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2018
11.15

優しい雨 <後編>

『こうすることがつくしさんのため』

楓はそう言ってコーヒーを口に運んだが、千恵子には意味が分からなかった。
自分が大切にしていた花瓶を割られただけで、結婚してまだ1年の娘を実家に帰すということのどこがつくしのためなのか。
娘は夫の母親を尊敬こそすれ憎みなどしていなかった。
嫁いだ以上夫を支え道明寺の家と会社を支えることが自分の役割だと言っていた。それが結婚を認めてくれた夫の母親への感謝の表れであると同時に、自分が選んだ人生だからと言っていた。
そしてそのことを姑も分っているはずだ。それなのに何故娘を傷つけるようなことをするのか。


「お母さん。私にはやはりおっしゃっている意味が分かりません。私はつくしの母親です。不甲斐ない父親に変わりあの子を育ててきました。貧乏な暮らしの中で育った子ですが、ご存知の通りあの子は清貧に甘んずる子で、家計を助けるためアルバイトをしながら学校に通う真面目な子でした。だから花瓶を割ったことは、それは大変申し訳ないことをしたと思っています。弁償出来るなら弁償したいと思うでしょう。でも弁償できるようなものでないことは、あの子が一番よく知っています。こちらのお家にあるものは、世界にひとつしかないといったものばかりでしょうから」

楓は千恵子の言葉に頷き、カップをソーサーと共にテーブルに置くと言った。

「そうね。世界にひとつしかないもの。世の中にはひとつだけしかないものが存在するわ。でもそれは花瓶などではないわ。ここにある花瓶がいくつ割れてもわたくしは気にしないわ。だってわたくしにとって一番大切なものは我が子。自分のお腹を痛めて産んだ子供は何があってもどんなことがあっても守りたい唯一の存在よ。だからお義母さんも我が子が傷つけられたことが許せなかった。傷ついた我が子を守るためにここに来た。つくしさんの幸せが何よりも大切だからここに来たはず。そうですわよね?」

千恵子の目には道明寺楓という人物は、母親であることより経営者としての道を選んだ女性として映っていた。だがたった今放たれた言葉は千恵子が思う道明寺楓の姿ではなかった。

「そこまで分かっていらっしゃるなら何故こんな_」

と、つっかかるように言いかけた千恵子がそこで口を閉ざしたのは、能面のようだった楓の顔にすうーっと影が過った気がしたからだ。そして切れ長の目が閉じられ再び開かれたとき、その表情はどこにでもいる母親の顔をしていた。そして意を決したように口を開いた。

「訊いていただけるかしら?」

楓のその言葉に千恵子は頷いた。










「男の子は母親に似た人と結婚するといいます。つくしさんはどこか私に似ているところがあります。強い意思と信念というものを持っています。こうと決めたら梃子でも動かない。それが彼女の性格です。わたくしもつくしさんと同じ物の考え方をします。だから司はつくしさんを選んだのでしょう」

そう言うと楓は軽く笑って言葉を継いだ。

「司もそんなつくしさんと結婚を決めるまで彼女の心に迷いがあってはいけないと待ちました。だから結婚が遅くなったということではないでしょうけど、今となってはその方が良かったのかもしれません。だってまだ結婚して1年。ふたりに子供はいません。つまりつくしさんは、あの子がいなくなれば、この家から出て行くことが出来る。自由になれます。でも彼女はそうはしない。だからそうしてあげるのがわたくしの役目です」

「お母さん?」

それまで家族という言葉と切り離されたところで生きていると思っていた女性は、息子の嫁として娘を迎え入れると、その性格を深く理解していると感じた。
それはかつて憎しみの対象だった娘が我が子の成長を助けたことを知っているから。
道明寺の家などどうでもいい。自分の代で無くなってしまえばいいと言っていたという息子が、娘と結婚出来るならどんなことも厭わないと言い、道明寺という家と会社を継ぐことを決めたのは、娘がいたからだということを知っているから。
だが千恵子は楓の口から出た『あの子がいなくなれば』の意味を図りかねていた。


「わたくしは息子がつくしさんと結婚してくれて本当に良かったと思っています。嬉しかったわ。何があってもあの子について行く。そんな意志を持って結婚してくれたつくしさんには感謝してもしきれないくらいだわ。でもそんな彼女だからこうするしかなかった。だって司がいなくなっても、つくしさんはこの家に残ると言うでしょう。そしてあの子の代わりになると言うはずです。わたくしを支える。そのために自分の人生を捨ててしまうはずです。でもわたくしはそんなことは望みません。つくしさんには幸せになって欲しい。だから彼女をこの家から追い出すことにしたんです。その為には理由が必要です。だからつくしさんが花瓶を割るように仕向けました。わたくしがつくしさんに花瓶を渡すとき、わざと早く手を離したんです」

「…..あのお母さん?」

千恵子は自分の声が緊張するのが感じられ背中に緊張が走った。
そして返された声はかすかに震えがあった。

「息子は….司は癌です」
















しんと静まり返り物音ひとつしない部屋に流れる空気。
部屋は完璧な空調が保たれているが逆にそのことに息苦しさを感じた。
そして時は確実に時間を刻むが、ふたりがこうして話はじめた頃、窓の外は晩秋の晴れ渡った空が広がっていたが、いつの間にか雨が降り出していた。
だが雨の音が中まで届くことはなく、ただ雨粒が窓を流れ落ちていく様子が見て取れたが、時折ザァーっと雨脚が強まっているのが感じられ、それはまるでふたりの母親たちの心の裡を表しているようだった。



「ロシアに行く2週間前、司は健康診断を受けました。その時医師からその疑いがあると言われました。でもそれは本人には伝えていません。古い付き合いがある医師はわたくしだけに連絡をしてきたのです。それからすぐに精密検査を受けさせました。それはデータがきちんと取れてなかった。採取した3本の血液のうち1本を紛失してしまったと言って再検査を受けさせたのです。役員の健康診断については、会社の経営に関わることから細心の注意を払う必要があります。ですから詳しく調べるのは当然のことで過去にもそういったことがあり息子も再検査を疑わなかったはずです」

千恵子は楓の話を黙って訊いていた。
そしてすぐに理解することが出来た。
楓が息子の嫁をこの家から追い出したのは、自分と似ているところがあると言うつくしなら、夫が亡くなったあと再婚もせずこの家に留まり、夫の母親の傍にいて仕事を手伝うと言うこと分かっているからだが、それは夫に操を立てるではないが、運命の恋人と呼ばれたふたりは死さえも超越する。たとえ肉体が滅びても魂がここにある限り、娘はこの家に残り、亡き夫の代わりに母親を支えると道明寺楓は知っているのだ。つまり娘はこの家に縛られることになってしまう。だから楓は自分が悪者になりつくしをこの家から追い出したのだ。

「医師からはまだ早期だから大丈夫だと言われました。ですから帰国次第手術を受けさせます。でもあの時のわたくしは一瞬何を言われたのか分かりませんでした。頭の中が真っ白になり、何も考えられなかったのです。でもぼんやりなどしていられません。まず考えたのは、つくしさんのことです。お義母様の前でこんなことを言うのは大変失礼かと思いますが、先ほど申し上げたように、つくしさんはわたくしに似ているところがあります。1本芯が通ったものの考え方。信念をもっているところ。夫を深く愛していること。だからつくしさんは__」

楓はそこまで言うと言葉に詰まった。
それは千恵子が初めて見た楓の動揺。
だが楓の言葉に母親としてのぬくもりを感じた。
目の前の女性も年を取ったと感じられた。
子供同士が結婚して義理の家族になったふたり。だがひとりは自分の生涯を家に捧げ、会社に捧げた。そんな女性とは価値観が違うと思っていた。だがこんな風に話し合うことで、今では同じ母親として子供たちを思う心は変わらないのだと知った。そして母親の道明寺楓が、まだ若い我が子の生命が断たれることよりも、残される義理の娘の未来を心配をしていることに怒った声が出た。

「お母さん。まだそうと決まった訳ではありません。早期だと言われたんですよね?何事も臆測だけで物を言うのはよくありません。私の娘があなたに似ているなら、あの子は既にお母さんの心を受け継いでいるはずです。あの子は弱くありません。それに司さんも同じです。それに覚えていらっしゃいますよね?司さんが生まれた時のことを。赤ちゃんは幸せな匂いがしたはずです。子供の誕生はお母さんにとって大変な歓びだったはずです。私たちが命を削るほど苦しい思いをして分け与えた命がそんなに簡単になくなるはずがありません。それにつくしは、何があっても司さんと一緒にいることを望みます。夫の傍を離れることは、あの子にとっては考えられないことです。それにつくしは、娘は、今頃お母さんのことを心配しているはずです。あの子は賢い子です。だから口ではお母様が大切にしていた花瓶を割ったことでこの家を追い出されたと言いましたが、本当はそんなことは思っていません。何かあったのだと感じています。それにあの子がお母さんに似たところがあるとおっしゃるなら、理由もなくお母さんがそんなことをするはずがないと分かっているはずです」

ふたりの母親の会話は決して諍いではない。
顔は平静を保ちながら話をしているが、心は絶え間なく揺れていて、それが年老いた母親たちの本当の姿だ。そしてどんな親もいつも子供のことを思う。親でいる限り死ぬまでそれは続く。それにたとえ我が子が罪を犯しても、何も聞かずに庇うことが出来るのは母親だけだ。
我が子を無条件で愛するのが母親だ。

「お母さん。大丈夫です。司さんも。つくしも。もしかすると、ふたりはもう知っているかもしれません。司さんは勘が鋭い人です。そして妻であるつくしは、そんな夫と一緒にいるんです。夫婦は互いの顔を見れば分かります。心に何かあればそれを感じることが出来ます。つくしは司さんといることが幸せなんです。お母さん。これからは闘いです。ふたりが闘うのを私たち母親が支え応援すればいいんです。いえ。しなければいけないんです。それに司さんは強い人間です。それに人間は良すぎると早く死ぬといいます。でも過去の司さんはそうではなかったと訊いています。だからあなたの息子さんは生きます。それに娘がそうさせます。絶対にね」









ふたりの母親は涙を流すことはなかった。
だがその代わりを果たしたのは窓を伝う雨だ。
気付けばいつの間にか降り出した雨は時折雨脚が強くなったこともあった。
だが今はその雨も細い雨に変わり、やがてポツポツと降る優しい雨となり、銀色の玉となってキラキラと輝きを放ち始めたが、それは空を覆っていた雨雲が去ったからだ。

「お母さん。あのふたりは夫婦です。夫婦には夫婦のルールがあります。越冬するため北の国から飛んで来た鶴の夫婦だって、どちらかが病に倒れて渡りが出来なくなると、夫婦で残ると言います。パートナーの病が治るまでずっと傍についていると言います。
それはあのふたりも同じです。一緒だから乗り越えられることがあります。ふたりが一緒にいることに意味があるんです。つくしの幸せはあの子が決めます。だからお母さん。私たちは、どんなことがあってもふたり応援するしかないんです」

そしてふたりの女性が窓越しに見たのは、雨上がりの晩秋の陽光がもたらした、たそがれの風景。
その風景を見ながら千恵子は楓が出来ることなら息子と変わってやりたいと思っていることは分かっていた。そしてふたりは、その風景の中で太陽が作り出した荘厳さを見た。

それは広大な敷地を持つ屋敷の庭に舞い降りた大きな二羽の鳥が羽根を休めている姿。
日の光りはまるでスポットライトのように鳥たちを照らしていたが、彼らは北から渡って来たつがいの鳥たちなのか。
雨で濡れた羽根がキラキラと輝いて見えたが、その姿が気高く尊いものに思え、彼らが来年の春、共に北帰行してくれることを願わずにはいられなかった。
そしてふたりは、その鳥たちに我が子の姿を重ね静に祈りを捧げていた。





< 完 >*優しい雨*

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2018
11.14

優しい雨 <中編>

千恵子は意を決し世田谷の邸を訪ねたが、通された客間で娘の夫の母親である道明寺楓と向き合った瞬間、一分の隙もない姿で現れた女性に同じ子供を持つ母親としての温もりといったものは感じられず、初めて会った時と同じ感覚を覚えた。

それは息子と別れてくれと大金を持ち現れたあの日の光景。
血も涙もないと言われる鉄の女は、息子の交際相手として相応しくないと決めた娘の両親に金を払うから別れさせてくれと言った。

だが結婚した娘から訊かされる話の中には、「優しい人なのよ。いい人なのよ」といった言葉があった。それならやはり真意を問いただす必要がある。なぜ娘はこの家を追い出され実家に戻って来たのか。


「お母さん。いったいどういうことですか?娘が花瓶を割ったくらいで出て行けとはいったいどういうことですか?そんなことで娘を実家に帰らせるなんてどういうおつもりですか?それとも花瓶のことは口実で娘があなたの気に入らないことをしたのでしょうか?」

千恵子は真正面に座る楓に訊いた。
道明寺楓という女性は初めて会った時、冷やかなぞっとするような視線で千恵子を見た。
そして回りくどい言い方はしなかった。率直で言葉を選ぶことはなかった。差し障りいのない言葉を並べることもなかった。だから千恵子も思うことを率直に口にした。すると楓はそんな千恵子をまるで遠くから訪れた懐かしい友人に言葉をかけるように柔らかく言った。

「いらっしゃると思っていました。どうぞ冷めないうちにコーヒーを召し上がって下さい」

ソファに腰掛けた二人の間にあるテーブルには上等なコーヒーカップに淹れられたコーヒーがあったが、もし今ここで千恵子がそのカップを割れば、娘と同じようにここを追い出されるのか。そして楓の言葉に感じられた柔らかさは一体何を意味するのか。
そんな思いから口にした、「もし私がこのカップを割ったら娘と同じようにここを追い出されるのでしょうか?」の言葉には怒りを含ませていた。

「いいえ。こんなカップのひとつやふたつ割れたところで誰かが何かを犠牲にすることなどありません。形あるものはいずれ壊れると決まっています。それにわたくしはそこまで物に執着するような人間ではありませんわ」

千恵子は楓のその言葉にそれなら何故娘は花瓶を割ったくらいでこの家を追い出されなければならなかったのか。
その思いを楓にぶつけた。

「それなら何故うちの娘は、つくしは花瓶を割ったことでこの家を追い出されたんですか?そうですよね?娘が言うには、つくしはお母さんが大切にしている花瓶を割ったからこの家を追い出されたと言っています。いえ少なくともそうだと思っています。もしそのことが間違っているならそうおっしゃって下さい」

「いいえ。間違っていません。つくしさんはわたくしが大切にしている花瓶を割った。だからこの家を出ていってもらいました」

「ちょっと待って下さい。お母さんのおっしゃっていることには矛盾があります。ついさっき物には執着しないと言ったじゃありませんか?それなのに娘が割ったという花瓶に対しては別だとおっしゃるんですね?」

千恵子は言葉に強い怒りを込めて言ったが、相手は能面のように表情を変えなかった。
やはり花瓶を割ったことは万死に値するとでも言うのか。それにしても息子は自分が留守のうちに母親が妻を追い出したと知れば怒り狂うはずだ。

「お母さん。息子の嫁をこんな風に追い出しておいて、息子さんが知ったらどうなるか分かってるんですか?傷つくのはあなたの息子さんですよ?それにあなたの息子さんはうちの娘を、つくしのことを深く愛して_」

「ええ。分かってます。息子がつくしさんのことをどれほど愛しているのか」

その言葉に気のせいか今まで能面のようだった楓の顔に微かな表情が浮かんだように見えた。

「それならどうしてこんなことを?花瓶を割ったくらいのことでどう考えてもおかしいじゃないですか。私には納得がいきません」

「そうでしょうね。わたくしも納得がいきません。どうして__」

楓はそこで言葉を切った。

「お母さん?」

「ごめんなさい。でもこうすることがつくしさんのためになるはずです」




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2018
11.13

優しい雨 <前編>

意匠を凝らした鋳鉄の柵が続く先に見えてきたのは大きな立派な門。
その門に表札はなくてもそこが誰の家であるか知っている。
そこは娘が1年前に嫁いだ家。だが家というには立派過ぎ、そこはまるで博物館か美術館のような佇まいがあった。

そして千恵子がその家を訪ねたことがあるのは過去に一度だけ。
娘の結婚が決まり姑となる人に招かれ食事をしたことがあったが、それ以来ここを訪ねたことはなかった。それは近くまで来たからといって娘に会おうと普段着で気軽に立ち寄れるような場所ではなかったからだ。

だがそんな家へ嫁いだ娘が突然帰ってきた。

「つくし。突然帰って来るなんてびっくりするじゃないの。どうしたの?近くまで来たの?」

千恵子はそう言って我が子が久し振りに顔を見せてくれたことを喜んだ。
だがいつもは明るい娘のどこか沈んだ様子に、「なんだか元気がないわね?」と声を掛けたが、「うん。ちょっとね」と言って口を噤んだ姿に身体の具合でも悪いのか。もしかして子供が出来たのかと訊いたが、暫く黙っていた娘が口にしたのは、姑に家を追い出された。荷物は後程こちらで纏めて送りますと言われたと言った。

「つくし。あんた何言ってるのよ?」

千恵子は娘の言葉に耳を疑った。
娘は夫である男性と深く愛し合っていた。ふたりの間には色々とあったが長い交際期間を経て1年前に結婚したばかりだ。そして初めはふたりの交際に反対していた姑も、やがてふたりの事を認め結婚することを許した。

そんな姑は敏腕女社長と呼ばれ厳しい人ではあるが、その厳格さの下に母親としての愛情を隠し持つ人で、義理の娘になったつくしに対しては、我が子と同じとばかりの厳しさがある反面、繊細な心遣いをしてくれる人だと言っていた。そんな姑に家を追い出されたというのだから千恵子は驚くと同時に娘が何かしたのではないかと考えた。

「あんた…..いったいどういうこと?お母さんと何かあったの?」

何も言おうとしない娘に千恵子が問い詰めると、「お母さまが大切にしていた花瓶を割ったからかもしれない」と言った。

「そんな…..番町皿屋敷じゃあるまいし花瓶を割ったくらいで何も追い出されることなんてないでしょ?」

番町皿屋敷と言えば、江戸時代、旗本の大きなお屋敷で働く貧乏な家の出のお菊という女中が、主が大切にしていた皿を無くしたことで、お手打ちにされるという話だが、その皿はお菊が気に入らない主の妻と古参の女中によって隠されていたという陰謀が招いた冤罪。だが現代社会の今、娘がお手打ちになることはない変わりに家を追い出されたということか?
だが花瓶を割られたくらいで息子の嫁を家から追い出す姑がどこにいる?
それにいくら大切な花瓶といっても、あの家には高価な花瓶が山ほどあるはずだ。その中のひとつが割れたくらいで目くじらを立てることでもないように思えたが、千恵子にその価値が分かるはずもないのだから、姑の怒りがどれほどのものなのか分からなかった。


「それで道明寺さんはどうしたの?家に帰ってあんたがいなくなってたら、びっくりするわよ」

千恵子は確かめておきたいことがあった。
それはこの状況を娘の夫は知っているのかということだ。

「今ロシアに出張してる」

訊けば3週間ロシアに滞在すると言った。
つまり姑は息子がいない間に娘を追い出したということになる。と、なるとこれはもしかすると計画的なことだったのかもしれないと思った。
何故なら普段ニューヨークで暮らしている姑は、息子がロシアに出張中と知っていて突然世田谷の家を訪れた。
そしてそれこそ番町皿屋敷のように娘に罪を着せる。娘がわざと花瓶を壊すようにもっていったのではないかと思った。何しろかつて姑は策略を巡らせふたりの恋を妨害した経緯があるからだ。

つまりふたりの結婚は認めたものの、やはり娘が気に入らないということなのか。
大事な跡取り息子をどこの馬の骨とも分からない娘と結婚させたことがやはり許せなかったのだろうか。それにいくら今の世の中全ての人間は平等だといっても、道明寺家は日本の経済界をリードする企業をいくつも有する名門の家柄。対し牧野家は貧しい家庭。初めから釣り合わない無理だと言われたふたりの恋愛。姑はやはり娘のことが気に入らなかったのか。
だがふたりは祝福され結婚したはずだ。それを今更どういうつもりなのかといった思いがあった。

そして千恵子はなんとか道明寺楓に会えるようにと連絡を付けると、どうして娘を追い出したのかを訊ねるためこの場所を訪れた。





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2018
10.28

紅葉色の記憶

Category: 紅葉色の記憶
移り変わる季節を感じることが出来るひとつに紅葉がある。
そんな紅葉の季節になると一番に思い浮かぶのは楓の木だが、同じように美しく色付く木々の中にマルバノキ(丸葉の木)、別名ベニマンサクという木がある。
春先、青々とした葉を茂らせているその木が目立つことはなく目を止めることはない。
だがその木が秋になると赤紫に色を変え人々の目を惹く木に変わる。
それは楓も同じだが、その木も色を変えることで見る人の心を惹き付ける美しい木に変わっていく。

そんなマルバノキは本州中部以西の限られた場所を原産地とする落葉低木で、見ごろは10月中旬から11月と言われ、道明寺家の軽井沢の別荘にも自生しているその木を見に行こうと司は妻を誘った。

そしてその木はマルバノキと名前が付けられている通り丸い大きな葉をしているのだが、正確に言えば少し違う。
葉の形はハート型をしており、木々が紅葉する季節を迎えると、葉が燃えるように紅葉することから燃えるハートようだと言われ、下から見上げるハート型の真っ赤な葉は、ハートが秋色といった景色だった。

陽の光りに透かし見た葉は葉脈と呼ばれる筋があるが、それは植物にとって人間の血管と同じ役割を果たし、水や栄養分を運ぶ役割があるが、真っ赤なハート型の葉に流れるそれは最愛の人を想う熱い血ではないかと思うのは司だ。







「わあ~!凄いわね。この葉っぱ本当にハート型をしてる!」

「どうだ?俺の言った通りだろ?」

二人が見上げる木は、4メートルほどの高さで沢山の赤いハートが頭の上で陽光を浴び揺れていた。

「ホント!凄いね。こんな景色今まで見た事がないよ!」

「この木はな、紅葉が終って葉が散り始めると花を咲かせる。それも真っ赤な小さな花が2つ背中合わせで咲く。それに一緒に実を付けるが花が2つなら当然実も2つだがその形がハート型をしている。ハートの実がくっついてるんだ。まるで俺たちみたいだろ?」

星型のような額のような小さな赤い花を咲かせるマルバノキは、ハート型の実を2つ付ける。そして結実したそれは、ハートの尖った先端がくっついた状態で翌年の秋、熟してはじけるまで枝にあるが、それはまるで赤く染まったハートの葉が恋する想いを叶えハート型の実を結んだと言えた。

だが人も木もその時が来れば必ず実を結ぶという訳ではない。
世の中には人の手で変えることが出来ない自然の摂理といったものがある。
そしてこうして赤く紅葉したハート型の葉を見上げる女の頬は葉と同じ色に染まっているが、夫である司は妻の考えていることが手に取るように分かった。

春になれば青い芽が、青葉が芽吹き、花が咲き、実を結び種を蒔くように結婚すれば新しい命が生まれることが当たり前のように考えられているが、それは決して当たり前ではないのだ。
付き合い始めてから暫くは、二人に身体の関係はなかった。
だが婚約して2年。その間いつ子供が出来てもいいと周りは思っていた。
そして二人が結婚して2年が経ったが、子供が出来ないことに目に見えない同情が集まり始めると、夫である司は妻が言えない言葉を持っていることに気付いた。
そんな時、妻を連れハート型の葉を持つマルバノキが紅葉したこの場所を訪れた。すると妻に大きな変化が訪れた。
赤ん坊が出来たのだ。







あれから23年。
一生大切にすると言って結婚して25年。
秋はあの頃と同じように巡って来た。
そして銀婚式を迎える二人に子供たちがプレゼントしてくれたのは、想い出のアルバム。
二人の間には男の子がふたりと女の子がひとり。末の女の子も18歳を迎え二人が出会った頃の年齢を越えた子供たち。今ではそれぞれが大人になり親の手から離れていた。

そんな子供たちから二人の想い出が書かれているからと言って渡されたアルバム。
1ページ目を開いたそこには、二人の名前が相合傘に入れられて書かれていた。
子供たちから見た二人の姿は、そこに書かれている通り、仲睦まじい夫婦だったということだが、それを見た時ふたりで笑った。
だがそのアルバムを開くのが少しだけ怖かった。
それは、そのアルバムに書かれているのは、子供たちの目から見た親の姿ではないだろうか。
親としての出来不出来が書かれた通知表を渡されたように感じた。

だが次のページを開いたとき、そこにあったのはマルバノキの赤く色づいたハート型の葉が押し花のように貼られていて、その葉の色に一気に何十年という時を飛び越えたあの頃の二人の姿がそこにあった。
そして「一生」という言葉に見合うだけの年月を過ごした二人は一緒にページを見ていた。

「マルバノキの葉。あの子たちわざわざ軽井沢まで行ったのかしらね?」

「そうだろうな」

「きれいね。この赤。あの時見た赤と同じね?」

丁度この季節に真っ赤に紅葉するマルバノキ。
長男は両親がマルバノキを大切に思っていることを知っていて、その葉を求め軽井沢まで行ったはずだ。

計算してみると長男がお腹に宿ったのは、軽井沢の別荘で過ごしたあの夜だった。
あの日。ハート型の葉が赤く染まったのを見たとき、その花が2つ背中合わせで咲くこと、実がハート型をしてくっついていること。それを二人に例えたとき、何かが起きたはずだ。
あの日のことを思い出すと、秋の匂いも一緒に思い出されるが、それはいたずらな匂い。
その匂いを遠い日の想い出に重ねれば、あの頃と変わらぬ妻の微笑みに司は幸せを感じた。

「ああ。そうだな。自然の色は移り変わるが、この赤はあの時の赤と同じだ」

自然の色がその時々によって違うように、人の心も移り変わることがある。
だが妻と共に歩んで来た25年という歳月があの頃の二人の姿を滲ませたとしても、想いは変わらなかった。心が変わることはなかった。
そして二人の間に流れた歳月は、一瞬たりとも止まることのない砂時計の砂だったが、流れ落ちる砂は二人が紡いだ家族の時間であり、黄金よりも価値があった。
そして砂時計の砂は決して止まることはなく、今も流れ落ち続けていた。

「次のページには何があるのかしらね?」

妻が笑いながらページを捲る。

「なんだろうな。ハート型のマルバノキの次だろ?」

「あはは!雑草だって!」

次のページに貼られてあったのは、つくしで『雑草』と書かれていたが、それは母親を表していた。そして次のページを捲ると、真っ赤な薔薇の押し花が貼られていて、
『高校生の時、むせ返るほどの薔薇の花を贈る』と書かれていた。

「真っ赤な薔薇の花びら!司が高校生の頃、アパートの部屋に入りきらないほどプレゼントしてくれた薔薇ね?」

子供たちがプレゼントしてくれた想い出アルバム。
そこにあったのは、父親が母親に贈ってきた沢山の花の想い出。
子供たちは父親が花を抱えて帰ると、その花の名前を教えてもらい、一緒に持ち帰られた箱に目を輝かせた。何故目を輝かせていたのか。それは甘いものが好きだという母のために、いつも何か甘いものが添えられていたからだ。


細い指先が書かれている文字をなぞり、懐かしそうに触れる花々は、やがて褐色へと変わる。それでも想い出は色褪せることはない。
いつだったか高価な花ばかり贈る男に、花屋で一番安い花でいいから、と言ったことがあった。その時、司が選んだのはガーベラだった。
だからガーベラの花の押し花もあった。

「ガーベラ。覚えてるわ。一番安い花にしたってプレゼントしてくれたけど、花と一緒に貰ったものは安くなかったはずよ?」

「そうだったか?」

「そうよ」

勿論覚えていた。ピンクのガーベラと同じ色の包装紙に包まれた箱から出て来たのは、ピンク色のダイヤが散りばめられた腕時計。その日はピンクリボンの日だと言われ、その趣旨を理解している男は10月になればピンクのネクタイを身に着ける。そして道明寺グループも協賛企業としてその活動を支援していた。
そして愛する妻にはいつまでも元気でいて欲しという思いからピンクに関係するものを贈った。


二人は笑いながらページを捲った。
その度に匂わないはずの花の匂いが感じられ想い出が甦る。
季節は移り時が流れても、どの季節の花も忘れることはない。
そして二人にとってどの時間もかけがえのない時間であり、どの時間もどんな物とも交換出来ない想い出であり、司の前にある紅葉色の微笑みは、これからもそこにある。



「つくし。お前、25年俺と一緒にいるが幸せか?」

「やだ。今更なに言ってるのよ?私が不幸に見える?幸せに決まってるじゃない」

「そうか?」

「もちろんよ。もし私たちの人生がドラマになって放送されるなら絶対に見るから。それくらい素敵な人生ドラマだもん」

そう胸を張って答える妻は、「司はどうなの?ドラマになって放送されたら見るでしょ?だって司ほど強烈なキャラクターの主役はいないと思うもの。だから絶対に視聴率はいいと思うわ」

と言って笑い、「ほら見て。この花。覚えてる?母の日に司が子供たちと一緒にプレゼントしてくれたカーネーションね?」と言った。

「ああ。あん時は店中のカーネーションを買い占めるつもりで行ったが、誰も彼もがカーネーションを買うからどうなってんだって思ったがな」

司は母の日にカーネーションを贈るといった経験をしたことがなかった。
だが子供が生まれ、親となり子供たちが母の日を祝う習慣を家庭に持ち帰れば、自分の母親に花を贈るということをしてこなかった男も、妻と母に花を贈ることを始めた。

「やあねぇ。店ごと買い占めようとするんだから、他のお客さんがいい迷惑よ」

「別にいいだろうが。早いモン勝ちだ。それがビジネスに於ける競争原理だ」

とは言え、今の司は花瓶に挿せる量の花だけを買っていた。



二人がこんな風に想い出を巡ることが出来るのは幸せだから。
だが今の年齢で考える幸せは若い頃とは違うが、今はあの頃とは違う幸せを確かに感じていた。

そして今、自分を主張することがない秋の太陽の物憂げな光りが、アルバムを捲る二人の姿を包み込んでいた。




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2018
10.21

キンモクセイの誘惑

毎年この季節になると香るのはキンモクセイ。
それは秋の訪れを感じさせる甘い香りで、庭の一角に植えられているその木は可憐な橙色の小さな花を枝に密生させていて、秋の日差しを浴び名前の通り金色に輝いて見えたが、開花時期が1週間足らずのその木の下には既に散った花弁があった。

「お義母様。ご無理はなさらないで下さいね」

「あら、大丈夫よ。わたくしはただ身体の中に出来た悪いものを取っただけですもの。無理などしてないわ」

「でも司が心配します。それに私も心配です」

「本当に大丈夫よ。もうこの年ですもの。孫たちと走り回ることはしないわ。それにひとりで大丈夫よ」

「でも私も一緒に」

「いえ。あなたはいいわ。ひとりで出てみたいのよ。それにわたくしの足腰はまだ弱ってないわ。それに今はわたくしのことよりも自分の身体のことを心配なさい」

付き添うと言った息子の嫁のつくしに大丈夫だからと言って楓はテラスから庭に出た。
そして庭を横切り5メートルほどの高さの木の下に立った。
キンモクセイの甘い匂いは数メートル離れていても秋の澄んだ空気に乗って香るが、夜は近くにいなくてもその存在を知らしめるように更に強く香る。
そして楓の目の前にある濃い緑の葉のキンモクセイは毎年必ず小さな橙色の花を付けるが、その木は楓と彼女の夫である道明寺祐(たすく)の結婚を記念して植えられた木。だが夫は既に亡くなりもう随分と時が流れた。
そして楓は1ヶ月の病院生活から自宅に戻ったところだったが、それは65歳の誕生日を数日後に控えた日だった。

「あなた。今年もキンモクセイが可愛い花を沢山付けたわ。まるでわたしくしの退院を祝ってくれているようにね。それからね、もうひとつお祝い事があるの。孫が産まれるのよ。司とつくしさんの間に4人目の子供が生まれるの」

楓の夫は息子が大学を卒業した年に亡くなったが、それから4年後、息子の司は結婚した。相手は高校時代の恋人。だが楓は初めて会った時いい印象を持たなかった。
家柄が違う。お金がないといったことを前面に別れることを強要した。

当然だが息子は反発した。だが初めは反発しながらも、二人の関係を認めてもらうための努力を始めた。
自分で決めたことだといって渡米し、彼女と結婚するため自分に課せられた使命を果たすとばかり自ら学ぶことを選んだ。

そんな我が子は楓の期待を裏切ることはなかった。
そしてつくしは、道明寺の家に見合う人間になると言って楓の言葉を真摯に受け止め学んだ。今では立派な道明寺社長夫人、そして3人の子供の親として、次に生まれて来る子供の母親としてどっしりとこの邸に根を下ろしていた。つまり今では子ライオンを守る立派な母親ライオンとして道明寺の未来を見つめていた。

結婚前の司に、「つくしさんのどこが好きなの?」と訊いたことがあった。
すると返された言葉は、「おっちょこちょいなところもあるが、思いやりと優しさは人一倍ある。たとえどんな状況に陥っても前を向いて歩く力を持つ。そんなところか?」だった。

どんな状況に陥っても前向いて歩く力を持つ。
その言葉に楓はつくしが自分と似たところがある女だと思った。
それは、司との交際を反対された時、何をされても、何があっても負けないといった強い瞳の輝きを見た時だった。この少女は強い意思を持つ子であり、負けず嫌いな子だと思った。
だがその負けず嫌いとは、他人に対しではなく自分の内面に対してのことであり、頭の回転が鋭い子だと感じた。そしてどこか自分に似たところがあると思った。

楓はビジネスの世界に生きてきた。
仕事以外では付き合いたくない人間だと言われていた。
だから合理的な考え方しか出来なくなっていた。だが孫が生まれるたび、その考え方が変わったと言われるようになった。

「男性のことを好々爺と呼ぶなら、楓さんは好々婆かな。今ではすっかりいいお祖母ちゃんだ」

夫が生きていれば、そう言ったかもしれないと思った。

「あなたにいいお祖母ちゃんと言われる年になったけど、あなたが生きていたらあなたはどんなお祖父さんになったのかしらね?」

そう言った楓はキンモクセイの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。












楓は退院した翌日から庭を歩くことを日課に決めた。
それは医者から適度な運動なら問題ないと言われたからだ。
だがさすがに1ヶ月も病院のベッドに横になっていた身体は、そう簡単には元のようにならなかった。だがそれでも人の手を煩わせることはしたくなかった。

「お義母様。あまり無理はなさらないで下さいね」

「つくしさん。無理などしていないわ。ただ、ここに来てキンモクセイを見上げていると昔を思い出すの」

楓はつくしに言った。
この木が夫であり司の父親が自分達の結婚を記念して植えた木であることを。
すでに成木だったその木はその年の秋には花を咲かせた。
そしてあれからもう随分と時が流れたが、ベテラン庭師によって手入れが行き届いている庭にあるキンモクセイは、枯れることはなく大きく育ち秋になれば可憐な小さな橙色の花を付けることを。そして、そのことをつくしに話した翌日には、そこにベンチが置かれていた。
それはつくしの話を訊いた息子が手配したもので、楓とつくしはそこに腰を降ろしていた。

「私にとってお義母のイメージは薔薇でしたが、お義父様にとってはキンモクセイだったのでしょうか?」

亡くなる前に何度か会ったことのある夫の父親は背が高く、整った面立ちも似ていて、息子が年を取ればこうなるであろうという未来の姿がそこにあった。

「そうね。わたくしは薔薇を育てるのも愛でるのも好きよ。香りも好き。でもあの人にとってのわたくしのイメージはキンモクセイだったの。だから主人から初めて貰った香水はキンモクセイの香りがしたわ。それは特別に作らせた香水で世界にひとつしかないオリジナルよ。東洋的な香りがする香水で、世界を相手にするならオリエンタルを感じさせる方があなたらしいと言ってね」

世界を相手にする。
その言葉にまだ若かった楓は具体的に何を相手にするのか実感が湧かなかった。
道明寺財閥の当主と結婚した彼女に求められるのは、海外から訪れる賓客をもてなすことくらいしか思いつかなかった。

「主人はとてもロマンティックな人だったわ。自分でイメージした香水を作らせて妻に贈る。今ならそれも当然の事のようにあるかもしれないけど、あの当時はそんなことをする男性はいなかったわ。でもそれが道明寺祐という男性。自分の妻に自分の好きな香りを纏って欲しい。そう思ったのね。ある意味でそれは独占欲の表れでしょうけど、司もそんな夫の性格を受け継いでいるからあの子もロマンティックなのよ。だってつくしさんにもあの子があなたをイメージして作らせた香水を贈ったほどですもの。足音が聞えなくても、姿が見えなくても香りだけでその人が分かる。それに香りは同じものをずっと使うことでその人になるわ。つまり香りはその人そのものでその人のサイン。だから司も若い頃からずっと変わらない同じ香りを付けているでしょ?それが自分自身である証拠なの。それに香りが無いと下着を身に着けてない。何か忘れものをしたように感じてしまうものよ」

楓は入院中の病室でも夫から贈られた香水の匂いを枕元に置いていた。
人の記憶は年と共に薄れていくが、ふとしたことで昔が甦るが楓にとってそれはキンモクセイの香りを嗅いだ時だ。だからここへ来て木を見上げていたが、それはここへ来れば夫を思い出し身近に感じるからだ。

「ねえ、つくしさん。司の父親は髪の毛が銀色に変わる前に亡くなったわ。でも司は夫の分も長生きするわ。だから心配しなくても、あなたがひとりになるのはずっと先の話よ」








今しか香ることのない匂いを嗅いだことが過去の想い出を蘇らせたのか。
その翌日ベンチに腰を降ろした楓はうつらうつらと夢を見た。
それは何故か夫の姿がキンモクセイの上にあり、その様子を見上げている自分の姿。
夫の髪の毛は銀色に変わり秋の陽光を浴び輝いていた。
それは楓の髪の毛の色と同じで共に年齢を重ねた姿だった。

「あなた。そんなところで何をしてらっしゃるの?」

「何をって。君を待ってたんじゃないか。もういいのか?大丈夫なのか?」

「ええ。もういいの。ここを切ったけど傷は大きくなくてね。お医者様がおっしゃるにはその傷跡もそのうち消えるって言われたわ」

楓はそう言ってお腹に手を置いた。

「そうか。それは良かった。ところで私は病院でもいつも君の傍にいたんだが、気付いていたかな?」

「ええ。もちろん。枕元に香水の瓶を持って行きましたもの。だからいつもあなたの気配を感じていましたわ」

そう答えたのは嘘ではなかった。
上等な特別室の中。そこにいたのは楓だけではなかった。そしているとすれば夫以外考えられなかった。

「そうか。君はあれからもずっと私が贈った香水を愛用してくれているから嬉しいよ」

夫の言うあれからとは、彼が亡くなってからもずっとという意味だ。

「だってこの香りはあたなたがプレゼントしてくれた香水ですもの。それにわたくしは一度これと決めたら簡単には変えない性格ですもの」

それは鉄の女と言われた楓の性格だ。
だがそれも年を取り丸くなったと言われていた。

「そうだったね。君は意思が固い人間だ。一度こうだと決めたらそれを通す。だからビジネスでも成功した。私が倒れた後も君はよく頑張った。本当にね」

夫が倒れた頃、会社は存亡の危機を迎えていた。
だがその危機を救ったのは、息子の嫁であるつくしだったと知った時は正直驚いた。

「あなた。わたくしはあなたが亡くなってから道明寺家に嫁いだ女としてこの家を守ったわ。それに会社もよ。おかげ様で今は司が跡を継いでくれたわ。あの司がよ?それにつくしさんと結婚して子供が3人いるの。今思えば、つくしさんと結婚してなかったらあの子はどうなっていたか。それからつくしさんのお腹には4番目の子供がいるわ。そんなわたくしは今では幸せなお祖母ちゃんだと自分でも思うわ。でもそれをあなたと一緒に感じたかったわ。あなたにも幸せなお祖父ちゃんを感じて欲しかった。一緒に孫のおもちゃを買いに行きたかったわ」

楓は木の上にいる夫に言った。
これは夢なのだから、何を言っても許されると思ったからだ。
それに夢だから言えることもあるはずだと更に言った。

「それなのにわたくしは一人でおもちゃを買っていた。確かにそれが不満だとは言わないわ。でも男の子のおもちゃに何を買えばいいのか分からないこともあったわ。本当に正直困ったわ。それに男の子はよく走るのよ。つくしさんに頼まれて預かったことがあったの。でも追いかけるのが大変だったのよ。司の時のわたくしはまだ若かったから追いかけることも出来た。でもお祖母ちゃんになれば走ることは出来ないわ」

すると木の上にいる夫はその言葉にククッと笑った。

「あなた。どうして笑うの?」

「だって君の言葉はだんだんと我儘をいう子供のようになってるから」

「我儘ですって?」

「ああ。そうだよ。まるでそれじゃあ子供の頃の司だ」

「失礼なことをおっしゃるのね。わたくしのどこが子供の頃の司なの?」

「いや。ごめん。本当なら私も君と一緒に孫たちを追いかけなければいけなかったんだ。いや。追いかけたかったよ。だが追いかけることは出来なかったね。本当に残念だよ」

「あなた….」

楓は夢の中で夫と話をしたのは初めてだった。
そして当然だが孫について話をしたのも初めてだった。
それに夢に出て来たのは過去に一度しかなかった。それは夫の納骨の日だった。
後のことを頼む、と言われたが、それから後に夫が夢に出て来たことはなかったからだ。

「私もそっちへ行っていいかな。君の傍に。そのベンチに一緒に座ろう」

そう言われた楓はベンチに腰を降ろした。すると夫は木の上から飛び降りると楓の隣に座った。それから二人でベンチからキンモクセイの木を眺めた。

「楓。お腹の傷だが本当は大きな傷だろ?まだ痛むはずだ。それなのに歩き回っても大丈夫なのか?」

実は夫の言った通りで楓の腹部には大きな傷があった。そしてベンチに座るとき、痛みを感じ一瞬だが顔を歪めた。

「大丈夫よ。それにじっとしているなんてわたくしには出来ないわ」

「そうか。だが無理はしないでくれ。ところで覚えているかな。結婚して間もない頃。私がキンモクセイの花をベッドにまき散らしたことを。身体の下に沢山の花弁を敷いて愛し合ったことを」

「ええ。覚えているわ。なんだかくすぐったい気持ちになったわ」

「そうだな。花はこんなに小さいんだ。身体のあちこちにくっついて大変なことになった。でも君はそのキンモクセイを見て笑った」

あれは結婚一年目の秋。
年の初めに結婚したふたりだったが、まだ子供が出来なかったことに悩んでいた妻を楽しませるため夫はシーツの上に橙色の花を撒いていた。

「それにしても、このキンモクセイも随分と長い間花を付けてきたが、今年はそろそろ終わりか?」

キンモクセイの花の命は約1週間だ。
夫の言葉に答えるように小さな花びらが二人の前に落ちた。
そして夫は楓の顔を見た。

「そうね。今年はもう終わりかもしれないわね。でもキンモクセイの寿命は100年あるとも言われるわ。また来年も花を咲かせてくれるはずだわ」

「そうだな。来年もここで君とふたりでこの花を見よう」

「ええ。あなた。またここに来てわたくしと一緒にこの花を見て下さいね」

















楓が邸に戻って来たのは、庭に散歩に出てから1時間経った後だった。

「お義母様…..」

なかなか戻ってこない楓を探しに出たつくしがベンチに腰を降ろした楓に後ろから声を掛けたとき、返事は無かった。慌てたつくしは直ぐに前に回り再び楓に声をかけた。
だが返事はなかった。それでも頬は紅を差したように赤らんでいて眠っているように思えた。

「おふくろは何か楽しい夢を見ながら逝ったはずだ」

司は落ち着いた声で答えた。
それは自分の母親の病状を知っている男の納得した声だった。
そして妻からあのキンモクセイが両親の思い出の木だと訊き、すぐにベンチを用意したが、そこで母親が息を引きとったことに見えない何かを感じていた。

「お義母様。まさかこんなに早く逝かれるなんて…..お医者様はあと半年は大丈夫だとおっしゃっていたのに」

道明寺楓はすい臓ガンだと言われ手術を受けた。だが転移が進んでいて身体の中にあるすべての腫瘍が取り除かれた訳ではなかった。そして医者からは余命半年だと言われていた。
だが司は医者の言葉を信じてはいなかった。それは手術が終わった時、彼だけに伝えられた言葉があったからだ。

『お母様の好きなことを好きなだけさせてあげて下さい』



「まさか。お義母様ご自分の病状のことご存知だったの?」

「どうだろうな。頭のいい人だから薄々気づいていたのかもしれねぇな。それに親父が迎えに来たような気がする」

「お義父様が?」

「ああ。なんとなくだがそんな気がする」

楓が最期に見た風景は花を散らそうとしているキンモクセイの姿。
その香りは母親がいつも纏っていた香りの中にあった。
人生の最期に花の散り際を選んだのは偶然だったのか。
そしてそこに現れたのは楓の夫であり司の父親。息子にはそう思えた。

あのベンチで交わされたはずの会話はどんな会話だったのか。
どちらにしても頬を微かに染めていたという母親の姿を息子である男は見ることは出来なかった。いや。息子である自分は見なかった方が良かったのかもしれない。

そして今、部屋の中で芳香を放っているのは、横たわる母親の枕元に飾られたキンモクセイの香り。
手折った枝はやがて枯れる。だが手折られた枝からは来年の春には新芽が出るはずだ。それは司の4番目の子供が誕生する頃。せめてその子の顔を見るまで生きていて欲しかった。
そして夫の誘いを断らなかった母親は、天国で息子には見せることがなかった恥じらいといったものを見せている。そんな気がしていた。





< 完 > *キンモクセイの誘惑*

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