」
暫く黙ってから答えた司に、恋人は安心し微笑みを見せた。
「ああ。本当だ。待ってやるから安心しろ」
司は本心からそう答えた。
それから恋人の頭に手をやり、髪の毛をクシャクシャにした。
それは恋人を安心させる仕草。
だが、同時に司自身を安らかにする仕草だ。
「ねえ?あそこに見えるコテージまで競争しない?ま。私が勝つと思うけどね?それにお腹が空いたわ」
走ることなら負けないという恋人だが、彼女が食事をしていないこと司は思い出した。
そして空には夕闇が迫ってきていた。
「ご安心下さい、お客様。このツアーには食事が含まれております」と、司は胸に手を当て、添乗員よろしくふざけて言った。
「それで?そこには私が気に入りそうなものがある?」
恋人はおどけた態度の司に面白そうに尋ねた。
「ああ。ある」
「そう?何があるの?」
コテージにいるシェフが作るのは、牛肉の赤ワイン煮やサーモンのパイ包み焼きといった膝にナプキンを必要とするもの。
だが恋人が食べたいものは、そういったものではない。
だから司は、「お前の好きなメープルの特製オムライスを作らせよう。それにとびきり甘いデザートがある」と言った。
恋人は甘いものが大好きだ。
だからふたりが行く先には彼女が好きそうな甘いものが必ず用意してある。
「ねえ。サービスはそれだけ?」
恋人の目が面白そうに輝いた。
「いいや。お前の望みを叶えるのが俺の仕事だ。俺のサービスに限りはない」
恋人を永遠に独り占めできるなら司はどんなことでもする。
「本当?それじゃあ私の望みを叶えてくれる?」
「ああ。言ってみろ」
すると恋人は司の耳に唇を寄せた。
司はニヤリと笑った。
立ち上ると彼女を抱き上げ、吸い寄せられるように頭を下げた。
唇が唇に触れると、じらすように左右に揺らした。
恋人が司の耳に囁いた言葉。
それは___
明日の朝、あんたのワイシャツに包まってベッドを占領したい。
司は今夜、胸の中のありったけの愛を彼女に注ぐつもりだ。
そんな男は一瞬、恋人の唇から唇を離した。
すると恋人は頭を起こして司の唇に自分の唇を強く密着させた。
それはまるで早くしてと言っているようだ。
かつては司がキスをするたびに顔を赤らめていた恋人。
だが今の恋人は違う。
大人になったふたりは互いの気持をぶつけ合うことに迷いはない。
互いの身体に自分という存在を、しっかりと刻みつける行為を恥ずかしいとは思わない。
そして時に恋人は驚くほどの情熱を見せることがある。
だから愛する人を腕に抱き目覚めること以上に満ち足りた時はない。
それに、身体をすり寄せて満足の吐息を漏らす恋人の姿は愛おしい。
「牧野」
司は恋人の目を見つめ名前を呼んだ。
そして唇に微笑みを浮べ言った。
「愛してる」
< 完 > *浪漫飛行~唇に微笑みを~*

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飛びまわれ このMy Heart 』
懐かしい曲に導かれて…..
*********
空港に迎えに来ていたのは白いリムジンのロールスロイス。
そこはパスポートもビザも要らない場所。
上着を脱ぐとネクタイを外した。
靴下を脱ぎ棄てると、靴を脱いだ。
腕時計を外すと放り投げた。
そして「よし!行くぞ!」と言った男は隣に立つ女の手を掴むと、砂浜を海に向かって走り出した。
「え?ちょ__ちょっと!いきなり__!!!」
と叫んだ女は戸惑いながらも男と一緒に走りだしたが、その足は速かった。
何しろ女は昔、追いかける男を振り切って逃げたことがある。
あのとき、足の早さは誰にも負けないと豪語した。
やがて女は男の手を振りほどき、砂に足を取られることなく男より先に波打ち際まで行った。
そして靴を脱ぐと躊躇う事なく水の中に足を踏み入れた。
するとすぐに波が足を包み込んだ。
「ねえ!早く来なさいよ!気持いいわよ!」
女は振り返り、はじけるような笑い声で言った。
だが、女が海に背を向けている間に波は突然盛りあがると、浜に襲いかかってきた。
「きゃー!この服、昨日買ったばかりなのに!」
誰もいない砂浜。
ふたりの目の前にあるのは大きく広がる眩いばかりの海。
台風のせいで昨日まで高かった波も今日は比較的穏やかだ。
だが時に大きな盛りあがりも見せていた。
「もう….あんたっていつまでたっても強引なところは変わらないわね?」
恋人は呆れたように言った。
「いや」司は小さく微笑むと「変わるもなにもこれが俺だ。それにお前も強引な俺が好きなはずだ」と言った。そして「それで?何があった?」と言葉を継いだ。
司はここ最近、落ち込んでいる恋人の姿を見ていた。
だから恋人を連れて道明寺が所有している南の島を訪れた。
ここはプライベートアイランドで、今この瞬間この島にいるのは、司と恋人と使用人だけで他には誰もいない。
「俺はお前には落ち込んでいる姿は似合わないと思っている」
「だからここに連れてきてくれたの?」
「ああ」
司は自分を見上げる恋人の頬に手を当てた。
すると唇を噛んで躊躇っていた恋人は「実は…….」と言って話し始めた。
砂浜に座ったふたり。
司は恋人の話に耳を傾けていた。
「そうか。廃刊が決まったか」
「だから違うの。廃刊じゃなくて休刊。うちの雑誌は廃刊じゃなくて休刊なの。いい?廃刊は完全に雑誌がなくなって二度と復活しないって意味だけど、休刊は継続して発行するのが難しいだけで、復刊する可能性があるってこと。そこのところ間違えないでくれる?」
「分かった。分かった。休刊な。だがどのみち、お前が記事を書いている雑誌は半年後には世の中に出ることは無くなるってことだろ?」
「うん…..社内では噂があったけど、ついにその日が来たみたい」
司の恋人は大学を卒業して新聞社に就職すると文化部に配属された。
文化部は文字通り文化的な読み物を届ける部署。政治部、経済部、社会部といった部の記者とは違い、夜討ち朝駆け、つまり事件や事故によって昼夜問わず現場に駆け付けることはない。
恋人は自分の配属先が文化部に決まると「残念!経済部だったらあんたの記事が書けたのに」と言ったが、司はそうならないように、また、恋人が危険な現場に出掛けることがないよう配属先について手を回したことは秘密だ。
そして恋人は数年経って系列の出版社が発行しているリベラル路線を売りとする老舗週刊誌の記者になった。だがその週刊誌も売り上げ部数の減少により廃刊が決まった。
「もう私ショックで…….」
週刊誌に移った恋人が名前入りの記事を書くようになってから3年。
週刊誌の読者といえば中年男性がターゲットだと言われているが、恋人が異動した週刊誌は、女性や主婦も読者層と捉え、政治や経済、難しいと言われる社会問題も分かりやすく書く事で女性の支持も得ていた。
そしてそれらの記事を書いていたのが恋人。
新聞社にいた頃の文化的な記事とは違い、様々な記事を書くことになった恋人は仕事が楽しいと言った。だからよけい廃刊が堪えるのだ。
「半年後かあ……私、次はどこに異動になるのかなあ…..」
恋人はため息をつくと、遠くに目をやった。
「どこだろうな。けど、どこに異動になってもお前は記者を続けるんだろ?」
「うん。続けたいと思ってる」
そう答えた恋人は隣に座る司をまっすぐ見た。
だから司も恋人のまっすぐな視線を受け止めた。
「それでね、結婚なんだけど、もう少しだけ待ってもらってもいい?」
結婚の約束をしている恋人は申し訳なさそうに言った。
司は早く彼女と結婚したかった。
その思いは出会った時から変わらない。
そしてその思いは恋人も知っている。
だが司は恋人の思いや考えを否定することはしない。
それに立ち止まるのも人生。
もし恋人が少し立ち止まりたいと言うならそうすればいい。
だが前へ進むのが人生。
そして運命が彼女を捕まえ司の前に連れてきた。
しかし当然ながら当たり前の愛などない。
だからこれから先、約束された喜びも、約束された哀しみも、すべてをふたりで分け合うつもりでいる。
「しょうがねぇなぁ。待ってやるよ」
「本当?」
暫く黙ってから答えた司に、恋人は安心し微笑みを見せた。
「ああ。本当だ。待ってやるから安心しろ」
司は本心からそう答えた。
それから恋人の頭に手をやり、髪の毛をクシャクシャにした。
それは恋人を安心させる仕草。
だが、同時に司自身を安らかにする仕草だ。
「ねえ?あそこに見えるコテージまで競争しない?ま。私が勝つと思うけどね?それにお腹が空いたわ」
走ることなら負けないという恋人だが、彼女が食事をしていないこと司は思い出した。
そして空には夕闇が迫ってきていた。
「ご安心下さい、お客様。このツアーには食事が含まれております」と、司は胸に手を当て、添乗員よろしくふざけて言った。
「それで?そこには私が気に入りそうなものがある?」
恋人はおどけた態度の司に面白そうに尋ねた。
「ああ。ある」
「そう?何があるの?」
コテージにいるシェフが作るのは、牛肉の赤ワイン煮やサーモンのパイ包み焼きといった膝にナプキンを必要とするもの。
だが恋人が食べたいものは、そういったものではない。
だから司は、「お前の好きなメープルの特製オムライスを作らせよう。それにとびきり甘いデザートがある」と言った。
恋人は甘いものが大好きだ。
だからふたりが行く先には彼女が好きそうな甘いものが必ず用意してある。
「ねえ。サービスはそれだけ?」
恋人の目が面白そうに輝いた。
「いいや。お前の望みを叶えるのが俺の仕事だ。俺のサービスに限りはない」
恋人を永遠に独り占めできるなら司はどんなことでもする。
「本当?それじゃあ私の望みを叶えてくれる?」
「ああ。言ってみろ」
すると恋人は司の耳に唇を寄せた。
司はニヤリと笑った。
立ち上ると彼女を抱き上げ、吸い寄せられるように頭を下げた。
唇が唇に触れると、じらすように左右に揺らした。
恋人が司の耳に囁いた言葉。
それは___
明日の朝、あんたのワイシャツに包まってベッドを占領したい。
司は今夜、胸の中のありったけの愛を彼女に注ぐつもりだ。
そんな男は一瞬、恋人の唇から唇を離した。
すると恋人は頭を起こして司の唇に自分の唇を強く密着させた。
それはまるで早くしてと言っているようだ。
かつては司がキスをするたびに顔を赤らめていた恋人。
だが今の恋人は違う。
大人になったふたりは互いの気持をぶつけ合うことに迷いはない。
互いの身体に自分という存在を、しっかりと刻みつける行為を恥ずかしいとは思わない。
そして時に恋人は驚くほどの情熱を見せることがある。
だから愛する人を腕に抱き目覚めること以上に満ち足りた時はない。
それに、身体をすり寄せて満足の吐息を漏らす恋人の姿は愛おしい。
「牧野」
司は恋人の目を見つめ名前を呼んだ。
そして唇に微笑みを浮べ言った。
「愛してる」
< 完 > *浪漫飛行~唇に微笑みを~*

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「あの。この傘、電車の中にお忘れではありませんか?」
その声に振り返えると、そこにいたのは20代後半と思われる女性。
その女性が青い傘を差し出してきた。
それは僕の傘だ。だから僕は「すみません。ありがとうございます」と言って傘を受け取った。すると女性は「どういたしまして」と言うと背中を向け改札を出て行った。
それが彼女との最初の出会いだ。
ラッシュアワーの満員電車。朝のダイヤは過密で、何もその電車に乗らなくてもいいのだが、何分かの違いで一日の生活リズムが変わることもある。だから誰もが皆、習慣的にいつもと同じ電車の、いつもと同じ車両に乗り、いつもと同じ場所に立つ。
そして僕も毎朝同じ時間に同じ電車に乗り、同じ顏の人々と乗り合わせているのだが、その中のひとりが彼女だ。だが、僕はこれまで彼女に気付かなかった。しかしあの日以来、僕は彼女のことを気にするようになった。だから姿を見かけない日があると、病気なのかと心配した。だが週明け、地方の観光地の名が書かれた紙袋を下げているのを見ると安心した。
そしてその感情から、僕は彼女に恋をしていることに気付いた。
僕と彼女のいつもの車両。
それは前から4両目の車両。
乗る扉は一番後ろ。
彼女はたいていドアの側に立ち窓の外を見ている。僕はと言えば、ふたつ前の駅からその車両に乗っている。そして同じ線路の上を通った僕と彼女は同じ駅で降りる。
改札を出た彼女は右へ。僕は左へ行く。
だから彼女がどこへ向かうのか知らない。
彼女の印象は真面目。
小柄だが背筋がスッと伸びて姿勢がいい。染めてはいない髪は肩の長さで切り揃えられていて、服装はいつもスーツ。スカートの時もあればパンツの時もあるが、色は紺やグレーといった控えめな色。そして手にしているのは黒いビジネス鞄であり、そこから想像出来る仕事は、お堅い仕事。つまり金融機関や公的機関の職員といったもの。だが彼女の職場は駅から数分の所にある商社なのかもしれない。だから僕は彼女のスーツの襟に商社の社章が付いているのではないかと思った。けれどそれらしいものを見つけることは出来なかった。
そして僕は一度だけ、彼女の後をつけたいという気持になった。けれど後をつけることはしなかった。
僕は大学を卒業したのち不動産会社に就職して開発事業部にいる。
今手掛けている仕事は、郊外に計画されているニュータウンの開発。
予備調査を終えたそこは間もなく造成工事に入る。街の形が整えば、分譲が始まり家が建ち、どこにでもあるような郊外の住宅街が出来上がるが、僕はその仕事を夢がある仕事だと思っている。何故ならそこは誰かが家庭を築く場所であり、誰かの人生が始まる場所だからだ。
結婚した男女は子供が生まれ家族が増えると広い家へと住み替える。
そして子供たちはそこを地元と呼び成長していく。やがて成長した子供たちはそこを故郷と呼ぶようになるが、彼らが生まれる前に公園に植えられた桜の木は、彼らの成長と共に大きくなり春には花を咲かせる。季節が静かに移り変り桜の花が散ると、今度は街路樹として植えられたハナミズキが花を咲かせる。やがて誰かの家の庭では紫陽花が咲き、マリーゴールドが鮮やかなオレンジ色の花を咲かる。夏になれば学校から持ち帰ったアサガオの花が咲き、ひまわりも大輪の花を咲かせる。春夏秋冬。ニュータウンのあちこちでは常に花が咲いるはずだ。
もし彼女と結婚したら、どんな場所で暮らし、どんな人生を送るのだろうか。
僕は人並みに恋をしてきたつもりだ。
だが、それは自分が思っているだけなのかもしれない。
そうだ。考えてみれば恋を始めても、いつも自分から遠ざかっていた。いや。遠ざかっていたのではなく自分から終わらせてきたのだ。だから僕は自分が恋愛に不向きなのだと思った。
しかし違う。彼女とは違う。
彼女の後ろ姿を見つめながら、そう考えることもあった。
***
1週間が終る金曜日の朝。
いつもの電車に乗った。そしていつもと同じ車両に乗ってきた彼女の後ろ姿を見ていた。
そんな僕は急な人事異動で福岡に転勤が決まった。
つまりそれは彼女と会えなくなるということ。
だから勇気をもって好きだという自分の気持を伝えることにした。それはたとえダメだとしても、思いを告げなかったことを後悔したくないからだ。
僕は彼女の後ろについて電車を降りた。
だがそこで人波に揉まれ彼女を見失った。
だから焦った。だが改札を出たところにいる彼女を見つけ、追いつくと意を決して声をかけた。
「あの…..」
その時だった。
僕は旧約聖書の中でモーゼが行ったという海割りを見た。
それは駅を出る人波に逆らうように歩いてくる背の高い男の周りで起きていた。
だが男はモーゼのように杖を振りかざしてもいなければ、手を上げたわけでもない。
ただ何故か人々が彼を避け、人波という海が左右に割れ、男が通る道を作っていた。
そしてその道を通ってきた男は、立ち止まった彼女の前まで来ると言った。
「迎えにきた」
彼女は何も言わなかった。
ただ男をじっと見つめていた。
すると男は再び言った。
「牧野。お前を迎えにきた」
僕はそのとき彼女の名前がマキノであることを知った。
そしてふたりは何も言わずただ、お互いを見つめていた。
僕はそんなふたりの様子から人間関係をあらまし想像した。
彼女を見つめる男の長い睫毛の奥の漆黒の瞳は、暗く翳り真剣みをおびている。
それは深い愛情の現れ。そして彼女が男を見つめる瞳にも、男に特別な思いを持っていることが現れている。
つまり今、僕の前で繰り広げられているのは、長い間会えなかった、もしくは離れ離れにならざるを得なかった男と女の……いや恋人たちの再会の場面。
何らかの理由で会えなかったふたりは、互いの瞳を見つめ思いを確かめあっていた。
そんなふたりを見ている僕の胸に宿るのはほろ苦さ。
僕はそっとため息をついた。
それは僕の恋が始まる前に終わったから。
そしてそれを認めた瞬間、僕は同じ電車で通勤していたただの人になった。
僕は男の顏を見ながら、その顏をどこかで見たことがあると思った。
それに男を囲むように立つのは数人の体格のいいスーツ姿の男たち。
思い出した。
男は道明寺ホールディングスの副社長だ。
確か名前は道明寺司。この4月に副社長に就任したばかりで、就任会見が新聞やテレビで話題になった。
男が副社長に就任する前、道明寺ホールディングスの株価は急落した。
それは道明寺ホールディングスが経営難でアメリカの会社に買収されるのではないか。
社長が表に出ないのは健康面に不安があるからではないか。
そんな憶測が流れ、道明寺ホールディングスの経営の先行きが危ぶまれた。
しかし副社長に就任した男はそれらの憶測を全て否定した。
「我社がアメリカの会社に買収されることはありません。むしろその反対です。我々は敵対的買収を仕掛けてきたアメリカの会社を買収いたしました。それから社長の道明寺楓の健康に問題はありません」
アメリカの会社を買収したという話は本当だが、社長の健康に問題がないという言葉は本当なのか。テレビの画面を見ている人間には、副社長の隣に座っている女性の健康状態に問題がないかどうかは分からなかった。
恋はある日突然訪れることがある。
そして終わりもまた然り。
けれど、何かを乗り越えた恋は強い。
それはまともな恋をしたことがない僕でもわかること。
だからふたりの恋はこれからも続いていくはずだ。
僕は人生で一番感動的な場面にいるふたりの横を通り過ぎ駅の外へ出た。
5月の空は青く晴れ渡って、穏やかな風が吹いている。
きっとこれから僕が暮らすことになる街の空も同じはずだ。
いや。向うはこの街より季節が早い。恐らく雨の季節はすぐそこまで来ているはずだ。
だから僕は、ふう、と息をつき、「あっちへ行ったら新しい傘でも買うか」と呟いて歩きだした。
< 完 > *始まりの前に*

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『花より男子』 誕生30周年 おめでとうございます!
その声に振り返えると、そこにいたのは20代後半と思われる女性。
その女性が青い傘を差し出してきた。
それは僕の傘だ。だから僕は「すみません。ありがとうございます」と言って傘を受け取った。すると女性は「どういたしまして」と言うと背中を向け改札を出て行った。
それが彼女との最初の出会いだ。
ラッシュアワーの満員電車。朝のダイヤは過密で、何もその電車に乗らなくてもいいのだが、何分かの違いで一日の生活リズムが変わることもある。だから誰もが皆、習慣的にいつもと同じ電車の、いつもと同じ車両に乗り、いつもと同じ場所に立つ。
そして僕も毎朝同じ時間に同じ電車に乗り、同じ顏の人々と乗り合わせているのだが、その中のひとりが彼女だ。だが、僕はこれまで彼女に気付かなかった。しかしあの日以来、僕は彼女のことを気にするようになった。だから姿を見かけない日があると、病気なのかと心配した。だが週明け、地方の観光地の名が書かれた紙袋を下げているのを見ると安心した。
そしてその感情から、僕は彼女に恋をしていることに気付いた。
僕と彼女のいつもの車両。
それは前から4両目の車両。
乗る扉は一番後ろ。
彼女はたいていドアの側に立ち窓の外を見ている。僕はと言えば、ふたつ前の駅からその車両に乗っている。そして同じ線路の上を通った僕と彼女は同じ駅で降りる。
改札を出た彼女は右へ。僕は左へ行く。
だから彼女がどこへ向かうのか知らない。
彼女の印象は真面目。
小柄だが背筋がスッと伸びて姿勢がいい。染めてはいない髪は肩の長さで切り揃えられていて、服装はいつもスーツ。スカートの時もあればパンツの時もあるが、色は紺やグレーといった控えめな色。そして手にしているのは黒いビジネス鞄であり、そこから想像出来る仕事は、お堅い仕事。つまり金融機関や公的機関の職員といったもの。だが彼女の職場は駅から数分の所にある商社なのかもしれない。だから僕は彼女のスーツの襟に商社の社章が付いているのではないかと思った。けれどそれらしいものを見つけることは出来なかった。
そして僕は一度だけ、彼女の後をつけたいという気持になった。けれど後をつけることはしなかった。
僕は大学を卒業したのち不動産会社に就職して開発事業部にいる。
今手掛けている仕事は、郊外に計画されているニュータウンの開発。
予備調査を終えたそこは間もなく造成工事に入る。街の形が整えば、分譲が始まり家が建ち、どこにでもあるような郊外の住宅街が出来上がるが、僕はその仕事を夢がある仕事だと思っている。何故ならそこは誰かが家庭を築く場所であり、誰かの人生が始まる場所だからだ。
結婚した男女は子供が生まれ家族が増えると広い家へと住み替える。
そして子供たちはそこを地元と呼び成長していく。やがて成長した子供たちはそこを故郷と呼ぶようになるが、彼らが生まれる前に公園に植えられた桜の木は、彼らの成長と共に大きくなり春には花を咲かせる。季節が静かに移り変り桜の花が散ると、今度は街路樹として植えられたハナミズキが花を咲かせる。やがて誰かの家の庭では紫陽花が咲き、マリーゴールドが鮮やかなオレンジ色の花を咲かる。夏になれば学校から持ち帰ったアサガオの花が咲き、ひまわりも大輪の花を咲かせる。春夏秋冬。ニュータウンのあちこちでは常に花が咲いるはずだ。
もし彼女と結婚したら、どんな場所で暮らし、どんな人生を送るのだろうか。
僕は人並みに恋をしてきたつもりだ。
だが、それは自分が思っているだけなのかもしれない。
そうだ。考えてみれば恋を始めても、いつも自分から遠ざかっていた。いや。遠ざかっていたのではなく自分から終わらせてきたのだ。だから僕は自分が恋愛に不向きなのだと思った。
しかし違う。彼女とは違う。
彼女の後ろ姿を見つめながら、そう考えることもあった。
***
1週間が終る金曜日の朝。
いつもの電車に乗った。そしていつもと同じ車両に乗ってきた彼女の後ろ姿を見ていた。
そんな僕は急な人事異動で福岡に転勤が決まった。
つまりそれは彼女と会えなくなるということ。
だから勇気をもって好きだという自分の気持を伝えることにした。それはたとえダメだとしても、思いを告げなかったことを後悔したくないからだ。
僕は彼女の後ろについて電車を降りた。
だがそこで人波に揉まれ彼女を見失った。
だから焦った。だが改札を出たところにいる彼女を見つけ、追いつくと意を決して声をかけた。
「あの…..」
その時だった。
僕は旧約聖書の中でモーゼが行ったという海割りを見た。
それは駅を出る人波に逆らうように歩いてくる背の高い男の周りで起きていた。
だが男はモーゼのように杖を振りかざしてもいなければ、手を上げたわけでもない。
ただ何故か人々が彼を避け、人波という海が左右に割れ、男が通る道を作っていた。
そしてその道を通ってきた男は、立ち止まった彼女の前まで来ると言った。
「迎えにきた」
彼女は何も言わなかった。
ただ男をじっと見つめていた。
すると男は再び言った。
「牧野。お前を迎えにきた」
僕はそのとき彼女の名前がマキノであることを知った。
そしてふたりは何も言わずただ、お互いを見つめていた。
僕はそんなふたりの様子から人間関係をあらまし想像した。
彼女を見つめる男の長い睫毛の奥の漆黒の瞳は、暗く翳り真剣みをおびている。
それは深い愛情の現れ。そして彼女が男を見つめる瞳にも、男に特別な思いを持っていることが現れている。
つまり今、僕の前で繰り広げられているのは、長い間会えなかった、もしくは離れ離れにならざるを得なかった男と女の……いや恋人たちの再会の場面。
何らかの理由で会えなかったふたりは、互いの瞳を見つめ思いを確かめあっていた。
そんなふたりを見ている僕の胸に宿るのはほろ苦さ。
僕はそっとため息をついた。
それは僕の恋が始まる前に終わったから。
そしてそれを認めた瞬間、僕は同じ電車で通勤していたただの人になった。
僕は男の顏を見ながら、その顏をどこかで見たことがあると思った。
それに男を囲むように立つのは数人の体格のいいスーツ姿の男たち。
思い出した。
男は道明寺ホールディングスの副社長だ。
確か名前は道明寺司。この4月に副社長に就任したばかりで、就任会見が新聞やテレビで話題になった。
男が副社長に就任する前、道明寺ホールディングスの株価は急落した。
それは道明寺ホールディングスが経営難でアメリカの会社に買収されるのではないか。
社長が表に出ないのは健康面に不安があるからではないか。
そんな憶測が流れ、道明寺ホールディングスの経営の先行きが危ぶまれた。
しかし副社長に就任した男はそれらの憶測を全て否定した。
「我社がアメリカの会社に買収されることはありません。むしろその反対です。我々は敵対的買収を仕掛けてきたアメリカの会社を買収いたしました。それから社長の道明寺楓の健康に問題はありません」
アメリカの会社を買収したという話は本当だが、社長の健康に問題がないという言葉は本当なのか。テレビの画面を見ている人間には、副社長の隣に座っている女性の健康状態に問題がないかどうかは分からなかった。
恋はある日突然訪れることがある。
そして終わりもまた然り。
けれど、何かを乗り越えた恋は強い。
それはまともな恋をしたことがない僕でもわかること。
だからふたりの恋はこれからも続いていくはずだ。
僕は人生で一番感動的な場面にいるふたりの横を通り過ぎ駅の外へ出た。
5月の空は青く晴れ渡って、穏やかな風が吹いている。
きっとこれから僕が暮らすことになる街の空も同じはずだ。
いや。向うはこの街より季節が早い。恐らく雨の季節はすぐそこまで来ているはずだ。
だから僕は、ふう、と息をつき、「あっちへ行ったら新しい傘でも買うか」と呟いて歩きだした。
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『花より男子』 誕生30周年 おめでとうございます!
Comment:1
壺の中にいる私の耳に届いた彼女の言葉は心に突き刺さるもので、真冬の湖の水底に沈んだナイフだった。
私はすぐにでも壺から出て彼女を抱きしめたかった。
外見は違うが私は記憶を取り戻した道明寺司だと名乗りたかった。
しかし私は自分の意思で壺から出ることは出来ない。
それに生きていた頃の私は人には言えないようなことを平気でやってのける人間であり、暗闇の中で人生を終えるに相応しい行いをしてきた。だからそんな人間である私は彼女の前に出ることが躊躇われた。
だが何故私は壺の中にいるのか。
そのことをいくら考えたところで、理由などわかるはずもないのだから、彼女を忘れたことで空費してしまった時間を悔いることしか出来なかった。
それに酔っぱらった彼女は、自分を忘れた男を許したと言ったが、思い出が去ってしまうまでどれほどの時間がかかったのか。
だがそう思う私は、この状況が彼女のことを忘れてしまった自分への畏(かしこ)き神が与えた贈り物だと思っている。何しろ彼女が骨とう品店で私が住まうことになった壺を手に取ったことで、こうして彼女の傍にいることができるのだから、壺の中が私にとって小さな現実の世界だとしても、この状況は彼女のことを忘れなければ人生を暗闇の中で終えることなく、共に泣いたり笑ったりの日々を過ごすことができた、つまり真人間で生きていられたはずの私への神からの贈り物なのだ。
それに私は彼女の心の片隅に自分がいることを知り嬉しかった。
だから味わったその気分を、頭の中で反芻してみた。すると不思議なことだが彼女の声だけではなく匂いも感じることができた。
彼女の匂い。それは香水の香りではなく、シャンプーや石鹸の匂いでもない。
それなら彼女の匂いは何なのか。
それは透き通る青い風の中に香る若葉の匂い。
陽射しを浴びたみずみずしい植物の匂い。
さわやかな風に吹かれているような清々しさが感じられる匂いであり、その匂いは私だけのもの。
そう思う私が瞼を上げれば、見えたのは白い天井。淡いグリーンの壁。クリーム色の床。寝ている私の体が沈みこんでいるのは、幾分固めのベッド。そして私に掛けられている寝具は薄い空の色。窓の外に見えるビルは……..
この場所には見覚えがあった。
それは遠い記憶の底に留められた景色。
もしや、時間が巻き戻され、あの時に戻ったのでは?
高校生の頃に戻ったのではないか?
いや。物語や映画でもない限り時間が巻き戻ることはない。
「ここは__?」
口から出たのは掠れた声。
その声に気付いた人物が駆け寄って来た。
そして私の顏を見つめて言った。
「良かった….」
そう言った人物の瞳は潤んでいて、頬にまだらになった涙の痕が見えた。
季節は冬の一番寒い頃。
私が会長室で倒れたのは11月だったのだから、2ヶ月近く眠っていたことになる。
そして夢を見ていた。
それは大切な人のことを思い出すことなくこの世を去った私が別人の姿で壺の住人となり、その人の傍で暮らしているという夢だが、目を覚ました私に「良かった」と言った人物は大切なその人で、その人は私の妻だ。
社長を退いた私が会長の職に就いたのは一年前。
それまでの忙しい生活から解放された私は、後任の社長である息子に会社のことを任せると、妻と船旅へ出ようとしていた。
それは私たちにとって二度目の新婚旅行。持て余すほどの時間とは言えないが、夫婦だけの時間は充分ある。だからクリスマスも妻の誕生日も船の上で祝うことを計画していた。
だが私が2ヶ月近く眠っていたことで、そのどちらも夢の中で思ったのと同じで空約束となった。
しかしそれ以前に、もしあの時、彼女のことを思い出さなければ正に夢と同じで彼女以外の人と結婚し、暗闇の中で人生を終えていたはずだ。
だから、たとえここが病院のベッドの上だとしても、彼女が傍にいて私の手を握っていてくれることが嬉しかった。
「眠くなった」
目を覚ました私に処置を終えた医者と看護師が去ると、私は眠りに誘われた。
「2ヶ月近くも眠ったのにまだ眠いの?」
彼女は笑いながら言った。
「ああ。いい男でいる為には睡眠は欠かせない」
「キザなセリフね」
「キザで悪かったな」
そう答えた私は瞳を閉じた。
「ゆっくり眠って。だけど眠り続けるのは止めてね」
と彼女は言って、細い指先で私の顏を拭った。
私は好きな女のためにしか涙は流さない。
だからこぼれ落ちた涙を恥ずかしいとは思わない。
だがポタポタと頬に落ちてくる雫は自分のものではない。
そして落ちてくる雫とともに涙声の呟きが聞えた。
「帰ってきてくれてよかった」
人生には思い出も必要だ。
だが私に一番必要なのは思い出ではなく彼女。
惚れて、惚れて、惚れ抜いて一緒になった。
だからまだ彼女の思い出にはなりたくない。
それに一生死ぬまで大切にすると誓った相手を置いて先に逝くわけにはいかない。
そう思う私は、今、自分が世界で一番幸福な人間に思えた。
< 完 > *リメンバランス*

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私はすぐにでも壺から出て彼女を抱きしめたかった。
外見は違うが私は記憶を取り戻した道明寺司だと名乗りたかった。
しかし私は自分の意思で壺から出ることは出来ない。
それに生きていた頃の私は人には言えないようなことを平気でやってのける人間であり、暗闇の中で人生を終えるに相応しい行いをしてきた。だからそんな人間である私は彼女の前に出ることが躊躇われた。
だが何故私は壺の中にいるのか。
そのことをいくら考えたところで、理由などわかるはずもないのだから、彼女を忘れたことで空費してしまった時間を悔いることしか出来なかった。
それに酔っぱらった彼女は、自分を忘れた男を許したと言ったが、思い出が去ってしまうまでどれほどの時間がかかったのか。
だがそう思う私は、この状況が彼女のことを忘れてしまった自分への畏(かしこ)き神が与えた贈り物だと思っている。何しろ彼女が骨とう品店で私が住まうことになった壺を手に取ったことで、こうして彼女の傍にいることができるのだから、壺の中が私にとって小さな現実の世界だとしても、この状況は彼女のことを忘れなければ人生を暗闇の中で終えることなく、共に泣いたり笑ったりの日々を過ごすことができた、つまり真人間で生きていられたはずの私への神からの贈り物なのだ。
それに私は彼女の心の片隅に自分がいることを知り嬉しかった。
だから味わったその気分を、頭の中で反芻してみた。すると不思議なことだが彼女の声だけではなく匂いも感じることができた。
彼女の匂い。それは香水の香りではなく、シャンプーや石鹸の匂いでもない。
それなら彼女の匂いは何なのか。
それは透き通る青い風の中に香る若葉の匂い。
陽射しを浴びたみずみずしい植物の匂い。
さわやかな風に吹かれているような清々しさが感じられる匂いであり、その匂いは私だけのもの。
そう思う私が瞼を上げれば、見えたのは白い天井。淡いグリーンの壁。クリーム色の床。寝ている私の体が沈みこんでいるのは、幾分固めのベッド。そして私に掛けられている寝具は薄い空の色。窓の外に見えるビルは……..
この場所には見覚えがあった。
それは遠い記憶の底に留められた景色。
もしや、時間が巻き戻され、あの時に戻ったのでは?
高校生の頃に戻ったのではないか?
いや。物語や映画でもない限り時間が巻き戻ることはない。
「ここは__?」
口から出たのは掠れた声。
その声に気付いた人物が駆け寄って来た。
そして私の顏を見つめて言った。
「良かった….」
そう言った人物の瞳は潤んでいて、頬にまだらになった涙の痕が見えた。
季節は冬の一番寒い頃。
私が会長室で倒れたのは11月だったのだから、2ヶ月近く眠っていたことになる。
そして夢を見ていた。
それは大切な人のことを思い出すことなくこの世を去った私が別人の姿で壺の住人となり、その人の傍で暮らしているという夢だが、目を覚ました私に「良かった」と言った人物は大切なその人で、その人は私の妻だ。
社長を退いた私が会長の職に就いたのは一年前。
それまでの忙しい生活から解放された私は、後任の社長である息子に会社のことを任せると、妻と船旅へ出ようとしていた。
それは私たちにとって二度目の新婚旅行。持て余すほどの時間とは言えないが、夫婦だけの時間は充分ある。だからクリスマスも妻の誕生日も船の上で祝うことを計画していた。
だが私が2ヶ月近く眠っていたことで、そのどちらも夢の中で思ったのと同じで空約束となった。
しかしそれ以前に、もしあの時、彼女のことを思い出さなければ正に夢と同じで彼女以外の人と結婚し、暗闇の中で人生を終えていたはずだ。
だから、たとえここが病院のベッドの上だとしても、彼女が傍にいて私の手を握っていてくれることが嬉しかった。
「眠くなった」
目を覚ました私に処置を終えた医者と看護師が去ると、私は眠りに誘われた。
「2ヶ月近くも眠ったのにまだ眠いの?」
彼女は笑いながら言った。
「ああ。いい男でいる為には睡眠は欠かせない」
「キザなセリフね」
「キザで悪かったな」
そう答えた私は瞳を閉じた。
「ゆっくり眠って。だけど眠り続けるのは止めてね」
と彼女は言って、細い指先で私の顏を拭った。
私は好きな女のためにしか涙は流さない。
だからこぼれ落ちた涙を恥ずかしいとは思わない。
だがポタポタと頬に落ちてくる雫は自分のものではない。
そして落ちてくる雫とともに涙声の呟きが聞えた。
「帰ってきてくれてよかった」
人生には思い出も必要だ。
だが私に一番必要なのは思い出ではなく彼女。
惚れて、惚れて、惚れ抜いて一緒になった。
だからまだ彼女の思い出にはなりたくない。
それに一生死ぬまで大切にすると誓った相手を置いて先に逝くわけにはいかない。
そう思う私は、今、自分が世界で一番幸福な人間に思えた。
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Comment:4
「クリスマスイブ。何か予定がありますか?」
クリスマスが近づいてきた。
私はいつものように私が作った料理を食べている彼女に言った。
「え?」
「ですからクリスマスイブです」
「いいえ。別に予定はないわ」
「そうですか。では私と一緒に外出してくれませんか。何しろ私はひとりでこの部屋から出る事が出来ません。ですが壺の持ち主であるあなたと一緒なら外に出ることができる。だから私を外へ連れ出して欲しいのです」
彼女は私の言葉に箸を手に持ったまま考えていた。
そして暫くすると「いいわ。クリスマスイブ。一緒に出掛けましょう。いつも家の中にいたら退屈だものね」と言った。
「それでヤマモトさん。どこか行きたいところがあるの?」
彼女は私の「外へ連れ出して欲しい」の言葉に訊いた。
「いえ。特にありません」
「そう。分かったわ」
今年のクリスマスイブは、土曜日ということもあり、街はとても混んでいた。
私は行きたいところは特にないと答えたが、こうしてクリスマスの街を彼女と一緒に街を歩きたかった。何しろここには、ふたりで見ることが出来なかったクリスマスの景色がある。遠くに見えるタワーはクリスマスカラーに染まり、ショーウィンドウは赤と緑と金色が溢れ、耳に響くのはクリスマスソング。だから頬を刺す風の冷たさも気にならなかった。
「ねえヤマモトさん」
「はい」
彼女は私の腕を取って立ち止まった。
そして「ここに入りましょう」と言って小さな店を指さした。
もし、私が生きていたらクリスマスには、あらかじめレストランを予約して、洒落たプレゼントを用意したはずだ。だが今の私にはそれが出来ない。
何故、私は彼女を忘れてしまったのか。
そして何故、彼女を思い出さなかったのか。
私は自分自身に腹が立った。
過行く青春時代を一緒に過ごすことが出来なかったことに悔しさが込み上げた。
「ねえ。ヤマモトさん。今夜は思いっきり飲みましょう」
私たちが入ったのは小さなワインバー。
彼女は赤ワインをボトルで頼んだ。
そして「赤ワインってクリスマスに合うと思わない?ほらサンタさんの衣裳も赤だし、ポインセチアも赤だし、信号も赤色だし!」と言ってグラスに注がれたワインをぐびぐびと飲んだ。
そして頬を赤く染めた彼女は「赤ワインって美味しいわねぇ。これがブドウから出来てるって知ってる?ワインを作った昔の人!凄いわねぇ」と言ってケラケラと笑ったが、大人になった彼女はアルコールに弱いようだ。
しかし、私はどんなに飲んでも酔うことはない。
すると彼女は自分が酔っているのに私が酔っていないことが不満なのか。
「ちょっとぉ、もっとぉ、飲みなさいよぉ」と言った。だから私はグラスを口に運んだが、やはり酔うことはなかった。
私は若い頃から酒が強かった。
だから酔わないのか。
それとも生きてないからなのか。
どちらにしても、今の私は酒を美味いとは思わなかった。
そして私には「クリスマスかぁ。クリスマスねぇ……」と呟く彼女は、飲めない酒を無理に飲もうとしているように思えた。
私は酔っぱらった彼女と一緒に家に帰った。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した彼女は「今日は楽しかったわ。ありがとう」と言った。
私も「楽しかったです」と答えたが、それは心からの思い。
そして彼女は「おやすみなさい」と言って壺を擦った。
だから私は壺の中に吸い込まれた。
だが暫くすると声が聞こえてきた。
それは彼女が壺に向かって呟いている声だ。
「あなた。声が似ているの。あなたの顏は知らない顏だけど声が似ているの。その人はね、ワガママで口が悪い男だったのに箸の持ち方がキレイだった。髪の毛がバカみたいにクルクルしていた。それに男のくせに無駄に睫毛が長かった…..」
沈んだ声で語られているのは私のこと。
そしてときどき「ねえ、聞いてる?」と、まるで会話をしているように確かめる。
「それでね。その人は美味しい物を沢山食べさせてやるって言ったの。きれいな景色を沢山見せてやるって言ったの」
彼女に食べさせたい物が沢山あった。
見せたい景色が沢山あった。
そこにいつか一緒に行こう。
そんな約束をしたが、それらは全て空約束となった。
やがて聞こえてきたのは嗚咽。
その嗚咽混じりに聞こえてきたのは、「私ね、その人に恋をしたの。うんうん、違う。恋をしたんじゃない。恋におちたの。それでその人も私のことを好きだって言ってくれた。それなのに、事件に巻き込まれて私のことだけ忘れて他の女性と結婚しちゃった。よりにもよって私だけを忘れてね」
その言葉に刺された傷痕がヒリヒリと傷んだ。
ひとりで何も出来ない女じゃないと言った彼女。
だがしっかり者のようで、おっちょこちょいな所があった彼女。
それに物怖じすることはなかったが、傍目を気にすることがあった。
だから、きっと彼女を好きだと言った私が背負うべきだった彼女の苦労というものがあったはずだ。そう思う私は彼女の言葉を噛みしめていた。
「だけどね、人間は忘れる生き物でしょ?それに私もその人以外の人と結婚した。だから私を忘れたことも、先に死んじゃったことも許すわ。それにあの人は今、地球の裏側で生きている。そう思うことにしたの」

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クリスマスが近づいてきた。
私はいつものように私が作った料理を食べている彼女に言った。
「え?」
「ですからクリスマスイブです」
「いいえ。別に予定はないわ」
「そうですか。では私と一緒に外出してくれませんか。何しろ私はひとりでこの部屋から出る事が出来ません。ですが壺の持ち主であるあなたと一緒なら外に出ることができる。だから私を外へ連れ出して欲しいのです」
彼女は私の言葉に箸を手に持ったまま考えていた。
そして暫くすると「いいわ。クリスマスイブ。一緒に出掛けましょう。いつも家の中にいたら退屈だものね」と言った。
「それでヤマモトさん。どこか行きたいところがあるの?」
彼女は私の「外へ連れ出して欲しい」の言葉に訊いた。
「いえ。特にありません」
「そう。分かったわ」
今年のクリスマスイブは、土曜日ということもあり、街はとても混んでいた。
私は行きたいところは特にないと答えたが、こうしてクリスマスの街を彼女と一緒に街を歩きたかった。何しろここには、ふたりで見ることが出来なかったクリスマスの景色がある。遠くに見えるタワーはクリスマスカラーに染まり、ショーウィンドウは赤と緑と金色が溢れ、耳に響くのはクリスマスソング。だから頬を刺す風の冷たさも気にならなかった。
「ねえヤマモトさん」
「はい」
彼女は私の腕を取って立ち止まった。
そして「ここに入りましょう」と言って小さな店を指さした。
もし、私が生きていたらクリスマスには、あらかじめレストランを予約して、洒落たプレゼントを用意したはずだ。だが今の私にはそれが出来ない。
何故、私は彼女を忘れてしまったのか。
そして何故、彼女を思い出さなかったのか。
私は自分自身に腹が立った。
過行く青春時代を一緒に過ごすことが出来なかったことに悔しさが込み上げた。
「ねえ。ヤマモトさん。今夜は思いっきり飲みましょう」
私たちが入ったのは小さなワインバー。
彼女は赤ワインをボトルで頼んだ。
そして「赤ワインってクリスマスに合うと思わない?ほらサンタさんの衣裳も赤だし、ポインセチアも赤だし、信号も赤色だし!」と言ってグラスに注がれたワインをぐびぐびと飲んだ。
そして頬を赤く染めた彼女は「赤ワインって美味しいわねぇ。これがブドウから出来てるって知ってる?ワインを作った昔の人!凄いわねぇ」と言ってケラケラと笑ったが、大人になった彼女はアルコールに弱いようだ。
しかし、私はどんなに飲んでも酔うことはない。
すると彼女は自分が酔っているのに私が酔っていないことが不満なのか。
「ちょっとぉ、もっとぉ、飲みなさいよぉ」と言った。だから私はグラスを口に運んだが、やはり酔うことはなかった。
私は若い頃から酒が強かった。
だから酔わないのか。
それとも生きてないからなのか。
どちらにしても、今の私は酒を美味いとは思わなかった。
そして私には「クリスマスかぁ。クリスマスねぇ……」と呟く彼女は、飲めない酒を無理に飲もうとしているように思えた。
私は酔っぱらった彼女と一緒に家に帰った。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した彼女は「今日は楽しかったわ。ありがとう」と言った。
私も「楽しかったです」と答えたが、それは心からの思い。
そして彼女は「おやすみなさい」と言って壺を擦った。
だから私は壺の中に吸い込まれた。
だが暫くすると声が聞こえてきた。
それは彼女が壺に向かって呟いている声だ。
「あなた。声が似ているの。あなたの顏は知らない顏だけど声が似ているの。その人はね、ワガママで口が悪い男だったのに箸の持ち方がキレイだった。髪の毛がバカみたいにクルクルしていた。それに男のくせに無駄に睫毛が長かった…..」
沈んだ声で語られているのは私のこと。
そしてときどき「ねえ、聞いてる?」と、まるで会話をしているように確かめる。
「それでね。その人は美味しい物を沢山食べさせてやるって言ったの。きれいな景色を沢山見せてやるって言ったの」
彼女に食べさせたい物が沢山あった。
見せたい景色が沢山あった。
そこにいつか一緒に行こう。
そんな約束をしたが、それらは全て空約束となった。
やがて聞こえてきたのは嗚咽。
その嗚咽混じりに聞こえてきたのは、「私ね、その人に恋をしたの。うんうん、違う。恋をしたんじゃない。恋におちたの。それでその人も私のことを好きだって言ってくれた。それなのに、事件に巻き込まれて私のことだけ忘れて他の女性と結婚しちゃった。よりにもよって私だけを忘れてね」
その言葉に刺された傷痕がヒリヒリと傷んだ。
ひとりで何も出来ない女じゃないと言った彼女。
だがしっかり者のようで、おっちょこちょいな所があった彼女。
それに物怖じすることはなかったが、傍目を気にすることがあった。
だから、きっと彼女を好きだと言った私が背負うべきだった彼女の苦労というものがあったはずだ。そう思う私は彼女の言葉を噛みしめていた。
「だけどね、人間は忘れる生き物でしょ?それに私もその人以外の人と結婚した。だから私を忘れたことも、先に死んじゃったことも許すわ。それにあの人は今、地球の裏側で生きている。そう思うことにしたの」

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