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2016
05.08

One Night Stand 前編

司はニューヨークから東京へのフライトのため、JFK国際空港に着いたところだった。
いつも使用している自家用ジェットがメンテナンスのために使えず、別のチャーター機を手配しようとしたが、運が悪いのかその願いも叶わなかった。
普段なら決して民間機を利用することはなかったが仕方がない。だがその民間機も空港周辺が悪天候の為、出発が遅れていた。
運が悪いことは続くものだ。天候の回復は見込めそうになかった。
今夜ニューヨークから東京へのフライトはこれが最終便だ。
この便が出発しないなら今夜はもうダメか・・・ペントハウスへ戻る方がいいか。
それとももう少しだけここで待ってみるか?
彼はうんざりとした思いでいた。どうして今日に限ってこんな目に遭うんだ?
自家用ジェットならリムジンから降りて専用ターミナルを通ればすぐにジェットに乗り込める。民間の航空会社を使うというのは、こんなにも不便だとは知らなかった。

VIPラウンジで、稲妻が走る窓の外を眺めていることに飽きて来ると、空港内でも歩いてみるかという気になっていた。だがコンコースも搭乗口も一般乗客の為の待合も、大勢の人で溢れ返っていた。
司は自分の周りにこんなにも大勢の人間がいる状況に驚いていた。

おい、一度にこんな人数を詰め込んで飛べるのか?それにこの状況では、とてもではないが空港の中を歩いてみようかという気にはなれなかった。

それならまたVIPラウンジに戻るか?
いや・・あのラウンジに閉じ込められているのも飽きた。
ならどうする?
どこかのバーにでも入って飲むのも悪くないと思い始めた。
勿論VIPラウンジでも酒は飲めるが、こんな喧騒の中で過ごすのも悪くはないと思った。
司はこんなに大勢の人間が自分の周りにいた状況を、経験したことがあるような気がしていた。それはいつの頃の話だろうか・・思い出そうとしても思い出せず、いつも頭の中を過るのは怒号と女の叫び声だった。

普通の人間なら、日々の喧騒から逃れたいと思うだろうが今夜の彼は違った。
今夜のフライトは、秘書も連れずひとりでの東京への出張だ。
・・そうだ・・大勢の人ごみに紛れて、ただのひとりの平凡な男になってみるのもいいかもしれないと思った。司はわざと髪を乱し、ネクタイを緩め、腕に光る時計を外した。
それでも生まれの良さは隠せそうになかったし、高級なスーツを身に纏った男の品位は落とせそうになかった。

案の定、バーの中は混み合っていて空いている席はひとつしかなかった。
彼が見つけた席は、カウンターの一番奥から二番目の席だった。壁を背にすることが出来る一番奥の席は、若い東洋系の女が座っていた。別にどこの席でも構わなかったから女が隣にいてもどうでもよかった。ただ今は酒が飲めればよかったから。

ニューヨークは中国系も多い。ブリーフケースや機内持ち込みの鞄を足もとに置き、グレーのスーツを着ている女は何やら熱心に本を読んでいた。司はその女が中国人だと思っていたが、手にした本の表紙から日本人だと知った。日本人の女か。それもたいして珍しいことではない。この街には日本人観光客も多い。だが身なりからして観光客とは思えなかった。
彼は今の自分がごく普通の、誰に気遣かわれることのない男だとしたらと考えた。

今までの人生の中で一度や二度考えないことではなかった。若い頃から財閥の後継者として教育をされ、自由を奪われたと感じたことが幾度もあった。それは学生時代に遡るが、今となっては懐かしささえ感じられる出来事だった。
司は空いている席まで来ると、女の足もとに置かれた鞄を気遣いながら席に着こうとした。だが、靴の先が女のブリーフケースに触れ倒してしまった。
司は「失礼」と思わず日本語で詫びを入れ、倒してしまったブリーフケースを元に戻そうと手を伸ばした。
女はやはり日本人だったらしく、「いえ。大丈夫ですから」と椅子に腰かけたまま自分の持ち物に手を伸ばした。

「ごめんなさい」

それは、二人が同時に手を伸ばした先にあったブリーフケースに触れたとき、重なりあった手の温もりと互いの顔の近さに驚き口をついた言葉だった。そして司は、思わず女の手を掴んでしまっていた。

「すまない」

同じように詫びると手を離したが、女の黒い瞳が驚き大きく見開かれたのが分かった。
彼は椅子に腰かけるとバーテンに声をかけた。女の手元のグラスの中身が少なくなっているのを見ると、バーボン、と、これと同じものをと女のおかわりを頼んだ。
「そんな、結構ですから」と女は隣に腰かけた司の方を向いた。
そして女は司をまじまじと見つめていた。

「あの、あなた・・」

司は自分のことが広く世間に知られていることは十分理解している。もしこの女が自分の名前を呼ぶことがあれば、この場を立ち去ろうと思った。今の自分はごく平凡なビジネスマンを演じてみたいという気になっていたから。
どこかの国の王女様が身分を偽り、ローマの街で自由を満喫した映画のように。





女は何も言わなかった。
つくしは彼に偶然出会ったことを喜んでいいのか分からなかった。こんなことがあるのだろうか?神様はどうして今更こんな事をするのだろうか。運命に弄ばれている気がしてならなかった。
道明寺・・・どうしてこんなところに?
この男が空港内の混み合ったバーに現れるとは思いもしなかった。プライベートジェットしか利用しない男がなぜ民間機の為の空港にいるのか。
つくしは言葉に詰まったままで司を見ていた。
優雅な身のこなしで隣の席に腰かけた男は、つくしが長い間見つめてきた男だった。
引き締まった長身は、オーダーメイドのスーツを着こなし、さっきまで隣に座っていた男とはまったく違う。癖のある黒髪は昔と変わらなかったが、顔立ちは少年の頃よりもシャープに感じられた。目鼻立ちもあの頃と変わらなかったが、それでもどこか違うように思えた。そうだ。目つきが違う。あの頃のこの男の目は、世の中のすべてを否定するような目だった。その中にあたしも入っていたんだっけ。今の道明寺の視線は人の心を乱すような官能を含んでいる。
いつからこんな目をするようになったんだろう。今隣にいるのは、つくしの知らないうちに大人になった道明寺だ。

なんと声をかけていいのかわからなかった。名前を呼びたいと思ったが、何故か男がそのことを望んでいないように感じられた。それならあたしは彼が望んでいる通りにしよう。

つくしがニューヨークに暮らすようになって10年が経っていた。道明寺があたしを忘れたままでこの地に暮らすようになり15年になる。
自分のことだけを忘れられ、つくしは彼の前から姿を消した。恋をする気持ちなんてもうとっくの昔に捨て去り、今は仕事が恋人と言える。
だからと言って別に孤独に生きてきたわけじゃない。
つくしは小さなほほ笑みを浮かべた。

「誰かに似てるって言われませんか?」

つくしはわざとにこやかに笑って見せた。
司は女が自分のことを知っているのだろうと推測することが出来た。
だが、この女は敢えて俺の名前を口にしなかった。
わざと知らないふりをしていると分かっていた。
バーで交わす男と女の会話には、互いの思惑や要求を探り合うことが多い。
それは欲望と言っていいだろう。
飲み物が運ばれて来たとき、司は逆に聞いてみることにした。

「誰に似てると思う?」

「・・いえ・・ごめんなさい私の勘違いです」

つくしは誰に似てると問われ思わず本人の名前を呟きそうになっていたが、何故この男がこの場所にいるのかという戸惑いは隠したままで聞いた。

「これから日本へ?」

日本へ行くとすれば、もしかしたら同じ航空機だろうか。

「ああ。そうだ」
「だがこの天候じゃあ今夜は無理かもな」

「そうですね・・」

司はバーテンからグラスを受け取り中身をあおった。
この嵐の中でのフライトはどう考えても無理だった。
吹き荒れる風は航空機の離発着に多大な影響を及ぼす。離発着時の11分は魔の11分と言われるほどの緊張感をパイロットに与える。
それは離陸後の3分と着陸前の8分だ。
航空機事故の殆どはこの時間帯だ。特に離陸後の3分は、パイロットにとって恐怖の3分と呼ばれる程で事故が起きやすい。
航空機の離発着時は自動操縦ではなくパイロットの操縦だ。エンジンの出力が全開のうえ、管制とのやり取りや、計器の確認に気を取られることもあり緊張感が一気に高まる。
当然だが離陸は、燃料満載で何かあれば大惨事になることは間違いない。
大勢の乗客の命を預かる航空会社は、リスクを負ってまで航空機を飛ばすことはしないだろう。

司は隣に座る女が気になってしかたがなかった。大きな瞳に惹きつけられる。
その興味がなさそうな口ぶりと態度が何故か自分を惹きつける。
自分が女達にとって魅力的な地位にいるとの自負があるわけではないが、世間はそう言った目で見ているのを知っていた。

今の二人の間にあるのは、その場限りの出会いなのだろうか。

それは.... One Night Stand

一夜限りの情事・・・

親友は、それを一期一会という言葉で表現したがるが、俺たちの間にあるのはそれと似たようなものなのだろうか?
だがこの女とはどこかで会った気がする。
それは女の服装から見てビジネスの場だったのか。
それとも過去の記憶のどこかに、この女との接点があったのだろうか?

「ニューヨークには何をしに?」

司はつくしの方を見ずに言った。

「住んでいます。もう10年になります」

10年か・・ならどこかで会ったことがあるかもしれない。
そして司は女のことを思い出そうとしたが、記憶には無かった。


道明寺の顔に浮かぶのは昔と違って大人の表情だった。
少年時代から青年期を経て今がある。大人の魅力を纏った男がそこにいた。
わざと髪を乱して、ネクタイを緩めた姿はセクシーに見える。
バーカウンターでグラスを傾ける姿は、まるで映画のワンシーンの様だ。
この男はどんな格好をしていたとしても魅力的に見えるだろう。
それに、どれだけの人ごみの中にいたとしても目立つ。
自然と湧き出る自己主張というのだろうか。オーラというのだろうか。
現にこのバーにいる他の女性客の視線がこちらに向けられているのが分かっていた。
女性からは称賛されるような眼差しが、男性からは羨望の眼差しが注がれていた。

「10年住んでいるなら俺たちどこかで会ったことがあるかもしれないな」

会ったことはない。
見かけたことならある。
つくしが一方的に。

「多分・・無いと思います」

そうとしか答えられなかった。
今までもいつもつくしがそこにいた。なんてことは知らないだろうから。

あたしはあんたと同じ会社で働いていた。
道明寺ホールディングス。ニューヨーク本社の60階。
そこは道明寺のオフィスがあるフロアであたしは45階。
あいつがあたしのことを忘れニューヨークへ旅立ったあと、それでもあたしはどうしても彼の傍にいたくて日本で大学を卒業したのち、道明寺の会社に就職することを選んだ。
何度も面接と試験を繰り返し、本当に優れた人間を求める会社。
実行力と即戦力を求められる企業で努力次第で女性でも上を目指せる会社。

この街に住み始めた頃、仕事は生活手段でしかなかった。ただ彼の傍にいたいという思いから選んだ就職先だった。15階上のフロアは、いち社員は決して足を踏み入れることの出来ない世界だから、上を目指すことにした。少しでもこの男に近い世界で仕事がしたかった。人は皆生きる理由が違う。あたしがこの街で生きる理由は道明寺の傍にいたかったからだ。
けれど、道明寺の傍へたどり着く道は厳しかった。
決して努力をしなかったわけではないが、自分の努力だけではどうにもならないこともある。
世の中というのは、ままならない。

同じビルの中とはいえ、顔を会わすことはなく、すれ違うこともない。
それでもあいつの存在はいつも感じていた。
ただ・・・あいつの傍にいたかったから・・ただそれだけだった。
それだけの理由であたしはこの街に来た。
つくしは、それでも自分の人生にひとつの区切りはつけていた。10年だ。10年だけ待とうと決めていた。10年たってもあいつの記憶が戻らないなら彼の元を去ろうと決めていた。
そんなあたしが今日を最後にニューヨークから離れるという日に道明寺に会うなんて、神様はどんな運命をあたしに用意しようというのだろうか。

この街での道明寺の15年とあたしの10年。
道明寺には道明寺の人生があった。渡米した頃のこの男のことは人づてに話しを聞いていた。初めの頃はいい話を聞かなかった。だが、彼の道明寺としての宿命がいつまでもそんな人間でいることを許すはずもなく、自分が生まれ持った能力を発揮するまでの時間はそうたいして必要が無かった。つくしが就職したとき、すでにこの男は副社長としての責務をこなしていた。そんな男は女性関係もそつなくこなしていた。決して深入りするわけでもなく、だからと言って女に興味がないというわけでもなかった。
だがいつの間にかそんな話を聞くことも少なくなっていた。それはつくしの耳に入らなかったのか、それとも自らが聞きたくないと耳を塞いだせいなのか。
どちらにしても自分が決めた10年は今日までだった。

司は隣で黙ってグラスを傾けている女が自分を意識していると感じていた。
無関心さを装ってはいたが、男と女の間に流れる空気は自然とわかるものだ。

「10年・・こっちに家族がいるのか?」

司は女の指に結婚指輪を探したが見当たらなかった。

「家族はいません」

つくしは前を向いたまま彼の方を見ずに言った。
司は女の声が気に入った。もっと声を聞きたい。話をしたいと思った。

「なあ・・恋人はいるのか?」

グラスを持つつくしの指に力が入った。この国に住む男達は、皆率直に物を言うということをこの10年で学んでいた。バーに女がひとりでいれば、男を探していると思われることも知っていた。だがここは空港のパスポートコントロールを通過した人間が利用するバーだ。人待ち顔の人間はいない。皆、次のフライトまでの時間潰しのためにここにいる。

「そんなこと聞いてどうするんですか?」

つくしはグラスに視線を落としたまま聞いた。
隣にいるハンサムな男を無視して立ち上がるべきだと思った。
だが男の視線が自分に注がれているのは痛いほど感じられる。

つくしは彼のほうへ体を向けた。
見知らぬ女性に、いきなり恋人はいるかと聞くこの男はどうしようもない男だ。
答えて欲しいなら、まず自分のことを話すのが自己紹介の鉄則でしょうが!
それならあたしだって聞いてやる。つくしはそんなつもりで言い切っていた。

「聞いてもいいですか?あなたは?」

「いない」とあっさり返された。

このあとバーのカウンター席で隣同士に座る男と女の会話として成り立つのは
「場所を変えて飲まないか?」だ。その意味は世界のどこの国でも言えること。
一夜限りの情事だ。

「この嵐じゃあ今夜のフライトはなさそうだな」

恐らくそうだろう。つくしもその言葉に頷いた。

「コーヒーでも飲まないか?」

男の口から語られたのはコーヒー。
つくしはその言葉をどう取ればいいのかと考えた。
それは場所を変えて飲まないか?に匹敵するのか?それとも・・まさか夜明けのコーヒーのことじゃないわよね?

「話しがしたいんだ・・」

司の口から静かに語られた言葉は、今まで聞いたことのない声色だった。
そうだ。俺はこの女と話しがしたい。異国のバーでたまたま隣同士になった日本人同士。
それはまさに一期一会だろう。ここでこのまま別れれば、二度と会うことは無いと分かっていた。司の漆黒の瞳がつくしをじっと見つめていた。

空港のアナウンスは、滑走路閉鎖を告げフライトは全てキャンセルとなった。
今夜はこのまま空港に留まるか、街へ引き返して宿を取るか・・
だが、この状況だと恐らく今頃はどこのホテルもいっぱいだろう。

「コーヒーはどこで?」

空港内の施設も閉店時間が近い。
つくしは司の答えを待った。

「どこがいい?」

ボールが投げ返された。

「どこでも」

そのあとの沈黙は、つくしの言葉に込められた裏の意味を、司が汲み取ったことを物語っていた。







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2016
05.09

One Night Stand 中編

司のあとから空港ターミナルを出たつくしは、風の強さに身を竦め思わず自分の体を抱きしめるように両腕を回していた。
それはまるで自分の心の中にあるこの街での10年分の思いを抱きしめるようだった。

司はそんな彼女を荒れ狂う雨風から守るようにして迎えの車へとエスコートした。
さりげなく腰に回された手は、女性をエスコートすることに慣れた手だ。アメリカでの暮らしに慣れた男はその仕草すべてが洗練されていた。ニューヨークに来て知ったのは、どこの女だろうが、どんな御令嬢だろうが彼の前に喜んで体を投げ出すということだ。女は嫌いだと言っていた男も、今では男の本能には従順なのだろうか。それを自分が知ってどうなると言うものではなかったが、それでも高校生の頃のこの男を知るつくしとしては複雑な思いでいた。

道明寺はどんな恋人なんだろう。
きっと好きな女性には優しい男なんだろうと思った。
それは昔の自分に対しての態度から分かっていた。
自分だけには優しい。
女はみんなそんな男を求める。
自分だけには優しい獣を。

つくしは、そんな男の横顔を下から見上げた。顎のラインはシャープで鋭角さが保たれていて思わずそのラインに手を触れたくなった。そして唇にも。それは、薄くて男らしく引き締まった唇だ。
その唇にキスをしたことはあった。だけど、それは遠い昔の話で高校生にしては奥手だったつくしからすればかなり勇気のいることではあった。それでもあの時は自分からキスをしたいと思った。

心は決まっていた。コーヒーを飲まないかと聞かれたとき、道明寺の言葉に深い意味は無かったはずだ。けれど、漆黒の瞳に見つめられて交わした言葉がある一瞬で深い意味を持つことになった。
どこがいい と聞かれ どこでもいい と答えた。
あたしが望んだのは、この男との一夜の情事。
運命論者ではないが、今夜の出来事があたしの運命であらかじめ決められていたことならあたしに選択肢はない。それは道明寺が道明寺として生きることを宿命づけられたことと同じように。

今夜が道明寺と最初で最後の夜になる。
それでいい。
今のあたしにはそれでも。


ペントハウスまでは40分程の道のりだった。


俺はおまえのことがもっと知りたい。女は言葉を返すことはしなかった。
男と女が抱き合うのに愛情など必要ないと知ったのはいつの頃だったのか。
女に愛など求めたことはなかった。
子供の頃でさえ、愛を求めたことは無かったはずだ。
だが俺は誰かの愛が欲しくて・・
いや。そんなことはない。
どんなかたちの愛も求めたことはなかったはずだ。
そんな思いが司の脳裏を過っていた。

それなのに、どうしてこの女なんだ。
気になってしかたがない。
見知らぬ女をペントハウスに招き入れるなんて正気じゃない。
いつも、女に対しては罠をかけられように用心していた。
女とはいえ変質者かもしれない。もしかしたら殺人犯かもしれない。
だが、なぜかこの女は信じられた。

もっと話がしたかったし声が聞きたかった。
その声は遠い昔に聞いたような気がしていた。
自分の名前を叫んだ声・・夢の中でいつも見る女の後ろ姿には色もなく音もない。
だが何故かこの女の大きな瞳は後ろ姿の女のものではないかと思わずにはいられなかった。
なぜそんなことを思うのか?
わからなかった。


つくしは遠い昔を思い出していた。
腰に添えられた手はあの時と同じ手だった。
それは掴むことが出来なかったあの日の手。
自分を愛していると言ってくれたたったひとりの人だった。

案内された部屋の中央には、大きなベッドがあった。他にあるものと言えば、飾り気のないチェストと部屋の片隅にあるスタンドライトだけで殺風景な部屋だった。どうやらこの男はシンプルな暮らしを好むようだ。
広い大きなベッド。
そこで道明寺に自分が着ている服を脱がされる。そんな姿が見えた。
この部屋に何があるか覚えておこうと思った。
二度と来ることがないこの部屋を。


名前は互いに名乗らなかった。
一夜限りの情事に名前など必要がない。
すぐ後ろに立つ男からはアルコールの匂いはしなかった。
その代わり感じられるのは男の欲望の匂い。
腰に添えられた手はやがてつくしの体を後ろから抱きしめると、彼女のうなじに男の吐息が感じられた。
自分の体に押し付けられた男の体からは欲望の印が伝わった。

道明寺・・・
彼があたしを欲しがってる。
つくしは性欲については、ほとんど無知と言ってよかった。
だが、道明寺ならそれをあたしに教えてくれることが出来るはずだ。
抱き上げられたつくしがゆっくりと降ろされたベッドは黒のサテンのシーツに覆われていた。いかにも独身のプレイボーイが好みそうな色だ。このベッドは多くのことを見て来たのだろう。
つくしは、そんな思いを打ち消そうとするように、ゆっくりと目を閉じた。
これから先は誰のものでもない自分だけの思い出を作りたいと望むために。



「俺を見ろ」

つくしの目が開かれたとき、彼女の目の前には男の顔があって上から見下ろされていた。
ブラウスのボタンがはずされ、スカートとストッキングがそれに続き床の上に落とされた。
大きな手が背中にあるブラジャーのホックをはずし、パンティにも手がかけられると白い体は司の目の前にさらされた。

司の裸体は彫刻のように完璧だった。
美しい肉体と言ってもいいほどだった。
それは少年から青年へと年を重ねた男の体。
指先で触れれば硬い筋肉に押し返された。
つくしは男の顔を指でたどっていた。
額、目元、鼻、頬骨そして口もと・・
触れたかった顎のラインと唇にも指で触れた。

ひと晩だけ。
あたしのものになって。
今夜だけでいいから。
最初から手に入れられるなんて思って無かった。
だから今だけ。

間接照明に照らされた部屋は、薄暗かったがすべてがさらけ出されるよりは良かった。
道明寺があたしを求めてくれるならそれだけでいい。
例えこの男が愛を理解出来なくても、あたしが伝えられる思いはあるはずだ。
これから先、ひとりで過ごす長く虚ろな夜も今夜の思い出が慰めてくれるはずだ。
15年間の思いは今夜限りで美しい思い出として昇華させればいい。

ゆっくりと顔が近づいてくると、男の首筋に手をからませて引き寄せていた。
つくしはキスを受け止めた。
道明寺の全身から熱い力を感じてゆっくりと体が溶かされていく気がした。
そのときすべての意識を手放すことにした。
乳房で胸板を感じ、お腹に感じるのは男の昂ったあかし。
戸惑いも恥じらいもすべてを投げ出した。あの時どうしてと言う後悔はしたくはなかった。すべてが欲しかった。道明寺のすべてが。
あたしには失うものなどない。あたしは今すべてが欲しい。明日じゃなく今欲しい。
重なっていた唇を離すと耳元で囁かれた声に、永遠に封じ込めようとした思いは解き放たれた。

「愛し合おう」

その言葉がその場限りの偽りの言葉だとしてもかまわなかった。
一夜限りの偽りの愛でもかまわなかった。



喉に唇をゆっくりと這わせながら司の手は白い肌をゆっくりと撫でる。
やがて唇は女の乳房を舐め上げ、胸の頂きを口に含んだ。
司の髪に差し込まれた女の指は彼の頭を掴んで離そうとはしない。

「・・んっ・・」

女は顎を天に向け白い喉からは喘ぐ声が聞こえるだけ。

「はぁ・・あっ・・」

両手はゆっくりとした動きで女の柔らかい太腿の内側を撫で上げて行く・・

足りない。
この女のすべてが欲しい。
この女が相手だとどれだけのものを得ても足りない気がする。

「おまえが欲しい」

「・・知ってる・・」

小さな声が呟いた。

恋焦がれるような思い。
司の中に欲しいという気持ちと、知りたいという気持ちが同時に沸き起こった。
どうしてこの街に一人で暮らしているのか。どんな仕事をしているのか。
好きな男はいるのか。俺はおまえのことがもっと知りたい。
飢餓感なのか、肉体的な欲望なのか、何かを求めるこの気持ちはなんだ?
だが、その答えを今すぐ知りたいとは思わなかった。
のけぞる女の体を抱えると、濡れて感じやすくなった場所に唇を寄せた。
指が奥深くへと進入すれば身をくねらせた。小さな水音が女の体が感じていることを表していて、リズムを付けて抜き差しを繰り返せば体はそのテンポを理解していた。
限界まで昂らせたい。少なくとも俺と同じ限界まで。

「あっ・・・んあっ!」

聞えるのは男の荒々しい息遣いと女の喘ぎ声。

「あっ・・ん・・はぁん!ああっ・・・」

もっと声が聞きたい。
女の唇が大きく開き、司の指の動きが早く激しくなった。

「いまだ」

かすれた声で囁くと女は声を上げて絶頂に達していた。
混沌の淵へと落ちていく様は美しかった。
開かれた唇から漏れる息は、はあはあと繰り返され呼吸の乱れを伝えてくる。

今はただ欲しいという思いが強かった。
まっすぐに女の目を見て力強く突き入れると、背中に回された女の手は司の体を引き寄せた。
その手は全てを受け入れるように強く抱きしめてきた。
必死でしがみつき、まるで二度と離れたくないというように感じられ、女が目を閉じると頬を伝う涙が見えた。

「俺を見ろ・・目を開けて俺を見ろ」

俺を見てくれという思い。

放心状態で見開かれ自分を見つめる女の瞳。
その瞳が見たかった。瞳の中に映る己の姿を見たかった。
この女の瞳の中に映るのは自分以外には許せない。そんな思いがしていた。

二人は自然発生したリズムを刻んで揺れていた。そのとき女の口から自分の名前を呼ぶ声を聞いたような気がした。だが女の口から漏れるのはただの喘ぎ声だったのかもしれない。
切なげな喘ぎ声。
俺の名前を呼んでくれ。この女の口から俺の名前が漏れるのを聞きたい。
そう願ったのは嘘偽りのない気持ちだった。
求めていた何かが女の中にあるような気がしてならなかった。
それが何なのか今の自分には分からなかったとしても。

司は余韻で震える女を抱き寄せていた。
今夜は一緒にいて欲しい。たとえ出会ったばかりの女でも。
時の長さが関係あるのか?
そんな思いを遠い過去にも感じたことがあったかもしれない。
だが今は、ただ腕の中で眠りについた女を抱きしめていられればそれで良かった。

今だけは・・







司は朝目覚めたとき、ベッドの上にいるのは自分ひとりだと気づくまでに数秒かかった。
腕の中に閉じ込めていたはずの女はいなかった。
まるで昨夜は何かに憑りつかれたように女を抱いていた。だが女はどこかに一線を引きたがっているように見えた。
大人の二人は求めるものがひとつだけだと言わんばかりで、立ち位置を間違えないで欲しいと。
これは一夜限りの情事として決して深くかかわることも、何かを期待することもしないでおきましょうと言った。
司も女の思いと同じだった。
それは心を開くことなく女を抱いてきた自分にはあたり前の思いだった。
まさか、女の方から口にされるとは思わなかったが、考え方が同じならこれから先も割り切った関係でいられるのではないかと思っていた。だから遠慮しなかった・・あの瞬間までは。
女の瞳に浮かんだ驚きと涙。そして苦痛に満ちた表情は経験がないことを物語っていた。

床に散らかっているのは、自分が昨日着ていた服だけで女の服は無かった。司はそれらを拾い上げるとバスルームへと足を踏み入れた。
そこで目に止まったのは、何もない洗面台に置かれた一枚の紙だった。

それは手帳から破り取られたような紙。


『 道明寺へ
こんなことになって気まずい思いはしたくないと思うので帰ります。
こんな手紙を貰っても意味がわからないと思いますが、わたしの夢は叶いました。
ありがとう。 』署名はなかった。

あの女・・やっぱり俺が誰だか気づいていたか。
けど、この意味の分かんねぇ手紙はなんだ?
どうせなら連絡先を残していけばいいものを、手紙に添えられていたのはネックレスだった。

司は鏡の中の自分に、手にしたネックレスを掲げ見せた。
チェーンの先で揺れる球体。
自分には見覚えのないネックレスが訝しかった。
なぜあの女はこんな物を残して消えたのか。
司はゆらゆらと球体を揺らしてみた。
まるで自分に嘘臭い催眠術をかけてる見てぇだよな。そんな思いを抱いた。
それは、キラキラとした小さな石がいくつか埋め込まれてはいるが、子供だましのようなネックレスだった。いい大人の女が身につけるには物足りなさが感じられる。
俺だったらもっと高価なものを買い与えることが出来る。あの女の白い肌を引き立てるような輝きを放つ石を。あの女、名前も名乗らず出て行ったがこの街に住む日本人ならすぐにでも調べはつく。

司は一瞬閉じた瞼の内側に何かの残像を見た。
なんの残像かはわからなかったが、それを確かめろと頭の片隅で誰かが囁く声がした。
不思議な感覚がした。これまで経験したことがない感覚で言葉に出来なかった。

再び目を閉じてみれば・・・

その残像が鮮やかな色を持ってきたのが感じられた。
色がつくと、そこへ音が加わった。
それはやがて確かな姿形を持って現れてきた。
長い髪の女だ。
そして、夢の中でいつも後ろ姿だけの女が振り返った。

その瞬間に心が動いた。



まきの・・



頭の中に甦った愛しい人の姿。

司は目を開くとネックレスを握りしめた。

何が気まずい思いだ。
気まずいのは俺の方だ。

司は胸が苦しかった。
息が出来ず、呼吸がせわしくなり頭がくらくらしはじめた。
牧野を忘れてしまった年月を思って吐きたくなった。
吐きたくなるほどの思いと共に、こみ上げて来るのは、過ぎ去った15年という年月の重みと後悔ばかり。

どうして俺は・・

司は震える手で洗面台の淵を掴み、鏡の中に見える自身の顔を見つめた。
そこにいたのは大切な人を忘れ去っていた愚かな男。
黙殺していた今までの感情は牧野つくしのことであり、胸の苦しみは心の痛みで、まるでナイフで突かれているように痛む。
あの日刺された痛みは、15年たってようやく本物の痛みになったような気がした。
体の痛みではなく心の痛みとして。

あいつのことを思い出さずに抱いたことが悔やまれた。
あいつ・・初めてだったのに・・
自分のことを覚えてもいないような男に・・
おまえを愛しているかどうかもわからない男に・・
あのとき掴んだ足首は細く、小さな体は痛みに耐えていたはずだ。
決して無理矢理抱いたわけではなかったが、それでも体は苦しかったはずだ。

司は最後のキスを思い出していた。

それは・・

まるで・・

別れのキス。


ちくしょう!


司は鏡の中の自分に語りかけた。
おまえはこんな所でのん気にしてる場合じゃないだろう?
そうだ。いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
司は心が高ぶるのを感じた。
すぐにでもあいつの元へ行く。
俺の背中にある爪あとが消えないうちに探し出してやるからな。

「牧野・・」

15年ぶりに口にした愛しい女の名前。
ため息とも笑い声とも言えないような声が出た。
しかし、あいつらしい。
俺から逃げやがった。
どうして俺から逃げるんだ?
だが、逃がすわけにはいかない。
もう二度と。





自分を誤魔化していられたのは昨日までだった。
つくしはもうとっくに限界を超えていた。
10年もあいつの傍であいつを見ていた。見たくなくても見える現実に心が痛んだのは、この街で暮らし始めた頃だけで、そのうちに慣れてきた。
あたしは何年こんな思いをして暮らしてきたんだろう。
それももう過ぎたことだ。

でも望みは叶った。

それは本当だった。
思い切ってあと先を考えずに行動していた。
このチャンスを逃せば道明寺に抱かれることなんてなかった。
それでも自尊心だけは保つことが出来た。
愛しているとは決して言わなかった。
見ず知らずの女にそんな言葉を言われれば道明寺も迷惑なだけだろう。
長い恋は昨日で終わった。

つくしは窓の外に見えるニューヨークでの最後の朝日を目に焼き付けた。
雨に濡れていた滑走路はもう乾きはじめていた。つくしの乗った飛行機は、機体に朝の光りを反射させ飛び立ち、マンハッタンを遠くに見ながら高度を上げて行く。
やがて海上に出ると上空を大きく旋回し、西の方角へと機首を向けた。
機体は上昇を続け雲の塊を突き抜け、きれいな青空が広がる高度へと達した。
高度1万メートルの世界は、視界が開け雲の上は快晴で遥か彼方まで見渡すことが出来た。
遠くは薄く霞がかかり白くぼんやりとして見える空だ。

そして、どこまでも続く青い空はこのまま東京まで続いている。
つくしには雲の下に広がる街はいつも灰色に見えた。
今のあたしがあの街で一人生きて行くには辛すぎる。
望みが叶うとは思っていなかったが、一度手に入れてしまうとまた欲しくなるのが人間だ。
けれど、その望みはもう二度と叶うことはないはずだ。
この街での10年は夢だったと思えばいい。
長い夢だったと・・。
あたしはもう二度とマンハッタンの高層ビルを目にすることはない。



さよなら・・

道明寺。





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2016
05.10

One Night Stand 後編

15年前に自分が忘れた女を探すのは意外と簡単だった。
それよりあいつが俺の会社で10年も働いていたことに驚いた。
同じ会社で、同じ街で、同じ景色を見て過ごした10年。
だがそれは同じ目線で見たものではなかった。

ニューヨークの四季ははっきりとしている。春は短いが穏やかに過ぎ、夏になれば暑くなり日本とまでは言わないが結構蒸し暑い日も多い。秋も短いがセントラルパークの木々は赤や黄色に色づき一見の価値がある。
冬は・・長く寒い日が続く。11月から12月にかけての街はクリスマスイルミネーションが飾られて華やかなムードになる。街を行く人々の頭にあるのはプレゼントとパーティーのことばかりで、クリスマスになれば皆家族の元へと帰って行く。
そんな中、あいつはこの街に残り一人で過ごしていたに違いない。
俺はそんな季節はいつもパーティー三昧の日々を過ごしていた。

この街での二人の10年は、決して交わることのない時間だった。それは、まるで過去と未来が決して交わることがないのと同じで二人の人生は違う次元だった。15年前もそうだった。交わるはずのなかった二人の人生が些細なことで交わった。
10年・・司は自分の10年間を振り返ってみた。
自分はどんな10年を過ごしていたか。

早い話、どうでもいい人生だったはずだ。
だがあいつは、牧野は俺の10年を身近で見て聞いて知っている。
どんな気持ちで俺の会社で働いていたのか。あいつの退職の手続きが取られたのは2週間前だった。
アメリカでの退職は、2週間前に申し出をすれば出来る。Two weeks notice と呼ばれる2週間前通知が日本の退職届にあたる。
昨日があいつのニューヨークでの最後の日だった。
そんな日に空港で巡り会えたことは奇跡としか言いようがなかった。

そうだ。奇跡としか言えない状況で俺はこうしてあいつを、牧野を思い出すことが出来た。
願いが叶っただと?
それなら、俺の願いはどうしてくれるんだ?
高校生の頃あいつが欲しいと願った。持てるもの全てを捨ててもあいつが欲しかった。その思いは今でも変わらない。
司は携帯電話を取り出し、パイロットを呼び出した。
いつでも飛び立てるように準備をしろと伝えるために。
窓の向うに広がるのは、夜明けのマンハッタンの街並みだった。嵐は去り、太陽が昇り始めた東の空には切れ切れの雲の流れが見えていた。
その雲を見ながら思った。昨日の夜がグランドフィナーレなら、もうこれ以上悪くなることはないはずだ。

今頃あいつの乗った航空機は、西へ向かって飛行を続けている。
今朝一番早いフライトで出国したことは調べればすぐにわかった。

東京へ・・

俺も昨日はあいつと同じ便に乗る予定だった。
それはプライベートジェットが利用出来なかったからという運の巡り合わせ。
もし昨日出会わなければ恐らくこの先も一生出会えなかっただろう。そして、あいつのことを思い出すことなく過ぎて行く俺の一生。
あいつの記憶だけを失った俺の15年は取り戻せないが、これからの15年、いやそれ以上あいつのことだけを考えて生きていく。

俺は幸せになりたいと牧野に言ったことがあるはずだ。
だから俺はこれから自分の幸せを掴みに行く。もちろんそれは牧野を幸せにしてやることが前提だ。欲しいものがはっきりした今、何を迷うことがある?幸せになりたいなら自分からそれを掴み取るまでだ。

もちろん牧野の許しを得てからだが、あいつは俺を許してくれるだろうか。
15年もひとりぼっちにさせ、そのうちの10年に至っては見たくも聞きたくもないものに触れなければいけなかったということを。
だが、許してもらえなくても、どんなことをしてでも俺はあいつの・・牧野と一緒に残りの人生を過ごしたい。
牧野の世界を俺も知りたい、牧野と人生を分かち合いたいと考えるだけで力が湧いてくる。こんな気持ちになったことはない。そうだ、あの頃、17の俺があいつと過ごした短い時間以外は。
だから、自分の人生でやり残したことがあるとすれば、それはひとつだけだ。





***






道明寺と愛し合ってクライマックスを迎えた。
・・違う。あたし達は愛し合ってなんてない。
ただ男と女がすることをしただけだ。

愛されているなんて勘違いはしてはいない。
32年間の自分の人生の中で半分は道明寺のことを考えて生きてきた。
でもその思いもどこかで断ち切らなくては前に進むことが出来ない。
あと5年もすれば、きっといい思い出に変わるはずだ。
やっぱり日本に帰ってきたのは正解だ。ひとりの人間を思って過ごす人生はいい加減やめなければ。


「つくしーっ!おかえりっ!」

まさか出迎えを受けるとは思ってもみなかった。

「先輩よく帰ってくる決心がつきましたね?先輩のことだからずっとニューヨークで生活を続けるものだと思ってました」

「滋さん、桜子・・」

10年前にもこの二人には見送ってもらった。二人はこの10年の間に何度もニューヨークまで足を運んではつくしの近況を知りたがった。それは道明寺とのことだ。
あれから10年が経過した。あたしも我ながらよく10年もあいつの傍で過ごすことが出来たと思った。

「優紀ちゃんは都合がつかなくてゴメンってさ。本当は昨日帰国だったでしょ?だから優紀ちゃん昨日会社休んだから、今日は流石に無理だってさ。つくしにゴメンって伝えてって言われたよ」

「うん、ごめんね・・嵐でフライトキャンセルになっちゃって・・」

「5月だからね。まさにアメリカ版メイストームだね?」

「先輩の人生もまさにストーム・・・嵐ですね」

「桜子あんたいいこと言うね!」

本当にその通りだ。あたしは嵐の中で生きて来た。でも、もうそれも終わりだ。

「よーし!つくしも帰国したし、今日はこれから女3人で飲み歩くぞ!」
「滋さんそれ無理」つくしは間髪入れずに止めようとした。

「そうですよ、滋さん。先輩は帰ってきたばかりで身の回りのことが何も出来てないんですからね?」

「桜子!つくしはね明後日からうちの会社で働くの。だから身の回りのことは大河原で全部面倒見てるんだから何も心配なんて要らないわよ。それに色々と聞きたいし・・」

「滋さんダメですよ!そんなこといきなり言っちゃ・・」

「そうよ!司のことよ!あのバカ男、つくしが傍にいるのに気が付かないんだから!」

滋はつくしの手を掴み、彼女らしく話しを続けた。それは、現実的な考え方の滋らしい発言。

「つくし!あんな男のことなんてきれいさっぱり忘れて滋ちゃんと新しい男を探そう!」

つくしは滋の言葉に頷いた。その通りだ。いつまでも道明寺のことを考えていてもしかたがない。もうあたしの望みは叶ったんだからこれ以上何を望むの?
今はあいつの名前が二人の口から出るのを聞くと辛いけど、傷口を隠すよりもあえて晒して早く治ることを選ぶことにした。

「そうよね!滋さんの言う通りよ!道明寺司なんてあんな男なんて・・」

つくしは感情が出てしまう自分の性格が疎ましかった。零れ落ちそうな涙は上を向いて誤魔化した。でもいくら隠そうとしても多分あたしの顔には表れているはずだ。道明寺のことが今でも好きだと。だがそんな思いは振り払うことにした。

「滋さん飲みに連れてって!ほら、桜子も行くよ!」






***






「仕事中毒にならないようにしないとね、つくし?」

いつまでも古い思い出にしがみついて生きていくことはしたくないと、滋の会社での新たなスタートを切ったつくし。

つくしがニューヨークで担当していたのは、起業する人物から事業資金の出資を求める申し込みに関する調査だった。その為には、事業計画書の提出を受けるところから始まる。

書かれているのは、会社の理念から始まって事業内容、資金計画、販売計画や自社についての強みや弱みなどだが、今後その事業がどのような方向性を持つのかを見極めるための資料となる。

出資をすると言うことは、配当を期待すると言うことで、リターンが大きくなるかどうかを見極めるのがつくしの仕事だ。つまりはその会社の将来性を分析し審査をすることだ。

実行力と即戦力を求められた道明寺の会社で培ったキャリアは、滋の会社でもすぐに生かすことが出来る。これだけはニューヨークで身につけることが出来た大きなビジネススキルだった。


「ねえ、滋さん。これから行く会社ってこんないいビルにオフィスがあるの?」

「そうだよねぇ・・まだこれからの会社にしちゃ立派だよね?」

つくしの帰国から一週間後に訪れたのは滋の会社から出資を受けたいと申し込みがあった事業者だ。
二人は地上からはるか上のフロアに降り立った。このビルの賃料は相当高いと踏んだが、訪れた会社の入口には、会社のネームプレートが無かった。IT関連としか聞いていないベンチャー企業はなぜか人の姿がない。
そして、だだっぴろい空間にあるのは、楕円形の大きなテーブルと椅子だけで、会社というよりもどこかの会社の会議室のひとつのだとしか思えなかった。

「ねえ滋さん、この会社ってまだ・・」

つくしは後ろにいる滋に話しかけようと振り向いたが、口を開いたままでその先の言葉が出なかった。
振り向いたつくしが目にしたのは、滋の隣に立つ背の高い男だった。
いつもニューヨークで心に描いていた男が、東京にいるはずのない男がそこにいた。

つくしは自分の体がこわばるのを感じた。表情が豊かだと言われる顔には翳が差したように見えた。

「つくし・・ごめんね。司から連絡があったのよ。記憶が戻ったってね。それから二人の関係も聞いたわ」

滋は話しにくかったのか咳払いをひとつした。

「それにつくしを逃がさないようにって頼まれたの。それで今日ここに連れてくるように頼まれたのよ」

「滋・・悪いが・・」

滋は万事心得たように頷いた。
そして「よかったね・・つくし」と小さな声で囁くように言って部屋を出ていった。


部屋の入口にいたのは、ニューヨークで一週間前に別れた男だ。
二度と会うことはないと思っていた男と二人っきりでいるなんて、これは頭の中の願望が見せている幻じゃないの?そんな思いがすると、つくしは何か言わなきゃと思ったが何も言えずにいた。

「牧野・・何か言ってくれ・・」

深みのあるバリトンの声に、背中に震えが走った。
15年前愛おしそうに呼んでくれたあたしの名前がまた彼の口から聞けるなんて夢にも思わなかった。もう二度と彼の口から名前が呼ばれることは無いと思っていた。
漆黒の瞳が俺を見ろと言ったあの夜を思い出した。あの夜は二人とも名前の無いただの男と女だった。あの時、何度この男の名前を呼びたいと思ったことか。15年間呼ぶことの無かった名前を心の底から呼びたかった。

道明寺・・愛してるって。

大きな声で言いたかった。




何も言わないつくしに痺れを切らしたかのように司は言葉を継いだ。

「髪・・切ったんだな・・よく似合ってる」

つくしは帰国した翌日、髪を肩の長さで切りそろえた。
別に失恋したからという意識はなかった。ただ気分転換がしたかっただけだが、滋はずばり核心をつくようなことを言っていた。つくし失恋したんだよね、と。
つくしは司の顔を見ながらぼんやりとしていた。
この男は一体なにがしたいんだろうと。
どうして道明寺がここにいるんだろうと。
突っ立てないで何か言わなきゃと思うがあまりに突然のことに何も言えずにいた。

「どうして俺がここにいて、何がしたいかが聞きたいんだろ?」

何も口にしてないのにどうして分かったのか。

「分かってる。おまえの言いたいことは全部」

司は言葉を選びながら話し始めた。

「今さら何を・・言いに来たんだって言いたいのは・・わかってる。俺がおまえのことだけを忘れちまったことは・・すまないと思ってる」

あの事件は、彼が悪いというわけではない。
つくしの事を忘れたのは、どうしようもない力が働いたとしか言えなかったのだから彼を責めるのはおかしい。そのことは誰もがわかっていた。
だが、どうしてつくしのことだけを忘れたのか。理不尽だと誰もが思った。


司は入口からつくしの方に向かって歩いて来た。
つくしは、立ちつくしたまま手にしたブリーフケースの持ち手をぎゅっと握りしめていた。
そうだ。このブリーフケースは二人のきっかけを作った鞄だった。

司はつくしの目の前で立ち止まったが、つくしは、目の前にいる男に再び会えるとは思ってもいなかった。だから何か言ってくれと言われても言葉が出なかった。

帰国してから泣きながら眠りについた。15年間の思いはそう簡単に忘れ去られるものではない。叶わない恋におちて、ひどい別れを経験する運命だったんだと自分自身の気持ちに整理をつけたニューヨーク時代。それでも、心のどこかに二人の運命はまたどこかで交わるのではないかと信じていた。
そして、その願いが通じたのが10年たったあの日だった。つくしに取っては一生の思い出。
だが、あの夜の事は彼には深い思いはない。

この部屋を出て行こうにも、道明寺が目の前に立ちはだかるようにしているとそれも出来そうになかった。
まさか走って逃げるわけにはいかない。
待ってよ。あたしが逃げる必要なんてない。もういい加減に道明寺に対する自分の気持ちにピリオドを打つべきだ。


「なあ・・」

「ご、ごめん、道明寺。あの日のことは忘れてくれない?あれは、い、一夜の・・一夜限りの関係だと思って欲しいの」

つくしは感情を抑えながら静かに言った。道明寺と会ったあの日はどうかしてたんだと思って欲しい。そして、あれは一夜の情事だったと思って欲しかった。
お願い道明寺。もうこれ以上あたしに苦しい思いをさせないで。そんな思いがつくしにそんな言葉を言わせた。


「俺、記憶が戻った」

「いったいなんの話をして・・えっ?」

つくしは司の言葉に驚き、彼の目をまじまじと見つめた。

「さっきの滋の話し・・聞いてなかったのかよ・・」

司は大仰にため息をついた。

「き、聞いてなかった。そうなんだ・・そう・・よかったね・・」

道明寺の記憶が戻った。
聞いていたようで聞いてなかった話で、あまりにも突然の告白に言葉が見つからず、口をつく言葉は感情が伴わない呟きだった。
そして、重い沈黙が二人の間を支配していた。




偶然再会した昔の恋人たちが、騒動の末によりを戻すという話はよく聞くが、俺たちの場合は恋人同士になる前に一方的な別れをこいつに押し付けていた。
理由もなく別れを押し付けられたこいつは自分の気持ちを持って行く場所を失っていたはずだ。それでも、こいつは俺のことを忘れることなく15年も思っていた。そのうちの10年はすぐ傍で同じ街に住んで、俺の会社にいたとは思いもしなかった。
そして、今でも俺のことを思ってくれていることは滋から聞いた。
どうすればこいつの思いに応えることが出来る?

「なんで、あのとき・・帰っちまったんだよ・・」

それは二人が初めて愛し合った日。

「な、なんでって・・」

「気まずい思いなんてするわけねぇだろうが・・」

それは、置き手紙に書かれていた言葉。
あんたがしなくてもあたしがする。
あたしのことが記憶に無いあんたにあたしの気持ちを伝えることはできないから気まずい思いをするのはあたし。
ずっと道明寺を愛していた・・そう言えたらどんなにいいだろう。
でもそんなことを言えばドン引きされる。
自分のことを覚えていない男に15年も片思いをしてた女だなんて知られたらバカにされる。
それに今の道明寺は高校生の頃の道明寺じゃない。
あれからこの男の人生には何人もの女性がいた。だから、記憶が戻ったとしても、もうあたしのことなんてなんとも思っていないはずだ。
何をしにここに来たのか知らないが、あたしはあの日、自分の人生について決断をしたんだからもう道明寺のことは忘れなくてはいけない。
いつか道明寺と会ったら伝えようと思っていた思いはあのとき、あたしの体で伝えたつもりだ。

愛してると・・

愛してたじゃなくて、愛してると・・

「まきの・・俺・・ごめん。おまえ・・まだ男と・・」

道明寺が言いたいことは十分伝わった。

「何が言いたいのか知らないけど、用件は何?」

つくしは肩をすくめた。その仕草は10年のアメリカ暮らしで身についた仕草だ。

「俺はおまえを愛してるんだ」

随分と率直な答えが返された。

「あの時の思いは今も俺の心の中にある」

あの時の思い・・それは道明寺が17歳の頃の話だろうか?
いきなりの展開につくしはパニックになりそうになった。突然現れたかと思ったら記憶が戻ったと言われ、愛してると告白をされ、ニューヨークで一夜を過ごしただけの関係の女に言う言葉じゃない。彼は、道明寺は記憶が混乱してるのよ。

「道明寺は夢を見てるのよ・・あの時の・・15年も前のことの・・夢の続きを見てるのよ」

あれは夢だったんだ。
短い恋の夢。

「あたしはあれから・・色んなことを経験して大人になった。それはあんたも同じはずで何も15年も前のことを・・続けなきゃいけないことなんてない」

つくしは自分の口から出る言葉は本当の気持ちとはまったくの正反対で、15年も夢を見続けたのは自分だったと言いたかった。いつも道明寺の傍にいて夢を見ていたいと思った。いつかまたあたしに気づいてくれると思った10年。
そんな思いを抱えていたあたしに愛してるなんて言葉を軽々しく言って欲しくない。

「ど、道明寺に愛が語れるわけ?それに本気で人を好きになったことがない人間に愛なんか語って欲しくない。愛は長い間時間をかけて育てるものよ・・あたし達はあの一晩だけの関係よ?」

あの一晩でさえ愛と言えるかどうか分からなかった。あの夜の二人に愛はあったのか。だか、少なくともあたしにはあった。

「俺たちの愛はおまえが15年かけて育ててくれたんだろ?俺はおまえのすべてを愛してる。信じられねぇかもしれねぇが・・本当だ」

司はつくしを見下ろしながら諭すように言った。

「それに俺が心から愛した女はおまえしかいねぇ」

司はつくしの心が揺れているのを感じていた。

「おまえが言う15年前が夢ならその夢の続きを見て何が悪いんだ?だけどな、俺は夢じゃなくて本物にしたい」

「でも・・あたし達はもう元には戻れない。15年前には戻れ・・」

「あほか!元に戻れるに決まってるだろうが!いや、それ以上だな。何しろ俺は15年前と違っておまえを愛する方法はもう勉強した」

つくしの目の前に立つ男は確かに18歳の男じゃない。でも・・

「何がでもなんだよ!18だろうが33だろうがおまえを愛してる男に変わりはねぇぞ!人間の本質ってのはいくら時が経とうが変わんねぇんだ!俺がおまえを愛した記憶が例え15年無かったとしても頭ん中の海馬ってのに刻まれてるんだよ!それに俺の人としての本質はおまえに出会ってから作られたようなもんだからな。おまえが俺の人としてのスタートラインなんだ。だから牧野、おまえは俺の人としての基礎だ」

あの頃と同じような激しさが垣間見えた気がした。
つくしだけを追いかけていた高校生の頃の男の姿が。

「俺と結婚してくれ」

遅いのよ。
もっと早く聞きたかった。

「遅くなんてねぇぞ!」

司の動きは素早かった。
いきなり体を抱きしめられたつくしは、一瞬息をするのも忘れ、手に握っていた鞄は床に落ちた。


夢だと思った。そうだこれは夢なんだ。
ニューヨークでどんなことがあってもこの男の傍にいたいと思った10年。
いつかあたしのことを思い出してくれると願った10年があった。
道明寺から愛してるとか結婚してくれとかそんな言葉が聞けるなんてこれは夢だ。
そして低くセクシーな声に全身が痺れていた。

「夢じゃねぇぞ!おい!起きたままで夢なんか見るじゃねぇよ!夢を見るんなら俺と一緒に見ればいい・・朝起きたとき、俺の隣にいてくれ。ひとりで目覚めるのは嫌だ・・」

司はいつも夢に現れていたつくしに気づかなかった自分が腹立たしかった。

「あのね道明寺、でもね」

二人の運命は違う方向を向いて動いているのに、これからまた同じ方向に向けることなんて出来るのだろうか。

「あのねもでもねもあるか。余計なこと考えるんじゃねぇよ・・運命の方向なんてすぐにでも俺が修正してやる」

「無理よ・・だって・・」

「だっても明後日もねぇんだよ!言っとくが俺たちの関係は一夜限りなんかじゃねからな!」

あたしだって出来るならこれからの人生を道明寺と一緒に経験したい。その思いは15年前から変わらない思い。

「おまえは俺のものだ・・俺だけの・・」

つくしの頭の上で聞こえる男の声には切なる願いが込められているように感じられた。

・・道明寺

つくしは司の背中に両腕を回し、小さな手のひらで思いっきり抱きしめた。
いいわ。心の奥にある感情を騙すことなんてもうできない。
これからあたしの進む道がどんな道になろうと、15年も待ったんだもの。道明寺と一緒なら歩んでいける。
そして、この15年のどこかの時点で、あたしは無理矢理自分を納得させようとしていたはずだ。
道明寺を失った悲しみなんて大したことはないと・・でもそれは嘘だ。

「あたし・・」
つくしは笑って顔を仰向けると司を見た。
「あたし道明寺を愛してる・・今までも・・多分これから先もずっと愛してると思う・・」

「本当か?」

つくしは頷いた。「うん。本当に愛してる」

だからあたしを・・もう二度とあたしを離さないで。

「おまえ相変らずちびだよな。首が痛てぇ・・」

斜め上から見下ろす声が笑いを含んでいた。

「ち、ちびで悪かったわね!」
「胸もちっちぇえまんまだし・・」
「わ、悪かったわね、ちっちゃくて!」
「いいや。俺はおまえのちっちぇえ胸が好きだ。けど心配すんな。俺が大きくしてやるから」

司は身を屈め、つくしが息もつけないほど激しくキスをした。
小さな体が二度と逃げ出さないようにしっかりと抱きしめて。
そしてキスに込められた思いは、これからも変わらない思い。

あのときは差し出された手を掴むことができなかったが、今はこうしてこの腕の中に掴むことが出来た。
もう何があろうと決して離しはしない。

俺はおまえが望めばいつでもおまえのものだ。
これから先はずっと・・



愛してる・・牧野。





< 完 >
* One Night Stand  * 

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