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2016
05.31

Trick Of The Night 前編


何年たっても変わらない思いがあった。
あいつの傍にいるためには自分の想いは心の奥深くに閉じ込めておかなければならないとわかっていた。
世間がなんと言おうと、たとえそれが永遠に続く嘘だとしても・・・
少しでもあいつの傍にいたいと思う気持ちがあったから、こんな自分でも許すことが出来たんだと思っていた。
嘘でもかまわなかった・・
つくしが司に求めるものは、ただひとつだけなのだから。







大勢の人で溢れる部屋だがある場所だけはその男を見ようと人が集まっていた。
その輪の中心には賞賛と注目を浴びることに慣れた男がいた。その男が注目を浴びるのは当然だった。道明寺司と言えばここにいる誰もが知っていて当然の男だったから。

新聞や雑誌で見かける男はいつも女を連れていた。美しく華やかさを纏った女性たち。その女が自分だったらいいのにと思った。だがつくしは司のことは深く考えないようにしていた。記憶のない男が自分を見たところで何を思い出すというのだろう。
だからこれから自分が行動に起こすことに対してなんの迷いもなかった。
つくしは司と再会することを夢みてきたのだから。

10年たっても変わらない自分は、10年の歳月を経ても自分の手が届かない男をいつまでも思っていた。
だが10年前に自分と一緒に笑いあっていた男のほうはすっかり変わってしまっていた。
噂には聞いていたが、いざこうして本人を見れば上品な顔立ちの中に人を寄せ付けない鋭い目つきがあった。あの目が優しく自分を見てくれた日々はもう戻らない。わかってはいてもそれでもどこかに儚い希望を抱いているあたしがいた。



司は仕方なしに参加したいつものパーティーだった。
どうでもいいパーティーでどうでもいい客たち。招かれただけで名誉だとばかり自分の傍に寄って来る女たち。
ニューヨークに来て10年が過ぎ、そろそろ結婚を考えないわけにはいかなくなっていた。
自分の人生は所詮ひかれたレールの上を走るだけなのかもしれない。結婚相手にしてもそうだった。司の結婚する目的は本来の結婚ではなかった。紙切れだけの契約でそれにはビジネスが付き纏う。結婚する相手がどんな相手だろうと感情が伴うはずもなく、誰であろうと一向に構わなかった。いつかはしなければいけないのなら、今すぐでも良かった。
自分に必要とされているのは、自分のあとを継ぐべき人間だとわかっていたから。

今まで恋の駆け引きは関係が無かった彼の人生。
駆け引きなどしなくても、金の匂いに引き寄せられるように自分に群がる女たち。運がよければ永遠に司の傍にいることが出来るかもしれないと考える浅はかな女たち。司にとっては一夜だけのことだというのに、何が欲しくてそんなに自分を求めるのか。そんなことはとっくにわかり切ったことだった。

金、権力、そして見てくれのいい自分の外見・・・女たちが自分に求めるのは所詮そんなものだった。そんな女などはじめから愛せるはずもなく、男としての欲を吐き出すだけの日々だった。司は自分には人を愛するという感情が欠如しているのではないか。女と愛し合っても関係を継続させることは永遠にできないのではないかと感じていた。

愛するという感情が欠如した両親に育てられた自分には人を愛することなど出来ないのだ。
それは28年間生きて来てずっとそうだったはずだ。

愛などなくてもこうして生きていられるではないか。
どうせこれから先の人生も愛されることもなく、愛することもない人生なのだから・・




ただ生きていくだけの人生は・・自分にとってはどうでもよかった。




***




つくしはこれから自分がとる行動に気おくれすることがないようにと、手にしていたグラスの中身をあおった。自分を奮い立たせるために飲むには一杯だけでは足りなかったが、これ以上は飲めなかった。これ以上飲めばあいつの元へたどり着く前に倒れてしまいそうだった。
所詮自分の気合いの入れ方なんてこんなものだ。

だが、今の自分にはこれが精一杯だった。つくしは部屋の片隅で司の姿を見つけることが出来た。離れた場所から見つけた男は、タキシードに身を包み金と権力全てを手にした人間ならではのオーラを放っていた。昔からこの男には他人にはない人を惹きつけるものがあったのは確かだ。それはカリスマ性と言ってもいいのかもしれない。

そんな男は生まれ落ちた瞬間から人生が決められていた。
だからあたしと彼の人生が交わったことが今思えば不思議だった。メビウスの輪というものがあるが、その輪は表と裏が連続していて終わりが見えない状況を表す。あの頃のあたしと道明寺の関係はまさに色々なことが絡み合い出口のない状況だった。だけど道明寺が記憶を失ってしまってからはそんな関係の輪も切れてしまい、表は表、裏は裏という常識のある世界へと2人は戻って行ったのかもしれない。

道明寺は道明寺の世界へ・・

そしてあたしは本来のあたしがいるべき世界へ・・



***



司は自分の前に現れた女に目を奪われた。長い黒髪の東洋系の女がそこにいた。
相手の顔に見覚えがなかったが自分を見つめていることだけはわかっていた。
彼は周りにいる人間にあの女は誰だと聞くまえにその女は目の前にいた。

「元気?」と声をかけてきた女。

ここは選ばれた人間しか入ることが出来ないパーティー会場。
身元は確かな人間ばかりのはずだ。司は社交辞令として挨拶を返した。

「元気だ」

それはよかったですねと返された。自分に対し気軽に声をかけてきた女。
互いに交わされた視線はあからさまで、欲望を隠そうとはしなかった。
パーティーに出れば何人かの女が物欲しげな態度で近寄ってくることには慣れていた。
この女もそんな女のひとりなのか?それならそれでもいい。どうせ一夜限りか、気に入ればもう少し傍に置いてやってもいい。どちらにしてもこれから始まる2人の関係は恋人同士と言うにはほど遠い関係になるはずだ。
だが、始まる前にどうしても確かめておかなければならないことがあった。

「俺は女とつき合っても結婚するつもりはない」

「そんなことあたしも望んでないから心配しないで」

女の黒い大きな瞳が伝えてきたのはあたしも同じだから心配しないでだった。
司は今まで自分の周りにいた女とはどこか違うと思った。

「あなたはあたしの好みのタイプとは違うから」

そんなことを平気で口にする女は生意気だと思った。


司の目の前に現れた女は黒い瞳が輝く日本人の小柄な女。
女は黒いドレスに身を包んでいるが、自分を引き立てるための宝石類は一切なかった。
東洋人独特の白い肌にはしみひとつなく、真珠の輝きような控えめな美しさがあった。
自分を飾り立てる必要はないと言うことか?よほど自分自身に自信がある女なのか?
この会場にいる女たちの胸元を飾るのはひと財産あるような宝石ばかりだ。そんな宝石は自らが買ったものではなく、男たちに贈られたものが殆どだ。

この女が自分の胸元を飾るような宝石を持っていないと言うことは誰にも依存することなく自分の脚で立つ女ってことか?この女は自分がまだ誰のものでもないといいたいのか?
誰のものでもない自分を欲しくないかと言うことか?俺のことを好みじゃないと言い切った生意気な女だ。司は挑戦し甲斐のある女だと思った。それならこの生意気な女の挑戦に乗ってやるのも悪くない。ビジネスにしても人間関係にしても挑戦され受けて立たなかったことは無かった。






永続的な関係は求めない。

その言葉が2人の関係のスタートだった。


2人の関係は決して相手を束縛するものではなかった。
永続的な関係は求めない。
それは2人とも最初から示していた態度だ。
ニューヨークでつくしが決めたのは司と体の関係を持つことだった。
情熱だけを分かち合うだけの関係。決して愛を求めていたわけじゃなかった。
2人が出会ったパーティーの夜、隣に立つ男が腰に手をまわしてきたときその手に体をゆだねた。頭の中で自分を戒める声には蓋をした。たとえ将来がなくてもいいからあたしはこの場所に来た。

道明寺があたしのことを忘れこの街へと暮らすようになった後、ひたすら勉強をして彼のことを忘れた。経済誌で見かける男は自分の置かれた立場で才能を開花させていた。
努力を必要とする人間とそうではない人間がいるが、道明寺司という人物には努力という言葉は必要がないように思えた。努力とは目標に向かって邁進することだがこの男に目標というものがあるのだろうか?与えられる全てが彼の人生にいいように働くなんてことはないと思うが、例えいいように働かないとしても今では剃刀のように鋭く切れる頭脳が男の望みを叶えてくれていた。

道明寺があのときあたしに注いでくれた愛がもう二度と戻らないと言うのなら、あたしがあんたに愛を注いであげる。たとえそれが一方通行の愛だとしても。







女と関係を持っても長く続いたことはなかった。
人前でも愛情表現はせず、親しさも見せない。
これまでもどんな女とも長続きはしなかったがパーティーで知り合った女だけは別だった。
どうしてもこの女が欲しかった。自分に対して生意気な態度で接してきたのが珍しかったのだろうか?だがそれだけではない何かがあった。
なぜここまでこの女が気になったのかはわからなかった。年は自分よりもひとつ下。
背が高くスタイルがいいと言うわけでもない。どちらかと言えば小柄でほっそりとした体形でお世辞にも魅力的な体だとは言えなかった。だが肌が合うというのはこう言うことなのだろうか。印象的なのは大きな瞳で、その瞳を見れば女の感情が分かるような気がした。

生意気な女は俺に対して対等なつき合いを求めた。
自分とつき合いたいなら他の女とはつき合わないでと。
生意気な女が求めるたことはたったそれだけだった。
そんな女との関係が今さらながら退屈していた俺の人生に刺激を与えたことも確かだった。

言いなりにならない代わりに媚びもしなかった。自分の言いなりにならない女。そんな女を征服したいと思うのは男の本能だろうか。そんな思いも遠い昔の記憶のどこかにあったような気もする。それは頭の奥にある深い記憶のどこかにある思いだった。
今まで自分の周りにはいなかったタイプの女だと思ったから物珍しいという思いもあったのかもしれなかった。
そんな2人の関係はつくしが司のマンションを訪れるという形で始まった。








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2016
06.01

Trick Of The Night 中編

あの出会いから道明寺司の恋人と呼べる関係になって1年がたつ。
恋人同士なら連れだってどこかへ行くこともあるだろうが、2人の間にそんなことはあり得なかった。世間には恋人ではなく体の関係だけだと思われていた。
つくしは司の大勢いる女友達のひとりだと思われているのも知っていた。
ただ、道明寺には他に女はいないはずだ。あたしとつき合うなら他の女とはつき合わないでと条件を出していたから。その条件を呑んだ道明寺にはあたししかいないはずだ。

自分が道明寺にとっての都合のいい女扱いをされていることはわかっていた。
2人が会うのはいつも道明寺のマンションで他にどこかへ出かけるということはしなかった。恐らくそれを道明寺に求めたところであの男にそんな気がないことくらいわかっていた。

つくしにはつくしの生活があった。なにも道明寺だけのために日々を過ごしていたわけじゃない。日本を離れるにあたってニューヨークでの仕事先は確保して来ていた。友人の一人が紹介してくれた仕事はニューヨークにある日系の旅行代理店での仕事だった。この仕事なら日本語も話せるし日本人とも会えるから寂しくはないでしょ?と言われ紹介された仕事だった。

道明寺との関係はこの街で出会ったときと変わることがなく会えば抱き合うだけの関係だった。
そんなニューヨークでの1年はあっという間に過ぎていった。

その1年が過ぎた頃から囁かれ始めたのは道明寺の女はいつ捨てられるのか?だった。


道明寺の女・・


それはあたしだ。

たとえ世間がなんと言おうと関係がなかった。好きな男性の傍にいられるならそれでよかったから。はじめから永続的な関係は求めないと決めているのだからいつ終わりが来てもおかしくはないとわかっていた。
恋におちた女は愚かだと言われるが誰に笑われようとつくしにはどうでもよかった。
それに誰に何を言われようとつくしは立ち直りの早さが自慢だった。

立ち直りの早さは・・彼女が敢えてそうしていたからだ。


だがそれは偽りの人格・・


仮面を被っていたと言ったほうがいいのかもしれない。
人は幾重にも仮面を被って生活をしている。
その仮面は社会に出たときから増えるものだ。学生時代は己を覆い隠すということを知らない子供たちも社会に出れば本音と建て前を上手く使い分けるようになってくるものだ。
知らないうちに重ねられている仮面。

つくしの作り上げた偽り人格にひびが入ったのはまことしやかに囁かれる噂話からだった。

『 道明寺ホールディングス 道明寺司氏 近く結婚と友人がもらす 』

その言葉が裏付けられたのは本人の口から語られた言葉だった。

「俺は結婚する」

「・・結婚?」

そんな言葉が交わされたのは2人がまだ司のベッドの中にいるときだった。

「最初から言ったよな?俺は女とつき合っても結婚するつもりはないってな」

はっきりと言われた言葉に嘘はないだろう。
自分達の関係は特別なものではない。体の関係を持つようになってから言われていた。決して恋愛関係になることも結婚することもないと。そんな関係でもいいと望んだのは他ならぬつくし自身だった。それでもつくしの中にはどこかに希望があったのかもしれない。

「聞いてもいい?」
「でも、結婚するって誰と・・」

女とは結婚しないと言うがつくしは聞かずにはいられなかった。
道明寺が結婚する相手が誰なのかを。

「おまえには関係がないはずだ。俺とおまえは寝るだけの関係だ」
司の口元が歪んだ。

「俺たちはこうなる前に言ったよな?永続的な関係は求めないってな」
「まあ、気になるよな?俺とは1年も続いたわけだし。教えてやるよ」

つくしは聞きたくはなかったがそれでも聞かなければいられなかった。

「昔っからの知り合いの家の娘」
「ビジネスの上での取り決めだ」

そんな話しは昔、聞いたことがあった。
今はつくしの親友の一人が司と婚約をしたことがあったが、そんな状況と似ていた。

「時期が来たから結婚する」
「決まってたことだ」
「だからおまえとはもう終わりだ」

男はこの話しはこれで終わりだ。
これ以上はしたくない。

そう言っているようだった。




***




つくしはバスルームのトイレの前で体を折り曲げていた。


言えない。


もう2度と会えない。



白いスティックに示された青い線はつくしが司の子供を身ごもっていることを示していた。

まさか別れを告げられた日に妊娠していることが分かるなんて・・



まるで逃げるように道明寺のマンションから帰ってきた。つくしはトイレの蓋を閉めると
頬を寄せて横を向いた。生理が遅れてはいたがもともと不順だったし、体がだるくても風邪ぎみか疲れているのだと思っていた。
それに道明寺は避妊に関しては十分過ぎるほど注意していた。

俺は子供なんか欲しくない。

そんな言葉を一度だけ耳にしたことがあった。あれはいつだっただろうか?
だが、これから結婚をする相手とは子供を作らなければならない。
それは財閥の跡取りとしての大きな役割だった。


つくしは別れを告げられたとき、こぼれ落ちそうになる涙は決して男に見せまいと決めていた。
いつかはこんな日が来る。それは覚悟をしていたことだった。
だから渡されていた鍵だけをテーブルに置き、出て来た。
これから日本に帰って新しい人生を踏み出そう。

そうだ、もうあたしはひとりじゃないんだ。

道明寺の人生の一部にはなれなかったけど、道明寺の一部をもらったのだから。
でも言うチャンスさえなかった。あんたの子供がお腹にいると。
いや、言うべきことじゃない。この子の存在は道明寺にとって迷惑なだけだろう。

これからは自分が思い描くような人生を歩めばいい。
つくしは司に伝えられなかった思いを自分の胸だけにしまいこんだ。
その思いは自分に力を与えてくれるような気がした。
あたしは道明寺を失ってしまったが、手に入れたものもある。
だからこれからはひとりで生きていくことが出来るはずだ。
思わぬ贈り物をもらったと思えばいい。

そうよ、これは神様があたしに与えてくれた贈り物だ。


・・だから


・・何も悲しむことなんてないんだ。




***





あの女がマンションを出て行ったのは知っていた。
別れを告げたあと、敢えて顔を合わさないようにとシャワーを浴びにベッドを離れた間に出て行く気配を感じた。ベッドの側にあるテーブルの上には渡していた鍵が残されていた。
1年か・・。よくこんなに長い間ひとりの女だけとつき合うなんてことが出来たものだ。
これから先の自分の人生は2度と思い通りにはいかない人生だろう。
ビジネス上の結婚とはいえ守るべきルールはあるはずだ。
世間では冷たい男だと言われていてもあの女と約束したことは守った。
自分でも不思議な思いだ。何故かあの女と寝ている間は他の女とはつき合わないという約束だけは破ることがなかった。他の女が必要なかったということか?
あの女のどこが良かったのか・・司にもわからなかった。





2ヶ月という歳月はあっと言う間に過ぎて行くものだ。
司はあの女と別れてからも彼女を忘れられないことに気づいていた。
何故こんなにも忘れられないのか。体の相性がよかったからか?
それとも俺の元からあっさりと離れて行ったからか?司は女のその後は調べなかった。
調べたところでどうなると言うものではない。

司の乗った車はマンハッタン中心部からウォール街へと向けて走っていた。
そろそろ日没の時間帯で太陽が沈みかけているのが分かる。
司はふと思いついたように運転手に声をかけた。

「バッテリーパークまで行ってくれ」

バッテリーパーク・・・・

ウォール街よりも少し南へ下った場所、マンハッタン島の最南端にある公園で川の向うに自由の女神を眺められる場所として有名だ。この公園からは女神像のあるリバティ島に渡るフェリーも出ていて観光客にも人気の場所だ。ここから見る夕暮れの風景は美しい。
司は車を降りると公園の最南端まで歩いた。
ちょうど陽が沈む時間帯で川岸にはリバティ島からの最終便と思われる観光船が戻ってきたところだった。

今の俺にとって牧野という女は自分に憑りついて離れない何かの幻のように感じられた。
幻・・・幻影・・だがなぜあの女のことが頭から離れないのだろう。

クソッ!
なんであの女のことが頭から離れないんだ!

正直不思議な気持ちだった。
別れを告げたとき、何も言わずに黙って静かに受け入れた女。
それは司が望んだとおりの別れだった。
はじめから永続的な関係は求めないという約束で関係した女だ。泣き叫ばれて別れを拒まれても迷惑だとわかってはいたが、それでもどこかで俺と離れることが嫌だと別れを拒んで欲しかったという気持ちもあった。

今まで俺と1年も続いた女はいなかった。
なにがそんなに良かったのか。1年間は完全に俺のものだった女。
そんな女との別れに金でも渡すかと考えた。1年間の礼としてそれ相応の金を渡す。
いくら対等の関係でと言っても金をもらって喜ばない女はいないはずだ。

だがだまって鍵だけを置いて出て行った。

司はそのあとにある提案をするつもりだった。俺が結婚した後もこの関係を続けないかと。
そうだあの女は俺のものだ。これからも俺だけのものでいればいい・・
金に困ることはない、住まいも用意しよう。だがその考えは女がこの街から消えたことで終わった。女を自分のものだと考える・・そこまで考えるとはいつもの自分らしくない。

ただ手の中にある携帯電話にはまだ女の電話番号が残されていた。

繋がらない電話番号・・・


観光船が岸壁へと接岸すると大勢の観光客が船から降りて来ていた。
大勢の人波と船。どこかで見たことがある光景。
司はその様子をぼんやりと眺めていたが、物思いに沈んだように目を閉じた。
太陽は今まさに沈もうとしていた。

日没・・

今まで暖かく感じられていた空気が急にひんやりとしてきた。
司の背後にそびえる高層ビルにはやがて明かりが灯り始めるだろう。
彼が先程まで目に映している風景もやがて暗闇へと色を変えていく。

俺は暗闇の中を彷徨っていたことがある・・
それは自分の命が失われようとしていたときだ。

痛みに襲われたのは突然だった。
ガクッと体の力が抜け思わず膝を折った。
体に震えがきて、肌に冷たい汗が浮かんで流れた。

頭の中が破裂したかのような痛みが司の感覚を失わせたのか
手の中にあった携帯電話がカツンと音を立てて舗道に落ちた。

突然襲われた頭の痛みに自分の命が尽きるかと感じた。
言葉を失うとはこのことか?
ぱっと見開かれた目に映るのはただひとつの光景だった。

失われていた時が突然戻ってきた。
それは司が港で船から降りて暴漢に刺されてから失ってしまったひとつの記憶。

司は低い声をもらした。
頭の中に甦った記憶。
それは・・船を降りた俺とあの女・・

牧野だ・・

牧野つくし・・


司は正確に思い出すことが出来た。
あの瞬間、掴めなかった想いを。

胸が締めつけられる。
だが俺には今まで締めつける心がなかった。
人を愛するという心がなかった・・
牧野が俺と1年過ごしてきた意味はなんだったんだ?
今俺の胸を締めつけているのはあいつの愛なのか?



彼は舗道に落ちた携帯電話を取り上げると秘書に手配を頼んだ。

婚約者だと言う女への花、それは別れの花。
そして心に甦った女への花、それは挨拶代わりの花。

牧野に贈る花は、バラの花以外にないと思った。それは初めてあいつに贈った花だったから。
だが、その花の贈り先がわからないことに気がついた。
牧野がこの街を去ったあと、俺はあいつの行方を探そうとはしていなかった。
あの時はただ1年間寝た女と別れたとしか思っていなかったのだから・・

司は携帯電話を切ると向きを変え、灯りが点り始めた街並を見た。
なぜ1年も傍にいて気がつかなかったのか?
この街で1年一緒に過ごした・・・たとえ夜だけの関係だとしても・・
それなのに気づかなかったそんな自分に腹が立った。

俺は・・

牧野がどんな思いで俺とこの1年を過ごしたのか考えてやることもせず、ただの女として切り捨てた。
そっけない別れだった。

牧野は俺が初めてだった・・

まさか、俺のために今まで・・

司が今腹を立てるのは自分自身に対してだった。



牧野に会いに行く。
すぐにでもそうしなければならない。

あいつは俺の運命だ。
運命には逆らえない。






司が決心したのは大きな事業案件が一段落したからだ。
ビジネス上での取り決めの結婚はもうどうでもいい。
長いフライトの間、自分の想いをどう伝えればいいのかばかりを考えていた。
話したいことは山ほどある。もちろん聞きたいことも・・
向こうに着くまでに質問を整理して、あいつに聞かなければならない。だがあいつは、牧野は俺を受け入れてくれるだろうか?
あいつをどうでもいい女のように切り捨てた俺を・・
いや。どんなことをしても俺を受け入れてもらわなければ・・そのためなら俺はどんなことでもするつもりだ。

牧野・・早くおまえに会いたい。


司の心はすでに東京の空の下へと戻っていた。

17歳の自分が目にした青空の下へと。






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2016
06.02

Trick Of The Night 後編

彼がこの街に来たのははじめてだ。

司は空港でタクシーに乗り込むと高速道路を利用して最寄りのインターチェンジで降りて欲しいと言い、ある街の名前伝えるとそこへ向かうように指示をした。
道は平坦で見える景色はどこの田舎街でもそうだろうが、大して代わり映えはしなかった。
ましてや田舎の高速道路などいくら走っても同じような景色しか見えなかった。

やがて車は司の指示したインターチェンジを降りると一般道を南へ向かって走っていた。
運転手は街中に入りましたがどちらまでと男に聞いたが「悪いが街を一周してくれないか?」とだけ返された。
街を一周するとはどういう意味だろうか?
いくらこの街が大きな街ではないと言ってもこの男の言っている意味がわからない。

「この街に来るのははじめてですか?」

運転手は何気なく聞いたが、男から返される言葉は無かった。
どうやらこの客は話しをする気がないらしい・・
だが、妙な客を乗せてしまったと思った。身なりは良さそうだがこのご時世だ。目的意識のない客など恐ろしいとしか思えなかった。だがタクシー強盗を働くような男には見えないし、バックミラー越しに窺える顔は何かを考えているように思えた。

この街は何の変哲もない地方都市だ。たいした観光名所もなく、観光客は宿泊をせずに次の街へと足を運ぶ。それでも途中何台かの大きな観光バスとすれ違った。運転手はこれくらいの規模の街にしては日常生活に困ることなく生活しやすい街だと思っていた。
気候は温暖で過ごしやすい。病院や福祉施設などの生活の基盤になる施設も整備されていて困ることはない。ただ、若者が好むような施設はないが、それでも学校はいくつかあり、夕方になれば駅前では多くの若者の姿を目にすることが出来る。

運転手のタクシーは普段は空港構内で客待ちをしているタクシーだ。だから東京からの客を乗せることが殆どだ。後ろに座る男も東京便から降りて来た客だ。何しろこの空港に到着する便は一日数便しかなく、時間が限られているからすぐわかった。

やがてタクシーは大きな橋を渡った。一級河川の河口付近に架かる大きな橋で左手には太平洋の大海原が見え、右手には市街地が広がっていた。はるか遠くには低いが山並みが見えた。





***





古い記憶が突然甦った。


それは神の恩恵なのか、それとも悪魔の気まぐれなのか・・


牧野とは1年と少し前ホテルのパーティーで出会った。
いま思えば、それまでの自分は本来の自分ではなかった。
牧野はそんな別の人生を歩んで来ていた自分に訪れた過去からの贈り物だったのかもしれない。
司はパーティーの日を思い出していた。
それはずっと好きだった女性に会えた日で、彼の人生が再び動き出した日だったはずだ。
だがそんなことにも気が付かなかった愚かな自分を殴りたい思いでいた。

あいつの住んでいる街を車で巡った。
小さな地方都市だが住みやすそうな街だと感じられた。


何もかもが面白くないと思っていたときに出会った女性。
17歳の自分がこんな危機的状況に陥るとは考えもしなかったあの頃に出会った女性。
高校時代追いかけ回して手に入れようとした女性。
それは切実な思い。そして実らなかった彼の初恋だった。

あの頃の生き方を思い返してみても仕方がなかった。
10年間の距離が再び近づいて来た今、手を伸ばせばそこに牧野がいる。
そうだ牧野はこの街にいる。これからは過去と向き合って生きるときだ。
心から愛していた女性と共に同じ人生を歩みたい。
あの頃決して手に入れることが出来なかった女性をこの手に欲しい。


日が沈むころ、彼は山の上にいた。
タクシーが司を運んで来たのはつくしが働いているレストランの前だった。

ニューヨークを離れ帰国した牧野は東京にはいなかった。
探し出した先は地方都市のレストランだった。
牧野はこのレストランで働いている。

この場所は静かだ。

聞こえるのは風が吹く音と、香るのは植えられているバラの花の匂いだ。
まさに今を盛りとばかりに咲き誇るバラの花。色は様々だが、匂いはどれも同じ甘く、深い香りだった。司はその香りを深く吸い込んだ。胸の奥深くに吸い込まれた香りはあの頃の切ない気持ちを思い起こさせた。ため息をつくことのない男だが、めずらしく大きく息を吐いた。

バラの花には思い出があった。遠い昔の思い出を思い起こさせるバラの花。
だが、司の頭の中にはこれからのことしか考えられなかった。

「雨か・・」

ぽつぽつと降り出した雨が司の肩を濡らしはじめた。
土砂降りの雨は遠い昔を思い出させるがこの雨は違う。あの日の雨は冷たい雨だった。
だがバラの花が咲くこの季節の雨はどこか生暖かさを感じさせる雨だった。
まるでこれから芽吹く花のための命の源となる水を与えているかのような雨だった。

そろそろ店に入るか・・

司はひっそりと佇む古びたレストランが彼の人生での悦びの舞台になるなんて考えもしなかったはずだ。

「いらっしゃいませ!」

明るく弾むような声が耳に届いた。
だが次に聞こえてきた声には戸惑いと驚きだけが感じられた。

「ど、どうみょうじ・・」




***




つくしは呆然とした。
かつて愛した男が目の前にいて自分をじっと見つめていた。
店の入り口の鐘がカランと鳴って人が入ってきた気配に気づいて振り向いた。
目に映ったのはニューヨークで別れた道明寺だった。彼がいつもつけているコロンの匂いがどんどん近づいてくるのが感じられた。
道明寺は口を開かない。その視線は赤ん坊が育っていることを示すお腹のふくらみに注がれていた。
息を呑むような緊張が感じられ、つくしは立っているのが辛く感じられてきた。

「牧野さんどうしたの?」

厨房から顔をのぞかせて声をかけてきたのはレストランのオーナーの男性だった。
客が入って来たのにオーダーを取ることもせず立ったままのつくしを心配したようだった。

「い、いえ、なんでもありません!」
「い、いらっしゃいませ。どうぞお好きなお席へおかけください」

まっすぐに見ていられなくて、視線を下げた。
店の中には他に客はいなかった。


どうしてこんなところにこの男がいるのか理由が知りたい。
10年前にずたずたに傷ついた心はニューヨークに置いてきたはずだ。それなのに道明寺に会うとまだ心が痛いだなんて、こんなことではこれからこの子と生きて行くことが思いやられる。

道明寺は婚約者とあの街にいるはずなのにどうしてこの街にいるのだろう。つくしは無意識のうちにお腹のふくらみに手をあてていた。あの街を去ってからつくしはこの男の動向には関心を持たなくなっていた。
今まではどこで何をしていても耳に入る男の情報だったが、意識して目に触れない、耳にしないことを心がけていた。だが情報操作でもしているのか最近はこの男についてのゴシップを耳にすることはなかった。

「なんて言えばいいんだ?」

「え?」

司は窓際の庭が見える席へと腰を下ろした。

「おまえは牧野つくしだろ?」

今さらこの男はなにを言っているんだろう・・
あたしの名前を確認して何を言いたいのか。

「俺が無神経でなければおまえに気づいていたはずだ」
「気づいていれば一緒に暮らしていたはずだ・・夜だけじゃなく」
「俺のことを怨んでいないか?」

司はまどろっこしい言い方しか出来ない自分に腹が立った。
牧野への思いをどうすれば上手く伝えられるかを考えれば考えるほど言葉が失われていくような気がしていた。

「俺を・・許してくれないか?」
「思い出したんだ・・俺たちのことを」

「な、なにを言って・・」

道明寺の記憶が・・
道明寺があたしのことを思い出した・・
あたしとあの頃に築いた信頼関係を思い出してくれたの?
つくしは落ち着かない気持ちで身じろぎをしていた。
もし道明寺があたしのことを思い出したらどうするだろうかということを何度も自分に問いかけていたことがある。あれからもう10年以上時が経過したんだし、あの頃と同じ気持ちでいるかどうかという思いだ。

「どう説明したらいいのかわからないが・・おまえを忘れてしまったことを許して欲しい」
「それに、おまえを・・捨てたこと・・」
「おまえの腹の子どもは・・」司は奥歯を噛みしめた。

「あ、あたしの子どもは・・」つくしは丸みのあるお腹に手を当てた。

「俺の子どもなんだろ?」
「ニューヨークで俺以外とは寝てなかったんだ。どう考えても俺の子どもだろ?」

「あの、道明寺、あたし今仕事中だから・・今そんなこと・・」


道明寺が思い出した・・
10年間あたしのことを忘れていた道明寺が。1年間あたしと夜だけの関係を続けていた道明寺が。だが決してあたしのことを愛しているとは言わなかった道明寺が・・
い、いつ?いったいいつ思い出したの?

「オーナーはさっきの男か?」
「えっ?うん、そうだけど・・」

司は席を立つと厨房へと足を踏み入れていた。
再び戻って来たときには、今日はこの店は臨時休業になったと言った。
そうは言ってももう日が落ちた時間帯で客足は望めそうになかったから店を閉めても支障はないだろう。

2人だけになった店は時を刻む音が聞こえて来そうなくらいの静寂が流れていた。
最初の5分。2人は黙ったままで向かい合っていた。
古いレストランの中で見えるのは互いの後ろに見える古ぼけた内装だけで沈黙が店の中を支配しているように感じられた。
雨に濡れた窓の外には暗闇だけが広がって見えた。

何から話しを始めればいいのか・・

俺はこの店に足を踏み入れた瞬間から牧野を抱きしめたかった。
抱きしめておまえを長い間ひとりにさせて悪かったと言いたかった。
だがそんな言葉は10年という長い時の重みに対しては軽すぎる言葉ではないだろうか。
それでも俺は話さなければならなかったし話しを聞かなければならなかった。



「牧野・・」

1年間、聞きなれた声は静かで優しかった。
そんな男はすばらしくハンサムだ。
司は聞き取れないほど低い声で聞いた。

「体は・・体の調子はいいのか?」

「うん、へ、平気・・」
少し前までつわりがひどかったが今ではもう平気だった。

「そ、それよりどうしてここがわかったの?」
「調べたんだ」
「そ、そっか。そうだよね。あんたならそんなこと簡単だよね」

あたり前だ。人を探そうと思えばすぐにでも探し出せるだけの力がある男なんだからあたしの居場所なんてすぐにわかるはずだろう。

「それより話しがある」司がそっと聞いた。
「どうして・・ニューヨークに来たんだ?」
「おまえは・・どうして俺と・・あんな関係でいることを望んだんだ?」

どうしてニューヨークに来たか?つくしは司をじっと見つめた。
それは・・あんたが忘れられなかったから。
あんな関係でいる・・それは永続的な関係は求めないこと。
永遠の関係を求めたところで手に入るはずがないとわかっていたからだ。
道明寺があたしの傍に永遠にいることは無理だとわかっていたからだ。
だから永遠は求めなかった。

「どうしてって言われても・・」そんなの今さらだ。
「いいじゃない、2人とも大人なんだから、男と女の関係なんて水ものだっていうじゃない?だから・・」

本当は少しでもあんたの傍に居たかったからどんな関係だろうと気にしなかった。
だから夜だけの女だとしても別にかまわなかった。
そんなことよりあんたはこれから将来財閥のためにビジネスとしての結婚をするんでしょ?昔からの知り合いの家の女性と結婚するって言ったじゃない。だから別れた女のことなんて気にする必要はないんだから。いや、違う。別れた夜だけの女だ。

「あ、あのね、子どものことは心配しなくても大丈夫だから。この子はあたしの子どもとして育てるから。なんの権利も主張しないから心配しないで」
「迷惑なんて絶対にかけないから大丈夫」

道明寺のいない人生でも、ひとりで子供を産むこともかまわない。
道明寺とは未来は共有できなかったけど、あたしにはあんたの一部がいるからいいの。

「牧野、俺はそんな話しをしに来たんじゃないんだ」
「じゃあ・・なに?」
「いったいなにをしにニューヨークからこんな所まで来たの?」

司はなにをしに来たと言われ言葉を探した。
判断に迷ったことがない自分がどう言えば自分の思いを伝えられるかを悩んでいた。
何かに対してためらうということが今までは無かった。

「おまえに・・知り合いの家の女と結婚すると告げてからは女を抱いてない」
「つまりおまえと抱き合ってから、他に女はいない」

「言ってる意味がよくわからないんだけど・・」
他に女って?いったい誰の話しをしているの?婚約者の人のこと?

「牧野、結婚してくれ。俺は本気だ」
「俺はおまえもその子どももどっちも欲しい」

本気で言っているのだろうか?つくしは司が正気とは思えない言葉を口走ったかのようにじっと見つめた。

だが自分に向けられている司の目が恐ろしいほど真剣だと感じられた。
でも道明寺と結婚できるはずがない。

「ど、道明寺、あのね、なに言ってるの。あんたには婚約者がいるでしょ?」
「婚約は解消した。他に女はいない」

「あたしに・・子供が出来たから結婚だとか考えてるなら心配しなくても大丈夫だから、あんたはあたしのことは見なかったことにしてニューヨークに帰ればいい」

「まさか自分の記憶が戻ったら、いきなり子供までいたなんてことになったら驚くのは当然だと思うけど・・」

「そんなこと言ってんじゃねぇよ!」
「おまえ、なにひとりで抱え込んでんだよ!」
「おまえ・・俺のこと嫌いなのか?俺がおまえと結婚したいって言ってるのに何が不満なんだ?それとも不安なのか?」
「記憶が戻ったって言ってんだろ!」
「今おまえの前にいるのは、おまえが知ってる俺だ!」

「なあ、牧野・・」
司の目は俺を信じて欲しいと訴えていた。
「おまえに許して欲しいって言いに来た。どんくらい時間をかければ俺を許してくれるんだ?」


司はつくしを抱きしめたかった。口ではうまく言えない気持ちを、自分の胸の高まりを聞いて知ってもらいたかった。

「で、でも婚約者の人は・・」
「あんな女どうでもいいんだ」
「きれいに別れたから問題ない」
「だから俺と結婚してくれ。一生俺のそばにいてくれ」

つくしは何か言おうとした。なんでもいいから言わなければと思った。
だけど言葉がなかなか見つからずにいた。
記憶が戻った道明寺があたしの目の前にいる。
本当は今すぐ道明寺に抱きつきたい思いでいっぱいだ。


「ね、ねえ、出産には立ち会うつもり?」
そんな言葉が思わず口をついた。

つくしは涙声になっていた。
道明寺の言葉に嬉しさが胸に広がっていたからだ。
正直道明寺が他の女性と結婚するなんて話しは聞きたくなかったし、信じたくなかった。
もう二度と会えないと思っていたからこうして会いに来てくれて嬉しかった。

司は呆然としていた。いきなりつくしが泣き出したからだ。
妊娠すると感情の高ぶりが見られるというが、このことか?

「ど、どうしたんだよ。どっか悪いのか?」
「ち、ちがうわよ・・」

ひとりで生むと覚悟はしていたが、それでもやっぱり寂しかった。
誰か傍にいてくれて支えてくれる人が欲しいと思っていたのは事実だった。
でもまさか道明寺が、あたしのことを思い出した道明寺が来てくれるなんて考えもしなかった。
だから嬉しくて涙が溢れてきた。

「2度とおまえをひとりになんてしねぇ。だから安心して子どもを産んでくれ」
「牧野、悪かった・・」
「なあ、結婚してくれるよな?」

「ど、どうみょうじ・・」溢れ出す涙が止まらなかった。
「あたし、子どもが好きなの・・」涙で視界がぼやけて道明寺の顔が見えない。
「あ、あたしでよかったら・・この子と一緒にお願いします」
「おまえじゃなきゃダメなんだよ、俺は・・」

俺は記憶が戻らなければ、人生で最大の宝を失うところだった。
それは牧野と俺の子ども・・そしてこれから先に生まれてくるはずの子どもたちだ。
今までこいつの傍にいられなかった10年分はこれから一生かけて償っていく。

司は上着の中から小さな箱を取り出すと真剣な顔でつくしの手をとった。
手の温もりとともにつくしの指にはめられた指輪はただひたすら美しかった。
だがその美しさに負けない女が俺の前にいる。
司にとっては昔からどんな宝石よりも輝いていた女だった。

つくしの手は温かく、指の力は抜けていた。
その手は司の手を優しく握り返してきた。
互いに握り合った手はもう二度と離さないと誓い合っていた。
つくしは指輪から視線を引きはがすと、まっすぐ司を見た。

「道明寺・・いいお父さんになってね」

「ああ」司の顔にゆっくりと笑みが広がった。

「もちろんそのつもりだ」

司のその言葉に嘘偽りはなかった。






< 完 > * Trick Of The Night

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