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2023
01.11

リメンバランス <後編>

壺の中にいる私の耳に届いた彼女の言葉は心に突き刺さるもので、真冬の湖の水底に沈んだナイフだった。
私はすぐにでも壺から出て彼女を抱きしめたかった。
外見は違うが私は記憶を取り戻した道明寺司だと名乗りたかった。
しかし私は自分の意思で壺から出ることは出来ない。
それに生きていた頃の私は人には言えないようなことを平気でやってのける人間であり、暗闇の中で人生を終えるに相応しい行いをしてきた。だからそんな人間である私は彼女の前に出ることが躊躇われた。

だが何故私は壺の中にいるのか。
そのことをいくら考えたところで、理由などわかるはずもないのだから、彼女を忘れたことで空費してしまった時間を悔いることしか出来なかった。
それに酔っぱらった彼女は、自分を忘れた男を許したと言ったが、思い出が去ってしまうまでどれほどの時間がかかったのか。

だがそう思う私は、この状況が彼女のことを忘れてしまった自分への畏(かしこ)き神が与えた贈り物だと思っている。何しろ彼女が骨とう品店で私が住まうことになった壺を手に取ったことで、こうして彼女の傍にいることができるのだから、壺の中が私にとって小さな現実の世界だとしても、この状況は彼女のことを忘れなければ人生を暗闇の中で終えることなく、共に泣いたり笑ったりの日々を過ごすことができた、つまり真人間で生きていられたはずの私への神からの贈り物なのだ。

それに私は彼女の心の片隅に自分がいることを知り嬉しかった。
だから味わったその気分を、頭の中で反芻してみた。すると不思議なことだが彼女の声だけではなく匂いも感じることができた。
彼女の匂い。それは香水の香りではなく、シャンプーや石鹸の匂いでもない。
それなら彼女の匂いは何なのか。
それは透き通る青い風の中に香る若葉の匂い。
陽射しを浴びたみずみずしい植物の匂い。
さわやかな風に吹かれているような清々しさが感じられる匂いであり、その匂いは私だけのもの。

そう思う私が瞼を上げれば、見えたのは白い天井。淡いグリーンの壁。クリーム色の床。寝ている私の体が沈みこんでいるのは、幾分固めのベッド。そして私に掛けられている寝具は薄い空の色。窓の外に見えるビルは……..
この場所には見覚えがあった。
それは遠い記憶の底に留められた景色。
もしや、時間が巻き戻され、あの時に戻ったのでは?
高校生の頃に戻ったのではないか?
いや。物語や映画でもない限り時間が巻き戻ることはない。

「ここは__?」

口から出たのは掠れた声。
その声に気付いた人物が駆け寄って来た。
そして私の顏を見つめて言った。

「良かった….」

そう言った人物の瞳は潤んでいて、頬にまだらになった涙の痕が見えた。







季節は冬の一番寒い頃。
私が会長室で倒れたのは11月だったのだから、2ヶ月近く眠っていたことになる。
そして夢を見ていた。
それは大切な人のことを思い出すことなくこの世を去った私が別人の姿で壺の住人となり、その人の傍で暮らしているという夢だが、目を覚ました私に「良かった」と言った人物は大切なその人で、その人は私の妻だ。

社長を退いた私が会長の職に就いたのは一年前。
それまでの忙しい生活から解放された私は、後任の社長である息子に会社のことを任せると、妻と船旅へ出ようとしていた。
それは私たちにとって二度目の新婚旅行。持て余すほどの時間とは言えないが、夫婦だけの時間は充分ある。だからクリスマスも妻の誕生日も船の上で祝うことを計画していた。
だが私が2ヶ月近く眠っていたことで、そのどちらも夢の中で思ったのと同じで空約束となった。
しかしそれ以前に、もしあの時、彼女のことを思い出さなければ正に夢と同じで彼女以外の人と結婚し、暗闇の中で人生を終えていたはずだ。
だから、たとえここが病院のベッドの上だとしても、彼女が傍にいて私の手を握っていてくれることが嬉しかった。






「眠くなった」

目を覚ました私に処置を終えた医者と看護師が去ると、私は眠りに誘われた。

「2ヶ月近くも眠ったのにまだ眠いの?」

彼女は笑いながら言った。

「ああ。いい男でいる為には睡眠は欠かせない」

「キザなセリフね」

「キザで悪かったな」

そう答えた私は瞳を閉じた。

「ゆっくり眠って。だけど眠り続けるのは止めてね」

と彼女は言って、細い指先で私の顏を拭った。
私は好きな女のためにしか涙は流さない。
だからこぼれ落ちた涙を恥ずかしいとは思わない。
だがポタポタと頬に落ちてくる雫は自分のものではない。
そして落ちてくる雫とともに涙声の呟きが聞えた。

「帰ってきてくれてよかった」

人生には思い出も必要だ。
だが私に一番必要なのは思い出ではなく彼女。
惚れて、惚れて、惚れ抜いて一緒になった。
だからまだ彼女の思い出にはなりたくない。
それに一生死ぬまで大切にすると誓った相手を置いて先に逝くわけにはいかない。
そう思う私は、今、自分が世界で一番幸福な人間に思えた。




< 完 > *リメンバランス*
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2022
12.29

リメンバランス <中編>

「クリスマスイブ。何か予定がありますか?」

クリスマスが近づいてきた。
私はいつものように私が作った料理を食べている彼女に言った。

「え?」

「ですからクリスマスイブです」

「いいえ。別に予定はないわ」

「そうですか。では私と一緒に外出してくれませんか。何しろ私はひとりでこの部屋から出る事が出来ません。ですが壺の持ち主であるあなたと一緒なら外に出ることができる。だから私を外へ連れ出して欲しいのです」

彼女は私の言葉に箸を手に持ったまま考えていた。
そして暫くすると「いいわ。クリスマスイブ。一緒に出掛けましょう。いつも家の中にいたら退屈だものね」と言った。

「それでヤマモトさん。どこか行きたいところがあるの?」

彼女は私の「外へ連れ出して欲しい」の言葉に訊いた。

「いえ。特にありません」

「そう。分かったわ」




今年のクリスマスイブは、土曜日ということもあり、街はとても混んでいた。
私は行きたいところは特にないと答えたが、こうしてクリスマスの街を彼女と一緒に街を歩きたかった。何しろここには、ふたりで見ることが出来なかったクリスマスの景色がある。遠くに見えるタワーはクリスマスカラーに染まり、ショーウィンドウは赤と緑と金色が溢れ、耳に響くのはクリスマスソング。だから頬を刺す風の冷たさも気にならなかった。

「ねえヤマモトさん」

「はい」

彼女は私の腕を取って立ち止まった。
そして「ここに入りましょう」と言って小さな店を指さした。

もし、私が生きていたらクリスマスには、あらかじめレストランを予約して、洒落たプレゼントを用意したはずだ。だが今の私にはそれが出来ない。
何故、私は彼女を忘れてしまったのか。
そして何故、彼女を思い出さなかったのか。
私は自分自身に腹が立った。
過行く青春時代を一緒に過ごすことが出来なかったことに悔しさが込み上げた。

「ねえ。ヤマモトさん。今夜は思いっきり飲みましょう」

私たちが入ったのは小さなワインバー。
彼女は赤ワインをボトルで頼んだ。
そして「赤ワインってクリスマスに合うと思わない?ほらサンタさんの衣裳も赤だし、ポインセチアも赤だし、信号も赤色だし!」と言ってグラスに注がれたワインをぐびぐびと飲んだ。
そして頬を赤く染めた彼女は「赤ワインって美味しいわねぇ。これがブドウから出来てるって知ってる?ワインを作った昔の人!凄いわねぇ」と言ってケラケラと笑ったが、大人になった彼女はアルコールに弱いようだ。
しかし、私はどんなに飲んでも酔うことはない。
すると彼女は自分が酔っているのに私が酔っていないことが不満なのか。
「ちょっとぉ、もっとぉ、飲みなさいよぉ」と言った。だから私はグラスを口に運んだが、やはり酔うことはなかった。
私は若い頃から酒が強かった。
だから酔わないのか。
それとも生きてないからなのか。
どちらにしても、今の私は酒を美味いとは思わなかった。
そして私には「クリスマスかぁ。クリスマスねぇ……」と呟く彼女は、飲めない酒を無理に飲もうとしているように思えた。


私は酔っぱらった彼女と一緒に家に帰った。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した彼女は「今日は楽しかったわ。ありがとう」と言った。
私も「楽しかったです」と答えたが、それは心からの思い。
そして彼女は「おやすみなさい」と言って壺を擦った。
だから私は壺の中に吸い込まれた。

だが暫くすると声が聞こえてきた。
それは彼女が壺に向かって呟いている声だ。

「あなた。声が似ているの。あなたの顏は知らない顏だけど声が似ているの。その人はね、ワガママで口が悪い男だったのに箸の持ち方がキレイだった。髪の毛がバカみたいにクルクルしていた。それに男のくせに無駄に睫毛が長かった…..」

沈んだ声で語られているのは私のこと。
そしてときどき「ねえ、聞いてる?」と、まるで会話をしているように確かめる。

「それでね。その人は美味しい物を沢山食べさせてやるって言ったの。きれいな景色を沢山見せてやるって言ったの」

彼女に食べさせたい物が沢山あった。
見せたい景色が沢山あった。
そこにいつか一緒に行こう。
そんな約束をしたが、それらは全て空約束となった。
やがて聞こえてきたのは嗚咽。
その嗚咽混じりに聞こえてきたのは、「私ね、その人に恋をしたの。うんうん、違う。恋をしたんじゃない。恋におちたの。それでその人も私のことを好きだって言ってくれた。それなのに、事件に巻き込まれて私のことだけ忘れて他の女性と結婚しちゃった。よりにもよって私だけを忘れてね」

その言葉に刺された傷痕がヒリヒリと傷んだ。
ひとりで何も出来ない女じゃないと言った彼女。
だがしっかり者のようで、おっちょこちょいな所があった彼女。
それに物怖じすることはなかったが、傍目を気にすることがあった。
だから、きっと彼女を好きだと言った私が背負うべきだった彼女の苦労というものがあったはずだ。そう思う私は彼女の言葉を噛みしめていた。

「だけどね、人間は忘れる生き物でしょ?それに私もその人以外の人と結婚した。だから私を忘れたことも、先に死んじゃったことも許すわ。それにあの人は今、地球の裏側で生きている。そう思うことにしたの」



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2022
12.25

リメンバランス <前編>

私の記憶はあるところで止っていた。
だから私は彼女が誰なのか分からなかった。
だが私の周りにいる人間は口を揃えて言った。
「思い出せ。そうしなければお前は一生を暗闇の中で過ごすことになる」と。
だが私は彼らの言葉に耳を貸さなかった。
そして彼女を思い出さなかった。
だから私の人生は彼らの言う通り暗闇の中で終った。










「ご主人様。ご用ですか?」

「ええ。悪いけど、あそこの電球を取り替えて欲しいの。私じゃ手が届かないから」

「かしこまりました」

私は女性から電球を受け取ると、天井近くにある照明器具に手を伸ばした。

「ありがとう。家の中に背の高い人がいると助かるわ」

と女性は私に礼を言った。
そして「ねえ。せっかく壺から出て来てもらったことだし、お茶でも飲まない?」と言った。
だから私は「ではご一緒させていただきます」と答えた。




この世での人生を終えた私は壺の中に入り込んだ。
だが何故、壺の中に入ることになったのかは分からなかった。
そして今の私は背が高いことは別として、以前とは全く違う別の容姿をしていた。

壺の持ち主の女性の名前は牧野つくし。
そう。私が思い出すことが出来なかった女性だ。
彼女は私が彼女を思い出さなかったことで数年後に他の男と結婚した。
しかし5年後に離婚した。
そしてそれから独身のまま会社勤めを続けたが、来年の春に20年勤めた会社を辞め地方に移住する。
そんな彼女が休暇を取って旅に出た。そして旅先の骨とう品が並ぶ店で、ひとつの小さな壺に興味を持った。


「お客さん。この壺にご興味があるようですね?この壺は、ある旧家の蔵に眠っていたもので立ち姿が美しい逸品です。こういった物は出会いです。一期一会です」

店主はそう言って壺を勧めたが、ただ安定感があるだけの古い飾壺だ。
その壺を彼女は見つめていた。

「いかがですか?お安くしておきますよ?」

そう言われて彼女はその壺を買った。
そして、彼女は家に帰ると壺の汚れを取るため布で擦った。その瞬間、私は煙と共に壺の中から外へ出た。すると彼女は悲鳴を上げた。そして壺から離れ「あなた誰よ!いったい何なのよ!」と言った。だから私は「ヤマモトモトヤです」と咄嗟に呪文のように答え、お辞儀をした。
すると彼女は少しだけ間を置いたが、壺の中から男が現れるという怪奇と呼べる事態に動じることなく「ええっと、ヤマモトさんね…..ところであなたどうして壺から出てきたの?」と言った。
私はそう言われても何故自分が壺の中に……こういった境遇におかれているのか分からなかった。だから彼女の質問に答えることが出来なかった。
すると彼女は「ま、いいわ」と言って会話はそれで終わった。



そして1週間が過ぎ、2週間が経った。
始めこそ質問する者と、それに答える者だったが、あまりにも私が彼女の質問に答えることが出来ないことが分かると、彼女は何も聞かなくなった。
そんな私は壺を擦られると壺から出ることができるが、また壺を擦られると壺に吸い込まれる。だから夜になると彼女は壺を擦って私を壺の中に戻す。
だが人がいないときに限り、勝手に壺から出ることができる。
だから彼女が部屋を出て仕事に向かうと壺から出たが、この部屋から外に出ることは出来なかった。
そんな私の役目は壺の持ち主に仕えることのようだ。
そして私は家事が得意らしく、することがないので部屋の掃除をして料理をした。ただ洗濯は止めて欲しいと言われた。

「ねえ、ヤマモトさん。今晩の御飯はなに?」

彼女は私と視線を合わせて訊いた。

「クリームシチューを作りました」

私がそう言うと、「わあ。シチューなのね!嬉しい!私の大好物よ!」と言って「一緒に食べましょうよ」と言った。

彼女はおいしい、おいしいと言って私が作った料理を口にしてくれる。
今の私はそれが嬉しかった。そして私たちは一緒に夕食を食べることが当たり前のようになった。
しかし、私は何故彼女が会社を辞めてこの街を去るのかが知りたかった。
だからある夜、私は彼女に訊いた。

「私が勤めている中堅どころの化学素材の会社が買収されることになったの。そこで起こったのが事業縮小。私のいる部署は派手な部署じゃなくて早期退職者を募ったの。だから応募したの」

会社を辞める理由は分かった。
だが何故東京から離れることにしたのか。
私が知る限り彼女は生まれも育ちも東京で地方で暮らしたことがない。
それなのに何故?

「東京を離れる理由?なんとなく......かな?」

彼女はそう言って小さく笑い、私はそれ以上聞かなかった。




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2022
11.10

言葉のちから

Category: 言葉のちから
「司!頑張って! 」

「司!頑張れ!お前なら出来る!」

「そうよ司!司なら出来るわ!」

「そうだぞ司!頑張れ司!あとひとり抜いたらお前が一番だ!」

若い男女は目の前の直線コースを駆けて行った男の子にそう声をかけた。
そして、最初にゴールテープを切った男の子の姿に歓喜の声を上げて抱き合っていた。





「ねえ。さっきのご夫婦の息子さん。あんたと同じ名前みたいね」

妻は隣にいた男女が立ち去ると、そう言って司の顏を見た。
そして微笑ながら「それで?どう?」と言った。
だから司は「何がどうだって?」と答えた。
すると妻は「だから熱い声援を受けた感想は?」と訊いた。
司は「どうもこうもねえ。司、司って人の名前を連呼しやがって今日は司の大安売りか?」と答えたが、妻は「何言ってるのよ。大安売りもなにも今日は運動会だもの。運動会に我が子の名前を叫ばない親はいないわ」と笑った。


秋晴れの空の下で行われている運動会。
子供の活躍する姿を見ようと集まった家族の中には、ビデオカメラを回している姿もあれば、声を限りに応援する姿もあった。
そしてその中でもひときわ司の目をひいたのは、祖父と思われる高齢の男性。
男性は、『ガンバレ海斗!』と書かれたハチマキを巻き、同じ言葉が書かれた小旗を手に「海斗!ガンバレ海斗!おじいちゃんは海斗が箱根駅伝に出るのを楽しみにしているぞ!それまでおじいちゃんは絶対に死なん!だからガンバレ海斗!」と叫んでいた。

そんな男性の姿に妻は「あのおじいちゃん凄いわね。それに孫が大学生になって箱根を走ることを楽しみにしてるって、もしかしておじいちゃん駅伝の選手だったのかもね?」と笑い、それから司を見て「ま、あんたが呆れるのも無理はないわね。でもあんたもすぐにあのおじいちゃんの行動が理解出来るから」と言った。
そして「あ、あの子。次に走る男の子。駿の友達よ!渉くん、ガンバレ―!」と声をかけた。

司は息子の交友関係を知らない。
それに息子が初等部に進学してから運動会に来たことがない。
それは日本とアメリカを行き来する仕事の関係で帰国することが出来なかったから。
だが息子が3年生に進級した今年。なんとか帰国することができた司は徒競走に出場する息子の走る姿を初めて見るチャンスを得た。

学年別の徒競走は低学年から順番に行われている。
『司』を連呼していた夫婦の息子は1年生。
小旗を手に叫んでいた高齢の男性の孫は2年生。
だから次は3年生で息子の番だ。

そして妻は「低学年の1年生と2年生は距離が短いから、かけっこレベルだけど、中学年の3年生と4年生は少し距離が長い80メートルなの。それから学年が上がってくると低学年の頃と違ってみんな勝ち負けにこだわるようになるの。だからみんな本気。真剣勝負よ」と言った。
するとこれまでとは違う音楽が流れ始めたが、その曲に「懐かしいわねえ。この曲を聴くと走り出したくなるわ」と言い、「あのね、この曲はカバレフスキーの『道化師のギャロップ』って言うの。運動会の徒競走で流れる曲の定番のひとつよ」と言ったが、司の記憶の中にそのメロディーはなかった。
だがそれもそのはずだ。司が運動会と呼ばれる行事に参加したのは初等部の2年生まで。
3年生になると、走ることに何の意味があるのか。玉入れや綱引きのどこが楽しいのか。
そんな思いを持つようになり運動会に出るのを止めた。そして丁度その頃の司は、自分は何のために息をしているのかを考えるようになっていた。

「もうそろそろだわ!3年生が始まるわ!」

嬉しそうな妻の声が耳に届いた。
まず走ったのは女子の組。
女の子たちが走る姿に妻は、「あたしも走るのが好きでね。運動会ではいつも一番だったわ」と言った。
そんな妻に司は「つまりお前の逃げ足の速さは運動会で鍛えられたってわけか」と言った。
すると妻は「あはは。そうねえ。そうかもしれない。だって一番になると景品がもらえたから。あ、でも景品って言ってもノートや鉛筆の類なんだけど、あたしにとってノートも鉛筆も大切なものだったから頑張った」と言って自分の言葉に、「うん。そうよ、そう。あたしの足が早くなったのは景品のおかげかもしれないわね」と笑って頷いていた。
そして妻は少し間を置いてから、「人間って何かのために必死になる力があると思うの」と静かに言った。「その何かは人によって違うけど、今日の駿は司のために頑張るそうよ。駿は父さんがやっと運動会に来てくれる。僕の走るところを見てくれる。だから絶対に一番になるって言ってたわ」

その言葉を訊いたとき、司はハッとした。
司は子供の頃から身体を動かすことが好きでスポーツが好きだった。
それに運動神経は抜群にいいと言われていた。
そんな司が運動会に興味を失った本当の理由は、他の生徒の親は我が子の溌剌とした姿を見るためグラウンドに足を運んでいるが、司の家族の姿は観客席になかったからだ。
他の生徒は家族から声援を受け、たとえ転んでビリになっても、家族はよくやったと我が子を褒める。だが自分にはそんな家族はいない。自分を見てくれる人がいないのに頑張ってどうするのだ。転ぶことなく一番にゴールしても、一体誰が自分の頑張った姿を褒めてくれるというのだ。だから司は一番にゴールしても負けたように感じた。
そしてその時に感じた思いから、運動会は自分には関係の無いつまらない物なのだと思うようになったのだ。

司の両親は子供をべたべたと可愛がるタイプの親ではなかった。
だから両親は学校行事に参加したことがない。それは運動会然り、参観日然り、彼らは司に興味がないとでもいうように学園に多大な寄付をするだけで足を運んだことがない。そんな両親だから、司に何かあっても対応は使用人任せだった。
そして、4年生になった司は同級生を殴って大怪我をさせた。それでも両親が司の前に姿を見せることはなく、怪我をさせた同級生の親に多額の見舞金という名の示談金を支払い終わりにした。





「ねえ、そろそろ駿の順番よ!」

女子の組が終り次は男子の組だとアナウンスがあった。
そして最初の組の6人が走り終えると、次の組の6人の中に司の息子の駿がいた。
スタートラインの我が子はクラウチングスタートの体勢でピストルが鳴らされるのを待っていたが、その姿は妻が言った通り真剣で他の5人も同じだ。

スターターの手がピストルを高々と掲げ「位置について」の声がかかった。
そして「用意」の後すぐにパン!と音が鳴った。
6人の男の子は誰一人遅れることなく同時に駆け出していた。
『学年が上がってくると低学年の頃と違ってみんな勝ち負けにこだわるようになる』と妻は言ったが、全ての力を出して走っている子供たちの中で誰が一番になるか。競争は僅差の勝負となっていた。
司は初めて見る我が子が全力を出して走る姿に「駿!頑張れ!」と大きな声を上げた。
両手をメガホンのようにして「駿!行け!頑張れ駿!お前なら行ける!駿!最後まで気を抜くな!父さんはここにいるぞ!」と叫んだ。
そして先頭でゴールした我が子の姿に「よし!」と両手を突き上げたが、走り終えた駿は苦しそうに息をしながら声が聞えた方に視線を向け司の姿を探していた。
だから司は「駿!父さんはここにいるぞ!父さんは見たぞ!お前が一番でゴールしたのを見た!父さんはお前を誇りに思うぞ!」と叫んでいた。




***




帰りの車の中で司は我が子の走る姿を思い出していた。
そして妻に言った。

「それにしても駿の足は速い。まるでお前が俺の前から逃げた時と同じくらい速い」

「ふふふ……そうよ。駿の足の速さはあたし譲りって言われてるわ」

「そうか?」

「そうよ」

「それなら駿の顏の良さは間違いなく俺譲りだ」

妻はそれを否定しなかった。その代わり「じゃあ頭の良さはあたし譲りね」と言った。
そして「それにしても、司を連発していた夫婦やハチマキ姿で小旗を手にしたおじいちゃんに呆れてたあんたが、あんなに一生懸命応援するとは思わなかったわ。それに、あそこまで熱くなるとは思わなかった」と言った。

熱くなる___
その言葉には意味があった。
司は息子が走り終わった後も同じ3年生の次の組の男の子の徒競走を見ていた。
すると、スタートしたばかりの状況でひとりの男の子が転んだ。
観客席からは「あ!」と声が上がった。
男の子は転んだまま立ち上ることが出来なかった。
もしかしたら怪我をしたのか。だから先生が慌てて駆け寄って手をかそうとしていた。
そんな男の子に大きな声が飛んだ。

「大丈夫だ!走れる!だから立て!立って走れ!」

それは司から発せられた声。

「みんながお前を応援しているぞ!だから頑張れ!」

すると他からも「ガンバレ!ガンバレ!」と声が飛んだ。
そして男の子を応援する沢山の声が飛び交うなか、男の子は立ち上がり、ゆっくりとだが走りだした。
だから司は「よし!いいぞ!頑張れ!ゆっくりでもいいんだ。諦めるな!最後まで走れ!」と声をかけ続けたが、今の司には分かる。応援されることがどんなに力になるかを。
そして自分がそうだったように、我が子にも複雑で厄介な年頃が来ることを。
だから子供には沢山言葉をかけてやることが大切なのだ。
それは親でなくてもいい。周りにいる大人が何かに気付いたとき言葉をかけるべきなのだ。
その言葉は特別な言葉でなくていい。どうかしたか?何かあったのか?と軽く話しかける。
そんな言葉でいいのだ。そして言葉をかけられた子は、自分のことを気にかけている大人がいることで、自分はひとりじゃないことに安心する。そして言葉をかけられ、励まされ応援された子は、他の誰かに言葉をかけ、励まし応援することができるようになる。
つまり子供の成長には沢山の愛と沢山の言葉が必要なのだ。
だから司は転んだ男の子の親が来ているのか。来ていないのか。分からなかったが男の子に言葉をかけ続けた。
しかし、声援の中に男の子の名前を聞くことは無かった。



「よーし!今夜の夕食は駿の好きなハンバーグにするわ。一番にゴールしたからスペシャルハンバーグよ!」

妻はそう言って司に文句ないわよね?と言った。
だから司は「俺がお前の料理に文句を言ったことがあるか?」と答えた。
すると妻は「ないわ」と言った。そして「今日は楽しかったね」と言い司の手を握って「忙しいのにありがとうね」と言った。





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2022
09.26

幸せのレシピ

Category: 幸せのレシピ
「遅くなってごめん!」

玄関の扉を開けた恋人は部屋の中に駆け込んでくると鞄の中からエプロンを取り出した。
そして、「それにしても鬼のかく乱ってこういう事を言うのかもね?」と言って笑った。

司は恋人の言葉に反論を返すことなく唸った。
海外出張から戻った司は風邪をひいた。
高熱というほどではないにしても熱がある。
そして声が出ない。
だから言葉で意思を示すことができず唸ったのだ。

この状況を鬼のかく乱と言うのならそうかもしれない。
何しろこれまで生きてきた中で風をひいて寝込んだのは子供の頃一度だけ。
そして声が出なくなるという状況は初めてだ。
いや。厳密に言うとかすれ声ならなんとか出る。それはささやくような声であり、口元に耳を近づけなければ聞こえなかった。

そして医者は「無理に声を出すことは喉を傷めることになります。それは褒められたことではありません」と言った。そして秘書の西田も、「副社長。熱もあることですし無理をせずお休み下さい。それに長らく休みらしい休みを取っていません。この際ですからゆっくりお身体をお休めになって下さい」と言った。

その言葉に甘えるではないが司は仕事を休んだ。
それは本当に身体が辛かったから。
そんな司を心配して恋人は仕事が終わると駆け付けてきた。
そして恋人は司のために料理を作ると言った。

「世間では風邪をひいて寝込んだらこれを食べるって決まってるの」

それは消化がよく胃に優しいらしい。
だが料理をしているような匂いは感じられなかった。
しかしそれは司が風邪をひいているせいかもしれない。

「おまたせ。出来たわよ!」

ベッドの上で身体を起こした司は、サイドテーブルに運ばれてきた一見リゾットのような食べ物に怪訝な顔をした。
一体これは何なのか。
すると恋人は言った。

「これはお粥よ。食べたことない?」

今の司が出来る意思表示は唸ることだが、首をふることも出来る。
だから無いと首を縦にふった。

「おかしいわね。刺されて入院してたとき出たはずなんだけど。
あ、でもアンタのことだから、こんなもの食えるかって言って食べなかったのかもね」

刺されて入院していたのは高校生の頃。
不覚にもそのとき恋人のことを忘れ、彼女が作ってくれた弁当を他の女が作ったものだと勘違いした。そして恋人の言うとおり、病院食など不味くて食えるかと言って食べることなく屋敷から料理を運ばせていた。

「お粥って言うのはね、水分を多めに入れて炊いたごはん。和風のリゾットだと思っていいわよ。でもリゾットみたいにお米は堅くないわ。何しろ病人が食べるものだから消化しやすいように柔らかく炊いてあるの。そこに卵とカニカマを入れたの。それから、あたしはお粥って言ってるけど粥で通じるからね?」

粥については分かった。
それに黄色いモノが卵であることも分かった。
だがカニカマが何であるか分からなかったが、どうやら米の間に垣間見える赤い物体がソレのようだ。だがソレの正体は何なのか?
そんな司の思いは恋人に伝わったようだ。

「もしかしてカニカマ知らないの?」

司は再び頷いた。

「カニカマはカニの身に似せて作ったカニ風味の蒲鉾の略なの。それからここが重要なんだけど、カニカマは悪までもカニ風味であって本当のカニは使われてないの。じゃあ何が使われているかと言うとスケトウダラの身が使われてるの。それからカニカマってね。海外じゃスリミって呼ばれていてフランスじゃあ国民食なのよ?」

と恋人は言ったが司は庶民の食べ物には疎い。
だから当然だがフランスの庶民の食べ物にも疎い。
そしてスケトウダラが何か分からなかったが、カニの代わりに使われているのなら魚ではないかと推測した。
それにしても、カニが食べたいのなら無理矢理カニに見立てた物を食べるのではなく、本物のカニを食べた方がよほど美味いはずだ。

「あ。アンタ今こう思ったでしょ?偽物のカニを食べるより本物を食えって。あのねえ。庶民は簡単にはカニに手が出せないの。カニは高価な食べ物で庶民は年に一度食べることができれば御の字。それほど庶民にとってカニは贅沢な食べ物なの。だから、そんなあたしたちのために開発されたのがカニカマ。だけど最近のカニカマには本物のカニに限りなく近いものもあるの。あたし、それを食べたとき、この値段でカニが味わえることに感動したわ!だって本当にほぼカニなのよ?」

と恋人はカニカマについて一通り話すと「ほら。食べて」と言って司を見つめた。

司が恋人に出逢うまで夕食と言えばキャンドルを灯したもの。
テーブルに並ぶのは専属のシェフが腕によりをかけて作った贅沢で豪華な料理。
そんな司が初めて食べた恋人の手料理は弁当。小さな箱の中に入っていた弁当の定番と言われる卵焼きは、これまで味わったことがない柔らかな甘さが感じられた。
そして次に食べたのは鍋。スーパーに足を踏み入れたことが無かった男の長ネギが突き出た籠を手にした姿を見た者はいなかったが、見られても構わなかった。
そして心がこぼれ出ることがなかった男の口から溢れ出た思いは愛。
司はまさか自分が愛という言葉を口にするとは思いもしなかった。
だが恋人と出会って、それまでの人生で見てきた全てのものが塗り替わった。
生きることが違って見えた。
豪華な食事も贅沢も相手がいなければつまらないことを知った。
そして好きな人が一緒にいることが、自分の全てを満たすことを知った。

司はスプーンを手に取った。
恋人同士になったふたりの間にキャンドルは必要ない。
だが司は一旦手にしたスプーンを元の位置に戻した。

「どうしたの?食欲がなくても少しでもいいから口に入れた方がいいわよ?それとも熱が上がった?」

恋人は心配そうに言った。
声が出ない司は首を横にふって頬をふくらませた。
それは司の意思表示。

司は己の口を指さした。

「もしかして食べさせてくれってこと?」

司はこれまで恋人に食べさせてもらったことがない。
だからこのチャンス___熱があり声が出ない。病気であるという特権を生かすことにしたのだが、それはこれまでにない贅沢。
すると恋人は笑って、「仕方ないわね」とスプーンを手に取った。
そして粥が入った器を手に持つと、ひとさじ掬った。

「ほら、あ~んして」

と、言って司の口元に差し出されたスプーン。
口を開けると冷たい金属が唇に触れた。
そして暖かくトロリとした食感が口の中に滑り込んだ。

「どう?初めてのお粥は?」

初めて食べた粥。
最初は微妙な味だと思ったがすぐに慣れた。
そして不思議なことだが旨味が感じられ嚥下するたび次が欲しくなった。
米ひと粒ずつを時間をかけて味わいたいと思った。
それに腹の中に溜まるそれは暖かく、感じられるのは幸せだ。

司は粥を味わいながら、風邪が治ったら思う存分恋人を味わいたいと思った。
恋人の胸に顔を埋め、いくつもの幸せを味わいたい。愛を味わいたいと思った。
だが全てを分かち合おうと誓ったふたりがここに来るまでには心が傷むことがあった。哀しみがあった。寂しさがあった。
だが恋人の瞳はいつも司を見てくれた。
その腕はいつも優しく司を抱きしめてくれた。

「____。____」

「え?なに?」

司はようやく声を出した。だが恋人には聞こえなかったようだ。
だから恋人は司の言葉を訊きとろうと司の唇に耳を寄せた。

司はもう一度言った。

「ありがとな。つくし」

その言葉に恋人は、うん。とだけ言った。
だから司も頷いた。
今のふたりには、それだけで通じるものがあった。
だから司と恋人は見つめ合うと笑った。




< 完 > *幸せのレシピ*
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